2013年度 - 新潟大学人文学部

新 潟 大 学 人 文 学 部
歴史文化学主専攻プログラム
2013年度
卒業論文概要
【日本史】
二階堂 裕美
采女についての一考察..................................... 3
野股 春奈
日本古代の国史編纂についての一考察 ....................... 4
藤ノ木 明梨
日本古代の賤民について ................................... 5
丸山 早百合
古代国家における忌部氏の役割 ............................. 6
丸山 桜起
光仁天皇擁立の背景....................................... 7
栗原 愛実
日本中世前期における遊女の実態 ........................... 8
児玉 庸子
室町・戦国期大和国における領主権力の構造 ................. 9
―大和国人越智氏とその一族を対象として―
斎藤 由美
織豊期上杉氏の分国支配 .................................. 10
―羽黒派修験清順の動向からみる出羽三山宗教権力支配―
酒井 宏章
豊臣期上杉氏の家臣団.................................... 11
―知行宛行状の署判者の検討を中心に―
早福 史
戦国期上野国由良氏の権力構造 ............................ 12
―交渉にみえる取次を中心として―
福島 明子
『保元物語』の成立年代とその背景 ........................ 13
高木 愛
長岡藩の財政改革をめぐって―天保期を中心に― ............ 14
保苅 麻菜美
近世後期長岡藩の割元と地域社会―上組の割元を対象に― .... 16
中村 聡志
都市青年団組織化をめぐる一考察 .......................... 18
―神戸市における青年団を事例として―
小林 夏生
戦時期における朝鮮人の兵員動員政策について .............. 19
―志願兵制度を中心に―
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
佐藤 優果
本土空襲と住民意識の変化―新潟市を対象として― .......... 20
野村 拓哉
20 世紀中期における女性団体の活動について ............... 22
渡辺 航
昭和期陸軍の青年将校について ............................ 23
【アジア史】
池村 由佳
植民地期朝鮮における普通学校日本語教科書について ........ 25
田中 亜依
新潟県送出の満洲移民について ............................. 27
和田 舞子
黄真伊伝承の変遷......................................... 28
【西洋史】
成田 圭哉
中世カスティーリャ王国におけるユダヤ人認識と 1492 年の追放令
........................ 30
近藤 恵
古代エジプト社会における人身供犠 ........................ 31
駒形 友昭
古代エジプトにおける労働者組織 .......................... 32
永島 花琳
パピルス第 55001 番の制作意図をめぐって .................. 33
山嵜 聖子
ディル・エル=メディーナにおける女性の地位 ............... 34
―財産相続を中心に―
土佐林 桃子
古代ギリシアにおける女性嫌悪 ............................ 35
岡部 智夏
ギリシア社会と女神アテナの象徴性 ........................ 36
江川 正徳
ローマ帝政期の帝国と地方統治 ............................ 37
―帝政前期の都市を中心に―
清水 沙織
フランスにおけるゴシック建築の特質 ...................... 38
須戸 好美
聖母戴冠図像に関する考察 ................................ 39
中野 翔太
17 世紀スイスの独立と三十年戦争 ......................... 40
高橋 麻衣子
キリスト教におけるヴィジョン図像の考察 .................. 41
―<聖アントニウスの幻視>の図像分析を中心として―
蔵見 勇輔
18 世紀プロイセン王国における軍隊と社会 ................. 43
白井 友美
フリードリヒ大王の統治における理念と現実 ................ 44
齋藤 一馬
19 世紀前半のバイエルンにおける宗教政策 ................. 45
後藤 聖也
ナチズムとセクシュアリティ .............................. 46
中荒井 聖史
戦後ドイツにおける東方国境問題 .......................... 47
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
采 女 についての一 考 察
二階堂 裕美
本稿の目的は、大化前代から律令制下にか
られることから、大化前代の采女はニイナメ
けての采女制度の変遷を検討し、采女の性格
の儀礼において食膳奉仕に携わる存在であ
についても再検討を加えることである。
り、采女の姦が厳罰に処されることも采女の
第一章では、采女の管理という面から采女の
神事への関わりによるものであるというこ
変遷を考察した。律令制下の采女は采女司に
とを指摘した。律令制下になると采女は後宮
よって管轄され、他の宮人たちとは名帳の管
職員令の最下層に位置づけられ、下級女官と
理や考課の面に置いて異なっていた。采女司
しての性格が強くみられる。特に天平十四年
には、令制以前に采女の統括に当たった伴造
(742)には恭仁京遷都等に伴い後宮職員の拡
氏族である采女臣氏が深く関わっており、令
充が要求され、采女が毎郡一人貢進されるこ
制以前の負名氏的な性格が残ることを指摘
ととなり、采女が労働力として捉えられてい
した。また、采女の資養に関して、改新詔の
た事がわかる。しかし職名としての采女は水
采女条の規定を采女本人と従丁従女を含め
司・膳司に分配され、令制以前のように食膳
た粮と見、大化前代の采女の資養は采女肩巾
に奉仕する采女の姿が窺える。また、采女は
田と改新詔の規定による資養が併存してお
大嘗祭の中心儀式である「神鐉親供」に参加
り、それぞれ用途が異なっていたということ
し、大嘗殿の内陣に参入して神鐉を供進する
を論じた。天武十一年(681)の采女の肩巾停
のは采女のみであったことから、采女の本来
止を受け、淨御原令において肩巾田が廃止さ
の役割が食膳奉仕であり、その役割は女官と
れる。そのため采女は当初歳役の庸によって
しての性格が強くなる律令制以降において
のみ資養されていたが、采女貢進氏族らの反
も残っていくということを指摘した。
発により慶雲二年(705)に采女肩巾田が復活
采女は、律令制下においても、資養や管理の
する。しかしそれ以降は国司によって采女田
面だけではなく、食膳奉仕という役割の面で
が管理されることになり、采女の資養も律令
も大化前代からの性格を残していたという
体制に組み込まれるということを論じた。以
ことを述べた。そして、律令制下采女が律令
上の検討から、采女の管理方法は律令機構に
制度に組み込まれ女官としての性格が強く
組み込まれながらも、令制以前の性格も残し
なっても、律令制解体期、定数が削減され以
ていた事を指摘した。
前の采女とは大きく変化しても、大嘗祭等の
第二章では、采女の性格の変遷について考察
神事において食膳に奉仕するという本来の
した。大化前代の采女史料には新嘗の月に采
役割は後世まで残っていくことを明らかに
女が天皇の食膳に奉仕するというものが見
した。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
日 本 古 代 の国 史 編 纂 についての一 考 察
野股 春奈
古代日本では勅撰の正史として六国史が
報を確認できる名籍などは必須であり、民部
編纂され、編纂史料と編纂過程という面から
省所有の公民の名籍は多用されたと考えた。
六国史の編纂について解明する研究がなさ
第二章では、国史編纂が撰国史所で行われ
れてきた。しかしこれまでの研究では、国史
たことを論じた。また、国史の上表文や序文
の記事から表面的にみえてくる素材史料に
に見られる撰国史所の構成員を考察し、民部
注目し、記事からは直接みえない様々な編纂
省所属者が多く見られるという特徴を挙げ、
史料とそれを用いた編纂過程について触れ
それには公民の名籍の所有が関係したと考
られてこなかった。本論では、編纂史料の内
えた。それ以外にも構成員の所属官司は素材
容の事実検証の過程と、その過程と関連させ
史料の保管官司と一致しており、素材史料の
た国史の編纂史料及び編纂過程について考
保管官司の所属者が撰国史所に配属される
察した。
傾向があると論じた。また、構成員の中心的
第一章ではまず、国史編纂の素材史料につ
メンバーは太政官所属者であり、太政官の案
いて考察した。国史編纂には基準となる基礎
文群が基礎史料であることと関係すると考
史料があったと考えられ、それには外記日記
えた。
や、内記記録が相当すると論じられてきた。
第三章では国史記事を数点挙げ、その記事
しかし本論では太政官が諸司と交わした行
の編纂過程を具体的に考察し、史料の事実検
政文書の案文群が国史編纂の柱となる史料
証を含む国史編纂の流れを示した。事実検証
であったとする遠藤慶太氏の論を踏まえ、律
のための史料も含めやはり太政官の保管史
令国家の史料の保管と太政官の保管史料に
料が多用されていると考えられ、基礎史料と
注目した。太政官は行政文書や国史記事に多
の関係性を論じた。諸国に関する記事では、
くみられる詔勅案も保管していたことを確
民部省保管史料が多用され、その他の記事で
認し、太政官が保管する案文群が国史編纂の
も第一章で考察した保管官司の史料が多用
基礎史料であったと考えた。
されていると考えられ、国史編纂過程は撰国
基礎史料以外にも素材史料には様々な公
史所の所属者と関連させて考える必要性を
文書があり、本論では記事そのものの基とな
論じた。
る史料と、基となる史料の内容の事実検証に
本論では素材史料の保管官司と撰国史所
用いる史料を対象として保管官司を考察し
の所属者にみられる関連性という視点から、
た。それらの多くは太政官で保管され、その
基礎史料と編纂過程を考察したが、これらは
他の保管官司には主に民部・式部・兵部・刑
国史記事からは表面的にみえない編纂史料
部・中務省が考えられた。国史編纂過程とし
や過程を考察して明らかにできたものだ。国
て、太政官の案文群を基礎史料とし、その他
史編纂を考える上では、記事にみえない裏側
の史料は太政官の案文群に挿入される流れ
の編纂作業も重要であり見逃してはならな
を想定した。また、事実検証には特に個人情
い部分であると考える。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
日 本 古 代 の賤 民 について
藤ノ木 明梨
本論文では官奴婢と寺奴婢を中心とした
くつか確認できるため、律令賤民制の画期は
日本古代の賤民支配の変遷について論じる。
浄御原令にあると結論付けた。
官奴婢支配を考える上で重要になるのは官
第二章では律令時代の賤民支配について
奴婢の労働形態や放賤従良である。これらに
論じた。官奴婢は今良として従良された後も、
関する研究は、詳細な研究がなされているが、
所属官司にて雑役や臨時の際の人手として
奴婢との類似性が数多く見られる品部・雑戸
宛がわれ、官奴婢とほとんど変わらない扱い
との関係についての詳細な研究ほとんどな
であった。それが律令制の崩壊つまり当色婚
く、研究の余地がある。
の崩壊や今良の定額化・番上を通じて徐々に
一方、寺奴婢も品部・雑戸との類似点が数
変化していったことを述べた。一方、寺奴婢
多く見られ比較が欠かせない。さらに、
『続日
は簡易雑用だけでなく、高度な技術を伝習す
本紀』では寺奴婢に限って授爵記事が数点見
る担い手でもあるため賜爵の機会が生じえ
られ、そこからも国家が奴婢をどのように支
たとした。さらに従良ではなく賜爵されるに
配しようとしたのか議論する必要がある。
止まるのはあくまで寺奴婢の所有権は寺奴
第一章ではまず、律令時代の賤民支配を考
婢を管理する寺にあり、国家としての支配が
える前に、律令賤民制の成立過程を確認した。
寺奴婢にまで及んでいるわけではなかった
『日本書紀』を主な史料とし、成立までの過
からであると結論付けた。
程を大化以前、大化後、天武~持統期(浄御
第三章では、品部雑戸と奴婢の類似性につ
原令)の三つに区分に分けた。大化以前に見
いて注目した。まず、品部雑戸の所属や労働
られる奴(ヤッコ)は、使者や奴軍として現れ
形態などについて確認した後、官奴婢と品部
主人に近侍していることが分かる。制度とし
雑戸の隷属性は番上型労働体系によるもの
ての身分規定はされていないがもともと隷
だと考察した。さらに雑戸と今良はどちらも
属性が強いことを指摘した。次に大化以後奴
部姓を名乗る点に注目し、従良された今良は
婢とされたものは、階級的には奴隷視されて
雑戸と同様に畿内に編附され、朝廷に番上し
いたが、律令制ほどはっきりした良賤区分は
たことを明らかにした。また、品部雑戸と寺
行われておらず、奴婢の把握段階にあるとい
奴婢との比較では、どちらも高度な技術を伝
えるとした。最後に、天武から持統朝におい
習させるのに都合のよい母体であったこと
ては律令賤民制のさきがけとなる条文がい
を指摘した。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
古 代 国 家 における忌 部 氏 の役 割
丸山早百合
中臣氏と同様に、宮廷祭祀に関わってきた
重視されていたことが明らかとなった。
忌部氏に関する研究は、忌部氏の実態に迫る
第三章では、忌部氏が中心となって行って
基礎的な研究や、大殿祭からの見地の研究な
いた大殿祭に関して確認した。
『延喜式』所収
ど、多岐にわたっている。本稿では先行研究
の祝詞は、
『古語拾遺』の別巻として収録され
を補強し、斎王の祭祀にも関わっていた忌部
た祝詞をそのまま引用している可能性を指
氏の国家内での位置や、役割を考察した。
摘した。また、大殿祭の式次第を確認し、天
第一章ではまず、律令制以前の忌部氏の役
皇の常の住居であった仁寿殿を重視して言
割と『日本書紀』内での忌部氏の位置づけを
祝いでいたことから、天皇の生活に密接に関
確認した。
『日本書紀』の記載から明らかとな
わる空間を重視して言祝いでいたことを指
る忌部氏の職掌として、奉幣、古京の護衛、
摘した。
大嘗祭との関わりが挙げられる。また、神代
第四章では、斎宮内での忌部氏の役割に関
上第七段第三の一書は忌部氏の手によって
して検討を加えた。まず、斎宮のシステムに
