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哲学翻訳の脱聖化 - 南山宗教文化研究所

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哲学翻訳の
脱聖化
w
J ・ ・ハイジック﹄曲目巾回当FZ
哲学文献が現代日本においてあまり広く読まれていない主
な理由は、おそらくそれが広く読まれるように書かれていな
いためでしょう。それらの大部分は、アカデミックな哲学あ
るいは哲学史への貢献と見なされることを目指して書かれて
います。そのような貢献についての判断を下すのは一般の読
者ではなく、前世代の専門家の承認をもらった現代の専門家
です。哲学雑誌はこの狭さを反映し、専門分野の孤立をます
ます深めています。簡単にいえば、哲学は故意に閉じた制度
となり、その閉鎖性と排他性によって命を守るのです。まる
で自らの尾をのみこむウロボロスのごとく、できるだけ小さ
くなって、いつかは消えてしまおうとするかのように見えま
す
。
実際、圏内の大学で哲学科が縮小されたり、他の学科に吸
収されたりしています。一般教育の最近のカリキュラム改善
にもかかわらず、大学の教室で取り上げられる哲学が激減し
て、場合によっては哲学の古典を読む機会が皆無にひとしく
なってしまいました。しかも、たとえ哲学を専攻することが
できても、哲学的古典の伝統の富に十分にさらされる前に、
4ラ
特定の思想家に関心を集中させることを強いるような圧力が
感じられます。
要するに、現代日本においては哲学が一種の悪分布のため、
エリートの営みになっているのです。そこにはちょうど、貧
独創的思想家を十分に酒養してこなかったとみとめるなら、
その理由は主として哲学という営みそのものに対する哲学者
自らのイメージの中に探さなければならないと私は思うので
ん。むしろこの状況を生み出した支配的な﹁神話﹂と制度を
しては、単に個々の哲学者の過失を魯めるわけにはいきませ
況は明らかに哲学本来の精神に反しています。このことに関
の国民にとっては賛沢になってしまいました。こういった状
のと同じような事情があります。共有であるべき遺産が一般
のものを豊富に持つひとびとをエリート主義者に変えていく
言語が問題として取り上げられることは非常に多いといえる
露されますが、とりわけ、一般の人々に通じがたい哲学者の
意味だとか、政治的に素朴だとかいった他の批判と一緒に吐
ることがあります。こういった不評はたいてい、社会的に無
づかいのために、エリート主義や知ったかぶりだと責められ
現代まで、主流の哲学のほとんどは、その難解で独特な言葉
史についてもけっして珍しくはありません。ソクラテスから
いうまでもなく、こういった日本の哲学状況は西洋の哲学
抜本的に改善する必要があります。おそらく哲学をある程度
でしょ、っ。
立ち戻る方法はありません。哲学的営みが単なるル lティー
支配的神話と積極的に取り組むことを措いて、本来の精神に
でに越え、哲学伝統の普及を現に妨げているとすれば、その
向が見られます。もし日本における哲学界がその臨界点をす
すればするほど、本来の目的と相反する方向に進んでゆく傾
翻訳という営みそのものの意義が十分に問題とされていな
への注目を喚起します。実際、哲学の衰運の相当な部分は、
回る日本の場合、こういった問いはただちに哲学文献の翻訳
あります。輸入された哲学が国産の哲学を量的にはるかに上
判に対する予防接種となるのかという問題と、裏表の関係に
そして難解な言葉づかいがどの程度、哲学へと向けられる批
この間題は、下手な書き方がどのように思考を損なうのか、
ンと化し、現代の-般的な思想の形態に影響を及ぽすような
はないでしょう。どんな制度にも、ある闘を踏み越えて成長
まで脱制度化しないかぎり、哲学の衰運を食い止める見込み
しいひとびとのなかに衣食住が行き渡らないことが、それら
す
46
くないし、そのことは訳者が原文とよく取り組んだことの証
ゃある用語の系譜などについて註釈に現れるコメントは少な
る傾向があるように思われます。確かに、原文のニュアンス
容的﹂ではなくただ単に﹁技術的﹂な問題として片付けられ
もありません。しかし、日本の哲学界においては翻訳が﹁内
の翻訳を哲学的問題として認める哲学百科事典は、どの国に
覚されていないことに起因しています。もっとも、哲学文献
ぃ、あるいは少なくとも現代の翻訳者にその問題が十分に自
しょ、つ。
さという、いわば﹁神聖な牛﹂について考察することにしま
と私は確信しています。そこでこれから、原文どおりの忠実
ることに役立つと同時に、哲学の読者を増やすことにもなる
とでキャリアを開始する若い世代の哲学者をもっと自由にす
足を踏み出してみれば、多くの場合、哲学文献を翻訳するこ
があまりにもなじみのないことだからです。しかしひとたび
うな一歩を踏み出すのが大胆に過ぎると思われるのは、それ
明として評価できます。しかしながら、ある特定の訳語の妥
当性を論じることを越えて、真正面から翻訳の意義が問題と
されることは滅多にありません。事細かな注釈の背後に、ど
解に必要なのかと問うならば、おそらく最も目につく理由は、
哲学文献の原文は訳文より美しく、あるいは少なくともいっ
以上の事柄を背景にして私がここで論じたいのは、現代日
必要な文献の和訳がまだ出ていないということではないでしょ
れほど本格的な翻訳理論があるのかも、読者の白からはほと
本においては哲学翻訳の約束事を徹底的に自由化しなければ
うか。海外の学者との意見交換にせよ、外国の学術雑誌への
そう意義に富むということについて、日本語の訳者はまず公
ならないということです。そろそろ、大望ある数多くの哲学
論文提出にせよ、ある程度は語学力がないといけないという
んど判断できません。私からみれば、それは哲学翻訳という
者を今までの規範から解き放ち、哲学翻訳についての強力な
のは当然です。しかし、ひとりで哲学思想と取り組むことは、
には反論しないでしょう。しかしなぜ西洋の言語が哲学の理
暗黙の前提によって長いあいだ犠牲にされてきた創造性や文
別のことです。たとえ欧文の読解力がかなり達者であっても、
ジャンル全体に共通する現状です。
体の優雅さを回復してもいい頃ではないでしょうか。このよ
4
7一一一哲学翻訳の脱聖化
ことばの連想、発想の自由、感想の示唆などにとっては、和
らい明白な事実を述べたいと思います。すなわち、この問題
ら切断されたりすることによって、和訳がいくら不自然とな
味がなくなったり、用語が他の学問分野や文学との繋がりか
ます。日常的な言葉づかいが硬い用語になったり、文語体の
単語や比喰の歴史的ひびきを見落としている例も多く見られ
ては理解できないくだけた文法や成句の意味だけではなく、
さに由来する誤解が珍しくありません。文学に通じていなく
