「哲学・思想の基礎」(石田)配付資料 3(倫理的な正しさとは何か 3) 3 .倫理的な正しさとは何か その3:コミュニタリアニズムの立場 マッキンタイアの『美徳なき時代』によって、 「コミュニタリアニズムの立場」を考える。コミュニタリアニズ ムの立場はアリストテレスの倫理学に遡る。マッキンタイアは、われわれは道徳が崩壊した時代、彼の言葉でい えば「美徳なき時代」に生きていると考える。われわれの手元にあるのは「道徳の幻影」(simulacra of morality)で あり、われわれは道徳をめぐる大きな部分を失ってしまった(マッキンタイア『美徳なき時代』2-3 頁参照; p.2)。 3.1 伝統的社会から近代社会へ―個人の出現 多くの前近代の伝統的社会においては、個人が自分自身を同定し、また他者によっ同定されるのは、さまざま な「社会集団の一員」であることを通してであった。私は兄弟であり、従兄弟であり、孫であり、またこの家族、 あの村、この部族の一員であるということである。それらは「私なるもの」(my substance)の部分であり、少なく とも部分的にそしてときには完全に「私の責務と私の義務」を明確にするものである。諸個人は「連結した一揃 いの社会的諸関係の内部における特定の空間」を受け継ぐ(マッキンタイア『美徳なき時代』42 頁; p.33-34)。 客観的で非人称的な[個人に言及しない](impersonal)評価の第一の対象として、このように人生全体を考えるこ と、つまり所与の個人の特定の行為や事業に対する判断内容を供給するようなタイプの評価の対象として人生全 体を考えることは、近代に向かっての進歩の過程のある時点で一般的な有効性をもたなくなった。その事態は、 歴史的には大部分損失としてではなく、自画自賛すべき利益として、すなわち、次のような「個人の出現」 (emergence of the individual)として祝われた。その個人とは、一方においては近代世界がその誕生時に拒否した窮 屈な階級制度による社会的束縛から自由にされ、他方においては近代が目的論の迷信であると受け取ってきたも のから自由にされた個人である(マッキンタイア『美徳なき時代』42 頁; p.34)。 3.2 道徳の正当化という啓蒙主義の企て―マッキンタイアから見たカントの道徳論 カントの道徳哲学において中核となっているのは、一見単純そうに見える二つのテーゼである。一つは、 「もし 道徳の規則が理性的ならば、ちょうど算術の規則と同じ仕方で、それらはすべての理性的存在者にとって同一で なければならない。 」であり、他の一つは「もし道徳の規則がすべての理性的存在者に対して拘束力を有する (binding)ならば、そうした存在者がそれらの規則を実践する能力をたまたまもっているかどうかは、重要ではな いはずだ。―重要なことは、実践しようとする彼らの意志だ(マッキンタイア『美徳なき時代』55 頁; p.43-44)。 カントはすべての人が実際に幸福を望んでいることを疑っていないし、また考えられうる最高善は、個人の道 徳的完成がそれにふさわしい幸福によって報われるという善であることも疑っていない。しかし彼は、にもかか わらず、われわれの幸福の概念は、頼りになる道徳的指針を与えるには、余りにも曖昧で変わりやすい、と信じ ている。その上、われわれの幸福を確保するために作られたいかなる教え(precept)も、ただ条件つきで成立する 規則の表現である。ところがカントによれば、道徳法則のすべての真正な表現は無条件的な定言的性格をもって いる。そうした表現はわれわれに仮言的に命令するのではなく、端的に命令する。カントによれば、実践理性は それ自身にとって外的な基準を何も用いない。それは、経験から引き出されたいかなる内容にも訴えない。理性 が普遍的、定言的および内的に首尾一貫した諸原則を定めるのは、理性の本質に属することである (マッキンタイ ア『美徳なき時代』55-56 頁; p.44-45)。 