編纂された可能性を指摘した。
関して確認し、斎宮寮は常置の官ではないこ
第二章では、律令制度下の忌部氏の職掌を
とを前提に論を進めた。斎宮組織の飛躍的拡
中央忌部氏と地方忌部氏とに大別して検討
大の契機となった養老5年(721)、伊勢奉幣を
を加えた。令に定められた忌部氏の職掌は祈
行った忌部宿祢呰麻呂が、後に斎宮頭となっ
念・月次祭での班幣、践祚大嘗祭での神璽鏡
ていることから、忌部氏が斎宮と大きな関わ
釼の捧持であった。伊勢奉幣使としての役割
りを持っていた可能性を指摘した。また、
『延
も担っており、
『続日本紀』慶雲元年(704)11
喜式』から、忌部氏は斎王の衣服や寝殿の雑
月条で、鏡を奉じた意義について確認した。
物などの斎王の生活に近しいものを賜って
「皇太神宮儀式帳」の、慶雲元年条と同じく
いたこと、大殿祭が行われていたこと、食法
鏡を幣帛として奉る山口・木本祭の記事を引
が定められていたことなどが分かり、忌部氏
用し、この2祭の後に伊勢で新宮が造営され
が斎宮内でも祭祀に関わっていたこと、斎王
ることを指摘した。慶雲元年条の奉幣も、藤
との関わりが密であったことを確認した。
原宮造営の際の奉幣であったとみることが
以上本稿では、忌部氏が大殿祭以外にも新
できた。
宮造営に際して祭祀を行っていたこと、斎宮
地方忌部氏に関しては、阿波、紀伊、出雲
組織内で祭祀に携わっていたことを明らか
の忌部氏に関して検討した。これらの忌部氏
にすることができた。宮廷内外に関わらず、
に共通する点として、
『日本書紀』神代上で三
国家的に重要視される祭祀には必ず忌部氏
国の忌部氏の祖がみられることである。地方
の姿があったため、忌部氏は、天皇と関わる
に居住する忌部氏も『日本書紀』編纂時から
祭祀の中に必要不可欠な存在であった。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
光 仁 天 皇 擁 立 の背 景
丸山 桜起
光仁天皇は天智天皇の孫にあたり、壬申の
中でもとりわけ聖武・光明の信頼を得ていた
乱以降約100年間続いた天武天皇系皇統の断
ことが明らかとなり、それが第一章で見た光
絶後に即位した。従来の研究における擁立の
仁自身への信頼へ繋がっていったことが明
背景は天武系を中心とした視点が主であり、
らかとなった。
光仁自身や天智系の人々の動向から擁立の
第三章では光仁と氏族・土地との関係を考
背景をとらえたものは少ない。したがって本
察した。まず光仁母方の紀氏は、称徳朝での
稿では光仁や父の志貴皇子、兄弟姉妹の経歴
勢力の衰えを挽回するため称徳崩御時に藤
を中心に考察し、これまであまり注目されて
原永手に近づき、永手を中心とする光仁擁立
こなかった擁立の背景を明らかにした。
に影響を与えた可能性がある。次に縣犬養氏
まず第一章では光仁自身の経歴から擁立
を見ると光仁皇后の井上内親王の母方であ
の背景を考察した。即位前の動向を見ると、
り光仁の夫人も輩出しているが、それは河内
孝謙朝以降にそれまでほとんど無かった叙
国を本拠とし、光仁父の志貴を養育したと考
位が頻繁に行われるようになり、光明・孝謙
えられる志貴県主との隷属関係を持ってい
(称徳)に関わる特別な任官が増えるなど、
たことが影響しているようである。最後に土
明らかに出世のペースが上がっている。即位
地所有を見ると、越前・伊賀への天智系の
後は『公卿補任』を見る限り前体制(称徳朝)
人々の支配力を光仁も所有し、それを聖武・
とほとんど人事を変えていない。よって光仁
光明が仏教政策に利用していたと考えられ
は元々光明・孝謙(称徳)から厚い信頼を受
る。
けていた人物であり、それが擁立に影響した
第四章では光仁の婚姻関係を考察し、高野
可能性が高いことを明らかにできた。
新笠との結婚がまだ光仁自身に皇位継承候
第二章では光仁の親族から擁立の背景を
補としての意味をもたらすものではなかっ
考察した。まず父で天智皇子の志貴皇子は幼
たこと、逆に井上内親王との結婚は志貴以来
少のため壬申の乱に参加しておらず、乱後は
の天智系の存続の確実性に注目した「皇位継
自身の家系の存続のために天武朝への忠誠
承候補を生みだす最終手段」としての意味合
を誓った。その結果叔父の天武から厚い信頼
いを持っており、この頃から光仁の擁立が意
が得られ、その後の天武系天皇からも志貴の
識されていたことを明らかにした。
子孫が信頼されるようになった。その例が光
以上のように光仁の擁立の背景は、父の志
仁の兄湯原王と姉海上女王で、
『万葉集』の記
貴が天武系への忠誠の道を切り開いたこと
述から湯原は聖武の行幸に同行した宮廷歌
からその家系の存続の確実性を天武系の天
人、海上は聖武夫人であったとみられる。ま
皇たちが頼るようになったこと、それに付随
た志貴の曾孫にあたる市原王は造東大寺司
する氏族たちとの関係からなる複合的なも
の長官を務めるなどして光明から信頼を得
のであったことを明らかにした。
ていた。以上のように光仁の親族は天武系の
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
日 本 中 世 前 期 における遊 女 の実 態
栗原 愛実
日本中世前期、各地には遊女や傀儡女が定
いから、遅くとも十二世紀初頭には、
「あそび」
着していた。特に、西国の遊女は水辺に、国々
が「遊女」と「傀儡女」の呼称に分化したこ
の傀儡女は宿に定着していたことで有名で
とを論じた。第二節では、
『梁塵秘抄口伝集』
あった。先行研究では、各地における遊女集
を中心に扱い、青墓出自の傀儡女による今様
団の形態と長者、貴族社会ないし在地勢力
の正統性の判断基準(女系実子相伝、本拠地
(武士、寺院)との関係性、卑賤視の有無な
青墓への居住)を再検討した。その結果、従
ど遊女の社会的な地位、遊女の呼称の変遷な
来認識されていた判断基準ではなく、本拠地
どの観点から遊女や傀儡女の存在形態を明
において伝承された今様の流派に依拠する
らかにしてきた。そこで、本稿では東海道の
こと、一種のステータスとして今様の本拠地
宿に定着した傀儡女に着目し、東海道におけ
出自であることが重要視されていたことを
る呼称の変遷や、傀儡女の生業であった今様
論じた。
の伝承の正統性に関して検討していく。
第二章では、鎌倉期における傀儡女に着目
第一章では、平安末期・鎌倉初期における
した。十三世紀初頭から東海道の傀儡女が遊
傀儡女に着目した。第一節では、当時、水辺
女・遊君と称され、十三世紀中頃までに段階
の遊女と国々の傀儡女は共寝と歌謡を共通
的に呼称が移行したこと、十三世紀後期には
の生業としながらも、明確に区別されていた
遊女・遊君という呼称が一般化したことを確
ことをふまえ、
「あそび」から「遊女」
「傀儡
認した。従来、その要因は今様の衰退に伴っ
女」へ呼称が分化した経緯を検討した。泊や
て芸能的側面が低下したことと考えられた
宿など、交通の要所に定着していた遊女や傀
が、さらに、
『體源抄』の記述をふまえ、傀儡
儡女は、ともに歌謡と共寝を生業とすること
女が自発的に遊女の歌謡を習得して遊女に
から、京では総じて「あそび」と認識されて
転身したことを推測した。このような二つの
いたと考えられる。しかし、平安中期以降、
理由から、十三世紀を通して段階的に傀儡女
地方から遊女や傀儡女が京へ上るようにな
という呼称が遊女・遊君へ変化していったの
り、拠点とする地域や歌謡の歌い方などの違
だと考えられる。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
室 町 ・戦 国 期 大 和 国 における領 主 権 力 の構 造
―大和国人越智氏とその一族を対象として―
児玉 庸子
本稿の目的は、室町・戦国期の大和国人と
堤氏は越智氏の「若党」となることで勢力強
その一族の領主権力を検討することで、大和
化を行っていたこと、及び堤氏の私反銭から
国における戦国期権力の成立について明ら
は越智氏と同様に「戦国領主」が行う領形成
かにすることである。
への志向がみられることを明らかにした。第
大和国は、興福寺が実質的な守護及び荘園領
三節では、在地領主としての堤栄重について
主を担っていた地域として従来より特殊視
検討し、堤氏は興福寺の権力を利用し、在地
され、その下に支配された大和国人は、
「戦国
勢力との関係を良好に築くことで権力強化
領主」化を果たせなかったという消極的な見
を図っていたことを論じた。
方がされてきた。そのような大和国特殊観を
第三章では、明応二年に越智氏より上位の
見直す研究もあるが、十五世紀の大和国人の
官途を受領した「越智若党」岸田氏について、
在地支配、及び大和国人の勢力強化に加担し
越智氏だけでなく他国勢力との関係にも着
た「若党」の権力形成については未だ検討さ
目して検討した。第一節では、文明十六年時
れていないため、本稿で検討を行った。対象
の岸田氏は、越智氏の意向を見極めて独自に
は、越智氏とその一族である。
「計略」を行う人物であったことを明らかに
第一章では、文明期にみられる越智氏の私
した。第二節では、山城国一揆前後の岸田氏
反銭について検討した。第一節では、越智氏
は、国人層の要求を受けて他国守護勢力の動
と「越智代官」による私反銭について検討し、
向に影響を与えていたことを論じた。第三節
「越智代官」が持つ反銭賦課徴収権は、興福
では、岸田氏は越智惣領家栄亡き後に越智家
寺ではなく越智氏の権限から引き継がれた
の動向を左右するほどの権力を持つように
ことを明らかにした。第二節では、越智氏が
なったことを明らかにした。
持つ反銭賦課徴収権はどのように行使され、
本稿では、十五世紀末における越智氏の在
「越智若党」に引き継がれたのかについて検
地支配からは「戦国領主」化への志向がみら
討し、越智氏の私反銭からは、
「戦国領主」が
れるが、越智氏の下で私反銭を賦課していた
行う領・家中形成への志向がみられることを
「越智若党」堤氏・岸田氏も、越智氏と同様
論じた。第三節では、越智氏は独自に反銭免
に興福寺や他国守護勢力の権力を利用して
除権も行使していたことを明らかにした。
独自に勢力強化を図っていたことを明らか
第二章では、
「若党」が持つ権限やその権力
にした。大和国人と「若党」は、ともに上位
形成について、
「越智若党」堤氏を取り上げて
勢力の権力を利用することで「戦国領主」化
検討した。第一節では、堤一族について検討
を目指した存在であったと認識することが、
し、明応期の堤氏惣領栄重は越智氏と同等の
室町・戦国期大和国の領主権力の在り方を明
権限を有していたことを明らかにした。第二
らかにする上で重要であると考える。
節では、堤栄重の権力形成について検討し、
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
織 豊 期 上 杉 氏 の分 国 支 配
―羽黒派修験清順の動向からみる出羽三山宗教権力支配―
斎藤 由美
本稿では、織豊期上杉氏の出羽国庄内支配
の慶俊と最上氏一族の宥源が総別当と執行
の実態を宗教統制の観点から解明すること
職を兼帯したのに対し、清順は執行職に就い
を目的とした。
ていなかったことを明らかにした。第二節で
織豊期の分国支配について、知行政策や都
は、羽黒山内で清順が行った活動について検
市支配に関する研究は盛んに行われている
討し、清順は景勝や兼続一家の祈祷を行い、
が、地域の宗教権力との関わりについての研
羽黒山に出仕しない鳥海修験に叱責を加え
究はほとんどない。豊臣期の出羽国庄内地域
るなど、上杉氏の出羽での宗教統制において
では、直江兼続の祈祷師であった清順が羽黒
重要な役割を担っていたことを論じた。
山の支配権を掌握したことが民俗学の先行
第三章においては、上杉氏米沢移封後の清
研究から明らかになっているものの、清順に
順の動向を検討した。第一節では、清順と当
ついては文献史料に基づく検討が不十分で
山派修験大善院との争論の過程を検討し、近
ある。よって本稿では、歴史学の方面から清
世前期米沢藩の修験道支配権は、江戸幕府の
順の動向を再検討することで、上杉氏の出羽
対修験道政策と米沢藩内での争論との二重
三山宗教権力支配の実態を明らかにするこ
の要因により、寛永期には羽黒派の清順から
とを課題とした。
当山派の大善院へと移行したことを論じた。
第一章においては、清順が上杉家に取り立
第二節では、清順の米沢藩士としての実像を
てられた背景を検討した。第一節では、清順
検討し、還俗後の清順は天文や神道など多様
の出自について検討し、清順が下野佐野の出
な学問分野に通じる知識人として、米沢藩内
身であることを論じた。第二節では、景勝期
で公私ともに重宝される人物であったこと
の上杉家と佐野家との関わりについて検討
を論じた。
し、景勝期には上杉家中に佐野家出身の家臣
以上の検討から、上杉氏の出羽国庄内支配
が複数存在したことが明らかになった。この
では、直江兼続は地域の有力な宗教権力であ
事実から、直江兼続は謙信期から続く上杉家
る羽黒山にも、自らが下野佐野から取り立て
と佐野家との人的な繋がりを利用して清順
た清順を総別当として送り込むことで出羽
を取り立てたと推測されることを論じた。
三山の宗教権力統制を行っていたことが明
第二章においては、豊臣期の羽黒山内での
らかになった。しかし清順は総別当と執行職
清順の動向を検討した。第一節では、羽黒山
を兼帯できかったため、上杉氏の羽黒山支配
内での清順の地位について検討し、清順は上
は武藤氏・最上氏のものと比較すると不完全
杉家中において羽黒山の管理者として位置
であったと考える。
づけられたことを論じた。また、武藤氏一族
10
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
豊 臣 期 上 杉 氏 の家 臣 団
―知行宛行状の署判者の検討を中心に―
酒井 宏章
本稿の目的は、豊臣期上杉氏の家臣団にお
年間にかけて庄内支配、文禄二年(1593)以
いて慶長二年(1597)の知行宛行状の署判者
降越後支配、文禄五年(1596)から佐渡支配
である河村彦左衛門尉・山田喜右衛門尉・窪
にも関わっていたことが分かった。河村が越
田源右衛門尉に注目し、三名の動向を明らか
後・庄内・佐渡支配を担う多忙な人物であっ
にすることである。
たことから、実質的に山田と窪田二人で知行
慶長二年知行宛行状の先行研究では主に
宛行状を発給できた場合が二回あったと考
知行宛行状の目的や意義について論じられ
察した。第二節では従来検討されてこなかっ
てきた。署判者については直江兼続の直臣で
た史料を中心に山田と窪田の動向を検討し
ある河村・山田・窪田三名による連署という
た。その結果、山田は財政担当の仕事の一つ
指摘はあるが、それ以上署判者に注目した検
として炭の算用も行なっていたこと、窪田は
討は行なわれていない。黒印状の研究で三名
直江兼続の指示を受けて一時的に越後から
の黒印が揃わない知行宛行状の存在は指摘
京へ武器を送る役割も担っていたことが分
されているが、それ以上の検討はなされてい
かった。
ない。よって、本稿では知行宛行状の中で三
第二章では会津・米沢時代の三名の動向を
名の黒印が揃わないものが何点あるのかと
検討した。河村は先行研究の通り慶長八年
いう署判の問題について越後時代の河村・山
(1603)まで佐渡で奉行として佐渡支配を担
