印刷用 - 日本国際ボランティアセンター

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ソック・サバーイ
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2010年3月 90号
-元気だよ-
編集・発行 JVCカンボジアチーム
JVC勤続20年 ~影でJVCを支え続けたエンの下の力持ち~
インタビュー
JVCカンボジア
通訳
インターン
インターン
樋口
正康
ポー・ブンニカ
今回のインタビューは、資料・情報センター(TRC)司書のイン・コック・エンさんにお話を伺い
ました。彼女は1990年にJVCで働き始め、今年で勤続20年となります。この長い月日を振り返っ
て頂き、JVCと共に歩んだ20年で変わったこと、学んだこと、カンボジア社会についてなど、色々
なことを聞かせてくれました。
【樋口】
本日はお忙しいところありがとう
ございます。JVCでの20年を振り返ると様々
なことがあったと思いますが、まずJVCで働く
ことになったきっかけを教えてください。ま
た当時の社会状況も教えてください。
【エン】
私がプノンペンに来たのは1988年
です。それまでは出身地のプレイベーン県にい
ました。叔父の家で生活し、彼が経営する帽子
屋の手伝いをしていました。当時のカンボジア
勤続20年を迎えた、イン・コック・エンさん
はみんな貧しかったです。実家に帰る時は、バ
スの車内席はお金がかかるので荷台に乗って
帰っていました。でも当時の方が安全だったと思います。自転車も鍵をかけておけば盗られるこ
とはありませんでした。交通渋滞もありませんでしたし、当時の移動手段といえばシクロ(自転車
タクシー)でした。
1990年当時、JVCのオフィスはモノロムホテルにありましたが、オフィスを移転するにあたり
料理のできるメイドを探していたそうです。ホテルの支配人がフロントの人にその話をして、フ
ロントの人から私に話が来たのです。それまでJVCのことは知りませんでしたが、ぜひ働いてみた
いと思いました。そして、当時JVCカンボジア代表だった古西さんと、JVC技術学校の指導員だっ
た今は亡き馬さんに面接をして頂き、JVCで働き始めることができました。今のJVCは農村開発の
仕事をしていますが、当時は保健医療のプロジェクトをやっていたのですよ。
【樋口】
そうだったんですか、1990年当時のことは私もよく知りませんでした。今のTRC司
書にはどういう経緯でなったのですか。
【エン】
最初からTRCの司書になったわけで
はありません。2003年のことです、会計の職員
が辞めることになり、当時の代表だった米倉さ
んに銀行からのお金の出し入れを頼まれるよう
になりました。それがきっかけで会計とコン
ピューターの研修を受けることができました。
メイド、総務・会計、ラタナキリへの物資支援
を担当することになりました。この頃は非常に
忙しく、お昼を食べる暇がない時もありまし
た。そこで、今もJVCで働いているスィネンさ
資料・情報センター(TRC)
んをメイドとして雇い、私はメイドの仕事から
外れました。翌2004年に総務・会計のサポート
として働く契約を結び、併せてTRCのサポートもするようになりました。2006年に前任の司書が
辞めた後、私が司書になりました。
【樋口】
なぜ20年という長い月日をJVCと歩むことができたのですか。歴代の代表(古西→
谷山→清水→山口→岩崎→米倉→山
)と共に歩み、そして働いてきてどんなことに幸せを感
じましたか。
【エン】
JVCで働いて20年になりますが、色々なことがありました。数え切れないほど良いこ
とがあったからこそ、今まで続けることができたと思います。谷山さんや由子夫人は仕事に対し
てとても厳しかったと記憶しています。しかし仕事は厳しくても人間関係はとても良好で彼らの
良さがでていました。1995年だったと思います、家の周りの治安が悪化して家に帰るのが不安で
した。そこで当時の代表だった清水さんがそれを考慮して事務所に住むことを許してくれまし
た。とても暖かいと感じましたし、嬉しかったです。
私が重い病気にかかった時、馬さんは私をすぐ病院に連れて行ってくださり、帰郷するための
費用と1ヶ月のお休みをくれたことは今でもよく覚えています。米倉さんにはJVCで学ぶ機会をた
くさん頂き、スタッフとして重宝してくれました。現代表の山
さんはいつも私の仕事をやり易
いように取り計らってくれます。JVCの歴代代表が私に勉強と自己鍛錬の機会を与えてくれたこと
に感謝しています。日本人は多くのお金と時間をカンボジアのために使ってくれます。私はお金
を持ってカンボジアの発展に寄与することはできませんが、TRCの仕事を通じて恩返しをしたい
です。
【樋口】
エンさんのお話を聞いて、私も先輩方を見習い勉強していかないといけないと思い
ました。今は司書としてJVCで働いていますが、難しさを感じることもありますか。
【エン】 JVCで働き始めたことで私の人生は変わりました。自分でお金を稼いで自立することが
できました。日本人スタッフは私に敬意を持って接してくれますが、2つだけ難しいことがありま
す。それは、私に仕事が次から次へと来るのですが、仕事内容が明確ではない時が一番困りま
す。どうすれば良いのかわからないので、助けを求めることもできません。パソコンの操作はで
きるのですが、未だにEメールのやり方がわかりません。今後の課題ですね。ですが私は本が好き
ですし、今の仕事は楽しいです。よく感じるのですが、今の学生さんは幸せだと思います。ポル
ポト時代が終わってから、私は教科書なしで勉強しました。今は本の数が多いし、たくさんの種
