これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
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目次
第1章
物語の開かれとしての崇高―テクスト外を開く身体性
第2章
主体の後に誰が来るのか
・・・・・・・・1
記号論の主体内部における非―記号的主体の探究・・・・・15
第3章
砂漠の熱風あるいは再び海へ
主体の後に誰がくるのか・内部とその持続、作品を契機として・・32
結び
なぜ「劇場」にとどまるのか
コルプス
―生起する場所と共同体・・・・・48
第一章
―バーネット・ニューマン、大野一雄における
物語の開かれとしての崇高―テクストー外を開く身体性
そのときわたしは出発点を忘れ、《私》が存在している世界からずれた、二次的な世界に運ば
れる。−歓喜と喪失。知覚と言葉の手前ではなく、いつもそれらとともにあって、しかもそれ
を突き抜けてゆく崇高なものは、われわれを拡大、超過し、われわれをしてここに投げ出され
たものとすると同時に、彼方にあって他者であり、輝けるものとする、過剰である。隔たり、
不可能な閉域、挫折した<全体>、喜悦、つまりは魅惑である。
クリステヴァ
身体の思考において、身体は思考を常により遠くへ、常に余りにも遠くへと強制する。思
考がなおも思考であるには余りにも遠く、だが思考が身体であるには決して十分ではなく。
それゆえ、あたかも身体と思考のいずれもが、それぞれにとっての何らかの存続性を持つ
かのように、思考と身体を別々に切り離して論ずるのは意味がない。両者は、紛れもなく
それら相互の接触、一方による他方の、一方の他方のうちへの、相互的な不法侵入である。
この接触は脱自性の限界であり空間化である。しかしながら、それにはひとつの名がある、
それは「歓喜」と「苦痛」もしくは「痛み」だ。
ジャン・リュック・ナンシー
1
物語の開かれとしての崇高―テクストー外を開く身体性
バーネット・ニューマン、大野一雄
テクストとテクストー外、読まれうるものの外部
たった一つの、わたしのものではない
言葉
J・デリダ
作品が一つの意味性に還元されるならば1、ヘーゲルの言葉―芸術の終焉―を待つまでも
なく、芸術活動は弁証法的な言語活動の内の過程へと、あるいは言語主体の限りない差異
化の運動の中へと、押しやられてしまうだろう2。今日読者中心のテクスト理論が拡大させ
エ
ク
リ
チ
ュ
ー
ル
続けるパロールの場は、「我々のテクスト」3を共有し、多価的であるはずの芸術活動の舞台を、
注
1
ここで念頭にあるのは、例えばヒリス・ミラー「主としての批評家」(1977) である。批評家と、批
評家が解釈するテクストは、どちらがより寄生的であるということはない、どちらも意味テクスト―「主」
上に棲みつき、共生関係を保っている。このように、作品=テクストが、批評によって読みとかれるため
の意味の織物となるとき、その自立性は認められない。
2芸術活動は、
言語活動がその内の 1 部として完全に吸収しうるということになる。
3通時的なひとつの歴史を共有し、そのテクストの内に語り始めるということ、その主体とは、みずから中
心なる共同体を自認し、作品をそのなかに位置付けうる。作品、「かれらは、自分で自分を代表できず、誰
オリエント
かに代表してもらわなければならない。」(カール・マルクス) 東 洋 が本質的に符合する現実をもたず、
2
単一の意味の場所へと閉じ込めてしまいかねない。記号という限定性に基づいて無限定な
フィールドと運動性を手に入れた、本来その度ごとに定立される主体にとっては、「テクス
ト外というものは存在しない」(デリダ)4のであるから、私(=主体)はここで、作者や作
品中心の読みにもどろうというのではない。これは、テクストの内部にいると自らを自認
する主体が行う、主体=記号、作品=テクストの構図5の側からは決して満足させることの
できない、ひとつの根源的欲求、芸術活動に伴うある至高性に言及しようとする試みであ
る。その至高性とは、ここではテクスト−外の立ち現れをさす6。
ドゥルーズが「ひとつの生(une vie)」7といい、「一気に身を置く」8仕方で、ある超越的
な運動体へその言説の場を移行させる時、作品の記号世界から、ある「本質」9の誕生を見届
ランガージュ
ランガージュ
けるものとしての、芸術批評の 行 為 が成り立つ。混沌にみちたことばを、「唯一の表意構
造の主体」10へと収斂させること、「絶対内在性」11とドゥルーズが言ったような地平で自己
を展開してゆくこと、そのことが私たちにゆるすのは、もはや真理でも解釈でもなく、ひ
とつの根源的な体験にほかならない。
解明とは還元ではなく情熱である。論理的には、『神曲』の読者はダンテである。つまり、誰
でもないひと〔personne〕ということだ。彼はまた《愛》の内にある。そしてここでは、知は
いっそう根源的な体験のひとつの隠喩に他ならない。文字の体験、生と死、意味と非=意味が
不可分なものとなる体験の。愛とは意味であり非=意味であり、そしておそらく、非=意味か
ら意味が生じることを可能にし、非=意味を明白で読解可能なものとするのである。(中略)
オクシデント
西 洋 に垣間見られ、位置付けられたものであるにかかわらず(E・サイード)、地理的に現実のものとして
オリエント
(おみやげ物やの、観光スポットの。)作品は、単一の意味と、
ある東洋は、 東 洋 に近づき始めるだろう。
似てくる、あたかもその中へしか存在できないように。
(『オリエンタリズム』エドワード・W・サイード
著
4
板垣雄三・杉田英明監修
今沢紀子訳
平凡社)
人間経験に関する限り、一切は「テクスト」であり、「テクスト」内の事態であるという立場。
この文章の中で筆者は批判的にこの位置に立つ。
(『読みのポリフォ二―』岩本一著
雄山閣出版「デリダ」
参考)
5
主体=記号 ここで私の言う記号とは、同一性に成り立つ体系内で保持される言語の記号をさす。それ
は、形而上学のロゴス(レゲイン、取りまとめる、集めて目の前に置く、を語源としている)であり、フロイ
トのいう自我であり、構造主義の構造である。何らかの統合を可能にする、意味の固定、主体というひと
つの意味的統合を可能にするのは、記号性である。
テクスト=作品 は、より大きなテクストの内にあり、読まれうる。この立場に立てば、作品には、ど
んな外部性も含まれておらず、意味のテクストのうちに解体できる。
6 テクスト上に現れた作品の持つ物質性を指す。ここでは、ポロック,ニューマン、ウイリアム・フォーサ
イス、大野一雄をめぐって,その身体性から、崇高を読み解く。
7 前田英樹『在るものの魅惑』現代思潮社p76−83「ドゥル−ズの哲学遺書」
『フィロゾフィ』誌に
掲載されたドゥル−ズ最後の論文を論じる前田英樹の引用による。p76
8同箇所
p77
9同 p80
10J・クリステヴァ『ポリローグ』足立和浩他訳
白水社p14
11前田英樹『在るものの魅惑』p77
3
ランガージュ
言 語 は全体性の場、無限の通路として現れる。みずからの言語を知らぬものは偶像を用い、
自らの言語を見るものは、自らの神を見るであろう。
フィリップ・ソレルス「ダンテ、あるいはエクリチュールの横断」(『ロジッ
ク』)12
ランガージュ
言 語 との一体化、いかなる実体もなく絶対内在的に展開されてゆく、運動性に満ちた主
ピ ュ イ サン ス
体の場所。その、《愛》の場の誘惑、「完全な力、至福」13からあえて離れて、ここで私がお
ランガージュ
こなうのは 言 語 としての主体の外部に<ある>と、自らをみなす主体の、むしろ「偶像を用
い」る方を選んだ、その仕方にひそむ根源性の探索である。
作品がある延長、物質性を持って空間にあらわれ,(時には自律した宇宙さえ感じさせて)、
それが記号的領野において主体に受容される時、そこにある不可能性が露呈する。その不
可能性とは超越的領野に還元しえない作品の延長、物質性であり、体験の一回性、非同一性
に対して同一性を保持するかにみえる、不動の客体としての立ちあらわれである。事物の,
「言語によって指し示される以前から、みずから言語ならぬ言語を発してさえいるよう」14な、
物質としての他者性の現前。それは、空間に作品の身体と並び立つ、自己の身体の発する
要請であったはずだ。
この異質的なものは、それがひとつのテクストであるゆえに、ひとつの身体である。私がテ
クストというこの胡散臭いことばを使うのは、テクストの中にみずからを見ようとする者
にとって、テクストが危険なもの、自己同一的でないもの、真正でないもの、不可能なもの、
破壊的なものを持っているということを、是が非でも理解してもらいたいからである。(中
略)それは母の領土である。つまりこの異質的身体、この危険なテクストが、意味、自己同一
性、あるいは快楽を与えるものであるとしても、それは《父=の=名》とはまったく別の仕
方で与えるのだ、ということである。
J・クリステヴァ『ポリローグ』15
パロール
エクリチュール
人が発語の時間的な快楽にあきたらず、作品という特殊な書き言葉を空間に発生させた
時、つまり自己の身体に対峙した等価な客体を空間に生み出したとき、偶像をつくりなすあ
の営みがすでにはじまっていたといえる。透明な言語運動の展開を幾分停止させ、(多分そ
12『ポリローグ』第4章
ポリローグ
p133クリステヴァの引用による
13前田英樹『在るものの魅惑』p78
14東京都現代美術館『河原温
全体と部分 1964−1995』平出隆「瞬間の革命―言語としての河原
温」p408
15 J・クリステヴァ『ポリローグ』足立和浩他訳
白水社p14
4
ランガージュ
れは自己の隠喩として)、完全にその客体に 言 語 が吸収されてある、主体の沈黙を願って
偶像を置く。飛躍すれば、外界を他者として躊躇なく操作し、システムを作り出した主体
は、それによって操作されることを眼底にみていたはずで、たとえば、「声なきものの声を
聞く」といったような、事物を前に操作をおよぼす主体の手を内に退行させていった東洋の
感覚が、ここで、客体というものをつくりなしていった西洋の主体文化に、近似するしぐさ
をみることができるのだ。
身体を、主体の隠喩として、偶像としておくならそれは、《父=の=名》が与えるような、
《自らの神》に基く絶対性ではなく、物質の他者性に成り立ち、まず<向き合い、抱く>母の
心性においてなりたつ、別種の絶対性を提示するものとなる。物質に染み込み、見えるもの
となった身体化された意味は、統一体としての主体からは、異質な、相対的な、輝きを発しな
がら、しかし、そこに別種の絶対性をはなつのだ。作品は、その身体は、(その本質からして
素材如何にかかわらず)解体を待つ、有機物である。つまり、そこに死を刻印されてある。不
死の言語運動の、永遠の白夜、あるいはひきのばされた白昼の歩行から、またあるいは創
造と破壊を繰り返す回帰運動の輪から、私たちはほかならぬ偶像の物質性によって、一瞬解
放され、それは恋人の身体のように救出の閃光を、共時的な絶対性を素描するのだ。
物語の開かれとしての崇高
ジャクソン・ポロックー有機的な身体という触媒
ジャクソン・ポロックの作品に発見するのは、身体のスケール、わたし達自身の持つ筆
の大きさ、描く曲線を規制し、その動きに基準を付け限界付ける、有機的な身体の、空間に
対置された大きさである。時に壁いっぱいに展開される抽象のリズム、それは、文明の発
展の中で、その創りなす大小様々な空間的建築の中で、中心にあるはずであったが無防備
で、ほぼ裸のままかわらぬものとしてある、身体を強く意識させられる体験である。それ
は、あくまで有機的な線で、時に拡大し,時に縮小しながら、しかしダンスのような確実
、、、、
さをもって身体の大きさを空間に流し(ポアー),垂らし(ドリップ)提示し続ける。内向き
の飛び散る曲線(スパッター)。その反復は、ほとんど内向きの、自殺、進歩西洋史観に彩
られた一方向の歩みに抗して、歴史を円還させようと、始原へと解体させようと16するかの
ようだ。
バーネット・ニューマン
ル
・
コ
ロ
ッ
サ
ル
巨大なるものの崇高
「だれかが私の絵画について言ったうちの最良のものは、私の絵画の前に立ったとき、自分
自身のスケールを自覚するということだった。
・・・つまり、私の絵の前の観客は、彼〔観
16
実際、ポロックは、インディアンの芸術と風土に深く感銘を受けていた。(『アメリカ抽象表現主義の名
作展』p34高橋幸次)
5
客〕がどこにいるかを知るのである。17」
ル ・ コ ロ ッ サ ル
巨大なるもの18。私たちは、身体へ連れ戻される。作品の純粋な物質性がひきおこす逆照
射、物質としての自らの身体性の喚起。
表象の場に現れた意味にならない意味、すなわち、テクスト外のテクスト。それが現れ
るのに、ここでは、作品のスケールが、作品の身体が、空間にひとつの意味を作用させ、
閉じられた物語の開かれを担う。
「私はサイズを超えること、もっとうまく言うと、サイズを克服することが問題だと考えて
います。我々の世代から始まって、巨大な絵を描いてきた画家はたくさんいます。しかし
サイズは充分ではありません。・・・どんなに大きくても、基本的にスケールの小さい絵が
あります。・・絵画の本当の問題は、画家のスケールのセンスです。(略)環境から絵画を分
離することに成功するなら、それだけでいいことです。」
カントのテクスト、「崇高の理念にとって必要な、自然における事物の量的判定について」(第
26節)に、デリダの加える考察19をここで引くなら、
崇高の事例は「技術的所産」の領域に求められるべきものではない。それらの所産は事実、そう
いってよければ、その形態と寸法とを規定する人間の尺度によってつくられている。そこには、
人間である芸術家の操作が、一つの目的を目指して働いているのであり、それは規定し、定義
し、形を与えるのである。輪郭を定め、形態と大きさを縁取ることによって、それは測定し、
支配する。しかるに、崇高なるものは、そのようなものがあるとすれば、それは境界をはみ出
ることによってしか存在しない。
(略)それゆえ、人間の技術の所産の内には、崇高についてのよい事例、「適切な」事例はない。
〔Ⅰ〕
もちろん自然の事物は、それがすでに規定された目的を内包しているなら、それもまた我々
をして崇高へ開かしめることはできない。崇高はたんに高いもの、高められたものではなく、
非常に高められたものでさえない。(略)あらゆる比較可能な高さよりも高く、比較を絶する、
高さにおいて測定不可能な大きさである崇高は、それの高さ自体を超えた、過度にー高くなる
ことであるのだ。(略) 〔Ⅱ〕
「さらに高くなること」が、ただ、ある種の自然の光景においてのみ、感知され、その理念を誘
発し、それを動機づけし、惹起するのはたしかであるが20(略)しかしそれは、「大きさ」を、そ
れでもなお尺度に挑戦し、手や目の支配を超え、いかなる有限な操作にも委ねられない大きさ
17
『Interview with David Sylvester』1965 ,BNp257
ル
18
・
コ
ロ
ッ
サ
ル
ジャック・デリダ『絵画における真理(上)』
(高橋充昭/阿部宏慈)法政大学出版局6章、巨大なるもの
への考察を踏まえている。
19 同著
同箇所 p197−200
20 ニューマンが語るツンドラの風景の感動、「彼が観客に要求するのは、彼がツンドラについてもっていた
ような4つの水平線を含んだ空間の新しい感情を絵画から受け取ってほしいということである。」(『神話
なき世界の芸術家』多木浩二、p172)
6
を、有しなければならないであろう。〔Ⅲ〕21
(注、記号は筆者)
すなわち、テクストー内において、私たちは崇高を目にすることはできない、それは、境
界をはみ出ることによってしか存在しない。(この論文で基礎的な構図となる、テクストー
外、物語の開かれ、である。)〔Ⅰ〕自然が、自然を超えた崇高を提示することはできない、
〔Ⅱ〕それは、自然の「大きさ」といったものを超えた、発見され、創出された「大きさ」でな
ければならない〔Ⅲ〕。
ニューマンの作品のスケールによって照射される身体のスケールとは、それが自然的な意
味での大きさを意味しない。垂直に立つ ZIP に隠喩される、立つもの(立ち、歩き、踊り、
飛翔するもの、ニーチェのいった人間像)、としての、身体、それはしかし、意味が約束す
る隠喩の世界を超越して、「手を加えないそのままの」22自然を、崇高の感情が指差すものを
明らかに分有するものとして、立ち現れるだろう。すなわち、「崇高は、自然の中にはなく、
ただ我々の内部にのみ存在するのであり、そこから立ち上がる巨大なるものは、我々から
しか発しない」のであるが、我々は自然によってその感情を喚起される、そのとき、自然の
分有たる身体は、その境界でその分裂を統合する。巨大をそのうちに発生させた小さな身
体、人は自ら自身に恐怖する、有機の、死を刻印された、無限の体現者に。
始まりに刻印された暴力性―崇高さの裏打ち
「アトモスフェア」という言葉は、ニューマンにとっては否定的な意味を持っていた。23一
面に均質におかれる色は、ロスコのように滲まず、互いの浸透を許さず、有機性をほとん
ど寄せ付けない。発生する細かい意味の殺害、アトモスフェアは払拭される。
「眼が見えず言葉もないフェティッシュや装飾は、<自己>の恐怖を見つめることのできない
人々にしか印象を与えない。」24(ニューマン)恐怖。「現在の画家は、彼自身の感情や、彼自
身の個性の神秘に関わるのでなく、世界の神秘の洞察に関わっている。彼の想像力は形而
上学的な秘密を探求することを試みつつある。その限りで彼はサブライムに関わる。象徴
をとおして、その悲劇的な意味である生の根底的な真実を捉えるのは宗教芸術である」25
ア
ブ
ジ
ェ
ク
ト
サブライム、崇高の感情に伴うのは、恐怖と魅惑である。J・クリステヴァは、おぞましきもの
21
ジャック・デリダ『絵画における真理(上)』デリダは、これに続けて、これがすなわち、大きーすぎる
