日本の不動産の歴史

2013 年 8 月
日本の不動産の歴史
株式会社エイブル ソリューションサービス室
山岡 教治
【概要】
日本において不動産と呼ばれるものが生まれたのはいつ頃でしょうか?
不動産の生い立ちや業として認識された時期、不動産業の前進、集合住宅の起こり、金融とのつながりなど、
日本の古代から現在にいたる不動産の歴史をまとめてみました。
【土地の変遷と不動産について】
1)土地に対する「所有」の考え
不動産の歴史を尋ねる前に「土地」について少しすすめてみたいと思います。いつ頃から“土地を所有する”
という考えが芽生えてきたのか、そしてその概念がどのように変化していったのか、時を追いながら触れて
みたいと思います。
昔、土地は地方の豪族・貴族・小国の王たちの自己権力を示す勢力圏図のような形で
捉えられていました。
「此処からあそこまでは誰々の勢力が治めている地域」等の意味合
いで使われていたと言われています。土地を財産(価値あるもの)として捉えるよりは
「縄張り」
「シマ」として捉えていたのでしょう。支配地内では、そこに住む民を使い農
豪族
産物を生産し、地域を統治していました。
聖徳太子の没後、有力豪族であった蘇我氏が勢力を伸ばし時の権力を握りました。天
皇への迫害を行い、政治を独占しましたが、中大兄皇子が中臣鎌足の協力を得、蘇我一
族を倒し天皇中心の国づくりを始めました。ご存知、
『645 年の大化の改新』です。この
改新において、土地は「公地」であり民は「公民」であることが謳われました。その他
に班田収授法・国郡国里・新しい税制などを定め天皇を中心とする中央集権国家を完成
中大兄皇子
させました。
土地の価値(収益及び財産)を公が認め、公の民に貸し与えることから始まり、租税
の見直し、財政の確立、政治体制の強化と進んでいくこととなります。
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2)私有地のはじまりと荘園の誕生
奈良時代初期、農民の暮らしは昔と変わらず苦しいもので、課せられた重税や労役などが重くのしかかり、
中にはその苦しさから逃れる為に田を捨てて逃亡する者も現れました。この事は班田収授法の弱体化に影響
していきます。農民のいない田は荒れ、収穫に悪影響を及ぼし、また支配層の不満や不安が体制の批判とな
り社会に混乱が生じます。
そこで国は、723 年“三世一身法”を定め「開墾した土地について期間を定めて私有す
ること」を認めました。そして 743 年“墾田永年私財法”にて『開墾した土地の永続的な
私有』を認めました。これにより貴族・豪族・有力寺社は農民たちを集め土地の開墾を行
い、私有地の拡大に乗り出しました。この土地は『荘園』と呼ばれ、土地の私有化が本格
的に開始されました。
支配層は国政を動かす立場であったため、多くの者が活動拠点を「都」に置いていまし
元正天皇
た。そのため地方にある私有地(荘園)の運営管理を行う事ができず、別途、管理をする
「見張る人」をたて、土地の開墾・耕作・収穫などの運営に就かせました。荘園の誕生が社会の構造変化を
生じさせ、
「見張る(運営する)人」がいつの間にか社会の中に根付いたことから、土地を活用する考えが芽
生えだしたのです。
3)権力闘争と荘園の終焉
奈良時代、中央集権国家の基盤強化として農地拡大を目的とした開墾の奨励政策が進む中、私有地が公認
され、荘園が誕生しました。
平安時代には、荘園支配者と中央政府との力関係に変化が生じ「不輸の権利」
「不入の権利」を獲得した免
税農地の荘園が発展し、また税を逃れる為に、皇室や摂関・大寺社へ荘園を寄進するものも現れ、荘園に対
する中央の統制機能が揺らぎ始めます。
守護・・・地方の治安維持や武士の統制を主な任務とする
地頭・・・荘園の管理、年貢の徴収等を主な任務とする
国司・・・守護と同様の仕事を行うが、守護は幕府が任命し、国司は朝廷に任命された。
1 つの荘園で国司と守護の二重支配構造が発生
鎌倉時代になると守護・地頭の力が大きくなり、次第に荘園の支配権を略奪するように
なります。その影響で全国的に戦乱が相次ぎ、荘園の支配関係は流動的になって行きます。
室町時代、幕府は乱世を抑えるために体制の強化を図り、地方武士の組織化として各地
源頼朝
の守護権限を強化します(この守護を守護大名といいます)。
一方、荘園で暮らしている民衆も自立の歩みを始めました。村落を形成し、村落同士が集まり地域自治の
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体制を築きだします(このような村落を惣村(そうそん)といい、その広域のものを郷村(ごうそん)とい
います)
。このような守護大名の権力強化と村落の自立が、結果として荘園の弱体化を招いてしまいます。
戦国時代になると「自らの武力で支配地域の確保・確立を図る者」が出現しました。
これが戦国大名です。その力は守護大名を凌ぎ従前の権利関係を力で解消し、領土の
拡大を進めてしまいます。1580 年、戦国大名であった豊臣秀吉の太閤検地で、荘園は
豊臣秀吉
