江戸時代女性の噂話:第一部: 都会の庶民 の女性 : 町の女 2

University of Pennsylvania
From the SelectedWorks of Cecilia S Seigle Ph.D.
Summer 2000
江戸時代女性の噂話:第一部: 都会の庶民
の女性 : 町の女 2
Cecilia (淑子) S Seigle(瀬川), Ph.D., University of Pennsylvania
Available at: http://works.bepress.com/cecilia_seigle/23/
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江戸時代女性の噂話:第一部: 都会の庶民の女性 : 町の女 2
恋愛異譚
恋愛異譚
江戸時代だろうが何時の時代だろうが恋愛の噂話は古新聞の山のようにある。噂になる
のは大体うまく行かなかった場合である。
恋愛異譚 1: 迷惑な片思い
迷惑な片思い
元文年間(1736-1740)のことである。江戸中橋の上州屋という質屋両替の商人にお吉とい
う娘がいた。容貌は十人並だったがひどい癪もちで時々胃けいれんを起こして気絶することがあ
った。親が湯治させようかと思っていたとき、ちょうど娘の伯父が高崎から来たのでその人に頼
んで、下女のさよをつけて娘を伊香保の湯へ行かせることにした。
伯父は高崎の自分の家でしばらく休息し、夜具衣類はもちろん、朝夕の菜の物まで馬に
つけてお吉を乗せ、自分も付き添って近くの伊香保の温泉宿に落ち着いた。しばらく養生すると
お吉は全快して打って変わったように明るくなったので、伯父は上機嫌で手紙でそれを江戸に知
らせた。娘も江戸より気分が晴れてたのしいと言って中々江戸へ帰りたがらなかった。それで伯
父は「それならゆっくり保養するとよい。私はひとまず高崎へ帰って又来よう。さよをここに残
していこう。男がいなくて心細いだろうが隣部屋の藤七どのに頼んでおくから、何でもこの人に
相談しなさい」と言って高崎へ帰って行った。
隣部屋の藤七という男はお吉が相手にしないので、始めからお人好しの伯父に取り入っ
て誠実らしく見せかけていたので、伯父はすっかりだまされて事の外心安くし、高崎に来たら是
非よってくれ、私が高崎へ帰った後はお吉の部屋に来て寝ておくれ、寂しがるだろうから側を離
れぬように、などと頼んで帰って行ったのだった。
お吉は伊香保で友達も出来たので少しも淋しくはなかった。藤七は田舎者だが少し小浄
瑠璃を語るので自分では中々な者だとうぬぼれている男である。お吉は江戸で朝夕当世風な男を
見ているから此の田舎男が昼夜入り浸ってしつこく口説き落とそうとするのがうるさかった。彼
がいなくなるといつも下女のさよを相手に藤七のことを笑っていた。
藤七は伯父に頼まれたのをよいことにお吉の部屋へ行李など運び込んで自分の部屋のよ
うに暮らし始めた。お吉はひどくいやだったけれども伯父の言いつけだからあたらず障らず、下
女に側を離れないように言いつけていた。しかし下女もうっかり者なので、ある時ちょっと近所
へ話しに行ったすきに藤七はお吉をおどして自分の願いがかなわなければお前を刺し殺して自分
も死のう、などと言い出した。
娘は怖れたが一時逃がれに今夜逢おうといい、下女が帰ったら逃げようか、家主へいい
つけようか、と心配している内に癪の発作が起こった。胸は板のようにかたくなり、歯をくいし
ばってうんと反り返った。藤七は南無三宝と下女を呼び、宿の亭主も駆け付けて大騒ぎになった。
藤七は生まれつき色欲の深い男だったが、先程お吉が今夜逢おうと嘘の約束をしたことから欲情
が火のように燃え上がり、看病にかこつけていろいろ淫猥なことをしていた。お吉はすこし人心
地がつくと藤七が介抱するふりをして自分を抱きしめているのでますますいやだったが、言葉も
ちゃんと出て来ないので顔をふっていやいやをしていた。さよがそれを察して「私が変わりまし
ょう,藤七様はお休み」と言ったが藤七は放さなかった。そのうちに薬を飲ませて癪は少し収ま
ったようなので皆帰って行った。しかしお吉は舌がすじばって呂律がまわらず苦しがるので藤七
は本当の涙をながした。しかし看病するふりをして野卑なことをしたので、お吉は気をもんでう
んとのけぞったとき息が絶えてむなしくなった。
女中のさよは泣きくずれ、宿では大騒ぎになったがお吉の体はしだいに冷たくなった。
高崎に急報を出し、死体は屏風を引き廻し次の間に人々は集まった。そのうちに高崎の伯父が真
っ青になってかけつけた。みんなに一言挨拶してすぐに屏風の中に入ると思いがけなく藤七がお
吉の死体と抱き合って前後も知らず伏していた。伯父はぎょっとしたが外の人たちに聞こえると
いけないので憎さのあまりしたたか顔をなぐると藤七は目をまわして赤くなって逃げ出した。
伯父はお吉の亡骸を高崎の寺に葬り、さよに話を聞いて深く後悔したけれども後の祭り
だった。宿の亭主が藤七を脇に呼んで「江戸から来た人たちがさよの話を全部聞いてお前を打ち
2
殺そうと言っている。今日中に田舎へ帰ったほうがいいぞ」と言ったので藤七はこそこそと荷物
を片付けて消えてしまった。
二三日すぎて近所の子供が藤七が奥の谷間で狂い回っていると告げた。元気な湯の客た
ちがそれぶち殺せと二三十人出かけると、はるかな谷の底に藤七はざんばら髪で帯も解け下帯も
どこかへ落として所々血だらけになって茫然としていた。そばに倒れていた大きい樹の上へ横た
わって、女と交合しているつもりなのか、みだらな身振りをするので人々は顔を覆って二目と見
なかった。温泉のある土地はどこでも山神の霊験が著しく、婦女を犯した者などは罰を蒙ること
がある。汚ない体で神霊を汚した者がたちどころに乱心するという報いがあったこともある。
人々は藤七の様子を見て、心がけが悪かったとは言え、あわれな事だと言って,彼をすかして山
の神にお詫びを言わせ、入湯させた。 藤七は一応回復したのだが自分の行いを恥じて故郷へ帰
りにくく、乞食同然の姿でどこかへ消えてしまった。1
藤七が自分の罪悪感から発狂した事が示唆されている。彼は自惚れで自信家だったが結
局おろかな気の小さい男だったのである。しかし此の話で一番悪いのは伯父である。田舎の人と
はいえ、あまりにも不注意であった。下女がついているのに、淋しがるだろうから藤七にお吉の
部屋に来て寝ておくれというのはどういう了見だったのだろう。都会よりも田舎でこそ若い男た
ちがしばしば淫猥な行為にふけり,村では若者が夜中に若い女の家にしのびこんだりした事を知
らなかったのだろうか。お吉も藤七をいやがりながら伯父や宿屋の主人に藤七のことを言いつけ
なかったのは何故かわからない。江戸育ちでも昔の娘達はそれほどナイーブで純情だったのだろ
うか。それとも現代の娘のように、いやがりながらも男に求愛されるのが満更でもなかったのだ
ろうか。
癪の発作というのは昔はよくあったようだが今はあまり聞かない。胃けいれんの事だが,
それが原因で死ぬというのも珍しい。昔の女性はあまり運動をしなかったから胃けいれんなどに
よる心臓の発作に耐えられなかったのかもしれない。
恋愛異譚 2:「お前136までわしゃ…まで」
2:「お前136までわしゃ…まで」
文化六年(1809)の春ごろ、牛込あたりに境内に観音堂のある寺があって、年取った尼が
毎日のように観音堂に参詣していた。寺の和尚が見て「あなたは毎日観音堂にお参りなさるが、
何か特別の祈願があるのですか」と訊ねると、老尼は「年取っている身ですから願いなどあるも
のですか。近頃夫が亡くなりましたので菩提のために方々の寺へまいりますが、特に観音菩薩を
信じて夫の未来往生の為にお祈りするのです」と答えた。「それは奇特なお志です。あなたの御
主人ならさぞ高年だったのでしょう」と言うと「百三十六歳で亡くなりました」と答えた。「そ
れは珍しい長寿です。それであなたは幾つなのですか」と聞くと六十四歳だと答えた。和尚はお
おいに笑って「夫婦の間でそれほど年が違うわけはありません。覚え違いでしょう」と言った。
尼は首をふって「間違ってはいませんがわけがあるのでお話ししましょう」と語り始め
た。「私が五、六歳の頃父母ともに亡くなってしまい、親類もなかったので全くのみなしごにな
ってしまいました。そこで私の夫になった人が私を哀れんで引き取って養ってくれたのです。彼
も不幸せな人で先妻も病死し、子供もありましたがそれものこらず死んでしまったので、私をた
だ一人の身内として養育して、私が十五歳になった時こう言いました。『私は妻にも子にも別れ
て本当の独り身だ。お前はよく仕えて私の子のようだから今はお前だけを楽しみに家業も続けて
いるのだ。けれども私の身も心細くお前も頼りない。いっその事女房にならないか。』
私はびっくりしてまじめな話とも思わず笑いました。すると、『いや冗談ではない。よ
くよく考えて御覧』と言い、その後も度々此の事を言い出しました。私も考えて、別に交わりな
どをしいて求めるのでもないし、私は幼年から海山の恩をうけた身ですから、むげにその心を傷
つける事も悲しくて、そんなにおっしゃるならば、親類というものはいないけれど、私を憐れん
1 怪談老の杖、 p。23-26。
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でくれる人もいますからその人たちとも相談してからと答えました。それから信じられると思う
人達にその話をすると、誰もが『それはとんでもない話だ、断る方がいいだろう』と言ったので
すが、一人の人が『おじいさんがそんなに言うならその望みに任せなさい。これから生きてもそ
んなに長くはないだろう。亡くなった後は家財を他に譲る人もないのだ。もしあなたがそれを譲
り受ければお爺さんもお前さんも今後安心して生きられるだろう』と言いました。それで『ごも
っともです、ことに大恩をうけたことですから、その望みに任せて生涯御世話してあげましょう。
これも天の配慮です』と納得して、おじいさんに承諾をつたえると彼はたいへんに喜び、それか
ら夫婦となって暮らしました。
私が十八の時不思議にも今の息子をもうけ、おじいさんも隠居して最近亡くなりました
ので、私はその跡を弔っているのです。始めは似つかわしくない事だと思いましたが、年を重ね
るうちにそれほど思わなくなり、生涯夫婦の関係でした」と語ったと、その住僧が蒔田某の仏参
の時話したそうである。2
日本は大体長寿の國で、中国から伝来の人生哲学から長寿を喜び尊ぶならわしがある。
この本の「農村地方の女性」の中にもとんでもない長寿---—と言うより不老不死の女--- の話や
長寿法の話がある。江戸幕府は定期的に長寿の男女を表彰していた。今も市町村では長寿の人達
のお祝いをするし、全国的に「敬老の日」という他国にない祝日がある。けれども上記の話のよ
うに七十二というばつぐんに年令の離れた夫婦は先ず見られない。その夫婦は夫が九十歳、妻が
十八歳の時に息子が生まれたというのだがそんな事が生物学的、医学的に可能だろうか。そうい
う,年を忘れたような男,医師の松本一斎という人は百二十八歳で女房は三十八歳、娘は十八歳、
息子は十四歳,という疑わしい証言もあるので3全くの嘘ではないのかもしれない。しかしそれ
は公的な記録ではない。
『甲子夜話』にも奥州の人から盛岡のある村に長寿の一家がいて,百四十三の夫、百三
十九の妻、子供さえ百十二歳でその妻が百九歳、孫も九十二歳でその妻が八十九歳、曾孫が七十
と六十八の夫婦、玄孫が四十一の孫とその妻が三十九という五代健全の家族がいることが記録さ
れている。4
七十何歳で子供を持ったチャーリイ・チャップリンや指揮者のヘルマン・シェルキンのよ
うな人もいたのだから、それは絶対に不可能ではないかもしれない。しかしまず普通ではない。
それにもかかわらずこんな話が出て来るのは何故だろうか。やはり人々が長寿願望をもっていた
からだろう。それと、びっくりしたい、びっくりさせてやりたいという無邪気な願望である。び
っくりさせたいと思う時には誇張や嘘も躊躇しない。
宿世の狂気乱心
宿世の狂気乱心
赤坂田町である商人が養っていた女の子は名前を春といい、容貌は美しくはないが心が
清く、家事を上手にまかない、頼まれたことは何でもきちんとするので大事にされていた。する
と或る年の暮れから病気で苦しむことが多く,後には正気を失って狂い回るようになり,初春の
始め頃ある夕方ひそかにその家の軒に火をつけて焼こうとした。さいわい隣人たちが早く見つけ
て駈けよって水をかけて無事に火を消した。商人は春をいましめるつもりで「なぜそんなことを
したのか話してごらん」と言うと春は大笑いをして、答えにならない意味のないことばかり口走
った。
町の同情のない連中が、今憐れみをかけると今後どんな事件を起こすかわからない、と
言い立てて奉行所へ連れて行き,起ったことを細かく申し立てた。両町奉行は、春が狂気乱心か
らしたことだとわかっていたので哀れには思ったけれども、すでにその罪が立証されているので
助けるすべもなく,後人への戒めとして河原の非人たちに処分を仰せ付けられた。春は縄をかけ
2 耳袋
2:266—268。
3 甲子夜話三篇5:284-285。
4 甲子夜話,1:179。
4
られて馬に乗せられ、町中を引き廻された後、神田筋違橋、浅草橋、四谷札辻、芝札の辻、日本
橋の五カ所の辻で前後十三日間往来に顔をさらされ、そのはてに品川の鈴が森で火あぶりにされ
た。
春はどうした宿世の悪縁でこんな罪をおかすようになったのかと調べるとそれには理由
があった。彼女の實父はある山里の農民だったが、若い時耕作の暇さえあれば山に入り木こり柴
刈りをしていた。ある日山に深く入り込んで枯れ木を探していると、谷で野狐がぐっすり眠り込
んでいるのを見つけた。彼はやにわに持っていた棒で狐を打ち殺し、町へ持って行くと相等な値
段で売れた。それからは欲が出て彼は年来の正業を捨てて殺生を好む狩人になり、日毎に深山幽
谷を駆け回っては飛び道具を使ってあらゆる鳥獣を殺して生計を立てた。けれども少しも富裕に
ならず,春が七歳のときにふとした病気で亡くなってしまった。女房は後に残って田畑をたがや
し、かいがいしく働いたけれどもとても生計は立てられず,春が九歳のとき暮らせなくなって春
を今の商人に預け行末を頼んで国へ帰って行った。
報いは春に来て、日夜どこからか鼠が現れて春に取り付くようになった。 鼠は他の人に
は全然見えないのに春だけを苦しめた。春は乱心して鼠から逃れるには火で焼き払えば何とかな
るだろうと思って火をつけたのだった。5
著者は「人間の行為には必ず報いが来るものである」という言葉でこの話をむすんでい
るが、父の悪行の報いが春に現れたというのは勿論論理的には証明できない。しかし江戸時代の
人達がそう解釈したのは、親の罪は子供に報いられると信じていたからだ。東洋だけでなく、欧
米にも “Sins of our fathers”という成句が見られるように、先祖の罪は子孫に現れるという
考えは昔からあったのである。
春は七歳までは父のしている事がよくわからなかっただろうが、成人してからそれを思
い出して父の殺生残酷な仕事を悲しみ、それか嵩じて精神異常をきたしたという経過がまず考え
られる。自分の体に鼠がつきまとっているという妄想もそれから来たのであろう。しかしそれが
本当だと猟師という職業は子孫が報復で全滅になって職業としてなりたたない。春はやはり特別
に繊細な神経を持っていたのだろう。
江戸時代には若い女が未遂の火付けや確証もない小火で火刑になった哀れな話がいくつ
かあった。その取り扱いは丁度その時調べにあたった奉行の解釈と決断によったようであるが、
春は極悪人が処せられるひどい刑を受けたのである。 罪の意識のない狂人を、しかも若い女を
こんな残酷な刑で罰したことは今日では理解しがたい。
消えた家
小説家の建部綾足(1719 -1774)は正月二日に江戸の根岸のあたりを、友達が探している
家を見つけるために一緒に歩き回った。友達が立ち止まっては此所か,その隣か,いや此所でも
ない。これは怪しい、と頭を振って独り言をいうので、どうしたのだ,と聞くと奇妙なことがあ
るのだ,と言って友人は歩きながら去年の十一月に起ったことを語ってくれた。
その友人はその日それまで付き合っていた女に別れ話をするつもりで日暮れにこの道を
通りかかったが、雪で歩きにくくなった時ちょうど今見た家の隣まで来ていた。するとその家か
ら感じのいい老女が出て来て「笠なしではお困りでしょう。蓑をお貸ししましょう、ちょっとお
寄り下さい」と言ってくれたので嬉しく思いながらついて家に入った。
外見よりも美しい家で掃除も行き届いていた。彼が簀の子に腰を下ろして待っていると,
老婆が「少しお願いしたいことがあります」といい、同時にきれいな少女が出て来て袖を引っ張
るので仕方なくついて行った。入ったのはたいへん香りのいい部屋で壁には秋の野の景色が画い
てあった。屏風を引き廻して中に寝ていた女ははっきりは見えなかったが年は二十くらいで,
枕から少し頭を上げて恥ずかしそうに物を言ったが、その様子は気高く普通の人ではないようだ
った。
5 天和笑委集、 p.182-184。
5
すると先程の老女が出て来て「これは私がお付きしている方ですが此所にいらっしゃる
理由は今お話する暇はありません。昨日この方がお宮参りの道で醜い犬に食いつかれたのです。
そこに居合わせた人たちが引き離したのですが、足からたいそう血が出て痛いだけでなくびっく
りなさって人心地もなかったので、ようよう何かに乗せて此所までお連れしたのです。犬に噛ま
れた人は回復が難しいと言うことですが,熱もあって何も召し上がりませんし、こうして寝てい
らっしゃるばかりです。あなた様はお医者さまでしょう、何とか治療していただけないでしょう
か」という。
彼が医者だとどうしてわかるのか不思議だったがそんな事を詮索している暇はない。病
人の顔は火照って苦しそうだった。彼は「これは思いがけないことで今日に限って供も連れず,
医療道具も持っていない,けれども少しばかり急の場合の薬を懐に入れているからそれを試して
みましょう、けれどもお足を先に拝見しましょう」と言った。若い侍女が立派な錦繍の花紅葉を
刺繍した唐衣と濃い紅裏のついた厚い綿入りの夜着の裾をすこし引揚げた。「足をお出しなさい」
というと、女は恥ずかしそうに足を出したがたいへん白いつやつやしたほそい脛には別に疵もな
い。「何処に傷があるのですか」と聞くと老女が微笑んで「恥ずかしがっていらっしゃるのです
よ,もう少し上の方です」と言って白いやわらかい綾の二重の着物を押し上げた。見るとふくよ
かな向う股がひどく腫れて牙にかまれた傷の跡もはっきり見えた。
「今老刀自がおっしゃった難しい傷は病気のある犬に噛まれた場合です。これはそうで
はなくて犬がたわむれて噛んだのでしょう。今差し上げるお薬を付けて繃帯を巻いておけば近い
うちに良くなるでしょう。私も又来て拝見しましょう」と彼が言うと皆喜んで「どうぞよろしく
お願いいたします。此所は何とも不便な所ですから,二日程したら神田の柳原の従兄さんがいら
っしゃる所へお移りになるでしょう。あなた様のご住所も伺っておいてこちらからお迎えに参ら
せましょう。ご住所を書いてください」と言った。老女は高蒔絵の硯箱を持って来て、質のよい
きめの細かい墨をすって間近に置いた。そうして同じ模様の蒔絵の文箱に絹紐の長い房が結んで
あるのを解き、中の陸奥紙を取り出してその辺において退いた。そういうみやびな振舞を見てい
ると、彼は歪んだ鳥の足跡のような拙い筆跡で住所を書き残すのは恥ずかしかったけれども、と
にかく書きなぐって「では此所に御連絡下さい」と言って去ろうとした。女たちは「お待ち下さ
い,お食事をさしあげますから」と騒いだけれども彼は出て来た目的を果たさなければならない
し、雪も晴れたので蓑も借りずに走り出た。
それにしてもゆかしい人であった、と道すがら思い続けて行くと暗くはあり、足下の雪
も歩きにくくて夜の七時半ごろやっと女の家に着いた。女といろいろ言い争っているうちに夜も
更けたので、そのままそこでごろ寝をして明け方になって帰った。その後すこし風邪を患ったが、
あの笠やどりをした雪の夕暮れのことが心にしみて、迎えが来るのを今日か今日かと待ちわびて
いたのに音信なしに年も暮れた。
彼は「あまり気になるのであなたをそそのかして今日ここに来てみたのです。あの時は
慌ただしく発ったのでその家の様子は少しも覚えていませんが、椿がたくさん咲き誇っていたこ
とと、黒木で葺いた屋根に枝折戸をかまえていたことはよく覚えています。その家はちゃんとこ
こにあるのに,肝腎の隣の家は跡も見えません。たしかに見てから一ヶ月ばかり経ちました。そ
の間に家も垣も消えるようなことがあるだろうかと思ってさっきからつらつら眺めていたのです。
所を間違えたのでしょうか、そうと知ったらもっとはっきり家の名やどんな人なのかを聞いてお
くべきでしたのに。惜しいことをしました」と言った。「しかしはっきり覚えている椿の花の家
へ行って聞いたら家を壊して移ったのかどうかがわかるだろう」と言ってその家へ行って外から
声をかけたが返事がない。とうとう戸をおしあけて顔を差し入れて「お願いします」というと、
台所にいた老婆が顔をこちらに向けて耳を指さして「大きい声で言ってください」というので、
聾なのだとわかった。「ごめんください」と響きわたる程の大声で言って近くに寄って隣の家の
