戦国時代の遺跡を歩いてみよう

(この地図には、本文中に記載されている地名が掲載されています)
しんこう
この度、銀の道振興協議会では、
「石見銀山」の第3作目として、「戦国時代の遺跡を歩いてみよ
う」をテーマとしたふるさと学習誌を作成しました。
ぶしょう
戦国時代の武将達が石見の銀を手に入れようとして戦う中、銀山の開発が進められ、その銀が郷 土の港から運び出され、多くは海外へ持ち出されていきました。
さいくつ
このふるさと学習誌は、当時の石見銀山での銀の採掘のようすや、銀が運び出された経路などを
紹介して、戦国時代の石見銀山を理解していただくねらいで編集しています。
目次
石銀遺跡へ行ってみよう
出土遺物から分かる人々の暮らし
石銀の出土陶磁器
山吹城に行ってみよう
山吹城の役割
山吹城ハイキングコース
石見銀山周辺の山城
戦国時代の銀山街道を歩いてみよう
銀山から鞆ヶ浦へ[大内時代]
銀山から沖泊へ[毛利時代]
銀の積出港に行ってみよう
鞆ヶ浦(仁摩町)
[大内時代]
[毛利時代]
沖泊(温泉津町)
せんのやま
石銀遺跡は仙山の山頂付近、
標高470m
こうざん いせき
の所にある鉱山遺跡です。近年の発掘調
査によって戦国時代の末から江戸時代初
期、ここに町があったことが分かりまし
た。
こうせき
鉱山といえば鉱石を掘るための長いト
こうどう
ンネル
(坑道)を思い出しますが、開発が
ろ とう ぼ
始まった頃は露頭掘りといって、地表に
露出した鉱脈を掘っていました。その場所
が石銀地区です。
当時、石銀では銀の採掘や製錬を仕事
とする人々が生活していました。石銀に
上空から見た石銀地区
さんぷく
人が住んでいたのは16世紀末から17世紀初頭にかけてですが、その後山腹からトンネルを掘る技
こうどう ぼ
術(坑道掘り)が進むと人々は山頂から平地へと住居地を移したので、石銀はそのまま放置され、当
時のままの状態で残っていたというわけです。
い こう
石銀地区の遺構
墓石
遺跡全景 ふきや そせき ろ
吹屋
(製錬所)
の礎石、道跡、炉跡
坑道跡
出土遺物から分かる人々の暮らし
石銀では様々な生活用品が出
土しており、当時そこで生活し
ていた人々の暮らしぶりが分か
ります。
とう じ き わん げ た すずり
陶磁器、木製の碗、下駄、硯、
くし
櫛、キセル などの生活用品や、
はぐち
のみ、ふいごの羽口、からみ(精
錬の際に出るかす)など採掘・
製錬関係の遺物のほか、古銭、
動物の骨、植物の種なども出土
しています。
女性や子供もいて、住人達が
豊かな生活をおくっていたこと
が想像できます。
様々な産地の陶磁器片
石銀の出土陶磁器
一般に発掘調査によって最もよく出土するものが
陶磁器です。石銀でも様々な産地の陶磁器片が出土
しており、当時の商品流通が活発だったことが分か
ります。また、これらの出土陶磁器から、そこに人が
住んでいたのがいつの時代かが分かります。
ようぎょう
せ と み の しがらき
石銀では当時窯業の盛んだった瀬戸、美濃、信楽、
び ぜん から つ い ま り
備前、唐津、伊万里などの国内産のほかに 中国産も
出土しています。これらの陶磁器は商人や運送業者
などによって全国に流通していましたが、石見銀山は
その一大消費地だったといえます。
碗、櫛、傘、下駄
石見銀山の開発が始まった頃の日本は各地の
戦国大名が戦いを繰り返していた時代です。 彼
らの目的は敵の領地を没収し、自分の領地を 拡
ばくだい
大することでしたが戦いに勝つためには莫大な
軍資金が必要でした。
まさに ”宝の山”であった石見銀山は戦国大
名たちの標的となり、仙山の真向かいに位置 す
