2012年度 大学 学部入試 解答

2016 年度 慶應義塾大学 文学部 (小論文) 解答
設問Ⅰ
解説
文章全体を要約させる問題である。
本文ではまず、犬に名前を与えるという行為が「人間化」を施すことであると述べた上で、その命名が決して好き勝
手になされているわけではないことを述べている。そして(中略)の後で、犬の命名についてのレヴィ=ストロースの
『野生の思考』における考察を説明している。そこではフランスにおける犬の命名の仕方が二通りあることが説明され、
それが、人間が無意識的に過ごしている日常生活の根底にある「構造」によるものであると述べている。その構造を
とらえる語彙として「換喩」と「隠喩」という概念を挙げている。
続いて「換喩」と「隠喩」という概念によって分析した動物の命名について説明がされる。まず、犬の命名を鳥の命
名と比較している。鳥は人間社会とは別個に独立した共同体を形成している「隠喩的人類」であり、したがってその
命名は「換喩」によって人間の名前の集合(ラング)から命名される。これに対して犬は人間社会に組み込まれており、
「換喩的人類」と呼ぶべき存在である。しかも犬は人間より下位に置かれる存在であるために、その命名は「隠喩」に
よって人間の名前とは異なる集合に基づいてされることになる。さらに、牛と馬の命名にも言及する。牛は家畜では
あるが人間社会に主体的に関わっていないので「換喩的非人類」とされ、その命名はパロールに基づいた隠喩的な
ものになる。競走馬の場合は独立した社会を形成しておらず、人間社会に組み込まれてもいないので「「隠喩的非
人類」とされ、その命名はパロールによってはなされない。
このように説明した上で、動物の命名はその動物と人間社会との関係に応じてまったく異なった秩序法則に従って
いるものであり、決して人間の自由によるものではない。いいかえると、自由に命名しているようにみえて、実は見え
ないさまざまな規則(構造)に基づいて命名を実践しているということになる、という文化人類学の結論を提示してい
る。つまり、人間がいかに行為と選択の自由を主張しても、その思考と行動は帰属する社会の構造によって暗黙のう
ちに規定されている、というのが構造主義の立場であり、それが人間の絶対的自由を宣言した実存主義と鋭く対立
したことを述べている。
最後に構造主義と実存主義の対立のさなかに発表されたつげ義春の『峠の犬』という漫画に言及し、飼い主がハ
チと呼ぼうが、五郎と呼ぼうが犬は無関心であり、この犬が体現している絶対的自由の前では、人間の命名行為は
観念の虚構にすぎないと述べている。
以上が文章の大まかな内容である。問題はこれをどういう形でまとめるか、ということである。それには、この文章の
「論点」が何であるかをつかむことが必要になる。「動物」はいうまでもなく「自然」であるから、命名の問題は人間と自
然の関係の問題になる。『峠の犬』における犬は「絶対的自由」を体現している。それは人間にとって自然が「他者」
であることを意味している。他者とは理解不能な存在であるから、それを人間にとって「理解可能」なものにしなけれ
ば人間は自然の中に生きることはできない。本文冒頭の「人間化」とはこのことである。絶対的他者である自然を人
間化することが命名行為に他ならない。その命名は人間の絶対的自由においてなされるのか、それとも構造に基づ
くのか、というのが実存主義と構造主義の対立ということになる。人間の絶対的自由=実存として命名を行うならば、
相互交渉ということになり、暗黙の構造=規範に基づくならば、内面化した規範による他者性の消去、ということにな
るが、そのように単純化してよいのだろうか。ここで、「構造」を構成しているものが「換喩」と「隠喩」であることがポイン
トになる。「比喩」とはそもそも「共通性」において成り立つものである。自然に対して比喩を用いることができるという
ことは、自然とのあいだに共通性が構築されていることを意味する。ではその共通性はどうやって構築されたのか。
相互交渉は自己と他者の間に共通性を生み出す行為である。社会の中に生成されている構造=規範は、自然に
対して他者である人間の相互交渉から生じたものなのである。そのように考えると、実存主義と構造主義の対立は実
は構造主義=社会規範に規定される人間のありよう(主体的自由)、実存主義=規範から逸脱する人間のありよう
