日本におけるビデオアートの歴史について

日本におけるビデオアートの歴史について
Une histoire de l’art vidéo japonais
日本のビデオアートの歴史を振り返ると、そこに困難な状況が存在していることに気が付く。
その状況は、日本においてビデオアートの歴史が参照されることなく、過去のムーブメントとして切
り離されることによって引き起こされた。現在の日本では「ビデオアート」という呼び名はほとんど
使われることがなく、ビデオアートはメディアアートのなかに取り込まれてしまったと考えられてい
る。果たして、ビデオアートは消えてしまったのだろうか。
最初に、日本におけるビデオアートの時代的な背景を説明する。1951年に結成された〈実験工
房〉は、現代音楽家と美術作家によるグループであり、異なるジャンルの共同作業によってテクノロ
ジーを芸術に取り入れた、日本におけるアート・アンド・テクノロジーの先駆である。後にビデオ作
家になる山口勝弘は、このグループのメンバーであった。日本における芸術とテクノロジーの関係は、
実験工房の活動を先駆として展開する。例えば、1969年にソニービルで開催された展覧会「ELEC TROMAGICA’69」には、日本で最初のコンピュータアートのグループである〈CTG/コンピュー
ター・テクニック・グループ〉のグラフィック作品と共に、テレビモニターを使用したインスタレー
ションである山口勝弘の『イメージ・モデュレーター』(1969)などが出品されている。このような
テクノロジーを導入したインターメディアの芸術運動は、1970年に開催された「日本万国博覧会」に
集約されることで、一つの頂点に到達する。この博覧会には多くの前衛芸術家が参加して、テクノロ
ジーを導入した大規模なパヴィリオンの演出を行った。このようなテクノロジーと芸術が関係し合う
時代的な背景のなかで、日本におけるビデオアートは誕生することになる。
1:初期のビデオアート(1968∼1970年代)
1965年には、最初の一般向けビデオ機器であるビデオレコーダーCVシリーズが市販された。そ
して1967年には、肩掛け式で携帯することができる、ビデオカメラとビデオレコーダーを組み合わせ
たポーターパック(Portapak)が市販された。
1968年頃から見られるようになる最初期のビデオへの取り組みとしては、モニターに映し出さ
れたイメージを磁石で直接歪めるパフォーマンスである松本俊夫の『マグネチック・スクランブル』
(1968)や、草月アートセンターで開催されたシンポジウム「EXPOSE1968 なにかいってくれ、い
まさがす」のなかで上演された山口勝弘と東野芳明のビデオイベントが挙げられる。この翌年には、
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安藤紘平がテレビモニターにカメラを向けてフィードバックを起こすことでイメージを変化させる
『オー・マイ・マザー』(1969)を制作している。
このような散発的なものだったビデオアートの試みが、グループとしての運動に展開するのは、
カナダ人ビデオアーティストであるマイケル・ゴールドバーグの来日の後である。カナダで既にビデ
オアートの制作を行っていたゴールドバーグは、日本のビデオアートの状況をリサーチするために
1971年に来日したが、日本でのビデオアートがグループとしての運動に展開していないことを知り、
ビデオアートのための場所づくりに尽力することになる。そして、ソニーと交渉してビデオ機器を借
り受けたゴールドバーグは、様々なジャンルのアーティスト達にビデオ作品の制作を薦めることで、
日本で最初のビデオアートの展覧会を開催する。それがソニービルで開催された、「Do It Yourself
Kit」(1972)である。
この展覧会では、各国のビデオグループのビデオをモニターに映し出すコーナーが設けられ、
山口勝弘の『EAT』(1972)や、かわなかのぶひろの『プレイバック』(1972)といった作品が展示
された。『EAT』は二人の人物が向かい合ってテーブルについて、一人が食べ物を食べ、もう一人が
それをビデオで撮影するというパフォーマンスであり、この二人の役割は何度も入れ替わって、撮る
者と撮られる者の関係が曖昧化する。『プレイバック』はビデオをディレイ装置として使用すること
で、カメラに写された観客の映像を遅延させるインスタレーションであった。
この展覧会の参加者によって、1972年にビデオグループ〈ビデオひろば〉が発足する。中心的
なメンバーは、山口勝弘、中谷芙二子、かわなかのぶひろ、小林はくどうなどである。ゴールドバー
グは、アメリカやカナダで広まっていた『ゲリラ・テレヴィジョン』に代表される、ヴィデオ・コミュ
ニケーションの考え方を日本国内に導入したが、〈ビデオひろば〉はその考え方を、市民と行政・企
業との共生的なプロジェクトとして具体化させてゆく。グループのプロジェクトとしては、横浜市野
