SE が書いたキリスト教入門 SE が書いた キリスト教入門 岡崎 道成 1 SE が書いたキリスト教入門 まえがき 私がいわゆるスマートフォンを手に入れたのは 2010 年の正月早々のことです。あったら 便利そうだと思い始めて、3 か月間考えた末のことでした。その 3 ヶ月間、別に先進的なタ ッチパネルの仕組みについて調べていたわけでもなければ、クラウドについて学んでいた わけでもありません。それを買ったらどうなるか、買う価値があるのかを思い巡らせてい たのです。スマートフォンの中身や仕組みについて知るのと、持ったらどうなるかという 自分との関わりで考えるのは、異なることです。 キリスト教についてはどうでしょうか。キリスト教を知るための情報は巷にあふれてい るように見えます。 「よくわかる…」とか「入門」と名のつく本も何冊もあります。それら を見れば、キリスト教や聖書についてある程度の知識を得ることはできるでしょう。しか しそのような知識は、キリスト教とあなたとの関わりについては語ってくれているでしょ うか。後者は「信仰」に属することです。真の意味でのキリスト教入門は、信仰を持つと はどういうことか、何がどう変わるのか、それはなぜかを、わかりやすく述べてくれるも のであるはずです。残念なことに、信仰者の書いたわかりやすい入門書が一般の書店に並 ぶことはほとんどありません。例外は三浦綾子さんの「旧約聖書入門」「新約聖書入門」く らいでしょうか。しかしインターネット上なら、このような信仰についての理解を助けて くれるサイトはたくさんあります。 そんな中で、本書にもし他にはないユニークな点があるとするなら、ソフトウエアエン ジニアの目を通して信仰を解説していることでしょう。キリスト教を語るときに外せない のが「罪」の概念ですが、これはなかなか伝えづらいものです。日本人は「恥」は理解で きても「罪」は納得できないという人が多いのです。しかし、ソフトウエアでいうところ の「バグ」と言えばわかりやすいのではないか。そんなところから思いを巡らせてみると、 結構ソフトウエアの世界で使う概念が信仰にうまく当てはまりそうだと思えてきたのです。 私はキリストを信じる一信徒に過ぎず、牧師でも聖書学者でもありませんので、不十分な 点は多々あると思います。しかし会社に入って約 20 年間ソフトウエア開発一筋で仕事をし てきた経験が、コンピュータを好きな人たちにキリストの救いを知ってもらう上で助けに なるかも知れない。本書はそんな思いつきから書いてみようと思ったものです。 キリスト教は、あなたの人生を根底から変える力を持っています。私は本書で、キリス ト教の知識ではなく、キリストや聖書とあなたとの関わりについて述べたいと思います。 本書を手にしたあなたには、タイトルとは裏腹に「キリスト教」ではなく、 「キリスト」を 知ってほしいと思っています。 2 SE が書いたキリスト教入門 1 章から 4 章は「キリスト教とは何か」というテーマで、キリスト教や聖書にまったく 触れたことがない、でもどんなものか知りたいという方のために、キリスト教信仰のエッ センスを解説しています。また 5 章から7章は「信仰にある生き方」というテーマで、ク リスチャンのものの考え方や、キリスト教会の礼拝プログラムの意味について解説してい ます。エンジニアの方に馴染みのある言葉、概念を足がかりにして、そこから信仰という ものをイメージしやすいように解説したつもりです。また、それらの技術用語自体にも簡 単な説明を加えてありますので、エンジニアではない方でも理解していただけるのではと 思っています。 3 SE が書いたキリスト教入門 目次 第 1章 神と聖書 ............................................................................................................... 6 1 プログラミング゙=創造 ........................................................................................... 6 2 自然発生したプログラム!? .................................................................................. 7 3 目的を持てる理由 .................................................................................................... 7 4 RFP=聖書 ............................................................................................................... 9 5 エイリアス=「主」............................................................................................... 10 6 モジュール=聖書各書 ............................................................................................11 7 そもそも何を作るRFPなのか ............................................................................ 12 第 2章 聖書のいう罪...................................................................................................... 14 1 バグのないソフトウエアはあるか......................................................................... 14 2 人の仕様書とは...................................................................................................... 15 3 どの程度のバグ? .................................................................................................. 16 4 神の量子化ビット数............................................................................................... 17 5 たった 1 点で…...................................................................................................... 18 第 3章 神はいかに人を救うのか.................................................................................... 21 1 ドライバ=イエス・キリスト ................................................................................ 21 2 罪とは、その結果とは ........................................................................................... 21 3 デバッグ=罪の罰 .................................................................................................. 22 4 バグはもうないのか............................................................................................... 23 5 罪の性質とは.......................................................................................................... 24 6 裁きを免れるには .................................................................................................. 25 7 メロスの友人=いけにえ ....................................................................................... 27 8 プロジェクト=救いの計画.................................................................................... 28 9 検収チェックリスト=預言.................................................................................... 30 10 もっとも大切なこと........................................................................................... 32 11 復活は事実か...................................................................................................... 33 12 イエスの愛 ......................................................................................................... 34 13 神の愛................................................................................................................. 36 第 4章 応答としての信仰............................................................................................... 38 1 ラッパー=イエスを着る ....................................................................................... 38 2 ソフトウエアの不変性=永遠 ................................................................................ 39 3 レスポンス=神への応答 ....................................................................................... 40 4 あなたとイエス...................................................................................................... 41 5 アップデート=救われた人.................................................................................... 42 4 SE が書いたキリスト教入門 6 「信じる」と「知る」の違い ................................................................................ 44 7 マイナーでもバージョンアップ ............................................................................ 45 8 生命保険................................................................................................................. 46 9 問いのタイプ.......................................................................................................... 47 10 リスクマネジメント=イエスを信じる.............................................................. 48 第 5章 信仰の更なる理解のために ................................................................................ 51 1 #define = 言葉の定義.......................................................................................... 51 2 文字化け=聖書のデコード.................................................................................... 52 3 契約=神の約束...................................................................................................... 54 4 エージェント=聖霊............................................................................................... 55 5 FREE=恵み .......................................................................................................... 57 6 「恵みによる救い」への疑問 ................................................................................ 59 第 6章 教会の礼拝を知ろう........................................................................................... 63 1 フレームワーク=礼拝 ........................................................................................... 63 2 再起動=バプテスマ(洗礼) ................................................................................ 64 3 シェアウエア=献金............................................................................................... 65 4 SNS=聖餐............................................................................................................. 68 第 7章 クリスチャン――この不思議なる生き方 ............................................................ 71 1 OS=人生の土台 .................................................................................................... 71 2 ID=自分は何者か.................................................................................................. 72 3 クラウド=天の宝 .................................................................................................. 74 4 パスワード=JESUS ............................................................................................. 75 5 テスト=試練.......................................................................................................... 76 6 信仰の状態 ............................................................................................................. 78 7 不正コピー=偶像 .................................................................................................. 79 8 サポート=神の助け............................................................................................... 80 ※ 本書における聖書の引用は新改訳聖書 第 3 版(新日本聖書刊行会)によります。 5 SE が書いたキリスト教入門 第 1章 神と聖書 1 プログラミング゙=創造 「初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。」1 ―――――――――――――――――――― 10 INPUT A 20 INPUT B 30 PRINT A * B / 2 ―――――――――――――――――――― これは BASIC という、ひと昔前の初心者用のプログラム言語で書かれたプログラムです。 英単語が使われていますから、プログラマでない方でも何となく意味はわかるのではない でしょうか。 「10」「20」「30」はプログラムの行番号で、プログラムの処理の順番を指定するもので す。この番号の小さい順に処理されますが、BASIC では 10 置きに振るような慣習がありま す。(あとで処理を付け足したくなったときに、間の行番号に追加できるからです。) 「INPUT A」は「値を入力してそれを A という箱に入れる」という意味です。B も同様 です。これで A と B という箱に値が入ります。3 行目は「A×B÷2を計算して表示せよ」と いう意味です。たとえば A に 6、B に 8 を入れれば、答えが 24 と表示されます。これはあ る公式を処理するプログラムです。そう、三角形の面積です。ごく単純なプログラムと言 えるでしょう。 プログラミングの大きな魅力の一つは、材料がいらないということではないでしょうか。 もちろんパソコンやキーボードというハードウエア、開発環境やエディタというソフトウ エアは必要です。でもそれらはプログラミングのための道具であって、材料ではありませ ん。このプログラムを書くのに、私は頭の中でアルゴリズムを考え、道具であるキーボー ドを叩くだけでよいのです。これがプログラミングの面白いところです。機械や道具を組 み立てるときに必要な、プラスチックや金属でできた部品、ボルト、ナット、板、何も要 りません。頭の中で考えた手順を、キーボードを通してメモリに蓄えていく、それがプロ グラミングです。それでソフトウエアという「モノ」が出来上がっていきます。これが私 6 SE が書いたキリスト教入門 には面白かったのです。何もないところから、何かしら有益なものを生み出していく作業。 これが創造力というものです。 神がこの世界を創造したときには、初めは何もなかった、と聖書に書いてあります。だ から「創造」なのです。材料を揃えて組み立てたのではなく、何もないところから、無か ら有を生じさせたのです。そんなこと、あるわけがないと思いますか。でも人間のプログ ラマたちだって、何もないところから、とてつもなく巨大なプログラムを生み出している のです。まして神は、人間のような限定された能力しか持っていないのではありません。 神の知的(「霊的」というほうが正しいのですが)活動の産物として、この世界という形が 出来上がっているのです。入出力デバイスも、メモリも CPU も必要ない、動かすための道 具さえ必要なかった。それが神の創造です。すごいですよね。 2 自然発生したプログラム!? 前項で載せたプログラム、たった 3 行ですが、ある目的を持った、意味のあるプログラ ムです。実は、この短いプログラムを載せたのには訳があります。それはこのプログラム が、職場のパソコンで 5 年間ずっと乱数を発生させ続けた末に、偶然、自然にできたプロ グラムだからなのです。その成り立ちから言えば、プログラムというより文字列と呼んだ 方が適切でしょうか。この文字の並びができているのを発見したときには、それは本当に 驚愕したものです。何しろ、偶然の産物が、三角形の面積を求めるという目的に叶った、 意味のあるプログラムの体をなしていたのですから。 …という話をしたら、あなたは信じるでしょうか。もちろん信じないでしょう。確率が まったくゼロではないにせよ、そんなことは現実には起きません。こんなたった 3 行のプ ログラムでさえ、乱数という偶然によって、目的を持ち意味のあるプログラムとなること はあり得ません。そこには、少なくともプログラムを書いた私という存在があり、何のた めのプログラムかという目的があるのです。ここで言いたかったのは、偶然に「意味」の あるものはできない、ということです。 3 目的を持てる理由 偶然に意味のあるものはできないということに、皆さんは同意できるでしょうか。 1.偶然にできたものには、意味や目的はない。 7 SE が書いたキリスト教入門 2.意味や目的を持ったものは、偶然にできたものではない。 1 と 2 は数学的には対偶の関係にありますので、両方成り立つはずです。たった 3 行の プログラムが、2 の実例でした。さて、ここで大事な問いかけをしたいと思います。 「人(あなた)は、生きる目的、意味を持った存在でしょうか。 」 人が生きる目的は、古今東西問われ続けています。誰でも一度くらい「俺は何のために 生きているんだろうか」と自問したことはあるはずです。本気で自分の生きる目的を問う ならば、その前提として、人には生きる目的、意味があるとしておかなければなりません。 それを見つけていないだけだと。「いや、自分には目的がある。」という方もいるかも知れ ません。仕事を通して世の中に貢献する、家族を守るために生きる、などです。残念なこ とに、生きる目的を見出せずに自殺する人もいます。プログラマや SE で、過労やストレス から心の病となり、自分なんていなくてもいいという思いにかられて自殺する人も少なく ないと言います。そういう話を聞くと、他人事ではないなと思います。でも、自分の意味 を見失ってしまうのが病気の作用だとしても、実は本当に人には生きる意味があると、あ なたは思いますか。それとも、うつで自殺する人は病気のおかげで真理をみつけたのでし ょうか。聖書にはこう書かれているのです。 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」2 ここでの「わたし」とは、神です。 「あなた」は人、つまりあなたです。始めに挙げた 2 はこうでした。 2.意味や目的を持ったものは、偶然にできたものではない。 そうすると、こういう結論になるでしょう。 3.人が偶然にできたものならば、人には生きる目的、意味はない。 4.人に生きる目的、意味があるなら、人は偶然にできたものではない。 いわゆる進化論は、生物は偶然によって複雑・高等になってきたと考えます。とすると 3 により、人間には生きる目的はない、ということになります。しかし多くの人は、人が偶 然の産物だとしても、その人なりの目的を持つことはできるのではないかと思われるでし ょう。