日本仏教史の深層

日本仏教史の深層
仏教出雲に伝来
編集
大義の府
日 本 義 塾
新村 紘宇二
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仏教・出雲に伝来
大国主神=継体天王説入門
目 次
第1章
はじめに
(出雲海岸に北燕国の王とその民が辿りつきました。)
ふう
第2章
こう
馮 弘とその民
ふう
こう
(仏教徒であつた北燕国の天王 馮 弘のことを中心に)
ふう
こう
第3章
馮 弘の墓と藤ノ木古墳
(考古資料をもとに裏付けをしていきます)
第4章
虚像の時代・スサノオと五十猛神
(紀・記出雲神話のモデルになつたのはだれか)
第5章
日本列島・仏教帰依者の広がり
(紀の宗教記事の年月に故意の誤りがある)
第6章
倭国豪族分裂と騎馬民族の上陸
(日本の宗教戦争始まる、仏教遠征軍の援助を受ける出雲)
第7章
虚像の時代・国引き物語と大国主神
(国引きとは・・・、出雲神話大国主のモデルはだれだ)
第8章
列島の宗教戦争(継体天王の戦い)(1)(2)
(継体天王の進撃路を資料から尋ねる)
第9章
継体大和に進撃(神武東征説話と類似する)
(複数学者の説を畿内の氏族分布から検証してみます)
第 10 章 継体即位と「鶏林国、任那から独立新羅襲名」
(継体の征服が半島に激動を与えた)
第 11 章 531年クーデターと国譲り物語
(継体朝の崩壊と欽明紀の国譲り、出雲族の処遇)
第 12 章 仏教に貢献した氏族たちのその後
(壬申の乱など、大伴氏と出雲族の活躍と衰退)
巻末付録
古代謎解きキーワード「三面相の公式」
(継体・大国主・神武は同一人物、継体が実像他は虚像)
(この公式から何が分かるか? 例として、古代氏族・多氏の謎を解く)
付表
第一表
第二表
第三表
第四表
古代銅鋺類の所在と年代
双竜(単竜・獅噛)環頭太刀・双魚佩出土地
列島の壁画古墳(帰化渡来人の遺跡)
日本列島に居住する帰化高句麗氏族の代表的な氏族名
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第1章
はじめに。
日本書紀の隠したいこと。仏教徒の渡来
むかし、ある人物が自分の民を連れて、朝鮮半島経由海を越えて日本列島にやってきました。そ
して上陸されたのは山陰地方・出雲の海岸でした。昔の港は川の河口でしたから、その人物も出雲
の海岸に流でる簸の川(ひのかわ)の河口に着き、一息ついたのかもしれません。
前後して到着した船団には、はるか遠い中国の地から付き従った彼の息子やのちに新漢人と呼ば
れる「鞍作」・「衣縫い」などの民達・また途中立寄り、保護を受けた高句麗国の長寿王が、彼の
ため護衛に付けた兵たちが乗船していました。
列島にくるのが目的だつたのか、それとも南中国に渡ろうとしながらもなにかの手違いで、たま
たま出雲の海岸に着いてしまったのか判断が迷うところです。それというのも実は故郷を一緒に出
発した彼の親族が途中離れて、南中国の宗という国へ行きその保護を得て栄え、その子孫が奈良時
代に日本の仏教界に大きな貢献をすることになるからです。
中国僧「願真和上」の渡海に尽力する彼の親族の後裔の話やそこにでてくる日本人名の話は、す
でに有名で学者の研究もあります。だから、どこかで意図的に分離したのではなく、混乱の中で親
族がばらばらに別れて日本・南中国とそれぞれの道をたどつたというべきでしょう。南中国に渡っ
た人々とは、お互いの安否を気遣いながらも日本の海岸に上陸した後は、当面自らの安全を計らな
くてはなりません。
当時出雲は倭国という国に属し、仏教徒である彼らとは異なった宗教をもつていました。そんな
異なった文化の中に突然入り込んだのですから危険な状態を想像しなくてはなりません。人口希薄
な出雲海岸だといえ、大勢の人間の上陸はたちまち付近住民の騒ぎとなりました。
早速通報によって、出雲警備の豪族やさらには大和朝廷に報告されたことでしょう。
倭国を治める王は大王という王号で呼ばれ、大和(いまの奈良県)に都していたのです。
倭国大王は外国人たちが集団で出雲海岸に上陸したとの報告を受け、直ちに倭国の軍事組織である
大伴・物部の軍隊を出動させたのです。
出雲の海岸で、この集団と倭国の軍隊が戦いをしたのかどうかは分かりませんが、倭国の軍勢が
出雲地方に進駐したことは付近に祭祀される物部神社や天太玉命神社(大伴系)など、倭国大豪族氏
神の存在によつて想像することができます。むかしは軍事行動をする場合、氏神を祭祀する神社を
建てるということがおこなわれていたのです。
これにたいして、出雲に上陸した人々は大きな抵抗をすることなくただ逃げ回ったのでしょう。
彼らは仏教徒でした。自国を放棄し放浪の旅にでたのも仏教の教えに従って殺生を嫌い戦争を放棄
したことにあります。平和主義の人々であったからこそ、国を捨てはるか東海の国に辿り付いたの
です。だから戦いを避けて川の上流へ、山の中へと逃げ込んだことでしよう。
簸の川上流の須佐盆地は険阻な道に阻まれ、軍勢の進撃を避けるに適した場所であることは一度
足を運んでいただけると容易に理解できます。彼らはやつとの思いで、この須佐の地に逃げ込んで
きました。その間に護衛の高句麗兵たちが若干の抵抗をしたかもしれませんが受身の姿勢を崩さな
かったのではないかと思われます。
しかし、事態は急速に収まりました。彼は中国を離れる時から持参した数々の宝物やこの国にな
かつた桂甲といわれる新しい鎧などを倭国大王に献上し、さらに精巧な彫金技術や美しい絹織物の
製作技術をもつた民たちを率いてきたことを申し出て「その技術を役立てて欲しい」と、この国の
大王に入国することを求めたのです。
華美な宝剣や透かし彫りのついた王冠・金製飾り付きの耳環・今まで見たことのない美しく飾ら
れた鞍や彫金の馬具は中国の加工技術で作られ、実用だけの馬具しか持っていなかった倭国豪族た
ちの心を動かしました。
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もとより、主要な倭国豪族にもさまざまな馬具であるとか、桂甲・耳飾りなどが贈られたでしょ
うし、そのような贈り物に弱いのは世の常でしたから彼らの入国は倭国大王から認められたでした。
一応、彼の民たちは物部軍の監視下に連行され、跡部郷(河内国渋川郡)に安置されました。この
地は物部氏の本拠地とされる所で捕虜収容所か難民収容所みたいなところだつたのでしょう。
-【死ぬ者が多かった】-(書紀・雄略紀)と後に記録されています。
難民収容所での苛酷な生活から自分の民を救い出し、平穏な帰化の道に就けるための働きかけが行
われました。大和を訪れ、倭国大王に直接逢つて「この国を奪うようなことはしない。」と誓約し
た彼は生涯この誓を守り通したのです。
彼の名前を明らかにしておきましょう。馮 弘(ふう・こう)という名でなんと中国北部の国、
北燕国の王様だった人物では・・と考えられます。
(奈良県橿原市新沢千塚古墳群 126 号墳からは、馮弘の伯父馮素弗の墓や馮一族の墓
(房身村 2 号墓)から出土した冠帽飾りに酷似した純金形板が出土しています。詳細は後述)
お連れになった王子は馮王仁といわれる方で、その他大勢の民・新漢人といわれる人々をつれて
上陸して来たのでした。後に日本国の仏教に多大の貢献をする人達で、五世紀中頃と推測される渡
来時にはおそらく仏像や仏舎利・仏図・仏具それに仏経典を持参していたのだろうと思われます。
ところで、日本の歴史書である日本書紀や古事記に彼らの来朝の話が書いているのやら、書いて
いないのやらよく分からないのです。書いていないのではなくて、実は出雲神話の中に出てくるス
サノオ(須佐の男)というのがどうもそれらしい。これから本書を読んでいくうちに、なぜ馮 弘の
来朝やその子たちの行跡が歴史の場から神話の中に移動し、新漢人と分離されているのかがだんだ
んと分かるようになるでしょう。
日本書紀が隠したいのは、「仏教の到来時期」でした。仏教が到来したことによって日本列島の
中では古来の宗教を守ろうとする人たちと仏教に帰依した人たちの間で宗教戦争が起こります。
そして倭国という国が滅亡して日本という国に変わったこと、それは 7 世紀後半の大和政権にとつ
て明らかにすることが出来ないことでした。
仏教伝来は古い時代から新しい時代に移して、日本列島で起きた宗教戦争を隠そうとしたのです。
だから書紀に書かれている仏教関係記事の年月は信用できません。逆に馮弘とその一族の話は現実
の歴史から神話の世界に移し、全体像を隠そうとしたのでした。出雲神話に仕立てたのです。
虚構の神話・出雲神話
もともと神話というものは時代をこえて伝えられていく間に、短い素朴なものと変わっていくの
でしょう。多くの神話がそれぞれに存在し、お互いに関わることはないのが普通です。ところが出
雲神話は違いました。スサノオ一族の伝記といつて良いものです。スサノオ・大国主神・事代主神
さらに続いて神武朝四代の奥方にまで及んでいました。こんな話は、神話ではありません。歴史で
はありませんか。
出雲神話の中には、神様の系譜が逐一書いてあります。それが出雲神話の大きな特徴です。だれ
が神様の名前を記録していたのでしょうか。古い時代の出来事と装うために、系譜を作ったとしか
思えません。神話といわれると何か歴史時代とは違う時代のような印象を受けますが、古事記や日
本書紀に書いている神話はどれもせいぜい弥生時代や古墳時代のお話なのです。
スサノオさんのお話も古墳時代のお話でしょう。年代を示すヒントはいろいろあります。
〇「新羅経由で出雲に来た」。
倭国王卑弥呼の時代、朝鮮半島は三韓が居ました。三韓が魏と諍いを起こし滅亡した後、魏の勢
力が衰える四世紀になつて「高句麗」が半島に進出し、「百済」や「古新羅」が国を起こしてくる
のですから、新羅という言葉で年代が四世紀以後の話と分かるのです。
〇「出雲神話に大年神の子神「竈の神」」がいらつしゃる。
日本列島に竈が入ってくるのは五世紀以後なのです。
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〇「大国主段に出てくる「乗馬姿の神」や「平定」といつた言葉は古い時代のことではありません。
竈や馬具がこの国に出現してくるのはすべて五世紀前後の古墳時代中期以後なのです。大国主がこ
の国を平定したということを神話の中でいっていますが、日本列島が平定の姿をとるのは古墳時代
前期の四世紀中頃以降のことで、その時代は倭国の卑弥呼やその後継者が政治を執っていました。
それ以前は平定などされていません。考古学で証明できます。だから出雲神話はそれよりも以前の
話ではないのでした。そんなに古い話ではないということなのです。
・倭国紀の神話と結合させた出雲神話は「日本紀の先頭部分」
日本列島の歴史書は日本書紀と古事記です。この日本書紀の正式名称は「日本紀」でした。(続
日本紀より)日本国の前に、倭国という国が存在していましたから、とうぜんこの日本紀の前に倭
国の歴史書である「倭国紀」がなくてはなりません。
それはあつたのでしょう。
-【書紀皇極紀 4 年 6 月 13 日、蘇我臣蝦夷らは、誅殺されるにあたつて、天皇記・国記および
珍宝をことごとく焼いた。船史恵尺(えさか)は、すばやく焼かれようとする国記を取り出して中
大兄にたてまつった。】-と書いていますし、古事記には-【天武天皇の言葉として、「私が聞く
ところによると、諸家で承け伝え持っている帝紀(王の亊績)と旧辞(王室に伝わる物語)は、す
でに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。」だからこれを正して後世に伝えよう。】
-とおつしゃつたことが編纂の動機となつていました。
皇極紀にある「国記」や天武天皇の代、「諸家で承け伝え持っている帝紀と旧辞」が倭国の歴史
書である「倭国紀」であつたのかも知れません。そんな記録類は後世のために残してほしかったも
のです。一切残さなかったのは記録の抹殺に他なりません。一方で、書紀に日本という言葉がでて
くるのは、雄略紀以後で「天王」という宗教色の強い王号とともに出現してきました。
だからこの大王の時代に、「日本国」の胎動があつたと思われます。倭国と日本国がいつ、交代
したのか。どのように倭国が崩壊していったのか。どの大王の時代に倭国が滅亡したのか。新しい
国家となつた日本国の王はだれだつたのか。歴史書は書いていません。倭国大王の血筋が続いてい
るように装うため、
「倭国紀」を抹殺し、倭国と日本国の歴史を一つの書に編纂してしまいました。
最初にもつていけば、途中で血統が絶えたことを隠すことが出来ます。日本国の歴史の先頭部分
を出雲神話に仕立て倭国の神話に併合しました。2 カ国の歴史を編纂して一つの歴史書にすること
は他国にも例があります。朝鮮半島の新羅本紀なども、北の古新羅(穢人の国・都は元山の近く)
と南の新羅(倭人の王の血統を持つ国・都は慶州)との歴史混在がありますが、おおむね紀年毎に
書かれているでしょう。
ところが紀記においては、「日本紀の先頭部分」を古い方に移動、「出雲神話として、倭国紀の
上にオーバーラツプしてしまつた。」本来は紀年順に倭国の歴史があつて、それから日本国の歴史
が続くのがほんとうだつたのに年代を無視してしまいました。そして倭国の神話と出雲神話とを結
合したのです。出雲神は渡来人なのに、その子の大国主神は国ッ神だとしました。おかしな話です。
始祖伝説の神武天皇の正妃ヒメタタライスズヒメ(亊代主命の娘)をはじめ、初期天皇四代紀に
閨閥として出雲氏族のヒメたちが婚姻をしています。それは本当のことではないでしょう。神話同
士の結合の産物だといえます。まやかしの話がが後世に創られました。直木孝次郎氏は天皇家と亊
代主神の娘が婚姻することに「歴史的事実ではない」が「出雲氏族と天皇家との結び付きの時期は
別に考えなくてはならない」と述べています。
つまり古い方向に引き伸ばされた歴史は元の位置に戻して、倭国紀そして日本紀が続き、その日
本紀の歴史の中で考えるべきことなのでした。紀・記はなぜこんな書き方をしたのか。隠したいこ
とが多かったからそのようにしたのです。前項であげた仏教徒の渡来はぜひとも隠したいことでし
た。なぜなら、彼らによって仏教の種子が播かれて、列島にじょじょに広がり宗教に帰依した豪族
と古来の宗教を守ろうとする豪族との争いになつたからです。
出雲に来られた貴人は、「この国を奪うつもりはない」と誓約されましたが、この方の子は、
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大国主(天皇位)となつて結果的にこの国を平定されました。 紀記に書かれている出雲神は、古
い時代に持って行かれたけれど、実は五世紀後半の「日本国建設」にあたった人々だつたのです。
出雲風土記では出雲郡杵築郡条に次ぎのように述べていました。-【八束水臣津野命の国引きを
された後、大穴持命の宮を造営申し上げようとして多くの神々がその社地に集まって宮を築かれ
た。】-と。大穴持命は大国主神の別名ですが、ここには八十神から迫害される姿はなく、逆に多
くの神々から支持されている大国主神の姿があります。
これが日本国の誕生だろうと考えます。原日本国は出雲に存在しました。そして、その時期は国
引き後だと明記されています。本書では「国引き」がどんな行為であるかを明らかにしていきまし
ょう。
日本もと小国、倭国を併せり
中国史には「日本もと小国、倭国を併せり」と書かれていますが、なぜ小国が倭国という大きな
国を征服できたのか、それには倭国豪族を二分するような大きな力が働いたと思います。その力が
仏教の伝来によるものだつたから、仏教の伝来時期は隠す必要がありました。倭国豪族の分裂がこ
の時代にあつて倭国という古来の国家が崩壊し、新しい日本国になつたことを隠したいと思ったか
らです。
大国主神=継体天王説について
五世紀の歴史を古い時代の出来事と装うために神話に仕立てたのでした。神話の中で、大国主神
は八十神を追い払い退けた後に「出雲より倭国にのぼる」と古事記に書かれています。倭国の都で
ある大和に遷都して政治を執ろうとする大国主は、倭国の正当な継承者ではなく征服者でした。
「こ
の征服者・大国主神は歴史上では継体天王である。」と考えました。
倭国の立場としてみると征服者であつたでしょう。しかし日本国の立場からみると東方浄土の国
に仏教を広めるためには戦争を行う以外道がなかったのかもしれません。倭国の通史として倭国の
誕生から滅亡までを書いた前著「倭国物語」の中では十分な紙幅がなく、あまりこの説を詳しく書
けなかったと思います。だから今回の「仏教、出雲に伝来」は、時代を限定し継体天王のお生まれ
になった五世紀中ごろから六世紀前半までの話しに限っています。
神話がでてきますが、古く装っているのは紀記の故意の誤りでした。出雲神話は五世紀中ごろか
らの事績です。そして倭国の歴史の後に、日本国の歴史が続くのが正しい。さあ、出雲神話を元の
姿に戻していくこととしましょう。大国主神=継体天王説を人に話す時によく理解されない理由は、
史実の人物(モデルになった人物)が知られていないことが原因。だから本書ではモデルを先に書
き、理解していただいたあとに虚像を対比させることにします。
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第2章
「馮 弘」の渡来
日本列島では五世紀中頃北燕国天王馮弘らしき人物が来朝して、その後の末頃に豪族同志の戦い
があり、多くの倭国豪族が滅亡し、それまであつた倭国が崩壊して日本国になりました。日本書紀
は倭国がいつ滅亡したか、大王から天王にいつ王号を変更したのかまったく書いていません。神武
の時代から連綿として一系の王族が続いているように装っています。
なんどかの王朝の変遷があつたのが真実の歴史でした。この本の中では倭国が倒壊し、日本国に
変わる様相が次第に明らかになると思います。この遠因となつたのは倭国に仏教が到来して、仏教
に帰依した豪族と列島固有の宗教を支持する豪族との争い(宗教戦争)が起きたからです。そしてそ
の戦争に勝利したのは継体天王というお方でした。
馮弘さんや新漢人といわれる人々が仏教をもつてこの国においでになつたのが、始まりだつた
のです。この章ではその原因を作った馮弘さんとはどんな方であつたのか、中国の仏教伝来や
天王号の由来など、仏教のことと馮弘のことを中心にお話します。
中国へ仏教と天王号が伝来した。
紀元前 400 年ごろ、インド、ヒマラヤ山麓の小部族サクヤ(釈迦)族の王子であつたゴータマ・
ブッタが修行の末に悟りを得て、行った宗教活動が仏教の始まりといわれています。最初は修行を
することにより、私欲を捨て悟りを得て仏を目指す自己修行を中心とした宗教でしたが、それだけ
ではなく、他人に仏の功徳を与える大乗仏教の思想が起こると宗教の輪がだんだんと広がっていき
ました。
その過程でより大衆に受け入れられるための「極楽・地獄などの考え」や「宗教を迫害する悪魔
の存在」であるとか、「それに対抗して仏教を守護する天王や神将」が、仏教の中に取り入れら
れていつたのです。ブツタの祇園精舎(寺院のこと)の守り神は牛頭天王とされました。この方は
インド須弥山(しゅみせん)山腹豊饒国武塔天王の太子、頭に三尺の牛頭があつたとされ、長じて
王位につき波利采女(はりさめ)を妻として八王子を産んだという。
牛頭天王や八王子は古代インド宗教の伝統的な守護神でしたが、のちに仏教に執り入れられまし
た。仏教が広がるにつれ守護神は四天王・十ニ天王さらには三十ニ天王と拡大していきます。この
牛頭天王や八王子および天王(てんのう)という王号が仏教に関係する言葉であることはここで認
識しておきましょう。日本列島に仏教が伝来したときに経典とともに天王号も入ってきたと思われ
るからです。(日本書紀にに天王号が見えたのは、雄略紀五年条・二十三年条。)
ところで、インドに発生した仏教が中国に伝来したのは古く、前漢哀帝元寿元年(前2)のこと、
長安を訪れた大月氏国王の使者伊存から博士弟子景廬に[浮屠経(仏経)を口授した]という
「魏略西戎伝」の記事が最初の記録といわれています。以後、後漢末の恒帝(147~167)の時代
になると安世高らによる経典漢訳が始まり、ようやく中国人の間に新しい外来宗教として現世の社
会不安を無くし、未来に希望を与える宗教として浸透してきました。
-【ブツタの慈悲による一切衆生の救済を強調する】-
仏教の教えは、戦乱の続く後漢末に、支配体制が動揺し、それまでの国教であつた儒教の既成価
値観がゆらぐことに応ずるように、大衆の心の中に入り込んでいきます。さらに五胡十六国とよば
れる北方異民族国家が華北を支配する時代が来ると、従来の儒教の代わりに仏教をもつて支配体制
をつくるという目的に利用され、異民族支配という大きな社会変動を緩和する手段となりました。
もともと仏教は、ブツタの「唯我独尊」をもつて、仏がこの世における最高位の地位にあり、王
は下位にあつて仏法の保護にあたる「教主王従」の教えであり、北方民族が漢民族を支配すると
いう異民族支配下で、民衆は仏によって導かれ、王は自ら仏教の守護者を意味する天王(てんのう)
号を称えていつたのです。
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天王号
313年それまでの統一国家であつた晋が亡び南方に去ると、中国北部は天王号をもつた王に支
配されました。その最初の例は匈奴人きん準(革へんに斤)で漢天王を号し、引き続き羯族人石勒
の趙天王(328)・石虎の居摂趙天王(333)、西部地域から起こったてい族(氏の下に横棒)
符建の大秦天王(天王大単于)・符堅の大秦天王などなど、天王号は北方民族の好んで使った君主
名であつたのです。
趙天王と名乗った羯族人石勒(趙の初代高祖)は、西域出身の僧仏図澄(?~348)を大和尚と
して尊崇し、居摂趙天王石虎(石勒の子)は、また仏図澄に帰依し、建武元年(335)漢人の出家
を公許したといいます。このようして仏教をもつて国家体制を強化し漢民族を統制していきました。
さて、年月を経て漢民族を統制することが可能になった後では、最初の「教主王従」の考えから宗
教を国家目的遂行のためにのみ利用する、「王主教従」に変化を求められるようなります。
民衆をバツクに王を軽んずる僧侶が現れることもあつたでしょう。国家としては王権に奉仕し、
そして祖先崇拝に限定した宗教を求めるようになりました。天王号の消滅です。436年北魏によ
つて、追われた北燕国天王 馮弘を最後に天王号は中国から消えました。
そして大延五年(439)華北を統一した北魏の太武帝は、皇帝と名乗り、444 年から大規模な廃
仏を行いました。七年間に及ぶ中国仏教がうけた苛烈な大弾圧の後、復仏令が発せられましたが、
そこでは仏法の王への帰一が重要視されて、仏教は皇帝崇拝と鎮護国家を祈念する教団へと変貌し
ていきました。それとともに仏教保護者を意味する天王号も中国から消えていつたのです。
最後の天王号 馮 弘
中国最後の天王号をもつ馮 弘は北燕国の王様でした。日本列島の政治体制に大きな影響を与え
ることになったこの人物はどんな方でしょうか、また燕国とは何処にあつた国なのでしょうか。
四世紀初め、中国北部はそれまでの漢族による政治体制が終り、北方民族が乱入して国を作る状態
になると、それまで中国国境北部にいた鮮卑族も中原の地をめざし、遼東半島付近から南下して来
ます。
まず鮮卑族の慕容氏が337年に華北東部に燕国を作りました。昔から燕と呼ばれる地域に基盤
をもち、国を作つたのは、この時代五カ国もあるので区別するため人々は最初に慕容氏によつて作
られた国を前燕国と呼んでいます。この前燕国は北方民族同士相争うなかで大秦天王符堅に滅ぼさ
れ、中国北部は一時符堅によつて統一された時期があります。
符堅は勢いに乗じて南の漢人国・東晋に攻め込みましたが、そこで思わぬ大敗を喫してしまいまし
た。命からがら北に向かって戦場を離脱する符堅を助け、守護したのは符堅によつて滅亡され、一
部将となつていた前燕国の慕容垂です。
-【いまこそ、手中にある符堅を殺し、滅ぼされた燕国の復讐をすると共に、中原を支配する絶
好の機会ですぞ】-幕僚たちの進言を退けて垂はこのようにいいました。
-【わたくしに中原の地を征する力はない。ただ東部の地に祖業を復することが希みなのだ】-
慕容垂のお陰で窮地を脱し洛陽についた符堅に、垂は願い出ます。
-【この度の長征により北方の民族に動揺の兆があります。これを鎮める
ためと併せて祖先の墓参りをいたしたい。】-
符堅の武将たちや幕僚たちの【鷹を放つようなものだ】という反対の声を押さえ、符堅は垂が二
度と帰って来ないことを知りながらこれを許しました。このようにして、慕容垂は燕国を再び華北
東部に復興するのですが、この燕国を後燕国と呼びます。北方騎馬民族の王たちの仁義に厚くその
英雄ぶりを中国史書は率直に書いていますが、ここで注目して頂きたいのは前後の燕国が華北東部
の地を根拠地にしていたということです。
山東半島の土地の神である兵主神が日本列島に渡来してくることや、出雲に数多くある「韓国イダ
テ神社」の祭神は、華北に起因する兵主神といわれていること。この神が日本に来るのは、燕国と
の関係があるからではないかという状況証拠になるものです。それはまた北燕国天王馮弘の上陸地
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点の特定になるものでしょう。詳しくは後で述べることにします。
さて義理・人情の厚い慕容垂の作った後燕国も、息子の宝の時代になると同じ鮮卑族拓跋部の国北
魏に圧迫され、都の中山(河北省)を捨て竜城(遼寧省)へと逃げ出さなくてはなりませんでした。
397 年のことです。
竜城は遼寧省朝陽というところにありました。慕容宝からその養子となっていた高句麗氏族出身
の慕容雲、さらに政権を引き継いだ漢人馮跋(北燕国初代天王409~430)、馮弘(在位43
0~436)と朝陽の竜城を首都にしていたのでした。人々は漢人の燕国を区別して北燕国と呼び
ます。この国名も首都の地名も日本列島・藤ノ木古墳の出土品に関連して出てきますので覚えてお
いてください。北燕国は日本とは縁の深い国なのです。
北燕国天王馮弘とその民、国を捨てる。
中国北部の覇者・北魏にとつて、統一の妨げとなっているのは、漢人国の北燕国だけになつてい
ました。鮮卑族の国・後燕国を簒奪して漢人が北燕国を作ったことも、鮮卑族北魏としては我慢が
できないことでしたし、馮 弘が仏教に帰依し殺生を嫌い、平和主義者であつたことが北魏の侮り
をうけることなつたともいえます。
三国史記・高句麗本紀には 435 年条に
-【魏軍がしばしば燕を討伐し、燕は日々に危なくなった。】-
さらに燕王の馮弘が「もし事態が急迫するようなら、東方にゆき、高句麗にたよつて、再起をは
かるように。」といつて、ひそかに尚書の陽伊を派遣して(自分たちを)わが国(高句麗)に迎え入れ
ることを申しでた。」と書いています。
馮弘が外交努力を怠っていたのでありません。燕王は使者を魏に派遣して朝貢をし、侍子(魏王
に近侍する子弟)を送りたいと申し出ました。魏王はこれを許さなかったといいます。北魏国は基
本的に他国の近侍や姫君の入婚を認めませんでした。
百済国王蓋鹵王(がいろおう・在位455~475)が 472 年北魏に使者を送って朝貢し、高
句麗の圧迫を受けていることを訴えて将軍の派遣を要請し、-【(もし救援していただけるのであ
れば)必ず田舎娘を送って後宮の掃除をさせ、あわせて子弟を送って外厩の世話をさせましょう。
・】
(百済本紀)と申し出た時も北魏はにべない返事をしています。
新羅の近侍を受け入れた唐や百済の近侍を受け入れた日本国とは、また違った哲学をもつていた
のかもしれません。近侍を受け入れることは後世の混乱を生じる原因になりかねないのです。百済
閥の生じた日本など例は多くあります。魏王はそれを避けたのでしょう。それに戦いを避ける燕国
が、強い高句麗との中間に位置しては、いつ高句麗の領土になるか分かりません。そのことの方が
心配だったことでしょう。
436 年夏四月、北魏は燕の白狼城を攻略しました。このとき、燕国天王馮 弘は、竜城の民を挙
げて反撃をすることなく、ただ高句麗の迎えを要請したのでした。
-【高句麗王(長寿王在位413~491)は葛盧(かつろ)・孟光(もうこう)両将軍に数万の
大軍を率いさせ、陽尹にしたがつて、和竜(中国遼寧省朝陽)にゆき、燕王を迎えさせた。葛盧・
孟光は城に入ると、(率いてきた)軍に命じて、破れた軍服を脱がせ、燕の兵器庫にある精巧な武
器を兵に与え、大いに城内を強奪した。】(高句麗本紀)-と。
前燕時代から約百年間、燕国が蓄えた精巧な武器や何万人分の装備が高句麗兵士の手に渡りまし
た。危急のとき役立つ兵器も天王が戦う意志を放棄したときには何の役にも立たなかったのです。
自国を防衛できない国民も、また天王とともに流浪の民となつたのでした。
別の見方をするなら、北燕国を攻めた北魏がこの後、廃仏を断行することが見えていたのかもし
れません。白旗を掲げ帰伏しても、それは自分達の宗教の破滅であるかもしれないと思ったとき、
彼らは宗教を守って東方の新天地に向かって転進することを望んだのではないでしょうか。436 年
五月北燕天王馮 弘は竜城の民を率いて東方に移動を開始しました。高句麗本紀はその時の状況を
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次のように書いています。
-【長寿王二十四年五月、燕王は竜城の住民を率いて、東に移るとき、宮殿を焼いたが、その火は
十日も消えなかった。(この行軍では、)婦人に甲(よろい)をきせ、中央におらせ、陽尹らは精
鋭な軍隊を率いて外におり、葛盧と孟光は騎馬隊を率いて殿をつとめ、車をならべてすすんだ。
(こ
の行列は)前後八十余里(にもおよんだ)。魏王がこのことを聞き、燕王を送るよう命じた。
王は魏に使者を派遣し、馮弘とともに魏の王化を奉じたいと上表文を奉った。】-
暗黒の夜中、野宿を重ねた馮 弘の一行に、燃え上がる宮殿の火が名残りを惜しむかのように夜空
に火の粉を散らしたとき、彼らはなにを感じたでしょう。ただ手を合わせ、祖先の霊に別れを告げ、
仏の導くまま東方に歩みを続けたのでした。その後、高句麗領内の平郭(中国遼寧省蓋平付近)次い
で北豊(中国遼寧省遼東の西方)に弘がいたことは資料にみえますが、それから先は謎の部分が多
いのです。
高句麗本紀にはこの間の事情として
-「弘か遼東にきたとき、彼の太子の王仁を人質とした。弘はこのことを怨み、使者を宗に派遣し、
上表文を奉り、迎えを求めた。宗の太祖は使者として王白駒(おうはくく)らを派遣し、弘を迎え
に行かせた。」-
-【長寿王二十六年(438 年)春三月、高句麗王は弘を南に行かせることを好まず、将軍の孫漱
(そんそう)や高仇(こうきゅう)らを派遣し、北豊で弘やその子孫十数人を殺させた。(宗の)
王白駒らは部下の七千余人を率いて、(高句麗の将軍を)不意打ちし高仇を殺し、孫漱を生け捕り
にした。】歴史書には「弘やその子孫十数人を殺させた。」とあるけれど「殺した」とは書いてい
ない。このへんになにか、からくりがあるみたいです。
高句麗王はこの時代、中国の北の勢力北魏と南方の勢力宗の南北両朝に朝貢し、そのバランスを
保つて自国の安全を図ることが最重要でしたから、馮 弘のことで両朝の板ばさみになることはな
んとしても避けなくてはなりませんでした。王は弘を殺したことにして別の場所に移したのではな
いかと思われるのです。
混乱の中、馮一族も二分して、あるものは王白駒らに従って南方の宗に行き、また馮 弘らは古
新羅方面に身を隠したのでしょう。高句麗王の隠密の援助があつたのです。この新羅は「北の新羅」
(隋書に新羅として見える国で沃沮・穢・秦韓地方にあつた国)で、いまの元山付近に都がある高
句麗の属国でした。
五世紀の中頃には高句麗に吸収されて国名もなくなります。この国とその後六世紀に新羅の国号
を襲名した南の鶏林国(慶州を都とする国・鶏林新羅とします)とはまつたく違う国であることは、
歴史上はつきり区別して認識しておかなくてはなりません。
韓国歴史学者李鐘恒氏によれば、「南の鶏林国は任那の一国で、503 年に任那から独立して新羅
を襲名した」という。倭国の敵となつたり、ときには人質を倭国に送ってきたこともある北の新羅
は高句麗の勢力に吸収され、国がなくなつてしまいました。その後任那から独立した鶏林新羅(倭
人の王国)についてはこれからしばしばでてくるでしょう。
弘のいた北の新羅はこの頃には高句麗領となつたと思われますが、ここから出発して安全なそし
て仏教の普及した南中国の宗に、弘は何故行かなかったのでしょう。行こうとして道に迷い、出雲
に到着したのでしょうか。その後の彼の行動をみると日本を中継して南中国に渡ろうとした形跡が
ありません。
そうすれば、最初から日本列島に渡るのが目的だったのでしょう。
[東方を仏教浄土の国にする]
お釈迦様の教えを忠実に守って、中国最後の天王号をもつ馮弘は列島においでになつた。そのとき
から列島へ「天王号」が入ってきたと思われるのです。それまではこの国の首長は倭国連合の王と
して「大王」という称号を使っていました。それが天王号に変わったとき、仏教が波及してきたと
いつてよいのでしょう。
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海を越え天王号が、日本列島にやつてきた。
中国から消えた天王号が入れ替わるように海を隔てた日本列島に出現してきました。書紀で天王
という言葉が使われるのは、雄略紀五年・二十三年条ですが同時に日本という言葉も使われ始めま
した。列島の天王号は倭国の大王号に取って代わり、五世紀後半から現代に至るまで、途中に「天
皇」と表記を変えながらも継続して列島の首長号として用いられていることは御存知の通りです。
奈良時代、聖武天皇の年号「天平」は 729 年六月河内国古市郡の人、賀茂子虫が献上した祥瑞
の亀の背に読める【天王貴平知百年】(天皇の政治は貴く平和で、百年も続くであろう)の文字によ
って定められました。天皇と表記を変えたのちも、天王という字は続けて用いられた例です。とこ
ろで、それまで日本列島にあつた国は倭国で、半島南部にあった倭人の国々と連合国家を作り、そ
の王は「大王」と呼ばれていました。
その大王は五世紀末ごろまで列島に存在していたことは刀の銘文で確認できます。しかしその後
は大王という呼び方は消え、つぎには天王という呼び方に変わつていました。大王がいらつしゃる
倭国に天王号が入ったのです。このことは列島に仏教が入ってくると同時に天王号も入ってきた、
逆に天王号が入ってくると同時に仏教も入ってきたと考えなければなりません。さきにも述べたよ
うに天王号は仏教用語で仏教の守護者を意味するからです。
伝来した時期は、燕国滅亡後の五世紀代(440~中ごろか)のことでしょう。書紀に出てくる天王
号が雄略紀なのも、時期的に適合しています。半島には天王号は伝わらずに、中国遼寧省の北燕国
から直接天王号は列島へ移つてきました。だからこの天王号の出現も馮弘の到来によるものです。
もし馮弘が朝鮮半島に足場をもつたなら、半島にも天王号が伝わるはずと思うと弘の目指したのは
仏教の未開地の日本列島だつたのではないでしょうか。
馮弘とその民 明日香に住む。
さて出雲に上陸した馮 弘の民たちが河内に連行され、苛酷の生活を送つたこと(「死ぬ者が多
かった」書紀雄略紀)は既に述べていますが、これに心を痛めた弘は大和に上り、ときの大王に面
会を求めます。そして「この国を奪うようなことはしない」と誓をたてました。そして忠実にその
誓をまもつたのです。結果、弘の民たちは解放され、各地に分散して居住することを許されたので
した。
偽りの多い日本書紀は、馮 弘の来朝も歴史の話ではなく、神話の世界に入れてしまいました。
だから馮弘の民たちもその出自を隠くされています。
-【仁賢紀六年条(五世紀後半か)-この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠(てひと)の
須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。いま大倭国(やまと)山辺郡の額田邑(ぬか
たのむら・現在の大和郡山市額田部北町、寺町、南町付近)にいる熟皮高麗(かわおしのこま)は、
その子孫である。】-
-【雄略紀十四年条、身狭村主青(むさのすくりあお)らが、呉国の使者とともに、呉の献上した
才伎である漢織・呉織および衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉津(すみのえのつ)に碇泊した。
-中略-三月に呉人を檜隈野(奈良県高市郡)に置いた。そこで呉原(明日香村栗原)と名づけた。
衣縫の兄媛を大三輪神に奉り、弟媛を漢衣縫部とした。漢織・呉織の衣縫は、飛鳥衣縫部・伊勢衣
縫らの先祖である。】
中国歴史書に書かれている倭国の大王は五人、すべて高句麗とは常に敵対関係にあり、日鷹吉士
の高麗へ「大王の使いをした」という条文が真実であるとはとても思えません。それよりも、これ
らの民が出雲から連れてこられたと考える方が理に適います。日鷹吉士が額田邑に連れてきた熟皮
高麗(かわおしこま)は、従順な高句麗人(新漢人という見方もある)という意味でしょうが、こ
の地名は大和郡山市額田部とあるように伴造は額田部臣でした。
岡田山一号墳(島根県松江市大草町)から「額田部臣」の文字を象嵌する太刀が出土して、額田
部臣が出雲の国に根拠地を持っていることが分かりますし、額田部邑の熟皮高麗とも当然関係があ
るのでしょう。出雲から移動して、この地に来たと考えて良いのではないでしょうか。
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平安初期に作られた新撰姓氏録抄(姓氏録)には額田邑の村長さんを【額田村主。遠呉国(人) 呉
国古之後也。】(大和諸蕃、漢人部)としています。額田村主は遠呉国から来られた方でした。呉が
南中国の国といっていいのか、高句麗の句麗であるのか迷うところですがさきに述べられているよ
うに高句麗人の子孫が住んでいるのが額田邑なので、この呉は高句麗のこととしましょう。そうす
るとこの遠呉国は高句麗国の先、燕国を示すものではありませんか。
これより先、同書雄略紀七年条には同じ日鷹吉士という人物を派遣して、今来の才伎(てひと)
を大嶋(場所不詳)から連れて来たという、-【そうして倭国の吾礪(あと・河内国渋川郡跡部郷、
現在の大阪府八尾市)の広津邑に才伎(てひと)を安置した。病死するものが、多かった。そこで
天皇は、大伴大連室屋に詔して、東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に命じ、新漢(いまきの
あや)陶部高貴(すえつくりこうくい)・鞍部堅貴(くらつくりけんくい)・画部因斯羅我(えか
きいんしらが)・錦部定安那錦(にしきごりじょあんなこむ)訳語卯安那(おさみょうあんな)
らを上桃原・下桃原(大和国高市郡)・真神原(明日香村)の三カ所に居住させた。】という。
日本初期仏教に貢献し、仏教界をリードした人たちです。
書紀には「百済から連れてきた」と嘘を書いていますが、信用できる話ではありません。真実を
隠すためのごまかしが入っています。これらの民は「藤ノ木古墳出土の鞍金具」から馮 弘の引き
連れて来た北燕国の遺民だと推測できました。ついでに額田村の広がりの中心にあるのが斑鳩(い
かるが)の里で、藤ノ木古墳や聖徳太子邸宅・法隆寺があるところでした。これらの主と前面に広
がる額田村とどんな関係があつたのか、位置関係からみて両者の関わりはきわめて興味のあること
ですが、現在のところはつきりしたことは解明されていません。さきに話を進めましよう。
馮弘の民は明日香村(上桃原・下桃原・真神原・栗原)(日本初の本格的寺院の建設される地名
でもある。)や額田邑に住いをいただきました。同時に弘も「この国を奪うことはしない」と倭国大
王に誓いを立てて、彼の民たちとともに明日香に居住を許されたのです。明日香は古代人が「すが
すがしい場所」というところでした。「あすか」のあは説頭語で意味はなく「すがすがしい」の意
味の「すが」に「あ」をつけて場所を示したのです。
出雲神話にはスサノオが大蛇退治後、旅をして「須賀」にすむという説話がありますが、「旅をし
て」ということは、出雲から大和に移動したことなのでしょう。距離の近いところに移り住んだこ
とをいうのではありません。さて、馮弘やその民が明日香にきたことで、倭国の文化に大きな影響
を与えました。いろいろな才伎(てひと)を率いて来たので、それまで素朴な馬具しかなかったこ
の国も、立派な鞍や金銅製の透かし彫のついた金具を手に入れることができるようになりましたし、
その他の金工細工も一段と進歩していきました。
頭には光り輝く王冠を被り、耳には垂飾付き耳飾りを、さらに伝統的な首飾りも一段と豪華にな
るきんきらの豪族の姿、国内に持ちこまれた新しい桂甲という鎧を纏う兵士の姿が増えていきまし
た。女性には華やかな色彩の衣装が流行します。飛鳥衣縫や伊勢衣縫の故郷・燕国の衣装文化から
斬新なデザインが執り入れられ、宮殿の女性たちや貴族の奥方たちの身をかざつたことでしょう。
歩揺という歩くたびにきらきらと輝きながら揺れる小さい金飾りを多数付ける文化も列島に入っ
てきました。
鮮卑族・慕容氏が好んで身につけたもので、慕容という氏族名も、「歩揺」からきているという中
国歴史学者もいます。慕容氏が作った国が燕国で、弘の渡来によりその文化は中国北部から確実に
列島に移ってきたのでした。馮弘が倭国の中でも、王侯に準ずる生活を送っただろうという想像が
できます。全身金ピカの装飾品で飾り、遠く燕国から運ばせた貴重な品々に囲まれて、庶民とは比
べることが出来ないほど贅沢な生活だつたに違いありません。波瀾に満ちた人生の最後に訪れた平
和なひとときでした。
しかし、弘の心残りは、この国が仏教を容易に認めようとはしなかつたことです。倭国は昔から
神様を信仰する国で、異国の宗教を排斥しょうとする有力豪族たちは数多くいたのでした。東北ア
ジアの諸国に仏教が伝来する時、中国宗主国から下賜の形をとった高句麗、百済には仏教に対する
反対勢力は存在しませんでした。
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渡来人の私伝の形をとつた倭国には、当初から激しい反仏教の風が吹いていましたから馮弘の民
たちも公の布教を禁じられ、ささやかな身内だけのお祭りを続けながら時を過ごしたのです。仏教
布教の波は弘の時代では起きることはなく、次の世代へと引き継がれていつたのでした。五世紀後
半のある日、病を患った馮弘は、仏に導かれるように明日香の邸宅で息を引き取ります。
鞍部(くらつくり)や衣縫たちの哀悼を受けながら、かつての北燕国天王としてはあまりにもささ
やかな陵(みささぎ)・後世に新沢千塚古墳群 126 号墳と呼ばれる古墳に葬られたのでした。
継体天王オオドはウシ王の子・出雲で育つた。越前というのは嘘。
残された妻はわが子の養育のため、幼子を連れて出身地の出雲に帰っていつたのではないかと考
えます。馮 弘が日本列島に来て、娶つた妻には幼い子がいました。この子こそ、後に継体天王と
なるオオドです。弘が来朝した五世紀中から約五十年後の六世紀初、御歳 58 歳で樟葉宮(大阪府枚
方市)に即位するこの天王は後から話がでてくる出雲の渡来氏族と深い関係があるのです。
オオドが招き入れた高句麗氏族(騎馬民族)は出雲に上陸しました。このことが示すように継体天
王は出雲と切っても切れない関係があります。きつと馮弘の子の名前はオオドでしょう。父の来朝
時期と生誕時期はぴつたりと合っていたのでした。そうです。日本書紀はちょうどこの頃に、継体
天王の父ウシ王(上宮記・書紀では彦牛王)が亡くなって、妻の振媛が実家の越前に帰ってオオドを
育てたという話を書いています。
「越前へ」というのは本当のこととは思えません。それよりも、出雲に帰ったというのが真実でし
ょう。妻の名前・振媛というのは、出雲の稲田姫の間違いではありませんか。ウソで固めた話はい
つか崩れるものなのです。出雲の継体天王が仏教布教のために起こした戦争(列島の宗教戦争)に
勝利するため、外国から高句麗や北の穢人新羅らの騎馬氏族を招き入れた話(出雲の国引き物語)や
この戦争に勝利した後、出雲から大和に上り新しい国家を作る話はこの本の中でゆつくりと説明し
ていきましょう。
13
第3章
明日香・馮
弘の墓と斑鳩・藤ノ木古墳
前章では北燕国天王馮 弘が祖国を捨て東方仏教の浄土を求めて日本列島にたどりついて、連れ
てきた民たちとともに大和の明日香に住んだことをお話しました。仏教徒の渡来です。この氏族が
仏舎利や仏具・仏図・仏像を持って渡来してきたことは、書紀や扶桑略記にも書かれていて否定す
ることは出来ません。
だけど神の国倭国では、仏教がすんなりと受け入れられることはなかつたのでした。古来の宗教
を堅持する豪族たちによつて仏教は規制され、布教活動はつぎの世代に託されます。馮弘の長子・
王仁は九州から仏教の種子を蒔きました。稔りをみることなく馮 弘は明日香の地に波瀾の人生の
幕を閉じたのでした。この章では古墳出土品を中心に今までの話の「裏づけ」をしていきます。
奈良県新沢千塚古墳群126号墳
1963 年奈良県橿原市新沢千塚古墳群の126号墳の発掘調査から思いもよらぬ遺品が出土しま
した。この五世紀後半の古墳は22×16mの長方形をした小さい古墳ですが、木棺内外に王侯に
匹敵する貴重品が納められていたのです。
北燕国ゆかりの出土品
【棺外には、鉄刀2口、青銅製熨斗 1 個と、漆盤 3 個がおかれていた。漆盤の1つには、黒漆の
地に朱で四神が描かれいる。棺内遺物は主に装身具で、遺骸に装着していたような状況で出土して
いる。それらを出土位置によって復元すると次のようになる。】
【まず頭には布製などの冠(帽)の前面に金製方形冠飾を付け、髪には金線を螺旋状に巻きつけた垂
飾を垂らし、左右の耳には長さ 21cm の金製耳飾を付けている。上半身の衣服には、径 1cm 程の
小さな円形の金製歩揺と青色のガラス玉を多数縫い付けて飾っている。腰のベルトには、金銅製の
帯金具を留めていて、腕には金と銀の腕輪をはめ、さらに指にも金・銀の指輪をつけている。そし
て、両足の部分にガラス玉が集中しているため、ガラス玉で飾ったブーツのような履をはいていた
ようだ。】
このように、全身を各種の装身具で飾ったこの人がもつとも大切にしていたものは、頭のすぐ
右側にあつた透明の切子ガラス椀と青色のガラス皿である。そして径 6.5cm の小型鏡は、頭部か
ら約 20cm 離れた仕切り板を隔てたところに、多数の滑石製臼玉等と一緒にに置かれていた。日本
の古墳では、鏡を副葬する場合は遺骸のすぐ近くに置くのが一般的であることを考えれば、このよ
うな扱いは珍しい。
これらの金・銀製装身具やガラス器は、いずれも海を渡ってもたらされたものである。それらの
故地は、朝鮮半島で作られたものもあるが、さらに中国大陸の東北地域や、ガラス器のようにはる
か西方のサザン朝ペルシャに求められるものも含まれている。】-
(特別展「新沢千塚の遺宝とその源流」奈良県立橿原考古学研究所付属博物館 写真資料も同書)
<北燕国天王・馮家に関連>
全身金ピカの装身具に飾られたこの人物は、首につけた各種の首飾りの中に勾玉の首飾りをつけ、
列島の風習にも順応しているようにもみうけますが、出土した純金方形板は、中国遼寧省朝陽北方
にある北燕天王馮跋の弟馮素弗の墓や馮一族の墓(房身村 2 号墓)から出土した冠帽飾りに酷似す
るといいます。
中国遼寧省朝陽は北燕国の都竜城があつたところでした。そこの天王であつた馮弘は北魏国から圧
迫を受け、自らの民を引き連れて国を捨て、高句麗を頼って亡命したのです。さらに馮氏一行は国
際的な軋轢の中で、高句麗に永住することが出来ずにさらに離散したという。東方に亡命の旅を続
けた末に、弘が辿り付いたのが出雲の海岸だつた。
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房身村 2 号墓
129号墳
この国の大王に面会を求め、「この国を奪うことはしない」と誓約をした馮弘は明日香に居住を
許されました。燕国と高句麗の二度にわたる追放を受けた貴人(位の高い人物)は、波瀾に満ちた
人生の終焉の地として、明日香の小さな墓に葬られたのでしょう。北燕国天王の終焉の場所がこの
小さな長方形の古墳だつたのです。あまりも、ささやかな墳墓というのは倭国大王家の陵と比べて
のこと。
天王号を持ち、仏教に深く帰依していた彼は、墳墓の大きさには関心が無かったのではないでし
ょうか。北燕国の馮氏一族は深く仏教に帰依して、仏教の守護者である天王号を用いていました。
その証拠は仏像の打ち出された冠帽飾りです。
左の写真は馮素弗(北燕国天王馮跋の弟)の墓から出土した冠帽飾りで、中央に
胡座をかいた仏像の姿が打ち出されていました。亡命した馮 弘の叔父に当たる人
物の墓です。日本列島における仏教の伝来時期は、書紀記載の六世紀中から百年は
遡らなくてはならないと思う由縁がここにあるのでした。
新沢千塚126号墳の主の最も大事にしたものは、「頭のすぐ右側にあつた透明
の切子ガラス椀と青色のガラス皿である。」と図録にかかれています。この品々が仏具ではないか
と思っています。
仏具である銅鋺が豪族のお墓に入れられるのは六世紀前葉から前半にかけての年代が今のところ
いわれ、その状況は後ほど話が出てくるでしょう。豪族の銅鋺に対し、王者の仏具がこれらのガラ
ス製品だつたのではなかろうか。
(126号墳出土のガラス製品)
中国遼寧省の馮素弗墓出土ガラス椀とガラス皿の写真をみると、128号墳のガラス製品と極め
て似ているように思われます。
(中国遼寧省馮素弗慕出土のガラス製品)
こうしたガラス製品を王者の墓に入れる風習は、日本にも伝えられたのでしょう。安閑天王陵出
土と伝えられるガラス椀も切子細工でした。そうすると年代からみて126号墳と安閑帝の中間に
在る継体天王陵にもガラス製品があると思われるのでしょう。考古学には先入観念を持つてはいけ
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ないといわれますが、きつとあると私は思っています。
ところで、冠帽飾りにも、衣服にも金製歩揺が多数縫い付けられていました。鮮卑族の一族・慕容
氏が好んで着けたという北方文化でした。(中国学者の解釈は前に出しています。)南北朝時代の
燕国はこの慕容氏が建国した国だつたのです。
ここで126号墳の主の姿をみてみましょう。
頭には金の飾り板のついた冠をつけ、らせん状になつた金の髪かざり(写真左)
耳には垂飾付きイヤリング。(写真中)金製指輪(写真右)
腕には金・銀の腕輪、指には金・銀製指輪をはめるこの人物は、上着には数多くの歩揺と青いガ
ラス玉を縫い付けて腰には金銅のベルトを締めている。しかも、後の天皇家が持っているような玉
椀を所有しているのです。まさに王侯の姿でしょう。しかもこの貴人は中国・燕国と深く関連する
出土品に囲まれて126号墳に葬られていました。
この古墳の五世紀後半という時期は、馮弘が436年北魏によって追放されて高句麗に逃れ、さ
らに438年その地に永住できずに離散した年月に、日本列島に上陸して明日香に暮らした年月を
加えた年代に合致するものでしょう。馮弘の墓と考えてよいのではないでしょうか。この古墳の主
は王侯の生活を送っていました。その生活を支えたのは、彼が故国から連れてきた民だつたのです。
鞍部・衣縫い・錦織り・絵画・陶器などの技術者、さらにまた砂鉄による鉄鋼の生産や各種鉱山
の探鉱技術者なども連れて来たに違いない。五世紀前半では、貴重品であつた鉄板を古墳に入れる
風習も急速に廃れました。鉄の生産が進んだ結果にほかならない。後の奈良時代初期、埼玉県秩父
における和銅発見後に銅山採鉱に従事したのは、継体天王後裔の多治比真人を長とする渡来技術集
団によるものだつたのでした。そうした歴史の流れはここから始まっていると考えています。
藤ノ木古墳出土品と仏教美術
中国・北朝文化の香りが高い出土品を多量に出土した藤ノ木古墳は、六世紀後半の中ごろ(57
5年を前後するころ)設営されました。上宮家ゆかりの寺院群がある斑鳩の里に存在し、その前面
には渡来氏族の居住した額田邑があつて、この三者の関係について強い興味をもたれているところ
です。 そのことはさておき、この古墳からは古代東アジアにおける最高水準の工芸品といわれる
馬具が出土し、人々の注目を集めました。
三組の鞍のうち特異な文様をもつ鞍Aについては、とくに有名で数多
くの出版物によつて紹介されています。鞍および馬具にパルメツト文
様があちらこちらに配置され飾られている。鞍の把手の支柱には複弁
蓮華文座が飾られていること。パルメツトで飾られた象の図形がある
ことから「仏教美術との強いかかわりを示している」(勝部明生氏)。
との指摘は十分に納得するところでしょう。
(藤ノ木古墳出土の鞍金具)
鞍金具の亀甲文内には、パルメツト・鳳凰・竜・獅子・象・小禽・鬼面・怪魚(マカラ)・兎・
虎などが透かし彫りされ、中央には躍動感あふれる鬼神が右手に環頭太刀を持ち、左手に鉞(まさ
かり)を持つ。背景は火炎で邪を払い、法を守る鉞をかざす姿の金銅板を配していました。
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勝部氏はこれらの動物文について次ぎのように述べています。-【この馬具には、六世紀代の東
アジアの中国以外では珍しい動物文が含まれている。たとえば象、獅子、兎などで日本はもちろん
のこと新羅、百済、伽耶でもこれまでにないものである。】-つまり、中国の古代デザインによる
ものであるとして、さらに続けて【これらの動物文は(中国の)図像の特徴から仏教遺跡のものに
似ている】
詳細な対比は省略させてもらつたが、要約して語られたのがこれでした。北魏を中心とする時代の
北朝文化に関連する技術や文化が日本に入ってきたのです。またこの鞍文様からも窺われるように
六世紀後半のわが国には、もうすでに仏教文化が花開いていたのだと考えてよいのではないでしょ
うか。
山陰・鳥取県国府町の岡益石堂に彫られたパルメツトは北朝文化の到来
を示すとされている。現在は立ち入り禁止となつてテントで覆われ詳細を
知ることはできないが、北朝文化の通り道としては山陰をあげさせて頂く
のが最も適しているのだろうと思うのです。
(鳥取県国府町、岡益石堂。付近には八角墳・壁画古墳の梶山古墳がある。)
鞍金具と馮氏の民
藤ノ木古墳の鞍金具について、調査担当者である橿原考古学研究所の前園実知雄氏は次ぎのよう
に語っています。「いままでの古墳出土品には見かけないものであった。たとえば象・獅子・兎な
ど。」「近年、中国遼寧省の朝陽市付近一帯で、相次いで発見される鞍金具のなかに、藤ノ木例と
共通するモチーフをもつ例がみられる」。それと中国考古学者の意見に「この鞍の形は鮮卑スタイ
ルで、六世紀の中国では使われなくなっている」。中国の複数の学者が「中国製ではなかろう」と
いう意見であった。「私も日本製を考えている一人なので意を強くしたことを覚えている」。
(日本の古代遺跡を掘る5「藤ノ木古墳」より)
重要な言葉がいくつも出てきました。
藤ノ木古墳の鞍は、鮮卑族が六世紀以前に用いていたスタイルであること。
近年、遼寧省の朝陽市付近一帯で共通するモチーフをもつた鞍が相次いで発見されていること。
中国製ではなく、日本製の可能性があること。などです。
後燕国は鮮卑族の一氏族・慕容氏の王である慕容垂が再建し、その後397年に、遼寧省朝陽の
竜城に移転した国で、後に漢人馮 跋次いで馮 弘に天王位が引き継がれました。
漢人の燕国を区別して北燕国と呼んだことは、前に書いているのでご存知だと思います。
その朝陽市ですよ。そうです。北魏の圧迫を受けた馮 弘は竜城の民を引き連れて、高句麗を頼
って故郷の竜城を捨てたのは、436年のことだつたのです。438年には高句麗に居住すること
も出来ずに、離散しました。一方、日本書紀は雄略紀に鞍部や錦織などの新漢人たちが来朝したこ
とを記しています。
藤ノ木古墳の鞍金具が日本製ならば、鞍部らの手になったと考えるのは当然でしょう。
鞍部たちの祖は堅貴(けんくい)で、雄略紀に来朝した際に、仏舎利や仏像・仏図・経典などを
もつて渡来して来たと思われます。達止の代には、扶桑略紀に「継体16年、鞍部司馬達止が高市
郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して帰依礼拝した。皆は、これを「大唐神」といつたという。」
とありました。
達止の子・多須奈は用明紀に仏像と寺を作り出家しましたし、孫の鳥は最初の本格的な寺院であ
る法興寺の丈六の仏像製作にあたつたという。土地は飛鳥の衣縫いの提供した真神原で、初の僧・
尼僧も新漢人から出したのです。藤ノ木古墳の鞍金具が仏教美術の粋を極めるのも、竜城の民の後
裔たちが仏教に帰依し、東方仏教浄土建設のために仏教の資料を持参したからでしょう。
出土馬具が六世紀以前のスタイルであつたのは、五世紀中ころに馮弘に引き連れられて来日した
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からであり、鞍部を始めとする新漢人は馮氏の民と考えられるのではありませんか。彼らの故郷は
遼寧省の朝陽市でしょう。日本書紀には、日鷹吉士が新漢人たちを「百済から引率して来た」と書
きました。これは嘘です。新漢人たちは高句麗を経由して日本列島に来た人々で、馮弘に率いられ
出雲に到着したのです。
本書をお読みいただくとなぜ出雲かということが、だんだんと分かってきます。それと同時に書紀
がなぜ嘘を書いたのかも分かるのでしょう。理由は、仏教の伝来時期です。仏教が到来したために
日本国内で豪族同士の戦いが起こったことや、隠したいことが多かったのでした。
馮弘の叔父馮素弗の冠帽飾りには金の板に仏像が打ち出されています。そうです。仏教は、この
一団が日本列島に持ちこんだのでした。渡来して来た五世紀中ごろから日本仏教の芽が息吹いたの
です。この国の王号に仏教守護者を表す天王号がやってきた。それまであつた倭国の大王号に取っ
て代わるようになるまではもう少し時間が必要ですが、確実に仏教は定着していきました。
そのための激動は、書紀には書くことができません。そればかりか史実をゆがめ、神話を作り神
武紀と合体しました。後世の出来事なのに一番先頭に配置して倭国の国号を抹殺し、遥か昔から日
本国が存在するように装いました。そして偽りの書と後世に言われるようになります。
それほど、出雲と新漢人を分離しておきたかつたのです。
また、馮弘とその民を一つの集団とすることなく分離して、別々にしておきたかつたのでした。
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第4章
虚像の時代・スサノオと五十猛命
信仰としての神々と歴史の中の神々とは違うものでなければなりません。江戸時代中期の学者
新井白石は紀記の神話に現れる神々の行動について、「神は人なり」と看破しています。神話に登場
してくる神々は「だれかの偉大な人間の行動」がモデルになつているといいました。残念ながらそ
の後、真理を探求することが難しい時代に「神々のことはそっとしておこう。」という雰囲気が醸
し出されたと思います。でも真実の歴史を探るには神話の中にこそメスを入れなければならない。
ここを避けているから列島の歴史は謎のままなのでした。
紀記神話のの大きな部分を占める出雲神話は、渡来人のスサノオとその息子たちが渡来後、どう
行動したかという歴史の話です。スサノオと五十猛命は渡来人、大国主神は渡来人スサノオが列島
に来て妻を娶り、生んだ渡来人の子でした。息子の大国主を国つ神として、列島にあたかも土着し
ていたかのように書くのはおかしいことでしょう。
ここではスサノオが自国(海原)と高天原の二箇所を追われる点をおなじく二度追放される北燕
国天王馮弘と対象してみようと思います。いいたいのは、スサノオのモデルは馮弘ではないかとい
うこと。同じくスサノオが連れてこられた息子の五十猛命のモデルは、弘がお連れになつた息子の
馮王仁だと思うのでした。
スサノオ(2度追放された貴人)は馮弘がモデル。
前2章で、馮氏親子が自らの民を連れ、流浪の生活を送った実像を書きました。この方を「モデ
ル」として書いたのが出雲神話のスサノオではないかと考えます。スサノオは本名ではなくて、
「須
佐の男」という「あざな」のようなもの、本名を語ることはまずないという古代中国の風習に従っ
ているのか。本当の名前はなんだつたのでしょうか。
もし、ここで疑問に思う方がいられるなら、もう少し範囲を広げてスサノオが渡来後、出雲で
もうけた大国主神が「この国を平定した」ことを思い浮かべてください。大国主はスサノオの息子
です。同じように、馮弘が来日して約五十数年後の六世紀初頭に御年五十余歳で楠葉宮で即位する
継体天王が「この国を平定する」史実を合わせて考えましょう。
スサノオには別に外国からお連れになった息子がいました。その方のお名を五十猛命と申し上げ
ます。木の種子を筑紫(九州)から蒔き、この国を青山に変えたという。有功(いさおし)の神と
称えられました。その行為こそ仏教の布教に努める姿である。と考えます。この方のモデルは?こ
こでは神話の中に書かれている虚像を、実際に列島に渡来してこられた実像と対比して古代の様相
に迫ってみたいと思います。
古事記や日本書紀には出雲神話があつて、大きなスペースを占めているだけでなく神武朝四代の姻
族として歴史と接続されていました。日本列島の歴史の中で出雲の占める割合は大きく、出雲を語
らずして歴史を語ることができないのでしょう。それだけ大きな出来事が山陰の出雲を基盤として
日本列島全土に広がったということなのでした。
紀・記のスサノオ
出雲族(スサノオを長とする渡来系氏族の総称)の始祖について、いろいろな説話が語られていま
した。シンプルな形に直してみようと、説話毎に番号をつけてみました。
① 最初は、自国からの追放
スサノオが第 1 番目に追放されたのは生まれ育った国からの追放でした。そのわけについて、紀
記は次ぎのように書いています。
「亡くなった母を慕って、スサノオは大人になつても泣き喚いた。そこで父のイザナキの神は
スサノオに向かってその訳をお聞きになられた。」
-【何故、お前はわたしが命じた海原の国を治めずに泣いてばかりいるのた?】-
スサノオは答えて次ぎのように申し上げました。
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-【母のいらつしゃる根の国に行きたいと思い泣いています。】-
大変お怒りなられた父神は、
-【それならお前はこの国に住んではならない。】-
とスサノオが生まれ育つた国から追放されてしまつた。これが最初の亡命なのです。
② 高天原でのスサノオ
スサノオは高天原の姉に会ってから根の国に行こうと思い天に昇られた。
紀記では、スサノオは天照大神の弟としており、スサノオが天照大神に逢いに高天原へ来る様子を
次のように書き記しています。
-【はじめ、スサノオが天に昇られるときに、その影響で大海原はとどろき荒れ狂い、山も丘もた
めに鳴り吼えた。これはこの神の性質が雄健だからである。天照大神はもちろんその神があらあら
しいことを知っておられてが、スサノオが天に参上する様子をおききになつて、たいそうびつくり
されて、「弟がやつて来るのは善意ではないにちがいない。きつと国を奪おうとする意志があるの
だろう。」と戦いの準備をされた。】-神々が待ち構える中、スサノオはおいでになり、面談して
-【私はこの国を奪うことはしないと誓約した】-のでした。
2 番目の追放 高天原からの追放
【スサノオは高天原で数々の罪を犯した。】と紀記はいつている。
「田の畔を壊したり、灌漑用の溝を埋めたりした。また神聖な機織(はたおり)の家で、神にお供
えする衣服を機織女に織らしていた時に、スサノオは家の屋根に穴をあけ斑の馬の皮を剥ぎ取って
、その穴から落し入れた。」スサノオはここで上のような悪しき行いを数多くしたという。「そこ
で高天原の大勢の神はともに相談をして、犯した罪をたくさんの品物で贖い(あがない・賠償)さ
せ、スサノオを高天原から追放してしまつた。」これが二度目の亡命なのです。そして降り立つた
のは、出雲国なのでした。
③
紀記神話の誤り、書き順の間違い
高天原の国では、田の畔だとか灌漑用の溝などのことばがあつて、米作りが行われていたし、馬
も飼われていたらしい。こういつた言葉は、神々の実在年代を考えるヒントになるものですから、
時間があるときにゆつくりと考えることにしましょう。ここでは紀記に書かれている説話を順番ど
おりに、(不必要な天の岩戸説話を取り除いて)番号をつけてみました。
①②③の順番をつけてみると面白いことが分かってきます。
スサノオは自分が治める海原の国から亡命して高天原へ行き、そこも追放されて出雲の国へ亡命し
てきた。というのが大筋でした。本来は①⇒③へ続く話の中に②の説話が挿入されているのです。
①と③の場面に天照大神はでてきません。弟を追放するという重要な決定を下すのに最高神の天照
大神が出てこないのはおかしいことです。
いや、いなかつたに違いない。つまりこの部分は海外での部分、②が天照大神のいるわが国での
出来事と解釈できませんか。いまできなくてもすぐ後で、「ああそうか」と思うはずです。江戸時
代中期の学者・新井白石の時代から高天原は、高句麗(多珂)を示すものという考えが根強くありま
す。もちろん海原の国は国内ではありません。紀・記は間違った書き方をしている。書き順①②③
ではあり得ない。わざと間違えたのだと思います。
ほんとうの書き順はこうだ。
母を慕って泣くような気のやさしいスサノオが、②では突如として荒々しい性質に変質している
のはどうしてなのでしょう。なによりもスサノオが熊野神社(ご本家・出雲)の午王誓紙護符の神
とされ、約束事の神であるのは日本列島なのです。彼自身は、この誓約をきつちりと守りました。
そうすると、スサノオが誓約をして「この国を奪うようなことはしない」とした話は彼が列島に渡
来してから、さらに出雲から大和に上り、ときの倭国大王に逢って誓約する話ではないでしょうか。
誓いを守っている人物を追放はしないでしよう。そんなことを考えると、神話のほんとうの順番
は①⇒②⇒③でなくて、①⇒③⇒②の順だと思うのです。
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①⇒自国からの追放。③⇒高天原からの追放。②⇒出雲に上陸後、誓約。「自国を追放されたスサ
ノオは、高天原に行き、そこで二度目の追放を受けて、出雲に亡命して来た。
そして大和で天照大神とあつて、誓いを交わす」これが出雲神話の書き出しでなくてはなりませ
ん。ここに出てくる天照大神とは、実体は五世紀の倭の大王でしょうし、この場面の高天原②は、
③(高句麗)と違つて場所は大和だつたのです。 スサノオは出雲で大蛇を退治しました。このと
き、大蛇の尻尾から取り出された天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は「私物にしてはならない」
と天神(天照大神)に献上したという。
「この剣が草薙剣で、列島にあつたとされる。」ということは、天神(天照大神)は大和にいた
としかいいようがないではありませんか。スサノオは天叢雲剣を大和の大王に献上したのです。自
国から他国に行き、そこも安住の地とならなかつた。そこで列島の出雲に渡来して来たという貴人
は、そんなに何人もいるはずありません。
だから、スサノオのモデルとなつたのは、五世紀中頃に来朝の北燕国天王馮 弘だと思うのです。
参考までにスサノオを列島で約束亊の守護神とされている熊野三山の護符とそこに印刷されてい
る三本足の烏について見ておきましょう。三本足の烏については、高句麗とも関係があって、後で
あっと驚くような面白い話になつていくかも知れません。これらは出雲と深い繋がりあるのです。
※ 参考 約束を守ったスサノオの神社
紀記によりスサノオは約束事の守護神といわれ、熊野三山から頒布される「熊野牛王宝印」の護符
は極めて神聖視され、約束事を書く用紙にも用いられたほどでした。牛王というのはスサノオの別
名ウシ王又は牛頭天王からきています。熊野三山とは次のとおり。
熊野本宮大社(和歌山県東牟婁郡本宮町)
島根県八束郡八雲村熊野に鎮座する熊野神社を勧誘したもので、祭神はスサノオの別名だといわれ
る家津御子神(けつみこのかみ)。
熊野那智神社(和歌山県東牟婁郡那智勝浦町)
主祭神は熊野夫須美大神で、家津御子神・熊野速玉神を配祀する。夫須美神はスサノオの御子熊野
久須日命という説があり、また大滝である那智滝を御神体としている。
熊野速玉大社(和歌山県新宮市新宮)
祭神は列島創造の神イザナギ・イザナミ命の御子といわれる熊野速玉大神。
熊野三山のの神使は八咫烏ですが、熊野三山は出雲国意宇郡の名神大社熊野大社
(現島根県八束郡八雲村熊野)を勧誘し、出雲の祖神スサノオを祭ります。
同じく出雲国美保関にある美保神社の青柴垣神事には、漆盤に描がかれた三本足の八咫烏
を祭具として使用するといいます。
風土記のスサノオ
熊野牛王宝印の項にも出てきました。スサノオはウシ王という別名を持つています。実は継体天
王のお父上の御名もウシ王(上宮記)なのでした。書紀は彦牛王としています。彦は男という意味
ですからオウシなのでしょう。ウシ王だから仏教守護者・牛頭天王に擬される話が多い中、次ぎの
話は武塔天神になつている。スサノオが仏教と結びついているのがお分かりでしょう。
備後国風土記逸文(転記されて残された文章)に記されている備後国・疫隈国社(えのくまくに
しゃ・広島県芦品郡新市町・素盞鳴神社・境内末社)の縁起につぎのような話があります。
-【昔、武塔天神が北海より南にお出でになったときに、日暮れて一夜の宿を求めたところ、金持
ちの巨旦(こたん)将来には断られてしまった。つぎに貧乏な蘇民将来の家を訪れると、蘇民は快く
宿を提供し粟飯を炊いてすすめ、もてなしたという。のちに武塔天神は八柱の子を引き連れて蘇民
の家を訪れ、「我は速須佐雄神である。疫病が流行したら、蘇民将来の子孫といい、茅の輪を腰の
上につけよ。そのようにすれば厄災から逸れるであろう」と言ったという。(それ以後疫病除けに茅
の輪を戸口に掲げたり、門口に「蘇民将来子孫の家」と墨書して呪い(まじない)とした。) 】-
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この話は神話?それとも仏話?
武塔天神というのは、インド仏教・祇園精舎の護り神となつた牛頭天王の父・武塔天王の名と
とれますが、「子の八王子を引き連れて」とあるから牛頭天王なのでしょう。このため、この縁起
は牛頭天王(スサノオ)を祭神としている八坂神社(祇園社・天王社・本源京都市祇園町)にも執
り入れられています。ところで、この説話を神話だという人がいるし、仏話だという人もいる。
武塔天神だとか八王子の名は、仏教用語ですから仏話でなくてはなりませんが、スサノオの名が出
てきたら神話なのでしょう。みなさんはどちらと考えますか。
実はどちらも正解だと思います。
つまり、日本神話の中でスサノオが出雲に現れる時代は、仏教伝来の時期だと感じているからです。
そしてスサノオは仏教に関係する人物ということが出来るのではありませんか。
そうでなくては牛頭天王になるわけがないからです。もしかしたら深く仏教を信仰していた人のよ
うに感じます。そして出雲の神代というのは、縄文時代や弥生時代の列島固有の神さまのいらつし
ゃつた時代と比較すると、より新しい時期と考えられるのでした。
この話の最初には武塔天神が現れて、後に自分はスサノオであると名乗っています。武塔天神は
インド須弥山(しゅみせん)山腹豊饒国の王・武塔天王か、またはその太子・牛頭天王で、彼が波
利采女(はりさめ)を妻として産んだ八王子をお連れになつたのでしょう。釈迦誕生以前のインド
古代宗教の守護神が、はるかに遠い日本列島にひょいと現れることに不自然さを感じます。列島の
人々が牛頭天王のお姿や名前を存知あげることはないでしょう。
それに引き換えスサノオは「うわさ」になつていたのでは……そうすると本当はこんな話ではな
いでしょうか。-「最初にスサノオが現れる。そして自分はウシ王である。と名乗る」-
人々から須佐の男(スサノオ)と呼ばれていたこの男の名は、実名ではありません。
だが、自分から名乗る時は実名を言うに決まっています。「自分はウシ王である。」と名乗った言葉
のウシ王が牛頭天王になり、さらに武塔天神に変化したと考えるとすつきりします。
ところでスサノオ一族は牛頭天王や大国天また金毘羅大権現などの仏教守護神に垂迹(すいじゃ
く・変身すること)し、仏教界から厚遇されていますが、こんな待遇を受けている氏族は日本中で
他にいません。なぜでしょう。スサノオ一族とは、実は馮氏一族のことでこの国に仏教をもたらし、
その布教に尽力した恩人だからではないでしょうか。
蘇民将来は姓名なのか?
