第16号 - 國學院大學栃木学園

第16号
表紙解説
「座 牛」
(ブロンズ)
天野裕夫/作
1954 岐阜県に生まれる。
1978 多摩美術大学大学院彫刻科修了
日本現代陶彫展(金賞)、
ユーモア陶彫展(大賞)
などを始め、
多くの展示会で受賞。
2005 多摩美術大学客員教授となる。
なお、
同作者の作品は他に、高等学校には、本誌第13号の表紙と
なった「太犬」が、
また本学園中学校には「翼蛙」が所蔵されている。
題字/田中 暁亭
学園創立48周年 中学校創立13周年
太平台に集い、
学び鍛える日々
佐々木周二
学園長
創立48周年記念式典 式辞を述べる木村好成理事長
中学校 体験実習 (田植え)
一年生徒研修 生活・学習の基本を学ぶ
本校で行われた国文学者・中西進先生の「万葉みらい塾」で
元気に和歌の暗唱をする中学生 (本校 図書館大会議室にて)
中学・高校 こ の 一 年
夢を追って走る
太平山神社参拝 学園生活のはじまり
柔道部・北野裕一君が埼玉インターハイ81㎏級個人戦でみごと優勝の栄冠を
勝ち取った。北野君は国体・高校選抜国際大会でも活躍した。
(写真はβ3の3 古谷昌道君撮影)
文化祭 さわやかな歌声 (中学)
全校弁論大会出場の弁士たち
体育祭 組体操
夏に鍛える サマースクール (新潟県)
校外学習 中学3年 東大寺・大仏殿前にて
全校マラソン大会男子スタート
国際情報科2年オーストラリア修学旅行
ホストファミリーと語らうひと時
普通科2年修学旅行
広島・平和記念公園にて
第十六号 目 次
國學院大學の柔道の系譜
……
……………………
柔道部の創部に携わられた遠藤明三先輩の懐旧談を中心に
霊峰富士に魅せられて………………………………………………………………
再び聖職の碑を訪ねて 中箕輪尋常高等小学校駒ケ岳遭難の事跡 ……
………………
高等学校草創期の一齣 ⑶ …
…………………………………………………………
)
)
)
木村 好成(9)
石塚 透(
赤塚 徹(
影山 博(
)
)
)
)
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)
)
135 128
随 想 ①
古口 敏夫(
佐々木和俊(
西沢 敏(
葭葉 国士(
加藤 敏明(
村田 真一(
研一( )
栗山英樹氏の講演から… 青木 一男( )
心にとめておきたい言葉第十五集 … 小塙
カナダから帰ってのショートメール… 島田
…
…
…
利文(
初めての受験指導…… 村山 優一( )
教員になったからこそ … 菅又 和彦( ) 井上康生の引退 ……… 綾川 浩史(
…
…
『君』に会いたい …
…… 田口 幸子( ) ホストファミリー体験 …
…亀山 瞳( ) 私と犬 …
………………… 田中 千鶴(
寮生活の思い出……… 島田 秋( )
141 133 126
随 想 ②
言葉の宝(Ⅵ)最終章 … 佐山
…
洋(
老後の楽しみは… …… 飯村友季子(
…
懐かしい同窓会 ……… 稲葉 千恵(
…
)
図書館ダイバー ……… 関谷 恒和( ) たくましき黒ウサギ … 菅原 紀浩( )
…
…
古書の楽しみ ………… 坂本 一成( ) ジャイアント馬場さんの名言集… 木村
)
…
…
豪( )
) 研究室と教室と …
……… 北川 嘉則( )
金閣寺…………………………………………………………………………………
第十回 ニュージーランド語学研修(中学校)……………………………………
…
SPPによる授業を行って…………………………………………………………
柔道部三年間の「死闘」の記録………………………………………………………
書に親しむ ― 仮名と漢字仮名交じり文を書く ― …………………………………
…
青春とは何だ!………………………………………………………………………
72 66 61
46 30 23
75 68 64
116 113 95 90 84 79
76 70 65 59
139 129 125
…
……… 田原 千晶(
…
……… 大月 一男(
福田 寿( )
中島 亨( )
大島 秀郎( )
土田 十( )
安塚 孝昭( )
) 父の『やらまいか』…… 小田 智巳(
…
) サッカーと國栃と私 …
… 木村 圭佑(
)
178 175 164 157 144
)
214 207
ヨーロッパ研修 漱石と鷗外………………………………………………………
PISA型読解力をめぐって………………………………………………………
英訳 福沢諭吉の言葉………………………………………………………………
重力理論最前線6 ― 重力レンズ効果 ― …………………………………………
…
忘れてはならない日本人 鳥居龍藏とその妻きみ子のこと ………………………
…
随 想 ③
緊張の緩和…………… 瀬賀 正博( ) 私を支える言葉
……
鰺坂 和幸( ) 火中の栗を拾う
オオスズメバチに刺されて(状況報告)
212 205
ホームステイの生徒の感想…………………………………………………………
……………………………………………
It is not the numbers that count
…
…
デビン・ケルソウ
(
(
ハンス・リントゥバー
平成二十年度 歳時記 太平台 …………………………… (
…
「太平台春秋」の創刊に寄せて ………………………… (
…
編集後記 ………………………………………………… (
)
237 229 217
)
)
244
)
)
)
254 250
270 268 255
創立四十八周年記念講演
……………… 國學院大學経済学部教授 紺井 博則(
サブプライム問題から見えてくるもの
私のオペラ人生 Ⅵ………………………………………………………………… 峰 茂樹( )
国際会議に参加して………………………………………………………………… 西 克幸( )
ある対話から………………………………………………………………………… 久保田千秋( )
209 202
第16号
平成 21年2月
國學院大學の柔道の系譜
柔道部の創部に携わられた
遠藤明三先輩の懐旧談を中心に
木 村 好 成
位、団体戦は四回戦 対秦野総合高に勝ち、準決勝に進んだ
五 人、 先 鋒・ 次 鋒・ 中 堅・ 副 将・ 大 将 に よ る 勝 ち 抜 き 戦 )
裕一(八一キログラム級)
・倉持剛(九〇キログラム級)
・後
めた。男子個人戦では松井悠輔(六六キログラム級)
・北野
六月 栃木県武道館での県大会では決勝戦 対白鴎足利高に
勝って、六年連続・十五回目の優勝で全国大会への出場をき
が対東海大相模高に敗れ、三位の成績であった。
で、高校柔道部は一回戦 対岐阜県代表・中京高に二人残し
藤有輝(百キログラム級)が、女子個人では高橋芳実(五二
近年の國學院大學栃木中学校および高等学校柔道部の活躍
は目覚ましい。平成二十年だけの記録をみても、三月に行わ
で勝利。二回戦は対滋賀県代表・近江高で三人残しで勝利。
キログラム級)・飯嶋亜季(六三キログラム級)、それぞれが
れた日本武道館での第三十回全国高校柔道選手権大会(選手
三回戦 対千葉県代表・東海大浦安高に一人残しで勝ち上が
が 八 一 キ ロ グ ラ ム 級 で 全 国 大 会 で の 優 勝 を 果 た し た。 北 野
り、ベスト四を懸けた準々決勝で昨年と同様、東京都代表の
は、つづいて行われた講道館杯全日本体重別選手権大会およ
優勝。
五月の栃木県武道館での県大会では、団体戦決勝 対白鷗
足利高五人戦(点取戦)で三対〇で優勝。男子個人戦も北野
び、 十 二 月 の 日 本 高 校 選 抜 チ ー ム 選 手 と し て フ ラ ン ス 大 会
強豪国士舘高と対戦し、大将戦までもつれ込む大接戦の末に
裕一が体重無差別で優勝。女子個人では高橋芳美(五二キロ
に、また二十一年一月三十一日・二月一日のベルギー大会に
惜敗したが、全国ベスト八であった。
グラム級)・長谷川知美(六三キログラム級)が優勝。
八月の全国高校総合体育大会では、栃木県代表として出場
し、高校男子団体戦で全国五位。個人戦では、北野裕一選手
埼玉県立武道館での関東大会では、個人戦で北野裕一が三
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際情報科)教諭がおられた。昭和四十三年四月に就任、平成
しまった梅津省三(昭和四三年・七六期経済卒、商業科・国
卒、国語科)の三教諭であるが、以前には今は故人となって
卒、 体 育 科・ 柔 道 担 当 )
、綾川浩史(平成十四年・百十期文
年・九五期法卒、体育科)
、葭葉国士(平成十年・百六期史
本 学 園 の 中 学・ 高 校 柔 道 部 の 指 導 に 直 接 当 た っ て い る の
は、國學院大學柔道部の卒業生である。服部正幸(昭和六二
國學院大學柔道部の系譜
中学柔道部も、九月の中学校下都賀地区新人大会で、三年
連続・七回目の優勝を果し、関東大会でも優勝している。
も日本代表選手として出場している。
つ、それぞれが日々の学務に精励しているところである。
あった。半世紀を超えた互いの友情がもたらした縁を想いつ
なおまた、平成十九年度から本学園短期大学学長に就任さ
れた中村幸弘先生も私と同期の文学部の卒業で、柔道部員で
近くにいたことから数年間は部の監督を務めたのだった。
将を務め、卒業後も久我山中学高等学校の教員として大学の
経学部を卒業し、大学在学中は柔道部に所属し卒業年次に主
教諭として勤めていた國學院大學久我山中学高等学校から本
なお私は、学園に短期大学が設置される昭和四十一年四月
に、佐々木周二学園長の手助けをするべく、開設の準備と以
部の系譜を語ることとする。
こ れ よ り 前 に、 昭 和 三 十 五 年 の 学 園 創 立 時 の 高 校 教 諭 で
あった谷本善彦(昭和三二年・六五期政経卒、社会科)教諭
る中学生新人大会が毎年春に行われ今春で十六回になる。
杯中学生柔道大会」の名で本学園高校柔道部OB会主催によ
域中学校の柔道指導者からも慕われ、亡くなった後に「梅津
高め、日本に伝わる柔道文化への思考をも深めようとするも
の証を部誌に留めることで、さらに部生活を意義あるものに
部誌「たまぐるま」は、最高学府に学ぶ大学生にして、な
お柔道に情熱を燃やす同好の士が、相集って柔道部員として
國學院大學柔道部には、部誌「たまぐるま」がある。
柔道部誌「たまぐるま」について
学園に転じたのである。昭和三十一年に六十四期生として政
後の短大教育に携わるために、十年間正課柔道と社会科担当
三年四月十日に、病気治療中喘息の発作で亡くなった。同教
諭 も 國 大 柔 道 部 の 卒 業 生 で あ っ た。 人 格・ 識 見 共 に 立 派 で
が、開校と同時に高校柔道部を創部、以後十年間にわたって
のである。高校までの部活動とは違う、大学生が行う部活動
あったことから、教えを受けた生徒達はもちろんのこと、地
指導に当たり、高校柔道部の伝統の礎を築いたのであった。
部が数多くある中で、例を他に見ない価値ある活動が、部誌
であれば、そこに相応の思考がなくてはなるまい。大学柔道
稽古に精進することを、無思考に行っているのではないこと
このように、本校の柔道指導の流れの中には、國學院大學
柔道部の精神が受け継がれていることから、國學院大學柔道
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能書家であった松尾三郎先生が、ときに「球車」、ときに表
長・岐阜護国神社宮司)さんで、彼の執筆力と編集力があっ
任 者 は 森 磐 根( 昭 和 四 四 年・ 六 七 期 文 卒、 後 岐 阜 県 神 社 庁
三年・六六期史卒)主将のもとで発行されたが、編集発行責
発行の初めは昭和三十二年で、冊子として発行する以前に
ガリバン摺りのものがあったと記憶するが、菅井稔(昭和四
と読み、意味を解することが出来ずに首をかしげるむきもあ
近年発行の多くは「玉車」がつかわれていることから、初
めて手にされ読まれる方の中には、
「玉車」を「ギョクシャ」
在り方を示されたものと考えたい。
分けられたのは、書を能くされる先生が、書道に対する心の
「たまぐるま」の発行なのである。
て質の高い部誌ができたのである。冊子とした当初四号まで
る よ う だ が、 い ず れ も「 た ま ぐ る ま 」 と 読 ん で い た だ き た
記を変えて「玉車」、かな草書で「たまぐるま」などと書き
は「會報」の名称で発行されたが、柔道部草創期の先輩であ
い。あえて附言するしだいである。
西郷四郎の山嵐も、近年までは、実際に見た人の言ひ伝へ
を聞くことは出来たが、今日ではそれすら困難になつた。し
の如く消え去つたものも多からう。
なる幾多の名技も、歳うつつては、その人一代を限りに流星
業の名称は残つてゐても、実態は伝はらない場合がある。
名称が残ってゐるのはまだ幸ひである。過去の達人の苦心に
り得ない。畢竟業の名称は便宜的なものに過ぎぬ。
球 車 松尾 三郎
業の変化は無限である。一見同じやうに見えても、相手の
姿体がことなる如く、厳密な意味において、同じ形の業はあ
ておられる(仮名表記は旧仮名遣い)。
三船十段創案の技「球車」について松尾三郎先生は、昭和
三十三年五月発行の二巻二号(通算六号)で次のように記し
り、当時の柔道部顧問であった大学常務理事松尾三郎(大正
十五年高等師範部・三四期卒、後國學院大學理事長)先生に
よる巻頭の言葉が掲げられたことで、誌名を「たまぐるま」
とし、その由来と発刊の趣旨が示されている。曰く、
球車は、柔道修行者の高き
指標として、無限の変化の
中にあって、燦然として
かがやく業の金字塔である。
高きを目指すわが柔道部誌
に題し、ここに三船十段を
記念し仰ぐこととする。
平成二十年までに四十三号が発行されている。表紙の誌名
は「球車」・「玉車」
、ときには草書で「たまぐるま」と書か
れているが、いずれも松尾三郎先生の揮毫によるのである。
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影をしのぶことが出来よう。
かし文化の余沢で、将来は達人の業を映写によつて、その面
の上で、平沼師範の功績は大きいように思う。
けておられた。これを真似る者が多くいて、この頃は中学
主将)現部師範は、かなり前から乱取り中に球車をよく掛
高校生の試合中にも見受けられるようになった。技の普及
三船名人の創始になる大車、隅落は、実にすばらしい目の
さめるやうな快技である。特に相手が大兵の場合、業の切れ
味があざやかで絶讃を禁じ得ない。大車は継承する人が可成
第十四号(昭和四三年六月発行)に特別寄稿として、当時
の佐佐木行忠(昭二一年三月─八月、三四年九月─四五年三
り多いやうであるが、隅落に至つては、一名空気投げとして
石黒敬七(早稲田大学出身の柔道家・とんち教室で有名)さ
佐佐木行忠
月)学長の文章がある。
国大柔道部発足の精神
んがこなされた以外あまり多くを聞かない。
皇典講究所創設の時、生徒養成の教科には、体操が課せら
れてゐた。撃剣、乗馬、体術等であるが、実施せられたのは
球車が創案されたのはいつ頃であらうか。名人から直接説
明をうかがつたのは戦後間もなくであつたやうに思ふ。
背負投とか肩車の如く、頭越しに高く大きく転倒させるに
は、相手の体に十分接触して相当の力を要するのであるが、
設と同じ明治十五年だから、まだ柔道が普及するに至らず、
撃剣で、明治の教育に於いて武術を課したのは講究所を以て
当時柔術は明治維新後文明開化の波に押されて極度に衰微し
嚆矢とする。これは本学にとって特記すべきことである。体
とのことであつた。
てゐた。実施はされなかったが、創立当初の幹部の高い見識
ただほんのハズミで、しかも頭越しに倒れる立派な美しいワ
片手は、相手の膝辺りを摺り下げでもするやうに撫で下ろ
し気を奪う暗示を与えるだけで、ただ片袖を持つた弧線的な
ザ は あ る ま い か と、 研 究 怠 り な く、 創 案 し た 業 の 一 つ で、
引き下ろしで、頭越しに大円を画いて飛ぶのである。おそら
をおもふべきである。
術というのは柔術のことで、講道館の発足が皇典講究所の創
く現在において辿り得る究極の技であらう。
其後、本学に柔道部が発足したのは、既に大正を半ば過ぎ
てからであったが、三船名人のやうな傑れた師範を迎へるこ
「アタマ」の「ア」の音を略して「タマグルマ」といふのだ
名 人 の あ く な き 努 力 は、 ひ と り こ の 業 に と ど ま る こ と な
く、やがてまた注目すべきすばらしい業を生み出されること
とが出来たのはまことに幸せであった。
戦後柔道は大いに発展して、今日世界の柔道として普及し
おそらく適当な体術の師範を得られなかったものであらう。
であらう。
筆者註、平沼正治(昭和三二年・六五期政経卒、卒業年次
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らぬところで、世界柔道にふさはしい高い見地に立っての練
ならぬ。ここに本学柔道部員各自が深く念ひをいたさねばな
のでなければならぬ。単なる体育或は趣好のみに終わっては
らであらう。本学の柔道は特に本を立つる道義に立脚したも
てゐる。講道館初期の柔道の趣旨に傾聴すべきものがあるか
つつある。外人の柔道修業は実によく礼譲を重んずると聞い
ていること、なかでも遠藤明三先輩の柔道部の創設時を語る
係者のみならず、國學院大學の学風を、執筆者の多くが語っ
集号を発行しようということになった。國學院大學柔道部関
うことから、創部九十年を祝うに際して「たまぐるま」の特
の価値を見直し、このまま反故にしてしまうのは惜しいと言
の間に、部誌「たまぐるま」を読み返して、掲載された文章
の行事を催すことになった。ついては、近年柔道部の卒業生
したが、わが國學院大學柔道部の創設は何時になりますか。
記念の祝賀会を催す旨の通知に併せて、招待状を受け取りま
「青山学院大学柔道部が創部百周年を迎えるのだそうです。
部は八年であると廣井さんに回答したのだった。
なり、下級生を迎えての創部であったことが分かる。故に創
院大學入学は大正七年で、文章を読み進んでいくと二年生に
以前にも、創部が大正七年であるか八年であるか、あるい
は九年かと考えたことがあったのだが、遠藤明三先輩の國學
しようと思ったのである。
の印象にも強く感銘深く残っているので、ここに改めて紹介
文章は昭和二十六年に復活した戦後の部員には興味深く、私
習に励まれるやう切望してやまぬ。
國學院大學柔道部九十周年記念行事のこと
青山学院よりも遅いということはないのではと思うのですが」
平成二十年の夏のある日、國學院大學柔道部の総監督であ
る廣井武司(昭和三八年・七一期文卆)さんから、
と質問の電話を受けた。
は予てから國學院に関わりを持つ人たちにこの文章を読んで
文章には、当時の学生の気質と國學院大學の学内の雰囲気
が物語られていて、大変面白かったことを記憶している。私
私は直ぐに、昭和三十五年十一月発行の國學院大學柔道部
誌「球車」九号に掲載された、当時の石川県菅生石部神社宮
往時を偲んでいただきたいと思っていたことから、本誌に掲
遠藤明三先輩の柔道部の創部を語る懐旧の文章は次のよう
である。若干の誤植の訂正に註を加えて紹介する。なお、執
載させていただくこととした。
司遠藤明三(大正十一年国文科・三十期卒)先輩寄稿による
『国大柔道部創設に懐ふ』を思い起こして、
「大正八年だ」と
応えたのである。
このことから、にわかに國學院大學柔道部創部九十周年を
祝うことが卒業生の間で話題となり、平成二十一年秋に記念
-
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筆は昭和三十五年であることを認識しながら読んでいただき
道場は石渡幸之輔(明治二六年・一期卒)先輩が私費で宮
内省のさる建物を移築、振武館と命名し、杉浦天台道士の扁
こして稽古を見て居られ、寒稽古ともなると陣頭に立って直
ぎたる立派なものであった。先生は時折道場に見え、にこに
額が今日もなお先生の爲人を物語って居る。実に本学には過
『三船十段喜寿の賀に列して
接稽古をつけて居られた。又この寒稽古には学生監の柳生子
たい。
国大柔道部創設に懐ふ』
爵が端麗温和な長身を陸軍大佐の軍服で一段高い師範席に端
菅生石部神社宮司 遠藤明三(大正十一年国文科卒)
他木下祝夫(大正七年国文科・二六期卒、現香椎宮宮司)先
意気込みを想ひ出すと今日でも実に生気が蘇って来る。その
仕、如何にも恰も好き御組み合はせである。鈴木先輩のあの
卒)、現在御郷里秋田県米内沢神社宮司として神明に側近奉
私 の 敬 愛 措 か ざ る 鈴 木 勝 治 先 輩( 大 正 六 年 師 範 部・ 二 五 期
頃は佐藤寿遵先生が厳として坐って居られ、先生に配するに
ないが、劔の型に間違はなかった。私共の入った大正七年の
入って見ると待って居るのが青戸式の劒の型で余りぞっとし
一 つ を 習 練 す る 定 め で あ っ た。 と こ ろ が 笈 を 負 う て 国 大 に
て居る。私共の中学時代は劒道と柔道と二本立てで、何れか
を持って居られて、それで学生を指導して居られたと承知し
は鮮なかった。吾が國學院大學では青戸先生が一つの剣の型
学・専門学校で武道を正課として心身の鍛錬に心がける学校
爲に創められたものである事は当然であるが、当時はまだ大
、國學院大學では劒道が正課として
そ の 当 時( 大 正 七 年 )
課せられて居た。之は遠大なる理想の下に、その目的達成の
ては喜んで居た)の大理想はとても達成覚束ない。これは柔
母校がとか何とか云はずに必ず本所をつけて本所本学と云っ
それが桑原専務がおっしやると一種の色彩が漂ふので私共は
る形式張った式典などには声を張り上げて主張されるので、
此の様な状態では本所本学(この「本所本学は何かカドの有
劒道と柔道と両方をやって来たのだから何でもないのだが、
何とかしなければならぬと思ふ様になった。私は自分自身は
斯うした雰囲気の中で中学で柔道をやって来た学生が如何
にも名染めないのである。この様子を見るにつけて、これは
もあったらうか。
が愉快だと、とても愉快さうに話されたのは鏡開きの時でで
まった、藤原の姓と鍋介と云ふ名が如何にも不釣合であるの
柳生子爵は全く敬愛すべき学生監であった。青森で隊長時
代、 演 習 帰 り に 大 福 餅 十 六 を 食 べ た ら 軍 医 が 青 く な っ て し
さる。その様子が如何にも熱心で、しかもお楽しさうであった。
と共に申し出るのを、子爵は一人一人刻明に出席簿に記入な
坐して、学生が稽古が済むと下位の者が上位の指導者の名前
輩も時折顔を見せて居った様だ。
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が如何にも鄭寧であった事が印象的で私の将来に余程の影響
かりました」
。このよくわかりましたと仰っしやった御容子
に訓練すべきと存じます」
。と申し上げると、
「成る程よくわ
神練磨の機関として、是非柔道部を興して、その学生を十分
出してもその効果は挙がりません。それで柔道出の学生の精
の練習を始める適令が過ぎ去ってますから、よし劒道をやり
るのですから柔道出の学生に劒道をやれと云ってももう、そ
中学で劒道をやって来た者と柔道をやって来た者と半々に居
出来るのかね」と重ねて仰っしゃる。
「それは、学生中には
陥を生ずるからです」
。
「柔道が無ければ何故教育上の欠陥が
要と云ふのかね」とおっしやる。
「それは本学の教育上に欠
で目をパチパチと目叩きながら「君は何故に本学に柔道が必
に申し上げると、例の温和な内にも一種の気魄の籠ったお顔
直に、「先生、本所本学には柔道部が必要です」と藪から棒
皇典講究所専務理事桑原芳樹先生を理事室にお訪ねして、卒
ここで武道精神の練磨に乗り出して貰はうと、時の本所即ち
道部を興して之を正課として認めて貰ひ、柔道出の学生にも
助、国史では吉岡正雄、横山宣重、矢尾板敦、宮城島信雄と
西 角 井 正 慶、 渾 大 防 小 平、 藤 野 岩 友、 猿 石 道 伯、 新 井 艶 之
史の同士諸君はよく力を借して呉れた。国文では荒井敏雄、
不安を感じない。学生の支援は実に大きかった、就中国文国
子の一言ですべてが円満に運行、誰も疑問も抱かず不都合、
呉れた。当時は契約書の何のと七面倒臭い事は一切抜き、男
「よかろう」の一言でてきぱきと対教務関係は了解をつけて
私 は 剣 道 の 委 員、 助 手 で あ っ た の で、「 敏 ち ゃ ん 頼 む よ 」
、
玆 ま で 漕 ぎ つ け る に は 先 づ、 劒 道 部 と の 道 場 の 交 渉 が あ
る。時の剣道部理事は荒井敏夫君私と同じ国文同級、そして
かった。
れた。同級の国史国文の諸君は総員私に同調援助を惜しまな
平、永田一二、多田芳金と云った諸君が成功成功と喜んで呉
上 に 具 瀬 喜 久 君、 一 年 下 に 竹 間 保 史、 田 辺 朝 之 衛、 品 田 聖
中の私に近い諸君、大内千秋、門脇武文、師範部三年、一年
と湧き起りこれで柔道部が出来たと、早速に当時の有段者の
と仰っしやる。もう私は天にも昇る気持で、元気がもりもり
の柔道部を興す事は君に一任するから骨を折って貰ひ度い」
は劒道場振武館を借りて、練習の時に畳を敷き、稽古後は道
強して呉れた。
第二に、畳屋の交渉。これも飯田町の畳屋で、うちの学生
さんが名指しでおれん処へ来てくれたんだと上機嫌でよく勉
云った所が私の同類であった、懐しい極みである。
を与へた一言であった。教育は人に接する事の様である。
場の片方に積んで置きます」
。
「そんなら、大体いくらかゝり
第三には予め本学の要路の了解内諾をとりつけて置く必要
が有るので、当時の本学三頭半政治体制で、河野省三、堀江
更 に、「 そ れ は ど う し て 拵 へ ま す か 」 と 仰 っ し や る の で、
「それは私が学生諸君に頼んでボケットマネーを貰ひ、道場
ますか」と仰っしやるので、
「畳は約三十枚として約壱百円
あれば畳は出来ます」と申し上げると「そんなら遠藤君、こ
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- 15 -
-
事は先生も御承知の通りであり、それに折角、関係者全部の
は正に道であり、文部省でも中学校の正課としてやって居る
る。で、昔は足軽風情の技かも知れないが今日の講道館柔道
やる。そしてやわらなどは足軽の輩のやる事だよと逆襲であ
正課とするが与力、同心風情の技は講ずるに足らぬとおっし
涵養修練の必要を認め、武士の嗜で、その表芸である剣道は
なら云ふが吾が国学院では武士(侍と云ったかナ)の精神は
私が此の件は好き嫌で云々されては心外ですと申すと、そん
けない。始めは柔道は好かないの何のと云って居られたが、
が夕方六時頃お邪魔してお願ひに及んだが、どうしても、い
が明かぬ。その夜、先生のお住居は青山あたりの様に心得る
ぱり判取り帳が入用だったナと思った。教務室ではとても埒
処へ参ると「嫌だ」と仰っしやる、そら来たと驚いた。やっ
ひやりとしたがそれでも判を戴き、今度は清水平一郎先生の
さうなお顔をされたので、こりやお気の毒な事をしたと内心
すと、ひどく信用が悪いんだねと仰っしやる。本当に不愉快
る。堀江月明先生にそんなら、先生判を捺して下さい。と申
れた事を思ひ出す。処がこれが頗る大事な事になったのであ
あった。私は、そんなもん入るンかナと云って渾さんに笑は
で、この署名捺印の事を私に注意してくれたのは渾大防君で
て巻紙に柔道部設置の趣旨を認め賛成の署名捺印を願った様
では誰様の処へ最初に出かけたか忘れて了ったが大事をとっ
で、右三頭中、誰様に初口を切るかゞ頗る難題であった。今
秀雄、清水平一郎の三先生に、残る半は岩崎保治学生監心得
に お 訪 ね し た 渾 さ ん に 国 史 の 吉 岡、 そ れ に 斯 云 ふ 私 等 二 三
る芳賀矢一学長(大正七年十二月─昭和二年二月)を竹早町
そんなら学長の意中をお尋ねして来ようと、あの春風駘蕩た
鹿な事申せ。本所本学の学生に南蛮服の必要が、何あるか、
制服時代が到来したと見えて洋服を着せると云ひ出した。馬
から先づ制服を着てくれよと云ふ、本所本学も旧殻を脱して
ふに、廊下で岩崎さんに出合ふとその度毎に、遠藤君、君達
玆に又一つ難関が現れた。それは学生監心得岩崎保治氏が
柔道二段だと云ふ事である。こりゃいかん。何でいかんと云
れよと永田と私の心のつながりがこれで出来上った。
もんだナー、そんなら君から毎晩口説いてウンと云はしてく
るのだ。姉の連合いなんだと云ふ。いや頑固な兄貴を持った
翌日学校へ行くと、昨夜はやったねと云ふ永田一二(大正
十二年・三一期師卆)君だ。君はどうして、清水のうちに居
く、当時の先輩の鉄石の心情に一種の快感を抱いた。
いやはや頑固だナと独り言云ひながらも「武士精神、与力
同心の技」の一言は永く私の心にへばりついて忘れられな
る強硬だ。
了った。最後に来るなら勝手においで、答は変らないよと頗
る。いや来ます。否来なくて宜しいと押問答で十時になって
すと何度來ても返事は一つだから来なくて宜しいと仰っしや
又参りますから今夜一晩いま一度お考え直して下さい。と申
非御賛成をと、とうとう九時半になったので、では先生明晩
賛成の下に部を興してと云ふ私共の意慾を生かすためにも是
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人。学長に、事務室で洋服を着れと云ってますが、本所本学
の制服なら大和服とでも云ったもので一見して国大の学生で
あると判る様なものを制定してくれればそれを一着に及んで
都大路を練って歩きもしようが、今までの様に学生の態面を
汚さぬ服装で何等差し支え無いと思ひますがと申し上げる
と、「 大 和 服 は よ か っ た ね 」
、 と お 笑 ひ に な っ て、 学 長 就 任
早々から学則改正などは穏当でないからその辺の裁量は諸君
にまかせるから余りやかましくならぬ様にしなさいと仰る。
鬼の首を取った気持で、それ以来岩崎氏から呼び止められる
と、 学 長 の 免 許 皆 伝 な ん だ か ら、 何 と 云 は れ て も 駄 目 で す
寒稽古記念
(大正十一年)
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と、 そ れ で 私 は 各 教 室 を 廻 っ て 学 長 と の 内 諾 話 を 一 席 ぶ っ
て、無理して洋服なんか作らんで宜しいと、此の事は大分受
けた様でこれが柔道部への同調となって現れた様だ。さてこ
の様な次第で当の岩崎氏が柔道二段と聞いたんでは「こりや
いかん」と云ふより言葉が無い。それで、よしとその夜、岩
崎氏の本郷の一高の横のお寺なるお宅訪問と相成った。雨の
ドシャ降りで、如何にも真暗闇、本堂の前で「今晩は岩崎さ
んはこちらですか」とわめき立てる。この雨に何事ですかと
立ち問答、柔道部をつくるのにあなたが二段だと今日友達か
ら 聞 き ま し た の で、 そ の あ な た と 私 が 洋 服 の 事 で と つ も つ
云ってる事は大極から見て、いけない事だから妥協に来まし
た。と云ふと、ひどくあっさりしてるわ、まあ、上り給へと
お酒など出して下され奥様はあっけにとられて私のおしやべ
りを聞いて居られる。
岩崎保治氏(丸の中)
田辺君
(三列目)立花恵吉君 永田一二君
(二列目)伊勢武市君 多田芳金君 品田君 小柴君
(一列目)竹間保史君 花桐師範代 三船師範 堀江先生 遠藤明三 多田実君 伊藤君
その夜は例の洋服の話などはおくびにも出さず、したたか
にお酒を戴いて何分宜しく御援助御願ひ致しますと云う事
で、一難関は転じて有力なる同調者と相成り、更に次の時代
に岩崎氏が弥彦神社に御赴任、愚兄小林と別懇を重ね同時に
私とも一段と親交を加へることになるのは、同じ道の同志と
云ふものは好いものである。かうした下準備が出来て、前記
の桑原先生の一諾によって柔道部創設と云ふ事に成り、これ
から先づ第一に各クラスを廻って有志のポケットマネーをし
ぼり出す段取りになると、何と当時参百何十人かの学生で壱
道場開記念
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百参拾八円の金が集ったのだから尊くも感激であった。
次の間題は師範を何方様にお願ひするか。当時の有段者の
色分けを見ると大部分は三船門下である。よしと云うて講道
館に三船大家をお尋ねする。此れより前に、いざ柔道師範を
迎え入れ正課として発足するにはそのお手当ての事は学校で
は剣道師範以上は困難、じやと云って三船大家を都下でも諸
先生に対するお手薄を以って有名なる本所本学、しかも大物
の三船大家をもそのお手薄でお迎えできるのか。ままよ要は
吾々学生の気分と大家の御気分の一致さへ出来れば金箱なん
て問題外だ、と大家にぶっつかる事にした。大内君や門脇君
等が此の間に働いてくれたらしい節が程を経て察せられた。
大家は毎日は行けないが、よしと承知してくださった。代稽
古として佐藤をやる。金之助氏で小三船とも申すべきワザ達
者と云ふ次第で、第二の難関も無事万々才。
次に、畳の註文敷き込み。道場開きに配る記念の手拭いの
(五列)右から
潮 小柴 品田
(四列)永田 松山 宮城島
多田芳金 荒井敏夫 紀 久世
(三列)田辺 石井豊 江東 小木
(二列)竹間 鳥羽 吉岡 かつらぎ 佐藤 多田功
中川政一
多田実 かどわき 売店主
(一列)遠藤明三 貝瀬喜久君 木下祝夫君 清水平一郎先生 桑原先生
太田師範代 青戸先生 石渡先生 堀江先生 岩崎氏 斉藤君 大内君
(後列)右から 石井豊君 宮城島信雄君 貝瀬喜久君 竹間保史君 多田実君
潮 哲二君 本間朝之衛君
(前列)右から 斉藤氏 太田節三氏 遠藤明三 岩崎保治氏 大内千秋君
門脇武史君 多田芳金君 永田一二君 品田聖平君
道場開後の特別記念
染め方、道場開きの実際、記念写真について、等々の事を述
べる順番である。
畳については前記の通り、畳屋の親父の勉強で大いに助か
り、早速本所会計課へ立替金を支払ひに行くと何と驚き入っ
た次第で、畳代はもう済んで居りますよとの事。ホホウーど
うしたことか。実は専務が遠藤君によろしくと内諾を与へそ
の日、直ぐに鍋島直大侯爵(学長・明治四四年三月─大正七
年二月)家に出向いて、柔道部開設の事を報告、同時にその
費用として壱百円也を戴いて来られ、会計課へ預けて置かれ
たのだと知らされて、実にびっくりしたり感心したり、とて
も複雑な気分に浸った。成る程大したもんだ。一つ事を決す
る と、 そ の さ き の さ き の 事 ま で 考 へ て の 布 石。 そ こ で 考 へ
た。桑原先生に御礼に出向くべきか、或はと。さうだ専務が
腹で決行された事を、さかしらに御礼など申し上ぐべきでは
ない。只々無言の程に含んで置かうとそのまゝに過したが此
の事はその後私の処世法に大きな影響を及ぼした重大事象で
はあったのだ。
そこで会計課で、私の手元の金は全部道場開きに使用いた
しますと断って会計課を出た。
蛇足ながら一言附記して置く。処が之は言はずもがなの次
第ではあるが、道場も出来すべて順調に運び、その当時の感
激の薄れた頃に会計課から畳代が未払いだから支払ふ様にと
呼び出しが有った事だ。それで先程の桑原先生の行き届いた
お計らひをくり返し説明し、何なら専務のところまで御一緒
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て云う。学長が開きと云う気持で書いたものを親父が閉とし
日 やいち」とある後書の開が閉の字としか出ないと云う。
文学博士でも学長でも、どうしても開きとは読めないと重ね
をして居った。江戸川の染物屋の親父は「国学院道場開きの
さない。いやそれは…ととりかえしも出来ぬ程嬉しそうな顔
し、いま一枚の方は遠藤君有り難うとしっかり抱いて居て離
「柔よく剛を制す」の方にしようというと大内千秋君は賛成
る事だろうと思う。
た。その時の竹ちゃんは定めて幸福な立派な生活を送ってい
人 の 主 人 に 対 す る 誠 実 な る 態 度 と 云 ひ、 ひ ど く 心 を 打 た れ
有ったが、どうも学長の入院中の御筆ではあり、お取次ぎの
た。それには「まけるが勝」と「柔よく剛を制す」と二通り
云うのを抑えて病院へ走って行き、あっと云う間に帰って来
大変に何とも心ない次第で、何とか他に考えましょうからと
様に申訳ありません、しばらくお待ち下さいと、私が先生の
ん?が何かお預りした事ですからこのままお還ししては旦那
も 知 れ ぬ の で あ っ た が。 処 が 取 次 に 出 た 顔 見 知 り の 竹 ち ゃ
のこ出かけて行ったのである。その当時の学生、否私だけか
病院に御入院と云ふ。学長のかうした御事情も知らずにのこ
記念に手拭を染めた。型下を芳賀矢一学長にお願し、何日
頃と云ふ。その日頂戴に出向くと何と学長は例の眼病で大学
事である。
てしなかったが、之は一つの汚点で、今日まで合点のゐかぬ
しませうと云ふ処まで来て先方が折れたので表沙汰には敢え
使室の廊下から裏道の方へお帰りになるではないか。思わず
その写真を撮る時、正にシャッターを切ろうとしたその瞬
間、実にその瞬間愛敬する清水平一郎先生がいつもの様に小
写真は複写して道場へ送る事にしよう。
の社長である事などが報ぜられた。さてその道場開きの記念
は遠く離れた事、当時の慶応ボーイ斉藤氏は現トヨダ自動車
当時の写真を見て大内君にたよりをした。その御返事に同
氏は私立女学校に健在である事、戦争に行って居って柔道と
とお餅も搗いた様であった。
はなく冷酒にするめと何かと云った程度、それに記念の手拭
当日は國學院役職員全部、学生全部を御招待祝宴と云う程で
こうして諸事目出度く、しかも型の如くに道場は開かれた。
が、今日の國學院大學柔道部とは雲泥の相違であったのだ。
斉藤君と云う方を頼んで目出度く急場を飾って戴いたのだ
手が学内には居られない。そこで大内君の友人、慶応の学生
師範の三船大家はよんどころ無い事情で太田節三師範代が
代行された。さて形をやるのに一方は大内千秋二段、その相
たが、会計なんかそんな自由のきくものかと不審に思った。
支弁としたら会計報告は過不足なしにするもんだと教えられ
会計報告をしなければと事務からの言葉で急いで計算した
ら八円の不足、それをそのまま不足八円は次年度経常費から
全学全員に頒けた記念手拭であった。
うかと云うと、よし九分通りやりましょう、と。出来たのが
か出せないとなると、親父の腕も怪しいと云う事になるがど
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此の写真にお入り願えた事によって全学一致で柔道部開設と
道部創設についての御意見には敬服して居りますが、先生が
清水引張りの時とは全く反対に頗る丁寧、慇懃に、先生、柔
なる一撮となったのだ。それは私の此の反射運動的所作での
めて、よしと云って撮ったのだが、此の一撮が何と実に有効
套を着たままステッキを持ったまま私の掛けて居た椅子に納
ながら敏捷であったと思う。有無を云わさず引張って来て外
一寸待てと叫んだ時はその清水先生に飛びついて居った。吾
大体以上で懐旧尚古のわざは終ったのであるが、更に蛇足
に蛇足を加えるの愚を御赦しに預かりたい。
る顔振れである。
永田一二、張出岩崎保治先輩、田辺、この面々は当時の主た
武市、多田芳金、品田聖平、小柴値一、第三列、立花恵吉、
第三葉、寒稽古の記念である。下右、竹間、花桐師範代、
三船大家、堀江月明先生、遠藤、多田、伊藤。第二列、伊勢
君、石井豊君。
哲二君、多田実君、竹間保史君、貝瀬喜久夫君、宮城島信雄
云う事実が成立致しますと礼を述べて、先生を送り出した事
君、鳥羽益夫君、田辺朝之衛君、永田一二君、石井豊君、な
君、 紀 俊 剛 君、 多 田 芳 金 君、 荒 井 敏 夫 君、 右 上 に 竹 間 保 史
二、 左 上 に 多 田 実 君、 門 脇 武 文 君、 品 田 聖 平 君、 小 柴 値 一
平 一 郎 先 生、 木 下 祝 夫 先 輩、 貝 瀬 喜 久 君 師 三、 遠 藤 明 三 師
貰った)現トヨタ自動車社長、大内千秋君師三、右へ、清水
生、岩崎保治先輩学生監心得、斉藤氏慶応学生(形をやって
第一葉 正面の一列、中央から左へ桑原芳樹先生、太田節
三 師 範 代( 在 米 )
、青戸先生、石渡幸之輔先輩、堀江秀雄先
写真には本所本学の首脳部、それに各学年、教習科生、そ
して剣道部員、売店の親父の顔まで見える。
昭和三十五年四月二十一日三船大家が喜寿を迎えられるに
ついて、その賀が丸の内東京会館で開かれる趣、案内に従っ
学館の発展を待って再開される様に希望する。
両正課部で伊勢皇学館と年次試合の道を開いた事である。皇
立って綺麗だった事は今でも感嘆を惜しまない。次に劒、柔
君 と 云 い、 何 と 申 し て も 校 友 会 で 予 算 分 取 り に は 実 に 水 際
芳(大正十一年予科・三三期史学科卒、流鏑馬を大成する)
物を云ったと見るべきであろう。本田大先生と云い 斉藤直
でも之には御異存は有るまい。それにしても弓道部の実力が
課として認められた事は賛成であり、如何に清水平一郎先生
のであろう。柔道正課につれて道は道と云う立前からか、更
でした。
どの顔がはっきりわかる。
て加賀の里から喜んで駆せ参じた。親しくその盛儀に列しそ
当時学校当局は劒、柔、共に同様の取扱であった事は大き
な満足であり、偏に挙校態制の下にと云う眼目が生きて来た
第二葉振武館内でのもの、右端から斉藤氏、太田師範代、
小さく遠藤、岩崎保治氏、大内千秋君、門脇武文君、多田芳
にはもっと古く君子のわざと云う意味合ひからか、弓道が正
金君、品田聖平君、永田一二君、田辺(本間)朝之衛君、潮
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のタチの宜しい稽古を見、我が部創設の功労者永田一二君の
その序でを以って母校の道場で学生諸君と相見えた事は望
外の仕合せ、主として品田氏の斡旋に基くもので、女子部員
あった。
を支援したいとの目論見でとりあげた題材である。
る 本 学 園 中 学 校・ 高 等 学 校 柔 道 部 を 含 む 國 學 院 大 學 柔 道 部 の 活 動
介 と、 か つ て の 学 生 気 質 を 伝 え た い こ と と、 現 在 盛 り あ が っ て い
筆 者 註 本 号 の 私 の 文 は、 大 正 期 の 國 學 院 大 學 の 学 長・ 理 事・ 教
授 の 方 々 と 学 生 の 間、 さ ら に は 先 輩 各 位 と の 間 に も 広 が る 心 温 ま
し て 玲 瓏 た る 大 家 の 爲 人 に 接 し、 実 に 近 来 に 稀 な る 快 事 で
御子息永田陽介君(六九期生)にめぐり合った事も無限の歓
東京オリンピックから柔道が一種目に加わることに決定)
。
る。之は東東京都知事に信頼して宜しかろう(此の後、次回
リンピックには競技種目に柔道が入る様に相成る可能性は有
も控えて居られる。そしてその第一歩として日本での東京オ
こうなればさしたる難事ではあるまい。更には我が三船大家
品田氏の和魂に配するに義勇奉公の荒魂松尾氏を以ってし、
か。それを成すには我が部がその中心でなければならない。
を 成 す こ と が 吾 が 学 院 の 大 使 命 と 思 う が、 諸 君 ど う だ ろ う
を講究して皇国精神を発揚し国風を尚くする事で、此の大事
母校の学生諸君、技は大事であるが技の源は心である事に
心を遣つて貰い度い。敗戦後最も必要な事は我が国大の皇典
の高段者雲の如く居並ぶことを思ふと、実に欣快の至りだ。
道場開きの時に「形」をやる学生に事欠いた事を思う時、
我が松尾三郎氏を国大柔道中興の祖としようか、而して現在
私 の 在 学 中 の 一 日、 大 講 堂 で の 講 演 の 後 に 白 井 八 段 と の 乱 取 り を
また、戦後柔道部に名誉師範として三船先生を招聘したのだった。
校 を 想 う 心 の 大 き い こ と が 分 か る と い う も の で あ る。 松 尾 先 生 も
れ る こ と と な っ た 結 果 の こ と で あ っ て み れ ば、 師 を 慕 う 想 い と 母
ば る 加 賀 の 里 か ら 上 京 し 列 席 さ れ た こ と で、 久 し 振 り に 母 校 を 訪
生 の 喜 寿 を 祝 う 会 に、 交 通 事 情 が 今 の よ う で な か っ た 時 に、 は る
藤 明 三 先 輩 が「 柔 道 部 創 設 に 懐 ふ 」 文 を 寄 せ ら れ た の も、 三 船 先
で は 求 め 得 な い 師 弟 の 情 を 交 わ さ れ る よ う に な っ た の で あ る。 遠
学 の 精 神 を よ く 体 し て の 世 間 を 見 る 目 も 正 し い こ と を 知 っ て、 他
学 生 と の 論 じ 合 い の 間 に、 國 學 院 の 学 生 が 学 問 に 熱 心 で あ り、 建
も 先 生 を 囲 ん で 熱 心 に 柔 道 の 話 を 聞 か れ た の で あ る。 先 生 も ま た
先 生 を 師 範 に 迎 え 得 た こ と で あ る。 当 時 の 学 生 は そ の こ と を よ く
は、 当 時 の 柔 道 界 で 実 力 見 識 と も に 最 も 優 れ て お ら れ た 三 船 久 蔵
る 交 流 が、 柔 道 部 誌「 た ま ぐ る ま 」 の 中 に 記 さ れ て い る こ と の 紹
びである。
本学園短期大学初代の学長でもあった佐佐木行忠先生も本文中
で 記 さ れ て い る よ う に、 國 學 院 大 學 柔 道 部 に と っ て の 最 大 の 幸 せ
その暁にはその選士として我が部から送り出そうではあるま
全学学生に披露したことは、今でも思い出されることである。
(理事長・学校長)
知 っ て い て 稽 古 に 精 進 し た こ と は も ち ろ ん で あ る が、 稽 古 の 後 に
いか。そんな感懐を抱いて帰社(奉職神社に)した次第であ
るが、とても愉快だ。諸君の健在を祈る。
(昭三五・五)
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ある。
に富士山に登ろうということで衆議一決したことからで
光富士と親しまれている男体山に登ってみて、成功したら次
て、何時かあの山に登ってみたいと思い、手始めに地元の日
美しい稜線を見せてくれる秀麗な霊峰富士の姿に魅せられ
用車での通勤途上に、特に秋から冬にかけては南西の方角に
そもそも男体山登山の話は、県南の生地藤岡・大平からの乗
光富士・男体山(二四八六m)に登ろうという話になった。
数年前に鶴見・中両教頭先生をはじめとする本校の教職員
数名と、地元栃木の地名を冠した富士山になぞらえた山、日
一 日光富士・男体山に登る
と続くのである。眼下には中禅寺湖を、更に関東平野を眺め
登り初めは緩やかな勾配であった山道は、一㎞も歩くと様
相はがらりと一変した。直径五m以上もあるような火山岩が
れた登拝門をくぐり、意気揚々とスタートを切ったのだった。
に、教職にある者の冥利を感じながら真新しい注連縄が張ら
い」と、丁寧な挨拶を受けてしまった。卒業生の温かい言葉
ておきますので何かありましたら遠慮なく声を掛けて下さ
から「頂上の社務所にも卒業生がいるのでこちらから連絡し
二人の神職があたふたと挨拶に現れた。卒業生である。二人
た巫女さんが、社務所にいた他の神職に連絡したのだろう。
すぐに駐車場で服装を整え、社務所で登山者名簿に記名を
済まして、いざスタートと思ったのであるが、どっこいそう
霊峰富士に魅せられて
男体山の山開きは、七月一日である。しかし夏休みになら
なければ先生方とそろって登山をする時間は取れないので、
る こ と が で き る は ず な の に、 周 囲 の 風 景 を ゆ っ く り 眺 め た
石 塚 透
八月になってからすぐに登山決行という計画を立てた。
く間に打ち消され、必死に頂上を目指してよじ登るという状
り、鳥のさえずりに耳を傾けたりする心の余裕などはまたた
折り重なるように山道も埋め尽くしている。この状況が延々
は問屋が卸さない状態になってしまった。受付けをしてくれ
登山当日は、早朝五時少し過ぎに家を出て中先生の車に同
乗し、八時には中禅寺湖畔の日光二荒山神社に到着した。
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し か し ど う に か こ う に か、 や っ と の 思 い で 登 頂 に 成 功 し
た。頂上には、
「二荒山神社奥宮海抜弐千四百八拾四米」と
かった。
ていた男体山登山でこうも苦しめられるとは予想だにしな
わってきたのであるが、容易に登頂できるであろうとおもっ
山、 立 山 連 峰、 穂 高 連 峰 な ど を 登 っ て、 登 山 の 楽 し さ を 味
弱気が悲しく思われてきた。今までに岩登りは別として白根
し、むしろ自分の
ヤは失礼である
を考えるとリタイ
生神職がいること
ていてくれる卒業
頂上で私達を待っ
う か と 思 っ た が、
頂を諦め引き返そ
た。途中何度か登
消えさってしまっ
の計画は、脆くも
考えていた登頂前
ビールで乾杯をと
に頂上に到着して
山道である。簡単
態にさせられる登
状態まで疲労は達したのだったがようやく実現した。
り拝礼し、霊峰富士に向かおうというささやかな夢は、極限
早めの昼食をとり、何回かの小休止を入れながら中禅寺湖
畔に戻ってきたのは、午後三時を回った頃であった。大変な
かすめる。
に力を注ぐ宇都宮出身で作家の立松和平氏の活躍等が脳裏を
ことができる。田中正造の活躍、荒廃した足尾の山脈の復興
湖の南には、日本の公害の原点といわれる足尾の山脈を見る
乾燥化が進み植生も変化しているといわれる。眼下の中禅寺
地が、現在の戦場ヶ原だと伝えられている。低湿地も近年は
いにこれを討ち負かした。この戦いが繰りひろげられた低湿
人である自分の子孫・猿麻呂に大ムカデの目を射抜かせ、つ
か決着がつかない戦いに業を煮やした男体山の神は、弓の名
争奪戦を繰りひろげたといわれる地である。しかし、なかな
自分の領土にしようと、大蛇と大ムカデに姿を変え、激しく
ある。太古の昔、男体の神と赤城の神が、美しい中禅寺湖を
と見えるのは高原大根であろうか。集落の西側は戦場ヶ原で
男体山のすぐ北側には、戦後間もなく入植した開拓民が山
林を切り開き、農場経営をしている集落がよく見える。青々
た。素晴らしい眺望であった。
めながら眼下に映る360度の大パノラマを目に焼き付け
ら登頂証明書を頂き、挨拶の後、しばし疲労困憊の身体を休
の建造物を圧して立っていた。私達は、神妙に卒業生神職か
苦労をして、この地方の地名を冠した富士の山、男体山に登
大書された標識が己の惨めさとは裏腹に威風堂々と、一際他
途中で小休止
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くりと歩くこと、水分の補給はこまめに行うこと、腹式呼吸
間を掛けて、早めの昼食をとることにした。できるだけゆっ
二 霊峰富士に登る
ら早めに連絡しあうこと等を再確認し服装を整えて出発する。
を心掛けより多くの空気を吸い込むこと、気分が悪くなった
いよいよ富士登山を決行することになった。男体山の登頂
の翌年には実行したいと思っていたが、校務や各自の都合が
ては鶴見先生に、山小屋の生活については小林先生が指揮を
指示が出る。三人の約束事として経験の深さから登山につい
高地に身体を慣らすために一時間ほどの小休止をとるという
が分かる。車から下りると早速、鶴見先生から一五〇〇mの
を見ると地元山梨、静岡県だけでなく各地から来ていること
品川、大宮、土浦、相模、とちぎ等々、…ナンバープレート
ある富士の魅力に誘われて集まった人の多さを再認識した。
車を駐車場に入れた段階で、話には聞いていたが街の雑踏
と何ら変わらない人の波に、自分と同じように日本一の山で
を走らせてから登ることにした。
道路があるのだから利用させていただこうと、五合目まで車
式な登拝であるが、折角立派な富士スバルラインという有料
富士浅間神社に参拝し、参道からてくてくと歩き出すのが正
通って富士吉田市に入った。本来なら富士吉田市の北口本宮
鶴見教頭先生と小林正夫先生と私の3人での登山である。
早 朝 七 時 に 栃 木 を 出 発 し、 東 北 自 動 車 道、 中 央 自 動 車 道 を
してこの日の宿舎である八合目を目指す。この辺から赤茶け
に慣らすために少し長めに時間をとって休むことにした。そ
る。七合目で、念には念を入れることにして再び身体を高度
る風景を見ることができる。この上ない天空からの眺めであ
である。視線を後方に移せば富士吉田市をはじめ下界に広が
頂上を目指す人の波は途切れることがない。まさにラッシュ
ある。登山道は、下山する人はいないが、どこまで行っても
くのである。標高二七〇〇mの七合目が近くなってきたので
ざった道となる。そして、じぐざくなつづら折りの坂道が続
緑 が ほ と ん ど な く な り、 山 肌 は 赤 茶 け、 登 山 道 は 岩 石 も 混
憩はとらず歩みを続ける。すると道は今までとは一変して急
で、この休憩所が六合目だということは分かっていたが、休
く歩くと、ようやく最初の休憩所に着く。登山前の予備知識
ば登山道とは思えない立派な道である。スタートしてしばら
しているのかもしれないが、前方に富士の頂上が見えなけれ
ゆったりとしている。工事用の車の通行のために道幅を広く
合わず、ようやく三年がたって実現した。
とるということにしていた。そこで鶴見先生からの指示が出
た溶岩と砂礫が登山道を塞ぎ、五合目の茶店で購入した金剛
天 候 状 況 は 良 く、 雷 雨 の 心 配 も な い。 山 頂 に は 雲 一 つ か
かっていない。心弾ませて歩み出す。道は六合目まで、実に
たのである。三人は、体調を整える時間調整も考慮に入れ、
に険しくなってきた。周囲の景色もがらりと変わってきた。
小御嶽神社の鳥居をくぐり富士登山の無事を祈った。更に時
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杖の活用が始まる。杖をついての登山は初めてであるが、富
士 登 山 に は 必 要 な 杖 か も し れ な い。 杖 に 付 い て い る 鈴 の 音
は、熊よけの音とは異なり涼しい感じを与える良い音色であ
る。足を運ぶ度に、少しずつ傾斜もきつくなって行く。頭上
に見える山小屋はすぐ近くに見えるのだが、なかなか距離を
縮めることができない。登り坂の傾斜が急になってきている
のである。後ろを振り返り、下界を見る余裕もなくなってき
ている。しかし四時間ほどの行程も、午後四時を少し廻った
頃に終わり、山小屋に到着した。さすがに疲れはあったが、
男体山と比較すれば大変楽な一日目の登山であった。山小屋
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は、冬の風雪にも耐える構造からか窓は小さく、灯りの節約
もあってほの暗い。下足を所定の場所に並べ入室する。そこ
で小林先生の指示が出る。まず最初に山小屋に備えられてい
る宿泊者名簿にそれぞれの氏名を記入する。次に就寝する場
所を確保する。更に管理人から配付された下敷き用布団と上
布団を敷き、夕食の時間になるまで明日の登山に備えて服装
の点検を行うことにする。
山小屋の食事は、食欲を満たし満足のいく食事というわけ
にはいかない。ハンバーグにポテトサラダを添えた程度の食
事である。空腹を満たすには不十分な量である。当然出され
たものは綺麗に平らげていた。私達三人は戦後の食糧難時代
の 生 活 か ら、 ど ん な 食 事 に も 対 応 す る こ と が で き る よ う に
なっているのだろう。好き嫌いなしに食すことができるので
ある。
五合目の賑わい
いざ登山者を目の前に見ると改めて人の数の凄まじさに驚い
上を目指す山だということは、知識としては持っていたが、
しているのである。富士山は、一夏に二〇万人もの人達が頂
通路であるが、玄関前の人波は途切れることなく頂上を目指
朝食のおにぎりをいただき三時半過ぎに出立する。山小屋
を出て、すぐに人の波に驚く。山小屋の玄関前は富士登山の
も起床の段階までは異常なくクリアできたのだろう。
だけで他には何もないので予定通りの準備を進める。高山病
準備にかかる。問題のトイレをクリアすれば、難題は高山病
計画ではあと三〇分後の起床であったが急いで起床、出発の
翌朝、山小屋の脇を通って行く人の足音と話し声に目を覚
まし、起きあがる。急いで時計を見ると三時である。私達の
ある。
とができた。人のいびきや歯ぎしりなども一切関係ないので
うちに眠ってしまうので、山小屋でも何の苦労もなく眠るこ
ない。だが幸いなことに、私は横になったら五分とたたない
ることができるが、疲れていなければとうてい眠りにはつけ
就寝である。まさに雑魚寝である。一日の疲れがあるから眠
の顔にかかるという表現が適当かもしれないような状態での
間をある程度空けるので畳一畳に二人、隣の人の寝息が自分
食事が終わった後は、眠るだけである。服を着たまま、靴
下も履いたままで、寒さに備えて床につく。他グループとの
ある。
山である男体山も、男体山そのものが二荒山神社のご神体で
いう。ご神体は山そのものだからである。そういえば郷土の
奥宮境内とされる。頂上にある奥宮には、本殿はないのだと
かもしれない。富士宮市に本殿のある富士山本宮浅間大社の
だったという。鳥居から頂上までが、もしかしたら霊場なの
い。 後 か ら 分 か っ た の で あ る が、 鳥 居 の 位 置 は 八・ 五 合 目
達には参道の脇に合目を記す標識があるから現在の位置が何
居が目に入る。八合目以上は富士山の霊場だと言われる。私
来光を拝む。 転じて富士山頂を仰ぎ見ると、参道に建つ鳥
きを増してきた。ご来光である。階段状の山道をはずれ、ご
し、一時間三〇分を過ぎた頃、遙か彼方の東の空の雲海が輝
行 く 人 の 足 元 を 見 な が ら 登 っ て い く。 前 の 人 の 後 に つ い て
高度を増す毎に砂礫が主流になってくる。三人は黙々と前を
しれない。砂礫の登山道の傾斜は益々急になり、石段の道が
〇度の気温差があることになる。寒くても致し方ないのかも
るが寒い。五合目と八合目との高度差は九五〇mあるから一
〇・五五度下がると授業で教えているので頭では理解してい
か。 そ れ に し て も 寒 い。 も っ と も 高 度 一 〇 〇 m で、 気 温 は
真夏だというのに一〇度を下回っているのではないだろう
で足首を捻挫しないように注意を怠りなく歩を運ぶ。気温も
達の足下までは光は届かない。懐中電灯で足下を照らし、岩
た。私達三人はすぐ人波に飲み込まれ、いよいよ頂上を目指
合目だと分かるが、標識を見落とすと風景の線引きはできな
登 っ て い く の が 一 番 楽 な 登 り 方 な の で あ る。 山 の 宿 を 出 発
し歩を運んだ。銀漢空に冴えて天空を覆うのだが先を急ぐ私
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霊峰富士を拝す
東の空に棚引く雲海からの日の出は、毎年ニュージーラン
ド語学研修に向かう飛行機の中から見ているが、富士の山か
ら眺める光景とはまったく違う。感動が異なるのである。や
はり感動は、一歩ずつ足を踏みしめて足を運んだ努力の有無
によって差が出るのであろう。無意識の中で、自然に両手を
合わせて柏手を打ち、頭を下げる。自分自身が聖地の中にい
て、下界を眺めているという感じである。
太陽を背にして、再び頂上を目指す。急斜面の登山道は、
ほとんどが石段に整備されているが、まだ完璧ではない。ど
うにか階段状の急斜面の山道を過ぎると、狛犬と鳥居が前方
に姿を現した。ここを通り越せば頂上もすぐである。もうす
ぐだ、もう少しだと思っているのだが意識とは裏腹に足取り
はおぼつかなくなっている。それでも山小屋を出発して、三
時間少しで頂上に達した。太陽も輝き富士山頂の全貌を見る
ことができた。
駿河国一の宮、富士山本宮浅間大社奥宮の末社である久須
志神社である。もちろん日本で一番高い山(三七七六m)に
立っている神社である。神社の正面入り口には、立派な鳥居
と灯籠が威風堂々と建立されている。早速、玉砂利を踏みし
め参拝した。柏手の音が澄み切った天空にこだましていく。
しかし人また人の中での参拝なので厳かさにはやや欠ける
が、参拝の後の安堵感は心にしみる。神社の境内を離れ、茶
店で富士登山を記念してのお守り「幸福守」と箸「御淨箸」
を購入する。そして、しばし下界を見下ろしながらベンチに
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士の男体山に登った時には、ギブアップ寸前であったが、今
い空想である。実によい眺めである。空気もうまい。日光富
市が見えるのかもしれない。そうは行かないと思うが、楽し
富士山に大きな望遠鏡を設置して覗けば、逆にここから黒磯
計算上である。事実はどうなのか調べないと分からないが、
ば、栃木県の黒磯市からでも富士山が見えるという。ただし
界 の 眺 め は こ れ ま た 格 別 で あ っ た。 鶴 見 先 生 の 計 算 に よ れ
富士ならではの味なのかも知れない。富士山の頂上からの下
座り朝食をとる。冷たくなったおにぎりも乙なものである。
ふじは日本一の山
懐かしい、あの小学校唱歌である。
かみなりさまを下にきく
四方の山を見下おろして
頭を雲の上に出し
生の時に音楽の授業で習った「ふじの山」を口ずさむ。
目のスタート地点を目指す。一歩ずつ足を運びながら、小学
し障害物もあって危険を伴うので正規の登山道を歩き、五合
あっと言うほどに距離を短縮することができるだろう。しか
ると、フカフカした砂地が六合目まで続く。砂地を下れば、
回は疲れもあまりなく、実に楽しい登頂であった。男体山に
空はどこまでも青く紺碧で、秀麗な霊峰富士山の登頂に成
功したという充実感で心は満たされながら、下山を急いだ。
登頂することができれば、富士登山は実に楽に登ることので
きる山であることが分かった。
て見たいという欲望を抱きながら。
(中学校長)
富士の麓三百六十度の方角から、この秀麗な霊峰富士を眺め
一時間以上の休憩をとり、直径六百m、深さ二百mといわ
れる大きな口を開けた山頂の噴火口をのぞき込む。自然の営
み の す ご さ を 肌 で 感 じ、 し ば し 釘 付 け に な っ て 見 と れ て し
まった。下界の風景は、遙か彼方に日光・足尾の山脈、関東
平野、筑波山等の大パノラマ景観を眺めつつ、目的を達した
充実感を味わいながら須走口下山道へと向かう。
八合目までは須走口への下山道と同じ道を下る。急斜面の
登 り の 登 山 道 と 異 な り、 道 幅 も 広 く な だ ら か な 登 山 道 で あ
る。山小屋に荷物を運ぶブルドーザーの道を、下山道にして
いるのだという。道理でなだらかな下山道である。だが、な
ぜそうだとしても緩やかな下山道を登りにも使うことはでき
ないのかと不思議でもある。須走口登山道との分岐点を過ぎ
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再び聖職の碑を訪ねて
中箕輪尋常高等小学校駒ケ岳遭難の事跡
赤 塚 徹
次郎が小説「聖職の碑」に著わしその後映画化もされた。
一方二度とこのような遭難事故を起してはならないこと
と、その事跡を後世に語り継がねばとの関係者の強い決意か
登山を実施している。
も、箕輪中学校二年生に引き継がれ、現在まで連綿と駒ケ岳
の中箕輪尋常高等小学校から戦後教育制度が変わってから
人が遭難死亡した。それから一時期集団登山は中断したもの
風雨に遭い、赤羽校長以下児童九人、同窓会員一人の計十一
導に引率され、中央アルプス駒ケ岳登山修学旅行中、強い暴
年生児童二十五人と同窓会員九人が赤羽校長と清水・征矢訓
今から九十五年前の大正二年八月二十六日から翌二十七日
にかけて、長野県上伊那郡の中箕輪尋常高等小学校高等科二
ねての山行であった。このことについては太平台春秋第十三
て下山した。天候に恵まれず、なんとも空しい聖職の碑を訪
でこれ以上登ることは危険と判断し、再度の来訪を心に誓っ
朝食後一時雨が止み雷も収まったので、急いで近くの遭難
記念碑まで行って来ることができた。山荘に戻るとまた雨が
風を交えた雨が降り続いていた。
翌二十三日の朝になっても駒ケ岳や宝剣岳の方面では雷鳴と
人だけだった。夜通し風雨と雷鳴が絶えることはなかった。
日は西駒山荘に宿泊した。当日の宿泊は私と同行した知人二
候は雨模様で好くなかったが野田場・胸突き八丁を経てその
時の児童らが登ったコース、内ノ萱桂小場から入山した。天
はじめに
ら大正三年八月一日上伊那郡教育会が駒ケ岳天水岩近くの巨
号に拙文を寄せてある。
私はその小説を読んで強い衝撃と感銘を受けた。三年前の
平成十七年八月二十二日から二十三日にかけて、大正二年当
大な花崗岩の自然石に刻した遭難記念碑が建立されている。
降り出した。さらに稲妻と雷鳴も近づく気配であった。そこ
これらのことを昭和五十一年長野県諏訪出身の小説家新田
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そして今年再び当地を訪ね未踏の遭難の事跡を確認した。
流れる伊那谷に挟まれている。その主峰は西駒ヶ岳(二、九
経ヶ岳(二、
二九六・三メートル)から権平衛峠(一、
五二二
五六・三メートル)であり、木曽山脈とも呼ぶ。南箕輪村の
メートル)、飯田市の大平峠、神坂峠から恵那山に至る。そ
中央アルプスと駒ケ岳の概要
上伊那郡教育会編集・発行改訂第三版(長野県中学生用・
西駒ケ岳登山案内書)によれば、中央アルプスは日本の中央
の間、幅八から十六キロメートル、南北にのびた長さ九十キ
メ ー ト ル ) の 鞍 部 を 通 り、 西 駒 ケ 岳、 空 木 岳( 二、八 六 四
にあって、日本の屋根と言われている北アルプスと南アルプ
ロメートルにもおよぶ大きな山脈である。 「駒」
駒ケ岳の名前をもつ山は日本各地にたくさんあるが、
というのは馬の意味で、神の乗物とされていた。昔から、山
には神が住み春になると里に降りて田植えを手伝い、村人に
秋の実りと幸福をもたらすと信じられていた。この時、神は
山と里の行き来に馬を使う。この神の乗る馬が住んでいる山
と言う意味で「駒ケ岳」の名前がついたのである。
伊那谷のほうぼうで田植えの始まる頃、天竜川の東、伊那
市 富 県 段 丘 か ら 眺 め る と、 西 駒 ケ 岳 の 中 岳 に、 右 下 に か け
下っている馬の姿が現れる。雪がとけて岩肌が出、それが馬
の形に見えるのである。村人にとって、この駒形は、田植え
の始まりを示すカレンダーであった。
西駒ケ岳はその全体がカコウ岩でできた山である。カコウ
岩というのは木曽川や太田切川をうめている白黒まだらのゴ
マ石のこと。カコウ岩がおにぎりにゴマをふったように見え
るのは、セキエイやチョウセキの白い結晶のなかに、クロウ
ンモの結晶がちらばった岩石だからである。このカコウ岩は
地下の深いところで火山の元になるマグマが冷えて固まって
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スの間にあり、奈良井川と木曽川の流れる木曽谷と天竜川の
図1 中央アルプス駒ケ岳概念図
れている「西駒ケ岳」と「駒ケ岳」とに使い分けることにし
岳を「東駒ケ岳」と呼んでいる。以後の文中では資料に記さ
※中央アルプス駒ケ岳を一般的には「木曽駒ケ岳」と呼ん
でいるが、伊那地方では、
「西駒ケ岳」
、南アルプス甲斐駒ケ
からできている日本で一番大きい山脈と述べられている。
いる。中央アルプスはその全体が一個の巨大なカコウ岩の塊
し上げられ現在のように三、〇〇〇メートル近い山を作って
できたもので、それが数千万年の時間がかかって地下から押
中箕輪校で第一回西駒ケ岳登山を実施した訓導らは、折し
も師範学校で修学登山を開始した年代に在学した人々であ
山初期の状況が伺われる。
(
『長野県政史・第一巻』)といわれ、近代登山や学校集団登
学校の登山も三十年代から盛んに行なわれるようになった」
「長野県尋常師範学校では修学旅行に登山を含め、白根山・
なっていった。
後、 郡 下 の 各 校 で も 次 第 に 西 駒 ケ 岳 登 山 を 実 施 す る よ う に
ら く こ の 年 代 が 郡 下 学 校 集 団 登 山 の 始 ま り と み ら れ、 そ の
西駒ケ岳学校集団登山の歴史
ら校長・訓導らが先達となって、自ら学んだであろう新しい
り、東春近校の校長らも殆ど同年代の在学生であった。これ
浅間山(同二十二年)に登っている。……師範学校以外の中
た。山名等の( )内の数字は標高である。
「 上 伊 那 教 育 会 史( 上 伊 那 郡 教 育 会・ 平 成 五 年 十 二 月 刊 )
」
集団登山の体験を現場の教育実践に導入し、西駒ケ岳登山を
始めたと思われる。しかもその始期は全県下の小学校にあっ
の中で次のように記されている。
ている。
須竜洲は、門弟ら十八名と登り、
「登駒岳」の長編詩を遺し
治九年には、殿島村渡場(現伊那市東春近)の寺子屋師匠郡
初期にかけての学校教育現場にあっては、鍛練主義と自由主
て定着させるべく強い信念で当たったといわれるが、彼もま
四年から復活された。同校長は、西駒登山を年々の行事とし
中箕輪尋常高等小学校では、その後数年西駒ケ岳の集団登
山を中断していたが、赤羽長重校長が着任すると、明治四十
て先駆的なものであった。 近代になってスポーツとしての登山が唱導されるようにな
ると、学校教育の中にも集団登山が導入されはじめた。上伊
義の教育思潮が交錯し、集団登山をめぐっても様々な意見や
この西駒ケ岳(二、九五六メートル)への登山の歴史は古
く、山嶽信仰に基く登頂、雨乞いのための登山、高遠藩士に
那郡下高等小学校に見る西駒ケ岳登山の初見は、明治三十二
賛否両論があったことが、学校記録等にも伺える。
よる検分登山など、近世の登山の記録も少なくない。また明
年九月中箕輪尋常高等小学校で、翌三十三年九月東春近尋常
大正二年度、中箕輪校高等科の西駒ケ岳登山は、次のよう
た二十二年師範学校入学者の一人である。明治末期から大正
高等小学校がこれに次いでいる(両校沿革誌による)
。おそ
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な案をもって実施された。
さらに同校旅行案では、「準備」として細部にわたる指示
をしている。服装は股引・脚袢・草鞋に袷の着物とし、雨具
の空に渡って白雲を認めたが、北より東に渡っては青空で、
午前三時頃赤羽校長は起きて、直ちに天候を見た。西より南
登山隊の行程等を「遭難記念碑報告書(上伊那郡教育会・
大 正 四 年 八 月 刊 )」 か ら 引 用 し ま と め る と、 八 月 二 十 六 日、
行程と伊那小屋及び遭難の様子
れる。
の学校登山案として最善の配慮がはらわれていることが伺わ
各自や学校の携帯品も細かくあげられ、行程にそっての休
息・食事・宿営等、「実施指導案」も立てられてあり、当時
平糖等少々用意させている。
はゴザ・麦藁帽子、防寒具として真綿五枚、冬シャツ一枚を
(『箕輪中部小学校百年史』)
駒ケ岳登山修学旅行案 中箕輪尋常高等小学校
一、期 日 大正二年八月二十六日出発、仝八月二十七日帰
校、但雨天順延
用意させている。また食料は六食分を持たせ「餅は最も可な
2 高 山 跋 渉 渓 谷 探 検 の 方 法 に 熟 せ し む る こ
と。
一、目的地 駒岳、但伊那町内の内ノ萱より登山し、権現蔓
根に取り、西春近村小出口に下山すること。
り」としている。その他スルメ・鰹節・蒸田作・氷砂糖・金
一、登山目的
(一)訓育的方面
至誠奮闘的意志の鍛錬を為すこと
1
自治協同的行為の実践指導をなすこと
2
(二)智的方面
駒岳を地理的に観察せしむること
1
2 駒岳頂上より木曽伊那両谷及眼界の及ぶ限
りを眺望観察せしむることにより郷土の観
念養成に資すること
(三)情的方面
1 無辺偉大、崇高無上なる天地の荘厳美に接
雨 模 様 と は 思 え な い。 四 時 頃 校 長 は 仕 度 を し て 再 び 登 校 し
た。五時三十分に至り勢揃いができた。引率者は赤羽校長と
二訓導、高等科二年男子二十五名、同窓会員九名、合計三十
せしめて敬虔心の養成に資す。 2 教師朋友と苦楽を共にする点よりして社会
的犠牲的精神、同情的仁愛的精神の養成に
資す。
七名の一行である。五時四十分人員点呼、諸検査をし、先頭
征矢訓導―生徒―校長・同窓会員―後尾清水訓導の隊列で出
(四)身体的方面
強行遠足により身体を鍛錬陶冶すること。
1
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発した。
道を春日街道にとって午前七時に南箕輪村大泉に着く。こ
の間約一里第一回の休息。空は南北に細長く開いて、やがて
快 晴 に な ろ う と す る 模 様 で あ っ た。 十 五 分 間 休 ん で 出 発 す
る。西箕輪村大萱の西部を経て学校付近の林の中で第二回の
休息・食事をさせる。この行程約一里、時に午前八時。空は
晴れていて暑かったために三十分休息する。梨ノ木、中条を
経て午前九時伊那町平澤に着く。小澤橋附近にて小休止、横
山を通過して午前十時四十分内萱発電所に到着する。
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愈々これより山地急斜面の登りとなるため、体を十分休ま
せる。一名のよわった者もいなかった。食事も十分取らせ、
水 筒 に 清 水 を 補 充 さ せ た。 雨 が 降 り 出 し た が す ぐ 止 み 霽 れ
た。一同喜び仕度を整え正午に出発する。約十町登ると微雨
に襲われたが忽ち霽れる。
凡そ一里数町登った處で一行数名の下山者に会う。赤羽校
長は早速山上の天気模様を尋ねたら「昨夜は少し降ったが今
朝は全く霽れた」とのこと。校長始め引率者の心配は天気の
事であったが、これを聞いて大いに安心した。
これより隊形を乱さぬようにまた着装上のことを注意し、
数回休息して全員無事行者岳の東の山巓に出た。この時雲は
各高峰を覆い、遠望は出来ないが微風すらなく極めて静かで
あった。濃ヶ池には午後四時に到着した。この附近は霧が非
常に多かった。岩陰には雪があって頗る冷気を感じた。何れ
も元気少しも衰えず、休息の後約二十分間植物採集をした。
伊那小屋が在った現宝剣山荘附近
(「箕輪中部小学校百年誌」)より
図2 駒ケ岳遭難場所略図
再び隊形を整え、伊那小屋に向かった。これよりは道最も
峻険で、歩行は随分困難であった。時々小休止をしながら駒
飼ノ池附近に至や天候一変し、俄然黒雲捲き来て冷たい谷風
が 襲 っ て 来 た。 こ こ に 至 っ て 稍 々 疲 労 を 感 ず る 者 も 見 え た
が、急いで伊那小屋にたどりつこうと、勇気を鼓して登って
午後六時予定より一時間後れて小屋に到着した。
伊那小屋は、予ねて腐朽し且つ壊された事は承知していた
が、材木類は予想より僅かで、角材十数本のみ、誰か数人が
これを利用して宿った形跡があった。報告書に記述されてあ
る伊那小屋までの登山行程の概要は以上のとおりである。
このままでは小屋に泊まることはおろか、強い風雨を凌ぐ
ことすらできない。そこで赤羽校長は急いで食事を取らせ、
隊を二班に編制して薪を集め、小屋跡の三尺ばかりの石垣に
材木を斜めに渡し、その上に伐採してきた這松と各自の茣蓙
合 羽 を 覆 い 屋 根 を 葺 い た。 改 造 の 作 業 は 約 四 十 五 分 で 終 了
し、その中に辛うじて三十七名の一行が入った。
時がたつにつれて風雨は烈しくなり、寒気頓に加わって来
た。急造小屋のこと雨は漏る、衣服は濡れる、寒さが募る。
みな疑懼の念に駆られた。赤羽校長は暖を取らせようと苦心
したが、蝋燭から点火しようとしても濡れた古木や青い這松
では燻るだけで燃えなかった。従って烟くて目も口も開けら
れず息もままならなかった。ここで児童の古屋は眠気を訴え
ていたがしだいに衰弱していった。
そこで校長は木曽小屋への移動を考えて、清水訓導と二人
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このように多くの遭難死亡者が出た原因を推測すると、そ
の第一は前年まで地元の案内人を同道していたのに、この年
遭難の原因
し、死亡した者は吹きさらしの尾根筋であったと推測される。
生死を分けたのは、雨具のゴザを着用していた者と強い雨
風を避けて尾根の東側の喬木地帯に早く入った者とが生存
児童九人の計十一人がそれぞれの場所で死亡したのである。
下山を始めた最初の頃は隊列をなしていたが次第に離れ離
れとなり、図2に示されているように校長、同窓会員一人、
ている。
ない有様であった、と大自然の猛威の様子が報告書に記され
岩に激しくゴウゴウと鳴り響く、全くこの世の沙汰とは思え
烈に雨は宛然氷のように、砂と共に顔をうち吹きすさむ風は
に残したまま、全員下山を開始した。この時風はいよいよ猛
長は急いで下山させることを決断した。死亡した古屋を小屋
一同は目の当たりにこの悲惨な古屋の最期を見、既に自分
たちも死の運命が、目の前に迫っているのを感じた。赤羽校
息を引き取った。
いるうち衰弱していた児童の古屋は気を失い目を開いたまま
戻ってきた。その後も校長は種々対応を思案した。そうして
に阻まれ方角を認められないまま辛うじて三四丁進んだが
で小屋の外に出たが強い風雨と礫に打ちつけられ、さらに霧
て、天気が大きく崩れる兆候がなかった。いわゆる嵐の前の
池 附 近 ま で は、 雨 が 降 っ て も す ぐ に 止 み 晴 れ 間 が 出 た り し
前 述 の 駒 ケ 岳 登 山 修 学 旅 行 案 に は、「 雨 天 順 延 」 と あ る。
学校に集合した時、もしくは途中で雨風が断続的に強く降っ
校長としては鉄の意志で小屋に留まることを貫くべきであった。
苦渋の決断をしたに違いない。しかし登山のリーダーである
り同窓会員から下山の意見が強く出され、校長が制止しきれ
第三は立って歩けないような暴風の真っ只中を下山させた
こと。もっとも児童の古屋が死亡したことで、パニックに陥
待つべきであったろう。
ら、体力を失わないように小屋に留まり暴風雨の収まるのを
屋 を 応 急 修 理 し 曲 が り な り に も、 全 員 が 入 れ た の で あ る か
登山の鉄則のひとつに天候が悪い時は登らない。途中で天
候が急変した場合は安全な場所に避難する。前述のように小
に泊まることを当事者はどう考えていたのか疑問が残る。
メートル近い地点で、破損していたことを承知していて小屋
も破損の程度にもよるが、児童らはその日の早朝五時四十分
従って案内人に聞き、下見をしておけば小屋の破損状況が
わかったはずだし中止することも出来たはず。好天であって
ことである。
であるのに直前に学校関係の責任者が下見登山をしなかった
てきたら中止したかもしれない。しかし出発してから駒飼ノ
なかったのではないかとも推測できる。この時の赤羽校長は
から歩き続けて、疲労と寒さの厳しい吹きさらしの三〇〇〇
は予算の関係から連れて行かなかったこと。第二は団体登山
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「小屋掛け」
登 山 し て 風 雨 を し の ぐ 山 小 屋 を 作 る こ と を、
と呼んでいた。大正二年当時、前述のように西駒ヶ岳山頂近
山小屋の歴史
つまるところ登山は天候とリーダーのその時々の状況判断
が成否を決める重要なポイントになる。
は素人でも予測できるようになった。
の天気情報は三時間単位で報じており、おおよその天気概況
の発達の状況や動きを的確に予想し得なかったと思う。現在
当時の台風は低気圧の一種であって、地元の飯田測候所はそ
返しのつかない悲惨な事態となったのではないか。大正二年
で、その記録は何一つ残っていないとのことであった。
聞き伝えで今の宝剣山荘の近くに在ったと聞いているだけ
る。その方に電話で伊那小屋のことを確認したが、先祖から
その宝剣山荘の近くに大正二年には伊那小屋が在ったと言
われているが、現在では小屋の形跡を示すものは何も無い。
るが、小屋の名称が何時から宝剣山荘となったかは不明である。
うになる。昭和四十三年と同四十七年宝剣山荘の改築が行な
収容人員六〇人となった。そして後に宮田小屋と呼ばれるよ
山誌から欠落している。同三年には宝剣小屋と名称が変わり
小屋として経営を始めたことである。大正二年の記録が同登
一行が破損していて応急修理した伊那小屋の記述は同登山
誌にはない。はっきりしていることは明治三十八年に剣ヶ峰
静けさの気象状況であったために登山を続けたことが、取り
くには伊那小屋と木曽小屋があった。
「中央アルプス駒ケ岳
屋を廃止・返地している。もしも数年後の大正二年までこの
ここで注目したいのは、駒飼ノ池小屋である。明治二十四
年には借地を二十坪に広げている。しかし明治四十三年に小
を建て経営したとある。
経験者が、駒飼ノ池、御所ノ峰、北御所に建坪十二坪の小屋
局飯田出張所から官有林地十五坪を借受け、耕地総代とその
しかし『長野新聞』では、事故後二日間にわたって論評を
掲げ、積極的な意見を主張した。それによると「登山の用意
んとする学校集団登山に強い反省を求めるものであった。
る程であった。その批判的な意見は、漸く定着の時期に入ら
校の駒ヶ岳遭難事故が社会に与えた衝撃は大きく、学校集団
「上伊那教育会史(平成五年十二月刊)」によれば、中箕輪
遭難事故後の記念碑建立と学校駒ヶ岳登山
当時宝剣小屋を経営した関係者の子孫が宮田村に在住してい
われ鉄骨構造二階建収容人員二五〇人となったとの記述があ
信仰と登山誌(駒ケ岳神社奉賛会・平成十七年十月刊)
」に
小屋が存続していたとするならば、天候が激変したのが、駒
は相当にしている。……高山行の注意は毎年のことながらよ
は明治十三年に上伊那郡宮田村で村の事業として内務省山林
飼ノ池附近であったから、その小屋に避難し遭難事故は起き
登山の是非をめぐって世論はわき、中央の新聞の論評を掲げ
なかったのではないかと推測する。
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を以って生徒登山の気風に何らの影響無からんことを求め
ならぬ。冒険思想に打撃を与えてはならぬ。我等はこの一事
く行き届いている。……これがために登山の気風を減じては
各学校は中箕輪小学校遭難事故の教訓を生かし、登山の方
法について研究改善をしている。
それぞれ学校集団登山にふみきっている。
四年、中箕輪小学校は同五年、南箕輪小学校は昭和二年等、
る。」(『長野県教育史』
)県では、早々に関係機関へ通牒を発
して注意を促した。
大正末期から昭和にかけて年々盛んとなり、第二次世界大
戦末期の昭和十九年から一時中断されたが同二十五年、中学
千七百五人、計画したが天候等の理由で中止した学校一校。
箕輪町教育委員会調べによると、平成二十年度に西駒ケ岳
集団登山を実施した伊那郡の中学校は十九校で参加生徒は二
校により再開され今日の隆盛を見るに至っている。
と共に、殪死者弔慰の法を立てる事は、本郡教育会の任務で
一方上伊那郡教育会は、いち早くこの遭難事故に対する協
議を行い、「此の際に当たって此の惨事の始終を詳らかに調
ある事を感じ、委員をあげ調査し、その結果を録して大方各
このほか南アルプス千丈岳等に十二校。隔年実施一校。ちな
査して、其の真相を社会に報告し、邦家将来の教育に資する
位の前に呈する事」
(上伊那教育会所蔵文書)とした。
あった。
であったといえよう。また、それは教育会として、当時の世
発に尽くした行為を顕彰し、記念しようとする積極的な姿勢
うしようとした崇高な教育精神、その身を犠牲にして登山開
慰は勿論であるが、引率責任者赤羽校長の、自己の責任を全
その事跡を詳らかにするために、今回も平成二十年七月二
十四日箕輪町教育長小林道昭氏(國學院大學・文学部・七十
伊那小屋跡までのコースを踏査することとなった。
雷雨のために下山を余儀なくされた。今回はそこから未踏の
私は三年前の平成十七年夏、中箕輪尋常高等小学校の登山
と同じコース、桂小場から入山し遭難記念碑まで登ったが、
再び遭難記念碑を尋ねて
みに伊那郡内で、集団登山を実施しなかった中学校は八校で
かくして遭難記念建設委員が委嘱され、発議・決定となり
遭難事故から一年後の大正三年八月一日、山頂天水岩附近の
最も多くの遭難者が発見された場所に自然石を選び記念碑が
完成した。山岳遭難者の碑は「慰霊碑」が一般的であるが、
論 や 教 育 関 係 者 へ の 緊 要 な 意 思 表 示 で あ り、 呼 び か け で も
六期卒業)をお訪ねして、種々ご指導と資料の提供をいただ
いち早い建碑それも「記念碑」とさせたものは、殪死者の弔
あったと考えられる。
問、校長の笠原忠照氏より貴重な資料を閲覧させてもらい大
い た。 さ ら に 小 林 氏 に ご 案 内 願 っ て、 箕 輪 中 部 小 学 校 を 訪
山小屋の建築・登山道の改修が進むに従い、各校は集団登
山を再開した。各校沿革史等によると、伊那小学校では大正
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箕輪中部小学校玄関前 左より教育長小林氏、児童、筆者、児童、同、校長笠原氏
部の資料等をいただいた。また小林氏は上伊那教育会の事務
所にも立ち寄られ関係のこれまた貴重な資料をコピーしてく
ださった。
かくしてお盆明けの八月十七日早朝、私は栃木山岳会員の
木暮和夫さんと奥さんの洋子さんに同行をお願いして、JR
栃木駅より小山を経由して新宿に出、中央線のあずさ号に乗
り 継 ぎ 岡 谷 か ら 飯 田 線 に の り か え て、 午 前 十 一 時 五 十 三 分
駒ヶ根駅に着いた。日曜日ということもあって、駅周辺は人
影もまばらで閑散としていた。天気は晴れ。駅前のバスター
ミナルから午後零時三十分発、しらび平行きのバスに乗車し
た。大田切川上部の中御所谷の左岸に整備された幅員の狭い
山岳道路を蛇行しながら登り、午後一時八分、山麓のオオシ
ラビソの原生林を切り開いたロープウエイの発着所しらび平
(一、
六六二メートル)に着く。
このところ全国的に大気の状態が不安定で、各地でゲリラ
豪雨に見舞われていた。ここでも雷雨注意報が発令されてい
て雲の切れ間から青空も見えていたが、そのうちに突然俄か
雨が降りだした。ロープウェイ駅舎は長蛇の列、待つこと二
時間、午後三時ようやく搭乗することができた。標高差九五
〇メートルの急斜面を秒速七メートル、所要時間七分三十秒
で一気に登り、午後三時七分に千畳敷(二、六一二メートル)
に着いた。ここは宝剣岳(二、九三一メートル)の南東に広
がる鉢状の圏谷いわゆるカール地形の末端である。登山者と
いうよりは殆どが軽装の観光客で溢れていた。駅舎を出ると
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時三十分には就寝した。夜中断続的に強い雨が窓を叩く音で
宿泊者は多くはなかった。午後五時食堂で夕食を済ませ、六
今日の宿泊所の宝剣山荘は霧の中、目と鼻の先にあった。
午後四時小屋に入る。お盆過ぎの日曜日ということもあって、
前に乗越浄土に着く。辺りは濃い霧に包まれていた。
て霧が湧いてきた。立ったまま一息ついて汗を沈め午後四時
で鑑賞する余裕のないまま先を急いだ。高度が上がるにつれ
高山植物の宝庫でお花畑が形成されているが雨模様だったの
山道は良く整備されていて歩き易かった。このカール地形は
小雨がぱらついていた。私たちは雨具を着け登り始めた。登
れている。現在の宝剣山荘の近くに在ったことは確かだが、
係者からは聞き伝え程度のことで記録は残っていないと言わ
た伊那小屋跡を探すことであった。前述のように宮田村の関
今回の山行の目的の一つは、大正二年に、箕輪中部尋常高
等小学校児童が修学旅行登山で泊まろうとした、破損修理し
心行くまで眺望を楽しんで宝剣山荘前の広場に下山した。
る。南には恵那山が息つく間もなく視界に飛び込んできた。
にその後方に端正な裾野を広げて霊峰富士が気高く聳えてい
には南アルプス甲斐駒ケ岳・北岳・赤石岳などの高峰、さら
に蓼科山・八ヶ岳、至近に駒ケ岳その後方左に御岳山、東南
が広がっている。その彼方、北方に北アルプスの峻峰群、東
時に山荘を出る。冷たい風が吹いているが素晴らしい天気だ。
い気象状況になったであろう。案の定、翌十九日は大荒れの
る。ましてや暴風雨であったならと思うと想像を絶する厳し
しかし小屋がこの位置に在ったとするなら、地形が西駒ケ
岳と宝剣岳の鞍部になっていることから風道となり、今日の
九十五年経った今日ではその形跡は全く認められなかった。
ときどき眼を覚ました。
東の伊那前岳(二、八八三メートル)の右肩辺りから真っ
赤 な 朝 陽 が 昇 り は じ め た。 荘 厳 な 大 自 然 の 現 象 に 畏 怖 を 感
八月十八日、夜来の雨があがり、窓越しに明るさが伝わっ
てきた。午前四時三十分起床。五時過ぎに朝食を済ませ、六
じ、しばしその場に立ち尽くした。
と強風雨で難渋した。
ような冷たさを感じた。その風に飛ばされないように、急峻
上がってくる強い風が肌に沁み、真夏とは思えない身を切る
我々を高齢と見て、そのコースは無理だと思い、注意してく
があったから、あなたがたは止めたほうがいいと言われた。
人に馬の背コースについて尋ねると、つい最近転落死亡事故
当 初 の 予 定 だ と 中 岳 か ら 駒 ケ 岳 に 登 り、 馬 の 背 尾 根 を 下
り、遭難記念碑に行く予定であった。そのことで山荘の管理
天気となり、木曽小屋から駒ケ岳・中岳を経ての帰途は濃霧
よ う な 快 晴 で あ っ て も、 風 が 吹 け ば か な り の 風 圧 に 曝 さ れ
登山者の足音で我にかえり宝剣岳に向う。木暮さん夫妻は
防寒衣を着用していたが、私はザックから取り出すのが面倒
な岩稜に拓かれたルートを慎重に登り頂上に立つ。狭い山頂
なので長袖の夏シャツのままだった。ために木曽谷から吹き
には誰もいなかった。時に六時十五分。ところどころに雲海
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れたのかと善意に解釈しそれに従った。
そこで私たちは児童たちが疲れた体を奮い暴風雨の中、不
安と期待を抱いて伊那小屋めざして登った登山道を、逆に駒
飼ノ池に向かって下った。池とは名ばかりの水溜まり程度の
駒飼ノ池(二、
七二〇メートル)に午前七時十八分に着いた。
上部に残雪が認められた。この附近で児童の唐沢圭吾が死亡
したとされたが、行方不明のまま十三年後の大正十四年七月
二十六日、前岳北側の俗に言う賽の河原のハイマツの中から
白骨で発見された。
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立ち休みして濃ヶ池に向かう。登山道の急峻な地形には数
箇所、木梯子が架かっている。少し下ると濃ヶ池・駒ケ岳へ
の道標が建っていた。ここは潅木帯になっていて、ダケカン
バ、ハイマツ、ナナカマドなどが、冬季の厳しい自然に耐え
樹形を低くして繁茂している。
さわやかな風に吹かれながら比較的平坦な道を行くと、氷
河期の氷の重みで侵食されて出来た圏谷地形、いわゆるカー
ルの濃ヶ池(二、六六〇メートル)に午前八時に着いた。か
つては泳げるほどの水をたたえていたそうだが、今は馬の背
尾根からの土砂流入によって埋められ、浅く狭められてしま
い、やがて完全に埋まってしまうのではないかと思われた。
大正二年の登山当日は残雪も豊富で、夏の雪が珍しく休息し
ていた児童は、一杯一銭だよと言いながらこぞって食い、そ
の美味しさは実になんともいはれぬ味だったと児童の一人が
手記に書いている。ここでも尾根の中腹に雪が僅かに残って
濃ヶ池と筆者
遭 難 記 念 碑
いる。晴れていた空に薄雲が刷いたように広がってきた。こ
こで唐沢武男が死亡した。
そこから北へ、広々とした馬の背尾根下部に出、遭難記念
碑に向かう。やがて一際大きな自然石花崗岩に刻まれた遭難
記 念 碑 に 午 前 八 時 五 十 四 分 到 着 し た。 建 立 か ら 一 世 紀 近 く
経ったことから、太い文字は判読できるが、それ以外の文字
は風化によってはっきり読み取ることができなかった。
しかしその記念碑に向かって右側に、伊那地方産の黒色で
底辺と高さが一・三メートル位の緻密で硬い三角形の国光石
に碑文が刻まれている。花崗岩の碑は長年の風化作用によっ
て碑文が消え、遭難の事跡と共に学校集団登山の意義が忘却
されることを案じた上伊那郡教育会並びに思岳会は平成十六
年六月、第二代目となる記念碑を建立したのである。碑文を
揮毫されたのは現箕輪町教育長の小林道昭氏であった。
馬ノ背尾根末端から天水岩と行者岳の吹き曝しの尾根筋