こと、巨大であること、が実現するものであること、巨大なるものの法外さが付与する崇高について論を
進める。それは、パレルゴン、過剰なものが現出させる崇高である。
22 ジャック・デリダ『絵画における真理(上)
』p200〔an der rohen Natur〕手を加えないそのままの
自然。「さらに高くなること」は、手を加えないそのままの自然において予示されるだろう。
23 『神話なき世界の芸術家』多木浩二p4
24 『Exhibition ob United States ob America』1965、BN・pp・186−187
25 『The Plasumic Image』1947,BN p140
7
ア
ブ
ジ
ェ
ク
ト
26からの離脱によって、あらゆる記号の発生する場所が許されたこと、そのおぞましきもの
は主体を、分離以前の状態へと魅惑し続け、そのことによる主体の恐怖をする。記号の下
ア
ブ
ジ
ェ
ク
ト
地。原抑圧。27おぞましきものはこうして、始原の暴力によって対象化され、昇華される。
「そのときアブジェクトは崇高さに縁取りされる。」28
、 、
、 、 、 、 、
芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることならしめる表象に変え
ることができる。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔
吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものと、である。
ニーチェ「悲劇の誕生」(傍点筆者)
ニューマンの、作品は、まさに前者、制御によって暴力的ともいえる仕方で、均質な画
面を獲得する。ニューマンの生きた第2次世界大戦のアウシュビッツ、広島、さらに東
西冷戦の危機的状況のなかで、それは多木浩二氏がいうように、29「暴力の無化として
のサブライム」であったともいえるし、しかしそれは芸術の言語でなされたゆえに、も
っともかけはなれてはいても、それと同じ不気味な暴力性に彩られているともいえるだ
ろう30。意味の殺害と、ある全体性の開示。いずれにせよそれは、言語をもつ人間の根
源的な暴力を記述している。
アブジェクトと崇高さは行程の同一時期を指すのではないが、その存在は同一の主体、同一の
言説に依存している。というのは、崇高もまた対象をもたぬからである。星をちりばめた空が、
空の沖合いや菫色の光の縞を放つステンドグラスのように私の心を魅するとき、不意に姿を現
わし、私を包み込み、私が見聞きし、考える事物の彼方に私を連れさり、追いやるのは、織り合
わされた感覚、色彩、言葉、愛撫、または微かな触れ合い、香り、溜息、律動といったものであ
る。崇高な《対象》は底なしの記憶の激情の渦に溶解する。
〔Ⅰ〕
J・クリステヴァ『恐怖の権力』でなされた考察。おぞましきものとは、母子融合期の母の身体であり(主
体はそこから離脱してゆく、これはプルーストのテクスト分析のなかでなされた)、また、サルトルの『嘔
吐』で、吐き気を催させる対象であり、
(『クリステヴァ』で西川直子氏が言うように、意味のはりめぐら
された世界の中に突如むきだしにされた醜怪なモノに直面したロカンタンが反射的にもたらした吐き気屋、
日常生活の様々な場面でおぼえる吐き気ほど、おぞましきものの棄却の機能を分かりやすくかたったもの
はないだろう。p256参照)セリーヌのテクストにはいりこむ死体や、腐敗のイメージにつながってゆ
く。
27 フロイトの用語。クリステヴァの概念も、これに基礎をおいている。オブジェクションの概念も、バタ
イユに基礎をおいている。
28 J・クリステヴァ『恐怖の権力』
29『神話なき世界の芸術家』p139−147、多木浩二氏
30 広島をつつんだ、白い死の閃光と、あまりにかけはなれ、対照となすがゆえに思い起こされる『アンナ
の光』(図2−2)の、カドミューム・レッドの、過剰な光。「過剰な光は・・すべてのものを消してしま
う」(ローレンス・アロウェイ、『神話なき世界の芸術家』多木氏の引用によるp169、)
26
8
記憶こそが、階梯から階梯へ、思い出から思い出へ、愛から愛へと,この対象を目眩めく光言
に、そこに存在するには,自分の姿を私が見失ってしまうような光源に,転移するのである。
私がその対象を見分け、それを名付けるや、崇高なものが堰を切ったように数々の知覚や言葉
を呼び起こしー崇高なものは常にすでにこれらを呼びおこしていたのだがー、この知覚や言葉
が記憶を限りなく膨らませるのだ。
〔Ⅱ〕そのときわたしは出発点を忘れ、
《私》が存在してい
る世界からずれた、二次的な世界に運ばれる。−歓喜と喪失。知覚と言葉の手前ではなく、い
つもそれらとともにあって、しかもそれを突き抜けてゆく崇高なものは、われわれを拡大、超
過し、われわれをしてここに投げ出されたものとすると同時に、彼方にあって他者であり、輝
けるものとする、過剰である。隔たり、不可能な閉域、挫折した<全体>31、喜悦、つまりは魅
惑である。〔Ⅲ〕
崇高の体験。いわばニューマンの光は地となって、膨らむ記憶、意味の過剰を受け入れる
〔Ⅱ〕、場所である。(突き抜け、我々を拡大し、超過してゆく〔Ⅲ〕)対象を持つ、すなわ
ち、意味の内部(テクストー内)において記号的意味を扱うものでなく、〔1〕崇高さは、
ア
ブ
ジ
ェ
ク
ト
おぞましきもののようにそれ自体が完結されたものとしてあり、テクストを発生させなが
らそれを膨らませて行く。
不透明なものとしての身体
グロテスクな身体は太陽や星と直接につながり、黄道12宮を内に孕み、コズミックな秩序を映
し出す
ミハイル・バフチン
「極度にテクスト化した身体」32―崇高の絶対的な不在
31
前に全体性の開示と述べたが、崇高が挫折した<全体>であるというクリステヴァの言は、考察する必要
がある。たとえばここで、アド・ラインハートの、『抽象絵画』(cat,,no,25)(図6)といった作品をニュ
ーマンと比較してみよう。等身大よりやや大きいスケール、ほぼ単一の黒によって塗りつぶされたこの作
品は、このスケールで、黒である必要があった。すなわち、ZIP―垂直の線の、作品の崇高さに与える効果
は、改めて大きいといえる。
前出の多木氏の本の引用によれば、グリーンバーグは、ニューマンの直線はフレームのもじりであると
いう。絵画の縁は内側に反復される。
(p108)この効果は、限定性を取り払いより大きなものを提示す
ると同時に、立つ身体の隠喩であり、さらに同一色の断続と、空間の不均衡を語っている。挫折した<全体
>(クリステヴァ)、「人は自ら自身に恐怖する、有機の、死を刻印された、無限の体現者に。」(前述)
32
フランシス・バーガー『振動する身体―私的ブルジョア主体の誕生』末寛幹訳
9
ありな書房p126
「コスチュームも肉体もほとんど透き通るようにしたかった」33というウイリアム・フォ
ーサイスの舞台『ザ・ロス・オブ・スモール・ディテイル』のエピグラムに、三島由紀
夫の『奔馬』からの引用がある。
時の流れは、崇高なものを、なしくずしに滑稽なものへ変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。
もしそれが外側から蝕まれて行くのだとすれば、もともと崇高は外側を覆い、滑稽が内奥の核を
なしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積もった
にすぎぬのだろうか。三島由紀夫「奔馬」
滑稽と崇高が、どちらがより根源的か、ではなくて、ここでは、崇高と滑稽が裏表をな
していること、塵のように解体されたフラグメントが、舞台上に降る雪のように、実質を
欠いて、細部の描写を欠いて、圧倒的な強度をもって流れてゆく。「崇高の絶対的な不在」(小
林康夫)34。先に言ったクリステヴァの、崇高さの体験が、この作品を貫いていないことは
ない。それは、実質を表象に無化してゆく、絶対の空間を形づくるのに寄与し、その表象
のうちにまぎれこむ。自然の分有として、テクストー外に感知されるものであった(ポロ
ック、ニューマン)身体は、テクストの真っ只中へ置かれ、テクスト化される。
「主体が主体となるのは、もはや近代以前の<スぺクタクルとしての身体>の一部となること
、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
によってではなく、身体をテクスト化するようなある表象様式を通じてしかない。肉体は姿形
を喪失し、表象はついに代理作用だけを帯びるようになり、有形の身体から距離をとって一連
の意味作用を支えるだけとなる。近代の意味作用の様式の下で、身体は、デリダの言葉をかり
「 、 、 」
るならば、「代補」となったのである。身体は、完全に現前するわけでもないし、完全に不在な
わけでもない。身体は封じこめられ、無視され、言説から排除されながらも、目に見えるよう
に周辺にとどまり、自分を排斥した空間をなおも悩ませている。」35(フランシス・バーガー『振
動する身体』傍点筆者)
身体を、表象によって光に中に、いわば「影の落ちない透明な花」(オクタビオ・パス)とし
て消し去ってゆくこと。崇高は現代において、ほとんど場所と化した絶対性としてあらわ
れる。崇高が基礎付けた全体であるところの、崇高の不在である。しかし、身体はその場
所に、代補された、表象の身体に完全に一体化することはできない。周辺に、外部として
あり続ける不透明な身体の立ち現れ、それこそが、テクストを解体と創造の場所へ回帰さ
せ、テクスト内部の透明な言語活動の終わることなき連鎖、白夜の歩行を休止させる現代
33『身体と空間』
(筑摩書房)p34−49で小林康夫は、この作品を評論している。
34
35
同著 同箇所
フランシス・バーガー『振動する身体―私的ブルジョア主体の誕生』末寛幹訳
10
ありな書房p126
の崇高を開示するのではないか。
、 、
、 、
、 、
、
、 、
、
「新しい身体のカノンの特徴は、それが、完全にできあがって完結 した 、厳格 に 境界 を
、 、 、 、 、
、、 、 、
、 、
、 、 、
、 、 、 、
、
、 、 、
、 、 、 、
、 、
、
、 、
、 、
、 、
、 、
区切られた、外から観察された、混じりけが無くてともかく個性をよく表現する身体に基づい
ているという点だ。そこではあらゆる突出したもの、目立つもの、鋭く造形されたすべての四
肢、すべての奇形、変形、つまり身体をその限界を超えて外へと駆り立てている一切のものが
遠ざけられ、削除され、覆われ、弱体化させられている。まったく同様に、身体の深みへと通
じるすべての開口もふたをされてしまっている。」(ミハイル・バフチン 傍点筆者)36
均質な、ディティールを喪失した、光に満たされた、その本質性を充分に感じさせる、
空間。ポストモダンが解体させた構造の、崩壊した跡地には、身体を消し去る磁場が働
いた。それは、神なき後の崇高や絶対を求めての、身体との取り組みであったのだろう。
それは、代補、記憶に満たされた身体を、無の上に成り立つ表象の上に置きなおす作業
であった。それは歴史につながる身体の死、深みという、崇高という、垂直性の否認で
あった。が、しかし、身体はその空間を越えて、生き延びるだろう。生き延び、閉じら
れた物語テクストを開くものとしての身体、わたしが問題にしているのはそれである。
バフチンは、グロテスクでない身体は「ただ一つの身体」だけから成り立っていて、その
「一つの生を打つ打撃は〔略〕新しい生を何も生まない」のにたいして、「グロテスクな
身体を見舞う出来事は常に身体と身体の境界で、いわば二つの身体の界面ででもあるか
のように遂行される。一つの身体は死を与え,他の身体は誕生を与える。二つの身体か
らなる形相においてそれらは融合している。」このグロテスクな身体こそが、「身体」を
「個性」や「性格」の係数と化して、いわばテクストへと透明化してしまうこと、すなわち
近代に特有の「代補の身体」の成立を妨げるという37。
二側面の、グロテスクな身体
J・クリステヴァは、主体を二つの側面からなる複合体としてとらえる。主体=記号、す
オ
ブ
ジ
ェ
ク
ト
なわちテクストの内部に完結する主体<サンボリクス>と,身体性おぞましきものに開かれ
た<セミオティクス>である。主体=記号のモデルは、フッサール現象学の超越論的自我
や構造主義などに求められる。静態的に主体(=自我、構造)をとらえ、その主体が定立
にいたるまでの過程を外へ追いやるやり方である。ソシュールのアナグラムやフロイトの
無意識の発見を継承するものとして、クリステヴァは、主体の内部に、この外なるものを
引き入れる。定立以後、所与のものとみなされた記号=主体(サンボリクス)は、常に無
36 Mihail Bachtin,Die groteske Gestalt des Leibes,In;Das Groteske in der Dichtung,Hrsg von Otto
F,Best,1980 Darmstadt p199
37小林康夫・松浦寿輝編
『身体』 東京大学出版会 「ヒステリー的身体の夢」石光泰夫p15の,バフチ
ンの引用を参考とする。
11
意識や物質的外部からの運動(セミオティクス)に脅かされ、結びつき、貫かれているか
らだ38。
主体とはつねにセミオティックにしてかつサンボリックであるのだから、主体が産み出すどんな意味
体系も、「もっぱら」サンボリックであることも、「もっぱら」セミオティックであることも不可能であ
って、相手への借りのしるしを免れることはどうしてもできない。
J・クリステヴァ『詩的言語の革命』39
両者の境目、欲動が記号を解体しながらつきあげる場所、いわばカオスモス(
カオス/
コスモスー丸山圭三郎)の場所に、創造の主体がある。創造の場所たるセミオティクで,サ
ンボリックな主体とは、バフチンのいう、二つ身体をもつ主体と 相関するものとして捉え
られる。
死やおぞましさを禁止の対象としてそれを対象化し、それから離れようと一方向の展開
を見せるのでなく、死やおぞましさをそのうちに内包させた二重の身体、バフチンの代補
を妨げる身体とは、「死を与え,生を与えるもの」であった。たとえば、それは,「愛を運ぶ死
者の足どり」40、大野一雄の舞踏にみることができる。
死と生,男性と女性、化粧した裸、滑稽な崇高
大野一雄が、白塗りの化粧をし、女装して舞台に現れるとき、虚構に仕立てられた衣装
の滑稽は、その崇高にとってかわられる。文化は、化粧した自然であることを、化粧は(文
化は)、その滑稽さを自然性に譲り渡していることを、哀しみという、人間の存在形式を感
情で露呈させるのだ。その姿は、男性であって女性であり、老いた胎児であり、死した生
者であり、そのあらゆる両義性ゆえに,それはグロテスクな、美しさを放つ。
白塗りとは、光の受肉である。フォーサイスなど、コンテンポラリー・ダンスの空間に
満ちていた光は、皮膚表面に集まり、空間―外の闇は、舞台上に、空間内に浸入する。準
備された白い表象の皮膚は、グロテスクな滑稽さを刻印されながら、そうであるがゆえに
美しく闇―外部に映え、表象内部の身体は、オブジェクシオン、つまり対象化されること
なしに、強いカオスを負ったまま、全体として外部にさらされる。踊りは、もっとも微弱
な力でなされる。ここで,アドルノの「客体の優位」41を使うなら、外―闇が優位に、うごめ
いていて、主体はむしろ肩をおとし、弱いものとしてそれに懐かれようとする。父的神の
いまだ影が落ちる西洋にはない、闇、神によって名指されることのない外部が、名指され
ることなく、しかし、このように生きているのをみるとき、私たちは舞踏 Butho について
語ろうとする。
J・クリステヴァ『詩的言語の革命』原田邦夫訳 第一部理論的前提 ギリシャ語のセメイオン=痕跡、
指標、予兆、証拠を踏襲した概念。サンボリクスに記載される意味にならない欲動、リズムや言い回しを
セミオティクス、それの流入をうけたシンボル秩序をサンボックという。
39同著;p・13−14
40大野一雄 『舞踏譜』思潮社p46
41 細見和之『アドルノ』講談社
主体の優位の解体、p186
38
12
大野一雄が踊るとき、そこに現れるのは、サンボリックを受難したものとして、肉体を
接着点にして出現したセミオティクな「魂」である42。大野一雄の舞踏において、「肉体のエ
クリチュール」(マラルメ)は、セミオティクスにみたされたアナローグな線を保つ。そのデ
ィティールこそが日本の発生させたジャンルとしての舞踏を成り立たせるものである。バ
レエのようにサンボリックな振り付けがなされないため、ひとつの動きからひとつの動き
へのあいだの時間的な間隙におこる意味性の殺害から免れるのだ。
異邦性によって保たれるセミオティクス
父なる一神教の歴史がロゴス中心の西洋の歴史を形づくったのに対し、父なる神の観念
がなく、閉じられた島国を舞台に単一の言語文化を発展させてきた日本は、サンボリック
な主体の感覚が希薄である。セミオティックな主体は、「魂」や、「おもい」という実体性の
厚みをおびて、逆にサンボリックは定立の際のセミオティクの殺害を表象するだけの薄さ
は
を保って展開せず、「こと」(出来事)を「ことの端」として記述する、またセミオティクな身体
に刺青されるように受難される。共有された闇、自然とつながったセミオティクな情緒の
中に主体は沈潜し、サンボリクをかすめてまた沈潜する。能や歌舞伎が言語定立の際の否
定性をひきうけてみせるのは、セミオティクスと深く結びついたコーラ43、風景の現前を背
後に据えているからだ。世界最短の詩の形式である俳句、短歌は、セミオティクがほとん
ど滅ぼしそうになっている、サンボリックしての言語に、逆にもの性を付与する。セミオ
ティックに磨かれた沈黙の記号性の浮上、それはサンボリックが影に、セミオティクスが
光に反転し、またその逆も真であるような、言語の本質的場―無の充溢を開く瞬間なので
ある。母語はひとつの身体テクスト、閉じられたサンボリクスのひしゃくが汲み、実体化
することのできたセミオティクスに他ならない。単一言語圏で、繰り返し身体化されたサ
