結婚式の変化 - 中川功一のホームページ

『結婚式の変化』
駒澤大学
経営学部
4年
中川功一ゼミ
1
兼子由香理
要
旨
就職活動を始めた当初、ブライダルに関して関心を強く持った。
大正天皇の結婚式までは、妻問婚、嫁入り婚、家庭婚式等、儀式やしきたりによって結
婚式は行われていた。当時の新郎・新婦は決して楽しむものだという考えは一切なかった。
このような結婚式からどのようにして、現在の結婚式になったのか。
それは大正天皇の神前式から始まった。次に昭和天皇である。この頃からテレビの普及
が多くなり、そして芸能人の結婚式のよって世の中に個別化のスタイルを浸透させていっ
た。
芸能人のできちゃった婚がメディアで報じられ、さらに個別化のスタイルを改革させる。
そんな自由な結婚スタイルにより、結婚式を行わないカップルも増加してきている。
また、結婚式を行う人達は、現在、チャペルや披露宴会場を変わった形にして、利用者
を増やそうとしている状況である。ウェディングプランナーも完璧な接客をし、お客様に
失礼のないよう丁寧に仕事をしている。
この論文では、結婚式は昔からメディアと少しずつ関係していることがわかる。これか
らも、メディアに影響されながら、日本の結婚式は変わっていくのであろう。
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目
序
次
(P4)
第1章
結婚式の変遷
(P4~)
1.1 結婚式の成り立ち
1.2 江戸時代の結婚式
1.3 明治時代の結婚式
第2章
大正天皇の結婚式から近年の結婚式
(P11~)
2.1 大正天皇の結婚式
2.2 神前結婚式
2.3 結婚式の様式
2.4 近年の結婚式
第3章
ブライダル産業
(P15~)
3.1 現在のブライダル産業
3.2 ブライダル業界とは
3.3 ブライダル産業の勃興と成立
3.4 ブライダル業界における現状
第4章
ブライダルのメディアの影響 (P21~)
4.1 多様化・細分化する挙式・披露宴の背景にある消費者
4.2 メディアで使われている言葉
4.3 有名人の結婚式
結
(P27~)
3
序
冠婚葬祭といわれるさまざまな儀式の中で、「婚」にあたる結婚は人生の中で重要なイベ
ントである。なかでも、結婚式という一生に一度の晴れ舞台は、華やかで夢のある世界で
ある。
結婚式は、誰もが結婚を決めたらどういう晴れ舞台にするかを考えるのではないでしょ
うか。
昔の結婚式は、出会いから結婚式までに様々なしきたりや儀式がある。
現在の結婚式では、個性的な結婚式を重視する人が増えたといわれており、さまざまな
挙式・披露宴のスタイルが登場し、ブライダルビジネス、顧客の変化とともに変化してい
る。今はしきたりや儀式にのっとって結婚式を進めていくというのは、あまり聞いたこと
がない。それどころか、できちゃった結婚など、しきたりを破っていく傾向がみられる。
日本の結婚式は、昔から近年まで、どのようにしてかわっていったのか。その変遷には
メディアは関わっているのか。興味をもったので、結婚式とメディアについて調べていこ
うと思った。
第 1 章では、戦前の日本の結婚式についてまとめている。第 2 章では、大正天皇の結婚
式で日本の結婚式の傾向が変わっていったことを書いている。
第 3 章ではブライダル産業、
第 4 章では結婚式を取り上げたメディアについて書いていく。そして、最後に第 1 章から
第 4 章までを結婚とメディアを絡ませた結果をまとめる。
第1章
結婚式の変遷
1 章では、戦前の結婚式の様子をまとめていく。
1.1 結婚式の成り立ち
(1)結婚式のはじまり
結婚自体は古くから存在していたようだが、今のような結婚式の形は全体の歴史から見
るとかなり最近になってからのことだ。原始にまでさかのぼると、男女が気ままに結婚す
る共同婚が行われており、儀式としての結婚式は行われていなかったのではないかと考え
られている。このふたりから生まれた子供は母のもとで育つようになるが、これが母系氏
族制の始まりである。
つまり男側が女側に通う妻問婚と呼ばれる形に発展していったのではないかと考えられ
ている。すでに古墳時代には妻問婚が行われていたようである。
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しかし、夫婦は別居の形をとっていた。「結婚式」というものはもう少し後から具体化し
ていったと考えられる。かぐや姫、で有名な竹取物語でも五人の貴族がかぐや姫の婿にな
ろうと求婚を試みる、など古くから男側が求婚していたようだ。
上記でも推察できるように結婚は、単なる男女の結びつきでしかなかった。しかし次第
に「婚礼」としての形をとるようになる。
(2)古代
日本人の祖先は性に対しては割合に開放的で、男女間の交際は大変におおらかであった。
いわゆる乱婚とか雑婚という状態が長々と続いた。これは日本に仏教や儒教などの道徳規
範が到来していなかったことが理由の一つである。また掠奪結婚というのもあり、相手を
肩に担いで連れ去るので、俗に「かたげ」といった。それが一変すると、購買結婚といって
娘を米俵、牛などで買うこととなり、これも後世までも残っていた。贈与結婚というのは
娘を高貴の方に献ずることで、中古の采女という陪膳の女官はこれであった。結婚方式で
は同意結婚、即ち男女ともに合意の上で結婚するものが穏当であるが、わが国でも太古か
ら貴族の間においてのみ、これが行われていたようである。
『古事記』
日本書紀』などの日本神話における伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊
邪那美命(イザナミノミコ)の国生み・神生み神話ではオノゴロ島に天の御柱を建て、イ
ザナギノミコトが「私と貴方と、この天之御柱を廻って結婚しましょう。貴方は右から廻
り、私は左から廻り逢いましょう」という約束をし、出会ったところで「なんとまあ、か
わいい娘だろう。」
「ほんとにまあ、いとしい方ですこと」と呼び合って結ばれたという描
写があり、結婚式の起源ともいわれている。
(3)飛鳥・奈良時代
飛鳥・奈良朝になって儀式に唐の習慣が取り入れられるようになった。結婚式は戸令(民
法)によれば、唐にならって男子 15 歳、女子 13 歳で許され、その他、皇族と臣下との通
婚を禁じること。父母及び夫の喪のある間は、嫁取りを禁ずること。掠奪あるいは売買に
よる婚姻を禁じることなどが規定されている。
この時代にはいると、婚礼には媒酌人というものが定められた。男子から媒酌人を女子
の父母、祖父母などに申し入れて承諾を得た話がまとまれば、男子側から進物を女子へ贈
った。媒酌にあたって必要なことは納采(結納)であった。これは中国から入ってきた風
習であった。また当時婚礼の日取りは吉凶を占って決めていたことがわかる。皇室は妃が
入内(内裏に参入)し、一般では新婦の父母が吉日を選んで、新郎を家に招き夫婦のかた
めをしたようである。貴族の間では一夫多妻の習慣があり、最初にめとった妻を「こなみ」
と呼び、正妻の地位を占め、その他は「うわなり(後妻)」と称せられた。律令の母体であ
る唐律令では、重婚を禁じていたが、日本では第 2 夫人以下は「うわなり」と呼ぶことで解
決していた。
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(4)平安時代
平安時代に行われたのは公家式結婚である。当時、貴族の子女は幼小のころに婚約する
ことが行われていた。後一条天皇(1008~1036)は 11 歳の時、20 歳の藤原威子の入内が
あった。双方の婚約が行われると、婿側から「消息便」が立った。この使いは「文使」ともい
い、婿から嫁に対する恋文であった。この文は、柳の枝に吊して嫁方へ持っていき、女性
の代わりに、その父兄が相手の人物、家柄などを確かめて返書を送った。「栄花物語」にあ
る藤原長家の歌にある。「夕ぐれは待遠にのみ思ほへていかで心のまづはゆくらむ (意訳/
婚姻の夜が待ち遠しくてたまらない。どうしたら心だけでも先に行くことができるだろう
か)
」というものであった。使いが先方に着くと、上座に招き入れ、「三献の儀」の接待があ
って、祝儀に衣服などが贈られた。婿の家では吉日をえらび、夜に向けて出立の準備がな
された。夜になってから従者を連れて嫁の家に向かった。
公家婚礼としては、婿は布袴(束帯につぐ礼装)、衣冠という宮廷衣服を身に付けて車か