蘇民将来の子孫は茅の輪を腰につけ災厄を逸がれたという。
須佐神社(島根県簸川郡佐田町)では、現在でも二月節分日に蘇民将来の古事にならつて
参拝者に悪病退散厄除けの小さな「茅の輪」を各人に授けています。これは例外。
一般的に、この縁起にもとづく神事を行う神社は境内にしつらえた大きな茅の輪の中を参拝者が
潜つて厄除けを行うのが例です。ほかに「蘇民将来子孫の家」とした寺社のお札を頂いて、家の戸口
に貼る習慣をもつ地域があります。茅の輪を腰に着けたり、門口に「子孫の家」を墨書することは、
簡単に言えば人物や家屋を識別することなのでしょう。
識別する必要があつたからこんな縁起話が発生したのだろうと思うと、識別される家は一軒だけ
とは限らないのです。蘇民将来は多数いたと考えたい、それは馮氏の民でなかつたのか。
神様も大勢の民を、それぞれに覚えて置くことはできなかつたのでした。
縁起話の中では巨旦と蘇民は兄弟で、「将来」が姓であるように書いていました。名が前で姓が
後ろにつくのは、東北アジアの民族のなかにはいないでしょう。朝鮮半島や中国など漢字文化圏で
は、人名は姓・名の順に書きます。だから蘇民将来を人名でないとする説も有力視しなければなり
ません。「将来」は「渡海して来た」なのでしょう。蘇民は「民が蘇る」か「蘇った民」ととれる
し、読みどおりに「ソの民まさに来る」なのかもしれません。蘇民将来説話が渡来文化であること
は確かなことなのです。
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スサノオは新羅国・曽尸茂梨(ソシモリ)にいた。
日本書紀の一書にはつぎのように伝えています。
-【スサノオの行状は乱暴をきわめた。そこで神々は高天原から追放された。スサノオはその子の
五十猛神(いたけるのかみ)をひきいて新羅国に天降られて曽尸茂梨というところにおられた。
そして「おれはこの地にはいたくない」とおつしゃつて、埴土(はに・つち)で舟を作り、その舟
に乗って東へ航海され出雲国の簸の川上にある鳥上峯(とりかみのたけ)に到着された。】-
ソシモリは場所を示すというのが、一般的な考え方で江原道春川市の牛頭山をそれにあてると
いう説があります。韓国の学者は場所ではないといつている。牛頭山というのは「ソシモリサン」
「ソモリサン」でなくてはならない。文法上「サン」を抜いては、特定できません。 例えば富士
山を指す場合、「フジ」と言ってしまったら、藤の花か富士川かまたは会社の名称か分からないで
はありませんか。
固有名詞をはつきりと理解させるには、「フジサン」「ふじのやま」といわなければならないの
です。書紀がソシモリというのは、山ではないのかも知れません。山ならそのように書きますから。
さらに、春川市のような半島の中心では、舟に乗るのにも困ります。出雲に渡るため舟に乗るには、
半島の東岸にいて、東に航海しなくてはなりません。
太白山脈の東側の地域は北の古新羅(東沃沮・穢・辰韓の国で構成された国・隋書)の領域で昔
から南の倭勢力と高句麗が覇権をめぐって激しく争っていた場所でした。高天原からこの地に移動
してきたスサノオに対して、この国の人はあまり親切でなかったのかもしれません。戦争続きで荒
廃していた土地にも嫌気したのか「おれはこの地にいたくない」と出雲に向かった
のでした。
ソシモリが場所の名であるかどうかは、まだはつきりしません。
前項で蘇民の話をしましたが、ソシモリがそれと関係があるのでは…。「ソシ」は蘇氏、「モリ」
は頭領という韓語ですから、ソシモリは「蘇氏の頭領(長)」と訳すことができます。蘇民に対し、蘇
の氏族の長(王)というのは、スサノオが氏族と民をつれて出雲に来朝したことを示すような気が
するのです。
出雲上陸後、彼の民はばらばらに居住させられました。しかし、スサノオの民であることを常に
誇り、お互いに識別しあつたのではないだろうか。後世になつて、この識別の札が災厄除けの札と
変化するのだろう。蘇は牛だという人もいる。スサノオはウシ王すなわち牛族の長であつたから、
蘇=牛と考えると分かりやすいです。ちなみに現代の朝鮮半島人名にも蘇を姓とする蘇氏の方が、
いられることをお知らせしておきます。
副題を大国主神=継体天王説入門としたのは、知識が入門程度という意味で、さらに知識の有る方
に中級編・奥義編を書いていただきたい。その中ではソシモリの解釈ももつとはつきりしたもの
になるのではないですか。
五十猛神(イタケル・有功(いさおし)の神)
スサノオガ高天原から追放された時、ご一緒にお連れした子息が、五十猛神です。
別名大屋毘古神(大は尊称・弥彦神)とも申し上げるのですが、古事記がその業績を書いていない
のに対して、書紀の一書には「いさおしの神」と高く評価していました。
そのわけは次ぎのようなものです。
-【はじめ五十猛神が天降られたとき、多くの樹の種子をもつて下られた。
しかし韓の地にはうえないで、全部もつて帰られた。そして筑紫からはじめて、大八州国全体にま
きふやしていつて、とうとう国全体を青山にされてしまつた。だから五十猛命を有功の神というの
である。これが紀伊国に鎮座しておられる大神である。】-
この文章の中でイタケルは、命(みこと)から上位の神に昇格していることが分かりました。
なぜ紀伊国に鎮座しているのかについては一切説明がない。説明できないことがあるという解釈
をしておき、後で驚きの結果を伝えることにします。書紀の高天原はお釈迦さまのいらつしゃる仏
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教の兜率天(極楽)をモデルに僧侶の考え出した世界だといわれますが、編纂に当たった僧侶たち
にとつてイタケルの業績は高く評価されたのでした。なぜでしょう?
日本列島は照葉樹林帯に属し太陽の温かさと雨量に恵まれて、太古の昔から樹木がありました。
地球は何千年規模で温暖期・寒冷期を繰り返して、その温暖期の紀元前五千年ころには青森県三内
丸山遺跡で栗の樹木の栽培がおなわれていたという。縄文時代には人々は狩をして、山野に住む
鳥・鹿や猪の捕食をしていました。狩の道具・矢じりの石鏃は遺跡から多く出土します。動物の住
処となる森林はイタケルの来朝以前から、存在していたのでした。
「スサノオが高天原の田の畔を壊したり、灌漑用の溝を埋めたりした。」と書かれているので、
イタケルも米作りが始まった以降の神であることは明らかではありませんか。ではこの蒔かれた種
子はなんでしょうか。書紀の編纂に当たった僧がこの神を強く賞賛したのは、種子を播き広げたこ
とでした。
この種子こそ、仏教の「種子」だろうと思います。筑紫から始めて全国に種子をまかれたのは、
仏教の布教に行脚されたことを意味するのでしょう。「筑紫から」とありますから、まず最初に九
州、それも倭国大豪族大伴氏の根拠地である九州西部の地に布教の種子をまかれたのではないかと
推測するのです。のちほど、裏づけとして銅鋺(どうわん)出土地をたずねてみることにしましょ
う。なお巻末付録として銅鋺出土地一覧表をつけているので活用してください。
種子:いろいろな仏さまを一語の梵字で表現する仏教用語
スサノオ一族の貢献
書紀・別の一書にはつぎのようにも伝えていました。
-【スサノオは「韓国の島には、金銀が満ちている。だからわが子の治める国からそこに渡ろうに
も、舟がなくては渡ることができまい」といわれて、お顔のひげを抜いてまかれた。すると杉にな
った。また胸の毛を抜かれてまかれた。これが檜になった。
-中略-
そしてつぎようにいわれた。
「杉とくすのきは舟を作る材料とせよ。檜は瑞宮(みつのみや・美しい宮)を作る材料にせよ。
槙は墓所の棺を作る材料にせよ。また食料としての木の実をたくさんまき植えよ」と。
このスサノオの御子神を五十猛命と申し上げる。
この神の妹には大屋津姫命、つぎに抓津姫命(つまつひめ)がある。
この三はしらの神もまた樹木の種子をまかれた。そこで紀伊国にわたし奉つた。】と。
前段はスサノオが身を削って、樹木を育成されるさまが書かれていました。
本来は下段のように「樹木の種子」をまかれたとしていたのでしょうが、神様らしく、ひげとか胸
の毛とか神秘性をもたしたものです。
この種子が仏教でいう「種子」であることは前項でも指摘したところでした。
スサノオ一族は挙げて、仏教布教に貢献したのです。
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でも列島には固有神の宗教があり、この宗教を堅持しょうとする豪族たちの勢力は非常につよい
ものがありました。スサノオ一族は苦労をしたのでしょう。のちに仏教界から恩人とされ、寺院の
守護神としてこの一族は待遇されます。スサノオや大国主また五十猛命を祭神とする神社は、列島
の北から南の端まで存在する、その理由のひとつが寺院の守護社祭神なのです。
この一書のなかに、重大なヒントが入っていました。「わが子が治める国」という言葉です。
わが子というのは大国主を指すのでしょう。大国主は八十神を打ち払つてこの国を平定し、出雲か
ら大和に上って王位を引き継ぎ、国を治められた方で天皇位に就かれた方なのでした。
そのことがここに「わが子が治める国」として表示されています。
大国主はスサノオのご子息でした。紀記には大国主はスサノオの五世孫とか六世孫などと書いて
いますが、系譜を古くみせかけるためのごまかしの言葉なのです。
わが子が天王位についたのでした。このことは大国主の章でもつと詳しくお話しましょう。
さて、スサノオはおつしゃいました。「~舟を作る材料とせよ。~瑞宮(みつのみや・美しい宮)
を作る材料とせよ。木の実をたくさんまき植えよ。」と。だれに向かって言っているのでしょう。
スサノオの一族はもちろんのこと他にも命令を受ける民がいたのです。スサノオは彼の民を率いて
きたのでした。それらの人々が、スサノオさんの命を受けて種子をまくことに努めたのです。
この国を青山とするために。
五十猛命のモデルは元北燕国皇太子 馮王仁
五十猛命が種子をまきはじめたのは、筑紫すなわち九州からでした。だから彼は出雲から九州へ
移動していたと考えられます。自発的ではなく、倭国の大豪族大伴氏への人質として連れてこられ
たのかもしれませんが、その後現地で仏教の布教に成功し、大伴氏の仏教帰依に大きく貢献しまし
た。まさに有功の神であつたのです。
日本列島が仏教国になる最初のきっかけ大豪族大伴氏が仏教に帰依したことだつた。
仏教に帰依した豪族と古来の神を尊崇する豪族の間に戦いが起きるのは、五世紀末。
宗教戦争を制する大きな原動力になつたのは、この大伴氏の仏教帰依です。後に詳しく説明しま
す。
神話の五十猛命を歴史上の実像に当てはめると、馮 弘が高句麗の地を退去したときに一諸に出雲
にお連れした元の北燕国皇太子馮王仁だろうと思います。
馮王仁の名前は高句麗本紀長寿王の二十六年条(438年)に出ています。
-【王は使者を遣わし、竜城王の馮君は、野宿することになって、さぞ兵馬も苦労なさつているこ
とでしょう。といつて慰めた。(中略)… 弘はわが国をあなどり、その政治・刑罰・報償などは
燕国のままであつた。そこで王は彼の近侍を奪い、彼の太子の王仁を人質とした。
弘はこのことを怨み、使者を宗に派遣して迎えを求めた。】-(三国史記)
二十六年条がどれくらい正確な情報を伝えているかは分からない。出雲神話では高天原を退去す
るときには、スサノオが息子の五十猛命を連れて出雲に下ったと書いているので、この五十猛命が
王仁であると思います。出雲に渡来してから倭国の軍によつて河内に連行された民とは別に九州の
地に人質となつていたのでしょう。環境にめげず宗教の種子を少しずつ蒔き散らしていきます。
もちろん、馮王仁だけが布教に当たったのではなく、馮 弘一族と彼の民たちが迫害を受けなが
らも、釈迦の教えを説く努力を惜しまなかったのでした。五世紀後半のこうした努力はすこしづつ
報われ、おおよそ50年の長い時間をかけて倭国豪族の中に徐々に帰依者が増やして行きました。
こうして、仏教に帰依していつた倭国の豪族は大伴氏・蘇我氏・物部氏など六世紀に存在した豪族
です。五世紀末に消えていった豪族は仏教を排斥し、布教に抵抗した人たちなのでした。
25
第5章
日本列島の「仏教の広がり」
前章の仏教帰依者の中に物部氏の名があることに違和感を覚えた方もいるだろうと思います。
「物部氏は仏教布教に反対していたのではないか。」いいえ近年、高句麗様式の素弁蓮華文瓦を出
土する渋川廃寺の調査によると、物部氏の寺の可能性が高く、書紀の記述に疑問符が付けられたよ
うになりました。
そればかりでなく、書紀六世紀代の仏教記事はいずれも古い時代の出来事を、仏教公伝とされる
「書紀欽明紀十三年条の百済から釈迦仏伝来」以後に移し変えたのではないかという推測がされる
のです。少なくとも五世紀末の継体天王擁立時に、物部氏は蘇我氏や大伴氏とともに継体側に参加
し、葛城氏・紀氏・吉備上道氏・下道氏・筑紫君などと倭国豪族を二分する戦いを、列島各地で繰
り広げたのでした。これは列島の宗教戦争なのです。物部氏は仏教に帰依していたのでした。
仏教史を書いた田村圓澄氏は、五世紀後半での仏教伝来を肯定して「私伝として仏教が伝来した」
とする。「百済から入ってきたのではないか」というのは、紀の「日鷹吉士が引率した鞍部ら新漢
人」記事に準拠した考えでしょう。
いずれにせよ、仏教の伝来時期が以前考えられていた時期よりはるかに遡るという史実が認められ
てきているのです。この章では、紀・記の仏教関連記事が信用できないことを取り上げ、なぜそん
な操作をしなくてはならなかつたか、問題点に迫ります。
列島に出土する銅鋺
銅鋺は仏様や僧侶に奉仕する斎(とき)の道具として使用され、最初は輸入されたと思われます
が、後には鋺師公(まりしのきみ・高句麗系渡来氏族)らの手によって国産化されていきました。
この銅鋺の出土と年代は、列島の中で仏教がどのように浸透していつたのかを知る手がかりになる
でしょう。巻末に付録として古代銅鋺類所在地一覧表をつけました。
この中、番号73 熊本県不知火町・国越古墳は直弧文装飾石棺に高台銅鋺が共伴し、同様に番
号72佐賀県唐津市島田塚古墳では眉庇付き冑に高台銅鋺が伴ないます。いずれも調査者によつて
6世紀前半の年代がつけられていました。 装飾石棺は4世紀後半の大阪府柏原市・安福寺石棺を
最初として、主として九州および福井県にまとまりがありました。
5世紀代に盛行し、一部6世紀にも存在する中で国越古墳は、直弧文が装飾されている石棺の出
土年代としては、最後尾に位置します。同時に出土した須恵器は陶邑編年Ⅱ形式1~2とされるの
で、6世紀前葉といつてよいのでしょう。装飾石棺や装飾石障(石のついたて)は石室に絵を描く
壁画よりも前出するといいますから、同じく6世紀前半とされる壁画古墳のチプサン古墳よりは一
段古い時代の古墳であることは確かなことです。
この古墳に眠る人物が、仏教崇拝者だつたことは銅鋺の存在から推測できますし、恐らく生前か
ら仏前へ捧げる道具として愛用していた品に違いありません。あるいは故人の父から譲り受けた伝
世品かも分からない。いずれにしても、この古墳に眠る故人が愛用していたのは、5世紀後半代に
なるのでしょう。生前に仏教に帰依し、その後亡くなったと思われるからです。
これは、新しい宗教が九州から他の地域に波及していつたという証拠となるものです。島田塚古
墳は前述したように、眉庇付き冑と銅鋺が供伴しました。5世紀倭国豪族の儀礼用であるこの冑は、
列島と半島南部から出土しています。
畿内王者の金銅製冑を頂点に、四方白(飾りの一種)冑(長野県妙前大塚古墳など)豪族の地位と
位に応じて倭国大和政権から下賜されたものといわれ、列島の各地から発掘されました。この冑を
出土する古墳は、湯山6号墳(鳥取県)の5世紀前半、西小山古墳(大阪府泉南)金銅装冑の5世
紀前半~中出土を始めとして5世紀後半~末に出土が集中します。二本松古墳(福井県)の眉庇冑
が6世紀初にかかるか?という中で、島田塚古墳出土品の6世紀前半という年代はこれまた最後尾
であろうと思われます。
26
でも、面白いでしょう。倭国はこの時代、すでに崩壊していましたから、倭国の儀礼用冑は不必
要だつたでしょうに、それを捨てずに持つていたのでしょうか。
その冑と銅鋺が一諸に出土したお陰で旧倭国豪族が仏教に帰依していたことが分るのでしょう。
島田塚古墳の主も、生前に帰依していたものと思われますから、6世紀初頭ころまでにはこの地に
布教の波があつたものでなくてはなりません。初期の銅鋺の分布がいずれも九州で、それも生前を
考えると5世紀後半代に遡ることは書紀の記載と大きく異なります。
銅鋺の出土年代をさらに後の時代まで見てみると、6世紀前半~中期の宮山古墳(三重県南勢町)
や6世紀後半では、殿塚古墳(千葉県横芝町)、丸山古墳(千葉県木更津市)将軍山古墳(埼玉県
行田市)など関東を中心に多くの古墳から出土してきますし、7世紀にはいると東山1号墳(兵庫
県和田山町)、黒本谷古墳(鳥取県智頭町)のような中国山地の奥深い土地の古墳にも、銅鋺の出
土があるのです。
この銅鋺をみると、九州から畿内にさらに関東に段階的に波及したようにみえますが、新漢人の
居住場所が畿内にあるのですから、時期の差はあつても九州と畿内は同じように布教拠点になつた
のでしょう。そうした拠点からから徐々に仏教は人々の中に広がっていき、6 世紀前期から6世紀
中にかけてその波が加速的に浸透していつたのだと思われます。
畿内では7世紀初頭から、銅鋺を摸した須恵器が出現してきますし、銅の輝きを真似て磨きを掛
ける土器、(暗文土器)が生産されるようになりました。これは仏教の大衆化が進む現象なのでは
ありませんか。また仏教葬儀としての火葬は、窯塚(火葬古墳)として:現在し、その分布は大阪
府堺市、和泉市、茨木市、滋賀県蒲生市、兵庫県小野木、香川県、岐阜県、静岡県西部にあります。
「窯塚は、6 世紀後半から 7 世紀初頭に形成されており、文献上にあらわれる僧道昭の文武 4 年
(700)の火葬例以前に、火葬が採用されていたことが確実になった。」(森浩一 1959)古墳辞典より)
こうした考古資料を見ると、書紀の記事よりも早い段階で、仏教信仰が大衆段階にまで広がった
のではないかと思われるのです。
書紀廃仏記事のからくり
前項では銅鋺の分布と年代をみてきした。この年代は日本書紀の仏教に関係する記事と大きく
違っています。これが本書の大きなテーマである「列島の宗教戦争」を隠すためであることは前に
も述べていました。すこし、細かくみてみることにしましょう。
仏教伝来が記載されていた書紀欽明紀は慣例の大歳(即位の年)記入がなく、また即位年齢・崩
御年齢が判明しない特異な天王紀です。
書記即位前紀十二月条には「天皇の位におつきになった。時に御年若干。」(欽明即位元年)
欽明三十二年夏四月条には「天皇は大殿におかくれになつた。御年若干。」と。
書かなかったのではなく、書けなかった事情があつたのでしょう。
したがって欽明紀は何年から始まり、何年に終わったか分からず、年代が信用できません。
いろいろと後で話はでてくるでしょうが、ここは仏教関係だけをとりあげて、どのように記事が作
り上げられているかをお話します。
-【欽明十三年(552 年?)冬十月、百済聖明王は金銅釈迦仏一体、幡蓋(はたきぬがさ)若干、
経論若干巻をたてまつつた。-中略- このとき天皇は「礼拝すべきか否か」と群臣におたずねに
なつた。蘇我大臣稲目は、「外国の諸国がみな礼拝しております。日本だけがそれに背くべきでは
ありますまい」と申し上げた。
物部大連尾輿と中臣連鎌子とは、ともに、「わが国家を統治される王は、つねに、天地の神々を
春夏秋冬にお祭りになつています。今それを改めて蕃神(仏)を礼拝されるならば、恐らくは国神の
怒りをうけることでしょう。」と申し上げた。そこで天皇は礼拝を願っている稲目に授けて試みに
礼拝させることにした。稲目は向原の家を喜捨して寺とし、一心に悟りのための修行をした。とこ
ろがその後、疫病が起こり人民がつぎつぎに死んだ。
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物部大連尾輿と中臣連鎌子が「あのとき、私どもの方策をおとりあげななかつたから、このよう
な病死がおこつたのです。いまならまだ遅くない。もとにもどしたらきつとよいことがありましょ
う。早く仏を投げ捨てて、後の幸福を求めるべきです。」と申し上げた。
天皇が「申し出のとおりにせよ」といわれたので、官人らは仏像を難波の堀江に流し棄て、また火を
伽藍につけ焼きつくした。】-
万世一系の天皇像をを求めるために
仏法が列島に渡来して、倭国豪族の反対もなく皆が信仰を受け入れたのではないことは分ってい
ました。しかし倭国から日本国に変わった事情はなんとしても隠すことが必要でした。新漢人たち
が五世紀後半から末にかけて仏教の布教を行い、豪族たちを仏教に帰依していき、ついには豪族同
士の争い、すなわち異国の宗教に反対する豪族と宗教戦争を始めたとは書けない訳があつたのでし
ょう。
後の天武天皇(本書では天智天皇以後は天皇それより前は天王と表記)はアイデンテイーを万世
一系として、神代から一つの系統王朝が続いたという説話を求めました。そのために、百済仏の到
来した紀年を仏教の最初の渡来年として、すべての仏教記事をこの後に移動してしまつたのでした。
欽明十三年という仏教渡来年代もまた、あやしいものです。いまではこの年代も否定されている
のが一般的な通説になりました。ここに書かれていた廃仏記事も五世紀後半に起こった出来事を、
時代と豪族の名前を変えて、百済仏渡来の記事の後にとりつけたものでしょう。仏教渡来時の反仏
教豪族を、ここでは物部氏と中臣氏の二人にしていました。しかし、後に述べるように物部氏は仏
教帰依者として、継体天王擁立に参加していますからこの記事はおかしいものです。
物部氏は滅亡していますから(崇峻天王即位前紀(587 年)条)、これ幸いと廃仏の張本人に仕立
て挙げられたのです。本当は仏教帰依者だつたのに。五世紀末に滅亡したり、半島に引き揚げた氏
族こそが仏教に反対した勢力なのに誤ったことが書かれたのでした。継体天王擁立に物部は参加し
ます。そして大伴氏と物部は協力して宗教戦争を戦いました。その状況は後ほど出てくるでしょう。
そんな物部が仏教に反対するわけがないのです。六世紀から七世紀前半の書記の記載については、
信用できる記事がない。物部の滅亡年月も信用できない。紀記載よりももつと後かもしれない。
平安時代の「四天王寺本願縁起」には-【物部守屋の子孫従類二百七十三人を寺の永奴婢とし、没
官所領、田園十八万六千八百九十代(一代、5歩・250歩、一段)を寺の永財と定めた。】-と
ありました。
物部の残存した人々が奴となつたのです。ところで、四天王寺の建造は飛鳥紀の法隆寺の後だとい
うことが、瓦の研究から判明してきています。物部の滅亡年月は587年ではなくて、七世紀にな
つて後の時期かもしれないのです。
もう一人の中臣連鎌子については、この人物が藤原鎌足の別名であることを思えば「何故ここに
名前が出てくるか」ということを推定するのは容易です。まず書紀の編纂構成が僧侶によって行わ
れたこと。また壬申の乱終了後に行われたことを考えてください。鎌足はすでに病死しており、藤
原の後継ぎ不比等は、壬申の乱当時まだ十三歳、難を避けて母方の親戚山科田辺史大隅の家でかく
まわれているところでした。
憎むべき法敵の鎌足を貶める絶好の機会なのです。鎌足が僧侶を殺したのが憎まれる理由でした。
その事情はご存知の方も多いので、簡単にお話しておきましょう。【僧定慧は考徳天王の子息。天
王はこの子の行く末を案じ、わが子・定慧を鎌足に託して養育させましたが、なお不安を感じた天
王は、この子を自分の生存中の 653 年に、11歳で仏僧修行に唐へ送出し、御仏の加護を祈願し
たのでした。
この後、天王は国の安全と政治について、唐・新羅よりの現実的な政策をとろうとして、百済よ
りの姿勢を崩さない皇太子と対立していました。655 年ついに皇太子(後の天智天皇)は政権を奪取
して、百済支援に大きく舵をとつたのでした。しかし唐が半島に乗りだして来た時から、この政策
は無理なことだつたのです。
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日本の支援も空しく 660 年百済滅亡。
危惧する声を押し切って天智天皇は百済復興の企てに大軍を送り、663 年白村江の戦いに大敗を
してしまいました。定慧は在唐12年後の天智四年(665)九月、唐国使者・劉徳高の船に便乗
して、鎌足の家がある明日香の大原第に帰ってきます。
白村江の敗戦後間もないこの時期、定慧がなぜ明日香に帰ってきたのか。死を覚悟しての帰国は、
天智天皇の失政指摘になる一方で、現実的な対百済政策を執った父・考徳天王の顕彰を狙ったもの
だつたのでしょうか。父の意志は「僧侶として仏に仕え、天寿をまつとうせよ」であつたはず。そ
れに反して、何故この時期に帰国して来たのか・・止むにやまれず強く彼を帰国へと動かしたもの
は、父・考徳天王への想いがあつたのでしょう。
彼本人にそういう意図がなくとも、彼の存在そのものが人々にそのように受け止められてしまい
ます。同年十二月定慧は毒殺されました。明日香に帰りついて僅か三ケ月の命でした。
百済人によつて殺されたとされています。
この百済人が大原第の召使を指しているのではないでしょう。もつと上層部の人たちをいうので
は。鎌足は帰化百済人だという説もありました。確証はありませんが鎌足が、天智天皇のために定
慧を殺したことはありそうなことに思えます。明日香の人々は悲運の僧・定慧を悲しみ、鎌足を憎
みました。この頃から明日香の地に不審火による火災がしばしば起こるようになり、連日連夜火災
が起きたといわれます。
僧を殺した鎌足は仏法の敵だつたのです。鎌足の別名、中臣連鎌子が仏教に反対する人物として、
廃仏記事に載せられたのはこうした理由からなのだと私は考えています。こうしてみていくと、崇
仏を実行した蘇我氏についても割り引いておく必要があります。天武朝の実力者・持統天皇は蘇我
氏の出身ですから、この方に「よいしょ」しないほうがおかしいのではないですか。
もちろん、蘇我氏は仏教に帰依しました。ただし蘇我氏だけではなく、仏教にもつとも早く接触
した大伴氏や物部氏も仏教に帰依したのですから、一氏族だけというのは、不公平といわなければ
なりません。それに廃仏記事にみる仏教帰依氏族は「大伴氏」だつた可能性があります。畿内から
大伴氏主流が退去し、九州に引き揚げたのは仏教信仰を巡る争いの結果なのでしょう。
ところで、蘇我氏の崇仏記事は前述した 552 年の記事だけではありません。敏達紀十三年条(584
年)と同十四年条(585 年)にある記事ですが、これは問題があるので、ぜひ見ておきましょう。
善信尼ら新漢人たちの仏教貢献
-【書紀敏達紀十三年(584 年)、九月、蘇我馬子宿禰は仏像ニ躯を迎え(鹿深臣[近江甲賀郡の豪
族]佐伯連[大伴同祖]の将来した仏像という)鞍部村主司馬達等・池辺直氷田を遣わし、播磨国で
僧の還俗した者で高麗の恵便をさがしあて、大臣はこれを師とした。また司馬達等の女(むすめ)
嶋(十一歳)を得度させ、善信尼とし、漢人夜菩(やぼ)の女・豊女、錦織壷の女・石女を得度さ
せ、禅蔵尼・恵前尼とした。馬子は仏の法のままに三人の尼をうやまい、氷田直と達等に託して衣
食を供給させた。 -中略- 馬子宿禰は、石川の邸宅に仏殿を造った。仏法の初めはこれからお
こつたのである。】-
この文章をなにげなく読んでいると素通りするかもしれませんが、書紀編纂者は「仏法の初めは
これからおこつた」と一行入れてくれたので、これがヒントになつています。
つぎの条文も一諸にみておきましょう。
これより約三十年まえの欽明十三年の廃仏によつて、仏像も寺の伽藍もなくなった(仏像は堀川
に捨て、寺は焼き払うとある。)後の欽明紀十五年条の記事には-【二月に百済は、下部杆率将軍
三貴・上部奈率物部烏を遣わして救援の軍兵をこうた。】-そして百済から派遣されていた官人の
交代を申し出た。「僧曇慧ら九人を僧道深ら七人の代わりとした。」】と。-
この年は 554 年で、この年以前にもまた以後にもお坊さんがいて仏法が行われ、僧たちの住む寺
があつたのではありませんか。「仏法の初めておこなわれた」という敏達紀十三年・馬子宿禰の記
事は、なんでしょうか。つじつまが合わないでしょう。つまり、この記事はもつと古い時代、欽明
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紀の百済仏伝来よりもさらに古い時代の出来事を、新しい時代に移しかえた条文だつたのです。
では、この達等の女・嶋や漢人夜菩の女・豊女、錦織壷の女・石女などの新漢人子孫たちが尼さん
になつたのは、いつの時代のことでしょうか?みなさんはいつごろのことだと思われますか。
この条文に播磨の国から高麗の恵便をさがしあて、馬子は師としたとある。元興寺縁起では、
「三
人の尼たちが高句麗の恵便とその妻法明について仏教を学ぶ」としています。
五世紀末、出雲地方に高句麗系氏族(高句麗・東沃沮・穢などの氏族)集団が上陸して来ました。こ
の騎馬を得意とする集団の上陸については次章でお話しますが、高句麗人恵便はこの一員として列
島にきたと思われるので三人の尼が法学を学んだ時期は、継体天王治世初期ごろと想像するのです。
達等の十一歳の娘のいる歴史上の位置は、585年ではあり得ない。というのがその理由でした。
乙巳(きのとみ)の法難
-【敏達紀十四年条(585 年)二月蘇我大臣馬子は塔を大野丘の北に立てて(寺を造つたことを示
す。)達等が取得した舎利を塔の柱頭に収めた。
三月、物部守屋大連と中臣勝海大夫とが、「疫病が流行して国民が死に絶えてしまおうとしてい
るのは、ひとえに蘇我臣が仏法を広めているからに違いありません。】と奏上した。
天皇は詔して、「明白なことなので、仏法を禁断せよ。」といわれた。奏上から約 1 ケ月後、物
部守屋大連は、みずから寺にいたり、胡座に坐し塔を切り倒して火を放ち、仏像・仏殿を焼いて、
焼け残りの仏像を難波の堀江に棄てさせた。そして佐伯造御室を派遣して善信ら尼たちの法衣をは
ぎとり、その身を縛って海石榴市(つばきいち・奈良県櫻井市)駅舎で鞭うつた。】
仏教が受けた最初の、僧尼にたいする法難です。ここにも、物部氏と中臣氏がでてきていますが、
基本的に欽明十三年条の条文に似ています。蘇我氏崇仏の後に疫病が流行すること、仏像を難波の
堀江に棄てることなどまったく同じで、条文の焼き写しといえるのではないでしょうか。中臣勝海
連は尊卑分脈・中臣氏系図にみえない人物で、もしかしたら作られた人かもしれません。本当に
585 年に行われたのかということは、まつたく信じられません。
この三年後の 588 年には、わが国最初の本格的な寺院、法興寺の創建が始まりますし、銅鋺出
土にみられるように 6 世紀中から後半には地方にも、さらに山間僻地にも仏教の影響が及んでいる
ことが認められますから、こんなに仏教信者がいるときに法難が起きるわけがないではありません
か。乙巳年の法難記事も本来の位置からずれているのでしょう。
元興寺縁起には「乙巳年に廃仏があつた」と記されています。乙巳年を 585 年と、とらえて書
紀の記事にしたのでしょうが、それよりも2巡りの 120 年遡った 465 年すなわち5世紀後半の出
来事ではないかと思うのです。馮弘とその民は 5 世紀中に出雲に上陸しました。それから地道に仏
教の種子をまいたのです。そんなときに法難は起きたのでしょう。
仏教徒が少数のときに法難は起きますし、5 分 5 分
になつたとき、宗教戦争が起こりました。仏教徒が大
多数になったときは法難を宣伝に使うのかも知れま
せん。もうすでに 6 世紀末ごろは大衆布教の段階に達
していたのです。銅鋺を摸した須恵器や土師器が大衆
の需要を満たす時期に、法難が起きるなんて信じるこ
とはできないのでした。
「銅鋺(左列)とそれを模した七世紀初頭の土器(右列)」
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日本列島では五世紀後半の法難のときから、倭国豪族の中に亀裂が起こりました。
その溝は時間とともに大きくなり、大伴氏の九州引き揚げとなつたのです。書紀には面白い記事を
応神紀に載せているのですが、これが次ぎの時代の予告ととらえたほうがよいでしょう。
-【応神紀九年条「武内宿禰の弟の甘美内(あましうち)宿禰は、兄を廃しょうととして、天皇に
讒言し、『武内宿禰はつねに天下を望む野心をもつております。いま筑紫にあつて、ひそかに謀っ
て、《ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、その上で天下を支配しょう。》と言った
と聞いています。』と申し上げた。そこで、天皇はただちに使者を遣わされて、武内宿禰を殺させ
た。】-この記事の中で、重要なところは<ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、そ
の上で天下を支配しょう。>ということなのです。武内宿禰は大昔の人で、五世紀の人物ではあり
ません。
大伴氏の名を隠すため、書紀がすり替えた名前ですから、大伴氏と読み替える必要があります。
大伴氏は五世紀後半に九州に引き揚げました。畿内での宗教をめぐる紛争によつて、倭国政治と決
別したのです。そして九州以西を分割して、支配する望みをもちました。そのうえで継体天王の支
援に応じたのです。倭国の豪族として仏教の国である倭国を建設する意欲をもつたのでした。
書紀は仏教の広がりを隠している。
書紀は古い時代の出来事を六世紀後半に移し変えるということをしました。仏教が広がってその
勢力を背景に、継体王朝が出現したということを隠したいと思ったのです。だから出雲で育つた継
体天王を越前で育つたことに変えたり、物部氏や中臣氏を反仏教派に仕立て上げたのでした。本当
は五世紀末の戦争の結果、滅亡する葛城氏・吉備氏・紀氏などが反仏教派だつたのに。
見ていただきたいのは、中臣氏の経歴について書かれていること。「中臣。おもに神祇職を担っ
た上級氏族。・・中臣氏が宮廷に進出し、地歩を築くのは六世紀前後で、継体天皇の支持勢力とな
り、おもに祭祀・儀礼を職掌としたことによる。」(佐伯有清編「日本古代氏族辞典」)
中臣氏は六世紀前後に中央に進出し、継体天王の支持勢力であつたと書いてあります。物部氏も
中臣氏も継体天王出現時に、大伴氏や蘇我氏と並んで支持勢力として葛城氏らの反対勢力と宗教戦
争を戦ったのです。そんな氏族が仏教に反対するわけはないでしょう。それよりもむしろ中臣は、
仏教と神道の融合に力を発揮した氏族だつたのです。日本で仏教は神道と摺合し、互いに守護神・
守護仏となり氏族の氏神として共存していつたのでした。
宗教戦争という大きな戦いを経験した後の民族の知恵として。
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第6章
「倭国豪族分裂と騎馬民族の上陸」
継体天王はウシ王の子(上宮記・書紀では彦主人王(ヒコウシ)の子)で、出雲に上陸した馮弘の
虚像・スサノオの別名、牛頭天王・午王に適合するものです。つまり、ウシ王に擬された馮弘の子
がオオドであつたのではないか。
継体天王の生年は、即位年507年に58歳であつたというから、書紀の記載を信じて五世紀中
ごろの生誕でしょう。そうすると馮 弘が日本にこられて、稲田媛を娶り生んだ子がオオドであつ
た可能性が高いと思うのです。書紀はオオドが母の振媛の故郷「越前国高向(福井県坂井郡丸岡町
付近)」で53歳まで育つたと書きました。それは本当のことでしょうか。
いくども越前に足を運びましたが、足羽山公園山頂に立つ彼の銅像があるだけで、ここに継体天
王の影はありません。丸岡町付近の広域首長墓・松岡古墳群は何代も続く領主墓でその中の二本松
古墳出土の王冠は、倭国構成国・伽那の系統に繋がります。氏族は武内宿禰後裔とされる生江臣か
いるところでした。書紀の書いている継体天王の故郷が、越前国・高向なのは信じられる話ではな
いのです。
それよりも、継体天王出現のときに外国から騎馬民族を招き入れたという話をいたしましょう。
騎馬民族の上陸地点は出雲で、この点からも継体天王の故郷は出雲であると考えられるのです。
倭の五王の時代
五世紀に中国史書にみえる倭国の王は五人で、それぞれ中国南部の漢人王朝に朝貢し、国の主権
を除(任命)せられることを望みました。
倭国は当時、朝鮮半島において高句麗と敵対し、互いに半島の覇権を争つていたのです。
だから、倭国の大王は後ろ盾となる中国の冊封を求めていたのでした。
403 年に「北の新羅」(都は現在の元山近辺・東沃沮、穢、辰韓で構成される国)から倭国に差
し出されていた人質・新羅王子未斯欽が 418 年倭国から逃亡するという事件が起きます。高句麗
の長寿王が圧力を掛けた結果ですが、それだけにとどまらずに高句麗はこの国を吸収併合してしま
いました。
四世紀初めに建国し、倭国と高句麗の争いに巻き込まれ、ときには倭国の敵となつたり、ときには
倭国に人質を派遣して朝貢した「北の新羅」(隋書にみえる新羅)は国号も消え、高句麗に属し統一
されたのです。
三国史記地理ニに、冥州郡(江原道)地名は【高句麗の地名であつたのを景徳王の時代に改名
した】としています。冥州は穢の古国(古今郡国志)なので、ここが高句麗の地名ということは「北
の新羅」は高句麗に吸収され、地名も高句麗の地名に変更されたということが分るのでした。
倭国に人質を派遣し、朝貢していた国が高句麗の圧力で統一されたことは倭国にとって戦略上大
きな痛手です。それまでしばらくの間、平穏であった半島はにわかに騒がしくなり、倭国と高句麗
の紛争は続いていきました。新羅本紀463 年条には「倭人がしばしば領域に侵入するので、国境
地帯に二城を築いた」という記述があります。
隋書にある新羅の構成国には「辰韓」がありました。この国のの南には倭が接することは、中国
史にも書かれていました。つまり北の新羅の南には倭人国があつたのです。国境を境に接していた
国が、高句麗に吸収されるという重大な局面になつていきました。このために倭国は中国の漢人王
朝に朝貢し、外交努力をします。また高句麗も北朝の魏・南朝の宗の両方に朝貢して、対抗したの
でした。
五世紀代、中国史書に現れる倭国王は五人、讃・珍・済・興・武の一字名をもつて表現され、讃
と珍は兄弟、珍と済の関係は親子(梁書)、済と興・武は親子です。これを日本書紀記載の大王名
に当てはめるのは無理がある、書紀の即位年代と中国史書に書かれている年代とはまったく合致し
ていないのです。書紀に書かれている帝紀をあれこれと修正しない限り、中国史に描かれている五
32
王に比定することはできません。ここでは一字の名を持つ王として話を進めて行きましょう。
◇ 高祖(宗の武帝)の永初ニ年(421)倭讃、万里貢を修む。 除授を賜うべし」
◇ 太祖(宗の文帝)の元嘉二年(425)倭王讃が表を奉り方物を献ず」。
◇
〃 元嘉十五年?(438)讃死して弟珍立つ。使を遣わして貢献し、自ら使持節
都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称し、表して除正せられ
んことを求める。詔して安東将軍・倭国王に除する。珍、また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔
国将軍の号に除正せんことを求む。詔して並びに許す。
◇ 元嘉二十年(443)倭国王済、使を遣わして奉献す。また以て安東将軍・倭国王となす。
◇ 元嘉二十八年(451)使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加え、安東
将軍は元の如く、ならびに奉るところの二十三人を軍郡に除する。
◇ 世祖(孝武帝)の大明6年(462)済死する。世子興、使を遣わして貢献す。世祖(孝武帝)
詔していわく、「倭王世子興、代代すなわち忠、藩を外海になし、化をうけ境を安んじ、恭しく貢
職を修め、新たに辺業を受け継いだ。宜しく爵号を授け、安東将軍・倭国王とせよ」と。
◇ 順帝の昇明二年(478)興死して、弟武立つ。みずから使侍節都督倭・百済・新羅・任那・
加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王と称す.使を遣わして表を奉る 詔して、武を
使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に除した。
◇ 南済高帝建元元年(479)新たに進めて除す。使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓
六国諸軍事安東大将軍倭国王 武の號を鎮東大将軍と為す。南済書
◇ 梁高祖武帝天鑑元年(502)高祖即位して(倭王)武の號を征東将軍に進める。梁書
倭国大王が外交に熱心に取り組んだのは、それだけ敵となつた高句麗が強力であつたからといえ
ます。436 年高句麗は北燕国の要請をうけ、北燕天王馮弘とその民を自国に迎え入れるとともに馮
氏の都、竜城の武器庫にあつた精巧な武具を手にいれました。これで高句麗の軍事力は一段と強化
され、その影響力はただちに半島に現れて行きます。438 年倭王讃が死亡し、弟珍が継承した六国
諸軍事のうち、新羅については高句麗の圧倒的な軍事力のまえに国が吸収され、その回復は困難な
情になって来ていたのでした。
半島東部の戦線に倭国軍が手を拱いていたわけではありません。
463 年【倭人がしばしば領域に侵入するので、国境地帯にニ城を築いた】と。(新羅本紀)
失われた権益を取り返そうと倭人たちは頻繁に北へ攻め入ったのですが、回復することは出来な
かったのです。このときの国境はどこなのでしょうか。それは次ぎの文章から見るのが分りやすい
でしょう。468 年春二月、【高句麗王は悉直州城(江原道三陟郡三陟邑)を攻め落とした。】と。
463 年条に書かれている国境は悉直州城の北にあつたのでしょう。倭国連合軍は江原道三陟邑北
方の国境からも、続いて悉直州城からも撤退せざるをえませんでした。ここを撤退することで、倭
王が、せっかく中国の皇帝から除(任命)された六国諸軍事のうち新羅・秦韓の実質的な支配力は
失われていつたのです。
このとき半島で高句麗軍と戦ったのは、半島の倭国構成国の軍だと思われるのです。
「なぜか列島の軍は派遣されなかつた。」そこにひとつの謎がありました。
派遣できない理由について、武王は【倭王済(443~462 年)の時代、大軍を送り高句麗と雌雄
を決しようとしながら大王が死亡し、さらに兄も失つたために、その後478年まで喪中として兵
を動かしていない】としています。しかし、もうすでに倭国国内では豪族同士の争いがあり、かつ
ての倭国のように団結した一枚岩ではなくなつてきていたのが真実ではないですか。
半島西部では、475 年倭国同盟国の百済の都「漢城」が陥落し、百済王・王子・王妃らが高句麗
軍によつて殺されました。百済は都を熊津(公州)に移し再建されますが、このとき再建に尽力した
大伴氏と高句麗王になんらかの接触があつたのではないかとの歴史上の想像ができます。
倭国豪族の大伴氏が倭国の敵であつた高句麗と接触し外交交渉を行った。それがどの時点であつ
たかは定かではないのですが、倭国大王の統制下に有る豪族が大王の意思ではなく、独自の行動に
33
出たことは大王の権威の失墜でしょう。出雲への騎馬民族招請に大伴氏が係りを持つたことは否定
できないことでした。このことはまた後ほどでてくるでしょう。
なぜ大王が半島に兵を派遣しなかったのか、恐らく倭国豪族の分裂によつて列島の中で争いがあ
り、兵をまとめることが困難だったのです。列島の豪族の分裂は宗教の到来によって引き起こされ
ました。仏教に帰依した豪族たちと固有の神の怒りを恐れる豪族たちの争いは、当初は廃仏派の力
によって仏像が難波の堀江に流されるという事件になり、みぞを次第に深め国内紛争の状態になつ
てきたというのが、この時代の姿なのです。
廃仏派には五世紀最大の豪族葛城氏を初め、紀氏・吉備氏・平群氏・筑紫の君などが知られます。
仏教帰依派には大伴氏・物部氏や蘇我氏など、初めは廃仏派の力が強く圧倒していました。仏教帰
依派は粘り強く抵抗し、そのうえで騎馬民族勢力を列島に招き入れ、ついには倭国勢力を一掃した
のだと考えられます。
初めて聞く話でしょうか。いいえ、江上波夫氏が雑誌「民族学研究」掲載の座談会(1948)
の中で話されたことは、後に修正を重ねられて「騎馬民族征服王朝説」として完成されました。
最初の説に反対した学者も、修正論には次第に声を潜めていつたのです。氏が文化勲章を受賞され
たことはまことに喜ばしいこと。世に認められたということではないでしょうか。
騎馬民族を構成したのは、高句麗氏族を中心に旧新羅の民(東沃沮、穢、辰韓)だと考えられ、
本書では高句麗系氏族(騎馬民族)としましょう。彼らは倭国を侵略し、占拠する目的で列島に来
たのではありません。この高句麗系軍事勢力の到来を、キリスト遠征軍になぞらえて「仏教遠征軍」
と呼ぶこともできると思うのです。
列島が宗教国家になつたときは、帰国を予定した軍隊だつたのではないかと考えたほうがよいで
しょう。古代の人口希薄な時代に貴重な人的資源を他国に出すことは、高句麗王にとつて苦しい決
断だつたのです。さらにまた、高句麗王は列島の造寺を支援するため、黄金三百両を拠出して人
と物の両面で支援したのでした。
兵力を割くのは、自国の安全を脅かすことになります。それを犠牲にしてまで、強い意思を持つ
て東方仏教王国の建設に協力したのは高句麗王・長寿王の仏教に対する強い信仰心だつたのでした。
そして、仏教王国ができれば、東北アジアに平和が訪れると考えたのです。そのときには、派遣し
た軍隊は帰国してくるだろうと。
しかし、この遠征軍は情勢の変化によって帰国することができませんでした。列島に残留し帰化
の道を辿るようになり、日本人として暮らして行くようになります。残念ながら勢力を派遣した高
句麗は、この後国力を衰退し終には滅亡することになりました。後継国の勃海が「日本は兄弟の国」
(続日本紀)と呼ぶのは後の時代です。
高句麗系氏族の列島上陸
日本列島では、倭国豪族が二分して戦いを開始していました。宗教戦争です。
この戦いに援軍として、高句麗系氏族を招いたのは後の継体天王オオドであつたと思われます。
大伴氏の進言によるもので交渉にあたったのも、また旧来の倭国を引き継ぐ「倭国分割統治」の
密約をここで取り付けたのも大伴氏だつたのでした。オオドにとつては、仏教国家建設が大きな目
的でしたから、国土の分割などは意に介さないことでした。そのどちらの国も仏教国家になるので
すから。恐らくこのとき、二分し戦いを始めた豪族の勢力は、五分と五分だつたのではないかと想
像されます。だから大伴氏の進言に応じオオトは長寿王に働きかけたのでした。
それでは、このときの戦いに大きな勝敗の分かれ目となった高句麗系氏族の上陸時期についてみ
ることにしましょう。
狛江亀塚古墳の年代
多摩川中流域の東京都狛江市には、「狛江の百塚」と呼ばれた群集古墳がありました。
現在ではほとんどが壊されましたが、その盟主墓と見られるのが狛江亀塚古墳です。
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全長四十メートルの帆立貝状の短い前方部を持つ古墳のなかから金銅製飾板が出土し、そこに描か
れている竜・天馬・人物は「その構図や筆致が高句麗古墳の壁画に見るものと酷似している」
(大場磐雄氏)といわれ、高句麗からの渡来人集団主領のお墓と見られています。
(古代東国の渡来文化
埼玉県立博物館図録より)
またここから出土した「尚方作神人歌舞画像鏡」は六世紀初頭に建造された八尾市郡川西塚古墳
出土の鏡と同じ鋳型であるという。(小出義治氏)
河内国若江郡・大縣郡には巨麻郷名があり、それらの高句麗系氏族とのつながりがあつたものと
思われます。さてこの狛江亀塚古墳は、六世紀初頭遅くとも六世紀前葉の早い時期に建造されたと
考えられているので、この狛江集団の渡りの時期は、列島のある場所に渡来してそこに根拠地を作
り、さらにそこから分離して列島内を移動(転戦)多摩川中流域に領地を構えるに要した年数を古
墳建造年にプラスすることが必要でしょう。それは倭国王 武の治世年代と重なる時期といえます。
武王が中国南朝に使者を送り上表した478年には、兵を動かしていないとしていますから、そ
れ以後の約20年のうちに渡来軍団が、列島に来たのです。
倭国王武が激しい怒りを抱いた相手が列島に出現したのでした。だから倭国王朝に対して、友好
的に渡来して来たとはとても思えません。さらに、関東に来ている事は河内を始めその他の地域に
も来ていることでしょう。ここでは、高句麗系氏族の渡りの時期として五世紀の末を指摘しておき
ます。
書記武烈大王の行跡は新王朝の誕生を暗示する。
日本書紀は、六世紀初頭に暴虐な武烈大王を登場させてその悪事を数え上げました。
【妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった】とか【人のなま爪を抜いて、いもを掘らした】
また【人を殺すことを楽しみにされた】などなどです。これは真実のことではなく、中国史書の書
き方をまねたものなのでした。中国では前王朝の最後の皇帝が悪逆で天帝の怒りに触れ、その結果
王朝が交代したということを書きます。書くのは新王朝になつて書くのですからこれでもかと書く
わけです。書紀がそうした中国史書にならうことは、王朝が交代したことを暗示しているのでした。
そして次に列島を統治された方は、継体天王なのです。
当然継体天王は新王朝で、この時期に出現する高句麗系氏族と関係があるものとみなさなくてはな
りません。前王朝の敵であった高句麗系勢力が上陸した後に新王朝が誕生するのですから、新王朝
は当然これらの勢力と関係があると考えられます。
古代の列島において高句麗氏族は全国的に分布しました。各地に高麗神を祭った神社があります。
埼玉県の高麗神社、神奈川県大磯の高来神社、富山県富山市高麗神社、大阪府狛神社などの高麗名
や・各地にある氏族名の日置神社・多珂神社は日本社会の中に溶け込むほど長い歴史があります。
壁画で有名になつた上淀廃寺や日置前廃寺(滋賀県今津町)も高句麗氏族が造つたもので、壁画
については「六世紀前後の高句麗の技法を持つた画工集団が渡来し、七世紀末にそのニ、三世が上
淀廃寺の壁画を描く際、集団に伝わった技法を一部で使つたのでは(河原由雄氏奈良国博美術室
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長)」と六世紀(500 年)前後の古渡り集団を、ここでも示唆しているのです。
高句麗壁画技法は年代によってそれぞれの年代特徴があり、ふくよかな女性像は六世紀前後の技
法をよくあらわしています。渡来時期は分かりました。ところでこの氏族は日本列島の何処に上陸
したのでしょうか。海の向こうから来たのですから、まず列島の海岸地帯に根拠地を作ったのに違
いありません。
「海岸地帯で高句麗氏族が蜜集している所はどこか」を探すとそれは【出雲】でしょう。他の所
の高句麗族は出雲に比べ人の数が薄いと思います。だからここが渡渡来人の根拠地でしょう。それ
はまた、この時代に天王位についた継体天王とも密接な関係を有する場所なのです。書紀がいかに
隠そうとし、嘘を書いても史実ははつきりしているのでした。本書では、そのことを明かにし、み
なさんが追認できるように検証をしていくことにしています。
継体天王オオドは出雲で生育し、その後、出雲から高句麗系氏族や大伴氏などの仏教に帰依した
氏族を引き連れ大和に上って政権を奪取した人なのでした。書紀はオオドが出雲に育つたことを書
いていません。さらに高句麗系氏族の渡来記事など一切ありません。
書紀に書いてない高句麗系氏族の渡来について、幸いなことに出雲風土記や正倉院文書の天平十
一年(739)出雲国大税賑給歴名帳(福祉関係帳簿)出雲郡・神門郡条が現存して、これらによ
つて高句麗系氏族が出雲地方に渡来してきていることがわかります。大税賑給歴名帳(賑給帳)に
は老齢寡婦(寡夫)・自立不能者・精神薄弱など生活困難な人々に対する生活保護の受給者と戸主
の氏姓が記載されていますがこの中に認められる高句麗氏族名は日置氏、舎人氏、神人、刑部氏等
と考えられます。日置氏を見てみると、
(加藤義成氏作成より抜粋)
姓氏
出雲郡
神門郡
計
日置臣
0
1
日置部臣
49
11
日置君
1
1
日置部首
9
3
日置部
29
36
140
受給者の中で、日置氏は両郡合わせると最大の数であり、それだけ多くの氏族数がいたということ
です。
この氏族は姓氏録に次のように、
「高麗 日置造。男馬王裔孫・古君之後也」左京諸蕃
「高麗 日置造。高麗国人伊利須使主之後也」右京・大和諸蕃
「高麗 日置倉人。伊利須使主兄許呂使主之後也」大和諸蕃
「高麗 日置造。鳥井宿禰同祖。伊利須使主之後也」摂津諸蕃
「日置部。天櫛玉命男天櫛耳命之後者。不見」和泉未定雑姓。
と日置造が畿内にいます。
臣は造よりも位が高く氏族の長であるので、臣がいる出雲が日置氏の本拠地といえるでしょう。
日置部の祖としている櫛玉は奇魂(くしみたま)であり、書紀に海を渡ってこられた渡来神と書か
れ、大己貴神(おおなむちのかみ・大国主神)が列島を平定された時次のように言われました。
-【「もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来ただろうか。
私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」。
「そこで神宮を造り、大三輪の神と称えた」(日本書紀 神代紀)】-と。
これが日置部の祖先としている所です。この話は、出雲神話が高句麗氏族と関係があることを示
しているし、【この国を平定した】とされる時期は、古渡り高句麗氏族渡来時期(前出狛江市高句
麗氏族参照)の五世紀末頃で、この時期の話が出雲神話、大国主神段である可能性が高いのです。
36
この日置氏の別系に舎人氏がいます。【「日置臣志毘は出雲国意宇郡舎人郷の人で、倉舎人君な
どの祖。出雲風土記舎人郷条に、欽明天皇の世、大舎人として供奉し、ここに住んだので、舎人と
いい、正倉があるとみえる。」】-(風土記)と。
欽明天王の御世に中央官人として、天王のお傍近く供奉し奉ったのは、高句麗氏族でした。どの
ような事情で官人に採用されたかについては、後の話になります。意宇郡舎人郷を中心として住ん
でいる関係上、賑給帳にみえるのは、僅かです。また神人部は各地の大三輪神を奉仕した氏族で、
下記のように高句麗氏族です。
姓氏録 「神人。高麗国人許利都之後者。不見」和泉未定雑姓
「狛太首神人。天表日命之後者。不見」同上 (天穂日命は出雲の神・出雲臣の祖)、
狛族が出雲臣の同祖を名乗ったものでしょう。
また、刑部は渡来系氏族で編成された名代で出雲の刑部は、高句麗の可能性が高いのです。
姓氏
出雲郡 神門郡
舎人臣 1
0
舎人部 0
1
舎人
0
5
計 7
神人部 0
3
計 3
刑部臣 0
13
刑部
1
12
計 26
以上は賑給帳による出雲の高句麗氏族をみましたが、次に出雲風土記に出てくる豪族名を見てみる
ことにしましょう。
出雲国郡司一覧
郡 名
意宇郡
島根郡
秋鹿郡
楯縫郡
出雲郡
神門郡
飯石郡
仁多郡
大原郡
大 領
出雲臣果安父
出雲臣果安
出雲臣広嶋
社部臣訓麻呂
刑部臣
出雲臣大田
日置臣布弥
日置臣佐提麻呂
神門臣
大私造
出雲臣弟山
蝮部臣
勝部臣
少
領
主
政
出雲臣
社部石臣
蝮部臣
高善史
大臣
林臣・出雲臣
蝮朝臣
刑部
出雲臣弟山
吉備部臣
日置首
出雲臣
額田部臣
◇部臣
日置首
主
帳
海臣・出雲臣
出雲臣
日下部臣
物部臣
若倭部臣
神門臣、刑部臣
品治部
勝部臣
国府のあつた意宇郡の大領は代々出雲臣が勤め、楯縫郡・飯石郡にも大領を、仁多郡には少領、
同族の神門郡大領神門臣と合わせると出雲国の半数の郡司を出しますが、出雲国の中心出雲郡の大
領は日置氏です。後で話が出てきますが、ここと甲斐国・諏訪神社の地域は高句麗族が大和政権か
ら治外法権を獲得した場所なのでした。
その他にも、楯縫郡の少領に高善史氏、飯石郡・大原郡に日置氏が主政を出し、次に述べる継体
関係氏族とともに出雲国に広く分布していたことがわかるのです。
継体天王関係氏族
蝮部臣(たじひべ)は継体天王の孫上殖葉王を祖とする氏族(記紀)に関連し、仁多郡大領・秋
鹿郡少領を出していますし、島根郡の主政にもみえます。河内国の丹比氏(大国主の子火明命を祖
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とする・播磨風土記)とも関連する氏族で、出雲に大きな分布をみることができるでしょう。継体
後裔丹比真人氏と密接な関係があるのでした。なにもない越前と出雲を比べるとはるかに出雲の方
に継体天王の影があるのです。
意宇郡舎人郷(日置臣志毘が住んでいた前述)に建造された教昊寺は、上蝮首押猪の祖父である
教昊僧が造った寺(風土記)であり、風土記編纂時の天平五年(733)頃の当主祖父が教昊僧で
あることから、早い段階から仏教が伝わつて寺が建造され、出雲国が仏教先進国であるともいえる
でしょう。この寺創建時の瓦は上淀廃寺式といわれる瓦様式です。意宇郡には他に山代郷(日置君
目烈新造)山国郷(日置部根緒新造)と高句麗氏族が建造した寺が多く、出雲臣の膝元でもこの渡
来氏族の分布を見ることができます。
ではこれまでのところをすこし戻っておさらいをすることにしましょう。高句麗系渡来集団の上
陸地点と上陸時期は分かりました。それは出雲で、高句麗氏族と継体天王を祖とする氏族名を「賑
給帳と郡司一覧」から見てきました。
上陸時期は今まで見てきたことや倭国滅亡後、任那から独立した鶏林国の新羅襲名 503 年(韓
国李鐘恒氏の著書「韓半島から来た倭国」より)状況からみて、五世紀末ころのことであろうと思
われます。高句麗系氏族は継体天王が大伴氏の進言を受け入れ、出雲に招き入れました。
これが本当かどうか、別の視点でみてみましょう。
実は列島に来た渡来氏族が祭る自分たちの氏神が出雲神なのです。高句麗系氏族は出雲に上陸し
た後に各地に移動しますが、行く先々でお祭りしたのが出雲神のイタケルであつたり、大国主であ
つたりまたその子神たちでした。深く出雲と結び付いているのは、この地に最初に招かれ上陸し、
この地に王朝が樹立したことによるものでしょう。
渡来して来た高句麗系氏族の奉祭する神様が、出雲系の神様ということは面白いですね。その状
況は後にでてきます。出雲に誕生した王朝、それは「日本国」でした。原日本国といつたほうが良
いかもしれません。この国の読み方は「ひのもとのくに」だろうと思います。古代で「太陽」の国
は、日の光を受けて懐妊したという始祖伝説のある高句麗でしたから、その影響を受けた命名であ
つたのかもれません。
そして、日本国の旗印は三本足の烏だつたのでしょう。太陽の使い神とされ
る烏は古来より太陽信仰の国において崇められました。島根県美保関町美保神
社の青柴垣神事には、三本足の烏・八咫烏の神器が登場するという。神武東征
以前に八咫烏の思想が出雲に存在することに注目することも必要なのです。ま
た、出雲神を祭る熊野神社には、三本足の烏を描いた神旗が現在も用いられて
いました。
出雲の仏教王国の陣頭にかがげられた旗印・八咫烏の旗手の名は、姓氏録記載で分かります。
鴨県主の祖、賀茂建角身命でした。京都市左京区の下鴨神社の祭神さんで、この神社が出雲の神社
であることは一度参拝するとすぐ分かりますし、賀茂建角身命が出雲人だということも同様です。
書紀神武紀には、「八咫烏」が登場してきました。そして大和を征服した後に巡幸され、「なん
というをすばらしい国を得たものよ。」といわれました。書紀編纂者はその直後に「日本」という
言葉を二つ書き加えています。「日本は浦安の国」、「虚空見つ日本の国」と。こんな言葉は後世
に残されたヒントでしょう。
日本国が倭国を滅ぼした。その事跡は五世紀末の出来事でしたが、古い時代へと移動させられて
いました。神武は日本国の勢力を率い、大和を制圧したのではありませんか。段々とこの謎も解明
していきます。
騎馬民族を船で運んだのは誰だ?
騎馬民族が自ら船を作り、人・馬を載せて海を渡って来たのかという設問については、そうでは
ないと考えます。渡来した場面においての確証を得ることは困難ですが、大伴氏の息のかかった九
38
州の海族が彼らの渡海に協力したことが考えられるでしょう。青海首(あおみのおびと)、安曇族
(あずみ)、宗像族などの航海に慣れた氏族たちは、もちろん新しい宗教に帰依した人たちでした。
大伴氏の命令のもとに人馬の輸送に活躍したのです。少し後の時代、これらの九州海族は日本列
島に分布を広げました。青海首は日本海沿岸の各地に「青海」という地名を残していますし、安曇
族も同様です。宗像氏は主として瀬戸内海方面に進出しました。青海首は大和連と改名し、宗像氏
とともに中央官人となつたのです。
継体天王擁立派となつて、出雲軍の輸送にあたったその功績によるものでした。安曇族は長野県
に進出し、安曇の地名を残しています。海上輸送ばかりでなく、出雲軍に従軍し陸上戦闘にも参加
したのでしょう。これらの海族の活躍は原日本国が出来た後の出雲勢力支援の状況ですが、それ以
前の騎馬民族渡海に対する支援の状況証拠になるでしょう。
倭人の海族が操船し、曳航する船には初めて大海を渡る高句麗系人や軍馬が乗せられて、出雲に
到着したのではないでしょうか。宗像氏と出雲の関係も(姻族関係、大国主神は宗像神を娶って子
を作っている)このときに築かれたのではと思います。そして、九州に地盤を持つ大伴氏が、高句
麗系氏族を招くために大きな力を発揮したと考えられるのでしょう。
39
第7章
虚像の時代・大国主神と「国引き物語」
紀記が出雲神話の中で、書くことができなかったことがいくつかあります。その一つが「国引き
物語」でした。本来なら神話の中で大国主がいじめられ、生命まで奪われかけた後、国引きがあつ
て外国から氏族を招き入れる話が続くはずなのでした。しかし、そんな話は削除しなければならな
かつたのです。我々は出雲風土記という本によって紀・記が削除したところを見ることができたの
でした。
大国主は八十神の迫害を避けて根の国に行き、スサノオの太刀、弓矢を持ち出します。そして、
「その太刀・弓を持ちて其の八十神を追い避りしとき、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎に追い払
いて、国を作り始めたまいき」となつていました。その太刀と弓矢が暗示するものはなにか。恐ら
くこの間に国引きが行われたのです。国引きによつて、引きよせられた氏族の力を暗示するのでは
ありませんか。
なぜ国引きが神話に入らなかったのか。その訳は大国主に味方する氏族の存在を隠すためだつた
ようです。もう一つ重要な出来事も、削除しています。それは、国引きが行われた後に「大穴持命
(大国主の別名)の宮を造営申し上げようとして多くの神がその社地に集まつて宮を築かれた」(出
雲風土記杵築郷条)ということなのでした。敵対する八十神とは別に、大国主を盟主とする神々・
それも多くの神々が出雲に集まって、大国主の宮を建設しょうと働いたこと。これをなぜ紀・記は
書けなかったのでしょう。
理由は、出雲地方に大国主を首長とする一つの国家が誕生したからなのです。この国は仏教国で
した。これが日本国(ひのもとのくに)だと感じています。原日本国といつた方が良いかも知れま
せん。「日本もと小国。倭国を併せり。」と中国史書に記録される国です。前章で述べたように仏
教布教を支援すべく、外国から「仏教遠征軍」を招きました。これが「国引き物語」です。書紀は
大国主について、主要部分をすべて削除してしまいました。
出雲風土記がなかつたら、その辺の事情を知ることができなかつたでしょう。
神々の系譜が書かれている出雲神話
古事記の神話で神々の系譜が逐一書かれているのは、出雲神話だけの特徴です。スサノオから大
国主神に至る系譜、さらにその子孫十七世までの系譜。別に大年神の系譜があります。こちらは「海
を照らして依り来る神有り。」の条文の次ぎに書かれ、「故、その大年神(の子孫は)」として韓
神・ソホリ神・白日神・聖神など半島に起因する神々などの名がありました。
いつたい、だれが記録していたというのでしょうか
世代数をわざと間違えて書いているのは、「この系譜が作られたものだよ」という古事記編者の
ヒントなのかも知れません。それにしても、大物主神(書紀では事代主命の娘)の娘と神武は結婚
しているのですから、それ以後の神々の系譜は書く必要もないことでした。ここからは神話時代で
はなかつたはずですから。神々の名前を綴つたのは、スサノオや大国主神を古い時代の人物と見せ
かけるための細工だつたのでしょう。
書紀には出雲神の系譜は一切書かれていない。
スサノオが大蛇退治をした後、-【(稲田姫とともに)結婚の場所を求められて旅をされ、出雲
の清地(すが)に着かれた。そこで、「わが心清々し」とおうせられ、そこに宮を建てられた。そ
して両神は同棲されて、大巳貴神(おおあなむちのかみ)を生まれた。】-と。書いています。大
巳貴神は大国主の別名ですので、この条文によって大国主は、スサノオの子であることは、確かな
ことです。
実は書紀の別の書に「大国主はスサノオの六世の孫である」と異論が書かれているのですが、こ
れは信用できない。なぜなら神話の中で大国主の后となつたスセリヒメは、スサノオの娘です。結
婚する相手は同年輩でしょうから、六世孫であるわけはありません。紀・記では、大国主神に対す
るさまざまな偽装が行われています。スサノオと大国主神の間に、世代を入れて年代が離れている
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ように装ってみたりしました。出雲神話そのものが新しい出来事を、古い神話時代に移動したもの
ですからあちらこちらにほころびが出るのは致し方のないことでしょう。
ここでは大国主はスサノオの子という粉飾を取り去った基本的なお姿を提示しました。これは一
般の常識であつたかも知れません。そこから一歩進めて、出雲神話だけに系譜が書かれているのは、
なぜだと考えてみてください。その理由はスサノオも大国主も出雲神話そのものも、後世の出来事
を古く装うために神話の時代に移動したからではありませんか。
本書では、スサノオが馮弘で、五世紀中ころに出雲に上陸したとしてきました。この国を平定す
る大国主神はスサノオの子です。実像はだれでしょうか。五世紀中頃に生まれた人物、六世紀初頭
にこの国を平定し、天王位についた人物こそ大国主の実像ではありませんか。その人物の名前は?
誰!