ンボリクス、その絶対化にともなうセミオティクスの活性化。
舞踏の表現するセミオティクスが自らの異邦性を標榜することによってその強度を保っ
ている面は否めない。しかし、その現出させているものは異邦性をこえた何かである。
身体に含まれた死の崇高
名付けられえぬ、個の死
バタイユ
能の道行きが、彼岸からの通行を意味したように、舞台上の身体は死者の身体であった。
身体は異邦からの来訪者であり、その与える崇高は、死の崇高である。テクスト、歴史を
共有する一連のコンテンポラリーダンスとは違った仕方で、異邦的なセミオティクな主体
によって受肉された身体(思えば、ニューマン、ポロックも、ヨーロッパの歴史の重みか
ら解放された、ヨーロッパのテクストにとって異邦の者たちであった)は、記号性にから
めとられえない、記号的ではない物質性であった。それ自身が死を含む物質として、セミ
42 大野一雄に、「魂が肉体という宇宙を羽織って」という言葉がある。魂=セミオティクスは、身体をまず
はじめに他者とみなし、その身体をはおって,サンボリクスの舞台へ現れる。
43 クリステヴァ,デリダによって使われる概念、テクストを成立させる場所、そこに働く力をさす。
13
オティクス/サンボリクスの接合点に身体が置かれるとき、そこにおこるのは内部に閉じ
られた無限運動の開かれ、個の死を根拠として凝集するある絶対性が、相対性を本質とす
る言語運動のテクスト内に空間的延長としてあらわれる、本質的なドラマなのである。
滑稽な美しさ。始原と先端。両義性と深く結びついた現代の崇高に、その俗なるがゆえ
に、身体が聖性をおびて発見される。それがテクストにとって不透明であるゆえに、身体
はある崇高の立ち現れを担うのだ。ベンヤミンのいう作品のアウラは、複製技術の(テクス
トとはまさに複製技術的だが)時代に、別の仕方で発見されなければならない44。それは、
身体に隠喩される、テクストー外の開かれしての崇高、記号性を免れ得ないところで展開
される、非―記号としてのアウラである。それは,有限であるゆえに無限を求める人間の、
崇高を求める祈り自身の立ち上がりである。崇高は感受される。しかしそこに、身体(=
死)がないことはできない。その意味によって、<挫折した全体>(前述,クリステヴァ)
は、テクスト内部の擬似的に実現した不死、全体をはなれ、挫折すること自身の崇高を感
知し始めているのである。
崇高とは現代の避難所である。そそり立つ断崖、終わること,はじまることの出来る,垂直の意図、ひらかれ
ることの出来る人間の営為の全体性、宗教のない時代に生き残った記憶の食べ物、言葉なき言葉、うむを
いわせぬ恐怖が同族の恒常的な石礫、資本主義の砂にまで解体された価値を忘却の彼方へ押しやる、広島
の、ホロコーストの恐怖でない、それはひとつの言語による救済、力による救済、微分化された意味によ
る白夜の歩行を休息させる、失った神の影、20世紀、神にとってかわった言語の太陽の非情な照りにお
おきな木陰を提供する、すなわち女性的生産の限りない鎖から女性を解放する、快楽の死を与える男性性
の、崇高なる神の反復、記憶が許した避難の砦なのである。
−ニーチェに、バーネット・ニューマンによせて
44
ヴァルター・ベンヤミン『近代の意味』浅井健二郎編訳
14
ちくま学芸文庫p585-629
第2章
主体の後に誰が来るのか
記号論のテクスト内部にある非―記号的主体の探求
《外国の》諸言語が、私の水源となり、私を揺り動かして、私の言語を形作っています。それらは、
《外国
の》ものである異質さゆえに、よそから聞こえてくる音楽として、貴重な警告として、私のなかに入って
くるのです。「すべてがここにあるわけではないことを忘れてはいけません」「あなたが一片の偶然、一粒の
偶然にすぎないことを喜びなさい」 『世界の』中心などないのです」「起き上がりなさい、数え切れないほ
ど多くのものをみなさい、言い表せないものに耳を傾けなさい」
さまざまの言語は、私の言語へ以降してくると、愛情と恐れと悦楽に浸りながら、互いに理解しあい、
呼びかけあい、ふれあい、変質しあい、そしてもろもろの差異が沸騰するなかで、互いの人称代名詞を一
緒に混ぜてしまいます。
あらゆる言語の中に、私が話す、あるいはに話しかけてくる一つの言語があります。これは、詩人によ
って話されるとき、どの国の言語のなかでも鳴り響いている、特異であると同時に普遍的な言語です。各
言語の中に、乳と蜜が流れているのです。
エ
レーヌ・シクスー
15
方法としての概念措定、記号論の主体内部にある主体
一切の事象を記号という見地から解体、再統合する、記号論の可能にした「唯一の表意構
造の主体」は、まさにその内部に、記号によっては回収され得ない何者かを原理的に抱えて
いるのである。(以下、クリステヴァの主体概念にみる)
ソシュール言語学が、フロイト以降の精神分析が可能にした主体の概念45に依拠してはい
ても、読み解かれうるものとしての主体(その構造化された無意識や)の内部にあって、
読み解かれ得ないと自認する主体の姿を暴き、それが創造性に向かってゆく過程を記述す
る。それには、その創造する主体を静態的な記号との対立によってあらわれる動的な運動
(記号を破壊し、主体を更新してゆく脱構築の)としてだけではなく、記号との関係をな
セミオティクス
しにしても成立してしまうような、それ自体にある実体性(それは、魂、想いの純粋性であ
りうるか)をもたせて語る方法がとられるだろう。つまり、記号(=主体)を外部として成
り立つ主体の、方法としての措定である。それは、進歩史観的に語られる芸術の歴史とは
離れて、しかし無視できない根源性をまとって、ひそかに生まれ消えてゆく作品群への敬
意であり、西洋のまなざしから垣間見られ翻訳されて位置付けられた、周縁の言語圏に住
む主体46の、自らの形象の告白でもある。
コーラ概念を中心にクリステヴァを読み直す
浅田彰は、『構造と力』において、等価交換によって成り立つスタティックな構造に、変動
をもたらす「生産」の概念を導入したクリステヴァの功績を認めると共に、セミオティク/
サンボリクの2項対立に基づく余りに「男性的な」原理の概念装置を批判する。デリダが、
初めから差異と同一性や共時態と通時態の双方向性を飛び越えた差延化の戯れを語ってみ
せたのに対し、クリステヴァは差異の共時的体系とその外部の相互作用を分析するのに千
言万語を費やしている、と。
ところが、その必要は確かにあったのである。「コーラ」概念を軸としてそれらの概念装
45
言語は、言語以前に実体として存在する事物を名付けるのではない。言語を離れていかなる実体も存
在しない、差異によって成り立つ言語のみが実体である。(『ことばとはなにか』丸山圭三郎) また、「精
神分析の手段とは、個人の諸機能に意味を与えるものとしての言葉の場である。精神分析の領域とは、主
体の超個人的現実としての具体的な言表の領域である。」(ラカン『Ibid:pp62-63』)
46 歴史―外にいるもの。 翻訳文献のうちに思考し、母語の響きはその思考に反映されない。クリステヴァ
が、デリダが(「フランスーマグレブ人の」)異邦性を刻印されていたように。
16
置を読み直すと、近代以降の主体が外部に追いやった身体―物質が、中心の課題として姿
を現す。デリダの実践、言説に通底して現れる「コーラ」、軽やかに引き継がれた「基底材」
は、その外部とどのような接着点を形成するのか、差延される内部の言説において、外部
的な「身体」がどのような位置を持ちうるのか。「脱自」的なエクリチュールの展開の中では
呼ばれえなかった身体―物質との関係から、より外部へー私たちは向かってゆくことが許
される。
クリステヴァの思想体系の中で、重要視されることなく見過ごされてきた「コーラ」とい
う概念を中心に、主体概念を読み直す。ここで私は、記号論を批判的に継承するものとし
て位置付けられ得るだろう。
運動性に満ちた主体の場所―創造の欲動
セミオティクス、サンボリクス
主体=記号のモデルは、フッサール現象学の超越論的自我や構造主義などに求められる。
静態的に主体(=自我、構造)をとらえ、その主体が定立にいたるまでの過程を外へ追い
やるやり方である。ソシュールのアナグラムやフロイトの無意識の発見を継承するものと
して、クリステヴァは、主体の内部に、この外なるものを引き入れる。定立以後、所与の
ものとみなされた記号=主体(サンボリクス)は、常に無意識や物質的外部からの運動(セ
ミオティクス)に脅かされ、結びつき、貫かれているからだ47。ここで可能となったのは、
例えば、「セミオティックな主体」という言い方である。近代の知がうち立ててきたような
理性的主体、「思惟する我」内部での自己展開では呼ばれえなかった狂人や子供が、分析の
対象になりえた、というより、語る主体であるとみなされえたのだ。ラカンのいう鏡像段
階以前の幼児の動性に満ちた発声や、失語症患者の沈黙、他に母国語を持った異邦人の、
語法としては充分ではありえない発話なども、語る主体の形態である。そしてもちろん、
セミオティクスの動性の只中にいるもの、「セミオティックな主体」とは、芸術活動の主体
である。詩や小説のテクスト解読者としてのクリステヴァが、フロイト、ラカンの精神分
析の理論に満足せず、出してきた理論の功績のひとつは、芸術の運動性に満ちた主体の場
所を名付けえたことではないだろうか。
動物と子供
自然という内部、外部
かつては自我は畜群のうちに隠れていた。そして現今では自我のうち
になお畜群が隠れている。
47
ニーチェ
J・クリステヴァ『詩的言語の革命』原田邦夫訳 第一部理論的前提 ギリシャ語のセメイオン=痕跡、
指標、予兆、証拠を踏襲した概念。サンボリクスに記載される意味にならない欲動、リズムや言い回しを
セミオティクス、それの流入をうけたシンボル秩序をサンボックという。
17
六本木ヒルズに今秋開館した森美術館「ハピネス」展においては、「動物」や「自然」などの
題材を要素が使われた作品が目立った。ジェフ・クーンズの『熊と警察官』は、自然の野
生を体現する大きくて陽気な熊が、彼よりも小さな警察官―法の暴力の肩を抱く。外へと
追いやったものが、楽園を回復するのだいう直観、「幸福」の使者としての自然性。
『Raj Paket』(勅使河原三郎)では、ウサギが囲い込まれたしきりの中で、舞台上に繰
り出される強い音と光を恐れ、群れになってかたまり、また単体で跳ね、逃げ出そうとし
て、ダンサーのきっぱりとした動きとの対象をなした。何かに憑かれたような、ヒステリ
ー性の激しい動きをする小柄なダンサー(子供)が死によって切断されるのは、「父」に捕
らわれた瞬間だ。
子供や動物といった要素が、舞台や作品に他者として織り込まれるとき、身体のそれら
の要素への親和性はむしろ決別した淵の、不可逆な緊張、イロニーとして現れるか、笑い
や弛緩などの効果をもたらす。記号としての動物や子供は、「幸福」や「不安」などの純粋性
を表象し外部に自己性を延長するものとして、作品自体が逃亡をはかる。
奈良美智の描く子供の眼差しは、まっすぐに、ひしゃいでいる。目つきの悪い子供。そ
れは、かわいい子供、すなわちサンボリクスを違和なく受け入れ秩序に同化している、大
人側から語られる子供ではない。大人のようで子供であり、子供のようでどこか諦念を感
じさせるそれらは、サンボリクスに身近らの違和の所在を問い続ける。供される、きのこ
類の、子供たち。それは生えたのだろう、現代の構造の崩れたのきしたから、日陰の雨上
がりに、地下に分裂するリゾームのようにもあれないで、顔を出す、いまだ単一のサンボ
リクス、太陽の余霊が浮かぶ、白昼の空に、瞳をひしゃげて。彼らの語りは、その目の傾
きによって、つまり視点を同じくしないのだという、最初の宣言によって示される。
しかし、呼び求められた神託は永遠に黙らなければならなかった。
ただ一人だけが、世界にその神秘を解き明かせるのだった。
泥の子供たちに魂を与えたもの。
ネルヴァル「幻想詩集」
ヨーゼフ・ボイスのパフォーマンス、《死んだ野ウサギに絵を説明する方法》では、金箔
を顔に塗った人(ヴォイス)が、死んだウサギを抱き、意味にならない言葉を話しかける。
黄金の仮面に表象されるサンボリクスー精神の、自然への暴力。
サ ン ボ リ ク ス
自然の側に積極的にあることによって、「自然/精神、歴史」の狭間を際だたせ、両者の
境に風穴をあけようとするのは、近代以降の芸術がとってきた伝統的な一つの身振り48であ
る。言語によって棄却されたものの側へ。否定的なものへの滞留。ヘーゲルを批判的に継
承するもの。
物質において、物質によって表現しようとする芸術の営みは、外部に面した破砕閃光49で
48
49
ここで詳しく言及はしないが、アースワークやモノ派などにそれは顕著に現れると考える。
ジャン・リュック・ナンシー
18
あり、認識や体制に伴う構造化を妨げるものとしての呪物を生み出しつづける。
死を避け、荒廃から身を保つ生命ではなく、死に耐え、死の中でおのれを維持する生命
こそが精神の命である。精神は絶対の分裂に身を置くからこそ真理を獲得するのだ。精神は否定
的なものに目を背け、肯定のかたまりとなることで力を発揮するのではない。なにかを差し出されたとき、
それは無意味でまちがっている、といって、さっさとその、前を去り、安んじて別のものに向かうという
のは精神の振る舞いではない。精神が力を発揮するのは、まさしく否定的なものを直視し、そのもとにと
どまるからなのだ。そこにとどまるもののなかから、否定的なものを存在へと逆転させる魔力が生まれる
のである。
ヘーゲル
『精神現象学』
記号の物質性が招くサンボリクスの優位性
セミオティクスーサンボリクスは、互いに押し合う双方向からの力のベクトルの狭間に
主体をささえる、一つの主体の二つの面である。
主体とはつねにセミオティックにしてかつサンボリックであるのだから、主体が産み出すどんな意
味体系も、「もっぱら」サンボリックであることも、「もっぱら」セミオティックであることも不可能で
あって、相手への借りのしるしを免れることはどうしてもできない。
J・クリステヴァ『詩的言語の革命』50
両者の境目、欲動が記号を解体しながらつきあげる場所、いわばカオスモス(
カオス/
コスモスー丸山圭三郎)の場所に、語る主体がある。パラグラマティクに成り立つ双方は、
離れても成り立つような実体ではない。言語は実体を名辞しているようでいて、言語のな
かには差異しかない(ソシュール)
、互いの関係の網目だけが実体であるという記号論を成
り立たしめた大前提は、その垂直構造、言語主体の発生時においても同じである。
両者のパラグラマティックな関係はよしとして、しかしここに、記号論の万能がまきお
こした落とし穴があるようにおもわれる。記号は、非―記号をまとって現れ、逆に非―記
号は、記号をまとってあらわれる。両者は、互いを離れると霧消してしまう、実体性のな
いものであるにかかわらず、記号は、それ自体が言語の物質性を持つのに対し、非−記号
は運動性としてそれに表されるだけだ。これでは、記号―主体(サンボリック)は物質性
に支えられたある実体性をもっていて、非―記号の主体(セミオティクス)はそうではな
い、という錯覚に陥ってしまう。サンボリックの側から、そこに顕在するセミオティクス
を扱うという仕方が、セミオティクスを構造化された無意識や、記号性からのずれという
形で語ることが出来ても、それ自体を二次的な、サンボリックへの「過程にある主体」51とし
50
51
同著;p13−14
西川直子著『クリステヴァ』セミオティクな動性に突き動かされて意味にならないうわ言をいう主体と
19
ての位置付けを招いてしまう。そして、実体化されたサンボリクが「我々のテクスト」、パ
ロールの場の意味の単一性を保証するものとなる。
サンボリクスにロゴスの原理が付与したと同程度の実体性を、セミオティクスにも与え
て語ること、それは「本来想像的なものとしてある主体」52を理性の側に閉じ込めず、パラグ
ラマティクに成り立つその本源性を取り戻すうえで大切である。セミオティクスに実体性
を付与するのためには、概念操作として、セミオティクスーサンボリクスの2項を成り立
たせる場所としての第3項が必要となる。
ここまでたどりついて、しかし第3項はクリ
ステヴァによって、すでに準備されていた、それは、「コーラ」という概念である。
場所的主体
コーラ
母なる振動する容器
コーラという言葉は、プラトンの『ティマイオス』からとられたもので、生成するものを
その中で生成させる、受容器をさす。生成の養い親であるコーラは、あらゆる形状、あら
ゆる状態を身に受けることによって必然的にもたらされる不均衡状態のために、自分自身
が不規則にあらゆる方向へと動揺させられ、揺すぶられながら、同時に逆に中にあるもの
をゆすぶり返す。そのなかにあるものは動かされ、絶え間なく選り分けられて、それぞれ
が異なった場所へと運ばれていく。
(西川直子『クリステヴァ』53)
、 、 、
「エネルギー」の負荷であると同時に、「心的なもの」の標識でもある欲動は、コーラと呼
ばれるものを文節する。これはすなわち、激しく動揺しながらも規制されている運動態
のなかで、欲動とその鬱滞から形成される、表現的ではない全体性のことである。(クリ
ステヴァ『詩的言語の革命』第1部54)
セミオティックな欲動は、サンボリックの記号性に規制されながら、コーラを文節して
ゆく。セミオティックから記載されたこの3項の関係は、コーラという全体性のなかで、
サンボリクではないもの、すなわち、非−記号的な主体を語ることを私達にゆるす。
母語
とその禁止
あなたは仔やぎを、その母の乳で煮てはならない
23節19節)
は、主体定立に至るまでの、プロセにある主体である。
52
西川直子著『クリステヴァ』p・300
53同著;p・126−129
54 同著;p14
20
(出エジプト記
ハンナ・アレントは、ナチズムの手を逃れるためアメリカへ亡命し、英語圏での活動を
余儀なくされたが、その間つねに母国語への愛着と絶対的親近性を保ち続けた。(「何が残っ
たか?