カント自身は、 「つねに真実を語れ」 、 「つねに約束を守れ」 、 「困っている人には親切にせよ」 、 「自殺をするな」 のような格率は彼のテストに合格し、他方で「あなたに好都合なときだけ約束を守れ」のような格率は合格しな いことを証明しようとしている(マッキンタイア『美徳なき時代』56-57 頁; p.45)。カントは道徳は普遍的に成り立たねば ならないと考える。だから、個人の特殊な利害に関わるような行為の主観的原理たる格率は道徳法則〔定言命法 として表現される〕とはならない。格率が道徳法則となるかどうかは、それが普遍的に成り立つかどうかでテス トされる(普遍化可能性のテスト)。しかしながら結局、カントが道徳の格率と見なすものを、彼が理性と見なす ものの上に基礎づける試みは失敗する(マッキンタイア『美徳なき時代』58 頁; p.46-47)。こうして、マッキンタイアによ れば、カントに典型的に見られるように、道徳を合理的に立証する企ては決定的に失敗したのであり、これ以後、 文化の道徳は、公共的で共有された合理的根拠あるいは正当化を一切欠くことになった(マッキンタイア『美徳なき時 代』62 頁; p.50)。 3.3 啓蒙主義の企ての失敗 -1- マッキンタイアによれば、キルケゴール、カント、ディドロ、ヒューム、スミスのような人たちの論証は失敗 しており、その論証が失敗したのは、彼らの共有していたきわめて独特な歴史的背景に由来する、いくつかの共 通の特徴のためであった。これらの哲学者たちは、ある道徳的信念の独特で特殊な枠組みの継承者であり、その 枠組み内部の一貫性の欠如によって、彼らに共通の哲学的企てはその最初から失敗することが確実であった(マッ キンタイア『美徳なき時代』64 頁; p.51)。 この道徳的枠組みの基礎的な構造は、マッキンタイアによれば、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』の中 で分析したものである。その目的論的な枠組みのうちには、 「偶然そうであるところの人間」と「自らの不可欠の 本性を実現したならば可能となるところの人間」の根本的な対照がある。倫理学とは、前者の状態から後者の状 態への移行の仕方を人びとに理解させるべき学である。さまざまな徳を命じ、それと対をなす悪徳を禁じる教え は、可能態から現実態への移行の仕方を、つまりわれわれの本性を実現し、真の目的に到達するその仕方を教示 してくれる。それらの教えを無視するならば、われわれは挫折し不完全となるのである。すなわち、理性的幸福 という善を成就し損なう。われわれの欲求や情動は、そうした教えを用いることによって、そして倫理学の学習 が指示してくれる行為習慣を養うことによって、秩序づけられ、教育されるべきなのだ。そして、理性が、われ われの真の目的は何か、およびいかにしてそこへ到達するかを教示してくれる。こうして、われわれは三要素か らなる枠組みを目の当たりにしている。この枠組みにおいては、 「偶然そうであるところの人間本性(未教化の状 態における人間本性)は、初めは倫理の教えと一致・調和しておらず、実践的な理性と経験からの教示によって、 「自らのテロスを実現したならば可能となるところの人間本性」へと形を変える必要がある。こうして、ここに 「未教化の人間本性」 、 「理性的な倫理学の教え」そして「自らのテロスを実現したならば可能となるところの人 間本性」という三つの概念が区別される(マッキンタイア『美徳なき時代』65-66 頁; p.52-53)。 彼らの思考の歴史的背景を形成する道徳の枠組みは、三つの要素を要請する構造をもっていた。しかし、プロ テスタントとカトリック双方の神学を世俗が拒絶したこと、アリストテレス主義を科学と哲学が拒絶したこと、 この両者が合わさって、 「自らのテロスを実現したならば可能となるところの人間」といった観念は除去されてし まった。理論と実践両面での規律(discipline)としての倫理の全要点は、人間に現在の状態から自己の真の目的への 移行を可能にさせることにあるのだから、本質的な人間本性といった観念を一切除去し、それとともにテロスと いう観念を放棄してしまえば、そこに残されるのは、その関係がまったく不明瞭になった残る二つの要素から構 成されたある道徳枠組みとなる。