2012 2012 年 3 月 18 日 聖書: 聖書:マタイ4 マタイ4章1-11 節 「み言葉によって 言葉によって生 によって生きる人生 きる人生(1) 人生(1)」 (1)」 ”Living by the Word of God” 序 論 ●東海岸にはメガ・チャーチなるものは 東海岸にはメガ・チャーチなるものは余 にはメガ・チャーチなるものは余り見ない。 ない。しかし、 しかし、その中 その中で、際立っている 際立っている教会 っている教会が 教会が、マクレ ーン・バイブル・チャーチであろう。 ーン・バイブル・チャーチであろう。1万人を 万人を越える会衆 える会衆を 会衆を持つ教会であり 教会であり、 であり、当然のことながら 当然のことながら、 のことながら、沢 山の牧師やスタッフがいるのであるが 牧師やスタッフがいるのであるが、 やスタッフがいるのであるが、主任牧師はロン・ソロモンというユダヤ 主任牧師はロン・ソロモンというユダヤ人 はロン・ソロモンというユダヤ人の牧師である 牧師である。 である。 ●この教会 この教会では 教会では、 では、土曜日夜から 土曜日夜から始 から始まって、 まって、日曜日にも 日曜日にも数回 にも数回、 数回、基本的にメッセージは 基本的にメッセージは同 にメッセージは同じであるが、 じであるが、賛美 歌やスタイルの違 やスタイルの違う礼拝が 礼拝が幾度か 幾度か週末に 週末にもたれている。 もたれている。 ●少し前になるが、 になるが、私と家内で 家内で土曜日夜 土曜日夜の礼拝に 礼拝に集ったことがある。 ったことがある。礼拝後に 礼拝後に、新来会者には 新来会者には、 には、別室の 別室の 小部屋で 小部屋で、主任牧師ロン・ソロモンと 主任牧師ロン・ソロモンと直接会 ロン・ソロモンと直接会う 直接会う機会・ 機会・特権が 特権が与えられる。 えられる。全部で 全部で 15 分ほどであるが、 ほどであるが、 そこで彼 そこで彼の短い挨拶のあと 挨拶のあと、 のあと、ビデオ・プレゼンテーションがあり、 ビデオ・プレゼンテーションがあり、教会の 教会の歴史、 歴史、ビジョン、 ビジョン、コア・バ リュー等 リュー等が紹介される 紹介される。 される。それが終 それが終わると、 わると、ソロモン牧師 ソロモン牧師は 牧師は言う。「これがこの 。「これがこの教会 これがこの教会です 教会です。 です。これに参加 これに参加 したいと思 したいと思う人は、どうか続 どうか続いて来 いて来て下さい。 さい。でも、 でも、もしそうでなければ、 もしそうでなければ、この辺 この辺りには、 りには、他にも一 杯教会があるので 杯教会があるので、 があるので、ぜひそちらに行 ぜひそちらに行ってください」 ってください」と。 ●それを聞 それを聞いて、 いて、正直、「 正直、「ワー 、「ワー。 ワー。強いことを言 ことを言うな。日本人のほとんどの 日本人のほとんどの人 のほとんどの人が聞いたら、 いたら、躓くかな くかな」とさ え思いました。 いました。でも、 でも、同時に 同時に、「この 、「この強 この強い確信をもって 確信をもって進 をもって進んで来 んで来たからこそ、 たからこそ、ここまでしっかりとし た教会ができたのだろう 教会ができたのだろう」 ができたのだろう」と思った。 った。 ●この教会 この教会をよく 教会をよく知 をよく知っているある っているある人 ある人が、教えてくれました。 えてくれました。その人 その人によると、 によると、ソロモン牧師 ソロモン牧師が 牧師が、あると き、「この 、「この教会 この教会の 教会の成長の 成長の秘訣は 秘訣は?」というような ?」というような質問 というような質問を 質問を受けたとき、「 けたとき、「私 、「私は、『教会 、『教会とは 教会とは普通 とは普通そんなこ 普通そんなこ とをしない』 とをしない』と言われることをあえてみんな われることをあえてみんなして みんなして来 して来た」と答えたそうである。 たそうである。 ●教会が 教会が、皆マクレーン・バイブル・チャーチのようである必要 マクレーン・バイブル・チャーチのようである必要はない 必要はない。 はない。またすべての牧師 またすべての牧師がみなロ 牧師がみなロ ン・ソロモンのようである必要 ン・ソロモンのようである必要もない 必要もない。 もない。もっとも私自身彼 もっとも私自身彼から 私自身彼から学 から学びたいことは一杯 びたいことは一杯あるが 一杯あるが。 あるが。 ●いずれにせよ、 いずれにせよ、色々な教会がある 教会がある。 がある。それで良 それで良いと思 いと思う。 1.教会は 教会は、地上の 地上の教会として 教会としてどれも としてどれも不 どれも不完全であり、 であり、みな成長 みな成長の 成長の階段を 階段を上っている。 っている。 2.その中 でも、 、今上り始めたばかりの教会 その中でも たばかりの教会もあるし 教会もあるし、 もあるし、私たちの教会 たちの教会のように 教会のように途 のように途中まで上 まで上ったが、 ったが、ま た最初から 最初から上 から上り始めようとしている教会 ようとしている教会もあるし 教会もあるし、 もあるし、既に、2 階、3階位まで 階位まで上 まで上った教会 った教会もある 教会もある。 