2008年10月聖化大会発題 きよめと転機 発題:小寺 隆 はじめに 今回の発題にあたって委員の先生方と話したことは、今ホーリネス教会で第3世代、第4世代になって、説教 で以前ほど「きよめ」が語られなくなっていること、何よりも「きよめ」そのものについて、未だ明確に定義さ れていないために、先達の先生方で話されていることが少しずつ違っていることなどが挙げられました。 その中で、 「きよめの転機」とは何かについて語ってほしいということでした。そのことについて私が語るにふ さわしいものとは思っておりませんが、ホーリネス教会に関わる者の一人として自分なりに「きよめ」について 考えてきたものとして、わたしなりの考えてを述べるということで今回の発題をお引き受けしました。しかし、 今回できれば「きよめの転機を定義してほしい」という課題については非常に難しい課題で、それは今後の聖化 大会の継続した課題となればと願っております。 まず初めに今回のテーマである「きよめの転機」について話す前に、どうして今「きよめの転機」なのかについ て考えてみます。 Ⅰ なぜ今「きよめの転機」を問い直すのか このテーマについて大きく二つの視点があると思います。 1)きよめの転機的経験が長い間ホーリネス教会では大切にされてきましたが、その結果、神学よりも 経験が重視される傾向がありました。そのことからホーリネス教会で神学的な見直しの一つとして、 92年代に「ホーリネスと人間性」 (チェンバース夫妻著)が出版され、そのあとがきに「大きな問 題は、全ききよめの恵みにあずかった後で、 『どこまでが罪で、どこまでが人間性なのか』という区 別にあります」とあり、その後人間性の視点からきよめの見直しがなされたと思います。 しかしその後、人間性については多く語られるようになりましたが、ホーリネス教会の特徴であ った、転機的経験が強調されなくなってきたと感じられます。そして今、もう一度「きよめの転機」 とは何かを考え直してみようとしているのではないかと思います。 2)もう一つの視点は、転機的経験そのものを問い直すことです。これは今までも語られてきたことで あり、常にその時代時代で「転機的経験とは何か」が問われてきたと思います。そのことによって、 何を得たのかなどなど、今までホーリネス教会で語られ、期待され、求められてきた「きよめの転 機」的経験を、その意味を今あらためて、明確にする必要があるということです。 Ⅱ 原罪とは きよめについて語る前に、罪について考えてみたいと思います。それは、きよめを語る時に罪の根絶と か、罪の駆逐などが語られていますが、罪、そして原罪とは何かをもう一度定義しなければ、きよめの 理解も変わってしまうと考えるからです。 1)『意識せざる罪(習得された罪への傾向性) 』とは わたしは「潔めと瞬時性」 ( 「きよめと人間性」インマヌエル教団宣教研究委員会編・平山全一師著)の中 で「習得された罪の傾向性」ということが提示されたことに非常に感動しました。今まで罪につい て考えられてきたのは、犯した罪と人間の動機に関わる罪への傾向性と罪を二つに分けて考えられ てきた。しかし、 1 赦されること 新生の時に問われる課題 犯した罪 2 きよめられること きよめられる時に問われる課題 罪の腐敗性 3 造りかえられること きよめられた後に残されている課題 意識せざる罪の傾向性 と三つに分けていることが新しい視点として与えられました。 3の「造りかえられること」とは「習得された罪への傾向性」はきよめられた後の初めて自覚でき る課題であり、 「意識していないために生じる罪」と言い換えることができると思います。それは個 人の生まれた家庭環境、成育史の違いによって個々人が知らず知らずのうちに身につけさせられた ものであって、それは個別的なもので、名前が違うように一人ひとりまったく違い、人間関係の破 れの結果に表面化してきます。 2)罪は人間関係によって伝えられる 「習得された罪への傾向性」を持っているわたしたちは日々人間関係によって自ら自覚しないうち に、罪の傾向性を受け継ぐこととなり、そのような罪の伝達の関係からわたしたちは決して抜け出 すことはできません。それは、わたしたちは人間関係のよって日々生活しているからです。ですか ら、そのような罪の関わりから全く自由にはなりえない人間の存在を原罪と言い表すことはできな いでしょうか。 