一方の要素は、ある種の道徳内容、つまり目的論的文脈を奪い取られた一揃い の命令であり、他方の要素は「あるがままの未教化の人間本性」についてのある種の見解である(マッキンタイア『美 徳なき時代』68 頁; p.54)。 3.4 古代世界での諸徳 (1) ギリシアの英雄社会における諸徳 アレテー(aretê)という言葉は、後に「徳」(virtue)と翻訳されるようになるが、ホメロスの叙事詩においては、あ らゆる種類の卓越性(excellence)を表わすために用いられている。古代ギリシアにおいては、人間の生(human life) というものが一つの確定した形、ある種の物語(story)の形をもっていた。たとえば勇気を一つの徳として理解す ることは、たんに勇気がいかなる仕方で性格の中に示されるのかのみならず、それがある種の演じられた物語の 中でいかなる位置をもちうるのかをも理解することである(マッキンタイア『美徳なき時代』153 頁; p.124, 125)。 マッキンタイアによれば、われわれが英雄社会から学ばねばならないことは二つある。第一は、あらゆる道徳 はつねにある程度、 「社会的な地域性と特殊性」(the socially local and particular)に結びつけられているので、近代の 道徳がもつ、あらゆる特殊性から解放された「普遍性への熱望」は幻想だということである。第二は、ある伝統 の要素としてでなければ、諸徳を所有する方法はないということである。その伝統の中でわれわれは、英雄社会 が最初の位置を占めている一連の先行諸社会から、諸徳とそれらについての理解とを受け継ぐのである(マッキン タイア『美徳なき時代』155 頁; p.126-127)。アテナイ人に共通の想定は、諸徳が位置づけられるのはその「都市国家の 社会的文脈」の内部である、ということである。 「善き人であること」は、 「善き市民であること」と少なくとも 密接に結びつけられている(マッキンタイア『美徳なき時代』167 頁; p.135)。 (2)徳と理性 プラトンにおいて理性は、魂の各々の部分がその特有の機能を果たすことを命じるとされる。各々の特有の機 能の行使が個々の徳になる。そこで肉体的欲求は、理性の課す抑制を受け入れねばならない。こうして発揮され -2- る徳が思慮節制〔ソープロシュネー〕である。挑みかかる危険に応じる意気軒昂な徳性は、それが理性が命じる 通りに応答するとき、勇気〔アンドレイア〕として発揮される。理性それ自身は、数学的・弁証法的探求によっ て訓練された結果、正義それ自体が何であるか、美それ自体が何であるか、そして他のすべての形相の上位にあ って、善の形相〔イデア〕とは何であるのか、を識別する能力をもつようになる。そうすると、ソピアすなわち 知恵、というそれ自身の特有の徳を発揮するのである。これら三つの諸徳は、四番目のディカイオシュネーとい う徳がやはり発揮されて、はじめて発揮される。というのは、ディカイオシュネー〔正義〕は、近代の正義概念 のいずれとも大いに異なっている。このディカイオシュネーは、魂の各々の部分にその特定の機能を割り当てる という徳である(マッキンタイア『美徳なき時代』173-174 頁; p.141)。 プラトンにとっては、諸徳は互いに両立するばかりでなく、各々の徳が現存するためにはすべての諸徳の現存 が要求される。諸徳の一性[統一](unity of the virtues)に関するこの強力なテーゼは、アリストテレスとアクィナス の両者によって繰り返し唱えられている。 これら三人すべてが共有している前提条件は、 「ある宇宙秩序が存在し、 それが、人間の生という全体的に調和のとれた枠組みの中に各々の徳を位置づける」である。しかし、それとは 鋭い対照を示す近代的な伝統があり、それが奉じるところでは、人間にとっての諸善はきわめて多様で異質なも のなので、それらの追求は単一の道徳秩序ではどんな中でも調停されえず、したがって、そうした調停を試みる か、他のすべての組み合わせに対する一組の諸善の覇権を強めるかするいかなる社会秩序も、人間の条件を締め つける装置、それもまず確実に全体主義的な装置に転化する運命にある、ということだ(マッキンタイア『美徳なき時 代』175-176 頁; p.142)。 