る山吹城は石見銀山を見張るには格好の場所で
あったため、ここに山吹城が築かれました。
左が山吹城、右が仙山
山吹城の役割
ようがいさん
山吹城跡のある山を、今では要害山あるいは山
吹山と呼んでいます。山吹城跡は この山の 頂上
ひょうこう
(標高414m)にありますが、階段状に整地され
ており、かつてここに建物があったことが分かり
ます。
山吹城のように山の地形を利用して築いた城を
やまじろ
「山城」といいます。戦国時代は 戦いが日常的で
あったため、戦国大名たちは自分の身を守ること
ができ、敵に攻撃されにくい山城を各地に築きま
した。
戦国大名たちが築いた城は大きく分けて2種
ほんきょじょう
類あり、一つは彼らが普段生活する本拠城、
もう
ようさい
一つは戦闘の際の要塞となる城です。たとえば
もうり
こおりやまじょう あまご
毛利氏は広島県高田郡吉田町の郡山城、尼子氏
と だ じょう
は広瀬町の富田城を本拠地とし、山吹城を銀山
そうだつせん
争奪戦の要塞として利用しました。
ちょっかつち
しかし、毛利氏が石見銀山を直轄地とすると
山吹城は銀山支配の拠点、つまり役所として利
おお く ぼ ながやす
用され、これは大久保長安が奉行を勤めた時ま
で続いたようです。その後もしばらくは残って
げんな いたようで、元和年間の石見国絵図には山頂に
そびえ立つ山吹城が描かれています。
元和年間石見国絵図
(1615 ∼ 1623)
浜田市教育委員会所蔵 山吹城ハイキングコース
山吹城への登山口付近は、銀山七谷の一つで
やすみだに
こ あざ
休谷と呼ばれています。この辺りの小字名には
な ご り
戦国時代 から 江戸時代 にかけての名残があり、
かつての様子を推測することができます。登山
えんしょうぐら しもやしき
道を登っていくと右手に「煙硝蔵」
「下屋敷」
とい
へいたん う地名のある平坦地が現われ、毛利氏が銀山支
きょてん
やすみやくしょ
配の拠点とした「休役所」があったとされる長
登山口付近
ぶぎょう
大な石垣が見えます。大久保長安もここに奉行
しょ
所を置きましたが、その頃この付近には銀を納
ご ぶん こ ふき や
める「御文庫」や吹屋
(製錬所)があったようです。
かみ
今は畑となっている登山口付近の左手には「上
せんきょう せんきょう しもせんきょう
千京」
「千京」
「下千京」という地名があり、かつ
て商家が立ち並んでいたことを想像させます。
山頂平面図
休役所の跡
木の階段で整備された登山道を登っていくと、東側
しゅかく
に仙山を一望できる山吹城の主郭(城の中心部)
に着
きます。山頂は段状に整地され、主郭の南側に行くと
ぼうぎょ
からぼり
敵の侵入を防御するために掘った大きな空堀が見え
ます。山吹城の防御機能はこの外に、登ってくる敵に
たてぼり
向けて石を落とすための竪堀がありました。山吹城
は持ち主が度々代わっていたため、何度も改築され
たと考えられています。
石見銀山周辺の山城
石見銀山周辺にはほかにも同様の性格を持っ
た山城がいくつか確認されています。仙山の西
にあり、銀山と温泉津を結ぶ街道沿いに位置す
きょうろく おおうち よしおき
る矢滝城は享禄元年(1528)
大内義興が銀山守備
のために築城したと伝えられています。
また、周
や はず い わ み
辺には矢筈城、
石見城、といった山城跡も確認
されています。
矢滝城遠景
戦国時代、石見銀山から産出した銀は、2つの銀山街
道を通って運ばれました。
ま じ ふもと
最初に利用されたのは、馬路高山の麓を通り、仁摩町
とも
馬路の鞆ヶ浦
(友の浦)