らしでも、西洋の哲学文献の和訳には、言語的理解の不十分
実は翻訳の規範の自由化を云々する以前に、現行の規範か
足を西洋に残しながら他方の足で日本の土を踏んでいる者と
です。私は悔い改めを要求する適任者ではありませんが、片
いという点で、西洋におけるよりもいっそう大きな問題なの
それがすっかり規範化してしまっていて改善の見込みが少な
くきといった悩みや、本流の思想からの隔離または疎外は、
つまり日本において習慣となった哲学翻訳の異質さや読みに
かわらず、日本と西洋の事情には大きな相違点があります。
は、もっと厳しい批判が当たるにちがいありません。にもか
した)。しかも、西洋の学者による東洋哲学の調訳について
は日本の哲学に限りません。西洋の哲学は数世紀にわたって
ろうとも原文に忠実なものにするという目的は違せられてい
して、こういった状況が問題にされぬまま続いていることの
訳で読む方がはるかに刺激的です。問題は、どうして翻訳の
ません。ジェ lムズやペルグソンの優雅な文章とアドルノや
哲学的理由を指摘せずにはいられません。というのも、大部
下手な文書、下手な翻訳を生産してきた、という批判がしば
ハイデツガlのかたい文章との区別はあたかも哲学の内容と
分の責めをただ単に現代日本の言語文化に染み渡る心理的、
評価にあたってこの事実をもっと重視しないかということで
関係がないかのように消滅させられています。良い文章より
社会的、教育的欠乏に負わせるという誘惑を、私は避けたい
しば聞こえてきます (
R
g巴邑S という単語もラテン語の誤訳で
もむしろ良い調訳を心がけよ、という規範は実際には成り立
のです。もちろん、学者のキャリアを現に制限している因襲
す
。
たないということを、われわれはまず認めざるをえないと思
の網もまた、こういった文化の一部にほかなりませんから、
西洋哲学の文献の和訳を評価する際に、学者を取り巻く諸々
います。
出過ぎた発言をとがめられる前に、もうひとつの、同じく
48
学的問題として、翻訳という作業を取りあげてみたいと思い
学翻訳の実践の背景にある神話的側面はさておき、一種の哲
単には受け入れられないだろうと思います。したがって、哲
れませんが、その具体的手段についての私の意見は、そう筒
に、専門家の承認規準がゆるめられなければならないかもし
の本流において、西洋と類比しうる本格的な役割をはたす前
いとみなされるのは当たり前でしよう。哲学が日本の精神史
の)であるかぎり、その批判は自民 nFB(
もとなし)に過ぎな
しているからです。この神話がひとつの曲民恵(もととなるも
話は翻訳という営みの基にある、その営みの社会関係を統治
転覆することを期待するのは無理でしょう。なぜならその神
訳された哲学の内容がいかなるものであれ、この﹁神話﹂を
の文化的要求を無視していいはずはありません。しかし、翻
の共感に頼って、私自身の経験を振り返りつつ、西洋の哲学
すから私は、むしろ同じような経験をもつであろうみなさん
や私個人の失敗が大きな恥のもとになる恐れもあります。で
に対する私の深い尊敬を伝えそこなう危険があるし、いわん
批判したい文書の欠点を指摘するだけでは、その訳者の仕事
推論できるかどうかについては疑いを抱いています。厳しく
や逸話がいくつかあっても、そこから一般的原理を帰納的に
かについて説明することができます。しかし、具体的な実例
ーーから出発して、同様に哲学の翻訳が原文をいかに裏切る
いでしょう。そしてその資料lll他 人 の も の と 自 分 の も の
違い等の尾大な実例を集めるのに、おそらく数分もかからな
やファイルから気のぬけた文書、単純な誤訳、文脈の読み間
もいくつかの本を訳してみたことがあります。ですから本棚
言語への翻訳に協力し、あるいは監修したほか、個人として
文献の和訳にはたらいている暗黙の前提のいくつかをさぐっ
ます。
ところで私にとっていっそうむずかしいのは、実例や逸話
一行一行学生とともに
学の著作、聖書外典、ヘルメス文書、ならびに﹃ファウスト﹄
たり、大学院のゼミや社会人との読書会で多くの哲学や心理
には道に迷わせやすい目的だろうからです。しかし、二 O世
せん。というのは、調訳論は哲学の和訳の自由化を弁明する
ここでの狙いはけっして、﹁翻訳論﹂への貢献ではありま
てみたいと思います。
や﹃神曲﹄のような典型的な文学を、
紀の翻訳論の原則を一点のみ言及しておきます。それはひと
を利用せずに論じようとすることです。私は二 O年以上にわ
読んで解釈した経験があります。二O世紀日本哲学の西欧の
4
9一一一哲学翻訳の脱霊化
いても、私が翻訳して読むのです。過去は実際には外国であ
たような不均衡を感じます。たとえ文書が自国語で書かれて
めに、﹁内訳﹂という言語の内部的翻訳・解釈の現象を背景
り、多くの場合、現代からの距離は西洋の言語と日本語との
つの言語からほかの言語へ訳すという外的営みを理解するた
にしなければならないということです。他人の言うことを理
距離より遠いともいえるでしょう。
言語から言語への翻訳よりも手前にある翻訳の局面を看過
解し、自ら考えたことを他人に伝えるという本来の調訳のプ
ロセスに対する自覚が少なければ少ないほど、言語から言語
いためには必須のものです。意識にとってこういった﹁内語﹂
を受け止めながら世界を否定すると同時に、意識が爆発しな
ります。意識の中の考えや感じを語ろうとすることは、世界
直しゃ希望をつねに挫折させる結果、内的圧力が次第に高ま
見直さざるをえないからです。一方、現実の世界が意識の見
るのではなく、そうなりうるものゃなってほしいものとして
を生じますが、それはただ単に世界をあるがままに受け止め
一般的にいえば、人間の意識は現実の世界との聞に不均衡
訳努力が、日本独自の哲学に大きな影響を与えるだろうと期
いものだとすれば、ずっと広い範囲でなされてきた日本の調
ラン、ゲルマン系の言語からの翻訳の努力なしに考えられな
もしゲ1 テのような個人の思想が彼のロマンス、スラプ、イ
ばするほど、翻訳と哲学とのきずなは弱まっていくでしょう。
想と表現の関係に立ち止まって、翻訳の技術の面に集中すれ
意識を強く持つべきであることは言うまでもありません。思
ります。翻訳に大いに依存する日本哲学界がこういった問題
﹁他性﹂に投影され、その言語の神聖さを強化することにな
するなら、こういった内的圧力が知らず知らずに外国語の
の必要性は普遍的ではありますが、自分自身に語っているこ
待することは、(決して)無理な話ではないと思います。
への翻訳を技術的な問題に媛小化する傾向がでてきます。
とをどの程度まで他人に伝えるかという﹁内訳﹂の制限││
内容にせよ、量にせよーーはあくまでも文化的、時間的なも
のです。東洋文化の中で生まれ育ち、西洋に住んでいる人々
にとっては(逆もまた同じですがてこれはよくわかります。
