2012 年 10 月 07 日 聖書: 聖書:ルカによる福音書 ルカによる福音書15 福音書15章 15章1-4節 タイトル: タイトル:一人一人を 一人一人を愛される神 される神―失われた羊 われた羊の譬 序 論 ●一組の 一組の夫婦が 夫婦が、ある孤児院 ある孤児院に 孤児院に行った。 った。子供のいない 子供のいない夫婦 のいない夫婦で 夫婦で、男の子を養子にしたかったからである 養子にしたかったからである。 にしたかったからである。 一人の 一人の紹介された 紹介された男 された男の子とのインタビューが始 とのインタビューが始まった。 った。その子 その子に、自分たちが 自分たちが親 たちが親としてできることを あれこれと語 あれこれと語った。「 った。「もし 。「もし、 もし、家(うち) うち)に来てくれるなら、 てくれるなら、あれを買 あれを買ってあげられる、 ってあげられる、これをしてあげら れる、 れる、あそこに、 あそこに、ここに連 ここに連れて行 れて行ってあげられる・・・」 ってあげられる・・・」と、その子 その子にとって、 にとって、その家 その家の養子になっ 養子になっ たらどんなに素晴 たらどんなに素晴し 素晴しいことが待 いことが待っているかと思 っているかと思われるあらゆることを並 われるあらゆることを並べ立てたという。 てたという。それを黙 それを黙っ てジーッと聞 てジーッと聞いていたその子 いていたその子が、やがて口 やがて口を開いて、 いて、一言ポツンと 一言ポツンと言 ポツンと言ったことは、「 ったことは、「そんなことより 、「そんなことより、 そんなことより、 僕は、僕を愛してくれる人 してくれる人が欲しいんだ」 しいんだ」と。 ●小さい子供 さい子供であったが 子供であったが、 であったが、不幸なところを 不幸なところを通 なところを通って来 って来た子供だからこそ 子供だからこそ、 だからこそ、愛の大切さ 大切さ、お金で買える愛 える愛と そうでない愛 そうでない愛があることを知 があることを知っていたのである。 っていたのである。 ●人は皆、愛を必要としている 必要としている。 としている。しかし、 しかし、同時に 同時に、愛に失望している 失望している人 している人がどのくらいいるであろうか! がどのくらいいるであろうか! その意味 その意味で 意味で、今、人が、特に必要としているのは 必要としているのは「 としているのは「神の愛」である。 である。 ●私たちは たちは、先週まで 先週まで、 まで、ヨナ書 ヨナ書を通して、 して、一つの国 つの国、一つの国民 つの国民、 国民、一つの種族 つの種族だけでなく 種族だけでなく、 だけでなく、世界を 世界を、世 界全体、 界全体、世界中のすべての 世界中のすべての人 のすべての人々を愛される神様 される神様を 神様を見てきた。 てきた。 ●この世界 この世界には 世界には、 には、現在65 現在65億 65億を越える人 える人々が住んでいる。 んでいる。しかし、 しかし、神様は 神様は、決して、 して、その世界 その世界を 世界を十羽一 絡(から) から)げに愛 げに愛しておられるのではない。 しておられるのではない。 ●65億 65億という全体 という全体から 全体から見 から見たら、「 たら、「私 、「私」という一人 という一人は 一人は、「豆粒 、「豆粒」 豆粒」にさえならないほどに小 にさえならないほどに小さい存在 さい存在である 存在である。 である。 1.例えば、 えば、300人 300人で撮った集合写真 った集合写真を 集合写真を想像してみて 想像してみて頂 してみて頂きたい。 きたい。自分の 自分の存在を 存在を確かめようとしても、 かめようとしても、 かろうじて認識 かろうじて認識できる 認識できる程度 できる程度である 程度である。 である。もし1000 もし1000人 1000人の集合写真だったらどうであろう 集合写真だったらどうであろう。 だったらどうであろう。それが、 それが、 世界の 世界の人口は 人口は、今だけでも65 だけでも65億人 65億人以上 億人以上である 以上である。 である。私たちは、 たちは、65億分 65億分の 億分の1である。 である。 2.しかし、 しかし、そんな小 そんな小さな存在 さな存在に 存在に過ぎない私 ぎない私たちを、 たちを、神様は 神様は、一人一人、 一人一人、まるで一人 まるで一人が 一人が世界全体であ 世界全体であ るかのように愛 るかのように愛しておられるのである。 しておられるのである。 ●そのことを、 そのことを、私たちは、 たちは、今日から 今日から3 から3回にわたってルカによる福音書 にわたってルカによる福音書15 福音書15章 15章から学 から学びたい。 