つまり、罪への傾向性を持っている親が子どもを産み育てる際に、己の持っている罪への傾向性を 子どもに伝えながらしか、子どもを育てることができないという現実に誰もが置かれているのです。 信仰によって犯した罪が赦され、罪への傾向性がきよめられても、それぞれ個々人には個別的に習 得された罪への傾向からは決して解放されることはできません。なぜなら、習得された罪への傾向 を本人は、自覚しておらず、あるいは自分の心の奥底まですべてを理解し、認識することはできな いからです。 そして、習得された罪の傾向性は、人との関わりによって初めて表に現れるので、きよめられても 人との関わりの中で、日々新たな自分に気づかされます。きよめを経験した人はそこで、その自分 の姿を自覚し受け入れ聖霊の助けにより、克服することができます。しかし、そのことに気づかな いできよめられたからすべては解決されたと考えていると、無意識に現れた習得された罪への傾向 性が人との関わりで他の人を傷つけることになっていきます。 3)意識化していくことの大切さ 今まで習得された罪への傾向性についてはその人自身に委ねられた課題であって、きよめのレベル ではあまり問題とされてきませんでした。ですから、きよめられてもそのきよめられたはずの信徒 や牧師本人には気付かない、否本人には気付けない罪への傾向性が残っていたために、問題が生じ た際に、それはきよめられた時点で解決されたこととであったはずなのに…と疑問が生じたり、あ るいはきよめへの不信を抱いたり、きよめられたと信じたのに、あれはきよめの経験ではなかった と、かつてのきよめの転機的信仰経験を否定するか新たなきよめの転機を期待し、神との出会いを 求めることになってしまいました。 ですから、罪にはきよめられるべきものと成熟により造りかえられていくものとがあることを自覚 し、きよめられた後に生じる課題について意識し自覚していくことが求められます。 4)きよめられたものでしか解決しえない課題 「習得された罪への傾向性」をわたしはきよめられたものに託された神の恵みと考えています。な ぜなら、それを解決できるのは、神の恵みであり、きよめられたキリスト者が主と共に歩むことに より導かれる祝福の道だからです。それは「成熟」に至る道のりであり、 「神の御姿に造られ、神の 御姿に生きる」ことになるからです。罪からの解放はわたしたちが本当の人間になることです。 Ⅲ きよめられることによってわたしたちは何を期待しているのでしょうか ホーリネス教会がきよめられることによって、何を求め、何を期待していたのでしょうか。 わたしたちは長い間右上がりのきよめを求め続けていたのではないでしょうか。バブルが弾けるまで高 度成長の中で、教会も量的成長、信仰の質的成長を標榜し、それがベストであるとされていたと思いま す。しかし、今世界中で変革が求められ、新しい人間像が模索されていますが、教会はどのような期待 される人間像を提示してきたでしょうか。 そこには長い間問い直すことなしに、右上がりの信仰が求められ期待されていたのではないでしょうか。 しかし、聖書で、キリストが右下がりの生涯であったことを示しています。神の座からおり、人間とな り、さらに人間の中でも最も底辺の奴隷・僕となり、さらに人間に仕えることを示すために己の命さへ 捨てられたと。なのに、わたしたちはきよめられたならば、キリストのようになれるかのように、ある いはキリストでなくても、あの先生のように、あの役員のようになれることを期待しているのではない でしょうか。 Ⅳ きよめの転機はわたしたちにとって必然である −神の似像が形造られるために− こうしたらきよめられるとか、あるいはきよめられるためにはこのことをすればという方法はないと 思います。また、あの先生がこうしたからと真似しても、自分とは違う人の方法は通用しないと思いま す。 なぜなら、習得された罪の傾向性が人によって異なっているように、わたしたちの課題は人それ ぞれ全く違うからです。きよめの転機的経験を明確に定義することはできないかもしれませんが、大筋 を示すことはできると思います。 それは…森有正の表現を借りれば、変貌していくことです。 「経験がその人を定義する」とは、森有正 が繰り返し用いた言葉です。それは出来事をどのように受け止めたかによって、その受け止めの積み重 ねがその人を形成していくということ理解しています。 