馬に乗り、松明を先に家司(職員)などをつれて、新婦の家へ行く。この時には家族は同
行しない。到着すると婿は門前で車あるいは馬から下り、案内によって寝殿廂の母屋のと
ばりの前に坐る。そのあと婿はとばりの中に入って新婦と会い、装束を脱いで共寝をする。
この時三日夜餅(みかよのもち)を銀盤に盛って出される。これは婚姻の日から 3 日間供
進することから出た名前である。これを 3 つずつ食べた後で再び帳外に出て、婦家から贈
られた衣服を着て饗膳につく。ここで酒を酌み、真の床入となる。そして 3 日間、同じ儀
式をくり返すのである。そのあとで露顕(ところあらわし)、今でいう結婚披露を行い、婿
と舅の対面式を行い、酒を酌みかわした。婿は結婚後吉日を選んで、妻の家から出仕した。
宴会の作法としては、日本の古い習慣では、宴会は非常に厳格な作法があり、酒宴でも
客が席に着いたところでただちに酒が出るのではなく、はじめに高坏にもてなしの料理を
載せ全員に運び終わると、次に酌人が上席から酒をついでまわり、これを「一献」という。
次に第二台の料理である。そして同じように酒をつぐと「二献」が終わる。ついで「三献」が
始まって座を閉じ、正式の宴は終わる。この三日間は、殿中の燈篭、灯台の明かりは消さ
ないのが吉例で、宮廷民間ともにそうであった。
(5)鎌倉時代
鎌倉時代に入ると、婿取婚の形をとっていても、ある程度の期間が過ぎると夫方に居住
しだしたりするようになる。つまり前項で述べたような母系型家族の形が崩れてきたのだ。
そのため「父権」が絶対的なものとなり、婿ではなく嫁取婚が室町時代から主流となり始
めた。ちょうどこのころから文献にも、
「嫁取り」「嫁入り」の語が出てくる。
結婚式は家と家との結びつきである、という色が濃くなってきた時代だ。このころから
は武家などでは政略結婚がさかんに行なわれていた。結婚式における礼法も整えられ、お
色直しや引出物、里帰りなどもこの頃に生まれた。
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(6)室町時代
和泉流の狂言『舟渡婿』では通い婚が「露見」した後に嫁と舅の家へ鯛などの魚と酒を
持参し、祝いをするという式を行うことが前提になっている。
結婚式といえば、三々九度がしきたりの中では代表的なものだ。この三々九度のはじま
りには、諸説があるが、中国より瓢箪を二つに割って夫婦がこれで酒を飲んだのが日本に
渡来したという説が有力だ。
室町時代には足利幕府が礼道を重んじていたため、この礼道にもいろんな流派が生まれ
た。結婚式をはじめとする様々な礼式が整えられたのもこの頃だ。三々九度の手順の形式
がはっきりしてきたのも室町時代である。
(7)安土桃山時代
この時代は織田信長が天下統一の事業を開始し,豊臣秀吉が関白太政大臣となって、京都
を復興させた時代である。当時、有力な武家の婚礼は盛大に行われた。武家の嫁入り当時
の武家の婚礼の様子は次のように行われた。吉日を選んで嫁入りが行われるが、嫁入り前
に嫁迎えの儀があった。これには婿側から選ばれた 2 人が騎馬で先方に迎えの口上を述べ
に行く。このとき、嫁側では引出物に服巻(鎧)一領、太刀一振、馬一疋が贈られる。花
嫁が出立するに先だって、父母に三々九度の盃があり、出門のときには門火を焚いて送り
出した。行列式は、末の役人まで輿に乗って出発した。次に婿方の家では門火を焚いて到
着を待った。嫁は門を入り、座敷に輿を入れると、女房は輿をかついで、二の間、三の間
まで担ぎ入れて輿寄せの儀式を行う。嫁が輿から出ると、婿方の待女房、中臈(女官)が
脂燭に点火して迎えて祝言の座敷へと導いた。さていよいよ夫婦の盃である「式三献」が始
まる。二日目も三日目も同じように式三献を行う。盃は、二日目は婿から始められ、三日
目には「色直し」といって、白装束を脱ぎ、色物に衣裳に着替える。そしてこのあとに、婿
方の一家で、初めての挨拶が行われた。
1.2 江戸時代の結婚式
(1)江戸時代の結婚式の様子
江戸時代は、長幼の序列や身分制度の確立など秩序の維持に力が注がれた。また倹約も
推奨されたため、豪華な婚礼は影をひそめ、「女大学」など女の道が説かれた。この時期の
婚礼に「仲人」が登場してきた。この仲人の存在が普及するにつれて、またそれをなりわい
とする者も生まれた。
当時の婚礼は、宮中では依然伝統的な平安朝式が採用され、一般大衆は武家様式になら
い、そのなかでも小笠原流が主流となった。
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図「江戸時代の結婚式の様子」
婚席に神々が臨在するという考えは中世の床飾りから見られ、江戸中期の貞丈雑記に明
文化された。
新郎の自宅に身内の者が集まり、高砂の尉と姥の掛け軸を床の間に掛け、鶴亀の置物を
飾った島台を置き、その前で盃事をして結婚式をする、いわゆる祝言が行われた。家の床
の間は神様が居る神聖な場所で、掛け軸や島台も神さまの拠り所でもあり、当時から結婚
式は宗教と密接な関係があった。旧暦の 10 月は「神無月」であったので、結婚式はこの月
を避けて行われた。
「宗教色を無くす」という意図において一時期流行した人前式(じんぜ
んしき)は、この意味において全くの別物である。
(2)武士の婚姻
嫁入り婚
武士階級と一般庶民とは区別して考える必要がある。この時代は身分制度の厳しかった
時代だ。武士と一般庶民では、生活慣習が異なる。
武士は人口構成比で言えば全体の 6%だが、現在の婚姻の文化に与えている影響を与えて
いる。武士の礼法が基本になっている。武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結
ぶ。男子でなければ家督を相続できないので、男子が生まれるまで子供を産む。一人の女性
では嫡子を確保するのに不安があるので、複数の女性を側室として抱える。それは家を守る
ための防衛手段である。武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通
であった。
武士は「嫁入り」という婚姻の形式をとっていた。これは、女性が男性の家に嫁ぐもので現
在と同じよう処女に近い形(一般庶民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りを
していたのと比較して。
)のものだ。
武士の婚姻のしきたりを定めたものに、小笠原礼法というものがある。これは室町時代か
ら武士の家を守るためのお付き合いのマニュアルという性質のものだ。身分の高い武士同
士の縁組は遠方からのものが多くなる。両家を取り持ち、さまざまな問題を調整するために
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仲人の制度もあった。
(3)平民(一般常民)の結婚
婿入り婚
柳田国男の「明治大正史」によると、明治のはじめまでは、一般庶民は「婿入り婚」が
多かったとかかれている。婿入り婚とは、男性が女性の家に通う形式である。一定期間、妻
となる女性の家に通う。そして男性の家に 「嫁入り」するのは、男性の母親が家事の一切
の権利を譲るときだ。従って、嫁入りまでに長い時間がかかることが多かったようで、当
然何人かの子供を連れての嫁入りも珍しくはない。
婿入りは、一定のルールの下に女性の家を訪ねる。女性は拒否することもできるのであ
る。お互いの気持が合意に達すれば、男性が通うようになる。従って、お互いに歩いて通え
るような距離にすむ間柄で、村内婚とも呼ばれていた。
(4)江戸時代の婚姻の儀式
結納を行なうこと、仲人を立てることは武士の間の慣習に過ぎなかった。庶民は嫁入り
のとき、親戚縁者を招いて祝宴を開いていた。既に、子沢山の状態で子連れ結婚なので、
処女の女性が嫁ぐというような雰囲気の儀式はなく、女性が家事の権限を譲渡されるお披
露目の儀式だった。まだ、神前結婚式の原型になるような目のようなものは江戸時代には
なかった。このころは、処女に近い形で嫁入りをしなければ恥ずかしいという感覚はない。
それよりも、子宝に恵まれること、つまり、産まず女でないことのほうが重要であった。
婚姻の形態として、婿入り、足入れ、嫁入りのように変化していく。いまの婚姻の形態は
嫁入りである。明治になるまでは、武士だけが嫁入りだったのだが、大正、昭和の時代を
経て、身分制度がなくなるとほとんどが武士のような嫁入りになったということだ。武士