ついに消滅します。年貢を確実に取り立てるための検地ですが、全国の土地と農民の
支配も直接大名が行うことになります。
4)社会の安定と不動産の誕生
時の世は貴族の支配から武士の支配へと移り、乱世の中から 1603 年、徳川家康が
江戸に幕藩体制の封建国家を打ちたてました。260 年もの長い間徳川の時世が続いた
のは、国の統治システムが上手く機能しただけではなく、東海道・中山道など交通
網の整備、江戸は統治で商売は大阪という経済システム等、社会基盤を整えたこと
徳川家光
に起因すると言われています。社会が安定することで民衆の暮らしは豊かになりま
す。特に江戸は商業の発展が目覚しく、地方で貧しい暮らしをしている農民らは自然と江戸に集中し、江戸
の人口は増加して行きました。当時は五人組と呼ばれる行政組織(地主・家主・農民)があり、互いに扶助・
監視するシステムにより治安が維持されていました。
土地は武家・寺社が 8 割を所有し、庶民は 2 割程度に過ぎませんでした(文政 1 年の幕府公式見解では武
家・寺社 84%・庶民 16%と述べています)。しかし人口比率は武家・寺社と庶民の数は同等であったため、
庶民は狭い土地に密集して暮らすことになります。そのため、
“長屋(=賃貸)”が出現しました。これが『不
動産業の誕生』と言われています。
江戸は町人の街でした。町人とは富裕層で都市に居住した商人を指します。この
層は家を所有し、行政や公事にも参加、公的権利・義務(町役や五人組)・身分を
持っていました。幕府を開いて 80 年ぐらい経った頃、豪商・富豪と呼ばれる人(綱
吉時代の紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門らが有名)が出現しました。元々土地
の売買は禁止されていましたが(土地は幕府の所有でした)、町人地では沽券と呼
紀伊国屋文左衛門
ばれる証文(保証書・権利書の意味を持つ)により取引が行われており、豊富な
資金を持つ商人たちが土地を所有するようになったのは当然のできごとでした。
町人(商人)や町役には、長屋を持ち、大家を雇い、庶民へ賃貸する、という社会的責任がありました。
当時の長屋の基本は「各戸の玄関が直接外部に接している」ことがポイントで、他住居と共有の玄関を持つ
ものは長屋とされていませんでした。標準的な長屋は「間口 9 尺奥行き 2 間」の 3~5 坪程度の広さでした。
長屋の絆は強く、大家を中心とした地域のコミュニティが形成されていました。
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大家・・・貸地や貸家の所有者から建物の管理・店子からの店賃の徴収を請負い、店子の身元保証人にな
ったり、仕事先の世話をしたりと、まるで実親と同じような役目も担っていた。
落語では“大家といえば親も有名、店子といえば子も有名”という台詞がよく出てきます
差配人・世話役・家持・・・大家と呼ばれた人たち
五人組の仕事を地主に代わり行っており、自身番(消防・自警団)に詰め、町内の秩序維持
活動を行っていました
表長屋・・・お菓子や小間物類を売る店舗兼用住宅が主流。一方、裏長屋は職人や庶民が住んでいました
江戸の人口・・・1800 年頃の人口は 120 万人と言われています
それを少ない与力・同心で町の治安維持ができたのは、多くの大家(行政担当)と火消し(治
安担当)の存在が大きく影響していたようです。
【近代国家と不動産の確立について】
1)明治維新と不動産
1867 年の大政奉還により、新たな時代の幕が開けました。明治政府の誕生です。翌年に年号
が「明治」となり、五箇条の御誓文によって政治の方針が打ち出されました。当時の日本は諸
外国の脅威にさらされていた(経済・軍事などの国力の差が歴然としていた)ため、国家とし
ての体制を早急に構築する必要から次々と改革が行われました。
明治天皇
2)財政基盤の確保と土地について
国家経営の安定には収入(資金)の確保が必要です。新政府は明治 5 年の田畑永代売買禁
令を解き、翌年(明治 6 年)には“地租改正”
(土地の価値に見合った税を所有者から金銭で
納めさせる全国統一の課税制度)を施行しました。ポイントは、課税対象を「収穫高から地
価」に、
『物納から金納』に、
『納税者は耕作者から土地の所有者』へと変更され、税率は 3%
伊藤博文
等と定められたたことです。
土地の所有権が法的に証明されたことにより個人財産としての価値が認められ、担保価値
や流通物として土地取引が盛んに行われるようになり、また土地を担保とした賃借の法行為も認められまし
た。地租改正に伴って行われた測量結果は地券に記され、地券台帳に保管記録されました。土地の取引や融
資などはこの地券で行われるようになり、現在の登記所などにある土地台帳が、しばしば実際の地形と登記
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内容に不一致を生じさせているのは、この地券台帳を基に作成されているからと言われています。
3)「不動産」という名称はいつから?