で、 赤 羽 校 長、 同 窓 会 員 の 有 賀 基 廣 は 弟 邦 美 を 背 負 っ た ま
尋常高等小学校長赤羽長重
大正貮年八月廿六日中箕輪
ま、 平 井 實、 小 平 芳 造、 北 川 秀 吉、 堀 峯、 有 賀 直 治 が 死 亡
した。
君為修学旅行引率児童登山
翌二拾七日遭暴風雨終死候
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大正貮年十月一日
上伊那郡教育会
北川秀吉 平井 實
有賀邦美 有賀直治
小平芳造 有賀基廣
唐澤圭吾 古屋時松
堀 峯 唐澤武男
共殪者
遭 難 記 念 碑
昔から信仰の山として知られている駒ヶ岳は、山頂に駒ケ
嶽神社二社が鎮座している。南を向いて木曽駒ヶ岳(木曽地
グルマが花を散らして寂びしそうに風にそよいでいる。
ウスユキソウが身を潜めるように咲いていた。その側にチン
に眼をこらして見ると、駒ケ岳の周辺に自生する固有種コマ
れ、眺望はかなわなかった。頂上の標識から少し離れた岩陰
で 無 事 登 頂 の 握 手 を 交 わ す。 深 い 霧 で は な い が 視 界 が 遮 ら
に霧が舞い始めた。十二時四十五分駒ケ岳山頂に立つ。三人
株がピンク色の花をつけて散見され思わず立ち止まる。辺り
か う。 西 南 西 の 風 が 吹 い て き た。 中 岳
( 二、 九 二 五 メ ー ト
ル)への登り口左手に高山植物の女王といわれるコマクサ数
馬の背と濃ヶ池の分岐点の手前で桂小場に下山する快活な
高年女性二人のパーティーと挨拶を交わす。登山道の両側に
余韻を残してそこを離れ、もときた登山道を引き返した。
烈々たる信念が私の五体を突き抜けた。しばし瞑目、感慨の
が 必 要 不 可 欠 で あ る と い う、 伊 那 郡 教 育 会 と そ の 関 係 者 の
この碑文を改めて読んでいくうちに、新たな感慨がこみあ
げてきた。この遭難事跡を後世に伝え学校教育には集団登山
いた。宿泊者には厳しい自然の猛威の中でも安らぎを感じさ
小屋は南向きで駒ヶ岳山頂に埋め込むような石組みの中
に、風雨を凌ぎ冬季の風雪からも建物を護るように築かれて
頂木曽小屋には午後一時すぎに着いた。
二社にお参りし、三人揃って記念写真を撮り、頂上直下の山
の駒ヶ嶽神社がある。御祭神は大山祗大神で里宮などはない。
上松町にある。一方北を向いて西駒ヶ岳(伊那地方の呼名)
方の呼名)の駒嶽神社奥社、御祭神は保食神であり、里宮が
は、今を盛りと、ミヤマトリカブト・ミヤマキンバイ・コバ
せる雰囲気が伝わってきた。建物は古いが隅ずみまできれい
午後五時三十分夕食。メイクイン種のジャガイモを使った
手造りの温かい肉ジャガはとても旨かった。その他のおかず
くれた。
に掃除が行き届いている。白髪混りの穏やかな主人が迎えて
イケイソウ・イワギキョウ・ヨツバシオガマなどの高山植物
が短い夏を惜しむがごとく点在し咲き競っている。 駒飼ノ池への急登で若いカップルを追い越して午前十時十
八分宝剣山荘に戻った。登山者十数人が休憩している薄暗い
山荘食堂で早い昼食を摂る。正午すぎ山荘を出て駒ケ岳に向
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駒ケ岳山頂 右端が筆者
も質素ではあるが心のこもったものだった。また大人には小
さなグラスに満たされた赤ワインが添えられていた。いずれ
の日にか、また宿泊したくなるような山小屋だ。午後六時三
十分に就寝。長年の思いが達成されたことでの安堵感と明日
の天候のことなど考えていると気持ちが昂ぶって、なかなか
寝付かれなかった。宵の口には星が見えていたのに夜半より
強い風が吹き出し、窓を激しく叩いた。小屋の外は猛烈な雨
を交えた風が吹き荒んでいる。
午 前 五 時 三 十 分 朝 食、 六 時 雨 具 を 着 け て 小 屋 を 出 た。 当
初、帰路は小屋の右手、駒ケ岳の木曽滑川本谷側についてい
る捲き道を通って宝剣山荘に抜ける予定であったが、小屋の
主人や従業員に相談したところ、この悪天候では転落の危険
があるから、駒ケ岳や中岳の頂上についた通常の登山道を通
るように言われたのでその忠告に従った。
小屋を出て数分で山頂に着いたが立ち止まることなく、中
岳に向かう。濃い霧と木曽谷から吹きあげる横殴りの強い風
と雨で、時々体が吹き飛ばされそうになる。
登山道にはロープウェイが開通したことで登山者が増え、
登山道以外に立ち入り自然破壊が進み、それを防止すること
から左右に地形に応じた幅で緑ロープが張られている。ため
に悪天候の時でも道に迷うことはない。
宝剣山荘に午前七時前に着いた。風は少し弱まったようだ
が 相 変 わ ら ず の 吹 き 降 り で あ っ た。 九 十 五 年 前 伊 那 小 屋 が
在ったとされる場所に立ち止まった。当時の暴風雨の状況を
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分ロープウェイ駅舎に着く。
物が花弁を風雨にまかせ激しくゆれていた。午前七時二十五
キボウフウ・ミヤマキンバイ・ヨツバシオガマなどの高山植
憩することなく乗越浄土から一気に千畳敷まで下った。イブ
想像し思わず戦慄を覚えた。雨風はおさまる気配はない。休
貸下書原本の写を添えて貴重な資料をご提供くださった。
訪問当日に拝見した千二百余ページに及ぶ立派な同校百年
誌を本学園にご寄贈いただいた。山小屋の歴史については宮
くれたことはよい思い出として忘れることはできない。
なのに多くの児童が登校しており、さわやかな笑顔で迎えて
くださり、多くの貴重な資料をいただいた。加えて夏休み中
駒ケ岳山頂の神社については、長野県神社庁参事富岡晋一
氏から二社の詳しい資料をいただいた。それに同行を快諾し
田村教育委員会小池孝氏から御料局木曽支廰長の山小屋借地
風が強くなるとロープウェイの運行を中止するとのアナウ
ンスがあった。幸い六十キログラムの鉄の重しを十個積んで
てくれた山仲間の木暮和夫さん夫妻。多くの方のご厚意に対
時刻どおり運行され、午前八時前にしらび平に無事下りるこ
とができた。駒ヶ根市に入る途中の温泉こまくさの湯で三日
(学園理事・幼稚園長)
し、ここに衷心より感謝申し上げる次第である。
間の汗を流して帰途についた。
むすびに
今回はJR飯田線駒ケ根駅前からバスでしらび平に入り、
ロ ー プ ウ ェ イ で 千 畳 敷 に 登 り、 そ こ か ら 登 行 が 始 ま っ た。
従って登行距離時間等は前回に比べて短縮され楽であった。
天候も初日に俄か雨に遭ったが二日目の午前中は快晴に恵
まれ、九十五年前に中箕輪尋常高等小学校の児童らが辿った
道筋を歩き、三日目は激しい風雨に見舞われたが、その悪天
候は往時を実感し児童らを偲ぶことができた。
さらに全行程を踏査し上伊那地方の教育関係者が、学校集
団登山にかける教育実践の意義を一層理解することができた。
今回も前述したように、箕輪町教育長小林道昭氏には多岐
に亘って格別のご指導等をいただいた。また同氏から大正二
年の遭難当事校である箕輪中部小学校長笠原忠照氏をご紹介
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高等学校草創期の一齣 ⑶
影 山 博
内の整備も一層計られ、躍進めざましいものがあった。校報
第四二号(昭和四〇年四月一五日)は「本校はいよいよ二、
五 〇 名 増 の 一、 九 七 八 名 と な っ た。 そ れ に よ り 教 員 も 増 加
多い七九九名。卒業生が四四一名であったから、全校生は三
学式で二、三年生は休校であった。新入生はそれまでで最も
徒は午前中で下校し、授業は八日から開始された。九日は入
式が行われ、一〇名の先生方が赴任した。大掃除終了後、生
机間巡視も出来ないような状態であった。始業式の後に新任
館二階の教室は六〇名の生徒を収容するのには狭く、教員が
めた選抜クラスで、担任は英語科の荒井元文先生である。本
名、女子一六名の六一名。理系と文系希望者を三〇名ずつ集
第二学年は昭和四〇年四月六日の健康診断日をもって始
ま っ た。 始 業 式 は 翌 七 日。 我 が 普 通 科 二 年 一 組 は 男 子 四 五
生徒数の増加に伴い二団編成で行われ、引率教員も二〇名に
うに三月になったのは、四四年度からである)。この年度は
たことから、私達の修学旅行は一二月に行われた(現在のよ
ンがほぼ終了し、ゆっくりと観光できたからである。そうし
暑い夏を避けることができ、しかも京都・奈良は観光シーズ
問題に関するとこれが教師・生徒には意外と好評であった。
が重なり一一月下旬に変更して行われた。ところが、時期の
二年次における最大の思い出は修学旅行である。前年度の
修学旅行は八月下旬に予定されていたが、旅行業者の不手際
○修学旅行
と、その高揚感溢れる記事を載せている。
三、昭和四〇年度(第二学年)
し、それも若い新卒の先生方が増えたので校内は急に活気づ
達した(一団は普通科一・二・三・四組と商業科一組、二団
〇〇〇名に近い大学園として力強く踏み出すことになった」
いたように見えた。
団が翌一一日出発の五泊六日の日程であった)
。
が普通科五・六・七・八・九組で、一団が一二月一〇日、二
高校創立六年目を迎えたこの年は栃木二杉幼稚園が開園
し、短期大学も翌年の開学に向けて計画が進捗しており、校
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前日の九日は午前中三時間の授業の後、四時限目に佐々木
周二校長より修学旅行の意義と注意があり、下校した。 い。旅館の収容人数の関係でやむを得ず三カ所に分宿したの
だが、後発の商業科生(彼らは商業科生としては一期生であ
る)は何かと軽く見られているのではないかという思いも
り換え、宇治山田駅に到着。二見浦で夫婦岩を見学した後、
学旅行専用列車オール二階建て三両編成の「おおぞら」に乗
した。薬師寺拝観では副住職の高田好胤氏の名調子の法話が
寺大仏殿を拝観し、その後は斑鳩の里を訪ねて法隆寺を見学
ラス写真を撮影)、若草山の麓で昼食をとった。午後は東大
三日目はバスで奈良見学。昨日の雨は嘘のように晴れ上が
り、唐招提寺、薬師寺、春日大社を見学した後(薬師寺でク
あって、不満が爆発したのかもしれない。
小雨降る内宮に参拝した。昼食後、再び宇治山田から近鉄の
今も印象深く思い出される(とくに六層に見える薬師寺東塔
初日は栃木駅に午後四時三〇分に集合し、貸し切りバスで
東京に向かった。東京駅からは夜行急行列車「銀河」で車中
ビスタカーに乗って大阪市・上本町で下車した。ここからは
泊、翌早朝に名古屋駅に到着した。ここで近畿日本鉄道の修
バスで大阪城を見学し、午後六時過ぎに京都市中京区六角通
が実は三重塔で、各階に付された裳階をスカートに例えて説
また後で友人から聞いた話であるが、商業科のみ宿泊所が
二団と同じ松井本館であったことから、日頃より生活指導に
子が降ろされるまでの数分間何とも不安な一時を過ごした。
残った私達は女子のすすり泣く声を聞きながら、救出用の梯
ド ア ー か ら 先 に 飛 び 降 り( 記 憶 違 い で あ れ ば 乞 う ご 容 赦 )
、
六名が閉じこめられ、暗闇の中救助を待った。担任は空いた
と保健婦の小林スギ先生、それに私も含めて一組の男女五、
た。担任の荒井元文先生の他、富樫千代子・岡本信子両先生
予定にはなかったが立ち寄ることにした。境内のブランコに
し時間が早かったので、かねてより興味のあった本能寺を、
その後は八坂神社、円山公園を見学した。旅館に戻るには少
、
五 日 目 は 先 ず 竜 安 寺 を 訪 れ、 二 条 城( ク ラ ス 写 真 撮 影 )
京都御所、霊山観音を見学した後、午後は待望の自由行動で
入り、平安神宮(クラス写真撮影)
、銀閣寺を見学した。
山三井寺と紫式部で有名な石山寺を見学し、再び京都市内に
り、寒かったことを覚えている。下山後は天台宗寺門派総本
四日目は琵琶湖を眼下に見ながら比叡山ドライブウエイを
登 り、 延 暦 寺 に 参 拝 し た。 山 頂 は う っ す ら と 雪 化 粧 し て お
明したことが印象に残っている)。
りの宿泊所松井別館に投宿した。
不満を持っていた一部生徒が「差別をするのか」と、担任ら
乗っているスナップ写真も残っているが、その気の緩みから
この日の大坂城見学の時、私達の乗ったエレベーターが停
電 に よ り 三、 四 階 の 間 で ス ト ッ プ す る ハ プ ニ ン グ に 遭 遇 し
と小競り合いを起こしたという。一団の先生達が別館から駆
ある。私達の班は予定通り、三年坂を経て清水寺に参拝し、
けつけるなどして、騒ぎが収まるまで一時は騒然としたらし
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長の象徴であった。東京駅から栃木まではバス輸送、都内や
転を終えたが、当時は「夢の超特急」と言われ、高度経済成
三時間弱で東京に着いた。平成二〇年一一月三〇日に定期運
を誇り、東京―新大阪間を三時間一〇分で結び、京都からも
幹線0系は、営業運転としては当時世界一の時速二一〇キロ
最 終 日 は 京 都 駅 よ り 前 年 に 開 通 し た 東 海 道 新 幹 線「 こ だ
ま」に乗車、楽しい思い出となった。この国鉄自慢の初代新
実施されるようになった。
みとして行われたが、概ね成功であったとして翌年から毎年
施している京都市内一日間の班別研修の先駆であり、初の試
こと頻りであった。なお、この自由行動は、現在普通科が実
で一時間正座の罰を受けた。悪いことは出来ないと反省する
旅館に戻る時間に間に合わず、検問に引っかかり、正面玄関
時間を目一杯楽しむことができた。
台を出し入れする手間が大変だったが、それもなくなり授業
までは東館四階ホールを代用していたので、授業の度に卓球
ハウスの裏側に竣工した(現在の睦会館のある場所)
。それ
北館西に完成した。プレハブ建て六〇坪の卓球場も睦クラブ
とである。また、運動関係施設も充実し、八月には弓道場が
らスチームが送られ、寒い冬を快適に過ごすことが出来たこ
結ぶブリッジも完成した。また何より嬉しかったのは、全館
館・北館の落成に引き続き、本館が増築され、北館と本館を
この年は七一〇名の新入生があったので、全校生が初めて
二、〇〇〇名を超えた。校内の整備・拡充も進み、前年の西
もなく、男子四五名、女子一五名の六〇名でスタートした。
じ一組、担任も二年次と同じく荒井先生。級友のクラス移動
スチーム暖房が完備し、一二月一日より西館のボイラー室か
国道四号線の渋滞で、到着は午後六時を超えていた。
り変わらないと言える。因みに私が國學院大學に入学した昭
あったことを思うと、現在の修学旅行の経費一〇万円とあま
送を利用して集会への参加呼びかけがあったと言うが、私達
で、殆どの男子生徒が集合した(校報第五八号では、校内放
情報が伝わってきた。臨時の生徒総会が開催されるというの
昭和四一年一〇月二〇日の昼休み、男子生徒にグラウンド
に集合するようにと、どこからかは判然としないがクラスに
○長髪要求デモ
和四二年の大学食堂のメニュー価格は、定食とカツ丼が八〇
のクラスに放送は伝わらなかったと記憶している)
。集会は
五 泊 六 日 の 一 人 あ た り 経 費 は 約 一 万 一、 〇 〇 〇 円 で あ っ
た。 当 時 の 警 察 官( 巡 査 ) の 初 任 給 が 二 万 二、 〇 〇 〇 円 で
円、朝定食は六〇円、掛け蕎麦が三〇円であったと記憶して
ているのか後ろにいた私達には全く聞こえなかった。途中で
が、周囲は騒然としており、ハンドマイクもなく、何を言っ
グラウンドの指揮台で生徒会副会長のSが演説をしていた
いる。
四、昭和四一年度(第三学年)
昭和四一年度は四月七日の始業式で始まった。クラスも同
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かった。
があのような大事件になろうとは、その時は誰も予想できな
う」などと頓珍漢な受け答えをしたことを覚えている。それ
井伴和先生から「何かあるのか」と言われ、
「さー何でしょ
私も訳がわからず、その後ろについていった。坂の途中で永
らず、砂利道の坂であった)に向かって歩き出した。級友も
東館脇の坂(現在の中学校西側の石段。当時は舗装されてお
「ウオー」というかけ声があがり、突然前方の生徒が南館と
徒一、五〇〇名は平常通り午後授業を行い下校した。家に帰
ることを決議して解散した。一方、女子生徒と残った男子生
指示を無視してグラウンドに集合し、後日生徒集会を開催す
衣もいいところだと怒っていた)。参加者はその後、学校の
護者同伴で栃木警察署に呼び出され事情聴取を受けた。濡れ
たところで教室に戻ったが、デモに参加したとして、後日保
意を受け、五時三〇分学校に引き返した(級友Nは学校を出
移り、市内大通りを行進し、道路交通法違反などで警察の注
ると、NHKニュースで事件を知った母が心配して待っていた。
そして、学校に戻るよう説得に出向いた若林六四教頭に対
し、生徒代表からは長髪の全面許可と佐々木周二校長との会
の憩いの場となっている)に集結した。
で遠くからもそれとよく分かる。桜と躑躅の名所として市民
神社である。社殿隣の灯台形をした石塔はこの山のシンボル
争以来の戦死者を祀る招魂社を創建した。現在の錦着山護国
内箱森町の錦着山(明治一二年、県令鍋島幹が山頂に戊辰戦
村田博文生徒会長等の制止を振り切り、校外に走り出て、市
〇〇名、二年生三〇〇名、一年生一〇〇名とある)は教員や
た)、約六〇〇名の男子生徒(校報第五八号には、三年生二
ている。保守的な土地柄の栃木で、本校だけが突出して長髪
佐々木校長はしばしば「土地柄」という言葉を用いて説明し
兄弟校の國學院高校と久我山高校が長髪を認めているにも
拘 わ ら ず、 本 校 が 全 面 的 に 許 可 し な か っ た 理 由 に つ い て、
めている。
期を早め、四〇年度には冬期休暇中より長髪とすることを認
に対し、本校は県内他校の状況等も勘案しながら漸進的に時
生徒会からは全面的な長髪許可の要求が出されていた。これ
認めており、本校も他校と同様であったが、クラス委員会や
要求している)。多くの高校では三学年の三学期から長髪を
高校でも、生徒会がことあるごとに長髪の許可を学校に強く
この当時、県内高校生の大きな関心事の一つに長髪問題が
あった(
『 栃 高 百 年 史 』 を 見 る と、 昭 和 三 〇 年 代 の 県 立 栃 木
以上が事件の概要である。
見 が 要 求 さ れ た。 そ の 後、 約 一 〇 〇 名 が 説 得 に 応 じ 学 校 に
を自由にすると地域社会の評判が悪くなり、強いては就職な
集会に参加した一組の男子生徒はほとんどが、間もなく教
室に戻ったが(皆集会では後方に固まっていたので、状況判
戻ったが、なお多くの生徒は一方的に要求を突きつけるのみ
断 が 出 来 た。 前 方 に い た 二、 三 名 だ け が 校 外 に 押 し 出 さ れ
で解決がつかなかった。山を下りた生徒は三時四〇分デモに
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し長髪問題はそれ以上に進展しなかったので、一部の生徒か
日の間に全員三分刈りにした上で、長髪が許可された。しか
前述したように、テストケースとして一二月二〇日より二四
て討議された。その結果、生徒会の要望を学校長が了承し、
S は 当 選 す る と、 代 議 員 会 で 折 に 触 れ 長 髪 問 題 を 取 り 上
げ、一一月二九日には「三年男子長髪問題」が正式議題とし
を得ての当選であった。
約して石川の約三倍の票を得ており、多くの男子生徒の支持
子とSが当選した。とくにSは長髪許可を勝ち取ることを公
なった。副会長は定員二人に対し四人が立候補し、石川真理
人が立候補し、村田博文が圧倒的な支持を得て第三代会長と
こうした中、第三回生徒会役員選挙は昭和四〇年一一月一
〇日に立会い演説会、一三日に投票が行われた。会長には二
たほどである。
なって、非行に走る傾向にあるとして、各校に注意を喚起し
生 が 三 学 期 に な る と 学 生 帽 も か ぶ ら ず、 髪 型 が だ ら し な く
昭和四〇年の栃木県高等学校長会議(普通部会)でも、三年
㌫、「生徒の自由」六㌫、
「三年生は許可」六三㌫であった。
がPTA総会において行ったアンケートでも「不許可」三〇
も長髪には反対姿勢が強かった。昭和三九年に県立栃木高校
従って、学校長の判断は至極当然なことであった。地域社会
を県立高校の補完校程度にしか意識していない時代である。
どで不利益になることを心配したからである。まだ私立学校
て生徒に学校不信があるとすれば謙虚に反省しなければなら
そうとすることが誤りであることを十分に理解させ、あわせ
とが必要である。しかし、その際も非合法な手段で意見を通
則も生徒から見て無理がある場合は十分検討して改善するこ
は厳しさだけでなく愛情を持って行うことが大切であり、校
この日の放課後も職員会議が開催され、学校長より今後の
方針が発表された。職員会議録によると、学校長は、教育に
のと思っていたからである。
しさは県内でも有名であり、誰もが厳しい処分がなされるも
旨の発表があって、皆を驚かせた。当時本校の生活指導の厳
気持ちがさせたのであろう」として、一切処置者を出さない
S達に対する処分であったが、これについても「学校を思う
との内容であった。また、生徒の関心事のひとつが首謀者の
長髪について学校長としての考えを述べ、今後については十
翌 二 一 日 は 平 常 通 り 授 業 が 行 わ れ、 午 後 の 授 業 開 始 後、
佐々木校長が校内放送を通じて平静を呼びかけると同時に、
急職員会議が招集され、善後策を検討した。
事件が起きると、國學院大學理事会に出席のため不在にし
ていた佐々木周二校長に電話連絡をする一方、放課後には緊
に至ったのである。
き、厳しく指導されることもあった。そして、二〇日の行動
てか、四一年一〇月には職員室で長髪の件で教員に暴言を吐
なっていた。役員任期の切れる時期が近づくと追い詰められ
分に話し合うので代議員会で意見をまとめて提出するように
ら は「 公 約 違 反 」 で あ る と 言 わ れ 突 き 上 げ を 受 け る よ う に
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副会長が近日に迫った文化祭を成功させ、失われた名誉を回
生徒が協力していこうとの発言があった。最後に石川真理子
なかったことへの反省が述べられ、生徒会を再建するため全
会の報告を行い、次いで村田生徒会長から事件を未然に防げ
た。総会では、先ず諸原英一代議員会議長が二二日の代議員
さらに週明けの月曜日二四日は生徒会からの要望を受け、
八時四〇分より一時間の生徒総会がグラウンドで開催され
議員会も開催され、各クラスより出された要望を整理した。
しばしばであり、生徒の不満は大きかった)
。放課後には代
定をあおぐ必要があると言う理由で明確な返答がないことも
で、様々な要望や提言を行なったが、学校からは学校長の決
か っ た。 当 時、 生 徒 会 や ク ラ ス 委 員 会 の 活 動 は 極 め て 活 発
我山高校長を兼務していたので、栃木に出向する機会が少な
して欲しいとの要望も多かった(佐々木校長は大学理事・久
ということであった。また、学校長不在を出来るだけ少なく
れた。教師の言う「愛の鞭」と暴力の境目はどこにあるのか
かった。それよりも教師の生活指導に関する意見が多く出さ
意見が多かったが、予想に反して長髪についての意見は少な
課後の職員会議で発表した。当然のことながら校則に関する
二二日一時限目はロングホームルームが各クラスで一斉に
開かれた。担任が生徒の学校への様々な要望を聞き取り、放
今後の方針を決定するという内容であった。
ない。生徒・父兄・教員・第三者の意見を聴取したうえで、
②「生徒心得」の髪型については、生徒自身で責任をもって
一二月一日、一、二年生は四二年三月一〇日より認める。
①昭和四二年四月より長髪を全面的に許可する。現三年生は
生には学校長が校内放送をもって伝達した。
木校長から生徒会役員と代議員の代表に直接伝えられ、全校
催されて、以下のような決定がなされ、その日のうちに佐々
れ、有職者の意見を徴した。そして八日には法人理事会が開
年クラス委員に召集がかかり、二九日には再び代議員会が開
間も連日にわたり職員会議が開催される一方、二七日には三
とを心配する声が強く、不許可の意見が多数であった。その
二五日の父兄会役員会では長髪許可の意見が多かったが、
二七日開催の父兄懇談会のアンケート調査では非行に走るこ
クラスに伝達された。
員会に報告され、二六日五時限目のロングホームルームで各
ことを言明した。この日の質疑の内容は翌日に開かれた代議
るのでその意見を聞き、一一月八日に長髪について解答する
会、二七日にはホームルーム担任と父兄との懇談会を開催す
いことが再認識された。席上、学校長は翌二五日に父兄役員
出され、生徒から見て行き過ぎと思われる指導への不満の多
関する意見に加えて、教師の生徒指導法に対する要望が多く
終了した。その日の放課後、学校長の出席のもと生徒会役員
一致団結して進行し、生徒も冷静に耳を傾けたので滞りなく
催 さ れ た。 さ ら に 一 一 月 三 日 に は 法 人 常 任 顧 問 会 議 も 開 か
と代議員の代表による会議が開かれた。ここでも長髪許可に
復しようと呼びかけた。総会は村田会長ら役員と代議員会が
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規律委員会も立ち上がり、
「高校生らしい髪型」をテーマに
その後、生徒会・代議員会・クラス委員会は学校長の発表
を受けて、校則改正の検討に着手した。風紀委員で構成する
とはなかった。
の余波を感じる程度で、私達の学校生活には何ら影響するこ
三週続けて「気持ちを引きしめよう」であったことが、事件
今までに無いほどの盛り上がりをみせて終了した。週目標が
この期間中当然のことであるが、授業や英単コンクールな
どの行事は平常通り行われ、一一月二・三日開催の文化祭は
旨の話をされた。
り、生徒の非合法な行動を受け入れたものではないという主
て、 校 長 の 責 任 に お い て 教 育 的 見 地 か ら 決 定 し た こ と で あ
回の結論は生徒・父兄・有識者・教員などの意見を参考にし
と。従って今後同様な行為があったときは厳罰に処す。④今
しており、高校生として恥ずかしいということを自覚するこ
模範になるように努力すること。③今回の行動は校則を逸脱
ことで地域社会の批判も考えられるので、他校生から見ても
ることの無いようにすること。②県内で最初に長髪を認めた
このほかにも、学校長は①父兄の多くが「土地柄」を考え
て反対している中、許可したのであるから両親に心配をかけ
時、学校長が指揮台に立つと、それだけで静粛になるほどで
私達生徒にとっては尊敬に値する校長先生であった。朝礼の
「 校 長 」 と し て の 存 在 感 は 大 き か っ た。 不 在 が ち と は い え、
このように腕力で生徒を押さえ込もうという教員が一部存
在する中、生徒から見て佐々木校長は何となく威厳があり、
何とも情けない、嫌な思いだけが残った。
い。もう一度殴られるだけだよ」と忠告され、止められた。
抗議しようとしたが、友人から「馬鹿なことはしない方がい
れ、前に立っていた先生の平手が突然飛んできたのである。
時、 た ま た ま 横 に い た 者 が 大 き な 声 を 出 し た の を 勘 違 い さ
が爆発してもおかしくない状況にあった。私も三年間で一度
た指導に対する不満が生徒の間には鬱積しており、何時それ
なるのではないか、ということである。一部教師の行き過ぎ
としてのみ捉えてしまっては事件の本質を見ていないことに
さて、事件の時三学年に在籍し、代議員会の一メンバーと
して関係した立場から思うことは、これを単に長髪要求問題
の喩えのように事後の校内はむしろ活性化した。
い 信 頼 感 が 生 ま れ、 愛 校 心 も 高 揚 し、「 雨 降 っ て 地 固 ま る 」
接生徒との話し合いを持ったことで、生徒の学校に対する深
を提供した。しかし、事後処理をめぐって、佐々木校長が直
原案を作成すること。
討論を重ねた。そして、代議員会の承認を経て職員会議で決
あった。講話も体験から来る内容のものが多く、説得力があ
この長髪デモは新聞・テレビなどのマスコミにも取り上げ
られ、牧信二のウクレレ漫談のネタにされるなど恰好の話題
定した髪型は、七三刈り・スポーツ刈り・坊ちゃん刈りの三
だ け で あ る が、 先 生 に 殴 ら れ た こ と が あ っ た。 健 康 診 断 の
種であった。
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のんびりしたものであった。採点も本校の教員が行ったよう
際に試験監督に当たったのは本校教師であったから、何とも
受験者は七三名。私は歴史に興味があったので、文学部史
学科を受験した。試験は大学から監督者も見えていたが、実
英語・社会の順で各五〇分間の筆記試験で行われた。
久我山高校と同時間帯で行われ、午前九時三〇分より国語・
國學院大學優先入学試験は授業打ち切りの翌日、昭和四二
年二月三日、本校北館物理室で実施された。試験は國學院・
○大学入試
い思い出である。
かったのではないかと思う。楽しかった高校時代の唯一の苦
う少しの配慮をしていたならば、あのような事件は起こらな
る。生徒に大きな責任があるにしても、教師が生徒指導にも
伏 せ よ う と す れ ば、 当 然 生 徒 が 反 発 す る の は 目 に 見 え て い
る。しかし、教師がそうした生徒を理屈でなく力だけでねじ
として比較的問題のある生徒が多かったことも事実としてあ
葉に一所懸命だったことはよく理解できる。また草創期の常
がなかったか。先生方が「日本一躾の厳しい学校」を合い言
れ主義とまではいかないが、責任感・使命感に少し欠ける点
た教師がどの程度理解し、教育にあたっていたのか。事なか
生徒の信頼を得ていた学校長の教育への姿勢、思いをそうし
り、人としての器の大きさを何となく感じることができた。
それでも、私達が入学した頃から徐々に進学にも力点を置
くようになり、学年主任の片山喜八郎先生は「受験の先兵と
い、就職先を確保していた時代である。
く、 先 生 方 は「 職 場 開 拓 」 と 称 し、 企 業 訪 問 を 精 力 的 に 行
あった時代である。新設間もない本校はまだ就職希望者が多
も漸く就職クラスが廃止された頃で、栃木女子高等学校では
が多い時代であった。県内有数の進学校県立栃木高等学校で
スのうち五クラスが就職クラスであり、まだ進学より就職者
就職三一五名、在家他が四二名である(商業科は五九名中就
さて、私達五期生の進路は、普通科五四一名のうち四年制
大学進学者が一〇九名、短期大学が六六名、各種学校九名、
八年度からである。
た。なお現行の入試制度(推薦入学試験)となったのは平成
と な り、 四 七 年 度 か ら 試 験 会 場 も 國 學 院 大 學 に 変 更 に な っ
推薦入学試験と従来の優先入学試験(筆記試験)の二本立て
を出すようになった。さらに四五年度からは書類選考のみの
からは本校の経営が安定したという大学の判断から、不合格
補欠合格は多少入学金が高かったようである)。翌四三年度
この昭和四二年度入試までは創立間もない本校を支援する
ため受験者全員が合格であった(得点で正規と補欠があり、
た栃木短期大学に三二名が進学したことが理由である。
で、そのうち女子が三名と少なかったのは、前年度に開学し
普通科のほかに家政科があり、普通科の中にも就職クラスが
職四九名で、大・短大進学者は一名のみ)。普通科全九クラ
で、翌日、山隈惟實先生から日本史が満点であると言われた
と き は 努 力 し た 甲 斐 が あ っ た と 満 足 し た。 合 格 者 が 七 三 名
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業生は在校生から贈られたカーネーションを胸に入場した。
員、それに出演する部活動生徒が拍手で迎える中を、私達卒
し か っ た の で、 一、 二 年 生 の 生 徒 会 役 員・ 代 議 員 と 執 行 委
われた。会場の収容人員の関係で全校生が参加することは難
○卒業式 卒業式前日の二月二八日、午前中に卒業式予行を行い、午
後は東館四階ホールを会場に生徒会主催のもと、予餞会が行
ていたのであった。
高校生活を楽しんでおり、三年間で最も充実した時期を送っ
に熱中していたからである。受験とは対極にあるところで、
『栃木県庁採集文書』などの古文書解読や『吾妻鏡』の輪読
時 期、 私 は 國 學 院 大 學 に 進 学 す る 意 志 を 固 め て い た の で、
たように感じられた。なにしろ皆が受験勉強に集中していた
とがあったが、
「君は応えなかったよ」と言外に匂わせてい
生が私に「一組で期待に応えたのは半数かな」と言われたこ
て、私達の気持ちを鼓舞しようとしていた。卒業後、片山先
若 林 六 四 教 頭 も 授 業 中「 栃 高・ 栃 女 に 負 け る な!」 と 言 っ
して一組を作ったのだ」という主旨の話をよくされていた。
友人宅で思い出を夜遅くまで語らった。
はバッティングセンターで思いっきり汗を流した後、市内の
と一緒に保管していたが、建替えの際紛失した)、私達数名
り、できなかった。つい最近まで生家の自室に学生服の襟章
帰った友人もそうしたが、私は三年間被った帽子に愛着があ
卒業式終了後は思い思いに帰宅したが(永野川に架かる二
杉 橋 か ら 学 生 帽 を 川 に 投 げ 込 む 生 徒 も 多 く、 一 緒 に 歩 い て
す こ と は で き な い 」 と の 諺 を 引 い て「 努 力 」 の 大 切 さ を 述
同じ「馬を川辺に連れて行くことはできるけれども水を飲ま
。
卒業生総数は六〇〇名(普通科五四一名、商業科五九名)
佐々木校長は餞の言葉として三年前の入学式に際し贈ったと
ため、昼夜兼行で内装を整えた上での実施となった。 に遅れ、三月一日の卒業式はまだ工期の途中であった。その
かかり、また中途からの設計変更があったため、工事は大幅
に完成させる予定であったが、整地作業に予想以上の日数が
祭を執行している。卒業式に間に合わせるべく当初は一一月
念として父兄会が建設を発議し、昭和四一年四月七日に地鎮
成間近の体育館を式場に挙行された。体育館は創立五周年記
べ、門出を祝われた。
応援部・演劇部・ブラスバンド部などが心のこもった演技を
行い、楽しい半日を過ごした。演目の中には先生方の出し物
昭和三〇年代の日本は、戦後の復興の時代から高度経済成
長の段階を迎えていた。
「もはや戦後ではない」という『経
もあり、若林六四教頭は得意の謡曲を披露した。また古口敏
夫先生は東京農業大学名物大根踊りを演じ、やんやの喝采を
世界に類を見ない勢いで急上昇し(昭和二九年の神武景気か
済白書』
(昭和三一年版)の言葉に示されるように、経済は
第五回卒業式は、昭和四二年三月一日午前一一時より、完
浴びていた。
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和二五年度の四二・五㌫が三〇年度には五一・五㌫、四〇年
こ う し た 高 度 経 済 成 長 と そ れ に 伴 う 生 活 の 向 上 は「 教 育
熱」の高まりを生み、高等学校への進学率は年々上昇し、昭
もこの年であった。
の人命が失われた。建国記念の日が二月一一日と決定したの
航空・英国海外航空の三機が日本上空で事故を起こし、多く
た。四一年は旅客機の墜落も相次ぎ、全日空・カナダ太平洋
ム介入が本格化、四一年には中国で文化革命の嵐が吹き荒れ
も「中の中」が五〇㌫を超えた。海外ではアメリカのベトナ
新幹線が東京―新大阪間で営業を開始し、国民の階層意識で
私が高校に入学した昭和三九年はアジアで初の東京オリン
ピックが開催され、日本の国力回復を内外に示した。東海道
口移動は農村の過疎化を招来した。
住宅難などの問題を顕在化させ、農村から都市への急激な人
いる。しかし同時に、急速な工業化と都市化は深刻な公害や
年版『経済白書』は「消費(者)革命」が始まったと記して
機・電気冷蔵庫などの家電製品が爆発的に普及し、昭和三四
り、各家庭には「三種の神器」といわれたテレビ・電気洗濯
西ドイツを抜いて自由世界第二位となった。生活は豊かにな
〇 ㌫、 驚 異 的 な 成 長 で あ っ た )
、昭和四三年に国民総生産は
ら始まる約二〇年間の国民総生産の実質成長率は年平均約一
員は数えるほどであった。その中で、本校は國學院大學大学
しいことではないが、当時は大学院卒という学歴を有する教
教師に出会うことができた。現在、大学院出の高校教師は珍
に入学できずに浪人生活を送る者も現れた。幸い私は本校に
こうして多くの公私立高校が開校されたが、高校進学希望
者の増加には追いつかず、受験競争が過熱して志望する高校
も開校した。
ものである。また三九年には佐野市に佐野日本大学高等学校
うした時代の要請を受けて、昭和三五年にこの地に開校した
年には県立宇都宮東高等学校など三校を開校した。本校もこ
栃木県では生徒の急増対策として、昭和三七年には栃木市
に開校された栃木県立栃木工業高等学校など県立三校、三八
た。
詰め学級)で乗り切る方針を決め、私立高校の新設も奨励し
対策として、文部省は高校の新設、学級増設、定員増(すし
ないかという不安を抱えて、大きな社会問題となった。その
になり、父母の間には自分の子どもが高校に入れないのでは
八年から四〇年にかけていよいよ高等学校に押し寄せること
を行うところも出現した。そのベビーブームの波が、昭和三
め学級を余儀なくされ、一部では校舎が足りなくて二部授業
学校で深刻な問題を引き起こした。教室数の不足からすし詰
た。昭和三九年に開講された「文学史連講」は本校教員の水
入学することになり、個性豊かで、学問に造詣が深い多くの
度には七〇・七㌫に達し、四九年度は遂に九割を超えた。こ
院 出 身 の 教 員 も 多 く、 と く に 国 語、 歴 史 は 多 士 済 々 で あ っ
一方、戦後出生数が急増すると、やがて彼らは小学校や中
うして、高等学校は名実共に国民的教育機関となった。
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準の高さを示しており、文学・歴史好きの生徒にはたまらな
い魅力があった。加えて、先生方の面倒見のよさもあって、
色々とご指導をいただいた。とくに山隈惟實先生は権威ある
史学雑誌『日本歴史』に論文を掲載した日本中世史の研究家
でもあり、史料解釈の「いろは」を教示頂いた。二年次まで
理 系 大 学 志 望 で あ っ た 私 が 國 學 院 大 學 に 進 学 し、 史 学 を 志
し、 そ し て 大 学 院 で 学 ん だ 後、 母 校 に 奉 職 し た の も 先 生 を
慕ってのことであった(先生はその後、ご家庭の事情で福岡
に 帰 ら れ、 私 が 奉 職 し た 昭 和 四 九 年 に は 既 に 退 職 さ れ て い
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た)。
さて、三回にわたり『高等学校草創期の一齣』と題し、昭
和三九年度から四一年度まで三年間の本校の歴史を思いつく
ままに連載してきた。五期生である私は三月には還暦を迎え
る。昨年の一〇月にはそのことを記念して五期生全員による
同期会が開催され、多くの出席者があった。私達一組も終了
後は別会場で二次会を開いて旧交を温めたが、皆異口同音に
現在の母校の発展を喜んでいた。出席した級友の数人は私も
含めて子女を本校に入学させているが、皆本校教育に対する
信頼感があってのことであろう。
本校はいよいよ平成二二年に創立五〇周年の記念すべき年
を迎える。今日の本校の隆盛はこうした多くの先人や卒業生
(完)
の汗と努力の結晶でもあるということを改めて強調して、擱
筆とする。 (地歴公民科 副校長)
学園全景(昭和 41 年秋)
創立7年目を迎えた学園。西館・北館の建設に続き、待望の第一体育館の建設が始まった。手
前は工事中の第一体育館で、昭和 42 年6月に竣工した。当時は高等学校体育館としては北関
東随一の規模を誇ったが、平成 11 年に解体され、翌年9月創立 40 周年記念館として面目を
一新した。
(写真提供:塚越哲男氏〔5期生〕、以下同様)
学園全景(昭和 41 年秋)
写真中央2階建ての建物は旧南館。南館の崖下はテニスコートである(現在の特別教育館の場
所)。その手前(西側)に見えるのは武道館。柔・剣道の道場で、昭和 39 年に完成した。こ
れにより、1年生男子に柔道、2年生男子に剣道が正課となり、今日に至っている。 学園坂の登校風景(昭和 40 年6月)
グレーの夏服に衣替えして学園坂を登校する生徒。学園坂はまだ砂利道で、自転車通学生も本
館北側の置き場まで自転車を押して登校した。現在の制服に変更されたのは平成6年度からで
ある。
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校内競技大会(昭和 41 年7月)
3学年種目男子ハンドボールの試合風景。後方に見える建物は旧南館。現在の南館は昭和 60
年にその跡地に建設された。
校内競技大会(昭和 41 年 12 月)
校内競技大会は昭和 43 年度まで1学期の前期大会と 12 月の後期大会の2本立てで行われた。
後期は全学年共通種目のみで、年度によって種目の移動があったが、41 年は男子が柔道、女
子が卓球であった。女子卓球会場は東館4階ホールを使用した。
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なれたかという話をしたいということか
持っている自分が、なぜプロ野球選手に
京の国立大学出身で小中高の教員免許を
出するような強豪校ではなく、普通に東
れず、出身校もプロ野球選手を何人も輩
ンシップとキャリア教育 ─夢の実現に
向けて─」という演題で、体格にも恵ま
講 演 を 聴 く 機 会 が あ っ た。
「スポーツマ
たくないからということであった。イチ
日やっていることを一日でも途切れさせ
らは、こんな時までと呆れられるが、毎
動をするというのである。同級生たちか
井選手は風呂場の脱衣場で腹筋・背筋運
上がる。しかし、そのような時でさえ松
し合える仲間たちとの宴会でとても盛り
は驚きであった。そこでは本当に心を許
われる野球部の同期会に参加した時の話
また、松井選手が年に一度、高校時代
の野球部の仲間たちと地元の温泉地で行
いるとイチローは語っていたそうである。
つようにしていたことが、今につながって
られるので、体の軸がぶれないように打
測がつかないような形でそのボールを放
バッティングをしていたという。時々予
め た も の を ボ ー ル 代 わ り に し て、 ト ス
たが、それと共に毎日父親が新聞紙を丸
通い詰めたというあの有名な話も出てき
イチローが小学生時代から父親と欠か
すことなく毎日バッティングセンターに
めていた。
井秀喜のエピソードがかなりの部分を占
我が家の一員となった。雌なので名前は
し が ら な い よ う に と も ら う こ と に な り、
ちょうど義父が亡くなった年で義母が寂
非 一 匹 も ら っ て く れ な い か と 頼 ま れ た。
れていたのだ。それを拾った友人から是
緒に雪の降る日、那須の別荘地に捨てら
そう言えばこれはどうだろうか。犬の
朝の散歩である。この犬は兄弟五匹と一
かないかと無理にも考えてみる。
り、感心させられている。自分には、何
毎日何かをしっかりやっている人々がお
にも頭が下がる。習い事をずっと何年も
年校内マラソン大会に出場している先生
さて、自分はどうだろうと反省してみ
た。毎日ジョギングを欠かさない人、毎
大切さをあらためて考えさせられた。
が、その中でも「続ける」ということの
心させられた。いろいろな話が出てきた
こそ、このような心構えがあるのだと感
人の天才である。そのような人間だから
ランをせいぜい五十本しか打てないの
らないのか」
、 松 井 は「 人 は な ぜ ホ ー ム
青木 一男
先 日、 元 プ ロ 野 球 選 手 で 野 球 解 説 者、
さらには大学教授でもある栗山英樹氏の
続けている人等々、身近にもこつこつと
か」と途方もなく上を見ているという二
ら講演は始まった。しかし聴衆を意識し
ローは「人はなぜ打率は三割台にしかな
ଟ ே ⦑
てのサービスもあってか、本来前振りの
栗山英樹氏の講演から
はずの大リーグで活躍するイチローや松
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も心掛けている人たちにとっては素晴ら
回ってきた。愛犬家でそして健康をとて
い 適 当 な 理 由 で、 結 局 私 に そ の 役 割 が
て足腰が弱らないようにとか、調子の良
になった体には運動が必要だ、年をとっ
ある。いろいろ話し合ったが、太り気味
ことを決めなければならなくなったので
族四人の中で誰が朝早く起きるかと言う
た家族会議になった。早い話、残りの家
が散歩に出るかということでちょっとし
母が怪我をしてしまった。そうなると誰
散歩をさせていたのだが、ある時その義
がちょうど良い運動になるということで
せなければならなくなった。最初は義母
よ外に出すという時になったら散歩をさ
飼っていた頃は良かったのだが、いよい
う意味。しかし、まだ小さくて家の中で
う思いに負けてしまいがちであった。し
しかし、効果はあまりなく、それでも
行きたくない、ゆっくり寝ていたいとい
悪くはない。
」
当に素晴らしい。そう思うと犬の散歩も
桜、山百合、秋桜が見られる。自然は本
も あ る。 歩 く 道 沿 い の 花 も 季 節 ご と に
また白鷺もエサを求めて飛んでくること
何 匹 も 泳 い で い る の が 土 手 か ら 見 え る。
で三十センチ以上もあろうかという鯉が
かんでいる光景を目にし、夏には川の中
あった。川にはカルガモが四十羽以上浮
きな虹が架かっているのを見たことも
しまう。また、朝のほんの十分くらい大
と不思議にあっと言う間に時間は過ぎて
トや靄が立ち込めた川面を見ながら歩く
分歩く。朝焼けに遠く筑波山のシルエッ
「永野川沿いの土手を約三十分から四十
えてみた。
思う。
信のようなものが生まれるのだろうかと
なく自分に芯が出来ているような気がす
かく続けている何かがあることで、何と
前出の例とは全くレベルは違うが、とに
続けると何かが変わってくる。もちろん
こか「やる」と決めたことを何が何でも
の散歩を止められなくなる。やはり、ど
いるのが分かる。そうなるとますます犬
の結果も良く、食事もうまくなってきて
年が経とうとしている。お陰で健康診断
なっていたのである。そうして今年で六
が身に付き、散歩することが当たり前に
し、気持ちが悪い。何と自然に朝の習慣
出張で外泊した時などには落ち着かない
犬の首輪に掛けている自分がいる。逆に
が覚め、ふと気がつくとリードの金具を
のでいつの間にか早朝五時くらいには目
し掛かったくらいだろうか、不思議なも
しい朝の散歩であろうが、残念ながら私
かも日曜日くらいはと思うが、遅れると
そのために次のようなプラスの面を考
はそのどちらでもない。朝の三、四十分
話は変わるが、最後に本筋であった栗
山氏の話をしておきたい。九十分の講演
ベル。ベルはフランス語で「美人」とい
は貴重な時間であり、正直少しでも寝て
催促の鳴き声、うーんと思いつつ慌てて
とを思いを込めて語ってくれた。栗山氏
る し、
「これを続けています」という自
い た い。 何 と 言 っ て も 冬 の 朝 の 寒 さ と
のうち、最後の二十分で一気に自身のこ
そんなこんなで一年経ち、二年目に差
散歩に出て行く。
言ったら、これほど辛いものがあろうか
というくらいである。
-
- 60 -
-
きた父親を説得。しかし実績からドラフ
上がる。そうして今までプロを反対して
て、眠っていたプロへの思いが再び湧き
に入団し、活躍しているのをテレビで見
辰徳選手(現ジャイアンツ監督)が巨人
度声をかけてくれたことのある憧れの原
ところが大学四年生の時、高校時代に一
校 へ は 進 ま ず、 教 師 を 志 す こ と に し た。
通ってきたような高校・大学時代の強豪
部に所属していたもののプロ野球選手が
栗山氏は、子供の時から野球選手を目
指したが、父親の反対にもあって、野球
こそであろう。
も負けずにたどり着いたプロ野球だから
しているのである。それは様々な困難に
のをこよなく愛し、そのプレーヤーを愛
やはりそれだけではない。野球というも
納 得 さ せ る 解 説 で 人 気 を 博 し て い る が、
は 非 常 に 理 論 的 で あ り、
「なるほど」と
信した講演であった。
とが何事にも大切なカギとなることを確
える日々の生活においても「続ける」こ
夢を叶えるためにも、また、それを支
との大切さを知っている人なのであった。
げていたが、栗山氏自身こそ「続ける」こ
する。有名な選手の例えをいろいろと挙
手に贈られるゴールデングラブ賞も獲得
陥ったこともあったが、守備の上手い選
をしたことから精神的にもスランプに
感ある選手へと成長、二軍時代はエラー
る。その後ファイト溢れるプレーで存在
打ったことが認められ翌年一軍に上が
訓 を し て く れ た と 言 う。 そ の 甲 斐 あ っ
励まし、毎日欠かすことなく個人的に特
れ、
「ここで終わってどうするんだ」と
の氏を監督がどういう訳か目を掛けてく
かなり違い、一軍を諦めかけていた。そ
え、自分のやってきた野球とはレベルが
と 叶 え た 目 標 で あ っ た が、 二 軍 と は 言
ることが大切なんです。と言うと不満た
やっている教材の予習復習をしっかりや
る 授 業 を 一 日 一 日 し っ か り 覚 え る。 今
聞きに来る必要ないんです。今やってい
勉 強 の や り 方 と か を 先 生 に 聞 き に 来 る。
徒は多いでしょう。そして、参考書とか
勉強ができるようになりたいと一発奮
起して、さて何からやろうかと考える生
るということに通じます。
に与えられたことをしっかり頑張ってや
ろから学ぶ」ということです。今目の前
孔子の言葉なので知っている人も多い
と 思 い ま す。
「 下 学 」 と は「 手 近 な と こ
小塙 研一
でも、今やっていることがしっかりで
きなくて、新しいことが本当にできます
らたらの生徒がいます。
下学して上達す
心にとめておきたい言葉
第十五集
トにかかるわけもなく、社会人野球チー
(外国語科)
て、 二 軍 の チ ー ム で 一 番 多 く ヒ ッ ト を
ムのテストを受けるもののすべて不合
格。それでも諦めず知り合いの口利きで
やっとテスト生としてヤクルトスワロー
ズに入団させてもらったのである。やっ
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- 61 -
-
る こ と が 向 上 の 近 道 だ と 思 う の で す が、
ある勉強を大事に、こつこつ努力を続け
ないでしょうか。今を大事に、目の前に
るチャンスを逃さないようにしたいもの
れが成功上達の道なのです。目の前にあ
ん。今やるべきことをしっかりやる。こ
現在の自分の立場や職種、ポストに不
満を述べるだけでは何も生まれてきませ
逆ギレする人も多いです。ドラマなどで
罪をかけられることさえある。疑われて
とんでもない事件に巻き込まれたり、冤
何が起こるかわからない。用心しないと
事なポイントです。今の世の中、確かに
れるような行動をしないというのが、大
どうでしょうか。これからの人生につい
です。
いて、先生が生徒を疑うことをさも悪い
か。最初はできても長続きしないんじゃ
ても同じことが言えると思います。
李下に冠を正さず
は、「 先 生 は 生 徒 を 疑 う の か 」 な ど と 喚
たとえば、孔子は今でこそ、他に類を
見ない評価を受けていますが、生前、特
た。与えられた仕事に全力を傾けて取り
心血注いでやったら、侍大将にしてくれ
たら、薪奉行にしてもらい、その仕事を
れれば、それを一生懸命やった。そうし
答 え ま し た。
「草履取りの仕事を与えら
できたかという質問に対して、彼はこう
日本でも、豊臣秀吉の同じような逸話
があります。どうしてこのような出世が
です。
大限の知恵を絞り、努力を積み重ねたの
の不当な低い評価にも文句を言わず、最
た役職を与えられなかったようです。そ
どう思われますか。酒場に入るとか、深
校生がタバコを吸っている仲間といたら
疑われる行為をすれば疑われて当然な
のです。疑った側に非はありません。高
はしないようにしようという戒めです。
動作になります。両方とも疑われる行為
がります。それはすももを取ろうとする
木の下で冠を正そうとすれば、両手が上
る動作になります。李下つまりすももの
しゃがむということは、瓜を盗もうとす
瓜 畑 で 靴 を 履 き 直 せ ば、 し ゃ が み ま す。
リヲタダサズ」と読みます。瓜田つまり
「 カ デ ン ニ ク ツ ヲ イ レ ズ、 リ カ ニ カ ン ム
有 名 な 言 葉 で す か ら、 こ の 前 の 文 が
「 瓜 田 に 履 を 納 れ ず 」 も 知 っ て ま す ね。
から生きていくとき、心にとめておきた
れる状況を作らないこと、これは、これ
の悪事の歴史が証明してくれます。疑わ
疑って当然なのです。それは人間の数々
た 人 を 責 め る だ け と い う の は 変 で す。
下に疑う人はほんの少しでしょう。疑っ
か考えることも必要です。根拠もなく無
信じてあげるのは大切ですが、盲信は
おかしい。疑われたら、なぜ疑われたの
ことのように決めつけますが、本当に疑
組 ん だ ら、 天 下 人 に な っ て い た 」 ま あ、
夜遊びに出ることなども同じです。疑わ
最近の生徒の傾向を一言でいうと、夢
がない。遊びやファッションには興味が
天は一物を与えている
いものです。
うことは悪事なんでしょうか。
後に粉飾して語ったものだとしても、そ
に五十才前は、まったくその能力に応じ
の中に成功の秘訣が見えると思います。
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-
一物とはもちろん、長所です。その人
の人生に与えられた使命と言ってもいい
一物はもらっています。
す。まあ二物はもらえませんが、たぶん
ずというのは大抵の人にあてはまりま
のに、話が通じません。天は二物を与え
躾にしても将来立派な大人になるためな
ち ょ っ と ま ず い の で は な い で し ょ う か。
という考えは成長期の子どもの世界では
ん。困ったものですが、今さえよければ
うな人間になりたいのかを考えていませ
が今何ができるのか。将来何ができるよ
心がありません。そして自分という人間
それにしても自分の将来を真面目に考
えようとしません。不思議な感じがしま
いないのでしょう。
に何も考えていません。生活に困っては
という肝心なことになると、あきれる程
あるようですが、これからどう生きるか
お前が贈り物をしようとして、品物を差
た。 そ し て、 悪 党 に 言 い ま し た。
「もし
ところを盛んに吹聴しました。それをお
説法の邪魔をし、聴衆にお釈迦様の悪い
き て、 お 釈 迦 様 の 悪 口 雑 言 を 並 べ た て、
お釈迦様が広場で説法している時、反
対派の僧がさし向けた悪党どもがやって
介します。
有名なお釈迦様の逸話をひとつ簡潔に紹
気 に な る 人 が い る か も し れ ま せ ん か ら、
悩 む 必 要 も な い で し ょ う。 と 言 っ て も、
ず 悪 意 か ら で あ り、 真 面 目 に 考 え た り、
インターネット上の悪口雑言の書き込
みはあとを立たないようです。悪口はま
黙して語らず、聞き流し
には無縁かも。
ないでしょうか。ただ、努力をしない人
人に、与えられるご褒美が幸せなのでは
かして、そこに生きる喜びを見い出せた
ないでしょうか。
な考え方も覚えておくと、役立つのでは
です。黙して、語らず、聞き流す。こん
元々、地獄に落ちるべき卑怯な行為なの
中傷に対して、まともに受けて、怒った
かなりはしょってますので、詳しく知
りたい方は自分で調べてください。誹謗
たということです。
たちは反省して、お釈迦様の信者になっ
れ は 地 獄 へ 落 ち る 言 葉 と な る ぞ。
」悪党
の悪口を受け取らなかった。だから、そ
た。「 お 前 た ち は、 さ っ き か ら 私 を さ ん
お 釈 迦 様 は 言 い、 こ う も 付 け 加 え ま し
し た。「 そ う だ ね。 そ の と お り だ ね 」 と
の物じゃねえか」と悪党の一人が答えま
(外国語科)
り、 興 奮 し た り す る 必 要 は な い の で す。
の悪口はみなお前たち自身のものだ。こ
ざん悪口を並べてののしったが、私はそ
と 思 い ま す。 そ れ を 最 大 限 に 生 か す の
し出したとき、相手が受け取ってくれな
す。だから将来のためにという勉強に関
が、生きるということではないでしょう
か っ た ら、 そ の 品 物 は 誰 の 物 だ ろ う か 」
「 相 手 が 受 け 取 ら な か っ た ら、 当 然、 俺
釈迦様は黙って聞き、平然としていまし
か。人生は自分発見の旅だという人もい
ます。与えられている一物を見つけ、生
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カナダから帰っての
ショートメール
さぁ~はじめよう。
と会う感じがした。
元気な顔が勢ぞろい。
日から後期の課外授業開始。久々に君達
気を養った。8月
日、無事に帰国。明
やブッチャートガーデンなどを視察し英
だ。携帯電話でメールを送る方が、二次
ずのうちに数学の能力を使っているん
できているから。キミたちは知らず知ら
序関係を理解して五十一進法の考え方が
だし、国語辞典を引けるのは五十音の順
方程式を解くより知的レベルにしたら高
対である。トロントでの5日間は、 時
約 時間の時差があり、昼と夜とが正反
今日は8月8日。中期の課外授業を終
えて、今、カナダに来ている。日本とは
自信もつかない。文系学部を目指す人は
る ん だ ね。 こ れ で は 何 の 進 歩 も な い し、
りを考えて困難を避け、易きに流れてい
ないという人たちは、楽をすることばか
最近は、努力しない若者が増えている
ようだ。入試に必要のない科目は勉強し
に、
「 ど う し て?」 と 感 じ る 好 奇 心 を 大
も身の回りの物事を当たり前と思わず
関心を引き出せるように学問の面白さ
を伝える努力を大人もするが、キミたち
ない。ただ関心がないだけなんだ。
いというのは、キミの頭が悪いからじゃ
島田 利文
くらいまでが真夏の昼間の明るさであ
切 に し て ほ し い。「 コ ン ビ ニ の レ ジ で は
いと思うよ。それなのに数学が分からな
り、文化・生活の違いにも触れ、私の胃
ないけれど、経済学は数学を基礎にした
「数学なんて必要ない」と思うかもしれ
『好奇心を持って学ぼう』
17
カ ナ ダ の 一 般 の 家 庭 で は、 こ の 期 間 は
学 校 は ク ロ ー ズ で 視 察 は で き な か っ た。
たが、8月、9月と学年末の休暇に入り、
この小さな旅の目的の一つに、カナダ
の理工系教育、現地での高校視察があっ
数 学 に 苦 手 意 識 を 持 つ 人 は 多 い よ ね。
でも、日常生活をつつがなく送れる人が
んでおくことが大切なんだ。
とは直接関係のなさそうなことこそ、学
理的な考え方が必要になる。自分の進路
をはっきり示すには数学と同じように論
学問だし、文学や法学で物事の因果関係
は、成績のためではなく、好奇心を原動
験競争が前ほど過酷ではなくなった今
学ぶのは、得るものが少ないと思う。受
ることが分かって、面白い発見がいっぱ
生活の至るところで数学が応用されてい
ぜ?」と、少し考えたり調べたりすれば、
「天気予報が当たるようになったのはな
バ ー コ ー ド で 会 計 が で き る の は な ぜ?」
袋はてんやわんやであった。
種々の目的に応じてサマーキャンプなど
高校数学を理解できないはずがない。地
力にして学べるチャンス。授業にも部活
いある。学校の成績や試験のためだけに
に我が子を参加させるなど、私の大学時
図を見て目的地に行けるのは三次元を二
代の友人や留学生との交流の中で何とか
見聞できた。
次元に置き換えたものを理解できるから
21
旅の後半は5時間のフライトを費やし
バンクーバーに移動した。ビクトリア島
-
- 64 -
-
12
と常に考えながら指導してきたつもりで
「生徒がこの後合格を勝ち取るためには」
あり、甘いかもしれないが、最後には一
動にも好奇心をかきたてるものは潜んで
初めての受験指導
人一人が満足のいく結果を出せるものと
自信を持って指導してきた。私自身も国
立大学を受験した経験があり、現役生が
る。 若 い う ち に 大 変 な 経 験 を し た 方 が、
たときも自力で乗り越えられるようにな
積むことで自信がつき、困難にぶつかっ
ば難しいことでもできた」という体験を
で も、 も ち ろ ん 勉 強 で も い い。
「頑張れ
た、AO入試・推薦入試の結果も、国立
も 足 り な い と い う 生 徒 が 多 か っ た。 ま
で目標とする点数に100点も200点
ことごとくE判定であり、センター試験
験の結果においても、第一志望の大学は
た。十月頃までに行われた校外の模擬試
学力の面でも、本当に厳しい状況であっ
でもあり、四月の時点では意識の面でも
が、国公立大学受験を目標としたクラス
になっている生徒のいる楽しいクラスだ
大を狙う生徒や、部活動やゲームに夢中
今年度特選三年二組で、初めて担任と
しての受験指導をすることとなった。東
かってラストスパートをかけている生徒
が、今受験というはっきりした目標に向
まで各段階でも力を入れてきたつもりだ
するのと同じくらいやりがいがある。今
ことより難しいと感じるが、自分が受験
格させることは自分で受験して合格する
この学年を3年間指導してきて、今が
一番やりがいがあり、面白い。生徒を合
ことができるとも考えている。
習を進めていけば、十分に間に合わせる
分析をした上で計画を立て、集中して学
あることは分かっていた。しかし、自己
めの応用力をつけるということが大変で
その後約一ヶ月で2次試験に対応するた
多 く の 科 目 を セ ン タ ー 試 験 ま で に 揃 え、
人生を楽しむことができるんだ。そのこ
大学に出願した生徒が十八名で合格した
強い。クラスに様々な科目の問題集を何
村山 優一
いるから、不思議に思ったことはどんど
ん自発的に追求していこう。
そうすると、
学ぶことが今よりもっと楽しくなるよ。
「成せば成る」
高校時代に大切なのは、
という体験を数多くすること。スポーツ
とを忘れずにいてほしい。
生徒が四名という厳しい結果であった。
冊置いても、毎日のように問題をコピー
でも、文章や音楽、工作などの創作活動
2008年、夏。
キミたちへ、
カナダから帰っての手紙。
(数学科)
現在この文章を書いているのは十二月
の半ばであり、センター試験まで約一カ
たちをどうにかしてやろうという思いが
月 と い う 時 期 で あ る。 私 は こ こ ま で、
-
- 65 -
-
して配っても足りない程に、生徒はやる
(数学科)
思えるようになっていてくれたらと思う。
そ れ ど こ ろ か、
「今度練習においでよ」
と生徒を誘っている。十代の頃は「早く
結婚して子供が欲しいなぁ」などと思っ
ていたが、まったくその気もない。夢と
か希望といったものは、若者には生きて
いくエネルギー源である。毎日の刺激に
日々未来予想図を描いていた。それは妄
想に近いものだったが、それはそれで楽
まで全力でサポートをして、一回でも多
て試験会場に向かえるように最後の最後
五年目、まさかこんなに続くとは思わな
ものか」と思った。今は教員となって十
金 八 先 生 』 を 見 て、
「先生なんかになる
や は り、 逆 の 人 生 を 歩 ん で い る ら し
い。小学生のときにテレビで『3年B組
少しはあって、さてどこに進学しようか
教員になるそもそものきっかけは、苦
しい浪人生活が終りに近づき、合格校も
た」ことがあるが、ここでは省略しよう。
ま ず、 な い。 一 つ だ け「 な っ て し ま っ
菅又 和彦
教員になったからこそ
気になっている。父母懇談会で、家庭学
習を増やすように指導をしていた生徒
も、今ではその頃がウソのように、集中
して取り組んでいる。そうした努力の結
果、センター型の模擬試験で100点以
上も伸ばしている生徒もいるなど成績も
徐々に伸びてきており、手応えをつかみ
く「 合 格 し ま し た。
」という報告を受け
かった。日本史が大好きで、その学者に
考えていた時である。親との約束で、国
しかった。残念ながら、かなえたものは
たい。
な り た か っ た。
「 俺 は 日 本 人 だ、 バ テ レ
立 大 学 に 進 む 約 束 で 普 通 科 高 校 に 行 き、
始めてきたところだ。全員が自信を持っ
「初
ま だ 受 験 が 終 わ っ て い な い の で、
めての受験指導」をまとめることはでき
そ し て 浪 人 も さ せ て も ら っ た。 行 き た
あったが、国立大学には結果的に二校の
ン の 歴 史 を や っ て ど う す る 」 だ っ た が、
合格をもらった。私立は明治大学には届
今は世界史でご飯を食べていて、しかも
「 國 學 院? 遠 い か ら 受 け な い 」 が、 そ の
か ず、 國 學 院 大 學 な ど 数 校 に 合 格 を も
ないが、受験の結果が出た後私自身の反
國 栃 に 毎 日 せ っ せ と 通 い、 お 世 話 に な
省をして、今後の指導に役立てたい。最
える生徒に向けて、現時点で一言述べた
りっぱなしである。バスケットボールも
か っ た 千 葉 大 学 に は 届 か ず、 地 方 で は
い。 私 は 受 験 に 向 け て 努 力 し た こ と や、
らっていた。私が目標としていたのは博
楽 し か っ た り す る。 高 校 受 験 の 時 に は、
合格・不合格に関わらずにその結果は必
し か り、 始 ま り は 当 時 の 監 督 の 先 生 に
後に、クラスの生徒やこれから受験を迎
ず 後 の 人 生 に 生 き て く る と 考 え て い る。
物館の学芸員で、その国立大学には、そ
の 資 格 課 程 が 当 時 は な か っ た。 し か し、
「来週来い」とおどされて嫌々始めたの
が、 今 や 生 徒 を 指 導 す る 立 場 に な っ た。
自分のため、家族のために頑張らなけれ
ばいけないときに、受験ほどではないと
-
- 66 -
-
いそしむ間、私は学芸員になりたかった
日大学に通った。友人たちが企業訪問に
く履修した。だから四年次になっても毎
じであったので、講義は友人たちより多
さ て、 大 学 二 年 次 か ら 教 職 課 程 が 始
まった。当然、学芸員課程と二足のわら
になってからのことである。
せられたと気付いたのは國學院にお世話
たかったらしい。その思惑にまんまと乗
ングでもあった。特に母が私を教員にし
始め、両親も学費の算段ができたタイミ
が家の経済状況が苦しい時期から好転し
の上だ」と自分を納得させた。当時の我
らせてもらうのだから、その程度は覚悟
ざ い ま す 」 と な っ た。
「好きなことをや
腹は代えられず、即座に「ありがとうご
の資格取るならいいよ」であった。背に
の だ。 母 が そ の 時 に 言 っ た の が、
「教員
のかは疑問だったが、必死の思いだった
た。どら息子の土下座に何の意味がある
る。 初 め て 両 親 に 土 下 座 し て お 願 い し
界では日本で一番の加藤有次先生がい
國學院にはそれがあって、しかもその世
ろうとした。ただ、この二週間で私の中
だから「モノ」を相手にする学芸員にな
だ。 実 を 言 う と「 人 間 」 が 嫌 い だ っ た。
の人間としての成長の記録でもあるから
である。単なる日誌ではなく、当時の私
二週間は瞬く間に過ぎ、実習は何とか
形になった。今も当時の実習日誌は宝物
んだ。
きなかった。だから必死になって取り組
れる指導の先生もいる。裏切ることはで
先生」と呼びかけてくれる。励ましてく
し、生徒たちは実習生とはいえ、
「先生、
だが、両親に対する義理もあった。しか
いだ。学生気分の甘ったれでしかないの
だった。帰り道を泣きながら自転車をこ
い 時 間 は 経 験 し た こ と が な か っ た。 嫌
た。毎日がドラマであり、あんなに苦し
母校である中学校に二週間お世話になっ
六 月 か ら 始 ま っ た の が 教 育 実 習 で あ る。
新聞社などを訪問した。その一番忙しい
川崎の下宿から日帰りで宇都宮を中心に
帰 っ て 就 職 し よ う と も 考 え 始 め て い て、
動である。その一方で、このまま田舎に
してもらおうと挨拶まわりが私の就職活
時 は 残 念 だ っ た。 で も お 給 料 を 頂 く 以
本史ではなく、世界史担当を命ぜられた
六年に非常勤で来た時、期待していた日
史の話は充分にできるじゃないか。平成
たべている。世界史の授業の中でも日本
本史ではないけれども、世界史でご飯を
たことで、あきらめていたことや出来な
事は後日談としよう。ただ、教員になっ
るまでにあと二年あるが、その間の出来
ようだ。教育実習から國學院栃木にいた
人生のターニングポイントになっている
嫌 な こ と で も と り あ え ず、 そ の 気 に
な っ て や っ て み る。 私 の 場 合 は そ れ が、
になったことである。
員」という職業に純粋な憧れをもつよう
る の は、 そ れ ま で 興 味 の な か っ た「 教
探ることだからである。はっきりしてい
学芸員の仕事はモノを通して「人間」を
にはなれなかったに違いない。何故なら
い。ましてやどんな努力をしても学芸員
きていかざるを得なかったかもしれな
なかったら、社会とは隔絶した世界で生
の何かが変わった。もしもあの二週間が
かったことは確実に続けていられる。日
から、先生方に取り付いて、何とか紹介
-
- 67 -
-
た。同じ「歴史」なのだから、本質は変
自分が学んできたことがやっと見えてき
きたのに、恥ずかしながら、今になって
史もわからない。大学で日本史を学んで
気付いた。世界史がわからなければ日本
をした。だから世界史の面白さに初めて
を書きながら、またまた必死に教材研究
上、贅沢は言ってはならない。修士論文
ぶ機会をお与えください。そのぐらいの
てから、もう一度日本史を思いっきり学
神様がいるのならば、遠い将来、退職し
上々ではないか。それでも、もし人生に
な っ て き た。 派 手 な こ と は 一 切 な い が、
の一人なのではないかと思えるように
ているらしい。もしかしたら私はその中
ないかの割合で、自分の夢に忠実に生き
めて彼の素晴らしさを一人でも多くの人
なエピソードをいくつかここで書き、改
知っている柔道家の、誰も知らないよう
昨年に引き続き、柔道の話題を書くの
は 大 変 気 が 引 け る が、 日 本 中 の 誰 も が
しまれたことも事実だろう。
た同時にそのことは、多くのファンに惜
ける一つの転機のような気もするし、ま
いる今、井上康生の引退は日本柔道にお
よく彼の幼少時代のエピソードを聞かせ
さんと同級生であり、そのこともあって
道部監督・坂本大記先生は兄・井上智和
一つ目は彼の少年時代のエピソード
だ。私の大学の先輩である國學院大學柔
に知ってもらいたい。
小さな夢はもっていてもいいですよね。
井上康生の引退
(地歴公民科)
わらない。怪我がもとでバスケットをや
めた当時、自暴自棄になったこともあっ
た。プレイヤーではないけれども、顧問
としてコートに復帰できた。専門家でも
ない私が好きなバスケットに、数年の中
断はあれ、三十年近くも関わっていられ
るのも教員になったからである。そもそ
て く れ た こ と が あ っ た。 テ レ ビ な ど で
その気になってやってみることを覚えた
人 に な っ て、 嫌 な こ と で も と り あ え ず、
ているようで嫌だった。でも少しだけ大
未来予想図を描いていた頃は何でもス
トレートに進まなければ自分が否定され
で 知 ら れ て い る「 柔 道・ J U D O 」 問
により、現在では柔道を知らない人にま
NHKの特集番組において発言したこと
年)現役引退を発表した。石井慧選手が
柔道家井上康生さんが、今年(二〇〇八
一歳年上で年齢も近いということもあ
り、高校時代からずっと憧れ続けてきた
たらしい。例えば、三人でテレビを見て
坂本先生と兄・智和さんは中学校時代
に、小学生だった彼には、度々驚かされ
の伝説は数多く存在した。
外にも日本一、世界一を目指す井上少年
登り切った話は有名だ。しかし、これ以
て、百五十六段もの神社の石段を休まず
綾川 浩史
から、むしろ人生が切り開けたような思
題。今後の日本柔道のあり方が問われて
も、 小 学 校 四 年 生 の 時 に 父 親 を 背 負 っ
いがする。そして今、好きなことが続け
もはバスケットも嫌々始めたのだが。
られる。日本人は百万人に一人いるかい
-
- 68 -
-
る姿勢のまま、柔道場を何周もケンケン
負荷をかけ、片足立ちになった内股に入
チューブに砂を詰めたものを何本も巻き
上 げ る 方 の 足( 刈 り 足 ) に 自 転 車 の
の過程をよくご存じだからだろう。跳ね
とよく言う。あの内股を身につけるまで
を「決してセンスのある選手ではない。
」
ような努力の結果である。坂本先生は彼
は、いうまでもなく彼自身の血のにじむ
直伝の技であるが、それを身につけたの
詞でもある得意技「内股」は父・明さん
てこともあったそうだ。また、彼の代名
倒れたと思ったらそのまま寝ていたなん
の 限 界 が 来 て「 う お お お ~。
」 と 叫 び、
た。そして腕立て伏せも同様に行い、体
力をつけるためにひたすら引き続けてい
り付けてある自転車のチューブを背中の
とは日常茶飯事。寝る前も、家の柱に括
今度は一人で走りにいっているなんてこ
せを始めたり、いなくなったと思ったら
いると、急に何の前触れもなく腕立て伏
遅れて登場したのはライバル校、野瀬英
ウォーミングアップをしていた。そこに
海大相模高校」が多くの場所をとって
と試合場では、井上康生率いる名門「東
子さんの試合の応援に駆けつけた。する
ということもあり、野瀬清喜先生は、息
生の時の出来事である。高校最後の試合
を削るライバルだった。二人が高校三年
校時代、お互いが神奈川県内において鎬
英豪先生は井上さんと同い年であり、高
さんで、現在埼玉大学柔道部監督の野瀬
喜先生に伺ったそうだ。野瀬先生の息子
時、埼玉大学柔道部監督であった野瀬清
重 な お 話 だ。 津 沢 先 生 も こ の お 話 を 当
時代、元中央大学柔
二つ目は私が大ひ学
さ し
道部監督・津沢寿志先生にお伺いした貴
ができたのではないだろうか。
させることができ、多くの感動を生むこと
そ、 こ こ ま で 世界を魅了する技へと進化
り も「 努 力 で き る 才 能 」 が あ る か ら こ
に違いない。しかし「身体的な才能」よ
そうではないと思う。確かに才能はある
き る ん だ。
」 と 思 わ れ る だ ろ う が、 私 は
も示すことのできる心の広さがあるから
柔道には「自他共栄」という言葉があ
るが、その精神を高校最後の試合直前で
勝てない。
」そう思ったそうだ。
先生は「この選手に、うちの息子は一生
さ せ ろ。
」これを間近で聞いていた清喜
もっと端によって他の学校にもアップを
賭 け て き た の は 俺 た ち だ け じ ゃ な い。
合 場 の 端 に 集 め、 こ う 言 っ た。
「最後に
しかった。
「相模集まれ。」選手全員を試
であった井上康生のとった行動が素晴ら
狭い思いをしているわけだ。そこで主将
もちろん他校の選手などはもっと肩身の
プ す る 場 所 は ご く 一 部 に 限 ら れ て い る。
たそうだ。つまり、桐蔭学園高校のアッ
い、東海大相模高校はアップを行ってい
柔道界においても多々あることだ。その
会場を独占することは、残念ながら高校
理解している。よって、強豪校がアップ
て、一流選手ほどこのアップの大切さを
を作り上げていくかが重要である。そし
るものであり、いかに気持ちと体の状態
うものはアップの時からもう始まってい
えいごう
時 も 例 外 で は な く、 試 合 場 を 目 一 杯 使
とびで回るトレーニングを小学生の時か
豪さんの「桐蔭学園高校」だ。試合とい
せい
ら行っていたそうだ。一流の技術を見て
き
多くの人は「あの人は才能があるからで
-
- 69 -
-
つ こ と 』 だ。 こ れ を 忘 れ る な よ。
」人は
なるのに一番大切なことは『聞く耳を持
言ってもだめだぞ。そして、何より強く
て か ら 意 見 は 言 う ん だ ぞ。 た だ 意 見 を
の前に、必ず自分のやるべきことをやっ
を言うこともあるかもしれない。でもそ
はないのだから、この先、先生方に意見
わ れ た そ う だ。
「 い い か、 も う 高 校 生 で
手は入学した際にこんなことを彼から言
り、井上康生の付き人もしていた増渕選
い た も の だ。 当 時 東 海 大 学 在 学 中 で あ
増 渕 樹 選 手( 現 全 日 本 強 化 選 手 ) に 聞
最後の話は、私が以前国体に出場した
際 に 一 緒 に 栃 木 県 代 表 と し て 出 場 し た、
チャンピオンだ。
」とおっしゃっていた。
で、 津 沢 先 生 は 彼 の こ と を「 心 が 世 界
央大学にもよく出稽古に来ていたそう
り得たのではないであろうか。当時、中
こそ、多くの人々に愛される柔道家にな
たことに感謝をし、自分自身もまだまだ
いきたい。同じ時代に偉大な柔道家がい
ら学んだ多くのことをこれからも伝えて
いない生徒たちにも、柔道、そして彼か
としての私の目標であり、柔道をやって
を一人でも多く育てることが柔道指導者
輝きを放てる。そんな彼のような柔道家
行い、金メダルを首にかけていなくても
ても、柔道家としての立ち居振る舞いを
が残るかだと思う。柔道着を着ていなく
自分が持っている肩書きを外したとき何
「人間性」なのだ。人として大切なのは、
「 強 さ 」 や「 技 術 」 だ け で は な い。 そ の
彼にはある。私が彼に憧れるのは決して
ここまで、三つの話を紹介したが、こ
こでは書ききれないくらい沢山の魅力が
もあるだろう。
に名を残す柔道家へと成長させた要因で
さが、彼の最大の長所であり、また歴史
器の大きさが必要なのである。この謙虚
やはり他人の客観的意見をも取り入れる
り、世界中のどこを探しても、ボルネオ
ザ ル は、 ボ ル ネ オ 島 の 固 有 種 だ。 つ ま
のような鼻を持つサル」である。テング
ボルネオ島に生息する私の会いたい君
は、 テ ン グ ザ ル。 そ の 名 の 通 り、
「天狗
の旅行計画が始まった。
ばならない。この想いから、私の夏休み
での道のりは長い。ボルネオ島に行かね
足してはならない。しかし、君に会うま
やはり、会いに行かねば。想像だけで満
だ け で、 幸 せ な 気 持 ち に な っ て し ま う。
いのに、毛並みやつぶらな瞳を想像する
んだ、君は。図鑑でしか会ったことがな
プクプクのお腹。お茶の水博士のよう
なプルンプルンの長い鼻。なんて素敵な
ない。そこで、特定の植物の葉だけを食
湿地に成立する森林)にしか生息してい
田口 幸子
『君』に会いたい
一人では強くなれない。しかし、人は結
島のマングローブ林(河口汽水域の塩性
たつき
果が出だすと、ついすべて自分の努力の
続く「柔の道」を歩み続けようと思う。
(国語科)
みでここまで来たと錯覚をし、奢りが出
て し ま う こ と も あ る だ ろ う。 世 界 一 に
な っ て も よ り 高 み を 目 指 し 続 け る に は、
-
- 70 -
-
八月十五日の朝、ボルネオ島へ向かっ
た。魅惑のマレーシア旅行の始まりであ
奪われる。
いなければ、共生バクテリアはすみかを
生きていけない。そして、テングザルが
ングローブ林が無ければ、テングザルは
つながりの深さを感じさせてくれる。マ
とができない。あらためて、生物同士の
分解してくれなければ、消化吸収するこ
して分解してくれている。バクテリアが
が共生しており、硬い繊維質の葉を発酵
と教えてくれた。胃袋には、バクテリア
ある。現地のガイドが「牛と一緒だよ。
」
はなく、大きな胃袋をもっているからで
る。プクプクのお腹は、メタボなわけで
とで、エサをめぐる競争を少なくしてい
食べない栄養価の低い葉を食料にするこ
ができない。その代わりに、他の生物が
らは甘くて美味しいバナナを食べること
て、バナナが大好きなわけではない。彼
べて生きている。お猿さんだからといっ
た。英語でのコミュニケーションに不安
八月十六日の昼。日本で手配しておい
た、 現 地 人 ガ イ ド が ホ テ ル に 迎 え に き
ながら床についた。
ングザルとのご対面である。ワクワクし
理解できていない。翌日は、いよいよテ
にはなれず、果物の王様のよさは未だに
あるが、口中に広がる強烈な臭いが好き
と思った。ドリアンは以前食したことが
えば、屋台でドリアンも売られていたな
持込禁止の張り紙がしてあった。そうい
戻った。ホテルの入り口には、ドリアン
鳥)とマンゴスチンを購入し、ホテルへ
出ていた。私は、サテー(マレー風焼き
ば)などが売られている屋台がたくさん
焼き飯)やミーゴレン(マレー風焼きそ
は、魚介や果物、ナシゴレン(マレー風
テ ル は 南 シ ナ 海 に 面 し て お り、 近 く に
降ろしたら、すぐに散策に出かけた。ホ
経過していた。ホテルに着いて、荷物を
時半。成田を出発してから、約十時間が
東部)へ着いたのは、現地時間で午後六
二の都市、コタキナバル(ボルネオ島北
した。香港で乗り継いで、マレーシア第
ドが、テングザルについていろいろ話を
見せてはくれない。ボートの中で、ガイ
にいるはずのサルを探している。絶滅の
る人は、キョロキョロしながら、木の上
かったら、寂しすぎる。ボートを操作す
つつも、テングザルの姿を探す。会えな
く。初めて観るマングローブ林に感動し
込 み、 マ ン グ ロ ー ブ 林 の 中 を 進 ん で い
リアス川へ到着。桟橋からボートに乗り
道を、ガタガタと二時間走り続けて、ク
乗り込み、いざ出発。舗装されていない
案内料が八千円とは安いと思った。車に
ぶ や く。 運 転 手 と ガ イ ド を 二 人 つ け て、
思っていたので、心の中でラッキーとつ
に 乗 せ ら れ て、 他 の 観 光 客 も 一 緒 だ と
のバンが停まっていた。大きな観光バス
れられて、車まで行くと、そこには一台
農業を勉強していたそうだ。ガイドに連
ると話してくれた。JICAの研修所で
は、一年間、日本に住んでいたことがあ
出てくるだろうと思っていたからだ。彼
でほっとした。たくさん聞きたいことが
を感じていたが、日本語も話せるガイド
危機に瀕しているからか、なかなか姿を
め、燃料サーチャージが一番安い、キャ
る。 石 油 高 騰 の あ お り を 受 け て い た た
セイパシフィック航空を利用することに
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-
し て く れ た。 マ ン グ ロ ー ブ 林 の 中 で も、
食べる葉っぱは決まっているというこ
と。オスのほうが大きな鼻をもつという
こと。(テングザルの大きな鼻の理由は、
わかっていない。性選択、つまり異性へ
のアピールの結果か、機能的な役割があ
る の か は 不 明 ら し い。
) 泳 ぎ が 上 手 で、
水かきがあるということ。夜は木の上で
寝 る と い う こ と。 話 を し て い る と、 突
然、ガイドが林の方に向かって指を差し
ホストファミリー体験
亀山 瞳
私の住んでいる栃木県下野市は、ドイ
ツ・ ヘ ッ セ ン 州 に あ る デ ィ ー ツ ヘ ル ツ
タールと姉妹都市関係にある。交流の歴
史は、昭和四十一年に獨協医科大学名誉
教 授 の 故・ 石 橋 長 英 博 士 の 橋 渡 し に よ
る、 同 じ 名 前 が 取 り 持 つ 縁 を き っ か け
に、旧西ドイツのシュタインブリュッケ
中でつぶやいた。
しさであった。君に会いたかった。心の
んなに簡単に失ってよいはずがない。ま
る。長い年月をかけて生まれた生物をこ
滅に追いやられているとの研究報告があ
帯雨林では、毎日約七十四種の生物が絶
人間の、便利さだけを求める生活で、熱
多様な種の存続の必要性である。一部の
えた。
成十七年には姉妹都市締結三十周年を迎
たが、その後も交流は深まってゆき、平
れディーツヘルツタール、下野市となっ
まった。どちらの町も合併によりそれぞ
小学校児童による絵画の作品交換から始
ン(日本語で石橋の意味)と旧石橋町の
滞在中は、マレーシア初の世界遺産に
登録されたキナバル山に出かけ、絞め殺
ずは、守りたいと思うだけでなく、自分
-
- 72 -
-
た。まちにまった、テングザルとの対面
である。肉眼で観察できるくらい近くに
い る。 大 き な 鼻、 太 鼓 腹 も よ く わ か る。
し 植 物 や 食 虫 植 物 の「 ウ ツ ボ カ ズ ラ 、」
さ ら に は、 蕾 か ら 開 花 ま で 九 ヶ 月 か か
そして、今年の夏、交流活動の一環と
して、ドイツ人大学生の受け入れが実施
まるで縫いぐるみであるかのような愛ら
り、開花後わずか一週間で枯れてしまう
たちの出来ることから始めていかなけれ
家庭でホームステイをすることになって
された。学生達はみなそれぞれ日本人の
幻の「ラフレシア」も観察することがで
(理科)
ばならないのではないのだろうか。
今 回 の 旅 で あ ら た め て 感 じ た こ と は、
きた。とても有意義な休暇となった。
マングローブ林の中で発見したテングザル(メス)
ストファミリーに恵まれた体験から、自
が大学時にホームステイで素晴らしいホ
ストファミリーに立候補した。自分自身
やってみたいと思い、家族と相談し、ホ
集された。その記事を読んだ私は、ぜひ
おり、市の広報でホストファミリーが募
あり、充実した毎日を送っていた。活動
講習、午後は毎日何かしら違った活動が
彼女達が下野市にホームステイしたの
は約二週間であったが、午前中は日本語
さを心から尊敬している。
を勉強中で、私は彼女のその賢さと熱心
である、ということだった。今は日本語
そうだ。小学生たちは好奇心旺盛で元気
女達は小学生と一緒にその装飾を行った
子を取り除き加工したものであるが、彼
ぴょうの外皮(ふくべ)を乾燥させ、種
し か っ た の は、「 ふ く べ 細 工 体 験 」 だ っ
たりしていた。中でもヴェラがとても楽
道、書道、弓道、着物の着付けを体験し
ドイツ語はできなかったが、あいさつ表
という気持ちであった。私も私の家族も
ていて、本当に楽しそうであった。最後
見ると、みな表情がとても生き生きとし
ていた、と言っていた。その時の写真を
がよく、ふくべにとても上手な絵を描い
た そ う だ。
「 ふ く べ 細 工 」 と は、 か ん
分もホストファミリーの一員として、姉
で は、 酒 造 や 車 工 場 を 見 学 し た り、 華
現を家族で練習し、どきどきしながら学
-
- 73 -
-
妹都市から来る学生さん達を歓迎したい
生達の到着を待った。
品を見せてもらったが、どれも個性的で
味深かった。日本に来る前、彼女は、日
て彼女が感じたことを聞くのもとても興
くさん教えてくれた。また、日本につい
カードを見せながら、ドイツのことをた
こ と も よ く あ り、 彼 女 は 写 真 や ポ ス ト
であった。夕食を食べた後も会話が続く
たことを報告しあうのが、毎日の楽しみ
そうして忙しく過ごす中で、夕食を家
族で囲みながら、お互いにその日にあっ
素晴らしかった。
のお別れパーティーの会場で、八人の作
八月十八日、ドイツ人学生達が下野市
に到着した。ミュンヘン大学からやって
きた八名の学生達のうち、私の家に来て
く れ た の は、 ヴ ェ ラ と い う 女 の 子 だ っ
た。経済学専攻の大学四年生で、明るく
優しい子だった。同じ二十四歳というこ
ともあり、私たちは会ったその日からす
ぐに仲良くなった。彼女は高校生の時に
アメリカに留学していて、英語がとても
流 暢 で あ っ た。 私 が 驚 い た の は、 彼 女
は、 ド イ ツ 語 と 英 語 の 他 に、 フ ラ ン ス
語、スペイン語、スウェーデン語も堪能
着物着付け体験
る。電車に乗れば、
「ドアが閉まります」
ぞご覧くださーい」と大きな声で言われ
という庭園があり、その記念碑には「人
町の入り口にある緑地には、「石橋庭園」
賑やかだと言っていた。また、日本語の
までにたくさんの人たちが出会い、交流
人々が力をあわせてきたおかげで、これ
同じ名前の町を繋いでくださり、両町の
「携帯電話をお持ちの方は…」
「お忘れ物
話し方の特徴にも気付いたという。例え
を深めてきた。これからも、多くの人た
と村 同じ名もてり すみれ咲く」とい
う詩のドイツ語訳が書かれているそう
ば、
「おはようございまーす」
「お疲れ様
ち が 出 会 い を 重 ね て い く だ ろ う。 私 も、
だ。 そ の 詩 は 石 橋 教 授 が 作 成 を 依 頼 し、
でしたー」など、語尾が伸びているのを
ヴェラをはじめとする八人のドイツ人学
のないよう、ご注意ください」など、た
よ く 耳 に す る。 ま た、
「 う ん 」「 そ う そ
生と、素敵な出会いができた。初めての
くさんの放送がある。町を歩くと、必ず
う」
「そっか」などの相づちがたくさん
ホ ス ト フ ァ ミ リ ー に 挑 戦 し た こ の 夏 は、
俳人の水原秋桜子さんが作られたもの
ある。こういったことは、ドイツ語とは
人と人がお互いを思いやり、またその心
だ。石橋教授という一人の先生が自分と
違うらしい。今まで自分が知らなかった
を繋いでゆく素晴らしさとありがたさ
う声を聞く。思っていたよりも、すごく
こと、気付いていなかったことを、たく
-
- 74 -
-
「すごーい!」
「かわいいー!」などとい
さ ん 教 え て く れ て、 本 当 に 興 味 深 か っ
を、改めて感じた夏であった。
で あ っ た。 こ の 出 会 い は 一 生 の 財 産 に
(外国語科)
た。 二 週 間 と い う 短 い 時 間 で は あ っ た
が、彼女が私たちの家で過ごしてくれた
本人はとても静かであるというイメージ
なったと思う。
ことは、私と家族にとって、本当に喜び
を持っていたそうだが、実際に日本に来
ディーツヘルツタールの、石橋教授が
来るたびに歓迎会が行われていたという
に入れば、「いらっしゃいませー」
「どう
てみて、違う印象を持ったという。お店
ふくべ細工体験
たことは後にも先にもない。そして、当
た。あんなに協力して何かを姉弟で考え
私たち姉弟は犬の名前を色々と考えてい
る の は 一 週 間 後 と な っ た。 そ れ ま で に、
玉から犬をもらうことになった。犬が来
もたちのそんな願望もあり、はるばる埼
うよ、飼いたい 」と父に言った。子ど
た ち 姉 弟 は、 口 を そ ろ え て、
「 犬、 飼 お
その話をしているのを聞き、幼かった私
れ、 引 き 取 り 手 を 探 し て い た の で あ る。
犬が我が家に来たのは私が小学生の時
であった。親戚の家の近所で雑種が生ま
生きだったと思う。
今年の6月の始めに、飼っていた犬が
死んだ。 歳だったので、犬としては長
てつらく寂しいときにも犬をなでて心を
いつでも犬がいた。嬉しいときも、そし
生、大学生、社会人…すべての時の中に
いい犬になった。小学生、中学生、高校
増えるごとに、私の中で世界で一番かわ
なく見えた犬は一緒に生活をする日々が
した。初めて見たときはあまりかわいく
たときには、カッパを着て家の周りを探
犬をなでた。台風が上陸した日に脱走し
我が家に来た犬を私はとてもかわい
がったように思う。学校から帰ると毎日
で、我が家に犬がやって来たのである。
用の綱付きで0円という驚きの価格(?)