事を聞くと,「今日はある御邸のお正月の年賀に行きました。供を二人も連れて行ったので年寄
りの母 一人で留守番です」という。声を高めて「隣の家はいつ壊されたのですか、住んでいた
人は何時どこへ移られたのですか」と聞くと、すこし聞こえたのか、老女は「そうなんですよ,
私の頭は一昨年剃ってしまいました。此所へは去年の秋に移って来ました」という。腹立たしく、
もうしかたがないとうなずいて、小声で「狸婆よ,汚い婆よ」と言ったけれども全然聞こえない
6
らしくにこにこして「お湯でもひとつさしあげましょう」と言って立ちかけたが、湯呑みが汚な
らしいので笑って外へ出た。
友人は「やっぱり場所を間違えたのか」と言ってあっちへ行ったりこっちへ行ったりし
て椿の咲いた庭は何処だ,黒木の門はどこだ、と探し歩いたけれども見あたらない。あまり覗き
込むと人が泥棒かと見とがめるかも知れないと思った。
彼はおかしくもないのに笑って「もうあきらめよう、それにしても腹がへった、椿より
も椿餅を売る家を探そう」と帰路についた。
私が「これほど探したのにその家がないのは怪しい。犬に噛まれたと言ったから、それ
はきっと毛のむくむくと生えた脛だったのだろう」からかうと、医者は「いやいや私がちゃんと
診察をして見たことだから間違いない」と言って、ただただ夢の中で会った女性を恋いわたる様
子だった。6
これは小説家の建部綾足が書いたものだからつくり話だろうと思う。昔の中国の奇異譚、
上田秋成風の翻案小説、でなければよくある中国風の説話のような話である。一つ家、離れ家に
引き入れられる若い男を迎えるのは必ず絶世の美人である。このタイプの作り話は男である作家、
記録者のファンタジーであるから、それについで起る事も必ず浦島太郎的、邯鄲の夢的な、この
世を離れた快楽、あるいは何かすてきな幸運である。それも男性の密かな願望を顕している。背
景もいかにも作られたような、しかも類型的であるのでこの話も事実だと信じる事は出来ない。
心中—
心中—
江戸時代の男女はよく簡単に心中した。もちろん個々の男女が心中に至るまでの経過は
そんなに簡単なものではなく、いろいろな複雑な事情を経て悲劇に終わった事件が多いのだが,
享保七年(1722)の吉宗将軍の相対死を禁じる法令が出るまでは、近松門左衛門や紀海音の美しく
悲しい人形浄瑠璃や歌舞伎の影響もあって一緒になれない若い人々がつぎつぎと死んで行った。
心中が禁じられた後も以前程ではなくても心中は続き、有名になった心中もいくつかあった。こ
こに語られているのは有名でない心中の噂である。
心中 1: 千沙と松之助
阿波の徳島に筏屋という材木問屋があったが本店は先祖から大坂にあり、阿波店の経営
は手代にまかせ、主人も大阪から半年づつ阿波に下って仕事を監督していた。
主人の忠兵衛は嫁を貰う事にして、宮部周庵という医師で大百姓の十五歳の娘千沙、阿
波の国一番美しいと思える娘を妻に選び、千沙を徳島に連れて来た。 筏屋は先祖からの家法で
世帯を大坂に持つことになっていて、決して阿波に妻子を置くべからずという掟があるので、主
な手代や親類たちは忠兵衛のやり方には反対だった。しかし忠兵衛は、大坂では妻女が奢って家
の為にならない、昔の掟は役に立たない、と言って大坂の店は手代にまかせ、妻を阿波に住ませ
た。
そうして忠兵衛はしばらく徳島だけに住んでいたが、まだ子供も出来ないうちに思いが
けなく急に二ヶ月ほどわずらってあっけなく死んでしまった。雇人たちも千沙もたいへんに悲し
んだ。しかし商売の方は手代たちがしっかりしているので主人が元気な時と同様繁盛していた。
阿波の店は久右衛門という長年勤めて来た老人の手代が取り締まっていた。後家の千沙は十七歳
になっていたが娘同然あどけなかった。そんな若いきれいな女を一人でおくのはあわれで、服喪
がすみ次第外から婿を取って筏屋の跡を継がせようと久右衛門は言っていた。
6 折々草
p. 7-11。
7
この家に松之助という、まだ前髪の少年の小者がいた。摂津の名家の息子だったが、 人
に使われてみなければ人を使えないものだ、という親の考えから少年を此の家に丁稚奉公に出し
ていた。生まれつき優美で賢い少年なので忠兵衛が生きていた時とくに可愛がって、楊弓茶の湯
俳諧などの相手をさせていた。何事も器用で俳諧など忠兵衛より上手なくらいだった。 松之助
はおとなしくて賢く、愛嬌もあるのでみんなに可愛がられていた。忠兵衛が亡くなってからも千
沙の芸事の相手をして彼女の傍を離れず、遊び仇のようにしていたのだが、その親しみがいつの
間にか恋に変わった。千沙も先夫とのありし日など思い出す淋しい雨の夜など、松之助を部屋に
呼んで何時となく偕老のちぎりを結び、未来の約束の証文まで取り交わした。
家の者たちはそれを夢にも知らなかった。番頭の久右衛門はもう服喪もすんだから若い
後家を一人で置くのは良くないという意見だった。 番頭は、大坂北浜に忠兵衛の三十になる従
弟がいたのを養子にして筏屋の跡を相続させようと言って、まず千沙の父の周庵に相談した。
「あなた様さえ御得心ならば旦那一家はのこらず賛成です。お千沙様にも申し上げるとまだ一人
にしておいてくれと言われたけれどもこれはお父上がご承諾ならば済むことです」と談じた。周
庵は久右衛門の忠義をよろこんで「娘のことは少しもお気遣いありません、私が請け合います。
善は急げです」と話をすすめた。
千沙はいろいろ心を痛めて松之助とひそかに語り合い、自害しようかとまで思ったが故
郷の両親にも名残が惜しかった。そこで一度里へ帰りたいと言うと久右衛門もよろこんで「ゆっ
くり保養なさいませ、お気に入りの松之助を連れてお出でなさい」とすすめた。千沙は松之助と
女中たちを連れて籠に乗って実家へ旅をした。周庵は娘の訪問をよろこんで早速久右衛門と相談
したことを言い出した。千沙が養子の件をことわってあやまると父は怒ってことのほかきびしく
いましめた。 千沙は実家に来るまでは松之助のことを母にだけでも打ち明けようかと思ってい
たのだが、此の様子ではとても出来ないとわかってそのまま徳島へ帰って来た。
それから松之助と相談をして二人で死ぬよりほかはないと決め、次の日松之助に手箱の
金を持たせ、呉服屋へやって死装束を調えた。いつも千沙が倉へ衣類など出しに行くときは松之
助が手燭をもってついていくので、その夜もそうして二人で行ったのを怪しむ者はいなかった。
だが、いつまでたってもおりて来なかったので、召使いの女たちが行ってみると、いつの間に運
んでいたのか,提子盃などがあり、布団の上に毛氈も敷いてあった。松之助が先に死んだと見え
て喉笛を引き掻いてうつ伏せになっている上に千沙も寄りかかって死んでいた。ふたりともきれ
いな死にざまだった。
これを見た下女たちは胆をつぶして久右衛門に知らせた。久右衛門は落ち着いた人なの
で下女の口をとめ、一人で倉へ上がって調べ、それから周庵を呼びに遣わし、奉行所にうったえ
て検死を願い、万端無事に始末した。久右衛門は非常に残念がって「こうと知っていたら若い二
人を殺すことはなかったのに、松之助はこの家の跡目にたてても恥ずかしくはない若者だった。
全く惜しいことだった」とひどく悔やんだ。
その後は筏屋もおとろえて家も店も人手に渡ってしまった。此の家蔵を買った人が後に
ある夜蔵に用事があって手燭をともして上がって行くと人影が見え、盗人かと怪しく思って伺い
見ると、松之助と千沙が現れて手を取り合い泣いたり笑ったりしていた。その人は大胆な人だっ
たのでかまわず上がっていくと、二人はすぐに消えて見えなくなった。それから蔵を破壊して土
地を売り、仏僧を招いて二人の菩提を懇ろに弔ったということである。7
いとも哀れな話である。千沙は未亡人だし松之助の家と仇同士ではないから、ロメオと
ジュリエットの境涯とは全然ちがうのだが、二人とも若くて純情なのは彼らの恋を思わせる。こ
こでも年寄りが若い二人の関係を全然想像もしなかったというのはあまりのあき盲目だとしか思
えない。終日一緒にいて楊弓茶俳諧など趣味生活を共にしている二人なのだから、ひょっとした
ら、と考えなかったのだろうか。全然人情のわからない頭の古い番頭である。千沙の父親の周庵
も娘の言う事など聞きもしないで頭から娘の未来を決めてしまっている。 こんな親は今でも
7 怪談老の杖、p。30-33。
8
時々いるようだが一家の不幸のもとである。若い二人のどちらかがもう少し成熟していれば,松
之助の家族も立派な家なのだから怖れずに久右衛門に交渉して結婚をゆるしてもらっていたかも
しれない。今の時代ならば当然だれでもする事が出来なかったのはやはり封建時代である。
心中
2: 夫婦の焼死
天明八年(1788)の京都大火のとき、ある夫婦が類焼に会い大坂に移ったが,夫は火事の
時に怪我をして足腰が立たなくなったので,妻が髪結いなどをしてなんとか暮らしを立てていた。
所が寛政四年(1792)夏に又大坂で大火事が起きて気がついた時にはすでに火が近くにまで迫って
いた。
その時夫が言った。「京都の火事以来ようやくこれまでお前の介抱で長らえたけれど、
ももうこの体で生きても仕方がない。ことに又類焼すれば乞食になるだけだから私はこのまま死
のうと思う。お前は何とかして逃げ延びてどんな仕事でもして生きながらえておくれ。」
妻は「それはとんでもないお考えです。たとえこれからどんな苦労をしても私の体があ
る限りあなたと一緒に生きていきます。御世話は何とでもしますから,さあ逃げましょう」と言
っているうちに火はもう隣まで焼け移り,家主も立ち退くようにすすめに来た。夫の言う事を聞
いて「それは悪い了見だ、早く逃げろ」と家主は言ったがもう火が移って来たので逃げて行った。
妻は「それほど思い詰めていらっしゃるのならどうして一人で死なせましょう,私も一緒に」と
言って夫婦でついに焼死したということだ。8
この話は家主が語った事から伝えられたのだろう。全くかわいそうな話である。此の夫
婦は中年にとどかない短い生涯の間に二度も大火事にあっている。江戸時代の日本が如何に火事
の多い國だったかがわかる。一度も火事(戦災を含めて)を経験したことのない人間はその幸運を
心から感謝すべきである。夫と一緒に死んだ女性はどんなに夫を愛していた事だろう。今日の女
性たるもの、もし自分がそのような決断を迫られた場合どういう態度に出るかを考えるのは恐ろ
しいテストである。これは墓に閉じ込められて窒息死という処罰にあったラダメスと運命をとも
にする決心をしたアイーダと同じである。それはオペラで実話ではないから実感は湧かないが、
日本では豊臣秀吉の軍に囲まれて、夫の芝田勝家と一緒に自殺したお市の方という実例もある。
彼女も、夫が娘三人を連れて逃げるように指示したのに、娘達は逃げさせたが自分は留まった美
しく勇敢な女性であった。火刑というのは日本では火付けの犯人に与えられる極刑であるから、
火に焼かれて死ぬというのはむごたらしい死に方である。子供の時ジャンヌ・ダルクの死に方を
考えて怖くて仕方なかった。
心中
3: 隅田川心中
文化元年(1804)五月六日の夜,十六七歳の小娘が,二十余歳の男と隅田川に身を投げて
死んだ。二人とも桔梗縞の繕われた着物を着て, 二人の足は緋縮緬の帯でくくりつけてあった
という。七日の朝大勢の人が見物に出た。娘は小梅村の名主の娘で,男は百姓だともいうし八丁
堀あたりの者だともいう。 八丁堀ならば百姓ではない。或る人がいうには女は高輪の引手茶屋
鈴木という人の娘だということで,男の方は近所のかんな台屋の息子であると,そうして彼には
妻子があり,妻は臨月だという。高輪のしがらきという茶屋に書置が残してあったそうである。
四五日過ぎて木船の船頭たちが協力して検使をうけ霊巌寺に葬った。その雑費用が二十両あまり
かかったということだ。9
心中
4: 向島相対死未
向島相対死未遂
8 譚海、p.320-321。
9 半日閑話、大田南畝全集,11:305。
9
近頃、堺町の煮豆屋に顔の美しい娘がいる事が評判になっていた。その店の手代の中に
少し顔のよい男がいたのだが、娘がそれと恋仲になったことが近所で取り沙汰された。家人もそ
れを知って叱りつけたので娘は家に居づらくなり、七月二十一日の朝、その男をつれて向島あた
りを歩き回り、遂に相対死ということになった。しかし、その手代が女を刺しかけている所へ人
が来たので、刀はそのままで逃げてしまい、女は後に残って苦しんでいるのを近所の者が見つけ
て事情を訊ねると、彼女がいうには、家来をつれて観音へ参詣に出たのだが、彼はここまで偽っ
てつれて来て恋慕していると言い募ったので、断って辱めると逃げてしまったのだと嘘をついた。
これはまだ調べが終っていない。これまた秋田(飽きた)の物語である。10
心中
5: 心中さまざま
大阪の北野辺、梅田辺には心中騒動がおびただしいことである。梅田では夜中に番人を
置いた所、果して夜毎に二組三組づつあやしい男女が現れるのでその度に追い払うのだそうであ
る。これを「心中追払い番」と名付けたのもおかしい。こういう用心をしてさえ、近頃おはつ天
神の西側の榎木の下で騒ぎがあった。男は女を殺して自分も首をくくろうとして木の枝に紐をか
けて飛んだのだが、その紐が切れて地に落ちた後死ねなくて、長池のあたりをうろうろ歩いてい
たのを見た人は多かった。しかし事情がわからなかったので咎める人もいなかった。すると一人
の役人が男の着物に血がついているのを見つけて、ついにとらえて役所につれていった。それは
どこかの髪結いの男だったそうだ。
その後又この少し西の方、水道のむこうの道ばたで、男が女の首を切り離し、その女の
櫛笄かんざしの長いのをその首の切り口に突き立て、首をきれいに拭って、女の体のそばに置い
た。その死体が見つかった時帯をしていなかったので人々は不思議に思った。後で聞けば、この
女は新町鹽屋の遊女で、男は長堀のよしや九兵衛という材木屋の手代だったそうである。女を殺
したあと自分も首を絞めようと、女のしめていたしごきを取ってそこを離れた。それで帯がなか
ったのである。この男は結局土佐堀川に身を投げて死んだのだが、死骸は川口で見つかったそう
である。
その夜は事件が多かった。堀川北の堀どめの畑でも心中があったが、その男女はつかま
えられて浜の墓でさらされた。例の通り番人がついていたのだが、二日目の夜中二時頃に番の者
二人のがうつらうつら眠っていると何やら騒がしい。二人が眼を開いてみると、さらされていた
裸の男女が立ち上がって大声を上げて踊っていた。その男の方が『ついたとさ、ついたとさ』と
叫ぶと、女も声を上げて『つかれたとさ、つかれたとさ』と歌って二人とも余念なくおどってい
るので番の者たちはびっくりして近くの家に走りこんでそのことを訴えた。次の夜は大勢で番を
したのだが、何も変わったことは起こらなかった。その辺は狐が多いので狐がしたことだろうと
いうことになった。しかし心中者が裸で踊るのはどうもおかしいともっぱらの評判になった。11
甲斐性の女,烈女—
甲斐性の女,烈女—江戸随筆を読んでいると男と女の立場が常識と食い違っていることがよくある。たいて
いは夫婦の例で、家族を経済的にも社会的にも精神的にもしっかり守って指導すべき夫の代わり
に妻がそれをしていた、という場合が多いのに驚かされる。それはどの國にもどの時代にもある
事で別に驚くべきではないかも知れないが、その時代に普及していた普通の女の生き方から見る
と反対だし、女の側から見ると非常に頼もしく嬉しいので引用する。
甲斐性の女,烈女 1:
: お仲(綱吉)
10 半日閑話、大田南畝全集,11:462。
11 談笈抜萃、pp.22—23。
10
四谷大木戸に千石取りの旗本大久保弥九郎の弟、菊之助という人がいた。菊之助の妻の
お仲は実に才気のある変わった女性だった。お仲は堺町で俳優の衣裳を仕立て直して売る者の娘
だったが、別して才覚の多い女だと噂された人である。
十六くらいの時に家の事情で深川に身を売って歌い女(芸者)になった。その頃菊之助
がふとこのお仲(その頃は綱吉と改名していた) になじんでひたすら通い続け,忽ち金がなくな
って兄の旗本に勘当された。菊之助はあわてて深川の綱吉の所へ行って事情を話すと彼女は「こ
ちらにいらっしゃい,私がいいように取り計らいましょう」と言って彼を自分の知人の家にしば
らくかくまった。菊之助は料理が好きで上手だったので、やがて品川のある家の料理番になった
が、月ごとの費用は綱吉が自分の乏しい勤めのうちから送り届けたので、少しも不自由せず料理
をすこしするほかは大体遊び暮らしていた。
菊之助には二人伯母がいて、二人とも大名に仕えて豊かに暮らしていたが、一年余も過
ぎた頃、伯母たちは可愛がっていた甥が品川にいることをふと耳にして招いて話を聞いた。菊之
助が綱吉に世話になっていることを語ると伯母たちは喜んで、多額の金を払って綱吉を請け出し
て菊之助の妻にし,その兄旗本に談判して勘当を許させた後、別に家を探してそこに夫婦を住ま
せた。
綱吉はもとの名前のお仲に返って、菊之助とむつまじく暮らし、心から夫に尽くしたの
で,二人の伯母は有難く思って若い夫婦を可愛がった。お仲は三味線も舞踊も上手で,伯母たち
に気にいられ、後には彼女らの手引きで所々の大名の家に出入りするようになった。お仲はどこ
でも気にいられ、その十分な報酬のおかげで夫の菊之助はすっかり金持ちになった。
お仲は二人の男の子を生んで兄を巳之助、弟を増二郎と名付け,増二郎を背中に負って
諸侯の家に上がって仕事をしていた。何年かして二人の伯母は亡くなった。その頃から菊之助は
内藤遊郭の松坂屋抱えのおみよという女郎に通い始めた。お仲はそれを咎めることなく、自分も
おりおりに遊びに行っておみよと仲良くしたので、おみよも喜んでお仲を姉のように慕っていた。
そうしているうちにもお仲はいろいろ考えていたのだろう。おみよの様子を見ていて遊
女に似合わないおとなしい性質だと判断し、やがておみよを請け出して菊之助と一緒に住まわせ
た。二人の子のうち兄の巳之助には金を多くあたえてある家に養子にやり、自分は夫と別れて増
二郎を連れて親の家に帰り,後に両国あたりに新しく家作りをしてそこに住んだ。増二郎には自
分の知る限りの芸事を教え、それで身を立てて生きていけるように修行させたので息子も楽に暮
らせるようになった。
此の話をしてくれた御鷹匠の近藤氏は、其の後どこかで籠に乗って行くお仲にあったそ
うである。そこでしばらく語り合ったのだが、お仲は五十を過ぎていても以前の元気を失ってい
ず、お互いに昔の親しかった時のことなど思い出し、笑い合った。其の後はどうなったか知らな
いと近藤氏は語った。
お仲の気性が幼いときから強かったことは次の話でわかる。まだ十二三で親のもとから富本豊前
太夫の家へ浄瑠璃を習いに行っていた頃,富本のやり方では一度に三弦の手を三度だけ教えた。
皆二三度行かなければ覚えられなかったのに、お仲は一度でこれをことごとく覚えた。ある時お
仲が他所へ行かなくてはならないことがあり、二三日して帰って来ると豊前太夫に稽古で抜けた
所を教えて下さいと頼んだが教えてくれなかった。再三頼んだのに断られたのでお仲は心で怒っ
ていた。次の稽古の日に行く道で飴の鳥を買って簪のように髪にさした。先生の前に出て又稽古
のことを頼んだがことわられた。
彼女は声を高くして「私は他のお弟子におくれて口惜しいので二三日分増して教えて下
さいとお願いしているのです。先生は弟子を引き立てる心がないのですか、そんな先生は私に教
える資格がない」と言って頭にさしていたねばりのある飴の鳥を豊前が持って居た三味線にはた
と打ちつけ,そのまま家に帰って其の後は行かなかったそうである。
また菊之助の妻になったあと、ある家に招かれたとき,近藤氏も行き会わせていたがお
仲が風呂に入りに行くのを見て近藤氏がたわむれに「お前さんは此所から浴室まで裸では行けな
11
いだろうね」というと、お仲はすぐさま着物を脱ぎ捨てて「失礼お許し下さい」と言って、丸裸
で尻のあたりを両手でひたひた叩きながら湯に入りに行ったそうである。
ある雨の降る日、お仲が傘を傾けて小川町のあたりを通っていると後の屋敷の門の中か
ら三四人の下男たちがお仲を見て「これは後ろ姿の美しい、いやに派手な女じゃないか,全く前
も見たいものだね」と嘲り笑ったのでお仲はすぐさま立ち止まって後を振り返り足を踏み鳴らし
肘を張り、不機嫌な白目を作って大声で「私の前はこんなんだよ。胆をつぶしなさんな」と叫ん
で去ったということである。12
この女性は実在したらしく、『耳袋』にもお仲とおぼしき人の話が少し簡略な形で出て
いる。おそらく原典はおなじなのだろう。部屋住みの旗本の次男が浄瑠璃の上手な召使女と通じ
て彼女がその家をやめて自家へ帰ったときあとを慕って家出し、彼女の母と三人で暮らした。
彼女は三味線浄瑠璃を教えて生活を立て、あちこちの御屋敷にも上がり母とその男を養った。子
供が二人できたとき彼女はちゃんと育てた。男は生来懦弱で彼女が彼を養っているうちは恥じて
遊興を謹んでいたが、親元に三人とも引き取られると例の癖を出して、内藤宿(新宿)の飯盛女と
なじんで家に帰らない事が多かった。彼女は怒る事もなく働き続け,金を才覚して飯盛女を身請
し、夫に「あなたはもう私に飽きて遊興なさるのでしょう。お気持ちも変わったようですからこ
の女を召し使って私とは縁を切って下さい」と言ったので男は恥じながらも彼女の言う通りにし
た。彼女は更に三味線浄瑠璃の芸で諸家に立ち入り、母親を立派に養った、という話である。13
