徳富蘆花:思出の記

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思出の記:現代表記
"c:\data\LOTF\tokutomi\omoidetlr1108.txt"
2001 年 4 月 2 日月曜日 に特別保存
2011 年 7 月 31 日 日曜 に見直し開始
2012 年 5 月 1 日 MS-Word ファイル化
思出の記
電子化作業
徳富蘆花
諏訪邦夫
目次
一の巻 ....................................................................................................................................2
二の巻 ..................................................................................................................................18
三の巻 ..................................................................................................................................36
四の巻 ..................................................................................................................................70
五の巻 ................................................................................................................................100
六の巻 ................................................................................................................................ 114
七の巻 ................................................................................................................................148
八の巻 ................................................................................................................................165
九の巻 ................................................................................................................................184
十の巻 ................................................................................................................................201
巻外 ....................................................................................................................................227
入力者注記:辞書など.......................................................................................................242
辞書 ....................................................................................................................................242
全体の表記に関して ..........................................................................................................256
底本 ....................................................................................................................................258
あとがき:電子化にあたって
諏訪邦夫 .........................................................................259
2
ここから本文
==========
一の巻
三十年前、私をその膝に抱いて桃太郎・かちかち山の話をきかせ、三十年後の今日も銀
嶺を撫して私に世道人心の重んず可きを教え下さった吾父君が、ことし八十の齢を重ねら
れて賀の御祝いにこのつたなき物語を献じます。
“All things are engaged in writing their history.The planet,
the pebble,
goes attended
by its shadow.The rolling rock leaves its Scratches on the mountain:the river,
its channel in the soil;the animal,its bones in the stratum;the fern and leaf,
their modest epitaph in the coal. The falling drop makes its sculpture in the sand
or the stone.Not a foot steps into the snow,or along the ground,but prints,in
characters more or less lasting,a map of its march.”
EMERSON.
古えの君子は、よく十歳にして経国の志を起すの、三歳にして字を知るの、才能が他人
をはるかに凌駕するなどと云うが、凡人の自分ははずかしながら自伝の第一章を飾るべき
ことをもたない。この凡庸な頭に、
「吾」と云うもののぼんやりと宿ったのは、そう、まず
十一歳の時。僕が若し政治家なら、その年はあたかも大久保甲東が紀尾井坂に濃厚な血を
そそいだ年として、大筆特書するのであるが、政治家でないから、その要もない。しかし
兎に角十一歳は僕にとって記憶すべき年であった。その年の春に父は一家を破産し、その
年の秋に僕は父を喪ったのである。
僕の故郷は九州、九州の一寸真中で、海遠い地方。幅一里長さ三里と云うどんぶりの底
見たような谷は、僕の揺籃です。どっち向いても雑木山がぐるりと屏風を立て廻し、その
上から春は碧くなり冬は白くなる遠山がちょいちょい顔を出している。最も高いのは、東
に一峯孤立した高鞍山で、誰が天辺《てんぺん》に乗捨てたのかさながら鞍を置いた様、
雨が降る前には必ずこの岳に雲がかかり、この岳が見え出すと、どんなに降っていてもや
がて晴れる、雲がかかるのも日が射すのもまづこの山が第一で、云わば僕が故郷の気象台
だ。四方の山から混々と湧出づる清水はより集って村人の所謂大川小川の二流となり、十
分に谷を潤している。谷は一面の田──その田を無理に排けて、ここに村が一つまみ、か
しこに家が二三十、
北の隅にあるのが妻籠の里と云ってまずこの谷の都で、
町と云えば町、
戸数は千に足らない。
取出して云う程でもないが、今も忘れ難く思うのは、水の清いのと、稲の美しさである。
たしか東京に積出して鮨米になるそうな。実にその稲葉の艶々と青んで、のびのびと立揃
った所は、都人に見せもしたい。実に見せたいですよ、蛙の声を踏み分けて一村総出の田
植え時、早乙女の白手拭がひらりひらりと風にたなびいて、畦から畦に田植え歌の流れる
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ころの賑わいを。
それから炎天の他の草取りは傍でみても辛いが、
しかし夕立ち! 暑い、
堪らぬと云う下からゴロゴロと鳴り出す。突然大気が冷える。ふっと見ると、黒雲が最早
高鞍山を七分通り呑んでいる。其れがインキの散る様にずうと満天に浸染んで来る。稲妻
がきらり。おびただしい雷鳴二つ三つ。冷たい風が颯と吹いて来ると、やがて大粒の雨が
ぼつり。耳をおさえた太郎作が今だ半町と逃げ延びぬ中に、鳴る、光る、降る、吹く、こ
の世の終わりかと思う程の荒れよう。と思えば忽ちすうと明るくなって、止んだ様だと出
す顔へあがり際の雨二条三条、笠押取って出てみる頃は夕立ちは最早隣村へ逃げ延びて、
隣村はさながら簾越しになっている。大空を真っ二つに割って、東の方はまだ真っ暗雷様
がゴロゴロ太鼓をたたいて居るが西の方は明々と夕日がさして、高鞍山の頂辺と思うあた
りから谷へかけてすばらしい虹が立っている。ああ涼しい、御覧なさい、先ほどまでやや
ひるんで見えた稲がたった一瞬の間に目も醒むる程青々となって、一、
二寸も伸びた様に、
どこを見てもさわさわさわとさざめいては、露を揺りこぼして居ると、独り泡だつ田の水
はどくどく溢れて、小鮒や泥鰌が矢鱈に畦道にはねている。虫送りも済んで、初秋の風そ
よそよと稲葉に音づつる頃は、在は露より明けて、朝日に匂う稲花の美しさ。二百十日、
二十日の厄日も事なく過ぎて、青畳敷いた谷間が、何時しか金色に照って、ここにもさわ
さわ、そこにもさわさわ、収穫の盛りになれば、誰を訪ねても家には居ない、皆田に出て
いる。時雨が降り出すと、夜晩くまで籾ずりの音が聞えて、高鞍山に雪が見える頃は、つ
い先月まで田にあった稲は最早奇麗な米俵になって、庫や納屋に積まれて、東家西隣新酒
に舌鼓うって翌年を祝うのである。
それから水! ああこの様な水が縦横に市中を流れて居たら、東京も莫大の金をかけて
罪人までこしらえずに済んだかも知れぬ。僕の故郷では殆ど井戸の用なしと云って宜い位。
四方の山から源泉混々として絶えず湧出づる清水は、縦横に小さな流をなして、鮎はしる
二つの川に落ち合う。どこに行っても、潺湲《せんかん》、淙々《そうそう》、洒々《しゃ
しゃ》
、混々の音が聞える。非必糸与竹《かならずしもいととたけとにあらず》、山水有清
音《さんすいせいおんあり》で、夏の月夜なぞ、じっと聞いている、実に好い。
京都は水が宜いと云うが、僕は京都より宜いと思う。蘇東披《そとうば》の文ではない
が、どこを掘っても清泉こんこんと湧出づるのである。馬が飲む道側の小溝の水も、女が
洗濯する家の前の細流も、乃至水車がかきまぜる田川の水も、実に氷と冷たく、玉と澄ん
で居るのである。今でも夏になると、僕は一人故郷を忍ぶのです。
水がよくて米がよい。因《そこ》で田舎のくせに酒家が多い。僕の家もそれでも妻籠第
一の豪家であった。
(二)
素生を云えば、南朝の忠臣のそのまた忠臣で、店には酒樽を並べても、奥には歴《れっ
き》と刀剣を飾ってある。僕も六歳の頃までは、木剣をつけて、正月には紋付の羽織袴で、
下男を連れて八幡宮へ参詣するが例であった。端午には鯉幟《こいのぼり》と矢幡《やば
た》で門の前が真っ暗になる位。自分でも自分菊池慎太郎は士族だと威張っていた。
年月と云ういたづら者が、覚えていたいと思う事は容赦もなく忘れさして、何でもない
事ばかり思い出させる。家の柱が無暗に大きくて部屋が薄暗かった事や、破風の所に鳩の
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像を高彫りにしてあった事や、馬鹿勘と云ってそこに二三日ここに四五日と町の豪家を食
い廻って少しその家の米俵が減れば直ぐ他の家に移るのが癖であったが、僕の家ばかりは
一ケ月乃至二ケ月逗留の栄を辱うした事や、一の倉庫には仁王様の風呂桶の様なのが一杯
入って居て、その倉の屋根から恐ろしく大きな榎樹がぬつと頭を出して、夏の頃になると
蝉の声がさながら雨の降る様であった事や、それから家には若い男女が二三十人も居て盆
の月夜に裏庭で白手拭を冠って躍った事や、この様な事はきれぎれに覚えて居るが、さあ
家の全図をひけと云われると一切分からぬ。また、夏の夜に松明ともさして男の肩にのっ
て小さな鐘をたたいて田の虫追に行ったことや、父が朝寝僕も朝寝で──尤も小学校に行
く様になってからは余儀なく早起きしたが──冬の朝九時過ぎに起きて八畳の茶の間に出
ると大きな炉が切ってあって、若い男が半畳もある火斗に山のごとく焚き火を持ってきた
事や、
節分には大叔父が袴をはき澄まして煎り豆をまいて、
「福は内鬼は外」
と云った事や、
僕は毎晩この大叔父に抱かれて寝ては鎮西八郎《ちんぜいはちろう》の話だの山寺の和尚
と小僧の話だの聞いた事や、その大叔父が時々は酒臭くて話半ばにうとうと睡りかけ、や
っと揺り起してもまたむにゃむにゃ、話が曖昧になって、鎮西八郎が鶴を放して猿を退治
して白縫姫を娶ったのか、猿が鶴を放して八郎を退治して白縫姫を貰ったのか一向分から
ないので僕が非常に立腹した事や、
姥が僕を負ぶってどこに行っても「内の坊様の御怜悧と
いったら」と自慢して居た事や、この様な事はウロ覚えに覚えて居るが、その頃の生活を順
序立てて話せと云われたら、それは出来ぬ。先、大抵田舎豪家の独子の生活であったと、
そう云って置かう。
しかしながら、世は何時までも春風和やかに花見て暮らすことは出来ぬ。この谷第一と
云われた僕の家もついに破産に出くわすことになった。僕は委しい事は知らず、また云い
たくもない。しかしながら父があまりやさしかったのが、畢竟一家零落の原因となったよ
うに思う。父は実に腹に一点の毒もない、人を疑い得ない、人に斯うと云われて否と云い
得ない人であった。
已に祖父の没後、
堅吾叔父──僕に昔話をして呉れた大叔父ではない、
僕が大嫌の叔父だ──別家さす時も、叔父が強情に慾ばったので、身代を真二つに割って
与えた上に、家までも建てて遣った位であった。親類他人の差別なく、金を借られて貸さ
なかった例が無く、売りつけられて買わなかった例がない。学校に金を出す、親類に泣き
つかれておびただしい金額の借用証文に連印する、それがまた奇妙にする事は外れ、厄介
はふりかかり、その上に造った酒が二年続けて腐るなど種々な事が高じて、さしもの大身
代も何時か筍の皮剥ぐ様に痩せて来た。いやなべんちゃら者が出入したり、それを母が嫌
ってしきりに父を諌めたり、懇意にする和尚様が父に忠告したり、町の者村の者が僕の家
に出入する毎に空洞になった大木の下通る様な顔をしたり、とにかくその様な事を見聞き
するにつれて、一種不穏の感は悪夢の如く幼稚な僕の頭を圧して居たが、果してカタスト
ロッフが遣ってきた。山を売り、田を売り、道具を売り、酒造を止め、雇い人を減し、果
ては父が最後の賭けとして望みを託した製糸事業が見事失敗して、僕が十一の春家屋敷す
っかり人手に渡し、父と母と僕は町はづれの一軒家─祖父が物数寄に建てた小さな隠宅に
引移った。
不幸は伴侶を好むで、父はその後鬱々として酒ばかり飲んで居たが、その年の秋母や僕
に対して「済まぬ済まぬ」を云い続けて、一片の墳墓となってしまった。
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(三)
明治六年征韓論破裂以来、世の中兎角物騒になり、桃源の様な田舎にも社会がうたす波
のうねりは自づから響いて、佐賀秋月小倉の乱、熊本神風党の暴挙、それよりもなお恐ろ
しい明治十年の乱(西南戦争)
、相ついで村人の肝を冷やしたが、しかし豊かな家に父母と
棲んで居る子供の眼には、山の上から海の暴風を見る位のものであった。誰某と云う前参
議は謀反して死刑の際に「唯有皇天后土知」《ただ こうてんこうどのしるあり》と云った、
某の県令は腹をえぐられた、肥後の田原《たばる》と云う所では合戦が十八日もつづいて
抜刀隊が土塁を越えて切り込んだなどと云う話は戸毎に伝わって、一度は薩軍の一隊が今
にも突進して来そうに村中大騒ぎしたこともあったが、
幽霊譚と同様僕には怖くて面白く、
夜になると父と母の間に寝ながら色々な話を思い出れて、ひうひう吹く嵐の音に心どきつ
かせながら、右に左に父母の手を握って、こんなに阿爺《おとっつあん》と阿母《おっか
さん》の間に寝て居れば何が来ても大丈夫、可愛想に、雨にぬれ風に吹かれて恐ろしい戦
争をしている人達は今どうして居るだらう、この様な暖かい床も有《も》たず、父母も有
つまい、ああ安心、可愛想、可愛想、安心と思い思いつい眠ってしまった──それも今は
一場の夢となった。夜毎々々川の字に寝たその大事な一条が欠けて、僕は母と唯二人この
宇宙に残されたのである。
僕は父を愛して、母を敬した。平生は父に懐かれて寝るのが好きであったが、病気の時
は母の手を握って居たかった。花見には父に手を引かれて、盗賊の入った夜は母の袂の下
に隠れる。名は節と云って、実に吾母ながら凛々しい、気象の勝った人。父は五目も十目
も母に置いていた。一家分散後はますます母を憚って、余所目にも気の毒なほど気をかね
る。喧嘩も時々起こった。
「睦じうして一塊の乾けるパンあるは、争いありて宰《ほふ》れ
る屠畜の盈《みち》たる家に愈《まさ》る」。勿論である。しかしながら悲しいかな、乾け
るパンは多く争いの原因になる。いわんや昨日は栄華の滋味に飽いて今日粟飯の硬きを食
う身となっては、こんな争いの起こるも無理ないと思う。大方は父の敗けに帰した。「皆自
分が悪いから」と父は愕然としてしまう。すると母が突然落涙する。僕も泣く。こんな悲
劇が月に何回となく繰り返えされるのであった。ああしかしながらその悲劇すら最早なく
なった。あのやさしげな眼も小供らしい笑い声も、昔絞付の羽織袴で親類寄合の上席を占
めて居た時の立派な風采も、零落して町外れの一軒家の柱に怖??って愁然《しゅうぜん》
として居た容子も、最早見られない。二親揃って育つ子は貧乏でも長者のくらし、と云う
が、何も知らぬ僕も父の棺を送って蹄??った夜は、母と顔見合わして、真に「零落」の淋
しさを感ずるのであった。
辛い、と云って零落程辛いものがあろうか。上る一歩は荊棘《うばら》を踏んで汗だら
けになろうとも、望と云うものが、上にあって引き上げる。しかし昨日迄の栄華の夢を背
に負うて、真黒い明日の虞《おそれ》を懐に抱いて、ほとほと零落の坂を下って行く一歩
一歩は実に血涙である。それも東京とか、乃至大阪とか、人間が桶の中の芋の様にごろご
ろして居る所では、贅沢も仕放題、貧乏も仕放題、随分昨日の長者今日は顔を拭って裏店
にマッチ箱を張ることも出来ないではないが、田舎では実に溜まらない。先づさらし首の
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様なものの生きて感ずる丈が更にひどい。なまじっか知らぬ顔がない丈、どこを見ても苛
責の鬼に囲まれる。
昔の栄華の歴史をそらんじて居られる丈、昔の栄華のそらんじていられる丈、皆の結ん
だ口もとに嘲弄笑の意がほのめいて居るように思われる。一寸歩いても、昔吾有であった
家屋敷山林田畑が到る所に待伏して、吾を辱しめる。昨日まで下って居た村の頭は最早下
らなくなる。昨日までは、隣の家の梅の花を折っても、
「坊ちゃま、御危う御座います、私
が折って上げましょう」と云われたのが、今日は「どこの餓鬼だ、人の麦畑歩いているな
あ?」と怒鳴られる。藻掻いても、足掻いても、最早駄目だ。田舎は深い井戸の様なもの、
一度陥ちたら容易に上れない。
僕は今、母とその井戸に陥ちてしまった。実を云ったら名代の旧家、自賛ではないが祖
先代々随分陰徳を積んだのであるから、せめて縋って上るつるべでも下ろして呉れる者が
ない筈はないのであるが、こんな者もなく、見殺しにせられるのは、一の子細があったか
らで、それは即ち叔父の迫害である。
叔父は即ち亡父の弟、姓は矢張菊池を名乗って、堅吾と云った。僕はどうしてもこの叔
父を好き得なかった。父の寛大なるも、常に彼を恩不知と起った。母の如きは人非人だと
常に云っていた。
叔父は已に父と身代を折半したを以て足れりとせず、
なお家を建てさせ、
それでもなお不満の様子であった。無邪気な僕も叔父を見ると何だかこう冷やっこい日蔭
にでも入った様で心地が悪かった。彼は醤油製造を業としてすこぶる繁昌し、炭焼業を始
めて、此にも成功し、播けば殖え、出せば倍し、貸せば太る、と云う風に、資財を治むる
の道に於いて、たしかに兄よりも兄であった。しかるに彼は兄──実兄の破産を現在眼の
前に見ながら一銭を出して救おうともせず、あまつさえその家敷道具を他人の名で買取っ
て、終にはそこに住み込んだ。云わば叔父は菊池家の全身代を横領したのである。其と知
った時ばかりは、流石の父も憤然として最早弟とは思わぬ兄とは思うなと云い送ったが、
金銀の上に兄弟はない、先方は素より零落した兄には何の情義も無かったのである。父が
死んだ時も唯義理に一寸顔を見せたばかり、母は怒って葬式の日取も云わなかった位であ
る。何故このとおり叔父が迫害を加えたか。僕は今にる迄その故を知らぬ。知らぬが、僕
の祖父は常に父を愛して叔父を疎んじて居たそうだ。僕の母はこの頃まだ三十にならず、
この谷第一の美人で、而して母が常に叔父を嫌って、顔さえ見るとふいと立ってしまった
ことはよく覚えている。
無情の叔父は、僕が一家の零落を冷眼に看過した上に、云わば兄の一家を追い出してそ
の跡を占領した上に、父が死んだ後までも、なお迫害を已めぬのである。僕の親類──町
の大家の大半は親類縁者であった──の中には、非常に潔癖家で毎日掃除ばかりして居る
菊池金森と云う老爺もあった。非常に猫好きで、白、黒、三毛、斑とりまぜ十疋も飼って、
猫が鼠を掟ると「その様な物を食う人(!)があるかい、さ、これをお食べなさい」と云っ
て、わざわざ鮪の煮附を盛ってやる老婆もあった。発句の上手な人もあった。非常に柿剥
き自慢の先生もあった。その智慧だけは別にある将棋の名人もあった。しかしながら唯一
人もあの堅吾叔父の向うに立つ程の者が無く、叔父は親類頭として殆んど専制君主の勢力
を振って、僕の一家をボイコットしたのである。村の者町の者の中には、蔭では随分気の
毒に思った者もあろう。しかしこの谷第一の金満家、一番の智慧者、一番の意地者たる叔
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父の不機嫌を冒しても、僕等に同情を表する程の勇者もなく(思えば吾らの善は如何に弱
いものであろう! )長いものには捲れよ、弱い者は虐めよ、でつい有意無意の迫害を加え
たのである。僕は決して怨みには思わぬ、人情は得てその様なものだ。弱きを扶け強きを
挫くなんぞは欲を知らぬ昔の馬鹿者がした事、弱肉強食是天理の今の世の中では、上帝を
拝むより金を拝むがよっぽど近道、未来はあるか知らぬが未だ未だ遠いこと、向うの長者
の御機嫌を損ねては差寄りこの可愛いい口が乾あがるではないか。だから世は富めるにつ
いで大なる者愈々大に、乏しきを削って痩せたる者ますます痩せたりで、古の聖人も云わ
れた通り「有てる者は与えられてなお余りあり、有たぬ者はその有るものをも奪られる」
のである。早い話が、外套にラッコの襟つけてフラッシ天の膝掛を携えた若い紳士が乗る
一二等の客車には厚いクッションを敷き湯たんぽを備えて、よぼよぼした百姓老爺は三等
の板の腰掛に水洟を啜っているではないか。──いやこれは話が余所へとんだ。とにかく
まずこんな次第で、母と僕は親類知己の真中に居ながら全く孤立の身となってしまった。
(四)
前にも言った通り、母は非常に気象の烈しい人で、家は潰れる、良人は死ぬ、大抵の婦
人は落胆沮喪して死ぬるのだが、母はいよいよ運命に反撥して、おのれと云う一念が絶え
ず眉目の間に閃めいていた。奢ってこそ居なかったものの、大家に生れて大家に嫁した身
の、緑の黒髪惜げもなくふっつり切って、木綿着物に呉絽《ごろ》の前垂、木綿をひいた
り、機を織ったり、夜も晩くまで婢を相手に裁縫物をしたり、精一ぱいに働いていた。僕
は前に村中町中残らず僕等を迫害したように云ったが、二三の除外をしなければならぬ。
この婢の如き実に緑綬褒章を受く可きものであろう。名を重と云って、顔一面の黒痘痕、
丈は五尺五六寸、力は男二人に敵する、板額《はんがく:鎌倉時代の剛婦、固有名詞》の
亜流であった。母が嫁して来ぬ前から勤めて、最早二十年、一度も病気したことなく、失
策をしたこともない。一家破産の時、大勢の僕婢はそれそれ暇を出したがこのお重のみは
断じて動かない。父が、その心は嬉しいが今迄のように給金がやれぬからと云ったらお重
刀自生れて初めて怒った、旦那様あこの重を畜生と思っておいでなさるかと、云うんで、
殆んど腕力で踏み止まった。以来彼女は殆んど家族の一人となって、父が死んでからは、
いよいよ骨身を憎まず、根限り働き、百姓もすれば米も搗く、炊事する、お針もする、実
に母の片腕であった。彼女は僕の誕生の時から知って居るので、十一になってもやはり手
打々々あわわの孩兄《ねんね》のように思って、老牛の小牛を舐る如くに僕を愛した。彼
女が所嫌わず、相手を問わず、僕の自慢をするのはちと片腹痛かったが、しかし僕はお重
が大好きであった。
お重の父も大好きであった。彼は名を勝助と云って、祖父が惣庄屋という役をしていた
時分に配下の庄屋であった。三世に歴事して、云わば我家の武内宿禰である。もっとも宿
禰のように白髭を蓄えては居らぬが、てらてらとと禿げた額のてっぺんから皺の寄ったあ
ごの辺まで、一面赭光りに光って、眼と口元に云うに云われぬ愛嬌をもって、始終笑を含
んでにこにこして居る所は、さながらチヨン髷の恵比須様だ。彼は先づのっそり入って来
て、炉側に坐って、ゆったり「慎ちゃま」と僕に云って、ゆるゆる古びた革の煙草入を出
して、二三服吸って、吸殻を吾の掌の上にはたいて、また新たに一服つけて、それから悠
8
悠と掌の上に燃えて居る吸殻を棄てて(僕は珍しい掌だと思った、
何時か真似てやって見た
所が、真黒に掌を焦したっけ)さて談話に入るのである。彼は蕪漬が大好物で、僕は常に
こんな地口を云っていた。
『カブツケや、カツスケ食べないか』。世には不思議な事もある
もので、
立派な水引かけた土産をもって上手に挨拶をして慰めても一向有り難くもないが、
扱《こ》いで来た大根一把そっと土間に置いて、上ったきり何も言わず唯坐って居て、そ
れでこちらの気苦労もめつきり軽くなることがある。実に沈黙は金、雄弁は銀、勝助は通
用する金は有たなかったが、この金は確かに持っていた。しかし彼は決して沈黙してのみ
居なかった。
或時、彼がこんな母に言うのを聞いたことがある。
『奥様、天道様あ光って御坐らつしゃ
います。人間が羽振りの宜い時にゃ、あの雪ころがしの如(前日雪が降ったので、僕がお重
を相手に雪丸を拵えて置いた、それを爺は指したのだ)転んで行くほど我重量で土でも藁
でもくっつけて太って行くでございますが、追附《おっつけ》お天道様が照りつけらっし
ゃると、段々溶けて、土も流れる、襤褸も出る、つまりは元の無に還りますでな、はい。
奥様、今に御覧なさいまし、あの新屋敷(叔父の事)もこの雪丸同然になりますから。御
辛抱が大事でございます』
。何の事だかよくは分からなかったけれども、この一言はしっか
り小耳にとまっている。
三里程山奥に住んで、月に幾回、炭馬を引いて出て来る、二十二三の新五と云う男、こ
れも僕は大好き、彼も僕が大好きであった。彼は面白い男、体格も大きく、声も太いが、
その割に眼が細く、
それで鼻が無性に大きいので、
一寸見ると顔中鼻ばかりかと思われる。
博突もうたず、洒もあまり飲まず、寺の和尚に書いて貰った手本を夜の暇々に習って、山
道の往来に論語を懐中して、馬の口綱をとりながら「子曰学而時習之」(しのたまわく、ま
なんでときにこれをなろう)と誦する男である。彼は山から出て来る毎に、炭俵の上にある
いは一間ほどの自然薯、或いは笹にぬいた生椎茸、或いは蕨,或いは楊梅《やまもも》な
どを載せて、毎《いつ》も土産にした。而して僕の顔見る毎に『坊ちゃんエライ人に御な
んなさい、御なんなさい、なあに人が如何したって構うもんか、エライ人になって皆をお
辞儀させておやんなさい』と斯様云った。
まだ一人僕が好きな人があった。誰と思いなさる?大嫌いな叔父の娘、僕の従妹だ。そ
れも姉の方は大嫌い、好きなのは妹の方であった。姉は僕に一歳まさり、お藤と云って容
色好だが、小娘のくせにしゃならしゃならとして、いやに白粉をつけたり鏡と睨めッくら
をしたり着物の小言ばかり云って、昔から大嫌いだった。妹は僕より一歳下で、色は浅黒
いが、眼鼻立のきりりっとした、気の利いた児で、まだ僕が先の家に居た頃は、始終遊び
に来て、
「慎ちゃん」
「芳ちゃん」と云って、大の仲好だった。今の家に越してから、一度
隠れて遊びに来たが、あとでひどく叔父に打れたとか、何とか、その後はふっつり会わな
くなった。小学校の往復に顔見合わせると、涙ぐんで、恥かしそうな悲しそうな顔をする
のをしばしば見た。母は新屋敷と云うと虫より嫌いだったが、
(芳ちゃんの母は悪い人ぢゃ
ないが、と母は云って居た)この女児ばかりは気に入りで、可愛想に、あの児も行々《ゆ
くゆく》は苦労をするだらうと、暗涙を含んだこともあった。
9
どこの砂漠にも多少の緑地はあるもので、他郷の様な故郷にあって寂しい僕等を慰める
ものは、実にこの数人であったのである。
(五)
小学校には相変わらず通っていた。僕の家から六七町田の中にちょこりんと一個立った
茅葦のがそれで、田舎の事だから先寺小屋にちと毛のはえた位のもの。文庫硯に、其でも
流石石盤丈はあって、夏の盛りは朝手習と云って暗い内に蝋燭をつけて手習をする、冬は
火鉢を持って行く、と云う有様。都遠い片田舎、殊に摺鉢の底の様な所で、何方へ出るに
も坂ばかり、文明開化もここへ来るには、草鞋がけで汗だらけになろうと云うので、貧乏
人が呼ぶ医者ではないが中々一寸来て呉れぬ。東京の新聞紙と申すものが天にも地にたっ
た一枚来るばかり、其を町での識者と云われる三四十人が戸毎に読み廻わすので、最後の
読者が日本の出来事を知る頃は、最早その事のあった以来地球が五六十遍も寝返えりうっ
て、気の早いフランスなどでは革命の五六遍もして内閣が十遍も変って居ろうと云う位。
だから、社会の風潮を感ずる神経は極めて鈍なものであるが、しかし明治も未だ十歳にな
らぬその頃の改革又改革経験又経験片時も固定した精神のなかったことは、今思っても分
かる。
最初は学校も上下各々十級に分れて居たのが、後には六級になり、最後には上中下級に
分れ、同じ試験を何度もして、同じ様な卒業証書を何枚も貰ったことを覚えている。単語
篇地理初歩から読み初めて、読本も年に二三度は変るので或貧乏人は到底本が買えぬと云
うて退学したことがある。僕は算術と習字が大嫌いで、歴史と作文と地理と悪戯が大好き
だった。算術の勝負や清書の点取ではややもすると敗北するが、それでも級の第一を占め
ていた。今から思うと教員先生(実に好人物で、近眼で、煙草好きで、僕を非常に可愛が
って、而して誤謬ばかり教える先生だった。その金科玉条は寛の一字で、名は増見先生と
云ったようだ)少し手加減をしたかも知れぬ、尤も少しは出来たかも知れぬ、東京から全
国巡回してきた今の視学官昔は何と云ったかその先生(僕らがいかにエライ人と思うたろ
う! 増見先生どんなに震えたろう! )から誉められたことも覚えている。とにかく第
一には素封家の子、第二にはまづ才童と言うので、学校では威張ったものであった。
所で一家破産する。父が死ぬ。その等の結果は直ちに学校に於ける僕の位置にあらわれ
た。今迄「慎さま」とか「坊ちゃん」とか云った裏の太五作の小せがれまでが「慎公」と
か菊池とか呼びすてにする。金満家の子供は急に身の丈が高くなったかのように僕を眼下
に見て、遊び仲間にも入れて呉れぬ。「慎ちゃんは何故あんな小さな家に越したの?」 と未
だ無邪気な幼童が言うすら己の腸にしむのに、無情な連中は何かにつけて僕を揶揄し、侮
蔑し嘲弄して其れで自分がエラクなったように思っている。大将好きの僕、大将であった
僕、どうしてもこの境遇を甘受することが出来ぬ。最早学校には行かぬと云い出した。母
が断じて許さない、何は何でも、学問は決して已めさせぬと云う。母も流石に僕の胸中を
酌んで、今は昔に引かえて苦しい中から学校用の諸道具に決して不自由させず、恥辱を感
じさすまい、卑屈にさせまい、と思ったのであろう、衣類までも昔に優るとも劣らぬよう
に木絹着物の小ざっぱりとしたものを着せて、朝々手づからきりっと帯をしめて呉れて、
本を背負わせて、門口まで送って、僕の影が学校の門を入るまでは立って見ている。余儀
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なく僕も行く。行くが、学校は最早昔のように楽しみの場所でない、寧ろ囚徒が工場に出
る格で行くのである。面白味がない、従って張りがない、従って怠ける、従って荒む。才
童の評判は未だ莟のままに已に虫がついて見えた。
この小天地での上流社会の子供が、一格下に僕を見るのが、如何にも癪に障って、され
ばとて孤独は別して子供に辛いので、僕は何時しか昔共に伍するをいさぎよしとしなかっ
たその下流の仲間入をした。最初は厭々ながら、後は化せられるともなく化せられて、言
葉遣いもつい虚言も吐く、染むは易いもので何時の間にか学校の勉強よりも自堕落の遊に
実が入って来た。その結果、今迄覚えのない罰も受ける。いよいよ自暴になる。果てはそ
の年の冬の試験には生れて初めて落第と云うものをした。才童の末路実にかくの如しであ
る。
流石に僕も恥じ且つ憤り且つ悲み且つ恐れた。僕がこの不吉の報を齎して、満面の羞恥
を帯びて帰ると、それと聞いた婢のお重は「先生も余りな」と怒った。尤もこの時は増見先
生は辞職して、田中先生とか云う髪を丁寧に分けた若い先生の時代になっていた。この人
は教育の第一義は威張るにありと考えたと見えて、矢鱈に先生風を吹かせる人であった。
母は何とも云わぬ。ただ熟と僕の顔を見たばかりであった、尤も是迄勉強せい、下賎の小
供と一所に遊ぶな、などと折々叱られたことがあったので、今度の事では何の位叱られる
か知れぬと覚悟をきめて居たが、その日は別に何事もなく、唯母は黙然と沈んでいた。僕
はその沈黙が却って気味悪く、戦々兢々として居たが、その夜は別に何事もない。明日は
僕の遊び仲間が門口から「慎ちゃん、遊びに行かねえか」と云う調子で呼び出しをかける
のが、妙に辛く覚えた。母は何思ったのか、慎太郎は用があるからと断わらせて、さて自
身も着物を更え、僕にも絞付の木綿羽織を着せ、
「来なさい」と云って、門口を出た。
(六)
雪をかもす寒空、がさがさ風に鳴る井戸端のすずだま、どこを見ても冬枯の、泣面作っ
て、今にも泣き出しそうな景色であった。
家を出て二三十歩行くと、これも金満家の子の勇次と云う生白い児が突然「二けん、三
げん、しけんに負けて、落第坊主」と囃し立てる。撲のめして遣りたかった。が、母が熟
と睨んだので、黙ってついて行く。すると今度は矢張遊び仲間の勘次郎と云う半面真っ黒
な痣をした児が「やあ慎ちゃん、紋付着てどこえ行くだ。先生に断わりに行くだかね」と
云う。僕は顔を真赤にして、矢張り黙って跟いて行く。
母も無言、僕も無言、粛条と雪意を催おして来た田の中道を横切って次第に櫟の茂った
丘の方に近づいた。さては墓参をするのだなと思った。しかし其れにしては、花も持たず、
線香も持って来ず、如何するのであろうと疑ったが、母は矢張無言でずんずん落葉に埋む
小途を山ヘ山へと上って行くから、僕も無言で従った。
丘を越えると、すぐ椎柏杉などのこんもりと茂った小山があって、小山の半腹は二反ば
かり拓かれて、
ここは特に菊池家の菩提所になっている。
四方は小高く石垣を築き上げて、
上には平石の間々に小石を敷き詰め、苔だらけの五輪塔や定紋の桔梗を彫った墓石がそこ
ここに立っている。すばらしい老松が一本、櫻の大本が一本、墓地を蔽って居るが、今は
十二月の末だから、櫻は裸で、小石の間は一面に松の落葉が埋めている。この秋父の棺を
11
送って、ここに来た時は、櫻の葉が紅くなって、はらはら落ちて居たが、今は最早葉の影
もない。観音篠ががさがさ鳴るばかり、鳥も歌わず、人も来ず、淋しいことである。
母は墓地入口で足駄をぬいで、つつと後も見ずに上って行くので、僕も草履をぬいでつ
いて行く。母は父の墓──まだ木標のままだ──の前に来ると、膝を折って石の上に坐っ
た。僕も坐った。暫らくは無言である。
「慎太郎」
僕は顔を上げた。母は何時の間にか、黒鞘の懐剣を左手に握っている。
「おまえは、何歳になるかい」
僕は頭を垂れた。
「あれほどおっかさんが、平生言って聞かすのがおまえの耳には入らんかい。おっかさん
はな、唯菊池の家が興したいばかりに、難儀苦労もして居ます。その心尽くしが、如何に
子供でも、おまえには分からんかい。お父さんはこんなになって御仕舞なさる、家屋敷は
人の所有になる、義理にも生きて居られたものぢゃないに、こんなして恥しい目を忍んで