のような嫁入りとは、女性が処女に近い状態で嫁に行く、あるいは、子連れでない状態で
嫁にいくということである。
1.3 明治時代の結婚式
宗教による結婚式が増えて、結婚式は多様化する。昔ながらの自宅結婚式が行われると
ころもあれば、都市部では神前結婚がにわかに流行したり、結婚式にも流れが見られるよ
うになったりした。
(1)明治の婚姻政策
江戸時代までは、挙式という儀式はなかった。また、嫁入りもいまのように処女に近い
形で嫁ぐということは、武士にしかなかった。神前結婚式と披露宴のセットは存在してい
なかったことになる。
その原型は、明治の後半から現れ始めます。明治維新というのは、ヨーロッパ列強と比
較して遅れた文明の差を取り戻すことだった。そこで、その差はどうして生まれたのかを
研究する、有名な岩倉米欧使節団というプロジェクトが世界を回りその報告をする。
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その結論が、教育を充実すること、宗教を持つことになる。特に建国百年で母国よりも
優れた文明を持つようになったアメリカの様子を見て、そのような結論が出されたようだ。
そこで教育制度が生まれ、国家神道がつくられる。後者の国家神道と問題にしてきた婚姻
制度は密接に関わる。
明治政府は、日本をアメリカのように物質文明の恵まれた国にしようと考えた。その政
策を遂行するのに、国内にあった半主流派、徳川幕府を支えたものや、その時代にこだわ
る考え方を、弾劾していく。仏教に対する廃仏毀釈、徳川家の菩提寺である増上寺の焼却、
京都の家元の無力化などがあげられる。
そのような時代背景のなかで、国家神道が生まれ、神前結婚式が生まれる。日本の歴史
や文化を継承するということでなく、列強に追いつくための政策と、旧体制の影響力を排
除し文明開化が効率よく推進するためのさまざまな政策を展開するのだが、神前結婚式は
そのような中で生まれている。
また、
「婚姻法」が制定され、一夫一婦制が導入され、側室をもつことが禁じられるが、
形の上だけ守られてはいなかった。天皇家でも、側室をもたなくなったのは昭和天皇から
だそうだ。明治大正の政治家は憲法の制定はするが、 婚姻法」を守らず側室を持つことが
男の甲斐性のように考え行動した人が多かったようだ。
自分たちが守れないことであっても、ヨーロッパから見て野蛮人と見られない体裁を整
えることに汲々としていたといえると思う。その好例が、婚姻法の制定であり、神前結婚
式の考案だった。
(2)民間の結婚式
民間の儀礼の中心は何といっても婚礼であるが、明治時代には皆自宅で、古式に則って
行なっていた。明治 30 年 7 月 21 日、東京日比谷大神宮の拝殿で初めて高木兼寛男爵媒酌
の神前結婚式が行われて以来、その影響で一般にも神前結婚式が挙げられるようになった。
日比谷大神宮の費用は、特別一等が人員 35 人以内で 50 円、同 2 等が 30 人以内で 35 円、
3 等が 30 人以内で 25 円、松が 25 人以内で 20 円、竹が 20 人以内で 15 円、梅が 10 人以
内で 12.円であった。当日は親族、媒酌人、および知人などが臨席して神前の式に臨んだ。
仏教での仏前結婚が始まったのは、明治 26 年春、真宗本願寺派の藤井宣正が、東京白蓮社
会堂で仏式結婚を行ったのが初めとされている。
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第2章
大正天皇の結婚式から近年の結婚式
2 章では、大正天皇が日本の結婚式に大きな影響をもたらしたことをまとめていく。
2.1 大正天皇の結婚式
1900(明治 33 年)5 月、皇太子嘉仁親王(大正天皇)と公爵九条通孝の四女節子との結婚
により、結婚式に対する社会的関心が高まった。
政府は結婚式にそなえて、前年 8 月より帝室制度調査局を設けて、皇室の結婚に関する
儀礼制定に向けて調査を開始した。そして婚礼のーカ月前の明治 33 年 4 月に「皇室婚嫁令」
を公布している。宮中の婚儀も皇室婚嫁令で定められているが、大正になっても古来の消
息使、三ケ夜餅などの儀が採用されていた。この中心となる所は賢所の大前で、古式服に
よる三々九度に代る御祭文朗読とお盃の儀式があり、ついで朝見の儀、即ち両陛下に初の
謁見をする儀式である。
キリスト教の司式の形式を参考にして作られたことは、公然と語られるようになった。明
治、大正、昭和の半ばまでの時代には、大正天皇の結婚式はキリスト教の真似をして行なっ
た。そのため、皇室の行事として行なわれているので、日本の皇室に伝えられる婚姻の儀式
として解釈されてもおかしくない。日本の伝統と印象付けることが目的だとしたら、これは
大成功したキャンペーンといえる。
宮中の歴史において初めて皇居内の賢所(神前)で行われたご成婚の慶事を記念して、
東京大神宮では神前結婚式を創始し、以後その普及に力を注いだ。それ以前の挙式は家庭
で行うのが通例だったので、神前で厳粛かつ神聖な儀式を行うことは、画期的なできごと
として人々の関心を集めたのだった。
大正元年に発表された夏目漱石の小説「行人」にも、日比谷大神宮(現在の東京大神宮)
における結婚式の様子が描かれている。
2.2 神前結婚式
1900 年 5 月 10 日の大正天皇のご婚礼が神前式で行なわれ、この模様が全国に伝わり現
在の方式が確定した。
図「神前式の様子」
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現在広く行われている神前結婚式の歴史は、明治 33 年、当時の皇太子殿下(後の大正天
皇)と九条節子姫(後の貞明皇后)のご成婚に始まる。宮中の歴史において初めて皇居内
の賢所(神前)で行われたご成婚の慶事を記念して、東京大神宮では神前結婚式を創始し、
以後その普及に力を注いできた。それ以前の挙式は家庭で行うのが通例だったので、神前
で厳粛かつ神聖な儀式を行うことは、画期的なできごととして人々の関心を集めたのだっ
た。
神前結婚式は荘厳な雅楽の調べに乗せて、古式ゆかしい挙式をあげることができる。神々
や祖霊の御前でむすびの儀式を行うという神前結婚式は古くからあり、神々の前で婚儀を
行う伝統は現在にも伝えられている。
神社で結婚式を行うようになったのは、大正時代からだと言われている。明治33年に
宮中の天照大御神をお祀りする賢所にて行われた後の大正天皇と貞明皇后との婚儀から一
般庶民の間にも神前結婚式が広まったのだ。
式の時間は三十分程度である。
また高度経済成長期に結婚式場によるキリスト教式も流行する。2005 年度においてはキ
リスト教式が 68%、神前式が 16%、人前式が 15%という比率である。
神前結婚式は一般の結婚式場やホテルでもっとも広く行われており、式場内に奉斎(ほう
さい)されてある神前で、神官によっておごそかに挙式される。
2.3 結婚式の様式
(1)キリスト教式(教会式)
図「リゾートウェディングの様子」
教会式は、最も人気の挙式スタイルであり、教会式で挙式を挙げた人は大幅に増加傾向
にある。しかし、キリスト教にとって挙式とは、キリスト教徒が神と証人の前で結婚の約
束の永遠性を誓うというのが本来の意味である。例えば、カトリック教会において結婚式
は「秘跡(サクラメント)
」 神と人間とを仲介し、神の恵みを人に与える儀式)のひとつ
である。
そのため宗派や教会によっては信徒でなければ結婚式はあげられない、と定め
られている場合もある。
また、結婚式を希望するカップルが一定期間教会での「結婚講座」に出席すればあげら
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れる場合や、もっと大らかにあげられる場合もある。
そのため、教会式の会場は、宗教上の制約がないホテル、専門式場、リゾート地、海外
などに多い、挙式専門のチャペルで挙式をあげる人が多い。
一般的な進行としては、主に先に新郎が入場し、新婦がウェディングドレスを身にまと
い、エスコートする者(通常は実父)と共に入場。バージンロードといわれる通路を進み、
エスコートする者が新郎に新婦を引き渡す。以下順序など違いはあるが、賛美歌(聖歌)、
聖書の朗読、神の前での誓い、それに対する祝福、結婚誓約書・婚姻簿への記入、指輪の
交換、誓いのキス、などが行われる。
(尚、指輪の交換やキスは必ずしも必須ではない)ま