に至る街道です。けわしい山道を
銀鉱石を運ぶのは大変な作業だったことでしょう。
ごうろ にした
銀の産出量が増大すると、降路(露)坂から宿場町西田
おきどまり
を通り、温泉津町温泉津の沖泊に至る街道が利用されま
した。
おうらい
街道沿いには、激しかった当時の往来をしのぶ歴史的
遺産がいっぱいです。ぜひ、一度、銀山街道を歩いてみ
てください。
銀山から鞆ヶ浦へ [大内時代]
とも
1.永久鉱山遺跡
江戸時代初期(元和年間)
に作成された「石見
国絵図」を見ると、山吹山の麓を通り、仁摩町
おおぐに こうじだに
大国柑子谷に至る街道が記されています。
よしざこ
吉迫口を抜け、街道を下ると、永久鉱山です。
ここは、江戸時代中期から大正年間にかけ、銀
はんえい
や銅生産の中心でした。当時の繁栄を伝える製
2.胴地蔵さん
ぶんせき えんどう せんこう ちんでん こうぐち
錬場、分析場、煙道、選鉱場、沈殿池、坑口など
の鉱山遺跡が残っています。
(写真は明治∼大正
期の遺構)
うえの
柑子谷から、再び山道を登ると、上野集落です。
かつては「上野千軒」と言われ、鉱山関係者が多
く住んだと伝えられています。
この集落に祭られた「胴地蔵さん」には、次の
でんしょう
伝承があります。
昔、馬を引く人が、役人の目をかすめて銀鉱石
を盗んだ。怒った役人は、その人を殺してしまっ
た。哀れに思った村人は、その胴体を埋め、地蔵
さんを祭った。
この他、高山山麓の銀山街道沿いには、りっぱ
ほうきょういんとう き な宝篋印塔(昔のお墓)や広大な屋敷跡、人斬り岩
などの遺跡が残っています。
銀山から沖泊へ [毛利時代]
おきどまり
ごう ろ ざか
1.
降路坂
石見銀山から温泉津・沖泊までの銀山街道中、一番の難所
です。峠の頂上に茶屋があり、多くの旅人が足を休めたこと
でしょう。
∼降路坂に伝わる伝承∼
しち き ざか 降路坂には、
「降路坂の1つ目小僧」や「七騎坂」など色々な伝
承が伝えられています。
あまご はるひさ もう り もとなり
石見銀山をめぐって、尼子晴久 と 毛利元就 が激しく戦っ
ていました。ある時、戦いに敗れた毛利元就は、降路坂を通
って西田方面へ逃げて来ました。
「もはやこれまで。」と、元
就は死を覚悟しましたが、七人の家来が身代わりとなって敵
降路坂
につっこみ、その間に、毛利元就は逃げのびることができま
した。
この勇気ある七人が戦った場所を「七騎坂」と言い、降路
なな ま こ はま 坂近くの七曲がりとも、温泉津・小浜の七騎坂とも言われて
います。
にし た
2.
宿場町・西田
降路坂を降りて来ると、突然、西田の町並みが広がります。
西田は、銀山街道の宿場町でした。銀山や温泉津から運ばれ
て来た荷物は、ここでいったん牛や馬の背から降ろされ、再
び積み替えて運ばれました。
かみいち なか しも
西田の町は、降路坂側から、上市・中市・下市に分かれてい
なごり
ます。大きな市が開かれていた時代の名残です。商売が盛ん
え び す
になるように祈った「恵比須様」や「火伏せの観音様」が、今
金びしゃく井戸
日でも祭られています。
かな
3.
金びしゃく井戸
しみず
宿場町西田から再び山道を登り、清水集落に着くと、
「金びしゃく井戸」とよばれる泉があります。
その昔、この水のおいしさに感心した大森代官が、お
ほうのう
礼に当時高価だった金属製のひしゃくを奉納したので、
「金びしゃく井戸」と呼ばれるようになったと伝えられ
ています。この泉は、昭和61年、島根の名水百選・くら
西田
しの清水に選定されました。
石見銀山で生産された銀は、どこの港から、遠く
海外へ運ばれたのでしょうか?