これは男女の位置が逆になっている典型的な例である。そうしてその夫も典型的な旗本
の次男で、金も頭も働きもないのらくら放蕩者、妻は働き者の町の女、 絵に描いたような取り
合わせだから全部本当の話ではないかも知れないが、『耳袋』には男の親兄弟の名前がわかって
いる、と書いてあるから全くの作り話ではないだろう。
人類学者や社会学者が言っているように、日本の女性は大昔から働きに働いて来たので
ある。男の方も中流以下はよく働いたが、男も女も、石川啄木の歌ではないけれど、働けど働け
ど楽にはならない人が多かった。
江戸時代後期には都会で唄、三味線、踊りなどの遊芸で生計を立てたり、それを教える
事で立派に生活のできる女性が増えた。だからお仲のような実例もいくつかあった。女たちが一
番押さえつけられた時代でありながら、女が男よりもよほど強い、頭がいい、勇気がある、とい
う例がぞくぞく出て来た時代なのである。それだけ見ても江戸時代というのは全く面白い。
能無しの夫とその情婦をよく世話したあげく奇麗に身を引いたのは、まことに気っ風の
いいやり方である。普通の女にはとてもできないことである。こういう女性の事を読むと因習に
閉ざされた時代にもこんな日本女性が居たのだと嬉しくなる。
しかしこの女性はあんまりぐうたらな夫に尽くし通して立派すぎるから全部が実話では
ないだろうという気もする。すこしは誇張されているのだろう。最後の二つの挿話は多少おきゃ
ん過ぎる行動であるが、立派すぎる分の埋め合わせのような、少し勇まし過ぎる話である。
彼女の芸名の綱吉が少し気になる。これは読み方は勿論ツナキチであって五代将軍と読
み方も時代もちがうのだが、普通天皇や将軍などの名前と一字でも同じ字が現れると忌避して改
名を命じられた。この話は相当後の時代だったので許されたのかも知れない。それとももうその
頃江戸人は元禄頃の将軍の名を忘れてしまっていたのだろうか。
甲斐性の女,烈女 2: 自鳴鐘(とけい)
ある人が時刻を知る為に自鳴鐘を買おうとすると、その妻がそれをとめて言った。「明
けくれに時計にかかる世話だけでもたいへんですが、機械が狂った時には修繕の費用や時間や、
自鳴鐘のためにかえって時間を失うことが多いでしょう。おやめなさい。」
12 寝ぬ夜のすさび p.242—244。
13 耳袋、2:71—72。
12
夫は「それじゃあ鶏を飼おう」と言ったが,妻がこれもとめた。
「時刻は自然に人の上にあるものです。汐の満干もそれと同じでしょう。 時計や鶏をた
よりにするのは勤めをなまける者のすることです。」
妻のいさめで此の男はとうとう時計も鶏もあきらめなければならなかったということだ。14
この女房はまるで小学校の先生である。夫は正確な時間を知りたいと思って自鳴鐘を、
それができなければ、せめて鶏の鳴き声でと思ったのに、家付き娘か姉様女房のような妻にお説
教をくって何も出来なかった。気の毒なことである。しかしその時代これほど筋立った説得が出
来る妻が居たというのは頼もしい。時間についての名言は多いが、彼女のようにはっきりと「時
刻は自然に人の上にあるもの、汐の満干もこれと同じ」という哲学的な断言をした人はいない。
「時計や鶏をたよりにするのは勤めをなまける者のすることです」というのは手きびしいが、た
しかに怠け者は会社で時計ばかり気にするーーというのはテレビや映画で使い古されたイメージ
である。此の女房は昔からそれを見通していたのだ。
江戸時代の人たちは豊かならば時計を持っていた。個人的にではなく、財産家、大名,
旗本など、 それに江戸城の時計(時圭)の間には外国から輸入された箱形の時計や日本で作られ
た和時計がちゃんと備え付けられていた。十八世紀、十九世紀には時計は相当普及していたのだ
ろう。鈴木春信の浮世絵[坐鋪八景、時計の晩鐘]にも個人の家の時計が描かれている。その時計
の持ち主は裕福な商家の妻や娘ではなく、妾宅に住む女性のようである。
しかしこの話の妻が言っているようにその頃の時計は高価な上に中々手のかかるもので
誰かが責任をもって世話をしなければならなかった。一般市民は町で鳴らす太鼓の音や鐘の音、
日時計、水時計、または日射しや腹具合によって時間を知った。自鳴鐘というものは十二世紀頃
にすでに発明され、日本に外国人によってもたらされたのは天文年間(1532-1555)だという。
それまでは日本では主に水時計(漏刻)が使われていた。中国でもいろいろ時計があり、ある精
巧な複雑な時計などは皇帝の玩具のように思われていたらしい。日本で有名なのは田中久重が嘉
永四年(1851)に作った万年自鳴鐘という立派な機械である。
甲斐性の女,烈女 3: 首を拾う女
浪花の巴という妓女は罪があって刑死した。そのつれあいの男も逃げられなくて死刑に
なったが、その男の姪にあたる女性が奉行所にその首をもらって孝養を尽くしたいと切に願った
ので許された。死刑がすんだ後、首も身体も芦島という所に捨てられたというのを聞いて女は人
目につきにくい夜になってから芦島へ歩いて行った。首をみつけて拾って風呂敷に包み、それを
提げて野道を歩いて自分の家のある堺の方へ帰って行った。すると途中で若い男に会った。男は
親切そうに「日も暮れたし道も遠い。女ひとりで歩いて行くのは危ないから私の家に今晩は泊り
なさい」とすすめた。
男には下心があったのだろう、しきりに勧めるので、ことわり切れず女はその家につい
て行った。男は妻もなくやもめ住まいでわびしい思いをしていたのに、若い美しい女が泊ること
になったので心も空だったことだろう。しばらくして女は厠へ行った。その間に男は入り口に置
いてある包みに気づいて、邪魔だからどこかに片付けようと持ち上げてみると相当重い。何だろ
うといぶかしく思ってほどいてみると生首が現れたので男は胆をつぶして大声を上げた。
部屋に帰って来た女は人が来るのを怖れて、すばやくその首を包んで走り出た。近隣の
者たちが来てみると、男は白目になり顔色は菜のように青ざめていた。理由を訊くと、物言いも
しどろもどろだったがなんとか答えた。みんなは事情がわかって同情したけれど、男はいつまで
たっても平常に戻らなかった。最近は山崎の親類の家で病気を養生しているそうだ。その女は心
も真面目で精神も強く誉めるべき人だったが、この男は女をあざむいて慰みにしようというたわ
け心があっただけでなく、首を見て正気を失ってしまったとは世にも情けない男である。15
14 雲萍雑志、p.246。
15 ささのや漫筆、 p.191−192。
13
色んな噂話を読んで見て江戸時代の女の強さには驚かされる。いくら自分の身内の首だ
と言っても(よく知っている人ならよけいに気味が悪いのではないか)暗い不気味な刑場の死体
が転がっている所へ若い女が一人で行って、よくも首を探して持ち帰れたものである。
しかし首を取って来て葬ったのはこの女だけではない。この後に出て来る本所入江の道
源およしも、亭主の吉五郎が鈴が森で獄門になったあと、夜死刑場まで出かけて行って番人に首
をもらってもって帰って弔ったという。
また江戸初期の『おあん物語』には関ヶ原の戦いの頃石田三成の大垣城に籠っていた女
達が、味方の武士達の取って来た敵の首を洗いその歯にお歯黒をつける作業にあたったという有
名な場面がある。おあんは「首もこわい物ではない」と言ったそうである。女たちはその作業に
慣れて血の匂いのする首に囲まれて毎晩寝ていたのである。これはよく知られているように敵の
身分が高ければ功績も高いとされるので、武士達が女達に頼んで死首にお歯黒を付けて貴人に見
えるようにしてもらったのである。
今の時代にそんなことのできる女性が居るだろうか。もっと違った種類の勇気を持って
居る女性は大勢いるが---たとえば政治の場で、とか戦争の場で、とか商売や事業の上で勇気の
ある女性は多い。 Forensic Medicine –法廷医学、犯罪医学で死体解剖をする女性の医者ならば
別であるが、以上の話のような原始的な勇気を持って居る女性はごく少ないのではないかと思う。
甲斐性の女,烈女 4:
うわばみおよし、
うわばみおよし、湯島のおよし
町方で有名になった「およし」という名前の女が三人いる。三田村鳶魚
鳶魚はこの違いをは
鳶魚
っきりさせていないが、それぞれ出身活動の地域が違うので同じ女性ではないと思う。
一人は「うわばみのおよし」といって新宿豊倉の女郎で胸いちめんに大蛇の彫り物をし
ていたために有名だったという。16
(同様な彫り物で有名だった女性に豊倉のおくらがいるし、本所のおかくはお尻に蟹の彫り物を
して蟹の脚が変な所へ届くようになっていたのが有名だったそうだ。)17
もう一人、湯島のおよしは鳶の頭の後家で亭主が亡くなったあともその配下の者たちを
引き廻して大変勢力があった。ある時湯島天神の境内にある宮地芝居に気違いじみた男がやって
きて刀を抜いてあばれはじめた。だれも怖がって近付かなかったのに、およしはさっと着物をぬ
いで真っ裸になり、抜き身を振り回している男のそばへ寄って優しく「何をなさいます」と言っ
た。その男はびっくりしてぼんやりおよしを見ているうちに彼女は相手の手首を押さえて刀を取
り上げてしまった。その事件が有名になってまねをする者が多く出て、喧嘩があると出かけて行
って真っ裸になって喧嘩のなかへ飛び込んで行く事がはやり始めたそうである18—--裸になるの
がはやったのは多分男性の間だったのだろうと思うが-——。
全く同じ話を『甲子夜話』が伝えているが、其の外に湯島のおよしは上記の本所のおか
くと同じように陰戸の傍に蟹が横行して入ろうとしている刺青をしているので有名だったそうで
ある。 湯島のおよしは剛毅比類でしかも色白く顔は特別美しかったと昔彼女を知っていた人が
言ったと書いてある。亡夫の配下の鳶どもは強い乱暴者が多かったが皆彼女に随従して指図を受
け、一言も逆らう者はいなかったそうである。19
16 三田村鳶魚全集、
、7:60。
17 三田村鳶魚全集、
、7:207。
18 三田村鳶魚全集、
、7:206。
19 甲子夜話1、p.314.
14
甲斐性の女,烈女 5:
道源およし
一番有名なおよし、道源およしは本所入江町の道源吉五郎という人の妻だった。入江町
が盛んな岡場所だったころ、その町の世話人の道源吉五郎がよく働いて町の平和を保ったので非
常に尊敬されていた。 女郎屋は夜店の女一人につき行灯(あんどん)に火がとぼされる度に一
人前の口銭を四文ずつ吉五郎へ送っていた。なにしろ女郎が千三百人あまりいたので、その額は
毎夜莫大で自然吉五郎は大金持ちになっていたが、ある時彼の悪事が現れて公儀に捕らえられ品
川で獄門の刑にかかった。
その女房のおよしは「鬼の女房に鬼神」とやらで、たいそう気の強い女だった。夫の首
を取って来て葬うつもりで、夜中にただ一人で鈴が森の刑場へ行った。彼女は番人の乞食に金を
払って交渉し、獄門の木にさらされた夫吉五郎の首をもらって来た。風呂敷にその首を包んでた
だ一人本所本仏寺まで帰って来たとは男にもまさる勇気の女である。その後その首を本仏寺に葬
り、大勢の僧侶に多額の金をおさめて、大名諸侯の葬送にもまけない鳴りもの入りの告別式を行
ったという。人々はやり過ぎだといって批判したそうである。その後、女の身で道源吉五郎の跡
をついで町の世話役になり、本所で名高い人になった。年三十四五の時器量もまだ衰えず、よし
町へ通って役者の佐野川巨仙と心を通わしたということである。20
本所入江町から鈴が森まで歩くというとどのくらいの距離なのか調べて見た。第一本所
入江町というような所は現代の東京にはない.新旧町名対照表や岸井良衛の『江戸・町づくし稿』
を見ると、本所横川の西河岸で、北辻橋と北中の橋の間が入江町だったそうである。それに 岸
井良衛は私がここに挙げた道源およしの話も本所入江町の有名人としてちゃんと挙げている。彼
女の夫の道源小僧吉五郎は、昔は道具屋の源七だったので道源になったのだそうである.本所入
江町といえば安女郎のいる所でたしかに千三百人いたのだそうである。岸井氏もこの話を『武野
俗談』から採って全部引いておられる。有名な鈴か森の刑場は岸井氏によると由井正雪の徒党丸
橋忠弥が処刑されてから二百三十年罪人を極刑に処した所である。
地名辞典によると今の名は品川区南東部の、南大井2丁目付近だそうである。地図で見
ると北大森に隣接している。正確な距離はわからないが、地図の縮小距離から察すると、真直ぐ
測って見ても30キロメートルを越える距離である。それを一人で往復したというのだから昔の
女性は実に強健だったと感嘆せざるを得ない。
道源およしが夫の首を風呂敷に包んで持って帰って、大名諸侯の葬式に匹敵する大がか
りで高価な告別式を行ったのは、吉五郎を獄門にかけた御公儀にたいするおよしの無言の抵抗だ
ったのではないだろうか。そういう所にも江戸の女の意気地が現れている。十八世紀後半から幕
末になると男と女が入れ替わったように乱暴で元気な女性が大勢出てきたようである。これは三
田村鳶魚が何度か言っているように、 江戸の人口の割合は始めから男性が非常に多く、女性に
希少価値があったからことにも原因があるようである。 初期の男人口は女人口の陪はあったら
しい。江戸時代の日本の人口調査はどのくらい正確だったのかわからないが、例えば享保四年の
十五歳以上の男女人口を較べてみると、男が 389,918 人、女が 144,715 人だったという。その時
点での江戸の女性数は男性数の 37.1%である。21 そのせいで初期は女性が非常に甘やかされて
いた。 女性のずっと増えた嘉永六年(1853)でも、江戸の人口は男 295,453 人で女は 279,474 人、
女性は総人口の 48%であった。22 男女の人口が次第に均等化されて来た時、女性は男はあてに
できないと自活の道を探し、心構えも強くなった。その江戸女のハリが又有名になり人々によろ
こばれたのでますます烈女が出て来たのである。
20 当世武野俗談 p.118—119;三田村鳶魚全集、7:105-106。
21 三田村鳶魚全集、11:12。
22 三田村鳶魚全集、11:13。
15
甲斐性の女,烈女 6:
茶屋の女房
江戸の盛り場飛鳥山の二軒の茶屋、海老屋と扇屋は知らぬ人はいないくらい有名な茶屋
で財産もある。著者は海老屋の方が少しすぐれているだろうと言っている。今の亭主は入婿で妻
は家付きの娘、子供は七八人居る。最近土蔵の脇に座敷を建てた。茶湯座敷と丸座敷というもの
を増築したが、この座敷がことによくて評判になった。家付き娘である扇屋の妻は珍しく頭の良
い、経営上手な女で,これらの座敷の普請をするときのいろいろな工夫は皆この妻の考えであっ
た。評判が高いので大工などがわざわざ見に来るそうである。子供が多いので油断をすると末々
身代が衰える原因になると言って夫婦ともよく働くので身代はますますよくなった。
扇屋もしっかりした身代で田地は海老屋よりも多い。海老屋よりは店として少し落ちる
と言うだけだ。今江戸の料理茶屋で客の食った物の残りを籠に入れて客に持って帰らす風習はこ
の二軒の茶屋から始まった。これをまねて同じ事をする店が増えたので今では持ち帰りが普通の
ことになっているそうである。23
この持ち帰りはどちらかの茶屋の女房が考えた出した事だろう。ヨーロッパや南米では
こんなことはしないが、今のアメリカでは大金持ちの奥さんが平気で食べ残しをレストランから
家に持ち帰る。昔は「犬に食べさせる」と言って Doggie Bag に残りものを入れて貰っていたが
今はそんな見栄をはる人はいない。正々堂々と持ち帰る。私なども第二次大戦中に飢えた覚えが
身にしみているので持ち帰り派である。とくに年を取って半分も食べられなくなっているのでレ
ストランが残りを捨てるのを見るにしのびない。レストランは喜んで残り物をきれいなプラスチ
ックの入れ物に入れて店の名のついたすてきな袋に入れてくれる。
しかしさすがに男性が食べ残しを持って帰るのは見かけない。やはり女性の方がケチで
あり、実用本意なのである。毎日食事の支度をしなければならない女性には必要ないだろうが、
独身の女性には新しいものを作るより、残りで簡単にすませる方がお金だけでなく時間もかから
ないのである。江戸時代にすでに持ち帰りが始まっていたとは面白い。そうしてそれが客のアイ
デアではなくて茶屋が始めたことだというは驚きである。
甲斐性の女,烈女 7: 大根畑親分の妻
下谷に住んでいる竃(かま)の祓いをする僧が知人の家に来て話した事である。ある年の
暮に、湯島大根畑の地域親分格の人の家に竃の祓いをするために行った。その辺りは全部博打屋
である。 親分の妻がいうにはこの頃は商売運が悪くてたいへん難儀をしているのでよく念をい
れて幸せが帰って来るように祈祷をして欲しいという事だった。僧は「心得た」と言って荒神棚
に向かって祈祷をした。その女房は彼を置いたままどこかへ出かけた。 暫くして帰って来たと
きは、出た時着ていた羽織も布子もなく、堪え難いほど寒い時なのに袷だけを着て子供を負って
いた。そうして盆の上に白米二三升を乗せ,その上に鳥目五百文を乗せて僧の前に置いた。僧は
女房が自分の着物を質に入れて金や米を工面したのを察して、「私たちは数年来馴染みの知人で
はありませんか。祈祷はねんごろに拝んだけれども今謝礼はいりません。後に商売がよくなった
時にほどこして下さい。子供もいるのだからもっと温かくしていなさい」と言ったが女房は合点
せず,是非是非としいたので,僧はその言葉に従った。
そのあと僧が番町、小川町、牛込あたりの所々のお得意を歩いて、帰りも大根畑を通る
と、親分の家はことのほかにぎわしく、燈火もあかあかとついていて,外で鯛やひらめを料理し
ている。何事かと門口をのぞいて,「今帰って来ました。ご亭主もお帰りになったのですか」と
聞くと,女房は早くも見つけて「ようこそお寄りになりました。どうぞ上がって下さい」という。
「もう暮れて帰りを急ぎますので」と断ったけれども,「ご祈祷の効き目がありました。どうぞ
お上がり下さい」と無理に引き入れた。女房は昼の姿とは打って変わって,よい身なりの金持ち
23 寝ぬ夜のすさび、 p. 258。
16
らしい様子で,僧は酒食をご馳走になって帰ったが「博打打ちの生活というものはおかしなもの
だ。鬼の女房の鬼神という諺の通り、その妻の気性もまたすさまじいものだ」と語った。24
「鬼の女房には鬼神がなる」という諺は、鬼のような男の妻はそれにふさわしい鬼のよ
うな女である、似た者夫婦というが、まさにそうだ、という意味である。博打打ちの親方などは
太っ腹で金使いが荒い。この妻もそうだ、とその僧は言っているのだろう。
江戸っ子は宵越しの金を持たないと言うが、急に収入があると少しも躊躇せずにそれを
すっかり使ってしまう話は吉原話のなかにもよくある。この話の僧侶はそれを博打打ちの生活の
特徴と見ているようだが、この場合はその女房が親分に輪をかけたような気っ風のいい人で、大
盤ぶるまいをするのが大好きな女性なのだろう。酷寒の日に自分の着物を脱いでまで金を拵えて
竃祓いの御礼をせずにはいられない性格もその気持と一貫している。食べ残しを持って帰るよう
な人間はこういうおおらかな大胆な生き方をする女性に感嘆せざるを得ない。今も日本の女性の
中にはこういう気性の人が十人に一人くらいの割で存在する。
甲斐性の女,烈女 8: ゆき、奴の小万、正慶尼
小まんは元禄の人で、後に奴の小まんという名前をつけられて有名になり、その後正慶と
いう尼になった人である。もともと大阪長堀の豪商木津屋の娘で、ゆきという名前だった。享保
七年(1722)の生まれだが享和二年(1802)まで生き延びた。その句に次のようなのがある。
月落ちて松風寒き野寺かな
小まん事正慶25
三好正慶というのは大阪長堀の木津屋茂左衛門という人の娘、おまちという女だった。
両親は養子婿をとっておまちとめあわせて家を相続させようとしたが、彼女は男の好きこのみが
はげしくてなかなか結婚しようとしなかったので後には誰も養子に来ようという人がいなくなっ
た。そのうちに父親が死んで母は色々手をつくして養子を求めたが彼女はいやがった。そのうち
におまちは、なまじ器量はよいし女らしくしているのでこんな苦労をするのだ、と言ってそれか
らは 昼中から変わった服装をして、いかつい男の格好で往来したので、世の中の人たちがやっ
この小まんと呼ぶようになった。その頃から喧嘩して男をとって投げた事もあった。母は困って
堂上の小川坊城家に奉公させた。
この著者不詳の『談笈抜萃』には非常に長い叙述があるが、その中で他の見聞集に出て
いない事は、その頃東海道沿いに日本左衛門という盗賊の頭が居て、しばしば京都の坊城家に身
を寄せていた。おまち/おまんが小川坊城家へ奉公に出ていた時、 日本左衛門が身を寄せてい
て、彼女はこの男と通じた。その後盗賊探索が厳しくなったので日本左衛門は京都の奉行所に名
乗って出て自ら縄につき関東へ送られ、後に三河で獄門にかけられた。 その時おまんは剃髪し
て律宗の僧の弟子となって正圭と法名をつけたということである。
成人後の彼女は色恋の事で大勢の役者や医者や粋人と付き合ったが、最後に玄浄という
太鼓持ちの成り上がり者と戯れのように夫婦になった。その時の婚礼は夫婦ともに法体で陰陽を
表わす金銀の日輪月輪を松竹梅の左右にかけるという珍しい式だった。しかし正慶は変わった事
ばかり好む派手な尼であり、玄浄はとても彼女が辛抱できるような夫ではなかったので数ヶ月で