びたい。 ●そこには、 そこには、イエス様 イエス様が語られた「 られた「三つの有名 つの有名な 有名な譬え話し」が記されている。 されている。 1.それは、 それは、三つの「 つの「失われたもの」 われたもの」に関する譬 する譬え話しである。 しである。 2.すなわち、 すなわち、(1)失われた羊 われた羊、(2)失われた銀貨 われた銀貨、 銀貨、(3)失われた息子 われた息子である 息子である。 である。 3.「失われた羊 われた羊の譬え」とは、 とは、100匹 100匹の羊を持っていた羊飼 っていた羊飼いがいたが 羊飼いがいたが、 いがいたが、その一匹 その一匹がいなくなって 一匹がいなくなって しまった。 しまった。群れから、 れから、羊飼いのもとから 羊飼いのもとから迷 いのもとから迷い出てしまった。 てしまった。失われたのである。 われたのである。その羊飼 その羊飼いが 羊飼いが命 いが命 がけでその羊 がけでその羊を探しに行 しに行った話 った話しである。 しである。 4.「失 .「失われた銀貨 われた銀貨の 銀貨の譬え」とは、 とは、10枚 10枚の銀貨をもっていた 銀貨をもっていた婦人 をもっていた婦人が 婦人が、その一枚 その一枚を 一枚を失ったが、 ったが、夢中で 夢中で家 中を探したという話 したという話しである。 しである。 5.最後の 最後の「失われた息子 われた息子の 息子の譬え」とは、 とは、ある大 ある大きな農場 きな農場の 農場の持ち主に二人の 二人の息子があったが 息子があったが、 があったが、その弟息 その弟息 子が親から財産 から財産の 財産の半分を 半分を奪い取るようにして家 るようにして家を出て行ったものの ったものの、 ものの、そこで落 そこで落ちぶれて果 ちぶれて果てた。 てた。 その息子 その息子の 息子の帰りを待 りを待ち続け、受け入れた父親 れた父親の 父親の愛の物語である 物語である。 である。 6.これら3 これら3つの「 つの「失われたもの」 われたもの」は、みな「 みな「失われた人間 われた人間」、 人間」、即 」、即ち、「神様の 神様の下から迷 から迷い出た人間」 人間」の姿 を表しており、 しており、その中 その中に、それらを夢中 それらを夢中で 夢中で追い求め、探し、また忍耐深く待ち、赦し受け入れる 神の愛が描かれている。 かれている。 ●今日は 今日は、その第一回目として、「 として、「失 、「失われた羊 われた羊」の譬えから特 えから特にメッセージを頂 ージを頂く。 本 論 Ⅰ.これらの譬え話の背景 A. 今日、第一話の譬えに入る前に、これら3つの譬え話に共通の「背景」について学びたい(背景の重要性)。 1.少なくとも聖書 なくとも聖書におけるイエス 聖書におけるイエス様 におけるイエス様の譬え話には、 には、いつも、 いつも、その譬 その譬え話が語られた「 られた「背景」とい うものがあった。 うものがあった。 1 2.言い換えるなら、「 えるなら、「な 、「なぜ」イエス様 イエス様がその話 がその話をされたかである。 をされたかである。即ち、イエス様 イエス様はある事情が あって、 あって、ある目的をもって、 をもって、その譬 その譬え話をされたのである。 をされたのである。 3.このことを中 このことを中心(基軸)にして、 にして、譬え話全体を 話全体を解釈しなければならない。 しなければならない。 4.そうでないと、 そうでないと、私たちは、 たちは、その物語 その物語を 物語を、自分勝手に解釈してしまう可能性と危険がある。 がある。 B. それでは、この3つの譬え話の共通の背景は何であったか? 1.それが記 それが記されているのが、 されているのが、ルカ15 ルカ15章 15章1-2節である。「 である。「・・・・ 。「・・・・」。 ・・・・」。 2.そこに そこには: (1)ま (1)まず、イエス様 イエス様を慕い、その話 その話を聞こうと集 こうと集まって来 まって来た「取税人」、「罪人」と呼ばれてい る人々をイエス様 をイエス様が歓迎し、その交わりを楽しみながら、 しみながら、話しをされている姿 しをされている姿があった。 があった。 ●この人 この人々は、時には「 には「遊女」(娼婦)たちを含んだ、 んだ、当時の社会の悪の根源であり、 であり、恥であ り、人々から後 から後ろ指を指される人 される人々であり、 であり、社会の中の落ちこぼれ組みであった。 であった。 ●社会の普通の人々なら、 なら、誰もが避けて、 けて、近づかないようにする種 かないようにする種類の人々であった。 であった。 ●しかし、 しかし、イエス様 イエス様は、いつも、 いつも、そのような人 そのような人々に近づくことを望 くことを望まれ、 まれ、選ばれた。 