ローズ・スキンの女

ローズ・スキンの女
2005 年 3 月
しまおか こういち
重そうなドアをやや肩で押すような仕草で、女性が入ってきた。赤茶のサングラスをし
ていた。髪は黒くカールして肩の下にまで届いていた。シルバーのミンクのコートから下
に伸びた脚は長く、足首がほっそりしていた。靴は、履き古したスニーカーだった。しか
もそのスニーカーは大きめだ。そこだけ見るとまるで森の中のこびとか妖精の脚のようだ。
白人女性だ。
「ようこそ、ポラーコの店へ」
「ξξΛζ▲¶」
「ははは。トルコ語ですね?おれには分りません。英語かセルビア語でお願いできませ
んか?」
「トルコ語ってどうして分ったの?」
女性は訛りの強い英語で答えた。
「おれは、地球語ならばトルコ語以外はすべて分るんです。分らないお言葉だったから
トルコ語だと見当をつけたんですよ」
ちょっと笑顔見せて、女はコートを脱ごうとした。この店に腰を落ち着けようと決心し
たようだ。ヴァラリーが急いで女の背後から肩から滑り落ちたコートをそっと受け取って、
胸元に抱えて大事そうに店の奥のキャビネットへ運んで吊した。
女は、意外に肉付きがよく、黒い薄いスーツに身を包んでいた。右胸に緑の宝石のブロ
ーチをつけていた。お約束のように、胸と背中がやや広めに開けて、胸の谷間が奥まで見
える仕掛けになっていた。肌の白さを強調する作戦が見え見えだった。
「ありがとう。ミス?・・・」
「ヴァラリーです。どうぞよろしく」
「あ、ヴァラリー。あたしはイヴォンヌ・・・」
「スザンナ」
とおれは後を引き取って言った。
彼女は、びっくりして眼を見張っておれを凝視した。おれは、やや警戒色に染まったサ
ングラスを笑顔で柔らかく包み込みながら、言った。
「おれは、女の名前を当てるマジシャンです。何かお作りしましょうか?」
「・・・あなたのお名前は?」
「店の名前と同じです。ポラーコ・アレキサンダー・マクモーンと申します。どうぞよ
ろしく」
「お名前からすると、アイリッシュの血が混じっていらっしゃる?」
「はい。スザンナ。スザンナとお呼びしてよろしいでしょうか?」
「ええ。スーと呼んで。そうねぇ。アイリッシュならば、アイリッシュ・アイズ、お作
りになれます?」
「はい。よろこんで。スーのお眼の色のようにね」
再び彼女の視線がサングラスの奥で強く光った。
「ああ、おれは女の目の色を・・・」
「当てるマジシャン♪」と女は歌うようにして受けた。
「エメラルドのブローチのようなお眼。すてきじゃないですか。マジックとは心理学を
含んだ科学です。確率の高い推理です」
おれは、シェーカーに氷、アイリッシュ・ウィスキー、ミントリキュール、生クリーム
をそれぞれ同量入れて、アメリカン・ウェスタンのリズムに乗せて振った。ややストロン
グなアイリッシュ・アイズができた。エメラルドのような透明な濃い緑ではないが、淡い
緑の液体をシャンパングラスに入れて、柄のついたサクランボを差し込み、テーブルの片
隅に活けてある淡いピンクのバラの花びらを千切って浮かせた。おれは、それをテーブル
の上を滑らせ助走をさせて、10センチほど投げるようにしてスザンナに差しだした。ス
ザンナは、それを右手の中指で受け止め、そのまま細いたばこをバックから引き抜き、ラ
イターで火を点けようとしていた。カシャカシャ、ライターは空回りをしているようで、
点火しなかった。カウンターの止まり木にお尻を乗せてあちらを向き少々乱暴にヤスリを
回していた。
「どれどれ?」と声をかけながら、おれは手をさしのべて、ライターを受け取るような
仕草をした。
「あぁ。これはクラシックなライターだ。ロンソン。たしか20世紀の60年代頃、流