神が自分を創造したと信じていなくても、家族のために生きる、人の役に立つ、何 かを作り出すなど、素晴らしい目的を自分のものにしている人は、確かにいます。ただ、 8 SE が書いたキリスト教入門 ここで考えているのは少し違います。あるモノがあって、「これを何に使おうか」という問 いと、 「これはなぜできたのだろうか」という問いは違うものです。多くの人が「人生の目 的」と言っているのは前者です。しかし後者の問いはもっと深い、根源的なものです。活 用ではなく存在を問うものです。いわば、工学ではなく理学です。先の 3 行のプログラム は、できてから用途を考えたのではありません。始めから明確な目的を持って作られたも のです。「自分には三角形の面積を求めるという目的がある」と堂々と言っていいのです。 それは、そういう目的を持って私が作ったからです。それが、プログラムが目的を主張で きる理由です。 誰にでも生きる目的があります。まだ見出していないとしてもです。それは、人が偶然 の産物ではなく、人をつくった方がいるからです。でないと、自分の存在に矛盾が生じま す。目的が後付けの、その人なりのものでよいと考えるのは、その矛盾に気がついていな いためです。進化論と生きる目的の探究は、相入れないものです。あなたはそのことに気 づいているでしょうか。もしそこに矛盾を感じていないなら、それらを違う分野のことだ と考えているのでしょう。科学と哲学という異なった学問領域に分けられているために、 矛盾などないと錯覚してしまっているのです。しかし、実はこれはどちらも、人という存 在に関わる同じ土俵の問題なのです。 聖書は、神が目的を持って人を創ったと述べています。そこに自分という存在を考える 上での矛盾はありません。キリストを信じると、生きる目的を、後付けでなく、自分を創 った方が与えて下さったものと信じることができるのです。 4 RFP=聖書 ここまでの中でもいくつか聖書の箇所を引用してきました。通常、 「聖書には○○と書か れています。」 「聖書は○○と述べています。 」のように引用されることが多いです。でも聖 書に馴染みのない人にとっては、「だからどうだってんだよ」と言いたくなるかも知れませ んね。鼻につくというのでしょうか、いつも「聖書が、聖書が」と言っているように思わ れるかも知れません。 はっきり言えば、そうです。クリスチャンは、いつも聖書を持ち出します。それがもの すごく権威あるものであるかのように。そして実際それは、ものすごく権威あるものなの です。クリスチャンにとって、いえ人にとって聖書とは何なのでしょうか。 いきなり話はとびますが、ソフトウエアシステムの開発当初に用いられる文書に「RFP」 9 SE が書いたキリスト教入門 というものがあります。Request For Proposal の略で、 「提案依頼書」と訳されること が多いようです。RFP は、ユーザ(顧客)側がどんなシステムが欲しいのかをベンダ(開 発者)側に示す文書で、ベンダはこの RFP を基に実現可能性を盛り込んだ提案書を作成し、 ユーザ側に提出することになります。ベンダに提案を依頼する文書なので「提案依頼書」 というわけです。RFP は複数のベンダでコンペをしたり、ベンダの開発をスムーズに進め たりするために用いられます。具体的な内容は、システムの目的や背景、予算、納期、制 約条件、導入条件、評価方法などです。要は、「こういうシステムをこういう条件の下で作 れ」というユーザ側の要求事項をまとめたものということです。ベンダは、RFP から外れ たシステムを作るわけにはいきません。位置付けとしては RFP はシステム開発の憲法とも 言えます。ベンダは、RFP には何と書いてあるかを常に意識し、立ち返らなければなりま せん。 さて、聖書はこのような「神から人への RFP」と考えていただければいいと思うのです。 聖書には、神が人に伝えておくべきことが盛り込まれています。少々分厚いですが、決ま りだらけというわけではありません。物語もあり、詩もあります。歴史記録があり、預言 書があり、手紙もあります。それらが全体として、神から人への RFP になっているのです。 だから私たちは、いつも聖書に何が書かれているかを確認し、これに立ち返ろうとするの です。ですからこれからも、トピックの中で聖書は度々引用することになるでしょう。聖 書はそういうものなのです。 5 エイリアス=「主」 Windows 用のソフトウエアを作成するための VisualBasic(もう古いですか)というプ ログラム言語では、外部のライブラリから関数を呼ぶときに、関数名を任意に変更できま す。たとえば次のようにです。 Public Declare Function SimpleFunc Lib "severalfunctionlibrary32" Alias " RealComplexFunctionName" (ByVal buf as string, size as long) As Long こ の 例 で は 、 "severalfunctionlibrary32" と い う ラ イ ブ ラ リ の "__RealComplexFunctionName" という関数を、"SimpleFunc" という名前で使えるように定 義しています。ここのポイントは "Alias" というキーワードで、「エイリアス」と呼びま す。名前の読み替えをするという指定です。こう表記しておくと、プログラム内で使うと きにはこの "SimpleFunc" という名前で呼べばいいので、元の長ったらしく複雑な名前を 覚える必要はありません。Mac でエイリアスと言えば、あるファイルにリンクされている 10 SE が書いたキリスト教入門 アイコンです。Windows ではショートカットです。 エイリアスやショートカットは、内部 に元のファイルやフォルダへの情報を持っていますから、それ自体の名前は自由に変える ことができます。また UNIX のシェルコマンドは、好きな名前に変えることができます。 プログラムでは、このような名前の呼びかえがよく行われます。便利ですよね。 聖書を初めの創世記から読んでいくと、いきなり 2 章から「神である主」または「主な る神」という表現が出てきます。私が普段使っている新改訳聖書では、「主」が太字体にな っています。実は、神にも名前があるのです。原語はへブル語ですが、アルファベットで 書くと「YHWH」となります。一体どう読むのでしょうか。この読み方は、実はわかってい ません。でも意味ははっきりしています。「在りて在るもの」、平たく言えば「存在そのも の」ということです。あの、海を二つに分けたシーンで有名なモーセが神に、「あなたの名 前を聞かれたら何と言えばいいでしょうか」と尋ねたときに、神がそう答えたのです。「在 りて在るもの」 、実に意味深な名前だと思いませんか。 ところで、神を信じる者にとって、この名前を口にするのはあまりに畏れ多いことでし た。明治の大日本帝国憲法の第 3 条は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」です。戦前の日 本では、「天皇陛下」という言葉を口にするときには、話す人も聞いている人も頭を下げま した。まして「裕仁」 (昭和天皇の名前)などと直接口にするなど、考えられなかったの です。偉い人の名前というのは、畏れ多いものです。聖書に出てくるイスラエルの人たち は、神の名をみだりに唱えてはならなかったのです。そこで発音をしないでいるうちに、 後代には読み方がわからなくなってしまいました。それほど神聖な名前だということです ね。太字体の「主」という訳は、原語でこの YHWH(に当たるへブル語)と表記されている ことを表したものです。ここは神聖な 4 文字が使われていますよ、ということがわかるよ うになっているのです。 本題がついでになってしまいましたが、神を示すのに、神聖な 4 文字の代わりに通常の 「主人」を意味する「アドナイ」という言葉が使われることがあります。こちらの場合は 太字体ではなく、普通のフォントで「主」と表現されます。神の名前の呼びかえ、エイリ アスというわけです。 6 モジュール=聖書各書 ソフトウエアの実装上の構成要素として「モジュール」があります。モジュールは、機 能単位で出来上がっているひとかたまりのプログラムと言えます。初歩的なプログラムで は、処理する順番に愚直にコードを書いていけば、それなりに動くものができあがります。 11 SE が書いたキリスト教入門 が、規模が大きくなって来ると、同じような処理を何度も書いていては効率が悪いですし、 全体の見通しが悪くなってミスも増えます。そこでサブルーチンという手法が出てきまし た。同じ処理をひと塊りにして、必要になる度にそのサブルーチンを呼べば、プログラム がぐっとシンプルになります。そのサブルーチンをさらに大きく、独立性を高めたプログ ラムの塊りがモジュールです。これはよくできた仕組みで、これがあって初めて、現在あ るような大規模なシステムが組めると言ってよいでしょう。 聖書は旧約 39 編、新約 27 編の独立した書物からなっていて、それらが千数百年にわた り多数の人たちによって書かれています。そこで、そんな一見バラバラなものが一つの「聖 書 」なる書物としてまとめられているのは、一体どういうわけなのでしょう。 聖書は、モジュールの集まりだと思って下さい。それぞれの書物が機能的には独立しつ つ、聖書全体として一つのまとまったシステムとなっているのです。聖書全体が大きなテ ーマを持っていて、個々のモジュールはその統一されたテーマのもとに集められ、役割を 担っているのです。そのスケールの大きさは、他に例を見ません。永遠のベストセラー、 "The Book" と言われる所以でしょう。聖書とは、そんな不思議な書物なのです。 とはいえ、聖書を読むのに何も正座する必要はありません。誰でも、何時でも読んでい いのです。分厚い聖書ですが、旧約最初の創世記など、とても読みやすいですよ。誰でも 一度は聞いたことのあるような「ノアの方舟」や、 「バベルの塔」の話もここに書かれてい ます。一介の羊飼いの少年がエジプトの大臣にまで登りつめる「ヨセフ物語」が私は大好 きです。臆せず、手にとって見てはいかがでしょうか。 7 そもそも何を作るRFPなのか 先に、 「聖書は神から人への RFP だ」と述べました。では、何が書いてある RFP なので しょうか。聖書は、どんなシステムを我々に発注したいのでしょうか。これはつまるとこ ろ、キリスト教とは何なのか、という問いです。聖書が発注するシステムは、人がイエス・ キリストを自分の救い主だと信じて救われることです。 「そういうのは何となくは分かって る」という方へは、こう言い直しましょう。聖書が求めているのは、キリストの教えに従 って生きることではなく、キリストが自分の救い主であるという事実を受け入れることで す。つまりキリスト教とは、思想や倫理ではなく、事実認定である、ということです。言 い換えれば、良く生きることではなく、信じて救われることです。 ここは大変重要で、最も誤解されやすいところです。ここを誤解しているから、人々は 「クリスチャンは品行方正でなければならない」 「自分はとてもクリスチャンになれる人間 12 SE が書いたキリスト教入門 ではない」 「あの人は全然クリスチャンらしくない」という感情を持つのです。クリスチャ ンとは、キリストの思想を実践する人のことではなく、キリストを自分の救い主と認めて いる人のことです。認めることと実践すること、いずれも大切には違いありませんが、聖 書は何よりまず、前者を要求しています。そこを取り違えると、聖書を全然違う読み方を してしまうことになります。 キリストの思想のみ取り出して実践する生き方もあるでしょうが、その人がキリストが 真に自分の救い主と認めているかどうかというのは別です。 「この方が自分の救い主か」こ れは YES or NO の問いであり、全ての人に向けられている問いです。何しろ、 先方が「私 はあなたの救い主だ」と言っているのですから。父親だと名乗り出た見知らぬ人を「どっ ちでもいいけど」としておいては、遺産相続ができないようなものです。救いという非常 に価値のある遺産を相続できるかどうかの分かれ目です。ですから、誰でもこれに答えを 出さなければならない立場にある、信じるかどうかが問われている、ということなのです。 1 2 創世記 1 章 1、2 節 イザヤ書 43 章 4 節 13 SE が書いたキリスト教入門 第 2章 聖書のいう 聖書のいう罪 のいう罪 1 バグのないソフトウエアはあるか 前章で、 「誰でもキリストを自分の救い主と信じるかどうかが問われている」と述べまし た。でも、多くの人はこう思うのではないでしょうか。 「そんなことを言われても、自分はそもそも、救われなければならない存在なのか? そ の説明無しにいきなり救い主と言われても納得できない。」 至極当然だと思います。ある人が「私はお前の父親だ」と名乗ってきたとしましょう。 この場合、どんな人にも父親がいて、しかも一人しかいないということは明らかなので、 その人の真偽を吟味することができるわけです。では、人は救われなければならないので しょうか。もしそうならば、一体何から?そして何故? 例の BASIC の 3 行プログラムを再掲しましょう。 ―――――――――――――――――――― 10 INPUT A 20 INPUT B 30 PRINT A * B / 2 ―――――――――――――――――――― このプログラムでは三角形の面積を求めることができますが(その目的で書いたもので すが) 、ではこれはいつでも正しく動くでしょうか。言い換えれば、このプログラムにバグ はないのでしょうか。 経験者ならすぐに、これには正しく動かないケースがあることがわかるでしょう。そう です、A×B がコンピュータの精度を下回る、あるいは有効桁を上回るような A、B を入力す ると、正しい答えが出ません。また、マイナスの入力を拒否することできません。また A、 B に数値以外を入力した場合、結果がどうなるか分かりません。最悪の場合、プログラムは フリーズするでしょう。結果、このプログラムにはバグがあるので、このままでは商品に はなりません。売るためにはバグのないプログラムを書けば良いのですが、では、世の中 に出ているソフトウエア製品には、バグはないのでしょうか。 この問いに「当たり前じゃん、売ってるソフトにバグがあったら不良品ってことじゃん」 と答える人は、失礼ながらソフトウエアというものの性質をご存じないと言わざるを得ま 14 SE が書いたキリスト教入門 せん。ソフトウエア開発に携わっている人なら、ソフトウエアのバグをゼロにするのが如 何に困難で、非現実的な要求かを理解をされていると思います。逆説的ですが、売り物に するくらいの規模のソフトウエアともなれば、バグが内在する確率は飛躍的に高まります。 「サイエンス・ニュース」誌の数学・物理関連のライター、アイバース・ピーターソン は、著書でこう述べています。 「われわれは、 (中略)コンピューターのしくみと、その能力の限界について知る必要 がある。完璧なものは期待できないが、生命に直接かかわるシステムには、安全性の 向上を求めるべきだ。」1 つまりは、バグを無くすように努力するのは必要だが、決して無くなりはしない、とい うことです。これが現実です。 2 人の仕様書とは バグのないソフトウエアを作るのは現実的には極めて困難です。バグについて言及して いるサイトを見ても、そう述べている場合がほとんどです。ここで問いたいのはこういう 事です。「あなたは、完璧な人間ですか。」ソフトウエア風に言えば「あなたには、バグは 全然ありませんか。 」ここで「完璧」という意味をはっきりさせる必要はあるでしょう。 ソフトウエアのバグの場合を考えてみましょう。バグとはソフトウエアの不具合で、作 者の意図通りに動かなかったり、作者の想定していない動きのことを言います。業務で開 発するソフトウエアの場合、作者の意図は仕様書という形で文書化されます。つまり、仕 様書がバグかどうかの判断基準となります。動作が仕様に合っていなければ、バグリスト に載せられてしまいます。逆に、仕様が曖昧だと検査基準も曖昧になります。「バグではな くて仕様です」という言い逃れも可能となるのです。 では人が完璧かどうかは、何が判断基準になるのでしょう。何が人間にとっての仕様書 なのでしょうか。それが、実は聖書なのです。つまり人が完璧かどうか、バグがないかど うかの判断基準は聖書です。聖書が人について定めた仕様的な部分の代表として、有名な 「十戒」があります。2 1. あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。 2, あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 15 SE が書いたキリスト教入門 3. あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。 4. 安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。 5. あなたの父と母を敬え。 6. 殺してはならない。 7. 姦淫してはならない。 8. 盗んではならない。 9. あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。 10. すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。 この十戒に代表される仕様的な記述を、聖書では「律法」と呼んでいます。そして、こ の律法に沿って人を検証した結果としてこう言うのです。 「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。」3 これに対して、こう言う人もいるかも知れません。 「確かに聖書には良いことも書いてあ るようだ。だけど、それを勝手に押し付けられて強制されるいわれはない。だいたい、律 法など聞いたこともない。 」それももっともだと思います。でも、聖書はそういう疑問にち ゃんと答えているのです。 「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをする場合は、 律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。 」4 もともと律法は、神の民族であるユダヤ人(イスラエル人)に対して示されたものでし た。それに対して、ユダヤ人以外の「異邦人」はどうなのか、律法がないのだから神に裁 かれることはないのか、という疑問にこの箇所は答えてくれています。つまりこの箇所は、 私たちにも当てはまります。人は自分自身の中に律法に当たるものを持っている、と言っ ているのです。いわゆる良心とか、倫理観という、良くあろうとする思いです。つまり人 間には、良くあるための判断基準を自分自身で持っているのです。先の十戒を見て、もっ ともなことも書いてあると感じたのは、自分の中にある基準に照らして一致したからと言 えるでしょう。ですから、聖書を読んだことがなくても、律法を聞いたことがなくても、 それで完璧かどうかの判断が出来ないということにはなりません。自分の良心という基準 に一度も違反したことがないか、と自問すればいいのです。 3 どの程度のバグ? 16 SE が書いたキリスト教入門 「自分の良心に一度も違反したことがないか」。答えてもらうのも野暮というものでしょ う。「俺は完璧な人間だ」などと臆面もなく言える人はいないと思います。紛れもなく、人 間は不完全な存在なのです。でも、これをそういう一般論で片付けてしまうのではなく、 私たちが直面している個人的な問題として、もう少し真面目に(深刻に)考えてみたいの です。私たちの不完全さは、どれほどのものなのでしょうか。 バグのないソフトウエアが無いとしても、ソフトウエアは実際市場に出ていて、それな りに使われています。目的が達せられるのであれば、表示文字がちょっと枠からはみ出し ていても支障はないでしょうし、内部のメモリ管理に少々危うい部分があっても、実害が 発生する前にこっそりリセットするようになっていれば、ユーザはバグに気づきもしない でしょう。 人が自認する不完全さも、せいぜいそんなところではないでしょうか。聖人君子とはい かなくても、法を犯して訴えられているわけでもないし、周りの人とも仲良くやれていて、 たまには感謝されることもある。中の上、控え目に見ても中の中くらいと言ってもいいの ではないか。不完全とは言っても、それがごくごく平凡な人間と言えるのではないか。従 って、自分が取り立てて「救われるべき存在」だとは思わない。だからキリスト教のいう 「救い」は自分には関係ないし、ましてキリストが自分の救い主などということはあり得 ない、と。 では逆に、明らかに悪者というのはどんな人でしょうか。キリストにでもお釈迦様にで もすがって詫びを入れるべき、それでも赦されず断罪され、地獄に落ちるくらいの極悪非 道、おぞましい犯罪者、極刑に処せられて当然な人とは、どんな人でしょう。 ヒットラーは、万人が悪の権化と認める人物かも知れません。サリンで世間を震撼させ た麻原彰晃や、連続幼女誘拐殺人犯の宮崎勤なども挙がりそうです。これらの、誰もが悪 人と認める人たちと、私たちのようないわゆる普通の生活をしている人とは、どこが違う のでしょうか。驚いたことに、神はこれを「同じ」と見るのです。何という理不尽な、不 公平なことと思われるでしょうか。 4 神の量子化ビット数 神が人をどう見るのかを考える前に、自然界のデジタル化を考えてみましょう。自然界 の信号波形(例えば音波)はアナログ量ですが、これをコンピュータ上で扱えるようにす るための処理が A/D 変換、 すなわちアナログ量からデジタル値への変換です。 A/D 変換には、 時間的な細かさであるサンプリング周波数と、どのくらいの精度で値にするかの量子化ビ 17 SE が書いたキリスト教入門 ット数という 2 つのパラメータがあります。音楽 CD では、サンプリング周波数は 44.1kHz (1 秒間に 44100 回)、量子化ビット数は 16 ビット(65536 段階)です。 では神が人を「分析」する場合はどうでしょう。この場合、サンプリング周波数と言え るかどうか、対象にする時間区間は人の一生に対して 1 回だけ。そして量子化ビット数は というと、たった 1 ビットです。つまり 0 か 1。1 なら永遠のいのち、0 なら…永遠の滅び です。この隔たりは無限に大きいと言えるでしょう。 先ほど問題にしていた悪人と普通の人との違いとは、つまるところ 0 と 1 の境目はどこ か、ということです。不完全さという連続量をどこで切って 0 と 1 に分けるのかという、 しきい値の問題です。そこでヒットラーや麻原彰晃と私たちが同じ 0 と判定されるという のは、あまりにも乱暴ではないか。また世界の歴史を見渡せば、マザー・テレサやキング 牧師、ガンジーにナイチンゲール、ヘレン・ケラーといった誰もが認める偉人たちがいま す。こういう人たちはどうなんだ、16 ビットで量子化すれば 65500/65536 くらいで、限り なく 1 に近いんじゃないか。このような疑問は当然だと思います。しかし、この場合はあ くまで、神の側からはどう見えるのかということを考えてみなければなりません。 5 たった 1 点で… 想像してください。 あなたは、結婚式を間近に控えた花婿です。花嫁のウエディングドレス選びに付き合う あなたは、取っ換え引っ換えドレスを試着する彼女を、幸せな気持ちで見守っています。 やっと彼女が気にいったドレスが見つかったようです。純白のウエディングドレスを見 て、あなたは彼女に声をかけます。 「とても素敵だ。式が待ち遠しいな。」 彼女も少し恥ずかしそうに笑顔を見せます。 「じゃあ、これでお願いします。」 と、店員さんを読んでクレジットカードのサインをしようとしたとき、事件が起こった のです。 「あら、これ…」 何と、その純白のドレスに、1 点の小さな黒いシミがついていたのです。あなたは彼女 と目を見合わせ、彼女に言います。 「これは不良品だ。残念だけど、他のを探そう。 」 これが、神の側から人を見たときの見え方です。純白のドレスについた小さな黒いシミ。 18 SE が書いたキリスト教入門 神は、シミが大きいか小さいかではなく、シミがあるというその 1 点の事実を見て判断を 下すのです。そのシミのために購入を断念した花婿は理不尽でしょうか。不公平でしょう か。神が人に何を求めているのか、それが重要です。 「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」5 神が私たちに求めているのは、完璧に真っ白なドレスなのです。それこそ神ご自身のよ うな。神は完全なお方です。神のもとへ行くには、完全である必要があります。神のもと とは、そういう場なのです。結婚式という晴れがましい、そして厳粛な場には完全なドレ スが求められるようにです。そんな厳粛な場に果たして相応しいのか。神の判断は次のよ うに行われます。 「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となっ たのです。 」6 わずか 1 点のシミは、それだけで全体の価値を失わせるのです。繰り返していいますが、 シミが大きいか小さいかという問題ではありません。あるという、それだけでおしまいで す。それで、聖書はこのように言い切ります。 「義人はいない。ひとりもいない。 」7 その結果、そのドレスは捨てられてしまいます。