法然上人鎖仰会 - 法然上人鑽仰会

第三十二巻
法然上人鎖仰会
V
、
毎
月
二円 -E9aH
=--a便物館可
副司拘十月五月廿目
-m
4a- u 第 三五二号 》
紺和三+回月四月三十八日組織省 《憧可制鼠
行
十 -軍穴 月-園施
二十五日印刷鴎陶箇
原町四 十-年 五 Mn
司、
月
&
:
:
:
1
τ7
ノ、
•
冶.
,、
1.
号
,
変化のほとけ
千
手
観
音
仙汁h寸 〈剛
作判
琳 れ寸)
大
阪
げゐ
、
千下鮫音とひとは呼びならわしてきた このみ仏
p・
制叫
とも称する縦行は観ることに怠
飽 mtH
。
は正しくは千子子町観百という予よりも胤にセ限
、
がおかれていたことが忘れられようとしている
自復と呼ひ
、
味かある。音を砲くのでもない。やはり行をも銀
あらゆる苦痛をも比すえる眠の持ち主である。とす
ればその限によって 救 いの手が差しのべられること
になる。持物を持たない掌に眼が両かれてい初
た期
、
ぷ巡のいのちに
。
の千手観音の怠味もおのずと判ることであろう み
仏に見守られている弘という作俗
速がる弘をもっとも身近かで知らせてくれる千手観
、
、
符のみ乎にすべてを托すことができると 天平の人
びとも考えていたのであろうか。
千手 観胤けのなかでは現作する以
れ内のこの仏像は
端胞 な 伺 と均勢のとれた燃とでとくによく知られて
&明ゐ
L内
、
いる。脱乾様巡りであるためか 山倒されそうな子
、
手を店川口にしているこのみ仏が実に椛やかに感じ
られる。合立している両手のなんとまろやかなこと
、
(石上
大らかに受とられるすばらし
であろう一メートルに足りないけれど光背のよう
な多くの予によって
い像である。持応)
.
.
.
J'
号
。
、
一一目
聖道は機縁浅薄にして
工:
浄土は機縁深厚なり
.
.
.
_:.:山、
法然 上人御法語
,#.
.
月
次 ーー
表紙「コウホネ J 松話通逮文函
随想. .
.・ H ・. .
..
.・ H ・... ..・ H ・..…...・ H ・..…鈴木成元 ・ 三浦純手 ・ 福島昭男 …… (2 )
法然、上人 を績仰する
特集
...・ H ・. .
..
.・ H ・... .・ H ・...・ H ・. .寺内大吉 …… (4)
創立三十周年京都大会 …...・ H ・...・ H ・...…・・ H ・ H ・.....・ H ・..… (8)
不鮒の友
か けがし 、 のない f浄土J ...・ H ・ H ・ H ・-・ 角野逮堂…… (1 2)
一・ー・ー・一 ・ ー
・・ H ・ H ・...・ H ・ H ・ H ・ .. ..・ H ・...・ H ・安居
容山 ・・・・・・ (15)
お経の1m現ilJ:の修善こそ尊し ・ H ・ H ・... ..・ H ・..…村瀬
秀雌 ・・・・・・ ( 1 6)
道 . . . .・ H ・…... ..・ H ・…… H ・ H ・...・H ・...・ H ・..… 回中
符主義・・・・・・ (19)
念仏生活に音楽を
E
読者の便り
私にも不動心があった ...・ H ・ H ・ H ・-・上回
純明 ・・・・・ ・ (20)
一・ー・ー . ー・ー
信仰へのみちびき
...・ H ・... .
.・ H ・. .
.
..・ H ・..……… 宮林間彦 …… (22)
現代8HI尺歎仏偏 …...・ H ・. .
.
.
.・ H ・.... .・ H ・. .
.
.
.・ H ・-・ 吉郎
家康と三河一授
無媒槌録
定久 …… (23)
…...・ H ・ ... ・ H ・ H ・ H ・..…'"・ H ・....鶴田湛泉…… (24)
... ・ H ・. .
..
.・ H ・'"・ H ・ ...・ H ・-… H ・ H ・...・ H ・-須藤隆仙…… (27)
ご法務を い ただく
………...・ H ・ ..……….. .・ H ・. ..
.・ H ・..…… (3 1 )
信仰の乎引霧とがを除いて率錨を得る徳…...・ H ・..…...・ H ・ " (32)
芸書みんなの法然さま ・ 霊感奇瑞のこと ・…・ 高橋良和 …… (28)
サ ル とエレキ
らいホ
、
成元
モンキー
ダン
・
ー ンエージャーは屋外に
l ルでエレキに合せ
スを踊っていたティ
、
場を求める。この方が健康的。しかし あの
新茶の香
り
と古 茶 の味
三浦
昭
男
島より上京して早や六年、どうにか都会の強
、
。
一回が逃ぎ 何か物足りない日々が続いた
意識を取り戻してくれる感があります。江戸
、
ました 」 と茶輔の店一販の
ピラが議風になびく
私は都内のあるデパ ートの店員。郷里鹿児
島
大な流れの中にとけ込んだ感じがする。初め
紅茶党の人々でも「新茶で
福
さまは闘にも鰭れしいものであり 八十八夜
ー、
客
のうちは上司のいうがままに接客することで
日頃コーヒ
接
l
、
ス一つを二つのアンプにつなぎ
、
、
ドラ
トしている問 物見高いサルどもは
ッ
、
サルどもは一せいにと
とぶ:・:。
、
けのぼった中ザルが踊り出した。ぬけるよう
、
、
な脅空をパ ヲク に 白河をかがめては、とび
また身をかがめては
、
、
いかなる戦業でもはじめは同様であろうが
、
この大行事を済まさね限り初出例を許さ初
れめて経験する実社会の目には見えない厚い
として東海道五十三次を練り歩いたものであ
り
之内は新茶不可出」と荷札が宇治橋畔に立し くる。会く見当のつかない未知の世界に飛び
手な都会の人々であった。初めの
一、二年は
込んだ私を待っていたのは洗練された買物上
の光栄あるお茶鮫献進は大変な緊張さでその
、
商品に対する知識不足も手伝って 逆にお客
、
ヘづいづいづっくろばし
ごまみそづい
客態度を自分なりに解することに努めた 。 四
、
こんなことで挫けてなるものかと 上司の接
、
ばしば経験し 周囲の失笑をかったものです。
の箸問 送迎に非常な神経をつかったと申し 様から教えられるという主客転倒の場磁をし
"'
a,
k
b・へ
他の一匹は サルすべりの幹にとびつぎ激 ます。
、
しく揖摘さぶった。こうして山は興管状態の童
ウ謡の中の
、
行事の無事を念願して道中筋の務大名も道中
んで逃げた。と思った次の瞬間、山の取にか ら れた穆で製茶師はもとより字治の星人 はこ
れ騒音が怨き波 ると
なかったと申されます。 「
御物御茶間以出行然鐙が行く手をはばむようにおおいかぶさって
ズラリと並んで関液晶吋ち。スイフチが入れら
ムをセ
とベ
しかし早く一人前の商人となり
郷里に待ち
昨年の秋ごろ 上野の猿山でエレキ実験し 時代新茶は「御物お茶按献進」と・申して紫綬
た記事が『剖朝日新聞』にのった。ギ
12
タ
一っ への献上茶と将箪家庭用のお茶をお茶夜道中わびる母を安心させようとがんばった。だが
電駐車者の響きには関口。
亭
純
に摘まれた新茶の香りは失われつつある民族
.
新縁の象節をすぎると間もなく夏。うすぐ
木
想
思わず粗そうを
ズと化した。わが子を胸に
2 ー
-
鈴
随
する若い母親もいたという。
、
、
いかにもだらしがないが
、
デゲ
、
、
ン
、
ピ
ヘ茶援におわれて
ドヲピンシ
ャン
年呂頃からどうにか一人前の接客術を身に付
間容ます。この行療は寛永四年後水尾天皇のする人と人との触れ合いは仲々微妙なもので
す。私はどのような硝ロ闘でも自信をもってお
御代、徳川三代将軍家光が字治のよ林家に命
客織に祭するが、お客織の方では何かと値段
、
じ、献上茶を間製せしめた臨吋に始ま、東
り海
つんとした態度がすぐ出て
いかにもカ強い.「デ
、
しまう。それでもお買上げいただければお客
にわたり豪務にそして荘霊な儀礼を以て行わ足りないためか
以上の注文をつける・その様な時前払の忍耐が
、
a
ン。大変なさわぎという。 れましたが八代将軍吉宗の時代に到って響修
g
、
道五十三次のお茶被絵巻は以後百年余りの聞
7
モン
人間様のモンキー ・ダンスは 品開の関節の という一節もその当時の名残をしめすものとけることができた。しかし商品金銭を仲介と
カをねいて
a
、
デゲ:::」とくると
キーの方のダンス は、速いリズムで、ピ
、
ピヲとしまっており
ィゲ、デヲゲ
ピ
金網をゆさぶり 大世帯輪をくりかえしピ
、
禁令下にこの慣例が廃しされたと巾守されま絡が天国に住む仏さまの様に思えるし、注文
ン
飼育課員の話しだと 矯りといっても興奮
す。せめて今日私どもは神仏に供してから頂をつけただけで立ち去るお客様は地獄に住む
、
- 3-
、
状悠だと。人問機の方も踊りよりム lドに震
く穫に依って巡った人への感謝と。ともにそ鬼
のの織に思える@何か飛蹴した考え方の様に
、
れでも何故これ程までに頭を下げ お散時計を
されて宥りませんためにあくまでも走りの味 ればなる稜この様な気持にさせられます。そ
サルどもの中でもより高級なゴ 恵みをも喜びたいものです・新茶はよく製成恩われるでしょうが、自分の仕事に忠実にな
、
きをおくとか。にたようなものである@
ところが
リラやチンパンジーはご含げんななめ。手を
、
たたき合せ 足を踏みならしてかみつかんば として少し求めた方が賢明です。古茶は内か
ると深刻なまでに考えさせられます。しかし
、
味と共に楽しみ、新茶は外か いって商品を売らねばならないが 一人にな
、
ら内へと深う符りをよろこび初夏 のき わやか
かり・あっちへ行けとばかりに排せつぶつを ら外へと寄り
。
さを味います。古茶はや、多目に一合の急須 いつも録後にはこの仕療は自分に与えられた
お乎につかんで ワイン ドアタ プ
訟はしばし笑いがとまらなかった。
の湯に小サジ}パイ強入れ山吹色に出します録上のものであるという気持の盤恐がつきま
。
エレキのきらいな人は古いといわれるかも
が新茶に少自に-合の湯に小サジカルタ一パ す
ゴリラやチンパンジーに見下げ
•
、
しれないが
想
、
お客様が仏きまとなるか、鬼となるか す
べて自分の心の中、気持の中にあると思い
イ入れ薄緑色に出すのが敵切です。
三千年程史を偲ぶ茶の寄り
られているような気がして、よりいやになっ
た。
今
随
Bも仏さまを求めて脇市客中です。
-煎の緑茶にひそむ大和心
.
.