もある。 3.しかし、 しかし、そのような成長 そのような成長の 成長の段階の 段階の違いだけでなく、 いだけでなく、階段にも 階段にも色 にも色々なタイプがあるように、 なタイプがあるように、教会に 教会に もそもそも色 もそもそも色々とタイプの タイプの違いがある。 いがある。 4.先に申し上げたように、 たように、大きな教会 きな教会、 教会、祝福された 祝福された教会 された教会ということで 教会ということで、 ということで、ロン・ソロモンを通 ロン・ソロモンを通して神 して神 様が築かれたマクレーン・バイブルチャーチの「 かれたマクレーン・バイブルチャーチの「タイプ」 タイプ」が、教会の 教会のあるべき姿 あるべき姿、即ち The Church ではない。 ではない。それは、 それは、どんなに大 どんなに大きくても一 きくても一つの教会 つの教会に 教会に過ぎないのである。 ないのである。 ●しかし、 しかし、ここで大切 ここで大切なことは 大切なことは、 なことは、その教会 その教会が 教会が、今どの段階 どの段階にある 段階にある教会 にある教会であれ 教会であれ、 であれ、またどのタイプの教会 またどのタイプの教会で 教会で あれ、 あれ、大きくあれ、 きくあれ、小さくあれ、 さくあれ、教会は 教会は聖書的でなけ 聖書的でなければならないし でなければならないし、 ればならないし、聖書的であることを 聖書的であることを追 であることを追い求め なければならないのである なければならないのである。 のである。 ●私たちは、 たちは、今年この WIJC が聖書的な 聖書的な教会として 教会として、 として、ある意味 ある意味で 意味で土台から再調整 から再調整され 再調整され、 され、また成長 また成長してい 成長してい くことを目標 くことを目標にし 目標にし、 にし、そのため そのために聖書の 聖書の描く教会像 教会像を見ていくことにした。 ていくことにした。 1.そして、 そして、その第 その第一歩として「 として「使徒の 使徒の働き」の最初の 最初の部分に 部分に記されている、 されている、ペンテコステの日 ンテコステの日に誕生 したばかりの教会 したばかりの教会の 教会の姿を見ながら、 ながら、神様からこのことに 神様からこのことに関 からこのことに関するメッセージを頂 するメッセージを頂き始めた。 2.そして、 そして、2章 41-42 節を中心に、特に”They devoted thems themse mselves ves” 、原語では 原語では、 では、 proska roskartereo skartereow rtereow という言葉 という言葉から 言葉から、 から、まず、 まず、初代のクリスチャンたちは 初代のクリスチャンたちは、 のクリスチャンたちは、信仰に Devote した人 した人々、 献身し、専心し 専心し、熱心な 熱心な人々であったことを学 であったことを学んだ。 んだ。 (1)即 (1)即ち、信仰者であることを、 であることを、単に自分の 自分の「生活の一部」 一部」と考えていたのではなく えていたのではなく、 いたのではなく、信仰者であ ることに献 ることに献身し、専心し 専心していた。 ていた。 (2)言 (2)言い換えるなら えるなら、初代のクリスチャンたちは 初代のクリスチャンたちは、 のクリスチャンたちは、自分が 自分が、信仰者としての生 としての生きることを人生 きることを人生の 人生の 中心に置き、それを最 それを最優先して 優先して生 して生きている人 きている人々であった。 であった。 3.その生 その生き方は、具体的 具体的に信仰者としての4 としての4つの基本的行 つの基本的行為 基本的行為に表されていたことを学 されていたことを学び始めた。 1 4.その4つとは使徒 つとは使徒の 使徒の働き 2 章 42 節に書かれている。 かれている。即ち、初代のクリスチャンたちは 初代のクリスチャンたちは: のクリスチャンたちは: (1)使徒たちの教え、即ち聖書の教えに献身・専心していた 専心していた( していた(それを生 それを生活の中心においていた) いていた)。 (2)クリスチャンとしての交わりに献身・専心していた 専心していた( していた(それを生 それを生活の中心においていた) いていた)。 (3)パンを裂くことに献身・専心していた 専心していた( していた(それを生 それを生活の中心においていた) いていた)。 (4)祈ることに献身・専心していた 専心していた( していた(それを生 それを生活の中心においていた) いていた)。 ●と言うことで、 うことで、私たちは、 たちは、先々週、まず、 まず、(1) 使徒たちの 使徒たちの教 たちの教え、即ち、聖書の 聖書の教えに献 えに献身・専心する 専心する ことについて ことについて学んだ。 んだ。聖書のことばに 聖書のことばに献 のことばに献身するとは: するとは: 1.それは、 それは、聖書の 聖書の絶対的 絶対的な権威を認め、服し、信頼することである。 することである。 2.