神の律法を知っているかどうかによら ず、人はその人自身の良心によって裁かれるのです。 「律法なしに罪を犯した者はすべて、律法なしに滅び、律法の下にあって罪を犯した 者はすべて、律法によってさばかれます。」8 では、もしそうだとしたら、私たちはどうしたらよいのでしょう。神はただ私たちを、 断罪するために存在させているのでしょうか。さあ、ここからが重要で、キリスト教の核 心部分となりますが、ここまでの話を少しまとめておきましょう。 1. 人がある目的をもってプログラムを作るように、人も神によって目的を持って造ら れました。 2. 神は、聖書という形の RFP で人への要求事項を明らかにしておられます。 3. ソフトウエアにバグが付きものであるように、人は神の要求事項を完璧に守ること はできませんでした。 19 SE が書いたキリスト教入門 4. 従って人は、神のもとへ行くことはできません。これはすなわち、滅ぶしか道がな い、お先真っ暗ということです。 神によって造られたと信じることで生きる目的が与えられると言っておきながら、結果 として人は不完全で滅ぶしかない。何だそりゃ、という感じですね。そんな変テコな理屈 がキリスト教なら、最初から信じる必要などないとも思えてきます。でも、ちょっと待っ てください。まだ話は半分しか行っていません。どうか忍耐して、最後までおつき合い下 さい。キリスト教は「愛の宗教」と言われます。なぜだと思いますか。聖書には確かに、 「あなたがたも互いに愛し合いなさい。 」9 「愛は寛容であり、愛は親切です。 」10 というような、愛についての教えがたくさん書いてあります。クリスチャンたちによる 慈善活動や人道的な働きも数多くあります。では聖書が説く愛とはそもそも何なのか。そ れをあとの部分で述べていこうと思います。 実は、これまでの話が旧約聖書の部分です。ここから、新約聖書に書かれていることを お話していきます。誤解して欲しくないのですが、旧約と新約は、セットなのです。古い 方は必要ないのではなくて、旧約があってこその新約です。旧約を無視してしまうと、今 まで述べてきたような人の有り様の前提がなくなり、新約で言っている愛の意味が全然違 うことになってしまいます。その誤解の結果が、前に触れた、思想や倫理としての愛です。 聖書の愛はそんなものではありません。聖書の愛は、事実としての愛なのです。さて、ど んな事実なのでしょうか。 アイバース・ピーターソン著・伊豆原弓訳「殺人バグを追え」p.249 日経 BP 社 1997 年 出エジプト記 20 章 3 から 17 節(抜粋) 3 ローマ人への手紙 2 章 6 節 4 ローマ人への手紙 2 章 14 節 5 マタイによる福音書 5 章 48 節 6 ヤコブの手紙 2 章 10 節 7 ローマ人への手紙 3 章 10 節 8 ローマ人への手紙 2 章 12 節 9 ヨハネによる福音書 13 章 34 節 10 コリント人への手紙第一 13 章 4 節 1 2 20 SE が書いたキリスト教入門 第 3章 1 神はいかに人 はいかに人を救うのか ドライバ=イエス・キリスト 私が関わった仕事で、あるシステムの案件がありました。現場の状態を測定し、ネット ワークで接続されたオフィスの PC でその測定値を閲覧するというモニタリングシステムで す。PC 上のアプリケーションはモニタリングに必要なデータさえもらえれば良いのであっ て、測定器の通信の仕組みを全部知る必要はありません。測定器との通信を担うのが通信 ドライバです。ドライバはアプリケーションに代わって測定器と複雑な通信を行い、必要 なデータのみをアプリケーションに提供します。アプリケーションは、測定器を直接では なく、ドライバを通して見ることになります。ドライバは言わば、測定器とアプリケーシ ョンの間を仲立ちしてくれるのです。 イエス・キリストは、このドライバのように、神と人との間を仲立ちします。私たちは 多くの不完全さを持っていますし、神の望むような姿に最適化されていません。神から見 れば、不都合だらけで扱いにくい代物です。イエス・キリストが間に入ることで、神も私 たちの不完全さを見ないで、イエス・キリストを通して私たちを見るのです。イエスは完 全なドライバなのです。 では、一体どうしてそのようなことができるのでしょうか。イエス・キリストがドライ バだというのは例えですが、具体的には神と人との間でどんなことを仲介するのでしょう か。 2 罪とは、その結果とは 神の要求に対する私たちの不完全さを「罪」と言います。日常よく使われますが、聖書 ではあくまで神の基準に満たないことを指します。真っ白なウエディングドレスについた シミは、求められている要求を満たしていません。私たちの心のシミが、罪です。 「罪」は、 原語では「的外れ」という意味です。神に向かうべき私たちが、違う方を向いているので す。矢が神様という的に当たらない状態です。これまで見てきたように、人はすべて不完 全です。神の律法を明示的に与えられていない私たちも、自分自身の中に従うべき基準を 持っている、と述べました。この基準に完全に応えられる、神という的の真ん中に矢を当 てられる人はいないのです。パウロという伝道者も、聖書の中で自分のことをこう述べて 21 SE が書いたキリスト教入門 います。 「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っていま す。」1 「だからどうだと言うんだ、それならそれで仕方ないじゃないか。どうせ完全にはなれ ないのだし、そもそも完全になる必要性があるのか」-それはまだ罪の結果について知ら ないのです。問題は自分が罪を持っているということで、他の誰かではありません。不完 全という罪の結果、神の裁きにあって滅びを宣告されるのは、他でもない、あなたです。 「そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの 刑罰を受けるのです。」2 人は何から、何故救われなければならないのか、その回答がこれです。人は自分の不完 全さ、罪のゆえに神から滅びを宣告される、このことから救われる必要があるのです。繰 り返しますが、この「人」とは他の誰かではなく、あなた自身です。 3 デバッグ=罪の罰 では一体どうしたらあなたは神の裁きを免れ、救われることができるのでしょうか。ソ フトウエアの最終出荷検査を思い浮かべて下さい。検査部から開発部のあなたにメールが 届きました。 「検査したソフトウエアには不具合がありました。A 画面の B 設定を C にしてから D ボ タンを押すとフリーズします。このままでは出荷できません。」 さあ、開発者であるあなたはどうしますか。上司への言い訳も考えなければなりません が、悩んでいても仕方ありません。とにかく問題を解決するにはデバッグするしかないの です。デバッグとは、ソフトウエアの不具合の原因を特定してそれを取り除くことです。 私たちについても、理屈は同じです。神の要求を満たせない、不完全で罪ある私たちが 神の裁きにあわないようにするには、罪の原因を特定し、それを取り除くことが必要です。 では、どうしたら罪を取り除くことができるのでしょうか。自分の子供が悪いことをした ら、罰を与えます。罪を犯したら、罰と「ごめんなさい」。その後、赦しが与えられるので す。「それなら、それ相応の罰を受ければ、赦されるということだな。」と思われたでしょ うか。良い所を突いていますが、ことはそう単純には運びません。なぜなら神の前では、 人の不完全さに相当する罰は、永遠の滅びに他ならないからです。その後の救いなどとい 22 SE が書いたキリスト教入門 うものはないのです。 「罪から来る報酬は死です。」3 と聖書にははっきり書いてあるのです。シミの付いたドレスは廃棄です。 「それって、ど んだけ?」という声が聞こえそうです。罪とは何でしょうか。なぜ人は罪を犯すのでしょ うか。言い換えれば、人が不完全でしかない本当の原因は何なのでしょうか。人のバグの 原因は何なのでしょうか。 4 バグはもうないのか またまた最終出荷検査に行きましょう。あなたは苦労してバグを修正しました(上司に も言い訳をしました)。今度は検査をパスするはずです。ところが検査部からまたメールが 届きました。 「このソフトウエアには、もうバグはありませんか。ないと保証できないなら、出荷で きません。 」 あなたがソフトウエア開発のプロで、しかも正直な人なら、こう答えるしかないでしょ う。 「これはソフトウエアです。見つかっていないバグが存在しないことは証明できません。 時間の許す限りの検証をしましたとしか言えません。ですから、将来にわたってバグが発 見されないとは保証できません。だって、これはソフトウエアですから。 」 その答えで検査部が納得するかどうかはさておき、これはソフトウエアにとって真実と 言えるでしょう。 ソフトウエアプログラムの動きは目に見えませんが、ロジックの集積です。六法全書の 一字一句を諳んじられる人がいるでしょうか。部品の数という見方をすれば、星の数のよ うな部品が有機的に関係しています。そして変数名を一文字間違えただけで、おかしな動 きをします。それを完全に取り除くことは無理でしょう。それはもう、ソフトウエアだか らとしか言い様がありません。長編小説に 1 文字も誤字脱字がないという低次の完成度だ けでなく、全体にテーマが貫かれ、論理に矛盾がなく、個々のパートに必然性があり、誰 にでも誤解なく理解してもらえるというような、高次の完成度が求められるようなもので す。ここで言いたいのは、ソフトウエアが、ソフトウエアであるが故にバグから逃れられ ないように、人が「人であるが故に」罪から逃れられない、ということです。 23 SE が書いたキリスト教入門 5 罪の性質とは 人が罪を犯すのは「人」だから、という言葉に何だか誤魔化されたような気になった人 もいるでしょう。でも実際、人の罪とは何なのでしょうか。 何度も映画化、テレビドラマ化されている故・三浦綾子さんの小説「氷点」4 は、この テーマを扱っていることで有名です(三浦さんはクリスチャンです) 。人は生まれつき罪を 犯す性質を持っている、ということです。キリスト教用語ではこれを「原罪」と言います。 主人公の陽子は殺人犯の娘です。ある事情で、父親が殺した女の子の家の養女となりま すが、本人はそんな自分の生い立ちは知らずに育ちます。そして「母」から云われのない (と思っている)仕打ちを受けます。陽子は毅然としつつ、 「母」を理解しようと努めます。 ところがあるとき、陽子は出生の秘密を知ってしまい…という話です。 お薦めの本ですが、それはさておき、陽子の心を支えていたのは「自分は何も悪くない」 という思いでした。純真で正直な女の子です。お母さんの方が可哀想な人なんだと信じて いたのです。しかし出生の秘密を知ったとき、彼女はすべてを理解します。なぜ「母」が 自分をあんな風に扱ったのか。陽子の場合は、実の父親が殺人犯というわかりやすい設定 になっていますが、本質的な意味では、人は誰でも、こういう罪の性質を持って生まれて 来る、というのが聖書の主張です。なぜなら、最初の人が罪を犯したからです。その結果、 私たちもその罪の性質を受け継いでいるのです。 「ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして 死が全人類に広がった」5 これは大変なことで、由々しき問題です。私たちが罪の性質を持っているということは、 私たちがどんな罪をも犯す可能性を持っている、ということです。先に、ヒットラーや麻 原彰晃のような極悪人と私たちが、神の前では同じ判定を受けると述べました。言葉を変 えれば、私たちも、彼らと同じ過ちを起こし得るということ、それが最も大きな問題です。 スタンフォード大学での監獄実験6というものがあります。被験者を看守役と囚人役に分 け、それぞれが立場によってどんな行動をとるようになるかを観察した実験です。実験は 2 週間の予定でしたが、次第に「看守」は「囚人」を虐待し始め、 「囚人」に精神錯乱する者 が出ます。暴動の噂まで出て、被験者の家族の訴えにより実験はわずか 6 日間で中断され ました。このショッキングな実験は映画化もされています7。これなど、人間が罪の性質を 持っていることを見せつけていると言えるでしょう。 もう一つ、「蝿の王」8という小説は、無人島に取り残された少年たちの暮らしを描いて 24 SE が書いたキリスト教入門 います。「十五少年漂流記」のような、困難を乗り越えて行く子供らしい冒険小説と思った ら大間違いです。少年たちは、始めこそ大人の束縛のない自由を楽しんでいましたが、次 第に二派に分裂し、争い始めます。そしてとうとう、殺人まで起こるのです。邪悪な方の グループは、もう一方のグループの殲滅を図ります。支配、対立、争い。大人の社会その ものです。これも映画になっています9。 これらの例を挙げたのは、人とは、実は「不完全」という言葉では済まされない、実に 邪悪な、おぞましい存在だということを知って欲しかったからです。 「人なんだから仕方な いじゃん」で済ますわけにはいかない、何とかしなければならないことなのです。爆弾を 抱えて生きているようなものです。私たちは、どんな罪をも犯す可能性を持っています。 状況次第では、私たちがそれに抗って良心を貫くことは並み大抵ではありません。今、た またま平和な環境で暮らしているだけであって、ひとたび邪悪さが解放されたなら、何で もする可能性があるのです。これが、人が「原罪を持っている」ということです。人は、 罪の性質を持って生まれてきます。これこそ、私たちが罪を犯す根本的な原因、人である がゆえに元々持っている性質です。 バグの原因がわかったので、対策をしなければなりません。でないと最終出荷検査であ る神の裁きを無事通過はできません。次項でデバッグの仕方を見ていきましょう。 6 裁きを免れるには 私たちが裁きを免れるために何ができるのかについては、2 段階に分けて述べましょう。 第 1 段階:神は、罪の償いをするように求めています。 「毎日、贖罪のために、罪のためのいけにえとして雄牛 1 頭をささげなければならない。 」 修行や善行を積むことが必要なのではありません。人はどんなに善行を積んでも、それ で犯した罪が帳消しになったり、罪の性質がなくなることはありません。私たちは自分自 身を聖くすることはできないので、代わりにいけにえを捧げるのです。人は救われるため に、自分の努力では何もできない存在です。いけにえは、人が犯した罪に対する罰を、雄 牛などの動物が代わりに負うものです。罪を犯した人々の身代わりです。 「その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。 」 10 では、私たちもいけにえをささげる必要があるのでしょうか。あなたの周りのクリスチ 25 SE が書いたキリスト教入門 ャンで、いけにえをささげている人はいますか。…いないと思います。それはどうしてな のでしょう。実は、いけにえは完全な方法ではないのです。先の聖書(旧約聖書)の箇所 には、いけにえは毎日ささげなければならない、と書かれています。1 頭の雄牛の効果は 1 日だけということです。また明日には、新しい雄牛をささげなければなりません。人は毎 日罪を犯し、毎日いけにえをささげて神に赦しを乞うのです。人とは、何と愚かな存在な のでしょう。 「ところがかえって、これらのささげ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。」 11 「すべての祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげます が、それらは決して罪を除き去ることができません。」12 いけにえによって示されるのは、どうしようもない人の罪深さであり、愚かさです。そ してそれを示すことこそ、いけにえの役割だと聖書は言っているのです。しかし、そんな いけにえの役割が終わるときが来ました。第 2 段階です。 第 2 段階:私たちが裁きを免れるためにイエス・キリストが登場します。 これは、神が、私たちの罪の償いを完全に成し遂げてくださったということなのです。 いけにえは完全ではありませんでした。毎日ささげ続ける必要があったのです。しかし神 は、私たちのために完全ないけにえを用意されたのです。それがイエス・キリストであり、 イエスが十字架にかかったという事実なのです。 ここで、イエスが十字架にかかった経緯を振り返ってみましょう。イエスはユダヤで神 の国について説いて回っていました。その過程で、当時のユダヤ人指導者層であった祭司 長や律法学者たちを、偽善者として厳しく批判しました。イエスの民衆への影響が大きく なるにつれ、祭司長たちはその言動を無視できなくなり、イエスを排除したいと考えるよ うになりました。そんな中、過ぎ越しの祭りを前に、イエスは彼らの本拠である首都エル サレムに乗り込みます。民衆の大歓迎を受けたイエスでしたが、イエスは祭りの夜、弟子 たちを集めて食事を共にしながら、自分がこれから捕らえられて死刑になることを予告し ます。これが有名なダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の場面です。果たしてその晩、イエス は逮捕され、ユダヤ議会に引き渡されます。そして当時ユダヤ地方を治めていたローマ帝 国の総督ピラトの元へ移送されます。祭司長たちは、イエスの罪状を「自分は神の子だと 主張して神を冒涜し、民衆を惑わした」と訴えました。ピラトはイエスを取り調べた結果、 罰するべき罪状が何もないことを伝えます。ところが、総督府に集まった群衆は、祭司長 らに煽動され、イエスを「十字架につけろ!」と声高に叫びます。ピラトは政治的な思惑 もあり、イエスを彼らの要求通り十字架刑に処することを言い渡します。イエスは刑場に 26 SE が書いたキリスト教入門 引かれ、他の 2 人の犯罪者と共に十字架につけられました。そして死んだのです。 これが、歴史的な事実としての十字架の顛末です。このこと自体を否定する歴史学者は ほとんどいません。イエスは実際に、このような経過を経て十字架につけられ、死んだの です。十字架刑は当時の最高刑です。木を組んだ十字架に人を生きたまま釘で磔け、死ぬ まで放置するのです。短時間で死ぬ絞首刑などとは違い、じわじわと長時間苦しめて死に 至らしめるという、極めて過酷な刑です。 ここで、歴史的事実としての経緯とは別に、 「イエスはなぜ十字架につけられたのか」と いう意味を問うことが必要になります。なぜなら、その後の弟子たちの宣教の中身が、こ の十字架(及びその後の復活)だからです。イエスは「罪人として」十字架につけられ死 んだのですが、それを弟子たちが十字架の意味を宣教した結果、世界が「キリスト教は愛 の宗教」と認識するに至っているからです。 よく勘違いされるのですが、イエスの弟子たちが宣教したのは、イエスが生前説いてい た「愛の教え」ではまったくないのです。確かにイエスは、 「右の頬を打たれたら左の頬も 出しなさい」「友のために命を捨てるのが最高の愛です」といったような究極の愛の姿を説 いていました。しかし弟子たちが宣教した内容は、それではなかったのです。彼らが伝え たのは、イエスが十字架で死に、3 日後に復活したという事実、そしてその意味でした。そ こにこそ、なぜキリスト教が「愛の宗教」と認識されるに至ったかの答えがあります。そ の意味が、イエスの十字架はいけにえだった、ということなのです。 7 メロスの友人=いけにえ では、なぜイエスが人の身代わりとしてのいけにえになり得るのでしょうか。人が他の 人の身代わりになるというのはどういうことか、そんなことがあり得るのかを考えてみま しょう。 太宰治の「走れメロス」という作品は、皆さんもご存知でしょう。罪を犯して処刑され ることになったメロスですが、友人が人質となり、妹の結婚式に出るため故郷へ戻ります。 果して約束の期限までにメロスは戻って来るのか…、という話ですが、ここで、人質とな ることを申し出た友人に着目してみましょう。もしこの友人が、メロスと同じく処刑され ることになっている立場だったら、王様は彼を人質として認めたでしょうか。そんなはず はありませんね。その場合友人は、人質となる条件を満たせないのです。メロスの人質と なれるのは、処刑される理由がまったくない人です。処刑される理由がないからこそ、友 27 SE が書いたキリスト教入門 人はメロスの身代わりになることができたのです。 イエスの十字架の死が私たちの罪の身代わりだというのも、そういう事なのです。イエ スが私たちの身代わりになれるのは、このメロスの友人と同様、イエス自身にはまったく 罰を受ける理由がなかったためです。イエスは人ではありましたが、神が人に求める条件 (先に RFP に例えました)にぴったり合った「完全な人」だったということです。イエス は本来、神の裁きを受ける必要はまったくありませんでした。にも関わらず、イエスは十 字架にかけられたのです。だからこそ、それはいけにえとしての意味を持つのです。イエ スだけが、私たちの代わりにいけにえとなる資格を持っていたのです。 「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。… そして、自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」13 そして重要なことに、神はこのイエスといういけにえを、完全なものとして取り扱うの です。ですから、従来の旧約聖書時代のいけにえのように毎日ささげ続ける必要は、もは やありません。 「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除く ために、来られたのです。 」14 さて、ここで 2 つの疑問が生じるのではないでしょうか。 1 つ目。 いったい、この事はたまたま起こったのでしょうか。神は、イエスが十字架にかかった のを、たまたまこれ幸いと利用したのでしょうか。 2 つ目。 この十字架のいけにえとしての意味とやらが本当であると、いったいどうやって証明で きるのでしょうか。イエスの死後、弟子たちが恩師の名誉回復のために、あるいはその類 い稀な人格を世に広めるために、教義として作り上げたものなのではないのでしょうか。 これらの疑問について、順を追って考察して行きましょう。 8 プロジェクト=救いの計画 イエス・キリストの十字架がいけにえとしての意味を持つことについて、1 つ目の疑問、 「この十字架という出来事がたまたま起こったのかどうか」ということを考察しましょう。 28 SE が書いたキリスト教入門 エンジニアらしい切り口から行きましょう。プロジェクトという言葉はよく使われます し、皆さん自身もお仕事で様々なプロジェクトに関わっているでしょう。ところで、プロ ジェクトマネジメントの標準を策定している PMI(Project Management Institute、プロジ ェクトマネジメント協会)による定義では、 「プロジェクトとは、独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期 性の業務である。」15 とされています。今までにないものを作り出す(独自性)ために実施される、開始と終 了のある(有期性) 、業務(計画性)ということです。すなわち、顧客からの要求に従って 実施されるシステム開発は、プロジェクトと言えます。 ・独自性:ユニークな産物を作り出す ・有期性:始まりと終わりがある ・計画性:計画に従って実施される業務である こうしてみると、神による人の救いという働きは、まさにプロジェクトといえるでしょ う。救いをプロジェクトという観点から見ると、次のようになります。 ・独自性 神が人を救うというのは唯一無二の出来事であり、その成果は独自性があると言えます。 「その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。」16 ・有期性 この世界には始まりがあり、そしていつか終わります。世界が終わるとき、すべての人 たちが裁きを受けるために神の御前に引き出されます。そして救いと滅びが決定するので す。このように、救いの働きには有期性があります。 「わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです。」17(イエスの言葉) ・計画性 神は、人は罪深い存在であり、救いが必要なことをあらかじめ知っていました。神は、 人が初めて罪を犯した時から、すでに救いの計画を明らかにしています。 「彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」18(神が、罪を そそのかしたサタンに言った言葉。 「彼」はイエスを指す) このように、神の救いの働きをプロジェクトとして捉えるなら、イエスの十字架はたま たま、成り行きで起こった事ではなく、神の救いの計画の中で周到に配置された出来事だ 29 SE が書いたキリスト教入門 ったと言うことができます。 「でも現実のプロジェクトの中では、予想外の問題が起こるではないか」と思うかも知 れませんね。確かにそのような不確実性がプロジェクトの特徴とも言えます。でも、予測 がつかないことを「神のみぞ知る」と表現したりします。これは逆に、神に予測不可能な ことはないと暗示していませんか。実際、神にとって想定外や不確実なことはありません。 イエスの十字架という出来事は、不確実性によって発生した想定外のことではありません。 ですから、イエスの十字架には意味があります。本書の最初の方で扱ったことを、覚えて おられるでしょうか。 「偶然にできたものには目的や意味はない。 