しかし、私は私が生まれる前に書かれたものを読むとき、似
一つの言語から他の言語への翻訳がそもそも不可能だとい
2
ラ0
翻訳者にとっては、ためになる教訓も多いでしょうが、その
の翻訳者、とりわけ機械的な翻訳方法に中毒をおこしている
くとも今から五世紀前からあり、それらの議論には哲学文書
をえません。言語聞の翻訳の不可能性を主張する議論は少な
われわれは日々そのプロセスに一応成功していると認めざる
とと黙されたこととの連動によってのみ実現されるにせよ、
は、思想からことばへの転移と同じく、たとえ伝えられたこ
想﹂にすぎません。しかし、言語から言語への翻訳そのもの
なじく、文書のすべてを翻訳することは﹁ユートピア的な空
テガ・イ・ガセットが指摘するように、解釈なしの翻訳とお
う論理について、ここで時間をかけることはしません。オル
も持ち込まれることになりました。
たわけですが、この不自然性は、翻訳者を通して他の言語に
人に対して新しい、不自然なことばづかいへの適応を要求し
調 28uggEH在 る こ と ) に 変 形 し て 、 同 国 人 で あ る ド イ ツ
在り方﹂という哲学的な意味を加えました。そしてそれを名
ばをとって、その日常的意味である﹁に在る﹂に、﹁人間の
実 例 を 挙 げ て み ま し ょ う 。 ハ イ デ ツ ガl が 岳 窪 田 と い う こ と
どにしっかりと結びつけることは可能です。極端で、有名な
用したりしないで、外国語訳することをほぼ不可能にするほ
ないほどにし、または訳語を不自然にねじまげたり造語を利
する言語との関係を、原文の用語をそのまま利用せざるを得
とはいうものの、特定の哲学者が自分の思想とそれを表現
最初の英語訳はドイツ語のロ白85を利用しました。
結論が当然すぎるという意味においては、結局、哲学にはあ
まり役だちません。
イ
のみを考えて、﹁現存在﹂という用語を新たに造ったのです。
この言葉を掲載している一般の日本語の辞典はドイツ語の
ラ1一一一一哲学翻訳の脱聖化
ノ
、
デッガl自 身 は こ の 新 造 語 を そ の ま ま 流 用 す る よ り も 、 そ れ
調
自己批判は哲学の根源です。ホワイトヘッドが好んで学生
訳
者
は
を簡単な英語のことばに翻訳する方がいいと繰り返し主張し
える
に指摘したように、﹁書いてのち一世紀ごとに反論されてこ
5三
ましたが、最終的にはやはり、読者になじみのないドイツ語
殺を
す超
そ勝利の頂点なのであります﹂。これに私は、こう付け加え
内ゃ
が標準の訳に導入されたのです。日本語の調訳者は、おそら
容時
を間
ましょう。多数の言語で反論されることは、その勝利感をさ
よの
く こ の 示 唆 を 知 ら ず に 、 ハ イ デ ツ ガl の 哲 学 を 読 む 人 の こ と
く生
そき
のる
意文
味化
らに高めるのです。哲学文献をその誕生の場に記って、それ
けに
つ訳
き語
z
f
長
警
で玄
ーのことばを語棄の意味に還元してその生きたコンテキスト
フランス哲学者へのとんでもない侮辱ですが、ハイデッガ
おまけに、哲学者は本来の意味を知っていても、その用語を
を無視し、自国語をねじ曲げてまで原文に沿おうとすること
。静岡町宮の訳語、哲学の専門用語としてこの言葉を定義します。
仲間という語が持つ日常性のニュ
使う文章には本来その U20
か。原文を神聖な文献として取り扱うことは、母語のセンス
は、ある程度これに同意することになるのではないでしょう
この用語の伝え誤りの原因は、部分的には、ハイデツガI
を圧殺することにほかなりません。ハイデツガ l自身がこう
アンスが伝わっていません。
の思想が彼独自のことば遣いと強く結びついていることにあ
私はここでハイデツガI の和訳を焦点におくつもりではな
いった扱いを好んだらしいのですが、それを彼の哲学的弱点
す。説明しましょう。ハイデツガ lは英語が読めないという
いし、彼の哲学と言語との結び付け方が唯一の方法であると
りますが、それだけではありません。日常的なことばから造
自分の言語的限界に開き直って、哲学にふさわしい言語はギ
主張するつもりもありません。むしろその背後にある問題の
だったということを認めずに、むしろ哲学的特長と見なす
リシア語とドイツ語しかないと主張しています。東洋に対し
ほうが、もっと重要だと思っています。すなわち、翻訳者が
られた用語をむりやり専門用語として外国語に訳すことは、
ての関心はありましたが、日本語訳の読者からは彼の思想に
原文における表現と思想との関係をつねに念頭におきながら
人々も少なくないのです。
対する積極的な反論や発展をけっして期待していませんでし
も、あくまでも自分の解釈が入り込むという危険を防ぐため、
ハイデツガ lの創意を拒んで彼の弱点を継承することなので
た。生前は出版しないという条件つきの会見で、彼は次のよ
文書を麻揮させて﹁仮死状態﹂に引き下げておきながら、自
分は原文と同じコンテキストにおいて書いていると主張する
うに述べています。
ドイツ語はギリシア人の言語やその思考と特殊な縁があ
ことの自己欺臨です。
まさにこの訳文の仮死状態こそ、私がここで問題にした文
ります。フランス人はこれをくりかえして証明していま
す。彼らは考えようとするときには、ドイツ語をしゃべ
書の﹁聖化﹂にほかなりません。こういった訳者の態度は根
ラZ
再生していると思い込むようになります。
訳にたいしては、文体への要求が弱くなり、原文を﹁忠実に﹂
消すかのように実行されています。こうしてできあがった翻
山かも原文を読むときのいきいきとした特徴を取り
。原文の﹁他一性﹂を守るために、
文献をはじめ、その後の翻訳の質はよくなっていただろうと
カウフマン教授について学んだことがあったら、日本の哲学
先生の勧めでした。そうなったことは後悔していませんが、
希望しましたが、ケンブリッジで勉強するようにというのが
した。その後の文通で、先生のもとで哲学博士を取りたいと
たどたどしくて晦渋な文体を美徳であるかのように評価す
今日まで思っています。
れてきましたが、翻訳の文体が自己批判の問題として取り上
る哲学者はありますが、文体を問題にしようとしてきた大思
先ほど言いましたように、哲学の悪い文体は昔から批判さ
げられることはほとんどありません。私は若い大学院生とし
私は暖味で、支離滅裂な、神託のような文体は大嫌いで、
想家の大部分は明瞭であることを讃え、難解であることを嫌
に出合いました。﹁原文よりわかりやすい﹂と主張するカウ
このように表現する作家にはとても我慢し切れなくなる
てヘ lゲル哲学の授業に参加していたころ、ちょうど当時発
フマンは、ヘ lゲルの延々と続く難解な文章を流暢に訳しな
のです。ともかく言えることは、どの文明の言語でも、
います。 C ・D-ブロードの主張は代表的です。
