ド・マンドロー邸のれんが

ド・マンドロー邸のれんが
北川
成人(大成建設社会交流センター長)
1930年コルビュジエはエレーヌ・ド・マンドロー夫人から、南仏はツー
ロンの郊外に1軒の小さなヴィラの発注を受けた。夫人は、コルビュジエが1
924年に両親のためにレマン湖のほとりに建てたようなローコスト住宅を、
希望した。
サイトは、風が地中海の潮の香を運んで来る少し小高い所にあり、ぶどう園
が周りを囲んでいる。少し離れたところにある隣家はみな石の造りである。こ
んな情報をもとに彼は設計した。コルビュジエが設計依頼を受けた当時の世界
情勢は、1929年10月、ウォール街の株価大暴落に端を発して世界は大恐
慌に突入した。社会不安から過激な政治、社会運動が大衆の心を捉え、30年
1年だけで、ナチスの党員は前年から5倍も増え100万人を超えた。各国に
は失業者が溢れていた。そんな大恐慌が始まった頃の仕事であったから、コル
ビュジエにとってもありがたかったに違いない。
依頼主であるド・マンドロー夫人は近代建築会議(CIAM)の産婆役を
勤めた人物である。第 1 回会議は、1928年6月スイスのラ・サラにある夫
人の城で開催されている。大富豪なのだ。
20年代にピュリスムの美学を完成させたコルビュジエは、30年代に入
るといくつかの別荘(=ウイークエンドハウス)を設計している。それまでの
白い平滑な表層を壊し、乱石積みや木を使い出す。計画だけに終ったチリのエ
ラズリス邸(30)、救世軍難民院と同じ注文主によるマテの家(35)、パリ郊
外の週末の小住宅(35)などだ。これらの作品は、施工の技術的な問題から鉄
筋コンクリートに代えて、石やレンガを使ったとも考えられる。しかし、それ
だけでは説明のつかない、オザンファンと別れた後の、絵の変化―ピカソばり
の女性像、シュールレアリスムの影響等―や、絵画からの引用、新しい表現の
追求などが見えてくる。そこには20年代に「建築の 5 原則」、「住宅構成の 4
つの型」によって、「近代」という時代を造形化したコルビュジエが、「近代」
の崩壊のはじまりを自覚し、それを表層の変化として表現した姿が浮かんでく
るのだ。ド・マンドロー邸はそんな30年代を象徴する一典型なのだ。
前述したように、ヴィラはレマン湖の「小さな家」を踏襲している。
「小さ
な家」が横長の長方形であり、南側に長さ11メートルの窓があるように、こ
のヴィラも南側に大きな窓を有した横長の長方形である。
「小さな家」が移動間
仕切りを使って、機能的なインテリアが追求されているように、このヴィラで
はインテリア・家具をレネ・エルブストとド・マンドロー夫人が担当している。
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夫人のインテリアデザイン能力がどの程度であったかは知らないが、レネ・エ
ルブストは当時すでに名の通ったインテリア・デザイナーであった。彼が設計
したクローム製のイスはモダンクラッシクとして、今でも日本で手に入る。コ
ルビュジエも、コンクリートの壁に付着した鉄パイプ製脚付の横長収納棚をデ
ザインしている。広い室内空間をカップボード(一方が本棚でありその裏はド
レッサー)を間仕切り―スタンダードコンパートメントと称している―に使い、
必要に応じて可変する室内を演出しようとする試みは、20年代から続けてい
る。ぺサック、ワイセンホフジードルング、サロン・ドートンヌでの発表と続
き、このヴィラでもその考えを展開している。
天井はベニアを張り、床を現地産のタイルで葺くなど低コストと機能を追求
している。ヴィラが完成したとき、庭にはリプチッツの彫刻が置かれていたと
いう。リプチッツはエスプリヌーボー館に設置された彫刻の作者である。こう
したことから、このヴィラが「住宅は住むための機械」の系譜にある作品―機
械論的な近代解釈―であることが分かる。他のウイークエンドハウス群も同様
である。
機能面では20年代からの「住宅は住むための機械」を追求しているが、表
層についてはまったく違う。スタッコ、ガラスパネル、石積みの三つを一つの
ファサードに一度に使っているのだ。
1932年ニューヨーク近代美術館で開催された建築展(いわゆるインター
ナショナルスタイル展)のカタログにこの建築が掲載されている。写真のキャプ
