今宵いのちが尽きるとしても - church.ne.jp

2016/11/6
門戸聖書教会礼拝説教
ルカ 12:13-21
今宵いのちが尽きるとしても
1.愚かな金持ちのたとえ
今日は、召天者記念礼拝です。毎年、召天者記念礼拝の時には、死について、また、死を超えた、
天の御国や永遠のいのちについて、ごいっしょに考える時を持っております。
先だって、有名な俳優さんがお風呂で突然亡くなったたというニュースを聞きました。そのニュース
に思 わされました。お風 呂 に入 る直 前 まで、あの方 も、まさか、今 ここで自 分 が死 ぬとは思 っていな
かっただろうなあと。
今朝は、イエス様のなさったひとつのたとえ話を読んでいただきました。「愚かな金持ちのたとえ」と
言われるたとえ話です。日曜学校でも、よく話されるたとえ話ですので、ご存じの方もおられると思い
ます。お話の内 容自体は、難しいものではありません。あるお金持ちの畑が大豊作であった。
ルカ 12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所が
ない。』
ひとこと注釈を入れますと、これはみなお金持ちの心の中での独り言です。自分の心で、「ああしよ
う、こうしよう」と言っているわけです。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない」-いわゆる「嬉し
い悲鳴」です。儲かって、儲かってしょうがない。蓄えきれないほどの蓄えができてしまった。これは困
った!こんなことを言ってみたいものです。金持ちはまた自分に言いきかせました。
ルカ 12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取 りこわして、もっと大きいのを建て、穀 物や財産
はみなそこにしまっておこう。
さらに大きな倉を建てたらいいんだ。そうすれば、もう一生安泰だ!それで、彼は自分の心の一番
深いところにある、自分のたましいに向かって語りかけるのです。
ルカ 12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物が
ためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
もうこれで困ることはない。あくせく働く必要もない。一生、楽して暮らしていけると、安心しきったわ
けです。
ところが、ここで思 わぬどんでん返 しがやって来 た。神 様 からの思 わぬ宣 告 が告 げられるわけで
す。
ルカ 12:20 しかし神は彼 に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今 夜おまえから取り去られ
る。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
このお金 持 ちのいのちは、まさに、この夜 に取 り去 られることになっていた。そのことも知 らず、この
金 持 ちは、大 いに財 産 が蓄 えられたと、もうこれで安 心 だと喜 んでいた。それは、実 に「愚 か」なこと
であったと、そういう譬え話です。
1
2.自分の死に気づけない私たち
けれども、私たちは、このお金持ちを、「愚かだ」と言って笑えるでしょうか。
私 たちも、自 分 が「いつかは」死ぬ、その時 が確 実 にやってくるということは知っています。しかし、
自分 が本 当 に死ぬという事実を、なかなか実 際のこととしては捕えられてはいないのではないか 。ま
してや、自分が近々死ぬ、今夜死ぬかもなどと思うことはなかなかできないものではないでしょうか。
順天堂大 学医学 部の教授で、樋野興夫 先生 というクリスチャンドクターがおられます。この方は専
門はガンに関する病理学で、実際に患者さんを診察する臨床医と違って、主に亡くなった方のご遺
体を解剖したりして研究 するというのが専門の先 生です。まさに、日々、「死」そのものに直面するお
仕事です。その樋野先生が、こんなことを言っておられるのですね。 1
「人間は、自分の寿命に気づかない生き物です。病理解剖を何度繰り返しても、自分が明日死ぬ
とは思えない。しかし、人間は誰でも必ず死ぬ。その事実がわかっていながらどうしても、「明日自分
が死ぬ」とは思えません。元来、人間とはそういう生き物です。」
これは心理学的な面でも、裏付けられているそうですね。少しくらい大変なことについてならば、私
たちは非常に心配をしたりするわけですが、反対に、大きな災いについて考える時、人間はものすご
く楽観的な判断をする傾向があるらしいのです。考えるだけで恐ろしいこと、自分の力を遥かに超え
た出来事が起こってほしくない。そんなことは起ってもらっては困る。きっと起らないだろう。いや絶対
に起らないに違いないと、深層心理で自分に言い聞かせてしまうようなのです。
要 するに、私 たちは、みな、この「愚 かなお金 持 ち」と同 じであるわけです。今 夜 、自 分 が死 ぬとし
ても、そのことを知ることはできないし、自分の死に対して、それが現実のものとなるまでは、なかなか
それを実感としてとらえることができない。「死」に対して、鈍感な者、それが、私たちの現実です。
ですから、よくよく読 んでみますと、このたとえ話で、イエス様 は、このお金 持 ちが自 分 が明 日 死ぬ
ことに気づけていないことを「愚かだ」と言っておられるわけではないのです。
3.愚かな金持ちの愚かさ-その1 いのちは財産にはない
でも、そうだとしたら、神 様 は、このお金 持 ちのいったい何 を「愚 か」だと言 っておられるのでしょう
か? このお金持ちの愚かさは、いったいどこにあるのでしょうか?