夫を捨てて浪花へ帰ってしまったということである。26
薬種屋木津屋五兵衛の娘ゆきは天性聡明で侠気があり、男子のように剣撃柔術を好んで習
った。十六才の春、四天王寺の彼岸会に参詣するために大振袖の着物を着て下女を伴って下寺町
の口縄坂を上って行くと、向うから二人の巾着切り(すり)の悪漢が坂を下りて来ておゆきの髪飾
りを奪い取ろうとした。お雪は悪漢の手を払いのけ、大の男二人を右左に投げ飛ばし、少しも騒
24 耳袋,1:183−184。
25 三升屋二三治戯場書留、
、p.18;
p.18;談笈抜萃、p.49–50。
26 談笈抜萃、p.49-54。
17
ぐ気色もなく歩き続けた。両側で見ていた人たちは仰天し,掏摸たちは胆をつぶして逃げ去った。
此のことが世上で大評判になり、ゆきのことを[奴]と呼ぶようになった。
浄瑠璃作者の並木丈助と浅田一鳥はさっそくこの事件を『容競出入湊』という芝居に書い
て 1748 年の正月二日を初日に豊竹座のあやつり興行に出したので、おゆきの噂はますます高く
なって、いつしか奴の小万という名が定着してしまった。おゆきは侠気を自負するようになり、
人をあなどって「私が一生身をまかせるのは由井正雪が生き返った男だ」と豪語して正雪の紋の
菊水を自分の黒羽二重の着物につけた。彼女はいつも自分は足利の寵臣三好修理大夫長慶の末孫
だと言っていた。又一時は先祖は関白豊臣秀次だ、近日二百年の追福には管弦の大法事を行おう、
などと物狂わしく大声で叫び歩いたという。しかし彼女もやはり人間で、いつしか和泉の郡山藩
の柳沢権左衛門の妾になった。
老後は難波村に住んで先祖からの家財調度を同村の月江院という寺院に贈った。ある時瑞
竜寺で大法事を開催中、にわか雨が降り出し参詣人は雨具もなく難儀した。正慶尼は躊躇なく使
いを町へやって傘を百本あまり買い、全然知らない人たちに貸し与えた。 生涯の間そういう彼
女の侠気にとんだ行状は枚挙にいとまがないという。
七十六歳で亡くなったが、彼女の絶筆は
うしや世に又ながらえて何かせん己が身ながら我に恥ずかし
三好氏老婆正慶慎白
とある。その何日か後に没したそうである。文化元年(1804)だった。27
滝沢馬琴によると、奴の小万、ゆきは大坂長堀木津屋という豪家の娘で、十七、八の頃か
ら誓って夫を迎えなかった。その頃の噂では、ゆきは本当に男嫌いなのではない、これは自分の
思う男にそわれないから男嫌いをよそおっているのだとも言われた。ゆきはいろいろな本を読み、
手跡は優れている上に侠気のある珍しい女だった。
珍しいといえばゆきは大坂の町を往来するのにいつも顔に墨をぬりその上に白粉をぬっ
たくって異形の顔といでたちで出て来た。偽のあざは日によって頬の上にあったり額にあったり
した。そんなことから世の人々はゆきを「街やっこ」と呼んだ。
程へて、ある男が京都堂上家を致仕してから大坂で浪人していたのを扶助し、これを男
妾にして難波新地に住まわせ折々通ってたのしんだ。後にその男が不当な事をしたので、ゆきは
怒って彼を追い出し二度とその男と逢わなかった。
またそのころ悪党無頼の某が法を犯して大阪に隠れていたが誰もその隠れ家を知らなか
った。ゆきはその悪党を探し捕らえて官府に差し出した。
八月二日に馬琴は廬橘を同伴して難波村に正慶尼、ゆきを訪ねた。彼女は木津に住んで
いたのに人の往来がわずらわしいと言って自分の家を木津の菩提所に寄付し、難波村に来て人の
家に寓居しているのだ。しかしその日は不在だったので人に呼びに行ってもらい、しばらく待っ
てから会うことができた。自称では七十四歳で顔はすでに老衰しているが、今も昔の美貌がほの
見える。歩行や動作はまだすこやかである。この人は一体世人をいとう風で人が書をのぞんでも
めったに書かない。しかし馬琴が持っていた扇面に書を乞うとこころよく詩一篇と連歌と発句を
書いてくれた。手跡は甚だ見事であった。
早春:
金城春色映丹霞
活気和風到万象
潰笑宴然楼上興
捲簾先見園中花
三好氏婆正慶草
月落ちて松かぜ寒き野寺かな
丁女丁 正慶
詩は正慶草とかいてあるから自作だろう。言語に自然な侠気の気配がある。自分で「老
婆が忌みきらうものは酒客と猫だ」という。正慶は絵も描けるのであるが、画は書以上に人の求
めに応じない。
27 浪華百事談 p.203-205。
18
大阪の人たちは彼女の本名を呼ばないで、ただやっこの小万とだけ呼んでいる。 元禄の
頃にいた「奴の小まん」という女侠に似ているのでそれが正慶尼のあだ名になったのであろう。
28
このように、 正慶尼については色んな人が書いている。大力の気の強い女性で、呆れる
ばかり変わっていた。江戸時代にこんな女性もいたのかと驚く。現代の教養もあり立派な職業を
持って居る人々の中では自分の信条を通し、少々の事には妥協しない女性は珍しくない。しかし
江戸時代にはそういう女性は稀だったから此のくらい気概のある女性はずいぶん目立っただろう。
彼女たちは抑圧される事に我慢が出来なくて思うままに振る舞ったので別に目立ちたいと思った
わけではないだろう。しかし小まんがわざわざ変わった服装や化粧をしたのはやはり目立ちたい
思いがあったのかもしれない。江戸時代吉原や深川の女の強い気性、ハリがもてはやされたので、
方々でそれに類した女性が評判になり,好んでハリをひけらかした女性もいただろう。 そうし
てそのような女性は徹底的に強かったので他の人たちは別扱いにして評判はしたが批判はあまり
しなかったのではないか。正慶尼は年取ってからは数々の善行をほどこしたが、若い時は相当な
所謂“あばずれ”であったのだ。 正慶尼は若い時の自負した豪語や突飛な行動を年取ってから
思い出して恥じたのだろうか、彼女の晩年は多少おとなしかったようである。
狐に憑かれた女 –
何かに憑かれるという概念は世界の多くの國にあるが、狐に憑かれるというのは多分東
アジアの國だけではないかと思う。馬や牛や兎や犬など、人間の生活に近い動物は人間につかな
いのにどうして狐だけが憑くのかわからないが、その迷信じみた信仰が狐を少々気味の悪い存在
にしている。狐に化かされる狸に化かされるという事は言うが、狸に憑かれるという事はないら
しい。これ又何故かわからない。兎に角狐は日本人に取って昔から特異で身近な存在なのである。
狐に憑かれた女 1:
福を授ける狐
京都のある貧しい女に狐が憑いたのを、その夫は幸運に思って毎日ご馳走を調えるため
に奔走した。何日かたって妻についた狐が夫に「なぜこんなに毎日ご馳走なさるのですか。日頃
のあなたの生活から察すると殊の外貧乏で、質に入れる物さえないような暮らしなのに」という
と夫は「どんな生まれ合わせなのか、全くの赤貧で何も思うようにはなりません。けれどもあな
たが私の妻についてくれたのはたいへん幸いな事だと思ってご馳走にはげんでいるのです。狐は
幸福を与えてくれるときいているので、これからは境遇がよくなるだろうと思っています」と答
えた。
狐は大迷惑の様子で「そんな事をおっしゃると私はもう一日もここにいられません。今
すぐ此所を出ます」と言った。夫は驚いて「今まで苦労してご馳走した甲斐もなく私たちを捨て
て行かないでください。当てにしていた福がすっかりおじゃんになります。どうぞいつまでも此
所にいて下さい」と頼み込んだ。
狐は「そんな人間の考えは私たちの間には通用しません。私たちの仲間でも福を人に与
える事の出来る狐と出来ない狐がいるのです。私などは野良狐で人に福を与える事は出来ません。
けれどもたいへんご馳走になったのですから御礼に福を授ける狐と入れ替わりましょう」と言っ
てくれた。
夫は今狐に見捨てられた上に代わりの狐も来なければ、これまでの費用も無駄になり一
文なしになるだけだから,どうぞぜひ代わりの狐をみつけてくれるようにたのんだ。狐は一日考
えてみようと言って去ったが次の日に代わりの狐が見つかったと報告した。夫が気ぜわしく待ち
かまえていると、妻は外へ出ようとしてそのまま気絶して倒れてしまった。これはついていた狐
が妻の体を離れたからである。
28 羇旅漫録、 p.249。
19
その夜約束通り変わりの狐が妻について今までのように話しはじめた。妻(狐)がいうに
は「昨夜から色々あなたに福を与える手段を考えてみましたが、あなたは生来貧乏の因縁で福を
得る運命ではないのです。けれどもあなたの親切のお返しに、毎日夫婦がちゃんと食べて行ける
程の少しばかりの幸福をあげましょう」とのことで夫は大いに喜んだ。
狐が「あなたは以前娘を一人持っていたでしょう」と聞いたので、「たしかに昔妻が女
の子を生んだけれども、乳も少なくちゃんと育てる費用もないので捨てなければならなかったの
です」と答えた。狐は「その娘さんが今は相当にしあわせになっておられますが一度だけ逢う事
が出来るでしょう。けれども二度と逢いたいなどと思うと福はなくなりますよ」と言った。
夫はたいへん喜んで又色々ご馳走したので狐は 「このように金のかかるご馳走を出され
ては私は大迷惑します。もう私に用はありませんからこれで失礼します」と言った。夫は引き止
めようとしたが狐は「いやいやこんな貧乏難儀の様子を見てはとても此所にいられません」と言
った。その間妻は茫然としていたが狐が去るとしばらく気絶してその後息を吹き返したときは夫
が話す今までのいきさつは全然知らない様子だった。
その後夫は狐の約束したすこしばかりの福が来るのはいつかいつかと待っていたが二三
ヶ月は何事もなかった。するとある日下京から男が訪ねて来て、あなたの娘が親御の事を知って
明日訪ねて来るから外出せずにお待ち下さい、と伝えた。夫婦は大喜びでその約束をした。
次の日果して娘が尋ねて来て、初めて両親に会い涙ながらに語りあってから、帰るとき
に金を三百疋置いて行った。その後も娘は毎月三百疋ずつ送って来たので、夫婦はようやく以前
より余裕を持って暮らす事ができた。しかし娘に再び会うことはできなかった。必ず訪ねて来な
いように,二度と会う事はお互いのためによくない、と娘の方から度々言って来たのでその言葉
に従った。
實はこの娘を拾った人が昔娘を京都島原の遊郭に売ったのだが,今は最高の太夫職の遊
女になっているので対面が憚られたのである。しかし実の親の事をどうして知ったのだろうか。
あの狐が娘の夢に現れて知らせたのではないかと言う人もいる。29
狐の話は信じがたいが、小さいときに捨てられたり売られたりした娘が親に再会する話
は類型的なもので珍しくない。普通は娘の今の生活を親はすでに知っているか、再会後に発見す
るのだが、此の話では娘の秘密は保たれたらしい。娘が遊女になった事を知ったとしても、此の
親たちならば悲しむよりも喜んだかも知れない。遊郭の外の人間は、奇麗な着物を着て立派な建
物に住んで美味しいものをたべている人は人生の成功者のように思っていたのだから。娘がどん
なつらい思いで毎日を過ごしていたか親にはわかるはずがないから、二度と会う事はお互いの為
によくないと娘はいったのだ。
狐に憑かれた女 2: おいで狐
安永年間(1772-1780)に江戸の真崎稲荷で「おいで狐」という狐が昼中現れてよい見世物
になった事があった。そもそもそれは人家の後に狐の穴があったのだがその家にやさしい老婆が
いて、いつも売れ残りの団子や田楽などを穴の口へもって行って「これお食べ」と置いて行くと
いつの間にか無くなるのだった。ある時期から老婆が行くと狐が穴の口に顔を出すので、食物を
持って行って「お出でお出で」と呼ぶと、後には穴から出て来て老婆について来るようになった。
それが大評判になって江戸中の人が狐を見ようと隅田川に船を浮かべて見物に来るよう
になった。しばらくはそうして賑わったのだが、夏の末になって狐は呼んでも呼んでも出て来な
くなった。遠くから見に来た人々が騙されたと悪口を言って帰るのを、正直な老婆は言い訳がで
きないだけでなく、狐はどうなったのだろうと心配した。与えた食物もそのまま残っているので、
もしかしたら犬に殺されたのだろうかと涙を流して思いわずらっていた。そのうちに日本堤で駕
篭かきが狐を殺したという噂を聞いたので、それだろうかと思って訊きただすとそれは大きい雄
狐だということだった。おいで狐は小さい雌狐だったので老婆は少し安心した。
するとある夜中に老婆は高熱を出して物に憑かれたように狂いはじめた。人々は心配し
て稲荷の別当に祈祷加持をしてもらった。すると老婆は霊媒のような声で語り始めた。
29 譚海 、p.196-199。
20
「皆さんそんなに騒がないでください。私はこの老婆の情けで食事をさせてもらってい
た狐です。お話しておく事があるので暫くお婆さんの体を借ります。静かに私の言う事を聞いて
ください。私は奥羽の宮城野に雄狐と住んでいた雌狐です。訳があってここへ来た後お婆さんの
おかげで安らかに月日を送りました。大恩に御礼をしたくて日光が眩しかったけれど昼日中に人
目につく所に出たのです。すると最近雄狐が人に殺されました。これが運命なのはよく分かって
いますけれど、千年近く契った後でこのような別れ方をしたのは堪え難い悲しさです。『お出で
おいで』とひたすら呼ばれるのも心苦しく、事情もあるので今度故郷の宮城野へ帰ります。後の
形見に残しておく言葉がありますので筆と紙を下さい」と言い終わった。人々は急いで紙と筆を
与えた。この婆さんは無筆なのにどうするのだろうか、と人々が見ていると、走り書きで非常に
早く書き終わった。 老婆は「これが宮城野の狐の印です」と言いながらさっと立って外へ出る
と同時に仰向けざまに倒れた。正気に返った時は何も覚えていないと答えた。今自分が書いた
物も手には取ったけれど読み方をしらないので人に讀んでもらうと、
草はつゆ露はくさ葉にやどかりてそれからそれへ宮城野のはら
とあった。その後老婆は書いた物を宝にして、来る人毎に見せた。歌を扇に写して行く人もあっ
たという。30
これは躊躇なく作り話だと言おう。狐が真崎稲荷で穴から出て来て食物を食べた,とい
う事は確かにあった事らしい。しかし筋立った話をしたり和歌を書いたりした事はもちろん全く
の嘘である。動物が人間に恩を感じて何らかの恩返しをすることがあるという事実は疑わない。
しかしそれは犬や馬であって,狐がそんな事をするというのは少々眉唾ものである。その話を老
女の口を借りて解き明かすというのも信じがたい。しかし世の中には霊界と人間との仲立ちをす
るという霊媒という職業(乃至、趣味)がある。それを信じるかどうかは個人の自由である。これ
は只野真葛が仙台に住んでいた頃見聞した民話の一つであるが江戸の側から相対的に形成される
奥州という土地のイメージを描いた物語である。
狐を苦しめた女
平戸の村医者に玄丹という人がいた。あるとき病人が出たと言って村の女が呼びに来た。
村の事だから医者は薬箱を持って、その女の案内で一緒に行った。すると途中で狐が路傍に寝て
いるのが見えた。女が「あの狐を苦しめてお見せしましょうか」というので、 玄丹は「よかろ
う」と答えた。女は自分の手で自分の首をしめた。すると寝ていた狐が驚いておき上がり苦しむ
様子だった。女が又言った「もうすこし苦しめてみましょう」と両手で喉を強く絞めると,狐は
ますます苦しんで息が出来ない様子。女は更に自分の息も気でないほど強く喉をしめたので狐は
悶絶してしまった。
玄丹は笑ってそこを去って病人の所へ行き,薬を与えて帰った。
すると四五日して又病人が出たと言って誰かが呼びに来た。 玄丹は先の病人の再発だろ
うかと思って行ってみると,今度は先日呼びに来た女だった。聞いて見ると狐が憑いた様子でさ
まざまなうわ言を言う。「お前は憎い奴だ。先に自分が寝ているときさまざまに苦しめ、後には
悶絶までさせた。それとは知らずにいたのだが,その後近所の人にそのことを話して笑い罵って
いるのを伝え聞いた。今その恨みを報いてお前をとり殺してやる」と言っている。 玄丹も覚え
があることなので驚いて聞いていたという。その後のことは知らない。31
こういうちょっとした奇譚は解釈に苦しむ。狐は人につく,動物を苦しめれば返報があ
るというような前提を信じればそれでよいのだが,信じなければ面白くないし何の意味もない。
30 奥州ばなし、p.198—200。 只野真葛集、p.567、鈴木よね子。
31 甲子夜話、1:240。
21
そうしてなぜこんなでたらめ話を作るのだろうと思う。何か理由がなければそんな特定な話が伝
わるわけはない。この女はなぜ自分の首を絞める事によって狐を苦しめる事ができたのか。又ど
うしてそんな効果がある事を知っていたのか。ちゃんと知っていてそれをしたのなら,以前にも
それを経験したに違いない。ではなぜその時は復讐されなかったのか。そんな事は全然意味も価
値もないことで詮索する時間が惜しい。
母の裁縫箱
歌舞伎俳優 中村秀鶴は姉のお住の名を日記随筆の所々に書きとめているが、その女性が
使った裁縫箱はもともと中村舞扇が細工した物で,始めに秀鶴の母親が存分に使って秀鶴やお住
の着物もその裁縫箱を使って縫ったらしい。
ある時お住の娘のさなが大阪へ登ることになったので、秀鶴は姉の針箱をさなに饌別と
して与えた。それは長く持ち伝えて使って来た針箱で、もう修繕もよくはできない程いたんでい
るし、蝶番も手荒には扱えない物だが,心のこもった饌別だったのである。 秀鶴はその裁縫箱
について、
千代や八千代の八つ拍子、万代までも縫い集めたる,糸針の栄えん事願うて,針箱
又張り立て,梅に母衣画書く
破れてもその辛抱は玉手箱また張り替える時に大阪
我も又都の錦江戸土産やっちゃやっちゃの姉に顔見せ
などと書いている。その針箱を「母の衣」と名付けてさなに送り、江戸の土産にするようにと言
い付けたのである。32
これは何気ない、まことに質朴な挿話であるが、心に沁みる話である。御祖母様のこわ
れそうな針箱をもらった孫娘のさなはそれを大切にしただろうか。「母の衣」等という名前がつ
いていれば、さなも叔父の心を知って大切にしただろうと思うのだが。 歌舞伎俳優というよう
な芸能界でもはでな職業にありながら、中村秀鶴という人はなかなか心を大切にしたようである。
今の若い少女達は古いものは汚いとか時代遅れだとか言ってすぐに捨ててしまうので、どんな歴
史があろうとも気にもとめないだろう。 江戸時代も都会ではそうではなかったのだろうか。兎
にかく、金使いの荒い人気商売の歌舞伎役者が彼の母や姉や姪と保っていた珍しい人間関係が垣
間見える。
神仏の御利益 1:お竹大日如来
十七世紀の中頃,武蔵の比企郡に信仰の堅い行者がいた。正真の大仏如来をおがむ事を
切実に願って千里の道もいとわず、毎年出羽の羽黒山大日如来に参詣していた。ある夜どこから
かお告げがあって「大日の尊容を拝したいならば、江戸へ行って佐久間勘解由の召使女の竹とい
う者をおがみなさい」ということだった。行者はもう三度もその夢を見ていたので感涙を流し、
それを実行することを固く誓って先輩の玄良坊にその事を告げ、連れ立って江戸へ旅立った。
佐久間は江戸大伝馬町の豪家で名主である。訪ねて行って夢のことをいうと、主人夫婦
にも夢のお告げがあったそうで、行者の来訪を喜んである夜ひそかに竹の部屋を見せてくれた。
二人の僧がのぞき見ると,竹は昼間見た時より美しく、全身から光明を放って燦然とかがやいて
いた。行者と玄良坊は涙を流して終夜誦経し、主人に別れを告げて本国へ帰った。
寛永十五年(1638)三月二十一日の暁に佐久間の家の屋上に紫雲がたなびき、室内は芳香
に満ちて女中の竹は大往生を遂げた。竹女は富豪の佐久間の家に仕えて何の不足もない身分だっ
32 秀鶴随筆、 p.41。
22
たが、慈愛深くて自分の食事を減らしても乞食や牛馬に施し、五穀を無駄にすることなく台所の
流しの水落には布の袋をくくりつけておいて洗い流す雑菜もすこしの無駄にしなかった。
佐久間夫妻もそれからは日頃の十倍もの信心にはげみ慈善を怠らず、大日如来の等身像
を作らせ持仏堂に安置した。此の話は諸国にひろがってお竹大日如来とも佐久間大日とも呼ばれ
諸人はこぞって大日如来を信仰した。
これは大日如来のやり方で、ときには平凡な少女として生まれ、或は戒律きびしい行者
になって現われ、 無知な女人や悪人と接触して彼らを極楽浄土へ導いてくださるのだろう。深
川浄心寺で開帳された尊像は唐銅仏で鍍金してあり、背丈は二尺七寸ほどの座像だということだ。
彫刻とあるから木像だろうと思っていたので 唐銅仏と聞いていぶかしく思った。又お竹が在世
中に用いたという麻の前垂れ、たすき、茶袋、流し板などがあるだけで、他には霊宝もないらし
かった。開帳中は連日雨で不景気だったそうである。33
お竹大日如来の話は信じがたいだけでなくあまり有難くもないので記録者も感心した様
子はない。彼は連日の雨で見物が少なかったことを嬉しがっているようにも聞こえる。無縁寺が
信者を集めるのではなく一般の見物で儲けようとしているのに反感を抱いている様子である。記
録にはお竹の座像の絵も、お竹がいつも使っていた台所の流し板の絵もある。それは使い古され
たすり切れた板だが、葵の金紋つきのうやうやしい黒ぬりの箱に入っているそうである。この箱
は旧幕府大奥からの寄付だろうと書いてある。大日如来が無知な女中に化身したという事は信じ
がたいので、著者も自分を納得させるように説明している。それは「大日如来のやり方で、とき
には平凡な少女として生まれ、或は戒律きびしい行者になって現われ、 無知な女人や悪人と接
