プリントのデータを画像として鮮明にするための問題1 (解答)

プリントのデータを画像として鮮明にするための問題1 (解答)
担当,岡留
【赤字は解答・青字は解説などの説明文です】
(1)約 1 万年前の人類が直面した変革について、以下の語を用いて、100 字以内で説明せよ。
農耕
氷河時代
麦
生産経済
氷河時代がおわると地球は温暖化し,約 9000 年前の西アジアでは農耕・牧畜が始まり,麦の栽培とヤギ・羊・牛
などの飼育がはじまった。狩猟・採集を中心にした獲得経済から,農耕・牧畜による生産経済へと変革をとげた。
(2)
国家が成立するまでの農法の変化にともなう人類の変化について以下の語を用いて、120 字以内で説明せよ。
文字
灌漑農業
共同体
雨水
初期農法は雨水にたよる乾地農法であり,肥料をもちいない略奪農法であった。メソポタミアで灌漑農業がはじ
まると,農業生産力が向上して,多くの人口をやしなうことが可能になった。共同体が発達して階級が生まれ,青
銅器や文字を使用する国家が成立した。
【1】
2001 年 南山大学
経営学部
先史~古代オリエントに関する下記の設問に答えなさい。
(1)
つぎのうち,人類名がその出現順に正しく並べられているものを選びなさい。
(ア)
ホモ=ハビリス――ネアンデルタール人――グリマルディ人
グリマルディ人=イタリア西部のグリマルディ洞窟遺跡発見の化石人類。同遺跡では 4 洞窟から
10 体以上の人骨が発見されたが,その上層から子ども 2 人と老年女性,それより下層から成人男性,最下層からは
同時埋葬された老年女性と 15~17 歳の青年が発見されている。上層・中層の人骨は,クロマニョン人に似ているの
にたいし,最下層の 2 体には現在のネグロイドに類似する特徴が認められるところから,これをグリマルディ人種
などと呼び,クロマニョン人と区別している。
(イ)
ハイデルベルク人――ホモ=ハビリス――ボスコップ人
新人=アフリカでは南アフリカ共和国のボスコップ,フロリスバッド(3 万 5000 年前),タンザニアのオルドバイ,
アジアでは日本の三ヶ日,浜北,聖岳,港川,中国の上洞(1 万 8000 年前。上洞人)などがある。
(ウ)
周口店上洞人――ハイデルベルク人――三ケ日
人
(エ)
(2)
ボスコップ人――ネアンデルタール人――周口店上洞人
つぎの文章の中で誤っているものを指摘しなさい。すべて正しい場合には(オ)を選びなさい。
(ア)
脳の容積も類人猿をしのぎ,現在のところ最古の人類と認められるのは,アフリカで発見されたアウ
ストラロピテクスやクロマニョン人などの猿人である。
クロマニョン人は新人
(イ)
猿人のなかには,自然石を打ち割ってつくった初歩的な石器を用いて,野生の動植物を狩猟・採集す
るものもあった。
(ウ)
猿人は,アフリカの東部・南部など,一年中何らかの食糧が容易に得られる熱帯や亜熱帯の地方を中
心に活動した。
(エ)
人類は霊長類のヒト科の動物で,他の動物ともっとも大きく違うのは,直立二足歩行をし,手で道具
を作って労働し,文化を持った点である。
(3)
つぎの文章の中で誤っているものを指摘しなさい。すべて正しい場合には(オ)を選びなさい。
(ア)
更新世中期になると原人が出現した。中国の周口店からは北京原人,ジャワのトリニールからはジャ
ワ原人の骨がみつかった。
(イ)
原人は,握斧などの形のととのった細石器をつくり,言語も使用した。
細石器は新人
(ウ)
原人は,脳容積が猿人の約2倍で 1000cc 以上のものが多く,河岸や洞穴に住み,採集や狩猟を行っ
て生活した。
(エ)
原人が現れた時代には,火の使用により,熱帯を離れて温帯や寒冷地に生活圏を拡大できるようにな
り,また加熱調理することで食生活も大きく進歩した。
(4)
新人の時代に特徴的にみられるものとして適切でないものを選択しなさい。すべて適切な場合には(オ)を選
びなさい。
(ア)
骨角器
(イ)
女性裸像
(ウ)
礫石器
(エ)
洞穴絵画
礫石器=自然石を打ち欠いただけの最も原始的な打製石器
(5)
つぎの文章の中で誤っているものを指摘しなさい。すべて正しい場合には(オ)を選びなさい。
(ア)
約1万年前,完新世の時代にはいると,氷河は後退し温暖になり,ほぼ現在の海や陸の形が定まった。
(イ)
前 8000~7000 年ごろの東地中海地域で麦の栽培と羊・やぎの飼育がはじまったことで,人類は生産
経済の段階に入ったとされる。
(ウ)
新石器時代に農耕がはじまると,人々の定住化傾向が強まり,磨製石器のほかに彩文土器や織物も作
られるようになった。
(エ)
初期の農法は雨水にたよる乾地農法であり,肥料をほどこさない略奪農法であった。ひんぱんに耕地
を変える必要があり,農村は数年で移転しなければならなかったが,その多くは大集落に発展した。
大集落に発展するのは灌漑農業以降である。
(6)
シュメール人がメソポタミアに建設した都市名として適切でないものを指摘しなさい。すべて適切ならば
(オ)を選びなさい。
(ア)
(7)
ラガシュ
(イ)
ウ
ル
(ウ)
ペルセポリス
(エ)
ウルク
つぎの文章の中で誤っているものを指摘しなさい。すべて正しい場合には(オ)を選びなさい。
(ア)
アッカド人はメソポタミア北部に国家を形成し,サルゴン1世のもとで南部の諸都市を統合し,メソ
ポタミアをはじめて統一的に支配した。
これはちょっと難問である。アッカド人が国家を形成したのはバビロニア北部(南メソポタミア)であり,
メソポタミア北部ではない。地図をしっかり見るとともに,地理的表記に惑わされないように。
(イ)
アムル人はバビロンを都として古バビロニア王国を形成し,ハンムラビ王のときにメソポタミアを統
一した。
(ウ)
ハンムラビ王は運河の大工事を行って治水・灌漑を進め,「目には目を,歯には歯を」で有名なハン
ムラビ法典を発布して中央集権をはかった。
(エ)
(8)
バビロニア王国は,ヒッタイトの侵入を受けて滅亡した。
つぎの文の下線部に誤りがあれば,その個所を指摘しなさい。誤りがなければ(オ)を選びなさい。
ハム系(ア)のエジプト人は,メソポタミアの影響を受けて,はやくから農耕文明を発生させた。「ナイルの賜
物」と呼ばれるその文明は,ナイル川の増水がもたらす肥沃な土壌を利用した灌漑農業(イ)の上に成立した。村
落が統合されて,ノモス(ウ)と呼ばれる小国家が生まれた。やがて上エジプトと下エジプトの二つの王国にまと
まり,前 3000 年ごろにはアマルナ(エ)を首都とする統一国家が成立した。
(9)
古代メソポタミアの文化を代表するものとして適切でないものを選びなさい。すべて適切である場合は(オ)を
選びなさい。
(ア)
ジッグラト
(イ)
十進法
(ウ)
『ギルガメシュ叙事詩』
(エ)
太陰暦
エジプト,中国,ギリシア,インドなどでは古くから十進法が広く利用されていたが,メソポタミアでは六
十進法が主流であった。
(10)
つぎの言語のうちセム・ハム語族に属さないものを選びなさい。すべてこれに属する場合は(オ)を選びな
ざい。
(ア)
フェニキア語
(イ)
アラム語
(ウ)
アラビア語
(エ)
ペルシア語
ペルシア語はインドヨーロッパ語系である
【2】
2002 年 首都大学東京 人文学部第一部
次の文章を読んで,後の問い(1~4)に答えよ。
人類の起源は約 400 万年前のアフリカに出現した
から区別する最大の特徴は,
0 万年前には
c原人
b直立二足歩行
a猿人(アウストラロピテクス)
し,両手を使って道具を作り出した点にある。その後約 70 万~5
が登場し,約 20 万年前の
d旧人
を経て,およそ4万年~1万年前に新人(現世人類)
が現われた。人類が作り出した道具は石を割っただけのの簡単な
e打製石器
から始まり,次第に形の整ったも
のへと進化した。この時代を旧石器時代と呼ぶが,その後期には槍・銛・釣り針などの
われた。約1万年前に
g完新世
である。人類を他の動物
f骨角器
もさかんに使
が始まった。氷河期が終わって地球の気候が温暖化し,人類の生活もそれに対
応して変化したのである。この時代を特徴づけるのは,
の開始,そして貯蔵・調理のための
j土器
h磨製石器
の使用,
i農耕・牧畜
による食料生産
の製作である。
食料生産の開始は人々の生活を安定させ,文化の発展をもたらした。はじめは自然の恵みを利用するだけの不安
定なものであったが,やがて治水・灌漑技術の確立とともに,(1)ティグリス・ユーフラテス川,(2)ナイル川,イン
ダス川,(3)黄河の中・下流域に世界の四大文明と呼ばれる発達した文化が成立した。
問1
空欄a~jに,適当な語句を入れよ。
問2
下線部(1)に関して,次の問いに答えよ。
(1)
メソポタミアで,紀元前 18 世紀頃に政治的統一を実現した王は誰か,その名を記せ。 ハンムラビ王
(2)
また,その王は諸民族支配のために神の代理として法典を制定したが,その刑法の原則はどのようなも
のであったか,簡単に記せ。
身分に応じた同害復讐を原則とした
問3
下線部(2)に関して,次の問いに答えよ。
ギリシアの歴史家ヘロドトスは,エジプト文明を評して「エジプトはナイルのたまもの」といったが,
その意味を 50 字以内で説明せよ。
ナイル川の定期的な氾濫(増水)によって上流から肥沃な土地と水が運ばれ,エジプト文明を生み出したと
いうもの。
問4
下線部(3)に関して,次の問いに答えよ。
(1)
黄河流域では,紀元前 5000 年~3000 年頃に仰韶文化が成立し,その後,竜山文化が発展した。この二
つの文化の特徴をそれぞれ 50 字以内で説明せよ。
〔仰韶文化〕
黄河中流域においてアワやキビを栽培して犬・豚・鶏を飼い,磨製石斧や彩陶を用いた中国最古の農耕文明
〔竜山文化〕
黄河下流域を中心とし,牛・馬の飼育が始まり,三足土器を特徴とする薄手の黒陶が使用された。
(2)
黄河流域では,仰韶・竜山両文化の発展を基礎にして,紀元前 17 世紀頃に殷王朝が成立した。殷墟か
らは甲骨文字が記された亀甲・獣骨が発見されているが,そこから知られる殷王朝の政治の特徴を 50 字以
内で説明せよ。
農業や軍事などの重要な国事について,王が占いによって神意を問い,万事を決定する神権政治を行った。
【3】
2013 年 学習院大学
文