行ったブランド物ですね。少しいじってよろしいですか?調べてみます」
「ええ。直ります?その前に、ポラーコもご自分用に何かお作りになって、乾杯しませ
んか?」
「ああ、いいですねぇ。では、アイリッシュ・ウィスキーでハイボールを作ってよろし
いですか?」
「ええ、どうぞ、それにヴァラリーもいかが?何か作ってあげて、ポラーコ」
「あの子は底なしですよ。しかもブラディ・メアリーしか飲まないんです」
ヴァラリーは、他の客から離れて近づいてきた。
「あたし。今夜はハワイアン・ブルーにする・・・マスター。おお、こわ~い。はいは
い、どうせ私に毒々しい血の色のブラディ・メアリーをお願いね、マスター」
ヴァラリーはスザンナの方を向いて、「マスターはブラディ・メアリーなら即座に作れる
し、安いので、ああ言っているだけなんですよ、スー」
おれは、手早くハイボールとブラディ・メアリーを作って乾杯の準備を整えた。スザン
ナは緑、ヴァラリーは血の色、そしておれは黄色、交通信号のようなグラスが乾杯のかす
かな音をさせた。
「3人の友情のために!」
スザンナはそういって、1/4休止符ほどヴァラリーとおれを見くらべた。少し、咳き
込んだようにスザンナはつけ加えた。
「あら?わたし、どうしたのかしら?今、急に、ずうっと前からお友達だったような気
がしたの」
「マスターが、マジックの粉をかけたのよ、スー」
ヴァラリーはスザンナに質問をした。
「スー、あなたはトルコにお住まいなの?」
「あぁ。私、ついおとついまで。私はトルコ人の血が混じっているのよ、ヴァラリー」
「どうりで、髪の毛が真っ黒で、どこか東洋人っぽいお顔つきだわ。マスターのタイプ
よ。ポラーコ・マジックにご用心、ご用心」
ヴァラリーはいたずらっぽくスーにウィンクして、ブラディ・メアリーのグラスを持っ
たまま、別の客のところにもどっていった。
「ポラーコ、あなた、ほんとにマジシャンなの?」
スザンナは不安気におれに尋ねた。おれは背を彼女に向けて、言った。
「ライターにマジックをかけています。スー。少々お待ちを」
おれは、手元を明るくする小さなスタンドのスイッチをオンにした。ロンソンのクラシ
ック・ライターを一瞬孔の開くほど見つめ、両手で包み、ちょうど呪文を唱えるように眼
をつぶって間を置いた。呼吸を整えて手を開き、小さなドライバーでライターのネジを外
した。そして、わざとライターの修理に時間を取ろうとして、あるLP版のレコード盤を
指でまさぐって、すばやくジャケットから抜き取り、隣の年代物のターンテーブルに置い
て、レバーを回して針を乗せた。ゲール語(アイルランド語)の歌が、真空管のスピーカ
ーから、ナナ・ムスクーリの澄んだ声に乗って、店内を充満した。きんきんする音をこそ
ぎ落とした真空管とアナログ独特の柔らかい音が人々を包んだ。
「ポラーコ。訳して?昔ゲール語を習ったことがあるけど、忘れちゃったの」
「ええっ?ナナ・ムスクーリの声に合わせるのですか?このひどい声を、スー」
「ええ、そうよ、ポラーコ、お願い」
「酒がまずくならなければいいが」と呟いて、おれは別のお客さんに同意を求めてから、
また初めから針を置き直して、同時に英語で歌い始めた。
♪私の若い恋人が私に言った、
「お母さんはおまえが年上だからと言って何にも言わないよ。
お父さんはおまえに持参金なんかないからと言って軽んじないよ」
そして彼は身体を離して言うのよ。
「もうじきだよ、ローズ・スキンのおまえ、おれたちの結婚の日も」
「あぁ。発火石がほとんどすり減ってなくなっていますよ、スー。待って下さい。どこ
かに発火石があったから」
おれは間奏曲の間に、すばやく言った。彼女は抜いたたばこを軽くテーブルにドラミン
グをしながら、曲に聞き入っていた。