大国主神と大物主神は別人
スサノオの子大国主には、いろいろな名前がついています。「大国主神の別名には、大物主神・
大巳貴命・葦原醜男(あしはらしこお)・八千戈神(やちほこのかみ)大国魂(玉)神、顕国魂(玉)
神(うつしくにたまのかみ)」(書紀の一書より)その他にも、伊和大神、大地主神(おおとこぬ
しのかみ)、奇甕魂神(くしみかたまのかみ)広矛魂神、所造天下大神(あめのしたつくらししお
おかみ)、三穂津彦神、幽冥亊知食大神(かくしごとしろしめすおおかみ)など(出雲大社由緒よ
り)この中には、大国主神と大物主神とが混同しているものもありました。神社によつて、同一神
としたり、別神としたり対応はさまざまです。
紀・記では大国主神を国つ神として、あたかも土着していた神のように扱っていますが本当は外
来神の子であるし、さらに遅れて出雲に渡来した大物主神とは、別人であることははっきりしてい
ると思います。その点から話を始めましょう。うえの名前の中でも、大物主神の別名がまぎれ込ん
でいました。奇甕魂神(くしみかたまのかみ)・三穂津彦神は大物主の別名ですから、これは大国
主の別名から除外しなければなりません。
紛れ込んだ理由は、書紀の「海を照らしてより来る神(渡来神)を自分の幸魂・奇魂(くしみたま)
とし、三諸山に住まわせた」ということや【(大国主神が)自分の和魂(にぎたま)を鏡につけて、
倭の大物主奇甕魂神(くしみかたまのかみ)と名を称えて、三輪山に鎮めよ。(といつた)】「出
雲国造神賀詞」ことによるのです。
神様にいろんな魂があるのはこれでわかりますが、別の場面(国譲りの場面)ではまつたくの別人に
なっているので、これはよく分らないことです。なにかの理由があるに違いない。紀・記は外来の
神の到来を大国主と同一神とすることで隠したのではありませんか。
次ぎの場面は後に出てくる「出雲氏族の国譲り」の場面ですが、いろいろな要素が入っているの
で、ここにかかげてみましょう。
【(大巳貴命は国譲りをした後)「私はこれでおいとまさせていただきます】と申しあげて、永久
にかくれてしまわれた。そこで経津主神(ふつっぬしのかみ)は国内をめぐつて平定され、命に逆
らう者があるとみな斬り伏せられた。反対に帰順する者にはみな褒美をあたえた。このとき帰順し
た首魁は大物主神と亊代主神とである。この二はしらの神は八十万神を天高市に集めて、この神々
を率いて天にのぼりその赤誠を披露された。時にタカムスビノミコト(大伴氏祖神)は大物主神に、
「もしお前が国神を妻としたら、余は邪心があるとおもうだろう。そこで、いま余は女の三穂津姫
をおまえにめあわせよう。後略」とおつしゃつた。】
大国主が永久に隠れることは、死亡されたことの暗示です。死亡された後に、残っていた亊代主
神と大物主神の話があるのですから、大国主と大物主は別人でなくてはなりません。このときに神
話では大伴氏祖神のタカムスビが、大物主神(遅れて渡来した神)に三穂津姫を与え婚姻関係を築
くとしました。三穂津姫の対象名が三穂津彦ですから、この名は大国主の別名ではなくて大物主神
の別名なのです。
本来別の人物であるのに、書紀がなぜか同一の人物としたり、ある場面では別人としているのは、
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しつかりと書けなかったからで、そのため、いまだに大国主と大物主は同一視されているのでした。
香川県仲多度郡金刀比羅宮は祭神を大物主神としており、古来は金毘羅大権現と称していたという。
金毘羅は仏法の守護者として薬師如来十ニ神将の一つクビラ大将であり、権現とは仏が衆生を教化
するため、人間界に仮の姿になって現れることをいいます。出雲の神々が仏法の守護者としてその
役目をしていることは大いに注目して良いことなのです。
金毘羅宮がどちらの神様を祭神にしたのか、それとも異名同一神としているのか分りませんが各
地の金毘羅神社には大黒天像を奉納している所が多く、混同されているのは明らかでした。大国主
は大黒天というシバァ神に権現しており、この神は憤怒相をもつ破壊と戦闘神であつたといわれま
す。大物主神は大国主とは別人で、大国主の子・亊代主神のひきいる神々と別の神々の首魁と思わ
れますから、この点ははつきり別けておきましょう。
この項では、紀・記が遅れて渡来して来た大物主神を、大国主神と同一神と装いたい事実を指摘
しました。これは史実である「国引き」を隠蔽する狙いがあるためではありませんか。紀記の神話
では、国引き物語を削除してしまいましたから、大物主神がどのようにして列島に、さらに大和(天
高市)にこられたかということが欠落しています。
前章では、虚像の時代に先駆けて実像の時代を描き、日本列島の出雲に高句麗系氏族の集団が招
かれて上陸した様子を示しました。大物主神は渡来して来た高句麗氏族の長ではありませんか。招
くにあたって、大きな原動力として活躍したのはタカムスヒを祖とする大伴氏です。神話の中、タ
カムスビが渡来神に娘三保津姫を嫁がせるのは、大伴氏と渡来高句麗氏族との絆を強める意味があ
つたのでしょう。
お互いに仏教徒として同一の基盤に依っていたのでした。紀・記ではけつして書けないこと、仏
教徒としての結合や団結がここに窺われます。渡来氏族の長と大伴氏の婚姻関係は一方的でなく、
大伴氏側から高句麗氏族の長に、また同氏族の長から大伴氏へと相互に婚姻したのでした。これは、
「大伴狛夫人(こまのいろえ)」の存在からもいえます。
こうした関係は、渡来氏族が出雲地方に上陸し、大国主の宮を築く前後と思われますから、神話
の国譲り後に三穂津姫の名が出てくるのはおかしい話だといわなければなりません。ここにも欺瞞
が存在するのでしょう。
出雲風土記の国引き物語
実像を知つた後で、「虚像の国引き物語」がどのように書かれているかを対象してみると面白い
のではないでしょうか。出雲国東部・出雲の政治の中心地である意宇(おう)郡の郡名伝承として
風土記に描かれているのが、国引き物語です。
【「意宇となづくる故は、国引きませる八束水臣津野命(やつかみづおみづぬのみこと)の詔り給
ひしく、「八雲立つ出雲の国は狭布の稚国なるかも…」(出雲の国は誠に狭く、未完の国だから継ぎ
足して大きな国にしょう)と、
【新羅の国を、国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【北門(きたど)の佐伎(さき)の国を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【北門の良波(よなみ)の国を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
【高志の都都のみ埼を国の余りありやと見れば国の余りあり・・】
と余りある国を「よつこらしょ」とお引き寄せになられた。
(新羅の国と北方の佐伎・良波の国は、外国からお引きになった。
(出雲の北方は外国しかないでしょう)。
高志は国内からそれぞれ国をお引きになつた。そして仕事を終えられて意宇の地で【おえ】と言
われたのが郡名となつた。)文学的高い評価を受けている国引き物語ですが、歴史として見れば国
を引く人物がいて、また引かれる国に氏族がいるわけです。無人の国を引いてきたのではないでし
ょう。そうすると外国の氏族、それも騎馬民族を招き入れる話が国引きなのです。
宗教布教のため、この国を仏教国にするための兵力が海を渡って招き入れられたのでした。
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まず新羅(北の新羅)の氏族、次に佐伎・良波氏族、これは出雲の北方といつているので、高句
麗氏族と考えます。北の新羅は高句麗に吸収されているので、本書では高句麗系氏族と一括してお
きました。騎馬民族でも分かりやすく良いでしょう、同じ意味を表します。引かれる国の一方を招
き入れた集団とすれば、次ぎの高志も越の国都都のみ崎ではなく氏族名と考えられるしょう。
出雲国神門郡には日置郷・古志郷があり、氏族の名を郷名とすることが多いからです。松江市か
ら佐太神社に行く道にも古志の村落があります。日置郷の日置氏については、すでに述べているよ
うに高麗氏族でした。では、古志郷の豪族については次を見てください。
姓氏録「右京天神 高志連。高魂命(たかむすびのみこと)九世孫日臣命之後也」
「同上
高志壬生連。日臣七世孫室屋大連之後也」
とこの高志氏族は、大伴氏の一族なのです。
引き寄せられた大伴氏族は出雲族と共同して日本国を建設していくのでした。国を引き寄せた八
束水臣津野命はよく分からない神様ですが、八束水を「枕ことば」ととらえ、臣津野命(おみづぬ
のみこと)を名前とすれば古事記に記載されている大国主系譜の中に祖父としてオミヅヌノカミが
いらつしゃる。この系譜は大国主をスサノオの六世孫にしていて信用できない。
出雲の神の中で「天下を平定された大神」(書紀の奇魂段)は大国主神であり、天下をとるため
大伴氏や外国から部族を招いたと考えられるのですから、この神様は大国主神の別名と考えていい
のではありませんか。つまり、大国主が国引きをしたことは、「外国から氏族を招きいれて天下を
平定されたのだ」と考えると前後の繋がりがよく理解できるのでした。
海を渡ってこられた神の名前は「大年神」
古事記は、「海を照らして依り来る神」に続いて【その大年神】とし、渡来神の名前が大年神であ
ることを示しています。だから大年神は大物主神の別名と考えられます。ところで古事記には大年
神の系譜を掲げて、興味のある神様が多くいらつしゃるので、ぜひ見て置きましょう。
【その大年神、イノヒメを娶り生みませる子、大国御魂神、韓神、ソホリ神、シラヒ神、ヒジリノ
神。(五柱)カヨヒメを娶り生みませる子、大香山戸臣神、御年神、(二柱)アメチカルミヅヒメを娶
り生みませる子、奥津日子神、奥津比売これは竈の神なり。次ぎに大山咋神、この神は近江の国の
日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用いる神なり。
次ぎに庭津日神、阿須波神、波比岐神、香山戸臣神、羽山戸神、庭高津日神、大土神、(九柱)
以下略 】大年神の子は、渡来神らしく半島に由来する名前をもち、韓神であるとか、ソホリ神(ハ
ングルで牛鋤を意味する農業神か)、シラヒ神(新羅神か)、ヒジリノ神(百済神か)など。
この氏族が半島から来たことを示すものだろうし、また次ぎの竈の神も面白い。竈の神は時期を
特定する資料に為り得るもので、列島において炊事は古来「いろり」で為されて来た。竈が朝鮮半
島から輸入されるのは、五世紀初頭といわれますから、それ以前に竈の神が列島にいるわけはない
のです。
この氏族が五世紀以後に海を渡って列島にきたことを示すものでしょう。大山咋神は近江の日吉
神社や京都の鴨神社・松尾神社に祭祀されている神。この神の話はこれからいろいろなところで、
でてきます。阿須波神・波比岐神などは、天皇家の住まいである宮中で祟りを恐れる神として、巫
に祭祀させる神々の中にある興味深い神様。
古事記がなぜこのような系譜を載せたのか、疑問に思う人は多いようですが、出雲の神様が渡来
神であつて国つ神でないというのはこの系譜を見ただけでも分るのではないでしょうか。古事記も
日本書紀も後世のため、ちゃんと手がかりを残してくれていることを思えば、そうしたヒントを見
極める知識を大切にしなければならないのでしょう。
「宮の建設」、日本国は出雲に誕生した。
風土記出雲郡杵築郷条では、【八束水臣津野命の国引きをされた後、大穴持命の宮を造営申し上
げようとして多くの神々がその社地に集まって宮を築かれた。】と。国引きが終了後、つまり渡来
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神の渡海が終わった後、出雲国杵築郷の地に多くの神々が集合した。そして大穴持命の宮を造営し
たという。
多くの神々が集まって宮を作るということは、新しい国家建設でしょうから、ここで倭国とは別
の国が誕生したということでしょう。「原日本国の誕生」といって良いのかもしれません。「ひの
もと」は出雲の杵築郷から発祥したと考えられます。
宮の名前が日栖宮(ひすみのみや)であり、ここを日の中心としたことは明らかで、付近地名に
簸の川、日の御崎、日置など、また古代では「高句麗始祖朱蒙の母が日の光を受け受精し、朱蒙を
生んだという」伝説が伝えられ、「高麗が日の国」という認識は列島にあつたらしく、-【桓武天
皇母上の高野新笠は朱蒙の子孫(百済も同祖で朱蒙を祖とする)であるがゆえに「天高知日の子姫
尊」と申し上げる】(続日本紀延略九年条)-
つまり、朱蒙の子孫だから日の子であるといつているのです。これが古代の感覚でした。日を尊
重する国は高句麗だと古代では認識していたのです。高句麗の冠帽飾りには、象徴として三本足の
烏を中心に置き、図案化されていました。スサノオのときにも、熊野神社の午王誓紙の話がありま
したが、この誓紙に印刷されたのは「三本足の烏」で、いわゆる「日の鳥」であり、太陽の日の出、
日の入りとともに、生活を行う烏が古くから太陽の象徴とされてきたのでしょう。
こうした日の鳥「烏(からす)」は島根県・美保神社の青柴垣神事に、また出雲神を祖とする京
都左京区賀茂御祖神社(下鴨神社)に八咫烏化身として伝承されているのです。出雲に出来た国は
高句麗の人的、物的援助を受けましたから、かなり高句麗の影響を受け、「日」にこだわった国で
あつたといえるのでした。
ここに集まった神々の実像は、高句麗系氏族・北燕国遺民氏族それに仏教に帰依した元倭国の豪
族達だと考えられます。それらが一堂に会して、新しい国家と新しい元首を主とし、旧来の倭国と
完全に決別して、仏教を国教とする宗教国家の建設に立ち上がって行くのでした。大和にいる倭国
大王の権威に屈するとなく、進撃して行ったのは新しい国家が誕生し、対等の権威を獲得したこと
によるものなのです。この軍の陣営には三本足の烏を描いた軍旗が、旗手鴨県主の手によって高々
と掲げられ、出雲の地に翻ったのでした。
大国主と八十神との戦い
書紀は神話の前段部分をすべて棄て、都合の悪い部分である「国引き物語」や「神々の建設した
宮の話」「八十神との戦い」「出雲から倭国に上る場面」も消してしまいました。そして天下経営
の場面から、物語が始まっています。この後に続く文章はこれまた、書紀の書き順が疑われるとこ
ろですから、正しておきましょう。
①【大巳貴命と少彦名命(タカムスビの子・大伴氏祖神)が力を合わせ、心を一にして天下を経営
された。】
②【むかし、大巳貴神が少彦名命に向かって、「おれたちの作った国ははたしてよくできたといえ
るだろうか」と語られると、少彦名命は答えて、「できたところもあるし、できていないところも
ある」と言われた。この二はしらの神の相談には深い意味があるらしい。その後、少彦名命は、熊
野の御崎に行かれて、そこからとうとう常世郷(とこよのくに)に去られた。】
③【この後、大巳貴神は国の中のまだ出来上がっていないところを、ひとりで廻って作り上げられ
た。そして出雲国にいたつたとき、言われるには「いまこの国を作ったのは私一人である。私と一
諸にこの天下を作ることの出来る者はいるだろうか」といわれた。するとそのとき、こうごうしい
光が海を照らし、やがてその中から忽然と浮かび上がってくる神がいた。その神が、 【「もし私
がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来ただろうか。私がいたから
こそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」といわれた。「そこで神
宮を造り、大三輪の神と称えた」(日本書紀 神代紀)】。】
話がぎくしゃくしていることに、なにかおかしいものを感じます。
①にはすでに大巳貴命と少彦名命が協力して天下経営をされていたとしている。それなのに③の渡
来神が「この国を平定したのは私がいたからだ」というのは、順序が違っている。本当は天下経営
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以前に渡来神がいなくてはなりません。「渡来神が来て平定をするための尽力をした、そして天下
経営をなさる」というのが順序なのです。だからこの場面は③、①、②の順序が正しいのでした。
書紀が変な書き方をしたのは、「八十神との戦い」を抜かしたからで、真実はつぎのようになり
ます。【大伴氏祖神の少彦名命と大巳貴命が密約を交わし、その上で外国から渡来神を招き入れて
八十神と戦い、勝利してこの国を平定した。そして大和で天下経営に当たる】というのが本来の筋
でしょう。
経営が安定したのち、少彦名命(大伴氏を指す)は倭国分割統治の密約どおり、九州以西の政治を
執るため、筑紫に向け大和を去ることになります。この神話のなかに出てくる「平定という言葉」
は時期を示していました。列島の国内が平定され、一つの国家になつたのは、四世紀中過ぎで、そ
れ以前は多くの国に分かれていたということは今日では考古学上の常識になっていることです。
従って大巳貴神(大国主神)がこの国を平定するのは、四世紀中以降でなければならないでしょ
う。大国主神はそんなに古い方ではないのです。紀記は比較的新しい方の業績を、神代という架空
の時代のできごとに変更したのでした。
さて、古事記には書紀にない「八十神との戦い」が載っています。この条文をみてみましょう。
【この大国主神の兄弟には、大勢の神々がいらした。けれども、その神々はみな自分の国を治める
ことを辞退して、大国主神に国をお譲りになった。自分の国をお譲りしたわけは次ぎのとおりであ
る。】と神々が大国主神に国を譲渡した理由が書かれています。
この場合、平穏に国を明渡したわけではない。古事記は凄まじい両者の戦闘状況が描かれていて、
双方が殺し合う様が描写されているのでした。大国主神と大勢の神々が争う直接の原因を、「因幡
の八上比売(やがみひめ)が求婚にきた神々を袖にして、大国主神の求婚を受け入れたことに神々
が怒り、相談の上大国主神を殺そうとした」としています。
列島挙げて敵・味方に分かれ戦う理由が、一女性の求婚話であるわけはありません。こんなこと
が本当の原因ではないでしょう。原因はほかにあるのです。ところで、大国主神は最終的に神々を
追い払って勝利しました。そして八十神の治めていた国々を取り上げて平定されたのですが、そこ
に至るまでさまざまな苦労をする描写があります。
「大国主神の受難」といわれているもので、その中に大伴氏祖神の協力、大屋毘古神(五十猛命の
別名)、須世理毘売(すせりひめ)の助けがありました。大国主側にも支援する勢力がいたのです。そ
うして列島の各地でそれぞれが戦つたのです。そうした大国主と神々との戦闘場面は次ぎのとおり。
【八十神、大国主神を焼き石で殺す、神産巣日神(かみむすびのかみ・)が二人の神を派遣して助
ける。その二人とは神産巣日神の御子、支佐加比比賣命(きさかひひめ)・宇武加比比賣命(うむ
かひひめ)のふた方『出雲大社天前社祭神』がその神様で、そのほか神産巣日神の御子少彦名命も
現れて協力したのでした。】
書紀とは違い、古事記は神産巣日神の御子少彦名命とする。
【八十神、大国主神を木に挟んで殺す。大屋毘古神(五十猛命の別名)は木の股から救い出して
逃がす。】
【八十神の追撃を避け根の国へ至り、須世理毘売(すせりひめ)の助けを借りてスサノオの生太
刀と生弓矢(武力を象徴する)と天の沼琴(宝石で飾られた琴、王者を象徴する)を盗み出す。】
【その大刀と弓矢をもつて、その八十神を追い避りしとき、坂の御尾毎に追い伏せ、河の瀬毎に
追い撥ひて、国を作り始めたまひき。】
大国主命は大勢の神々によつて苦しめられ、死に至るのですが、神産巣日神が二人の神を派遣し
て助けるのです。神産巣日神の御子、少彦名命〈すくなひこなみこと〉も現れてお味方したのでし
た。
書紀では少彦名命はタカムスヒの子となつていたのに、古事記ではカミムスビの子になつている。
出雲神話中に天神カミムスビがでてくること自体注目すべきことで、カミムスビはタカムスビとと
もにアメノミナカヌシの子で兄弟とも、タカムスビの子であるともいわれている。いずれも大伴氏
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祖神としていいでしょう。
大伴氏祖神が出雲神話で重要な役割を担っていること、大国主神と大伴祖神が密接に繋がってい
ることを理解してください。さらに、大屋毘古神が戦闘場面に登場しているのも注目されます。大
屋毘古神は五十猛命の別名で、スサノオの子でした。大国主神とは同時代の人物ですから、兄弟で
あつたのです。イタケルは大国主神に協力して戦闘に参加していたのでした。
このことは重要でなぜイタケルが紀の国に祭祀されているかを探るキーになります。あとでお話
しましょう。殺し合いの戦いは、大国主が根の国に行き、スサノオの弓矢と太刀を盗み出し、それ
を使って敵対する神々を打ち払い、ついに大国主神の勝利となりました。根の国から持参した武器
を使って、八十神を追い退ける話から、渡来神たちを招くため、大国主神自身が、根の国(海外の
国)に行ったと解釈するのはいかがなものか、それよりも使者を派遣して、海外勢力の応援を要請
したと考えたら良いのかもしれません。大伴氏の助言と折衝を考えても良いのではないでしょうか。
渡来神たちの「もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することが出来た
だろうか。私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功を挙げることが出来たのだ」。
という言葉がここでは納得することが出来るでしょう。大国主神は少彦名命やカンムスビの派遣し
た二人の娘などに代表される大伴氏族及び渡来神の率いる氏族(渡来騎馬民族たち)の助けを借り
てこの国を平定することが出来たのでした。
大国主神 出雲より倭国に上る
【その神の適后(おおきさき)須世理毘売を残し、出雲より倭国に上り坐さむとして、束装(よ
そおい)ひ立たす時、片御手は御馬の鞍にかけ、片御足はその御鐙に踏みいれて歌ひたまはく・・】
(古事記)
出雲を出発し大和において王位につこうとする(あるいは大和に向かって出撃をしょうとする)
大国主神の姿は、なんと乗馬姿です。
列島において馬具が出土する初見は老司古墳(福岡県)の五世紀初頭ですから、乗馬姿の神が登
場する出雲神話は神代のことではありません。すくなくとも五世紀以降の出来事なのです。出雲神
話が遠い昔の話ではなく、五世紀代の話であることがここでも証明されています。
また、すでに正妻の須世理毘売が后の称号を得ています。だからこの時点では出雲地方に【日本
もと小国、倭国を併せり】、という小国が誕生していて、大国主神は天王の位についていたのでし
ょう。 出雲から倭国(やまと)に上がった時期は、反対勢力の大部分が追放され、国が平定され
るめどがついた後であろうと思われます。
出雲風土記意宇郡拝志郷条には、【大穴持命(大国主の別名)が北陸の八口(やくち)を平らげよ
うとしてお出かけのとき、ここを通られたところ樹木がよく繁茂していた。これをごらんになつて、
「この林はわが心を栄えばえと引き立たせてくれる林だ」とおうせられたので林という】
さらに同郡母里郷条では【大穴持命が越の八口を平らげて帰られた】と伝え、出雲を根拠地とし
て出撃し他族を平定したうえで、国を取り上げ自分の息のかかった氏族を配置しては、出雲に帰着
した様子が窺われます。他に播磨風土記の中にも、出雲族の播磨国侵入を示す記事が多く書かれて、
多くの重要な視点を今日に残してくれている。
全文を挙げることが出来ないのが残念でなりませんが、重要なところは指摘しておきましょう。
第 1 段階(新旧勢力が互いに国を巡って争う段階)
【葦原シコオ命と天日槍命がこの谷を奪い合う(宍禾郡奪谷条)】
【葦原シコオ命と天日槍命と国占めしたまふ時、ここに出逢う(戦う)】(宍禾郡伊奈加川条)
【国占めましし時に、天日槍命先に到りし処なり。伊和の大神後に到りたまふ。(宍禾郡波加村条)】
【伊和の大神と天日槍命 軍を発して相戦いましき】(神前郡粳岡条)
【宍禾郡の伊和の君が族、到りてここに住む。】(飾磨郡伊和里条)
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播磨国の旧勢力は天日槍命で、さきに住んで
いた。そこへ後から葦原シコオ命(大国主)が
やって来て国を取りあげたという。
天日槍命は垂仁紀三年条に新羅の王子とみえ、
播磨国の宍栗(宍禾)邑にいたという人物でし
た。垂仁紀には「殉死の代わりに埴輪を立てる
説話」があるように古墳時代ですから、天日槍
命と争う葦原シコオ命(大国主)のいた時代は
縄文時代でも弥生時代でもなく、古墳時代のそ
れほど古い時代ではなかつたということが分か
るのです。
天日槍命に代表される在来の倭国の勢力とそこに侵入して来た出雲の勢力が戦ったのが第 1 段
階の記述で、出雲の勢力は北の宍禾(しさわ)郡方面から、南に進撃し飾磨郡に到ったと風土記は
いう。播磨国には渡来氏族に関係する多可郡や賀茂郡があり、一方向だけの南下とはいえず各方面
からの南下を想定しなければなりませんが、戦いは次ぎの第 2 段階の記述で出雲族の勝利となつた
ことが分かりました。
第 2 段階(出雲勢力が戦いに勝ち、播磨国を占拠する)
【大物主葦原シコオ、国堅めましし以後・・】(美嚢郡志深里条)
【伊和の大神、国占めましし時・・】(揖保郡香山里条・他多数)
【伊和の大神、国作り堅めたまうことおわりし後・・】(宍禾郡条)
【大神、国作りおへて後・・】(宍禾郡伊和村条)
播磨国において、大国主神は大汝命(大巳貴命、おおなむち)、葦原シコオ、などの名で呼ばれ、
国を占拠した後は伊和の大神となつています。伊和神社(兵庫県宍栗郡一宮町須行名407)は播
磨の一宮として、祭神大巳貴神(大国主神)を祭祀しているし、南下した飾磨郡には射楯兵主(いた
てひょうず)神社(姫路市総社本町190)があつて、射楯大神(五十猛命)・兵主大神(大巳貴
命)を奉祭しています。このことは、出雲から出撃して来た勢力が播磨国を制圧したことを示すも
のでした。
射楯は出雲の韓国伊太弖神で渡来神、兵主は燕国ゆかりの中国山東省の土地神で兵器と戦闘の神
なのです。山陰から兵庫県・滋賀県さらに大和にいたる各地の兵主神社は出雲勢力の戦闘守護神と
して、進出した先に祭れた神社だと推定できるのでした。
大国主神は継体天王と同一人物
【衣縫の猪手・漢人刀良(とら)等の祖、ここに住もうとして伊和の大神の御子、伊勢都比古、
伊勢都比売を祭った。そこで伊勢野という名がつけられた。】(揖保郡伊勢野条)
書紀雄略紀・新漢人渡来記事にみえる「伊勢の衣縫」は呉から渡来したと言う。そうした渡来人
が出雲神を祭祀することは、大国主神と渡来人との係りがあるからです。五世紀中頃に渡来した新
漢人たちが出雲神を崇拝し、氏神としていることを注目して下さい。スサノオ(馮 弘)に率いられ
て出雲に上陸したのが彼らであるとこの本は主張してきました。
そのことは漢人達が出雲神を祭祀するということで、立証されているのです。またこれらの新漢
人たちが仏教布教に貢献したことは明らかでした。そんなことから考えるとスサノオの子である大
国主神が八十神から迫害を受ける原因は因幡の八上比売(やがみひめ)の求婚話ではないでしょう。
現実世界において、オオド(継体天王の幼名)は倭国豪族からいじめを受けました。仏教布教に
対する抵抗がいじめとなつたと思われます。それに対抗して、オオドは外国から仏教布教の為の遠
征軍を招き入れました。これが神代の国引き物語なのです。そしてオオドは日本国を建国しました。
神々が集まって出雲に宮の建設をしたというのがそうです。
47
仏教が伝来したため倭国の豪族は、仏教に帰依する豪族と反対する豪族に分裂し、それぞれの陣
営に参加して戦いを開始したのでした。大国主神の平定は、現実の世界では継体天王の征服と同一
で、大国主神と継体天王は同一人物でなくてはなりません。
播磨風土記に出てくる伊勢の衣縫たちも、出雲族としてこの戦闘に加わったのではないかと想像
されます。播磨や近江など、継体天王の拠点としている処には、新漢人の集団が存在し出雲神を祭
っていました。
近江では新漢人たちが奉祀する出雲神の日吉神社がありますし、播磨では前述したように伊和の
大神の御子、伊勢都比古、伊勢都比売を祭祀したという。大国主の戦闘には新漢人たちも参加した
のです。このことは神代の大国主神の時代が、実は雄略紀の新漢人渡来時機以後で、継体天王の時
代だと考えられるのでした。
さて、日本列島では「兵主神社祭神は大巳貴命」でしたが、元来は中国の歴史書「史記に出てく
る神」で、中国東部に建国された慕容氏の燕国とゆかりのある神様なのです。この神が中国から列
島にお出でになつたのは、慕容氏の燕国が北遷して北燕国となり、漢人馮王朝の時代に子孫が列島
に来たからなのでしょう。馮氏の守護神であり、また戦いの守護神でもあつたのでした。
大国主神が中国山東省の土地神に擬せられること、すなわち「兵主神社祭神は大巳貴命」ことも、
継体天王と大国主神が密接な関係にあることを示していると思われます。継体天王オオドは馮 弘
(スサノオ)が日本列島で産んだ子であると考えられるからでした。スサノオの子が大国主、馮弘
の子が継体天王、両者は同一人物なのです。
継体天王を祭神とする神社の数
この国を引き継ぎ、新王朝を樹立して約二十五年間天皇位にいられた継体天王は偉大な方であっ
たと推定しなければなりませんが、意外なことにこの方を祭神とする式内神社の数は全国で8神社。
すべて福井県に存在し、主祭神としているのは次ぎの 5 社のみ。
横山神社(福井県坂井郡丸岡町坪江19-37)
日野神社(福井県武生市中平吹字茶端80-1)(丹生郡兄子神社の論社)
意加美神社(福井県福井市字池ケ谷64)
片岸神社(福井県坂井郡三国町山岸24-22)
高向神社(福井県坂井郡丸岡町高田)(国神神社に合祀)
後の3社は出雲神と同居していらつしゃる。
継体像のある足羽神社(福井市足羽町1)では、
継体天皇、生井神、福井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神
合祀 大穴持像石神、亊代主神、スサノオ、継体皇子達
興須奈神社(福井県福井市下市町27)
大巳貴命
合祀 少彦名命、継体天皇、大山祇命、雅子媛
三国神社(福井県坂井郡三国町山王6-280)
大山咋命、継体天皇
配祀 雷神
継体天皇が渡来神大年神の子である阿須波神・波比岐神・大山咋命と一諸に祭祀されることを「何
故だ」というよりも「古代人にとって当然」と受けとめた方が良いのかもしれません。それよりも
私が不思議に思うのは、継体天王の次ぎに王位に就き、在位 2 年間の安閑天王を祭る式内神社の数
(11 社)が在位 25 年間の継体天王を上回り、しかも広範囲に存在することでしょう。
秋田県・波宇志別神社、宮城県・御嶽神社、長野県・清水神社、山梨県・神部神社、静岡県・三
嶽神社、滋賀県・赤見神社、愛知県名古屋市・片山神社、愛知県瀬戸市・金神社、愛知県豊田市・
射保神社、大阪府柏原市・伯太彦神社、それに継体天王と御一緒の福井県三国町の片岸神社です。
安閑天王と縁をもつ氏族が広範囲に広がっているのに、なぜ継体天王の神社は数が少なくしかも
福井県だけに存在するのでしょうか。そこには何らかの規制が行われ、祭神を大国主命などの出雲
神に変えたのではという感じがしますし、あるいは古代人にとって大国主命こそ継体天王だという
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想いが強かったのではないですか。
だからこの国を再統一した継体天王は大国主命としてお祭りされている可能性が高いのではない
でしょうか。
火明命系譜
「播磨国風土記」には、火明命系譜があつてそこには次ぎのようなことが書かれています。
【大汝命(おおなむちのみこと)の子、火明命、心も行も甚強し(いとこわし)・・】
(播磨国風土記飾磨郡条)
【大神の妻、コノハナサクヤ比売、その形美麗しかりき】(同宍禾郡雲箇里条)
【尾治連らの祖、長日子・・墓を作る】(同飾磨郡馬墓の池条)
この条文によれば、火明命は大国主神の子であり、大山祇神の娘・コノハナサクヤ比売は大国主
の妻、火明命の子天香山命が尾張連の祖になつて、この一族(火明命・天香山命・尾張連)は、出
雲族なのでしょう。
大山祇神が出雲神に娘を婚姻させるのは、他に古事記スサノオ段に「スサノオの妻として大山津
見神の女、神大市比売。同く木花知流(コノハナチル)比売」がありました。一方、紀・記には、
火明命の系譜についてそれぞれ異論があり、錯乱している。ここで一々取り上げるのは避けたいと
思います。
ただ結論としてどれか正しいのかといえば、紀・記の系譜を退けて風土記の記述を信用したい。
歴史の糸が繋がるからというのがその理由です。風土記は書紀や古事記の官製と異なり、地方の伝
承を集めたものと思われます。紀・記が間違っていると感じているその地の有力者もいたでしょう。
どちらが歴史的に正確かを検証しなければなりませんが、書紀の火明命の系譜は二転三転し、検討
に値しないと思いました。
火明命の子、天香山命は弥彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)の祭神。弥彦は大屋毘古(大国主の兄、
五十猛命の別名)の名からきているし、火明命後裔の尾張連は継体天王に妃を出す氏族、さらに火
明命後裔の丹比連は、継体子孫の丹比真人氏の養育にあたった氏族で糸はつながっていくのでした。
紀・記が異論を掲げているのはこうした大国主神と継体天王の繋がりを隠すためと考えられます。
火明命後裔氏族は姓氏録に40氏余、宿禰姓を持つものには尾張宿禰・丹比宿禰・津守宿禰・若
犬養宿禰・伊福部宿禰・坂合部宿禰。ほかに出雲に部をもつ蝮部(たじひべ)、刑部首(おさかべ
のおびと)。関東に地盤をもつた檜前(ひのくま)舎人連、その他山陰には但馬海直、丹波国造の
丹波直・石作連などが後裔として見え、未定雑姓には「川内漢人。火明命九世孫否井命の後者 不
見」とある。これらの氏族は出雲を始め、山陰の但馬・丹波や河内に展開した渡来系の氏族で、
のちに高句麗系の難波連らと協力して四天王寺建造に主体となりました。
四天王寺守護神は大江神社で、祭神はスサノオです。仏教の守護神に出雲神を祭ることも、出雲
と氏族の結び付きを無視することはできません。ついでに、スサノオが大蛇を退治する仕草を演ず
る出雲神楽を太々神楽といいますが、この神楽を東北各地に広めたのが四天王寺の楽人だという。
出雲と四天王寺の関係もまた興味深いものがありそうです。
さてこの章では、虚の時代の出来事をいろいろと挙げて見ました。いじめを受けた大国主神が国
引きを行い、さらに神々が集まって「宮の建設」を行い、そのうえで倭国の平定を行ったことです。
外来勢力の支援を受けて、大国主神の征服は勢いを増し、出雲から越の八口を制圧、さらに播磨
国を征服しました。そして「倭国に上がり坐まさむ。」と出雲を出立される大国主神のお(乗馬の
姿)が描かれていました。
日本国を建立した大国主が、倭国と対立して攻めあがらんとする姿なのでしょう。最終目的地は
倭国の都大和であつたけれど、この「倭国に上がる」は、「敵対する倭国の軍勢と対決する」とい
う意味もあつたのです。対決の結果、日本国は倭国に打ち勝ちました。
中国史に「日本もと小国、倭国を併せり」と書かれています。
日本書紀は日本国が最初からあることにして次ぎのようにいう。
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【イザナギ・イザナミの神が大日本を生んだ(日本これをヤマトという)】
紀・記において倭国は最初から存在していないのです。倭国は敵対すべき国として描かれている。
これは紀・記の重要な問題点です。おかしな書き方をしている。倭国を倒したのは継体天王でしょ
う。そうするとここに書かれている大国主神はやつぱり継体天王じゃないですか。さて虚の世界で
は、大和において「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」になつたという。大国主は
天王(天皇)になられたことと解釈できるでしょう。
そうすると、本当は天皇位に名前がなくてはならないのです。この方の名前はどなたでしょう
か?紀・記にはこの方の名前は書いていません。形容詞だけです。書けなかったからこそ大国主神
として神話の世界に押しやったのでしょうか。いや、もつと別の目的があつたに違いない。途中で
王朝が交代し、血統が絶えたのを隠すため、あるいは万世一系の皇位を誇示するために、出雲神話
を作り出したのです。先頭に持っていけば途中の皇朝交代を隠すことが出来る。うまく考えました。
出雲神話は暦史上の出来事を神話としています。ただ名前がありません。スサノオにしても、大
国主にしても「須佐の男」や「大きな国の王」という形容詞であつてほんとうの名前ではないので
す。紀・記が書けなかった名前こそ、歴史の謎を解く鍵なのでしょう。本書ではかれらの真実の名
前を追求しょうとし、馮弘や継体天王をあげています。
初めてのことですから、挙げる資料も徹底しているわけではありません。まだまだたくさんの資
料や史実があるでしょう。ほんのすこし、スサノオから大国主そして継体天王の概念が分かってい
ただければ、それで良いと思っています。
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第8章
日本の宗教戦争(継体天王の戦い)
それでは神話の虚の世界から現実の世界に戻って、継体天王の倭国征服に移りましょう。出雲地
方に高句麗氏族が上陸して大伴氏と婚姻関係を築いたのは、共通の宗教に帰依したという土台と日
本国が誕生し、ともに新しい国家建設に向けて歩み出したという状況がありました。そして各地で
宗教戦争である日本対倭国の戦いが始まりました。
書紀は倭国から日本国に変わる状況を何一つ、はっきりと書いていません。ましてや継体天王の出
自については極めてあいまいです。
紀・記を読んだだけでは日本歴史は謎なのでした。
本書では継体天王のモデルが大国主神であることを明らかにしました。
大国主が渡来人スサノオの子であるように、継体天王は北燕天王であつた馮 弘の子で、渡来後
の出雲で産まれた子と思われます。馮弘が五世紀中に渡来されたときに継体オオドがうまれれば、
年齢的に適合しているのでした。ところで、なぜ 継体は倭国を崩壊させたのでしょうか。
父の馮弘(スサノオ)は「この国を奪うようなことはしない。」と誓約し、三本足の烏を描いた
誓紙は、最高の「午王誓紙」とよばれるほど約束をきつちりと守りました。しかしウシ王の子・オ
オドは外国部隊を招きいれ、倭国を平定したのです。そこには、オオド自身の思惑を超えた時代の
流れに従ったというべきかも知れません。
宗教間の争いは次第に激しくなつて、分裂した豪族たちの戦いに発展していきました。いったん
動き出した流れはもう誰にもとめることはできなかつたのです。この争いを日本列島の宗教戦争と
とらえますが、この激動は日本列島にとどまらず隣の朝鮮半島にも大きな影響を与えたのでした。
東北アジア全体に新しい秩序をもたらしたと考えています。
継体天王の閨閥
継体妃・目子媛(めのこひめ・尾張連草香の女)の場合
大国主神が播磨国を侵略し、先住者である天日槍命を追い出して占拠した話は播磨風土記に書か
れているし、そこに尾張連の祖や新漢人たちの名が書かれていたことをお知らせしました。その後、
尾張連は愛知県へ移動しましたし、新漢人の集団は近江西岸に蟠居することになります。しかも尾
張連は継体天王に王妃を出す閨閥勢力となつていますから、彼らは大国主つまり継体天王の侵略と
ともに移動していたと思って良いのでしょう。
尾張連は大国主の子、火明命を祖とする(播磨風土記)とされています。だから出雲を根拠地とす
る氏族なのでした。出雲を出立した継体天王に随って戦闘に従事し、尾張地域を占拠したのです。
この地には、東海において最大規模全長151mの前方後円墳「断夫山古墳」(名古屋市熱田)が存
在しています。
六世紀前葉の建造で、旧勢力を圧倒してドラマテイツクに登場して来た新勢力の象徴といえる古
墳。前方部が大きく発達し、継体陵墓の今城塚古墳と同様の剣菱型前方を想定する研究者もいるが、
未発掘の現在は前方先端部の改変もあり不明瞭です。興味津々の古墳で発掘されたら、あつと驚く
ような出土品が出てくるかもしれない。
考古学に先入観は禁物と言うけれど、馮氏に繋がる品が出現してくるようならば、歴史の縦糸と
横糸が組み合ったといえるでしょう。尾張連が継体天王の閨閥として支持勢力であつたのは間違い
ない。しかも出雲に関係することも火明命後裔であることから判明しています。
尾張連草香の女、目子媛は継体天王の間に安閑・宣化のニ帝を産んだという。書紀安閑紀、宣化
紀が信用できないまでも、安閑帝70歳、宣化帝73歳崩御といえば82歳で亡くなられた継体天
王の10代の前半時期に、尾張連の女目子媛と結婚、出産されたのでしょうから、尾張連はそれ以
前から出雲族の重要な地位にあつたと思われるのです。継体朝の重鎮といえる豪族でおそらく継体
父の時代からの重臣であつたのではないでしょうか。
51
継体妃・雅子媛(わかこひめ・三尾君角折の妹)
継体妃・倭媛(やまとひめ・三尾君堅ひの女)の場合
三尾君は滋賀県高島郡南部の豪族であるというのが通説になつているようです。
継体天王オオドの父、ウシ王(上宮記宇斯王、書紀彦主人王)の別邸が三尾にあつて、継体天王
は幼少をこの地で過ごしたという。その後父の死によつて越前に暮らし、三国で皇位につくように
と要請をうけたと書紀は書きました。古事記は父名・越前での暮らしを欠き、近江から上京したと
いう。どちらも、継体天王が近江に深い絆を持っていたことが窺われます。
平安時代初期の「和名抄」には近江国高島郡三尾郷を伝え、滋賀県安曇川町には三尾里が現存し
ていますから、継体天王に二人の妃を出す三尾君が琵琶湖西岸高島郡の安曇川町に蟠居した
豪族であると思います。そしてこの地にある鴨稲荷山古墳(全長60m・前方後円墳)については、
「古墳自体の立地や、朝鮮半島系の器物を含む豊富な副葬品などから、継体伝承氏族との関係が早
くから論じられてきた古墳」(「日本の古代」中部、中司照世)という。
古墳自体の立地は勿論ですが、その次ぎのことばが凄いです。「朝鮮半島系の副葬品からみて継
体伝承氏族だと早くから論じられてきた。」と。いいかえれば、渡来氏族が継体擁立氏族だという
ことでしょう。そういうことは、【早くから論じられてきた。】という。本書などは遅い方かもし
れませんが、気を取りなおしてこの古墳の副葬品をみてみましょう。
【横穴式石室には家型石棺が置かれ、棺内から金製垂飾付き耳飾、金銅製冠、双魚佩、沓、玉類、
内行花文鏡、双竜環頭太刀・鹿角装太刀など。棺外からは一組の馬具、高坏・壷・器台などの須恵
器が出土した】(古墳辞典)古墳の年代は六世紀前半(全国古墳編年集成)、環頭太刀は双鳳と見える
が、双竜環頭太刀の祖型とされるもので双竜環頭太刀の編年では六世紀前葉に位置する。
この双竜環頭太刀については、「双竜環頭太刀の存在が日本海側に偏ることを指摘、この太刀が
高句麗系で、その氏族が製作や配布に関与していた可能性は高い。」(森 浩一氏)
「双竜環頭太刀を高句麗系と考え、蘇我氏との結びつきを指摘した。」(清水みき氏)
また「双竜環頭太刀の配布地は出雲であると考える。」(古墳時代の研究)とする研究者もいる。
七世紀前葉まで双竜環頭太刀の系譜が続くことを考えると出雲在地勢力がそこまで力を持ちつ
づけることには、いささか疑問で、やはり配布は中央から、帰属した高句麗系氏族に配布されたも
のと考えた方が良いでしよう。
継体朝を支える三尾君の素性が早くから論じられてきたというのは、このようなことなのです。
高島町の北側、今津町には日置神社や日置前廃寺があります。さらに北にはマキノ町がありここの
大處神社と日置神社は祭礼を合同で行うという。日置氏は出雲で最大の高句麗氏族と説明しました。
継体天王に随ってこの地に入ってきたもので、三尾君も同様出雲からこの地に入ってきたのではな
いでしょうか。三尾君角折の女雅子妃の産んだ継体の御子名が出雲皇女というのも、うなずけるも
のがあります。
古墳から出土した金銅製沓についていた魚形歩揺は、上淀廃寺のある鳥取県西伯郡淀江町の長者
平A古墳の冠帽にもついていました。上淀廃寺と日置前廃寺の両方には壁画があり、六世紀を前後
する高句麗壁画技法との共通性が指摘されています。
魚形歩揺のついた冠や飾り沓を出す古墳は、鴨稲荷山古墳、長者平A古墳の他に
◇ 十善の森A古墳(福井県遠敷郡上中町天徳寺) 冠帽
◇ 西山6号墳
(兵庫県三田市貴志西山)
冠帽
◇ 東宮山古墳
(愛媛県川之江市妻鳥町東宮)
冠帽
◇ 大谷今池2号墳 (奈良県大和高田市大谷)
冠帽
◇ 古城古墳
(群馬県伊勢崎市稲荷町古城)
冠帽
◇ 藤ノ木A古墳
(奈良県斑鳩町)
飾り沓
◇ 桑山塔ノ尾古墳 (山口県防府市)
飾り沓があります。
鴨稲荷山古墳の双魚佩(魚形腰飾り)は全長 21.5cm,幅 10cm で原型を留めている類似の双魚佩を
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出す古墳は
◇ 元新地古墳(松面古墳) (千葉県木更津市長須賀)
魚佩の全長 20.5cm,幅 6cm。双竜環頭太刀出土。長須賀には金鈴塚
古墳など双竜環頭太刀を出土する古墳の集団がある。
◇ 真野20号墳
(福島県相馬郡鹿島町)
魚佩の全長約 20cm,幅 9.5cm。寺内支群の 30m の前方後円墳から出
土して有名になる。奥州守備の行方軍団の置かれたところ、付近には
多珂郷名が残り、壁画古墳もあつて渡来氏族の濃厚な居住がある。
◇ 藤ノ木古墳
(奈良県斑鳩町)
3組全長 23cm 幅 12cm/21cm,11cm/19.5cm,11cm
藤ノ木古墳の発掘で、双魚佩が刀剣に付随するものであることがわか
つたが、渡来氏族の可能性が高いという。
鴨稲荷山古墳の主が、三尾に古くから住んでいたのではないのです。
この地は半島倭国の雄藩鶏林国の王子天日槍命が来朝し、倭国大王から賜った土地でした。
全国同名神社の総本山・白鬚神社や新羅善神堂などの鶏林系神々を祭っていた所なのです。
その後、天日槍命の後裔氏族を駆逐して出雲族が入ってきました。それが三尾君たちだつたのです。
継体天王の妃について、閨閥となる尾張連・三尾君をみてきました。
いずれも出雲族と思われる人達でした。それが証拠に氏神を見ましょう。
箕嶋神社(滋賀県高島郡安曇川町三尾里558)は三尾里におけるの唯一の式内社。
祭神を亊代主神とし、出雲神を祭る神社です。同様に鴨稲荷山古墳の鴨も出雲に関係することは
言うまでもありません。ついでに、鴨稲荷山古墳の南には大友村主系の漢人たちが蟠居していまし
た。この地の八王子山に出雲神を祭る氏族で、古事記大年神の段に【大山咋神、亦の名は山末之大
主神。この神は近江の日枝の山に座す。】と書かれているのです。
大山咋神は渡来神大年神の子、この八王子山という名称も仏教用語から来ており、仏教を信仰す
る新漢人たちの集団が継体天王に率いられ、近江西岸に入ってきたものと思われるのです。
対岸の琵琶湖東岸には近江伊香に兵主神社(滋賀県東浅井郡湖北町高田)「祭神、大国主命」、近
江野洲に兵主神社(名神大・滋賀県野洲郡中主町五条)「祭神、八千矛神、配・手名椎神、足名椎神」
があります。兵主神は元来、中国山東省の土俗神の名前ですが、日本列島に渡来し出雲神となりま
した。八千矛神は大国主の別名で、手名椎神、足名椎神は大国主の祖父母になる方。それに兵主神
は戦闘の神ですから、こうした神々を祭る氏族が琵琶湖の付近に侵入、ここを根拠地とし占拠して
いたと推察できるのです。
継体天王を支えた閨閥にどんな氏族がいたかをお話しました。何処から来たのかというと、出雲
から来たと答える以外ないのです。それでは日本という国を出雲に造った氏族たちが、日本列島に
いた倭国という国をどのように侵略平定したのかという問題に進みたいと思います。次ぎの継体天
王の進撃路をみてください。
日本国対倭国の戦い・進撃路
日本列島は山地が多く、平野が少ないから騎馬部隊の団体行動には適していない。
そして騎馬民族は船に慣れていないのではないかという議論をする人がいます。
騎馬民族集団の侵入を疑問視する議論の一つなのでしょう。
ここには倭国豪族の分裂、そして仏教を崇拝する大伴氏たちが、布教を支援する高句麗王に要請し
て応援軍を日本列島に招いたという発想がありません。
大伴氏と高句麗族との婚姻は、神話にもありましたし、日本国は出雲に誕生したと思うのです。
この国には大伴氏と出雲族との連合部隊が出来ました。そんなわけで、列島内の戦いは大伴氏が
計画し、指導したことは容易に想像できます。船に慣れない騎馬民族たちを、海を渡し河川を遡り
導いたのは、大伴氏傘下の海族だつたのでしよう。
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信州に安曇野・南の甲州には巨摩(こま)という地名があります。この地名の由来は海部たちお
よび狛人たちの分布によるもので、彼らが日本海側から出雲族とともに入ってきたことを示すと思
います。
出雲軍が日本列島の戦いに最初から船を多用していたという説は、以前からありました。
出雲国の地名が日本各地にあることから、出雲の政朝による列島統一が行われたという説を唱える
佐賀 新氏の「出雲朝による日本征服」という地名考証の本によると、侵入経路は船による移動と
河川の遡行が認められるという。
地域毎に出雲の地名を繋いで行くとルートが見えてくる、これは出雲族の侵入経路だともいう。
そして越後の国から信州・甲斐へ進撃していったとしている。こうしたルートには出雲神を祭る神
社があつたり、また賀茂・鴨と名前がついた所もあり、とても分かりやすい説と思います。
地図があれば見てください。「出雲埼」という地名は新潟県にもあり、和歌山県串本町にもあり
ます。同じ和歌山県にある「日置川町」の日置も出雲の地名(氏族名)から来ています。だから地名
考証は古代を考える上で重要な手段でしょう。また、生島足島神社(長野県上田市)には、「諏訪
の大神がここに滞在された三ヶ月間、村人が食事を献上した」という神社の伝承から、出雲族が北
の海を経て、信濃・甲斐へ入つて来たと説く方もいます。
そこから得られた「出雲族によって日本列島が征服された」という結論は本書と同じでしょう。
ただ、出雲族によって日本列島が征服された時期と侵略順序については、それぞれ違いが有るよう
です。例えば八王子とか天王山の地名はどうでしょうか?
こんな言葉は仏教が伝来したからこそ、地名に付けられたのです。
つまり仏教私伝の時期に出雲族が移動していることになると思いますがいかがですか。
それと同時に侵入経路には渡来人の遺跡があり、渡来氏族の居住地があつたりすることを本書では
指摘したい。高句麗系といわれる環頭太刀の分布、壁画古墳の所在地についも出雲族の居住に関係
するので巻末に掲げておきましたから、参考にして下さい。
継体軍の進撃路はさきの地名考証を参照しながら、さらに「出雲神祭神の式内社の位置と和名抄
の郡郷名」、それに若干の考古資料で補強しています。追証したいと思われる方やさらに細かく検
証し発展させたい方に資料名を明らかにしておきましよう。平安時代初期に作られた「延喜式神名
帳」には古代の神社名が記され、その神社は式内社と呼ばれています。
そうした式内社を地図に入れていくと、地図上に古代の街道が現れてきます。
さらに同時期に作られた「和名抄」の中に、日本全国の郡郷名が書かれていて、郷名(氏族名を
郷名にすることが多い)を知ることが出来るでしょう。
そんなことから調べるといろいろなことが分かるようなつて来ました。
出雲族(出雲の渡来系氏族)と大伴氏の連合軍は、神話では大国主と小名彦としてペアで語られ
ることが多く、二柱を祭神とする神社が多くあります。それは出雲神を氏神とする氏族の分布を示
しているのでしょうし、それと同時に、神名帳には出雲族に随伴した元倭国の豪族たちの氏神を祭
る神社もあり、それと和名抄の郡郷名から出雲族と共に継体(大国主)に協力した豪族達を推定する
ことができます。大伴氏と祖を一にする佐伯氏・久米氏・天太玉命を祖とする玉作氏、楯縫部、青
海首、宇摩志麻遅命を祖とする物部氏などが出雲軍に随伴しています。
新潟県刈羽郡西山町二田の物部神社は祭神を二田天物部命とし、「弥彦神社祭神の天香語山命に
供奉し、当地に至った」という伝承を残している。
天香語山命は火明命の子ですから、播磨風土記によって大国主の孫になる人物。そうした出雲族に
倭国豪族の物部が随伴したのは、仏教に帰依して宗教戦争で日本国側に味方したからです。
勿論、火明命後裔の丹比・石作・尾張連などや渡来騎馬民族系の日置氏、高氏、刑部、額田部、な
どそれに石部(磯部)たちは出雲軍の主力として戦闘に参加しました。
それに琵琶湖西岸や播磨の新漢人の話は前に出ていました。六世紀以後も名前の出てくる倭国豪
54
族は、この時の宗教戦争に継体(大国主)天王に味方したかあるいは降伏した豪族で、名前が消え
ていった豪族・葛城氏・紀氏・吉備氏などは滅亡したか、あるいは半島に落ち延びた豪族なのです。
宗教戦争・因幡の国での戦争
古事記には「因幡の白兎」説話があつて、大国主命と八十神の争いは八上比売をめぐる恋のいざ
こざともとれる話になつています。なぜ白兎がここにでてくるのかということも謎ですが、争いの
発端として因幡の国取りがその後の国土統一に繋がったのは間違いがないところでしょう。
因幡の国(現在の鳥取県)の戦いは、出雲に日本国を作った後に行われたと考えられます。
次ぎに継体(大国主)の進撃路図を掲げているので御覧になってください。
図に有るように、ここは壁画古墳・壁画横穴墓の集団が特徴です。
北条町から倉吉市にかけて一つの集団、それに気高町・青谷町・鹿野町にかけての集団、ここは日
置川と勝部川が流れ、それぞれ古代氏族が居住して和名抄の「気多郡日置郷・勝部郷」に該当する
場所、いずれも渡来氏族と思われるのです。
日置といえば最初に揚げた北条町にも国坂に日置黙仙禅師(永平寺貫主)の生家と墓地があると
いう。そうすると両地域とも日置氏に係る壁画地帯といえましょう。もう一つは鳥取市東部から国
府町・郡家町・河原町にかけて壁画をもつ古墳・横穴墓の存在があります。著名な壁画古墳の「梶
山古墳」は獅噛環頭太刀を出土し、付近にある「岡益石堂」のパルメツト(仏教様式唐草模様)は「中
国北朝文化の伝来」を示すという。
ここを制圧するには激しい戦闘が行われたことでしょう。しかし遠征軍の支援を受けた出雲族は
緒戦をなんとかものにしたのです。苦しい戦いでしたが、この勝利は大きな成果だつたのです。倭
国を併合するための最初の戦いがここで行われた。そのことが因幡の白兎説話として神話に残った
のです。
因幡の国での戦闘に勝利した日本軍は倭国軍を鳥取県境から駆逐し、次ぎの攻勢の準備と西方確
保のため兵庫県と鳥取県境の守りを固めました。
岩美町北側・海寄り街道に兵主神社・大神社(祭神大物主神)を配置し、岩美町・山街道にも兵
主神社・二上神社(祭神素盞鳴尊)・御湯神社(祭神大巳貴命、八上姫命、子の御井神)があつて、
付近地名に高山、高住、高江がある。和名抄郷名「高野郷」はこの付近にあつたのでしょう。岩美
町延興寺にある高野神社は祭神をニニギノミコトとしているが、元来は出雲神を祭る神社ではなか
ったのか。付近壁画古墳地帯の状況や県境の山名「牛ケ峰山」などから出雲族の高氏の居住が想定
されます。
鳥取市から兵庫県南部に通ずる因幡街道は、若桜町に意非神社(祭神神饒速日命)がある。街道
上南から和名抄「若桜郷・丹比郷・刑部郷・日部郷・私部郷・土師郷」と出雲から進撃して来た氏
族たちが守りを固めました。若桜部は物部系、丹比部は火明命系、刑部は渡来系、日部は日下部の
ことで土師部とともに出雲臣系でしょう。
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鳥取市付近は前進基地司令部が置かれたと見えて、鳥取市大字岩吉に伊和神社(祭神大巳貴命)、
鳥取市古郡家に中臣崇健神社(祭神大物主神)が美和古墳群の一郭に存在する。和名抄「邑美郡美
和郷」はこの付近と想定され、美和は三輪であり、大物主神のことを指しています。出雲族の進出
を裏付けるものです。
因幡の国の戦闘は最初に述べたとおり、出雲に日本国が建国された後に行われました。すなわち
「国引き」によつて「遠征軍」を招き入れた後に戦争開始を実行したのです。そのことは高句麗系
氏族・日置氏や高氏の存在を確認することで理解できるのでした。出雲族は大国倭国を相手に慎重
なそして用意周到な準備のもと、この戦争を起こしたのでした。
出雲の国・三屋(みとや)神社(島根県飯石郡三刀屋町)の社号の由来は、「所造天下大神・大
穴持神が、八十神を出雲の青垣山の内に置かじと追い払い給うてからここに宮居を定め、国土ご経
営の端緒を開かれた。
・・大神の宮垣の御門と神戸に因んで御門屋社と号けたものである」という。
神話で大国主神が八十神と行動を共にし、そして仲たがいになつた因幡の国は、青垣山の内であ
つたのか。図上にみえる氏族配置は、八十神を追い払つて護りを固めた出雲勢力の姿が見えます。
これが国土御経営の端緒であつたこともまた事実でした。
西国での戦争
広島県三次市付近の進撃路
三次市付近は出雲と吉備の交通路として、南北の文化交流が盛んに行われてきました。
それはまた南北の進撃路となつて、弥生時代末に、ここに基地を置く吉備勢力が出雲に進出したこ
とは、四隅突出型墳丘墓を飾る特殊器台が物語ります。ところが時代は変わって今度は逆に、出雲
側から吉備へと勢力が進出しました。五世紀後半から末にかけての時代です。
ここの特徴は大きな兵站基地を築いたことでしょうか。戦争に使用される武器製作のため、砂鉄
を製錬・加工するための遺跡や倉庫群が存在することです。中国山地の豊富な砂鉄と北方氏族によ
る製鉄技術が導入され、ここで作られた鉄は各地の加工場へと運ばれました。この地に出雲軍は、
四軍に別れ島根県と広島県の県境を超え、広島県側に進出してきたのです。図を御覧下さい。
三次市付近地図
左右を進んだのは高句麗系氏族を中心とした軍で
あつたのでしょう。庄原市高や高取付近は和名抄「備
後国、三上郡多可郷」に比定され、高には鍛冶遺跡、
庄原市濁川に製鉄遺跡があります。
現在のJR芸備線駅名「たか」駅付近を中心にそ
うした鉄の遺跡が残っているのでした。もつとも左
側の道は島根県太田市から中国山地を超え広島県に
到る街道ですが、県境を超えたところから和名抄「安
芸国、高宮郡・高田郡」と続き、このニ郡は後に八
坂神社領となりました。
八坂神社は、八坂造という高句麗氏族がスサノオ
を牛頭天王としてお祭りした神社ですから、高宮・
高田郡は高句麗氏族と関係があるのです。現在の中
国自動車道はこの中を横断していますが、ここのト
ンネル名は「牛頭山トンネル」という。
図の下側に胡麻原という地名があります。胡麻は狛・高麗とも書きますが渡来族の名前であるこ
とご存知のとおりでしょう。また大河「江の川」(別名「可愛川」)に注ぐ支流が「多治比川」で、
多治比という部落名も残っています。多治比は丹比とも書き、もうすでに何度か出てきました。火
明命後裔氏族で、継体子弟の養育に当たった氏族。
江の川の「エ」は古代語で「愛」ですから、江の川が別名・可愛川というのはそこから来たもの
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といえます。現在は「ゴウの川」と呼んでいるそうですが、「ゴウ」は「ガン」(漢江(ハンガン)・
洛東江(ノクトンガン))の変化形で、朝鮮半島経由の外来語です。
三次市から南方には、額田郷・私部郷・刑部郷と続く。先に因幡街道でお知らせした氏族名がこ
こでも出てきます。広島県三和町の三輪や賀茂などの地名が出てきたり、須佐神社(甲奴町)・式
内論社、須佐能袁神社(芦品郡新市町、蘇民将来説話で有名)同論社、素戔鳴神社(深安郡神辺町)
とあるのも、出雲族の進出と理解することが出来ます。
中国地域では佐伯という大伴系の氏族が随伴している。のち厳島神社(祭神宗像三女神と五男神・
スサノオの八王子か)神主職を継承する氏族で、元倭国豪族が出雲神を奉祭するのは日本国の王に
従属したからなのです。
中国山地・三次市地方の大体のことがお分かりましたか?