田・窪田の動向と共に検討することを課題と
っていたが、奉行在任中一度江戸へ行ってい
した。また、直江兼続の家臣団の先行研究で
た可能性があった。山田は越後時代同様知行
は河村・山田・窪田が財政担当の実務官僚で
政策等の財政を担当しており、知行関係の文
あることや会津時代の河村は佐渡支配を担
書を発給する場合山田単独で発給する場合
っていたことが明らかにされている。しかし、
と他の人物との連署で発給する場合が見ら
会津・米沢時代の山田の動向は断片的にしか
れた。更に徳川家康の側近の平岩親吉や大国
分からず窪田の動向は管見の限り明らかに
実頼の直臣と思われる安国寺玄松とも交流
されていない。よって、会津・米沢時代は山
があり、江戸や京に行っていた可能性があっ
田・窪田の動向を中心に検討することも課題
た。窪田は直江から働きを評価され、会津・
とした。
米沢時代にそれぞれ一回知行を加増されて
第一章では越後時代の三名の動向を検討
いた。
した。第一節では知行宛行状十七点の中で山
以上から、慶長二年知行宛行状の中で例外
田・窪田のみ捺印しているものが二点あるこ
的に山田と窪田の二人の署判と河村の名前
とを明らかにし、河村がなぜ捺印していない
で発給できた場合が二回あったこと、そして
のか慶長二年までの河村の動向を遡って検
三名の新たな動向が明らかとなった。
討した。その結果、河村は天正末期から文禄
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
戦 国 期 上 野 国 由 良 氏 の権 力 構 造
―交渉にみえる取次を中心として―
早福 史
本稿の目的は、戦国期上野国由良氏の権力
渉を担っていた人物の中に、
「関東幕注文」に
構造を、交渉の取次を担った家臣についての
「同心」と記載されている人物である、朝原
検討を通して明らかにすることである。
式部少輔、小此木左衛門二郎の二名の名が見
従来の由良氏の権力構造の研究は、世良田
られることを指摘した。これまで、
「同心」は、
長楽寺の義哲が記した『長楽寺永禄日記』を
由良氏との関係は「ルーズな保護・被官関係」
中心として検討がなされてきたといえる。従
にあり、由良氏とその上部権力との関係如何
来の研究は、由良氏とその上位権力との関係
によって常に離反し、また再服属を繰り返す
や、
『長楽寺永禄日記』にみえる由良氏が担っ
存在と位置づけられてきた人物であった。こ
た裁判という点に重点が置かれていた。
のことから由良氏は永禄8年の段階において、
そこで、本稿では、由良氏の家臣が、由良
「同心」の存在をその権力の中枢にとりこん
氏と他地域の領主との交渉の際にどのよう
でいたということを論じた。
な動向を示し、由良氏権力とどのように関わ
第二章においては由良氏との関係の深い
っているのかを明らかにすることを一つの
長楽寺義哲について検討した。第一節におい
課題とし、由良氏の交渉の一端を担った家臣
て、義哲の戦況把握の方法について分析した。
の動向から由良氏の権力構造について検討
義哲が戦況把握をしていると確認すること
を行った。また、世良田長楽寺の寺僧である
のできる47例の事例の検討から、義哲は、複
義哲の動向についても検討の対象とし、『永
数の情報収集の手段をもち、時に自らの情報
禄日記』にみる由良氏の交渉の際の義哲の動
収集ルートから戦況などの情報を手に入れ、
向からも由良氏の権力構造について検討を
それを由良氏に報告するという役割を果た
行った。
していたことを論じた。また、第二節では、
第一章では、由良氏と他の領主の交渉に携
『長楽寺永禄日記』をもとに義哲が行った交
わった人物にはどのような人物が見られる
渉の相手を分析するとともに、由良氏権力の
のか検討した。第一節では、由良氏と他の領
中で義哲が外交顧問としての役割を果たす
主の交渉の中で、藤生紀伊守、横瀬国広、金
存在であったことを論じた。
谷筑後守、新倉筑前守、林伊賀守が、由良氏
以上の検討から、由良氏権力を構成してい
の交渉に関わっていたことを論じた。これら
た人物を明らかにした。由良氏権力内には
の人物は由良氏権力の中枢に組み込まれて
「同心」や外交顧問としての役割を果たす僧
いたと考えられる。第二節では、由良氏の交
の存在があったのである。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
『保 元 物 語 』の成 立 年 代 とその背 景
福島 明子
本稿は保元元年(1156)年に実際に起きた
確認した。また関連史料から『六代勝事記』
保元の乱を題材とした『保元物語』の成立年
の下限について考えた。
『六代勝事記』が具体
代を歴史学的に解明することを目的とする。
的に登場する史料としては金沢文庫古文書
『保元物語』の成立年代について、武久堅
593号「長井貞秀書状」と『本朝書籍目録』が
氏と弓削繁氏は類似する詞章を持つ『六代勝
挙げられる。
「長井貞秀書状」は永井晋氏によ
事記』が執筆された貞応3年(1223)以降に
る貞秀の経歴復元から乾元元年(1302)から
成立したと国文学の方面から述べている。歴
嘉元2年(1304)の間に出されたことを確認
史学の方面からは山田雄司氏が崇徳院怨霊
した。また書状の内容から現在は伝わっては
譚の基となった後鳥羽院怨霊が跳梁してい
いないものの、金沢文庫には『六代勝事記』
た仁治3年(1242)年に近い時期に成立した
が所蔵されていたことが分かる。そのため先
としている。また山田氏は自身の論を補強す
行研究と他の書状からどの時期に所蔵され
るため『六代勝事記』と『保元物語』の先後
たかについて考えた。その結果金沢貞顕が六
関係を基にした武久氏の研究を挙げている。
波羅探題南方として上洛した時期、中でも
現時点で史料不足から本文の比較だけでは
『たまきはる』など『六代勝事記』と似た仮
その先後を考えることは不可能である。
名で書かれた書籍が書写された乾元元年
第一章においては、武久氏と弓削氏の先行
(1302)から嘉元元年(1303)の間に所蔵さ
研究を参考に『六代勝事記』と『保元物語』
れた可能性を指摘した。
の詞章を比較し、両者の類似点を抽出した。
また金沢文庫と関係があったと考えられ
それら類似点を偶然と言うことはできず、結
る『吾妻鏡』の編纂についても考えた。五味
果『六代勝事記』と『保元物語』は何らかの
文彦氏による『百練抄』と『吾妻鏡』の体裁
形で関わりあっていたと考えることができ
が類似しているという指摘から貞顕が上洛
ることを確認した。先後関係は史料不足のた
時に『吾妻鏡』編纂のために史料を収集して
め不明であるとしても、両者が近い時期に作
いたことを明らかにした。そこから益田氏に
成されたことは間違いないだろう。そこで
よる『六代勝事記』仮託説を否定し、
『吾妻鏡』
『六代勝事記』の成立年代の下限について考
が成立した13世紀から14世紀以前には成立
え、両者が確実に存在していたであろう時期
していたこと、さらに『本朝書籍目録』の永
について次章で考察した。
仁年間成立説の妥当性を証明し、『六代勝事
第二章においては、
『六代勝事記』自体の研
記』は永仁年間には確実に存在していたこと
究史として『吾妻鏡』の先後関係から『六代
を述べた。以上から『保元物語』は永仁年間
勝事記』の仮託説を唱える益田宗氏の研究を
前後には存在していたことが分かった。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
長 岡 藩 の財 政 改 革 をめぐって―天 保 期 を中 心 に―
高木 愛
本論は、越後長岡藩における財政改革から
ないことを明らかにした。これより、宝暦七
藩が領民を巻き込もうとする過程を明らか
年に領民を巻き込む藩政の動きが見られた
にし、天保期の財政改革の位置付けを行うこ
が、その中心は藩と家中レベルが担っていた
とを目的としたものである。長岡藩では災害
と論じた。
の多発、藩主の幕府要職歴任などの理由から
第二章では、天保改革開始直後に五か組
収支が不安定であり、財政再建が断続的に行
(上・北・西・栃尾・河根川)割元から出され
われていた。天保改革とは、文政十三(一八三
た十一カ条の願いと、それに対する藩の対応
〇)年から五ヶ年計画で行われた財政改革を
から両者の関係について検討を行った。割元
指す。
たちは、郷中で困っていることを、改革の趣
長岡藩の財政改革を扱った研究は、割元が
意をもって解決してもらいたいと願い出て
宝暦期までに担った役割の変容を明らかに
いるが、その内容は藩財政に直接関係のある
した東谷智氏のものがある。割元の役割を藩
ものとは言えない。割元には、郷中の願いを
が活用する契機となったのは宝暦七(一七五
藩主の利益と結び付け、自分たちの願いを通
七)年の訴状箱設置であったとし、この政策
そうとする意図があったと考える。一方で、
を「藩・家中レベルの財政再建から、在地レ
藩はこの願いを改革期間中にある程度聞き
ベルをも含む新たな政策への転換を目指し
入れていたことから、天保の財政改革は藩と
て行われた政策」と位置付けた。天保期の財
家中レベルに留まるものではなく、領内の問
政改革を扱った研究は、天保初期の財政状況
題を広く解決しようとするものであったと
等を明らかにした佐藤賢次氏や長岡藩儒秋
論じた。
山景山の藩政改革構想に注目した小川和也
第三章では、藩がより積極的に天保改革に
氏の研究がある。しかし天保改革研究は思想
領民を取り込もうとした事例を検討した。藩
的側面からの研究が主である。そのため藩と
は天保二年に五か組の割元に対して財政状
領民の関係について、より政治的側面に注目
況を公開し、その上で割元たちの意見を求め
して論じた。
た。天明六年に比べ、この時期の藩は領民の
第一章では宝暦七年から天保改革までの
意見を重視し積極的に取り入れようとして
訴状箱設置に注目し、藩が政策に領民を取り
いたことが分かる。また、このような動きが
込む段階の変化を明らかにした。第一節では、
起こった理由については奉行の意見書を用
東谷氏が明らかにした宝暦七年の訴状箱設
いて検討し、財政を領民にも公開するべきだ
置を検討し、百姓・町人までを対象に広く財
とする考えは家中の中で広まっていたこと
政再建策を募っていたと示した。第二節では
を示した。
天明六(一七八六)年に家中のみを対象に行
以上のことから天保の財政改革の時期、割
われた財政状況の公開・意見の募集について
元は藩政への介入、藩は領民を藩政に取り込
検討し、藩政の動きの中に領民が含まれてい
むという意図を持って関わり合っていたこ
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
とが分かった。両者の動きが藩の政策や領内
天保期以前には見られず、この時期が長岡藩
の個々の制度に影響を与え、改革が進行して
政にとって大きな転機となったと結論付け
いったと言える。このような形の財政再建は
た。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
近 世 後 期 長 岡 藩 の割 元 と地 域 社 会
―上組の割元を対象に―
保苅 麻菜美
本稿では、長岡藩上組の割元を対象に地域
両方含まれていたと指摘した。第二章第二節
運営の実態に迫ることを目的とした。長岡藩
では、騒動で問題とされた組の財政について、
の割元は、藩との関係で論じられることはあ
割元がどのように関与していたか検討した。
るが、組や村の役人との関係を含めた地域運
上組には「万米」という蔵掛が管理する組の
営の実態に踏み込んだ研究はされてこなか
米と、
「万通」と呼ばれる「万米」の帳簿が存
った。そこで本稿では、天保十年に上組の割
在していた。
「万米」は諸入用のために集め、
元が一斉罷免された上組騒動に着目して地
年貢米の過不足の調整、才覚米や借金の返済
域運営の実態を検討した。溝口敏麿氏によっ
という組の支出にも使われていたことを明
て上組騒動の展開が明らかにされているが、
らかにした。割元は年貢皆済のため「万通」
この騒動が起こった原因である割元や諸役
による調整や、借金返済のため「万米」の売
人の具体的な動きについては解明されてい
り払いを行うことで組の財政に関与した。割
なかった。よって、上組騒動では何が問題と
元は蔵掛の承認のもとで組財政に関与し、不
されたのかという観点から実態の検討を試
足分が出ると割元と蔵掛で米の買い入れを
みた。上組騒動で筆頭身分として処罰を受け
行って対処をしていた。しかし、村側の監査
た割元金子祐左衛門に焦点を当て、騒動に対
役である改役に報告をせずに、割元と蔵掛の
する割元側の弁解から分析を行った。
間で不足分の調達をしていたことから、割元
第一章第一節では、対象である上組の概要
が関わる組財政の動きに不透明な部分があ
を整理した。上組騒動で問題となった組や村
ったことが分かった。第二章第三節では、金
の役人の職務や選任方法について確認した。
子祐左衛門の居村、村松村の普請についての
第一章第二節では、金子家の居村、村松村に
問題を検討した。ここでは、本来村松村で負
おける庄屋としてのあり方を検討した。東組
担するべき普請の人足を、組の村々に村請と
の庄屋であった六代目金子祐左衛門は、西組
して負担をかけたことが問題となっていた。
の添庄屋にもなるよう村方から願い出があ
この負担をした村々が年貢を皆済できない
ったことから、割元を勤めるほか居村両組に
状態となった一方、村松村は村役人だけでは
力を持つ庄屋という側面もあることが分か
なく百姓までも不正な取り込みを行ってい
った。
た。このことから、割元の居村と負担をした
第二章第一節では、上組騒動に対する藩の
村々との間で経済的な差が生まれていたこ
裁許から祐左衛門の処罰内容を検討した。処
とを指摘した。
罰の理由は、組の財政に関する問題と村松村
以上の検討から、割元が組の財政に関わる
の普請に関する問題であった。上組騒動は組
際に村側にとって不透明な米金の動きがあ
を対象とする問題と村を対象とする問題が
ったこと、割元の居村とその他の村では実際
16
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
に経済的な矛盾が生まれていたことを明ら
したと考えた。
かにし、そのような問題が上組騒動で表面化
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
都 市 青 年 団 組 織 化 をめぐる一 考 察
―神戸市における青年団を事例として―
中村 聡志
これまでの青年団の研究に関する多くの
青年の動きを明らかにした。そして、昭和6
ものは農村の青年団や中央政策の動向を主
(1931)年の満州事変の勃発を契機として、
な対象にしており、都市青年団に関する研究
軍事援助活動が増加していくことを確認し
はそれと比較して極めて少ない。それは、都
た。
市青年団に関する史料が少ないことに一つ
第二章では、神戸市における青年団活動の
の要因であると考えらえる。また、従来の研
中でも、社会奉仕活動と軍事的訓練を取り上
究では都市青年団の成立過程や種々の都市
げその展開の考察を行った。青年団における
問題への対応などに重点が置かれ、青年団の
社会奉仕活動としては、治安維持活動や衛生
活動の実態を捉えるという点では不十分で