それが故 それが故に、聖書は 聖書は、自分の 自分の好きなところだけ、 きなところだけ、気に入ったところだけ、 ったところだけ、役に立つと思 つと思えるとこ ろだけをつまみ食 ろだけをつまみ食いするように読 いするように読むのでなく、 のでなく、順番に 順番に、満遍なく 満遍なく読 なく読み、味わう必要 わう必要がある 必要がある。 がある。 3.”Dai Daily Brea read”、"Upper "Upper Room oom”のような小 のような小冊子、 冊子、 或は、「荒野 、「荒野の 荒野の泉」「M 」「My Utmost For His Highes hest」等の有名な 有名な聖徒たちによって書 たちによって書かれた深 かれた深い洞察に 洞察に満ちた霊 ちた霊的な Devotional nal な本があ る。それらはいずれも それらはいずれも、 はいずれも、毎日色々なところから 1-2 節づつ聖書の 聖書の箇所が 箇所が選ばれて説明 ばれて説明、 説明、解説、 解説、 注解がなされている 注解がなされている。 がなされている。素晴らしい 素晴らしい小 らしい小冊子、 冊子、本である。 である。私も愛用している 愛用している。 している。大いに読 いに読むべきである。 べきである。 4.しかし、 しかし、それらはどこまでもサ それらはどこまでもサプリである。 プリである。補助、 補助、エクストラ クストラ、 トラ、臨時として読 として読むべきである。 べきである。 5.私たちは、 たちは、自分で 自分で、聖書を 聖書を順番に 順番に、万遍に、つまらなくても、 つまらなくても、意味が 意味が分からなくても、 からなくても、読みにく くても、 くても、コツコツと読み続ける必要 ける必要がある 必要がある。 がある。 6.決して、 して、上述の1-2節の聖句の読み物を、毎日コツコツ読むべき聖書 べき聖書の 聖書の通読の代替にしてはい 代替にしてはい けない。 けない。 7.ヘブル 5 章 12-14 節で警告されていることに 警告されていることに目 されていることに目を留めたい。 たい。私たちは、 たちは、いつまでも、 いつまでも、スポイ トから離乳食 から離乳食を 離乳食を食べるように、 べるように、誰かに噛 かに噛みほぐして、 して、食べ易くしてもらっ くしてもらったものを てもらったものを食 たものを食べるのでは なく、 なく、堅くても自分 くても自分で 自分で、少しづつでも食 つでも食べられるように訓練 べられるように訓練していく 訓練していく必要 していく必要がある 必要がある。 がある。 ●「御言葉に 言葉によって生 よって生きる人生 きる人生」 人生」をもう少 をもう少し学ぶために、もう 2 回の日曜日の 日曜日の礼拝で 礼拝で、み言葉によって 言葉によって生 によって生 きる人生 きる人生について 人生について考 について考えたい。 えたい。即ち、もう二箇所 もう二箇所の 二箇所の聖書の 聖書の箇所を 箇所を通して、 して、このことを学 このことを学びたいのである。 びたいのである。 ●その最初 その最初の 最初の聖書の 聖書の箇所は 箇所は、先ほど読 ほど読んだマタイの福音 んだマタイの福音書 福音書 4 章1-11 節である。 である。 1.そこには、 そこには、「イエス様と聖書」 聖書」の関係が 関係が如実に 如実に示されている。 されている。 2.即ち、そこには、 そこには、イエス様が、荒野で 荒野でサタンの誘惑 タンの誘惑・ 誘惑・試練を 試練を受けられたとき、 けられたとき、どのように御 どのように御言葉 によって生 によって生きたかが記 きたかが記されている。 されている。 ●信仰生活、人生に 人生における「 ける「試練」、「 試練」、「誘惑 」、「誘惑」 誘惑」という問 という問題は、正に私たちの毎 たちの毎日、また一生 また一生に 一生における最 ける最も現 実的、かつ、 かつ、差し迫った問 った問題であり、 であり、重要であり、 であり、生命的な問題である。 である。 ●ここで一言 ここで一言だけ 一言だけ、 だけ、誘惑と 誘惑と試練についての 試練についての聖書的見 についての聖書的見解 聖書的見解の一つにご つにごく短く触れてお れておきたい。 きたい。 (1)この (1)この箇所 この箇所は 箇所は、そもそも、 そもそも、人々に、或は聖書学者たちによって 聖書学者たちによって、「 たちによって、「イ 、「イエス様の荒野の 荒野の誘惑」 誘惑」と言われ たり、 たり、また「 また「イエス様の荒野の 荒野の試練」 試練」とも言 とも言われたりしている。 われたりしている。 (2)あ (2)ある人々は、「誘惑 、「誘惑」、 誘惑」、或 」、或は「試練」 試練」という二 という二つ言葉は 言葉は、二つの別 つの別の事柄のように 事柄のように思 のように思うかもしれない。 うかもしれない。 (3)しかし (3)しかし、 しかし、実は、この二 この二つの言葉 つの言葉は 言葉は、1,3 節で「試みられる」「 みられる」「試 」「試みる」 みる」と日本語 日本語で訳されているギ されているギ リシャ語 リシャ語「パイラザイン ラザイン」 イン」という一 という一つの言葉 つの言葉から 言葉から来 から来ている。 ている。 ★実は、この一 この一つの言葉 つの言葉に 言葉に、「試練」 試練」と誘惑の 誘惑の二つの意味 つの意味があり 意味があり、 があり、どちらにも訳 どちらにも訳し得るのである。 るのである。 ★このことは、 このことは、ヤコブの手紙 ヤコブの手紙 1 章 1212-14 節にも見 にも見られる。 られる。 (4)即ち、聖書に 聖書において誘惑 いて誘惑と 誘惑と試練は 試練は共通の要素、ルーツをもっているのである。 をもっているのである。換言するなら、 するなら、 ★私たちが、 たちが、試練を 試練を受けるとき、 けるとき、必ずそこには、 ずそこには、様々な誘惑がある 誘惑がある( がある(例えば、 えば、信仰を妥協しようと 妥協しようと したり、 したり、捨てようとする誘惑 てようとする誘惑である 誘惑である) である)。 ★また逆 また逆に、私たちが誘惑 たちが誘惑されるとき 誘惑されるとき、 されるとき、それはまた、 それはまた、私たちにとって、 たちにとって、それは信 それは信仰が試され、 され、成 長する「 する「試練」 試練」であるということができる。 であるということができる。 ●さて、 さて、イエス様は、ここでその信 ここでその信仰の試練、 試練、悪魔からの 悪魔からの誘惑 からの誘惑を 誘惑を経験されたことが 経験されたことが記 されたことが記されている。 されている。 本 論 Ⅰ.このイエス様の試練と誘惑の経験が教える最初のレッスンは誘惑・試練はどんな人にも来るという事実である。 A.信仰生活における一つの大きな誤解がある。それは: 2 1.清い人は誘惑がない 誘惑がない。 がない。信仰に成長するなら 成長するなら試練 するなら試練や 試練や誘惑がなくなる 誘惑がなくなる。 がなくなる。 2.逆に言うなら、 うなら、私がこんなに誘惑 がこんなに誘惑を 誘惑を感じ、試練にあうのは 試練にあうのは、 にあうのは、清くないから、 くないから、信仰が強くない から、 から、弱いから、 いから、いい加 いい加減だからという誤解 だからという誤解である 誤解である。 である。 3.そう頭 そう頭で思い込んでいる人 んでいる人が多いだけでなく、 いだけでなく、頭では、 では、そうでないと分 そうでないと分かっていても、 かっていても、感情 的にそう思 にそう思って落 って落ち込んでいる人 んでいる人、元気がない 元気がない人 がない人が少なくない。 なくない。 B.「それは誤解である」となぜ言えるか? 答えは、「イエス様も試練を受けた」という事実の中にある。 1.誘惑と 誘惑と試練は 試練は、その人 その人が清い、清くない、 くない、信仰が成長している 成長している、 している、していない していない、 いない、その他 その他、あら ゆる状況に 状況に関係なく 関係なく、 なく、すべての人 すべての人に来るのである るのである。 である。 2.その証明 その証明がイ 証明がイエ がイエス様である。 である。イエス様でさえ誘惑 でさえ誘惑と 誘惑と試練を 試練を常に受けておられたのである られたのである。 たのである。 C.ここでイエス様について考えたい。確かに、イエス様は一人の人間として来られたが、同じ人間でも: 1.イエス様の場合、 場合、家庭の信仰がしっかりしていた。 がしっかりしていた。 (1)すなわち (1)すなわち、 すなわち、マリヤとヨ マリヤとヨセフという セフという極 という極めて信仰の篤い両親の 両親の下で育った。 った。 (2)今 (2)今日的に 日的に言い換えるなら、 えるなら、模範的 模範的なクリスチャンホ なクリスチャンホームに育ったのであった。 ったのであった。 2.それだけではない それだけではない。 けではない。両親の 両親の信仰だけでなく、 だけでなく、本人の信仰がしっかりしていた。 がしっかりしていた。 (1)「 (1)「あの家 あの家は、両親は 両親は信仰に熱心だが 熱心だが、 だが、どうも息子 どうも息子や 息子や娘は・・・」 は・・・」と言われることがよく われることがよくあ よくあ る。信仰は最終的に 終的に個人の問題である。 である。 (2)しかし (2)しかし、 しかし、イエス様の場合、 場合、単に両親の 両親の信仰が篤いものであったというだけでなく、 いものであったというだけでなく、 (3)12 (3)12 歳のときに、 のときに、彼が初めて両親とともに 両親とともにユダヤ とともにユダヤ人 ユダヤ人の祭りに参加 りに参加し 参加し、神殿に 神殿に行ったときの ことがルカ ことがルカによる福音 による福音書 福音書に記されているが、 されているが、 (4)そこで、 そこで、明らかに記 らかに記されていることは、 されていることは、イエス様が、両親より 両親より遥 より遥かに信 かに信仰に熱心で 熱心で、聖 書に深い洞察と 洞察と知識をもち、 をもち、神様に献身していたかである。 していたかである。 3.更には、 には、イエス様は、このように信 このように信仰的な生い立ちに恵 ちに恵まれていただけではなかった。 まれていただけではなかった。この マタイの 4 章で試練と 試練と誘惑を 誘惑を経験されたときの 経験されたときの直接的 されたときの直接的背景 直接的背景を 背景を考えるなら、 えるなら、このときイエ このときイエス様 は、 (1)洗 (1)洗礼を受けたばかりで、 けたばかりで、天の父なる神 なる神さまの御声 さまの御声を 御声を聞き、聖霊の祝福を 祝福を受けた直後 けた直後であ 直後であ った。 