次の主題 A について,与えられたキーワードをすべて用い,200 字以内で歴史的に論述しな
さい。なおキーワードには下線を付しなさい。句読点は 1 マスに 1 つずつ,数字は 1 マスに 2
字まで入れなさい。
A
春秋戦国時代の社会の発展
キーワード:牛耕・鉄・貨幣
鉄製農具の普及と,鉄製の犂を牛にひかせる牛耕農法によって,より速く・広く・深
く耕作が可能となり,農業生産が高まり家族単位での農業経営が可能となった。これ
にともない農産物や塩・鉄などの生産や流通に従事する商工業者の活躍や,諸侯の富
国策によって都市が発展した。その結果,刀貨・布貨・環銭などの青銅貨幣が流通す
るようになり,大商人も現れた。また世襲的身分制度が崩れ,個人の能力が重視され
るようになった。
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題2
担当,岡留
(3)殷の政治的、社会的特徴について以下の語を用いて、120 字以内で説明せよ。
青銅器
氏族集団
甲骨文字
邑
殷は氏族集団が連合し,多くの邑が従属する形で成り立った国家であった。王は神の祭りを催し,神意を占って
農事・戦争などおもな国事をすべて決定し邑を支配した。甲骨文字はその占いの記録に使われたものであり,
青銅器の多くは祭祀用の酒器であった。
(4)周の成立過程と周で生まれた統治体制について以下の語を用いて,160 以内で説明せよ。
諸侯
封建
鎬京
宗法
前 11 世紀
渭水流域におこった周は,前 11 世紀ころ殷をほろぼして鎬京に都をおき華北を支配した。周王は一族・功臣に
封土をあたえて諸侯とし,諸侯に従う・大夫・士などの家臣にも封土が与えられた。封土の分与による統治を
封建という。封建制度では氏族のまとまりが重要であり,親族関係の秩序やそれに応じた祭祀のしかたを定めた
宗法が重視された。
(5)諸子百家について具体的に中心人物をあげて,以下の語を用いて 240 字以内で説明せよ。
道への合一
縦横家
仁
論語
荀子
性善説
法家
荘子
陰陽家
春秋時代末期に孔子は仁・礼という家族道徳を社会秩序の基本におき,理想的な社会秩序の実現を考えた。
孔子の言行は『論語』に記され,性善説の孟子や,礼による規律維持を強調する性悪説の荀子など戦国時代の
儒家たちにうけつがれた。他に無差別の愛を説く墨家,全ての根源である「道」への合一を求める老子・荘子の
道家,法による国家の統治を主張する商鞅・韓非らの法家などがあり,後の中国社会思想の重要な源となった。
ほかにも外交策を講じた縦横家,天体の運行と人間生活の関係を説いた陰陽家などが活躍した。
(6)秦の中央集権体制について,以下の語を用いて 200 字以内で説明せよ。
匈奴
文字
焚書・坑儒
政
郡県制
度量衡
商鞅
秦は前4世紀に商鞅の改革で国力をつけ,東方の6国を征服して,前 221 年に中国を統一した。秦王の政は皇帝の
称号を採用し,郡県制を全国に施行して直接中央から官吏を派遣した。さらに半両銭など貨幣・度量衡や文字の統
一をはかり,焚書・坑儒による思想統制をおこなうなど,皇帝権力の絶対化と中央集権化をすすめた。秦は北方で
は戦国時代以来の長城を修築して匈奴の侵入に対抗し,南は華南を征服して南海など3郡をおいた。
【4】
2006 年 関西学院大学 文学部
次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
最近,黄河の北から殷代中期の都邑が発見された。この遺跡の中で特に目を引いたのはその城中にあった巨大な
宮殿で,殷王の祭祀王としての権力の大きさがあらためて認識された。殷王は各族邦から①大邑商に派遣された卜
人(占師)たちの長で,占卜から神意を判定する唯一者という形で政治・軍事・祭祀の全てを決定していた。このよ
うな占師の長としての殷王の性格は王位の継承法が兄弟相続から父子相続となるにつれ独裁性を強め,殷代末期に
は王だけが②占卜も判定もするようになった。そして地上の王であった殷王はついに帝(天帝=神)でもあると自称
するようになった。殷は多数の族邦が連合してつくられた王朝で
№2
あったから,政治・祭祀から疎外された族邦はこのような王朝の変容に当然,不満を抱いた。③帝辛の時代になる
と,これに加えて東方の人方との戦争に多大の軍を派遣し,多くの族邦に軍事的・経済的負担を強いた。このよう
な殷王と族邦との乖離を好機とみた西方の強邦である周は黄河を渡って奇襲をかけ,大邑商の郊外で殷王朝の軍を
破って滅亡させた。
新しく誕生した④周王朝は殷滅亡に鑑み,神権政治という手法をとらず,王を天子として天帝より下位に位置づ
け,⑤血縁関係を重視した政治体制をつくった。諸侯のうち周王の血縁者は軍事・経済上で重要な道路に沿って封
建され,そのまわりに周と姻族関係にある諸侯を配するのがそのおおまかな形であった。周は当初,東方に遷都し
ようとしたが果たせず,のちに東方経営の副都成周(洛邑)を建設しただけで,結局は殷代以来の渭水のほとりの根
拠地から動かなかった。全盛期から衰退に向かった周は王位の継承をめぐる内紛から⑥異民族の介入を招き,王が
死亡すると,難を避けて成周に遷都せざるを得なかった。
成周に遷都した周はなど畿内の諸侯との内紛が絶えず,畿外の諸侯との血縁関係も代をへるにつれて薄れてい
った。このようにして内外の諸情勢によって衰微した周は名目上は王朝の主であったが,その支配領域も軍事力も
諸侯に及ばなくなっていった。これに加えて各国間に散在していた異民族諸邦も中国文化を吸収して実力を増して
きた。この異民族に武力でもって対処しようとしたのが⑦覇者と呼ばれる諸侯たちである。覇者は王朝内の諸侯を
集めて会盟し,諸侯間に新しい秩序をつくり,それを利用して異民族の台頭を抑え,自邦の強大化をはかった。覇
者以外の諸侯も強邦に兼併されないために富国強兵を目指した。
春秋後期に兼併戦争が激化すると,各邦では戦闘の大規模化による消耗兵員の補充のために出陣する権利を農
民・商人・奴隷にまで与えた。その際,それら出陣した人々に身分の解放・官吏になる権利を与えたので,身分制
の流動化が起った。このようにして才能のある人々が活躍できる社会基盤が成立した。これを利用したのは諸侯だ
けではなかった。諸侯の卿・大夫の中にはそういう人々を集めて私属をつくり,諸侯を圧倒する場合があった。そ
の顕著な例が晋と斉である。晋と斉が有力な卿により邦を奪われ,それが周王によって公認された時を境に⑧戦国
時代に入る。この時代には下剋上の風潮が下方まで広まったが,一方では,自立して王と称するようになった各邦
が山林草沢の利を独占するとともに,兼併した他領を王の直轄領に組み入れ,中央から官吏を派遣して管理させる
と同時に,そこから得られる収入により王の直属軍を養って王権の強化をはかった。このようにして中央集権化に
成功した諸邦はさらに兼併を進め,戦国初期には 20 余りあった⑨邦が7つとなり,やがて秦によって⑩統一国家が
つくられた。
①
殷王朝の首都である大邑商があったのは現在のどの省か。
a.山西省
b.山東省
c.河北省
d.河南省
e.安徽省
②
占卜に使用された文字はどれか。
a.金文
③
b.甲骨文字
c.草書
d.篆書
e.隷書
d.桀王
e.湯王
殷王朝最後の王,帝辛の一般的な呼称はどれか。
a.紂王
b.文王
c.幽王
bの文王は周の基礎を固めた人物であり,その子の武王は殷王朝打倒の兵を挙げ,西周王朝を開くことになる。
cの幽王は西周末の王である。(在位前 781~前 771)。父の宣王のあとをうけて即位したが,地主化した貴族層
の勢力があなどりがたく,周辺民族の進攻もあって,王権は弱体化した。即位以来,天変地異が重なり,異民族
りざん
犬戎が王を攻め,幽王は驪山で殺されたとされる。貴族たちはその太子の平王を立てて東周王朝を開いた。
けつ
ちゅう おう
おう
dの桀王は夏王朝の末帝であり,殷の 紂 王とならんで中国史上では評判はよろしくない。
と う おう
eの湯王は殷王朝の創設者である。夏王の桀王は暴政を行い,人心が離反したので,これを攻めて滅ぼし,殷王朝
を創設したとあるが,湯王に関する伝承は《尚書》や《詩経》などにも記載されるが,それらの成立が後世のも
のであったり,あるいは具体性に欠けるため,不明な点が多い。
④
周が武王の時に都,鎬京を置いた場所に最も近い現在の都市はどれか。
a.開封
⑤
c.洛陽
d.太原
e.西安
血縁関係を軸とし,支配層の秩序を規定したきまりはどれか。
a.郡県制
⑥
b.州
b.宗法
c.郡国制
d.骨品制
e.九品中正
d.東胡
e.淮夷
王位の継承をめぐる内紛に介入した異民族はどれか。
a.犬戎
b.赤狄
c.鮮虞
bの赤狄に関して,赤狄・白狄・長狄の 3 種 10 部族の名が伝わり,これらは漢民族が北方の異民族を総称した語と
てきてき
して残るり,狄 翟 とも称される。春秋時代,今の陝西省渭水流域から山西省南部に遊牧し,晋などと争った。
せ
ん ぐ
cの鮮虞は河北省新楽県付近に建てた国である,初め鮮虞とよばれたが,春秋末に河北省唐県付近にうつり,中山
と称した
dの東胡は春秋時代から漢代初めに内モンゴル東部にいた遊牧狩猟民族である。匈奴つまり胡(北方民族の意味)
の東方に居住したことからの呼称である。戦国時代の燕国は対策に苦しみ,いまの河北省懐来から遼寧省遼陽ま
での間に長城を築いてその騎兵を防いだ。秦代になると強盛となり,一時は匈奴を圧倒したが,前漢の初め,冒
うがん
頓単于に急襲されて壊滅した。後漢代にあらわれる烏桓と鮮卑はその後裔とされている。
わ
い
い
eの淮夷は殷代から春秋時代に淮水流域にいた民族であり,水稲農耕を主とした。この地は呉に,ついで楚に併合
され,戦国時代初めには漢民族と混血,融合した。
⑦
長江下流域にあって,覇者夫差を出した邦はどれか。
a.呉
⑧
d.楚
e.秦
b.薊
c.曲阜
d.臨淄
e.咸陽
7つの諸邦は戦国の七雄と呼ばれるが,それに含まれないのはどれか。
a.韓
⑩
c.越
戦国時代に経済・学問の中心地として繁栄した斉の都はどれか。
a.邯鄲
⑨
b.魯
b.宋
c.燕
d.趙
e.魏
統一国家,秦が統一後に実施した事項でないのはどれか。
a.焚書・坑儒の実施
e.民間兵器の没収
b.南海郡の設置
c.阿房宮の建設
d.刀銭の普及
