絶叫 - Eurex

絶 叫
沢村圭一郎
September 1, 2011
武田が、その不思議な経験をしたのは、長崎への業務出張の帰りであった。
武田が勤める会社が生産した電話機に、ノイズが混じって使えないというクレームが時々
入った。それはNHKの第2放送が受話器から聞こえるというもので、通話相手の声より、
混信するラジオの音のほうが高いくらいであるというクレームもあった。受話器にノイズ
が混じることはかなり頻繁にあり、NTTが壁の電話ジャックにノイズを取るためのコン
デンサを入れて回っていたが、クレームはその対策後の混信であるようだった。しかし会
社の開発室では全くそういう混信が起こらず、試しに社員に同じ電話機を持ち帰らせ、自
宅でテストさせても、ラジオ混信は起こらなかった。電話機は、一種の音響機器であるか
ら、ラジオ混信やノイズの問題は起こりがちで、会社の技術陣は、これまでほぼ完ぺきに
対策してきた。しかし今回は交換品を何回送っても解決しなかった。クレームは増え続け、
会社は出荷停止を考えなければならないほど追いつめられた。
武田は、回路構成とプリント基板、部品配置をもう一度見直した。NHK第2放送の周波
数と共鳴している部分があるはずであった。信号の出入り口につけたチョークコイル、そ
のあとに続くダイオードブリッジからネガティブにおとした電解コンデンサ、信号増幅回
路のトランジスタ、スピーチIC,スピーチ回路から受話器までの回路に440Hzを入
れても、出てくる信号にノイズは混じっていなかった。102や103のセラミックを通
話回路に入れれば、アナライザーに表れないノイズも落とすことができるが、音量レベル
も下がってしまうし、やりすぎるとリタンロスや直流抵抗がくるってしまう。試しに、ガ
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チガチにノイズフィルターを入れた電話機を消費者に送ってみたが、何の効果もなく、消
費者は返金を要求した。だが武田の会社の卸価格と、消費者が支払った小売価格には3~
4倍の開きがあり、返金手続きは不可能であった。そういうクレームはまだ2日に1回く
らいであったが、次第に増えそうな様子を見せ、会社には解決手段がなかった。何故その
機種だけにラジオ混信が起きるのかがわからないのである。武田は次にクレームがあった
ら、少々遠くてもその場所に行ってみようと決めていた。不思議なことに、そのクレーム
は東京支店や大阪支店にはあまりなく、西日本を担当する九州支店に多かった。だが今後
関東、関西に同様のクレームが広がらないという保証はなかった。
その機会は翌々日にやってきた。長崎市の消費者から電話があり、家の電話機がノイズで
使い物にならないので、近くの公衆電話からかけているということであった。試しに家の
電話機を使ってもらうと、笑いたくなるほどはっきりと第2放送が聞こえた。武田は工具、
部品ボックス、交換用の電話機、比較用の他社製品、それに念のため受話器だけを持って
長崎市へ向かった。何としてでも原因を特定し、対策を講じなければならなかった。
3時間半後に、長崎市の稲佐山のふもとにあるその家に到着した。武田が抱えている問題
を知らない消費者は、このためだけに来てくれたんですかと感激していた。若い主婦であ
った。武田は壁のNTTジャックにきちんとノイズ取りのコンデンサが装着されているこ
とを確かめると、その電話機で会社に電話をかけようとした。だが受話器を取った途端、
派手にNHKが聞こえ始めた。
「う~ん、これひどいですねえ」
武田がトラブルを認めた事に、その主婦はほっとしたようであった。製品のせいじゃない、
扱いが悪いなど言いくるめられるんじゃないかと心配していたようであった。武田は新品
の電話機を取り出し接続してみたが結果は同じであった。だが他社の電話機をつなぐと、
それは全く混信しなかった。消費者にこむずかしい理屈は通用しない。その主婦は、不思
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議ですねえと言いながら、武田の会社を暗に非難していた。
武田は電源を借り、オシロスコープとハンダ篭手の準備をし、ノイズを出し続ける電話機
を開け、回路をむき出しにした。主婦は興味深そうに見ていたが、むき出しの回路を見る
と、電話機ってこうなっているんですかと感心していた。武田は、昔の電話機と違って、
最近のものは100%電子式なんですよ、その代わりノイズに弱くてと、云い訳をしなが
