ムッチがゆく54!

□校長だより□
ムッチがゆく !
54
□ H25.12.13□
に
「夢」に向かって逃げないこと!!
けいえい
かみさま
な か な か 自 分 の 思 う よ う に な ら な い の が 世 の 中 と い う も の で す が 、「 経 営 の 神 様 」 と 言 わ れ た
まつしたでんき
まつしたこうのすけ
元松下電器(株)の社長であった松下幸之助さんは、あるとき、こう言いました。
「成功とは、成功するまでやりつづけることです。一方、失敗とは、成功できるのに、その道
とちゆう
の り の 途 中 で 、 あ き ら め て し ま う こ と で す 。」 と 。
かげ
そうです。成功の陰には、必ずと言っていいほど、
あせ
目には見えない「努力」と「汗」があるものなのです。
私の好きな言葉に、
さ
の
『 何 も 咲 か な い 冬 の 日 は 、 下 へ 下 へ と 根 を 伸 ば せ ...。
や が て 大 き な 花 が 咲 く ...。』
というものがありますが、平成12年9月に行われたシドニーオリンピックの「女子マラソン」
かくとく
たかはしなおこ
お んし
で 、見 事 に 金 メ ダ ル を 獲 得 し た 髙 橋 尚 子 選 手 も 、高 校 時 代 に 恩 師 か ら こ の 言 葉 を も ら っ た こ と で 、
きび
厳しい練習にも決してあきらめることはなかったと言っています。
よせんはいたい
くつじよく
その髙橋尚子選手、実は、高校時代に出場した「インターハイ」で、予選敗退という屈辱を味
わっています。さらに、その後に行われた「都道府県対抗全国女子駅伝」に出場したときには、
何と、同じ区間を走った47人の選手の中で、45位というみじめな成績で終わってもいるので
す。しかし、それでも髙橋尚子選手は、走ることをやめませんでした。
さいのう
「才能」とは、何でもそつなくできることを言うのではありません。ひたすら努力を続けるこ
とこそが、本当の「才能」なのです。
うん
ですから「一時の成功」は、本当の成功とは言えません。それは単なる「運」です。
こ んき
本 当 の 成 功 と は 、「 努 力 」 と 「 根 気 」 が あ っ て こ そ の も の な の で す 。
かねたけそうしん
( 金 嶽 宗 信 著 :「 親 が 子 ど も を 伸 ば す 1 0 0 話 」 よ り )
くば
にぎ
1学期の最終日のことだ。通知表が配られて間もなく、賑やかだった教室が急に静まりかえった。
ちが
「 何 か 、 大 変 な こ と が 書 い て あ る に 違 い な い 。」
僕は、ネパール語をすらすらと読むことが出来ず、いらいらした。
かよ
まず
僕は父の仕事の都合で3月までネパールの小さな町で暮らした。通った学校は、家庭が貧しくて、
すく
ぜんりようせい
が くひ
学校に行けない子どもたちを救うために、外国の方がつくった学校だ。全寮制で、学費、生活費はす
べて無料。しかし、
たいがく
「 来 年 度 か ら 、 学 費 、 一 ヶ 月 3 0 0 0 ル ピ ー ( 約 3 0 0 0 円 )。 支 払 え な い 生 徒 は 、 退 学 と す る 。」
みな
いつしよ
通知表に、こう書かれていたようだ。僕はそれを聞いて驚き、皆と一緒に落ち込んだ。
翌日からは、一ヶ月の秋休み。
じ つ か
ひようこう
仲良しのアヌの実家にホームステイした。アヌの村の標高は3500メートル。家は、縄文文化の
たてあなしきじゆうきよ
えだ
竪穴式住居に似ている。電気もガスもなく、木の枝に火をつけて料理をする。
ア ヌ の 家 族 は 毎 日 農 作 業 を し て い る 。そ れ は 、自 分 た ち が 食 べ る も の を 作 っ て い る だ け だ 。だ か ら 、
お金はない。アヌは結局、学校をやめることになってしまった。家族には、彼を育てるお金も残って
しんせき
いないので、親戚の知り合いの家で働かされることになった。泣いているアヌに、僕は、何も言って
あげることができなかった。
ま ぢ か
ぜつけい
す
村から2時間ぐらい登ると、ヒマラヤ山脈が間近に見える絶景ポイントがある。アヌと過ごす最後
そうぞう
さかみち
の日。明け方に山を登り始めた。想像していたよりも、ずっと急な坂道だった。
きよだい
あ ら わ
目の前に、巨大なヒマラヤ山脈が現れた。あまりの大きさと美しさに、声をなくした。アヌたちも
おおさわ
感動したようで大騒ぎ。
とつぜん
な み だ
と
いた
すると、突然、僕の目に涙があふれ、止まらなくなってしまった。体が痛いからでも、ヒマラヤの
わら
美しさに感動したからでもない。苦しい状況なのに、大声で笑っているアヌの心の悲しみが見えたと
おさ
き、僕はつらくて、気持ちを抑えることが出来なくなっていた。
しんゆう
げんじつ
ひんこん
しんこく
もんだい
親友であるアヌが向き合っている現実を見ることにより、貧困がどれほど深刻な問題か、はじめて
ほ ん き
本気で考えることが出来るようになった。
ひつようさいていげん
ろうどう
わる
う
お金がないから必要最低限の教育も受けることが出来ず、労働をさせられ、悪い大人に売られる子
どももいる。
かぎ
まず
お
これはネパールに限らず、世界中の貧しい国々で起こっていることなのだそうだ。
ざんこく
き こ く
この残酷な現実に、どう向き合えばいいのか、日本に帰国してから考え続け、次の二つのことに取
り組むことを決めた。
ち し き
かれ
たす
ひとつ目は、しっかりと勉強して、知識をつけることだ。アヌや彼の家族のような人々を助けたく
ほう ほ う
ても、今の僕には、どうしようもない。だからまずしっかり勉強して、貧しい人々を助けられる方法
を見つけたい。
ふたつ目は、僕がネパールで見てきた事実を人々にしっかりと
伝えていくことだ。
く
ネパールで暮らす友だちも、日本に暮らす僕や学校の友だちも、
みんなが幸せな生活を送れるような世界が出来たらいい。
そんな世界を作るために、みんなと力を合わせて頑張っていき
たい。
(第63回全国小中学校作文コンクール小学校高学年の部
文部科学大臣賞:東京・啓明学園初等学校6年「関
慶志君」の作文より)