第一の点は、人生の究極の土台をいったいどこに据えているのかということです。言い替えますと、
私たちの究極の安心、平安がいったい何に拠って立っているのかということです。
ここでイエス様はこう言っておられますね。
ルカ 12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら
豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
私たちは、色々なものの上に自分 の人生を築 きます。一番端的には、財産やお金ということにな
るでしょうか。そういう財 産を得るための仕 事や名誉や地位。そうしたポジションに着 くための自 分自
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『明 日 この世 を去 るとしても、今 日 の花 に水 をあげなさい』(樋 野 興 夫 、幻 冬 舎 ) p19
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身の能力や学歴や健康 。そうしたものは、確かにある程度意味のあることですし、私たちも そういうも
のを求めて努力もします。人と自分を比べて、あの人に比べて自分は…と落ち込んだり安心したりも
します。けれども、そうしたものは本 当 に究 極 のものなのか。永 遠に無 くならないものなのかと言えば、
違 うわけです。財 産 や仕 事 を失 うこともあるかもしれない。病 気 になることもあるかもしれない。もし、
私たちが、この世の何かに期待して、その上に自分の人生を築いて、安心しているのなら、それは、
確かなように見えて、試 練に遭う時に、さらには究極的には「死」と直 面 するときに、やがて崩れ去っ
てしまうものですよと、イエス様は言われているのですね。
「なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
死を前にしては財産も名誉も何の役にも立たない。
先ほどご紹介した樋野先生は、こういうことを言っておられます。 2
「私は病理学者ですから、これまでにたくさんのご遺体と向き合ってきました。だから、人とは少し違
った見方ができます。死から人生を見つめ直してみると、人との比較なんてどうでもいいことに思えて
きます。あの人よりもお金があるから、あの人よりも偉くなったから、あの人 よりも有名になったから、こ
れらのことが死 の前 にどれほどの価 値 を持 つのでしょうか。ご遺 体 を前 に感 じることは、『いったいこ
の人の人生は何だったのだろうか?』『自分らしく生きられたのだろうか?』『自分の役割をまっと うす
ることはできたのだろうか?』です。そこに他人との比較が入る余地はありません。」
今日は、ルカ 12:21 まで読んでいただきましたが、その先にもイエス様の話は続いていきます。イ
エス様 は、そこで空 の鳥や、野 の花 を養 い育 む父 なる神 様 のいつくしみについて話 されます。私た
ちにいのちを与 え、私 たちを愛し、生かし、天 の御 国 にまで導 いてくださる神 様 が生 きておられる!
だから、あなたがたは、地上の頼りない富を当てにするのではなく、この神様を信頼しなさい。まず神
の国を求めなさい。この決してなくなることもない天の御国にこそ、あなたがたの人生の土台を据えな
さい。朽ちることのない宝を天に積み上げなさいと言われるのです。
ルカ 12:34 あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もあるからです。
みなさん。あなたの心、あなたの人生の土台はどこにあるでしょうか。
4.愚かな金持ちの愚かさ-その2 神の前に富まない
このお金持 ちの愚 かさ、その第 二 は、彼 の生き方 がひたすら自 分 のために蓄え、神 の前 に富 まな
いというものだったことです。
今 日のこの「愚かな金 持ちのたとえ」で、表面 の翻 訳 にはなかなか出 てこない一つの言葉 がありま
す。それは「私の」という言葉です。ちょっとしつこい感じになるので省かれていますが、そのまま訳し
てみるとこうなります。
ルカ 12:17 「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は心の中でこう言いながら考えた。『どうし
よう。私の作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう、私の倉を壊して、もっと大き
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同 上 p44
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い私 の倉 を建 てて、私 の穀 物 や私 の財 産 はみなそこにしまっておこう。そして私 のたましいにこう言
おう。「たましいよ。これから先何年 分もいっぱい物が貯められた。さあ、安心して、食べて、飲んで、
楽しめ」』
ここに出 てくるのは、「私 、私 、私 」とどこまで言 っても「私 」だけです。どこまでも果 てしない自 己中
心の姿です。これは、私の力で、私が稼ぎ、私が蓄えた、私のものだ。私 の富だというわけです。もう
私は安泰だ。さあ、私のたましいよ。食べて、飲んで、楽しめと。
でも、彼は忘れている。いったい、その私 の「たましい」はどこから来 たのか。それは本当 に「あなた
の」ものなのか。あなたの命は「与えられた」ものではないのか。あなたが生きているということは、生か
されているということではないのか。あなたは大 いなる恵 みによって、今 、いのち与 えられているので