「いいのよ、ゆっくりで、ポラーコ」
♪私のそばを離れて彼は市場を通って行った。
そのあちこちで行く姿を、私はまぶたを熱くして見守った。
そして一番星が瞬き始めた頃、彼が家に向かって帰っていった。
ちょうど白鳥が夕方、湖を越え渡るようにね。
「ありました。発火石が、スー」とおれは呼びかけた。スザンナは、驚いたようにおれ
を見た。「・・・・」しばらく黙っていて訊いた。
「ハッカイシって、何?ポラーコ」
「ははは。スーはそのこともご存じない?クラシック・ライターの火打ち石のことですよ。
もうそんなものどこにも売ってないんですよ」
♪みんなが言っていた
「結婚する二人は二人とも幸せになることはなく
一人は人には言われない哀しみを味わうものさ」
そして、彼が品物を持って通ったときに、私は微笑んだ
そうしてそうして、あれが彼のことを私の見納めとなったのね。
スザンナのサングラスの下に涙が溜り、すっと伸びた鼻筋の右の脇から、それが一筋あ
ふれ落ちていた。おれは見えない振りをして言った。
「スー、たばこに火を点けましょう」
シュパと音がして、青いほのほが麦の穂のように伸びた。スザンナは、サングラスをテ
ーブルに置いた。ライターをもったおれの右手を両の手で抱えるようにして、火に顔を近
づけくわえたたばこに火を点けた。そして、ぽかんと開けた口から煙をくゆらせながら、
エメラルド色の潤んだ眼でぼんやりおれを見ていた。それからハッと初めて気がついたよ
うに店の壁に市場の雑踏の絵が浮かび出たのを見回した。
「市場ね?ポラーコ」
「そうですね、スー」
おれも初めて気づいたように、ライターの火を点けたまま、スザンナに調子を合わせて
見回した。おれは一段と低声でスザンナの耳に向かって歌った。
♪夕べ彼が私を訪れ、こっそりと入ってきた。
そのやわらかな足はことりと音もたてずに
そして、彼は私の上に身体を乗せて、こう囁いたのよ。
「もうじきだよ、ローズ・スキンのおまえ。おれたちの結婚の日は」
スザンナは他人事のように言った。
「『もうじきだよ?』って・・・何年になるの?ジム」
「30年だよ、スー」
「あなたの持っていた品物は爆弾だったのね?ジム」
「うん」とおれは頷いた。「おれは両足を失ったよ。スーは吹き飛ばされたおれの足が穿
いていたスニーカーを持って、どこかへ消えてしまった。おれが『できるだけ遠くに逃げ
ろ』と言ったからね」
「ねえ、ジム、ライターの火をもう一度点けてみて」
シュパ。その光で店の壁に、ブリューゲル風の市場のざわめきをかたどった絵が再び浮
き出た。スザンナは不意に止まり木から飛び降りて、ピボット・ターンをして、両手を大
きく広げたかと思うとその手を胸のところで固く結び、そのままゆっくりと、おれに差し
だして叫んだ。
「そうなのよ!あなたは、あなたはこのライターで導火線に火を点けたの!何かが間違
ったのね。そう間違ったのだわ。爆弾は予想外に爆発してしまったのね。あなたを包んだ
ほのほはこんな色だった。あなたは、おお、ジム、私のジム!あなたは丸太ん棒のように
倒れて燃えていた!ねえ、私に何ができたというの?ねえ、教えて、私に何ができて?」
「スー、おまえは、婚約のエメラルドのブローチを着けて、おれのスニーカーを履いて、
30年かけてここに来た。おれは両足と同時にレジスタンスの名前、ジムも捨てた。顔も
変わってしまった。だが、なにも、なにも変わっちゃいないのさ・・・」
ヴァラリーはワルツを踊りながらふんわり二人に近づいてスカートを広げて会釈をした。
「ライターのマジック・ショーはいかがでした?スー。ジムは、いえ、ポラーコはずっ
と発火石を持ってローズ・スキンの女をお待ちでした。マダム・マクモーン」