ら、オシロをあちこちにあててみた。しかし開発室での結果と同じで、ノイズが混入して
いる形跡はなかった。試しにコンデンサをスピーチ回路に空中配線してみたが、受話器か
ら聞こえるNHKは全く変わらなかった。武田は焦った。このまま、治りませんと帰るわ
けにはいかなかった。
武田は必死に考えた。電話機回路には間違いなくノイズは入っていない、しかし受話器に
はガンガン入っている。試しに他社品の受話器を繋いだらどうなるか。最近の電話機はモ
ジュラージャック方式なので、端子列さえ合っていれば、他社品でも接続できる場合が多
い。受話器だけを交換した結果は劇的であった。ノイズは全く聞こえなくなり、ツ~とい
う局からの発信音だけが聞こえた。次に武田は受話器のコード(くるくる巻いたコイルコ
ード)だけを自社品に変えてみた。すると今度は、他社製の受話器であるにもかかわらず
NHKが聞こえた。受話器コードのせいであった!コードの長さが第2放送の波長に合っ
て、アンテナの役目を果たしていたのである。武田は、最近コイルコードの納入メーカー
が変わったことを思い出した。
今ここで修理ができなくても、コードを他社品に取り換えれば事態は収拾する。しかし武
田はこの事態を利用させてもらうことにした。後10分でなおりますからというと、主婦
は嬉しそうな顔をした。コードに直接部品を取り付けることはできないので、武田は10
3セラミックコンデンサを本体側の受話器ターミナル、102を受話器のカプセルに取り
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つけ、電話機を組み立て直し、回線につないだ。つまりコイルコードの両端にフィルター
を取り付けた事になる。ノイズは全く聞こえず、局からの澄んだダイヤルトーンが入って
きた。武田は主婦に、たまたまコイルコードがラジオのアンテナと同じ役目を果たしてい
た、ラジオ放送の電波波長と合っていたんでしょうねと説明した。主婦はそうなんですか
と答えたが、理解しているようには見えなかった。武田は念のためそのコイルコードを持
ち帰ることにし、他社製のコードを残した。費用を全く請求せず、帰ろうとする武田に感
激した主婦は、ジュースだリンゴだと手あたりしだいに持たせた。
武田は、ノイズトラブルが解決したことと、その方法論を至急社内に広報するよう同僚に
依頼すると、長崎大学に勤めている友人に連絡を取り、久しぶりに中華街で会った。仕事
上のつながりはないので、あくまで世間話であったが、友人がおごってくれた中華料理は
うまく、深刻なトラブルを解決した武田は、嬉しさから門外漢の友人にそのいきさつを話
した。ビールを2杯だけ飲み、話しが弾み、気がつくと夜10時を過ぎていた。友人と別
れ、安全のため車で1時間ほど仮眠をとると、武田は夜11時半ころ長崎を離れた。
長崎から福岡へ帰るには、諫早市から大村市に抜ける国道を通るのが普通であったが、わ
ずかにアルコールが残る武田は、琴海町(きんかいちょう)から佐世保に抜ける206号
を行くことにした。昼間であれば、琴海の海沿いを走る美しいコースである。道は多少曲
がりくねっているが、信号が少なく、追い越しができ、おまけに警察の姿が少なかった。
気持ちのいい秋の夜であった。長崎市内を抜け、時津を過ぎるころには時計はもう12時
25分過ぎを示していた。道路はガラガラで、綺麗に舗装された道は、真ん中に白線をく
っきり浮かび上がらせていた。武田は車の窓をフルオープンにし、ステレオでカントリー
ロックをガンガンかけながら飛ばした。武田は夜型で、おまけに車の運転が好きであった。
車は業務用のバンであったが、タイヤは幅広のラジアルが装着されていた。あまりコーナ
ー性能のよくない車で、大型車を追いかけまわし、曲がりくねった道を飛ばすスリルがど
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ういう訳か好きだった。
琴海町形上湾の横を走る直線道路に差し掛かった時、遠く前方にハザードランプをつけた
車が見えた。いや車はまだ見えなかったがハザードランプの点滅は認識できた。武田はい
やな感じがした、警察の検問ではないか。もうアルコールは抜けていると思っても、検査
となればやはり不安である。かといって引き返すような姑息なことはやりたくなく、武田
は速度を落として良い子運転に切り替えた。やがて前方に車の影が見え始め、まだかなり
の距離があったが、それは黒塗りの大型車、おそらくそのシルエットからメルセデス・ベ