【5】
2003 年 早稲田大学 教育学部
次の文章を読み,設問A,Bに答えなさい。
1
秦の始皇帝の死後,各地に反乱があいつぐなかに台頭した劉邦は,楚の項羽を破って漢王朝を建てた。その後,
60 年余にわたる帝国の基礎固めの時期をへて(a),第7代皇帝となった武帝は内政を充実させるとともに積極的な
外征を行って国威を輝かせた(b)。このような発展は民族意識を高めて歴史への関心を呼びおこし,太史令の職に
あった司馬遷は『史記』を完成させた。
武帝の死後,漢はしだいに国力が傾いて皇帝の権威はおとろえ,(
1
)の皇后の一族である王莽によって滅
ぼされた。新の簒奪によって生じた混乱を平定して中国を再統一したのは漢の一族の劉秀である。この後漢王朝
は前漢と同様に積極的な西域経営を行って諸国を服属させ,西域都護の班超(c)は,部下の甘英を(
2
)に向け
て派遣した。しかし1世紀末ごろから幼弱な皇帝がつづいたために,儒教官僚・外戚・宦官が政争をくりかえす
ようになり,やがて儒教官僚が宦官の専横を除こうとしてかえって宦官一派から弾圧を受けた(
3
)などがお
こった。このような朝廷の乱れが地方におよび,後漢は衰退した。
設問A
空欄(
1
)~(
3
)に入れるのに最も適切な語をア~オのなかから一つ選び,その符号を解答用紙の
所定欄にマークしなさい。
設問B
(a)
(1)
ア
昭帝
イ
文帝
ウ
恵帝
エ
元帝
オ
宣帝
(2)
ア
大理国
イ
大夏国
ウ
大秦国
エ
大越国
オ
大月氏国
(3)
ア
華夷の別
イ
文字の獄
ウ
永嘉の乱
エ
甲申の変
オ
党錮の禁
下線部(a)~(c)に関する設問について,最も適切な解答をア~オのなかから一つ選べ。
武帝以前の漢代史の説明として誤りを含むものはどれか。
ア
皇帝の直轄地には郡県制をしき,同姓の者や異姓の功臣を王・侯とする封建制を併用した。
イ
県の下に郷・亭・里の郷村組織を設け,三老などの有力者が行政,徴税,教化などを行った。
ウ
高祖は白登山付近で冒頓単于が率いる匈奴に大敗し,婚姻と貢納とを条件に助命された。
エ
高祖の死後,呂太后とその一族が専横を極めたため,劉氏の政権は一時危機に陥った。
オ
景帝が実施した諸侯王の領土削減策に反発し,同姓や異姓の諸侯が呉楚七国の乱をおこした。
漢初に封建された異姓の諸王は,いずれも強力な軍隊を擁する実力者であった。しかも彼らの封建が漢の妥協の
産物であっただけに,将来に不安をいだいた高祖は謀反などの口実をもうけてつぎつぎと諸王を倒した。
そのため高祖末年までには遠隔地の長沙王を除く他の異姓の諸王はすべて抹殺され,代わって高祖の近親同族を
封建し,〈劉氏にあらざるものは王となるべからず〉という原則を確立した。呉楚七国の乱のあと,景帝は諸王
を政治の座から切りはなし,王国の政治は相(しよう)をはじめとする中央派遣の官吏が執行することにした。
また諸王の封地を王子たちに細分して小諸侯に立てる(推恩の令)など,一挙に諸王の権力を奪い勢力を削った。
(b)
武帝の治世の説明として誤りを含むものはどれか。
ア
匈奴に対する和親策を放棄し,衛青,霍去病,李陵らに命じて匈奴を攻撃させた。
イ
南越国を滅ぼして9郡を設置したが,越族の抵抗がつづき,徴姉妹の反乱がおこった。
徴姉妹の反乱は後漢の洪武帝治世期。
ウ
衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪,真番,玄菟,臨屯の4郡をおいた。
エ
均輸法や平準法を用いて物価の安定を計り,塩・鉄・酒を専売にして財政の再建をめざした。
オ
董仲舒の献策をいれて五経博士を設置し,儒教を官学とした。
(c)
班超の兄班固の著した『漢書』に関係のないものはどれか。
ア
編年体の通史
イ
班昭の補修
エ
唐の顔師古の注釈
オ
紀伝体の正史
ウ
前漢一代の断代史
顔師古は初唐の文献学者であり,唐の太宗時代に王朝によって行われた文化事業,たとえば《五経正義》の定本づ
くりともいうべき五経本文の校定などに秘書監として参画した人物。また、彼の《漢書》注は後漢代以来の注釈の
集大成であるとともに,祖父の顔之推,叔父の顔遊秦たちが築いた家学の蓄積を継承する。
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題3
担当,岡留
(7)武帝時代の対外政策と経済政策について,以下の語を用いて 180 字以内で説明せよ。
南越
平準
匈奴
衛氏朝鮮
張騫
鉄
ベトナム北部
武帝は匈奴を撃退して北方に勢力をのばすとともに,張騫の西域派遣をきっかけに,タリム盆地のオアシス諸都
市にまで支配をひろげた。東北では衛氏朝鮮をほろぼして朝鮮北部に楽浪などの4郡をおき,南方では南越を
滅ぼしてベトナム北部を支配下に入れた。領土は拡大したものの,漢は財政難におちいり,塩・鉄・酒の専売や
均輸・平準などの経済統制策を実施したが財政難を打開できなかった。
【6】
2005 年 早稲田大学 第一文学部
次のA~Bは,中国王朝と周辺諸民族との関係について述べた文である。各設問を答えよ。
A
アジア内陸の乾燥地帯では遊牧民が羊を追って生活していたが,前4世紀ごろにモンゴル高原にいた一部は西
方のaスキタイ文化を学んで遊牧騎馬民族に変じ,その機動力を生かしてたびたび中国に侵入した。これが匈奴
である。そのため戦国諸国は長城を建造し,その侵入を阻止しようとした。前3世紀末にb冒頓単于が登場する
と,c月氏などを破って東西交易路を占領し,d漢の武帝を圧迫し,モンゴル高原を中心として空前の遊牧国家を
建設した。
設問1
文中の下線a~dの語句に誤りのある場合はその番号を,誤りがなければeの番号をマークせよ。
①
B
a
②
b
③
c
④
d
⑤
e
中国を統一した秦の始皇帝は,さらに華南地方にも進出し,この地の越人を征服して三郡を置いた。しかし始
皇帝が没し,二世皇帝が即位すると,間もなく陳勝・呉広の乱が勃発した。この反乱に乗じて南海郡を中心とし
て南越国が樹立された。前漢の武帝は北方の匈奴に対抗するため南方を固めておこうとして,南越を伐ってこれ
を滅ぼし,aこの地に九郡を置いて直轄支配を行った。
設問2
下線aの「九郡」とは,現在の広東・広西からヴェトナム北部にかけての地方である。これ以後のヴェト
ナム地方に関して誤っている記述を選び,その番号をマークせよ。
①
後漢のとき,大秦王安敦の使者と称する者が日南(ヴェトナム中部)に到着して,入貢した。
②
唐は安南都護府を置いて統治した。
④
陳朝の武将が明の支配から独立して黎朝を建てた。
⑤
阮朝はヴェトナム最後の王朝となった。
③
李朝では漢字をもとにした字喃を作った。
【7】
2004 福井大学
次の文をよく読んで,下記の設問に答えなさい。
東アジアと歴史的にもっとも密接な関連のあった地域が内陸アジアである。東はモンゴル高原,西はカスピ海,
南はヒマラヤ・ヒンドゥークシ山脈,北はシベリアの森林地帯に囲まれたアジア大陸の中央部である。そのうち
(
a
パミール高原
)を境とする東西トルキスタン①の地域を中央アジアという。
内陸アジアにおいて,いち早く歴史の舞台に登場したのは(
b
イラン)系のスキタイ人であった。前7世紀ご
ろカスピ海地方の草原地帯から南下し,南ロシア一帯に勢力をはり,(
c
ギリシア植民市
)と交易し栄えた。
かれらは,スキタイ文化とよばれる独特の文化②を生みだして周辺の遊牧民や狩猟民に影響を与え,
(dアッシリア
)やアケメネス朝ペルシアを脅かすほどであったが,前3世紀ごろには勢力を失った。
このスキタイ文化の影響をうけ,前3世紀ごろ遊牧騎馬民族として急速に台頭し,モンゴル高原を支配下におさ
めたのは匈奴であった。匈奴は,(
た③が,前2世紀になると(
(
eトルコ )系あるいはモンゴル系ともいわれ,一時,秦によって打撃を受け
f冒頓単于
)に率いられて強力となり,東胡や(
g月氏
)を破り,前漢の
h高祖〔劉邦〕 )の遠征軍を包囲して,屈辱的講和を結ばせた。しかし,武帝のときに④前漢との戦いに敗れ,
内陸アジアの商業交通路の支配権を奪われて弱体化した。前1世紀中ごろ東西に分裂してまもなく西匈奴が滅亡⑤,
さらに紀元後1世紀中ごろには残る東匈奴が南北に分裂し,南匈奴は後漢⑥に服属したが,北匈奴は以後も後漢と
しばしば争い,1世紀末ついに敗れて西走した。この匈奴が,4世紀にヨーロッパにあらわれたフン族であるとす
る説もある。
匈奴の崩壊後,モンゴル高原を支配したのは鮮卑であった。鮮卑はモンゴル系またはトルコ系といわれる。2世
紀半ばごろに諸部族を統合してモンゴルの草原を支配し,のち分裂したが,3世紀半ばに中国に侵入して五胡十六
国⑦のなかの有力な勢力となり,5世紀にはその一部が華北に北魏を建国した。
この間,西方では4世紀に南ロシアに進出したフン族によって,ゲルマン人の移動が促進され,南方では5世紀
にはトルコ系またはイラン系といわれる遊牧民(
iエフタル )がパンジャーブ地方を占領するなど,民族の移動
が激しかった。
ついでモンゴル高原ではモンゴル系といわれる柔然が勢力を伸ばし,5世紀に大遊牧国家を建てて北魏と対立し
た。しかし,以後衰退し,6世紀中ごろ,(
a
)~(
j
j突阪
)により滅ぼされた。
設問1
文中の括弧(
)に適当な語句を記入しなさい。
設問2
下線部①に関して:「トルキスタン」の意味を書きなさい。
〔
設問3
トルコ人の土地(居住地)
〕
下線部②に関して:スキタイ文化を説明しなさい。(100 字以内)
オリエントやギリシアの金属文化の影響を受けて形成された騎馬文化。遊牧生活を反映する生活用品や装身具に施
された独特の動物文様と,豊富な黄金の使用が特徴的である。内陸アジアの遊牧民に多くの影響を与えた。(99 字)
設問4
下線部③に関して:具体的にはどのようなことか,書きなさい。
〔
設問5
始皇帝の将軍蒙恬が匈奴をオルドスから追放し,長城修築に努めた。
下線部④に関して:匈奴挟撃の交渉のために武帝が大月氏国へ派遣したのは誰か,書きなさい。
〔
設問6
〕
張騫
〕
下線部⑤に関して:西匈奴はどうして滅んだのか,書きなさい。
〔
漢と同盟した東匈奴に攻撃されたため滅んだ。
設問7
下線部⑥に関して:後漢時代,匈奴攻撃をすすめた人物の名を一人書きなさい。〔
設問8