母語が残った」1964年放映された対談で、この宣言とともに有名である)
J・
デリダは、この「つねに」あった母語、アレントをして「なにものもそれに代わることはでき
ない」といわしめた母語について、そのしめされた単一性、代替不可能性を省察する。55
、 、 、
つねにそこに、という言語の時間、言語の場としての母(コーラ)、それは、あった。す
なわち、アレントにおいて発見されたのは、サンボリクスの別の体系が取って代わっても
代わることのできない仕方で創造性を与えつづける、ひとつの言語体系、母語という身体
化されたテクストであり、その代替不可能性と単一性に根拠が見いだせないところの、言
語とのひとつの狂気の関係である。
それはひとりの狂った母56、唯一無二なる我が家に住んで、しかし唯一無二の仕方で母で
あることはかなわぬまま、自らがそれによって母であるところのものに狂っているような。
57(デリダ)つまり、定立にその根拠がなく、定立にその場所を与えつづける一者、サンボ
リクスの禁止が働いているかぎりにおいて、母国、我が家という閉じられた場所であるか
ぎりにおいて、主体と完全に一体化している場所的な主体、設定の不可能性を超えてそれ
がある、と発見されるところの、狂気の母である。
人が自分の母語を忘れてしまうこともありえます。それは確かです。身近にいくつもその実例
がありますし、そのうえ、その人たちはさまざまな外国語を私よりずっと上手に話します。私
はあいかわらずとても強い訛りで話しますし、慣用語法で考えを表現できないこともしょっち
ゅうです。反対に、あの人たちにはそれができるのですが、しかし、その際彼らが扱っている
のは、そこにおいて一つの常套句が別の常套句を駆逐してしまうような言語です。なぜなら、
自分自身の言語においてなら発揮される生産力が、その言語が次第に忘れられていくにつれて、
はっきりと断たれてしまったからです。58
母語が可能にしていたのは、ひとつのセミオティクス=「自分自身の言語においてなら発
揮される生産力」である。外国語の置換は、母語の抑圧によってなされ、母語は忘却される。
しかし、多分、それは主体のどこかに潜行するのだ。コーラという全体性のなかへ、であ
る。
単一言語圏で、繰り返し身体化されたサンボリクス、その絶対化にともなうセミオティ
55
56
J・デリダ『たった一つの私のものではない言葉』守中高明訳p・155―165
同箇所;「まさに彼女のためにしか唯一無二の場所はないという点において。
`
同箇所; 「場所〔place〕そのものの代替〔remplacement〕、場所の代わりに〔a la place de la place〕。
すなわち、コーラ。代替の悲劇と法、それは、代替が唯一無二なるものにー置換可能な代用物としての唯
一無二なるものに代わるということである。息子であれ、娘であれ、そして息子であるか娘であるかによ
ってそのつど異なる仕方で人はつねにひとりの母に狂っているのだ。」
58同箇所;p163
57
21
クスの活性化。母語とはひとつの身体テクスト、閉じられたサンボリクスのひしゃくが汲
み、実体化することのできたセミオティクスに他ならない。それを可能にするために常に
はたらいていたコーラは、主体が単一のサンボリクスを離れて、別の体系からなるサンボ
リクスを導入するときに顕在化する。別のサンボリクスが可能になる時に働くのは、異者
なる記号を受け入れ、位置付けていく、翻訳を可能にする水脈、コーラなのだ。
サンボリクスは、多言語の体系の中で相対化され、記号的単一性を破壊されて、コーラ
という主体の場のなかで多数化される。単一のサンボリクスと結びつき、単一化され絶対
化されたセミオティクスも、崩されて更新される。コーラという同質性がとりまとめる異
、 、
質な多言語の存在によって、母語は禁止されているのだが、それが養った水底、ただ絶え
間なく文節されるコーラ、母なる場所だけが、ある狂気をもって主体に保持され、空間性
、 、
という物質化された実体性を持ってある、ことができる。それは拡大され空間に飛散した
身体性、サンボリクスやセミオティクスをそのものが発生したところの母の乳で煮て(単一
性の保持)、それを自分と結託させ固定することのない、透明な物質的空間である。それは、
主体がそこに拠ることができる、私達に残されたひとつの母語なのだ。
記号の下地、ナルシシズムの集積庫としてのコーラ
私はおぞましい、すなわち死すべきものであり、かつ語るものである59
コーラの出自は、アブジェクション60に求められる。対象の棄却と、それに伴う記号の発生、
対象への恐怖と魅惑に宙吊りとなった、不確定な自己像が、自我を軸として対象との間を
揺り返し、欲動の鬱体を形成する。禁止された母の身体に代わって置かれた、透明な母の
身体61。そこでは物質性が禁止され、代補された物質、記号がとってかわる。
サンボリクスの内部においては、そこから由来したという以外においてコーラの成り立
つ根拠は見出せない、その点において、コーラは「狂った母」(デリダ)である。それは言
語による固有化―剥奪作用を受けていないわけでなく、むしろそれを最大限に働かせる主
体として、記号的ではない同一性を保ち、ひとつの統一を可能にする。言語の否定性を矮
小化することなく、それゆえに抑圧の位格、サンボリクスによるペルソナを生み出してし
59
J・クリステヴァ『恐怖の権力』p125
60J・クリステヴァ『恐怖の権力』でなされた考察で、バタイユの概念を受けている。
ア
ブ
ジ
ェ
ク
シ
オ
ン
おぞましきものからの離脱によってあらゆる記号の発生する下地、主体の場所が準備される。そのおぞま
しきものとは、母子融合期の母の身体であり(主体はそこから離脱してゆく、これはプルーストのテクスト
分析のなかでなされた)、また、サルトルの『嘔吐』で、吐き気を催させる対象であり、
(『クリステヴァ』
で西川直子氏が言うように、意味のはりめぐらされた世界の中に突如むきだしにされた醜怪なモノに直面
したロカンタンが反射的にもたらした吐き気屋、日常生活の様々な場面でおぼえる吐き気ほど、おぞまし
きものの棄却の機能を分かりやすくかたったものはないだろう。p256参照)セリーヌのテクストには
いりこむ死体や、腐敗のイメージにつながっていく。
61 「語らぬ」表象の場であると同時に「語るもの」であり、「おぞましい」と同時にそれから逃れ去る。普遍性
を刻印されているように見えるがそれは母という隠喩に託された個的な場所であるだろう。
22
まうことなく62、それは純粋に言語の否定性によってなる場所を形成する。
「狂った母」は、その内に持続するエロスによって成り立った愛の場所(クリステヴァ)
でもある63。キリストを抱いた処女マリアに象徴される、疑いなくサンボリクスに奉仕する
という母性神話をはなれて語られる母的愛とは、セミオティク、女性的欲動を内に内包す
るものである。分断されたものに統一をあたえ、異者を歓迎し非同一性をそのままに取り
込む主体とは、取り込み、その内に限定する「我が家」を標榜する、言語の否定性の上にな
りたつ、錯乱と暴力の主体でもある。しかしそれは、闘争によらぬ社会の統一、共同体を
開く「社会性の最後の保証」64(クリステヴァ)となりうるのだ。
クリステヴァのセミオテイックーサンボリックーコーラは、女性性―男性性(父)―母なる
ものの構図におきかえられる。これは、フロイト理論の、男性性―女性性(母)―父なる
ものの反転であって、彼女が女性側からみた理論を構築しようとしていたことが分かる。
だとしたら、私の行ったセミオティクスに実在性をもたせようとしたここでの試行は、男
性側からしか語られてこなかった女性を、そこからいったん切り離し、実体性を持った語
る主体としての女性を回復させることとパラレルに捉えられる。
やがて、いつか、ぼくは書きはじめるだろう。書きはじめる前に死んでしまわない限りー。しか
し、それは永遠に続くように思われるのだ。永遠に書き始めるときはやってこないで、それなの
に、それはもう戻ることの出来ない最初の一歩を踏み外してー。書き始めるまでの、到達すべき
地点へ到達するまでの、長い不可能な航海の、僕は王であり、水夫だ。僕の船団に目的地はない。
到達すべき岸辺が、この海にはない。海だけで出来た星。船団の寄航する島とてない、ただ永遠
に続く海だけに囲まれた巨大な空間を航海すること。
金井美恵子「岸辺のな
い海」
女性的主体の言説の様態
外部者としてのパロディー荻野アンナ「背負い水」
J・クリステヴァ『ポリローグ』足立和浩他訳 白水社;p31「結局、否定性を矮小化することは抑圧
の位格〔ペルソナ〕を生み出してしまうのである。」
63 クリステヴァは『初めに愛があった』
(枝川昌男訳、法政大学出版局)において、西欧の歴史を形づくる
キリスト教を<語る主体>の誕生にかかわる愛のシステムとして捉える。「初めにことばがあった」のでは
なくて、愛に満たされた場がことばを発生させる養いとして準備された、ということ、語る主体の前提に
は、顕在化しない愛が働いている。
64 「女性とは、社会性の最後の保証であり、サンボリックな父の崩壊を超えたところにあって、社会性の更
新と拡大とを無尽蔵に産出するものである。
(ひとつの自己同一性から別の自己同一性『ポリローグ』所収)」
62
23
コーラがその言語の否定性によって成り立つ単独性を転覆させて、外部の物質の実在性
ア
ブ
ジ
ェ
ク
ト
(おぞましきもの)と結託したとき、いわばコーラの受肉がおこる。それはオクタビオ・
パスが主体 (セミオティクス/サンボリクス)を受肉させ、コーラの透明性と無限性を開い
たのとはまったく反対のやり方で、主体は(セミオティクス/サンボリクス)を空洞化さ
せ、コーラに限定性と実在性をあたえる。サンボリクス(言語使用)にとって私は外部で
あり、セミオティクスはその対象としてのサンボリクスを失って、失敗し続ける。それが
、
、 、
繰り返し語られる、私の失恋なのである。「ピカソの臍だね」65「クールベの農夫の手だね」66、
女の身体に対して、男によって語られることばは(サンボリックは)文学史の硬化したテクス
トを引用するだけで、「僕より大きい手」67が、結婚するために「男と同程度には小食にみせ
ようとする」68努力を裏切って、主人公は孤独を反復しつづける。 「食欲」のほうが「結婚し
たい欲望」に勝るという、繰り返されるコーラとセミオティクスの対立が、コーラを優位に、
セミオティクスをパロディ化する形でかたられる、これは母性による娘の性の去勢の構図
なのだ。それはエディプス神話のような闘争ではなく、母と娘の、多元化されないサンボ
リクス=共通の男を中心とした、同性愛のような一体化である。
実体化したコーラにおいては、世界はひとつの分断されえない動体にほかならず、個的
なもの、私や、女性や、男性といったものは仮定されたパロディにすぎなくなる。いかな
る意味的実体性をも付与できず、しかし健康でありつづける身体(コーラ)が自らの有限の生
(繰り返し語られる老いの、直線的時間性への嘆き)をかかえて、音を上げることができない。
サンボリクス
本当は 言 語 など信じていないところの、パロディとしての言語使用である。
荻野アンナによって語られるのは、喜劇ではない。自分が生んだのではない死児をかか
サンボリクス
セ
ミ
オ
テ
イ
ク
ス
えつづけ( 男 性 でなく、男性から見た女でもなく)、他者のいない物質化したコーラに両
性具有で立ちつづける、パロディであることを刻印された女性的鬱の姿なのだ。
日本のどこやらの地方に「背負い水」という言い方がある。人間は皆、一生飲む分量の水を背中に背負っ
て生まれてくる。これを背負い水という。これがある間は寿命がある。飲み尽くしてしまうと後が無い。69
「背負い水」とは、実体化されたコーラに他ならない。母と娘の、共通の男(サンボリク
ス)をめぐる結託した一体化70が、コーラのその普遍性を奪ってしまう。物質の実在性とい
う棄却されたおぞましさをコーラにひきいれるとき、コーラは代補の母でない、死すべき、
かつ語るものとして、その相貌をさらす。
コーラの波立ちとエロスの漂白作用―実体はないのだという叫び、よしもとばなな
65
荻野 アンナ『背負い水』文芸春秋
p67・l3
66同著p67・l1
67同著p67・l3
68同著p113
69同著p70
70近親相姦の禁止とは、単一のサンボリクスの禁止に結びつく。(2章
24
母語の禁止)
水源とつり合ったテクストが、いつも私に到達するので
す。シクスー
よしもとばななは、コーラの拡がりが放つ言語表象の光の内部に、社会的サンボリクス
の、セミオティクスを所有し固定化する暴力を引き受け、霧消させる。女性も男性も存在
しない、あるのはエロスのゆるやかな波立ちの中で個体同士が刻もうとする、傷のような、
文字のような実体性なのだ。その実体とは、サンボリクスの暴力として、エロスが癒して
消してしまう傷だったり、個体の出会いが生む出来事性であったりする。
存在に深く食い込んで実体化されていた言語は、実体などないのだという、エロス的コ
ーラの活性によって解体というより漂白されてゆく。
潮の匂いのする風がこの小島に吹き始めると、夜は力を増してすべてを飲み込み始める。怖くて甘く
て、たちうちできない、死に似た深みが海のほうからやってきて沈黙とともに世界を満たし始める。私は
考えをやめた。(『虹』)71
自然的生命との共振が、動物や植物の命と連続的にあるような地平で、コーラの物質と
しての性格をひらき、語る主体の傲慢さをつねに私はどうしても近づいていけなかった。(中略)
気が狂いそうだった。
(中略)その時、昭が言った。「お父さんと弁天堂と鳩がみんな雨にぬれちゃてるよ。」
それで私は、そう、そのとおりだとおもった。歩いていってお父さん、といった。
(『血と水』)72
自然の一部としての身体が告発する。(すなわち、『体は全部知っている』73)
物質性に開かれたコーラは、ものと人を等価に包み込む。
(お父さん、弁天堂、鳩)語る主
体の物語は、その過剰をコーラの等質性に揺さぶり返され、常に裁かれている。
もともと虚空に浮かぶこの魂があちらからこちらへの一巡りをするだけのこの流れの中で、握り
しめていられるものなんかないのに。誰も、何も。
(『キムチの夢』)74
繰り返し出てくる新興宗教の家に育った娘というモチーフは、神喪失後の人 を想起させ、
それが狂気の論理から癒されていく過程の根底には、非―物語としてのコーラが、働いて
いる。
生きていることには本当に意味がたくさんあって、星の数ほど、もうおぼえきれないほどの美しいシ
ーンがわたしの魂をうめつくしているのだが、生きていることに意味をもたせようとするなんて、こんな
貧しくて醜いことはもう一生よそう、と思った。
(『おやじの味』)75
71吉本ばなな『虹』幻冬社p113
72
73
74
75
吉本ばなな『とかげ』新潮社 p95−『血と水』、p113
吉本ばなな『体は全部知っている』文芸春秋社
同著p71−『キムチの夢』p82
同著p149―『おやじの味』p168
25
コーラとしての主体、あるいはこんないいかたが可能であろうか。コーラは、表象の場
であると同時に、意味にならない意味、すなわち、テクスト外のテクストを顕在させる主
体であり、語る主体の一部分をなす。サンボリクスに記載される意味でのセミオティクス、
受容器としてのコーラ、両者をサンボリクスから切り離し、ここで実体化させて語ろうと
するのは、それらが言葉の一義性に奉仕する一方向の3体ではなくて、時に反発しあいな
ア
ン
ビ
ウ
゙
ァ
ラ
ン
ス
がらせめぎあう、「対立するものの併存」(バフチン)、対立項として捉えることでひらかれ
る地平をみるからだ。
読まれえないもの
他 者 を表明するもの
汐の言葉だけがただひとつの故郷なのだ
何処へでも行ってそこから引き返してくればよい
吉
増剛造
陛下、私は答えてはいけない、答えられないのです。ヘル
ダーリン
セミオティクスの純粋な自己展開
精神を病んだとされてからのヘルダーリンは、独自の断言や否認に責任をもつことを非
常に恐れたという。「あなたは随分長い間フランスへ行っていらっしゃらないですね」(相手
の質問)「ええ、あなたはそう断言されました」(ヘルダーリン)「そういったのはあなただ、
そう断言したのはあなただ、だから私には何事もふりかかることはない。」76
記号=主体
は、常にひとつの言語に支配され、開かれている。ヘルダーリンが恐怖したのは、パロー
ルの単一な自答性である。名前の拒否など、鏡像段階以前への潜行は、「対立するものと調
和するものはそのなかで分離できないものである」という、「無限性」を提示するに至る77。
名詞は直示機能から解放され、均一に並んだ抽象の鎖に代わる。
鏡像段階にある幼児が、いまだ統一されない身体の動性を鏡という接着点を軌に統一を
可能にしていくように、非―物質的なセミオティクスはなんらかの物質性を求めるが、自
ら非―記号を自認する主体は、記号の物質性にたどり着くことを拒否する。それは、無意
識の他者が語る、といった記号と結びついた欲動とは区別される、こちらの方が本源であ
るといった欲動に託された、積極的な記号の否認である。セミオティクな主体はみずから
の純粋性を写実するため、記号性からの逃亡をはかるか、外部のものとしての記号をまる
で始めて出会ったかのように生きなおし、組換える。サンボリクスを、セミオティクスの
76 ロマン・ヤコブソン著『言語芸術・言語記号・言語の時間』浅川順子訳
11章 精神分裂症の言語―ヘ
ルダーリンの話し言葉と詩 ロマン・ヤコブソン、グレーテ・リュッペ=グロテュ−ス p231
77同著p240
26
快楽で突き上げるか、サンボリックを回避してコーラのほうへ自己を展開してゆく。
言語―外部的物質と、言語内の物質的記号は、主体(内に両者の徴をうけたセミオティック
な主体)によって、共に外部として等価に操作される。文字記号の筆跡を芸術とした中国の
書画が、言語記号を対象化しながらセミオティックな身体の動性を筆跡にしるしていった
ように、記号性は他者性として、セミオティクスの自己表現のために奉仕するものとなる。
崇高さの裏打ちとなるアブジェクシオン、崇高な不在、舞台空間というコーラ
、 、
、 、 、 、 、
芸術だけが、生存の恐怖あるいは不条理についてのあの嘔吐の思いを、生きることならしめる表象に変え
ることができる。その表象とは、恐怖すべきものの芸術的制御としての崇高なものと、不条理なものの嘔
吐を芸術的に発散させるものとしての滑稽なものと、である。
ニーチェ「悲劇の誕生」(傍点筆者)
一者的法に服さないが故に個的な、同時にそれが失われているために普遍的な、かつては
生きていた母のいまや透明なものとして代補された死体。コーラとは、挫折した全体性78、
崇高にふちどられた芸術言語の場所、詩的空間である。始原の暴力、原抑圧79、アブジェク
シオンによって崇高なものとなったコーラは、オブジェクトに魅惑されながら、その物質
的な不在を「崇高な不在」、隔たった閉域として守りつづける。
芸術言語の下地となるコーラは、内部においては絶対的な「外にあらわれた仕草と精神的
な仕草の精神の正確な一致を要求する」(マラルメ)舞台空間を形づくる。ロラン・バルト
のことばを借りれば、芸術は「雑音を知らない」80。あらゆるものが意味を持つか、さもなけ
れば、何者も意味をもたない81ような持続した意味空間である。
舞踏の表現するセミオティクスが自らの異邦性を標榜することによって、サンボリクス
との違和を際立たせるとき、バフチンのいう二重の身体が実現される。サンボリクス/セ
ミオティクス、コーラ(非−物質性、崇高性)/コーラの排したもの(物質性、おぞまし
きもの)、とのせめぎあいが、同一性によってなりたつ弁証法の展開を妨げて、非―同一性
によってなりたつ身体―コーラという主体の場所を顕在化させるのである。
物質の他者性
表象の場にあらわれた意味にならない意味、テクスト外のテクスト
セミオティクスは、その非―物質性から、サンボリクスはその閉じられた(それゆえに
‘我々’に開かれた)記号的統一性から、個的な死を名付けることが出来ない。言語との
78
79
80
81
J・クリステヴァ『恐怖の権力』 p18崇高とは、「隔たり、不可能な閉域、挫折した全体」である。
フロイトの用語。クリステヴァの概念もこれに基礎を置く。
ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳 p13
同箇所p13
27
一体化が可能にした、不死の運動の最中に(その歴史を共有する一連のコンテンポラリーダ
ンスとは違った仕方で)、異邦的なセミオティクな主体によって受肉された身体とは、記号
性にからめとられえない、記号的ではない物質性であった。それ自身が死を含む物質とし
て、セミオティクス/サンボリクスの接合点に身体が置かれるとき、そこにおこるのは内
部的な無限運動の開かれ、個の死を根拠として凝集するある絶対性が、相対性を本質とす
る言語運動のテクスト内に空間的延長としてあらわれる、本質的なドラマである。
そしてまた、作品とは、空間(言表の場所)に延長された物質性、身体なのだ。ベンヤ
ミンのいった作品のアウラは、複製されたその記号性の中にも、見出され、とりもどされ、
違った仕方でかたられなければならない。コーラが「場所」という空間性、空間の物質性を
もつことの意義は、それが中心を偏在させ、様々な意味体系を同時にその内に生き延びさ
せることができる点にある。
多言語の動性に開かれた現代の言語活動において、サンボリクスに語られえないテクス
ト−外のテクスト、絶えず微分化されてゆく意味を受け止め、そのうちにエロスを充足さ
せている、場所的主体。それは、非−実体の共時的な波立ちに満ち、内部にあるものとし
ての他者を発見する。それは関係によって縛られた他者とのコミュ二ケーションを廃し、
愛による他者との関係を可能にする、言葉がそこから発生したかもしれない、非―言語的
な他者への笑いかけ、意味に満たされた愛の身振り、なのである。
「物質」の反対項は何か
<肉体は悲し、ああ、我は全ての書を読みぬ>82(マラルメ)
近代の言説が始った瞬間を、デカルトの<私>を巡る直観のうちに見ることが出来るな
ら、私達は<考える私>という近代の主体に、超克することが目指された合理主義的な認
識主体としての呪縛よりも、ある霊感に打たれた<魂>の、<物質からの開放>のモメン
トに自由さを見、ある感動さえ憶えるだろう。われわれは近代以前へと戻ってきたのでは
なく、むしろたしかにそこからやってきたのである。
私は一つの実体であり、その本質または本性はただ考えることだけであり、そしてその実体は、
あるためには何の場所もいらないし、何の物質的なものにも依存しない。こうして、この<私>
は、言い換えれば<魂>は、魂によって私は私がいまあるところのものであるのだが、それは体
とはまるきり別なものであり、しかも体よりも楽に認識でき、また体がなかったとしても、魂は
そっくりいまあるままのものであることに変わりはないだろう
82
83
83
『マラルメ詩集』所収「海の微風」冒頭部 鈴木慎太郎訳、岩波文庫、
デカルト『方法序説・省察』三宅徳嘉他訳p45
28
デカルトにおいて物質の反対項とみなされるものは、<魂>と同位に置かれる<私>とい
う実体である。この物質的なものに依存しない実在と表象の同一性への直観は、フッサー
ル現象学の「超越論的主体」に至るまで貫かれた。思惟は、ある持続を作り出す。主体の延
長と同時であるような、基体(subjectum)、底は、現象学において受動的総合の場となる
ような持続した内部を保ち、「本当のことを言っていると保証してくれるものはまったく
ひとつない」84のだという不確定性を外部に据えながら自己措定を反復する。
近代合理主義の自己疎外が、カントの<定言名法>にみるようなもの的な言語使用に
よっておこったとするならば、私達は微分化された意味、多声化された語りを、自然の
脈動の中から再び言語へと投射しなおすだけで十分である。
ソシュールの発見によって言語記号学が「感性/論理」の垣根を取り払い、「私におい
ロ
ゴ
ス
て考える何者か」の明証性が、言語主体の呪縛に過ぎないとし、私達が縛られるべき「歴
史」はどこにも存在していない。
隠喩された身体の死―空間に延長された作品の物質性
名付けることの出来ない、個の死
バタイユ
記号とはなにか。それは、現前である85。比較を、差異を、つまりは関係を可能にする、
あのひとつのまなざし、主体という仮定された一者への86。ここで私の言う主体とは、言語
化され得ないものは存在しないという、あの厳密な言語の構造性を引き受けた主体(主体
=記号)ではない。異質な他者をそのままに自らの内に取り込み、統一不可能なまでに開
かれている主体、ある記号の現前を現前のままに成立させ、その内にはらんだ他者の実数
によってなりたつような一者である。それは今私が言及しようとしている、様々な作品を
ラ ン ガ ージ ュ
生み出しては価値を偏在させ、その営みを永続させてゆく、芸術活動の主体である。
ここで、事物の同一性を、その共通の質を名指すものとしての記号を、むしろ事物の非
84
そして気がついてみると、この「私は考えている、だから私はある」ということの中には、私が本当のこ
とを言っていると保証してくれるものはまったく一つなく、ただ、考えるためには、有ることが必要だと
いうことを私がいかにも明らかに見てとっているだけなので、私は次のことを一般的な規則ととってもい
いと判断しました。
85 1デリダの、「ロゴスの現前」(Chノリス『ディスコンストラクション』荒木正順他訳)をふまえ、し
かしここでは、フッサールのいった意味の意識における直接与件性をさすのではなく、主体に対しあたか
も他者として現れるロゴス、という逆転を意図的に起こしている。
86 コーラ、コーラの主体
29
同一を徴証する形象であるかのように意味を転覆させたのは、この主体が記号―外に,あ
ランガージュ
るいはまったくラディカルに言えば, 言 語 ―外にあるかもしれないものであること(動物
とも連続したある地盤)に、記号的意味と結託していてもそれを忘れてその時々に意味を発
生させる,共時的な波立ちに満ちた非実体のものでしかないことに拠っている。それは、
中心を持たず,中心を偏在させるやり方で,その場所を他者にあけわたしつづける統一体、
「無限に無限低に語り」87(クリステヴァ)、それこそが<私>なのだという、主体の多数化さ
れた響きが呼び返す応答である。
言語、それ自体が持つ物質性は、意味の豊饒な展開にとって、二次的な障害物であるどこ
ろか、むしろ父的な神が名付けえなかった、主体に刻印された死を、投影し融合することの
できる、忘れられた母の声なのである。個物であるがゆえに、ふれあい、皮膚的な意味のゆ
たかな波立ちを、死を呼ばれることが、可能なのである。あなた、という、わたしという、
作品という、危険な停止、偶像に拠ろうとする主体の営みは、繰り返されてきた共同体間
の「われらが神」をめぐる闘争の悲劇を招くのでなく、多価性を歓迎する芸術の言語によっ
て実現されてゆかなければならない。
しばしば難解であるとして、あるいはそのあまりの異質性の故に通り過ぎられる『ポリ
ローグ』におけるクリステヴァの言説は、ここで展開した言説とある部分が明らかに共通
する地点をさしている。「超自我の新たな微分化を保証する」88、「多数の論理」89とは、まず
それが身体、物質性にひらかれた主体のあり方が可能にするということ、そして多分女性
的なそのあり方、さらに言えば女性が可能になるそのあり方は、超自我の抑圧のシステム
をとらない、現代実際には国境を無化する経済が、中心を定めがたく多量におくられてく
る情報のもたらす偏在性が、部分的に実現している共同体の、あらたな共同性をひらいて
いる。他者を取り込む、というより、他者があたりまえに他者のまま内部に存在すること
によってなされる価値の多元化を歓迎する、その主体は、「炸裂のうちに、炸裂すべく《あ
る》」90身体にイメージされる、「匿名の白い闘い」91をつづけるだろう。父という一者に捧げ
フィロソフィー
られるためのたしかさではなく(同性愛的なギリシアの知の遊戯、他者との闘争のなかで一
元的意味を構築する知の権力において、女性は存在しえたか、庇護される娘として、無害
な処女として以外に)、ある空間に「虹色に輝く肌」92で表象され消えてゆく、他者との関係
における意味作用の豊かさこそをもとめ、文化のエロスのなかに言語を剥奪されずにある
こと。「一気に身を置く」ための翼さえ必要とせず、女性が許される混沌の海に逃げ込むこ
87
J・クリステヴァ『ポリローグ』白水社
88
同著p14
l1
89
同著p14
l6
90
同著p139
l3
91
同著p139
l24
92同著139
足立和浩他訳p14
l23
30
ともしないで。
記号とはなにか。それは、統一を可能にするもの(ひとつの場所)への、不可能性の現
前である。記号は燃やされなければなやない。言語化のエロスが、身体に「成る」ことと強
いてくる、あの力で、現前し、消滅をひきうけ、無という否定性をめいいっぱいにその身
に引き受ける、装飾の風船、花である93、それ以外にいま言語活動に保証された、私たちと
の関係が残されていないではないか。
93 「ことばを身体として、身体をことばとして」(クリステヴァ、
『初めに愛があった』)生きうるものとす
ること、内なる他者性に耳を傾け、そこへ自分のことばを絡ませてゆく、精神分析の、向き合った出会い
ように。
31
第3章
―砂漠の熱嵐、あるいは再び海へ
主体の後に誰が来るのか
生起する<内部>とその持続、作品を契機として
すべてのことが(もう何も起こらないようにと、新たに思惟するべき何ものもないようにと望ん
でいた人々が呼び求めた)「主体への回帰」の必然性ではなく、その反対に、主体の場所で〔=代
わりに〕
、他の誰かー何らかの一への前進の必然性を指し示しているように思われるのである。
それは誰なのか。いかにしてそれは自らを現前させるのか。それをわれわれは名指すことが出来
るのか。
主体なき共同体において、複数的なるものが単数的なるものを解放する(あるいは分有する)、
単数的なるものが複数的なるものを分有する(あるいは解放する)
。これこそ、われわれが思惟
すべきことである?実際、誰が思考するのか?実際、誰が思考するのか、共同体でなければ?
