私の好きなベトナム - 国際ロータリー第2740地区

平成 25 年 11 月 5 日
鹿島ロータリークラブ
米山奨学生 ズオン・トウイ・リン
私の好きなベトナム
故郷を言う度にあの記憶を思い出します。
「母ちゃん、故郷って何?どうして先生は故郷を好きになってねって教えた
の?」大きな目で母をじっと見て、6 歳の私が聞きました。
「そうだね。故郷は生まれて育った土地だよ。簡単に説明すればね。ほら、ふ
わふわ浮かんでいる雲、毎日学校への道、八百屋さんの笑顔、広い畑の緑、全
部故郷だよ。ベトナムだ。」ニコニコして母が答えました。
「なるほど。よし、ベトナムを好きになる。決めたんだ。」私はうなずきなが
らウキウキした調子で言いました。
その時、私にとって、ベトナムは親しい周りのことで、好きになれるもので
したが、どうしてベトナムを好きになったのか分かりませんでした。
はい、私は元々ベトナムが好きでした。
「あなたのベトナムは?」突然こう問いかけられたどう答えますか?多くの人
は戸惑ってしまうでしょう。愛国ですか?楽観的ですか?それとも様々な美し
い観光名所ですか?いいえ、私の私のベトナムは自分の好きなベトナムです。
それは毎日慣れた音、味、匂い、イメージ、感情です。
私のベトナムは、竜眼と蓮の種のチェーのほんのり甘い味。
私のベトナムは、ジメジメしている天気の中、急に大雨が降った時の、ぬれた
土地の匂い。
私のベトナムは、畑で働いている農民たちの額に流れた汗のイメージ。
そして、ラッシュ時のバイクのエンジンの煩い音も私のベトナム。
夏の計画停電でエアコンのない日の蒸し暑さも私のベトナムです。
その地味な生活こそが、私にとっては特別です。どこへ行っても忘れられない
何年間も毎日育っているベトナムです。
しかし、ベトナムの一番好きなところは、人の笑顔です。子供にとって最高の
母親の笑顔、道でものを売る人の明るい笑顔。特にベトナムが平和になった日
には国民のみんなの笑顔は素晴らしかったことでしょう。想像するだけで、ド
キドキしています。
ベトナムは 4 千年以上の歴史といっても、戦争ばかりでした。しかし、困難状
況の中でもいつもにこやかな笑って笑顔の眩しい国だと言われます。
現在ベトナムは建設発展中で。どこかによくない人の態度、よくないところが
見られますが、それだけで、ベトナムのよいところ全部は否定できるわけでは
ありません。これからますます素敵な国になっていくことを信じています。そ
れを実現することが、我々ベトナム人の役割です。
「故郷は生まれて育った土地だよ。、簡単に説明すればね、。ほら、ふわふわ
浮かんでいる雲、毎日学校への道、八百屋さんの笑顔、広い畑の緑、全部故郷
だよ。ベトナムだ。」今、 母の答えの意味は深く分かって来ました。ベトナ
ムでの地味な生活を大切にしています。なぜなら、私の大好きなベトナムだか
らです。
平成 25 年 9 月 3 日
ロータリー鹿島クラブ
米山奨学生ズオン・トウイ・リン
富士山に登るチャレンジ
世界遺産が登録されるきっかけで 7 月 11 日から 14 日まで学校の友達と 5 人で富士
山に登ってきました。登山はずっと前から大好きな私は雲仙やに登ったことがありま
すが富士山のような険しい状態がまったく考えられなかった。出発する前に富士山は
どいうところか調べてみるのがもちろんですし、心準備もたっぷりですが実際に登っ
て、非常に苦しかったです。五合目まで車で連れて行ってもらいました。六合目から
体力や精神力で動き始まりました。その時、いい天気だったが温度が結構高くて、暑
いし、坂や大小の石が多かったから何度何度も途中でやめたい気持ちがありました。
しかし、まわりのぼっている日本人の頑張ってる姿を見て、自分でも頑張らなきゃと
思いながらぼちぼち登ってきました。「腹が減ったら、戦ができぬ」という日本のこ
とわざを思い出し、七合目まで休憩し、美味のきつねうどんを食べてきました。そん
なに三千メートルの高いところでうどんを食べられることが信じきれなくて、すごく
感動しました。お腹いっぱいになって、前進んできましたが夕方になると温度がだん
だん下がって寒くなってきました。風が強いので足が重くなって、吐息がとまってし
まうように気がしました。非常に辛かったです。しかし、八合目にある要約していた