」 です。イエスの十字架は神が計画したことなので、目的、意味があるのです。それが私 たちの身代わりとしてのいけにえでした。実際、この計画は人々にあらかじめ示されてい ました。後代の人々が作り上げた理屈ではないということです。その根拠を見てみましょ う。 9 検収チェックリスト=預言 十字架の出来事の発生は、検収に例えることができます。あなたは苦労してソフトウエ アを作り上げました。いよいよユーザに納品です。これで一件落着、終わりでしょうか。 いいえ、ユーザによる検収テストを経なければなりません。検収テストとは、 「出来上がったシステムが仕様どおりに不具合無く動作するかどうかを発注元のユー ザ企業が検証するテスト」19 です。このテストに問題なく合格して初めて、ユーザに納品書に印をもらい、こちらは 請求書を手渡すことができるのです。検収テストにはあらかじめ作成されているチェック リストを使用します。ユーザはこれに従ってチェックを実施していくのです。実は、神の 救いの計画にもこのチェックリストがあるのです。それが預言です。 聖書の成り立ちを整理しましょう。聖書は大きく旧約聖書と新約聖書に分けられます。 その違いは、旧約はイエス・キリストの登場以前、新約はそれ以降ということになります。 約束という意味で言えば、旧約は「神に従えば民は繁栄する。しかし民は神に背いた。こ れに対処するため神は救い主を与える」という旧い約束、新約は「救い主が来た、それが 30 SE が書いたキリスト教入門 イエス・キリストだ。この方を信じれば救われる」という新しい約束です。新約は旧約の 実現を含んでいるのです。旧約聖書の中には、神は人類の救いの計画を持っており、その ために救い主が与えられるということが書かれています。これは預言という形で明示的に 示されていたり、物語の中に暗示されていたりします。分かりやすいところで、預言をい くつか見てみましょう。なお、「預言」とは未来を言い当てる「予言」とは異なり、「神か ら託された、預かった言葉」という意味です。 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と 名づける。 」20 (イエスは処女マリヤから生まれた) 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなた のうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。」21 (イエスはベ ツレヘムで生まれた) 「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小 羊のように。」22 (イエスの十字架の様子) これらは救い主の誕生に関するごくごく一部の預言です。旧約聖書にはこの他に、救い 主が話す言葉や、その行動などが数多く預言されています。そして、これらがことごとく イエス・キリストにおいて実現(成就)しているのです。これは大変驚くべきことで、詳 細は専門家にお任せしますが、到底偶然に起こりえる度合いをはるかに超えています。天 文学者のピーター・ストナーは、300 の預言のうち一人の人に 48 の預言が成就するのは、 10 の 157 乗分の 1 の確率だと述べました23。この確率は米国科学協会が正確で信頼性がある と判断されているそうです24。 いずれにしろ、このようなイエスが生まれるはるか以前に預言されたことが、イエスに おいて成就していることは、偶然ではまったく起こり得ないことと言ってよく、逆に言え ばこのことは偶然ではなく、神の計画に従って予定通り実現されたこと、ということにな ります。神は、イエス・キリストという「製品」について、預言という形であらかじめチ ェックリストを用意していました。それらのリストに照らして我々はイエスをチェックす ることができ、ことごとく結果OKだったことがわかったというわけです。つまり、検収 合格です。神の救いの計画が、後代の作り話や伝説ではない、ということがおわかりいた だけるかと思います。 ちなみに、聖書の記述に基づいて世界の終末を描き、米国で大ヒットした小説「レフト ビハインド」25では、世界中からの信託を受けて誰が救い主なのかを調査したユダヤ人学者 が、最終的にはイエス・キリストがその人だと結論付ける場面が出てきます。小説ですが、 さもありなんという印象を持ちました。 31 SE が書いたキリスト教入門 10 もっとも大切なこと イエス・キリストの十字架がいけにえであったということについて、2 つ目の疑問を取 り上げます。十字架の、いけにえとしての意味とやらが本当であると、いったいどうやっ て証明できるのかという疑問です。イエスが旧約聖書に預言されていた救い主の姿の成就 だというのは、新約聖書において何度も言及されていますが、もちろんそれら新約聖書を 著したのはイエスの弟子たち(パウロは直接の弟子ではありませんが)でした。そこで疑 問が生じるわけです。これはイエスの死後、弟子たちが恩師の名誉回復のために、あるい はその類い稀な人格を世に広めるために、教義として作り上げたものなのではないのか。 まずは弟子ペテロの弁を聞きましょう。 「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせまし たが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、 キリストの威光の目撃者なのです。 」26 ペテロはイエスの一番弟子と目される人物で、カトリック教会のローマ法王というのは 代々そのペテロの後継者とされています(ちなみに私はプロテスタントですが) 。ここでペ テロは堂々と「これは作り話ではない」と主張しています。もっとも、自分で「これは作 り話です」と言っていたのでは元も子もありませんが、ここで重要なのは、自分たちが「目 撃者だ」と言っている点です。一体何を目撃したのかというと、復活したイエスなのです。 他の箇所も見てみましょう。 「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」27(ペ テロ) 「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、 次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、 また葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、…」28 (パウロ) 既に触れましたが、十字架の出来事のあと、弟子たちが熱心に宣べ伝えたのは、イエス の教えではなく、イエスが復活したという事実でした。もし弟子たちがイエスを愛の宗教 の教祖として持ち上げようとするなら、 「右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい」という ような教えこそ布教すべきではないでしょうか。でも、弟子たちが命をかけて伝えようと したことは、それではなかったのです。 32 SE が書いたキリスト教入門 もう一つ重要なのは、その「命をかけて」ということです。弟子たちは、十字架の出来 事の前後ですっかり変わってしまっています。前述のペテロはイエスが逮捕されたとき、 巻き添えを恐れ、「自分はイエスの仲間ではない」と誓いまでしたのです。(後に彼はその ことを激しく後悔しています。) 一番弟子のペテロにしてそうですから、あとは推して知 るべしで、みな散り散りになって逃げてしまいました。つまり、イエスが十字架にかかる 時点では、師匠と運命を共にしようという弟子はいなかったのです。ところがどうでしょ う。十字架からしばらく経つと、弟子たちは人が変わったように熱心に伝道し始めます。 イエスが復活した、自分たちはその証人だと言って。その結果逮捕され、鞭打たれ、人々 に石で打ち殺される弟子も出ます。件のペテロは、最後には逆さ磔になったと言われます。 弟子たちは、まったく変わってしまったのです。なぜだと思いますか。 11 復活は事実か あなたは、外注先にコーディングを依頼しているソフトウエアの品質が以前と違うこと に気づきました。バグの発生件数が明らかに減っているし、こちらからの要望や問い合せ に対するレスポンスが異様に速い、しかも正確になっている。ソフトウエアも致命的だっ たフリーズは起こらなくなったし、GUI の応答性も向上している。あなたは外注先に電話し ます。 「ずいぶん改善しているようだけど、どうしたの?」 「実は社長が変わりまして、品質管理態勢の抜本的な見直しがあったんです。」 「ああ、そういうことですか。 」 あなたは、外注先に根本的な変化があったことで納得します。 では、イエスの弟子たちの場合はどうでしょうか。何が彼らを宣教に命を投げ出すほど に変えたのでしょう。 「後悔」を挙げる方もいるかも知れません。あんなに自分たちに目をかけてくれた師を 裏切った、その後悔の念は弟子たちに共通のものだったでしょう。師に報いるため、今こ そその教えを伝えるべきだ、そういう共通の思いで結束したのかも知れない。しかしそう だとしても、復活を最重要事項として伝える必要性が説明できないし、聖書の「使徒の働 き」に見られる弟子たちの必死さの根拠としては弱すぎるように思います。 あるいは、復活を喧伝することが教団の勢力拡大に最も有効だと判断したのかも知れな い。しかしその場合は、やっていることは共同謀議です。彼らは、イエスが「律法を廃棄 33 SE が書いたキリスト教入門 するためではなく、成就するために来た」と主張しています。律法を守りきれない人の弱 さを、イエスが代わりに達成してくれたというのが新約聖書を通したテーマです。十戒を 思い出してください。第九戒に「偽りの証言をしてはならない」とあります。復活を謀議 したとすると、まさにこれに背くことになります。律法を守りきれないことを悔い改めな がら、そんな謀議に弟子たちが賛成し、命をかけてふれて回るなどということは到底考え られないわけです。 百歩譲って復活が謀議だったとしても、ありもしないことだったらそこからボロが出る 可能性があります。バグが残っている、でも納品も迫っている、納品後に差し替えで対応 したいというような場合、社内の最終審査ではできるだけサラッと流したいという心理が 働くのではないでしょうか。このように、ヤバいところはなるべく触れないというのが人 の心理です。ところが、新約聖書のイエスの伝記とも言える「福音書」が 4 書ありますが、 いずれも十字架と復活というたった 3 日間に多くの割合を割いています。また前述した通 り、その後の伝道の中心メッセージも十字架と復活です。もし復活が謀議なら、そこに多 くのページを割き、メッセージの中心に据えるなど考えられないことです。 「でも」と聖書を詳細に調べた人は言うかも知れません。 「4 つの福音書には、復活の記 事内容に相違がある。もし復活が事実なら、なぜ違いがあるのか。」確かに、イエスの墓に 行った人数や出来事の前後関係など、福音書相互に不一致が見られるのは事実です。でも、 こうも考えられます。「もし復活がなく謀議であったなら、なぜその記事内容は一致してい ないのか。 」つまり、重要事項としての謀議があり、聖書執筆までに十分な時間があったと すると、一致していない方がおかしいことになります。逆に言えば、微妙な点で一致して いない事こそ、これが事実であり、目撃者証言による差異が見られるという、常識で理解 できる事柄となります。 このように、復活が謀議であるという推論には多くの無理があります。これらの無理は、 「復活が事実だった」とするだけですべてシンプルに解決してしまいます。何より、復活 という事実こそ、弟子たちの目を覚まさせ、自信に溢れ、死をも恐れぬ伝道者に変化した ことを最もよく説明する、まさに根本的な出来事であったのです。そして、復活が事実で あるならば、イエスが私たちの身代わりとしてのいけにえ、すなわち救い主であるという 旧約聖書の預言がイエスにおいて完全に成就した、という事になるのです。 12 イエスの愛 イエス・キリストは神と人との仲介をするドライバだ、というところから、人の罪、裁 34 SE が書いたキリスト教入門 き、救いと話を進めて来ました。ここまでの話を整理しましょう。 1. 神は私たち人間に完璧を求めています。 2. 人は罪を犯す不完全な存在です。すべての人は罪の性質を持っているからです。従 ってそのままでは人は滅びの判決を受けるしかありません。 3. 神は人の罪を赦すために「いけにえ」という方法を定めました。しかしそれは完全 なものではなく、繰り返し毎日ささげなければなりませんでした。 4. 神は実は、完全ないけにえをもって人を救う計画を持っていました。それがイエス・ キリストの十字架と復活です。 5. イエスの弟子たちは、イエスがこの完全ないけにえ、救い主であり、それが復活と いう事実によって示されたと証ししました。 神はいけにえとなったイエスを通して私たちを見るので、私たちには無罪という判決を 下すのです。ちょうど、デバイスの持っているバグや複雑なプロトコルをドライバが吸収 し、アプリケーションには不都合なく見えるようにです。イエスがこのようなドライバの 位置にいるという意味を、もう少し詳しくお話ししましょう。これは、どのような原理で 私たちがイエスを通して滅びから救われるのか、という問いです。 私たちは不完全でシミだらけの存在です。そんな私たちが神の裁きの座にそのままで出 た場合、判決は滅びに決まってしまいます。そこでイエスは私たちの身代わりとして法廷 に立ち、有罪判決を(既に)受けて下さったのです。これがイエスの十字架です。十字架 は、本来私たちが受けるべきものでした。私たちは、帰って来れなかったメロスです。私 たちの友人イエスは、私たちの代わりに死んだのです。メロスの友人は、メロスが帰って くることを信じていました(一度だけ疑いはしましたが)。それでもリスクを引き受けた友 情が人々を感動させるのです。ところがイエスは、私たちが帰って来ない、いえ、帰って 来れないことを知っていて身代わりを引き受けたのです。これがイエスの愛です。しかも 驚くべきことに、このことは私たちがイエスとは誰かを知る前に、既に行われたのです。 キリスト教が「愛の宗教」と言われる原点が、ここにあります。誤解を恐れず言えば、キ リスト教は、愛を行うことを勧めるものではなく、愛を行って下さったイエスを信じると いうものです。次の聖書の箇所がこのことをよく表しています。 「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進ん で死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリスト が私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明 らかにしておられます。 」29 35 SE が書いたキリスト教入門 13 神の愛 イエスの十字架の出来事は、私たちがまだ罪人だったときにすでに起ったことでした。 ところで、聖書中ではそれが「神の愛」と表現されていることに引っかかった人もいるで しょう。身代わりになったのはイエスであって、自分から進んで十字架にかかったという。 それなら「イエスの愛」ではないか。なぜそれが「神が愛を明らかにしている」というの か。これを解くカギは、イエスと神との関係です。イエス自身の言葉をみてみましょう。 「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨て るのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威がありま す。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。 」30 イエスは意に反して十字架にかけられたのではなく、自ら進んで十字架の道を歩んで行 きました。そこには「権威」が伴っていたというのです。死刑になる権威とは不思議な表 現ですね。イエスには、いけにえとなる資格があったのですが、それを実行するについて は「この命令を父から受けた」というのです。この「父」とは、神のことです。神から示 されたのですから、権威があります。イエスは神の使命を帯びていたのです。 イエスは、人であると同時に、神としての性質も持ち合わせています。神には父、子、 聖霊という性質があり、いわゆる三位一体と言われますが、かなり難しい概念になるので 本書では詳しく触れません。要は、イエスはただの人間ではなく神の子という特別な存在 であり、父なる神の御心に忠実に従おうとします。そしてそんなイエスは、父なる神にと っては、愛するひとり子、ある意味で自分自身と言ってもいい存在です。ですから、イエ スは父なる神の計画に従って歩むのです。その神の計画こそ十字架でした。神は私たち人 間のために、愛するひとり子を犠牲にして下さったのです。これが神の愛です。イエスの とった行動に愛を感じるなら、その行動は紛れもなく、父なる神から出ている、神の愛に よるのです。 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくだ さいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」31 1 2 3 4 5 ローマ人への手紙 7 章 19 節 テサロニケ人への手紙第二 1 章 9 節 ローマ人への手紙 6 章 23 節 三浦綾子「氷点」角川文庫 ローマ人への手紙 5 章 12 節 36 SE が書いたキリスト教入門 6 ウィキペディア「スタンフォード監獄実験」 「es(エス) 」監督:オリヴァー・ヒルツェヴィゲル 2002 年ドイツ 8 ウィリアム・ゴールディング「蝿の王」新潮文庫 9 「蝿の王」監督:ハリー・フック 1990 年イギリス 10 へブル人への手紙 9 章 7 節 11 へブル人への手紙 10 章 3 節 12 へブル人への手紙 10 章 11 節 13 ペテロへの手紙第一 2 章 22 節、24 節 14 ヘブル人への手紙 9 章 26 節 15 プロジェクトマネジメント知識体系(PMBOK)ガイド第 4 版「1,2 プロジェクトとは何 か」Project Management Institute 16 ペテロの手紙第二 1 章 4 節 17 ヨハネによる福音書 12 章 48 節 18 創世記 3 章 15 節 19 IT 用語辞典 e-Words「検収テスト」 20 イザヤ書 7 章 14 節 21 ミカ書 5 章 2 節 22 イザヤ書 53 章 7 節 23 ピーター・ストナー「科学が語る:正確な聖書の預言と科学的証拠」1944 年 p.109-110 24 人生の旅路について「イエスについての預言」 25 ティム・ラヘイ/ジェリー・ジェンキンズ著上野五男訳「レフトビハインド」フォレス トブックス 26 ペテロの手紙第二 1 章 16 節 27 使徒の働き 2 章 32 節 28 コリント人への手紙第一 15 章 3 節、4 節 29 ローマ人への手紙 5 章 7、8 節 30 ヨハネによる福音書 10 章 18 節 31 ヨハネの手紙第一 4 章 9 節 7 37 SE が書いたキリスト教入門 第 4章 1 応答としての 応答としての信仰 としての信仰 ラッパー=イエスを着る ラッパーと言っても、ミュージシャンの rapper ではありません。ソフトウエアでのラッ パーwrapper です。これはどんなものかというと、 「プログラミングの分野で、あるクラスや関数、データ型などが提供する機能やデー タを含み、別の形で提供するもののことをラッパーという。元の機能を包み、覆い隠 す役割を果たすためにこのように呼ばれる。 」1 プログラミングをしない方には分かりにくいかも知れません。少々乱暴に言えば、ボロ の上にきれいな衣を着て、ボロを見せないようにすることです。これでごちゃごちゃした プログラムが、別のプログラムからはきれいに見えるので、使いやすくなるというわけで す。前にイエスをドライバに例えましたが、それと似ていますね。ドライバは、コンピュ ータが外部デバイスを扱いやすくするために提供されるものですが、ラッパーはプログラ ムの内部で、複雑だったり、そのままでは使えなかったりする部分に適用します。ドライ バもラッパーもプログラムの一種です。一方から他方への翻訳プログラムだと思えばいい でしょう。 ラッパーによって覆われたボロのプログラムは、もはやボロには見えません。馬子にも 衣装と言いますが、きれいな衣装を着て神の前に出ることができるのです。これは嘘をつ いているとか、胡麻化しているということではありません。役者が役の衣装を身につける ように、私たちはイエスという衣装を身につけなければ、決して神の前という大舞台には 立てないのです。罪に汚れた私たちがイエスを着て神の前に出られるということは、もは や罪を問われないということです。あらゆる罪を赦されます。原罪としての罪の性質も、 実際に犯してしまった罪も、赦され、真っ白な姿として扱ってもらえるのです。他のどん な方法もありません。イエスを着ることでのみ成し遂げられる、これが神の赦しです。イ エスは私たちを赦すための、完全ないけにえだったのです。 「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神 の豊かな恵みによることです。 」2 38 SE が書いたキリスト教入門 2 ソフトウエアの不変性=永遠 ソフトウエアの際立った特徴、それは「壊れない」 、言葉を変えれば「いつまでも同じ動 きをし続ける」ということです。モノであるハードウエアは、いつかは壊れます。 もちろ んコンピュータも壊れます。しかし、ソフトウエアそのものは壊れません。ソフトウエア はいつまでも同じ形を取り続けるのです。 さて、神の計画の実現であるイエスの十字架によって私たちは救われる、とこれまで述 べてきましたが、では救われるとどうなるのか、逆に救われないとどうなるのかについて 知っておく必要があります。救いは「罪の罰としての滅びからの救い」ですが、滅びとは 一体何でしょう。死んで消えてしまうことでしょうか。もしそうなら、別に救われなくて も大して実害がないように思えます。誰でもいつかは死ぬのですから。でも聖書が言うの はそうではありません。もっと、ずっと深刻なのです。 「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報 復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永 遠の滅びの刑罰を受けるのです。」3 恐ろしいことが書かれています。 「自分は神など知らなかった」と言っても、それは滅ぶ 人に含まれてしまっています。滅びというのは、刑罰が永遠に続くことです。ヒットラー なら、麻原彰晃なら永遠に苦しんでも仕方ないように思える、それと同じことが、同じ罪 の性質を持つあなたにも起こるということなのです。 神は、人を魂のある存在として造りました。これが無生物や、他の生き物と違う点です。 魂は、肉体が死んでも永遠に存在します。どこでその永遠を過ごすのか、それが救いと滅 びの違いです。では、救われた人はどうなるのでしょう。 「御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていま せん。私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、 あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためで す。」4 イエスを信じて救われた人の魂は、神にあって「永遠のいのち」が与えられるのです。 バグだらけの私たちは、そのままの姿で不具合を永遠に起こし続けてユーザを苦しめ続け るのか、完全に修正されて喜んで使い続けられるのか、どちらかなのです。 39 SE が書いたキリスト教入門 3 レスポンス=神への応答 前項までで、人が救われる必要性と、神の救いの計画、およびその実現としてのイエス の十字架と復活、その結果としての罪の赦しと救いについて一通り述べて来ました。いわ ば聖書の目的とエッセンスです。もう一度整理すると、次の 3 つのことを知ることです。 1. この天地と、人を造った神が存在します。 (神) 2. 人は神の前には罪ある存在なので、そのままでは滅びます。(罪) 3. イエス・キリストは、人を滅びから救うために十字架につき、そして復活しました。 このことによって人の罪は赦され、永遠のいのちが与えられるのです。(救い) ではこれらを知った人はどうすればいいのでしょうか。レスポンス response とは「応 答」のことです。メールなどへの返信を「レス」と言ったり「Re:」と表現したりします ね。ソフトウエアでは、ボタンをクリックしたりしてコンピュータに指令を伝える訳です が、指令に対する応答が速いか遅いかは、ソフトウエアの使い勝手に大きく影響します。 人が「リアルタイム」と感じる応答速度はどのくらいでしょうか。私の会社で作ってい るソフトウエアには、0.1 秒毎に数字を更新して値を「リアルタイム」でモニタするものが あります。このくらいだと、自然界の信号(音など)の変化にリアルタイムで追従してい る感覚があります。ボタンを押してからの反応が 1 秒後だとさすがにリアルタイム感は全 くありません。0.5 秒でもだめ。0.2 秒だと「ん?ちょっと遅いな」という感じです。0.1 秒というのが案外人間の「すぐ」の感覚の限界かも知れません。 