きよめの転機的経験という、たった一度の経験だけで自分が変貌することを期待し願うのではなく、 日々の出来事を真剣に受け入れ、それらの出来事によって、自分自身が変えられていくことを恐れずに 歩む時、自分の足跡を省みるならば、そこには変貌していった自分の姿を見ることができる。そのため にはまず自分が変えられていることを受け入れることが不可欠です。今あるわたしは自分が造ったので はなく、多くの出会いによって造られていった自分であることを受け入れ、これからも自分自身が変え られていくことを期待し、その先には「神の御姿に造られ、神の御姿に生きる」私たちがあるのです。 「聖霊によって、わたしのすべての内側に向かおうとする性質が取り払われた」、 「無私の聖なる愛、見 返りを求めない愛に生かされる」とは、ユーリー先生のきよめられたものの生き方です。そのためにわ たしたちが通る道があります。 それは自分のために、自分が何か変えられて素晴らしい信仰者になれるような出来事を期待するので はなく、自分の名誉や誇り、成長など、全てを手放して、ただキリストのようになりたいと願い決断し 一歩を踏み出すことができることです。そのような決断ができるために、転機的信仰経験が必要です。 なぜなら2004年の聖化大会セミナー( 「セミナー・神の御姿に造られ、神の御姿に生きる」)で M.ウィリヤム・ユーリー先生は、わたしたちは二つの像を自分に映し出すことしかできない( 「キリス トの心に渇く、そして生きる」63頁)と語りましたように、わたしたちはその二つのうち一つを選ば なければならないのです。それは 1)いつも自分を高めようとするサタンを映し出す像 2)御自身を無にしてくださる神の像 このうちのどちらかを選び、その像が自分の心に形造られるようにわたしたちは日々歩んでいくから です。ユーリー先生はご自身を無にしてくださる神の像をわたしたちが求めないと、わたしたちはサタ ンの支配の中で生きることになってしまうと語りました。ここにわたしたちの歩むべき道があります。 わたしたちはキリストのみ姿に似るように生きない限り、サタンの支配に陥ってしまうのです。 ですから、きよめの転機的経験はわたしたちにとって、自分が人間として生きる必然の経験というこ とです。それによってわたしたちは当たり前の人間になるのです。 Ⅴ きよめの転機的経験とは ではきよめの転機的経験とは、どのような経験を言うのでしょうか。それは四つに分けて考えること がいいのではないでしょうか。 1)知ること キリストの愛を知った時からすべては始まっています。その愛の深さを知ることが第一です。 キリストの愛の深さ、高さ、長さ、広さを知った時、わたしたちは自分の愛とは全く違い、自 分にとって必要不可欠なものであると悟ります。 2)決断すること キリストに愛されていることを知っているものとしてその愛に応答することを決断する必要 があります。愛されていることを知った時、わたしたちは相手になんらかの応答します。 3)歩み続けること キリストとの人間関係が深まれば、わたしたちはキリストと共に生活することを願います。そ れは継続することが期待されます。 1∼3の出来事がわたしたちの心にもたらされたとき、それをきよめの転機的経験と後に悟るよ うになるでしょう。本来のきよめの転機的経験は、 「わたしがキリストの似姿に造られ、神の似 姿に生きる」にようになるためにあり、教会の成長のためでも、牧師に認められるためでもあり ません。 4)獲得するのではなく、手放すもの きよめの転機的経験とは獲得するものではなく、むしろ聖霊によって取り払われるものです。 何が取り払われるかは、それぞれお互いがキリストに全てを委ねた時に示されるものでありま す。聖霊によって瞬時的に変えられなければならないのは、自分では手放せないからです。 なぜなら、それはキリストに愛されていることをわたしたちが受け入れ、その愛に促された時 にしか、なしえないからです。それは瞬時的出来事としてわたしたちの内に起きるのです。 参考資料 1 リントシュトレーム著「ウェスレーと聖化」より 参考資料 2 「潔めと瞬時性」(「きよめと人間性」インマヌエル教団宣教研究委員会編・平山全一師著)より 全き潔めの転機に関する問題 転機後に見られる<罪への傾向性>への取り組み 全き潔めの転機を経験した後にも、なお経験する罪への傾向性との現実的な戦いをどのように理解すべきであ るのか。 