寺の近くにあったので
、
る
よくその付近を通りました。ある時
、
則上寺を通りかかった折 草むらの中に一人の大入道が立っ
士ロ
をあげていたのです。三四日後このこ
、
さすが
、
、
私もこの時以来大ぬ
一山水を統制小される方であ
とを古図絃ニ郎先生に鱈しましたとこ
ろ
るといわれたが
しかも男は私一人だ
その品寸を継がねばならなか
、
先生を尊敬しています。
、
私は寺に生れ
ったので
、
私自身にもよ
った。その寺を守るべき私がなぜ小説
を書くようになったか
く分らない。中学時代はバスケット部
、
に所絹し 全国大会で準優勝しました。
クに出たか
y
必然的に好きであった小説の方に変ったのではな
今にして忠う。
、
った。しかし卒業問ぎわ胸をわずらいスポーツを々る体では
なくなり
、
、
ここでよく湾えてみると、官執がスポーツをやりたい小説
ていた。その人は大島徹水先生でした。先生はそこでお経を いかと
あげておられた。そこには銅製の首がころがっていた。それ
、
、
毎日お経
たとえ銅製の
各地の自由民権に活躍した人々の倣は皆
この倣もその一つでした。
、
さなかであり
、
、
お布施を受ける
、
何かを求めて大正大学に入学した。
寧事教練が大変きびしかった。しかし私は身
私は大学生活五年のところ七年ゃった。当時は太平洋戦争の
ということだけでなく
たようです。そこで訟はただお念仏をゆし
は域内に祭つであった板垣退助像の首でした。当時は戦争の を書きたいということは守を継ぎたくないということであっ
、
さなかだったので
破壊されたが
先生のいわれるままに私もお経をあげたが
首といえどもこのような扱いをしてはならないと
一
-"'
法然上人を 鎖 仰す
寺
大
その頃の願いは日本の代表選手となりオリンピ
私はかつて「浄土」の編集を手伝っていた。事務所が掛棚上
内
、
身を
送されたが 決して仏法を強制されてはいない。自分の
猛
mは
運
体が弱かったため軍事教練を受けることができなかっ介。そ に自分の内討を守るためには大変な勇気がいる。釈m絡
のため二年留年となったのです。
、
、
でいるのが法然上人であると思う。よ人の伝記をみると 讃
、
その時に私ははじめて釈尊を知りました。留年の決った春 守れ そして自分のも っともたのしい生活をきずけとされた
休み気晴らしに手当り仕第続んだ本の中に釈尊の伝記があり のです。
ました。その中に今まで考えなかった釈将がありました。釈 少々飛闘の感があるが この釈尊の教えを忠実に受け継い
、
尊は釈迦放の王子として生誕されたのであるが生来お身体
、
、
は丈夫でなかったらしい。しかし釈迦族は勇猛な極族であ岐
っに遠流されたがそれに静かに従い 大反抗や勇ましい宗教
王子である釈尊も部下に連れられてスパルタ訓練を
戦争もなさらなか った。しかし朝廷の命令には従ってはいる
たから
ものの
、
ら
その内に秘めるものは非常にたくましい方であ
よ人はお念仏を決して止めてはいない。表面は物静
受けられたのである。ところがある日突然釈尊は訓練を拒否
かであるが
、
された。御自分の身体が 一番大切なものであると倍られた。
それから訓練はなされなかった。そし
から学校生活の 中か
ったと思う。副私自身このような考え方
、
周囲の願いをよそに
自分自身の体験から釈絡や法然よ人に近
、
覚えたのではなく
、
て出家後一時は難行苦行されたが それではいけないと苦行
で修行せねばならないことを知りました。
者の一群から一人離れて修行されたという伝記がある。要す づいたと思っている。そしてこれらのことから何らかの方法
るに己れを守るためには強い意志がいる。少々みっともなく
、
、
とも訓練には傘加せず し っかりと我身を守ろうとする態度
ヰ寸に生れた私として
は寺で修行すべきであるがどうも好き
が釈尊の精神であると思いました。これを我山河に比してみれ でない。好きな小説の道で修行する方が適していると思い
一治第ということは大変みじめなものであるが 自分の身
、
念仏を唱えるような気持で小説の道に入った。ところがこの
、
ば
うろう ろして
しばしば関西方面に題
、
道も大変苦しい道で仲 々うまくいかないのです。小説 らしい
、
を考えればなんでもないという点に心の安堵を得たのです。
とかく 人聞はみえとか世間体とかに執指
棋で活躍している人々
材を求めて出かけて行 った。現在第一一
いました。その会く書けない時代に
ものを書きはじめてから実に十七年間あまり
、
これが釈尊と私の聞にできた最初のふれ合いです。そして結
局二年落第したが
して人生にもっとも大切なものを失ないがちです。このよう
ー
-5
•
も当時は無名の小説家であり これらの人々との交友を深め
らずこのような法然よ 人がどこかにいてくれるという安心さ
であると信じる様になったの です。生きていく世の 中には必
、
るためでもあった。又他の目的は焼酎拘・妓輪場に出かけてい
が出てきた。
、
現在に
くことであった。ある時大阪の岸和国競愉机切に行った六
折
、
至ってみれば大変つらいことがある反面心あたたまることも
こうして余分なことをしつつ小説をいてきたが
京へ帰るための 三等のキ ップだけである。東京行の 鈍行の出
多々あった。
その時は雑であるか分らなかった。あとで
3
、
四十度位であった。翌日すぐ入院させた。私も
、
態はよくなり熱も下り出した。医者の話しでは良くなる一方
で二三臼中には退院できるというので
のは
、
、
その人と飲みに行った。その折 不思議でならない
っと見た。その記慣は実にあざぞかなに残 っている。
普段時計をも っていない私が隣りにいた友人の腕時計
、
からです。丁度地獄で仏様に会ったようなものです。この功 たので
徳を受けた金で買った百円の券が当り一万四千円になった
t
、
何故見たのか分らないが 夜の十二時十四五分前を指 してい
早速先程の人に御礼努々かえそうと競輪場をくまなく叫旅した をち
、
結局二時間前には-銭の金も持っていなか た。まさにこの時刻に息子が亡くな っていた のである。つま
が法然上人に似ている人には会えなかった。その日のあとの
レ l スも又当り
ったのです。この心のこもった千円札がこんなに大きなもの
っ
だと告げに来たのかも知れません。訟はそれに気づかなか
は別れのあいさつにやって来たのです。あるいは僕は死ぬの
、
った訟が 輔脱給湯を出る時には七万余円の金がふところにあ り古い古い方をすれば飲んだくれている父親のところへ息子
となるとは私も気がつかなかった。だからあの人が法然よ人
•
レ l ス位で金が全てなくなってしまった。残っているのは東
るのは夜の十一時半すぢである。まだ二時すぎであったか
、
から発熱し
ら 実に九時間もの問時を過ごさねばならない。とにかくレ
ところで私は今月のはじめ十六才になる長男を亡くしまし
ースが全部終了するまで競輪場で時を過そうとぼんやりスタ た。この予が死ぬ時変な体験をしました。息子は死ぬ前の晩
ンドに庖っていた。
、
上人その人であると
訟はその夜ある座験
そこへ五十がらみの人が話しかけてきた。どこかで見かけ 息子の容態が心配でつきっきりでいた。おかげで午後から容
た人と思ったが
、
6 ー
倍じるようになった。何故ならその人が千円札を一枚くれた 会に出かけた。その出席者の中にひ・さしぶりに会った人がい
その人が法然上人に似ていると気づき
-
、
た。これが永遠の別れとなったが ここに私は又新たな宗教
的体験を得ました。
獄に残されるのである。死んだ人は必らず安穏に極楽に行
っ
ているに相速ない。この点を法然上人ははっきりとつかんだ
子供を失なった悲しみは大変なものです。生れた時から段 と思う次第です。そして念仏を唱えるということは死んだ人
残された人々が地獄の
、
が極楽へ行くためにするのではなく
、
々成長していく子供のことを長細に見ているから 自分の子
ような苦しみから救われんがために唱えるのではないでしょ
、
供のことは百%知っているので その悲しみは百%のしかか
うか。従って死後のいろいろの法事は残された人々の迷いを
、
ってくる。この大きな悲しみを私はたまたま体験したが
世
救わんがため 悲しみと苦しみから立直れずウロウロしてい
、
の中にはこのようなことが沢山あると思います。このような
る気持を救うために行なうものです。寺院が檀家をもっこ
、
中で怠予は宗教がいかに大切なものであるかを私に教えてく
ところがない。品闘をくいしっば
て苦しい悲しみを味いまし
私は子供を失な ったが寺族のためその悲しみをもっていく
か死とは何かということを考えることであると思う。
、
、
れは一つの集団であるから不学も次々と出来る この度ごと
って死んで
、
れました。この人聞社会は科学がどんどん発達し 次々と未
どこへ去
にお経を聞き互いに踊えることによって修行し人生とは何
、
、
知の世界が我々のものとなる反面 一つだけ分らないものが
ある。それは我々がどこから生れて来
いくかである。この実に不可解な事実に立ち向 ってこの問題
、
を解明せんとするのが宗教であり 仏教なのである。
ことに西方極楽浄土という死んだ後でも絶対に来世がある た。が結局お念仏以外にないことが分った。はじめは小説の
と信じられた法然よ人は実にすばらしい点に品川想されたと思 道に進むのだと自悟しいてた私ですが年がゆくに従って法然
っ
てきます。その人生の無情を乗りこえるために
、
上人や浄土思想というものが好きになり 又それらに近づき
、
う。何政なら私が体験した息子の死で あの時あの瞬間に消
私の知
つつあると思うようになりました。人生何事もなく過ごされ
、
えてしまったとは思いたくない。どこかに生きていてほしい
っても
ば宗教など必要ではない。何らか の形で我々に普 し い悲しみ
ってしま
っている息子は必らず
肉体はなくな
生きているということを信じたい。永遠に西方極楽浄土に生 はのしかか
。ことを知り心の穏として下さい。 s
EZz ・傷害 gs
きていると信じたい。身近かな人の死によってふりかかる苦 法然上人のいろいろの強い暖かいことばあるいは行ないがあ
、
しみ悲しみは残された人々にであり この残された人々が地
- 7 ー
、
め
、
記
、
いくたの教化「トラクト」を公判し更
念
尽
準ぞかに行われた。去年十て月東京の上
、
った.
しかし
、
、
この会は 京都の府志向人が発起
、
いうことで依されたもので われわれとして
、
今後の発展を期する為 本会を激励する会と
、
人となられ 綬仰会の三十周年を祝うと共に
、
、
したがって
、
次のようなものであ
っ
いたしております察は
。
、
巴に御承知の療と存
、
、
、
、
そ
滋賀教区長
大限教民政化団長
京圏骨島町同m
協a
齢制化
世間良敏院長
《玄+符胤
》
法然上人鏡仰会三十周年記念会
大本山知帽
ue験事長
浄土刷用教筆局長
、
となり
総本山知恩院似事長
浄土宗開宗八百年を近く迎え
、
、
大阪敏区畏
鍛仰巡動の展開は 目減に臨吋玄に 大本山清浄畠甲n陵'晶
憂
、
時あたかも
ることとて
、
、
総きましては 岡両方面の有志相寄り
、
の運動の被巡に協力すると共に記念会を開
、
三十周年を祝し 激励をいたしたいと存じ
左紀のごとぎ会を催すこととなりました。
き
仏晶早大学々集
層の綬仰運動を展開することになりました。
これを機会にMm
々企画を新たにし ­
この会も創立以来 潟三十周年を迎える事
じま
野山側養虹引での会に引き続いての祝賀行取で
あす
が
然上人鍍仰会の創立三十周年を祝う路行官曹 に治消会等を開ぎ法然上人の遺徳宜袴に努カ
初衰の風輔副る古都京都で四
二月
十二日 法
年
自常伽抑多端の折ながら万陣練り合わせ御出 骨m良敬広島帆化団長
東山学図録
弘興 4も浪者~ ~ J英俊隆陵光 了
周
、
原岡村織見池藤藤谷鈎 飼1t
+
は感謝と感激に満ちたものであった。その案 適したことと 意を強くする次第であります。
内は
た。
人
;土i
作前官時下いよいよ御滑巡の穆お皮び申し
上げます・
、
8 ー
^
ヨE
中 高宅小 加 江恵満潟板
藤首
-
大
起
;海;
法然よ人綬仰会が 月刊総「浄土」をはじ 席の程 御案内申し上げます。敬共
道事E 川 了 総成ま諸賢波玄.rJt i毎
都
発
特
集
.