活動といったものが多く行われた。その背後
あった。そこで、本稿では神戸市の青年団を
には、衛生組合や地域の有力者からの支援が
事例としてまずその成立過程を明らかにし、
あったが、とくに単位青年団は小規模なもの
神戸市連合青年団が発行していた団報を中
が多いため、事業を持続するためには支援が
心にその活動の実態や果たしていた役割を
欠かせなかったと考えた。また、衛生活動の
考察する。
中でも、乳剤散布奉仕事業などは当時神戸市
第一章では、まず大正11(1922)年に設立
で頻発していた伝染病への対策であったこ
された神戸市連合青年団の成立過程を確認
となどから、青年団は都市問題解消の一端を
し、市連合青年団を頂点として、単位青年団、
担っていたと考えた。そして、軍事的訓練で
その中間に位置する旧学区毎に設立された
は、昭和7(1932)年の第一回防空演習活動を
区連盟の概要および活動を概観した。行政の
中心に見ていった。そこでは、行政および各
補助金を得て、豊富な財源をもとに比較的充
団体からの支援を受けながらも青年団がそ
実した活動を展開した市連合青年団の一方
の中心的な役割を果たし、成功に導いたこと
で、各区連盟は財源が不足し事業の拡大が見
で市民の青年団に対する認識を向上させる
込めず、単位青年団では人員も財源も限られ
一つの契機となったことを明らかにした。そ
ていたために小規模なものにならざるをえ
の後、青年団は防空活動等において、その中
なかったと指摘した。また、青年期の社交と
心的な活動を担っていくとともに、全体の活
修養という青年団の本来の目的にとどまら
動の中でも軍事的訓練に比重を高めていっ
ず、さらなる発展的な活動を展開するという
た。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
戦 時 期 における朝 鮮 人 の兵 員 動 員 政 策 について
―志願兵制度を中心に―
小林 夏生
本稿は戦時期に朝鮮において施行された
た。以上から、1940年以前においては、志願
兵員動員政策の展開の分析を通して、現地の
兵制度を皇民化政策の一環として認識して
朝鮮軍及び朝鮮総督府と内地の軍中央にお
いた朝鮮軍と朝鮮総督府が主体となって推
ける認識の違いとその変化について論じる
進していたことを明らかにした。
ことを目的とした。
第二章では、1940年以降の志願兵制度の展
従来の研究では、朝鮮人に対する兵員動員
開と徴兵制への移行について考察した。まず
の主たる政策である志願兵制度と徴兵制に
第一節では、1940年に朝鮮軍内に徴兵業務を
ついて施行過程とその展開が検討されてき
担当する兵事部が新設されたことについて
た。徴兵制については戦局の推移といった国
述べた。続く第二節では、1940年以降の志願
内外の情勢が制度の制定・展開に影響を与え
兵制度の展開について考察した。その中で
ていたことが指摘されており、この視点から
1940年度における制度の拡大に着目した。こ
の検討が行われている。しかしながら、志願
れについては軍中央の介入の可能性を指摘
兵制度については以上の視点からの検討が
し、1939年前後における朝鮮周辺の戦局の緊
十分に行われているとは言えない。そこで志
迫化を挙げて、軍中央が志願兵を大陸戦略に
願兵制度の施行過程と展開に着目して考察
おける兵力としてみなしたことが1940年以
した。
降の制度の拡大につながったのではないか
第一章では、制度の導入から施行後二年間
と推察した。また、この頃から志願兵制度の
の志願兵制度の展開を見ることで初期の志
実質的な主体が朝鮮軍から軍中央へと移っ
願兵制度の位置づけについて考察した。まず
ていったのではないかと考えた。第三節では、
第一節では、制度の施行に至るまでの過程を
徴兵制への移行とその展開についてまとめ
追った。そして志願兵制度は朝鮮軍と朝鮮総
た。以上から、志願兵制度の推進主体が朝鮮
督府が軍中央に働きかけた結果施行された
軍と朝鮮総督府から軍中央に移ったことに
ものであり、一方で軍中央は朝鮮人の兵役問
伴い、制度の性格も皇民化から兵力動員へと
題に関しては消極的な姿勢であったことを
変化したことを明らかにした。
論じた。さらに、先行研究でも指摘されてい
よって志願兵制度は、初期の段階では現地
るように朝鮮軍と朝鮮総督府は志願兵を皇
の朝鮮軍と朝鮮総督府主導の下で皇民化の
民化の推進力として捉えていたことから、志
一環として進められていたが、朝鮮をとりま
願兵制度は皇民化政策の一環として位置づ
く戦局の推移の中で軍中央によって兵力と
けられていたことを確認した。第二節では、
して位置づけられたことで1940年を契機と
制度施行後二年間の展開を見ることで、初期
して制度のあり方が変容していったものと
の志願兵制度は朝鮮軍と朝鮮総督府主導に
結論付けた。
よって実施されていたことものと結論づけ
19
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
本 土 空 襲 と住 民 意 識 の変 化
―新潟市を対象として―
佐藤 優果
太平洋戦争における B29爆撃機の本土空襲
月までの間には三次にわたって建物の強制
は、昭和19(1944)年11月から本格化した。最
疎開、また終戦直前には強制人員疎開も実施
初は軍事施設、軍需工場や輸送港湾施設に対
された。第二章では、本土空襲の激化に伴い、
する爆撃であったが、昭和20(1945)年3月10
新潟市ではどのように空襲は必至であると
日の東京大空襲から焼夷弾による大規模な
考えられ、戦争が身近になっていったかを個
無差別絨緞爆撃に変わり、その後大都市が
人の日記をもとに検討した。まず、先行研究
次々と焼き払われ、大きな被害を受けた。6月
で新潟市民にとって大きな影響を与えたと
からは攻撃目標が中小都市に移り、また沖縄
されている東京大空襲前後の記述を比較検
戦以後は艦載機による攻撃も加わって、空襲
討した。その前後での記述の内容にあまり変
は一段と激化していった。卒業論文では、そ
化は見られず、空襲に関しての記述もわずか
のように本土空襲が激化していく中、新潟市
であったため、新潟への空襲の危惧は感じて
民はどの段階で市への空襲は必至であると
いなかったと考えられる。4月に入り、新潟が
感じ、戦争がどのように身近になっていった
空襲されるといった噂が流れ始めるが、それ
かを検討した。第一章では、まず戦時期にお
でも空襲に対する備えは不十分であり、また
ける新潟の位置、新潟への空襲、また、それ
その後頻繁に噂が流れるが市民の対応は冷
に対する県・市の対策について見ていった。
静なものであった。その後、長岡市が空襲を
戦争末期、新潟港は満州や朝鮮半島から、本
受けると、日記や新聞からは空襲前後の情報
土決戦に必要な食糧をはじめとする物資を
が多く見られる。新潟市がまもなく空襲を受
運び入れる重要な拠点となり、また、太平洋
けるという噂が流れ、第三次建物疎開が命じ
側の工場が空襲で破壊されると、新潟の工場
られ、さらに広島・長崎両市に投下された原
の重要性がますます高まっていった。また、
爆が新潟市民を混乱させたことがうかがえ
アメリカ側からも新潟は重要な輸送拠点の
る。そして新潟市への艦載機の攻撃が起こっ
一つであり、さらに工業上も大切な役割を担
たため、市民は強制人員疎開の噂を聞いた段
っている都市であると考えられていた。新潟
階で、正式に知事布告が出される前に市外に
への B29の来襲は、20年4月からはじまり、6
疎開を行うほど冷静さを失っていた。
月までは月2、3回程度の来襲であったが、7月
以上のことから、新潟市民が空襲は必至で
に入り急激に増えることとなった。長岡空襲、
あり、自身の命の危険を感じたのは長岡空襲
新潟市への艦載機の攻撃以外は新潟港への
が大きな影響を与えたと考えた。東京大空襲
機雷投下がほとんどであった。新潟市では東
を機に大規模な無差別絨緞爆撃に変わり、多
京大空襲後から本格的に空襲対策がされた。
くの一般市民が犠牲になったことは新潟市
敵機の来襲が始まった直後の20年5月から8
民にとって衝撃であったが、空襲は大都市が
20
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
受けていたこともあって、先行研究で述べら
受けたことによって新潟市民は大きな衝撃
れているような、新潟市への空襲は必至であ
を受け、戦争がより身近なものとなり、知事
ると考えるまでには至らなかったと思われ
布告が出される前の疎開に至ったと結論付
る。本土空襲の激化に伴って、新潟への空襲
けた。
が危惧されてはいたが、県内の長岡が被害を
21
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
20世 紀 中 期 における女 性 団 体 の活 動 について
野村 拓哉
戦前・戦時中の婦選同盟、そして戦後の新
動き始める。田中キンは市川以外にも、戦後
日本婦人同盟の地方支部である新潟県刈羽
に誕生した女性議員の一人である和崎ハル
支部の活動、及びその中心人物に焦点を当て
とも親交があり、その交流の様子は田中キン
て考察を進めた。同盟の支部についての研究
の夫である田中季次郎の記した当用日誌に
は、管見の限りでは進んでいるとは言い難い。
詳しく述べられている。刈羽支部の誕生の後、
刈羽支部の中心人物である田中キンは、戦前
田中キン、桑野静の両者はそれぞれ県会議員、
から戦後にかけて市川と連絡を取り合って
市議会議員に立候補し、桑野静は見事当選を
おり、戦後においては早い段階で支部の設立
果たしている。刈羽支部の主要メンバーにつ
に動いている。刈羽支部の動向を戦前から戦
いてみると、戦前から戦後にかけて大きく変
後にかけて考察し、それを中央の動向と比較
わることなく推移していることから、ある程
検証することによって、刈羽支部と中央のつ
度の連続性が確認できる。一方で、中央のメ
ながり、そして刈羽支部における戦前から戦
ンバーについては、市川については婦選同盟
後にかけての連続性、非連続性について検証
から新日本婦人同盟にかけて連続して中心
した。
人物となっているが、山高しげりら婦選同盟
第一章では、刈羽支部誕生から終戦までの
の役員に関しては新日本婦人同盟で中心に
流れについて中央と比較しながら考察して
位置しているわけではない。刈羽支部と中央
いる。刈羽支部の表立った活動は昭和7年ま
を比較してみると、役員に関しては支部と中
でであるが、無産女性団体と提携した運動の
央において連続性に違いが生じている。
展開など、その活動については中央の活動に
婦選同盟時代の刈羽支部は中央が解散す
沿った形で運動を展開している。しかし田中
るよりも早い段階で実質的崩壊を迎えてい
キンとともに刈羽支部の中心人物であった
た。戦前から戦後にかけて団体の連続性につ
桑野静が国防婦人会に入会したことで、刈羽
いてみてみると、刈羽支部は団体の構成員に
支部は実質的な崩壊を迎えた。当時の婦選同
大きな変化はないものの、中央では市川を除
盟の方針は戦争反対であり、戦争協力を会の
き中心人物が変わっている。中央の中心メン
方針とする国防婦人会への入会は婦選同盟
バーは婦選同盟と新日本婦人同盟とで違い
と袂を分かつことであった。時代も徐々に戦
が生じており、そこには非連続性が存在して
争協力へと進んでおり、市川ら婦選同盟の中
いる。刈羽支部については、婦選同盟から新
央そして田中キンも戦争協力へと傾倒して
日本婦人同盟にかけて中心メンバーに大き
いった。
な変化が見られないなど、ある程度の連続性
第二章では、戦後における新日本婦人同盟
を確認できる。中央と刈羽支部について団体
の中央と刈羽支部について考察している。昭
の中心メンバーに焦点を当てて連続性、非連
和20年に市川らによって新日本婦人同盟が
続性を見る場合、中央には非連続性、刈羽支
設立されると、田中キンはこれに呼応して、
部には連続性があることが分かった。
新日本婦人同盟の刈羽支部の設立に向けて
22
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
昭 和 期 陸 軍 の青 年 将 校 について
渡辺 航
本稿は、二・二六事件について、事件の主
る程度の期待の念はもっていたものの、しだ
要人物であった村中孝次に注目し、彼の国家
いに軍中央部に対して不信感を抱き、青年将
改造に対する意識の特質とその変容につい
校が革新の先導者としての役割を担わなけ
て検討したものである。先行研究では、のち
ればならぬという自覚を認識していったも
に二・二六事件の主体となった青年将校の一
のと論じた。
団は北一輝の『日本改造法案大綱』を中心と
二章第一節では村中らと軍中央部との間
して結成されたものであるとされながらも、
で開催された懇談会で、青年将校らの革新に
両者の間で国家改造実現のための方法が相
対する意識が真っ向から否定されたこと、ま
違していることから、本来結びつき得なかっ
た昭和9年の十一月事件によって村中が免官
たと論じられている。また青年将校の国家改
処分とされたことによって、青年将校と軍中
造に対する意識はバラバラであったとする
央部との間の対立が明確化されていったこ
研究もあり、北の思想がある程度青年将校ら
とを確認した。また第二節では青年将校から
の指導原理となったとしてもそれが最後ま
の信望が厚かった真﨑甚三郎教育総監が昭
で彼らを統一するものであったとは言えず、
和10年7月の人事によって更迭されたことに
二・二六事件がいかなる考え方のもと起こさ
ついて、この段階で村中は現軍部において革
れたのかについては検討の余地があるので
新へと邁進していく術を失ったものと考え
ある。
た。またこの翌月に相沢三郎中佐が村中の執
一章第一節では村中孝次という人物につ
筆した文書の影響をうけて軍務局長永田鉄
いて述べ、彼が北の『法案』を最後まで独自
山を斬殺したことについて、村中の軍中央部
に解釈していたため、村中は北の影響を受け
に対する反発は、他の青年将校の行動形成に
ながらもその思想を完全に継いでいたもの
も大きな影響を及ぼしていたということを
とは言い難いことを指摘した。また第二節で
確認した。
は一般に北一輝と青年将校の仲介役として
そして三章では二・二六事件について、事
認識される西田税との関係について、昭和初
件後の村中の調書や遺書から、蹶起に至った
期の段階で村中らは彼に影響を受けていた
村中の心理を探った。その中で、村中の考え
としてもその一団がそのまま各種の運動へ
る革新とは国民の精神の覚醒によるもので
と突き進んでいったわけではなかったとい
あり、そのためには現軍部を破壊することも
うことを指摘した。第三節では昭和6年に起
国体護持のためには必然であるという意識
こった三月事件と十月事件を取り上げ、後年
に到達していたことを指摘した。それはすな
村中が執筆した「粛軍に関する意見書」から
わち軍内部を破壊することに始まる国家改
両事件に対する考えを検討した。その中で村
造を意識していたものと言え、そういった意
中は両事件とも軍部が一体となって革新へ
味で二・二六事件は革新へと向かうルートを
と進み、現状打破していくことについてはあ
阻害する障害物を除外するかのごとく行わ
23
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