ションはこう謳っている、
「石積みと壁から離れた柱構造とのコンビネーション。
非耐力壁はスタッコとガラスである。木製のハエよけフレームの位置が悪く、そ
れが窓割りを台無しにしている」。
ヒチコックとジョンソンの二人は20世紀の新しい建築をインターナショナ
ルスタイルと呼び、その特徴の一つはヴォリュームにあるとした。旧来の建築
が、石やれんがによる壁が支配する静的でがっしりとしたマッスの建築である
とするなら、新しい建築はヴォリュームの建築であり、重さや材質感を感じさ
せないような建築であるとした。それには表層の表情が極めて大事だという。
どこまでも変わることなく続く平滑な白い面がヴォリーム(牛乳をふんだんに
使いオフホワイトの輝きをしたソフトクリームを想像してください)を生むの
だと。
しかし、コルビュジエが、二人のいう白い平滑などこまでも続くような表層
とちがう作品―ド・マンドロー邸―を作ったので、かなり困惑し言い訳してい
る。曰く、この邸は南仏の田舎家という特殊事情があるので、石を使用してい
るが、新しい建築のヴォリュームという一般法則がそれによって減じられるも
のではない。ギリシャに無柱式があり、ゴシックにヴォールトでない建物があ
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るように、いつの時代にも例外はある。法則をよく理解していれば例外とは生ま
れるものであり,それだからといって、一般法則の蓋然性が損なわれるもので
はない。否むしろ弾力性を示すものであると。少し強引な気がしますが…。
さらに壁から離れた支持柱が 3 本使われていることについては、こうした柱
が使われているのは今(32 年)だ普通のことであり、ここでは乱石積の壁の接
合部が主要な支持となっており、3 本の柱は補助的な使われ方をしている。だか
ら、室内のヴォリュームを生み出す邪魔にはなっていないとまでいっている。
コルビジェ贔屓なのである。それから 70 年後に生きている私たちには、鉄やコ
ンクリートもおなじみの建築材料になってしまった。柱のない大空間もいとも
簡単に作り出すことが出来る。れんがの外壁はシックだとか、別荘は全部ログ
でなきゃとか、いいたいことをいえる環境だ。そんな現代から二人の言い訳を
聞いていると、この時代、アヴァンギャルドが何を追求し、批評家は何を評価
していたのか、時代の風景が見えてくる。
もう一度自分の審美眼を信じてこの作品を見てみよう。私は、このヴィラの
写真を見るたびに、どうしてもディズニーのダルマチアンワンちゃん101匹
大行進を、思い出してしまうのである。スタッコとガラスパネルと石の乱積み
が一体となって作り出す表情がどうとか言う以前の問題だ。北側ファサドから
の写真を見ると、立て付けの悪い掘っ立て小屋のように見えてしまう。向かっ
て左側のゲストルームの窓からは、今にも洗濯物が干されるのではと不安にな
る。
設計当時、コルビュジエは周りの景観を驚きの表現として、作品の中に取
り入れたいと感じていたのだという。その結果が乱石積みの外観だと言われる
と…。この説が本当なら、これはもうシュールそのものではないか。激しすぎ
ると言っていいほどの乱石積みの表情、石とガラスパネルの思いがけない併置
など、どれもシュールのディペイズマンの手法だ。コルビュジエの、絵画から
の引用はこんな形で現れるのだ。
30年代のコルビュジエは、大不況から第2次世界大戦への時代にあって実
作品も少なく、むしろ模索の時であった。提案の中には、「デカルト的超高層」
とその名もズバリ近代合理主義精神の根幹をなす哲学者の名前を付した計画も
ある。コルビュジエのピュリスムとは近代合理主義を結晶化させたものであっ
たが、その近代合理主義は第1次世界大戦で大きく揺らぎ始めた。ダダやシュ
ールレアリスムは絵画や文学上に現われた近代合理主義への異議申し立てであ
った。その揺らぎに気づき始めたかれは、自然とシュールレアリスムに近づき、
絵も変化し出している。20年代に近代合理主義をプラトン立体によって見事
作品化したコルビュジエは、30年代になってそれへの異議申し立てをまず石
やれんが、木など旧来の材料を表層に使うことで表現したのだった。
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