毛地区の再開発問題についてビデオを通して住民に意見表明させる『ビデオによる新・住民参加の手
法』(1973)がある。また〈ビデオひろば〉のメンバーは個人としても作品を発表している。中谷芙
二子を中心としたプロジェクトとしては、公害を引き起こした企業(チッソ)の本社前で行われた被
害者らの抗議活動にビデオとモニターを持ち込んで、その場で撮影と上映を行った『水俣病を告発す
る会』(1970)や、ビデオによる老人へのインタビューを蓄積して、データバンク化することを構想
した『文化のDNA 老人の知恵』(1973)などがある。また、山口は『大井町附近』(1977)など
の作品で鏡とモニターを組み合わせたインスタレーションを制作している。小林も、映像によって身
振りを伝言ゲームのように伝達させて、その変容のプロセスをユーモラスに見せる『ラプス・コミュ
ニケーション』(1972∼)などを制作している。
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〈ビデオひろば〉と同時期に活動したビデオグループとしては手塚一郎による〈ビデオ・インフォ
メーション・センター〉や、ケーブルTVでの放映を行っていた中島興による〈ビデオアース東京〉が
存在する。中島は個人としても家族を撮り続ける『マイ・ライフ』(1976∼)などの作品を制作して
いる。
次に上記以外のアーティストの活動についても説明を加えておきたい。松本は実験映画や商業
映画を幅広く手がける一方で、ビデオ・エフェクトを使用した作品制作をその後も継続してゆき、医
学・工学用の電子的測定装置を使用した『メタスタシス』(1971)や、ビデオ合成機器である「ス
キャニメイト(Scanimate)」を使用した『モナ・リザ』(1973)などを制作した。また、当時アメ
リカに滞在していた飯村隆彦は、実験映画と並行するかたちで1970年からビデオアートの制作を開始
していたが、やがて見る者と見られる者の関係を構造化した『Observer/Observed』(1975)などのコ
ンセプチュアルな作品を発表するようになる。飯村はこれらの作品によって、ビデオのメディア構造
を、記号論の問題を含みながら考察している。また、出光真子はフェミニズムの問題をテーマとして
『おんなのさくひん』(1973)や、『主婦の一日』(1977)といった作品を制作している。
その一方で、1970年代の日本の現代美術の領域では、実践として作品制作の意味を問い直すこ
とが主要なテーマとなっていた。そのなかでフィルムやビデオといった映像メディアを、身体的なパ
フォーマンスと組み合わせて使用するアーティストが多数現れるようになる。彼らは、本来は造形を
専門とするアーティストであるため、多くの場合、フィルムやビデオを使用して制作を行っていたの
は1970年代の数年間に限られるが、その作品は「見ること」の意味や過程を考える上で興味深いもの
だった。1970年代に京都で定期的に開催されていた展覧会「現代の造形〈映像表現〉」では、このよ
うな作品が多く展示されていた。この展覧会に参加していたアーティストの作品のなかでも、広域テ
レビ放送の枠内で放送された、村岡三郎、河口龍夫、植松奎二の三人による『映像の映像—見るこ
と』(1973)は、見るということの制度性をマスメディアにおいて問いかけた作品として重要であ
る。この時期以降も継続的にビデオ作品を制作した造形を出自とするアーティストとしては、
『Video Game』シリーズ(1973∼)などの視点のズレや関係性の変化を浮かび上がらせる作品を制作
していた山本圭吾や、〈ビデオひろば〉のメンバーであった和田守弘、〈具体美術協会〉のメンバー
であった今井祝雄などがいる。
1978年にはナム・ジュン・パイクやレベッカ・ホルン、ビル・ヴィオラなどの海外作家も参加
した国際展「X International Open Encounter on Video Tokyo '78」が東京で開催され、日本国内におい
てビデオアートは広く認知されるようになる。1979年にはビクターの主催によって「東京ビデオフェ
スティバル」が開始される。このフェスティバルの特徴は、アートとしてのビデオ作品だけにとどま
らず、市民やアマチュアが自己の生活を題材として制作したホームビデオ的な作品も含め、幅広いタ
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イプの作品を募集することにあった。このフェスティバルには〈ビデオひろば〉のメンバーが関係し
ており、〈ビデオひろば〉が目指した、ビデオによる社会的コミュニケーションの理念が、その背景
にある。
このような初期のアーティストと1980年代以降のアーティストが異なる点としては、初期にビ
デオを手にしたアーティストは「ビデオアーティスト」であるよりも以前に、実験映画作家や現代美
術家として活動していたことが指摘できる。それに対して80年代以降のアーティストは、多くが初め