じの箱、赤い首輪、箱の中の布団、散歩
叔母の台詞が嘘のように聞こえた。しめ
番 か わ い い の を 選 ん で き た よ 」 と い う、
言 っ て そ ん な に か わ い く な か っ た。
「一
中に子犬がいた。第一印象は、はっきり
買ってきたのかな?」と思ったら、その
の 箱 が あ っ た。
「しめじでもお土産に
車で急いで家に帰ると、目の前にしめじ
そして、一週間後、私がそろばん塾に
行っている間に犬は田中家に来た。自転
だ。薬を与えても効いているようには見
な雑音が聞こえる、と母親に話したそう
である。獣医さんは、心臓にかなり大き
ていった。えさも全く口にできない状態
咳き込み、散歩にも行けない状態になっ
ら、目に見えて体が弱っていった。毎朝
時が過ぎ、周りの人からも「この犬は
長生きだね」と言われるようになってか
の犬なのであった。
たとえそんな冷たい犬でも、前に書い
たように、私にとっては世界ナンバー1
るときのみだ。それ以外は明らかに私を
輝かせて私を見るときは、おやつをあげ
れているだけの状態であった。唯一目を
もしっぽを振るわけもなく、ただなでら
かもしれない。私が学校から帰ってきて
言ったらただの言い訳になってしまうの
強で、その暇があまりとれなかった、と
世話をしていなかったのだ。部活動や勉
らない」という犬にとって大切な生活の
た。理由は「散歩に行かない・えさをや
こんなにかわいがっていたが、犬はい
まいち私になついていない様子であっ
私 と 犬
時流行していた漫画のキャラクターの名
癒した。
-
- 75 -
-
田中 千鶴
前になった。まだ、見てもいない犬の名
下に見るような目をむけてきた。
前が早々に決まった。
!!
14
上げて泣いていた。それほどに私たちが
歳であるにもかかわらず、電話口で声を
妹と弟に電話をした。姉弟はみんないい
う、遅かった。私は、すぐに家を離れた
心 し て し ま っ た。 気 づ い た と き に は も
死んだのは、ちょうど私が家にいると
きであった。前兆はあったと思うが、割
る日々が続いた。
る。早く帰りたいのに、なぜか遠回りす
時だ。また、同じようなことで不安にな
ほっとすると、次に怖くなるのは帰りの
子 が 確 認 で き る と、 ほ っ と し た。 朝 に
朝、窓に駆け寄り、何とか生きている様
い た ら ど う し よ う、 と 思 っ た か ら だ。
なった。もし、起きた時に冷たくなって
え な か っ た。 私 は 毎 朝 起 き る の が 怖 く
命の温かさを。
す。毛布でも電気でも火でもない、あの
も、犬に触れたあの頃の温かさを思い出
れ る か け が え の な い 存 在 な の だ。 今 で
な の だ。
「命」の温かさを感じさせてく
は自分の人生に影響を与える大切な存在
所詮はペット、と考える人ももしかし
たらいるかもしれない。しかし、ペット
しまうからだ。
く死んだ犬に申し訳ない気持ちを持って
を飼う気持ちにはまだなれない。何とな
れほど大きかった。でも、今は新たに犬
る。犬が私たち家族にくれたものは、そ
だったか。その方がもっと寂しい気がす
今思い返すと、もし、いなかったらどう
犬は飼うものではない、死んだ後はそ
う 思 わ ず に は い ら れ な か っ た。 し か し、
出す。それは、妹も弟も同じだと思う。
とにそれを見て、楽しかった日々を思い
で と う!」
「 よ ろ し く!」 な ど と、 か な
と こ ろ か ら 寮 生 が 出 て き て、「 入 学 お め
内放送を流した。すると、寮内のいたる
た だ 今 入 寮 し ま し た ~。」 と 大 音 量 で 館
イクを持ち、
「三四五号室の島田秋君が、
紹介をすると、そのうちの一人が突然マ
人の先輩が待っていた。先輩たちに自己
いた。緊張しながら玄関のドアをゆっく
ら、私は大学の男子寮の門の前に立って
生活に、期待と不安で胸を膨らませなが
大学の入学式を三日後に控えた平成十
四年の三月下旬、これから始まる新たな
り開けると、そこには寮生と思われる三
島田 秋
寮生活の思い出
共有した時間は長かった。3人とも自分
と調子のいい日であったので、なぜか安
の人生の半分以上を犬と一緒に過ごした
りのハイテンションで迫ってきた。男子
私は大学生活四年間のうち、二年間を
寮のあまりのテンションの高さに、私の
不安は一気に吹き飛ばされてしまったの
(外国語科)
犬が死んで私たち姉弟は、犬が一番か
わいくとれている写真を部屋に飾ること
を今でもよく覚えている。
のだ。
に決めた。始めこそ、悲しみで直視する
ことはできなかったが、今はことあるご
-
- 76 -
-
間がかかったのを覚えている。
新鮮であったが、慣れるまでには少々時
バシーがほとんど無いこの環境はとても
た。一人っ子である私にとって、プライ
呂は毎日が修学旅行の様に賑やかであっ
レ、風呂、キッチンはすべて共用で、風
で 仕 切 ら れ て い る だ け で あ っ た。 ト イ
屋で、お互いの空間は中央の二段ベッド
システムだ。寮生の部屋はすべて二人部
ば、同じグループの二年生に聞くという
生活や大学生活で分からないことがあれ
世話役である二年生が二人ずついた。寮
に分かれており、グループには一年生の
あった。八~十人ごとに十二のグループ
が百名で、そのうち七十四名が一年生で
私の大学には全部で六つの男子寮が
あった。私が住むことになった寮は定員
少し書いてみたいと思う。
であった。今回は、寮での経験について
り、自分を成長させることができたもの
私の人生の中でもとても濃いものであ
大 学 の 寮 で 過 ご し た。 そ こ で の 経 験 は、
とって、寮生と共に勉強できる環境はと
様々な誘惑に負けてしまいがちな私に
に 励 ん だ。 一 人 で 勉 強 を し て い る と、
私も明け方まで他の寮生と共に試験勉強
と、 学 部・ 学 科 ご と に 勉 強 会 が 開 か れ、
りすることができた。定期試験前になる
たり、勉強のポイントを教えてもらった
んでいるので、定期試験の過去問を貰っ
寮という場所は、勉強面ではとてもよ
い環境であった。寮には二、三年生も住
とができ、良かったと思っている。
だった性格を寮生活のおかげで変えるこ
当時は戸惑ったが、今考えると、神経質
かったのである。あまりの環境の違いに
か」といった経験を一度もしたことがな
ま り、
「おやつのプリンを巡る兄弟げん
んどの食べ物を独り占めできていた。つ
私は一人っ子であったので、家ではほと
を 使 っ て し ま っ た よ う だ。 前 述 の 通 り、
共用だったので、寮生の誰かが勝手に卵
いなかったのである。もちろん冷蔵庫も
あるはずの卵が、なんと二個しか残って
と、冷蔵庫を開けたときに起きた。十個
パーで買った特売の卵で卵焼きを作ろう
受けたらよいか相談に乗る。朝寝坊して
入寮したばかりの一年生に、大学や寮
での生活のしかたを教える。どの授業を
が待っていたのである。
一年生の世話役であるため、様々な仕事
えは甘かった。前述した通り、二年生は
と楽しみにしていた。ところが、その考
き、「 今 年 も 楽 し い 寮 生 活 が 送 れ る ぞ 」
幸い私はその二十四人に入ることがで
い。つまり、五十人の一年生は二年生に
し、 二 年 生 は 二 十 四 人 し か 寮 に 住 め な
そんな寮生活一年目はあっと言う間に
過ぎてしまった。一年生が七十四人に対
人とは、今でもたまに連絡をとっている。
切さを知ることができた。そのときの友
うになった。寮生活を通して、友人の大
で自分には何ができるか真剣に考えるよ
た。私自身も友人が悩んでいると、心配
こ と の よ う に 悩 み、 相 談 に 乗 っ て く れ
込んでいるとき、寮生達はまるで自分の
一つ屋根の下に百人の寮生がいるた
め、たくさんの親友もできた。私が落ち
ても助かった。
な る と、 寮 を 出 な く て は な ら な い の だ。
そんな私も寮生活に慣れてきた頃、あ
る事件が発生した。それは、前日にスー
-
- 77 -
-
生 の 相 談 に 乗 る。 一 年 生 に 勉 強 を 教 え
まった一年生を看病する。悩んでいる寮
い る 一 年 生 を 起 こ す。 風 邪 を ひ い て し
いる。
卒寮証書と栞を私は今でも大切に持って
後 の 思 い 出 と し て 思 い っ き り 楽 し ん だ。
があまり好きではなかったが、寮での最
肉パーティーが行われた。私はサッカー
いる寮生と卒寮した学生・OBが一堂に
る。 寮 対 抗 で 行 わ れ る ス ポ ー ツ 大 会 な
会し、思い出話に花を咲かせる。大学卒
ど、 様 々 な 行 事 を 準 備・ 運 営 す る。 な
毎週木曜日の午後十一時からは、二年
生全員が参加するミーティングが行われ
業 後、 私 は 一 度 も 参 加 で き て い な い の
そんな寮では、毎年十二月に行われる
同窓会が恒例となっている。現在住んで
た。ミーティングでは、寮での様々な懸
ど、仕事は山の様にあった。
案が話し合われた。時には、経済的に苦
で、今年は是非参加してみようと思う。
(数学科)
しんでいる一人の寮生について、明け方
まで話し合ったこともあった。二年生の
陰の努力があるからこそ、一年生は楽し
い寮生活が送れるのだと、自分が二年生
になり初めて知った。
二年生二十四人のうち、三年生でも寮
に残れるのはたった二人しかいない。私
は二年で寮を出て、三年生からは同じ学
科の友人と、二人でアパートに住むこと
になった。卒寮する三月上旬には、寮生
全員が集まり卒寮式が行われた。二年間
の寮生活をスライドで振り返り、卒寮生
全員に卒寮証書と記念の栞が手渡され
た。卒寮式の後には、サッカー大会と焼
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金 閣 寺
ゆ か り
古 口 敏 夫
に焼けこげた土が顔を出す。戦の激しさを垣間見ることが出
幕府軍の指揮官は新撰組の土方歳三であった。彼が私の住
んでいる街に放火していたのかと推測すると、何とも複雑な
来るのである。
気持ちになってしまうのである。
歴史的に京都と所縁の深い宇都宮の現在の街並は徳川家康
の重臣本多正信によって作られたものといわれている。町名
ある。しかし豊臣秀吉が関東仕置を行なった美しい宇都宮城
も京都を参考にして付けられたという。寺町があり大工町が
は慶応四年からの戊辰戦争で壊滅してしまった。
材木町には木戸があり、一般庶民の通行が制限されていたよ
る。東西には等間隔で同じ道幅の街路が通っている。出口の
身体の芯まで冷やす寒さなのだ。
らっ風」なのである。京都の比叡山から吹きおろす風に似て
き よ せ ら れ 一 気 に 吹 き お ろ し て く る。 い わ ゆ る「 関 東 の か
春なのに宇都宮の三月の風は冬にまして厳しい。関東の北
の台地が暖たまると男体山や那須山の冷たい空気がそれに引
こ う
うでもある。武家屋敷のある町名も京都に倣って、一条町・
か い
邂 逅
二条町……となっている。この碁盤縞のように美しい武家屋
あれはおよそ十五年くらい前のことだと思うのだが、その
日は小雨まじりの北風の強い朝であった。「一の筋」と「二
さん
敷は戊辰戦争で明治政府についた宇都宮藩の戸田氏を攻撃し
の筋」の間の自宅から東武百貨店のターミナル駅まで数分、
に
た旧幕府軍の放火によって焼失し、街は戦場に化してしまっ
浅草行きの通勤電車に飛び乗った。いつもの通り二両目と三
すじ
た。今では、碁盤の目状に仕切られた街並にだけ昔日の面影
両目の連結器のすぐわきの定席に陣取り、ルーティン・ワー
いち
小説や映画で有名になった「宇都宮釣り天井」を懐かしむ
やぐら
人々の手によって、最近城郭の一部の櫓が再建された。お城
を残している。
の西の高台は武家屋敷で南北に一の筋・二の筋・三の筋が走
現在でも庭を四・五十センチメートル掘り起すと、真っ黒
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いる。凍てついている大地が冷たい風雨にさらされている。
川」が西の男体山の方向から東の筑波山に向かって蛇行して
田 駅 を す ぎ る と 水 田 地 帯 に さ し か か る。 水 田 の 中 央 を「 姿
電車はガー、ガーと音を立てて、外堀(百間堀)にそって
築かれた土塁上の線路を走り出した。老朽化した電車が西川
忘れられなくて……。
」
せていただいたうえお茶までごちそうになりました。それが
「私は先生に金閣寺につれていっていただき、色々話を聞か
うのだがまったく思い出せない。
クになった英字新聞を読み出した。
それはいつか京都の郊外で見た風景なのである。私はこの風
やっと思い出した。あの時の生徒なのである。それにして
も、まったく昔の面影がない。
影のうすい憂いに満ちた小柄な中年の男性である。小旅行
をするのだろうか小さなバッグを持っていた。卒業生だと思
景が好きで、車窓からあたりをのぞくのが日課になっている
「昔がなつかしく、この電車に乗ればきっと先生に逢えると
まった。
今までに何度京都に行ったのだろう。いつの間にか龍安寺
か ら 金 閣 寺 へ、 そ し て 念 仏 寺 が 私 の 観 光 ル ー ト に な っ て し
修学旅行
感情が胸につまったらしく、言葉がとだえた。
思っていました。
」
のである。
こ の 地 が 戊 辰 戦 争 の 戦 局 を か え た「 安 塚 の 戦 」 の 戦 場 で
あったことを知る人は少ない。激しい銃撃戦で百人が戦死し
たのである。また負傷した政府軍の兵士を壬生城で看護した
婦人達が日本で最初の看護婦であったこともあまり知られて
いない。
晴れた日は筑波山の麓から真っ赤に燃えた太陽が顔を出
す。自分が吸いこまれる様な美しさなのである。しかしこの
そもそも私が初めて京都に行ったのは昭和三十四年の高二
の時の修学旅行であった。見学は寺社が中心であるためイン
日は荒涼とした荒地に生えるススキが風雨にもがき苦しんで
パクトが小さい。友人は耳もとで「寺から寺へまた寺へ」と
あた
いる。うす暗く暖房もきかない車内には三・四名の乗客がう
せきりょうかん
ずくまっていた。辺り一面成仏できない「霊」がさまよって
つぶやいていた。ところが金閣寺にくると様相が一変する。
火で焼失してしまったのである。現在の金閣寺は昭和三十年
金閣寺といってもそれは通称で鹿苑寺の金閣(舎利殿)の
ことであり、国宝の金閣は昭和二十五年二十一歳の学僧の放
舎利殿が金色に輝いている。
こんじき
いるような寂寥感におおわれていたのである。
い。そう「幽霊」のような人といった方が彼にふさわしい。
ふっと、気がつくと私の前に空気のように存在感のない人
が 立 っ て い た。 い つ 私 の 近 く に 来 た の か ま っ た く わ か ら な
「古口先生、お久しぶりでございます」
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の文化財に姿をかえて後世に長く残ることになったのである。
閣寺という有形の文化財の消失が「不朽の名作」という無形
説としての新しい文化が生れたのである。これは皮肉にも金
島由紀夫の「金閣寺」や水上勉の「五番町夕霧楼」などの小
のない金閣になっている。一方でこの事件が題材となって三
としての古い金閣を望むのならば百年もたてば焼失前と遜色
義満になったつもりで鑑賞すればよいのである。もし文化財
建てたのである。我々は再建されたきらびやかな金閣を足利
山文化を花開かせた美意識が鑑賞のための庭園を造り金閣を
考えて見よう、足利義満は後世の人の為の文化財を作る目
的で金閣を造営したのではなかったはずだ。彼の宗教心と北
たものを悔いても元に戻ることはないのである。
を失なったことは国家の損失にほかならない。しかし失なっ
担任は口角にあわを飛ばして文化財の損失を怒り悲しんで
いた。たしかに七〇〇年間守り続けたかけがえのない文化財
優美な姿にかえていたのだ。
いった名石が葦原島や鶴島、亀島の松と調和し金閣をさらに
金閣がまぶしかった。池の周辺に配された畠山石や赤松石と
が、心の底から美しいと思った。青空の下で鏡湖池にうつる
に再建された。私は、その四年後に見学したことになるのだ
「なんとなくわかるような気がします。」
聞いていた。
夫の「金閣寺」のあらすじを彼に話してやった。彼は必死に
しても無口になりやすい。片隅の石に腰をおろして三島由紀
金閣寺の境内に入って見ると、不思議なことに観光客が一
人もいない。二人で見る鏡湖池はさびしい。こんな時はどう
さそって見ると、是非行って見たいということであった。
「どうだい、タクシーで金閣寺にでも行って見ようか」
になるかもしれないと思うと胸が痛くなる。
した。ひょっとするとこの短い時間が彼との最後の触れあい
習も一段落ついたので部活のことなど四方山話で時間をすご
つ い た 表 情 を し て い た。 な ぜ か 私 は 彼 に 感 じ る も の が あ っ
はすでに退学を覚悟したのだろう、青白い顔であったが落ち
生徒は隔離され一人部屋で一晩をすごした。翌日の班行動
も禁止され、旅館で一日をすごさなければならなかった。彼
てしまった。
喫煙は退学処分が一般的であったので旅館内は大騒ぎになっ
盗んで「たばこ」を吸ったということである。修学旅行中の
をつれて部屋に入ってきた。担任の話によると、担任の目を
京都の宿舎に入った。しばらくすると担任が一人の男子生徒
腰をあげ、金閣の裏手に出て裏山に続く坂を登り始めた。
中腹に農家の納屋のような小さな古びた建物がある。茅葺で
「どうだい、放火した学僧の気持がわかるかい」
た。留守番役をかって出て彼と一日をすごすことにした。自
二人の金閣寺
かつては、本校ばかりでなくどの学校も生活指導が厳しかった。
その年の三月も寒い日が続いた。修学旅行も後半となり、
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三畳敷と勝手と土間があり、それに二畳敷の部屋が連なって
ます。皆さん金閣はきらびやかすぎて好きになれないと申
「私は金閣を毎日見ておりますけど金閣は必ずもどってき
せっ か てい
します。それに比べ金森宗和好みのこの夕佳亭は、古いだ
とこばら
いる。これが南天の木の床柱で有名な夕佳亭という茶室なの
である。
でしょうか。実を申しますと、この夕佳亭は明治初年に焼
「私は三島由紀夫の『金閣寺』を何度か読みましたが、小
考えたらいかがでしょうか。東大寺だって何度も燃え、そ
閣だって百年もたてばもとの金閣になってもどってくると
たものです。まだ百年しかたっておりません。ですから金
けに「わび」「さび」がありますとほめてくれます。本当
のぞくと、八〇歳くらいの品の良い老人がいた。私の顔を
見覚えていたらしくすぐ茶室に案内してくれた。茶室には、
失してしまいました。現在の夕佳亭は明治七年に再建され
説の中に出てくる学僧の相談相手がご亭主に似ているので
のつど造り直して文化を引き継いできました。金閣も同じ
も なか
我々三人だけ。最中を食べながら気軽に話しを続けた。
すが…。」
です。」
「そうです、私なのです。
」
その返事に生徒の瞳が輝いた。
「その後の学僧はどうしました」
老人はよほど母親の自殺に同情していたのだろう。
「死ぬ必要はなかったのに」
をくり返した。生徒は終始下をむいていた。校則違反が
どれだけ母親を悲しませるか。その結果がどうなるか。私
老人は一瞬狼狽したがしばらくして静かに話し出した。
「彼はこの夕佳亭の近くで自殺しました。彼はほんとうに
金閣を愛していたのです。私は彼の心の中はわかりません
も胸がいっぱいになっていた。
聴取を受けました。その帰りに保津峡に身を投げて自殺し
とつとつとその後を話し出した。
あいかわらず電車は車体をきしませている。空模様はだん
だん悪くなり、壬生につく頃にはどしゃ降りになった。彼は
最後のお茶
が、大好きな金閣と心中したのではないかと思っておりま
す。」
たのです。子供の後を追ったのか、社会にたいして親とし
心中という言葉に生徒の顔が曇った。
「悲劇はさらに続きました。彼の母親が警察に呼ばれ事情
ての責任を「死」という形でとったのかわかりませんが、
が出来たという。
退学した彼は心を入れかえ競輪選手を目指して必死に勉強
した。やがて努力が実り難関を突破して競輪選手になること
何も死ぬ必要はなかったと思います。
」
母親の自殺を聞くと生徒の目に涙があふれた。
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-
いまし
「先生に連れていっていただいた金閣寺の思い出が、ずっ
と戒めになっておりました。
」
て来たのです。」
風雨がますます強くなってきた。栃木に着くと彼は「これ
で気がすみました」とぽつりとつぶやいてどしゃ降りの中に
作りました。
」
彼のその後が心配で必死に探したのだが、彼を知る人は誰
もいなかった。やがて彼を知る友人から連絡が入った。
………………
姿を消していった。
そこまでくると急に口をとざし涙ぐんだ。
「私はほとほと自分に愛想が尽きました。いつも失敗しな
「先生、おかしいですね。彼は何年も前に死んだという噂が
彼は何度も何度もその言葉をくり返した。
「十二分すぎるほどの金が入り、結婚をし、幸せな家庭を
ければわからない自分が恥ずかしいのです。心のゆるみで
ありましたが……。」
(理科 教頭)
ルール違反をして競輪選手をやめる結果になりました。そ
の 後 は 奈 落 の 底 に 一 直 線 に 落 ち て し ま い ま し た。 な に を
やってもうまくいかず残ったのは借金だけです。家庭も崩
壊してしまいました。昨日、家庭を清算しました。
」
彼は窓越に力なく遠くを見ていた。
「こんなときは、いつも金閣寺での先生の話を思い出すの
です。」
「私にはもう何もありません。金閣に放火した学僧の気持
は今の私と同じだったと思うのです。
」
彼は深くため息をついて言葉を続けた。
「昨夜は一睡も出来ませんでした。ずっと夕佳亭での会話
を思い出していました。いま、ばかな子供を持った私の母
親は、自殺した学僧の母親と同じ気持ちでいるのではない
かと思うのです。そう思ったら居ても立っても居られなく
な り ま し た。 そ う し た ら 無 性 に 先 生 に 逢 い た く な り ま し
た。人生最後のお茶を夕佳亭でいただこうと思って家を出
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第十回 ニュージーランド語学研修(中学校)
佐々木 和 俊
立場によるものであるので、オーストラリアの特別な動物や植
食品関係のチェックは特に厳重であった。これは環境保護の
クライストチャーチに到着
仕方がないと思うしかな
た。 テ ロ 対 策 の た め に は
でも非常に時間がかかっ
生徒が持参した薬の説明
勿 論 の こ と、 持 病 の 為 に
物の機内持ち込み禁止は
厳 し く、 百 ㎖ 以 上 の 液 体
年度は税関のチェックが
間 の フ ラ イ ト で あ る。 今
それを生徒が見付
いたカードを掲げ、
が生徒の名前を書
ホストファミリー
後、 出 迎 え に 来 た
単なセレモニーの
校 へ 直 接 行 く。 簡
着。 バ ス で 語 学 学
ストチャーチに到
時二十分にクライ
二 十 六 日、 シ ド
ニー経由で午後二
物を守るためには
か っ た。 ま た、 帰 り に ク
けて初めての対面
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必要なのであろう。
ライストチャーチからシ
語学学校での授業
平成十九年二月二十五日二十時二十分、十期生の生徒達を
乗せたカンタス航空一三六便は、予定通り成田を出発した。
ドニーに入国するときの
シドニーまで九時間半、その後クライストチャーチまで五時
ホストファミリーとの初めての出会い
となる。ホストファ
直接把握することを目的に、一緒に活動することもあった。
ポーツなどの野外活動の時は、生徒の体調や精神的な状態を
がとても気を遣って
ストファミリーの方
の 毛 刈 り や、 羊 の 群 れ を ま と め る 牧 羊 犬 の 働 き を 見 学 し た
我々教員の引率で郊外に出かけて牧場で一日を過ごした。羊
ホームステイに入ってから一週間が経った時、久しぶりに
語 学 学 校 や ホ ス ト フ ァ ミ リ ー か ら 離 れ て み ん な が 集 ま り、
牧場見学での不思議な体験
ミリーに連れられて
学校を出るとき、不
安そうな顔をしてい
くれて、なんとかな
はひどい雨であった
後、牧場の家族とバーベキューを楽しんだ。牧場に行くまで
る生徒もいるが、ホ
るものである。生徒
のに、到着したとた
-
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-
達はこれからの研修
ん に 雨 が 上 が っ た。
ことでちょっとした
を崩したり、食事の
て み る と、 や や 体 調
て生徒達に話を聞い
ステイの生活につい
体験をした。ホーム
れるという不思議な
キューの時は再び晴
な っ た が、 バ ー ベ
び土砂降りの雨に
見学している間は再
小屋の中で毛刈りを
期間、午前中に語学
生まれて間もない子羊と一緒に牧場で
学校で十人ほどのグ
ループに分かれて英
語 を 学 び、 午 後 は
様々な活動をするこ
だ、午後のアクティビティで南極センターを見学したり、ス
ながらの研修であるので、生徒との接触は最小限にした。た
学校との打合せや連絡は毎日密にしたが、あくまで自立させ
速に適切な対処ができるような態勢をとった。しかし、語学
にした。その内容によっては語学学校と連絡を取り合って迅
二回提出させ、全員の研修状況を我々教員が把握できるよう
るようにと伝えてある。また、生活状況の報告書を研修中に
子を直接観察し、緊急に困ったことがあればその時に申し出
とになる。我々教員は、昼休みに語学学校に行って生徒の様
アクティビティでクリケットの試合
クライストチャーチの街は、映画に出てくる昔のロンドン
の街並みに似ている。ニュージーランドは元々無人島であっ
ばかりである。
の許に帰ってくる。健康に気を付けて頑張ってほしいと願う
あと四日間のホームステイである。五日目からまた我々教員
なことがあったようだが、なんとか乗り越えてきたという。
トラブルになったり、ホームシックになったりと、いろいろ
曜日の朝にゴシック様式の大聖堂前の広場に鐘の音が響き渡
の荘厳な空気の中で私は合唱隊の聖歌に聴き入っていた。日
れ、私が見学したときにはちょうどミサが行われており、そ
と、 外 か ら の 光 で ス テ ン ド グ ラ ス の 絵 が 鮮 や か に 浮 き 出 さ
生徒達はアクティビティの時間に歓声を上げながらカヌーに
ながら時間を過ごすことがあった。芝が整備されていたり、
を眺めながらテラスのテーブルで食事をしたり、お茶を飲み
遅くまで店で語らっている姿がある。私も何度かエイボン川
間から賑わっており、特に「追憶の橋」の付近では市民が夜
に流れるエイボン川のほとりにレストランやカフェが毎日昼
乗 っ て 楽 し ん で い た。 街 の 象 徴 で も あ る 大 聖 堂 の 中 に 入 る
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大きな柳の木が両岸に植えられている美しいエイボン川で、
たが、九世紀頃にマオリ族が初めてやって来たと伝えられて
エイボン川と街の人々
いる。十八世紀頃に
リスによる統治が始
まった。二十世紀に
主 権 を 確 立 し た が、
イギリスの文化の香
りを色濃く残してい
る。南島のカンタベ
リー平原の東部にあ
るクライストチャー
チは特にそのイギリ
スの雰囲気を感じさ
せる街である。市内
街の中心地大聖堂前広場で
探険し、やがてイギ
イギリスのクックが
エイボン川でのカヌー遊び
思った。
る様は、さながら大
英帝国時代の映画の
の前半にこのような
いるのである。十代
の生徒達は生活して
る。そんな街で本校
リアル北京での食事を終えて外に出た時のことであった。太
で、オーストラリアのシドニー湾を望むレストラン・インペ
にしたのは、今から十数年前に国際情報科の修学旅行の引率
る。日本で見ることのできないこの星座を私が空を仰いで目
南緯四十度の空に、α・β・γ・δの四つの星がクロスす
る 星 座 が 輝 く。 γ 星 か ら α 星 の 延 長 線 上 に は 天 の 南 極 が あ
南十字星
経験ができることは
えたのだろうと
古の昔、南半球の人類の先祖達はこの星座を見ながら何を考
一場面のようであ
と て も 幸 せ で あ る。
想 像 し、 再 び こ
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こ の 街 の 美 し さ は、
の星座を見に来
七 年 度 と、 二 回
となった平成十
ら中学校に異動
で き た。 高 校 か
二度得ることが
座を見る機会を
の後私はその星
強 く 思 っ た。 そ
見 な が ら、 私 は
輝くその星座を
湾の夜景の上に
たいと、シドニー
ここに生活する人々
世界遺産ブルー・マウンテンズ国立公園
の心の反映であると
思う。十三年間毎年
本校はこのクライス
トチャーチでホーム
し て く れ る 人 々 が い る こ と を、 決 し て 忘 れ て は な ら な い と
の裏側に日本人の若者達に対してこんなにも誠実に温かく接
で生徒を抱擁していたホストファミリーの姿もあった。地球
発する日の朝、語学学校の前で涙を流しながら別れを惜しん
の運転手さんに助けられたりした。クライストチャーチを出
やカメラが戻って来たり、道に迷って歩いていた生徒がバス
ステイ語学研修を行っている。その中で、街でなくした財布
フェアウェルパーティーでファミリーと共に
れた。
ではあり得ない壮大なブルー・マウンテンズの眺望に魅せら
ルー・マウンテンズ国立公園へ向かい、目の前に広がる日本
到 着 し た。 シ ド ニ ー の 西 百 キ ロ に 位 置 す る 世 界 遺 産 の ブ
ホームステイ生活を終えて、十期生達は飛行機でシドニーに
で き た。 前 日 ま で の 二 週 間 近 く の ク ラ イ ス ト チ ャ ー チ で の
の時は、一生思い出に残るに違いない眺めを目にすることが
目の卒業生を高校へ送り出した平成十九年度である。特にそ
うにデッキの上で動き回っていた生徒達も、夜が更けるにつ
たシドニー港の夜景が流れていくのを、船上からただただ静
りばめられた宝石のような星座群の下に、ライトアップされ
あった。
「 南 十 字 星 」 で あ る。 幸 い に 雲 は 少 な く、 満 天 に ち
そ し て、 私 が ど う し て も 見 た か っ た 星 座 が 空 に 現 れ た の で
アップされ、まるで絵はがきを見ているかのようであった。
や く サ ン セ ッ ト と な り、 次 第 に シ ド ニ ー 港 の 建 物 が ラ イ ト
船内のレストランで食事を楽しんだ。七時ごろになってよう
ルミネーションに輝くハーバーブリッジなどを眺めながら、
かに眺めるばかりであった。食事の後パーティーの騒ぎのよ
ディナークルーズ
て 完 成 し た オ ペ ラ ハ ウ ス、
だったが、十四年もかかっ
可能だと言われたデザイン
ような感じである。建築不
一日の中で四季を体験する
な る と と て も 涼 し く な る。
差しが強くて暑いが、夜に
月のシドニーは、昼間は日
にバスで市内の大通りは一通り走り、見学予定のポイントを
間に全員が無事にたどり着いた。前日、ホテルに到着する前
ら北上し、集合場所のDFSギャラリー・シドニーへ予定時
水族館などを経由してジョージストリートを買い物をしなが
して、ダーリングハーバー方面の国立海洋博物館やシドニー
ニー市内を班別で見学した。シドニータワー前を出発地点と
くにあるオーストラリア博物館で歴史と文化を勉強し、シド
街を上着無しで歩いたのは正解であった。徒歩でホテルの近
物を受け取る形を取った。夏の日差しが降り注ぐシドニーの
明くる日は、語学研修最後の日である。暑くなるというの
で生徒達には上着をスーツケースの中に入れさせ、空港で荷
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れてその光の神秘の世界に言葉を失っていった。
三百メートル以上の高さを
シドニー市内班別研修
誇るシドニータワー、夜イ
の観光船に乗り込んだ。三
ぎ、停泊していた貸し切り
感動醒めやらぬまま更に私達はシドニー港を目指した。私
が 以 前 初 め て あ の 星 座 に 出 会 っ た 場 所 で あ る。 午 後 六 時 過
ディナークルーズ シドニーの夜景を見ながら
生徒に確認させておいてはあったが、引率する教員としては
最も気を遣う班別研修である。ロックスのインペリアル北京
で夕食をとった後、いよいよシドニー空港から日本へ向かう
こととなる。再び約十時間のフライトである。
仲間と一緒に
シドニー発二十二時五分のカンタス航空二十一便は、予定
通り翌日の六時十分に成田に到着した。当たり前であるが、
三月の日本の空気はひんやりとしていた。この研修でたくま
しく成長した生徒達が、彼らの帰宅を待つそれぞれの家へと
帰って行った。ニュージーランドでの二週間、國學院大學栃
木 中 学 校 で の 三 年 間、 み ん な ほ ん と う に よ く 頑 張 っ た と 思
う。後一週間で中学校を巣立っていく。まだまだ教えておき
たいことがたくさんあるが、このまま社会に出ても生きてい
ける力は付いていると信じている。どんなことがあってもた
くましく生き抜いてほしい。人の心を素直に感じることので
きる人になってほしい。つらいときこそ明るく生きようとす
る気持ちを持ち、周りの人の心を温かくするような人になっ
(国語科)
てほしい。そして、十代の前半に南半球で仲間と一緒に見た
南十字星をいつまでも忘れないでいてほしい。
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SPPによる授業を行って
西 沢 敏
「科学技術・理科大
文部科学省では、平成十四年度より、
好きプラン」の一環として、学校と大学、公的研究機関、民
高校生にとって在学中に大学の先生から指導が受けられる
ということは幸せなことである。
一.はじめに め、 S P P の 名 称 が サ イ エ ン ス・ パ ー ト ナ ー シ ッ プ・ プ ロ
十八年度より三菱総研から、科学技術振興機構に変わったた
後、四年間申請が認められ平成十九年度まで実施することが
都宮大学教育学部の理科教育・環境教育の先生方と開講でき
つの統一テーマを決める。そしてそのテーマにしたがって宇
間企業等との連携により先進的な科学技術・理科、数学教育
ジェクトに変更されている。
育学部の先生方の協力を得てSPPの採択の申請を行った。
ど成果を発表しあうものである。招聘先として宇都宮大学教
義のみならず理科の実験実習の手ほどきを生徒が受け、後ほ
本校では平成十五年度より国公立大学を中心に大学の教員
を招聘し出張講義を行ってきた。SPPは大学の先生から講
PP事業」という)の実施を行ってきた。
に本格的に実験や実習をやってもらうのも私の夢であった。
るが、この設備を存分に生かして大学の先生に高校生を対象
普段良い授業に心がけるのはわれわれ理科教員の勤めではあ
室、天体ドームを備えた特別教育館が完成した。勿論ここで
理、化学、生物、地学の四分野の理科実験室そして理科講義
本校の理科の設備は充実している。昭和五十九年、現校長
の木村先生、現教頭の古口先生らのご理解、ご尽力により物
二.導入まで
できた。ただしこの事業をすすめる文部科学省の所管が平成
る 講 座 を 四 ~ 五 種 類 選 ん で い く の で あ る。 十 六 年 度 実 施 の
等を実施するための連携型科学技術・理科教育推進事業(サ
これが認められ本校では、平成十六年度文部科学省よりSP
イエンス・パートナーシップ・プログラム事業(以下、
「S
P連携プログラムの申請が採択された。方法としてはまず一
-
- 90 -
-
かった。
少なくとも理科系に所属している生徒には全員経験させた
を説くきわめて奥の深い授業であった。
生活において、なぜ科学的思考が必要かを理解させた。
ういうことか」という講義からモデル実験を通じて日常
放射線をつかまえよう。
射線を捉えさせた。いわゆる霧
アルコールの蒸気とランプ等
に用いられている芯を利用し放
してくれた。これならば四講座同時に開講でき一講座四十名
箱であるが、簡単な材料で自作
講座B
とすると一六〇名の生徒に対応する事ができる。まずは二年
法を紹介した。実際に放射線が
大気汚染物質を捕らえよう。
堀田 直巳先生
電気回路や偏光板などを使い身近な題材から科学の道筋
まずは本校の理科教員であった宇都宮大学出身の高瀬教諭
に松居誠一郎教授とコンタクトをとってもらいSPPの下話
をすることから始めた。SPPを何度も経験している松居先
生理科系からはじめてみようと考えた。
見えたときには生徒の歓声が上
生は本校の事情を良く理解してくれ、他に三名の先生を紹介
その後大学に四名の先生を訪ね、それぞれの先生のテーマ
を決めていった。各講座は実験を含め三時間単位である。そ
講座C
がった。
させ手軽に放射線を観察する方
して必要な予算等を出してもらいスポンサーである三菱総研
(平成十八年からは科学技術振興機構)に案を提出した。何
回か申請書を提出し総額一〇〇万円程度の予算が認められ平
山田 洋一先生
液体窒素や活性炭を利用した真空ポンプを自作させそ
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- 91 -
-
:
:
パワーポイントスライド⑴
山田先生の授業
成十六年度第一回の実施に至った。その後毎年申請が認めら
真空ポンプ
れ平成十九年度まで続いた。以下初年度を中心に講座紹介を
十二月十一日(土)二時~
人見先生の授業
していく。生徒のつくったパワーポイントの資料も掲載した。
三.平成十六年度
統一テーマ 『システムとして見る
自然環境』
自然環境を科学的に見る
:
人見 久城先生
「科学を学ぶということはど
講座A
:
の気体吸収作用から空気中の大気汚染物質を検出させた。
アルデヒドや窒素酸化物がわずかに検出されたが、校
内の大気は無害であることがわかった。
ケイ藻を使って過去の環境を探ろう。松居誠一郎先生
した。
太陽電池 南 伸昌先生
ラズベリーなどの色素から、太陽光を利用して電気を取
講座D
統一テーマ 『物質の状態の変化』
(土)
・十六日
(土)二時~
五.平成十八年度 十二月九日
り出した。
ケイ藻とは、水中で光合成を行う植物プランクトンで
ある。細胞壁が二酸化珪素からできていて化石として残
地からとった化石と前日光の
井戸湿原からとった化石を抽
出しそれらとの比較から宇都
地球も弾性体 伊東 明彦先生
講座A DNAの抽出 井口 智文先生
染色体の観察を行い、タマネギからDNAを取り出した。
講座B
こす。その波形をコンピュータで解析し地下構造を推測
する。その結果本校の地下は約六mの柔らかい層とその
本校グラウンドで、大きなハンマーを用い人工地震を起
講座B 身近な鉱物、遥かな鉱物 松居 誠一郎先生
ダイヤモンドの結晶を作成したり、火山灰を調べた。
人工地震をおこす
地下にチャートの硬い岩盤があることがわかった。
利用しているか考察した。
:
りやすい。栃木市の尻内の湿
講座D
:
:
:
講座C 化学反応とエネルギー 山田 洋一先生
中和反応やニトロベンゼンの抽出を通して反応熱を研究
-
- 92 -
-
宮の鶴田沼の江戸時代頃の古
環境がどちらに近いか推定し
た。 班 に よ っ て さ ま ざ ま な 考
察がなされた。
(土)・十七日(土)二時~
四.平成十七年度 十二月十日
統一テーマ 『光・熱とエネルギー』
パワーポイントスライド⑵
葉っぱはなぜ緑に見えるのか? 井口 智文先生
身近な植物から色素を取り出し、植物がどうやって光を
講座A
:
地震の解析
:
:
:
:
講座C 圧力による状態変化 南 伸昌先生
物質の状態の変化を追求し、エタノールが水より蒸気圧
が大きいことを実験を通じ確かめた。
七.報告書と報告会
の番組として放映された。また下野新聞の取材も受け記事と
講座の様子は、栃木ケーブルテレビの取材を通し、授業風
景や大学の先生方および生徒のインタビューがおよそ五分間
山田 洋一先生
液体窒素を用い二酸化炭素・酸素・水銀・電気抵抗の極
して紙面に掲載された。
講座D マイナス200℃の世界
低温での変化を研究した。
受講した生徒にはすべて講座内容をレポートにまとめさ
せ、考察を書かせ提出させた。講座内容や生徒のレポートを
テ ー シ ョ ン を 行 わ せ た。
参加した生徒から代表を四~五名選び十分程度でプレゼン
SPPに参加した生徒一同が大ホールに会して、最初のS
PP報告会が平成十七年一月十五日に実施された。各講座に
した。
(土)・十五日(土)二時~
六.平成十九年度 十二月八日
伊東 明彦先生
まとめ直し、およそ三〇ページの報告書(A4サイズ)を作成
統一テーマ 『自然現象の具現化』
講座A 地震を使って地球を調べる
平成十八年度に同じ。
講座B 身の回りの色のしくみ 南 伸昌先生
虹などの色のでる仕組み、屈折や干渉などの原理を研究
した。
パワーポイントの作成に
は各科目の理科の教員が
あ た っ た。 こ の 方 法 が 毎
講座C サケ・マスの受精 上田 高嘉先生
サケ・マスの精子の観察とバイオテクノロジーの研究を
行った。
対する指導は理科の教員
液 体 の 金 属・ 水 銀 を 体 験 し
の山田洋一先生を招待し
の代表として宇都宮大学
際講座を担当した先生方
度、 平 成 十 九 年 度 に は 実
で 行 っ た が、 平 成 十 八 年
年 恒 例 と な っ た。 発 表 に
堀田 直巳先生
歴史的な運動の法則を実験実習を通して証明した。
講座D 運動の背後に潜むもの
講座E
よう 山田 洋一先生
液体の金属である水銀について
実験を通してその特有な性質を
SPPの発表会
:
調べた。
水銀に浮かぶキー
-
- 93 -
-
:
:
:
:
:
:
:
い、賞を設けた。審査を山田先生および二学年主任であった
話もあった。またプレゼンテーションをコンテスト形式で行
するリテラシーつまり情報を活用する創造的能力についての
ることだけでなく科学に対する取り組みのしかた、情報に関
コメントをいただいた。平成十九年度には発表の内容に関す
進路選択につながればと考えている。
とし、生徒に理科のおもしろさに気づかせ、その後の学習や
験を交えた講座を実現する運びとなった。再び有意義なもの
大学の先生方の厚意により連携授業としてこれまでどおり実
は、あいにくSPP企画として認可されなかったが、宇都宮
うにもっていくのがわれわれの役割だと思う。平成二十年度
(理科)
飯村先生にお願いし会を盛り上げてもらった。地震から地下
構造を調べた講座Aの発表が最優秀賞に選ばれた。この発表
はパワーポイントを特別に参加した一年生がつくり地学選択
者がプレゼンを行ったユニークな発表であった。
八.終わりに
四回のSPP終了後、必ず生徒にはアンケート調査を行っ
ている。毎回「授業は面白かった。
」
、
「自分なりに理解でき
た。」、「また参加したい。
」
、
「理科や数学について知りたいこ
とを自分で調べようと思うようになった。
」と答えた生徒の
割合が圧倒的であった。大学の先生のみならず実験助手とし
て大学生も来るが、生徒はこうした大学のスタッフと交流し
ながら受講している。こうした機会を前向きに捉えて感謝の
気持ちものべている。ただ普段の理科の授業とその取り組み
が こ れ で 良 く な っ て い る か と い う と ど う だ ろ う か。 理 科 に
は、単発の実験実習だけでなく、普段の地道な学習も必要で
ある。Sppは理科のおもしろさ、進路を考えるきっかけを
つかむ良い機会である。こうして得られた前向きな生徒の考
えを普段の授業にも生きるよう、生徒が持続して学習するよ
-
- 94 -
-
〃
葭 葉 国 士
×
次 村山拓也○ 上四方固 △ 〃
関 本 次
先 佐藤鷹史△ 優 勢 ○石 川 先
國學院栃木 ○(一人残し)△白鷗大足利
第二十八回全国高等学校柔道選手権大会 栃木県予選
決 勝
柔道部三年間の「死闘」の記録
「才能とは持続する情熱である」恩師から大学卒業の際にい
ただいた言葉である。
平成十年、本校に奉職した時、柔道部のOB会でこんな話
をした。「全国で、名門『國學院栃木』と言われるようにが
ん ば り ま す。
」この約束は果たせているのか否かは分からな
い が、 部 員 た ち は、 良 き 伝 統 を 継 承 し、 全 国 優 勝 に 向 か っ
中 石沢翔太 × 長 島 中
を擁し、その内の一人は前年のインターハイの個人戦で全国
ル白鷗大足利高校は、新人戦の階級別個人戦での優勝者五名
平成十八年一月、二年連続八度目の全国選手権出場に向け
ての戦いが、栃木県武道館で行われていた。この年、ライバ
大将の伊藤大輔を近くに呼び寄せた。
先鋒が失点し、次鋒の村山拓也(一年)がすぐに同点に追
いつき、中堅、副将が引き分けて迎えた大将戦の直前、私は
大 伊藤大輔○ 大内刈り △亀 山 大
て、がんばっている。
優勝した選手であった。それに対して本校は、一年生を三名
副 岩上慶信 × 福 地 副
起用しなくてはならない苦しい状況であった。戦前の予想に
私‥「今、そんなこと考えるな。自分が決めてこい」
伊藤‥「はい」
私‥「頼むぞ、決めてこい」
伊藤‥「引き分けで、代表戦でもいいですよね」
対して一矢報いるべく臨んだ本校選手達の戦いはすばらしい
ものであった。
-
- 95 -
-
いよいよ運命の大将戦が始まった。相手選手は一階級上の
チャンピオンであったが、開始からひるまず背負い投げを連
私‥「頼むぞ」
中 岩上慶信○ 払 腰 △宮 園 副
〃 △ 払 腰 ○漢 那 大
次 伊藤大輔 二回戦
× 七 戸 中
発した。審判の「待て」の時、近くを通った伊藤に「大内刈
副 石沢翔太△ 優 勢 ○ 〃
大 村山拓也○ 背負い投 △ 〃
りだ」と相手選手に気付かれないように伝えた。試合が再開
間、体を入れ替え「大内刈り」に変化した。見事な「一本」
され、伊藤は一瞬「背負い投げ」に入る動作を見せ、次の瞬
であった。
國學院栃木○(二人残し)△松本一(長野)
先 小林一吉○ 優 勢 △細 野 先
三月、二年連続で栃木県予選を突破した本校柔道部は日本
武 道 館 で 行 わ れ る、 全 国 高 等 学 校 柔 道 選 手 権 大 会 に 出 場 し
〃 △ 縦四方固 ○松 崎 次
次 岩上慶信○ 合わせ技 △
〃
〃 ○ 大外刈り △腰 原 中
〃 △ 内 股 ○津 金 副
中 伊藤大輔△ 袈裟固め ○
〃
副 石沢翔太○ 優 勢 △ 〃
〃 ○ 合わせ技 △木 次 大
大 村山拓也
一回戦、二回戦と順調に勝ち上がり、今まで栃木県勢が一
度も超えたことのないシード校を超える戦いである。一進一
退の攻防が続いていた。副将同士が引き分けになり、勝負の
行方は大将同士の対戦となった。大将に置いた岩上慶信(一
年)は無言で私の前に立った。目を見て、両手で頬を三回ほ
ど張り「任せたぞ」と言った。それ以上の言葉は必要なかっ
-
- 96 -
-
た。前年の大会は二回戦でシード校の大成(愛知)に一人残
しで敗れていた(この大会は体重無差別で五名による勝ち抜
き戦で勝敗を決する)
。これが栃木県勢の定位置であり、組
み合わせに恵まれても、シード校との対戦(三回戦、ベスト
)で涙をのんでいた。
「まずはベスト8進出を目指す」こ
國學院栃木○(一人残し)△那覇西(沖縄)
先 佐藤鷹史○ 優
勢 △長 浜 先
〃 ○ 払 腰 △盛 根 次
〃 △ 合わせ技 ○七 戸 中
第二十八回全国高等学校柔道選手権大会
(2年連続8回目の出場)
一回戦
れが当時、本校だけでなく栃木県柔道界の目標であった。
16
けると、相手は宙を舞い畳に落ちた。
「一本」という審判の
た。無言で頷くと畳に上った。開始三十秒、岩上が内股を掛
甲 斐 大
大 佐藤鷹史△ 優 勢 ○金 子 副
県の柔道が、初めてシード校の壁を破った瞬間だった。
い。春の予選は執念で勝利したものの、前述した通りの最強
栃 木 県 予 選 で 宿 敵、 白 鷗 大 足 利 高 校 を 破 ら な く て は な ら な
全国大会でベスト8に入り、次は夏のインターハイでのベ
スト4が目標になった。もう一度全国で勝負するためには、
声と同時に、私は服部先生と抱き合っていた。本校が、栃木
三回戦
り戦は総合力で戦わなくてはならない。とはいえ、柔道はあ
抜き戦は、一人抜群に強い選手が居れば勝てるのだが、点取
チームと今回は点取り戦で戦わなくてはならなかった。勝ち
國學院栃木○(一人残し)△崇 徳(広島)
先 佐藤鷹史△ 優 勢 ○大 原 先
次 村山拓也○ 背負い投 △ 〃
くまでも個人競技であり、一人の選手に対して二人でかかっ
て行くわけにはいかないのである。そういう意味でも、白鷗
が有利な事に変わりは無かった。白鷗との対戦を意識し、試
合の二週間以上前からオーダーを考え、万全の状態で予選を
た。それを上手く操り、対白鷗のみを意識したオーダーを準
〃 × 上 川 次
中 伊藤大輔
中 村 中
×
副 石沢翔太
徳 富 副
×
大 岩上慶信○ 内
股 △高 地 大
決勝前に組んだ。そのせいで、準決勝戦で思った以上に苦戦
迎 え た。 オ ー ダ ー は 五 人 中 二 名 だ け 入 れ 替 え が 可 能 で あ っ
次の準々決勝、世田谷学園戦は完敗だった。1勝も上げる
ことができず、夢にまで見た舞台は幕を閉じた。この年、世
村山に、
「迷うな、やれ!」とジェスチャーを交えた指示を
ないまま、ラスト五秒で時計が止まった。ちらっと私を見た
エースと、二年生村山との対戦であった。お互いポイントの
沢 が ポ イ ン ト を 取 れ ず に 引 き 分 け、 副 将 戦 は 相 手 チ ー ム の
内容では負けている状況であった。中堅戦、本校エースの石
負けを喫し、次鋒の岩上が優勢勝ち、一対一としたものの、
し、代表戦の末、作新学院を下した。決勝戦は先鋒戦で一本
田谷学園は万全の試合運びで、全国優勝した。
準々決勝
國學院栃木△(二人残し)○世田谷(東京)
先 伊藤大輔
×
鈴 木 先
次 岩上慶信△ 裏投げ
○海老沼 次
中 村山拓也
×
〃
副 石沢翔太 ×
高 橋 中
-
- 97 -
-
出した。「始め」の合図と同時に素早く自分の組み手になり、
放った背負い投げが終了のブザーと同時に決まった。
「技有
り 」 と い う 審 判 の 判 定、 完 全 に 明 暗 が 分 か れ た 瞬 間 で あ っ
た。大将戦を手堅く引き分け、四年連続十三回目のインター
ハイ出場が決まった。
この年、個人戦でインターハイに出場できたのは、100
㎏超級の石沢翔太だけであった。
國學院栃木○ 4対0 △稲生(三重)
二回戦
國學院栃木○ 3対1 △近江(滋賀)
決勝トーナメント
二回戦
國學院栃木△ 0対3 ○埼玉栄(埼玉)
先 佐藤鷹史 × 江 原 先
次 石沢翔太
× 岡 村 次
中 伊藤大輔△ 合 技 ○青 木 中
副 村山拓也△ 優 勢 ○新 井 副
大 岩上慶信△ 小外刈 ○有 山 大
-
- 98 -
-
第五十五回全国高等学校柔道大会 栃木県予選
國學院栃木○ 2対1 △白鷗大足利
先 小倉大樹△ 横四方 ○長 島 先
次 岩上慶信○ 有 効 △江 口 次
中 石沢翔太 × 亀 山 中
インターハイが終わると、すぐに新チームの強化が始まっ
た。前年のレギュラーを三人残し、最上級生を五人揃えた過
去最強のチームが編成できた。しかしライバル白鷗大足利高
かけたチームであった。しかし、監督の心配をよそに選手た
副 村山拓也○ 技 有 △福 地 副
大 伊藤大輔 × 関 本 大
ちは全国での戦いを意識していたようである。
校も、県内外から十三名の選手を特待生として迎えた勝負を
平成十八年のインターハイは大阪府堺市で開催された。団
体戦は目標であったベスト4には到底及ばず、ベスト で埼
沢も、一回戦で敗れた。
先 佐藤鷹史○ 優 勢 △福 島 先
× 五十部 次
〃
國學院栃木○ 3人残し △白鷗大足利
第二十九回全国高等学校柔道選手権大会 栃木県予選
玉栄(埼玉)に0対3で完敗した。個人戦に唯一出場した石
16
第五十五回全国高等学校柔道大会(4年連続 回目)
予選リーグ
一回戦
13
次 小倉大樹○ 大内刈り △八 代 中
次 〃 ○ 指導1
△斉 藤 副
〃 × 引き分け ×江 口 大
中 真中 隆
副 村山拓也
大 岩上慶信
前年の苦しかった予選とは違い、完全な横綱相撲で全国選
手権の予選を突破した。県内ではかつて無いようなドリーム
チームができあがっていた。この時、部員達は予選はあくま
でも通過点としての位置づけだったように思える。しかし、
「誰かが取るだろう、誰かが取るだろう」と引き分けを重ね、
ちょっとしたミスからの失点が命取りになるのが一番怖いパ
ターンで、それがないように全国大会に向けての強化を行った。
第二十九回全国高等学校柔道選手権大会
(3年連続9回目の出場)
一回戦
國學院栃木○(二人残し)△東海大仰星(大阪)
先 佐藤鷹史○ 袈裟固め △山 口 先
〃 × 中 村 次
次 小倉大樹○ 出足払い △姫 城 中
〃 ○ 優 勢 △荒 木 副
〃 △ 大外刈り ○藤 原 大
中 真中 隆△ 横四方固 ○藤 原 大
副 岩上慶信○ 大外刈り △ 〃
大 村山拓也
※東海大仰星高校は、近畿大会を圧倒的な強さで優勝して
いた。この強豪に対し本校は、先鋒と次鋒の活躍で優位に試
合を進め、勝利した。
二回戦
國學院栃木○(一人残し)△大牟田(福岡)
先 真中 隆△ 優
勢 ○中 島 先
次 小倉大樹○ 合わせ技 △ 〃
× 増 田 次
〃
中 村山拓也
× 立 花 中
副 佐藤鷹史
× 藤 本 副
岩上慶信○ 優
勢 △江 口 大
大
※対戦校の大牟田高校は、九州チャンピオンで、シード校
でもあった。前年度のインターハイ重量級で準優勝したエー
ス藤本を一人で止めることができたのが勝因である。
三回戦
隆
國學院栃木○ (代表戦) △埼玉栄(埼玉)
× 坂 本 先
真中
先
次 佐藤鷹史△ 小外刈り ○渡 辺 次
中 小倉大樹○ 合わせ技 △ 〃
-
- 99 -
-
中 小倉大樹△ 小外刈り ○金 子 中
副 村山拓也○ 優 勢 △ 〃
〃 × 小 倉 副
大 岩上慶信 ×
西 川 大
代 岩上慶信○ 小外刈り △小 倉 代
※前年度、関東大会優勝校との対戦であり、埼玉栄高校は
優勝候補でもあった。実力は拮抗しており代表戦までもつれ
た。代表戦を任せるのは実力的に見れば村山、対戦相手を見
れば小倉を起用する場面であった。しかし、
「困った時は主
将の岩上かな」と直感して、岩上を起用した。
私‥「慶信、行くぞ。
」
」
岩上‥「はい。
た。岩上が相手に抱きつき「小外刈り」を放ったのである。
終 了 の ブ ザ ー と 同 時 に 放 た れ た 技 で、 判 定 は 時 間 内 で「 一
本」
。岩上が本当に神に見えた瞬間であった。
相手の小倉選手はこの年インターハイ個人戦で優勝した。
準々決勝
國學院栃木△(三人残し)○国士舘(東京)
先 小倉大樹△ 優 勢 ○春 山 先
次 真中 隆△ 合わせ技 ○
〃
中 岩上慶信 ×
〃
副 村山拓也○ 優
勢 △上 鍵 次
百 瀬 大
上 杉 副
〃 △ 優 勢 ○寺 島 中
大 佐藤鷹史△ 内
股 ○
〃
(岩上は左組み手の選手が苦手だった)
※「全国大会は準々決勝から」一年間この日のために言い
続 け て き た 言 葉 で あ る。 組 み 合 わ せ が 決 ま る と 合 い 言 葉 は
村山‥「先生、相手は小倉ですよ。左ですよ。
」
私‥「神様に任せよう」
攻め手を欠いていた。それが消極的と見られ、指導(反則ポ
こんなやりとりが、ベンチであり、準々決勝進出をかけて
の代表戦が始まった。岩上はやはり左組み手が苦手らしく、
た。記録は全国第5位入賞であったが、私たちの中では「1
ま っ た 感 が あ る。 し か し、 言 い 訳 は 通 用 し な い、 完 敗 だ っ
「打倒、国士舘」に変わった。組み合わせ的には決して恵ま
(岩上は時々自分自身のことを「神」と呼んでいた)
イント)を取られてしまった。そのまま為す術なく時間だけ
回戦負け」に等しかった。
夏のインターハイに向けての強化が始まった。関東大会予
れ て は い な か っ た。 む し ろ、 一 番 厳 し い ヤ マ 組 に 入 っ て し
が無情に過ぎていき、審判の「待て」の合図、時計は残り三
秒と表示されていた。誰もがあきらめていた次の瞬間、
「始
め」の合図と同時に、相手選手が私の目の前に倒れ込んでき
-
- 100 -
-
体連柔道部のルールでは、引き抜きを防止するために、転校
ましたので、次のインターハイ予選から出場させます。
」高
きた生徒を、四月一日付けをもって、一家転住の手続きをし
れない言葉出た。
「本校に昨年の十一月一日付けで転校して
選の監督会議の席で、白鷗大足利高校の監督の口から信じら
点 す る は ず の 無 い 選 手 で あ っ た が、 小 倉 の 執 念 の 払 い 腰 で
先鋒・次鋒が引き分け、中堅の村山がまさかの失点。開始
早々に上手く内股を合わされ「一本」
。副将は逆に相手が失
想通り、互角の戦いになった。
手を使う奴らに、絶対負けるな。」と言い続けた。試合は予
」
私‥「小倉いくぞ。
け、代表戦に。
はない。」とされていた。この選手の場合は、実家は茨城県
小倉‥「いいえ、岩上でお願いします。」
「 一 本 」。 同 点 に 追 い つ く。 大 将 戦 は 両 者 決 め 手 無 く 引 き 分
で、中学二年生の時に「講堂学舎」
、いわゆる「世田谷学園」
私‥ガクッ「何でだ。」
生は1年間公式試合には出場できない事になっていた。ただ
に転校し、高校一年の十月まで在籍していた選手であった。
小 倉 ‥「 岩 上 は キ ャ プ テ ン と し て こ の チ ー ム を ま と め て
きました。だから最後は岩上でお願いします。
」
し、「一家転住などの止む得ない理由の場合は、この限りで
それが個人的な事情で栃木の白鷗大足利高校に転校してきた
なっていた。しかし、
「一家転住」というルールを悪用して、
」
村山‥「相手は江口です。
ために、高校二年の十一月から試合出場が認められることに
住所を一時的に足利に移し、高体連の手続きを行って出場し
私 ‥「 い ま さ ら、 こ の 状 況 で ご ち ゃ ご ち ゃ 言 う な。 小
倉、頼むぞ」
てくる事になった。高体連に問い合わせたところ、一時的に
世田谷学園」とは多くの世界チャンピオンを輩出した名門
れ 以 上 の 調 査 は で き な い と い う こ と で あ っ た。
「 講 堂 学 舎・
「背負い投げ」をかけ逃げし、反則ポイントの「指導1」が
いた。結果は小倉のプレッシャーに相手選手が耐えきれず、
と、このようなやりとりがいつものようにベンチで行われて
でも住民票が提出された以上、個人情報保護の観点から、こ
で、そこのレギュラー選手が栃木県に転校してきた。さらに
与えられ、小差での優勢勝ちとなった。
先
佐藤鷹史×
第五十六回全国高等学校柔道大会 栃木県予選
國學院栃木①
代表戦 1白鷗大足利
引き分け ×根 本 先
一家転住ですぐに試合に出場してくるということで、栃木県
の高校柔道界は混乱した。
高校生は少しの精神面の変化が大きく試合に影響してく
る。一ヶ月後のインターハイ予選に勝つために、
「誰が来よ
うが関係ない。俺たちは俺たちの柔道をするだけだ。卑怯な
-
- 101 -
-
次 真中 隆× 引き分け ×小 倉 次
中 村山拓也△ 内 股 ○江 口 中
副 小倉大樹○ 払 腰 △五十部 副
大 岩上慶信× 引き分け ×斉 藤 大
代 小倉大樹○ 指導1 △江 口 代
この結果、五年連続十四回目のインターハイ出場が決まった。
しかし、この年はスターチームの良さと悪さの両方を監督
として経験することになるとは、この時点では思ってもいな
かった。万全の注意を払っていても、恐れていた事が起こる
のが高校生なのだと、改めて痛感させられた。
回戦は春の全国大会でも対戦した近畿地区チャンピオン、大
阪代表の東海大仰星高校であった。この試合で恐れていたこ
とが起こった。先鋒から、今一歩激しく攻めきれず「引き分
け」が続き、副将でエース小倉が「有効」を取られて失点、
大将の真中が四分間攻め抜くものの、逃げ切られてしまい、
まさかの予選リーグ敗退となった。
試合後、全員が言葉を失った。地元の栃木から仕事を休み
応 援 に 来 て い た 父 母 た ち も「 ま さ か 予 選 リ ー グ で 負 け る と
は」と言葉を詰まらせた。私は父母や選手達に頭を下げた。
原因は明らかだった。監督の経験不足だった。
悔しかった。惨めだった。もう一度試合をさせてもらえる
の で あ れ ば、 何 を し て で も や ら せ て も ら い た か っ た。 し か
め、 ま っ た く 噛 み 合 わ な く な っ て い っ た。
「 で も、 今 年 の
集 ま り だ っ た チ ー ム は、 個 々 が 勝 手 に 修 正 し よ う と 動 き 始
イラ」していた。一度歯車が狂い始めると、元々強い選手の
欠いていた。それを見て経験不足の監督(私)は毎日「イラ
かが違っていた。毎日の練習でも動きに切れが無く、精彩を
は当然優勝候補だった。翌日、決勝トーナメントが控えてい
の春の全国大会では、修徳高校は三位になっており、今大会
校時代から懇意にしてくれていた一歳年上の先輩で、この年
なかった。この先生は実家が同じ東京の足立区内で近く、高
は無いのだが、お世話になった先輩監督の誘いを断る理由も
ら、ちょっと出てこい」と言う電話であった。そんな気分で
その夜、東京代表で初出場した、修徳高校の監督から電話
が あ っ た。 同 じ 宿 舎 に 泊 ま っ て い て「 今、 ロ ビ ー に 居 る か
し、それは当然叶うはずもなく、宿舎に帰った。
チームは地力があるから」と自分に言い聞かせ、まったく仕
この年のインターハイは佐賀県で行われた。春の勢いその
ままで乗り込むつもりであった。しかし、七月にはいると何
上がらない状態であったが、インターハイは待ってくれるは
て来た。
のであった。店に入り、ビールを呷ると、悔しさが込み上げ
るにも関わらず、
「国栃」が負けたのを見て、誘ってくれた
予選リーグ一回戦は名張高校(三重)に四対0の快勝、二
ずもなく、不安を抱え佐賀に乗り込んだ。
-
- 102 -
-
前 の と こ は 金 鷲 旗 に し ば ら く 出 て な い だ ろ。 来 年
も、 そ れ が イ ン タ ー ハ イ で な く て 良 か っ た よ。 お
O先生「俺も金鷲旗で白鷗に負けた時は同じだったよ。で
」 私 「情けないです。
」
O先生「どうだ、悔しいだろ。
翌日、修徳高校は決勝トーナメントを順調に勝ち上がり、
決勝に進出、決勝で同じ東京都代表の国士舘高校に3対1で
果となってしまったのであった。
あった。しかし、インターハイは前述した通りの情けない結
出 場 し て く る 国 栃 も ま た、 さ ら な る 注 目 を 浴 び て い た の で
れた事は日本中に伝わり、その白鷗に勝ってインターハイに
し、敗れていたのである。当然、優勝候補であった修徳が敗
日、 俺 は 絶 対 に 優 勝 し て や る。 優 勝 し な い と 何 の
り、 金 鷲 旗 で の 失 敗 な ら、 立 て 直 し が 効 く ぞ。 明
負 け た ら 大 変 だ け ど、 イ ン タ ー ハ イ で 失 敗 す る よ
会(勝ち抜き戦)、三つ目が八月のインターハイ(点取り戦)
き戦)
、二つ目は七月に福岡県で行われる金鷲旗高校柔道大
つ目は三月に日本武道館で行われる全国高校選手権(勝ち抜
インターハイも終わり、また新チームのスタートの時期を
迎えた。高校柔道界には三大タイトルというものがある。一
敗れ準優勝に終わったものの、堂々たる戦いぶりであった。
からは出たらどうだ。
」
私 「 金 鷲 旗 は お 金 が か か る で し ょ う、 だ か ら な か な
か思い切れないんですよ。
」
ために金鷲旗で情けない思いをしたのか分からな
である。まずは例年のように、一月の全国選手権の予選を突
O 先 生「 学 校 で 出 な い の か。 そ れ じ ゃ 大 変 だ な。 で も 確
かにお金もかかるし、お金かけて福岡まで行って、
く な る か ら な。 お 前 も こ の 失 敗 を 次 に 生 か せ ば い
破しなくてはならない。ライバル校の白鷗大足利高校には転
校生の根本がエースとして残り、代表戦では分が悪い。まさ
いよ。
」
はなくフリー参加の全国大会であることから、学校からの金
道界の三大タイトル」と言われてはいるものの、公式大会で
た。練習が厳しくついてこれなくなったのであった。部活は
なった。入学早々、一人の部員が学校に登校してこなくなっ
高 校 入 学 時 に ラ グ ビ ー 部 に 移 籍 し、 十 一 名 で の ス タ ー ト と
この学年は、附属中からの四名と、外部から八名の合計十
二名でスタートする予定であった。その中で附属中の一名が
に部員一丸となっての総力戦しかなかった。
銭的援助は全く無い大会である。また福岡県で開催されるこ
いいから学校は続けるように促したが、その生徒が登校して
と、こんなありきたりの慰めも、この日は心に染みた。毎
年七月に行われる「金鷲旗高校柔道大会」はここ近年参加し
とから、飛行機代や宿泊費だけでも一人六万円はかかるので
ていなかった。インターハイとの時期が近い事と、
「高校柔
あ る。 こ の 年、 修 徳 高 校 は 栃 木 県 の 白 鷗 大 足 利 高 校 と 対 戦
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- 103 -
-
対2の内容差で敗れた。
「二度負けたら癖になる。
」この一年
の大学で開催される招待試合の決勝戦では白鷗と対戦し、2
南部地区の新人戦を「効果」ポイント一つの1対0で何と
か勝利し、県新人も3対1で勝ったものの、十二月の千葉県
がついに来たのである。
この時想像もつかなかった。その七名が中心となって戦う年
ムワークを発揮し、過去最高の結果を残すことになるとは、
い続け、これを変える気はなかった。この七名が抜群のチー
めたのはショックであったが、常に「戦う集団であれ」と言
に五名が柔道部から去っていった。正直、附属中の生徒が辞
の内、附属中の二名は思いとどまったが、一年経たないうち
の三名と外部から入学した三名が部を辞めると言いだし、そ
くることは無かった。その後、連鎖反応のように附属中から
「けんか四つ」である。けんか四つの重量級を得意としてい
場 面 で あ っ た。 倉 持 は 左 組、 相 手 の 根 本 は 右 組 の い わ ゆ る
がほしい状況であったが、倉持が引き分けでも優勝が決まる
ことができなかった選手である。欲を言えばもう一人リード
重要な場面で訪れた。一人リードして、エース根本を出すこ
けたのである。その出番は全国大会出場が懸かった、本当に
たすらに「投げ込み」を受け、自分の出番を信じて努力し続
持剛」であるように思う。前年のスターチームの時はただひ
やってきたのである。特に苦しんだのは、キャプテンの「倉
耐 え、 柔 道 部 を 去 り 遊 ん で い る 同 級 生 の 誘 惑 に も 負 け ず に
はあった。選手達はこの時、この瞬間のためにつらい稽古に
と言われるが、その数字だけでは語りきれないものがここに
「 二 人 残 し 」 と い う 結 果 を 誰 か に 言 う と「 楽 勝 だ っ た な 」
勝利がまたこのチームを強くした。しかし、目標は「ベスト
予選が終わると、すぐに全国大会に向けての稽古が始まっ
た。このチームは試合の度に成長してきたチームで、予選の
は要らなかった。
までの苦悩を全て物語っていた。その時、このチームに言葉
行きが決まったのである。倉持は号泣していた。その涙は今
て、ものの見事に一回転させ、四年連続十回目の「武道館」
が 焦 っ て 内 股 に く る の を 見 逃 さ な か っ た。 そ の 技 を か わ し
自分の組み手になり、試合を進めた。開始一分三十秒、相手
る倉持は(私も右組みで倉持は苦手な選手である)
、素早く
とに成功した。この選手には前年の選手全員が一度も投げる
間を戦い抜くため、さらに後輩達のために、一月の全国選手
第三十回全国高等学校柔道選手権大会 栃木県予選
権予選は負けるわけにはいかない戦いとなった。
國學院栃木○ 二人残し △白鷗大足利
先 羽鳥雄介
小 倉 先
×
次 後藤有輝○ 払 腰 △川 野 次
〃 × 本 原 中
中 北野裕一 ×
根 岸 副
副 倉持 剛○ 内股透し △根 本 大
大 田中勝汰
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- 104 -
-
8」ではない。過去二年跳ね返されたこの壁を、
「今年こそ」
の誓いをたて、日本武道館に乗り込んだ。
回目の出場)
第三十回全国高等学校柔道選手権大会
(4年連続
一回戦
國學院栃木○ 二人残し △中 京(岐阜)
先 羽鳥雄介○ 指導1 △西 尾 先
〃 × 原 次
次 田中勝汰○ 有
効 △安 田 中
〃 △ 裏 投 ○佐 藤 副
中 後藤有輝○ 裏
投 △
〃
〃 △ 大内刈り ○馬 場 大
副 倉持 剛○ 技
有 △
〃
大 北野裕一
※大した情報も無いままの対戦となったが、後からいろい
ろな先生から「中京によく 勝ったなあ、今年の中京は強い
ぞ。」と言われた。知らなくて良い事もあるんだなあ。
二回戦
國學院栃木○ 三人残し △近 江(滋賀)
先伊藤健太郎○ 有 効 △鈴 木 先
〃 △ 十字固め ○木 村 次
次 倉持 剛○ 有 効 △木 村 次
〃 × 吉 川 中
中 北野裕一○ 支釣込足 △丸 田 副
〃 ○ 内股返し △三 家 大
副 羽鳥雄介 大 後藤有輝
※一回戦よりも楽な試合になるとは予想していたが、予想
通りの快勝であった。
三回戦
國學院栃木○ 一人残し △東海大浦安(千葉)
先 後藤有輝○ 合わせ技 △斉 藤 先
〃 ○ 合わせ技 △武 田 次
〃 △ 上四方固 ○伊 藤 中
次 羽鳥雄介
× 〃
中 倉持 剛
× 高 田 副
副 田中勝汰
× 田 中 大
大 北野裕一
※優勝候補の一角、東海大浦安との対戦となった。先鋒の
後藤が二人を抜き流れを作ると、その後は持ち味でもあるし
ぶ と さ を 発 揮 し、 倉 持 が 体 重 1 4 5 ㎏ の 高 田( も ち ろ ん 右
組)と引き分け、エース田中を田中勝汰がきっちり引き分け
-
- 105 -
-
10
て、三年連続のベスト8入りを決めた。
準々決勝
國學院栃木○ 一人残し △国士舘(東京)
先 倉持 剛△ 縦四方固 ○松 本 先
㎏以下で、副将と大将がそれ以上でなくては
まずは五月の関東大会予選である。この大会は先鋒から中堅
までの三名が
いけない大会であった。戦前は誰もが白鷗の優勝を予想して
いたようである。それも当然で、体重別の個人戦では軽量級
で断トツの強さを見せていた。軽量級の三名が失点すれば、
そ の 時 点 で チ ー ム の 負 け が 決 定 し て し ま う の で あ る。 し か
し、引き分けがあるので、これを上手く利用し戦うのが団体
戦の醍醐味であり見せ場である。
次 羽鳥雄介○ 有 効 △ 〃
〃 × 田 中 次
中 田中勝汰△ 支釣込足 ○上 杉 中
副 北野裕一○ 技
有 △ 〃
第五十六回関東高等学校柔道大会 栃木県予選
國學院栃木○ 3対0 △白鷗大足利
次
渡辺将之
この試合、五名中四名が二年生の本校は戦前の予想を大き
く覆し、3対0で快勝した。内容的には五分であったが、少
副 北野裕一 ○ 優 勢 △根 岸 副
大 羽鳥雄介 ×
小 倉 大
中
× 本原勇 次
○ 優
勢 △添 野 中
先 伊藤健太郎○ 優 勢 △本原広 先
松井悠輔
〃 △ 縦四方固 ○住 谷 副
大 後藤有輝○ 小外刈り △
〃
〃 △ 上四方固 ○春 山 大
※昨年、同じ準々決勝で敗れた国士舘高校との対戦となっ
た。先鋒でリードしたいところを失点し、あとは一進一退の
攻防が続いたが、あと一歩及ばず、悔しい三年連続のベスト
8での敗退となった。2年前、初めてベスト8に入った時の
喜びはなく、選手は落胆していた。
「夏こそは。今年こそは」
という闘志を胸に秘め、夕暮れの千鳥ヶ淵をあとにした。
おいても、無差別で争われたが、大型選手の中で、北野裕一
ないチャンスをものにしたのが勝因であった。六月の関東大
インターハイに出場するためには、県内の強豪校を破らな
くてはならない。全国で入賞したからといって、優遇措置は
(三年)が小柄な体にむち打って第三位に入賞した。
ついにインターハイの予選を迎えた。今年から試合方式に
会では、五年ぶり二度目の第三位に入賞した。また個人戦に
まったくなく、当然ライバル白鷗大足利高校は、関東大会予
選、インターハイ予選に照準を合わせて強化してきている。
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- 106 -
-
73
団体戦と個人戦を一週間空けることになった。これによって
若干の変更があり、昨年までは二日間連続で行われていた、
た。その事は、当然試合が終わってから選手に伝えられた。
変 更 す る こ と が で き な い の で、 こ の ま ま 戦 う し か な く な っ
て書き間違えてしまったのである。一度提出したオーダーは
㎏級北野裕一
の四名がインターハイ出場を決めた。
に、調整の意味も含めて、私の苦手な飛行機で福岡に乗り込
んだ。金鷲旗に参加するチームが搭乗する飛行機は、ほとん
どが柔道部の生徒で埋め尽くされる。その中に若干の一般客
も混ざっているのだが、搭乗の際に普段は絶対にしないであ
ろう事が行われる。それは、体重測定である。搭乗口と飛行
機の扉の間の通路に、体重計が置かれており、その体重計に
乗るのである。その横には係員らしき人がコンピューターに
向かって座っており、何やら難しい顔をしている。そのただ
ならぬ出来事に、私たちでさえ不安になるのに、一般のお客
さんはどういう気持ちで飛行機に乗っているのであろうか。
金鷲旗は全国から男子だけで300チーム以上が参加する
大きな大会で、フリー参加のために、全国上位の常連校はも
当たり方次第では団体戦は大きく勝敗が左右されるのであ
2週間は決勝戦を意識してのオーダー作りに費やしている。
※この試合で私は大きなミスを犯していた。次鋒と中堅の
オーダーを書き間違えてしまったのである。例年、予選前の
ドを持っていたので、二日目の二回戦から出場した。
かもしれない。初日は一回戦が行われ、本校はベスト8シー
参加してくる。レベル的にはインターハイ以上のものがある
られないものの、上位校と五分以上の勝負ができるチームも
ちろんのこと、県予選で惜しくも敗れ、インターハイには出
る。今回も例年のように1週間前から練りに練ったオーダー
中 北野裕一○ 背負投げ △根 岸 中
副 倉持 剛
×
山 田 副
大 羽鳥雄介
小 倉 大
×
先 後藤有輝 ×
根 本 先
次 田中勝汰△ 優
勢 ○川 野 次
國學院栃木○ ①内容1 △白鷗大足利
第五十七回全国高等学校柔道大会 栃木県予選
翌週は団体戦が行われ、例年通り決勝は白鷗大足利高校で
あった。
今年は五年ぶりに金鷲旗に参加することにした。昨年の反
省 を 生 か し て、 イ ン タ ー ハ イ に ベ ス ト の 状 態 で 戦 え る よ う
有利になるのは軽量級を抱えているチームで、減量をしなが
㎏級松井裕輔(二年)
、
ら団体戦(無差別)で戦う必要が無くなった。まず七階級の
個人戦が行われ、
81
(三年)、 ㎏級倉持剛(三年)
、100㎏級後藤有輝(三年)
66
で行くつもりであった。しかし、試合当日についうっかりし
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- 107 -
-
90
二回戦
平成二十年度金鷲旗高校柔道大会
を迎える。
答 え の 出 ぬ ま ま、 福 岡 を あ と に し た。 悔 し さ を 闘 志 に 変 え
ば 勝 て る の か。 こ れ 以 上 何 を や れ ば 日 本 一 に な れ る の か。
」
て、いよいよ三年生にとって最後の大会であるインターハイ
國學院栃木○ 三人残し △高志(新潟)
三回戦
インターハイ出発の直前、柔道部父母会主催の壮行会で私
はこんな言葉を口にした。
「団体戦でも個人戦でもいい、ま
ずは優勝旗を持って帰りたい。そしてその優勝旗を布団がわ
國學院栃木○ 二人残し △開新(熊本)
四回戦
國學院栃木○ 二人残し △東海大翔洋(静岡)
五回戦
りに掛けて寝るのが今の私の夢です。もうやるべきことはや
りました、あとは選手たちにがんばってもらうだけです。
」
回目)
全国選手権、金鷲旗とベスト8で敗れ、インターハイでの
巻き返しを誓い埼玉に乗り込んだ。
第五十七回全国高等学校柔道大会(6年連続
一回戦
國學院栃木○ 3対0 △佐賀商(佐賀)
先 羽鳥雄介○ 袈裟固め △久 間 先
次 後藤有輝○ 大外刈り △遠 江 次
田中勝汰
× 松 本 中
中
副 倉持 剛 ×
原 副
北野裕一○ 崩上四方 △米 倉 大
大
※一回戦は過去のOB達が、全国大会で二回対戦し二敗して
いる佐賀商業高校との対戦であったが、本来の持てる力を遺
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-
國學院栃木○ 一人残し △国東(大分)
六回戦
國學院栃木○ 一人残し △東海大浦安(千葉)
準々決勝
國學院栃木△ 二人残し ○東海大相模(神奈川)
先 羽鳥雄介△ 技
有 ○穴 井 先
次 田中勝汰
×
〃
中 倉持 剛
王子谷 次
×
副 後藤有輝△ 内
股 ○羽 賀 中
大 北野裕一○ 十字固め △ 〃
〃 △ 内 股 ○豊 田 副
高 木 大
※東海大相模はこの大会も優勝、春の高校選手権に続き二
冠を達成した。この負けは正直悔しかった。
「あと何をやれ
15
二回戦
なかったように思える。
憾なく発揮し、三対0の完勝であった。五年前であれば勝て
國學院栃木○ 1対0 △ 京都共栄(京都)
先 羽鳥雄介 × 中 村 先
三回戦
準々決勝
か、小内刈りで「有効」を奪い、これが決勝点となった。
が、 先 ほ ど の「 気 合 い 」 と「 愛 情 」 の 注 入 が 功 を 奏 し た の
くしており、決め手無く試合は進行したが、中堅の田中勝汰
をした京都共栄との対戦となった。お互いに手の内を知り尽
※年末、年度末、ゴールデンウィークと、年に三回共に合宿
副 倉持 剛 × 岸 田 副
大 北野裕一 × 清 水 大
次 後藤有輝 × 小 野 次
中 田中勝汰○ 有 効 △ 岸 中
國學院栃木○ ②代表2 △小杉(富山)
先 羽鳥雄介○ 効 果 △渡辺裕 先
次 後藤有輝○ 支釣込足 △渡辺充 次
中 田中勝汰△ 効 果 ○岡 田 中
副 倉持 剛△ 上四方固 ○出 口 副
大 北野裕一 ×
竹 大
代 北 野○ 有 効 △岡 田 代
こ と の な い 小 杉 高 校 と の 対 戦 で あ っ た。 先 鋒、 次 鋒 で 二 点
※二回戦は春のシード校で、過去のチームでは一度も勝った
リードしたものの、伝統校のしぶとさを見せつけられ、中堅
※二日目第一試合は、延岡学園(宮崎)との対戦となった。
副 倉持 剛 ×
安 田 副
大 北野裕一△ 小外刈り ○村 岡 大
次 後藤有輝○ 有
効 △玉 城 次
中 田中勝汰△ 合わせ技 ○赤 迫 中
1対2 ○延岡学園(宮崎)
國學院栃木△ 先 羽鳥雄介
× 中 山 先
がラスト五秒で「効果」を奪われ、副将も「一本負け」で、
同点の代表戦までもつれてしまった。大将戦を戦い、連続の
戦いになってしまうが、私はエースの北野を起用した。北野
は手堅く「有効」と「効果」を奪って、快勝した。この試合
のあと、会場の隅でもう一度「気合い」を入れ直した。前半
の二点リードを守れず、仲間に余計な負担をかけた中堅、田
中勝汰の頬に愛情を数回注入した。
先鋒戦、なんとしてもポイントをあげたいところであった
-
- 109 -
-
れ引き分け。お互いに意地と意地のぶつかり合いとなり、1
たが、一本負け。副将戦、攻めて攻め抜くも、上手くかわさ
を奪い先制。中堅戦、引き分けに持ち込みたいところであっ
級に出場した倉持剛(三年)は、準々決勝ラスト七秒で逆転
出場した後藤有輝(三年)は1回戦で惜敗したものの、
手たちは、いつの間にか戦う顔になっていた。100㎏級に
松井の第三位入賞は、翌日の個人戦に出場する三名の三年
生に大きな刺激を与えた。大粒の涙を流していた団体戦の選
㎏級に出場した北野裕一
が待っていた。北野が放った「袖つり込み腰」をうまく返さ
し、本校初のベスト4は目前であった。しかしその時、悪夢
る。 試 合 は 期 待 通 り「 有 効 」 と「 効 果 」 の ポ イ ン ト を 先 制
強い決意を口にした。決勝戦の相手は東京都代表、国士舘高
直前「絶対勝ちます。決勝戦を楽しんで来ます。」と初めて
合前には腹痛を訴え、朝食も口にしない選手であるが、試合
(三年)は、普段以上の試合運びで決勝まで駒を進めた。試
を 掛 け、 送 り 出 し た。 敵 地 で の 試 合 も ど こ 吹 く 風 の 松 井 は
埼玉栄の選手であった。
「先を見るな、一戦必勝だぞ」と声
地元(開催地)代表の期待と声援を受けて勝ち上がってきた
三回戦と順調に勝ち進み、ついに準々決勝を迎えた。相手は
