2015 年度 慶應義塾大学 文学部 (小論文) 解答解説

2015 年度 慶應義塾大学 文学部 (小論文) 解答解説
設問Ⅰ
解説
科学的知識に関して筆者が主張している内容をまとめるという設問である。
本文ではまず、あらゆる感覚について、他人がどう感じているかを外から知ることはできないので、自分の感
情を基本に類推するしかなく、社会的コミュニケーションはそこが出発点になることを述べ、その類推は人間以
外の対象にも向けられることを述べている。それが擬人視で、対象に感情移入して相手の丸ごとの反応を予測す
る上で一定の便利さがあり、それゆえに科学啓蒙においてもしばしば擬人的な表現が用いられると説明されてい
る。次いで、他人に何かを伝えようとするとき、聞き手にその何かを具体的に想像させるような表現が必要にな
り、言葉による表現は何らかの形の比喩にたよらざるをえないと述べ、科学の概念の説明にも比喩的表現がしば
しば使われる、と説明している。
しかし、たやすい理解には必ず誤解がつきまとうものであり、
「理解というものは誤解の総体にすぎない」とい
うのは科学的理解の本質を表す言葉であると説明している。その上で科学的に難解な概念や事柄を比喩的な表現
によって理解するのは、自分の腑に落ちる部分だけをわかったつもりになるということである、と述べ、その例
として「ビッグバン」や「ブラックホール」そして「ヒッグス粒子」の例を挙げて説明している。それに続けて、
世の中には直観的に理解できないことはいくらでもあるのだから、無理矢理まちがった説明をするより、わから
ないと答えるのが正しいというのは至言であると述べている。
次に科学の専門用語について述べている。科学の専門用語には2種類あるが、広く一般読者に理解してもらう
ために、つまり科学啓蒙のために使われる用語は、従来から使われている言葉に限定された意味を与えたものと
なる。この場合、読者がその専門用語の「定義に含まれない」意味を読み取り、また書き手もそれを暗黙の前提
にしていることがある。それは「知の欺瞞」への誘惑であると述べ、
「カタストロフィー」を例に挙げて、哲学者、
人文学者の誤用を指摘し、その上で「定義された意味をかえるのなら、明確にそれとわかるようにしなければな
らない」と主張している。最後に文脈によって異なった意味をもつ一つの言葉に触れ、それを逆手にとって恣意
的な言葉遣いをすれば、そこに誤解や歪曲が生じることになる、ということを説明している。
以上が本文の大まかな主張内容である。問題はこれをどういう形でまとめるか、ということである。順に書き
出しても整理したことにはならない。課題文の記述の共通するところをつかみ、その上で一つの筋の通った主張
としてまとめることが求められる。科学的知識そのものについては、それがどういうものなのかという明確な説
明はない。しかし、本文の記述から、たいていは「難しい概念」であり「直観的に理解できないもの」であるこ
とは読みとれる。この点はまず押さえておかなくてはならない。その科学的知識を伝達・啓蒙する際の問題点が
説明されているのであるが、擬人的な表現にしても、比喩的な表現にしても、既存の言葉に限定された意味を与
えたものにしても、すべて「言葉」である。一般に科学的知識は概念または数式で表現されるものであるが、こ
れを伝達し理解してもらうためには「言葉」によらねばならないということである。これが、科学的知識のもつ
大きな特徴だということになる。しかもその言葉は「他人に理解されるもの」でなければならないのである。し
かし、言葉による伝達は常に「誤解」をともなうものである。それは、自分の腑に落ちる部分だけを分かったつ
もりになることであり、言葉の定義外の意味を読み取ったりすることである。それらの誤解について筆者が否定
的であることは、定義外の意味を読み取ることを「知の欺瞞」と言い、
「定義された意味をかえるのなら、明確に
それとわかるようにしなければならない」と主張しているところから明らかである。つまり筆者は、科学的知識
は人々に理解されるように言葉で伝達されるしかないが、その際に誤解を伴うことは知の欺瞞であって正しく伝
達されねばならない、という主張をしているわけである。これを「コミュニケーション」という視点で言うので
あれば、
「誤解」は「ディスコミュニケーション」であるから、科学的知識に「ディスコミュニケーション」があ
ってはならない。正しくコミュニケートされねばならない、という主張であるということになる。
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解答例1