た、神父や牧師による(正規の)式が終了した後、新郎新婦が教会から退場する際に、友
人・親族等によって、ブーケ・トス、フラワーシャワー(花を降らせ、花の香りでまわり
を清め、新郎新婦の幸せをねたむ悪魔から守る、という意味が込められているともされる)
等が行われることもある。
(2)人前式(じんぜんしき)
人前結婚式とは、神や仏ではなく、親族や友人、知人などの参列者を証人として行われ
る結婚式のスタイルである。近頃ではこれまでの宗教による儀式や昔からのしきたりにと
らわれない、個性を尊重した儀式である。また、このような個性的な形式は人前結婚式(シ
ビル・ウェディング)と呼ばれる。式次第に決まった形はないのだが、婚姻届への署名捺印
や誓いの言葉を組み込むものも多く見られるようになった。
神前式(しんぜんしき)と混同しないよう、人前式(ひとまえしき)と呼称する場合も
ある。
ホテルや結婚式場などで対応している場所も多い。また、他宗派での挙式を禁じている宗
教信者(創価学会員など)による人前式もみられる。挙式の進行はおおむねキリスト教式
を踏襲するが(入場方法・ウェディングドレス・指輪交換・宣誓等)
、その他は自由であり、
立会人による結婚の承認が行われるのが特徴である。承認のしるしとして、立会人が拍手
をしたり、鈴を鳴らしたり、いろいろな独創的な挙式が行われている。
(3)仏前式(ぶつぜんしき)
仏教では、
「縁」という言葉を非常に大切にする。2 人が奇遇にも結婚することは、運命
であり宿縁であるとし、仏前式は、亡くなった祖父母やご先祖に対して、この世での巡り
合いと導きを感謝し、すばらしい家庭を築いていくことをご先祖様に誓う場である。1887
年(明治 20 年)に立正安国会の創設者である田中智学が、敬白文朗読・指輪交換などを盛
り込んで行ったといわれている。この後、明治後期に数珠授与を採用した仏前挙式が行わ
れ、三三九度や親族固めの杯を取り入れた仏式挙式の基礎が固まり、昭和初期にほぼ現在
のスタイルが完成し、今に至っている。
ホテルや専門式場では仏前式に対応して挙式場を設置しているところは少なく、先祖
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代々の菩提寺かその宗派のご本山、または、互助会系の式場か総合結婚式場、あるいは日
蓮正宗の利用が多いホテルなどに限られている。また 1892 年に浄土真宗本願寺派の藤井宣
正が東京白蓮社会堂に挙げた結婚式が最初といわれている。具体的な式順は宗派によって
多少の違いがあるが、住職(司婚者)と参列者一同が、本尊に結婚を奉告し、住職から終
生仏教徒として守るべき事柄について諭しを受け、記念の念珠を拝受、互いに敬愛を誓い
あう誓紙に署名した後、三々九度の杯を交わすのが大筋である。ほぼ仏教関係者に限られ
ており、一般的にはほとんど行われていない。
2.4 近年の結婚式
(1)日本の結婚式
世界中、結婚式で共通していることといえば、民族としての伝統を守り伝えている点で
ある。その国の宗教や風土、文化を色濃く反映した結婚式は、その国の財産ともいえるも
のだ。
もちろん日本の結婚式も、伝統を受け継いでいるのでおり、日本は、豊かな自然の恵み
に感謝した特色がある。また時に厳しい自然にたいしてご先祖様や森羅万象を神格化して
いき、そういった観念が結婚式にも現れている。
すでにみてきたように、日本の結婚式の起源もイザナギ・イザナミ日本神話の中にある。
さらに平安時代の宮廷や貴族の間ですでに行われていた婚儀の内容は今の皇室のご婚儀に
受け継がれている。
近年にまで受け継がれている作法は各家の床の間に掛け軸を掛け、そのご神前で三三九
度の盃が交わされる、といったものだ。このように日本の結婚式は長い歴史の中で少しず
つ形を変えながらも神前で行われて来たという特徴がある。
(2)近年の傾向
結婚情報誌『ゼクシィ』の 2006 年度のトレンド調査によると、実際に行なわれた挙式の形
式の全国平均比率は、キリスト教式が 65%、神前式・人前式(じんぜんしき)共に 16%で
あった。通常儀式の後披露宴が行なわれるため、結婚式を行う場所も出席者の交通の利便
性がよく大広間が利用できるホテルの利用者が多く、全体の 35%を占め、次に多いのが結
婚式場の 28%であった。このホテルや結婚式場では、式場側で結婚式に関するほとんど全
ての用意を行い華やかな演出まで行ってくれるので、式を主催する側には大変便利になっ
ている。
これらの式場には神社や寺院、キリスト教会の出張先として別室が設けられ、主に両家
の親族が入って式が執り行われる。その後併設した宴会場で盛大な披露宴を行うことにな
る。宴会場を利用した場合、いずれにしても多額の費用が掛かる為、親類縁者だけの小規
模な結婚式もある。また、近年ではハウスウェディングと称してレストランに親族や友人
14
など身近な者を招待して、パーティー形式の結婚式・披露宴を行うこともあり、全体にお
ける比率は 16%であった。
(3)近年のスタイル
結婚式も独自のスタイルで行うカップルが増え、レストランや公共施設だけではなく、
遊園地や美術館など、様々な場所が結婚式に使われる様になった。こういった独創的な結
婚式が行われる背景には近年の個性を尊重する風潮が関与していると考えられる。
第3章
ブライダル産業
3.1 現在のブライダル産業
現在の結婚式では、個性的な結婚式を重視する人が増えたといわれており、さまざまな
挙式・披露宴のスタイルが登場し、ブライダルビジネスも顧客のニーズとともに変化して
いる。
その一方で、深刻な不況下における消費動向の冷え込みや、少子化、晩婚化による婚姻
数の減少、女性の社会進出や結婚観の多様化により、ブライダルビジネスは縮小傾向にあ
り、高い利益を見込める挙式・披露宴市場めぐり、結婚式を経営するホテル・専門式場ウ
ェディングプロデュース会社の受注競争は激化し、大きな岐路に立たされている。
3.2 ブライダル業界とは
(1)さまざまな業種を含む巨大市場
ブライダル業界の最大の特徴は、経済状況や時代の変化に影響を受けやすいという点にあ
り状況や流行によって、挙式・披露宴の形式や規模が極端に変化する業界である。
ブライダル産業全体を経済面から捉えると、現在ブライダル市場は約5兆円市場と言われ
ている。挙式披露宴にかかわる業界、さらには、婚礼にともなう物品という意味で、婚約
指輪の宝石業界、ウェディングドレスの衣装業界、新居の家庭電化製品、家具、不動産、
新婚旅行の旅行業界とあげていけば、実にさまざまな業界が関わっている市場なのである。
また、挙式・披露宴市場だけをとってもその規模は2兆円といわれている。
歴史的には、明治の中ごろに当時の富裕層を対象にした洋風の婚礼サービスを生業とす
る会社が起こり、それ以来連綿と続いてきた。ブライダル業界が現在のような規模にまで
拡大したのは、戦後の高度成長期で、その時期を境に飛躍的に業績を伸ばした。しかし、
1980 年代の中ごろに起こったバブルの崩壊により一時期までの勢いは失われ、現在では日
15
本経済の停滞の足並みをそろえるように、不況の波にさらされている。しかし、ブライダ
ル業界とは民族文化のひとつで人生に密接に関わる冠婚葬祭業であり、また、新居準備な
どの生活産業でもあるわけで、その点から言えば同じように不況の波にさらされている他
業種とは違い、人類が続く限り続いていく業界である。
(2)ブライダル業界の特徴
ブライダル業界の特徴は先ほど述べた特徴も含め、問題点と利点がある。
問題点は、経済不況や時代の変化に影響を受けやすい。景気の状況や流行によって、結
婚式の形式や規模が変化する。リピーターがいない。ターゲットが限られてくる。完全競
争市場で参入障壁が低いために競争他社が多く、一社あたりのシェアが小さい。商品の同
質化による低価格競争を行っている。以上の 6 点が挙げられる。
利点は、まず、ブライダル商品の高利益率性だ。ブライダル商品は、ホテルや専門式場
などの提供場所に関わらず共通して粗利益は、約 60%前後と、一般の業態と比較すると、
高利益的な商品であるのが特徴である。一般に、挙式・披露宴の商品は大きく料理や飲み
物など「飲料商品」と、ドレスや引出物、招待状、花、写真等の「付帯商品」から構成さ
れ、どちらも事前に人数を把握でき、大量に発注することが可能で、在庫もない形式とな
っており、リスクが少ない。
次に、ブライダル商品の高収益だ。ブライダル商品が高収益なのは、高品質のものが求