れた、ひとつの準備段階でしかなかったもの
新へのルートは結果的に天皇や国民に裏切
であると論じた。そして彼らが作り上げた革
られることで潰えていったのであった。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
植 民 地 期 朝 鮮 における
普 通 学 校 日 本 語 教 科 書 について
池村 由佳
1910年から1945年の35年間、朝鮮半島は
正12年(1923年)9月3日に発行された国語
日韓併合を通して実質的な日本の統治下に
読本二期の巻一と大正12年(1923年)9月15
おかれた。この間国語として使われていた
日に発行された巻二を比較・研究した。仮
朝鮮語は朝鮮語へ、日本語は国語へと名称
名遣法は異なるにしろ、完全に一致する内
を変え教授された。本論文では、朝鮮教育
容は2つあり、一致した内容を論文内に掲載
令を大きく3期に分け、各時期の内容の変化
した。その他にも、テーマは一致するが内
について考察した。朝鮮内で使用された教
容が全く異なるものが5つあり、2章よりは
科書だけではなく、同時期に内地で使用さ
るかに増えた。
れていた教科書も使用し、比較しながら考
第3章1節では、昭和5年(1930年)2月5日
察した。朝鮮で使用されていた日本語教科
に発行された巻一を国定第三期と比較・研
書を「国語読本」
、内地で使用されていた日
究した。国語読本三期の巻一は、今まで出
本語教科書を「国定読本」と称し、日本語
てきた国語読本二期や国定読本二期、三期
教育の導入部分である巻一・巻二に絞り考
と違い、冒頭部分に挿絵のみのページが6ペ
察した。
ージもあるというのがひとつの特徴と言え
第二章では、第一次朝鮮教育令前の明治
る。挿絵に描かれている児童の大半はチョ
43年(1910年)2月15日に内地で発行された
ゴリを着用しており、学生服を着ている子
国定読本二期の巻一と明治43年(1910年)3
供は一人いるかいないかである。全面改訂
月5日に発行された巻二と、大正元年(1912
をしたとはいえ、国語読本二期の内容と類
年)12月15日に発行された国語読本一期の
似・一致するものがあることから、少なか
巻一について比較・研究した。日韓併合か
らず二期の影響を受けていると言える。
ら1,2年しか経っていないためか、共通する
第4章では、昭和7年(1932年)12月25日
内容が少なく、部分的に一致していたり重
に発行された国定読本四期の巻一と昭和8年
なる部分があるだけで、完全に一致する内
(1933年)7月14日に発行された国定読本四
容はなかった。しかし、国語読本一期には
期巻二、昭和14年(1939年)3月10日に発行
特徴があり、他の読本には見受けられない
された国語読本四期の巻一と昭和15年
[練習]という項目があった。各単語や文
(1940年)9月30日に発行された国語読本四
章の最後に必ずあり、より自然な日本語に
期の巻二を比較・研究した。四期になると
するために必要だったのではないかと推測
共通する項目が増え、全14個もあった。教
される。
科書内で日の丸が何度も出てきたこと、挿
絵ではチョゴリより洋服や着物を着ている
第3章では、大正7年(1918年)1月31日に
発行された国定読本三期の巻一と大正7年
人が明らかに増え、「内鮮一体」を如実に表
(1918年)4月20日に発行された巻二と、大
す表現が多く見受けられた。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
以上のように、次第に内地と共通する内容が
これらを集め、再検討するということを今後
増えていき、第三次朝鮮教育令以降急激に増
の課題とし、これからも研究を進めていきた
え、同化政策が強く推し進められていく様子
い。
が本論文で明らかとなった。しかし、今回収
集できなかった史料が多かったため、今後は
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
新 潟 県 送 出 の満 洲 移 民 について
田中 亜依
満洲移民とは、1932年から1945年の14年間、
不足問題の解決策ともみなされ、農村経済更
日本から「満洲国」へ送出され、農作業や開
生のため、1938年以降「分村移民」として多
墾などを行った開拓移民のことであり、正式
くの農民が送出された。
には満洲農業移民と呼ばれていた。満洲への
第2章では、新潟県が満洲移民を送出する
移民は、満洲国成立の1932年以降、関東軍と
に至った背景、および送出状況を明らかにし
拓務省の指導の下、組織的に開始され、その
た。新潟県は第1次試験移民から送出を行っ
送出総数は約32万人に上ったといわれる。新
た。また、1936年に「20ヵ年100万戸送出計画」
潟県は約13,000名と全国第5位の送出数を記
として満洲移民政策が国策化すると、新京に
録した。
近い新潟港が満洲移民の送出港となるなど、
本論文では、資料不足などから詳細な研究
新潟県は満洲移民政策にとって重要な役割
がされて来なかった、新潟県における満洲移
を果たしていた。
民について、近年発掘された新潟大学付属図
第3章では、新潟県から1938年に送出され
書館所蔵の「木村家文書」に含まれる満洲移
た第8次朝陽山開拓団の事例を取り上げ、岩
民関係文書を用いて、第8次朝陽山開拓団を
船郡における団員の送出背景および入植状
事例にその実態を検討した。第8次朝陽山開
況、開拓団の構成、入植地における営農の
拓団は新潟県の岩船郡、北蒲原郡、中蒲原郡、
実態を明らかにした。同開拓団は分村移民
佐渡郡、新潟市(現在の村上市、阿賀野市、
の創世期である1938年に送出された開拓団
胎内市、新発田市、聖籠町、佐渡市、新潟市
であり、農林省の農村経済更生計画の指定
江南区)の出身者で構成された開拓団である。
村が多かった岩船郡の町村は、この更生計
「木村家文書」は、この第8次朝陽山開拓団送
画の行き詰まりから、満洲移民を最終手段
出に関する資料、入植後の朝陽山開拓団が作
とみなし、団員を送出した。同開拓団送出
成した概況報告や事業計画書など貴重な史
については、その中心となった荒川郷建設
料を含んでいる。本論文では、これらの史料
協会の設立以前に、岩船郡保内村および平
を用い、岩船郡における満洲移民送出の背景、
林村の有志が満洲移住地視察へ参加してい
および入植の経過、開拓団の構成、入植地で
たことなど、新たな事実が分かった。
の営農状況について考察を行った。
以上、本論文では、新たな史料をもとに第 8
第1章では、国策として打ち出された満洲
次朝陽山開拓団の送出および入植の実態に
移民政策について概観した。満洲移民は日本
ついて明らかにした。しかし、本論文では
の拓務省と満洲国を建設した関東軍によっ
分析しきれなかった史料も多く、さらなる
て起草され、実行された国策移民であり、関
研究が進むこと願う。
東軍ひいては日本にとって、国防の役割を果
たした。その一方で、満洲移民は農村の耕地
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
黄 真 伊 伝 承 の変 遷
和田 舞子
朝鮮王朝時代の女性達は儒教の絶対的倫
物が見られることを述べた。各種説話に共通
理に従い生きていたとされ、女性に対する社
して登場する題材の変遷検討では、6つの点
会的差別と規制が厳しかった。しかしこのよ
に着目し表にまとめ、特に文献の成立時期に
うな男性中心社会に、朝鮮を代表する女流詩
より黄真伊の性格付けや描写が微妙に異な
ファン・ジニ
人として活躍した 黄真伊 (生没年未詳)と
っていることを指摘した。黄真伊の描かれ方
いう名で知られる女性がいた。黄真伊は16世
を時代別に見ると、自由奔放に生きる姿は伝
紀の朝鮮王朝時代中期に、高麗の都であった
承初期の17世紀を中心に登場し、詩才があり
ソ ン ド
松都(開城)で優れた美貌と知性により名を
聡明な姿は18世紀以降を中心に登場してい
馳せた。彼女に関して正史として伝わるもの
る。よって黄真伊の描かれ方は時代によって
がなく実像は不明であるが、数々の説話や彼
変化しており、伝承初期には聡明なことより
女が詠んだ詩が説話資料や詩文集の中に伝
自由奔放な性格がより一層明確に描かれて
わっている。そこで本稿では、朝鮮時代の黄
いるといえる。文献の成立時期により黄真伊
真伊説話の内容紹介と比較を行い、黄真伊説
の描写などが一定でないのは、時代背景や各
話の変遷経緯を検討した。
著者の主観が関係している可能性を述べた。
第一章では、朝鮮時代に成立した黄真伊説
またこれまでの変遷経緯を基に文献間の比
話を含む11種の説話文献の成立の経緯や諸
較を行い、文献の参照関係を検討し、併せて、
本の分類についての紹介と、各文献に含まれ
各種説話に於いての黄真伊の描かれ方につ
る説話の日本語試訳と構成・特徴について考
いてもまとめた。
察を行った。特に、黄真伊説話が収録されて
以上の作業を通じて、黄真伊説話の変遷の
いる多くの文献は、複数の独立した説話から
様相に少しでも近づけたのではないかと思
成っており、全部で17種類の説話に分類でき
う。当時の女性は冷遇され、記録に残され
ることを明らかにした。
るのは稀であったのにもかかわらず、いか
第二章では、各種説話の内容や題材に関し、
に多くの人が彼女を後世に伝えたい人物と
対照表を用いて変遷経緯を考察した後、文献
して捉えていたかを知ることができた。黄
の参照関係について検討した。説話内容の変
真伊が才色兼備であると推定されること
遷検討では、黄真伊説話が先行する説話を引
や、女性の自由がなかった背景がありなが
用したもの、新たに創作した説話、既成の説
らも自由に生きようとした姿勢が人々の心
話をより詳しくしたものなどを加えて変遷
を打ち、文献に残されていったのであろ
してきた過程を明らかにした。また登場が一
う。朝鮮時代に成立した黄真伊説話は、現
度のみである登場人物や説話が多いことを
在韓国で小説、ドラマ、映画、舞台など
指摘し、黄真伊説話には一定のものとして受
様々な形で流布し幅広い展開を見せてい
け継がれていったものがあるが、それと同等
る。日本でもそれらの媒体を通し、彼女を
に受け継がれず独立した説話内容や登場人
知っている人は少なくないだろう。これか
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
らも彼女の伝説が生き続け、一人でも多く
の人の心に生きることを願う。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
中 世 カスティーリャ王 国 におけるユダヤ人 認 識 と
1492年 の追 放 令
成田 圭哉
1492年3月末には王国全土のユダヤ人に対
動が社会の混乱を招いた環境を踏まえる
してキリスト教への改宗か国外退去かを迫
と、審問制設立には異端者の摘発による暴
るユダヤ人追放令が発布された。この追放
動や混乱の鎮圧という両王の意図が存在し
理由として勅令文にはユダヤ人の存在によ
たように考えられる。コンベルソに恐怖を
るキリスト教徒への悪影響が問題であった
与え、民衆間の反感情を刺激したと考えら
と記されているが、この悪影響の除去と共
れる異端審問所の活動に対する両王の対応
にユダヤ人との対立から生じる政治的不安
からは、審問所の活動を優先させた姿勢が
要素の解消が追放令の目的であったとする
伺えた。
説と、宗教的悪影響への対処が一番重要視
第三章では、これまでの状況を受けた両
されていたとする説の二つの考え方が存在
王が最終的に何を優先させた上で追放令を
する。これらの考えは、追放決定主体のカ
決定したかについて、1492年までに取られ
トリック両王が何を重視したかの違いによ
た政策に焦点を当て考察した。同年代の社
るものだと考えられるため、本稿ではユダ
会状況を考慮すると、1480年と1483年の政
ヤ人達に対する両王の政策と認識を再確認
策には、ユダヤ人とキリスト教徒の接触を
していくことで、追放令実行の最終理由を
遠ざけることで宗教的悪影響の除去を狙っ
考察していった。
ただけでなく、両者の接触を減らすことで
第一章では、ユダヤ人や改宗キリスト教
混乱の原因である異端者の発生を防ぐ意図
徒であるコンベルソがキリスト教徒民衆に
が存在したようにも見られた。1480年代後
どの様に認識されていたかを、二つの暴動
半の両王の行動には、これらのユダヤ人・
から分析した。1391年の暴動にはユダヤ人
コンベルソ問題の解決を目指す姿勢が伺
に対する民衆の嫌悪感の存在が見られ、
え、その姿勢が追放令の決定に繋がったと
1449年の暴動にはコンベルソの社会的進出
考えられる。
に対する憎悪の存在が見られ、両暴動の拡
ユダヤ人からの宗教的悪影響の除去と、
大から反ユダヤ人・反コンベルソ感情が民
反コンベルソ感情等から来る混乱の防止と
衆間に浸透していたことが分かった。
いう二つの目的には、両方ともユダヤ人と
第二章では、前章で見た社会状況に対し
の接触を防ぐことで達成されるという共通
て両王がどの様に対応していったのかを、
点が存在した。ゆえに、1492年の追放令に
追放令文等に見られる異端審問制との関係
はこれら両方の意図を達成しようとする考
性から考察した。異端審問制設立の背景に
えが見られており、どちらも優劣付けられ
両王の存在が見られ、先王期からの王権不
ることなく両王によって重要視されていた
安定と15世紀に複数生じた反コンベルソ暴
ことが追放令に繋がったと言えよう。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
古 代 エジプト社 会 における人 身 供 犠
近藤 恵
現代に残る古代エジプトの史料のなかで、
類から考察し、遺体のばらまきは各国で多く
先王朝時代の人身供犠を暗示するような文
見られる作物起源神話の一種ではなく、いけ
献、伝承が複数見られる。もっとも人身供犠
にえの赤毛に注目して儀式で自然の恩恵を
の事例は世界中で確認されており、各地でそ
得ようとしていたというフレイザーの見解
れぞれ重要な意味をもって行なわれてきた。
の裏付けを取った。
古代エジプトの場合史料から第5王朝期には
第3章では実際に行ったことが確認されて
人身供犠を嫌う風潮が確認されているが、そ
いる殉葬、伝説として語り継がれた人身供
れ以降も人身供犠の伝承や儀式は語り継が
犠について、殉葬については王の墓地が国
れている。こうした風潮は古代エジプト特融
内の北のサッカーラと南のアビュドスの2箇
の保守主義によるものとされていたが、本当
所にあることから上下エジプト統一初期の
にそれだけであったのか。本稿では供犠自体
広大な国土で首都から離れた場所にも王の
の解釈や他国における事例などからも供犠
威光を示すために大規模な墓地を築き、王
の意図や目的を探っていく。
の最も身近にいる人々が自分の命と同じく
第1章では、人身供犠の風習が嫌悪されて
らい王の命を大切にしているという王の威
いたとみられる時代にあえて自らのピラミ
信を知らしめ、王位の安全性を保障する機
ッド・テキスト内に食人讃歌を記した第5王
能を果たしていたとみなした。伝説として
朝最後の王ウナスと第6王朝初代の王テティ
語り継がれていた人身供犠の事例は古代エ
について、どういった目的があって記したの