ばれた。 ●何故ならイエス ならイエス様 イエス様は、罪人を愛しておられたからである。 しておられたからである。人は愛するものに近づき、 そのために、 そのために、喜んで時間 んで時間を 時間を割くものである。 ものである。 (2)しかし (2)しかし、 しかし、その同 その同じ場所に、それとは正反対の姿があった。 があった。それは、 それは、パリサイ人と律法学 者と呼ばれる人 ばれる人々の姿であった。 であった。 ●彼らは宗教家であった。 であった。当時のユダヤ人の社会は、宗教が中心であった。 であった。そのような 社会にあって、 にあって、彼らは、 らは、先に述べた社会の落ちこぼれたちとは正反対に、その社会の 中心的な人々であり、 であり、リーダーであり、 ーであり、社会で最も尊敬されるべき人 されるべき人々であった。 であった。 ●彼らは、 らは、神様は 神様は、罪人、取税人、遊女と呼ばれるような人 ばれるような人々を嫌っておられ、 っておられ、それゆ え、自分たち 自分たち宗教家は勿論のこと、 のこと、すべての人 すべての人々は、自らの清さを保つためにも、 つためにも、彼 らに近づかず、避けて生きるべきであると信じ、そのように主 そのように主張していた。 していた。 ●それゆえ、 それゆえ、彼らは、 らは、イエス様 イエス様が、罪人、取税人、遊女と呼ばれる人 ばれる人々の友となって親 となって親 しく彼らに近づき、話しをされることを強く批判し、イエス様 イエス様の宗教家としての権威 を認めなかった。 めなかった。 (3)今日から 今日から学 から学ぶイエス様 ぶイエス様の3つの譬 つの譬え話はこのような背景を持っていたのである。 っていたのである。即ち、 ルカ 15 章 3 節は、「そこでイエスは、 そこでイエスは、彼らにこのような譬 らにこのような譬えを話 えを話された」 された」と言う。 C.このような背景の下、イエス様は、宗教家たちの誤った考えと態度、即ち、神は失われた者、神から迷い出 た者、神様から離れた罪人を嫌うのでも、避けるのでもなく、むしろ、愛し、追いかけ、探し、また深い忍耐 をもって待ち、赦し受け入れてくださるというメッセージを3つの譬え話をもって伝えようとされたのである。 さて、このことを念頭において、第一の譬え話である「失われた羊」の譬えを学びたい。 Ⅱ.ここで言うまでもなく、「羊は私たち人間」を表し、「羊飼いは神様」を表している。イエス様は、これらから、私 たち人間が何者であり、また、神様というお方がどんなお方であるかについて語っておられるのである。 A. 第一に、私たち人間は、羊と同様に、「群れをなして生きる」ことを必要としている。 1.羊は、群れをなして生きる動物である。 である。 2.人間も 人間も同様である 同様である。 である。人は孤独で生きるように造られていない。 られていない。 (1)井伏鱒二の小説「山椒魚」の中で、「寒いほどに孤 いほどに孤独だ」と思わず呟いた。 いた。孤独とは寒い経 験なのである。 なのである。人間にとって 人間にとって心温まる、 まる、期待し、求めるような心理状況ではない。 ではない。 (2)な (2)なぜなら、 なら、人間は 人間は孤独で生きるように造られていないからである。 られていないからである。 (3)大昔の日本人が、私たち「 たち「人間」 人間」を表すための「 すための「漢字」を考えたとき、「 えたとき、「人 、「人の間」と言う概念 を思いついた。 いついた。「人の間」それは、 それは、人と人とのコミュニケーションであり、 ンであり、コミュニティ ーがそこに想 ーがそこに想定されている言 されている言葉・概念である。 である。 (4)即ち、人、人間とは 人間とは、 とは、人の間、即ち、コミュニティー、群れの中 れの中で生きるものという概 念である。 である。 (5)聖書は 聖書はこのことについて明確に語る。「人 。「人が一人で 一人で生きるのは良くない」 くない」(創世記 2 章)と。 2 (6)人間の 人間の真の幸せは、この「 この「群れ」の中に発見され、 され、経験される。 される。愛し合う夫婦、 夫婦、愛し合う 兄弟、愛し合う家族、 家族、愛し合う友人の間、また愛 また愛し合うコミュニティーの中 ーの中にである。 にである。 3.この群 この群れの中 れの中にある愛 にある愛の交わりを破壊したのが罪である。 である。 (1)丁度、幸せそうに群 そうに群れをなして草を食んで生きている羊 きている羊たちの中 たちの中に、オオカミが襲い掛 かり、 かり、群れをズタズタ、バラバラににしてしまうように、 ににしてしまうように、 (2)罪と悪魔が、私たち人間 たち人間のもっていた 人間のもっていた幸 のもっていた幸せな「群れ」としての交わり、 わり、夫婦の 夫婦の交わり、 わり、親 子の交わり、 わり、兄弟の交わり、 わり、家族の 家族の交わり、 わり、友人の交わり、 わり、コミュニティーの交わりを 破壊してしまったのである。 