ジャン・リュック・ナンシー
32
記号論を超えて、記号論の内部に
言語において、同時に、言語によって
開かれる透明性の彼方に、あるいはその大いなる沈黙の手前に
あらゆる解釈の可能性を開く、記号論の提示した世界の透明性の彼方に、あるいは記号
化という避けることの出来ない営みを前にそれに抗う身振りで。私達が見出そうとする「芸
術」、自己表象としての作品群は、歴史のラティオ(理性)の支配から、また狭義の意味で
の記号論が標榜する記号的閉域から逃れ去り、現前し、運動を続ける主体との関係によっ
てのみ語られることが可能である。呼ぶもの(言表行為の主体)―呼ばれるもの(作品、
対象)の間に成り立つパラグラマティックな主体の場所は、「絶対内在性」とドゥルーズが
呼んだようなある絶対性を形づくる。それは経験し慣れてはいるが語られてはこなかった
芸術という体験の成り立つ場所、揺れ動く一瞬のサンクチュアリ、詩的舞台空間である。
その場所自体の姿を明るみに出し、俎上にのせることが可能であろうか。
オ
ブ
ジ
ェ
われわれのことを考えているのはモノ=対象である
ジャン・ボードリヤール
語ること、形をとることの要請、何が要請するのか
対象(作品)を前に、共時的に生起する(take place、すなわち場所を持つ)主体は、歴
史を内在させながら、内部の余剰によって、それを解体、更新するものとしてある。間に生
起する「私」は多数者的な発話者であると同時に、「一者的受容者である」。
対象を前に、生起する出来事
この論考では、底流に、中心となる命題が課せられている。それは近代から始まる本来想
像的なものとしてある主体」94が、その措定を通じてどう展開されてゆくことができるか、
という問いである。「反解釈」(スーザン・ソンタグ)ではなく、「非―解釈」95。(解釈の手
前で、解釈を通じて、解釈を通過して、)対象を前に生起する出来事96の一回性が、新たな
る主体の可能性を開いている。
94同上p13−14
95
対立概念を生み出す「反」ではなく。ここでの試行は、「非」の成り立つ場所を、探るものである。「非」の
場所は、対象(歴史)を孕みながらなお余剰として、対象にとっての完全には同一化しきれない他者とし
て、多分レヴィナスのいう「顔」として、遠のきつづける臨界、余白の表象である。
33
出来事が起こるとき、それが真正であるならば、どこからやって来たのか、われわれは知らない。
出来事が起こる。それは、たしかに誰かに、たとえばわたしに、われわれに起こる。それは、あ
たかもわれわれに与えられる。だが、それを与えたもの、出来事を引き起こしたものが何である
のか、われわれはけっして知らない。そして、そのことによって、われわれはけっして出来事の
十全な受取人になることは出来ず、それを自分のものとすることも出来ない。出来事は誰のもの
でもなく、誰から誰への伝達でもなく、誰にも、すなわち人間の誰にも属さない。出来事の起源
は闇に、そして謎に包まれており、その宛先、その送達の行方もまた不明である。
小林康夫97『出来事としての文学』
出来事しか起こらなかったといえるだろう
マラルメ
作品の魅惑によって突如広がったそのテクストは、場所を占める。それは、意味に由来
するものではあっても、要約することは不可能だ。それは、様々な方法で語られるが、決
して語られ尽くされることはできない。なぜならそれは、どこにも属していない、絶えず
更新され続ける一回性の出来事へと結ばれているからだ。
添付;詩論
文章のリズムを取り違えることは、文章の意味そのものを取り違えることだ
ニーチ
ェ『善悪の彼岸』
不可能な反復
―ヴィスコンティ『ヴェニスに死す』における反復の構図―
シ ニ フ ィ ア ン
「映画の意味するものは、ロランバルトの表現を借りれば、つねになめらかであるが、個別的
な映画の(文節)構造を客観的なものとして記述することは、著しく困難である。」98(浅沼圭司、
一部改略)
シ
ニ
フ
ィ
とはいえ、映画を観る一者的受容者においては、象徴的意味作用のレヴェル、
エ
意味されるものも、やはりなめらかである99。というのも、物語内容のレヴェルにおいては、映
画は「雑音を知らない」100、たとえある細部が、どうしようもないほど無意味で、どんな物語機
97小林康夫『出来事としての文学』講談社学術文庫p3
98
浅沼圭司『不在の光景』行人社 まえがきp3
ロラン・バルト『ロランバルト映画論集』(諸田和治編訳 筑摩書房)p61−68によれば、意味する
ものとは、一般的な画面に表象されるもの、服装、風景、音楽、身振りなどであり、意味されるものとは、
概念的な性格を持つ。例として、短くて平らな、真中に分け目のある髪をしてー<意味するもの>=ドイツ
性―<意味されるもの>。意味されるものは、観客に記憶の内部に現存するものであって、意味するものは、
それを現実化するに過ぎず、意味されるものに対して定義するのではなく、呼び出す権限をもつ。
100 ロラン・バルト『物語の構造分析』花輪光訳
p13
99
34
能も担ってはいないと見えたとしても、その単位は物語内容に結びつけられているからだ。101
一者的受容者によってとらえられた、印象というひとつのかたまりもまた、物語をなす。それ
は共時的受容においてその都度構造を形成し、映画においての、「意味するもの」と「意味される
もの」の「同義語反復的」な関係102を抜け出して、映画と観者の間に「意味されるもの」によるなめ
らかな応答性を獲得する。つまり、映画をその意味レヴェル、ひとつの物語として捕えようとす
ることとは、そこにどちらにも帰属しない、よまれるべきテクストを発生させることであって、
ほとんど、それは無限の応答性を持つ。意味の増加現象103。意味するものを意味されるものの
超出で、象徴化し104、不安定な意味するもの105へと送り返すこと。
感動というひとかたまりのテクスト、事後の高揚に文体を押し流されながら、私はそれを、読
むだろう。
人は何を失い得るというのか、すべてを提示された美の中で。風景の、閉じられた、充溢、繰り
返し揺り返す波の音が、一度も同じ音をたてないように、刻々と失い、しかし酷似した音の曲線
は、それを補いつづける。非常なまでの反復、不可能であることを刻印されて。
トーマス・マンの原作をもとにマーラーの音楽を使って映画化された、ルキーノ・ヴィスコン
ティ監督『ヴェニスに死す』の背後に読み取るのは、その反復の構図だ。主人公グスタフ・アッ
シェンバッハの、タジオへの愛は、失われた少年時代の自己自身への愛であり106、また、音楽
家として格闘の中で掴み取ろうとしてきた美が自然によって実現された、盗まれた分身を取り戻
そうとする、すなわち完全性を反復しようとする、繰り返されてきた芸術の営為そのものであっ
た107。海。108それは完全性を体現するかのように横たわり、その境界の浜辺、波は、酷似した
101
同著 p12−13 「物語にあっては、あらゆるものが機能的であろうか」物語はその構造においてつ
ねに機能体だけからなりたち、あらゆるものが、さまざまな程度に意味する。それは純粋な体系であって、
無駄な単位はない。
102浅沼圭司『不在の光景』行人社
まえがきp3
103 クリスチャン・メッツ『映画記号学の諸問題』浅沼圭司監訳
p110「共示のレヴェルでの映画の伴
立作用は、つねに何らかの象徴的性格を持っている。ただしこのことが、字義的意味を保ちながら、しか
もそれだけでは保有することができないような、ただ文脈の働きによって与えられている付加的価値で豊
かになる、という意味に理解されるならば・。
著者は、この意味の増加現象を指し示すために、〔象徴〕という用語を受け入れている。」
104 同著
p106−118隠喩、象徴、言語活動、p111「シニフィエがシニフィアンを超えながら、
それを有縁化している場合に象徴が云々される」たとえば、十字架は、キリスト教の象徴である。なぜな
らば、キリストは十字架にかけられて死んだ(有縁性)が、キリスト教には十字架よりも多くの内容があ
る(=超出)意味するものを、なおざりにされたり、妨げられたりすることなしに、超えられる、意味され
るものの過剰。「映画の外にあるすべてと、映画のなかで現実化する必要のあるものすべてが、意味される
ものである。(『ロラン・バルト映画論集』p64)「内在的」「外在的」にかかわらず、有縁性をもってむすび
つくものすべてに、意味されるものの過剰から、私たちは言及が許されるだろう。
105 ロラン・バルト『ロランバルト映画論集』意味するものは、不均質で、複数の機能をもち、結合関係とし
て現れる。p57−63
106自己の反復としての老人からの少年への愛
107 「美は芸術家の自負以前に存在する」作品中、主人公と友人の会話は幾つかの出典による。ひとつはトー
マスマンの『ファウスト博士』、他にアルマ・マーラーによるマーラーの発言録、トーマスマンの発言録。
(山崎俊晴『ヴィスコンティとトーマス・マン』p90)
『プラトン』饗宴で示されるエロスとは、欠乏の
35
反復を繰り返しながら、その音は一回性を刻印されている。失い続け、補いつづける、生と死の
境界で、それは、起こる109。
映像は、記憶は、断片的に揺り返される。船110。それに運ばれる。舞台となったのはリド、
荒々しい生産にひらかれた労働者階級の111、様々な手に運ばれて、荷物と、ほとんど等価にヴ
ェ二スに運ばれる。船の中の不安、何処にいくのか、人は何処にも行きえない、行けるとしたら、
あの予期された断絶、皆に開かれた逝き場所だけなのだ。狂った道化の男が、化粧の奥から挨拶
をする、(私はあなただ、もうじきあなたはわたしになる。
)112
この映画に、物語を語るものを設定しうるならば、それは、まなざされたものと、まなざした
ものが、その間に実体を消滅させるようなひとつの場所、映画をなりたたせる視覚的な媒体が可
能にした、ものいわぬ、他者のない、ただひとつのまなざしである。113カメラは、向けられる。
自覚を持った人間の、神と一体化しようとする、充足への欲望であった。
108 「アッシェンバッハは深刻な訳合から海というものを愛していた。
(略)秩序をもたぬ、節度の無い、
永遠のもの、虚無への、まさに自己の使命に悖る禁制の、またそれゆえにこそ誘惑的な愛着から彼は海を
愛していた。」(トーマス・マン『ヴェニスに死す』実吉訳岩波書店)
109 ヴェニスと、その浜辺がこの映画の舞台となる。まず、ヴェニスのイメージを、若菜薫はラスキン、バ
イロン、ブローデル、サルトル、ジンメルなどから、没落、劇場、死、快楽、迷宮という5点にまとめる。
「ヴェニスは確固たる地盤の上に、大理石で築かれた都市ではない。その建物は海の中に打ち込まれた杭
の上にたっている。換言すれば、ヴェニスは巨大な浮島であり、この都市は根底を欠いている。」(若菜薫
『ヴィスコンティ』p142)また、理性と抑圧の支配する<外部空間=ドイツ>から、欲望と解放の場所
として<内部空間=ヴェニス>という構図を据え、
「禁止的境界線」を踏み越えて恐るべき精神の地獄へと落
ちて行く物語である、とする。
110 エスメラルダ号という船の名前は原作にはない。
娼婦宿のシーンで主人公が買った娼婦の名がエスメラ
ルダであり、ここに明らかな有縁性がある。エスメラルダという名は、同じトーマス・マンの『ファウス
ト博士』の中で作曲家アードリアーンに官能の喜びを教えると共に梅毒を感染させる娼婦の名前であり(若
菜薫『ヴィスコンティ』p152)
、船が、死と官能の棺であることを予感させる。「ヴェニスのゴンドラ
は、(略)この世の中にあるものの中では棺だけがそれに似ている。」(トーマス・マン『ヴェニスに死す』
実吉訳岩波書店p42)
111 ここでは反復の非―生産性と対置して。
無免許の船頭が、「遊覧船は荷物を乗せちゃくれません。
(大意)」
といって主人公を意に逆らってリドまで乗せてゆき、警官の張り込みをみて報酬を取らずに逃げ出す。貴
族文化がその根に据えていた搾取による富は、自然の一次生産物の法外な力に結局は無償で乗せられてい
る、渡せなかった金を手の中でもてあます不安とは、その暴力の構図を逆に無力さとして受け取った主人
公の一瞬の戸惑いである。
112狂った 道化のイメージは、他に、ホテルに闖入する音楽芸人の男がある。死の暗示と、道化による破壊
の暗示は繰り返され、その予感は終盤へ向けて高まりを見せる。
113トーマス・マンは『選ばれし人』の序文で、のち、ヴォルクガング・カイザーによって引き合いにだ
され「物語機能」と名付けられたところの、「物語の精神」なる概念を語る。
それは空気のように実体がなく、至るところに偏在し、「ここ」と「あそこ」の区別に支配されていないの
だ。
・・・・この精神はあまりに精神的で、あまりに抽象的であるので、文法的には3人称でしか語れない・・・
にもかかわらず、彼は人称へと、すなわち一人称へと収斂し、一人称で・・・語るある人物に扮するので
ある。その人物はこう語る、「それは私だ。わたしは物語の精神で、こうして往時の場所、すなわちアレマ
ンネン国のザンクトガレン修道院の図書館に座り、・・・この物語を語るのだ。」
作者と一人称の語るものはこの時区別される。原作の物語のプロットを受けそれを改作する作者として
のヴィスコンティの位置は、より複雑な、この位置にあるといえる。そもそも、まなざしとは物語に導か
れながらそれを危険にさらす、物語を破産させる欲望を引き入れながらその命を永続させるものである。
すなわち、「すべての物語は、語り手が自分の身を明かそうと明かすまいと、一人称である」(J・モフイッ
ト/K・R マックルヘニー『視点』
)が、それは「汝のなかの他者と十分な親交を結ぶ」(S・リチャードソン
に。E/ヤング『独創的な詩作に関する幾つかの推論』)ことによってなされる。
36
生き物の瞳が光に、動くものに反応するのと同じ動機であるかのように、主人公を追って114、
観客はその空の純粋なまなざしの中に取り残される。間延びした、意図的ではありえないような
時間性、観られている主人公と一体化した(断続的に揺り返す記憶)、同時にそれを超えるまなざ
し(主人公の死後、運ばれてゆくのを見守る、続いてゆくまなざし)。外部から追っているはず
のカメラは、浜辺、タッジオの遊ぶすぐ横に、風景の内部に置かれ、私達は錯覚を起こす、これ
はカメラにとられた物語ではない、物語をつつむより大きなまなざし、私の今のまなざしそれ自
身である、と。映画のフレームを破壊しながら、その内に取り込まれてゆくのは、観る者と観ら
れる者の一体化の欲望、一つの時間性に絶対の共同性をもたせようとする、あの感動の装置なの
である。
主人公のまなざしがタッジオを捉えたときと、タッジオが誘惑者のまなざしで主人公をみたの
は同時であった。見るものは見られるものであり、見られるものは見るものであり、その一体化
が物語を許したのと同時に、主人公の意思、入れ子にされたもうひとつの一人称の物語は、誘惑
者という対象によって不自由にされ、相次ぐ不意の事故によって運命を翻弄され115、最後には
死によって破産する。死の前に誘惑者その人が、喧嘩に敗北し、その後海に入って彼方を指差し
た仕草とは、物語の破産とひらかれを暗示する、逆光のなかの物語の逆照射、小さな一人称がよ
り大きな一人称へとあけ渡されるのを目前とする場面であった。116
ひとつのキャンバスに閉じられた物語を実現しようとする意思は、失敗を刻印されている。浜
辺。絵を描く女性の手がクローズアップされる。主人公が死ぬ時、帽子の下の熱い目を彼方から
の風に吹くにまかせて、その手を休止させている。季節風に乗ってあらゆる国境を超え、身体に
入り込んで死を招くもの、病原体の隠喩するものとは、エロスによる破壊であり、閉じられた物
語の侵犯である。汚染した死の果物を弄ぶ誘惑者117、無邪気な少年の手が、主人公の物語を破
壊し、死を招いてゆく。
114
文義通りに捉えたときのカメラ・アイ。「わたしは、シャッターを開けたままのカメラだ。まったく受動
的に記録するだけで、思考はしない。」(クリストファー・イーストウッド『さらばベルリーン』)思考しな
いで記録するというより、ここでは、局外の語り手をより暗示されるような、内的時間とエモーションに
従う有機的まなざし。おそらくは、カミュの、ロブ・グリエの技法とつながる、深い「内心の無言」
(『物語
の構造』F・シュタンツェルp240)。
115 手違いによって荷物を別の場所に送られたため、一度後にしたリドに帰ることになった。
116 後述
注22 ナルシスの終焉、逃走とその開かれ。 反復の構図が可能にするものは、反復の場とし
て設定される主人公の一人称と、その反復の不可能性による、より大きな一人称への開かれのドラマであ
る。パトリス・ルコント監督「髪結いの亭主」では、主人公の回想という形で、かなり純粋に一人称で語ら
れるが、(鏡に向かって)そのエンディングで、「忘れ得ぬ人ザサに捧ぐ」という形で、もうひとつの語り手の
存在が示される。主人公の欲望、思い出を反復させるための対象となった女性は、物語の中で生きるが、
自殺という形で自分の持つ他者性を排除させた。異邦性が、閉じた物語を成り立たせるために外部として
働き、最後に異邦人の内部への来訪とともに、物語は幕を閉じる。
語るもの、その一人称を保持する最たるもの、学者がその物語の外部に引きずり出されるのは、フラン
ソワ・トリフォー監督「私のように美しい娘」である。聞き手として語り手を調査しにあらわれたはずの社
会学者が、牢獄の女の、反復する男性遍歴と殺しにまきこまれ、例外として免除されることなく、女に利用
されてしまう。安全な聞き手であったはずのものが、無罪を語っても聞き手のいない状態へ追い込まれる。
「私のように美しい」娘がまたその悪女を反復していくのだ、というタイトルが暗示する物語が、作品の強
度を強めている。
117 イチゴや、オレンジ、病源菌に感染しているかもしれない果物を、タッジオが弄ぶ場面は、印象的に2
度繰り返される。
37
ホテルに闖入する道化の音楽芸人の男。最後に舌を出して去る、その舌の赤のイメージは、壮
麗な装飾の外部性に対する身体の内部性につながり、
(主人公の飲むざくろ水の赤、死を招いた
イチゴも赤かったが、それにつながる内部の赤、血の色)こちらが内部なのだ、と挑発する。118
音楽は最後まで弾かれず、断絶するようにもぎとられる。(娼婦の宿で、エスメラルダが弾く「エ
リーゼのために」も、最後の小節を待たないで断絶する) 完成を待たず、死が突然落とされるよ
うに。
鏡に向かいあったように、よく似た黒い服の幼女ふたりが、浜辺で遊んでいる。少年ふたりが
