産業翻訳の愉しみ

言
葉
産業翻訳の愉しみ
翻訳といっても対象分野はさま
ざまですが、コンピューターを対
象 に し た 産 業 翻 訳 に は、 デ ジ タ
ル的なシロモノをアナログ的なシ
ロモノで包み込もうという、きわ
めて野心的な世界があります。そ
の世界の奥深さと、その奥深さに
日々打ちのめされる翻訳者の悪あ
がきと愉しみを、ちょっと覗いて
みませんか?
コンピューターの世界はデジタ
ルです。そもそも英語のデジタル
(digital)の語源は「指」であり、
ちょうど一つ一つのものを指で数
えるように、すべてを個々の点と
してとらえていきます。一方、翻
訳の世界はアナログです。すべて
を個々の点としてとらえるような
(たとえば、英語と日本語の単語
レベルに1対1の対応関係を設定
し、個々の単語を機械的に置き換
えていくような)翻訳は、翻訳と
して成り立ちません。英語のアナ
ログ(analogue)が比例を意味す
るギリシャ語に由来していること
からも明らかなとおり、翻訳では
文章を全体として(一連の流れと
して)とらえ、それを全体として
(一連の流れとして)移し替えて
いくことを目指します。
このようにデジタルとアナログ
の調和を目指そうという世界に困
難が伴わないはずがありません。
その難しさをもう少し現実的に考
えてみると、たとえば元々技術者
だった人が翻訳の世界に足を踏み
入れた場合は、日本語の表現力、
文章力が課題になることが少なく
ありません。一方、文章力はあっ
ても技術者としての経験のない人
高尾 道靖
が産業翻訳を志す場合は、技術的
な内容を理解できないまま翻訳し
てしまう、というレベルをなかな
か脱することができない、という
困った状況が生じがちです。
デジタルの精密なメカニズムがア
ナログの姿かたちで包み込まれて
いるように見えてきました。そこ
にあるのは、むき出しの技術では
なく、きわめて美しく芸術的です
らある自然の世界です。
こうした課題は、何も産業翻訳
の世界に限ったことではありませ
ん。たとえば、年功序列の賃金体
系を維持してきた企業が成果主義
に基づく賃金体系を導入しようと
する場合も、これと似たような産
みの苦しみを味わうことが多いの
ではないでしょうか。
デジタルをアナログで包み込
む。これがいわゆる「自然の摂理」
から導き出せる理想なのではない
でしょうか。といっても、事はそ
れほど簡単ではありません。現実
に、そんなに美しい翻訳など、筆
者はいまだかつて成し得たためし
がありません。一連の工程という
流れの中の一つの歯車として、納
期に間に合うように作業をこなし
ていく、というのが、ほとんどの
そこで問題になるのは、デジタ
ル的なシロモノとアナログ的なシ
ロモノをどう調和させるか、とい
うことです。1) デジタルとアナロ
グを単に並列させるのか、2) デジ
タルの中にアナログを押し込むの
か、3) デジタルをアナログで包み
込むのか。これは、きわめて根本
的な問いかけです。
場合の現実です。もっとも、技術
関連の「書籍」の翻訳に携わると
きは、より「手作り」感のある、
ぬくもりのある仕事ができます。
少々作業負荷が大きくても、筆者
などはその種の仕事に嬉々として
取り組み、時には鬼のごとくに根
を詰めて働きます。「デジタルを
アナログで包み込む」という野心
そんなことを筆者がもやもや考
えていたときに、ふと目にしたの
が、我が家のかわいいペット(イ
ンコ)です(ちなみに名前は「ペー
子」といいます)。実は、普段か
ら思っていたことですが、このイ
ンコのような機能を備えたロボッ
トをこのインコのように「かわい
く」作るなんて、たぶん100年
たっても200年たっても(もし
かしたら永久に!)不可能なので
はないでしょうか。「そうだ! 考
えようによっては、DNA のデジタ
ル情報が、小鳥のインコというア
ナログの形に変換されている、と
は言えないだろうか!」というわ
けです。そう思えると、我が家の
裏山の林も空に浮かぶ雲も、要は
的な試みに、途方もないやりがい
を感じるからなのでしょう。
しかも、産業翻訳の世界では在
宅という作業形態が一般的です。
電話とインターネットがつながれ
ばどこに住んでもかまわない、と
いうのは大きな利点です。筆者自
身は、首都東京からはるか離れた
田舎に住み、自然の豊かさに包ま
れながら、この仕事を続けていま
す。頭が熱くなりすぎたら、ちょっ
と山道を散歩するもよし、ぶらっ
と近くの温泉に行くもよし。デジ
タルの思考に行き詰ったらすぐに
アナログの自然で心を癒す。これ
も筆者にとっては、産業翻訳のひ
そかな愉しみです。
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2008/03/13
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