してしまったのである。 4.キリストの福音 ストの福音は 福音は、そのようにバラバラに破壊された群 された群れを、 れを、一つの愛 つの愛し合う群れに回 れに回復す るものである。 るものである。 5.その群 その群れの中 れの中心は、教会という神 という神の家族という 家族という群 という群れであり、 れであり、その群 その群れに復帰するように、 するように、神 様は、私たちを招いておられるのである。 いておられるのである。 B.第二に、私たち人間は、羊と同様に、牧者、羊飼いを必要としている。 1.羊は「群れをなして生きる」 きる」動物であるだけでなく、 であるだけでなく、「羊飼いを 羊飼いを必要 いを必要とする 必要とする」 とする」動物である。 である。 2.なぜ、羊には「 には「羊飼い 羊飼い」が必要か 必要か? (1)羊 (1)羊は迷い易い動物だからである。 だからである。 ●羊は、毎日一年 365 日通る 日通る道であっても、 であっても、羊飼いから 羊飼いから目を離すと、 すと、どの道を行くべき か分からなくなって、 からなくなって、簡単に迷ってしまうそうである ってしまうそうである。 そうである。 ●羊は、また、 また、しばしば羊飼 しばしば羊飼いから 羊飼いから目を離し、前にいる羊 にいる羊のお尻を見てついていこうと するという。 するという。それで、 それで、前の羊が迷うと後 うと後の羊も一緒に迷うことになる。 うことになる。 ●即ち、羊は羊飼いなくして 羊飼いなくして、 いなくして、自分が 自分が歩むべき道、行くべき道をハッキリと知ることが できないのである。 できないのである。 ●そのために、 そのために、群れから迷 れから迷い出てどこかに行 てどこかに行ってしまい、 ってしまい、谷間に落ち込んで死んでしま うものたち決 うものたち決して少なくなかったという。 なくなかったという。 ●だから、 だから、彼らは道を示す羊飼い 羊飼い、彼らを導く牧者を必要としたのである 必要としたのである。 としたのである。 (2)羊 (2)羊は弱い動物だからである。 だからである。 ●羊は、敵に襲われたときに、「 われたときに、「牙」のような、 のような、特別に相手を攻撃するような武器となる ものを体 ものを体にもっていない。 にもっていない。 ●かと言 かと言って、 って、羊は、逃げるために特 げるために特別に速い足を持っているわけでもない。 っているわけでもない。 ●それゆえ、 それゆえ、羊は、いわゆる「 いわゆる「羊泥棒」と呼ばれる盗賊たちに襲われたとき、 われたとき、オオカミや ハイエナのような野獣に襲われたときも、 われたときも、ほとんど無防備である。 である。 ●ほとんどの場合 ほとんどの場合ムザムザと餌食になるしかないのである。 になるしかないのである。 ●だから、 だから、彼らを守る羊飼い 羊飼い、時には、 には、自分の 自分の命を捨ててでも羊 ててでも羊を守ろうとする羊飼 ろうとする羊飼い 羊飼い が必要だったのである 必要だったのである。 だったのである。 3.このような羊 このような羊の状態と同様に 同様に、私たち人間 たち人間は 人間は、私たちの人 たちの人生の牧者、羊飼いを必要 いを必要としてい 必要としてい るのである。 るのである。 (1)な (1)なぜなら、 なら、私たちは、 たちは、人生の行くべき道を知らないからである: らないからである:多くの人 くの人は何のために 生きるかについて知 きるかについて知らない。 らない。この点で多くの人 くの人々が迷っている。 っている。 ●藤村操:優秀な一高(今の東大教養学部)の学生、夏目漱石の門下生、親族としても 親族としても世 としても世に、 学者の一族として 一族として知 として知られていた。 られていた。華厳の滝に次のような辞世の句を残して投身自殺。 その遺言の内容は、次のようであった。 のようであった。この膨大な宇宙万有、古今に続く稜々たる歴 史の中にあって、 にあって、わずか 5 尺ほどの身の丈の存在に 存在に過ぎない小 ぎない小さな私 さな私に一体何が分か るというのか、 るというのか、有名な 有名な哲学者の言葉にさえ一体 にさえ一体どれだけの 一体どれだけの権威があるというのか。 があるというのか。結 局のところ、 のところ、「万有の真相は一言にしてつく 一言にしてつく、 にしてつく、いわく不 いわく不可解」。優秀な学生、優秀な学 者に囲まれながら、 まれながら、誰も彼にこれが道であると言 であると言うことはできなかった。 