居るのも、唯ツた一人のおまえを育てて、潰れた家を立て直して、ああ菊池の家がまた興
ったと、村の者にも云われたいばかりぢゃないか。其れに今度のおまえの状は、一体何事
です。おまえは水呑百姓の子と遊んで、水呑百姓になって、其れで一生腐って仕舞う積か
い。菊池の家を濁した上に亦潰して、それで宜と思うかい。口惜いとは思わんか。慎太郎、
何故黙つとる。──エエ、口惜しい、今日が今日迄身を削ってもおまえを育てようと思っ
て居ったに、──最早詮らめた。おまえを殺して母も死ぬから、その様思いなさい。それ
とも口惜しいと思うか。思わんか。慎太郎、さあ御死に、この短刀で御死に。卑怯者、さ
あ死なんか」
黒塗りの鞘をはらって氷の如き懐剣をつきつけつきつけ母は僕に詰寄った。ああこの時
の母の顔、きっと僕を睨んだ眼光、二十許年を経て今眼の前に歴々《はっきり》と見える。
どこにいても、気が挫ける時、一点不良の念が萌す時、この一双の眼は突如爛然と吾を睨
むのである。
僕の額から大粒の汗がほろほろ滴り落ちた。皮膚は氷を浴びたように、腹の内は熱鉄を
飲んだように、耳は鳴り眼は眩めいて、心臓は早鐘を撞き鳴らすように鼓動する。最早母
の顔も見えぬ、言も聞えぬ、夢中に懐剣の柄をつかむかと思うと母はもぎとって懐剣を二
間あまり投げ棄てた。
「卑怯者」
ぶるぶると震えて、僕は拳を握った。突然に涙がほろり。と思うと僕は鳴咽して哭き出
した。悔しいのか、嬉しいのか、哀しいのか、恥しいのか、辛いのか、恐らくそのすべて
であったろう。身も心も溶くるばかり大泣きに泣いて、最早僕はこのままこの墓場の露に
溶けてしまうかと思う程存分に泣いて、最早香炉に溜った雨水で顔を洗って、母と一所に
祖先の墓や父の墓の前にひざまづいて、未だ鳴咽をしながらしんみりと何事をか念じてい
た。
(七)
雪がちらちら降り出した。母は懐剣を帯の間に蔵めて、僕の手をひいて、墓門を出たが、
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二人ともに何も言わぬ。
墓場を出て少し行くと、大きな椎の樹の下に小さな鬼子母神の祠がある。少し休んで行
こうと云うので、母と僕と並んで、祠堂に腰掛けた。ここは小山の角で見晴らしがよい。
谷の三分の二はまず一目に入る。町は素より、学校も見える、谷を流れる二條の川も見え
る、某の城下に通う往還も見える、幾千頃の空田に寒鴉の下りるのも見える。故郷の風物
は粛條として、一種悲寥の面影を吾ら親子の眼前に展べている。雪は間も無ふ小降りにな
って、たまにさら──さら観音篠にささやいた。
母は僕の手を握りながら、種々の話をし出した。僕の祖先の事、祖父様の事、あそこに
見ゆる赤黒い杉の森は大水の出ぬように曽祖父様が植えたので、あの川堤は祖父様が自分
で金を出して村の為に築いたので、あの鳶の飛んで行く辺りの山は一も残らず僕の家の有
だったので、あのの傘をさして人の行く畦路の辺からこちらの田は何十町と言う程皆僕の
家の有だったので、あの学校も元はと云えば僕の家の地面を父が寄付したので、昔は菊池
と云えばこの谷に比ぶ者もない大家、而して代々真っ直ぐな道を踏んで、村のためを計っ
て、殿様の褒美を受けた者もあれば、自ら名乗り出て村の者の罪を庇った者もある、と云
うことを諄々として話した。
耳は過去の栄華を聴いて、
目は今の零落を見ると云うのは、
僕の当時の身の上であった。
つくづくと母の物語を聞いて、
さて今は他人の有になっている山や田や家を見ている内に、
目は次第に曇って、涙がまた新に湧いて水た。而して僕の胸中には幼ないながらも一の志
望がしっかりと根を下ろしたのである。
マコーレーの 「ワアレン=ヘスチングス」伝にこんな事を書いてあるのを、諸君はすで
にご存知であろう。
或晴朗な夏日に、当時ちょうど七歳だったこの児童は、その家の旧領地を流れてアシス
の河に入る小川の岸に寝ころんだ。ここに、七十年後彼が自から話したことだが、一の志
が彼の脳中に湧き出した。この志こそは、多事なる生涯の千変万化を通じて、彼が捨てな
かったことである。その志とは、曾て祖先の所有していたその土地を恢復する事である。
デーレスフォルドのへスチングスたろうとする事である。幼少貧困の際に抱いたこの志は、
その智愈々広く、その身いよいよ上るに従って、ますます強大となった。彼はその性格の
一大特質とも云う可き、冷静で然も頑然たる意志の力で、その経綸を遂行した。彼が熱帯
烈日の下にあって、五千万の亜細亜人を治むる時に当りても、戦争財政法律等百般の苦心
焦慮の中にありて、その望はなおデーレスフォルドを指していた。だから、その善悪栄辱
の奇妙に混沌したる長々しき公生涯の遂にその終局に達して、彼が死なむとて退隠した所
は即ちデーレスフォルドであった。
註:ウォーレン ヘイスティングス Warren Hastings はイギリスの初代インド総督。18 世
紀後半に活動。
幸に誤解し給うな。僕は決してワアレン=ヘスチングスを気取る者ではない。いわんや
13
僕は未だ四十にもならぬ。屍を馬車に包まぬまでも、この身畢竟いずくに骨を埋るのであ
るか、それすらも定めぬ男である。僕は故郷を愛するが、必ずしも故郷を世界第一の場所
とは思わぬ。しかしながらへスチングス伝を読んで、当時の吾感情を想い出すと、実に同
情に堪えぬのである。今も記憶して居る、僕が初めて某《なにがし》の塾でこのへスチン
グス伝を読んだ時、吾れ知らずほろほろ落涙して、あわてて拭ったら、手にインキがつい
てたと見えて、本が真黒になったことを。
とにかく犬死すまいと思う一念の燃え立ったのは、実にこの時で、言うまでもなくこれ
は母の烈火にやき込まれたのである。ああ若し母が居なかったら、僕は如何なったであろ
う。だから僕は今も母の崇拝者で、従って女子教育の熱心家である。
(八)
生れて初めて淋しい正月をしました。去年までは、最早家が傾きかかって居たにせよ、
餅の一石あまりもつかして、風呂桶の蓋程の御鏡を飾って、町の者村の者入りかわり立か
わり年始に来ては屠蘇の酒に酔って帰った。其に引易えて今年は誠に心細い正月をした。
しかし世はそれぞれに荊棘も花もつと云ったようなもので、零落の今の身の上にも満更
嬉しい事のないではなかった。家は昔に引易えて、八畳に六畳に二畳、たった三間きり。
六畳に大きな炉をきってある。前にも一寸云った通り、ここは僕の祖父様が、母屋近くは
騒がしくていけないと云うので、わざと町はづれの田の中に建て離した隠宅で、まだ祖父
が存命の砌《みぎり》
、僕もちょいちょいここに来ては遊んだことを覚えている。尤も極幼
少の頃であったから、委しい事は覚えぬが、祖父は蚊と蝿が大嫌いで、夏の頃は昼も八畳
に青蚊帳を釣らして、その中に臥ていた。僕が姥や母に連れられて、
「祖父さん」と云って
入って往くと、蚊帳の中から「坊主、来たか」と声がかかって、やがて白い鬚が動いて、
それから煙草の火がちらちら見える所は、さながら螢籠の様だった。冬は炉の横坐に陣取
って、好物の柚子味噌で湯漬を喫べるのが、大好きであった。
活発な老人で、八十何歳と云う歳をして、承塵《なげし》には鑓だの鉄砲だの飾って、
すはと云ったら鎗押取って強盗の五人十人突伏せて呉れるなんて威張って、僕は非常に祖
父さんが好きだった。しかしその様な事は最早昔の幻影になってしまって、祖父も父も位
牌になって仏壇から眺めて居るばかり、母と僕と婢と三人淋しくこの家に住んだ。
しかし世は──繰返して云うが──荊棘にも花は咲くもので、淋しい貧しい僕等の境涯
は決して憐れまれる境涯ではなかった。気丈の母と一所に、極めて茫漠としたものではあ
るがしかし前途に何か知らん一の志望を抱いて、而して勉強するのを、御気の毒なとでも
云ったら、僕は起??ったかも知れぬ。母の奇麗な手が赤ぎれだらけになったり、どこの馬
骨が母に向って失敬な無礼を云ったり、その様な時は腹も立つ、悲しくもなる。が僕一身
にとっては、冬の朝氷を砕いて顔を洗って、木綿着物を着て、味噌汁で朝飯を喫べて、学
校に行くのは苦でもない。夜は大抵行灯一つで埒を明けて、一家──と云っても高が三人
──六畳の間に打寄って、炉にどんどん榾(ほた)をくべて、僕は日本略史の復唱をする、
母は紬をひく。婢は大根を切ったり、木綿をひいたり。或時は風が凄じく吼えたり、雪が
さらさら窓に当る。しかし部屋の中は榾火と行灯で暖かく、明るく、僕がうんうんの声は、
榾のぷちぷち燃える音や、ひんひん唸る木綿車の響に和して、夜深く響いていた。僕が復
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習をする時は、母は紬をひきながら時々僕の顔を眺めて、ぢっと聞いている。母は昔の婦
人にしては一通り教育があって、非常に手跡をよく書いた。聡明な人で、僕が無意味に誦
する書を様々の問を出しては、噛んで含めて呉れた。復習が済めば、炉の灰に埋けてあっ
た薩摩芋が最早焼けて居る時分だ。炉側でことこと灰をふるって、皮を剥いて、頬を焼い
たり、手を焼いたり、あついあついと云って食う時の甘さ! 未だにその時の味が忘れかね
る。
そうする内に日は走り月は歩んで、背戸の柳が芽を出す、向こうに白雲が下りたように
山桜が咲く。淋しいながらも春はまた故郷に立ち返った。
或日学校から帰って見ると、延年寺の和尚様が来ていた。西澄様と云って、七十近い坊
さんで、真宗であった。僕の家はもとこの寺の大檀那であった、のみならず、祖父がこの
和尚様と大の仲好で、時々碁をうったり、談をしたり、極の懇意であったから、僕も自然
見知っている。痔が悪くて、年中臥床は取りつぱなしで、説教にも臥床から出て行く、人
にも臥床で逢う、と云う塩梅《あんばい》で、身体は弱かったが、活気があって面白い坊
さんだった。章魚(たこ)が大好きで、僕が何時も章魚坊主!と云うと、面白い小坊主だ
と云って僕が頭を撫でて呉れた。坊主のくせに世間話が大好きで、学校の先生よりも色々
な事を知っている。西郷が如何の、木戸は気が小さいの、大久保は剛情で面白いの、何の
事だか分らぬが、とにかく東京の新聞と云うものをとって読んで居るのは、この谷でこの
坊さん一人だった。
坊さんは手紙を前に広げてしきりに何か熱心に話していた。何の話か知らぬが、唯こう
云ったのを小耳にはさんだ。
「そうなさい、そうなさい。こんな田舎に腐ってしまうより、
乞食になっても出たがましぢゃ。この坊主(あいつは坊主のくせに、僕の頭を撫でて、そ
う云った)だって、今の世の中にかえり点のある本ばかり習わして、どうなさる? 苗木で
も老けた土では育たぬものぢゃ。思い切ってそうなさい、そうなさい」
そうなさい、そうなさいと言い続けて、和尚様は帰ってしまったが、その夜僕は初めて
和尚様の前に広げてあったあの手紙は母の姉なる人から来たので一家移転問題の起ったこ
とを聴き知った。
(九)
田舎は実に究屈なものだ。云わば小さな盆の水、砂利一つ落しても、すぐ津波だ。一寸
手を伸ばすと向うの太五平が戸口にぶつかる、足を伸せば権左が背戸につかえる。女児の
襟が異っても、一村の問題を惹起さずに居られない。大隠は市に隠るで、呑気は都のこと、
田舎では嚔《くしゃみ》一つ快くせられない。それも、村一番の豪家で居る時分は兎も角
も、零落した日になると実に溜まらないのである。
母は何故気強くもこの田舎に踏み留まったのか。例の気象で、一敗して逃げるのを口惜
しく思ったのであろう。一つにはまた去る可き地が無かったのであろう。「実家が立派にし
て居ったらこんな時にも相談相手になるけれども」と母が嘆くのを、後にも前にも唯一度聞
いたことがある。母は何でも十何里と云う遠方から嫁して来たので、その実家は川上と云
って僕の家にも劣らぬ大家であったが、何故か一家断絶して、唯一人の姉が残って居るこ
とは、おぼろ気に聞いて記憶して居る、それは兎も角も、母はその方の事は殆んど断念し
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て居たらしかった。
所が不思議の運があるもので、母の姉の良人──即ち僕の準伯父なる人が近頃東京から
帰って、
現に某の城下に住んで居るそうで、勿論その事は已に手紙の上で承知して居たが、
こちらの消息が分ったと見えて、驚いて伯母から移転を勤めて来たのである。伯母の手紙
には、直ぐにも来て見たいが帰国後兎角健康すぐれず、伯父も普請や何かに一日もはづさ
れぬ次第を断わって、一日も早く断行するようにと書いて来た。幸い「慎さん」が入る学
校もあるから、と細々《こまごま》書き添えてあった。母は延年寺の和尚ように相談した
きりで、直ぐその事にきめてしまった。
さあそれからは移転の用意──尤も用意と云っても、着物は平生有る丈はちゃんと清浄
にしてあるし、始末をつけるのは唯った今住んで居る家ばかり、道具は永年忠実に勤めた
お重に呉れる、とどのつまりは荷物になったものが皮籠二個に柳行李が二つ、風呂敷包が
畿個、馬二駄に少し足らぬ位、谷第一の素封家菊池の身代は馬二駄になってしまった。寺
の和尚や、勝助爺や、炭焼きの新五や、よくまめまめしくいろいろの世話をして呉れた。
独りお重は悄悄して、奥様が行ってしまわっしゃったら吾身は尼になりますとかき口説い
た。炭焼の新五は大賛成で「坊ちゃま、エライ人になって御なんなさい。こんな田舎に腐
っちゃ、男ぢゃありませんや。今に新五も出て来ます」なんぞ勇みをつけた。一言めには
「エライ人に御なんなさい」がこの男の癖であった。
何かの用意は直ぐ出来てしまう。僕は最早四五日前から学校を下がった。
「如何するの、
慎ちゃんはどこえ行くだ」など、皆が不思議がる毎に、僕は超然として意味深い笑を湛え
ていた。彼等に別れるを僕は悲しいとも思わぬ。先生も、昔しはエラク思ったが、近来は
そのオーソリチーを少し疑いかけた位で、別に惜しいとも思わぬ。ただあの従妹の「芳ち
ゃん」は如何したであろう、今度の事を如何思ったであろう、とこう思った。
しかしあんないやな叔父様の門口には、死んでも入りたくない。だから「芳ちゃん」に
は最早会わぬ、会われぬ、とあきらめた。
移転の評判が広まったと見えて、
絶えて久しい清潔好きの老人や、柿剥き自慢の先生や、
猫好きの老媼や、将棋の知恵に富む親類や、無沙汰の詫に告別を兼ねてぽつぽつ遺って来
たが、何れも恥かしがるのでもあろうが、妙な顔をしていた。母は平気なもので、つんつ
んしてお蔭様でこちらから告別に行く要もなくなって、有り難いなぞ厭味を云った。嫌な
叔父は素より音沙汰もせぬ。聞けば叔母が芳ちゃんを連れて告別に来ようとしたのを、叔
父が非常怒って差止めたそうな。どこまで腹黒い人であろう。
明日は出立と云う前の日に、僕は母と墓参した。去年の暮に母と来た時の事が歩々心に
浮んで、僕はしんみりと墓前に祈念した。母もしきりに涙を拭いていた。時は四月の九日、
櫻は盛を過ぎて、墓地一面の落花であったが、まだ褐色の葉隠れにかしこに一簇ここに一
団の雪が残って、風が吹く毎に、ちらちらちらちら舞って来る。墓地の向うは崖になって、
早咲きの胡蝶花が深緑の葉の間から白く咲いていた。僕等が明日ここを去ったら、
(素より
人非人の叔父でも先祖の墓であるから、時には来もしようし、勝助やお重も詣ではしよう
けれとも)誰が香花を上げようかと思うと、石塔も名残りを惜む様で、母も僕も恨然とし
て暫し夕日に佇んでいた。
遠方に旅立つ前の晩ほど人が真面目になることはあるまい。荷物行李は整然と座敷に置
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いて、身のまわりの小荷物はちゃんと片隅に置いて、明日穿いて行く履物までも揃えて、
ただ行灯に向かう心地!過去と未来の追分に立って、越方《こしかた》行末を思うその心
地!僕は到底この訥弁を以って言い顕わし得ないのである。この晩は勝助爺やら、お重や
ら、新五やら大勢寄って、何やら角やら話しが賑やかであったが、段々夜深くなると話が
沈んで、皆言葉少なになってしまった。
僕も初めは皆の話を聞いて父の顔や、祖父の事や、去年の落第の事や、一昨年の正月の
事や、芳ちゃんの顔や、旧家の庫の榎の蝉の声や、色々の事が頭の中で渦を巻いて居たが、
小さな頭脳はあまり重い荷物に疲れてしまったのであろう、
「何、寝はしない、皆の話を聞
いていてるのだもの」と云いながら母の膝を枕に眠ってしまった。
(十)
明くれば明治十二年四月十日──僕等母子がエジプトを出た日として、否寧ろハガルと
イシマエルがアブラハムの天幕を出た日として僕にとっては最も記憶す可き日であった。
行灯の光で朝餐を済した。お重が心ばかりの祝に、小豆飯を焚いて、頭付きは川の若鮎
──大好であったが、何故かあまり進まなかった。給仕人は素より泣の涙でいる。
「何だい、御発途??に、不言兆??な」と窘める勝助爺も、鼻声であった。
何や角やに手間取って、外に出ると最早春の夜はほのぼのと曙けていた。ここそこに鶏
が鳴いている。新五が馬は已に新しい馬沓を穿いて、鈴をちゃらちゃら鳴らして、門に待
っている。
彼は無理にも僕等母子を城下まで送ると云って、この間から準備をして居たのである。
二駄に荷物を載せて、一駄には浅黄縞の布団をかけて、僕と母と乗った。
新五は口網を執って、一寸空を仰いで「好天気、目出度うござす」と云った。
門を出て、馬に乗った僕は、悲哀よりも愉快が多かった。故郷を離れる哀しさよりも、
未だ見ぬ新天地に、しかも母と共に行く面白さに心もいそいそしていた。で、新五が言は
あたかも僕が心を道破《どうは》した様で、僕も横雲きれ行く東の空を仰いだのである。
送る人は歩行、送られる人は馬、一団になって、門を出て五六歩行くと、後から手を振
って来る者がある。近寄ると、延年寺の和尚様だ。急いで馬から下りようとする母を押し
留めて、
「そのまま、そのまま、首途には極上と言う日付じゃな。はい、はい、承知しました(こ
れは父の一周忌と石塔建立の事であったと思う)
。随分気を御つけなさい。愚禿《わし》も
またちょくちょく出て行きます。慎公、
(和尚常に僕を慎公の、やれ小坊主のと云った)エ
ラクなって来なさい。愚禿は死なずに待って居るぞ。はははは、それではお出でなさい。
愚禿はこれで御免蒙る」
可笑しな和尚様だ、自分の云うことばかり云って、さつさと帰ってしまった。
馬は歩き出す。鈴がちゃらちゃら鳴る。朝風が冷やり冷やり面を撫でる。最早悉皆《す
っかり》明け離れた。鶏の音のする村にはまだ白い靄が残って居るが、空には最早雲雀が
鳴いている。麦畑の畔には、蓮華草を押分けて小川の水がちょろちょろ、さながら「慎ち
ゃま、左様なら、左様なら」と云うように聞える。そこここの一軒家は、大方戸が閉まっ
て居たが、中には前の井手で顔を洗って居た女が不図顔をあげて、呆れ顔して「菊池の奥
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様だ、最早立たっしゃるだ」と獨語して、目礼したのもあった。
やがて人家が絶えてしまって、南側は麦畑になる。麦畑を少し行くと、駄菓子や草履草
鞋なんど売る一軒茶屋がある。この茶屋に近づくと、ふいと少女が走り出して来た。小さ
な風呂敷包を持った婢がついている。芳ちゃんと、その家の婢だ。早くから来て待って居
るのであろう。
それからあとの事は、よく覚えぬ。唯新五が抱いて、吾らの馬に乗せると、芳ちゃんが
突然に母に鎚りついて泣き出した事や、婢が何かくどくど云って風呂敷包を出した事や、
母が少し考えて、その風呂敷包を「ありがとう」と受取って、挿して居た櫛を紙にくるん
で「芳ちゃんが大きくなってから」と云ってその懐に入れてやって、「母上に宜しく」と伝
言をして、最早下ろすと云う際にほろり涙をこぼして、その髪を撫でて遣ったことばかり
である。僕に何と云ったか、僕は何と云ったか、それもぼんやりとして更に覚えぬ。唯眼
の前に今もちらついて居るのは、
大きな棒縞の袷を着て、
茶小屋の前の木槿の側に立って、
泣き泣きこちらを見送って居た姿である。凱旋将軍の意気を以って馬に上った僕も、何や
ら引き入れられて、眼が霞んで来た。
茶小屋を過ぎて少し行くと、往還は平地を離れて、七曲坂と言う螺旋状の長い坂にかか
る。どこま送っても果てしないと云うので、母は無理に離別を宣言した。あっちも、こっ
ちも、涙ばかり。
「奥様御達者で──慎ちゃま、左様なら」
「奥様、御坊ちゃま、御達者に」
「おまえ等の親切は決して忘れないよ」
「奥様、御恩は忘れませぬ」
「大事にしな」
「御大事に」
「時々便をして御呉れよ」
「奥様も、御便を」
こんな挨拶は幾回も不幸な主従の間に繰り返えされた。
しかしながら離別は終に来なければならぬ。馬は坂を上りはじめた。新五は口網を短く
とって、
「はい、はいツ」と馬を励まして行く。
後には「奥様、慎ちゃまあ──」と涙まぢりの声が呼ぶ。しかしながら坂は曲がって最
早勝助父子の姿も見えぬ。馬は朝風に嘶いて勢よく坂を上って行く。
坂を八合ばかり上ると、少し平坦な処に出る。小さな地蔵が道側に立って居て、その側
に大きな杉が一本ある。杉の平とここを云うのである。ここから見ると故郷は一目だ。来
る者はここで足を止めて見る。去る者もここで顧みる。新五が馬の腹帯をしめ直す間、僕
等も暫しここに立ち止まった。
今別れようとする故郷は、少しも僕等の立去るのを気付かぬように、常にかわらぬ春の
朝の装をなしている。そこここから朝炊の煙が、さも悠々と立ち上っている。十年来住み
馴れた町も、行き馴れた学校も、祖父や父が限りなく眠って居る墓所の山も、菜の花の黄
金を敷く野も、川も、蓮華草の田も,水車も、神社も、さながら春の絵のように横たはっ
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ている。今きた往還も、往還のこっちに二三人打群れて、立って居るのも、手にとるよう
に見える。送って来た彼等であろう──彼等だ、手をふって居る、こっちが見えたのであ
ろう。ああ小さな姿が見ゆる、芳ちゃんであろう。僕の眼は涙に曇って来た。故郷はさな
がら霧がかけたように朦朧となってしまう。
母は独り言のように
「分からぬものだねエ、今日こうしてここを立とうとは夢にも思わなかった。十三年前、
私が嫁入ってきた時もここで休んだが、
その時は駕籠に乗って、賑やかにして来たが──」
僕は堪らなくなって来た。涙の顔を母の胸にすりつけて──何と云ったかよくは覚えぬ
が、こんな意味の言であったと思う。
「おっかさん、堪忍して下さい、きっと私が、私が勉強して、おっかさんをまた駕籠に載
せてここに来ます」
母はひしと僕を抱いた。新五が
「慎ちゃま、よく云いなさった。何有、何有──好日和じゃごわせんか、御覧なさい、
高鞍山が」
僕の眼は突《つ》と空を走って、東の方に群山を踏まえて一峯昂然あたりを払って朝空
に立つ高鞍山の頂きに向かった。藍よりも碧い山は、腰に流雲を帯び、背に朝日を負って
泰然笑を含んでこっちに向っている。
頓《やが》て馬の鈴またちゃらちゃらと鳴り始めて、路は一転十一年の生涯を包んだ故
郷は巻物を捲くように過去の幻影となってしまったが、髣髴として眼底に残ったものは、
煙立ち上る故郷の村でもなく、道上に泣いている送り手の面影でもなく、唯泰然として朝
の空に聳える高鞍山の面影であった。
一の巻 終わり
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二の巻
(一)
一夜を淋しい山駅の行灯の下に明かして、翌日の午過ぎには某の城下を眼下に眺め、そ
の夕方は右の城下を半周して西の郊外に立つ唯有る小丘の麓で馬を下りていた。この小丘
は後に連なる重畳たる青山の裾山で、伯父の屋敷はこの丘の南半面を占領して居たのであ
る。
先刻馬の上から初めて城下を望んだ時は、井戸の鮒が江湖《こうこ》に出たように、僕
等母子はあの広い中に出て如何なるであろうとすこぶる心細く覚えたが、今伯父の屋敷の
門前で馬を下りて、母が僕の着物を引繕って呉れると、小さな僕がなお急に小さくなった
ように、気おくれがして仕方がなかった。
門を入って、小石だらけの坂路を上って行くと、揃いも揃って渋色の着物を着た──し
かも二人宛鏈《くさり》で繋がれた男が大勢石を掘ったり土を運んだりがやがや働いてい
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る。見れば何の顔も何の顔も恐い顔ばかり。そっと母に聞くと、懲役と云って悪い事をし
た人だと云う。僕は一驚を喫した。このような悪人を使う伯父様はどんなに恐い人であろ
うと思った。段々上って行くと、まだ大勢の人夫──これは渋色のではない──が木を植
えたり石垣を築いたり、また普請と見えて手斧の音や鎚の音がしきりに聞える。不図人を
叱る声が聞えたので、大きな柿の樹の下で、大きな男が曲尺を持った印半纏の男を叱って
いた。何でも五十位であろう。額は少し禿げ、赭黒い顔の下半部を蔽う長髯は白勝ちに見
える。両の肩怒って、実に見上ぐるばかりの大漢《おおおとこ》。尻をからげて、薩摩下駄
をはいて、手拭を腰にさげて、櫻の杖をステッキについていた。僕らが近づく足音にふっ
と眼──その眼は怒火いらいらと燃えて居たが、何故か、あまり嫌ではなかった──をあ
げて、しばし怪訝の容子であったが、
「ほウ、これは」
云い云い二三歩寄って来た。母が丁寧に頭を下げて挨拶するを待たず、伯父──と直ぐ
知った。尤も以前一二度見た事があったが、それは僕が四五歳の頃で、無論覚えて居らぬ。
云わば初対面である。
「これは早かった、早かった。これが慎どん──大きくなったな。歩いて乗たか、何、
馬で──うん、うん」 うなづきながら伯父は僕の肩をたたいて居たが、この時僕と同年配
位の色白の小娘が出て来たのを「鈴江、鈴江」と呼んで、叔母様が着いたと阿母《おっか
さん》に云って来いと命じると、娘は一寸お辞儀をして小走りに行ってしまった。
「まあ、鈴さんが大きくなりましたこと。而して奇麗にまあ──」
と母はみおくって叫んだ。
「はははは、お転婆でな。さあ、兎も角も宅へ──拙者は一寸用を仕舞って来る」
呆気にとられて見て居た印袢纏《しるしばんてん》を、伯父がまたあらためて叱り出す
声を聞き残して、僕等は宅に向った。宅は門から一町ばかり、丘の腹を拓いて建ててある。
未だ玄関にかからぬ内に、四十余りの母によく似た婦人がとつかは出て来た──小手招き
をしながら。
「待って居た、待って居た」
唯一句。しかし伯母ならずばと僕は思った。
ここまでは歴々《はっきり》覚えて居るが、このから後は少し曖妹になる。唯引ずられ
るように玄関に上って、
座敷に通って、伯母が先づ母の切髪を見るよりほろりと落涙して、
また僕を大人しいと誉めて、母が「田舎者で、何も分かりませんから」と云って、僕がそ
れに内々不平を感じて、鈴江とか云う娘が茶を汲れて来たり菓子を出したりするのを母が
感心して、僕に「御覧な、鈴さんの大人しいこと」と云って、僕が何有《なあに》故郷の
芳ちゃんだってその位はすると思ったことなどを覚えている。
それから日が暮れて、湯に入って、故郷ではまだ大々的贅沢であったランプと云う行灯
が幾個もついて、それから故郷に居た時のように別々の膳ではなく、伯父を初め一同大き
な机の様な四足の膳に一所について、それから伯父が食ベるも食べるも喫驚する程食べた
事や、食べる時に猪のように鼻息を立てた事や、僕等を乗せて来た馬士の新五が振舞酒に
酔って台所で大気焔を吐いたのを母が気の毒がった事や、とにかく色々な事があったが、
よくは覚えぬ。唯、面白い、妙な、珍らしい感覚の中に揺られて、この新天地に於ける僕
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の第一日は過ぎてしまった。
(二)
伯父は野田大作と云った。もとは由緒ある郷士《ごうし》。若年の頃は藩中の第一の人物
たる某先生の薫陶を受けて、門下俊秀の一人と云われ、維新後は或は地方に或は中央政府
に種々の官職を冒していた。名が大作、身体が大漢、大志、大胆、大気、大言、大食──
実に大の字揃いで、先づ英雄型の人物であったが、仕上げの時に臨んで天道様が一寸何か
に気をとられて居たのであろう、英雄──ではあるが、惜いかな、披裂がいっていた。譬
えば箍《たが》のゆるんだ十石桶、如何にも大きい、が酒桶にもならず、風呂桶にもなり
兼ねる厄介物。しかし胸中唯憂国の念あって、自から期する所の大なるは、中々小悧巧な
当世才子の比では無かった。で、明治十年の際にも、伯父は九州某県の要職に居たが、西
郷の乱が起ると甚く憤慨して実に「市も市(大久保市造)吉も吉(西郷吉之助)ぢゃ。馬鹿共
が、内輪喧嘩をする様な今の時節か。宜、宜、自分が一つ叱ってやらずばなるまい」と慨
嘆して、単騎肥後に乗り込み、西郷を説破して兵をやめるさせ、然る後大久保を叱って、
市と吉との仲直をさす筈であったそうな。所が、中途で賊兵に押えられて、木山の賊営に
引かれた。已にその途中で、賊兵が刀をぬいて、如何だ、面御臭いぢゃないか、やってし
まおうか、と互に相談するのを、伯父は平気の平左で聞いている。流石の賊も「この者が
面魂を見ろ」と讃嘆したと云うことだ。木山の営でも、夜は高鼾で寝る、五円札を出して
鰻を注文する。賊も荒肝をぬかれて、西郷に面会は許さなかったが、しかし馬まで戻して、
三日ばかりして終に免した。それは宜かったが、伯父は途中で居睡ったと見えて、木山の
営に帰った。
賊の隊長某は洒落な男で、
「野田君、最早大概にして帰って呉れないか」と笑って、兵を
つけて三四里送り出したそうだ。虚言の様だが、本当の事だ。こんな人物だから、悧巧者
の集合所とも云可き政府の役人が中々以て勤まる道理はない。已に某県でも、某長官が私
利を営んだとか怒って、伯父は突然彼大力で長官を押倒し、存分に撲ったので、電報免職
になったが、今度も中央政府でまたまた上長官と喧嘩して、論旨と発意と五分五分と云う
辞職をして、帰国したのは去年の暮。これからは地方有志家の巨魁《きょかい》として、
率先して殖産興業の事に従うと云うので、もと或雅人が住んで居たこの丘陵の地面家作を
買い取って、牛小屋を作り、豚小屋を拵え、鶏柵をしつらい、またおびただしく菓樹を栽
え茶や桑を仕立て、西洋蔬菜類を作って、文明的殖産家の先達を以て自ら任じて居るので
ある。
伯母は名を実と呼んだ。
母に似て居るように前に云ったが、
母よりは年の十余りも上で、
今いささか身体も顔も大きく、どこやら綽々《ゆったり》している。年はまだ四十あまり
だと云うに、白髪も大分見え、額のあたりに皺も見える。良人が良人だけに、人知らぬ気
苦労も多いのであろう。如何やらすると今にも泣き出しそうな顔をして、よく「そうなあ
──宜、宜」と云癖がある。一寸見には男の様で、二度見ると唯もうやさしくて、三度見
るとそのやはらかな中に凛とした一節の籠っているのが分かる。母が圭角稜々たる水晶な
ら、伯母は円く磨った瑠璃とでも云おうか。この家に来た翌日と覚えている。小座敷の前
を通ると──障子がしまって居たが──しんみり母と話す声が聞える。不図立どまって聞
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いて居ると、伯母の声として、
「未だ若い、若い、どうしても手習は嫌と云って草紙を川に投げ込んだ頃の様子が見え
るよ。未だ未だ、どうして世の中は、そんな事ぢゃいけませぬ。もっと頭が下るようにな
らなくては、いけませぬ。泳ぎの上手は川で死ぬ、で気象者は気象で却て失策《しくじ》
ります」
と云って、何やら母の背でも撫でた様だった。この時からして、僕の心は緊と伯母を捉
えて、何だか祖母様でも得たように、妙に嬉しかった。
伯父と伯母の間には、大一郎鈴江と云う二人の子女があった。大一郎は当年十五歳、こ
れは東京の叔母──伯父の妹だ──に托して、某学校に勉強している。
鈴江は僕と同年で、
伯父の娘だけ妙に鷹揚な女史であった。着いた翌日、伯父は出る、母は伯母と話す、僕が
手持無沙汰の様子を伯母が見て、
「鈴江、
慎さんと屋敷まわりでもして来なさい」と云った。
鈴江は直案内者然と臆面もないもので、先きに立って、これは何あれは何と一々説明しな
がら、屋敷中引張まわした。鉋屑や鋸屑を踏んで、まづ見たのが蚕を飼ふ蚕室で、これは
大抵出来ていた。その筈だ、最早蚕は生れかけて居るのである。然るに蚕室の普請の一方
には、石垣工事だの、果樹栽培だの、何もかも一時にやっている。これが蓋し伯父の癖で
あった。
それから例の懲役が土を掘り石を運ぶ中を通ると、僕は吾れ知らず口走った、
「伯父さんは何故悪者を使いなさるかしら?」
すると僕の案内者は、
「阿爺《おとっつぁん》はね、あたし達に、あの懲役なんかと云ってはいけない、可哀
想な人達だって、ね、それで何時もおやつには御鮓《おすし》だの御団子だの拵え《こさ
え》て御馳走するんですわ」と云った。僕は口を開いたきりであった。
面白いのは七面鳥やばりけん鳥で、汚いのは豚小屋、可愛いのは小牛、恐ろしいのは大
きな牝牛のもうと云う声──尤も乳を絞るのは面白かったが、その晩生れて初めて牛乳と
云うものを飲んで、到底堪えきれないで座敷表に吐いた事は、未だに恥ずかしい事の記憶
として残って居る──珍らしいのはユーカリ、アカシヤ、カタルバ、神樹など云う樹、こ
れは鉄道の枕木になると鈴江さんは説明したが、恥ずかしいかな、その鉄道なるものが僕
の頭にはおよそ瞭然としなかった。
それから鈴江女史は一歩一歩に且つは驚き且は喜ぶ田舎漢の僕を得意気に引張って、屋
敷の一番高い処に上って見ようと云うので、一條の石逕《みち》を伝って上り初めた。先
の持主の仕置であろう、逕の左右は段々畠になって居て、麦穂族々と日に光って居たが、
処々は無惨にも掘り棄てられて、そこに梅、桃、李、杏、巴旦杏、梨、柿、蜜柑など新た
に植えてある。段々畠を過ぎて、少し上ると、上二、三段が程は未だ拓かずにあって、小
笹まぢりの春草青々として、菫菜《すみれ》蒲公英《たんぽぽ》蓮華草なんどの花が咲い
て、その真中に小家程もあろうと云う紫色の大石が頑として横わっている。案内者も僕も
この大石に攀ぢて腰かけた。何でも僕が故郷の谷に十倍する──と思った──眼界であっ
た。城下は左手の丘に隠れて見えぬが、五里七里十里彼方に霞む遠山にぐるりと縁とられ
た一面の平野は、菜花の黄と麦穂の青白に染め分けられて、孤村彼方こっちに富み、川流
処々に白銀の光をのべ、実に悠々とした景色だ。南面して、冷りとした春風に吹かれて、
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雲雀の歌を聞いて、広々とした景色を眼下に瞰《なが》めて、ことこと響く手斧や鎚の音
を下に聞いて、水道の水に磨かれた娘と山出しの少年は互に見聞を闘わした。小さな愛郷
者は、負けぬ気になって、高鞍山だの、大川だの、延年寺だの、田の虫追の賑合だの、智
識の底をはたいて争って見たが、駄目駄目、鈴江君は東京(!)を見て居るのだもの、先づ
天子様、富士の山、浅草の観音、両国の花火、神田祭、汽車と云う火の車、汽船と云う煙
を噴いて一時間に十里も行く船、その他珍奇な話は爽やかな東京弁にのってとうとうと耳
辺に漲り、僕はまた昨日初めて城下を眺めた時のように、如何にも吾は小さな無学な田舎
の一小児たるを感ぜざるを得なかった。それと同時に、鈴江嬢は驚く可き女博士のように
思われて、そのにこやかな唇の上の黒子までが妙に神々しく拝まれた。
とにかく十年の生涯にもまさる二日間の学問に僕は何か早換わりの遠眼鏡でも覗くよう
にそわそわして、この日馬子の新五が帰るのにしみじみ挨拶もしなかった。のみならず、
お芳坊に伝言するのも忘れてしまった。──芳ちゃんが別れ際に持って来た風呂敷包の中
には、僕が曾て欲しがって居た葡萄蔓を蒔絵にした手箱に、奇麗な巾着まで入れてあった
のに!
この晩、伯父、伯母、母、僕、列席の上で、僕の就学の相談があった。母は流石に手放
して塾詰させるのを心憂く思う様子だった。しかし、僕は鈴江嬢の前で男らしく振舞いた
いという馬鹿な野心があって、一も二もなく入塾に決してしまった。この塾と云のは、鈴
江嬢も通って居る所謂小学校ではなくて、伯父の朋友の中西西山先生が立てて居る家塾だ。
(三)
中西西山先生の塾と云うのは、伯父の家から小一里も離れ、矢張り城下から引込んで山
に拠っていた。その朝絞付の着物を着て、伯父について、西山塾に行く途中で、僕はひそ
かに思った、故郷の小学校が先あの位だから、音に聞える西山塾は如何に大きなものであ
ろう、中西先生は如何に立派な先生であろう。然るにこの日は実に意外、吃驚で持ち切っ
た日であった。否々、故郷を出て十日ばかりと云うものは、肝の抜かれどほしで、よくま
あ生きて居られたと今から不思議に思う位。
先ず、この日の肝の抜かれ初めが、路の小半里を行く穢多(エタ)とも見える男二人、
大きな目籠を担って僕らを追い越した。中を見ると、生々しい牛の骨で、剥ぎ残しの肉が
爛斑(まだらに)とついている。
「伯父さん、あれは何するのですか」
気味悪そうに尋ねると、伯父は莞爾と笑って、
「おまえも明日からあれを食うさ」
「牛の骨を?伯父さん」
「何、骨を煮出して、汁を吸うのさ」
急に胸がむかむかすると思うと、涙がほろほろこぼれて来た。ああひどい、実にひどい、
牛の骨をしゃぶる位なら、何も学問しなくてもよさそうなもの、ああ情けないと思った。
しかし伯父が恐いから、僕は黙ってとぼとぼついて行く。
丘を廻ると、一寸した谷があらわれた。その谷の一隅に山に拠り田を前にした小村があ
って、村の一隅に竹薮と梅林にはさまれた茅葦の屋根が大小二つ見える。田の畔を通り、
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溝川に架した石橋を渡って、石だらけの逕を上って、先づ小さな方の茅葦の門を入ると、
四十有余の跛《びっこ》の小男が草履をはいて、梅の枯枝を鋸でごしごしひいている。こ
れが中西西山先生であろうとは!