1)全き潔めの転機後になぜなお<罪への傾向性>との戦いがあるのか 2)しかし、全き潔めの転機を経験した時点で、自分の意識していないもう一つの課題が存在する。 このような時、全き潔めの経験を否定すべきか、それともそれに対する異なった理解、をその体験を否定しな いで他の対応をする方法が可能なのか。 1.罪の腐敗性について再検討 先ず全き潔めにおいて取り扱われるの罪の腐敗性について再検討し、第三の<罪への傾向性>を提示する。 1)生来の道徳的腐敗性−生来の罪の腐敗性、アダムからすべての人が受けたとされる道徳的な罪への傾 き、罪性、原罪、内住の罪などとほぼ同一の内容。 2)一般的腐敗性−必ずしも道徳的・倫理的ではない人間の弱さの別称肉体、またその機能に及んだ罪の 影響、結果であり、罪そのものではない。 3)習得された腐敗性・罪への傾き 1)<生来の道徳的腐敗性> アダムの堕落によってアダムの子孫すべてによって受け継がれているものが、生来の道徳的腐敗性で、道 徳的罪への傾き、罪性(罪の性質) 、原罪、内住の罪などと同じ意味である。瞬間的な神の御業である全き 潔めの対象となるものは、生来の道徳的腐敗性・罪への傾き・神への反逆、肉の性質である。 2)<一般的腐敗性> 神学的には必ずしも道徳的・倫理的ではない人間的な弱さの別称で、肉体またはその機能に及んだ罪の影 響の結果である。 EX.理解の遅さ、判断の過ち、記憶の不確かさ、人間的といわれる非常に多岐にわたっている。 生来の道徳的腐敗性 一般的腐敗性 全き潔めの時に瞬時に潔めら 栄化ないし肉体の復活の瞬間に解決され れるべき罪への堕落がもたら るべき、罪の堕落の影響によって、人間 した人間の罪性の課題 に課せられた人間性に関わる課題。 全き潔めによって解決されるもの 地上の生涯においてできることは訓練と 経験によって、その幾分かを克服し、その幾分かをコントロー ルすること 罪ではないが、罪同様重大な結果を招く 過誤も正しい対応・態度がとられなかった場合には、無自覚に 犯された過誤であってもそれに気づいた時点で罪となる。 ウェスレーの罪と弱さとの区別 罪と弱さとを区別することによって、わたしたちの責任のもとに取り組むべき罪の課題と人間性から来る 弱さの課題とを峻別し、わたしたちが無責任になったり、 不必要な失望に陥ることから守る意図があった。 3.習得された腐敗性・罪への傾き <習得された腐敗性・罪への傾き>とは これは生まれた時にはないものである。罪の行為・罪深い態度が度重なる時、単にその結果としての咎め が発生するだけでなく度重なる罪の行為・罪深い態度は、罪の習慣を生み出し、罪の習慣はやがてその人 の性向として、その人特有の罪への傾きを生み出す。 このようなその人特有の罪への傾きを言い、個人個人ある罪の行為・罪深い態度の結果として、それぞれ の家庭や社会環境の中で個人個人が習得した<ある罪への傾向性>なのである。 (97 頁 6 行∼) 生来の道徳的腐敗性 習得された腐敗性・罪への傾き これは、アダムの子孫すべてに見られる この肉の性質とは区別された習得された <心霊の>傾向性、罪への傾き・神への 腐敗性・罪への傾きは、罪がからだとそ 反逆である。信仰と献身に応じて聖霊が の肢体を道具として行われたゆえに<か 主イエスの血潮をそのたましいに当ては らだにそして、からだの肢体(心理的な めるとき、瞬間的な全的潔めの聖業が、 面を含めて)」に染み付いている。 その心の中になされる。聖霊による主イ EX.アルコール依存症 エスの内住、そして、その事実がもたら 薬物依存 す神の愛の盈満が始まり、それにつれて、 幼児期の虐待など 神への反逆はその心中から追放される。 <習得された腐敗性・罪への傾き>の実例 ①アルコール依存症の場合 単に心の問題ではなく、 からだの組織の中に作り出されたアルコールを求める体質と深く関っている。 ②薬物依存症の場合 霊的経験と共に医学的な治療を必要としている。 ③幼児期に虐待を受けた場合 憎しみや憤りという反応が受身的に形成されたのであるが、それは心理的な分野を含めたからだの組 成の中に刻み込まれていて、からだを有する限り信仰が弱った瞬間にその人を過去の辛い経験、また 憎しみ、憤りの感情へと引き戻す ④性的な悪癖を初めとする<悪癖>の場合 肉体と密接に関っているものがある。からだに、その組成の中に心理的傾向としてのある傾きが刻み 込まれているので、信仰が弱った瞬間にその人をある罪の行為へと引きずり込む。 <習得された腐敗性・罪への傾き>をどのように扱ったらよいのだろうか。 1)従来のウェスレー神学では<習得された腐敗性・罪への傾き>の解決は初時的聖化の時とされてきた。 2)しかし、<習得された腐敗性・罪への傾き>の一部は新生の時点で解決するであろうが、根本的な解決 は必ずしも瞬間的ではない。 3)<習得された腐敗性・罪への傾き>のもたらす課題は身体(心理面を含めて)と深く関っている。従っ て、肉体にあって生きる限りその脅威を感じさせる。 4)生来の道徳的腐敗性が神への反逆として<単一なもの>であるのに比して、<習得された腐敗性・罪へ の傾き>は、その人の過去に通過してきた多様な経験の様々な時点・場面と関っているゆえに、<複合 的なもの>であると理解すべき。 その解決への道は <あなたがたの信仰のとおりになれ>であって、信仰がその特定の課題とキリストの十字架の贖いとを結 びつけ、そこに解決を見出し、信仰を働かせた時に訪れる。 理解が欠如している場合、 信仰が十分に働かない時には問題として残る。その意味で、新生の時点では多くの人は彼が有するこう した<習得された腐敗性・罪への傾き>の課題のすべてにキリストの血潮が有効であるという信仰に立 ち得ない。 新生の時には理解がそこまで及ばないことのほうが通常である。 後に理解が広がり、信仰が働く程度に応じて、その複合的分野の信仰の働いたその特定の分野に解決が もたらされる。 解 決 <習得された腐敗性・特定の罪への傾き>の潔めは、段階的になる。 <習得された腐敗性・特定の罪への傾き>の実質 1)アダム以来受け継いだ<生得の腐敗性>とは別ものである。 同性愛などのように <心身的に> 薬物依存などのように <個人的に> 幼児体験からくる親への憎しみ・憤りのように <家庭的に> さまざまな形態の偏見のように <社会的に> に習得されたものである。 こうした特定の心身的要因を持ち、特定の社会的・家庭的環境に置かれ、罪人としての過去を持った一個 人に特有な、その人の過去ゆえに形成された、習得されたある罪への傾きは、それ自体、非倫理的な一般 的腐敗性<人間的な弱さ>とは異なり、明らかに道徳性を帯びているので、<習得された罪への傾き>の カテゴリーに属するものとして見るべきである。また、習得された腐敗性・<ある罪への傾き>の複合的 特徴を伴って、それらの克服の複雑かつ困難な課題が生じる。 2)この<習得された腐敗性・罪への傾き>は解決されうる課題である。 グライダー 同性愛、薬物依存、偏見などは回心(初時的聖化)の時はおろか、全き潔めの瞬間にも解決されえない と考え、<習得された罪への傾き>の定義―『われわれが犯した罪の行為のゆえに、われわれのうちに 築き上げられた罪の行為への傾き易さ』 ―は個人的行為の結果としての罪の行為への傾きのみと考えた。 しかし、著者は ある人の性向は、その人の能動的な行為の結果のみではなく、家庭や社会などの影響を受動的に受ける ことによっても形成される。ただ受動的とはいっても、人種的偏見のように、同じ環境にある人がその 同じ罪への傾きを身につけるわけではないので、主として受動的に形成されるものであり、その状況は 十分同情を呼び、 理解は必要とするものであっても、 厳密には個人的に習得された罪への傾きであって、 これらも他の比較的単純な、 新生時に解決される種類の罪への傾向性のケースに加えて<習得された罪 への傾き>として分類させるべきものである、としている。 3)<習得された罪への傾き>が<生来の道徳的腐敗性>や<一般的腐敗性・人間の弱さ>と区別される必然性 これらは心霊のアダム的な<生来の道徳的腐敗性>と呼ばれるものではなく、明らかに聖書の「罪」に分 類され、道徳性を帯びているので、倫理性のない<一般的腐敗性・人間の弱さ>には分類され得ない。 そして、これらは 回心の時には、即ち、初時的聖化によっては完全には解決しない問題であり、また、全き潔めの転機にお いても必ずしも解決され得ない。なぜなら、その時点では、意識されない問題である場合もしばしばある からである。それゆえ、その解決はその課題を自覚するに至ったそれぞれの時点で、信仰の理解と把握と に応じて、<段階的に>もたらされるものと判断される。 <習得された罪への傾き>の克服 根絶より置換・放逐へ 全き潔めにおいて、従来の罪の<根絶>というより生来の罪への傾向性の神の愛による<置換>・<放 逐>の方が、その表現としてより妥当である。 