められるからである。料理、ドレス、旅行にしても、通常より高いグレードの商品が求め
られるため、商品単価の高さに比例して収益も高くなる。さらに、何ヶ月も前から大量の
予約が入り、キャンセルもほとんどない。そのため時機を見て必要な品物の手当てをする
ことができる。
最後に、受注が早期確定でき、原則として前金事業のため運転資金が不要ということだ。
このように、ブライダル業界の市場は 5 兆円市場と呼ばれる巨大な規模をもつだけでなく、
リスクの少ない優良な市場である。
その一方で、ブライダル人口の減少や問題点で述べたような問題点も抱えているのがブ
ライダル業界の特徴でもある。
3.3 ブライダル産業の勃興と成立
(1)戦後の挙式・披露宴
第二次世界大戦によって、物質の欠乏で、国土にも家庭にも食べるものさえ不足してい
た。そのため、この頃の婚礼は困難なものであった。しかし、戦後の民主改革により「イ
エ制度」が個人主義の立場から排撃されるようになり、その結果皮肉にも神前結婚式が普
及しはじめ、婚礼の状況が変化した。
変化は3段階に分けられる。
16
①
戦前までは、国家の保護を受けていた神社は、戦後、国家神道の支えを失い神主たち
の未来はなかった。そんな中、昭和 22 年 11 月に、総合結婚式場「明治記念館」が誕
生した。明治記念館は国家振動の解体と空襲による痛手から立ち直るために、焼け残
った憲法記念館を結婚式場に転用したのである。これによって、神社にも希望の光が
見えはじめ、全国の神社は積極的に挙式を司ることによって生き残りをはかっていっ
た。
②
神前式の普及により必然的に挙式は家庭の外へ出、これに引き続く披露宴も家庭の外
で行うスタイルが普及し、全国で続々と専門結婚式場が開業した。料亭、仕出し屋、
旅館、写真館などが次々と結婚式場に進出あるいは転進するものが出始めた。
③
1950 年代に入ると、新しい傾向が見え始めた。連合軍に接収されていたホテルが返還
されたり、空襲のあと営業を再開するホテルがあったりと、ホテル結婚式などが始ま
るのである。
(2)高度成長期とブライダルビジネスの急成長
戦後第 2 の変化は、1950 年(昭和 30 年代)後半に起こった。昭和 30 年を境に、婚姻数
が急上昇し、それに伴って、戦前からあった隣組組織や地域の相互扶助組織が行ってきた
助け合い活動を復活させ、戦後の物資、食糧の不足の中で、冠婚葬祭互助会の活動を続け
ていきたいという願いから、昭和 38 年に「横須賀冠婚葬祭互助会」が誕生。そのあと、続々
と互助会直営の総合結婚式場は登場するなどして、婚礼は自宅よりも結婚式用の会場を使
うことが主流となりブライダルビジネスが生成し始めた。調査によれば、30 組中 26 組が専
門式場などの自宅外の施設を利用し、そのうち 12 組が神前式を挙げていたのである。挙式
に使われる会場はひとつの会場を 1 日に 3~4 回転させることが普通であり、それでも半年
前に予約満席などというものも珍しくなかったのである。専門の結婚式場はみな教会の挙
式を神前式にしていたため、挙式・披露宴が自宅外に出るということは、神前結婚式の普
及も意味していた。
さらに 1961 年(昭和 36 年)には、司会者の発言例を加えた「司会の進め方と話し方」
を制作、式次第のイベントをはじめて「披露式」をもつ形に整理したのである。
乾杯のあとでの宴会ではケーキ入刀(この頃はまだ、ほんの一部の人)が取り入れられ、
お色直しは披露宴の彩りとされたのである。
このように、披露宴自体が「式」の部分と本当の宴会とに分離した「披露宴儀式化」の
第一歩であった。
1959 年(昭和 34 年)になると、今上天皇のご成婚が行われ、世の中は祝賀ムードに包
まれ、信者でない人々による教会での結婚式が徐々に現れ始めた。
1965 年代(昭和 40 年代)
、時代は高度成長期、披露宴の列席者数は増えた。1955 年(昭
和 30 年)の列席者数平均が 25 人、1965 年(昭和 40 年)には 40 人、1975 年(昭和 50
年)には 60 人となっている。これは、親族中心から、会社の上司、同僚、友人、知人の数
17
が増えたためである。また、1965 年代になると、高度成長期と戦後のベビーブームに生ま
れた子ども達(団塊の世代)が結婚適齢を迎え婚姻数が 103 万組を超え、空前の結婚ラッ
シュがおきた。女性雑誌では、式場を探す女性を刺激するように「人並み以上」や「豪華」
といった言葉が並べられ、限られた予算でできるだけ豪華にするさまざまなアイディアが
出された。たとえば、衣装だけ(あるいは料理だけ)は立派なものにする、または明るい
色の花を飾るなどの「豪華」に見せる工夫がされていたようである。そのあと、徐々に披
露宴にも華やかさが加わり、昭和 40 年代の中ごろにはさまざまな演出が発明された。宴会
の余興であったケーキ入刀は、列席者が全員で乾杯することよりも、2 人がケーキにナイフ
を入れるほうが婚姻の成立の比喩(2 人で行う神前の誓杯や誓朗読を暗示するもの)として
自然であるとして、儀礼に昇格し、宴会(食事)のまえにウェディングケーキの入刀をす
るようになった。披露宴の進行も、①来賓お出迎えと来賓入場、②両家の両親入場、③新
郎新婦入場、④開会の辞、⑤媒酌人挨拶、⑥主賓挨拶、⑦ケーキカット、⑧乾杯、という
流れで進んでいくようになり、この後に開演の辞があり、宴がスタートするわけであるが、
開演までの①から⑧が披露宴の中の披露式と呼んでいる。
また、今日では定番となった宴の締めくくりを彩るセレモニー「両親への花束贈呈」も
誕生した。婚礼衣装はドレスに注目が集まり始め、お色直しの回数も増えた。その一方で、
地方には大人数で披露宴を行える施設が少なく、それに答えようと自治体を中心とした公
共会館ができ、冠婚葬祭互助会という組織が多くのチェーン化し、館内の神前式会場を複
数設ける専門式場も現れた。
1975 年代(昭和 50 年代)にはお色直し後の再入場にキャンドルサービス、ドライアイ
スといった演出もこの時代に普及したのである。また、演出効果を上げるためにはプロの
司会でないと勤まらないようになり、エレクトーンなどによる音楽も披露宴の節目に演奏
されるようになった。
このように披露宴の演出に豪華さが増すと同時に、1975 年(昭和 50 年)、京王プラザホ
テル(東京・新宿区)に教会式が登場した。たちどころに 60 組の予約が入り、ヒット商品
となった。また、1980 年代はホテル・専門式場での挙式、披露宴がトレンドであり、売り
手市場であったために、婚礼が集中し、限られた日に効率よくこなそうとすることで、画
一的な披露宴になっていた。また、パック商品も登場し始めた。
挙式・披露宴を取り巻く衣装・美容、引出物なども関連商品として定着し、婚礼施設の
中に、挙式場や衣装室・美容室・引出物コーナーなど、婚礼に必要とされる商品やサービ
ス・技術を結集することで、お客様の移動による負担をなくし、より効果が高く、利益性
のある日本独自の婚礼のシステムを作り上げ、ブライダル産業として定着した。また、1980
年、芸能人である山口百恵・三浦友和のゴールデンカップルの挙式が霊南坂教会(東京・
港区)であげられたのを機に、教会挙式ブームが起こったのである。
18
(3)バブル経済と崩壊による挙式・披露宴の返遷
1980 年代後半にはバブル経済を迎えた。個性的な階乗装飾や演出、婚礼料理にお金をか
けてでも、豪華で派手な披露宴を求めるカップル、いわゆる「ハデ婚派」のカップルが登
場する。シャンパンやワインビンテージ物の指定をしたり、スモークがたかれる中、ゴン
ドラに乗って新郎新婦が空中から登場したりするといった派手な演出をするなど、多額の
お金が使われた。
1989 年(平成元年)2 月、昭和天皇崩御に伴い、一般宴会の自粛ムードが高まった。お
祭りや企業のイベントなどの中止や規模縮小されるケースが相次いだ。引き続き 1990 年に
はバブルが崩壊し、企業倒産など社会にとって深刻な低迷をもたらした。その中、景気に
左右されにくい個人消費の婚礼ビジネスに、大・中・小問わず、ホテルがこぞってこのビ
ジネスに参入し、衣装・美容・写真・花などの関連企業もテナントとして入店、テナント
方式を積極的に導入したホテルは、ブライダル産業構築し、結婚式場業はブライダル産業
へと急成長していったのである。そのため、専門式場が独占していた結婚式場業は低迷し、