琉球表の六畳に通されて、先生の奥様であろう四十格好の痩せきった婦人が持って出ら
れた茶をのんで、暫くすると西山先生手を拭きながら入って来た。それから先生と伯父の
間に、梅の培養に関する短からぬ講習があった後で、痺をきらして居た僕を伯父が紹介す
る、西山先生熟と(じっと)僕を見て居たが、
「何歳かい。何十二、小いな。好々、自分が鍛えてやる。初の間はちと辛いぞ」
少しすると、箆棒に短かい筒袷を着るた少年が二人、椽の方から入って来て、時間になり
ました、と云って、一人は先生の煙草盆を、一人は見台と本を持って行く。僕も伯父と先
生の後について、初めて西山塾と云うものを見た。
先生の宅を出て、椿の花のおびただしくこぼれて腐っている裏口を出ぬくると、最早蜂
の巣のぶんぶう云うような声が聞えて、やがて大きな茅葺の平屋があらわれた。何でも塾
に建てたのではなく、百姓家を引直したのであろう。梅干の核、鰯の頭、竹の皮なんぞの
山をなした掃溜を過ぎ、ありとあらゆる下駄草履の互に相蹂躙して居る玄関を横目に見、
矢鱈に楽書した障子の孔から塾生の名札のずらりと掛かって居るのをちらと見て、別口か
ら上って行くと、直ぐ十二畳──琉球表は赤くなって、処々に腸が出て居た──ばかりの
室で、三四十人の塾生がずらりと長方形に坐って居たが、一斉に僕の方を見て、小さな奴
が来たなと云わぬばかりの顔をした。僕は小さくなって坐っている。先生が默頭する。塾
生がお辞儀をする。随分何れも御顔は垢ついて居たが、感心に小さな者までもきちんと正
座している。やがて会──八大家の韓文であったと思う──が始まる。上席の塾生が一つ
辞儀して、朗々と読んで講義する。僕はいよいよ小さくなって、何十年勉強したるであろ
うかと絶望の頭を垂れて居る内、質問答弁もようやく済んで、先生は「上田」という塾頭
を呼んで、僕を紹介する。僕が辞儀する。伯父が「諸君、宜しう」と言を添える。僕がま
た辞儀する。一同が辞儀する。塾頭が「菊池慎太郎」と云う札を書いて、塾生名札の最尾
に拭ける。願書もない、入塾試験もない、一躍して西山塾の一生となったのである。
その翌日、僕は母から他人の間に処する心得を懇々と云い聞かされて、小さな机と薄蒲
団と皮籠を下男に荷はせてへ伯父の家を出た。今まで十二年間唯の一日も母に離れたこと
のない僕、心細くて哀しくて胸は裂ける様であったが、しかし門に立って見送って居る伯
母、母──別けて鈴江君の手前、まさか泣きもされず、無理に眉を断って、後をも見ずに
出かけた。出かけたが、初一町は脱兎の如く、二丁目から処女の如く、三丁目からさきは
屠所の羊の歩みで──それでも到頭塾に行着いた。
小供の時の習慣は移り易いもので、この時着た袷が單衣になり、単衣がまた袷になる頃
は、山家育の坊ちゃまも、ユキクケ短かな筒袖《つつそで》を着て、高足駄を踏み鳴らし
て、出る時は蝋引傘を腰にぶら提げて、豪傑袋をつけて、肩で風を切って、牛の骨の煮汁
を吸って、超然として西山先生の門人と威張っていた。
(四)
休言他郷多苦辛《いうことをやめよ たきょうくしんおおしと》
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同胞有友自相親《どうぼうともあり おのづからあいしたしむ》
柴扉暁出霜如雪《さいひ あかつきににいづれば
君汲前流吾拾薪《きみはぜんりゅうをくみ
しもゆきのごとし》
われはたきぎをひろう》
これは広瀬淡窓《ひろせ たんそう》が家塾の情趣を吟じたるものであるが、実にこの家
塾なるもの今は殆んど過去の物になってしまった。世が進んで来ると、金紋付の車で通う
講師の、煉化造の校堂の、兵式体操の、制服制帽の、何のかのと、すべての事が立派に組
織的にまた──悪くいへば──器械的になって来る丈、主脳たる一人の人格を基として立
つ家塾などと云うものは自づからなくなって、例えば師弟の情義とか朋友の切磋とか名節
とか元気とか云う様なものが、兎角乏しくなり易いのは、歎息の次第である。
西山塾主中西西山先生と云うのは、もと藩の軽い士の二男で、伯父と同門であったが、
維新後は別に役付もせず、早くから西山塾を開いて子弟の教授をして居られた。委しい事
は知らぬが、何でも若い時から非常に貧乏して、色々心配もせられたそうな。と思えば、
その奇嬌な風の中に、如何にも世馴れた所があった。跛と云うは身体の上の事、世の進歩
をおう足歩は、中々満足な足を持って居る者の及ばぬ所、氏族で候と二本指した箆棒が威
張って居た頃から、西山先生はおりおり馬を牽いては薪だの薩摩芋だの城下に売りに出ら
れたそうな。尤も僕が入塾してからはその様な事もなかったが、でも農業は極の好物で、
先生の机上には論語や通鑑と共に農業三事農業新誌など云うものがのって居て、糞汁の臭
を嫌う男は話が出来ぬと常に威張って居られた。大嫌は不精と坊主、髪は夙く《はやく》
切って、刀は明治三四年の頃売払って、荒神様の祠に小便して、托鉢僧を叱り飛ばすと云
う人物。要するに田舎には随分風変りな人であった。こんな所が僕の伯父とすこぶる意気
相投じた所である。尤も、西山先生は伯父を疎放と罵り、伯父は先生を頑固と嘲り、時々
は随分喧嘩も盛んに行われたが、この非凡な所、悪く言えば少しばかり狂──味を帯びた
所が相似たからであろう。
こんな先生だから、その教育法は、実に何と云って宜いか、名状するに苦しむ程だ。先
づスパルタの教育法と、ペスタロッチの教育法と、在来の家塾的教育法と、打って一丸と
した様なもので、実に一種特別な教育法であった。何でも先生は、我塾生たる者は、第一、
成るべく身体を強壮にして、艱難辛苦に耐え貧困匱乏《きばう》を忍ぶの気力を養成し、
第二、
在来の士族根性を打潰して、
自力を以て自家の運命を造るの習慣を養わねばならぬ、
とこう思って居られたらしい。廃藩以来は、昔威張った士族の右に倒れ左に躓いて見る蔭
もなく零落する者頻々と相ついで、五千石の大身産を破って人の門口に扇さし出す者もあ
ったが、先生は両刀棄てて飯が食えぬとは意気地のない話だと笑って居られた。で西山塾
生は、矢張九分九厘九毛まで、士族であって、中には何千石の若様もあったが、先生は決
して仮借しない。十五六歳位までの塾生には、皆筒袖を着さして、衣は粗末なもので袖腕
に至るを厭わず、厳寒に足袋をはかせず、飯は粟四米六で、しかも二三人宛輪番に炊くこ
とになっていた。僕の如きは実に塾中第一の幼者であったにも拘わらず、矢張定規によっ
て行われて、幾度「朋友飯」(朋友有信、信は心に通じ、煮えぬと云う謎だ)を焚いては衆
人の怨府となり、一把の附木を用い尽くしても火が薪につかないで、竃の前に蹲って泣い
たかも知れぬ。のみならず、淡窓の詩を文字通りに実行して、山に薪探りに行く、先生の
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宅の風呂の水汲む、甚しきは梅の肥料までかけさせられる。いや最早力業と云う力業は殆
んど為さざる所なしと云う有様で、僕等は書生か下男か、いささか分かりかねる位であっ
た。
柴扉暁出霜如雪(さいひ あかつきにいづれば しもゆきのごとし)、炬燵《こたつ》に入
って吟ずると実に好い詩だが、しかし実際その場に臨んでは詩境よりも寧ろ苦境である。
一体塾の位置が、前は田、後は竹薮からすぐ山つづき。夏の蚊に、冬の寒風、難行苦行に
は持って来いの場所だが、冬は実にひどい。夜は蒲団が薄くて、あまり寒いから、大きな
石だの薪だの蒲団の上に重しにして、寝たこともある。臥薪嘗胆と云うが、薪や石を着て
寝た者は、先づ僕らに始まるかも知れぬ。氷の山を上る夢醒めて、煎餅蒲団をはねのけて、
真白い息を吹いて出ると、一面雪が降った様な白霜、葱も大根もうな垂れて、側の小溝が
落ち込んだ藁屑を封じ込めたまま氷つめて、鼻の尖や耳の瑞さながら剃刀をあてられる様
な暁に、釣瓶竿の霜を扱《しご》いて水汲んで、さて男政岡は可なりこたえる。稀に伯父
の家に行くと、母や伯母や鈴江君が僕の手足の赤ぎれ霜やけを見て、顔をしかめた。去る
門閥の子弟は、秋来て冬になると直ぐ退塾した者もあった。僕も折々はあまりひどいと思
った。しかしながら今から思うと、ちと過激な様ではあったが、しかし僕の身体と辛抱力
は全くこの数年間に鍛われたので、今でもあまり冬温夏冷の地を撰ばず、随分素綿衣で冬
季のシベリア横断もしかねぬのは、西山先生の賜物と云ってよかろうと思う。
註:蘆花は後にシベリアを横断してトルストイに面会している。
塾生はかく鍛えられても、よく西山先生に服していた。何故か。先生は蓋《けだし》僕
等を愛して居られた。身を以て僕等を率いられた。決して己は勝手次第に一本四五十銭も
する様な葉巻を燻らして僕等の喫煙を禁じたり、己は教科書運動で懐を暖めて僕等に廉潔
の講義をしたり、親の病気を放擲して倫理学の講釈をしたりせられなかった。牛骨のソッ
プを作って飲ましたり、田川を乾して鮒鯰をとって一所に闇汁を啜ったり、塾を挙げて裏
の山に自然薯を掘って僕等に摺鉢を押えさして先生自身摺子木をとってとろろ汁を作って
師弟一坐に舌鼓を鳴らしたり、苦もあったが愉快も実に少なくなかった。唯一の不平は、
先生が何百本と云う梅を植えて、実の一顆だに恵まれず、あまり長く梅樹の下にうろうろ
すると御目玉を頂戴することであったが、しかしこれ先生唯一の財産であったのみならず、
若し一度許可が出たら梅子の熟する迄には恐らくその幾割をも残さない患があるから、こ
れは無理もない。しかしそのとばっちりは飛んだ所へかかった。塾から十町ばかり北方に
当って、某と云う村がある。全村郁李《いくり》で、春に青白い霞みがかけたように、夏
になればここもかしこも白粉を吐いた紫玉紅玉累々、ぽてぽてと落ちて、潰えて、村へか
かると酒の様な臭がプンと鼻をつく位。済まぬ事だが、僕等は、闇夜の頃をはかって、時々
李下に冠を正した。西山塾には随分悍馬も多かったが、よく先生に服して居たのは、先生
が常に身を以て塾生を率いられたからで、露国の勇将スコベレツフは常に白地の軍服を着
て、突貫の場合には「さあ、皆吾について来い」と真先に立ったと云うが、西山先生の教
育法は云わばスコベレツフ流であった。
26
(五)
僕はあたかもこの地方に於ける新学問の、云わば中世闇黒時代に故郷の谷間から出て来
たのであった。五六年前までは洋学校の設もあって英語が盛に行われたが、それは何かの
都合で閉校して、当時の英学生は大概東京大阪長崎へ出てしまって、県庁へ一寸英字の手
紙が来ても、一人だに読み得る者がない位。で、西山先生も残念ながら洋学をば取除いて、
塾の課程は漢文が十の八九を占め、残一二分はその頃新版の翻訳書で填《うず》めてあっ
たが、矢張醇乎《じゅんこ》たる漢学塾であった。曾て万国新史の会読の時、
「世紀」と云
う字があったが、上は先生より下僕等に到るまでどんなに首を捻っても一向その意味が分
からぬ、顔見合わして茫然として居ると、幸にも塾生の中に長崎で洋学をかぢって居た男
があって、世紀と云うは西洋の年代を算えるに用いる語で百年が一世紀だと云う説明をし
たので、一同雲霧を排いて青天を見たこともあった。
先生と云っては、西山先生を大先生として、中先生には何時も革色の紋付羽織で出かけ
て来る謹直な松島先生、小先生には塾頭の「上田」これが最下級の素読や何かを教える。
僕も最初はこの小先生について、日本外史十八史略を授かったが、程なく西山先生につい
て左国史漢四書五経八大家などの講義を聞くようになった。先生も「菊池菊池」と可愛が
って、
『菊池は蚤の様ぢゃ、小さいくせに早いやつぢゃ」など云われて、僕も大きな連中に
妬まれたこともある。何、早くも何もありはしないが、小児時代の記憶が宜いのに、負け
まい負けまいの一念があって、そのうえ少しなまけると母の両眼がどこからか電の如くあ
らわれてきつと僕を睨むので必死と勉強した故であろう。しかし打明けて云えば、去年ま
では田舎の小学校にむずむずして居た小供が、今は見上ぐる程の大男の中にまぢって、相
撲とったらその小指にも敵わぬ程の壮士が、
「菊池、これあ何ちう字か、教えて呉れ」なん
ぞ忌々しそうに聞きに来るのは、余り不愉快では無かったのである。
前に云った通り、塾は旧い百姓家をひき直したもので、教室も食堂も素より別にあろう
筈なく、畳のやや清潔な処が教場、汚い処が食堂、机のない所即ち寝室だ。それ時間だ、
会だと云と、或は障子の蔭より、或は窓の下より、或は薄暗い隅の方より、塾生は続々寄
って来て、ぐるり輪を作って──それが教場。さもない時は、ここでは声張り上げて通鑑
を読む。かしこでは黙って戦国策に不審紙つける。塾頭が初学生に素読を教えるこっちで
は、中学生が三四人で外史の素読??みをしている。そのまたこっちでは(夏なれば)生平《き
びら》の帷子《かたびら》に扇を腰に挿した通学生が、握飯を包んだ布切を丁寧に剥がし
て、小さな火鉢で塩鰯を焼いている。右に本箱、前に筆立、几案《きあん》整然として字
を書く潔癖家もあれば、爬く爪の垢にはさまる虱をひねり殺して課題の詩を案ずる風流王
莽《おうもう》もある。頭から蒲団(冬なれば)を被って眼と鼻の孔ばかり出して本を読む
者もある。夜は居睡して鼻の孔に紙捻挿されて怒る者もある。そっと机の抽斗から饅頭の
隠し食をする者もある。
正課は怠って通俗三国志ばかり読む者もある。若し夫れ飯時の混雑に到っては口で云う
より想像した方がよほど分かる位だ。こんな有様だから、智育と云っては漢字を識るの外
殆んど幾何《いくばく》もなかったが、その代り辛抱力を養う意育と、筋骨を鍛える体育
は、先づ遺撼なく施された。今日のように組織的な体操や、文明的遊戯なぞ無かったが、
芋掘り、水汲み、魚捕り、遠足、夏の遊泳、何れも盛んに行われた。なかんずく愉快なの
27
は兎狩りだ。兎狩と云っても、銃や猟犬を用いるのでなく、兎が棲みそうな小山の一角に
幾反の網を張って、勢子をもって追うのである。
秋収が済む。霜が降る。裏山の楓が染めると、兎狩の季節がそろそろ始まる。つくろい
に遣ってあった網も出来ている。何日は兎狩りという貼り札が出る。脚袢草履の用意に僕
らはいそいそとして、何も手につかぬ。炊番は夜中に起きて握飯を拵《こさ》える。皆結
束して塾の庭に勢揃いする頃は、最早午前の三時過ぎでもあろう、有明の月白く冴えてい
る。三たび鬨《とき》の声を揚げて、月影を踏んで、行く所は東か西か、近くて一二里、
遠くて四五里。大人組は、網をかついで、高らかに詩を吟じて行く。僕等は黙って、しか
し心は揚々として、ついて行く。睡そうな鳥の音のする村も過ぎ、消魂しく《けたたまし
く》犬の吠えかかる村も過ぎ、月色茫々たる野路を歩いて行くと、果ては段々睡たくなっ
て、頭は茫となって、こくりこくり、足ばかり器械的に歩んでいる。不図さあさあと云う
音が聞える。松風か。目を開くと川──月にさざめく川瀬の音だ。橋番小屋の前をわざと
吶喊《とっかん》して走せ渡る。最早一里半も来たろう。月落ちて、野は一面の暁闇──
前に行く者の姿も瞭然とは見えぬ。
不図すばらしい大きな真黒いものが鼻先にあらわれる。
山だ──目的の。未だ早い。皆そこらに積んである稲塚や粟がらを引出しては、焚火をし
ながら天明《よあけ》を待っている。気早い連中は土鼠の如く畠にかがむかと思うと、一
抱え甘藷を盗んで来て、藁灰に焼いて談笑しながら食っている。
「おい菊池、一つ食わんか」
。
しかし僕は睡たい。藁の上に横ろんで居ると、背中は寒いが、面や腹は焚き火に暖まっ
て、灸々と立ち上る焔の間にちらちら見えて居た一同の赤い顔が次第に遠くなって、つい
うつとりと一睡入りしたと思えば、
「おい、起きんか、夜が明けたぞ、最早網を張りに行っ
た」と起される。眼をこすって起き上ると、成程天明だ。東が白んで、暁の風切るように
面を吹く。焚火の跡だけ黒い円を描いて、四辺《あたり》は一面の霜だ。頓《やが》て勢
揃して山にかかる。進軍の号令がかかる。鬨の声が一時に揚がる。二山も追う頃は、最早
朝日が晃々と秋空に上っている。
今想っても愉快だ。秋が黄に金に紅に紫に鳶に、あらゆる彩色の限りを尽くした落葉木
の枝を押分け葉を打はらい、声をあげて上る心地。網近くまで追つめて、如何かと思って
居る時、どこからか「獲れた!」と云う声がして、吾れ知らず棒を振って勝鬨をあげる時
の心地。網番をして、攻め寄せる勢子の叫びの最早間近にになるに、兎のうの字もかけて
来ず、ああ駄目と落胆する時、突然がさがさと樹叢が鳴って、覗く鼻先きへ淡褐色の飛影
がちらり、思わず網に飛ぴ込んで二つ三つ網ながらに筋斗翻る《とんばがえる》兎を樹蔭
から飛びかかって押える時の心地。狸や狐に逃げられて、皆に「菊池は邦《おが》んだ、
邦んだ」と嘲られる恥辱。ああ最早正午か、どこの山中の一軒家でか午鶏が鳴いている。
落葉かき分けて、谷川の水口つけに吸って、木の根草の上に足投げ出して、網袋の握り飯
にかぶりつく時の心地。食ってしまって、落ち葉の床に仰向けに寝て、碧玉よりも澄んだ
空を眺めて、汗ばんだ顔を冷々した風に吹かす心地。「さあ、奮発だ」
。やや重い足を移し
て、また二山三山。不図うむべの紫を蔓蘿《かづら》の間に認める驚喜。あまり紅の美し
きについ欺されて、自然生なる渋柿の一口に顔を顰める可笑味。数え立てれば、際限もな
い。
28
秋の日の短かさ、未だ三匹しか獲れぬに、最早鴉が鳴き出した。遥かに見える湖や川は
金の如く夕陽に閃めいている。獲物は葛蘿《かずら》で四足を縛って、大人がかついで、
とくに帰った。僕らは紅葉の枝を折って、ぶらぶら後から帰って行く。山を下りて、野に
出ると、日は彼方の欅の森に沈んで、夕煙が村々の黄昏を催して来る。と思うと、薄紫に
けぶる野末に大きな月が洞々と顔を出す。狩りくらし----何とか歌でも詠みたい風情。そ
の月がやや高くやや小さくなって、うち伴れて行く吾影の大分短かくなる頃は、僕等は最
早塾に帰り着いて、漸っと草鞋をぬいで、顔を洗って先生を初め一同大胡座《おおあぐら》
で、手々に兎汁を盛って、飯を食っている。大久保彦左の鶴の吸物ではないが、この兎は
別名を大根、にんじん、牛蒡、焼豆腐、蒟蒻《こんにゃく》と云うのではあるまいかと思
うほど正味には懸け違って御目にかからぬが、しかしその味! 否、それよりも食ってしま
って、着物も更えず、ぐっすり寝る時の心地! 夢も見ない、身動きもしない、明日の九時
ごろまでは死骸も同然だ。彼の猟官者には、到底この寝心地は分かるまい。
六)
西山先生の塾では、別に塾則と云うものはなく、大抵の事は自治に任せてあった。尤も、
罪によっては、竹箆とか禁足とか、下っては便所の掃除とか云う罰もあったが、そんなの
は乱暴者を制するよりも寧ろ卑怯とか鄙劣《ひれつ》とか破廉恥の挙動を排斥するが為め
に設けられてあったのだ。一方には他人の飯を食って威張る士族根性を打つぶすと共に、
他方には名節廉恥を重んずる士族魂はどこまでも維持させ、一方では堅く塾生の上に君長
の権を握って、然も他方では決して唯々諾々の卑屈男子を作るまいと云うのが、蓋し西山
先生の目的であったと思う。
面白いのは毎週の聴訟だ。先づその日は、放課後塾の大広間に塾生がずらりと輪を作っ
て坐ると、先生は松島先生を従えて大岡然と上座に坐って、さて一座を見廻わして、
「何か
申出る事があるかい」と云われる。すると塾生の中何か同輩に対して苦情ある者は、
「何某
君」と被告を名指して、原被両造《げんひりょうぞう》相並んで先生の前に出て、原告よ
りその苦情を訴える。先生が被告に尋問する。稀には列座の塾生が原告若くは被告の証人
になることもある。尋問済んで、先生は即座に判決を下す。弁護士もない、予審もない、
無論控訴もない、上告もない。一種特別の裁判である。その訴訟事件と云ったら実に種々
様々、「先生、何某は私を箒でうちました」「何某は私の鼻が天に向いとると云いました」
「私に舌を見せた」などと云う極無邪気な問題から、上っては千差万別。従って、その判
決もまた実にさまざまである。
「何、舌を見せた、何某、誰それは医者じゃないぞ、舌を見
せるということがあるか、謝りなさい」
「何、鼻が天を向いとると云った、おまえの鼻は実
際天を向いとるな、
しかしそう云うことは唯黙って思っとるが宜い、言う法があるものか、
謝りなさい」
「何、箒でうった。宜、これから一月何某はその箒で原告の机の辺を毎日掃除
するが好い」など、書き集めたら中々面白い判決例の本が出来ようと思う。
その稠人《ちうじん》広座の中で被告となるは、大した恥辱と考えられるので、
「出るぞ」
と云う一言は非常な脅嚇となった。
しかしながら、若し人間が尋常正規の裁判を以って普通の刑罰を以って満足するものな
らば、何も米国でよくあるあの私刑《りんち》と云う様なものの要もあるまい。竹箆、禁
29
足、稠人広座の訴訟、この等に優して恐る可きは、塾内の制裁──私刑であった。塾生一
同に眼を注がれたが最期、その犠牲は実に気の毒な目に遭うのである。誰某は、生意気な
奴だ、見苦しい、打て──直ぐ打つ。誰某は惰弱な奴だ、胴揚にしろ──直ぐ眼のまわる
まで天井の木理を見させる。殊に恐る可きは、夏の頃遊泳に行っては溺らされるのと、ま
た一つは蒲団蒸だ。ここに何か塾生の気に入らぬ者がある。面憎い奴だ、蒲団蒸してやろ
うじやないか、宜かろうと、何時の間にか塾中の黙契が出来ると思いなさい。その男が夜
本でも読んで居る所へ、
「おい、一寸来い」と一人がさり気なく呼び出す。うつかり出る所
を一人が蒲団を持って後から打被せる。
「何をするツ?」罵ってもがく頃は、最早そこここ
から蒲団を持った大供小供が口々に「乱暴はよせよせ」と罵り罵りむらむらと寄ってたか
って、押倒しては打被せ、打被せてはまた打被せ、いやが上に積み重ねた蒲団はさながら
山の如く、そればかりでも下に埋れた者は堪まらぬに、またその上に雲つく男が「おい、
おい、ひどい事あするな、よせよせ」なんぞ云いながら蒲団の上に走りかかって転げる、
乗って踏む──飛んだ舞踏会だ。蒲団の下に踏まれ蒸されて、海月となった犠牲が片息で
這い出してぐにゃりと長くなる頃には、最早先刻の舞踏連中は何時かそれぞれ机の前に坐
って、どこの猫をうったかと云う顔で、いやに澄まし、妙に咳払いして、本を読んでいる。
実に誰を怨む事も出来ない。それこそ泣寝入りだ。
僕は幸いにしてこの等の私刑を免れたが、一度僕の友人を助けた事がある。松村清磨と
云って、僕より二つ年長で、僕より半歳あまり遅れて入熟した少年であった。何でも大分
遠方の田舎の金満家の子で、入塾の時も先生の宅初め塾生一同にまるで寺小屋入りのよう
に饅頭赤飯なんぞ持って来た。とても無口な、人遠い少年であったが、塾生は田舎者の癖
に──御自分等も田舎者の癖に──高慢だとか、威張って居るとか、面憎がって、終に何
月何日の夜誰某がランプを消すを相図に散々ぶちのめすと云う約束が出来た。その日僕は
裏の井戸端で小刀を礪いで居ると件の松村が相かわらず黙然として出て来たが、僕の顔を
見ると莞爾(にっこり)笑った。その笑貌を見ると、僕は堪らなく気の毒になって、終に
裏切りの復讐を受けるの危険を冒して、今夜斯く斯くの企てあることを告げ、西山先生の
奥様──奥様は大いに僕を可愛がって、時々着物の綻を縫って呉れたり、先生には内証で
梅子などそっと紬に入れて呉れた。僕が西山塾第一の幼者であったからであろう──に頼
んで、その夜は先生の宅に潜伏さして、首尾よくこの陰謀を免れさした。これが縁となっ
て、僕は松村と非常に親しくなった。人間は実に浅っぽいもので、極皮相で人を判断して
しまう。交際って見れば何のことはない、高慢と思った松村は、極めて柔和で、人臆《ひ
とめげ》をするので、平素黙って居るが、話をすると面白い少年でした。で、僕と松村の
交情は愈深くなって、入塾した翌々年の春であったと思う、西山先生の病気か何かで半月
ばかり塾が休業になった時、松村が帰省するから是非一所に来いと云うので、僕は母に強
請《ねだ》って、伯父に許されて、松村の故郷を見に行った。
(七)
同伴は僕に、松村に、それから迎えに来た松村が下男、都合三人。西山塾から五里程歩
いて、それから舟──無論五六反帆の極く小さな和船だ。
山家育ちの僕、恥しい事だが、この時初めて海と云うものを眼近に見た。(絵図や遠目に
30
は承知して居たが)。已にその前にも塾で車蝦が生きたのを見て、
「ヤアこの蝦は未だ熟れ
て居ない、白いな」と云って塾の大嘲笑《おおわらい》を惹起したことがあった。干蝦ば
かり見馴れた僕は、蝦は皆赤いものと思ったのです。
所が海に関する僕の失策はまだ已まない。舟出して暫らく穏波晴潮鏡の如しで、僕も松
村と笑ったり食ったりして居たが、やがて少し揺れ出すと、さあ大変! 酔う、吐く、唸る、
舟をつけろと怒鳴る、松村も下男も流石に持て余した様子だった。その内寝入ったのは宜
かったが、夜半に眼をさますと無暗に咽が乾いて来た。茶瓶がない。待てよ、舟の外漫々
たるものすべて是れ水ではないか。幸いあり合う茶碗でそつと舷外の水を掬って、一口。
あつ──咽返った、鹹《から》いの、鹹くないのて、今思っても──咽が痛い。幸い船頭
は帆の蔭になって居たし、松村と下男は寝て居て、月と星丈が見物人だったから宜かった
が、時々思い出しても馬鹿々々しくて堪らぬ。
海と云っても、たかが内海、右手には大きな島が断続横わり、左は連山波涛の如く重畳
している。離れて見ると屏風を立てた様な山また山、どこに舟が着けられようかと覚束な
く思われるが、近寄ってみると、処々に小島もあれば、山穿ちて入江潜み、江に沿うて村
もある。
陸路だと、名だたる峻坂のいくつも越えて、上ったり下ったり、鋸形に歩いて行くのだ
が、海路は気楽に山を眺めて、好きな入江に入れるのである。僕らは翌日の午頃、その中
でも最も大きな入江の一つに船を繋いで、まだ船心地に頭はふらふら、千鳥足に蠣殻砂利
を踏みつけて、松村が宅に向っていた。
三方山の一面海、地の広さは中々僕の故郷に及ばぬが、戸数は三倍もその上もあろう。
真中を川が流れて、川の右岸に人家が集まり、海つきは大概漁村だが、山手の方は大分瓦
葺きや白壁が見え、大きな寺の屋根も見えていた。川の左岸は田に、塩浜に、漁村だ。松
村が初めに僕を連れて行ったのは、浜近くの村の中に、一段高く石垣を築きあげて、白練
塀をめぐした大きな家であった。何でもおびただしく煙草を乾したり、俵にしたのを積ん
だりしてあった所を見れば、煙草屋であったろう。三十あまりの松村にはあまり似て居ぬ
男主人が、松村の来るを見ると莞爾した。若い父親だなと思ったら、これは松村の兄で、
両親は母屋を総領に譲り、離れの隠宅に居ることを聞き知った。
それから松村と母屋を出て一丁ばかり、小さな汐入川の橋を渡って行くと、水に臨んだ
一構えの屋敷があって、門前には家鴨が泳いでいる。門を入るとすぐ左に大きな海棠《か
いどう》が一ぱいに花をもって、右手に二階建の家があってそこに機《はた》の音が聞え
ていた。そこを過ぎて行くと、平建の家があって玄関側にはすばらしいザボンの樹があっ
て、その下に白い鶏が沢山にいた。下男が已に報知をしたと見えて、四十位の如何にも眼
の美しい婦人が玄関に出て居て、松村を見ると莞爾、僕にも「よく御出なさいました」と
云って莞爾。松村が「阿爺は?」と問う言葉の下から、五十位の奇麗な隠居が、片手に鋏
片手に菊苗を提げて、裏の方からやって来た。頓《やが》て上る。茶が出る。無口の松村
が非常に喋舌《しゃべ》る。四辺の賑やかなのに、何故か僕は妙に悲しく、泣き出しそう
な心地になって、黙っていた。それを松村の母君が見て、「御気分がお悪い様ですね」
「否《いいえ》
」
「阿母《おっかさん》
、菊池君は舟に酔ったんです」
31
「ああそうかい、それでは少しお寝みなさるが宜かろう」
「それがいい、それがいい、少し寝ると直ぐよくなる」と老人も語をそえた。
松村の母君が懇ろに敷いて呉れた蒲団に横になって、僕は何時しかぐっすり寝てしまっ
たから、親子の間に如何な情話があったか、それは知らぬ。
呼ばれて眼を醒すと最早夕方、酔心地も大分よくなっていた。南国の、海浜は殊に暖か
いので、庭の白砂に大きな縁台を置かして、松村の両親、松村、僕、それから先刻は見か
けなかったが、松村の妹であろう母に似て美しい眼をもっと可愛い八歳位の娘、これだけ
揃って、遥か向うの島山が紫から藍になるのを眺めながら、鯛づくめの料理に舌鼓を鳴ら
していた。
(八)
松村の隠宅は実に好場所だった。川尻に築き出して、三方は水、裏は麦畑に櫨《はじ》
の木が七八本、高潮には屋敷の三方さながら水に浮いて、石垣の上から釣も出来る、白帆
の往来も座敷から手に取るように眺められる。
水は家の三方をめぐり、村の好意は家の全部をめぐるとでも云おうか。何でも村の喬木
で、家は富に潤い、人は徳に潤っていた。父は弥兵衛とか云って、最早五十を過ぎ、家は
長子に譲って全くの隠居、酒も嗜まず、煙草も喫まず、碁もうたず、菊作りが道楽。花で
は菊を愛し、樹では樅が大好──その幹も枝も如何にも直々としていささかの曲がりなき
を愛するのだと云う。それで号を樅堂《しょうどう》と云った。成程庭樹も多かったが、
松でも何でも一本として曲りくねったものはなかった。木に限らず、すべて不自然なもの
が大嫌い、然るに人間は兎角不自然なもの、自然ほど自然なものはないので、バイロンで
はないが弥兵衛老人は人間よりも寧ろ自然を愛していた。嘗て一たび東京に行った時、遠
州灘で大荒れになって、船客は皆真っ青に酔って南無阿弥陀仏を唱えて居るに、弥兵衛老
人独り甲板の欄につかまって、山のごとき大涛を眺めて居たので、船長が漸く勧めて下へ
やったこともあったそうな。それから帰って、皆が東京話を聞きに来ると、老人は唯「東
京と云うところは、いやもう人ばかりどやどやして、火事が一夜に三度もあって、いやな
所だ」と云ったきりだった。曾て嫡子の妻に親類の娘を貰うことにきめてあったが、或時
弥兵衛老人が親類の宅に行って見ると、七尺に三尺五寸というすばらしい総桐箪笥が三も
四も栫えてあって、わざわざ城下から呼び寄せた針妙《おはり》が何でも西陣下りの織物
をおびただしく仕立てて居たので、老人大に怒って「そうな贅沢な事する馬鹿は、最早貰
わぬ、貰わぬ」と罵って、そのきり破談にしたと云うことだ。
僕が逗留中は、別に大して物珍らしいと思うこともなかったが、或時松村が塾では皆が
威張って、自分の家は何千石だったの、自分の爺は何と云う官員だの云う癖があって仕方
がないと愚痴をこぼしたら、弥兵衛老人は「そのぢゃおまえも、僕は煙草刻《たばこきざ
み》の息子だ、とそう云って遣れば宜ぢゃないか」と笑った。またこれも逗留中目撃した
ことであったが、或日近辺の金満家の隠居で、俗物の標本は手前でムい《ござい》と云う
顔をぶらさげた嫌な老人が話に来て、少し長座をすると、弥兵衛老人は大きな声で、隣室
にいる細君を呼んで「最早何時かい──皆戸でも締めて、早く寝ろ」
。こんな老人だから、
村でも、俗物は「変物」と渾名を負わして、笑って然も恐れていた。
32
若し弥兵衛老人のみであったら、あまり己を潔《いさぎよ》くに過ぎて、一家親類知己
朋友の交際も随分円滑を欠いたかも知れぬ。それを甘く弥縫《びほう》するのが、松村の
母──兄と松村と一向似て居ないと思うたも道理、兄は先妻の子であった──の役目であ
った。睦という名は至極その人に適当したものであろう。如何なる人にも、調子を合わし
て行く。否先方から自づと合わされて行くのである。人の世話を焼くのが大好きで、必ず
しも求めて味方を作るでないが、
自づと人が懐いて来る。
田舎で誰教えるでもあるまいに、
和歌も読む、手もよく書く、画も一寸かく。気沢山で、趣味の多角形なることおびただし
い、一寸家の内を見ても、長火鉢は拭いつけて黒光りに光り、銅壷《どうこ》は磨いて赤
光りに光り、傘は袋に、小刀は鞘に、紙縒りは束ねて机の小抽斗に蔵め、隅の隅まで塵一
つ落ちて居ず、あたかも無心の道具もこの名将の意を受けては一寸除外に呼び出されては
また自づから元の位置に帰りでもするように、秩序整然として、見るも清清《すがすが》
しい心地がする。のみならず、障子の補綴一つにも、櫻紅葉を切り、袋戸の切張にも手つ
から桔梗朝顔を画くと云う風に、一種の「グレース」が物毎にあらわれている。
或時松村の母が、
おびただしい古下駄を井戸端でせっせと洗って居るのを不図見かけて、
僕は可笑しいと思った──西山先生からあれ程鍛えられても、どうしても矢張菊池の坊ち
ゃまであった風が抜けない──が、このように下駄を洗って、乾して、自身緒をくけて、
たてて、
一足づつ村の貧乏者や乞食に施すのが母の癖だと云うことを後に松村から聞いて、
僕は赤面した。隠宅は、この両夫婦の外に、松村が妹──お敏ちゃんとか云った──それ
に松村を迎えに来た下男の萬吉夫婦に、犬が一疋、家鴨鶏各十数羽──いやまだ忘れて居
た、非常に音の美い鶯が一羽飼ってあった。
松村が塾にいても始終懐郷病《ホームシック》をもって居るのは、無理でない。この家
庭の空気は実によかった。松村の妹の敏ちゃんが、天真爛漫として、寸分の修飾なく、花
の笑うが如き面を見ても、それは分かる。家庭の空気も実にさまざまで、いやに蒸し暑い
のもあれば、
骨が凍る程冷たいのもあり、
座敷に伽羅を焼いて台所の臭みを隠すのもある。
大人は却って欺されるが、小供の鼻覚は案外に敏なもので、寄ると直ぐその家庭の空気を
嗅ぎ分ける。僕は直ぐこの家が好きになった。
愛子《あいし》の友と云い、また不幸な身の上と聞き知ったからでもあろう、松村の両
親は大きに僕を可愛がって呉れた。老人は
「若い時の苦労は買ってもせいと云う通り、子供の内から物の役に立つものではない、
あなたでも、清磨──松村の名だ──でも、精出して勉強なさい」
など幾度かそう云って呉れた。
松村が母も僕の母の事など色々細かに聞き質して、口には何も云わなかったが、眼には
しばしば涙を持っていた。
境遇が変って、事毎珍らしいので、僕等はどうして日が立つか知らなかった。或時は汐
干にいって、貝をとったり、蟹に手をはさまれるやら、海月を握った手で顔を撫でて顔が
真赤に炎症をおこすやら、だぼをつぶしたり、手長鰕を捕えたり、暫時の間に可なりの海
通になった。雨が降る日は母屋の二階にある武王軍談、漢楚軍談、呉越軍談、三国志、八
犬伝、太閤記の類を山の如く持ち出して、あられを噛りながら、読み散らしては、勝手次
第に批評を加えたり、また或は漁村を見舞っては、皆が「坊ちゃま、大きく御なんなさっ
33
たなあ、まあ」と松村を懐しがるに、僕は心のどこにか微かな苦痛を覚えたり、或は松村
と二人してあらゆる法則を破った怪画を描いては、松村の妹にやったり、それも退屈して
は、二人でお化けの真似をして敏ちゃんを嚇したりした。或は小学校の側を二人手を組ん
で憚りながら僕等は中西西山先生の門人だと云わぬばかり睥睨して通ったこともある。ま
た城下から二人の少年学者が帰って来たと云うので、近隣の者がどうして手に入れたのか
何か横文字を書いた何かの包紙を持って釆て説明を請うに、
僕等は真赤になって頭を掻き、
その晩二人で塾に帰ったら何としてでも英語を始めようぢゃないかと奮然相誓ったことも
ある。
(九)
面白いのは、松村老人の命で、僕、松村、萬吉、それから犬の「熊」、これだけ打連れて、
松村家の山見に行ったことであった。萬吉とは僕も大分仲好になった。彼は曾て僕の家に
勤めて居た婢のお重を男にした様の人物。口は遅いが、非常の早足、松村が故郷から城下
まで二十何里、しかも半分は瞼岨の山道を、楽に日着きする男。子供の時から奉公して、
松村家の山は、どこに何尺何寸廻りの松が何本あって、どこの松は何時何本伐って何本植
えついだと云う事まで、悉くそらんじている。山行の用意は極簡単、僕等は股引に草鞋、
萬吉は素足に草履、鉈を一挺腰にさし、握飯包を肩にかけ、木の寸法を量る縄を袂に入れ
ている。
「熊」は勿論着のみ着のまま、尾をふって先に立って、行く。
松村家の山は、或は海に沿い、或は陸に引込んで、北の方五里ばかりが間に点々として
いた。春の山を歩くのは実に好いものだ。暖くはあり、草萱も茂らず、未だ蛇も居ず──
それからこの頃のように彼の恐ろしい人射《ひとうち》猟師も居ず──
去年の落葉の間からぽつぽつ萌え出した若草や草花を踏しだいて、うす闇い杉山に入っ
たり、松子《まつかさ》を蹴り松脂《まつやに》の香を嗅いで松山を穿ったり、花かと疑
う新芽美しい雑木山に分け入ったり、ぶらぶら行くのは実に愉快なものだ。僕等はしばし
ば萬吉を呼んでは、手頃の椿や樫をステッキに切らせたり、蕨を土産にすると云っては採
り、よそうと云っては捨て、躑躅《つつじ》の花を折っては奇麗と誉めて行く。山櫻は大
方散って居たが、稀には四月の雪を葉がくれに残していた。突然犬がウウと唸る。足もと
から雉子《きじ》がばたばたと飛び出す。羽風に驚いて、花はちらちら。ああ惜しいこと
をしたと云い貌に、犬は鼻をひくひくさせながら熟《ぢっ》と後を目送《みおく》る、僕
等も立とまって耳傾ける、最早何もない──唯どこかにことこと木を伐る音が聞えるばか
りだ。忽ち林中に蔭がさす。ふり仰ぐと、ふわふわとした白雲が今梢の間を流れて行く。
雲過ぎてまた碧空になる──身は最早陽光に包まれている。汗を拭って、山腹を上る。ふ
と山の頂に出る。晴潮鏡の如き海があらわれる。古い切株に腰かけて、欠伸しながら、眺
めて居ると好心地に眼は細くなって、身も魂も融然と溶けてしまいそうな。いやもう長閑
かなもの。
山番小屋で渋茶を飲んで、また小山を二つ三つ越えて、大分草臥《くたび》れかけた頃、
不図足下に小さな入江があらわれる。思いがけもない、誰がこんな所にこんな入江が隠れ
て居ると思おうぞ。僕等はうっとりと眺める。入江の対岸に茅葺の家が二三十、煙も見え、
34
ほのかに午鶏の声も聞える。萬吉は、その一つを指して、あの家で午餐を食うのだと云う。
それから滑るようにして山を下りて、入江のほとりに出る。狭い様だが、対岸へは十町ば
かり、陸を廻ったら小一里もあろう。ああ誰か之を江と云い、水と云うぞ。水ではない、