以前ある車種の自動車で、ブレーキを踏んでからきき始めるまでの感覚が、人のリアル タイム感とワンテンポずれていることが問題になっていたことがあります。 「打てば響く」 というのは、良い意味で使われますね。聖書もこう記しています。 「きょう、もし御声を聞くならば、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のよ うに、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」5 「メリバのとき」 「マサの日」とは、かつて神の民(ユダヤ人)が、明らかな神の業を目 の当たりにしながら、神を素直に受け入れなかったことを示しています。決して拙速な決 断を求めているのではありません。神の業についてはっきり知ったならば、 「また今度」で はなく「きょう」応答しなさい、と言うことです。必要な情報が入手でき、その導入効果 が分かったなら、リアルタイムに行動を起こしなさい、と聖書は促しているのです。では その行動とは、具体的には何でしょうか。 40 SE が書いたキリスト教入門 4 あなたとイエス 聖書が人に促している具体的な行動とは、 「イエス・キリストを信じること」です。もっ と具体的に言えば、 「イエスの十字架は自分の代わりであり、このイエスが自分の救い主で あると信じること」です。キリスト教とはつまるところ、このことです。このことだけ、 と言ってもいいでしょう。 「キリスト教がわかる」と謳っている本には、天地創造、三位一体、処女降誕、世の終 わりなどの聖書の内容や、教会の成立、分裂といったキリスト教の歴史などが書いてあり ます。それらを読んで、とてもこんな宗教は信じられないと思われるかも知れません。し かし、そのような本は、イエスとあなたとの関係を説明してくれているでしょうか。そう でないなら、それらは知識としてのキリスト教を説明するだけのもので、あなたがキリス ト教を信じるべきかどうかの情報源にはなりません。これまで説明してきた中に、そうい うキリスト教本のような内容は入っていません。それらは確かに聖書の重要事項、キリス ト教の歴史上の事実ですが、それらが最も重要なのではありません。最も重要なのは、救 われるためにイエス・キリストを信じることです。イエスとあなたとの関係が最も重要な のです。それだけです。教会に通うことで救われるのではありません。酒煙草賭事をせず 品行方正であることで救われるのではありません。天地創造や処女降誕を信じることで救 われるのでさえありません。もしそれが救いに必要なら、今にも死に直面している人はど うやって救われるのでしょうか。聖書は、それらが救いに必要だなどとは全然言ってはい ないのです。イエスは私の代わりに十字架にかかって、3 日目に復活してくださった、と信 じることです。それだけです。聖書の中の聖書といわれるこの箇所がそれを示しています。 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を 信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」6 もしこれに応答したいと思われたら、次のことを自分の言葉として言ってみてください。 「神様。 私はあなたの前に罪人で、滅ぶしかない存在です。 私は自分の力で救いを得ることはできません。 しかしあなたはイエスを私の代わりに十字架につけ、3 日目に復活させてくださいまし た。 このことによって私を赦し、救いに入れて下ることを信じます。 41 SE が書いたキリスト教入門 私はイエスが私の救い主であることを信じます。 あなたのことをもっとよく知ることができるように導いてください。 イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン。 」 これは神への祈りです。救い主イエスの名を通すことで、イエスを遣わした神への祈り であることを示すのです。もしこれを自分の言葉として祈るなら、そのとき人は罪を赦さ れ、救いに入っているのです。聖書の約束はこうです。 「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し 、あなたの心で神はイエスを死者 の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 」7 5 アップデート=救われた人 これまで、イエスを自分の救い主と信じることで救われることを述べてきました。そし てその救いとは、永遠のいのちのことだと説明しました。このことについて、いくつかの 疑問を解決しておきましょう。 疑問 1 救われるのが永遠のいのちを得ることだとすると、どうやって自分が救われたとわかる のでしょうか。死んでみるまでわからないのでしょうか。 回答 滅ぶべき私たちが救われ、永遠のいのちを得たということは、人生が無限の絶望から、 無限の希望へ変わったということです。そのことを保証するものがあります。それが神の 契約すなわち約束です。聖書は大きく、旧約聖書と新約聖書からなっていますが、ここで 使われている「約」とは約束のことです。翻訳のことだと思っている人も多いのではない でしょうか。 旧約では、神に従いきれなかった人を救うために救い主が来ると述べられています。そ して新約では、それがイエスであり、救いの方法が十字架であったことが示されました。 このことを信じるならば、そのまま新約、新しい約束を信じることができるのです。その 新しい約束こそ、救い主イエスを信じた者は救われ、永遠のいのちを得るという約束です。 これは新約聖書中でこれでもかという程、何度も触れられています。 「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わさ 42 SE が書いたキリスト教入門 れたイエス・キリストとを知ることです。」8(イエス) 「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエ スにある永遠のいのちです。」9(パウロ) 「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あ なたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためで す。」10(ヨハネ) このことを信じるのが「信仰」であり、この信仰をもって生きていくことが「信仰生活」 なのです。永遠の命を持っていることを、信じていいのです。 疑問 2 救いが永遠のいのちだとすると、今現在の自分には何か変化はあるのでしょうか。何も 変わっていないように思えます。 回答 受験を思い出して下さい。入学試験を受ける前と、合格した後の人は何が変わっている のでしょうか。表面的には特に変化がなくても、その内面には大きな変化があるはずです。 合格後は、解放感と安心に満たされています。来るべき新しい生活に向けて、希望があり ます。それは今の自分を変えるのです。極端に言えば、生き方が全然違ってくるはずです。 もし前項の祈りを心からささげたのなら、その人はまったく新しく生まれ変わったので す。今何歳であっても。そして、たとえ肉体は次第に弱っていくとしても、新しく生まれ 変わった人の内面は、決して衰えることはありません。かえって、次に書かれているよう に、次第に新しくなって神に近づいて行くのです。 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは 過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 」11(パウロ) 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内な る人は日々新たにされています。」12(同) 疑問 3 イエスの十字架によって救いがもたらされるとしたら、なぜそれを信じないと救われな いのか。神が愛なら、無条件にすべての人を救えばよいではないか。 回答 神が無条件に(イエスを信じなくても)人を救えばよいというのは、それはそれで一つ の考え方だと言えるでしょう。しかしそんな神は本当に愛で、果たして理に叶っているで 43 SE が書いたキリスト教入門 しょうか。もし神の救いがまるっきり無条件ですべての人に及ぶなら、それこそ倫理も正 義もへったくれもないということではないでしょうか。世の中やりたい放題、やったもん 勝ちということです。あなたは本当にそんな救いの適用の仕方を公平だと納得できるので しょうか。神は愛であると同時に、正義で、真実で、合理的です。この世に倫理の根拠を 与えつつ、また罪は罰するという正義を貫きつつ、愛の神として人を赦すために十字架と いういけにえを用い、信じて悔い改めた者を救うという、最適な方法で救いを人間に適用 したのです。 不具合だらけのソフトウエアが修正され、ユーザにアップデートの通知が届きました。 サイトにアクセスして新版をダウンロードしインストールすれば、中身は新しくなります。 あなたはアップデートの益を受ける事ができます。しかしアップデートの通知を無視した ら、その恩恵に浴することはできません。神は私たちを操ろうとしているのではなく、私 たちの意思を尊重します。信じるかどうかは私たちの自由なのです。ユーザの知らぬ間に 自動アップデートはしないのです。神は私たちに、不具合を自分で直せとは言っていませ ん。完全に直したから(タダで)アップデートせよ、と言っているだけです。 あなたには大きな借金がありました。これをある人が全部肩代わりして払ってくれたの ですが、あなたはそれを信じません。「そんなことあるわけない」と、真面目に借金を工面 し続けます。確かに真面目ですが、無意味で、滑稽でさえあります。神は私たちに、肩代 わりした借金を働いて返せとは言っていません。もう借金はないから、(ただ)それを信じ なさいと言っているだけです。 私にも、 「スマートフォンって便利そうだな」と思っていろいろ調べたり考えている時期 がありました。でもそれだけでは何も変わりません。私の時間の使い方や仕事の仕方が変 わったのはもちろん、実際に スマートフォンを買ってからでした。便利なツールについて 知っているのと、手に入れて使うのでは雲泥の差があります。イエスを信じることと、キ リスト教について知ることの間には、文字通り、天国と地獄の差があるのです。神は私た ちに スマートフォンを作れとは言っていません。こういうものを用意したから(タダで) 使いなさいと言っているだけです。 人が救われるために、神はどんな負担も要求していないのです。信じることをためらう 理由が何かあるでしょうか。 6 「信じる」と「知る」の違い 44 SE が書いたキリスト教入門 「イエスを信じることと、キリスト教について知ることの間には、文字通り、天国と地 獄の差があるのです。」と述べました。では、イエスを信じることと、キリスト教について 知ることの違いは、具体的には何なのでしょうか。ある雑誌 から引用してみましょう。 「先生は、知ると解るの違いを区別されていた。解るということは、それによって自 分が変ることだといわれる。何かを知るだけでは、自分が変ることはない。今までの 自分に、何かが加えられるだけだ。だが、解るというのは、知る以上のことであり、 自分の人格やこれまでの生き方の変更を迫るものというわけだ。 」13 これがまさに、イエスを信じる(解る)ことと、キリスト教を知ることの違いです。で は、何が解ったらイエスが解ったと言えるのでしょうか。これについても、同誌ではこう 述べています。 「『何が解ったら、解ったことになるのか』とは、いわば自分で研究の目的を定めるこ とにほかならない。研究の目的は何か。それを自分に問う。 」14 この文章は「何のために研究という仕事をするのか」という文脈なので「研究」という 言葉が出てきていますが、何らかの努力に対しては目的をはっきりさせる必要性がある、 と一般化できます。つまりこの引用に沿って言えば、「イエス・キリストと自分との関連を 見出すこと」を目的としてキリスト教を調べてみてはどうか、と私は提案したいのです。 そして、イエスと人との関係について、これまででひと通り述べてきたつもりです。 7 マイナーでもバージョンアップ iPhone の OS が購入時のバージョンからバージョンアップされたとき、私もすぐにアッ プデートしました。いろいろ機能が増え、使いやすくなっていました。ソフトウエアが少 しずつ(ときにはガラリと)良くなっていくのがバージョンアップというものでしょう。 大きな機能追加があるとバージョン 1.x から 2.0 へといったメジャーバージョンアップ、 バグ修正程度だと 1.3 から 1.4 へといったマイナーバージョンアップと呼ばれることが多 いようです。 イエスを救い主と信じると永遠のいのちを得る、と今まで述べてきたわけですが、信じ た人はどう変わるのかということを先に疑問として挙げた際、この聖書の箇所を引用しま した。 45 SE が書いたキリスト教入門 「ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内な る人は日々新たにされています。」15 人は、永遠のいのちを与えられていても、生きている間に完全な者になることはできま せん。それは肉体の限界であり、ソフトウエアである限りバグが内在し続けるように、人 である限り罪から完全に逃れられるわけではないのです。とは言え、救われ、神に赦され たことには違いありません。私たちは、 「赦された罪人」として神に感謝をささげ、神の愛 に応えるために生きるようになるのです。そうしなければならないのではなくて、そうな るのです。義務ではなく、それは応答なのです。帰って来れなかったメロスとして、犠牲 となった友人のために生きるようになるのです。 私たちは完全にはなれませんが、完全を目指して少しずつ歩みを進めることになります。 日々、マイナーバージョンアップです。その速度は人によって様々です。他人と比べる必 要はありません。自分が最終的に完全に救われることは確かなのですから。ときには失敗 して立ち止まったり、後退したりすることもあります。でも、そんなときでも前を向いて 歩むことができます。今どの辺にいるかよりも、向く方向が分かっている、それが救われ た人です。 8 生命保険 イエス・キリストを信じるというのはどういうことなのか、そして人ば救われるべきで あり、どうしたら救われるのかについて、一通り述べてきました。いかがでしょうか。確 かにその通りだと思われた方がいたら、大変うれしいです。しかし、 「理屈はそうかも知れ ないが、どうも自分のこととしては考えられない」という方も多いのではないかと思いま す。そこで、少し視点を変えてみようと思います。イエスを信じることで人にどんなメリ ットがあるのか、逆に信じないことでどんなデメリットがあるのか、すなわち、イエスを 信じることを損得で考えてみましょう。 あなたは生命保険に入っているでしょうか。言うまでもなく、生命保険は自分が死んだ ときに遺族に死亡保険金が支払われる仕組みです。保険金は何千万円というまとまった金 額だったり、月給のように月々いくらずつもらうというのもあります。いずれにしても、 保険金を受け取るのは遺族であって、本人ではありません(余命何ヶ月という診断を受け 取ったら本人が受け取れる制度もありますが) 。遺族がその後の生活に困らないように準備 しておくのが生命保険です。私も生命保険に入っています。契約が済んだとき、保険会社 の営業マンは言いました。「これでご安心ですね。」保険の売り文句は「安心」です。安心 46 SE が書いたキリスト教入門 をお金で買うのです。 生命保険に入れば確かにあなたの遺族は安心でしょう。では果たして、あなた自身はど うなのでしょう。自分の死後の行き先について、何か安心材料はあるでしょうか。あなた は、死んだ後自分がどこへ行くかわかっているでしょうか。誰でも死ぬことは確実で、逃 れることはできません。だから考えても仕方がない、と割り切れるでしょうか。 「死んだら 無になる」と漠然と考えていないでしょうか。でも、それは確実ですか? 聖書は、これま でも述べてきたように、人は肉体が死んでも残る魂が存在する、と言っています。それを 信じるかどうかは脇に置くとしても、少なくとも、聖書がそう主張していることは事実な のです。例えばこんな箇所があります。 「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんな ものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」 16 (イエス) 「私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましい が祭壇の下にいるのを見た。」17(ヨハネ) 9 問いのタイプ 死んだらどうなるか。 「無になる」と漠然と思っている方もいるでしょう。でも、そこに 何か根拠はありますか。死んだら何もなくなる、と誰が確かめたのでしょう。死者が無に なることを死者が教えてくれるというのも何か矛盾していますね。むしろ、何か死後の世 界があると思っている方もいるのではないでしょうか。 お寺でお葬式をすると、冥福を祈って戒名をつけます。家には仏壇や神棚を置き、お供 えをします。お盆には死者の霊が帰ってくると言われますし、地方によっては精霊流しと いう風習もあります。死んだあとも何か世界がありそうだと思わされます。それにしても、 あなた自身は、どう思っているのでしょうか。これらは単なる風習だ、事実、実際に死後 の魂があるのか、と問われれば、「よくわからない」というのが本音ではないでしょうか。 ここでぜひ理解してほしいのは、死後の世界があるかどうかということが、文化とか思 索の世界、形而上のことではなく、 「実際ある」のか「実際ない」のか、という具体的な実 在の問題だということです。例えば、ディズニーランドは楽しいか、という問いはどうで しょう。楽しいかどうかというのは思考や主観の判断であり、あなたが楽しいと思えば楽 しいし、そうでないと思えばそうでないという事が出来ます。多くの人がディズニーラン 47 SE が書いたキリスト教入門 ドは楽しいと評しているからといって、あなたがそう考えなければならないということは ありません。完全にあなたの中での判断なのです。これが形而上的な問いです。対して、 2010 年のサッカーワールドカップがどこの国で開かれていたか、という問いはどうでしょ う。答えは南アフリカですね。これは、あなたがサッカーに関心があるかどうかに関係あ りません。「俺はサッカーなど興味ない」「南アフリカってどこ」と言っても、それで答え が変わるわけではありません。エジプトで開かれているかと言えば、NO ですね。これも、 あなたの気持ちや考え方とは関係なく NO なのです。なぜなら、ワールドカップがどこで開 かれているのかというのは、実在を問う問いだからです。 死後の世界があるかどうかというのは、どちらの種類の問いでしょうか。死後の考え方 は宗教によって様々違います。ただ、どれが正しいにしろ、死後の世界があるかという問 いは、紛れもなく実在を問うものです。どれかが正しいのかも知れないし、どれも間違っ ているかも知れない。でもいずれにしても、あなたが、人々がどう考えるのかとは関係な く、実際にあるのかないのか、実在としてどちらかだということです。「あると思えばある し、無いと思えば無い」というものではありません。「自分にとってあるか無いか」ではな く、「事実、あるか無いか」を扱っている問題なのです。 10 リスクマネジメント=イエスを信じる リスクマネジメントという言葉をご存知でしょうか。特にソフトウエアに限った用語と いうわけではありませんが、定義を見てみると、 「考えうる危機的な事態を回避、あるいはそのことによる被害を最小の費用で最低限 にとどめるための仕組みや活動のこと。 」18 とあります。ソフトウエア開発でも、納期の遅れとなる要因を洗い出し、それらに予め 対応策を考えておくことが重要です。万一担当者が倒れても納期が守れるように複数体制 にしたり、きちんと設計文書を残したり、外注先とマメに連絡をとったり、毎日進捗会議 をしたり。これを、なるべく費用をかけずにやるのが肝要です。先に触れた生命保険は、 生活に身近なリスクマネジメントと言えます。自分が死んだ後に家族が生活に困るという リスクを回避するために、保険金を準備しておくわけです。これも、月々の保険料ができ るだけ安く、しかもいざというときに必要十分な保険金がもらえるような保険を選択する のが、賢い方法です。 さて、では死後の世界についてはどうでしょう。死ぬのは避けられないので、死そのも 48 SE が書いたキリスト教入門 のはリスクマネジメントの対象ではありません。どうしたっていつかは死ぬのです(長生 きするためのマネジメントは別途必要ですが)。問題は死後の世界です。これが「ない」こ とが絶対確実なのでなければ、つまり「ある」か「ない」かに明確な答えが出せないとい うのなら、死後の世界があるというリスクを考えておく必要があります。これに対して、 「イ エスを救い主と信じる」というマネジメントの有効性を考えましょう。 A 死後の世界がなかった場合 1 イエスを信じている → 特に影響なし 2 イエスを信じていない → 特に影響なし B 死後の世界があった場合 1 イエスを信じている → 天国=無限の利益 2 イエスを信じていない → 地獄=無限の損失 こうなります。この通り、イエスを信じていれば、死後の世界があっても無くても、と りあえず損はしません。でも、信じていなければ、死後の世界があった場合には取り返し のつかない事態となります。死後の世界に対するリスクマネジメントとして、最小費用で 最大効果を得るためにとるべきはどちらだと思いますか。聖書ではこう述べられています。 「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役目を果たし…」19 「人間は考える葦である」で知られるパスカルも、その「パンセ」の中で次のような含 蓄のある言葉を述べているのです。 「私には、キリスト教をほんとうだと信じることによってまちがうよりも、まちがっ た上で、キリスト教がほんとうであることを発見するほうが、ずっと恐ろしいだろう。」 20 IT 用語辞典 e-Words「ラッパー」 エペソ人への手紙 1 章 7 節 3 テサロニケ人への手紙第二 1 章 8、9 節 4 ヨハネの手紙第一 5 章 12、13 節 5 詩篇 95 篇 7、8 節 6 ヨハネによる福音書 3 章 16 節 7 ローマ人への手紙 10 章 9 節 8 ヨハネによる福音書 17 章 3 節 9 ローマ人への手紙 6 章 23 節 10 ヨハネの手紙第一 5 章 13 節 1 2 49 SE が書いたキリスト教入門 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 コリント人への手紙第二 5 章 17 節 コリント人への手紙第二 4 章 16 節 プレジデント 2010 年 7 月 19 日号 同 p.153「知的武装講座」石井淳蔵 コリント人への手紙第二 4 章 16 節 マタイによる福音書 10 章 28 節 ヨハネの黙示録 6 章 9 節 マネー辞典 m-Words「リスクマネジメント」 へブル人への手紙 6 章 19 節 パスカル著 前田陽一・由木康訳「パンセ」第 241 節 中公文庫 50 SE が書いたキリスト教入門 第 5章 1 信仰の 信仰の更なる理解 なる理解のために 理解のために #define = 言葉の定義 ここからは、キリスト教信仰について少し掘り下げてみてみます。教会の礼拝に出席す ると目にするであろういくつかのトピックについても解説していきます。 #define MaxNumber 1000 char mystring[100]; dim phase as Integer 上記はそれぞれ C や VisualBasic での定数や変数の定義です。プログラミングで、定 義は重要です。定数や変数を定義せずに使用すると、暴走やフリーズなど致命的な障害を 引き起こしかねません。そのため現在の開発環境では通常、未定義の変数はビルド時に警 告してくれるようになっています。 さて、言葉の定義をしっかりしないといけないというのは、何もプログラミングの世界 だけのことではありません。日常生活でも同じです。でも私たちがいつも厳密に言葉を定 義して使っているかというと、これはかなり怪しいですね。特に新聞やテレビなどのマス コミを賑わしたり流行している言葉は、意味がよくわからなくてもそれを使っていれば通 じたような気になります。 「今さら聞けない××」というタイトルの本が売れるのも、そん な定義をしっかり考えなかった穴埋めをしたい人がたくさんいるということなのでしょう。 信仰の話をする上では、言葉の定義はさらに重要です。学生の頃、違う宗派のクリスチ ャンと「天国」の話をしていたときのことです。どうも話がかみ合いません。そのうち相 手が、急に合点がいったようにこう言ったのです。 「なんだ、君は天国が本当にあると思ってるんだね!?」 これにはお互いに本当にびっくりしたものです。その人は天国を実際の天の国ではなく、 人が心の中に持つ平和な状態と捉えていたのです。道理でかみ合わないわけです。同じ「ク リスチャン」で同じ「聖書」を読んでいるのに、天国の理解はまるで違いました。「同じ」 ではなかったのです。愕然としました。