(実存的自由)の対立ということになり、規範からの逸脱=自由が規範を可視化し、規範を再生成して主体化をもた
らし、またその逸脱が…、という文化(規範)生成の二側面が対立の形をとっていると考えることができる。「自然」の
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前では人間の「文化」は虚構にすぎない。「犬が体現している絶対的自由の前では、人間の命名行為は観念の虚構
にすぎない」とはその意味で解釈すべきであろう。また、だからこそ両者の対立は「一人芝居」だということになる。
このように考えた時、要約において、「構造」における「隠喩」と「換喩」による理解、というところが極めて重要になる
ことがわかる。ここを省略して本文の後半部分だけで要約を構成しても筆者の論旨には沿わない。また、単純に文
章の順を追ってまとめても論旨には沿わないことになる。「要約」を単に短くまとめることとだけとらえた答案と、そうで
ない答案では相当な差がつく問題である。
解答例
人間に対して動物は絶対的自由の立場、つまり他者として存在している。人間が動物に関わるためにはそれを人間
化して理解するしかない。構造主義では、動物を人間化する命名においては動物と人間の関係に応じた換喩と隠
喩を使った命名がなされ、どの動物を換喩または隠喩で捉えるかについては、それぞれの社会がもつ見えない構
造に規定され、決して人間の自由になるものではないと主張する。これに対して、実存主義は人間の絶対的自由を
主張し、両者は激しく対立した。しかし、命名が動物=自然を人間化するという文化的行為であるならば、それが構
造に規定されていようが、人間の絶対的自由に基づくものであろうが、人間社会にとって他者である動物にとっては
人間のつくり出した観念の虚構にすぎないものであり、両者の対立も人間の一人芝居にすぎないものである。
設問Ⅱ
解説
「人間にとって『名づける』とはどのようなことか」についての意見論述が求められているが、「この文章をふまえて」
という指示がある以上、本文の論点に則った論述が要求される。まず考えなければならないのは、犬(動物=自然)
が持つ「絶対的自由」の意味と、その犬から見た場合人間の命名行為は観念の虚構にすぎない、ということの意味
である。これを文字通り「虚構」ととると、「この文章をふまえて」という指示がある以上、「名付ける」という行為が虚構
であるのか否か、という形で書いてしまうことになる。設問Ⅰでも見た通り、人間に対して動物がもつ「絶対的自由」と
は「他者性(実存性)」である。したがって、「名付け」とは「他者理解」にほかならない。まず、名付けるという行為のこ
の本質的なところをとらえる必要がある。そして、これも設問Ⅰで見た通りであるが、名付けるという行為は文化的行
為であって、自然からすればそれは「虚構」ということになる。そもそも「名付け」とは「言語」という「文化」によってなさ
れているのであるから、それは文化的行為にほかならない。名付けが文化であるならば、それは規範に基づく行為
ということになる。とすると、名付けにおいては人間の絶対的自由という実存性はありえないことになる。
その上で、構造主義と実存主義の対立について考察することが必要になる。筆者は「動物の立場からしてみれば
すべては人間の一人芝居ではないか」と述べている。構造主義と実存主義の対立そのものが「一人芝居」だというこ
とは、両者は決して対立するものではない、ということである。実存主義は人間の「実存」としての自由を主張するが、
構造主義は人間の自由を見えない構造に規定されたものと主張する。確かに、表面的に見れば正反対の主張をし
ているように見える。しかし、構造主義の考え方を内面化された(見えない)規範(構造)に基づいて人間の行為がな
されると解すれば、構造主義の主張は規範の内面化による自律ということになり、両者は「実存的自由」と「主体的自
由」を主張していると解することができる。思想史的には、一般に実存主義をカント以来の主体性の哲学の系譜に位
置づけ、構造主義を近代の主体性を超えるものとして位置づけることが多いが、この文章では犬の自由も実存主義
の自由も「絶対的自由」と表現しているので、実存主義は文字通りに「実存」ととるべきであろう。「実存」と「主体」は