人が他人に何かを伝えようとするときには、聞き手に何かを具体的に想像させるような表現が必要となるので、
言葉による表現は何らかの比喩に頼らざるを得ない。科学における概念を他人に伝えようとする場合についても
同様である。しかし擬人的・比喩的表現による説明には誤解がつきまとう。これは自分の腑に落ちる部分だけを
分かったつもりになることから生じることである。科学の専門用語は新たな造語か従来から使われている言葉に
限定された意味を与えたものである。そこから定義に含まれない意味を読み取るという、科学知識に対する誤解
が生まれるのである。
したがって科学の言葉は明確に定義されなくてはならず、
恣意的な言葉遣いをするならば、
そこには誤解や歪曲が生じる。
解答例2
科学的知識そのものは難しい概念であり直観的に理解しがたいものである。これを人々に伝達し理解を得るため
には言葉によるほかはないのであるが、理解を得るための言葉は擬人的・比喩的なものにならざるを得ないし、
あるいは既成の言葉を使うという形になるしかない。ところが、そのような形で科学的知識をたやすく理解する
ことは常に誤解を伴うことになる。科学的知識における誤解は「知の欺瞞」とも呼ぶべきものである。科学的知
識の伝達というコミュニケーションにおいてはディスコミュニケーションがあってはならず、知識を伝達する側
は伝達されやすさに誘惑されて誤解を容認したり恣意的な言語使用をすることを戒め、受容する側も安易な理解
が大概は誤解であることを知る必要がある。
設問Ⅱ
解説
人間にとって科学的知識はどのようなものかを、本文をふまえて考えよ、というのが設問の要求である。課題
文を離れれば、人間にとっての科学的知識ということについてはいくらでも書くことはできるが、本文を前提に
して考えなければならないところが難しいところである。設問Ⅰで、科学的知識に関する筆者の主張がきちんと
とれているかどうかが論述の水準を左右することになる。そもそも課題文では科学的知識そのものについては、
「難しい概念」であり「直観的に理解できないもの」であるとしか述べていないのであるから、そこからだけで
考えることは無理である。
筆者は科学的知識の伝達・コミュニケーションにおいては誤解=ディスコミュニケーションがあってはならな
いと主張している。そこから、なぜ筆者はそのように主張するのかということを考えてみることが重要である。
さらに、それ以前に筆者は科学的啓蒙=科学的知識の伝達を当然のこととして主張を展開していることに注意で
きるかどうか。そこから、そもそも科学的知識はなぜ伝達されねばならないのか、ということを考えてみると論
述の方向が開けてくる。
近代科学は人間が世界を理解するための、別の言い方をすれば世界に適応するための知の一つである。その知
のありようには批判も多いし、必ずしも近代科学の知が万能であるわけではないが、他の知に比べて圧倒的に有
効であり、近代以降の社会は近代科学の知を基に構成されていると言っても過言ではない。人間が生み出した近
代科学の知が社会秩序を構成しているのであれば、近代科学の知は社会規範なのであり、社会規範であるならば
それは人々の合意に基づかねばならない。この場合、
「合意」というのは「共有」と言い換えてもよい。つまり、
科学的知識は社会の「共有財」であり「公共知」であるということである。近代社会では科学的知識そのものは
特許などで私的所有の対象とはなっていないことがこのことを裏付けている。科学的知識が科学の専門家に独占
されず、社会の構成員に伝達されなければならないのはこのためである。人間にとっての科学的知識が持つ位置
づけ・意味をこのようにとらえることができれば、そこからさまざまな論述を展開することが可能になる。
科学的知識は人々に共有されねばならないものである。しかし、科学的知識そのものは直観的には理解しがた
く、概念または数式で記述されるものである。したがって、科学的知識の共有のための伝達には、それを「言語」
によって「翻訳」しなければならない。人々は翻訳を通じてしか科学的知識を理解することはできないのである。
このように考えたとき、科学的知識の特徴とされる普遍性は、異文化(他者)理解の上に成り立つものであると
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いうことができる。それは二重の意味で他者理解となる。一つは、科学的知識が「自然」の「本質」を表現して
いる(と考えられている)ところからくる他者理解である。自然が翻訳を通してしか理解しえないものであれば、
科学的知識の共有という視点を持つことによって、一般に自然の他者性を消去し、人間中心主義的に自然を扱う