下線部⑦に関して:この用語の意味について説明しなさい。(100 字以内)
〕
班超
〕
中国の北辺や西辺から華北に侵入した異民族の匈奴・鮮卑・羯・・羌を五胡といい,匈奴による漢の建国から
北魏の華北統ーまでに,華北で興亡した五胡の 13 国と漢人の 3 国の総称,あるいはその時代の呼称である。(99 字)
【8】
2010 清泉女子大学
次の設問に答えよ。
設問1 東西交渉・文化交流史に関する次の問1~問5の文中の空欄 A ~ J を補うのに最も適切な人名・民族
名・地名を記せ。
【薫陶】(香をたいてかおりをしみこませ、粘土を焼いて陶器を作りあげる意)徳を以て人を感化し、すぐれた人
間をつくること。
問1
父王が招いたギリシアの哲学者
A アリストテレス
の薫陶を受けた
B アレクサンドロス
大王は,ギリシ
ア諸都市の反乱を鎮圧,アケメネス朝ペルシア帝国への遠征に出るその途上,自己の名を冠した植民市を各地に
建設させた。
問2
北アジアでは,紀元前 3 世紀の末に,モンゴルの草原地帯に
し,全モンゴルを支配下におさめ,さらに漢の高祖
D 劉邦
C 冒頓単于
が出て付近の遊牧諸民族を征服
の軍を破り,匈奴王国隆盛の基を築き,ユーラシ
ア大陸を貫く草原の道を開いた。
問3
ササン朝ペルシアでは,6 世紀の中ごろ最盛期の名君
E ホスロー1 世
しずめ,また西では東ローマ帝国に侵入し,東では遊牧民族の
問4
唐初に
G 玄奘
H 大唐西域記
問5
がでて,一時,国内の宗教的紛争を
F エフタル
を滅ぼして黄金時代を現出した。
は陸路をとってインドにいたり多数の仏典を持ち帰った。彼の旅行記である
は,当時の中央アジアやインドの社会・経済・言語・風俗や宗教などのありさまを伝えている。
フランチェスコ会の宣教師であった
I ルブルック
は,フランス王ルイ 9 世の命を受け,モンゴル人に聖
地奪回の協力を要請するためキプロス島を出発し,1254 年
J
カラコルムで憲宗メンゲ=カーンに会見したが
目的を果たさずに帰国した。彼の旅行記『東遊記』には,当時のモンゴルの風俗などがくわしく記されている。
設問 2
次の文章を読んで,あとの問に答えよ。
中国の前漢王朝は,前 2 世紀後半の武帝の時代になると東西南北にその版図を広げていった。西方に目を向ける
と,武帝は紀元前 139 年に西域のさらに向こうのアム川上流に住む,ある民族に使節として,ある臣下を派遣す
る。この時のこの企ては成功しなかったが,これを契機としてやがて,タリム盆地のオアシス諸都市を支配する
ことになる。
問
〔
武帝が派遣した臣下の名前と派遣先の民族名を挙げながら,武帝の外交政策上の狙いについて簡単に説明せよ。
武帝は張騫を大月氏族の下に派遣して,東と西から西域地方を支配する匈奴をはさみ撃ちにしようとした。
〕
【9】
2006 年 法政大学 文学部
中国の南北朝に関するつぎの文を読み,後の問いに答えよ。
三国時代の魏から出た晋が全国を統一したが,その統一支配は三十年余で終わり,北では五胡十六国,江南(長江
以南)では東晋が立つという分裂状態となった。その後,北は五胡のうちの
ア
鮮卑
族の建てた北魏によっ
て統一され,江南は東晋の後を次々に継いだ宋,斉,梁,陳の四王朝が支配した。北魏の都ははじめ平城(今日の大
同)であったが,
イ
孝文
帝の時に
ウ
洛陽
に移された。
北魏は遷都を含む急激な漢化政策を一つの原因として,やがて東魏と西魏に分裂した。いっぽう,三国時代の呉
から東晋を経て陳に至る江南の王朝は今日の
ア
~
エ
エ
南京
の地を都とした。呉から陳までを六朝とも呼ぶ。
問1
文中の空欄
に入る適切な語を記せ(漢字で正確に記すこと)。
問2
南北朝時代には外来の宗教として,仏教が大いに流布したが,その受容の仕方は南北で異なっていた。その
違いを対比して 40 字以内で記せ(句読点も1字に数える)。
仏教は,華北では庶民にまで広まったが,江南では貴族の教養として受け入れられた。
問3
南北朝を通じて官吏任用制度として九品中正(九品官人法)が用いられたが,支配体制の異なる南北で,同じ
方法が用いられた理由を 40 字以内で記せ(句読点も1字に数える)。
南北共に地方豪族の子弟が推薦されて上級官職を独占し,門閥貴族となっていたため。
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題4
担当,岡留
(8)北魏の孝文帝の政策とその後の北朝政権の動向について,下記の語を用いて 130 字以内で記しなさい。
孝文帝は均田制や三長制により農耕民社会の安定をはかり,また平城から洛陽に都を移し,鮮卑の服装や言
語を禁止して漢化政策をうち出した。しかしこれらの政策に反発する軍人の反乱を契機に北魏は東西に分裂し,
さらに東魏は北斉に,西魏は北周に倒され,北斉も北周に併合された。
(9)前漢から南北朝にいたるまでの官吏任用制度について,下記の語を使用して,120 字以内で説明せよ。
魏
門閥貴族
上品
中正官
前漢
官吏の任用制度は前漢の郷挙里選にかわって,三国の魏から九品中正が始まった。これは地方におかれた中
正官が人材を9等にわけて推薦するものであるが,結果的に有力な豪族の子弟のみが上品に推薦されて高級
官職を独占することとなり,門閥貴族が形成された。
(10)仏教の中国伝来と中国での仏教の受け入れについて,下記の語を使用して,180 字以内で説明せよ。
平城
グプタ朝
仏図澄
5 世紀初頭
貴族の教養
石窟寺院
『仏国記』
仏教は1世紀頃に西域から伝えられ,4世紀後半に普及した。仏図澄や5世紀初頭に来訪した鳩摩羅什は仏典
の翻訳に活躍し,法顕は直接グプタ朝にいって仏教をおさめ,『仏国記』を著した。北魏時代に石窟寺院がつく
られ,平城の近郊の雲崗や洛陽の近郊の竜門では石像と石彫により作成された。華北では仏教は庶民にまで
ひろまったが,江南では貴族の教養としてうけいれられた。
(11)隋を建国した人物の業績について,下記の語を使用して,100 字以内で説明せよ。
九品中正
北周
府兵制
大興城
陳
北周から出た隋の文帝(楊堅)は南朝の陳を倒して中国を統一し,都を大興城に定めた。隋は北朝の制度を継
承し,均田制・租庸調制・府兵制により財政・軍事の基礎をかためようとし,九品中正を廃止し科挙を創始した。
(12)唐代の中央・地方の統治制度について,下記の語を使用して,150 字以内で説明せよ。
一体化
兵役
力役
均田制
御史台
三省
律令
律・令・格・式にもとづく律令国家であり,中央には中書・門下・尚書の三省と六部・御史台を中心とする官制を
設け,地方には州県制をしいた。統治体制の根本は,成年男性に土地を均等に支給する均田制に,穀物・絹布
などの税や力役を課す租・調・庸と,兵役を負担させる府兵制により,土地制度・税制・兵制が一体化した。
【10】
2003 年 早稲田大学 法学部
中国の魏晉南北朝史に関する以下の文を読み,それぞれの設問に対して解答を一つ選べ。
後漢王朝の滅亡によって中国史は分裂時代に入り,再び統一されるのは隋によってである。後漢末の事実上の分
裂から数えるとほぼ 400 年にもわたるこの大分裂時代は,中国史に未曾有の混乱と変化をもたらした。そしてその
直接の契機となったのがa黄巾の乱である。b当時,納税・軍事等の担い手であった自作農も豪族の土地兼併によっ
て没落する者が増加し,外戚や宦官をめぐる政治的混乱がそれに追い打ちをかけた。こうした社会不安を背景にし
て,2世紀後半,病気治療による救済を説く新興宗教教団が興った。その一つである太平道の教祖張角は,184 年
に数十万の信徒とともに蜂起した。その渦中で事実上後漢王朝が崩壊すると,群雄割拠の状態となり,やがてc魏・
蜀・呉が分立抗争する三国時代となった。この分裂は晉(西晉)によって一時的に統一された。しかし八王の乱や農
民反乱によって晉は動揺し,dそれに乗じた匈奴が洛陽および長安を占領してこれを滅ぼした。帝室の一族の司馬
睿は建康で即位し,晉を再建した(東晉)。
八王の乱のさい,諸王は北方・西方の非漢人の武力を利用したので,その内乱はこれら諸族の侵入を誘発するこ
とになった。e匈奴の動乱はその端緒となり,諸族が一斉に華北へ侵入した。かくて,f江南に再建された晉に対し,
華北には“五胡十六国”と総称される非漢人の地方政権が次々と興亡し,中国は南北に分裂した。華北は 439 年に
鮮卑族の建国した北魏によって統一され,g孝文帝のとき一連の中国化政策が行われた。しかしh北魏はその後内部
抗争によって分裂を重ねていった。一方,東晉もその部将によってのっとられ,以後は短命な王朝が交替した。北
周の外戚楊堅は禅譲によって隋を建国し,大興城を都としてi最後の南朝を滅ぼし,長い分裂時代に終止符が打た
れた。
設問1
下線aの黄巾の乱を主導したのは太平道であるが,反乱と宗教の関係を示した次の記述の中で誤ってい
るものはどれか。
①
張角は蜂起後も教団を保持し,そのため太平道は五斗米道と共に道教の源流となる。
張角は天公将軍と自称し,2 人の弟とともに 36 方の勢力の頂点に立ち,184 年 2 月に〈蒼天すでに死す,黄天まさ
に立つべし〉という漢帝国打倒の明確なスローガンのもとに黄色の頭巾をつけて蜂起した。しかし同年 11 月には漢
帝国の軍隊に主力を撃滅され,張角もその間に病死して,乱は一応鎮圧された。しかし,各地の残党は頑強に抵抗
し,結局,後漢帝国崩壊の直接原因となった。
②
紅巾の乱は元末の白蓮教徒を主力として行われた農民反乱である。白蓮教は仏教的要素の強い民間宗
教である。
③
清は乾隆時代を頂点としてしだいに体制がゆるみ,各地に反乱が起こった。18 世紀末に起こった白蓮
教徒の乱はその最大のものである。
④
山東で発展した義和団は白蓮教系の宗教を奉じる宗教結社で,“扶清滅洋”を叫んで外国人・外貨の
排斥やキリスト教会の破壊を行った。
設問2
下線bの自作農創設のために,歴代の中国王朝はさまざまな土地政策を試みたが,次の記述の中で誤っ
ているものはどれか。
①
前漢末に大土地所有の制限と小農の保護を目的とする限田法が発布されたが,効果はなかった。
②
漢代の屯田制は辺境防衛を兼ねて西北辺境で行われたが,三国魏のそれは内地における土地制度であ
る。
③
北魏は均田制を実施したが,隋唐に継承された均田制と異なり,妻・奴婢・耕牛へは給田されなかっ