触して彼らを極楽浄土へ導いてくださるのだろう」と説得的である。
神仏の御利益
2: いづみ屋の老母
浅草御蔵前の焔魔堂の隣にいづみ屋清兵衛という札差の家があった。八十才あまりの高
齢の母親が奥のはなれに下女一人を召し使って隠居していた。ある夜中に隣のえんま堂の和尚が
「人殺し人殺し」と呼ぶ声を聞きつけて本家に知らせたので、清兵衛をはじめ手代どもが駆け付
けた。戸がかたく閉まっているのを蹴りやぶって入って見ると下女は落ち着いて火打ち石で火を
付けていた。「ご隠居さまはどうした」と問うと「お変わりなく,今よく寝入っていらっしゃい
ます」という。
けれども其の様子が不審なので奥へ入って見ると、隠居は寝床のなかで血に染まってい
た。清兵衛がびっくり仰天して委細をたずねると、老母は夜中に目をさますと女中が夜着の上に
またがって小刀で隠居を突こうとしていた。声を上げると薪で打擲しはじめたが老人だから抵抗
もできず、もうこれまでの命とあきらめて観音様に一心にお祈りをしていると表の方で人声がし
たので女中は逃げて行ったそうである。さっそく医師を呼んで見てもらうと疵は深くなく、打た
れた場所も悪くなかったので気遣いはいらないとのことだった。けれども老人はひどい眼にあっ
たのだから精神的に衝撃を受けて後でどんな症状が出て来るかもわからないということで、医師
と外科医がていねいに治療をほどこした。
下女は逃げようとしたが捕らえられ,出来事は奉行所へ訴えられたので逮捕されて入牢
した。彼女はそれまでも一ヶ所に半年と奉公がつづいた事がなく、その先々で皆盗み事をしては
解雇されていたそうである。この隠居の家へも一月ばかり前に来たのだが、利口者だと家中誉め
ない者はなく,老母にも気に入られていた。
女中は死刑の判告を受けて日本橋でさらされた。今年二十三歳で、中肉色白、髪も長く,
眼が涼しく,鼻筋も通った器量のよい女であった。これなどを外面如菩薩内心夜叉というのだろ
う。いづみ屋の老母が危難をのがれたのは、観音のおかげだったのだ。一度御名を唱える者はお
33 巷街贅説 下:116—119。そら覚え、p.27—29。
23
救いいただけないということがない。まして特別多年信仰に専念して来た者は絶対に救われる。
念彼観音力の教えはどうして無効であろうか。いづみ屋ではその後ますます観音を信心したとい
うことだ。34
この悪性の女中は今までは盗み事だけで解雇されていたというのに、なぜ急に殺人を犯
そうとしたのだろう。これは突然変異である。ご隠居を殺して金を取ろうとしたのだとは思えな
い。老人を殺さなくても,信用されている召使いで、とくに経験のある女泥棒には、弱い老人か
ら金を盗むことぐらいお茶の子さいさいで出来たはずである。彼女は何か恨みを抱いたのではな
いだろうか。しかしその動機がわからなければ彼女の行動はぜんぜん意味がない。急に気が変に
なったのか,それとも此の話が脚色されているのか。現代ならばその動機が徹底的に調べらあれ,
それによって刑の重さが違うのである。江戸時代は動機はあまり詳しくしらべられず、行動か結
果によって刑が決まった。とにかく老女が助かったのを観音の御利益にしてしまったのはこの時
代の常習的な話の落ちである。
神仏の御利益
3:
盲目老母
盲目老母の
老母の信心
江戸本所石原の成瀬松年という人は人に頼まれた事は何であれ、かならずこまめに実行
して人助けをしたので、地域の人たちは皆松年を頼りにして尊敬していた。
松年の家から二里ばかり離れたところに金持ちだが心はねじれている偽善者がいた。し
かしその男は年来柳島の妙見を信仰していて、そのおかげか家も栄えていた。この偽善者は妻に
かくして外の女を囲っていたが、その女が最近病気になってひどく苦しんでいた。薬はすこしも
効き目がなく、巫女に聞くと住む所を変えてみるようにとの事だった。それで偽善者はあちこち
よさそうな家をさがしていた。
おなじ地域に昔富んでいたが今は貧しくなっている商人が住んでいて、老ぼけた父親と
盲目の母を養っていた。その人は先年妻を亡くして今はひとりで両親に孝行をつくし、苦しい世
渡りをしているのであった。この商人は何年か前にあの偽善者に後払いの約束で金を借りてそれ
を返すのに苦労していた。数年前、今住んでいる家を代償として受け取ってもらおうと印鑑を押
した手紙を出しておいた。今回偽善者はその事を思い出して、この商人の家を取って自分の情婦
を住ませようと思いついて商人を責め立てはじめた。この商人は今家を失うと金はなし、世を渡
っていくこともできず、老いた両親を養う事もできないので、とにかく待っていただきたい、と
ひたすら頼みこんだが偽善者は少しの容赦もなく返金か家を開ける事を催促していた。男は今は
もう仕方がない,明日はどこか外へ移って家をお渡ししましょう、と泣く泣く答えた。父は呆け
て役に立たず、盲目の母はこの危急を非常に悲しんで、その夜忍び出て杖にすがって柳島の妙見
菩薩にお参りし、我が子の艱難のために祈ろうとした。老女はかろうじて寺の前に着いたけれど
もそこで行き悩んで倒れてしまった。夜八時頃にある武士が従者をひとり連れて通りかかって,
老女を見てあわれみ従者に女を負わせて帰った。
その夜、偽善者が寝床で眠っている時,真夜中に門を叩くものがいる。召使いが起きて
見ると,尊げな法師がお宅の御主人に会いたい,という。偽善者が何事かと起きて来ると法師が
すっと入って来て,
「商人某があなたから前借りをした代金を今さし上げますから印鑑を押した手紙を返し
てください」と言った。偽善者は思いがけないことなので明日にしましょう、というと法師は声
を荒らげて
「私は今晩ここを発ってたいへん遠い所へ行くのです。来年の今夜まで待たせるつもり
ですか,でなければ今夜おすませなさい」と言って黄金を何枚か偽善者の前に差し出した。彼は
しかたなく物置のなかから印鑑証書を取り出して来てその法師に与え、出て行こうとする法師の
袖を引っ張って、
34 梅翁随筆、 P.30。
24
「お坊様はどこのどなたですか」と聞くと
「柳島の辺に住んで人を助けることを業としているものです」と答えた。名は何とおっ
しゃるのですか、と聞くと,名は「ほくしん」と言い放って走り出てしまった。商人の家に行く
のだろうと見ると、そうではなくて北の方へ行った。
商人の方は母がどこかへ行って見えなくなったので心配してあちこち走り歩き訊ね回っ
て朝の四時ごろにやっと帰って来ると,母はいつの間にか帰って来て寝床で寝ている。又驚いて
どうしたのですかと聞くと,母は
「こんどの悪い事が悲しかったのでみ仏にお祈りしようと思って忍んで行ったが、その
途中であるお侍に助けられて非常に大きい家に行きました。そこでいろいろ問われましたが、や
んごとないお方なのでかくさずにお話しました。すると六時間くらい過ぎて今度は駕篭に乗せら
れて今さっきここに帰ってきたばかりです」と語り、貰って来たものを出すのを見ればあの偽善
悪人に送っておいた印鑑証書だった。
いかにも不思議で朝早く偽善者の所へ行って聞いて見ると,昨夜こうこういうとこがあ
った、と語った。さては妙見菩薩がお助け下さったのだ、と聞いた人々はみんな感嘆した。
その後その偽善者は反省した。(私も年来妙見菩薩に祈っているのに、私でなくあの商
人が助けられた。あれは老人の親たちがいて貧しい,私は親がなくて家が豊である。今この黄金
を自分の物にしたら,私の女の病気がどうなるかわからない)とそぞろ恐ろしく身震いした。彼
は大急ぎで商人の所へ駆け付けていろいろ言いなして、この金を上げよう、といったけれども商
人は恐縮して受け取らない。それを何とか言いくるめて受け取らざるを得ないようにしたので商
人は仕方なく同意した。 偽善者は喜んで家に帰って行った。
まもなく偽善者の女は次第に回復し、商人の家もそれから富みはじめた。のちにある人
が言った。「これは成瀬松年のした事だ。盲目の母が道に倒れているのを連れて行ったのは松年
である。この母に話を聞いて、あの偽善者を憎み、商人の孝行に感じ,物知りの法師が居候をし
ているのを使って金を持たせてやって解決したのだろう。 松年は金を商人にほどこして偽善者
に直接返させれば偽善者は受け取るだけで施しなどしないことも、偽善者が妙見に祈っているこ
とも、情婦が病気をしていることもよく知っていたのだ。うまく図って偽善者を脅かし,孝子の
後の栄えのきっかけを作ったのは仁というべきか、智というべきか」と。
けれども母が妙見にお祈りに行く途中で松年に会ったのはみ仏の尊いお計らいであった
のだろう。35
これは善行者と偽善者の対立的な態度と行動のちがいを妙見観音を中に入れて話にした
ものだが、母親が道具に使われている。病気をしているのも女性だが、そちらは登場しないので
あまり関係ない。母親の方は身体的にも経済的にも無力なので盲目なのに夜道を観音様にお祈り
に行くよりすべがなかった。江戸時代には市民の大半がそうだったのではないだろうか。観音様
はよいことがあっても悪いことが起こってもこじつけられて理由の一端にされた。もちろん勸善
懲罰である。お祈りをしても悪い状態がよくならなければそれは人間の計り知ることのできない
み仏のお心なのである、という説明がつけられる。そうなると西欧で昔から「神のお心のままに
--私たちにはわからない神様の計画なのだ」という考えと全く同じである。宗教は麻薬だとマル
クスが言ったけれども麻薬でなければ納まらない痛み苦しみが多くあった時代だったので御仏の
信仰がただ一つの頼みであり、効果であり、説明だった。
神仏の御利益 4:光明真言念仏
享保八年(1723)六月二十二日に稲妻雷鳴が激しかった時、裏五丁目の民家で作左衛門
とその妻は雷を怖れ,戸を閉め切って囲炉裏に向き合っていた。作左衛門はもっぱら光明真言を
35 猿著聞集、p.446−448。
25
となえて祈り、妻は念仏を繰返すばかりだった。するとものすごい音がして落雷があり夫婦は東
西をわきまえずひれ伏した。暫くして女房が眼を開けてみると光りが見えたので慌てて夫を起こ
し,雷は近くに落ちたのだと告げた。夫が外に出てみると家のてっぺんから煙が出ている。驚い
て叫んだので近所の人たち大勢が駆け付けて火をもみ消した。それから家に入って様子を見ると,
二人が囲んでいた囲炉裏の中に大穴があき,何もかもみじんに壊れていた。傍の柱は折れ,屋根
も落ち崩れてその穴から見える隣の家も崩壊している。其の外家具道具器物はすべて壊れ損じて
いた。しかし夫婦二人はかすり傷ひとつ受けていなかった。この女房は井筒屋作十郎の子を育て
た乳母だったから,作左衛門はさっそく作十郎方へ行って右の次第を物がたり,近所ではいろい
ろな被害があったのに落雷の中心で夫婦が難を逃れたのはひとえに光明真言の念仏の功徳で有難
い事だと言った。これは作十郎から聞いた話である。36
作左衛門は直撃的な落雷だったのに奇跡的に助かった事から日頃いつもとなえている光
明真言の念仏のおかげだと信じた。たしかに夫婦二人とも直撃を受けながら助かったので説明の
しようがない。光明真言の念仏というのは弘法大師がひろめた 大日如来をはじめ諸菩薩に対す
る総括的な祈りで、梵語だが比較的短くて簡単なので人気があってえ日常的にそれを称える人が
多かった。人々はその祈りを繰返せば最後は必ず 阿弥陀如来が極楽浄土へ導いて下さる、と信
じていた。何でも絶対的に信じていればたまには奇跡が起こるのかもしれない。又その話を聞い
て光明真言の念仏をとなえ始めた人たちも何人かいたかもしれない。
有名美人 高砂屋おひさ(高島屋おひさ)
高砂屋おひさ(高島屋おひさ)、
(高島屋おひさ)、 難波屋のおきた
美人で有名になってさかんに噂された女性たちも何人かいる。それらの若い女性たちは
今日のセレブで、インターネット上の写真や、YouTube や ポスターのかわりに浮世絵にされて
売り出された。
『 続飛鳥川 』によると、十八世紀の後半、茶屋に美人を置く事が流行した。有名にな
ってその姿絵が出版され、相撲の取組のように等級をつけられた。浅草門前難波屋のおきた、両
国薬研掘水茶屋の高砂屋おひさは大関に位付けられた。見物は山のようで、これらの茶屋に休む
人は茶代を三百文より少なく出す者はいなかった。南鐐銀(二朱銀の事,八枚で一両)ばかり出し
た。美人は店にいるばかりで茶は運ばない。著者も見物を押し分けてやっとおきたを見たら大柄
の美人だった。37
両国薬研掘水茶屋高砂屋ひさ 浅草観音難波屋のきた、とかいうような女たちはいずれも
美人で、二人とも浮世絵にすり出され評判になっているそうだ。其の他芝神明地内に一人、両国
の河岸に一人美人がいて、それらも追々錦絵に出されるだろうといわれている。世上一般の評判
で茶屋がよくはやるので水茶屋を持って居る者どもは我も我もと美人を雇いはじめたらしい。願
わくは今のうちにご禁制がでればいいが。
先達てから好色な錦絵などは出版できなくなっていたのだが、又々此の頃このような美
人が流行して芸者同様になってしまい、衰世の原因にもなりそうだ。浅草観音地内の難波屋の女
は特別はやり、次第に高慢になって自分では客へ茶も出さず、手伝いの者ばかりに言いつけて茶
を出させる。四五日前に近所の若者たちが腹を立てて糞を桶へ入れて持ってきて、店中、腰掛け、
縁台、茶釜、茶碗などへも糞をおびただしく撒いておおいに暴れたそうである。その翌日、茶釜、
腰掛けなどは昼頃までかかって掃除し、昼過ぎには店を開いたのでますます有名になり、その日
の群衆は爪も立てられぬほど見物に来たそうである。
36 享保日記、p.105。
37 続飛鳥川、p.39。
26
薬研掘のおひさという女は茶屋へ出る前に富豪の町人が千五百両で貰いたいと申し出た
所、女の親が承知せず、茶屋へ出したそうである。何にしろ此の節は茶屋女が一番はやっている
とのことだ。38
有名美人: 笠森お仙、
笠森お仙、 銀杏娘お藤、 蔦屋およし、堺屋おそで
谷中笠森稲荷地内の水茶屋の女、お仙は当年十八歳で美人だというので人が皆見に行く。
錦絵の一枚絵や絵双紙、双六や読売りなどに出て居るし、手拭にもその絵姿が染めてある。飯田
町の世継稲荷の開帳七日の時は人形にも作られて奉納された。明和五年(1768)五月堺町で中島三
甫蔵がせりふの中で「釆女が原に若紫、笠森稲荷に水茶屋お仙」といったので、ますます評判に
なり、その秋七月森田屋で中村松江がお仙の芝居を出して大当たりを取った。
浅草観音堂の後,銀杏の木の下の楊枝店のお藤も評判になっている。あだ名を銀杏娘と
いう。錦絵絵双紙手拭などに作られて、読売歌にも名前が入っている。
最近では所々で美しい娘が大評判になって、浅草地内の大和茶屋の蔦屋およし、堺屋お
そでなどが錦絵の一枚絵になった。童謡に「なんぼ笠森お仙でも銀杏娘にかなやしょまい。どう
りでかぼちゃか唐茄子だ」という言葉がはやっている。39
(實は笠森の娘の方が美しい。)
芝の愛宕下薬師堂の水茶屋の美人は去年あたりからか評判である。名付けて桜川お仙と
もまた仙台路考ともいう。はっきりしないが 仙台生まれなのだろうか。40
此の頃とんだ茶がまが薬缶に化けたという言葉がはやっている。考えるに笠森いなり水茶屋のお
せんがどこかへ逃げて、跡に老父がいるからそれを茶化したのだろうか。
林家お筆は上野山下の茶屋の女だが、もとは吉原の四つ目屋の抱え、大隅という遊女だったそう
だ。それで皆人が見に行く。あだ名は茶がま女という。これも錦絵になった。41
有名美人:
有名美人:三五七のえもん、千蔵組のおてる、大助組のおえん
元文の初め(1740 年代)には名代の三人の美人が居た。三五七のえもん、千蔵組のおてる、
大助組のおえんの三人であった。彼女らは髪を一番大切にして、ぜいたくな櫛こうがいを使い、
銀の簪を多くさして粧った。この三人の踊り子は暑い季節には菅笠をかぶると髪をだいなしにす
るといって三人そろいの日傘を青紙で張らせて用いた。大層立派な傘で、柄を黒ぬりにして風流
な紋を付けた。これは中国の大王が青い薄物で傘を張らせさしかけさせた(傘蓋)というものであ
る。通俗漢書の話を聞いて青い傘を始めたのである。それが流行して世間で男までこの青紙の傘
をさし始めたのはおかしい事である。 何年か前に馬場隠岐守が公儀から命令を受けて青紙日傘
の御法度を仰せ出されたのだが今でも医師などはこれをやめないでいる。 今又これをさす人が
増えているのはその法令を忘れてしまったのだろうか。 女はさしてもかまわないのだろうか。
42
有名美人:湊屋おろく、
有名美人:湊屋おろく、京都祇園茶屋の梶
:湊屋おろく、京都祇園茶屋の梶
38 よしの冊子、下:489—490。
39 半日閑話、大田南畝全集、11:33
40 半日閑話、大田南畝全集、11:414。
41 半日閑話、大田南畝全集、11:341。
42 当世武野俗談、 p.137-138。
27
浅草観音の地内の茶屋に湊屋おろくという噂になった女がいる。おろくがむすび髪にし
ているので、江戸中の女達が結び髪になった。
又京都の祇園茶屋の梶という女は和歌がうまいので有名になった。一生のうちつくった
歌は数知れないという。彼女の歌った和歌を集めた「梶の葉」という本がある。或る年仙洞(東
山上皇か?)が崩御なさったとき次のような御いたみの歌を読んで差し上げた。
およびなき雲の上なるあわれさを雨が下とてぬるるそでかな
昔は茶屋の女でさえ歌を詠じたのである。今時の茶屋女とはたいしたちがいであった。43
世界中、男も女も美人に興味がある。今なら映画や劇場やテレビで美人を楽しむ。昔は
オペラの主役は声だけ美しくて、体は小山のように肥っ手言う上に演技の出来ないソプラノ、と
決まっていたが、今日では非常に美人でスタイルもよく、すっかり役にはまった演技の出来る歌
手が何人もいて非常に人気を集めている。この人たちに集客力があるのは映画女優と同じである。
江戸時代の人々も、どこかの店に美人がいる、と聞くとワッと客が集まったらしい。ただ顔や姿
が美しいだけでなく、愛嬌がよければ更に人気が出た。上記の難波屋おきたはそれを忘れて茶を
運ぶ事もしなくなったので民衆に汚い報酬を受けた。この愛嬌とか、サービスとか、ある程度の
セックスアピールとかいうものが求められたのは、やはり男性が、女性はこうあるべきだ、とい
う固定観念を持っていたからである。
婆々たち
江戸時代は悪女に事欠かなかったらしく、しかもそれが老婆である事が多かった。何々
婆というのがやたらと見聞集に出て来て、それが皆意地悪婆である。そうして欲張りで金儲けの
ことばかりに頭が働いて、不正な事をして金持ちになった女は大体皆町に住んでいたようである。
これらの婆はいずれもいわゆる「食えないばばあ」で、向うから歩いて来るとみんな避けて横町
へ逃げ込んだりした。しかし年を取ると顔の皮が厚くなって何と噂されても、悪いあだ名を付け
られても平気になったのだろう。その極端なのが月岡芳年の浮世絵で名高い『奥州安達が原ひと
つ家の図』の、旅人を殺してその肉をむさぼり食うという鬼婆である。江戸にはさすがにそんな
化物婆はいなかたようだが、いろんなひねくれた婆さんがいたというのは面白い現象だと思う。
1. 車婆々(郡次郎婆、渋紙婆、
車婆々(郡次郎婆、渋紙婆、車ばばあ、
(郡次郎婆、渋紙婆、車ばばあ、片輪車、高田ばば
車ばばあ、片輪車、高田ばば)
片輪車、高田ばば
下谷三崎町に車婆々という高利貸しの婆がいる。元は恥ずかしくない身分で夫は下谷の
御徒士組で七十俵五人扶持取りの竹内伊左衛門と武家だった。竹内が病死して倅の郡次郎が家を
継いだが身持ちが悪いので公儀からお暇が出て浪人になった。その時に厄介養育金、家代金など、
百五十両も公儀からいただいた。
その金で母親と息子夫婦は町家を借りて住んでいたが、いつの頃からか母親は根津の女
郎屋又は浅草の茶屋などに金を貸しはじめ、芝居や広小路の見せものなどにも一両二両づつ貸し
て高利を取った。一両につき一ヶ月十二匁づつの利息で貸し、その時利息は前払いで口入れ礼金
に三匁づつ都合十五匁を引いた。一両の所へ三分、つまり75%の利子を手取りし、三十日の契
約がもし延引すれば証文を書き換え、延べ金利息と元で高額にして、動きのとれない悪証文を作
るのだった。郡次郎婆はその方法で商家を破産させ家財を取り上げることを残酷だとは少しも思
わず、毎日雨風もかまわず貸し付け相手の家を利子の催促に廻って厳しく取り立てた。
43 当世武野俗談、p.136—137。
28
この婆は青茶の布子、上田縞の着物に紺の帯をしめて、真鍮の矢立てを腰にさし、根津
の方から浅草、並木、三島門前、紅横町、堀田原門前脇、馬道、田町の辺までぐるぐると貸金を
取り立てて歩いた。鬼のような女だからこのばばあを見るとぞっとすると皆言い合った。
最初はこの郡次郎婆一人でわめき歩いていたが、同町に又渋紙ばばというのが出て来た。
この婆は谷中の無尽にあたって、その金で郡次郎婆と言い合わせて同様に方々の茶屋へ貸し始め
た。近年は二人連れで同じようにわめき歩いている。三途の川の姥の化身かと疑う程である。こ
の二人は車銭を貸すからか、両人が両輪の車のようだからか、それともぐるりぐるりと風雨の日
もよく廻るからなのか、人々が車ばばあと呼び始めた。
嫌われているにもかかわらず、ちょっとした借金のために多くの人達がこの婆達を頼り
にしているので、彼女等は手広く貸し歩いて、一両貸しては一日の利息二百文のけしからぬ高利
を取っている。このような金はだいたい勝負事をする者が借りるのであるがこんな高利で借りる
人がそれほど大勢いるのが不思議である。一日でかえすのを鴉金、一晩延ばすのを泊り鳥といっ