玉、玉の鏡だ。その水際に若葉の山を映し、水心に天色の碧を浮べ、埜然と擬った所は、
実に緑の縁とった長手の明境──玉の鏡だ。ついそこに一艘の小舟が眠っている。舟の上
で一肌の漁師が足投げ出して網を繕っている。渡しを頼む。漁師がやおら起て舟を寄せる。
犬が逸早く心得貌にひらりと飛び乗る。僕等もつづいて乗り移つる。下を覗けば、水は青
味を帯びた水晶と透き徹って、底の小石に金糸を欺く日影がちらちら。
「海鼠、海鼠、船頭さん、一寸」と突い貰った海鼠をざぶざぶ洗って、萬吉は手掴に食
っている。やがて櫓がぎいと鳴り出す。舟は湛然と凝った入江の水を分けて、白リボンの
様な一條の痕を曳いて、惜しい程早く対岸へ着いてしまう。振り返ると、先刻立って居た
渚は最早対岸になって、江に浮ぶ山の影が未だ揺々として定まらぬ。船頭をねぎらって、
漁家の間を縫って、山の上から見たあの大きな茅葺きの家に入ると、広々した庭に躑躅《つ
つじ》が照って、裏の孟宗薮に鶯がしきりに鳴いている。四十四五の質朴な婦人が出て来
て、松村の顔を見るより
「まあ、清ちゃま」
と喫驚する。中々握飯を食わさうか、彼女は筍飯を製えて、飢えて倒れんとする僕等に供
するのである。
三日ばかり山を歩いては、田舎家に宿り、夜が明けてはまた歩きして、松村家の山は大
方見尽した。衣は春山の香に染みて、心は悠悠として平和に満ちた。唯一度、喧嘩らしい
ものをした。それも畢竟咎は僕にありで、実は僕も松村が故郷に来て以来、面白いにつけ、
楽しいにつけ、西山塾の境遇で殆んど忘却して居た僕が家の昔、今の身の上がしきりに思
い浮べられて、心の底に一種の不満──嫉妬とは云わさぬ──が潜伏して居たのである。
それが不図あらわれて来た。何有、喧嘩の問題は、舟で帰るか、陸を帰るかと云う簡単な
ものに過ぎない。松村はどうしても舟で帰ると云う──彼は足に肉刺《まめ》が出来てい
た。僕は陸と云う──舟に酔うから。双方固く執って相下らずで、僕は──吾侭ツ子では
あった哩《わい》──僕は客だから、客の云う通りにするが法だと云う。柔和しい松村も
いささか腹が立ったと見えて、主人は吾だから主人の云う通り客はするものだと云う。果
ては愈激戦となって、僕は
「松村、貴公は僕を貧乏者の親無し子と思って、僕を圧制するのか。僕は最早これから
陸行して帰る。独りで塾に帰る」
と憤然言い放った。言った下からああ言い過ぎた、とは思ったが、しかし頑として一歩も
ひかぬ。伯林《ベルリン》会議あわや破裂と見えた所に、ビスマークの萬吉が、半分は舟
半分は陸と云う仲裁説を持出して漸く無事に治まった。ゴルチャコツフは柔和な男で、先
方から頓て「堪忍して呉れ給え」と折れて来る。所で、このビーコンスフィルドも脆く「堪
忍して呉れ給え」と鸚鵡返しに折れて、五分過ぎた後は、また二人で何か面白そうに笑っ
ていた。
要するに、約一ケ月の逗留は僕をして松村といよいよ親密ならしめた。面白い限りを尽
くて、したたか御馳走になって、またその上に僕の母へ土産にと松村が母の殊に心を配っ
35
た塩鯛の苞まで持たされて松村とまた西山塾に帰ったのは、翌月の初めであった。
帰ったが、しかし西山塾も最早暫時であった。何でも先生は病中に色々考をつけられた
のであろう。一日──明治十四年七月一日と記憶する──先生は塾生残らず集めて、云わ
れるには、今日の様な日日新の世の中に、老生の様な老朽が諸君を教育の任に当って居て
は、人の子をそこなう恐れがある、老生はこれからいよいよ百姓爺となるによって、諸君
は随意によき師を求めて、外国語なども修めて、一廉世に有用な人物となって貰いたい、
と斯様云い渡された。突然の事で、多数は愕然、中には涙をこぼす者──僕もその一人──
もあった。それから先生はその晩塾生一同を呼んで、五目飯の馳走をしてその翌日別れに
一同写真を撮って、西山塾は閉塾となってしまった。
(十)
昨日日曜の暇に書斎の整理をすると、古い写真を見出した。最早二十年近くもなって、
そのうえ昔の幼稚な写真術で撮ったのだから、一体にぼけて、人の顔は幽霊のように見え
る。何でも四五十人もあろう。立ったり、しゃがんだり、腕まくりして肩を怒らしたり、
洒然《しゃぜん》として冷笑ったり、様々な態をしている。見るから耐え難いなつかしさ
が、水の如く身にしみた。右の瑞に、雲つく大男の間から「僕も一口加てて呉れ給え」と
云い貌にちょこりんと小さな顔を出して居るのは、確かに僕だ。きつと口を結んで、頬の
どこやら笑を浮べている。
ああこれが二十年前の僕か。ああ菊池君、君も年が寄ったな。西山塾で一番子供と云わ
れて、小さいものの譬喩には直ぐ引出されて、一反で二つも出来るユキタケの短かな着物
を着て、これでも中西西山先生の門人だと威張って居たのは、思えば昨日の様だが最早二
十年の昔になったか。流れるものは水、逝くものは月日、今この写真を見ると、吾子でも
あるかのように、なつかしくて堪らぬ。──見て居る内に、今年九歳になる僕の長子が入
って来て「阿爺、何を見て御出なさるの?」と云ってすり寄った。
「昔の阿爺や阿爺の朋友
を見て居るのさ。
「左様?どれが阿爺なの? これが! これが阿爺? このように小さかっ
」
たの?」と云い云い写真と僕の顔を見比べて居たが、ふんと笑い出して、無理に写真を持
って、書斎を出るより早く「静ちゃん(これは僕の長女で今年五歳になる)御覧な、可愛い
阿爺の写真」と呼んでいた。
写真は今眼の前にないが、眼を閉ぢると、二十年の空を透して様々の顔が歴々《はっき
り》と浮んで来る。真中に長い髯を綽して、頬骨稜々精悍の気面に溢れるは西山先生では
ないか。先生の左に莞爾笑って居る──ああこれがあの髯厳しい紳士の松村か。ああ小松
──彼は家が貧乏であったのか、四季袷一枚で通して、虱が居ること実におびただしいの
で、
「王猛先生」と渾名があって、また汗や脂や醤油や色々の物に汚れたその袷は実に忍ぶ
可からざる奇臭を帯びて、彼が立つとぷんと薫ずるので「小松の打ふり」と云って有名な
ものであった。山鹿と云うのは、僕に一歳上だが、如何にも鼻汁が出る癖があって、それ
を筒袖で拭くので、彼が左右の袖は糊したように光って鯱張っていた。金井と云うのは、
俊敏にして気を負う少年で、
満足な着物をわざわざ綻ばし、羽織の紐は引切って、勧世稔(尤
もこれ丈は僕もやった)で結んでいた。河喜多と云うのは、見上ぐる程の大男、力も智慧も
牛に匹敵する人物で、何時も菓子をそっと持って来ては、僕に八大家の素読を習った。志
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方というのは兄弟だったが、喧嘩ばかりして居て或時家許から先生に雉子を持たせて遣っ
たのをおまえ持ってゆけあなたお出でと兄弟互に譲り合って、七日も八日も経ってやっと
二人で持って行ったが、最早その時は雉子は酸ぱくなって居たそうな。荒井と云うのは、
非常に怒りつぽいので、
「消炭」と云う渾名があったが、火のように起ったあとは水のよう
に沈んで、三日も四日も妙に鬱いで居るのが癖だった。若し一々記憶を呼び起したら、一
部の列伝を成すも容易な事だ。
二十年、二十年と云えば、実生の木ですら最早一廉の材になる。それに碌々として澄ま
して居る僕のざまは、何事か。思えば腸が煮える様な。ああ人間の運命程分からぬものは
ない。同じ釜の飯を食っても、身の行末は実に千差万別。二十年前一枚の写真に顔を合わ
せた西山塾生の中には、未だ四十にならずして最早姓名を「不朽」の巻に彫った人物もあ
る。或は村長をして居る者もある。県会議員もある。俊秀の才子身を誤って、車力とまで
堕落した者もある。また悲いかな道を失して強盗にまでなった者もある。一滴の水、大海
に落つるように、二十年杳《よう》として音沙汰もなくなった者もある。写真の顔を見れ
ば、何れも活発に、無邪気に、すぐれて英でた人もなく、また悪人も居ない様だが、実際
の運命は実にさまざまで、人生の不思議、思えば実に暗涙に堪えない。
二の巻 終わり
==========
三の巻
吾発達の歴史を描いて居るが、仔細に検すると、その圏と圏との間は決して一様ではな
く、これでも伸びたのかと思う程輪々相密接して居るもあれば、或年はまた非常の速力を
以て外に向って膨脹している。畢竟時間は等差級数を以て進むが、時間に生活する或もの
は往往にして幾何級数をとって進むのである。国民の歴史、個人の生涯皆然りで、若し仔
細にその発達の歴史を点検して見ると、一世紀に当る一年もあろうし、また一秒にあたる
一日もあろう。
明治十四年七月の僕は、明治十二年四月の僕とは大分すべての点に於て変わっていた。
二年前、一人の小児が母に連れられ馬に乗って山中から出て来た事は、吾が上か人の上か
分からぬ位。里数を云えば唯《たった》二日程、年から云えばたった二年の月日を隔てな
がら、最早故郷の面影も瞭然とはしなかった。年少時代は、馬車馬ではないが、傍目もふ
らず、唯前へ前へと進めばそれで宜いので、後の事などに頓着する暇はない。所謂人生の
春は、一歩進めば後は直ぐ霞になってしまう。
故郷の消息もまた稀であった。ちょくちょく出て来ますと云った延年寺の和尚様も何故
か一寸も出て来ず。
勝助お重は無筆の悲しさ、
稀に覚束ない他人の筆を頼んで安否を問い、
知らすばかり。尤も唯一度、故郷の生きた消息に接したことがあった。西山塾の閉じる少
し前であったと思う、或日机に凭れて何か写物をして居ると、同輩が僕を呼んで、
37
「菊池、人がきとるぞ」
例の筒袖を着た侭で、勢いよく飛んで出ると、直ぐ玄関口に大の男が立っていた。新五
だ、新五だ、──あの様な大きな鼻と細い眼を持った男が外にどこにあろうぞ。
「新五ぢゃないか」
と僕が口走る声は、新五が
「おお、慎ちゃま」
と叫ぶ声にぶつかって、彼は僕を眺めて突立ち、僕は暫らく彼が鼻孔の伸びつ縮みつ──
これは彼れが一方ならぬ満足を感ずる時にする辟で──するのを唯熟と見て、彼が平生の
ように馬も引いて居ず、着物さえも藍縞の単衣に古いながらも小倉の角帯、矢立を腰にさ
して、草鞋脚絆がけで居るのに気づいたのは、よほど後の事であった。
塾内には応接間が素よりあろう筈なく、僕は新五を引張って、塾の裏の竹薮の蔭に行っ
て、二年間の積る話をした。寺の和尚様は、その後兎角持病が悪くて、寝てばかり居るが、
しかし相変らず口は達者でよく喋るという事、但し、章魚は病気によくないので止めたと
云う事。勝助は相かわらずニコニコして月々の墓参を怠らずする事。お重は縁あって村の
文次と云う正直な百姓の家に嫁に行って、今でも矢張り菊池の奥様や坊ちゃまの話ばかり
して、朝々神棚を拝んでは、菊池の奥様坊ちゃまが息災で早く妻籠に帰ってお出でなさる
ようにと祈願をする事。それからあの嫌な堅吾叔父の家では、別に変りもないが、近来叔
父が筋の悪い流れ者の女を妾に入れて、叔母がひどく気鬱して、従柿のお藤は近来ますま
すお洒落をして三味線瑞唄ばかり習って居て、妹のお芳は矢張小学校に通って何時も優等
をとるが、家庭が面白くないので気の毒なほど心配をする事。新五その人は相変らず暇々
の読書筆算を勉強して、この先月からは馬士をやめて、炭焼親方の手代の様なものになっ
て、今度もその親方の要でわざわざ城下に出て来た事。
伯父の家に行って僕の母に逢い、その足でここに尋ねて来た事。僕が大きくなって、活
発な風をして居るのがひどく嬉しい事。それらの話はとうとうとして彼が重やかな唇を漏
れ、久し振りに「精出してヱライ者になんなされよウ」と例の口癖を云って、何も土産が
なくて残念だ残念だとこぼしこぼし大きな手拭に包んだものを袂から出して呉れた。開け
て見ると、僕が大好きの楊梅だ。わざわざ故郷から持って来て呉れたのであろう。
それから僕は得々然と肩を棹って、新五を引張って塾の周囲を巡って、僕等が自炊して
居る事を話すと、新五はますます大慶で、それから僕が本箱の中から不用の書籍を一二冊
と、並びに僕が書いたものを和尚や皆のものに見せたいと彼が云うので、写物の書き損じ
を一二枚遣ると、新五ははますます大慶で、それから僕が新五を引張って一寸西山先生に
面会さすと、新五が大慶は最早絶頂に達して、何度も何度も「坊ちゃまを御願申します」
と繰り返えした。西山先生は滅多に人を容さない方であったが、新丘に対しては別に嘲弄
の鉾先も出さず、機嫌よく面脅して、
「宜、宜、この坊主は自分が可愛がって鍛えてやる、安心さっしゃい」
と頷かれたので、新五はほくほく喜んで、あとでも
「先生はヱライ、先生はエライ」
と独り言していた。
子供の悲しさには、故郷の芳ちゃんや勝助等にも「宜敷」の外遣る土産もないので、僕
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は「宜敷」を沢山新五に背負わして、別れた。新五は帰ったが、その人の噂は楊梅の核と
共に塾に残って、
「菊池の叔父御《おぢさん》々々々」と渾名をつけて、僕を嘲った。それ
を西山先生が聞いて、或時
「貴公達は彼をただの田舎者と思うかい、今に見さっし」
と云われたこともあった。
しかしこれは話が逆戻り、あらためて前巻のつづきを話そう。
二一)
西山塾が閉ぢた後は、しばらく伯父の家に帰って居ました。在塾の間も、二月に一度位
は、洗濯物など抱えて帰っては、伯母が得意の甘藷団子汁や五目飯の馳走になったが、し
かし多くはその日返りで、
殊に西山塾では今のように夏休冬休と云うものもなかったので、
伯父の家にゆっくりするのは、今度が初と云っても宜い位であった。
未だ男の二三人は始終来て、そこの石垣を直したり、ここの畠を拓いたりして居るが、
しかし伯父の屋敷もよほど整って来た。一秒時の油断なく進む自然物の成長は思いの外に
早いもので、僕等母子が一昨年初めてこの家に来た頃、やっと栽えてあった菓樹も最早ぼ
つぼつ実を結び、その頃未だ棚もかけず蔓は無惨に苅って束ねてあった葡萄も、今は棚一
ぱいに緑の葉をのべ、淡緑の珠玉をつるし、薄紫の影を満地に落としている。扇形満月形
の花壇には、伯母が東京から種子を持ってきた西洋草花が、紅、紫、碧、黄さまざまの濃
まやかな色を夏日の光に曝して、終日蜂を招いて居ると、屋敷の隅の肥料小屋には、夕顔
糸瓜烏瓜苦瓜瓢が無暗に這いかかって、その辺には伯父が自慢の西洋水瓜や西洋南瓜がご
ろごろ葉がくれに転がって、粗硬な葉の中にやわらかな心を包んで野菜の中の武蔵坊弁慶
と一寸洒落た甘藍《きゃべつ》はべたりと坐り、観兵式でもあるまいに玉萄黍は紅絹の帽
飾の総をふりたてて列を正して立っている。山羊と豚の繁殖は思わしくなかったが、牛は
更に一頭殖えて、日々家族の用に余る程の乳がとれるので、伯母はしきりに牛酪《バター》
の製法を研究して居るが、いまだ寸と好結果を奏しない。家禽頼は、洋禽も和鶏もよく育
って、朝々鈴江君が餌を遣るとおびただしい閑の声をあげながら真黒にたかって来る。卵
はもとより、親鳥もしばしば伯父の胃の腑を盈したが、あまり消費が劇しいので、伯母は
憲法を立てて、特別の客が来るか若しくは式日を除くの外、月に一鶏を超ゆ可からずと云
うことに定めたので、伯父は少し弱っていた。僕が帰った頃は、最早夏蚕も済んで、蚕糞
は肥料壺に、桑がらは束ねて薪小屋に、種紙は風通しの宜い座敷の天井に吊られて、新築
の蚕室の方には終日坐繰りの音が響いていた。鈴江君も折からの休業に、面白半分坐繰の
前に坐って、節だらけの糸をひいて、それでも今日は一升五合ひいたなどと威張ていた。
茶は未だ栽培の日が浅いので、大した事もないが、しかし渋紙張りの大きな茶壷の二つも
座敷に据えてあった。要するに、創業後僅々二年の経営としては、何も可なりに整って居
たのである。
母が釆たのは、伯父伯母のために、確かに一大利益であった。元来は僕等母子の為めに
呼んだのであろうが、結果は野田家の益になったのである。伯父は中々企業心に富んで、
よく経綸を立てる、またその経綸を実行しようと云う勇気もあったが、しかし例の粗大な
気質で、いざ実際の施設となると、違算だらけ、その上事業家の第一資格たるあの忍耐執
39
着の力を欠いで居たので、種々有益な経綸を立てるが、直ぐに倦む、行われぬと腹を立て
る。実に公共心のあった人で、他人の事は寧ろ自己が事よりも世話する方であるのに、こ
の粗大と短気の為めに却て往々吾人望を殺ぐようになって了うこともある。
凡そ日本の改良は先づ有志家その人の居村から始めねばならぬと云うのが伯父の素論で、
戸長初め村の重立た者を呼び寄せてはしばしば説得していた。しかし改良が一回二回の説
諭でおいそれと出来るものなら、何もわぎわざ志士の涙を搾ったり、殉道者の血を流した
りする迄もあるまいが、左様行かぬが世の中。伯父は誰から聞いたのか、泰西諸国と並び
立つには是非日本の人種改良をせねばならぬ、人種改良は先づ食物改良から始めて大に肉
食を奨励せねばならぬと云って──隗は勿論この点にかけては今更あらためて云までもな
い率先者──村中に是非鶏豚を飼わせようとかかって、
自身世話して洋鶏の種を取り寄せ、
自家の卵まで孵えさして、重なる家に雛つ子を二三羽ずつ配ったが、一平が家のは猫めが
とる、二作が宅では下水に陥ちて死ぬ、三右衛門が豚は畑を荒らしたと云って打殺して食
う、いや最早散々の成績。
それから甘藍《きゃべつ、たまな》を植えさせると云って、わざわざ甘藍栽培法を平仮
名に書き直さし、それを活版に刷って戸毎に種と共に配ったが、種は多分鳥の餌になり、
「栽培法」は恐らく小供の鼻ふき紙になってしまった。世話好きの伯父は之にも懲りず、
今日の世の中子供は素より大人と雖ども無教育では行かぬと云って、わざわざ先生を雇っ
て、村に夜学校の様なものを興したが、伯父が恐さに初めの間こそそこの太郎作ここの茂
平次も頭かくかく孫が読みさしの小学読本を広げたが、やがて一人減り、二人減って、間
もなく先生は弟子が来ぬので数えられぬと訴えた。
伯父もあまりの事に、非常に立腹して、
村の者を呼び寄せて散々叱り飛ばしたが、しかし立腹は改革の好手段にあらずで、村の者
は大恐入りに恐入ったは宜かったが、恐入り──泣寝入りで、伯父が折角の経綸も水泡に
帰して了った。伯父は時々晩餐の食事にその事を持出して、
「馬鹿共が」と怒ると、伯母は
「どうして良人《あなた》
、自分の子供を育てるのでも思うようには行きません。幼児相手
の心持で無くては。田舎者は叱ると呆れるばかりですから」と慰めていた。
実に、伯母の着実なる思慮と母の富贍《ふせん》なる経輪不撓の気力と、左右より伯父
を扶けなかったら、野田家はすこぶる危かったかも知れぬ。母の働きと云うものは、非常
であった。養蚕製茶の時節に偶《たまたま》塾から帰って見ると、母は筒袖の着物を着て、
大勢の男女を使い廻して、真っ黒になって働いていた。雇い人も伯母よりはよほど母を恐
れたそうだ。尤も母が気力のさかんなので、流石の伯父も辟易して、時々衝突もあったが、
しかし伯母は勿論、
伯父も母の盛力の如何に野田家に必要であるかを認めて居たのである。
(三)
鈴江君は僕と同年の早生まれで、あたかも十四。僕等が故郷から出て来た頃、その頭に
のって居た天神髷は、最早銀杏返しになって、背丈は小柄の僕より却って大きい位。何時
か田舎言葉を覚えて、
「兄さんは来年戻って来なはるのですよ」なんて鵺語《ぬえご》を使
って居たが、
それでも流石に水道の水で磨いた名残りはあって、どこか垢ぬけがしていた。
超然としていささかも物事に齷齪《あくせく》せぬ悠々とした質で、大竹を割った様な娘、
40
伯母や母は今いささか女らしく細かに気がついて欲しそうであったが、伯父は大気に入り
であった。
蛇を五分切にし、蛙を焙烙の刑に処し、すべて生物をいじめるが楽しみの年配から云っ
ても、無暗に威張って強がればそれで男が立つように思う士族根性から云っても、その頃
の僕等は婦人を軽蔑して──若くは軽蔑する様な風をしていた。強い、素朴剛なと云われ
るが第一の名誉で、
「婦女子の腐れ」と云われる程恥辱はなかったので、「弱い」ものの代
表者たる婦女子と対等に言う《ものいう》は士君子恥辱かなんぞのように心得ていた。で、
婦人に対しては言わざるをよしとす。やむおえず言う時はなるべく簡勁に言うべし、肩を
怒らし肱を張るベし軽蔑の意を明々に発表す可しと云が、僕等の不文律であって、もしも
この律に違う者は蒲団蒸よりなおひどい「婦女子の腐れ」の嘲を受けるので、西山塾生中
には随分心に母を慕い姉妹を懐しむ者があってもそれを表するのを憚って、時たま道に姉
妹に逢っても知らぬ顔で外を向き、家に帰って阿母が「まあ、その綻びは!」と針もって
引とめるのを振りきって逃げて帰ると云有様。
だから僕なども、二年前田舎から出て来た時は女神の如くに崇めた鈴江君に対しても、
わざと睥睨の態度をとっていた。しかし今度伯父の家に帰って、朝夕一所に居て見ると、
そうそう睥睨ばかりしては居られず、つい仲好になってしまった。そのさらさらとして、
男のように、妙に鷹揚《おうよう》な所が、僕の気に入ったのです。鈴江君も鈍才ではな
かった。しかし僕には一籌《ちゅう》も二籌も輸して居た──とそう鈴江君は思ったと見
えて、僕が大嫌いの算術の難題を持かけては弱らせたが、しかしその代わり僕は日本支那
の歴史や別けて三国志の講話に大気焔を吐いて、鈴江君を煙に捲いてやった。僕は鈴江君
と少なくも一の趣味を同じくしていた。それは果物の趣味です。どうも艶消な話だが、僕
は或時鈴江君と梨子の喰比をして、僕が十三に、鈴江君が十二喰って、僕は母から鈴江君
は伯母から大きに叱られたこともあった。尤も伯父は莞爾として笑って居た。前にも言っ
た通り、伯父の屋敷も大分落ついて菓樹も漸々実を結んで一歳柿などは已に枝もたわわに
実っている。鈴江君は好娘であったが、唯一ついけない癖は、枝上の菓実を一口噛んで熟
否を嘗むることであった。時たま庭園を歩いて見ると、ちょうど子供の背丈のとどく位の
下枝の梨や柿の実におりおり前歯の痕形が残って居て、ははあ野田令嬢先刻屋敷廻りをせ
られたな、と直ぐ知られるのであった。
鈴江君の令兄大一郎氏は、前に云った通り僕に二歳上で叔母(伯父の妹)の監督の下に、
東京の某学校に勉強していた。しばしば帰省したいと云う手紙が来て、伯母もしきりに顔
を見たがって居たが、伯父は卒業の上で無ければ帰省はならねといつも叱って遣った。僕
は従兄に会ったことはないが、その写真(洋服を着て英雄乎としてうつって居た)やその手
紙(伯父の子だけに細部に拘らぬのであろう、無学の僕が見ても誤字だらけであった)を見
ては、東京──あの東京に勉強して居る彼が羨ましくて堪らず、そっと手紙を書いて、薫
陶を希うの交誼《こうぎ》をかたじけなくしたいのと、知っている限りの鹿爪らしい文字
を並べたが、大一郎君は田舎児何をか知らんと思ったのか、如何だか、いささかも返事を
呉れなかった。僕は不平で堪らなかった。
母が伯母を扶ける程ではないが、僕も聊か伯父の助になった。伯父は流石に地方の名望
家だけ、一昨年来県会議員に撰挙せられて、時々県令(未だ知事とは云わなかった)と喧嘩
41
しながら、未だその職に居たので、随分文筆の要も多かった。伯父は兎角不精であったが、
就中筆の方は極々の不精で、手頃の者が来ると直ぐ引捉えて手紙を書かしたり、帳面をつ
けさすのが癖で、凡そ伯父を識って居る程の若者に、曾て一回二回伯父の臨時秘書官を命
ぜられた経験がない者は恐らく一人もない位。鈴江君も思うに乃父の手紙でよほど手習を
したであろう。僕もこの度伯父の家に帰ったについては、即刻御用召があって、
「慎どん、
御苦労だが、一寸この返事を書いて呉れ」。
これが口切りで、それから毎日毎日
「慎どん、一寸これを写して呉れ」
「これを読んで呉れ、慎どん」
・・・・慎どんも中々忙しい。しかし僕もまんざら嫌な事
でもなし、伯父から頼まれるのが何だか大人になった様で、唯々と云われるままに要を達
すと、伯父は喜んで、鈴江君と何方が実子かと云う位に僕を可愛がって呉れた。
新任秘書官の室は、大臣室の直ぐ隣りの長四畳。間は襖で仕切って、他の二方は椽、椽
外は竹林で、千竿の緑竹猗々として戦いでいる。午後の日盛りになると、僕はいつも藤椅
子をこの椽に持出し伯父が雷の如き鼾を聞きながら、満身に竹影を浴び、踵で板椽を蹴り
蹴り、好きな本だの東京の新聞だの読んでいた。
流石に地方の名望家と云い、客好きの伯父の事で、随分来客の数も種類も多かった。伯
父の居間兼客間は直ぐ隣だから、その話声は嫌でも耳に入る。否、伯父の大音は恐らく四
五町(一町は六十間、つまり百十米)離れても聞えたであろう。しかし伯父の癖として、大
音声に話して居るかと思うと、俄然声を低めて、先方の顔をまぢまぢ見ながら、さもない
事を如何にも一大事の機密でもあるかの如く囁やく癖がある。その囁く声すら僕の机辺に
は手に取るように聞えた。僕は幾回襖の隙から覗いたかも知れぬ。もしその頃僕に写真と
速記術の嗜があったなら、主客の風采談話を速撮にして置いたものを、と今更残念に思う
のである。
いやその頃は実に賑やかなことであった。西南戦争で一時頓挫した民間党の気焔は、両
三年来再び国会開設の運動と燃え上って、殊にその頃問題となって居た開拓使官有物払い
下げ事件は全国を沸騰せしめ、一波帝都に起って千波万波全国に狂ふの有様であるから、
僕の県下でも演説会がある、新聞が騒ぐ、伯父の家にも政客来たって天下の形勢を断ずる
もの踵相接すと云うう勢いで、その口角沫を飛ばし、扼腕撃節して論ずるに当っては、伯
父の大音と来客の高声と入り乱れて、この響ばかりでも明治政府の牙城は動揺するであろ
うと思われる程であった。
一体西山塾では、政論などは寧ろ耳遠い方であった。西山先生は無論その系統から云え
ば、伯父と同じく漸進党に属せられるのであったが、未だ乳臭い少年が修養を忽せにして
《ゆるがせにして》浮き足になるを嫌われた故でもあろう、塾生が新聞でも持って居ると
ひどく叱られた位であるから、自身政治上の意見を吐露せられることは先ず絶無と云って
も宜い位。極々稀に時事に談及せられる場合には、政府も罵り、民間党も罵り、例の冷嘲
鋭利の舌は八面に切って廻って、その結果我が西山先生のは八つ当りと云う主義であろう
と云う感覚を僕らの脳中にとどめたばかり。で、伯父抑家に帰っての二月は、西山塾の二
年にまして僕の為めに新天地を聞いたのであった。実に伯父の居間の隣の四畳は、僕にと
って政治思想の暖室、乃至時事問題の間接教場と云って宣かろう。
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東京田舎の新聞を見噛り、隣室の談話しを聞き噛り、
「国会」
「自由」
「民権」
「権利義務」
「政党」
「板垣」など云文字とは大分親熟《ちかづき》になって来るに従い、僕も熱心自由
主義を執って、子供心に国会開設を待兼ねた一人であった。未だ経験の苦がきを嘗めず、
六千年の歴史も七十年の人一生も、云わば果無き山登り、あの峰を越えたらと思う峰を越
えてもなお行先は山又山に汗を絞る習と云事を知らぬ悲しさには、国会と云ものを打出の
小槌か何んぞのように心得、是れさえ手に入れば国家泰平福徳万年五風十雨の世は極楽と
なるかのように思っていた。思えば笑止千番な話だが、しかしこんな妄想を懐いて居た者
は僕ばかりでも無かったかも知れぬ。
(四)
西山塾の閉塾後は、塾生も四散八落《ちりぢり》になって、とんと消息を聞くこともな
かったが、別懇の松村清磨ばかりは帰郷後もおりおり手紙を遣り取りしていた。八月の末
方であったと思う、松村から手紙が来て、容易ならぬ事件を報道した。その頃の僕等にと
って容易ならぬ事件と云っても高が知れたもの、松村は来月を以て東京に遊学すると云う
のである。得々の状は乱筆御判読も出来兼ねる縦塗横抹の書翰紙に溢れ、さらぬだにすわ
りの悪き彼が字はまさに飛舞の致を極めている。
東京! 鳴呼この二字は如何に僕の心を鼓動せしめたであろう。今でこそ東京と云う所
は、百余万の生霊が桶の中の芋のようにごろごろ踏み合って、上になろうなろうとともが
いて居る修羅場、十分の一が残る十分の九の汗血に、身を肥やして、果敢ない栄華の夢を
見て居る蜃気楼、なぞと思わず罵詈の声も出るが、その頃は実に黄金城を望むが如くに望
んでいた。あたかも国会が政治上の最大理想であったように、東京は僕の好奇心名誉心の
焼点であった。その文字を見てすら恋しくてたまらぬ東京、従兄の大一郎君がそこに勉強
して居ると思えば、寧《いっ》その人が悪《にく》い位思う東京、輦轂《れんこく》の下、
日本丸の梶所、学問智識の溜池、立身の機会は車馬の蹴上ぐる塵よりもしげく街頭にさま
よって、家が立派で、食物が甘くて、人間が気が利いて、言葉がさっぱりして、腸《はら
わた》が奇麗で、物の便利が備わって、面白い物尽くしの東京、その東京につい先頃まで
机を並べて睦み合った松村が行く、而して僕は?──僕は?と思うと、俄然涙がはらはら
手紙の上に落ちた。
ああ僕も若し父が生きて居たら、昔の通り妻籠一の豪家であったら、直ぐにも許を受け
て、松村、君行くか、僕も行こうで直ぐ出かけるのであろうもの、それは返らぬ昔の夢、
今は母と共に伯父の家に厄介になって居る身分、到底、到底と思う今の吾身が始めて鮮や
かに見せられた心地がして、僕は恨めし気に松村の手紙を打眺めた。
数日経つと果然新しい単衣に新しい小倉の袴を穿き新しい下駄を穿いて新しい麦藁帽子
を冠った松村が、東京まで送って行くと云う父の隠居と打連れて、欣々然と告別かたがた
立寄った。手紙を見てさえこの四五日確々眠れなかった僕は、今松村を見るより、胸一ぱ
いになって、彼の父が流石に僕の心情を察して慰めて呉れた言葉も、松村が向後を契る言
葉も、多くは耳に入らず、僕が嗜きであったからと云って松村の母がわざわざ彼に持たし
て呉れた干し鰕の例など半ば喉につかえて、よほど男らしく据舞おうと思って居たにも拘
はらず、いざ告別の際になって、松村が車の上から、
43
「それぢゃ──君も早くして来給え」
と云うと、僕はつい意気地なく涙をこぼしてしまった。次第に遠くなり行く松村父子の
車を見送りながら門辺の金柑樹の側に立って居た僕の姿は、それこそ「失望」の化身であ
ったろうとふと思う。今もよく覚えている。僕が泣き顔を拭き拭き帰って行くと、秋蚕の
桑を摘んでいた鈴江君──あの鷹揚な鈴江君が驚いた顔して、
「如何したの?ヱ、如何したんですの?」
とすり寄って尋ねるのを、少動爵士は毎《いつ》になく腹立声で、
「何でもない」
と一つ怒鳴りつけて、走り出すと、鈴江君は呆気にとられてぢいと僕を目送っていた。
(五)
松村が上京遊学につけても、自身の学問の一刻も忽せにす可きでないのは、しみじみ心
に感じたのであった。伯父の秘書官も宜いが、日は飛ぶ、月は奔る、少年は老い易くして
学は成り難しと口癖にも吟ずるに、
何時までこんなに遊んで居るのでもあるまいと思えば、
さながら地鞴《ぢたたら》でも踏みたい心地。母も同じ思いで、然る可き学校のあれかし
と日々祈っていた。
当時僕の県下には医学校師範学校中学校の三つが新に設けられていた。しかし僕の考で
は、医者になるのは嫌だし、師範学校を卒業した処で、鞭を執って田舎の小供を教えるが
関の山、いやしくも妻籠では神童と云われ(尤も神童先生一度は落第したが、それは夫子の
罪にあらずだ)西山塾で一廉の俊秀と云われた少年が、そうな屑々なものに入ろうや、中学
こそ行く行くは至高学問の府たる大学へも通う順路、これだこれだ何でもこれに入るのだ
と矢も楯もたまらず、母に迫り伯父に請うて見たが、伯父は夫れよりもこんな事があるの
で今暫時待って見よという話をした。それは伯父の仲間で、新に一校舎を興すの計画があ
ったのである。
伯父の仲間は県下の漸進党とも云う可き連中であった。当時僕の郷国は、ほぼ甲乙丙の
三党派に分れていた。丙は保守党である、維新前の佐幕党で明治十年前の不平党と十年後
の政府党、これがこの党の三世相であった。甲は急進党、夙に自由の空気を呼吸した慷慨
激烈の徒は、争ってこの旗下に立っていた。甲丙の間に立つのが乙党即ち漸進党である。
この党の先輩は何れも老練着実、
一たびは地方に中央政府に然るべき官職を占めていたが、
今は概ね野に退いて、地方有志家を以て自任し、政治上は温和的進歩の主義を執り、元来
の学問は一種開新的儒学だが、なお新智識を求むるかと云って、時々四五輩打寄っては自
由原論社会平権論道徳の原理など新版の訳書を講習していた。伯父は即ちこの党に属する
一人であったが、例の不精で規律が大嫌い、それに例の性癖の兎角常格とはづれる事が多
いので、自然集中からも敬遠主義で待たれる傾向があって、云わば一の遊星に過ぎなかっ
たのである。
しかし青年子弟を教育し我党の相続者を作る可き機関学校を設くるの必要は、
伯父も他の諸人と一同に感じていた。
若し揺藍を揺かす者は即ち天下を揺かすならば、学校を握る者は社会の牛耳を握るので
ある。帝国大学が如何に明治政府の堡障となり三田塾が如何に一布衣翁の感化を日本に普
及したかは、今更言新しく云う迄もないが、大袈裟な話は差し措いた処で、実際機関学校
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の必要をば伯父の連中も特に認めて居たのであった。中西西山先生も系統を云えば無論こ
の党に属す可きであるが、先生は到底融化し難い個性を具えて、一人なら任せろ、一同に
は否と云う質であるから、以前の西山塾も畢竟西山先生の塾たるに止まった次第、この回
機関学校創立の相談があった時にも、西山先生は、吾輩は最早全然の百姓だ、教育の学校
のと云事は御平御免蒙る、諸君やるならやり給え、開校式に甘藷の一俵も寄附しよう、と
すげなく謝絶せられたそうだ。しかしながら、同士間の話は次第に熟して、敷地が手に入
る、某の山持ちが材木を寄付する、伺いが済む、困難であった英語教師も工部大学に居た
とか云男が手に入る、
終に明治十四年の十月、
あたかも国会開設大詔が出て五日目と云に、
私立育英学舎の旗は郊外の風に翻った。
そこで、伯父の秘書官も願に依って本官を免ぜられて、またまた寄宿舎の飯食う身とな
ったのである。
(六)
西山塾を去って、私立育英学舎に移った僕は、兎も角も幽谷を出て喬木に移ったのであ
ろう。一寸その建物を云っても、西山塾は間こそ広けれ畢竟ふるい百姓家を引直したもの
に過ぎない、それに引替えて育英学舎なるものは粗末ながらも新築の校舎、たとえ天井は
ないにせよ二階もあり、
四方窓だから明るいことは眩しい位、
その上運動場たる庭もあり、
黒塗りの門もあり、大きな門札もあり、旗も立って居て、とにかく学校の体裁を帯びてい
る。郊外の畑の真中に突立って居るのだから、北風がひゅうひゅう障子を鳴らす頃の寒さ
と、それから麦浪菜花の真中に二階立の瓦屋の漆喰が白く日に光って白い旗が翻々と東風
に翻って居る所は一寸好い景色であった代りに、生温い風が四方から吹いて来て尾篭なが
ら糞汁の臭が芬芬と面々書窓に御見舞申す時の臭ささと云ったら、今思い出しても窒息す
る程であるが、しかしこれは贅沢千万な話で、西山塾でのように夏は睡い目をこすり冬は
赤ぎれだらけになって自身飯を焚く必要もなく、一目眇《すがめ》の男が居て三度々々ち
ゃんと暖かい飯を食わして呉れるのを思えば、実にそればかりでも大したものだ。たとい
その飯は、往々にして糠臭く、その汁にはよく炭屑砂利藁ぎれなんど推参な汁の実が飛び
込む癖があるにもせよ、感涙を流す可きであるのだ。
いわんや彼恐る可き西山先生が、僕等書生をさながら若党小厮《こもの》かなんぞのよ
うに、それ庭掃け、やれ水汲めと追い使はれた事を思えば、今は朝起きる、蒲団をたたむ、
顔を洗う、その辺を掃く、ばかりであとは勉強の仕放題である。またいわんや西山塾では、
先生と云っても唯った二人、学科は漢籍の一方に限って居たに引易えて、育英学舎には大
先生から中先生小先生まで数えて都合先生が十三人、実に最初は学生よりも先生の数がよ
ほど多かった位で、中には正五位を有って居られる先生もあり、また宝蔵院流の鑓の達人
(尤もその先生は学校では鑓を教えるのでは無く文章軌範を講じて居た)もあり、学科も漢
文国文訳書、数学は珠算筆算、剰つさえ英語科まで備わって、これにはもと工部大学の退
学生某と言う至て温順な先生が、しきりに汗をたらして南蛮鴃舌《げきせつ》の徒に綴書
《すぺるりんぐ》と云う読本と申す驚く可き困難の書を教えていた。所が世は意外千万な
もので、一卜月経ち三月過ぎる程に、大なる希望を以て始まった育英学舎も、機関の運転
に面白からぬ所あるを露呈するに立到った。
45
古から船頭多ければ舟山に上ると云い、ヂスレリーは英人は聯立内閣を好まずと云った
が、それは必ずしも英人に限らず、寄木細工は兎角脆いもの、育英学舎の組織は先づ共和
政治で、大統領の小森田先生が黌主《こうしゅ》としてしばらく総理の任に当って居たは
宜かったが、その頃全国に燃え立った政党組織熱に犯されて、こう主を初め先輩両三その
方に奔走して兎角欠席勝ちになると、若手の先生がなにかと互に衝突を始める、負けた方
は不平で引入る、規律と云うものが次第に乱れて、汎そ破壊に先だつ一種の倦憊は黌内に
満ち満ちた。
ここに到って、あの恐る可き西山先生とその塾が却って忍ばれるのであった。
西山塾では、西山先生の特質とその感化が雪隠の隅までも行き渡って、たとえ中庸を得
なかったにもせよ、その斬絶なる個性とその一種奇矯なる主義とは、殆んど一点の曖昧模
糊を容さない程明々白々と塾内に瀰漫して居たので、所謂適従する所を知るとでも、云お
うか、僕等は随分辛いと思いひどいと感ずる中にも、どことなく小気味よく、たとえば霜
の朝の寒さ如何にも凛然と身に浸みて烈しいがしかしそれが為めに筋張り血清み何有と云
男魂を振起さす所があるように、西山塾の空気は決して僕等を昏睡に導かず、卑屈に陥れ
ず、倦憊させず、迷わせず、凛々として常に僕等を刺戟し警醒して居たのであった。流石
英雄漢丈に、公明正大の敵は二心の味方に優る万々とは、コルシカの児もよく言った。世
に可嫌なもの、曖昧な人、旗色の鮮明ならぬ政党、無臭味の政府と数え立てる迄もないが、