3.5 アリストテレスの徳論 アリストテレスは単に個人の理論家として見なすのではなく、一つの長い伝統の代表者と見なされる(マッキン タイア『美徳なき時代』179 頁; p.146)。あらゆる活動、あらゆる探求、あらゆる実践は、何らかの善(good)を目指して いる (マッキンタイア『美徳なき時代』181 頁; p.148)。アリストテレスは、地域的・特殊的でありながら、ポリスの諸特 徴に根ざし、同時に宇宙的・普遍的でもある善そのものを説明するという仕事を、自分自身に課している(マッキ ンタイア『美徳なき時代』182 頁; p.148)。 (1)善と徳 人間にとって善そのものとは何か。アリストテレスは善に、 「エウダイモニア」という名を与えるが、それは至 福(blessedness)、幸福(happiness)、繁栄(prosperity)等々と翻訳される。それは「善くあること」(being well)、そして 「善くあることにおいて善く行為すること」(doing well in being well)という状態であり、人間が神との関係におい て自分自身「十分に恵まれている」(well favored)という状態である。諸徳とはまさに、それを所有することで個 人がエウダイモニアを達成できるようになる特質であり、それを欠くことでそのテロスに向かう個人の運動が挫 折してしまう特質である(マッキンタイア『美徳なき時代』182 頁; p.148)。 諸徳は、特定の仕方で行為するだけではなく、 「特定の仕方で感じる性向」でもある。有徳に行為するとは、カ ントが後に考えることになったような、傾向性に反して行為することではない。それは「諸徳の陶冶によって形 成された傾向性から行為すること」である。 「道徳教育」は、一つの「感情教育」である(マッキンタイア『美徳なき 時代』183 頁; p.149)。 諸徳のなかで中心的な徳は「プロネーシス」(phronêsis)〔思慮〕である。その言葉が特徴づける人は、自分にふ さわしいことを知っている人が、誇りをもって自分にふさわしいことを要求する人である。それはもっと一般的 に、個々の場合にどう判断力を行使するかを心得ている人を意味することになる (マッキンタイア『美徳なき時代』 189 頁; p.154)。 3.6 諸徳、人生の統一、伝統 諸徳は、諸実践を維持してそれらに内的な善を達成することを可能にするだけでなく、善そのものを求める重 要な探求の中でわれわれを支えてくれる素質(disposition)として理解されるべきである(マッキンタイア『美徳なき時 代』269 頁; p.219)。徳についての少なくとも三つの非常に異なった考え方に、われわれは直面する。 〔1〕徳とは、 個人にその社会的役割を果たす力を与えてくれる性質である(ホメロス)。 〔2〕徳とは、個人に人間特有のテロス ―自然的なものであれ、超自然的なものであれ―の達成に向かって進む力を与えてくれる性質である(アリストテ レス、新約聖書、アクィナス)。 〔3〕徳とは、地上的かつ天上的な成功を達成するのに功利性をもつ性質である(フ ランクリン)。(マッキンタイア『美徳なき時代』228 頁; p.185) -3- 私が何であるかは、その主要な部分において、 「私が相続しているもの」である。それは、現在の私にある程度 まで現存している特定の過去である。私は「ある歴史の一部」として自己を経験している。それは一般的に言え ば、好むと好まざるとにかかわらず、また認めると認めないにかかわらず、自己を「ある伝統の担い手の一人」 と見ることである(マッキンタイア『美徳なき時代』271 頁; p.221)。われわれの時代の実践の歴史は、一般的かつ特徴的 には、伝統のもつ長期にわたる広範な歴史の中に埋め込まれていて、その歴史に基づいて理解可能なものになる のであり、その歴史を通して現在の形態の実践がわれわれに伝えられてきたのである。