家島恥掌園長
薗串頂学園長
京偲骨帆区長
bz
風谷A波
E光明。-R'aR
記
減
俊ぎE 隆正
問月二十二日ハ AMV
五時より
寺内大吉田先生
演
a
その報告を波ねて
、
、
勝博士は償仰会創立以来の経過と現況を筋
この学園の大講堂で 作家寺内大宮先生の講 正大学長佐藤密接博士の挨
拶で始 まった 。俊
演会があった。
、
怠を淡べられた、続いて抱飼副学長が立って、
、
特に渦飼光服飾大副学阿武の御協し 今日の講演会の持たれた嚇に深い感加の
此の口は
、
短大一年生の文化綿箆として開
力のもとに
、
議して孤いた為、大携盆も殆んど-杯であっ積仰会の像祭と 今日の法縁の結ばれた w
引を
、
、
、
、
一入と感河内いものがあった。広木貨を受
、
M
叫に布怠設なものとすることとなっ
、
、
、
午後二時半 閉会した。すがすがしい気分
l テーは
、
1
、
京拶駅前のステ
C E 念祝賀 Jl テ
続賞パ
l
シ ay
人の滋徳の郷ぎが見
mw
るようで 府緩かった・
、
で立ち去って行く隠然の姿には何か法然上
り
る紀念講演の出来たことについての謝静があ
、
終って 中村康隆大正大学教授が 品思議あ
た。
滞鴻を
賞して以来、多忙な先生の出総は この紀念
れ
近時民 m
刀を亡くせられた峨僚をしムじみ膨ら
、
独特のスポーツ殺に満場を舷了した。最後に
、
た大島徹氷上人との因縁活から始ま先
り生
、
特にその中では 家政学園の元関長であっ
ごと念寺内先生の講演があった。
、
た@一般の腿勝者も 長谷川浄店下院法主や須菩ぶ意味のす輔衆があり
引き続いて 別拘の
賀殴賢先生等多くの来会があり、盛会であっ
た。
、
家政相思鋼大学大山崎記念滋堂 安居答山氏の司会で 銭仰会を代表して大
時
崎京都駅
所前ステーションホテル
hv
、 也
会千五百
d喧円
,
、
、
お蔭をもって 二つの会場とも盛会で有意
義なものであった@以下
、
品uのおもかげはない。幼稚閃から短
になり
、
"
'
。紀念パーティ
叫切所
成純樹遊
「法然上人を慣仰する」
四月二十二日《金)一時より
水織野樹
議題講師
時
枚
恰かもめずれいが市のような彼があるら
大まで
量:
内先
守
の
中
演
ー
水三
八
省
御協力の各位に感坊の窓を表したい
Avm
..
WMm
仁王門の学政学問は 見違える穆立派
:n
-9
主
日
日
@
、
、
委員等々多士済々で 特に日本に溺在して
ながら
り
、
会を進行された
、
、
a
、
、
本会を代浪して
、
、
引き続いて 田原本善隆博士角野逮蛍先生
、
、
大織教育委員 小笠原鳳瑞師 須賀降賢氏等
、
、
、
、
、
、
、
日本仏教のよさを しみじみ味わっ
n
u
本口の会合を持つに至った級仰を中心と
、
骨長よ
寺院生活を実際にやりつつ仏教の実際を研先
究ず 発起人を代表して 粕制教山γ局
されているデンマークのマルタ ・ボイエル女
、
した挟修があり 絞いて
、
史が藤吉悠織先生に伴われて来会され紅}
@
、
、
佐藤儲閣総博士の総辞があった
長谷川狩山法
、
、
点で花を添えて割いた事は 感激向かった 。
、
パーティが始まった。
、
、
初夏の心地よい笠気と共に 講堂
、
主の音頭による乾杯のころは 会も 漸ゃく
、
来賓の寺内大士ロ先生 盛り上り
、
来会者が集
筋縄向民和先生の司会で
会は
、
、
銭仰会との因縁認を 二十分程頂いた。 は祝賀気分で一杯になった。
まられるのを待ちつつ
の
そして、六時頃から
、
独特のユーモアと 熱波した骨固い廻しでお
、
お先生は 会のなごやかなゆが閉気を盛りあげが立って 戒は会の功業を賞讃し戒は今後
の努力を激励された。角野先生の思い出を中
、
、
、
今この会場に相つどい 膝
法然上人の像徳をした
ち が放の同人で
、
、
、
法然上人のお場きと 深謝するのみで
、
、
怒られ
、
永を
々と
偶然 この会に診加出来得た背骨び
K史も、藤省先生の迎釈で
米貨のボイエル
ある@
ても
を交えてなごやかに跨り合えた事は何とし
こうした人々が
し
いものがあった。いずれの人々も 浄土を愛
、
心とした きびしい教示ゃ 小笠原瓜剤師の
、
枇刊に高
、
が舞台に飾られ 花の飾りは一段と会場をに
8やかにしていた。此の会の為には
、
橋良和先生が影のカとして 御活限下さっ
、
た・お隣で六十数名の来会者があり本会と
京邸でこの様に盛大な会が持てると
、
、
思ってもいなかっただけに 感慨一入で
、
して
は
あった。
、
、
長谷川浄躍中院法主鵜飼光州教学局長、新
、
谷東京支所長 塚本普mm
博士 大橋京都教育
、
ホテルでこの図午後五時半より行われた法
長谷川静山法主による乾杯
佐藤容夫先生の思い出ぱなしは枇刊に感銘深
鶴飼"彰局長 の あ.いさ つ
然上人綬仰会三十周年祝賀会という大な横領
,
たと感慨深げに鱈られた
、
3
、
こうした会を
ポ氷定順
佐原 民
H 智崎町土の閉会を液ねた紛静があり
、
最後に 新谷支所長の発戸で万才が三唱さ
れ
、
しみじみと
、
倣会したのは もう八時半を過ぎていた@な
、
ごやかな会であった為 叫吋の経つのも忘れる
といった有様で
、
持った有意義さを知った
@これを段会に京都
、
h 山伺縁の人々が胤本
を中心として 益 村
唱会
し
、
が発展する前中を 切に願って止まない。
、
当日の参会者は 左の方々であった。ここに
、
街げて その御協力を謝する次第である。
安藤円拘抽出品藤仏具店飯田信也
f
石弁ハツ
よ野燃鋭 制制先制削江藤波野述越随
山芯谷殴成大河内内以郁子大国忠郎小M
笠服
m
部大俗俊布大隊成宏大商法衣街角野
mHM ケ
mm関佐腹心街佐蔵
述叫品川内知光河合泉純小林必成小池
Mm成依級順遊沢
管鋭佑勝良智佐川股行日佐波成
前閉山以文新谷究応須賀除aH 千賀異聞関
二一ニ
mM 谷地脇町構内訳和問織町内了宅見
作能竹中打岡常問中常定坂本善殴鶴岡
滋泉寺内大台戸川怨俊般原成山城山柁図
n
林間彦
川徹純
Mm
長谷川宣丈康問説且必勝背広海古川観瑞
ボイエル三枝樹隠畿管
・
蔵盆徐俊本田正義牧国防苑
マルタ
路一
P紫純山口誕ーは八機苑純安応答山
山図昇将官水俊成(敬称同時五十管理
迫紀
以上のように京都における祝賀会は成功
、
袴のなかに行なわれましたが その反容は
ただちに関西方面を中心に新入会員の品増加
となってあらわれました。この鍛仰会を盛
りたてる人々が一段と却したことはこの上
なくカ強いことと思います@
- 1
1-
{
t
d
石井俊務 伊一般其微石崎真
受
愛山金中村康脱出二本松翠順長谷川警務
会民11:
J
I
何
司k
会凪
費
軍E
‘11崎 11剛
量
5毒
量
友
の
請
不
i
.
.
'
,'
堂
達
野
角
,
'
i
d
毛
F
'
s
.
s
宮=
一 かけがえのない「浄土J 一
聖
電E
、
、
去る四月下旬 京都で法然上入銀仰会三十 当時の若い紛客は 今ではそうそうたる大
、
周年の紀念会合が開かれた。定刻に遅れ末席学者になって 浄土数学を背負っておられ
、
テーブルスピーチを
、
、
、
。
、
、
、
うらなり
シリをひ
グチをこぼしたように受け取られた
の,“
積袋的に割り込んでくる活い気鋭の士
、
、
築蔭でクスんでいる
、
も少なくあるまい。が なかには
せろ
がてその後を継ぐことだろう。オレにも 脅か
、
のテーブルにすわっている私に 司会の宵問構る。今盛んに鍍をとっている少壮学者や
は
良和先生が、とつぜん
指名した。
、
少々アワをくった。こんな時には 思わず
本音をはいてしまうものである。私は頭のて のヒョウタンみたいに
無理にでも自なたへ引き出し
、
っぱたいて祭をとらせてやってほしい。その
を
っぺんにチラついたものをさらけ出してしま ものもいるかもしれない。でぎればそんなの
った。
、
l-一
- 十年前 京都にある宗門の学校に駿を
、
移じて問もないころだった。外ハげ〉道の同
学志を集める努いが つ血管の三十年後の『浄
、
問をおさめ宗磁の深さになじまず宗門の寝 土』の実りをく多するだろう1
泊同にも迎じなかった私に
短い時間のスピーチだったので ひょっと
総総『浄土』はな
んとも紫ばらしいものに見えた。叫おい新す
進る
のと
、
、
り
、
うらやましい思いをした紀惚はまだ残っ
学者が さっそうと鍍をつて 私のような者 かもしれない.それは部分的に其耐火である。
にも貌しめることばで論議を狼っている。たしかに彼けなかったのは今でも残念であ
、
じぷんもあんなふうに書いてみたい とう
。
私は私なりに『浄土』から多大の収
、
、
、
マイナスしても
、
たっぷ
穫を獲得したから たいしてグチの訟にはし
だが
らぞましい思いをした。しかし省ける自侭
てい
もる
、 容くカがなかったのだから仕方がな
鈴けとすすめてくれる人もなかった。従'v来小
、
心で引っ込み思案ときているので
どうしょ
、
うもない。とうとう終始 間四たる『
浄土』文
・
、
りプラスを頂だいできたのである。そのしだ
鍍の発展を 指をくわえて見て過してしまっ ていない。プラス
た。
いはつ 8 のごとくである。
x
、
、
、
当時の『浄土h は まことに発らつとして魅
、
のあと阿川先生に 何かくだらぬ質問をしか
力的であった。今はそうではないというわけ
、
けたことがある。思いがけぬほど毅切てい
当時ほっ興しつつあった宗教ジ
、
知識をいたわってくれたからである。
、
オー
それに飛びついた@弘の浅い宗学仏教学の
ャーナリズムの淡に乗ったのであろう。私は
、
ではないが
、
ねいに応答してくださったのに 強く打たれ
た。
、
この講座だけでは不十分だと その後もそ
、
の上積みをした。というよりは させられた
念に読ませてもらった。そ の成来は あ
ったら
バーである。これはと見つけたものを たん
、
という方が当っている。ともかくこうしてい 毎号を読みふけった などといっては
私のように仏教学や
、
診加した。
、
るうちに大学をおえ 宗門の学校にam
をおく
、
浄土学を専門的に学んでいない者のために
、
、
、
、
たからである@それとともに
、
だんだん宗門
宗門の坊さん饗成を目的とする学 の著述に 少しずつ援近できるような気がし
今の仏教大学は前身仏教専門学校である。 しい。かつては媛渋近ず含雛かった先師たち
、
乙 と になった。
さん診加していた。
もっぱら
、
、
の空気にも殺しめるようになった。二争筒得
、
かもしれないが
とはこれである。
、
、
そう
おかしかった・とつつきにくくもあっ
鯵撲が進むにしたがい
、
、
、
、
いうふん図気である。学聞のおとなると 一
とである。これではならじと先師の祖述に取
、
り組みもした。だが難渋 なかなか寄せつけ
難解とは感じなくなった・阿川先生には、た てくださらない。
た。それでも
のが
、
、
り続んでいた。じぶんの弱味をのぞかれる気
な狙師
•
、
難解難淡
、
払うベ舎尊敬を怠っ
、
自ら反省したのである。
、
先議の箸述に
、
すべきものがあった@私は改めて
それにしても、一品帯雨得の成朱には満足
『剤師州といっぱ』なんていう続み方をされは
る品聞が立たない。たいそうヒケ自を感じたこ などとは言い出せなかったのかもしれない.