った。即ち、霊的に祝福され 祝福され、 され、高揚していた 高揚していた直後 していた直後であった 直後であった。 であった。 (2)また (2)また、 また、40 日にもわたって断食 にもわたって断食をして 断食をして祈 をして祈った直後 った直後であった 直後であった。 であった。人はこのようにして、 はこのようにして、断食し 断食し て祈りに集中 りに集中し 集中し、霊的に高められようとする。 られようとする。イエス様はその直後 はその直後にこの 直後にこの試 にこの試みと誘 みと誘惑を 経験されたのである 経験されたのである。 されたのである。 (3)言 (3)言い換えるなら、 えるなら、人はどんなに霊 はどんなに霊的に素晴らしい 素晴らしい体験 らしい体験をし 体験をし、 をし、祝福され 祝福され、 され、高揚されたとし 高揚されたとし ても、 ても、なお試練と 試練と誘惑を 誘惑を経験する 経験するということが するということが、 ということが、イエス様を通して証明 して証明された 証明されたのである されたのである。 のである。 (4)しかも、 しかも、イエス様は、ゲッセマネ ッセマネの園で死を覚悟して 覚悟して祈 して祈るときまで るときまで、 まで、このようなサ このようなサタン の攻撃、 攻撃、試練と 試練と誘惑を 誘惑を一生涯 一生涯絶えず受 えず受け続けたのである。 けたのである。 ●イエス様が、ここで受 ここで受けられた誘惑 けられた誘惑・ 誘惑・試練について 試練について詳 について詳しく記 しく記すもう一 すもう一つの福音 つの福音書 福音書ルカ も、またこの試練 またこの試練・ 試練・誘惑が 誘惑が、3 回にわたるものであったことを にわたるものであったことを告 であったことを告げている。 ている。聖書に 聖書にお ける「 ける「3」という数 という数字は完全数であり 全数であり、 であり、それは、 それは、このような誘惑 このような誘惑がいつも 誘惑がいつも、 がいつも、絶えず、 えず、何 回もあったことを象徴 もあったことを象徴している 象徴している。 している。 ●ルカは 4 章 13 節で、悪魔はこのあと 悪魔はこのあと、「 はこのあと、「暫 、「暫くの間 くの間」だけイエ だけイエス様から離 から離れたと記 れたと記し、 間もなく再 もなく再びイエ びイエス様に悪魔が 悪魔が付きまとって誘惑 きまとって誘惑した 誘惑したことを したことを暗 ことを暗示している。 している。 ●現に、イエス様はペテロのある発 テロのある発言に対して、 して、悪魔がそこにいてイ 悪魔がそこにいてイエ がそこにいてイエス様に挑戦して 挑戦して きていることに気 きていることに気づき、「サ 、「サタンよ、 タンよ、退け」と叫ばれた。 ばれた。 4.このようなイエ このようなイエス様を見る時、誘惑や 誘惑や試練を 試練を受けたからと けたからと言 からと言って、 って、気落ちしたり 気落ちしたり、 ちしたり、自分は 自分は霊 的、信仰的に駄目だなどと などと思ってはならない。 ってはならない。それは本当 それは本当に 本当に「お門違い」である。 である。なぜなら: なぜなら: (1)イ (1)イエス様も同じように誘惑 じように誘惑され 誘惑され、 され、試みられたからである。 みられたからである。 (2)即 (2)即ち、どんな人 どんな人も、必ず、誘惑と 誘惑と試練を 試練を経験するの 経験するのである するのである。 である。 ●むしろ、 しろ、私たちに見 たちに見込みがあるからこそ、 みがあるからこそ、悪魔は 悪魔は私たちを誘惑 たちを誘惑し 誘惑し、試練に 試練に遭わせるの である。 である。私たちにこのまま祝福 たちにこのまま祝福され 祝福され、 され、高揚されて 高揚されて進 されて進んでもらっては困 んでもらっては困るからである。 るからである。 3 ●私たちをかって長 たちをかって長い間 10 年以上にわたってサポ にわたってサポー サポートしてくれていた信 してくれていた信仰の成熟した ご夫婦がこう 夫婦がこう言 がこう言った。「 った。「私 。「私たちが、 たちが、この人 この人、この働 この働きは、 きは、神の前に尊い働きだと信 きだと信じ、 祈ってサポ ってサポー サポートを始めるやいなや、 るやいなや、しばしば、 しばしば、いやなこと、 いやなこと、つらいこと、 つらいこと、色々な生活 の困難が 困難が私たちに始 たちに始まる。 まる。そのときしばしば感 そのときしばしば感じることは、『 じることは、『アー 、『アー、 アー、これはサ これはサタンだ な』と。サタンは、 タンは、私たちがその人 たちがその人を、その働 その働きを支 きを支えたら、 えたら、神様の 神様の御業が進むこと を知っているから、 っているから、何とか邪 とか邪魔をしようとしているのであることが良 をしようとしているのであることが良く分かる」 かる」と。 (3)だから (3)だから、 だから、私たちに試練 たちに試練や 試練や誘惑が 誘惑が来たら、 たら、むしろ、 しろ、「私は、悪魔に 悪魔に狙われるほど、 われるほど、神の国の 重要人物 要人物になったのだ になったのだ」 のだ」と感謝し、へりくだる中 りくだる中にも、 にも、気落ちするどころか 気落ちするどころか、 ちするどころか、強くなって 立つ必要がある 必要がある。 がある。 5.ようするに、 ようするに、ここで大切 ここで大切なことは 大切なことは、 なことは、誘惑や 誘惑や試練を 試練を受けるか、 けるか、否かの事実の 事実の中にあるのではな にあるのではな く、それに打 それに打ち勝つことである。 つことである。 (1)ある (1)ある人 ある人は言う:鳥があなたの頭 があなたの頭の上を飛び交うことを拒 うことを拒むことはできなくても、 ことはできなくても、彼らが あなたの頭 あなたの頭の上に巣を作ることを防 ることを防ぐことはできる」 ことはできる」と。 (2)イ (2)イエス様は正にそれをされた。 にそれをされた。イエス様も散々誘惑された 誘惑された、 された、数多くの試練 くの試練に 試練にも遭われた。 われた。 しかし、 しかし、それら それらに打ち勝たれた。 たれた。即ち、罪は犯されなかった。 なかった。ヘブル4 ブル4:15「 15「・・・・」 ・・・・」 ●では、 では、どのように打 どのように打ち勝たれたのか? たれたのか? ●それは、 それは、一言で 一言で言うなら、「 うなら、「聖 、「聖(み)ことば」「 ことば」「聖書 」「聖書の 聖書の言葉」 言葉」によってである によってである。 である。 ●エペソ エペソ人への手紙の 手紙の中でパウロは、 ロは、私たちに毎 たちに毎日の生活の中、人生の 人生の中で戦いを挑 いを挑ん でくる悪魔 でくる悪魔の 悪魔の攻撃に 攻撃に対抗するため するための神様の 神様の霊的な武具について語 について語っている( っている(6:11)。 11)。 ●その中 その中で、彼は、「聖書 、「聖書の 聖書の言葉」 言葉」について、「 について、「御霊 、「御霊の 御霊の剣」であると呼 であると呼んでいる。 んでいる。「御霊の 御霊の与 える剣 える剣である、 である、神のことばを受 のことばを受け取りなさい」 りなさい」と(6:17)。 ●聖書は 聖書は私たちが、 たちが、聖書の 聖書の言葉をもって 言葉をもって悪魔 をもって悪魔の 悪魔の誘惑、 誘惑、また試練 また試練と 試練と戦うことを求 うことを求めている。 ている。 Ⅱ.それでは、イエス様は、どのようにして聖書の言葉をもって悪魔の誘惑・試練に打ち勝ったのか? A. イエス様は、明らかに、聖書の言葉を暗誦しておられた。 1.それは、 それは、言うまでもなく うまでもなく、イエス様が聖書を 聖書を何度も何度も読んだことを意味 んだことを意味していた 意味していた。 していた。 2.この当時 この当時、 当時、聖書を 聖書を読むということは並 ということは並大抵のことではなかった。 のことではなかった。 (1)言 (1)言うまでもなく、 うまでもなく、i-Pad も i-Pod や i-Phone も無かったし かったし、モバイル式 モバイル式バイブルもな かった。 かった。 (2)それ (2)それ以 それ以前の問題として、 として、そもそも「 そもそも「個人」が聖書を 聖書を持っているということ自 っているということ自体が考えられ なかった時 なかった時代である。 である。 (3)当時 (3)当時、 当時、聖書があるところ 聖書があるところと があるところと言えば、 えば、それは、 それは、当時各 当時各地域にあった、 にあった、今の私たちの教会 たちの教会に 教会に も相当するシナゴグ するシナゴグ、 ナゴグ、会堂と呼ばれる集会 ばれる集会所 集会所であった。 であった。 (4)イエス様は、忠実なユダヤ人 なユダヤ人として毎 として毎週そこまで行 そこまで行って聖書 って聖書の 聖書の御ことばを学 ことばを学んでいた。 んでいた。 (5) (5)当時の 当時の人々は、そこで習 そこで習ったことば、 ったことば、読んだことばを必 んだことばを必死になって暗誦 になって暗誦したのである 暗誦したのである。 したのである。 (6)即ち、彼らは、 らは、何度も何度も同じことばを繰 じことばを繰り返し心で、口で唱えて覚 えて覚えたのである えたのである。 のである。 3.聖書の 聖書の言葉を 言葉を、悪魔の 悪魔の誘惑と 誘惑と試練に 試練に打ち勝つため つために神さまがくださった武器 さまがくださった武器として 武器として用 として用いるよ うになるため うになるためには、 には、それを読 それを読み、よく味 よく味わうだけではない、 わうだけではない、それを暗誦 それを暗誦し 暗誦しなければ、 なければ、いざ というときに剣 というときに剣として実 として実際の戦いに使 いに使えない。 えない。戦いのときに、 いのときに、いくら立 いくら立派な剣であっても、 であっても、 もし家 もし家にそれをお にそれをおいてきてしまったなら何 いてきてしまったなら何の役にも立たないのと同 たないのと同じである。 じである。 4.詩篇の 詩篇の作者は言う。「あなたに 。