引きずる私をよそに、快進撃は始まった。一回戦、二回戦、
その日の午後は軽量三階級の個人戦が行われた。本校から
は ㎏級で松井悠輔(二年)が出場した。団体戦での敗戦を
葉なく選手たちを労った。
試 合 後、 私 は 彼 ら に か け る 言 葉 を 失 っ た。 胸 の 中 に あ る
様々な言葉もなかなか口にすることができず、会場の隅で言
言って返したが、涙をこらえるのに必死でそれ以上言葉にな
たら汗まみれになってしまうから、お前が掛けて寝ろ。
」と
ださい。
」と言ってくれた。照れくさくなり「俺が掛けて寝
表彰式終了後、北野が笑顔で金メダルを私の首に掛けてく
れた。さらに優勝旗を手渡してきて、「今夜、掛けて寝てく
虚さが彼の原点であるような気がする。
が と う ご ざ い ま し た。
」と言い、深々と頭を下げた。この謙
ンピオンが誕生した。ベンチで出迎えると彼は笑顔で「あり
相手の「大外刈り」をうまく「すくい投げ」で合わせて「有
手である。試合は一進一退の攻防が続き、残り一分三〇秒、
効」を奪い、そのまま時間切れ、本校初のインターハイチャ
あっさりと勝利した。準決勝で敗れはしたものの、団体戦の
らなかった。
で国士舘高校と対戦した際に北野が「一本負け」を喫した選
校の住谷選手である。この選手とは春の高校選手権準々決勝
れ、逆転の一本負けを喫した。
が、逃げ切られて無念の引き分け。次鋒戦、
「有効」
「効果」
対1の同点で大将戦を迎えた。本校の大将はエースの北野裕
負けをしたが第5位に入賞した。
㎏
一(三年)で、チームの危機を何度も救ってくれた選手であ
90
負けを考えさせる間もなく、銅メダルを手にした。表彰式、
-
- 110 -
-
81
私はその日初めて空気を吸ったような気がした。
66
とても印象的であった。チームを強化する際に「強い選手」
勝で敗れた北野裕一(国分寺中)は号泣していた。その涙が
行ったが、両名とも大活躍し、栃木県史上初の第三位に入賞
が出場した。国体の関東ブロック大会から通算して、八試合
今年度の国民体育大会は大分県で開催された。本校からは
中堅( ㎏級)で北野裕一、副将(100㎏級)で後藤有輝
追記
を勧誘することは必須である。しかし、その場の結果だけで
した。
三年前の七月、栃木県武道館で全国中学校柔道大会の栃木
県予選が行われていた。個人戦の決勝戦が行われており、決
なく、その子の持っている本当の実力や、性格を考えて勧誘
来てくれるようになった。これはただ柔道部が活躍している
担任の先生方が、わざわざ休日に県大会や全国大会の応援に
誘したい選手であった。近年、部員たちの担任の先生や教科
選手」ではなかったが、将来性や性格をみると是非本校に勧
栃木県3対1群馬県
栃木県0対1神奈川県
予選リーグ(二位で通過)
関東ブロック大会
することが大切であると考えている。北野も「その時勝った
からということではなく、日頃、教室での授業態度やホーム
栃木県2対1石川県
国民体育大会
栃木県3対1茨城県
栃木県3対1千葉県
出場決定戦
ルームでの活躍への評価であると感じている。そういったあ
たたかい声援を受け、個人戦ではあるが、インターハイ優勝
という結果を残すことができた。しかし、団体戦のメンバー
に入れない者や、全国の舞台に立つことのできない部員もた
二回戦
準々決勝 栃木県3対1福島県
は」「自分たちも」と信じて稽古してきた仲間である。その
準決勝 栃木県0対4東京都
くさんいる事も事実であり、そういった部員たちは「次こそ
中で縁の下の力持ちとして選手たちを支えてきた控えの選手
三位決定戦 栃木県①内1福島県
平成十八年
過去三年間の主な記録
たちも、柔道では勝つことはできなかったが、この経験を生
かして「人生の勝利者」になってもらいたい。高校三年間、
同じ畳の上で「叱咤!叱咤!叱咤!時々激励!」を受け、汗
と涙を流してきた3年生全員に、優勝旗を贈りたい。
第二十八回全国高等学校柔道選手権大会 第五位
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- 111 -
-
90
勝つために努力した過程が大切なんだ」ということを。今日
番 大 切 な 事 を 忘 れ て は い け な い。
「 勝 ち 負 け は 結 果 で あ り、
も道場では後輩達が大きな声をあげ稽古に励んでいる。偉大
第五十四回関東高等学校柔道大会 ベスト
第五十五回全国高等学校柔道大会 ベスト
平成十九年
め、生徒と共に汗を流している。
分からないが、『一生懸命に悔いなし。
』という言葉を胸に秘
りして、団体戦日本一の報告をするために。いつになるかは
な先輩達を超えるために。そしていつの日かこの誌面をお借
第六十一回国民体育大会 第五位
第二十九回全国高等学校柔道選手権大会 第五位
(地歴公民科)
第五十五回関東高等学校柔道大会 第五位
個人第三位 小倉大樹
第五十六回全国高等学校柔道大会 二回戦敗退
第六十二回国民体育大会
ベスト
平成二十年
第三十回全国高等学校柔道選手権大会 第五位
第五十六回関東高等学校柔道大会 第三位
個人第三位 北野裕一
金鷲旗高校柔道大会 第五位
第五十七回全国高等学校柔道大会 第五位
㎏級第三位 松井悠輔
個人
㎏級優 勝 北野裕一
㎏級第五位 倉持 剛
柔道の目的は勝つためだけではない。しかし、
「競技」で
ある以上、「勝ち」にこだわらなくてはいけない。ただ、一
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16 16
16
第六十三回国民体育大会 第三位
個人
個人
90 81 66
書 に 親 し む
㎝)・
(横)
・枠装
(書号 創歩)
加 藤 敏 明
― 仮名と漢字仮名交じり文を書く ―
㎝×
平成二十年七月 毎日書道展出品作
会場=六本木・国立新美術館
尺×6尺(
182
よひ
(く)
明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ
(原文)夏の夜は まだ宵ながら
清原深養父
(歌意)夏の夜は短くて、まだ宵であると思っているうちに、もう夜があけてし
まった。これでは西の空に沈む間もあるまいが、雲のどのあたりに月は宿ってい
ることであろうか。
(鑑賞)
作者、清原深養父(九世紀末から一〇世紀初めごろの人で、生没年未詳。
)は、
清少納言の父清原元輔の祖父で、管弦の名手でもあった。紀貫之や藤原兼輔らと
の親交もあったが、晩年、洛北に補陀洛寺を建立し、そこに住んだと言われている。
詞 書 に「 月 の お も し ろ か り け る 夜 」 と あ り、 満 月 に 近 い こ ろ と 見 る べ き で あ
る。
『継色紙』と『枡色紙』によれば、この歌は、最初「夏の夜はまだ宵ながら
あけにけり雲のいづこに月かくるらむ」とあり、撰者が、技巧的に改めたと考え
-
- 113 -
-
(形態)
79
(出典)
『古今和歌集』
(巻三)・
『新古今和歌集』(巻五)の二首を創作。
2.6
昭和切(俊成)
、右衛門切(寂蓮)は、
「雲のいづくに」とあ
ま た、 下 の 句 の「 雲 の い づ こ に 」 の 部 分、 流 布 本、 関 戸
本、 元 永 本、 筋 切、 清 輔 本 は、
「 雲 の い づ こ に 」 で あ る が、
られる。
『新古今和歌集』(巻五
(解説)
で秋の夜の寂しさと、そこはかとない響愁を歌っている。
まさるなり」を本歌とした本歌取りの歌である。また、この
)の二首目の、「み吉野の」の書き
歌は、砧の音を印象的に配し、物悲しい響きを古都吉野の里
り、諸本の異同がある。
『古今和歌集』
(巻三
行頭を上げ、傾きをつけながら、五行目の「ふるさと」で墨
れた。三行目「小夜」は、下部に小さく表現し、四行目は、
によって行に傾きをつけ、大小の変化によって潤渇を取り入
出しは、やや小さめに書き、二行目「山の秋風」では、連綿
バランスのとり方に見せ場をつくり、各行のまとまりを強め
継 ぎ を し、 行 頭 を 上 げ 行 の 傾 き と、 太 細 の 変 化 を 取 り 入 れ
)の一首目は、右と左との二集団の
るため、二行目と三行目は、連綿を多くし、四行目は、行の
た。六行目「さむく」からは、行間、字間を考慮し、運筆に
る
末 尾 に「 流 」
「を」の二文字を配し、下の句の、五行目行頭
遅速の変化をつけ、作品全体に立体感を意識することを意図
とう い
寄人で、新古今集撰者でもある。
詞 書 に よ れ ば、
「 擣 衣 の 心 を 」 と あ る。
『古今集』
(巻六)
坂上是則の「み吉野の山の白雪積もるらしふるさと寒くなり
しかし、行脚がやや不揃いになったことと、行間の余白を
調整することなど、今後作品を発表する上での課題である。
して発表してみた。
れ、行に傾きをつけて、動きをつけ引き締めた。
(解説)
166
「く」で墨継ぎをし、大きい字形を交えて長い連綿を取り入
う
(原文)み吉野の山の秋風小夜更けて古里寒く衣擣つなり
)に生まれ、承久
お寒くなり、古里である吉野の里では寒々と衣をうつ砧の音
きぬた
藤原雅経
(歌意)吉野の山から吹きおろす秋風は、夜が更けてひとし
が聞こえてくるよ。
)に没した。定家の万葉集を源実朝に贈ったのも、
(鑑賞)作者、藤原雅経は、嘉応二年(
元 年(
1170
-
- 114 -
-
166
鴨長明を実朝に紹介したのも、雅経の仲介による。和歌所の
1220
える。帰国後、二十一年から愛媛県で高校教師を務め、六十
五歳で退職。以後、詩作に専念する。三十七年月刊個人詩誌
『詩国』を創刊。平成十一年愛媛県功労賞、十五年熊本県近
代文化功労者受賞。著書に『坂村真民全詩集』全七巻(大東
出版社・平成十三年)
、『念ずれば花ひらく』(サンマーク出
版・平成十四年)
『遊筆遊心』(致知出版社・平成十年)
『念
に生きる』(致知出版社・平成十六年)など多数がある。
( 鑑 賞 ) 漢 字 仮 名 交 じ り の 書 を 書 作 品 に す る に は、 言 う ま で
もなく、古典の臨書を通して学んだ知識や技法を生かして、
創造的な表現を試みることにより、自らの思いや感性の高ま
えにし
それを意図して作品にしてみた。
今後、自らの思いや感性を生かして、感動した詞や語句を
題材として書表現を試みたい。
(芸術科)
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りが、自然に書に表現されるものである。
書が日本の伝統文化の中で輝かしい光を放って、現代の日
常生活の中に生き生きと生き続けるためには、日常に根ざし
た表現を追求していくことが肝要である。
現代の日本語表記は、漢字仮名交じり文である。その漢字
仮名交じり文で、今回、題材としたのが、「坂村真民一日一
言」の一冊であった。その本の中に「めぐりあい」という題
で、
「人生は深い縁の不思議な出会いだ」という詞に深く感
平成二十年八月作
動し、その感動や自らの思いを他者に書でどう表現するか。
㎝)
・
(縦)
・軸装
鮮で教職に就き、三十六歳で全州師範学校勤務中に終戦を迎
六年神宮皇學館(現・皇學館大学)卒業。二十五歳の時、朝
(著者)著者坂村真民は、明治四十二年熊本県生まれ。昭和
二月二十二日発行
平成十八年十
えにし
(原文)人生は深い縁の不思議な出会いだ
(出典)坂村真民一日一言(致知出版社)
75
(形態)全紙1/2
( ㎝×
70
うちのひとつであるが、もっと決定的な違いがある。
はラグビー、後者は野球を扱ったものであるというのもその
だ!」と「ルーキーズ」は、はっきりと違う。もちろん前者
チ ー フ で あ る こ と に は 変 わ り は な い。 た だ、
「青春とは何
どちらのドラマも、部活動の苦しい練習や試合を共に経験
し た 者 同 士 の 熱 い 友 情 と、 教 師 と の 信 頼 関 係 の 大 切 さ が モ
ある。
ぶつかりあい、仲間との触れ合いを美しく謳いあげたもので
いたもので、勉強、恋愛、進路に対する悩み、先生との魂の
いい。「青春とは何だ!」は、高校生活における青春像を描
ちょうど今で言う「ルーキーズ」にあたると思ってもらえば
「青春とは何だ!」という学園ドラマが、昭和四〇年から
四 一 年 に か け て テ レ ビ で 放 映 さ れ て い た。 生 徒 諸 君 に は、
たので、何となく見ていた。やや誇張し過ぎるような部分も
「ルーキーズ」を、初めの頃は見続けるつもりはなかった。
ただ、食事の時に高校生になる娘がチャンネルを合わせてい
い、と幼心に思ったものである。
が、 こ の 番 組 に 刺 激 を 受 け て、 い つ か は 教 師 に な っ て み た
た。当時私はまだ小学二年生から三年生になる時期であった
後では明日への生きる希望がわいてくるようなドラマであっ
は何だ!」は、そのほとんどがハッピーエンドであり、見た
のシーンもそれ程出てはこなかった。まして、教師が生徒か
た。面と向かって教師に悪口を言うことなどなかった。暴力
素 直 に 応 え、 ま っ す ぐ に 成 長 し て い く 姿 を 堂 々 と 示 し て い
ん、生徒は教師に対して敬語を使っていたし、教師の情熱に
論をしながらも、しっかりと人生を熱く語っていた。もちろ
ていた。教師は懸命になって生き様を示し、生徒と時には口
青春とは何だ!
村 田 真 一
それは、教師に対する生徒の姿勢である。今のドラマは、
生徒の言葉遣いも態度もあまりにも悪い。脚色もあろうが、
あり、テレビ局自身も高校生としてふさわしくないシーンも
師はドラマの中においても、もっと世間の方々から尊敬され
現 役 教 師 の 私 と し て は や は り 気 に な っ て し ま う。 時 代 が 変
ら殴られるなんてシーンは見たことがない。また、
「青春と
わってきているせいもあるかもしれない。しかし、当時の教
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像が見えてこない。何を信用してよいかわからず、そんな中
し て い る と い う こ と は な か っ た。 現 代 の 世 相 の 複 雑 さ が
でも若者達は自分を成長させようと懸命に努力している。最
あ る の で、 ご 容 赦 願 い た い、 と い う 説 明 文 も 流 し て い る。
しかし、回数が進むうちに私自身の考えも変わってきた。
これは現代を象徴しているドラマなのではないか、と。それ
終回では人を信じることの大切さが見事に描かれていて、そ
「ルーキーズ」に反映されていると思うのだ。
ならば高校教師として生徒の気持ちを理解するためにも、彼
今の若者に、この不安定な時代の中でも青春を謳歌し、なん
だ っ た ら、 そ ん な 部 分 は カ ッ ト す れ ば い い の で は な い か と
らに人気のあるこの番組を素直に見るべきなのではないのかと。
とか頑張って欲しいという気持ちも湧いてきた。
思っていた。
なるほど目をそらしたくなるシーンもある。しかし、若者
が野球を通じて友情を深め、教師とともに成長していくとい
毎 回 ハ ッ ピ ー エ ン ド だ と は 限 ら ず、 次 々 と 難 問 が 発 生 す
る。不安につきまとわれることも多く、はっきりとした未来
う過程は何ら「青春とは何だ!」と変わりはない。ただ、今
そうだ。青春というものは、いつでも美しく輝いているも
のだ。本校の仲間を見てくれ。みんな、いきいきとしている
えよければいいのだという風潮が世の中にはびこっている。
供に模範を示すべき大人が次々と事件を引き起こし、自分さ
廉恥な犯罪等々。毎日、暗いニュースばかり聞かされる。子
に対する賄賂、教員採用試験における不正、聖職者による破
秋葉原の無差別殺人事件に象徴されるような、毎日のよう
に報道されている殺傷事件。食品産業における偽装、政治家
でストーリーが展開されているのだ。
大人達が世の中を悪く、暗くしているので、ああいった調子
ドラマも本当はそういうふうに描きたいのだ。ただ、一部の
で、生徒諸君のために全力を尽くしてくださっている。この
めに勉強しているし、毎日笑顔が絶えない。先生がたも熱心
りもきちんとしていてみんな言葉遣いも丁寧だ。誰もがまじ
だろう。暴力を振う生徒などもちろん一人もいないし、身な
う、それが大切なんだ、と思わず涙が出てきた。と同時に、
の時代がいけないのだ。
この状況は、日本人として実に恥ずかしいことである。さら
いつの世も青春の素晴らしさは変わらない。
春 と は
諸君は、次の詩を読んだことがあるだろうか。
青
では、「青春」とは何だ。
に、駄目を押すような現在の不況。このような世の中では、
子供は大人を信用できないし、将来に対する不安も募らせて
し ま う。 も ち ろ ん、 大 部 分 の 大 人 達 は し っ か り 生 き て い る
し、教師と生徒の関係もほとんどうまくいっているはずだ。
しかし、あの昭和四〇年と平成二〇年では、明らかに事件の
質、量が違う。こんなに悪いことばかりが新聞の紙上を賑わ
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青春とは人生のある期間を言うのではなく、
思う。
優れた想像力、逞しき意志、炎ゆる情熱、 生活がその基盤となっている。
ら感じたことではあるが、初めの二つは、明らかに私の高校
しい生活をすることである。三つ目は、年齢を重ねてきてか
私なりに考えた若さを保つ秘訣は三つある。まずは、夢を
もち続けること。次にスポーツをすること。それと、規則正
怯懦(きょうだ)を却ける勇猛心、
心の様相を言うのだ。
安易を振り捨てる冒険心、
高校生活が人生に与える影響は大きい。特に私の場合は本
当にそうである。
夢を追い続けて
こういう様相を青春と言うのだ。
年を重ねただけでは人は老いない。
理想を失うときに初めて老いが来る。
五十代に入った今だからこそ、この詩に共感するのかもし
れない。若さとは年齢ではなく、その人のものの考え方であ
づく思う。
知ったのはつい最近のことである。実にいい詩であるとつく
は 一 九 八 〇 年 頃 の こ と だ。 恥 ず か し な が ら 私 は、 こ の 詩 を
たのは一九二二年で、日本で次第に評判が高くなってきたの
たものである。私はこの詩が大好きである。この詩が創られ
これは、サミュエル・ウルマンが書いた「青春の詩」から
の抜粋である。幻の詩人と言われている彼が、七十代で書い
養われるのである。野球のボールが飛んできて、サッカー部
少し精神的に鍛えられたと思っている。物に動じない姿勢が
スポーツである。雨の日でも屋外で練習したことで、自分は
あった。雨の日は野球部が他の場所で室内練習をするので、
とグラウンドを半分ずつに分け合って同時に練習をする日も
有していた。おのずと練習日も限られ、ひどい時には野球部
立高校だったので、グラウンドも狭く、陸上部、野球部と共
考えて活動していた。練習も週に三度程度のものだった。都
く、ほとんどの部活動がすべて自分達で練習のプログラムを
と き た ま 生 徒 諸 君 に も 話 す の で あ る が、 高 校 生 の 時 に は
サッカー部に所属していた。しかし、私の通った高校は國學
る。確かに体力的には落ちているかもしれないが、精神的に
員に当たるというのもたびたびあった。(軟式野球で、ほん
歳月は皮膚のしわを増すが、
情熱を失う時に精神はしぼむ。
はまだまだ若い人たちには負けないつもりであるし、人とし
グラウンドを占領できた。サッカーは雨天でも屋外でできる
院のようにそれぞれの部活動に専門の監督がいた訳でもな
て成長したいという気持ちが萎えたら老け込む一方であると
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お互いに狭いグラウンドで精一杯汗を流していたものである。
と う に 良 か っ た。
) そ ん な 時 で も け っ し て 喧 嘩 に は な ら ず、
あの研究室は今は、ない。
ときにその研究室の前まで来たが、現在では別の部屋として
の家庭科の教師をしており、学校を案内してもらった。その
用いられており、卒業してからの三十数年の歳月を思った。
中学時代から英語が好きで、英語の教師になりたいと思っ
て い た。 も ち ろ ん、 ド ラ マ の「 青 春 と は 何 だ!」 の 影 響 も
つ資格はない。私は今でも高校時代の英語の授業のノートを
らおしまいだ。研究する意欲を失ってしまったら、教壇に立
たことが痛いほどわかる。教師が教材の研究をしなくなった
からなかったが、英語の教師となった今は先生のおっしゃっ
してくださった。高校生の当時はそんなものかな、とよくわ
決して生徒の前に立つことなんかできないよ、と授業中に話
おっしゃっていた。授業の前にしっかり研究しておかないと
持っていただいた。先生は時たま、教壇に立つのは大変だと
あ っ た。 こ の 先 生 に 目 を か け て も ら い、 三 年 間 ず っ と 受 け
語 の 担 当 は M 先 生 と い う 方 で、 東 大 出 身 の 研 究 熱 心 な 方 で
三年間部活動をやりながら、バンドを組んで音楽活動も続
けていたが、英語の勉強はしっかりとやっていた。当時の英
してから、偶然その場に残った同じクラスのK美と、お互い
た。校舎の窓から真っ赤な夕日が見えていた。みんなが解散
M先生は、心を込めて私たちに将来の夢をしっかりもちな
さ い、 と 説 い て く だ さ っ た。 そ し て 研 究 室 に 入 っ て い か れ
たくて、先生の顔を直視できなかったのを覚えている。
だったのに、とつくづく思った。そして先生の言葉がありが
私は先生の前に立ち、もっと勉強をしっかりやっておくべき
そのあとで一人ひとり言葉を尽くして励ましてくださった。
美もいた。先生は私たち全員の前で卒業を祝ってくださり、
者ばかりであった。よく進路について語り合った同級生のK
れが進学する大学・学部こそ違い、みな英語の成績が優秀な
て行ってみると、すでに四人の仲間がいた。見ると、それぞ
言っていたよ。」と突然声をかけられた。私は何事かと思っ
あったのだが。
大切にしまってあり、時々見直すのだが、やはりすごい先生
私の大学進学が決まり卒業が間近になったとき、女子バス
ケット部の友人から「村田君、M先生が研究室に来るように
だったと思う。
抜群の語学力を活かしてJTBに入社した。
できなかった。生徒が立ち入るべき場所ではないと思ってい
そう強く願った。
いつかM先生のようになってみたい。
に頑張ろうと励まし合って握手を交わした。彼女はその後、
M先生は、いつも英語科研究室にいらした。私はその研究
室に入ったことは一度もない。畏れもあって、近づくことも
た か ら で あ る。 昨 年 久 し ぶ り に 高 校 の ク ラ ス 会 が あ っ た の
で、母校を訪ねる機会をもつことができた。私の友人が母校
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時
は 経 ち
大学時代は、あっという間に過ぎた。親に迷惑はかけられ
ないと、勉強をしながらアルバイトをしていた。二十歳、大
学三年生のときに英語教師の兄とアメリカ旅行に出かけた。
ロスアンジェルスを皮切りに、サンフランシスコ、ラスベガ
ス、メンフィス、ニューオリンズ、ワシントン、フロリダ、
ニューヨークと、アメリカ大陸を約三十日間かけて横断し、
帰りにハワイで三日間過ごして日本に帰ってきた。
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当時はアメリカに夢中で、その自由な生き方やポップな文
化に至るまで、こんなに進んだ国はないと思っていた。アメ
リカに永住してみたい、という大胆な考えももっていた程だ。
兄とのこの旅行はいろいろなことを教えてくれた。大学で
英語を学びながらも、アメリカの人たちとコミュニケーショ
ンがスムーズにとれなかったという悔しさも残った。彼らは
実にオープンで、いろいろなことを尋ねてくる。その質問に
対してすぐに応えることができなかったことがとても残念で
あ っ た。「 英 語 は 使 う も の だ。
」ということを痛いほど実感
し、帰国後すぐに英会話用のカセットテープを買い込んで懸
命になって練習をし始めた。英語の本も本格的に読むように
なった。英語の雑誌も定期購読していたが、結局これは長続
きせず、英字新聞に変えた。今でも英字新聞は必ず毎日手に
とり、なるべく多くの記事を読むように心がけている。
とにかく英語には毎日触れていないと、どんどん力が落ち
大学のキャンパスにて
イギリスで出会った英語教師たちと
てしまう。M先生に追いつくには、並大抵の努力では足りな
い。自分の生活を英語漬けにしなくてはいけない、そう痛感
させられたアメリカ旅行であった。
英語教師になって
大学を卒業し、昭和五五年、私は英語教師として本校に奉
職させていただいた。以来、早いもので二八年の月日が流れ
た。M先生のようになりたい、この気持ちを忘れたことは一
日もない。先生のように重厚な授業はまだなかなかできない
が、生徒のためにしっかり努力していこう、そう思って毎日
教壇に立っている。
いざ、教師になってみるとやはりこの仕事は素晴らしい。
特に本校の生徒はみな素直で真面目なので、本物の教育がで
きる。こちらが一所懸命やれば彼らは必ず応えてくれる。実
に恵まれた環境で教壇に立てていると思う。さらに本校には
英会話の先生も三人いらっしゃり、いつでも英語でコミュニ
ケーションができる。ありがたいことである。
また、二○○一年にはイギリスでの十六日間の研修旅行の
引率もさせていただき、二一名の生徒と共に伝統ある国の文
化に触れ、現地の素晴らしい先生方に出会うこともできた。
それに、世界各地からいらした引率の先生方とも英語教育に
ついて意見を交換したことも印象に残っている。この研修を
通 じ て、 英 語 の 教 師 と し て こ れ か ら の 時 代 は 何 を す べ き か
が、はっきりと見えたと思う。このような機会を与えていた
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だき、学校に対して本当に感謝している。
本校は学校行事も盛んで、文化祭、体育祭、サマースクー
ル、生徒研修、予餞会など、仲間作りには格好の場がたくさ
んある。特に私はマラソン大会が好きで、生徒とともにもう
二〇回以上も走ってこの大会を楽しんでいる。その中で、三
英 語 と マ ラ ソ ン。 こ れ な し に は、 今 の 生 活 は 考 え ら れ な
い。どちらも、私の場合は高校生活の三年間が基盤となって
いると、はっきり言える。
とは多いし、自分の体も精神も、私に向かってスポーツをす
で一生続けるべきであると思う。スポーツを通して学んだこ
はり、高校のときに運動をしていたら、できれば何らかの形
での練習などで体を鍛えたことが今の自分を支えている。や
決して強いチームではなかったが、高校時代に三年間サッ
カー部に所属し、夢中でボールを追いかけ、マラソンや雨中
後であったと思うと、本校の歴史に残る優勝であったと思う。
ることができた。担任がアンカーで走るのもあの体育祭が最
る。二年前には生徒たちがよく頑張り、國高リレーで優勝す
ときのあの厳しい先輩のおかげであると今では感謝してい
で太平山の男子コースを中心に十三キロ走れるのも、高校の
一、二回くらいの割合で、マイペースで走っている。この年
思 う。 あ の 時 は、 厳 し い 先 輩 に 走 ら さ れ て い た が、 今 は 週
部の練習でマラソンをしたことが、今でも役に立っていると
本を探させておきながら、私はもっぱら洋書や英語の教材の
書店も東京駅前のオアゾを利用している。娘に大学に必要な
上の娘が東京の大学に進学し、東京で一人暮らしをするよ
うになると、待ち合わせて丸の内に行く機会が多くなった。
ていただき、たいへん勉強になったと今でも感謝している。
あったが、元本校副校長現短大教授の岡本岱先生に原稿を見
た。五年間「ぶっくとおく」の原稿を書くのはとても大変で
た。 行 き つ け の コ ー ヒ ー 店 で お い し い コ ー ヒ ー を 飲 み な が
十 年 前 く ら い ま で は、 本 校 の 校 報 の「 ぶ っ く と お く 」 の
コーナーで紹介する本を買うためによく三省堂に行ってい
なってきてしまったが。
さすがにこの年になると、こういった店に行くことも少なく
り、サッカーのウェアやシューズを買っていたものである。
立ち寄った。バンドを組んでいた頃は一流のギターを眺めた
高校、大学とよくお茶の水に行った。書店を歩いて回るの
がその大きな目的であったが、楽器店やスポーツ用品店にも
店を歩く
るようにと訴えているような気がする。体を動かして汗をか
コーナーで本を読んでいる。待ち合わせの場所と時間を決め
書
くと、よけいなことは忘れ、気分も変わってアイデアも浮か
ておいて、お互いに好きなコーナーで時を過ごし、丸ビルで
度ほど教員の部で優勝したことがある。高校時代にサッカー
んでくる。リフレッシュをすることができて、また新たな気
ら、今買ってきたばかりの本を読むというのが楽しみであっ
分で机に向かって仕事に集中できるのだ。
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昼食をとるというスタイルがすっかり定着してきた。オアゾ
には、一人でもふた月に一度は行く。特に長期休暇のときに
時が経ってしまう。英語教師としては、常に英語教育の変化
り、英語の教材に目を通したりしていると、あっという間に
人 の 意 見 に 左 右 さ れ ず 強 い 意 志 で 乗 り 越 え て い く。 も ち ろ
えて持続力をつけ、多少の困難が生じても他人に頼らず、他
若さを保つ最善の策は、夢をもつことであると思う。その
夢に向かって、毎日一歩ずつでもよいから前進する。体を鍛
礎を築くとき
に敏感でありたいと思う。
裕も必要だ。そして、肉体においても精神においても健康的
は朝から夕方までいることが多い。好きな洋書を買い込んだ
今は書物も書店ではなくインターネットを通じて購入する
方も多く、値段も常に変動していて洋書などはよくバーゲン
な生活をし、絶え間なく努力をする姿勢を保つこと。それが
ある。本は安いに越したことはないが、多少お金が余計にか
京の様子が変わっていくのを眺めたりするのも楽しみなので
族と夕食を共にしたり、友人と会ったり、山手線に乗って東
通して購入するのが好きである。東京の実家に顔を出し、家
話をなさっていたが、私はやはり現物を手にし、実際に目を
コレクターで、ネット販売だと安く買えることが多いという
修正をしていけばよい。人生で成功を収めた人たちは、みな
が、失敗したら常に反省をし、その経験を活かしながら軌道
が か か る。 あ せ っ て は い け な い。 時 に は 失 敗 を す る だ ろ う
大きな夢を実現させるためには、しっかりとした礎を築か
なければならない。きちんとしたものを創るためには、時間
越える精神力をつけてもらいたい。
君には、大いに学び、体を鍛えて、時には悩み、それを乗り
自分の夢を実現させるために、知力、体力、精神力の基礎
を築くときが、この高校生活の三年間であると思う。生徒諸
「青春」だと思う。
ん、時には友人や家族などからのアドバイスに耳を傾ける余
をやっている。私の大好きなゴッホやルノアールの輸入物の
画 集 も、 だ い ぶ 値 段 が 下 が っ て き て い る。 本 当 に 時 代 は 変
かっても、東京を歩き回りながら本を買うというのが、私の
わってきていると思う。私の知り合いの英語の先生も洋書の
好きなスタイルなのである。
堂々と胸を張って明るく笑顔で高校生活を送ってもらいたい。
は八十歳を過ぎてから自分の最高の仕事をした人がいる。劇
青春には年齢は関係ないということを書いたが、本当にそ
の通りである。世界の偉大な芸術家、哲学者、科学者の中に
あせらず、人生を一歩ずつじっくりと歩んでいる。諸君も、
こうしてみると、英語に触れ、マラソンをし、書店を歩い
た り と、 今 の 生 活 は 高 校 の 頃 と 何 ら 変 わ り は な い よ う で あ
る。ただ、人生に対する考え方が変わってきているのに過ぎ
ない。
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作 家 バ ー ナ ー ド・ シ ョ ー は 九 十 歳 で も 活 躍 し て い た。 ギ リ
シャの哲学者ソクラテスは八十歳になったとき楽器を演奏す
ることを学んだ。ミケランジェロが最も素晴らしい絵画を描
い た の は、 八 十 歳 の と き と 言 わ れ て い る。 そ し て ア イ ザ ッ
ク・ニュートンは八十五歳近くになっても一所懸命に研究し
ていた。この情熱こそが青春である。
M先生のような立派な英語教師になることを夢見たのは、
高校生の頃だった。今ではさらに、日本の素晴らしい伝統や
文化を世界中の人々に紹介しながら、何らかの形で世界の平
和のために微力ながら貢献したいと思っている。日本には、
今から五十年の間に海外から優秀な人材を一千万人受け入れ
る計画がある。日本は、これからますます国際化していくだ
ろう。その際に最も大切なことは、しっかりとしたコミュニ
ケーションである。世界中からいらした人々と仲良く暮らし
素晴らしい日本を築きあげるためにも、自分の英語を少しで
も 役 に 立 た せ て い き た い。 そ う し て、 全 世 界 の 人 々 と 協 力
し、我々の子孫のために平和で美しい地球を残す努力をして
いきたい。また、そのような国際的で広い視野がもてる生徒
を育てていきたい、と思う今日この頃である。
そうすることが若さを保ち、M先生に対する恩返しにもな
るものと信じている。
(外国語科)
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で な い か と 思 い ま す。 人 生 の 喜 怒 哀 楽、
言えたらこの世に生きてきたことが本望
人生の達人のような言葉で、このように
引 い た も の と し て 載 っ て い た も の で す。
言葉ではなく、誰か有名な画家の言葉を
の中に出ていたもので、シャルドンヌの
この言葉はフランスの小説家、モラリ
スト、ジャック・シャルドンヌの箴言集
「 私 は 今 ま で 何 物 を も 投 げ や り に し な
かった」
に翻弄されない位置を得ることは可能で
知的に理解することによって、ただ運命
があって幸福がある。このような性質を
ります。幸福があって不幸がある、不幸
ようであって切り離せない相互作用があ
して幸福と不幸の関係はコインの裏表の
いのです。幸福も不幸も変転します。そ
になるときもあって不変ということはな
が不幸になるときもあるし、不幸が幸福
ない力によって動かされています。幸福
です。波の大小の違いがあるだけで見え
庭でも会社でも国家に置き換えても同様
運命の波にさらわれるもので、これは家
があります。私たちの生は何人たりとも
「 人 間 万 事 塞 翁 が 馬 」 こ の 言 葉 は よ く
言われるもので人生の事象を描いて深み
ネになったりするのです。
ては意味を帯びたり、その人の人生のバ
ものであり、受け取り方、把み方によっ
いることでしょう。体験はその人自身の
日々の体験も彼にとっては妙薬となって
敗、 挫 折、 苦 い 体 験、 砂 を 噛 む よ う な
はないかと羨しくなります。たとえば失
ことであり、良い結果を招きやすいこと
なすことであり、時間の病気から脱する
ることが、その人が時間を十全に使いこ
フェンシングの試合をするように集中す
に 思 い 患 う こ と な く、
「今」を崇めて
らに過去に拘わらず、またまだ来ぬ未来
的を得ていて感心してしまいました。徒
さまで形容していましたが、比喩が全く
けて遊ぶが如く変幻自在に回転している
体が上から絶え間なくふりそそぐ水を受
とった玄久という人が水の中に浮かぶ球
体的な比喩としてつい数年前芥川賞を
重な宝物を携えています。この言葉の具
のまにか自己を超え出てしまうという貴
集中するという意味ですが、それはいつ
受 け た 記 憶 が あ り ま す。「 今 」 に 全 力 を
それが偶然にも同じ日なので大変嬉しく
会 っ た も の で す。( 道 元 の 誕 生 日 と 私 の
「随所に主となる」この言葉は禅の大
家、 道 元 の 言 葉 で 私 が 二 十 代 の 頃 に 出
樹てることができるということです。
こちらがどうするかでこちらの主体性を
葉と共通するが、幸福と不幸の把え方を
ଟ ே ⦒
人生の浮沈が醸成されて、本人の誰にも
す。先に述べた「私は今まで……」の言
佐山 洋
た と え
思っています)この言葉には大変感銘を
盗られない履歴書であるとともに、本人
言葉の宝(Ⅵ) 最終章
の今をも形成していると自恃できるので
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とともに、ちょっとした気分の違いを直
めに与える哲理は、徹底的に考え詰める
本は難解といわれていますが、万人のた
は主人公になるということです。道元の
の人自身がまっさらに行為していること
であります。その時々の時間、場所でそ
ることでした。
眼の前にいない愛する人と魂の会話をす
た人を想像すること
更に深まって今
愛した人、愛の眼差しを投げ掛けてくれ
ツに囚われた人たちも生きる源はかつて
に打ち克つのも愛です。アウシュヴィッ
ん。人の間を保つのも愛です。死の不安
ている」ような気がしている。
階へ降りてゆく時、深い海の中へ「潜っ
わけで自分の中ではいつも図書館の下の
抵ではないのはご存知の通りだ。そんな
もするが、うちの図書館の奥深さが並大
る。
「潜る」という言い方は不適切な気
―
感で識別する能力の大なるものを感じる
(保健体育科)
図書館ダイバー
かチラッと見るのも含むとほぼ全部読ん
で し ま っ て い た よ う な 生 徒 だ っ た の で、
そんな自分が四十年間勤めても読む本に
困ることがなさそうなサイズの図書館が
あるなんて、まさに望外の出来事だった
人を愛してきました。その彼が人生で最
を一杯受けてきましたし、自身も多くの
人格両面で愛されたペレは多くの人の愛
た。 世 界 中 の サ ッ カ ー フ ァ ン か ら 技 能、
ソフトについて学びたいときもとりあえ
行ってマニュアルを借りてくる。新しい
る の で、 必 要 に な る と 一 階 ま で 降 り て
グなどについての資料は結構そろってい
係の資料を調べるときだ。プログラミン
ときどき昼休みなどに本校の図書館に
行く。最も多いのは、コンピューター関
は そ う そ う 無 か っ た の で あ る。 そ れ で
りかかり、ゆっくり読書などしている暇
には細かい仕事がそれこそ雨のように降
は厳しかった。教員になりたての下っ端
てくれようと心に決めた。しかし、現実
に圧倒されながらも、片っ端から読破し
関谷 恒和
何しろ小中高と図書室の本は斜め読みと
実は二十年前、初めて本校に来たとき
こ の 図 書 館 を 見 て か な り う れ し か っ た。
のであります。
最後に「愛」について述べたいとおも
います。この言葉はかなり前から私の最
後の語り口にしたいと願っていたもので
す。サッカーに首を突っ込んだ人であっ
たら誰ひとり知らない者がいないサッ
カーの神様「ペレ」の大観客の前での引
も大切なものは愛であるということを言
も、興味の惹かれるまま宮沢賢治の童話
のだ。早速図書館を徘徊しその書籍の量
い た か っ た の で は な い か と お も い ま す。
ず図書館を探ってみる。
は、解説書がしっかりそろっているので
退セレモニーの最後の言葉でもありまし
たとえば争いごとも結局最後は愛でない
それ以外にも何か物語が読みたいとき
や、 調 べ も の が あ る と き も 図 書 館 に 潜
全集を読み進んだ。疑問が浮かんだとき
と解決がつきません。私達の行動も好き
ということがないとスムーズに進みませ
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-
などで使われていたやさしい算術書に読
解くのも大変だが面白い。続けて寺子屋
扱ったものを読んでみたら結構難しくて
る。とりあえず現代の数学の問題として
ど無い。それが何気なく本棚に並んでい
出版されたのだが目にする機会はほとん
自に発展した。その頃に多くの和算書が
に学ばれ、高度な数列や微分積分まで独
江戸時代の日本では数学(算術)が盛ん
る。 そ こ に 当 然 の よ う に 和 算 書 が あ る。
自然科学の階には当然、数学の書架があ
図 書 館 と い え ば ま ず は 文 学 と 思 う が、
本 校 の 図 書 館 は 奥 だ け で な く 幅 も 広 い。
い世界が開けるだろう。
だ作品が気になったら潜ってみると新し
ライトノベルは無理だが、教科書で読ん
んで行くことが出来る。さすがに最近の
を見つけたら、そこからどんどん掘り進
全集がそろっているので気に入った作者
分である。図書館には作者別に分かれた
り当てたトレジャーハンターのような気
ても知ることが出来た。まさにお宝を掘
時代背景や土地柄そして賢治本人につい
かな)で聖書のように扱われている本が
なジャンル(シーカヤックって知ってる
書籍に混じって、ものすごくマニアック
トンなどの歴史やルールや練習法などの
自然科学の階にはスポーツの書籍も数
多く、サッカーラグビー野球にバドミン
ある。
なったらぜひ頑張って突入したいもので
て読みたいと思うシリーズもあり、暇に
ない。でもなんとか生きてるうちに通し
ので読みたいと思ってもなかなか手が出
てあるが一冊読むのに一年くらいかかる
もちろん現代数学の書籍もそこそこおい
ぶ 色 あ せ て い た が 立 派 な 作 り で あ っ た。
ものでカラフルな図が書いてあり、だい
かの円や球を組み合わせた問題を解いた
奉納するものだ。医王寺の算額はいくつ
問題とその解答を額にして神社やお寺に
算額を見せてもらった。算額とは和算の
星宮神社や鹿沼の医王寺を訪ねて本物の
ついて調べた本を読んだときは、佐野の
く学べる工夫が満載だ。栃木県の算額に
勘定でも図が豊富に使われていて、楽し
ストもついて載っている。面積や容積の
と か の イ メ ー ジ が あ る か ら だ し、 ハ グ
ランドにあるのは北部には魔法とか神話
ん分かってきた。ホグワーツがスコット
の常識が見え隠れしていることもだんだ
い。ハリーポッターなどの背景に英国人
と同じ島国なのにさまざまな侵略を受け
にも戦国時代のようなものがあり、日本
史についての解説書があった。イギリス
の教科書を和訳したものとか、英国の歴
入って行くとやはり、英国人が使う地理
とがいろいろあったので社会科学の階に
アーサーランサムという英国の作者の
作品が好きで、英国について知りたいこ
しまった。
なったりとますます忙しいことになって
さいカヌーを手に入れて水上の散歩者に
そろえて冬の山道をドライブしたり、小
い一心で四駆にスタッドレスタイヤまで
嫌いだったのに、スノーボードをやりた
に埋もれている。おかげで雪道なんか大
また増やしてしまうような本があちこち
なかなか暇の無い人の、やりたいことを
あったりして、やりたいことがあっても
ていてずいぶんな思いをしてきたらし
み進んだ。有名なねずみ算が当時のイラ
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-
リットは実はスコットランドなまりで
しゃべっているのだ。
最 近、「 の だ め 」 の お か げ で ク ラ シ ッ
ク 音 楽 を 普 通 に 聴 く よ う に な っ て き た。
家でも安室や宇多田とならんでショパン
やドビュッシーを聴いたりする。図書館
たくましき黒ウサギ
翌朝は何となく早く目が覚め 、休日
であったので早朝に犬を散歩に連れて行
くことにした。昨晩と同じ場所を通りか
かったとき、ふとあの小動物のことが気
になり、「もういるわけないよな。
」と独
り言を言いながらグラウンドを見回し
書する暇がないとか言って、図書館に眠
る者も同じなのだ。勉強が忙しいとか読
れみを覚えるという。本校の図書館に潜
ず、その経験をしようとしない人々に哀
海に潜る人は海中での素晴らしい経験
を 手 に 入 れ る。 そ し て そ の 喜 び を 知 ら
つでも聴けることの幸せをかみ締めている。
る。大人になってから出会った音楽がい
なんて気にはなかなかならないほどであ
ハの全作品のCDで、これを全部聴こう
る。特にすごいのがモーツァルトとバッ
もあるので、借り出しては家で聴いてい
上立ち入ることは不都合なので詮索を打
どのペット立ち入り禁止なので、これ以
引っ張った。グラウンドの中は、犬猫な
て、 そ の 小 動 物 に 近 づ こ う と 鎖 を 強 く
犬は、クーゥーンと鳴きながら尾を振っ
薄明かりでは光はとどかない。足下の老
るようだった。月明かりもなく、街灯の
の距離を保ち、こちらの様子を窺ってい
が、遠ざかって行くわけでもない。一定
ようだ。近づこうとすると素早く逃げる
かな?犬かな?じっとこちらを見ている
暗闇の中に、何かがキラリと光った。猫
外周付近に通りかかると、グラウンドの
ある晩のこと、我が家の老犬と日課の
散歩をしていた。いつもの町営野球場の
ろむ不審犬とその飼い主を、ちらっと目
公園の外柵に近づいた。異常接近をもく
ウ サ ギ を 脅 か さ な い よ う に ゆ っ く り と、
鎖 を 強 く 引 っ 張 っ た。「 メ メ 」 が 黒 い 小
我 が 家 の 老 犬「 メ メ 」 は 昨 夜 の よ う
に、 ク ー ゥ ー ン と 鳴 き な が ら 尾 を 振 り、
紛れもなく、小ぶりの黒ウサギだ。
草を食べていた。「エエッ、ウサギ…?。
」
キョロキョロあたりを見回しながら、野
物 は、 後 ろ 足 で 立 ち、 耳 を ぴ ん と 立 て、
い何かが居るのが目に入った。その小動
側の木立に囲まれた公園の境あたりに黒
めかけたそのとき、外野の芝生とその外
な朝である。「やっぱり居ないか。
」と諦
吸。野鳥も餌を求めて降り立ち、のどか
緑鮮やかで気分爽快思わず伸び伸び深呼
菅原 紀浩
る莫大な量のお宝を眠らせておく手はな
ち 切 っ た。
「 あ れ は 何 だ っ た の だ ろ う。
にしても小ウサギは、気にする様子もな
た。 野 球 場 の 外 野 の 芝 生 は 朝 露 に 濡 れ、
い。なにしろ、必要なのはやってみる気
ど う せ 野 良 犬 か、 野 良 猫 だ ろ う な。」 と
の五階にはCDやビデオなどの映像資料
持ちだけなのだから。
ちょっと気にしながら帰宅した。
(数学科)
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-
「チビクロ」と名付けて毎朝の癒しのひ
い姿に魅了されたわたしは小ウサギに
く朝の食事に夢中であった。その愛らし
て生きて行けるのだろう。
い。そのバランスの中にこそ充実を感じ
しかし危険を忘れては安全を得られな
せ は 得 ら れ な い。 た く ま し く あ り た い。
に怯えてばかりいては生き生きとした幸
う。まるで取り憑かれたようだった。
も何十回、あるいは何百回も聴いたと思
CDを次から次へと購入し、どれもこれ
違 う。」 漠 然 と そ ん な 風 に 感 じ、 彼 女 の
の こ と だ。
「彼女が弾くピアノは何かが
気がついたときはすでに当時通ってい
た東京の幼稚園の薄暗い音楽室で私はピ
* * *
とときを得ることになった。
朝の散歩は、癒しのひとときであると
ともに、生きるということの意味とヒン
あ る 朝、 い つ も の よ う に「 チ ビ ク ロ 」
君、まさしくホームグラウンドである野
球場で朝食の最中であった。そこへ二羽
トを学ぶ機会も与えてくれる。
アノを習っていた。当時としては進歩的
な試みをしている幼稚園だったので、終
業後に幼稚園に残って漢字や算数の勉強
をしたり、運動したり、習い事をするこ
とができた。楽しいと感じていたかどう
かも覚えていないが、当時父が勤める銀
行の狭い社宅にピアノが置かれた時は嬉
存を認めないカラスの闖入に敏速に対応
事を続けている。縄張り争いなのか。共
素早く横へ移動し、なにくわぬ様子で食
年、彼女が日本で話題になった時からさ
い感覚が身体中を駆け巡った。一九九九
ネラ」だった。それまで感じたことのな
たのはフジ子・ヘミングの「ラ・カンパ
通勤途中の車の中だった。身震いがし
て鳥肌がたった。運転しながら聴いてい
いことで得意になっていたこともあった。
た。同学年の他の子供より少し進みが早
母に楽譜を何度も捨てられそうになっ
それから十数年、高校三年生の春まで
毎日練習を続けた。当然、練習は面倒で
飯村友季子
老後の楽しみは…
(国語科)
の カ ラ ス が、
「チビクロ」君を挟んで降
り立った。何を企んでいるのか、片方の
カラスが大げさに羽を広げたり、威嚇し
て正面から「チビクロ」君の注意を惹く
かのような行動をとり、もう一羽が後方
から間隔を詰めウサギに狙いをつけてい
た。「 チ ビ ク ロ 」 は、 も ち ろ ん 気 づ い て
い る が 素 知 ら ぬ ふ り で 餌 を 食 べ て い る。
す る「 チ ビ ク ロ 」
、人間の社会生活の中
らに数年を経て思い出したように購入し
それでも自分の手は小さく指も短い
し、 小 学 五 年 生 か ら 続 け て い た バ レ ー
しくてついうっとりと眺めていたもの
でわずかなスペースとなった自然に生き
た C D の 中 の 一 曲 だ。 カ ン パ ネ ラ と は
だった。
る動物たち。
鐘。人生の大事な節目、節目で鳴らす鐘
後方のカラスが飛びつく寸前にウサギは
人も動物も生きるためには、知恵と勇
気が大切なことは言うまでもない。物事
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-
を弾くことに何を求めていたのか。少々
があっという間に崩れていった。ピアノ
れまでの妹に対する優越感や多少の自信
に私はまったく圧倒されてしまった。そ
まで聞いたことのない音色と精確な打鍵
ソナタ「悲愴」を弾き始めたとき、それ
目指して練習する妹がベートーヴェンの
ちにもなっていたのだが、同じ発表会を
の曲を与えられたことに多少得意な気持
いた。最も難しいと言われているリスト
はF・リストの「ため息」に取り組んで
二年生の冬に開かれた発表会のために私
ところがある日、そのささやかな夢を
あきらめる決定的な瞬間が訪れた。高校
れることになっていた。
レッスンを受けていた先生も協力してく
教 員 免 許 を 取 得 し よ う と 考 え た。 当 時
て埼玉大学の教育学部へ進学し、音楽の
校へ入学した頃には自覚していた。せめ
ピアノ奏者としての才能がないことを高
たというのを言い訳にしながら自分には
ボールのせいか指の関節も硬くなってい
がら練習していたものだった。しかしそ
近づこうものなら毎日長女は大泣きしな
は毎日がスパルタ教育だった。発表会が
非常に細かい指示を出すので家での練習
ていたらしい。ピアノの音色については
だけでなく幼児教育の教室も手広くやっ
慢の先生だった。若いときはピアノ教室
さんとともにレッスンをしていたのが自
本では有名なピアニストである中村紘子
やっとのことで日曜日にレッスンをし
てくれる先生を見つけた。学生時代は日
らなかった。
せにしていたのだが、これだけは母も譲
添 い な さ い。
」子育てのほとんどを親任
腰 を あ げ た。
「ピアノだけは自分で付き
な い の。
」 と 聞 か れ、 迷 い な が ら も 重 い
十数年の時を経て長女が六歳になる
頃、母に「子供たちにはピアノをやらせ
ノのふたを開けることはなかった。
アノと縁を切った。それから何年もピア
になり、音楽の教師をあきらめた私はピ
その瞬間から私の気持ちは音楽から遠
のいていった。そしてついに高校三年生
さく感じた。
足しになればと様々なピアノ曲のCDを
長女との共通の話題になった。少しでも
し、意欲もあった。自然と「ピアノ」が
の子供の頃よりも長女はどんどん上達
で、同じようにピアノを習っていた自分
私が共感できる先生と巡り会えたおかげ
先生の考え方には共感できた。こうして
力も上がっていくと考えているのでこの
れさせ続けることで生徒たちの意識も実
て、実力より少しレベルの高い問題に触
は大きくステップアップするチャンス」
し た 曲 を 次 か ら 次 へ と 与 え た。
「発表会
弾かせない。大きな曲を多少易しく編集
論で、子供なら誰でも弾きたがる童謡は
動してほしい」というのがその先生の持
気につながっているようだった。しかも
で上手に弾いて褒めてもらうことがやる
どんなに日々の練習が辛くても先生の前
子 は 同 じ 教 師 で あ る 私 も 見 習 う べ き だ。
の先生の厳しいながらも必ず良いところ
曲 を 与 え る。 私 も 普 段 教 壇 に 立 っ て い
というのも持論で、実力より数段難しい
「たとえ幼い子供でも自分の弾く曲に感
を見つけて褒めながらレッスンをする様
すらすらそれなりの難度の曲を弾けるこ
とで満足していた自分がとても愚かで小
-
- 130 -
-
「奇蹟のカンパネラ」という題名のCD
いった。
と感じながらどんどんと引き込まれて
れ だ け に 終 わ っ て い な い。
「何だろう」
当たり前であって、彼女の弾く音色はそ
ある。美しい音色や確かなテクニックは
思い出と重なって浮かんでくることすら
でくる。それが自分のこれまでの人生の
襲われたりと様々な情景が自然と浮かん
たり、もの凄い嵐を脅威に感じる感覚に
まりでぼんやりしているような感じがし
ているような感じがしたり、暖かい日だ
ちがしたり、しとしと降る雨の中に立っ
こみ上げてきたり、慰められている気持
りかけられているようだ。もの悲しさが
聴くほど何かが伝わってくる。まるで語
じ曲や違う曲も聴いた。どの曲も聴けば
感触を味わうために何度も繰り返して同
そしてあの日。フジ子・ヘミングに出
会った日とでも言おうか。その後、同じ
パンフレットを端から端まで読んだ。唖
帰路についた。帰宅後すぐに買ってきた
れたような感覚のまま長女の手を引いて
い感激に浸り、別世界にでも連れて行か
ち、涙までこぼれてくる。訳の分からな
られるとあの日と同じように鳥肌が立
わ っ て く る。
「 ラ・ カ ン パ ネ ラ 」 が 奏 で
る姿からは観客を圧倒する力強さが伝
登場したときの存在感、ピアノと対峙す
んでしょ」と言っていた。しかし舞台に
「今日はあのお婆ちゃんのピアノを聴く
奏を聴くために。まだ八歳だった長女も
もう八十歳は楽に超えたお婆ちゃんの演
気 持 ち を 抑 え て 電 車 に 揺 ら れ て 行 っ た。
サートに行ったときと同じようにはやる
ンだの何だのというアーティストのコン
出かけた。若い頃、マイケル・ジャクソ
に押しつけ、長女を連れてリサイタルに
大義名分を振りかざし、次女の面倒を親
う。 そ う し た 中、
「長女のため」という
り憑かれた人たちがたくさんいたのだろ
だった。私と同じように彼女の魅力に取
た。すでに彼女のリサイタルは常に満席
などいくつかの賞を受賞して話題になっ
耳の四十%だけ。ストックホルムの音楽
を乗り越え、かろうじて回復したのは左
いった。二年間全く何も聞こえない期間
スは二度と訪れることなく忘れ去られて
をこじらせ聴力を失う。もちろんチャン
部屋で寝ているしかなかった彼女は風邪
チャンスに恵まれた時、貧困のため寒い
持されてやっとソロリサイタルが開ける
有名なレナード・バーンスタインにも支
るブルーノ・マデルナに認められ、かの
紀最大の作曲家・指揮者の一人と言われ
秀な成績で卒業し、その才能は、二十世
ツへ旅立つ。ベルリン国立音楽学校を優
決意し、戦後の混乱の中、三十歳でドイ
その才能を認められつつもドイツ留学を
を経て数々のコンクールで受賞するなど
ツァに師事。青山学院高等部、東京芸大
才能もあり、十歳でレオニード・クロイ
貧 困 の 中、 母 親 に ピ ア ノ の 特 訓 を 受 け、
日本人の母とドイツ人の父を持つが五
歳 の 時 に 父 親 は ド イ ツ に 帰 っ て し ま う。
の壮絶さに驚いた。
いのか、とにかく彼女のそれまでの人生
然といったらよいのか愕然と言ったらよ
購入し始めたのもこの頃だった。
はクラシック音楽のCDとしては大反響
* * *
を巻き起こし、日本ゴールドディスク賞
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- 131 -
-
のだ。
をその世界で包み込み、圧倒してしまう
は独特の世界を作り出し、聴く人すべて
か威厳すら感じる。それゆえ彼女の音楽
い上がってきた者にしか持てない凄味と
の人生そのものなのだ。失意の底から這
り、彼女のピアノから流れる旋律は彼女
並々ならぬ苦労がぎっしり詰まってお
曲 の 一 つ 一 つ、 音 一 つ 一 つ に は 彼 女 の
分かったような気がした。彼女が奏でる
奏から受ける不思議な感覚の意味が少し
これは彼女の人生のほんの一部なのだ
ろうがそれを知っただけで私が彼女の演
師をして過ごしていた。
本に帰るまでドイツの田舎町でピアノ教
学校で教師の資格を得、一九九五年に日
る自分に驚いている。
なってこれほど「弾きたい」と感じてい
や め て し ま っ た の だ ろ う。
」この歳に
体 の 奥 底 か ら 湧 き 上 が っ て き た。「 な ぜ
そう思うともの凄い後悔の念が自分の身
を 一 つ 加 え る こ と が で き た で あ ろ う に。
い通りに弾けたらこれからの人生に彩り
姿を妄想することしかできない。もし思
指は動かない。今となっては自分が弾く
気持ちだけはあってももはや思い通りに
思 っ て 弾 く こ と が で き た か も し れ な い。
はこんな響きでこんな思いを込めて…と
今だったらこの曲はこんな風に、この音
な 空 っ ぽ な も の に 聞 こ え た に 違 い な い。
いたその音色はきっとただの機械のよう
満足し、テクニックの追求のみに走って
り難度の高い曲を弾いている自分に自己
し時間にゆとりができたら、また弾いて
でも聴かせて欲しい。私もいつかもう少
いに悩め。そしてできることならいつま
色に染まっていくのか。大いに躓き、大
れから様々な人生を歩むにつれてどんな
続けて欲しい。今二人が奏でる音が、こ
もつかないが、二人ともいつまでも弾き
が将来どんな道に進んでいくのかは予想
に弾く音は長女の音とも全く違う。二人
たことが全くない。そのせいか自由奔放
次女には長女のようなスパルタ教育をし
出 す。 こ こ 二、 三 年 は 私 の 帰 り も 遅 く、
が、これも私とは全く違った感覚の音を
妬 を 感 じ る。 こ の 頃 は 次 女 も 弾 く の だ
とはいえ、歯ぎしりしたくなるような嫉
な長女が羨ましくて仕方がない。我が子
裕で開く柔らかい指を持っている。そん
らないだろうが、大事なことは自分が作
ニックに裏付けされた演奏でなければな
に聴いてもらう立場ならもちろんテク
気 が す る。「 何 の た め に 弾 く の か …」 人
てしまった。長女は私より一回りも二回
る。もうスパルタ教育ができる域を超え
かったであろう曲に次々に挑戦してい
なった長女は私が高校生の時でも弾けな
現在フジ子・ヘミングの音に出会って
か ら さ ら に 数 年 が 経 つ。 小 学 六 年 生 に
ちなみにフジ子・ヘミングは本校国語
に感謝すべきなのだろう。
くれたフジ子・ヘミングと二人の娘たち
そう考えれば私に老後の楽しみを与えて
な こ と が 今 の 私 の 密 か な 楽 し み で あ る。
い。三人の音色は全く違うはずだ。そん
みよう。子供の頃に弾いた易しい曲でい
り 出 す 音 を 通 し て 何 を 表 現 し た い か だ。
りも大きな手と長い指、一八〇度以上余
十数年もピアノを弾いていて分からな
かったことがやっと分かりかけたような
それは素直に音に現れるのだ。少しばか
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-
とを後になって聞き、非常に驚いたと同
科の大月一男教諭の伯母さんだというこ
駐車場がある立地条件の良さも手伝っ
それに代って目立つようになったのが
全国展開する大型古書店であり、大きな
個人経営は絶望的な状況かもしれない。
のだ。受験参考書の類もほとんどここで
だ。尚且、帯まで健在なのだから感激も
誘う「ウンベルト・エーコ」やらの初版
ス・ ピ ン チ ョ ン 」、 そ し て、 私 を 迷 宮 に
本を見つけたときは思わずほくそ笑ん
いざな
時に何だか身近になった気がして嬉し
て、 こ ち ら に は 私 も し ば し ば 足 を 向 け
(外国語科)
かった。
た。研究書となると年間、片手で足りる
数に反比例するかのように読書量が減っ
ここ國學院栃木で教鞭を執るように
なって十五年近くになる。そして勤続年
されたのが自分の生まれた年であるのも
てが魅力的だ。さらに、その二冊が出版
きも、男も女も、貴・賤、善・悪、すべ
の作品に登場する人間たちは、老いも若
一 つ ) も 手 に 入 れ る こ と が で き た。
(彼
品(中央公論社と集英社の文学全集内の
んど見かけなくなった「中山義秀」の作
を手に入れることもある。最近ではほと
る。だからその金額で思わぬ掘り出し物
ある外山滋比古は、辛いことがあったと
もある。英文学者であり、言語学者でも
くれ、生きる勇気を与えてくれるもので
の、そして自分自身の可能性を示唆して
ざまな場所へ導いてくれる。また、人間
その限界を一気に取り払い、読者をさま
無数の限界を持つ人間にとって、読書は
と だ が、 読 書 は 本 当 に 素 晴 ら し い も の。
なっている。今更私が言うまでもないこ
は、 毎 朝 十 五 分 間 が「 読 書 の 時 間 」 に
現在、私が担任をしている中学二年生
買い求める(駿台レクチャーシリーズな
か も し れ な い。 そ ん な 状 況 で あ る か ら、
感慨深い。僅かな時間があると、自分と
き は、 で き る だ け 難 し い 本 を 読 む こ と
どは、何冊も同じ物を買い、受験生たち
学生の頃に胸弾む思いで通った神田や早
同い年のそれを手に取り、胸を熱くしな
で、その辛さを忘れ、生きる力を与えら
る。研究書などは望めないが、どの品も
稲田にもなかなか足が向かないし、まし
がら、また、暖かい気持ちになりながら
半額、さらに古いものや状態の良くない
て、そんな場所はこの栃木に望むべくも
読むのが、私の楽しみの一つだ。
)
の彼があることも。彼に限らず、生徒た
に貸し出す)
。
な い。 さ ら に 追 い 打 ち を か け る が ご と
ちそれぞれの十五分間の積み重ねが、大
ものは税込価格一〇五円で販売されてい
く、近隣では個人経営の古書店が、ここ
そ の 他 に も、
「岩波文庫」で絶版と
なったものや、今となってはなかなか手
古書の楽しみ
十年の間に次々と姿を消している。私の
に入らない、一見ハチャメチャな「トマ
坂本 一成
住む街にあった店も今年になって姿を消
れたと述べている。そしてそのことで今
した。書店に限らず、地方はどの業種も
-
- 133 -
-
読 書 に は、 様 々 な 人 と の 出 会 い が あ
る。それが、作品を書いた作者であった
いい。気に入らなければ気軽に処分できる。
してもいいし、新たに新品を買い求めても
時楽しめる。気に入った作品なら宝物に
だからジュース代以下で未知の世界を暫
新刊は望めないものの一冊一〇五円なの
な い。 だ か ら、 生 徒 に は 古 書 を 奨 め る。
ところで、その十五分間の積み重ねを
毎日続けるとなると書籍代もばかになら
は間違いないと私は信じている。
きなものとなって自分に返ってくること
か る の は、 あ た か も 担 任 の よ う で あ る。
を、そしてその受験生のその後が気に掛
の持ち主であった受験生のその時の思い
しで、その線の是非を判断し、さらに元
た場合は尚更のこと。思わず教師の眼差
してやそれが受験参考書・問題集であっ
のような錯覚にも陥るときさえある。ま
が、その作品について対話をしているか
は 趣 深 い も の。 以 前 の 持 ち 主 と 自 分 と
考えて線を引いたのかに思いを馳せるの
場、どのような状況で、何を思い、何を
るからである。その人が、どのような立
かれた箇所に宿っているように感じられ
豊かで有意義なものと言える。
あるなら、私にとってこれからの人生も
違いない、あることを切に願う。そうで
有し読む喜びなどは、今と同じくあるに
ない。
)
」を見つける楽しみや、それを所
な単語さえ葬り去られているのかもしれ
時、古書なんて言えるのかどうか。そん
化した全く別の何かかもしれない。その
タイルの「古書(もしかしたらデジタル
も、そのときそのとき自分に合わせたス
量ることができる。だが、そんな状況で
長である古書の今後の運命は自ずと推し
新しくなっていく。書籍、そしてその延
(国語科)
古書には、その本の持つ読者の歴史さえ
残念なことだが、街の古書店が姿を消
り、作品の登場人物であったりする。そ
していく。それが時代の流れであるなら
し て 読 め ば 読 む ほ ど、 そ の 機 会 が 増 え
はさらに同じ「読者」という立場でのつ
甘んじて受けるほかあるまい。その代わ
感じられる。自分自身もその歴史の一端
ながりもできる。たとえば、買い求めた
り、大型店の中に、そしてそこで得た作
る。考え方や行動に共鳴できれば、読者
古書には線が引かれていることがよくあ
品に居場所を見つけられた自分は幸せで
を担うことになるは至極光栄なこと、と
る。 以 前 は そ れ が 嫌 で 仕 方 が な か っ た
あ る。 世 の 中 の 合 理 化 も ま す ま す 進 み、
ても嬉しい。
が、 最 近 で は 全 く 反 対 の 気 持 ち に な っ
それに伴い情報技術・記録媒体も次々と
側からの一方的なものになるが、生涯の
た。そこには自分より先にその本を買い
師となったり親友となる。古書において
求めた人のその時の思いが、その線の引
-
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-
るために毎週のように全日本プロレス中
強さに引かれたのである。ジャンボを見
頃と時期が重なり、ジャンボの圧倒的な
が強くならないといけないと思っていた
る公立中学に通っていたので、自分自身
とにかくタフで強かったのだ。荒れてい
私は中学生の頃にプロレスが好きに
な っ た。 き っ か け は「 ジ ャ ン ボ 鶴 田 」
。
よる)ので弱々しいイメージがあった
だろう。筋肉の鎧がない(これは体質に
ほどすごいか、想像してもらえばわかる
体で、ドロップキックをすることがどれ
209センチ、145キロ(当時)の巨
ケ ッ ト 砲 」 も や っ た。 そ れ も
ク、 片 足 が
歳 ま で。
文人間ロ
こととしては、昔はなんとドロップキッ
はないので、詳説はしないが、象徴的な
イアント馬場の技を検証するのが目的で
ドにはまっていった。この文章は、ジャ
だり、復刻版を見たりして、馬場ワール
にもとりつかれはじめていた。本を読ん
ピオン」であったのだ。私は馬場の魅力
で あ り、
「元NWA世界ヘビー級チャン
プ ロ レ ス の オ ー ナ ー 社 長( 一 時 会 長 )
」
「 タ イ ガ ー・ ジ ェ ッ ト・ シ ン 」 そ し て 超
た。 そ こ で 馬 場 の 全 日 本 は す か さ ず、
を 行 な う 」 と 言 っ て、 馬 場 を 激 怒 さ せ
などない。全日本をつぶすまで引き抜き
の営業本部長の新間は「守るべきルール
る」といって怒りを表にしたが、新日本
は、
「この世界には守るべきルールがあ
ブッチャー」を引き抜いた。この時馬場
の 看 板 外 人 で あ る「 ア ブ ド ー ラ・ ザ・
( 企 業 戦 争 ) が 始 ま り、 新 日 本 が 全 日 本
体新日本プロレスと、レスリングウォー
そのことにまつわるエピソードを1つ
紹介しよう。時は昭和 年、ライバル団
から応援のメッセージが入る」とある。
が困った時には、全米各地のプロモーター
話一本すればよぶことができる」
「馬場
普段のシリーズの外人招聘は、彼らに電
ジャイアント馬場さんの
名言集
継 を 見 た が、 そ の 中 で、
「ジャイアント
が、トレーニングをしっかり積んでいた
かれた。
『プロレス風雲録』
(ミリオン出
このように、レスラーとしてもすごい
のであるが、さらに私はその人間性に引
のである。
と申し出をすることになる。つまり新日
「引き抜きはしないようにしましょう」
き を 仕 掛 け た 新 間 が、 馬 場 の 元 を 訪 れ、
かれてしまった新日本は、最後は引き抜
大物「スタン・ハンセン」を引き抜き返
木村 豪
馬場」の扱いが普通のレスラーとは違う
うイメージが強かった(私もそのように
版 社 ) と い う 本 に、
「プロレス団体を運
本側の敗北宣言だ。いとも簡単に引き抜
文 な の で、
「
ことに気がついた。
思っていた)ので、なぜ、そのように特
営している人(アメリカ各地の大物プロ
し、報復した。そしてハンセンを引き抜
別 扱 い を さ れ る の だ ろ う、 と 不 思 議 で
モ ー タ ー) の 殆 ど が 馬 場 の 友 達 で あ り、
56
あ っ た が、 理 由 は だ ん だ ん 分 か っ て き
当時ジャイアント馬場は、すでに「大
きいだけで、動きの遅いレスラー」とい
32
45
た。 実 は ジ ャ イ ア ン ト 馬 場 は、
「全日本
-
- 135 -
-
16
「引き抜きをさ
こ の 件 で は、 私 は 昔、
れたら、すぐに引き抜き返すという、そ
ターたちの存在があるからだ。
裏で動いてくれたアメリカのプロモー
き返すことができてしまうのは、馬場の
いる。
う大胆さがあの時はあった」と書かれて
は「石橋をたたく前に、飛び越えてしま
最大の攻撃』
(日本スポーツ出版社)に
の 行 動 は 早 か っ た の で あ る 。『 防 御 は
る。本当に好きなら、それでも自分で勝
数学が好きなのではない。英語や国語な
なくなった」と言っている人は、本当は
の学習になって難しくなったから好きで
学のときは数学が好きであったが、高校
手くなる。逆説的にいうと、例えば「中
板外人、つまり集客力のある選手が引き
基 本 は、「 信 頼 」 で あ る。 そ の 団 体 の 看
味絶対的な自信があった。馬場の経営の
当に細かな点が行き届いており、ある意
アント馬場の、選手に対するケアは、本
勢もすばらしい、と思っている。ジャイ
する」という、団体オーナーとしての姿
けられた攻撃に関しては、しっかり報復
下、いくつかピックアップしてみたい。
身を振り返ってみることにしている。以
さんの名言や生き様を振り返り、自分自
分かっているが、それでも時には、馬場
馬場さんみたいに高尚にはなれないのは
だろう)を尊敬している。絶対に自分は
木」だし。それだけでも人間性が分かる
場 さ ん 」 だ け だ。 猪 木 は い ま だ に「 猪
ラーで「さん」付けで呼ばれる人は「馬
「 馬 場 さ ん 」 と す る。 そ う い え ば、 レ ス
遇した場合、相手が弱ければ圧倒的に勝
て、そのような人が実際に戦う場面に遭
る練習ばかりすることになるだろう。さ
だから、放っておいたらその人は攻撃す
た ら、「 相 手 を 攻 撃 す る 練 習 」 だ ろ う。
練習」のどちらが(より)好きかといっ
を攻撃する練習」と「自分が攻撃される
に 勝 手 に し ろ 」 と 言 わ れ た 時 に、
「相手
は さ て お き、「 も し 格 闘 技 の 練 習 を 自 由
手に学習を進めるものである。まあそれ
どと比べればまだ好き、程度のことであ
と い う こ と で、 長 く な っ て し ま っ た
が、 私 は ジ ャ イ ア ン ト 馬 場 さ ん( 以 下、
の本場アメリカマット界を含めた政治
抜かれたのだ。ブッチャーという、信頼
力」を買っていたが、今は「不当に仕掛
をしていた看板選手を引き抜かれた怒り
受けられるだけの力がある場合、または
てるだろう。しかし、相手がその攻撃を
その1『自分のできないこと、苦手なこ
攻撃がかわされてしまった場合には、逆
もあったのであるが、このまま社長であ
る馬場自身が何もしなければ、他の所属
とをできるようにするのが練習』
で あ ろ う。 普 段 は「 慎 重 居 士 」
「泰然自
に自分で何でも創意工夫してやるから上
があるとおり、本当に好きなことは勝手
「好きこそものの上手なれ」という言葉
に敗れ去ってしまう。元横綱Aやビース
の練習」をしていない人はもろく、簡単
だ。そうすると、「攻撃を受ける(受身)
に自分が攻撃を受けることになるわけ
選 手 か ら「 馬 場 さ ん は 頼 り に な ら な い 」
若 」「 石 橋 を た た い て も わ た ら な い 」 と
と思われてしまう、ということもあった
形容されているのであるが、そんな馬場
-
- 136 -
-
ろう。つまり、格闘技で総合的に強くな
撃を許すと簡単に負けるのはその典型だ
トとあだ名がつけられたBが、相手に攻
いるかな。
をできるようにする」学習を実践できて
で、
「 自 分 の で き な い こ と、 苦 手 な こ と
しみて感じているだろう。自学自習の場
このコメントも先ほどのコメントと同
様 に、 当 て は ま る 生 徒 が い る 気 が す る。
と思う。
マスコミ、と言えば分かっていただける
張したら自分が馬鹿にみられてしまう』
その2『筋を通せ』
『色々ぎゃーぎゃー主
… 物 事 が 自 分 の 思 う よ う に 行 か な い 時、
い 」「 遊 ぶ 時 間 が な い 」「 校 則 が 厳 し い 」
「勉強が大変だ」
「授業が早い、わからな
る に は「 受 け 」
「防御」にも強くならな
のの上手なれ」の理論で行くと、痛みを
け れ ば な ら な い。 し か し、
「好きこそも
ともない、華のない「自分が攻撃される
け な い。 総 合 的 に 強 く な る に は、
「やは
トが活きるために他の球種がなければい
目が慣れれば打たれてしまう。ストレー
いが、それしかないのであれば、打者の
しまう。投手も、ストレートはすばらし
るように練習しなければ、打ち取られて
また、野球のバッターでも、内角は強
いが外角が弱いのであれば、外角も打て
ればならない。
に「自分が攻撃される練習」を入れなけ
本当に強くなりたければ、練習メニュー
と思うので、代わりに似たような例をあ
ればきりがないが、読者には分からない
潮がある。プロレスにおける事例を挙げ
逆に社会や組織に背く人をもてはやす風
の こ と が 当 た り 前 の こ と で は な く な り、
るが、マスコミによって、その当たり前
人としては当たり前のことである気がす
るべき措置がとられることがある。社会
て不利益になることをするものも、しか
らない。また、所属している団体にとっ
反すればそれなりの償いをしなければな
の契約に違反した行動はできないし、違
日本マット界のレスラーも、団体と契
約をしているレスラーである。従ってそ
が、筋を通すということである。
の規則を変えていくようにしていくの
く、生徒会に立候補して、校則や文化祭
れを外野的に文句ばかり言うのではな
色々あって納得いかないのであれば、そ
で あ る。 ま た、 校 則 や 文 化 祭 の 規 則 が
くのであれば、聞くに値するというもの
で、さらに良くするための提案をしてい
発 言 だ ろ う か。 最 大 限 の こ と を し た 上
た、誰にも負けないほど努力した上での
したりした上でのコメントだろうか。ま
杯頑張って、分からないところは質問を
( た ち ) を 正 当 化 す る( ふ り を す る ) の
な ん で も 他 の も の の せ い に し て、 自 分
り自分のできないこと、苦手なことをで
げてみよう。ボクシングのK選手や柔道
練 習 」 で は な く「 相 手 を 攻 撃 す る 練 習 」
きるようにする」ことが必要である。こ
の I 選 手 の 発 言 を 持 ち 上 げ る( て い た )
は簡単な方法。ただ、本当に勉強を精一
のような考え方は当然学習にもあてはま
ば か り す る こ と に な る だ ろ う。 だ か ら、
るが、これを読んでいる学生諸君は身に
-
- 137 -
-
その3『みんな注目している』
これは、プロレスの実況で若林健治ア
ナウンサーが解説の馬場さんに向かって
りとしたい。
を若干アレンジして)載せて、締めくく
年生向けに(最後だけ編集前の元の原稿
は特に評判が良かったので、卒業する3
構文』2冊)を出版したが、その後書き
た り、 自 分 の 将 来 の こ と も 考 え た あ げ
な中で、会社内でいろいろなことがあっ
ることはなく、数年が過ぎました。そん
しましたが、結局は出版部門に配属され
出版部門がある教育業界の会社に内定は
「人生はチャンスとチャレンジだ。チャ
約での教員を経験したあと、現在の学校
を退社しました。その後1年間、年間契
く、私は教員の道を志す決意をし、会社
いますか」という問いに対しての馬場さ
ンスは絶対モノにしろ」
「 馬 場 さ ん、 今 日 は ど の 試 合 に 注 目 し て
んの答え。
で、弟子のジャンボ鶴田さんのお墓にも
これは、私が尊敬している、元プロレ
スラーのジャイアント馬場さんの言葉
とだけに、ネガティブに捕らえてしまっ
まあつまり、かなり回り道をしている
わけですが、結局それらを単に、回り道
に勤務しています。
い い の で あ ろ う が、
「みんな注目してい
校で自分が感銘できる講師に多く出会う
私が教員に転職できたのは、浪人時代
に一生懸命勉強したからですし、その原
-
- 138 -
-
TVのコメント向けとしては「○○対
△ △ で す ね。
」というようなコメントが
る」である。プロモーター馬場正平、社
てはいけないと思います。先ほどの「世
ですが、してしまったからには、そこで
す。回り道はしなければその方が良いの
こでも学ぶことができるという教えで
界は教室だ」とは、学ぶ気があれば、ど
「人生はチャレンジだ」と刻まれています。
「 世 界 は 教 室 だ 」 と い う、 ジ ャ
ま た、
ンボ鶴田さんの言葉も大好きです。
長ジャイアント馬場として、所属してい
るレスラー全員に目を配らせていること
が分かるコメントであるし、このような
言葉が普通に出てくるところがすばらしい。
ま た、 大 学 4 年 生 の 時 の 就 職 活 動 で、
ことができたからです。また、現職での
学べることがたくさんあるはずです。
さ て、 馬 場 さ ん の 名 言 は 色 々 あ る が、 「出版に 携わる仕事がした い」と思い会
今回はこの言葉を最後にして締めくくり
社を回りました(本当は某プロレス会社
経 験 が な け れ ば、 こ の よ う な 本 を 書 く
人 生 も を 超 え る と、 色 々 経 験 し ま
す。 私 は 大 学 受 験 で は 浪 人 し て い ま す。
で働きたかったけど、希望職種に募集が
その4『人生はチャレンジだ。チャンス
な い と い わ れ た の で、 あ っ さ り 退 散 )。
は絶対モノにしろ』
たい。私は昨年、ゴマブックスの依頼を
動力としては(高3時代も含めて)予備
受 け て 学 習 参 考 書(
『 や ば い! 英 文 法・
30
が」となっている)
、 皆 さ ん の「 チ ャ ン
ここが元の原稿では「この本との出会い
木高等学校に来ての様々な出会いが(←
験も無駄なことはありません。國學院栃
君達も、これからさまざまな出来事が
待っているでしょう。しかし、どんな経
かったのです。
始 ま る と、 今 の 仕 事 や た わ い も な い 話、
だん名前と顔が一致してきた。同窓会が
の雰囲気や面影がまだ残っていて、だん
が経つにつれ、小学校の時の一人ひとり
一瞬だれだかわからない。しばらく時間
かがきていた。互いに顔を見合わせても
た。私が着いた時には、もうすでに何人
期待とが混ざる気持ちで会場に向かっ
当日、私は楽しみにふくらむ気持ちと
みんなはどうなっているのだろうという
を送ろうというタイトルをみんなで考
イトルだ。シナリオやレールのない人生
の だ。「 あ ら す じ の な い 物 語 」 と い う タ
窓会のその日に文集をもってきてくれた
る先生だった。その性格は変わらず、同
は真面目で生徒のことをよく考えてくれ
中で読んだことを覚えている。山田先生
感じ、涙を浮かべて卒業式の帰りの車の
ていなかったが、その文章から雰囲気を
の私は、その内容の意味がよく理解でき
も励まされたという内容だった。その時
少し不安だったが、みんなの笑顔にいつ
スをモノにする」きっかけになれること
当 時 の 話 な ど に 花 が 咲 き、 時 間 が 昔 に
言っていた。小学校の卒業式の日、山田
たかこ似だと当時はクラスのみんなで
超えていたと思う。担任の山田先生は松
車に乗ることや放課後に家の近くにある
音楽。勉強は苦手で、好きなことは一輪
の私の好きな科目は音楽、得意な科目は
な 人 に な り た い。」 と 書 い て い た。 当 時
文集の中で「十年後の自分は?」とい
うコーナーの中で、私は「真面目で素敵
-
- 139 -
-
「チャンスをモノにする」こともできな
を祈ります。
戻ったような感じになった。
それぞれの道で頑張れ!