三次市を中心としたこの地域には、三千余の群集古墳が残されていて出雲族の根拠地であつたこ
とが想像されるのでした。先に進みますが、もつと詳しく知りたい方は和名抄郡郷名リストを片手
に地図を眺めて頂ければ、いろいろなことが分かって来るのではないですか。
姫路への進撃路
中国山地で豊富な砂鉄原料を確保し、武器・武具の補給が可能になつた出雲軍は、因幡の国から
東に進出して兵庫県東部までの確保に動きました。ここも三隊に分かれ、海岸線に沿って進撃した
部隊は途中分離し、主力部隊は船を利用して海を渡り京都府熊野郡久美浜へ上陸しました。久美浜
町天王山古墳群谷垣 3 号墳には、皮袋状提瓶が騎馬氏族の到来を示しているし、須田天王谷「湯船
坂2号墳」には双竜環頭太刀が出土している。
(湯船坂2号墳の環頭太刀)
(谷垣3号墳の革袋状提瓶)丹後発掘より
また熊野郡の天王山とか女布権現山などの地名は仏教を信仰する氏族が名前を付けたのは確実
でしょう。仏教伝来時に宗教戦争が行われたという主張を裏付けるものです。この後、この部隊は
出石町を包囲するような行動を取ります。一方、牛ケ峰山付近にある蒲生峠越しをした部隊は温泉
町・美方町そして村岡町高井から東へ。同じく高坂から関宮町経由東へと進む。これらの氏族は日
高町日置神社を奉祀する高句麗日置氏族で、天田郡夜久野町日置にも進出していました。
和名抄気多郡高田郷・日置郷・高生郷が関連する郷名でしょう。日高町みの柿山古墳は「四隅三
角持ち送り」という特殊な工法で玄室が作られ「高句麗に類例を有する古墳」という。こうした様
式の古墳は日本海側に多く、隠岐・平古墳、松江市・御崎山古墳、倉吉市・大宮古墳、能登・蝦夷
穴古墳、佐渡・台ケ鼻古墳それから兵庫県北部の図にあるように村岡町の八幡山 5 号墳八鹿町・舞
狂A10 号墳、但東町・栗尾古墳が知られています。
出石での戦いが激しく、厳しいものであつたのでしょう。高句麗からの遠征軍を投入して、かな
りの長期戦になつたのか。
「四隅三角持ち送り」式古墳がこの付近に集中しているように感じます。
出雲軍はここで勝利しました。倭国の雄藩、出石の氏族を屈服させました。
朝来郡青垣町の地名は、「青垣山の内に八十神は置かじ」と言われた青垣がさらに東へと移動し
たことを示すものではないでしょうか。播磨風土記には「伊和の大神(大国主命)が宍栗郡から南
下して来た」と書いています。この南下は因幡街道を通ってきたもので、総大将の部隊で最後発で
あつたのでしょう。
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つまり兵庫県東北部の戦闘が一段落して、出石
の倭国雄藩であつた鶏林国皇子・天日槍後裔氏族
と講和を取り付けた上での出発であつたのでし
ょう。
進撃路を書いていると播磨風土記の言う「伊和
の大神と天日槍命の直接対決」はなかったように
感じられます。この部隊には宍栗郡狛野の地名に
見える高氏が随伴し、側面を警戒防御したと思わ
れます。
和名抄「狛野郷」は伊和神社(祭神大巳貴命配
少彦名神・下照姫神)の南西山崎町にある高下、
牧谷付近か、ここには大倭物代主神社(祭神大巳
貴神・亊代主神・大物主神・健御名方神)があり、
出雲神を祭祀する氏族の蟠居が想定されます。
兵庫県東北部から氷上郡を通り南下して来た部隊は和名抄「播磨国多可郡」(荒田・賀美・那珂・資
母・黒田郷)に高句麗氏族を見ることが出来ます。賀美郷・那珂郷・資母郷(上・中・下)などの郷名は、
半島からの渡来氏族の居住地郷名につけられているし、多可(郡)という氏族名も残っている。
加西市には出雲から随伴した氏族の石部神社や磯部神社が集まっている。
また兵主神社は兵庫県山陰側から山陽にいたるまで続き、この兵主神社を結ぶ線は出雲軍にとつて
防御線であり、また西国の遮断線となつて西国の平定を容易にするものだつたのでしょう。
中国西部への進撃
出雲から山陰側西へは、海路を使った作戦が行われたのではないか。倭国地方豪族への襲撃が行
われ、制圧していつた。この方面には山口県大津郡日置町に日置上、日置中、日置下の地名が残る。
日本海に浮かぶ見島にある数百の積石古墳との関係が想定される地域であり、数ヶ所の須恵器窯
址も存在するが、現在の人家は少なくひつそりとした町になつていた。そのほか、付近には熊野岳
や権現山など、それに出雲族に随伴した海族の青海首に因る地名も見られる。
山口県西端豊浦郡には、和名抄「額部郷」があります。出雲から来た氏族で、景雲元年銭百万、
稲一万束を献じ、豊浦郡大領となる額田部直塞守・同広麻呂の名が残りました。この額部郷は室津
郷の後に書かれているので、現在の室津の近所にあつたと思われます。豊浦郡豊浦町黒井には式内
社・村屋神社(祭神三穂津姫命)があり、書紀にタカムスヒの娘で渡来神大物主神と婚姻関係を結
ぶとされるのが、この三穂津姫なのでした。政略的結婚というよりもつと心情的な、大伴氏と高句
麗氏族との堅い信頼関係を築くための婚姻でした。
その前提となつたのが相互の仏教に対する厚い帰依心であつたと思われます。山口県瀬戸内海側
の拠点となつたのは、山口県佐波郡徳地町付近で和名抄「佐波郡日置郷、玉祖郷(たまおやごう)」
があります。いずれも出雲から進撃してきた氏族たちで、要害岳・八坂・上八坂などの地名に式内
社出雲神社(祭神大巳貴命・亊代主命)、御坂神社(祭神大国主神・亊代主命)があります。山口
県における根拠地にしたのでした。
佐賀新氏の「出雲朝による日本征服」によるとこの方面には、益田市から南下した出雲勢力は日
原町から分離、一隊は高津川・高尻川を利用して六日市町へ入り、さらに美和町に進撃していつた
という。別の一隊は日原町から津和野町高田・野坂峠を超えて山口県に入り現在の国道 9 号線沿い
に進んだという。いずれも山また山の困難な進撃路でした。道筋には物見岳と名付けられた山が多
いが、この近辺で要害岳とされたのは徳地町だけで、ここから南方の徳山市・熊毛郡・玖珂郡にか
けては出雲神を奉祀する神社の集合体があるようです。
徳山市・式内論社二俣神社(祭神大物主神・八千矛神・稲田姫神)、
同じ論社の周方神社(祭神建御名方命・大物主神・八千矛神)
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熊毛町・式内論社大歳神社(素戔鳴尊・稲田姫命・大巳貴命)
柳井市・式内論社賀茂神社(玉依姫命・別雷命・三毛入沼命)
防府市・式内社剣神社
(素戔鳴尊)
熊毛郡にも和名抄「美和郷」があり、美和は三輪のことで海を照らして出雲に寄り来た渡来神「大
物主神」を三輪山に祭つたとされる神様の名。郷名は出雲族の蟠居を示すものといえます。また、
この方面に随伴したのは玉作氏族で、防府市大崎に玉祖神社があり、禰宜玉作部五百背は天平九年
周防国正税帳にその名がみえます。山口県西部が拠点的な侵攻になつたのは、出雲側についた氏族
が多くなってきたからでしょう。
佐賀新氏の「出雲朝による日本征服」は地名考証の本ですが、分かり易い略図が載っています。
許可を得たので転載しましょう。
西国における戦闘は出雲からの南下と横方向の移
動ととらえることができます。もちろんこうした南
下が一挙に行われたのではなく段階的に行われたと
想像されるでしよう。ここでは西国での戦いの全体
像を見ておいてください。
それでは出雲族の南下を個別にみてみましょう
吉備国への進撃
五世紀初頭、神功皇后・応神大王の半島からの御帰
還に、半島倭国豪族が随伴し列島各地に領地を賜り、
ワケ(分家)を作りました。
吉備に領地を賜った上道臣・下道臣たちも倭国の
構成国から帰来した王族あつたか、王が国を王子に
託して直接帰来してこられたとも思えます。(国籍
が倭国の人達の渡海に「渡来」とするのはおかしい
事ですから、「帰来」という言葉を使っています。
「渡来人」というのは国籍の違う人達の渡海をいい
ます。)
巨大古墳のある吉備国を護る氏族は、倭国の重要
な氏族として大王の信頼厚く、倭国滅亡の危機に激しい抵抗をしたでしょう。これに対して、出雲
勢力は鳥取県・兵庫県・広島県の各方面から包囲侵攻していつたものと思われます。県境南の賀茂
町から加茂川沿いに南下し、上高倉・下高倉・高野・勝部と続く津山市付近には、鳥取県日置川・
勝部川周辺の氏族が南下したのか。また鏡作・久米などの氏族名もみえる。
後に美作の国介となる高句麗氏族・高倉石麻呂(福信の子)もこの地になんらかの関係を有して
いたのでは?鳥取県から犬狭峠を越えてきた軍は、湯原町付近を経由、北房町に根拠地を置く。こ
この上中津井・大谷1号墳には双竜環頭太刀が出土しています。湯原町では式内社が七社もあり、
山奥の町の大字社という所にこれだけ式内社が集中するのも珍しい。
佐波良神社は形部神社と相殿(祭神佐波良神)、境内には後期古墳の分布があるという。
壹粟神社 2 座(祭神神太市姫命)祭神は大山祇命の娘で素戔鳴尊の妃だから、2 座というのは素戔
鳴尊が抜けたのかあるいは御子の大年神・宇迦之御魂神のいずれかが不明となつたもの。同所に久
止神社・兎上神社・長田神社(祭神亊代主神)祭神はご存知の通り大国主の子でした。
この地から南下した軍は、北房町付近に布陣する。双竜環頭太刀の出土からみて、高句麗系氏族
の分布を想定されます。比売坂錘乳穴神社(新見市豊長赤馬・祭神大巳貴命)、井戸錘乳穴神社(北
房町上永井・祭神大名持命)この二社から加茂川町鴨神社(祭神別雷命)、建部町・吉井町出雲四
神社(鴨神社・布勢神社・石上布都之魂神社・宗形神社)を通る線は横への移動ではなく、鳥取県
から各道を南下した出雲勢力の攻撃布陣ラインであつたのだろう。
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和気郡吉永町神根本には式内社・神根神社(祭神木花開那姫命)があります。
播磨風土記はこの方を大国主神の妃とする。紀記より播磨風土記の方が信用できるでしょう。
兵庫県側からの侵入を示している。
広島県側深安町素戔鳴神社から県境を超え、岡山県井原市に足次山神社(祭神・足名椎神、手名椎
神)を奉祀する。素戔鳴尊の義父母に当たる方でした。
さすがの倭国大豪族吉備氏も三方向からの攻撃には敵対できなかったと見えます。
つぎの段階には岡山県南部まで攻め込まれ、下道臣は滅亡し、上道臣田狭は脱出して半島で再起を
誓う。半島南部には田狭の領土があつたのです。
岡山県南部には出雲神を祭る式内社が多い。代表してあげておきましょう。
邑久郡長船町・美和神社(祭神・大物主命)古墳地帯にある神社で付近牛文茶臼山古墳には獅噛文
帯バツクルが出土するし、土師という地名もあります。
同じ土師の名がある岡山市四御神字土師の森に式内社・大神神社 4 座(祭神・大物主神、大穴持
神、三穂津姫神、少彦名命)。尾針神社(岡山市京町、祭神天火明命)火明命を奉祀する氏族は、
播磨国にいたという(播磨風土記)ので、兵庫県側から侵入して来た集団がここまで到着したこと
を示すのでしょう。尾張へ移動するのはこの後になります。
宗形神社(岡山市大窪・祭神・宗像三神、素戔鳴尊)は吉井町から南下した氏族か。総社市には
野俣神社(祭神・大年神配大物主命、少彦名命)があり、玉野市では鴨神社(祭神・味すき高日子
根命)があります。高賀茂系で宗形の多紀理毘売と大国主命の子とされているのがこの方でした。
ここには金刀比羅山という山名があります。インド仏教の守護者クンピーラ大将の名をいつの時
代につけたのでしょうか。さて、五世紀代吉備の地に巨大古墳を築いた吉備氏は脱出して半島に去
りました。脱出できなかった人々は捕虜となり、豪族に分配されて奴婢としての生活を送らなけれ
ばなりませんでした。ここで分かっていただきたいのは、五世紀の吉備氏の後に出雲勢力が進出し
たということです。「大国主の平定」は倭国豪族を征服することで、五世紀より前の時代ではない
のです。
つまり継体天王の時代に出雲勢力が吉備を征服するのでした。そういうことを「大国主の神話」
にしてしまつたり、仏教の渡来を隠したのは、渡来氏族によって列島が征服された事実を隠そうと
したのだと思われます。
四国への進撃
四国の内、進撃路がはつきりとしているのは徳島県北部の吉野川流域でしょう。その他の香川
県・愛媛県は対岸の各地から「わあーと来て」たちまちに征服されたという感じ、高知県は高知市
を中心とした拠点的攻撃で終了した感じがします。香川県には、いろんな氏族が来ました。多度津
周辺は空海・真雅兄弟の出身氏族佐伯氏、大伴の支族です。
丸亀付近は因支首(いなきのおびと)天台宗祖円珍の出身氏族、(母は多度津佐伯氏)。日本を
代表するような仏教指導者がこの小さな国から相次いで出ている。いかに仏教の盛んな土地であっ
たかが分かるのではないでしょうか。倭国豪族の中で大伴関係氏族がまつさきに仏教に帰依したこ
とを裏付けるものといえます。
讃岐公氏は香川県寒川郡の豪族、寒川町にある中尾古墳は県内最大級、後期古墳だからこの時代
に香川県に来たのだろう。式内社大蓑彦神社(寒川町石田、祭神・大蓑彦命)祭神は寒川比古、寒
川比女の父という。渡来伝説を持つという神奈川県寒川神社の祭神はここから来たのか。
小豆島は小豆首氏(姓氏録、未定雑姓「呉国人現養臣の後也」=高句麗だろう)、高句麗日置氏
の姿もみえる。讃岐国人・日置・登乙虫は神護元年・八、銭百万を献じ外大初下から外従五位下を
授けられた(続紀)とある。すでに姓(かばね)を有しているから小豪族であり、富裕層でした。
高句麗氏族は来日直後から豪族として古墳を作ったり、領地を所有しているから難民として列島に
来たのではないのです。
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讃岐国の日置氏の居住地は良く分からない。もしかしたら、出雲の大物主神を祭る金刀比羅宮付
近だろうか。ここと観音寺市にかけての地域に式内社出雲神を奉祀する神社があります。
● 山田神社(観音寺市柞田町、祭神山田大娘神・大巳貴命・素戔鳴尊)
● 加麻良神社(観音寺市流岡町、祭神賀茂大明神)、同論社賀茂神社(観音寺市植田町、祭神賀
茂御祖神、別雷神)
● 於神社(観音寺市粟井町、祭神誉田別命[継体の五世祖]配素戔鳴尊)
● 大水上神社(三豊郡高瀬町、祭神大山積命・保牟多別命・宗像大神)
高瀬町にある「東部山」という山名も気になる名前です。
出雲に上陸した高句麗氏族は出雲神を氏神としていますから、香川県西部にいた可能性が高いよう
に思われます。ついでに出雲から随伴した天太玉命を祖とする忌部の氏族もこの付近に居住してい
ました。愛媛県は拠点的に進駐したみたいで、松山市周辺には式内社・出雲崗神社、湯神社(松山
市道後温泉、祭神大巳貴命・少彦名命・合素戔鳴尊・稲田姫命)があります。
温泉地にはこのニ柱を祭る神社が多いのですが、松山市播磨塚古墳には獅噛環頭太刀が出土して
いるのでした。
北条市には式内社国津比古命神社(北条市八反地、祭神天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊配、物部
祖神)祭神は天火明命で、この方には物部が随伴している。山を挟んで反対側、東予市には周敷神
社(祭神火明命・配大山祇命、大巳貴命)がありました。祭神火明命が出雲神であることは、配祀
された方々を見ていただければ分かると思います。
あと一ケ所進駐したのは今治市周辺、大須伎神社(今治市高橋・祭神少彦名命)、姫坂神社(今
治市宮下町・市杵嶋比売命{宗像神})、多伎神社(越智郡朝倉村・祭神多伎津比売命{宗像神}、
須佐之男命、多伎津比古、大巳貴命)など。
国分寺を中心とした地域には和名抄「鴨部郷」があり、出雲族の進出が想定される場所です。
ところで、今治市八町字天皇には樟本神社(祭神・素戔鳴尊)があります。
スサノオを奉祀する神社が天王社であり、天王山や天王谷などの地名も牛頭天王の仏教用語から
きていました。天王が大王に代わる称号として、この国の王号に採用されたのは仏教伝来の影響で
す。表記が天王から天皇に変わったのは天智天皇の時代(出土木簡による)だといわれている。そ
うすると、この地名の字(あざ)名が「天王」でなく「天皇」を使っているのは本質をついている
というべきなのかも知れません。
ただしスサノオが天皇位に就いたことはないでしょう。「この国を奪うことはしない」と誓約し
約束を守りました。子の大国主が天皇位に就いたのです。その天皇名は「継体」なのでした。
高知県において、出雲族は高知市を中心とする地域に進駐し、そこで戦闘は終了した感じです。
● 高知市一宮・土佐神社(祭神・味すき高彦根命)
● 高知市布師田・葛城男神社(祭神・高皇産霊命)倭国大豪族葛城氏は大和での戦いで滅亡し、
領地葛城には別の氏族が入りました。
五世紀の豪族葛城氏の領地は、分配されてその後葛城を名乗るのは大伴系の人達。
この神社はタカムスビ五世の孫剣根命の後裔、葛城忌寸の奉祀した神社という。
● 高知市鴨部・郡頭神社(祭神・大国主神)和名抄「鴨部郷、高坂郷」はこの付近か、高須、高
見、西部、鴨部高、小鴨部などの地名が見える。
出雲族は海から上陸侵入し、この地域を占領しました。
もうこの辺まで戦いが進むと倭国の豪族も、続々と出雲勢力に降伏を申し出たのでしょう。
蘇我氏がどの時点で継体天王側についたかは定かではありませんが、和名抄「香美郡宗我郷・物
部郷」、「長岡郡宗部(そがべ)郷」がみえます。同様に小野氏も高知県南国市岡豊町、小野神社
(祭神・天足彦国押人命{孝昭天皇御子})があり、出雲勢力に随伴していました。四国での大き
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な戦いは徳島県北部で行われ、吉野川沿いの進撃路がはつきりと分かるようです。途中では追撃に
なつたのか、徳島県西部の池田町まで出雲神を祭る式内社神社の分布が残されています。
ここでは天太玉命を祭祀する忌部の氏族が随伴しているようです。
徳島県南部は那珂郡に拠点的な侵入となりましたが、阿南市長生町、八鉾神社(祭神・大巳貴命
、少彦名命)は、長の国国造の祖先神という。
対岸和歌山県にも、長我孫・長公という郡領級の大国主後裔氏族がいます。
五世紀の倭国大豪族「紀氏」を追い払い、その後に和歌山県に進駐した氏族でした。
出雲族がこの国を平定する時期がはつきりと分かる好例です。後述しましょう。
● 室姫神社(阿南市新野町・祭神木花開那姫命)、も播磨風土記によって大国主の妃とみたほう
が良さそうです。同じく、亊代主神社(勝浦町沼江、生夷神社祭神・亊代主神)も国造の祖先神な
のでしょう。
九州の宗教戦争。出雲軍の九州での活動
九州における戦争は、継体天王と大伴氏との密約で大伴氏によつて行われました。
ただ出雲勢力が九州本土での大伴軍に協力するため、若干の軍隊を派遣していたことは、壱岐にお
ける式内社・兵主神社や福岡県宗像郡の宗像神社の存在で知ることが出来ます。
● 兵主神社(長崎県壱岐郡芦辺町深江東・祭神素戔鳴尊、大巳貴神、亊代主神)
名神大の神社で、中国山東半島の「戦いの神」が本来の祭神です。北燕国から出雲国を経由して
九州の壱岐嶋に鎮座したことは、現在の祭神が出雲神となつていることを見ても明らかなことでし
ょう。
その他にも壱岐には、出雲系・大伴、物部系神社が多い。
大伴氏系の神社。
● 阿多弥神社(長崎県壱岐郡勝本町立石琴の坂・祭神大巳貴神、少彦名神)
● 国方主神社(長崎県壱岐郡芦辺町国分東触・祭神少彦名神)
● 高御祖神社(長崎県壱岐郡芦辺町諸吉仲触・祭神高皇産霊神他)
出雲系神社
● 角上神社(観上神社長崎県壱岐郡芦辺町本村・祭神素戔鳴尊、奇稲田姫命、大巳貴命)
● 大国玉神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町大原・祭神大巳貴神、大后神、亊代主神、菅原道真)
● 国津神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦渡良溝・祭神足名槌、手名槌、奇稲田姫命)
● 国津意加美神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町木村触・祭神素戔鳴尊、配大巳貴命、稲田姫命他)
● 津神社合祀牛神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町牛方触・祭神素戔鳴尊、大巳貴命)
物部氏神社
● 物部布都神社(長崎県壱岐郡郷ノ浦町物部田中触・合祀祭神・布都主命)
壱岐史は天武天皇十ニ年(683)に連姓をたまわる渡来氏族で、姓氏録に「伊吉連。出自長安
人劉家楊雍也」-左京諸蕃-とみえる氏族。壱岐国の地名にもとづく姓をもつが、中央官人にも数
多く採用されて主として対外外交の実務に従事している。この氏族が壱岐に来た時期は、継体天王
の平定時期であつたのだろうし、五世紀末に出雲勢力の一員として壱岐国に侵攻してきたのだろう。
国造本紀には「壱岐嶋造が石井に味方した新羅の海辺の人を伐つ。」という文章が残されていま
す。石井が筑紫国造石井(いわい)であり、「新羅の人」は五世紀の豪族葛城氏配下の秦氏である
と思われます。倭国豪族対出雲の継体軍との戦いがこの小さな嶋においても行われ、そして勝利し
た出雲側によって兵主神社が建てられたのでした。
宗像氏と三女神
宗像氏が、祖とするのは「大国主命六世孫阿田片隅命之後也」姓氏録河内神別という。
この氏族は七世紀に天皇家の閨閥にも関与し、天武天皇の妃に胸形君徳善の女尼子娘がいて、高市
皇子を生んでいる。
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部民は列島の平定に従軍し各地に宗形部を形成し、宗像神社を奉祀しています。
祭祀する三女神は素戔鳴尊の誓約段にでてくる神々で、それぞれ御名を多紀理毘売命(奥津島比売)、
市寸島比売命、多岐都比売命という。
このうち、多紀理毘売命は大国主命と結婚されて阿遅すき高日子根神と下照比売命を生まれた。
神話では天若日子の妻となったのが、出雲の下照比売ですから、九州で祭られるまでは出雲にいら
つしゃつたのでしょう。
宗像氏が九州入りし、宗像郡の郡領家となり三女神を祭祀して宗像神社の神主を兼帯したのかそ
れとも、古来から九州の海族として、出雲勢力に荷担しその過程で閨閥になつたのかその点は謎が
残るところです。
文武天皇ニ年(698)年三月に出雲国意宇郡司とともに宗形郡司も三等親以上の連任が認められ
特別待遇を得ている。出雲に関係する氏族にたいする厚遇がどういう意味をもつたものだろうか。
宗像神社から南方6Kmの宮地嶽神社(祭神・息長足比売神他)の境内に発見された宮地嶽古墳
は、円墳ながら石室長約22m高さ3m、巨大石を使用した石室を持ち、付近から埋置された遺物
も発見された。仏教色の強い遺物として蔵骨器・蓋付鋺・銅盤、渡来色の強い金銅製壷鐙・鞍金具
等の馬具、金銅製竜文透彫り冠、頭推大刀柄頭2、その他須恵器ガラス玉等が出土した。
仏教帰依による火葬は、6 世紀代に遡ることが明らかになってきている。この古墳のような七世
紀前葉の古墳から蔵骨器が出土しても不思議ではなかろうし、深く仏教に帰依した人物が眠る古墳
であるとして良いでしょう。金銅製竜文透彫り冠は古墳の年代からみて、伝世品(受け継いだ品物)
とみられる。中国北燕国の竜城出身者の子孫とみるのはいかがでしょうか。
九州大伴王朝の誕生。
継体天王は仏教国家を建設したいという希望がありましたが、領土を侵奪するという欲望は薄か
ったようです。宗教戦争になつたのも、弾圧に対抗する自然発生的な抵抗が豪族たちをを巻き込ん
で、大きくなって行つたのでした。
大伴氏は仏教を受け入れて継体天王側に立ち、新しい国家建設に協力しましたが、この地の「倭
国人の血統」にも執着しました。倭国人による新しい仏教国家を、倭国の原点である九州以西の土
地に求めたのです。古くから倭国の一大率として半島倭国を統括してきた大伴氏にとつて、半島南
部と九州を領土とすることにより、高句麗本国とも友好国になることができるとの読みがあつたに
違いない。継体天王と元倭国豪族大伴氏との間で、領土をどうするかの取り決めが行われ、倭国分
割統治の密約がなされたのは宗教戦争開始時期からだつたようです。九州にも仏教に反対する倭国
豪族がいましたから、これらの平定は大伴氏にゆだねられました。
書紀は五世紀末ごろに九州で行われた戦争を隠し、その後九州に誕生した王朝のことをはつきり
とは書いていませんが、それでも「九州王朝」のことを継体紀(倭国分割統治)・宣化紀(大伴
磐の九州治世)に書いていますから、九州に誕生した王朝を否定することは出来ません。-【長門
(山口県)から東は自分が統治しょう。筑紫(九州を示す)から西はお前が統治し、思いのまま賞
罰を行え。】-と。この勅はその前段に「道臣の昔から室屋(金村の祖父)にいたるまで…」と大
伴氏の系譜が述べられているように大伴金村に与えられた勅であることは明らかです。
大伴氏は継体天王の宗教戦争に協力するとともに、半島南部を含む九州以西の旧倭国勢力地を統
括する約束を取り付けたのでした。
継体紀に書かれている筑紫国造磐井の戦いは、「まやかしの」記事で、九州で行われた五世紀末
から六世紀前半の数度の戦いを合成し、磐井の戦いという一度の戦争に書き換えたものです。この
中には筑紫国造の戦いも、その後成立した九州王朝が崩壊する状況も一諸にされています。書紀が
隠したいことは、「倭国から日本国にどのように移行していったか」ということですから、五世紀
末の倭国豪族の滅亡原因や九州王朝のことは明確にするわけにはいかなかつたのです。古事記では
継体紀に【この(天王の)御世に筑紫君岩井、天皇の命に従わずして礼なきこと多かりき。故、物
部の荒甲(あらかい)大連・大伴の金村連二人を遣わして、石井を殺したまひき。】-と。あります。
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書紀はこの条文にある大伴金村の名前を削りました。
そして金村が住吉に引退したかのように書いていますがもちろんこれは「うそ」なのです。大伴
氏の主流は、畿内から九州に勢力を移し、岩井などの反仏教派の豪族を討ち、九州を統一して半島
の協力国百済とともに任那を懐柔するべく行動を起こしていたのでした。磐井の戦争記事が数度の
戦争の合成によるもので、その中には六世紀前半の九州大伴王朝滅亡の記事が含まれている。この
ことについては後で述べることにしますが、ここでは五世紀末に、大伴氏が九州を制圧したという
ことを理解して頂きたいと思います。
-【磐井は、勢いの勝つましじきを知りて、ひとり、豊前の国上膳(かみつけ)の県に逃れて、南
の山の峻しき嶺の曲に終せき。 ここに、官軍、追ひ尋ねて跡を失ひき。士、怒りやまず、石人の
手を撃ち折り、石馬のかしらを打ち墜しき。】-(筑後風土記)
風土記では磐井は豊前の国に逃れたと書いています。戦争に敗れ、逃れる時は攻めてきた敵側の
反対方向に退却するのが普通と考えると、磐井を攻めたのは畿内からの派遣軍ではなくて、大伴氏
の本拠地肥の国(佐賀県・長崎県・熊本県)の軍勢であったのでしょう。そして目的は磐井殲滅だ
けでなく、九州全土の制圧だつたのでした。 書紀宣化紀には-【大伴狭手彦が半島に赴いて任那
をしずめ、また百済を救い、大伴磐が筑紫に留まってその国の政治を執った】-と書いている。
半島の再統一はいまだ出来ていなかつたが、九州には大伴氏を王とする九州王朝が誕生していた
ことは、疑うことが出来ない事実でした。
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継体天王の進撃
2
丹後半島から近江・山城への進撃
兵庫県の北から南まで、ずらりと並んだ兵主神社のラインが出雲勢力の防御線でしたが、つぎの
段階では琵琶湖東岸・鈴鹿峠へと兵主神社のラインが移動しました。西国での平定が一段落となり、
東へと膨張してきたのです。丹後半島北側丹後町には高山古墳群 12 号墳に双竜環頭太刀2が出土
するし、和名抄「竹野郡鳥取郷・小野郷」などが残っている。
(高山古墳群12号墳の双竜環頭) 丹後発掘より
ここと隣の網野町に上陸した部隊は岩滝町へ南下、のちに国分寺が置かれる地域の字名は天王山
であり、至近距離に日置という地名も残っている。山陰の国分寺は渡来氏族の居住地の傍に建設さ
れることが多いのは、それだけ仏教に貢献する渡来氏族が多いせいかもしれません。吉田東伍氏に
よると、昔の与謝郡日置郷は「伊根、筒川、本荘から経ケ岬に至る広いものであった」という。こ
こには浦島伝説の宇良神社がある。
国分寺のある岩滝町には篭神社(祭神・火明命)があります。この祭神には物部氏が随伴してい
ました。和名抄「与謝郡物部郷」、野田川町石川・物部神社(祭神・宇摩志麻遅命)さらに福知山
市付近の「何鹿郡物部郷」がみえます。部隊は加悦町大虫神社(祭神・大巳貴命)小虫神社(祭神・
少彦名命)を経て、福知山市、船井郡丹波町に入りました。
ここから南方の亀岡市にかけて大きな根拠地を作ったようです。丹波町と日吉町に胡麻原・胡
麻・上胡麻、八木町に日置、園部町に宍人、さらに園部町と篠山町との間に、和名抄「多紀郡日置
郷」など、高句麗氏族の大きな集団があります。亀岡市周辺には出雲大神宮や漢部郷があつて随伴
した新漢人達が、北から綾部市を通って南に下がり、ここに漢部郷を作りさらに穴太にも分布を広
げたのでしょう。
和名抄・丹波国郡郷名には、出雲族名と思われる桑
田、漢部、刑部、日置、美和、賀茂、私部、高津、後
部など。随伴した豪族には、宗我部、弓削(物部)、
物部、佐伯、土師、拝師(大伴氏一族カ)などの郷名
が見えます。
一方、海族・青海首に導かれ、海上を進んだ部隊は
福井県大飯郡高浜町、さらに小浜市へと進む。
上陸地点の高浜町青に青海神社(祭神・椎根津彦命)、
高浜町日置に日置神社(祭神・応神天皇)、高浜町宮
崎に佐伎治神社(祭神・素戔鳴尊・稲田姫命・大巳貴
神)、高浜町下車に香山神社(祭神・天香山命)この
方には物部が随伴しているはずだが見えず、代わりに
胡麻峠、高浜、鷹島、高屋、高野と「たか」のつく地
名ばかりです。日置氏がこの地の関を守ったと考えら
れます。一部隊を残し、主力部隊は陸上を進むもの・
船を利用して小浜市へ上陸するものに別れ、それぞれ
に東進しました。
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大飯町父子に式内社・静志神社(祭神・少彦名命)があり、小浜市には式内社出雲神を祭る神社
が多くあります。次ぎの神社に代表していただきましょう。
久須夜神社(小浜市堅海、祭神・大巳貴命)
阿奈志神社(小浜市奈胡、祭神・大巳貴命)
曽尾神社(小浜市栗田、祭神・素戔鳴尊)
椎村神社(小浜市若狭、祭神・青海首、椎根津彦神)
小浜市には双竜環頭太刀を出土する古墳があります。上中町にも、さらに滋賀県
高島にも双竜環頭太刀の出土する古墳があつて、出雲勢力の進んだ跡を辿ることが
出来るでしょう。
(上中町丸山塚古墳出土の双竜環頭)「若狭の古代遺跡」より
三方方面は味方であつたのかも知れない。
味方(三方)という地名は広い地域にあるようです。探し出すのも面白いかも。
福井県三方郡三方町、愛媛県北三方森、京都府綾部市味方、富山県氷見市三方峯、新潟県味方など
など。
本題にもどしましょう。
美浜町に進駐した出雲軍の豪族の墓とみられる獅子塚古墳には須恵器の角杯が出
土。同町の興道寺須恵窯からも六世紀初めの角杯が焼かれていた。この地を防衛
していた豪族が渡来氏族であることを物語ります。
(美浜町 獅子塚古墳の角杯)「若狭の古代遺跡」より
一方、小浜から上中町を経由した出雲軍は、琵琶湖西岸から東岸へと進撃し不破の関を固めまし
た。琵琶湖周辺は出雲神を祭祀する式内社がびつしり、一部省略して主な神社に代表していただき
ます。
高島郡マキノ町大處神社(祭神・大地主命)
今津町 日置神社(祭神・素戔鳴尊、稲田姫命、日置宿禰)
安曇川町三尾里 箕嶋神社(祭神・亊代主神)
高島町 鴨
志呂志神社(祭神・牛頭天王)
高島町鴨稲荷山古墳には、双竜環頭太刀の祖形や双魚佩が出土しました。今津町には壁画のある
日置前廃寺があります。出雲から渡来氏族と思われる氏族が、ここにいた倭国の豪族を追い払って
入ってきたのです。紀記で、継体天王が生まれ、育ったとされる場所は出雲氏族、それも高句麗氏
族の濃厚な分布があり、継体妃を出す三尾氏はここの首長だつたのでした。
滋賀郡滋賀町 小野神社(祭神・天足彦国押人命、米餅搗大使主命)
小野氏は高知市にも、丹後半島にも見えました。滋賀町からさらに南下して山城国愛宕郡、
宇治郡にも小野郷を作りますから、出雲軍に随伴したとみられるのです。後に外交交渉や蝦夷との
戦闘に従事する小野氏は「ミニ大伴氏」のような軍事氏族の性質を持つ豪族で、早くから仏教に帰
依し出雲族に随伴したのです。
大津市 那波加神社(祭神・天太玉命)忌部氏の祖神です。これまた出雲族に随伴した氏族でした。
大津市 日吉神社(祭神・大山咋命、大巳貴命)、古くは八王子山(牛尾山)に奉祀されました。
仏教伝来後に移動して来た氏族によって山名がつけられ、出雲神が祭られたのはたびたび指摘し
ている所です。後、この地の新漢人の一氏族・三津首から出た最澄(伝教大師)が天台宗延暦寺を
開山すると、天台宗の護法神として発展しました。大国主を大黒天としたのも、出雲の神たちを本
地垂迹説によつて、仏にしたのもこの方でした。自分達の祖先がこの国に仏教を導き入れたという
思いはあつたのでしょう。スサノオを牛頭天王、大国主を大黒天などの仏教の守護者にすることで、
この国の誰よりも、どんな氏族の長よりも上位に置いたのでした。
大津市には、新漢人の集団がみえます。大友村主系(曰佐・漢人・史)、志賀忌寸(大友民曰佐、
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大友丹波史、大友桑原史)、志賀穴太村主、志我閉連(造)など。
京都府亀岡市に漢部郷や穴太がありました。その集団は東進し、琵琶湖南岸で琵琶湖西岸を南下
した部隊と合流したのです。亀岡市に穴太寺、大津市坂本町穴太に廃寺跡・穴太古墳群・穴太オン
ドル遺構を残すこの渡来氏族は仏教に厚く帰依していたと思われ、さらに進んだ穴太氏は東岸坂田
郡の郡領級豪族になりました。
琵琶湖東岸には、北側高月町に兵主神社(祭神・大国主神)、野洲郡中主町に兵主神社(祭神・
八千矛神)、があり、播磨東部の兵主神社ラインが東に移動し、出雲勢力の膨張侵入を物語ります。
琵琶湖東岸も西岸同様、出雲の神様がいっぱい。特徴のある式内社に代表してもらいましょう。
伊香郡木之本町、布勢立石神社(祭神・大山咋命)
応神天皇の孫、意々富杼王の後裔・布勢宿禰の勧請なりという。
木之本町、石作玉作神社(祭神・天火明命と天玉祖命)出雲から随伴された方々を祭る。
物部氏族や火明命系の石作部・玉造氏族が居住したのでしょう。
高月町、赤見神社(祭神・広国排武金日神、春日山田皇女)祭神は安閑天王とその后です。
継体天王と火明命の後裔尾張連の娘・目子媛との御子が安閑天王で、春日山田皇女は別名を赤見皇
女といいますから、もしかしたら后はこの付近のご出身では。
浅井町高畑、波久奴神社(祭神・高皇産霊神、配物部守屋大連)付近地名に物部、唐国(物部唐(韓)
国連)などがみえる。坂田郡は先に述べた新漢人の穴太村主や志賀忌寸など。
それに継体天王に妃を出す息長氏・坂田氏などの継体閨閥の存在があります。
この氏族は系譜を継体天王と同様に応神大王の子・若野毛二俣王から出自したとしている(古事
記は倭建命と一妻の子、息長田別王その孫息長真若中比売と応神の子が二俣王とする。ただし書紀
は古事記と違って、稚野毛二派皇子は応神大王と河派仲彦の女・弟媛の所生となつている。この場
面での息長氏の関与はない。)
かなり混乱していますが、日古坐王系の息長宿禰王(神功皇后の父君)の系列とは違う氏族。そ
れにしても継体天王とは深く繋がっています。「継体天王皇子の兎皇子が酒人公、中皇子が坂田公
の先祖となる」(書紀・継体紀)坂田公は壬申の乱後真人姓を賜り、姓氏録に「息長真人と同祖」
とあつて坂田郡が本拠地であつたし、同じく坂田郡上坂郷(滋賀県長浜市上坂町)を本拠とする坂
田酒人氏とも関連があつたでしょう。
対岸の継体天王と縁のある近江高島町には、小川(安曇川町上小川、下小川)の地名によると思
われる酒人小川真人がいた。姓氏録に「酒人小川真人。男太跡天皇(諡継体)皇子兎王之後也」(未
定雑姓、右京)とみえます。面白いのは、大国主神の後裔氏族と主張する酒人君もいること。こち
らは「大国主神の後裔忍みか(瓦に長)(おしみか)足尼を祖とする」(鴨脚家本、大和国神別・
賀茂朝臣条逸文)(日本古代氏族辞典)。大国主神=継体天王であると思えば、この話はぴつたり
なのでしょう。
また、坂田郡から南方は石部(いそべ・石辺)氏の居住していた場所とみえ、愛知川町・石部神
社、竜王町・石部神社、安土町・石部神社、、石部町・石部鹿鹽上神社(論社・吉姫神社)、守山
市・馬路石邊神社。祭神を天日方奇日方命とするこの氏族は、姓氏録「石辺公。大物主命子、久斯
比賀多命之後也」(山城国神別)と書かれ、渡来神大物主の子孫です。
付近、狛坂磨崖仏、狛坂廃寺、同寺守護神・大野神社の設営にあたった氏族と思われます。琵琶
湖南端草津町には印岐志呂神社(祭神・大巳貴命)があり、近江を制圧した出雲軍にとつて倭国の
首都大和は、距離的に間近になりました。しかし、出雲の王、継体天王の大和入りは時間がかかり
ました。抵抗は激しく大和への進撃は困難を極めたのでしょう。
それに継体天王は急ぐ必要がなかったのかもしれません。急げば双方に死傷者が増えます。
仏教徒にとつて、そのことは心に痛みとなりました。
戦争を放棄したため故郷の竜城を追われ、民とともに国を棄て放浪した父のこと、「み仏の教え」
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に従って「この国を奪うことはしないと誓った」父の言葉は常に意識の中にありました。
やむなく、宗教戦争になったけれど領土を奪うことや敵を殺し尽くすことが目的ではなかつたの
です。仏の国を広げ、そこを確保して仏の教えを人々に浸透させることが真の目的でした。百姓の
生活安定をはかり仏教を広めて、その教えに皆が帰依すればそこは倭国に対して強力な防御線とな
つたのです。
一方で、この国の宗教である神道を仏教に取り入れる方策も考え出されました。「この世に具現
した仏の仮の姿が神様なのだ」という天地垂迹説です。仏教の方が古いのですから、そういわれる
と「そうかな」ということになります。
さて、出雲軍は大和制圧を急がずに、この地に防御線を設定したと思われます。
京都市南方の長岡京市には石作神社、大歳神社の出雲神を奉祀する神社があり、さらに綴喜郡に高
神社(井手町多賀、天王社)、地名に上狛・下狛・多賀・加茂・天王・高田・高山・高船など、高
句麗系氏族の濃厚な居住地です。
和名抄では「綴喜郡・多珂郷、相楽郡・水泉(いずみ・水泉高麗)郷・賀茂郷・大狛郷・下狛郷」
などの関連郷名がみえています。
わが国で最初の本格的寺院は、飛鳥の真神原に蘇我氏によつて建てられた法興寺(飛鳥寺)です
が、ニ番目に建てられたのは上狛の高麗寺でした。ときの権力者に匹敵する財源と民族の集団力を
持つていたのでしょう。このことは列島に渡来した高句麗族が仏教に厚く帰依していたことを物語
るものです。仏教布教のため、継体天王に招かれて遠征軍として列島にきました。このときの高句
麗系氏族を「仏教遠征軍」という名前をつけようと提唱しています。高句麗長寿王は自国の国力衰
退を考慮しながらも、東方仏教国の建設に力を貸したのでした。
継体天王は最初の宮を樟葉宮(枚方市樟葉)5 年後に筒城宮(綴喜郡田辺町か)さらに七年後に
弟国(乙訓郡)に遷都しています。紀の記述がどれほど信頼できるか分かりませんが、継体天王が
高句麗氏族を含む出雲諸氏族に護られて都を造ったことは確かなことでしょう。
天皇位についた継体の宮所在地・樟葉の地名由来を書紀は下品な表現を使って卑しめている「兵
士の袴から尿が漏れた所」(崇神紀)と。「倭国復古」の勢いの高まった持統王朝時代に紀記が作
られたのですから、渡来氏族に護られて倭国を奪った継体天王の都がけなされるのは仕方のないこ
とかも知れません。
さて出雲勢力が大和に入るのに、長い年数を掛けたといいます。大陸的な戦い方だつたのでしょ
う。そして徐々に大和包囲網を作っていきました。島根県太田市の物部神社伝承には「祭神・宇摩
志麻遅命は、天香山命とともに物部の兵を率い、尾張・美濃・越の国を平定され、天香山命は弥彦
神社に鎮座された。」という。天香山命は火明命の子で、この両者に物部が随伴していたことは既
にお知らせしました。尾張の次ぎに美濃そして越の国(北陸の総称)という進撃路がここに示され
ています。
そうなんです。出雲勢力は伊賀国の鈴鹿峠から三重県に入り、ここを平定してから愛知県に入り
ました。そして岐阜県の関を背後から攻めてこれを破り「不破の関」を解放して滋賀県の勢力と合
流、敦賀方面から船を利用して越の国(北陸)へに進みます。個別にみてみましょう。
東国(三重県)への進撃
三重県阿山町と上野市に式内社・出雲神のまとまりが見えます。
阿山町・穴石神社(祭神・出雲建子命、櫛玉命)出雲建子命は別名伊勢津彦といい、櫛玉命は出
雲に渡来した三輪神ですから、出雲勢力がこの地に到来したこと示すものです。
阿山町・陽夫多神社(祭神・素戔鳴尊、五男三女神)伊賀国造、多賀連が祭るという。
日本古代氏族辞典(佐伯有清編)によると【氏名は[和名抄]近江国犬上郡田可郷(滋賀県犬上郡
多賀町一帯)によるか。未詳。姓は連。旧氏姓は高麗使主。】
琵琶湖東岸、多賀町には、多賀大社がありますが、「式内社名は多何神社ニ座」で、多可氏族が出
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雲から近江を経由して、伊賀国造となつたことを示すものです。
阿山町・佐々神社(祭神・八重亊代主命 合祀須佐之男命、大巳貴命)
上野市・宇都可神社(祭神・大物主命、大巳貴命)
上野市・高瀬神社(祭神・高瀬大神)
阿山町、上野市を確保した勢力は東進して
阿山郡大山田村・葦神社(祭神・大国主神、亊代主神・宗像三神他)経由、海岸地域を北上する。
名張市・名居神社(祭神・大巳貴命)
一方名張市・一志郡方面に部隊を配置した出雲軍は、志摩半島の制圧に向う。この地に「和名抄」
一志郡日置郷、呉部郷があります。呉部郷は不詳ですが、日置郷は津市南方、雲出川に囲まれた日
置を中心に高野、高岡辺りに比定され、渡来氏族の居住が想定できます。
久居市・射山神社(祭神・大名貴命、少彦名命)
津市・大乃巳所神社(祭神・大物主神)と三重県の海岸地帯は出雲の神さまがいっぱい。それに
物部の神社も。
日置に隣接する久居市新家町には物部神社(祭神・宇摩志麻遅命)、津市に置染神社(祭神・神
饒速日命)と太田市物部神社伝承どおりの分布になっているように思います。南へ志摩半島に向か
った氏族は磯部(石部)氏が有名、この氏族が「大物主命後裔氏族」であることは既にお知らせし
ていますが、後に外宮神主となる渡合氏はこの氏族からの出身。
志摩郡南端、南勢町礫浦にある宮山古墳(12mの円墳)から双竜環頭太刀、銅鋺、須恵器 105
が出土。六世紀前半の古墳に仏教の象徴のような銅鋺が入れられていること。多量の須恵器納祭。
双竜環頭太刀が入れられていることに、この古墳の主が「仏教の楽土を作るため海を渡つてきた遠
征軍の一員」であつたことが想像されるのでした。このような事実の前には「紀の仏教記事」がい
かに作られたものかを思い直されてしまいます。
愛知県・岐阜県への進撃
主力部隊は鈴鹿市・四日市市へと北上します。代表して次ぎの式内社を挙げましょう。
鈴鹿市・久留真神社(祭神・大巳貴命、須世理姫命、配漢織姫命)出雲神に漢織姫が配祀されて
います。五世紀中ごろ来朝した漢織(あやはとり)、呉織および衣縫たち、【これらは飛鳥衣縫部・
伊勢衣縫たちの先祖である。(紀・雄略紀十四年条)】
紀、雄略七年条には、新漢人の来朝を伝えて、衣縫部の名が出てくる。漢織たちは新漢人の集団
の中にいたのです。出雲神に率いられて、放浪の末に出雲に上陸したのでしょう。だから出雲神と
一諸に、ここに配祀されているのです。彼らの来朝時代は雄略紀の出来事で、神話の時代ではない。
同様に神話で出雲の神とされる人達の実年代は、新漢人と同年代と考えてよいのでしょう。こう
いう神社事例に出合うと、いままで述べてきたことがより鮮明になるようです。播磨風土記には揖
保郡伊勢野の名称伝承として、「衣縫の猪手、漢人刀良等の祖がここに住もうとして、伊和の大神
の子、伊勢都比古・伊勢都比売を祭った」とする。
伊和の大神は大巳貴命の別名ですから、この漢人たちは大神に従って来た民たちでした。伊勢の
衣縫いの名称はもしかしたら播磨の地名かもしれない。地名の移動も考える必要があるのです。阿
山町の穴石神社の祭神は伊勢津彦でした。この方は土地神ではない。出雲神と考えなくてはなりま
せん。
四日市市・江田神社(祭神・五十功彦尊)祭神はスサノオの御子五十猛命か。列島に木の種子を
播いて有功(いさおし)の神と称えられたという神ですが、青森県では紀元五千年前の縄文時代中
期に栗の木栽培が行われていたというから五十猛命の播いた種子は、木の種ではありません。仏教
用語でいう種子(仏様を表す梵字)なのでしょう。有功の神というのは仏教布教に貢献したという
意味で、この一族が仏教界から高く評価されているのです。
四日市市・鳥出神社(祭神・日本武尊、亊代主神)朝明郡大郷の総氏神。
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伊勢国朝明郡(三重県四日市市、三重郡の一部)には、朝明史氏族がいました。姓氏録未定雑姓、
右京【朝明史。高麗帯方国主氏韓法史之後也】とみえ渡来氏族です。
渡来氏族がどのようにして、各地に広がったかを示しているように思います。
四日市市・穂積神社(祭神・神饒速日命、伊我色雄命)随伴している物部氏族の神社です。
現在の名古屋市付近には倭国大豪族葛城氏が領地としていました。配下には倭国最強の鶏林(任
那国の一国)出身者で構成された部隊がいましたから、兵庫の出石で手厳しい反撃を受けた時と同
様の戦闘になることが予想されました。北上した出雲勢力
にとつてやつかいな相手です。出雲勢力の取った戦法は、
急がないこと、包囲して時間を掛けることだったのでしょ
う。これが中国的な戦い方だつたのかもしれません。
長期戦に我慢できなくなって、猪突してくる倭国兵を取
り囲んで少しづつ戦力を奪っていきました。そしてついに
倭国軍を追い払い、兵主神社を豊田市矢作川辺に建てたの
でした。琵琶湖東岸からこの地へ長い道のりでしたが、つ
いに東国の一郭に仏教国を作り上げることに成功しまし
た。
兵主神社(豊田市荒井町・祭神大物主神、三穂津姫命)
三穂津姫命は高皇産霊尊(大伴氏祖神)の娘で、渡来神大
物主神に嫁ぎました。渡来氏族と豪族大伴氏の婚姻関係を
示すものです。そんなところから出雲に渡来氏族を招く計
画を立案したのは、大伴氏ではないかと推測されるところ
です。
○ 継体の皇子・安閑天王を祭る式内社
この地を占拠した尾張連は継体天王の妃目子媛の皇子・のち安閑天王の養育に当たったので、この
地方に安閑天王を祭神とする神社があります。
射穂神社(豊田市保見町・祭神安閑天皇、春日山田皇女、神前皇女、蔵王大権現)
金 神社(瀬戸市小金町・祭神尾張金連、配安閑天皇、金山彦)
片山神社(名古屋市東区・祭神蔵王権現、配安閑天皇、国狭槌命)
射穂神社は和名抄「三河国賀茂郡伊保郷」の地にあります。伊保の大神・蔵王権現はともに大国
主神の別名で、これを継体天王とすれば上の神社祭神の構造がなんとなく分かってくるのでしょう。
兵主神社の東側には和名抄「参河国賀茂郡および額田郡」の郡名があつて、出雲勢力の進出を裏付
けています。占拠した出雲氏族のうち大豪族は、火明命を祖とする尾張連であり、継体朝を支えた
継体閨閥の一つでした。
部族の神社は多いので代表してもらいます。
真清田神社(一宮市・祭神天火明命)尾張一ノ宮です。
漆部神社 (愛知県海部郡甚目寺町・祭神三見宿禰、配木花開那姫命)三見宿禰は天火明命の
五世孫、漆部の祖。木花開那姫(このはなさくやひめ)は大国主の妃となり、火明命の母となる方。
(播磨風土記)
石作神社(愛知県海部郡甚目寺町)、同(犬山市今井)、同(長手久町岩作)同(岐阜県羽島郡
岐南町)は火明命の後裔氏族氏神。
青衾神社(名古屋市熱田区・祭神天道日女命)祭神は高倉下命の母。
高座結御子神社(名古屋市熱田区・祭神高倉下命)祭神は火明命の子で、後に天香語山命と
改名した。高倉下命は神武東征説話の中にも登場してくる人物、海路新潟県に渡り、弥彦神社に
鎮座したとされる方です。
また伝承どおり物部が随伴して来ました。
物部神社(名古屋市東区石神本町)、同(春日井市二子町(白山神社に合祀))
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味鋺(みまり)神社(名古屋市北区楠町・祭神宇摩志麻遅命)など
この地の高句麗氏族もあげておきましょう。
日置神社(名古屋市中区橘・祭神従三位日置天神、天太玉命)付近や西方の和名抄「尾張国
海部郡日置郷」、岐阜県岐阜市長良川河辺の「日置江」付近。
日置江は渡来氏族が管理した川辺の関で、対岸は穂積町(物部)。後に秀吉の一夜城で有名にな
る交通の要衝でした。それと三重県桑名市に東方・西方・播磨・額田などの地名が固まってみえる
地帯もまた渡来氏族の居住が想定されます。
但馬・近江でみえた穴太部もこの地に来たのでしょう。
穴太部神社(愛知県葉栗郡木曾川町、論社賀茂神社祭神・玉依姫命、賀茂別雷命)がありました。
岐阜県には賀茂の地名が多くあります。賀茂が出雲に由来した地名であることは異論のないこと
でしょう。岐阜から、出雲の部隊が飛騨路を遡り高山市方面に進撃したのかについては否定的です。
それよりも高山市方面は富山県からの進出だつたのでしょう。
地名考証をされた佐賀新氏もこの道は連絡路程度であるという。私もそのように感じています。
部隊は不破の関を開放して、滋賀県の勢力と合流しました。新しく東国の一郭に仏教の国を建設し
たのです。ここの民の生活を安定させ、仏教を広めることが優先されたことで、戦いを性急に進め
る方法は取らなかったのです。ゆっくりとそして確実に民を導くこと。それが次ぎの膨張を促して
いく。
そんな宗教戦争は経験したことがない倭国軍にとつて、まことに苦手であり、強敵でした。「日
本、小国。大国倭国を併せり」といわれました。小国であつた出雲の日本国が大国を倒し、併合す
るには宗教の力があつたと思っています。
越への進撃
北陸で大きな国を作った地域は、能登半島を含む加賀国(石川県)、越中国(富山県)を合わせ
た地域でした。途中の越前国(福井県)では局地的な戦闘をおこなつたのでしようが、在地の豪族
とは大きな争いとはならなかつたようです。
それでも、九頭竜川川口に上陸した氏族は、坂井郡三国町を占拠。雄島に大湊神社(祭神・亊代
主神・少彦名神)を安置しました。
三国神社(三国町山王・祭神、大山咋命、継体天皇、配雷神)
直野神社(福井市南居町、大巳貴神社境内・祭神三尾君)
この地に侵入してきた三尾君は近江西岸に居た氏族で、出雲族でした。紀・継体紀では、【三尾
君堅ひの娘倭媛は継体天王の妃となり、ニ男二女を生んだ。】【その第一を大娘子皇女、そのニを
椀子皇子と申し上げる。これは三国公の先祖である。以下略。】と。
三国付近は、近江から進出して来た三尾君の新しい領地になつたのです。継体天王の御子たちは
この地で育てられました。継体天王の子孫が北陸の三国に居るわけがこれで分かって来ました。三
国神社の祭神に、「山王さん」といわれる出雲神・大山咋命と継体天皇が一諸にまつられているこ
とも不自然ではありません。
大山咋命は琵琶湖西岸の八王子山に、出雲族によつて祭られました。移動して来た三尾君たちに
よつて勧請されたのです。もちろん継体天王も氏神だつたのでした。ところで、紀では大伴金村大
連、許勢臣、物部連らが計って継体天王を三国から迎えて王位に就けたとしています。【そのとき
天王は平然と胡床(あぐら)に坐し、侍臣を整列させて、すでに帝王のような姿であつた。】という。
この時期は出雲勢力が関東地方を制圧した後いよいよ大和へ進撃する時機と思われます。もうこ
の時には継体天王は日本国の帝王だつたのでした。「帝王のような姿」ではなくて「帝王だつた」ので
す。そんな時、継体天王は三国の妃君の許にいらっしゃったのかも知れません。だけど、近江で生
まれて越前で育ったということはないでしょう。紀の継体天王紀は誤りが多いように感じています。
九頭竜川支流日野川沿いには、與須奈神社(福井市下市町、祭神・大巳貴命、合祀少彦名命、継
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体天皇、大山祇命、雅子媛)。石部神社(鯖江市磯部町、祭神吉日古命、吉日売命)があり、出雲
族の部分的な占拠が認められます。
九頭竜川本流沿いには
足羽神社(福井市足羽・祭神・継体天皇、生井神、福井神、綱長井神,阿須波神、波比岐神、
合祀大穴持像石神、亊代主神、素戔鳴尊、継体皇子達)
継体天王と出雲神が一諸に祭られているのはここも同様です。
福井県で戦闘が起きただろうと推定されるのは、和名抄「大野郡」(現在の大野市・勝山市を含
む一帯)だつたのでは。ここには一言主大神を祭る「坂門一亊神社」があつて葛城系氏族がいたか
ら、頑強な抵抗をしたでしょう。しかし、すで多数派になつた出雲勢力の前に壊滅されました。勝
山や勝原などの地名が残されいます。
勝ったのは出雲族で和名抄「大野郡賀美郷、資母郷、出水郷」と渡来氏族に関連した郷名がみえま
す。三国に上陸した三尾君たちは坂井郡から石川県南部に侵入し、加賀市付近まで勢力を広げまし
た。近江でも三尾君の居住地近辺には日置神社がありましたが、この地にも同様に存在しています。
日置神社(石川県江沼郡山中町・祭神天押日命)祭神は大伴氏の祖で、日置氏族が大伴氏の祖を
氏神とする。北陸の戦闘は大伴氏を指揮官としておこなわれたのでしょう。
大伴氏と渡来氏族との婚姻関係は既に述べました。
△ 法皇山横穴古墳群(加賀市勅使町、80基以上)。横穴墓は丘陵の中腹や崖状の山腹を掘り込
んで作る墓で、渡来高句麗氏族によつて採用されて広がったと考えられる。渡来族の居住地には横
穴墓の存在があります。越前国坂井郡は後に東大寺領となり、関係資料に住民の氏名が載せられて
いますが、物部・秦などの姓の中に、日置・額田の姓がみえる。(古代人名辞典)
日置氏の分布は福井県三国から石川県南部にかけての地域に想定することができるでしょう。つ
いでに秦氏は応神大王ご帰還時に、半島倭国から随伴・移住した氏族で「国籍倭国の人達」だから、
渡来人ではありません。倭国人というのが正しいのです。
倭国と日本国との戦いでは倭国の精鋭部隊として、戦ったのが鶏林系秦氏でした。越前国の秦氏
は任那系秦氏と思われ、奴婢にならず百姓としての生活を送っている。戦闘がなかつたと推定され
る点です。
越中に大きな国を作る出雲氏族
石川県南部は三国に本拠を置く氏族によつて、統治されたと思いますが、石川県北部と富山県にも、
別の大きな国ができました。
地名考証をされた佐賀 新氏も次ぎのように言っています。【現在の富山市,小杉町、大門町、
福岡町、高岡市、礪波市等の富山、小杉、大門、福岡、高岡、礪波の地名は、総て出雲にある地名
である。仮に「礪波の国」と呼ぶと、現在の富山県から石川県の半分ぐらいを支配していたようで
あり、それ以外の石川県は福井県に造った国の支配下にあつたようである。】佐賀新著「出雲朝に
よる日本征服」より。
富山県近辺の山名を見てみると、「高・たか」の名前をつけた山が圧倒的に多い。地図を御覧に
なってください。大部分の山が高をつけた名前になつている。これは偶然とは思えないのです。こ
の高の名前がついて居る所を一つの行政範囲と考えると一つの国と推定できるでしょう。そういう
ことで、この地方の高句麗系氏族の分布から調べることにしましょう。
和名抄「能登国珠洲郡」には「日置郷」があります。能登半島北端は新潟侵攻の足がかりとなつ
たのか、かなりの高句麗系氏族の分布があつたのです。珠洲郡には双竜環頭太刀の出土する古墳が
複数存在しました。
七尾湾の能登島では、前にも出た「四隅三角持ち送り式」の高句麗様式古墳「蝦夷穴古墳」が存在。
南方鹿島町に「曽根1号墳」双竜環頭太刀出土。
氷見市には加納横穴墓群、西8号墓に銅製双竜環頭刀子が出土。
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常願寺川下流、富山市水橋に「高麗神社(祭神・五十猛命)」、「高来社(祭神・五十猛命)」。
高句麗系渡来氏族が出雲神を祭るのは何処も同じで、この氏族が出雲に渡来したことを示すものだ
と考えられます。
川口左岸浜黒崎と横越に挟まれた地に現在も「高来」の地名が残っている。常願寺川中流には日
置の地名と日置神社(祭神・天太玉命)、立山町日中に日置神社(祭神・天押日命)、祭神はいず
れも大伴氏系祖神。大伴氏は出雲と縁の深い氏族。この宗教戦争の立役者であったのです。
現在の砺波市を中心に越中一の宮、高瀬神社(砺波郡井波町・祭神大巳貴命、天活玉命、五十猛
命)付近、高瀬、高儀所、高屋、北高木、南高木、胡麻島、和泉などの地帯も渡来氏族の居住を想
定されます。
その他の氏族はどうでしょうか。能登半島羽咋市付近には、羽咋公(三尾君と同族)氏族が蟠居
していました。付近式内社は出雲神をまつる神社が多い。
気多神社(羽咋市寺家町・祭神大国主命)能登一の宮。
相見神社(羽咋郡押水町・祭神大国主命)
手速比咩神社(羽咋郡押水町・祭神沼河姫)
古事記神話に八千矛神が越国の沼河比売を娶る話があります。この話は大国主が八十神を退けて
国作りを始めた説話の後に入っている。沼河比売が求婚を受け入れた後、いよいよ大国主は大和に
向うため、出立なさるのですから、大和攻略のためには北陸さらに長野・山梨・関東の平定が必要
だったのでしょう。
沼河比売は新潟県糸魚川市田伏の奴奈川神社の祭神でもある。
能登生国玉比古神社(鹿島郡鹿西町金丸・祭神多気倉長命、配市杵嶋姫命)多気倉長命は大巳貴
命・少彦名命の随臣。その姫君市杵嶋姫は少彦名命の妃となつて、菅根彦命を生んだという。これ
がこの地域、金丸村村主の遠祖だと伝えている。出雲族の進出を物語るものでしょう。
久目神社(富山県氷見市久目・祭神大久目命)祭神は大伴氏一族の久米氏。
磯部神社(富山県氷見市磯部・祭神天日方櫛日方命)すでにお馴染みの大物主神後裔と伝える氏族。
そのほか、砺波郡に蝮部公(たじひべのきみ・火明命後裔)が部民とともにみえます。
出雲に蝮部臣や蝮朝臣などの氏族がいますから、その分家というべき人達でした。
物部神社(富山県高岡市東海老坂・祭神宇摩志麻遅命)
布勢神社(富山県魚津市布勢爪・祭神五十猛命)布勢氏は大彦後裔と伝える氏族で、同族に阿倍氏、
高橋氏などがいる。この氏族が氏神として五十猛命を奉祀しているということは、同神に随伴し
たものでしょう。
林神社(富山県砺波市林・祭神道臣命)大伴氏の神社です。和名抄「射水郡伴郷」の郷名がみえ、
九州を平定し終えた大伴氏が、本土の戦線に参入し北陸攻略の指揮を執ったのではないか。そんな
思いがするのは、石川・富山県の高句麗氏族が祭祀する日置神社祭神を大伴氏祖神「天押日命」と
しているからです。
熊野神社(富山県婦負郡婦中町中名)には「出雲の民が船で北上し、(この地の)為成郷(十八
ケ村)に移住し、開拓にあたつた。」と伝えている。時期的には高句麗氏族を伴える時機でなけれ
ばならないでしょう。その高句麗氏族は新潟県境の防衛にあたり、さらに南下して岐阜県高山市方
面にまで進出しました。
富山県の山名に尻高山がある。岐阜県との境には大高山、岐阜県に入って高山があります。山の
名前どおり富山県側から高山市に向かって飛騨街道、越中東街道を進んだのでしょう。
岐阜県飛騨高山地方には次ぎのような式内社があります。
栗原神社(岐阜県吉城郡上宝村・祭神五十猛神、大山祇神、宇迦之御魂神他)
祭神はスサノオが高句麗(「北の新羅」)から伴って列島に来朝した長男。と大山祇神の娘・神大市
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比売との御子「宇迦之御魂神」。同じ御子の大年神がここでは見えないが、そういった関係の氏神。
阿多由太神社(岐阜県吉城郡国府町・祭神大歳御祖神、大物主神、配熊野久須美命、
阿須波神他)こちらは渡来神大年神一族の神社。
水無神社(岐阜県大野郡宮村・祭神御歳神、配祀大巳貴命、三穂津姫命、少彦名命、大歳神、
応神天皇、他)飛騨国一の宮です。出雲関係者の神社。
荏名神社(高山市江名子町)、 高田神社(吉城郡古川町)は祭神を高魂神とする大伴氏祖神を
祭る神社。
出雲族が、岐阜県高山市・国府町を中心とした地域に根拠地をおいた理由は、ここが南北交通の
要衝であつたからで、美濃賀茂市に通ずる連絡路があつたのです。
越後の平定
越中国(富山県)と能登半島に大きな根拠地を築いた
出雲軍は、膨張して越後の国(新潟県)に
侵入しました。船を使用して河口に上陸、流域を占拠し
て奥地に進撃する大規模戦闘部隊の上陸地点となつた
直江津・柏崎・新潟。その間の河川に上陸をした小規模
部隊とかなり計画的な同時侵攻作戦を実施しました。新
潟県南部の頚城郡・三島郡は騎馬民族が得意とする機動
力が有利に働く地域、包囲し敵を殲滅する作戦に適した
地形でした。大部隊はここに上陸したのでしょう。
新潟県中部は現在の姿とは違い、信濃川・阿賀野川・
加治川が東西に合流して新潟や岩船郡の荒川から日本
海に流れでていました。その水流は複雑に入り組み、各
地に「〇〇潟」という沼地が存在していましたから、蒲
原という名のとおり、大部分が水草の生え茂る場所です。
ここでは、海族の活躍があつたものと思われます。そ
うした沼地の縁を囲むように延びる、現在の弥彦村から
新潟に至る細長い海岸地帯には、新潟よりに寺尾・寺
地・立仏など仏教に関連した地名や大友・伏部・高橋な
どの氏族名を現す地名、境界を示す西川町の大関(防衛のための施設)の地名があります。弥彦村
から燕市の大関を通り三条市・加茂市さらに五泉市、新津市の大関・古津に至る山側の地帯。この
両陸地に挟まれた地帯は信濃川や五十嵐川など支流が形作る大小の潟と呼ばれる湿地帯でした。
和名抄「蒲原郡」には日置郷、櫻井郷、勇禮(いくれ)郷、青海郷、小伏郷の五郷名があります。
日置郷がどの辺にあつたのか、比定することは難しい。ここは郷名があつても日置の地名も、日置
神社の存在もない珍しい地域だからです。高峯(要害山)、高館山や加茂市などの地名に渡来氏族
の存在を感じさせるものがあります。激戦となつたのは、阿賀野川北側の沼垂郡(現在の北蒲原
郡)・岩船郡だったのでしょう。
この地には倭国の大豪族葛城氏の一族・多奇波世が四邑の民(半島倭国鶏林の軍)を配置してい
たと思われるので、大きな戦いになったことが想像されます。書紀は「四邑の民が虜として列島に
きた」としていますがこれは誤りで、本当は、応神大王の御帰還に随伴した半島倭国の民・鶏林秦
氏の民でした。
秦氏は葛城氏のもとで列島に領地を賜り、倭国の最強軍団として出雲軍に対抗しました。激しい
戦いの後に敗れ生き残った鶏林秦氏が捕虜となり、奴婢とされるのは倭国滅亡の戦いのときです。
つまり倭国と日本国の戦いの時に捕虜となったのでした。そんな戦いは紀・記には一言も書いてい
ません。歴史の大きな部分を抜かして前後を縫合したのが、書紀なのです。
この地の和名抄郷名は沼垂郡に足羽郷、岩船郡に利波郷があります。足羽郷は福井県の氏族、利
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波郷は富山県の氏族が戦闘に参加して占拠した場所、仏教に帰依した彼らも北上する出雲軍に加わ
ったのでした。
先に述べた「大関」のあり方から見て、主力部隊は南から北側に段階を経ながら進撃したと考え
られますが、縦横に走る河川地帯に新潟市を根拠地にした海族が、船で各地に兵員を輸送したこと
も事実です。あるところでは南下も考えて良いかもしれません。
海族・青海首の奉祀する青海神社は新潟市長峯町と加茂市大字加茂にあります。新潟市から南下し
て加茂市に進出したと解釈できるでしょう。ここでは出雲族に随伴する海族の活躍が話にでました。
越後の戦いには船での移動が無くてはならなかつたのです。
それでは、神社伝承を中心に出雲族の北上を見てみることにします。
青海神社(新潟県西頚城郡青海町・祭神椎根津彦命)海族青海首は富山県から新潟県に入ったす
ぐのところ、青海町の青海川口に根拠地を設けました。
祭神椎根津彦では分からないかもしれませんが、あの神武東征説話に登場する九州大分の漁師。
珍彦(うずひこ)のことです。この氏族は仏教に帰依し出雲側に付いて大きな活躍をみせました。
そして広い地域に分布をしたのです。
青海町の北側・糸魚川市を流れる姫川は、河口も広く大部隊の上陸に適していたでしょう。
こちらは九州の海族安曇族の上陸、さらに県境を超えて長野県への進撃が想定されています。
糸魚川市には越の奴奈川姫が住んでいたとみえ、
奴奈川神社(糸魚川市一の宮・祭神奴奈川姫・配八千矛神)
佐多神社(糸魚川市大字北山・祭神大国主命、建須佐之男命)など。
大国主が婚姻を結ぶ相手の奴奈川姫は、地元の豪族とみられるのて平和交渉が成立したのかもし
れません。
ここから次ぎの直江津市までの間にある小河川には、それぞれ出雲神を祭る式内神社が存在するの
で、一応あげておきます。
能生川流域、大神社(能生町平・祭神高皇産霊尊,大巳貴命、少彦名命)
名立川流域、江野神社(名立町・祭神素佐能男命、奇稲田姫命、大巳貴命、亊代主命)
直江津は新井市、上越市を流れる関川の下流域の津(古代の港)で国分寺の置かれた場所、この
地を含む高田平野は、古代行政の中心地だつたのです。高城山がここにある。渡来氏族と高城山の
山名も関連があると思っています。
越後一の宮である居多神社(上越市五智・祭神大国主命、奴奈川姫命、建御名方命、亊代主命)
や阿比多神社(上越市長浜・祭神少彦名命)が存在する。
上流、新井市宮内には斐太神社(祭神・八千矛神、積羽八重亊代主神、建御名方神)があつて、
神社伝承に「大国主神、越の国に行幸され、この辺りを国中の日高見の国なりとおうせられて滞留
された。(大国主神は)沼河毘売を娶られて、建御名方神を居多の浜の躬論山に生み給う。大国主
神、大御功績を終えまして[わが魂をこの地に鎮めん]と御衣・御剣・御鏡・曲玉を残し給えるを
御魂として、斐太神社と称する」と。
この付近は後期古墳の密集地帯となつている所でした。また、こうした伝承は直江津と柏崎の中
間地点、柿崎町岩手の圓田神社にもある。
「大巳貴命、国土平定のため、高志に来たり給う時、この圓田沖に船を入れ、龍ケ峯に船を繋ぎ上
り、この峯に一祠を立つ、これが神社の初めなり」と。
西山町二田の物部神社(祭神二田天物部命)、二田造(物部配下、五造の一)の神社でも「弥彦神
社祭神の天香語山命に供奉し当地に至る」との伝承があります。
物部が大国主の孫である天香語山に随伴し当地に至ったその時機は、大国主神の国土平定の時で
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なくてはならない。物部神社の伝承は島根県太田市の物部神社の伝承から始まって終始一貫してい
るように思えます。
物部と並んで各地に転戦した渡来族・久斯比賀多命の後裔石部(磯部)の神社も見ておきましょ
う。越後国、頚城郡・水嶋磯部神社(論社3)、古志郡・桐原石部神社(論社2)、三島郡・御嶋
石部神社(論社2)などに随伴する出雲族の姿がみえます。新潟県の名神大はご存知の伊夜比古神
社(弥彦神社)で、現在の祭神は天火明命の子、天香山命お一人になつているが、神社名からみる
と大弥彦こと五十猛命の御名がなぜか消えているようです。
弥彦神社の付近には伏部・高橋などの地名がみえ「小伏郷」はこの辺りか。富山県魚津市の布勢
神社の例に従えば、布勢氏は五十猛命に随伴したと思えるので、伏部・高橋など布勢氏一族の住ん
でいる所にあるこの神社祭神に、五十猛命の御名がないことはおかしい事でしょう。現在の神社物
語は「神武天皇の勅を受けて、高倉下命が名前を天香語山命と変え越の国に下向、開拓にあたった」
(作者の名前?)とする。
この物語の筋では、祭神として五十猛命の入るところはない。数ある物部神社伝承も考慮されて
いないし、大国主の越平定との関連もない。不思議な話になつてしまつている。だが、神武東征と
出雲氏族の物語は意外な歴史の一面を伝えているのかも知れない。詳しいことは後で(継体天王畿
内へ進撃の項)で述べます。
蒲原郡以南を制圧し、五泉市の大関を築いていた出雲軍はこの地に中山神社(五泉市大字橋田・
祭神大巳貴命、配祀大山咋命、少彦名命、天穂日命、建御名方命)の氏神社を築く。この付近、金
毘羅山、菩提寺山、護摩堂山の山名はいつの時代につけられたのだろうか。仏教による、気になる
名前です。
さて、次ぎの段階には沼垂郡(現在の北蒲原郡)に侵入を開始しました。新潟市河渡は東西に流
れる川によって山側と分断された細長い海岸地帯、ここには大形神社(新潟市河渡字本屋敷・祭神
大巳貴命)が存在しました。付近に物見山という地名、大仏という古名、なにより仏伝という地名
は宗教が伝わったことを示すものかもしれません。
誰によって伝えられたかというと、大形神社の祭神によって仏教が伝えられたと思うのでした。
阿賀野川を越え対岸に進出した出雲軍は、陣ケ峯を経て新発田市へ。
ニ王子神社(新発田市田貝・祭神大国主神、配祀一言主大神)
川合神社(北蒲原郡黒川村・祭神多奇波世神、熊野加夫呂伎櫛御食野命)
このニ神社は、出雲氏と葛城氏の呉越同舟の神社。お互いに良く戦い、良く護り全力を尽くして善
戦したのです。
勝つたのは出雲の日本軍でした。ここに新潟全県が制圧されました。
この新潟の国に仏教を定着させるためには、固く護らなくてはなりません。
地図を見てみると新潟県と群馬県・長野県の境には、栃尾市の高森山、小出町の高鼻山、六日町・
高倉山、湯沢町・高津倉山、高野山、野沢温泉村高倉山と、高を冠した山名は線で結べるように感
じます。
群馬県と長野県の県境に近く、これらの山には防衛用の貯蔵施設である倉が作られていたのかもし
れません。偶然に付けられたとはとても思えないのは富山県の山名と同じです。
小出町には伊米神社の論社清水河辺神社(祭神・建御名方命)、同論社諏訪神社(祭神・建御名
方命)。六日町には阪本神社の論社日吉神社(祭神・大巳貴命、大山咋命他)などの出雲氏式内神
社が存在しているのでした。
信濃・甲斐への進撃
長野県・山梨県への出雲勢力の進出が、日本海側から行われたということに異論はないように思
われます。地名考証をされた方も、神社伝承を検証された方も北から南に出雲勢力が侵入したと結
論を出されている。大国主命と越の沼河比売が結婚し、二人の間にお生れになった建御名方命が諏
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訪神社の祭神なのですから、この結論は当然というべきなのです。
一方でこの地方に高句麗氏族が住んでい
たことは、続(後)日本紀の記事や積石古
墳の存在、さらには甲斐国巨麻郡(こまぐ
ん)の地名などで分かるでしょう。これま
た、異論のないところです。ただ、この二
つが同時期の出来事によるものであるこ
と、つまり出雲勢力の一部として高句麗軍
が侵入して来たことは、いままで誰も言わ
なかった。紀・記に書いていないからです。
書いていないだけならまだしも、五世紀
末の出来事を神代という空想の時代に棚
上げしてしまつた。従って、古渡りの高句
麗氏族が列島に広く分布していることは、
明らかなことなのに誰もが出雲とは関係のないことだと考えてきた。高句麗氏族が日本列島に来た
理由も、何故広い範囲に分布しているかも、よく分からなかったから、古代史の専門家も話すこと
を避けたでしょう。基本になるべき紀・記が誤りを書いているのだから、古代史は謎だといわれる
のです。
さて、進撃路の概要は南下したという状況でいいのでしょうが、個別のことをもう少し詳しく見
てみることにします。
糸魚川市から南下した部隊には、海族の安曇氏がいました。和名抄信濃国には「安曇郡」
(現在の北安曇郡・南安曇郡)の地名が残っています。
川會神社(長野県北安曇郡池田町・祭神底津綿津見命)
穂高神社(長野県南安曇郡穂高町・祭神穂高見命、綿津見神他)は安曇氏の氏神。
騎馬民族渡来説に反対論を称える人が真っ先にいうことは、
「騎馬民族が船を扱えないのでは。」
という言葉です。この本の中では、海族の青海首も安曇族も出てきて、出雲の軍勢を導いたことを
明らかにしています。倭国の海族が、出雲勢力に協力したのは、彼らが仏教に帰依して出雲の日本
国に付いたからなのでした。糸魚川市から南下した部隊とは別に新潟県信濃川沿いや関川沿いに南
下した部隊は、長野市付近を目指しそれぞれに進撃を開始した。
粟野神社(長野県上水内郡豊野町石・祭神天日方奇日方命)は大物主後裔の石部氏の氏神。
同じ豊野町には 伊豆毛神社(豊野町下伊豆毛・祭神素戔鳴尊、大巳貴命)があり、出雲勢力の南
下を印像づけています。付近小布勢町の地名は阿倍一族、布勢氏の南下。
高井郡の高井は高氏族の居住地を示す高居でしょう。ここの式内神社は高
社(たかもり)神社(上高井郡高山村大字高井・祭神建御名方命、高毛利神)
と高の字が続く。この付近中野市新野・金鎧山古墳および長野市松代町大室
を中心とする500基以上の大室古墳群は、積石墳と合掌形石室を持つ古墳
群で知られているし、須坂市鎧塚2号墳は獅噛文バツクルを出土して有名で
す。
(須坂市立博物館)
古墳から出土する五鈴鏡や鈴が仏教に関連するのではないかといわれながら定説にはなつてい
ないのは、書紀の書き方に影響を受けているのでしょう。金鎧山古墳の被葬者のように騎馬民族系
渡来人なら仏教帰依者であったことは充分考えられること。五世紀末(TK47期)の古墳から出土
した鈴鏡は仏教用具と思われます。
長野市更北の清水神社祭神は継体天王の御子・広国押武金日命(安閑天王)で、和名抄「水内郡
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尾張郷」との関連が想定され、継体天王閨閥の尾張連の部民が出雲勢力の一部として進出して来ま
した。そのことは長野市の地名に尾張部という地名が残っていることで納得できますし、その出雲
勢力は、継体天王が率いる軍勢であると思われるのでした。
尾張連の祖神火明命には物部が随伴したとの伝承が各地にあります。当然のように当地にも
越智神社(須坂市幸高・祭神饒速日命)
小内神社(長野市若穂綿内・祭神宇摩志麻遅命、建御名方刀美命他)
と、物部氏の神社があるのです。
長野市から松本市に向う街道沿いの信州新町日原には、
日置神社(祭神・天櫛玉命、天櫛耳命、建御名方命、八坂刀売命)祭神は日置部の祖
(姓氏録和泉国未定雑姓)と出雲夫婦神。
同式内論社は他に生坂村日岐・日置神社がある。いずれも高句麗氏族の氏神社。
生島足島神社(上田市下之郷・祭神生島神、足嶋神)の神社伝承には「建御名方命が諏訪の地に
下降される際、この地に留まった。」という。宮中で祟りを恐れ、巫女にお払いをさせる神々の
23 座の中に生島神・足島神が入っていることをどのように考えたらよいのでしょうか。この神社
祭神も出雲神と考えれば、納得できましょう。
長野県の式内社 48 座の大部分が出雲神を奉祭しているので、
次ぎの神社に代表してもらいます。
南方刀美神社(諏訪大社・祭神建御名方神、八坂刀売神)祭神は大国主命の御子で、国譲り物語に登
場する。奥方は八坂造というスサノオを奉祀する京都の豪族出身ではないのか。すべて出雲族です。
名神大社で古事記に登場する人物の鎮まる神社。しかし周辺は渡来氏族の桑原氏の蟠居する
和名抄「桑原郷」であり、姓氏録「桑原村主。漢高祖七世孫万徳使主より出ずる也」(左京諸蕃上)
同じく同書に「桑原史。桑原村主同祖。高麗国人万徳使主之後也」(摂津国諸蕃)
「桑原史。狛国人漢臂より出ずる也」(山城国諸蕃)とみえる氏族、
隣接する和名抄「美和郷」は渡来神大物主神を
氏神とする氏族の居住が想像され、祭神に随伴し
たのはこれらの氏族であつたのでしょう。諏訪神
社下社の神官(大祝)は金刺舎人氏で、出雲の大
舎人氏(日置氏一族)とおなじく敷島金刺宮(奈