確かに対立する概念ではあるが、そもそも始めから主体化されている人間はいないわけで、「主体」の基礎には「実
存」がある。実存としての人間が規範を内面化して主体化するわけである。また、規範は決して固定的・永続的なも
のではない。「文化」という規範が絶えず変容することからも明らかである。では、なぜ規範は変容するのか。それは
規範によって構成されたシステム内部では、常に「規範からの逸脱」が生じるからである。規範からの逸脱はつまりは
「他者化」「外部化」であり、システムはその他者・外部を秩序の内部に組み込むために規範を変容させざるをえない。
規範から逸脱した存在は、その規範を内面化することで秩序内部に位置づけられる。これを「実存」「主体」で考える
と、主体(=規範の内面化)が規範から逸脱することで実存となり、再生成された規範を内面化して主体化し、という
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実存と主体の運動ということになる。人間が社会的動物であり、社会秩序とともにしか生きられない以上、人間にとっ
ての「自由」とはこのような形でしかありえないことになる。ということは「文化の生成・変容」こそが「人間の自由」という
ことになる。
また、絶対的自由=実存が自然に向き合えば他者に向き合うことになるが、構造主義の規範も他者性をもとにして
いる。設問Ⅰでは「比喩」が「共通性」に基づく以上、相互交渉による共通性の構築がもとにあると述べたが、これを
「文化」として考えれば、「換喩」は「自文化内部の他者理解」であり、「隠喩」は「他文化=異文化理解」ということに
なるだろう。「換喩」は自文化の内部に存在する他者(異文化)の翻訳であり、「隠喩」は自文化の外部に存在する他
者(異文化)の翻訳である。そもそも「他者」が存在するから「規範」は形成されるわけであり、そこから考えても構造
主義と実存主義は連続している。
他者、文化という視点によれば上記の他にも論点は考えられるが、本文をふまえる以上は、要約で焦点になる部
分についての踏み込んだ考察が必要になる。そのあたりが論じられているかどうかが重要なポイントになる。いずれ
にしても、本学部頻出の観点による出題になっており、その意味では過去問をじっくり読みこんでいる受験生にとっ
ては考えやすい問題である。
解答例1
絶対的自由とは社会規範の否定であり社会を失うことである。しかしだからといって、社会の中で生きる人間にとって、
社会制度としての言語の構造に人間が支配され、実存や自由が虚構にすぎないということができるだろうか。あるい
は、別個の共同体に対する認識は隠喩つまり自己の共同体の観念の投影にすぎないのだろうか。言語の規範が絶
対であるとすると、言語は生成・変化することはないはずである。あるいは自己の共同体の観念の投影を超えた他者
の他者性との遭遇、つまり驚きが自己の言語を発展させ、換喩的に取り込むことを可能にしてきたのではないか。価
値・規範・構造とそこからの自由が相互に規定し合いながら発展してきたのが言語であるとすれば、言語の構造とは
そのような歴史の一断面に過ぎず、名付けとは規範に制約されながらそれを超えていく自由な行為でありえ、世界・
他者の認識を限定しながら広げ深める行為であると考える。
解答例2
人間にとって自然は他者として存在している。名付けるとは他者に対する行為であり、自然としての世界を人間的な
ものとして理解可能にする行為である。名付けが「言葉」でなされる以上、それは文化に基づいた規範による理解で
ある。だとすると、名付けによる理解は世界の他者性を消去して人間化することなのだろうか。決してそうではないだ
ろう。そもそも規範は自然のものではない。実存としての人間が世界と関わった経験が共有されて規範を形成する
のである。しかも一度形成された規範は固定されるものではない。社会内部には常に規範からの逸脱があり、それを
秩序化するために規範は再生成される。名付けという行為はそのような意味での文化の生成、変容に関わるもので
あり、主体と実存の運動という人間の自由に関わるものである。名付けが自然に対する人間の自由をもたらすならば、
名付けによる人間化は自然と人間という他者の共存をもたらすものだと言える。
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