宿がハンバーグを食べさせるくれることが考えると力が入って、また登り頑張ってき
ました。夜九時ごろ宿に到着しました。八合目で冬みたいな寒いさが大変だったよう
です。上着を持ってきましたが布団が二枚かけて寝ました。寝る前に最初の日には宿
のお金以外飲食代は三千円ぐらい、トイレ代も二千円かかりました(一回は二百円)
という面白い計算をしました。翌日は朝四時半に起きて、ご来光を待っていました。
五時半ごろお日様が完全に出てきて、太陽のエネルーギをいっぱいもらって、富士山
の頂上まで登り続いてきました。やっと、午前中の 10 時ごろやっと頂上につきまし
た。富士山の奇麗な景色を見ながら、当時のお天気は曇りだったが気持ちが晴れです
し、最高でした。今回、富士山に登ってから、体重が 2 キロ減ってるし、それ以上勉
強になることもあります。誰でも目的をしっかり持たずに人生の意味にならないと思
っています。また、我々は自分の力がどこまで行けるかはっきり分からなくて、判断
できません。困ることや辛いこと、チャレンジのこと等に対して自分なり線を引いて、
壁をつくって、やっても絶対無理だと思ったら自分は自分に負けてしまうと考えてい
ます。
平成 25 年 8 月 6 日
ロータリー鹿島クラブ
米山奨学生ズオン・トウイ・リン
仙台・宮城に行く思い出し
東北大震災復興のボランティア活動の一環として、学校から派遣させて頂いて、6
月 21 日から 23 日まで仙台・宮城に行ってきました。非常に素晴らしい体験でした。
出発する前に「仙台は緑の町」とよく聞かれたが、実際に行った時、大変驚きました。
仙台市内は緑の色に染められて、のんびりと流れている雰囲気が感じられていました。
気持ちが大変良かったです。そして、美味しい牛タンとカモメの卵いう仙台の物産を
食べさせていただきました。最初の一泊目は東北大震災ボランティアセンターという
所で泊まってきました。あそこはボランティアのチームや組織が集まるところですか
ら、皆とご一緒に震災のことについて分かち合ったり、活動したりしました。あそこ
で長富さんという 45 歳の女性とお出会いができました。大震災で旦那さんが亡くな
ってから、ずっと寂しくて、苦しくて「死にたい、死にたい」とよく考えていた永富
さんが立ち上がって、ボランティアセンターのメンバーになることにしました。これ
は感激のことだと思っていました。
二日目と三日目に、宮城県の石巻町と女川町に移動してきました。大震災前の撮っ
た町の写真と実際が比べて、本当に信じられなくて、波の力に怖がれるようになりま
した。しばらく大震災のせいで倒れた建物がまだ残るのを見て、中々大変苦しい状況
です。それで、完全に復興するまでやはり時間がかかりそうです。その後、女川町に
ある三カ所の仮設を訪問に行って、歌を歌ってきました。皆さんに喜んで、涙が流れ
るぐらいという方々に感動して頂きました。「あなたの声が本当に素晴らしいです。
いつか日本のテレビに出るか分からないけど、出たら、私はいつも見てる、いつも応
援してる」が仮設のお婆ちゃんに励まして頂きました。同じ曲を何度も舞台で歌った
ことがありますが、仮設の皆さんの前に歌う時気持ちが全然違ってて、優勝の気分よ
り言葉で表せずに大変嬉しく思っていました。
今回の東北への派遣を通して、一番勉強になったのは命の大切さが最も深く感じられ
ることです。そこで、生きているうちに、自分自身が意味を持つ人生をつくらなくては
ならないという理念をしっかり持って、頑張っていく気持ちが強いです。また、今後機
会があれば大震災に影響が与えられた岩手県、また福島県などに行ってみたいと思って
います。
平成 25 年 6 月 11 日
ロータリー鹿島クラブ
米山奨学生ズオン・トウイ・リン
熊本への研修旅行の体験
5 月 25 日から 26 日まで研修旅行として米山奨学生と一緒に熊本に行って
きまし。佐賀大学の 4 人と長崎大学の 7 人とカウンセラーと一泊二日を楽
しく過ごしてきました。熊本県熊本市にあるお城で、大坂城、名古屋城と
並んで日本三名城の1つである熊本城に連れて行ってきました。 熊本城の
歴史は古く、加藤清正が設計し慶長6年(1601 年)に築城着手、1607 年に