ンツであると見てとれた。武田は少し安心した。さらに近づくと、その車はやはりベンツ
で、道のほとんど中央に停車しており、左のドアが開いていた。なんだあれは、と不審に
思いながら武田が徐行しながら近づくと、開けられたドアから女の白い腕がのぞき、いっ
たん引っ込んだと思うと、素っ裸の女が転げ出してきた。武田は驚いてライトを上げた。
それはまさしく一糸まとわぬ女、それも若い女であった。女の白い体がライトに強く映え
た。女はベンツに向かって何か怒鳴っていた。運転席のドアが開き、男が右半身を表した。
白いカッターシャツの袖がダークスーツからのぞいた。だが男は車から降りず、そのまま
中へ引っ込むと再びドアをバタンと閉めた。武田は車を左に寄せた。するとベンツが猛烈
な勢いで発進した。武田はとっさに婦女暴行、拉致を想像し、ベンツの後を追おうとした。
だが女は道の真ん中に立ちはだかり、遠ざかるベンツに向かって何かをわめき続けていた。
武田はあわてて車から降りると自分の作業着の上着を女に着せ、どうした!と聞いた。女
は騙されたぁと言って泣き崩れた。武田は混乱した。国道の真ん中で素っ裸の女に出会う
ことなど考えた事もなく、どうすればいいかわからなかった。警察に言うべきであること
はわかったが、付近に民家はなく、おまけに公衆電話もありそうになかった。かといって
裸の女を車に乗せることもできない。第一、本当は何が起きたのか、女はどこに住んでい
るのかさえ分からないのである。深夜に、国道の真ん中で、ベンツから若い女が素っ裸で
転がり出てきたのである。
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あたふたするうち1分ほどが過ぎ、後ろから別の車のヘッドライトが見えはじめた。その
車も事態の異常さに驚き止まった。年配の男性が運転する軽自動車であった。武田は簡単
に事情を話し、自分はこれからそのベンツを追いかける、西海橋のたもとには公衆電話が
あるので、そこから警察に電話する、その間この女性を保護してもらいたいと男性に頼み、
自分も車を急発進させた。女は髪を振り乱し、だまされたと嘆き続けていた。2分以上が
経過しており、ベンツはかなり遠くへ行っているはずだが、この道は一本道で、どこかで
Uターンしない限り、針尾瀬戸に架かった橋だけが佐世保方面への抜け道である。他に道
はない。そこまでどんなに飛ばしても30分以上かかる。武田は限界まで車を振り回しな
がら西海橋へ向かった。
小迎の交差点は赤信号であったが、武田はほとんどノーブレーキで突破した。西海橋はゆ
るやかな坂を上るともう5分以内である。その手前の観光客用駐車場の中に公衆電話があ
る。右側がなだらかな坂に落ち込んでいる左回りのカーブをタイヤをきしませて曲がると
目の前の丘のすぐ向こうにその駐車場が見えてきた。武田は車から飛び降りるとポケット
を探り、10円玉がないことに気付いた。武田は100円玉を入れ110番した。係官が
落ち着いた応対をしてきた。武田は自分が見た事を告げ、ベンツが佐世保に向け逃走中で
あることを連絡した。おそらく江上村の交番で検問をやれば引っ掛かるはずである。警察
は武田の住所氏名を聞き取ると、追跡はしないように釘を刺した。武田は肩の力を抜くと、
ゆっくり車を発進させた。途中、件のベンツが止まっているかもしれないと注意したが、
そういう車はなかった。
西海橋を渡り、だらだらと続く坂を下っていくと、15分で江上の交差点であった。交番
はすぐその先にあり、武田が近づくと警察による検問が見えた。武田が電話をした先はこ
の交番ではなく、おそらく長崎県警で、そこからこの交番に通報が行っているであろうと
思われたが、ベンツが引っ掛かっている様子は見えなかった。武田が、電話をした人間は
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自分であると告げると、警官はベンツは来ない、脇道へそれたか引き返したようだと言い、
思いがけないことを付け加えた。これはおそらく拉致、暴行ではない、この女が騒ぎを起
こすのは今度が3回目であるということであった。女のほうが自ら車に乗るんだから、お
もちゃにされることはあるかもしれないが、犯罪にはならないだろうねえと、その中年の
警官は言った。3回も裸になったんですかと武田がきくと、警官はう~ん、裸は今度が初
めてだけどねえ口を濁した。武田は女の顔はよく見ていなかったが、かなりの美人である
という記憶を持っていた。ヘッドライトに浮かび上がった女の白い身体は、武田に強い印