歩いてゆく。2対であること。異質なものの2対ではなくて、同一の性、穏やかな向き合った静
止。そこに止揚がおこらないことの恐ろしさ。喪服の幼女2人とは、アッシェンバッハの亡くし
た娘と、それによって死に至ったアッシェンバッハの中の娘(アッシェンバッハ自身)、その永
遠に癒されない喪失の、固定された一瞬間なのだ。(娘の、妻の写真に口付けする一瞬の) 死は
死と遊び、凝りをおこす、哀惜という危険な停止、鏡には自分しか映らない、他のだれかの声に
よってどう呼ばれる可能性もなく、のぞきこむ、自分をのぞきこんでいる。119
生産性に否をとなえる、反復。同性愛、もうすべては実現されて、閉じようとする、花がしお
れようとする、同一性にささえられた風景の中で、その欲望は、物語への欲望へ貫かれている。
ひとつの円還の中に生が閉じられてほしいという物語への愛、圧倒的に静止する、今へとすべて
が準備されていた既視感は、昔化粧を施されたものとしての今、今化粧を施した昔、の現前であ
る。
時の流れは、崇高なものを、なしくずしに滑稽なものへ変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。
もしそれが外側から蝕まれて行くのだとすれば、もともと崇高は外側を覆い、滑稽が内奥の核を
なしていたのだろうか。あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積もった
にすぎぬのだろうか。三島由紀夫「奔馬」
118
ホテルの客の着飾った富の美の表面性は、ヴェニスに隠喩されることができる。「ヴェニスでは、あら
ゆるものが、自分の与えうる美しさをすべて自分の表層に集め、そのうえで自分自身は奥にひきこもり、
枯死したもののごとくにこの表面の美を守っている。そしてこの表層の美はもはや、真の存在の持つ生命
力や発展に加わることはない。」(ジンメル)疫病を隠し、消毒の白い液がまかれるヴェニスとは、死化粧
した主人公とつながるイメージである。
119 『二人であることの病い-パラノイアと言語』
(ラカン著 宮元忠雄、関忠盛訳)には、パパン姉妹の例
がのる。「これらの患者たちにふりかかっている《二人であることの病》は、彼女たちをナルシスの病から
ほとんど解放してくれない。
(略)真のシャムの双生児的な心をもって、彼女たちは永久に閉じたひとつの
世界を形成している」p140
ナルシス・コンプレックス。ジェラ−ル・ジュネット『フィギュールⅠ』では、バロック詩法のナルシスを、
《逃走》と《反映》のモチーフで分析する。水に映った自己像とは、逃走する、逃れ去る映像である。反
映は、分身、つまり他者であると同時に同一者である。自我は自己を確認するが、それは他者の形をとっ
ている。鏡像は自己喪失の完全な象徴である。自分の映像の虜になったナルシスは、不安な不動性の内に
凍り付いている。最後には、深奥へ逃走するのだがー水に飲み込まれる死、表面にいることはそのとき深
奥に挑戦することになる。まさにタッジオは、主人公にとっての水に映った鏡像なのである。
パパン姉妹においては、まさに目を抉るという、深奥への逃走がなされた。ここで思い出すのはピータ
ー・グリーナウェイの、
『数に溺れて』である。シシーという同じ名を持つ3人姉妹が、夫殺しを反復し(溺
死)、最後には自分達が、小舟で水の中に取り残される。
38
化粧された(意図された)現実としての物語世界が、崇高を約束するのであるが、化粧させたもの
の上で露呈する滑稽さとは、はがれた皮膚に宿るのか、それとも滑稽はその始まりから刻印され
たものであって、内奥の核に宿るのか。「かつてヨーロッパ精神を代表し、グロテスク・リアリズ
ム的に転倒させた意味では、いまなおそれを代表し続けている大作家=にせ若者」120(大江健三
郎)が、「妊娠した老婆」121のように転倒したイメージで伝えてくるものとは、完成を遂げようと
する物語の、不可能な反復、その欲望の強さに比例した崇高の裏の滑稽である。
ヴェニスの錯綜した都市空間の中で、タッジオを追う主人公。その距離そのもののなかで、自
己自身と、対象とを、見失ってゆく。井戸。地下からの水脈が暗示される場所で、主人公を突き
上げるのは笑いである。物語の純粋性がそのうちに孕んでいた、その果たされ得ぬ一元化に対し
て、恐怖の次元から揺り返してくる反作用、根源の笑いである。若さの表象であったはずの髪染
めた黒い液は、そのまま流れる黒い死の水、苦悩の胆汁となる。暴力性に織られてゆく物語の結
末は、原初の暴力、自然から切り離されたものとして何らかの形で自らを他なる者とみなし、同
一性による歴史を繰り広げてきた人間の根源的暴力を露見させる。
「物語は捕らわれており、また物語は捕える」122物語は、語られだした物語に、人は語りだし
た物語に、捕らわれる。(蓮実重彦―物語、説話、そしてその言説)語られていない物語も、あら
かじめ意味内容によって、捕えられている。そうとなれば、反復の構図は、個々の物語の展開を
待つまでも無く、物語それ自身に組み込まれていることを発見せざるをえない。物語は、それが
どのような展開をみせるのであれ、語られようとしたそのときに意味の網を張り巡らせ、私たち
は予期されたそこをなぞる、反復する、のだ。類似した模倣、それが完全に一致することはかな
わぬまま。
「自己の目で美を凝視したものは既に死に供えられている。」(プラーテン)まなざしは、
「
〔視
覚は〕それほど幸福な感覚ではないように思われる」
(大岡昇平『歩哨の目』)123。対象に自己
自身を映し出しながら、そのあやうい一体化のなかに、自己を迷い込ませる。美とは物語原初に
与えられた最初の分節点、ひとつの暴力に起因するならば、そこにもどろうと人を誘惑してやま
ない。映画の、フィルム上の光の粒が、ひとつの調和、決定的な風景を出現させるとき、ひとは
その流れ行く鏡に、(神道の鏡、反映する光の信奉)遠近を忘れ飲み込まれる。物語の意味作用とは、
また、それについてあらたなる物語を創出することは、完全なる神との一体化をもとめる欲望124、
エロスが迷い込ませる、光同士の相補する快楽の迷宮、ヴェニス、なのであろうか。
120
大江健三郎『小説の方法』岩波現代選書p100−121、引用はp115
同著 同箇所p103
122 蓮実重彦『映画
誘惑のエクリチュール』冬樹社p304
123大岡昇平『歩哨の目』「ゴッホの細い遠景に、私はひとつの不幸を感じる。[略]目が物象を正確に映すの
に、距離の理由で、われわれがそれを行為の対象とすることができない.」この映画で、職業俳優は観る行為
を、アマチュア俳優は美の対象としてあることによって、説得力のある調和が実現された、という。
(若菜
薫『ヴィスコンティ』p156)
124 前述『プラトン』饗宴で示されるエロスとは、欠乏の自覚を持った人間の、神と一体化しようとする、
充足への欲望であった。
121
39
サルバドール・ダリ
『ミレー《晩鐘》の悲劇的神話
「パラノイア125的=批判的」解釈』の方法
本著126は、ダリによって試みられた刺激的な批評の実験である。ミレーの『晩鐘』を見る
という体験を契機にして、ダリに引き起こされたある錯乱を、従来の構造的な意味解釈に
依拠することなく、読み解いていく。ミレーの『晩鐘』というテクストと、サルバドール・
ダリというテクストの間に発生した、新たなテクストを巡り、為される実験は、作品との
出会いの電撃的な錯乱状態を、横滑りさせ、反復させていく形で語られ、それは錯乱その
ものの出来事性を浮かび上がらせることを目指しているかのようだ。批評の言語が、どの
既存の体系によるのでもなく、作品と観者(主体)の間に宙吊りにされるとき、そこに語
られるべき新たな場所が発生しているのだ。
作品の魅惑によって突如広がったそのテクストは、場所を占める。それは、意味に由来
するものではあっても、要約することは不可能だ。それは、様々な方法で語られるが、決
して語られ尽くされることはできない。なぜならそれは、どこにも属していない、絶えず
更新され続ける一回性の出来事へと結ばれているからだ。
テクストの発生
タブローを前にした主体の「一次的錯乱」。読まれるべきテクストの発生。
私がこのタブローに対して感じた賛嘆の念や突然の魅惑とは対象的に、それが引き起こしたきわめて深刻
で激しい困惑をいくらかでも客観化できるような直接の方法は(説明的な方法だけでなく叙情的な方法で
すら)、ほとんど完全に欠如しているとは言わないまでも、実に貧しいものでしかなかった。127
私はこのときすでにこのタブローの変貌の「ほとんどすべて」を把握していたということができる。
(略)そ
の後具体化していくであろう《晩鐘》についての解釈、あるいはむしろ解釈の試みは、この一次的錯乱現
象の時点ですでに私の精神にとってはすっかり「現前」しており、明白なものだったのである。それは明ら
かにこの現象の中に「含まれ」ていた。(略)《晩鐘》の中に湧き上がった新たな「錯乱的ドラマ」を客観的に
出現させるには、同様の連想システムをもはや「形式的領域」においてでなく、より複雑で捉え難い心的表
象・心的現象の領域で引き出さなくてはならなかったのである。128
125 パラノイアとは、一般に、偏執病と訳され,強い妄想が持続するがそれ以外には異常のないものをいう。
しかしここでは、人格形成や芸術創作に関わる何らかの統合作用に含まれるパラノイア的な側面を肯定的
に導きだすことが目指されている。
(本文中)
126 サルバドール・ダリ著
鈴木雅雄訳 『 ミレー《晩鐘》の悲劇的神話 』人文書院 2002
なお、初版は1963年 J=J・P
127 同上p27
128 同上p27
40
イメージの呪物化
体系性を保持しながら129も、構造を妨げる「呪物」としての作品が、認識を横滑りさせなが
ら発生してゆく。もの的なイメージの連想。
ユング130によれば、自己像は何よりイメージによって形成される。河合隼雄は、臨床の
体験から、分析医の解釈によるよりも、患者自身が自由に創作を行い、そのイメージをそ
の実数として受け取ってゆく方が治癒の可能性が高いとしている。131統合によって自我を
組替えてゆくのではなく、統合に失敗した微分化された意味を繋ぎ、自我レベルに新たな
水脈を発見するために、作品は残余たる意味性を結晶化し、主体に別の運動性をもたらす
のである。
パラノイア的なものイメージへの固執132がここで無視できない意味を持つのは、文化全
体が集団妄想的な価値体系として機能し、貨幣がフェティッシュに機能していることに思
い至れば、当然のことであるともいえようか。ダリは、人格形成や芸術活動、科学や精神
分析の基盤にはたらくものとして、パラノイアを位置付ける。
パラノイア的現象は詩的領域において、シュルレアリスム的錯乱の弁証法それ自体を、客観的
な形で触ったり認識したりできるものに変える。シュルレアリスム的錯乱の真の弁証法であるこ
のパラノイア現象は、現在のところ私には(それを自然科学の領域に移し変えたとすれば)次の
ようなものであるとしか考えようがない。それは最も和解しにくいものどもを「和解」させること
の詩的等値物であり、もっとも解消し難くもっともかけ離れた敵対要素をもつれ合わせ接近させ
ることから生じる、透明なほどの明証性である。結局パラノイア現象とは、この壮麗なる理論、
その思弁的な高みには直観的にしか昇ることのできない、「特殊相対性理論」とよばれるこの理論
の中で客観化された「具体的思弁法」の総体なのである。
免疫学が明らかにしたように純粋な他者―否自己というものは、自己に到来しようがな
い。
解釈の余地があるものは、既に自己の内部にあるものである133。対象において引き
起こされた「既視観」いや「既知観」134は、自己に属しながら、非―自己の延長をもって主体
に到来する。現象学の行った一元化、客体の否定や超越論的自我を持ち出す必要もなく、
129
パラノイア的イメージにおいては、均質で総体化された全体性が伴う。「錯乱現象に含まれる解釈上の
生産性は、ここでもまた、パラノイア的な錯乱した内容を持つ連想の力が私達に幾度も見せ付けてきた、
あの極端なほどの体系的洞察力を備えている」p118
130 C.G ユング『無意識の心理』高橋義他孝訳
131 『心理療法とイメージ』多木浩二と河合隼雄による対談より
132
アンドレ・ブルトンによってなされたのは合目的性を帯びた世界に組みこまれた機能的なオブジェを、
単体として取り出すことによって、言語使用の規定された回路を嘲弄する、オブジェ自身の力を用いた主
体への「絶え間ない潜伏の連続」である。ダリは、ここで、固着した一次イメージによって、主体への潜行
を反復してゆく。
133
『免疫の意味論』多田富雄著
サルバドール・ダリ著 鈴木雅雄訳 『
134 134
ミレー《晩鐘》の悲劇的神話
41
』人文書院 2002p118
私達は重力―いや引力との関係を棄却した真空を働かせることなしに、全体性の場に、や
すやすと着地する。シュルレアリズムの構図が、意識、理性の側(読む)/無意識、狂気
の側(読まれる)という 2 項対立によってなるならば、ダリはそのどちらにもいて、どち
らにもいない、ということが出来る。オートマティスムや夢のように解釈され干渉される
のに適した受動的要素を構成するのでなく、パラノイア的錯乱はすでにそれ自体で一つの
解釈の形をなしているのである。
ダリがシュルレアリスムに対してその可能性を開いた「体験」の領域があるとすれば、それはどんなものだ
ろうか。そこに私がいつも感じ取ってしまうのは、露出趣味を突き抜けた、感動的なほどに個人的な次元
の存在である。ダリの絵画のなかでは、画家自身が不気味な登場を繰り返す。
(略)しばしば記号化された
画家自身をタブローのなかに見出すのは容易であろう。さまざまな留保にもかかわらず私がしばしばダリ
にこだわってしまうとすれば、それはこの不気味なナルシシズムが、シュルレアリズムの望んだ作品と生
との関係を極端な形で開拓しているように見えるからだ。135
ダリの代表作『記憶の固執』では、グニャリと曲がった幾つもの時計が同じ一つの空間に
現れる。時間性が空間性に収斂するのである。
夢の中でなら、一旦はそこに達することのできた「こいねがわれる宝の土地」が存在することの
証拠として巧みに「保有し」「意のままにする」ことができたのに、目が覚めると消えてしまう宝石
は、パラノイア的錯乱の中で、あらゆる人々の愚かな視点にとっては消滅したあとでも、なおそ
れらの厚みに見合った正確な重みと、最大限に物理的な光輝く輪郭の錯乱的具体性を保有して
いるのである。それらは、現実の中にある136
不気味な画家自身の登場、記号化した自己パロディ。表象の場に現れた身体や固有名137は、
表現の形式や内容に回収えないという自己性、全体性の隠喩として、イロニーとして体験
される。アンフォルメル以降、仮設された反芸術の拠所として、「身体」は機能する。
たましいにとってもまた、平面が与えられているだけで、第三次元は作
り出さなければならぬ
ヴェイユ
135
同上87
136
同上204
137
『ダリとダリ』体験の中心としての自己を生きながら(内的主体)自己対象化し(客体)
、主体は二つ
の「ダリ」の狭間に引き裂かれる。「サルバドール・ダリがやって来る」
42
平面と身体
絵画表面の色面の持続は、差異によって成り立つ言語体系の持続とパラレルに捉えられる。
言語は差異の体系であると立証するソシュール的な立場から言うと、言葉は、名付けられた物そのもの
を目指しつつも、決して「物そのもの」という“実体”には到達し得ないという言語の本質性を強調しな
ければならない。色の濃淡だけによって、物の形を浮かび上がらせる絵画の一手法にも似て、他の語と
の示唆的区別と相互連関によって「物そのもの」の輪郭を浮かび上がらせるだけである。差異の体系の中
においてのみ言葉の意味は立ち動くのであって、ある語の意味は他の語を呼び覚まし、他の語と「話」の
中でぶつかり合い、引き合いしながら、その意味をおぼろげに生成してゆくしかない。138
丸山圭三郎は、言語体系を砂浜に広げられた網に喩えたが、実体の突き上げによって多
数の穴を穿たれたそれら揺れ動く差異の表象は、網目というよりは、なにより持続なので
ある。事情は、絵画においても同じだ。絵画表面は(像を無視すれば)一度に等質の情報
を送り出してくる。
・
・
表象にともなうある薄さと、持続の濃さ、深みという一見対照的な感覚の体験は、歴史
上のどんな人物でもあったニーチェの言語主体への深みへのダイビングと同じ、身体を
「間」へと、解放する。支持体の上にかつて留まった眼差しと観者の眼差しがかち合った場
所に、垂直に開かれる深淵を洗って流れる色、陽炎のように揺らめき立ち上がる像は、主
体不在の光の場への扉を開く。解体の契機、それ自身の表象は、「一面の」場が開かれる瞬
間を生け捕る。「器官なき身体」(アルトー)の、感覚の諸平面は、絵画の実現する平面に
こそ住処をみつけるのである。
ドゥルーズは、「絵画と感覚」139
において、絶対内在的な感覚の場所としての絵画表面
を、身体との関係においてこう位置付けている。
こ
と
感覚の作用は主体(神経系、生命的動き、「本能」、「体質」等)へと向かう側面と客体(「事実」、
場 、 出 来 事 ) へ と 向 か う 側 面 と を 持 つ 。 あ る い は 、
、
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、
、
むしろそれはそうした複数の側面など全くもってはいない
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
。
それは分かち難く存在する二つの事象である。
〔1〕それは現象学者達が言うように、対―世界―存在である。すなわち感覚の作用におい
て私は成ると同時に、感覚の作用によって何者かが達する。両者は共に感覚の作用によって
成り、感覚の作用によって達する。そして極限においては、感覚を惹起すると共にまた感覚
を受容するのは同一の身体であり、またこの同一の身体こそが客体であると同時にまた主体
となる。観照者としての私、この私が感覚を体験するには、絵の中に入ってゆき、感じるも
のと感じられるものとの統一に近づくしかない。
〔2〕感覚、それは描かれてあるものである。
絵の中に描かれてあるもの、それは体そのものである。
(一部省略、傍点筆者)
(〔1〕客体と
138
増山真緒子「知覚現象にみる共同主観的心理機能の構造」(現代思想「感性の論理」)
139現代思想「感性の論理」1999−27−10
43
主体の一致。マルディネやメルロ・ポンティーのような現象学者が、セザンヌにみたのは、各