良県櫻井市)に政をとつた欽明天王の御世に官
位・姓氏を得た氏族。信濃国・駿河国・関東に分
布する。多氏一族に属し、渡来氏族であろう。
そのほか、長野県茅野市「釜石古墳」は獅噛文
環頭太刀を出土する古墳。この太刀の分布も興味
深い、巻末の一覧表を参照ください。
大伴神社(北佐久郡望月町・祭神須佐之男命、大
巳貴命、少彦名命、木花咲耶姫命他)
御牧ケ原近辺にある神社、群馬県との県境に近く地名に布施,伴野、跡部、穂積と豪族の名前が
みえ、次ぎの関東進出に備えた集団の展開が想像されます。日本霊異紀下には「信濃国小縣郡嬢里
の人、大伴連忍勝らが同心して(心をあわせて)その里に氏寺を作った」との記述があり、大伴氏
の早い段階での仏教帰依を語っています。
長野県には、桓武天皇治世時の延暦十八年(799 年)日本後紀の記述に、「この地の高句麗族に
対して姓氏を賜つた。」その記録は、次ぎの通り。
信濃国高句麗氏族 改氏姓
下部奈弖麻呂他・卦婁・後部・前部・高麗・上部・下部姓 は清岡連。
卦婁真老 に対して須々岐氏。
前部綱麻呂 に対して安坂氏。
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前部黒麻呂 に対して村上氏。
前部秋足 に対して篠井氏。
前部貞麻呂 に対して朝知氏。
高麗家継・高麗継楯 に対して御井氏。
下部文代ら に浄岡連。
高句麗氏族には大きく別けて、五部の部族がいました。その氏族全部の氏が長野県の上の表にみ
えます。それは高句麗氏族がばらばらに列島に来たのではなくて、まとまって軍隊組織として列島
にきたことを意味します。ただ政治組織を有しない、軍人だけであつたところに侵略性をもたない、
仏教布教の支援軍の性格があるのだと私は思っています。恐らく、列島に仏教を定着させれば、高
句麗氏族は帰国を予定していたのでしょう。
本国の防備を多少犠牲にしても東海の仏教国建設に貢献したのは高句麗・長寿王の仏教に対する
厚い信仰心だつたのでしょうが、予想外の出来事が起こって派遣されて来た氏族は帰国することが
できませんでした。列島の高句麗氏族は日本人として帰化せざるをえなかつたのです。このことが
本国の高句麗国の衰退を招くことになりました。予想外の出来事については、のちほどお話します。
山梨へ
山梨県への進撃には佐久市からの南下と諏訪市からの進撃があつたのでしょう。
佐久市から小海町・信州峠を越える佐久甲州街道には、神部神社(山梨県北巨摩郡須玉町・祭神安
閑天皇、諏訪大神他)がみえ、安閑天王と出雲神の組み合せはここにも存在しています。継体王朝
と出雲の関係は隠しおおせるものではありません。
黒戸奈神社(山梨県東牧丘町・祭神素戔鳴尊)祭神の別名を[唐土大明神]と呼ぶのだそうです
が、こうした庶民の呼び名の方が官製の紀・記よりも物事の本質を伝えているように感じます。こ
の神社同名社は甲府市黒平町にもあつて、こちらは祭神大巳貴命、少彦名命、素戔鳴尊と国土平定
の神様がいらつしゃる。山梨県には同様の神を祭る神社は多く存在します。
物部神社(山梨県八代郡石和町松本・祭神饒速日命、宇摩志麻遅命)は物部氏。
弓削神社(西八代郡市川大門町)は大伴武日連命を祭る。大伴山前連は山前之邑(石和町山崎)
に根拠地を置き山梨・八代の郡領家となりました。
この地の高句麗氏族も挙げておきましょう。山梨県における渡来氏族の記録として、延暦八年(7
89)甲斐国山梨郡人の高句麗族に対して姓を賜ったことが歴史書に記載されている。
甲斐国山梨郡の高句麗氏族に賜った改姓名。
要部上麻呂らに対して 田井氏。
古爾ら に対して玉井氏。
鞠部ら に対して大井氏。
解礼ら に対して中井氏。
表の中、鞠部は鋺師公(まりしのきみ)の部民(太田亮「姓氏家系大辞典」)。姓氏録「鋺師公。
高麗国宝輪王之後也」(未定雑姓、大和国)。
仏教用具の製造にあたつた氏族であるといわれている。なお、山梨県甲府盆地北側山麓地帯に積
石塚古墳の蜜集地が存在し、渡来人との関連がある。
東海道の制圧
出雲勢力の長野・山梨県南下に合わせて、尾張国を守護していた勢力の東方への進出が始まりま
した。ここも高句麗氏族の活躍があったものと思われます。愛知県宝飯郡一宮町金沢一帯に広がる
「旗頭山古墳群」は 38 基の積石塚を含む群集墳で、豊川流域の渡来人の墓域であつたと想定され
るでしょう。五世紀末ごろからこうした積石墳が作られることは、継体天王の列島征服に果たした
高句麗氏族の存在があるのです。
○ 付近一宮町東上の炭焼平 21 号墳からは獅噛環頭太刀が出土している。ここの式内社は、砥鹿
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神社(とか)、(愛知県宝飯郡一宮町・祭神大巳貴命)
○ また、豊橋市石巻西川町・北ノ谷古墳群 1 号墳から双竜環頭太刀が、2 号墳から銅鋺が出土し、
仏教布教のため海を越えて列島に渡来した氏族がこの地に住んでいたことが想像されるのでした。
ここの式内社は、石巻神社(豊橋市石巻町・祭神大巳貴命)
渡来氏族が出雲神を祭るのは、全国どこも同じです。出雲の王に招かれて日本列島に上陸したか
らでしょう。出雲の王が継体天王であつたことは、一の宮町の旗頭山・積石墳の出現時機(五世紀
末)からも推定できるのでした。五世紀末からの継体天王の列島征服に、高句麗氏族が協力したの
です。出雲神を祭祀する高句麗氏族は、継体天王に率いられました。
本当は継体天王が祭られるところなのに、圧力によつて紀・記の出雲神に変更しなければならな
かった。出雲の王は神代に移動してしまつたのです。偉大な大国主として存在するのですから、彼
らも納得したのです。そんな事情は、考古資料と式内神社の分布によって明らかになるのでした。
浜名湖北岸、猪鼻湖神社(三ケ日町・祭神武甕槌命)。祭神は大物主命の子孫太田田根子の父と
いう。大物主命系譜にある神。(紀・崇神紀)同じ北岸、細江町、細江神社は「式内社角避比古神
社」の論社で、祭神・建速須佐之男尊、奇稲田姫尊のご夫婦神を祭り、牛頭天王社と称する。
和名抄「遠江国引佐郡刑部郷」の地です。刑部氏もまた継体天王の征服と伴に分布を広げる氏族
で、渡来系氏族でした。三嶽神社(引佐郡引佐町)は祭神・安閑天皇、配祀大国主命、少彦名命を
祭る神社。火明命を祖とする尾張族の伸出が想定されます。継体天王御子と国土平定の神々がとも
に祭られていることに注目してください。
大国主の子・火明命を祖とする尾張族にとつては、継体の子・安閑天王を氏神とすることは火明
命を氏神とするのと同意義であつたのでしょう。「大国主=継体」「大国主の子=継体の子」は隠
された真実、本書では次第に明らかにして行きたいと思っています。
浜名湖南岸は新居町・大神神社(祭神・大物主神)と、舞浜町・岐佐神社(祭神・キサ貝比売、
ウム貝比売)、古事記出雲神話に登場する神々のお社がある。「出雲神話には、八十神が大国主神
を殺そうと焼いた大石を坂より落とし、大国主を殺したときに神産巣日命がキサ貝比売、ウム貝比
売を派遣してこれを生きかえらしたという。」
この逸話の場所は、古事記では伯耆国手間山(鳥取県西伯郡会見町天万)の地になつているので
すが、舞阪町にその神社があるとは…。
ここの新井郷には「語部」という氏族、「神人部」(各地の大神・三輪神社を奉祭する氏族、高
句麗氏族)の氏族名がみえる。(遠江国浜名郡諭租帳)彼らが出雲から移動してきた氏族であるこ
とは、その分布からいえることですし、その伝承にもとづく神社の存在からも推察できるでしょう。
大歳神社(浜松市天王町・祭神素戔鳴尊、大歳神、櫛稲田媛命)スサノオも大歳神も渡来神、ス
サノオは半島を経由して来られた神ですが、大歳神は「(大国主を助けるため)海を照らして依り
来た大年神」の子で半島の神、一族には韓神・ソホリ神・大山咋神などがいらつしゃる。こうして
みると、浜名湖の周りには出雲神話に関係する神社が集まっているように感じます。出雲勢力の東
海への進出を示していました。ここの特徴は渡来氏族を主力とした勢力ではなかつたのか。
大物主系の神社が多いようです。
○ 浜松市には将軍神社西古墳から獅噛環頭太刀が出土。
浜北市・於呂神社(祭神大国主命、配祀素戔鳴尊、大山祇命、磯部大神)
大物主神を祖とする磯部氏は、ここにも分布していた。
天竜川を境にして、愛知県側の制圧は終りました。それより東の静岡県側は山梨県側からの
南下を想定しなければならない。信濃国に分布する金刺舎人氏族の姿が見えるからです。
金刺舎人祖父満侶 駿河国駿河郡主政(天平十年同国正税帳)
金刺舎人麻目
駿河国益頭郡(大井川東部)人、宝字改年号の起源と
80
金刺舎人広名
なつた字を描く蚕を献上した。
駿河国駿河郡大領(続日本紀)ら名が残る。
ついでに、檜前舎人 駿河国志太郡少領
檜前舎人部諸国 遠江国城飼郡主帳らは、尾張連同祖の火明命後裔氏族を称え、関東に
存在する。これらも出雲族だと考えています。
静岡県の東海道沿いには、出雲神話の神々の式内神社がつらなつているので、代表してあげると
ともに付近遺物もあげておきましょう。
磐田郡森町・小国神社(祭神・大巳貴命)一の宮。
○ 森町、院内甲古墳から獅噛環頭太刀が出土する。
磐田市・田中神社(祭神・宇迦之御魂命)祭神は大年神の兄弟。出雲族です。掛川市では 阿波々
神社(祭神・阿波比売)八重亊代主命の奥方をお祭りしている神社。阿波比売は天石戸別命の子と
いう。天石戸別命は別名櫛石窓神(豊石窓神)といわれ、宮中で巫女祭祀をうけている。
利神社(掛川市下俣、祭神・大年命)古事記に「海を照らして依り来る神」大年神と。
書紀では「光が海を照らし、その中から現れた神」大三輪の神であるとされる。
いわゆる渡来神・大物主神の神社です。
○ 同地の宇洞ケ谷横穴墓に単竜環頭太刀が、2 組の馬具と伴に出土。単竜環頭は双竜環頭より、
早い段階の古墳に出現しており、この 6 世紀中よりやや古い時期に建造されたとする横穴墓出土品
は伝世品と思われる。
大楠神社(島田市阪本、敬満神社境内祭神・大巳貴命)
○ 島田市吹木、御小屋原古墳から著名な馬具が出土。金銅製忍冬文透彫鏡板と同じ杏葉は、
福岡県宮地嶽古墳出土のものと類似する。
○ 榛原郡榛原町仁田、仁田山ノ埼古墳に双竜環頭太刀が出土。
飽波神社(藤枝市藤枝、祭神少彦名命)
那閇神社(焼津市浜当目、祭神八重亊代主命、大国主神)
○ 藤枝博物館蔵、双竜環頭太刀
○ 焼津市高崎古墳、獅噛環頭太刀など。
静岡市には出雲神の神社が多数あるので、代表して
池田神社(静岡市池田、祭神亊代主神,配大巳貴命、木花開那姫命他)
大歳御祖神社(静岡市宮ケ埼町、祭神、大歳御祖神(神大市姫命))
神大市姫はスサノオの奥方で、大年神と宇迦之御魂神を生んだとされる人物。この方が静岡で
祭祀されているのは全国的にも珍しいことです。
○
○
静岡市賎機山古墳、鈴鏡・金銅張壷鐙
静岡市半兵衛奥古墳、銅製壷鐙などの出土。
御穂神社(清水市三保、祭神大巳貴命、三穂津姫命)
三穂津姫は大伴氏の出身、書紀によれば大物主命と婚姻されたことになつている。
しかも紀・三穂津姫婚姻段では大国主と大物主は別人に書いていますが、神社によつては
別神としたり同一神とすることがあります。大伴氏と渡来神の婚姻関係は歴史上、重大な意義
があつたことは本書で指摘しているところでした。
○ 清水公園古墳からは、単竜環頭太刀と銅鋺が出土。
倭文神社(しとり、富士宮市、祭神建羽雷神、合祀大屋毘古神)
祭神は委(倭)文連・臣の遠祖とされる方で、天羽槌雄神(あめのはつちおのかみ)ともいわれる。
姓氏録大和国神別に「倭文宿禰。神魂命の後、大味宿禰から出る」とあり、出雲神話に出現して
くる神魂命の後裔氏族。
普通綾織りの部民とされているが、その分布は出雲から始まって東国まで、出雲族の移動ととも
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に随伴し、戦闘に参加している様子が窺われる。合祀されているのは大国主の兄、五十猛命(別名
大屋毘古神)で、この方に随伴する氏族には他に北陸の布勢氏がいました。
桃澤神社(駿東郡長泉町・祭神建御名方命)
○ 同所、駿東郡長泉町本宿新芝古墳、獅噛環頭太刀出土。
三島大社(三島市大宮町・祭神大山祇命、亊代主命)
平安時代の伊豆半島は田方郡・那賀郡を除き、全体が賀茂郡であつた。
三島神社付近は賀茂郡に所属し、和名抄「賀茂、月間、川津、三島、大社」の各郷名がありました。
伊豆は佐渡・隠岐・薩摩と並んで古代の流刑地の一つで、流刑者を管理する刑部がいたことが推
定される地域でもある。刑部は渡来氏族で構成されたとされており、高句麗氏族の関与が大きい。
地名に見る伊豆の高句麗氏族は伊東市から熱海市にかけて桑原、上多賀、下多賀など、伊豆山神社
は渡来人との関連をいわれている。
伊豆の神社は海岸線に沿って散在し、大国主神を祭る神社と亊代主命を祭る神社が存在するが諏
訪の大神・建御名方神のお姿はみえない。その他、倭文神社、(田方郡修善寺町)、高椅(たかは
し)神社(三島市松本、祭神磐鹿六雁命)は出雲族に随伴した氏族の倭文連と布勢臣同祖の神社で
した。式内社の祭神から出雲族に随伴した氏族名が分かるのです。
三島溝咋姫の神社が大仁町、広瀬神社と南伊豆町、三島神社の 2 ヶ所にあります。
神武天皇の皇后は書紀に「亊代主神が三島溝咋耳神の娘、玉櫛媛と結婚され生まれた姫が媛蹈鞴五
十鈴媛命と申し上げ、天皇は媛を召して正妃とされた」とあります。
古事記では「美和の大物主神が三島の溝咋の娘を見初めて、丹塗り矢に化して娘のほとを突くと
いう。そして生まれた子がヒメタタライススヒメという。」こちらは大阪府三島郡(茨城市五十鈴
町)溝咋神社とする。母系家族を尊重する古代において、神武天皇の皇后がいずれの場合でも倭国
豪族出身でなく渡来氏族の血統であることは、どうなっているのか分からないのが本音でしょう。
この後で神武東征を取り上げます。
その中では継体天王の畿内進撃時の話が、神武東征説話の中に入っているということを説明します。
継体天王のご活動が神武天皇の業績の大部分を占めている。
従って神武天皇の皇后さんもヒメタタラさんではないはず。本来の方ではないというのが結論です。
関東へ
大伴氏が「道臣」(街道関所を管理する氏族)を賜ったのは紀・神武紀ですが、実年代はもちろ
ん不明です。しかし関東から以北の関所防衛や蝦夷対策に大伴氏族が広い地域に展開していたのは
事実でしょう。そうした関係氏族に、本宗家の大伴氏から仏教が伝えられたこともあつたのではな
いでしょうか。群馬県群馬町・保渡田薬師塚古墳(六世紀初)から鋳銅製小薬師像が出土したと伝
えられ、この古墳の名称にもなりました。
江戸時代天和年間の盗掘により他の出土品(鈴付き金銅製馬具類、鏡、玉類)とともに出土し、
小仏像は古墳の所在する西光寺に保存されている。薬師像は勿論仏教に関係しますが、鈴も宗教に
関連するといわれているのです。生前に仏教帰依したとすれば、五世紀後半代に関東に仏教は伝わ
ってきたと言えるでしょう。
実は先代の墓と思われる保渡田八幡塚古墳(五世紀後半)にも鋳銅製小仏像?が石棺の中から出
土して、この古墳の遺物であることがより確かです。ただ、仏像であるか神像であるか見解が分か
れている。それにしても五世紀後半には北関東に偶像崇拝の徴候をみることができるようです。
一方群馬県西毛地帯には、上毛野臣の祖と伝える竹葉瀬、田道が四邑の民を率いて、蝦夷防衛の
根拠地としていました。
「書紀神功皇后摂政元年条」の記事には、人質となつていた北の新羅(東沃沮・穢人が作ったの新
羅)の王子未斯欣が倭国から逃げ帰ったという事件(新羅本紀 418 年)が起こり、葛城襲津彦が
新羅に行き、草羅城を攻め落として帰還した。
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そのときの俘がいまの桑原・佐糜・高宮・忍海などの四邑の民の先祖である。としています。
面白いことに仁徳五十三年条の記事にも、「(北の)新羅が朝貢しなかつた」として竹葉瀬と田
道を派遣して、(北の)新羅を攻撃させた。
その時に四邑の人民を捕らえ、率いて帰ってきた。とも書いています。
二つの記事において、四邑の民がいずれも倭国と敵対して、捕虜として列島に来たという説話は
まったく信じることが出来ないものですが、「葛城氏と竹葉瀬、田道そして四邑の民」という言葉
から葛城氏と竹葉瀬、田道が密接な氏族関係であることが分かります。
五世紀初頭、神功皇后が任那を救援、北の勢力を制圧した後、半島倭国の豪族を引き連れてご帰
還されました。
このとき、海を渡って来た半島倭国の人達は国籍がもともと倭国ですから、渡来人ではありません。
本書では半島倭国から来た方々を区別するため帰来人ということばを使いましょう。
群馬県西毛地帯に入った四邑の民は、葛城氏に引率され日本列島に帰来した半島倭国の雄藩、鶏林
国(503 年に任那から独立して新羅を襲名・南の新羅)の人々で、竹葉瀬・田道は鶏林国の王族で
あつたと思われます。
前橋市山王町の山王二子山古墳(金冠塚古墳)から新羅(南の新羅・旧鶏林国)の王冠が出土し
て列島の上野国に半島から来た王(豪族)がいたことを実証しているのでした。そして、葛城一族
と深い関係をもつ氏族でしたから、倭国古来の宗教を尊重し倭国大王家を守護する立場に居たと思
われます。関東においても、宗教をめぐってふたつの陣営に分かれ熾烈な争いがあつたことが想像
できます。
紀・安閑元年条には次ぎのような記述があります。
【武蔵国造の笠原直使主と同族の小杵(おき)とは、国造の地位を争って、いく年も決着がつかな
かつた。小杵は人にさからう性格で高慢であり、ひそかに上毛野君小熊(群馬県地方の大豪族)の
もとにおもむいて救援を求め、使主を殺そうとした。使主はそれに気づいて国をのがれ、京にのぼ
つて事情を報告した。朝廷は裁断をくだして使主を国造とし、小杵を誅殺した。
国造の使主はかしこみかつ喜んで,その気持ちをあらわそうと、謹んで天皇のために横淳(よこ
ぬ),橘花(たちばな)、多氷(おおひ)、倉樔(くらす)計四処の屯倉を設置した。
この年の大歳は甲寅(きのえとら)。】と。
甲寅は西暦 534 年。書紀では九州の筑紫国造、磐井の戦いも時期をずらして書かれていましたが、
関東における使主と小杵の戦いも本来の位置から移動しているのではないかと考えられます。
笠原直使主と小杵・上毛野君小熊との争いは、国造の地位をめぐる争いという視点でとらえるべ
きではありません。上毛野国や武蔵国に大和政権に敵対する勢力を想定して、その勢力が大和政権
に屈したというシナリオは謎を深めるだけでした。そうではなく、笠原直使主と小杵の争いはもつ
と大きな五世末の倭国対継体天王の中で考える性格をもつている。使主は仏教を容認する側に立ち、
小杵は仏教を否定し倭国の崩壊を防ぐ側に就きました。
上毛野君小熊は関東の盟主として、一族の葛城氏族と連携し、出雲勢力に敵対したと考えるとよ
いと思います。そう考えれば謎は自然と解けていくのです。小杵・上毛野君小熊連合軍の勢いは強
く、一時はこの地の仏教容認派が領地を放棄して逃げ出さなくてはならないほどだつたのでしょう。
書紀の記述からも、使主は命の危険を感じて領国から逃げ出しています。
その後、出雲勢力の応援を得て、再度関東に帰ってきたのでした。
そして、小杵を殺したことが書かれています。上毛野君小熊も殺されたのでしょう。
大勢の「四邑の民」は戦死をし、戦に負けて生き残った人々は奴婢として労働に従事させられま
した。奴婢の子孫が解放されて、その喜びを石に刻み「多胡碑」を建てるのは、約二百年後の奈良
時代になつてからです。
使主が献上した四処の屯倉のことは書紀の性質上、この事件と切り離して考えた方が無難なこと
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です。倭国対出雲勢力の争いの中で、倭国豪族たちの滅亡や領地の削減が起こり、安閑紀に列島全
土にわたる屯倉記事がまとめて書かれていると解釈した方がよいのです。
使主が連れて戻ってきた応援軍・出雲勢力の中には、狛江市の亀塚古墳の主がいました。六世紀
初の古墳からは金銅製毛彫飾板が出土し、高句麗文化との関連が高いことが指摘されました。馬具
類のほか、鈴釧が出土しています。この鈴釧も宗教に関連するもので、この古墳の主が生きていた
五世紀後半から末に、高句麗氏族の宗教・仏教を持つて来たことを否定することは出来ないのです。
この地の氏族名は刑部直で、出雲を始めに各地に転戦し五世紀末にこの地に入ってきました。
この氏族の氏神が出雲神であることは、他の地域と同様です。
虎柏神社(とらかしは、調布市佐須町・祭神大歳御祖神)で、式内同名社は青梅市根ケ布にもあ
り、こちらの祭神は建南方命、亊代主命、スサノオ他と出雲神のメンバーが揃って鎮座。
山梨県側から青梅街道を通って関東に進出した氏族といえるでしょう。
同様のコースには、少彦名命を祭祀する神社(調布市・布多天神社、稲城市・穴澤神社、
西多摩郡瑞穂町・阿豆佐味天神社)阿豆佐味天神社は少彦名命と素戔鳴尊・大巳貴命が鎮座。
小野氏の神社が多摩市一の宮と府中市住吉町に存在する。小野氏は孝昭天皇皇子、天足彦国押人
命を祖とする氏族というが、丹後半島・近江・関東と、出雲族の居住地に隣接して領地を構えるの
はなぜだろうか。随伴したという以上のものを感じてしまう氏族です。
物部天神社(所沢市北野)は物部氏の祖神を祭祀するし、出雲伊波比神社は出雲臣一族が祭祀す
る式内社で、関東に数多い。武蔵国名神大の神社は「氷川神社」ですが、この名称は出雲の簸川か
らと伝えられ、出雲国の須佐神社の分身を移したといわれます。
氷川神社(大宮市高鼻、祭神須佐之男命、稲田姫、大巳貴命)
中氷川神社(所沢市論社2、祭神須佐之男命、稲田姫、大巳貴命、少彦名命)
笠原直使主がどんなメンバーを連れて関東に戻つたか、お分かりになりましたか。使主の居住地
は埼玉郡笠原郷(:現在の埼玉県鴻巣市笠原)とされているのですが、お隣の比企郡吉見町には吉
見百穴横穴墓群や黒岩横穴墓群、東松山市に北武蔵最大の前方後円墳として知られる野本将軍塚古
墳が存在する。
渡来色の強い地域で、比企は日置(へき)であろうと考えられる。
この地の式内社は三座。すべて出雲関係の神社で、いままでと変わらない。
横見神社(比企郡吉見町御所、祭神建速須佐之男命、櫛稲田姫)
高負比古神社(比企郡吉見町田中、祭神味?高彦根尊、大巳貴尊)
伊波比神社(比企郡吉見町黒岩、祭神天穂日命、誉田別尊)
行田市・埼玉古墳群は笠原一族の墓といわれ、五世紀後半代から六世紀に続く古墳群で、稲荷山
古墳は金象嵌銘文入り鉄剣の出土があり著名な古墳となつています。古墳の主は三環鈴や鈴杏葉な
ど鈴を多用し、また眉庇付き冑を被った武人埴輪や鈴鏡をつけた女子埴輪などの出土もありました。
この古墳群は稲荷山古墳、二子山古墳、鉄砲山古墳、瓦塚古墳とつづくのですが、同一墓域に古
墳の方位が異なる古墳群が存在しています。将軍山古墳、奥の山古墳、中の山古墳など。
将軍山古墳(六世紀後半・古墳編年集)からは忍冬文杏葉や大小の銅鈴・銅製高台付き蓋鋺・銅製
鋺などの仏教に関連した品物のほかに馬冑、蛇行状鉄器が出土しました。
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(左から3点「武蔵国造の乱」大田区立郷土博物館図録より)「古代東国の渡来文化」図録より
この蛇行状鉄器の使用法が、馬の鞍後部につける飾りに用いられるものであることが行田市酒巻
14号墳(六世紀後半)出土の馬型埴輪から分かつたのです。
高句麗壁画(長川第1号墳、五世紀中葉)には、乗馬姿の人物の後方に蛇行状鉄器に付けられた
飾りが描かれている。酒巻14号墳には筒袖上着ズボン姿の高句麗系とみられる人物埴輪や相撲力
士の埴輪が出土しているのです。これらも高句麗壁画の中に存在する。
(左から2点「古代東国の渡来文化」図録より) (「高句麗文化展」図録より、朝鮮画報社)
倭国豪族の墓域にある墓から出土する渡来文化(蛇行状鉄器)をどのように見れば良いのでしょ
うか。大伴氏のように仏教を共通土台とする倭国豪族と渡来氏族の結び付きがあつたのではと想像
してしまいます。
行田市の式内社は
前玉神社(さきたま・行田市埼玉、祭神前玉彦・姫命)と本来の神名を失っている。
付近の神社をみてみましょう。
玉敷神社(北埼玉郡騎西町、祭神大巳貴命)多治比真人三宅麿の創建と伝える神社。
多治比真人は継体天王の子孫、その方の祭祀する神が大国主であることは、まさに本質を表してい
ると思います。
高城神社(熊谷市と大里村、祭神高産霊命)大伴氏祖神の神社。高城と名前があることに注意す
る必要があると思います。この名前の地名付近には渡来氏族高氏族が住んでいたのではないか。
田中神社(熊谷市、祭神武甕槌命、配祀少彦名命、天穂日命)と行田市埼玉古墳群の付近には出
雲神が鎮座する式内神社が存在する。
豪族と仏教との関連で、見逃せないのが行田市小見の小見真観寺古墳でした。
埼玉古墳群の北方3.5Kmに位置する全長112mの前方後円墳(六世紀末)
からは武器類とともに銅製有脚蓋鋺が出土しています。
「古代東国の渡来文化」埼玉県立博物館図録より
(小見真観寺古墳出土)
これらの品物が生前から愛用されていたものと考える時、関東の六世紀中頃から
後半は仏教の生育する時期であつたのではないですか。
書紀に描かれている蘇我氏と物部・中臣氏との仏教を巡る争い(用明紀ニ年条から崇峻即位前紀
の587年)の記事は史実と違い、いかにも空虚に感じてしまうのでした。さて、笠原直使主が北
武蔵の地にどのルートで出雲勢力を連れて帰ってきたのでしょうか。南武蔵から北上したこともあ
るでしょうが、長野県から群馬県に入り、そこから南下したとも考えられます。関東の旗頭・上毛
野君小熊の根拠地、群馬県での戦いがこの地方の最大の戦闘だつたのでしょう。小熊は滅び行く倭
国をなんとか守ろうとし、死力を尽くして倭国防衛の為に戦いました。
小杵や小熊の戦いを関東の豪族と大和朝廷との争いと見てはならないのです。
群馬県を見てみましょう。
上毛野君を盟主とした関東勢にたいし、出雲勢力は新潟県や長野県の各方面から進撃を開始しまし
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た。
新潟県湯沢から南下した部隊は神人(みわひと、高句麗族)を主体とし、三国峠を越え、新治村・
沼田市を通り、渋川市へ。
別の一隊は四万から高田山・嵩山・中之条町へ、そこで長野県須坂からの部隊と合流、渋川市へ。
伊香保神社(群馬県北群馬郡伊香保町、祭神大巳貴命・少彦名命)
赤城神社(群馬県勢多郡宮城村、祭神大巳貴命・豊城入彦命)
群馬県における三大神社のうち、二つの神社が北から侵入して来た出雲勢力の祭祀する神社です。
群馬郡群馬町の保渡田薬師塚古墳には小仏像が出土していることは、さきに話が出てきましたが、
この古墳の近くの下芝に「谷ッ古墳」(六世紀初頭の方墳)が出現してきました。
墳丘を河原石で覆う積石墳で、「大陸文化の影響を直接に受けているといつてよい金銅製飾履」
(群馬県史1)を出土。
金銅製飾履は、滋賀県高嶋・鴨稲荷山古墳、後に出てくる千葉県木更津市・金鈴塚古墳など渡来
人と思われる古墳から出土しており、さらにこれらの古墳には双竜環頭太刀が伴っていました。
状況から見て、谷ッ古墳にも双竜環頭太刀が入っていたのではないかと考えます。
実は群馬県群馬郡出土と伝える双竜環頭があり、環頭柄の長大さから古手のものとさ
れている。この環頭が谷ッ古墳のものと断定できるものでは勿論有りませんが、群馬郡
に高句麗系氏族が到来していたことを否定することは出来ないと思います。
下芝の東、前橋市総社・王山古墳(六世紀初頭、前方後円墳)は積石墳として造られ
た円墳を改造、前方部を執り付けた初期の横穴式石室古墳。
これらの古墳を作った氏族が北から南下したことは、渋川市・東町古墳・北群馬郡子持村・伊能
古墳などの積石墳の分布から想像できます。これとは別に長野県北佐久郡から碓氷峠を越える街道
を進んだ氏族ではつきり分るのは、各地を転戦して来た「大物主を始祖とする」磯部(石部)氏で
しょう。
「安中市簗瀬二子塚古墳」(六世紀初め、MT15期)は、字名「磯部・下磯部」の中間に位置
しています。この古墳は王山古墳と同様に追葬可能な横穴式石室古墳で、従来の葬送儀礼の変化を
物語るものでした。
古墳が「黄泉の世界」へと変化したことはその宗教感の変化でもあつたのです。
その変化が出雲族の手によって関東に移入されたことは、いままで誰も言わなかった。
そんなにタブーなことではないと思いますが。
五世紀末にこの地に到来した出雲勢力の中に狛族がいたことは、安中市小間地区の名称からも窺
えます。渡来人を祖とする磯部氏が率いた部隊は、高句麗族を主体とする部隊でした。
長野県佐久市跡部から南方の臼田町(物部銅印出土)・佐久町穂積と続く地域は物部氏、佐久市
伴野や望月町の大伴神社辺りは大伴氏らの長野県における根拠地であり、東に進撃し内山峠を越せ
ば群馬県甘楽郡に至る場所でした。抵抗を排除しつつ、長野県から群馬県に入った部隊は鏑川流域
の甘楽郡一の宮に名神大式内社である貫前神社を奉祀したのです。
貫前神社(富岡市一の宮,祭神經津主神・姫神)は物部氏の神社でした。のちに社家が磯部氏に
代わり、物部公を名乗るようになります。渡来氏族と倭国豪族の結合は、この時代よく見かけるも
のでしょう。甘楽郡の東側は旧名多胡郡(現多野郡)ですが、字名「高」小字「高原・上高原・下
高原」などの地名が残っています。
戦闘で勝つたのが出雲勢力、戦いに敗れたのが倭国を支えた上毛野君小熊たちでした。生き残っ
た「四邑の民」が奴婢として苦難な人生を送ったことは想像されるところです。子孫はやつと持統
王朝の出現によつて解放され、その喜びを石に刻んで世に伝えました。和銅四年(711年)に建
造された「多胡碑」は吉井町に現存します。
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さて、この街道終点には藤岡市「七輿山古墳」が存在する。全長146mの前方後円墳、ニ重の
堀と三段構築の美しい古墳は主体部不明のため長い間建造時期がぶれていたが、ようやく六世紀初
頭に定着してきました。
この地が「安閑紀」に出てくる緑野屯倉に比定されるところから、「武蔵国造の乱」の上毛野君
小熊との関連が言及されています。倭国豪族の雄・小熊を倒して、この地に入った出雲勢力の指揮
官のお墓だつたのではないかと思われるのでした。さらに「山ノ上碑」・「金井沢碑」によつて高
崎市佐野にも佐野屯倉が存在したことが分っています。
前にも書いたけれど五世紀末の倭国豪族と出雲勢力との戦闘の結果、倭国豪族は滅亡しその領地
は新たに配分されたものといえるでしょう。つまり代替わりしたのでした。
小祝神社(群馬県高崎市石原町、祭神少彦名尊・合祀五十猛命)
佐野屯倉の付近にある神社です。ここは大伴氏の神社でした。
大伴氏の群馬県における根拠地が、次ぎの代には屯倉となつて別の氏族に渡される話は、
後にお話しましょう。ただ付近の古墳の状況だけ見ておいてください。
高崎市・綿貫観音山古墳(六世紀後半、全長97m・前方後円墳)は、仏教文化と関係の深い銅
製水瓶・蓮華花弁をデザインした金銅製花弁付き鈴雲珠などの遺物類や北方民族系の異形冑を副葬
していることで知られています。
なかでも銅製水瓶について群馬県史は次ぎのように書きました・-【銅製水瓶は、六世紀前半の
中国北斉王朝時代の北狄廻洛墓(ほくてきかいらくぼ)から出土したものに同じ種類のものがある。
観音山古墳の銅製水瓶が、中国から将来されたものであることは間違いない。この水瓶の擬宝珠を
飾った蓋には、内側にピンセツト様になっている長い舌が付いていて、それが本来は仏教の灌頂儀
式で用いられる浄水を入れた容器であることをうかがわせる。
その水瓶が奥室の右手前に土師器長頸坩や須恵器・などとともに
置かれ、特別な扱われ方をしているということは、観音山古墳の被葬
者が、仏教文化の影響をうけていたからとも推測されるのである。】
(群馬県史1より)
(「武蔵国造の乱」図録より)
中国から将来された銅製水瓶や異形冑がどのようにして関東の地にもたられたかということに
県史は言及してはいませんが、本書をここまで読んでこられた読者にはすべてがお分かりでしょう。
ここの高崎市・狐塚古墳や藤岡市・七輿山古墳付近の皇子塚古墳に獅噛環頭太刀の出土がありま
すし、六世紀後半の諏訪神社古墳には銅鋺の出土がありました。仏教文化を持つた渡来氏族の居住
が強く意識されます。ついでに六世紀末ごろ(TK209期)仏教文化が花開いた高崎市・観音塚
古墳を見ておきましょう。巨岩を用いた横穴式石室の中から出土した副葬品には、銅承台付き蓋鋺
2、銅鋺2の仏具類。馬具や刀剣のデザインに仏教文化を想定できるものが出土しました。
-【金銅製杏葉に火焔形透かし彫りをしたものがありそれが法隆寺に伝わる飛鳥時代の仏像の火焔
形光背と同一のデザインであること、さらに銀製鶏頭太刀柄頭が飛雲を表現したものであること。
仏教文物のデザインを用いた、大刀と馬具類の装飾品が残されているのである。】-(群馬県史1)
県史の筆者は、観音塚古墳出土の文物が鞍作部の工人によつて製作されたのではないかと強く示
唆している。五世紀中頃来日した鞍作部が仏教を持つて渡来したことは疑いのないことです。
鞍作部が出雲族であることも事実でしょう。関東に来た豪族達もまた出雲族だったのでした。
そして書紀の仏教記事が古い時代のことを新しい時代に時期的にずらして書いていることが、関
東の六世紀後半の古墳出土品からも言えるでしょう。生前を考えれば六世紀中ごろの仏教に関連す
る品々です。関東の田舎で仏教が豪族にとりいれられているときに、畿内の都で仏教を巡って争う
のはおかしい。紀の仏教記事は、時期的に約100年はずれているのです。
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群馬県の仏教文化を追いかけて「継体天王の進撃路」のテーマからは、少し後の時代まで話が入
り込んでしまいました。戻すことにします。赤城山南麓一帯(大胡町から伊勢崎市)に広がる10
00基を越す古墳群の盟主墓が前橋市西大室・前二子古墳(六世紀初頭・前方後円墳92m)でした。
初期の横穴式石室をもつ古墳で、この地には檜前(ひのくま)部君が率いる檜前部の居住が知られ
ています。檜前部は宣化天王(継体の御子)の名代部およびその伴造氏族につけられたと一般に言
われ、ほかに檜前舎人部が東国に多く居る。
檜前舎人は火明命後裔で、継体朝閨閥の尾張連と同祖。この古墳の主も出雲勢力の一員として北
関東に入ってきたのです。氏神社は、二宮赤城神社(前橋市二之宮、祭神大巳貴命・豊城入彦命)、
勢多郡宮城村にある赤城神社の二宮で、この地の氏神でした。
佐位郡大領・檜前部君賀美麻呂、国造となつた檜前部老刀自(上毛野佐位朝臣を賜る)らが後の
世にみえます。
群馬県東部には 美和神社(群馬県桐生市宮本、祭神大物主櫛甕玉命)
賀茂神社(群馬県桐生市広沢、祭神別雷神)を氏神とする氏族がいました。
群馬県新田郡新田町・二ッ山古墳(六世紀後半、74m,前方後円墳)に双竜環頭太刀、
同じく足利市西宮・長林寺裏古墳(七世紀前葉)からも双竜環頭太刀の出土がありました。
高句麗系渡来氏族の影が濃厚な地域と思われます。
さらに藤原宮出土木簡に{大荒城評 胡麻□}とあるのは、群馬県東部の邑樂郡(おはらぎぐん)
に比定され、群馬県と栃木県との県境地帯は出雲に上陸した仏教支援軍の駐留があつたことが知ら
れるのです。
ここの氏神は、
大国神社(群馬県佐波郡境町、祭神大国主神)がありました。
渡来氏族が大国主神を祭祀するのは、全国どこも同じなのです。
さて、この項のはじめに「武蔵国造の乱」についての話をしましたが、この乱が大和政権と関東
の在地豪族との対立ではないこと、倭国を支える勢力に対して出雲勢力の侵攻があつたことをご理
解頂けましたでしょうか。
この勢力が関東に入ってきたのは、五世紀末のことで、北関東では積石墳の谷ッ古墳や六世紀初
めの横穴式古墳が、南関東では狛江市の亀塚古墳が出現してきました。
勢力の頂点には継体天王がいたのです。
天王は出雲に深い関係があることが立証されたものと考えますが、まだ疑問を感じる方には
「継体天王の大和進撃」の章でさらに追求し、検証します。
倭国豪族との戦いは当時陸奥国と呼ばれていた地域や山形県米沢盆地でも行われたのだろうと
思われます。しかし関東を制圧された後では、その抵抗力は弱かったのでしょう。
東北各地の出雲勢力の分布については、出雲からの一次移動の他に、九州戦役後の二次移動があ
るので併せて後にお話することにします。
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第9章 継体天王の大和進撃(神武東征説話と類似する)
日本歴史の編纂がいつから始まったのかは定かではないのでしょう。
一応、推古天王二十八年【この歳、皇太子(聖徳太子)と嶋大臣(蘇我馬子)とは、協議して、
天皇記および国記を記録した。】というのが史上にみる初めての事です。これらの記録類は蘇我邸
に安置されていたが、蘇我氏滅亡時に焼かれたのを、国記のみは船史恵尺(帰化人末)によつて取
り出されたという。
次ぎには天武十年(681年)条に-【天武天皇(天智天皇以後は天皇と表記します)十年三月
丙戌(ひのえいぬ、十七日)に、天皇は大極殿に川島皇子他十一人を召して詔し、帝紀および上古
の諸事を記録・校定せしめた。(編集委員の)中臣連大嶋と平群臣子首とがみずから筆をとつて記
録した。】-と。
筆をとつて記録したとなつています。この記録は編纂に当たってどのような方針で臨むかの基本
を記録したものだろうと思われます。日本書紀が筆によって最初から記録されておりながら、古事
記が稗田阿礼に暗誦させたというのも、不可思議でなりません。暗誦させるより、筆で記録させた
方がより確かでしょうに。
それと古事記は太安万侶が和銅四年(711年)九月十八日元明天皇の詔で、阿礼の暗誦したと
ころを編集し、和銅五年正月廿八日献上したという。
数ヶ月で出来るものをなぜ長い年月の間、放置していたのだろう。
ところで日本書紀が完成したのは、元正天皇の養老四年五月癸酉(みずのととり、720年)で
あり、天武天皇の着手から約40年後のことです。
-【是より先、一品舎人親王、勅を奉りて、日本紀を修めたまう。
是に至りて功成り、紀三十巻・系図一巻を奏上したまう】(続日本紀)-という。
この文章のなかの「日本紀」が正式な名前であるというのは、学者によつて言われている所です。
【(古事記よりも書紀のほうが)日本という国家の由来を語ろうとする面が強くでているのではな
かろうか。】(井上光貞、笹山晴生)という大家の意見ですが、「日本紀」であるところに問題が
あると感じています。
本当は「日本紀」の前に「倭国紀」がなくてはならない。
「倭国紀」がかつて存在したと感じるのは、古事記序文の中に「諸家で承け伝え持っている帝紀と
旧辞(いいつたえ)はすでに真実と違い、偽りを多く加えているとのことである。
だから誤りを改めるのだ」という天武天皇のお言葉からでしょう。
つまり倭国紀を否定して、日本紀をその上に重ねる作業の開始だつたのではありませんか。
原日本という国が出雲に建国され、「日本小国、倭国を併せり」と中国史書に記載される五世紀後
半から約200年の歴史を古い方向に引き伸ばし、倭国紀の歴史の上に日本紀を合成したのです。
一番引き伸ばしたところは馮弘・馮王仁の来朝から始まる説話で、五世紀中の出来事を神話の時
代までへと引き伸ばし、出雲神話として倭国の神話の時代に併せました。素戔鳴尊と天照大御神と
の誓約説話、神武天皇と亊代主神(大物主神とする説もある)の娘・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたら
いすずひめのみこと)の結婚、さらには風土記で大国主の子とされる火明命や同じく大国主の妻と
されるコノハナサクヤヒメ、出雲神話の大山祇命などはニニギノミコト説話と合体しているのです。
出雲神話に大国主神の命を助けるため、出てくる神魂神の二人の娘・キサカイ姫、ウムカイ姫、
少彦名命(古事記、神魂神の子、書紀、高皇産霊神の子)なども以前から「その混同が謎だ」と指
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摘されていた部分でした。
倭国と日本国の歴史を混ぜ合わせ作ったのが日本紀だつたのでしょう。一方で、史実の時代を引
き下げて新しい時代に移したものもありました。「仏教を巡る争い」や「磐井の乱」・「武蔵国造
の乱」の記載は、本当の時代から新しい時代に移されています。さて、神武天皇はこの国を統一さ
れた大王とされている。しかし、この国にあつた昔の倭国の大王ではなかつたのではないか。
神武紀には「日本は浦安の国…」とか「虚空(そら)見つ日本の国」という言葉がでてくる。
さきに挙げた出雲の娘との婚姻話の他にも、神武東征説話の中に日本紀の出来事が入っているので
はないかという主張をされる人達は多数いるのです。勿論、元となった倭国紀の記述もあるのでし
ょう。九州から吉備を経て大和に至った卑弥呼の東遷、宇佐に宮を作られた応神大王の東上などが
神武東征説話の中に入っているように思います。
その上に日本紀が重ねられたのでした。つまり、五世紀末頃行われた出雲勢力の畿内進撃が、神
武東征の中に置き替えられているということです。その割合は、卑弥呼の東遷が15%、応神大王
の宇佐宮の記述に5%、残りの80%が出雲勢力の大和侵攻記事であろうと考えます。出雲勢力は、
すなわち継体天王の率いる勢力です。五世紀末に行われた継体の大和進撃が、紀の神武東征説話の
中に入っているのではないか。さらに神武朝の出雲閨閥の話が本当なのか。
そうした謎にどれくらい迫ることが出来るかも、この本の見所としてください。
これから、だんだんに話をすすめて行きましょう。
この章は最初に日本書紀がどのような作られ方をしたのか、ということを明らかにしました。
そのようなわけで、これから神武東征伝の中にちりばめられた「継体天王の戦い」を抽出して、
畿内での活動をみることにします。
日本歴史に見る三面相
神武は日本国の天王だつたのではないですか。
継体と大国主と神武は同一人物だつたのではないのですか。ということを提唱しました。
場所と時期を変えて出現してきますが、この三人の事跡は五世紀末の出来事なのではありません
か。出雲神話と神武朝紀は、神話の時代と歴史時代の始めにもつていつた日本紀の先頭部分だつた
のでしょう。だから、三面相という言葉を使います。一人の人物が場面を変え、名前を変えて出演
していますが、全部同一人物なのでした。恐らく継体天王が本体(実像)で、後のお二人が虚像な
のです。
私はこれまで、出雲神話に出てくる大国主神が継体天王ではないかとして来ました。
それに追加して神武天皇の東征説話の大部分、(河内から紀州を経由して大和に至る戦闘場面)は
継体の大和侵攻だと考えるのでした。とうぜん、神武大王とそれに引き続く八代の王やこれに結合
する出雲閨閥の話が、倭国初期大王の時代であるわけはないと考えてください。そして日本歴史の
中には一人の人物が三面相をもつて出現してくるかも知れないということを頭の中に入れておい
てください。ここでの三面相の思案はさまざまな謎を解くカギなるとなるので、重視していきたい
と考えています。
神武東征に書き変えられた継体進撃路
出雲地方の地名が全国のどこにあるかを考証された佐賀 新氏は「出雲朝による日本征服」の中
で、紀伊半島の地名考証をした後につぎのように述べています。
-【(出雲の地名が紀伊半島にあることに)何となく、神武東征が思い出される。ひょつとすると
出雲勢による亊跡が、神武天皇に置き替えられたのかもしれない。何故ならば(日本神話に従うな
ら)「国譲り」で統制権の移譲はスムースに行われた筈であり、(神武天皇が)改めて攻め込む必
要はないものと考えられるからである。】-
ごもつともというしかないでしょう。出雲神話では大国主神はこの国を平定した人物であり、そ
の後「国譲り」が完全に実施されたならば、神武天皇が改めて畿内に攻め込むのはおかしいことな
のです。正しくいえば、神武天皇の時代は平定された時代ではなかつた。「この国を平定した大国
90
主」は「神武天皇より先だったのか」よりも、地名考証によって「置き換えられた」との指摘がさ
れている。二面相です。
神武東征説話が継体天王の大和侵攻説話だという指摘は、別の複数の学者によっても行われてい
ることはすでに周知されていることでしょう。合わせると三面相なのです。
ここでは「出雲勢力による事跡が神武天皇に置き換えられたのではないか」といわれていました。
それでは具体的にどの部分が出雲にかかわる部分かをみてみましょう。
1、五瀬命=五十猛命
神武天皇と行動を伴にした兄の五瀬命は河内国日下(現在の東大阪市日下町)から生駒越えを目指
しましたが、敵の頑強な阻止のため転戦を余儀なくされました。
この戦いでの負傷のため和歌山で崩御されたという。
この五瀬命は出雲族の五十猛命ではないでしょうか。
五十猛命が和歌山市に鎮まる理由は紀記になにも書かれていない上に、五十猛命の式内神社は、
すべて名神大の神社で、小社である五瀬命の竈山神社より位が高いのです。
● 国懸神社(和歌山市秋月、祭神国懸大神もともとは五十猛命)
● 伊太祁曽神社(和歌山市伊太祁曽、祭神五十猛命)
● 伊達神社(和歌山市園部、祭神五十猛命・神八井耳命(神武の長男・母は大物主の娘))
それに神武東征のモデルとなつたと考えられる卑弥呼、応神大王、継体天王(大国主)の三方の
中で、同じように行動した兄のある方は継体(大国主)しかいらつしゃらないことを思うとき、神
武の兄・五瀬命こそ継体の兄、馮王仁(五十猛命)であろうと考えるのでした。
2、日の子 ⇒ 三本脚のカラス
-【吾は日の神の御子として日にむかつて戦うことは良くない。このために傷を負ってしまった。
今からは迂回して、背中に日を受けて敵を討とう】-と五瀬命が言われた。(古事記)
太陽信仰はどの国にもあつたでしょう。日の光によつて植物が育ち、人間が生きていく環境がも
たらされているために太陽に対する感謝の気持は万国共通であったと思われます。しかし、日の子
伝承を持っている国は、基本人種扶余族の朱蒙伝説しかありません。扶余族は高句麗・百済・沃租・
穢など多くの国家を作りました。それらの国々に始祖朱蒙伝説が伝えられたのです。
-【扶余国での出来事に、一人の娘が日の光を受けて妊娠し、男子を出産した。これが朱蒙で、後
に高句麗国を建て始祖となつた。】-(高句麗本紀)
続日本紀には光仁天皇の妃で、桓武天皇を生んだ高野新笠(のち皇大后)は百済・武寧王の子、
純陀太子の子孫で、-【百済の遠祖の都慕王は、河神の娘が太陽の精に感応して生まれた。
皇大后はその末裔である。それであめたかしる天高知日之子姫尊と諡を奉つたのである】-と。
(続日本紀延暦9年(790年))
ここでは高野新笠妃が高句麗と同祖の都慕王(朱蒙)の末裔だから、日の子姫と諡を奉まつたと
いうのです。古代の列島においては、日の御子の国は朝鮮半島の北側の国だという認識があつたこ
とが指摘されるでしょう。五瀬命の言葉にある「日の神の御子」は、半島北側の国から来た渡来人
の子のことをいうのではありませんか。それならばスサノオの子・五十猛命が当てはまります。
また、太陽信仰には、「日の鳥」とされるカラスがつき物でした。
日の出、日の入りとともに行動するカラスが、上古代の中国において太陽
信仰の中に取り入れら
れたのです。
左の高句麗冠帽のデザインを見てください。
そこには中央に置かれた三本脚のカラスの周りにも、
何匹かのカラスが象徴されているのがわかるでしょう。
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こうした三本脚のカラスは、出雲系の神社伝承に現れ
ています。
島根県美保関町・美保神社(祭神・亊代主神)青柴垣神事には三本脚のカラスが登場するし、熊野
三山信仰の三本脚の先導烏(みさき)、熊野誓紙に印刷された烏や熊野誓紙の誓約を破ると「熊野
のカラスが一羽死ぬ」とされたことなど。
この熊野三山は出雲の熊野神社(祭神・素戔鳴尊)が本源です。
京都・下鴨神社の祭神・賀茂建角身命は八咫烏の化身と伝えられている。この【八咫烏は神武天
皇の先導神として仕え、のちに大和から山城の賀茂に移った】-(山城国風土記逸文)とある。
鴨神社が出雲の神社であることは一度参拝すればすぐわかります。それに山城の大山咋命(松尾
大社・祭神)が丹塗り矢と化して瀬見の小川を流れ下り、建角身命の娘・玉依媛と婚姻し賀茂別雷
命を生んだと言う。上鴨神社の由来です。
大山咋命が出雲神であることは、ご存知の通りでした。八咫烏(やたからす)というのは、高句
麗氏族を中心とした出雲勢力の旗印だつたのではないでしょうか。
賀茂建角身命はその旗手だつたのでしょう。
兵庫県神戸市北区有馬町温泉神社には次ぎのような話が伝わります。-「昔、大巳貴命と少彦名
命がこの地にいらしたとき、傷ついた三羽の烏が水に浸かりそしてたちまち傷が治るのを見て、温
泉を発見された。」傷ついた三羽の烏になつてしまつたが、これは三本脚の烏ではないのか。出雲
勢力の傷病者を、温泉を利用して治療したことが、その始まりだつたのでしょう。
また、山形県出羽三山の湯殿山神社には、開山に伴う次ぎの話が伝わる。-「この地を開拓され
た蜂子皇子が三本脚の烏に導かれ、山頂に大巳貴命・少彦名命・大山祇命を祭った。」と。 この
神々は国土開拓・平定の神々であり、三本脚の烏に縁があるのでしょう。まだまだ探せばあるでし
ょうが、ようするに神武東征に出てくる八咫烏説話は出雲と関係するということです。
説話の中にある太陽信仰は出雲勢力の精神構造だつたのでは。出雲地方に有る地名・簸の川、日
ノ御崎、出雲大社の別名・日栖宮(ひすみみや)、氏族名の日置氏、日本(ひのもと)や日の鳥な
ど「日」にあやかる名称は出雲に関係し、倭国の歴史とは結び付きません。
3,高倉下命が神武東征に出てくる訳はなんですか。
高倉下命は尾張連や継体皇子を養育した丹比連と同様に、火明命の子とされています。後に天香
語山命と呼ばれ新潟県弥彦神社の祭神として鎮座される方がなぜ神武東征説話に出てくるか不思
議なことでしょう。
しかも火明命の子がここでは熊野の高倉下という現地在住の人物になっている。-【この人物の
その夜の夢に武甕雷神が(現れて)「私の剣をフツノミタマというが、いまこれをおまえの庫のなか
に置こう。この剣をもつて天孫に献上せよ。」と仰せられた。高倉下は朝早く起きて庫をあけてみ
ると、一振りの剣がさかさまに庫の底板に立っていた。そこでこれを天皇に献上したという。】-
おそらく、出雲勢力の武力侵攻時にこれによく似た出来事があつたのだろう。それが神武紀に挿
入されたものでないか。剣の名前がフツノミタマとあるから火明命に随伴した物部氏に係る物語と
思われる。それにしても武甕雷神(古事記では建甕雷神)という名前は高天原にも、出雲側にもあ
つて同名異人の姓名であり、誠にまぎらわしい。
出雲側には【出雲の大物主神の後裔・建甕槌命、その子が太田田根子】(紀・崇神紀)と読みが
同じで整理できていない感じがするのは、なんらかのヒントがまだ隠されているのかもしれません。
あるいは倭国と出雲の二つの神話が混同されていることの暗示ではないでしょうか。
以上3点ほど、神武説話に入り込んだ出雲族の話をとりあげてみましたが、これを見ていただい
ただけでも、出雲勢力の畿内進撃が、神武紀のなかに取り入れられているということが分るのでし
ょう。日本紀の歴史が、倭国紀の上古の時代にまで引き伸ばされ挿入されていると考えてください。
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五世紀末の戦闘が古い時代に移動していることが、より分っていただけるようにここで継体天王
の話を中断して、進撃路となつた和歌山県を初め畿内の氏族分布を示し、いままで話してきたこと
の検証をしてみます。
検証・紀氏の滅亡とその領地を占拠した氏族
五世紀の豪族紀氏は、半島から帰来(半島倭国籍氏族の渡来をいう)した氏族で、半島倭国の任那
出身の豪族であり、応神大王の御帰還に随伴し、泉南・紀の地方に領地を賜っていたのは、よく知
られているのです。
五世紀末の宗教戦争では、倭国側の勢力として継体天王を阻止すべく戦ったのでした。書紀雄略
紀にはその戦闘状況を「場面を半島の出来事として」描いています。その中には大伴談連の戦死、紀
小弓宿禰の死、さらに紀大磐宿禰と蘇我韓子宿禰が弓矢で争い、韓子を射殺する場面がありました。
この戦闘は、半島における闘いのように偽装されていますが、本当は五世紀末の列島における宗
教戦争の一部分を表現しています。双方の大将クラスの戦死があるほどの激しい戦いが行われ、紀
小弓は戦死、紀大磐は戦場から脱出して半島に引き揚げました。
紀氏の領地は別の氏族に配分され、生き残りの部民は紀寺の奴婢や陶邑の袋担ぎの労働に駆使さ
れたのです。戦死した紀小弓の死骸は大伴氏の特別な計らいがなければ墳墓に入れることができな
かったのでした。紀・記は小弓の死について嘘を書きました。
五世紀代にこの地にいた「武内宿禰系の紀氏」は日本列島から逃れ、半島へ退去しました。
紀ノ国の名前に基き同じ「紀氏」を使っていますが、その後の紀氏は別系統の方です。
それでは紀氏滅亡後、和歌山県にどんな氏族が入ってきたのか資料を見てみたいと思います。
紀氏の後に和歌山県に入った氏族
郡名 補任年 地位 氏名 資料名
那賀郡 天平神護元年 大領 日置弟弓 続日本紀
〃 承和十二年 大領 長我孫縄主 平安遺文
〃 承和十二年 擬大領 長公広雄 平安遺文
名草郡 神亀元年 大領 紀直摩祖 続日本紀
〃 〃 少領
大伴擽津連子人 〃
〃
〃
〃
海部直土形 〃
〃 天平神護元年 前少領 榎本連千嶋 〃
〃 〃 大領
紀直国栖 〃
基本的に変化がないので、その後の補任は略します。それではページの表を見てください。
天平神護元年(765年)にみえる和歌山県那賀郡大領は、日置氏で本書にたびたび出てくる高句
麗氏族です。
次ぎの大領・擬大領は承和十二年(845年)長氏で我孫姓と公姓を持ち、
-【姓氏録「長公。大奈牟智神児積羽八重亊代主命之後也」和泉国神別】-
お分かりでしょうか。五世紀末、紀氏を倒して和歌山県に入ったのは、継体天王の軍勢としての
出雲勢力でした。それは疑いない事実でしょう。
「そして紀ノ国に配置したのは亊代主命」だつたのではありませんか。
つまり、大国主神の子である亊代主神を祖とする氏族がこの領地の主です。
継体天王が大国主だつたというのは、こんな史実があるからでした。
名草郡の神亀元年(724年)郡司には、大領・紀直氏が任命されています。
-【姓氏録「紀直。神魂命子御食持命之後也」和泉神別】-
出雲神話に大国主神を助ける天神として登場するのが、神魂神でした。
天神である、日本神話の神が出雲神話に登場するのは長い間謎とされて来たものです。
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それも「宗教戦争」ということで謎が解けるでしょう。
天神というのは倭国豪族であり、仏教に帰依した豪族が出雲族を助けるのでした。
出雲族に味方した神の子孫が紀の国に大領として住んでいるのです。
同じく名草郡少領となったのは大伴擽津連で、次ぎの前少領とみえる榎本連とともに大伴一族です。
出雲族に協力した倭国豪族でした。
大伴氏と並んで少領となつた海部直は、恐らく出雲族に随伴した海部を統括した氏族で、丹後国
与謝郡籠神社に祝として奉仕する海部直の一族でしょう。この一族は但馬にも分布し、姓氏録左京
神別、天孫条に【但馬海直。火明命之後也】、また「先代旧事本紀」天孫本紀に【(火明命の)六
世孫建田背命。…海部直。・…但馬国造等祖】(日本古代氏族辞典)としています。
火明命が大国主の子とするのは播磨風土記であり、継体朝閨閥として活躍する尾張連や継体子弟
の養育に当たる多治比連も火明命の子孫であるという。こうして見ると、和歌山県に紀氏を滅ぼし
て入ったのは、大国主氏族と手足となつた高句麗氏族、それに仏教に帰依し出雲勢力に荷担した大
伴氏族とこれに随伴した氏族たちでした。
出雲系の人達、大伴氏、高句麗帰化氏族のメンバーが揃っています。
この顔ぶれが継体天王を支えた氏族だつたのでした。
別の資料(古代人名辞典)に出てくる和歌山県の人名は那賀郡の戸主に大伴連伯万呂や那賀屯倉
を司つた仲丸子連(大伴氏一族)などの大伴氏。また名草郡の擬少領牟佐村主(「呉孫権男高之後
也)左京諸蕃・高句麗系カ)などの名が見え高句麗系をふくむ出雲族と大伴氏族が混在していたこ
とが窺われます。
この地には、和歌山市伏虎城付近で出土したと伝える双竜環頭太刀と獅
噛環頭太刀がありました。
市内丘陵地は古墳時代後期の大群集古墳が存在する。
(伝 岩橋千塚古墳群出土の革袋状須恵器)和歌山市立博物館
ついでに和歌山市の式内神社名を見ておきます。
(名草郡) 日前神社・ 国懸神社
二社一所の神、元来の神名は大国主神・少彦名命でないかと。
伊太祁會神社
大国主の兄、スサノオの子五十猛命を祭る。
大屋都比売神社 スサノオの子を祭る。
都麻都比売神社
スサノオの子を祭る。
伊達神社
出雲には韓国イタテ神社が多くあり、元来は中国東北部の神という説あり。
(有田郡)有田市 須佐神社 スサノオを祭る。
南部川村 須賀神社
スサノオを祭る。
(牟婁郡) 本宮町
熊野坐神社
スサノオを祭る。
ここには出雲の神様が集合しているでしょう。
それは渡来人たちと大伴氏が武内宿禰系の紀氏を滅ぼして、この地を占領したからです。
和歌山県を占拠した後、継体天王の大和主要攻撃路となつたのは紀の川沿いの道であったのだろ
うと思われます。神武東征説話では太陽を背にするため、熊野村(現在の新宮市)に廻り込んで熊
野川沿いに進んだという。
この道には新宮市に熊野速玉神社、本宮町に熊野本宮大社があつて、出雲の熊野神社を勧請した
神社があります。この神社の御使いは八咫烏で、これを印刷した午王宝印が最高の誓紙とされたの
は「スサノオがこの国を奪うことはしない」と誓い、それを守ったからでした。
そうしてみると神武東征の道ではなくて出雲族の進撃路の一つではなかつただろうか。
須賀神社のある和歌山県南部川村や渡来氏族名の日置川町・串本町の地名にある「出雲」や「出
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雲崎」なども、それぞれ出雲族の上陸した場所と言えるのでしょう。
(御坊市付近の古墳・遺跡から出土した遺物。
「紀
南の古墳文化」より。御坊市には高城山がある。)
もちろん和歌山県側だけでなく、奈良県北部方
面・三重県名張方面や河内側からの攻撃もありま
した。畿内包囲網を作るため慎重な行動をとつた
から、各方面から一斉に攻撃をかけたに違いない。
なんといつても、倭国の内情を熟知した大伴氏や
久米氏が出雲軍を先導したのでしょうし、八咫烏
の旗印を掲げた鴨県主がその後に続いて行ったの
でした。
検証・奈良県東南部での出雲勢力
神武東征説話では、吉野町から大宇陀町へと侵入していった様子が描かれていました。
これらの地は奈良県南東部の櫻井市や明日香村にほど近い場所です。ここには出雲系の神社や大
伴氏の神社がありました。代表的な式内社を挙げておきましょう。
大名持神社(奈良県吉野郡吉野町・祭神大名持御魂神、須勢理比売、少彦名命)
高桙神社(奈良県吉野郡吉野町・祭神高皇産霊神)
吉野町から櫻井市の方面には、
八咫烏神社(奈良県宇陀郡榛原町高塚・祭神建角身命)
高角神社(奈良県宇陀郡大宇陀町上守道・祭神高倉下命)
椋下神社(奈良県宇陀郡榛原町福地・祭神高倉下命)
と神武東征説話に出てくる神々のお社がこの地にありました。出雲の勢力が目指したところは、
最後に倭国大王が立てこもる奈良県の要害の地、櫻井市東部の山岳地帯であつたのでしょう。
書紀に倭国の諸豪族の滅亡記事が載るのは雄略紀で、この方は倭の武王に比定される人物ですが、
宮殿は「長谷の朝倉宮」(現在の桜井市岩坂付近カ、朝倉宮伝承地の標識がある)ですし、大長谷
若建命とも申し上げる方です。長谷がゆかりの方でした。さらに書紀で描かれている王朝最後の大
王は武烈大王だと思われますが、この方の宮も「長谷の列城(なみき)宮」(:現在の櫻井市東部)
といわれ、戦時体制下の城が宮となつていたと想像されます。つまり奈良県東南の地は倭国大王の
宮があつた場所なのです。
『東征記には宇陀の首長であつた兄猾(えうかし)の誅殺を終えた後に、宇陀の高倉山に登って山
頂から大和を展望したところ、国見丘(現在の経が塚山か)に敵軍が、さらに磐余邑(櫻井市)に兄
磯城(えしき)の軍が充満していたという。磐余は後に継体天王の宮となった場所、弟磯城の説得に
成功し、忍坂・墨坂から敵を挟み撃ちに兄磯城を斬り殺した。頑強に抵抗した大和勢力もとうとう
最後の決戦になり、敵首長を倒したという。』倭国大王の宮付近が最後の激戦地となりました。
神武東征説話に継体軍の進撃状況が入っているという指摘は、複数の方が述べていられます。
神武紀にみえる「倭国の磯城邑に磯城の八十たけるがいる」という言葉を問題視する学者もいる。
なぜここに倭国が出てくるのか、さきにあげたように神武紀には「日本の国」という書き方もし
ているので、日本の勢力が倭国の勢力を滅亡させたのが、東征説話ではなかつたのだろうか。
また、この地は出雲族・高句麗氏族の居住地の一つに分類されるようです。奈良県東部・桜井市
から吉野町にいたる広い区域には出雲系神社の集合体がありますし、近鉄長谷寺駅の南方には「狛」
という地名があります。狛の地を北へ流れる川の名は「狛川」といいますが、この川が初瀬川に合
流する辺りの地名が「櫻井市出雲」であり、榛原町には「高井」の地名があつて「上檜牧」、「高
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井関」が後に設けられた。「高城」の地名もある。高城については後述。
神武天皇の歌「楯並めて伊那佐の山の木の間ゆも・・」にある「伊那佐山」も出雲の地名からと
られたのではないですか。
桜井市大字池の内、稚桜神社本殿右には「高麗神社」が鎮座していられのでした。
倭国時代が変わりこの付近は「狛」の居住する場所とかわつたのです。かつての倭国が大きく変換
したと考えるべきでしょう。
激戦地となつた忍坂には、忍坂連(火明命後裔)が入りました。播磨風土記に大国主の子と書か
れる方で、河内のタジヒや尾張連と同祖です。『また東征記では、敵首長が討たれた後でも大和で
頑強に抵抗する豪族たちがいたことを語っていた。添県の波多丘さきに新城戸畔(にいきとべ)、
和珥の坂下に居勢祝、長柄丘に猪祝、葛城の土蜘蛛らを誅殺したという。』
添県は現在の奈良市から大和郡山市にかけての地域、和珥の坂下にいたという居勢の本拠地は奈
良県西南の高取町古瀬附近であつた。つづく長柄は御所市名柄の豪族居館遺跡附近、葛城も同所で
あろう。かれらに代わって和珥の地には、物部氏が入り石上神社の祭祀権を引き継いだし、継体天
王は随伴した青海首族が海上運送にはたした功績を称え、大和の地を与えられたのでしょう。
大和神社の所在地です。
書紀武烈紀には倭国豪族平群臣真鳥・鮪(しび)親子の滅亡記事をのせている。曰く「大臣の平
群真鳥臣は、もつぱら国政をほしいままにして,日本に王として臨もうとしていたと書く。そして
子の鮪とともに大伴金村によつて賊として殺されたという。」
ここにも「日本」ということばが使われているが、平群臣や葛城臣は倭国の豪族として大王の為
に、また滅びいく倭国の為に命を投げ出し、働いたのだろう。それを賊と書く書紀は許せないもの
があります。
桜井市北側の三輪山山麓には、三世紀後半代この地に進出して来た倭国大王卑弥呼によって新し
い都が建設されたと考えます。代々の大王の墳墓が付近に群集するこの地で、美しくそびえる三輪
山が倭国の首長たちにとつて信仰の対象となったのは想像できます。倭国の聖地だつたのです。
しかし、倭国は崩壊し日本国となつた。大王は天王と呼称を変えました。
象徴的なことは、中国山東省の戦闘の神といわれる兵主神社が山麓の穴師に建てられたことです。
倭国の聖地であつたこの地に中国・北燕国王朝ゆかりの神が祭られました。
穴師坐兵主神社(奈良県桜井市穴師町・兵主神、若御魂、大兵主神)
各地に建てられた兵主神社の最終目的地、倭国の首都である大和にこの神社が建てられたことは
平定が完了したということだつたのでしょう。
日本書紀にはつぎの言葉が記録されている。
-【もし私がいなかつたら、どうしておまえひとりでこの国を平定することができただろうか。
私がいたからこそ、おまえはその国を平定するという大功をあげることができたのだ】
【そこで大巳貴神は神宮を三諸(三輪)に造営して住まわせられた。これが大三輪の神である。】
―と。大物主神は大国主神と混同されることが多いようですが、もちろん別人であり、渡来人の王
であつたのです。そして平定が完了したのが、6世紀初頭ごろのことだつたのではないでしょうか。
半島の倭国構成国に動揺がはしつて、任那の一国であつた鶏林国が独立を宣言し、北方の元山付
近を都にしていた古・新羅の国号を襲名するのか503年ですから、列島の倭国が壊滅し出雲勢力
が大和に入ったのは六世紀初頭だつたのでした。紀・記では倭国滅亡のことは何一つ書いていませ
ん。そして倭国大王の血統が続いているかのように装いました。
「倭国」から「日本」に国号がいつ変更したか、王の名称が「大王」から「天王(天皇)」にど
のように改称されたのか全く記録しなかったのです。記録すれば、王朝の交代について言及する必
要がありますし、なんらかの理由でそのようなことが書けなかったのでした。国号が変更されたこ
とは、王朝の交代によつて起きた出来事です。
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倭国という国号が消えたのは、出雲勢力によって大和が占領されたからだつたのです。
本書を読んで大体のことがお分りになりましたか。
念のため奈良県東南部の城上(しきのかみ)郡出雲系式内社を挙げておきましょう。
● 大神大物主神社(奈良県桜井市大字三輪・祭神大物主神、配大巳貴神、少彦名神)
● 巻向坐若御魂神社(奈良県桜井市穴師町・祭神若御魂、大兵主神)
● 志貴御県坐神社(奈良県桜井市三輪字金屋・祭神大巳貴神)
● 狭井神社(奈良県桜井市三輪字狭井・大物主神・亊代主神他)
● 忍坂坐生根神社(奈良県桜井市大字忍坂・祭神少彦名命)
● 素戔鳴神社
(奈良県桜井市大字初瀬・祭神素戔鳴尊)
● 宗像神社
(奈良県桜井市大字外山・祭神宗像三姉妹)
城下郡(しきしも)には
● 村屋坐弥富都比売神社(奈良県磯城郡田原本町蔵堂・祭神弥富都比売命、配・大物主神)
大伴氏の女で渡来人の妻となつた三穂津姫命と夫である大物主を祭る。
高市郡にも出雲系式内社がいっぱい。全部挙げられないので次の神社に代表してもらいます。
● 高市御県坐鴨亊代主神社(奈良県橿原市雲梯町・祭神亊代主神)
● 天高市神社(奈良県橿原市曽我町・祭神亊代主神)
● 大歳神社(奈良県橿原市石川町宮の本・祭神大歳神、大山咋命)
● 飛鳥坐神社(奈良県高市郡明日香村神南備・亊代主神,高皇産霊神他)
● 加夜奈留美命神社(奈良県高市郡明日香村栢森・祭神大穴持命)
継体天王の宮所在地は紀・記に「伊波礼の玉穂宮」と書かれていて、現在の奈良県桜井市池之内
付近だと言う。この宮殿を取り巻く地域に出雲神を祭る神社が多数あるのは意味があることでしょ
う。倭国の都である大和でこんなに出雲神を祭る神社が存在することについて、古代史の専門家が
この疑問に明白の答えを出したことはないのです。
「古代史の旅奈良」を書いた直木孝次郎氏は次ぎのように語る。
-【三輪山の神がなぜとくに出雲の神と結びつけられたのか、天照大神とはなぜ結ばれなかった
のか。】【(その)疑問はますます深くなる。どのような事情が存するのか、日本古代史の重要問
題がそこに秘められているように思われる。】-(岩波新書)
神武東征説話が継体天王進撃説話でないかと語った方のひとりが直木氏であつた。
三輪山の神だけでなく、もつともつと数多くの大和における出雲神社のことを取り上げなくては
ならないでしょうし、そのことが日本古代史の謎を解く鍵でもあることはまったく同感なことです。
なぜ出雲の神社が大和にあるのですか。その謎の全面的な解明に本書がなり得るとは思いませんが、
いささかでも利するところがあればと思うのでした。
● 呉津孫神社(奈良県高市郡明日香村大字栗原・祭神呉津孫神、木花咲耶姫命他)
雄略紀に渡来した衣縫たち呉人を安置した場所である。この呉が句麗で高句麗国に残留していた
北燕国遺民を呼び寄せ住まわせたのか、それともに海上で別れて「南宗」に向かった北燕国遺民を
再度南中国から連れ戻したか迷うところである。
馮氏一族は南中国で一家をなし、後世日本仏教のため、「願真和上の日本渡航」に多大な貢献を
することになります。馮一族が日本人氏名を語り伝えていたことも注目点でしょう。
衣縫たちを連れてきた身狭村主青や檜隈民使博徳も当然北燕国から高句麗を経由して列島に来
た新漢人であつたに違いない。
付近に発見された壁画古墳「キトラ古墳」の天井に描かれている星座図は「北朝鮮の空」を示す
と言う。また、継体期に造寺されたと伝える鞍作部村主司馬達止の坂田原草堂も新漢人たちの安置
したとされる稲渕もこの付近です。
この神社祭神の木花咲耶姫命はもちろん大国主命の奥さんであつて、ニニギノミコトの妻ではない。
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検証・奈良県西南の出雲勢力
奈良県西南の地は、かつて倭国大豪族葛城氏の占拠した場所でした。
葛城氏は継体天王出現とともに滅亡し、その郎党の四邑の民(秦氏)は戦いに敗れ、生き残りの者
たちは奴婢として分配され仕事に従亊する運命となりました。
代わってこの地に入ったのは、和名抄「葛上郡日置郷」に示される高句麗氏族たちと出雲勢力だつ
たのです。この付近の出雲式内社を挙げましょう。
● 鴨都波神社(奈良県御所市大字御所・祭神亊代主神と妹下照姫命)
● 葛木御歳神社(奈良県御所市大字東持田・祭神大年神、高照姫命)
● 多太神社(奈良県御所市大字多田・祭神太田田根子)
● 長柄神社(奈良県御所市大字名柄・祭神下照姫命、高照姫命)]
● 高天彦神社(奈良県御所市大字高天・祭神高皇産霊神、市杵嶋姫命他)
● 大穴持神社(奈良県御所市大字朝町・祭神大巳貴神)
● 高鴨神社(奈良県御所市大字鳴神・味すき高彦根命、下照姫命他)
と葛城にあるのが出雲系の神社で五世紀代の豪族葛城氏族を滅亡させたのが出雲を主体とした人
達であることは明白なことでしょう。継体天王を支えてこの地に入ったのが出雲族です。大和を征
服して継体天王は大国主となつたのでしたつまり大国主とは日本国の主のことではありませんか。
少しこの付近の氏族名を挙げておきましょう。
賀茂君(高賀茂朝臣)は大国主神後裔、大和国葛上郡(現在の御所市一帯)に居住し高鴨神社を奉
祀する。
長柄首は「天乃八重亊代主神之後也」(姓氏録大和国神別)とみえ御所市名柄の地を本拠とし
長柄神社を奉祀し、また高市御県坐鴨亊代主神社の社家にも長柄首の名があります。
高田丘(大和高田市岡崎)の地を本拠とした高句麗氏族は姓氏録に、「高田首。出自高麗国人多高
子使主也」(右京諸蕃下)
氏人には白雉四年(653)の遣唐大使・高田首根麻呂、壬申の乱(672)で天武天皇(当時大
海人皇子)の吉野山脱出を鈴鹿に迎えた高田首新家らが有名である。
のちに新家の孫・足人は高田寺の僧を殺した罪を問われる。
葛上郡日置郷には、姓氏録大和諸蕃「日置造。高麗国人伊利須使主之後也」
同じく「日置倉人。伊利須使主兄許呂使主之後也」
同族には鳥井宿禰、栄井宿禰、吉井宿禰、和造など。
葛上郡桑原郷には、左京諸蕃「桑原村主,出自漢高祖七世孫万徳使主也」
万徳使主を祖とする氏族は攝津にいて、
姓氏録攝津諸蕃に「桑原史。桑原村主同祖。高麗国人万徳使主之後也」
また、同書山城国諸蕃「桑原史。出自狛国人漢・也」とあつて、桑原村主は高句麗人の可能性が
高いでしょう。672年に起こった壬申の乱には、大伴吹負(ふけい)に助力して大和で活躍する
三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷らの姿がありました。
彼らは「大国主神後裔」を名乗る氏族です。大和で近江側の部隊と戦闘を交えた大伴の軍には、
五世紀代に大和いた倭国豪族たちの姿はすでになく、出雲族の名前があげられていることに注目し
て頂きたい。
畿内が出雲族によって占拠された時代があるという検証にもなりうる亊だろう。
御所市柏原には鞍作一族の居住も知られる。
もちろんこれらの地は五世紀最大の倭国豪族そして倭国大王に皇后を出す氏族である葛城氏の
基盤であつたことは言うまでもない。その豪族を打ち倒してこの地に入ったのが渡来氏族を主体と
した出雲勢力であったのだろうし、出雲勢力を支援した大伴氏であつた。
98
神武紀には「剣根という者を葛城国造に任ぜられた」と書いている。
葛城国造となつたのは高皇産霊神五世孫の剣根命という。
それでは神武紀からずーと葛城の地が大伴氏の領土だったのですか。そうではないでしょう。五
世紀には倭国の大豪族葛城氏の領地だつたのではありませんか。神武紀にそれぞれ分配したのは、
倭国豪族の土地だつたのでしょう。三面相なのです。神武こそ継体なのでした。
剣根命の後裔氏族として大伴系の葛城直、葛城忌寸らの名が残つています。
蘇我氏も何らかの役割を果したのかも知れない。
「葛城県は私のもともとの居住地であり、その県にちなんで姓名を名乗っています。
そこで永久にこの県を賜つて、私の封県(よさせるあがた)としたいと思います。」と。
「推古天王は聞き入れにならなかった。」と書紀に書いている。この話がどこまで真実であるか分
からないのですが、葛城の土地に五世紀の豪族滅亡後、多くの部族が入ってきたことは確かなこと
でしょう。
書紀・欽明紀にみえる「大和高市郡に、韓人大身狭屯倉・高麗人小身狭屯倉(今の奈良県橿原市
見瀬)を置く。」との記事は、雄略紀の身狭村主青の存在がありますが、それよりも継体王朝後の
「国譲り」に関連するのだろうと思われる。
531 年継体王朝がクーデターによつて倒れた後に、「国譲り」が行われて高句麗氏族は欽明天王
に帰順することになる。「長背王。高麗国王鄒牟(一名朱蒙)之後也。欽明天皇御世。衆を率い投
化。顔美しく、軆大きい。其の背が高いので名を長背王と賜った。」(姓氏録右京諸番下高麗)と
いうのも欽明に降伏した高句麗氏族の話だろう。
神話では、「国譲りの時帰順した首魁は大物主神と亊代主神である。この二はしらの神は
「やそよろずの神」を天高市に集めて、この神々をひきいて天にのぼり、その赤誠を披露された」
(書紀)というのが、この時の出雲族・高句麗氏族の投化であつた。
このことに関しては後に話が出てくるのでその時にお話しますが、奈良県橿原市曽我町には、
天高市神社(祭神亊代主神)がある。欽明天王によつて集められた高句麗氏族は再び日本列島に
再配置されて、日本人として帰化して行ったのでした。
検証・斑鳩の地域の出雲勢力
書紀では斑鳩の前面に広がる額田邑に高句麗氏族が入った時期を「仁賢天皇六年」(五世紀末ご
ろカ)とし、次ぎのようにいう。
-【六年の秋九月に、日鷹吉士を遣わし高麗に行かせて巧手者(てひと)を召された。…・・
この歳、日鷹吉士が高麗より帰ってきて、工匠の須流枳(するき)・奴流枳(ぬるき)らを献上した。
いま大倭国の山辺郡の額田邑(今の大和郡山市額田部北町・寺町・南町付近)にいる熟皮高麗
(かわおしのこま)は、その子孫である。】
額田邑に高句麗氏族が居住していたは事実でしょうが、この天皇の時代に高句麗から技術者を連
れてくることが可能であつたとは思えません。
朝鮮半島で倭国と高句麗は激しく対立していましたから、人民の一人二人でも相手がわに渡すこ
となど考えられないでしょう。ましてや技術者を渡すなど、倭国大王とその国がそれほど友好関係
であつたとは思えないからです。
そうすると、やはり出雲からこの地に入ったのではないですか。
この氏族を統括したと考えられる額田部臣は神魂命後裔氏族で、鳥取部連・鴨県主・倭文宿禰
などと同祖。出雲の岡田山一号墳(島根県松江市大草町)出土刀剣銘にみえる出雲族でしょう。
とくにこの付近は河内との境に当たり、大和川を遡行した集団が住みついたことが考えられます。
北葛城郡上牧町の字名には現在も「高」があり、この付近から下牧にかけて、馬の飼育に従事した