象を残した。女は騙されたと言っていた。つらい経験をして精神に失調をきたしたのであ
ろうか。警察官は武田の住所、氏名、勤務先等の情報を聞き取り、事の顛末をいろいろと
質問した。
2週間がたった。武田の頭の中では、絶世の若い美人、それも悲劇の美人が出来上がって
おり、夜の闇の中の白い身体は、いまだに鮮明な記憶となって残っていた。女の裸身とい
うのは、突拍子もない場所でも結構様になるもんだ、やっぱり男より女のほうが美しい、
問題にならない。あれがもしスッポンポンの男だったら、自分は作業着を着せかけるよう
なことをしただろうか。ひょっとしたら蹴飛ばしたかもしれないなどと支離滅裂なことを
考え、その馬鹿馬鹿しさに一人で笑った。しかしその陶器のような白い身体は、非現実的
に美しいとしか言いようがない印象を武田に残した。
武田が外出中に長崎市の人物から電話があったとして、相手の名前と電話番号が机にメモ
されていた。先々週長崎へ行った人に話したいという電話であったという。武田が電話を
かけると、驚いたことに、相手は例の娘の父親で、娘を助けていただいてと丁寧に挨拶し
た。武田の作業着に刺しゅうされている会社名から、武田の居場所を捜しあてたというこ
とであった。年頃の娘が裸で暴れ回るんじゃ親も大変だろうなあと同情しながら、武田は
どういたしましてとあいさつを返した。父親は武田の作業着をお返ししたいと言った。武
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田が住所、氏名を伝え電話を言った。数日後、きれいに洗濯された作業着とカステラが届
いた。何があったのかを知らない会社の同僚は、どこに上着を忘れたんだと武田を冷やか
した。
寄せられたクレームを地域ごとにまとめてみると、どうやら1400KHzを少し下回る
周波数の地域に限定されるようであった。長崎市のNHK第2放送は、1377KHzで
ある。武田は市販のラジオを購入し、アンテナ部分を改造して、例のコイルコードとアン
テナがスイッチ切り替えでどちらでも使えるようにした。そこにストレージスコープを接
続しておけば、どちらがどのくらい受信感度があるかが分かる。驚いたことに、コイルコ
ードのほうがNHK第2放送に関する限りアンテナより高感度であった。武田たちはいろ
いろな長さのコイルコードを試し、一番感度の低い長さを決定し、念のため基板パタンを
103セラミックコンデンサが標準部品となるよう変更し、さらに受話カプセルに102
コンデンサをつけるよう工場に指示を出した。これなら電話機の電気的特性に影響を与え
ないだけでなく、L1とL2(電話回線のプラスとマイナス)のチョークコイル(ノイズ
取り・整流)が不要になる可能性があった。これは2個で150円もする。原価で150
円違えば、小売価格では400~500円くらいの違いが出る。
11月は武田の会社のようなメーカーにとって最も忙しい時期である。年末年始の小売販
売のために大量の注文が来る。武田の会社は香港の工場に生産委託していた。今では7機
種を生産販売しており、販売台数では国内で7位まで来ていた。船による運搬が間に合わ
ず、結構な重量物であるにもかかわらず航空便を用いていた。貨物が空港に到着し、通関
が終わると大型トラックで会社の倉庫に貨物が届き、搬入する暇もなく、抜き取り検査を
行うと、トラック to トラックで駐車場から全国の仕入れ先に出荷しなければ間に合わない
ようなすさまじい状態であった。連日深夜まで作業が続き、社員は疲れていた。
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朝、コーヒーを飲みながら地方紙を見ていた武田は、社会面の小さな記事に目をとめた。
西海橋から女性(26)が飛び降り自殺とあった。武田はまさかと思ったが、心に引っか
かるものがあった。記事に女性の名前は書いてなかったが、長崎市とあった。2週間後、
長崎県警から電話があった。琴海での出来事について話を聞きたい、来てもらえるかとい
うことであった。新聞記事はやはりあの女性のことであった。勝手に薄幸の美人を造り上
げていた武田は快諾した。
「あの夜、覚えておいでのことを教えてほしいんですが、まず、何時ころでしたか」
「深夜12:40から45分頃でした」
「それは正確ですか」
「かなり正確です。時津の信号で時間を確認しましたから」
「何を見ましたか」
「かなり遠くからクルマのハザードランプが見え始めえ、ある程度近づくとベンツである
ことがわかりました」
「どういうベンツか分かりますか」
