コンシェルジュリー - Conciergerie

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日本語
しかし1794年の夏になると、
フランス国民はしだい
に人々を抑圧する「恐怖政治」* からの解放を願う
ようになります。公安委員会を通して独裁政治を行
ったロベスピエールが処刑され、続いて市民から
告発されたフーキエ=タンヴィルが処刑されます。
数ヶ月後には、通常どおりの法廷が復活します。新
しい政治体制をめざして裁判所の刷新が行われ、
ここにフランス革命の終結を見ます。
10 シャペル。中世時代の王の礼拝堂 * の跡に作られ
た囚人のための礼拝堂で、フランス革命期には雑
居房として使われました。贖罪礼拝堂の近くにある
この場所は、王妃マリー=アントワネットを回顧さ
せます。王妃は、
ここに76日間拘留されました。拘留
中、脱獄を企てましたが失敗に終わり、その後独房
を移されます。1793年10月15日と16日に開かれたマ
リー=アントワネットの裁判は、フランス革命の歴
史の中でも最も世間を騒がせた出来事のひとつで
す。マリー=アントワネットの処刑後、彼女の最期の
痕跡を物語るものとして、王妃の多くの所有物が丁
寧に保管されました。
11 マリー=アントワネットの贖罪礼拝堂。ルイ16世の弟
にあたるルイ18 世の命令で、シャペルの修復が行
われましたが、そこは王妃の独房があった場所で
した。
12 女たちの庭。二階建ての女性囚人の独房舎に囲ま
れた女たちの庭は、日中は散歩のために使われま
した。
用語集
柱頭:アーチの迫石を支えるために頂上に置かれた
切石または刻まれた石のこと。
二連窓:柱ごとに一対になっている。
エロイーズとアベラール:12世紀初めに書かれ、伝説
ともなった悲劇ロマンスの主役。
例外裁判所:重大な政治的危機または市民革命の際
に設置される普通法による特別裁判所。
親裁:王が自分の権威を示すために、高等法院で自
ら裁決を下すこと。
礼拝堂:祈りのための場所
パリ高等法院:王政の裁判を管轄した司法機関で、
最終審の役割も果たす最高司法機関。1790年まで存
在し、国王の勅令(法令)の登録と公布もおこなった。
恐怖政治:フランス革命期(1793年3月から1794年夏
まで)、対外戦争や内戦の脅威からフランス共和政を
守るために、公安委員会によって行われた独裁政治
のこと。
役に立つ情報
平均見学時間:1時間15分
障害者の方向けのガイド付き見学もあります。
書店・売店
7か国語によるこの施設の案内書は、書店·売店コーナーの
「Itinéraires」
コレクションでお求めいただけます。
Centre des monuments nationaux
Conciergerie
Palais de la Cité
2 boulevard du Palais
75001 Paris
tél. 01 53 40 60 80
[email protected]
www.monuments-nationaux.fr
*裏面に解説あり
crédits photos © Caroline Rose / Centre des monuments nationaux. réalisation graphique Marie-Hélène Forestier. traduction ADT international. impression Stipa, novembre 2016.
歴史
コンシェルジュリー
王の宮殿と牢獄
王の宮殿と牢獄
6世紀、
フランク族の王クロヴィスはシテ島に王の住
居を定めました。それから5世紀の後、カペー朝の最
初の王ユーグ·カペーがシテ宮に国王参事院と役所
を設立し、
ここが王権を司る場所となります。
王権の象徴
13世紀に入ると、聖王ルイ
(ルイ9世)は、 サント=シ
ャペル教会を建造するな
ど、大 規 模 な 王 宮 の 改 修
工事に着手します。
14 世紀には「端麗王」フィ
リップ 4 世は、祖父ルイ9 世の構想を継ぎ、シテ宮を
威信ある王政の象徴に変えていきます。さらにここ
にパリ高等法院*がおかれました。
王の住まいから
パレ・ド・ジュスティスへ
14世紀後半、
シャルル5世は王の住まいをバスティー
ユ近くのサン=ポール館に移しましたが、他にもルー
ブル城やヴァンセンヌ城にも居城しています。彼は、
司法権を持った財務監督官、あるいは「コンシエル
ジュ」
と呼ばれる管財人に王宮と牢獄の管理をまか
せました。司法業務を強化し、牢獄が整備され、多く
の国事犯が投獄されました。
フランス革命期、
コンシ
ェルジュリーは革命裁判所の設置とともに、犯罪者
の主要な勾留場所となりました。
ここに投獄された
もっとも有名な人物に、マリー=アントワネットがい
ます。
*裏面に解説あり
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シテ宮