て四百文取る。
二三年前は郡次郎ばばと渋紙ばばが連れ立って歩いていたので車ばばあと呼んでいたが、
此のごろ渋紙屋一人になったので片輪車と人々がたわむれて呼んでいる。最近茅町茶屋の女房ど
もがその婆のことを高田ばばと呼ぶので、なぜかと訊くと、片輪車は榊原の紋である。榊原政永
公が越後の高田の城主に転封されたので高田ばばというのだそうである。
(播磨藩主の榊原政岑公が豊かで温かい播磨から寒い高田へ隠居蟄居させられたのは寛
保一年(1741)に幕府の禁制に背いて吉原十一代の高尾を身請したからだと信じられている。だか
らこれらの婆の事はもちろんその大分後の話だろう。
高利貸しというものは昔から悪評が高いがこの二人の婆さんは金の取り立てを他の金貸
しよりもしつこくやかましく言い立てたことだろう。そのために毎日よく歩き回ったようだがそ
れが健康のために良かったのかいつまでも元気に毎日取り立てに出て人々を責め立てた。それを
世間の人たちは色んなあだ名で呼んだのだがその名前の付け方も江戸人らしく面白い。)
2.霧島、薩摩、琉球婆
本所入江町の花屋伊兵衛は奉公人の世話人である。その女房は取上げ婆になって所々を
歩いていたが、ふとした幸せで大名松浦肥前守御隠居の妾の子を取り上げて、一夜で検校の身分
になってしまった。それまで伊兵衛は奉公人の世話人といってもたいした事もなく、朝夕は草木
をかつぎ売り歩いて、その日暮らしの見苦しい小屋住まいだったのだ。女房は店に霧島を二三本
置いて商っていたので霧島ばばと呼ばれていた。このあたりはその日をやっと暮らす者ばかりな
ので、そんな者たちの女房が御産をするとき仕方なしにこの婆に産婆を頼むのだった。
松浦肥前守の下屋敷の中で隠居の若い妾が御産をした時、予約していた横山町の薩摩ば
ばが病気で間に合わず近所の他の取上げばばも都合が悪かったので、役人は仕方なく霧島婆を呼
んだのである。婆はにわかに借り衣裳をつけて赤ん坊を取り上げたのだが、そのご褒美で一夜の
うちに富貴の身分になった。
霧島婆がお七夜の祝儀の時お邸に上がると松浦の御隠居が居間に招いて盃を下さった。
その時日ごろ隠居と親しい歌舞伎役者で俳句詠みの市川柏莚が来て居たが、隠居がこの婆の事を
話して笑われると柏莚が婆に名前を聞いた。婆が霧島婆と申します、と答えると 柏莚がこれは
珍しい名前だ。薩摩ばばの急の代理で霧島ばばが来たのは面白いことだ。そもそも霧島つつじは
正保年間(1644-1647)に薩摩から大阪へ来て関東の花屋へ来たのは明暦の申の年(1656)とか言う。
だからお前は薩摩ばばだとたわむれた。柏莚はその時、
運は天にふる雨たれか顔見せん
29
と句を詠んで隠居の赤ん坊を祝したという。
この婆はそれからだんだん出世して大名、旗本家へ出入して繁盛したが、秋葉神社の別
当と申し合わせて、秋葉から護符を発行した。此の婆が取り上げた赤ん坊の左手にその護符を握
らせ,その子は生前から秋葉の護符を持っていたといいふらして世間をたぶらかした。その嘘が
ぱっと噂になってそれからは誰も此の婆を雇うものはいなくなったので後には非常に困窮したが、
長命で今でも元気でいる。此のごろは屋敷町の奉公人の世話人になって、春三月ごろは女奉公人
を十人十五人引き連れて、この婆がべらべらしゃべりながら歩くので知らない者はいない。自分
から「私は薩摩婆ではない、琉球婆だ」と言い出してもっぱら琉球を主張しているが、霧島の縁
は忘れず「柏莚に名前をつけてもらったのは私だけだ」と今でも自慢しているという。44
(せっかく幸運に出世の手がかりを得たのに欲張って不正直な事をして更に儲けようと
したために世間の信用をすっかり失ってしまった。頭がいいようで案外ばかであった。)
3. 竹の子婆、 半夏婆
乗物町の竹の子婆というのは江戸の町は言うに及ばず、いたずら小僧でも三都でも知ら
ぬものはいない程有名な年寄りであった。何時頃からか、芝居の会計役で名高い中村十助の家で
飯炊き賄いをして一年に一両二分ほどの給料をとっていた。
ある時この婆が浅草へ寺参りをするために杖をついて一人で出かけた。丁度ある裕福な
町人の葬式があって、麻の上下を着た町人や袈裟懸けの出家が大勢,おびただしい数の乗物をつ
らねてやって来た。その時棺の上にかけた白無垢のおおいが,風に吹き飛ばされて、 竹の子婆
の頭の上に落ちて来た。それをいい事に婆はその白無垢をかぶったまま棺の前に立ちはだかって
施主の面々にむかってとんでもない賠償金を要求し始めた。施主たちは僧も俗人もいろいろ詫び
たけれども、婆が棺の前に突っ立ってわめきたてて動かないので、金持ちの施主は外聞をはばか
ってようやく婆の袂に金子を十五両いれた。婆はやっと得心したのだが、帰る時に白無垢の棺覆
いはそのまま持って帰ってしまった。
その後婆は中村から暇をとり、金五両で岩田屋という名前の比丘尼宿をはじめた。その
頃はなぜか新和泉町に比丘尼の宿が数多く集まっていたのだが、強欲な婆の宿はけちけちと金を
のばしてやりくっていた。ある時おぎんという馴染みの比丘尼が来て岩田屋に泊まり、竹の子婆
と枕を並べて寝ていたが おぎんは思いがけなく夜中に頓死してしまった。竹の子婆はおぎんの
懐中に小判が二十両はいっていたのを押収してまんまと自分の懐に入れた。おぎんは仲間うちで
も金持だったので、親類たちは外聞をはばかって内緒で死体を引き取り、何事も詮議しなかった
のでこれは全くの「ばばあ丸儲け」になった。
その後竹の子婆はその金で芝居芸子、舞台子、かげまなどを少々抱え、堺町の勘三郎座
に金を貸し始めた。十郎の世話でその商売をためして見たのだが、金が金を生んでのちには夥し
い金を儲け、鳶沢町の古着の売店などを何軒となく買いこんで手代を置いて商売をした。婆が
色々の商売で金をもうけることはまるで神わざであった。
この婆のあだ名が竹の子になったのは、抱えのカゲマに八代太という子供がいたのを折
檻してついに殺してしまった事件以後である。その子の親元には竹の子を食べさせたらそれがあ
たって死んだと知らせ、表向きにも内輪にも何事もなくすませてしまったので、みんなが竹の子
婆と呼び始めたのである。近年とくに富裕になって、芝居に大金を投資し、中村慶子などを子分
にして勢力をふるっていたが、去年六月に病死した。増上寺の了源院に葬られ、円成院頓阿信女
と法名がつけられた。
44 以上すべて当世武野俗談、 p. 138——140。
30
竹の子の娘、おすみは乗物町に紺屋を出したが、負けぬ気の女で打ち続き芝居の金元を
して、今年正月十四日に堺町が焼失した時、まだ夜の明けぬうちに「勘三郎座普請場」という幟
を染め抜きにさせて数十本立て、普請を次の日の昼からはじめた。竹の子二代だが、この女は親
の竹の子婆にもまさると人々は呆れて、半夏婆と呼んでいる。45
(竹の子婆は葬式にあって大儲けをしたから其の後もそういう棚ぼた式のいいことはな
いか、と眼を皿にして歩いただろう。この竹の子婆の話は「江戸真砂六十帖広本」にも出ている。
それによると、彼女は金を貸しても絶対に損をした事がなく、多くの人の尊敬を得ていた。浄土
宗で、寺々へ寄進したが、京都の知恩院僧正を上客にして、幡随院の和尚の同席で料理をふるま
ったりする珍しい姥だったそうである。
子供をいじめて殺すことは今でもあって慨嘆の限りだが、竹の子婆の第一目的は金で、
もうける為には人の子を殺すことも辞さなかったのであって、今日の心得違いの女性が自分の生
活に子供が邪魔になるといって虐待するのと少しちがう。
娘のあだ名の半夏婆というのは説明がない。半夏というのはからすびしゃくという植物
で烏日癪という。漢方薬に使われ、その根を乾燥させた者を解熱、脚気、腎臓炎、つわり、嘔吐
止め、咳止めなどに用いる。しかし半夏生というのは夏至から十一日目、からすびしゃくが生え
る頃で、その日には毒気が降ると言われていて野菜を一切食べず、竹の子を食べないという俗習
慣があるそうである。この女おすみがあまり毒々しいから半夏婆と名付けられたのか。それは半
夏の日に竹の子を食べない事と関係があるのか。竹の子婆が喰えない婆だったが、この娘はもっ
と喰えないという所から半夏となづけられたのか。他にもっと面白い理由があったのかも知れな
い。)
4. お梅姥
本所吉田町にはお梅姥という老女がいて、方々歩き回ってはどこの店先にでも平気で腰
をかけ、しばらくして急に病気になったと言って座敷に上がり込み、それからゆすりはじめて、
金を払うまでは絶対に動かないので,その店は仕方なく金を出して、詫び言をいって彼女を帰す
事になった。深川、品川、両国辺では、人々はお梅婆と見るが早いか戸を閉ざし、簾をおろした。
婆は町奉行の大岡越前守にも度々召し捕られて牢にも入ったのだが、さすがの大岡様もこの姥に
はお困りになったということである。46
(戸を立てたり簾をおろしたりしても効果はなかった。これらはゆすりの一種だから犯
罪に相当しただろうが,高利貸しは不法ではないし、お梅婆のような者は大きい金をゆすったり
傷害でおどしたりしたわけではないのだから町役所も始末に困ったことであろう。)
5. 悪婆ゆり
浅草駒形町に中島屋七郎兵衛という油屋が有る。彼はもと亀井町の中島屋三郎右衛門と言
う油屋の手代だった。七郎兵衛の女房はおゆりといって、名主宮部又四郎の女中だった女である。
二代目の名主又四郎は大バカだったが,手代に賢い者がいて公儀の仕事もちゃんと片付けた。身
上はよかったが、又四郎の妻は小金玄蕃の娘でこれも大バカだった。その腹に三代目の又四郎が
産まれ,これを正与房という。これは浅草観音に隠居して今でも居るがこれも少し頭が悪い。そ
のように小伝馬町の名主役はぜんぶ馬鹿揃いであった。
名主又四郎の妻とその父小金玄蕃は世が栄えていたから金は相当あって大名のようにふる
まっていた。女中のゆりと小金玄蕃は言い合わせて金で取り呉服でとり、宮部又四郎を二人です
っからかんにしてしまった。その後ゆりは暇を取って金六百両を持参して、日頃約束していた七
45 当世武野俗談 p.124—125。 江戸真砂六十帖広本、p.78。
46 江戸真砂六十帖広本 p.78。
31
郎兵衛に店を持たせ,駒形町に店を出したのである。ゆりはしたたかな腕で大手柄をたてたが片
岡仁左衛門の役どころの悪ばばであった。しかし五、七年後には病死した。いまでも中島屋は百
助という者がやっていて店は繁盛している。47
商魂たくましい人はどの國にも、どの時代にもいるものである。これらの婆は西鶴の小
説に出て来そうな人物たちである。しかし『世間胸算用』や『日本永代蔵』でさえこんながめつ
い女たちは出て来ない。西鶴の時代から後に女がだんだん肝っ玉ふとく慾深で根性が悪くなった
のだろうか。 乞食を三日すればやめられなくなる、と言うがこの老婆たちも金貸しを三日して
やめられなくなったのだろう。重労働をしないで儲けるのが面白くて仕方なかったのだろう。
皆、面の皮が厚くなっていたから人に嫌われるくらい平気だった。とにかくこれらのカリカチュ
アのような婆達が実際にいたことは事実であろう。 百万人もの人が住んでいる都会には一人な
らずそういう邪悪な人間がいるものである。お江戸はそれだけ大きい都市だったということであ
る。
6. 烏の婆
京都団栗(どんぐり)の辻に烏の婆と呼ばれているものがいた。はじめは貴人の側室に
仕えていたのだが、吝嗇かぎりなく,勤めの間にいくらかの黄金をためて女主人が亡くなってか
らは魚商人をしている兄の所に身を寄せた。
ある時彼女は兄にすすめた。「魚など荷ない歩いてこれっぱかりの小金を儲けるよりは
私が蓄えた黄金を貸して、毎日大利を得た方がどれだけいいか」そうしてそれからは多額の金を
ふところに入れて早朝の霜雪もいとわず、夜も遠くまで走り歩き、夕方貸した金は朝早くから取
り立てて、どん欲非道に振る舞ったので人々は彼女を烏婆と呼んだ。
また、捨てられた子を貰い取って、養育のために添えてあった金をむさぼり取り、子供
は飢えさせた。それをいつとはなしに人々が知るようになって子貰婆ともあだ名をつけた。
ある時女の捨て子をもらい、ふところに入れて家に連れて帰ったが、その子の美しさは
いいようがなく、明け暮れ老婆を慕ってあどけなく笑う可愛らしさに烏婆は情愛を覚えるように
なった。この子に関する限り極慾非道な心は消え、赤ん坊を飢え死にさせた残酷心も忘れた。心
ならずもその女の赤児を大切に養い、むずかる時には一晩中でもあやしたり自分の肌であたため
たり、もらい乳を頼み回って育てているうちに、その子は美しい少女になったので人々は烏が鷹
を育てたともてはやした。
どんな縁だったのか、老婆が夢中になって娘を大切に育てるうちに十年ばかりたち、少
女は絶世の美人に成長した。烏婆は生まず女の嫉妬と、又美しい娘を養育した慢心に満ちて、こ
の娘は見知らぬ者の妻にするよりは芸妓にして自分の楽しみの種にしよう、ともっぱら舞曲の技
芸を習わせた。そのうちに娘に玉野という名をつけて遊里に出したところ、人々はこぞって玉野
の客になった。老婆は得意に思う一方、恋というものを知らないのでひがんでねたみ、昔にもま
して玉野の行住坐臥についてきびしく叱りつけ、衣服は外側ばかり華やかなものを着せ、下着は
木曾の荒い麻布で倹約した。玉野が晴れの場で演じる時には一応美しい着物を着せたがそれもす
ぐに脱がせてしまう。玉野はそんな恥を上手にかくして養母がけちなことは絶対人には言わず、
養育してもらった恩を謝し、孝行の尽くせる限りをつくした。
ある時富豪の商人が、自分が常に出入りする貴人にへつらうために大金を払って玉野を
雇い、貴人を妓楼へ誘って仲立ちをしようとした。玉野はその夜は固く断って逢おうとしなかっ
たので、商人がへだてた一間に呼んでなぜかと問いただすと,玉野は襟をくつろげ、裾を持ち上
47 江戸真砂六十帖、 p.153-154。
32
げ、肌着を見せて「下はこんなぼろを着ておりますので、帯紐を解けばお客様の興をそぐ事にな
るでしょう。私だけではなく私の母まで馬鹿にされます。それは非常に辛いことですから、別の
日に着物を改めて逢っていただきたいのです。それさえも母の許しを受けなければなりません」
と涙を流しながら語った。
商人は玉野の遊女に似合わない美しい心根に感じてその夜は客に帰ってもらった。又の
日に貴人にあう約束をしたのだが、貴人は先に蔭で二人が話し合っているのをすき見して、金を
だまし取ろうと企んでいるのだと誤解した。翌日の夕方、貴人は妓楼には行かずに従者を町角に
忍ばせ、玉野と商家の主人を殺させようとした。たまたま玉野はそこにはいず、殺人者は商家の
主人と話していた烏婆を殺害してどこともなく消えた。玉野は悲嘆にくれたが、その殺人者が浪
花に逃れたと聞いてひそかに京都を去って浪花へ移った。美しかった顔に焼きごてを当ててみに
くい尼に姿を変え、二年足らず忍びかくれて仇をさがし、秋の半ばに殺人男が天王寺の小橋で葬
送を終ってかへる所を待ちぶせて母の仇を取った。京の恨みを浪花で報いた玉野は、敵の首を公
儀に乞いうけ、都へ帰って母の塚墓に手向けて供養したということだ。
今は烏が墓と土地の人が呼んでいるのは実は妓女玉野を葬った墓ということである。48
この烏婆は確かに上記の悪婆の群に属する人間である。しかしこの婆さんは一人の可愛
らしい捨て子を手に入れたばかりに他の婆たちが知る事の出来ない愛情の特権を持つ事が出来た。
しかしその愛情で自分の精神生活を豊かにする事には思い至らないで彼女を利用して自分の虚栄
心を満足させ、しかも吝嗇で娘には辛い思いばかりさせた。その最後は簡単に急な暴力でもたら
された。可哀想なのはその娘である。玉野は男女の愛情も経験せず、楽しい事や幸福な思いは一
度も知らずに母を失った。自分の顔を損傷してまで敵を探しまわって敵討ちを遂行した。義務感
からであろうが彼女は女として自分の幸福を追求する義務を忘れていた。江戸時代には自分の幸
福など考えた事もない女性が多かった事だろう。
7. 酒売の媼
四月初めの頃から、京都一帯に『上酒有』(よい酒がある)という三字を紙に書いて門
ごとに貼る習慣が盛んに行われるようになった。 噂によると、誰が言い出したかわからないが
此の頃あやしい婆が酒を売り歩いている。その酒を買えば必ず悪い病気になるそうだ。買わなく
ても,婆が門に入って来たら悪い事が起るかもしれない。だから『上酒有』と書いてはって置け
ば酒売婆は足を止めない、というのである。皇族貴族の軒端から賤民の茅屋にいたるまで、門と
いう門にこの三字を書いて貼っていない家はなかった。おりしも江門の太田博士が都へのぼって
来たが、門にはらせた文句は、
有酒如池有肉如坡
謹謝妖婆勿過我家
[酒は(この家に)池のようになみなみとある。肉は土手を築けるくらいたくさんある
妖婆よ、どうもありがとう、だが私の家には来るなよ]
後で訊くと、酒売婆の噂は難波から伝わって来たのだという。この姥が来る家では、も
がさ(疱瘡)をわずらうだろうといい騒いで、難波では門ごとに赤い紙にこの文句を書いて貼り
出したということだ。それをただ悪い病気と伝え間違えて白い紙に『上酒有』と書いたのだそう
だ。もとよりこんな根拠のないことで心を悩ます必要はない。一体なにを種にこんな噂をいいひ
ろげたのだろう。 誘われ易い人の心ほどはかないものはないだろう。49
流言蜚語というものは実につまらない、些細なことへの誤解から始まる事が多い。 現代
はジャーナリズムも法律で規制されているし、ジャーナリストの自制と倫理によって事実を正確
に伝えようとしているが、江戸時代にはどんな噂でも一旦人の口に上ると広がり放題だった。こ
48 雲評雑誌、P.277。
49 遊京漫録、
、 p.122-123。
33
の貼り紙などは害の少ない噂だっただろう。噂のなかの酒売りの役目をしていたのが老婆だとい
うのもその頃の社会の人々の偏見を良くあらわしている。若い男でも女でも老人でもない。年取
った女がひねくれて意地の悪い存在だと見られていたから、誰も酒を売り歩いている人間を見た
ことがなくても老女が来るのをおそれたのである。婆の噂話が多いのは確かに意地悪いひねくれ
婆が多かったせいであるが、それは悪循環になって老女は悪い女が多いという一つの固定観念が
できたのであろう。
8. 猫老女
本所割下水の諏訪源太夫の母きたは当年七十歳であるが、心はあくまでも激しい。しか
し猫を愛すことは異常で数十疋飼っている。その猫が死ねば死骸を長持に入れてそのまま保存す
る。そうして月々猫の命日には肴を調え料理して例の長持に入れておき、翌日あけてみると何も
残っていないということだ。本所の猫ばばあと人は呼んでいる。猫が多すぎて回向院前からお釣
りが来る位だったが宝暦十二年(1762)秋八月、ひどい嵐の夜、その老女と猫たちすべてがいずこ
とも知れずいなくなった。家の者が不思議に思って例の長持をあけてみると猫の死骸は一つもな
かった。どういうわけか知らない。50
猫好きの人は何時の世にもどこの國にもいるものだが、猫が死んでもその死骸を捨てな
い人というのは珍しいだろう。数十匹の猫が次々に死ねば長持は一つではとても足りなかっただ
ろう。死体が腐敗して変な匂いが広がったり疫病が起ったりしなかったのが不思議なくらいであ
る。老女も猫も全部いなくなったのは謎めいていて気味が悪かっただろうが、同時に家族に取っ
ては有難い事だった。
9.貪婆首くくり
寛文元年(1661)江戸八丁堀に六十余歳の医者がいて妻を迎えた。嫁の里方へ仲介人が嘘
を言ったのか、彼女はやっと十六になる娘なのに婿は老爺だったのだ。この娘は隣の姥と知り合
いになり自分が嫁に来た事情を告げて嘆いた。今となっては親の所へも帰れないから首をくくっ
て死んでしまいたい。私が死んだら手箱の中の二十両の金をお前に上げよう。ただ首のくくり方
を知らないから教えてほしいと頼んだ。
姥は始めは「これは結びの神の御引き合わせだから」などといい加減なことを言って慰
めていたが金の話を聞くと、「それほど思い込んでいるのなら教えてあげよう」といって天井か
ら縄を下げ、桶を積み重ねてこういう風に首を吊るもの、とやって見せている中に桶を踏み外し
てぶらんとぶら下がってしまった。驚いた娘が大声を上げたので近所の人達が来て縄を切ったけ
れども姥はすでに息絶えていた。姥の子供は仇を取ってくれと奉行所へ申し出たが、堪忍せよと
言われた。彼はなおも敵討ちを言い張ったので、御奉行は「お前の母親は大欲不道の者だった。
金を取って首吊りの仕方を教えた罪は軽くない。生きていれば何とかする法もあるが、死んだか
ら仕方がない。お前はその女の子供だから罪を逃れるわけにはいかない」と言われて老婆のかわ
りに百日牢に入れられた。医師は「法体ではあるし、年も取っているのに十六の娘を貰うとは不
届きである。さっさと娘を親元へ帰せ」と散々に叱られたそうだ。51
姥の子供は全くのやぶ蛇だった。黙っていれば何事もなかったのに、仇を取ってくれと
騒いだばかりに百日間牢に入れられてしまった。しかしそれもずいぶん不合理な話である。彼が
罪もない若い女を仇と見る言い分も変であるが、奉行所も理不尽である。親が若い娘に自殺の仕
方を金を取る為に教えたというのは確かに倫理的には曲がった事だったが法的にそれが罪になっ
たのだろうか。しかしそれは本人が死んでしまったので考慮に入れないとして、その疑わしい罪
悪をその子供に移すというのは不当のように思われる。
50 江戸塵拾、p.406。
51 新著聞集、p.405—406。
34
10.