た。
北魏は豪族への対処として奴婢・耕牛にも制限付きながら給田した。
④
設問3
西晉で実施された占田・課田法は,土地所有の制限と税収の確保を図ったものである。
①
下線cの三国時代に関する次の記述の中で誤っているものはどれか。
曹操は華北を制圧したが,赤壁の戦いで劉備・孫権の連合軍に大敗し,政局は天下三分の形勢となっ
た。
②
曹丕が後漢最後の皇帝の禅譲を受けて魏を建国すると,劉備も四川の成都で帝位について蜀を建国し,
諸葛亮を宰相に任じた。
③
劉備が帝位につくと,孫権も帝位について都を建業,今の広州に定め,そのため江南の開発が進展し
た。
呉の都である建業は,東晋以後は建康と称されるようになり,現在の南京である。南宋の都,臨安(南朝
時代の杭州)とともに地図でしっかり確認しておこう。
④
設問4
三国時代が開始されたころ,西アジアではササン朝ペルシアが建国された。
①
下線dの事件は何と呼ばれるか。
淝水の戦い
②
永嘉の乱
③
靖康の変
④
靖難の変
招いた北方民族に漢民族が滅ぼされるという典型的な戦いである。靖康の変・李自成の乱を鎮圧した
満州人の勢力などとともにまとめておくこと。
設問5
①
下線eの匈奴の変遷に関する記述の中で誤っているものはどれか。
前漢の武帝の反撃によってゴビ以北に後退した匈奴は,前1世紀になると内部争いで東西に分裂し,
漢に服属した東匈奴は1世紀中ごろさらに南北に分裂した。
②
西晉を滅ぼした匈奴は南匈奴の一部で,彼らは五胡十六国時代にいくつかの地方政権を建てたが,北
魏の華北統一後,漢人に融合・同化した。
③
北匈奴は後漢の攻撃を受けて敗れ,一部は西方に移動してイリ地方に移り,2世紀中ごろカザフ草原
に移動した。
④
北匈奴の子孫といわれるフン族は,4世紀に南ロシアに現れ,西ゴート族を服属させ,さらに東ゴー
ト族に迫って“ゲルマン諸族の大移動”のきっかけとなった。
地図をしっかり学習すること。東アジアから侵攻した民族が最初に接触するのは,東のゴート族である。
設問6
下線fの江南に興亡したこの時期の諸王朝を“六朝”と総称し,高雅な貴族文化が開花したことで知ら
れる。その六朝文化に関する記述の中で誤っているものはどれか。
①
文体として四六駢儷体が発達し,梁の昭明太子によって『文選』が編まれ,詩人として陶淵明や謝霊
運などを生み出した。
②
絵画では「女史箴図」をえがいた顧愷之が画聖と呼ばれ,書では王羲之が書聖と呼ばれた。
③
仏教では法顕が陸路インドに行って仏教をおさめ,帰路シュリーヴィジャヤで『仏国記』(法顕伝)を
著わした。
陸路から行き,海路で帰国する東晋の法顕,陸路を往復した唐の玄奘,海路を往復した唐の義浄と
当時のインドの状況を踏まえて確認しておこう。
④
儒教では漢代の訓詁学に替わって老荘思想で経典を解釈することが流行し,正史では『後漢書』・『三
国志』などが著わされた。
設問7
下線gの孝文帝による政策や事業ではないものはどれか。
①
現在の山西省大同付近に雲崗石窟を開山した。
太武帝の死後,第 4 代文成帝は太武帝の排仏政策を転換して曇曜を用いて雲崗の石窟寺院をつくった。
②
財政確保・治安維持のため三長制を制定した。
③
鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ,鮮卑の服装・言語なども禁止した。
④
平城から洛陽に遷都した。
設問8
下線hの分裂により北朝最後の北周は隋にのっとられてしまうが,その後北方諸民族は自らの社会体制
を強く保持したまま中国的王朝を建設するようになる。これを“征服王朝”と呼ぶが,それに該当しな
いものはどれか。
①
遼
②
金
③
西夏
④
元
西夏は 11~13 世紀にかけてタングート族が築いた国家であり,中国の西北部,寧夏,甘粛,オルドス,陝
西の諸地域を領有した。
設問9
①
下線iの南朝の興亡順で正しいものはどれか。
陳宋梁斉
②
斉宋陳梁
③
梁陳斉宋
④
宋斉梁陳
〔
〕
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題5
担当,岡留
(13)仏教の中国への伝播について,下記の語を使用して,200字以内で説明せよ。
鳩摩羅什
平城
『仏国記』
洛陽
石窟寺院
仏典の翻訳
1世紀頃
法顕
仏教は1世紀頃に西域から伝えられ,4世紀後半に普及した。仏図澄や5世紀初頭に来訪した鳩摩羅什は仏典
の翻訳に活躍し,法顕は直接インドにいって仏教をおさめ,『仏国記』を著した。華北では多くの石窟寺院がつく
られた。北魏の時代に石窟寺院がつくられ,平城の近郊の雲崗や洛陽の近郊の竜門では石像と石彫により,作
成された。華北では仏教は庶民にまでひろまったが,江南では貴族の教養としてうけいれられた。
(14)8 世紀初めから 10 世紀初めに至るまでの唐の政治的な動揺と混乱について,下記の語を用いて 260 字
以内で記しなさい。
黄巣の乱
安禄山
府兵制
朱全忠
両税法
玄宗
租庸調制
募兵制
ウイグル
8世紀初めに即位した玄宗の頃には均田制・租庸調制・府兵制が一体となった制度はくずれ,府兵制のかわり
に募兵制が採用され,その指揮官である節度使が辺境の防備にあたった。玄宗の晩年には節度使の安禄山と
史思明が反乱をおこし,ウイグルの援軍をえて鎮圧されたが,中央政府の統制力は弱まった。唐は財政再建の
ため,780 年に租庸調制にかわり両税法を採用し,現実に所有している土地の多少に応じて夏・秋2回の税を課
した。塩の専売も重要な財源であり,9世紀後半には塩の密売人である黄巣の乱で混乱し,10 世紀初めに唐は
朱全忠により滅亡した。
(15)契丹について,下記の語を用いて 180 字以内で記しなさい。
契丹文字
和議
征服王朝
渤海
燕雲十六州
後晋
州県制
遼河上流の契丹は 10 世紀初め耶律阿保機が渤海を滅ぼし,モンゴル高原をおさえた。契丹は五代の後晋の
建国をたすけた代償として,燕雲十六州を領土に加え,11 世紀初めに宋と和議を結んだ。契丹は本拠地を保ち
ながら中国内地をも支配した最初の征服王朝であり,部族制にもとづく北面官,州県制にもとづく南面官で社会
をまとめた。ウイグル文字と漢字の影響をうけて契丹文字を創始した。
(16)金について遼と宋との関係をふまえて,下記の語を用いて 190 字以内で記しなさい。
12 世紀初め
猛安・謀克
州県制
開封
ツングース系
完 顔阿骨打
西遼
12 世紀初めにツングース系の女真の完顔阿骨打が独立して国名を金と称した。宋は金と結んで遼を滅ぼした。
この時,遼の耶律大石は中央アジアに逃れ西遼を建国し,契丹の文化を西方で維持した。その後,宋と金は領
土をめぐって争い,金は華北に侵入して開封を占領した。金は部族制にもとづく猛安・謀克という軍事・社会組
織を維持する一方,華北では宋の州県制を継承した。女真でも独自の女真文字がつくられた。
(17)宋の統治体制について,下記の語を用いて 190 字以内で記しなさい。
男性
形勢戸 太宗
禁軍
節度使
科挙
貴族
趙匡胤
後周
後周の将軍であった趙匡胤は 960 年に宋を建国し,太宗は中国を統一した。宋は武断政治の風潮を抑えるた
めに文治主義をとり,節度使に文官をあて兵力をうばい,禁軍を強化するなど,中央集権の確立に努めた。科
挙が整備され,戦乱のあいだに没落した貴族にかわって,科挙出身官僚が政治をになう体制がととのった。科
挙を受験することは男性であれば可能となったが,経済力のある形勢戸が合格者の多くを占めた。
【11】
2006 年 早稲田大学 法学部
以下の隋唐史に関する文を読み,それぞれの設問に対して解答を一つ選べ。
A
魏晋南北朝の分裂状態を収拾したのは楊堅(文帝)である。彼は隋を建国し,589 年に南北を統一した。文帝は中
央集権の確立につとめ,諸制度を整備した。中でも学科試験による官吏任用制度は門閥貴族の高級官職独占を防止
し,皇帝権力の強化をめざすものであった。煬帝は文帝の諸事業を継承し,大運河を完成させ,a江南と華北を結
びつけて,南北統一事業を推進した。
設問1
下線aの「江南」に関して,誤った記述はどれか。
①
孫権は劉備と連合し,赤壁で曹操軍を破り,江南に勢力を確立した。
②
東晋の成立後,五胡十六国の混乱が続く華北から江南へ移住が急増した。
③
宋代では長江下流域で囲田等が造成され,集約的な稲作が行われた。
④
“湖広熟すれば天下足る”とは,宋代に長江下流域の米生産が中国農業の中心となったことを示す言
葉である。
「江浙(蘇湖)熟すれば天下足る」が長江下流域を指す言葉であり,湖広地方は長江中流域のこと
B
隋の高句麗遠征が失敗すると,李淵が隋末の混乱に乗じて挙兵し,唐を建国した。b李世民(太宗)の治世は“貞
観の治”として知られ,隋の制度を受け継ぎ,諸制度が整備された。唐は中央政府にc三省六部を中心とする官制
をしき,地方には州県制をしいた。成年男子には土地を支給し,税や兵役を課した。
設問2
下線bの太宗李世民の対外活動に関するものはどれか。
①
突厥が東西に分裂すると,東突厥と結んで西突厥を圧迫し,両者の離間策につとめた。
②
東突厥を滅ぼし,吐蕃を服属させ,西域諸国を従えた。
東突厥は羈縻政策下に入る。7 世紀後半に突厥第 2 帝国として自立する。
③
百済・高句麗を滅ぼし,西突厥・ヴェトナムを討って唐の最大領域を実現した。
最大領域は高宗の時代に実現した。
④
アラブ軍とタラス河畔で戦い,敗れた。
タラス河畔の戦いで敗北したのは玄宗の時代であり,唐の紙すき職人が捕虜となり製紙法が西伝した。
設問3
C
下線cの中央官制について誤っているものはどれか。
①
門下省は詔勅や奏文を審議する機関。
②
中書省は詔勅を立案起草する機関。
③
尚書省は詔勅を実施する機関。
④
六部は門下省に属する機関。
実務機関である尚書省が六部を管轄した。
高宗の末年,皇后の武氏が実権を握り,高宗の死後自ら即位して周を建国した。この時代は政治の担い手が
貴族から科挙官僚へ転換してゆく大きな転機となった。後に中宗が復位して唐は復活したが,中宗は皇后に毒殺
され,政治は混乱した。8世紀初めに即位したd玄宗は,政治の引き締めに努力したが,e均田制・租庸調制・府
兵制の崩壊を食い止めることはできなかった。
設問4
下線dの玄宗時代における芸術家に関する説明で,誤っているものはどれか。