パティック
特質がそれ自身に妥当すると同時に他の特質と観照する場(「感受的」な契機)である。
〔2〕
絵画は、「内在的」な「一つの生」として、感覚的に身体に体験される。)
免疫機能が明らかにしたように、身体の多様性、個別性はもはや医療技術における難い
壁―交換不可能性と対象化不可能の事実を突きつけているのであり、ドゥルーズのいう「身
体」も、そのような地平で捉えられなければならない。記憶の溶解液たる水のくらがり、交
換不可能の深みをそなえた固有のの身体は、水面に陽炎のように立つ色面の体験、もう一
つの宇宙、感じられる他者との間に生起する一回性の出来事に「接合」する。
身体の多様性、固有性をのっとる、絵画表面における「感じられる統一」140。芸術は、
知覚の方法を多形化する。自己疎外と競争に成り立つ資本主義の、欲望喚起装置を、内
から多数化し、欲望を多形化する。
図と地の反転
ハンス・アルトゥング141
アルトゥング前期の作品においては、身振りの軌跡としての黒い線が、画面上を運動する。
他のアンフォルメルの作家たちの破壊的で非統一な、多彩な色彩の爆発とは異なり、その
「線」は構造化や統一へ向かう感覚の統御を手放さない。知覚の触覚としての黒い線。「制御
から接触へ」142、対象化した客体を静態的に捉えてゆく旧来の科学の方法ではなく、相互的
140
へーゲル的な、国家を頂点とするようなサンボリクスに基づく統一ではなくて、より底辺において感じ
られる統一は、あらゆる意味体系を微分化しながら、ある同一性を保持する、統御装置として働く。
ここで問題としてきたのは、絵画の持つ「感覚的平面」が引き起こす統一のイメージなのだが、ポストモダ
ン以降、それは奥行きをもたない、均質性(村上隆の「スーパーフラット」の概念などが想起されよう)に
よって、階級の無化、「反物語」という倫理を標してきたといえる。「一面に広がる感覚の場」草間弥生の絵
にみる「一面の細胞の集合」は、共同体を始原の「集合体」、単位の寄せ集まりへと解体する。それは、絵画
画面の統御を離れて解体するかもしれない危険な界面と、単純な反復による均質性、ヒュ−マニティを同
時に開示している。
141
Hans Hartung(1904-1989)
第二次大戦後の叙情的抽象を開拓した画家の一人。1904 年
パリに定住、1922 年
ドイツのライプツィヒに生まれる。1935 年
独自に非具象に達する。 滲み合う鮮やかな色の染みからなる水彩。インクのデッ
サンは水墨を思わせ、後のアルトゥングにおける線の用法が既に予告されている 。1930 年
線の運動と、
色面による構成が主となる。1930 後半 色面が地に後退すると共に、黒の線が自由動く作風が確立される。
1950~ 構成はより単純化され、黒の線は時に草叢状と化し、面に移行する傾向を示す。1960~
な白に反転し、画面は極度に洗練される
142J・J・ギブソン『生態学的視覚論』古崎敬他訳
サイエンス社
44
線は繊麗
な認識の地平を開いたアフォーダンスのモデルをここで応用するなら、ある閉鎖系として
イメージされる感覚的な身体が、知覚と行為を同時に行ってゆく運動の軌跡が、標されて
いるといえよう。色彩は、黒い線の運動の背後に、塊として配置される143。
後期、その黒い線は消える。余白の表象であった地が、色面に満たされ、前景化する。
線は引っかき傷のような白い徴144となる。
前田英樹氏は、ベーコンの絵において、「生成を起こすものとしての身体像」が、人像な
しには成立しない場所の中に置かれていること、その場所と身体が分かち難く同じ生成の
中にいることを指摘する145。アルトゥングの後期の画風は、前期の、対象化された身体の
身振りの運動をなしには成立し得なかったといえるかもしれない。部分化された個体の運
動146が養う、地、場所。
滲む色彩は、流体の持つ流れの<持続>と<潜在的多様性>147を感じさせる。セザンヌ
の「感光板」148を思わせる、運動性の彼方の不動。場所自体の表象149。構築するサンボリク
143
アルトゥングに見出すのは、セザンヌ的な色彩の感覚である。セザンヌの絵にあっては、色彩が重要な
役割を果たす。色によって物質は互いに浸透しあい、奥行きを音楽的に破壊される。「感覚のメチエの厳密
な深化によってだけ進んでいくことの出来るひとつの仕事」(前田英樹)前田氏は、セザンヌの肖像画にお
いて、線と色との根底的な対立を見出す。「線が人物の社会化された顔の表情を巧みに固定するのに対し、
色は人物を、その人物が在ることの固有の<深さ>や<固体化する力>や<持続>において、また彼の持
続をそこにおくものの<永遠>において表現する。
〔1〕肖像画の色は、自然自らが人物の中に表す<色>
に平行し、結合するのでなければならない。肖像画の人物が自然の一水準を形作り、その色が自然の複数
の本質を表現するのは、色の感覚に関わるこのメチエによってだけである〔2〕」黒という「強く、本質的
な色」(アルトゥング)によっては、文字に結びつくサンボリクスのイメージが、他の色彩によっては、そ
の単一の動きに並走する自然の複数性のイメージが、空間に量感を持つ塊として配置される。「T1948
−16」
144 レビィナス「他者という外傷」
アルトゥングは、戦争中、スパイ容疑をかけられ拷問を受け、前線で足
を奪われた。暴力を受けながら、理性の骨格を手放さない彼の挑戦。構築性と自発性を感じさせる線、自
由な鳥の羽ばたきの軌跡。
145 生成を起こすものとしての身体―形象と、それがもたらした場所―抽象との間にある。シャガールの画
面もこれと比せられることができるだろう。
146 個体性を破って破裂するベーコンの身体は、「感覚の内に実在する」(前田氏)のであり、ベーコンの画
クラフトフェルト
面表象全体が「感覚の場所」であるとすれば、形体を飛散させる強度を持った感覚的力の放射、「 力 の 場 」
の巻き起こす閃光、まさに「器官なき身体」(アルトー)は、ある場所性として体験されるのである。
147 「T1964−R23」1964などにおいては、画面の右側からもう一方の縁へ向けて、一つの持続し
た時間の流れが感じられる。ブラウンの粒子(血が酸化した色をイメージさせる)は、大きな画面を中程
通過した後に、画面の自発的要請によるかのように、蒼ざめた多形の滲みへと移行する。ロスコの、茫漠
とした海を感じさせる不透明な色面とは異なり、色の粒子達は生き生きと重なり合いながら透明に沈みこ
む。それは、画面という一つの統一のもとにに置かれながらも、潜在する関係性によって多様な発色を準
備しているような光の粒子、潜在するエロスと、緊張をもたらすタナトスが奇跡的に融合した「感光板」で
ある。
ニューマンの実現した、あらゆる意味を無化するかのような一面の発光とは違って、そこには暴力的な一
元化がない。ニューマンが私たちに「崇高」の感情を喚起させるなら、アルトゥングは「官能」を喚起する。
多様性と持続、抑圧と自由を同時に提示する。
148 「晩年のセザンヌは、絵を書く自分の身体が「感光板」のように存在すること、そこには自然の色のニュ
アンスが同時に、直接に入り込むことを、ある種の苦痛と共に訴えている。彼の言い方では、このような
感光板が色の無数のニュアンスから像を現すのは、それが彼の側の「記憶の溶液」を探ることによってであ
る。この溶液は、彼の頭脳にあるのではない。感光板のような身体を携えた彼自身の記憶そのものとして
ある。感光板のような身体に入り込む色は、セザンヌが自然と呼んだものの中にあり、彼の身体に入り込
む。セザンヌにあっては、色が記憶の溶液を潜って表す像は自然の側に存在し、画家の身体の中には存在
しない。像は、自然が含む深さ、持続、固体化する力の無数の度合いから生じ、また像そのものの潜在的
多様から生じる。けれども、色がこのようであるためには、それを感覚する身体は「感光板」でなければな
45
スを思わせる黒い線から、他者なる官能的な徴150へ。部分化、対象化された身体は画面上
に延長された偏在する身体151となる。
3本の光152に閉じ込められたセルフ・ポートレート。戦争によって奪われたという片方
の足は、無限へと、踏み出す。
不在の絶対
裏切られ、苦しみの中で磔にされたキリストの身体が、血を流す。ユダに、神に、二重
に裏切られて死んでいった身体は、今も不在の身体とその苦しみを表象する153。いってみ
れば、ここで身体(物質)は、裏切られる必要があったのだ。貨幣(交換原理)に譲り渡
らない。あるいは色を自然が含む無数の身体に送り返し、それら自身において感覚させる何らかの装置で
なければならない。自然は、このような装置に向かってのみ、色によって自らの複数の本質を表現する。
それがセザンヌの経験した「感覚の論理」だった。(前田英樹『感覚と個体』)
149 ドナルド・カスピットは、アルトゥングにグノーシス派の哲学の影響をみる。物質的な世界を創造した
神デミウルゴスと、それを超越した実体のない神との対比。実体のない神とは、それを汚していた物質的
世界がひとたび破壊されると、無限の輝きで宇宙を満たす永遠の光であり、あるいはまた、この世の暗い
力が消えたときに初めて自明のものとなるような、実体がなく言葉にもできない純粋で超越的な神である。
コーラ。場所性の表象。
150 スーザン・ソンタグは<内容>や<解釈>を偏重するこれまでの批評に対して、官能美学の復権を唱え
た。(『反解釈』ソンタグにおいては、語るものと作品との距離がはかられ、エピソードの多用などによっ
て、言及する作者自身の他者的身体が確信的に明確にされる。
解釈のファシズム、概念による一元化を嫌う。
他者性は、力によって介入され、制御されるものとしてではなく、遮断されたサーフェスに痕跡を残して
ゆく官能として甘受されることができるだろうか。アルトゥングのひっかき傷は、自己性の隠喩たる、遮
断され(感覚は閉鎖された身体によって可能となる、また、生態光学の包囲光にみられるように、それらは
限定されている必要がある)、表面張力を保ったサーフェスに、繊麗な徴を残す。
151
認識と行動が同時である=知覚は、自らが行為であることを自分自身で隠している行為である。アフォ
ーダンスに生態光学の視点を持ち込むと、「あらゆる場所に同時にいる」、身体の在り方が明らかになる。
光が空間を包囲するように、環境には、幾つもの意味ある持続があり、身体はそれらに繋留するので、必
然的に環境のどこにでも同時にいることになる。
(河本英夫、佐々木正人対談「あらゆる場所に同時にいる」)
光の場たる表象システム内部に閉じ込められた、部分化されたカオスとしての闇の身体(黒い線の運動)
⇒多様な意味を内抱した場所=身体の界面に、他者なる光が穿たれる。
152
三筋の光が、二側面から、一つの光をはさみ、囲みこむ。フーコーは、『言葉と物』において、ルネサ
ンスから古典主義時代への転換にあたって記号論の体系が3項図式から2項図式に転換したとする。黒崎
政男は、常に記号論には3項図式が働いていたとし、<超越論的統覚>(カント)や<解釈体>を、第三
項としてあげる。
(インターコミュニケーション1995・11)これは、私のクリステヴァの記号論解釈
におけるコーラの位置の復権と重なる着眼である。
3という、運動を可能にし、全体性を開示するイメージが、しかし一なる光を挟み込み、不自由にしている。
すべては光のように自由で完全な悦楽に満ちながら(美しく歪曲し)、その自由さによって囲い込まれた表
象。しかし、なにより、このような解釈は虚しいのかもしれない。片方の足を戦争で奪われたアルトゥン
グにとって、3という数字は、繰り返し体験される不均衡によっていただろうから。
153 火(文明)を人類に与えたプロメテウスに対する罰は、永遠に鳥に胸を抉られ続けることであったよう
に、象徴機能に対して身体が支払うとされる代償は、損傷と痛み、対にある飛翔(この場合鳥によって隠
喩される)に結びついているということが出来る。
46
され、神(保証していた何ものか)から切り離され154、身体の重み自身によって苦しみを
うけるキリストの四肢。
石の洞窟(精神)の暗がりに滞留したのち、復活を遂げた身体は消滅する。受苦の歓喜
と復活。苛烈な身体損傷、それに伴う魂の飛翔。そこにイリュージョンとしての身体が置
き換わる。
身体や物質への嫌悪は、無限の身体への開口部を開き、魂の永遠が物質の有限にとって
代わる。
154
神と人の狭間に宙吊りにされたキリストの身体は、「対象」(客体)である。「愛されているものはわた
しの愛と、わたしとの間の仲に立つ」
47
結び
なぜ、劇場に留まるか
コ ル プ ス
−生起する場所と共同体
「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この
天使はじっと見つめている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その
眼は大きく見開かれ、口は開き、そして翼は広げられている。歴史の天使はこのような姿
をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。歴史の天使はこのような姿をし
・
・
・
ているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの目には出来事の連鎖が立ち
カタストローフ
あらわれてくるところに、彼はただひとつ 破 局 だけをみるのだ。その破局はひっきりな
しに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている。きっと彼はなろ
うことならそこにとどまり、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを集めて繋ぎ合わせ
たいのだろう。ところが、楽園から嵐が吹きつけていて、それが彼の翼にはらまれ、余り
の激しさに天使はもはや翼を閉じることが出来ない。
この嵐が彼を、背を向けている未来の方へ引き止めがたく押し流してゆき、そのあいだに
も彼の眼前では、瓦礫の山が積み上がって天にも届かんばかりである。私たちが進歩と呼
んでいるもの、それがこの嵐なのだ
ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概
念について」
哲学の終焉、労働の哲学すべてと等しく、とりわけ身体の哲学すべての終焉。そうであり
ながらも、諸身体の解放、空間の再開放は、常にますます凝縮し、激烈で鋭利さを加える
時間のうちへと資本によって集中、過剰投機される。時間ニオイテ製造サレル身体。
第一に、諸身体はどこにあるのか。諸身体はまず労働に属している。残りすべては文学で
ある。
創造、それは永遠である。それは延長、太陽と混ざり合った海、創造された諸身体の抵抗
と謀反としての空間化である。
ジャン・リュック・ナンシー
48
所有するくらいなら、明け渡したほうがいい。何に?物語でなく、情動でなく、
最近のファンタジー人気が意味するものは何か。資本主義のもたらしたグローバリゼー
ションと、交通の活発化が、文化の虚構性を暴きながら多数の他者を主体の内部に内在化
させ、同時に、科学や国家といった閉じられたパラダイムにおける「確かさ」を次々に相対
化してゆく中で(意味の均質化は富の不均衡を覆い隠す)
、人々は以前の宗教や文化のよう
に主体を明け渡すことの出来る閉域を探しているのである。ファンタジーの表象する閉域
が、その虚構性によって逆にリアルに映り、それは文化より、宗教より、無害で裏切られ
ることのない、「私の住処」となる。
『千と千尋の神隠し』では、異界に入り込んだ主人公と両親が、管理人不在のおいしそ
うな食べ物(それは神々が食べるもの)を前にする。「お金を持っているから大丈夫だ」と
いって、無断でそれを食べた両親は、
(資本の力で異文化に入りこめることを疑わない大人。
タ ブ ー
異なるパラダイムにおいての禁止を恐れる気持ちを喪失して)動物にされてしまう。智恵
の木の実を食べて楽園を追放された人間が、神々の食べ物―悦楽を知って欲望に飼われる
ペットとなり果て、別の名の楽園へとまた追放される。超自我―両親を豚に変えられて、
主人公は、「魔女が最上階で経営し、手足がたくさんあるおじいさんが最下位で働く建物」
―グレート・マザー、アニマのもつ豊かさはいまや欲望を肯定して走らせる反転した権力と
なり、アニムスはそのための器用な技術者でしかなくなった(カフカが予見していたもの、
蜘蛛男、飛躍すれば、修辞とスタイルにはしる批評の言説もここで批判してしまわなくて
はならない)―で、名を奪われ、動物にされるかもしれないという恐怖の中で労働する。
中上健二が「路地」という場所を据えることによって、神話や物語の最後の光を記述した
ように(『千年の愉楽』では、オリュウの産婆という生命の誕生を受け止め、歴史を見守る
というグレート・マザーが中心にあり、エロス的な共同体のコーラの位置を担っている。)
私達が透明なたゆたう液体を、「water」か、「水」か、「・・」か、単語で捉えられるような、
いずれかの実体にしてしまわないために、例えば怒り揺れ動く光―炎との差異において語
ることができるように、主体を明け渡すことの出来る閉域、場所は、要請されている。中
上は、植物が小説の重要な要素であると延べるが、種が落ちるところからそれぞれに生え、
太陽に開き光合成するような純粋性は、たしかに場所性に基づくものである。、大地から切
り離された「動物」は、領土を彷徨い、または占有し、多種を奪い、殺し、路地に咲く「夏芙
蓉の花」でイメージされるような、エロスによって開く場所性に、身を明渡すことを願って
止まない。
書かれてゆく、それはどこに書かれてゆくのか
ものごとを深いところまで見ようということと、ものごとを自分なりの解釈で見ようとするのは
49
全然違う。自分の解釈とか、嫌悪感とか、感想とか、いろいろなことがどんどんわいてくるけれ
ど、それをなるべくとどめないようにして、どんどん深くに入ってゆく。
そうするといつしか最後の景色にたどりつく。もうどうやっても動かない、その出来事の最後の
景色だ。 よしもとばなな
ひとりひとりの微笑もまた、全体のものだ。すべてを取り入れなければならない。それがないと
したら、作家は存在しない。
書くということが、すべてを混ぜ合わせ、区別することなどやめて空なるものへ向かうことでな
くなったら、そのときには書くとは何ものでもない。
すべてを混ぜ合わせ、区別することなどやめて本質的に形容不可能なただひとつのものへと溶け
込ませることでないとしたら。