」
え、文集にはその時感じていたこと、夢
などを書いていた。「あー、懐かしい
私の小学校六年生の学年の先生は、当
先生は私たちに向けてB4のプリントに
駄菓子屋に行くこと、公園でみんなで遊
(外国語科)
その時の気持ちを書いてくれていた。先
ぶことだった。正直、そういうことしか
生は教師になり、私たちのクラスを初め
記憶にない。ということは、ここにいる
とみんなは言ってページをめくっていた。
今年の四月の下旬に私の家に一通の封
筒が送られてきた。開けてみると、出身
て 担 当 し、 最 初 の 卒 業 生 を だ し た の だ。
時二十七歳の山田(旧姓 松本)先生と
川上先生。当時は二クラスしかなかった
小学校の同窓会の知らせだった。小学校
そ の プ リ ン ト に は、 教 師 に な り 初 め は、
のだ。川上先生はたぶん、当時三十歳を
を卒業して以来十四年ぶりの初の同窓会
稲葉 千恵
の開催通知だった。
懐かしい同窓会
!!
た巻き戻して自分が満足するまで聞いて
で聞いた。少しでも違うと感じたら、ま
とにかく真似た。テープがすりきれるま
繰り返し聞いて、テープや先生の発音を
に帰っては毎日三時間、英語のテープを
に夢中に取り組む日々を送っていた。家
小 学 校 の 時 の 夢 は「 真 面 目 で 素 敵 な
人」だったが、中学にあがると私は英語
を思い返していた。
こんだ。私は帰って、文集や自分のこと
の後も次の日の朝四時までみんなで話し
もしなかったのでびっくりした。同窓会
自分のことをまさか覚えているとは思い
いてくれたことにうれしさを感じ、また
担任の先生以外にも自分のことを覚えて
か っ た よ。」 と 声 を か け て く れ た。 私 は
たな。毎日充実してる顔をしてるな。よ
く私のところにきて「いい路線をたどっ
た。特に川上先生はびっくりされたらし
の職業を言ったときには、びっくりされ
会が進んで一人ずつ現状報告というこ
と に な っ て「 高 校 の 教 師 で す。
」と自分
とになる。
みんなも当時の私しか知らないというこ
尊 敬 の で き る 親 友 に な っ た の だ と 思 う。
してきた友人だからこそ、信頼で結ばれ、
ることもあったが、そういう付き合いを
話すからお互いぶつかり、言い合いにな
ある時はその友人に相談をする。本気で
音を言い合える仲だった。今でもなにか
は、自分のことを本気で考えてくれ、本
け、納得するまで聞いてくれたその友人
たくなった時でも自分の悩みに耳を傾
があったからだ。夜中に誰かに相談をし
そんな私ががんばれたのは友人との交流
自 分 を 持 て 余 し た り し た こ と も あ っ た。
いかない事があると必要以上に落ち込む
をもつ人になったわけではない。うまく
ただし、中学になっていきなり強い意志
か な え た と い っ て も い い か も し れ な い。
コツやるという意味にとれば、半ば夢を
分、
「真面目な人」をあきらめずにコツ
きた。小学校の文集に書いた夢の前半部
も驚くほど、真面目に努力することがで
た。熱中するものが見つかると、自分で
なりたい」という夢が芽生えた時期だっ
か っ た の か も し れ な い。
「英語の先生に
いた。むしろ、英語しか勉強をしていな
なさい。いつも甘えられる人の近くにい
じゃない。学ぶことにがむしゃらになり
返しだ。だから、失敗をしてもめげるん
私の憧れる四十代の人から言われた言
葉 が あ る。
「二十代は成功と失敗の繰り
なった。
きたいかということに心を留めるように
になった。今後、私自身がどうなってい
は、夢というより目標や理想をもつよう
さて、現在中学以来の夢がかなって英
語 の 教 師 に な っ た わ け だ が、 最 近 の 私
は、私にとって良い経験になったと思う。
みながらも苦手教科に取り組んだこと
入らなかった中学時代に比べると、苦し
ようになった。好きな事にだけしか目に
ていくうちに、何とか結果がついてくる
か思いつかなかった。がむしゃらにやっ
コツコツと準備をするというやりかたし
だ。苦手教科は定期試験の二週間前から
い」というのが私の夢になっていたから
の 教 職、 資 格 の 取 れ る 大 学 へ 進 学 し た
らなかった。なぜなら「推薦入学で英語
高校生になると、好きな教科だけでな
く、苦手な教科もなんとかしなければな
-
- 140 -
-
て は だ め だ。 一 緒 に い て、 い づ ら い 人
そういうことを経験したら、三十代が充
( 自 分 に 厳 し い 人 ) の 近 く に い な さ い。
実 し て く る。 四 十 代 は も っ と 楽 し く な
る。だから、二十代で価値観や考えを固
め る な。 人 生 八 十 代 ま で 生 き る の だ か
研究室と教室と
中 等 教 育 は 二 つ の 性 格 を 有 し て い る。
ひとつは初等教育段階で築いた基礎をも
とに国民としての資質や人格の形成を目
指すという性格。もうひとつは高等教育
段階での高度な技術・知識習得のための
後、二十年後再び自分に問いかけてみる
女性」になりたいという夢を、私は十年
小学校のころに書いた「真面目で素敵な
な い と 生 き て い る 意 味 が な い 気 が す る。
る人は格好いいなと思う。夢をもってい
いということだ。常に目標に向かってい
める厳しさを自分に課さなければならな
からこそ、キャリアだけでなく内面を高
と惰性に流されがちになってしまう。だ
学生の頃と違い、社会人には卒業・進
学という節目がない。うっかりしている
な言葉だった。
んな研究をつづけながら教壇に立ってみ
か成果を形に残せればと思っている。そ
をかけても足りないかもしれないが、何
らすべての疑問を解決するには私の一生
は何か。などなど疑問は尽きない。これ
待したのか。真に社会に貢献する教育と
を経験した人々は、新しい教育に何を期
な六・三・三・四制になったのか。敗戦
持っている。なぜ学校制度が現在のよう
は近現代史、特に戦後の教育史に関心を
目指しているからだ。私の専攻する分野
ら、大学院にも在籍し修士論文の完成を
いる。専任講師として本校に奉職する傍
「 今 年 ほ ど 忙 し い 一 年 は 生 涯 な い だ ろ
う。
」私はそんなことをひそかに思って
得することとなり、彼らは優秀な労働者
は誰もがある程度の高い資質・能力を習
る。この制度の確立によって、日本国民
映した中等教育制度が完成したのであ
完成した。つまり、前者の性格を強く反
破することを目的とする中等教育制度が
向上させ、従来の支配・被支配関係を打
育を受けたすべての国民の資質・能力を
て大幅に改革された。その結果、初等教
いた。これが「教育の機会均等」によっ
層に階層分解させる装置として機能して
る。戦前、教育は国民を支配層と被支配
等」であったことが明らかにされてい
戦後の教育改革の方針が「教育の機会均
北川 嘉則
注1
基礎学力・知識の習得を目指すという性
ことにしよう。そして、人として、女性
としてその後の高度経済成長の原動力と
格 で あ る。 こ れ ま で の 研 究 に よ っ て、
として、教師として大きく成長していき
ると、先人たちの苦労や果たせなかった
なったのである。
ら、 も っ た い な い ぞ。
」私にとって新鮮
たいと思う。
夢、残していった課題が、少しだけだが
戦後教育改革は、先進国の仲間入りを
(外国語科)
私にも見えてくる。
-
- 141 -
-
何 を 学 ん で き た か と い う 学 習 歴( 研 究
業においても、出身大学ではなく大学で
時代が終わったことも意味している。企
は一方でただ学歴さえあれば良いという
府にまで及んだのである。しかし、それ
に な っ た。「 教 育 の 機 会 均 等 」 は 最 高 学
ば最高学府に誰もが進学することが可能
る。大学全入時代を迎え、望みさえすれ
難になってしまっているように感じられ
有する人材(傑出した人物)の輩出が困
ことには成功したが、高い資質・能力を
ぎた)ために、平均的な国民を育成する
性格を強くしすぎた(均等性を重視しす
したとおりであるが、あまりにも前者の
等教育にふたつの性格があることは前述
とが今日の教育には求められている。中
打破することのできる人材を育成するこ
といえるだろうか。この閉塞した状況を
鑑みて、はたして戦後の改革は成功した
るだろう。しかし、現在の日本の状況を
価に値する改革、成功した改革だといえ
果たす原動力を生み出したという点で評
上のみならず、敗戦という閉塞感漂う時
たのである。彼らは国民全体の資質の向
てそれを伸ばす教育を施すことを意味し
でなく、違いのある者をその違いに応じ
同士を差別することなく教育を施すだけ
「 教 育 の 機 会 均 等 」 と は、 違 い の あ る 者
のキャリア教育か)
。彼らにとって真の
としていたのである(現在でいうところ
応じて、より現実的な職業教育を施そう
などを併設し、生徒にその能力・適性に
いた。さらに、学校に工場・漁場・農場
育を「天才教育」
・
「選別教育」と呼んで
は多く存在した 。彼らはそのような教
を中等教育の場で実現しようとした人々
として、さらに優れた人材の発見・育成
に お い て も、
「教育の機会均等」を前提
このような考え方は何も最近新たに生
まれてきた考え方ではない。戦後改革期
なっていかなければならないと考える。
し育成し、高等教育段階に送り出す場に
代を担うリーダーたりうる存在)を発見
優れた人材・探究心にあふれる人材(次
るだけに満足することなく、その中から
堅持するとしても、ただ大学に入学させ
と、そんなことを考えながら私は今日
も研究と教育のはざまを行き来している。
が私の携わっている中等教育なのである。
ればならない。そして、その要となるの
社会に寄与する教育を確立していかなけ
いが)現在の教育の域を超えた真に日本
後改革構想の復活を是とするわけではな
く そ れ を 察 知 し、( 実 現 で き な か っ た 戦
人材を育成する教育という営みがいち早
や日本の発展はありえない。次代を担う
制度を取り入れ、応用するだけではもは
もはや戦後はではない。冷戦体制も崩
壊して久しい。アメリカに追従し、その
たのである。
(地歴公民科)
いわゆる「教育の機会均等」が保障され
た連合軍によって葬られ、現在のような
による日本の急速な復興と報復を警戒し
の教育改革構想は、それら「天才」たち
育成をも目指したのである。だが、彼ら
代 を 打 破 し う る「 天 才 」( リ ー ダ ー) の
教育史学会『教育史研究の最前線』日
注1
る程度の改革に押しとどめられてしまっ
歴)を重視するようになってきた。これ
注2
からの中等教育は「教育の機会均等」は
-
- 142 -
-
律文化社、 1999,5
板橋文夫・板橋孝幸「青年学校の地方
(『 六・ 三・ 三 制 の 成 立 』
)法
2006,9
三 羽 光 彦「 六・ 三・ 三 制 構 想 の 生 成 」
(『新版 昭和教育史』
)東信堂、
校に工場などを併設する改革を訴える
教育」や「天才」の育成の必要性や学
教育の必要性を説いていた。教育界の
ながら、しきりに「選別教育」や職業
当時最大の教員団体であった大日本
教育会は会報である『大日本教育』の
注2
定着と義務化」
(
『勤労青少年
自由党(当時は鳩山一郎が総裁で、現
業界紙である『教育新聞』でも「選別
投稿が多数あった。政界でも一九四六
年の衆議院選挙で第一党となった日本
も文教関係のマニュフェストに「天才
教育」の実現を明記していた。
-
- 143 -
-
本図書センター、 2007,3
久 保 義 三「 教 育 制 度 改 革 と 戦 時 体 制 」
教育の終焉』
) 2007,7
大島 宏「敗戦直後における文部省の
初等後教育制度改革構想」
在の自由民主党の母体となった政党)
、
21
なかで「教育の機会均等」を前提とし
)教育
(『日本の教育史学』
2002,12
校』
)クリエイティブ
響」
(
『戦後教育改革と青年学
同
「青年学校による機会均等運
動の展開と教育改革への影
1978,9
立史の研究』
) 明 治 図 書、
構想の胎動」
(
『新制中学校成
史学会、 2001,10
赤塚康雄「戦後日本における六・三制
44
ヨーロッパ研修 漱石と鷗外
福 田 寿
勤続 年の海外研修として初めてヨーロッパに行くことに
なった。外国へは中国に三回、国際情報科の修学旅行でオー
ドイツへの移動は全く自分一人というすこぶる不安な全くの
がつかない。イギリスからフランスへの移動、フランスから
ルからドイツ・テーゲル空港までの見送りしか現地スタッフ
ストラリアへ一回行っただけだったので、一人で遠い異国の
野放し旅行だった。今考えるとよくまあ帰って来られたと思
定の 時 分近くになっても搭乗手続きが行われない。アナ
行便だよな」と思いつつ乗り継ぎ便を待っていると、何と予
ビーに行ったら日本人は誰も居なかった。
「やはり普通は直
人の旅行客がたくさんいたが、ロンドンに乗り継ぐためのロ
年やっているので、写真およびビデオもできるかぎり撮って
でも感じてみたいという思いで旅立った。写真部の顧問も長
した。そして二人の感じたヨーロッパの大都市をほんの少し
ドンの漱石記念館とベルリンの森鷗外記念館を訪れることに
ることに決めた。そのために、現在記念館になっているロン
今回の研修の目的は国語科の教師として、イギリスに留学
した夏目漱石とドイツに留学した森鷗外の足跡の一部をたど
う。
地に行くことは非常に不安だった。
ウンスはあったようだが、わけもわからずただひたすら待っ
7月 日、朝 時 分に成田を出発し予定より早くウィー
ンに到着。ここまでは日本人のキャビンアテンダントや日本
て い た。 結 局、 理 由 が わ か ら な い ま ま 一 時 間 以 上 出 発 が 遅
ス、ロンドン・ヒースロー空港に着いたのは現地時間午後7
時過ぎであった。そこで現地の旅行社のスタッフと会いホテ
夏目漱石が英国への最初の国費留学生として英語英文学研
究のためにイギリスに来たのは、1900年 月 日で留学
28
ルに向かった。出だしからこんな事があり、しかも、今回の
夏目漱石とロンドン
きた。
55
れ、太陽を追っかけるように地球を半周し、ようやくイギリ
10
旅行は、ロンドンの空港での出迎えと帰りのベルリンのホテ
10
15
-
- 144 -
-
20
25
17
漱石はイギリスでの思いを『倫敦塔』や『永日小品』の中
に書いているが、下宿を五度変わるなどあまり居ごこちの良
もしくは用達のため出あるかねばならなかった。無論汽車へ
るから、恐々ながら一枚の地図を案内として毎日見物のため
に行く宛もなく、また在留の旧知とては無論ない身の上であ
期間は1902年 月までの二年余りであった。
いものと感じてはいなかったようである。私が訪れたのは漱
それはまるで『倫敦塔』の中で倫敦塔を目指す漱石のよう
だった。「余は他の日本人の如く紹介状を持って世話になり
石 の 最 後 の 下 宿 の 真 向 い に あ る 漱 石 記 念 館 で あ る。 ピ カ デ
は乗らない、馬車へも乗れない、滅多な交通機関を利用しよ
うとすると、どこへ連れて行かれるか分からない。この広い
が、 地 下 か ら 地 上 に 出 て み る と ま る で 方 角 が わ か ら な か っ
アースで衛星写真などをプリントアウトして持って行った
で Clapham Common
駅で降りた。一応日本に居るときにイ
ンターネットで漱石記念館の場所の地図 (写真1)やグーグル
はまた他の人に尋ねる、何人でも合点の行く人に出会うまで
に聞く、人に聞いて知れぬ時は巡査を捜す、巡査でゆかぬ時
し返されながら足の向く方角を定める。地図で知れぬ時は人
むを得ないから四つ角へ出るたびに地図を開いて通行人に押
道も余には何等の便宜をも与える事ができなかった。余はや
倫敦を蜘蛛手十字に往来する汽車も馬車も電気鉄道も鋼条鉄
た。しかたがないので、地図の上でのだいたいの方角を頼り
は捕まえては聞き呼び掛けては聞く。こうしてようやくわが
リーサーカス近くにあるホテルから歩いて地下鉄の Charing
駅へ行き、ノーザン線に乗って途中乗り換えて約 分
Cross
に見当をつけて歩いていったところ、目印と考えていたもの
道の方向を確認した後地図の上を指でなぞってもらい、更に
を見せ、今度は今居る交差点を中心に地図を動かしてもらい
回地下鉄の出口の交差点で、信号待ちをしている女性に地図
たので、礼を言って駅の方へ戻って行った。そして、もう一
まったようで駅の方へ戻れといっているようなことがわかっ
り よ く わ か ら な か っ た。 し か し ど う も 反 対 の 方 角 に き て し
一回チェイス通りを戻りながら、たまたま荷物を持って階段
くわからない様子であった。半分途方にくれていたが、もう
物を積み込もうとしている人に地図を示して聞いてみたがよ
行ってしまったので、引き返して洗車をしている人や車に荷
けたところにはそれらしい表示や看板はなく大きな通りまで
通り、ようやくチェイス通りに出て歩いて行ったが目星をつ
と交通機関に恐怖があるかないかだ。目印にした公園の脇を
私も漱石と同じように地図を片手に不慣れな街を漱石の記
念館を捜した。漱石と私との違いは英会話が出来るかどうか
指定の地に至るのである」と。
実際の道を指さしてもらった後、地図に書いてある公園を目
地図のSoseki Museumを指さしながら聞いてみ
た。すると、早口の英語で左だの右だの説明されたが、あま
が全然見あたらず不安になったので近くにいた二人の老人に
15
指して歩き出した。それからの道筋はビデオに撮ってきた。
-
- 145 -
-
12
とく四階で、またことごとく同じ色であった。隣も向こうも
みにその中央に立って見回してみたら、眼に入る家はことご
と、広い通り (写真9)がまっすぐに家の前を貫いている。試
た の だ ろ う か。
『 永 日 小 品 』 の 中 に こ う あ っ た。
「表へ出る
スに乗った。そのロンドンの街を漱石はどのように感じてい
後にして中心街に戻るために近くの大通りから二階建てのバ
れていた。見終わってビクトリア時代の面影を残す街並みを
子などが当時の写真や地図 (写真8)
、新聞・雑誌など展示さ
当時の資料 (写真7)
、漱石が目撃したであろうロンドンの様
た も の だ。 記 念 館 内 部 に は 当 時 の 調 度 品 (写真5・6)や 留 学
購入し、留学生活をしのぶものとして同年8月 日に開館し
(写真4)の 通 り を 隔 て た 真 向 か い に あ る 当 時 の 建 物 の 一 室 を
り (写真3)にある、漱石が一番長く住んでいた五番目の下宿
ロンドン漱石記念館は1984年3月にロンドンに長く滞
在する漱石研究家の恒松郁生氏が私財を投じて、チェイス通
撮ってきた。
料 金 を 払 い 自 由 に 見 学 す る こ と が で き た。 内 部 も ビ デ オ で
とができた。二階に上がっていくと事務をしている人がいて
を言うと鍵が解除される音がしてようやく中に入っていくこ
s e k i M u s e u m の プ レ ー ト を 確 認 す る こ と が で き
た。ほっと安心しながらブザーを押すと日本語が聞こえ用件
か。不安ながら五段ほどの階段 (写真2)を上ると小さくSo
を降りてきた親子連れに聞いたら何と隣を指さすではない
てもつかえている。左を見てもふさがっている。後ろを振り
わめて静かな海である。ただ出ることができない。右を向い
はどこまで広がっているか分からない。しかし広い割にはき
分はこの時始めて、人の海に溺れたことを自覚した。この海
んな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いていく。自
人は、そのまた後ろの人から肩を押されている。そうしてみ
る右にも背の高い人がいた。左にもいた。肩を押した後ろの
が追いかぶさるように、肩のあたりを押した。避けようとす
かしらんと立ち止まって考えていると、後ろから背の高い人
雲のように動いてくる。どこからどこへ人を乗せて行くもの
まで五色が続いているのかわからない。振り返れば、五色の
追い越して向こうへ行く。遠くの方を透かしてみると、どこ
あったり、青や茶や紺であったり、しきりなしに自分の横を
屋 根 に 人 を 乗 せ て い る。 そ の 馬 車 の 色 が 赤 で あ っ た り 黄 で
来へ出た。その往来の中を馬車が幾両となく通る。いずれも
た後、遂に左へ向いて、一町ほど来ると、四つ角へ出た。よ
る。二三度この不思議な町を立ちながら、見上げ、見下ろし
た。その他には何も見なかった。見えるのは今が始めてであ
しいともしびの影が、点々として何百となく瞳の上を往来し
の響きに送られて、暗いなかを夢のように駆けた。その時美
り を す る と、 も う 分 か ら な い。 不 思 議 な 町 で あ る。
(中略)
てきたのは果たしてどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻
く覚えをしておいて右へ曲がったら、今度は前よりも広い往
-
- 146 -
-
昨夕は汽車の音にくるまって寝た。十時過ぎには馬の蹄と鈴
区別のつきかねるくらいに似寄った構造なので、今自分が出
25
返っても一杯である。それで静かに前の方へ動いて行く。た
デ ン ブ ル ク 門 (写真
駅(ベルリンの西のターミナル駅)からバスに乗り、ブラン
)に行った。ウンターデンリンデン通り
だ 一 筋 の 運 命 よ り 他 に、 自 分 を 支 配 す る も の が な い か の 如
かべた。一様の四階建ての、一様の色の、不思議な町は、何
んで行く。自分は歩きながら、今出てきた家のことを思い浮
く、幾万の黒い頭が申し合わせたように歩調を揃えて前へ進
から一直線に伸びる幅
頭 立 て の 馬 車 を 操 る 戦 勝 の 女 神 を 冠 し て い る (写真 )
。そこ
ので高さ
旋門として1788年から四年の歳月をかけて完成されたも
の入口にそびえるブランデンブルク門はプロイセン王国の凱
・5メートルもあり、門上には四
でも遠くにあるらしい。どこをどう曲がって、どこをどう歩
メートルのウンターデンリンデン通
11
メートル幅は
いたら帰れるか、ほとんどおぼつかない気がする。よし帰れ
10
次にフランスを経由してドイツ・ベルリンに向かった。森
鷗外は1884年~88年にかけてドイツに留学した。ライ
森鷗外とベルリン
感じながらケンジントン宮殿の方に向かった。
座ってロンドンの街並みを見ながらそんな漱石の思いを少し
に 暗 く 立 っ て い た。
」 と。 二 階 建 て バ ス の 二 階 の 一 番 前 に
ても、自分の家は見いだせそうにない。その家は昨夕暗い中
余年前に歩いた街である。
ある、1270年に建造されたマリエン教会 (写真
オペラ座が並んでいる。その通りを過ぎ、鷗外の第二の下宿
ヘルム一世の客殿・行政庁の建物やフンボルト大学 (写真 )
、
デン)が植えられた道の両側にはドイツの初代皇帝のウィル
りが1200メートルも続く。通りの名である菩提樹(リン
)の方へ
があったクロスター通りからフンボルト大学に向かう途中に
12
外が下宿していた場所(現在は森鷗外記念館となっている)
ある。そして、今回の目的は『舞姫』の舞台を知ることと鷗
最高峰の医学を学んだ。小説『舞姫』の舞台となった地でも
4月から88年7月までベルリンのフンボルト大学で当時の
主人公太田豊太郎を介して鷗外の気持ちを紹介したい。
最初の小説で、四年間のドイツ留学帰国後に書かれたもので
うかがわれる。
『舞姫』は1890年に出版された森鷗外の
専心しようとする真面目な青年であったことが『舞姫』から
身に背負い、留学の使命を忘れずに学問の成果を生むことに
ベ ル リ ン に 着 い た 鷗 外 は、 こ の 新 興 国 家 ド イ ツ の 威 勢 と
ヨーロッパの大都に圧倒されながらも家族や国家の期待を一
ベルリンの中心街を散策した。それはちょうど鷗外が百二十
を見ることであった。
「官長の覚え殊なりしかば、洋行して一課の事務を取り調べ
ある。舞姫の本文を抜粋しながら舞姫の世界(ベルリン)や
ベルリンに到着した私が最初に感じたことは、緑が多く街
全体が非常にしっとりと落ち着いているということだった。
プツィヒ・ドレスデン・ミュンヘンに滞在した後、87年の
13
そして、街を散策してみることにした。ホテル近くのツォー
-
- 147 -
-
65
60
26
ぞ、我が心を迷はさんとするは。菩提樹下と訳するときは、
「 な ん ら の 光 彩 ぞ、 我 が 目 を 射 ん と す る は。 な ん ら の 色 沢
て、たちまちこの欧羅巴の新大都の中央に立てり。
」
余 は 模 糊 た る 功 名 の 念 と、 検 束 に 慣 れ た る 勉 強 力 と を 持 ち
で悲しとは思はず、はるばると家を離れて伯林の都に来ぬ。
ぞと思ふ心の勇み立ちて、五十を越えし母に別るるをもさま
よとの命を受け、我が名を成さんも、我が家を興さんも、今
学びしときより、官長のよき働き手を得たりと励ますが喜ば
の教へに従ひ、人の神童なりなど褒むるがうれしさに怠らず
ても包み難きは人の好尚なるらん、余は父の遺言を守り、母
「かくて三年ばかりは夢のごとくにたちしが、時来れば包み
そして、ヨーロッパの自由な風に包まれているうちに鷗外
の心の中に変化が生じてくるのであった。
謝金を収め、行きて聴きつ。」と。
ながらも、二、三の法家の講筵に連なることに思ひ定めて、
みなぎり落つる噴井の水、遠く望めばブランデンブルク門を
の少しとぎれたる所には、晴れたる空に夕立の音を聞かせて
瀝青の上を音もせで走るいろいろの馬車、雲にそびゆる楼閣
粧ひしたる、かれもこれも目を驚かさぬはなきに、車道の土
に飾り成したる礼装をなしたる、顔よき少女の巴里まねびの
一世の街に臨める窓によりたまふころなりければ、様々の色
く隊々の士女を見よ。胸張り肩そびえたる士官の、まだ維廉
余を生きたる法律となさんとやしけん。辞書たらんはなほ堪
やう、我が母は余を生きたる辞書となさんとし、我が官長は
もふさはしからざるを悟りたりと思ひぬ。余はひそかに思ふ
らず、またよく法典をそらんじて獄を断ずる法律家になるに
余は我が身の今の世に雄飛すべき政治家になるにもよろしか
やう表に現れて、昨日までの我ならぬ我を攻むるに似たり。
となく穏やかならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やう
しくこの自由なる大学の風に当たりたればにや、心の中なに
物になりて自ら悟らざりしが、今二十五歳になりて、既に久
ベル リン
幽静なる境なるべく思はるれど、この大道髪のごときウンテ
しさにたゆみなく勤めしときまで、ただ所動的、器械的の人
リ ン デ ン (写真
ヨーロツパ
)に来て両辺なる石畳の人道を行
デン
隔てて緑樹枝をさし交はしたる中より、半天に浮かび出でた
ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる
ル
る凱旋塔の神女の像、このあまたの景物目睫の間に集まりた
問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、このころより官
遮りとどめたりき。
」
にては法科の講筵をよそにして、歴史文学に心を寄せ、やう
たる万事は破竹のごとくなるべしなどと広言しつ。また大学
らぬを論じて、ひとたび法の精神をだに得たらんには、紛々
リ
れ ば、 初 め て こ こ に 来 し も の の 応 接 に い と ま な き も う べ な
長に寄する文にはしきりに法制の細目にかかづらふべきにあ
「大学のかたにては、幼き心に思ひ計りしがごとく、政治家
パ
り。されど我が胸にはたとひいかなる境に遊びても、あだな
14
る美観に心をば動かさじの誓ひありて、常に我を襲ふ外物を
-
になるべき特科のあるべうもあらず、これかかれかと心迷ひ
-
- 148 -
-
-
目覚めてきたのだった。豊太郎の自我の目覚めは鷗外の体験
生じてきた。そして、心の奥底に隠された「まことの我」が
るうちに、豊太郎の中にこれまでの受動的な生き方に疑念が
る。留学生活も三年の月日が流れ、自由な大学の気風に接す
ヘ ー ゲ ル・ フ ォ イ エ ル バ ッ ハ・ ア イ ン シ ュ タ イ ン な ど が い
タ イ ン・ グ リ ム 兄 弟 が い る。 ま た、 教 鞭 を と っ た 学 者 に は
由」を掲げた。卒業生にはマルクス・ヘーゲル・アインシュ
ヒテが就任した。政府の干渉を廃して「教育および研究の自
09年に設立された大学である。初代学長には哲学者のフィ
ルヘルム三世の命により言語学者のフンボルトによって18
鷗外が学んだフンボルト大学は1766年に皇太子ハイン
リッヒの宮殿として建てられた建物で、プロイセン国王ウィ
やく蔗を嚼む境に入りぬ。
」とある。
むごくはあらじ。また我が母のごとく。』しばし涸れたる涙
彼は驚きて我が黄なる面を打ち守りしが、我が真率なる心
や色に現れたりけん。
『 君 は 善 き 人 な り と 見 ゆ。 彼 の ご と く
たり。
らん。
』と言ひ掛けたるが、我ながら我が大胆なるにあきれ
ところに係累なき外人は、かへりて力を貸しやすきこともあ
ち勝たれて、余は覚えずそばに寄り、『何故に泣きたまふか。
彼 は は か ら ぬ 深 き 嘆 き に 遭 ひ て、 前 後 を 顧 み る い と ま な
く、ここに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打
は徹したるか。
るは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我が心の底まで
げに愁ひを含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に覆はれた
見えず。我が足音に驚かされて顧みたる面、余に詩人の筆な
39
-
- 149 -
-
ければこれを写すべくもあらず。この青く清らにて物問ひた
そのものだった。
の泉はまたあふれて愛らしき頬を流れ落つ。
」
このような出会いをして太田豊太郎(森鷗外)はドイツ人
の女性と知り合い、日本人とドイツ人の女性との狭間で苦し
やがて華やかな街ベルリンの裏通りへと足を踏み入れ、主
人公・太田豊太郎と舞姫エリスが運命的な出会いをする場面
になるのである。
「ある日の夕暮れなりしが、余は獣苑を漫
み葛藤するのであった。わずかだが『舞姫』の世界をかいま
)の 僑 居 に 帰 ら ん と、 ク ロ ス テ ル 巷 の 古 寺
番地(現在はルイーゼン
そして次の日、もう一つの目的である森鷗外記念館を訪ね
た。鷗外の下宿していた建物のほとんどが戦災で残ってない
が、旧東ドイツのマリーエン通り
通り
番地)の二階の最初の下宿だけは奇跡的に戦火を免れ
ていたので、そこに記念館が開設されたのである。ツォー駅
)の 扉 に よ り て、 声 を 呑 み つ つ 泣 く ひ と り の 少 女 あ る
見ることができた。
リンデンを過ぎ、我がモンビシユ
歩して、ウンテル デン
)の前に来ぬ。
ウ 街 (写真
-
今 こ の と こ ろ を 過 ぎ ん と す る と き、 鎖 ざ し た る 寺 門
(写真
-
を見たり。年は十六、七なるべし。かむりし巾をもれたる髪
(写真
15
の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも
32
16
17
)
が目の前に迫っていた。
セ駅で降りロンドンの時と同じように地図を見ながら歩い
任した鷗外が、ヨーロッパで初めて個人を体験しその事によ
いた。この遺言には、軍医総監をはじめとして国の要職を歴
廊下の突き当たりには鷗外の遺言が刻まれた銅板が掛かって
らは裏側のレンガ造りの建物 (写真
て、シュプレー川にかかる小さな橋を渡って行くと、今度は
り一人の石見出身の人間として人生の末期を迎えたいという
からSバーン(近距離電車)に乗りフリードリヒシュトラー
大きく壁面に「鷗外」と書いてあったのですぐに見つけるこ
あり、それを上っていくと玄関の扉があり、その横にプレー
館したものである。門を入ると目の前に二階に上がる階段が
大学日本文化研究センターの付属施設として1984年に開
この記念館はフンボルト大学がドイツと日本文化交流の先
達である森鷗外の研究と日本文化研究のために、フンボルト
目を広く大きなものに変えさせるインパクトをもったヨー
外〟をもってしても平静ではいられなかったほど、日本人の
長い鎖国の後の日本人にとって、ヨーロッパの影響ははか
りしれないものがあった。当時の一流の文化人〝漱石〟
・
〝鷗
記念館をあとにし、暑い日差しのなかを中心街に戻っていった。
を飲み込み大きく変換させる契機となったことを思いながら
率直な気持ちが表されていた。大きな国が一人の小さな人間
)
、突き当たりの右側の部屋が実際に鷗外の住んでい
(写真
て典型的な 世紀のベルリンの下宿が再現されている。机の
姫』の元となった、貧しい踊り子の生活を描いたハックレン
)な
ダーの恋愛小説などもあった。また、隣の部屋には鷗外直筆
の 書 簡 や 娘 の 森 茉 莉 直 筆 の お 父 さ ん に 宛 て た 手 紙 (写真
てきた。
どが展示されていた。記念館の様子はもちろんビデオに撮っ
24
窓 か ら 表 通 り を 見 る と、 ま ぶ し い 日 差 し が 降 り 注 ぐ 建 物
)や 線 路 が 見 え ( 写 真 )廊 下 の 反 対 側 の ト イ レ の 窓 か
(写真
26
(国語科)
ロッパというものの一端を感じさせてくれる貴重な旅であった。
ト が あ っ た。 中 に 入 る と 廊 下 の 右 側 に 部 屋 が 並 ん で お り
いわ み
とができた (写真 )
。
27
)は鷗外
22
の住んでいた当時のままで、調度品も同じ時期のものを揃え
21
)が掛けてあり、書棚には鷗外がド
23
イ ツ 留 学 中 に 読 ん だ 本 が 備 え ら れ て い た。 そ の 中 に は『 舞
上 に は デ ス マ ス ク (写真
19
-
- 150 -
-
18
た 部 屋 だ っ た (写真 )
。 天 井 (写真 )
・床・窓 (写真
20
19
25
写真1 ダウンロードした漱石記念館の地図
写真3 漱石の下宿前のチェイス通り
写真2 漱石記念館玄関
-
- 151 -
-
写真5 漱石記念館内部
写真4 漱石の下宿の建物 3階が漱石の下宿
写真7 当時の資料
写真6 漱石記念館内部
写真9 下宿前のチェイス通り
写真8 当時の地図
-
- 152 -
-
写真10 ブランデンブルク門
写真12 フンボルト大学
写真11 ブランデンブルク門の上の女神の装飾
写真13 マリエン教会
写真14 大道髪のごときウンテルデンリンデン通り
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- 153 -
-
写真15 シュプレー川にかかるモンビシ
ュー橋を渡ると対岸はモンビシュー街
写真16 太田豊太郎がエリスと出会った
とされるマリエン教会
写真17 マリエン教会の門
写真18 森鷗外記念館の外壁
-
- 154 -
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写真20 鷗外の下宿の部屋
写真19 記念館内部の廊下
写真22 部屋の窓
写真21 部屋の天井
写真23 デスマスク
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写真24 書簡
写真25 下宿前の表通り
写真26 下宿の窓から見える風景
中央に線路と電車が見える
写真27 下宿裏側の建物
-
- 156 -
-
中 島 亨
の順位が大きく下がってしまった。これは「PISAショッ
査がおこなわれた。参加国は二〇〇〇年に三十二ヶ国、二〇
る。三年のサイクルで実施され、二〇〇六年に第三回目の調
P I S A と は、 Programme for International Student
の略で、OECD(経済協力開発機構)が二〇〇
Asessment
〇年から行なっている国際的な学習到達度調査のことであ
PISA型読解力
PISA型読解力をめぐって
「PISA型読解力」をめぐる問題が近年多く取り沙汰さ
れ、諸識者の様々な分析・意見が提出されている。事のあら
ク」などとも言われ、日本の若者の学力低下の実態が国際的
ましを記せば、二〇〇三年に実施されたPISAの読解力リ
なテストによって明らかになった例として社会に衝撃を与え
〇三年に四十一ヶ国、二〇〇六年には五十七ヶ国というよう
テラシーにおいて、三年前の二〇〇〇年実施結果よりも日本
た。当時の中山文科相はこの結果を受けて学習指導要領全体
に、 回 を 追 う に 従 っ て 増 え て い る。 調 査 内 容 は、 読 解 力
ʻliteracy and
(読み書きと計算能力)というような使い方をさ
numeracyʼ
れる。派生的意味では、広く様々な主題や領域の知識能力を
と も と 読 み 書 き の 能 力 を 言 う 言 葉 で、 例 え ば
テラシーの三分野についてである。「リテラシー」とは、も
(リーディング)リテラシー・数学的リテラシー・科学的リ
の見直し、教員の指導力向上、全国学力調査など一連の改善
策を表明した。
今回私は、PISAにおける読解力リテラシーがどういう
ものであるかを確認し、近年のPISAの結果から、日本の
学入試問題とその関連性をも指摘し、あわせて今後の展望を
表 す 言 葉 と し て 使 わ れ る よ う に な っ た。 P I S A に お い て
「読解力」の現状における問題点を把握した上で、現行の大
考えてみたいと思う。
は、 学 習 上 の 実 際 的 で 最 も 基 礎 的 能 力 を「 リ テ ラ シ ー」 と
言っている、と理解するのがよいだう。
-
- 157 -
-
特に読解力リテラシーについては、次のように定義されて
いる。
Reading literacy is understanding, using and reflecting
調査対象母集団は、「高等学校本科の全日制学科、定時制
学科、中等教育学校後期課程、高等専門学校」の一年生、約
百二十万人と定義し、その中から無作為に調査対象生徒を選
定する。調査には、全国の六千人の生徒が参加した。
【調査の方法】
ペーパーテストを用い、生徒はそれぞれ調査問題に二時間
取り組んだ。調査問題は多肢選択式の問題及び自らの解答を
on written texts, in order to achieve one's goals, to develop
society.
(読解力とは、自らの目標を達成し、自らの知識と可能性
記述する問題から構成され、実生活で遭遇するような状況に
one's knowledge and potential and to participate in
を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテ
関する課題文・図表等をもとに解答を求めた。
実際この調査では、義務教育修了段階の十五歳児が持って
いる知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にど
まれる、と考えられる。
りするプロセスにおいて読解情報を利用していくことまで含
み取った情報から深く思考し、それらを表現したり発信した
目的に読み取るのではなく、ある目標・目的意識のもとに読
ラシーで測ろうとしているものは、書かれた情報を単純に無
いて真剣に問い直し、警鐘を鳴らすきっかけを与える出来事
育界をはじめ、各分野の識者達が日本の若者の学力状況につ
ク」といわれるものである。冒頭でも触れたように、国や教
迷した状況にあり、回復することはなかった(表1 参照)
。
これをもって、それまで世界最高水準と信じられていた日本
下がり方をした。第三回調査(二〇〇六年)でも十五位と低
回調査(二〇〇三年)では四十ヶ国中第十四位という劇的な
第一回のPISA調査(二〇〇〇年)で日本の読解力リテ
ラシーは参加三十一ヶ国中第八位であった。ところが、第二
「PISAショック」とは
キストを理解し、利用し、熟考する力である。
)
(国立教育政策研究所の訳による)
の程度活用できるかを評価するというものである。 思考プ
この読解力の定義などから、PISAのリーディング・リテ
ロセスの習得、概念の理解、及び様々な状況でそれらを生か
となった。
の 教 育 に 激 震 が 走 っ た。 こ れ が い わ ゆ る「 P I S A シ ョ ッ
す力を重視した内容になっているということである。
日本での調査の概略は次の通りである。
【調査対象】
-
- 158 -
-
①
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
⑱
⑲
⑳
2006年
総合読解力
韓国
フィンランド
香港
カナダ
ニュージーランド
アイルランド
オーストラリア
リヒテンシュタイン
ポーランド
スウェーデン
オランダ
ベルギー
エストニア
スイス
日本
台湾
イギリス
ドイツ
デンマーク
スロベニア
得点
556
547
536
527
521
517
513
510
508
507
507
501
501
499
498
496
495
495
494
494
日本低迷の原因を探る
日本の若者の読解力がこれほどまでに低下した原因につい
て、教育関係者、国語関係者その他の分野の識者から様々な
分析が提示されているが、大きくは次の二点に集約される。
一つは、国内でここ数年声高に言われているところの、若者
の「活字離れ」である。実際、PISA二〇〇〇年の調査で
は、月に一冊も本を読まない生徒が参加国中最も多いのが、
日本であると報告されている。いわゆる活字離れ状況が読解
力低下を招いたという議論である。この問題も大変重要な問
-
- 159 -
-
題には違いないが、このことの全体を論じるのは紙幅の都合
もあるので別の機会にゆずることとする。
そしてもう一つは、日本で考えられている読解力と、PI
S A 型 読 解 力 と の 違 い で あ る。 P I S A 型 の「 リ ー デ ィ ン
グ・リテラシー」は単に書かれたテキストを読み取るだけで
なく、読み取ったものをもとにして、
「どう思ったか」
「なぜ
そう思ったか」を表現することをも求めるものであり、日本
で一般的に認識されている読解力が、ただ単にテキストの内
容把握を目的としているのと大きく異なっている。PISA
型のそれは、表現することをも要求しており、むしろ、表現
されたことで内容理解度・把握度がわかるという考え方に基
得点
543
534
528
525
525
522
515
514
513
510
507
500
499
498
498
497
496
495
492
492
づいているという。
2000年
2003年
総合読解力
得点
総合読解力
① フィンランド
546 ① フィンランド
② カナダ
534 ② 韓国
③ ニュージーランド 529 ③ カナダ
④ オーストラリア
528 ④ オーストラリア
⑤ アイルランド
527 ⑤ リヒテンシュタイン
⑥ 韓国
525 ⑥ ニュージーランド
⑦ イギリス
523 ⑦ アイルランド
⑧ 日本
522 ⑧ スウェーデン
⑨ スウェーデン
516 ⑨ オランダ
⑩ オーストリア
507 ⑩ 香港
⑪ ベルギー
507 ⑪ ベルギー
⑫ アイスランド
507 ⑫ ノルウェー
⑬ ノルウェー
505 ⑬ スイス
⑭ フランス
505 ⑭ 日本
⑮ アメリカ
504 ⑮ マカオ
⑯ デンマーク
497 ⑯ ポーランド
⑰ スイス
494 ⑰ フランス
⑱ スペイン
493 ⑱ アメリカ
⑲ チェコ
492 ⑲ デンマーク
⑳ イタリア
487 ⑳ アイスランド
※文科省ホーム・ページ資料によった
PISAテストが生まれる背景には、主に欧米を中心とし
た国際的な「読解力」に対する考え方があるようである。日
<表1>
見ることを要求する問題があり、特徴的である。また、数行
あげられる。①穴埋めや、言い換えなどテキストを微視的に
をPISAテストとの比較において見てみると、次の特徴が
プロセスに大きな違いがある。例えば、日本の国語のテスト
ようという意図は共通しているが、両者の間にはその方法・
本にしても欧米にしても、記述されたものを正確に理解させ
PISA読解力リテラシーの過去三回の結果において常に
上位にいるのはフィンランドである(二〇〇〇年・二〇〇三
捉える態度が養われることになるのである。
が置かれる。よってそこには、テクストを積極的・批判的に
の上に立って「読み手がどのような考え方を持つか」に重点
なる。その点、欧米では教材の正確な把握はおこなうが、そ
ことに主眼が置かれる場合が多いため、受け身の読解が主と
ごとの読解は内容が把握できればよしとし、速いスピードで
ずつ読み進めるようなやり方が珍しくないが、欧米では段落
において、日本では極端な精読をおこない、一時間に一段落
更に、読解の授業においても欧米と日本とで次のような違
いが指摘できるという。①本文を正確に理解させるプロセス
たと言える。
PISA型読解力テストに対応する訓練がなされていなかっ
はない)。このような違いから、日本の子供たちは、いわば
らない場合が多い(PISA型ではそのようなタイプの問い
取って消去法を駆使しつつ、最善の答えを見つけなければな
否 選 別 を お こ な う 際、 選 択 肢 の 表 現 上 の 微 妙 な 差 異 を 読 み
られないものが多い)
。②問いの特徴としても、選択肢の可
籍を自力で批判的に読んだり、調べたりして自らの考えを記
る。すなわち授業でやったことをもとにしてその後多くの書
さん読まなければいけなくて大変だね」と言われるそうであ
るのに対し、フィンランドでは「試験なの?それじゃあたく
ん覚えなきゃいけなくて大変だね」といった助言が予想され
の量の論述を課すということである。日本では試験があると
おける高校の定期試験は、多くが大学の試験のようにかなり
ようである。例えば次のようなことがある。フィンランドに
うより「書くために読む」訓練がなされているということの
のだが、その特徴的なことは、やはり「読んで書く」
、とい
は、どのような教育が行なわれているのかに注目が集まった
年一位、二〇〇六年二位 表1 参照)。このように、常
に高い国際的読解力リテラシーの力を示すフィンランドで
の限られた部分を見ることで答えられるものが散見する(P
最後まで読み進めることをおこなう(このような土壌から、
述する準備をしておかなければ、試験に対応できないという
ISA型は、テキスト全体を読み、把握した上でないと答え
欧米では速読法の研究が盛んであり、大学の講座にさえ速読
ことである。
0
0 0
0 0
0 0
0 0
0 0
いうと周りの人々からは「試験があるの?それじゃあたくさ
法を教えるものがある)
。②日本では教材自体の模範的な内
容把握パターンを教師が最終的に提示し、生徒に確認させる
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-
大学入試とPISA読解力
次に、PISA型読解力と日本の大学入試との関係につい
て言及したい。
どである。国際的なコミュニケーション力を意識するためで
もあろうか、英語ではPISA的視点を積極的に取り込もう
とする大学が多く見受けられるようである。
これは必ずしもPISA型読解力を意識して出題されたもの
間を補って解答する」問題が出題されている事実はあるが、
われている内容に即して「本文を再構成する」問題や、
「行
く従来型の問題が多いらしい。国立大学の二次試験でも、問
かに読み取れているかを、文章に即しながら細かく聞いてい
問題はほとんど見られないということである。テキストがい
か、結果的にPISA型読解力を必要とするものは現時点で
れ る。 小 論 文 入 試 で は、 課 題 文 や 資 料 を 基 に す る 関 係 か ら
現を要求してくる問題はその度合いを増してくるものと思わ
握をした後、論理性のある思考を求め、更に客観性のある表
細部の解釈を求める問いに替わって、テキストの全体的な把
あろう。私の専門教科である国語においても、従来のような
点に通じる要素が入り込んでくることは間違いないところで
「言語活動の充実」がうたわれてい
新学習指導要領では、
る。今後大学入試においてはますますPISA型読解力の視
今後の展望と私見
ではなく、従来の国語教育を前提としたものであるとのこと
河合塾の分析によると、読解力に一番関係していると思わ
れる教科である国語では、PISA型読解力を念頭に置いた
である。
川医科大学、茨城大学、筑波大学、千葉大学、信州大学、名
題が出題されていると分析される大学は、国立大学では、旭
他、英語の問題で、PISA型読解力を測ると見なしうる問
れているという報告が、やはり河合塾からされている。その
作文においてPISA型読解力問題と同様の視点が持ち込ま
の考えを表現することを一つの重要な力と措定する以上、そ
標準が、テクスト全体を相対化し、批判的に捉えた後、自ら
芸を生む背景の一つとなったことは疑いない。しかし、世界
ろか、この言葉への濃やかなこだわりこそ、多くの日本的文
決して悪いことでも否定されるべきことでもない。それどこ
「読む」時は、精密だが微視的にならざるを得ない。これは
日本の「読む」伝統の中には、古典籍の訓詁注釈と解釈学
が そ の 根 本 に あ っ た は ず で あ る。 だ か ら、 日 本 人 が も の を
も多く見られる。
古屋工業大学、岡山大学、広島大学などであり、私立大学で
れに応えていくこともまた教育の役割と考えなければならな
ところがむしろ英語においては、二〇〇七年度大学入試セ
ンター試験や、同じく二〇〇七年度東京大学(前期)自由英
は 青 山 学 院 大 学( 法 )
、 慶 應 義 塾 大 学( 経 済 )
(看護医療)
、
こま
早 稲 田 大 学( 法 )
(政治経済)
(国際教養)
、常葉学園大学な
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いのではないだろうか。そしてそれは、我々の伝統が苦手と
することでは決してないはずである。例えば、本居宣長が、
あの第一級の、膨大なテクストである『源氏物語』を読み込
み、その主題を「もののあはれ」の一言で表現し尽くしたよ
う に。 こ の 国 際 的 な 要 請 に 真 正 面 か ら 取 り 組 ん で い く こ と
が、我が国の伝統をも、更に新しく息づかせることに繋がる
ように思うのである。
参考資料
(国語科)
参考として、PISA二〇〇〇年の読解力リテラシー調査
問題を載せておく。
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じめに
英訳 福沢諭吉の言葉
は
大 島 秀 郎
スコミに大きく取り上げられた。
本稿執筆の直接のきっかけとなったのは、ロサンゼルス近
郊に住む友人ビル・デイヴィスさんから私に突然投げかけら
メリカ合衆国の最高額紙幣である一〇〇ドル札の肖像はベン
れてきた次のような一つの質問であった。
すなわち、「ア
本稿は、「福翁」こと福沢諭吉(一八三五~一九〇一)の
言説に、私なりの解釈を加えた後に、その含蓄に富む福沢語
―
録を現代英語に翻訳したものである。
た付属高等学校が八十八年ぶりの八強、そして実に九十二年
国高校野球大会に北神奈川代表として四十六年ぶりに出場し
育校もまた今年は若き血に燃えて、血気盛んだ。第九〇回全
アジア全域でもほとんど例を見ない一五〇年の歴史を刻
む、この近代総合学塾(本部は東京都港区三田)は、一貫教
創立一五〇年の節目の年を迎えた。
学塾は、オリンピック・イヤーの二〇〇八年(平成二〇年)
、
踏み込むことができなかった点が悔やまれた。
える際に、私の力不足ゆえに、福沢の詳しい発言内容にまで
た事績を紹介した。しかし残念ながら、ビルさんの質問に答
で、…。
」 と 説 明 を 開 始 し、 思 想 家・ 教 育 家 と し て 彼 が 残 し
「ウーム、いい質問ですね、ビル。実は福沢諭吉も、
私は、
ベ ン ジ ャ ミ ン・ フ ラ ン ク リ ン と 同 様 に、 そ の 自 叙 伝 で 有 名
う素朴な疑問である。
的に有名だが、日本の一万円札の顔
とい
Yukichi
Fukuzawa
う人物は、いったい何をやった人か、教えてほしい。
」とい
ジャミン・フランクリンで、政治家および科学者として世界
ぶりとなる夏の一大会三勝をマークした。
「塾高」はかつて
(質問魔)ことビルさんに、ある
いつかは Mr. Questioner
程度満足のいく解答を、しかも整然とした形で出したいと思
、江戸築地鉄砲洲(東
福沢諭吉は、一八五八年(安政五年)
京都中央区湊一丁目付近)に小さな蘭学塾を創設した。この
の普通部時代、一九一六年の第二回大会に、初出場で優勝を
経験しており、約一世紀ぶりとなる古豪復活の話題が連日マ
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Mr. Questioner ことビル
い続けて半年が過ぎてしまった。ようやくにして待望の時節
到来。明治維新前夜の封建社会にあって、世界に目を向けた
福沢諭吉の意思を英語に訳すという大胆な試みを、この誌面
をお借りして私は敢えて試みた次第である。問題提起をして
くれたビルさん以外にも、多くの人に読んでいただければ望
外の幸いである。
なお本稿では、福沢の原文はすべて岩波文庫版『新訂・福
翁自伝』(福沢諭吉著・富田正文校訂・二〇〇六年・第五五
刷発行)による。
一 常に最悪の事態を考える
〔原文〕元来私が家に居り世に処するの法を一括して手短に
申せば、すべて事の極端を想像して覚悟を定め、マサカの時
に狼狽せぬように後悔せぬようにとばかり考えています。(三
〇六頁)
た事業においても、彼流の言葉でいえば「極端の覚悟」での
〔解釈〕福沢は、その日常生活においても、また彼の手がけ
ぞんだ。常にできる限りの努力もし、また心配もするが、だ
からといってそれに固執することなく、まことに淡々とした
It has been a habit of mine to be prepared for the ex-
心境であった。
〔英訳〕
treme in all situations; that is, to anticipate the worst possi-
ble result of any event so that I should not be confounded
when the worst did come.
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生はみずからの力で切り開いていくという、いわゆる独立自
て錦をかざる気持ちは全然なかった。ここに、みずからの人
二 自分を見失わぬこと
尊の精神がうかがえる。
の本質的平等を保障した新憲法下の今日においてさえ、男子
〔解釈〕男尊女卑を当然とした封建社会はいざ知らず、男女
コンナ馬鹿げたことはない。
(二八四頁)
ばまずまずめでたいなんて、
おのずから軽重があるようだが、
では男子が生まれると大層めでたがり、女の子でも無病なれ
のその男の子と女の子と違いのあられよう訳けもない。世間
中に軽重愛憎ということは真実一寸ともない。また四男五女
〔原文〕ソレカラまた私に九人の子供があるが、その九人の
四 子供に男女の軽重はない
leave the clan out of my thoughts in planning my career.
cade. And so, though I kept it to myself, I had decided to
ambition. Rather, I would have been embarrassed by bro-
turn to your province wearing brocades.” Such was not my
〔英訳〕 There is an old saying: “Become a great man and re-
〔原文〕マア申せば、血に交わりて赤くならぬとは私のこと
でしょう。(五九頁)
〔解釈〕「朱に交われば赤くなる」とは、
世間一般にいわれる、
「選ぶべきは友」ということであるが、考えてみるとこのこ
とわざには、相手の影響のまえに本人の主体性を失う、消極
的な人間の弱さが指摘されているといえよう。平均的日本人
は、 今 日 に お い て も「 つ き あ い 」 で 行 動 す る。
「つきあい」
から逃れて、自分の意志を発揮しうる、個性的存在が、ます
ます乏しくなっているとき、改めて主体の確立について考え
てみる必要があるのではないだろうか。
〔英訳〕 In short I was one who did not turn red by coming in
contact with blood.
三 野心がなければ人にたよる必要はない
〔原文〕立身出世して高い身分になって錦を故郷に着て人を
の出生をなにかと喜ぶ日本の社会的風土からみて、福沢のこ
驚かすというような野心は少しもないのみか、私にはその錦
にしき
が却って恥かしくて着ることが出来ない。人にこそ言わね、
長男だけは特にその二を与えたが、他の八人には、男女の別
の主張は、今なお世の親たちの心しなければならぬ言葉とい
なく均等配分した。ここにも子供を平等な人格としてみた、
えよう。ちなみに福沢は九人の子供たちに、財産を十等分し、
〔解釈〕福沢はその青年時代、なかば藩(九州中津)を捨て
彼の考え方が実際に反映されている。
私の心では眼中藩なしと斯う安心を極めていました。
(一七
るようにして長崎と大阪にでて、蘭学の修業をした。二度と
五~一七六頁)
藩に帰るものかと心に決してでた彼には、今さら故郷に帰っ
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girls. In our society it is customary to make a great deal over
tinction at all in affection and position between boys and
〔英訳〕 Among my family of nine children, we make no dis-
recognize the ordinary work of its subjects, let it begin with
follows what is his obligation. If the government wants to
〔原文〕西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない
六 未知の世界を知る誇り
my neighbor, the bean-curd maker. Give up any such ideas
「国民」の意*筆者注)
about my special work. ( subject:
the birth of a boy baby; but when a girl arrives, people say
they should perhaps offer congratulations if the baby is
strong and gives no trouble to the parents. No such distinc-
でありながら、智力思想の活発高尚なることは王侯貴人も眼
をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生
ことだ、自分たちの仲間に限って斯様なことが出来る、貧乏
五 人間としてあたりまえの仕事をすること
下に見下すという気位で、ただ六かしければ面白い、苦中有
tion exists for us.
〔原文〕誉めるの誉められぬのと全体ソリャ何のことだ、人
楽、苦即楽という境遇であったと思われる。(九二~九三頁)
は人間当たり前の仕事をしているのだ、その仕事をしている
す者にとっては、伝統的な社会に安住する者には知りえない
〔解釈〕一世をふうびした福沢思想である。幕末に洋学を志
こしら
間が人間当たり前の仕事をしているに何も不思議はない、車
のを政府が誉めるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めて貰
新しい価値体系を発見する知識人としての誇りこそ、彼らの
ひ
屋は車を挽き豆腐屋は豆腐を拵えて書生は書を読むというの
わなければならぬ、ソンナことは一切止しなさい。
(一九七
悪戦苦闘の学問的探究心を支えたのである。
We students were conscious of the fact that we were
poverty, whatever poor clothes we wore, the extent of our
European civilization. However much we suffered from
the sole possessors of the key to knowledge of the great
〔英訳〕
~一九八頁)
〔解釈〕ここには、人間として行なう仕事の価値を、政府の
権威によって決定されることを快しとしない、市民主義者福
沢の自覚のほどがユーモラスに示されている。夏目漱石の文
学博士辞退(一九一一年)とあい通じる明治人の気概と気質
〔 英 訳 〕 What is remarkable about a man’s carrying out his
work was hard, we were proud of it, knowing that no one
reach of any prince or nobleman of the whole nation. If our
knowledge and the resources of our minds were beyond the
own work? The cartman pulls his cart; the bean-curd maker
knew what we endured. In hardship we found pleasure, and
がうかがえる。
produces bean-curd; the student reads his books. Each one
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-
the hardship was pleasure.
七 東洋に欠ける科学教育と独立の精神
should find his faith in independence and self-respect.
八 タブーへの挑戦
べてソレカラ割出して行きたい。また一方の道徳論において
入れて置き、また隣家の下村という屋敷の稲荷様を明けて見
いるから、その石をうっちゃってしまって代りの石を拾うて
い
は何が這入っているか知らぬと明けて見たら、石が這入って
〔原文〕私の養子になっていた叔父様の家の稲荷の社の中に
は、人生を万物中の至尊至霊のものなりと認め、自尊自重い
れば、神体は何か木の札で、これも取って捨ててしまい平気
は
と理とこの二つのものを本にして、人間万事有形の経営はす
〔原文〕元来私の教育主義は自然の原則に重きをおいて、数
やしくも卑劣なことは出来ない。
(二〇六頁)
の精神である、と指摘したのである。すなわち福沢にとって
義を比較し、東洋の教育に欠けているものは科学教育と独立
民教育の方向を見出すべく、東洋の儒教主義と西洋の文明主
質にかかわっている。そこで福沢は、日本の近代化のため国
る。科学の未発達の時代にあって、既成概念に毒されること
単なる迷信にすぎないことを発見させるというぐあいにであ
呪術的権威をもったお札への冒とくに向かわせ、その結果が、
名前を記した反古を踏んで兄に叱られたときの疑念。それが
神を体験的に築いていった。たとえば、藩主奥平大膳大夫の
〔解釈〕十二、三歳から福沢は、生活の中から合理主義の精
な顔をしていた。
(二三頁)
は、科学も道徳もヨーロッパに学ぶことなくして、自国の近
の少なかった福沢が、俗信・迷信・タブーに臆することなく、
〔解釈〕一国の発展は、その国で行なわれている国民教育の
代化はありえないと考えた。かくしてみずから、科学主義と
その非合理性をつきくずす中から、科学する心を育てたので
actions of human beings by the very simple laws of number
by the laws of nature and I try to co-ordinate all the physical
other stone which I picked up on the road. Then I went on
and found only a stone there. I threw it away and put in an-
garden, as in many other households. I opened the shrine
〔英訳〕 There was an Inari shrine in the corner of my uncle’s
ご
独立自尊の精神を掲げ、広くその思想を世論に訴えたのであ
and reason. In spiritual or moral training, I regard the
to explore the Inari shrine of our neighbor, Shimomura.