うことはできなかった。 ●仏教に造詣の深い小説家、評論家として知 として知られる五木寛之は、その著書の中で、人生 の目標と人生の目的を分けて、 けて、多くの人 くの人がこの二 この二つを混同していることを指摘してい 3 る。「何をしたい」、「 をしたい」、「何になりたい」 になりたい」等は人生の目標である。 である。それは事情や状況によっ て変わるであろう。 わるであろう。しかし、 しかし、もっと大切 もっと大切なことは 大切なことは、 なことは、それらを何のためにするかという 更に深いところにある人 いところにある人生の目的である。 である。それは状況や事情の変化によって変わらな いものである。 いものである。しかし、 しかし、五木氏 五木氏は、冒頭でそのことの大切 でそのことの大切さを 大切さを認 さを認めつつも、 めつつも、最後に 最後に、 それが私 それが私たち人間 たち人間には 人間には一体 には一体何であるか分 であるか分からない、 からない、それゆえにそんなものが存在 それゆえにそんなものが存在する 存在する のかも分 のかも分からないと言 からないと言い始める。 める。彼もまた迷 もまた迷っていると言 っていると言えないか? ●人間は 人間は、このように何のために生きるのか迷 きるのか迷っている。 っている。それゆえ、 それゆえ、私たち人間 たち人間には 人間には、 には、 人生の道を示してくれる羊飼 してくれる羊飼いである 羊飼いである神様 いである神様、 神様、イエス様 イエス様が必要なのである 必要なのである。 なのである。 ●神であるイエス様 であるイエス様がなぜ私たちに私 たちに私たちが何のために、 のために、どこに向かって生きていくべ きを示し、人生を導くことができるのか? それは、 それは、イエス様 イエス様が私たちを造ってくだ さった創造者なる神様 なる神様であるからである 神様であるからである。 であるからである。 ●造られたものが、 られたものが、造られた目的をきめるのではない。 をきめるのではない。造ったものだけが、 ったものだけが、その目的を 決めるのであり、 めるのであり、それを知 それを知っているのである。 っているのである。 (2)な (2)なぜなら、 なら、私たち人間 たち人間は 人間は、羊のように弱い存在だからである 存在だからである。 だからである。 ●ある哲学者は、この世界 この世界に 世界に最後に 最後に生き残るのは、 るのは、「ウジムシ」だと言 だと言った。 った。人間をもし 人間をもし 動物として考えるなら、 えるなら、極めてデリケートで弱い存在である 存在である。 である。寒さにも、 さにも、暑さにもそ んなに強くない。 くない。他の動物の方が遥かに自 かに自然のままでそれらに のままでそれらに適応している。 している。 ●人間には 人間には、 には、このような肉体的な弱さがある。 さがある。それらをカバーしているのは知 ーしているのは知的能力 的能力と それに基づく技術であろう。 であろう。 ●しかし、 しかし、戦争を代表として、 として、その強さとも見 さとも見える部分が、むしろ私 しろ私たち自 たち自身を苦しめ、 しめ、 滅ぼしているとも言 しているとも言える。 える。その意味 その意味で 意味で、いつの日 いつの日か、原子爆弾による世界大 による世界大戦争が起 こり、 こり、全世界が 全世界が滅亡することがあるかもしれない。 することがあるかもしれない。 ●なぜなら、 なら、人間は 人間は頭は良いかもしれないが、「 いかもしれないが、「心が弱い」からである。 からである。 正に、植木等の歌のように「 のように「わかっちゃいるけどやめられない」 いるけどやめられない」である。 である。 孔子も言った。「 った。「義を知りてこれに移ること能(あた) あた)わず、不義を知りてこれをあら たむること能(あた) あた)わず。これ我が憂いなり」 いなり」と。 パウロも言った。「 った。「私 。「私はなすべきでない悪を知っている。 っている。しかし、 しかし、それをしてしまう。 それをしてしまう。 また、 また、私はなすべき善を知っている。 っている。しかし、 しかし、それをすることができない。 それをすることができない。私はな んと言 んと言う惨めな人間 めな人間か 人間か」と。 人間が 人間が罪を犯すのは、 すのは、何が善で何が悪かを知 かを知らない「 らない「無知」からくるのではない。 からくるのではない。私 たちはみなそれを知 たちはみなそれを知っている。 っている。しかし、 しかし、それをしてしまう。 それをしてしまう。それは心が罪に、悪に、 その誘惑に勝つ力がないからである。 がないからである。 