10.幽霊に化けた老婦八丈遠島
高橋作左衛門の息子二人が八丈島に遠島になったとき,十四人ばかりが同船した中に,
五十五歳になる女がいた。その理由を訊くと,去年三月築地辺りの大火のときに幽霊に化けて人
を欺いて物を盗んだのだそうだ。その方法は 腰のあたりから下を黒く染めた白い着物をまとい、
黒く塗った幅広の板を背中に背負ってちらりと人前に出る。そうすると逃げるときには黒い背中
を見せるので、急に消え失せたように人目には見えたのである。こうして多くに人々を欺いて、
人が逃げたあとで家財を奪い去ったのだそうだ。実に新しいやり方だと人々は言ったが,文化年
中深川永代橋が落ちた時に、もうすでにこんな方法で盗みをした人間がいたそうで『夜話』前編
第二巻にそれが出ている。その故智をかりたのである。52
先例があってもなくても,火事場泥棒という剛胆な罪を犯し,しかもそれを幽霊の姿で
実行したというのだから相当肝っ玉の太い女である。火事場泥棒という卑怯な犯罪はどこでも厳
しく罰せられる。人の弱みに付け込んだ卑怯な罪悪だからである。しかし放火の罪よりは軽くて
火刑にされることはなかった。
鉄砲で殺された女
青山同心町の植木屋のときという名の女は三味線をひくので近所で芸者としてもてはや
されていた。しかし慾深で人々をゆすって金銀をむさぼったという。近所に松平左京太夫の家来
で百五十石取りの栗西市之丞というものがいたが長い間この女を愛して呼び入れていた。そのこ
とが藩主に聞こえて栗西は國へ返されることになった。栗西がときに一緒に南部へ行くかと聞く
と、へんぴな所だから行きたくないと答えた。
栗西は子供のときから鉄砲が上手で、七歳のとき大砲を撃って人にも知られるようにな
ったという。 藩のなかでも鉄砲の弟子を多く持っていた。女が南部へいくのを断ったとき、栗
西は鉄砲でこの女を撃ったが、玉と石をこめたのに石は筒の中に残り、玉が女の腹中に止まった
ので女は苦しんで死んだそうである。すぐに召し捕われて奉行所で調べられたとき、なぜ鉄砲を
使ったかと聞かれると、「あいつは畜生同様の人間だから刃をもちいるのは刀を穢すことになる
からだ」と答えた。だから禽獣のつもりで鉄砲で撃ったということである。 栗西市之丞は十月
十四日に獄門の刑を受けた。鈴が森の捨て札を見ると、御法度の武器を用いたことにたいするお
咎めだけで、女性を殺したことについては何も書いてなかったという。 松平左京太夫どのもこ
の関連で差控えの罰をうけたということである。
。53
ときという女はよい人間ではなかったが栗西の情婦であったのに自分の望み通りになら
ないから簡単に殺してしまったのは驚嘆にあたいする。また官憲の方でも人を殺したことは咎め
ずに鉄砲を使ったことで栗西を罰したというのは理解に苦しむ。結局は女性蔑視、しかも道徳的
に感心できない人間だったからだろうか。しかしそれと殺人の罪は別である。殺人はそれが誰で
あろうと犯罪として刑せられるべきだった。
差控えという罰は、武士が出仕を禁じられ、自宅に謹慎を命じられることである。身体
的にはたいした罰ではないが高級武士にとっては登城を禁じられるというのは恥である。このよ
うな家来の罪に責任はないようだがやはり日頃の監督不届きということだろうか。主人の心構え
が悪いから家来が罪を犯すというのは今の会社や政府の汚職でも責任が問われることである。
女犯の僧
52 甲子夜話続篇3:231—232。
53 半日閑話、大田南畝全集、11:447,488。
35
女犯を犯した僧侶というのは東西珍しくなく、上田秋成も『胆大小心録』の中で一向宗
も浄土真宗も「肉食妻帯宗」と呼びたいものだ、と書いている。54 又、「その宗々の悪業は國
のためにならず、ただ愚民の遊所のように見える....高座に登って雄弁の僧でも、座所から
降りれば大部分は俗人で信頼できる人もいない。ただ、今では僧も天下の民の業とゆるされて万
事見逃されるのだろう。余り目に余る僧は処罰されて橋の上で人々に面をさらされ、重い者は島
に流される....女淫の方で度をすごさない僧も利欲が深く財をつもうとするのはどうしたこ
とか。」55 などと書いている。
幕末に世の中の腐敗を慨嘆して長広舌を行った 武陽隠士の『世事見聞録』(1816?)の
なかには、
「当世仏道はみな欲情の事に陥り、その上女犯・肉食を事とし,様々の放埒に身の楽し
みを極めんと忍び廻り……」(p.134)。
「出先にては金銀を費し、酒食の奢りをなし、或は妾宅など唱へて囲い女をいたし、折
節寺内にも隠し置き、子供を持ち、或は料理茶屋・水茶屋その外の商売を致させて利潤に拘わり
,或は賽・かるた等の諸勝負に出会し……」(p.134ー135)。
「終には寺を持ち崩し、或は他所より納まりたる奉加金,又は永代供養料など遣い込み
、又は祠堂・地面をも売り払い、或は仏像・経典の伝来の什物などを質に入れ、また檀家より納
まりたる寄付の諸道具,又は亡者の遺物として納まりし品々をも取り失い、博・女犯、そのほか
遊興に遣い捨てし上に、また住職も売り物にするなり。」(p. 134)といろいろ批判の言葉が出
ている。56
女犯の僧 1:坊主の妾
伝通院の前に坊主の妾が住んでいた。魚屋が商売のために毎日近辺を通っていたが、そ
の囲い女の隣家と心安くなり、ある時言い出した。「私の懇意の人が妾を欲しがっているのだが、
私は内々お前さんの隣の娘を世話したいと思っているのです。」
隣家の亭主は「あれは坊主に囲われているのだが、話によっては出来るかも知れない。
あの女は坊主から月に一両二分ずつ貰っているそうだ」と答えた。すると魚屋は月二両ずつ出す
と言い出して内談は決まった。「實は私が世話したいのは代官の手代だがその当人にもあの娘を
見せたいのだ」と言って、手代を連れて来る日を約束した。
その日になって魚屋は代官の手代と言う男を同道して来た。女に三百疋、女の両親に二
百疋贈り、世話をした隣の男にも樽肴を謝礼に持って来て、その晩は手代と女を同宿させてから
魚屋は帰って行った。翌朝未明に手代は女に別れを告げた。
その日の午後二時ごろに魚屋と手代は二人とも寺社奉行の同心である証明書を持ってや
ってきて妾女を召し捕らえた。これはひどい調査のしようである。一泊したのなら坊主に囲われ
ている事情を聞き出しただけではなく女と一緒に寝たのだろう。その事は頬かぶりしてその翌日
に権高に召し捕りにくるとはあまりの不人情である。これなどは越中様(松平定信)の思召に反す
るだろうと隣人たちは話し合ったそうである。57
これは寛政の改革の時代のことで松平定信の家臣の水野為永が寺社奉行所配下の同心の
腐敗僧の妾の逮捕のやり口を批判したものである。たしかに松平定信に叱られそうな不正な罪状
確認の仕方である。今なら譴責くらいではすまない、 忽ち解任になるところだろう。何だかど
こやらの国の連邦捜査局が時々使う逮捕のし方に似ているようだ。
54 胆大小心録、391。
55 胆大小心録、377—378。
56 世事見聞録、pp. 提示の通り。
57 よしの冊子、上:297。
36
女犯の僧
2:感応寺の比丘尼
谷中の感応寺は何かにつけて評判の立った寺だった。或る年感応寺の住持が遠島を仰せ
付けられた。その理由は年ごろ二十四五の美しい比丘尼が日蓮宗に帰依して紫の袈裟をかけ、位
の高い人の乗るあじろの乗り物に乗り、供を大勢召し連れて歩き回るので、公儀が御咎めの調査
をすると比丘尼は次のように白状した。
彼女の家はもともと深川法専寺の檀家で,親はある御邸の浪人で生活に困窮していた。
彼女が十八の時檀那寺の和尚が来て、もし御邸奉公に出たかったら寺で身の回りその他すっかり
支度をしてあげようと言ったので、親と一緒に碑文谷の寺へ行って衣類など仕立てて貰った。次
に御屋敷から下見に来るから支度して来るようにといわれ、又寺へ参上した。すると侍衆が二三
人来て住持共々酒盛りをして一日遊んだが、夕方に侍は帰りその後は来る事もなかった。住持ば
かりが残って色々戯れたので厭だったけれども,親の困窮を救われた恩があるので住持のいう通
りになった。
そのうちに和尚に言われて髪を下ろして比丘尼になり,経文も習い読み、御邸に出入り
するようになった。谷中の感応寺は彼女の檀那寺と心安かったし、彼女の来歴も知っていたので
そこへよく行った。御邸やお城の女中方もよく感応寺を訪れるので心安くなり、だんだんお出入
りの御邸がふえ、親たちの暮らしも楽になった。紫の袈裟は感応寺から許されたもので何処へ行
っても感応寺の者というと厚遇される。乗り物は碑文谷の寺が申しいれて許可されたのだと白状
した。これによって寺の弟子、役者、町人など比丘尼と感応寺で心安くした大勢の者が逮捕され
た。町人や役者は程なく出牢したが,比丘尼と親は磔にされ,感応寺碑文谷の住持は三宅島へ流
され、感応寺の弟子たちは願って島へ供をした。その後感応寺は天台宗に宗旨替えをした。58
感応寺の住持たちの醜聞については三田村鳶魚のくわしいがたいへん複雑な記述がある。
十九世紀の法華宗の寺、延命院や感応寺での、多数の大奥の女性をふくむ堕落行為は長年広範囲
にわたっていたようである。そのことは大規模でしかも雑然としているのでこの槁では扱わない。
59
比丘尼と親が磔刑にかかったのに感応寺の住持が遠島になったのは不公平である。感応
寺と碑文谷の住持たちは幕府の法律だけでなく仏教と寺の戒律も犯した上に多くの人々を誘惑し
て悪徳を広めた罪源だから重罪である。その処罰が遠島ならば比丘尼と親も遠島にされるべきだ
った。彼女たちの罪は無知と経済的な理由からで住持たちの女犯のように重くない。
針妙
裁縫をする女のことを針妙というのは隠語が普通の家庭に移ったのである。寺で秘密に
やとっている女をめうと呼ぶのだが、その意味は妙の字を二つにわければ少女となるからだ。物
を縫うためにおくので、針の字を上にそえたのだと思われる。『醒睡笑広本』の三の巻にこんな
話が出て居る。或人が檀那寺を訪れてしばらく雑談して、帰る時に住職に「明日は無菜(おかず
が少ないこと)の食事を差し上げましょう」というと、庫裏からめう(針妙)が出て来てうっか
り言った。「ちょうどよかった、明日はお坊様の精進の日ぢや」。60
58 江戸真砂六十帖、 p.137-138。
59 三田村鳶魚全集、v.1; v.3; v.8; v.9。
60 柳亭記 P.403。
37
なまぐさ住職はとんだ所で日頃の贅食無節操がばれてしまったが、この妙といふのは彼
の妾の事らしい。江戸時代もこの話の出典、安楽庵策伝の『醒睡笑』(1628)頃になると僧侶の
さまざまな破戒ぶりは世評に高かったのだろう。寺の住職が女を置き、生臭いご馳走を毎日食べ
ているのは檀家の者たちは皆知っていたが誰もその事を暴き出して言いはしなかった。 安楽庵
策伝などの勇敢で意地悪な諷刺家がその蓋をあけたので外の連中、戯作者たちがそんなことを普
通に書き始めたのである。しかしその時から三百年も前の『徒然草』などからも僧侶の俗化は十
分知られるのでこれは珍しい発見ではない。
孝行娘 –
国を上げて儒教道徳を奨励し主君に忠義、親に孝行のかけ声で国民を統一しようとした
時代だから、親孝行の話はたくさん世間に行き渡っていた。特に平民はほかに楽しい事も勲功を
立てて褒められる事もないので、幕府は親孝行で抜きん出た人々を褒賞して幾ばくかの金を与え
る事で人々を感激させ、ますます善行に励むようにおだてた。
孝行娘 1: 安
本郷元町の鉄五郎の十三歳の娘安は日頃から孝行で何事にも両親にそむかないよい娘だ
った。 嘉永七年(1854)冬の夜の暁方に三人の盗賊が入って来て、両親を取り巻き、金銭を出せ、
と命じ「もし金を隠したら両人とも斬り殺すぞ」と抜刃でおどした。 鉄五郎が差し出したわず
かな銭を奪いとろうとしたところ、娘の安はその白刃も怖れず盗賊の袖に取りすがって両親の命
乞いをした。父はもとより非常に貧しく、日々青物を売り歩いてようやく生きているので、その
売溜銭を取られては明日の商いの元手もなくなり、飢え死にするよりほかはない、と泣きながら
訴えたので、さすがの盗人もその孝心に感じて何も取らずに立ち去ったという。安の平常の孝心
は隣近所によくしられていたし、その早暁身の危険も思わず無頼の悪党共に取りすがって懇願し
て両親を危機から救ったことは奇特な行為であるとして、公辺から銀五枚のご褒美を賜わったそ
うである。61
これは子供だからできたことだろう。子供の無邪気と真心で無情酷薄な泥棒の意図を転
換するのに成功した。悪党共は深く感じたかも知れないが,同時にこんな貧乏人から少しの銭を
取って何になろう、許してやれ、と思ったのかも知れない。大人の男女が同じうったえや命乞い
をしても効果はなかっただろうと思う。それにしてもその家に金があるかないか、見ればわかり
そうなものだのに間抜けな泥棒もいたものである。
孝行娘 2:シキミ売りの娘
伝通院前の貧しい裏店に寡婦とその娘が住んでいた。此の娘は毎日樒(シキミ)を売り
歩いて母を助けていた。非常に頭が悪くて愚かなのだが病気の母にはたいへん孝行をつくすので
町の人たちは皆褒めていて、官庁にもその噂は達していた程である。
ある日某屋敷に樒を売りに行った所、下男たちがよってたかって娘をからかい,遂には
姦淫するにいたった。しかし彼女は白痴に近いので何も知らず少しも恥ずかしがらなかった。そ
の上家に帰って母にさっきお邸に行ってとても面白いことがあったよ。いつか又行くことがあっ
たらいっしょに行きましょう、と孝行するつもりで言った。母はそのわけを知らなかったので娘
を信じて喜んだ。それからしばらく後に母は死んでしまい,娘は独り住まいになった。
するとある日その家から火が出て隣近所も類焼した。町役人が娘を捕らえて問いただす
と娘は答えた。「家主様がいつも私をいましめて、火を大事にしなければならないとおっしゃる
61 宮川舎漫筆、 p.255。
38
のでそれを堅く守っています。家を出る時もし火があればそれは箱に入れてふとんに包み、戸棚
の中に入れて出ます。ちっとも火をおろそかにしていません」と落ち着き払って言った。町役人
がそれを役所に伝えると奉行はそれを聞いて笑い、かつ嘆いた。しかし結局失火罪には成らなか
った。62
たしかに頭は悪いが非常に素直で従順で正直な娘である。だからお仕置きにならなかっ
たのは読者として喜ばしい。江戸時代は奉行が特別に慈悲深いか、思慮深い人か、臨機応変に考
える事の出来る人ならばよい判決を下したが、しばしば法律だけを口実に実情にあわない残酷な
お仕置きを命令した。この奉行の場合娘の普段の孝行ぶりを知っていた物分りのよい町奉行だっ
たのだろう。それに娘のした事は確かに滑稽で、ユーモアのセンスのない奉行ならば娘を火刑に
してしまったかも知れない。
白拍子の舞
白拍子の舞
有名な画家谷文晁(1763-1841)の所に、 黒羽二重の小袖の下に白無垢を着た年四十ば
かりの比丘尼が従者を連れて訪ねて来た。 絵を描いてくれというのである。文晁は今から外出
するところだと言い、とくに見知らぬ人が名乗りもしないで申し込んでも応じることは出来ない、
と断った。尼は先生が高名なのを聞いて遠くからわざわざ来たのにどうしてそんなに不人情なの
ですか、としきりに食い下がる。ではどんな絵が欲しいのかと訊くと、白拍子の舞の絵だという。
では静御前が鎌倉八幡宮の回廊で舞っている所か、ときくと、そうではない。私は昔からこの舞
を殊の外好んだので、私が舞っているところを描いてほしい、という。
これは狂女にちがいない、と家内の者たちが面白がって襖の隙間から見ていたが尼は自
若として少しも恥じる気色はない。皆いよいよこれは狂女だと笑いを抑えていた。 文晁は白拍
子が舞っているところは見たこともないから描けない、一曲舞ってくれるならば、と笑いながら
言った。尼は、では舞いましょう、けれども久しく舞わないから見る程の事もないでしょうけれ
ど。とにかく丸い坊主頭では興ざめだから手拭でも貸してください、頭を包みましょう。それか
ら扇を一本貸してください、と言ったので家人が出して貸し与えた。
用意ができると尼は床の間正面に正しく座り直し扇を右脇に置いた。新しい扇を出して
与えたのだが、開いてみようともしない。衣紋をつくろったりしているのをあたりの者たちは袖
を口にあてて笑いを押さえながら見ていた。やがて歌い始めたが、それは妙音というも愚か、
人々は初めてこれはとてもとても狂女などではないと耳をそばだて、目も放さず見守りはじめた。
程なく比丘尼は扇を取ってすっくと立ち、さっと扇を開いた。その音の爽快さ、新しい
扇をこれほど見事に完全に開くとは、と人々は驚きに脚をすくわれる思いだった。さて立ち上が
って歌いながら舞い始めた様子は扇をさす手と言い、声と言い、節回しと言い、舞といい、すべ
て誰もの耳目を驚かさないものはなかった。しばらくおどって舞い納めた時には、「天津風雲の
通い路吹きとじよ」と詠まれたと同じく、もう一度、と望まぬ者はいなかった。
文晁は心から感銘を受け、すぐに筆をとって白拍子の肖像を描き与えた。尼は謝礼とし
て銀を差し出したが住居姓名は固く辞していわず、厚く礼を述べて帰って行ったという。
この尼の身元は今でも謎だが、四国九州などには白拍子の伝統が残っていると聞くから、
この女性は西国の諸侯の妾などの年老いた姿なのではないだろうか。いずれにしても、白拍子の
舞をはじめて見た人々は大変感激して噂は止まなかったそうだ。此のことは大野氏が私(志賀忍/
理齊) に語ったことである。63
62 甲子夜話三篇、1:119。
63 理斎随筆 p.313。
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始め馬鹿にされていた人物がたいした才能や力量を見せて人々を驚かすという筋書きは小
説やドラマによくある型であるが、比丘尼の変身ぶりがまことにすっきりしていて気持ちがいい。
どういう身元の人だったのか、打ち明けなかったのでますます興味をかき立てられるが、それが
又よい所なのかもしれない。すこし修飾があるかもしれないが感銘深い話である。
銭湯の久米の仙痛
或る人が語った話によると、下谷辺の医者がある時昼前に銭湯を浴びてからその風呂屋
の二階へ上がって裸で風にあたっていた。そこから庇つづきで女湯が見えた。あまり入浴者はい
ず、小ぎれいな女が一人湯桶の前に座って、医者が見ているのに気づかずに体を洗っているのが
ちらりと見えた。医者は引き窓のふちに手をかけて片手はその下にある竹にとりついて眺めてい
たが、色情深い性質だったのかもっと見たく思って両手をかけて竹を引き分けると,竹棒は折れ
て女湯の方へ落ち,自分も真っ逆さまに女湯に墜落した。女はきゃっといって気を失い,医者も
高い所から落ちて湯桶で頭を打って気絶した。
湯屋の亭主はもちろん,家内中があわてて出てくると、女一人と男一人が気絶している。
わけがわからなかったが気付け薬など与えて訳を聞いてもその答えは一向要領を得ず、しいてた
ずねると,粂の疝痛とでもいうべきわけがあったので、そこにいた連中はみな笑いこけたそう
だ。64
『慶長見聞集』『そぞろ物がたり』『落穂集』などによると、江戸時代初期までに風呂
屋は非常に普及してよくはやっていた。風呂屋では朝から風呂を焚いて午後四時頃にはもう閉め
た。昼の間客の垢かき(背中を流す)をした湯女たちもそれから身支度を整えて、風呂の上がり
場に使う格子の間を座敷にして、金屏風を引き廻し、灯をともして三味線を鳴らし、小唄など歌
って客を集めた。男湯には二階があって湯女が菓子や茶を売り、又湯から出て来た男達を団扇で
あおいだりしてサービスした。酒は禁制だったが湯女とデートの約束する事などは行われた。ま
た男女混浴の銭湯も多かったということである。
「粂の疝痛」はいうまでもなく粂の仙人が女の脛に見とれて神通力を失って空から墜落
したという伝説のもじりである。 西鶴の『好色一代男』の世之介が七歳の時遠眼鏡で行水をし
ている女中を観察してこの方、男はとかく裸の女を見たがるようである。それも湯を使ったり、
川で水浴びをしている女たちをこっそり観察するのが好きらしい。そういう時には女は取り澄ま
さず、リラックスして自由な動きを見せるからであろう。 現代のプロフェッショナルな写真や
絵画のモデルは、いくら裸でも美しくてもポーズをとっているので面白くないだろう。男性は見
られることを意識していない女性を好むらしい。
私は日本の温泉でアル・フレスコの屋外の風呂に入ると周囲が気になってしかたがない。
よくよく周囲を見回して何処か、客室や庭から露天風呂を観察できる隙間はないか、と岩湯へ出
る前にじろじろ検分する。去年の夏も越後湯沢にちょっと行って湯に入って来た。私一人で悠々
と楽しんだのだが,外に露天風呂もあったのでそこにも入って見た。そうして此の話を思い出し
てどこか上の方から見られてはいないか、と上の方をあちこち伺って見て自分でおかしかった。
こんな婆を見たいと思う男など今時いるはずはない、見たって何ってこともないのに、とは思う
のだが、やはり婆だからこそ見られるのは恥である。しかし誰もいないとわかって私は憂いなく
湯につかったのである。
現代の身体の美しい若い女性たちは、裸を男にでも女にでも、他の人に見せてあげるの
はよい功徳だと思っているのだろうと思うくらい、勇敢にいさぎよく裸になるようだ。
馬琴の久米仙の話