ホテルで挙式・披露宴を行う傾向が強まっていった。
このような流れにより、1990 年代には、ホテルウェディングを中心とした業界勢力図が
形成され、御三家と呼ばれた「帝国ホテル」
「ホテルオークラ」、
「ホテルニューオータニー」
や新御三家と呼ばれた「フォーシンズホテル椿山荘東京」、
「ウエスティンホテル東京」、
「パ
ークハイアット東京」や「京王プラザホテル」
、 ホテルセンチュリーハイアット」年間婚
礼件数 1000 組を超え、ブライダル業界をリードしていた。
一方で、1992 年には『結婚ぴあ』
、1993 年には『ゼクシィ』といったブライダル情報誌
が創刊されたことや、バブル崩壊により終身雇用制がくずれ、婚礼の決定権が親からカッ
プル主体に移行し、プライベートなイベントとして変化したことで、バブル経済時に現れ
た豪華で派手、仲人をたて、高砂殿を設ける画一的な婚礼から、多様化した婚礼スタイル
へと変化した。例えば、レストランウェディングやハワイを中心とした海外挙式、ブライ
ダルプロデュース会社の起業、オリジナルウェディングなど、これまでの習慣に染まらな
い新しいスタイルが市場に出回り始めたのである。また、挙式・披露宴をやらず、入籍の
みの「ジミ婚」も 1990 年代から増え始めた。
(4)現在の挙式・披露宴
第 2 次ベビーブーム世代が結婚適齢期を迎えた今日のスタイルは、挙式・披露宴をあげず
に、入籍だけで済ませるスタイルや、
「ウェディングス」、「ベストブライダル」、
「テイクア
ンド・ギヴニーズ」といったブライダルプロデュース会社各社などの関連企業の活躍によ
り、ごく小数の身内だけを集めた少人数制のウェディングや友人、知人を中心としたパー
ティーウェディング、リゾートウェディング、洋風の邸宅を貸しきったゲストハウスウェ
ディングなど大人数を招いた従来型よりもアットホームな感覚のある雰囲気とオリジナリ
ティーを重視するスタイルの傾向が強まっている。
19
このように、バブル経済全盛期とバブル崩壊、そして現在まで、挙式・披露宴のスタイ
ルは大きく変化している。経済的要因は言うまでもないが、社会的構造の改革により、伝
統に固執せず、多様化した考えを持つ若者が増えたことが大きく影響していると思う。そ
のため、今後、挙式・披露宴に対する顧客のニーズは年々高度になっていくと考えられる。
3.4 ブライダル業界における現状
―社会的影響と結婚観―
今日の少子化・未婚化・晩婚化
(1)少子化
日本の経済の今後を占うに際して、少子化は避けられない問題となっている。特にブラ
イダル産業において少子化の影響は少なくないと考えられる。
人口調査によれば、出生数は、270 万人を記録した 1949 年の第 1 次ベビーブームに期に
生まれた、いわゆる「団塊の世代」が結婚し、1970 年には結婚のピークを迎えた。婚姻数
は 190 万組以上にもなり、ブライダル業界発展の追い風となった。そして、この団塊の世
代が出産期に入った 1960 年代後半から 1970 年代前半に一時、出生が増加、1973 年の 209
万人をピークに第 2 次ベビーブーム(団塊ジュニア)を迎えた。しかし、それ以降は減少
傾向にあり、1985 年のほぼ 140 万人のレベルまで、毎年 5 万人ずつ減り続け、2000 年 119
万人、2001 年は 117 万人と減少してきた。2002 年は 115 万 6000 人と推計されている。合
計特殊出生率では、1960 年代以降 2.0 前後で推移していたが、1980 年 1.75、1990 年 1.54、
2000 年は 1.36、さらに 2001 年には 1.33 と減少傾向が続いており少子化は著しい。
(2)未婚化・晩婚化
一方、平均初婚年齢のほうは、徐々に高くなっており、1950 年には男性 25.9 歳、女性
23.0 歳だったものが、2001 年ではそれぞれ 29.0 歳、27.2 歳と男性より、女性の上昇が顕
著となっており、結婚を急がない晩婚化が進んでいる。
また、未婚率も年々高まっている。年齢層別にみると、1995 年から 2000 年にかけて 30
歳から 34 歳では男性は 37.3%から 42.9%へ、女性は 19.7%から 26.6%へと大幅に上昇し
ている。25 歳から 29 歳では、2000 年において男性の 69.3%、女性の 54.0%が未婚となっ
ている。このようにデータを見ていくと、近年、結婚しない未婚の人や結婚を遅らせる晩
婚の人が増えていることが、少子化の原因であることが少子化の原因であることが分かる。
それでは、なぜ未婚化や晩婚化が進んでいるのであろうか。内閣府『若年層の意識実態
調査』
(2003 年)によると、以下のことが未婚化、晩婚化の要因となっていると考えられて
いる。①自由に使えるお金が減る。②やりたいことが制限される。③結婚しなくても気楽
に暮らせるようになり、結婚へのインセンティブが低下した。
少子化の原因は未婚化・晩婚化の影響が大きく、この背景には、若年を取り巻く経済環
境の変化、結婚に対する意識の変化によるものと考えられる。
20
婚姻数は、
今後 4~5 年、
第 2 次ベビーブーム期に生まれた団塊ジュニア世代の結婚により、
現状を維持すると見られている。婚姻組数は 10 年後 2014 年には 60 万組を割り込み、57
万組まで落ち込むと予想され、このような状況の中で、対応策としてどのような戦略をと
るかが、今後の課題である。
第4章
ブライダルのメディアの影響
この章では 1~3 の章をふまえてメディアにからませていく。
4.1 多様化・細分化する挙式・披露宴の背景にある消費者
挙式・披露宴に対する消費者の意向からも分かるように、現在では多様化、細分化した
個性的な結婚式への志向が高まっている。このような要因として社会的要因そして、情報
社会がもたらしたサービスの多様化、例えば、ブライダル情報誌の存在や、インターネッ
トの普及がある。現在、ブライダルは『ゼクシィ』
『MISS Wedding』
、
『25ans ウェディン
グ』などの他に多様の定期販売誌があり、また、一般紙でも『Hanako』などの女性誌が年
間 1 ブライダル特集号を発行している。中でも、1993 年リクルート社から創刊された『ゼ
クシィ』の影響力は大きく、今日では北海道から九州まで全国を 11 地域に分け、各地で地
方版が刊行され、結婚を控えたカップルはどこにいてもフルカラーの情報誌を格安で入手
することが可能となっている。
一方、若い世代で急速に普及しているインターネットによるサービスも日々向上してい
る。結婚式関連の情報サイトでは、ブライダル関連事業者からの情報発信のみならず、口
コミ情報掲示板が設けられており、多くは女性によって情報交換が行われている。
このように、
「情報の普及」の裏にある通信の発達が、日本全国で多様化・細分化するブ
ライダル市場を形成したといっても過言ではない。一方で、このようなブライダルの多様
化の背景においてどのような意識が潜んでいるのだろうか。
まず、挙式・披露宴に際して何を重視するのについては、未婚女性のベスト 3 は「自分
の意向」、「結婚相手の意向」、「友人・知人との円滑な関係」であり、ついで「結婚する 2
人の家族・親族による認知」が高くなっている。
既婚・未婚を問わず、挙式披露宴の際に重視する対象として、
「自分・結婚相手」、
「友人・
知人」、
「家族・親族」の存在を上げる回答者が多かったということは、
① 二人の意向を重視し、
② 友人との絆を深め、
③ 結婚する二人の家族・親族による認知
これが、挙式・披露宴において不可欠な 3 つのポイントであると言うことを示している。
21
未婚女性の意識に既婚女性との差が最も現れたのは、結婚式を「結婚する二人の一生に
一度の晴れ舞台、祝ってもらえる場として」重視するか否か、という項目である。既婚女
性は 89.5%が「重視した」という回答したのに対し、未婚女性は 69.7%にとどまっている。
特に「自分の親の意向」への配慮については未婚・既婚の違いにとどまらず、既婚女性間
においても結婚年数が短い女性ほど「意識しない」割合が高くなっている。このことから、
挙式において「両親の意向」が与える影響が徐々に少なくなりつつあることが分かる。
これは、バブル崩壊後の社会構造の変革により、挙式・披露宴がプライベートなものへと
変化したことから、婚礼に関する主導権は親や周囲の人々ではなく、当事者に移ったから