、
寄稿したい
そのタクトン先生に『選択集』を教わった。
そうだった。とても弘の簡易詰め込み知織で 持ちがしたからだろう。だから
イプだった。
さん
生を大正大学の学生たちはが夕9 トン MH
本当をいうと私は 他人にはあまり『浄土
h
私は大いにとまどった。教師閥の
g常の会
と呼んでいた・気品開隆々の宗品店学者とい話
うに
タも H学
Jm仏教学の世間鱒が織とまじると を変続している綴りを見せなかった。こっそ
勝綬ぶりは、なお記憶に残っている。今岡先宗門の僧籍をもつものばかりだった。
その盆々たる風格と熱心な 教授にはその遊の一流学者がそろい
学生も
、
生などに教わった。名前も字も間違っている校だった。当然 教科の主流 は宗学 仏教学
、
大内情事常信先今
生間違音先生 阿川賞途先
、
関か れたのである・大正大学の学生も たく
この講座は
これに
特別講座を大正大学で関銃したとぎ
だった。夏休み中の一カ月ほどの問 宗門が
大正大学でである。まだ学生時代の昭和初期
私が初めて浄土宗畿の学問を教わったのは
x
しか浄土教習史を習ったと覚えている。講義そんな時に『浄土』が自の前に現われた。 ていたことを
•
x
向こうさまはご存じ弔はな・
、
村康隆先生 藤井市沢応先生なのど名前が思い
活字になった名前 MH
しか知ら
H
る。なにしろ
、
たっただけで
、
ありがたいことで
ない方々ばかりである。それでも殺しく知過
、
ぃ。しかし宗門内に親しい先緩や友人をもた
、
ない訟にとって『浄土』で結ぼれた知己はを得たことになったとは
ある。
得がたく尊とかった。じっさいに足下に援し
、
であろう。
っとも
、
、
、
、
過を得たことにしているだけのことである。 よい紹介者の見えない紹介 にあずかれたので
、
弘のような者に 脇村に呼びかけておられるよこんなことを扮いているうち、その意味がわ
、
線総『浄土』は 法然よ人が指し示 された
うに受けとれた 。関町きのかかった人柄にちがかるような気がし出した。
いない、と私はひそかに硲信していた・
土であるのかも しれない.私に
佐藤賢順先生も印象的だった。哲学めいた 呉市犬の『浄』
、
、
"if
新会員紹介
:itig--ioili-i ・
崎
望…
一京都市下京区新町適正面よル矢口治悦庵…
は縫正 加門家に とってかけがえのない大切な『浄土』の成長
理づめの文章だったが 姿 aw
、
、
年順は多少ズレるかもしれないが 中村
、
、
、
、
組織後顧問
設計及s-
電話ハmv
石黒
一五
工
鯛瓦竃 師同会
東京都文京区容 B1 丁目九の二八
も侮なき様。御相続無料。
、
、
・
六
角堂 納骨堂及び錨格の銅材}式手間
代も寄進 神様仏様へ報恩の爺仕放安
他所には出来ない何代も研究
〈良く
せる牟越せる最高技術最低価鮒負業務
ある。
の文章には 熱気
『浄土』の総思としてのそ
別製金具一式 私の先組の宮及び寺
と気鋭がみな揮官っていた.先生はどうやら お絡に『不的の友』ということばがある。
鎌界一の銅瓦 ・銅緩義一般・織機蔓
ばも
しから 、それ ぞれの先生の風ぼうをくみ取 …宿
真野正開閉先生は、りっぱなお方だった。
る知
ことができた。持びの機縁に浴しなくとも…沼井県餅江市五郎丸町店開臨閉経・雄…
写真と文書掛から、じぷんが勝手に
弁煤餅江市水務村沢山徳間進…
影市
町杉
八森筒昭一
得たのは 佐藤良相官先生ただ一人であった 真相をぶちまけると、一 つには 佐藤密雄 一一裕弁保綴弁
武生市怒川町氷よひな代…
といってよい。例外的に出会いに恵まれたの先生のお様である。当時先生は 仏教専門学 一穏弁県
保鋭江市五郎丸町
郷
校の教授であった。私は先生との会話のはし…穏弁
、
OO 古殺富士一
一兵廊県西宮市高陵町二
一大阪府布施市弱刀源氏丘五九中井信次郎一
一
京都市上京区裕木町立!本来入中
『浄土』に殺しんだお蔭でく
たさんの絡先 浮かぶ。今でも何かの機会に名前に援し、
一烏柑担保大田市波紋町五六関知郎勘助一
生の知己を得た。知己といってもこちらがし 『浄土』に結びつけて記憶をたどることがあ 一都下野中市紅葉丘二の四一北川有光一
x
も真正霞から取り組む風の方だった。そのほを祈ってやまない。
か
、
•
14 ー
x
弁康先生 竹中信常先生 置原因究務先生中
五 業
-
x
念仏生活
に音楽を
山
出発した仏教音楽研究所|
ー
、
当日
、
音楽法相女が行れ
わ、仏教大学 家政
、
、
、
、
、
定い
周知の こ とである。こうしたも
して
音楽を通じての仏教理解に賞献
、
をあげ
荘厳な儀式が、大 いに その成mm
人々に
いる こ とは
まうことは
今変こ こでいうまでもないこと
、
すべてで はないのであり
、
、
、
、
の中に居て 浄土を感じ 自分のものとして
、
いうならば
、
その
の念仏を申し得る環境をつくり上げて行かね
ばならない 。音楽法婆も
、
更により よいものにして行く為にも
、
}つの試みに外ならぬ。
、
音楽研究所の開設は 誠に意義あるものと言
のを
、
である。法婆一つにしても荘厳さばかりが
撃情刷東山 古口水各高等学校の学生途による
本当に現代人がそ
曹司- -司司v ・---
て
、
仏教音楽の発展と普及のことを企画中で
、
、
。
去る
この種 、そ の最初の試みとして
、
、
、
、
中
、
ぐらをかいていては
、
時代に置き去られ てし
、
音楽研究所楠盆正面仏壇
あったが
、
その発展が大いに期待されている。
、
、
仏教音楽研究所を開設すること となり
大 に行わ れ た
四月二十三日その関所式が盛
、
総物そのものは 山内の既絞建物を利用し
、
務堂に そなえつけられた
たものではあるが
、
、
その偉容を部屋一杯に師聞
パイプオルガンは
かせていた。
、
所長とし 藤原線
制帽飼磁玄執事長を
、
西和夫 小川隆宏各氏が研究員となって鋭
意その研究と普及につとめることになったが
、
就任以来 積極的に祖山発展の為 その実行
、
って 時代の錐移をよそにして そ の上にあ
、
、
、
、
積極的な浄土布教への出発として 喜び
、
味で 仏教音楽研究所の出発は 返まさなが
ら
、
己にいろいろと研究され て
。
に川崎えない所である
他宗 などでは
、
、
、
音楽法要で儀式化され 現代人にも
、
いるが 特に新興宗教などでは 伝統にとら
われず
。
PL
、
、
教団などは そのよい例である。又
ないことを
、
、
いろいろあるとしても
。
この際知らねばならない
そうした努力を試みずしては 、一 歩も前進が
えている。試み方は
先ず音楽から信者を引きつけて行く布教を考
、
創価学会などは 民奮という組織をつくり
る
こだわりなくその伝仰に入れる場を作ってい
、
のものが生成されて行くものである。その意
、
知恩院では 近代的な布教研究の一環としわ ねばならない。
近代化するばかりが能ではないが いろい
宮と努力して試みている中に 必ずそれなり
長 い伝統と歴史を持つ仏教であるからとろ
、
香
カをフルに発叩押しいて
る満飼執事長のことと
て
、
15 ー
•
居
国
‘
従来 知恩院では 毎月 御影堂で 御忌
・.
-.
!"
戸"
-
安
.
.
4・ a....・
a
-_
_
.
.
無量寿
その六
経 (下〉
現世の修善
人 はなぜ念仏しな い
ー
話
そ尊し
、
こう鋭しています。
秀
雄
、
の動精進して つとめてみずからこれを求む
、
流れ 寄り高いそよ風がふいています。人々
べし」
、
す。また人々は優れた功徳と智慰をもってい 即ち、お念仏の遊を信ずれば、自然の近辺
、
のも・下のものも 尊いものも
、
卑しいもの
ます。このように浄土は微妙な安濃の国であ によって往生できます。しかもこれはよのも
って、清浄なところであります。
、
ていて阪界がありません@人々は自づから努
、
カ締進して ぬwt
往生の逃を求めなければな
りません@
、
更に経典は 往生する者の少ないことを指
摘しています。
、
自然のひくところなり。何ぞ枇事をす
「往ぎ易うして而も人なし@そのくに逆途
せず
。
てて動行して道徳を求めざる 」
居倶楽に往生するための容易な道があるにか
かわらず、極楽に往く人はまことに儲かであ
ります。極楽は錐でもが差引されることなく
間違いなく往けるところであります。それな
のに何うして人々は、役聞の雑棋をすてて念
仏を称えないのでし主うか。他力の功徳の法
、
「しかるに世人滞俗にして、共に不急の事
を争う」
という実情によるものなのです・人々は人
、
、
情が簿く 不正を行い 物質的な精神的な欲
、
望に明け暮れしているばかりで 生死の一大
事を少しも考えようとしないためでありま
人 は煩悩に奮しむ
人のすがたの説明に入ります@煩悩というの
、
ここにおいて続典は 煩Mm
に普しんでいる
のに透徹して そのカはいたるところに満ち す。
、
ここにおいて経典は大きな疑問を投げかけ も なんらの区別がありません。あらゆるも
ています。即ち
というのであります。そ
人は何故お念仏を称えて往生しようと
、
、
これには勿論理由があってのことで
「道を念ずれば自然なり。あらわにしてよ を求めようとしないのでしょうか。
して続いて
、~
れ 美しく締いています。掛帽に徴妙な音楽が
下なし。洞途して辺際なし。よろしくおのお
鍾楽ではすべてののもが金銭七案でつくら
、・ー
瀬
の
が欲すれば 食物も衣服も自由に得られま
、
村
経
「なにぞつとめて事をなさざる」
と
しないのであるか
(1
6)
i>、
にのみ忙しく 遭遇にかなった生活ができな
われる所であります。即ち
、
は貧り怒り悠かさの三つのことであります。
「然生を教化して五置却を捨てし五め
痛を去
と であ
、
つまり財欲と物質欲と
ります、こ れらの役間的な欲望
、
五銭を隠れしめ その怠を降化して
、
、
その第一の酉障は殺生であります。強
、
勾,
五歯曹を悼押しそ
ての徳徳度世間氏汚泥机吋の道を
えせしむ」
とあります 。五徳を犯すことによって倒せ
、
られて五痛となり 末来世で普報を受けるか
、
ら五焼となります。こうした衆生の感心を降
、
伏し教化することによって 五容を行 わせ
、
を受けることができ 来世では極楽に往生す
、
ます。従って五欲を追 五措曹を行うことによって現世で は良い来線
としても永続し緩いもの
、
いことであります。 そして震後にこう記して
らしめ
、
あくまで貧りたいという欲望は尊い者も
います。
、
卑しい者も宮めるものも貧しいものも すべ
、
「愛欲栄撃はつねに保つべからず 告まさ
愛欲栄撃 とは 五欲
に別離すベし。楽しむべきものなし」
ての老若男女が持っています。自らが食るた
、
憎み嫉む心から生ずるもので
、
めに 自ら憂い悩み箸しんもいます。
次に怒りは
のです。 一度争いの心が起きて怒りを発す んなこ
物惜しみをして互いに助け合わないからおこ飲食と名誉欲と際限欲との五
つの欲望がさか
・る
かりに桐切ら
れた
、
は
これが次第に大きくなって怨みとなり
ると
であるというのであり
、
ます。しかも-皮相手に対する怒りをもてば
これを得れば次に は これを失う苦しみを
い
、
その怒りは心から消ゆることがないでしょう
長い寿命と悟りとを得ること
ることができ
さて
ばなりません・
、
体験しなければなりません。五欲によって得
、
そして第三の尽きについて 経典はこう説
がでます。 それにはまず悪業の内容を知らね
、
られたもの は 決して災の楽しみではありま
、
いています。 そ の第一は 普いことを行えば
せん。
「人世変欲の中にありて 独り生じ独り死
、
梢甘い結集を得るという扇風ホn
応同岨じ帽
なを
いこ
、
とであります。第二には生老病死は維でも免
れることができないばかりでなく
考道の開削 し独り去り独り来る。行いに相当して普楽のいものが弱いものを 圧伏させようとすること
であります@そのためにお玄阿古は傷邸し合
すら守られないという生死無常の法則を信じ所に蜜り飽く。-M
自らこ れをうく・代る者あ
、
りません。
五惑のすがた
、
、
第二の悪は倹盗であります。学制問
Aの
柑僻
相情
暗
、
理を守らず 国の法相続や慣留にたしがわず
と でありま
な慈業 に つ いて鋭きます。これが五商店綾とい す。このような人の心の中には真実さがない
、
絞曲刊は更に鋭き進んで 現世における大き おごり高ぶって 財をむさぼるこ
、
ってまで相手を降おうとし 遂には殺ww
にま