完成しました。城郭は約 98 万平方メートル、周囲は約 5.3km という広大な
敷地に、大小の天守閣、櫓(やぐら)49、櫓門 18、城門 29 を備えるという、
全国でも有数規模のお城です。また、日本を代表する活火山(概ね 1 万年
以内に噴火をした火山か活発な噴気活動がある火山である阿蘇山まで見せ
て頂きました。ちなみに、世界でも有数の大型カルデラと雄大な外輪山を
持ち、「火の国」熊本県のシンボル的な存在として親しまれるといういい
勉強になりました。更に、阿蘇を代表する湧水「白川水源」にも行ってき
ました。毎分 60 トンもの水が湧き出ているこの湧水は、一級河川「白川」
となって熊本を通り有明海へと注いでいると教えて頂きました。ここでの
非常に綺麗なお水を飲ませてから、心も綺麗で清潔になるではないかと感
じられました。
観光に行くことより、日本の歴史への知識が勉強になったり、とりわけ、
国際交流関係の精神が高まったりするようになったという素晴らしい体験
だと思っていました。研修旅行の間に、国語が禁止になって、皆で日本語
が共通語としてお話したり、活動したりしました。やはり、この機会を通
じて日本語の能力を改善することができると共に、国際のお互いも理解で
きるようになる気持ちが強かったです。米山奨学生になることは幸せより
世界中の国々の人々と出会って、「一期一会」という理念を持ちながら、
自分の人生を広げるチャンスであると思います。
平成 25 年 5 月 7 日
ロータリー鹿島クラブ
米山奨学生ズオン・トウイ・リン
ファン・ボイ・チャウの「東遊運動」と日本
―20世紀東アジア国際関係を中心―
ここ数年、日越関係は様々な分野を通して、ますます親密になってくる
だろう。日本政府による ODA という支援、文化交流活動の促進、ベトナム
における日本語の学習等に加えて、両国関係に関する学術研究も大きな成
果をもたらしていると言える。中でも、ファン・ボイ・チャウ(藩佩珠)
とドンズ( 東遊 ) 運動は歴史的な一つの例である。
1858 年 8 月、フランスは植民地化のため、ダナン港に上陸してから、サ
イゴンを占領した。1914 年までに、第一次植民地開拓が強行され、ベトナ
ムの社会は大きく変動し、酷い影響を受けた。当時のベトナムの経済力は
弱かったために、フランスの経済に依存していた。天然資源は限られてお
り、国民や労働者も過酷に搾取されて、農地が略奪されていた。鎖国政策
のせいで産業は旧式のままで、商工業は低迷した。19 世紀の中頃、ベトナ
ムは恐ろしい封建制度のもとで、ひどく荒廃した。こういった背景のもと
に、民族解放の道を見つけるために、反フランス運動が全国に広がった。
その頃、1905 年、日露戦争における日本の戦勝をきいたベトナム革命組織・
維新会の代表ファン・ボイ・チャウらは、ベトナムの窮状を訴えて、武器援
助を求めるために、 密出国をして日本へ来た。救国活動のための力をつけ
るために、ファンは軍事援助を介して人材を育成することを考えた。勉学
に興味を持っているベトナムの青年達は日本を選んだ。「日本に学べ運
動」からドンズ(東遊)という言葉が生まれた。とりわけ、東遊運動はフ
ァンと、彼に支援を惜しまなかった大隈重信、犬養毅、浅羽佐喜太郎らと
の交流、活躍を描く感動の歴史ノンフィションです。
ドンズ運動そのものは三年間続いた後に失敗したが、現在、日本ではド
ンズの思想を受け継いだ留学生の数が増えてきている。ベトナムの近代歴
史に興味を持つことをきっかけとして、日本に留学した私は日越関係の架
け橋になるために、ファンの「東遊運動」と日本というテーマで研究する
ことしました。今のドンズの学生たちを見ながら、ファンとドンズ運動の
流れを振り返ろうとおもっている。本研究を通じて、歴史の知識を高める
という以上に、現在の日越関係の発展のために多方面にわたり貢献できる
ものと確信する。
平成 25 年 4 月 9 日
ロータリー鹿島クラブ
米山奨学生ズオン・トウイ・リン
米山奨学生になった感じたこと
佐賀大学の大学院 2 年生のズオン・トウイ・リンです。ベトナムから来
ました。本日、米山奨学生としてお世話になっている鹿島クラブの皆様の
前に発表させて頂いて、大変光栄です。早速ですが、「米山奨学生になっ
