桜蓮寺報2015年6

No.20
桜蓮寺報
ののさま vol.11
2015年
6-7 月号
浄土真宗念仏道場 来信山 桜蓮寺
〒561-0883 大阪府豊中市岡町南1-13-12
庵主 平野正信 電話:090-3947-3325
が発行されました。
フリーペーパーののさまのvol.11が発行されました。サポーター寺院や全国の
本願寺派別院・教務所等に設置させていただいております。庵主は「ののさま
法語掲示板」というコーナーを担当しております。
今後の桜蓮寺予定
8月30日 14:00~ 盂蘭盆会(おぼんにいのちをおもう会)
法話はビハーラ僧として終末期ケアに関わってこられた田丸裕昭師です。
廣瀬 杲 『
真宗 入門歎 異抄 のこころ』
出会 わなければならな い
ただ ひとり の人が いる
それは私自身
今月の法語
庵主のひとこと
私とはどういう人間でしょうか?
「あなたはどういう人なのですか?」
と聞かれれば、皆今までの経験や肩書を
紹介しながら一応の自己紹介をするで
しょう。しかし、それだけで私の全てを
紹介し切ることが出来るでしょうか。
仏教では全てが縁によって成り立って
いると説かれます。それ単体で独立して
成り立っているものは無く、様々な直接
的・間接的な原因が複雑に絡まり合っ
て、仮に成立しているのです。
私もまた仮に成立している人格です。
仮に成立しているということは、揺れ動
き不確かだということです。
優しい人だと思っていた人が怒ってい
る姿にビックリしたことは無いでしょう
か?優しい心を持てる縁に会えば、その
人は優しいのです。しかし、ひとたび怒
りの縁に会えば、その人もまた鬼のよう
に怒ることだってあるのです。別人のよ
うに見えたとしても、優しいその人も、
怒り狂うその人も、その人であることに
愛犬の死におもう
6月9日愛犬のトロロがこの世のおつとめを終えま
した。13歳でした。キャバリアという犬種にして
は、とても長生きだということでした。
最後には骨と皮だけに痩せて、目も見えず、耳も
聞こえないようでした。死んでいく姿は人間も動物
も変わらないものですね。
その姿に違いがあるとすれば、動物はあるがまま
に死んでいくのに、人間はそれをするのが難しいと
いうところでしょうか。
遺体を御内仏の前に安置し阿弥陀経のお勤めをし
ました。お経を読みながら、子犬からのすがたが思
い出され、法話をする段には声を詰まらせ涙を堪え
ることが出来ませんでした。
その身体に触れ、声を聞くことが出来なくなると
違いはありません。
優しい人は、優しく出来る縁にめぐま
れているだけなのかもしれません。優し
く無い人は、優しく出来る縁にめぐまれ
なかっただけなのかもしれません。
浄土真宗は仏願(ぶつがん)の生起本
末(しょうきほんまつ)を聞く教えで
す。仏願とは、阿弥陀様が私を救おうと
願ってくださった願い。生起本末とは、
何故私を見て阿弥陀様が願われたのか
と、その願いがどのように成就し私には
たらいてくださっているのかということ
です。
つまり、仏様の願いとはたらきを聞く
ということは、そのままに、願いをかけ
られる私のすがたを聞くということなの
です。
私が知れるような私を超えて、仏様が
見抜いてくださった私のすがたを聞き、
私自身に出会っていくのが仏教を聞くと
いうことなのです。
いうのは、やはり寂しいものです。
しかし、その涙はただ悲しいだけのものではあり
ませんでした。
阿弥陀様はたった一つのいのちも逃さずに救い続
けるとお誓いになり、それを成就された仏様です。
曠劫流転の間、阿弥陀様から逃げ続けてきた私に
すら、今生でついにとどいてくださった阿弥陀様が
おられるのです。何の心配もなくまかせろと言って
くださる阿弥陀様がおられます。一切の衆生を救い
切ると誓われた阿弥陀様がおられるのです。
私の涙は、もうトロロに触れられない、声を聞け
ないと嘆くわがままの涙と、阿弥陀様におまかせす
ればいいのだという安堵の涙の混ざった涙でした。
寂しいだけでなく、よかったと思えるご縁に、お
念仏があふれてくださいました。
【同封物】正信偈ノート20・仏教とはじめて親しむ方には勤行用CDやダウンロード聖典等を同封しております。またご希
望の方はお声がけください。寺報や正信偈ノートはご家族・ご友人等のご縁ある方にも読んでいただければ幸いです。
桜蓮寺報 2015・6 no.20