85 億を越える背任容疑で昨年逮捕された大 された大王製紙前会 王製紙前会長 前会長の井川意高(もとたか) 容疑者(47):創業家3代目の「エリート御曹司」 御曹司」として常に日の当たる道を歩み、 東大法科をストレートで出 ートで出る秀才、企業家としても手腕を発揮。しかし、 しかし、結局、彼 は罪に打ち勝てなかった弱い一人の 一人の人間であった 人間であった。 であった。 ●この弱い人間に 人間に罪にい打ち勝つ力と人生を与えることができるのは、 えることができるのは、私たちの牧者、 羊飼いであるイエス 羊飼いであるイエス様 いであるイエス様だけである。 だけである。 それを実体験したのが、 したのが、先に述べたパウロである。 である。パウロは自分の 自分の罪に悩んでいた。 んでいた。 そのことはローマ書の7章の終わりに述べられている。 べられている。しかし、 しかし、その同 その同じパウロは、 次の章、8 章 2 節でこのように このように宣言する。 する。「・・・・」。 ・・・・」。 ダビデは、神様を 神様を自らの羊飼 らの羊飼いとして 羊飼いとして生きた人物 きた人物であった 人物であった。 であった。彼はあの有名 はあの有名な 有名な詩篇2 3篇の中でこのように言 でこのように言っている。「 っている。「主 。「主は私の羊飼い 羊飼い。私は乏しいことがありませ ん。・・・たとい死の陰の谷を歩くことがあっても、 くことがあっても、わたしは災いを恐れません。 あなたが私 あなたが私と共におられるから」 におられるから」と。 ・彼がここで「 がここで「死の陰」と表現している 表現している人 している人生の経験は何? 彼の前任の王であったサ ウロに命を狙われ、 われ、国中を 国中を犬のように逃げ回った日 った日々のことだろうか? 4 ・愛する子 する子アブサ アブサロムに反逆され、 され、王位を追われ、 われ、命を狙われエルサレムを落城し た日のことであろうか のことであろうか? 「死の陰」がそれらの試練の日々を含んでいるのは明ら かである。 かである。 ・しかし、 しかし、彼にとって「 にとって「死の陰」は、同時に 同時に、彼を心の暗闇と地獄の苦しみのどん底 に突き落とす罪への誘惑をも含んでいた。 んでいた。彼は、あの恐ろしいバテシバとの姦淫 の罪、それを隠蔽するために犯した彼女の主人を 主人を謀殺する罪のことを覚えていた。 えていた。 彼の後の生涯に、王道を歩む者として、 として、幾たびも同 たびも同じような誘惑に遭遇したであ ろう。 ろう。それは、 それは、彼にとって、 にとって、霊的死と地獄の陰であった。 であった。 ・誰がそのような誘惑に打ち勝つことができるだろうか? しかし、 しかし、ダビデは言っ た。「そんな 。「そんなときも そんなときも、 ときも、私はその誘惑を恐れない。 れない。なぜなら、 なら、羊飼いである 羊飼いである神様 いである神様が 神様が共 にいてくださるからである」 にいてくださるからである」と。 同じ詩篇の 5 節のダビデの勝利の宣言と、先ほど引用したパウロのローマ書8章の 最後の 最後の部分の勝利の宣言とをもう一度 とをもう一度みたい 一度みたい。 みたい。これらはみな、 これらはみな、イエス様 イエス様を、神様を 神様を、 自らの羊飼 らの羊飼いとした 羊飼いとした人 いとした人々の証しの言 しの言葉である。 である。 C.最後に、私たちの羊飼いであるイエス様が羊である私たちを愛してくださった愛について学びたい。 1.第一に、それは、 それは、どんな犠牲を払っても っても私たちを愛 たちを愛する愛 する愛である。 である。 (1)4 節に「99 匹を野原に残して、 して、いなくなった一匹 いなくなった一匹を 一匹を見つける つけるまで」 まで」とある。 とある。 (2)ここに (2)ここに、 ここに、「どんな犠牲をも払う愛」とは、 とは、「不合理をも乗り越える愛 える愛」であることを であることを見る。 ●この世 この世は、すべてが打算だと言 だと言っても過言 っても過言ではない 過言ではない。 ではない。悲しいことに愛 しいことに愛さえが、 さえが、多くの 場合どこか 場合どこか打算である。 である。すべてが計算の上に成り立っている。 っている。合理的な愛である。 である。 ●しかし、 しかし、ここに打算のない、 のない、計算上から言 から言うなら不合 うなら不合理な羊飼い 羊飼いの愛が記されている。 されている。 即ち、それは、 それは、不合理を乗り越えた神 えた神の愛である。 である。 ●羊飼いに 羊飼いにとって いにとって一匹一匹 とって一匹一匹の 一匹一匹の羊は、純粋に経済的な意味でも 意味でも高価で大切な 大切な財産であった 財産であった。 であった。 ●彼はその高価な羊を 99 匹も危険に晒し、野に残したまま、 たまま、失われた一匹 われた一匹の 一匹の羊を追い 求めたのである。 めたのである。1 対99である。 である。常識的に言ったら全 ったら全く計算の合わない愚行である。 である。 ●常識的には、この際、その愚かな一匹 かな一匹の 一匹の羊を諦めて、 めて、99 匹の今まだ目の前にある財産 にある財産 を守るべきであった。 るべきであった。 ●しかし、 しかし、彼は自分の 自分の全財産と 全財産と言うべき 99 匹を投げ出しても、 しても、否、そんな計算さえし ないで、 ないで、ただその ただその愚かな一匹 かな一匹を 一匹を追い求めることに夢中 ることに夢中になっ 夢中になったのである になったのである。 たのである。 ●こんな不合 こんな不合理なことはない。 なことはない。計算に合わないことはない。 わないことはない。 ●しかし、 しかし、正に、これがイエス これがイエス様が、あの十 あの十字架で私たちのためにしてくださったこと たちのためにしてくださったこと の意味である 意味である。 である。 ・これほど計算に遭わない、 わない、不合理、不条理なことはない。 なことはない。 ・私たちのような罪人のために、 のために、罰せられて当然な、滅びて忘れられてもいか れられてもいか仕方な い私たちのために、 たちのために、罪のない神 のない神の御ひとり子 とり子が、神に呪われ、 われ、永遠の地獄の苦しみ を受けたのである。 けたのである。その比は、1 対99どころではない。 どころではない。1 対∞(無限)である。 である。 ・これ以上 ・これ以上、 以上、計算にあわない、 にあわない、不条理なことはない。 なことはない。 ・しかし、 ・しかし、これが十 これが十字架の意味であり 意味であり、 であり、これが神 これが神の愛である。 である。 (3)ここにもう一 ここにもう一つ、この愛 この愛は「最大限の犠牲をも払う愛」であることを見 であることを見る。最大限の犠牲 とは命 とは命である。 である。即ち、この羊飼 この羊飼いは 羊飼いは、 いは、一番大切な 大切な自らの命 らの命までかけたのである。 までかけたのである。 ●当時、羊飼いたちの 羊飼いたちの中 いたちの中には、 には、失われた羊 われた羊、迷い出た羊を探すために自 ために自らの命 らの命を失う者 たちも少なからずあったという。 あったという。 ●それゆえ、 それゆえ、イエス様 イエス様は言われた。「 われた。「良い羊飼いは 羊飼いは羊 いは羊のために命 のために命を捨てる」 てる」と。 ●そして、 そして、イエス様 イエス様は、正に文字通り、そのことをあの そのことをあの十 あの十字架の上でにされたのである。 されたのである。 ●「命あっての物種 あっての物種」 物種」という言 という言葉がある。 がある。この地上に命よりも大切 よりも大切なものはない 大切なものはない。 なものはない。それゆ え、最大の 最大の犠牲とは自分 とは自分の 自分の命を与えることである。 えることである。 ●イエス様 イエス様は、正にそれを私 にそれを私たちのためにしてくださったのである。 たちのためにしてくださったのである。 5 ●「人がその友のために命 のために命を捨てる、 てる、これより大 これより大きな愛 きな愛はない」 はない」(ヨハネ 15 章 13 節)と聖 書が言っているのは正にこのことである。 にこのことである。 2.第二に、それは「 それは「最後まで 最後まで愛 まで愛し続ける愛 ける愛」である。 である。 (1)もう (1)もう一度 もう一度 4 節を見たい:「 たい:「・・・ :「・・・見 ・・・見つけるまでは捜し歩かないであろうか」。 かないであろうか」。 (2)結婚指輪には意味 には意味がある 意味がある。 がある。その丸い形は終わることのない「 わることのない「永遠」の愛と誓いを象徴して いる。 いる。しかし、 しかし、永遠の愛を誓いながらそれを いながらそれを守り続けることができずに、数年後に 年後に離婚 する夫婦 する夫婦が 夫婦がアメリカでは半分 カでは半分近くだという。 くだという。日本でも「 でも「バツ1、バツ2」と言うことが平 気で言われ、 われ、うっかりすると男 うっかりすると男女関係の勲章のようにさえ言 のようにさえ言われる時 われる時代になりつつある。 になりつつある。 (3)しかし、 しかし、それは何よりも、 よりも、人間の 人間の愛がいかに破れやすく、 れやすく、もろいもの、 もろいもの、変わりやすいも のであるかを表 のであるかを表している。 している。私たちは簡単に GIVE-UP する。 する。諦める。 める。 (4)しかし、 しかし、神の愛は違う。決して最後 して最後まで 最後まで諦めない。 めない。