「黒のCクラスの最新型か、ひと世代前だと思います」
「くわしいですね」
「自動車雑誌を毎月読んでいますから。しかし最新型かどうかまでは覚えてないですね。
なにしろいきなり裸の女性ですから」
「なるほどね、ナンバープレートは覚えていますか」
「長崎ナンバーであるということだけです」
「運転手は見なかったんですね」
「見ていませんでしたが、右半身というか肩を車から出したんで・・・・・ダークスーツ
にカッターシャツを着てました。記憶間違いかもしれないがカフスボタンをつけていたと
思います。結局、その人間は出てこずに引っ込んだので、見たのはそれだけです」
「乗っていたのは一人だけですか」
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「感じとしては一人のようでした。しかし、どうしてかなあ、よく見えませんでしたねえ。
ひょっとしたら後ろのガラスにフィルムを貼っていたのかもしれません」
「ああ、なるほど、フィルムですか。ほかに何かないですか」
「え~と、上着を着せかけるとき、女性の体からかなり強いカーコロンのにおいがしまし
た」
「芳香剤ですね?それは女性が使っていた香水ではありませんか」
「いや違うと思いますね、あれはカーコロンです。香水ではありません」
「わかりました。ところであの晩見たのはこの女性ですか」
刑事は大きく引き伸ばした写真を武田に渡した。刑事の話では、女性は高校教師の娘で、
関西の有名大学を卒業し、長崎市内で公務員の職に就いたが、2年前に自主退職していた。
その写真はパスポート用の写真を引き伸ばしたようで、髪を左横でわけ、高校生の女の子
のような印象であった。おとなしい癖のない平和な顔つきで、目鼻立ちのバランスの取れ
た顔であった。写真でこのくらいであれば、実物はかなり美人であっただろう。
「いや、実は、顔はあんまり見えなかったんですが、印象としてはこんな感じでした」
刑事は、どうもありがとう、親御さんから訴えが出ていましてね、ご苦労様でしたと言っ
て名刺を取り出した。松永という名前で、連絡先の電話番号が書いてあった。武田は、車
の左後部に何かステッカーのようなものが貼ってあったような気もすると言い残して警察
を後にした。派出所の警官の言葉では、これが3回目であり、あたかも狂言であるかのよ
うな口ぶりだった。だが、今日の刑事は明らかにあのベンツのドライバーを疑っており、
その男が彼女の自殺の原因を作ったと考えているようだった。
帰り道、武田は206号を再び通った。午後3時半であった。武田は西海橋の駐車場に車
を止め、歩いて橋を渡って行った。快晴であったが、既に日は西へ大きく傾き、深い海峡
に濃い山影を投げかけていた。初冬の風が冷たかった。真ん中あたりに花束が縛り付けて
あった。下を見下ろすと、はるか下の海面には多数の渦が見え、上げ潮の流れは押し合い
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圧しあいするように捻じれながら、狭い海峡を大村湾の方向へ流れていた。こんなところ
を一人で飛び降りたのか・・・・武田は、まともに顔を見るチャンスもなかった若い女性
のために手を合わせた。
慌ただしい12月が終わり、年が明けた。まだ松飾りも取れない1月10日、長崎の精神
科医が、患者に対する違法行為で逮捕されたというテレビ報道が流れた。カウンセリング
に訪れた若い女性に、故意に強い薬を投薬し、抵抗力をなくした女性と情交を結び、ずる
ずると2年間も関係を続けた。女性の情緒不安定は進行し、最後は自殺したというもので
あった。だが、治療という密室の中での犯罪であれば、本当に女性に精神疾患があったの
か、経過はどうだったのか、あの夜はどういう段階であったのか、今後治る見込みがあっ
たのかなどは、犯罪者である医師しかわからない。無残きわまる話であったが、犯罪とは
そういうものかもしれない。あの医師は、夜の国道に素っ裸の女性を放置して逃げ去った。
武田は奥歯をかみしめ、クソ野郎とつぶやいた。
あの夜、女性はなぜ裸だったのか、最後に医師に何を訴えたのか、その時本当に正気をな
くしていたのか、武田には知るすべがなかった。
「騙されたぁ」という女性の絶叫を武田は
思い出した。その26歳の孤独な叫びは、夜の橋げたを超えて、渦巻く暗い海に絶望のエ
コーを残し消えていった。
終
この小説は、作者の実体験に基づく。
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