わけて青年に禁物はこの生温い空気である。
私立育英学舎は無論漸進党の機関学校、先生は何れも党中の歴々、老実温厚なる人々で
あるが、見渡した所凸凹のない、よく云えばよく揃った、悪く云えば傑出の人に乏しく成
程その人毎にそれぞれの長所本色は具えていても、そこが七色の共存は白色に帰し、水酸
素の抱合は水になってしまう道理で、育英学舎の空気は青年が要する彼一種芳烈な馨香を
欠いていた。その点に於て別格立優って居た西山塾から出て来た僕にとっては、その空気
の相違が殊に劇しく感ぜられたのであった。これは独り僕のみにあらず、西山塾の旧友で
僕と前後に育英学舎に来た者は誰も多少感ずる所であった。
僕はこの空気の相違に一種面白からぬ物足らぬ淋しい感を持ちながら、それを何故と押
尋ねるでも無く、せめて英語の学習が出来るを仕合せと、せつせと勉強していた。しかし
ながら前にも云った通り、校内の機関が兎角面白く運転せず。政党組織の騒ぎで重立たる
二三先生が欠席勝ちになると、校内次第に乱れて、若手の先生の間に衝突が起る、それに
乗じて退屈し果てた学生が騒ぎ出す、あまり悪戯がひどいと云って流石勤直の英語科の先
生も、顔を真赤にして怒って、それからと云うものは虚病を構え暫らく出て来ぬ始末。是
に引替え、保守党の方で我育英学舎と前後に創立した機関学校は生憎都合よく運転して、
甚しきは学舎の書生中にもぼつぼつ退学して保守党の学校に入る者もある位、実に多望を
以て始まった育英学舎も未だ一歳ならずして、如何やら剣呑になって来た。
あまり面白くないので、何とか伯父に相談をして見ようと、或日学校を出て一里あまり
隔てた伯父の家に行った。ちょうど門を入る時、年の頃は二十二三、身なりは余り立派で
ないが、風姿楚々眉目清秀なさながら好女の如き小柄の美丈夫が出てきて、行き違いざま
に、黒玉の如き眼をあげて熟と僕を見たが、莞爾ともせず、そのままつつと行ってしまっ
46
た。
(七)
彼の美丈夫は誰であろう? 誰だろう?と思いながら伯父の家に入ると、
母は留守であっ
たが、伯父はちょうど今客を帰したと云う体で、安楽椅子によりながら、大分白勝になっ
て来た長髯を綽《しご》いていた。
「ほウ、慎どん、学校は如何だな?」
僕は学校乱脈の有様を出来得る限り鮮やかに描いて、斯々の次第だから中々勉強所では
ない、寧《いっそ》どこかへ転校したい、と思う旨を詳らに述べた。伯父は直接学校の管
理に与っては居ないが、
昨今の事情は僕の報告を待つ迄もなく、無論知って居ると見えて、
僕が一伍一什
《いちぶしじゅう》
の物語を別に耳新らしくもなさそうに聞き流して居たを、
話の途切れる途端に
「彼ならよかろう」
突然に叫んで、頭を一掉り、
「珍しい男じゃ!」
藪から棒は従来伯父の癖だが、僕は直ちに先刻門前で会った彼美丈夫を想い出した。
「伯父さん、先刻帰って行った客の事ですか」
伯父は僕に人の胸中を洞察する明があるかの如く怪訝の眼を瞠《みは》って、僕の顔を
眺めて居たが、忽ち莞爾として、
「おう会ったかい、慎どん。珍らしい男ぢゃろう。実に珍らしい若者ぢゃ」
世には、他人の事とし云えば、悪くばかり見える眼がある、またよくばかり見える眼が
ある。伯父の如きは後者に属する方で、伯父が感服し出したらそれこそ実に際限なしだ。
その代り、随分贋物を丸呑みにして、咽に刺を立てて、あわてて吐き出すこともある。だ
から、朝面会、昼感服、晩絶交と云うわ往々伯父に於て見受けるの弱点である。僕はまた
始まったな、と思いながら、ぢつと聞いて居ると、伯父はいよいよ図にのって彼美丈夫を
誉め立てた、彼は姓を駒井名を哲太郎と云って、土州の生れで年は二十三四だが、英仏二
国語に通じ、つい先頃まで東京に居て、某新聞とか雑誌とかに政府攻撃の筆を執って居た
が、何か感ずる所あって、一朝飄然帝都を辞し、数通の紹介状を懐にして遠く鎮西に来た
ので、随分学問もあり、猛志あり、識見あり、毫も浮華の嫌なく、真に今世に珍しい一箇
の好丈夫であると云う。話八分とした所で、伯父が斯程惚れ込んだのは、よほど感じた所
があっての事であろう、それにしても先刻門前で見受けた彼瀟洒たる美丈夫が果してそん
な人物であろうかと、覚束なく思いながら、なおも耳を傾けて居ると、居ると、伯父はま
すます称賛の歩を進めて、こんな人物が下って来たのは実に天幸で、若し彼をして育英学
舎を掌らしめたならば、衰運の挽回は朝飯前だと宣言し
「なあ慎どん、そうぢゃないか」
と何も知らぬ僕に相槌を促した。
その結果、僕は相談に伯父の宅に行ったのか、抑も亦彼駒井とか云う人の感服話を聞き
に行ったのか分からぬ位。僕も煙に捲かれて、何が何やら要領を得ずに了った。しかし「事
実は小説よりも奇」で、伯父がこの時の座談は、半月が内に事実となってあらわれた。
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(八)
さながら大西洋の暴風に、限りもない海藻の岩根離れて、八重の潮路を漂う如くに、こ
の頃の風雲に駆られて志士政客の日本をあっちこっちとさまよう者も多かった。駒井先生
も蓋しその一人であった。
さてこの新来の客駒井哲太郎氏が私立育英学舎の主幹となるについては、漸進党内にも
大分二の足踏んだ者もあったが、一には伯父を初め二三有志者が切に斡旋したのと、二に
は現に衰退した育英学舎が目前に横わって救済を待兼ねて居る有様であるから、所謂暗中
大飛躍の意味で、是非なく同意したのであった。駒井先生の方でも、この任を引受けるに
ついては、吃度全権を委たされる、必ず掣肘されないと云う意味の條件を持出し、承諾を
得て初めて承諾を与えたので、とにかくこの一挙は頼む方も、頼まれる方も、中々思い切
った処置であった。時に明治十五年、猫も杓子も政社政党組織に熱中する時節、殊に急進
党は新に機関新聞を興すについて、恰好の記者を得たり貌にしきりと入社を勤めて来たの
を断然辞して半破の育英学舎を引受けたのは、駒井先生中々物数奇と謂わなければならぬ。
私立育英学舎生徒一同は、満腔の猜疑、少なくも冷澹を以って新主幹を迎えたのであっ
た。僕等の眼から見れば、駒井先生には幾多の恕し難い欠点がある。先づ、先生は他国人
である。曾て我らが父祖の胸中に燃えて鎖国攘夷を唱えしめた毛嫌いの精神は、矢張僕等
の胸裡にわだかまって、少し見知らぬ者に出会うと直ぐ燃え立って来るのが癖で、駒井先
生──他国人と云う一念が如何にも先入主となってしまうのであった。それから僕らのよ
うに、南蛮鴃舌の短音促節を美妙の音楽と心得て居る者には、彼の駒井氏が南海弁の円転
滑脱な調子が如何にも柔弱に、軽薄その者の声であるかのように感ぜられて、どうしても
嫌でたまらぬ。それから、僕らの理想の豪傑と云えば、所謂身材魁偉、色黒々として音吐
鐘の如く、力能く鼎をあげる底の丈夫、小碓尊《おうすのみこと》の昔から西郷南洲の近
ごろに到るまで、偉大の霊魂は偉大の身体に宿るが常であると、こう思った。然るに駒井
先生の如きは、眉目清秀、白きはその面、紅なるはその唇、風姿楚々としてさながら好女
の如しで、実に僕等の理想を蹂躙するも亦甚だしいと云うわなければならぬ。私立育英学
舎生徒一同は十二分の冷澹──寧ろ猜疑を以て新主幹を迎えた。駒井先生就任の第一日、
例の土佐弁をもて挨拶の語を陳べられると、悪く澄して居た生徒一同──左なきだに見馴
れぬものに会えば猫の如くに毛を逆立つるが癖の上に、近来はまた学校の乱脈に規律も制
裁も無くなって校を奉げてさながら一の「モッブ」となり果てた生徒一同、忽ち動揺めい
て、どこの隅からか、エヘンと一つ奇声を発して咳払いをすると、時ならぬ咽喉加苓鬼《い
んこうカタル》が瞬く間に満場を襲って、ここにもエヘン、そこにもオホン、果ては勇士
も顔色を失う可き失笑の声となった。これは蓋し駒井先生にとって前途に塞がる敵の軍勢
が戦を挑む鯨波の第一声であったのだ。
ああしかしながら僕等は誤った。育英学舎生徒一同皆誤まった。
「容を以て人を取るに之
を子羽に失す」
、誰か思いもかけようぞ、あの衣にだにも勝へざるが如き駒井先生こそ、実
に白雪に埋む噴火山の、外見は皎《きょう》として玉の如く麗はしきも、中には天をも衝
かんず猛火の炎々として燃えて居ようとは。そう思えば、昔者《むかし》博浪沙上《はく
ろうしゃじょう》に秦を椎《つい》した玉の如きやさ男もあったものを。近くは西郷南州
48
に頭を下げさした景岳と云う男も居たものを。流石に伯父の鑑識もこの回はあたった。し
かし悲しいかな、僕らの凡眼は、駒井先生に刃向かうより岩と相撲とるがまた楽なことを
会得するに、二月の余りもかかったのであった。
人間は愚なものだ。真の基督を十字架につけて置いて、なお基督基督と待って居るは、
昔のユダヤ人ばかりと思えば、決して左様で無く、我臍は毎《つね》に同一劇を繰り返え
している。古の大人豪傑と云うば宮に祠り、画にかき、記念碑を建て、詩歌に詠じ、金泥
をもてその伝記を書いてもなお足らぬ癖に、鼻の先に佇む大人をば気もつかず、途に袖解
合とも知らずに看過すはまだしも、少し異な人間と見れば直ぐ化物視して迫害を加える。
而してなお偉人出でよ、天才生まれよと云う。その偉人その天才を幾何《いくら》無惨無
惨《むざむざ》莟《つぼみ》で傷め、二葉で摘んでしまったかも知れぬ。思えば浅ましい
話だ。
麓にあって頂きを見ず、離れて初めて富士の高きを覚うる道理で、今眼を瞑って越方の
幻影を喚起して見るに、駒井先生は実にヱラかったと思う。あえて生前つらかりし罪亡ぼ
しに死者に阿る《おもねる》(駒井先生は已に故人となった)訳ではないが、今日迄色々の
人にも会ったが、未だこんな人は見当たらぬように思う。惜しいかな、年齢未だ若くして
没し、何の事業をも為す機会を得なかったので、明治の歴史は終にこの人の名を伝えるこ
となくして已むのであるが、僕はひそかに橋本左内など云う男があたかも駒井先生の様な
型では無かったろうかと思う。
或経験に富む老爺は、よく吾台所を治むるの人あらば、大蔵大臣に推薦する、と云った
が、僕は斯う謂う、見ず知らずの他国人で、無一物で、他人の遣り崩したあとの事業を引
き受けて、それを首尾よく築き立つる程の人であるならば、行く行く総理大臣にも推薦し
よう。駒井先生はあたかも斯事を成就したのであった。言語は違う。風俗は異なる。たと
い二三有志者の同情をもって先生を待つ者はあるにもせよ、育英学舎の教師株は多く「生
意気な飛入奴が」と云う悪感を抱き、嫉妬を懐き、生徒は何れも猜疑冷笑の態度をもって
先生に対する。先生が育英学舎の主幹となって、二三ケ月は、釈迦も堪忍袋を破るような
事件が続々起って来た。
余の事はしばらく預りとして、単に日々授業の光景から云っても、
初二三日が間は、先生が座に就きさえすると、それはそれは恐ろしい悪澄まし、悪丁寧で
持切って居たが、少し馴れ出すと、いよいよ攘夷乱暴党の地金を出して、馬鹿に先生の調
子を真似る滑稽家があれば、暴問をたたみかけて得々たる豪傑もあり、甚しきは無届総欠
席を企て、先生を胴揚にしようと同輩を教唆する者もある位(尤もこれ丈は実行せられな
かったが)で、若し夫れ裏面に立ち入ったらば、駒井先生の身連には実に百鬼の跳梁もた
だならぬものがあったであろう。
然るに彼先生、悪く云えば旅烏の身を以て、この好しまからぬ境遇に処し、如何に沈着
に、忍耐に、横着に、冷静に、強情に、万の障害と戦い、困難に打勝ち、倦まず、迫らず、
一個々々の反対を夷(たい)らげ、悪感を融かし、終に吾意通りの境遇を吾れと造りなし
たかは、若し細かに観察し記述したらば、実にそれのみでも一篇の好小説を為すに足るの
であるが、その話はしばらく他日に譲って、唯凡眼英物を知らず、斯く云う僕ですら、そ
の当時は反対者の先鋒でこそ無かったが、どうしても一種不信猜疑の眼をもって見て居た
ことを告白するに止まるとしよう。
49
我邦人は兎角意志が弱いと云うが、先生の如き意志の強い人物が居たかと思えば、ひそ
かに心強い次第であると云わなければならぬ。
(九)
名将陣に望み、名優場に上ると、何時しかそこに魂が入って、場面清澄と引き立って来
る。何と云っても、人物の魔力は争われないものだ。旅烏の、業平先生の、土佐鰹節のと
云っても、駒井先生が采配を把るようになってから平倒《へた》ばりかけた育英学舎がむ
くむく起き上がって来たから不思議だ。
寄宿舎の二階下の北の隅に、四畳の一室がある。駒井先生はこの室を本陣として、学生
と一諸に飯も喫い、万づ生徒同様の生活をしていた。一脚の几に、小ランプが一つ、煙管
のあとだらけな火鉢が一とつ、竹のつづらが一とつ、棚には漢書洋冊が少許、如何にも粛
然たるものであった。が、先生の勉強は非常なもので、朝も真先に起き、昼は生徒の教授
に暇なく、夜もそっと障子の穴から覗いて見ると燈下に端然と座して洋書を読んで居た、
御し易いのは青年、
御し難いのも青年──要するに青年の呼吸を会すると否とにあるのだ。
駒井先生は確かにその呼吸を知って居たのであろう。前にも云った通り外来の先生,しか
も見たところ芝居の女形にもなりそうな優男──尤も眼は人を射る光をもって居たが──
と来て居るのであるから、小豪傑連は兎角先生を軽侮して、先生が知らず貌に過すを好い
気にして、先生の居る隣室で
「好以宝刀加かれ(さんずい+巨+下に木)頭(こうするに ほうとうをもって かれがこ
うべにくわえん」などと高吟し、甚だしきは先生の頭上の二階が抜けるほど乱舞する。先生
は平気なものだ。伯夷の様な顔をしながら、柳下恵よろしくと云う澄まし方。これでは行
かぬと学生は更に方略を一変し、総欠席、故意の遅刻、無暗の質問、果ては矢鮭と悪丁寧
を始めて、一口云うにも再拝し、一言開くにも開き直って手をつかえると云うように、馬
鹿にしきった仕打をする。しかし先生は平気なものだ。学生は愈々募って、先生が目をま
わすほど胴揚にしてやろぢゃないかと云う相談が持ち上がったが、そこは不思議、彼の衣
にも勝えぬ優男の身辺に、眼には見えぬが「これより内入る可からず」と云う鉄柵でも立っ
たように、どうしても折れがたい所があって、その一條はつい立消えとなってしまった。
彼先生は、こんな出て行けがしの待遇を受けながら、平気でいる。果して何の感覚もない
のであろうか。否否、先生のすばやい耳には、廁の隅の独語でも聞きつけて居たに相違な
い。しかし先生は、今ここで少しでも怒る激する若くは恐る退くならそれこそ先方の気焔
を千百倍せしむる所以で、この鞭一たび落ちてまた揮う可からざるを知る程に、青年の気
あいを知っていた。で、先生はこの騒ぎの真中に、手を後さまに組んで、冷々然と突立ち、
さあかかって来いと澄ましていた。実に駒井先生が学校に来てしばらくは先生の意思を的
に全校の学生が立ちかわり入りかわりぶつかる力競べの時期であったのだ。
育英学舎は終に先生の意思一つを投げかねたのである。相撲にも、相手を疲らして置い
て、一寸捻ると云うことがあるが、この相撲も、大分長い間もみ合って、学生の方が少し
草臥れて来た所へ、些細な、極めて些細な事件が起って、つい駒井先生に手もなく投げら
れることになった。それは、こんな次第だ。先生が学校に来て凡そ百日も過ぎた頃何かの
休暇に全校を挙げて四日ばかり遠足を行った。駒井先生は気の毒に、足が弱かった上に、
50
両足共におびただしく底豆を踏み出して、歩き難んだ所はさながら豹子頭林沖《ひょうし
とうりんちゅう》と云う体であったが、先生は終に何も云わぬ、一言も云わぬ、顔は苦痛
のあまりに真蒼になって居たが、終に四日間山路を歩きつめて、学校に帰ると突然昏絶し
てしまった。医師が来る。足を検してこれはと驚いた。この足で一丁も歩けるものではな
いに、と重ね重ね驚いた。事は全校に聞えて、今更先生の強情に驚いた。所が、翌日先生
が両足を包帯しながら、這ひ出して来て、例の通り課業を初めたので、学生は皆先生の真
蒼い顔を見て、森としてしまった。
先生はこれから一月の余も立てなかったが、先生の威はこの時からして吃と立って来た。
この学舎対先生の戦争に、僕は成る可く局外中立を守って、悪口は云わぬ、乱暴には加
わらぬことにして居たが、しかし身を挺して先生の加勢をするでもなく、同輩の乱暴を牽
制するでも無く、ずるずる傍観者で居たのは、年が少ないとは云え、実に男らしくない仕
打ちで、今も慙愧に堪えぬ次第である。
(十)
駒井先生の入来と共に、育英学舎の面目は悉り皆一変した。先ず学課があらたまる。論
孟が立志篇品行論になり、史記日本外史が欧州文明史になり、学課の一隅に覚束なき生命
を保って居た英学が、大部分を占領して来た。駒井先生の英学は正則では無かったが、と
にかく僕等は先生の引導の下に、綴書《すべるりんぐ》
、第一読本、それから文典の少許、
すぐパアレーの万国史、スイントン万国史、ギゾオの文明史と英学の道を非常の大跨に進
んで行った。それから漢文詩会が廃せられて、演説文章会が起り、老儒学先生が四角四面
な修身談は、駒井先生の殊に愛誦して居られたプルターク英雄伝の講演になると云うよう
に、随分思いきった改革で、従来教授の任に当って居た連中は不平のあまり辞職する者も
あった。しかし駒井先生は委細かまはず、ドシドシ改革を決行したのである。
しかしながら学課の変更の如きは、変更の小なるもので、最も重大な変化は、学校の旗
幟の変更精神の一変であった。
駒井先生の政論は如何なるものであったか、今日から考えて見れば、英国風の着実な憲
政を主張すると同時に、フランス国風の極醇なる理想を懐いて居られたかと思う。畢竟頭
は老いて居たが、気は年と共に若かった。
先生の英国憲法史の講述、決して面白くないではなかったが、先生の眼底には、どうし
てもギリシャローマ(ブルタアクの英雄伝に写された)の面影が映っていた。先生が好ん
で講義した仏国革命史を聴いて居ると、どうしても先生その人が「ヂロンド」党のブゾウ
やサン=ジュストの再来ではあるまいかと思われた。要するに先生の胸中には、自由平等の
理想が炎々と燃えて居たので、この焔はやがて育英学舎に燃え広がり、もと漸進党の機関
学校として温和な桃色の旗を掲げて居た学舎は、何時か旗幟を一撃して濃い紅の色となっ
たのである。
僕等青年はこの旗幟の変更を歓迎した。今更言新しく云う迄もないが、青年は如何なる
場合に於ても鮮明なる旗幟を喜ぶ者である。熱帯にあらずんば極地に住むを喜ぶのが即ち
青年の本色だ。西山塾の僕になつかしく思われるのは、その塾の兎も角も一癖あって、酸
素沢山の空気が殊に僕等青年の肺臓に適したからであった。前期の育英学舎の兎角萎靡し
51
て振はず、僕等青年の気を腐らしてしまったのは、その空気が如何にも生温く、その旗幟
が実に鮮明を欠いて居たからだ。されば諸老先生の中には、駒井先生が意外な方に青年を
引張って行くのを険呑がった人もあった容子だが、僕等は勇躍して駒井先生の饗導の下に
自由平等の光明界に向かって進軍したのである。
西山塾が社会の外に超然として全く別乾坤《べっけんこん》を作って居たに引易え、駒
井先生の育英学舎は四方八面の窓を明け放して、飽まで社会の風を入れた。先づ西山先生
大禁物の新聞が入り込む。遊歴の有志が立寄る。一人飄然として来り、半歳ばかりも宿泊
して民約論の講義をして行くものもあれば、三人五人打連れて、一夕の談話に中央の形勢
を伝え、新しい空気を齎す者もあって、学舎の方でも十分に歓迎した。何時であったか、
知名の何某が来た馳走に、駒井先生が議長となって、擬国会を催した時、或俊秀の一少年、
何の問題であったか忘れたが、
「そんな浅薄な言は今から十年も以前に日本の辺隅の私立育
英学舎とか云う田舎学校で国会の真似をしたその時の議論には似合って居ようが、いやし
くも堂々たる我国会の議場に於て尊敬す可き代議士の口より出たものとしては、幼稚極ま
るではないか」と云って、非常の大喝采を博したことがある。それからこれも矢張りその
馳走の文章朗読会に、或項籍流の一青年が、何の本から生呑し来ったのか「国《くに》、是
《これ》
(国是《こくぜ》
)を定め国家をとみ嶽《たけ》
(富嶽《ふがく》)の安きに置く」
と読み上げて、満場の哄笑を博し、是より「国、是れ先生」の渾名を得たことも有た。
要するに駒井先生がさいはいを執って居た二年間に、
育英学舎は名こそ昔にかわらぬが、
その実全く別物となってしまった。それを傍観して、駒井先生の為すがままに任せた諸老
先生の無頓着もまた甚だしであるが、一には諸先生も育英学舎では大分手こずって居たの
で最早干渉をする気もなく、また一にはその頃の風潮に諸先生も嘲か酔気味の、まあ宜い
ではないかと放擲ったので、駒井先生も思う通り行って見ることを得たのであろう。
(十一)
ああその頃は実に今思い出しても愉快な時代であった。世の中はどんなものとも知らず、
直線に世を渡ろうとする者の前にはどんな障壁陥穿があるとも知らず、吾一身の上にも広
い世間の上にも進歩の代価は如何程貴いものとも知らず、師は若く、弟は幼く、共に、理
想の光明界を指して驀地(まっしぐら)に進んでいた。吾心は「自由」の声に踊り、吾眼は「偉
人」の上に閃き、純潔なる志望は絶えず吾が胸にたぎって、一眼は書巻の上に、一眼は世間
の上に、僕等はあたかも兵学校の生徒が戦場よりの報知を開く心地で、細腕を扼りつつ学
校の窓から社会を望んでいた。
時代は潮の漲るが如く変って来た。二三年前三国志に耽って張飛の長阪橋に胸を轟かし
た僕等は、今「西洋血潮小嵐」
「自由の凱歌」など云う小説に余念もなく喰い入る時となっ
た。学生の中に、浅井と云って、年は十七だが、十二三にしか見えぬ少年がいた。君は何
故そう小さいのだ、とからかうと、僕は頭上に圧制政府を戴いて居るから大きくならんの
だ、二十三年になると急に伸びるから今に見給え、と答えるのが癖であった。柄に似合わ
ず、朗々玉を転がす様な美音をもって居るので、
「自由之凱歌」ののって居る自由新聞が来
ると
「浅井、浅井、──浅井はどこに居るか」と浅井を呼び立てて窓の下に真黒に嵩なりたか
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って、浅井が例の美音で朗読するのを聴いている。時々は興旺(きょうおう)して、
「ワア」
と喝采の声をあげる。それから経国美談の番で、僕等は幾晩徹夜してイパミノンダスピロ
ビダスとセーべの経営に眼を悪くしたかも知れぬ。実にその頃は、見るもの聞くもの一と
して心を動かさぬものなく、僕等の身は、寄宿舎の二階に、煎餅蒲団にくるまって、夜々
の夢には、ラファエットを助けて米国独立の加勢に行ったり、ローラン夫人と断頭台に上
ったり、パトリク ヘンリーと演台に立って「吾に自由を与えよ。然らずば死を与えよ」と
叫んだり、ミルトンと話をしたり、もっと近くては駒井先生がグラッドストーンになって
我日本の大宰相になって国会の開設を明年に縮めたり──それは忙しい、しかし愉快なこ
とであった。ああしかしながら最早その夢も今は見られぬ。
実にその頃は、教場以外、教諌書以外、僕等を啓発す可き事件が続々社会に起って、そ
うな事件の報道に接する毎に、僕等の血は如何に沸き立ったか知れぬ。彼福島事件が天下
を騒がした頃なんぞは、
その裁判筆記の出た新聞が来ると、ひきき裂くように争い読んで、
河野・愛沢・平島・花香・田母野諸士の艱難苦心を思っては熱き涙のほろほろ頬を潤おすを覚
えず、今そこに飛んで行ってせめてその縄目の食い入る手に接吻し警官の劔の鞘尻につか
れたその背を撫でもしたく、暴令尹《いん》の非道、その非道を庇ふ政府の奴原が髯顔を
思う存分撲って蹴って踏んで踏みにぢってやりたく、その雪中素足に引ずり廻わされし事
を聞いては、僕等も何時か一度は彼志士の轍を踏んで行くことがあるかも知れぬ、その時
の覚悟を今試して見ようと、或雪夜素足になって外に立ったこともあった。
雪中に立つと云えば、将来事に堪える体力胆気を養わねばならぬと云うので、寒中の冷
水浴、霜の暁の撃劔、柔術、夜中の競走登山などが盛に行われ、兎狩、遠足会も行われた。
西山塾で鍛った僕は別に困難を覚えぬのであったが、学生の中には随分弱った者もあった。
面白いのは胆力を練るとか云って、夜中札張りを行るのである。育英学舎から四五町離れ
て、古墳新墳累累たる墓場があって、その真中に杉が二本立っている。その杉にかわるが
わる己が名刺をとりに行くのである。雨のそぼふる夜、月蒼白き夜、何時行っても墓場は
あまり心地のよくないもの。こればかりは腕力の有無にかかわらぬものと見えて、僕の如
きは何時も相撲に敗をとるに係らず、平気に行って帰って来る (尤も友人からそっと短
刀を借って、墓場の一町ばかり手前から鞘を払って、幽霊出なば突かん 寄らば切らんと
身構えながら前後左右に眼をくばって行き帰りは早足で飛んで来るのが例だったが、これ
は毫も僕の勇気を減ずる所以にあらずと思うのである)が、あの国是れ先生の如き、小文
吾宜しくと云う猛者が、札張の晩に限って吃度頭痛がうったり脚痛がしたりするのは不思
議であった。大勢の中には中々智者もあって、姓は岡本渾名をイースト、レーキ(レーキ
即ち湖水即ちコスイである。もとは岡本一人で、レーキの名を占めて居たが、後優るも劣
らぬ山上と云うレーキが来たので、
区別する為め郷里の位置により岡本を東の湖水と称し、
山上を西の湖水と名づくるに到った)と云う男なぞは、賄いに五銭呉れて札を張らせ、自
分はそっと時部屋に寝て居て、頓てしすまし顔に帰って来るのが例であった。しかし洩れ
易いは秘密の常で、或少年が之を看破し、その少年も饅頭一袋の約束でしばらく口を噤ん
だが、湖水君が契約を履行しなかったと云うので、少年は憤然として秘密を漏らし、一時
無邪気な大騒ぎをしたこともあった。
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(十二)
育英学舎に於ける僕の生涯は、何の波瀾も変化もなく、流水の如く滑らかに運んで居た
が、野田伯父の家には悲む可き一の出来事があって、それがまた終に僕の生涯に一曲折を
なす源となったのである。丁度明治十六年の夏休の前であった、僕は久しく母を見なかっ
たので、休暇を利用して伯父の家に行った。何時になく家内の森として居るのを不思議に
思いながら、奥に行って見ると、これは如何したのであろう、家族残らず寄り集って居る
が、伯父は椽の安楽椅子に腰かけてぼんやりとして居ると、伯母は荷造りをした鞄の側に
座って、何か紙きれを持ちながら、泣き沈んでいる。母もその傍に泣いている。鈴江君も
泣いている。何事であろう?
仔細を開けば、思い掛もない、従兄大一郎君が死んだのである。今朝大一郎君を預って
居る東京の叔母から、大一郎君急病の電報がかかって、伯母は直ぐ東京に立つ用意をして
居ると、追かけて死去の電報が来た。病気はコレラ、直ぐ火葬して髪を送ると云う電報で
あった。実に分からめものは人間の命だ。大一郎君は去る明治十二年伯父伯母が帰国する
時、東京に残して来たので、今年の夏は五年ぶりに帰省する筈で、つい四五日前も大一郎
君の手紙が来て、二週間すると帰省の途に上る、鈴江にも沢山土産を持って来る、慎太郎
君にも宜敷などと今から思えば暇乞の、何時になく行き渡った愛嬌をふりまいてあった。
伯父も秘蔵息子の帰りを期して、近来何時も上機嫌であった。伯母の如きは、大一郎が帰
る、帰ると、逢う人毎に吹聴して、浴衣を縫って置くやら、部屋までもキチンと整理して、
大一郎は小麦団子が好きであったと今は十八の青年をまだ十一二の子供のように思ってわ
ざわざ搗きが細かいようにと一里も離れた水車へ粉を挽かせにやっていた。鈴江君の如き
は、顔見る毎に「兄さんが帰る、兄さんが帰る、大きくなって来なさるでしようねエ」と、
そう云う自分も僕より却って大きい位だのに、兄をまだ子供と思って居るかして、屋敷内
で一番甘い桃を「これは兄さんの」と人を側へも寄せなかった。僕も今年は大一郎君に初
対面をして、東京の話も聞かう、学問の程も覗わう、と楽しんで居たのに、僅かに写真で
顔を識ったばかり、何も言わずにこのまま幽明を隔ててしまうとは、何たる果敢(はか)
ない事であろう。伯父はしきりに咳払いをして居たが、
「コレラ拉で死ぬる、意気地のないやつだ。お実、最早大概に詮めるがいいぞ」
「はい、いくら泣いても、彼が生き復えるぢゃなし、最早詮らめます、詮らめます。東京
を立つ時、彼が叔母さんに、手をひかれて、…横浜の、あの埠頭(はとば)に立って居た
のが、まだ目前にちらついて──毎年帰りたい、帰りたいと云うのを、延ばし延ししてさ
あ帰ると云う際に──不孝者が」と伯母はまた泣き出した。母も慰めかねて、共に差俯い
てしまう。伯父は
「馬鹿が」
と何を当てともなく罵って、
「慎どん、屋敷まわりでもしよう」
と僕を引張って、屋敷まわりに出かけたが、何を見るでもなく、黙然として行く。僕も
54
何と云って宜いやら知らず、黙然として伯父のあとについていた。
それから十日ばかりたつと、東京から細かに事の次第を報じた手紙と、遺髪、写真など
が届いて、また一家の涙を添えた。病気柄骨を送ることも出来なかったので、遺髪だけ葬
った。墓地は屋敷の最高処で、僕がこの家に初めて来た日鈴江君と共に腰かけて東京の話
や大一郎君の話をしたその大石から程遠からぬ場所だ。
そこに二本の櫻と梅に護せられて、
生前には終に見るに及ばなかったその屋敷を、大一郎君の墓は見張り顔に立っている。伯
父も時々行っては墓辺の草をむしり、伯母も屡々隠れて泣きに行った。鈴江君が朝々行っ
ては、園の花野の花となく立つるので、墓はさながら花に埋れていた。
この後、伯母は何時でも僕の顔を見さえすればほろほろ涙をこぼす。僕は伯母に済まぬ
様な心地がして、伯母の顔を見るのがつらく、その家に行っても伯母の眼を避けるように
避けるようにしていた。
(十三)
実にその年の夏休程打湿った休暇は無かった。伯父は鬱々として、ともすれば失望の化
物の癇癪を相手嫌わずふりまはす。伯母は素より、大様の鈴江君、さては平生冴々とした
吾最愛の母までが、浮かぬ顔で居れば、冴えたものは柱時計の響きばかり。斯陰気にかて
て加えて、僕は実に結構な伴侶を得たのである。待ち設けた大一郎君は、永遠不帰の客と
なって、来て欲しくもない斯伴侶が来ると云うも、何かの約束事であろう。
大一郎君の葬式には、流石に平生疎遠にして居た親類も少なからず集まった。その中に
髪は切って、満面に白痘痕を帯びた、四十位の大の女の、弁舌達者に周旋するを、誰ぞと
母に問うたれば、彼は笠松後家と云って、伯父の従弟に当る人の寡婦だと云う。成程笠松
後家と云えば、良人の没後、五六人の子を育てて、可なり大きな身代を動かさずに居る、
とにかく評判の女で、それが伯父の縁つづきであることは、かって聞き及んでいた。一体
伯父の親類は、維新後八方に離散した上に、僅か残った連中も、多くは伯父の異常な人物
に辟易し、敬遠主義を執って居たので、僕が伯父の家に来てから五年間、親類の顔を見る
ことは殆んど稀であった。勿論僕は西山塾、育英学舎と、外に在るの日が多かったのであ
るが、実際伯父とその親類の間は冷淡なもので、伯父は彼等を俗物視し、彼等は伯父を少
狂視して、その間自づから渉り難い溝があったのだ。就中、あの笠松家の旧主人なるもの
は、伯父とまさしく従兄弟の間でありながら、伯父は彼を腸の腐った俗物、小人と罵り、
曾て何かの事で喧嘩をしだして、伯父は有り合う煙管で彼を打据え、その額に死ぬまで残
った疵を負わせたこともあったとやら。
彼が死んだ後までも伯父のにくしみはなお残って、
笠松後家の話が出さえすると、似たもの夫婦とはよく云ったもの、あの後家を見い、世間
では働き者のやりてのと云うが、あの腸の腐れざまを見い、金持の役人のと吾為になる所
には直ぐ取り入る、恥も法もない奴だ、今にみろ、何か利益になると見たらこの家にでも
御辞儀して来るからと、こう罵るのを聞いたこともある。で、僕はその笠松後家をばよく
よく眼をとめて見た。成程そう思って見れば、眼のぎろりとして、にやりとする毎に歪む
その口云うに云われぬいやしい所があるように思われた。
笠松後家はその日展敷中を見廻わり、疎遠の詫やら、吊儀《くやみ》やら、鈴江君に愛
想やら舌三寸を八方に切って廻わして帰ったが、四五日すると手土産を持ってまた突然現
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われた。小半日座敷に陣取って、例の長広舌をふるったその話の三分の二は、自分の吹聴、
その吹聴の三分の二は己が次男の三次郎と云う絶世の才子、稀代の孝行者の手誉めで持切
った。その三次郎君は、母の病気に三日三夜帯を解かなかった位で、その通学する造士学
館では試験毎に優等をとる程の俊才で、殊に野田の伯父上を慕って是非薫陶を受けたい受
けたいと云って居ると云う。唯遺憾なことには、勉強のあまり健康を害し、兎角病身で困
るが自宅では兄弟も多くて保養が出来ず、「こんな閑静な家で保養したら」と頼りに諷し、
果ては打つけに「御邪魔でもせめてこの夏休の間だけ」と云い出した。伯父は留守であっ
たが、伯母は平素良人と親類の間の兎角疎遠なのを気にし、それを己が咎かなんどのよう
に心苦しく思って居たので、そのやさしい心に大一郎の事も思い比べ、
「当分の事なら話し
て見ましよう」と諾してしまった。母は苦笑していた。
二日許すると、多病の才子稀代の孝子笠松三家郎君は、その母と共にやって来た。病身
と云えば、色は蒼かろう、痩せて居よう、気の毒な程弱かろうと待ち構えた僕は、後家の
後に引添うた色赤黒く鼻低く顋(あご)張って最早口髭のぼつぼつ生え出した屈強の青年
を見て、一驚を喫したのである。年は僕や鈴江君に一歳まさりとは聞いて居たが、背丈は
三寸、体量は確かに五六貫(一貫は、3.75kg)僕よりも上である。どこが病気であろうと
よくよく見廻わしたが、眼中鈍如(どんより)として、過食の故であろう、両口角に白い
爛れが見える外は、これぞ病気の徴候と思わしいものを、僕は認めかねたのであった。そ
っと母に聞いて見ると、
「彼かい、彼はね」
と云ったが、終に何も言わず、唯にやりにやり笑っていた。
(十四)
「若い者は一処が宜い、慎さんも淋しくなくて宜かろう」と伯母が三次郎君を僕の四畳
に入れて呉れたのには、実に痛み入った。しかし成る可く好意を表する積りで、机を出し
てやったり、押入をあけて行李を入れさしたり、加勢をして、さて何か話をせずばなるま
いと、
「学校はどこですか」斯様尋ねると、
「学校? 何の学校?」と多病の才子稀代の孝子は怪訝の顔である。
「貴君の行く学校です、中学校ですか」
「中学校なんて、馬鹿な所に行くものか。造士学校だい」
造士学校と云うのは、我育英学舎とは正に反対の主義を執る保守党の学校だ。
「君は中学校か」
下問を辱う(かたじけのう)したので、僕は「否、育英学舎です」
「育英──フン」
冷笑った顔つき、撲りたい程憎かった。
「育英学舎か──フン、君はあの貧乏学校に行くのか、国賊になりに」
自由即ち不忠即ち国賊と保守党の学校では教えてあると見える。僕はぐっと癪に障って、
たった一口に論破してやろうと思ったが、まだ初対面の口誼《こうぎ》がすんだばかりだ
のに、直ぐ掴み合うも如何と、虫を殺して黙っていた。
56
江南の橘江北に移されて枳(からたち)となると云うが、音に聞えた才子徳行家の笠松
君が一里離れた自宅から伯父の宅へ来ての変り様を見れば、成程虚言でもあるまいかと思
われる。
現在の母の口からそれと吹聴された勉強家が、来た翌朝からぐっすり朝寝をする。
部屋の掃除は僕に一任あって、どこに行ったか影が見えぬと思えば、吃度柿の木の下に結
伽趺座《けっかふざ》して柿を齧ってござる。昼は大抵屋後の楠の蔭に呉座を敷いて宰予
の跡を追う。それで睡足るかと思えば、夜は八時頃からこくりこくり(尤もこれは三次郎
君が三度の食事に、大食の伯父を驚かす伎量を出されるので、非常に胃が悪い故かも知れ
ぬ) 床についても寝言、歯ぎしり、高鼾、それは先づ宜として、客星《かくせい》夜毎に
帝座を犯して、三次郎の足しばしばこの劉文叔の横腹を蹴るには、実に弱った。彼のいわ
ゆる非常な勉強家が、如何した事ぞ、机の前に小一時間座るでなし、伯父が写字を頼めば、
誤字ばかり、新聞を読めば、「小麦の団子」を「しょうばくのだんし」と読み、古諺を引張れ
ば鶏口とならんよりは寧ろ牛後となれ、などと云う。これで優等は不思議。と思うのは愚
かな話、僕はまだ笠松家の贈物がしばしば造士館の先生の門に入るを知らなかったのであ
る。居は気を移すとは云うが、これはまた余りな移り様。三日たたぬ間に、流石の伯母も
眉を顰めた。
彼笠松後家は子を托して以来、四五日越しにはきっと尋ねて来た。その度毎に吃度伯父
の好物を持って来た。吃度大一郎君の墓に参って行く。吃度鈴江君に愛想を言う、土産を
やる。前餅の袋、を出しては、
「三次郎、鈴さんに之を上げなさい。鈴さん、三次郎と一処
に御たべなさい」と、よく三次郎と鈴江君を一処に云いたがる。僕が直ぐ前に座っていて
も、あの後家は「おまえそこに居るのか、わたしには見えないよ」と云わぬばかりにしらを
切る。実に彼後家は、母と僕とを白眼に見やり、無用の寄生物早くこの家を出て行けと云
わぬばかりに嫌味を云うことも度々であった。僕は心の奥に潜む或貴重のものを蹂躙られ
る心地して、あの後家がそんな眼色口ぶりをする毎に、憤に堪えぬ場合も多かった。母も
流石に勝気の性質、冷笑って口には居れど、眉のあたりびちりとふるえるのを見受けたこ
とも一度二度では無かったのである。
彼後家は何の為めに斯く伯父や鈴江君に取り入って、母や僕を邪魔物にするか、心得ぬ
事だと僕は思って居ると、或日下男の勝造と云う僕と仲好の老爺が斯様云った、
「慎ちゃま、
御聞きなさい、
あの三次郎馬鹿がね、
この屋敷はいまに己の所有になるんだ、
己がここの主人になるのだ、その時は、おまえの給料を殖やしてやる、なんてぬかすから、
とんちきめ、おまえを御主人にして如何するかい、てそう言ってやりました。慎ちゃま、
しつかりなさい」
(十五)
僕は驚いた。さてはその目的であったか。道理で、彼の笠松後家が僕等母子を何時も白