ものとされる科学が、逆に自然を他者化し、その理解を通じて人間との関係構築をなす一つの道になりうるとい
うことである。もう一つは、人間社会における言語・文化の多様性からくる他者理解=共存である。科学的知識
の共有という形の共通の基盤が、異なる文化間のコミュニケーションを保証し、均質化されないグローバルな世
界の基盤になるということである。このように考えると、科学的コミュニケーションにディスコミュニケーショ
ンがあってはならない、
つまり正しく受容されなければならない、
という筆者の主張を論拠づけることができる。
また、科学的知識の生産をする専門家と、その知識を受容する社会一般の人々の関係、という軸をとっても科
学的知識の役割を考えることができる。
「理解」という次元でいえば、専門家は特権的な位置にいる。もし、専門
家が科学的知識を一般に正しく伝達せず、
「真理」を独占してしまえば、社会における科学的知識の位置づけから
すれば、それは「権力」の独占であり、つまりは専門家集団による独裁ということになる。そのとき、誤解を前
提にした科学的知識の伝達は、政治におけるポピュリズム(大衆迎合)と同じ働きをすることになる。全体主義
に熱狂する大衆と、科学的新発見を誤解のもとに歓迎する大衆はぴったりと重なる。現代社会では専門家集団が
権力者であるわけではないが、たとえば、国家権力と専門家が結びついた場合には、国家の政策を正当化するた
めに、専門家による歪曲や隠蔽が行われるという事態も考えられる。このことは、専門家に限らず、科学的知識
を伝達する役割を担う科学ジャーナリストについても言えることである。科学的知識の正しい共有、あるいは共
有への努力は、そのような権力の独占による全体主義的な方向を、民主主義的な方向に転換するものとなる。し
たがって、知識の伝達側には、モラルが求められるし、知識の受容側は安易な理解に満足してはならないという
ことになる。
その他にも考えられるであろうが、いずれにしても、科学的知識がもつ社会規範性、公共知としての性格に対
する自覚と、それに基づく正しい共有=コミュニケーションの必要性の自覚が、科学的知識=近代知そのものが
もつマイナスの側面を反転させる可能性に結びつく、という方向になるであろう。そのように考えると、課題文
の素材そのものはここ数年と大きく変わっているが、出題の方向性は全く同じであることがわかる。ただし今年
度の場合、それに気付くことが難しい形になっているところが取り組みにくいところである。
解答例1
原子力発電は社会システムの一環をなし、一部の原子物理学者などが知識の啓蒙を行っていたが、その背後には
国家の政策があることが明らかになったのが、先般の福島第一原子力発電所での事故であった。理解が難しい科
学知識は社会の人々にリスクを隠し、国策の正当化のために歪曲されうる。確かに、科学知識には個人の経験を
超越した理解困難なものもある。しかし、科学知識は専門外の人には理解できないとすることは、そのリスクが
隠蔽・歪曲される危険を含む。とすれば、科学知識を理解でき、国策あるいは資本の外に立つことができ、科学
知識のイメージの理解のみならずそのメリット、デメリットを社会に伝える科学ジャーナリズムの一層の発展が
必要になるのではないか。科学知識はそのようなプロセスを経て、社会的なフィードバックを経て社会化されれ
ば、より公共性を持つ知として発展していくことが可能である。
解答例2
近代科学によって生み出される科学的知識は近代社会を支える知になっている。近代社会の秩序を形成する科学
的知識はその意味において一つの社会規範である。したがってそこには社会構成員の合意が必要になり、その合
意が科学的知識の共有である。科学的知識は広く社会構成員に共有される「公共知」なのである。ところで、科
学的知識は直観的に理解しがたく、また数式などで記述される性質のものなので、その伝達には言語による翻訳
を必要とし、理解は翻訳を通してもたらされることになる。科学的知識が自然の本質を表現するものであるなら
ば、翻訳するしかないということは、自然の他者化であり、そこに人間と自然のコミュニケーションの可能性が
開ける。また、科学的知識の共有は異なる文化間の共通の基盤として、均質化されないグローバルな世界の可能
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性を開く。科学的知識は、その正しい共有を実践する方向の中で、近代の限界を打破する可能性を持つ。
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