また、われわれ自身のそ れぞれの人生の歴史も、一般的かつ特徴的には、多くの伝統のもつ長期にわたる広範な歴史の中に埋め込まれて いて、それらの歴史に基づいて理解可能なものになっている(マッキンタイア『美徳なき時代』273 頁; p.222)。しかし近 代の個人主義は、それ自体の概念枠組の内部では、伝統という観念を敵対的観念としてしか用いることができな かった(マッキンタイア『美徳なき時代』272 頁; p.222)。 3.7 徳としての正義―ロールズとノージックに対する批判 最後に、ロールズとノージックの正義についての考え方に対するマッキンタイアの反論を紹介しておこう。マ ッキンタイアはロールズとノージック正義についての考え方が相反するにもかかわらず、実は両者に共有されて いる要素があることを指摘している。しかもそれは、近代の個人主義のために忘れられたものである。 ロールズが第一に重視するのは、必要に応じた平等の原則となるものである。彼がいう共同体の最困窮の階層 という概念は、収入、富、他の財の点でもっとも大きな必要を抱えている人びとという概念である。ノージック が第一に重視するのは、権原に応じての平等の原則である。ロールズにとっては、現在大きな必要〔困窮〕にあ る人びとがそうした困窮に陥るようになった経緯は重要ではない。ノージックにとっては、過去に合法的に獲得 されたものに関する証拠だけが重要である。だから、現在の配分パターンはそれ自体では正義に無関係である(マ ッキンタイア『美徳なき時代』303 頁; p.248)。 マッキンタイアは、ノージックとロールズの正義論の要点を、A と B という人物に仮託して次のように述べて いる。しかし、厳密には A と B はノージックとロールズの主張を完全には代表していなくて、両者とも、ノージ ックとロールズには欠けている、ある共通の要素をもっている。A は小売商人か警察官や建設労働者といった人 とされる。彼は一生懸命に収入から貯蓄してきたが、それは、小さな家を購入し、子供たちを地方の大学にやり、 両親のためにはある特別のタイプの医療を支払うためである。ところが税の上昇によってこれらの目標がすべて 脅かされることになった。彼は自分の目標に対するこの脅威を不正と見なした。自分には稼いだものへの権利が あると主張し、他の誰にも、彼が合法的に獲得し、正当な権原をもっているものを取り去る権利はないと主張す る(マッキンタイア『美徳なき時代』298 頁; p.244)。B は、何か自由業の一員か、社会事業家(social worker)か、相続した 財産のある人とされる。彼は、富・収入・機会の配分における恣意的な不平等に心をいためている。また何より も、貧しく搾取された人びとが権利配分の不平等の結果である彼ら自身の条件を大きく改善する能力のないこと に、いっそう心いためている。彼のより一般的な信念とは、すべての不平等は正当化が必要であり、不平等を正 当化する唯一可能な途は、 〔その不平等な取り扱い方が〕貧しく搾取された人びとの条件の改善をもたらす―たと えば、経済成長を促進することによって―ことだ、ということである。そして彼の引き出した結論は、現在の環 境にあっては、福祉と社会事業の財源をつくる再配分的な課税こそ正義の要求することであるという結論である (マッキンタイア『美徳なき時代』209 頁; p.245)。 A は、正当な獲得と権原の諸原則が再配分の可能性に限界を設定すると信じている。正当な獲得と権原の諸原 則を適用した結果がたとえ膨大な不平等であっても、そうした不平等を許容することが正義のために支払うべき 代価である。それに対して B は、正当な配分原則は合法的な獲得と権原に限界を設定すると信じている。だから、 たとえば、課税手段とか土地収用権といった方策による干渉であっても、そうした干渉を許容することが正義の ために支払うべき代価である(マッキンタイア『美徳なき時代』299-300 頁; p.245-246)。 A が正義の観念を基礎づけようと願っているのは、所与の人間は当人が獲得し稼いだものに基づけば、何にい かにして権原があるか、についての何らかの説明にであり、他方 B が正義の観念を基礎づけようと願っているの は、 基礎的必要とその必要を充たすための手段とに関する、 各人の要求の平等性についての何らかの説明にある。 