99
狛人の存在が想定できるし、奈良時代の継体子孫・威奈真人大村の墓誌出土地、奈良県北葛城郡
香芝市穴虫山は墓誌に書かれている「慶雲四・十一大倭国葛木下郡山君里狛井山岡に葬られた。」
に相当するのでしょう。香芝市穴虫山は昔、狛井山と呼ばれていた。
香芝市は上牧町の西隣に当たるし、狛井は狛の居住を示す狛居です。
そうするとどうしても斑鳩の里にある「藤ノ木古墳」の被葬者の存在が気になります。
渡来氏族の居住地を見下ろす斑鳩の丘・「藤ノ木古墳」の被葬者が出土品から渡来系の人物であ
ることは、すでに衆知のことです。そのことからこの土地に宮を建てた厩戸皇子・上宮家と「藤ノ
木古墳の主」とどのような関係であつたか、が謎として残ります。
なぜ上宮家が滅亡しなければならなかったか納得のいく説明をする学者はいない。
もつとも六世紀から七世紀前葉にかけて信じられる歴史書や記録がなく、帝紀すら信用できないか
ら謎のままなのでした。いつかは解明されるかもしれません。
ただ仏教会から崇められている人物は「武塔天神・牛頭天王のスサノオ」、「大黒天の大国主」、
「聖徳太子の厩戸皇子」の三人だということを述べておきたい。
聖徳太子の事績が後世の作り物だとしても、書紀作成に従事した人達にとつては厩戸皇子や
上宮家一族は記憶に留めたい、惜別の人物であつたのではないか。という思いがします。
田原本町には神武子孫を自称する多氏がいました。
古事記編纂をした大朝臣安万呂はこの氏族の出身だから、神武の子神八井耳命の母方を大物主神
の娘とする古事記の記述をとりたいと思います。(書紀では事代主命の娘となつている)
出雲に遅れてやって来た渡来神が大物主神であることを思えば、この多氏の性質がわかるのでは
ないでしょうか。後に九州、東北と展開する氏族の話は後述したいと思いますが極めて渡来色の強
い氏族、本質は騎馬民族の高句麗氏族の血を受け継ぎ、渡来氏族を束ねたと推定される。
百済王子の豊璋の奥方となったのは、多臣蒋敷(こもしき)の妹であり、百済滅亡後、「豊璋は
数人とともに船に乗り、高句麗に逃げ去った。」と紀天智紀に書いている。奥方の親戚筋を頼った
と考えるのですがいかが。そうでなければ、百済王が高句麗に向かって逃亡するわけがないのです。
検証・出雲氏族の畿内制圧、河内の氏族・大和川右岸
上牧町にある「高」や香芝市穴虫山の旧名・狛井山という地名の連想で、この付近から下牧のあ
たりまで、高句麗氏族が住んでいたのではないかという話をしました。ついでに大和川を下って河
内の国にどんな氏族がいたのでしょうか調べて見ましよう。河内に入る川の右岸には高井田という
地名があり、高井は高居(高句麗氏族居住地)であつたと思われます。渡来氏族の群集古墳群でよ
く知られている。
また和名抄「河内国大県郡巨麻郷」(大阪府柏原市本堂付近)の郷名があつて
大狛神社(大阪府柏原市本堂・祭神大狛連、配大山咋命、木花開耶姫神)が鎮座する。
-【狛人。高麗国須牟祁王之後也不見】-
-【狛染部。同上
不見】-(未定雑姓河内国)などの高句麗族がみえる。
さらに北側には和名抄「河内国若江郡巨麻郷」(東大阪市西南部から八尾市北西部)があつて、
高井田という地名がここにも存在します。
● 鴨高田神社(大阪府東大阪市高井田・祭神速須佐之男命、大鴨積命)
● 許麻神社(大阪府八尾市久宝寺・祭神素戔鳴尊、配高麗王霊神、牛頭天王、許麻大神)
許麻は「こま」と呼び、高句麗氏族のことです。この氏族が出雲神を祭祀するのは日本列島どこも
同じなのです。
出雲に招かれ、出雲氏族を長としたのが、列島の高句麗氏族の特徴でした。
だから彼らと同じ時期に出現してくる継体天王も出雲と関係の深い人物だと思うのです。
100
八尾には刑部という地名があります。姓氏録・河内国諸蕃に
-【刑部造。呉国人季牟意瀰之後也。】-とあります。この場合の呉は句麗なのでしょう。
河内国高安郡(大阪府八尾市東部一帯)の地名にもとづく
-【高安漢人。出自高麗国人大鈴也】―(姓氏録、摂津国諸蕃)
-【高安下村主。出自高麗国人大鈴也。】-(姓氏録、右京諸蕃下)
と中河内は渡来氏族が蟠居していました。
高安山の麓、郡川には郡川西塚古墳があつて、この古墳出土鏡は関東の狛江市亀塚古墳出土鏡と
同笵品といわれます。狛江市には刑部氏の蟠居が知られると同様に当地にも刑部の居住があり、同
族と認識して良いのではないでしょうか。
難波方面には
-【難波連。高麗国王好太王之後也。】-(姓氏録、右京諸蕃下)などと一諸に
火明命後裔の津守連が西成区から住吉区にかけて勢力を有していました。
大阪府の北側・茨田郡から讃良郡には茨田連(まんだ)が有名。
-【茨田宿禰。多朝臣同祖。彦八耳命之後也。…】(姓氏録河内国皇別)-
-【茨田連。多朝臣同祖。神八井耳命男。彦八耳命之後也】(右京皇別)-
と架空の神武天皇の子を始祖とする。母系は大物主神の女(一説に亊代主神の女)である皇后の
ヒメタタラですから、この始祖説は作られた系譜に基くもので氏族は渡来系の可能性が高い。
● 堤根神社(大阪府門真市宮野町・祭神大巳貴命)は茨田連の祖神を祭る。
河内の氏族・大和川左岸
大和川左岸には出雲族に味方した大伴氏、物部氏の一族や志貴県主など。
● 志貴縣主神社(大阪府藤井寺市国府・祭神神八井耳命)
前出した大物主神の女ヒメタタラ出生の子を祖とする多朝臣同祖の氏族。
河内国の国府は藤井寺市に置かれ、この神社は名神大の地位にある。
● 伴林氏神社(大阪府藤井寺市林・祭神高皇産霊神、配天押日命,道臣命)
志紀郡拝志郷を本拠とする大伴氏の一族・林連が祖神を祭祀した神社。
● 辛国神社(大阪府藤井寺市藤井寺・祭神ニギハヤヒ命)
物部の一族・辛国連が祖神を祭祀した神社。物部が半島の屯倉管理に派遣されていたので、辛国
連を名乗ったという(続日本紀)本拠地は和泉国和泉郡唐国(大阪府和泉市北松尾町唐国)という
説もあるので、両方に領地を有していたのでしょう。
● 丹比神社(大阪府南河内郡美原町田治井・祭神火明命他)南河内丹比郡の郡名になつた氏族。
多治比連は大国主神の子火明命を祖(播磨風土記による)とし、出雲国郡領級氏族・蝮部臣(
たじひべおみ)を始め越中国、播磨国、相模国、常陸国など広い地域に分布していたことが知られ
ています。また、継体天王の子弟養育に当たった氏族でもありました。
多治比公(壬申の乱後真人姓を賜る)氏は紀・記に「(宣化天王皇子の)上殖葉皇子。また名椀子。
是丹比公。偉那公凡ニ姓之先也」と書かれる。
公、臣連、を頂点に部民にいたる氏族構成をする氏族で、広島県山地の三次市付近に地名を残し
ているのを本書でも紹介しましたが、そこを始めとして東北まで列島各地に分布していました。
この分布は継体天王の列島平定に無縁ではないことは、今まで読んでいただければよく分る事でし
ょう。
● 美原町の西隣、大阪府堺市日置荘原寺町にある萩原天神は、萩原日置天神ともいわれ、
旧日置西村の大庄屋日置氏の氏神「天櫛玉命」を合祀している。
櫛玉が奇魂であり、渡来神であることは既に述べています。
さらに、西隣は堺市土師町で土師氏が出雲から来た氏族であることは、ご存知の通りでしょう。
このように河内の国には、今まで述べてきた人達が豪族となり、それまでの倭国の豪族がいなく
101
なつていることにもご注目下さい。
継体天王が応神大王の五世孫でない証拠
五世紀大王級墳墓である誉田山古墳は、大和川左岸の大阪府羽曳野市誉田にあり一般的に
「応神天皇陵古墳」とされているものです。
墳丘全長415m,容積は1,433,960立方mで日本列島最大、倭国大王の墓であり、
倭国の聖域であつたことは確実でしょう。
時代は変わり、なんと聖域であつた天皇陵の正面前には渡来人の祖廟が建てられました。
聖域の否定です。三輪山に渡来神が祭られたことと同様のことが河内の聖域でも行われたのでした。
● 當宗神社(まさむね、大阪府羽曳野市誉田・祭神現在は素戔鳴尊)
現在の祭神は素戔鳴尊であるが、古くは當宗忌寸の祖、山陽公だつたという。
姓氏録に-【當宗忌寸。後漢献帝四世孫山陽公の後也】(左京諸番上)-
當宗忌寸はのちに宿禰姓を賜り、皇族(桓武天皇皇子仲野親王妃・班子女王の母)に繋がる家系
となつたが、楽浪郡(高句麗の都ピョンヤン)から渡来した氏族でした。渡来後、誉田付近の豪族
となったのでしょうが、継体天王が応神大王の子孫であったならば、自分の祖先の廟前に渡来氏族
の神社を建てさせるはずがない。そんなことは絶対に許さなかったに違いない。
ここでは、逆な史実を示しています。倭国聖域を汚す行為がおこなわれた。このことから継体天
王は渡来氏族の王であつて、倭国大王の血を引いていないと断定できるでしょう。
継体天王の創った日本国はかつての倭国を継承したものではなかったのです。継体天王が渡来人
の子孫であることに懐疑的な人達はいるのですが、そんな人達は「三輪山麓の大神神社」や「當宗
神社」の存在をどのように説明するのでしょうか。一度聞きたい。
また天王の推進した倭国の聖域を否定する行為が、元倭国豪族の反感を誘い 531 年のクーデタ
ーの発生に繋がったのではないかと想像しています。
さて、古事記には大国主神が出雲を出立して畿内に向う様子を次ぎのように表現していました。
-【出雲より倭国に上り坐さむとして、束装(よそお)ひ立たすとき、片御手は御馬の鞍にかけ、
片御足は其の御鐙に踏み入れて…・・】-と。
この表現は鞍や鐙などの馬具が出てくることから、大国主の時代が五世紀以後であるという「乗
馬姿の大国主神」として、すでに述べられています。そこで、ここでは「出雲より倭国に上り坐さ
む」という語句に注目して頂きたい。一般的にこの倭国を「やまと」と読んでいるようですが、こ
れは「倭国」で良いのでしょう。
大国主神が平定した相手はだれでもない。ここに書いているとおり「倭国」なのでした。古事記
は正直に「倭国を平定した」ことを書いています。出雲から出発して、倭国豪族を打ち払い、そし
て大和に都入りした人物はこの国の主である「大国主」でしょうし、継体天王だつたのです。
8 世紀の和歌山県に住む豪族や 7 世紀後半・壬申の乱に大伴吹負(ふけい)に助力して大和で活躍
する三輪君高市麻呂・鴨君蝦夷ら出雲勢力後裔たちの姿を紹介しました。
5 世紀に畿内にいた倭国豪族たちは消えて、別の氏族に取って代わられたのです。だから「大国主
神=継体天王説」の考え方として、ここから逆に古い時代に遡るのも良いのかもしれません。
大和や河内・京都府にいる出雲族が、いつ上京して来たのか。だれに率いられてきたのか。
どのように大和に入ったか。ということをです。
本書では時間を追って最初から書きましたが、大和から出雲方向に逆に考えていつても面白いの
ではないですか。いちどお確かめ下さい。
102
第 10 章
継体天王の即位と鶏林国独立・新羅を襲名
五世紀末に行われた宗教戦争によって倭国豪族は二分して戦い、倭国は戦争に敗れ、解体して日
本国に移行しました。かつての大王という王号は消え「天王」という宗教色の強い王号に変わりま
した。この王号を名乗ったのは後に継体天王とされる方で、書紀継体紀によれば 507 年二月楠葉
宮で即位したという。
楠葉という地名を書紀は下品な表現で卑しめていますが、この地は先に挙げた河内国茨田連の領
地であり、さらに筒城付近は上狛、下狛、多賀、加茂など高句麗氏族や出雲関係氏族で固めた地域
であることはこれまでの記述で明らかニしています。
書紀は楠葉から筒城や弟国に遷都があつて、即位してからニ十年後にやつと大和入りを果したよ
うに書きますが、継体紀以後 7 世紀前葉までの書紀記述は納得できるものではなく、年月も本来の
位置から移動されていて信用できないものです。宗教記事も移動されていますし、
「九州磐井の乱」
記事も五世紀末のことが継体紀に入っている。
そういうことを考えると、継体天王の所在地・楠葉、筒城、弟国は出雲から出立して大和に上る
過程の五世紀後半から末にかけての宮所在地だつたのでしょう。それに継体天王の即位年507年
というのもまことに疑わしい。 本当は503年だつたのでは、東北アジアに激動が走ったのがこ
の歳ですし、欽明天王の即位年のあやふやさに関連して各天王の即位年を構築し直すとどうしても
503年という線を考慮しないわけには行きません。
503 年という歳・継体の即位年
和歌山県隅田八幡宮は奈良県県境に接する橋本市に所在しています。この神社所蔵の人物画像鏡
には次ぎのような四十八字の銘文がありました。
-【癸未年、八月日十大王年、男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿、遣開中費直、穢人今州利
二人等取白上銅二百旱作此鏡】-
いろいろな読み方がありましょうが、男弟王が後の継体天王。癸未(みずのとひつじ)年が 503
年というのが定説であると考えます。
ところで、ここに出てくる斯麻という人物はなんの為にこの鏡を作ったのかというと、それは「お
祝い」のためであることは文面から察知されるでしょう。
503 年は畿内においてお祝いすべき行事が行われる歳であつた。その月は八月です。
半島と列島の古代の暦は秦暦(せんぎょく暦・中国上古の伝説的帝王の作られた暦。春種を播き、
秋収穫する季語に合致する暦)を用いていましたから、現在用いられている太陽暦に換算すると、
春正月は四月にあたるし、夏四月は七月にあたるものです。
「せんぎょく暦」十月は年の最初の月・歳首で、月名称の「神無月」は、全国から神々が新年の
会合のため出雲に参集する「出雲・神あり月」なのです。「せんぎょく暦」の春正月は、四月の立
春で月名称の「むつき」は稲の実を水に浸す「実月」といわれています。
六世紀初頭の鏡銘の「金石文」は古い暦によらなくてはなりません。
ちなみに農業関係記事の多い百済本紀をのぞいてみると
【春三月、ひどい旱魃で、麦が実らなかった。】(巳婁王十四年)
【秋八月、霜がおりて、豆類が枯れた。】
(巳婁王二十三年)
【夏四月、ひどい旱魃になったが王が東明廟に祈ると、雨がふつた。】(仇首王十四年)
【夏、ひどい旱魃で麦が実らなかった。】(古尓王十三年)
こちらは現代の月で考えるとおかしい記述ですが、いずれも季節の春夏秋を表現しています。
つまり巳婁王十四年の春三月は麦の実る夏に近い太陽暦六月をしめしているのでした。
以下豆類の枯れた秋八月は、太陽暦の十一月、夏四月は太陽暦の七月をいいます。
103
(現代の麦の取り入れは、芒種:6 月 6 日から始まる夏至の前 15 日間をいい、田植えと麦刈りを
する時期(韓国ガイド)という。)
【春正月、ひどい旱魃で樹木がみな枯れた】(古尓王二十四年)
もちろん冬枯れして木の葉が散ったのではない。新芽の生える時期四月での話。
【秋七月、霜が降りて穀物を枯らした。】(辰斯王ニ年)
【秋七月、旱魃で穀物が実らず、国民が飢える】(・有王ニ十一年)
新羅本紀でも
【秋七月、大変穀物がよくとれた。】(奈勿王ニ十一年 376 年)
六世紀初頭の智證王十年(509 年)に、
【秋七月、早霜がおりて豆類を枯らした】とあります。 七月は太陽暦の十月です。
これらの植物の生育状況と暦を下の表(概略)で照らし合わせてみてください。
そうすると上の記事もよく分るでしょう。
暦
冬
春
夏
秋
秦
十
十一 十二
正
二
三
四
五
六
七
八
九
太
1月 2月 3月
4月 5月 6月
7月 8月 9月
10 月 11 月 12 月
※ 豆の収穫期は温度変化に応じ異なるが、現代の改良された品種で太陽暦の 5 月 20 日ごろ種播
き、10 月 4 日完熟(s60 年十勝農試キタムスメ作況報告)
穀物収穫期 寒露:太陽暦 10 月 8 日ころから始まる五穀百果を収穫する時期(韓国ガイド)
寄り道しましたが、和歌山県隅田八幡宮所蔵の鏡銘「癸未年の八月」は太陽暦の十一月にあたる
ことがわかります。暦を詳細に見ると秦暦十月立冬が 1 月 7~8 日、秋の節季・立秋が 10 月 6~9
日、暦の八月は 11 月 6~9 日から始まります。さらに文面の「日十」は、「日は十」(宮崎市定
氏の解釈)で良いのでしょう。そうすると鏡銘の日付は 11 月 16~19 日です。
11 月中ごろ(卯の日)に行われるお祝いは大君が新穀を口にされるお祭りの日。
そこで、次ぎのことば「大王年」は「大王(おおきみ)が年(とし・穀物の意)せられる」で、王
が始めて穀物を口にされる大嘗祭を現すと思われます。つまり即位された大王が初めて行う新嘗祭
のお祝いだったのでした。現代式に文面を作りますと【503 年十一月中旬、大君として、大嘗祭を
挙げられるオオド王が忍坂宮にいらっしゃるとき】となります。
年が穀物を意味することばであることは、現代でも使われ「祈年祭」は立春に穀物の豊饒を祈る
祭事。年という甲骨文字は人が粟の束を担ぐ様で表現され、「みのり」という意味であつた。「年
を祈る」とは辞典に「豊年を祈る祭」とあります。
オオドがいられた忍坂は櫻井市忍坂であろうと思われます。さきに奈良県東南という題名で附近
に狛という地名や出雲という地名があることをお知らせしました。倭国大豪族であつた大伴氏もこ
の地(跡見庄とみのしょう)に進出し、継体天王をお護りしている場所だったのです。
地名を冠する忍坂氏は連を頂点に直・忌寸・無姓までピラミツトを作る氏族で、姓氏録未定雑姓
左京【忍坂連。火明命之後也】とみえる。あの尾張連と同祖でありませんか。大国主神の子である
火明命之後裔氏族なのでした。
もちろん継体天王をお守りしこの地に入ったことはいうまでもないことです。忍坂の宮を守護す
るため、この辺りに展開した氏族はこれぐらいにしてさきに進みましょう。
つづく鏡銘の文章は、
【斯麻が長寿を祈念し、開中費直(河内直という説が一般的)、穢人今州利二人等を遣わし、銅二
百旱を取りこの鏡を作る。】
お祝いを申し上げたのは斯麻という人物で、「シマの大臣」と書紀に書いている蘇我氏であろう
と思われます。-【蘇我邸の池に島があつたから、蘇我氏が別名「シマ」と呼ばれた】-
などと江戸時代の大昔に誰かが言つたことがありますが、あまりに子供だましではありませんか。
104
そんなことではないはずです。
三国志倭人条に書かれている倭国構成国の一国に「斯馬国」という国がありました。
斯馬国は半島南部にあつた倭の諸国の中で最北にあつた国であり、最南界の国が奴国でした。
これらの国はもちろん倭人国で、九州の倭人国とともに倭国連合国を形成していた。
(日本列島にあつた倭国と区別して半島南部の倭人国を半島倭国と呼ぶことにしています。)
奴国は北九州に分国があり、その人達がいう「本国の奴国」の意味の「ミマナ」は、後に半島南
部の国々を指す言葉になりました。
書紀には、四世紀中ごろの百済王近肖古王(在位346~375)と倭国の「斯摩宿禰」が外交
交渉を行い、両国が国交をひらいたことが書かれている。
この斯摩宿禰は半島倭国最北の国「斯馬国」の王でしょうし、のちに列島に領地を賜った蘇我氏の
祖先でしょう。一大卒であつた大伴氏とともに、百済に関係していくようになります。
ところで、五世紀初頭、応神大王が母の神功女王に伴われ、半島から御帰還された時、半島倭国
の豪族は随伴しそれぞれ分家して列島に領土を賜り、帰来しました。国籍倭国の人達が海を渡って
きても、これは渡来人ではありません。蘇我氏も紀氏・吉備の氏族も倭国籍で帰来人なのです。
ただ、帰来した豪族達が列島にいた期間は、短いものでした。
宗教戦争が起きて運命は逆転してしまつた。その事情は本書に詳しく述べています。五世紀末の
宗教戦争が起こるまで列島に住んでいた紀大磐や上道臣田狭はこの戦いで出雲軍に敗れ、逃れて半
島に引き揚げましたが、蘇我氏はいち早く仏教に宗旨替えをして継体天王に忠誠を誓ったものと思
われます。
穢人今州利の故郷は上古代、太白山脈東部の海岸部にあつた国で、311 年ごろ、中国・晋国の衰
退によつて半島に高句麗・百済が出現した際に、新羅国として独立しました。倭国と争った国です。
北の新羅または東沃沮新羅(四世紀~五世紀中?)と呼んでいます。
-【新羅国は、高句麗の東南に在り。漢代の楽浪郡の土地に初め居り、斯羅とも称えた。魏の将母
丘倹、高句麗を討ち、追い払われた人々は沃沮に逃げ込んだ。その後、故国にかえつた人もいたが、
とどまった人たちが新羅を作った。だからその民には中国・高句麗・百済の人が混ざり合い暮らし
ており、昔の沃沮・不耐・穢・韓(辰韓)の地を領土としている。】(隋書新羅条)-
沃沮から辰韓の地まで、すなわち咸鏡道・江原道・慶尚北道の北部までの南北に繋がる地域を領
土とするこの国は、倭国とは敵対関係であつたり、またときには人質を差し出していた国で、418
年倭国から逃げ帰った新羅の人質・王子未斯欣はこの国から出されていました。
その後五世紀中頃?に、この国は高句麗に吸収され新羅と言う国名は一時消えていたと思われます。
-【冥州郡(現在の江原道)は高句麗の地名であったのを景徳王の時代に改名した。】(三国史記
地理ニ)-と。
冥州郡は穢の古国(古今郡国志)ですから、この地が高句麗の地名であつたのは北の新羅国が高
句麗に吸収されてしまつた証拠です。そうすると穢人今州利は新羅時代に列島に来たのではなく、
国が吸収された後、高句麗氏族の渡来時機に一諸に渡来して来たのでしょう。誇り高く高句麗人を
名乗らず、古名の穢人と名乗っていたものと思います。こんな話をしたのは、実は半島には新羅と
いう国が前後に二つあつたからでした。
北の新羅に対して南の新羅は、503年に任那から独立し慶州を都とする別の国です。同じ国名
を使っているので区別が必要です。 新羅という名称を持つた国は前後に二つあつたのでした。穢
人今州利のところで、東沃沮新羅(北の新羅)を出しておきました。南の新羅は次項に出てきます。
さて、503 年の十一月中ころ大和で行われた大嘗祭が、継体天王の即位を広く内外に宣伝するも
のであつたのでしょう。それと同時に大嘗祭の意義が収穫儀礼説・先帝の遺体との共寝説・神に豊
年を感謝して共食説と多くある中に、配下の氏族に対する服属儀礼であるいう説もまた重要なポイ
ントになつています。
105
九州に誕生していた大伴九州王朝とともに、協力体制を執る継体王朝の誕生がこの年だつたので
した。また蘇我氏はこの機会に服属の意を表すとともに天王に接近して、地位の強化をはかつたの
です。彼は配下の開中費直と穢人今州利をして、この鏡を作らして献上したのでした。この鏡が現
存したことで、継体天王の即位年が 503 年ではないかということが知られているのです。
半島の 503 年・鶏林国独立、新羅を襲名
日本列島の倭国が出雲勢力によつて滅亡され、継体天王が即位した 503 年にはもう一つ特筆す
べきことが起きていました。
任那から鶏林国が独立(韓国歴史学者李鐘恒氏「韓半島から来た倭国」より)「新羅国」を襲名し
たことです。こちらの新羅を鶏林新羅(南の新羅、都は慶州)と呼びましょう。
慶尚北道南部の慶州を中心とした国で後に半島を統一することになります。
半島倭国の中心となつていた国で、新羅王子・天日矛命の出身国はこちらなのです。
南の新羅国の独立は503年冬十月に行なわれました。冬十月立冬は「せんぎょく暦」の歳首で、
年が改まる月。新年を迎えて独立を決意したことは、すでに前年の 502 年中に列島の倭国崩壊が
確実になつたという認識を任那がしたということなのです。
列島倭国の崩壊を受け、半島の倭国構成国の中にはさまざまな動きが発生しました。
紀 大磐(生磐)も任那西方で「三韓の王となろうとして官府を整え終わった」(紀顕宗紀)とい
う。任那の鶏林国の独立もそうした半島南部の動きの一つであつたのです。
「新羅本紀」第 22 代智證麻立干(麻立干は王の方言)の 4 年(503)冬10月条には、
-【群臣が上奏した。「始祖が国を始めて以来国名が未だ定つていません。あるときには、
斯羅(しら)と称し、あるときには斯盧(しろ)と称し、あるときには新羅(しんら)といいます。
私たちが思いますには、新とは「徳業が日々に新たになる」、羅とは「四方を網羅する」の意味です
から、それこそ国号にふさわしいものではありませんか。また、むかしから国家を支配するものは、
みな帝とか王とか称しています。わが国では、始祖が国を建てていらい今日にいたるまでニ十ニ世
代にわたつて、ただ方言を称えており、まだ王の称号を正式に採用しておりません。いま群臣の一
致した意見で、つつしんで新羅国王の称号を奉りたい(と思います)」】【王はこの意見にしたがつ
た。】と。(金富軾平凡社、井上秀雄訳)
北の新羅が五世紀中?ごろに高句麗に吸収され消滅した後、6 世紀初頭に倭国崩壊が決定的とな
り半島倭国は分解して、それぞれの道を選ばなくてはなりませんでした。
鶏林国は「倭国を滅ぼした日本国」に対抗するため、任那から独立し「新羅」を襲名したのです。
三国志東夷伝によれば、-【(北の新羅に所属する)辰韓の南は倭(倭国)に接する。】-と。
また、新羅本紀によれば、鶏林新羅の第四代脱解尼師今(尼師今も王の方言)は、
-【倭国の東北一千里にある多婆那国に卵として生まれた。そして海にすてられ半島に流れ着き、
やがて王となつた。(始祖伝説)】
このとき大輔になったのは倭人瓠公。
【むかし瓢(ひさご)を腰にさげ、海を渡って来た。それで瓠公と称えた】-と、
王と大臣が倭人出身となつていたのが鶏林国なのです。
この王の九年には国号を鶏林と定め、王家・昔氏の氏祖となりました。
これに類した話は列島にもあって、
-【新良貴。葺不合尊(ふきあえずのみこと)の息子稲飯命の後裔である。これ新良国に出て
国王となる。稲飯命は新羅国王の祖。日本紀に見えず】-(姓氏録右京皇別)-
古事記によると葺不合尊は海神玉依毘売命と結婚。五瀬命、稲飯命、御毛沼命、神倭伊波礼毘古
命(かみやまといはれびこのみこと)の四人をお生みになられています。
-【御毛沼命は浪の穂を踏みて、常世国に渡り坐し、稲飯命は母の国として海原に入り坐しき】-
とお二人が海の中を渡り、かの地に坐すとみえ、残りのお二人が東征を実行され、初代大王になら
れるのは、伊波礼毘古命(神武天皇)なのです。
106
これが事実ではないと思いますが、倭国の中で鶏林国が尊敬されていた理由はこの話のように、
大王家と縁続きであつたことなのかも知れません。
神功皇后も天日矛命の後裔ですし、五世紀の葛城氏も鶏林国と親族であつたと思われます。
倭国や親族の葛城氏を滅ぼし、生き残り部民の秦部を奴婢とした日本国に対抗して「共に天を戴か
ず」と強い決意で独立をしたのが、この新羅であり、列島の倭国崩壊年 503 年だつたのです。
一般に歴史書は「経緯の書」といわれます。時代を超えた縦線と同時代の横線で織られた物語が、
ぴつたりと合致してこそ正しい歴史といえるのでしょう。
五世紀中から始まる日本国の歴史は六世紀・七世紀に一本の縦の線として続かなくてはなりませ
ん。五世紀の豪族がなぜ消えたか、六世紀の氏族がどこから来たか、七世紀の大和になぜ大国主神
後裔の三輪君高市麻呂や鴨君蝦夷などの出雲族が住んでいたのか、連結がなくてはならない。
連結の糸が続いていないことはどこかに誤りがあるということです。
おなじように同時代の半島の情勢は横の線といえるのでした。半島南部で動揺が発生し、新しい
政権の模索に走ったのは日本列島に起きた宗教戦争の帰趨によるものでした。
半島南部に独立した鶏林新羅が仏教を受け入れるのは、日本国よりも後の時代なのです。
仏教は半島を南下したのではなく、半島南部を飛び越えて日本国の出雲に伝来しました。
スサノオは「新羅の地にはいたくない」と出雲に来た。五十猛命は「多くの樹の種子をもつたが
「韓の地にはうえないで、全部日本に持参し、国全体にまきふやし、とうとう国全体を青山にされ
た」と紀の一書は書く。倭国崩壊、宗教戦争の影響は、われわれが考えるより広い範囲に半島諸国
にも新しい秩序を達成を促し影響を及ばしていきました。
継体治世
半島南部の国々とは、それまでの密接な関係から一転して鶏林国のように敵対関係になる国が出
始めました。九州王朝と日本国の出方を窺う国もあつたのでしょうし、紀大磐のように半島で独立
を企てる人物もでたのだろうと想定されます。
一方で北方の高句麗国とは、それまでの争いが消えて友好国となつていきました。
継体紀 9 年条には-【百済は灼莫古将軍、日本の斯那奴阿比多を遣わし、高麗の使・安定らにつき
そわせ来朝し、修好した。】-(書紀)と。
倭の五王時代を通して、高句麗国とは常に戦闘状態であつたのに、急激に友好国となつたのはな
ぜだろうか。半島での争いも実は高句麗と倭国の宗教戦争だつたのではないかと考えられます。仏
教を受け入れた百済と日本は、高句麗にとつて敵視する必要のない国になりました。使節も来朝し
ただろうし、外交関係も当然開かれて人の交流も行われたに違いない。
書紀欽明紀に書かれている「高句麗使節の来朝記事」は【朕帝業を受けて若干年、高麗、路に迷い
始めて越の海岸に到る】という文章から始まり、敏達紀の【この高麗の上表文は、烏の羽根に書か
れており、羽根が黒いため文字が判読できなかった。船史の祖王辰爾(おうじんに)が羽根を飯気(ご
飯をたく時の湯気)で蒸し絹布を羽根に押し当ててすつかりその文字を写し読み取った。】という。
欽明紀の年代はすべて「若干年」となつている。このことから年代の決定がなされずに、書紀が
作られていることについては後に述べなくてはならないが、ここでは暗号文が送られて来ているこ
とに注目してみると、日本国は高句麗の敵ではなく味方となつたのだろうと思います。
敵に見られないように、あるいは敵に察知されることなく、味方に情報を送る必要があつた。
このときの敵は任那から独立した新しい新羅国(旧鶏林国)や任那に心を寄せる列島内の旧勢力だ
つたのでしょう。
継体天王は高句麗の味方となり、また応援を得て列島内の諸制度を整えたのではないだろうか。
いろいろな制度の内の一つ、「十ニ階の位階」は推古紀に書かれているが、この位階が高句麗の
位階制度を踏襲したものであることに異論はないでしょう。
107
書紀は百済の工人の来朝を記すが、高句麗工人の来朝はなぜか記述していない。
しかし畿内における初期寺院の飛鳥寺の伽藍配置は一塔三金堂の高句麗様式だし、二番目に建てら
れたというのは高麗寺(上狛)です。
この地は相楽郡大狛郷に属し、狛氏の大規模な館跡と考えられる上狛東遺跡や瓦を製作した高麗
寺瓦窯・高井手瓦窯の窯跡が存在する。また、七世紀初頭の豊浦寺は高句麗系軒丸瓦を代表する瓦
と言われている。高句麗工人の来朝記事がないのは、すでに日本国内に居住していたと言えるかも
しれない。
五世紀末に出雲に上陸した高句麗氏族の中には、いろいろな工人・製鉄、鍛冶、須恵器、絵描き、
仏像製作、建築また仏僧もいたのだろう。
高句麗僧の恵便は、播磨国に住んでいたという。妻の芳明とともに鞍作達止の女・嶋女(善信尼)、
漢人夜菩の女・豊女(禅蔵尼)、錦織壷の女・石女(恵善尼)ら新漢人出身尼たちの仏教の師とな
りました。
こうして新しい北方文化が列島に流入したのは、出雲勢力が畿内に進出したからです。
-【日本もと小国、倭国を併せり。】-と中国史書に書かれているように日本国が倭国という大
国を併合しました。
最初、日本の読み方は倭語の「ひのもと」だつたのでしょうが、新漢人の集団や大勢の高句麗系
渡来人たちが支援軍として渡海してくると、「にっぽん」ともいうようになりました。
語尾に「ng」のつく言葉が、列島の言葉として定着したのは、大勢の北方民族が継体天王に率い
られて大和や畿内に居住するようになつたからと考えられます。
隣近所にそうした渡来人が住むことによつて庶民の中に言葉が広がったのだろう。
文字でなく、耳から聞いて覚えていったのだと思います。そうして、継体王朝が長く続いたならば
新来語に統一されただろうに、そうならず現在の日本語は少なくても二つ以上のの言葉を日常的に
使っている。これは継体王朝が短命だつたからではないだろうか。
山が「やま」・「サン」、海が「うみ」・「カイ」・「わだつみ」の「わだ」。
半島では、ハングルの固有語(古い語)は倭語と共通する母音語だ。
例えば「わだ」=「パダ(海)」、「なら(奈良)」=「ナラ(国)」、(子を)「おぶう」=「オ
ブタ」など。
その後に流通するハングルで漢字語といつている新来語は、倭語でなく日本語と共通する。
(正確には…双方の方言で変化する前は共通した。)
広島県中国山地の県境の地、三次市を流れる江の川(ごうのかわ)は別名可愛川という。
可愛は書紀に「え」とある言葉。これが本来の倭語であつた。
「ごう」は漢字語の「カン」でカン⇒コウに変化したものといえます。芸備線「たか」駅付近は騎
馬民族・高氏族の居住地、さらに高田郡・高宮郡にも部族は分布し、群集古墳の数 3000 基以上と
いう地域では新来語が当然話されていたと想像できます。
継体紀に新しい北方文化が入ってきて列島に広がっていつたのでした。
7 世紀末の高松塚古墳に描かれている女官の衣裳について、
-【天寿国繍帳や高松塚(古墳)の壁画に見られる飛鳥美人の衣装が、まぎれもなく高句麗様式
であることはだれの眼にももはや明らかでないだろうか】-(上原和氏 成城大教授)
天寿国繍帳は厩戸皇子(聖徳太子)の菩提を願って、妃の橘 郎女が女官たちに作らしたとされ
る。画者のひとりは高麗加西溢(こまのかせい)で帰化人であり、ほかにも雄略紀に鞍部たちとと
もに来朝した新漢人の画部因斯羅我(えかきのいんしらが)や、推古紀の高句麗帰化人黄書(きぶ
み)画師・山背画師などが壁画や仏画の分野で活躍したでしょう。
ただ渡来時に携えてきた原画のデツサンによるとの指摘もある。
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島根県上淀廃寺の壁画について
-【六世紀前後の高句麗の技法を持つた画工集団が渡来し、七世紀末にその(子孫)ニ・三世が
上淀廃寺の壁画を描く際、集団に伝わった技法を一部で使ったのではないか】-
(河原由雄氏奈良国博美術室長)と。
高句麗壁画は時代によつて技法が異なり、列島には五世紀末から六世紀初頭の技法がはいつてき
ました。だから高松塚古墳に描かれた衣装のデツサンが古墳建造当時のものとするには慎重でなく
てはならないが、少なくとも継体天王紀の六世紀代の服装はこれに似たものであつただろう。
埴輪のほうでは、埼玉県行田市酒巻十四号墳には筒袖・ズボン姿の男性埴輪があつて高句麗男子
服との類似を指摘できる。群馬県観音山古墳の婦人像に赤白青(緑)の顔料で着色されたひだ付き
の裳(スカート)を着用した埴輪の出土がある。高句麗壁画との共通が考えられるでしょう。
ところで寺の壁画などにみる絵画技術について、五世紀末に渡来した
一世やその後の二世が技術をどのように子孫に伝えたのだろうか。それ
には仕事をしながら子に伝えたと考えるのが普通であり、そう考えると
六世紀代の残された遺物が土の中に埋もれて、まだまだ発掘されていな
い、我々の目にまだ触れていないように思えます。
(出土男子埴輪と高句麗服装
)
仏像にしても鞍作(鞍部)鳥がいきなり飛鳥寺の丈六の仏像を作成し、一回で成功させたのかと
いう疑問が残る。継体紀の司馬達止、用明紀の多須奈、推古紀の鳥の系譜を有する。
扶桑略記には「継体紀に鞍部村主司馬達止が大和国高市郡坂田原に草堂を結び、本尊を安置して
帰依礼拝をしたが皆これを「大唐神」といつたという。」とある。本尊である仏像を造る技術や仏
教経典・仏舎利は本国から運び込まれていたに違いない。そして寺を造ったからには、僧尼が必要
でした。
13 歳の司馬達止の女・善信尼の存在は継体紀であつたのではなかろうか。
年齢から考えて、年代を新しい方にもつていくのは無理があるし、書紀の六世紀代の記述は本来の
位置から移動され、時期は信用できないからです。
多須奈は用明紀に出家し、丈六の仏像を作り寺を建てたという。そうした技術は子の鳥に伝えら
れ、飛鳥寺の丈六の仏像へと繋がりました。
仏教が飛鳥の地に私伝として伝わったのは、五世紀中から後半の馮氏一族の来朝に始まります。
宗教活動は倭国豪族達によつて排斥されて密かに宅内に祭られていたのでしょうが、継体天王が
即位した後において仏教は公然と宗教活動を行えるようになったものと思われます。
したがつて、仏教公伝は継体天王即位をもつて、公伝の時期としなくてはなりません。
いまの仏教公伝とされる 538 年は、真実の公伝年ではない。
内政で特筆されるのは、継体朝における屯倉の急増でしょう。
倭国豪族の滅亡後に生じた領地を直轄地として、役人を派遣する制度への転換でした。
継体朝が目指したのは、土着の豪族に土地を支配させる封建制ではなく、中央政府から任命した官
吏による土地の管理だつたのではと考えられます。
安閑紀・宣化紀には、北の上毛野国から九州まで設けられた 40 余りの屯倉の名前が挙げられてい
ました。
倭国豪族の滅亡時の領地だつたところもあるでしょうし、生き残った豪族から贖罪のため献上させ
土地でもありました。
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書紀には伊甚(いじみ・現在の千葉県夷隅郡・勝浦市)国造の奉った伊甚屯倉、大河内直味張の
奉った三嶋竹村屯倉(河内国)成立のいきさつを述べています。いずれも、土地の献上を申し渡さ
れてしぶしぶ応ずる豪族の姿がありました。
豪族から取り上げた土地は屯倉として、直接管理下において行ったと思われます。
安閑紀には【詔して国々の犬養部(犬を飼って屯倉の守衛などにあたる部民)を置いた。】
(元年秋八月条)
【櫻井田部連・県犬養連・難波吉士らに詔して、屯倉の税(稲を納める租税)のことを管掌させた。】
(同元年九月条)とあります。
倭国時代は、国の成立当時から豪族連合といつても良い政治体制でしたが、継体王朝は近代的な
国家を目指し、中央集権的政治体制に移行しょうとしたのでしょう。
避けては通れない道ではあつたのですが、旧勢力にとつては余りにも急激な変化でした。
政治体制、仏教の布教、各種制度の改革、服装の改革、三輪山や誉田古墳に建てられた渡来氏族の
神社は倭国聖域の否定でした。
いつの時代にも、革新には抵抗勢力がいたのです。
まして革新する側が中国から渡来した王族の子で、征服王朝であつた場合、旧倭国の豪族の中から、
倭の血統に未練を残し、期を窺ってみる氏族が現れたとしても不思議ではなかつたのです。次回は
継体朝に起こったクーデターの実際とその後の国譲りについて話しをする予定です。出雲神話に出
てくる国ゆずりと現実の国譲りについての話しです。
110
第 11 章
531 年クーデターと出雲族の国譲り物語
継体天王の崩御年がいつなのか、日本の歴史書ははつきりしません。
古事記は次ぎのように述べています。
-【(継体)天皇の御年、四十三歳[丁未の年(ひのとひつじ・527 年)の四月九日に崩りましき]
御陵は三島の藍陵なり。】-
これに対して、書紀は崩御の年を-【二十五年(531 年)春二月七日に磐余玉穂宮にお崩れにな
つた。時に御年八十ニ。】-とし、続いて【二十五年・歳次辛亥(531 年)にお崩れになつたとす
るのは、「百済本記」によつて文をなしたものである。その文には、「大歳辛亥の三月に、百済の
軍は進んで安羅(任那の一国)に至り、乞とく城(こつとくのさし)を築いた。この月に高麗(高
句麗)ではその王安(安蔵王)が殺された。また聞くところによると、日本では天皇及び太子・皇
子がそろつてなくなつたということである。】-と。 書紀は独自の資料によらずに、百済本記の
記事に従ったという。
ひどい話です。なぜなら百済本記 531 年の記事には日本の天皇とあるだけで、どの天皇とは書
いていない。書紀執筆者はこの記事を継体天王崩御の記事と勘違いして書紀に載せたのだろうか。
いやいや裏があるに違いない。書紀編集時にはすでに古事記があつたはずです。当然 527 年崩御
の資料は存在していただろう。
推測して見ると、継体王朝の次ぎには欽明天王から始まる王朝があり,ここにも王朝の画期が存
在する。欽明天王はクーデターを起こし政権を奪取した天王でしょう。これを隠す必要があつたの
です。隠すため、どのように記事を変更したのでしょうか。まず上の百済本記の記事を継体紀に入
れました。そうして継体天王崩御記事とし、安閑天王・宣化天王の二王紀をいれたのです。
実際は欽明天王即位直前の位置だつたのに、古い方向に移動してしまいました。
継体二十五年を 531 年にするには、継体即位年を後方に移動する必要がありましたから、本当
の継体天王即位年 503 年を変更して 507 年としたのではありませんか。
そうして、507 年から二十五年後の 531 年に崩御されたように装つたのではないでしょうか。
書紀は古事記に書かれている継体天王崩御年を無視して、年数を繰り下げたのでした。
欽明天王がクーデターを起したことを隠すためだつたのです。
継体天王のときに倭国から日本へと国号が変わりましたが、再びこの時のクーデターで、倭国復活
が行われました。
欽明天王は継体の子と書かれていますが、本当のことではないでしょう。
旧倭国大王の血を引くとも思われません。
この間の事情を後世の人物に当てはめるとこんなことではないでしょうか。
倭国大王を織田信長とすると、これを討ち取って天下を取った継体朝は明智光秀に該当します。
羽柴秀吉は光秀を倒すことによって、政権を獲得しました。血は繋がっていなくとも、だれもが前
代の後継者として認めたのでした。この秀吉像こそ欽明にあてはまるのでしよう。
七世紀後半に再度日本国を襲名するまで旧国号の倭国が復活します。倭国から日本そして再度倭国
へと国号が変更になりました。
しかし紀・記はこの間の王朝の変遷を明らかにしなかつたのです。
倭国時代から引き続いて、万世一系の王朝が続いたように書いたのでした。
531 年クーデターは宣化紀に起きた
書紀の紀年は移動されている。本当はどうでしょう。
継体即位年は、前に隅田八幡宮所蔵の鏡銘を引用して話したとおり 503 年であつたと思います。
そして、継体二十五年は 527 年なのでした。この年は古事記の継体天王崩御年とぴったりと合う
111
のです。だから継体紀は 503 年~527 年の二十五年間在位とすると、次ぎの安閑天王は 527 年~
528 年の二年間の在位。そして継体王朝最後の天王は宣化天王で、528 年から 531 年の四年間の在
位が本当の歳次なのでしょう。
次ぎの欽明天王の即位年が 532 年(実質的には 531 年)であることは、百済からの仏像などが到
来した時期を仏教公伝として「欽明七年の 538 年」としていることからも明らかです。
だから、百済本記のクーデター記事は宣化紀四年条に入っていなければならなかった。
それを継体紀に入れたのは、まやかしではないだろうか。
書紀には【(宣化)四年春二月十日天皇は檜隈盧入野宮(ひのくまのいおりのみや)にお崩れにな
つた。時に御年七十三。】と書き、
【冬十一月十七日に(宣化)天皇を大倭国の身狭桃花鳥坂上(むさのつきさかうえ)陵(橿原市鳥
屋町)に葬りたてまつた。皇后橘皇女とその孺子(わくご・幼児)とをこの陵に合葬した。】と。
継体天王の陵と安閑天王の陵は実在するのでしょうが、宣化天王の陵ははつきりしないこともこ
の天王時にクーデターが発生したという傍証になり得るように思われます。さらに、皇后と幼児が
いつ亡くなられたかは伝記に載せていない。と書紀はいう。この孺子が宣化帝のもうひとりの妃・
大河内雅子(わくご)媛を示すという説はより凄惨なクーデターの場面を想像させられるでしょう。
「太子(ひつぎのみこ)および皇子がそろって亡くなった。」だけではなかつたのでしょう。
宮中の女性も犠牲になったのではないでしょうか。
宣化天王の子孫といわれる丹比公、偉那公あるいは椎田君の所生について書紀と古事記は記載が
異なっています。書紀は橘皇女の所生である上殖葉皇子またの名椀子が丹比公、偉那公の先祖。
大河内雅子媛の所生である火焔皇子が椎田君の先祖であるとする。
これに対して古事記は川内之若子比売の所生、火穂王(志比陀君の祖)、恵波王(韋那君、多治
比君の祖)として紀・記は異なる。さらに古事記は「この天皇の御子たち、併せて五王(男三人、
女二人)」としていました。男三人とは橘皇后の子、倉之若江王(皇子)を加え、先に挙げた火穂
王・恵波王との三皇子のことだろう。ところが書紀は倉之若江王を皇女とし、倉雅綾姫(くらのわ
かやひめ)の名で欽明天王の妃としたのでした。片方は皇子に、片方は皇女にしたのです。
姓氏録や三代実録貞観 5 年(863 年)の奏言では「為名真人は宣化天王皇子火焔王の後裔」という。
これまた違う伝承だ。 いつたいどうなつているのだろう。恥ずかしくなってしまうような話です。
大混乱といつてよいでしょう。「この系統の流れが違う」という書紀執筆者の後世に対するヒント
が、宣化帝の子孫をめぐる混乱の中に込められているように思われます。
書紀を書いた人物は複数いてそれぞれ担当の時代を書いたのでしょう。同一人物が全編を書いた
のではない。継体王朝時代を書いた書紀執筆者と欽明王朝時代を書いた書紀執筆者とはべつの人物
だと思われました。なぜかというと「宣化天王のお崩れになつた月日が違う」からです。宣化紀に
は【(宣化)四年春二月十日天皇は檜隈盧入野宮(ひのくまのいおりのみや)にお崩れになつた。
時に御年七十三。】とありましたが、欽明即位前紀には【宣化四年の冬十月に宣化天皇がお崩れに
なつた。皇子(欽明天皇)は群臣に、「自分はまだ幼年で知識が浅く、政治にも熟達していない。
(安閑皇后の)山田皇后は政務に明るくあられるから、皇后に政務の決裁をお願いするように」と
いわれた。】と書きました。何行も隔てていない場所に書かれた天皇崩御記事の月日が違うことも、
欽明天王が自分はまだ幼年といいながら、即位のお年・崩御のお年も「若干年」として明らかにし
ていないことも錯綜している。
この欽明紀は年代決定がされず、また一度も読み返しの行われなかった下書きの原稿のまま、正
史となつた可能性があります。というより、雄略天皇紀から持統紀まではすでに編纂を終えた資料
があって、その資料は「整合性をとることが許されない」あるいは「触れることが許されない」部
分であつたのではないか、いま想像してみると、欽明天王はクーデターを起こし、継体王朝を倒し
て日本から再び倭国復活を成し遂げた人物。けつして幼年ではなかつたでしょうし、偉大な人物だ
112
つたのでした。
彼の都した磯城嶋(しきしま)金指宮の宮号は日本列島の代名詞「敷島の国」となり、栄光輝く敷
島の時代を築いたのです。
渡来人の王朝から政権を奪い取ることに成功するためには、前王朝の妻子を殺すだけではなく前
王朝の支持基盤である氏族を慰留し、服従させなくてはなりません。これが「国譲り」であり、九
州で戦いはあつたものの一応国譲りを完成させました。だから偉大な人物であったと思うのです。
国譲り物語は神話の重要な部分として書紀神話下巻に載っていますが、本当の場所は欽明紀だつ
たと思うのです。
国譲りに応じた氏族は王朝の主を殺された渡来氏族、応じなかった氏族がもう一つの王朝である
九州大伴王朝で、国譲り戦争が起こりました。
書紀に書かれている「磐井の戦争」こそ、九州王朝と欽明天王との戦いだったのです。
この戦争に勝利したのは歴史の通り、欽明天王だつたのです。
宣化帝の崩御で継体王朝は終焉しました。
馮氏の渡来から始まった物語は「この国を奪うことはしない」と誓約したスサノオの死後、母に連
れられて実家のある出雲に帰ったオオドが大伴氏に擁立されて宗教戦争を起こし、継体王朝を樹立
する話へと発展しました。
オオドが父の誓約と違う行動にでたのは、仏教に帰依した大伴氏と倭国豪族との宗教を巡る争い
にまきこまれたためでしょう。しかし、この王朝は三代で終わるともに大伴氏宗家も九州戦争で滅
亡し、大伴磐も大伴狭手彦も再び歴史に姿を現すことはありませんでした。
継体朝の終焉をもつて、この本の目的であつた「大国主神=継体天王説」の話は完結してしまい
ますが内容についてご理解を頂けましたか。
一度、読んだだけでは理解できないという方もいらつしゃるでしょうし、歴史の謎はパズルの字
解きのように前後左右から解かなくてはなりません。したがって、もう少し後の時代まで話を進め
ていきましょう。そして時代を遡って継体王朝時代を考えて見てください。
「継体帝の即位前には、倭国の大王が列島と半島南部に勢力を維持していましたが、倭国王統と関
係のない首長が誕生した。そして日本とか天王という言葉が出現、同時に半島南部の「任那」も分解
する」そうしたことを考えるために、この時代に出現して来た欽明天王を取り上げることにします。
欽明天王の謎
欽明帝のお年が分らないことは先に書きました。
継体紀に「尾張連草香の女・目子媛の一人を勾大兄皇子といい、これを安閑天皇と申し上げる。
二人目を檜隈高田皇子といい、これを宣化天皇と申し上げる。」と書いているのですが、
嫡子(手白香皇后の生んだ子)である欽明天王の幼名は書いていません。
「○○といい、これを欽明天皇と申し上げる」の「○○」がないのです。
同じ継体紀の中で、二人の天王の幼名は書いて後の一人の幼名を書かない理由はなんでしょう。
謎の多い天王といえます。
この天王が後宮に入れた女性には皇后に宣化帝の女石姫、妃に雅綾姫皇女、妹の日影皇女
(皇后の妹とあるが、いずれの妃も御名がないか違っており問題の多い女性名)。彼女らを産んだ
という橘仲媛は宣化帝の皇后で、仁賢天皇の女とされているが、皇統譜にないのです。
仁賢天皇の女とされる春日山田皇女は安閑天王の皇后ですが、
「欽明紀に仁賢紀の御子条文がそっくり載っている。」のはどうしたことでしょう。
つまり、-【(欽明天皇の妃は)次ぎに春日日抓臣の女を糠子(あらこ)といい春日山田皇女と
113
橘麻呂皇子とを生んだ。】-(欽明紀ニ年条)とある。
「自分は幼年だから春日山田皇后に政務の決済をお願いする。」と書いておきながらその山田皇女
を御子に加えている。
欽明紀が読み返しのない原稿のまま、書紀が出来上がっているといいましたが、その理由がお分か
りでしょうか。
混乱はこの紀だけではない。敏達紀では
-【敏達紀四年春正月 息長真手王の女広姫を立てて皇后とした。皇后は一男二女をお生みになつ
た。その第一を押坂彦人大兄皇子、第ニを逆登皇女、第三を菟道磯津貝(うじしつかい)皇女と申
し上げる。】-
広姫は同年冬十一月お亡くなりになり、翌五年春三月に豊御食炊屋尊を皇后にした。と書き、つぎ
に-【豊御食炊屋尊皇后はニ男五女を生まれた。その第一を菟道貝蛸皇女と申し上げる。
(またの名は菟道磯津貝皇女)。】-と皇女の名が重なっている。
古事記では【豊御食炊屋尊皇后の生まれた御子、静貝王またの名貝蛸王】とあるから、
菟道磯津貝皇女は後者の御子なのだろう。
この広姫の立后記事は押坂彦人大兄系の人物が祖先を敬う上で入れた記事でしょうが、
広姫の父・息長真手王の名は継体紀元年条にも出ている。
-【次ぎの妃、息長真手王の女を麻積娘子(おみのいらつめ)といい、ささげ皇女を生んだ。】-
と。息長真手王は、継体元年には推定四十歳ぐらいだろうか。すると継体紀ニ十五年で六十五歳、
安閑紀、宣化紀と過ぎ、幼年の欽明帝が何歳で御子を作られたか欽明紀以後、いつさい天王の年齢
をあきらかにしないので分らないが、超高齢の真手王が娘を皇后にできるほど権力をもち得たとい
うのは疑問であり、この真手王の名も信用できないように思います。
以上書紀の皇統譜は誤りの多いもので、ほんとうになにを書いているのだろうと思ってしまうので
すが、頭の良い書紀執筆者がこんな矛盾を見逃すはずがないと考えるとこれはまた皇統を考えるヒ
ントなのでしょう。
一方で書紀は別のヒントを書紀のなかに入れています。
-【この歳、蘇我蝦夷は、みずからの祖先の廟(神社)を葛城の高宮(御所市)に立て、八らの舞
(やつらのまい・八列六十四人の群舞、天子の特権とされる。)を行った。
また国中の民や豪族の私有民を徴発して自分の墓と入鹿の墓を造り、大陵(おおみささぎ)
小陵(こみささぎ)と呼んだ。】-(皇極紀元年)
-【(蘇我氏は)家を甘梼岡(うまかしのおか・明日香村)に並べて建て、上の宮門(みかど)、
谷(はざま)の宮門と呼び、またその男女を王子と呼んだ。
また、漢直たちが二つの門に侍した。】-(皇極紀三年)
五世紀以来、宮殿を守護したのは大伴・佐伯の両氏であり、実際にその配下として実務にあたつた
のは、漢直氏族でした。
応神大王の半島から御帰還に従った漢直の人々は、そのときから宮殿の守備に当たる氏族とされて
来ました。昔から宮殿を護る氏族の漢直たちが蘇我氏の門に侍したのです。
馬子のときにもこんな話がある。
-【物部守屋が阿都(河内国渋川郡跡部)に退いて軍勢を集めた時、大伴・毘羅夫連は弓矢と
楯を手にとって槻曲(つきくま・馬子の家)の家にかけつけ、昼も夜もつききりで馬子を守護した】
-(用明紀二年)
天王の宮殿には大伴門と佐伯門という二門があつた。大伴氏はその守備隊長なのです。
もつと分かり易いのは入鹿滅亡の次ぎの出来事でしょう。
114
入鹿が殺されたとき、漢直の中に高向臣国押がいて門を守備している一族の者にこのように言つた
という。-【「われわれは君太郎(入鹿)のことで死刑に処せられるだろう。大臣さま(蝦夷)も
今日明日のうちにきつと殺される。そのような人のためにむだないくさをし、みんな処刑されるな
どとはばかばかしいことではないか」と言い、言いおわると剣をはずし、弓を放りだして去ってし
まった。それにつれて、賊徒もまた散り散りに逃走してしまった。】-(皇極紀四年)と。
じつはこの条文は皇極紀ニ年に書かれている次の記事と対になるもの。
そこには、次ぎのようなことが書かれている。
「入鹿と上宮家の争いが起こり、上宮家の王たちが山中に逃げ込んだとき。」
-【入鹿は高向臣国押に向い「すぐに山に向い、かの王を捜して捕らえるのだ」と言つた。】-
そのときに国押はこう返答しました。
-【私は天皇(すめらみこと)の宮をお守りしているので、外に出て行くことはいたしません】-と。
天皇の宮をお守りしている国押の姿がここにあります。
それと蘇我の門を守る国押は姓も名も適合し同一人物と思われますから、これは蘇我氏が天王で
あったことを示すものではないですか。
書紀執筆者はわざわざ高向臣国押なる人物を 2 ヶ所に登場させ、史実を後世に伝えたかつたのでし
ょう。そうでなければ、一つ、一つの条文は書紀に記載する必要性の薄い記事なのでした。
ふたつの条文を合わせ見て、初めて意味するものが分かるのです。
そういうわけで、531 年クーデターを起こし継体王朝を倒した欽明天王は六世紀王朝の始祖であ
り、蘇我氏の可能性が高いと考えています。
宣化帝の時代、蘇我氏は稲目宿禰が氏上で、大臣の地位にあつたという。
政府の中枢を握っていたに違いない。
稲目宿禰の父・蘇我韓子宿禰は雄略紀九年条に紀大磐宿禰と弓で争い「射殺され河の中流で死んだ」
となつていました。倭国豪族が互いに相争う場面は半島での出来事として書紀に書かれています。
もちろんこの争いや韓子宿禰の戦死は日本対倭国の列島内における戦いで宗教戦争だつたのです。
紀大磐宿禰を始め紀一族は最終的に戦いに敗れ、列島から脱出して半島へと退去しました。
蘇我氏は宗教戦争を戦うことで戦後重要な地位を獲得できましたが、それだけだったとは思えない。
娘の多くを後宮に送り込み外戚としての地位を固めたのではないか。そして物部氏や阿倍氏を
引き入れて、一期にクーデターを起こし、渡来王朝を倒してしまったのでしょう。
神話に書かれた出雲族の「国譲り」が、ここで行われたと解釈したい。
欽明天王は渡来氏族に対して、硬軟両手段をもつて懐柔をはかり結局日本列島を収拾することに
成功しました。
渡来氏族の国譲り
「幼時から人にぬきんでて声望をほしいままにし、寛大な御性格で、人をあわれみ許すことを努
めとしていた」と書紀に書かれている欽明天王にしても、「国譲り」を完成させることは一大事業
でした。偉大な王でありながら列島内で手が一杯であり、半島には心を残すことになる。
それが歴史の趨勢というものだろう。
渡来氏族の国譲りがどのような手段で行われたか、どのような条件を提示して交渉にあたったか
はあまりはっきりしない。史書が国譲りを現実の話ではなく、神話としたからです。はつきり書く
と王朝の交代が分ってしまうから、宗教の到来も、九州王朝があつたこともすべて消してしまいま
した。神話のなかに入れた以外のことは書けなかったのです。
でも、欽明紀に国譲りがあつたことが分るのは別の資料からでした。
平安時代初期の姓氏録には「長背王。高麗国王鄒牟(一名朱蒙)之後也。欽明天皇御世。
衆を率い投化。顔美しく、軆大きい。其の背が高いので名を長背王と賜った。」
115
(姓氏録右京諸番下高麗)という。
「長背王は高句麗始祖朱蒙王の後裔であり、しかも衆を率いて日本列島に来ていた!」文献と考古
資料(高句麗氏族の到来)は合致します。高句麗氏族が仏教国の民であつたことも明らかなことで、
列島に仏教が到来した時期は一般的に公伝とされる 538 年より遡るのは当然のことでしょう。
「投化」の意味を考えて見たい。この言葉には「みずから忠誠を誓って、身分を変える」ことだと
考えられます。帰化したのかも知れません。
「仏教を定着できる見込みが付けば本国に帰国する」渡来氏族の希みは、はかなく消えました。
上古において人材の確保は重要なことでしたから、一度手に入れた群衆を帰すなど出来ないことで
した。お互いに人民の取り合いが戦争の原因だった時代です。
それはまた、人材を手放した高句麗本国の衰退を招くことになりました。
高句麗長寿王は東方に仏教国の誕生を願って、その国と自国が友好国となり東北アジアの平和に
寄与することを信じ自国の衰退を考慮しなかつたのでした。
高句麗王にとつてはそれほど予想外のことが起きたのです。
神話の投化
国譲り神話の一節につぎのような話があります。
-【(大国主神が永久にお隠れになった後、)大物主神と亊代主神は八十万神(やそよろずのかみ)
を天高市に集めて、この神々をひきいて天にのぼり、その赤誠を披瀝された。】-
この場面は天高市神社が大和にあるので、現在の奈良県での出来事のように思います。
しかも、この神社の所在地は奈良県橿原市曽我町字宮久保に所在している。蘇我氏の関わりを考慮
しないわけにはいきません。
もちろん、本拠地出雲の種族にもまた東国信濃の種族にも働きかけが行われました。
ここでは、さきの大物主神・亊代主神の投化とは別の筋がきになっています。
大国主神がまだご存命で、交渉団がまずこの方に交渉すると「私の息子の亊代主神に尋ねてくれ」
といいついで交渉成立となる。
古事記のほうではさらに信濃国の建御名方神との力較べがあつて、屈服した彼が「この国をさし
あげましょう」ということになつています。
多少の違いはあるものの、おおむね同じといってよいでしょう。
「中国の歴史」を書かれた陳舜臣氏は、中国の神話と日本の神話を比較して「中国の神話は首尾
一貫せず、同種のものの重複があり、断片的なものの集合体にすぎない。」
それに較べると日本神話は「これを八世紀はじめに集成された虚構の神話」と断じて戦前に大学を
追われた津田左右吉氏のことを挙げ、「皇室と国家の起源を説くため、構成されたものといわれて
いる」と書いている。
本来あるべき話に修正を加え、「国譲り物語」を出雲神話の主要部分としたのですが、その前に来
る「国引き物語」や「神々が集いて宮の建設をする物語(国家成立)」などの話が史書からすつぽ
りと抜け落ちています。
目的にそぐわない神話は必要でない。あるいは目的を構成するために阻害要因である部分は
切り捨てになりました。
私は出雲神話の成立について、後世の出来事を古い時代に移し神話にしたと考えています。
出雲神話には、神々の系譜がすべて書かれているのでした。そんなこと、誰が記録したというので
しょう。それにしても構成が整いすぎます。神話にはもつともつと素朴な話があつたでしょうに…
さて国譲りに出雲勢力と交渉した人物はだれだつたのか。
紀・記には「天穂日神、天若日子を派遣したが、大国主神におもねりこびて帰ってこなかった。」
116
として紀・経津主神、武甕槌神。記・武甕槌神(建御雷神)天鳥船神を派遣し、国譲り交渉にあた
らせたという。
経津主神は石上神社の祭神、最初は和珥系の氏族が祭祀する神社であつた。
物部氏が祭祀権を引き継いだことは先に挙げておきました。
五世紀閨閥の一翼であつた和珥氏は消えたのです。
武甕槌神は歴史時代の大物主神系太田田根子の系譜にもみえ、紀・記に二つ同じ名が出てくる人名
はどちらかが架空の人物。天鳥船神は早い船を神格化したもので同じく架空の人物と思われます。
上記の中で、唯一子孫を残すものは天穂日神で出雲臣の祖でした。
奈良時代、出雲国造の新任にあたつて大和朝廷が特別の儀式を行っていたことは、国譲りにおける
出雲臣の功績をたたえ、出雲地方の治世に特別の関心を有していた表われでもあつたのです。
したがつて、国譲り交渉の立役者は出雲臣とみてよいでしょう。
この儀式に新任出雲国造が奏上する神賀詞(かむよごと)の中では「天穂日命は国譲りの際、出雲
の国状を見に遣わされたのであつて、出雲の国状の乱れている様子を復奏し、その御子天夷鳥命(あ
めのひなとり)を遣わして荒ぶる神を払いしずめ、大穴持命をも媚びしずめ大八州国の支配を隠退
させた」(加藤義成氏現代語訳「風土記時代の出雲」より)とありました。
この文中には、大国主神が大八州を支配していたことが述べられています。
大国主神が「大八州を支配した時代」は各地に部落国家があつた弥生時代ではなく、列島が国家統
一された古墳時代であり、それはまた大国主神の平定という言葉に合致します。
国譲りの行われた時代は、「古墳時代」に行われました。大国主神のいた時代は古い弥生時代では
ないのです。実年代として高句麗氏族(新漢人などの渡来氏族をふくむと考えられる)の投化時期
は、クーデターで出雲王朝が滅亡し、それまでこの王朝を支えてきた諸氏族との国譲り交渉の成立
後、そして九州戦争が始まる前段階の 531 年秋ころから 532 年にかけての年代と思われます。
国譲りを推進した人物は欽明天王だと思われるのでした。長脊王の投化も国譲りの一環なのです。
国譲りの条件
渡来氏族が無条件で国譲りを承諾したのではありません。働きかけは九州王朝を形成した大伴氏
側からもあつただろうし、その動向はその後の歴史を左右しかねない重要なキーポイントでした。
もし渡来氏族が九州王朝側につけば、大和政権にとつて大きな痛手となつただろうし、
大和政権に彼らがつけば九州王権にとつて致命的でした。
結果的には両陣営リーダーの人物差が明暗を分けたと考えたい。
「幼時から人にぬきんでて声望をほしいままにし、寛大な御性格で、人をあわれみ許すことを努め
としていた」と紀に書かれる欽明帝にたいし、九州王朝の王大伴磐は「意地にこだわり、世間が
見えない視野の狭い人物」だったのかもしれない。そのことは段々と明らかになってくる。
国譲りにあたつて仏教保持の要件は最重要なことであつたし、そのことに関しては大和政権も
異存はなかつたはずです。
仏教を振興しこの国に定着させる努力を続ける約束をしたのでした。
このことが渡来氏族の国譲り承諾に大きなウエイトを占めていただろう。
紀の神話には「大国主神のお住みになる天日隅宮を作り、また御料田を供しょう。また海を往き
来して遊ぶ高橋・浮き橋と天鳥船を造ってやろう。白い楯を作ってやろう。また天穂日命(ある書
には太玉命)をして祭祀をさせよう。」といつたという。
古事記には「(大国主神の要求として)わたくしの住まいを(天皇が)皇位に就かれる立派な宮殿
のようにお造りくだされば遠いところに隠れておりましょう。
また私の子ら百八十神たちは亊代主神が仕え奉るならば反対する者はいないでしょう」と。
神話に書かれている宮殿とは、後に杵築の宮と呼ばれる出雲大社であり、また彼らの要求する
117
治外法権の地でした。大和政権によってその条件は受け入れられます。
出雲郡は高句麗氏族の日置氏によって郡領をだし、祭祀を行うのは出雲臣であつても、出雲大社
所在の郡の統治は渡来氏族によつて行われました。同様に、神話には子孫の仕官を求める要求も出
されている。仕官を認めなければ、反乱が起こるぞと警告しているようです。
現実には六世紀前半の時期にさまざまな要求を出され、欽明帝はことごとく受け入れて彼らを納得
させることに成功したのでした。
多くの渡来氏族があらたに大和朝廷に採用され、差別されることなく重用されたと思われます。
出雲の舎人郷は、渡来氏族日置臣志毘が欽明天皇の御世に大舎人となり出仕したので舎人郷の名に
なつた。とみえる(風土記)。
同様に、諏訪地方には四本の柱に囲まれた御柱の神域すなわち治外法権の地を獲得しました。
この神域は渡来氏族にとつて、彼らの国に違いない。祭神の子孫・諏訪氏は上社を中心に古来より
神氏と号し、生神(あらひとかみ)としての厳粛な即位式のあと大祝の座に就任したという。即位
というのが国家の重要な儀式とみるならまさに国であつたのです。
下社は金指舎人氏が大祝で、この名は欽明天王の敷嶋(しきしま)金指宮の宮号から執られている。
欽明天王によつて中央の官職に就いたものであることはいうまでもないでしょう。
この金指舎人は多氏の一族ですし、出雲の治外法権の出雲郡に少領として大臣がいることも、
多(大)臣の性質が分かるものです。
先にあげた姓氏録の長背王は「身体が大きい」からというが、大きいならば大臣の名があてはまる
でしょう。大氏の名はこれから来ているのではないか。と推測されるのでした。
大(多)臣は神武天皇の皇子神八井耳命を祖とする。
神武を三面相で継体とすると大物主命の女が結婚したことも納得できますし、大臣が出雲の治外
法権の地に少領として存在することもうなずけるものがあります。
書紀には敏達紀における三輪君逆を寵臣と呼び、【内外のことをことごとく委ねておられた。】と
書いています。この三輪君が出雲出身の渡来氏族であることは明らかです。
欽明帝は明敏でありまた寛容な性質で、前王朝の支持母体を執り込むことにあらゆる手段を使っ
たものと考えられのでした。直木孝次郎氏は神武東征後の天皇家と亊代主神(古事記では大物主神
となつている。)家との婚姻関係に注目し
【(神武天皇の皇后に亊代主神の娘ヒメタタライスズヒメを娶るだけでなく)書紀によると第二代
綏靖(すいぜい)天皇の皇后イスズヨリヒメは亊代主神の妹娘、第三代安寧天皇の皇后ヌナソコナ
カツヒメは亊代主神の孫娘、第四代懿徳(いとく)天皇の皇后アマトヨツヒメはヌナソコナカツヒ
メの孫であるから、やはり亊代主神の系統である。こうした系譜が歴史的事実でないことはいうま
でもない。
おそらくは七世紀後半以後の比較的新しい時代に作られたものと思われるが、作為にせよ、
初期の天皇系譜のうえでこのようなに亊代主神が重んじられていることは、葛城の地方における
亊代主神の神威が高かったことを想像させる。
天皇家との関係が密接になる時期は別に考えなければならないが、(奈良県の)この地方に
葛城山と関係の深い亊代主系の神の信仰が強くゆきわたつていた時期を五―六世紀までさかの
ぼらしてさしつかえあるまい。】(「奈良」岩波新書より)という。
直木氏は神武東征の事績が継体天王の大和入りコースと重なることを述べられているお一人だ
し、三輪山に大物主神が祭られていることも、問題視されている。
とすると、上のことばもどういうことを想定されているのか。
「系譜が歴史的事実でない。」としながらも「天皇家との関係が密接になる時期は別に考えなくて
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はならない」としている。含みの多いことばといわなければならない。
さきに、紀・記の作り方は「五世紀中頃から始まる日本紀を古い方向に引き伸ばし、出雲神話と
して倭国神話に結合した。」としました。したがつて、渡来系の亊代主神と大王家の結合も、その
(日本紀の)線上にある歴史的事実を反映した可能性を否定できないと思います。
「神武紀という古い時期での歴史的事実ではないが、出雲出身氏族が天皇家と密接になる時期は別
に考えなくてはならない。」その時期とは?私の考えでは時期は欽明紀で、国譲りを迫る条件とし
て前王朝の血筋を執りこむことを表明し、出雲族を納得させ自らの政権に従わせたのではないでし
ょうか。
この系統(出雲閨閥)からは、後に出雲の影響の強い斑鳩の地を本拠とする宮家を成立したと想定
されるのです。
九州王朝の国譲り拒否
さて、大和政権は出雲渡来氏族を納得させることに成功しましたが、九州王朝の国譲りを平和的
に解決することはできませんでした。
国譲り拒否の理由はどんなことだつたのでしょうか。
「継体天王から倭国分割の詔を受領している」「正当な後継者であるなら詔を尊重すべきだ」
「大伴氏が九州王朝を創るにあたつて、大伴談連の戦死などの代償があまりに大きかった。」
「高句麗国王・長寿王との間に交わした東北アジアの安定の約束を覆すことは、武人の長として
なんとしてもできない。」
「この国の最古の氏族として、格下の新興氏族に屈することが出来なかった」
かつては「倭国の一大率」として半島の倭国構成国に大王の命令を伝達する役目を担った大伴氏で
あつただけに、急激な時代の変化に対応することが気分的に出来なかつたのです。
この場面の大伴氏を後世の武将に当てはめると、秀吉にしてやられた柴田氏やその他の武将に該当
するでしょう。地位が低く、今まで見下げていた人物が勢いに乗って迫ってきた。
そんな場合の対処というのは難しいものです。自分は正式の手続きで筑紫以西を統治する権利を与
えられた。そしてその約束は王朝の続く限り守られなくてはならない。
その約束を無視する政権の誕生に大伴氏としては納得することができませんでした。
九州王朝の倒壊時の記事は前にも書いていますが、「筑紫国造磐井の戦い」と混同しています。
書紀は五世紀末ころ九州で行われた「筑紫国造岩井の戦い」と六世紀前半の「九州王朝の王大伴磐
の戦い」をかつてに合わして「磐井の戦い」にしてしまったのでした。
紀の文章の中で、-【今は使者だなどといつているが、昔はおれの同輩で肩肘触れ合わせ、
ひとつ食器で食事したものだ。急に使者になつたからといつて、そうおめおめと従うものか】-
(書紀)といつています。
この文中の「使者」を「天王」あるいは「大王」に直していただくと分かり易いのではないですか。
-【今は天王だなどといつているが、昔はおれの同輩で……急に天王になつたからといつて、
そうおめおめと従うものか。】-
大伴氏から見れば、相手は政権の正当な受領者ではなかつた。国譲りを要求してくること自体が
それを証明している。したがって、どんな交換条件を提示されても従うことは出来なかったのです。
交渉は暗礁に乗り上げました。
百済の離反
その間に大和政権は別の秘密交渉を百済と行います。
大伴氏の古くからの盟友百済を引き離し、自分の陣営にくみ入れることでした。
大和政権の密使吉備海部直羽嶋が百済に派遣され、達率(百済高官 2 位)日羅と接触しました。
119
この時日本側がどのような条件を提示したのでしょうか。
おそらく、半島南部の任那領有を百済に任せることや百済の望む軍事援助の約束だつたのでしょう。
引き換えに要求したことは大伴氏への協力を断ち、百済に駐留していた大伴狭手彦の軍を撃破する
ための協力のとりつけでした。
百済王・聖明王は日羅らと協議し、決断しました。
「大伴氏と決別して、大和朝廷に就くこと」を。
さらに子弟を送って天王の傍らに侍らせ、後宮に子女を送り、王室同士の合体を願い出たのでした。
こうして武寧王系の百済王家が列島に誕生します。百済閨閥も当然発生したのでしょう。
百済王後裔・高野新笠を母とする桓武天皇(天智天皇以後は天皇と表記)の血筋を古い時代に
遡ると、天智天皇や百済の宮・百済大寺を建てて、さらに百済の大もがりをした舒明天王その
父押坂彦人大兄皇子などの名が見えます。
ここまで遡ると、天皇家の系譜もあいまいになっていることは先に挙げておきました。
息長真手王の女広姫のことですが、継体紀にも息長真手王が出てくること、広姫の生んだという
菟道磯津貝皇女の名が二重になつていることなどです。
書紀執筆者の「ちがう」というサインなのでしょう。
押坂彦人大兄は舎人の迹見首赤檮(とみのおびといちい・百済帰化人)をして、自分に反対する
中臣勝海連を殺害し、物部守屋大連を射殺したと紀にある。
この時の物部氏滅亡原因を「仏教排斥」とするのは、渋川廃寺の存在などからみて誤りという認識
が現在では広がりつつあるようです。
皇子と豪族の抗争は別の原因でなくてはなりません。
欽明帝の勇壮な血はこの系統に引き継がれたのでしょうが、太子(ひつぎのみこ)でありながら、
天王になることができませんでした。
欽明帝は偉大な帝王で、出雲閨閥や百済閨閥などの国際色豊かな後宮を形成したのでしょうが、
突出した王が続くことは難しく、崩御後の争いの種となつたことは洋の東西を問わず歴史が示すこ
とです。
さて、書紀には百済を代表して、日羅が大和朝廷に参内したときのことを次ぎのように書いていま
す。-【この時日羅は「よろい」を着け、馬に乗って門前に到り、庁舎の前に進んでひざまずき、
「臣達率日羅、天皇が召されるとお聞きし、つつしんで来朝いたしました。」と申し上げ、「よろ
い」を脱いで天皇にたてまつった。】-という。
「よろい」を脱いでたてまつる行為は、帰順や帰参を意味しますからこのとき日羅は百済を代表し
て「大伴陣営から離脱して大和朝廷に帰属した」といつてよいのです。
日羅は大伴氏の恩恵を受け、親子とも大伴氏の食録を得ていたのにまさに裏切り行為だつたのでし
た。さらに進言したことは「壱岐・対馬にたくさんの伏兵を置き、待ち構えて殺してしまうように
なさいませ。逆にあざむかれることがあつてはなりません。要害の個所には必ず堅固な塁を築かれ
ますように」と。
この言葉は事態の変化に応じて、百済から帰国の準備をしていた大伴狭手彦の率いる九州王朝軍に
たいする進言でしょう。
日羅は自分の従者によつて殺されました。従者たちにとっても日羅の進言はショツクだつたのです。
百済王や日羅たち百済の首脳陣が、いかに秘密裏に事を進めていたか分るのです。
百済国の人口構成には大勢の倭人がいたし(隋書)、大伴氏に統治される半島屯倉の官吏もいたの
で、百済王家にとつても大きな決断だったのでした。
この条文は紀・敏達紀に書いていますが、入れるべき位置は欽明紀です。なぜなら、欽明紀ニ年条
120
には百済聖明王が任那の王達に向かって、【日本の天皇は任那を復興せよといわれる。…
おのおの忠誠をつくして御心を安んじなければならない。】と早くも百済主導の任那支配が行われ
ようとしている。だから入れる場所を間違えたかそれとも故意に別の場所に入れたと思われます。
九州国譲り戦争
-【継体二十一年の夏六月に近江毛野臣が六万の軍兵をひきいて任那におもむき、新羅に破られ
た南加羅、碌巳呑(とつことん)を再興して任那に合わせようとした。】-
南加羅、碌巳呑(とつことん)を始め洛東江東部の諸国が、新羅に無血合流したのは新羅本紀に
よると 532 年のこと。それがなぜ継体紀に入っているのかがまず問題です。だからこの条文は移
動されていると考えましょう。近江毛野臣というのも、架空の人物ではないですか。六万の軍勢を
率いていながら途中で停滞して、別の将軍と交代する。しかも書紀は古事記で書かれた将軍・大伴
金村連の名前を消してしまった。
推測すると五世紀末の筑紫国造岩井と大伴金村との戦いは宗教戦争の一環として行われ、
大伴氏は継体天王から九州以西の統治権を得ていたのでした。
その時の戦いと 532 年以後の九州王朝大伴磐の戦いをここで合わしたのだろうと考えます。
大伴磐の戦いは欽明天王のクーデター以後の国譲りに関連するもので、欽明が継体の正当な後継者
ではないために発生しました。そこで、新羅に破られた南加羅、碌巳呑(とつことん)というヒン
トに助けられて、「九州国譲り戦争は 532 年から翌年の 533 年にかけて行われたのだろう。」と
いう推測ができます。
533 年には前述したように百済が大伴氏に代わって任那に進出してくるからです。
「卵がさきか、鶏がさきか」という論争になりますが、書紀では半島南部の南加羅、碌巳呑の
新羅合流が九州戦争の発端として、描かれている。
よく考えて見ると、継体天王の勅では筑紫以西は大伴氏の管轄です。大和朝廷が口出しすることで
はなかつた。だから、この六万の軍勢は九州王朝を倒すための軍隊だつたのです。
百済を自陣営に取り込んで、大伴氏を孤立化しその上で軍を動員しました。その動きが緊張をもた
らし、半島南部諸国の大同団結に繋がったのでしょう。九州を併合した後に、矛先が半島南部に向
くことを恐れて。したがつて、紀の「新羅に破られた南加羅、碌巳呑(とつことん)を再興して任
那に合わせようとした。」という書き出しは信用できません。
「鶏のほうが先」で、列島内の軍事衝突が、半島の諸国の変化になつたものといえます。