「あなたに罪 あなたに罪を犯さないため さないため、私は、あなたのことばを心 あなたのことばを心にたくわえま した」 した」(詩篇 119 119:11)。 11)。「我が神、私はみこころを行 はみこころを行なうことを喜 なうことを喜びとします。 びとします。あなたの教 あなたの教 えは私 えは私の心のうちにあります」 のうちにあります」(詩篇 40: 40:8)。 5.先週初めて来られたまどかさん られたまどかさんは まどかさんは、かつて Hi BA に行ってお っておられた由 られた由。日本の 日本の高校生伝道 の団体である。 である。昨年召天されたエ れたエリヤ先 リヤ先生(ハンナさんの弟 さんの弟)は、そこでデ そこでディレクターをして レクターをして おられた。 られた。私もそんなに忠 もそんなに忠実なメンバーではなかったが高 なメンバーではなかったが高校生時代 生時代に参加していた 参加していた。 していた。そこ では聖書 では聖書の 聖書の言葉を 言葉を覚えることを奨励 えることを奨励していた 奨励していた。 していた。ナビゲーターという伝道団 ーターという伝道団体 伝道団体もそうである。 もそうである。 4 6.古臭い 古臭い方法と思われるかもしれない。 われるかもしれない。しかし、 しかし、聖書の 聖書の言葉を 言葉を覚えていなければ、 えていなければ、実際にそれ を悪魔との 悪魔との戦 との戦いで使 いで使うことはほとんど不 うことはほとんど不可能である 可能である。 である。 7.安利淑( 安利淑(あん・いすく) あん・いすく)という女性 という女性がいた 女性がいた。 がいた。第二次 第二次大戦中、韓国( 韓国(当時朝鮮 当時朝鮮) 朝鮮)で、キリスト リスト教信 仰のゆえに日本 えに日本政府 日本政府に 政府に捕まえられ、 まえられ、死刑を 死刑を宣告されるのであるが、 されるのであるが、投獄されたら 投獄されたら、 されたら、聖書も 聖書も 取り上げられることを予想 られることを予想し 予想していた彼 ていた彼女は、その前 その前に聖書を 聖書を必死になって暗 になって暗記した。そし て、実際、彼女は、獄中で、辛いとき、 いとき、苦しいとき、 しいとき、悲しいとき、 いとき、事ある毎 ある毎に、聖書の 聖書の言 葉を思い出して、 して、それを心 それを心で唱え、自らを励 らを励まし、 まし、また他 また他の囚人に伝道し 伝道し、助けた。 けた。 8.イエス様も、ここで聖書 ここで聖書のことばを 聖書のことばを暗 のことばを暗記していたからこそ、 していたからこそ、悪魔に 悪魔に向ってそれを武器 ってそれを武器として 武器として 使うことができたのである。 うことができたのである。 B. 更に、イエス様の勝利の秘訣は、聖書のことばを信仰をもって「そのまま」使ったことである。 1.言い換えるなら、 えるなら、「神の言葉」 言葉」を説明も 説明も、解釈もなく、 なく、そのまま、 そのまま、裸のままで、 のままで、悪魔に 悪魔にぶつけ たのである。 たのである。 2.ある人 ある人は、悪魔の 悪魔の誘惑や 誘惑や試練と 試練と戦うとき、 うとき、神の言葉そのものでなく 言葉そのものでなく、 そのものでなく、その神 その神の言葉の 言葉の説明や 説明や 解説で 解説で悪魔と 悪魔と戦おうとする。 とする。 3.しかし、 しかし、説明では 説明では悪魔 では悪魔は 悪魔は動かない。 かない。その位 その位のことは悪魔 のことは悪魔は 悪魔はすでに知 すでに知っている。 っている。 4.御ことばの説明 ことばの説明を 説明を聞いて、 いて、私たちが頭 たちが頭で納得しても、 しても、それ位 それ位では試練 では試練に 試練に勝つことはできない。 つことはできない。 5.み言葉の 言葉の説明やそれに 説明やそれに伴 やそれに伴う私たちの納 たちの納得は、一時的に 一時的に、理性的 理性的に、感情的 感情的に私たちに力 たちに力をも たらすように見 たらすように見えても、 えても、それでは悪魔 それでは悪魔に 悪魔に、試練に 試練に勝つことはできない。 つことはできない。 6.それらに勝利 それらに勝利する 勝利する最 する最終的力 終的力と権威は、聖書の 聖書の言葉そのものの 言葉そのものの中 そのものの中にしかない。 にしかない。 7.「何がどうのこうの がどうのこうの」 のこうの」という理屈 という理屈や 理屈や、人間の説明や 説明や納得でなは でなはく、「神はこう言 こう言われる」 われる」と言う とき、 とき、悪魔はたじろ 悪魔はたじろぎ はたじろぎ、試練に 試練に打ち勝ち、乗り越える力 える力が湧いてくるのである。 いてくるのである。 8.それは丁 それは丁度、喩えていうなら、 えていうなら、水戸黄門が 水戸黄門が、悪人たちを前 たちを前にして戦 にして戦うとき、 うとき、何の説明も 説明も、理 屈もなく、 もなく、ただ、 ただ、将軍家 将軍家の権威の象徴である 象徴である「 である「葵の御紋」を見せて、 せて、「これが見 これが見えないの えないのか」 と言うとき、 とき、悪人たちが たちがひれ伏 ひれ伏すのと似 のと似ている。 ている。 9.神の言葉の 言葉の意味や 意味や説明に 説明に力と権威があるのではない、 があるのではない、或は、それに納 それに納得したときに私 したときに私たちに 力が与えられるのでもない。 