であるといわれている。また、多様化を促進すら背景として「情報の普及」以上に無視で
きないのが、この挙式に対して影響力を持たなくなった「結婚当事者の親の変化」である。
4.2 メディアで使われている言葉
メディアで使われていることによって、世の中に出てきた言葉がある。その言葉と意味
をここで紹介していきたいと思う。
(1)ビビビ婚
松田聖子さんが 1988 年 5 月歯科医との再婚時の記者会見で発した一言に由来するもの。
交際 2 ヶ月という早さに、
「あった瞬間ビビビッときた!」とマスコミに回答。そんな彼女
のコメントから「ビビビ婚」という言葉が流行した。
(2)出来ちゃった婚(授かり婚、おめでた婚)
「できちゃった婚」とは子供ができてから籍を入れ正式に結婚することをいう。または結
婚する気のなかった 2 人が、子供ができたことをきっかけに結婚するというもの。
英語では、shotgun wedding(marriage)という。妊娠した娘の父親が相手に散弾銃を突
きつけて婚約を迫った事に由来する。
1996 年、元アイドル大沢樹生さん&女優喜多嶋舞さんが妊娠し、結婚報告した。記者か
ら「できちゃった結婚ですか?」と質問される。この言葉が、今の「できちゃった婚」の
最初であろうとされている。
1997 年、歌手安室奈美恵&ダンサーサムさんの「できちゃった婚」から、世の中では「で
きちゃった婚」が公となっていった。
また、2001 年夏に広末涼子主演の「できちゃった結婚」のドラマからもこの言葉が使
われるようになったと言える。
1990 年代後半より、様々な複合的要素により、婚前妊娠をきっかけとする結婚が急増し、
実態が徐々に世間にも認知され「できちゃった結婚」という名称が使われるようになった。
2000 年代入ってからは、一般的に定着した名称であるが、定着した要因として、深刻にな
ることなく「思いがけず」、「うっかり」、「びっくり」、「後ろめたい」、「観念」、「覚悟」な
22
どの気持ちを程よい具合に表せる利便性にあるともされている。若者の間では省略してで
き婚と呼ばれる場合がある。
否定的なニュアンスを含む言葉であるため、ブライダル業界の間ではこれを避け、妊娠
した事を表現する「おめでた」を用いたおめでた婚、子宝を授かるという意味から授かり
婚、などと呼称することもある。それ以外では、結婚・出産と二重の喜びを意味する「ダ
ブルハッピー」
(
『ゼクシィ』の用語)、ママ+マリッジ(marriage、結婚)から「ママリッ
ジ」
、妊婦姿での結婚式から「マタニティウェディング」など、様々な造語が考案されてい
るがいずれも一般には定着していない。
「ママリッジ」などの言葉からも判断されるように、
これらの造語は女性への配慮を主としたものである(「パパリッジ」という言葉は造語とし
ても用いられない)
。
ブライダル業界がイメージアップを図る一方で「できちゃった結婚」の持つ否定的な印
象は根強い。
産経新聞が 2005 年 6 月にインターネット上で行ったアンケートによれば 64%
が「風潮を受け入れられない」としている。肯定派も「中絶するよりはまし」「少子化傾向
にある中、結婚のきっかけになるなら」といった、消極的肯定、傍観的な意見が多く、積
極的に是とする意見は極少数である。
なお、主に 25 歳以上の男女で長期に同棲しているが諸処の事情により結婚していない場
合、妊娠をきっかけにして結婚に踏み切るケースが増えている。これも「できちゃった結
婚」に含まれるが男女が公認の仲である場合が多く、社会風潮として語られる場合には除
外されることが多い。
「出来ちゃった婚」というテレビドラマでも題材にされている。
(3)スピード婚
結婚式までに時間が無く急いで結婚式を挙げる事、または、その結婚式を指す。
(4)お見合い結婚
結婚相手を求めて、男女が第 3 者を仲人として会うこと。そして、お互いが気に入れば結
婚すること。
4.3 有名人の結婚式
有名人の結婚式で、日本の結婚式の様式をちょっとずつ変わってきている。下記の 3 組
の結婚式で変わってきているのではないかと考える。
(1)皇太子明仁親王の結婚
昭和 34 年(1959)4 月 10 日午前 10 時すぎ、皇居賢所で皇太子明仁親王(25)と正田美
智子さん(24)の結婚の儀がとり行われた。午後 2 時 30 分、皇居から渋谷常磐松の東宮仮
御所まで 8.9 キロ、皇太子夫妻を乗せた 6 頭立て馬車を中心としたパレードが出発した。賢
23
所での模様とパレードはテレビの実況中継で報道され、結婚のパフォーマンス性が若い男
女に新鮮な感動を与えた。
ご結婚を祝う宮中の祝宴は、4 月 13 日から 15 日までの 3 日間行われた。招待されたの
は皇族をはじめ国会議員、民間代表など全部で 3059 名。祝宴の献立は日本料理と日本酒で
一人前千円程度。招待客への引出物は、菊の紋章の入った銀製のボンボン入れと銅製の文
鎮。この披露宴の費用はしめて 1300 万円という。(当時の国家公務員の初任給 10200 円)
(2)石原裕次郎、北原三枝
昭和 35 年 12 月 2 日、東京日比谷の日活国際ホテルで、俳優の石原裕次郎と北原三枝が結
婚式を挙げた。午後 6 時より披露宴にうつり、400 名の招待客に詰めかけた報道陣は 120
社、240 名で、会場のシルバー・ルームはごったがえした。
新郎は黒のモーニング。新婦は角かくしに、金襴緞子という純日本風花嫁衣裳。メイン
テーブルの左には、3 日がかりで作られたという高さ 1 メートルのウェディング・ケーキ(時
価 7 万円)
、150 キロのシャチホコをデザインした氷柱一対が飾られた。メニューは 1 人前
6000 円の予算、400 人分で 240 万円という豪華さで話題を独占した。(当時の国家公務員
の初任給 12000 円)
(3)橋幸夫
昭和 46 年 1 月 26 日、歌手の橋幸夫が帝国ホテル内の神前結婚式場で挙式を行った。その
あとの披露宴の模様を当時の「女性セブン」は次のように報じている。「記者会見のあと 12
時 25 分に孔雀の間に入った。この日、橋、緒方両家の招待客は 1000 人余り。
(中略)披露
宴は、1 時から玉置宏の司会ではじまった。」媒酌人の型どおりのあいさつ、主賓の祝辞の
あと、ケーキカットであるが、そのとき部屋の明りが一斉に消え、それと同時に中央のド
アから 19 人の子供たちが手にローソクを持って、場内の各テーブルに火を点じていった。
そのあとスポットライトが、4 メートルのウェディングケーキを浮かび上がらせた。披露宴
の予算は 1 人 2 万円。衣裳などを含めると総額 5000 万円となる。新婚旅行はハワイ、その
あとロサンゼルス、アカプルコへ出発した。(当時の国家公務員の初任給 41400 円)
24
(4)2012 年に結婚した主な芸能人
2012 年に結婚・婚約した主な芸能人は以下のとおりである。
2012 年結婚・婚約した主な芸能人(ゼクシィ net)
稲本潤一・田中美保
HIRO・上戸彩
内村航平・一般女性
中田敦彦・福田萌
石川遼・一般女性
中澤裕子・一般男性
鎌田樹音・吉田美和(ドリカム)
小栗旬・山田優
大森南朋・小野ゆり子
TENN(ET-KING)
・上原多香子
赤西仁・黒木メイサ
田中将大・里田まい
しかし、これ以上に多かった年が 2007 年である
2007 年 結婚した芸能人
清水國明・事務所女性
ミッキー吉野・大内祥江
小梅太夫・一般女性
ダンサー・青木さやか
モンキッキー・山川恵里佳
斉藤ノブ(パーカッション奏者)
・夏木マリ
魔裟斗・矢沢心
西村拓郎(会社社長)
・神田うの
陣内智則・藤原紀香
ほっしゃん・管理栄養士
黒田アーサー・一般女性
TETSU(L'Arc~en~Ciel)
・酒井彩名
ローラン・グナシア・寺島しのぶ
阿部寛・一般女性
グラフィックアーティスト・宝生舞
鎧塚俊彦(パティシエ)
・川島なお美
森田泰道(インテリアデザイナー)
・大地真央
坂田亘・小池栄子
見栄晴・一般女性
元バンドマン・飯田香織
テレビ制作会社ディレクター・河合美智子
杉浦太陽・辻希美
村上てつや(ゴスペラーズ)
・一般女性
ダルビッシュ有・サエコ
高岡蒼甫・宮崎あおい
谷原章介・三宅恵美
YOH(オレンジレンジ)
・一般女性
蛭子能収・一般女性
梶原雄太(キングコング)
・園田未来子(元モデ
一般男性・佐藤藍子
ル)
一般男性・浅田好未(元パイレーツ)
井ノ原快彦(V6)
・瀬戸朝香