眼に視て、邪魔者、早く出て行けと、云う様な顔をする。道理で彼三次郎が鈴江君に馴れ
馴れしく言葉をかけて見たり、さては鈴江君の居る前で故(ことさ)らに僕に腕押し、相
撲の勝負を挑んだりするのである。
「あんな奴等は蝿も同様、臭いがすると直ぐ寄って来る、今に見ろ何か自家の利益になる
とみると、頭を下げてやってくる」と伯父がかねがね云った言葉に少しも違はぬ。大一郎
57
君は死ぬ、あとは鈴江君一人、機失う可からずと次男の三次郎を入れ込まうとの心底は、
実に鏡にかけて見るが如しだ。その心底を、伯父や伯母や鈴江君は果して見破って居るの
であろうか。伯父は彼の不幸後、兎角茫然自失の気味で、平生は唯こんこんとしている。
素より時々は叢雲の間から雷様が鳴り出すように、さもない事に烈火の如く怒り出すこと
もあるが、その発作が済めば、大方草臥れてぐっすり寝てしまう。そのこんこんの間に、
三次郎氏もずるずるはいり込んで来たのであった。伯母は何人でも愛して、何人にもつと
める人だから、あの困り者をも「三さん三さん」と云っている。鈴江君は例の大竹を割っ
た性質、別に気づいた容子でもなく、また如何しようと思う容子でもなく、三次郎が可笑
しい事を云えば笑う、問わるれば返事をする、至って平気なものだ。引括めて云えば、野
田家は今その肺腑に食い入ろうとはかって居る虫をば、別に嫌う様子でも無く、平然とそ
の家庭に入れている。これが果して野田家の為めに得策であろうか。まだ肩揚もとれぬ小
供の癖に、小癪な事を云う様であるが、菊池慎太郎も男であれば、昼寝して他人の身代を
吾有にしよう、なんぞの卑劣な心は露持たぬのである。否々、打明けて云えば僕等母子が
野田家に寄るすら、已に面白からぬのである。勿論伯父伯母は快よく僕等を待つ、また母
が野田家に尽した功業は僕等が伯父の厄介になるよりも遥かに多かったのであるが、それ
でも僕等の今の身分の満足す可きでないのは、幾度か僕の小さな胸に浮んだ。母は素より
その念を一日も胸中に絶やしたことはないのであろう、口には云わぬが、僕が行って母を
省する毎に、母の眼は僕の背丈を測って
「未だ、小さい、小さい」と云い貌であるのを、僕は常に認めた。これほど独立の日を待
兼ねて居る僕等親子が、然るべき人の野田家に入り込むを何条嫌うべき。しかし、彼の笠
松如きの勢力が入り込むに到っては、実に吾らに恩ある野田家にとって、患う可きの至り
ではあるまいか。僕は野田家の人々が、三次郎如き痴漢を僕同ように待遇するを不満に思
い、鈴江君も冷淡になれば、伯父の僕に対する愛もよほど衰えたのではあるまいかと、ひ
そかに不快を懐いたのである。
勝造爺が彼事を僕に話したその日の午後、僕は一葉散り初めた櫻の下に秋蝉の音を浴び
ながら本を読むんでいた。実はこの夏休に、幸福な連中は吾敬愛する駒井先生と共に九州
旅行を企てたが、僕は不幸にして先生に従うことも出来ず、せめてこの休暇の間に英学で
も勉強して置かうと、思ったので、今日も涼しい木蔭に来てしきりに字書をひっ張りなが
らスイントン万国史の仏国革命の章、路易《るい》王が断頭台に馘《くびき》られる條《く
だり》に喰い入って居ると、僕の右の耳を引張って、
「おい」
と云う声がする。ふりかえって見れば、三次郎氏だ。投網を肩にして、魚藍《びく》を
つき出しながら、立っている。
「おい、網打ちに行こう。魚藍持ち、立たんか」
云いながら、魚藍もてことこと僕の頭をたたいた。ちょうどその時、鈴江君であろう白
がすりに紅い帯の影がすぐ向うの台所にちらりとした。と思うと、僕の右手は突然魚藍を
手暴く払って、
「行かんと云ったら行かん」
吾ながら調子の高いに驚いた。三次郎氏は呆れ顔。その筈さ、僕も他の事なら兎も角も、
58
腕力にかけては所詮彼の三次郎君に勝つ見込がないので、これまで僕の分別は僕の堪忍袋
にゴムひいて、嫌々ながら魚藍持の役を務めたこともしばしばであったのだ。三次郎君は
何時にない僕の剣幕に驚いたが、見る見るその頑冥不霊な顔に圧制者の相を出し、にやり
にやり笑って、
「来いと云ったら来い。長者の云うことを聞かんか」
「自分の自由だい」僕の耳は熱して来た。
圧制者は突と寄って、僕が右の手を執へる。懸念らしい鈴江君の顔が台所の口にあらわ
れた。
「来ぬ」
「来い」
ぐいと引張られて前へのめると、僕は突然夢中になってバスチール程堅固な三次郎氏の
胸倉に武者ぶりつく。
(十六)
トランスヴァールが英国に勝てぬこの世の中では、これも致方ないもの、僕は年長の大
力に曾って、続けざまに投げられた。投げられて、今は真黒に逆上《のぼ》せ、死物狂い
になって、彼が足をとって引倒し、上になり下になり小石凸凹の地面をしばし揉み合う。
砂利が眼に入る。女の叫びが耳に入る。鼻血が口に入る。無念、到頭組み敷かれた。彼は
馬乗りにのって、僕の頭を小突く。口惜まぎれに、僕は口もと近くにあった彼の肉(腕で
あったか、股であったか)をわぐと噛む。軟かいものが、歯の間にこちりと捩れると、流
石の三次郎氏「あつ、た」と悲鳴をあげて仰反(のけぞ)ったが、睨んだ僕の眼にも見え
るほど血相変えて、僕の顔とも云わず、手とも云わず、乱拳を雨らす。これは堪らぬ、菊
池慎太郎生年十六歳、ここに討死を途ぐるかと歯ぎしりして居ると、
「あつ」
と叫んで三次郎は忽ち僕の上からころび落ちた。刎ね起きて眼を摩って見れば、何時来
たのか、伯父が憤然として例の櫻のステッキで、したたか三次郎を撲ったのである。三次
郎君は不意の打撃に血迷うたか、真一文字に伯父に喰ってかかる。と、見ると、伯父は怒
髪冠を衝き怒鬚戟(ほこ)の如く張ると云う勢で、
「馬鹿奴、乃公に手向いするか」
と罵るより早く、五十は越しても昔し大兵多力の某県令を足蹴にした大力者、右の足が
挙がると思えば、三次郎は鞠の如くころんだ。その同音に一転瞬、はつと思う間もなかっ
たのである。二度目に撃った足のまだ下りぬうちに、
「まあ、良人は」と駈け出して来た女
を見れば伯母であった。
「まあ、良人は──子供の喧嘩に良人までが、──まあ慎さん。その鼻血──鈴江、鈴
江、早く金盥に水を、何をうろうろするのです──。おや三さんは?」
不思議、不思議、まさか伯父が九天の上に蹴あげた訳でもあるまいに、三次郎は掻き消
す如く見えなくなった。顔を洗い、鼻に塵紙の栓をして、よろぼいよろぼい座敷の方に行
って見ると、三次郎の行衛について評議直々の所であった。伯母はしきりに彼を気遣い、
万一口惜しまぎれに、短気でも出したのではあるまいか、とまで疑って、そこの薮を探せ
59
の、この庭の井戸を覗けのと指図をして居たが、伯父は舌鼓うって、
「馬鹿云え、彼が死に得るものか。どこかに隠れて居るだらう。それとも逃げて帰った
かも知れん。ああ好い厄介払いをした。──慎どん、怪我はせんかい」
怪我はあっても大したこともなかったが、三次郎君の行方はそれ切り分からぬ。で、大
方伯父の云った通り逃げて、家に帰ったことと定まった。伯母は非常に気の毒がって、笠
松に一寸挨拶に行こうとするのを、伯父は笑って
「うつちやとけ、うつちやとけ」と押とめた。
彼事件出来の日、母はちょうど留守であったが、帰ってそれと聞いて、別に僕を叱りも
せず、今にも笠松後家が遣って来たなら、少しばかり言ってやろうと、実は手ぐすねひい
て待って居たが、後家は終に顔を見せなかった。顔は見せなかったが、辞令の妙を極めた
一通の手紙が届いた。その手紙に、後家は先づその愛子の長々厄介になった礼を如何にも
鄭重に述べ、次ぎにその愛子が彼日草履もはかず襯衣《はだぎ》一枚(蓋し漁に行く途中)
で泣く泣く帰って来たことを叙し、その愛子の二の腕の噛み跡と背の傷は長く御恩の紀念
と大切に保存する云々の文言をもて手紙を結んであった。それから尚々書には、外戚の跋
扈は家の傾く原《もと》と云うが、野田家は万々歳で幾久しく御祝い申すと云う意味の文
句が書いてあった。彼三次郎君が十七歳の大童、槻(真はころもへん)衣一枚の跣足で、
泣く泣く家に帰って行った光景を想ふと、可笑しくもあり、また気の毒にも思われて、僕
は三次郎君に対して別に悼みも怨みもしなかった。しかしこの事あって、伯父の僕に対す
る愛の昔にかわらぬことを知ったのは、あまり不愉快ではなかった。
僕は実に大一郎君の死去が伯父の心にあけたその欠陥を満すことは出来ない。鈴江君で
も出来ない。しかしながら大一郎君を除いては、鈴江君についでもっとも愛せられる者は
僕であった。而して逝く者の終に還り難く、哀のやや沈むにつれて、僕は伯父の僕に対す
る愛の日に日にいや増すを覚えたのである。僕がしきり本を読んで居る傍を通っては、
「慎どん、勉強が過ぎるぞ。──死んで学問が役に立つか。さあ、運動運動」
と伯父が僕を引立てては、散歩に行くその容子を知らぬ人が見たら、親子と見たかも知
れぬ。
伯父が僕を愛するの著しくなるにつれて、母の顔は次第に曇って来た。
(十七)
十六年の秋期が始まって、程なく僕は、一の不快な報に接した。誰か思いかけようぞ、
野田伯父の拘引されたと云う凶報を聞いたのである。
驚いて伯父の家に帰って見ると、仔細は直ぐ知れた。伯父はこの頃までも引つづいて県
会議員をして居たが、議員の中にかねがね伯父の嫌って居る黒木と云う男があって、先日
の事知事議員一座の宴会に何かの問題について激論の結果、伯父は怒に得堪えず、県知事
初め公衆列座の前で件の議員に飛びかかって、蹴倒し、呆気にとられ居る間に、伯父は件
の男を踏みにぢり、撲(なぐ)り、知事が飛んで来て「野田君、野田君」と制すると伯父は
いよいよ烈火の如く怒って、
「貴様までがえこひいきするか」
と罵りざまに知事の横素頬《よこすっぽう》をいやと云う程鉄拳にはり飛ばし、果ては
60
総立の騒ぎとなって、やっとおさまったのは一時間も後であったそうな。知事は怜悧(り
こう)な男で、大人になって伯父の乱暴を大目に見て置くことになったが、件の議員が伯
父の嫌う程すこぶる腹黒い男で、到頭告訴したのであった。幸い伯父の友人や駒井先生達
までが非常に周旋し、それから僕の母が伯母と同道して彼議員の細君に談ずるやら、大骨
折ってやっと伯父には内々で件の議員に詫状を入れる事になって、告訴を取り下げて貰い、
僕は車を連れて伯父を迎えに行った。後で聞けば、伯父は未決檻に居た一週の間、最初は
火の出るように怒って居たが、二日目位から草臥れたのかぐっすり寝てばかり居て醒れば
昔し薩軍の本営に囚はれて白刃の間に鰻飯を注文した格で、鰻の酢のとしきりに取り寄せ
て居たそうだ。
伯父は罰金軽禁錮を覚悟して居たので、そのまま裁判にもかからず、青天白日の身とな
ったのを不思議に思い、何かそこに魂胆があるように疑う容子であった。家に帰って伯母
や母の顔を見ると、
「おまえ、黒木に会ったかい」
「いいえ」と伯母は答える
「まさか詫び状は出さなかったろうな」
「否、そんな事はございません」と母が立派に云い切った。
伯父は胡散そうに伯母や母の顔を見て居たが、やがて独り言のように、
「彼意地悪がよく告訴を取り下げた」
「それには知事さん初め諸君《みなさん》が色々骨を折って下すったのでございます」伯
母は語を挿む。
「知事が如何した?」伯父はすぐカンが昂ぶる。
「斯様でございます、知事さんが告訴の事を聞きますとね、あの者を呼びつけて、非常
叱ったそうでございます、野田先生から撲たれたと云って告訴する馬鹿があるものか、早
速取り下げて、野田先生に詫を云え、てそう云いましてね」
と母は真赤な嘘を云う。聞いて居る僕は、可笑しくもあり、また伯父の無聊無頼なおろお
ろとした顔を見ると、何だか斗米肉十斤(僅かな米、低額の給料)の老廉頗(中国の武将
の名、文官の下につかされて憤激したが、宥められて仲良くした)を見るように、妙に物
悲しい感も起こるのであった。
伯父は黙って聞いて居たが、舌鼓うって
「知事の出過者奴《ですぎものめ》、彼が止めなかったら黒木の奴を踏んで踏み殺してや
るのだったが!」
伯父は間もなく県会議員の職を辞して、全く閑散の身となった。
「閑暇になったからちっと勉強を始めよう」と駒井先生なんかに相談して、翻訳書類を
山ほど東京から取り寄せたが、英雄元来読書にものうく、リーバーの自治論スペンサアの
道徳の原理などは何時までも奇麗にして伯父の机にのっていた。
伯父の一件で小供ながらに心を痛めた間もなく、僕等にとって実に悲む可き一の報が伝
わった。それは我駒井先生が学校を去られるの報であった。
(十八)
61
何せ一語別れる時の来ると云うことを知らぬでは無かったが、その別れが斯ように早か
ろうとは実に思いも掛けず、吾等が師とも父とも敬愛する駒井先生はなお幾年も幾年も吾
等と共に棲んで、吾等を導き、せめて羽翼(はがい)の今少し丈夫になるまでは吾等の側
を離れずに居て下さることであろうと、子供心に思い込んで居たので、先生が愈々学校を
辞して帰国の途に就かれると云う事が知れ渡った時には、僕は実際落胆してしまった。
駒井先生が学校を去るのは、先生が学校を嫌になったからでもなく、学校が先生を嫌に
なったからでもなく、
実は先生が故郷土州に残し置かれた老父親の病を省せむが為である。
先生には一人の実兄があって、孝養の任に当って居るが、先生は殊に愛子で、老病余命幾
何(いくばく)もない今日この頃、是非哲に逢たい逢たいと老人の口癖のように云わるる
様子を、兄なる人から細かに先生の許に報じて来たので先生も急に行李を理(おさ)むる
ことになったのである。老親の先途を見届けたら、また帰って来て弟の如く子の如く思う
諸君と共に研学の事に従うであろうと先生は僕等を慰めたが、僕等は云い合わしたように、
これが先生との永別ではあるまいか、とそう感じたのであった。
送別と云う程で無くとも、せめては先生に対する満腔の感謝を表する一端にもと、先生
が出立の前夜は、先生を正賓に、諸老先生や野田伯父なぞも招待して、盛なる離莚を開い
た。諸先生も最初は苦しまぎれに頼み、やがて危ぶみ、育英学舎が見る見る変色して行く
のを不安の眼を以て目送して居たが、駒井先生の感化は諸先生の老硬なる頭脳にまでも影
響を及ぼして、諸先生も可なりの自由論者となり、今度駒井先生の去られる就いて、真実
遺憾に思われるのであった。野田伯父の如きは、ひそかに鑑識の誤らざるを誇って居た位
で、今回の先生の帰国には最も落胆していた。
駒井先生の後任と仮に定められた喜多川某と云う近眼鏡をかけたあまり重味のない先生
が開会の辞を述べ、学生の重立たる者数名の送辞謝辞があった。少年の組では、浅井(圧
制政府を頭上に戴いて居るから自分の丈が矮いと自から称する少年だ)が演説をなし、僕
が文章を朗読した。
「師トモ父トモ敬愛スル我駒井先生」と読み出すと,声が震えて、眼前に霧がかかって、
暫し絶句した。これが平生であったら満場の咲笑を惹起す処だが、場合が場合で、満校の
感情同一轍であるから、却って場内森として水をうった様であった。それから諸老先生の
鄭重なる謝辞があり、最後に駒井先生は留別(旅立つ人が、後に留まる人に別れを告げる)
の辞を述べられた。
先生は先づ諸老先生が遠来の客に育英学舎を掌るの大任を与え且つ全然打任かして思う
ままに意見を行うの余裕を与えられたことを謝し、次ぎに学生一同が年齢若く経験足らず
学問乏しき他国他郷の客を十分の信用をもって受容れ、歩調を揃えて未熟な嚮導者の後に
従ったことを謝し、この回已み難い事情の為めに一旦愛するこの育英学舎を辞するの遺憾
を述べ、なお機会を得たらば必ず来って今一度この育英学舎の為めに十分尽瘁《じんすい》
する覚悟である旨を述べ、人生意気に感ず、諸君は実に吾知己、諸君を懐うの念はどこに
あるも決して一日も胸中を去るあたはず、若し自分の一死諸君を益する場合もあらばこの
命何時にても諸君の前に捧げん、と云う意を述べられる時は、流石の駒井先生も涕涙雨の
如く、満場の学生皆一種の電気にうたれて、飲泣《いんきゅう》する者、歯を切ばって俯
く者、拳に涙を払う者、実に一人の仰ぎ視る者も無かった。最後に先生は、涙はらって、
62
言葉をあらため、諸君も自分も共に真理の一兵卒として行く行くは済世の志を懐く者、行
く末とも誘惑に克ち、時俗に溺れず、死に至るまで志士の骨頭を維持し、書生の精神を失
わず、彼こそかって育英学舎に学ん
だ者と衆目の標になりたい、と云う意を厳かに述べられた時は、皆吃と顔をあげて、腕を
扼った。
そのあとは、僕等が手料理の薩摩汁があって、劔舞があって、野田伯父の寄付とやらふ
かし甘藷を十ばかりの大笊に山の如く盛ったのが出て、種々の賑合いに暫し離愁を紛らし
た。
翌朝駒井先生は帰国の途に上られた。僕等学生一同を擁して、見送りに行った。一里ば
かり街道を行くと、大きな榎樹が二本道の左右に立っている。
送君千里須一別(きみをおくるせんり ひとたびはわかるべし)、最早ここで別れよう
と先生は車に上り、
「諸君の健康を祈る」
と帽を振られた。僕は咽元に大きな塊がつかえて、急に側向いた。一同が何とか高声に
叫んだが、はつきり分らなかった。
暫くして見ると、車は最早一丁ばかり行って、先生はふりかえりふりかえり帽を振って
居られる。僕等も狂気の如く手を振る。車は次第に小さく小さくなって、果ては道と共に
まわって、見えなくなった。
==========
(十九)
火が消えた様なとは、駒井先生が去られた後の育英学舎の事であろう。
えらいとは思って居たが、先生を取り除いて、斯程までに学校が空虚になろうとは意外
であった。学課は先生が居た時同ように行って行く。
すべての機関は依然として旧のままに運転している。しかしながら、魂がぬけた骸(か
ら)同然、いささかかも活気と云うものが無くなった。喜多川近眼先生しきりに忌々しが
って、駒井が居ないと直ぐこんなる様では自分の恥辱、学校の恥辱、と大いにあせり、叱
咤督励すこぶる努めたが、矢張り駄目だ。一週も経たない内に、校内そこにもここにも欠
伸の声が聞えるようになった。でも、万一したら先生が意外に早く帰って来られるかも知
れぬ、と待って居たも空頼み、一卜月ばかりすると先生の書状が届いて、到底急に帰校す
る訳に行かぬことが分明になった。と云うのは、最早これきりと云うことであろうと僕等
は解したのである。書状の末には、丈夫自から立つ所なかる可からず、人に頼って事を為
すが如きは碌碌小人の所為のみ、余は育英学舎の諸子が行来共に丈夫児の面目を維持せむ
ことを祈る、と云う意味を書いてあった。獅子の児落しと云う訳であろうが、落される僕
等は実に駒井先生を恨めしく思ったのである。
駒井先生の書に接して程なく、僕は東京の友人から一通の手紙を貰った。友人とは西山
塾で識り合った彼松村清磨である。他の塾友とは多くそれきりになってしまったが、独り
松村のみは三百里を隔ててこの三年越し書信の往復を絶たなかった。僕が駒井先生の下に
育英学舎の活気勃々たる有様を書いてやれば、松村は田舎の学校位では駄目だ君も早く上
63
京し給え、と云ってよこす。僕が躍気となって反駁する。松村が反々駁する。と云うよう
に、手紙の上に議論の花を咲すことも度々であった。時々はあまりその花が咲き過ぎて、
一方が怒り出し、そうに云うなら手紙は最早遣らぬ、貰わぬ、絶交する、と云うが、気の
会った友垣はまた別なもので、少し黙って居れば、また音信をしたくなり、到頭喧嘩と仲
直りに三年を過ごして、昔に変わらぬ親友と吾も思い彼も許して居たのである。
松村の手紙は、今度某中学を卒えたについて、遠からず大学予備門に入る筈、と云う意
を漏らし、また例の筆癖に、君も何時まで田舎の学校に逡巡するぞ、疾く心を決して東上
し給え、学費の如きはどんなともなる可し、及ばずながら僕も一瞥の力を致す、などと大
人びた事を云って遺した。これは松村が書信の度毎に書いて来る文句だが、駒井先生去っ
て落莫たる学舎の窓の下に読んでは、さながら天外の福富を聞くの感があった。
東上! 上京! そうだ、左様だ、駒井先生が到底帰って来られるでは無し、先生が居
なければ死骸も同然のこの学校に可惜(あたら)青春の月日を等閑に過すは、これ程つま
らぬ事があろうか。
こここそ駒井先生が云って遣れた通り、丈夫自から立って人を恃まず、
意を決して行る可き処、駒井先生と云えば先生もむかし学資乏しく塾僕の様な事をして勉
強されたとか、高が月に五円足らずの金、如何とかなろう、是非上京、上京と思い立って
は、矢も楯もたまらず、松村が手紙のついた翌日学校の午後の課を休んで母に相談に行っ
た。
母は静かに、僕が息巻荒く述べ立つる企の程を聴いて居たが、
「そうして学資は如何する積かい」
「学資ですか、学資は──塾僕でも、書生でもして──」
母は僕の身体をつくづく目に測って眉宇に一点の雲を宿した。
「実は、万一の用に少し許取って置いた金があるけれとも、それはほんの不時の用にと
ってあるのだから-ああ昔の様だったら」
と気は強くても流石に女の、母は悟ろりと落涙した。
「否、阿母、私は決して人の世話になるまいと、そう決心して居ます。何有、学資位は
如何したって出来ないことはありません」
断然と言い放つ僕の顔をうちまもって、母は少し眉を開き、
「おまえがその覚悟なら、旅費や二三ケ月分の所はわたしが如何かして都合する。その
上誰の厄介にもならぬ覚悟があるかい」
「男ですもの」
「伯父さんにも?」
「はい、誰にも」
母は初めて頷いた。
「では、来なさい。伯父さんに一應話して見なければならぬ」
僕等母子が伯父の居間に行くのを、ちょうど奥から出て来た鈴江君が不思議そうに目送
った。
(二十)
僕等母子が座敷に入って来た容子の常ならぬを流石に伯父も認めたのか、読んで居た新
64
聞を措き眼鏡──伯父は去年から径一寸あまりの大きな眼鏡をかけ出した──をはづし、
要は? と云い貌に、僕等の顔を眺めた。
「慎太郎が事につきまして少し御相談致し度ざいますが」
と母は口を開いた。
「慎どんの事で、フウム」と伯父は僕の顔を見る。
「実はこの児も何時までも田舎にばかり置きましては修業ざかりの年配を残念にも思い
ますし、また何時々々までも斯ように御世話にばかりなって居ましても済まない訳で──
今度はこの児も上京させましようかと思いますが」
否と一言に斥けられるかと思いの外、伯父はしきりに頷いて、
「左様、左様、乃公もそう思ったことじやが、駒井が居らんようになって見ると、慎ど
んもそう何時までも育英学舎に居た処でつまらん話じや。こうつと、慎どんが── 十六、
鈴江と同年じやの。最早修業に出るも宜かろう。そこで、慎どんの志──目的は、如何す
る積かの?」
僕は始めて口を開いて、
僕の目的は政治家、
修むる所は政治学であると云う意を述べた。
実は政治学の何ものたるを知った訳では無
テキスト
"c:\data\lotf\tokutomi\omoi102g.tif"
く、また政治家なるものは果して何ものであるかを知った訳でも無く、駒井先生の感化を
受けて、唯政治家となって天下の為に尽そうと云う空漠たる考をもって居たので、国家に
尽くすには政治家になるべし、政治家になるには政治学を修むべしと云う様な極く大ざつ
ぱな見当であった。
同じ大ざつぱでも年齢は年齢だけ、伯父は僕よりやや精密に考えたのであろう、暫し沈
吟して居たが、やがて僕の顔と母の顔を等分に見やりて、
「自分はそう思うが、北海道の農学校に入っちゃ如何かい」
過る夏の事であった、札幌農学校の卒業生とか学生とか云う男が伯父を訪れて、しきり
に高談雄弁したことがある。伯父はよほど身にしみた容子であった。が、突然にこんな事
を言われて、僕はぐっと詰まったのである。
「農学校は嫌かの。嫌なことはあるまい。政治家、政治家と云うが、そう誰も彼も政治
家になると日本は飢える。それよりも農学士になって、殖産興業でも行ると、幾何日本の
利益になるか知れん。如何でも日本は農業国じやからの。農学校に入るが可、農学校が可」
調子に乗って伯父は農業立国論をとうとうと述べて、畢竟日本の農業を振起するは僕菊
池慎太郎の責任であるかの如く説き立てた。しかしながら僕はわざわざ北海道まで出かけ
て、百姓の先生にならなくてもと云う考がどうしても除かない。そっと母の顔を見ると、
母も寸斗すすまぬ容子。名誉心のさかんな母は、到底その一人息子を農業専門の一学士に
するを甘んじ得ぬのである。
話は暫し途切れた。
伯父はやや久しく考えて居たが、
「いやそれついてこの間からお節さん(僕の母の名) に話したいと思って居た事があ
65
るが、幸い慎どんも来たし──鈴江、鈴江」
呼ぶ声の下に、何時来て居たのであろう? 鈴江君の白い顔が襖の蔭からあらわれた。
「鈴江、母さんは」
「台所でしょう」
「母さんに一寸来いとそう云え。それからあなたは少時あっちへ行って居ろ」
母の顔色は少し変った。
(二十一)
前掛に手をふきふき、伯母が入って来るを、伯父は待兼ね顔に、
「なあお実、慎どんが修業に出たいと云うがの」
「慎さんが、修業に、
」と伯母は僕等母子の顔を眺めた。大一郎君の死去後は、伯母もよ
ほど気弱に、涙脆くなった。僕が上京するのをまた死ににでも行くかのように思い做した
容子であった。
伯父は頓着なく、
「それについて、なあお実、彼の一件の相談を持ち出して見ようと思うが」
「左様でございますね」と伯母は母の顔を眺めた。伯父は少し容をあらためて、
「お節さんも、慎どんも、一とつ聞いて貰わうと思うのは、自分が斯様云う目論見を立
てたがな。吾家も大一郎が死んで見ると、あとは鈴江一人で、是非養子と云う処だが、そ
の養子と云うやつが、中々考えものでな。それで自分が思うには、誰彼と云うより慎どん
は自分もお実も十二から世話をしてよく気質人物を知って居る、云わば実子も同然ぢゃか
ら、そうすると、ゆくゆくは鈴江をつけて家屋敷悉皆慎どんに譲って、それこそ他人雑《ま
じ》らず水入らずで、自分等も大安心じやからな。お節さんも、慎どんも、如何思うかの」
僕の胸はしきりにどきつき、耳朶がほてって来た。母はさながら待って居た伏魔殿の開
かれたように、覚悟はしながら少し色を変えて居たが、ややあって、咳払いし、
「では慎太
郎に野田を名乗らせますのでございますか」
と言葉がややあらたまる。
「それは如何でも宜いが、とにかく自分の跡を立てて貰いたいのじや。なあお実」
顧みられて、伯母も口を開き
「慎さんも菊地家の一粒種だから、養子と云うもおかしい話だが、野田家も一人、菊地家
も一人、気も心も知れぬあかの他人を養子に貰ったり、嫁にとったりするよりも、両家一
つになった方が雙方の利益ではあるまいか。
幸い鈴江も慎さんとは大仲好ではあるし ──」
僕の耳が紅くなる程、母の顔はますます白くなった。
「それはもう慎太郎の様な者をこの家の跡つぎと仰有るのは、
面目な訳でございますが」
と母の言葉は鉄を截るように一句々々歯の開から漏れ始めた「誠に面目な訳で、また是れ
まで何につけ角につけ一ト方ならぬ御世話になって居るのですから直ぐお請けをするのが
当然でございますが、とにかく菊池の家の血脈はこの児一人に繋がって居ます訳で御存じ
通り先代は彼ようになってしまいますし、臨終の際にもこの児丈は是非立派な男にして、
菊池の家を再興さして呉れるように、そうしみじみ言い遺しました位で」と母はほろりと
落涙した。が、直ぐ取り直し、
「そんな訳で、斯児には是非菊池の名跡をつがせ、掘立小屋でも吾家と云うものを興さし
66
たいと思って居ますので」
「それならとにかく慎どんがこの家を相続して、ゆくゆく子供に菊池家をつがすように
したら、別にさはりもあるまいじやないか」
母は少し黙って居たが、
「でも子供の中の仲好と云うものは、分からぬもので、今それと取り極めて置きました
処で二人が大きくなったらまた如何気がかわらぬとも申されませんし、また慎太郎が如何
なりますか、十年もたって見なければ分かりませんから──それとも本人の所存は如何で
ござりますか」
顧みる母の眼色を、僕はよく解した。母は鈴江君を嫌いではないが、好きでもない。
はきはきした性質と大様な性質と自づから合わぬのである。母は伯父夫婦の厚意を嬉しく
思わぬではないが、その一子を十が十まで伯父の恩恵の下に置くのを好まぬのである。。
「慎どんの所存は如何かな」と僕に注いだ伯父の眼はよほど怒を帯びでいた。
突然「丈夫自から立って事を為す可し、他人を恃むなかれ」と云う駒井先生の戒めの言が
僕の頭脳に閃き出づると、結んで居た口はおのづからほどけて、
「私は伯父さんは大好き、伯母さんも大好き、鈴江君も大好きですが、この家をつぐの
は大嫌です」と云う様な意味を吾れ知らずさらさらと言ってしまった。
(二十二)
その後修辞学の講義を聞いて、同じ事を云うにも詞の転倒でよほど聴者の感が異なるも
の、例せば「君の彼点は好いが、この点は悪い」と云うよりも、
「彼点は悪いが、この点は
宜い」と云うと、同じ意味を聞く先方でもよほどその感に相違があると云うことを知った
が、小供の中と云うものは唯そのしきの分別も無く、ついさらさらと思う事を言ってのけ
て、伯父の顔を見るよりはつと思った。
已に母の不承知に出会って、焦躁して堪らぬ所へ、顔が真向正面つくりもかざりもない
拒絶を受けて、伯父の怒は終に破裂した。
「おまえ等は自分を誰と思うか。腐っても野田大作ぢゃ。女子供と思って、穏和に相談
すると、つきあがって、
『家をつぐのは嫌』た何の口から云う? 四年も五年も恩になって
居ながら──」
母は気味悪い微笑した。
「御恩にはなって居りますし、また御恩になって居ることはよく存じて居ります。慎太
郎も成人なったら屹と御恩報じをしなければなりません。またわたくしも自身丈は御恩報
じをするようにするようにと心がけて居ますので」
この五年間母が野田家の為に尽くした所は実におびただしいもので、それは伯父も知っ
ている。知って居るほど伯父はいよいよ怒り出した。
「黙れ。些少ばかり加勢をしたと云うて、ご恩にはなって居らん云う口ぶりは──不埒千
万な」
と伯父は吾怒の惰力に駆られて、今は火の如くなった。沸へかえる胸の憤悶をどこから
漏らす由もなく伯父は髯の間に埋もれた口をしきりにうごかして居たが、突然襖障子もび
ちりと震ふ大音声をあげて、
「出て行け」
67
と叫んだ。
母は微笑した。眼中の閃きを見なければ、伯父の大昔を琴か笛の音と聞て楽しむのでは
あるまいかと思われるほど落ついて微笑した。
「御邪魔になりますなら何時でも出てまいりますが」
「不埒──」と身を震わして、立ち上る伯父よりさきに伯母は突と身を起して中に入っ
た。
「良人、そう没義道に──」
「何が没義道?」と仁王の如く突立った伯父の怒気満々たる眼はかさよりかかって伯母
を睨む。
「何卒御勘弁──お節さんも少し言葉が過ぎはせんか。──こんな事は考えた上にも考
なければねあなた、この談は今日はこのまま預かって、まあ篤斗《とくと》分別した上で、
またあらためて相談する事にいたしたら如何でございましよう」
と伯母は一方の手に良人を控え、一方の目に妹を制し、しきりに気を揉む。伯父は黙っ
て立って居たが、突と座敷を出て行った。
あとは寂然。伯母は大息ついて「お節さん、わたしが悪かった、この間から内相談をし
て見よう見ようと思って居ながら、つい黙って居ったものだから──こんな事は今日が今
日と直ぐきめてしまわれることでは無し、またゆっくり話もして見ねば、慎さんも今日は
一トまづ学校に帰ってね、──またその内あらためて何かの相談をすることにしましよう
──待ちなさい、その袂の綻び様」
と伯母は手づから綻を縫って呉れた。
黙然として居る母と、気を揉む伯母に別れて、伯父の家を出て、半町ばかり行くと、後
に拍手の音が聞えた。顧みれば、伯母である。小手招ぎするので、小戻りすると、
伯母は道の側に僕をひきのけて、小声に、
「慎さん。伯父さんでもわたしでも、真実あなたを大一郎のように思うのだから、伯父
さんが癇癪を起しなすったと云って、決して気にかけなさんな。あなたの遊学の事も伯父
さんは望んで居なさる位だから、何れその内に相談をきめましょう、決して短気を出しな
さんな。よいね、分かったね」
と云って、伯母は僕の帯のゆるんだのを手ばしこく結んで呉れた。
僕は唯々として別れた。
(二十三)
唯々として別れたが、僕の胸中はさながら乱麻の如くであった。 伯父、伯母、母、鈴
江君、野田家、菊池家、相続、養子、札幌農学校、上京、
「出て行け」
、
「恩になって居なが
ら」
「短気を起しなさんな」
、
、
など云うさまざまの言が一時に胸中に揉み合い、
もつれ合い、
腹も立てば、嬉しくもあり、口惜しくもあり、馬鹿らしくもあり、失望もし、何が何やら
一切分からぬ。足は伯父の家より学校へ通う往還を歩みながら、
心はまるで胡思乱想の八重葎を分くる有様。
とにかく僕は今生涯の一転角に立っている。伯父の言に従って唯と云えばそれで済む。
何事も円滑に行く。しかしながらそうなれば、
「菊池」慎太郎は最早世に存しない。
「菊池」
が存せぬと云うは、
「男」が立たぬと云う意味ではあるまいか。そんな感じがしたればこそ
68
──尤も些少は恥ずかしさも加わって居たろうが──伯父の前で否と云って、伯父を怒ら
したのである。それなれば、前言を守ってどこどこまでも否と云い通さうか。伯父は、現
に彼ように起った。
今後とても同様であろう。
また万々一伯父も伯母も怒らぬにした処で、
先方を失望させながら、その意見に背きながら、僕等母子が依然としてその家の厄介にな
って居るは、到底我忍び得ぬ処である。
「またその内に相談して」と伯母は云ったが、二三
日後の形勢は矢張今日の状態と少しも変わらぬのではあるまいか。ああ如何しよう、如何
しよう? と思うと、突然駒井先生が「丈夫人を恃むなかれ」と云う戒が脳中に湧き出し
て、伯母がさきに云った「短気を起しなさんな」のその短気の意味を考えた。想えばその
短気が今の僕にとって、唯一の活路ではあるまいか。
僕が居ればこそ、色々の紛紜《ふんうん》が起って、伯父も怒れば母も困《くるし》む。
一旦飄然としてこの地を立去ったならば、あの一件も自ずから立消となって、伯父伯母の
思わくも変って、母も気兼ねが少なくなる。一方に吾上京遊学の志を遂げて、一方に野田
家との係累を脱するとすれば、これ程得策があろうか。
「行こう、行こう」
と僕は独語した。何時行こう?兵は由来神速を尊ぶ。色々面倒の起こらぬ内、明朝立つ
としよう。それなれば一寸帰って、母にだけそっと相談して、暇乞いして、と十五六歩引
き返したが、また思うには、万一母が許さなかったら如何であろう、いっそ伯父にも母に
も告げずに、断行するが宜かろう。母は全く知らぬと云う事が分かったら、伯父も母子共
謀してここにでたと云う疑いは起すまい。丈夫涙なきにあらず、離別の間にそそがず、母
に告別せぬは悲しいが、思いきってと伯父の家に背をむけた。
学校に帰るとやがて冬の日は暮れた。差寄り困るは旅費の一件だ。東京までは是非十円
の金が無くてはならぬ。母に相談すれば、無論それ位は如何でもなるのであるが、無断の
出奔とすればそうも行かぬ。幸い僕の机の抽斗には、今度英和字書を買うつもりの四円足
らずの金がある。衣類雑書も少しはある。僕は仲好の賄をそっと喚んで、今夜中に是非払
わねばならぬ負債があるから、この衣類書籍で出来るだけ金を揃えて呉れと頼んだ。少し
不審な容子であったが、平生信用して居る僕の云う事で、承知して出て行ったが、二時間
ばかり立って、二円なにがしの金を持って来た。売って仕舞うと駄目だから自分の名で質
に入れたと云う。売って来て呉れれば宜かったにとは思ったが、今の場合打明けることも
出来ず、なお無きにまされりと、謝して金を収めた。是れで僕の懐中は六円未満、車にも
のらず、汽船は素より下等、菓子一とつ食わず、已むなくば木賃、露宿の覚悟で居たら、
とにかく東京までは行かれよう。
旅費の算段は既に出来たし、これから書置きの事と、四辺を見渡すと、何やら角やらに
刻たけて、同窓の友の多くは最早鼾で居る有様。ここそこについて居る机上のランプは晨
の星程稀である。
僕は先づ母に残す手紙を書いた。告げずして去らざる可からざる所以を陳べ、業を成し
遂げて迎に参る日まで、必ずご自愛あるようにと、書きながら僕は不覚の涙に暮れた。よ
うよう母への手紙を封じ終り、今度は野田伯父に残す手紙を書いて居ると、座右の本箱の
上から
「菊池」
69
と顔を出すのを、喫驚しながら見れば、あの浅井と云う少年だ。
「菊池、何を書いとるか、──おい見せたまえ、隠さんでも宜じやないか。やあ、君は
泣いたな、眼が赤いぞ」
僕はやっとこの手紙は東京の友人の松村と云う者から上京を勧めて来たその返事である
ことを弁疏《べんそ》した──上京の勧告を拒絶するのが残念で落涙したと云う嘘まで添
えて。
「そうか。僕も東京に行きたいな。こんな学校に居たって、あの眼鏡の薫陶じゃひどい
からね。ああ駒井先生は最早来んのかな。僕も上京したいな──風蕭々兮易水寒《かぜし
ょうしょうとして えきすいさむし》
、壮士一去兮不復還《そうしひとたびさって またか
えらず》
」
と例の美音で朗吟しながら、浅井は行ってしまった。僕はほっと息ついて、少しランプ
の心を細くし、そこそこに伯父への書置きを書いてしまう。その手紙には、君子は交絶え
ても悪声を出さず、自分も少なりと雖(いえど)も教を君子に奉ずる者云々と楽毅もどき
に鹿爪らしい事を書いて、伯父の恩は何時までも忘れぬ事、しかし自身は独立を重んずる
事、また母の上は宜しく頼む事、などを順序も無く書いた。それから学校の諸友に宛てて、
已み難い事情あって窺かに上京する事、別紙を野田の宅に届けて貰いたい事、を手短かに
書き、母のは伯父と同封にして、都合二通机の抽斗にしまった。それからあたりを見ると
皆寝て居るので、ひそかに荷物を揃えて、今すこしあけ近くなるまでと仮に蒲団の中にも
ぐり込んだが、胸は躍り、頭は冴えて、固よりまんじりともせず、右に左に高低する鼾の
声歯ぎしりの音を聞きさまざまの事を考えたが何を考えたか少しも覚えぬ。
やや久しくたつと、学校の向うの村に鶏が鳴いたので、僕はそっと起きて荷物を提げ、
震う足を踏しめ踏しめ唯一つあるランプの薄明をたよりに算を乱して横わる英堆の手を避
け、足を跨ぎ、ようやく二階の階段の口まで来ると、少し安心した故か忽ちそこに横わっ