ないことであります・第三には割引佐の快楽の
ることなし」
みに耽けて震歌に溺れ 道徳を守らないこと
まさに自分の苦悩は自分でかりとらねばなでに及ぶことがあります。
であります。第四には思震の情や思事の念に
、
、
常に憂い心を痛ませていることで
かられて
、
、
みな同様に散の営み
第五には上のものも下のものも
あります
貧しい人も窓める 人 も
、
、
、
、
そし
自制し 家人が隙めると逆に反目します・他人
互に感針をもってだまし合い
、
妬みます。
現世の修普こそ世帯し
、
このように緩典は 五患の内容を説いてか
、
ところから
、
これを欲して盗心
り
の苦しみを知らず 他人を兄ては憎み
、
管楽では炎瀞をつらねても 内心は嫉んでい
ます。他人の利益をみて
をいだくようになります。自分の放進な心が
他人にまで筈を及ぼすことになります。
、
ら、そ の紡糸の恐ろしきを教え 更に五蓄を
第三の悪は郷田姑であります。自分の婆を敏
、
、
、
てして災励おこらず 圏中ゆたかに民やすん
じて兵尤もちいることなし。徳を出版め仁を興
こして務めて礼柑械を修す」
という平和な世界がつくり出されることに
なります。仏さまの教えが実行されたならば
即ちお念仏を称える生活がゆきわたったなら
いうの
い嫌って 他に婦人と遂ならね関係を結ぶこ 行えと勧めています しかも現役における修 ばこうした理想の能界が形成されると
、
りました。その結訟として次の}節がありま
であります。経典の税法はいよいよ終りにな
とであります。この人は 邪鍵のために常に欽 警は 仏国土において修相官するよりも何万倍
、
、
すれば
、
さに
みな然警を積んで毛都宮の 走れ無上の功徳を是足す。この放に改動たと
知るべし。この人は大利を得たりとす。則ち
、
、ま
都耐震寿国にあって普をなすこと百放って 歓喜踊織して乃至一念せんに
、
は無為自然にして
一家銀銭のものに憂いと するに勝れたり。ゆえいかん。彼の仏の国土
、
しかも仕事に励むことをしません。 「正心正窓にして斉戒・浄消なること一日一夜す。「彼の仏の名号を聞くことを得ることあ
悶し 愛欲のために心が乱れ、自分の財産を という大ぎな功徳があるといいます。即ち
然して
、
あくまで快楽にふけるために 他人の財産を
ねらうようになり
悩みを以て苦しめることになります。
、
他方防仏の悶土において普をなすこ
、
かならず当にこれを過ぎて是の絡法を聞
第四の窓は妥結であります。二枚舌をつか 怒なし。ここに於て轡を修すること十回十夜 いう大火三千六千世界に充満することありと
暗雲や磁のない曾築を吐く すれば
、
も
、
い 怨ロをいい
受持し銃慨し税の如く修行
いて歓喜信組問し
、
ことであります@このような人は父母に孝行と千歳するに勝れたり」
、
そ
、
その中で儲かでもよいから替を修さなく
前帝大にかまえて然絡に峨努を綴 ような生活」をしている現世であるからこ
、
、
大利を得とす。又すなはち線
、
同じこを示されたものであります。
、
念仏往生をうたがうべからず」とあるのも
、
相続せんをや。しかれば穆線なければとて
上の功徳を得ととけり。いかにいはんや念々
をとなふるに
す ベし」法然上人のお飼に「絡に}たび名分
と説いています。即ち「嵐却を飲み普を食う
行をせず 師向ヤ先鋒を創刊演し、友人に信機な
く縦突なく
、他人を 経んずるようになります。
り
、
、
てに
はならねというのであります。
第五の商店は飲酒であります・怠けて仕療
、
、
「天下和順し臼月消明なり。風雨とぎを以
このような仏さまの教化がもしゆきわたる
叫刊を出さず酒にふけり 美食をこのみ 飲
食に節度がなく 我がままな放海三味の生活 ことができたならば その土地においては
をすることであります。そのために家族は図
-18-
伝
道
中
祥雄
回
四月といえば宗祖法然上人の泣穏を偲ぶ御 ァトも三千都稜用意したが二日間に全て配布
、
忌会である。今年も例年のように 増よ寺と してしまった。このパンフレヲトの効
m
おも大
知恩院の御忌会に大正大学浄土宗仏教育年会きかった@法然上人の写真を載せた表面が特
、
、
二十
、
、
、
野中
、
安藤の七者
、
」などと配布係の
。
やはり会国浄土宗寺院の中心であるだけにや
野中世相等大暮していた。笹山での布教伝導は
いただけないでしょうか
くに欲しいといわる方があるのでもう三部組
布教団として出席させていただいた。徳山に に受け て「昨日これをいただいたのですか近
、
白幡 小俣 大谷
、
二十四日の三日間 山門前 黒門と御
、
は凶月二十一日夜出発して 二十二日
三日
、
茶所で伝等させていただいた。
関口は 和国
岡村
、
、
朝は勧行 婦除 午前九時から四時ま
、
、
しかし多携の観光客は会く聞き流して
、
白幡君は 「プヲダンサラナンガッチ
、
」「和殺」などで若い女性を立ち止
今もなお手紙がくるという。
。
仏教大学との交歓会も行なった こうした
、
めさせていた。和田君の独特な性格は大いに
ャ l ミ l
えたし
と私の八人である。鉄百至堂に宿泊させていた りがいがある。岡村宕は「信機信法」うった
だぎ
、
我々のったない訴しでも立ち止まって
で布教時間とした。仏教大学と筋悶であった
が
。
もてて
耳をかしていただける人の多いことには驚い
た
ガイドの解説しか耳には入らない。この解説伝導を更に内容を考え各地に出たいというの
、
が我々の考えであるが 今回も知恩院当局の
、
だけでも知恵院の方でされたら 布教伝導の
方々に多大な援助を終わってからこそ成功で
、
効来は一一殿向上するのではないかと考えら
、
宗内学徒の巡体意裁の肉ょをと考える次第で
、
れるのである。だからこうした現実には百貨 ぎたのである。厚く御礼申し上げると共に
々とした認は効朱がない。緩い絡の中の
一句
、
ある。それにしても布教所で大先議&ん殺陣崎
、
でも耳にはさんでいただければと患い身近
しかも簡単な自分途の体を通した話しが 氏が激励に来ていただいた。これ稜カ強いこ
、
とはないしこうした活動が近年少しずつ認め
い勉強であった。近年本会を作ったパンフレられてきていること穆うれしい事はない。
うけたようである。それだけに苦労も多くよ
な
1
9-
、
、
、
た
明
自分の六十年の生涯をいとおしみました。
純
読 者の便り
、
、
、
一月 二月は 全く不快でしたし
化学療法が行念属いたというもの
、
、
微熱が上下し 何としても おさまらず
り
十二 月
やは
、
弱い人は死んで行くので 私も時々 l
、
、
、
、
どうでしょう
、
よほと惣しそうに下ばかり向いて 遭うよ
うに歩いてる人だったのに
、
私が再入院して見ると獄 も薄化絞をして
e ちんとした容療で
、
、
、
、
N
と管回ったら「創M
、
「おばあさん 随分 M
サフサッと風を切っ M
て歩くくらいの快さ
よくなられたんですね」
M
、
価学会入信のおかげですよ」 とにこにこ
M
、
もう三月までに M
、
時折おい しい然物などおすそわけし
して
てくれる。おばあさんは
っていました。お務りしてくると九一層体 叫
、
三度大石寺へも間参に加わって有り鐙か M
日
、
どこかの室で
お話会があ M
、
九時の消燈時間まで びっしり 日
、
が経くなるんですって。
るらしい
大変だったのです。前に申し上げたような心 遡に一回は
は
、
、
、
}人はインテリで報湾関係の仕事の人一人 話し合って楽しそうです。これまでは弘も 日
銀座に鍛さんがパーを経営しているとい 様いませんし 人織のこと故、何の授陣り日
、
細 い気分の明容れの頃 私の両隣の病室は
、
20 ー
っ
、
のを体験として硯いたような「孤独のどん
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
んで行くのかも知れん」と胸を撫でては
戻り忠者ですが 以前酬は とてもとてもよほ
、
、
、
、
それだけではありません
、
、
、
夜中にでもほそ
、
『
た由
おばあさんは
底」という時聞を持ちました。やはり
私が-昨年第一期入院 てるようで その頃から 時折り不眠症に 日
「自分は このまま少しずつ悪くなって死 している時の患者で、やはり一度退院した出かかったりし初めたのです。不阪の原因は
m
で
この頃の胡朝日新聞の井上婿の小
「化
説石」 う私ぐらいの年のおばあさんですが 実は
もないのですけど
時折 弘の隣室が座談 町
のように速くではあるが
「死」というも このインテリ氏は弁舌樹円やかで創価学会の人会の場になった時などは 全く安静どころ 叫
入院以来既に何人か 入信の手引きをし が 暴風よりも私に取っては心の荒波を立日
の
-
私にも不動心があ
、
田
今年三月へかけて
の余波が やはり前からの左肺に影怨して、 そのよ、その去年末から
私は昨年十て月得入院した。以来 肺炎
上
、
、
、
そうい
ひょっとして今夕も
そうなって来ると
B でも
、
ぼそと続四般の戸が聞えた夜
り明け四時ご
ろに聞えたり
うことのない
、
って
ハおば あさんは
、
、
、
御示知のように 昨今は創価学会も 折
、
、
やんわりやんわりと
、
、
フルフルとよくなって
ら心をかき乱され た のですけど
不思議に
、
心の底まで動揺しな かったということです。
、
、
、
そこで符応 私は符えを巡めました。こ
ういう仏教的環境は、突は少くとも日本中
にみなぎっているのだ@私は今年
は じめて
、日出の・、営
で 、 テレピやラジオでなく
鎌で
よ
う
あれだけでも仏教は大し た
、
倉五山や光明寺の錨などを涙ぐましく聞い
、
葬式坊主でも何とでも言われ
たのでしたが
、
、
ょ う。
が やはり伽獲仏教の中に 何かが綿々な
入信の孝わ なぜ私は こんなにもドァシリ稼えとられる ものだ
、
のだろう。宗教的な者の精神に関しては少
、
「死」をかい しも動揺しなかった。私は浄土宗の寺で育っがら生き続いている それは何でし
、
伏などと無理強いに釆り込んでは釆な
いの
です が
せを教えるのです。
、
お仏飯で大ぎくなった人間です。丹羽文
、
み震ねだと私の思考を結論付けました。長
、
「歴史の積み怒ね」 そうです。 鐙史 の秘
て
、
間見るような真剣な時、灘 にでもすがりた
、
雄か縫でしたか何 かに書 いていたように「小
、
いような病人である時 この田園ぎは私が
さい時の脱付け って大本なものだ。のの峨と い庇史を持つものは 意味なくして存復す
、
、
、
ものは何だろう どういう雰図気か 営業
、
会く
、
、
私はその巡りだなと これは設に
、
、~、,..旬、,植山,..,..,."..,.,、,、"v'、内向、刷、,..州、N、,、州、,、何、^^'、,、伊山"'^^""^'" ム ~、^^'、,、,..,、,、M幡、,、何、九
、
、
、
m低にベヲトのよで合併かし
い 弘は -n紫
、
あちこちの寺々を心に帥meながら災自
、
、
、
までお円く 若葉の燃は晶状く コジ
ゃべりをしてしまいました。
、
、
りに埼く庭前が 消々しいので つい長し
Aケイ朔
刻な体験だったのです。信仰なんて聞かれた元気を取り戻して 今綱相は鎌倉の盗は飽く
、
私に取
て
、
でもあるかも知れないことですけど
、
無知だから すらすらと受け入れられ
か
しました@おかげで三月中旬以来すっかり
、
イトを何が
7
っては六十年の生涯に 、は じめての大きな深
て
あのフ
ら何にもないと昨日わざるを得ないグ
l タラベ
ない。それにしても
与えたのだろう。仏教でもキリスト教でも
ーです。だのに
こればかりは硲間不動心な
そんな速効蒸があるだろうか。まあ、一応
のです。
、
は創価学会も偉いもんだなあと思いまし
、
おばあさんには布効だったのかも知れ
が
容でした。
いう心は どんなになっても身につき細って るのではない それだけの窓綴があるから
私は あのおばあさんの元気を蘇らせた いる」というような怠味だったと思います こそ殺されないのだ。それいい それでい
、
宗教的無知だったら とっくに引っかかる
何事もなくてさえ 病弱
、
ほっとしてから再応考えることが起っ 除夜の舗測を喰独りぽつねんと鎌倉の病窓
、
私は おばあさんが退院して少し静かにな
三月中旬退院して行含ました》@
。
何となく私の点も痩せるみたいなんです。たのです@-|私は あらしのように隣室か
またそうかも知れんという不安が起って
fニ
さい
、
。
.