がら、反対側のペ lジに何がどうしてこうなるかを詳しく説
また適当なシンボル体系でも簡単に明白に言うことはで
行されていた W ・カウフマン英訳の﹃精神現象学﹄﹁序文﹂
明しました。氏のようにドイツ語をほぼ母語として扱うよう
哲学文献の原文にはしばしばこのような批判が加えられま
きるし、しかも言語が不明瞭なのは必ずといっていいほ
した。以前に読んだ文書では頭に浮かばなかっ
すが、哲学界においてできの悪い翻訳の文体に対しては、文
な勘が備わっていない私にとっては、教室で使用されたその
、その訳のおかげであふれできました。私に
学の世界では考えられないほど大幅な寛容がみられます。意
ど知的混乱の証明だ、と私は信じています。
翻訳とは何であるべきかという理念を永
味不明の翻訳はそもそも原文の不分明を反映するものと考え
働略的英語やフランス語の訳とずいぶんと相違があったことに
ったし、ご本人あての手紙でそう伝えま
2jiii131;L
%一一一哲学翻訳の脱聖化
哲学文献の訳者に期待するのは無理というものです。しかし、
おそらく、たぐい稀な才能を必要とするでしょうし、それを
な印象を残し、同じように内容を伝える文体で書くためには
い文書とを問わず、それぞれの言語の読者にとって同じよう
ように大きな違いがある場合は、格調高い文書とそうではな
目をつぶらなければ成り立ちません。日本語と西欧の言語の
他の言語へ思想を伝えるにあたって解釈という巨大な役割に
保つ﹁不干渉・不介入﹂という翻訳理念は、一つの言語から
たりするのが同じ個所であることはまれです。﹁客観性﹂を
に、原文の読者と翻訳の読者がつまずいたり、逆進させられ
むしろ不敬だと思います。しかし今なぜその不敬がゆるされ
し、表現の明瞭さへの要求を抑えるという敬意の表し方は、
こべに考えることにならないでしょうか。読者の母語を軽視
く輝かせるかのようにはたらくのです。これでは物事をあべ
いえば、翻訳の欠点は原文の価値を高め、遠い星をより明る
れの場合にも原文の神聖さは問題にされません。どちらかと
おこすとき、それはただ翻訳の不手際だと思われます。いず
ます。そして訳の文体が読者をいらいらさせ、不快感を引き
が難解であるとき、それは原文が難解であるからだと思われ
とっては魅力の欠加の源泉になってしまうのです。訳の文章
ろ常識のようです。そうなると原文の魅力は、訳本の読者に
を徹底的に編集し、書き直すことは倣慢だというのが、むし
だからといって、哲学文献の難解な翻訳は原文の質があまり
るかというと、それは調訳の仕事が客観的、不干渉、不介入
られ、それで問題を終わりにする傾向があります。だが実際
に高い、ないしはあまりに低いために止むを得ないことなの
といった理念に従うべきだという前提を、訳者と読者がとも
り、翻訳の文書が母語の文体に影響を与える可能性││たと
だという考え方を、文句なしに受け止めるべきだとも思えま
翻訳者が原文を聖なるものとして取り扱うのは著者への尊
えば、シェークスピアの翻訳がドイツ語に二度と消えない印
に疑わずにいるからです。しかも、この理念に服従するかぎ
敬に基づく態度だという主張は、たちどころに逆効果になり
象を与え、ドイツ文学の古典に入ったようにーーはほとんど
せん。
ます。翻訳を行うために要求される努力が大きければ大きい
ないでしょう。
哲学文献の翻訳を聖なる文書と見なすのは、カテゴリー
ほど、その尊敬が高まるということは驚くには及びません。
訳者が著者と足並みをそろえて、あえて原文を改善し、それ
ラ4
エラーです。ホメロスの叙事詩やコ l ランのような文学は、
ここで問題にしたい哲学者が普通の哲学文献に抱くような尊
うとする現代日本における哲学の食欲を刺撤しているという
学文献の読者の輸を広げないばかりか、自分の尾を飲み込も
す。文書の﹁忠実な﹂翻訳についての揺るぎない考え方は哲
献を聖なるものとみなすのは常識だという印象が強いようで
歩もうとする日本の若い学者の多くにとっては、翻訳する文
すのは、素朴な解釈学的誤謬にほかなりません。哲学の道を
なく、現代の哲学文献をそうした古典文学と同じようにみな
てはまる文書はないと考えて間違いありません。 いうまでも
リシア人からはじまった哲学の伝統には、この聖なる型に当
訳は、より字句どおりでなければならないのです。しかしギ
文学とは桁違いのものです。このような文学にふさわしい翻
る文学に根本的な影響を与えてきたそのような文書は、他の
ものとして、あらゆる文明の中で生き残り、世界中のあらゆ
理念は、当然、読者が期待する忠実さと一致するはずです。
い人のためのものです。だとすれば、調訳者の抱く忠実さの
定の部分を再確認する必要があるときにのみ原文を参照した
訳で読むことを好み(たとえそれが不器用な訳であっても)、特
ます。翻訳は、哲学の文書を原文ではなく自分の母語への翻
得るための仕事であるのに加え、他人のための営みにもなり
ます。このような人にとって翻訳は、翻訳者としての資格を
しての仕事より、もっと直接的な方法があることを知ってい
文献との取り組みには、苦労ばかり多くて報いのない訳者と
う翻訳者を例にとってみましょう。このような人は、哲学の
すなわち原文をすらすらと読めるので翻訳書は要らないとい
ければなりません。論点を明白にするため、有能な翻訳者、
めには、まず翻訳における﹁忠実さ﹂とは何かを考え直さな
今まで述べたことにもとづいて、哲学翻訳を脱聖化するた
敬に値する、﹁聖なる文書﹂です。大昔から伝えられてきた
判断を禁じえません。
すなわち、文書が第二の言語に正しく複写されていて、しか
も原文と比較することのできる人々から好評を博するような
忠実さです。解釈や意訳はできるだけ読者に任せようとする
野一一一哲学翻訳の脱聖化
3
れ、思想の連関、表面まで浮かび上がっていない深い含蓄や
歴史的響きをもとめるべきです。そうでないと、哲学の文書
のです。こういった理念からすれば、翻訳者がなによりも怖
がるのは、すべてを完壁に訳さなければならないという義務
そこで第三の、もっと微細な不忠実が見えてきます。それ
が普通の言語のはたらきとかけ離れているという印象は避け
誤読への恐怖があまりにも大きいために、かえって翻訳に
は具体的な翻訳の文体や、その翻訳書の読み方に関わる諸々
があるのに、ひょっとしたら誤読してしまうのではないかと
失敗するばかりか、同じくらい重要なことが見逃されてしま
の問題が、そのまま哲学的問題を構成しているということに
られなくなるでしょう。
います。それは原文だけではなく、読者にたいする忠実さと
あります。私は繰り返し主張しますが、哲学文献の調訳は思
いうことです。
いうことです。要するに、ぎこちない文体を与えられた読者
言語が哲学思想に提供する問題はさまざまですが、その自
想を伝えるための言語や文体が果たす役割を意識するかぎり
かけは無駄なようです。訳者自身にとっては、自分の文章の