①
詩人の李白は,玄宗と楊貴妃の悲恋をうたった「長恨歌」が有名である。
長恨歌の作者は白楽天である。
設問5
②
詩人の杜甫は,一生不遇で,社会の現実をうたった作品が多い。
③
画家の呉道玄は,線の太さで量感・立体感を表す新技法を生み出した。
④
書家の顔真卿は,王羲之以来の書風を一新し,楷書・草書に新書風を開いた。
下線eの唐の均田制に関して誤った記述はどれか。
①
口分田は世襲が認められた。
口分田は死後返却の義務がある田地であり,永業田は世襲が許されている田地である。
②
永業田は世襲が認められた。
③
妻や奴婢には給田されなかった。
④
高級官吏に与えられる官人永業田があった。
D
安史の乱が起こると,唐はウイグルの援助を得て鎮圧した。この戦乱を通じて,節度使の地方支配はいっそう強
化され,さらにウイグルや吐蕃の侵入も重なり,唐が直接統治する領土は縮小した。徳宗は楊炎の献策によりf両
税法を実施し,国家の再建に努力した。黄巣の乱が起こると,反乱は全国に拡大し,反乱軍の武将から寝返って唐
から節度使の地位を与えられた朱全忠が帝位につき,g唐は滅亡した。
設問6
下線fの両税法も含む中国歴代王朝の税制に関して,誤っているものはどれか。
①
唐の租庸調制は,均田制に対応した税制で,租は田地の税,庸は労役,調は絹・マワタなどその土地
の産物を課した。
②
両税法では,夏と秋の二回に分け,戸籍に登録された土地所有者の財産に応じて課税した。
③
一条鞭法は土地税と人頭税などを一括して銀で納めるもので,まず江南で施行され,後に全国に波及
した。
④
地丁銀制は人頭税の中に土地税を繰り込み,一括して銀で納めるものである。
地丁銀制は土地税に人頭税を繰り込んで一本化して銀納するものである。
設問7
下線gの唐末から五代にかけての東アジア世界の動向を述べた文中で,誤っているものはどれか。
①
遼河上流域に起こった契丹では,耶律阿保機が遼を建国し,渤海国を滅ぼして東北地方東部を支配下
に入れた。
②
朝鮮半島では新羅にかわって王建が高麗を建国し,都を慶州とした。
高麗の都は開城である,慶州を都としていたのは新羅である。
③
雲南では南詔から大理国へ政権が交代した。
④
ヴェトナムでは李氏が大越国を建て,ハノイを都とした。
E
唐代では仏教が盛んで,則天武后時代に最盛期を迎えた。h唐初では玄奘や義浄がインドへ求法の旅に出て,多
くの仏典を中国にもたらし,それを漢訳して中国仏教の発展に寄与した。インドからも僧がやってきて中国仏教界
に活気を与えた。一方,イスラーム帝国の勃興と東西交通の発達によって,西方からゾロアスター教,マニ教,i
ネストリウス派のキリスト教などの外来宗教が伝来した。
設問8
下線hの求法僧やインド僧に関して正しいものはどれか(唐代に限らない)。
①
東晋の法顕は,往路は陸路でインドに渡り,海路で帰国し,『仏国記』を著した。
②
玄奘はグプタ朝のインドに渡り,その旅行記が『大唐西域記』である。
玄奘はヴァルダナ朝のハルシャ=ヴァルダナの寵愛を受けた唐の僧侶である
③
義浄は海路でインドに渡り,帰路,スマトラ島のシャイレンドラ朝で『南海寄帰内法伝』を著した。
義浄はスマトラ島のシュリーヴィジャヤ王国で『南海寄帰内法伝』を著した。
ちなみにシャイレンドラ朝も大乗仏教を信奉した王朝である。
④
仏図澄は建康に迎えられ,布教につとめ,六朝仏教の発展に寄与した。
仏図澄は後趙の石勒,石虎王の深い寵愛を受けた。
設問9
下線iのネストリウス派のキリスト教に関して誤っているものはどれか。
①
キリスト教の一派で,エフェソス公会議で異端とされた。
②
ササン朝を中心に東方へ伝播し,唐代,イラン人によって伝えられた。
③
唐代,各地に清真寺が建てられた。
清真寺は中国でのイスラーム寺院の呼称で,西アジアのモスクに相当する。
イスラーム教は唐では回教とも称されていた。
④
唐の徳宗のとき,大秦景教流行中国碑が建立された。
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題6
【12】
2002 年 早稲田大学 商学部
次の文章を読み,設問A~Lに答えよ。解答は解答用紙に一つだけマークせよ。
1206 年にハンの位についたテムジンはチンギス=ハンを称し,モンゴル系・1トルコ系諸部族を統一して,1211
年,征服戦争を開始した。まず金朝を攻撃し,軍を西に向けホラズムを滅ぼし,さらに2西北インドに侵入,再び
軍を返し西夏を滅ぼした。第2代ハンのオゴタイは,カラコルムに首都を置き,金朝を滅亡させると,
甥の3フラグを西征軍総司令官に任じて,中央アジアから西アジアヘの大遠征を行う。その結果,チンギス=ハン
の征服戦争からわずか 30 年余りでユーラシア大陸を東西にまたぐ史上空前の大国家であるモンゴル帝国が出現し
た。征服された領土はBキプチャク=ハン国,イル=ハン国,オゴタイ=ハン国,チャガタイ=ハン国に分けて統
治され,やがて東方を経略していたフビライが大ハン位につくと,各ハン国は自立した。フビライは,41271 年に
国号を中国風にC元と改め,D南宋を滅ぼし中国全土を支配した。
近年,日本の東洋史学界ではモンゴル史を見直す動きが顕著である。すなわち,こうしたモンゴルの支配に対し
て,後世の史家は破壊,殺戮,野蛮などのイメージを付与し,E搾取と強奪の帝国という歴史像を描いてきたと批
判する。例えば,現行教科書の大部分が叙述する元朝のFモンゴル人第一主義は歴史事実でなく,それはもっぱら
科挙のためのものであり差別と抑圧の身分制度などではなかったという。政治から徹底的に疎外されたといわれる
士大夫層にしても,実際は相当数の中国人官僚が登用されたし,G有能な士大夫はむしろ厚遇されている。中央ア
ジアや西アジアでも,モンゴルの破壊でイスラーム文化が衰退し,H「タタールのくびき」でロシアは呻吟したと
いうが,個別的な事実はともかく,全体としてそのような結論は導けないというのである。むしろ「モンゴルの平
和」のもとで,ユーラシア大陸はIムスリム商人が縦横に活動,Jキリスト教宣教師やヨーロッパの使節が往来する
場になった。とくにフビライの元朝が中国を統一したことで,黒海から草原の道,オアシスの道を通り大都に,大
都から大運河で江南に下り,K泉州や広州から海の道にでるL世界周航ルートが成立したことは,世界商業圏の成立
とも評価されている。多民族国際国家であるモンゴル帝国の歴史的評価の行方が注目される。
問A
下線部1から4について,誤りがあればその番号を,なければ5をマークせよ。
3
オゴタイ=ハンが征西を命じたのはバトゥであり,フラグではない。バトゥはキプチャク=ハン国
の創始者である。
問B
下線部Bについて,正しい説明はどれか。
1.キプチャク=ハン国は,南ロシアを支配しイスラーム教を国教としたが,ロシア正教を奉ずるキエフ
公国に滅ぼされた。
キプチャク=ハン国を滅ぼしたのはモスクワ公国である。
2.イル=ハン国は,イラン地方を支配しキリスト教を国教としたが,イスラーム教を奉ずるオスマン帝
国に滅ぼされた。
3.オゴタイ=ハン国は,ジュンガリア地方を支配しチベット仏教を国教としたが,イスラーム教を国教
とするティムール帝国に滅ぼされた。
オゴタイとその子孫が,現在のジュンガリア地方に建てた国家をオゴタイ=ハン国という。国境はチベット仏
教ではない。チベット仏教がモンゴル高原に拡大するのは,タタール部アルタン=ハンの支配時代を過ぎてか
らである。オゴタイ=ハン国の 4 代目ハイドゥがキプチャク・チャガタイ両ハン国と同盟して,元に反抗した
のち,チャガタイ=ハン国に併合された。ちなみに,オゴタイ系の勢力は存在したものの安定した政治勢力とな
らなかったため,この国は事実上,存在しなかったとする説がある。
4.チャガタイ=ハン国は,中央アジアを支配しイスラーム教を国教としたが,同じイスラーム教を奉ず
るムガル帝国(→ティムール帝国)に滅ぼされた。
5.チンギス=ハン自身の西征の経路をたどると,その足跡はやがて4ハン国の支配下に入る地域のすべ
てに及んでいる。
問C
下線部Cについて誤りがある説明はどれか。
1.フビライは国号を元とする前に都を現在の北京の大都に移し,中国支配の方針を明確に示した。
2.元は,広域行政区画として行省を設けたが,それは中央政府の最高行政機関に直属する行中書省の略
称である。
3.元朝の戸籍は,一般農民の民戸のほか,世襲で駅伝制を維持する站戸など特定の職種に従って分類さ
れていた。
4.元の地方行政機関の長は複数制とし,モンゴル人とそれ以外を併用することが原則とされた。
モンゴル第一主義(モンゴル至上主義)
5.元の行政文書は,チベット文字をもとにするパスパ文字で書かれたが,ウイグル文字を借用するモン
ゴル文字も使用された。
問D
下線部Dの正しい説明はどれか。
1.南宋は,靖康の変で滅びた北宋を,徽宗の息子の高宗が杭州臨安府を行在として復興した王朝である。
2.南宋は,中国の南半分を領有するに過ぎなかったが,北を支配した女真の金に対して対等の立場で国交を回
復した。
3.南宋は,市舶司(→南海貿易)貿易を活発に展開し,高麗・日本との交易が盛んであったので琉球も進貢船
を送った。
4.南宋は,主要輸出品としての銅銭を大量に鋳造したので,東アジアの海上交易を通じて宋銭が国際通貨とな
った。
南宋になると外国貿易は財政上からもいよいよ重要視され,銅銭の海外流出もはげしくなり,日本商船の銅銭持出
しも激増した。しかし南宋の鋳銭高は北宋時代に比して壱少で,輸出銭の大部分は北宋銭とみられる。元は鈔(紙幣)
と銀を結びつけたいわば銀本位制をとって,銅銭はほとんど廃していた。
5.南宋は,朱子学を官学として採用し,科挙用テキストとして四書大全を編纂して普及をはかった。
問E
下線部Eについて,その理由としては不適当な説明はどれか。
1.元に代わって中国を統治した明は,自らの正統性を強調するために,元朝の支配を苛酷な異民族統治
としてことさら強調して叙述した。
2.『元朝秘史』はモンゴル語で書かれた伝承の記録であるが,これはむしろ例外的で,遊牧民が自ら文
字で書いた歴史書を残すことはほとんどなかった。
3.ワールシュタットの戦いでドイツ・ポーランド連合軍が敗れたことは,その戦闘の規模はともかく,