、
、
g本のどの地方に行っても
。
終始 日本の閣の発展に大きく役
仏教はいろいろ形の上では変ってき
、
、
ります.
まず
、
さかのぼ っ て 仏教を聞かれたお釈
、
る官業の中にも 仏教からでたものが沢山あ
、
必ずお守を見かげます。また 日常使ってい
わたしたちが
立ってきました。
ましたが
そ の問
渡来してから およそ千四百年にもなります
。
、
、
、
カピラヴ
。
フ
ツ城の首
お父さまは
れ ながら
、
あらゆる鴎媛をのりこえて 仏陀
、
、
〈〉仏教の線本のおしえについて
をもつことがでぎるからです 。
の先成に到迷で怠るのだという 自覚と理怒
、
お釈迦さまは いまから二千五百年ほど
《さとれるもの〉となられたという務突から
インドのヒマラヤ山の南側崎カピラヴッ
わたしたちも
自分たちの努力によって人格
、
泡さまについ て 少しおおしいたしましょ
う
前に
ナ王といい
l
ツ の町にお生まれになりました
シ ュド ダ
、
長として人徳の段かな方であり お母さ ま は
7l ヤ夫人と巾・しました。
、
、
、
ついに慾を決して お械をすてて修
。
バラモン教をはじめ
ったのでした
、
、
よ
l
、
タマは
、
それに納得
、
人聞 が今日を
、
それほどむずかしいものでは
自他の人格完成に向っ
、
どのように生含て行くかと
、
いうことを深〈与え
、
、
労資の問題 対 人
、
いまも品目もとかく暮しにく い も
て修行していこうという教えなのです。この
、
ので す。国と国との問題
って →魂が油川められるという教
世の中は
、
ありません。
生老病死の人生の現実に泡過して 根本は決して
お釈泡さまの幼名はゴ l タ 7 ・シヲタルタ
仏教というと なにか奥深くむずかしい教
なに不自由のない生活を送っていた えのみのように考えられておりますが、そ の
といい
、
のですが
煩悶し
行の逝に入
当時のインドでは
、
お釈迦さまが
、
一例 の人間として生
人びとが正しく生をねいていく
、
、
どのように考え どのように行動
になったことは
お釈迦さまのおさとり
すべてを綴っています@
、
、
ったらよいのでしょうか。
、
って
りひろげられているのです。 そ のような世の
、
六年にわたる修行のすえ 関係など 息.つまりそうなお藤が際限なくく
、
、
中にあ
してい
釈迦総出身の噂者として 「釈背骨」ためには
、
、
自己の心の深奥を探求して ついにお借
、
るのは
「お釈淘さま」とお呼びして敬い綬しんでい この問題について
と味ばれるようになりました・わたしたちが
そこで
りを聞かれたと伝えられています。
に
することがで含ず
えでありましたが。ゴ
することに
因縁があります。欽明天内訟の御代に中聞から 色々の宗教がありましたが いずれも苦行を
日本の文化と仏教との関係は 非常に深い
、
。仏教 に ついて、や さ しくお 路 してくだ
信仰へのみちび是仁
、す べて刻々
「この世にある一切の・ものは
、
互に働ぎあっている」
原文訳文
訳意
、
。,,
。か
、
9
ω惟自在王の
無与等者者あらず
初日延紹明姿に等し念
威初終極威光ある
ω光師側鮒隅
々
先bh
仏
@
は、宇宮人生を賀市制いているのです
、
、
こうした
その 一 l
、
、
お釈迦きまとおなじ最高の人
a
czm
B も月も
俗世相猿儲邸のごと、
しょうか
化 a
、
、
王の御威光は何時でも 何処で
、
あります。
、
、
、
、
《作目林〉
、
、
ャ
…
道理にかなった生活 たくましい生命の息吹
。
正党大音覚りの御惜戸
帽世流十方般に苅し
、
並ぶ者がいないのは
、
同王の腐しい御Mや
F御姿は 俗倣聞を趨抽問
山
しておりますので
当然でございます。又 、王の御借りから一
、世
来る総仰の御
戸界は
…
の隅々(十方〉
va'
、
開含て
bt
い
、
a『
ん
ん
にまで向く縫いて 、人々に強い感銘を与…
威徳熊侶希なる徳を
之除制官忠行を桜み
削減聞納泡川向教
えておられます。
光りを隠して畿と悶織であります。なぜで
、
、
ω摩尼の袋珠も
久
ωnMmの申晶玉も日も月も王に対しは 品目
ー
士ロ
同日月拶尼
珠光昭郎
定
品目悉隠厳光りを隠して
問
、 fJ-J
、
ざいます。王に悶じ益をした者は
紘一人もいないでしょう。
-22
〉ミ
J
・
、
、
、
J
、
.
同王の御願は
ダないからでありましょう
間如来容孤
E
、
それを只営御実行なさいまして、
希に見る殊勝な徳を備えられたからですd
。
になり
、
~
ω従自在王仏よ 王の・:蜜厚で・:御威光にも 捻をでも照らすのに 日は霊だけ 月
殊勝希有備えらる
溢れていらす御姿は 実に背骨い極みでご は夜だけ 申晶玉は共の場所だけに飢くに過
ωというのも:王は普て数々の教ι御
vh
間ぎ 九
、
超依然倫麗しく
格者となることが、おきとり《淫祭紋静〉の きを送りたいとおもいます
て
された この「法」《真理》 わたしたちは
仏教をまなぶことによって
と移り変っている」〈諸行無常〉「この世に お釈迦さまの-m
家庭に 、験場に 街角に 明るい匁閥気と
自分だけのカによっ に随順し 自己光成一と努力することによっ
あるものは一つとして
、
て存在しているものはない。すべてのものは
常に因縁によって
歎
世自在王仏を歎え奉る詩
現代語駅
.
明原
地に
ハ諸法無我〉ということで、その叙本崎
の
理巡する仏教徒としての普遍のねがいで
…
偏
イ也
- 23 ー
,・
電車
",'、
-. . .... .、~・.,、.'、.、.・、.、J・00'、....~..、沢、.、.、.,
.
.
.
..
'
.
.、.
:
.
・・・・圃~・
家 康 と
黒
•
尊
田
湛
泉
本
、
、
ますます跳畑加をほしいままにしていつ来て
「ハイ、米だだ火の手があがらぬとは不
るとも計り知れない家中の紛糾を一挙に終 思緩でございまする」
、
、
、
忍びに巧な甲費者の深沢九八郎脅山虎
、
、
とて、しびれを切らした家康等は
手を袋し
手は一向に移らなかった。時刻も移ったこと
、
処せしめるためには、一撲の本拠である佐崎 「まさか 敵に裏切ることはあるまいに」
の崎市を焼き払うにしくはないと決断した家夜
康が更けて寒冷が身にしみて来た
火が
の
は
之助の両名を招いて
よ
一格柴をうず宵向く積んで将に火を放たうとし
首尾よく寺中に忍び込んだ深沢
は等
、砦に
火があがらなかった理由は
、かうであった。
「手段を総じて上官寺に忍び込み、袋に火うして岡崎城え引きあげざるを得なかった。
、
を放ち それを合間に・本拠を崎
し明
て滅
くれ
、
、
夜襲を企てた家康は時 途錯 夜廻りの者に発見されてしまったので
秘かに命じた。
、
うぞ」
と
十四日の夜のこと
、
、
が、多抗野に無努所絵かなわず二人ともあわ
深沢等は勇敢にも多勢を相手に戦っていた
自忽を放をつらねて二人を取りまいて来た。
、
隊伍を組んで夜泊りをしていた太図党は
、
何時でも攻職事に出られる態努をとと「おのれくせ者 それ逃すな」
刻を計って手勢を問中いよ宮島寸の近辺に身
をた
ひ。
あっ
そめて
、
・
のえながら簿夜の冷をこらえ 火の上るのを
今やおそしと待ち栃えていた
、
「今夜こそ、一授の奴肉離に目に物見せて
くれようぞ」
、
、
に両名の行を獄門に長け終ると
、
あけて十五日の未明 一二反畑というところ
稚れの劃にも 並々ならぬ決意の色が現わ れなぶり祈りにされてしまった。
れていた。
、
数人の一撲の
、
武士が引き上げようとしていた@
口々にあざげりののしって
待ちくたびれたように石川数正に 「仏敵の最後のあわれな婆を見よ」
ところが、火の手が仲々あがらなかった。
家康は
戸をかけた。
「数正、おそいの?」
-24-
挨
‘
河
-・
--..6
.
相図の皐・や鈎を聞いた家印、
刷昨
は夜夜祭の
この時、たまたま上宮寺の動抗野の偵療に釆 た。
、
ていた波り村の烏弁党の鳥井久兵衛の家臣
鍛子家の辺りに来た時、いつも家康の出篤
兵を率いて渡り村えと急いだ。
今日は何程のことがあらうかと、僅かな綾
と
、
只一瞬 、真一文字に桑子の妙源寺を目ざ
して駒を走らせた。}授は尚も執嫌に家印刷を
、
、
、
、
藤 高木 長坂 神谷等
「殿を守れ」
、
妙源にたどり渚くと さ寸に待機していた安
小谷後左宕門がこれを眺めむかっ腹を立て、ためつれて行った精兵は休養のため残し置き追って来た。
ιng
「他念奴原の仕業よな」
、
災っしぐらに馳せよると 万を抜いて忽ち
二人を其の場に切り伏せてしまった。
がらんとした人気のない本堂に入
、
指をし倉りに
、
うしていいのか途方にくれた気持で未だじ
、
って仏像前に端座したが さすがの家康もど
、
ほっとした。
、
震い来る一安を防ぢ戦った。
と
、
してくることを知り抜いていたので 待ち伏
、
小谷の勢におそれをなしたのか 残る連中
四人五人とパタパタ射倒された。一
、
妙源寺の広い寺内に駒を入れた時家康は
、
家康は「いざござんなれ「と 矢つぎ早ゃ
、
せていた-授はmm
い魂となって袋って来た。
此宕の中に遥げ込むと門を
、
は彼等の
は一一放に逃げし
出てしまった。小谷
跡を尚も追ったが
、
に矢を放った 。日間引練えた院は稽かで見事に 家康は
巡中し
、
りじりしておちつかないのか
、
我れ知らず仏の制厳な籾好を仰い
醐咽んでいた・
た。
、
仏の相相好を仰いでいるとぞうっと冷いも
、
のが背中を走り 自分など吹怠飛んでしまい
、
、
専修寺派の巨剰 妙源寺
、
そうな小さな存在としか 思えてならなくな
って釆た。
それもそのはづ
25 ー
閉ざしてしまった。
「内線き者共の有様ぞ」
攻勢に転じて来た。
門を閉ざされて仕方なく、小谷は径の内え 授努は一時恐れをなして退いたが 機を見て
ののしり怒鳴った・
、
「ほざくな、おのれ、神ほり村え押しよせて 家出械は内匁をきらめかして旋風のように
、
内局弁党をのこらず肘ち取ってくれようぞ」 かけめぐっていたが 今日制中いて釆たのは軽 やがて
、
々にいためられて来た。
、
、
「今日こそ 家康の息の根をとめてくれよ
本専は堂内を圧するような荘厳きであっ
銅剣返えしに、怨の中でひしめき厳ぐ戸が 率のこととて 次第は手兵は斬りたてられ惨 で貌線をこらして、曾くじっと見つめていた。
聞えた。
。
驚いて小谷は神間り村に仰ると、鳥井久衛門 このお様に
にこのことを 告 げた
小谷に二人も対たれたこととて、一授が仕
うぞ」
、
返しに打って出て来ることは必定と患った鳥 叛徒の制叶は家康一人を目ざして剣をそろ
、
井党では かねて申合せの通り近くの桑子の えて来た。
妙原寺の早や鎗をついて急を岡崎誠え知らし 身の危険を感じた家康は馬の首を立て直す
•
-
•
、
、
、
、
、
一焚側の伏兵に逢って敗北を喫し制帯開制逃 「起て !