類の本があります。読むことは最良の学ぶ方法でもあります。学生さん達の学業に貢献できるこ
とは幸せです。
【樋口】
教科書がない時代もあったのですね。最後にTRCがこれからどのようになって欲し
いですか。日本の支援者の方々へのメッセージと一緒にお願いします。
【エン】
利用者がもっと便利に使えるように本の種類を充実させたいと思います。今の学生の
ニーズが高いのは農業に関する本です。換金作物、野菜などの実践的な栽培方法について知りた
いと言われることもあります。また、学生さん達はJVCの活動にも興味があるようで、JVCの活動
報告書を作り利用者が閲覧できるようにしたいと思っています。
私が日本と聞いて浮かぶのは、「美しい桜の花」、「広島と長崎の原爆」、「テクノロジー」
です。日本の情報は本と映像からしかありません。日本に行ってみたいという思いはあります
が、現実的には難しいと思います。ですが、遠い日本から多くの方が来てくださり、カンボジア
を支え続けてくださっています。本当にありがたいことです。今後とも、日本の皆さんのご多幸
とご成功をカンボジアから祈っています。日本とカンボジアの友情がこれからもずっと続きます
ように。
エンさんの印象
∼インターン樋口の視点から∼
エンさんのことは実は知っているようで、あまり知りませんでした。忙しい時は機嫌が悪い
し、いろんな面で細かいという印象を持っていました。しかし、今回のインタビューをして彼女
の印象が180度変わりました。彼女の細かさは、仕事に対しても同じで彼女の仕事に対する思いは
真剣そのものでした。失敗は許されないという気持ちで仕事をしっかりやり遂げようとする。
TRCの仕事も責任を持って最後までやろうとするため、あまり人に任せることができず自分でや
ろうとする。だから、気持ちの余裕がなくなってしまうことがあると思いました。自分に厳しい
から、人にもとことん厳しくなる。「JVCの雷おばさん」という感じです。こういった人は日本で
もカンボジアでもいなくなっているのではないでしょうか。
一方で、山
さんの誕生日にはみんなのご飯を作ってくれるし、料理も本当に美味しいです。
上司をとことん立てるということを知っており、礼儀作法、躾にも精通しています。エンさんの
持っている良いところを引き出して、お手本として頑張ってもらいたいです。
カンボジアの海上国境問題~対立から協調へ
カンボジアチーム
日達
平一郎
カンボジアが抱える国境問題といえば、国際司法裁判所の調停でカンボジアの領土とされた後
も、国境線の策定や世界遺産登録を巡る対立などからタイとの間で戦闘が散発し緊迫したままの
状況が続く「プレアヴィヒア寺院」一帯がよく知られています。しかし、カンボジアがタイ・ベ
トナムの間に、海上における国境線の画定問題
を抱えていることはあまり注目されていませ
ん。
かつてベトナム・ラオス・カンボジアといっ
た国々は、18世紀以降、仏領インドシナという
一つの大きな植民領土として存在していまし
た。そのため1930年代以降、南方に進出してき
た日本や、仏領インドシナと領土を接していた
シャム(現在のタイ)と、宗主国たるフランス
との間で、仏領インドシナを巡っての領土紛争
が第二次大戦後まで続いていました。しかし第
二次大戦以降、インドシナ紛争を経て仏領イン
ドシナがそれぞれ独立を果たすと、植民地時代に取り決められた国境線は紛争問題の要因となっ
てしまいました。
陸上であれば、山の稜線などを使ってある程度の合意が得られるのに比べ、海上の場合は何も
目標物のない海に国境線を決めるわけですから、当然のことながら交渉ははかどりません。この
ことが、漁業権利を巡って双方の漁船が拿捕されたり銃撃されるといった事案を増やし、結果、
ますます国境画定の進まない状況が続くという悪循環を招いてきました。また長期にわたる曖昧
な国境画定の状態が、いわゆるアウトローな地域を生み、麻薬取引や非合法貿易などの拠点とな
り、各国の経済活動や政治的な対立に輪をかけました。
冷戦終結後、インドシナ紛争も終わりカンボジアが国家として再出発するのと同じくして、こ
うした海上での国境紛争にも思わぬ形で終幕がおとずれます。それは、メコン・デルタ沖の南シ
ナ海からタイ湾にかけての海底地下資源の存在が積極的に調査されはじめ、その結果、石油や希
少金属の存在が有望視されるようになったことです。これを受けてタイ・カンボジア・ベトナム
は、対立したまま採掘権を第三者に握られてしまうより、資源の開発を共同で行うことで利益を
あげることが互いの国家間関係の発展にも有意義であると考えるようになりました。そこで2000
年代に入ると、それぞれの海上国境線の画定作業が急いで進められ、それに伴い各国間の海上で
の武力紛争なども現在はほぼ無い状態になっています。もっとも、依然タイとの間ではココン県
沖での両国の漁船の操業が、昨年のタクシン元タイ首相のカンボジア入りを巡って二国間関係が
悪化した際に、漁業許可証の発行トラブルが頻発したり、石油探査の問題でカンボジアが委嘱し
た調査会社へクレームをつけて探査そのものを断念させるなどの事案も起きており、まったく両
国の間で問題が発生していないというわけではありません。
このような事案も、むしろそうした問題の解決の為に話し合いや調停が促進されるきっかけを
生むようになり、問題が起きること=関係悪化という以前の国家関係では単純に捕らえられなく
なりつつあります。色々な政治的思惑はあるでしょうが、カンボジアとタイ・ベトナムの関係
が、かつての様々な恩讐を乗り越え、対立よりは協調を重視し、特に海の上での波立った関係を
静かで穏やかなものに変えていくかどうか、各国の努力は一層積み増しされはじめています。そ
ういう意味で、カンボジアの抱える海上国境問題は注視していくべき問題だと思えます。