一般男性・喜多嶋舞
ヒデ(ペナルティ)
・一般女性
一般男性・矢井田瞳
ワッキー(ペナルティ)
・一般女性
吉田メタル(劇団☆新幹線)
・岩崎ひろみ
緒方博(監督)
・奈美悦子
塚本高史・一般女性
岡田太郎・田中美奈子
波多陽区・元保育士
博多大吉(博多華丸・大吉)
・一般女性
猫ひろし・一般女性
一般男性・細川ふみえ
一般男性・佐藤藍子
若旦那(湘南乃風)
・MINMI
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この中でも、陣内智則・藤原紀香の結婚式は全国でも話題になり大々的に 2007 年 5 月
30 日にテレビで放映された。
平均視聴率は 24.7%となった。また、大阪では 40%にもなったという。
また、婚姻届を提出する当日、マスコミに発表していなかったのにも関わらず、兵庫県
加古川市役所では沢山の報道陣がいた。
陣内智則と藤原紀香は「なんでー?(こんなに報道陣がいるのか)」と言いながら婚姻届
を提出していた。
何故、漏れたかというのは市長が陣内智則のお父さんと知り合いだからだそうだ。
陣内智則と藤原紀香が婚姻届を提出した席は「幸せの窓口」と名づけられた。
(5)各スポーツ紙、今年一番のスクープ(とくだね
アンケート 2007 年)
上記、下記のことから、2007 年に結婚した芸能人が多かったということと、スポーツ紙が
結婚に注目していたといえる。
日刊スポーツ
小池栄子・坂田亘 結婚
スポーツニッポン
ダルビッシュ有・サエコ
サンケイスポーツ
川島なおみ 結婚
東京中日スポーツ
市川右近 結婚
東京スポーツ
沢尻エリカ母
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妊娠&結婚
インタビュー
結論
結婚式とメディアとの関連を調べて明らかになったことがある。
(表 1)
大正天皇の結婚式までは、妻問婚、嫁入り婚、家庭婚式、儀式やしきたりによって結婚
式は行われていた。当時の新郎・新婦は決して結婚式で楽しむものだという考えは一切な
かった。1920 年(大正 9 年)2 月号の「主婦の友」ではこう書かれている。
『新郎新婦には、
少しも関係もないのに、親の役所の友人などまで招き集めて、お酒やお料理や御飯などま
でも出す(中略)自分たちの祝ひだか人様のお喜びだか殆ど分からないやうな、披露の宴
席で苦しめられ、花嫁は未だその上に色直しとか何んとかいふので、お人形か見せ物かの
やうに、二度も三度も化粧をを仕直したり、着物を着更へさせられたりして、酔っぱらい
などの前に引張り出されなければなりません』
このような結婚式からどのようにして今のような結婚式になったのか、その流れを書い
ていく。
まずは、大正天皇の神前式から始まった。この頃は、テレビなどない時代だったがプロ
パガンダ(宣伝)で広まったと考える。神前式が大正天皇によって完成された式として広
く知られるようになる。
次に昭和天皇の結婚式である。この時、この結婚パレードを見るためにテレビを買った
という家庭が多かったようだ。この昭和天皇の結婚式は 3 日間も行われ、日本に影響をも
たらしたのは確実といっても過言ではない。
その後、昭和 35 年、石原裕次郎の結婚式では、1 メートルのウェディングケーキで世間
を驚かせた。そのケーキは当時 7 万円相当である。その時の国家公務員の初任給が 1 万 2
千円なので、今でいう約 130 万円くらいであろう。この結婚式あたりから、ホテルで結婚
式を行うことが主流となっていった。
そして、山口百恵の結婚式では教会スタイルで結婚式を行った。この結婚式で教会での
挙式が脚光をあびた。
松田聖子と神田正輝の結婚式では、教会挙式とホテルでの披露宴を行った。ゲストは 530
人、ウェディングケーキ 5.5 メートルとバブル期のハデ婚と言われていた。
郷ひろみの結婚式では、媒酌人なし、新婦の手作りケーキ、ガーデン披露パーティーと
かなり個別化した結婚式を行った。
森進一・昌子の結婚式では 5 億円の結婚式を行い、当時の芸能人の結婚費用 No,1 といわ
れていた。
この芸能人の結婚式によって、日本の結婚式や結婚式に対しての一般人の目が変わって
いき世の中に個別化のスタイルを浸透させていった。
その後、できちゃった結婚で結婚する芸能人が増加する。それをメディアでは大きく取り
上げ、報道した。
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表 1 「今までの結婚式の背景」
結婚式の様式
有名人の結婚式
神前式
大正天皇(明治 33 年)
メディア
プロパガンダ(宣伝)
国家神道
披露宴スタイル
ホテル
昭和天皇(昭和 34 年)
石原裕次郎(昭和 35 年)
週刊誌
橋幸夫(昭和 46 年)
テレビ
山口百恵(昭和 55 年)
教会スタイル&ホテル
松田聖子(昭和 60 年)
⇓
郷ひろみ(昭和 62 年)
森進一・昌子(昭和 62 年)
⇓
⇓
現在
現在
個別化
小栗旬・山田優
(できちゃった結婚の増加)
(平成 24 年)
現在
ゼクシィ・結婚ぴあ
インターネット・旅行会社
現在の結婚式までの流れをまとめたら、図 1 のようになった。
例として、できちゃった結婚が増加している。できちゃった結婚の初期は安室奈美恵や
木村拓哉がいる。すこし前にはでは辻希美(モーニング娘)やサエコが報道されている。
できちゃった結婚は、メディアが大きく報道している。その背景で、できちゃった結婚
が許容されつつある。また、結婚式は新郎新婦の好きなようにしてもいいというスタイル
になり(個別化)
、結婚式を行わないスタイルが増えている。
現在、結婚式の情報収集は 3 パターンに分けられていると考える。
一つ目は、雑誌である。ゼクシィは結婚式を行う新婦がかなり利用しているようだ。ペ
ージ数は他の雑誌と比べてかなりの量で、広告だけでほとんどを占めている。
二つ目は、インターネットである。検索するだけでも、沢山のホームページが出てくる。
そこで、利用場所やスタイルなども絞っていけるので、家でもどのような結婚式にするの
かを計画することができる。
三つ目は、旅行会社である。旅行会社に行くだけで、全てセッティングしてくれるとい
うお手軽さが人気なようだ。それだけではなく、海外での挙式ということで二人だけで挙
げるという点や親戚などの煩わしさがない点で人気なようだ。旅行会社としても全て任せ
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られるのでブライダル産業としては上手くいっているようだ。
この 3 パターンでブライダル産業は成り立っているのではないだろうか。
図 1 「現在の結婚式までの流れ」
ライフスタイルの変化
<例>できちゃった結婚
増加
ex)安室奈美恵
木村拓哉
結婚式≠結婚
メディアの影
許容
結婚式をやらない
ブライダル産業の危機
雑誌
インターネット
旅行会社
ゼクシィ
情報収集
芸能人の海外挙式の影響
↓
↓
情報収集
一般人が関心を持つ
↓
海外挙式の増加
見学&ウェディングプランナーに相談
結婚式
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先日、友人の結婚式に行ってきた。その時に感じたことなどをいくつか紹介する。
少子化の影響や未婚化の影響で、一時期よりは結婚式を行うカップルが減っていること
は知っていた。そのせいなのか、チャペルのカーテンが式の途中、自動で開いたり、生の
ゴスペルやピアノ演奏であったり、披露宴会場は窓からの景色はまるでリゾート地にいる
かのようにであったり、工夫を重ねているようだ。なにか少し変えないと、ブライダル産
業として成り立たないのであろう。
結婚式は昔からメディアと関係していることが分かる。これからも、メディアで影響さ
れながら、時には驚かされる挙式をメディアで知り、人々は結婚式を行っていくであろう。
<誓いのキス>
<披露宴のテーブル>
<キャンドルサービスならぬビールサービス>
完
就職活動をしながらの 1 人での卒業論文の作成は大変でした。なんとかまとめることは
できましたが、実際にプランナーさんなどに質問してみたかったです。あと、全然ゼミに
参加できなかったことが残念です。
ありがとうございました。
兼子 由香理
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