起て家臨時
!」と夢幻のうちにお
ここで砕けてはならね」
、
、
「識きを眠うて ぬげきを欣う」「そうだ
更に一撲側は家出械を包図し告を叡いた思いがした。
、
は文字通り獅子宮迅の"で
てしまった。家山酬
一刀三礼しながら精魂 れようとすると
の本尊 阿弥陀如来は 平安朝の初期 比叡
山の感心僧都源俗が
こめて彫まれた共予であった。
幼い時から長い人質生活を余鵬首なく送って 戦いからうじて包闘を突破することが出来た
、
逃げ込んだのであった@
、
、
、
に対し この世の汚濁を清め給え 円満なる
、
解決を与え給えと切なる祈念を込めて掌を
坊の僧を初め門前の者共を狩り集めて河原援
合わさずにはいられなかった こと であろう。
この時 消性寺の寺僧叙玄は 寺中の十二
、
は、荘厳な仏像
来た家康に取っては 人生は決して順風滞杭 ので 、と もかく菅生の満州性寺〈専修寺派〉え かうした叫副総な気持で家康
心の償まで知らされて来ていた
、
の臼ばかりではない。人生は決して甘いもの
ではないと
、
骨肉相喰む戦国の乱世のこと故 自分
、
おそらくはせっばつまった気持で 五体授地
ので
を閉め一援を級事退したた
、め
一 命を党うする
、
の家中がニつに割れて主君に逆うのも無理な
、
大樹寺の登楼天箪上人から
、
、
敬皮に祈ったの
して一安退散と領民安泰を
かつての目
、
、
、
妙
を4
このnHa
僚の与え寄進
家康自身の生涯の守り本尊
、
源寺之殺奮を送り
とも云われているが 三月サニ図のこと
きればこそ二俣平定後 永機八年戒は九年
ではあるまいか。
ことが出来たのであった。
、
、
市も問問じ家中の者悶志が
父子兄第一践
、
主君と家臣が戦うなどとは 何と患なこと
か
、
、
家康
、
、
、
江戸の芝増上寺に安置され 世に剛鳴・本尊と称
、
かの関ケ原合戦の終った銀波長六年十一月
れて
の獲持仏として持仏裳に移出品
さい たが
かうしてこの仏像を関崎械にm じて
態宣したのである。
として綴り受けたい旨を切実に述べて 点すに
現ではないかと 例制泊たる気持にならぎるをするのではなく
得なかったであろう@この既われたる争をこ
と
、
与えられた阪総掛土欣求浄土の放の文字が
、
いかも知れない。これが我が身に神仏から探
、
せられた大きな紋錬と じっと粛を食いしば
、
ってこらえて来たが いつまでもこのまま一
、
、
、
授との激斗をつづけてよいものかと反省さ
がそれぞれ敵味方と分れて血みどろになって
れて来たことであろう・いや、早急に一撲を 戦っているなどは まるで保元平治の乱の再
切歯したことであろう。のみならず
、
惚伏することもなし得ない己がカの余りの溺
さに
、
こんな獄地にまで追いつめられて、自分の一れ以上つづけていいものか いや何としても
命まで危くなるとは何としたことか、而もそ早〈終らしめたいものである。それにしても
、
、
上和田の大久保党と 本
身の毛のよだっ思いをしたことであろう。
、
、
んな危急な時がこの前にもあったではないか早や絡も根もつぎ来てようとしている。する
と
この正月のこと
、
の前に浮んで来た。弥陀の尊像に され背骨ばれるに至ったのである@
g
ちっと騒をこらして祈念していると
多正nwを将とする一安の回収の時の授が身の危
くっきり
うかったことが回想されたに違いない。
26 ー
-
無媒随録
、
隆
イ山
4
、
カ量を試してみたいという
、
、
うすることもでをなかった
ω
なよなよとして
合っているではないか
a
、
だんだん聞いているうちに その人たちが
、
いまをときめく某新興宗教の信者たちの一聞
段紛な焔じの一老人なのだが、それでいてこ
のひと一人のために箆全体がパツと明るくな
、
「ェ l」 「ア
はどこからするのですか」という質問があっ
さまざまなおの中に「入閣が成仏すると・舎
であることがわかったのである。
この人がた
つた
って いるようであ った。まさしく それは 王者
、
の民秘とでもいえるものであった也
側に一人の老婦人がいて
、
l
あったが
、
「手からだな 手からき含に成仏
するのだよ」というのであった。
、
」といって盛んに即答に図っているようで
-人の従者であった。その婦人が奥織なのかた。長とおぼしき巨体の男は
それとも信者の-人なのか、弘には質す必要
もなかった。
る。ガッチ
リとして匁人を息わせるようなル枠
そ
、
、
いろいろな人たちが交 玄に
、
この人のところにぞって含て 真剣になにか
一瞬私はハツとした
。
U
成
仏が
M
信
仰がどうの H ということを話し
、
聞くともなしにその会話が耳に入ってきた
一目先生の相貌に祭す のであるが
H
っそうおかしか
った。
、
mw心といったようなことを忠い起すと命
せられたと念
、
、
、
人聞は子供
人はたとい一人の老婦人をよ
、
り従えておらなくとも 王者なのであろう
。
それに反して 信というものの極限が間入
キ大将のようなものである。
、
者を引ぎつれていても それはそのへんのガ
のようにたわいがないのであるえあ昏の信
す。信じたつもりでいるときに
、
の悶刀は恐しい献酬をして私をにらんだ。弘には
、
私の紛がゆがんだのか 区体
札幌で講演をした@そのときの議師 もう十年近くもまえのことであろうか@汽 私はおかしかった。吹容だしそうなのをが
、
、
、
物を射るような阪をしている。しかも それがい
、
。
れらが一つのグループであることは容易に知 私はとぎおりこのE体な人のことを思い出
っており
八十歳を掛悶えた今回、いまなお盤
その付近に中年の児女が印刷をと
我意深先生と並ぶ大谷派教学界の窓 組で
的w
、
、
反到
、
、
全く恥しい不遜な考えであった・
風情がないでもなかった。いまにして思えば を縫っているのである。
あったが
そのような偉い方と同席するのは恐怖制でも
長であるらしく
飾品棋として活回附している著名のお方である
。 体抽仰のいいこの人はそのグループの
れた
艇として 法談に著述に余日なく阿倍同行の
む・
鱗であり
授で
金子大栄先生といえば 大谷大学の名営教
が私と金子大栄先生とのこ人であった。 取の中で弘は田持織な人物と同席したことがあ
まんしたので
まれて
昨年の夏 真宗大谷派北海道教務所から頼
藤
私はたちまち いいよのない感激をど どうの
、
控室で会ったとき
るや
- 27-
須
み
ん
、
高
まるで人間わざでないようなことをやりあげる自
上人の日々のく
橋
小
ま
、
って
、
その-つ一つの深い
尚 一層、法然上
人 の偉大な人がらにふれること
弟子の法蓮坊というのが
、
、
、
ょ
またさっ
ちりとりに入
どうであろうか
それをみつけて
、
い」と早速法然上人に申しあげると
、
法然よ人は
、
きの蛇がまたもとの机のよにいるのである。「これはおかし
れて投げすててかえってみると
、
というお経の講義をしていたときに 机の上に小さな蛇がい
、
法然上人が比叡山の県谷において 拙中厳経ハけごUんC う)
たとえばこんなはなしがある。
になるのである。
意味を味うと
ぱなしを過してあらわすことであ
さしえ
霊感奇瑞のこと
、
であるとでもいうようである。まこ とに 宗教を履きちがえた
人のことばである。
、
宗教は決して奇蹟ではないのであるが 信仰の心がすすん
でくると
、
、
造 和
然
ことも起こるのである。すべてが信心の極地によって生まれ たのである。
てくることなのである。
まことに法然上人もそのお一人であって
一つのたとえ
健
法
らしのよには実に不思綾なことがよく起こったのである。
、
良
の
信が湧いてくるし その人間わざを釆り越えるような大胞な
さ
林
な
ある宗教の人はいう。宗教は奇蹟を起こすと 奇蹟は宗教
i 話 i 続 ;
それはいわゆる常人を越えた上人の人絡を
- 28 ー
j 絵 i 連 i
一
.
・
‘
‘-一
・一
一 .
. ‘ 、
•
・芝今
一一
』
-・店面画面回.
.