自分にとって当たり前に思っていたことが、そう ではないと気づかされたのです。言葉の定義を合わせてからでないと、通じる話ができな いと強く思った出来事でした。 51 SE が書いたキリスト教入門 信仰の話の場合ではどうでしょう。そもそも「神」という言葉からして、十人いれば十 通りの定義が返ってくるのではないでしょうか。ですから、「あなたは神を信じています か?」「ええ、信じています。」と言ったところで、両者が同じことを意味しているとは限 りません。いえ、同じ可能性はほとんどないと言えるでしょう。言葉は、サンタクロース が背中に背負っている大きな袋の中身を要約して言うようなものです。 「ここにはおもちゃ が入っているんだ。」それを聞いた人が、「おもちゃ」という言葉から袋の中身を正確に再 現することはできません。一番確実なのは一つ一つ挙げていくことですが、日常会話の中 でそんなこともしていられませんし、する必要もないでしょう。言葉はうまく使えば便利 なものです。私たちは言葉の便利さと限界の両方をよく認識した上で使う必要があります。 もしお互いの間に、ある程度の共通認識があるなら、話は効率的に進みます。先ほどの「神」 にしても、同じ教会の人同士ならほとんど同じことを意味していると考えられます。でも、 例えばネットの質問掲示板でなら、まず同じことはありません。これがネット上での信仰 についてのやり取りで難しいところです。まず、土台となる言葉の意味を合わせるところ からしなければなりません。慎重に進める必要があります。 本書をソフトウエアの用語を使って書いているのは、ソフトウエアエンジニアの人たち 同士で通じる言葉があるでしょうから、それを土台にして未知のキリスト信仰について理 解してもらいたいからに他なりません。 (もちろんそうでない方にも読んでいただければな おうれしいです) 2 文字化け=聖書のデコード ネット上でこんな意見を見たことがあります(実際、よく見ます)。 「聖書は所詮人間が書いたものだ。それを神の言葉などといって信じるなんて、バカバ カしいにも程がある。いったい本気でそんなことを信じているのか。 」 確かに聖書は人間によって書かれたものです。神の指が炎のように文字を綴ったという ことでは決してありません。にも関わらず、クリスチャンは聖書を神の言葉と信じるので す。 今皆さんがお読みになっているこの文字、もちろん化けてはいませんね。文字化けはコ ンピュータ上で文字を誤って表示するもので、意味不明な%や&などの記号や数字の羅列 になったり、下のような魑魅魍魎(ちみもうりょう)な文字の並びになったりします。 サ繝医・繧ソ繝ォ・ス・サ譁・シス・サ蠖「蜍輔ち繝ェ・ス・・/b>豌エ縺後 52 SE が書いたキリスト教入門 メールなどでたまに見ませんか。文字化けには様々な原因がありますが、代表的なもの は文字コードを正しく適用していない場合です。コンピュータ上では、文字は各文字ごと のコードとして「あ」なら何番、「い」なら何番、というように数値化されます。この処理 をエンコードと言います。エンコードにはには EUC-JP とか Shift-JIS などいくつかの種 類があります。ですから、コードを文字に戻すときに、同じ文字コードで戻す必要があり ます。この処理をデコードと言います。エンコードとデコードの方式が違っていると、正 しく戻せずに文字化けしてしまいます。 書物はちゃんとした日本語になって印刷されていますから、文字化けした書物というの はないでしょう。しかし、書かれた意図が読み手に正しく伝わるかどうか、これは大きな 課題です。言葉の定義については既に考えましたが、言葉は人それぞれで微妙に、ときに は大きく意味の理解が違います。文章によって自分の伝えたいことを正確に言い尽くせる わけではないのです。それでも、聖書はよくできた文章です。難しいと思うのはたぶん先 入観です。確かに難しかったり、あまり読んでいて面白味のないところもありますが、普 通の日本語ですから、多くの箇所は普通に読めばわかります。 聖書の意図を正しく知るために、実は聖書の読み方というのがあるのです。聖書のデコ ードの仕方とでも言いましょうか。であれば、エンコードに合わせたデコードをしなけれ ばなりません。聖書にはいかなる種類のエンコードが施されているのでしょうか。それは 神の言葉であるということ、神学的に言うと聖霊が働いている、ということです。聖書が 聖書自身について述べている箇所もあります。 「あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばと してではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神の ことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです」1 「聖書はすべて神の霊感によるもので…」2 聖書を書いたのは人間です。それは紛れもない事実です。聖書著者自身は、自覚と意志 をもってそれを記したのです。しかしそこには神の霊感、すなわち聖霊が働いており神の 言葉だというのが、聖書自身の主張です。これは決して著者が神懸かりになっていたとい う意味ではなく、もっと大きな意志として神が働いていたということです。皆さんも日常 生活において、いろいろな選択や決断をしたことを後で振り返って「あれはこういうこと だったんだ」と思ったり、そこに見えざる不思議な巡り合わせを感じたりすることがある でしょう。そういうのと似ています。とするならば、私たちが聖書を理解するには、やは り神によってデコードしなければならないということになります。 53 SE が書いたキリスト教入門 クリスチャンでない人はこれをどう理解すればよいでしょうか。神そのものがよくわか らない、疑問もある、疑いもある、批判もある、そのようなときに聖書を読み、理解を得 るには、どうしたらよいのでしょう。難しいことではありません。まずは「聖書が神のこ とばであると聖書自身が主張している」ということを念頭に入れてください。聖書に何ら かのエンコードがあったことを意識してください。その上で、真摯に聖書を読んでみるこ とです。揶揄する気持ちからは、何も読みとることはできないでしょう。文字化けしてし まいます。神という文字コードでデコードすることが必要ということをちょっと頭の片隅 においてください。そして、「もし聖書を書いた神がいるなら、理解を助けてください」と 求めてみてください。聖書には 「求めなさい、そうすれば与えられます。」3 と記されています。求めなければ、与えられません。聖書には宝物が詰まっています。 何千年にもわたって何百億という人々に救いと励ましを与えてきた聖書から、あなたも得 るものあったら素晴らしいことではないでしょうか。 3 契約=神の約束 パッケージ、オーダーメイドを問わず、自社のソフトウエア開発を外注業者に委託する ことがあります。要求仕様書を提示してプログラムを作ってもらうのですが、その前にや ることがあります。契約です。契約書というのは如何せん、読んでいると決まって眠くな るものですが、秘密保持条項や納期などに加え、瑕疵担保責任などのトラブル発生時の対 処方法も記載されていますから重要です。日本人は、武士道の名残でしょうか、契約書な どという明らさまなものを潔しとしない国民性をもっています。相手を疑っているように 感じるのです。実際、 「こんなの作って」 「はいよ」でうまくやっていた時代もありました。 それが近年の内部統制の波で対外的に取引の明瞭性が求められるようになり、小規模な取 引でも契約書は必須となりました。契約は約束であり、相手に誠実であることを示すもの だという欧米流の考え方が浸透してきたと言えるでしょう。契約は一方から他方への一方 通行ではなく、双方が遵守するものです。金銭契約でも、債務者が返す以前にまず債権者 がお金を渡すことが約束されます。 「これこれのお金を出すから、いついつまでに返してね」 「これこれのソフトウエアを作ってくれたら、いくら支払いますよ」という、お互いに条 件を交換しあうのです。 実は、神と人との間にも契約が結ばれているのです。契約は聖書理解において大変に重 要な概念です。そもそも旧約聖書、新約聖書とは、旧い契約、新しい契約という意味です。 54 SE が書いたキリスト教入門 「聖書とは何かを一言で」と問われれば、「神と人との間の契約書です」と答えれば外れて いないことになります。そういう目で聖書を見ていくと、随所に契約の記述が見つけられ ることでしょう。旧約を通しての契約の内容は、神に聞き従うことにより、ユダヤ(イス ラエル)という「神の民」に永遠の繁栄を約束するというものです。しかしユダヤの民は これを守れませんでした。彼らの歴史は神への背信の歴史です。ですから王国が滅んでし まったのは、契約不履行による当然の結果でした。しかし神は、救い主の到来を約束しま した。新約は、旧約で約束された救い主、イエス・キリストによる「新しい契約」4です。 これはイエスの血と肉、すなわち十字架の犠牲によって、契約を信じるものが永遠に救わ れ、新しい「神の民」となるという契約です。私たちはこの新しい神の民の一員となる契 約の時代にいます。あなたは契約書にサインしますか。 4 エージェント=聖霊 ソフトウエアでいうエージェントにはボンドガールは出て来ませんが、もっと私たちの 生活に身近なものです。 「エージェント」の定義を引用しましょう。 「代理人、代理店、仲介人、取次業者、などの意味を持つ英単語。IT の分野では、ユ ーザの代理や他の要素との間の仲介として機能するソフトウエアなどのことを指す。 」 5 要は、ユーザの代理として働いてくれる賢いプログラムのことです。現実の旅行代理店 は、お客様の行き先や日程の希望を聞くと飛行機や宿の手配、レンタカーまで用意してく れます。そういうことをコンピュータネットワークの中でもすでにできるようになってい ます。個別にチケットを予約したり宿を検索するのではなく、全部自動的にやってくれる のがソフトウエアの仕組み、それがエージェントです。エージェントは依頼を達成するた めに必要な判断を行い、他のソフトウエアやサービスなどに情報を問い合わせたりして、 結果を依頼人に返すのです。まったく便利な世の中ですね。 実は、信仰の世界にもエージェントがいるのです。それが聖霊です。聖霊は神の現れ方 の一つですが、人と神(細かくいうと、父なる神)との仲介役を果たしてくれます。先に、 聖書を理解するには神という文字コードでデコードする必要があると述べましたが、その 文字コードが具体的には聖霊です。これは決してオカルトや霊媒のようなアヤしいもので はありません。神から離れてしまった罪ある私たちが、神の言葉である聖書を理解し、神 を知るようになるのは、この聖霊の仲介の働きによるのです。聖書にはこういう箇所があ ります。 55 SE が書いたキリスト教入門 「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それは彼には愚 かなことだからです。またそれを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御 霊によってわきまえるものだからです。 」6 御霊とは聖霊のことです。人間は生まれながらに罪を持っています。ですから聖なる神 のことを受け入れることができません。神を拒否し、神に背を向けて生きているのです。 神の言葉などバカバカしいとしか思えません。それを、聖霊が神の方を向かせ、神に関心 を持ち、神のこと、イエス・キリストのことをわかるようにしてくださるのです。聖霊は 人の心に住んで、仲介者として働くのです。ここでこのことを特に取り上げているのは、 聖書を理解し、神への信仰を持つために、このことを知っていることが極めて有用だから です。この点について2つ述べます。 第1 聖霊が私たちのうちにいることによって、神と通じることができるという点です。これ を知っておくことで、神への理解を早めることができるでしょう。 「神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにお り、神も私たちのうちにおられることがわかります。」7 では聖霊は、私たちと神との間で実際何をしてくれるのでしょうか。決してオカルト的 なことを想像する必要はありません。もっと単純な、素直なことです。 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように 祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきをに よって、私たちのためにとりなしてくださいます。 」8 これはぜひ知っていただきたいことです。私たちがもし総理大臣や天皇に会見すること になったら、何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいのか戸惑うことでしょう。まして 神はこの世界の偉大な創造者です。神に祈るというのは、実は大変に畏れ多いことなので す。でも、私たちは祈ることができます。実に個人的にです。神に祈るとき、それが神に 届くのは聖霊の「とりなし」によるというのです。聖霊は、私たちの祈り方が稚拙でも不 足でも、きちんと神に伝えてくれます。ですから私たちは、神と祈りを通じることができ るのです。 第2 56 SE が書いたキリスト教入門 人の有能なエージェント、聖霊について知ることの有用性の 2 つ目は、情報の見分け方 です。もし神や聖書のことをよく知りたいと思うのに、一人では難しいと思ったらどうし たらよいでしょうか。周りに適当なクリスチャンがいればいいですが、そうでなければ教 会に行ってみるでしょう。その前に今の時代では、取りあえずネットで調べることも可能 です。しかし神に関しては、何を基準に善し悪しを見分けるのでしょう。そこでエージェ ントの出番です。聖霊は人の助け手です。目をつぶっていれば手を引いて行ってくれると いうものではありませんが、その人を助けてくれます。具体的にどのような形なのかは(無 責任のようですが)わかりません。でも、聖書はそれを約束しています。 「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」9 聖霊は人と神を直接結びつける働きをします。注意すべきことに、そのような仲介の働 きを否定する人や組織があります。 「真理は神が私(我々)に下される。だから私(我々) の言うことを聞きなさい。」という類の教えは、個人の心に働く聖霊を否定するものです。 そういう組織や本は、注意深く避けるようにしたほうがよいでしょう。それらは、自分た ちが聖霊の位置に取って代わろうとするものだからです。これは聖書の教えとは異なりま すので、聖書を正しく理解することはできません。聖霊は各自一人一人に働くのです。そ れを否定するのは偽物です。聖書は先ほどの箇所に続いて、明確にこう述べているのです。 「その方は真理の御霊です。…その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうち におられるからです。」10 5 FREE=恵み 価値に対して相応の対価を払うのが市場における等価交換の原則ですが、倫理や道徳上 では、因果応報という考え方がそれに相当します。これは仏教用語ですが、倫理上の等価 交換と言えます。日本人には非常に馴染み深い考え方でしょう。日本の昔話には正直爺さ んと欲張り爺さんが出てきて、結末は正直爺さんには大判小判がざっくざく、欲張り爺さ んはひどい目にあいます。最近でこそ子供の教育で「そんなことするとバチがあたるよ」 というのはあまり聞かれなくなりましたが、誰でも心のどこかにそんな感覚を持っている のではないでしょうか。法律による量刑はこの考え方を適用していると言えます。駐車違 反による罰金から殺人罪による死刑まで、罪の重さに応じた刑罰が充てられるのです。 ところで、無料で手に入るソフトウエアがあふれています。従来も PC 用のソフトで無料 お試し版などはありましたが、昨今はスマートフォンの世界で、 「これがタダ?」と思える 57 SE が書いたキリスト教入門 ような高機能で便利な、しかも洗練されたアプリが無料で手に入ります。私も無料ダウン ロードした Evernote を使わない日はありません。もちろん、提供する企業はそれで何か しらの益があるからやっているのでしょう。知らない間にデータが分析されて、何かに再 利用されているかもしれません。民放のテレビ局やラジオ局はスポンサー収入で成り立っ ており、私たちが直接視聴料を払っているわけではありません。しかしソフトウエアの世 界でもこのようなフリービジネスモデルが堂々と成り立つとは驚きです。もっとも、 「タダ ほど高いものはない」と言って、戦略的な FREE は警戒されますが、本当の意味での FREE は、対価なしで一方的に利益を受けられることです。因果応報とはまったく違う世界です。 これは非常に魅力的な世界ではないでしょうか。 聖書のいう永遠のいのち、すなわち救われることは、この本当の意味での FREE に当た ります。これはどういうことでしょうか。映画「タイタニック」11で、金持ちの男が、沈み ゆく船から救命ボートに乗せてもらおうと船員に札束を渡そうとして、「そんなもの、ここ では役に立たない!」と突っぱねられる場面があったように記憶しています。もし願いが 叶うならば、その金持ちはいくらでも出したことでしょう。でも、そこでは女性と子供が 優先でした。逆に言えば、女性、子供であれば一銭のお金も払わずに救命ボートに乗せて もらうことができたのです。それは等価交換ではなく FREE でした。必要だったのは、対 価を払うという "do" ではなく、「女性である」「子供である」という、いわば "be" だっ たのです。 命は priceless 、値段がつけられません。聖書が示す永遠のいのちもそうです。キリス ト教信仰に対する最大の誤解は、救いが何らかの善行や努力によって得られるという誤っ た理解でしょう。私たちは因果応報の考え方に染まっているため、何かすること、"do" に よって救いを得られると考えてしまうのです。イエスの説いた愛の教えを守り、誠心誠意、 神に従って生きる、それが救われる条件だと思っている人がどんなに多いことでしょう。 神に祈り、聖書を読み、礼拝を欠かさず守り、禁酒禁煙禁賭に禁女、どんなときにも愛を 忘れず、よく奉仕し献金し…そんなクリスチャン像を描いて、自分にはとても無理だと諦 めたり、無関心になったり、冷やかしたりするのです。しかし、いのちが priceless であ ると理解するなら、救われるためには何をしても足りない事がわかるでしょう。因果応報 によれば、罰を受ける、すなわち滅びるしかないのです。 私たちの善行や努力が救いに対して等価なら、救いは当然得られるものです。しかし実 際は違います。救いは priceless です。どんなに良い行いをしても相当の対価にはなりま せん。だから FREE なのです。そしてそれは、ただ神の恵み、恩恵によるのです。神は、 永遠のいのちに等価交換が成り立たないことを知っています。救いは神からの一方的な恵 みです。人間に当然与えられるべきものではないのです。与えられるはずのないものが与 58 SE が書いたキリスト教入門 えられるから、恵みなのです。それを得るためにどんな "be" であるべきなのでしょう。 それは、イエス・キリストを信じる者である、ということです。これを "do" と混同しな いでください。救いの条件はあくまで "be" なのです。次の聖書の言葉をじっくり味わっ てください。そして FREE の救いを受け取ってください。 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身か ら出たことではなく、神からの賜物です。」12 6 「恵みによる救い」への疑問 どんな善行、努力も救われる条件にはならず、救いがただ神の恵みであることを述べま した。そうするといくつか疑問が出てくると思いますので、考えてみましょう。 疑問1 行いが救いの条件でないなら、良い行いをする必要はないのか? 回答 良い行いは、救われるためにするものではなく、救われたからするものです。ですから 回答としては「良い行いは、必要からするのではなく、神への応答としてするものです」 ということになります。このロジックは、善の本質に素晴らしい光を照らしてくれるもの ではないでしょうか。もし善行が救われる条件だとしたら、純粋な善、すなわち愛による 行為の存在は極めて疑わしいものになります。それは究極的には、自分が救われるためと いう利己的な動機によるものだからです。しかし聖書の教える善のロジックはそうではあ りません。キリストに救われた人の善行は、利己的な動機からのものではありません。自 分を愛し、恵みによって救われたからこそ、愛という真に利他的な動機によって善行を行 うことができるのです。聖書の次の箇所は、信仰者の善行をも神が備えてくださったもの、 神の発露であることを教えています。 「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造 られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらか じめ備えてくださったのです。 」13 疑問2 「救いは行いによるのではなく、信仰による」と聖書に書かれていますが、信仰も行い の一種ではないでしょうか。救いが行いによらないというのであれば、信仰すら必要では 59 SE が書いたキリスト教入門 なく、何もしなくても救われるべきではないでしょうか。 回答 信仰とはなにか、ということについて理解してもらう必要があります。先に、救われた 人を借金が無くなった人に例えました。イエスが借金を全部肩代わりしてくれたのに、そ れを信じず返し続けようとする人です。この場合信仰とは、もう自分には借金はないとい う事実を受け入れることを指します。また行いとは、借金を返すためにお金を工面する行 為に例えられます。行いは、お金を工面することによって借金を返そうとする行為です。 いくら努力しても、それは人間には返せる額ではないのです。ですからイエスが代わりに 負ってくれました。もうお金の工面の努力はしなくていいんですよ、というのが恵みの知 らせです。これを、良い知らせという意味で「福音」と言い、キリスト教信仰の中心的な 概念となっています。「信仰すら必要ない」と言ってしまうことは、決して救いを無条件化 するのではありません。それは救いを受け取る手段を失ってしまうことです。ですから、 信仰がなければ救いを受けられないのは当然ですし、信仰を持つことはなんらその人の功 績ではないのです。もはや借金がないことを信用したからと言って、誰がその人を「偉い ね」とほめるでしょうか。先の聖書の箇所は、救いが行いではなく信仰によるのは「誰も 誇ることがないため」と言います。救いが完全に神の側からの恩恵であり、誇るべき人間 の側の努力は何もないのです。大伝道者パウロにして、 「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。 」14 と言っているほどです。救いに関して自分には何もできないからこそ、神の恵みがもた らされるのです。 疑問3 福音を信じることで救われるとしたら、福音を聞いたことがない人は救いを受けようが ないのではありませんか。これは機会不平等ではないでしょうか。 回答 金賢姫(キム・ヒョンヒ)は北朝鮮の工作員でした。1987 年に彼女は大韓航空機の爆破 テロを実行し、乗客・乗員 115 名が死亡します。その後韓国で捕らえられ、1989 年に死刑 判決を受けます。しかし翌年韓国政府により特赦され、刑を免れました。 同じ頃、4 人の幼い女の子が犠牲となった連続幼女誘拐殺人事件の容疑者として、宮崎 勤が逮捕されました。2006 年に最高裁で死刑が確定、2008 年に刑が執行されました。国が 違うとは言え、宮崎勤は機会不平等を主張する権利があるでしょうか。そんなことはあり 得ません。恩赦を受ける権利などというものは存在しません。いつ誰を恩赦するのか、そ 60 SE が書いたキリスト教入門 れは機会平等の考え方によるものではなく、お上により一方的に決められます。公平も不 公平もありません。死刑の是非はともかく、宮崎勤は自分自身の罪のために裁かれ、相当 する刑を受けたにすぎません。 極端な例を挙げましたが、これは救いが提供される理屈と本質的に同じです。もちろん 救われるのは金賢姫のケースに当たります。救いは全員に機会が与えられなければ平等で ないというのは、救いについて本質的に誤解をしています。これまで何度も述べているよ うに、私たちは自分自身に、滅びに相当する罪を持っています。ですから、そんな中のあ る人に恩赦の機会が与えられることは、実に恵まれた機会としか言いようがありません。 機会不平等を問う前に、まずしっかりとこのことを知らなければなりません。機会不平等 をいう人は多くの場合、 「自分に機会を与えよ」と言っているのではありません。この質問 のように、 「福音を聞いたことのない人」と他人事として考えてしまうのです。これは、信 じないための言い訳作りに過ぎません。危機に瀕していて救いを必要としているのは自分 自身だということを見落としています。自分が落ちかかっているとき、「この手はあの人に も伸ばされているだろうか」と考える余裕はないはずなのです。 いや、わかっているが自分だけ救われるのを潔よしとしないのだ、という論もあるかも 知れません。しかしそれは、滅びを義のために殉じる類のことと混同しています。