内住の聖霊の力による戦い ❶主イエスの十字架と復活がもたらす恵みによって、押さえ込み、無力化し、勝利を得なければならな いのは、アダム以来の<生来の道徳的腐敗性>・神への反逆に対してではない。 ❷それは信仰がキリストの恵み、すなわち、キリストの十字架にある備えを捉えた時に、聖霊の賦与・ 盈満によって瞬時的に<放逐>され、 キリストの内住がもたらす神の愛による支配と置き換えられる。 ❸その後にも、<習得された道徳的腐敗性>、すなわち、過去との関わりにおけるその人特有の罪への 傾きは、その人の過去の行為経験が複雑であればあるだけ複雑な様相を帯びていて、一瞬にしては全 面的には解決され得ないまま、ある部分が残っている。 ❹これに対してわたしたちの取りうる信仰の姿勢は、内住の聖霊の力によって戦い、それを無力化・克 服することであり、やがて理解の拡大に応じて、それをキリストの贖いと結び付けれることができた 時、一つ一つの信仰によって解決することである。 ❺神への愛は、全き潔めの転機において全うされるが、うちに注がれた神の愛が、実を実らせ、傷つい た心理面にまで溢れ出し、すべての人をも完全に愛するようになるには時間の経過が必要である。愛 は、御霊の実で、その人がキリストに留まり続けることによって、現実の課題との関係において結実 するものなのである。 <全き潔め>の生活 最後に、著者は<生来の道徳的腐敗性>と、<習得されたある特定の罪への傾向性>とを区別することによ って、キリスト者の勝利への希望を示す。 1)信仰がより高い恵みを捉えるまでは、又は死による肉体の束縛からの釈放の時までは、新生の時に 与えられた神の命、また全き潔めの時にもたらされた聖霊の力のよってその勝利が可能とされる。 2)パウロの<自分の体を打ちたたいて服従させます>とのことばは、単に肉体が帯びた<一般的(非 倫理的)腐敗性>・人間的弱さ、に関することだけでなく、それとの戦いを含めて、肉体とその一 部を構成する人間の心理的な面に刻み込まれた<習得された道徳的腐敗性>・罪への傾きへの戦い もされていると解釈すべき 3) 「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」 (Ⅰヨハネ3・九)この凱旋を約束する新生のいのち、 また内住の御霊の力があるからこそ、クリスチャンは習得した罪への傾きの執拗な課題に対して、 絶望せずに勝利への希望を抱きながら立ち向かうことができる。 聖会の恵みの座について 1)聖会などの恵みの座に出て全的献身を誓い信仰に立った後に、再び敗北を喫するのは、多くの場合、 そこで体験したと思ったことが、不徹底な献身、単なる思い込みゆえの、真実な霊的体験ではなか ったことからであろう。 2)しかし、ある場合には習得された特定の罪への傾きとの戦いを、無知のゆえに、また神学的な整理 の不十分さのゆえに、生来の道徳的腐敗性からの問題と取り違えることによる。 3)十分な献身、真正な信仰があったならば、聖霊の神はその信仰に応えて、その人の内に聖業をなし ておられ、もはや、生得の罪への傾向性・神への反逆はない。それは心の王座から追放され、その 人は神の愛に満たされ、真に神を愛するようになっている。 課題は<神への反逆>があるからではなく、身体とその心理的な機能のうちに習得された罪への傾 きが、なお働きかけるからである。 <全き潔めを経験したキリスト者とは> 全的聖化とは、キリストの贖いの血潮の功績に基づいて、聖霊なる神がすべてを捧げ、信じた者の心中に成 就してくださるみ業であって、恩寵の第一のみ業に次ぐ、第二の恩寵のみ業、また瞬間的なみ業である。そ れによって、捧げ信じた者は、人間的弱さ、またある種の習得された罪への傾きのもたらす課題を残したま まで、その心中から<生来の罪への傾向性>・神への反逆が除き去られ、神と人とを全心全霊をもって愛す るようになる。この聖霊の実として与えられた愛は、クリスチャンの服従の度合いによって、益々成長し、 拡大してゆく。全き潔めの瞬間的経験は、その後のキリストのみかたちに達するまでの愛における成長の可 能性を排除しないのみか、それをむしろ促進するものである。これこそが、聖書の提供する救いの中心的な 事柄なのである。
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