ほ
る。
human being as the most sacred and responsible of all
ある。
orders, unable in reason to do anything base (not having
Here the token of the god was a wooden tablet. I threw it
〔英訳〕 In my interpretation of education, I try to be guided
good moral principles). In short, my creed is that a man
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away too and waited for what might happen.
九 門閥の中の人間関係
〔原文〕ソレカラ私が幼少の時から中津に居て、始終不平で
たまらぬというのは無理ではない。一体、中津の藩風という
ものは、士族の間に門閥制度がチャント定まっていて、その
門閥の堅いことはただに藩の公用についてのみならず、今日
私の交際上、子供の交際に至るまで、貴賎上下の区別を成し
て、上士族の子弟が私の家のような下士族の者に向かっては
the distinctions between high and low were clearly defined.
Children of lower samurai families like ours were obliged to
use a respectful manner of address in speaking to the chil-
dren of high samurai families, while these children invariably
used an arrogant form of address to us. Then what fun was
there in playing together?
十 威張ることによってしか
自分を表現できない社会の不幸
士に進んだだけで、門閥制度はそれほどまで固定化されてい
の歴史のうち、わずかに三五名の者が、下級武士から上級武
とのほか大きかった。たとえば、福沢のいた中津藩二五〇年
て持ち続けた。なかでも上級武士と下級武士の身分の差はこ
けに、少年時代以来、
これへの厳しい批判の目を生涯にわたっ
〔解釈〕福沢は、封建社会の制度悪を身をもって体験しただ
不平でたまらない。門閥の故をもって漫に威張るは男子の恥
常に軽蔑を受ける。私は少年の時からソレについて如何にも
て小士族の家に生まれた者は、おのずから上流士族の者から
れば子も上士族、百年経ってもその分限は変わらない。従っ
れない。ソコで上士族の家に生まれた者は、親も上士族であ
士と、箱に入れたようにして、その間に少しも融通があらわ
藩士銘々の分限がチャント定まって、上士は上士、下士は下
のことで日本国中何れも同様、
藩の制度は守旧一遍の有様で、
〔原文〕もと私は小士族の家に生まれ、そのころは封建時代
た。そしてこの門閥によって、「人間」
が否定されたのである。
ずべきことである。
(一七三~一七四頁)
丸で言葉が違う。
(二四頁)
下級武士の子として生まれた福沢が、このような伝統的秩序
る こ と を 目 指 し た。 魯 迅 の『 阿 Q 正 伝 』( 一 九 二 一 年 ) で、
格であることを悟り、そこで精神的に上級武士の上に君臨す
ことしか知らない者は、指導的地位にある人間として全く失
かすべのない下級武士蔑視の弊風に対して、人間を軽蔑する
〔解釈〕門閥制度の支配下において福沢は、現状では従うし
みだり
の根強く支配する藩になんらの愛着を感ずるどころか、そこ
を抜け出すことによって解放感を持とうとしたのも、また当
然であった。
〔英訳〕 The thing that made me most unhappy in Nakatsu was
the restriction of rank and position. Not only on official occasions, but in private intercourse, and even among children,
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しても精神的に勝つという方法を工夫して、自分の気持ちを
小説の主人公、浮浪の貧農阿Qが、現実の関係でたとえ敗北
こそ「親のかたき」として、もはやそのような社会秩序のし
助は早逝した。そこで福沢は、父を死に追いやった門閥制度
将来について思い悩んだ。このような心労が原因で、父、百
To me, indeed, the feudal system is my father’s mor-
る朋友の勤番長屋に何か用があって寄ったところが、其処に
いますと言って拝領して、その帰りに屋敷内に国から来てい
れば、品物が粗末だといって苦情も言わず、ただ有難うござ
緬の羽織をくれた。即ち御紋服拝領だ。さまで喜びもしなけ
これを貴様に下さると言って、奥平家の御紋の付いている縮
て来いと言うから、上屋敷の御小納戸の所へ参ったところが、
〔原文〕あるとき私が何かのことについて御用があるから出
十二 拝領の紋服をその日に売る
tal enemy which I am honor-bound to destroy.
〔英訳〕
で、人間平等観の思想に到達するのであった。
きたりに従って生きることと決別し、その打破を期するなか
とりなしたことを私は思い出す。
〔英訳〕 Back in those childhood days, I lived under the ironbound feudal system. Everywhere people clung to the
ancient custom by which the rank of every member of a clan
was inalterably fixed by his birth. So from father to son and
grandson the samurai of high rank would retain their rank.
In the same way those of lower rank would forever remain in
their low position. Neither intelligence nor ability could
prevent the scorn of their superiors. Born as I was in a
family of low rank, I recall being always discontent with the
things I had to endure. It seemed to me very simply that it
was despicable for a man to be a bully.
十一 封建社会に決別した人間の誕生
出入りの呉服屋か知らん、古着屋か知らん、呉服商人が来て
かたき
〔原文〕私のために門閥制度は親の敵で御座る。
(一四頁)
何か話をしている。ソレを聞いていると羽織を拵えるという
の金を持って、私は鉄砲洲の中屋敷に帰ったことがある。一
ような様子。スグ相談が出来て、その羽織を売って一両三分
両三分あれば昨日見たあの原書も買われる。(一七七~一七
五 年( 天 保 五 年 )
、 大 阪 の 蔵 屋 敷 で 生 ま れ た。 父 の 百 助 は、
帆足万里に師事した漢学者であったが、
下級武士の地位ゆえ、
〔解釈〕福沢は、九州中津藩の下級武士の子として、一八三
藩の会計吏として金銭を扱う俗事に従った。下級武士として
してあったところから、身に着けていた衣服などを家来に与
〔解釈〕封建社会における主従関係は、肌身を通した関係と
八頁)
ないと考えた百助は、福沢を僧侶にすれば、出身いかんにか
のこのような悲哀を、自分の子供にふたたび繰り返させたく
かわらず才能次第で名をなすことができるところから、その
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- 170 -
-
えることによって、その結合を強化しようとした。しかし福
沢は、このような非合理的な人間関係に批判の目を向けずに
はおれなかった。拝領の紋服を、家老の奥平家からもらった
時、その帰り道で知人に売却し、自分に必要な原書を購入し
たのである。
〔英訳〕 One day I was told to report to bureau of supplies in
the main headquarters. When I did so, the official gave me a
silk overgarment (haori) bearing the crest of our lord, which
he described as a special gift from him. This, in other words,
was the honorable granting of the crested dress. I was not
particularly touched by the honor, nor did I complain of the
quality of the stuff. I accepted the gift with plain thanks. On
my way home, when I called on an old friend of mine, who
had just come up from our native province, I found him engaged with a tailor, apparently planning a new overgarment.
So we talked the matter over with the merchant, and he decided it was worth one ryo and three bu . I sold him the garment, took the money, and returned home to Teppozu. I
rather preferred to have the money, for with that one ryo
and three bu I could buy the foreign book I had found the
day before.
十三 福沢先生ウェーランド経済書
講述記念日
始まって、その前後は江戸市中の芝居も寄席も見世物も料理
〔原文〕明治元年の五月(十五日*筆者注)
、上野に大戦争が
茶屋も皆休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわ
や
からないほどの混乱なれども、私はその戦争の日も塾の課業
を罷めない。丁度あのとき私は英書で経済の講釈をしていま
した。シテみるとこの慶応義塾は日本の洋学のためにはオラ
ンダの出島と同様、世の中に如何なる騒動があっても変乱が
あっても未だ曾て洋学の命脈を絶やしたことはないぞよ。慶
応義塾は一日も休業したことはない、この塾のあらん限り大
日本は世界の文明国である、世間に頓着するな。(二〇二~
二〇三頁)
〔解釈〕日本の市民革命としての明治維新の意義を、その渦
中において認識しえなかった福沢は、倒幕戦争にも参加しな
かっただけでなく、維新政府が誕生してもそれに加わろうと
はしなかった。彼は、政府の学識経験者あるいは知的官僚と
してしばしば招聘されたが、それを断り続けた。福沢は上野
彰義隊の戦に砲声を耳にしつつ、みずから経営する慶応義塾
において、平然としてウェーランドの経済学の講義を休むこ
となく続けた。新しい時代は、必ず経済が社会の中心的な営
みになることを確信して。慶応義塾大学(東京都港区三田)
では、
毎年五月十五日に三田演説館において、
福沢先生ウェー
-
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-
ランド経済書講述のエピソードを記念して、記念講演会が開
Keio-gijuku stands for Western studies in Japan as much as
tion that the whole city of “Eight Hundred and Eight Streets”
were closed, and everything was in such a topsy-turvy condi-
event, all theaters and restaurants and places of amusement
the fierce battle of Ueno. A few days before and after this
〔英訳〕 In May of the first year of Meiji (1868), there occurred
Keio University in 1957, called the Wayland Day, and special
the society. This day, May 15, was made a memorial day at
no need of concerning ourselves with the wayward trend of
world. Let us put our best efforts into our work, for there is
school of ours stands, Japan remains a civilized nation of the
relinquished our hold on Western learning. As long as this
country, whatever warfare harasses our land, we have never
Dejima did for Dutch nationalism. Whatever happens in the
seemed in utter desolation. But the work of my school went
かれる。
right on. On the very day of the battle, I was giving lectures
lectures are given for the occasion every year.
十四 福沢の自信を打ち砕く日、
そして英学発心
ほったて
〔原文〕ソコデ私は横浜に見物に行った。その時の横浜とい
うものは、外国人がチラホラ来ているだけで、掘立小屋みた
よ う な 家 が 諸 方 に チ ョ イ チ ョ イ 出 来 て、 外 国 人 が 其 処 に 住
まって店を出している。其処へ行ってみたところが、一寸と
も言葉が通じない。此方の言うこともわからなければ、彼方
の言うことも勿論わからない。店の看板も読めなければ、ビ
ンの貼紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字という
ものはない。英語だか仏語だか一向わからない。居留地をブ
ラブラ歩くうちに、ドイツ人でキニッフルという商人の店に
打ち当たった。その商人はドイツ人でこそあれ蘭語蘭文がわ
かる。此方の言葉はロクにわからないけれども、蘭文を書け
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-
on economics, using an English textbook (The Elements of
Political Economy by Francis Wayland). As I see it, our own
三田演説館(国重文)
ばどうか意味が通ずるというので、ソコでいろいろな話をし
たり、一寸と買物をしたりして江戸に帰って来た。御苦労な
話で、ソレも屋敷に門限があるので、
前の晩の十二時から行っ
てその晩の十二時に帰ったから、丁度一昼夜歩いていた訳け
だ。(九八~九九頁)
〔解釈〕それは、福沢が江戸に来た翌年の一八五九年(安政
六年)、おりから五カ国条約の発効に伴って横浜が開港場と
なったときのことであった。内心、自分の力を試すべく見物
に出かけたところ、看板の文字も読めなければ何を見ても知
らない文字ばかりで、むろん、会話も通じない。ここに至っ
て数年間、ひたすら打ち込んできた蘭学が役立たないことを
知らされ、彼は落胆し途方にくれる思いであった。しかし世
界で広く通用する言葉が「英語」であるなら、なんとしても
それを修得する必要があると、
決意を新たにして、
ホルトロッ
プの英蘭対訳発音付の辞書を手に入れ、それをたよりに、独
学を始めるのである。
〔英訳〕 One day I went to Yokohama for sight-seeing. There
temporary dwellings had been erected here and there by the
was nothing of the town of Yokohama then- a few
foreigners, and in these the pioneer merchants were living
and showing their wares. To my chagrin, when I tried to
speak with them, no one seemed to understand me at all.
Nor was I able to understand anything spoken by a single
one of all the foreigners I met. Neither could I read anything
of the signboards over the shops, nor the labels on the
bottles which they had for sale. There was not a single
recognizable word in any of the inscriptions or in any
speech. It might have been English or French for aught I
knew. At last I came upon a shop kept by one Kniffer. He
was a German and did not understand much of what I said to
him, but he could somehow understand my Dutch when I put
it in writing. So we conversed a little, I bought a few things
from him, and returned to Yedo. What a self-imposed labor
it was on my part! Because of the closing hour of the gate of
our compound, which was midnight, I had to leave home just
before the closing hour and return before the same hour of
the next day. This meant that I had been walking for twenty-
four hours, a distance of some fifty miles, going and coming.
おわりに
私たちが、いま福沢諭吉から学ばなければならないのは、
歴史教科書でいうところの「民主主義の先駆者」ということ
だけであってはならないだろう。
それでは、何が私たちにとって再検討に値するのであろう
か。私は躊躇なく次の三点を挙げたい。
① 息がつまるような封建社会の一角で、なおかつ洋学の
窓を通して世界を知らなければならないと決意させた
「知性」
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-
② 状況に即した鋭い客観的な認識を土台にして、現状の
打開を目指した「柔軟な思考方法」
③ 価値の多元化を目指し、政府とかかわりのない地点で
自己の職業に徹して生活した「市民主義的精神」
地球市民―福沢諭吉は、まだまだ読みかえされねばならな
い貴重な人物である。
最後になりましたが、LA在住のビルさん、こんな説明で
よろしかったでしょうか?
(外国語科)
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重 力 理 論 最 前 線 6
―― 重 力 レ ン ズ 効 果 ――
土 田 十
を置いておくと光のエネルギーが一点に集中するわけですか
わかりやすい『重力レンズ効果』について書いてみようと思
ら、突然あるところを境に田んぼのよ
ナーが軽快に走っているグラウンドか
な り ま す。 た と え て 言 う な ら、 ラ ン
ら熱せられ焦げるのです。光が屈折する原因はレンズという
います。
う な ぬ か る み に 入 る よ う な も の で す。
『強い力』
、
我 々 の 宇 宙 は 四 つ の 力 で 支 配 さ れ て い ま す。
『弱い力』、『電磁気力』
、
『重力』の四つです。その中で、宇
『レンズ効果』というくらいですから我々の身近にあるレン
当 然 ラ ン ナ ー の 走 る 速 度 は 遅 く な り、
化させ、速度は遅くなり、波長は短く
ズと何らかの関係があるのでしょう。カメラや望遠鏡、顕微
歩 幅 も 短 く な り ま す。 こ れ と 同 じ こ と
物体です。空気中を伝わる光は、物質内では速度や波長を変
鏡、メガネ…。いろいろなところに使われているあの『レン
が光の屈折です。レンズという物体に
宙を理解するために不可欠な力は我々にもっとも身近な力、
ズ』です。このようなレンズを『光学レンズ』といいます。
『重力』です。そこで今年度は『重力』の効果として、大変
まず始めにこの光学レンズの復習から入ります。
象です。
す。光は物質を通過する際に屈折しま
光の屈折に似た現象が重力でも起こ
るというのが重力レンズ効果なので
よって、光が屈折するために起こる現
小さいころ、虫眼鏡で光を集め、紙を焦がした経験がある
方も多いと思います。その仕組みを考えて見ましょう(下図
ズに入射してきます。凸レンズは入射してきた平行光線を曲
参照)。十分遠方からやってくる太陽光線はほぼ平行にレン
げ、焦点と呼ばれる一点に光を集めます。この焦点に紙切れ
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-
す。では、重力レンズは物質なのでしょうか? 答えは否で
重力レンズ → 空間の湾曲による〝屈折〟
光学レンズ → 物質による屈折
果 が 左 辺( 空 間 の 曲 が り 具 合 ) と 解
さて、物理学は因果関係を明らかにする学問です。ですか
ら、式①の右辺(物質やエネルギー)が原因であり、その結
ということです。
す。物質があるわけではありません。物質がなくても光が屈
折する場合があるのです。これが重力の不思議なところです。
これまでも重力に関する現象をいろいろと述べてきました
が、重力理論の核となる方程式はなんと言ってもアインシュ
タイン方程式です。この方程式は連立偏微分方程式
釈 し ま す。 つ ま り こ の 方 程 式 は 因 果
関係を表している式であるといえま
質量やエネルギーの存在が空間を曲
理学的には当たり前の式といえます。
…①
で、一見すると逃げ出したくなるような複雑な方程式です。
アインシュタイン方程式 意味は、専門家以外の人にはよくわかりませんけれども、究
げ る、 と い う こ と は 質 量 の 存 在 の 仕
す。 こ の 方 程 式 は 複 雑 で す け れ ど 物
極に簡単化すると
パターンが生じることになります。
論、 ほ ぼ 球 形 で す )
。私たちは真直ぐに移動しているつもり
球 一 周 し た と し ま し ょ う。 地 球 表 面 は 曲 が っ て い ま す( 勿
んでいますが、仮に地球がすべて陸続きで、赤道に沿って地
〝屈折〟したように見えているのです。私たちは地球上に住
て い る 空 間 そ の も の が 曲 が っ て い る の で、 結 果 と し て 光 が
て、常に真直ぐ進んでいるのです。しかし、光自身が存在し
光( 電 磁 波 ) は 点 線 の 領 域 で 曲 げ ら
す)。その結果、光源から放出された
言 い 方 で す が、 点 線 で 囲 ん だ 領 域 で
空 間 が 曲 が り ま す( か な り 大 雑 把 な
質 量 の 大 き さ に 伴 っ て、 そ の 周 囲 の
の 間 に 何 ら か の 天 体 が あ る と、 そ の
が 天 体 を 観 察 す る と き、 光 源 と 地 球
例 え ば、 上 図 は 重 力 レ ン ズ 効 果 を
モ デ ル 化 し た も の で す。 我 々 地 球 人
方によって曲がり方にもいろいろな
〔空間の曲がり具合〕=〔物質の質量やエネルギー〕…②
ということができます。つまり、物質があると空間が曲がっ
でも、宇宙空間から見れば円周に沿って移動しています。こ
てしまうのです。だから光自身は屈折しているつもりはなく
れと同じ状況です。
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う科学者が日食を利用して、空間の湾曲に
そ の 昔、 ア イ ン シ ュ タ イ ン が 一 般 相 対 性
理論を世に出したころ、エディントンとい
なります。
測した様子をモデル化すると下図のように
体として観測されるはずです。地球から観
ら、 イ メ ー ジ 1 と イ メ ー ジ 2 は 全 く 同 じ 天
さ れ ま す。 光 の 出 所 は 同 じ 光 源 天 体 で す か
波)はイメージ1、2として我々には観測
れ 地 球 に 到 着 し ま す。 到 着 し た 光( 電 磁
マイクロレンズ現象 = 見えない天体の存在証拠
現象と呼んでいます。
ですが、
〝増光〟が起こります。この現象をマイクロレンズ
らの光を集めることになります。その結果、期間はいろいろ
ズ天体が横切った場合、重力レンズ効果によって光源天体か
めることができますから、光源天体と地球の間を、このレン
いていない天体です。重力レンズは凸レンズのように光を集
います)だったとしましょう。核燃料が尽きていますから輝
料の尽きた恒星(恒星は核反応をエネルギー源として輝いて
する光学レンズに類似していることから、中央大学の入試問
の観測はあまりにも有名で、また、重力レンズが高校で学習
考えられます。ちなみにこのエディントン
ズ天文学に与えた影響は大変大きいものと
よる光の屈折の検証」でしたが、重力レン
す。エディントンの観測は「空間の湾曲に
に、 光 源 天 体 と イ メ ー ジ 1 が 観 測 さ れ ま
天体を使います。すると、皆既日食のとき
太 陽、 光 源 と し て 軌 道 の よ く わ か っ て い る
うに、理屈は簡単です。レンズ天体として
のようなものなのでしょうか…などと考えるとワクワクして
せん。メガネをはずしてみたときに、本当の宇宙の姿とはど
したらメガネをかけて宇宙を見ているようなものかもしれま
わけですから、我々が宇宙を観測するということは、もしか
広大な宇宙空間に、様々なレンズ天体(すべての天体が質
量を持ちますからレンズ天体になる資格があります)がある
宇宙論的な話題に影響を与えることになります。
質量が決まると宇宙の将来がわかってくるのです。つまり、
質量が大量にあるはずだという話題があり、宇宙に存在する
す。なぜインパクトがあるかというと、宇宙にはまだ未知の
ということになりますから、これはインパクトのある現象で
よる光の屈折を検証しました。先述したよ
題でも出題されています(もちろんヒント付です)
。
きます。
(理科)
さて、重力レンズが光学レンズと類似しているとなれば、
様々な利用方法があります。例えば、仮にレンズ天体が核燃
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忘れてはならない日本人
鳥居龍藏とその妻きみ子のこと
かんなんしん く
鳥居龍藏・きみ子夫妻のこと
鳥居夫妻の調査旅行を知ったきっかけは、全くの偶然のこ
とでした。ここ四~五年ほど、私はモンゴルのことに興味を
持っています。昨年の夏休み、インターネットでモンゴル関
係 の 書 籍 や 論 文 な ど の 文 献 を 調 べ て み ま し た。「 モ ン ゴ ル 」
「蒙古」などの単語をキーワードとして検索してみたのです。
そうしたらその中に、「蒙古旅行・鳥居龍藏」、すぐその次に
「蒙古行・鳥居きみ子」と、並んで出ていたのです。
「鳥居」
という同じ姓ですので、もしかして夫婦か兄妹だろうかと思
い ま し た が、「 鳥 居 龍 藏 」 の 名 前 に 私 の 心 は と ま り ま し た。
そ れ は、 優 れ た 学 者 で、 國 學 院 大 學 と も 関 係 の あ る 人 物 で
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安 塚 孝 昭
は東モンゴル地域の調査探検旅行です。これからのお話は、
「鳥居龍藏伝」中薗英助(岩波書店)より
妻がある旅行に出発する際に撮影したものです。その旅行と
こ こ に 一 枚 の 写 真 が あ り ま す。 家 族 の 記 念 写 真 の よ う で
す。右にご主人、左に奥様。奥様は小さな子供を腕に抱いて
旅行についてです。
この鳥居龍藏・きみ子夫妻の艱難辛苦に満ちた感動的な調査
さき こ
います。若い夫婦の記念写真ですが、この夫婦こそ、我々國
と り い りゅうぞう
學院にも縁のある鳥居 龍 藏 夫妻です。奥様の名前はきみ子。
腕に抱かれている幼児の名は幸子といいます。これは鳥居夫
蒙古旅行出発前の記念写真。きみ子夫人に抱
かれているのは長女幸子。1907 年
さっそく冒頭の画面から覗いてみました。最初に序文があり
を、 デ ジ タ ル 画 像 と し て 閲 覧 で き る よ う に な っ て い ま す。
い る も の が あ っ た の で す。 そ の ホ ー ム ペ ー ジ は 書 物 の 書 面
る「近代デジタルライブラリー」というものにリンクされて
ワードで検索すると、その一つに国立国会図書館が設けてい
あったからです。改めて「蒙古旅行・鳥居龍藏」というキー
ところがこれは、どうも本当らしいのです。二つ先の画面
に「自序」として鳥居龍藏本人の序文があります。その初め
という驚きだったのです。
に、子供を連れて出掛けて行ったなどと、「そんなバカな!」
し い モ ン ゴ ル の 地 に、 そ れ も ま た 今 か ら 百 年 前 の 明 治 時 代
旅行に、子供を連れて行っただなどと。それも自然環境の厳
「予及び妻は最初一ケ年許、喀喇沁王府にて蒙古語を學
カ ラ チ ン
の方にこう書かれています。
ぶと共に其附近を實踐し、更に予等は幼女幸子を携へ、
ばかり
ます。執筆者は何と大隈重信。肩書きは「伯爵」となってい
ます。「へぇー、明治の人は本を出すとき、このような偉い
北部諸地方を探檢調査し、斯學上聊か得る所ありたり。
いささ
人に序文を書いてもらったのだ」と驚いたのですが、もっと
いく た
驚いたのはこの序文の中の次の一節です。
よ
予等は是等の任務を全ふする爲めに、寒氣風雪を犯し、
この
このこう
前後三ケ年の歳月を之に費したり。」
し
「今此紀行を讀むに、君が幾多の困難を排したる苦心の
ねつせい
ないじよ
記念たるを知るのみならず、而かも此行や鳥居夫人の愛
おか
「予等は幼女幸子を携へ」という記述から、本当に子供を連
ばんなんせん く
れて出掛けたことが分かります。自分の序文だからウソは書
思いました)
。 と こ ろ で、
「 鳥 居 夫 人 の 」 の「 の 」 を 主 格 の
じゃやらないな。同僚の人達となら行くだろうがと、不審に
こ と な の か。
( 調 査 旅 行 に 奥 さ ん を 連 れ て 行 く な ど、 普 通
居龍藏が夫人の愛子さまを連れて調査旅行に出かけたと言う
「鳥居夫人の愛子を携へつゝ」とはどういうことだろう。鳥
ら子供を育てることなど、実際にやれたのだろうか。私は自
一つでさえ大変なことなのに、学術上の調査旅行をやりなが
かったのだろうか、おしめの世話は、しつけは等々。子育て
う、 食 べ 物 は 何 を 食 べ さ せ た の だ ろ う。 病 気 に は か か ら な
と に 私 は 更 に 更 に 驚 き ま し た。 オ ッ パ イ は ど う し た の だ ろ
発の時は、まだ満一歳の誕生日も迎えていなかった。そのこ
う。調べてみて分かったのですが、なんと一歳なのです。出
た
子を携へつゝ、萬難千苦を犯して熱誠なる内助のあった
「の」と解釈すれば、
「鳥居夫人が、愛子を携えて」となる。
分の子育てのことを思い出してみて、鳥居夫妻の行動には、
こと
ことは、我輩の殊に最も同情の感に堪へざる所である。
」
くまい。名前は幸子。幼女とあるからまだ小さい子供でしょ
つまり、この調査旅行には夫人が同伴しており、さらに愛子
はなはだいぶかしさを感じました。常識的に考えれば、鳥居
わがはい
(読みやすいように適宜ルビを付けた。安塚注)。
になり、私はますます驚いてしまったのです。学術上の調査
(かわいい子供の意)までをも連れて行ったのだという意味
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あか ご
夫妻の行動は無謀も無謀、あきれた話です。赤児を連れて行
くなんて。親として何を考えているのだろうか。もっと思慮
人!」という思いです。これはぜひ知っておかなければなら
れ る も の を 感 じ た の で す。
「 す ご い 話 だ、 す ご い ぞ、 日 本
の時代に実際に存在していたのだと言うことに、私は心打た
間に渡って続けた人物が、私たち日本人の先達として、明治
してまた、幼女を連れ、困難な調査旅行を足かけ三年もの期
んに事故はなかったのかなどなど、知りたくなりました。そ
て実際に調査の旅はどのようなものであったのか、幸子ちゃ
うなものがあったのか。それに興味が湧いたのでした。そし
てまでの調査旅行に鳥居夫妻を駆り立てた思いには、どのよ
のだろう。その理由とはなんだったのだろうか。子供を連れ
ろう。それも普通の理由ではなく、何か特別な理由があった
古の調査旅行へ旅立ったのにはそれなりの理由があったのだ
多くの困難が予想される中で、それでも幼児を連れてまで蒙
夫妻に心惹かれるものを感じたのでもありました。それは、
さ・いぶかしさの気持ちを通り越して、なにかしら私は鳥居
鳥居龍藏の著書『蒙古旅行』に要領よくまとめられています。
たのだろうか。この目的や動機については、先ほど紹介した
しています。ではなぜ今回、蒙古の地への調査旅行を敢行し
へ調査に出掛けていたのです。都合九回もの調査旅行を経験
や台湾を中心にその他沖縄や千島列島、そして満洲などの地
戦争に勝利したお陰で新しく日本領となった中国の遼東半島
旅行に出掛けていました。海外といっても、当時運良く日清
なのだが、鳥居龍藏はそれまでに、毎年のように海外へ調査
たのは明治三十九年(一九○六年)からの足かけ三年の期間
七歳。幼女幸子は一歳だった。この蒙古調査旅行が行なわれ
それではこの蒙古調査旅行に出発した時、鳥居氏夫妻は何
歳であったか。主人の鳥居龍藏は三十八歳、妻きみ子は二十
の五月に、我が國學院大學の教授に就任しているのです。
藏は五十三歳の時、何をしていたのだろうか。鳥居はその年
うことに関心が湧きます。今年私は五十三歳ですが、鳥居龍
私自身の年齢と同じ時に、その人は何をやっていたのかとい
私は誰かある人物のことを知る際に、その人物は何歳の時
には何をやっていたのだろうかと気に懸かります。とりわけ
い き さ つ
ない人物の話だ、忘れてはいけない日本人のことだ、と言う
紹介しましょう。
調査旅行までの経緯
思いなのです。そのような思いに動かされて、私は昨年の夏
が あ っ て も 良 さ そ う な も の な の に と。 と こ ろ が、 そ の 無 謀
休み以降、鳥居夫妻のことを調べてみました。そしてそこで
分かったことを、今回ここに紹介してみるのです。
シンアンリン
シラムレン
『蒙古旅行』自序
鳥居龍藏 東蒙古、殊に興安嶺方面及び潢河流域は、人類学上未だ暗
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- 180 -
-
黒界裡に属す。
種々の點に於て我が國人に、直接の利害を有する方面なるに
趣味あるは探檢旅行記にして、其の論文の如きは、僅かなる
まこと
かんが
いささ
うた
せんりつ
んとす。聊か記して自序とす。
は
同學者の間に熟讀批評せらるゝのみ。況んや東蒙古の如き、
されば若し是等地方に於て、斯學上の探檢調査をなしたら
んには、其の得べき結果は頗る大なりと云ふ可し。予等の蒙
カ ラ チ ン
於てをや。
ばかり
古に行きしは、全くこの目的を達せんが爲なりき。
予は實に我が妻及び幼女と共に、幾多の天然人爲の困難と
相戰ひ、斯學調査の爲、東蒙古に幾多の歳月を費したり。今
0
にして思へば、轉た戰慄すべき事も少なからず。されど予等
いささ
0
予及び妻は最初一ヶ年許、喀喇沁王府にて蒙古語を學ぶと
共に其の附近を實踐し、更に予等は幼女幸子を携へ、北部諸
0
地方を探檢調査し、斯學上聊か得る所ありたり。予等は是等
0
0
當初の目的任務の或る部分を行ひたりとせば、又自ら其の苦
なかんづく
0
の任務を全ふする爲めに、寒氣風雪を犯し、前後三ケ年の歳
0
を慰するに足る。この旅行記は誠に當時の記念にして、予等
0
はこれに鑑み、尚ほ將來も一層之に耻ぢざる事業を爲し遂げ
0
月を之に費したり。
0
0
予等の東0蒙0古0に0於0て0調0査0なしたる事項は、第一、0是0等地方
に住する蒙古人の身體測定を行ひ、第二、彼等の言語を精査
0
し、第三、其の風俗習慣、第四、俚歌、童謠、童話、第五、
0
とう こ
くだ
きつたん
明治四十三年十二月十九日、須磨、
0
う がん
古物遺跡等に及びたり。就中、考古學上の調査としては、古
せん ぴ
くは鮮卑、烏丸等の東胡民族の遺跡遺物、降て契丹の其れの
明石を望み台北丸の船中に於て
鳥 居 龍 藏 如きは、世界の學問上に向かって、自ら其の發見たるを誇る
なので、よく分かっていない。そこで調査研究を行なうとい
行の目的がはっきり書かれています。要は興安
ここには旅
シラムレン
嶺方面及び潢河流域は人類学上の研究ではまだ未開発の地域
ものなり。
しものなり。其の調査研究せし以上の事項に至ては、更に論
檢せし旅行日記のみにし
本 書 は 單 に、 予 等 の 東 蒙 古 をし探
ゆつかい
て、たゞ僅かに日々の出來事、出會せし地方、人物等を記せ
うことなのです。
フ ラ ン ス
以て發表せんとす。由來歐洲の學者は、最初自らの旅行日記
旅行』の
次に動機について。これについては同じく『蒙古
か ら ち ん おう
「 第 一 余 が 蒙 古 旅 行 の 動 機 」 の 中 の そ の 一「 喀 喇 沁 王 の
しょうへい
招聘」に詳しく記されています。
文として、『東京帝國大學理科大學紀要』に於て佛蘭西文を
を出版し、其後研究論文を發表するを普通なりとす。予はこ
ここ
あた
の例にならひ、茲に先づ今回始めて『東蒙古旅行記』を出版
なしたる所以なり。されど一般世人に利益を與へ、而も其の
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喀喇沁に向ふ事とせしは明治三十九年の春なり。
研究上東蒙古の頗る興味あるを感じ、此の調査旅行より歸り
び訪れたいと思っていたわけなのです。そんな時、ここに記
観点からとても興味を抱きました。そこで機会があれば、再
鳥居龍藏は満洲に出張を命ぜられた際、蒙古の地を訪れま
した。これがきっかけで東蒙古の土地に対して、人類学上の
來 る と 共 に、 好 ん で 蒙 古 に 關 す る 旅 行 記 其 の 他 の 著 書 を 讀
されているように、妻きみ子のカラチン王府女学堂赴任とい
薄王管下等に至り多少得る所ありしが、此の時より、人類學
み、其れに據って益々蒙古研究の興味を覺え、機會だにあら
ポーワン
人類學調査の爲、満
余は日露戰争の際、東京帝國大學より
コ ル チ ン
ピントワン
洲に出張を命ぜられ、満洲より蒙古科爾沁の二三旗賓図王、
ば、余自ら再び蒙古の地を踏み、研究、調査せんとの念切な
う話が持ち上がり、蒙古の地を訪れる「絶好の機會に際會」
すこぶ
りし際、端なくも絶好の機會に際會せり、其は蒙古の南端、
したわけなのです。それこそ「給料の如何等は論ぜず、蒙古
内田公使を經て服部博士に適任者の相談ありたれば、服部博
ひしが、期満ち河原女史は日本に歸りしを以て、北京駐箚の
て、王府附近に建てられたる學校にて、蒙古子女の教育に從
那 人 を 以 て 之 に 當 て た る が、 之 等 の 人 々 は 二 ヶ 年 の 約 束 に
の傍ら、裏側ではカラチン王府が日本を援助するための裏面
四年)に日露戦争が開戦します。それに関連して教師の職務
操子二十八歳の十二月の事でした。翌明治三十七年(一九○
教師として赴任したのは明治三十六年(一九○三年)
、河原
大変勇気のある女性だったようです。カラチン王府女学堂の
ところで、この文章に出てきた河原操子という女性の事に
ついて、ちょっと触れておくことにしましょう。この女性は
かわはらみさ こ
を調査する豫ての希望を果さん」という熱い情熱を持ってカ
喀喇沁右旗王の日本教師を求められし事なり。
ラチン王府へ旅立って行ったのでした。
カ ラ チ ン
自國に
此の喀喇沁王は、日本教育の非常に進歩せるを見か、
つ
も此の有様を移したしとの希望を有せられしが、曾て大阪博
しやんはい
士は更に日本に居らるゝ市村博士及び安井小太郎氏に適任者
工作や、いろいろな情報収集に携わったようでもあります。
へい
の周旋を依頼したり。年限は一ヶ年にして成る可く夫婦者と
彼女は明治三十九年(一九○六年)に帰国し、一宮鈴太郎と
かわはらみさ こ
は先方の希望なりし。市村博士は、余の再び蒙古に行くの希
い う 人 と 結 婚 し、 ア メ リ カ の ニ ュ ー ヨ ー ク に 住 ん だ り し ま
へ
覧會の開催せられたる際日本に來遊し、歸途の上海領事小田
望を有し居る事、及び少しく蒙古の事に關して調査しつゝあ
す。
(この一宮氏は、横浜正金銀行のニューヨーク支店長を
切萬壽之助氏の手を經て河原操子女史を聘し、男子の方は支
るを知り居られしかば、先づ余に此事を相談せられたるを以
勤めていた)
。 明 治 四 十 二 年( 一 九 ○ 九 年 ) に カ ラ チ ン 王 府
ちゆうさつ
て、余は直ちに之を承諾し、給料の如何等は論ぜず、蒙古を
かね
調査する豫ての希望を果さんとの考えを以て、余の妻と共に
-
- 182 -
-
女学堂時代の体験記を『蒙古土産』として刊行します。それ
から三十五年後、太平洋戦争中の昭和十九年(一九四四年)
ねて読んでみることにしましょう。
蒙古行 鳥居きみ子
道すがら (其一)
『新版蒙古土産』として刊行され、更にそれから二十五年後
の昭和四十四年(一九六九年)
、
『カラチン王妃と私─モンゴ
し送らるヽうれしさよ、發車まぢかく驅けつけし河原女史の
三月五日、今日午後の急行にて蒙古行の途につく。
窓にひたと寄りそはれ「さらばよ君」と手取り交し、あとは
ル民族の心に生きた女性教師」と改題されて、芙蓉書房とい
さて、この河原操子の後任を務めることになったのが鳥居
龍藏の妻であったきみ子だったのです。カラチン王府女学堂
言葉もなくて、互に人知られぬ涙に咽ぶ不言の氣通をまた誰
日頃涙あり血ありと、慕ひまゐらす恩師、恩兄師、愛弟妹
の方々、車のほとりに集ひ給ひて數ならぬ身を榮ある行と祝
への赴任の条件は夫婦揃ってということであったが、龍藏は
う出版社から刊行されました。
当時、ある一つの調査報告書をまとめる仕事が詰まっていた
か知らん。「こは下田先生より君が長き車中の徒然に」とて
くだ
さへ
うんてん
き つう
ため、きみ子が一人で先に赴任することとなりました。実は
美しき器に盛られたる者やをら取り出で給ひつヽ「なほ此器
きし
ふ げん
きみ子は河原操子に倣ってか、カラチン王府着任前後のこと
こそは蒙古にて御手廻りに使ひ給へ!」と御心込められし有
もろこゑ
しろかね
く る ま
むせ
を文章に残しています。
『蒙古行』と題された本で、もとも
りがたさ。御禮の言の葉もまだつきぬに車は運轉し始めぬ。
や じん
か の ち
とはカラチンの地から東京の当時の讀賣新聞社に寄せられた
ましき諸聲して「鳥居夫人萬歳」と呼ばるヽもうれしく
お勇
ぼつか
さゝ
覺束なき日本語もて「サヨナラオクサン」と帽子捧げて呼ぶ
なら
紀行文と現地報告文です。これは讀賣新聞の紙上に連載され
露西亞人も亦愛らしく、さては美しき聲に「おきみさん御機
ばんざい
ました。この掲載に関しては、原稿料を徳島に住んでいるき
嫌よう」となさけ溢るヽ聲は早や滊車の軋りに遮ぎられて、
ただ
つくづく
おんれい
み子の両親の許へ届け、経済的に援助するという親孝行のつ
立ちつくす夕まぐれの窓に懷かしき人々の影は見えずなり行
し
もりで紀行文を書いたと言う経緯もあったようです。
きて、只闇の内を運び去らるヽ思ひに投ぐるが如く身を置き
ろ
『蒙古行』は大きく二部の構成で、前半はカラチン到着まで
つヽ、熟々と身に染む他人が同情のうれしさに熱き涙は漏れ
カ ラ チ ン
の「 道 す が ら 」
、後半はカラチンでの生活を綴った「喀喇沁
ぬ。やがて降り出でし、窓打つ雨の、銀の玉と碎けて亂れ散
まなこ
こぼ
の春」という部立てになっています。ここで「道すがら(其
る樣ぞ面白き。我車は進むか退くか、わいだめもつかず。力
みだ
一 )」 を 紹 介 し ま し ょ う。 な か な か の 道 行 き 文 で す。 セ ン
なく眼ふたぎたるが儘物思ひにくれぬ。
い
ター試験の古文の問題文として採用してもらってもいいぐら
まま
いの、いい調子がある文章です。古文の文章読解力養成も兼
-
- 183 -
-
あれ の
こ
ち
い方。…さん。…樣。・花ぐわし…枕詞である。花が美しいとい
ことくに
はな
う意味から、「桜」「葦」などに係る。
あ
異國も荒野にそよぐ東風きかば
ほのぼの
かはらぬ色のまつと知れかさし
さ や
たぞや。雨の音に交じりて我耳元に私語くは夢か現か。
驚いたことに、この旅立ちの場面に先ほどの河原操子が登
場しています。河原操子はこの明治三十九年の二月に蒙古か
し、あとは言葉もなくて、互に人知られぬ涙に咽ぶ不言の氣
河原女史の窓にひたと寄りそはれ『さらばよ君』と手取り交
りに来ることが出来たのでした。「發車まぢかく驅けつけし
醒むれば、夜はいつしか朗々と曉け放
胸したきに、ふまとし眼
ろ
さ
れて、遠山の雪眞白に冴え、近くみどりなす山、或は青き畑
ゆ
ら帰国しているので、三月五日のきみ子の出発に際し、見送
きよ
の
のいと清らに柔らかき春景色。
あさひ
かげ長き車の影移し
旭
はる
通をまた誰か知らん。」
。先輩が後輩を見送っている。まるで
映画のワンシーンのようです。この時、河原操子三十一歳、
ふところ
きみ子二十五歳。
く
ねざめの思ひ春野過ぎす行
えひろ
二首の題歌に
このようにしてきみ子はカラチン王府の女学堂へ赴任して
いくのですが、カラチン王府での龍藏・きみ子二人の様子は
はりし末廣の急ぎて其ながら懷にせ
よべ佐々木先生よりこ賜
のあさかげ
しを、思ひ起こし、此朝影に繰り返さんとて打ちひろぐれば
鳥居きみ子ぬしをおくる
春の日のかすめるあしたはてもなき
ゆ
喀 喇 沁 に て 余 は 男 子 の 學 堂 を、 妻 は 女 子 の 學 堂 を 教 へ し
カ ラ チ ン
を以て、先づ妻
余は當時『苗族調査報告』の起草中なりし
ようや
をば三月に出發せしめ、余は四月に至りて漸く出發せり。
『蒙古旅行』第一 余が蒙古旅行の動機 その二)
(
喀喇沁に於ける予等の生活
カ ラ チ ン
介しましょう。
どうであったのでしょうか。それについては、次の一文を紹
ひろ の
おお の
蒙古の廣野を行くらんか君
さくら
花ぐわし櫻の花のたねあまた
き
まきてを來ませ蒙古大野に
(注)・下田先生…下田歌子のこと。
・わいだめ…「弁別」と書く。区別、けじめの意味。・たぞや…
「 誰 ぞ や 」 の 意。・ 末 廣 … 扇 の こ と。 こ の 扇 に 送 別 の 和 歌 二 首 が
したためられていたわけである。・ぬし…他の人を敬って呼ぶ言
-
- 184 -
-
と
けいけん
が、余は兒童の爲に白墨を執りし經驗無きが上、又た元來教
師 た る を 好 ま ざ れ ば、 約 束 に 隨 ひ て 教 授 の 任 に は 當 れ る も
のゝ、寧ろ日語と蒙語との交換的教授なりしも、双方語學の
發達は案外速やかなりき。着蒙早々、ポーと呼ぶ蒙古人の教
一九○七年
明治四十年
帰国の途につく。
2月 日本着。
1月 きみ子の出産のため、モンゴルより
3月 幸子誕生(二十三日)
6月 親子三人して蒙古へ戻る。
だ
師を傭ひて、妻と共に日々蒙古語の研究に從ひ、又た學堂に
ところ
あか ご
一九○八年
明治四十一年
行へ出発(第一回目の旅)。
3月 十五日 赤峰より親子三人にて調査旅
チーフォン
て教授する際も、出来得る丈け蒙古語をもってすることにし
しん たい そく てい
たれば、蒙古語練習の機會多く、得る處多かりき。
か
この間、調査旅行の準備に充てる。
よ
蒙古人の身體測定を始めと
又 たり其かの 餘 暇 に は、 妻 と 共しに
ゅうしゅう
し、俚歌、童謠、童話、等の蒐集に從ひ、時間の餘裕あれば
王府附近を巡りて、諸種の調査に從事せしが、四十年一月、
どう
7月 十二日 赤峰に戻ってくる。
8月 二十二日 赤峰より北京へ向け、出発
(第二回目の旅)
八月 きみ子、『東京人類學會雜誌』に「東
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- 185 -
-
喀喇沁王と同行して北京に赴き、余等は一時日本へ歸り、四
十年春三月、妻は女子を分娩し、仝六月赤兒幸子を伴ひ再び
喀 喇 沁 に 至 り、 同 年 十 二 月 ま で、 蒙 古 語、 其 の 他 を 研 究 し
月 三十日 赤峰に帰還。
月 九日 北京に帰着。
明治四十二年
部蒙古旅行記」を掲載。
六月 龍藏、『蒙古旅行』を出版(博文館)。
で計
以後、明治四十四年(一九一一年)ま
回掲載。
一九○九年
11 10
つゝ王府に留まれり。
(後略)
調査旅行の期間
鳥 居 龍 蔵 は こ の 調 査 旅 行 の 期 間 に つ い て「 寒 氣 風 雪 を 犯
し、前後三ケ年の歳月を之に費したり。
」と自序で述べてい
明治四十四年
一九一一年
15
ますが、この期間のことを簡単な年表にまとめてみました。
年
明治三十九年
一九○六年
月 事 跡
3月 きみ子、カラチン王府女学堂に赴任。
4月 龍藏、蒙古王府男子学堂教授に就任。
二人してモンゴル語の習得に励み、ま
た附近の遺跡調査などを行なう。
月 きみ子『蒙古行』出版(讀賣新聞社)
10
龍藏一家三人が東蒙古の調査旅行に実際に出発したのは明
治四十一年(一九○八)三月十五日でした。今からちょうど
百年前のことです。それからほぼ四ヶ月の期間をかけて東モ
ンゴルの地を北上し、大興安嶺山脈を越え、ブュルノールと
チーフォン
いう湖のほとりまで至り、そこから反転して東へ向かい、再
び大興安嶺山脈を横断し、赤峰へと戻って来る。それが七月
十二日のことです。その後、約一ヶ月をかけて調査した資料
や採集した物の整理に努めます。あるいは赤峰附近の調査な
ども行ないました。そして八月二十二日に、再び調査旅行に
出掛けるのでした。今度は南に位置する北京へ一旦出て、そ
掲載されたのは『東京人類學會雜誌』という専門の学会誌で
さて、この調査旅行から帰国して約九ヶ月後、きみ子は旅
行中の体験を文章に著しました。
「東部蒙古旅行記」といい、
終わったと記されています。添付した地図がそのコースです。
京へ出て、服部宇之吉博士の邸宅で最後の荷物の整理をして
でした。しかし、旅はそれだけで終わらず、十一月九日に北
戻ってきたのは出発から二ヶ月と十日ほどたった十月三十日
し、再び赤峰に戻ってくるというコースです。実際に赤峰に
經棚を経由してシラムレン河に出て、そして東部蒙古を調査
は文化人類学・民俗学を呼ぶのに使われた言葉です。刊行の
慣れない言葉ですが、明治から大正にかけて、民族学もしく
より觀たる蒙古』といいます。
「土俗学」という言葉は聞き
章
この連載した文章をもとに、より読みやすく口語体どのぞ文
くがく
に直して、一冊の著書が刊行されました。題名を『土俗學上
られます。
養ある人は、これくらいの文語文が書けたのだと、感心させ
で、味のある文章を書いています。明治時代のある程度の教
語文体のみごとな文章です。きみ子は和歌の素養もあったの
た。実際の調査旅行中の日記をまとめているものですが、文
と「續」の冠詞がつけられ、都合十五回の連載がなされまし
チンポン
こから北西に位置する張家口方面へ向かい、ドロンノール、
す。当時、「東京人類學會」という学会があり、鳥居龍藏の
年は昭和二年(一九二七年)、調査旅行から十九年後のこと
み
恩師である坪井正五郎東京帝國大學教授が中心となって創立
でした。大鐙閣という出版社から出しています。一千ページ
つぼ い しょうごろう
された学会です。龍藏ときみ子はその学会の会員になってい
だいとうかく
たのです。きみ子の紀行文は、途中で「續東部蒙古旅行記」
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-
「鳥居龍藏伝」中薗英助(岩波書店)より
を超える分厚い巨冊本です。これは、きみ子四十八歳の時の
査の上で役立ってもいます。蒙古の民謡などを楽譜に起こして
弾 け、 音 階 を 取 る こ と が 得 意 だ っ た よ う で す。 こ の こ と が、 調
持 っ て い ま す。 そ の 後 上 京 し、 上 野 音 楽 学 校 に 入 学。 ピ ア ノ が
ろく ぶん かん
こ と で し た。 更 に こ の 本 は、 四 年 後 の 昭 和 六 年( 一 九 三 一
という出版社から出ています。この龍藏の方の本もきみ子の
す。私が最初にインターネットで出会った書物です。博文館
かりさすらひの貧しい調査旅行をいたしました。本書はその
まれまして、間もなく親子三人が内外蒙古をかけての二年ば
究を專心いたしました。一ヶ年の任期滿ちて歸國後幸子が生
に留りまして、王府の教育事
最初の一年は喀喇沁蒙古王ひ府
たすら
業に從事しつゝ、其の傍ら只管に蒙古語の學習と其の他の研
います。きみ子は龍藏の有能な「助手」だったのです。
年)、改訂版が発行されています。今度は六文館という出版
社から発行されています。
著書と同じように、まずは雜誌に連載されたものを土台にし
一 方、 龍 藏 は 調 査 旅 行 が 終 了 し て 三 年 後 の 明 治 四 十 四 年
( 一 九 一 一 年 ) 六 月、
『蒙古旅行』という本を出版していま
て増補訂正されたものです。発行の時、龍藏は四十一歳でした。
かえつ
り多くの利益のあったことを證明いたします。
が弱かった明治時代の事ですから。私自身も「奥さんを同伴し、
は当時において当然あった事でしょう。男性中心で女性の立場
「 婦 人 や 子 供 を 連 れ て 行 つ て、 夫 が 非 常 に 困 難 を し た と の 評 」
當時の日々見聞した日記であります。殊に或方面では、婦人
や子供を連れて行つて、夫が非常に困難をしたとの評があり
ど ぞく
調査旅行中の様子は龍藏の『蒙古旅行』ときみ子の『土俗
が く
み
學上より觀たる蒙古』の二つを一緒に、並行して読むとその
ましたが、決してそんな事はありません。反て調査の上によ
み
実態が生き生きと蘇ってきます。
きみ子の思い
ど ぞくがく
きみ子は『土俗學上より觀たる蒙古』の序文に、次のよう
に書いています。
子供まで連れて行ったなど、鳥居氏は何を考えていたのだろう」
と疑問に思ったのですから。ところがこの同伴が調査の上では
という事で地元の婦人方が、懇意を以て自分たちの生活の中へ
自序
東部蒙古の人類學上の調査に出かけましたのは、私共が新
婚間もない時でありました。こは全く夫が研究の助手として
龍藏親子を受け入れてくれる事が多かったのでした。このこと
の中にも触れられています。「妻の女性たる事と幼兒幸子を伴へ
は『土俗學上より觀たる蒙古』の跋文として龍藏が書いた文章
幸 運 を も た ら し た よ う で す。 訪 問 の 先 々 で、子 供 を連 れ て い る
隨って参ったものでありました。
きみ子は「助手」としての自覚と立場で、同行したのでした。
きみ子は徳島県の師範学校を出ており、小学校の教師の経験を
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-
密なる土俗を、調査する事が出來ました。」と書いています。
觸 談 話 す る 機 會 が 多 か っ た か ら、 幸 い に し て、 蒙 古 の 正 し い 精
る 關 係 上、 彼 は 普 通 接 近 な し 難 い 蒙 古 の 婦 人・ 小 兒 等 に 日 々 接
が 続 き ま す。 そ し て 序 文 の 最 後 近 く な っ て、こ の よう な 事 を 告
地位に就いていた服部宇之吉博士とその令夫人への感謝の言葉
実施を全面的に援助してくれた、当時北京大学で総教習という
白するのです。
の蒙古の探檢旅行に於きまして、具に
然しながら私共は此
な
しかのみならず
貧 し さ の 苦 し み を 嘗 め つ く し ま し た。 加 之 、 調 査 を 終 へ て
つぶさ
情、風俗、習慣、牧畜、宗教、美術、俚歌、童謠、童話等か
歸朝後の生活の苦しみは又其れ以上であったことを今更告白
ら更に石器時代より歴史時代にかけての遺跡遺物の事に就い
いたします。
本書は旅行記ではありますが、其の記事は專ら土俗の上よ
り 觀 察 し た も の で あ つ て、 即 ち 現 今 の 蒙 古 人 の、 言 語、 人
ても記述いたしてあります。要するに本書は、夫の人類學上
を觀察いたしましたものに過ぎないのでありますが、日頃子
が 入 っ た と し て も、 わ ず か な 金 額 で す。 そ もそ も 本を 出 版 す る
研究者というのは、商売をやっているようなわけではないの
でお金が儲かるという事もありません。本を出版してその印税
研究の一助にもと、主として土俗學を基礎として、日日蒙古
供達が蒙古の話を聞きたがりますので、子供達に讀ませたい
に し て か ら、 お 金 が か か る 事 で す。 家 族 は 六 人 家 族 で し た。 子
文 体 の 少 々 堅 め の 文 語 文 で す。 そ れ に 比 べ て『 土 俗 學 上 よ り 觀
調査旅行の日記を最初に文章にしたのは『東京人類學會雜誌』
に 掲 載 さ れ た「 東 部 蒙 古 旅 行 記 」 で し た。 こ ち ら の 文 章 は 擬 古
東 京 帝 國 大 學 の 教 授 の 職 を、 訳 あ っ て 辞 職し ま す。大 正 十 三 年
に 出 か け て い ま す。 さ ら に 夫 の 龍 藏 氏 は、 それ ま で勤 め て い た
でしょう。これに加えて毎年のようにいろいろな所へ調査旅行
(大正五年生まれ)。子供達の養育費だけでも相当かかったこと
だい
供 は 四 人 い ま し た。 長 男 龍 雄( 調 査 旅 行 の 時 は 三 歳。 き み 子 の
たる蒙古』は口語体の軟らかな文章です。「子供達に讀ませたい」
( 一 九 二 四 年 ) の こ と で す。 安 定 し た 収 入 の 道 が 閉 ざ さ れ て し
まと
爲に、少しづゝ纏めかけて居りました折りから、このたび大
という事もあって、やさしい文体に変えられたのでありましょ
に設立し、在野の研究家として生きていこうとしました。(これ
すす
鐙閣の田中支配人に獎められまして、出版する事といたしま
実家で世話してもらっていた)、長女幸子、次女緑子(調査旅行
うか。
は龍藏五十四歳の時の事です。そしてその研究所の研究員はき
とうかく
した。
序文はこれに続けて、自分たちの研究はフランス語で論文と
して発表し、その論文が歐米の研究者達に多く引用されている
まったのですが、龍藏は個人的に、「鳥居人類学研究所」を自宅
から帰ってきた二年後の明治四十三年に生まれる)、次男龍次郎。
こ と を 喜 ん で い る 旨 を 記 し て い ま す。 さ ら に、 こ の 調 査 旅 行 の
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-
経 済 面 か ら 考 え て み れ ば、 龍 藏 一 家 の 生 活 は、 本 当 に 大 変 だ っ
つ ま り 一 家 総 出 で 研 究 活 動 に 従 事 し た の で し た。)。 こ の よ う に
み 子 を 始 め 幸 子、 緑 子、 龍 次 郎 な ど の 子 ど も 達 だ っ た の で す。
たる平原、または荒涼たる砂漠地帯。日が暮れても人家にた
ました。喜びもあれば困難も頻発します。旅ゆく土地は広漠
と、よく分かります。旅行中には実にいろいろな事が起こり
及 び『 土 俗 學 上 よ り 觀 た る 蒙 古 』 と を 並 行 し て 読 ん で い く
み
たのです。
えない。砂漠の途中で猛烈な嵐に見舞われる。その嵐に霙や
雪が交じり、寒さに凍える。狼の影に脅かされる。馬賊の危
みぞれ
どり着けない。たどり着いても馬賊と間違われて泊めてもら
そのような中ではあったが、きみ子には密かな自負と決意と
がありました。続けてこう書いています。
シーンになってしまうぐらいドラマチックな光景です。数あ
崩してしまうなどなど。それらの出来事は、そのまま映画の
険にさらされる。雪融け水で増水し、河が渡れない。体調を
歐米におきましては、婦人が人類學、土俗學、考古學等を
專門として、或は趣味として、之に從事する婦人が多くなっ
て來ましたが、我國ではまだそこまで行きません。此の時に
る印象的な場面から、二、三紹介しましょう。
まこと
當つて、此の書は元より拙いものでありますが、此の動機を
なほ
起こす先驅者となるを得ば、私は實に幸であると思つて居り
三月十五日。
赤峰を出發す
龍藏の『蒙古旅行』
古』の一節を紹介します。
ま ず は 旅 の 出 発 の 三 月 十 五 日 の 日 記 か ら。 始 め にみ龍 蔵 の
『蒙古旅行』を載せ、次にきみ子の『土俗學上より觀たる蒙
ます。(略)私共は尚將來に向つても、大なる覺悟を以て研
究に從事致そうとしている者であります。
朝夙く起き出で旅装を整へ、余等夫婦と小兒は車に乘り、尚
時 代、 そ れ も 学 問・ 学 術 の 世 界 に 自 分 の 人 生 を 賭 け よ う と い う
こういうきみ子の言葉には、心揺さぶられるものを感じない
で し ょ う か。 女 性 の 社 会 進 出 も そ う 多 く は な か っ た 明 治・ 大 正
決 意 を 持 っ た 人 は、 稀 な 事 だ っ た で し ょ う。 き み 子 の 意 識 の 高
他の車には準備したる貨物を満載し、四名の馬勇を伴ひて赤
だ の で し た。 そ の 品 物 と は 葉 煙 草、 砂 糖、 糸、 針、 マ ッ チ、 石
乗り、もう一台は蒙古人に手みやげとして贈る品物を積み込ん
(注)龍藏親子は二台の馬車で出発しました。一台は親子三人が
峰を出發せるは午前六時頃なりき。
さ、志の強さに感心します。
旅行記を並べて読んでみる
さて、先程申したように調査旅行の実態は、龍藏の『蒙古
旅行』と、きみ子の『東部蒙古旅行記』
『續東部蒙古旅行記』
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-
ロ
カ
ホ
暴するが故なれば、止むを得ず更に、卜羅科河に沿ひて東北
ブ
版 画、 薬 品 な ど で、 こ れ ら は 蒙 古 人 か ら と て も 喜 ば れ る 物 で し
るに寒氣酷しかりしかば、車の進む事遲々たり。漸くにして
し來りぬ。此の日、風強くして砂塵を飛ばす事甚しく、加ふ
ぜしむるものあり。進み行く程に、漸く北地特有の光景を呈
ものなり。兩山の間砂土遠く開け言ふ可からざる寂しさを感
車と二三の牛車とを見たるのみ。こは烏丹城より赤峰に歸る
一の樹木なく一の家屋なく又畑地をも見ず、途上四五輛の空
たがひ漸く砂土にして、英金河を渡りてよりは、左右の丘陵
て老哈河の上流なる英金河畔に出
道を北方にとり暫くにオし
ーランハタ
で、之を渡りてよりは紅巖山を右にして進む、北に進むにし
すべし。
主人より其の番頭丁稚の如き者迄を通算すれば数百人にも達
は家屋幾棟も建て連ね、劉氏本家の一族此處に居住す。即ち
圍一清里強、その正面の入口には大なる門あり。土塀の中に
周圍に高く土塀を圍らし、
劉氏の邸宅は、恰も城郭の如ぎく
ぜん
土塀の四隅に物見臺を築き、巍然たるものにして、土塀の周
しが、次第に心打ち解くるに至り、家人は待遇鄭重を極む。
初めは中々肯ぜざりしが、漸くにして承諾を得其の家に入り
ば、馬勇をして劉氏の宗家に到り、宿泊せん事を請はしむ。
劉家營子は、昔の名の示す如く劉氏一族の住む處にて、此
の村にも宿舎無し。然れども此の時、日漸く暮れかゝりしか
リユウチヤインズ
左右の丘陵遠ざかり、一眸たゞ廣漠たる荒野に出づ。荒野を
か
方に進む程に、流れ漸く盛んに河幅また廣くなれり。河岸に
進む事二十清里、赤峰を距たる二十五清里にして、復び左右
(略)
が もん
に山を見る、右方は即ち大紅山脈にして、左方にあるは平頂
八清里なり。夜に入りてより非常
此の日余等の旅程は一や○
が
に歡待せられたるが、軈て主人出で來り、此の邊の状態及び
ぶ
た。「四名の馬勇」とは、赤峰県の武衙門という役所が付けてく
山とす。赤峰より平頂山迄は約四十清里なり。
(略)
(注 一
牛乳を貰ひ度しと申し出でたれば、不思議に感じ如何なる故
リユウチヤインズ
一龍王廟を見たり。斯くして進む事八清里、劉家營子に達す。
清里とは約六五四メートル。
)
な り や と 問 ひ し に、 數 年 前 二 三 の 露 西 人 此 の 地 を 過 ぎ た る
インチンコロ
更に二十清里計り進みたる頃、日も漸く舂かんとするに、
遠近を見渡せど宿る可き家なし。漸くにして一村に達す、戸
際、彼等は紅茶に乳を入れて主人に與へたりしが、其の美味
ロ ー ハ
れた護衛のための四人の騎馬兵のことです。
數二十餘、一二の大家富者らしきを見る。此の附近頗る便惡
今尚忘る能はざるが爲なりとの答なりしかば、余は彼に一罐
へだ
うすづ
ウータンチヨン
しくして宿舎なければ、余を護衛せし馬勇此の富者の家に就
の牛乳を贈りしにいたく喜べり。支那人に牛乳を飲む者少な
きび
きて宿を請ひしも、其の主人余の妻を見て曰く、婦人は一切
きに、殊に此の山中にありて斯かる事に出會ひたるは頗る奇
いちぼう
宿す事を好まずとて謝絶す。外國の婦人云々と言ふと雖も、
現今の有樣に就き、種々の物語りしたる後、余に對し一罐の
實は支那兵を宿すを好まざるなり。そは彼等支那兵は多く亂
-
- 190 -
-
を附し置く可き事あり。其は斯かる家に宿泊せし際
尚一き言
ん す
に、金子を贈るは却って禮を失するものなれば、何か他の物
しんで、出て來て眺めて居ります。若い男などは、赤峰街の
な夕な顔馴染みであった支那人達が、老いも若きも別れを惜
の赤峰の街を離れて行くことになりました。近いほとりに朝
なりと云ふべし。
品を贈らざるべからず。そは日本の東京大阪等にて製作する
門 ま で 送 っ て 來 て 呉 れ ま し た。 知 縣 衙 門、 武 衙 門 な ど か ら
二頭立ての支那馬車五臺に、有らゆる荷物を満載致しまし
て、三人も之に分乘して、暫く棲み馴れて居った懷かしいこ
石版繪の如きは最も喜ぶ處なれば、之等を贈りて謝禮とすべ
も、 御 餞 別 の も の が 届 き ま し た。 こ の 街 の 人 は 皆 打 ち 寄 っ
が もん
し。此の時も主人請ひて止まざれば、即ち其の數枚を與へた
ぶ
るに非常に喜びたりき、斯る地方を旅行する人々はよく注意
て、私共が蒙古入りの樣子を眺めて、色々と恐ろしさを口々
に話し合って、生きてかへってくればよいが、などと云ふ樣
ち けん が もん
すべき事ならん。この日の温度は朝八時、華氏十度、正午同
な事を云って居ります、質朴な其の心根が涙ぐましい程うれ
かか
十一度強、夜同十一度。
(注 鳥居氏が所有していた温度計
は「華氏」温度計であった。
「華氏」と「摂氏」の差は約
わ
-
- 191 -
-
しゅうございました。
(中略)
この家に入った頃は、もう黄昏近くでありました。馬車を
下りて家の人に裏を訊けば、此方へ來て下さいと云って、一
構えの外側の中門を開けて導いて呉れました。それに随って
さいと云って、私を入れて外から戸を締めました。入って見
行くと、とある重い大きな戸を引き開けて、此處にお入りな
三月十五日、私共親子三人で赤峰の假寓に寒さを凌ぐこと
も、早や三ヶ月あまりになりました。この間にどうやら蒙古
と
ると、此處は大変悪臭が強く、急に鼻を刺激して吐き気を催
こ
ふ
語も先づ不自由なく話せるであらうといふ自信も出來まし
す許り、薄暗い中に不圖向こふを見ると、私の直ぐ傍らに大
か し こ こ
げ出して來ました。
頭の牛が急に角を向けて來たらばとおそれて、周章てて、逃
あ
の方を靜に眺めて居りました。何もなれぬ私は之等の四五十
牛が居りました。この時に牛も驚いたものと見え、一齊に私
び っ く
た。その外色々調べたことも、大分當てが附きました。此の
変大きな牛が佇んで居ります。吃驚りして尚ほ向かうの方を
たたづ
頃の寒さは、やうやう零度の上下を十度位昇ったり降ったり
草枕はてしも知らず三人して
むくりが奥に出て立たんかも
(注 「むくり」とは蒙古のこと。
)
ります。
よく見ると、彼處此處にも夕暮れの色に紛れて、四五十頭の
30
する程に、暖かくなって來ました。もう旅立ちの好時季であ
ぐう
度の寒さである。
)
20
度。華氏温度の数値から を引いた値がだいたいの摂氏温度
み
になる。華氏 度とは、氷点下
30
蒙古』
きみ子の『土俗學上より觀たる
チーフォン
か
10
風を冒して進み、漸くにして平坦なる村落に出づ。此の時幸
を見合わせつゝありしが、斯くてあるべきにもあらねば、暴
馬は恐れて進まざれば、馬夫は止むなく車を止め、暫く進行
「ナニちっ
部屋に歸った後に、之を兵卒達に語りますと、
ともこわくありません、おとなしいものなんですよ、今に馴
ファンテン
れてお仕まひになりませう」と云って笑ひました。このやう
あたか
ひに風も小休むになりたれば、更に車を進め十五清里にして
ちゅうしょく
ウータンチョン
に支那の内地の旅行に婦人の苦しむのは、この點であって、
ところ
烏丹城に達す。時恰も正午なりしかば、余等はとある飯店に
かたちばか
形許りの處はあるけれども、足も容れることが出來ない程不
投じて晝食をなせり。
あらかじ
潔極まりない有樣であります。されば婦人の旅行には、預め
此等の用意も怠ってはならぬと思ひました。かくの如き大陸
たる蒙古』
きみ子の『土俗學上より觀
み
旅行には、婦人としての總べての化粧道具を整へて出かける
三月十七日、今朝は早くから烏丹城に向かって北西の道を
取って進みました。十清里許り來た所から、峠に差し掛かり
す
( 注 )「 こ の 點 」 が 何 を 指 す か、 お 分 か り に な り ま す か。 ト イ レ
必要がございます。
(後略)
ましたが、折り柄北風が逆巻いて參りましてその凄まじさ譬
けむ
しゅんじゅん
へやうも無い位でありました。砂烟りの吹き捲く其の中に、
馬でさへ進むことが出來なくなって、逡巡して居りました。
ま
のことです。きみ子は、トイレのことでは苦労したようです。
次は出発から二日目、三月十七日の記録。突如、暴風に襲
われます。
難してよいか分からなくて、唯だ馬車の垂れを下げて、其の
た
しばらくの間は東西も分からない位になって仕まひ何處に避
龍藏の『蒙古旅行』
やうにして三十分位の間は、目も開けることが出来ない有樣
きみ子の『土俗學上より觀たる蒙古』
み
また三月二十九日の記録も読んでみましょう。
馬勇達は馬を下りて馬の轡を取って佇んで居りました。この
でありましたが、やっと馬が進むことが出來る許りになって
くつわ
中に私共は 蹲 って居りました。馬夫達は馬車の下に蹲って、
國公坆を出發し、道を北西にとり進みしが、忽ちにして丘
陵に差しかゝり、更に道を北方に轉じて進む。此の附近一の
うづくま
十七日 烏丹城 三こ月
っこうふん
人家無く、行く事十清里にして一峠に達す。その頂より西方
峠を下って參りました。
ちょうじょう
を 望 め ば、 幾 多 の 丘 陵 重 疊 し、 又 山 間 三 四 の 村 落 の 點 々 た
るを見る。山道を降る事五里許にして、戸數二三軒の新村に
きび
出づ。余等の一行此の村に達せし際、俄に北風吹き起こり、
土砂を飛ばし寒気また酷しく、温度は忽ち降りて、華氏零下
九度に達せしが、土砂の爲に二三間の前方さへ見るを得ず。
-
- 192 -
-
さくふう
三月二十九日 物凄き朔風
北の空が一面に灰色になって、大変怪しく曇って來ると見
る間に、風が物凄く吹いて參りました。西北の道であるけれ
ども、北風が正面から吹いて來るやうに、車に吹き當てゝ、
で渡れなくなった。渡河できる場所を探したりして、数日間
川岸で待機せざるを得ません。その時の三月三十一日から四
月四日までの日記を読んでみましょう。
み
趣の違った一層烈しい風であります。何となく不安で、牛車
す。島の中央には、小さな廟の如きが見えました。その南の
に最接近した部分に、眼鏡一つ開いた石橋が掛かって居りま
がいとう
きみ子の『土俗學上より觀たる蒙古』
あられ
霰のやうに沙漠の小砂利がはらはらと音をさせて、帽子にも
三月三十一日
の上から廣野のはてまで吹き飛ばされるかと思ふやうな風の
パー リン
は、赤峰を出てから一度だけ出會ひましたが、今日の風は又
外套にも、絶え間なく吹きつけて參りました。此のやうな風
(前略)それから二清里許り上流に當って、巴林橋が見え
て參りました。其の中の島の如く突き出た處の、北の方巴林
勢ひに、車は少しも捗取りませぬ。人も牛馬も一歩も進むこ
端は岸と離れて居るけれども、此處には橋は見えませぬでし
はか ど
とが出來なくなってしまひました、苦しさは譬へ樣もありま
いよいよ
た。橋の眺めの好い處で、夫はスケッチを致しました。
せんかた
せぬから、詮方なく唯だ風に逆らひつゝ僅かに進んで參りま
愈々渡るべき地點に近づきました頃、今しも河岸の方から
いそぎ登って來る十四歳許りの支那人の若者が、兩手に濡れ
た牛と馬との中々歩まないのを、引きづり引きづりながら、
した。
斯くする内にも、幸子は私の暖かい毛のマントの中に深く
包まれて、苦しさも知らず玩具を手まさぐって、獨り微笑ん
聲を揚げて泣き叫んで居ります。此方の方へ近寄ってまゐり
まして、私共の前に來るやひれ伏して、むせびながら訴へま
で居りました。
ところで出発してから約二週間、龍藏一家の行く手には一
つの河が立ちはだかります。シラムレン河といいます。この
温かい親心です。
このような幸子ちゃんの様子を思うと、きみ子の母親とし
ての熱い親心を感じます。小さい生命を守り育てようとする
けれども此の勢いのすさまじい、氷塊の流れの眞只中に飛び
に可愛相で其の憫れなことは、譬へやうもありませんでした。
救ふて下さい、南無大人」と云って三拜九拜致しました。實
流れ込み、上流から押し流して來る氷塊に打ち當てられ、ア
て、先に進んだ父は氷を踏み破って、今急流の中に車と共に
した。其れを聞くと、
「今私は父と共にこの河を渡らうとし
河を渡らない事には、旅は前へ進めない。ところが、気温が
あは
まっただなか
まこと
レアレ今車の輪が彼處に見えます、何卒大人は早く私の父を
あ そ こ
温かくなったせいで、凍っていた河面の氷が融け出し、危険
-
- 193 -
-
込んで救ふと云ふことは、とても出來ません、どんな水泳に
熟達の人と雖も能はぬところでありませう。
役人達にも「こんな場合に此の土地ではどんなにして救助
してやるか、早く方法があれば、其れ等の人々を一時も早く
呼び集め來て支那人を救けなくては」と役人達に云って聞か
せましたけれども、彼等は平然として、空吹く風の如く、こ
の小供を眺めて、
「このやうに遠く流れ去っては、到底お前
の父の命は無いものだ、且つこのあたりには家も無く、仕樣
が無い。殊に我々は公務に依ってこの日本の大人に從って居
る役人であるから、そんな餘裕はない。さればお前はこれか
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- 194 -
-
ら早く道を急いだなら、今夜の内に烏丹城の町へ歸り着くで
あらう、そしてこのことを親兄弟に話するのが宜しい。早く
早くお歸り」と云って、この子供を歸してやりました。役人
の言葉によると烏丹城の支那人と覺しく、ほんとに可愛相に
思ひましたが、何とも致しかたがありません。持ち合わせの
まこと
銅貨など與へてやりましたが、しほしほ牛と馬を兩手に引い
て、歸って行く後ろかげが、實にあはれでございました。
不慮の事故とはこのようなことを言うのでしょう。暖かくなっ
て溶け出した氷の上を渡ることが、いかに危険なことであるか
がよく分かります。それにしても、十四歳の少年は不憫だ。父親
を目の前で亡くしてしまったのですから。
毎年この支那人の樣に、氷を踏み破って、水の中におぼれ
去ることは、珍しくないのであると云ひます。私共親子三人
巴林橋(龍藏のスケッチ。「土俗學上より觀たる蒙古」より)
も くず
うたひ
面 を 見 る と、 先 の 日 に 見 た 時 に も 勝 っ た、 水 勢 の 其 の 物 凄
春 と は 雖 も 氷 解 け の 水 の 冷 た さ は、 わ け て 身 に 浸 み ま し
た。僅か許りと思って居った洗濯物は、中々盡きませぬ。河
めーなどゝ喜んで、謠のやうな調子で心地よげに唱って居り
まさ
このようなことで、鳥居龍藏一家は河の水位が低くなるまで、
水待ちをすることになります。先を急ぐ調査旅行にとっては予
さ、實に恐ろしい音を立てゝ、解け行く厚氷の下を流れて居
は一足違ひで將にシラムレンの藻屑となるべき所を、ほんの
定が大幅に狂ってしまうことです。だが龍藏ときみ子はこの時
ります。
ます。
間 を う ま く 利 用 し て、 こ れ ま で の 疲 れ を 休 め、 溜 ま っ て い た 洗
まさ
濯 物 を 洗 い、 調 査 の 記 録 を ま と め た り、 採 集 品 の 整 理 を し た り
る苦しみの愉快さなどを、夫と語って居る程に、洗濯もいつ
私共は今日このシラムレンの上流に來て、幸子の汚れ物を
洗濯しやうとは、思ひ掛けませぬでした。私共が永遠に於け
やうとは、誰が知って居やうなどと感慨にみたされて。
しゃう。妾が今此處にシラムレンの凍る水の中で洗濯して居
まこと
めいめいの日記を付けたりしました。その洗濯の時の様子。
うら
思へば不思議な人生の巡り合わせであります、今頃は故郷
の 友 垣 達 は、 春 に 浮 か れ て 花 に 酔 ふ て 居 ら れ る 事 で あ り ま
僅か遲かった爲に、命拾ひをしたやうな感じが致しました。
四月二日 朝の程より空はいと麗らかでありましたから、此
らく だ
ぼうすいしや
つむ
の家の婦人駱駝の毛より糸を紡錘車で紡ぐを見て買い受けま
ソに似通って居ります。此の糸は色々の事に使用されて居り
した。此の紡いだる糸をオソトと云ひまして我が日本のイト
ます。
石橋の端に休んで居りますと、麗らかな空には鶴が舞ひ、
河の面には雁、鴨などが程近く打ち群れて居る樣、この世な
しか終わって仕まひました。
りて參りました。一町許り河岸を下りてまゐりましたが、ま
がらの仙境に居るやうな感じになってしまひました。
私共親子三人は、家の下男を一人連れて、幸子の汚れ物を
洗濯しやうとて、この村の麓にあるシラムレンの流れにと下
だ水際まで三町許りも低地となって居ります。此處に小さい
は、幸子を芝生の上に連れて行って休んで居ります。幸子は
ま し た。 此 處 で 私 は 洗 濯 物 を 始 め ま し た。 而 し て 下 男 と 夫
い、入り江の樣になった美しい水溜まりに連れて行って呉れ
説明できませんか?