覚が翻訳の実践にどのような具体的結果をもたらすか、とい
が、文書の表面を見てその裏にある原文の影を感じ、訳文の
まずさが原書の著者の名誉を傷つけるわけではないので、あ
うことについて考えてみたいと思います。まず第一に、多義
において、哲学そのものに忠実でありうるのです。逆にいえ
まり気を配ろうとしません。しかし、哲学の貢献が一般の知
的要素を減ずることが、哲学の理解にどのように関わるかと
乏しさをやむをえないこととして忘れるようにさせるという
識人層にどう考えられているか、または哲学をどれほど勉強
いう自覚です。言語には多義性が自然に備わっているとすれ
ば、それを意識せず、あるいはその意識を翻訳の営みから疎
すべきかなどの問題からすれば、無意味な問題とは思われま
ば、新たな造語は││ことばを歪めてナンセンスにするにせ
不忠実が生じるのです。日本の哲学を学んだ人なら誰しもこ
せん。それは原文にたいするさらなる不忠実です。訳者が哲
よ、すでに存症している言語を組み合わせるにせよ(﹁外来語﹂
外するかぎり、忠実であるとは言えないのです。
学の翻訳に取り組むときは、少なくとも自分の言語で書かれ
もここに含まれますがてまったく新しいことばを発明するに
の実例をリストアップできるでしょうが、悔い改めへの呼び
た文章と取り組むときのように、論理のつながり、論証の流
ラ6
は文脈によるのですが、その全体を念頭におかないと多義性
てその複数の意義の中でどちらが示唆されているのか、それ
論理の流れの中にもあります。どちらの形態が第一か、そし
るでしょう。多義性そのものは単語や言い回しだけではなく、
者を排除する秘伝となり、かえって多義性を抑えることにな
語ですが、それが意識されていないような翻訳は、むしろ読
になります。これは本来、読者と共有される秘伝のような言
用を無視すると、哲学の内容の大きな部分が見失われるよう
義性に富む酒落、反語、皮肉などがありますが、それらの使
せよーーーその多義性を抑制することになります。他方には多
をゆだねます)。
に悪い影響を及ぼすかについては、日本語を母語とする方々に判断
かざるをえないのですが、これが具体的にどのように日本語の文体
書かれた哲学の翻訳書から類推して、訳文の信懇性に強い疑問を抱
のではないかと疑わずにはいられません(私自身は私の母語で
ように聖化されたものであるという思い込みが翻訳者にある
三言語の訳を無批判に使用する背景には、それが原文と同じ
ような天才もいるようです。いずれにしても、このような第
者だと言っていますが、日本の優れた翻訳者の中には、この
タインは、天才とは自分の参考文献をよく隠すことができる
これと関連して、先行して世に出ている別言語への訳を参
訳者にとっての生活の糧です。しかしそれは、自力を養うの
の﹁補助辞典﹂になります。これにたいして辞典そのものは
私個人は、第三言語の訳文使用にきわめて慎重な態度をと
照して作られる翻訳は、いくら再確認として安全な方法だと
に使うのであって、けっして崇拝対象とすべきではありませ
をうまくすくいとることはできません。端的にいえば、哲学
思っても、実際は誤読の可能性を繰り返したり、増やしたり
ん。辞典の﹁全知﹂、あるいは少なくともその論破できない
ります。あまりに難解で、どうしてもわからない単語や言い
します。日本では、とりわけ哲学を含む古典言語で書かれた
権威に依存しすぎることは、たとえ、日本の哲学文献の翻訳
文書の翻訳の表面から原文を復元できる場合、原文は十分に
文献の翻訳に際して、このやり方が広く使われています。私
者として言葉の密林を訪偉う人にとっては﹁救いへの道﹂で
回しを別な目で見るしかない場合は、第三言語の訳文が一種
は一度や二度ならず、原文からはありえない、英訳書の誤読
あるように見えても、実際には一番﹁原罪﹂に近いものだろ
理解されてはいないのです。
から発生した間違いをみつけたことがあります。アインシユ
ラ7一一一哲学翻訳の脱聖化
語で読む人にとっては、言葉のニュアンスはあくまでもその
使用している辞書が少なすぎることだと思います。原書を母
妙な用語で自らの文体の乏しさを隠蔽するというのは、多く
の言語に関するかぎり、私はこの種の慣行に懐疑的です。奇
哲学の専門家の中でも一般的な習慣になってきました。外来
て導入することは、マスメディアにおける慣行と同様、西洋
字引のあらゆる定義の総計より以上のものですが、外国語と
の西洋の哲学者において否定できない事実です。それを認識
うという印象を禁じえません。むしろ問題なのは、翻訳者が
して読む翻訳者にとって、それ以下に媛小化されてしまうよ
合わない言い方や文法の崩れなどを避け、率直に理解できる
しないままに翻訳への道に迷い込み、霊化された原書に忠実
ただしそれだけでは足りません。能力さえあれば、二百年
自然な言い方を心がけるのは、生きた母語への重要な貢献だ
うです。この両者の読み方の差から生じる不均衡を埋め合わ
前に書かれた文書をほぼ余すところなく、そのまま現代の訳
と私は信じています。世界中の文明でよく知られているよう
であろうとして組末な訳文を書く必要などありません。西洋
者の言語で把握できるはずだという前提は、正確な翻訳を確
に、子供や差別されている人々や奴隷や少数派が、しばしば
せ、二ヶ国語辞典の不可謬性の確信から自由になるひとつの
実にするどころか、文体の麻捧を招くものにほかなりません。
支配的な言語に反乱するのと同じように、外来の思想を自分
哲学の和訳は一つの言語から別の言語への同義的相当物とい
鉛筆の先からでる訳文もまた現在に生きる言語にほかなりま
の言語的世界に導入することは、現在の状態に何らかの分裂
手段は、両言語の語源や歴史辞典と親しんで、翻訳中にその
せん。しかしながらその事実を無視して文体を殺してしまう
を導入することを意味しています。このことを覚悟すること
うよりもむしろ、新たな言語の生成なのです。従来の母語と
ならば、それは訳文そのものを殺すことになるのです。知識
なく、その必然性を否定することは、ことばを唯一の生ける
内容をより積極的に利用しようとすることです。
層の読者一般に認められる哲学文献への無関心から判断すれ
環境から疎外することにほかなりません。
り、原文を翻訳で読む読者の思考形態に﹁なじませる﹂だけ
それと同時に、 L ・ヴェヌティが注意を喚起してきたとお
ば、日本における哲学はすでに、そのような形で死刑を執行
された訳書の巨大な墓場になってしまったようです。
これと関連して、翻訳しにくい単語を訳さずに外来語とし
ラ8
の結論を、われわれは大事にすべきでしょう。
すことは、特に哲学思想にとって不健全な振る舞いです。氏
言語に同化することですべてのなじめない証跡をすっかり消
で、翻訳は道徳的に疑わしい営みです。外からの原文を内の
に同化するという危険性は、意味内容が単に難解になり、そ