はないのか。
ルカ 12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。
5.委ねられたいのち・与えられた使命
みなさん。自 分 のいのちの究 極 の所 有 者 が神 様 であるということを、意 識 しておられますか。いつ
か、このいのちを神様にお返しする時が来ることを思いながら生きておられますか。このことが、決定
的 に重 要 なことであるわけです。この金 持 ちの愚 かさというのは、今 晩 死ぬ自 分 の運 命 に気 づけな
かったということではなくて、自 分 のいのちの所 有 者 が自 分 自 身 であると思 い込 んでいたことです。
そして、実 は、私 たちの多 くが、そのことに気 づけていない、あるいは、聖 書 から教 えられていても、
普段あまりそのことを意識 していないということがあるのではないでしょうか。
でも、もし、自分のいのちが神様からの預かりものであるということをしっかりと心に留めるならば、も
うひとつの大切な事に気づかされるでしょう。それは、神様は、私たちひとりひとりに、いのちを与えて
くださると共に、あなたにしかできない使命、あなたがなすべきことも与えてくださっているということで
す。
宗教改革者マルティン・ルターの残した、こんな有名な言葉があります。
「もし明日世界が終わるとしても、私は今日もりんごの木を植える」
明日 世 界 が終わるとしても、なおリンゴの木を植えるという-これは、どこまでも明 日に希 望を持 っ
て生きる生き方のように、解釈されることが多いですが、私は少し違うように思っています。つまり、ち
ょうど、この愚かなお金 持ちと反対の生き方ですね。自分のいのちを神様 から委ねられ、預けられた
もの、いつかお返しすべきものと、しっかりとらえている。そのいのちを用いて、自分が何をすべきか、
今日 を何 のために用いるべきかもはっきりわかっている。その使 命をルターは「りんごの木を植える」
という言葉で表しているわけです。自分のいのちがいつ取られようが、いつ世界に終わりがこようが、
自分 のすることは、変わらない。ただ、神様 から委ねられたいのちを、神 様のみこころのように用 いる
だけ。自 分 に与えられた役 割 を果 たしていくだけだ。これは、まさに、ただ神 様 の前 に富 む生 き方と
は、どういう生き方なのかと表した言葉なのだと思います。
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6.今宵いのちが尽きるとしても
みなさんの中には、じゃあ、自分の使命や役割とは何なのだろうと思っておられる方もいるかもしれ
ません。それは、私には分かりませんが、私の経 験では、私たちへの使命 は、意外と身 近なことだっ
たり、自 分 の近 くにあることです。日 々接 する人 に、微 笑 みを返 すこと。目 の前 にいる人 を大 切 にし
て、やさしい言葉をかけてあげること。あなたが遣わされている場所 は、ただあなただけが遣わされて
いる場所です。そこには、あなたにしかできないことがあるのではないでしょうか。
また、みなさんの中には、今からでは遅いのではないか、何かを始めることなどできないのではない
かと思っておられる方もいるかもしれません。そんなことはありません。
先ほどから、ご紹介している樋野先生の本に、良いことが書いてありました。
「いい人生だったか、悪い人生だったは、最後の5年間で決まる」
これはお医 者さんとしての実感 だそうです。5年というのに確 たる根 拠 があるわけではないそうです
が、これまで多くのガン患者さんと接し、その生涯を振り返った時、遺された者たちにとって一番心が
向くのが、「最後の5年間」なのだそうです。
「私たちの人生は、最 後の5年間をどう生きたかで決まります。・・・最後の5年間、自 分の役割 をま
っとうして死ぬ。それが残 された者 たちへの<よき贈 り物 >になります。・・・ 患 者 さんの中 には、よい
贈り物を残して去っていった人がたくさんいます。『がんになっても生きる希望を捨てない』『自分のこ
とよりもまず相手のことを思いやる』『病気にもかかわらず自分よりも困っている人の手助けをする』自
分の生涯を一つのモデルとして提供する。・・・これがお金やモノではなく、記憶に残る贈り物です。」
もちろん、最後の5年だけ頑張ればよいという話ではありません。私たちはいつが自分の「最後の5
年」か知 らないし、自 分 の寿命 が分からないわけです。樋野先 生が言われているのは、今という時、
今日という日を、「最後の5年」だと思って生きましょうということです。
今日の午後、召天者記念会をいたします。特に、今年度は、二人の教会員の方を天に送りました。
津 留 幸雄 兄 と陰山 千 枝 子 姉。お二 人 に共 通しておられたのは、亡 くなられる数 年 前 に洗 礼を受け
られたということです。津留 幸雄兄は 2014 年に 84 歳で、陰山千枝子姉は 2013 年に 93 歳でだっ
たかと思います。
私がお二人から教えられたのは、人は何歳になっても変わることができるんだなあということでした。
人生に、今からでは遅いということはないんだなあということでした。
私 たちも、変えていただける。この愚かな金 持ちのように、ただ自 分 のいのちを自 分 のために用 い
る人 生から、神 様 から委 ねられたいのちを、みこころのために用いる人 生 に変えていただけます。た
とえ、今宵、いのちが尽きるとしても、悔いない生き方へと変えていただけるのです。
お祈りいたしましょう。
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