銀山開発当初に利用されたのは、仁摩町馬路の
鞆ヶ浦です。当時、大内氏がこの港を支配してい
ました。
その後、毛利氏が銀山を支配すると港も、温泉
津町温泉津の沖泊へ移って行きます。沖泊を山陰
水軍の拠点とした毛利氏は、ただちに山城を築い
ています。
みなさん、二つの銀の積み出し港を訪れてみて
ください。
鞆ヶ浦(仁摩町)[大内時代]
こと が はま
鳴き砂で有名な琴ヶ浜を海岸線に沿って西に走り、短
ずいどう
い隧道を抜けると小さな漁港に着きます。そこが、石見
銀山初期(大内氏支配時代)の銀鉱石積出港、鞆ヶ浦です。
う
港の入り口に鵜の島が位置する波静かな良港で、石見
銀山から最も近い港であったため、銀鉱石は、この港から
積み出されたのです。
こんりゅう
鞆ヶ浦漁港
今日、港を訪れると、銀山の発見者・神屋寿禎が建立し
いつくしま
たと伝えられる厳島神社や船をつなぎ止めるのに使用し
ちょ ぞう こ
た鼻ぐり岩が残されています。また、貯蔵庫跡と伝えら
れる場所からは、銀鉱石が見つかっています。
はんせん
大永6年(1526年)
、博多の豪商神屋寿禎が帆船で馬
路沖を通った時、海岸の石垣がキラッと光った。見ると
銀鉱石で、積み荷の米と交換した。(馬路)
厳島神社
おおうら たくの ゆみなと
同様な伝承は、大浦(大田市)や宅野(仁摩町),湯港(温泉津町)など、石東海岸一帯に広く伝えら
れています。
鞆ヶ浦の入り口にある鵜の島には、
「レンゲ祭り」が盛大に行われる厳島神社があります。銀山発
見を喜んだ神屋寿禎が、天文14年(1545)、弁天像を奉納したと伝えられています。
沖泊(温泉津町)[毛利時代]
温泉津湾と沖泊
灰吹法が導入され、大量に銀が生産されるようになると、港も、多くの船が入港できる温泉津・
沖泊に移りました。温泉津湾は海が深い上に波静かで、大型船が楽に入港することができました。
たきぎ
そのため、銀を運び出す船や、銀山で使われる薪や炭,米などを積んでいた船が、どんどん温泉津
湾に入って来たのです。
温泉津湾の東側に位置するのが沖泊です。戦国時代(16世紀)には、港を守るために山城が築か
え び す じんじゃ
れました。船をつなぎ止めた鼻ぐり岩や船人の信仰を集めた恵比須神社、櫛山城、鵜丸城が、かつ
はんえい
ての繁栄を伝えています。
【鼻ぐり岩】
【恵比須神社】
船をつなぎ止めた岩
海の神様として信仰された
【沖泊港】
くしやまじょう
【櫛山城】
温泉氏の居城
うのまるじょう
【鵜丸城】
毛利氏が築いた城
きゅうき
石見銀山は、
「銀山旧記」によると1309年(鎌倉時代)に
ひろゆき さいしゅ
大内弘幸によって発見され、自然銀を採取したと記述され
ていますが、実際に銀がどれほど採取されたのか明らかで
はありません。
はかた その後、
1
526年に博多
(現在の福岡市)
の商人神屋寿禎が
日本海航行中に銀山を発見したといわれ、それから本格的
な採掘が始まりました。
戦国時代の武将たちにとっては、軍資金としての銀の価
うば
値が大変に大きく、石見銀山をめぐって激しい奪い合いが
繰り広げられました。
お が さ わ ら
1533年、小笠原氏から銀山を奪い返した大内氏の許可をもらった寿禎は、朝鮮から灰吹法を取
り入れ、石見で銀の精錬
(銀を含んだ鉱石から銀を取り出すこと)を始めました。
ようい
それまでは、鉱石を博多に運んで精錬していましたので、それに比べて銀の生産が容易になりま
した。 石見銀山にいち早く取り入れられた灰吹法は
いくの さ ど
国内の生野銀山や佐渡金銀山など他の鉱山にも
伝えられ、わが国は世界有数の銀生産国になり
ました。
院内銀山
佐渡金銀山
石見銀山
生野銀山
多田銀山
伊豆金銀山
戦国時代このようにして石見で生産された銀は、鞆ヶ浦
(仁摩町)沖泊(温泉津町)の港から博多(福岡)など大陸に
近い港へ運ばれました。
「大内義隆記」には、神屋寿禎が石見銀山を発見した後、
とうど〈もろこし〉 てんじく
現在の仁摩町の港に唐土(現在の中国)や天竺(現在のイン
こうらい ド)や高麗(朝鮮半島)の船がやって来たことが記載されて
います。
16世紀初めまでは銀を輸入していた日本でしたが、神
屋寿禎が銀山を発見した直後の1528年には、わが国から
銀が輸出されています。