本語への哲学翻訳においては、外来の思想が地元の思想体系
れば、私は原則としてこれにまったく異論がありません。日
いたずらに読みにくい訳文を弁護することになりさえしなけ
言語やその他の多くの言語的、文化的な排斥を強化しな
る可能性も在る。ただしそのような翻訳は同時に主要な
ぎります。現実問題として、普通の哲学文献の翻訳者の場合
翻訳は必要ではないとしましたが、それは理想的な場合にか
翻訳の忠実さを課題にした冒頭では、有能な訳者にとって
してその難解さが内容の深さの証明とみなされる危険性より
がら、地元の価値の導入を掩蔽するのである。流暢その
には、そうではありません。まず、大部分の訳者は、翻訳が
:::排斥されてきた外来の文書の場合は、流暢な訳文は
ものは同化主義的で、その土地の読者の慣例やイデオロ
仕上がって自分の言語で読んだときにはじめて原文が理解で
はいっそう少ないと思います。
ギーに調節されているかぎり、あたかも彼らが外来の文
きる(たとえそれが表面的な意義だけであっても)といえるでしょ
大衆の読者を招くかもしれず現存の正典の革命を惹起す
書や文化と出会っているかのように実際的な表象を提供
。
っ
、
多くの翻訳者のように一 0 ページを二時間か五時間かけて読
一0 ページを一 O分か二 O分で淀みなく読めることと、
外来の哲学は、現に支配している地元の哲学とある程度
まなければならないことは大きく違います。後者に属する人
する。:::
に違う、またはそれらの思想や論説が地元で支配してい
が、原文の文体を忠実に訳すことができるとはとても考えに
一部は優秀であり、大部分は甘受できますが、相当な量は川
る解釈と違わせるように翻訳されていることによって、
そこでヴェヌティは、翻訳を現存の文学的正典への貢献で
がほとんど凍っているかのように流れのない、救いようもな
くいのです。そういうわけで、哲学文献の翻訳のうち、ごく
はなく、むしろ﹁地元における諸々の哲学言語の位階制度に
くひどい代物なのです。
その相違をひき続き保つことができる。
挑む﹂ような﹁実験﹂とみなしています。このような主張が
ラ
9一一一ー哲学翻訳の脱聖化
上に述べたことから導かれる結論は、おそらく驚くほど簡
単にきこえるでしょう。私が言いたいのは、翻訳の内容を明
瞭にするために適当に語勾や文章を付け加えよとか、不分明
いでしょ、っ。
ような文体を、翻訳に関しては寛大に許すために起こります。
残るからではなく、むしろ自分の文章なら到底許容できない
の出来の悪さは、最初のできあがりの表面に多くの間違いが
的な編集を行なうことを、私は勧めたいのです。多くの翻訳
がったと判断した段階で、訳文の文学的価値を重視して徹底
入れるわけにはいきません。そうではなくて、調訳ができあ
せん。私は一読者として、そのようないい加減な干渉を受け
です。その意味で、すべての不器用な新造語や難解な文体が、
で意識の統-の原理にした西田幾多郎も、そうした例の一つ
経験﹂を誤読して、それを文脈から切り離し、転倒させた上
誤読の実例はよく知られています。
仏典の誤訳や、共産主義の哲学者によるヘ lゲルの弁証法の
えかたを可能にした誤解や誤読はあります。親鷺による中国
が破滅的であるということを意味しません。新しい見地や考
前述の忠実概念への批判は、翻訳においてすべての不忠実
なことや訳しにくい部分を削除せよといった示唆ではありま
読みやすい文章に直すことは読者に対する忠実さだけではな
かならずしも無意味だとも私は思っていません。
書くときには、翻訳のような文体を取り除く必要があります。
でもあります。それに伴って、翻訳ではなく自ら哲学論文を
人
、 C ・E-M・ジョ lド(一八九一 1 一九五三)は、ホワイ
一九四八年にイギリスでもっとも広く読まれた哲学者の一
哲学思想が平易である、あるいはとにかく平易になりう
トヘッドの不必要に複雑な文体や新作用語を、ベルグソンの
の方言になってしまうことです。哲学者は哲学者同士のテク
るとは決して主張したくないが、同時に必要以上に不明
哲学に常に伴う誘惑、しかも冒頭に述べたように日本におい
スト・クリティ lクに夢中になるあまり、より重要な根本問
確にする理由はありません。不明確には二種類があり、
きれいな文書と比較して次のように非難します。
題を見落とさないように、この誘惑に抵抗しなければならな
て慢性病になりつつある誘惑は、哲学用語が凝りすぎた一種
w ・ジェ lムズの﹁純粋
く、ここで主張してきたように、原文に対する本当の忠実さ
4
ω
なくとも私見では││たやすくわかるはずはありませ
は許されます。宇宙が二O世紀の北欧人にとってl l少
すなわち不明確の表現と表現の不明確があります。前者
責というそれぞれの結論には賛成できません。
は、両方の理論に同感ですが、容疑者の単純な断罪または免
対し、西谷啓治が示した反応とほぼ同じものです。私として
くても、彼の最終的な目的、すなわち、哲学者が哲学伝統と
うな﹁哲学的流布本の著者﹂を募ったりすることに賛成しな
全ての哲学者を十把一絡にしたり、ジヨ lド博士がいうよ
スと並置を必要とします。具体的にはどのようにこの並置を
経験を再生することと訳者の視点からの読み直しとのバラン
イエ lシス、 n3agp ニlチエの所謂 2anzg
口)、すなわち著作の
度の﹁模倣﹂(ミメ lシス、 RASES)とある程度の﹁創造﹂(ポ
忠実な翻訳は、少なくともここでの解釈において、ある程
直接関係のないテI マを取り上げ、哲学の中庭を出て倫理的
実行するのか、それは訳者の哲学のスタイル次第ですが、こ
ん。下手な腕前の結果としての後者は許されません
および政治的な問題に取り組み、専門用語抜きの哲学を書く
れらの活動は文書の表面の機械的写しとは違います。哲学文
献はそもそも花束よりも楽譜に似ています。どの時代、どの
べきだという主張を、われわれは評価できるでしょう。
ただし同時に、ホワイトヘッドの短い反論を見落としては
によって伝えられる楽譜と違って、花束が時間を乗り越える
場所においても繰り返し新しい解釈で忠実に演奏されること
哲学は進むにつれて表現の晦渋、新奇な字句をどうし
とすれば、それは形も内容も変わらない、根のないドライブ
なりません。
ても伴います。:::言語は偶有的要因の偶有的局面を
いずれにせよ、翻訳は原書の意味を減少させます。文学的
ラワlでしかありません。
でありますが、:::つねに取り残される疑問があります。
な面でたとえ訳文が原文より品があったとしても、そうなの
﹁明瞭かつ判明に﹂表現するために発展させられたもの
問題は、われわれが漠然と知っていることを正確に識別
を断片化したり、崩したりすることによってそれを再構築す
です。あらゆる文書のロゴスにはそのミュトスがあり、原文
これは﹁近代の超克﹂の討論の中で、日本の哲学者が母語