た感じたこと」というテーマについてお話したいと思っています。
皆さん、ハノイってベトナムの首都ご存知ですか?私が生まれた地元はハ
ノイから車で三時間かかるところです。ベトナムの北中部にあり、多くの有
名な海がある THANH HOA (精化)という場所です。ほぼ 10 年前、私の実家
はかなり田舎のところで、生活が苦しい状況が続いて、経済的な問題のため、
勉学の道を選ばずに、お仕事する中学校を卒業していた子供達が多くなって
きた。当時、高校生の 1 年生の私は、その背景を見たり、感じたり、「絶対
自分が大学まで行く。絶対海外で留学する」って意思が強く持ちながら、勉
強頑張ってきました。
大学生になって、日本語と日本の文化という専攻を勉強して、日本で留
学したい気持ちをずっと持って来ました。2010 年九月 28 日に来日、今まで、
一番忘れられない記念日だと思います。時間がすごく早いもので、日本に
いて二年半ぐらいが経ちました。二年半の間に、佐賀大学の大学院生にな
って、色々な体験やお出会いが出来て、日本に来ることに対して全然後悔
しません。確かに、初めて日本に来た時、日本語が通じないところがある
し、異文化で、それにホームシックで困りました。しかし、一番苦しかっ
たのは経済の問題です。親のそばにいた時、何でも考えずに、「お父さん、
これが好き。お母さん、これ買ってくれん」ってた私が今の私がずいぶん
違います。バイトをしながら、一人暮して、お金の価値がよく感じて、親
の苦しいさが分かるようになりました。ただ、バイトばかりで、勉強が集
中できなくなって、奨学金がないともっと大変になると認識してたから、
米山の奨学金を申請しました。実は享年も米山奨学生の面接を受けてきま
したが、失敗してしまいました。ショックで、「どこか足りないかな」っ
て失敗した原因をずっと考えました。一週間後、来年またチャレンジして
みたいと思いながら、立ち直りました。幸いに、今年奨学金になることが
決定されて、すごく嬉しかったです。しかし、それ以上奨学生の責任をし
っかり理解しなくてはならいと思っています。毎月 14 万円を頂いて、どう
やって効果的にその金額を使えばいいのか?学費用と生活費はもちろんで
すが、研修旅行に使われたいです。とりわけ、現在、国際関係の専攻とし
て、日越関係について研究していますので、研究旅行が役に立つはずと思
います。それ以外、来年の三月は卒業する予定があって、親を日本に連れ
に行きたいと思います。14 万円は留学生にとって、すごく大きな金額なの
で、大事にして使います。
奨学金の面接を受けた時、「将来、何になりたいですか」と聞かれまし
た。「日本とベトナムの架け橋になりたいです」と私が答えました。また、
「どんな架け橋になりたいですか」こえ掛けられて、「通訳の架け橋みた
いな感じです」と返信しました。大学生のときから、日本の企業で通訳と
して働こうと思っていましたが日本に来てから、夢が変わってきました。4
月 6 日の地区大会に出席、言葉遣い・心遣いの話を聞かしてから、色々な
勉強になりました。人間関係というのは言語が違っても、文化違っても、
肌の色が違っても、ハートがしっかり相手に伝えるものだと私かそう思っ
ていました。私は、偶々、介護施設へボランテイアに行かせてもらったり、
歌わせてもらったりする活動に参加したことがあります。私の歌を聴いて、
涙が流れるお祖父ちゃん、お祖母ちゃんがいました。大変喜んでました。
そこで、私は心の通訳になりたいという気持ちになります。では、「心の
通訳」はどんな仕事でしょうか?簡単なことからスタートすると、歌を通
じてハートを伝えます。着物の姿で日本語が歌える外人の歌声を大勢の
人々に聞かせてあげたいです。また、卒業後、福祉に関する仕事を味わっ
てみたいと思います。福祉と介護などようなお仕事は相手の心への一番短
い道だと考えられます。今日のベトナムは若い社会なんですが、今後発展
してきて、福祉制度や介護サービスの認識がだんだん上がってくると思い
ますので、帰国してから、日本でのやり方を習い、ベトナムで介護施設を
作りたいです。中々難しいですが、自分の力や能力以外、皆様に応援して
頂き、夢が実が現できれば、日本とベトナムの架け橋の意味 になるではな
いでしょうか?