えられるのでもない。力と権威はどこまでも、 はどこまでも、聖書の 聖書の言葉そのものの 言葉そのものの中 そのものの中にあるので ある。 ある。私たちは、 たちは、それをそのまま、 それをそのまま、これが神 これが神のみ言葉 のみ言葉であるという 言葉であるという信 であるという信仰をもって、 をもって、悪魔に 悪魔に ぶつけるとき、 つけるとき、悪魔は 悪魔は敗北するのである 敗北するのである。 するのである。 10.ビリー・ ビリー・グラハムという伝道 という伝道者 伝道者ほど、 ほど、かつて用 かつて用いられた伝道 いられた伝道者 伝道者はいなかったであろう。 はいなかったであろう。 (1)しかし (1)しかし、 しかし、それは彼 それは彼に霊的に一つの転 つの転機があったからである。 があったからである。 (2)その (2)その転 その転機とは、 とは、聖書の 聖書の言葉の 言葉の権威に自分の 自分の伝道の 伝道の力のすべてをかけることであった のすべてをかけることであった。 った。 (3)元 (3)元々彼は有能かつ雄弁 かつ雄弁な 雄弁な伝道者 伝道者であった。 であった。しかし、 しかし、ご聖霊は、彼に語られた。 られた。彼が聖書 の言葉を 言葉を取りつぐ りつぐときに、 ときに、自分が 自分が説教者としてもっている 教者としてもっている御 としてもっている御ことばを説明 ことばを説明・ 説明・開陳する 開陳する能 する能 力に頼っている限 っている限り、その結果 その結果は 結果は、決して永 して永続するものにはならない。 するものにはならない。彼に必要なこと 必要なこと は、御言葉の 言葉の説明にではなく 説明にではなく、 にではなく、御言葉そのものが 言葉そのものが持 そのものが持つ権威にかけることだと。 にかけることだと。 (4)それからの それからの彼 からの彼のメッセージは、 のメッセージは、変わった。 わった。物足りないと感 りないと感じるくらいに単 じるくらいに単純になった。 になった。 そして、 そして、彼はひたすら、 はひたすら、”Bible Says” 、「聖書 、「聖書は 聖書は言う」と神の言葉をそのまま 言葉をそのまま伝 をそのまま伝えるよ うになったと うになったと言われている。 われている。 (5)それはさながら (5)それはさながら旧約 それはさながら旧約時 旧約時代に預言者たちが 言者たちが「 たちが「主は言われる」 われる」と聖言を 聖言を伝えたようにで えたようにであった。 あった。 11. 11.このことは言 このことは言い換えるなら、 えるなら、聖書の 聖書の言葉の 言葉の権威と力に対する私 する私たちの「 たちの「信仰」である。 である。 (1)ビリー・ (1)ビリー・グ ビリー・グラハムにしてもそうであるが、 にしてもそうであるが、イエス様は、ここで聖書 ここで聖書の 聖書の言葉の 言葉の権威と力を 信じていたのである。 じていたのである。 (2)信 (2)信じていなければ、 じていなければ、御ことばを、 ことばを、そのまま裸 そのまま裸で悪魔に 悪魔に突きつけることはしなかったであ ろう。 ろう。 結 論 ●締めくくりたい。 くくりたい。私たちの生 たちの生活は、人生は 人生は、毎日霊的な戦いである。 いである。ペテロは言 テロは言う。悪魔はえさをも 悪魔はえさをも とめて経巡るライオンのように私 イオンのように私たちを狙 たちを狙っていると。 っていると。 5 ●その戦 その戦いに勝 いに勝つため つためには、 には、武器が 武器が必要である 必要である。 である。聖書は 聖書は、聖書のことばを 聖書のことばを「 のことばを「御霊の 御霊の剣」と言う。 ●ですから、 ですから、もし私 もし私たちが御 たちが御言葉を 言葉を心に蓄えずに一日 えずに一日の 一日の戦いの場所 いの場所、 場所、すなわち、 すなわち、職場に、学校に、家庭 に、コミュニティーに出 ーに出かけていくことは かけていくことは、 ことは、まるで武器 まるで武器を 武器を持たずに丸腰 たずに丸腰で 丸腰で戦いに行 いに行くのと同 くのと同じである。 じである。 ●私たちに今 たちに今、悪魔からの 悪魔からの誘惑 からの誘惑と 誘惑と試練に 試練に打ち勝つ人生のた 人生のため のために必要なこと 必要なこと、 なこと、教会が 教会が、悪魔と 悪魔と戦いつつ、 いつつ、 教会として 教会として成長 として成長するた 成長するため するために必要なこと 必要なこと、 なこと、それは、 それは、第一に聖書に 聖書に Devote 献身することである。 することである。 ●そのため そのために必要なことは 必要なことは、 なことは、聖書を 聖書を読むことから始 ことから始まり、 まり、聖書を 聖書を味わい、 わい、覚える( える(暗誦する 暗誦する) する)ことであり、 ことであり、 それを、 それを、毎日の悪魔との 悪魔との戦 との戦い、試練の 試練の中で、そのまま、 そのまま、説明なしに 説明なしに「 なしに「信仰「をもって使 をもって使うことである。 うことである。 6
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