愉快さ」とはどういうことを意味しているのでしょうか。誰か
と こ ろ で、 き み 子 が 龍 藏 と 語 り 合 っ た「 永 遠に 於 ける 苦 し み の
実に透明で甘美な光景です。夫龍藏との気持ちのやり取りも
しっとりと感じられ、若い夫婦の美しい姿が彷彿としてきます。
テ ン ト が 一 つ 二 つ 見 え て 居 り ま す。 下 男 は 洗 濯 場 に 丁 度 好
水際の清い廣野に、牛馬や羊などの群れが遊んで居るのを指
さ し な が ら、 ア レ ア レ と い ひ、 う ま う ま、 も う も う、 め ー
-
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-
四月四日、とうとうシラムレン河を渡る日を迎えました。
よぎ
へこ
が、漸く解け始め、氷厚けれども、處々に解け初めて凹みを
爲せる處あり。一旦過って馬脚を此の凹處に入れんか、再び
しら
出づるを得ず。危険甚しければ水先案内者は前に進みて、余
等の進む可き通路を査べつゝ導き、余等また相呼應して互ひ
に警戒し、辛うじて此の氷上を過ぎ、漸く彼岸に達せり。こ
』
龍藏の『蒙古旅行
シラムレン
四月四日。愈々潢河を渡る事に決す。前日に於ては、潢河
を渡る事は全く絶望し居たりしが、此の朝に至り、余等と同
之を渡る事企て及ばざるなり。余等は九死に一生を得て、彼
の邊潢河の河幅は四清里許りにして、其の水流急なる際は、
み
たるに、其の渡り得べき事を知りしかば、即ち余等の一行續
りき。先づ水先案内者は、馬を河中に乘り入れて浅瀬を測り
に訪問して來たことのある、露國へ言って來たといふ蒙古人
物を積み上げて、夫は馬に乘り、私は馬車に乘り、幸子は先
十數名餘りを引き連れて集まって參りました。牛車四臺に荷
四月四日 愈々今朝は此の村の下なる岸邊から、シラムレ
ンを渡ることになりました。朝早くから、タラカは村の若者
きみ子の『土俗學上より觀たる蒙古』
岸に達したるなれば、相互に無事を祝し合へり。
シラムレン
行せる、翁牛特の役人及び此の村の村長熟議の末、遂に意を
オーニユート
決して之を渡る事となれり。午前九時頃宿舎を出でゝ進む、
此の日の同行者は村長、及び村第一の口きゝの男、車夫、水
すべ
先案内者等總て九人なりき。丘陵を下り東方に進む事二清里
た や す
許りにして水邊に達す。河岸に立ちて眺むれば、處々氷の張
いて川を渡る。余は馬に乘り幸子をば彼の北満洲迄行きしと
が、馬上に抱いて呉れました。而して牛車一臺毎に若者三人
り居るを見れども、水勢急にして容易くは渡る可くも見えざ
言ふ男抱きて馬に乘りて進み、余の妻は牛車によれり。余の
が之を守り、私の車は四人の若者が前後を支へて押し渡りま
く か ん ちやうだい
愛兒を抱ける男は軀幹長大にして、力亦強く且つ此の村にて
オーニユート
の口きゝなり。村長及び其の若者等は何れも馬に騎し、長き
した。
ふ
竿をもちつゝ之を渡る。余等の河を渡るに先だち翁牛特より
はくひよう
來れる役人等は駱駝より下り、珠數をつまぐり観音菩薩を念
結氷は益々解け行きまして、實に薄氷を履むやうな感じが
致しました。斯くて河の半ばまで辿って、中洲のやうな所に
まこと
じ、此の河を無事に渡らせ給へと唱へたりき。河は一丁許り
達した時、タイチアラスランは駱駝から下りて、天を仰ぎ見
つつが
の間既に氷解け河水盛んに流る。斯くして一丁許りを進めば
つゝ、跪まづいて、「恙なく此の河を渡り終わらせ給へ」と
ひざ
水漸く深く、水は馬腹に達し、且つ流れ急なるに時々大なる
えると、彼は携へて來たポトンを取り出して、順々に何れも
只管に祈って居ります、いと殊勝氣に見えました。祈りを終
ひたすら
氷塊流れ來り、その危險言ふべからず。更に一丁許り水中を
いづ
進めば、河中州を爲す處あり。其の前方は氷の上を渡りたる
-
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-
を、又打ち寄ってよろこびのアルヒを飲み交わして居りまし
すす
口をつけて、アルヒを啜って居ります。
の丘に登りつくことが出來ました。(後略)
(この場面も映画のスペクタクルシーンのようです。緊迫した場
た。後は二清里程淺瀬の流れを渡り、漸くにして目的の巴林
ぱーりん
アルヒは酒の事でありまして、支那人から得た高粱酒と蒙
古人の造ったクミスと云って乳酒とがあります。
(中略)
酒を飮むのは冷たい水に堪へるように、勢いをつける爲だ
と云ひます。此の間に夫は一行の有樣を撮影しました。
村人から尊敬されているとのこと)
その後龍藏親子三人は、馬賊に襲撃されて財産やら食べ物
などことごとく奪われた気の毒な村を通り過ぎたり、喉の渇
面です。タラカとは、村の実力者こと。人物的にも優れており、
此處から中流の急流に臨み、分けて深い場所に當たるから
と云って、タラカは眞っ先に立って、長い棹を取って水の深
きに苦労したりしながら、調査の旅を続けます。そして七月
淺を測りつゝ、馬で進んで行きます。而して何の苦もなく次
の中洲に渡りつきました。タラカは後から續いて居る馬車の
コースの調査旅行に出発しましたが、その旅の途中で土城子
か
爲に、その指揮をするので聲を嗄らして居ります。
という小さな町で、龍藏が右手の中指を骨折するという事故
み
人に抱かれて居った幸子の身が案じられて、車の上から自分
は、實に何に譬へることも出來ませぬ。斯かる間にも、蒙古
まで侵入して來て、仕事の邪魔を致しました。餘りに亂暴で
して參りまして、戸障子を排して私共の靜かに休んで居る處
が、此の時町に住まって居る支那人が、澤山私共の宿に亂入
十月六日ト チ ョ ン ズ
( 前 略 ) 土 城 子 に 着 き ま し た 時 は、 丁 度 正 午 で あ り ま し た
トチョンズ
の危なさも忘れて、小供の方にのみ心を奪はれまして、目も
ありますから、私の夫は之を誰何すると、彼等はあべこべに
きみ子の『土俗學上より觀たる蒙古』
十二日に無事赤峰に戻ってきます。一月後、今度は西回りの
馬、駱駝などの人々は、タラカに引き續いて、中洲に渡っ
て參りましたが、車は激流を受けることが甚だしくして、幾
に遭遇します。きみ子の日記を読んでみます。
ほとばし
度か河下に押し流されようとしたり、或いは片輪だけ深い方
くつが
に引き入れて、水の中にあやふく覆へらうとした時もありま
した。車臺に急流が打ち掛ける水煙は前にも後にも 迸 って、
若者達は皆濡れ鼠のやうになって打ち騒ぎつゝ、辛ふじて激
放さず眺めて居りますと、幸子は彼の蒙古人にしかと抱かれ
怒って、夫の帽子を取って、宿の前にある牛馬の糞の中に投
流 を 横 切 っ て、 次 の 中 洲 に 上 が り ま し た。 其 の 時 の 心 持 ち
て、多くの人々がまるで戰場の樣な騒ぎを、獨り喜んで彼の
げつけました。それ許りでなく、向こふから抵抗して參りま
す い か
腕の中で小躍りして居ります。
つつが
此 の 中 洲 に 上 が っ て 一 同 が 恙 な く、 難 所 を 渡 り 得 た こ と
-
- 197 -
-
りました。實に不都合なことは斯くの如くであります。今日
して、身體を擲りました。之を支えた時右手の中指の骨を折
空しく送れり」を連発しています。そして漸く出発できた十月
間 も 足 止 め を 食 っ て し ま い ま し た。 龍 藏 氏は「 今 日も 斯 く し て
元役人の不誠実な対応のために、龍藏一家はこの土城子に八日
なぐ
迄に之程の侮辱を受けたことはありませんでした。此の亂暴
十四日の前日の日記には次のように記しています。「余等は斯く
の、 人 気 非 常 に 悪 し き と、 旅 行 者 の 決 し て油 断 すべ か ら ざ る を
つ
数日間空しく土城子に滞在せるが、其の結果此の附近の支那人
知り得たり。此は將來此の地方を旅行する人の最も注意すべき
チンポー
者達は、却って彼等を保護して逃げさせました。遂に亂暴者
な人間を捕まへるやうにと呼んでも、經棚から跟いて來た從
は 逃 げ て 仕 ま ひ ま し た。 私 共 は 其 の 不 法 を 非 常 に 怒 り ま し
が もん
て、之を此の土城子の衙門に訴へましたが、衙門は門を閉ぢ
點なり。」と
い づ こ
龍藏の『蒙古旅行』
タアリンホ
(前略)余等の今上り行く河は、大凌河に注ぐものなるが、
さて、旅の最後に近い十一月五日には、次のような事が起
こりました。
て應じませぬ。手續き書を取らうとしたけれども、又之にも
面には十人、何處の方面には二十人、何處の方面には三十人
應じませぬ。亂暴人を逮捕して來ますと云って「今何處の方
の兵隊を出した」と、仰々しく申して來ますけれども、此の
地方には平常は十二三人程しか兵卒が居ないといふ話を聞い
つな
之れ一の大凌河の分水嶺なり。此の沿岸には、今は既に落葉
て居ります。
夕方になってから、地方の役人が亂暴人を、鎖で繋いで捕
まえて參りました。之を見ると全く別人であって、其の亂暴
して枯木になり居るも、樹木は處々に在り。此の峠をシンカ
めーとる
イリアン(新開梁?)と稱し、其の最高處にて百六十米突な
こ
人 で は あ り ま せ ぬ。
「 其 の 人 は 違 っ て 居 る 」 と 申 し ま す と、
り。此の時余の妻は急に腹痛を覺え來り、前後を忘却する程
ど
役人は「亂暴した人間は何處にも居ないので、仕方が無いか
り。之を下れば又た一小溪流あり。此の流に沿ひ、月を踏み
に苦しめり。余は殆んど終夜を妻の病氣の看病と、小供の世
が もん
て 進 み し が、 朝 陽 よ り 一 百 清 里 に し て、 夜 半 一 村 落 に 達 せ
を 能 く 見 せ て 貰 ひ た い 」 と 云 ひ ま す か ら、 之 を 見 せ ま し た
まこと
實に亂暴人以上の亂暴さで、私共は驚かされました。
「護照
ら之を連れて來た」と申します。其の衙門の無法なことは、
が、役人は讀めたのか讀めないのか、口の中でムニャムニャ
話とに送れり。
此處は山中の一村なるが、余等の宿泊せる旅舎には各部屋
ら ま
に客あり。余等の隣室には途中同行し來れる、喇嘛僧の母子
して、一寸まごまごして又歸って行きました。
安全なものではなかったのです。暴力事件とそれに対応する地
「護照」とはパスポートのこと。龍藏一行の調査旅行は、決して
-
- 198 -
-
宿し居れり。
み
學上より觀たる蒙古』
きみ子の『土さ俗
ま よ
げる樣に被せて、夫は私の震える身を押さへて居りました。
幸子は驚きと寒さにおびえながら、父にしがみついて居りま
ゆめうつつ
した。私は瞑目したまゝ、充分覺悟をして居りましたが、故
然し「萬が一、我が主は私の樣な罪深い者を今暫し此の世に
致しました。只都に殘した幼兒の事のみ心に掛かりました。
あります。私は此の清い澄み渡った月影の下で、死の覺悟を
る月影は、皎々として物凄く冴え渡つて、實に斷腸の思ひが
穀を積み上げた蔭に行って苦しみました。折から中空に掛か
もなくつらいし、多くの同宿の支那人達も居るし、裏の高粱
何もありません。私は夫や小供の前で苦しむことが、此の上
は絶頂に達しました。藥は皆蒙古人や支那人に與へつくして
段々腹痛は烈しくなって參りまして、此の夜半宿に着いた時
いよいよ進む程に日は暮れはて、夜深く車を馳せらせまし
た。夜寒に空腹の身體は冷え渡って、私は腹痛を覺えました。
い感謝であります。全く奇蹟の樣に私は起き上がって、夫と
幸子はよろこんで私の腕に飛び付いて來ました。昨晩の事
を思ふと、まるで惡夢に襲はれて居た樣でした。只涙ぐまし
なおもゝちでした。
た。驚いたのは夫で「何處に行くか」と、夢から覺された樣
夫は冷えた床の上に幸子を抱いて、茫然と座って居りまし
た。 私 は 此 の 時 何 と も 云 へ な い 清 々 し さ で 起 き 上 が り ま し
たりを見ると、曉早く宿を旅立つ人の氣はひでありました。
いつしか身内が溫かくなる樣で、心持よくとろとろと眠っ
たと思ったが、何だか周圍が騒がしいのに夢から覺めて、あ
出るのを覺えました。
ろげに見た時、思はず閉ぢた眼から熱い涙が止めどなく流れ
き つ と
樣に見えて來ます。ふと夫の眼に涙の光って居るのを、おぼ
置いて下すって、何か世に益する樣な事でも出來るとお思召
共に曉の空を旅路に上りました。同宿の人々も、昨晩は非常
郷に殘して來た小供や、兩親兄弟姉妹の顔ばかりが、夢現の
せば、私の命をお助け下さる樣に」と、土に伏して慟哭いた
に心配してくれましたので、皆不思議さうに出て來て見送っ
生死の境を彷徨ひし一夜の病氣
しました。そして「此の命が助かる樣な事があれば、屹度日
こうりやん
頃 望 み の 天 主 の 眞 の 教 に 一 家 を 擧 げ て、 立 ち 返 り ま す 」 と
てくれました。
昨夜の模樣にては余の妻は、到底旅行を継續するを得
翌十一月六日、龍藏は日記にこう書いています。
さま
誓ったのでありました。
枯れた高粱の中に倒れ臥したまゝ、苦しみの生汗と、かな
しみの涙とに濡れたまゝ、天を仰いで祈って居る内に、身内
が甚だしく震え出しましたので、急いで室に入って打ち倒れ
ました。持ち合わせのありとあらゆる着物を、上から積み上
-
- 199 -
-
心せり。
ざる可しと思ひしに、本日に至り全快せしかば大いに安
さて、ここまで長々と二人の日記を読んできましたが、こ
れでも全体のほんの一部です。皆さんにはぜひ全編を通して
と言います。
読んでもらいたいと願います。今からちょうど百年前に、自
した。そしてきみ子
え続けていったので
(附)鳥居龍藏は我が國學院大學の教授になったが、その鳥居
鳥居龍藏・きみ子・幼女幸子。私どもが誇りにしてよい日
本人です。
こみ上げるものを感じるのです。
分たちの生命の力と情熱とを賭けて、文化人類学の学問の発
はこの七転八倒の苦
を 慕 っ て、 医 学 へ の 道 を 変 更 し て ま で 弟 子に な った 方 が、 國 學
願
きみ子の回復は、正に「奇蹟の蘇生」でした。きみ子しは
ば
いました。「萬が一、我が主は私の樣な罪深い者を今暫し此
し み の 中 で、
「日頃
院大學名誉教授・國學院大學栃木短期大学第四代学長であった
展のために、寒風吹き荒ぶ東蒙古の地で、苦しい調査旅行を
望みの天主の眞の教
樋 口 清 之 先 生 で す。 樋 口 先 生 は、 出 身 地 であ る 奈良 県 で 行 な わ
敢行した若い夫婦がいたことを、覚えておいてほしいもので
に一家を擧げて、立
れ た 鳥 居 の 講 演 会 の 中 で、 中 学 三 年 生 で あっ た 樋口 先 生 を「 近
の世に置いて下すって、何か世に益する樣な事でも出來ると
ち返ります」と誓っ
ご ろ 奈 良 県 で も 樋 口 清 之 氏 と い う 方 が ……」 と、 大 変 褒 め て い
お思召せば、私の命をお助け下さる樣に」と。きみ子にはこ
たのでありました
す。私は夫婦の信頼とか親子の情愛とかの視点で考えてみた
が、この誓い通り帰
ただいたというエピソードをお持ちです。
れからいっぱい仕事をしてもらうために、生命の大親が生命
国 後、 麻 布 の カ ト
その樋口先生が國學院大學の教授であった時代、学部の学生
こう えん
と し て 四 年 間 樋 口 先 生 の講筵に 列 し た の が、 本 校地歴・ 公 民 科
時、この鳥居龍藏・きみ子、そして幼女幸子の姿には、私た
リック教会で洗礼を
教 諭 の 相 千 惠 子 先 生 で す。 そ れ に、 今 は 退職 さ れた が 西 村 俊 太
ち日本人の美しい夫婦の姿、愛情あふれる親子の姿を見て、
受けキリスト教徒と
郎先生や峰野進先生などの方々です。樋口先生は國學院大學栃
力を与えたのかも知れない。私にはそのように思えます。事
なるのでした。洗礼
まこと
名 を「 オ グ ス チ ナ 」
-
- 200 -
-
実この後、君子は生涯にわたりよき研究助手として龍藏を支
調査旅行中の鳥居龍藏一家「土俗學上より觀たる蒙古」より
そのころ、当時日本一の考古学の大家であった鳥居龍藏博士
という偉い方が県下で講演される機会があり、私も聴講にいっ
先生は次のように記されています。
(附の附)樋口先生が鳥居龍藏に褒めていただいたことを樋口
こ の よ う に 見 て く る と、 鳥 居 龍 藏 の 学 問 は、 現 在 の 本 校 に も
流れているとも言えるようです。
れています。
蒔 か れ た。 樋 口 先 生 の 蔵 書 の 相 当 数 が、 本 学 園 図 書 館 に 寄 贈 さ
木短期大学学長に就任され、考古学や歴史学の種を栃木の地に
のだから。〈安塚注〉)
典が漢文に訳された際に、中国に逆輸入された呼称である
ドに入って「チーナスターナ(チン〔秦〕の土地)」とサン
音変化して西方に伝わり、特に南方海路によって古代イン
ま た 原 文 の 中 で の「 支 那 」 の 呼 称 は 原 文 ど お り「 支 那 」
と し た。「 支 那 」 と は、 中 国 古 代 帝 国 で あ る「 秦 」 の 名 が
いで統一した。
りがなを付け加えた部分がある。振りがなは現代かなづか
るのはそのまま残し、読みやすくするために適宜新しく振
(国語科)
スクリット表記されたものが、仏教が中国にもたらされ仏
た。その講演のなかに、「近ごろ奈良県でも樋口清之氏という方
が ……」 と、 私 の 発 見 し た 事 実 を 引 用 し て 先 生 が 話 さ れ る の を
聞いて、いっぺんに血が頭にのぼったような感じになってしまっ
た。 生 ま れ て 以 来、 は じ め て「 氏 」 が 名 ま え に つ き、 お ま け に
「方」までついたのだから他人ごとみたいな感じにもなった。
終ってから、私はずうずうしくも先生の控え室へお礼にいっ
た。今度は先生が啞然としたような顔で、「どうも名まえが老人
く さ い の で、 も っ と 年 寄 り だ と 思 っ た 」 と い っ て 笑 わ れ た。 そ
れ が、 私 の 先 生 と の 最 初 の 出 会 い で あ り、 同 時 に、 私 の 人 生 の
曲 が り 角 で も あ っ た。 の ち に、 私 は 医 学 へ の コ ー ス を 勝 手 に や
め て、 生 涯 先 生 に 師 事 し、 や が て 先 生 の 後 教 壇 に 立 ち、 戦 後、
老惨不遇の先生の多少のお世話もさせていただけたのであった。
「両親と郷里大和」(『大和の海原 わがふる里の秘密』
〈千曲秀版社〉所収)より
( 龍 藏・ き み 子 の 文 章 中、 原 文 と し て 振 り が な が 付 い て い
-
- 201 -
-
てたかって「笑いとは何か」を考えてき
マでもあります。古来、多くの人が寄っ
的、社会学的、人類学的、生理学的テー
シア以来の哲学的テーマであり、心理学
なぜ笑うのか」
、このテーマは古代ギリ
言うまでもありませんが、笑いとは人
間 の 感 情 表 出 行 動 の 一 つ で す。
「人間は
た 人 と し て、 そ の 筋 で は 有 名 な の で す
この人は笑いを理論的にとらえようとし
かつて落語家の桂枝雀(二代目)とい
う人がいました。爆笑落語で名を馳せた
いてもよいわけです。
けではありませんし、心の中では笑って
うことであって、可笑しくないというわ
笑いを態度で示せない状況下にあるとい
ん、笑えない場合もありますが、それは
で笑いが起こると考えるのです。もちろ
それが見事にズレる(裏切られる)こと
ろ う と い う 構 図 が 皆 さ ん の 中 に あ る 時、
どという滑稽なことは、普通はないであ
面目な顔で話す教師が、教壇でコケるな
ましょう。笑いますね。威厳に満ちた真
師が、教壇から不様にも滑り落ちたとし
壇の上から生徒に重要な話をしていた教
います。たとえば、真面目な顔をして教
一つは「構図のズレ」にあると言われて
今日では一般的に、笑いが起こる原因の
も急に興味を持ち始めたというわけでは
よく聞いている」と述べましたが、なに
す。 私 の iPod
には常に一〇〇席を超え
る落語が収録されています。いま「最近
よ最せ近よく落語を聞いています。頻繁に
寄席に通うような余裕はありませんか
ほどね、と思うのです。
て枝雀師の落語を聞くたびに、あぁなる
んが、感覚としては納得できます。そし
が科学的に正しいものなのかは知りませ
て も よ い の で す 」。 こ の 単 純 明 快 な 理 論
険をもたらすといった重大なものでなく
起きるものです。その緊張も、生命に危
『なぁーんだ』と精神が緩和したときに
という緊張感を感じていただいた後に
「 落 語 の 笑 い と い う も の は、
『 お や?』
えた人でした。
基盤として「緊張の緩和」理論を強く唱
しれませんが、芸としての笑いを支える
枝雀師のオリジナルの理論ではないかも
い う よ う な こ と を 言 っ て お り ま す の で、
ଟ ே ⦓
ましたが、それゆえ、その定義すら一定
が、彼によれば笑いの起因は「緊張の緩
ありません。NHK連続テレビ小説「ち
緊張の緩和
していません。それはそうでしょう、楽
和」にあるといいます。もっとも、一八
りとてちん」に影響を受けて急増した
瀬賀 正博
しいとき、愉快なときだけでなく、悲し
カ
=
ントも「笑いは緊張の緩和から来る」と
かつらしじゃく
いとき、寂しいときにも、痛みを感じた
世紀ドイツの哲学者イマニュエル
ら、もっぱら録音か記録映像での鑑賞で
ときにも笑いは起こります。これを説明
す る に は 一 筋 縄 に い き ま せ ん。 た だ し、
-
- 202 -
-
語を知るべきだと考える人は少なくない
法律や制度を取り扱おうとする者は、落
た使命感からかは知りませんが、現実に
て人情の機微を解さざるべからずといっ
たまた、いやしくも法を取り扱う者にし
薄れることを悲嘆するのでしょうか、は
代物に付き合っていると、己の人間味の
や制度といった、一見すると無味乾燥な
家が多いことをご存じでしょうか。法律
が、日本の法律家や法学者に落語の愛好
断 言 で き ま す。 私 の 専 攻 は 法 学 で し た
指導教授の信条も大きく手伝っていると
んでした。これには専攻した学問分野と
落語への関心が途絶えることはありませ
ているに相違ありません。大学進学後も
何らかの感銘を受けたことが契機になっ
レ ビ や ラ ジ オ の 演 芸 番 組 を 見 聞 き し て、
い起こせませんが、おそらくその頃、テ
私が小学・中学生であった頃、落語が
流行した時期がありました。定かには思
申し上げておきます。
せんが、およそ社会科学や人文科学に志
た私の指導教授の言を俟つまでもありま
たことを引き合いに出すまでもなく、ま
間です。夏目漱石が大の落語好きであっ
まれな研究分野に足を踏み込んでいる人
す。私は日本法制史と呼ばれる、世にも
す。その一は、ライフワークに関わりま
つらつら思うに、私にとって落語を聞
き続ける理由は三つばかりありそうで
るのですが。
ておきましょう。本当は相応の理由があ
が、これは好みの問題、ということにし
語です。江戸の落語でも構わないのです
聞いているのはもっぱら上方(関西)落
毎 日!)
、 最 低 三 席 か ら 聞 い て い ま す。
仕儀に立ち至りました。毎日(文字通り
込み、落語に触れない日はない、という
いているうちに、知らずそのままのめり
が。
)手持ちの落語音源を片っ端から聞
かもしれませんが、書けるんです、これ
るものか知らん、とお思いの向きもある
迫られて(落語をネタに法学論文が書け
近、落語をネタに論文を書く必要性にも
ん な 落 語 に 関 す る 下 地 も あ り、 ま た 最
の登場の仕方やタヌキ・キツネがどのよ
なるサンプル集といえます。しかも幽霊
なでしょう。素晴らしい人間生活の膨大
メントがあるものか、もはや言わずもが
補うのに、これほど手っ取り早いサプリ
が網羅的に活躍します。人生の未熟さを
類 型( 場 合 に よ っ て は 幽 霊 の 典 型 ま で )
も、亭主もおっ母ぁも悪ガキも、人間の
落語の中では貧乏長屋の住人からご隠
き 社 会 科 学 者 に 落 語 を 注 入 し ま し ょ う。
その性格を異にします。さて、ここで若
なのです。この点、自然科学の天才とは
レる人物であったとしても若造ではダメ
となのです。仮にどんな天才でも頭がキ
や人文科学者の絶対条件は長生きするこ
います。したがって、優秀な社会科学者
どれだけの社会経験をしたかがモノを言
て、 ど れ だ け 人 間 に 興 味 を 持 っ て い て、
で す か ら、 ど れ だ け 人 間 に 関 わ っ て い
人間や人間社会を知ろうという学問分野
人 間 観 察 眼 で す。 そ れ は そ う で し ょ う、
経験値(世間での揉まれ度合)の高さと
す者にとって絶対的に不可欠なのは社会
「にわか愛好家」とは違うということを
ようです。
居、 商 家 の 旦 那、 御 大 尽、 老 い も 若 き
さて、私についてはと言いますと、そ
-
- 203 -
-
則として悪人が登場しないということも
て内容面で言えば、落語の話の中には原
なものを聞けば苛立つわけですが。そし
があります。もっとも、その反対に下手
点、クラシック音楽を聴くときと同じ趣
違 っ た も の を 聞 い て い る よ う で、 こ の
う。 同 じ 噺 で も 演 者 が 変 わ れ ば 随 分 と
ないというのに等しいことなのでしょ
は、上質の音楽を繰り返し聴いても飽き
す。何度おなじ噺を聞いても飽きないの
音楽と同じなのです。精神を安定させま
な要素が基礎にあります。至芸は上質な
ムやテンポ、アクセントといった音楽的
で、そのレトリックの面白さ以上にリズ
に言及していました。落語は話芸ですの
朝師の芸を評して、音楽的要素の確かさ
た)が上方落語の重鎮で人間国宝の桂米
太郎氏(この人も大の落語愛好家であっ
第二に落語を聴いていると気分がよく
なります。それはなぜか。かつて司馬遼
方から地獄の歩き方まで教えてくれます。
うに人間を化かすのか、極楽での過ごし
一つのことを極めた人間は堂々として自
い う 職 人 そ の も の に 興 味 が あ る の で す。
落語という芸、その芸を生み出す噺家と
落 語 家 に な り た い わ け で は あ り ま せ ん。
のために申し上げますが、私自身決して
ろは人並み以上に無頓着ですが……。念
適合したのでしょう。こだわらないとこ
だわる性質です。そんな性格が、落語に
あります。こだわるところはとことんこ
第三に、私自身が「職人芸」にあこが
れているのです。性格的に凝り性な面が
不快になることはないでしょう。
人間たちが生きる世界の話を聞いていて
れているか天邪鬼でない限り、愛すべき
めないヤツらなのです。よっぽどひねく
同様といった頼りないヤツ」でして、憎
に 落 語 に 登 場 す る 人 物 た ち は、
「我われ
も憎むわけにはいかないのです。要する
分を憎めない以上、その「悪人」とやら
自分を憎む人はまずおりませんから、自
汚 さ を そ の「 悪 人 」 の 中 に 発 見 し ま す。
合でも、我われ自身にも思い当たる心の
いっていいでしょう。まれに登場する場
底憎むべき「悪人」はまず登場しないと
せん。ただ、落語の話にはネガティブ=
らありません。落語評論にも興味ありま
て人生を知れなどと説教する気もさらさ
私は皆さんに落語を聞けとは言いませ
ん。落語を教訓とせよとか、落語を聞い
られたといいます。
りストレス緩和作用があったことが認め
にその濃度が有意に低下すること、つま
を測定しました。その結果、落語聴取後
ストレス関連ホルモンの代謝産物の濃度
は被験者二四七名対象に健康落語道場を
を行っています。平成一四年度の研究で
和、心身リフレッシュ効果に関する研究
科学センターでは音楽療法のストレス緩
ています。話のついでに、大阪府立健康
落語は心地よい睡眠導入剤であると述べ
しています。司馬遼太郎氏も桂米朝師の
果は違うのでしょうが、多くの人が証言
ています。もちろん個人によってその効
る人の語りには睡眠効果があると言われ
術は人の心を癒すのです。名人と呼ばれ
洗練されれば、それは芸術と呼ばれ、芸
信に満ちあふれています。技が究極まで
はなし
あげられると思います。どんなに間抜け
開催し、落語聴取前と聴取後の唾液中の
で、不精で、ケチで、意地汚くても、心
-
- 204 -
-
否定的なところが一切ない、この素晴ら
ひとへに風の前の塵に同じ
猛き者もつひには滅びぬ
私を支える言葉
誰 も が 知 っ て い る『 平 家 物 語 』 の 冒
頭。私も中学生の時に教わった。簡単に
内容の説明を受け、平家がたどった運命
しかし、合理的には説明のつかないよう
不 合 理 で 不 条 理 な 行 動 を と る も の で す。
間違いないでしょう。人間は、しばしば
た。しかし、数ヶ月後には悲しみも、相
だ」と無意味な決意を固めたりしてい
おうと、自分はずっと好きでい続けるの
ら 仕 方 が な い と は い え、
「相手がどう思
だとも思っていた。夢見がちな年頃だか
た、相手に対する思いも一生消えないの
は永遠に続くのではないかと思えた。ま
高 校 二 年 の 秋、 私 は 失 恋 の 痛 み を 味
わった。毎日泣き暮らして、この悲しみ
にずっと同じであり続けるものなど、な
ちさえも変化したのだから、この世の中
た。
「絶対」だと考えていた自分の気持
か捨てたものではないと思うようになっ
し か し 高 校 二 年 の こ の 失 恋 を 機 に、
「 諸 行 無 常 」 は 真 理 で あ る う え、 な か な
やってられないな」などと思っていた。
て い っ て し ま う の で は、 人 生 虚 し く て
るのではないか」
「どうせ何でも変わっ
を 受 け た。
「中には変わらないものもあ
と相まって、なんとも悲しく切ない感じ
な、それでいて説得力ある言葉や行動と
手に対する気持ちも薄れ、すっかり元気
田原 千晶
し さ に 感 服 せ ず に は い ら れ な い の で す。
全世界の肯定、人間のあらゆる側面の肯
定であるとさえ言う人もいます。私はそ
んなに大仰なことを言うつもりはありま
せんが、人生を楽しく生きるために必要
いうものもあります。そこが人間の面白
を取り戻して以前の自分に戻っていた。
な、重大なヒントが隠されていることは
めもなく書き
最近思ったことをとりサと
ゲ
連ねました。この話に落はありません。
いところなのでしょう。
(地歴公民科)
ら…と考えたのだ。変わらずにあってほ
の苦しさがずっと変わらないままだった
いのかもしれない。そして、もしあの時
祇園精舎の鐘の声 しいと願うものまで変わってしまうのは
諸行無常の響きあり
が 救 い に な る の も 事 実 だ。 そ れ か ら 私
たしかに残念なことだが、「変わること」
は、 苦 し い 状 況 に 陥 る た び に、
「諸行無
娑羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
おごれる人も久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
-
- 205 -
-
心の支えにするようになった。
く は ず が な い 」 と 考 え、
「諸行無常」を
常なのだから、このまま苦しい状態が続
出なくてすんだのに…」という主人公の
さえ貰わなければ、こんなにつらい旅に
つ ら い 旅 に 出 る。 そ の 途 中、
「あの指輪
手に指輪が渡ることを防ぐために危険で
あるが、それでもだいぶ「打たれ強い自
単なる逃避ではないかと思われるものも
考え、自分なりに工夫してきた。中には
けずに乗り越えようといろいろと方法を
ういった性質を改善し、苦しくてもくじ
ここ数年は意識的に、本や映画の中に
自分を支えてくれそうな言葉や生き方を
言葉に対し、彼を助け導く役割を果たす
求めるようにしている。そういう目で見
また逆に、良いことが続いたり、調子
がいいと感じるときにも「盛者必衰」と
「誰もみなつらいときはそう思うも
渡してみると、世の中には実に多くのお
分」になってきたと思う。
のだ。だが、それよりも自分が今す
魔法使いが言った言葉だ。
に、良いときもいつまでも続くものでは
べきことは何かを考えることだ。」
いう言葉とともに自分を戒める材料にす
な い。 浮 か れ て い て は い け な い、
「盛者
る。 つ ら い 状 況 が い つ か は 変 わ る よ う
必衰」だぞ、と自分の気持ちを引き締め
る の だ。 そ し て 案 の 定 幸 運 な 時 期 が 終
わ っ て し ま っ た と 感 じ た 時 も、
「仕方が
に「諸行無常」という言葉を頭に浮かべ
言葉だ。日常生活の中でこんなにも頻繁
自分を慰めたりもする。なんとも便利な
り自分がいつまでも苦しいだけだ。だか
てばかりいても仕方がないうえに、何よ
と考えたりもする。しかし、状況を嘆い
「どうして自分がこんな目に遭うのか」
していこうと思っている。
(国語科)
手 本 が あ る こ と に 気 づ く。 今 後 は、
「く
じ け な い た め の ヒ ン ト 」 ば か り で な く、
私も、苦しい思いをしているときはつ
い 苦 し さ に ば か り 意 識 が 向 い て し ま い、 「より立 派に生きるための ヒント」を探
るのは、私と中世の隠者ぐらいなもので
ら前向きに物事を考えるように努力する
ないよ。だって諸行無常なんだから」と
はないかと思うほどだ。
出すようにしている。
のだが、そういうときにこの言葉を思い
それともう一つ。J・R・R・トール
キンの『指輪物語』を映像化した、映画
子どもの頃の私は神経質で、些細なこ
と を い つ ま で も く よ く よ と 考 え て 悩 み、
『 ロ ー ド・ オ ブ・ ザ・ リ ン グ 』 の 中 の 言
葉も苦しいときによく思い出す。
弱い」タイプの子どもだった。しかしそ
体調にまで影響して、いわゆる「打たれ
世界を統べる力を持つ指輪を何も知ら
ずに譲り受けてしまった主人公が、悪の
-
- 206 -
-
ず は な い と 退 職 し た 会 社 に 問 い 合 わ せ、
期間があると記載されていた。そんなは
てきた「ねんきん特別便」に、年金未納
を持ってきた。昨年の十月頃、郵送され
父がA4の用紙二枚と三枚の大きな写真
「 お い! ち ょ っ と こ れ 見 て く れ や。
」と
年は、今までの父親の仕事の話だった。
ながら盛り上がるのが楽しみである。今
の話など一年の出来事を肴に、酒を飲み
私を含めた男三兄弟で、競馬の話や社会
れている。毎年、正月に帰省し、父親と
航海の安全を照らす灯台がある街で知ら
ま れ、 台 風 の 位 置 を 観 測 す る 気 象 台 と、
私の出身地である静岡県御前崎は北と
東は駿河湾、南は遠州灘と三方を海で囲
結 婚 後 は、 北 海 道 の 室 蘭、 宮 城 の 塩
釜、新潟、広島の福山を中心に、全国に
に凄い。
海で一本釣りをやっていたとなると確か
かけたかどうかは分からないが、外国の
男 だ っ た。
」 と 今 で も 言 う。 世 界 を 叉 に
け て い た。
「俺は世界の海を叉にかける
妹を養うために外国の海で一本釣りを続
間は殆ど帰宅することもなく、母親と弟
び、結婚を期に会社を換えるまでの六年
内の大型冷凍庫の中に入れて日本まで運
には漁船甲板員という。釣った魚は、船
員」とは簡単に言うと漁師のことで正確
業 を す る か つ お 一 本 釣 り 漁 船 だ。「 甲 板
洋まで活きの良いかつおを求めて遠洋漁
父は十五歳のとき仕事を始めた。第三
芙蓉丸はインド洋やアフリカ沖、南太平
名前、仕事名が書かれていた。
べ五十五隻一つひとつの乗船期間と船の
するまでの四十五年間で乗船した数、延
三 年 十 二 月 十 七 日 第 三 芙 蓉 丸 甲 板
員』と書かれており、五年前に定年退職
『昭和三十三年八月二十一日~昭和三十
いるはずと母親と何度も見に行った。
い。でも、海を見ているだけで満足して
かも、小さな漁船も夜釣りをしていると
父親の船なのかは分かるはずもない。し
に岬に行っては見るものの、どの灯りが
に 来 い。
」 で あ る。 夜 中 に、 母 親 と 一 緒
り、
「 今、 御 前 崎 沖 に い る か ら 岬 ま で 見
た。 た だ そ の 電 話 の 内 容 も 決 ま っ て お
の会話のほとんどが電話を通してだっ
られない。したがって、この頃の父親と
したときもあったが、ほとんど帰ってこ
ため、その期間を利用して御前崎に帰省
半 年 に 一 度、 船 の 点 検( 船 体 ド ッ ク )
に入る。検査に二週間から一ヶ月かかる
いと思う。
船を動かしていたと思うとやはり父は凄
一目見て気に入った船だ。この船だけで
船首と重厚感がまるで戦艦みたいで私も
m以上ある大型のタンカー船で、大きな
で、その中でも『下北丸』は全長二〇〇
機関長として船を運転した。三枚の写真
な る と、 灯 り だ け で 判 断 す る の は 難 し
なく、多くの大型船の機関室で何十年も
は、 特 に 気 に 入 っ て い た 船 の 航 空 写 真
自分自身の就労記録をパソコンを使って
石灰石を運搬するセメントタンカー船の
父の『やらまいか』
作り、社会保険庁に報告した。A4の用
小田 智巳
紙二枚がその報告書である。一番上には
-
- 207 -
-
食を共にする。仲間との絆は生まれるが
はない。何ヶ月も同じ船で同じ仲間と寝
しれないが、船が動いている以上休む暇
る。船を運転するのは格好良い仕事かも
のも同じ船に乗っている仲間の仕事であ
人、それらの人達を最後まで面倒を見る
内で自殺を図った人、病気で亡くなった
孤独である。その孤独に耐えられず、船
行動、変更はできない。また、海の上は
の遅れが命取りとなる。決めたらすぐに
こともある。動き出しの遅い船は、判断
けるために、あえて危険な道を選択する
くてはならない。時には最悪の状況を避
いでジッとしているかをすぐに判断しな
真っ直ぐ突っ切るか、それともこの沖合
ば、無理にでも避難するか、目的地まで
た、海が時化で荒れて舵が効かなくなれ
を変えて波に飲まれないようにする。ま
に沖へ逃げ、台風が近づいてきたら航路
波警報が発令されれば、転覆しないよう
自然の中での仕事は命がけで、常に危
険と隣り合わせである。地震が起きて津
失敗したら見栄えが悪くなるといって止
全て父自身が貼りかえたようだ。母親は
えば違った。頼むとお金がかかるとして
最近実家の脇屋の壁全面が新しくきれ
いになった。大工を呼んで直したかと思
神』である。
後までやれ」
、 ま さ に、
『やらまいか精
ば わ か ら な い。
」 と「 や る と 決 め た ら 最
う に 言 う の は、
「何でもやってみなけれ
方が分かるようになってきた。口癖のよ
をするようになり、父親の考え方と生き
る。定年退職後、父親と顔を合わせて話
支えたチャレンジ精神を示す言葉であ
らまいか」は、こうした企業や発明家を
田 佐 吉 翁 の 出 身 地 と し て 知 ら れ る。「 や
の企業が生まれ、豊田機織を発明した豊
松地域は、ホンダ、スズキ、ヤマハなど
ろうじゃないか」という意味である。浜
岡県西部の方言で、
「やってみよう」「や
で い る。
「やらまいか」は浜松市など静
御前崎に住む人達もその文化を受け継い
『 や ら ま い か 精 神 』 と い う 文 化 が あ り、
御前崎から遠州灘沿い西に約四〇㎞離
れ た と こ ろ に 浜 松 市 が あ る。 浜 松 に は
の言い訳が先になり、チャレンジするこ
い。
」とか「どうせ失敗するから。
」など
私が教職に就いてから今年で十一年目
に な る。 最 近、「 ど う せ 自 分 に は で き な
きた人だからこそ簡単な言葉だけれども
四十五年間一度も休まずに、やり抜いて
る な ん て な か な か で き る も の で は な い。
されないようにピッタリと付いて運転す
る人が多いのに五時間も私の車の後を離
しまった。首都高速を通るだけでも嫌が
感じたが、往復の道を問題なく運転して
を通って栃木までの運転は無謀のように
イバーそのものなのに、夜中に首都高速
上での生活がほとんどで、ペーパードラ
ら栃木に向かうことになった。今まで船
親の小さな軽ワゴン車にも乗せて静岡か
が、荷物が全部入りきらないとして、父
だ っ た。 大 き な ワ ゴ ン 車 を 一 台 借 り た
父親が手伝いに来てくれたときもそう
た ら し い。 私 が、 栃 木 に 引 っ 越 す 際 に、
めようとしたが、結局やりきってしまっ
気分転換はできない。厳しい環境での仕
重みがある。
らない。
」まさに父親の言葉通り。特に、
「できるかどうかはやってみないと分か
事である。
-
- 208 -
-
」
切だと思う。それがもし成功すれば、今
とのないことにチャレンジすることが大
返すだけではなく、思い切ってやったこ
たときは、今までやってきたことを繰り
思ったとき、このままではダメだと感じ
て き た よ う に 思 う。 自 分 を 変 え た い と
わからず、とにかく何か大きな虫に指を
時点では自分に何が起こったのかはよく
が寒くなるような感覚に襲われた。この
ン!と切られるような痛みが走り、背筋
付 近 に、 ニ ッ パ ー で 肉 を 5 ㎜ ほ ど パ チ
プリントを見ながら、手を何気なく下
に下ろした瞬間、左手人差し指第一関節
後ろの席に着いた。
教室を抜けてトイレに行き、水で手を冷
し て か ら、 冷 静 に × 先 生 に 事 情 を 話 し、
そ の 後、 毒 を 2、 3 回 口 で 吸 い 出 し、
さらに指で圧迫し、毒を押し出すように
識させられた瞬間であった。
きが、この出来事の中で私が最も死を意
みに、刺した虫の正体がわかったこのと
大の蜂…オオスズメバチであった。ちな
というのが私の最初の印象である。そい
奴だ
までできないと思っていたことができた
咬まれたのだと感じ、その刹那、私はそ
やした。口で毒を吸い出すと、口から毒
「やばい
ことになり、そのようにして人は成長し
の咬んだであろう虫を掴んで教室のス
きを見せたころ、私は短大421教室の
ていくものだと思う。周囲の反対を押し
チームの下に叩きつけるように投げ捨てた。
とを面倒だと思っている生徒が多くなっ
切ってでも、自分の信じる道を見つけて
つは黒とオレンジの縞々をもつ、世界最
進んでほしいし、仲間と協力して苦難を
ま い そ う な 痛 み が 走 り、 そ れ が 徐 々 に
いないと、内側から膨張し、破裂してし
なってきた。その付け根を強く押さえて
し指はみるみるうちに脈打つように赤く
と思いながら指に目をやると、私の人差
の 方 に 事 情 を 話 し、 病 院 に 搬 送 し て も
うに動き、階下に向かった。学校の管理
少し自分を落ち着かせた後、毒の巡り
を助けないようにゆっくりと焦らないよ
まった。
たが、気が動転していて思わずやってし
が回り、危険だということは承知してい
徐々に強くなり、だんだん痺れも出てき
「まさか、
スズメバチに刺されたのか?」
り、 休 診 の た め 診 て も ら え な
○ 病 院: 土 曜 日 の 昼 時 と い う こ と も あ
らった。
」
「畜生何だ
か」である。
オオスズメバチに
刺されて(状況報告)
(理科)
乗 り 越 え て ほ し い。 何 で も「 や ら ま い
!!
かった。
-
- 209 -
-
!!
た。冷や汗も出てきて、嫌な予感がして
・九月二十七日(土)
違っていてくれと願いつつ、恐る恐る
スチームの下の犯人を見る…
きた。
四限(日本史A)の授業が始まり、い
つもどおり机間巡視をし、生徒が落ち着
鰺坂 和幸
!?
憤りを感じ始める。消毒すらせ
況と、医者の暢気な対応の差に
場合か?と、自分の切迫した状
裟)
、労災がどうとか言ってる
死にがかかっているのに(大袈
と い う こ と だ っ た。
)人の生き
望するのであったら、診療する
い。労災を使わないで診察を希
くが、診療を断られたのではな
院の名誉のために一応書いてお
診 察 は た め ら わ れ た。
(この病
の使用ができないという理由で
話 す こ と も で き た が、
「労災」
想だった。
ほうがましだというのが私の感
自分で市販の薬でも塗っていた
そ ん な 治 療 し か し な い の な ら、
と、 鎮 痛 剤 を も ら っ た。 正 直、
し な い。 結 局 炎 症 を 抑 え る 薬
しなければ、消毒の一つもしや
やはりここでも毒の吸い出しも
悸 が し ま す よ。
」 と 言 っ た が、
う暢気な対応にイライラして動
…気分が悪いといえば、そうい
いいやつはいないでしょうねえ
オスズメバチに刺されて気分の
と の 問 い か け に、
「そりゃあオ
あった。
「気持ち悪くないか?」
指を見て様子を伺うばかりで
ほどに腫れ上がった私の人差し
げ る こ と も 殺 す こ と も で き た よ。 本 当
だって、飛んでいたりしてくれれば、逃
で あ る。 私 も 絶 句 で あ る。 そ り ゃ あ 私
るのに気づかないんだ?」
「何で、あんなでかい虫が飛んできてい
句した後、彼らの口から出てきた言葉は
またま遊びに来ていた両親に話した。絶
この日はすぐに家に帰り、言いたくは
なかったがこの出来事を、妻、それとた
し軽くなった。
をため込んで帰ってきた私の気持ちは少
心配はしてくれたので、病院でイライラ
であった。まぁ、そう言いながらみんな
の指を見て、教員も生徒も言いたい放題
ど痛いのだが、倍ほどに腫れ上がった私
に興味津々である。こっちは泣きたいほ
△病院:受付は行うことができ、状況を
ず、保冷剤で患部を冷やすよう
が、さすがに保冷剤くらいはタ
した。まぁ、周囲にスズメバチに刺され
と、訳のわからないことを言われたりも
は、
「 誰 に や ら れ た の か と 思 っ た よ。
」
「鰺坂先生が刺され
職 員 室 に 帰 る と、
た」というところだけ聞いていた人に
ながら心配してるんだよ。きっと…」と
て て も 仕 方 が な い。
「なんだかんだ言い
とイラッとしたが、そんなことに腹を立
のに、なんて残酷なことを言い放つんだ
ま下げた手に、たまたま刺されただけな
メバチが止まっていた席に座り、たまた
に、本当に運が悪く、たまたまオオスズ
に指示されただけだった。これ
で治療費を請求されたら怒鳴り
ダでくれた。
た人間などそうはいない。みんな私の指
散らしてやろうと思っていた
科の専門医がおらず、通常の倍
□病院:急患として見てくれたが、皮膚
-
- 210 -
-
思いこむことにして、その場の笑い話に
なるようおちゃらけてその日一日は過ご
した。
にかく病院に向かった。
□病院:扱いは前回と同様だった。傷口
の消毒すらまたもされなかった。
ず、この痒み止めの薬は一度しか使わず、
痒 み に は 根 性 で 耐 え よ う と 固 く 誓 っ た。
・九月三十日(火)~十月四日(土)
保冷剤で指を冷やし、おとなしく薬を飲
「農作業中にやられたんじゃな
いよう気をつけてね。
」(医者)
「農作業中に、2度目刺されな
先週と全く状況が変わらず、指が一生
治らないんじゃないかと不安がよぎる。
・十月五日(日)
~十月十一日(土)
痒み、腫れともに続く。指は真横くら
いまで曲げられるようになった。
ん で 寝 て い た。 指 は 最 高 潮 に 腫 れ 上 が
いですから。
」
(私)
「 蜂 に 刺 さ れ た 」 =「 山 仕 事 」
という発想なんだろうか…
り、指はまっすぐ伸びたままほとんど曲
この日の夜は指が内側から破裂してし
まいそうな痛みが続いたので、とにかく
げられない状態だった。
れ、かゆみを伴う痛みになってきた。心
は 少 し づ つ 和 ら い で き た が、 徐 々 に 痺
九月二十七日(土)の夜と同様、指を
冷やし、薬を飲んで一日寝ていた。痛み
・九月二十八日(日)
というセリフだけだった。埒が
いよう気をつけてね。
」
「農作業中に、2度目刺されな
が、医者から返ってきた言葉は
況を私は何度も説明したのだ
何度も繰り返した。刺された状
・十月十九日(日)~現在
ようになった。
らにつくくらいまでは何とか曲げられる
痒みは徐々に消え始め、徐々に腫れも
おさまってくる。同時に、指も、手のひ
・十月十二日(日)~十月十八日(土)
というわけのわからない問答を
なしか腫れが少しひき、指が前に少しく
あかないとあきらめたころ、看
残ったままであり、曲げる動作に若干の
護師が「では、かゆみ止めの薬
を 処 方 い た し ま す の で …」 と
らいは曲げられるようになった。
割って入ってきてくれ、この無
痒みは消え、腫れもほとんど引いてき
たが、未だに刺された場所にはしこりが
・九月二十九日(月)
違和感を感じる。
くれぐれも教室に入ってきたスズメバ
限地獄から解放された。
結局診てもらった医者を全く信用でき
異常に指が痒い。指の背を蚊に刺され
たときのような何とも痛痒い状態が延々
続く。患部を掻きむしりすぎて指の表面
の皮がカサカサになるほどであった。と
-
- 211 -
-
目に遭わないようにしよう。これを最後
は止めよう。刺されて私のようにつらい
コ ー ダ ー」
「液晶ハイビジョンTV」な
る ハ イ ビ ジ ョ ン ビ デ オ カ メ ラ 」「 B D レ
量販店のチラシを見ても「ママでも撮れ
など今さら珍しくもなんともない。家電
画編集である。とは言え、ハイビジョン
今秋、世間に先駆けて取り組んだモノ
は、
〈パソコンによる〉ハイビジョン動
い。 パ ソ コ ン に よ る H D 編 集 の 導 入 は、
で、 今 編 集 が 楽 に で き て も、 未 来 が な
オ カ メ ラ は、 も う 生 産 中 止 に な り そ う
アでも歯が立たない。HDV方式のビデ
ツいAVCHD方式の方は、クアッドコ
た。だが、今主流となっている圧縮がキ
スなくパソコンでの編集が可能になっ
( パ ソ コ ン の 心 臓 部 ) が 出 て か ら、 圧 縮
が緩めのHDV方式の方は、ほぼストレ
まで読んでくれた諸君が同じ目に遭わな
どとあるように、既に普及段階にあるわ
A V C H D 方 式 の デ ー タ を「 さ く さ く 」
チを殺したり、無闇に挑発したりするの
いことを切に願う。
けで、先取りでもなんでもないと思われ
(数学科)
るかも知れない。HDビデオカメラで撮
火中の栗を拾う
で 流 行 し 始 め る と 途 端 に 興 味 を 失 っ て、
る〈 編 集 〉 を 施 そ う と す る と、「 超 」 が
部分を取り除きたい、といった、いわゆ
ところが、ひとたび画像データに音楽
を入れたい、テロップを入れたい、不要
誰でもできる簡単さだ。
す る の は、 マ ニ ュ ア ル な ど 見 な く て も、
學院大學久我山高校写真部の先輩・福田
それなのに、このタイミングで挑戦す
ることになった経緯は、次の通りだ。國
もので、ヤケドするのは目に見えている。
で〈パソコンによる〉ハイビジョン動画
で登場するのを待つのが得策だ。現時点
ソコン用語)動かせるCPUが普及価格
他のモノを物色しはじめた人だったそう
付くほど圧縮され、複雑な階層を持つH
寿先生がこの夏、欧州研修へ行って、ロ
( 軽 や か に 操 作 で き る、 と い う 意 味 の パ
だ。 祖 父 も 叔 父 も 鬼 籍 に 入 っ て い る し、
る六時間におよぶ映像を、ハイビジョン
影 し て、 S D カ ー ド 経 由 で B D レ コ ー
直接話した思い出は皆無だが、どうもそ
D画像データは、扱いが難しい。
ビ デ オ カ メ ラ で 撮 影 し て こ ら れ た。
「編
ダーに保存したり、液晶テレビで見たり
ういう血筋らしいのだ。新しもの好きの
パソコンで扱うHDデータには、HD
V方式とAVCHD方式がある。両者の
集してよ」との仰せだ。後輩として、ま
大月 一男
傾向は、アンチ世間、成熟の拒否、ムダ
違いは、圧縮程度の差と思っていい。昨
私 の「 新 し も の 好 き 」 は、 遺 伝 で あ
る。祖父も、母方の叔父も、新しいもの
金遣い、等々、ロクなものではない。し
年 末 頃 に、 ク ア ッ ド コ ア と い う C P U
ンドンの漱石、ベルリンの鴎外にまつわ
編集に挑むのは、火中の栗を拾うような
かし血統書付きとなれば諦めて受け入れ
がでると、いち早く首をつっこみ、世間
るしかなかろう。
-
- 212 -
-
た福田寿先生の勤続三十年を祝う意味で
イルずつAVI方式に変換。この、地味
プ2。AVDHD方式のデータを
SD画質とは比較にならないくらいキレ
る。 あ ゝ ハ イ ビ ジ ョ ン 画 質 は D V D の
黒バックに「2008欧州研修」と出
て、 い き な り ロ ン ド ン 市 街 の 映 像 が 映
い。トライした価値は十分ある。報われ
映像を自由自在に編集できるのは、楽し
ファ
も断るわけにはいかない。半年先ならば
な作業に一日二時間、計一週間(!)か
イだ。思わず引き込まれる。この画質の
インに乗せて、失敗部分があったら削除
スタンダード
編集環境が整い、苦労も半減されるだろ
ず つ、 編 集 ソ フ ト の タ イ ム ラ
かる。ステップ3。全1033ファイル
する。ステップ4。一枚目のBDディス
た感じだ。
(!) を
う。だが、しかし、今やるしかないので
ク 2 時 間 6 分 の 粗 編 集 完 了。 ス テ ッ プ
大英博物館、漱石記念館からパリに飛
ぶ ま で が 一 枚 目。 パ リ の エ ッ フ ェ ル 塔、
ある。
さっそく四年ぶりに自作パソコンの蓋
を開けて、中身を最新クアッドコアへと
5。タイムラインの画像データを書き込
もらえるだろう。マラソン視聴を終える
あ、いい出来だ。福田寿先生にも喜んで
あら
換装した。光学ドライブはBD R書き
み用に変換。3時間半ほど待つ。ステッ
化 す る の に か か っ た 時 間 は、 7 時 間 半。
タ
一枚目ができた。ステップ7。残りファ
と、どっと疲れが押し寄せてきた。
サ
ず。たぶん一番安くあがった組み合わせ
イ ル の 粗 編 集 完 了、 3 時 間 5 分 に お さ
さて、ハイビジョン編集をやってみて
の感想を言うと、現段階においては、や
イー
だと思う。編集ソフトはカノープス社製
まった。ステップ8。2枚目の書き込み
ゼロ
ルーブル美術館から、ベルリンの鴎外記
ド
念 館 ま で が 二 枚 目。 計 5 時 間
イ
込み用。データ用ハードディスクは50
プ6。書き込みソフトを用いて書き込み
レ
0GB×2をRAID0で組む外付け
開始。2時間6分のデータをBDビデオ
エディウスneo。BD書き込みソフト
フ ァ イ ル 変 換。 5 時 間
集 に 携 わ る 人、 興 味 を 持 っ て い る 人 に
転にともなう熱上昇、CPUの熱暴走の
き込む。これだけ待たされると、連続運
今度はえんえんと
記憶を補助し、追体験させる程度の力し
の画質の映像は、単なる旅の記録として
多くして益少なし、である。だが今まで
できない。一般家庭でムリにやっても労
あら
は コ ー レ ル 社 ム ー ビ ー ラ イ タ ー 5。 メ
はりよほどのマニアでない限りおすすめ
とっては、一番気になるデータだからで
不安がよぎる。しかし事なきを得て、2
時間(!)かけて書
ある。
か持たなかったのに対して、高画質の記
録 は、 旅 そ の も の を〈 再 体 験 〉 さ せ た
日間の苦
枚目も完成!さあ、試写だ。
10
「 待 ち 時 間 」 を 中 心 に 列 挙 し て い く。 編
分。 ス テ ッ プ
ディアはBD R・DL2枚。これで編
9。 い よ い よ 最 終 工 程。 書 き 込 み 開 始。
分。 ま
ハードウエアは、これで最低限度動くは
ケ ー ス に 入 れ e S A T A 接 続 で つ な ぐ。
15
労は、報われるか?
40
-
- 213 -
-
30
集準備完了だ。以下、編集作業における
11
-
ステップ1。画像データを外付けHD
Dに転送。 GBの転送に 分。ステッ
90
13
-
30
時間ではなかった。彼の誘いに、親の許
かったが、もう夕方五時前。とても遊ぶ
の声に、すぐに幼なじみの土屋君だと分
私がサッカーを始めたのはこの日か
ら、小学校一年生の春だった。玄関から
思ってもいなかった。
校に彼と共に入学することになろうとは
か、という気がするのである。
アを手にしてしまったのではあるまい
ワーを持っている。何か怪物的なメディ
り、 見 た も の を 旅 に い ざ な う 強 引 な パ
の 筋 ト レ な ど の 基 礎 体 力 の 強 化、 ま た、
た。中学校では、朝練での走り、雨の日
グ ラ ン ド に 向 か い、 ボ ー ル に 触 っ て い
い我々は部活動が終わった後、小学校の
かりしていた。それでもサッカーがした
厳しく、一年時はボール拾い、声出しば
た。母校の部活動は、上下関係がとても
中 学 校 に あ が っ て も、 少 年 団 時 代 の
チームメイト全員でサッカー部に入部し
たが、毎日毎日楽しく練習していた。
ドを使っていたため、練習場所は狭かっ
百人以上の大きな少年団で一つのグラン
強してきた。一学年二十人近く、全体で
生時代は少年団で基礎技術、協調性を勉
者、環境にはとても恵まれていた。小学
サ ッ カ ー が 盛 ん に 行 わ れ て い て、 指 導
こうやって始まった、私のサッカー人
生。 私 の 出 身 地 で あ る 静 岡 県 は と て も
ければ、私の人生は大きく変わっていた。
になった。今思えば、彼のこの誘いが無
いないが、その日からサッカーが大好き
けた。「栃木に行く。」即決した!「俺も
校どうする?」彼の返事に私は衝撃を受
屋 君 と 遊 ん で い た 私 は 彼 に 尋 ね た。
「高
うなどと考えていた。そんなある日、土
ておらず、どこでもいいから公立に行こ
た。高校で、サッカーをしようとも考え
部 活 動 も 引 退 し、 受 験 シ ー ズ ン。 私
は、 進 学 に つ い て 全 く 考 え て い な か っ
績を収めることができた。
回戦で力尽きたが、我々の九年間のサッ
を制し、ベスト8に名乗りを上げた。二
とができた。スコアは二対一。PK合戦
に的中し、私は県大会で得点をあげるこ
ルーパス一本を狙っていた。作戦は見事
ンター。そこそこ足の速かった私へのス
た。地力で劣る我々の作戦は、一発カウ
のある矢野貴章擁するジュビロ浜北だっ
迎えた県大会。一回戦の相手はジュビロ
に は、 市 内 二 位、 東 部 三 位 と 勝 ち 進 み、
習の成果は顕著に表れていった。三年時
サッカーと國栃と私
木村 圭佑
「 サ ッ カ ー や ろ う!」 家 に 駆 け 込 ん で
きた友人からの誘いだった。のちに、本
」どのような学校かも分からな
カーの集大成となる大会で素晴らしい成
の下部組織。日本代表にも選ばれたこと
しも得ずに、すぐに二人で小学校のグラ
高度な技術、戦術も学んできた。毎日毎
行く
かったが、九年前のあの日のように、ま
-
- 214 -
-
(国語科)
ンドへ走った。そこでは、サッカー少年
日の練習がやはり楽しく、走るだけの朝
練も、全く苦にならなかった。日々の練
団 の 入 団 手 続 き が 行 わ れ て い た。 そ の
後、どのように手続きをしたのか覚えて
!!
生の下でサッカーをしたいと、私のサッ
会いし、時に優しく、時に厳しいこの先
見学する機会があった。大橋先生にもお
の受験までに、何度か國栃サッカー部を
取れ、何とか合格することができた。こ
たが、優しそうな面接官の笑顔で緊張も
試験は完璧、面接は全く練習をしなかっ
けた。今回は、数学と面接だけ。数学の
か親の了承を得て、一月の推薦入試を受
をそう簡単に諦めることもできず、何と
う。それでも、一度行こうと決めた学校
学、理科しかできなかったから当然だろ
特待生の試験には見事に落っこちた。数
いうことだった。しかし、十二月の学力
料免除であれば栃木に進学してもいいと
進学のことは親と何度か話をした。授業
に 九 年 前 か ら 少 し は 成 長 し て い た た め、
試について調べ、勉強を始めた。さすが
になっていった。学校について調べ、入
い学校であったが、それから私は受験生
學院栃木高校という全く聞いたこともな
た彼に人生を変えられた。その学校は國
二年生の秋。国立競技場へと繋がる選
手権大会が始まった。二年生からレギュ
感じていた。
てにおいて上達していくことを自分でも
日々学んでいった。体力、技術、戦術全
怒 鳴 ら れ、 フ ォ ワ ー ド と し て の 働 き を
授業が終わるとすぐにグランドへ向か
い、 大 橋 先 生 か ら 毎 日 の よ う に 怒 ら れ、
いる。
とが時間に余裕を持てた要因だと思って
はない。授業をしっかりと受けていたこ
に寝ていたが、その分授業中に寝た覚え
は高校時代、家ではほとんど勉強はせず
にも、部活にも十分に時間が取れた。私
も 部 活 は で き ま す。
」 の 言 葉 通 り、 勉 強
に 下 宿 を 始 め た。 そ れ か ら は、「 特 選 で
生活に危機を感じ、八月からは栃木市内
学していたのが大きな原因だった。この
山市の叔父の家から往復五時間かけて通
た。というのも、入学時は、千葉県の流
と、 勉 強 も 部 活 も 中 途 半 端 に な っ て い
を快諾した。しかし、いざ入学してみる
先生の言葉で、私は特選クラスへの入学
「 特 選 で も 部 活 は で き ま す。
」この大橋
放していなかった。続く後攻の相手も外
PKへの自信が無くなったことは言うま
悔いが残っている瞬間である。これ以降
光景は今でも夢に出てくる、人生で一番
ゴールの方へ歩いていった…。この後の
し た こ と の 無 か っ た 私 は、 自 信 満 々 で
れ込んだ。一人ずつ外し、四対四で六人
た。奇跡の同点ゴールでPK戦までもつ
リーキックが直接ゴールに吸い込まれ
甘くはなかったようだ。今度は相手のフ
ゴール。勝利を確信したが、神様はそう
り 少 な い と こ ろ で、 と う と う 勝 ち 越 し
〇。両チーム疲れも見えてきた後半。残
ゴ ー ル で 延 長 戦 に 突 入 し た。 前 半 〇 対
ク を 先 輩 の 頭 が と ら え た。 奇 跡 の 同 点
タイム。ラストチャンスのコーナーキッ
めきれず、〇対一のまま迎えた後半ロス
勝戦。何度もチャンスがあったものの決
うとう県代表を決める宇都宮白楊との決
板中央、準決勝では作新学院を破り、と
入ることができた。優勝候補であった矢
ラーが五人選ばれ、私もその中の一人に
でもない。しかし、神様はまだ我々を見
目の私に回ってきた。今まで、PKを外
カーへの気持ちが再び沸き上がってきた
のであった。
-
- 215 -
-
泣きじゃくった。
き て、 人 前 で 泣 く こ と の な か っ た 私 が、
退、敗退の悔しさ、たくさん込み上げて
切 符 は 相 手 の も の と な っ た。 先 輩 の 引
九人目。勝負が決まった。全国大会への
し た の だ! 八 人 目 ま で 両 チ ー ム が 決 め、
カーを楽しんだ。
格することができた。大学時代は社会人
引 退 後 は、 朝 早 く 学 校 に 来 て 勉 強 し、
大橋先生に勧められた東京学芸大学に合
ている。
来て本当に良かったと今もつくづく感じ
のサッカーができたこと、國學院栃木に
九 人 目 の 彼 は 蹴 る 勇 気 は 無 か っ た が …)
る こ と が で き た。
( さ す が に、 わ た し と
残っていた我々がPK戦を制し、優勝す
だ。迎えた新人戦ではレギュラーが六人
らによってどんどん膨らんでいったの
サッカーを愛しているという気持ちが彼
ま っ た か も し れ な い。 サ ッ カ ー が 好 き、
が 無 か っ た ら、 私 は 勉 強 に 埋 も れ て し
メンバーが揃っていた。彼らとの出会い
択也など、サッカーを本当に愛している
て、一つ下には現ガンバ大阪所属の武井
い、國栃サッカー部との出会いが大切な
私 と の 出 会 い、 チ ー ム メ イ ト と の 出 会
し て き た の と 同 じ よ う に、 部 員 達 に も、
木県代表のメンバーなど大切な出会いを
そして、私が今までに土屋君や大橋先
生、小中高サッカーのチームメイト、栃
ることを伝えていきたい。 大好きなもの、かけがえのないものであ
は 足 り な い が、 サ ッ カ ー が 楽 し い も の、
ない。私も、まだまだ指導者としての力
多く、まだまだお世辞にも強いとはいえ
今では、この中学校のサッカー部の指
揮をとっている。この部員達は初心者も
のチーム、サークルに所属し純粋にサッ
この悔しさを糧にして、新しい代の練
習が始まった。我々の代は、鶴見先生の
その活躍もあって、国体メンバーにも選
ものだと思えるように、これからも日々
息子である鶴見和彦をキャプテンとし
ば れ た。 静 岡 で サ ッ カ ー を し て い た ら、
の練習を頑張っていこうと思っている。
(数学科)
考えられなかったことであろう。大橋先
生と出会い、最高の部員と出会い、最高
-
- 216 -
-
路線で娯楽的な要素が強いのでオペラほど敷居が高くなく気
違ってとても分かりやすいジャンルである。基本的には喜劇
いるもので、一般的なオペラのような深刻で複雑なドラマと
レッタはオペラを歌劇と訳すのに対して、喜歌劇と呼ばれて
これまで多くのオペラの舞台を踏んできたが、意外にも4オ4
ペ レ ッ タ の 出 演 が 少 な い こ と に 自 分 で も 驚 い て い る。 オ ペ
歌って踊って、見て笑って楽しいオペレッタ
ヨーロッパでは数々のオペレッタ作品が誕生し、喜劇的要素
内 で 発 展 を 遂 げ た の で あ る。 も ち ろ ん こ の 一 世 紀 近 い 間 に
初頭フランツ・レハールによって、ドイツ、オーストリア圏
ウインナーオペレッタの黄金時代が築かれ、さらに二十世紀
舞台をウィーンに移し、ヨハン・シュトラウス二世によって
家がフランスオペレッタの作品を手掛け、十九世紀後半には
トを飛ばしたようだ。この作品を皮切りにその後多くの作曲
簡単にオペレッタの歴史を遡ると、十九世紀半ばのパリに
そ の 起 源 が 窺 わ れ る。 こ の 頃 フ ラ ン ス の 作 曲 家 オ ッ フ ェ ン
私 の オ ペ ラ 人 生 Ⅵ
軽に楽しめる。内容もハッピーエンドで終わるものが多く、
が強い中にも優雅さと気品に溢れる独特の雰囲気のあるオペ
峰 茂 樹
親しみやすいアリア、二重唱などに加え、踊りの見せ場もあ
レッタが、聴衆に受け入れられ一時代を確立したのである。
バックの『天国と地獄』が大衆にアピールして爆発的なヒッ
り、華やかな舞台に聴衆の目も釘付けになる。また、物語も
4
セ リ フ を 交 え な が ら 進 行 す る の で、 ア ド リ ブ あ り ギ ャ グ あ
ヨーロッパではウィーン・フォルクスオパーやベルリン・
コーミシェオパーなど、オペレッタを中心に上演する劇場も
4
り、客席に笑いが起こるシーンも数多い。従って、オペレッ
多く存在して、その人気の高さを物語っているが、日本では
4
タを日本で上演する場合は訳詞上演が基本となる。我々出演
オペラの上演と比較すると極めて少ない。ただ、今日に至る
4
者にとっては上演の度に台本が変わりセリフを覚え直すのに
まで日本オペレッタ協会がまだ日本では知られていないオペ
4
大変苦労するが、演出家はいかに面白い台本を書くか腕の見
4
せどころでもある。
-
- 217 -
-
レッタ作品を積極的に手掛け、日本の聴衆に紹介し続けてい
る。
) を 生 か し て、 プ ロ の ダ ン サ ー を 目 指 し た い と 密 か に
メタボであるがオペラ界ではスリムな方だとよく言われてい
かつて、二期会制作によるミュージカル『マイ・フェア・レ
るが、これまで踊ることに抵抗を感じたことはあまりない。
できた。また、オペレッタにはダンスシーンがつきものであ
ず、ムードメーカー的存在として自分をアピールすることが
チョイ役プリチッチとしてセリフが少なかったにもかかわら
はオペラに比べて出演者が多いのも特徴であるが、その中の
ペレッタ協会から初めてお呼びがかかったのだ。オペレッタ
オペレッタ初体験『メリー・ウィドウ』に出演したのはも
う今から十三年前の一九九五年(平成七年)である。日本オ
オペレッタに出演できたことはまったく運が良かった。
が挙げられるが、これまでのオペラ人生の中で、この三本の
国と地獄』、ヨハン・シュトラウス二世の『こうもり』など
二本目のオペレッタは二〇〇七年(平成十九年)二期会公
演『 天 国 と 地 獄 』 で あ る。 こ の オ ペ レ ッ タ は ギ リ シ ャ 神 話
これこそオペラでは味わえないオペレッタの魅力なのである。
みフレンチ・カンカンを踊るダンサーの姿には圧倒される。
る夜会のシーンである。賑やかな舞台で大胆な衣装に身を包
言ってもパリ・マキシムの踊り子達が歌って踊って繰り広げ
楽 も 多 彩 で 聴 衆 を 楽 し ま せ て く れ る。 そ し て 見 せ 場 は 何 と
れる。さらにこのオペレッタはマーチやポルカ風の歌など音
台上にいるすべての出演者まで、叙情的な陶酔感に浸してく
てくれる。また、ハンナによって歌われるアリア〝ヴィリア
るあの魅惑的なメロディは、ロマンティックな気分を演出し
このオペレッタの聴きどころはやはり〝メリー・ウィドウ
のワルツ〟である。官能的なバイオリンの調べの序奏で始ま
思っている(笑)
。
る業績は極めて大きい。
ディ』にピカリング大佐役でよく出演したが、初めて経験し
有名だが、やはり運動会の定番BGMとして一番知られてい
「オルフェウスとエウリディケ」をパロディ化したことでも
ところで、日本でよく知られているオペレッタと言えば、
レハールの『メリー・ウィドウ』
、オッフェンバックの『天
た ダ ン ス が と て も 楽 し く て、 夢 中 に な っ て 踊 っ た 記 憶 が あ
精神こそ大切である。今度生まれ変わったら、このタッパと
は格別である。やはり自分にできないものにチャレンジする
どうにか人並みにステップを踏めるようになった時の達成感
の覚えも極めて悪い方だが、汗を掻きながら稽古を積んで、
ら、BGMの貢献度は凄いものがある。
のようなもので、どちらの曲もやる気を起こさせてくれるか
ノリにしてくれる。昔のパチンコ屋で流れた〝軍艦マーチ〟
運動会には打ってつけで、走者も応援席も気合いが入りノリ
るだろう。あの加速度的であおるようなテンポの曲はまさに
の歌〟の哀愁を帯びた美しいメロディは聴衆のみならず、舞
る。いわゆる典型的な下手の横好きで、リズム感もなく振り
長い足、さらにこの私のボディ(一般的感覚では正真正銘の
-
- 218 -
-
も珍しい。
をパクり、変え歌をくっつけてここまで全国に浸透したCM
懐かしく今でも強く印象に残る。しかし、クラシックの名曲
〇年代の仔グマがカンカン・ダンスを踊るモノクロの映像は
~〟と口ずさんだ年輩の方々も多いはずである。あの一九六
ら、〝カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂~
ま た、 最 近 は 見 る 機 会 も な く な っ た が、 文 明 堂 の コ マ ー
シャルでも有名になった曲である。このメロディを聞きなが
今回の私の役は〝酒の神バッカス〟で、この最後の賑やか
な シ ー ン だ け に 登 場 す る。
「 歌 え! 踊 れ! 酒 を 飲 み 干 せ!」
レッタならではの醍醐味を味わえるシーンである。
ま く る。 こ の オ ペ レ ッ タ の 中 で 一 番 の 見 せ 場 で あ り、 オ ペ
サーが次々に登場して舞台狭しとフレンチ・カンカンを踊り
ス ト ラ に 加 え て ソ リ ス ト と コ ー ラ ス の 大 合 唱、 そ し て ダ ン
の神々が集まり大宴会を催すシーンでも演奏される。オーケ
される。そして、最後の大詰め第二幕第二場で、天国と地獄
ロディは開幕前の序曲でオーケストラによって華々しく演奏
戻すと、オペレッタ『天国と地獄』の中でこの聞き慣れたメ
長崎出身の私にとって、同じ長崎に本店がある文明堂のC
Mは、幼い頃から聞き慣れた曲であるが、実はもう一つ地元
と一声叫ぶ盛り上げ要員で、セリフもひと言で歌のソロはな
し、物語の進行にも全く関係しない蚊帳の外のチョイ役であ
長崎限定バージョンというのがあるので紹介したい。
〝ブン
る。 し か し ひ ょ っ こ り 登 場 し て、 最 後 は「 バ ッ カ ス を 讃 え
もはや全国的にこの存在が知れ渡っている。しかし小学生の
ないが、福砂屋独自のザラメの食感としっとり感が好評で、
砂屋のカステラの方が人気が高い。文明堂関係者には申し訳
た文明堂のCMであるが、残念ながら地元では文明堂より福
ごころカステーラ 文明堂のカステーラ〟この異国情緒漂う
CMも長崎人にはよく知られている。これだけ一世を風靡し
三本目のオペレッタ出演は『こうもり』である。この作品
は世界中で最も親しまれているオペレッタ作品であり、上演
えるようで、自分でも鏡を見ながら可笑しくなってしまった。
うだし、あるいは歌舞伎町で看板を持って佇んでいる人にも見
のシルクハットといったいでたちで、まるでマジシャンのよ
残る役でもあった。また、バッカスの衣装は白の燕尾服に白
と言えばそれまでだが、出番も少なくソロもない少々不満の
よ!」の大合唱の中、ちゃっかり目立って幕となる。得な役
頃、文明堂のカステラの切れ端をよく買ってもらって食べた
回数も他と比較するとダントツであるのは間違いない。ヨー
ブブブン ブンブンブン 文明堂のカステーラ、遠い昔の長
崎に お船に乗ってやってきた 異人さんの贈り物 贈るま
あの美味しさは忘れられない。参考までに現在長崎にはこの
ロッパの有名な劇場の中には暮れの大晦日に慣例として毎年
4
他にも数十軒のカステラ屋が存在するが、切れ端を売る店は
この『こうもり』を上演している劇場もあるくらいである。
4
意外に少ないので要注意だ!
4
カステラ談義で完全に横道にそれてしまったが話をもとに
-
- 219 -
-
神の表れからだ
いうサービス精
して頂きたいと
後の一時を過ご
笑って楽しい最
客様に大いに
くりとして、お
一年間の締めく
『こうもり』と言えばこれまた聴きどころ満載であるが序曲
イタリアでも『こうもり』の人気の高さが窺われる。
は日本ではあり得ないことである。もちろん劇場は超満員で
が終わってからもアンコールがかかり演奏が続けられる様子
れた時、劇場は歓喜に溢れ最高潮に達した。カーテンコール
トラウス二世のポルカ〝雷鳴と電光〟が挿入曲として演奏さ
た運動会用のBGMとしてお馴染みの曲であるヨハン・シュ
言ひと言のセリフに爆笑する聴衆、そして、日本ではこれま
語)ではなくイタリア語で上演されたが、その出演者のひと
なしには語れない。ウィーンと言えばウィンナーコーヒー、
ウィンナーソーセージ、ウィンナーシュニッツェル、ウィー
-
- 220 -
-
ろう。
ン少年合唱団などがすぐ頭に浮かぶが、もう一つ忘れてはな
形態が生ずる。これがまさにウィンナーワルツで、この流動
つて私が文化庁
的表現が独特のウィーン情緒を感じさせるのである。この演
一九九七年
(平成九年)
、か
野外オペラで有名なヴェローナのアレーナ(円形劇場)のす
奏法の生みの親はヨハン・シュトラウス一世で、その子でワ
らないのがウィンナーワルツである。ワルツは基本的には三
ぐ近くにある古い劇場で、この『こうもり』の舞台を観たこ
ルツ王と言われたヨハン・シュトラウス二世によってその様
拍子で均等な長さで拍を刻むのが普通であるが、ウィンナー
とがある。この時は暮れではなく新年を迎えたばかりで、日
式が確立され、ウィンナーワルツの黄金時代を築いたのはよ
芸術家在外研修
中でも気温は0度までしか上がらず底冷えのする寒さであっ
く知られている。このウィンナーワルツの調べに乗せて軽快
員としてイタリ
たが、劇場内は観客の熱気と興奮で異様な盛り上がりを見せ
なテンポで演奏される『こうもり』の序曲はオーケストラの
ワルツの場合は三つの拍が均等ではなく、二拍目を少し早く
ていた。未だかつてこんな劇場の雰囲気は体験したことがな
力量が発揮されるところであり、聴衆を一瞬にしてオペレッ
アのミラノに留
かった。鳴り止まない拍手、曲に合わせた手拍子、そして、
前にずらすような形で演奏するために独特の三拍子のリズム
会 場 は ブ ラ ボ ー が 飛 び 交 っ た。 こ の 時 は 言 語 上 演( ド イ ツ
学 し て い た 時、
『天国と地獄』出演者と舞台にて
入れられているテノール歌手アルフレードの、歌や叫び声が
た。このシーンではアイゼンシュタインに間違われて牢屋に
そしていざ本番!「オッハー!やっと俺の出番だぜ!」と
自 作 の セ リ フ で 登 場 す る と、 客 席 か ら 大 き な 笑 い が 起 こ っ
の中で細かく計算して本番に臨んだ。
である。ウケねらいですべった時のフォローなど、入念に頭
リフのタイミングや間の取り方一つで微妙に変わってくるの
た。しかしいざとなると人を笑わせるのは極めて難しい。セ
流のセリフやギャグを交えていかに面白く演じるかを考え
フロッシュは三幕冒頭で登場し十五分間の一人芝居を演じ
るが、演出家の書いた台本をもとに稽古を重ねながら、自分
切り開く滅多にないチャンスなので即座に引き受けてしまった。
言うことで恐縮していたが、舞台人として新しいジャンルを
でにないキャラクターである。関係者は歌がまったくないと
い。典型的な三枚目の役だが喜劇的演技力が要求される今ま
に限らず他の国々でも人気のある喜劇役者を使う場合が多
コント五五号の坂上二郎が演じたのを記憶しているが、日本
らいのトボケ役である。私が所属する二期会の昔の公演では
役は歌がまったくなく芝居とセリフのみで、おまけに酔っぱ
もので、この時は刑務所の看守フロッシュ役を演じた。この
実はこの『こうもり』に今まで二回出演している。最初は
二〇〇一年(平成十三年)墨田区民オペラ公演で上演された
タの世界に引き込んでいく感じがする。
だった。しかしこのような私の自作のつまらないコントにこ
ら、いやだね!」とサビの部分を歌い出す。これがバカウケ
こ ~ い!」 と 叫 ぶ。 そ れ に 答 え て 歌 の 続 き「 い や だ ね っ た
「そりゃ~ないだろう!俺だってオペラ歌手だぞ!」とつぶ
こ ろ で、
〝 カ ~ ~ ン!〟 鐘 一 つ で 大 爆 笑! そ こ で す か さ ず
ち合わせていた。そして、私が歌い出して調子が出てきたと
ように、あらかじめオーケストラのパーカッションの方と打
シーンを付け加えたのだ。そして歌の途中で鐘を一つ鳴らす
らってアカペラで歌う
里の半次郎〟を酔っぱ
丁度この頃ヒットしてい
を 歌 っ た シ ー ン で あ る。
抗してフロッシュが演歌
つけはアルフレードに対
取ることができた。極め
斐あって予想通り笑いを
がら苦労したが、その甲
取りも何回も書き直しな
この部分のセリフのやり
構 面 白 い 場 面 で も あ る。
このアルフレードとフ
た氷川きよしの〝箱根八
やくと、アルフレードが「下手な歌はやめて、早く飯もって
-
- 221 -
-
ロッシュのやり取りが結
舞台袖から絶えず聞こえてくる設定になっている。そして、
左から隹さん、筆者(フロッシュ役)、澤畑さん
美 人 で、 歌 は 抜 群! オ ペ ラ 界 に は 珍 し い〝 天 は 二 物 を 与 え
を披露して大いに客席を沸かせてくれた。お二人とも細身の
歌手隹岩光(サイ・イエングアン)さんが、お得意のアリア
手澤畑恵美さんと『魔笛』の夜の女王役で定評のある中国人
の一つである。この公演では現在日本を代表するソプラノ歌
『こうもり』第2幕オルロフスキー公爵邸の夜
と こ ろ で、
会で、いろいろなゲストが登場するのもこのオペラの楽しみ
ので、とてもいい気分で初役フロッシュを終えることができた。
ドリブの連発にも反応がよく会場の皆さんに楽しんで頂いた
こまでお客さんが笑ってくれたのは想定外だった。そしてア
いる谷氏から
団を指導して
調布市の合唱
もり』出演は
しこの『こう
れない。しか
いうのかもし
のを腐れ縁と
違われてき
ことでよく間
ているという
の依頼による
が、こういう
た〟ソプラノ歌手で、いかりや長介風の私のメイク顔と比べ
もので、やは
4
るとまさに〝美女と野獣〟であった。
り大切なお友
4
もう一つの出演となった『こうもり』は二〇〇八年(平成
二十年)の調布市民オペラである。この時は看守から昇格し
達として今後
4
て警察署長フランクの役をやらせていただくことになった。
もおつき合い
4
この役はフロッシュと違って、歌も踊りもセリフもたっぷり
4
でやり甲斐がある。そして、このフランク役をダブルキャス
しなければ ……(笑)
。
4
トで演じるのは谷茂樹氏である。谷氏とはこのオペラ業界で
4
は結構長いつき合いで、これまで、
『魔笛』
『ドン・ジョバン
余談であるが、長いことオペラをやっているとプログラム
のプロフィールによく間違いを書かれることがある。たとえ
4
4
-
- 222 -
-
4
ニ』『トロヴァトーレ』など、同じ役を〝峰〟と〝谷〟
、
〝ダ
ば、 声 種 が バ ス な の に テ ノ ー ル と 書 か れ て い た り、 あ る い
4
4
は、
〝峰茂樹〟が〝蜂茂樹〟とか〝峠茂樹〟になったり、あ
4
ブル茂樹〟でよく一緒に歌ってきた。公演のチラシにこの二
まりにも可笑しくて怒るに怒れなかったりすることもしばし
4
人の名前が並ぶと、まるで漫才コンビみたいでいつも滑稽に
ばである。
4
感じる。さらに名前ばかりでなく、同じオペラ団体二期会に
4
所属し、年齢もほぼ同じ、声種も同じバス、背格好もよく似
『こうもり』の舞台にて記念撮影
だ、それまで歌い続けることができるかどうかが問題で、あ
る と 自 ら の オ ペ ラ 人 生 を 通 し て 証 明 す る こ と が で き た。 た
も何度もあった。しかし、時期がくれば必ず出せるようにな
なか高音が掴めなくて苛立ち、焦り、挫折感を味わったこと
若い頃はいくらレッスンを受けても長時間練習しても、なか
不可能だった高音域に少しずつ手が届くようになってきた。
歌える音域ではなかったが、五十歳を過ぎてこれまで自分の
てみるとかなりキーが高くてしんどい。以前の私ならとても
る場合が多い。このフランク役がまさにそうで、実際に歌っ
さて、オペレッタのスコア(楽譜)にはバスの役の旋律が
低音部譜表ではなく高音部譜表、いわゆるト音記号で書かれ
にベテランの貫禄
てきたが、今なお健在な歌唱力と的確な演技力には、さすが
の存在は極めて大きかった。彼女とはこれまで何度も共演し
が、特にロザリンデ役を演じたソプラノ歌手佐々木典子さん
今回の『こうもり』はどのキャストもはまり役で、歌ばか
りでなく芸達者な歌い手が適材適所にキャスティングされた
先生に褒められて調子に乗って踊ってしまった。
かなステップでウィンナーワルツを踊ったが、これも振付の
一人芝居の後の、フランク登場のシーンは酔っぱらって軽や
きるのもやり甲斐がある。また、第三幕冒頭のフロッシュの
である。セリフや芝居に自分のキャラクターを十分に発揮で
を 見 せ つ け ら れ た。
-
- 223 -
-
台を作っていく演出家も多いので、その過程が実に楽しいの
きらめずにじっくりと時間をかけてコツコツと勉強していく
またこの公演を通
ら心に残る公演が
なった劇場空間か
が客席と一緒に
強 く 感 じ た。 舞 台
の感謝の気持ちを
ださったお客様へ
笑って楽しんでく
を 改 め て 実 感 し、
せることの難しさ
じ て、 観 客 を 笑 わ
ことが大切だと思っている。この歳で初役フランクにチャレ
やらせてもらえる傾向にある。出演者の意見も取り入れて舞
違って、すべて演出家の言いなりではなくて、意外と自由に
がこれまたバカウケだった。オペレッタはもともとオペラと
るが、この部分も何度も検討を重ねて自作のセリフで演じた
ンが片言のフランス語で咄嗟に会話をする面白いシーンがあ
面では、フランス人に変装したフランクとアイゼンシュタイ
歌いながらお客さんに笑っていただいた。第二幕の夜会の場
フロッシュと違ってフランクは全幕通して出番がある。第
一幕幕切れの三重唱では、軽快なステップと微妙な腰振りで
のは、この『こうもり』の舞台の大きな収穫となった。
ンジして、自分のレパートリーに新たに加えることができた
佐々木典子さんと楽屋にて
生まれるのである。
〝お客様は神様〟とよく言われるが、こ
て車のヘッドライトを消すと今まで見たこともない幻想的な
シードにドレス姿のままである。暗闇の中、目的地に到着し
世界が飛び込んできた。ホタルが光りを放ちながら群れをな
れは舞台人共通の思いかもしれない。
し、すぐ手の届くところを飛び交っているのである。あの光
〝おしゃべりバスコンサート〟
は決して見られない自然の驚異にただただ感動してしまった。
ホタルもまだ数多く生息しており、そのホタルの保護、自然
身地でも有名で、まだまだ自然の恵みが至る所に見られる。
ねたことがある。有川といえばかつての名横綱佐田の山の出
分がまだしっかり歌えるうちに、もっと多くの人達に生の歌
たことのない人達が大勢いるということである。そして、自
まだまだ我々のような肉声で勝負するオペラ歌手の声を聴い
のびのびと歌うことができた。この時思ったのは、地方には
第二部では、緊張気味のお客さんも慣れてきてリラックス
した様子が感じられ、拍手もいただき和やかな雰囲気の中で
景は今でもはっきりと脳裏に刻まれて忘れられない。都会で
た だ 今 の と こ ろ オ ペ ラ 人 生 継 続 中 で あ る が、 同 時 に コ ン
サート活動を続けていくこともとても大切である。話は遡る
の環境を維持するために町おこしの一環として、
〝ホタルコ
が、一九九七年(平成九年)長崎の上五島にある町有川を訪
ンサート〟と銘打ってコンサートを企画したのである。
マイクを通さない肉声による低音の響きの歌を初めて聴いた
るのである。まるで狐につままれているかのような表情は、
客さんの反応と違う。皆さんは私の声に驚いて呆然としてい
い。いよいよコンサートが始まり私が一声歌うといつものお
のコンサートを聴きに来るために船で来た人達もいたらし
では大きい方で、その周りには小さな島が点在している。こ
イタリアの話、教育現場での音楽教師としての話、映画、料
いのである。これまで経験してきた舞台の話、オペラの本場
われる私のニックネームをそのままコンサートに生かせばよ
を考えた。今更言うまでもないが、
〝おしゃべりバス〟と言
スして歌を聴いていただくために、楽しい話を挿入すること
連続で堅苦しく感じる傾向にある。そこで、もっとリラック
そこで、考えたのが「おしゃべりバスコンサート」の企画
である。一般的にクラシック系のコンサートは一方的に歌の
声を聴いてほしいと思うようになったのである。
からだろう。あまりにも驚いたお客さんの反応にこっちが動
理など、スポーツ以外の話題では事欠かない。噺家やお笑い
本番は今にも倒れそうな古い公民館で行われたが、狭い会
場は家族連れが多く賑わっていた。五島は長崎県の離島の中
揺してしまった。
ている。しかし、オペラ歌手仲間には、喋ることが声の調子
芸人ではないが、日頃の生活の中でいつも面白いネタを探し
第一部が終了し休憩時間を利用して、町の青年団の人達の
案内で川沿いを上流に向かって車を走らせた。出演者はタキ
-
- 224 -
-
声で歌い続けるオペラ歌手は務まらない。もちろん過剰な摂
ばしばいるが、その程度で壊すような弱い喉では長丁場を肉
いもの、アルコールは以ての外だとか言う神経質な歌手もし
はオペラなんか歌えない。よくクーラーが喉に悪いとか、辛
ある。もともと私の持論であるが、デリケートで貧弱な喉で
強く鍛えられてきたことが、他の歌手にはない大きな違いで
間、音楽教師として中高校生を教えているうちに自然に喉が
担 を か け な い 喋 り 方 が 分 か っ て き た。 さ ら に、 こ の 三 十 年
コンディションを気にしていたが、回を重ねるうちに喉に負
い。私もこのコンサートを始めた頃はとても神経質になって
サートは一段高い舞台から離れてお客さんと同じ目線に立つ
ディナーショーを行ったこともあった。要するに、このコン
会に飛び入りで出演したり、あるいはホテルやレストランで
したこともあった。また、クリスマスの時期は合唱団の発表
店で、お客さんが耳栓をしなければならないほど大声で熱唱
歌ったこともあったし、三十人位しか収容できない狭い喫茶
できることも理由の一つだ。中学校に出向いて寒い体育館で
である。狭いスペースほど肉声の迫力を間近に感じることが
ど、聴衆とのコミュニケーションが取りやすい場所が理想的
な 劇 場 で は な く、 公 民 館、 体 育 館、 喫 茶 店、 レ ス ト ラ ン な
さて、これまで〝おしゃべりバスコンサート〟と銘打って
手を変え品を変えコンサート活動を行ってきた。会場は立派
を崩すため、話をしながら歌を歌うことに抵抗のある人も多
取は禁物であるが……。
すぎても風邪を引きやすいので、出かける前に天気と気温を
の調子をもとに戻すまでかなり時間がかかる。暑過ぎても寒
常に万全の注意を払っている。一度風邪を引いてしまうと喉
プカふかされてはたまったものではない。また、風邪だけは
に発声練習しながら大きくブレスをする横で、タバコをプカ
全禁煙になって安心しているが、常識的に考えても、本番前
応してすぐ咳き込み喉が最悪の状態となる。最近は楽屋も完
が、タバコの煙だけはいただけない。なぜか煙には敏感に反
ている了願寺の住職さんからのたっての希望で、お寺の本堂
と地域の活性化のために多方面に渡って積極的に活動なさっ
たがとても好評だった。そして今回は、やはり青少年の育成
催によって、実家の近くの小さなホールでコンサートを行っ
の皆さんを中心に活動を行っている。実は二年前にも同じ主
画して青少年を非行から守り健全な人格育成の為に、PTA
催は小ヶ倉中学校区青少年育成協議会で、多彩な催し物を企
小ヶ倉町の了願寺というお寺の本堂で行うことになった。主
こ と は 私 と し て は と て も 嬉 し い。 し か も 今 回 は 実 家 の あ る
二〇〇八年(平成二十年)八月九日は長崎でコンサートを
開催した。ここ数年、地元長崎で歌う機会が多くなってきた
ことがとても重要な要素なのである。
必ずチェックするのが習慣で、微妙な気温の変化にも対応で
私の場合はこれまで、ポリープや音声障害で医者にかかっ
た こ と は ほ と ん ど な く、 少 々 の こ と は ま っ た く 気 に し な い
きる服を選ぶことを心がけている。
-
- 225 -
-
ある。おそらく〝飛鳥〟
〝ダイヤモンド・プリンセス〟
〝クリ
たオペラ『蝶々夫人』のセットにそのまま使えそうな場所で
と眼下に海が開け素晴らしい眺望が広がる。長崎を舞台にし
間近に見える少し高台に位置している。本堂の障子を開ける
小ヶ倉町は港を見下ろす観光地として有名なグラバー園よ
り、もっと手前の長崎港の入り口付近にあり、了願寺は海が
のである。
で是非歌ってほしいという依頼があり、実現の運びとなった
し て し ま う が、
申し訳なく緊張
て何か不謹慎で
仏様に背を向け
し 分 な か っ た。
会場としては申
も高く響きもよ
木造建築で天井
ところがこのコンサー
で気軽に来ていただく
で近所の寄り合い感覚
た。つっかけに普段着
人達が集まってくれ
く、老若男女ご近所の
た。中学生ばかりでな
ンサートが開始され
様子であった。次々と話題が変わる私のトークに本堂は笑い
話などをすると、皆さんとても懐かしそうに聞き入っている
で揃えた。そして、長崎弁を交えて、郷里で育った幼い頃の
う〟
〝見上げてごらん夜の星を〟など皆さんよくご存じの曲
曲目はオペラのアリアなど難しい歌は避け、ヒット曲〝千
の風になって〟から始まり〝川の流れのように〟〝涙そうそ
感も和らいで、この空間の居心地の良さを感じてしまった。
している子供達を目の当たりにすると、何か微笑ましく緊張
良く体育座りを
さんの横で行儀
父さんや、お母
クスしているお
畳の上であぐら
く、コンサート
スタル・ハーモニー〟などの大型客船が入港する時は壮観な
トの魅力でもある。も
当日、本堂にピアノが搬入され簡単にリーハサルを行った
後、夜七時いよいよコ
眺めだろう。
ちろん、私も綿パンに
声で溢れとてもいい雰囲気となってきた。〝おしゃべりバス〟
-
- 226 -
-
をかいてリラッ
Tシャツといったラフ
了願寺本堂
な格好である。本堂は
了願寺からの眺め
も盛り上が
企画がとて
ンサートの
参加型のコ
入れた聴衆
を多く取り
た、全員合唱
こ ろ だ。 ま
と言ったと
の本領発揮
も幸せな人生ば歩みよっけん、今からは人の為に尽くさんば
る。早いもので来年は十三回忌がやってくる。生前、
「お前
巻「私のオペラ修業Ⅷ」に記載)こと私のオヤジが眠ってい
ところで、この了願寺本堂脇の廊下を伝って行くと納骨堂
に通じる。ここに私の後援会長〝峰のオジサン〟
(本誌第八
使命感に燃えて今後の人生を歩んでいきたい。
考えている。人の心を掴むことのできるような歌を目指し、
院、小学校などでボランティア活動として歌っていきたいと
い。 今 後 は も っ と 幅 を 広 げ て、 お 年 寄 り の ケ ア ホ ー ム や 病
まで育ててくれた町に感謝する意味でも恩返しをしていきた
最後は、八月九日がちょうど原爆記念日にあたっていたの
で、亡くなった方へのご冥福を祈る意味で、
〝長崎の鐘〟を
ったようだ。
りで今こそこの言
が、まさにその通
いかんばい!」と
よく言っていた
全員で声高らかに歌い、一人一人の胸に故郷を大切にする思
いを刻みながら、
〝ふるさと〟を全員合唱して、最高潮に達
したところでこのコンサートを終了した。
一時間半があっという間に過ぎてしまった。お客さんの暖
かい拍手、笑い声、そして、大きな声で歌ってくれた全員合
唱、一人一人の満足げな表情からしても、このコンサートを
心から楽しんで頂けたように思う。やはり地元で歌うことは
一種独特の感慨深いものがあった。
「私のオペラ人生」もそ
ろそろ後半にさしかかっている。これからは東京でオペラの
舞台を通して学んできたことを地元長崎にも還元していきた
いと思っている。幼い頃から十八年間暮らし私の感性をここ
めに自信を持って
トではオヤジのた
が、このコンサー
まらせて歌った
沈みながら声を詰
の月〟を悲しみに
好きだった〝荒城
儀ではオヤジが大
る。十一年前の葬
葉を実感してい
コンサートを楽しむみなさん
-
- 227 -
-
トークも絶好調!