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サント=シャペルと並んで、シテ宮の階下には中世
時代の国王の住まいの跡が残されています。
これら
の部屋は、国王とその家族に仕える近衛兵をはじ
め、多くの職員(国王の礼拝堂付き聖職者、家の使
用人)など、約 2000 人のために割り当てられていま
した。
1 衛 兵の間。
「 衛兵の間」は、フィリップ 4 世統治下の
1302年に建設されたゴシック建築の代表です。
この
部屋は4つのアーチ形リブ・ヴォールトで構成され、
広い開口部をもった二連窓*によって採光されまし
た。その跡は今でも確認できます。
この広い食堂の
暖房には 4 つの暖炉が使われました。現在、左側の
壁には、黒い大理石のテーブルの一部が展示され
ています。
この上階にはかつて大広間があって、
こ
のテーブルはカペー朝の王室によって催された贅
沢な公式披露宴で使われたものです。
2 厨房。
この厨房は「善良王」
ジャン2世(1350 -1364) 統
治下に建設され、王室の使用人のための食事が作
られました。食糧は直接船で運ばれました。
3 警 備の間。
「 衛兵の間」をモダンにしたスタイルで
ある「警備の間」は、上階にあった大広間への控え
の間として使われました。大広間は現存していませ
んが、アンシャン・レジーム時代にはここに高等法
院が置かれました。そこでは王自らが「親裁」*を行
いました。1793年には革命裁判所として使われまし
た。中央の支柱の柱頭にはエロイーズとアベラー
ル*が描かれています。
4 パリ通り。
この場所はかつて衛兵の間の一部でした
が、後に他の部屋と隔離されます。
「死刑執行人」の
異名をもつムッシュー・ド・パリの名から付けられま
した。
革命の部屋
高等法院は 1789 年に廃止されます。シテ宮はパリ
市役所の管轄に入りましたが、裁判所と牢獄の機
能は引き継がれました。1793年春、宮殿には例外裁
判所 * の要として政治犯を裁くための革命裁判所
が置かれました
北
10
中世の部屋
1階
11
12
9
5
6
C
4
B
3
7
銀の塔
シーザーの塔
8
2階
セーヌ河
歴史
1
A 受付
B お手洗い
C 書店・売店
2
A
時計の塔
サント=シャペル
入口
出口
5 フランス革命とパリ。1789年から1799年にかけて、
フ
ランスは革命期を迎えます。
この革命によって王政
が崩壊し、第一共和政が成立します。
とりわけ革命
は、社会体制並びに世界における人間の地位のあ
り方を根底から変革しました。中でもパリは革命の
主要な舞台となりました。パリは権力の主要な機
能が集まった都市で、ヨーロッパ中から注目を浴
び、政治参加する人々の数がとりわけ多かったため
です。
6 フランス革命とコンシエルジュリー。革命期も、シテ
島はこれまでどおり首都における政治の中心地で
した。フランス国内ではあちこちで市民戦が勃発
し、牢獄は共和政府を脅かす多くの「反革命容疑
者」
ですぐに一杯になりました。
動くコンシエルジュリーの模型では、囚人の財政状
況によって監禁条件が違った彼らの日常生活を見
ることができます。パイユー(「わら族」)
と呼ばれた
最も貧しい囚人らは、藁が敷かれた雑居房で寝か
されたのに対し、裕福な囚人は比較的快適な生活
をしていました。
7囚
人の廊下。左には囚人を登録する裁判所書記の
小窓。中央には、牢獄の所長の事務机。右には、収監
前に囚人を断髪した洗面所があります。かつて廊下
があった部分に並べられた 3 つの独房は、革命 200
周年にあたる1989 年に復元されたものです。2 階に
ある独房は、
この時代の囚人生活の過酷さを物語っ
ています。
8 名前の部屋。壁には、1793年から1795年までに、革命
裁判所で裁かれた4千人を超える人名が記されてい
ます。死刑になった者、無罪になった者、その他の有
罪に課せられた者など様々ですが、皆コンシエルジ
ュリーで最低何日か過ごしました。マルチメディア·
ツールを使って、彼らの経歴、肖像画、裁判記録の抜
粋など、関連情報を参照することができます。
9 フランス革命と裁判所。
この 4つの部屋では、フラン
ス革命期の裁判所の変遷を紹介します。1789 年以
降、革命派はアンシャン·レジーム時代の裁判所を、
より平等で人間的な裁判所に刷新します。しかし
1793 年になると、
しだいに高まる脅威から共和政
を守るために、公安委員会が設けられます。誕生ま
もない新体制を救うための臨時的な独裁機構とし
て運営されました。共和政を脅かす行為を裁くた
めに、例外裁判所が設けられました。その主要な手
順は革命裁判所を通して行われます。コンシエル
ジュリーの牢獄の真上に設置された法廷で、最も危
険な政治犯の裁判が開かれました。
*裏面に解説あり