た一人の足をぐっと踏んだ。
「あいたツ」
と跳ね起きるその時遅く、僕は電の如く階段を滑り降りて、階段の下隅に隠れた。二階
には「誰だ、失敬なツ」と睡げに罵る声が聞えたが、下りて来る様子もないので、僕は胸
撫で下ろし、荷物を肩に、下駄を突かけて外へ出た。
外はなおほの暗く、学校の屋根に二十六七日の月が金の弓をかけている。霜柱の立った
庭を小走りに走せ通って、十町あまりは、追手が迫る様な気がしてあとをも見ずに急いだ
が、それから少し歩を緩めて、初めて面を斬る様な朝風の寒を覚えた。不図持って来るよ
うに準備した蝋引傘と賄いから内諸でこさえて貰った握り飯を忘れたことを思い出して、
立ち止まったが、また頭をふって歩き出した。
学校から一里ばかり先月駒井先生を送って来た彼大きな榎樹の辺に来ると、東が白んで
来た。ここで僕は帯をしめ直し、すっかり皆旅支度になった。仕度と云っても、大したこ
とはない。平常の綿入れ、綿入羽織、白木綿の兵児帯、薩摩下駄、頭は古びた黒の帽を冠
って、手拭は腰につけ、僕を東京へ連れて行く六円の金は、古帯にくるむで、腹巻にし、
母から貰った蟇口は五十銭の銅貨を入れて袂にぶらさげている。荷物は母が今度の正月着
にと縫って呉れた紺木綿の綿入を後、駒井先生から貰ったマコーレー文集の瑞本一冊と外
70
一二巻の書物を前、兵児帯の古いので括って、振分けに頸にかけた。傘を忘れたので、道
に落ちてあった竹ぎれをステッキ代りに持っている。
行こうとして、
僕は不図榎樹を見て立とまった。
菊池慎太郎今回の遠征果して吉か凶か、
志遂げ業成るか、或はが襤褸を着て恥を故郷に曝すか、若し吉ならば彼榎樹の幹の大瘤に
この石きっとあたれ、あたらねば凶と、小石拾い、狙を定めてはっしと擲てば、見事には
づれた。二三歩進んで、手頃の石を投ぐると、またはづれた。腹立まぎれにつかつかと樹
の側へ立寄り、頭大の石を両手にかかえて、投げつくれば、堂とあたって木の瘤の皮二三
寸剥げたので、僕はやっと機嫌を直し、手の塵払ってまた途に上った。
最早日の出に間はあるまい、東の空はぽうつと金色さして来た。僕はその東を指して、
東京は愚か、道しあらば日辺にまでも到るの意気をもって、驀地(まっしぐら)に闊歩し
始めた。
三の巻
終わり
==========
四の巻
(一)
明治十六年の十二月二十三日と云うに、僕は第二の故郷たる某の城下を出奔して、東上
の途についた。路筋は、先づ豊後の国別府の港へ出て、それから汽船で大阪に渡り、その
上は旅費の加減で、横浜まで汽船で行くか、若くは東海道を膝栗毛にうたすか、それはそ
の時の都合として置いて、とにかく別府まで出ることに定めた。
初一日は流石に初旅の心細く、後に残した母の上が気にかかり、また追手の心配が断え
ず気になって、駄馬の蹄音にもぎょっとし、初めて泊まった山駅の宿屋では、故らに筆跡
を違えてあられもない名前を書いたりしたが、二日目からはやや旅心を定まって、追手の
心配もいささか薄らぎ、草鞋の穿き心地もしつくりとして来た。実は学校をば薩摩下駄で
出たのだが、二三里行くとふっつり横緒をきらしたので、或茶店で草鞋にはきかえ、下駄
は茶代がはりにその店の老媼(ろうば)に呉れたのであった。
時は今冬枯れの野道山道淋しい事だが、しかし僕は淋しいと思わぬ。僕の頭脳には万感
蝟集して、
独旅の道伴は実に多過ぎる程だったのだ。
駒井先生もこの道をとって行かれた。
師の足掛を踏むと思えば、小石まじりのこの往還も何となくなつかしい。東京について、
松村が下宿を尋ねて、
「おい、松村、来たぞ」と彼が肩を鼓いたら、どんなに驚くであろう。
それよりも伯父伯母鈴江君なぞが今頃はどんなに驚いて居るだろう。若くはまだそうと気
づかずに居るであろうか。母は驚いても、内々喜ぶであろう。学校の友達がどんなに騒ぐ
だろう。
「思い切った事をやったなあ」と驚嘆するであろう。左様、左様、何時か先生に聞
いた泰西詩人の詩にも「英雄豪傑は他人の眠って居る間にごそごそ這ってその地位に上っ
むもの」と云う事があったが、僕も学校諸友の眠って居る間に脱けて来た、それとこれと
71
は勿論意味が異っては居るが、吾ながら今回の一件はよく思い切って断行した。と思うと
古来の名高き人物で、曾て一たびその生涯に出奔の幕を演じた人々の名が星の如く記憶に
浮み、僕は独り莞爾と笑んで、
「男児立志出郷関《だんじ こころざしをたててき きょう
かんをいづ》」 の詩を高らかに吟じたのである。幸いの牢晴《てんき》つづき、何の異な
る事にも会わず、足に豆も踏み出さず、三日日の四時過ぎには、別府のこっちの神崎と云
う所に着いた。ここから別府までは唯った一歩、と聞いて心勇み、革臥れ足引ずって行く
所へ、後の方から来かかった年の頃は三十四五、甲斐絹のばつちを穿いた商人風の男がじ
ろじろ僕の容子を見て居たが、
「別府に行くかね」
「左様です」
「汽船に乗るんだな」
「左様です」
「どこに行くのかね、東京?大阪?」
「え、まあそんなものです」
「この地は初めてかね、どこから来たかね」
その言葉の横柄な上に、僕は生面漢(みずしらずのひと)と馴れ馴れしく言うのが嫌だ
から、黙って答えなかった。
商人風の男はじろじろ僕の顔を見ながら、
「わしも大阪まで行くが、何なら一処に連れて行ってあげようか。胡麻の蝿がついてね」
胡麻の蝿と云うのはどんな蝿だろうと思った。ややあって件の男は、
「別府では何の宿屋につくかね」
僕は口篭った。
「それぢゃわしについて来なさい。わしが泊りつけの宿に案内しよう。どうせ汽船は明
日の午過ぎになるからね」
旅では見も知らぬ者とあまり心易くするものではないことをかねて承知して居たので、
僕は心をゆるさず、目をとめてその容子を見ると絹物づくめの衣装に、表付きの駒下駄、
一寸した手鞄を提げて、立派な風をしている。聞けば大分の米商で、大阪に用達に行くの
だと云う。僕は少し心安堵いた。日のくれぐれに別府に着いて、そこでは煤掃(すすはき、
大掃除のこと)き、ここでは餅春き(もちつき)
、正月の仕度に忙しい町中を中程まで来る
と、件の男はフラフの立った、看板に汽船問屋何々と筆太に書いた家に入って、僕を頼み、
「ここだ、ここだ。何を立ってるのかね」
僕もつづいて入った。
(二)
汽船宿について、件の男と同室することになって、湯に入るまでも、僕は聊かの不安の
念を除き得なかったが、湯に入る時彼の男がどさりと取り落とした懐中の重やかなるに、
何だか堅気な商人の証拠を見た様な心地して、大きに安心したのであった。彼は宿の亭主
を呼んで、確とその懐中を預け、僕を顧みて、
「こんで居るから用心がわるい、君も預けて置きなさい」
72
宿の亭主も言を添えるので、僕は物陰に行って胴巻にした六円未満(僕にとっては六万
円)の金を取り出し、五円丈本にはさんで手拭にしかとくるみ、亭主に渡した。これで僕
は更に安心したのである。件の男は馴れたもので、夕飯の膳に一本取り寄せ、給仕女稚相
手に冗談云ったりして居たが、僕は三日の旅に草臥れて、飯を喫つてしまう間もなくぐっ
すり寝込んでしまった。
明くる日、朝飯を喫うと、件の男が、汽船の出帆にはまだ大分間があるから、いささか
別府の町を歩いて見ようと云うので、打連れて海添の汚い町をぶらつき、唯有る唐物屋の
前を通ると、
、件の男は立寄って毛の襟巻きを買ったが、不図懐中に手を入れ、呵々と笑っ
て、
「懐中を持って来なかった、一寸待ちなさい」言い棄ててそそくさと行ってしまった。
僕は唐物屋の前をあっちこっちやや暫し歩いて待って居たが、つい一二町の宿に行った
彼男が十分立ち二十分立っても帰って来ぬを不審に思い、宿に帰って見ると、帳場に居た
亭主が、
「御帰りなさい、御連れさまは?」
「今さき懐中を取りに帰った筈」
「は、一寸御かえりなさって買物をして来ると仰有って御出かけなさいましたが」
忽然恐る可き疑いが僕の脳裏に閃めき出でた。
「乃公が預けた物は?」
「一緒に御連れさまに差上げましたが」
「彼人に渡したと?」
叫んだ僕の顔は真蒼であったろう。宿の亭主は仰天した(彼は六十近いでつぷり肥えた
禿爺で、人の悪くなさそうな顔であった)。
「ではあなたさまは御存じないので、ヘヘエ、私はまた御連れさまが御帰なさって二人
で買物をするから昨夜預けた二人の懐中を呉れと仰有ったものだから──では彼方はお連
れではないので、ヘヘエ」
と呆れ顔──僕は泣き顔。顔見合して居ると、婢が遽《あわただ》しく、
「旦那、旦那──御客様が一寸」
「何だい」
「二階のお客様の時計が見えない──」
「何時計が?──彼だ、彼だ、畜生騙り、盗賊──」店頭は大騒ぎになる。巡査が来る。
その室の時計、ここの蟇口と、客は紛失物に騒ぎ出す。そう思えば、彼の男の眼つきが
と亭主が云う。そう云えば彼奴は手鞄を提げて出ましたと婢が云う。云ってもわめいても
後の祭り、巡査があせり、若者が八方に走せ廻っても、件の男は影も見えない。他の客は
しきりにがやがや騒いで居たが、頓て午になり汽船出帆の時刻になったので、皆口口に罵
りながら、亭主の平あやまりにあやまるをせめてもの償いに、どやどやと立ってしまう。
僕は俊寛然と残された。亭主はしきりに叩頭し、
「あなたさまには誠に申訳もございません。全く手前の不調法で」と謝って、巡査の方
で少し手がかりがありそうだから、今晩まで待って呉れと云う。待って呉れと云わなくて
も、待つより外に仕方はないのだ。僕の旅費は今初めてその意味を知った彼の胡麻の蝿君
73
の鞄に入ってしまい、
蟇口だけは肌身離さず持って居るが、中には僅か二三十銭しかない。
荷物は流石に胡麻の蝿も残したが、木綿着物が一枚に、古本が一二冊、これが何になるも
のぞ。
汽船宿の二階の欄干にもたれて、今汽笛を鳴らし煤烟を残して別府の湾を出で行く汽船
を目送った僕の胸の中、推量してももらいたい。
(三)
故国を出で僅かに三日、自分の失策にもせよこの災難に遭うのは、或は母に告げず、伯
父に計らず、学校の諸友をも欺いて出奔したその罰ではあるまいか、と思えばますます心
細く、落胆から落胆に墜ちて、学校を飛び出した勇気はどこへやら、身は全くの小供に返
えって、真に泣き出したくなった。しかしながら目下の場合、中々泣いて居る所の話では
ない。時は移る、費は嵩む、何れにか早く策を定めねばならぬ。
帰ろうか。断じて否。男児の面目が立たぬ。母に宛てて電報か郵便でも出して、事情を
打明け、旅費を請求しようか。否、否,今更そんな女々しい事が出来ようか。災難も自分
でこさえたれば、災難を脱け出る道も自分で探り出さねばならぬ。向う見ずに進まうか。
仮令裸になった所で、大阪所か半途までも行けない。と云って、この別府に百年逗留した
所で何の妙策が出る訳もない。どこに行こう、どこに向はう。比較的に一番近い目的は駒
井先生である。先生の住所番地はちゃんと書きとめてある。土州の須崎と云って、何でも
高知から西南に当って、舟つきの場所そうな。行こう、行こう、仮令土を食い水を飲んで
も駒井先生を尋ねて行こう。
宿の亭主を呼ぷと、禿頭を掻き掻き気の毒そうに入って来た。
「どうも飛んだ事で誠に御気の毒な──未だ一向手がかりがつきませんが」
僕はそんなことであろうと期していた。で、出奔の一条をぬいて、事情を打ち明け、土
州(高知県)の須崎に行く=素より可成的廉価に=便りを開くと、亭主はじつと考えて居
たが、
「土州──の便船と申しては一寸ございませんが、預州(愛媛県)の宇和島へ今夜戻る
船がある様なことを申して居ましたが、何なら宇和島へ御渡りなさって、宇和島から便船
を御求めになった方が宜しからうかと存じますが──」
僕はその字和島行の舟で宜いから、舟子の手伝でも何でもするから極々廉価に行かれる
ように周旋して呉れと頼み、このみは手放さず着京の日の晴着と思って居た母が縫った新
しい木綿の綿入と帽子風呂敷に古兵児帯まで揃えてそつくり渡し、これで出来る丈金を揃
え、その内から宿料もとって呉れと頼むと、禿爺はいよいよ気の毒そうに、幾回も叩頭し
て、件々(しなじな)を取って座を立った。
やや久しくたって、亭主はまた頭かきかき入って来た。
「お待遠様、ちょうど舟もこれから出ます所で──それからお依頼の彼でございますが、
彼様云うものは如何も、節季(季節の終りの意味)ではございますし、」
と金一円三十銭とそれから帽子風呂敷をもどし、
「唯今御膳を差上げます、直ぐ御支度──」
と立たうとするので、僕は遽てて 「宿賃は?」
亭主はちらと僕の顔を見たが「最早その中から戴いてございます」
74
と云い棄ててずるずる滑り出た。見えすいた嘘つき爺め、それ所か綿入の代もきっと幾
許か自腹をきって居るくせに。人の情が嬉しいのか、情を受けるが口惜しいのか、夕餉の
膳に向っても一碗をすら嚥下し得なかった。立がけに僕は隙を覗い、十銭銀貨三枚をそっ
と皿の下に入れて逃げるように宿を出で、宇和島行きの船に乗った。
船は八九反のこれで豊予海峡の波を載るのかと思うと心細い位のもの、舟子と云っては
船頭夫婦に乳飲み子一人。何かの乾し魚を積んで居るらしく、乗り移ると芬(ぷん)と塩
臭い臭いがした。ちょうど風が出たと云って、船頭夫婦は罵る、わめく、錨を揚げる、帆
を張る。やがて舟脚しゅつしゅつと波を切って、燈あかき別府の湊を後に、舟は次第に湾
を出た。僕も乾物の俵の蔭から出て、胴の間でややしばし船頭と問答して居たが、やがて
船頭の妻がかけて呉れたどんざを引披いで、羽織のまま横になった。しかし眼が冴えて少
しも眠れない。最早日はとくに暮れて、一天の星きらきらと光霜を含み、帆を掠むる夜風
颯々として、舟底をうつ寒潮の音腸も凍るばかり、梶握った船頭が、
「船頭可哀や、音戸の瀬戸で、ヨウ、一丈五尺の櫓がしいわるヨウ」
歌う声もさながら泣くように海面に震える。
(四)
眠らぬ、眠らぬと思っても、何時か眠ったのであろう。眼をあいて見ると朝日きらきら
と波に砕けて、左手の方には一帯の山が、茜色の龍の如く波路の末に横わっている。
「彼はどこだね?」
と聞くと、煙管咥えた船頭は、
「佐田」と答えた。
「別府から最早よほど来たかね?」
「まあ半途だね」
「宇和島には何時頃に着くだろう?」
「何時かん時は云いなさんな」
成る程舟の上では前程の事は問わぬのであった。しかしこの分なれば、今日の午後には
遅くも宇和島に着くだろう。と思えばやや頼もしく、幸いに船酔いもあまりしないので、
舷につかまって潮水に嗽ぎ(僕は三年前、松村の故郷に行った時、舟の上の失策を思い出
でた)乳呑子負って船頭の嬶が焚いた甘藷飯の熱きを鵜呑忙して、大分元気づいて来た。
昨夜の寒に引易えて、今日は冬ながらぽかりぽかりと日ざし和らかに、船頭の鼻歌も長閑
に聞える。
船頭の嬶は流石に女だけ僕が独り旅の容子を不審にも気の毒にも思った様子で、
僕の郷里はどこか、両親はあるか、年齢は幾何になる、何の為めに誰を頼ってどこに行く
か、心細くは思わぬか、など云う事を根ほり葉ほり問うて呉れた。のみならず、別府で貰
ったと云って、餅を焼いてくれた。僕は心から嬉しく、不図淮陰漂母の譚を思い出して、
この後若し志を得る時あらば、この一片の餅を百倍して報いようなどと妄想した。しかし
目下は何もその情に酬ふるものがないので、僕はせめて些少なと手助けにと、彼女が飯を
焚きどんざを繕う間、子守になってその乳呑子をあやしていた。
午頃になると、風が急に凪いでしまった。船頭はしきりに東の方を望んで居たが、何か
口早にその妻に云って、手早く帆を取下ろし、艫を押し出した。彼が妻なる者も、子を僕
75
に托して置いて、脇艫を立てた。一時間ばかりすると、舟は唯有る島の湾に入った。これ
は沖の島と云う小島だ。船頭は忙しげに碇を下ろし、纜(ともづな)を繋いだ。
「如何するのかね?」
「客人、荒《しけ》て来た」
云い云い船頭は舟の篷《とま》を掩う。実に分からぬものは海の上、今朝は玉の如くに
晴れて居たが、何時の間にか東の空暗くなり、やがて風颯々と逆まに吹き来り、舟は二挺
の碇に、四本の纜に繋がれながら次第に揺れ出した。幸いに舟は島の構内深く隠れて居た
ので、直接に逆風の攻撃は受けなかったが、波の来る毎に揺り上げ、揺り下げ、さながら
ブランコにのって居る様。馴れた者で船頭夫妻はこの中に飯櫃ひき出し、悠々と食事をし
て居るが、僕は素より一粒も咽に入らず、雨の音、風の音、船舷船底をうつ波の音を聞き
ながら、乾魚塵魚の臭の蒸されて堪え難い篷底に海鼠の如くなつで横わっていた。
斯風雨の最中に、一層僕の煩悩を加えたのは、船頭夫妻の喧嘩であった。何の喧嘩か、
風波の音の騒がしい上に、
彼等の言葉が本来分からぬので、僕は五里霧中に迷って居たが、
何でも船頭の妻は頻りにそふかそふかと云う事を言っていた。そのそふかと云うはどんな
鱶か知らぬが、喧嘩は次第に風波と共に騒がしくなって、口論の果ては撲り合の活劇、今
は僕も見兼ねて、船酔いと舟の動揺に立つことは出来ず、匍匐ながら二人が中に割って入
り、ようよう押鎮めた。
舟中の風波は鎮まったが、
外の風波は中々おさまらぬ。
僕は彼やこれやに精根を疲らし、
天明がた近くなって風波の少し静まるとそのままぐっすり寝こんで前後も知らず、誰かし
きりに揺さぶるので、やっと眼をあいて見ると、何時の間にか夜は明け、日は闌け、舟は
宇和島の港に着いていた。
(五)
船賃と飯料を払って剰す所は僅か七十銭未満の端金を袖にし、足はよろよろ、頭はふら
ふらして、僕は宇和島の埠頭に立っていた。
時は極月の二十八日、ここらも新暦を用いると見えて、師走の舟つき殊に忙しく、俵物
を揚げる舟、魚類を下ろす車、耳馴れぬ罵り声わめき声は身をめぐってやかましいが、僕
には何の縁もゆかりもなく、この賑合の真中に立ちながら身は絶海の孤島に流れついたロ
ビンソン、クルソオの如く感じたのであった。あまり足がよろめくので、そこにあった縄
圏《なわつぐり》に腰掛けて居ると、突然青白い手腕が僕を押しのけて、
「そこどけ、ちぼめ」
と皺枯れ声が罵ったので、愕然として見ると痩せぎすの男があざ笑って立って居た、僕
はそこそこに立ち上って、よろめく足を踏みしめ踏みしめ町の方へ行った。少し行くと汚
い飲食店がある。僕は昨日の昼以来絶食して居たので、
(飯料は舟で出したが、飯は食わな
かった)少し腹でも持えて、この上の分別を定めようと、そっと入って、金比羅様の棚の
下に座を占め、眼をねぶってみみずの様な饂飩一碗を啜った。さてこれから如何しようか
舟で行ったら足は楽でよかろうがこの上彼様な風波にでも会ったら、それこそ命がたまら
ない。何でも陸行に限る、苦しくも陸行ときめようと、あるじの嫗に道筋を聞い居ると、
向うの方に何か臭い魚の煮つけで濁酒を引かけて居た老爺が不図耳を立てて、
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「土州の須崎に行くかね、おまへさんは?」
然りと答えて道を問うと、爺は須崎へ行くには、陸路は本街道と近道とあるが、本街道
はやや楽なかわりに倍も遠く、山越えすれば近いかわりに大分山がひどく、殊に最早雪が
あるかもしれぬと云う事を教えた。僕は路費の都合もあるし、苦しくても近道をとって行
こうと決心し、饂飩の代を問うて袂を探すと、さて大変、蟇口がない。両袖をふるい、帯
をといて見たが、更に見えぬ。不思議、不思議、先刻舟賃を払って、たしかに左の袖に入
れて置いたに、如何したのであろう。素より彼蟇口の中には七十銭足らずの銀貨銅貨が入
って居たばかりだが、しかしその七十銭は僕の全身代である。僕は茫然としてしまった。
泣き面に蜂とはこの事であろう。驚き顔の嫗と老爺をあとにして、若しや落ちては居ない
か、拾った人はあるまいかと探して見、尋ねて見ても、一向に見当らぬ。
「ちぼにやられたのぢゃないか」と一人が要ったので、
「ちぼ」の意味を問うて、「掏摸」
と云う事を知ると同時に先刻蒼白い男が僕に
「ちぼめ」と云って、突当った事を思い出し、それでは彼男が「ちぼ」で、夫子《ふう
し》自道《みずからい》ったのであったか-と足ずりしても詮方がない。一回のみか、二
回までの失策に、吾れながら面目なく、悄然としてまた先の饂飩屋に還って来た。嫗はし
きりに気の毒がり、老爺は巡査に訴えるようにと勧めた。しかしながら件の蟇口が今日中
に果して無事に僕の手に戻るとすれば可、左様で無ければ一日の滞留は一日の費用──負
債を醸すのである。失望は僕に勇気を与えた。最早こんなっては詮方なし、乞食しても前
進する外はない。
ここまでも持って来た古風呂敷を饂飩一盃の代に投げやって、僕は逃げるように駈け出
した。唯有る古着屋の前に来ると、僕は一寸立とまって考えたが、突然着ていた綿入羽織
(無論木綿の)を脱ぎ、冠っていた帽子をとり、因業な亭主を口説いて二十銭に取かえ、
それから書林の前へ来ると、雑書一二冊(マコオレー文集の端本は已にその中に挿んだ五
円なにがしと共に胡麻の蝿に奪られたのである)を出して泣くようにして八銭にかえても
らった。これで荷物もなければ帽子も無し、羽織も無し、それで懐中僅かに二十八銭。嫌
でも応でもこの二十八銭で土州須崎の駒井先生の処まで行かねばならぬ。
宇和島の町はづれで、店の時計を見ると、午後の二時過ぎだ。このから先刻の饂飩屋で
聞いた吉野と云う所までは大分道程もあり、殊に山路にかかると云うが、是非とも今日の
中に、若くは日が暮れてもそこまでは行って居なければならぬ。
不図空を仰いで見ると、鼠色の綿雲満天に渦まき、日は雲の中にぼんやりとして、如何
にも雪になりそうであったが、果たして町を出はなれるとちらちら降り出した。
(六)
「雪降れば野路も山路も埋れて遠近知らぬ旅の空かな」と古歌のあはれは今僕の身の上
になって来た。宇和島の町を出離れる頃ちらちら降り出した雪は、行く程に行く程にます
ます紛々霏々《ふんぷんひひ》と降りしきり、払えども払えども袖にたまり、頭に積り、
襟に入り、眼鼻に入りて堪えられぬ始末。こんな事なら、せめて彼古帽子だけでも売らず
に置くのだった、と悔んでも今は詮ない噺、と云って、蓑笠買う余銭もなし、ああ何かな
いかな」と道の左右に眼をくばりながら歩んで居ると、不図路傍の苅田に案山子が残って
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あるのを見つけた。近寄って見ると、着物はぼろぼろの加之《しかも》雪に濡れ浸って役
には立たぬが、竹の子笠は古びて穴が明き締緒もちぎれてないとは云っても、なお雪を凌
ぐいささかの便りにはなりそうだ。時にとっての青羅傘と取りはずして、そこらに落ち散
った藁屑を早速の紐に、打冠った。その上簑があらば結構なれど、眼に入るものは唯田の
畔に立つ藁束ばかり。これでもないよりは優《まし》だ。雪をふるって、肩に引かつぎ、
またてくてく歩るき出した。
雪はますます降りしきる。
未だ宇和島から二里とは来ぬと思うに、雪の日の黄昏れ易く、
足下に一條ほの白き道を残して四辺は薄暗くなって来た。鼠色の空は低く頭の上まで覆い
かかって、そこから数限りもない大雪小雪はらはらちらちら降りに降るばかり。連日の旅
づかれ、心痛、その上を一昼夜も船の上の風波に揉まれて、綿のようになった体、未だ船
酔いも醒めぬに雪道を歩いたこととて、疲労はおびただしく、殊に昨日以来絶食して、食
物と云っては今日の昼頃宇和島で唯饂飩一杯食ったばかり、爪先の冷さ腹にこたえて、腹
はしきりに痛む。これでは到底堪えられぬ。人家はないか、厩牛小屋にでも寝さして貰お
う、麦飯芋粥の剰余でも啜らして貰おう、懐中の二十八銭は吾全身代であるが、その半分
をつかっても構はぬ、と斯ふ思い思いまた二三丁行くと、降る雪の間を小さな火光がちら
ちら漏れれて来た。近づいて見ると、小さな茅舎の、戸は締めて、唯一枚「酒肴いろいろ」
と書いた障子戸に火光がさして居るのである。中ではしきりに女の罵る声が聞えた。僕は
寒さに萎えた手を息で暖めて暫時戸外に佇立んで居たが、やがて
「御免」
障子明くると、眉を剃った色黒の邪険な女の顔がこっちを見かえった。叱られて居たの
であろう、十ばかりの女の児も泣き止んで、涙の眼を見張ってこっちを見た。年増の女は
ぢろぢろ僕を見て居たが、
「出ないよ」
出ない! 人を乞食と思うか──とむつとしたが、不図自分の容子を見れば、破れ笠に藁
束を被て、実にも乞食でないとは云えぬ容体。
「乃公は乞食じやない。銭はあるが、今夜一晩泊めて──」
「宿屋ぢゃないよ。何だてそこら雪だらけにするだな。出て行こう!」
慳貪(けんどん、情け心なく)に女は罵った。
「そんなら何か食物を売って呉れないか、銭はあるが──」と僕は哀求した。
「食物なんかありやせんてぢゃないか。そこしめて出て行こう。出て行こうたら出て行
こう。こらそこしめるてば──」
突と走せ寄る剣幕の鋭さに、僕は半分障子の外に出ながら、
「これから何里あるかね、吉野までは」
「知らんよ」
「このあたりに泊めて呉る家はないかね、銭は-」
「五月蝿い乞食だな」
びつしやり戸をしめてしまった。僕は熟とそのしまった戸を眺めて居たが、是非なくま
た歩るき出した。道はこれから坂になる。彼女の怒鳴声、女児の泣き声も暫く聞えて居た
が、やがてそれも雪に隔てられて聞えずなって了う。踏み滑らして脆いたを機会に、僕は
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二口三口雪を噛んで喉を浸し、こんな時には詩でも吟じて行うと脾橈《ひだる》い腹を絞
って王郎酒酣云々(おうろうさけ たけなわにして
しかじか)と吟じ出したが、声は何
時しか鳴咽《しゃく》って、意気地ない涙がほろほろこぼれて来た。僕は黙って震う唇を
噛みしめ噛みしめ、よろよろとまた一二丁登る。
日は到頭暮れた。
(七)
日は暮れる。眼には見えぬが、雪は霏霏《ひひ》と降りしきって、笠を掛けても面を撲
つ飛屑紛々、衣は濡れ透り、爪先は凍え切って感覚を失う。行く程に、苦し、ひもじい、
寒いの境涯は何時か通りぬけて、一種快い、萎えた、睡い、夢の様な感が身を包んで来た。
故国を飛び出して来たのも夢、別府の出来事も夢、海を渡ってこの四国に来たのも夢、宇
和島の出来事も夢であれば、今この雪の夜道を独り辿って行くのも夢の様な心地。不図何
かに躓いて倒れた。起き上らねばならぬならぬと思ったが、また不図これは宇和島の山道
では無く、その山道に躓いて倒れたのが夢で、実際は故国の伯父の家で、否故郷の墓所で、
母の前に跪いて詫びて居るのだと思って、
「おっかさん」
とまでは言ったが、あとは茫となって、唯ほの白い無辺際の野原をどこまでもどこまで
も辿る心地。
*
*
*
*
*
その野原をどこまでもどこまでも辿って居ると、
千万里の彼方から蚊の泣く様な声で
「お
おい、おおい」と追かけて来る者がある。折角斯様して歩いて居るものを、誰が呼戻すの
であろうと、顧みもせず行くうちに、忽然螢の様な火光《あかり》が見えて来た。何の火
光だろうと思って怪しんで居ると、こっちが行くのか、向うが来るのか、火光は段々大き
くなって、
「おおい、おおい」
と云う声も次第に近くなって来た。
「最早大丈夫じや」
耳近く人の言う声に、ぽつかり眼を開いて見ると、不思議──野原は消えて、山道も消
えて、身は見た様な家の中に横わっている。前には炉の火がどんどん燃えて、その側《は
た》には身の丈程の木太刀をついて、巡査の様な外套を着た四十あまりの髯だらけの男が
腰かけている。こっちにはチヨン髷の赤ら顔の百姓らしい男が座っている。僕は起き上ろ
うとして、またくらくらと倒れた。彼の髯男が何か言うと、チョン髷の男はやがて温かい
どろどろした辛いものを咽せるに構わず僕の口に注ぎ込んで呉れた。
これは濁酒であった。
「本当におまえさん、旦那によく礼を云いなさい、旦那がここまでおまえさんを負って来
なさったのだよ」
背後に聞き覚えある女の声がしたので、見かえる眼さきにあらわれたのは、先刻僕をす
げなく追払った彼の邪樫な女だ。さてはここは先刻の小屋で、僕が雪に凍えて山道に倒れ
て居たのを、この髯男が通りかかってこの麓の茶屋まで連れて来て呉れたのか。道理で見
た様な家と思った。先刻叱られて泣いて居た児は寝でもしたのか。チヨン髷の男はその時
見なかったが、亭主ででもあろう。
79
「本当に旦那、功徳をなさったよ」
チヨン髷の男も口を挿んだ。髯男はしきりに口髭を引張りながら、
「おまえ達は乃公を鬼々云うが、鬼にも人情はあるぞ。乃公は取る筈のものを取る丈じ
や」
P68
テキスト
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P69
炉火の温気と、今飲んだ濁酒の温まりで、棒のように縮んで居た手足が少しのびて、咽
に冰《こお》りついた舌が少し弛んで、僕はやっと起座して礼を述べ、且つ髯男の問に応
じて、郷貫身分姓名、それから今夜ここを通りかかった由来の大略を告げた。髯男はじつ
と聞いて居たが、
「それぢゃとにかく乃公が家まで来なさい。待てよ、未だ歩けまい、治左公、貴様負って
呉れんか」
治左公と呼ばれた男性、チョン髷頭を掻いて、女房の顔を見ると、女房が何か眼の相図
をしたので、是非なく承知の旨を答えて、僕を背負い(衣類はあらかた乾いて居た)その
上から蓑を着、
「旦那」は素より草鞋ばき、片手に木太刀、片手にガン燈提灯をさげて、未
だ降りしきる雪を冒して出かけた。何だか夢に夢見る心地であった。半道ばかり宇和島の
方へ後戻りして、往還から横にきれ込み、二三丁行くと山蔭に一軒家があって、その門近
くなるや否凄まじいわんわんが起って、三四匹の犬が勢猛に飛んで来たが、
「馬鹿め、乃公じや」
と云った主人の声に、忽ち歓迎の声をあげて、主人の身辺を狂い廻っている。良《やや》
しばらくたって、提灯提げて老婆が出て来た。
「旦那様?」
「婆、今戻った」主人は家に入ると、木太刀を戸の隅に寄せかけ、外套の雪をふるって、
土間の竿にかけ、草鞋の雪をはたいて、隅に直し、さて丁寧に足を洗って上りながら、
「治左公、御苦労。──婆、乃公の古袷があろう」
「ヘーエ」と婆は一眼に今治左の背から上框《あがりがまち》におろされた僕を眺めて
怪訝な貌。
「この人に着替えさして、直ぐ寝せろ、彼二畳に──毛布でも着せての、──緑《あお》
い方のだぞ」
僕は礼を述ぶる間もなく、垢じみた袷に着更えさせられて、真闇な部屋に寝かされた。
襖一重の向うでは、主人が声として、
「治左公、彼一件は明後日までになんとかして貰いたいな。最早乃公の方じや待たれん
ぞ」
治左は何かくどくど云って、やがて帰って行った容子。主人はそれから深酒でも飲む気
はいであったが、僕はひどい疲労とさし当っての安心に、体は古毛布の下にのび、心は見
知らぬ人の情に弛んで、そのままぐっすり寝てしまったから、その後の事は知らぬ。
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(八)
疲労と寒あたりで、翌朝になっても、どうしても枕が上がらぬ。一日又一日、やっと起
き上ったのは、明治十七年の正月元日で、年頭の祝儀と救護の謝礼と同時に述べる始末。
僕が寝て居たその間、主人は非常の多忙で、人が来る、十六盤《そろばん》を弾く、出る、
殆んど寸暇も無く、僕あるを忘れたかの様であったが、老婆は隙々《ひまひま》に粥など
持って来ては、親切に問い慰めて呉れた。年寄でも流石女の饒舌なもので、問わず語りに
色々の事を教えて呉れた。
僕を救って呉れた当家の主人は、西内平三郎と云って、当年四十二歳。もと宇和島藩の
あまり重からぬ氏族の家の三男で、若い時から随分貧苦を嘗めた人そうな。維新後は陸軍
に入って大尉まで立身したが、罷められたのか、辞したのか、とにかく陸軍を去って、こ
の宇和島在に引込んだのが、恰鹿児島戦争の翌年であった。それから或知辺の百姓家の一
室を借りて、金貸を始めた。それが運よく繁昌して、四年ばかりの間に、一寸一身代を作
り出し、二年程前に抵当流れの地所に新築して引移ったのがこの家。どこの里でも、成功
に嫉妬は形の影で離れぬもの、殊に金貸商売と来て居るので、この近在ではあまり好感情
を懐いては居ず、必ずしも高利を貪る訳ではないが、恐ろしいきちょうめんな男で、自分
でも契約をきちんと守るかわりに、人が契約を履行せぬと、如何なる事情があっても容赦
せず、取るものは土を搾っても取ると云う風だから、年が年中、督
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促、裁判、差押のやり通しで、随分怨を受けて居ることも少なからず。或時夜中催促に行
つた帰途を、待伏せして大の男が二三人言うってかかったが、こっちは武芸の達者。金火
箸ほどのステッキで右往左往にうち散らし、自分はかすり傷も負わなかった。それからは
絶えて闇うちの話もないが、主人はひどく用心して、夜中出あるく時は必ず枇杷の大木刀
をついて出るのであった。右の通りで、近在では鬼のように言い噺《はや》す者もあるが、
実際はそんな恐ろしい人では無く、癖さえ飲み込んで居れば、つきあい易く、今の老婆な
ども現に長らく勤めている。しかし物を疎末《そまつ》にするのが虫より嫌いで、ながし
もとの米一粒、処に落ちた紙の一片でも、顔をしかむることおびただしく、鬼の旦那一名
を吝嗇爺と村人は云うそうな。老婆の如きは、よくこの所を呑み込んで、主人の物を大事
と鰹節の一片も無駄にせぬので、大に主人の信用を博して、留守も安心して托されると云
う位。鰹節と云えば、先年二度目の細君──一度日の細君は如何なったか、老婆も知らぬ
──を離縁したのも、鰹節のかき様が大ざつぱであったので、こんな女は行く行く家を亡
ぼす、と云う処から三行半となった訳そうな。何時も「小事が大事、小事が大事」が口癖
で、閑暇な時寝酒のあがりにはその昔貧乏士族の三男に生れてさまざまの難難辛苦をした
事から、陸軍に出ても他の士官は豪遊濫費半文の銭も残さぬ所か、負債をこしらえるに引
易え、自分は身の皮剥ぐようにして金を剰し、他の連中は職を罷めては途方に暮れる者も
あるに、自分はその金を土台として今はこの近在に「旦那々々」と立てらる人身になった
ことを自慢するのが常である。
81
以上は僕が寝て居る間に老婆から聞いた大略で、未だ十分面会もせぬ内に、主人の身分
性癖の次第は粗《ほぼ》腹に落ちたのであった。
元日には努めて起き、初めてゆるりと主人に面会して、救護の恩を謝した。主人も今日
は何時に無く長閑に屠蘇を古土盃に酌みながら、細かに僕の身分、この四国に渡って来た
仔細、目的を質し、算筆が出来るや否を問い、それでは当分ここに居て、少し事務の手助
けをして呉れ、給料はやれぬが、衣食の費は引受ける、と云う意味を諭した。僕はつくづ
く思案した。金は無し、身体は弱って居るし、今日ここを飛び出した所で、また難儀をす
るばかり、加之《それに》とにかく救護の恩もあるし、今暫時この家にとどまって、なお
駒井先生にも手紙で相談し、その上の分別にしよう。東京遊学に出かけた者が、四国にき
れ込んで、金貸しの小僧になるも、実に意外心外な話だが、途中に行倒れるよりもなお優
《まだまし》かも知れぬ。
斯様思案を定めたので、
「それぢゃ当分御厄介になります」
と答えて、僕はその日から「鬼の旦那」の帳つけになった。
ああさきには伯父の秘書官になり、今はまた金貸の秘書官になる。秘書官、秘書官、僕
は到底秘書官であろうか。
(九)
人の身の上程分からぬものはない。十日前の九州育英学舎の書生、十日後は忽ち四国の
片隅の金貸の小僧になると云うは、小説にしても随分唐突な話だが、僕は今その運命に会
ったのである。
僕の職掌は実に雑多なものであった。朝起きる。雨戸を開ける。水を汲む。庭を掃く。
箒の柄が氷柱の如く冷たくて、手拭を巻いて掃いたこともあった。飯は三度ながら粥だ。
朝飯が済むと、小さな机にかかって、帳面をつける、主人を相手に十六盤を弾く、質を置
きに来る者があれば質札を書く、小使になって役場に行くこともあれば、主人のお伴で督
促にも出かける。
彼の晩僕を負ぶった治左が家にも二三度行った。
治左が家は未だ宜いが、
他の見知らぬ家に行って、
「この鬼は誰だ? 鬼の旦那の二代目じやないか」と云い貌にぢ
ろぢろ睨まれる時のきまり悪さ。見え透いた貧乏な家に、主人の伴して行って、例の急が
ず騒がずゆるめず縦《はな》たずじわりじわり主人が督促する声に、癒せこけた男女の額
から汗眼からは涙のほろほろこ
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テキスト
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ぼれるを見る時のつらさ。ああ僕は行く行く如何に落ちぶれても、吾れと金貸し商売は決
してすまいと誓った。または村の者共が、加之《しかも》立派な利子つき抵当つきの金を
借りに来ながら、平身低頭、玄関に座った僕にすら世辞笑いして頭の三つ四つも続けざま
に下ぐるを見ては、気の毒とも何とも云わん方なく、片腕落して齧るとも負債と云うもの
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するでない、とそうしみじみ思ったのである。
主人西内は何でも子供の時から貧困に育って、
貧の為には実におびただしい苦痛を受け、
恥辱を忍び、人間の最大不幸は貧である、まさかの時には親も恃むに足らず、兄弟も頼み
にならず、神仏素より頼む可からず、頼む可きものは唯一の金である、と云うことをしみ
じみ思い込んだのである。故にその生涯の目的は、どうして金を取ろうか、どうしてその
取った金を守ろうか、と云うの二点に注がれてあった。金を取るの心づかいは素より云う
迄もない。金を守るの苦労も、大したものであった。西内氏が恐いもの二つ、火事と盗賊
だ。だから西内家では、冬の最中と雖《いえ》ども炬燵を許さず、灯火は夜の十時限り主
人自から消してあるき、一切石油をよして行灯を用い、炭ははしらぬように必ず一昼夜水
に浸して乾かしたのを用ひ、老婆の如きはよほど信用を得て居るにかかわらず、時々は主