それは 立派な最期を遂げるのではなく、惨めに罰を受けるのです。 自分のしたことに対する罰なら逃げずに受けるべき、と言った人もいました。しかしそ れは、滅びを腹を切ってお詫びすることと混同しています。滅びの苦しみは永遠に続くの です。聖書にはその姿を「泣いて歯ぎしりする」15と述べています。偉くもなんともありま せん。ただ、悲惨なだけです。 神の救いがそんな不平等なものなら、受け入れるに値しないという考えもあるでしょう。 金賢姫と宮崎勤の違いを思い出してください。そもそも人間の側に、救われる権利はない のです。福音を聞くということは、どんなに貴重な機会が差し伸べられていることでしょ うか。あなたに与えられた機会を逃さないで下さい。 1 2 3 4 5 6 7 テサロニケ人への手紙第一 2 章 13 節 テモテへの手紙第二 3 章 16 節 マタイによる福音書 7 章 7 節 コリント人への手紙第一 11 章 25 節 IT 用語辞典 e-Words「エージェント」 コリント人への手紙第一 2 章 14 節 ヨハネの手紙第一 4 章 13 節 61 SE が書いたキリスト教入門 ローマ人への手紙 8 章 26 節 ヨハネによる福音書 14 章 16 節 10 ヨハネによる福音書 14 章 17 節 11 「タイタニック」 (原題:"Titanic")監督:ジェームズ・キャメロン 1997 年アメリカ 12 エペソ人への手紙 2 章 8 節 13 エペソ人への手紙 2 章 10 節 14 コリント人への手紙第二 11 章 30 節 15 マタイによる福音書 13 章 42 節 8 9 62 SE が書いたキリスト教入門 第 6章 1 教会の 教会の礼拝を 礼拝を知ろう フレームワーク=礼拝 キリスト教会の礼拝に出席したことはありますか。受付のある教会だと、そこで大抵1 枚の紙をもらうでしょう。そこにはその日の礼拝のプログラムが印刷されているはずです。 私の行っている教会ですと、「招詞」に始まり、 「前奏」 「讃栄(短い賛美)」 「主の祈り」と 続いていき、中心に牧師による「説教」があり、最後は「祝祷」で終わります。全部で1 時間ほどのプログラムです。多少の違いはありますが、プロテスタントならどこの教会で もだいたい同じです。 礼拝が日曜日に行われるのは、イエスが十字架の死から復活した日が日曜日だったこと に依ります。イエスは金曜日の夕方に十字架につけられ、3日目である日曜日の朝、死か ら復活しました。年に一度、イースター(復活祭)として記念の礼拝や行事が行われます が、いつもの日曜日に礼拝が行われるのも、復活した主なるイエスを、日常的に記念して 拝むために行われているのです。そのため、日曜日の礼拝を「主日礼拝」とも呼びます。 礼拝のプログラムの一つ一つにも大切な意味があります。たとえば「主の祈り」は、聖 書の中で「このように祈りなさい。 」とイエスによって直接授けられた祈りであり、信仰の エッセンスが凝縮されています。また「説教」は、神の言葉である聖書を、牧師が神の代 理者として解き明かします。決して牧師の体験談や人生訓を語る場ではないのです。 礼拝の原型はすでに創世記において神に供え物を捧げる行為に見られますが、モーセに 神が示された規定で定式化されたと言ってよいでしょう。その後、イエスの時代に至って 復活のイエスを記念するものとなり、教会の歴史を通して現在の形ができあがりました。 このように、礼拝やその一つ一つの内容は、信仰的にはもちろん、歴史的な意味と背景が あり、それを知っていれば、礼拝を通してより深く神に近づくことができます。礼拝はこ うした意味ある行為の一連の流れですが、ソフトウエアで言えば「フレームワーク」に例 えることができます。フレームワークとは次のようなものです。 「枠組み、下部構造、構造、組織という意味の英単語。ソフトウエアの世界では、ア プリケーションソフトを開発する際に頻繁に必要とされる汎用的な機能をまとめて提 供し、アプリケーションの土台として機能するソフトウエアのこと。 (中略)具体的な ソフトウエアだけでなく、汎用的に適用できるプログラムの設計モデルや典型的な処 63 SE が書いたキリスト教入門 理パターンなどを含めてフレームワークと呼ぶ場合もある。 」1 このようにフレームワークは、枠組み、あるいは型を意味します。ルールと言ってもい いかも知れません。それにしても、なぜ礼拝というフレームワークがあるのでしょうか。 それは必要なのか、礼拝などという枠をはめたら不自由になり、神を信じる喜びが損なわ れるのではないか、という疑問も起こるでしょう。サッカーボールで遊んでいる子供たち がいるとします。彼らはサッカーという競技を知らないので、ボールを投げたり蹴ったり ぶつけ合ったりしています。それはそれで楽しいかも知れません。でも、サッカーのルー ルを彼らに教えたらどうなるでしょう。手を使ってはいけない、ゴールは互いに1箇所ず つ、ラインの外に出たら相手ボール。彼らは不自由になるでしょうか。恐らくそんなこと はないでしょう。むしろ彼らは、サッカーに夢中になるに違いありません。そしてルール に則った試合を通して、より一層その喜びを高めていくでしょう。 神への信仰を持った人は、神を礼拝します。神は礼拝されるべき存在です。信仰は神と その人個人の間のものですから、個人として神を拝むことはあります。祈りや讃美も個人 的に行うことができます。しかしそれが「礼拝」という一定のフレームワークとして捧げ られるときは、より高次の意味を持ちます。 「神は個人的な人間との関係のみを考えておられたのではなく、神の民としての人間と の関係を意図して創造された。…従って、聖書的な礼拝の中心的な概念は、神の恵みの契 約に基づいて、民がともに集まって行う公同的礼拝にある。 」2 個人的に神を拝む行為(個人的礼拝)に対して、信仰者が集まって、取り決められた形 式で行う礼拝が公同的礼拝です。これはいわば団体戦です。礼拝には古今東西の信仰者た ち、すなわち神の民の一員として捧げるものという、特別な喜びがあるのです。 2 再起動=バプテスマ(洗礼) ソフトウエアの動作がおかしくなったとき、あるいは動かなくなったとき、マウスでい ろいろな部分を押してみたり、ENTER キーをバンバン押してみたりするでしょう。それでも 何の反応もなければ、最後の手段は再起動です。電源スイッチを切り、再び入れます。こ うすれば大抵の場合ソフトウエアは正常に立ち上がり、新しい作業を始められるでしょう。 キリスト教会にも、人生の再起動に当たる重要な儀式があります。それがバプテスマ、 いわゆる洗礼です。罪に汚れた古い自分を捨て、イエスにある新しいいのちに生きること 64 SE が書いたキリスト教入門 を表す儀式です。洗礼は、クリスチャンでない人にとっては不思議な、興味深い儀式では ないでしょうか。入信するときにするものらしいが、実際何をどうするのかよくわからな い、という人も多いでしょう。洗礼は、人が神の前に罪びとであることを認め、イエス・ キリストを信じて救われたことを表す象徴的な儀式です。イエスはこのように命じていま す。 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊 の御名によってバプテスマを授け…」3 やり方は水を頭に注いだり、全身を水の中に浸したりと、教派により多少違いますが、 いずれにしても水を利用して、自分の罪を洗い流し、救われた者として新しいいのちを得 たことを公に表現するものです。私が行っている教会ですと、日曜日の礼拝の中で、参加 者が見守る中、バプテスマ用の白服を着てバプテスマ槽と呼ばれるお風呂のようなところ に牧師と2人で入り、信仰の告白をした後、牧師によって水中に倒され、すぐに起こされ ます。手順としてはこれだけで、あっという間に終わります。これで、罪の身が死んで、 新しい自分に生まれ変わったことを示すのです。 誤解されやすいのですが、洗礼を受ければ救われるとか、洗礼を受けないと救われない ということではありません。洗礼という儀式が人を真人間にするのでもありません。人は 心でイエスを受け入れたときに救われるのです。洗礼は救われたことを公に表現する象徴 的な儀式です。ですから、信じるために受けるものではなく、信じた人が受けるものです。 3 シェアウエア=献金 教会に行こうとしたときについ考えてしまうのが、献金のことではないでしょうか。ほ とんど金集めが目的みたいな新興宗教も無きにしもあらずですが、そうではないまともな 教会の場合でも、献金とはどういうものか、いくらくらい出すものなのかは気になる方が 多いでしょう。 ソフトウエアの流通の仕方の一つに、シェアウエアという仕組みがあります。本来は一 定の期間無料で試用でき、気に入ったら料金を払って使い続ける仕組みですが、試用期間 に特に定めがなかったり、料金が決められていなかったりする場合があります。つまりユ ーザ次第では、無料で使い続けることができるのです。シェアウエアの意図は、とにかく 試しに使ってみてちょうだい、良かったら開発費を負担してちょうだい、という趣旨です から、いつまでも料金を払わずに使い続けるのはマナー違反です。その辺りはユーザの良 65 SE が書いたキリスト教入門 識に依存します。 献金はこれと似ているところがあります。教会に行ったからといって強制的に徴収され るものではありません。お試し期間ありというわけです。つまりクリスチャンでない人は 献金をする必要もないし、献金する意味もありません。献金を説教の講義代だと勘違いし ている人は意外と多いようです。クリスチャンでさえ、説教の後に遅れて行ったら出さな くていいと思っていたりします。 献金には人間の本性が出ますから、ジョークのネタにも事欠きません。あるケチな3人 組が、献金を逃れようと礼拝に遅れて行ったのに、ちょうど献金をするタイミングに行っ てしまいました。すると一人が「卒倒」して、あとの2人が彼を担いで礼拝堂から出てい きました。 ところで、私の行っている教会では、献金は説教の前にあります。献金を入れるカゴが、 前の席から順番に後ろに回って行きます。いくら入れるかは自由ですし、誰が見ているわ けでもありません。そして礼拝の司会者はいつも事前にこう述べます。「献金は、信仰者が 神への感謝と献身を表すために捧げるものです。信者でない方、意味のよくわからない方 は無理に捧げる必要はありません。献金用のカゴが回ってきましたら、そのままお隣の方 へ回してくださって結構です。 」この通りなのです。献金が何かを考えるために、献金は何 でないかを述べます。 1.献金はお賽銭ではありません。お賽銭は神社などで大事な願い事のためにわずかな額 のお金を捧げるものですが(もちろん皮肉です) 、献金は神に願い事をかなえてもらう ためにするものではありません。 2.献金は説教代ではありません。牧師からためになる話を聞いたときには多く、そうで もないときは少なく捧げるようなものではありません。 3.献金は代償ではありません。旧約聖書で示されているような動物による罪の代償、す なわちいけにえがお金に形を変えたものではありません。 4.献金は寄付や慈善ではありません。慈善は自分の財や持ち物を人のために施すもので す。もちろん献金は牧師の生活給を始め、教会の様々な活動のために使われますが、 本質的には人にではなく神に捧げるものです。 献金は「信仰者が神への感謝と献身を表すために捧げるもの」 。これは額が決められてい ないシェアウエアの代金のように、その価値を認めて、その受ける便益に謝意を表して出 すものなのです。この場合便益を提供しているのは神です。ですから神に対して捧げるも のです。もちろんクリスチャンでない人が強要されるものではありませんし、逆にクリス 66 SE が書いたキリスト教入門 チャンにとっては無視していいものではありません。 私たちは実に多くの恵みを神から受けています。生きていること、生活していること、 喜んでいること、うれしいこと、そしてクリスチャンは悲しみや苦しみさえも神からの試 練として私たちのために与えられていることも知っています。そうであればこそ、献金は ただ感謝をもって喜んで捧げるものなのです。献金をするときに「献金できることを感謝 します」という、馴染みのない人にとっては一見奇妙な祈りをしますが、すべてのことは 神の恵みであり、それに感謝の気持ちを表すという考え方が土台にあります。 最後に、献金に関する聖書の言葉をいくつか挙げておきましょう。聖書はしばしば捧げ ものの割合を十分の一と述べています。ですから献金の目安も、収入の十分の一と考えら れています。(もちろん、信者でない人がそんなことをする必要はありません) 「こうして地の十分の一は、地の産物であっても、木の実であっても、みな主のもの である。それは主の聖なるものである。 」4 また、強制でないこと、喜んで捧げるべきことを述べています。そうすることで、神も 喜ばれるのです。 「ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりに しなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。 」5 献金は額の多少ではなく、捧げる心が大切だという実例。 「それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子 を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。そこへひとりの貧しいやも めが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。すると、イ エスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。『まことに、あなたがたに告げます。こ の貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、 生活費の全部を投げ入れたからです。』」6 でもそんなことをしたら生活できないじゃないか、とも思われるでしょう。ここで献金 についての極めつけと言ってもいい箇所があります。神を試みてはならないという厳格な 戒めがありますが、こと献金に関してのみ、それが許されています。 67 SE が書いたキリスト教入門 「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうして わたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる――わたしがあなたがたのために、 天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。 」 7 先の貧しいやもめは、神からどんなに祝福され、さらなる恵みを得たことでしょう。信 仰者の献金についての考え方が少しは理解してもらえたでしょうか。 4 SNS=聖餐 ネ ッ ト ワ ー ク を 使 っ た コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン サ ー ビ ス に SNS が あ り ま す 。 Social Networking Service の略です。 「人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型の Web サイト。友人・ 知人間のコミュニケーションを円滑にする手段や場を提供したり、趣味や嗜好、居住 地域、出身校、あるいは『友人の友人』といったつながりを通じて新たな人間関係を 構築する場を提供する、会員制のサービスのこと。人のつながりを重視して『既存の 参加者からの招待がないと参加できない』というシステムになっているサービスが多 いが、最近では誰も自由に登録できるサービスも増えている。」8 最後の部分にあるように、日本の代表的な SNS である mixi(ミクシィ)は 2010 年春か ら自由登録制になりましたが、SNS は一般的には会員制をその特徴としています。Twitter は自由登録のつぶやきサービスですし、実名登録主義の Facebook も盛んになっています。 会員制のサービスは当然、会員と非会員の間に区別があります。会員でなければ様々なサ ービスが受けられません。教会の中にもそのような「クリスチャンのみ」のプログラムが あります。それが聖餐なのです。 聖餐は聖なる食事という意味で、イエスの死を記念して行われる儀式です。少量のパン とぶどう酒が配られ、牧師の祈りとともに口にする厳粛なものです。この由来は次の聖書 の箇所で、有名な「最後の晩餐」での出来事です。 「主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言わ れました。 『これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これ を行ないなさい。』 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わ たしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ない 68 SE が書いたキリスト教入門 なさい。』」9 その目的が直後に書いてあります。 「あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死 を告げ知らせるのです。 」10 多くのプロテスタントの教会では、聖餐は月1回の頻度で行われますが、初めてこの場 面に遭遇した来会者は、何をどうしていいのか戸惑われるかも知れませんね。聖餐は厳粛 な儀式で、このようにイエスの死を受け継いで告げ知らせるという大切な意味があります。 信仰者が、SNS のような一種の共同体の一員であることを自覚しつつ行うものです。です から、クリスチャンでない人は受けることができません。ただ、来会者に対する対応は教 会によって異なります。主に下記の2通りです。 1.洗礼を受けたクリスチャンのみが聖餐を受けられる。 これは、クリスチャンでない人が誤って聖餐を受けることがないようにというフェイル セーフによる考え方です。この場合、何らかの事情で洗礼を受けていないが信仰は持って いる人が除外される、というデメリットがあります。 2.洗礼の有無に関わらず、またその場においてでも、イエスを信じた人が聖餐を受け られる。 これは1と逆に、洗礼を受けていなくても信仰を持っている人なら受けられるようにと いう考え方です。この場合、聖餐の意味を知らない人が周りを真似て受けてしまうデメリ ットがあります。これらのケースの違いは、誤って聖餐を受けることを戒める下記の箇所 をどう適用するかに拠る違いです。 「もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと 血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そ のうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 」11 私個人的には、これは未信者が誤って受けてしまうことではなく、信者がいい加減な気 持ちで受けることを戒めているものと思っているのですが。 いずれにしても聖餐は、礼拝というオープンな場で行われるにも関わらず、対象がクロ ーズドであることから、来会者が戸惑ったり、疎外感を感じたりということがあるようで す。これを読んでくださった方は、自覚的に信仰を持つまでは控えてくださればと思いま 69 SE が書いたキリスト教入門 す。(具体的には、パンや杯を取らずにやり過ごせばよいのです) あなたが聖餐を受ける日が一日も早く来ることを願いつつ。 IT 用語辞典 e-Words「フレームワーク」 「新キリスト教辞典」いのちのことば社「礼拝」の項 3 マタイによる福音書 28 章 19 節 4 レビ記 27 章 30 節 5 コリント人への手紙第二 9 章 7 節 6 マルコによる福音書 12 章 41 から 44 節 7 マラキ書 3 章 10 節 8 IT 用語辞典 e-Words「SNS」 9 コリント人への手紙第一 11 章 23 から 25 節 10 コリント人への手紙第一 11 章 26 節 11 コリント人への手紙第一 11 章 27、28 節 1 2 70 SE が書いたキリスト教入門 第 7章 1 クリスチャン―― クリスチャン――この ――この不思議 この不思議なる 不思議なる生 なる生き方 OS=人生の土台 OS の新バージョン開発のコードネームが発表されたとき、わくわくする人は一般ユーザ の人々。SE やプログラマなら、ちょっと複雑な気持ちになるはずです。実際、OS が変わ ると今まで正常に動いていたアプリが動かなくなることがあります。 Windows XP 上で動 いていたあるアプリが、Windows Vista 上で動かすと文字やパーツの表示位置がずれて、 グラフが正常に表示されなくなってしまったことがありました。原因は元のアプリが OS 依存のフォントを使っていたためでした。XP と Vista ではシステムフォントが異なるの で、配置したラベル表示の位置が微妙にずれてしまったのです。 アプリは特定の OS 上で動くものです。Windows でも Mac でも動くアプリは根性がある ようですが、実際は CD に Windows 版と Mac 版の両方が入っていて、適切なほうがイン ストールされているだけです。あるいは、OS のほうが賢くて、Mac 上で Windows エミュレ ータが動いているお陰で Windows アプリが Mac 上でも使えたりします。または JAVA の ような中間層のシステムがあって、機種依存の部分を吸収してくれます。 いずれにせよ、OS というのはアプリが拠って立つ土台であって、アプリの開発者は最初 にどの OS の、どのバージョンをターゲットにするのかを決めなければなりません。これ が変わると、最初に述べたようにまた作り直しとなります。スマートフォンが普及して、 それぞれのアプリの品揃えなどが話題になっています。OS が違えばアプリが動かないとい う事態は、一般の人にもかなり浸透してきたと言えるでしょうか。 聖書には、愚かな人と賢い人が家を建てた話が載っています。愚かな人は砂の上に家を 建てました。賢い人は岩の上に家を建てました。雨が降り水かさが増すと、砂の上に建て た家は流されてしまいましたが、岩の上に建てた家はびくともしませんでした。 近代以前の建物は通常「礎石」すなわち礎となる石の上に建てられました。史跡などで はよく、礎石の上に柱用の穴がくり抜かれているのを見かけます。もちろん、上述の聖書 は例え話です。人生という家をどんな土台の上に建てたらよいかを教えているものです。 人生は、揺るぎない岩の上に建てるべきなのです。では、人生にとっての岩とは何でしょ うか。 (最初の「OS」の話で言えば、ずっと変わることのない OS は何でしょうか、という ことですね。) 71 SE が書いたキリスト教入門 人生の岩とはつまり、人が拠って立つものです。それは生きていく上でのさまざまな判 断、選択の拠り所となります。あなたはどんな「OS」上で動いているのでしょう。言い換 えるなら、あなたは何を人生の土台としているでしょうか。 2 ID=自分は何者か ソフトウエアを、正規に購入した人以外には使用できないようにしたい場合、どうした らよいでしょう。ID と呼ばれる固有なアルファベットや番号の列を入力させる方法がよく 使われます。これはソフトウエアを不正にコピーした場合 ID は不明なはず、という前提 に基づいています。もっとも ID だってコピーできますから、厳密な有効性は疑問ですが、 ある程度の違法コピーの障壁にはなっていると言えます。ID によって、正規の使用者本人 であることを確認するわけです。 では、人の ID とは何でしょう。ID の語源は「識別する」を意味する identify ですが、 この名詞形がアイデンティティ identity です。広辞苑によれば、アイデンティティとは 「人格における同一性。ある人の一貫性が成り立ち、時間的・空間的に他者や共同体 にも認められていること」1 これは単純に言えば、ある人が何者なのか、ということです。国民総背番号制という制 度があります。日本では導入されていませんが、アメリカでは「社会保障番号」や「納税 者識別番号」などとして運用されています。一人ひとりに個別の番号を付与することで、 個人が区別できるというものです。警官に「お前は誰だ」と調べられてこの番号がわかれ ば、確かにどこの誰かはわかるでしょう。ではこの番号はその人のアイデンティティでし ょうか。そうは言えないと思うのです。アメリカ映画では、登場人物が ID カードを無くし たために、自分が誰であるかを証明できないというシーンはしばしば見られます。つまり、 この ID は国民を管理するための便宜上の手段であって、人を識別する道具に過ぎません。 ID はその人自身、その人のアイデンティティではないのです。 話は飛びますが、大学時代、日曜日に予定されている寮の行事に出られないことを寮長 に告げに言きました。「僕はクリスチャンで、日曜日は教会に行くので行事には出られませ ん。」すると寮長は不機嫌そうに、「クリスチャンである前に寮生だろうが」と言ったので す。私はそのとき初めて、ああ、そういう考え方もあるのか、と意識しました。私にとっ て信仰は、そこの寮生であるということよりももっと根本の土台であると改めて認識した のです。クリスチャンということは、私の重要なアイデンティティだったのです。この寮 72 SE が書いたキリスト教入門 長の言葉は明らかに誤っています。