大伴氏に代わって百済が任那の主導権を得たことも、反感を持つ国が多かったのです。
大伴氏の九州王朝を倒すためやむを得なかったかも知れませんが、欽明帝はこのために任那を
失ったことをあとあとまで気にしていたようです。
-【筑紫国造磐井は火の国(佐賀県、長崎県、熊本県)豊の国(福岡県東部、大分県)の二国にも
勢いを張って朝廷の命を受けず、海路を遮断して高麗(高句麗)・百済・新羅・任那などの国(が
送ってくる)毎年の朝貢の船をあざむき奪った。】-
火の国は大伴氏の本拠地。大伴氏は日臣(火・肥国の王)で後に道臣(各地の関所警備担当)を
拝領しました。熊本県南部の葦北国造が金村をさして「わが君」と呼ぶことを考えただけで、この
磐井は筑紫国造ではないことが分かるでしょう。火の国が勢力圏の中に入っていますから。
当然、ここに書かれている磐井は二つの戦いの後者、九州王朝の王、大伴 磐と解釈すべきでしょ
う。ここに書かれていない地域は鹿児島県と宮崎県だけでした。本当は薩摩国出水郡大領肥君、
主政大伴部足床、主帳大伴部福足や薩摩郡主帳に肥君広竜などの名が見えるので、大伴磐は九州全
域を治めていたものと思われます。
「朝廷の命を受けない」というのは独立しているからであり、「海路を遮断して朝貢の船をあざむ
121
き奪った」というのは言いがかりでしかない。
大伴氏の特権で「長門国から西の統治権」を得たのだから半島の諸国との交流について「とやかく、
いわれることはない。」のでした。それにしても、大和朝廷と九州王朝との間にそれほどの差がな
かつたにもかかわらず、大伴氏に与党が出てこなかった。なぜ大伴氏と親族関係を築いてきた高句
麗氏族など出雲族が離れていつたか、盟友関係の百済や物部氏が離反したかという点は大いに興味
があります。
かたくなに武人の意地をとおす大伴 磐の性質によるものではなかつたか。
大伴氏の要請に応じて、自国の衰退を考慮せずに支援軍を送り込んでくれた高句麗長寿王のために
も、ここは避けることの出来ない戦いだったのかもしれない。
大和朝廷は国譲りに同意した渡来氏族を主体として軍を編成し、戦闘に駆り出します。
かつて宗教戦争を共に戦った同志が、敵対することになつたのでした。
紀には、「ニ十ニ年冬十一月、筑紫の御井郡(福岡県三井郡)で交戦した。両軍の旗や鼓が相対し
、軍勢のかきたてる埃りもいりみだれた。両軍は勝機をつかもうと必死に戦って譲らなかった」と
いう。この場所は久留米市御井附近であろうか。ここにある高良山からは筑紫平野が一望に見える。
大和朝廷軍による戦闘行為は二年目に入り、さすがに包囲網は縮まって敵軍の旗印は周囲の山や平
野に充満していたのではないか。最後の決戦に到ったとき、大伴磐の心中に帰来したものはなにで
あつたのだろうか。百済の裏切りによって狭手彦も死んだ。この恨みだけは残していったのだろう。
それに引き換え、戦いを交えた出雲氏族にはお互いに恨みは残さなかった。
正々堂々と戦った相手にそれぞれが敬意を抱き、憎しみを持たなかったのです。
それはその後の日本歴史のなかで証明されている。
九州王朝が滅亡し大伴磐や狭手彦が非業の死を迎え大伴宗家が滅んだ後の世に、畿内に残留してい
た大伴支流の人々は出雲氏族と連携することがあつても、列島の百済閨閥とは「恨」をもつて争い、
ついに最後まで和解することはなかつた。
高良山にある高良大社は祭神を高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)とし、武内宿禰説がある。
武内宿禰は考元大王の曽孫で、応神・仁徳帝の時代まで活躍する伝説的人物ですが、もちろん一人
の人物である訳はない。
私はこの人物が半島に深く関与するので、大伴氏だろうと思っています。
紀応神紀には、武内宿禰が讒言される場面がある。-【武内宿禰は常に天下を望む野心をもつてい
ます。いま筑紫にあって、ひそかに謀って、「ひとり筑紫を裂いて、三韓を招き、自分に従わせ、
そのうえで天下を支配しょう」といつたと聞いています】-と。
大伴氏はこの言葉どおりに継体帝から九州以西の統治権を与えられ、【半島に狭手彦を派遣し任那
をしずめ、百済を救った。】(紀・宣化紀)という。
磐は、三韓を招き、自分に従わせる途中で情勢の激変により夢を散らしてしまったが、天下支配す
るまでの意志があったのか、なかったのかそれは分らない。
九州での戦後、大伴氏に代わってこの附近を領有することになつた氏族たち(高良大社神職には
物部・安曇部・丹波氏らの名がある)が、高良大社に祭った武内宿禰は、大伴磐の霊を慰めるもの
ではなかつたのか。
これは推測にすぎないが、史実のほうには「磐の奥方、大伴狛夫人(こまのいろえ)や大伴狭手彦
の女善徳」が尼となつたことを伝える。
戦のため命を落した者たちへの供養のため、仏道に入信出家をしたのでした。
書紀は九州戦争の一切を隠し、婦人たちの尼僧になる時期を約六十年後の崇峻紀三年に移し、
「高齢の尼」にしてしまつた。ひどい話です。
「九州王朝」も「九州戦争」も隠さなくてはなりませんし、「仏教公伝の時期」だつて移動してい
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るのですからとうぜん大伴狛夫人尼や善徳尼の若くして出家した時期も移しておく必要があつた
のでした。
この戦いでは、狛夫人の実家・高麗王族が誠意をもつて、磐の説得にあたつたのでしょうが
磐の堅い意志を変えることはできませんでした。
滅亡した大伴宗家の本拠地は縁続きの高句麗氏族に渡され、日置氏らの居住地と変化しました。
熊本県玉名市立願寺には、日置氏の氏神「疋野神社」(祭神・波比岐神、大年神)があります。
祭神大年神はご存知のとおり、出雲神話にでてくる素戔鳴尊の子とも、また海を照らして寄り来る
神とも書かれている。そしてその神の子神は、半島に由来する韓神やソホリ神などの兄弟神です。
玉名市を流れる菊地川上流の山鹿市城にはオブサン古墳、チプサン古墳があり、ハングルで
漁師山、家山の意味を持っていることは有名。
九州の出雲族と壁画古墳
出雲族とは出雲地方の渡来氏族(北燕国遺民・高句麗氏族・北の新羅(穢人)のことです。
継体天王の平定や欽明天王の九州戦役・さらにその後蝦夷対策のため、東北各地に配置されました
からその分布は列島各地に及んでいました。
出雲出身者たちが九州戦役に従軍した、そしてどこに移動したのだろうか。
そんな氏族のことを分る範囲で見てみることにします。
大国主神=継体天王説を補強する材料になると思うからで、大伴氏の本拠地熊本から見てみます。
1、熊本県の出雲族
○ 熊本県玉名郡日置郷は高句麗氏族日置氏の居住する地域となりました。
郡司名にみえる権擬少領日置公(熊本県江田三宝寺出土銅板誌)や宇佐神社に土地を売却した
郡司、日置則利(宇佐大鏡)らの名前が残っている。
○ 阿蘇神社(祭神・健磐竜命)大宮司阿蘇氏は祭神の後裔という。
古事記には神武天皇の皇子神八井耳命は(意富(多)臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、
阿蘇君、筑紫の三宅連、雀部臣(造)、小長谷造、都祁直、伊予国造、科野国造、道奥の岩城国造、
常陸の仲国造、長狭国造、伊勢の舟木直、尾張の丹羽臣、島田氏らの祖なり)。
とみえ、同じく皇子日子八井命は(茨田連、手島連の祖)とありました。
この氏族構成はこれからの話に関連して行きます。
母方は出雲族・大物主命の娘(古事記)とも、事代主命の娘(書紀)とも書かれているヒメタタラ
イスズヒメ命から出る氏族で、阿蘇君は伝説上・科野国造から分れて熊本に来たという。
残った国造からは郡領や諏訪神社神官金指舎人など長野県の名門へとつながつていく。
一方でこの氏族が畿内に分布していること、また茨田連と関係があつたのではないかと推測されま
す。-【阿蘇の君を遣わして、河内国の茨田郡(大阪府北河内郡・寝屋川市・守口市・門真市)の
屯倉(茨田屯倉)の穀を筑紫に運ばせ、(後略)】-(紀・宣化紀)と。
この屯倉を管理していたのが、同祖の茨田連で継体閨閥であつたことは、すでに出ていました。
書紀によると父方は神武天皇で業績が継体天王と重なっていることを思えば、この氏族の出自が
想像できるます。この氏族の周辺には高句麗氏族が居住している。渡来氏族を束ねる役目をしてい
たのではないでしょうか。
阿蘇君も継体天王に随伴した氏族の後裔で、なんらかの関わりがあるのでしょう。
阿蘇君が科野国から来たか、または河内国経由で来たかはここでは問題ではない。
出雲族の子孫が移動して熊本県に来ていることを理解できれば良いと考えています。
○ 宇土郡大宅郷の戸主として、名がみえる額田部君得万呂は君姓をもつているから宇土郡の
豪族です。勝宝二年四月の優婆塞貢進文に氏名がみえる。
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出雲国大原郡の郡領級に額田部臣、さらに松江市出土刀剣銘(岡田山一号墳)に額田部臣の
姓がみえるし、額田直は長門国に、額田部君は上野国・肥後国に分布した。(古代氏族人名辞典)
〇 県北に勢力を有していた菊池氏は中世武士で「藤原」姓。菊地神社に伝わる系譜には中臣氏
から始まるとされている。「中臣氏が宮廷に進出し、地歩を築くのは六世紀前後で、継体支持勢力
となり、おもに祭祀・儀礼を職掌した。」(佐伯有清・日本古代氏族辞典)
この菊池氏が藤原を名乗つていたのは謎の部分が多いが、山鹿市から菊池市にかけては
装飾古墳が多く存在し、渡来人の墳墓と考えられる。
菊池氏はそれらの渡来氏族を糾合することに成功した氏族といえます。
菊池一族には城氏があり、肥後国山鹿郡城村を領した。あのチプサン・オブサン古墳の所在地です。
同じく甲斐氏は菊池氏庶流、御船城主となつた甲斐宗運などの名をみることが出来るが、
この名前も甲斐国からきているのではないだろうか。
〇 和銅二年六月、筑前国御笠郡大領であつた宗形部堅牛が益城連姓を賜った。
熊本県には益城郡があり、このことから宗形氏の勢力の伸張が考えられるという説がある。
〇 薩摩国出水郡大領は五百木部氏(いおきべ)で、伊福部とも作る。姓氏録河内神別に
「五百木部連。火明命之後也。」と記され、出雲族の末裔です。
大国主神を祖神とするこの氏族には、「いふく」の音からたたら製鉄に従事した氏族の連想が有る
ようです。谷川健一氏「青銅の神の足跡」には、「因幡の伊福部臣には有名な古系図が残されてい
る。・・その系図をみると大巳貴命を始祖としているが…後略」とし、たたらをつかさどる職業の
名に由来するという説を支持している。火明命と大巳貴命との関係については播磨風土記だけでは
なく、このような資料もあつたのでした。
出水郡長島町には積石群集墳・指江古墳群があつて、渡来氏族の墳墓と考えられます。この出水郡
までがいわゆる肥後の勢力範囲で、南方の隼人対策基地でした。熊本県は壁画古墳が九州の中でも
一番多く存在する。北部の玉名郡から菊池郡さらに南部の下益城郡・八代市付近まで面として存在
し、離れて人吉市に点在しています。五世紀代の石棺装飾や石障装飾の後にくる六世紀の壁画古墳
は、彩色された幾何学文様や物語をもつ壁画が存在し、渡来氏族の関連が濃いものです。
この壁画文化および九州で発生した横穴墓制がその後、東に移動していくことになります。
山陰へ・河内へさらに関東・東北にまで広がった壁画文化は氏族の移動と無関係ではなかつたので
した。
隼人国を制圧した出雲族
時代が少し後になりますが肥後の氏族をみたついでに、それに関連する南方の隼人国制圧のこと
を間に入れておきましょう。
奈良時代初頭・文武天皇の御世に国力整い、辺境諸国へ使いを遣わして公民となるように政策(郡
司の選任と戸籍作り)を推進します。それに対してそれまで独自の風習を維持してきた諸国の反発
がありました。699年 薩摩の隼人たちが、朝廷が派遣した使いの刑部真木らをおどすという事
件が起き、大和王権は同年十二月、三野(宮崎県西都市三納・平城付近カ)・稲積(大隅国桑原郡
稲積・現在の隼人町付近)の二城を築き、本格的な介入を始めました。
続日本紀大宝二年条(701年)八月一日条には
-【薩摩と多ね(種子島)は王化に服さず、政令に逆らっていたので、兵を遣わして征討し、
戸口を調査して常駐の官人を置いた。出雲狛に従五位下を授けた。】-と。
出雲狛はこの時点では無姓で、のちに臣を賜ったという。隼人国は二国に分離、東側が大隈国、
西側が薩摩国となりました。
薩摩国を制圧したのは、肥後の氏族を主体とする軍兵で高城郡(現在の出水郡南方から東郷町・
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川内市付近をふくむ)の郷名中、四郷(合志・飽田・宇土・託満)が肥後国の郡名に一致し肥後氏
族の移住、駐屯が考えられるという。
高城はこのときに守備兵を置いて守った要害の地。奈良県東南にも「高城」の地名がありましたが、
辺境の地に派遣された氏族が守備した城柵は「高(多賀)城」という名がつけられている。
大隈国に接する日向国諸県郡でも同じ「高城町」があります。
薩摩国の高城は高城川の中流に城上という地名があり、その付近と思われます。
川内川には「高江」という地名。さらに南方にはあるのは「日置郡」で、日置・出水・桑原は帰化
高句麗氏族の姓名と一致します。
日置郡には「牛頭野岡」、「高峰」、「高倉山」などの関連する地名がありました。
帰化高句麗氏族は大和政権の忠実な部隊として最前線の戦いに投入され、国家統一に重要な役目を
担ったのです。
隼人国の東側は日向国の管轄で、713年に大隈国として成立した。
国府は現在の国分市。和名抄「桑原郡」には大分・豊国・稲積の郷名があつて東九州から移民が
行われたと推測ができるでしょう。
さらに国分市には次の式内社の神社があります。
● 大穴持神社・鹿児島県国分市広瀬(祭神・大巳貴命、配小彦名命、大歳命)
● 韓国宇豆峯神社・鹿児島県国分市上井(祭神・五十猛命)
韓国を冠した神社名は「出雲」に多数分布する他は、福岡県田川郡香春町の辛国息長大姫大目命
神社と鹿児島県の韓国宇豆峯神社の二箇所だけ。
南九州に出雲神を祭祀する氏族が来ていることが分かります。
奈良時代初頭に、大和朝廷の命を受けて隼人との厳しい戦いに従事したのはこれらの人たちでした。
2、東九州・宮崎県の出雲族
これ以前、すなわち隼人たちが制圧され、公民に編入される以前の対大隈隼人の中心基地は宮崎市
北方地域でした。五世紀代ここを治めた氏族に代わつて六世紀に朝廷の直轄地三宅が置かれ、帰化
氏族が入ってきました。533年ごろでしょうか。
西都市三宅・百塚原古墳からは双竜環頭太刀から出土。新富町には日置・上日置の地名がみえる。
高句麗氏族が確実に入って来ました。
宮崎県児湯郡には次の式内社がある。
● 都農神社(宮崎県児湯郡都農・祭神大巳貴命、スサノオ命)
● 都萬神社(宮城県西都市大字妻・祭神木花咲那姫命)
両神社の中間を流れる川の古名は高城川(現在名小丸川)といい、中流域に「高城」がありました。
都農神社付近から高城経由、南の都萬神社付近にいたる街道の要衝で、ここに進駐した出雲族たち
の氏神だつたのでしょう。都萬神社祭神は、大巳貴命の妻である木花咲那姫であると思いたいし、
高句麗氏族が出雲神を祭神とするのはここも同様でした。
横穴墓群が宮崎県全域に分布し約 1100 基、中には線刻による壁画を有している。著名な壁画横穴
墓として、宮崎県佐土原町・土器田横穴墓群東一号墓(馬二、魚二、人物二、連続三角文)
宮崎市・蓮ケ池横穴墓群五十三号墓(船、鳥二、人物二一、鬼面文など)をあげておきましょう。
3、東九州・大分県の出雲族
豊後国大分郡(大分市一帯)を本拠とする大分国造は、阿蘇君のところで説明したとおり神八井耳
命(事代主命または大物主命の娘を母とする)の子孫という大分(おおきた)君でした。
壬申の乱に大伴氏とともに天武側に立ち奮戦したことは有名です。
九州戦争の後、大伴氏宗家は滅亡しましたが、支流の大伴氏と出雲族の間に恨みは残さなかった。
神八井耳命子孫の周辺には高句麗氏族が播居しているということでしたが、大分市東部には「高城」
125
があり、付近には「牧」という地名もあります。さらに南方に下ると天面山麓に同じく「高城」、
津久見市に「胡麻柄山」の地名がみえます。
臼杵市を中心に北は大分市から南は宮崎県境にいるまでの間、「河内」をつけた地名が多く存在し
ていました。河内からの氏族が九州まで移動してきたのでしょう。もちろん九州戦役に従事するた
めに。
豊後国の戸籍(大宝頃)に川内漢部一家が載っている。戸主等与五十三歳の戸口は十五人、
戸主の従妹・阿流加自売は各田部直(額田部直)と婚姻し、娘の各田部直阿流加売を生んでいる。
出雲族でありまた河内から移動して来た後裔たちと思われるでしょう。
川内(西)漢人は出雲の火明命後裔と姓氏録未定雑姓にある。
和名抄津守郷は日高郡・大分郡・国埼郡にそれぞれある、難波を本拠とした火明命後裔氏族の
九州における居住地といえます。
そのほか、武蔵郷がニ郷、阿岐郷が二郷、永野郷がみえ、すべて東方から来たのです。
大分市の対岸は杵築市で、出雲大社の名「杵築宮」と同じ。杵築市が含まれる和名抄「豊後国速見
郡」には八坂郷や大神郷などがある。八坂は八坂造という高句麗氏族、大神は三輪氏であつて大物
主命後裔とされる氏族。この氏族は全国展開する豪族になり、各地に大神郷がある。
杵築市シラハゲ古墳からは獅噛環頭太刀が出土していました。
豊後高田市に「美和」、「石部」いずれも大物主命後裔。
美和に、穴瀬横穴墓群 19 基中 12 基に壁画。(円文・同心円文・連環文・格子文など赤彩)宇佐市に
は「高」「高家」などの地名。至近距離の四日市横穴墓群(160 基)、貴船平横穴墓群(52 基)
の中に壁画(赤色同心円文、脚付円文、忍冬文よう図案)を有するものがある。
いずれも渡来氏族と壁画古墳とを結びつけて考えられるものです。
大分県内の壁画古墳は日田市・ガランドヤ古墳群・法恩寺古墳群。玖珠町・鬼が島古墳、鬼塚古墳
などが古代街道に沿うように存在し、さらに宇佐市、豊後高田市方面と大分市方面に離れて分布し
ています。
4、北九州・福岡県の出雲族
豊前国は朝廷の直轄地、屯倉名が多く存在したところです。(安閑紀)
桑原屯倉(築上郡築城町)・肝等屯倉(かと・苅田町)・勝碕屯倉(みさき・北九州市門司区)・
大抜屯倉(北九州市小倉南区)にそれぞれ比定されていますが、そうした屯倉には東方から移動し
て来た氏族が戦後配置され、和名抄に「高来郷」があります。
塔ケ峯山麓に現在も「高来」の地名が残り、苅田町には「高城山」、行橋市に「須佐神社」がある。
高来は高句麗のことであることはいうまでもないことでしょう。
行橋市竹並には 1500 基もの横穴群があり、高句麗系といわれる「双竜環頭太刀」を出土するお墓
がある。(竹並G53-2 横穴)
同じ豊前国企救郡(門司から戸畑まで南は田川郡・京都郡に接する)は長野郷・蒲生郷の二郷が
ありました。(「長野」の地名は曽根の近くにある。)
筑紫の三宅連は神八井耳命の後裔という。出雲族であることは繰り返し述べています。
ところで筑紫の三宅というと、誰もが磐井の子・筑紫君葛子が献上したという糟屋屯倉を思い浮か
べるでしょうが、三宅連のいたところは宝字二年の資料から推測すると那珂郡三宅郷や早良郡田部
郷・額田郷だという。
福岡県の壁画古墳は 56 ケ所(森貞次郎氏)で、熊本県の 167 ケ所に次いで多く、熊本県が面と
して存在するのに比べて福岡県は線として存在するのが特徴といえるでしょう。
つまり古代官道の関所守備にあたつた氏族のお墓だつたのです。
福岡県鞍手郡若宮町・竹原古墳は、調査報告(森貞次郎氏、美術研究1957)に「高句麗壁画と
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の類似」が指摘されている横穴式複室円墳。
後室奥壁には黒・赤の顔料で、船・人物・馬を、下段に波を描いて渡海してきた物語を、上部の怪
獣は青竜を示すのか。前室右・左奥壁には朱雀、玄武を描いているから、開口部は西の西国浄土を
向いて建造されている。仏教思想に基づいたお墓だつたのでしょう。六世紀後半代と考えられてい
ます。
北九州街道・壁画古墳ベルト地帯
高句麗壁画との類似が指摘されるというのは、帰化高句麗氏族がこの付近に配置されたというこ
とでした。欽明帝は半島の旧倭国構成国の再統一を願っていましたから、そのための氏族配置をし
たのです。
竹原古墳から東は中間市の壁画横穴墓群・北九州市日明一本松古墳と壁画古墳の線は続く。嘉穂郡
桂川町の王塚古墳は六世紀中に建造された華麗な壁画をもつことで有名になりました。福岡市から
南方に筑紫野市・夜須町・三輪町・朝倉町と続き、浮羽町・吉井町・田主丸町・久留米市・佐賀市・
小城町さらに佐賀県北高来郡高来町へと壁画古墳の線は続く。浮羽町の東は日田市でここから大分
市までは大分県の項で述べておきました。「北九州街道・壁画古墳ベルト地帯」と呼んで、面とし
て存在する熊本県とは分けておきましょう。福岡県夜須町の観音塚古墳は 10 隻近くの船と人物・
騎馬人物の壁画を持つ。浮羽郡吉井町の鳥船塚古墳は舳(へさき)と艫(とも)に鳥がとまり、櫂
を持つ人物が乗る船を描いている。
同じ吉井町の珍敷塚古墳は、盾を持った人物・ひき蛙などを乗せた船の舳に鳥を配した壁画。
船に乗って九州に来た主人公を表しているのではありませんか。
(壁画古墳の所在地については、巻末に主要壁画古墳地名を掲げておきました。なお詳しい資料は
インターネットのD&L RESEARCH CORPORATION。もしくは大阪府立 近つ
飛鳥博物館「残されたキャンバス」(通信販売中)を見ていただくのがよいと思います。)
福岡県の出雲系式内社は
● 三輪町・於保奈牟智神社一座とあるから祭神は、大巳貴命です。
● 甘木市・美奈宜神社(みなぎ・一の宮祭神スサノオ、大巳貴命、事代主命)
● 久留米市・伊勢天照御祖神社(祭神天照国照天火明尊)境内社には大国主神社、えびす神社、
祇園神社(八坂)、佐岐神社など。
八女市には石人で有名な岩戸山古墳がありました。この古墳の主については、風土記などの記載
によって「筑紫の君」に比定する説がありました。それが適切であるかどうかはさておき、岩戸山
古墳の至近距離に建造された「乗場古墳」は、この付近の治世を継承(あるいは略奪)した人物の
お墓といつてよいでしよう。
前方部を西に向けた前方後円墳の主体部は、複室構造で赤・黄・青の彩色顔料を用いて連続三角文・
同心円文・蕨手状文・鞆・さしばなどの壁画が描かれている。この人物が壁画文化をもつ氏族であ
ることはいうまでもない。そうして、この地の治世権を前代の主から得たことを理解する必要があ
るのでしょう。
5、肥前国(佐賀県・長崎県)の出雲族
佐賀県には小城郡に高来(多久)郷があり、福岡県に続き神埼町・佐賀市・小城町・多久市ここ
から北方町・有明町・高来町へと連なる壁画古墳ベルト地帯の中にある。
海上交通の中心となった唐津市やさらに豊臣秀吉の半島出兵の根拠地となつた名護屋に通じる場
所に位置する。古代から万葉集に歌われている「狛島」は、現在名・神集島(かしわじま)といい、
唐津湾の外海に面したところにあります。
半島航路の中継地として利用されてきました。島には武人のお墓である鬼塚古墳群があり、狛人が
住んでいたから狛島という名がついたという。対岸の唐津市湊には八坂神社が祭られいるし、
さらに唐津市半田古墳からは獅噛環頭太刀が出土しています。
出土といえば唐津市の島田塚古墳からは仏教伝来を強く印象つける銅鋺・承盤が眉庇付冑ともに出
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土したことは前に述べておきました。六世紀前半というこの古墳は側壁の持ち送りが強く、天井部
は1石で作られている。もしかしたら、この古墳に眠る人物は渡来氏族で、仏教布教支援のため列
島に来たのではないだろうか。
鳥栖市のヒヤーガンサン古墳は赤の彩色で円文・十字文を描いた壁画古墳だが、この古墳の固有名
称は九州弁でどんな意味を持つのだろう。それよりもハングルで「故郷の山」という意味のヒャン
ガンサンではないですか。
佐賀県は仏教文化の盛んな国であったのでしょう。
佐賀県東部の諸富町石塚 1 号墳は長楕円形の単室構造横穴式古墳で六世紀後半~末ころの年代が
いわれていますが、ここから出土した金銅製飾り金具には 15 弁を配した蓮華文の文様が有るとい
うことでした。
奈良県御所市の水泥南古墳(6 世紀後半)・石棺に 6 弁の蓮華文が彫られています。そんなことか
ら書紀の仏教をめぐる争いの年代が、いかに遅れた年代であることが分かるのです。
長崎県北高来郡小長井町にある長戸鬼塚古墳は複室構造の石室に鋸歯文・船とともに鯨の壁画があ
つて有名となりました。代表例としてあげておきましょう。
九州戦争終了後、帰還した将兵
各地から召集されて九州戦役を戦った氏族は、九州に領地を賜った氏族を残し、それぞれの根拠
地に引き揚げました。九州墓制である横穴墓文化や壁画古墳文化が帰還先に広がつたのです。
島根県の壁画古墓
松江市十王免横穴墓群(1・2・7 号墓)線刻、(弓、矢、船、人物。)
出雲市深田谷横穴(芦渡横穴?) 線刻、(人物。)
安来市穴神 1 号横穴 石棺に彩色画、(赤色蕨手文・三角文。)
八束郡宍道町浜ノ埼 2 号横穴
線刻、(人物)
隠岐郡西郷町飯ノ山横穴
線刻、(人物)
鳥取県壁画古墓
52 基の壁画古墳と1基の壁画横穴墓があり、数基の彩色画を持つ古墳の他、すべて線刻でした。
次ぎの町に壁画古墓が広がっています。
岩美郡福部町2、 国府町11
鳥取市11
八頭郡河原町1、 郡家町6
気高郡気高町6+1(横穴)、鹿野町1、青谷町2
倉吉市3
東伯郡三朝町1、 東郷町3、 大栄町2 北条町1
西伯郡淀江町2
淀江町には上淀廃寺があり、伽藍配置は金堂を西に塔を東に設けた斑鳩の法起寺式です。
創建時期は 7 世紀末~8 世紀初(概報・淀江町教育委員会編)
奈良県斑鳩地域と法起寺式の寺院をもつ出雲の関係については、紙幅の関係で深入りを避けたいが、
上淀廃寺から発見された壁画については高句麗壁画の関連がいわれていることだけは伝えておき
ます。
鳥取県の代表的な壁画古墳は、山裾を利用した変形八角墳の墳丘をもつ国府町の梶山古墳(7 世紀
初頭建造)でしょう。赤色の顔料で三角文・同心円文・曲線?・魚を描いています。
国府町にはこの古墳を含め11の壁画古墳がありました。当時、高い文化を持っていたのは渡来氏
族でしたから、そうした氏族の居住地に国府は作られていったのではないかと推測しています。
梶山古墳の至近には中国北朝文化の到来を示すという「岡益の石堂」がある。風雪のため傷み、現
128
在はテント張りに覆われて近づくことさえ出来ないませんが、【刻まれたパルメツト(唐草文)は
北魏の雲崗石窟の文様とほぼ同時期、中国北朝文化の影響の表れている土地】
(森浩一氏)という。
中国文化が都である奈良県を経由することなく、直接山陰の地に到来していることに驚かれる方が
多いのです。本書をここまで読まれた方は驚きではないでしょう。むしろ納得されるのではないか
と思っています。
大阪府の壁画古墓
柏原市とくに高井田横穴墓群(24 基の壁画横穴)にまとまって存在。それと大和川の対岸・玉手
安福寺北群 10 号横穴(騎馬人物・人物)が現在知られており、いずれも線刻です。
大狛神社の氏子たちと思われる氏族で、6 世紀中から始まる壁画文化は高句麗氏族の末裔たちの文
化だつたのでしよう。その他、香川県14基の古墳、兵庫県山陰側に 2 基、瀬戸内側に 4 基。
長野県・静岡県に壁画古墳が存在しています。
新任務についた出雲族
関東・神奈川県から東北・宮城県まで延びる壁画古墳の群れを、「太平洋岸・壁画古墳ベルト地帯」
と本書では呼びましよう。九州戦役を終えて、帰還した氏族もいるでしょうが、新しく任地に赴く
氏族もいたのです。
大伴宗家滅亡後、関東以北の大伴氏拠点は出雲族に渡されました。
大和政権は対蝦夷政策の尖兵として、その戦闘力を北に向けたのです。
「そうした氏族は船を利用して移動した」という考古研究者もいます。
西方文化が途中の地を経由することなく、関東以北に出現する様相をそんな表現であらわしました。
高来神社(神奈川県大磯町高麗)7 月 18 日の大祭には、高句麗氏族が船から海岸に上陸する所作
をして、そのときの様子をしのばせるといいます。
足柄峠・箱根の関所警備に従事する氏族として、また東北の派兵勢力としての任務も帯びていまし
た。関東には渡来氏族が多くいるということは、古くから言われていたのでした。
継体天王が国家統一したときに原動力になった出雲勢力(渡来氏族と出雲に荷担した倭豪族)がい
る上に、大伴氏と交代するため、さらに出雲族が来たのですから、どちらを向いても渡来氏族とい
うことになっているのです。
「太平洋岸壁画古墳ベルト地帯」から代表的な古墳をあげながら、古代氏族をみてみます。
そしてその氏神神社の祭神をみることにしましょう。
大国主神=継体天王であることの傍証を得るためです。
神奈川県の出雲族
古代の東海道は足柄の関から東部の横須賀に至り、そこから海路房総半島に渡るコースを取りま
した。その間の関所は主として出雲族に引き継がれていつたのです。まず壁画横穴墓の出現する場
所をあげておきましょう。
小田原市1、二宮町4、大磯町7、平塚市3、寒川町2、藤沢市 3、鎌倉市4、横須賀市2と古代
街道に沿って存在していました。新しく赴任してきた氏族たちです。
これとは別に、川崎市高津区の馬絹古墳(彩色壁画古墳)や同麻生区早野、町田市熊ケ谷、横浜市
緑区牛ケ尾・港北区新吉田町などの 14 基の壁画横穴墓は、「武蔵国造の乱」で笠原使主が献上し
た横渟(よこぬ)・橘花・多氷(多未、たま)、倉樔(倉樹、くらき)の四郡の中にある橘花(橘
樹・たちばな)郡に存在し、和名抄橘樹郡には「高田・橘樹・御宅(みやけ)・県守・駅家」の各
郷がありました。
現在地名の「港北区高田」の付近には日吉があります。これは出雲神の日吉神社(近江)からつけ
られた名前でしょうし、高田は高句麗氏族の居住地には必ず存在する地名といつてよい。
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また上記の献上された多未郡・和名抄多摩郡には狛江郷があります。
笠原使主が親族同士争って、出雲勢力を連れて関東に帰ってきた。
それが「武蔵国造の乱」の経緯であるとしました。そのことは使主が献上した屯倉に出雲族が居住
していることで実証できるのではありませんか。ここの壁画古墓の人々は帰還将兵と考えられます。
さて、神奈川県西部には高来神社がある。帰化高句麗人たちが大伴氏と交代し、関所の警備を担当
したことは前にも話しておきました。
「高」姓であつたらしく、小田原市千代廃寺の寺伝には次ぎのようなことが書かれている。
「寺は弓削道鏡によって発願され、食封の地・相模国・足柄郡に建造された。時の郡司は高 家伴、
天平神護元年(765 年)のことである」(神奈川県史概説)この高氏が出雲族(渡来氏族)である
ことは間違いないでしょう。
三浦半島・横須賀市衣笠にある宗元廃寺の軒平瓦は、千代廃寺の軒平瓦と同一型で作られ、軒丸瓦
は「忍冬蓮華文」で高句麗様式の瓦です。旧東海道は横須賀から海路となつて対岸の房総半島に渡
っていた。
ここの出身、赤星直忠氏の著書「穴の考古学」の中には、横穴と仏教に関する記述がある。
「(横穴墓から火葬骨が出土することを指摘した上で、)寒川町岡田横穴・大磯町庄が久保横穴・
同清水北横穴における壁画に仏菩薩を表現したとみられるもののあることも確かである。これは仏
教の明らかな影響である。」と。 2002 年生誕 100 年展があつた考古学先駆者の弁でした。
千葉県の出雲族
池上 悟氏の考古学ライブラリー6「横穴墓」によると、千葉県の横穴墓が濃厚に存在する場所
は①、「東上総の一ノ宮川諸支流域」②、「西上総、小糸川~湊川間」③「安房地方の平久里川・
丸山川流域」という。
① の一ノ宮諸流域
現在の千葉県長生郡一帯で、壁画横穴の多いことでも知られている。茂原市4、長柄町・千代丸横
穴墓群を中心に16、市原市の外部田・池和田・大和田各横穴群5の壁画横穴もこの流域にある。
和名抄「上総国長柄郡」には「刑部郷」という郷名がみえ、狛江市の渡来氏族刑部と同名、また「柏
原郷」は河内、「谷部(はせべ)郷」は奈良東南の地名、いずれも本書の中に出てきた名前でした。
② の西上総、小糸川~湊川間
この地域は関東でも傑出した渡来氏族の地盤であつたらしく、木更津市には高句麗系といわれる双
竜環頭太刀や双魚佩を出土した「松面古墳」や双竜環頭太刀2・単竜、獅噛、単鳳環頭太刀各1・
銅鋺3を出土した「金鈴塚古墳」、獅噛環頭太刀を出土した「鶴巻塚古墳」など。
湊川河口の富津市では双竜環頭太刀他3・銅鋺を出土した「白姫塚古墳」や壁画を持つ横穴5があ
つて、主として人物・馬・船を線刻しています。
滋賀県・高嶋の鴨稲荷山古墳や奈良県藤ノ木古墳などと並び双魚佩を出す松面古墳や同じく金銅履
を出土する金鈴塚古墳など有力な豪族の存在した地域でした。
③ の安房地方
館山市、安房郡丸山町一帯で房総半島南端部にあたる地域です。ここの壁画横穴は、南条 11 号横
穴墓に人物の線刻がある。
館山市は安房国の国府があつた場所、ここでも国府の地名至近距離に「高井」の地名があります。
同様に丸山町には加茂の地名、さらに北側の鴨川市に至る地域は、和名抄「長狭郡日置郷、加茂郷」
などの出雲関連地名が見えるようです。日置氏は高句麗から渡来した氏族名で各地にみえる。長狭
国造は古事記に多氏一族とされる。この氏族が高句麗氏族を束ねたのではないか。と考えられる。
長狭郡には「伴部郷」があるので、高句麗氏族に委譲された地域といえますが、ここに駐屯したの
130
は海上交通の関所があつたのか、それとも横須賀の千駄ケ埼から対岸の富津市に渡り、鴨川市に運
ばれてきた物資をここで船に積みこみ、海路東北へ輸送する基地であつたのか。
池上悟氏によると上記以外には、夷隅川流域にかなりの分布、山武郡の九十九里沿岸、利根川南岸
の下総台地北縁にも横穴墓が分布しているということです。
茨城県の出雲族
和名抄常陸国信太郡は、「高来郷・高田郷・小野郷」などおなじみの郷名が出てくる地域。
小野氏は近江西岸でも渡来氏族の中に、あるいは近辺に接近して居住している。
遣隋大使・小野妹子が中国語にたんのうで中国要人から親しく接され、「蘇因高」なる姓名まで名
乗った事実があります。
「蘇」は「蘇民将来」伝説、あるいは「ソシモリ・蘇氏の王」の「蘇」と同じで「孝昭天皇と尾張
連の女による天足彦国押人命の子孫」と伝えるこの氏族の伝承は、倭国始祖伝説と出雲神話の結合
による産物の可能性が高い神武朝の出雲閨閥出身。そうすると小野氏も出雲族であつたのだろうか。
霞ヶ浦西岸地域にある高来郷・高田郷は、出雲族の中の高句麗氏族と思われる人々の居住地。
ここの出島村には宍倉、加茂、高浜などの地名と太子唐櫃古墳(赤色、円文・珠文)、折戸・十日
塚古墳の壁画古墳がある。
横穴墓群は出島村地区に存在し、茨城県南部では他に鹿島町にある。
大洋村には獅噛環頭太刀を出土する梶山古墳、霞ケ浦北岸玉里村にある舟塚古墳出土と伝える鈴付
双竜環頭太刀は竜が4匹表現され、日本海久美浜湾の「湯舟坂 2 号墳」出土の双竜環頭太刀に類似
しています。霞ケ浦近辺の交通要衝を警備した氏族でしょうか。
茨城県北部の那珂川・久慈川流域(水戸市~日立市)は壁画古墳・壁画横穴墓の集合体の有ると
ころで、神奈川県から宮城県にいたる太平洋岸壁画古墳ベルト地帯の中核といえる所です。
横穴墓群もここに集中している。水戸市「吉田古墳」(線刻、武具類)、ひたちなか市「殿塚古墳」
(線刻)、「虎塚古墳」(彩色・赤)、「金上古墳」(D&L による、詳細不明)那珂町・「白河
内古墳」(線刻)、東海村「須和間 12 号墳」(線刻)、常北町・「増井古墳」(線刻)、金砂郷
村「箕古墳」(線刻)その他壁画横穴が水戸市2、常陸大田市3、日立市4、金砂郷村1以上浜通
りの地域。
浜通りの地には壁画古墳の増井古墳のある常北町に、
● 青山神社(常北町青山・祭神五十猛命)
ひたちなか市には
● 酒列磯前神社(さかつらいそざき・祭神大巳貴命、小彦名命)名神大神社。
大国主神と大物主神は紀の一書に「幸魂・奇魂」と書かれ、混同することが多いのですが、この神
社では大物主神を末社に祭り、大巳貴命と別けている。これが正しいのでしょう。
地名考証をしても面白い所といえます。「高井」「額田」「磯部」(常陸太田市)、虎塚古墳・十
郎穴のある中根の隣は「高井」(ひたちなか市)がある。
国府のあつた日立国府には「多賀」「諏訪」などの地名があつて、和名抄「多珂郡」伴部・高野・
多珂郷がこの付近に比定されるのではないでしょうか。
【江戸時代中期の学者・新井白石は、高天原を高いという字にとらわれることなく「高」というの
は常陸にある「多珂」郡の地であるという解釈をしている】(井上光貞氏「日本書紀の成立と解釈
の歴史」)
「神は人なり」と神話に登場してくる神は、実は人間だと看破したのは白石ですから、多珂郡の人
たちを高句麗氏族と見破っていたのかも知れない。白石が目をつけた点は高く評価しなければなら
ないでしょう。
昔の多珂郡を割いて、多珂郡・石城郡の二つにしたと風土記にでています。次ぎに出てくる浜通り
131
県境の勿来の関、福島県いわき市も旧多珂郡でした県境の 南の北茨城市には佐波波地神社(祭神・
天日方奇日方命)がある。常陸那珂国造はたびたび名の出てくる多氏一族で神武天皇の皇子後裔を
伝えるが出雲族といつてよい。
内陸部は真壁郡関城町「船玉古墳」(彩色・赤)、西茨城郡岩瀬町「花園 3 号墳」(彩色・赤・黒・
白)どちらにも船の壁画がある。死者の魂が船に乗って遠い故里の地に戻ることを願ったのか。
関東から白川の関に通ずる古代街道の関所警備にあたった氏族だつたのでしょう。
上の 彩色古墳「花園 3 号墳」のある西茨城郡岩瀬町付近には、
● 鴨大神御子神主神社(岩瀬町加茂部祭神・鴨大神・大田田根子命・別雷神)
● 大国玉神社(大和村・祭神大国主命、配武甕槌命、別雷命)大国主神、大田田根子の父上の武
甕槌命と京都上鴨神社の祭神をお祭りしている。
● 稲田神社(笠間市稲田・祭神奇稲田姫之命)名神大神社。
福島県との県境に近大子町には
● 八溝嶺神社(久慈郡大子町上野宮・祭神大巳貴命、事代主命)山岳地帯の街道防衛に当たった
氏族が奉祭した出雲神でした。
栃木県の出雲族
栃木県に入ったところの芳賀郡市貝町では「刈生田古墳」に双竜環頭太刀の出土があります。
馬頭町には有名な横穴墓群{唐の御所)があり、家型の横穴は棟が浮き彫りになつて華麗な創りに
なつている。
(栃木県・馬頭町の横穴古墳群、唐の御所)
隣の小川町には
● 三和神社(那須郡小川町大字三輪・祭神大物主命)
この先は那須国造碑のある湯津上村を通り、白河の関へと続く。
こうして見ると、内陸部から浜通りからまで横一線に対蝦夷の根拠地があつたのでした。
そして守備にあたったのが出雲族なのです。式内社出雲神神社があるので分かるでしょう。
福島県の出雲族
常陸風土記によれば、多珂の国の範囲に福島県の双葉郡大熊町付近
まで含まれていた。
その後、多珂と岩城に別れ、勿来の関以北は陸奥の国になったとい
う。
浜通りには東流する諸河川の流域に横穴墓が群在する(池上悟氏)。
壁画横穴墓もまた上記浜通りの各地に所在し、彩色の著名な壁画横
穴墓が多く存在する。
茨城県は壁画高塚墳が多かつたけど、福島県は横穴墓に壁画があり、
しかも出土品は豪華なものがあるのが特徴。いわき市中田 1 号横穴(複室、彩色赤・白)桂甲、豪
華な馬具一式、武具類、珠文鏡、銅鋺の蓋など、六世紀後半築造とされる。(いわき市史)他にい
わき市館山 6 号横穴(線刻、渦巻き文・馬)。双竜環頭太刀を出土するのは、いわき市白穴東1号、
八幡 24 号墓で、7 世紀前葉の八幡 13 号墓は「仏教金銅幡金具」を出土する。仏教を持った氏族が
132
移動して来たと考えてよいでしょう。
勿来の関を守備した氏族はいわき市を根拠地としました。北と西に「高倉山」とおなじみの山名
がある。
● 大国魂神社(いわき市平菅波、祭神大巳貴命・事代主命・少彦名命)この神社は甲山古墳の傍
に建っている。
廃寺址もあり、古代岩城地方の行政・文化の中心地といわれています。
● 佐麻久嶺神社(いわき市中山、祭神五十猛命)と出雲神をまつる神社がある。
いわき市から北に宮城県まで、壁画横穴墓が連なり「双葉町8」(清戸迫 76 号横穴・彩色、他線
刻)「小高町4」(彩色3、線刻1)「原町市1」(彩色)、「相馬市1」(線刻)、「鹿島町 5」
(彩色1、線刻4)。
(双葉町・清戸迫題76号横穴の彩色壁画)
鹿島町寺内、真野古墳群・寺内支群 20 号墳(全長30mの前方後
円墳)から金銅製双魚佩が出土し著名となりました。
双魚佩を持つ氏族がここに来ていたということが分かります。
他に双魚佩を出土するのは近江高嶋の鴨稲荷山古墳・斑鳩の藤ノ木
古墳・木更津の元新地(松面)古墳など。
出雲族の風俗ということができませんか。
名神大の神社として屈指の古社という「多珂神社」は原町市高に在る神社。
祭神は多珂大明神。この辺りの地名考証をされると面白いかもしれません。「高」「高倉」「高平」
「諏訪」「長野」など。和名抄「行方郡多珂郷や真野郷」で、行方軍団の置かれた場所か。
原町の羽山 1 号横穴奥壁に描かれた彩色壁画について、壁画模写にあたつた日下八光氏は「敦煌壁
画・九色鹿本生譚」との類似を指摘し、羽山壁画が「仏教の教えを描いたもの」とする。
九色鹿本生譚は釈迦前世の善行説話の一つ、ここでは釈迦は鹿に変身して現れている。
羽山壁画においても主人公としての鹿の丁寧な作図に並々ならぬものを感ずるとき、はるか西方の
国からの物語が東北の地に出現することのロマンと人々の営みに思いをするのです。
相馬市福迫 27 号横穴墓には双竜環頭太刀が出土する。
中通りには白河の関を守備する氏族が存在していました。
泉埼 4 号横穴(泉埼村・彩色)、大久保横穴(東村・複室構造、線刻)と須賀川市に治部池 2 号
横穴(線刻)と壁画がある。また東村の笊内 37 号横穴から銅鋺が出土しているのは浜通りと変わ
りはない。仏教を信仰する氏族が移動して来たのでした。それと同じく出雲神を氏神とした氏族で
あったのです。
● 都都古和気神社(棚倉町馬場・祭神味すき高彦根命)ここには大
国主神の神像がある。
大黒天のイメージと異なる「笑わない大国主」、うつむきかげんの
お顔には微笑みはなく、少し暗い影すら感じるお姿です。
陸奥白河郡の狛造智成と陸奥安達郡の狛造子押麻呂は承和十年
(843 年)にそれぞれ、陸奥白河連、
陸奥安達連に改姓されています。出雲族の子孫は東北の地に根付き
ました。
白河軍団・安達軍団の一員として対蝦夷の軍事行動に従事したのでした。
宮城県の出雲族
横穴墓は宮城県が最北である。対蝦夷の最前線基地が置かれ、壁画横穴墓の分布も旧北上川、支
流江合川の防御線内に、あるいは鳴瀬川に沿うように存在しています。
133
前者は「矢本町1」(線刻、同心円文)、「涌谷町2」(迫戸A1 号線刻、A2 号彩色)、「小牛
田町1」(蜂谷森横穴・不明)、「岩出山町1」(彩色)。鳴瀬川沿いには「鹿島台町2」(彩色)、
「松山町4」(彩色)、三本木町5(彩色 3・線刻2)などが存在する。
川沿いの色麻町にはあの「伊達神社」(名神大・祭神五十猛命)があります。和名抄「色麻郡」は
「相模郷・安蘇郷・色麻郷」の各郷から成り、それぞれの各地からこの地に入ってきた氏族の出身
地と思われる。伊達神社も出身地の播磨国飾磨郡伊達郷、射楯神社の勧請という。元は中国の神、
出雲を経由して東北に鎮座されたのです。
● 須伎神社(黒川郡大衝村、祭神須佐之男)
● 加美石神社(加美郡宮崎町、祭神須佐之男)も同域。
高城という地名や高倉山というおなじみの山名があちらこちらにある。
県南では亘理町・竹ノ花横穴(彩色)仙台市愛宕山C1横穴(彩色)の古墓がある。-【続日本紀
は、対蝦夷との戦いの第一線指揮官・鎮守府軍曹として勤務する従八位上の「韓袁哲」が危険を恐
れず、先に立つて敵陣に突入した勇気を称え、三階級昇進させた。】-(宝字 4 年 759 年正月)
と伝える。
宝字 3 年に北上川を渡河し、相手側の重要地点に桃生柵(城)を作ることに成功したその功績によ
るものですが、この人物が渡来氏族の子孫であること、日本国の形成に渡来氏族が果たした役割は
大きなものがあつたことは間違いないでしょう。
宮城県栗原郡鶯沢町・御嶽神社の祭神は安閑天皇で、継体御子が東北の地にお祭りされているのは
出雲族との関係を抜きにしては考えられない。
神奈川県から宮城県まで壁画古墳をみてきました。九州戦役を終えた氏族たちは新しい任務を与え
られて東北の地に来ました。そして彼らの一部は青森県まで進出したのです。青森県八戸市丹後平
古墳群からは獅噛環頭太刀が出土する。
山形県の出雲族
出羽国では宝字 3 年雄勝城を作り、山形から秋田への第一歩を果たしたという。
長い抗争の主役を演じてきたのも、また出雲族を主体とする軍事力だつたのです。
米沢盆地の南陽市・熊野神社は、三大熊野神社の一つといわれ、太々神楽(スサノオの出てくる出
雲神楽)を伝えている。
高畠町安久津八幡神社は群集古墳群・神社・寺院が一個所に存在する古い形を示し、
神仏混交時代の延年舞は四天王寺樂人によつて当地に伝えられたという伝承を残しています。
各地に群集古墳群を造つた氏族たちもまた厳しい戦いのあけくれであつたのでしょう。
「赤湯温泉の由来から」と題し、完戸昭夫氏は次ぎのように述べている。「元来出羽国は渡来人も
多かったのだろう。(その中に)多治比・小野・大伴・阿部の上代氏族の名も散見される」と。
多治比氏は継体子孫の養育氏族、小野氏もまた出雲族と行動を伴にする氏族、火明命系尾張連の女
を祖としている。東北の東西の地に展開した出雲族は帰国することなく、日本人として定着してい
きました。
はるかな北の空に思いをすることが無かった訳ではない。
魂は船に乗って、北に帰ることを夢見たのです。
日本海に浮かぶ山口県の小さな島・見島には数百におよぶ積石墳墓が造られていた。帰ることが叶
わない人々の望郷の墓とみることが出来るのではないでしょうか。..........
134
第 12 章
仏教布教に貢献した氏族のその後
壬申の乱
大伴御行は、畿内に残留していた大伴支族・阿波布古の後裔で宗家滅亡後の大伴氏を率いた氏上
です。そして壬申の乱の吉野軍総司令官として作戦を主導した人物でした。
宗家滅亡の一因となった百済の裏切りに、心中深く「恨」を抱いた大伴氏と百済閨閥との争いが最
初に表面化したのが壬申の乱です。王家における倭の血筋と百済血筋の争いの形をとりますが、も
とはといえば欽明紀の大奥から発したと思われる同根同士。欽明天王の血を受け継いだ子孫たち同
士だつたのでしょうが、それを取り巻く豪族たちの思惑の違いが大きな争いに発展していつたので
す。従って乱の戦記に出てくる吉野側の氏族には、大伴一族とかつて親族関係を結んでいて、協力
することを約束した出雲族後裔たちが活躍しました。六世紀に畿内に入ってきた氏族たちです。
五世紀に畿内にいた倭豪族の姿はすでにここにはありません。
大伴氏は御行・馬来田・吹負・安麻呂の首脳に同族の佐伯連大目、大伴連友国、大伴朴本連大国など。
出雲族の内、高句麗氏族では舎人として従った黄文連大伴や伊賀で大海人皇子を出迎えた高田首新
家、三重県朝明川で皇子たち一行が休まれた時の朝明史、それに大狛連百枝などが功臣としてみえ
ます。出雲族の大国主系では鴨君蝦夷、三輪君高市麻呂、三輪君子首(こびと)、坂田公雷(継体
子孫)。母方が大物主の娘後裔の大分君恵尺・大分君雅見・多臣品治。多氏一族をあげて天武側に
ついたとみえました。
同じく火明命後裔・尾張連大隈。史書には名は見えないが多治比氏も入れるべきでしょう。
戦後中央官人として重用されるこの氏族の働きは近江側に、大和守備の弱点、紀の川進撃を断念さ
せたことか。この河内南部を領域とする多治比氏や和歌山に配置された旧出雲勢力の力が大きく働
いたのでした。
出雲にしか出現しない神魂命後裔には県犬養連大伴、(大椋)置始連兎。
天穂日命系の土師連馬手、土師連真敷、出雲臣狛などの出雲臣の族たちも戦闘に参加しました。
真人家の成立
このときの出雲関係氏族の活躍が、天武十三年の「継体子孫に真人姓を賜る」ことに大きく寄与し
たのではないか。いい換えるなら赤い血でかちえた賜姓であつたのでしょう。
斑鳩の地にあつた上宮家絶滅後、出雲族の悲願が真人家の成立だつたのです。
大伴氏は古くからの因縁で出雲氏族を誘い入れ、壬申の乱を勝利に導きました。
その後の真人家成立に後押ししたことは充分に想像できます。
このとき成立した真人姓は全部で十二、そのうち継体後裔ともくされるのは次ぎの七。
三国公 越前坂井郡三国に本拠を置く。紀・継体紀に三尾君堅ひの女、倭媛所生の椀子皇子が「三
国公の先祖とする」。古事記では応神の孫意富富杼王を祖とする、遡らせた異説がある。三尾君は
近江高嶋の地を最初根拠地としていましたが、三国に進出したことは継体天王の進撃路の項で話し
ておきました。
丹比(多治比)公 河内国丹比郡に本拠を置く。宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。
偉那公 宣化御子の上殖葉皇子を祖とする。(書紀)、姓氏録には宣化御子の火焔王の後とする異説。
坂田公 継体御子の中皇子を祖とする。(書紀)
酒人公 継体御子の兎皇子を祖とする。(書紀)
★酒人公には、大国主神後裔忍甕足尼(おしみかすくね)を祖とする説。(鴨脚家本B残簡、大和
国加茂朝臣条逸文)・(日本古代氏族辞典より)この異説は「大国主神=継体天王」を主張する筆
者にとっては異説ではなく当然とみる。
同族の酒人小川真人は近江国高島郡小川(滋賀県高島郡安曇町小川)の地名によると思われる。
135
継体天王と関係の深い三尾氏の根拠地でもある。
息長公・山道公 古事記に意富々杼王を祖とするとみえる。三国公・酒人公なども、ともにあると
ころから遡らせた祖先伝承である。姓氏録には坂田酒人真人は息長真人と同祖とある。
(左京皇別)
紀・記とも継体朝の子孫に関しては異なったことを書いており、混乱して所生する母系も判然とし
ないものがある。ここでは真人を賜った氏族が継体朝三王の子孫として認められたことが重要なこ
とでしょうし、これが壬申の乱における出雲族の功績によるものだろうと考えられます。
十二の真人姓を賜った氏族の一「当麻真人」を賜ったのは、天武十四年卒の当麻真人広摩呂で、
続日本紀に壬申の功者であると書かれている事からもそのことが想像できるのでした。
多治比真人家
継体朝後裔の真人姓を賜った氏族の中で、最も活躍したのは河内を本拠地とした多治比真人家でし
ょう。当主の多治比真人嶋は持統朝の右大臣、文武朝の左大臣を歴任し、子の池守・県守・広成・
広足も顕職につきました。
ときに大伴連御行は大納言の職に在り大宝元年(701年)の卒時には贈右大臣。和銅五年(71
2年)には嶋の妻、御行の妻がともに、夫の生前、死後の貞節を賞せられ五十戸を賜ったとある。
持統王朝擁立に当った大伴氏と出雲出身貴族・多治比氏の関係は、密接なものがあつたのです。
それは壬申の乱以後のことではないでしょう。
出雲に日本国を造ったときまで、遡る深い縁があつたのではないかと思われるのでした。
この氏族たちが中央政権の要職にあつたとき、大唐との文化交流を行って仏教の花を開かせます。
★大宝元年(701年)の入唐大使は粟田朝臣真人。山城国愛宕郡上粟田・下粟田郷(京都市伏見
区粟田口一帯)を本拠とし、氏神社は近江国滋賀郡にある「小野神社」ということからも分かるよ
うにあの「小野氏」の同族。
★養老元年(717年)遣唐押使は多治比真人県守。嶋の息子。
★天平四年(732年)遣唐大使に任命されたのは、県守の弟・多治比真人広成。
日本政府がどのような人選をしたのか分かるようです。
それに対して、選ばれた人たちが期待された以上の仕事を成し遂げたのは使者や従者が、日本国に
どのような文化をもたらすべきかを深く考えていたからではないでしょうか。
輝かしい栄光の日々は長く続くことはありません。この後、藤原氏の台頭による政治の変化に、
大伴氏と多治比氏は打撃を受けていきます。
日本国の古代氏族は母系社会でしたから、母方の影響を強く受けました。
藤原氏はそれを利用して天皇家の後宮に女をいれ、御子をもうけて影響力を発揮したのです。
それでいながら、自身の家は父系を固く維持しました。
この点からも藤原氏の出自は中臣を仮称した百済系の渡来人でないかという疑いが持たれいると
ころです。大伴氏とはお互いに反する相手側となりました。
天平宝字元年(757 年)の橘奈良麻呂の事件では、大伴氏とともに連携して来た多治比真人氏も打
撃を受けます。嶋の子・広足はこのとき、中納言の要職についていましたが「奈良麻呂の乱に同族
を教導しえず、これを悉く賊となしたることを責められ」職を失いました。
百済武寧王系の高野新笠を母とする桓武天皇治世時には、大伴氏は罪を得て滅亡していきます。
多治比氏はこのとき同様に罪を得ながらも大伴氏の滅亡後なんとか生き続け、関東地方に勢力を移
し活躍したという。日本仏教の伝導に深く関与した氏族が滅亡したり、中央政界を去った後はあの
輝かしい奈良時代の仏教最盛期も下降線をたどつたと考えています。
仏教因縁、願真和上招聘。
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養老元年(717年)の遣唐使・従四位下多治比真人県守に引き続き、天平四年(732年)の
遣唐大使となつたのは、県守の弟・従四位上多治比真人広成です。
多治比家が中国との外交に活躍しました。それと同持に仏教に対して多大な貢献をしたことを忘れ
ることは出来ないでしょう。
具体的には、広成が渡唐時に留学僧・栄叡(ようえい)、普照の二人を伴ったこと。
また帰路には兄の県守渡唐期の留学生下道真備・留学僧玄昉を従え経論五千余巻及び諸仏像をもた
らしたことです。
このとき、副使中臣朝臣名代の船には日本僧・栄叡(ようえい)、普照の勧請した律僧道せん、バ
ラモン僧菩提、唐人皇甫東朝、ペルシヤ人李蜜翳(りみつえい)などが乗り、来日をはたしました。
広成は天平六年暮、有明海に帰着します。飾り車に積みこまれた経論五千余巻・諸仏像は九州街
道を住民の歓呼の声を受けながら、運ばれていきました。
現地の出雲族後裔たちにとつては喜びと誇りの時です。
仏教伝導を目指して父祖が列島に上陸したときから、幾多の苦難を乗り越え、ついに仏教隆盛の時
を迎えたのでした。出雲を出発の地として、その後国内を転戦し北九州街道に配置された氏族にと
つても、また北燕国から民を率い東方仏教浄土の国建設を目指した馮弘の子孫である広成にとつて
も「わが業成れり」の思いはとくに強かったのではないでしょうか。
戒律の高僧を日本に招くこと。
留学僧・栄叡(ようえい)、普照の二人に課せられた目的の一つに戒律の高僧を列島に招き、
日本仏教の質を高めて強固な宗教地盤を築くことでした。
どのようにして、この二人の僧が選ばれたのか知る由もないが、まさに適任というほかはない。
道せん律師を日本に送り込んだ後も、さらに勧請する名僧を求め続けたという。
もうこれは二人の僧の意志というほかないでしよう。
奈良時代前期の仏教は伝来時に貢献した氏族によつて、さらにその質を高めようとする雰囲気の
中にあつたのです。仏教伝来の歴史を知ればその意味も分かってきます。
二人の行動は「命ぜられたから」という解釈ではなりたたないものであつたと考えます。
唐の天宝元年(742年)日本僧栄叡(ようえい)、普照は楊州・大明寺(長江北岸、願真記念堂
が建てられた)に願真を訪ね、次ぎのようにいう。
-【栄叡・普照師、大明寺に至り、大和上の足下に頂礼して具さに本意を述べて曰く、仏法東流し
て日本国に至れり。その法ありといへども伝法に人なし。本国にむかし聖徳太子といふ人あり、曰
く、二百年の後、聖教日本に興らんと。今このときにあたる。
願はくば和上東遊して化を興したまへと。】-(唐大和上東征伝、以下「東征伝」とする)
願真和上は、弟子たちに向かって「日本国は仏法興隆に有縁の国。だれか行く者はいないか」と。
一座の僧たちは旅中の危険を考え、黙して答える者がなかつた。
そこで和上曰く-【是は法事のためなり。何ぞ身命を惜しまん。】-私が行こうという決定をされ
たのでした。
頭脳流失を恐れる唐政府は、当時国法をもつて「わたくしに国外に出ること」を許していなかった。
国禁を犯しての計画は五度続けて失敗する。特に五次の出帆は日本を目指したが天候悪化のため漂
流し、遥か南方に流されて海南島南端・振州(現在の三亜サンヤー)につく。
中国の馮一族、日本仏教のため願真を援助。
ここで振州の別駕(べつか。地方副長官、長官は赴任しないので別駕が事実上の長官)
馮崇債(ふうしゅうさい)が迎えて次ぎのように言ったという。
-【別駕来り迎えていう、弟子(自分は)、早く和上の来りたまふを知る。昨夜の夢に、僧の姓は
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豊田というものあり、まさにこれ債が舅(きゅう、先祖)なりと。(あなた方の)間に姓の豊田と
いふ人がおられるだろうか】-
-【この間に豊田という姓の人がいなくても、和上はまことに弟子の舅に当たる方なのであろうと、
邸の中に迎えいれ斎を設けて供養した。(ご馳走をだしてもてなした)】-(東征伝)と。
馮崇債は夢をみて願真和上が来たことをいちはやく知り、さらに豊田という姓の僧がその中に出
てきて自分の祖先の生まれ変わりだと感じたという。この馮氏がもと北燕国王族出身で、遼東半島
から南宗に逃れて来た氏族の末裔だというからまさに仏教の因縁というほかはない。
高句麗本紀長寿王の二十六年(438年)には、馮一族を迎えに来た宗の軍勢と高句麗軍との間に
戦闘が起こつたことが記録されている。
混乱の中、日本列島と宗に別れて移住した馮氏がそれぞれに子孫を残し、中国の馮氏は嶺南(広東・
広西地方)に勢力を有するようになつた。
夢に出てきた豊田という姓の人物については、古くから海南島と日本人との関係という点から論議
された時代もあつたのです。本書をお読みの方々には「馮氏」という観点からもロマンを感じてい
ただけるのではないでしょうか。
馮氏が別れて移動した時からこのときまで、おおよそ三百年たつている。
常に接触していれば記憶も続くでしようが、お互いに時代の波に翻弄され連絡も絶えていただろう。
なぜ豊田という姓が債の頭の中に浮かんだかは謎というしかないでしょう。
願真一行が日本仏教の興隆を願って渡海し、途中天候悪化にあつて海南島に漂着した事情は、嶺
南の馮一族に知れ渡りました。
万寧(ワンニン)の馮若芳を始め広東、広西省の馮一族がこぞつて歓迎し招待をしました。
願真再起のための資金を提供したのでしょう。
廉江(リエンチアン)、博白(ポーパイ)、蒼梧(ツアソウー)などを巡錫した一行はは桂林(コ
イリン)都督、馮古璞(ふうこはく)の招待を受け、要請に応えて、桂州開元寺において戒律を授
ける。-【その所の都督、七十四州の官人、選挙試学の人(官人試験受験者)、ならびにこの州に
集まり、都督に随いて菩薩戒(大乗戒・悪をとどめ、善行を積み人々のために尽くすことの教え、
仏門に入るためには多くの戒律を受けなければならない)を受ける人(一般人)、その数無量なり
(数え切れない)】-(東征伝)と。
一行は至れり尽くせりの待遇にいつまでも甘えるわけにはいきません。日本に渡る決意はいささか
も揺ぐことなくその手段を求めて、広州(コワンチヨウ)に下ることになります。
当時、広州は珠江(チューチアン)デルタの北に位置する華南最大の貿易都市で広東の政治中心地
でもあつた。現在でも下流域の香港・マカオとともに船舶の往来はにぎやかで、便船を求めての旅
程であったのではないかと思われます。
広州太守・慮煥(ろかん)の招待を受けたのを期に、桂林を去るため船に乗りこみました。
桂林都督、馮古璞(ふうこはく)は願真たちの渡海成功を願いつつも、名残を惜しんで親しく船上
まで一行を送り哀切しきりであつたという。
願真たちは馮氏一族の庇護を得て海南島の蛮地を脱することが出来ました。
振州の別駕・馮崇債は何百という兵士を護衛につけて中国本土に送り返しました。
嶺南各地の馮氏もまた援助の手を差し伸べたのです。
彼らが日本国を意識していたのかどうかは分かりません。
ただ日本仏教に対して中国南部の馮氏一族が貢献したことだけは確かなことでした。
日本僧栄叡(ようえい)客死
桂林からの川下りは風光明媚な観光名所として知られていますが、このときの願真には風景を楽
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しむ余裕はなかつたのではないか。日本僧栄叡の病状悪化です。
端州(現在の肇慶チャオチン)の竜興寺において卒すという。
チャオチンは広州の西(鉄道で約二時間半)西江の北岸にあり、端渓硯で有名な所です。
市の北東にある鼎湖山山腹に、この地において死亡した日本僧栄叡の記念碑が中国関係者によって
建てられている。
続日本紀は、天平宝字七年(763年)五月六日条に
「和上は(栄叡の死に)泣き悲しんで失明した」としている。
この後広州での滞在を切り上げた一行は北江を利用して故郷の楊州(ヤンチョウ)に帰来しました。
第五次行は天宝七年(748年)七月の漂流から約二年間南方を巡錫し、出発地にもどつたことに
なります。
日本では、ちょうど同じ年の天平勝宝二年(750年)遣唐使派遣計画がたてられ、九月二十四日
大使・藤原清河、副使大伴古麻呂が任命され準備に当たることとなりました。
同四年(752年)閏三月大使清河・副使古麻呂に後から加わった吉備真備の三人に節刀が
授けられ、判官として大伴御笠、高麗(こま)大山、布施人主らが従います。
天宝十二年(753年)唐の長安大明宮において行われた正月元旦拝賀の儀式には百官参朝し、ま
た海外万国の使者が参列しました。このときの席次争いの顛末が古麻呂によつて帰国後に報告され
ています。
日本からの遣唐船が到着したと聞き、古麻呂らに面談して願真たちの事情を詳しく話し、
日本に招聘すべき人物であるとしたのは、日本僧普照だつたのでしょう。
多治比氏とは昔から縁がある大伴古麻呂は、天平次の遣唐大使・広成が伴った二人の僧のことは
よく知っていただろうし、当時準判官として同行した大伴首名からも聞いている。
渡唐前の送別の宴に同座した多治比鷹主は、古麻呂に次ぎの一首を贈る。「唐国(からくに)に行
き足はして帰り来む大丈夫(ますらたけを)に神酒たてまつる」と激励と期待をしています。
諸般の事情で密航という形をとらざるを得なくなつたが、天宝十二年十月十九日夜、暗闇にまぎれ
て願真とその弟子二十四人は準備していた河川用の船で、川を下り日本国遣唐大使らの船四隻が停
泊していた揚子江口の常熟(チャンシュウ)に向かい、二十三日には到着して日本船に分乗する。
この度の大使藤原清河は、願真一行を同行させることにあまり熱心でなかったのでしょう。
副使大伴古麻呂の主導で事は進められたのです。
大使の乗船する第一船を除く三隻に分乗したということからもそのことが窺われます。
しかし唐僧たちの乗船は清河の耳に入りました。
「唐の官憲が和上の捜索をする危険がある。また一旦出航しても風によつては唐国の領海に
吹き戻され、僧たちの密航が発覚する危険があるだろう。」
とせっかく乗船した僧たちをみな下船させてしまいました。
大伴古麻呂の仏教貢献
十一月十日夜、古麻呂はひそかに和上たちを招き入れ、自らの乗船する第二船に全員収容しまし
た。このことがなければ、願真たちも日本僧普照も日本に渡ってくることはなかつたでしょう。
六次目の渡海は成功しました。
奈良東大寺に入った願真は勝宝六年(754年)四月、初めて大仏殿前に戒壇をたて
聖武天皇に菩薩戒を授け、皇后・皇太子(孝謙天皇)、その他四百四十余人が受戒したという。
(東征伝)(注、勝宝六年は孝謙天皇の御世)
日本仏教界に新たな風が吹きこんだ瞬間でした。多治比真人広成が種を蒔き、二人の日本僧が辛苦
に耐え、苦難を乗り越えさらに願真の不退転の精神と中国南部の馮氏一族の援助があって最後に、
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大伴古麻呂が花を咲かせました。
仏教伝来に関わった氏族後裔たちが、ここにも係っている。
「因縁のあること」といわなければならないのです。
願真によつて東大寺戒壇が築かれ、日本仏教の形が整えられただけではありません。
次ぎの世代に遺徳が引き継がれて行きました。
連鎖する歴史の糸
最澄の日本天台宗創設がそれです。俗名三津首広野は近江国滋賀郡古市郷(現大津市)の
戸主三津首浄足の戸口、百枝を父として神護景雲元年(767年)に誕生しました。
近江琵琶湖西岸の小豪族で「先祖は後漢孝献帝苗裔、登万貴王也。」(叡山大師伝)とみえる。
付近には孝献帝苗裔の諸氏族が本拠地としていました。
孝献帝の男美波夜王の後裔・志賀穴太村主、志賀忌寸、など。同系四世孫山陽公の後裔という当宗
忌寸は楽浪郡(高句麗の都ピョンヤン)から渡来して来たという。倭国の大王墓である応神陵墓の
前に氏神神社を建て聖域を冒している状況は継体天王の項で説明しました。
これらの氏族が半島の北から日本列島の出雲に入りさらに移動してきたことは、古事記に書かれて
いる八王子山に祭った出雲系神社の日吉神社の存在からも推察できるでしょう。仏教をもつて列島
に来た人々です。八王子という名称は仏教に基づきます。
最澄はその氏族の家に生まれ、12歳で近江国分寺僧・行表について修行し、
15歳で国分寺僧最寂死亡の後をついで得度、20歳東大寺にて受戒。
帰化した鑑真のもたらした典籍のなかの天台宗に関するものに導かれ
その後比叡山に入って修業に励み、法華経を根本とする日本天台宗を起す。
師の行表は大和国葛上郡高宮郷の檜前調使案磨(ひのくまちょうしくらみがき)の男、大安寺に
いた唐僧道せんの弟子でした。
比叡山延暦寺創建は788年のこととされている。守護神社となつたのは大津市の日吉神社です。
出雲神の大山咋神と大巳貴神(大国主・大物主神)を祭っているのはご存知のとおり、
大国主命を仏教守護の大黒天に擬したのも最澄であつたという。
延暦寺初代俗別当となつた大伴国道の書簡には「祖先の大伴古麻呂が遣唐副使として、
願真を連れ帰ったことが日本の天台興隆の基礎となる。」と。
もちろん、それには多治比真人兄弟の関与も大きい。
天平次に帰化した唐僧道せんは弟子行表を通し、最澄に影響を与えました。
奈良紀後半の時代、最澄と並んで仏教界をリードした空海は讃岐佐伯直の出身。
大伴氏の一族です。
こうしてみると織り成す歴史の糸は絡み合いながら後世へと繋がっていく様に感じられる
ではありませんか。
高句麗氏族のことも話しておきましょう。
707年関東秩父山地において和銅(自然銅)が発見され採掘が始まると、
この銅をもつて貨幣の鋳造が開始されます。
催鋳銭司となつたのは多治比真人三宅麻呂でした。
以後多治比氏の勢力が武蔵国に築かれます。
和銅四年(711年)多胡郡設立にも大きく寄与したことが、吉井町に残る多胡碑に刻まれた
左中弁・正五位下多治比真人の名から想像されます。
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さらに霊亀二年(716年)五月武蔵国高麗郡の設立が行われました。
「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七カ国にいる高麗人千七百九十五人を
武蔵国に移住させ、初めて高麗郡を置いた。」(続日本紀)
高句麗氏族の分布については、ほぼ全国的に及んでいることは本書にも書いてあります。
そのうちで関東近県の高麗人の中から分派して埼玉県に高麗郡(現入間郡)を作ったのは、
この地方の鉱山開発を重視した多治比氏の意向が働いたものといえます。
多治比氏は相次いで武蔵守を任命され、ついに土着して秩父郡石田牧の別当となり、その子孫は秩
父・児玉・入間の諸郡に勢力を振るったという。その勢力(丹党)の中に高麗氏が中核として存在
したことはいうまでもない。継体子孫の多治比氏と高麗氏族の関係も、五世紀から続く長い歴史の
糸の中で語られなくてはならないのです。
兵力を分派した高句麗本国の衰退
継体天王の要請に応え、高句麗国長寿王は仏教王国建設のために自国の衰退を考慮しながらも、
軍勢の列島派遣を決断しました。
当時、百済の都・漢城を攻略して百済王や王族を殺し、都を南方へと移転(575年)させたり、
半島東海岸の「北新羅」を吸収併合するなど強い勢力であつた高句麗軍の軍事行動は急激に力を減
じていきました。
そのことはあらかじめ予想されていたことです。
長寿王は継体天王との約束で、仏教に帰依した大伴氏が従来どおり半島南部を取り仕切り、
百済とともに高句麗の友好国となることを信じていたのでした。
そうなれば半島全体に仏教の教えが伝わり、戦いのない平和な地へと変わっていくものと考えたの
でしょう。継体朝や九州大伴王朝が存続しているならきつとそうなつていたと思います。しかし、
531年のクーデターによつて情勢は大きく変化してしまいました。欽明天王は渡来氏族の帰順や
豪族たちの「国譲り」を成功させて、国内の騎馬民族を自軍陣営に執りこんでしまいます。
帰還を予定していた仏教遠征軍は、帰国することなく大和政権に忠実な帰化の道を選択したのでし
た。それに引き続く九州王朝の崩壊は、高句麗本国の思惑外のできごとです。日本列島は仏教国に
なつたけれど、長寿王の描いていた半島での共存共栄の夢ははかなく消えました。
欽明天王は半島南部の統治を百済に任せ、これに反発した任那諸国の独立気運を発生させてしまい
ます。
任那の一国であつた鶏林国は、列島から引き揚げてきた倭の勢力を糾合して独立し、503年「新
羅」を襲名して北へ勢力を伸ばしていく。
それに引き換え、高句麗は468年には悉直州城(江原道三陟郡三陟邑)を奪って江原道を
制圧していたのに、ずるずると後退していきました。
軍事的兵力が著しく減少し、かつてのような勢力はなくなつていたのです。
新羅本紀智證王505年条には早くも次ぎのようなことが書かれている、
-【六年春二月、王が親しく国内の州・郡・県を定めた。悉直州を置いて、
異斯夫を軍主(地方長官)とした。】-と。
さらに556年には鶏林新羅によつて、半島東部の朔州・安辺郡(元山付近)に地方統治の
州都が置かれ、真興王巡狩碑が咸鏡南道に設置されている(黄草嶺碑、磨雲嶺碑)。
倭国と高句麗が覇権を争っていた、かつての旧新羅の地(穢・沃租)はすべて高句麗の手から
落ちる砂のように失われていきました。半島東海岸だけでなく、高句麗は膨張していた領土の全域
から撤退して自国の防衛範囲を縮小していきます。
550年忠清北道に侵入した新羅は、高句麗・百済の両勢力を駆逐して道薩城などを奪い、翌55
1年には真興王自ら巡狩して娘城(忠北、清州市)に留まり、高句麗の十郡を制圧すると新州(現
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在のソウル市を中心とした地域)とし、金武力を軍主としました。
高句麗は現有の勢力に見合った地域に退いたのです。
高句麗、内部混乱と唐の外圧
642年西部大人の蓋蘇文が当時の高句麗王栄留王を殺害するという事件が起きました。
王殺害の原因については、よく分かっていない。
三国史記列伝には「彼が凶悪非道であるため、大人たちや王は密議して彼を殺そうと謀り、
事がもれてかえつて大臣など百余人と王も犠牲になった」という。
蓋蘇文の姓は泉氏といい、容貌はいさましく、その意気はすぐれていたという。
人の妬みを受けるような傑出した人物であつたに違いない。
あるいは王の弟太陽王に親しく、太陽王の死に陰謀を感じ取っていたのか。
一気に対抗する勢力を一掃して宝臓王(太陽王の子)を立てました。
治世に力を発揮して国内の混乱を短期間に鎮めるなど、国政に努めます。
ただ高句麗の服従を狙っていた唐に介入の糸口を与えてしまいました。
645年、唐太宗は「蓋蘇文が君主を殺し、国政を専断している」と親征を実施する。
高句麗も勇戦して撃退するですが、このことが最終的に高句麗滅亡へとつながっていく。
日本書紀皇極元年条には高麗(高句麗)の使人来朝のことが書かれている。
-【金銀などの貢献が終わると、使者は「去年の六月に弟王子(栄留王の弟太陽王)がおなく
なりになり、秋九月には、大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)が大王を殺したうえ、
伊梨渠世斯(いりこせし)など百八十余人を殺害して、弟王子の子を王とし、
自分の同族の都須流金流(つするこんる)を大臣といたしました。】-と申し上げた。という。
敏達天王の時代には高麗の使人がたびたび来訪していた。
推古天王紀には高句麗に大伴連囓を使者として派遣したことが書かれている。
高句麗僧の来朝記事もあるし、大興王が造仏支援のため黄金三百両を喜捨したこともある。
継続して外交が行われていたのでしょう。
皇極紀の中に書かれている高句麗大臣伊梨柯須弥(いりかすみ)が蓋蘇文らしい。
使者は詳細な説明を大和政権にしたものと思われます。半島の歴史書三国史記より詳しい
事情が書紀に書かれています。
来訪の答礼使として、派遣されたのは出雲族・火明命後裔の津守連大海で、大和王権が
高麗と外交交渉にあたる人物をどのように選定しているかが分かるのでしょう。
蓋蘇文の死後になつて、長子の男生と弟の男建・男産と仲違いになる。
男生は家臣を連れて唐国に帰参し、唐の将軍を導いて平壌を攻めてついに高句麗は滅びました。
内部分裂により強国が衰える様はかつての倭国の辿った道と同じです。
倭国の内部分裂は、仏教の到来による宗教の争いだったが、高句麗の崩壊原因はなんであつたのか。
三国史記の著者・金富軾は次ぎのように語る。
-【上下が和し、その国民が睦まじいときは、大国といえどもこれを取ることができなかつた。
権力者が国に不義を働き、民に不仁を行うようになって、人々の怨みが生じると(国は)崩壊する。】
-と。この歳、668年であつた。
・・・・・・・・・・・・後継国の勃海は「日本は兄弟の国」と呼び、交流を続けた。・・・・・・・・・・・
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古代史の謎を解明する一つのキーワード「三面相の公式」
三面相の公式
三面相とは継体・神武・大国主神の三人の人物が、本当は一人の実像によつてそれぞれに
書き分けられているのではないかということです。上の三人物には、共通するものがありました。
それは「この国を平定する」ということです。
これらの方はこの国を平定されたという共通点を持つていられます。
大国主神は「出雲から倭国に上り」、大伴氏の祖先・少彦名神と協力して国を作りかためた。
(古事記)という。
神武は東征して「倭国の賊」(紀・神武紀)を制圧し、国土を統一しました。
もちろん大伴氏が兵を率い先頭を進んだことが書かれています。
継体はご存知のように倭の五王の後継者となり、新しい国を作ったと考えられます。
大伴氏が継体擁立に働いたことは確実です。
そしてそれぞれに倭国という言葉が紀には出てきました。これを「やまと」と呼びかえては
ならないのだろうと思います。
ここに出てくる人物の相手は倭国だつたのではありませんか。
「この国を平定する」というのは倭国を平定したことだつたのです。
三人の人物の平定には、三回とも倭国豪族であつた大伴氏が関わっていることも重要な点でした。
このことも共通するのです。
倭国が滅ぶときには、倭国豪族が内部分裂したという認識が必要になつてきます。
「出雲に関係する三人物」
もうひとつ共通するものがありました。それは「出雲」です。
注意深く見ていくと上の人物は出雲に関係するように見うけられました。
継体天王は、五世紀の倭国豪族を倒して大和に入りましたが、その勢力は渡来氏族を中心と
する出雲族に、大伴氏などの旧倭国豪族で継体天王を支持する勢力を合わせたものでした。
出雲勢力という言葉を使っています。
継体軍の主力となったのは越前ではなく、出雲なのでした。
神武も合成されているけれど、東征説話の80%ぐらいを占める畿内進撃描写では
「継体の進撃状態」がここに挿入されている。」と複数の学者によつて指摘されています。
ほかに「日本」という言葉や敵となった氏族に関連して「倭国」という言葉が使われている。
神武は倭国の豪族たちを打ち倒し、大和を制圧したのでしょう。
その象徴的な出来事は、「賊を制圧した後に葛城の地を剣根に与えた」ということです。