る翻訳には欺輔があります。解釈をすっかり取り除き、客観
することであります。
で書く宿命に対して﹁無関心﹂であると批判する小林秀雄に
61一一哲学翻訳の脱霊化
的に忠実な訳文を作るためにそれらすべての欺踊を完全に避
けようとすることは、もっと大きな詐欺です。
ある意味で、すべての翻訳は一種の狂気であって、それは
つねに翻訳の理念を裏切るようにわれわれを唆します。
の極には、 J ・L ・ボルヘスのピエ l ル・メナルドのように、
﹄ の史上初めての完壁な英訳を作成するた
﹃ドン・キホl テ
め長年苦労した結果、原文をそのまま一語一語複写すること
に終わるという狂気があります。他方の極には、懲罰として
p ・ヴァレリ
固からだけではなく、自分の過去から追放され、別な歴史を
持った別人として取り扱われるようになった、
ーが物語る有罪者のごとく、原文の歴史性をこすり落として、
(却)
ベルグソンの和訳の場合と比べてはるかに少ないと私は主張
してきました。それはともかく、西田とその弟子による哲学
への永続的貢献を確実にするためには翻訳が必要であるし、
翻訳での読まれ方が原語で読む学者の解釈に影響を及ぼさな
ければならないと信じています。翻訳の質はさまざまですが、
総じて、翻訳の裏切りによるそれらの思想への損失があると
しても、その普及や発展の面をみると、訳文のために得られ
ることの方がいっそう多いと私には思われます。翻訳書が読
まれることは、原書が読まれ続けていることと少なくとも同
じ重要性があります。
もし哲学が哲学史と同意語であったなら、おそらく哲学文
献の翻訳を脱霊化する要求はそんなに大切ではなかったでしょ
う。しかしながら、哲学の文書とその翻訳が共にわれわれの
あたかも原書が現代に書かれたものであるかのように訳すと
いう在気があります。大部分の翻訳はその両極端の聞のどこ
思想を刺激して、われわれを取り巻く社会と世界を再考させ、
元の思想が西洋の言語に翻訳されることによって損なわれる
ば、京都学派の三本柱であった西国幾多郎、西谷啓治、田辺
り多く翻訳のために裏切られるにちがいありません。たとえ
哲学文献においては、ある哲学者が他の哲学者に比べてよ
いでしょ、っか。
のは、結局のところこれら両方の衝動のはたらき合いではな
でもあります。われわれを単なる動物的意識から引き上げる
背くことにほかなりません。哲学は記憶だけではなく、希望
頭の体操とか思惟的整理の道具とみなすことは哲学の精神に
今まで不明であったものを啓蒙する目的がある限り、単なる
原 文 の 意 味 は 、 前 世 紀 の 天 才 的 著 述 家 で あ っ た ジ ェ 1 ムズや
ありません。
かに位置しますが、それらの在気を完全に逃れることはまず
方
6
2
意識が最高潮に達したのは、中世ヨーロッパでしょう。ラテ
れたのです。
リア語、フランス語にうつり、英語の可自己主切にも繰り返さ
﹁翻訳﹂と訳しました。プルニの語源開違いが一五世紀のイタ
して、﹁導入﹂を意味するSE88を﹁持ち越し﹂、それゆえ
ス・ゲリウスの﹃アッチカ夜話﹄
ZS古田﹀RR8の一行を誤読
ン語のみで書く習慣にいどむ土着言語の偉大な擁護者でさえ、
(1) 本論文は現代の哲学に焦点をあてますが、こういった問題
注
こういった傾向をよく知っていました。たとえば、煉獄を旅
するダンテが高慢の罪のために苦しんでいる第一環道におい
与えてくれたG ・スタイナl の傑作﹃パベルの後に﹄からと
(4) この概念は、この論文を執筆するにあたって大きな刺激を
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っています。。g
an∞SER-bh町内、 常 旨宮内ロミ hb高 E Q
崎
SA 吋否認hEHS(FO昌弘。ロ 。同町。acagaspops司)・この町
書
て魂と共感した理由は、自分自身の知識に対する誇りや﹁不
作法で、無学者と話し合いのできない哲学者のような﹂傾向
出
があったからではないでしょうか。町、。s
ghHQ2ash-ムミ§r
簡易版を書いたり、同じ本の中でいくつかの読み方を読者に
アラビア語、ラテン語、カタラン語に訳したり、難しい本の
それより一世紀前のライムンドゥス・ルルスが自分の著作を
語、フランス語、ドイツ語の知識がないかぎり、,和訳だけで
者は全体を訳そうとするわけですが、かなりレベルの高い英
例が、日本一請では論理の証明にならないのです。仕方なく訳
が反語的で、スタイナ I のもっと意味深い、詳細にこだわる
物の和訳(亀山健吉訳、法政大学出版局、一九九九年)自体
教えたり(たとえば巳守之九ミ句Sミ町民同な言ごミロの序文を参
はこの本のごく一部しか理解できないでしょう。
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-∞主・呂志)-Fza また、
昭むした主な動機は、まさに一般の人々の闘での哲学の悪い
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) 文学的に価値の高い文章が哲学思想を損なうという反論が
がある。各民族はあることを言うために、別なことについて
きなかっただろう。各言語にはそれぞれの顕示と沈黙の均分
(5) ﹁多くのことをわざと語るまいとするものは、話すことはで
あることは否定できません。例えば、優れたアメリカの合理
黙る。全てを言うことが不可能だろうからだ。それは翻訳の
6
3一一一哲学翻訳の脱聖化
評判を念頭においていたからなのです。
主義者B ・プランシャ lドは、ニ lチェ、ヴイツトゲンシユ
巨大な難しさのもとだ。特定の言語でその一言言語が黙らせよ、う
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とすることを語ろうとするのだ。己﹂旬
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タイン、キルケゴ l ルといった面々が、きれいな文書でもっ
て不明瞭な思想を隠蔽したと訴えています。野島EEB臼
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。=、芝む旬。、EEζ 々
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) レオナルド・ブルニ
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松鎖社、一九八七年、二二四頁。
(
6
) 蜂谷昭雄・井上健・村形明子訳﹃科学・哲学論集(上)﹂
ガlと比較することはできません。後者の文書は:・あちこち
デツガ!と対比して(﹁文体家からすれば、プ lバlをハイデツ
問、主。,
=e
一qd何回目荘。己目白何回出出ngnP3MS