から「ビデオアーティスト」として活動を開始している。そのために、初期のビデオアートが持って
いたジャンルの越境的性質は弱まり、ビデオアートの表現は様式化してゆく。そのようにして日本の
ビデオアートは次の時代に移る。
2:ビデオアートからメディアアートへ(1980年代以降)
80年代のビデオアートにおいて中心的な役割を果たし、多くの若手ビデオアーティストを多数
輩出したのが、1981年に中谷によって開設された〈ビデオギャラリーSCAN〉である。〈ビデオギャラ
リーSCAN〉周辺のアーティストとしては黒塚直子、黒川芳信、島野孝義、斉藤信、寺井弘典、櫻井宏
哉らがいる。また、〈ビデオギャラリーSCAN〉は公募展や上映個展を定期的に開催したり、1987年か
ら始まるビデオアートの国際展「JAPAN ビデオ・テレビ・フェスティバル」を企画するなどして海
外との交流を推進し、1980年代を通して日本のビデオアートを支えてゆく。この時期に活動を始めた
他のビデオアーティストとしては、伊奈新祐、相内啓司などもいる。また、1984年の「ナム・ジュ
ン・パイク展 」(東京都美術館)や、1985年から始まる「第1回ふくい国際ビデオ’85 フェスティバ
ル」など、ビデオアートに関わる展覧会やフェスティバルも多数開催された。
その一方で、ビデオアートを発展させた新しい動きといえる、テクノロジーアートやメディア
アートやコンピュータグラフィックスが、1980年代後半から台頭しはじめる。「つくば科学万博」に
おけるRADICAL TV(原田大三郎、庄野晴彦)と坂本龍一による映像と音楽のコラボレーション作
品『TV WAR』(1985)の上演や、藤幡正樹、岩井俊雄、古橋悌二/ダムタイプ(古橋をメンバーと
する、音楽・演劇・建築・ビデオ・インスタレーションを横断する活動を行ったグループ)といった
新しいアーティストの活動のなかで、最新の動向であるメディアアートは幅広い関心を集めてゆく。
やがて、このようなメディアアートの大きな盛り上がりは、メディアアートを専門とする美術
館である、Inter Communication Center (ICC) の開館に結びつくことになる。ICCは通信事業者である
NTTによる文化事業であり、1990年から準備が進められて1997年に開館した。その後のICCの活動が
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日本におけるメディアアートの発達に果たした役割は極めて大きい。そして、このメディアアートの
大きな盛り上がりのなかで、ビデオアートとメディアアートの境界は見えにくくなり、ビデオアート
はメディアアートの一部として取り込まれてしまうようになる。1990年代前半の〈ビデオギャラリー
SCAN〉の活動停止は、その象徴といえるものであった。
また、1995年頃からコンピュータの普及とデジタルビデオカメラ・ビデオ編集アプリケーショ
ンの低価格化によって、専門的な知識や高価な機材がなくてもビデオによる映像制作が簡単に行える
ようになる。そのために、現代美術の領域において、インスタレーションやパフォーマンスの延長線
上で、シングルチャンネルのビデオ作品や、ビデオインスタレーションを制作するケースが増加する
(例えば田中功起、束芋など)。しかし多くの場合、ビデオアートの歴史的な文脈は参照されないた
め、そこで「ビデオアート」という呼び名が使われることは殆どなく、初期のビデオアートが持って
いたメディアに対する批評性は存在していない、あるいは主題化されていないといえる。
簡単にまとめると、ビデオアートがメディアアートへ取り込まれたことと、現代美術の領域に
おいて過去のビデオアートの歴史が参照されなくなったことが、現在の日本のビデオアートをめぐる
空白的な状況の原因になっている。そんな状況のなかで、2001年に河合政之と瀧健太郎を中心として
設立されたビデオグループ〈ビデオアートセンター東京〉は、日本国内では参照されなくなったビデ
オアートの歴史的な文脈を、敢えて現代のメディア状況のなかで捉え直そうとしている。
近年ではフィルムによる作品制作が難しくなったために、実験映画作家がデジタルビデオを併
用して実験的な作品を制作するケースが、年々増加している。また、サブカルチャーの領域、特に
ミュージックビデオや、クラブのVJカルチャーのなかにも、ビデオアートの影響を見出すことが出来
る。我々は、日本においてビデオアートの歴史が参照されなくなったことを嘆くのではなく、さまざ
まな芸術・文化のなかからビデオアートの文脈の欠片や影響を発見して、広い意味でビデオアートを
捉え直す時期にあるのかもしれない。
阪本裕文(さかもと ひろふみ)
(LIGEIA N°133-136, LIGEIA, 2014 , pp 210-215, Translator: Samson Sylvain)
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