ジプトの王の活力と地の豊穣は共感関係に
かを「食人」という行為の解釈、讃歌の本文
あるという思想に基づき行なわれていた王
の考察、両王の治世の時代背景から王権簒奪
殺しの風習と、農耕民文化に基づいた自然
を狙う周囲の有力者へ対する威嚇とみなし
の恩恵を思うままに得ようとする農耕儀礼
た。
の一種として行なわれていたと考察した。
第2章では歴史的事実の中に起源があると
こうした複数の人身供犠の事例の狙いを
されているオシリス神話のなかで、元来食人
考察し、根本的にそれぞれの死活問題に結び
種であったエジプト人たちに文明をもたら
つく強い願いが背景にあることを確認した。
し、食人の習慣をやめさせたというエジプト
つまり、現代の我々が自らの技術力に頼って
の人身供犠の歴史において重要な転換をも
問題の解決を図るように、古代に生きたエジ
たらしたオシリスについて、オシリスのもた
プト人が神に頼って問題を解決しようとす
らした文明に代表される農耕の起源を探り、
る手段の一つが人身供犠であり、そうした描
神話の中に見られる人身供犠の暗示と思し
写に悲願達成への強い意志をみることがで
き描写について儀式の種類別分類、目的別分
きるといえる。
31
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
古 代 エジプトにおける労 働 者 組 織
駒形 友昭
古代エジプト新王国時代第18王朝(前1550
録の内容、タイトルの変化から、アメンヘテ
年頃~1295年頃)、アメンヘテプⅠ世ないし
プⅣ世による首都移転が行われた第18王朝
トトメスⅠ世の時代に「王家の谷」において、
の一時期、所謂アマルナ時代(前1352年頃~
王墓造営の事業が進められた。墓の造営は古
1336年頃)から、第20王朝(前1186年頃~1069
代エジプト人にとって、極めて重要な意味を
年頃)のラムセス朝時代にかけて、組織の管
有しており、王家の谷を造営した労働者達の
理・運営体制に違いが見られることがわかっ
集合住宅跡が今日「ディル・エル・メディー
た。
ナ」とよばれる村である。このディル・エル・
次に、第20王朝の末まで200年以上続いた
メディーナについては、19世紀末から20世紀
ラメセス朝時代の運営体制下において、労働
初頭以降、イタリアやフランスの調査隊
者組織の構成員と右班・左班という作業班の
(IFAO)の手によって、発掘作業が進められ、
言及から、組織は具体的にどのようなもので
この村の共同体の日常生活を物語るパピル
あり、どのように機能していたのかというこ
スやオストラコンが数多く発見されてきた。
とについて、考察を行った。右班・左班につ
これらの史料は、Černý をはじめ、Janssen
いて言及がある労働者リストの史料の分析
らによって分析され、この村についての基礎
から、王墓造営の作業の各段階において、班
的な考察がなされてきた。しかし、ディル・
自体を解消ないし組換えを行っていたと解
エル・メディーナにおける労働者組織の構成、
釈した。
及び労働の実態についての研究は断片的に
さらに、ラメセス朝時代における労働者組
引用・言及されることはあっても、労働者の
織の日々の具体的な労働の実態はどのよう
包括的な考察は、これまでほとんど行われて
なものであったのかということについて、労
こなかった。そこで本稿では、ディル・エル・
働者の出欠勤の記録などを主な史料として、
メディーナにおける労働者組織と労働の諸
考察を行った。
相そのものに焦点を当てて、彼らの日々の労
以上、検討してきた結果から、アマルナ時
働の記録を主な史料として用い、その組織の
代からラメセス朝時代にかけて、労働者組織
変遷と構成、及び労働の実態について考察を
の管理・運営体制は大きな変化を遂げた。し
行った。
かし、ラメセス朝時代においても、班の言及
まず、ディル・エル・メディーナの労働者
の変化、出欠勤の記述の変化がみられること
組織に関する様々な史料から、アマルナ時代
から、ディル・エル・メディーナの労働者組
からラメセス朝時代にかけてどのような変
織は、これまで考えられていた以上に必要に
遷があったのか考察した。文字史料の量、記
応じて組織を改編していたと考えられる。
32
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
パピルス第 55001番 の制 作 意 図 をめぐって
永島 花琳
パピルス第55001番は古代エジプト第20第
第2章では、パピルスに描かれたイラスト
王朝時代のさし絵入り写本で、その全体の右
から読み取ることができる猥褻な要素、風刺
側3分の1には動物寓話のイラストが、左側3
的要素、神話的要素について、他の史料を参
分の2には人間の男女のセックスを描いた12
照しながら確認していった。それぞれの要素
の場面が、それぞれ描かれている。そしてそ
は互いに関わり合って意味を深めていると
の一見した性描写の露骨さから猥褻物であ
もみられるし、その反対に直ちに関係してい
ると見なされて研究者たちからは敬遠され、
るとは断定できない要素も存在する。猥褻表
19世紀初めに発見されて以来1973年になる
現は風刺の一環であるといえるが、神話的要
まで刊行されていなかった。こうした経緯か
素については古代エジプト人と神々との関
らほとんど研究が進んでいないこのパピル
係を考慮すると、イラストの猥褻さは風刺と
スには、そのイラストの芸術性の高さや、解
いうよりはむしろ親しみのこもったユーモ
釈によって多様な意図を読み取ることがで
アの表現であるかのように感じられる。また、
きる図像たちといったように、注目すべき点
未解決である、描かれた男性の人種について
があまりに多くある。本稿ではパピルス第
も言及したが、圧倒的な資料不足と先に述べ
55001番について、その一見した際に受ける
た論との妥当性から、やはりエジプト人であ
全体の印象のみに惑わされず、その中身一つ
ると見るべきだろう。
一つの要素に注目し、またその相互の関連か
パピルス第55001番は現代の多くの出版物
ら、このパピルスがどのような意図をもって
と同様に、これをどのように受け取り用いる
制作されたものであるのか考察を試みる。
かは手にした者の判断に委ねられるところ
第1章では、パピルスの制作に影響を及ぼ
が大きいのではないかと考えられる。その制
したであろう当時のエジプトの時代背景及
作意図について考えられうるカテゴリのう
び社会の様子と、パピルス第55001番の概要
ち何らかの一つのみに属するとはいえず、か
について述べた。国際社会におけるエジプト
つそのいずれにも属している。つまり、芸術
の力が衰退していくなかで、混乱する社会は
作品、猥褻な書物、ユーモアのための文書、
人々の風刺精神を育んでいった。また、性及
宗教の教義に関わるもの、あるいはより多く
び性表現に関する率直さは第18王朝時代に
の多様な意図を持ったものであるという可
完全に一般的なものとなっており、新王国時
能性全てを含んでおり、作者はそのいずれ
代のエジプト人たちは絵画や恋愛抒情詩に
か・いずれをも伝えたかったのではないだろ
よって豊かに、かつ素直に表現活動を行って
うか。
いた。
33
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
ディル・エル=メディーナにおける女 性 の地 位
―財産相続を中心に―
山嵜 聖子
近年、古代エジプトにおける具体的な女性
次に女性の不動産相続について考察した。
像を見直す研究が多くなされている。以前の
ディル・エル=メディーナでは離婚や死別は
研究に、家や土地などの財産は女性の血筋で
女性にとっていつ起きても不思議なことで
受け継がれていたと考える「女系相続説」が
はなかった。また夫婦の家は夫の個人財産で
ある。この説から女性は男性と同等かもしく
あったため離婚や死別の際に女性は家を出
はそれより優位であったと考えられてきた
ていき、新しく住む家を探さなくてはならな
が、もはやこの概念は適切ではない。そのた
かった。これらのことから父親や親族が女性
め財産相続を通して女性がどのような地位
に不動産を相続していたのは、急な離婚や死
や立場を持っていたのかを明らかにする必
別を見越したものであると考えられる。
要があると考えられる。また扱う範囲をディ
最後に離婚後の女性の財産変化と生活に
ル・エル=メディーナに焦点を当てた。この村
ついて考察した。離婚は姦通が原因のものと
が存在していた時代の歴史背景や村の特徴
姦通以外による原因の場合では離婚の際に
から個人財産の重要性が高いと考えたため
受けとる財産は変化した。また離婚を申し出
である。以上の「女系相続説」の否定とディ
た方は慰謝料のようなものを支払わなけれ
ル・エル=メディーナにおける個人財産の重
ばならなかったが、女性が支払う慰謝料は男
要性から財産相続を通して女性がどのよう
性が支払う金額より少なかった。そして女性
な地位であったのか考察した。
は個人財産を所有しているにも関わらず、離
はじめに、女性の財産相続について考察し
婚や死別後は元夫や周囲の住民による支援
た。村の女性の遺言書から職人の妻や娘であ
がなければ、生活することは厳しいものであ
っても男性と同様に個人財産や夫婦共有財
った。
産の3分の1の取り分を所有し、これらを自由
以上からディル・エル=メディーナにおい
に処理することが可能であったといえる。ま
て女性は男性と同様に財産を所有、相続する
た相続権利や法廷に訴える権利を持ってい
権利を持っていた。しかし離婚や死別、また
た。さらに長男以外の兄弟は男女関係なくほ
その後の生活は男性に左右されることであ
ぼ平等に相続することが可能であった。
ったといえるだろう。
34
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
古 代 ギリシアにおける女 性 嫌 悪
土佐林 桃子
古代ギリシア人は、女性の「邪悪な性格」
の女性を適齢期の女性市民に限定して探っ
が先天的なものと信じて疑わなかった。これ
た。家庭における女性は、男性と金銭感覚が
と関連すると考えられる女性嫌悪は、前700
釣り合っていること、無知であること、家の
年頃にヘシオドスが自らの作品において露
中であらゆる仕事を行うこと、また、家のた
わにしたものが先駆けとされる。ヘシオドス
めに犠牲となることを厭わないことが理想
個人の思想であった女性嫌悪は、後世の作品
と考えられた。嫌悪される女性とは真逆とも
にも見られるようになり、古代ギリシアに浸
いえる女性が、理想の女性とされた。
透するようになった。しかし、女性への実害
第3章では、前5世紀頃のアテナイにおける
があったかは先行研究においてあまり明ら
女性市民、非市民の女性に対する、女性嫌悪
かにされていない。本稿では、文学作品にお
の影響についての考察をおこなった。女性市
ける女性嫌悪の内容を確認すると共に、現実
民については、家庭内において理想の女性の
における女性、主にアテナイの女性に対して
如く働く姿を認められつつも、結婚に際して
どのような影響が及んでいたのかを検証す
軽視される傾向が見られたこと、姦通法では
ることを試みた。
男性よりも不利益が多かったことから、女性
第1章では、文学作品から女性嫌悪につい
は嫌悪される存在というよりも軽視される
て探った。ヘシオドスの詩では、男性に比べ
存在であったと考えた。また、非市民の女性
て女性の労働が少ないこと、その上で女性が
については、売春婦であるアスパシアを取り
男性に依存していることが非難されている。
上げ、彼女が聡明さから尊敬される人物であ
セモニデスの詩では女性を動物になぞらえ
った反面、売春婦という職業や女性に似つか
て酷評する表現が多く見られ、両者とも女性
わない知性により、アテナイの人々から嫌悪
嫌悪が多く表現される作品となっていた。ギ
される人物であったと捉えた。
リシア悲劇の『メデイア』においては、主人
古代ギリシアにおける女性嫌悪は、男性の
公メデイアは女性の恐ろしさを凝縮した人
目から見て労働量が少ない女性に対する苛
物と捉えた。また、作中で語られる「女性論」
立ちから生まれたものであり、女性の怠惰さ
では、女性は普段は臆病で惨めな存在である
や邪悪さなど、女性を否定的に語ったもので
が、状況が一変すると邪悪さが前面に出てく
あった。現実では、古代ギリシア、特にアテ
る存在と語られていたことがわかった。文学
ナイにおいて、時代の流れと共に、女性市民
作品において、女性は否定的に表現されるこ
は嫌悪される存在というよりも軽視される
とが多くあったと判明した。
存在となり、非市民の女性は嫌悪される傾向
第2章では、第1章と対照的といえる、理想
にある存在であったと結論づけた。
35
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
ギリシア社 会 と女 神 アテナの象 徴 性
岡部 智夏
古代ギリシア社会は男性中心・男性優位の
呪術的な要素を持つ母権時代の影響も窺え
傾向を極めて持っていた。だが、その一方で
た。次に、ペイシストラトスの宗教政策にお
神話の中や祭儀においては女神が重要な役
けるパンアテナイア祭の拡大を見て、宗教と
割を担っているものが多くある。卒業論文で
政治の密接な繋がりを確認した。
は、先行研究をふまえた上で、ギリシア最大
第3章では、女神アテナの起源についての
のポリスであるアテナイにおいて守護神と
諸説を史料に基づいて分析する。女神アテナ
して信仰を集めていた女神アテナに焦点を
はオリーヴを人々に与えたこと、アテナイの
置き、男性優位の社会であったアテナイにお
王エレクトニオスを育てたことから、大地と
いて、女神アテナの象徴性をいかに理解すべ
蛇との関連が深いとみなすことができた。こ
きかということを探っていく。
の点はミュケナイ時代の女神にも言えるこ
第1章では、アテナイ社会の男女の生活に
とであるので、両者の繋がりに大きく着目し
ついて整理しておく。まず、市民権を得る過
た。さらに女神アテナの誕生の神話より、男
程や政治制度について概観し、古代ギリシア
性市民の理想像についても言及し、女神アテ
は男性優位であるという通説を確かめた。次
ナの象徴性についての考察を終えた。
に、女性の生活の様子について見ていく。女
第1章、第2章より、アテナイ社会は通説
性は男性と比べてその権利は極めて制限さ
通り男性が中心となっている社会であるこ
れていたのだが、家庭の中においては家事を
とを確認した。だが、女性のみの参加が許さ
取り仕切り、育児に打ち込むというように、
れる祭があるなど、宗教においては母権的な
中心的な役割を担うともいえる存在であっ
影響が見られた。この点をふまえ、女神アテ
た。
ナの起源を見ていったところ、女神アテナは
第2章では、アテナイの宗教について見て
母権時代の女神との類似が見られるミュケ
いく。具体的な例として、女神アテナに捧げ
ナイの蛇女神を前身としていると考えられ
られた祭であるアレフォリア祭とパンアテ
るのだが、後に男性市民によって姿を変えら
ナイア祭を取り上げた。前章に続き、女性の
れ、その権威は高められていったと見ること
生活に着目し、祭儀への参加の様子を見たの
ができる。つまり、女神アテナは、母権的な
だが、女性にとって祭儀は通過儀礼であり、
要素を持ちつつも、父権社会によって取り込