政府は近代国家として統治機能に関する多くの知識を得るため、フランス・イギリ
ス・ドイツ・アメリカ等、欧米の進んだ見識・技術、法律や行政に関する情報を積極
的に取り入れました。明治初期、民法編纂時にフランス民法の誤訳として不動産の言
葉が使われたという説と、
「和蘭邑法」の中に使用されたという説があります。しかし、
松方正義
一般的に使われるようになるにはもう少し時間が掛かり、地租改正後、商業取引が盛ん
に行われるようになるまで待つ事になります。
4)不動産業の出現はいつ頃から?
明治における国体の改革は支配体系だけに留まらず、国民の生活様式にも大きな変化を与
えました。中でも“移動の自由”と“職業選択の自由”は国民の生活環境に自由な発想と活
性力を与え、産業推進の原動力となりました。すると産業(商業)に人の集中が起こり、そ
れに伴って働く人を受け入れる器と仲介する人が出現、その機会の増加により仲介を専門
福沢諭吉
に行う「業」が誕生します。
江戸時代から見られた長屋・借家・貸地という大家の流れと、金融担保として土地の売買
や賃貸を行う貸し金業の流れを組む者らがこの仲介“業”の多くを占めていました。
【集合住宅の出現と不動産の発展】
1)最初の木造積層住宅
明治の改革は大正時代に花開きます。日本の軍事・経済は列国の一員として認知され、
国民の中に消費文化が芽生えます。大正デモクラシーはこの様な国内実情を反映した運動
で、経済・社会の安定が庶民生活に余裕と余暇を生じさせ、大衆の民主主義的な文化運動
として起こりました。
原敬
1910 年(大正 2 年)、日本初の木造積層共同住宅「上野倶楽部」が、上野公園に隣接し
て建てられました。5 階建で洋風な外観、浴室は共同で、入居者は日本人だけでなくロシ
ア人やフランス人もいました。
2)大正から昭和初期のアパートについて
1916 年、日本初の RC(鉄筋コンクリート)造集合住宅
が長崎港沖合 18km の小さな石炭の島(端島)に建設され
ました。三菱鉱業関係者と家族が住んでいましたが、小さ
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端島(軍艦島)
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な島に多くの建物を次々と建てたため島の外観が軍艦のように見えたようで、軍艦島とも呼ばれていました。
その後 1921 年に中村第一共同住宅(横浜)
、1923 年古石場第一住宅(東京・深川)などが建てられます。特
に古石場第一住宅は本格的なアパートでした。
しかし、大正 12 年の関東大地震では 40 万戸以上の住宅が焼失してしまいます。住宅の復興を行う為、内
務省は外郭団体として同潤会を設立、地震に強い共同建物の建設を推進し、16 ヵ所 2,800 戸のアパート(渋
谷「代官山」アパートなど)を建てました。
1925 年には日本初の洋風集合住宅“御茶ノ水文化アパート”が建てられます。椅子での生活が可能で、身
の回りのことを家政婦などに依頼することができる高級なアパートでした。江戸川乱歩の小説にある「開花
アパート」のモデルにもなったと言われています。
3)借地借家法について
1921 年(大正 10 年)に「借地人の保護」
「居住権の確保」に重点を置いた「(旧)借地
法」が施行されました。平成 4 年に新しい借地借家法が施行されるまで約 71 年間続き
ました。平成 4 年 8 月時点で土地を借りていた借地人(その相続人を含む)には、引
高橋是清
き続き(旧)借地法が適用されており、日本の不動産のあり方に今も強い影響を及ぼ
しています。
(旧)借地法、(現)借地借家法には、「そもそも借地人や借家人は地主さんや家主さんよりも絶対的に力
が弱く、法律で保護しなければならない」という考え方が貫かれています。例えば、土地を借りると、半永
久的に契約を更新させ、借り続けることができます。家を貸すと、家賃を滞納したぐらいでは居住者に出て
行ってもらうことができないのです。
(平成 4 年の「借地借家法」で、契約期間の延長を拒める『定期借地権』制度等が始まりました)
【封建制度の終焉、不動産と経済・金融の広がり】
1)戦後の土地政策について
戦前の農村は一部の地主と、地主に土地を借りて耕作する小作人で成り立っていま
した。小作人の生活は苦しく、地主制度を解体しようとする政策は地主層の反対で成
立しませんでした。
1945 年(昭和 20 年)12 月、GHQ の最高司令官マッカーサーは日本政府に「農地改革
吉田茂
に関する覚書」を送り、
「封建的圧制の下、農民を奴隷化してきた仕組みを打破する」こ