寮生でないときから私はクリスチャンでしたし、卒業 してもクリスチャンであり続けました。クリスチャンであることは、私にとっては寮生で あることよりも重要なアイデンティティだったと言えます。 自分の学校を、会社を誇りに思い、そこに属する者として胸を張って生きていけるなら 素晴らしいことです。甲子園で優勝した学校の生徒たちは、そこの生徒であることに誇り を持つでしょう。ある会社に属していることを誇りにする人もいます。ある組織の一員で あるということが、その人のアイデンティティとなっているのです。戦前の日本では「日 本人である」ということが重要な価値観であり、子供が成長していく上で身につけていく 強力なアイデンティティだったと言えます。ではアイデンティティを「ある人が何者なの か」ということだとすると、人の究極的なアイデンティティとは何なのでしょうか。谷川 俊太郎の「すてきなひとりぼっち」2という詩があります。 誰も知らない 道を通って 誰も知らない 野原に来れば 太陽だけが おれの友だち そうだ おれには おれしか いない おれは すてきな ひとりぼっち (1 節のみ) これは、アイデンティティを考えるにとてもいい題材だと思います。究極のアイデンテ ィティとは、自分しかいないときに自分だと言える何かではないでしょうか。学校や会社 などの組織に属する、あるいは日本人であるということは、野原でひとりぼっちになった ときには意味がないことです。たった一人になったとき、「自分はいったい何者なんだ?」 という問いに、あなたならどう答えるでしょうか。聖書著者は、広大な天を見上げて、こ うつぶやきました。 「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何 者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 」3 神は天地万物の創造者であり、永遠なる存在です。聖書著者は、いかに小さく弱くても、 そんな大きな神に目を留められ、顧みられている無二の存在としての自分を感じたのです。 これこそ、究極のアイデンティティではないでしょうか。 73 SE が書いたキリスト教入門 3 クラウド=天の宝 「ついに我が社も、クラウドを導入しましてね。」という相手の言葉に、佐藤浩市が「ほ う、クラウドを。」と応じると同時に頭の上に「クラウド?」という吹き出しが出る…。以 前あった、日立のクラウドコンピューティングのCMです。佐藤浩市にして、クラウドと はかくも正体不明なものだったようです。クラウドとは次のようなものです。 「従来は手元のコンピュータで管理・利用していたようなソフトウエアやデータなど を、インターネットなどのネットワークを通じてサービスの形で必要に応じて利用す る方式。IT業界ではシステム構成図でネットワークの向こう側を雲(クラウド)の マークで表す慣習があることから、このように呼ばれる。」4 もはやソフトウエアやデータは手元のコンピュータの中にはなく、ネットの向こうのサ ーバー上にあります。そのメリットはいくつかありますが、最もわかりやすいのは、デー タを失うリスクを小さくできることです。自分のハードディスクにデータがあると、壊れ たり、誤ってフォルダごと削除してしまったりします。クラウドコンピューティングは、 データを雲の向こうに置くことで、こうした心配や手間をなくしてくれます。こんな便利 なクラウドですが、実は聖書には、これとそっくりなイエスの言葉があります。 「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。ここでは虫とさびで、きず物になり、 また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は天にたくわえなさい。そこでは、虫もさ びもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。 」5 まさにクラウドではありませんか。ところで、天に宝をたくわえるというのは何を意味 するのでしょうか。この続きの箇所にはこうあるのです。 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。 」6 これは、地上のことではなく、天のことを思って生きることを勧めています。言い換え れば、自分中心に生きるのではなく、天の神に喜ばれる生き方をしなさい、ということな のです。地上にたくわえたものやあらゆる出来事は、いつかは忘れさられ、朽ちていくも のだからです。 学生のとき、自炊をしていて鍋いっぱいにカレーを作りました。これで 3 日間はもつと 思っていたら、翌日には真っ白なカビが生えて食べられなくなってしまいました。真夏に 冷蔵庫にも入れずに置いておいたせいです。かなり悔しい思いをしました。カレーだから 74 SE が書いたキリスト教入門 笑い話で済みますが、一生を蓄財や名声を得るだけのために生きるとしたらどうでしょう。 いざ死ぬときになって、どんなにむなしい思いを抱くでしょうか。 かつてリーマンショックの後、アメリカでは金融機関をつぶさないために多くの税金が 投入されました。にも関わらず、それらの金融機関の経営者たちが、それこそ庶民からす れば目玉が飛び出るほどの多額のボーナスを受け取っていたため轟々たる非難が巻き起こ り、オバマ大統領までもが批判声明を出すほどでした。こうした人たちが、あの状況で何 を考えて多額のボーナスを手に入れようとしていたのか、私には真意はわかりません。し かし、もし蓄財が生きる目的になってしまったのなら、この聖書の言葉を知る必要がある でしょう。 「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえ が用意した物は、いったいだれのものになるのか。 」7 財ではなく、人生にそれ相応の評価を得る場合はどうでしょうか。歴史に名を残すのは そう簡単ではありませんが、(良い意味で)人々の記憶に残る人たちがいます。美しいゴー ルを決めたサッカー選手、遭難した人を助けに行く救助隊、会社を蘇らせた経営者、など など。ではそれが一体、むなしいことなのでしょうか。それら一つ一つを貶める気持ちは まったくありません。尊敬され、称えられるべき人たちです。しかしそれらがもし、自分 中心の目的であったらどうでしょうか。聖書は明らかに、人のたましいが地上で終わりで はないことを示しています。いかに人の記憶に残ろうとも、それが自分中心的なものであ ったなら、それは最後にはその人にとってはむなしいものになるでしょう。地上のことを 天には持って行けないからです。クラウドと違って、ハードディスクが動かなくなったと き、データは失われてしまうのです。 映画「炎のランナー」8は実話を基にした作品ですが、勝つことを目的に走るランナーと、 神の御業を称えるために走るランナーを対照的に描いている作品です。これを観ると、そ れぞれが何を失い、何を得たのかがよくわかります。神に喜ばれる生き方は、天にたくわ えられる宝となって、朽ちることも失われることもありません。地上のあとのたましいは、 その宝を永遠に楽しむことができるのです。 4 パスワード=JESUS あなたは1日のうちに、何回パスワードを入力しますか。私のある 1 日の場合、パソコ ンやケータイが覚えていて自動入力されるケースも含めると、パソコンのログイン、ブロ 75 SE が書いたキリスト教入門 グの書き込み、メールサーバー、Yahoo!オークションの参加、iPhone では会社への VPN 接 続、Evernote、ツイッター、TSUTAYA のクーポンページの表示、Amazon での本の購入、そ うそう、セブンイレブンでお金をおろすときにも暗証番号を入れました。これで少なくと も 10 です。1日だけでです。自分でも驚いています。それほどにパスワードというのは身 近になりました。 以前取り上げた「ID」はその人本人であることを示すものですが、パスワードはそれを 保証するものです。ID に加えて、私しか知らないパスワードを入力することで、間違いな く私だということを確認するのです。ID はユニーク(同じものがない)でなければいけま せんが、パスワードは「私だけが知っている」ことが重要であり、他の人のと同じかどう かは問題になりません。パスワードの向こうには、私の世界が広がっています。私のメー ル、私の保管場所、私のお金…。パスワードを入れて扉を開くと、自分のものを取りに行 けるのです。(ですから忘れたら大変です) ところで、天にも私たちの場所があることをご存じですか。 「私の父の家には、住まいがたくさんあります。…あなたがたのために、わたしは場 所を備えに行くのです。 」9 この住まいとは、神のもとでの永遠のいのちのことです。イエスが「この場所を備えに 行く」とはどういうことでしょうか。それはイエスが、本来そこに入る資格のない私たち の身代わりとなってくださったことを示しています。このイエスを信じると、救われ、天 に場所がちゃんと用意されるのです。天に場所を用意してもらうのは、無条件ではありま せん。天の扉を開くパスワードが必要なのです。そしてそのパスワードは、もう既に述べ ています。そう、イエスを信じることです。 「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよ みがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。 」10 救いのパスワードはイエスです。イエスを信じることで、あなたは天に備えられた自分 の場所に行くことができます。 5 テスト=試練 やっと書き上げたプログラムを、そのままパッケージ化して売れるでしょうか。そんな 76 SE が書いたキリスト教入門 ことはあり得ませんね(少なくとも企業では)。テストが必要です。テストは、テストされ る側だけでなく、テストする側にとっても厄介なものです。どういうテストをしたら効果 があるのかを慎重に考えなければなりません。そういう意味で、テストも設計が必要です。 理想的には、テスト設計はソフトウエア自体の設計と並行して行われるべきものです。ソ フトウエアのテストには、負荷テスト、速度テスト、精度テスト、脆弱性テストなど様々 なものがあり、通常チェックリストを使ってテストしていきます。医用目的のように特に 厳密さを要求される製品では、バリデーションと呼ばれる特別な書式のテスト仕様書を作 成するケースもあります。 テストの目的は何でしょうか。製品の CM では、過酷なテストに耐えたことが売り文句に なったりします。テストは製品の信頼性を高め、消費者に安心を、そして実用上の利便性 を提供します。他の製造品と同様、ソフトウエアの場合も、テストはバグを出して直して いくこと自体が目的なのではなく、仕様通りの品質を満足していることを確認するために 実施されるものです。もちろんテストしてみなければわからない限界性能もあるでしょう。 しかし、それとて本来、目標とする性能があるはずです。ここまでできるはずだ、ここま で達するべきだ、そういうターゲットが定められていなければ、テストする意味はありま せん。 さて、人についてはどうでしょう。人もテストされる事がある、と聖書は述べています。 生きるのが辛くてたまらない、悩みから解放されたい、そんな切実な思いで信仰に入る人 もいます。イエスへの信仰は、罪の悩みや死の恐れを根本的に解決してくれますから、安 心して信じてよいのです。ただ、信仰を持てば「あらゆる」悩みや苦しみから解放される とは、神は約束していません。かえって聖書は、こう言っているのです。 「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストの ための苦しみをも賜わったのです。 」11 しかし悲観する必要はありません。クリスチャンの苦しみはテストなのです。それも、 神が信仰の成長のため、神が達成させようとしている信仰の高みにまで導くものです。聖 書は神によるテスト、試練について多くの励ましを与えてくれています。 「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方で すから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせるようなことはなさいませ ん。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。 」12 「さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がため されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 」13 77 SE が書いたキリスト教入門 これらは苦しみの受け止めかたのパラダイムシフトと言えます。クリスチャンが苦しみ を神の試練と捉える時、それは無駄な、害になるものではなく、逆に神に愛され、神が自 分により高い信仰を与えようとしていることに気付いて、喜ぶべきものとなるのです。私 自身、非常に精神的に辛い日々が何度かありましたが、それを乗り越える度に、あれが私 に必要だったのだと心から納得しているのです。 6 信仰の状態 信仰を持つとはどういうことかを述べてきましたが、ではいったい、人が信仰を持つと きはどういう「感覚」なのかと興味を持つ方もいるでしょう。また、信仰を持ちたいのだ が、どうしたらそれとわかるのだろうと思う方もいるかも知れません。 「人によって様々 です」と言ってしまえばそれで終わってしまうのですが、それでも知っておくとよいこと はあります。信仰は、悟りをひらくとか、恍惚状態になることではない、ということです。 仏教の場合、悟りをひらいて輪廻から解脱することが一種の救いに相当します。悟りを ひらくとは、一切の執着から離れ、無の境地に達することです。これは並大抵のことでは ありません。そのような境地に達するにはそれなりの精神的鍛錬が必要になります。救わ れるためには、"do" する必要があるのです。キリスト教信仰は、このようなものではあり ません。 また、信仰は神の力が体にみなぎって恍惚状態になったり、不思議なパワーを出すよう なことでもありません。極端な宗派だと、伝道師の話を聞いていた人がその場にヘナヘナ と倒れこんだり、不思議な言葉を発したりするそうです。そうなることが神の力に満たさ れたしるしで、そうならないと信仰とは言えない、と主張するのです。信仰とはそのよう なものでもありません。 信仰とはもっと、皆さんが常識で考えられる、理性的な状態です。信仰は救いの良い知 らせ「福音」を自覚的に受け取ることですから、本質的に理性的な決断でなければなりま せん。それはもちろん人に喜びをもたらすものです。そしてときには、その喜びが感情の 高揚となって見られることがあります。今まで知らなかった神やイエスという存在を知り、 救いを受け入れるとき、何とも言えない平安を味わい、解放感に満たされ、感動に涙する こともあるでしょう。 一方、私のようなクリスチャン家庭に育った人に多いのですが、物 心ついたときには神やイエスの存在が当たり前で、いつ信じたのかという区切りが明確で ないこともあります。一時期の私はそのことで悩んでいました。自分はいつ信じたのだろ 78 SE が書いたキリスト教入門 うか。イエスを知ったときの感動を涙ながらに話す人を見て、ああいうのいいなあと思っ たり、時にはちょっと冷めた目で見ていたり。それでも、今どうなのかと聞かれれば、イ エスを信じていると明確に告白できる自分がいるのです。 いったい、どちらが信仰にふさ わしいのでしょうか。 信仰の状態(感情的な信仰と一見冷めた信仰)、実はどちらも間違いではありません。ど ちらもあり得ますし、どちらもいつでも同じわけでもありません。前者の感情的な喜びが 冷めることもありますし、後者が信仰の高揚感を感じることもあります。いずれにしても、 感情が信仰そのものではないことを知っておくことが大切です。 結婚でも、熱い恋愛を経 たカップルもいれば、お見合いで相手のことをよく知らないまま結ばれる人もいます。で も、どちらが結婚のあるべき姿かなどと考える必要はありません。相手を愛し平和な家庭 を築くのは、どちらでも可能です。初めに恋愛感情があったかどうかは本質的な問題では ありません。スタイルが違うに過ぎません。 ありがちなのは、当初の気持ちの高揚が落ち着いてくると(悪く言えば冷めてくると)、 そんな自分に気づいて、あれは一時的なもので、信仰などではなかったのではと思ったり してしまうことです。しかし、感情の高ぶりというものはそう長続きはしませんし、周り の影響を受けやすいものです。恋愛と同じで、その中に真実がないわけではありませんが、 それがないと真実がないわけでもありません。 信仰というものは一時的な感情や恍惚とは違う、理性的な状態です。それは人の心の奥 深くに達していて、根付いていくものです。大輪の花を咲かせる場合もあれば、野草のよ うに小さく地味な花のこともあります。それでも聖書の言葉に信頼して神の方を向いて生 きていくことが、信仰生活なのです。それがイエスによる救いだということを、聖書は次 のように保証しているのです。 「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、 またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。 」14 7 不正コピー=偶像 せっかく苦労して開発したソフトウエアを、タダでいくらでもコピーされる。開発者と してこんな悔しいことはありません。本物そっくり、というよりデジタルですから、その ものとも言えるでしょう。でも正規品ではありません。ライセンスで許諾された以上のソ フトウエアのコピーは不正です。 79 SE が書いたキリスト教入門 聖書の神が一番嫌うことは何か、それは神以外のものを神とすることです。神のコピー を本物とすることです。信仰者が守るべき十戒の最初の部分にこうあります。 「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分の ために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、 地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んでは ならない。それらに仕えてはならない。 」15 このように第一戒が偶像崇拝の禁止になっていることからも、その重要性がわかります。 「契約=神の約束」の項で触れたユダヤの民が神に背いたというのは、具体的には偶像崇 拝に陥ったことを指しています。偶像とは、他の神のことではありません。神ではないも ののことです。神は真の唯一の神です。これを認めず、逸れていくことを「罪」すなわち 的外れ(sin)と呼ぶのです。見るからに神々しい様をしている像であっても、人間が作っ たものに過ぎません。畏敬の念をもたらす神秘的な自然であっても、そこには人格はあり ません。人間や動物が神になるというのは、人間の想像上の産物に過ぎません。真に神と 呼べるのは、人間が考え作り出したものではなく、人間を造った存在です。 8 サポート=神の助け キリスト教信仰に少しでも関心を持ってくださった方向けに、信仰の更なる考え方や教 会で見聞きすることについて説明してきました。いかがだったでしょうか。いざ信仰を持 つというときには、やはり不安がつきものです。自分がキリスト教のような「真面目な」 宗教を続けて行けるのだろうか、挫折したらどうしよう、などなど。でも心配は不要です。 SE の出張で極めて多いのがユーザサポートです。納品時の取り扱い説明に始まり、その 後も問い合わせやデータの確認、測定の付き添い、レポート作成、そして不具合指摘に至 るまで、ユーザがサポート依頼してくるネタはいくらでもあります。SE 側にそのような苦 労はあるとはいえ、ユーザ側にとってはやはりサポートはありがたい存在です。いざとな ったらサポートがあるという安心が、製品を選ぶ際の一つの理由にはなるでしょう。です からサポートセンターや FAQ のサイトを充実させることは競争力で有利になります。 さて、私たちが信仰に入ったとしても、それは神の目から見れば、よちよち歩きで危な っかしいものに違いありません。ですから、信仰生活にもサポートが必要なのです。もし 人がイエスの福音を真に信じるのであれば、神はその人を捨てることはありません。たと 80 SE が書いたキリスト教入門 えその人の感情がどう変化しようとも、苦難に押しつぶされたように思えたとしても、神 はその人を見捨てません。 「主ご自身がこう言われるのです。 『わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを 捨てない。』 」16 実に感謝なことですが、これは救いが恵みであることを考えれば当然とも言えます。信 仰による救いは、人の功績ではありませんでした。神の一方的な恵みでした。そうであれ ば、その信仰のサポートをするのも神の恵みなのです。イエス・キリストの福音が事実で あるということ、そしてそれを信じるものは神のサポートを受け、確かに救いに至るとい うこと。これをお伝えして、本書を閉じたいと思います。 読者の皆さんに神の祝福がありますように。 1 2 3 4 5 6 7 岩波書店「広辞苑」第 3 版 谷川俊太郎「すてきなひとりぼっち」童話屋 詩篇 8 篇 4 節 IT 用語辞典 e-Words「クラウドコンピューティング」 マタイによる福音書 6 章 19、20 節 マタイによる福音書 6 章 21 節 ルカによる福音書 12 章 20 節 「炎のランナー」(原題"Chariots of Fire")監督:ヒュー・ハドソン(1981 年イギリス) ヨハネによる福音書 14 章 2 節 10 ローマ人への手紙 10 章 9 節 11 ピリピ人への手紙 1 章 29 節 12 コリント人への手紙第一 10 章 13 節 13 ヤコブの手紙 1 章 2、3 節 14 エペソ人への手紙 1 章 13 節 15 出エジプト記 20 章 3 から 5 節 16 へブル人への手紙 13 章 5 節 8 9 81 SE が書いたキリスト教入門 あとがき 本書は、私がブログ「SE によるキリスト教入門」にアップした内容に加筆訂正して、1 冊にまとめたものです。元々このブログは、あとで本にまとめる目的で書き溜めたもので すが、そのきっかけは「まえがき」にも書いたように、コンピュータの世界の言葉でキリ スト教をわかりやすく解説できないだろうか、と考えたことです。 私の勤めている会社はメーカーですので、周りには理系出身のエンジニアや、コンピュ ータに詳しい人たちがたくさんいます。理系の人にとっては、聖書や信仰の話など縁遠い ものと思われがちです。しかしキリスト教信仰は実に合理的にできています。奇跡のよう な一見非科学的なことについても、神という存在を聖書に基づいて考えればきちんと説明 がつくようになっている。聖書はこの世界の始まりから「あの世」まで一貫した世界観を 呈しているのです。物事を理詰めで考える理系の人ほど、キリスト教信仰は理解、納得し やすいものだと私は思うのです。ただ、職場でも何人かに信仰について話したことはある のですが、腰を据えて本質的なところまで語るのには困難を感じていました。だったら読 み物にしてしまおう、と思って書き始めたのが本書です。 私は人前で話すのはあまり得意ではありませんが、文章を書くのは好きでした。好きな 女の子に告白するときも、面と向かってはとても言えず、全部手紙でした。そんな私にと って、信仰のことを語るのも、直接人に話をするよりは、ラジオドラマの脚本であったり、 ネットの掲示板やブログであったり、そのような書くことによる間接的な方法が向いてい たようです。今回どれほどのものが書けたかは読む人の判断に委ねるしかありませんが、 私が信じているものを系統立てて説明してみたつもりです。本書をきっかけに、イエス・ キリストや聖書に関心を持っていただければ、こんな嬉しいことはありません。 2011 年 11 月 記す 82 SE が書いたキリスト教入門 著者紹介 岡崎 道成(おかざき みちなり) 1966 年、仙台市に生まれる。1982 年練馬バプテスト教会(練馬区、日本バプテスト教会連合) で受洗、1991 年九州芸術工科大学(現・九州大学芸術工学部)音響設計学科卒業。東京都在住。 家族は妻と 1 男 2 女。都内のメーカーに勤務しソフトウエア開発やプロジェクトマネジメントに 従事、現職。2000 年まで短波ラジオ KTWR のキリスト教番組「この指とまれ」でラジオドラマシ ナリオを手掛ける。趣味は自転車通勤、読書、物書き。現在、東京聖書教会(目黒区、単立)に 所属。 ブログ:「SE によるキリスト教入門」http://nery.cocolog-nifty.com/christforse/ メール:[email protected] SEが書いた キリスト教入門 ――――――――――――――――――――― 2011 年 10 月 20 日 初版発行 2011 年 12 月 1 日 第 2 版発行 著 者 岡崎道成 表紙デザイン 尾坂 斉 ――――――――――――――――――――― (c)2011 Michinari Okazaki 本書は非売品です。 本書の内容の改変を禁じます。 本書の著作権は著者にあります。 83
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