社会の成員としての意識を形成するという
まれた女神なのであった。
作用があった。それと共に女性のみの祭儀は
36
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
ローマ帝 政 期 の帝 国 と地 方 統 治
―帝政前期の都市を中心に―
江川 正徳
ローマ帝国において、都市は帝国の細胞と
れた青銅板碑文を皇帝との関係を誇示する
例えられ、都市が皇帝による支配をいかに受
物として要求していたことがあった。また、
け入れたか、という問題はローマ研究の伝統
都市法はローマの都市制度を提示し、都市に
的なテーマであった。都市と関連して、帝政
変革を迫ったが、一方で都市は、その規定を
後期に「強制国家」に転換し、都市の自治が
都市の実情に応じて変更することができた。
圧迫され、その前提となる現象が帝政前期に
第3章では、都市の都市参事会員、下僚、
現れていた、という説があった。卒業論文で
皇帝礼拝委員について考察した。都市参事会
は、
「強制国家」転換の前提となる現象が、帝
における、帝政前期の「強制国家」論的な主
政前期に認められるか、また都市参事会員、
張は、問題があることが分かった。帝政前期
皇帝礼拝委員、下僚などが、都市を通して、
に、都市では、
「上層民」と「下層民」に階層
ローマ帝国の地方統治にどのようにかかわ
が分かれ始め、帝政後期にはその階層が固定
っていたのかを検討する。
化したと言われてきた。しかし、下僚の書記
第1章では、都市にかかわる帝国政府の公
の事例から、都市の「階層」が流動的であっ
職として、都市監督官と属州総督を検討する。
たことが分かった。また都市参事会員や皇帝
帝政前期の都市監督官の派遣は、
「強制国家」
礼拝委員においても、被解放自由人や「生来
による都市自治への干渉政策の嚆矢である
自由」でありながら社会的にハンディキャッ
と考えられてきた。しかし、都市の自治に介
プを持っていた人々など、さまざまな出自を
入した側面は否定できないが、その自治を補
持つ人々が社会的地位の上昇を果たしてい
完する側面があったことが明らかになった。
た。
属州総督についても、
『プリニウスの書簡集』
以上述べたとおり、帝政前期に「強制国家」
を検討した結果、都市監督官と同じような結
と関連して起きたとされる諸現象は、否定さ
論に至った。また『書簡集』から、皇帝も都
れるか、疑念を抱く結論に至った。皇帝や都
市の統治が安定することを願っていたこと
市監督官、属州総督は、都市の自治に介入し
が分かった。
ながらも、その自治を強化した。一方で、都
第2章では、ヒスパニアの属州バエティカ
市がローマの支配者や都市制度を利用した
の諸都市に付与されたと考えられる、「フラ
こともあった。このように、ローマ帝国の地
ウィウス自治市法」について検討した。
「フラ
方統治は双方向的なものであり、またそれに
ウィウス自治市法」が付与される背景には、
かかわる人々も多様であることが明らかに
属州バエティカの諸都市が皇帝から付与さ
なった。
37
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
フランスにおけるゴシック建 築 の特 質
清水 沙織
ゴシック建築とは、12世紀中期フランスの
は感銘を受け、彼の美意識を踏襲しつつ、各
イル=ド=フランス地方に出現し、欧州に伝
地でゴシック様式の大聖堂建設に励んだと
播していった建築様式である。卒業論文にお
考えられる。
いては12世紀から13世紀に建設されたイル
第三章では12世紀から13世紀に建設され
=ド=フランス地方の大聖堂を取り上げ、中
たフランスの大聖堂をいくつか取り上げ、フ
でもその壁面構成の変遷に着目し、中世から
ランスにおけるゴシック建築の特質を考察
現代まで人びとの心をとらえ続けるゴシッ
した。初期から盛期にかけて、壁面の層の構
ク建築の特質を考察した。
成が四層構成から三層構成へと変化し、外か
第一章ではゴシック建築が成立した12世
らの光をより多く取り込むことが可能にな
紀以前のイル=ド=フランス地方の状況に
った。また、パノフスキーの論をとりあげ、
ついて分析し、ゴシック建築が登場すること
この時代のゴシック建築はスコラ哲学の影
になった要因を考察した。その結果、農業革
響を受けた可能性があることを考察した。
命がもたらした人口爆発により、森林に囲ま
フランスのゴシック建築を分析した結果、
れた農村部から都市への移住が起こったこ
都市の人びとにとっての共生の原理となっ
と、都市の興隆によって力をつけた者たちが
たゴシック大聖堂には人びとの大きなエネ
財力を背景に、他都市と競うように、また自
ルギーが集まり、各地で建設が進められたこ
らの成功と権力を象徴すべく大聖堂建設に
と、シュジェールの美意識が受け継がれ、そ
力を注いだことがわかった。また、ゴシック
の美意識が大聖堂の内部構造の変化に影響
建築は聖母マリア信仰とも結びつき、移住者
をもたらしていったことがわかった。また、
と都市民の共生の原理としても用いられた。
シュジェールの美意識を具現化しようとし
第二章ではゴシック建築誕生の地とされ
た当時の建築家はその都市の状況にも応じ
るサン・ドニ修道院と修道院長シュジェール
た大聖堂を建設しようとして、その際大胆な
(1081頃‐1151)について分析した。ゴシック
構造の転換も恐れていなかったと考えられ
建築には、シュジェールの美しく崇高なもの
る。そのため二つとして同じ構造の大聖堂は
を通して神に至るという考え方が強く根付
存在せず、それぞれが個性を放つ。一つの形
いている。これはサン・ドニの守護聖人聖ド
態にとどまらず、それぞれの個性を放つ様子
ニと同一視されるディオニュシオスの偽書
はルネサンス期の著述家には野蛮なものに
の受けていると考えられている。シュジェー
見えてしまったのかもしれないが、その個性
ルはルイ6世、7世治下において顧問を務める
に当時の人びとがヴィジョンを具現化しよ
など聖・俗の両方において強大な権力を及ぼ
うと工夫した証、ゴシック大聖堂と共に生き
していて、彼が再建したサン・ドニ修道院教
た証を見ることが出来るように思う。
会堂の斬新さに各地の大司教や権力者たち
38
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
聖 母 戴 冠 図 像 に関 する考 察
須戸 好美
12世紀後期に制作されたイール=ド=フラ
分析し、その描かれ方の違いを指摘した。サ
ンスのサンリス大聖堂西玄関中央扉口タン
ンリスではキリストと並び天の国の共同統
パンには、天国で戴冠してキリストと並ぶ聖
治者のように威厳に満ちた姿で玉座につい
母マリア、その下にマリアの死の場面と、死
ていたマリアは、時代が下るごとにキリスト
から復活したマリアを天使が運ぶ場面が描
から冠を授かる従順、かつ受動的な存在とし
かれている。本卒業論文では、サンリス大聖
て描かれている。
堂とそれ以降の大聖堂における聖母戴冠図
第3章では、マリア崇敬の背後にあるマリ
像を取り上げ、なぜサンリス大聖堂ではマリ
アに付与された様々なイメージを、大地母神、
アがキリストと同等に描かれたのか、またそ
エクレシアとの対比論、教理信仰のなかのマ
の後の時代で、なぜ両者が再び対等に描かれ
リアの3つの観点から考察し、聖母戴冠図像
ることがなかったのか、これらについて当時
にみられるマリアの描かれ方が異なる理由
のマリア崇敬の背景やマリアに付与された
を探った。
イメージについて考察し、明らかにしていく
以上のことから、サンリスの聖母戴冠図像
ことを目的とした。
において、マリアがキリストと対等に威厳に
第1章では、聖母戴冠図像の成り立ちをそ
満ちた姿で描かれたのは、エクレシア(キリ
の主題や図像表現の起源から概観した。聖母
ストの花嫁)のイメージを色濃く引き継いで
戴冠図像で描かれているのは、死後復活し、
いたからだと結論づけた。そこには大地母神
被昇天したマリアが冠を授けられる場面で
とも重なるイメージの影響も指摘できる。13
ある。聖母戴冠図像はビザンツ図像の「キリ
世紀以降、神学の深化、発展によってマリア
ストによる皇帝戴冠図」と「Basilissa(本来
はキリストの下位に明確に位置づけられ、ま
はビザンツ皇妃の称号、つまり皇女の装いで
たマリアの謙虚さ・従順さが賛美されるよう
王冠をかぶるマリア)
」が合わさって、12世紀
になった。マリアのキリストに向かう姿勢が
にロマネスク芸術の独自の図像として成立
次第に恭しくへりくだるようになるのは、こ
したものとされている。
うした教理信仰のなかのマリアのイメージ
第2章では、12世紀後半から14世紀のフラ
が確立したことによると考えた。
ンス大聖堂における聖母戴冠図像について
39
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
17世 紀 スイスの独 立 と三 十 年 戦 争
中野 翔太
本稿は、スイスの独立に関して、1499年の
この条項の問題点を分析した。
シュヴァーベン戦争による神聖ローマ帝国
第3章では、三十年戦争後のスイスの動向
からの実質的な独立と、1648年のヴェストフ
をまとめ、宗教戦争や農民・市民と市参事会
ァーレン条約での独立の承認という2段階に
などの行政当局との対立について述べ、さら
分かれていること、そして、これまでの研究
なる調停方法の発展や誓約者同盟の支配の
では、1648年の独立の承認に関して前後の歴
あり方が変化したことを指摘した。そのこと
史状況を踏まえた考察が少ないことを踏ま
に大きな影響を与えていたフランスを初め
え、1648年の独立の承認について、その歴史
とする諸外国との外交関係についてもまと
的意味を明らかにすることを目的とするも
め、傭兵供給のあり方の見直しが進み、フラ
のである。
ンスへの一極集中から、バランスの取れた供
第1章では、三十年戦争以前のスイスにつ
給へと変化を見せ、スイス傭兵の黄金期を現
いてまとめ、1499年の神聖ローマ帝国からの
出するとともに、中立政策の第一歩になった、
実質的な独立を果たした後、スイスがどのよ
とした。
うな歴史を歩んだかを宗教改革とそれに伴
最終的に、ヴェストファーレン条約でのス
う宗派対立に焦点を当て、独立の承認にいた
イスの独立の承認とは、当然ながら、今日で
る前段階について考察した。宗教改革によっ
言うような主権が認められたものではなか
てカトリックと新教の間で争いが起こった
った。依然としてオーストリアの諸権利が留
ことをきっかけに、それまで積み重なってい
保されており、スイス条項自体もオランダの
た経済的・政治的が噴出した。それをフラン
ように、支配地域において、誓約者同盟の最
スなどの外国勢力や誓約者諸邦での調停で
高性を認めるような条文が含まれていない
乗り切り、その際には、傭兵が重要な役割を
ことなどを考慮すると、スイス条項自体は、
演じたこと指摘した。
17世紀後半以降のさらなる自立を用意する
第2章では、三十年戦争中のスイスの動向
にとどまるものであった。しかしながら、ヴ
と、三十年戦争自体への関わり方をまとめ、
ェストファーレン条約によって、神聖ローマ
宗教改革期に生み出された調停方法と体制
帝国では、宗派対立を代表とする諸々の対立
の破綻兆しと新たな調停方法の模索と失敗
を、全帝国を視野に入れた解決方法が奪われ
について考察し、曖昧な調停方法が三十年戦
たのとは対照的に、誓約者同盟では、この条
争後に火種を残したことを指摘した。さらに、
約で、同盟内の問題は、同盟内で解決せねば
ヴェストファーレン条約内のオスナブリュ
ならなくなったことにより、宗派対立の解消
ク条約第6条、いわゆる「スイス条項」につい
や調停方法の発展が見られ、誓約者同盟の自
て考察し、スイスの独立の承認の証とされる
立に果たした意味は大きかった。
40
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
キリスト教 におけるヴィジョン図 像 の考 察
―<聖アントニウスの幻視>の図像分析を中心として―
高橋 麻衣子
17世紀において、<聖アントニウスの幻視
聖人として描かれており伝説の描写はほと
>という幻視図像はスペイン画家たちによ
んど見られない。
く好まれ描かれた。ストイキツァによる幻視
第三章では、<聖アントニウスの幻視>の
についての先行研究は非常に優れているが、
主題を大きく二つのタイプに分類したのち、
この主題に関する分析は十分とは言い難い。
一人の画家が描いた複数の同主題作品を比
本卒業論文では、同じ主題の複数の図像を比
較分析した。二つのタイプとは、
「演劇的な描
較分析することで、なぜ17世紀に<聖アント
写を強調した図像」タイプ、
「2人の親密的な
ニウスの幻視>が急増したのかを考察した。
個人的空間を強調した図像」タイプである。
第一章では、対抗宗教改革という社会的背
前者は、アントニウスと幼児キリストの神秘
景を踏まえ、バロック様式と幻視絵画の特色
の合一の場面を叙述的に、さらに演劇のよう
を見ていき、後の作品に含まれる描写の考察
に大げさでドラマチックに描写している図
に繋げた。
像、後者は、二人の接触を強調した、甘美で
第二章では、まず<聖アントニウスの幻視
濃厚な雰囲気が漂っている図像とした。分析
>という主題の基となった伝説を探った。同
した作品は、バルトロメ・エステバン・ムリ
主題は、アントニウスをめぐる伝説の、出典
ーリョ(1617-82年)の6点、シモーネ・カン
の曖昧な二つの異なったエピソードが混交
タリーニ(1612–48年)の5点である。ムリー
されたものである。一つ目は、アントニウス
リョは、全ての要素を様々に組み合わせるこ
が幼児キリストを見つめ撫でながら深い祈
とで、表現方法を模索していた。シモーネ・
りに没入しているのを他者が密かに垣間見
カンタリーニは、
「神秘の合一」を表現する構
たという伝説、二つ目は、アントニウスの説
図――モティーフの配置や形(接触の仕方、
教中に幼児キリストが書物の上へ降臨した
人物を取り巻く外部要素など)――による表
という伝説である。その結果として、アント
現方法の模索に熱心であった。
ニウスと幼児キリストの仕草や接触の表現
当時、芸術家が人間の情緒を伝えることに
方法、さらに周りに描かれるモティーフなど
習熟することが非常に賞賛されており、神聖
に多様性が生まれた。同主題において、画家
な物語や通俗的な話を視覚化することがそ
は様々な構成要素を用いて描くことが可能
のような習熟を行う良い機会となったとい
である。次に、アントニウスが描かれている
う。17世紀において聖アントニウスの主題が
図像の変遷を、初期の13、14 世紀から17 世
好まれたのは、宗教的統制の他にも、画家た
紀以前まで辿り、その過程で幻視絵画の展開
ちによる表現方法の模索があったためと考
について概観した。同主題が描かれるように
える。画家たちは、同主題図像の構成をパタ
なったのは16世紀後半で、それ以前は一人の
ーン化するのではなく、毎作品ごとに表現方
41
2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
法を変えている。様々な「神秘の合一」の表
ったといえる。宗教的背景と画家たちの意識
現方法がある中で、この主題は、画家たちの