所与の限られた所有財あるいは資源に直面した場合、A が主張しがちなことは、自分がそれを所有している―彼 は合法的にそれを獲得し、稼いだ―がゆえに、それが自分のものであるのは正当だ、ということだろう。それに 対して、B が主張しがちなのは、それをもっと必要とする人びとがいるのだから、それが他の誰かのものである べきなのは正当だ、ということだろう。彼らがそれを手にしないならば、彼らの基礎的必要は満たされないだろ うというわけだ。マッキンタイアは、この二つの主張について、これら二つのタイプの主張は共約不可能である、 -4- と論じている(マッキンタイア『美徳なき時代』300 頁; p.246)。 マッキンタイアによれば、AB 両者の立場には、それにもかかわらず、ノージックとロールズのいずれの説明 も捉えていないある要素が、すなわち諸徳がその中心にあった古い古典的伝統から残存している要素が存在して いる(マッキンタイア『美徳なき時代』303 頁; p.248)。逆に言えば、ロールズの説がノージックの説と共有している何か 重要なもの(たとえ否定的なものではあっても)がある。両者ともその正義論の中で真価[賞すべき価値、功 績](desert)に言及することはないし、また整合的な言及はできないはずである。A が自分自身のために述べる不満 とは、たんに自分が稼いだものに権原があるということでなく、つらい仕事の人生ゆえに自分はその稼ぎに値す る(deserve)ということでもある。B が貧しく搾取された人びとのために述べる不満とは、彼らはその貧困と搾取 に値せず、それゆえそれは不等なものだということである(マッキンタイア『美徳なき時代』304 頁; p.249)。 ロールズの説もノージックの説も、正義と不正について主張する際に、真価に対してこの中心的な位置を、い や実際はいかなる種類の価値も認めていない(マッキンタイア『美徳なき時代』304 頁; p.249)。いずれにせよ明らかなこ とは、ノージックとロールズの両者にとって社会は諸個人から成っていて、各個人は独自の利害関係をもってい るので、寄り集まって生の共通の諸規則を定式化する必要がある。こうして、両者の説明においては、個人が第 一で、社会は第二である。そして、個人の利害の固定は、諸個人を結ぶ道徳的・社会的絆の構築に先立ち、それ とは独立である。しかし、真価の観念は、人間にとっての善とその共同体の善との両者についての共有された理 解が第一の絆になっている、共同体という文脈の中でのみそのところを得るのである。そして、そこでは諸個人 が自分の第一の利害を固定するのは、それらの善に言及することによってなのである(マッキンタイア『美徳なき時代』 305 頁; p.250)。 ロールズとノージックの立脚点からすると、われわれはあたかも他の諸個人の一団と一緒に難破して無人島に 打ち上げられたかのようである。各人は私にも他のすべてにも見知らぬ人であるというわけである。作り出され ねばならないのは、そうした状況でわれわれ一人ひとりを最大限安全に守ってくれる諸規則である(マッキンタイア 『美徳なき時代』305 頁; p.250)。この個人主義的見解には、それ自身のうちに近代社会についてのある種の現実主義 的響きが含まれている。近代社会は実際しばしば、少なくとも表面に現れたところでは、見知らぬ者たちの寄り 集まり以外の何ものでもなく、そこでは各人が最小限の制約の下で自分の関心事〔利益〕を追究している(マッキ ンタイア『美徳なき時代』306 頁; p.250-251)。彼らの見解は人間共同体についての次のような説明を一切排除している が、それは驚くには当たらない。その説明とは、真価の観念が、共有される善を追求する際のその共同体共通の 仕事に対する貢献との関係で認められ、その観念が徳と不正についての判断の基礎となりうるような説明である (マッキンタイア『美徳なき時代』306 頁; p.251)。 -5-
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