64 耳袋、2:75。
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滝沢馬琴が『 玄同放言 』に書いている。 布を洗う女子の素脛を見て堕落したという久
米仙の話はたいへん古い小説であるという。まず管見したことを収録すると、『今昔物語』にあ
るのは、いつのことだろう、とにかく大昔の天皇が大和の高市郡に皇居を造営なさった時に、国
内の男たちを集めて造営にあたらせられた。その人々のなかに、仙人と呼ばれている男がいた。
行事官たちが不思議に思って、お前等、なぜあの男を仙人とよぶのだ、と問うと、一人が答えた。
「こいつは久米といいます。先年、当國吉野郡の竜門寺にこもって法を修行して仙人に
なりました。ある日空を飛んでいると吉野川のほとりで若い美しい女が裾をからげて着物を洗っ
ているのが見えました。その脛があまり白かったので、仙人は忽ち心を迷わされて神通力を失い
女の前にスットーンと落ちました。それでその女を妻にして今まで生きております。それで仙人
と呼ぶのです」と説明した。
行事官等はこれを聞いて「それはそれは、尊いお方なのだね、その時の飛び方などの方
法をきっとまだ覚えているだろう。こんなに沢山の材木を手で苦労して運ぶより、祈って飛ばし
てもらった方が楽だろう」とからかった。65
女性が男性の優位に立つ,あるいは神通力を失わせるというのは、重大な主題ではない
が、歴史を通じて流れる一つの話題である。西の方の有名な例をとると 旧約聖書・士師記に出
ていて物語でサンサーンスがオペラを書いた「サムソンとデリラ」の話がある。
女が男の神通力を失わせる話がわざわざ語られるというのは事例が少ないからである。
久米の仙人の話は,女が別に男を力づくで懲らしめたというのでもなく,男よりも頭のいい所を
見せたのでもなく,仙人が勝手に女の白い脚をみて神通力を失ったというのだから實に馬鹿馬鹿
しい話である。サムソンはデリラの誘惑に勝てなくて自分が神通力を失う弱点の秘密を明かして
しまった。久米仙もサムソンも女が男に勝てるのは性魅力の発動によるのだという小さい事例で
ある。江戸時代になぜ遊郭が大発展したかを思い当たらされる。
赤城油屋女房
五月中旬に赤城油屋の女房が堀の内へ願かけに日参していた。ある日召使いを一人連れ
て行ったのだが時間を間違えて出かけ、参詣人のいない時に着いて、江戸屋の横町で非人どもに
囲まれた。二人ともかつがれて山へ連れて行かれ、そこで三十人ほどの非人が手伝いを木に縛り
付けておいてその前でつぎつぎに女房を犯したそうである。夜明けに人が見つけたときはかすか
に息をするだけで菰の上に伏していたそうだ。
この油屋は名高い町人なのにその女房がなぜこのようなひどい眼に遭ったかというと、
この女は普段から無情酷薄で、少しも優しいところがない。いつも使用人に、「イザリや手足の
かなわない乞食には一文づつやってもいいが、其の外の乞食の足腰の自由な者が金をとることは
泥棒同様だからほどこしてはならない」と言いつけていた。日頃乞食や困った人達を非情にあし
らっているのでそれを恨んで仇をとったのだそうだ。その後は非人達が油屋の店の前へ来て「こ
の家の女房よい気味だろう、俺の女房だぞ」などと色々悪口をいうそうだ。66
性的要素のために男が女に降参する話があるかと思えば、またすぐその性が、女をひど
い目にあわせて罰するために使われる話が出て来る。しかしこういう話が云々されるのはそうい
う事件が常識はずれで例が少ないからであろう。我々はこういう話を讀むと、女性の奥の手がい
65 玄同放言
p.178。
66 半日閑話、全集、11:479。
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かに消極的な無力なものであるかを実感させられ,同時に,それが売り物に使われたのは江戸時
代だけではなく、多分永遠に続くだろうことを思い知らさせられるのである。
動物譚 1: 猫女房
湯島円満寺の前のせんべい屋へ夜な夜な大きい猫が来て台所にある食物をみんな食べて
しまった。亭主は怒りにたえずいろいろ工夫をめぐらしたあげく猫を罠で捕らえてむごく打ち殺
した。そうして首に縄をかけて、妻に家の後の芥捨場へ捨てて来るように言いつけた。 女房は
気の強い女でその縄の先に猫の死骸をぶら下げて夜の八時頃桜の馬場のゴミ捨て場に捨てて来た
が、帰って来て戸口へ入るや否やあっと絶叫して夫の顔を引っ掻き、その後はすべての身振りが
猫そのままであった。亭主は持てあまして色々な方法をこうじてみたが女房の勢いが強くてとて
もかなわない。外へ逃げ出して近所の人々に加勢を頼んで取り押さえようとしたが、なかなか手
に合ない。仕方なく打ち倒して縛りつけておいた。猫女房は何もいわずただニャアニャア,ワウ
ワウと泣き叫び,物を食うにも器のなかへ顔をつっこんで魚ばかり食べたということだ。67
動物を殺したのは夫のはずだが、猫は夫には罰をあたえないで死骸をぶら下げて捨てに
行った妻に仕返しをしている。本当に化け猫というものが存在したとは信じられないが、昔から
猫は化けて出るといわれていて、鍋島や有馬の猫騒動などの虚説がある位である。大体猫はライ
オンや虎や豹と同じ種類に属するのだから野生に帰れば相当危険になる可能性はある。執念や復
讐心が強いと思われて、化け猫は女性に擬されるのは日本でも西欧でも同じらしい。この男は妻
に猫になられて困っただろうが、そのとき猫を残酷に殺した事を後悔したことだろう。
動物譚 2:憎い古狸
憎い古狸
京都下立売通りの鍵屋何某という人は諸侯の御用達として京都一の金持である。そこに
幼少の頃から召し使われていた八重という女中がいる。生まれつき、しとやかで賢く身持ちもよ
く、才智も他の女にすぐれているので主人に気に入られて大勢の女中の頭として長年勉め、もう
今年三十二歳、家中の雇人の手本となっていた。主人は先の事を考えて、八重は似つかわしい人
物と結婚すべきだと思い、別家の手代の情報を色々集め、良さそうな一人をえらんで縁組させ、
嫁入支度も調えてやっていた。
すると今年明和四年(1767)春頃から次第に八重の腹が大きくなったので主人は大層驚き、
一家中は日頃の真面目に似あわない身持ちだと呆れていた。主人はひいきの女だから仕方なく八
重を親元へあずけ、その相手は誰なのかと日夜聞いたけれども彼女は至って真面目に少しも覚え
がないとはっきり言うのだった。
人々が疑って色々噂している内に月が満ちて八重は三月十四日に出産した。その生まれ
た物を見ると大きさは火入れのよう、柴栗のように体中いっぱいに毛が生えて、どちらが頭か尻
かわからない。ことに熱気が非常に強くて手も触れられないくらい熱い。皆が驚いてその理由を
訊ねると八重が言うには「これは私の因果でしょう。ある夜寝覚めに夢うつつのなかで一人の美
しい僧が来て口説いたけれども、私はもとより決まった夫でなければ身をまかすつもりはないの
で承知しませんでした。その僧はすごすごと帰って行きました。するとその後またとろとろとま
どろんでいると夢の中であの僧と交わったようだったのでびっくりして目を覚まし、あたりを見
回したけれども誰もいず、味気ない夢を見たものだと思ったばかりです。その他は男とまじわっ
た覚えは全然ありません」と涙を流して言ったそうだ。
その男については皆思い当たる事があった。同町内の七里彦次郎という人の家に長年古
狸がいて、様々な悪戯をする事をみんなよく知っていた。そうして最近彦次郎の家の下女に狸が
ついて、美僧に化けて八重を犯した事を口走ったそうである。日頃行いの正しい、貞操の固い女
67 豊芥子日記、p.313。
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が相当な所へ嫁入るはずだったのに、思いもよらぬ古狸に汚されたのはどんな因果応報だったの
だろうととりどりに噂されている。68
実に運の悪い女性である。古狸も八重が優秀な女性だったから見込んだのだろうが,少
し遠慮してもっと悪い女で我慢すればよかったのに。美僧に化けたというのだったら、ついでに
化けっ放しになって,身元がばれないうちに何度も八重を訪れてあげればよかった。今はもう正
体が顕されたのだから、八重はどこにも嫁入りできず一人で暮らす事になっただろう。それでそ
の柴栗かハリネズミのような赤ん坊はどうなったのだろうか?そんな事が実際に起ったとは思え
ないが何か似通ったような事件が起こって真面目なよい女性が台無しにされたのかもしれない。
救いのない話である。
夢の浮橋
夢の浮橋———永代橋の転落
———永代橋の転落
文化四年八月十九日(1807 年 9 月 20 日)、深川富岡八幡宮の十二年ぶりの祭礼に見物に
詰め掛けた群衆の重みで 、江戸隅田川にかかる永代橋が破壊転落し、四百四十人の人々が溺死
したことは有名である。 その事故にかかわったさまざまな個人の挿話を記録した 杏花園主人(
大田南畝)の 『夢の浮橋』からの抜萃である。
京橋水谷町の材木商藤兵衛はだいぶ前から隠し妻を持っている。銀座二丁目に手拭、子
供の着物の小裁などを店に置いて商売をしているように見せかけ、その女をそこに住まわせて通
っていた。本妻はそれをうすうす知って回し者を置いて様子を探っていた。そのうちにその妾が
深川の祭りの見物に行くと聞いて妻はたいへん腹を立てた。彼女は何も言わずにあわただしく着
替え、髪をかきあげて「さあ祭りを見に行きましょう。連れてってください。もし私のように汚
ないものといっしょに行くのがおいやならば一人で留守番していてください」と言って小僧を一
人つれてでかけてしまった。
夫はしいて止めれば口喧嘩になってろくなことにはならない事がわかっているので妻を
行かせたが、自分の女の所へ行くわけにもいかないので家に残っていた。すると永代橋が落ちて
多くの人が溺れたという噂が聞こえて来た。胸をおどらせて召使いを走らせ調べさせると連れて
行った小僧は助かって妻は死んだという。亡骸を見ると憎かったことも忘れて哀れに思った。す
るとその夜から、隠し女のところに妻の姿が現れてうらめしげに見守っている。初七日の夕方に
は家のなかがなぜかさわがしくなり、近所の人たちがなにごとかと騒ぎ出すと、京橋の方から何
千人もの人が群がって妾の手拭店の前に集まって来た。店のものたちが驚いて、とまどって追い
出すとみんな南の方に向かって飛んで行った。これもまた亡妻の霊だろうと誰となく言出して、
みな怖れたということだ。69
桶町で足袋を売る某という者は、隣家の足袋家の娘をいつもかわいがっていたので、祭
りにさそって連れて行こうとした。この隣家ではある侍の妾を預かっていたが、その女も誘って、
下女をともなって皆で一緒にでかけた。ところが三人は皆川に落ちて死んだが、この下女は葛西
の者で、小さい時よく自分の家の前の小川に入って水を浴びたので、犬かき泳ぎくらいは出来た。
それであちらこちら泳いでいるうちに深川から帰って来る船が来たのでよじり登った。それは同
じ村の者で糞船を漕いで通っていたのだ。それで糞船に乗って帰って来たのだとか。70
四谷の鼈甲屋伝次郎という者が祭に出て霊岸島から出た屋台の上で笛を吹いていた。屋
台がまだ永代橋まで行き着いていないとき、橋が落ちたという叫び声を聞いて、飛び降りて裸に
なって川に飛び込み、男女七人まで助けた。そのうち女一人を助けて橋杭に取り付かせると、女
68 談笈抜萃, p. 16-17。
69 夢の浮橋, p.179ー180.
70 夢の浮橋、p.182。
43
が「お願いだから妹を助けてください」と叫ぶ。しかしどれが妹かわからないので、まずその辺
に浮かんでいる女をとらえて引き上げて連れて行くと幸運にもそれが妹だった。その女は浅草の
者だったと言う。71
名前を忘れたが湊橋の近所に住む者のことである。 雇い主の母親の老女が、小さい時か
ら働いていた彼を供に連れて見物に出かけた。橋がこわれた時老女も川に落ちてしまった。この
男は常に近所の川で泳いでいて水練に練達していたから、その老女を抱えて差し上げながら岸に
つき家へ連れてかえった。老女は私の命はお前にもらった賜物だと礼を言い、家の者たちはこぞ
って若者をほめた。するとこの男は「子供のとき川に入って泳ぐ度にこの刀自に叱られ折檻され
ました。今からは私が川に浮かんで遊ぶ度に刀自は岸に立ってほめてください」としたり顔に言
ったそうだ。72
ある歴々の奥方らしい人が女中と用人を連れ、用人の子供も一緒に深川見物に行った。
永代橋が落ちてみんな川に落とされた。用人はすこし水の心得があるのでまづ先に女中と奥方を
助けたがその間に自分の子供は死んでしまった。一説にこの奥方は織田家の怪我よけのお守りを
持っていたので助かったという。73
霊厳島の煙草屋忠兵衛の妻の妹は谷中に嫁入っていたが、深川の祭を姉と一緒に行く約
束をしていた。それでその朝心もうきうきと、髪かたちを十分ととのえて出かけたが、姉は心せ
くままに、雇い人の男の子と女の子を連れて、妹のことなど忘れて出かけてしまった。妹は暫く
して姉の家に着いて、なんというつれない人だろうと恨み罵りながら後から追っかけて行った。
まもなく永代橋が落ちたという噂が聞こえ、姉と一緒に行った召使いの少女が泣きながら走り戻
った。人に押されておかみさんと離れてしまった。欄干にすがってやっと命が助かったけれど色
んな所に疵をうけた。お上さんも男の子も見えなかったので心ならずも帰ってきた、とうったえ
た。使用人を探しに出すと、救いの船の中に死体を見つけて帰って来た。妹はおくれたから無事
で、姉は約束を破って早く出かけたので死んでしまったのは皮肉なことである。74
大田南畝の『夢の浮橋』からの引用だから全部実際に起ったことである。永代橋が設立
されたのは元禄十一年(1698)八月である。もともとは百メートル程上流にかかっていたらしい。
その後 一度 享保四年(1719)に洪水で破損したが、町の住民の負担で修繕し、それからは通行人一
人について二文ずつ 渡橋料を徴集して維持し、八十八年間健在だった橋である。誰も橋がこわ
れる などとは思いもよらなかった。
その日は深川富岡八幡宮の二十二年ぶりの祭礼だということと、ちょうど身延山が 深川
霊巌寺で出開帳を催した事で、江戸中の市民が一せいに深川を目指して集まって来た。何しろ古
い木の橋だから許容数を遥かに越えた群衆の重みで橋の側面が折れ始め、それを知らずに後から
後からつめかける群衆の数でめりめりと壊れて、橋上にいた人々もろともにどっと転落した。
死者は四百八十人とも千五百人ともいわれているが、日本 史上最悪の落橋事故であった
事は確かである。橋の落ちたのは八月十九日(旧暦)であった。
南畝は後日房州の浦あたりに上がった溺死の屍は二十ほど、どれも女ばかりで男は一人
もいなかったそうだと書き、死者の割合としては泳げない者の多い女性が多かっただろうと言っ
ているが、一方町奉行からお届けがあった永代橋水死人七百三十二人の内武士八十六人、町人四
71 夢の浮橋,p.182。
72 夢の浮橋、p.182。
73 夢の浮橋 、p.185。
74 夢の浮橋 、p.192。
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百二十四人、女が百五人子供男女七十六人75というのだから全体の割合としては女が少ないので
ある。
此の時の 大田南畝の狂歌は有名である。
永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼
全く何百人,千何百人の人が亡くなったのなら葬式は毎日つづいたことだろう。
風変わりな女性
正徳(1711-1715)の頃、園女という女宗匠がいて、三十六本の桜を八幡の社内に植え、こ
れを歌仙桜と呼んだ。今は枯れて一二本だけ残っている。園女は岡西一有の妻だった。夫一有は
宗因の門人で, 後に惟中と改名,一時軒と号して俳諧をたしなんだが、職業は医者で元禄五
(1692)八月十日に大坂で亡くなった。
しかし他にも説があって、園女はもと駅路のくぐつ女だったが、伊勢山田の杉本吉太夫
光貞の妻となり風雅をみつ女に学んだという人もいる。
「琴風園女句集跋」に書いてある事は、 園女は伊勢度会の斯波一有の妻で、中頃難波に
住んで芭蕉の風を学び、俳諧で名高く、今は深川の園女と呼ばれている。医学は夫の術を伝え、
筆は唐風を書く。その筆風は大丈夫にもまさる勢いのある書である。しかし園女は世事にうとく、
着物の袖下の紅絹を切って下駄の鼻緒をつくったり、茶碗を二つ合せて花を生けようと思って十
個あった茶碗の九つまでを穴開けにしくじって割ってしまったり、張り文庫のふたを水流しに用
いるなど、あどけない一面があったそうである。
後に仏門に入り名前を智鏡と変えて頭を丸めたけれども、真ん中の毛を十筋ばかりそり
残したのは昔をしのぶ唯一のかたみだったのだろう。六十の年に句集を著したが享保十一年
(1726)四月二十日に七十四歳で没した。深川霊厳寺の塔中にその墓がある。辞世の句が碑面に彫
ってある。
曙の空はうつつか阿弥陀仏76
頭の髪を真ん中だけ十筋ほどそり残したとは 1970 年代にヒッピー、チェロキーと呼ばれ
た青少年の頭に似て、その変人ぶりは想像にあまりある。どうも江戸時代に名前を残したほど
の女性には変わり者が多かったようである。しかし今のように有名になりたいばかりに突飛な
ことをするのではなくて、江戸時代には本当に個性を持って、自分だけの理由で思いを遂げた
い人が変わった行動に出たのである。しかしこの女性の伝記として全然違った二つの背景が伝
えられているのはどういうわけだろうか。少しの齟齬ならばわかるが、駅路の傀儡女と、医者
の妻で医学を夫に習って人を助けることも出来たという女性の間には相当な距離がある。しか
も男性にまさった唐風の筆跡云々というのは傀儡女からは非常な飛躍である。くぐつ女から転
向したというのは根拠のない悪意のあるうわさではないだろうか。『日本女性人名辞典』によ
るとその女という名前の俳人は江戸後期にも一人居たらしいのでその人かと思うのだがその人
の背景は又全然違うのである。ck ページそちらの生年月日は1780頃から明治元年(1868)
だという。
正徳の園女は普通の主婦としては落第らしくてそれが又可愛らしい。江戸時代にもそん
な風に、根っから主婦に向かない人がいたのだと思うと笑ってしまう。茶碗を二つ合せて花生
けにしようという思いつきに夢中になって九つも茶碗を割ってしまったというのは全くおかし
い。実用的な事には全然思いが至らなかったのだろう。
75 夢の浮橋, p.205。
76 墨水消夏録、p.261
45
この園女は門玲子の『江戸女流文学の発見』の中に女流俳人として大変褒めて描かれて
いる。芭蕉が「のうれん(暖簾)の奥ものゆかし北の梅」と梅にたとえ、また「白菊の眼に立
て見る塵もなし」と園女を気高い白菊に見立てて称えたとしている。門玲子の本は彼女の変人
ぶりにふれていない。77
悪意のあだ名
あだ名というものは真実を伝える事もあるが、時には根も葉もない悪意に満ちた噂話か
らあだ名が付けられて、その噂が実話として伝えられてしまう。その例を馬文耕は『つれづれ草』
の榎の僧正や吉原大文字やのカボチャと呼ばれた市兵衛の話で語っている。そうして同じような
例を大巴屋の一人娘おつやの話に見てそれを伝えている。
おつやは行儀も良く人柄もいたってよい娘だった。地回りの若者がおつやに心を寄せて
何度も手紙でくどいたけれども、彼女が返事もしなかったのに気を悪くした。仕返しに彼女の家
の前に来て「大巴屋のどら娘」と歌い歩いたのが「一犬吠えると万の犬がほえる」のたとえのよ
うに、「大巴屋のどら娘」というあだ名になって世間に流布してしまったのは気の毒千万なこと
だった。おつやは恥ずかしく思って川に身を投げて死ぬ事さえ考えたが、両親のなげきを思って
思いとどまってずっと誠実に生きて来た。その心が天に通じたものか、彼女の貞潔を知っている
人もあって、今ではめでたく,京町二丁目の山介の家に嫁にいって栄えているということである。
78
人間はどんなことで災害を受けるかわからない。とくにこのような無形の害は無実清浄
の証明をすることが中々難しいから噂話が不正確なまま定着してしまうことが多い。
間違った宣伝が定着してしまうというのは今日でもよくあることで、とくにアメリカの
政界の選挙戦のころになると多額の金を使い、メデイアを通してとんでもない人格中傷や虚説を
流す政治家,その後援者が絶えない。もちろんそれは不法で卑怯なやり方だが、一般人民はそれ
を繰返し繰返し聞いているうちに、嘘と知っていてもいつの間にか信じるようになるのである。
そうして選挙運動で悪意の流言を流す人たちはその効果をねらっているのである。男性の場合、
あるいは女性でも公の仕事についている人たちはまだ自分の実力や経歴によって噂が虚説である
ことを照明することが出来るが、あまり外に出ないしずかな生活をしている若い女性などには堪
え難い屈辱であろう。しかし今の時代には名誉毀損で訴えることも出来るから黙って我慢しなく
てもよいのだが、それが取るに足らない小さいことで訴訟など起こせない場合はかえって被害が
大きい。
77 江戸女流文学の発見、p307-308。
78 当世武野俗談 p。114—115