とを指示。これに基づいた農地の所有制度(農地法)の改革(農地改革)が 1947 年(昭和 22 年)に成立
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しました。以後昭和 25 年までに小作地(林野を除く)の 8 割が政府によって強制的に安値で買い上げられ、
実際に耕作していた小作人に安値で売り渡されました。これにより、戦後日本の農村は自作農がほとんど
となり、平安時代に始まった日本の封建制度が終わりを迎えました。農家の社会的地位の向上や貧困の防
止、社会の安定に大いに役立ちました。また、土地保有についての国民意識に大きな影響を与え、1970 年
以降の減反政策や、市街化調整区域内の農地の固定資産税の宅地並み課税により、多くの農地が分譲住宅、
賃貸住宅向けに供給されていくことになります。
2)高度経済成長と不動産について
戦後、朝鮮戦争特需を皮切りに日本の経済成長が始まりました。大きな人口が都市と工業
地域に移動し、工業に対して労働者が供給されました。法人は利益によって土地を購入し、
ビルや工場を建てていきました。銀行は不動産を担保に積極的に資金を貸付けていき、それ
がさらに設備投資を促しました。豊かになった工場労働者、サラリーマンは積極的に持ち家
を購入し、そのことがGDP(国内総生産)をさらに押し上げていきました。2 度のオイル
田中角栄
ショック、円高不況を乗り越え、株式・不動産バブルの崩壊 1989 年(平成元年)に至るま
で不動産価格は上がり続けました。
3)株式・不動産バブルの崩壊と不動産の金融化について
1980 年代後半には、
「東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買える」と言
われ、日経平均株価は 1989 年 12 月のピーク時に最高値 38,915 円を付け、バブル景気
の絶頂を迎えました。翌年よりバブルの崩壊過程に入りましたが、その後始末に 20 年
を要することになりました。
金丸信
英米で開発された多くの制度や金融技術が導入されて、バブル崩壊によって傷ついた金融機関の修復、破
綻処理がなされました。買い手不在となった不動産の新たな買い手として登場したのが、ファンド(複数の
投資家の出資を集めて有価証券や不動産などを購入する仕組み)です。REIT(不動産投資信託)も導入
され、不動産と金融との融合が進んでいきました。
【まとめ】
これまで見てきました通り、不動産の歴史は土地の歴史そのものでありました。単なる縄張りとしての目印
から、国の統治機能を補完する手段として使われるようになりました。
土地の私有と荘園の出現は、それを運営するために「管理すること」を生み出し、行政システムの末端であ
る庶民生活の相互扶助のシステムが、長屋の誕生と「管理と仲介」の仕事を生み出しました。
その後、明治の改革において、近代国家の法律のもとに土地に権利(所有権)が与えられました。それによ
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り土地が金融商品の対象となり、次第に社会経済の中に浸透していきました。誰でも取り扱うことの(手に
触れる)ことのできる存在となりました。
民主主義の発展と人口の増加が個人生活の細分化を推し進め、下宿・アパートなどの賃貸商品を生み出し、
戦後の所得倍増計画や高度経済成長などの国家・経済の流れが土地の大型開発(私鉄沿線上に)を興し現在
では投資の対象として不動産は取り扱われるようになりました。
時の流れは収穫を得る土地本来の姿から、土地を二次加工・三次加工した商品へと形を変えていきました。
多様な形態の土地取引は土地が時代の変化と共に歩んできた事の表れだと思います。土地の変化は不動産の
変化であり、時の情勢に柔軟に対応できる特性を不動産に見つけることができます。
以上
山岡教治 /
所属
Kiyoharu Yamaoka
株式会社エイブル
ソリューションサービス室
リノベーショングループ
略歴
1958 年生まれ
グループリーダー
福岡県出身
宅地建物取引主任者、ファイナンシャルプランナー(AFP)、
第2種証券外務員資格
平成 2 年
大建管理サービス(現在の株式会社エイブル)に入社
店舗勤務、店長、エリアマネージャーを経て、平成 19 年に新設さ
れたオーナーサポート課に異動。セミナー講演・税務相談会・フ
ェア開催等企画運営、オーナー向けの雑誌編集、ウェブサイト編
集などに携わり、現在にいたる。
座右の銘は、「為せば成る・・」
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