でも、大抵のとき、わたしには意見はない、わたしには見えているのだ、あらゆる場が開かれて
いる、もう壁なんぞというものはないようだ、著述というものはもう隠れようがないんじゃない
か、どこかうまい場所に身をおいて書かれてゆく、読まれてゆくなどということは、もう著述に
は許されないのだろう、著述というものの根源的な慎みのなさをかばう手だてはもはやあるまい。
デュラス
効果ではなく、生産
専有のドラマが展開する歴史過程において、対立や破壊をもたらさない欲望を想定すること
はできません。エレ-ヌ・シクスー
人間の想像力にとっては、保持こそ、真空に属するものであって、破壊はそうではない。
創造についてはどうかというと、真空は存在しない。
人間は生まれながらにして破壊を追い求めている ヴェイユ
創造と見なされたものは、「破壊」に結びついている。メディアに溢れる、スポーツと戦
争の身体が共に意味するものは、私達が置かれた社会の、他者に対して「効果」を及ぼす、
力の行使、権能の日常である。他者に「効果」を与える、部分化された権能の身体が行うも
のは、「生産」ではなく「破壊」である。資本主義内部のコード的な再生産の構造とも似て、
新たな価値創造とみなされたものは、所与の要素を破壊し、組み代えたものでしかない。
仕切りをつけて。ルールを共有して。行われるゲームは、過剰を生み出しはするが、あ
る目的のために一方行的に酷使される機能的な身体は、時に恐怖を催させる。パチンコ屋
の身体。横に体を密着させた人々が、人ではなくマシンに向かっている。弾きあっている
玉、単体、満員電車の恐怖よりも勝って。
原抑圧を回避する
50
繰り返し見る他者―夢。立派な回廊を持つ桜貝色、ピンク色の美術館に表象される退行
的な内部から、出ようとした時、入り口にある爆弾。原抑圧の回避は、内-外の仕切りを発
生させ、外的な解体―爆弾の恐怖となって現れる。芸術の主体は原抑圧の姿を明るみに出
し、抗い、闘争する。しかし、やはり、のっとられなくてはならないのだ。ソンタグは、
大江健三郎との往復書簡155で、ヴェーユの言葉、「われわれより悪いひとつのものはわたし
だ」を引用するが、「われわれ」も、「わたし」も、それが言語体系のもたらす原初の禁止に深
くのっとられてしまうことが必要なのだ。爆弾テロ、外的な解体には、逃げ場所がないの
だから。―完全にすべてを与えなさい、わかりますね、すべてをなのですよ(シクスー)156
レ二・リーフェンシュタールのベルリンオリンピック記録映画『民族の祭典』では、跳
躍する身体の健康的な力の美が、伸びやかでダイナミックな画面によって映し出される。
古代ギリシアに「起源」を結ぶこの力の美は(起源は忘れ去られなければならないだろう)
白人種の優性を謳うものとして、ナチスのデマゴーグに使用される。
(「誰にも何にも起きていなかった」 収容所に入れられていた被差別民シンティ・ロマを
戦中、映画撮影に使ったリーフェンシュタールは、戦後にそれらすべての人と再会したと
いい、こう語った。高齢のための混線か、祈りによる混線か。「だれにも何にも起きていな
い」、ということ。)
人間、権能と受動性との混合物。そして、被造物でありかつ部分的な存在であるから、まっ
たく受動性の中にしか純粋性を見出せない(ヴェイユ) ダンスの身体は空間に、接触して効
果を及ぼす対象を持たない。「魅惑」によって観者を宙吊りにする、強い転移関係をもたら
すものではあっても。大野一雄の弱くあろうとする身体は、「権能」の力の美からもっとも
遠ざかる。
全的な揺らめき、眩暈
ギブソンによれば「空間の概念は何ら知覚と関係がない。幾何学的空間は純粋に抽象的観念
である。」大野一雄の踊る宇宙空間は、均質な持続によって捉えられるような抽象的な空間
ではない。身体の養った、動性に満ちた拡がりである。宇宙は心像化できるが、実際に見
ることはできない(ギブソン)ところが私達は、心象化した宇宙を体験している身体―大
野一雄を通して、宇宙の生成を知覚するのである。
「大野は、自己完結したフォルム、自己の舞いの流れに固執することなく、見事にその充足の
直前に放下し、捨ててゆく。その爽やかな捨て方は、意図的、恣意的なものでなく全く自
155
156
『暴力に逆らって書く』朝日新聞社
エレーヌ・シクスー『メデユーサの笑い』309
51
然、必然的で、大野個人の意思によると言うより、醒めていながらも、肉体の自律的な運動、
或いは、舞台全体の、根源的な関係の生成の磁場としての機能に委ねられ、促されている
ようで、ある刹那、舞台上の諸関係の構造が成立すると共に、一つの<かたち>が成就し、
変化に伴って、相対化され、呑み込まれ、その<かたち>は消え去る。そして、そうした、
ある種の受動性の極のような大野の変幻自在な舞いに導かれながら、我々観客も、様々に
彩られ変容してゆく、充実した時間の高まりの内に生成してあった。とすると、舞台上で
見た、あの多様なイメージ、思いの豊饒な連鎖は、大野個人の内奥のものというより、大
野の舞いの果てしない<広がり>に包まれた我々観客が、否、両者が互いに我知らず合一
し、その<水の鏡>のような肉体の位相に、映しあっていたのではなかったか」157(岡本章)
胎児はいまもってひとりで天をつくり続ける。負の応え方というのは思考ではなく誕生のごと
く応えねばならない
白石かずこ
「生産」。新たなる単体を生み出すこと。芸術のもたらす感動に、カタルシス(糞の排出)
という名しか与えることが出来なかったギリシアの同性愛的な原理を哀れんで。闇の彼方
ロ マ ン
から、出産に伴う女性の物語と仕草を掬いだすこと。「命に近づくために」女装して、神に、
観者に犯される聖なる娼婦となった大野一雄の身体は、そのもっとも「無意味な」身振りに
おいて、最大限の「意味」効果、生産の瞬間を記述しようとする。何が生産されるのか。そ
れは、主体間の強い転移の場、瞬間に生起する場そのものである。
ソロの即興という、大野一雄の一貫したスタイルが意味するものは、その踊りが、共時
的に生起する場所を生け捕るために為される一回性のものであるということだ。大野一雄
において、「振り付け」や「群舞」といった方法は無効である。「宇宙」を羽織った真空の身体
が、動きの投機点となって、言語の終着点であり起源であるような抽象の夢が外に−内に
−高潮のように持続されてゆく。
挑発としての女装
ものや人に対するふるまいの仕方のなかに、あるいは単に、ものや人を見る仕方の中に、あるい
は単に、ものや人を見る仕方の中に、超自然的な効果があらわれてくるときには、その魂は、も
はや処女ではなく、神と共に寝たことがあるのが分かる。ヴェイユ
神に媚びを売るもの、愛を請い、空間に奪われたままになる大野一雄の身体。殺戮の手を
担うよりは、「女」を標榜し、劇場に留まりつづけること。
157
大野一雄「岡本章・思い出は身に残り」
52
「性」それは、外措定そのものに接触することの名なのである。
「性」は触れ得ないものに触れ
る。それは身体の名―破砕閃光であり、様々な性というこの代補的な感覚能力の様々な破砕閃光
に則して、諸身体をまず空間化することで初めて命名を行う名である
読み直されるヒロシマの記憶
私達は、ヒロシマを体験したのだろうか。言語のもたらす一面の閃光、原抑圧の激しい
眩暈を被爆の体験に結びつける、愛の磁場の錯乱それ自身によって、私たちにはヒロシマ
の記憶を読み直す158ことが許されているはずだ。
ヒロシマは、花々でおおわれたの。いたるところ。矢車菊とグラジオラス、そして昼顔とヤブカ
ンソウばかりだったのよ、そのときまで花々にそんなものがあるとは知られていなかった生命の
異常な逞しさで、灰の中から生き返ってきたのは。
(*この文章は、ハーシーのヒロシマに関する感
嘆すべきるポタージュにおける一つの文章のほとんど原文通りである。私がしたことは、その言葉を、苦
難の子供たちの画面にかぶせたことだけである。)159
「ヒロシマが起こったからには、技巧は存在し得ない」。160のではなく、むしろ、「ヒロ
シマがおこったからには、技巧しか存在しえない」。「ヒロシマを語ることの不可能性」
に、私たちは修辞―灰の中から生き延びる花々―でしか対抗することは出来ないのだ。
沈黙の叫び、けっして救われえない修辞のエロスが、断絶と痛みをもって繰り返される。
みじかくて終わりが定めなく、終わりが定めなくてみじかいこの地上での滞在の間、ただこのよ
うに叫ぶこと、そして無の中へ消えてゆくことー
だからもう今から、死の瞬間にいたるまで、私の魂の中には、永遠の沈黙のうちに途切れること
なく叫ばれるこの叫びの他には、どんな言葉もなくなってしまえばいい161
なぜ、私たちはそれを恐れるのか
自らに対して執行されるこの全的な暴力は、おぞましさや恐怖の感情を引き起こす。狂気
や無意識に主体をのっとられ、ある徴(ユダヤ)を抹殺しようとした独裁者の記憶に、理
性が刻まれた不信感は、アウシュビッツ以降の詩の成立を不可能162にさせ、未だ私達は、
セイレーンに鉛の靴を履かせることを憚らない。部分化され、歴史の無力な創造手である
158
スーザン・ソンタグ『火山に恋して』では、広島・長崎の二つの都市殺しと、死の灰の降るポンペイの
情景が重ねられる。「大災害のイメージに魅惑される」という在り方。
159 デュラス『ヒロシマ、わたしの恋人』清岡卓行訳
筑摩書房
160 クリステヴァ『黒い太陽』西川直子訳
161 シモ-ヌ・ヴェイユ『アメリカ・ノート』p109
162 余りにも有名なアドルノの言葉を踏まえて。
53
ことを刻印された理性は、いまにも飲み込まれそうな暴力の海を前に、もはやどんな楽観
的な狂気をも否定するだろう。母体を棄却し、生まれいでようとする新しい肯定性は、そ
れら闇の停滞と不動性を恐れ、嘔吐を催す。
裏返しに着ること
それを裏返しにきてごらん、きっとプレゼントがもらえるよ163。
記号表象の裏地。肌に密着させるためのナイーブなそれを、反対に着込むこと。他者と見
なされた衣服、表象を、私達は自己の佇まいの中に迷いこませるばかりか、獰猛な外光―
意味作用を内に向け直す自由をも持っている。
衣服が私に逆らうかどうかを試すために、裏返しに着てもみた。衣服は一つの条件つき
で、その取引を承諾した。
条件というのは、これからは裏にも表と同じ価値を認めろ、というのである。 ソニア・
リキエル164
ジュネの「反転する手袋」が、ペンを持てないで転がり、その虚しさが放射された空間を射
抜く。
歴史の天使、「全体性」のモメントとの一体化
声を奪われて、歴史の天使165(ベンヤミン)がそこにいる。描かれてゆく沈黙の白紙が
ある。たとえそこに破局だけをみようとも、歴史の天使の眼は大きく見開かれ、口は開か
れている。余りの嵐の激しさに広げられたままの翼がある。
私達は、経済システムの生み出す仮想の敵や、崇拝対象の異なる他民族に「外部」を見な
い。否応なく殺戮の刃を振りかざす「偽りの他者」に、「内部」から入り込み、告発すること。
レビナスのいう絶対的な他者、倫理を可能にする、神の顔を闇の中から掬い出すためにも、
モメント
わたしたちは押さえようもなく湧き上がるある「全体性」の動機166と一体化を果たす必要が
あるのだ。
163
ソニア・リキエル『裸で生きたい』14
ソニア・リキエル『裸で生きたい』15
165 「新しい天使」と題されたクレーの絵がある。それにはひとりの天使が描かれていて、この天使はじっと
見つめている何かから、いままさに遠ざかろうとしているかに見える。その眼は大きく見開かれ、口は開
き、そして翼は広げられている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に
164
・ ・ ・
向けている。歴史の天使はこのような姿をしているに違いない。彼は顔を過去の方に向けている。私たちの
カタストローフ
目には出来事の連鎖が立ちあらわれてくるところに、彼はただひとつ 破 局 だけをみるのだ。ベンヤミ
ン
166
われわれが欲すると欲せざるとにかかわらず、世界観というモメントは、魂が自己の全体を包括するよ
うな一表現を欲求するが故に、抑えようもなく湧き起こってくるのである。C・G・ユング
54
内部を結び直す
「なぜ、劇場にとどまるのか」(浦上宏美)私達はなぜ劇場167にとどまるのか。
(ここで私の
いう劇場とは、「劇的出会いが生成されるための『場』のイデオロギー」(寺山修司)とし
てのものであるだろう。)微力な、余りに小さな声であるにもかかわらず。「内部も外部も
ない」という、対象と一体化した絶対的な内部というある特権化された夢の場所に、芸術は
留まり、主体を延長させ、光を放射しつづける。
ライプニッツ、微分化運動の「無限―点」
「それじゃあ、世界全部が隠喩なのかい?」イル・ポスティ
ーノ
殺害とみなされたものは、新たな生命、無限を開いている。名辞のために殺害された事
物(オクタビオ・パス)の影は、意識の真空がもたらす均質な墓場、ヒロシマの焼け跡か
ら、芽を吹き返す。
意識の風解は身体の風解である。宇宙に四散し、宇宙的規模に拡大した身体、宇宙的広がりを包
合し、それと混ざり合い、
《世界》
、《個人的自動装置》、《集合体》を飲み込む身体、それは人間
的あるいは自然的他者とのいかなる同一化、いかなる転移をも排除する。
《人間の身体は、十分な太陽、惑星、河、火山、海、潮を持っている。なにをそのうえ、いわゆ
る外的自然や他人のところにそれらをもとめに行く必要があろう》
破砕して、宇宙大に広がり、自然的過程に結びついたこの身体は、繰り返される分離によって、
「それ〔Il〕」の不動性に戻る。
《私の真の活動は無活動だ。人間の命からもはるか遠く、人間に決して篭絡されることもない。
私の肉体の状態だ、それが孤立してある時の》168
非人称の主体がいたる不動性―瞬きしない169、死の海170そこに穿たれるのは、綻び、「一つ
167
「劇場とは、施設や建物のことではなく、劇的出会いが生成されるための『場』のイデオロギーのこと
である。どんな場所でも劇場になることができるし、どんな劇場でも劇が生成されない限りは日常的な風
景の一部に過ぎなくなる」(寺山修司)
そしてまたここでは、93年にスーザン・ソンタグのおこなったセルビア軍に包囲された
サラエヴォでの上演「ゴド-を待ちながら」(ベケット)の記憶がふまえられている。
168
クリステヴァ『ポリローグ』アルトー論によるp62
169「山海塾」などの舞踏の技術に共通するのは、重力と一体化し、瞬きを禁止することからはじめることで
ある。同一性に回収してゆこうとする美的な一元化がしばしば批判されるが、それらの身体の並外れた「注
意力」は、宇宙的な「Il」の不動性へと結ばれている。
55
ハミング
の口」である。鼻歌171から、食べ、愛し、語る、一つの亀裂へと。
水源から再び到来する、限られた海の、微分化運動の無限-点として、「私」は、「私たち」を、
語りつづける。
時の肌理を自在に操ること、スタッカートで語る、レガートで語る、
水源とつり合ったテクストが、いつも私に
到達するのです。シクスー
一つの曲に、一つの沈黙。生は死をアフォードし、色彩は無をアフォードする。音楽は
空間をアフォ-ドし、絵画は時間をアフォ-ドする。出来事としての
マッス
「私」は多数の声によってアフォードされている。未来完了の、私という 塊 は、異なる時軸
と複数のパラダイムを併存させながら、永遠に捉えられることのない桃色の美術館(前述)
を、―退いて偏在させ続ける。
空間に併存する様々な身体(=異なる時軸と複数のパラダイム)が、私達に生きるべき
コ
ル
プ
ス
、 、
共同―体を開いている。私たちは様々に語り、無限に有ることが出来る。それはたしかに、
ナンシーのいうような世界―身体の処々の場の著しい増殖、自己においての弁証法の核心
―心臓部における収縮なき拡張なのであるが、それでは十分ではない。共同体は、収縮す
る。私たちは、誕生するだけではなく、死を迎えることが出来るのである。共同体、それ
らは開きっぱなしではない。
コーラは呼吸する。花の開きと萎れにも似て、愛の磁場によって瞬時に延長された共同
体は、その都度一回性の意味の場を形成し、開き、そして、閉じる。共同体とは概念では
なく、システムでもないのだから。贈与の情熱と、多分あるがままの存在の要請によって、
保持されるそれはひとつの狂気なのだ。全体主義の錯誤は、こうして厳密に回避される。
記憶もなく、土地もなく
間主観的に開かれる共同体、わたしたちには、無数の記憶が潜伏するはずだが、共通の
歴史、憶えておかなければならない記憶などひとつもない。語るもの、わたしとは、国家
に属さない(或いは国家に属する)、個人ではない(或いは個人である)、誰でもない(あるいは
170
大野一雄の舞踏譜においては、「死海」がたびたび重要な象徴を担う。
「血で描く」として赤いインクで記された言葉。「うんうんとうたっていた」(オノ・ヨーコ)意味作用を
行わないまま、原初の嗅覚を鳴らして。
171
56
固有名を持つ)のだから。私は罪を犯したし、犯された、あるいはその観念を全く持ち得な
い。降り積もった民族間の憎悪と殺意。約束された土地、聖地を巡る闘争。それらは、忘
却の彼方で、可逆的に語られうる幾多もの歴史を内包し、起源を解体されてたゆたう。聖
地は偏在し、事件は解体する。
主体の後に誰が来るのか
重要なのは答えを得ることではない。記憶を消失しつづけながら対象の光に射ぬかれてシ
ャッターをきる、中平卓馬の切断面の「偶然」を「偶然として必然化する」172ような力が共同
体において働くかぎり、全体性のモメント、共同体への希求は問いを発し続けるのだ、「途
方もない」生命への直観が、他者との間にある驚きや眩暈、その到来に人を駆り立てるかぎ
りにおいて。
砂漠の熱風、或いは再び海へ
「論理/感性」の区別を解体した、ソシュールの発見を厳密に引き継ぐ限り、棄却されたポ
エジーが再び招来するのを誰も拒み得ない。単子化された意味が摩擦し合い、熱の過剰に
崩れおちる砂漠の名において。外へ。或いは、量子化された多数の意味の持続が潜伏しせ
めぎ合う、棄却されたポエジーの海への回帰。内へ。身体の思考は、旅をするよりも先ん
じて混ざり合う、風景の一部と化す、未来完了の旅、それが開かれてある時の。
「唯一スピノザの神のみが、「自然」とその厳密な等価性によって、この矛盾〔場なき場とし
ての神〕から逃れる。
(中略)神アルイハ自然は、このアルイハによって、同じ一つの物の二つ
、 、 、 、 、 、 、
の名を言表するだけではなく、むしろ、この物それ自体がその外部たる内部を持つことを言表す
る。これによりスピノザは世界を最初に思考するものである」(
『世界の意味』)
172
岡本太郎「写真論」
57