、
h
ー,r"
、
って
、
それを捨てることをやめさせたのである。
これは都中厳経を守護してくれる竜神である
とい
。
って救われ
これはよ人の獄中厳経のおはなしに竜神も聞き入
たことをあらわすはなしの一つである
またこんなはなしもある。
って
その峰が高くそびえていて西の方に広
、
法然上人があるとき夢をみたのである。
大きな 山 があ
、
その河原は長くつづいてっきるところを
そのとたん裳
っ
くのびている。その 山 のふもとに大きな河が流れているので
ある。
その水はあおく
しらないほど拒々たる景色のところである。
、
この公色のところに大空に紫色の雲がひとひらとびきた
ってくるのであるが
、
鶴鵡 などのいろいろな珍らしい烏がとび出て
、
なんともいわれない光が放たれて その光のな
孔雀
、
て法然 上人のところにや
、
のなかから
かから
、
大空に散るようにとびまわるかと思うと河原におりではた
のしそうに散歩するありさまである。
その
〈
ももどり〉
、
っぽりと
ったろうと思うのであるが
たのしい音楽も聞こえたことであろう。百烏
のさえずる戸ものどかであ
って
その容のなかから一人
、
この山のあたりをす
なかに紫色の雲がひろが
ったときに
、
かくしてしまうほどにな
m
u
、
腹より
腰から下は金色の姿なので
、
、
の州市があらわれて法然上人の前にやってきたのである。
、
、
おどろいた法然上人は その他の姿をよくみると
上は量染の衣をまとっているが
ある。法然上人はおどろいて
、
その僧はにこやかなまなざしを上人にむけなが
「あなたはどなたさまでございますか。」
と聞くと
、
「わたしは店の国の替導大師である。」
とこたえたのである。更に法然上人は
「どういうわけでここにこられたのであるか。」
での二人の会見は
むつかしい学問的なつながりをこま
、
そのおしえは非常に接近している
この夢物語りで普準大師と法然よ人とは
、
法然上人と議場大師のゆかりをあらわす
、
、
一つの方法でもあるし
ごまと述べるより
時代的に距雌があっても
ことをあらわすためのものである。
、
半金色の聖者という 半分金色の衣を
、
そこで法然上人はこのときの夢のなかの善導大師の姿を一
つの絵にあらわして
この半分金色の獲得大師の姿を絵倣な
稽た替線大師の姿をつくったのである。
、
彫刻なりにして、脇 壇にまつるようになっているのであ
、
浄土宗の仏壇には
り
、
それぞれ吾が家の仏壇の信仰をあけて
この品開をおが
、
るから
、
とたずねると
んでもらいたいのである。
こうした霊感は法然上人にかぎって数多くあるのである。
「あなたが臼本の固で南無阿弥陀仏のおしえをひろめてい
るのでそれを実際この眼でみるためにここにあらわれたの
いづれも法然上人の心の移
、
、
顕のま
法然上人の身体がまるで前二ういた
、
そのなかでも九条策実ハかねぎね〉公の
りゆく姿を一つの具体的な事像にして世人にわかりやすく語
、
ったものであって
この店の警導大師がこ
さて
民ノ。
mU
これとても上人の偉大な人聞をあらわすための表現であると
っているようにみえたということもあるが
、
そして蓮華の花びらをふむように その上
屋敷で税法したときに
、
明らかに法然よ人のおしえが
、
、
その一つ一つを味
、
ってみると
である。 」
はここで終わっているが
my
、
といってその姿を消してしまったのである。
こにあらわれたということは
この夢のなか
わりから光が放
店の国の替相時大師のおしえによって出来あがっていることの
ように
、
証拠であり あの比叡山の図書室でみた。
、
一心に仏の名をとなえると必ず救われるというあのことば
を中国でひろめたのは移導大師であったので
- 30 ー
ら
ご法語をいただく
、そ こにm速
つまり葱道門の経典は
mな法門
、
減し去ったのと同じであるといわれたことで
が説かれているにしても 現在の世の中には す@翌道門の経典と浄土門の経典とを比較し
このことを
、
経巡滅尽と申し
、
こうしたご法総をいただくのには
、
、
こちら
ます。人生をみつめ 真面目に考え 自分の
ん。こうなれば当然のことに深く自分を反省
、
ました。 ここに百歳というのは 形容詞であ
実態を知ろうとする心がなければなりませ
、
って憂い期聞を示し いわば永遠にという意
味であります。
、
、
徴になっています。従って法然上人は
、
この
、
たその通りであろうと患います。しかし一度
と信じている人は数多いと思います。事実ま
、
とは正しく 自分のカで人生を築くのである
無量婚経の説法の一つの特 ります。自分は賢明であり、自分の匁えるこ
このご却は 特邸山此室内ひとりこの絡を留 することになります。これが第二の地中備であ
、
正直な心であり
けを後に残して 衆生の救われる遂を示守口れ せん。その第一一は誠実な心
側にはそれだけの心の縁側がなくてはなりま
、
て、そ の普通性、そ の永遠性を鋭かれたので
これを体制吋できる者がいないというのです。
、
経は先に減す@放に経泣滅尽と これでは経典があってもないのと同様のことあります。
狸逃門の柿
m
いう。浄土門のこの緩ひとり留まる@放に・
比るわげで
にな
他の経典に示されて
、
住首放という@まさに知るべし・夏巡は機
縁。しかし仏さまの慈悲心は 念仏法門だ
ます
浅薄にして、浄土は機縁深厚なり。
ハ選択念仏本節祭)
、
最て
後にこう
釈尊は無量紫経を制肌き終、っ
中されました@
、
「世の中が末法になって 」蜘百円結もなく持
める》といって
妓もないようになると
、
、
いるような解脱の遜は行いたくも行えなくな 一節を引用して 型遊門の経典は 人々にと
るであろう。しかし仏さまはそれでも一切の って縁の遣いものであり 浄土門の教えは今
、
、
こ
衆生を救いたいという怒悲の心があって
時の凡夫に最も因縁が深厚であるとゆされた生死の問感 無常の実態に広衝したならば、
自分の能力の似非を思い知らされることであ
わけであります@
、た だ-っこの級 l
の心を満足させるものは
、
りましょう。維でもが超人でもなければ宇宙
、
、
、
これをその巡りに突段し体得する
、
て経由開を信ずる心になるのです。そして第三
形なり字句なりだけが あるに過 gません。反省と自覚があって初め
、
必ず倣を利議すること百歳に及ぶであろ た。ただし重道門の経典は消えてなくなるわ究めても 怒恋心があっても 設もが凡夫で
人でもないのです。この点からいかに学聞を
無企業後 l で示した念仏法門があるのみであ しかも綬典に経巡滅尽とある句に対して
る。念仏法門はすべての解説の道が閲されて重道門の滞緩は先に滅すると明言されまし
も
、
、
、
者が緩く械にしかいなくなれば その級山内は の単備は経典を紫底にいただく心であります
あっても
念でありませんから
う。従って将来 然生がこの相続品開を統んでけ
、
仏をするならば 衆生の廊いに応じて 浄土
に往生することができる」
31 ー
-
ー
いつも
、
罪とがを除 いて幸福を得る徳
珠
、
、
さえ
さわやかな快
、
、
界をかさ
人聞 の生活のなかでの感情も 起伏のお
。
毎日くりかえされる生活の中で
。
適なときばかりではな い 重 苦しさを感ずるような
ない 一日もあ る
、
し ようと心がけながらも
おい 一定しない不安定なものである。
、
お互に 普きことを
わが身をおもうのである。
、
生
ただに 観
いいし
とき
ねて生きている場合が多い。それは 世間の法を犯すとい
、
、
現 に生き
、
信仰の
本当に安心して、人 生を
、
出発する。信仰の生活は
、
支えを感じとることに
この心が
、
、
うことではない。人間の本位をきわめて反省してみ る
罪ふかき
、
より
信仰の生活は おのれの罪ふ かきに胸ふる わ せ
れない不安のな か
、
念的な遊戯で はない。あすの命も わ からぬ
活している。この身
つきすすんでゆける カ を
只に外見
も っとも共体的なかたちを通して身についてゆ
生活がある。
、
、
上のかぎりを意味するのではない。まことの形ちを過して
、
、
、
、
まず第一に 念珠
み仏さまのみ前に賠でる
身につけるものに
きよめられた
其突のこころにふれるのである。
、
威俄として
、
わたしたちは
とき
。
、
、
心きよく豊かに しか
、
知らず知らずにつくれる罪を百八かぞえて煩
、
がある。珠が百八ある数珠とか 浄土宗独特の日課数珠 な
どがあ る
人間には
悩という。そのまよ い煩悩を減し
、
、
浄土宗のニ速の日課
数
お念仏の信者が 毎日称える念仏の数 をかぞえ
、
、
、
、
、
二
、
邦を減して
よきまを得て 正しい眼を聞くの徳
お念仏のたすけとなる徳
三
心倣乱せざるの徳。
、
、
も散乱しやすい心を しっ かりと信ぶことを 数珠はおしえ
、
てくれる。
むかし
道業の地進のために作 られたのが
。
と った、妙好人 の人たちの生きた信仰 の生活が
、
珠である。知恵 をめぐらしてお念仏にはげみ 生きるよろ
こびを味 い
まことに世帯く感じられる
、
つねに手に念珠をもっとき その功徳に四つあると説か
れている。一
、
傘徳を得るの徳
四
の手引
仰
それは
、
くものであろう。前は萩厳より という言築は
信
念
句。
編
集後
記
、
マ 市閉
ベトナムの緊渇した紋
情不安俗図ったものである
かつて大正大学へ留学し
品叩認に絢
't
、
で 特に 一般在俗の・方で非
常に熱心な会ぬがふえて V
ょ
う。などといるい
る。目世非信仰波
磁会 -m神間
会を月々悶 Vて欲んい。掛附
土税者百万人偽加速勤の展
開走し
V る。
将来 に対す
、
株 をあらため
P
つわる悶
殺した
、
動がよせられて
〈
て総
機
る
会仏 信仰 は過去 のもので
現 在 よりむ しみ 将来
な
。
ひろまってい〈も ので ゐる
惨土の発展た畑明
い たい
みのど特認をお寄せいただ
いている。統品唱貨
のの 聞 も
、
ませて 祖国ベトナムヘ
マど好滞在いし
していた強弁
由史応師
げ土信仰向棒 飾
の掛
〈ら
そのあらわ札である。抽押川
V
ら く休
、
ザヲ
・
りしば
鮒留したはずのトム
心筋む思
よ
のど総合に
、
声 量ほんとうのカとしてい
仏教学を学び
‘ " l~)!
ク飾の戦火のなかでの彼の
胸中を然ずる時
。
、
いくたの
創立当初にま
健斗に歯応帆聞いしたます
。
円
円
別
七審 3回E 仰
ーエ
会 二式男雄彦円
‘
きた いものです
すませて「た ど きま寸 。箆
マ双闘で刷摘さ曲作た創立=一十上をもちまして、同飾 のど
、
同
v ハ
十
号
婆、J 一
O
月
こー草野自習寸
ノ!ー、 発行 印
τ 五
ハ
岨 銭 で
J
中
人 町
ー
1.l
いがする。早〈平和の紛れ
反容 を土び
定
規
.
4
ノ、
気
日日
緑林
ー よ
・
さ塁随
•
一ー
I
I'
均年記念行務 段
移土の説者の中
、
不さ六金
悩
菜食
一平
年'
月
年 五
年
千所人人人
J:{
東
5
る日た念じたい。
マ乙の領
3捧
読
さ 然 喜
L
m
-
jJ
土
士四土る型E ま品
芸.徳 局印IJ 捌印発行縞築
電醤
丞料 定
<
f争
七
一
一
ー「
ま主
浄
附和 m和四 三m 十昭和
4Z3正除 ・
発行
所
r・ 0
昭利十 隼五 月サ目 第 三掴向山
便崎
物厩 可【毎月
一一圃 -BRn 』
閉拘四 十-隼 五月二十五日町鴎樹脂 内十 -年 六 月-白骨 行
中
.
¥
l
!
}
I
(
3.1
. 生
仏生
人形成資厳椛
き
と成仏料 t33 』lzlまき
る
しに教と 1: のつる
て 74t j〈い :jf
こねと
た
人寸-dj-:fニ拘
」レ.
i ごし、
伝外 数 人 ~t 教 iぶ
3
免"・
b
U I
l 質問陪化大
掲
示範i
.
、4 、.
当主
も
つ
行
c
'
所
:if 人民し舵:ぱ
l
r
、
を
、ー・
し、
ま
"
i.
{
J
i
教
ん道
大
Jヒザ:
( j
l
!
i
千日
北 ff
火{[il
‘岬1 土
世益
だ
J
を冶
こ
:
L
12
.
、
御
•
!者rr
内
、
b 何
1-
人る qすI
の
ちの
6
に心料価判
~
すれJo,~
H
と
'
t
i
.
し、
n
す千
浄土
ト
B
.
.
. !
1
4'
.
し、
•j1止1・人、
刊
の
問
{何
少
八
新
め
の
?こと
もさ
住
1レ
4.
角1
光
嗣
と lこ
ーす従
.
••
本教
jE
し
て
う 教
せ伝
京仏
J務
.
.
.つ
内
じOJ i.
。0 (14
門川口
dZ九
<
一フ
“U れUpa ハ
河内内内向河
、山口ド
引叫判別
第 ムノ
VRHnH
5412
l
香山粁
筒 -T価 T M幽一
T
IJLj 字 の寺 ま いり出訟に議定居
判 3 判判
秀峰蒋
6
村瀬
j皮 め
白川
i
K1ムの
B
[1 f11・2 哲
新日
第三十二巻
-
ト
も のいう ぶ 磁を福竹中
l
号
ク
浄 1:京の年中 ijl jJ・
経本行í- -l-,京都のレつとめ村泊
枚 1包お文をめぐ
tcfii! のはな 7こぱ
)
(
地削
ご法問のしおり
ろを
')!の信仰 ψ<.) ゼめ
ft:7R}子
釘 120門
〒 30門
村瀬
秀雄:箸
120円
〒 30円
使 f*-号車
良守N干
新
.f.J' 顕
秀雄都
B6 宇
そぐ布教官
f,~徒-の方々山
法然 上 j 鎖倒l
AfA
需 ljm
大 I巨大
〈・さ
念仏をひろめるた
て
90阿 〒 2υ円
判堅調
1
6r
側 -T
定価金六鎗円
選択*右、併をIF.大政官竹中
需主任:轟
(移放 '1 1 込みには}
!lnl づ.いたします/
15円
10円