最後まで 最後まで追 まで追いかける。 いかける。最後まで 最後まで、 まで、見 つけるまで つけるまで捜し続けるのである けるのである。 のである。(これについては先週 これについては先週までヨナ 先週までヨナ書 までヨナ書を通しても学 しても学んだ) んだ) (5)母親の愛のようである。 のようである。他の誰が、「いくら 、「いくら何でもあの子 でもあの子は駄目」とレッテルを貼って諦 めても、 めても、さじを投げても、 げても、母親だけは決 だけは決して諦めない。 ない。まして まして神の愛はそれ以上 はそれ以上である 以上である。 である。 (6)ヨハネ 13 章 1 節に「世にいる自分 にいる自分のものを 自分のものを愛 のものを愛されたイエスは、 されたイエスは、その愛 その愛を最後まで 最後まで( まで(別 訳)示された」、文語訳では「 では「極みまで、 みまで、極限まで愛 まで愛された」 された」とある。 とある。 (7) (7)今日私たちが 今日私たちが今 たちが今尚神の子であることができるのは、 であることができるのは、私たちが神 たちが神を離さないからではなく、 さないからではなく、 神様が 神様が私たちを諦めずに離さないからである。 さないからである。 (8)しかも、 しかも、それは「 それは「細く長く」というような、 というような、長く続いているにはいるが、 いているにはいるが、やっと、 やっと、何とか という心細い、風前の灯のような、 のような、感激も感動もないような愛 もないような愛ではない。 ではない。 (9)それは喜びに満ちた愛 ちた愛、一人で 一人で心にそっと秘めることのできない めることのできない愛 ことのできない愛、抑えきれずにみん なに知 なに知らせてパーティーを開き、みんなとその喜びを分 びを分かち合 かち合わずにおれない愛 におれない愛である。 である。 (10)それゆえ (10)それゆえ、 それゆえ、5-7 節に「喜び」という言 という言葉が三回も 三回も使われている。 われている。 (11)これが (11)これが羊飼 これが羊飼いが 羊飼いが羊 いが羊のために表 のために表した神 した神の愛である。 である。 結 論 ●イエス様 イエス様は、悲しみの涙を流しながら、 しながら、今も、失われた羊 われた羊、Lost Sheep、ご自分の 自分の元から迷 から迷い出た 羊を探して、 して、歩き続けておられる。 けておられる。 ●その涙の羊飼いであるイエス 羊飼いであるイエス様 いであるイエス様の悲しみが喜びに変わる日 わる日。それは、 それは、羊飼いが 羊飼いが失 いが失われた羊 われた羊を見つけ、 つけ、 その羊 その羊とともに群 とともに群れのところに れのところに戻ってきたときである。 ってきたときである。 ●イエス様 イエス様は言われた。「 われた。「それと 。「それと同 それと同じように、 じように、一人の 一人の罪人が悔い改めるなら、 めるなら、・・・天に喜びがあるで しょう」(7 節)と。 ●神様から 神様から離れていた罪人が、神様の御許に戻ること、それが「 それが「悔い改め」である。 である。多くの人 くの人々が「悔い 改め」と聞くと、 くと、何か「罪の告白」という暗い、消極的 消極的なイメージだけを思 ージだけを思い浮かべる。 かべる。 ●しかし、 しかし、悔い改めの中 めの中心テーマは、原語の「メタノイア」と言う言葉が示すように、 すように、「方向変換 方向変換」である である。 即ち、神様に背を向けて歩いていた人 いていた人が、方向を変えて、 えて、神様の 神様の御許へ 御許へ戻ることである。 ることである。 ●今日、 今日、この中 この中の多くの方々はすでに、 はすでに、悔い改めて、 めて、この神様 この神様のところ 神様のところへ戻られ、 られ、新しい人 しい人生の出発を された方々である。 である。その方々は、もう一度 もう一度この 一度この羊飼 この羊飼いであるイエス 羊飼いであるイエス様 いであるイエス様を通して表 して表された神様 された神様の 神様の愛を思 い、感謝を捧げ、また、 また、この羊飼 この羊飼いなる 羊飼いなる神様 いなる神様の 神様の愛を証しする新たなる決意 たなる決意をして 決意をして頂 をして頂きたい。 きたい。 ●同時に 同時に、まだ主 まだ主の御許へ 御許へ戻っておられない方は、今日こそ 今日こそ迷 こそ迷える羊 える羊として、 として、悔い改めて、 めて、即ち、方向 変換をして をして、主の御許へ 御許へ戻って頂 って頂きたい。 たい。そのときこそ天で大きな喜びの声が上がるときである。 がるときである。 6
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