ヨーロッパの人々にモンゴルの脅威の記憶を植え付けた。
4.イル=ハン国の支配に抵抗したラシード=ウッディーンは,世界の歴史を叙述した『集史』を書き,
恐怖政治をおこなったモンゴルを非難した。
5.近代国民国家の形成と並行して発達してきた近代歴史学にとって,遊牧民の過去は考察する史料に乏
しい異文化世界の歴史であった。
問F
下線部Fに該当する説明はどれか。
1.元朝は支配の徹底をはかるためモンゴルの習俗を導入,男性は辮髪を強制された。
2.モンゴル人・色目人・漢人・南人の4分類のうち,漢人は旧金朝下の人々を指す。
3.モンゴル人は武器の携帯を許された唯一の軍戸身分として4分類の第1に位置した。
4.色目人は紅毛碧眼のイラン系商人の別称で,元朝の財務官僚として財政を担当した。
5.南人は,中国南方すなわち四川を除く長江以南に居住する漢族に対する呼称である。
問G
下線部Gの実例となる人物は誰か。
1.呉鎮
2.王重陽
3.耶律大石
4.趙孟頫
5.王建
ちょうもうふ=1286 年(至元 23),元の世祖フビライに召されて大都(いまの北京)に行き,翌年奉訓
大夫,兵部郎中に任ぜられた。以来,世祖,成宗,武宗,仁宗,英宗の 5 朝に仕えた。宋の皇
族の出身らしく,容貌も立派,学問もあり,品行もよく,書画詩文に秀でており,政治に関して
も卓見をもっていたので,諸帝の信任をうけた。
問H
問I
下線部Hの時代以前にこの地で活躍した人物は誰か。
1.イヴァン3世
2.イェルマーク
3.ウラディミル1世
4.イヴァン4世
5.ステンカ=ラージン
下線部Iについての説明で誤りのあるものはどれか。
1.最初に中国へやってきて盛んに交易活動をおこなったムスリム商人は,唐の時代,陸路ではなく海路
で来航したアラブ商人である。
2.キリスト教宣教師のような布教を専門におこなう聖職者階級のないイスラーム教では,ムスリム商人
は宣教の重要な担い手であった。
3.イスラーム文化にあって商業は軽視されることなく,シャリーアの中にも商業に関する規定は,神の
定めた法として存在している。
4.内陸部のオアシス都市を結んでおこなう交易活動は,主にラクダを使用してキャラバンを組む隊商貿
易の形をとることが多かった。
5.ブハラ,サマルカンド,メルブ,バグダード,イスファハーンは,いずれもムスリム商人の交易の場
でありトルコ系イスラーム王朝の首都であった。
問J
問K
下線部Jの例として不適当な人物は誰か。
1.イブン=バットゥータ
2.ルブルック
4.モンテ=コルヴィノ
5.マリニョーリ
3.プラノ=カルピニ
下線部Kのどちらにも該当しない項目はどれか。
1.宋,元時代に市舶司が置かれた。
3.清朝では唯一の海外貿易港として栄えた。
2.清初,三藩の乱の舞台となった。
4.アヘン戦争後の南京条約で開港場とされた。
5.清末にドイツの租借地が置かれた。
問L
下線部Lに関連しない王朝はどれか。
1.チャンパー
2.チャクリ朝
4.スコータイ朝
5.デリー=スルタン朝
3.マジャパヒト王国
【13】
2003 年 慶應義塾大学 商学部
次の文を読み,下記の設問に答えなさい。
元末の混乱を収めた
31(18)朱元璋
は 1368 年に国号を明とし洪武帝と称された。その対外政策は,北辺に備
えるとともに,南と東に向かっては,外国船の往来や,中国人の海外渡航や外国との交易などを禁ずる(
)策をおこなって,交易を(
倭寇
イ朝貢
)貿易に限ろうとした。この(
)対策であったと言われる。第3代の
17(19)永楽
ア海禁
ア海禁
)策は当時活発になっていた(
ウ
帝は対外積極策をとり,和に大艦隊を率いらせ7回
にわたる南海遠征をおこなわせた。(a)遠征は東南アジアからインド,さらに遠くアフリカ東岸にまで及んだが,そ
の目的は諸国に明の権威を認めさせ,(
イ朝貢
)貿易を促すことであった。これにより中国と東南アジアそして
インド洋周辺を結ぶ南海貿易はいっそう活発になった。たとえば,後に東南アジアを中心とする東西の貿易の一大
エマラッカ
拠点となった(
バラはあらためて明により(
リム商人が(
エマラッカ
15(20)イスラーム化
)も,和の遠征隊が明の使節として 1405 年に寄港してからは,(b)国王パラメシュ
エマラッカ
)国王に封じられ,明の朝貢国となった。インドや中東から多くのムス
)を経由して東南アジア島嶼部で商業活動をおこない,東南アジアの
に大きな役割を果たすことになる。
(19)永楽
帝の死後,明は対外的には消極的な政
策をとるようになり,北では内モンゴルから撤退し,(c)南ではヴェトナムの独立を認めた。
16 世紀になるとインド洋からインド,東南アジアを経由して東アジアまで,ポルトガル人が進出してきた。ヴァ
スコ・ダ・ガマが 1498 年にインド西岸に到着した後,ポルトガルのインド総督 12(21)アルブケルケ
は
(
25(22)ゴア
エ
は 1510 年に
を占領してインド洋の根拠地とし,さらにその翌年の 1511 年には
マラッカ
)を占領して東南アジアの基地とした。その後ポルトガル人は,中国や日本にまで活動範囲を広
げた。このようなポルトガルや 17 世紀以降進出してくるイギリスやオランダの活躍も,中国・東南アジア・インド・
中東をつなぐ交易ネットワークを巧みに利用することによって可能となったのである。16 世紀の明は,北では
4(23)韃靼
ウ倭寇
,東南海岸では(
3
)の侵攻が激しくなり,国内の乱れと重なり
韃靼=本来はモンゴリア東部に居住したモンゴル系の遊牧部族タタールを指した中国側の呼称。タ
タール部は 11~12 世紀においてモンゴリアでは最も有力な集団の一つであり,またモンゴル族の中
でも多数を占めていたという。このため宋人はタタール部を韃靼と呼んだが,それは拡大してモンゴリ
ア全体を指す呼称としても用いられた。12 世紀末~13 世紀初め,モンゴル部にチンギス・ハーンが出
現し,モンゴル帝国が出現するに及んでタタール部の力は衰えた。しかし中国では依然としてモンゴ
リアを韃靼として呼ぶ習慣が続いた。明代においても東モンゴルを韃靼と呼んでいることはその顕著
な例である。
弱体化していき,17 世紀前半には清と交替する。
文化面では,ポルトガルの通商活動に伴うかたちで宣教師たちがキリスト教の布教活動を活発に展開し,インド
以東の地にキリスト教を広めようと努めた。16 世紀の半ば,
38(25)フランシコ・ザビエル
13(24)イエズス会
は日本での宣教活動に続いて中国へも赴いたが,本格的な布教活動をおこなう前
に同地で亡くなった。16 世紀末に中国を訪れたイエズス会宣教師の
でもある(
オ徐光啓
宣教師の
42(26)マテオ=リッチ
)と協力し,宣教に結びつけるかたちで(d)さまざまなヨーロッパの知識や文物を紹介した。
しかし,キリスト教の布教は清の
46(27)雍正
帝の時代に禁じられることになった。
問1
(18)
空欄
は明の政治家で学者
から
(27)
にもっとも適当な語句を次の《語群》より選べ。
《語群》
11
アメリゴ・ヴェスプッチ
問2
12
16
アルブケルケ
インド化
13
17
イエズス会
永楽
14
15
イスラーム化
20
カスティリオーネ
21
カブラル
24
乾隆
25
ゴア
26
康煕
27
洪秀全
28
光緒
29
康有為
30
柔然
31
朱元璋
32
植民地化
33
西夏
34
韃靼
35
張居正
36
鄭成功
37
ドミニコ会
38
フランシスコ・ザビエル
39
ベネディクト会
40
ボンベイ(ムンバイ)
41
マゼラン
42
マテオ・リッチ
43
マドラス
44
万暦
45
楊堅
46
雍正
22
18
イグナティウス・ロヨラ
王安石
騎士修道会
19
23
王陽明
匈奴
下線部(a)の和の遠征した中国からアフリカ東岸にかけての地域の 15 世紀中の状況について,正しい文
を選べ。
1
ジャワのマジャパヒト(マジャパイト)王国は 15 世紀後半から北岸のイスラーム勢力に押されて衰退し
始めた。
問3
2
スマトラのシュリーヴィジャヤ王国は最盛期は過ぎていたが,依然として強い勢力であった。
3
インドではデリー・スルタン朝末期の混乱に乗じてムガル朝が勢力を広げだしていた。
4
インド洋ではオスマン朝海軍が紅海からインド西岸まで進出してきた。
下線部(c)に関して,独立したヴェトナムの王朝名は何か。その番号を一つ選べ。
1
問4
陳朝
2
黎朝
3
阮朝
4
西山朝
下線部(d)に関して,この人物が中国にもたらしたものは何か。その番号を一つ選べ。
1
坤輿万国全図
ア
)~(
オ
2
円明園の設計
3
暦の改訂
4
皇輿全覧図
問5
(
)にもっとも適する語句を記入しなさい。
問6
下線部(b)のように,周辺諸国に中国の皇帝を宗主と認めさせ,その支配者を国王などに任じ朝貢を許す
関係の持ち方を何と呼ぶか。
冊封体制
プリントのデータを画像として鮮明にするための問題7
【14】
2002 年 北海道大学 文学部
次の文章を読み,問いに答えよ。
17 世紀から 18 世紀にかけて,康熙・
A雍正
・乾隆の三代の間に,清朝は国内統治の基盤を確立し,また,
大きく版図を広げた。清朝を建てたのは,人口の多数を占める
女真族
B漢
族ではなく,(1)北方の少数民族である
であった。このことは,清朝の統治体制に大きな影響を及ぼした。正規の軍隊としては,
中心として(2)八旗が編成され,軍事的要地に置かれる一方,(3)
B漢
族によって構成された
D緑営
に配置されて主に治安維持などにあたった。国内行政制度については,伝統的な官僚選抜方式である
継承し,(4)人員の配置でも
C女真族
と並んで
B漢
C女真族
C
を
は,各地
E科挙
を
族の登用を図った。歴代の皇帝は,(5)反清思想を弾圧す
る
ため厳しい統制を行ったが,同時に,(6)中華帝国の皇帝として伝統的な文化の振興に努めた。こうした直轄領での
統治に対して,モンゴル・チベット・新疆などは
F理藩院
の管轄下に置かれ,広汎な自治と(7)宗教の自由が与えられた。
問1
空欄AからFにあたる適切な語句を答えよ。
問2
下線部(1)について,この民族が清に先立って建てた王朝の名称を答えよ。
問3
下線部(2)について,「八旗は軍事組織であるばかりでなく,行政・社会組織でもあった」と言われてい
金(後金)