五世紀の大王家の最も有力な豪族「葛城氏の滅亡」が神武紀に入っている。
神武は葛城氏を亡ぼし、その領土を大伴氏や出雲族に分配したのでした。
さらに、この方が出雲に関係するだろうとするのは、次ぎのことがあるからです。
神武東征説話に出てくる「やた烏」・三本足の烏は出雲に原点があります。
美保神社の青柴垣神事には、三本足の神器が登場してきますし、スサノオを祭る熊野神社の
神旗はこのカラスでした。神武以前に出雲で「やた烏」は使われているのです。
さらに、烏に化身して神武を導いたとされる下鴨神社の祭神・鴨建角身命は神魂命の後裔と称し、
これは出雲神話だけに登場する神様名でした。また上鴨神社の由来には、出雲神が登場します。
東征紀の高倉下命は火明命の子孫でした。同族には多治比氏や尾張氏など継体朝と密切な
143
関係を結ぶ氏族がいます。
播磨風土記では火明命は大国主神の子と書かれ、この高倉下命は出雲族だつたのでした。
神武は出雲勢力を率いて畿内に入ったのです。
大国主神はどうでしょうか。出雲出身だが神話時代の人ではない。
播磨風土記では歴史時代の人物天日矛と戦って、追い出したという記事が書いていました。
播磨の地に入った漢人刀良や伊勢衣縫いの祖先たちが祭祀したのは、
伊和大神(大国主神の別名)の子伊勢都彦・伊勢都媛です。
大国主神は新漢人たちも一緒に引き連れていたのではありませんか。
新漢人といわれる渡来人の氏神は出雲神でした。渡来した高句麗氏族の氏神も出雲神です。
出雲族の中核をなす高句麗氏族は、渡来後すぐに古墳を作ります。
五世紀末に出現するプレ群集古墳から六世紀・七世紀と群集古墳を作り続ける、
それだけの力をもつて渡来してきました。
高句麗五部の氏族がばらばらに故郷を捨てて、列島に辿りついたのではないのです。
戦闘集団として、継体天王に招かれて渡来したと考えました。
神武の兄の五瀬命は、大国主の兄五十猛命ではありませんか。
そして継体の兄・王仁だつたのでは。三面相の兄もまた三面相なのです。
このように「国の平定と出雲」というキーワードが共通する三人は同一人物でしょうし、
時代を変えて出現しますが「倭国を平定」する時期は同一で、五世紀末だったと考えられるです。
日本の歴史書では、その時期の出来事が分散して出てきているのではないだろうか。
そこで継体天王が実像と考えました。神武・大国主神は虚像だろうと思います。
倭国が滅んだことを隠すために虚像を歴史の先頭に配置して、太古の昔から日本国が存在
していたことに「装おう」のでした。
一人の人物が仮面で、あちらこちらに出現する。つまり三面相なのです。
日本の歴史書には三面相が登場している。
これを解くには共通項を探せば良いということが分かってきています。
キーワードは「出雲と平定」なのでした。
ここでの歴史公式は
AB=1+a+b‥‥‥‥‥ABは継体天王(実像)
a は大国主(虚像)
b は神武 (虚像)
これにはa=ABの一部,b=ABの一部‥‥でもあるのです。
aとbは置き換えが可能なのでしょう。
(ただし、神武紀には別の要素も入っているから「畿内進撃に限定」してということです。)
これを三面相の公式と呼びましょう。
とはいえ公式として成り立つのにはいろいろな検証が必要です。
また公式が使えるものでなくてはなりません。
どのように使うのか、一つの事例として古代氏族の解明に役立つのではないかと考えています。
普通に考えると難解な氏族も、公式を使えばたちどころにその氏族の性質が分かってくる。
そんなことを成果としてあげることが出来るなら役に立つ公式になるのではないでしょうか。
【事例 古代氏族・多氏の解明】
古代氏族に多(太・大・意富・於保にも作る)氏という氏族がいます。
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現在の奈良県磯城郡田原本町(大和国十市郡飫富郷)を本拠としたという。
この場合の本拠というは移動して来て、ここに住みついたと考えるとよい。そんな程度の本拠です。
当然移動元というのは考えられます。それについては後述。
この氏族は神武天皇の皇子・神八井耳命(かみやいみみのみこと)の後裔と称しました。
母方は大物主神の女・媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)です。(古事記)
紀では大物主神の代わりに事代主神とする異説を掲げている。
氏族の一員である太朝臣安麻呂が古事記を編纂したのだから、こちらを尊重して紀の記述は
一応退けなくてはならない。母方が事代主神であつたならそう書くでしょうから。
後から書いた紀の編者は、大物主神(遅れて出雲に到来した神・多分に騎馬民族の長と思われる)
が皇統に入るのはまずいと考え、かつ氏族が納得できる事代主神に変更したのではないだろうか。
ここにある神武朝の出雲閨閥の発生位置が歴史上の位置であるかどうか、
また閨閥が事代主神系かそうでないかということも検討する必要があるのでしょう。
いずれにしても神話の神の娘と神武が婚姻をしている。
その子孫を自称する多氏の解釈は普通に考える人達を惑わし、難解な氏族にしているのでした。
だからこの氏族について語る学者は少ないのではないですか。
文献としては佐伯有清氏「新撰姓氏録の研究」があるようですが、「日本古代氏族辞典」は
同氏の編集で、この中に書かれている多氏の記述に謎を解くようなヒントがあるわけではない。
谷川健一氏の「青銅の神の足跡」には、多氏について
-【多氏およびその同族の伊勢の舟木直と、忍海漢人と、それに呉部の地名が同一地域に登場する。
これは多氏が朝鮮半島からの渡来人であることを示唆してはいないだろうか。その出自が百済であ
るか加羅であるか、それをきわめるのはむずかしい。】-という記述が有ります。
「多氏が渡来人ではないか」という示唆をしている。
この根拠は三重県の員弁郡(いなべぐん)付近に上の氏族がいるということらしい。
為奈部を称する氏族には百済人(これを氏は呉部と解釈している)もいたが、姓氏録には
「伊香我色乎命之後」という物部氏後裔もいる。
員弁郡が物部の伴造であつたことを思えば根拠が希薄になるでしょう。
この本には「大国主神」が出てくるのは一個所だけ、騎馬民族も高句麗氏族も出てこない。
員弁郡の隣に朝明郡があるのだが、そこに朝明史という高句麗氏族がいることも出てこない
不思議な本である。
多氏の母方が出雲族であるというのに、その方面からの探求はまったくされていない。
一般的にむつかしいことや解釈できないことにタツチしないというやり方はよくとられます。
「出雲」からのアプローチが困難だつたのでしょうか。それほど難解な氏族といえるのでした。
だがなんとなく渡来人の後裔ではないかという推測がされている。
それは三重県だけの話ではないのでしょう。この氏族の性質からみて、そのような感じがする
ことは私も同じように感じていました。
それにしても、半島のどこから来たかその理解は難しいと同氏はいう。
公式の適用
そこで三面相の公式を当てはめて見ます。
AB=1+a+b…・継体の真像=継体+大国主+神武
a=ABの一部、 b=ABの一部
多氏の父方、神武は継体天王の一部であり、大国主神と置き換えることも出来ます。
神武と大物主命の女が結婚することに納得できなくても、大国主と大物主命の女が婚姻する
145
ことはあり得ます。
「出雲に早く来た渡来人後裔大国主と同じく出雲に遅れてきた渡来人大物主が固い絆を結ぶ
ため氏族同士の婚姻をした。」
この国を平定するため、国引きをして外国から氏族を呼び寄せました。平定に貢献した大物主に
対して丁重な地位を与えたことは十分に考えられることです。
この大物主を五世紀末に渡来して来た高句麗氏族の長と推定するなら、
大国主は継体天王そのものでなくてはなりません。
公式を使えば、多氏の性質が見えてきました。
つまり、継体天王と渡来高句麗氏族の長の女による御子が「神八井耳」で、
多氏はその子孫だつたのではありませんか。
つまり、この氏族は継体と高句麗氏族に関わりを持つ氏族であろう。
検証
それではこの公式によって導き出された結果について検証をします。
☆ 多氏は出雲から畿内に入ったのではないですか。
大和の磯城郡(しきぐん)に本拠を築く前は、出雲にいたのでしょう。
出雲風土記の出雲国郡司には、出雲郡に少領として「大臣」の名がみえます。
出雲郡は代々大領が日置氏であり、諏訪神社の御柱に囲まれる地域とともに大和政権から
国譲りの条件として高句麗氏族に賜った土地と推定される所でした。
ここでは大臣が日置氏という高句麗氏族の近所に住んでいることや、同じ郡の郡領となつている
ことを重視しなければならないでしょう。
治外法権として与えられた地に少領として、存在しているのでした。
「青銅の神の」に出てくる同族の伊勢舟木直の場合も高句麗氏族、朝明(あさけ)史が
近所に住んでいる。
雄略紀の倭国豪族・伊勢朝日郎(あさけのいらつこ)の滅亡も紀氏、葛城氏などと同様に
倭国滅亡の宗教戦争でしたから、伊勢の豪族を制圧したのは継体軍としての物部氏と
渡来氏族の連合軍であつたのです。
朝日郎の領地は、彼らによって占領されたのでした。
多氏は渡来氏族・高句麗族の近所に住んで居る。このことをもう少しみてみましょう。
☆ 同族・茨田連の場合。
神武の子、彦八井耳を祖と称し多氏の一族であつた。それに継体天王の閨閥で、
茨田連小望の女関媛は継体との間に三女を生んでいる。
神武の子孫が継体天王と密接に繋がっていることを指摘しましょう。
継体が最初に宮を作り、即位したのは楠葉宮(大阪市枚方市)でした。
この近辺に布陣したのは、出雲勢力であったのです。綴喜郡加茂町・山城町・井出町にかけて、
上狛・下狛・棚倉・多賀の地名や高神社・高麗寺などがある。
門真市の茨田連もこうした出雲陣営の一つとして配置されたのではないでしょうか。
継体と密切な関係を持っており、付近に高句麗氏族がいることも共通している。
☆ 阿蘇氏(科野国造・金指舎人)の場合
阿蘇氏は多氏同祖。科野国造家から九州熊本へ移動したという。
このほかにも多氏同族の九州へ移動した氏族は火君・大分君・筑紫の三宅連など。
移動理由は九州王朝を倒すためだつたのではないですか。
146
阿蘇氏がいる熊本には壁画古墳が密集しているし、チプサン古墳やオプサン古墳などの
ハングル名古墳が有る。氏族には高句麗氏族の日置氏がいます。
信濃の金指舎人は同祖であるという理由で多氏を賜りました。(貞観五年)
この氏族は静岡県から関東に展開し、諏訪神社下社の大祝を勤めました。
欽明紀の国譲り時に舎人となった出雲族だつたことを指摘できるでしょう。
この人達が出雲族であること。神武の子を祖先とする多氏の同族であることは、
三面相の公式の妥当性を証明するものだと考えますがいかが。
信濃にも甲斐にも積み石墳がありますし、高句麗系渡来人は多く史上に表れています。
こうしてみると、多氏は高句麗氏族を束ねる役を務めていたのではないだろうか。
☆ 関東以北の多氏一族について
古事記には一族として長狭の国造、常陸の那珂国造、道奥の石城国造をあげています。
長狭は千葉夷隅郡南方の安房郡にかけてと推定されていますが、和名抄長狭郡には
日置郷・加茂郷があり、出雲氏族の進出を裏付けています。
さらに、この地の「小高」という地名は東北各地に広がった。
常陸の那珂国は水戸市を中心とする那珂川沿いの地域で、太平洋岸・壁画古墳ベルト地帯の
中核をなしている。
ひたちなか市の虎塚古墳などの著名な壁画古墳、その他横穴墓群が存在し九州戦役終了後
に移動して来たと推測されるでしょう。
大洗の式内社酒烈磯前神社は大巳貴命と少彦名命を祭神としている。
那珂郡の北側は多珂郡で昔は広大な領域であつたため、分割したと伝えられている。
石城国造のいたいわき市は多珂郡のなかにあつたのです。多珂郡は高句麗氏族の居住していた場所
からとられた名前で、東北各地に移動し各地に多珂(多賀)の地名や多珂神社を残している。
(福島県浜通り、小高町と
原町市の中間の「高」にあ
る式内社名神大の格式を
誇る多珂神社)日本屈指の
古社、東北各地の多珂神社
の根源という。狛氏族の東
北移動は六世紀中から後
半。
(多珂神社、正面からみたお姿)
(東北の神社は大黒天像
を祭る神社が多いがここ
は七福神像であつた)
いわき市大国魂神社は国
造の氏神とされ、大巳貴
命、事代主神、少彦名命
を祭っている。
(多氏一族の石城国造が氏神としたのは出雲神であつた。)
これらの氏族が蝦夷対策のため、白河の関やいわき勿来の関に配置され、
さらに白河軍団・安積軍団や行方軍団の構成員になりました。
147
狛造たちの賜姓にその姿をみることができます。
白河の関には棚倉という地名がある。
さきにあげた京都府綴喜郡の狛氏族との関連があるのです。
狛造たちが奉祭したのは出雲神でした。都々古別神社には大国主神の神像がある。
東北に派遣された高句麗氏族は出雲神を氏神としたことは明かです。
そして多氏もまた出雲神を氏神として奉祭したのでした。
☆ 佐伯有清氏編の日本古代氏族辞典によると、
【多氏の氏人が史料にあらわれるのは日本書紀天智即位前紀の多臣蒋敷(こもしき)が最初で、
その妹が百済王子豊璋の妻になつたとある。】
神武の子と称しながら、史上に出てくるのは七世紀後半だというのは、この氏族が比較的新しい
氏族であつたという証拠でしょう。
豊璋は百済国再建のため、列島から旧百済に上陸したが再建ならず数人を従えて船で高句麗に
退去したという。妻の縁故を求めて高句麗に行ったのではないかと考えています。
☆ 天武天王は紀・記の編纂を目指し、日本国が古い時代から存在して一系の皇統が続いた
と装うのですが、なぜ皇祖の子孫である多氏が「真人」の姓を賜らなかったのでしょうか。
壬申の乱において多氏一族は多臣品治(ほんち)を初め大分君たちの活躍があつたのです。
そのことが謎として残ります。
想像してみると天武の時代には多氏について神武の子孫という認識がなかつた。
安麻呂の時代にいたつて日本という国を先頭に置くならば、大物主神の血を引くわが氏族は
皇祖の子孫になつて当然と考えたのだろう。
古事記は神武朝の閨閥を師木県主とする。(紀は事代主命)
式内大社志貴御県坐神社(奈良県桜井市大字三輪字金屋)は祭神大巳貴神を祭る。
河内の志紀県主は多氏の一族。こうしてみると安麻呂の書いた古事記は日本国の成立を、
神武と出雲閨閥大物主系(高句麗氏族の長)の合体によつて構成しているのでした。
紀はそれを修正して神武と出雲閨閥事代主系の合体にする。
そのようにみていくと日本歴史書には卑弥呼以前の話も、倭国が九州と半島南部の諸国によつて
構成されていた時代の話もないということが本書により明かにされたと思います。
これが歴史の公式から導き出された一つの結論でしょうか。
公式をいろいろ使って見てください。
たとえば「小野氏」など、日本全国に展開するこの氏族は神武朝の大王の子孫と称していますが、
母方は尾張連の女でした。
出雲族のうち、火明命系ですから漢人の可能性があります。
近江西岸という渡来氏族が密集する場所に本拠地がありました。
小野妹子など中国語が出来たのではないですか。
そんなことを調べるには一つの道具として、公式に当てはめてみるというのもおもしろいのでは
ないでしょうか。
付表
第一表
第二表
第三表
第四表
古代銅鋺類の所在と年代
双竜(単竜・獅噛)環頭太刀・双魚佩出土地
列島の壁画古墳(帰化渡来人の遺跡)
日本列島に居住する帰化高句麗氏族の代表的な氏族名
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記紀神話の全て
記・紀の研究(井上修一著)を編集
1.日本神話概略
我が国古代の伝承を今日に伝えている書物は,古事記と日本書紀の二つだけである。古事記も日本
書紀もいわゆる神代時代から始まって,古事記は第三十三代推古天皇まで,日本書紀は第四十一代
持統天皇までの事跡を扱っている。古事記は前半部分の方が詳しく,日本書紀は後半部分の方が記
事が詳しくなる。又,古事記の方が古くからの言葉をそのまま残そうとしている。現在では母音は
あいうえおの五つしかないが,古事記は当時八つあった母音を異なる漢字で書き分けている。とも
かく,それぞれ研究の対象に選べば,それだけで一生費せそうな内容を持った重要な文献である事
は間違いない。この二つの書物の初めの内容はいずれも神話であり,古事記の上巻は大きく五つに
分かれている。
.國生み神話.....天地開闢(かいびゃく)から,イザナギ,イザナミの話が中心。
.高天原神話.....アマテラスとスサノオを中心とした,神の國高天原での話。
.出雲神話.......高天原を追放されたスサノオが出雲で退治する八俣のオロチや因幡の白兎の話。
.日向神話.......天孫降臨から,海幸彦・山幸彦等の物語。
.神武東征神話...日向の高千穂から東を目指して遠征する神武天皇の東征記。
日本神話とは、「古事記」と「日本書紀」の両書に載せられた神話を総称するときの呼称である。
一部、地方の「風土記」の記述も加わる。神話は、高天原の神々を中心とする記述がその大半を占
める。その出典となる文献は決して多くはない。本来日本各地には、それぞれの形で何らかの自然
信仰や伝承があったと思われるが、大和王権の支配が広がるにつれてそのいずれもが国津神(くに
つかみ)または「まつろわぬ神」という形に歪められて「高天原神話」の中に糾合されてしまった
と考えられている。後世まで大和王権などの日本の中央権力の支配を受けなかったアイヌや琉球に
は、それぞれの独自の神話が存在している。「記紀の概要」の項で記述したように、古事記上巻は
「序」と「神代」で構成され、日本書紀全30巻の構成は、1・2巻を神代上・下として神話の記
述にあてている。ここに書かれた「国生み」や「高天原」「大国主命」の物語などを日本神話と呼
ぶのであるが、最近は教科書にもその内容が記述されないので、我が国は世界でも希有な、自国民
が自国の神話を知らない民族になりつつある。
和銅5年(712)に成立した古事記と、養老4年(720)に成立した日本書紀とでは、みてきたよ
うにその書物の性格や内容も違っており、文体も、前者は和語を交え変体漢文、後者は純粋漢文で
書かれているが、ともに、天地の始まり(開闢神話)から初代天皇・神武の誕生に至る神々の物語
を語っている。共通する素材や内容をもつ一方で、大きく異なる部分も持っており、両者を一括し
て見つめる視点とともに、独立した資料として捉えることも必要である。日本書紀は本文の伝承の
ほか、複数の異説を「一書に曰く」として記載している。記紀神話の全体は、開闢神話から始まり、
イザナキ・イザナミによる国生み神話、アマテラスとスサノヲの対立を語る高天原神話、スサノヲ
の追放から大国主神の地上統一を描く出雲神話、大国主神の国譲りからニニギの命の地上降臨を中
心とした天孫降臨神話、ニニギ・ホヲリ・ウガヤフキアヘズという天孫三代の日向神話によって構
149
成されており、その成立の意図が、天皇家の地上支配のいわれとその正統性を語ることにあるとさ
れてきたのは、これまで見てきたとおりである。それゆえに、記紀神話は国家神話・王権神話と呼
ばれ、天皇家の神話と呼ばれる。もちろん、個々の神話の背後には民間に伝承されていた神話群が
あったはずだし、文字化される以前には、語部による音声の伝承があったはずだが、それらは風土
記を除けば今は一切残されていない。
「書紀」では最初の神はクニノトコタテノミコトである。しかし記紀2書ともにイザナギ・イザナ
ミ以前は、タカミムスビ(高御産巣日:高木の神)以外はただ名前の羅列であって特記する記事も
ない事から、神話が完成していく過程で適当に加筆されたものと考えられる。この後神話は以下の
ように続いていく。イザナギ・イザナミによる日本列島の生成や神々の創造。イザナギが黄泉の国
から逃げ帰って禊ぎを行った際、右目からツクヨミ、左目からアマテラス、そして鼻からスサノオ
が出現する。スサノオの狼藉やアマテラスの岩戸籠もり。スサノオは高天原を追われ出雲へ流され
る。スサノオはここで八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治してクシナダヒメと結婚する。「古事記」
ではこの六代後にオオクニヌシ(大国主)が出現するが、「日本書紀」ではオオクニヌシはスサノ
オとクシナダヒメの直接の子供という事になっている。オオクニヌシは幾つか別名を持ち、「因幡
の白ウサギ」など多くの逸話が残っているが、これは本来別々の話であったものがオオクニヌシの
話として集大成されたものとの見解が有力である。オオナムチという名は「日本書紀」におけるオ
オクニヌシの呼び名である。アマテラスは、出雲の国は自分の子が支配すべきであると考え、タカ
ミムスビと図って出雲に圧力をかける。オオクニヌシは出雲の国を高天原に譲り、豪壮な宮殿で隠
居する(のちの出雲大社という説が有力)。この国譲りの後、ヒコボノニニギが高千穂の峯に降る
ことになる。(天孫降臨)ヒコボノニニギから三代に渡って日向に住んだ神々を日向三代と呼ぶ。
そしてカムヤマトイワレヒコが東を目指して遷都の旅に出る。これを「神武東遷」と言い、イワレ
ヒコは神武天皇と呼ばれ奈良の橿原に都を定め、天皇家の始祖となる。ここまでの物語が「記紀」
にいう所謂日本神話である。
2.古事記の神々
天地の始め高天原に、天之御中主神 (アメノミナカヌシノカミ)・高御産巣日神 (タカミムスヒノ
カミ) ・神産巣日神 (カミムスヒノカミ)の三神が現れ、続いて、国土がまだ水に浮く油のようで
クラゲのように漂っている時に、宇摩志阿斯訶備比古遅神 (ウマシアシカビヒコジノカミ)・天之
常立神 (アメノトコタチノカミ) の二神が現れる。この五神は「特別/別格」という意味合いで「別
天津神」(ことあまつかみ)と言う。この五柱の神は、特に性別 はなく、身を隠してしまった。
(こ
の、身を隠すという表現はどうもよく分からない。)次に「神世七代」(かみよななよ)と言って、
国之常立神 (クニノトコタチノカミ) ・豊雲野神(トヨクモノノカミ)の独神(ひとりがみ)が二
代、、その後男女二神の対偶神が五代続く。国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、またこれ以
降神話には登場しない。これに引き続く五組十柱の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、以下、
左側が男性神、右側が女性神である。
宇比地邇神 (ウヒジニノカミ)
角杙神 (ツノグヒノカミ)
意富斗能地神 (オホトノジノカミ)
於母陀流神 (オモダルノカミ)
伊耶那岐神 (イザナギノカミ)
須比智邇神 (スヒジコノカミ)
活杙神 (イクグヒノカミ)
大斗乃弁神 (オホトノベノカミ)
阿夜訶志古泥神 (アヤカシコネノカミ)
伊耶那美神 (イザナミノカミ)
以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代という。神世七代の最後に、イザナギ、イザナミが現
れる。以上は「古事記」の神話部分冒頭の記述で、「日本書紀」における神々の系譜は若干違った
構成をとり、また神の名もかなり異なっている。
150
3.日本書紀の神々
日本書紀における天地開闢の場面は、性別のない神々の登場、(巻一第一段)と男女の別れた神々
の登場(巻一第二段・第三段)に分かれ、古事記と内容が違う。さらに異説も存在する。書紀によ
れば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、
その混 沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。
そして、その中から、神が生まれるのである。天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これ
が神となる。国常立尊(クニノトコタテノミコト)・国狭槌尊(クニノサツチノミコト)・豊斟渟
尊(トヨクムヌノミコト)である。これらの神々には、性別がなかった。この部分については以下
のように6つの異説がある。
(1).一書によれば、天地の中に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となった
ことは同じで、生まれた神々は次の通りである。幾つかの神々は別名を持つ場合があるが、
ここでは一つに限っている。
国常立尊(クニノトコタテノミコト)
国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
国狭立尊(クニノサタチノミコト)
豊国主尊(トヨクニムシノミコト)
豊組野尊(トヨクムノノミコト)
豊香節野尊(トヨカブノノミコト)
浮経野豊買尊(ウカブノノヨヨカフノミコト)
豊国野尊(トヨクニノノミコト)
豊齧野尊(トヨカブノノミコト)
葉木国野尊(ハコクニノノミコト)
見野尊(ミノノミコト)
(2).一書によれば、天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となったとされ
る。すなわち、本文と同じ内容であるが、神々の名称が異なる。
可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
(3).第3の一書でも、生まれた神々の名が異なる。なお、生まれた神は人のような姿をしてい
たと描写されている。
可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコジノミコト)
国底立尊(クニノソコタチノミコト)
(4).一書の4番目は、生まれた神々の名は下の通りである。この異伝は、古事記の記述に類似
している。
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
151
これらの二柱の神々の次に、高天原に生まれたのが、下の三柱の神々である。
天御中主尊 (アメノミナカヌシノミコト)
高皇産霊尊 (タカミムスビノミコト)
神皇産霊尊 (カミムスビノミコト)
(5).第5の一書によれば、天地の中に葦の芽が泥の中から出てきたようなものが生成された。
これが、人の形をした神となったとされる。本文とほぼ同じ内容であるが、一柱の神しか
登場しない。
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
(6).第6の一書も、本文とほぼ同様に、葦の芽のような物体から神が生まれた。ただし、国常
立尊は漂う脂のような別の物体から生まれた。
天常立尊(アメノトコタチノミコト)
可美葦牙彦舅尊(ウマシアシカビヒコチノミコト)
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
渾沌から天地がわかれ、性別のない神々が生まれたあと、男女の別のある神々が生まれることとな
る。本文によれば、四組八柱の神々が生まれた。四組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、
以下の左側が男性神、右側が女性神である。
■土煮尊(ウヒジニノミコト)
大戸之道尊(オホトノジノミコト)
面足尊 (オモダルノミコト)
伊弉諾尊(イザナギノミコト)
沙土煮尊(スヒジニノミコト)
大苫辺尊(オホトナベノミコト)
惶根尊 (カシコネノミコト)
伊弉冉尊(イザナミノミコト)
日本書紀本文によれば、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊に、以上の四組八柱の神々を加えたものを
総称して神世七代という。これも一書によれば、四組八柱の神々の名が異なっている。これらの神々
の血縁関係は、本文には記されていないが、一書の中には異伝として、記されている。
4.日本神話の記事
(1)天地開闢(かいびゃく)(2古事記の神々、3日本書紀の神々を参考)
神話の冒頭は、世界中のどんな民族でも神々と国土の創世物語から始まる。天と地はどのようにし
て生まれ、神々はどうやって人間の世に出現したか。国土はどうやって形成されていったのか。日
本神話もほぼ同様の記事から始まっているが、日本の古代神話は、他の民族によく見られるような、
一人の神や英雄が建国したというような形はとらず、これまで見てきたように各地にあった伝承や
全国の有力者の家に伝わってきた物語を集大成し、それを天皇家の国土支配の正当性に結びつけて
いる。例えば、現存する「出雲の国風土記」などは、実にユニークな出雲建国の物語を残している
が、記紀にはそれらは一切除外されている。大和朝廷は、みずからの政治的意図に基づいて神話を
構成し、それを補う物として、各部族にあった伝承を採用したものと思われる。しかしながら、日
本書紀ではこれらの伝承を6つの「別伝(一書に曰く)」として紹介したりしているが、それは公
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平に各部族の伝承を記録として紹介した物ではなく、あくまでも参考として掲げているにすぎない。
(3.日本書紀の神々を参考。)
「2.古事記の神々、3.日本書紀の神々」で見たように、神話は天地開闢の後に多くの神々を創
出しているが 古事記と日本書紀では神々の名前は異なるものの、似通った名前の神もある。傾向
としては、どうも古事記が、書記の別伝にあった伝承を採用しているようである。三神や五神、神
代七代というような数字から、三五七という中国思想の聖数がとり入れられているという説もある。
(2).国産み
古事記によれば、大八島は次のようにして生まれた。
イザナキ・イザナミの2神は、別天津神たちに漂っていた大地の完成を命じられる。別天津神たち
は、天沼矛(あめのぬぼこ)を2神に与えた。イザナキ・イザナミは、天浮橋(あめのうきはし)
に立って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜる。この時、矛から滴り落ちたものが、積もって
島となった。この島を淤能碁呂島(おのごろじま)という。2神は、淤能碁呂島に降り立って、S
EXをする。一般的には、この2神は兄妹(或いは姉弟)であるとされている。アマテラスとスサ
ノヲの関係にもあるように、日本古代の支配形態における異性の兄弟がはたす役割は、他の民族に
は余り見かけないものがある。日本の国は近親相姦から始まっているのである。イギリスの言語学
者チェンバレンは、「いかに原始社会の事とはいえ、イザナキ・イザナミのSEXの場面はワイセ
ツそのままの表現で、こんな神話は世界のどこの文献にもない。」と批評している。そのSEXの
様子は、古事記から引用すると、
イザナキ 「そなたの体はどのようになっているか?」
イザナミ 「私の体には、欠けているところが1ヶ所あります。」
イザナキ 「私の体には、出っ張ったところが1ヶ所ある。そこで、私の出っ張ったところを、あ
なたの欠けているところに補って国を作りたいと思うがどうだろう。」
イザナミ 「いいと思います。」
こうして、2人は性交を始める。しかし、この性交の前に、女性であるイザナミのほうから男性の
イザナキを誘ったために、ちゃんとした子供が生まれなかった。最初に産まれた子供は、水蛭子(ひ
るこ)であり、2人はこの子を葦舟に乗せて流してしまった。次に産まれたのは淡島(あはしま)
であった。水蛭子と淡島は、イザナキ・イザナミの子供の内に入れない。ちゃんとした子供が生ま
れないので、2神は、天津神のもとへ行き、どうするべきかを聞いた。すると、占いによって、女
から誘ったのがよくなかったとされた。そのため、ニ神は淤能碁呂島に戻って、再び性交をする。
ここからこの兄妹神は、大八島を構成する島々を生み出していった。産んだ島を順に記すと下のと
おりになる。
・淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)
・伊予之二名島(いよのふたなのしま) 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下
の通り。
愛比売(えひめ)
飯依比古(いひよりひこ)
大宣都比売(おほげつひめ)
建依別(たけよりわけ)
・隠伎之三子島(おきのみつごのしま) 別名は、天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
・紫島(つくしのしま) 胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ)
豊日別(とよひわけ)
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ)
建日別(たけひわけ)
・伊伎島(いきのしま) 別名は、天比登都柱(あめひとつばしら)
・津島(つしま)
別名は、天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
・佐度島(さどのしま)
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・大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま) 別名は、天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよ
あきつねわけ)
以上の、8島が最初に生成されたことにより、日本のことを大八島国という。2神は、続けて、6
島を産む。
・吉備児島(きびのこじま)
・小豆島(あづきじま)
・大島(おほしま)
・女島(ひめじま)
・知訶島(ちかのしま)
・両児島(ふたごのしま)
別名は、建日方別(たけひかたわけ)
別名は、大野手比売(おほのでひめ)
別名は、大多麻流別(おほたまるわけ)
別名は、天一根(あめひとつね)
別名は、天之忍男(あめのおしを)
別名は、天両屋(あめふたや)
日本書紀の記述は、基本的にイザナキ・イザナミが自発的に動いて、国産みを進めていくものであ
る(巻一第四段)。
また、イザナキ・イザナミのことをそれぞれ陽神・陰神と呼ぶなど、陰陽思想の強い影響がうかが
われる。本書によれば、古事記と同様に、イザナキ・イザナミは、天浮橋(あめのうきはし)に立
って、天沼矛で、渾沌とした大地をかき混ぜる。この時、矛から滴り落ちたものが、積もって島と
なった。ただし、この時、他の天つ神は登場しない。
また、八という字は、もともとは「多い、大きな」という意味を表す「や(弥)」であったものを、
後世数詞の「八」と理解したため無理矢理「八嶋」をもってこざるを得なくなったという指摘もあ
る。それゆえに、八嶋の選びかたは各書によってばらばらで、今日から見ればなにか不自然な日本
列島の構成になっている。別名として、島に神名を冠しているのは不明である。
(3).神産み
大八島およびその他の小さな島々を産み終えたイザナキ・イザナミは、神々を産んだ。ここで、産
まれる神は、風の神・木の神・野の神といったような自然にまつわる神々である。
大事忍男神(おほことおしをのかみ)
石土毘古神(いはつちびこのかみ)
石巣比売神(いはすひめのかみ)
大戸日別神(おほとひわけのかみ)
天之吹男神(あめのふきおのかみ)
大屋毘古神(おほやびこのかみ)
風木津別之忍男神(かざもつわけのおしをのかみ)
大綿津見神(おほわたつみのかみ)
速秋津日子神(はやあきつひこのかみ)
速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)
速秋津日子神と速秋津比売神は以下の神々を産んだ。
沫那藝神(あはなぎのかみ)
沫那美神(あはなみのかみ)
頬那藝神(つらなぎのかみ)
頬那美神(つらなみのかみ)
天之水分神(あめのみくまりのかみ)
国之水分神(くにのみくまりのかみ)
天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)
志那都比古神(しなつひこのかみ)
久久能智神(くくのちのかみ)
大山津見神(おほやまつみのかみ)
鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)
別名は、野椎神(のづちのかみ)
大山津見神と野椎神は以下の神々を産んだ。
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天之狭土神(あめのさづちのかみ)
国之狭土神(くにのさづちのかみ)
天之狭霧神(あめのさぎりのかみ)
国之狭霧神(くにのさぎりのかみ)
天之闇戸神(あめのくらどのかみ)
国之闇戸神(くにのくらどのかみ)
大戸惑子神(おほとまとひこのかみ)
大戸惑女神(おほとまとひめのかみ)
鳥之石楠船神(とりのいはくすぶねのかみ) 別名は、天鳥船(あめのとりふね)
大宜都比売神(おほげつひめのかみ)
火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)
別名は、火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ) 別名は、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)
ところが、火の神である迦具土神を出産したために、イザナミの女陰が焼けてしまい、イザナミは
病気になった。イザナミは、病に苦しみながらも、吐瀉物などから次々と神を生んでいった。
金山毘古神(かなやまびこのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
金山毘売神(かなやまびめのかみ、イザナミの吐瀉物から生まれる)
波邇夜須毘古神(はにやすびこのかみ、イザナミの大便から生まれる)
波邇夜須毘売神(はにやすびめのかみ、イザナミの大便から生まれる)
彌都波能売神(みつはのめのかみ、イザナミの尿から生まれる)
和久産巣日神(わくむすひのかみ、イザナミの尿から生まれる)
和久産巣日神には以下の一柱の子がいる。
豊宇気毘売神(とようけびめのかみ)
イザナキは、イザナミの死に号泣した。この涙から、神がまた生まれた。
泣沢女神(なきさわめのかみ)
そして、イザナキは、イザナミを比婆(ひば)の山に葬った。愛する妻を失ったイザナキはその怒り
から、迦具土神を十拳剣で切り殺した。この剣に付着した血からまた神々が生まれる。なお、この
十拳剣の名前を「天之尾羽張」(あめのをはばり)別名を伊都之尾羽張(いつのをはばり)という。
石折神(いはさくのかみ)
根折神(ねさくのかみ)
石筒之男神(いはつつのをのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の先端からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
甕速日神(みかはやひのかみ)
樋速日神(ひはやひのかみ)
建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)
別名は、建布都神(たけふつのかみ)
別名は、豊布都神(とよふつのかみ)
以上三柱の神は、十拳剣の刀身の根本からの血が岩石に落ちて生成された神々である。
闇淤加美神(くらおかみのかみ)
闇御津羽神(くらみつはのかみ)
以上二柱の神は、十拳剣の柄からの血より生成された神々である。また、殺された迦具土神の体か
らも、神々が生まれた。
正鹿山津見神(まさかやまつみのかみ、迦具土神の頭から生まれる)
淤縢山津見神(おどやまつみのかみ、迦具土神の胸から生まれる)
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奥山津見神(おくやまつみのかみ、迦具土神の腹から生まれる)
闇山津見神(くらやまつみのかみ、迦具土神の性器から生まれる)
志藝山津見神(しぎやまつみのかみ、迦具土神の左手から生まれる)
羽山津見神(はやまつみのかみ、迦具土神の右手から生まれる)
原山津見神(はらやまつみのかみ、迦具土神の左足から生まれる)
戸山津見神(とやまつみのかみ、迦具土神の右足から生まれる)
(4).黄泉の国
イザナキは、イザナミを取り戻そうとして、黄泉国へと赴いた。黄泉に着いたイザナキは戸越しに、
イザナミに「あなたと一緒に創った国土はまだ完成していない。帰ろう。」と言ったが、イザナミ
は「黄泉の国の食べ物を食べたからもう帰れません。」と答えた。「黄泉神と相談しましょう。お
願いですから、私の姿は見ないで下さい。」とイザナミは言い、家の奥に入っていった。イザナキ
は、なかなか戻ってこないイザナミに痺れを切らし、自分の左の角髪(みずら)につけていた湯津
津間櫛(ゆつつなくし)という櫛の端の歯を折って、火をともして、中を覗き込んだ。すると、イ
ザナミは、すでに美しきイザナミではなく、蛆がたかり、声はむせびふさがっており、体には8柱
の雷神がまとわりついていた。雷神の名は以下の通り。
大雷(おほいかづち、イザナミの頭にある)
火雷(ほのいかづち、イザナミの胸にある)
黒雷(くろいかづち、イザナミの腹にある)
折雷(さきいかづち、イザナミの陰部にある)
若雷(わかいかづち、イザナミの左手にある)
土雷(つちいかづち、イザナミの右手にある)
鳴雷(なりいかづち、イザナミの左足にある)
伏雷(ふしいかづち、イザナミの右足にある)
これにおののいたイザナキは逃げ帰ろうとしたが、イザナミは自分の醜い姿を見られたことを恥じ
て、黄泉醜女(よもつしこめ)に命じてイザナキを追わせた。イザナキは、蔓草を輪にして頭の上
に載せていたものを投げ捨てた。すると、葡萄の実がなり、黄泉醜女が食べている間に逃げた。し
かし、まだ追いかけてくるので、右の角髪(みずら)につけていた湯津津間櫛(ゆつつなくし)と
いう櫛を投げ捨てた。すると、タケノコがなり、黄泉醜女が食べている間、逃げた。だが、またさ
らに、イザナミは先ほどの8柱の雷神と黄泉の国の兵士達にイザナキを追わせた。イザナキは、十
拳剣で振り払いながら逃げたが、それでも追ってきた。黄泉比良坂の坂本に着いた時、坂本にあっ
た桃の実を3つ投げたところ、追ってきた黄泉の国の悪霊たちは逃げ帰っていった。ここで、イザ
ナキは、桃に「人々が困っている時に助けてくれ」と言って、意富加牟豆美命(おほかむずみのみ
こと)と名づけた。最後に、イザナミ本人が追いかけてきたので、イザナキは千人がかりで動かす
ような岩で黄泉比良坂をふさぎ、悪霊が出ないようにした。その岩を間にして、対面して、この夫
婦は分かれることとなる。この時、イザナミは1日に千人を殺そうと言い、これに対しイザナキは
1日に千五百人生もうと言った。これは、人間の生死の由来を表している。
なお、この事件から、イザナミのことを黄泉津大神(よもつおほかみ)・道敷大神(ちしきのおほ
かみ)とも呼び、黄泉比良坂を塞いだ大岩を道返之大神(ちかへしのおほかみ)・ 黄泉戸大神(よ
みとのおほかみ)とも言う。
見てきたような「黄泉の国神話」は、主に古事記に記載されている内容で、古事記は黄泉の国を出
雲地方であると解釈しているようである。現に、古事記では、黄泉比良坂は出雲国の伊賦夜坂(い
ふやのさか)と明記しているし、イザナミを比婆(ひば)山に葬ったとあるように、古事記は固有
名詞を出して、神話を真実であるようにつとめているが、日本書紀には全くそういう気配はない。
それ故、黄泉の国や根の国をめぐっては現在でも、出雲だ、熊野だというような論議を呼んでいる。
また、イザナギがイザナミの亡骸を見る場面は、まさしく遺体が腐っていく過程を描写した物で、
これは横穴式石室の中を進ん行く古代人の姿である(森浩一氏)という意見や、大和朝廷の天皇家
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にも見られる「喪(も)がり」の光景を現した物だ(鳥越憲三郎氏)という意見などがある。いず
れにしても古代人が、妻や身近な者の死後の姿について、現代では想像も出来ないような体験をし
たのだろうという事は想像できる。腐っていく死体を見るなどと言うことは日常茶飯事だったのか
もしれない。
書紀と古事記では順序は前後するが、いよいよ三貴神と呼ばれる神々を創出することになる。換言
すれば、日本神話はこの三貴神によって(実際にはアマテラスとスサノヲの二神だが。)始まって
いるとも言える。イザナキは、黄泉のケガレを嫌って、禊ぎを行った。この時も、様々な神々が生
まれた。最後に生まれたアマテラス(日の神、高天原を支配)・ツクヨミ(月の神、夜を支配)・
スサノオ(海を支配)は三貴神と呼ばれ、イザナキによって世界の支配を命じられた。
禊ぎを行って神が生まれるという発想は、邪なるものを排して、清く正しい環境の中から三貴神を
生じさせたのだという意見もあるが、その後のスサノヲの振る舞いや処遇をみると、そんな簡単な
問題でもなさそうである。
(5).アマテラスとスサノオの誓約(うけい)
スサノオは、イザナキによって、海原を支配せよと命じられたが、イザナミのいる黄泉の国へ行き
たいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナキは怒って隠れてしまった。そして、スサノ
オは、アマテラスの治める高天原へと登っていく。アマテラスは、スサノオが高天原を奪いに来た
のかと勘違いし、弓矢を携えて、スサノオを迎えた。スサノオは、アマテラスの疑いを解くために、
2人でウケヒ(誓約)をしようと言った。これは、お互いのアクセサリーから子供を生んで、どち
らが多いかを競うものである。もしスサノオのものからできた子の方が多けれ ば、スサノオは潔
白であることが証明されたことになる。結果、スサノオの方がなした子供が多かったので、アマテ
ラスはスサノオを許した。ここでもアマテラスとスサノヲのSEX関係が暗示されている。
(6).岩戸隠れ
スサノオはアマテラスの耕す田のあぜを壊し、田に水を引く溝を埋め、また大御神が新嘗祭(にい
なめさい)の新穀を食する神殿に糞をひり散らしてけがした。アマテラスが神聖な機屋(はたや)
にいて、神にたてまつる神衣を機織女に織らせていたとき、スサノオはその機屋の棟に穴をあけ、
まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って穴から落し入れ、機織女はこれを見て驚き、梭で陰部を突い
て死んでしまった。これを見て、さすがにアマテラスは恐れて、天の岩屋の戸を開いて中にこもっ
てしまった。そのため高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。
この状態の打開のため、八百万の神々が、天の安河の河原に会合して、タカミムスヒコの子のオモ
ヒカネに、善後策を考えさせた。そしてまず常世国の長鳴き鳥を集めさせて鳴かせ、次ぎに天の安
河の川上の堅い岩を取り天の金山の鉄を採って、鍛冶師のアマツマラを捜して、イシコリドリに命
じて鏡を作らせ、玉祖命(タマノオヤノミコト)に命じて、たくさんの勾玉を貫き通した長い玉の
緒を作らせた。次ぎにアメノコヤネとフトダマを呼んで天の香具山の雄鹿の肩骨を抜き取り天の香
具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、神意を待ち伺わせた。そして天の香具山の枝葉の繁った
賢木を、根ごと掘り起こして来て、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒をかけ、中の枝に八咫鏡をか
け、下の枝に楮(こうぞ)の白い布と麻の青い布を垂れかけて、これらの種々の品はフトダマが神
聖なぬさとして捧げ持ち、アメノコヤネが祝詞を唱えて祝福し、天手力男命神(アメノタジカラヲ
ノカミ)が岩戸の側に隠れて立ち、アメノウズメノミコトが、天の香具山の日陰蔓(ひかげのかず
ら)をたすきにかけてまさきのかずらを髪にまとい、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の
岩屋戸の前に桶を伏せてこれを踏みならして、神がかりして、胸乳をかき出し裳(も)の紐を陰部
まで押し下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑っ
た。
そこでアマテラスははふしぎに思って、天の岩屋戸を細めに開けて、中から言うには、「私がここ
に隠っているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、
どういうわけでアメノウズメは舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と言った。
そこでアメノウズメが言うには「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び歌舞し
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ております」と申し上げた。こう申す間にアメノコヤネノ命とフトダマノ命が、その八咫鏡を差し
出して、アマテラスに見せたとき、アマテラスがいよいよふしぎに思って、そろそろと石屋戸から
でて鏡の中をのぞいたときに、戸の側に隠れて立っていたタジカラヲノカミが、大御神の御手を取
って外に引き出した。ただちにフトダマノ命が、注連縄(しめなわ)を大御神の後ろに引き渡して、
「この縄から内にもどってお入りになることはできません」と申し上げた。こうしてアマテラスが
岩屋から出ると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り明るくなった。そこで八百万の神々が一同
相談して、スサノヲにたくさんの贖罪の品物を科し、またヒゲと手足の爪とを切って祓えを科して、
高天原から追放してしまった。
ここでも古事記は「天の金山」「天の香具山」という固有名詞を頻発して客観的たろうとつとめて
いる。この説話におけるアマテラスは、まさに太陽神としての存在で、農耕神としての一面も持っ
ている。日の神であるアマテラスの喪失は、同時に農耕の存続の危機でもあった。さしずめスサノ
ヲは冬将軍、あるいは旱魃・飢饉の象徴ともとれる。危機を打開するために集まって雨乞いを行っ
たり、神に生け贄を捧げたりするのはどの民族でも行っているし、雨乞いなどは江戸時代にも行わ
れていた。ただ、この神話の場合には非常にユニークなのが、集団での歌舞飲食パーティーであり、
アメノウズメによるストリップという点にある。媚態よろしく性的な踊りでアマテラスを呼び出す
様は、古代における性の開放を示しているというような民俗学からの意見などもある。さて悪玉と
なったスサノヲだが、彼の日本神話における役割はいかなるものだったのだろうか。追放された出
雲においては、大国主と並ぶ出雲の神様として現代でも祀られているが、この岩屋隠れの神話では
完全に悪神である。これはおそらく、高天原が出雲を吸収するに当たって、出雲側に悪玉が必要だ
ったのではないかと思われる。大国主命は善政をしいているし、いきなり出雲をよこせとするには
なにか理由が居る。スサノヲはそのために悪玉の役割を背負わされて出雲へ追放されるのかもしれ
ない。この神話部分で無理やり挿入した逸話のようで、出雲の祖神であるスサノヲにしては幼稚な
悪行だし、後段に出現する、八岐のおろちを退治して櫛奈多姫と仲良く出雲で暮らすスサノヲとは
別人である。出雲を根の国としている古事記では、無理矢理根の国へ追放する神が必要だったとも
言える。
(7).ヤマタノオロチ退治
高天原を追われたスサノヲは、出雲国の肥河の川上の鳥髪という所に着いた。このとき箸がその川
を流れ下ってきたので、スサノヲは、その川上に人が住んでると思い、川をのぼっていくと、年老
いた夫婦が少女を間に置いて泣いていた。スサノヲは「あなた方はだれか」と尋ねた。すると翁が
答えて「私は国つ神のオホタマツミホ神の子です。私の名はアシナヅチ、妻の名はテナヅチといい、
娘の名はクシナダヒメといいます」と言った。また「あなたはどうして泣いているのか」と聞いた。
これに答えて「私の娘はもともと八人おりましたが、あの高志(こし)の八俣の大蛇が毎年襲って
きて娘を食ってしまいました。今年も今、その大蛇がやってくる時期になったので、泣き悲しんで
います」と言った。するとスサノヲが「その大蛇はどんな形をしているのか」と聞くと、答えてい
うには、その目は、ほおずきのように真っ赤で、胴体一つに八つの頭と八つの尾があります。そし
て身体には、ひかげのかずらや檜、杉の木が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にわたっ
ており、その腹を見ると一面にいつも血がにじんでただれています」と答えた。そこでスサノヲは
その老人に「そのあなたの娘を、私の妻に下さらないか」と言うと、「恐れ入ります。しかしお名
前を存じませんので」と答えた。するとスサノヲは答えて「私は天照大御神の弟である。そして今、
高天原からくだってきたところだ。」と言った。そこでアシナヅチ、テナヅチノが、「それならば
恐れ多いことです。娘をさしあげましょう」と言う。そこでスサノヲはたちまちその少女を爪形の
クシに姿を変えて御角髪に刺し、そのアシナヅチ、テナヅチに命じて「あなた方は、いく度もくり
返し醸した濃い酒を造り、また垣を作り廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を
つくり、その桟敷ごとに酒樽をおき、桶ごとにその濃い酒を満たして待ち受けよ」と言いつけた。
それで命じられたとうり準備して待ち受けるとき、その八俣の大蛇が、ほんとうに老人のいうとう
り現れた。大蛇はただちに酒桶ごとに自分の頭を垂れ入れて、その酒を飲んだ。そして酒に酔って、
その場に留まって寝てしまった。このときスサノヲは、身につけていた十拳剣(とつかつるぎ)を
抜いて、その大蛇をずたずたに切ったので、肥河の水は真っ赤な血となって流れた。そして大蛇の
158
中ほどの尾を切ったとき、剣の刃が毀れた。そこで不振に思って、剣の先で尾を刺し割いて見てみ
ると、すばらしい大刀があった。そこでこの大刀を取り出し、不思議なものだと思ってアマテラス
に、このことを報告し剣を献上した。これが草薙の大刀である。これは現在三種の神器として天皇
家が保有する。
日本書紀では泣き声をたどって老夫婦に出会うことになっており、姫の名前も稲田姫である。しか
し話の大筋は一緒で、いずれかがもう片方を参照したものと思われる。八岐の大蛇とは、実は出雲
平野を流れる大河で、これが洪水で暴れる様を大蛇に見立て、その治水に貢献した者をスサノヲに
象徴した、というのが民俗学的な見方であるが、この神話で重要なのは、草薙の剣を高天原のアマ
テラスに献上している点だろう。これにより、この出雲を高天原に服属する地方と位置づけている
ように思う。
(8).大国主神の神話
これまで国土や神々の殺伐とした話が続いてきた神話に、やっと人間味のある人物が登場する。大
国主神(おおくにぬしのみこと)である。因幡の白ウサギや恋物語など、政治的な作為もなく、生
き生きとした人間模様が見て取れる。しかし、不思議なことに、これらの物語は古事記のみで、日
本書紀にはまったく登場しない。日本書紀では大己貴神(おおなむち)と表記する。古事記では別
称として、大穴牟遅神(おおなむちのかみ)、葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)、八千矛神
(やちほこのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)など5つの名前がある。日本書紀に
は、更に大物主神(おおものぬしのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)を加えた7つの名が
あり、こんなに沢山の名前をもつ神は珍しい。書記に追加されている2つの神は大和の神である。
これらの名前を古事記の編者が書紀から取ったとすれば、どうして大和の神2つを削除したのだろ
うか。或いは、書紀の方が古事記を参照して、そこに大和の神2神を追加したとも推測できる。こ
れらの神名は、一つ一つの名前にそれぞれ神格があったと考えられており、或いは出雲地方の多く
の神格が統合されて大国主命に結実したのかもしれない。
現在は出雲大社の祭神となっている「大国主命」は日本各地にさまざまな神話を残しているが、少
彦名神(すくなひこなのかみ)と全国を巡り、国土の修理や保護、農業技術の指導、温泉開発や病
気治療、医薬の普及、禁厭の法を制定、といった数々の業績を残しており、国造りの神とも言われ
る。有名な神話「因幡の白兎」では、兎がサメに皮を剥ぎ取られて苦しんでいるところを、通りか
かった大国主命によって助けられた。また、七福神に登場してくる「だいこく様」は、インドの大
黒天に日本の大国主命の信仰が合体した神である。この神は、両方の要素を引き継いでおり、絵本
に見られる袋をかついだ大国様の要素とシヴァ神に見られる性の要素を持った豊饒の神・農耕神と
考えられている。大国主命は艶聞家でもあり、実に多くの后を持つ。その事から大国主命は、縁結
びの神様として名高いが、今では商売繁盛・五穀豊穣の神様や幸福・平和の神様など、様々な形で
信仰されている。ところで、日本書紀に全く大国主命についての事績がないと言うことは、古事記
がこれらの話をどこから持ってきたのかという疑問がわく。古事記の大国主命説話はおおきく6つ
あるが、そのうちの幾つかは明らかに「出雲の国風土記」或いはその逸文に原典がある事が分かっ
ている。だとすれば、古事記を編纂した大和朝廷は、出雲について他にも多くの事を知っていたは
ずであり、出雲と大和朝廷の浅からぬ関係が浮かび上がる。
「大国主の尊」(おおくにぬしのみこと)と白ウサギ、波に乗る玉をさずかる「大国主の尊」。
(9).出雲の国譲り
日本神話の3分の1は出雲神話で占められていると言ってもいいほどであるが、これにはどんな意
味があるのだろうか。大国主命が全国の国津神たちを束ねていた訳ではないだろうし、記紀を編纂
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した者達が、多くは出雲出身者だったからという訳でもないだろうと思われる。また神話の3分の
1以上は九州の地における説話で占められているという事実は、「九州」→「出雲」→「大和」と
いう大きな流れを予感させるのである。出雲の大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)
のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、
この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治
するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だとした。そのため、何人かの神を出雲へ使
者に出す。まず、天稚彦(古事記では天若日子)が出雲へ赴くが、彼は8年もの間復命しなかった。
ついで雉が派遣されるが天稚彦はこれを射殺し、その矢が高天原へ届く。その矢はかって天稚彦に
与えたものだったので、「持ち主へ帰れ」と投げ帰すと、矢は出雲へ飛んでいき天稚彦を貫く。つ
いで、高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)の三度目の使者、建御
雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、
建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交
渉を開始する。大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代
主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意する
が、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけら
れ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出
雲の国譲り」が成立する。大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造
営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。この宮殿につい
て日本書紀は、
(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。
(2).田を作る。
(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。
(4).天の安の川に打橋を造る、
などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命す
る。(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその 83 代目にあたる
とされている)
以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される 神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異な
るが、話の大筋は同じである。
この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの
創作だとするもの、殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの
話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が
国の展開が矛盾なく説明できると思う。皇學館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古
代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が
追われた場所である、とする説を述べている。又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」
において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地
である、と考えている。これは現在のところ、学界では一般的な意見のようである。即ち、出雲に
ある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。特
に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。しかしながら私には、大和に文化
が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的 なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に
突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始
められるのか?渡来文化しかありえないではないか。しかも大陸・半島からいきなり大和を目指し
てくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。渡来人達は、征服し
やすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ
南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂
回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受で
きたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたの
だ。大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考
えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中
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心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地
を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこ
ういう立場に立っている人達もいるのである。形を変えた「皇国史観」と言えよう。
記紀によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日
命(アメノホヒノミコト)が天下る。天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大
国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下
る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、
出雲の国譲りの後のように思われる。
そもそも出雲大社とは一体なにものなのだろう。元々は杵築(きずき)神社とも呼ばれ、これは「築
く」という言葉から来ているという説が有力である。相当古い時代からの神社である事は間違いな
いし、事によるとほんとに「古事記」「日本書紀」に言う「出雲の国譲り」で、オオクニヌシの尊
が「高天原」に建ててもらった住居かもしれない。オオクニヌシの尊は、出雲を高天原の神々に譲
り渡す条件として、高天原に建っているのと同じ様な豪壮な宮殿を建ててくれと要求し、高天原も
これを了承する。以下がその描写の部分である。
故、更にまた還り来て、其の大國主神に問ひたまひしく、「汝が子等、事代主神、建御名方神の二
はしらの神は、天つ神の御子の命の随に違はじと白しぬ。故、汝が心は奈何に。」ととひたまひき。
爾答へ白ししく、「僕が子等、二はしらの神の白す随に、僕は違はじ。此の葦原中國は、命の随に
既に献らむ。唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめす登陀流(此の三字は音を以ゐよ。
下は此れに效へ。)天の御巣如して、底津石根に宮柱布斗斯理(此の四字は音を以ゐよ。高天原に
氷木多迦斯理(多迦斯理の四字は音を以ゐよ。)て治め賜はば、僕は百足らず八十くま手に隠りて
侍ひらむ。亦僕が子等、百八十神は、即ち八重事代主神、神の御尾前と為りて仕へ奉らば、違う神
は非じ。」とまをしき。
上記太字の部分を訳すと以下のようになる。
私の住むところを、高天原に住む天津神(あまつかみ)達のそれと同じように、頑丈な基礎と太い
柱で建て、高天原に届くほど高く千木をかざして建ててもらうならば、(私は引きこもって神妙に
いたします。)
興味深いのは、古事記ではオオクニヌシから要求し、日本書紀では高天原からこれを呈示している
事である。この「記紀」の描写を以て、出雲大社を神話時代の「オオクニヌシの尊」の館(宮殿)
であったとする向きは多い。実は私もその一派である。
この「記紀」の故事は、筑紫(北九州)の先住渡来民族と、出雲に渡来した民族との戦いを伝承し
たもので、出雲族が筑紫族に負けた事を記録していると考える。実際そのような史実があって、そ
れが「記紀」にいう出雲神話として残ったものだろう。勿論、実際にオオクニヌシと呼ばれる人物
が存在したのかどうかなどは分からない。しかし、戦いに負け、宮殿を要求した人物が確かにいた
のだろう。そして、勝ったとはいえ有力な部族であった出雲族のために筑紫族も敬意を払い、この
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宮殿を建てたのだと考える。「筑紫族」は「高天原」であり、「出雲族」は「葦原の中津國」であ
る。
一方、この神話はあくまでも神話に過ぎないとして、「出雲の国譲り」などは存在していないとす
る見方も当然ある。しかしながら、いずれにしても、出雲大社が現在存在している事は間違いない
事実であるし、その起源が相当に古いものであるのも確かである。
(10).天孫降臨(てんそんこうりん)
アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、葦原中国を統治すべきなのは、天津神、とりわけア
マテラスの子孫だとした。アマテラスは息子の天忍穂耳神を呼び、高天原はスサノヲの追放によっ
て平穏が保たれているが、下界の方がどうも騒がしい。各部族の長が互いに覇権を争って戦いを繰
り広げている。神の名の下に民衆を統一する王が必要だとして、降臨しろと命じる。
指名したのが、彼の子の邇邇芸命(ニニギニミコト)であった。アメノオシホミミと、造化三神の
一柱、高御産巣日神の娘の栲幡千々姫神との子である。降臨にあたって、ニニギの補佐役の神々が
次々と選ばれた。あのストリップの天鈿女神、ニニギの兄の天火明神の子である天香久山神、ほか
に思兼神、天手力男神、天石門別神、天目一箇神などがそうである。さらに、アマテラスは自ら所
有する神器の中でも特に霊力の強い天叢雲剣、八咫鏡、八坂瓊勾玉を天璽之神宝(アメノミシルシ
ノカンダカラ)としてニニギに授けた。これらは、後に神武天皇まで受け継がれ、天皇家の三種の
神器として継承されていく。ニニギは天界に別れを告げ、アマテラスが高天原で栽培した神聖なる
稲穂を携え、天磐船(アメノイワフネ)に乗って日向(ヒムカ=宮崎県)の高千穂の峰に降臨した。
下界に近づくにつれ、行く手に赤く妖しい光が見えてきた。用心しながら近づいていくと、光の正
体は一人の神の顔であった。異様に大きな鼻が、真っ赤に輝いていたのである。怪しんだニニギは、
アメノウズメに命じて彼の目的を尋ねさせた。アメノウズメは相手を圧倒するために乳房をあらわ
にして、裳の紐を陰部まで押し下げた格好で彼の前に立って話を聞いた。彼はウズメに対して猿田
彦神と名乗り、天孫を迎えに出向いたと告げた。よく見ると、そこは天の八衢(ヤチマタ)といわれ
て道が四方八方に分岐しているところだった。サルタヒコの案内で無事高千穂の峰に着いたニニギ
は、ウズメに命じてサルタヒコを彼の故郷の伊勢の国まで送らせた。この2神は夫婦となる。
高千穂の峰の所在を巡っても、戦前は大まじめにその所在論が行われていた。日本神話を研究する
「国学」が盛んだった江戸時代以降、天孫降臨の地をめぐっては「臼杵高千穂説」と「霧島高千穂
説」が「高千穂論争」を続けていた。実際に論文の数を比較すると「霧島高千穂説」の方が支持者
が多い。しかし近年、梅原猛が本居宣長の唱えた「高千穂移動説」を再評価したことから、この考
え方が注目されつつある。なお、臼杵高千穂説では天孫降臨の地を、高千穂町内のくしふる峰、二
上山、祖母山などと解釈している。古事記、日本書紀、風土記などの出典によってかなり表現が異
なるが、日向國風土記逸文には「高千穂」の地名の由来が記されている。
<日向國風土記逸文>
ニニギノミコトが臼杵の郡の二上の峯に降り立った。しかし辺りは暗く何も見えず、立ち往生して
しまう。そこにツチグモ族の大くわ・小くわと名乗る二人が現われ、「ミコトがお持ちになってい
る稲穂から籾を取り、四方に撒けば、きっと晴れ渡るでしょう。」と言う。ミコトがそれに従うと、
みるみる空が明るくなり、日と月が輝き始めた。これにちなんで、この地を「高千穂」と名付け、
後に「智鋪」と改められた。
(11).山幸彦と海幸彦
火照命(ホデリ:海幸彦)と彦火火出見尊(ヒコヒヒデミのミコト:山幸彦)は、それぞれ山と海
での猟を得意としていたが、ある日猟具をとりかえて山幸彦は釣りに出たが、海幸彦の釣り針をな
くしたことでけんかになった。山幸彦は、海神の宮殿に赴き、釣り針を見つけ、釣り針を返した。
山幸彦は海神(豊玉彦)の女・豊玉媛(とよたまひめ)と結婚、釣針と潮盈珠(しおみちのたま)・
潮乾珠(しおひのたま)を得て兄を降伏させたという話。天孫民族と隼人族との闘争の神話化とも
見られる。また仙郷滞留説話、神婚説話、浦島伝説の先駆をなすものでもある。山幸彦と豊玉媛は、
鵜茸草茸不合(ウガヤフキアエズ)という子をなした。ウガヤフキアエズの子が、カムヤマトイワ
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レヒコ(神武天皇)である。
(12).神武東征
ニニギ以降、その子,火遠理の命(ほをりのみこと),その又子,鵜茸草茸不合の命(うがやふき
あえずのみこと),そしてそ神倭伊波礼毘古の命(かんやまといわれびこのみこと=神武天皇)と,
三代に渡って日向に住んだとされている。イワレビコは,「東に美(う)まし國ありと聞く。我い
ざこれを討たん。」と兄たちと図って、東国への遠征を実施する。日向を発し,大分県の宇佐や福
岡県の遠賀郡芦屋に寄り豊後水道を東進し,吉備,難波,熊野と経由して大和に入る。大和を平定
して,畝傍山(うねびやま)の麓橿原(かしはら)に都を築く。もちろん大和の先住者たちは抵抗
し、兄のイツセヒコも戦死するのであるが、結局は天孫のカムヤマトイワレヒコの軍門に降る。こ
うして神武天皇は我が国最初の天皇となり,大和朝廷がここからスタートした。以後天皇家は平成
の現在まで続いている,という事になっている。この,神武天皇が日向を立って橿原に都を定める
までの色んなエピソードが,古事記と日本書紀にほぼ同じ内容で記録されているのである。そして,
これを『神武東征』と呼ぶ。戦前は史実として教育にも取り入れられていた。
明治期に,学問的にこの神武東征が何らかの史実を反映しているのではないか,と示唆したのは,
東京大学の白鳥庫吉である。彼の見解は,同じく東京大学の哲学者和辻哲郎(1889~1960)によっ
て受け継がれた。大正 9 年に著した『日本古代文化』の中で,彼は邪馬台国九州説を唱え,古事記・
日本書紀と魏志倭人伝の記述の一致を指摘している。白鳥が述べた論旨とほぼ同じである。
更に和辻は,大和朝廷は邪馬台国の後継者であり,日本を統一する勢力が九州から来たのであり,
その伝承が大和朝廷に残っていたのだと主張した。彼は伝承のみでなく,邪馬台国の突然の消滅と
大和朝廷の突然の出現,銅矛銅剣文化圏と神話との一致,即ち古事記日本書紀に銅鐸文化について
全く記事がない事,などにも言及し,神武東征を史実あるいは史実に近いものと考えたのである。
戦後は,歴史教育の場からこれらの日本神話は全く姿を消してしまったのであるが,この説は,主
に東京大学の学者を中心に支持され発展し続けた。その後も東大教授のみならず,栗山周一,黒板
勝美,林家友次郎,飯島忠夫,和田清,榎一雄,橋本増吉,植村清二,市村其三郎,坂本太郎,井
上光貞,森浩一,中川成夫,金子武雄,布目順郎,安本美典,奥野正男といった幅広い分野の学者
達がこの立場に立っている。私自身も目下の所,この説が一番説得力があり客観性に富むと考えて
いる。
5.さいごに
戦後の歴史学は、神話性を排除するため教科書から「古事記」や「日本書紀」の内容を一切排除し
てしまった。言及したとしても、文字通り「神話」であると断定しその内容に全く歴史性を認めな
かった。この立場は、今日でも「津田史学」として有名であるが、東京大学の白鳥庫吉の弟子であ
った津田左右吉による処が大きい。津田は、『古事記及び日本書紀の研究』を始めとした一連の著
作において「記紀」の歴史性を否定し、これらは大和朝廷が後世自己の正当化のために作り上げた
ものであるとした。当然、天皇家の神格化も否定し、記紀には全く歴史的な信憑性は無いと断言し
たのである。その為、津田自身は右翼や極端な保守主義者達から多くの迫害を受けることになる。
極端な国粋主義者の「原理日本社」は、津田の研究に危機感を抱き、津田を告発した。『古事記及
び日本書紀の研究』を手始めに、全4冊が発禁処分となり津田は追い込まれていくが、戦後体制に
なってからは一変する。津田は歴史学における進歩的史観の第一人者となり、多くの学者達が師事
するようになる。やがては「津田学派」と呼ばれる一群の研究者集団が形成され、この流れは今日
にも続いている。
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