石見での銀生産は、
1
7世紀前半の最盛期には、
年間 32000
∼ 40000 ㎏にのぼったと言われています。
し
日本の銀生産のかなり多くを、石見銀が占めていたよう
です。
さ ま
当時、石見銀山は佐摩銀山ともいわれていましたから、
外国では、石見銀のことを「ソーマ銀」と呼んでいました。
せんきょうし
スペインの宣教師(キリスト教を
布教する人)
フランシスコ・ザビエル
は他国の知人への手紙の中で、
「スペ
よ
イン人は、日本を銀の島だと呼んで
います。
」と紹介しています。
また、ポルトガル人ドラードは、自
分で描いた日本図
(写真右)
の石見の
位置に「R・AS MINAS・DA PRA
TA」
(銀鉱山王国の意味)
と記載して
います。
出典 松本賢一著 「南蛮紅毛日本地図集成」
(株式会社鹿島出版会)
『R・ASMINAS・DAPRATA』
石見銀を中心とするわが国の銀は、大量に九州から朝鮮半島や中国などへ運び出され、ヨーロッ
パの国々のなかでもいち早くアジアに進出したポルトガルの手によって、世界貿易で使用されまし
た。
1542年、朝鮮では大量に日本銀が流入して銀価が下落し、銀が「賤物」
(つまらない物)
といわれ
るほどでした。
ポルトガルは、1557年にマラッカ→マカオ→長崎の定期航路を開設するほどアジア貿易に力を
入れ、それとともに日本の銀が大量に外国へ出回るようになりました。
きいと きぬおりもの
ポルトガル船は東アジアに来て、中国の生糸や絹織物を日本へ輸出し、その代金として日本銀を
受け取りました。その銀でコショウなどの熱帯特産物を買いつけ、それをヨーロッパで販売して大
きな利益を得ました。
当時、ヨーロッパでポルトガルと並んで他の大陸に目を向けていたスペインは、アメリカ大陸に
進出し、ラテンアメリカで鉱山を経営し、メキシコとフィリピンの間に定期航路を開設していまし
た。なかでも、現在もなお採掘されているボリビアのポトシ鉱山は、当時、石見銀山とともに大き
な銀山であり、この町の人口は約15万人でアメリカ
大陸最大の都市になっていたほどです。その銀が眠
る山はスペイン人によって「富める山」という意味の
「セロ・リコ」と呼ばれるようになりました。
ひょうこう
現在、ポトシ銀鉱山(標高4824m)はポトシ市(標
し がい ち
高4070m、人口約14万人)の市街地の南側にあり、
今も鉱石が採掘されていて、1987年に、市街地とと
もに世界遺産に登録されました。
石見銀山も世界遺産に登録されるよう取り組んでいます。 ふるさとのみなさんの力を結集して
実現したいものです。
大田市立図書館
大田市大田町大田イ140-2
TEL(08548)4-9200 郷土資料コーナーには石見銀山
鉱山関係の書籍が取りそろえて
あります。
大田市町並み交流センター
石見銀山資料館
大田市大森町ハ51-1
TEL(08548)9-0846
URL htt://www.joho-shimane.or.jp/cc/silver/
近世∼近代までの鉱山道具・古文書や県内外の鉱石
を収集・展示しています。
大田市大森町イ490
TEL(08548)9-0330
国の
『重要伝統的建造物群保存地区』
に選定されている大森町の町並みの歴史や、
復元の様子を知りたい方はこちらへ。
石見銀山を分かり易く紹介したビデオも見る
ことができます。
島根県教育庁文化財課
松江市殿町1
TEL(0852)22-5879
URL http://www.pref.shimane.jp./section/iwami/gin.home/index.html
世界遺産登録に向けての準備をしています。
石見銀山発掘調査事務所
大田市大森町イ826
TEL(08548)9-0899
発掘された遺物などがあります。
石銀遺跡見学についてはこちらへ問い合わせを。
写真提供
〔鞆ヶ浦,
沖泊,
ドラード日本図〕島根県教育委員会
〔石銀遺跡,
山吹城〕大田市教育委員会
〔ポトシ銀鉱山〕
「海外銀鉱山調査報告」
石見銀山遺跡発掘調査委員会
海外銀鉱山調査団
同和鉱業株式会社共編
ふるさと学習誌
「石見銀山∼戦国時代の遺跡を歩いてみよう∼」 発行 平成11年3月1日
発行者 銀の道振興協議会
印刷 柏村印刷株式会社