る。このことについて,簡潔に説明せよ。
八旗は満州族固有の狩猟組織を基礎に編成された軍事組織で,これに所属する旗人には土地が支給された。
問4
下線部(3)について,この軍事的原則は 19 世紀に入ると崩れる。その原因と結果を簡潔に記せ。
平和な時代が続き,緑営は軍事訓練や兵員補充を怠り,腐敗・弱体化した。かわって,郷紳が自衛団を基に組織
した郷勇が軍の主力となった。
問5
下線部(4)の政策名を答えよ。
満漢併用策
問6
下線部(5)について,代表的な例を2つ挙げよ。
問7
下線部(6)について,(ア)康熙以下三代の皇帝の下で行われた大規模な事業の名称を3つ挙げ,
文字の獄・禁書
「康熙字典」・『古今図書集成』・『四庫全書』
(イ)康煕帝の下で起きた「典礼問題」について 120 字で説明せよ。
イエズス会は孔子の崇拝や祖先の祭祀などを認め,布教に成果を上げたが,他派の宣教師がこれに反対し,
ローマ教皇もイエズス会の宣教方法を否定した。反発した康煕帝はイエズス会以外の布教を禁じ,雍正帝
の時キリスト教の布教を全面的に禁止した。
問8
下線部(7)について,モンゴル・チベットの住民の多くと新疆の住民の一部が信仰していた宗教を答えよ。
チベット仏教
【15】
2006 年 青山学院大学 法学部
以下の文章を読んで,問題に答えなさい。
元朝の崩壊と明朝の成立は,周辺地域に大きな影響をおよぼすものとなった。元朝に服属していた朝鮮の高麗王
朝では,親元派と親明派の対立がおこり,こうした中で,①倭寇を撃退して名声を高めた(
②
)が高麗王朝を倒
して,1392 年王位につき(太祖),国号を朝鮮と定め,漢城(漢陽,現在のソウル)に都を置いた。その後,貴族の土
地を没収し,官僚にはその官階に応じて(
③
)を与えた。また,明朝に朝貢し,④集権的な支配体制を確立した。
日本では,鎌倉幕府が倒れ,南北朝の対立の時期をへて,室町幕府がひらかれた。足利義満は,明朝に朝貢し,日
本国王に封じられた。ヴェトナム北部は,明朝の成立以後,その支配下におかれていたが,(
⑤
)は,明軍を撃
退し,朝貢関係を結ぶとともに,明朝の制度を導入し,官僚制を整備し,朱子学を振興した。明朝では,永楽帝の
死後,官僚間の争い(党争)が激化し,北方では,周辺民族が中国の領域に侵入した。1449 年の土木の変では,オイ
ラートの(
⑥
)が正統帝(英宗)を捕虜とし,その後もタタールなどの侵入があり,明朝はこれに対抗しなければ
ならなかった。
長江下流域では,綿織物や生糸の生産,その原料のための綿花や桑の栽培などを中心に経済の発展がみられ,湖
北・湖南(湖広)が穀倉地帯となった。また,景徳鎮では,陶磁器の生産が発達した。こうした商品生産の発展の中
で,政府と結びついた特権商人として,(
⑦
)商人や徽州(新安)商人などの集団の活動が活発になった。こうし
た商人は,出身地や業種ごとに会館・公所をもうけた。こうした中で,日本銀やメキシコ銀が大量に流入し,中国
の商工業の発達をうながすことになった。
こうした中で,木版印刷による出版の急増によって,小説,科挙の参考書や⑧商業・技術関係の実用書の出版が
おこなわれた。この時期には,宣教師を通じてヨーロッパ文化が中国にもたらされた。とくに,イタリア人の宣教
師(
⑨
)は,徐光啓とともにエウクレイデスの『幾何原本』を翻訳し,中国最初の世界地図(『坤輿万国全図』)
を作成した。清朝初期には,イタリア人宣教師のカスティリオーネが離宮である円明園を設計した。しかし,円明
園は,⑩19 世紀の(
①
②
この時期の倭寇(前期倭寇)に関する説明として,適当でないものを一つ選べ。
(1)
海賊集団であったが,交易に従事することも多かった。
(2)
日明間で勘合貿易が行われるようになると活動は沈静化した。
(3)
海禁政策の中で,これに従わない中国人が中心であった。
(4)
日本人が中心で,南北朝動乱時期に,朝鮮から中国沿岸地域で活動した。
(
)に入る人名として,適当なものを一つ選べ。
(1)
③
(
(
李成桂
(3)
李舜臣
(4)
李承晩
科
田
(2)
均
田
(3)
囲
(4)
佃
田
戸
両
班
(2)
郷
紳
(3)
藩
鎮
(4)
形勢戸
(3)
阮
朝
(4)
黎
(3)
ヌルハチ
)に入る王朝名として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑥
(2)
高麗王朝時期に始まり,支配体制の中核となった階層の名称として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑤
李元昊
)に入る語句として,適当なものを一つ選べ。
(1)
④
)の際に,イギリス・フランス両軍によって破壊された。
(
陳
朝
(2)
西山朝
朝
)に入る人名として適当なものを一つ選べ。
(1)
エセン=ハン
(2)
アルタン=ハン
(4)
ホンタイジ
⑦
(
)に入る語句として適当なものを一つ選べ。
(1)
⑧
寧
波
(2)
広
東
(3)
山
東
(4)
山
西
編纂物・出版物とその作者・編者の組み合わせとして,適当なものを次から選べ。
⑨
(1)
『本草綱目』・顧炎武
(2)
『農政全書』・銭大昕
(3)
『天工開物』・宋応星
(4)
『崇禎暦書』・王守仁(王陽明)
(
(1)
)に入る人名として適当なものを一つ選べ。
⑩
アダム=シャール
(
(2)
フェルビースト
(3)
ブーヴェ
(4)
マテオ=リッチ
)に入る語句として適当なものを一つ選べ。
(1)
アヘン戦争
(2)
アロー戦争
(3)
義和団事件
【16】
(4)
太平天国
2002 年 関西学院大学 法学部
次の文中の下線部に関する問いに答え,記号にマークしなさい。
16 世紀後半,万暦帝が即位すると,その初期には①政治の立て直しがはかられたが,その後,国内での反乱や東
北地方で勢力を増す女真族への対応,さらには朝鮮への軍隊派遣が重なり,財政難が深刻となっていった。そして
その裏では,官僚の内部で②党争が起こり,宦官もこれに介入するなかで,社会不安は増大し,ついに反乱軍によ
って北京を占領されて③明は滅亡した。明の支配から自立し,軍制である④八旗を軸に政治体制を整備していた女真
族は,明の滅亡を受けて⑤中国内に入り北京に都を置いた。⑥清は康煕帝の時代に三藩の乱を平定し,台湾を併合す
るなど中国の統一事業を達成したが,さらにロシアとの間で国境を定める条約を結んだ。続く雍正帝は⑦軍機処を
設置し,また⑧ロシアと国境や通商の取り決めを行った。乾隆帝も内治につとめると同時に,ジュンガルを征圧す
るなど領域を大きく拡大した。清では漢人を懐柔するため科挙制を採用し,また大規模な漢籍の編纂事業を行うな
ど,⑨学術を奨励し中国文化を保護した功績も大きかったが,明から清にかけての時期は,また⑩ヨーロッパ文化と
の接触が深まる時期でもあった。
[問
い]
①
この時,宰相として政治改革を行った人物はだれか。
a.王夫之
②
b.張居正
c.顧炎武
d.王振
e.戴震
この党争とその後の混乱に関する記述の下線部で誤りを含むものはどれか。
中央政府の政策に反発して辞職したa顧憲成は,故郷のb無錫に帰郷して書院を起こした。この書院と関係の
深い官僚群をその名にちなんでc東林派と呼ぶ。彼らが批判の対象としたのは宦官,およびそれと結ぶd外戚
(→内閣・官僚批判)であったが,天啓帝の時代に権力を掌握した宦官のe魏忠賢はこれを厳しく弾圧した。
③
明の最後の皇帝はだれか。
a.崇禎帝
④
b.隆慶帝
c.正統帝
d.嘉靖帝
八旗に関する記述で誤りを含むものはどれか。
a.八旗は,4色の旗とそれに縁取りをした4つの旗で軍隊を区別した。
b.八旗の制度は,ホンタイジの時代に始められた。
c.八旗には満州八旗のほかに,蒙古八旗,漢軍八旗があった。
d.清朝正規軍には八旗のほかに緑営が置かれた。
e.八旗の構成員は旗人と呼ばれ,旗地が与えられた。
e.泰昌帝
⑤
この時に通過した長城の要所はどれか。
a.玉門関
⑥
b.居庸関
c.雁門関
d.函谷関
e.山海関
清という国号を定めた時期はどれか。
a.ヌルハチが建州女直の部族長になった時
c.ホンタイジがヌルハチの後継者となった時
b.ヌルハチが明から自立した時
d.ホンタイジがモンゴルの一部を支配下に置いた時
e.順治帝がホンタイジの後継者となった時
⑦
軍機処に関する記述で誤りを含まないものはどれか。
a.最初は軍事機密を保護するために設けられたが,後には政治面での最高機関となった。
b.軍機大臣には満人と漢人がそれぞれ1名任命された。
c.内閣は,軍機処が政治の権限を掌握した乾隆帝の時代に廃止された。
d.理藩院は軍機処の下部組織で,周辺民族統治を担当した。
e.1860 年に総理衙門が設置された時に廃止された。
1911 年に責任内閣制が実施されると,軍機処は消滅したが,新官制の最高官職である総協理大臣
には軍機大臣が充当された。
⑧
雍正時代にロシアと結んだ条約はどれか。
a.ゴレスターン条約
b.イリ条約
c.キャフタ条約
d.ネルチンスク条約
e.アイグン条約
ゴレスターン条約=1813
年,アゼルバイジャンのゴレスターン Golest´n(現,ギュリスターン)でロシアとカ
ージャール朝イランとの間に締結された条約。グリスターン Gulist´n 条約ともよばれる。ザカフカス地
方の領有権をめぐって両国は 1804 年から 8 年間にわたって断続的に戦争を続けていたが,カージャ
ール朝イランの敗北に終わった。この結果,イランはアラス(アラクス)川以北のアゼルバイジャン地方
をロシアに割譲し,グルジアに対する主権を放棄した。また,カスピ海の航行権をロシアの船舶だけに
認めることに同意した。
⑨
明末清初の学術に関する記述の下線部で誤りを含むものはどれか。
明朝ではa陽明学が官学とされたが,16 世紀頃から実学が盛んになった。このような動きのなかで明末清初期
ではb黄宗羲などが実証を重視するc考証学を発展させ,乾隆時代にはd銭大昕などのすぐれた学者が現れ,ま
た『春秋』解釈学の一つのe公羊学も盛んになった。
⑩
ヨーロッパから渡来した宣教師のうち,円明園の設計に参与した人物はだれか。
a.マテオ=リッチ
b.ブーヴェ
d.カスティリオーネ
e.レジス
c.フェルビースト