の両方によって、17世紀に<アントニウスの
技巧を示す最適な主題のうちのひとつであ
幻視>図像は急増したと結論づけた。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
18世 紀 プロイセン王 国 における軍 隊 と社 会
蔵見 勇輔
17世紀半ばに常備軍が設立されて以降、プ
地として兵士が住むと同時に彼らは非番傭
ロイセン王国では歴代の君主のもとで軍隊
兵(Freiwächter)として労働力を提供した。
の規模が拡大されてきた。その軍隊は数々の
彼らは都市の夜警や消防、治安維持活動にも
国際戦争で戦闘を繰り広げた。そして、シュ
関わった。このように、プロイセン社会は一
レージエンを巡るオーストリア継承戦争及
部を除き軍隊を支え、軍隊によって支えられ
び七年戦争に勝利したことで、プロイセン王
る社会であった。これは、プロイセン王国が
国はヨーロッパ屈指の軍事大国として名を
軍事大国となる土壌ともなった。また、プロ
馳せることになった。本論文では、プロイセ
イセン軍で多い時に半数を占めた外国人傭
ン王国が軍事大国となった要因を明らかに
兵には、老練で信用に足る兵士がいた一方で、
し、その背景を考察した。
若くて信用のならない兵士も存在した。
第一章では、プロイセン軍の兵力拡大に大
第三章では、プロイセン王国の将校として
きな役割を担ったカントン制度について考
の貴族を考察した。経済的に困窮していたプ
察した。カントン制度導入以前は、軍隊によ
ロイセン貴族が、当初は反発しつつも次第に
る暴力的徴募が行われ、それが農民経済に深
将校団としてプロイセン軍に組み込まれて
刻な影響を与えていた。これを改善するため
いき、その際、将校としての「栄誉(Ehre)」
に、教練期間以外は農村に帰休できるとする
が至上の価値であると強調された。将校の教
賜暇制度が導入され、兵力確保を確実にする
育機関として幼年学校や士官学校が設立さ
ため未成年者をあらかじめ連隊簿に登録す
れたが、あくまで重視されていたのは実戦経
る登録制度が開始された。これにより農民も
験であり、そのようなプロイセン将校が戦場
軍隊生活を受け入れ、兵力の大幅な拡大に繋
で戦闘を指揮し、最前線で戦ったことでプロ
がった。カントン制度は七年戦争後、軍隊の
イセン王国が軍事大国となることを可能と
登録と徴集に地方の身分制的行政機関が介
した。
入したため、免除枠が拡大され徴集される兵
七年戦争の勝利の結果、プロイセン王国は
士の質も悪化した。
確かに軍事大国となった。だが、フリードリ
第二章では、プロイセン王国の兵士と社会
ヒ2世は戦後砲兵の改革を軽視し、従来の規
について考察した。プロイセン王国の兵士は
律と「栄誉」を強調した。そうしたなかで、
多種の兵士から構成されており、それら兵士
平民出身の将校は冷遇された。カントン制度
たちの服した軍人服務規程と日常的な教練
の変化により徴集される兵士の質も悪化し、
により、戦場で斜行陣などの組織的な機動が
プロイセン軍は停滞したまま1806年のイエ
可能となった。さらに、農民は軍隊に対し軍
ナ・アウエルシュテットの戦いを迎えること
事税や騎兵税等の金銭的・物質的税負担や肉
になる。
体労働、逃亡兵拘束義務を負い、都市は駐屯
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
フリードリヒ大 王 の統 治 における理 念 と現 実
白井 友美
フリードリヒ大王が王太子時代に著した
なるべくこなしていた。また、刑事法につい
『反マキァヴェリ』は、彼の実際の統治と矛
ては革新的な改革をしたが、民事法について
盾していると捉えられることがある。つまり、
は刑事法との性質の違いを鑑みて、古くから
王太子時代の理想主義と即位後の現実主義
の慣習を尊重した。
という矛盾である。果たして、彼は自らが主
第3章では、
『反マキァヴェリ』に矛盾して
張したことを王になった途端に放棄したの
いるとして非難された、オーストリアとのシ
だろうか。本稿では、啓蒙絶対君主の代表的
ュレージエンをめぐる一連の争いについて
な人物とされるフリードリヒ大王がどのよ
考察した。オーストリア継承戦争におけるシ
うな理念を持ち、実際にどのような統治を行
ュレージエンの侵略は、オーストリアの国事
っていたのかについて、考察した。
詔書を承認する代償とされたはずのプロイ
第1章では、
『反マキァヴェリ』について考
センのユーリヒ、ベルク両地方の領有が果た
察した。彼はこの著作において、共和政が最
されなかったことから、オーストリアの背信
も自然な政体であるという前提で、最終的に
行為に対する報復として刑罰戦争の要件を
衆愚政治に陥ってしまう危険性を鑑みて、社
備えており、
『反マキァヴェリ』の正戦論に照
会契約論に由来する自己の義務を正しく認
らして十分に正当化されうるものという最
識している啓蒙君主による親政こそが、共和
近の見解を紹介した。
政に優越し得る唯一の統治形態であると結
彼は『反マキァヴェリ』を書く以前の著作
論づけた。また、
『反マキァヴェリ』はフリー
で、ヨーロッパ政界の現状を分析し、その上
ドリヒの理想主義を示しているというのが
で、ハプスブルク家の国事詔書が、本来の選
従来の認識だが、マキァヴェリの正しさを認
挙によって選出されるというルールに反し
めた箇所も度々見いだせる。
て皇帝の位を世襲制にしようとする私心か
第2章では、官僚制と司法改革について考
ら制定したものだと非難していた。また、プ
察した。従来官職競売的な現象が見られた官
ロイセンのユーリヒ、ベルクの領土請求権に
僚の任用が、彼の治世下で実力重視に傾き、
対する圧力についても、この著作で既に記し
大学で学び試験を受けて任用され、研修と実
ており、
『反マキァヴェリ』の執筆時には、こ
地を積むという制度が形成された。しかし、
れらの問題を念頭に置いて叙述したと考え
彼はできるだけ自分の手で統治するという
られる。
考えであったために、重要なことは彼自身が
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
19世 紀 前 半 のバイエルンにおける宗 教 政 策
齋藤 一馬
18世紀終わりから19世紀前半にかけて、ド
成に協力している。次に、バイエルンにおけ
イツの有力諸邦の一つバイエルンにおいて
る宗教団体の活動規則を分析した。それによ
大規模な近代化改革が行われた。その中でも、
ると、カトリック、ルター派、カルヴァン派
大きな権力を持っていた宗教、特にキリスト
の3団体は特権が設けられることが定められ
教に対する政策も重要なものであった。バイ
ている。それ以外の団体では、ユダヤ教には
エルンにおいては、カトリックが特に大きな
特に個別の規定が設けられていた。
勢力であった。どのようにして彼らの世俗化
第三章では、教会など宗教関係者が行って
が行われ、また政府が彼らの活動をどのよう
いた教育を政府がどのように行っていくか、
に監督していくのか、について考察した。
について考察した。まず、公教育の成立につ
第一章では、政府がどのように宗教の持つ
いて分析した。従来宗教関係者が行ってきた
権力を掌握し、世俗化していくのか、につい
教育に政府歩み寄る形となり、19世紀初頭か
て分析した。まず19世紀はじめには領土変更
ら教育に関する改革を行った。当初教育問題
が行われ、カトリック教徒とプロテスタント
は宗教問題の一環として扱われていたが、後
教徒が領土内に混在することとなった。この
に内務省に独立した専門機関が設置された。
ため政府は、信教の自由などを保障し彼らの
次に、初等教育について分析した。就学率を
対立を抑えなければならなかった。次に、具
上げるため、年齢の指定や未就学の罰則が強
体的な政策として修道院の解散と祝祭日の
化された。授業内容も規定され、基本的な読
削減という2つの政策を分析した。また、キリ
み書きとともに道徳教育が重視されるよう
スト教ではなくドイツの象徴としての公共
になった。次に、中等教育について分析した。
建築物、ヴァルハラについても分析した。こ
大学に進学するためのギムナジウムと、自然
れはドイツの偉人を祀る殿堂であり、名は北
科学等を重視する実科学校の2系統の学校が
欧神話、建築様式はギリシア様式で構成され
整備された。また、初等、中等どちらにおい
たドイツの記念碑であった。
ても俗人の教員は増えたものの、聖職者が教
第二章では、宗教家たちの活動と、その活
員であることが一般的であった。
動を監督するための政策について考察した。
バイエルンの近代化においては、特に内務
ドイツの転換点であった1848/49年革命おい
大臣モンジュラの記したアンスバッハ覚書
て、カトリック宗教家ケテラーが活躍した。
と呼ばれる書類群によるものが大きい。彼の
彼は過去の事件をきっかけに宗教家となり、
「聖職者は単なる教会の使用人ではなく、同
その際抱いた国家への不信感から国家では
時に国家の官僚である」という思想が、聖職
なくキリスト教のみが人々を救うことがで
者たちを監督し、また彼らを公の場から排除
きるという思想を抱き、キリスト教団体の結
しなかった根拠として存在している。
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
ナチズムとセクシュアリティ
後藤 聖也
ナチズム下のドイツの社会と文化を研究
聖視のあり方とその目的、政権掌握当初は
している歴史家たちは、ナチズムが性的抑圧
「若者を堕落させる」として禁止した筈のヌ
を行っていたことはまったく明白であるか
ードをいかにしてナチのイデオロギーに組
のように説明してきた。近年、ようやくナチ
み込んだかを論じた。
ズムとセクシュアリティの関係を再考する
第四章では、ナチにおける売春を、禁止さ
研究が登場してきたが、今なおこのテーマは
れた売春、奨励された売春、強制された売春
議論の余地がある。そこで本稿ではナチズム
の三つに分けて考察した。ナチは公的な場か
とセクシュアリティの関係および現在のド
らは職業的売春を追放したが、その一方で、
イツの課題を考察した。
特定区域で売春を存続させるのみならず、一
第一章では、ナチの人種思想によって、どの
夜限りの関係や乱交状態をも黙認した。軍隊
ような形でナチによって、「生きる価値のな
用の娼館や収容所内の売春施設も設けられ、
い命」とされた人々が迫害されていったのか
性行為を通じて労働意欲の向上が図られた。
について論じた。ナチは大衆に向けてドイツ
この売春政策によって、多くの女性が性奴隷
人を優れた人種とする人種観を植え付け、
のごとき扱いを強いられた。
「生きる価値のない命」の迫害を正当化した。
ナチズムは性的抑圧よりむしろ性的開放
多くの科学者たちはナチの人種思想を支持
に結びついていた。ナチにとってセクシュア
し、断種や安楽死に進んで貢献した一方で、
リティと民族再生産の政治的コントロール
生殖行為を積極的に肯定し、優秀なドイツ人
は、優れた人間が優れた子どもを産むという
の遺伝子を残すよう促進した。
ナチが目指した社会を作り出すために欠か
第二章では、ナチによって「生きる価値の
せないものであった。この政治的コントロー
ない命」とされた者の中でも同性愛者に着目
ルにより、同性愛者や売春婦をはじめとした
して考察した。突撃隊幕僚長でありながら同
多くの人間が性暴力や差別の犠牲者となっ
性愛者だったエルンスト・レームが殺害され
た。同性愛者をナチの「忘れられた犠牲者」
る「長いナイフの夜」以前は、男性同盟論の
とみなす動きはヴァイツゼッカーの演説以
ホモソーシャルを肯定する考え方によって
降活発となったが、それ以前はむしろ加害者
同性愛は問題とされていなかったが、「長い
であるとみなされていた。売春政策の犠牲者
ナイフの夜」以降、同性愛は国家の衰弱を招
は戦後にわたってナチの協力者とされ、今な
き、また性病のごとく「うつる」とされ、戦
お名誉の回復には至っていない。近年、よう
後にわたり差別の対象となった。
やくドイツ国内でナチによる強制売春の再
第三章では、
「健全」とされた男女について
認識が進んでおり、彼女らへの公式な追悼と
考察した。ナチの青少年への人種観教育や性
名誉の回復が課題とされるようになってい
教育が若者のセクシュアリティにもたらし
る。
た影響や、ナチの女性・愛・結婚に対する神
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2013年度卒業論文概要
新潟大学人文学部歴史文化学主専攻プログラム
戦 後 ドイツにおける東 方 国 境 問 題
中荒井 聖史
第二次世界大戦後、ドイツの東方国境とし
を確定的な国境線であるとした。西ドイツで
て新たに「オーデル・ナイセ線」が設定され、
は、1960年代以降、避難民・被追放者の統合
1990年に最終確定されるまでドイツ・ポーラ
が進み、ナチス時代の不正が追求され、世界
ンド間の論争の的であった。国境線の変更は
の平和に対するドイツ人の貢献が主張され
ドイツ人の大量追放と結びついており、西ド
たことが契機となり、1970年にオーデル・ナ
イツは1970年にオーデル・ナイセ線を承認し
イセ線は承認された。オーデル・ナイセ線が
たが、その是非をめぐって激しい議論が行わ
承認されると、西ドイツ・ポーランド間で教
れた。
科書対話が行われ、1976年には勧告が作成さ
第1章では、オーデル・ナイセ線の形成過程
れ、西ドイツの歴史教科書の記述に影響を与
と、形成と前後して生じた大規模な人口移動
えた。
について考察した。テヘラン、ヤルタ、ポツ
第3章では、1989年にベルリンの壁が崩壊
ダム会談を経てオーデル・ナイセ線が設定さ
し、ドイツ再統一への気運が高まると、オー
れたが、この時点では暫定的な国境線である
デル・ナイセ線非承認派も再統一のために承
とされた。1944年の夏ごろから、戦況の悪化
認せざるを得ない状況になり、1990年にオー
に伴い、東欧諸国からのドイツ系住民の避難
デル・ナイセ線は確定されたと分析した。そ
が始まり、1945年5月8日にドイツが降伏する
の後2000年代に入り、ドイツ人の追放に関わ
と、ドイツ系住民の追放が行われた。
る施設の建設や展示会が行われたが、これら
第2章では、戦後のドイツにおける避難民・
はポーランド側の反発を招いた。一方、ドイ
被追放者の動向と、オーデル・ナイセ線の承
ツ・ポーランド間の教科書対話は進み、2015
認までの過程、承認が契機となり行われた教
年に導入することを目指して共通歴史教科
科書対話について考察した。戦後の西ドイツ
書の編纂が行われている。
では、「連邦被追放者法」により、避難した
戦後ドイツの東方国境としてのオーデル・ナ
人々も、追放された人々も「被追放者」とし
イセ線は、東西ドイツの統合によって、1990
て扱われた。また、彼らを中心にオーデル・
年に確定されたことになった。ドイツ・ポー
ナイセ線の修正が要求された。一方、東ドイ
ランド間では追放をめぐる政治対立はきび
ツはポーランドとの関係を重視したため、ド
いしものがあるが、対話の努力が続けられて
イツ人の避難や追放に触れることはタブー
いる。
とされ、1950年の時点でオーデル・ナイセ線
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