賞賛する論文です。 4
で表れている風刺と段々区別不可能になりつつあります。﹂)
把握し、﹁現存在﹂よりもその日常的な味を保ちます。この関
(7) ﹁在る﹂とは﹁ここにいる﹂という雪国企図の意味を十分に
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告
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ミ告を)または宮百開(そしてEEロ官四回目)を意味づけるの
ーは、ァドルノに言及して自分の悪名高い文体を弁護します。
(叩)たとえば、アメリカのジェンダ1論者ジユディス・パトラ
連で、有(そして非有や元)にギリシア語のを(そして
の意味とは違います。中国古典の現代西洋訳には﹁有﹂(そし
は、﹁手元に所有する﹂とか﹁存在する﹂という具体的な本来
必ずといっていいほど学術用語を利用します・:。たとえパト
上に密で、冗漫で、わかりやすい一言葉で足りるところでさえ、
の批判者が書く意見には同意できます。﹁彼女の文体は必要以
が有る﹂と﹁どこかに在る﹂も区別します。ハイデツガ lは
ラI氏の文書が字引工場での爆発のようであっても、瓦礁を
私はパトラ Iの思想を高く評価していますが、それでも最近
U曲目立ロという名詞を人間的なありかたとして理解したのです
ゆっくりともとにつなぎなおすと、その思想が割合に率直で
て﹁無﹂をその反対語として)の形而上学的な意味が読み込
から、それを﹁在ること﹂(﹁いる﹂とも読めます)と訳せば
2・ミミ同.PCS九 時 ﹀ 喜 色
あるとわかるでしょう。﹂ ug区。2毘
まれています。現代の日本語は有の両義を持ちますが、﹁何々
EE-285
ぎま支出(否。 コ・宣言烈S
とめた竹村和子は、文体の﹁難解﹂をみとめつつも、﹁今後部
町号室。 (FOEORmoEampNOON)-P叶・パトラl の和訳をつ
間違いないと思います。
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認苦
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-・3∞。)咽︿o
-・ドコ。・認を参照。
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者ペO持
虫 )-uah#・
一
一Oozzaa--唱
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とにしています。﹁ジエンダ l ・トラブル││フェミニズムと
分的に引用される機会が多い﹂と判断して、手を入れないこ
毛色同町同開由民
BSF 辺町何時
残念ながら、その和訳(栃原敏房・斎藤博道訳、理想社、一
(
9
)
九七五年)は、ヵウフマンに習ってその試みを取り上げるこ
カウフマンの翻訳論や哲学文体に対する厳しい批判は、い
に、無視されてきた翻訳の諸相を浮上させなければならない
りも、凡帳面な学者の批判を避ける態度がはやっているため
九五頁。まさにこのように広く、容易に読めるものを書くよ
アイデンティティの撹乱﹄青土社、一九九九年、二九二、二
くつかの著作に散見されます。そのなかでとりわけ印象深い
となく、その部分を省略しました。
のは、ブ lパーによるヘプライ語聖書のドイツ語訳を、ハイ
一r
ti
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こへいったか﹄潮出版社、二 O O二年、四一!?四五、七六│
七九頁。
-SB・-E3・3唱-U司円ぬ俗語町内、曲、室。旬。、注門むこSES(FbEO昌一
(凶)の・開・玄-E白色aCER向言、ε 2。hub-(FOロaOR ︿-ng﹃。。--
EZ﹃白出品明白一σFSAお)も参照。
と私は論じたいのです。
邑 昌
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邑¥尚昆Eg-saω官2(日)。・0・切﹃O
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同)ES500EEが示唆するように、バベルの塔の物語はただ
(口)﹃科学・哲学論集(上)﹂一四六 1 七頁。
) K ・ラルソンはこのプロセスを徹底的に証明してきました。
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3g句。脅さ=。E5るき(同申告)口右目当を参照。
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言語の混乱だけではなく、まさに﹂町田三四百円回目でOE笠宮内田E
たとえば、﹂宮。ユ包言。ごFORPEao--45町内富美刊田宮静岡町富
も﹁聖なる﹂言語の一種とみなすべきです。その目的がこの
(日)厳密に言えば、儀式で使われる、意図的に硬化したことば
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常に変動している世界から引き離され、古風な言葉づかいを
リI全集﹂第二巻、筑摩書房、一九八三年。
与 auo﹁未完の物語﹂﹃ヴァレ
gshuESBR8ZロP3∞3・ T主
) 3を旬。、常33﹃ミミF宮崎ミhpNO-(
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(印)﹂﹃O同開?FE岡田回。G2・2E02・刊ZSRPSS﹃円EρEPHOR-。 vEh
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。色宏P 3 ∞吋)・N
たことにはなりません。この面では、﹁聖なる文学﹂とはちが
必要とするかぎり、翻訳も古語を利用しないと意味を把握し
います。
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ヌテイの本は現在の翻訳論に対する厳しい批判であると同時
同町HE凡なミロ司馬町辺諸町内・(FoE。口一河内}色白色問。・3混)・ロ-zu-己凶・ヴエ
に、学術の営みに染み込みつつある﹁グローバル化﹂の雰囲
気の倫理的側面の指摘としても、重視すべき一冊です。
俊輔が同じ主張をすると同時に、西田をはじめとして、﹁日本
(日)この点については十分研究されていませんが、最近は鶴見
で翻訳されたものは生活のしぐさを呼び起こさない﹂という
ことの理由を、ヨーロッパの学術用語のより広い環境を十分
に把握していないことにあると論じています。﹃読んだ本はど
の一一一哲学翻訳の脱聖化
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