熱唱した。本堂から聞こえてくる息子の歌う〝荒城の月〟に
オヤジもさぞビックリしたことだろう。そして、拍手をしな
がら喜んで叫んでいる声が聞こえそうであった。
「上手いな
(芸術科)
-
- 228 -
-
~!シゲ!お前の〝荒城の月〟は一番上手かばい!(笑)
」
(8月7日 西日本新聞朝刊より)
国際会議に参加して
二 〇 〇 四 年 十 二 月 十 九 日、 私 は 成 田 か ら バ ン コ ク を 経 由
し、 さ ら に 飛 行 機 で 一 時 間 程 の 地、 タ イ 南 部 の 中 心 都 市 ハ
ジャイに降り立った。空港から一歩外に出るとモワッとする
蒸し暑さ、冬季の日本とは異なり、まさにモンスーンアジア
"Environmental
を体感した瞬間だった。タイをしかも南部のハジャイ市を訪
れ た 目 的 は、 翌 日 の 二 十 日 か ら 行 わ れ る、
西 克 幸
動 き が 活 発 に な る。 冬 の 日 本 か ら 随 分 遠 く に 来 た も の だ と
思った。
ソンクラー大学にて
宿 泊 地 の ソ ン ク ラ ー 大 学 の 正 式 名 称 は、 "Prince of
で あ る。 一 九 六 七 年、 初 の 南 部 地 方 大
Songkhla University"
学として創立された現国王の父上の尊称を冠する国立大学で
れるホテルに宿泊するのだが、私は格安で宿泊できるソンク
空港には、出迎えの人がおり、車に乗り換え、それぞれの
宿泊地まで送ってもらった。大学の先生などは学会の開催さ
(モンスーンアジアにおけ
Process Study and GIS Mapping"
る環境災害と地形)という国際会議に参加するためである。
使うほど広いキャンパスであった。
かった。キャンパスの外のセブンイレブンに行くために車を
は、 広 い キ ャ ン パ ス の 中 の ご く 一 部 し か 見 る こ と が で き な
大 学 で あ る。 こ れ だ け の 学 部 が あ る た め に 二 日 間 の 滞 在 で
ジャイ市には法学・経済学・工学・農学・環境マネージメン
あ る。 な お、 キ ャ ン パ ス は タ イ 南 部 の 都 市 に 複 数 あ り、 ハ
ラー大学の宿舎へ向かった。ホテル組は基本的に一人部屋な
Hazards and Geomorphology in Monsoon Asia: Progress in
のだが、私たち宿舎組は数人ごとの相部屋であった。誰と同
た。私の中の問題といえば、誰と相部屋になるかであった。
ト・リベラルアーツ・薬学など他にも多数の学部を持つ総合
じ部屋になるか気になりつつも、薄暗くなった窓の外に目を
大学の宿泊施設は思ったよりもきれいで、聞けば外国人研
究 者 が 短 期 滞 在 す る た め の 寮 の よ う で、 全 く 問 題 は な か っ
転じると、道路沿いに多くの人々が出て夕涼みをしていた。
熱帯 亜
・ 熱帯などでは、陽が落ちて涼しくなってから人々の
-
- 229 -
-
北大を出た後、ミャンマーで働き、再び研究するためにオー
私。Fさんはオーストラリア国立大学の大学院生であり、東
はこれまた大きなスーツケースを持ってきたHさん。そして
た。一人は大きなザックを背負って現れたFさん。もう一人
出来るか心配だった。そして、ついに3人の男が部屋に集っ
私は正直言って、人見知りするタイプである。うまく話しが
さて、本題の発表だが、私は "Development processes of a
tunnel in pyroclastic flow deposits in Southern Kyusyu,
んばかりに冷たいものがでてきた。
宿舎とはだいぶ違った。ちなみに飲み物もこれでもかと言わ
風邪を引くのではと思うほど寒い。扇風機しかなった大学の
は冷帯」。聞いてはいたが、こんなにクーラーを利かせたら
になる。タイのホテルは、かなり寒いのだ。「外は熱帯、中
ス ト ラ リ ア に 渡 っ た 人 で あ っ た。 指 導 教 官 が 私 と 同 じ 人 物
マーの政治・生活状況など、現在地理を教えるにあたり非常
た。 と く に F さ ん の オ ー ス ト ラ リ ア の 大 学 の 現 状 や ミ ャ ン
研究や学会を取り巻く状況など初日から多くの話しができ
形」という言葉で繋がっていた。私の心配をよそに、互いの
めていた。三人とも全く異なる所属で初対面だったが、
「地
は当時、桜美林中学高校の講師をしながら、自分の研究を進
気鋭の若手のホープ。誰もが知っている研究者であった。私
話しができた。もう一人のHさんは、東大の大学院生で新進
語で答える。時間はあっという間に過ぎていった。
「同じよ
国人が発表の説明を求めてくる。私も懸命にたどたどしい英
ぞという緊張感に包まれる。タイ人をはじめとする多くの外
た。発表者全員のポスターがはり出されるといよいよ始まる
持ってきた人と議論を交わす方法だ。私はポスターで発表し
制 限 で あ ら か じ め 作 成 し て き た 図 や 表 を 壁 に 貼 り、 興 味 を
表するもの。もう一つはポスターセッションと言い、時間無
あり、一つはオーラルセッションと言い、演台で時間内に発
(南九州における火砕流堆積物内のシラストンネルの
Japan"
発達過程)というタイトルで発表した。発表スタイルは二つ
で、以前に先生からFさんの話しを聞いた事もあり、多くの
に役に立っている。ちなみに、現在Fさんは京大、Hさんは
うな地形を見た」
「この地質の特徴は?」
「雨の降り方は?」
学会は、日本地形学連合とソンクラー大学の共催で行われ
た。 私 は 国 際 学 会 が 三 度 目 の 参 加 で、 発 表 は 二 度 目 で あ っ
学会一日目(十二月二十日)
で、今でも緊張することがあると、外国人と議論したことを
しかし、こういう場で発表すると間違いなく度胸はつくもの
だったと。ぜひ、皆さんはしっかりと英語を学んでほしい。
多くの意見が飛び交い大変有益だった。そして議論が終わる
「データの取り方を変えてみては」
「土壌水分を正確に」など
筑波大で働いており、二人とも研究の第一線で活躍している。
た。発表場所はハジャイ市内のホテルであった。大学の宿舎
と、 い つ も 思 う こ と が 一 つ。 英 語 を し っ か り 勉 強 す る べ き
から来た私たちは、ここでタイのホテルの洗礼を受けること
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- 230 -
-
学会二日目(十二月二十一日)
日本ではお目に掛かれない。
が、タイの夜空に響き渡ったのは言うまでもない。これまた
ジャーなカルチャーだそうだ。お酒の入った大先生達の歌声
化 だ が、 今 で は 世 界 中 に 広 が っ て い て、 タ イ に お い て も メ
場した。日本の曲も多数そろっている。カラオケは日本の文
らの巡検の話しが行われた。宴も中盤になるとカラオケが登
そ の 日 の 夜 は、 会 場 ホ テ ル の 屋 外 の プ ー ル サ イ ド で パ ー
ティが行われた。その場で発表に対する議論の続きや翌日か
身に降り懸かってきたらゾッとするのだが…。
れが国際学会の醍醐味で見ていて面白い。この状況が自分自
活発に意見しあい、たまには意見が対立することもある。こ
た。タイ・日本・その他の国の人々が、それぞれの立場から
には自らかけてしまう人も…。日本では絶対にない光景だっ
オーラル会場では、日本の学会では絶対に有り得ないこと
が1つあった。それは、携帯電話が良く鳴ることである。中
て通りたい。
い私にとって外国人と話すことは苦手で、できるならば避け
ている。英語の先生には笑われるかも知れないが、それくら
思 い 出 し て、
「国際会議より怖くない」と自分に言い聞かせ
た。この日は、この町で宿泊した。
トゥンという町に向かった。サトゥンはマレーシアとの国境
られないものを得られる。地理や地学の先生で巡検が嫌いと
ろいろなハプニングが起こる。とにかく巡検は実験室では得
は秩父の山奥で足を滑らせ、谷底に落ちそうになったり、い
四十名ほどの小宝島でハブに噛まれそうになったり、あるい
を専攻していた私は多くの巡検に参加した。たとえば、人口
理学の世界にとって、巡検は大切な学びの場である。地理学
行と言ったところだ。当然、フィールドの科学を自称する地
や地学の専門用語と言ってよいだろう。ある地域を実際に訪
「巡
そ し て、 こ の 日 の 午 後 か ら、 巡 検 が ス タ ー ト し た。
検」って何?こう思った人も多いだろう。巡検とは、地理学
に発表をしていきたいと思う今日この頃である。
もに今まで考えていなかったような助言が得られる。定期的
国内でも海外でも発表すると、自分の研究が整理されるとと
二日目もポスター発表は行われ、私もポスターの前に立っ
た。初日よりも日本人が多く訪れ、英語まざりの日本語が活
なる。
館内を冷やす事だと思っているらしい。この点も日本とは異
の 町 で イ ス ラ ム 教 徒 の 多 い 町 で、 街 中 に は モ ス ク も 見 ら れ
い う 人 は い な い と 思 う。 ま ず は ハ ジ ャ イ 市 の 南 部 に あ る サ
れ、そこで見たもの聞いたものを記して歩く、いわば調査旅
躍した。細かい点が通じ、議論はより深くより激しくなる。
昨晩のカラオケに引き続き、熱い議論が続く二日目。相変
わらずホテルの中は冷帯である。どうやらホテル側のサービ
スとは、過ごしやすい温度にすることではなく、できるだけ
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-
ないものが多くあった。
サトゥンでの見所は何と言ってもマングローブ林である。
ま ず 私 た ち は Mangrove Research and Development Station
という役所で、この地域の現在のマングローブ林の状況につ
な所を見てほしいという案内者の意図が伺える行程だ。
長距離移動はまず有り得ない。せっかく来たのだからいろん
で約三〇〇㎞の移動距離である。日本での巡検でこのような
本 格 的 な 巡 検 は、 こ の 日 か ら 始 ま る。 こ の 日 の 行 程 は サ
トゥン→ソンクラー湖→パクパナン→ナコンシータマラート
み、海岸侵食から土地を守っているのである。いよいよ小船
ないだろう。そして、このマングローブが豊かな生態系を育
成するために伐採されたりしていることはあまり知られてい
う名前の植物は世界中どこを探してもない。熱帯 亜
・ 熱帯の
潮間帯(河口部の海水と淡水が行き交う場所)に生える植物
ではなかなかお目にかかれない。ちなみにマングローブとい
ることができるが、眼前にある広大なマングローブ林は日本
学会三日目(十二月二十二日)
いて説明を受けた。内容は、①タイでは一九七〇~九十年代
から下りて、マングローブ林内に入った。粘性の高い土壌で
その後、私達は小舟に乗り換えて、マングローブ林と炭焼
き小屋跡へと行くことになった。マングローブは日本でもみ
にかけて政策的にマングローブを伐採し、それを利用した炭
非常に歩きにくかった。すぐに炭焼き小屋跡が見え、壊れた
苗( 幼 樹 ) や 海 洋 生 物 の
所内ではマングローブの
し を 聞 く こ と が で き た。
を実践しているという話
イにおける環境教育など
ロ ー ブ の 管 理 や 植 林、 タ
役 所 で は、 周 辺 の マ ン グ
採 が 禁 止 さ れ た。 ③ こ の
さ れ、 マ ン グ ロ ー ブ の 伐
などの東南アジア諸国で養殖されている。とくに海岸のマン
人の食するエビの多くは、インドネシア・マレーシア・タイ
クラー湖周辺の陸地に造成されたエビの養殖池である。日本
の霞ヶ浦の六・五倍の大きさを持つ。ここでの見所は、ソン
㎞、東西
再び小船に乗り、バスに乗り換え、次にソンクラー湖を目
指 し た。 ソ ン ク ラ ー 湖 は マ レ ー 半 島 東 部 に 位 置 し、 南 北
出していただけのことはあると感じた。
にあるそれとは比較にならないほど大きい。マレーシアに輸
炭焼き窯の中に入ったが、その大きさに驚いた。日本の山地
ローブ林が、薪炭材として使用されたり、エビの養殖池を造
標本など日本では見られ
90
㎞のタイ最大の海跡湖である。日本最大の海跡湖
25
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-
の 総 称 を マ ン グ ロ ー ブ と 言 う の で あ る。 こ の 広 大 な マ ン グ
年代後半から政策が転換
焼きを行い、マレーシア等に輸出を行ってきた。②一九九〇
河口部を進む小船とマングローブ
である。しかし、私達が訪れた養殖会社は、水田を養殖池に
グローブ林を伐採して、養殖池を造成している例が多いよう
こ っ て お り、 海 岸 侵 食 先
の海岸線は海岸侵食が起
上 し た。 タ イ ラ ン ド 湾 側
た。 パ ク パ ナ ン と い う 小
前に、ある小さな町に寄っ
バスは本日の終着点の
ナコンシータマラートの
的に資金 技
・ 術ともに支
援をしなければと思った。
進国の日本はもっと積極
改変していた。写真を見てもらえば分かると思うが、見渡す
限りの養殖池でその広大さは驚くばかりであった。養殖池で
は病気の蔓延を防ぐために多くの薬品を用い、十年くらいで
池は使用できなくなるという話しを聞いた。さらに薬品を多
量に使用しているので再び水田としては利用できないそうで
ある。つまり、一時の収入のために、多くの土地がその後放
棄 さ れ、 長 期 間 使 用 で き な く な る の だ。 た と え ば タ イ の 場
合、バンコク周辺の海岸でエビの養殖が始まったが、その多
さ な 町 だ が、 車 窓 か ら 見
の地域の農業に大きな影
下 水 の 塩 水 化 が 進 み、 こ
水 を 引 き 込 む こ と で、 地
も、現地でなくては知り得なかったことだろう。そして、本
現在では二〇〇以上のツバメマンションが建っている。これ
的に収入が高く、他の町より豊かな生活をしているそうだ。
を採取し市場に出すそうである。よってこの町の人は、平均
ンションにツバメを集め、人間は高級食材であるツバメの巣
るかぎり大きなビルが建ち並び、やけに立派な町だなと思っ
くは放棄され、現在は南部に移ってきている。そして、今後
響 が で て い る こ と だ。 日
日の宿泊地であるナコンシータマラートのホテルに到着し
はマレーシアやインドネシアの海岸にその拠点は移動してい
本の食卓にあがるエビに
て、この日の日程は終了した。ちなみに、このナコンシータ
た。実はこのビルは人の住むマンションではない。では誰が
は こ ん な 背 景 が あ る と は、
住むのか?答えはツバメである。この鉄筋コンクリートのマ
現場に来なければ考えも
マラートは、歴史を選択している人は知っていると思うが、
す る に あ た り、 内 陸 に 海
しなかった。
山田長政が最期をむかえた町でもある。この日は、日本をは
江戸時代初頭にシャム(現在のタイ)の日本人町で活躍した
エビの工場をあとにし
て、 海 岸 沿 い を バ ス は 北
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- 233 -
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窓のないマンション
くと考えられている。もう一つ大事なことは、養殖池を造成
エビの養殖池
じめとする先進国の経済活動がタイの環境を変化させている
なと実感させられた一日であった。
学会四日目(十二月二十三日)
この日は、朝七時にホテルを出発し、いよいよ世界的な観
光地であるプーケット島に向かった。この日の移動もかなり
長くプーケットにつくまで六時間かかった。バスの車窓から
は、ヤシや天然ゴムのプランテーションが広がっていた。ま
た、どの町を通過しても必ず国王の姿の描かれた大きな看板
があり、国王中心の国家であることが理解できた。タイでは
クーデターやデモが起こり、解決できなくなる状態になると
必 ず 国 王 が 出 て く る。 す る と 驚 く ほ ど 簡 単 に 問 題 が 解 決 す
の多島海をクルージング
す る こ と に な っ た。 船 上
でバイキング形式の食事
を と り な が ら、 タ ワ ー カ
ルストや過去の海水準変
動の痕跡であるノッチを
見たりしながら陽が落ち
るまでクルージングを楽
し ん だ。 途 中 ジ ェ ー ム ズ
ボンド島と呼ばれる島も
見 る こ と が で き た。 映 画
「007」の舞台となった島だそうだ。プーケットの海は碧
色で青い海をイメージしていた私にはちょっと残念であっ
山が見られるようになっ
プーケットが近くなる
と、 石 灰 岩 の 白 い 岩 肌 の
楽しんだ。まさかこの三日後、眼前の平和な海で世界的な惨
きれいで印象的であった。私たちはゆっくりと流れる時間を
しい景観を醸し出していた。島影に落ちていく夕日がとても
た。しかし、カルストの白と海の碧のコントラストが素晴ら
て く る。 午 後 一 時 に は、
あ っ た。 バ ス は そ の ま ま
が 話 題 に 取 り 上 げ ら れ た。 技 術 支 援 を い か に す る べ き か、
ングローブ林・エビの養殖池・海岸侵食など巡検で見たもの
この日が最終日で、午前中ホテルにおいて巡検のまとめを
することになった。タイ南部の環境問題が話し合われた。マ
学会五日目(十二月二十四日)
事が起ころうとは誰も思ってはいなかった。
プーケットは観光都市な
だ け あ っ て、 今 回 訪 れ た
海に向かいクルーザーに
どの都市よりも都会で
乗 り 込 み、 ア ン ダ マ ン 海
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アンダマン海のタワーカルスト
プ ー ケ ッ ト に 到 着 し た。
る。それくらい国王には威厳があるのだ。
プーケットのビーチ
た。M先生曰く「バンコクの北京ダックは世界の中でも指折
東北学院大のM先生に連れられて、北京ダックを食べに行っ
とプーケット島の緑が目に焼き付いている。バンコクでは、
考えればこの選択は正しかった。飛行機から眺めた碧色の海
私はこの島に滞在しバカンスを楽しもうかとも思ったが、
午後にはプーケットを離れ、首都バンコクに向かった。後で
の意見がでて、学会は幕を閉じた。
機会があった。その時「津波も恐ろしかったが、その後の情
進めることとなるのだが、その時のプーケットの状況を聞く
(福島の猪苗代湖と郡山市を結ぶ峠)の階状土の研究を共に
た。このうちの一人、東北大のFさんとは、のちに御霊柩峠
もに学会に参加していた二人が、まだプーケットに残ってい
知ったのは、相模原の自宅に到着してからであった。私とと
の こ と は 皆 さ ん の 記 憶 に も あ る で あ ろ う。 私 が こ の 惨 事 を
さて日本に向けて飛行機に乗り込み、空を飛んでいるその
時、二〇〇四年十二月二十六日、スマトラ島沖でM9・3の
もっと日本の研究者は海外を丹念に調査するべきだなど多く
りだ」だそうで、確かにおいしかった。しかし、個人的には
地震が起き、私のいたプーケットでは津波被害が起きた。こ
北京師範大学内の食堂で食べたものの方がおいしいと思っ
報 の 混 乱 が 一 番 恐 ろ し か っ た 」 と 話 し て い た。 彼 ら の 無 事
は、九州大のK先生からのメールで世界中の参加者全員に知
らされた。それが以下のメールである。
Dear colleagues
Thank you for your attendance for the International Confer-
ence on the Environmental Hazards, and Geomorphology in
Monsoon Asia at Hatyai - Phuket, Tai Land.
Two of our members stayed at Phuket when the big Tsunami
attacked the beaches at yesterday morning. Fortunately, they
came back to Japan safely in this morning.
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-
た。M先生ごめんなさい。
しよう。
クの話しはまたの機会と
た 趣 味 で も あ る。 バ ン コ
面 白 い。 こ れ は 私 の 隠 れ
都市の側面を見たようで
川 か ら 都 市 を 眺 め る と、
い 低 層 の 住 宅 が 建 ち 並 ぶ。
畔 に は、 高 層 の ビ ル と 古
市 内 を 川 か ら 眺 め た。 河
ゆ っ く り 下 り、 バ ン コ ク
翌 日、 バ ン コ ク 郊 外 の ア ユ タ ヤ ま で 行 き 遺 跡 を 見 学 し、
チャオプラヤ川を船で
チャオプラヤ川からの眺め
毎 回 何 か が 起 こ る 巡 検 で あ る が、 今 回 も 大 変 な こ と が 起
こってしまった。しかも、メールを見てもらってわかると思
という単語はもちろん「津波」
"Tsunami"
う が、 Hazards
と 冠 に つ い て い る 学 会 で、 本 当 に 災 害 が 起
こってしまったのである。全く洒落にならない状況である。
メールにでてくる
で あ る が、 こ の 言 葉 は "Sabo"
「砂防」という言葉とともに
国際用語として定着している日本語である。それだけ日本は
災害が多い災害先進国なのだ。
私がもしプーケットに残っていたら、きっと今栃木にはい
ないと思う。また、プーケットの船上で私達の世話をしてく
れ た 子 ど も 達 や 船 員 の 人 た ち は ど う な っ て い る の か? 今 と
なっては全くわからない。運命とは不思議なものだ。あっと
言う間のタイでの経験だったが、多くのことを学んだ。やは
り現場で学ぶことは多く、確実に自分のためになる。皆さん
も若いうちにどんどん海外を楽しんでほしいと思う。
(地歴公民科)
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- 236 -
-
学の精神を以って建ち、それを世に布くために子弟を育てて
「学院」とは私学であることを示す呼称である。私学とは建
1
て、その暮らしを相互に守ることを考える必要がある。
を持ってもらいたいと願う。国土や共生する人々を大切にし
時代からの要請もあることを心に留めて、気概と大きな視野
その私的な目標や行動の基底には、社会と自分の生きている
あ る 対 話 か ら
久保田 千 秋
いく教育機関である。
「国体」の意味は一九四七年を境に変
一国で国家や平和が成り立つ時代は、すでに終わっている。
まず学業に専念しその本分を尽くすべきであろう。しかし、
わっているが、
「国体の講明」を、
「自己の拠って立つ基盤で
協調が、今世紀初頭の私たちのテーマなのだと思う。
識的に、この語によって結び付けられることもある。校報5
的な郷愁」と「過渡的な政策」とが恣意的に、あるいは無意
等のさまざまな概念が重層的にイメージされており、
「叙情
「国」と一口に言っても、国土、国民、郷土、政府公共機関
塾・予備校と一線を画するものは、実にこの理念である。
ポルタージュに詳しい。
)
耕太郎による『テロルの決算』―文春文庫―という優れたル
した会であることが知れた。
(浅沼稲次郎については、沢木
次郎社会党委員長の遺影が掲げられ、浅沼縁りの人々が主催
場正面には半世紀近く前の十月十二日に亡くなった故浅沼稲
本年十月十日の夜、都内で自民党・野中広務氏と社民党・
土井たか子氏の二人を中心にしたシンポジウムがあった。会
国際社会、とりわけ地政学上は、東アジアの人々との友好と
ある共同体の成り立ちや、あるべき姿を追究する」 と解し
てもよいだろう。そのために身を修め、心を磨くことが「徳
53号四面では、こうした複雑な共同体と私たち個々の構成
最初に指名された土井氏は、憲法が十分に機能していない
現状について朗々と語り、一端論を締め括った。次に指名さ
性 の 涵 養 」 と い う こ と で あ る。 私 た ち と、 他 の 教 育 機 関 や
員との「絆」が整理されて述べられている。生徒たちには、
個々の将来を建設するための努力が第一に求められている。
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- 237 -
-
れ た 野 中 氏 は 老 練 な 政 治 家 の 凄 み を 見 せ た。 司 会 者 を 促 し
て、会場の私たち全員に起立を求め、他党の浅沼のために黙
に、位置づけの方向は現実から遊離していたが、作家三島由
であった。特に野中氏の考え方に興味を引かれた。七〇年代
「五十年以上を経
どちらの議論も「押し付けられたから」
たから」といった議論とは次元が異なり、説得力を持つもの
めとして堅持すべきものであることを説いた。
るわけでなく、積極的に生かす努力によって、戦争への歯止
これに対して土井氏は、九条は不戦を誓った日本の国際社
会に対する公約であり、金科玉条としていれば平和が実現す
改憲すべきであることを主張した。
述べ、自衛隊を合憲化し、専守防衛を明記する方向で九条を
野 中 氏 は 前 提 と し て、 憲 法 は 不 変 で 固 定 的 な も の で は な
く、時代状況に適ったものに変えていかなければならないと
あった。
いた婦人が「そうだよ!」と叫んだ。後は野中氏の独 場で
かれ、土井氏は「私は恥ずかしい」と素直に詫びた。前列に
辞に送った詞の一節まで披露したのであった。会場は虚を突
口の見えないまま進行している現実への危惧の念と深い反省
のとは異なっている。そして、野中氏の主張の背景には、出
中氏の自衛隊合憲化の意図は、「大義を付与して海外に出す」
戦闘地域」に赴くべきであろうという怒りが感じられた。野
高に唱える人々も、その必然性を痛感するなら、自身が「非
による後遺症の精神的ストレスや体調不良について触れ、精
氏は発言の中で、イラクから帰還した隊員の、現地での緊張
戦闘地域」?に出て行けるかなと考えたことがあった。野中
ことであった。「国際貢献」という名の下に海外に派遣され
た。輸送用の車両にも通弾を防ぎきれない車種もあるという
と問うと「命には別状がないので…」という答えが返ってき
が不可能な長さ、手足は露出するもので、イラクで使用して
とって見せてもらった。一〇キロ程で胸部と腹部以外は防御
着してみますか?」と勧めるのを断り、防弾チョッキを手に
都内の某駅頭で数種類の防弾チョッキや装甲車両を展示し
て、自衛官を募集していた隊員と話したことがあった。
「装
2
紀夫は死を賭して、自衛隊の存在を問い糾した。九条の問題
祷を捧げ、当時の内閣総理大臣・自民党総裁の池田隼人が弔
を考える際、隊員・事務官合わせて約二十七万人という、現
がある。
査・報道の必要を説いた。若者の後ろから「国際貢献」を声
る若者の装備を見て、自分ならばいかなる大義を負えば「非
いた型という話であった。「他の部位はどう守るのですか。
」
存する自衛隊をどう捉えるかは避けて通ることができない。
二〇〇七年一月九日に防衛庁が防衛省へと変わることで、
内閣府から防衛大臣の指揮下へと移行した自衛隊は、政令制
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-
の「役割・任務・能力」を分担する段階へと歩み出している
地を提供する段階から、米軍と一体化した自衛隊が米軍戦略
の軍事戦略に一方的に引きずられながら、
「日米同盟」は基
現実のものとなった。憲法や非核三原則とは無関係に、米国
シントン横須賀共同基地への配備」が、今秋九月二十五日に
いまま、米大使館から通告された「原子力空母ジョージ・ワ
されたのであった。また、二〇〇五年十月に事前協議を経な
に留まらない「海外での活動」が、憲法とは別な地平で公認
的な場での活動が「本来任務」として付加された。専守防衛
昧な地域での活動と、
「我が国を含む国際社会」という抽象
改正・自衛隊法第三条には、
「我が国周辺の地域」という曖
定権、閣議請求権などの権限を持つ組織となった。そして、
心からの憂国の想いと、政府二世議員たちが画策する「国際
」
この反省と「子や孫にあんな時代を味わせてはいけない。
(講演の中の言葉)という戦争体験に立脚する野中氏の、衷
体化への可能性を開いてしまったという深い悔恨がある。
る。氏には、自覚の無いまま、国外での米軍と自衛隊との一
問題から目を閉じてしまうことになりました」と語ってい
れている時期でした。日本人はあの不審船で一挙にそういう
相次いで出てきて、ガイドライン法案が国会審議を混乱に陥
不思議でなりません。あの時は防衛庁の調達業務の不祥事が
と思います。後から考えますと、なぜあの時に発覚したのか
けれども、北朝鮮からの麻薬を運ぶ船は常に日本に来ていた
史上初の、海上警備行動を海上自衛隊に出した張本人です。
貢献」という名の対米支援の現実との落差は埋めがたいもの
がある。シンポジウムの中で、野中氏は世襲議員の戦争認識
や見識についても触れ、小泉元総理の後継問題に対しても批
のである。
民主党オバマ候補も大統領選挙で勝利した後に、泥沼化す
るアフガニスタンへの増兵を示唆している。この間、拉致問
判的であった。
これに対して土井氏の主張は、以下のような認識に基づい
ている。
3
題 等 で 米 国 か ら 梯 子 を 外 さ れ た 日 本 に は、 そ う し た 中 で、
「米国にどこまで貢献できるかが、日本のプレゼンスを示す
いた)自衛隊に日本国外での不特定な地域での対米支援任務
一 九 九 九 年 五 月、 野 中 氏 は 小 渕 内 閣 の 官 房 長 官 と し て、
「能登不審船事件」を梃に、
(米国から強い期待が寄せられて
一九九〇年代、冷戦が終結した後に、米国の日本に対する
様々な要求が高まってきた。あたかも、朝鮮戦争前後の一九
道だ」といった論議も出てきている。
を与える「周辺事態法」を成立させた。
転換した時のように。
五〇年代から、日本への占領政策が武装解除から再軍備へと
そ の 点 に つ い て 後 に 氏 は『 ダ カ ー ポ 』 二 〇 〇 二 年 三 月 号
で、「私は官房長官任期中、北朝鮮の不審船事件に遭遇して、
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- 239 -
-
が言明してあった。日米安保は「単一の脅威=対ソ抑止」か
の創設指令を出す。
名目で、マッカーサーは自衛隊の前身である「警察予備隊」
発した朝鮮戦争への、米軍出動後の日本の治安のためという
院本会議での施政方針演説を述べた。同年六月二十五日に勃
「戦争放棄は自衛権の放棄ではない」と一月二十四日の衆議
共同対処が盛り込まれた。自衛隊には国土防衛を超える任務
指針)には「地理的な概念ではない」
「周辺事態」に対する
ア太平洋地域」へと拡大した。この会談を受けて一九九七年
安保協力の地理的範囲は安保条約六条の「極東」から「アジ
トン・橋本の首脳会談後の「日米安全保障宣言」において、
た。このレポートを基礎とした、翌一九九六年四月のクリン
世界戦略のパートナーとなることを日本に迫るものであっ
ら「多岐に亙る脅威=地域紛争」へと運用方針が転換され、
一九五五年十一月十五日には「自主憲法制定」を党是・悲
願とする自由民主党が結成される。
「独立のための」再軍備・
が課せられたのである。その後、この指針の実効性を高める
米国から「領域外周辺事態への共同対処」という海外任務が
改憲を掲げて登場した民主党と、
「軍隊の設置」
、
「国防に協
ための様々な国内法が制定されていく。
一九五〇年代、東西両陣営の対立が顕在化する中、日本を
反共の「防波堤」にしようとする米戦略にとって、米国自ら
力する国民の義務」などを盛り込んだ「日本国憲法改正案要
「北朝鮮脅威論」を背景に成立した一九九九年の「周辺事態
が日本にもたらした平和憲法は、その障害となった。一九五
綱案」を発表した自由党との保守合同が成立したのである。
法」
「船舶検査活動法」、二〇〇一年九月の米同時多発テロを
提起される。後の、一九九五年二月のクリントン政権の国防
こうして一九五〇年代から、六〇年代の安保・沖縄の問題を
受けての十月の「テロ対策特別措置法」
、二〇〇三年イラク
次官補のジョセフ・ナイの「東アジア太平洋戦略報告」
(通
経て、国際社会の動向の中で揺れ動いて来た「憲法九条」が
戦争開始後の「イラク特措法」
、 二 〇 〇 四 年 の「 有 事 関 連 七
〇年一月一日マッカーサーは「年頭の辞」で憲法九条の解釈
大きく変容するのは、一九八九年十一月「ベルリンの壁」崩
法」
(米軍行動円滑化法・国民保護法など)
がそれである。
土井氏には、九条改憲や解釈改憲の背後には米国の軍事戦略
変更を迫った。
「自己防衛の冒しがたい権利を全然否定した
壊によって冷戦が終結以降のことである。
上の要請があり、「押し付けられた」のは「改憲」なのだと
称「ナイ・レポート」)は、専守防衛に留まることなく、米
一九九三年に発足したクリントン政権下、
「ボトムアップ・
レビュー」と呼ばれる軍事力と基地配備の全面的な見直しが
いう認識がある。一九九一年の湾岸戦争に一三〇億ドル(約
ものとは絶対に解釈できない。
」と。これを受けて吉田茂は、
始 ま る。 翌 年 の「 国 防 報 告 」 で、 ソ 連 崩 壊 後 も、
「 ア ジ ア・
九月に決定した「新ガイドライン」
(日米防衛協力のための
太平洋地域に一〇万人規模の米軍を維持する。
」という方針
-
- 240 -
-
日米同盟の妨げになっており、九条改憲が国連安保理常任理
て、当時の国務次官であったアーミテージは、日本国憲法が
同年翌月の、二〇〇四年七月に訪米した自民党代表団に対し
術 を 近 代 化 さ せ る こ と を 目 的 と し て い る。
」 と 述 べ て い る。
体制の変革は、同盟国や友好国の軍隊を近代化し、戦略や戦
二〇〇四年六月二十三日の米下院軍事委員会で当時国防総
省政策担当次官であったフェイスは「米国の地球規模の国防
4
をしっかり見なくてはならないと思う。
まい。護憲を唱える側も、改憲の基底にあるメンタリィティ
に米国に付き従い、軍産体制に引きずられている訳ではある
きない部分もある。しかし、国内の改憲をめざす人々も、単
きた米国の姿勢を見ると、土井氏の認識は全面的には否定で
の侵攻では「オン・ザ・ブーツ」と自衛隊派遣の要求をして
ではだめだ」と人的貢献を求め、アフガニスタン・イラクへ
情や願いは尊いものである。社会福祉の根本をなし、江戸期
主旨のものが散見される。
『応分の貢献をしたい』という心
際、本校の生徒の弁論大会の原稿や、小論文にも、そうした
る た め に 改 憲 を 」 と 考 え て い る 人 々 で は な い か と 思 う。 実
現するために応分な貢献をすべきだ」
「その活動を容易にす
しかし、この二十三%の多くは、「国際社会の中で平和を実
六十六%にたいして、賛成二十三%という数字が出ていた。
三日の朝日新聞発表の世論調査では、九条改憲について反対
法の理念とは『世界の平和を希求し、国際社会で名誉ある地
を』でも、国連を中心とした平和活動に積極的に参加すべき
昨 年( 二 〇 〇 七 年 ) 岩 波 書 店 の『 世 界 』 十 一 月 号 に 載 っ
た、民主党小沢一郎の論文『今こそ国際安全保障の原則確立
て行われる活動」に参加することが明記されている。
が「国際社会の平和と安全を確保するために国際的に協調し
た。草案の9条・2では自衛軍保持を明記し、3では自衛軍
翌月の、二〇〇五年十一月、自民党の「憲法草案」が発表
された。海外での様々な活動への可能性を示したものであっ
位を占めたい』という願いである。本年(二〇〇八年)五月
る。問題はどのようなことで「名誉ある地位」を得るのか。
2兆円)の戦費負担をした日本に、
「キャッシュ(金)だけ
事国入りの条件であると語った。当時の国務長官パウエルも
であり、それが憲法の理念に適うものであるとしている。憲
同様の見解を示している。
二〇〇五年二月十九日、
「日米安保協議委員会」は日米が
「地域及び世界における共通の戦略目標を追求するために緊
すなわち、真の「国際貢献」とは何かということではないだ
には思想として結実した日本に伝統的な相互扶助の精神であ
密に協力」することに合意した。この合意にもとづく同二〇
しかし、こうした願いとは無縁の地平で、一〇〇七年頃よ
ろうか。
〇五年一〇月二十九日の「日米合意」は「国際平和協力活動」
に自衛隊が米軍とともに軍事行動を行うことを明確にした。
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ら日米同盟は変質する」と脅しをかけ、元国防総省の日本部
り、ゲーツ米国防長官は「米へのミサイルを迎撃できないな
地元の人による医療活動である
地元に即した
「我々の鉄則とするのは
アジアの同胞として
長アワーも自衛隊の最大の任務はミサイル防衛であるとし、
てきている。今日までの政府見解で禁じられてきた集団的自
「集団的自衛権についての考え方を改めよ」と頻繁に要求し
らない状態にしたのは誰なのか。そこを糾さないで行われる
道復興支援もない。そもそも両国の国土を『復興』せねばな
その軍に支持・協力したことへの深い省察なくして、真の人
に、アフガニスタン・イラクの米軍にはもはや大義はなく、
「不安定の弧」
「対テロ戦争」という枠組み
国際貢献とは、
の中での対米貢献ではないと私は思う。米議会も認めるよう
5
約」へと昇化させることが前提となろう。
憲を必要とするなら、
「日米安保条約」を「日米平和友好条
が果たしていけるとは考え難い。その責任を果たすために改
化していく『二国平和主義』ならば、国際社会に対する責任
あると思う。
に、その国のニーズに応え、その国の将来に寄与することで
と は、 自 国 の 企 業 を 潤 す こ と で は な く、 中 村 氏 の 言 う よ う
が重要なのは当然であろう。しかし、他国に対する真の支援
述べている。円滑な支援には、治安活動と、民政活動の双方
があります。それは、本来、武力とは何の関係もない。理論
療、農業支援、水源確保などを行っている会である。この会
というパンフレットの中村哲の言葉に心惹かれて、ペシャ
ワールの会に入会した。アフガニスタンとパキスタンで、医
静かに問い続けるものでありたい」
おなじ目の高さを持って
『国際貢献』
『国際化』の何たるかを
支援では、インド洋の給油を含めて、国際社会から信頼を得
中 曽 根 康 弘 氏 は、 今 月( 十 一 月 八 日 ) の 朝 日 新 聞 の イ ン タ
一九八三年、総理として訪米し、レーガン大統領に日米を
「運命共同体」と語り、
「日本列島浮沈空母」論を打ち上げた
衛権を行使する方向で、数兆円の国税を投じて、米軍と一体
ることは難しいのではないだろうか。
「報復攻撃」や「先制
ビューで米金融危機を「モラルなき拝金主義」の所産と批判
的に考えても、軍隊をもってする支援なんてありません」と
の現地代表者である中村哲は「国際貢献にもいろんなやり方
攻撃」の後にその攻撃の根拠や正当性が証明できない同盟国
に、唯々諾々と協力することは主権国家日本として望ましい
した後、
「 米 国 に よ る 一 極 支 配 か ら 転 換 し、 新 し い 時 代 に お
ける世界協調のあり方を検討し直すべき時を迎えた。
」とい
ことだとは思えない。
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う認識を示している。かつて、靖国参拝について「国家が召
集 し た 兵 士 な の だ か ら、 国 家 が 慰 霊 せ ね ば け じ め が つ か な
い。」と述べた氏を、筋を通す政治家だと思っている。徴兵
の国家責任を明確にしているからである。今回の世界に対す
る現状認識についても、ご高齢にもかかわらず、柔軟で鮮や
かな発想の転換には驚かされるのである。
日米安保条約は経済的な条項を含む条約でもある。第二条
の後半には「締結国は、その国際経済におけるくい違いを除
くことに努め、また、両国の間の経済的協力を促進する」と
ある。この項を熟知しておられる中曽根氏の先の見解は、い
よいよ、卓越した政治家であることを感じさせる。
今年も自衛官、警察官、公務員を目指して進学・就職され
る諸君がおられると思う。今、そのような分野で活躍されて
いる卒業生一人ひとりの顔も目に浮かぶ。国や国民の命・生
活を守る仕事は尊く重い。諸君の健勝を祈るばかりである。
(国語科)
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創立四十八周年記念講演(要旨)
紺井 博則
サブプライム問題から見えてくるもの
國學院大學経済学部教授
今日はサブプライム問題についてお話します。もともとアメリカの住宅市場でおきた出来事だったの
ですが、あっという間に影響が世界中に広がってしまいました。今では一九二〇年代のニューヨークに
端を発した「世界大恐慌」並の影響が広がるのではないかと言われております。
住宅バブルに群がる人々
日本では土地の資産価値が高く評価されていますが、国土の広いアメリカでは、住宅物件の資産価値
が高く評価されていて、担保にしたり、高値で取引されたりしています。何よりも、アメリカ国民は自
分の家を持つことに強いこだわりを持っているのです。アメリカでは、住宅ローンを組むときに、銀
行・貸し手側は、借りる人の所得などを審査して貸すかどうかを決めます。このとき、所得などが低
く、返済が焦げ付く恐れがある人々をサブプライム層と呼び、本来は高額ローンを組むのを断ってきた
のですが、二〇〇三~四年にかけて住宅の資産価値(価格)が右肩上がりにあがり続ける「住宅バブ
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ル」が起きて、情勢が変わってきました。
土地の資産価値(価格)が上がり続けることを「土地バブル」といい、それが住宅で起こることを
「住宅バブル」といいます。
借りる側は、途中でローンが返せなくなっても、その時点で購入した住宅を売れば、資産価値は上が
り続けているのだから痛みは少ないだろうと楽観して、ローンを組みます。一方、貸す側も、お金を払
えなくなった人たちがいても、住宅を差し押さえてしまえば損はしないと見通して、サブプライム層の
人達にお金を貸す風潮が起こったのです。
もともと、サブプライム層にお金を貸すときには、こげつきのリスクを回避する名目で、元金に対す
る利子を大きく設定しています。銀行側からすれば、サブプライム層の人達は、利子をたくさん払って
くれるお客さんでもあったのです。
住宅の価格はなおも上がり続けました。こうなると、裕福な投資家達までが住宅市場に参入してきま
す、新しい家を買って、値上がった時に転売して、その差額を儲けようとする人達です。
これらの「住宅バブル」に群がる人々に共通している考えは、
「永遠に住宅資産価値が上がり続ける
はずだ」という幻想でした。しかし、永久に上がり続けることがないのは、歴史に学ぶまでもなく、少
し考えれば分かることです。
二 〇 〇 六 ~ 七 年 に か け て、 と う と う ア メ リ カ の 住 宅 の 資 産 価 値 が 急 カ ー ブ で 下 が り は じ め ま し た。
「住宅バブル」の崩壊です。返済能力に乏しく、かつ、高金利のローンを組んだサブプライム層の人達
は、
「いざとなれば自分の住居を誰かに高額で買い取ってもらえる」と思っていたのに、その保障が消
えたのです。返済に窮してせっかく買った住宅を泣く泣く手放す人達がでてきましたが、住宅を失い、
借金が残る、という結末が待っていました。
ところで、これだけの話でしたら、アメリカの住宅市場だけの問題で済んだはずです。しかし実際
は、この問題は世界経済に大きな打撃を与えました。それはどういうことだったのでしょうか。
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グローバル経済の盲点
人やお金、物が国境を越えて活発に行き来することをグローバル化と言いますが、現代においてヒ
ト・カネ・モノの三つの中で一番動きやすいものは何でしょう。そう、お金です。今はオンラインによ
る国際取引が可能ですので、クリックひとつで自分のお金を遠くの市場へ動かすことができます。もし
も魅力ある「金融商品」があると、世界中の「投資家」の目にとまることになります。サブプライム問
題に話をもどしましょう。実は、お金を貸した側の銀行が金融機関と組んで、サブプライム層向け住宅
の債権(ここでは住宅ローン)をまとめて「証券化」することを考えたのです。第三者である金融機関
は、その証券を小口の「金融商品」として、何食わぬ顔で世界の投資家に向けて売り出しました。おお
もとがサブプライム層の債権であったものを、様々なカムフラージュを駆使して専ら「金利が高い」こ
とだけをアピールした結果、この魅力ある「金融商品」としての証券は、世界の「投資家」達に順調に
売れたのです。投資家の中には、国内外の「銀行」もいて、資産運用の一環として大量の証券を購入し
たことが後で明らかになりました。
「住宅バブル」崩壊後、サブプライム層の返済が度を越して焦げ付くのに伴って、証券そのものの価値
も暴落しました。世界各国の銀行及び投資家は、紙切れ同然の価値に落ちた証券を手に、頭を抱えたの
です。こうして、アメリカ国内の一住宅市場の焦げ付きが、グローバル化した世界経済を巻き込んだ騒
ぎにまで発展してしまったのです。
今回の一連の問題から得られる教訓は、どういうものでしょうか。
「 住 宅 バ ブ ル 」 破 綻 を 止 め ら れ な か っ た こ と。 明 ら か に 行 き 過 ぎ た
過 去 の 例 に 学 ぶ こ と が 出 来 ず、
「債権の証券化」ビジネス。実体経済の4倍の規模で電子マネーだけが世界を駆けめぐる、グローバル
金融経済界のもろさ。等々です。グローバル化した現代において、金融市場の力は一段と強力になって
います。私たちは、地球規模で経済や情報が複雑につながっている時代に生きていることを認識する必
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要があります。
今日の話を聴いた皆さん、ぜひ金融の世界、経済の世界に対して強い興味を持って勉強をしてくださ
い。そして、経済と現実の動きとを常に見比べる「複眼の眼」を持つことができるように努力して欲し
いと思います。
(文責編集部)
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いくといいと思った。”
(加賀谷 千晶 β2-2)
参加して良かったと思うことは?
“買い物がたくさんできた♡。たくさんの人と仲良くなれた。最高のホスト
ファミリーだった。全部良かった。”
(菊池 朋子 α2-2)
“アメリカにいったことで日本の良い所、悪い所が分かった。”
(檜山 周斗 中学校3-1)
“英語がもっと好きになったし、アメリカが好きになった。”
(篠崎 令奈 β1-1)
“ホストファミリーがいろんな所につれていってくれて、初めての体験がた
くさんできたこと。一緒に行ったメンバーもみんな良い人で最高だった。”
(小野 愛実 α2-2)
“とても楽しい思い出がたくさんできたこと。何度でも行きたいと思った。
本当に楽しかった !!”
(渡辺 智大 T1-2)
Let's go to America!
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Host Family とどんなことをしたの?
“とうもろこしの皮むきして、Party 行って、Party 行って、外食して、教会
行って(日曜日)、買い物行った。”
(加賀谷 千晶 β2-2)
“毎日スーパーでおかいもの。外食。最後の週末に、ミネアポリスの MALL
OF AMERICA(アメリカで1番大きいモール)に行った。”
(寺沢 萌 T1-4)
Host Family に一言どうぞ!
“楽しかったです。 Peace。 Love。2週間ありがとうございました♡♡♡。
来年またあいましょう 。”
(篠崎 令奈 β1-1)
“2週間本当たのしかった。忘れられない思い出ができました。またメール
します。来年も絶対に行きます。”
(伊藤 百合絵 E 2-1)
“いつもお世話になってます。”(川俣 州生 T1-5{彼は5回連続、プ
ログラムに参加し、同じホストファミリーのところにステイしています})
この HOMESTAY プログラムに参加した理由・きっかけは?
“アメリカの文化に興味があったから。”
(檜山 周斗 中学校 3-1)
“去年行って楽しかったから。”
(小田 桃子 α2-2)
HOMESTAY 中に困ったことを教えて!
“シャンプーが髪に合わなかった事 !!”
“帰国前日のお買い物で迷子状態に”
“とくにありません。”
(小野 愛実 α2-2)
(岡戸 里奈 T1-5)
(寺沢 萌 T1-4)
おいしかった食べ物を教えて!
“キャシー{お母さん}の作ったスパゲッティ  !ラルフ{お父さん}の育
てたとうもろこし!”
(針谷 美名 β2-2)
“板チョコに焼いたマシュマロあわせてクッキーではさむ。”
(伊藤 百合絵 E2-1)
楽しかった・感激した出来事は?
“たくさん友達できた !! しかもみんな近所。”
“WATANABE とかいたシャツをくれたこと。”
“帰国時ナタリー(お母さん)が泣いた!”
(岡戸 里奈 T1-5)
(渡辺 智大 T 1-2)
(小田 桃子 α2-2)
来年の参加者にアドバイスをどうぞ!(持ち物とか心構えとか)
“ホストファミリーとは自分から話しかけること。電子辞書必須!”
(川俣 州生 T1-5)
“日本の食べ物が恋しくなるから、たべたくなっちゃうようなものは持って
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HOMESTAY STUDENTS:
IN THEIR OWN WORDS
ホームステイの生徒の感想
Devin Kelso
I would like to thank Kokugakuin
Tochigi University High School and
Junior High School for their fifth
year of participation in the Kelso
Heartland Homestay program, a twoweek adventure we enjoy each summer
in the center of the United States of
America. A grand total of 64 students
have now participated in the program,
including twelve this year.
For the past five years, I've written
about the experiences my students
and I have had on the program, but
this year I thought I would allow the
students to do the talking. The following comments are taken from student
questionnaires that were filled out on
large posters and displayed as part of
the Homestay exhibit at the Culture
Festival.
ケルソー・ハートランド・ホー
ムステイに参加して5年目にな
る、國學院大學栃木中学・高等学
校に、感謝の気持ちを表したいと
思います。この2週間のプログラ
ムで、私たちはアメリカ合衆国の
中心で、毎年楽しい夏を過ごして
います。今年の 12 人を含めて、
これまでに 64 人の生徒がこのプ
ログラムに参加しました。
この5年間、私は生徒の経験に
ついて色々と書いてきました。で
も、今年は、生徒に話してもらお
うと思います。次のコメントは、
文化祭で展示されたホームステイ
のディスプレイの一部である、大
きなポスターに書かれた生徒のア
ンケートの答えです。
どんな家族、お家だった?
“とても優しくて、顔が広くて、楽しいお家でした。”
(針谷 美名 β2-2)
“みんなおもしろくて常に笑いがあって楽しい家族♡。”
(菊池 朋子 α2-2)
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card and a folded piece of paper. The carpenter
was disdainful – until he unfolded the paper and
found the deed to the house he had just built.
The carpenter was ashamed to have misjudged his old friend and betrayed his own values, and he regretted that the house he would
live in for the rest of his life had been made so
carelessly.
For me this has always been the basis for
understanding that not everything is really the
way it looks and that surely every situation has
a positive side as long as we are prepared to see
it. Then we have to work on it, doing the best we
can. Whenever we put in less than our best and
ignore our potential for excellence, we create a
future full of creaky floors, leaky roofs, and
crumbling foundations and we surely will not
feel happy. Too often do we forget that the
choices we make every day, form the building
blocks for our own happiness or our own unhappiness. I believe that in spite of the many negative things that life confronts us with, choosing
to see the positive in all makes life a lot easier.
My great-grandfather used to say that especially
in times when things were not going the way I
wished, I should make a list of all the good
things in my life. Then he would say:“Count
your blessings!”, because he believed that being
grateful for what you have, especially in difficult
times, forms the basis for better things to come.
Choosing how we want to look at ourselves and
the world around us determines how we go
through life not numbers - no matter how lucky
or unlucky we may believe they are.
(外国語科)
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Ashamed= 恥ずかしい
Misjudged= 判断を誤る
Potential= 可能
Blessings= 祝福
been hearing about global warming, no real
progress is being made in improving the environment. Messages like these have been nearly daily
in the newspapers and they would turn anyone
in a cynical person. They surely seem to be depriving many from what we regard as a basic
human right:“the pursuit of happiness”
.
Yes, there was a lot of gloom and doom during the last year, and it is difficult not to get effected by all this. During these times I often
think about a story I was told by my greatgrandfather when I was a child, which always
pops up in mind. It is about situations when
things are getting difficult, but that not the circumstances dictate what we should think and
feel, but that we make our own choices in life
that shape us. It goes more or less like this:
A master carpenter who worked for the
same builder for nearly 50 years announced he
wanted to retire. The builder told him how much
he appreciated his work. He gave the carpenter a
$5,000 bonus and asked him if he would build
just one more house. The builder owned a magnificent lot with a spectacular view, and said he
wanted to build a dream home there.
The carpenter was bitterly disappointed at
the small bonus, but his last building fee would
help him buy a small cottage, so he agreed to
build the dream house.
The carpenter had always prided himself on
his uncompromising commitment to quality, but
resentment over this last job caused him to cut
corners, ignore details, and accept shoddy workmanship from other workers. He even looked the
other way when some of them substituted cheaper materials and pocketed the difference.
When the house was finished, the builder
shook the carpenter’s hand and with a huge
smile gave him an envelope with a thank-you
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Cynical= 冷笑的な
Pursuit= 追求
Magnificent= 素晴らしい
Disappointed= がっかり
Commitment= 約束
Shoddy= 卑劣な
Substituted= 代用しました
tests broke out against China, on behalf of Tibet.
This was of course embarrassing for the Chinese
government, but the numbers seemed to say
something more: March 14, or 3+1+4=8.
Real disaster came however when in May on
the 12th of that month a big earthquake hit China that killed hundred thousands of people. The
numbers for that date are 5+1+2 or again 8.
Shockingly enough 12 May is exactly 88 days
from 8 August.
For China 2008 was a year filled with international scandals as well. In the beginning there
were the many toys made in China that were
tainted with poison and later during the year
there were the melamine food scandals. Then suddenly in October the world economy
crashed. The main stock market index of the
USA, the Dow-Jones, dropped in one day 777
points. Not eight hundred. Remarkable is of
course that in Japan 777 is widely regarded as
the luckiest number by the Japanese. This time
it worked out differently. In all honesty the total
number of the drop of the Dow was 777.86
points, so not really 777. But the sum of the
numbers of 777,86 is 8!
Worldwide greed and spending money that
was not there has been widely blamed for the
crash of the markets. Leaders failed to give leadership where it should have been given in fact
rules were removed because they – politicians
claimed - obstructed free trade and the possibility to make more money than ever. Oil prices
went sky high and we were told that this was
caused by of higher demand for energy. Now we
know that the main reason was speculation,
where people who could, kept driving up the prices. The poor stayed poor, with the only difference that there are now more of them. Senseless
wars are still being fought and although we have
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Embarrassing= 困らせる
Earthquake= 地震
Poison= 毒
Economy= 経済
Remarkable= 魅力的
Obstruct= 妨害する
Speculation= 投機
It is not the numbers that count
Hans Leentvaar
The year 2008 turned out to be a very turbulent year. I remember however that at the end of
2007 a representative of China said that 2008
would be a great year. The number 8 in 2008 was
a very lucky symbol, and because it is thought to
bring forth all the good things we wish for the
Chinese have been using this number through
the centuries as a good luck charm and it can be
found everywhere. China Airways paid millions
of dollars for the telephone number 8888-8888.
License numbers for cars with the number 8 are
seen as very precious and more Chinese people
get married on the 8th of the month then on any
other date. In logos and emblems the octagon is
often used for the same reason. If the number
eight is not available a combination of numbers
of which the total results in eight is also seen as
favorable, like 1+2+5, or 17+9=26 which in turn is
seen as 2+6, for example. Because of this the Chinese were very happy that they could host the
Olympic Games to boost their international image in 2008 and of course it is not a surprise that
8 August 2008, or 8-8-08, was unanimously chosen as the starting date.
Fate had something else in mind, though. On
25 January 2008 disaster hit China. There was a
very heavy snowstorm that created havoc over
the southern part of the country making it impossible for hundred thousands of people to travel during Chinese New Year. By the way, 25 January can be written as 1-25 or 1+2+5=8.
On the 14th of March all over the world pro-
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Turbulent= 動乱の
Good luck charm= おまもり
Favorable= 有望な
Unanimously= 同委の
Havoc= 破壊
平成二十年度
三月
歳時記
四十周年記念館にて高校の平成十九年
▽ 三 月 一 日( 土 )
、午前十時三十分より
太平台
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度第四十六回卒業式が行なわれた。
▽ 三 月 四 日( 火 ) ~ 八 日( 土 )
、普通科
二年修学旅行で特選コースが京都・岡
山を、選抜コースが京都・広島を訪れた。
▽ 三 月 十 七 日( 月 )
、生徒会館大ホール
にて中学の第十回卒業式が行なわれた。
▽ 三 月 十 八 日( 火 ) ~ 二 十 日( 木 )
、日
本武道館で行なわれた第三十回全国高
等学校柔道選手権大会にて、本校柔道
男子はあと一歩で4強入りを逃した。
▽ 三 月 二 十 日( 木 ) ~ 二 十 六 日( 水 )
、
国立代々木競技場(第一体育館)で行
なわれた第三十九回全国高等学校バ
レーボール選抜優勝大会
(春高バレー)
春高バレー一回戦
にて、本校女子バレーボール部は接戦
の末惜しくも一回戦で敗退した。
▽ 三 月 二 十 二 日( 土 )
・ 二 十 三 日( 日 )
、
兵庫県伊丹スポーツセンターで行なわ
れた第三回全国高校なぎなた選手権大
会に本校薙刀部は個人戦は二回戦に進
出、団体戦は惜しくも一回戦で敗退し
た。
徳島県で行なわれた第三十一回全国高
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▽ 三 月 二 十 五 日( 火 ) ~ 三 十 日( 日 )
、
平成20年度入学式(中学)
等学校ハンドボール選抜大会に本校男
子ハンドボール部は二回戦に進出した。
四月
▽ 四 月 八 日( 火 )
、午前九時三十分より
四十周年記念館にて平成二十年度第四
十九回高等学校入学式が、五一九名の
新入生を迎えて挙行された。また午後
一時より大ホールにて第十三回中学校
入学式が八八名の新入生を迎えて新し
い学園生活のスタートを切った。
▽ 四 月 八 日( 火 )
、 全 校( 中 学・ 高 校 )
生徒が集合し第二グラウンドにて対面
式が行なわれた。初めに木村好成学校
平成20年度入学式(高校)
長が全校生徒に、この学園に集うこと
になった縁を大切にし、美しい人間関
係を作り、学生の本分である勉学に打
太平山神社参拝
ちこむことを諭された。その後、生徒
会長の高久翔太郎君(β三の一)が新
入生に対して歓迎の言葉を述べ、それ
に応えて高校の新入生代表上野悠さん
(E一の一)また中学校の新入生代表
矢野沙織さん(中一の三)が、それぞ
れ抱負を述べた。
ションが行なわれた。まず、本校の教
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▽ 四 月 十 日( 木 )
、新入生オリエンテー
育・大学入試や進路・高校生活のあり
方と校則・制服着用に関して・図書館
利 用 に つ い て 等 を 中 心 に 説 明 が あ り、
午後には、太平山神社参拝が行なわれ
神前において入学の奉告をした。
タートした。
▽ 四 月 十 九 日( 土 )
、高大連携授業がス
国立赤城青少年交流の家にて、国際情
▽四月二十三日(水)~二十五日(金)
、
報科第一学年生徒研修が行なわれた。
茨城県の「つくばグランドホテル」に
▽ 四 月 二 十 五 日( 金 )
・ 二 十 六 日( 土 )
、
1年生徒研修(高校)
て普通科特別選抜コース第一学年生徒
研修が行なわれた。
▽四月二十六日(土)~二十八日(月)
、
HR委員会研修
国立磐梯青少年交流の家で普通科選抜
コース第一学年生徒研修が行なわれた。
が行なわれ、各学年多数の父母が来校
▽ 四 月 二 十 六 日( 土 )
、中学校授業参観
した。
五月
( 高 校 進 学 講 演 会・ 授 業 参 観・ 父 母 会
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▽ 五 月 十 七 日( 土 )
、父母会関連行事
総会)が実施され、多数の父母が熱心
に参観した。
▽ 五 月 十 七 日( 土 )
、高等学校春期ホー
ムルーム委員会研修が開かれ、ホーム
ルーム委員の役割について多くのこと
を学び、國學祭を中心に話し合いがな
された。
中学校自然体験学習が、一年生は群馬
▽五月二十三日(金)~二十五日(日)
、
県の赤城にて、二年生は福島県の那須
甲子にて、また三年生は二泊三日の日
程で、湯本・尾瀬沼で行なわれた。
自然体験学習(中学)
▽五月二十六日(月)~六月十四日(土)
にかけて平成二十年度教育実習が実施
された。高等学校・中学校あわせて三
十四名が二~三週間の実習を行なった。
六月
▽六月二日(月)全校朝礼及び平成二十
年度の生徒総会が、四十周年記念館に
て行なわれた。
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▽ 六 月 二 日( 月 )
、中学校稲作実習が総
学年別弁論大会
合学習の一環として行なわれた。平井
町・小藤栄さん宅の水田を借りて、田
植え指導を受けた後、生徒たちは『ア
サヒノユメ』の苗を植えていった。
▽六月十二日(木)
、
「中西進の万葉みら
い塾」が中学校三年生を対象に行なわ
れた。
五・六限目に第三学年が四十周年記念
▽ 六 月 十 八 日( 水 )
、学年別弁論大会が
館、第二学年が第二アリーナ、第一学
年が第一アリーナにて実施された。今
年も各ホームルームの代表の中から国
語 科 の 原 稿 審 査 を 通 っ た 弁 士 た ち は、
熱弁をふるった。
生徒総会(高校)
▽六月中旬から下旬にかけて高校総体県
スポーツフェスティバル(中学)
予選が県内各会場で行なわれた。本校
か ら は 柔 道、 バ レ ー ボ ー ル、 ハ ン ド
ボール、薙刀、陸上競技の五部が県代
表としてインターハイに出場すること
となった。
▽ 六 月 二 十 一 日( 土 )
、中学校前期ス
ポーツフェスティバルが行なわれ、男
子はサッカー、女子はバスケットボー
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ルを実施し、熱戦が繰り広げられた。
七月
内競技大会が行なわれ、各競技の熱戦
▽七月八日(火)
・九日(水)
、高校の校
が繰り広げられた。
野で実施された。一・二年生は国立西
▽ 七 月 九 日( 水 )
、芸術鑑賞会が東京上
洋美術館と国立科学博物館、三年生は
東京国立博物館と国立科学博物館を見
学した。
▽ 七 月 十 八 日( 金 ) ~ 二 十 日( 日 )
、父
母懇談会が行なわれた。生活・学習・
進路について、二者および三者面談の
形で実施された。
インターハイ出場 応援垂れ幕
▽七月二十三日(水)から八月六日(水)
の二週間、アメリカ語学研修がアメリ
カ合衆国アイオワ州マウントバーノン
アメリカ語学研修
にて実施された。参加は希望制で、今
年は十二名の本校生徒が参加した。
(水)、埼玉県で行なわれたインターハ
▽ 七 月 二 十 八 日( 月 ) ~ 八 月 二 十 日
イに本校から柔道、なぎなた、陸上競
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技、 女 子 バ レ ー ボ ー ル、 男 子 ハ ン ド
カモンイン國學院
ボールの五部が県代表として出場した。
八月
研修が栃木県日光市東照宮晃陽苑にお
▽ 八 月 一 日( 金 ) ~ 三 日( 日 )
、生徒会
いて行なわれた。
館にて柔道男子個人 ㎏級で北野裕一
▽ 八 月 七 日( 木 )
、上尾市埼玉県立武道
らうため、数多くの部活動や講座に参
活を受験希望者や保護者に体験しても
が行なわれた。この催しは、本校の生
の 両 日、「 カ ム・ オ ン・ イ ン 國 學 院 」
▽ 八 月 九 日( 土 )
、 八 月 二 十 四 日( 日 )
げた。
選手がインターハイ全国優勝を為し遂
81
加できる構成になっている。
国際情報科二年生のオーストラリア語
▽ 八 月 十 六 日( 土 ) ~ 二 十 二 日( 金 )
、
学研修が行なわれた。
文 化 祭
▽ 八 月 二 十 七 日( 水 )
、四十周年記念館
において全校弁論大会が行なわれ、田
村 訓 子 さ ん( E 二 の 一 ) が 優 勝 を 飾
った。
九月
十七回國學院祭文化祭が二日間に
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▽九月十三日(土)
・十四日(日)
、第四
亘 っ て、「 未 来 へ の 可 能 性 」 の テ ー マ
の下に実施された。中学校・高校の各
ホームルームと部活動が入念な準備を
して展示と公演に臨んだ。これまでの
伝統を受け継ぎ質の高い舞台や作品を
披露して、今年も大盛況であった。
▽ 九 月 二 十 三 日( 火 )
、第四十七回國學
院祭体育祭が第二グラウンドで実施さ
れた。中学校・高校の全校生徒が各学
年 種 目 や 集 団 演 技 に 全 力 で 取 り 組 み、
秋空のもとさわやかな汗を流した。
▽ 九 月 二 十 七 日( 土 )
、 第 二・ 三 学 年 の
体 育 祭
國學院大學・國學院大學短期大学の志
望者を対象として大学出張講義が行な
われた。
十月
の一環として稲刈りが行なわれた。
▽ 十 月 三 日( 金 )
、中学校では総合学習
▽ 十 月 八 日( 水 )
、四十周年記念館にて
創立四十八周年記念講演会が行なわれ
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た。今年は國學院大學経済学部教授紺
大学出張講義
井博則氏が「サブプライム問題から見
えてくるもの」の演題で講演を行な
った。
▽ 十 月 九 日( 木 )
、四十周年記念館にお
い て 学 園 創 立 四 十 八 周 年 記 念 式 典 が、
厳かに挙行された。
十一月
▽ 十 一 月 一 日( 土 )
、 第 二・ 三 学 年 の 生
徒を対象として国公立大・私大の現役
の先生方による「大学出張講義」が行
なわれた。
て、平成二十一年度生徒会役員選挙立
▽ 十 一 月 四 日( 火 )
、四十周年記念館に
創立記念講演会
ち会い演説会及び選挙が実施された。
ルーム毎に人権教育が実施された。
▽ 十 一 月 五 日( 水 )
、全学年各ホーム
ソン大会が行なわれ、中学校の全生徒
大学受験者激励会
▽ 十 一 月 七 日( 金 )
、第十三回校内マラ
が完走した。
▽ 十 一 月 八 日( 土 )
、第八十八回全国高
校ラグビー大会栃木県予選決勝が、栃
木市総合運動公園陸上競技場で行なわ
れ、 対0で佐野高校を下し、本校ラ
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グビー部が優勝を果たし、九年連続十
四度目の花園出場を決めた。
において、第三学年を対象に大学受験
▽ 十 一 月 十 三 日( 木 )
、四十周年記念館
者激励会が行なわれた。
十 九 回 全 校 マ ラ ソ ン 大 会 が 開 催 さ れ、
▽十一月十八日(火)
、平成二十年度第四
高 校 の 生 徒 た ち は 太 平 山 を 力 走 し た。
▽ 十 一 月 十 九 日( 水 )
、普通科選抜コー
ス 第 一・ 二 学 年 に よ る 第 三 回 イ ン グ
リッシュ・スピーチコンテストが行な
われた。
中学校校外学習が実施された。三年生
▽十一月二十日(木)~二十二日(土)
、
校外学習(中学)
52
は三日間で奈良を、二年生は二十一日
倉を、一年生は二十一日(金)日帰り
宇都宮大学連携出張実験講座
( 金 ) ~ 二 十 二 日( 土 ) の 二 日 間 で 鎌
で日光を訪れた。
▽ 十 一 月 二 十 二 日( 土 )
、宇都宮大学連
携出張実験講座①が実施され、普通科
第二学年の理系コースの生徒を中心に
受講した。
的学習の時間として本学園短期大学千
▽ 十 一 月 二 十 九 日( 土 )
、中学校の総合
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明守教授による特別講座が開講された。
十二月
▽ 十 二 月 六 日( 土 )
、平成二十一年度中
学校第一回入学試験が実施された。
中学校第二回入学試験が実施された。
▽ 十 二 月 十 三 日( 土 )
、平成二十一年度
出張実験講座②が実施され、普通科第
▽ 十 二 月 十 三 日( 土 )
、宇都宮大学連携
二学年の理系コースの生徒を中心に受
講した。
▽十二月二十日(土)~二十二日(月)
、
父母懇談会が実施された。
▽ 十 二 月 二 十 七 日( 土 )
、第八十八回全
ラグビー部 全国大会2回戦
国高校ラグビーフットボール大会が大
平成21年度入試(高校)
阪・ 近 鉄 花 園 ラ グ ビ ー 場 で 開 催 さ れ、
8で惜敗
で 破 り、 三 十 日( 火 ) B
百人一首大会(中学)
本 校 チ ー ム は 滋 賀・ 光 泉 高 校 と 対 戦
し、
シード青森北と対戦し6
高等学校第三回入学試験が実施された。
▽ 一 月 二 十 五 日( 日 )
、平成二十一年度
五四名、計三一二名が受験した。
た。本校生からは現役二五八名、浪人
日間大学入試センター試験が行なわれ
▽ 一 月 十 七 日( 土 )
・ 十 八 日( 日 ) の 二
タ大会が、薙刀場において行なわれた。
▽ 一 月 九 日( 金 )
、中学校百人一首カル
年記念館にて行なわれた。
。
学校は大ホールで、高等学校は四十周
▽ 一 月 八 日( 木 )
、第三学期始業式が中
学校第二回入学試験が実施された。
▽ 一 月 七 日( 水 )
、平成二十一年度高等
学校第一回入学試験が実施された。
▽ 一 月 六 日( 火 )
、平成二十一年度高等
一月
し、ベスト 入りを逸した。
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▽ 一 月 二 十 五 日( 日 )
、平成二十一年度
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19
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中学校第三回入学試験が実施された。
年百人一首カルタ大会が、四十周年記
▽ 一 月 二 十 八 日( 水 )
、高等学校第二学
念館において行なわれた。
▽ 一 月 三 十 日( 金 )
、図書館大会議室に
て中学校二年生の立志式が行なわれ
た。
▽ 一 月 三 十 一 日( 土 )
、第十三回イング
リッシュ・スピーチコンテストが、中
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学校第一・二学年によって大ホールに
イングリッシュスピーチコンテスト(中学)
て実施された。
二月
▽ 二 月 十 八 日( 水 )
、第十七回国際情報
科イングリッシュ・スピーチコンテス
トが大ホールにて行なわれた。
▽二月二十三日(月)~三月十日(火)
、
平成二十年度中学校ニュージーランド
語学研修が実施され、第三学年の生徒
と教員五名が出発した。今回で十一回
目を迎えた。
立志式(中学)
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太平台春秋編集委員会
る。特に今年度はアメリカのサブプライ
るしく、半年先の予測も困難な状況であ
が、世の中の移り変わりは、年々目まぐ
以来十六年の歳月が過ぎたことになる
校誌「太平台春秋」は、今回平成二十
年で通巻第十六号の発行となった。創刊
た。 こ の 号 が こ こ に 発 行 で き た こ と を、
と人生観あふれる長編や短編が寄せられ
ぞれの文章に描かれた筆者の方々の人柄
好の読み物となっている。その他、それ
の「國學院大學の柔道の系譜」と共に格
としても造詣の深い理事長木村好成校長
の死闘の記録」に綴ってくれた。柔道家
道部の三年間の道のりを「柔道部三年間
葭葉教諭がめざましい活躍を果たした柔
村井 裕一
遠藤小百合
寺内 正行
今井 桂子
長嶋 良治
大月 一男
飯泉 幸子
天野寿々子
委員長 菅原 紀浩
ム問題から、百年に一度といわれる金融
編集委員を代表して多くの方々に感謝申
今年度のインターハイの柔道八十一キ
ロ 級 で 北 野 裕 一 君 が 全 国 制 覇 を 遂 げ た。
恐慌が引き起こり、我が国の情勢もさま
編 集 後 記
ざまに変容しつつある。創立四十八周年
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し上げたい。 (紀) 記念講演会での紺井博則國學院大學教授
による「サブプライム問題から見えてく
るもの」は示唆に富む講演となった。そ
の 後 の 社 会 情 勢 は、 好 転 の 兆 し は 見 え
ず、
「寄らば大樹 」と絶対安定を信じて、
多くの人々が就職先として望んだトヨ
タ・ソニーなどをはじめとする大企業の
形振り構わぬ従業員の大幅な解雇。さら
に日本が世界に誇る真珠などの輸出産業
が円高のあおりで苦境に立たされてい
る。かつてないこの不況はさらに国際的
にも深刻化し続けている。
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國學院大學栃木
中 学 高 等 学 校