人自ら台所に出張して消壷に水を注ぎ、揚げ板をあげて今飛んだ火の粉の行衛を詮議する
始末。若し夫れ防盗の手段に到っては、西内氏の頭脳は恐らくこれが為に強半を耗したで
あろう。その家を訪う者は、門の岩畳《がんじょう》にして、家を繞る枳殻《からたち》
の生け垣の隙間もなく尖鍼《はり》を立てて寄れや刺んと身構えて居る勢を見て先づ一驚
を喫するであろう。
しかしその門に入るより早くどこから来るのか聞いてて警心見て骸魄、
恐ろしい猛犬が二疋も三疋も鬨の声を揚げて駈け来るに会うては、如何に豪胆なる盗賊も
敗走するに相違ない。外廓の守已に右の如く堅固なるに、かてて加えて、戸、雨戸、窓は
悉くその裏を錻力《ぶりき》で張りつめ、戸は掛金の上に心張りし、雨戸は一々さるを落
してなおその上を閂で押へ、且所々に触るれば響く金盟の類をかけて、障子の外には盗賊
入らば躓くように箱、足つぎの類を伏せ、障子にも心張りを施してある。而して主人の枕
元には蝋燭マッチ、枕刀は往々にして不覚をとると云うので二尺五寸の長刀を夜具の中に
入れ、すぐ手近の所には弾丸をこめた六連発の短銃が置いてある。夕の戸締は必ず主人自
から手を下して、加之《しかのみならず》寝がけに一度内外を見廻わらねば、夢が結ばれ
ぬそうな。老婆すらも主人の注意で出刃包丁を枕もとに置いて寝る、僕の如きも命によっ
て一尺二三寸の脇差を賜はって蒲団の下に入れて寝た。一夜に少なくも一度は「菊池、菊
池」と喚び起されて、主人のお件で戸締を見繕うのが常であった。風雨の夜は、戸のがた
びしに「菊池、菊池」のかけ合で、僕は殆んど目睦む隙もない。実に夜毎の籠城とはこの
事であろう。要するに「人は盗賊、明日は雨」とは、まさしく西内氏の処世観を道破した
もので、老婆は未だしも、僕の如き旅烏がいきなりその家に入り込んで、金の在所こそ知
らね、その秘書官となったのは、実に破格の優遇であって、所謂知己の感ありと云わなけ
ればならぬ。
僕はしばしばそう思った、あえて救われた礼に贔屓するではないが、この家の主人の如
き、悪い人でもないに、村の者から鬼と蔭口云われる程、一克《いっこく》に金貸商売を
して、金を溜めて、夜の目も合わぬ程火事盗賊の要慎《ようじん》に気根《きこん》を腐
らして、さてその金をもって如何すると云うでもなく、その金を伝える子孫もなく──僕
の知る限では──畢竟何の益になるであろうかと。しかしこれは未だ幼い僕の考で、主人
が寝酒の一壜に陶然として、吾建てた岩畳な家の天井を視廻わす時、若くは大人国の歌か
るたとでも云うように部屋も狭しと地券証を広げ並べて、その真中に頬杖ついて見廻す時、
その相は「鬼」の様では無くさながらの恵比須様であったのを見ると、金と云うものには、
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どうして手に入れたとか、何になるとか、そんな馬鹿面倒な話はヌキにして、何時見ても
云うに云われぬ人を莞爾とさす魔力があるものと見える。
(十)
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主人も老婆もとりどり僕によくして呉れた。尤も老婆は僕の鰯のぬたを一度誉めて以来、
三日にあげず生臭いぬたをこさえては、旦那ようには内所で僕を妻所の隅に呼んで振舞っ
て、僕をして暗に苦しい涙を攪《と》らせたし、主人はまた僕が正直で勤勉で年に似合わ
ぬ確かな者と誉める横合から、それその字の書き様が大き過ぎるの、やれ紙屑を拾って置
けの、箒を軽く持って掃かねば庭の土が減ってしまうの、としばしば御小言を賜はるのは
事実であったが、しかし「鬼の旦那」は決して「鬼」では無かったのである。村人は何と
思ったか知らぬが、僕はとにかく西内家の天井の下に、餓えず、凍えず、下男兼秘書官と
して相当の待遇を受けたのである。
然らば僕は今の境涯に安んじて居たか。問うも管《くだ》、不肖ながら僕も菊池慎太郎で
はないか。西山先生の門人ではないか。駒井先生の弟子ではないか。身の独立を売らんよ
り寧ろ学僕となっても自力をもって自家の運命を造らんと唯った一人の母にも告げず故国
を飛び出して来た僕ではないか。いやしくも自由主義を解し、古の大人君子の伝記をも与
かり聞き、ひそかに世の為め人の為めにもなろうと云う志を懐いて居る僕ではないか。西
内家の恩は忘れぬ、またその人を村人の云うように「鬼」とも思わぬ、唯昔し余りの貧苦
に身神を絞られて心の乾からびた人と気の毒に思うのみである。しかしながらどこを見て
も金、金、金、何を聞いてもまた金、金、金の外は無く、小な繭の中に蛹のむずむずうご
めくように、小な吾家に楯籠ってむずむず金溜め器械となって了る可き運命の人と朝夕共
に棲んで、その顋使する所となるのは、実に気もめいる話ではあるまいか。僕の脈管には、
まだ紅の熱血が漲っている。僕の眼前には未だ遠くて近く近くて遠い理想の光が煌煌と照
り渡っている。僕はそつと駒井先生に宛てて一通の郵信を出した。それには細かに事の顛
末を打明けて、先生の教を求めたのであった。先生が若し来いと云ったら、また飛び出し
ても行く心算であった。云わなくても、恐らく行く心算であったのだ。しかし不幸なる哉、
その手紙は附箋せられて帰って来た。宛名の者は先頃どこかへ行ってしまって、受取者が
ないとの事である。僕は非常に落胆した。
駒井先生は最早駄目だ。先生の父君は物故せられて、先生は東京へでも行かれたのであ
ろう。先生已に駄目とすれば、僕の執る可き道は何れにあるであろう。故国の母や伯父伯
母に事情を報じて、上京の途をつけようか。僕は已に数回も筆をとりかけた。しかしなが
ら翻って思うに、僕は未だ自分ながら子供のように思って居るが、柄こそ小けれ、数え年
にすれば当年とって十七歳、伯父の言を刎ねのけ、母にも告げず、学校の諸友をも驚かし
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て、一旦飛び出した者が、今更阿容阿容《おめおめ》と路資がきれた、助けて下さいと云
われた義理であろうか。伯父に助を求めるのは、限りなく己を屈するのである。母に今の
事情を打明けるは、徒に母の心を痛ましめるだけである。先辛抱、辛抱、辛抱する内には
如何にか道がつかぬこともあるまいと、当もない事を頼みにして、僕は依然西内家の小僧
をつとめた。しかしながらまさかそれと打ち明けて言ってやられる次第ではないので、僕
は幾回かとりかけた筆をまた擲って、つい一回も家郷に便りをしなかったのであった。
(十一)
月日のたつは早いもの、故国を飛び出したのは、まだ昨日のように思われるが、最早何
時か百日あまりも過ぎて、桃や菜の花の時節となった。
生温き風が伝える「南無大師遍照金剛:::」の声、昨日も今日もぞろぞろと四国遍路
の門前を通るを見るにつけても、吾も旅の身、図らぬ事でここに三月あまりも淹留《えん
りゅう》の身となったが、吾指す所は東京、その東京に何時行かれるかと思うと、実に情
け無く、こっちから便りをせねば、母も今頃は慎太郎は東京に着いて、最早どこぞの学校
に入ったことと思い入って居るであろう、まさかこんな処に来てこんな身の上になって居
ようとは思いもかけぬであろう、と帳面
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つけかけて茫然となることもあった。
或日僕は主人の要を帯びて宇和島警察署に行くと、六尺ゆたかの赤髯蓬々《ぼうぼう》
たる、しかし人相のいい西洋人が警部巡査を相手に何かしきりに──無論英語で──言っ
ている。警部は一葉の名刺を手にしたるまま呆然としている。巡査も皆茫然、唖然として、
しきりに動く洋人の口もとを眺めている。蓋し一方は日本語が通ぜず、一方は英語が通ぜ
ず、分からぬ同士の問答に果しなく、双方困り切って居るのだ。
洋人は絶望と云う態で、
頭を掉ってにやにや笑う。
警部は髯を撚りながら左右を顧みて、
「困ったなあ」と云って、また
「誰か通弁が出来る者はおらんかな」と頭を掻いた。
「彼先頃開業した医者は如何ですか」と巡査の一人が口を出す。惟うに宇和島唯一の外国
語に通ずる人であろう。
「彼は昨日大阪に行った様です」とまた一人が云う。頼みの網は切れてしまった。
「困ったなあ。
これから一人通弁の出釆る者を置いて貰うように上申しなけりあならぬ」
と警部はまた頭を掻いた。
僕はうつかりこの一幕の見物に吾要も忘れて居たが、あまり気の毒で堪らず、吾を忘れ
て洋人の傍へ寄り、
「何の用ですか」と怪しげな英語で尋ねた。場内の視線は忽ち僕に集ま
った。洋人は地獄で仏に会った顔つき、流水の如く舌をふるって、云々の事を述べる。元
来育英学舎の英学は不完全きわまるもので、殆ど会話と云うものもなく、Sir Isaac Newton
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をシル イサク ニュートン流の読法であった上に、外国人などとは一度も対話したことの
ない僕であるから、その話の強半は分からなかった。しかし接続詞も前置詞もない単句勁
節《けいせつ》寸鉄人を殺すと云う菊池一流の英語で、問いかえし、聞きかえし、やっと
その話の要点だけを摘み取って見れば、
この洋人はイルキー=ブラオンと云う米国の耶蘇教
宣教師で松山から陸路この地の耶蘇教伝道師に要あって来たが、生憎その伝道師が居ず、
汽船で大阪に引かえしたいが、勝手が分からぬから周旋を頼むと云うのである。
僕はこの丈の要領を得るに大汗になったが、警部巡査からは一廉《ひとかど》の学者で
あるかの如く驚かれ、洋人も巡査に伴われて汽船宿に行くとて警察署を出る時、僕の手を
握って、懇々礼を云った。署内に居合わした者は皆、彼小僧がどうして異人と話が出来る
か、汚ない風をして居るが、これぞ微服した天才であろうと思うかの如く、しきりにぢろ
ぢろ僕を見るので、僕はきまり悪るく匆々《そこそこ》に要をしまって出て行った。
警察署を出ると、つづいて年の頃四十あまりの立派な八字髭を蓄へた人が出て来て、
「君」
と僕を呼びとめた。
(十二)
呼びとめられて、僕は立とまった。彼八字髭の無名氏は、
「失敬ですが、君は何方に御在です?」
僕は主人の宅を告げた。無名氏はぢろぢろ僕の容子を見て居たが、
「西内君の御親戚ですか」
僕は僕の姓名を告げ、一時その家にかかって居る者なるを告げ、なお自分の郷貫《くに
どころ》を告げた。
「道理で言葉が違って居ると思った。で、今暫らくはこの地に御在ですか」
己が姓名も告げずによく人の事を根ほり葉ほり聞く男だ、と思いつつ、僕は
「失礼ですが御姓名は?」と問うた。
「いやこれは失敬、乃公は」云いつつ懐中から紙入を取づ出し、一葉の名刺を呉れた。
名刺には兼頭一道と書いてある。肩書に県会議員
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と署してある。
「しかしここでは御話も出来んけれ、一寸来て呉れませんか」
斯く云って無名氏──否兼頭氏なる人は唯有る茶店に這入った。僕もつづいてはいる。
茶を持って来た老爺が、兼頭氏の前に平身低頭して敬意を表するを見て、名望家だな、と
僕は思った。而して僕を呼び立てた用の何事なるかは知らぬが、不安の念はやや薄らいだ
のであった。
「君は英語を御やりですな?」
僕は先刻外人との対話に大骨折った不手際を思い出して赤面しながら
「いや一向出来ません」
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「よほど長く御やりですか」
「二年程やったのですが、会話なんぞはいささかもいけないんです」
「一体どうしてこの地へは御出なすった?」
僕は包む可き理由を発見し得なかった。即ち国を飛び出した以来途中の出来事、雪中の
難儀、西内氏に救われて斯様して居る次第の概略を物語った。
兼頭氏は熟々と聞いて居たが、
「では西内には何も別に係累はないんですな?」
「如何です、英学教授をしては呉れませんか」
僕の胸は轟いた。まだ二年しか英学をせぬ僕、字引と頚つ引きでやっとギゾオの文明史
を噛りかかった僕が、英学教授!
「しかし教えるなんか到底出来ません」
「何、初学の者ばかりですからな。実はこの地にも昨年まで中学校があって、英語科も
やって居たんですが、経費の都合で廃校してしまったもんです。あちらこちらに英学をし
たいしたい云って居る者が沢山ありますが、教師がない様な仔細で──何皆どうせ読本綴
書の連中ですからな──貴君が御承諾下さりや、
西内の方へはこっちから挨拶しても宜が」
僕が心大に動いた。人の患はこのんで人の師となるにあり、僕の英学教師もおこがまし
いが、しかし読本位なら教えられぬこともあるまい、殊にそうすれば今の金貸小僧の境涯
を脱する訳で、仮令今直ぐ東京に行く便とならざるにもせよ、また何か好機会をつくる手
段にもなろう、
先方から西内ヘ懸け合うと云うに到っては、願ったり叶ったりと云うので、
これは一も二もなく承認す可きであると、斯様思ったので、
「極く初学の方ばかりならやって見てもよいですが、しかし──」
「そうして下さりぁこっちも実に好都合で──何れ二三日中乃公が西内へ行って、何か
の相談をすることにしましよう。何、その方の都合は如何でもつけるです」
僕は兼頭氏に別れて、足軽く西内家に帰った。しかし宇和島での出来事は何も主人に云
わなかった。
(十三)
三日程経って、
午後の日課に薪を割って居ると(雇人に薪を割らすと屑が出ると云って、
従来薪割りは主人の任であったが、僕が来て以来何時かその任を譲られたのである。老婆
が駈けて来て、「慎太さん(丁稚の様だから慎太さんと云うこと丈はよして呉れ、慎太郎と
呼んで呉れ、と歎願しても老婆は直ぐまた慎太さんと呼んだ。しかし僕は実際丁稚であっ
たから、そう云われても仕様はないのだ)慎太さん」
「何?」
僕はやや慳貪に答えた。それは老婆がまた慎太さんと呼んだし、且は薪が丁度節こくれ
で容易に割れなかったからである。
「それ所ぢゃ無だよ、兼頭の旦那が今おまえさんに会いに──」
「左様か」
僕は薪割斧をなげ棄てて立ち上った。
「おまえさん兼頭の旦那知ってるかね」と老婆は不審の面地。
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「知っとるとも」と云った僕の顔には、乃公を薪割水汲の外何も出
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来ぬ者と思うが、気の毒なもの、と云う得意の色が蓋しあらわれて居たのだろう。
「わたしやまた兼頭の旦那が来らっしゃったけれ、内の旦那に会いにござらっしゃった
かと思や、おまえさんに会いたい云わっしゃるだもの──」
僕はその語の末を聞かずに、さつさと玄関の方に出て行くと、果然先日の美髯氏が立っ
ていた。座敷に請じて(主人は留守であった)座定まると、兼頭氏は先日の話を持出し、
皆が非常に喜んで居る事、都合がよくば直ぐ明日からでも始めて貰いたい事、場所は中学
校がどうせ明いて居るからそこでする事、時間は小学生徒なども来るから夕飯後早々に始
める事、宿所は自分(兼頭氏)の宅でも宜しい事、名称は海南英語夜学会とでもつける事
(素晴しい名だと思った)報酬はなお追って相談する事等を話した。この等の條件は僕に
於ても別に異存はない。今は唯僕の恩人に交渉するのみである。
やや暫くして主人は例の通り大胴乱を真田の紐で肩から下げ大木刀をついて、督促の巡
回から帰って来た。座敷に座わった客の姿を見るより意外千万と云う顔付。
(あとで聞く所
によれば、両氏は互に一面の識あるも、その間は到って冷やかなものであった)。しかしそ
の意外は、兼頭氏の来意を聞くに及んで更に幾十倍したのであった。
蓋し僕は西内家に入り要な体になっていた。自賛ではないが、僕の如く一心主家の為を
思い、労を労とせず、十分に尽くす秘書官丁稚は、西内氏が鉄の草鞋をはいて捜しても左
様沢山はないのである。便利の為にも、家の用心の為にも、僕は実に有用の体であった。
そこで主人は僕を手放すを好まぬ。何のかのと云ってしきりに渋る。兼頭氏はまた兼頭氏
でしきりに逼《せま》る。権利の義務の云う言葉がおさの如く二人が間に行きこうて織り
出す議論の花模様。西内翁が頬髯を撫でて一分刻みに執念《しゅうね》く論ずる、兼頭氏
が八字髯を撚りあげ撚りあげ息巻あらく攻め立てる。忠ならんと欲すれば損をする進退こ
れ谷《きわ》まって居る僕慎太郎、呆れ顔の老婆、それには椽先の犬まで何事にか吠え立
てる、ああ若し僕に馬遷《ばせん》の筆あらばこの一種風かわりの鴻門の会を描くのだが、
所詮出来ぬとして、読者の推量に任すのみである。
戦闘は不識庵《ふしきあん》勝って、終局の利は機山《きざん》が収めるは昔からかわ
らぬ相場。意気盛なる兼頭氏はどもる主人を追い立て追い立てとうとうと論じつめたが、
結局はこうなった。宇和鳥までは僅かに一里余り(僕には一向僅かでない)時間は五時か
ら八九時までとすれば、その前後はどうしても差支ない(僕には大にある)それで僕は依
然西内家にあって、その時間だけ宇和島に通勤する、と云う話。一日西内家に勤めて、夕
方から一里の余りも宇和島へ通い、三時間勤めてまた一里あまりの夜道を帰る。それで双
方の恩人は得々としている。何と虫のいい話ではないか。ああ二大強国の間に一弱国がは
さまれば、つまる所は双方に体の半々を齧られて、馬鹿を見るのが弱国の常。保全の保護
のと騒いでも実は利益の問題に外ならず、まさかの時には甘い汁だけ吸って骸《から》は
勝手にほかされる、僕の身の上が恰隣国支那の形勢ではあるまいか。
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(十四)
実に迷惑千万な話であるが、是非もないと詮《あき》らめて、早速その翌日から宇和島
に通うこととなった。今も忘れ斯く思うのは、初めて 「先生」になったその日の事であ
る。初めての事だから、紹介の為めにと、兼頭氏が僕を連れて、点灯頃《ひともしごろ》
から夜学会の場所に行った。場所は、前にも云ったとおり中学校跡だ。その一室に入ると、
ランプが煌々とついていて約二十人あまりの壮幼さまざまの者が、話をやめて一斉に今入
り来る僕等を眺めた。
「これが菊池先生です」
と八字髯を撚って、兼頭氏が一同に紹介すると「菊池先生」の脇の下から冷汗がずうと流
れた。一同は一斉に目礼したが、中には微笑する者あり、睥睨する者あり、或顔は「小さ
い先生だな」と云うように見え、或眼は「彼で英学の教授が出来るかしらん」と訝かる様に
読まれた。僕は電光の如く駒井先生が育英学舎に来て初めて就任の挨拶をされた事を思い
出して、後れ馳せながら同情に堪えなかった。僕の生徒は黙然、僕も黙然袴の襞(着流し
では可笑しいからこれを穿いて御いでなさい、と兼頭氏がその息子の穿きふるしの小倉袴
を貸して呉れたのである)を撫でて居ると、兼頭氏は、僕を顧みて、
「如何ですな、教授は明日の晩からとして、今夜は組みを定めたり何かの相談をなさつ
ちや」
僕はここぞ先生の威厳を保つ処と、小さい体を成るべく椅子の上に伸びあがり、
「如何ですか、諸君は最早よほど御やりですか」と云ったその声は、吾が声の様ではなか
った。
「如何かね、皆一緒ぢゃあるまい」と兼頭氏が言葉を添える。
するとあっちこっちに囁きが始まって、やがてがやがやがやがや騒がしくなった。a の
字も知らぬと云う者があれば、第一読本を少しやったと云う者、第二読本をあげたと云う
者もある。今少し強敵が出て来はしまいか、と僕は内心ひそかに恐れて居たが、幸にして
極上の英学者が第三読本の初であったので、僕は胸を撫で下ろし、尻口そろえて、甲、乙、
丙の三組に分けて一時間づつかわるがわる教えると云う事に定めた。
さてその翌日から僕は降っても照っても怠らず宇和島に適った。一日西内旦那の秘書官、
老婆どのの加勢者を勤めて、午後の五時過ぎになると、小さな麦飯の握飯を腰にして、足
駄踏み鳴らして一里余の道を英学会に通い、三時間勤めてまた夜道をとぼとぼ西内家に帰
って来ては夜番の役を勤める。馴れればそれも別段つらくもなく、初めて「先生」になっ
た異な心地も日数経つほど馴れて来て、教えるに臆することなく、この小先生をとって喰
いそうな大生徒も書の上では争われぬ権威に順って行くようになれば、初め笑われた方言
の相違も彼方の耳に立たなくなり、一卜月も夢の如く過ぎてその末日に当月分の報酬とし
て金二円を受取った時は、千万金を獲たように、僕の素人英語がこんな大金になるかと空
恐ろしい思いもし、
またこの分なれば数ケ月働いて東京行の資金を得ることも出来ようと、
久し振りに愁眉を開いたのであった。
(十五)
89
月重なると共に、この旅烏の小先生と生徒の間にもおのづからなる親しみがついて、生
徒は続々ふえる、兼頭氏は世話甲斐があったと喜ぶ、僕もしばし異郷の客たるを忘れて、
ここに雀の──自分では鵬の積りであったかも知れぬ──翼を休めていた。
唯一つ困るのは、恩人西内氏との関係が依然としてきれなかったので、昼と夜で小僧と
教師の早変わり、主人の要を帯びて宇和島に出かける時なぞ吾生徒に出会して随分きまり
の悪い事も少なからず、
これではならぬと兼頭氏に最後の談判を持込もうと思う矢先きへ、
天吾に幸したのか、西内氏の甥なる者が地から湧いたようにあらわれ出して、その叔父の
家にかかることになったので、僕はここに樊籠《はんろう》を出るの機会を得た。嘸不機
嫌であろうと思いの外、西内氏も今は快よく暇を呉れた。一つは近来業務いよいよ繁昌し
て、殊に或大きな口の債件が首尾よくかたがついた即下《そっか》であった故かも知ぬ。
僕は兼頭氏に相談して、せめての礼ごころに、木綿縞一反を旧主人に贈り、老婆には前か
け一つ与えた。
さて首尾よく西内家を引払うについて、兼頭氏は頼りに吾家へと請じて呉れたが、僕は
請うて中学校の一室を借り受けた。前にも云う通り中学校は廃校以来全く空家同然の体と
なって、僕等が夜学会に用いる外は、椅子テーブルもそのままに使用を待って居る有様。
僕はその二階の一角を占領した。ここは二十畳位の広間で、真中に四畳半程の大きなテー
ブルがあって、昼は机になり、夜は寝台になる。蒲団は兼頭氏が周旋して呉れた。僕は土
鍋二個と、七輪と、炭とり、炭、まつち、附木、の類を買って、自炊を始めた。米はテー
ブルの引出しにしまい、醤油の瓶は石油瓶と相並んで一隅に割拠している。面倒な時は土
鍋の飯に醤油をぶつかけて、かき雑ぜて食うし、少し奢った時は、鯛鰆(春魚の時節には
鯛鰆の廉なことおびただしい、大抵五銭も出せば立派なものが一尾買える)などを買って
来て、手荒く料理《りょう》って、生臭い骨だらけの鯛飯を焚き、焦臭い鰆《さわら》の
煮付けをこさえる。時には兼頭氏に夕飯の馳走に呼ばれることもある。生徒の家で気をき
かして、煮染め佃煮の様なものを持たしてよこす者もある。生徒とは大分親密になって、
夕飯に葱をテーブルの上で刻み、肉の臭を立てて居ると、早く来た生徒が莞爾覗き込んで
「先生牛肉をおやりですな。お手伝いしましょうか」と云う調子だ。
実に「渡る世界に鬼はなし」、真直ぐに身を持って人を信じ人を愛し人の為めに尽くすの
心だにあるならば、恐らく敵地に入っても高鼾で寝られぬこともあるまい。国を出てまだ
半歳、僕はさまざまの事に会って、ここに初めて人情と云うものを少し解した心地がする
のであった。
鳥無き里の蝙蝠とやら、なまじ一日の長あるが為めに、これから修業と云う体を英語の
教師と立てられ、真面目に懇切に教えて呉れると云う評判でも立ったものか、吾れも吾れ
もと夜学会に入る者相ついで、中々一人では手が廻り兼ねる位。果ては夜学進んで昼学と
なって、午後の二時頃から入りかわり立ちかわりやって来るようになった。生徒の種類は
千差万別。エー、ビー、シーを囀る横では、それは犬である蟻は脛を持つと訳をつけ、第
二読本は接すカツケンバスの米国小史、
スイントン万国史は隣る小文典と云う様な次第で、
所謂応接に遑《いとま》あらずとはこの事であろう。月立つに従って生徒の学力は漸々進
んで、時々は菊池先生も困じることがある。誤謬を教えて、あとで違ったと気がついても、
おいそれと白状しては先生の権威に障るの嫌ありと云うので、その場は王安石流に非を通
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し、よほどたってそれとなく、時に彼は彼様でも宜いがこの様解した方がなお宜いなどと
胡麻化す術も覚えた。万国史など、教える間に、知らぬ字が出て困ることがある。そんな
時は生徒の流読する間に、眼早くさきの方を見て、知らぬ字があれば一寸用ある体に見せ
て座を立ち、字書を繰って何喰はぬ顔で厳然と座に復える。運の悪い時は、一夜に三度も
四度も菊池先生御中座をなさる様な始末。実に馬鹿げた話だが、吾力に不相応な役を引受
けては、その苦心実に斜めならざるものがあったのである。
しかしながら一月の労は月末に到って十分に償われたのである。初一月は兼頭氏の方で
会計をやって呉れたが、その後は直接の交渉としたので、菊池先生は夜学会長、教頭、幹
事、会計を一人で切って廻わすと云う話。月謝は級の高下に係わらず、一人に付十五銭と
したので、月末になると、銅貨銀貨天保銭などが僕のテーブルの抽斗に堆《うずたか》く
なって、生徒の多い時は大枚六円乃至七円の多きに達したこともある。その中から生活費
小使いの二円五十銭未満を差引いて、余は郵便貯金(その頃は駅逓局預金)として置いた。
月又月、貯金通帳を広げて金高の次第に十に近づき十を越えるのを僕はどんなに嬉しく眺
めたであろう。誤解し給うな、暫し西内家の小僧となって居たので金溜めの味を覚えたの
だろうなどと。その金を記入してある一行一行は、即ち僕を東京に──従って青雲に導い
て行く段階ではないか。
西内家を引払って中学校に引移ると共に、僕は初めて母への手紙を書いた。西内家に居
る間は、幾回筆をとりかけても、どうしても書けなかったのである。あの気づよい母、容
易に人に頭を下げぬ母が、その愛する独子の場所もあろうに金貸風情の手代小僧となって
居ると聞いたらどんな感じをするであろう、それを思えば僕はどうしても郷信の筆がとれ
なかった。しかし中学校に移ってからは、聊か面目を恢復した心地がして、僕は幾行《い
くこう》の涙と共に手紙を認めた。先づ去年の暮告げずして出奔し、出奔して以来今日迄
一回の手紙も出さなかった不孝の罪を謝し、国を出て以来の一伍一什を細かに書き、この
宇和島に来て雪の夜に西内なる人に助けられてから兼頭氏の世話で夜学を教えるようにな
った次第を述べ、目下の所は体も壮健に人の世話にもならず月々幾分の金を剰して居る事
を叙し、しかしこのまま何時までもここに英学教師で朽ち果てる所存は寸分ない事、節倹
して金を積み遠からず東京に出る心算である事、こっちの事は少しも懸念なく自愛して不
宵が成業の日を御待ち下されたく云々と書いた。野田伯父ようには別に書状を認《したた》
め申さず、母上より宜敷、伯母ようにも、鈴江さんにも宜敷と尚々書《なおなおがき》に
書き添えた。
(十六)
十日ばかりたつと、
待ち焦れた母の返事が来た。
手跡を見ればさながら母に逢うように、
なつかしさ嬉しさの込み上げて、吾ながら不覚の涙を手紙の上にこぼしたのであった。
一筆申入れ候 去る八日の手紙死んだ者の便りでも聞くように嬉しく悲しく披見いたし
候 左候者昨年の暮れ東京へ行くとの旨書き残し出でられ候以来 今日は安着の便りがあ
るか明日は手紙が着くかと指を折り相待ち候ところ
何時までたっても何の便りもなく
あまりの事に東京の中島様(慎云、大一郎君を預って居た叔母の事)に問いあわせ候とこ
91
ろ 少しも知らぬ由返事参りなおもそこ許のかねがね心易くせられし松村氏へもたずねや
り候得共 彼方も思いがけぬ由にて実にどこをあてに尋ぬるすべもなくあまりの心もとな
さに愚かしき事とは知りながら巫《みこ》、易者にまで相談いたし
僕は耐えかねて机の上に突き伏した。あの男まさりの、愚かしい事は虫より嫌いの母上が!
何故僕は早くはがきでも出さなかったのであろう?
相談いたしてもとりとめぬ事ばかり 今は運を天に任す外なしと詮らめて 夜はそこ許の
病気にて道側に倒れ臥されしと夢に見 昼は人の足音郵便の声にも胸轟かし
実に骨をそ
ぐ思にて日々暮らし居候ところ 天道人を憐みたまいて思いがけなく七月ぶりにそこ許の
手紙とどき実に実に胸撫で下ろしました。そこ許にも昨年来さまざまの苦労いかばかりと
存じます。しかし西内様兼頭様とやら人々の御親切に世話なされ兎も角も人さまの御厄介
にもならず勉強致し居られ候段 いかばかり嬉しう存上候 過ぎし事は最早何とも申間敷
《もうすまじく》乍この上《このうえながら》万事に心をつけ 身体を大切にし志をふり
立てて出精の程祈入ります。
申すまでも無く候得共
そこ許は菊池家再興の重荷を負わる
大事の身に候へ者 よくよく思案し菊池家の家名を損ずる様の事なき様 呉々も心つけら
れ度く 母が世の中の望みと申しては唯々そこ許の立身出世これ一つに候えば 乍この上
勉励祈上申します。そこ許も不幸な時に人となりなにかにつけて思わしからぬ事のみ多く
歯がゆく辛く思われ候事も定めて多かる可く侯 何を申しても女の腕一とつ身の皮を剥い
でもそこ許の一月の学資だに思うに任せぬ母が心の切なさを酌みたまはば 艱難貧苦にめ
げず屈せず名をあげ家を興しし古の名ある人々を手本と仰ぎ 身に襤褸を纏《まと》いて
も心の操をつゆ汚さず この上の勉強祈上條 申度事は山々候得共 一時にかき尽しがた
く一先これにて筆とめろ??申しめでたくも候
七月十四日
母 より
慎太郎どのへ
尚々別紙一通は兼頭様一通は西内様へそこ許持参
呉れぐれも御礼申し述べらるべく候
わが労にほこることなく人の恩を忘れることなきは人につきあう第一の心得にて候 野田
家にても何もかわりなく安心いたさるべく候 母も都合により近頃は表書きの所に(慎云、
封筒を見れば成る程母の宿所は野田家でなく、矢張城下ではあるが野田家より一里近くも
離れた士族尾敷の内々あった)移り近所の娘子供に手習やら裁縫やら教えなどしてくらし
居ります 皆々親切に致し呉れ 少しも不自由な事もなく候まま こっちの事は必ず必ず
気に懸けられまじく 唯々その身の勉励祈入候 着物など嘸々不自由致さるべく唯今単衣
仕立て居候間 出来次第送り申候 かえすがえすも病気せぬ様呉々も用心祈入候 又々申
す手紙を披き終れば、別紙二通、外にはたりと落つるを拾へば、一円紙幣が二枚封入して
あった。
(十七)
机に頬杖ついて幾回母の手紙を繰りかえしたかも知れぬ。
それにつけても、気がかりは、
母が野田家を出て、別に一家を構えて居ると云うの一事。問うまでもなく、僕が出奔の後、
92
母と野田伯父の間が面白からぬ関係となって、その為め母が別居するに到ったのであろう。
それも畢竟僕がすべての原因と思えば、
今更面目もない次第、
嘸何かの不由由もあろうに、
親なればこそ血を絞る様なこの二円、吾には千金にも万金にも代え難いものを、勿体なし
と押戴いて、暫し思案に沈んでいた。二週間程経つと、通運が届いて、母が縫った飛白(か
すり)の単衣にまた涙を落した。而して僕は絶えて久しい野田伯父に宛てて一通の書を認
め、過ぎた事の詫を云い、僕は如何に憎くとも、母をば何卒宜しくと懇々頼んだ。折かえ
して返事が来た。それは勿論伯母の手跡。母上は達者で暮らして居られる、少しも心配す
るに及ばぬ、と云う意味である。僕はこの返書が伯父の意を承けて書いたものなるやを疑
ったが、とにかく一安心したのであった。唯驚く可き一報は、鈴江君が東京に往ったと云
うことである。文簡にして一向委しい事情は分からぬが、鈴江君は去る三月下旬是非にと
請うて修学の為め上京したと云う。僕は一女子に先を越されたと思えば腹立たしくも、ま
た鈴江君の勇気を心地よくも思った。
とにかく婦人ですらずんずん上京するものを、丈夫何時までか田舎にくすんで、読本綴
書の教師で居ようぞ。野水江南去不留(やすいこうなん さってとどまらず)ああこの翼
が生えたらばと僕は未だ中々生い揃わぬ吾翼をかきむしりたく思うのであった。
節は大暑に入って、朝から油汗が流れる頃の事、一日例の中学校の楼上で、真裸になっ
て本を読んで居ると、
「菊池君、菊池君」
と兼頭氏の声がした。大急ぎで着物をひっかけ、下りて見ると、兼頭氏が一人の青年──
年の頃は二十歳ばかり、眉の非常に濃い、色の少し蒼い而して沈着な風の青年──を連れ
て立っていた。
「これが菊池君」と兼頭氏が青年を顧る、青年はづかづかと寄って、微笑し、目礼した。
これが兼頭氏の子息であった。
兼頭氏の子息は名を道太郎と云って、東京早稲田の専門校で政治科を修めて居る、と云
うことはかねて承知していた。兼頭氏は、自由党派の盛んな地方にあって独り改進党の一
雄鎮《ゆうちん》を以て自ら期し人にも許される男で、行く行くは国会にも出ようと云う
人物。従ってその長子をはるばる専門学校に入れたのである。この夏帰省する由は、さき
に母の手紙を持って兼頭氏を訪うた時、聞き及んでいた。あえて相術をよくすると云う訳
ではないが、大抵の人物は最初の一瞥で略見当がつくものである。小兼頭氏の相貌は最初
から僕の気に入った。それは少しも浮華軽躁でなく、沈着な男々しい人の相貌であった。
彼方は僕を如何見たのか、最初の微笑は何時までも消えず、初対面は十分か十五分の事で
あったが、それが永き交際の基となったのである。
(十八)
夜学会も大暑中は半休の態になって、淋しさも一入《ひとしお》である今日この頃、小
兼頭氏の如き談敵を得たのは、非常に嬉しかった。彼方も何が気に入ったのやら、毎日の
ように遊びに来て、「貴君」は何時しか「君」となり、
「私」何時か「僕」となり「吾輩」と
なって、果ては宅は暑くて騒々しくて眠られぬと云って、泊り込んで行く始末。例の大き
なテーブルを寝台がはりに横《ねこ》ろびながら、明け放した窓にさし入る月を寝物語の
93
燈光にかえて、僕が自分の身の上話さてはとりとめもない空想志望を打明ければ、彼は僕
の望むままに東京書生の有様、修学の模様なんど知れる限りを細かに説き聞かせた。僕は
齢よりもなお幼く、彼は年にはよほどませて最早立派な一人前の男、しかしその間には自
づから一片同情の脈が通って、吾も隠さず、彼も僕を頼むに足ると思ったのであろう、色々
家庭の事まで打明けて物語った。即ちその父はもと儒教主義の懐から出た人であるが、負
けじ魂が強くて、日新の文明に後れるを嫌い、何でも人の先きに立ってしようしようとす
る事、母は継母で兎角自身(道太郎氏の事)を邪魔にし父に悪するの傾きがある事、父も
また自身よりは異腹の弟(正道と云って当年十二の腕白者)を愛する傾向がある事、自身
には已に許嫁の少女(名は冬と云って従妹に当る当年十六の娘)があって自身が専門学校
を卒えると共に結婚する筈になって居る事、しかし自身は早婚を青年の一不幸とする者で
成る可く結婚をのばして卒業後は洋行して見ようと思う事、その許嫁の少女の父母は死ん
で、祖父と云うのが愛媛県内屈指の金満家、気丈者で節倹家で七十五になって冬も足袋は
かず召使が棄てる紙屑まで一々拾ってとって置く人で自身の父も内々恐れて居る事、など
を物語った。なるほど聞いて見れば、如何な所にも苦労はあるもの、道太郎氏が年に似合
わず大人びて沈着──寧ろ沈鬱な傾があるように思ったのも、一つはその家庭の空気が然
らしめたのかも知れぬ。僕は満腔の同情を以て、その話に耳傾けたのであった。
唯一つ同情が出来ぬのは、道太郎氏が耶蘇教信者であることだ。氏が初めて僕の二階に
泊った夜、いざ寝ると云う時、片隅に跪いて俯いたので、僕は愕然、
「如何しました、頭痛がしますか」
と差覗くと、氏は依然眠るが如く念を凝らしている。ややあって氏は微笑して立上り、
「菊池君、吾輩は祈祷をして居たのです」
「祈祷! 何の祈祷?」
「吾輩は基督教信徒ですから」
「耶蘇教信徒?」
と叫んだ僕の顔を莞爾眺めて、
「左様です──悪いですか」
僕はぐっと詰まってしまった。実を云えば、僕は宗教の事に関しては全くの門外漢であ
る。僕の母は迷信が大嫌い、西山先生も大嫌い、育英学舎とても同様宗教なんど云うこと
を全く度外に措いて居たので、宗教の二字は僕の耳に殆んど無意味であったのだ。若しあ
るとすれば、それは愚夫愚婦を済度《さいど》する一の方便位に思っていた。耶蘇教の如
きも、素より一度も説教聞いた訳でもなし、真面目に研究した訳でもないが、耶蘇と云う
字音に一種胸悪るい所があって、それから曾て国に居た時一度髯ばかり長い下卑た人相の
男が耶蘇の十字架にあがって血がだらだら流れて居る図を指して何か器械的に憐れつぽい
ことを云って居たのを聞きかぢり見かぢって無性にいやになり(今から思えばそれはカト
リックかグリークかであった)
、
この宇和島でも町を通ると時たま基督教講義所と看板をか
えたぼそぼそとした格子の内から聞くもめいる様な間のぬけた歌(讃美歌であった)の声
がするのを聞いてその薄のろさ云うばかりもなく、耶蘇教なんぞは畢竟丈夫のかかわる可
きものにあらずと断定を下していた。
然るにその交や昨今の事ではあるが、吾れながらしつかりとした人物と尊敬する兼頭道
94
太郎氏その人が耶蘇教信徒の一人と聞いては、僕は且つ驚き且つ失望せざるを得なかった
のである。「如何です、吃驚しましたか」と道太郎君は莞爾僕の顔を眺めた。
「尊父も御信仰
ですか」
「否、吾輩の家では吾輩ばかりです。よほど骨折って説いても、父は聴かないで、却っ
てそれが為めますます吾輩を疎んずるようになるのです。これから明治の新学問を味って
政治家にもなろうと云う者が、耶蘇教信者になって如何する、とそう何時も言われるので
す」 僕は中心大いに兼頭の厳君に同意したのである。
それから道太郎君は、僕の為めに所謂耶蘇教の大意を説いた。即ち上帝の存在、霊魂の
不朽、人間の有罪、基督の贖罪と神性、永遠の罰と永遠の生、信仰の意義、聖書の天啓、
などをしきりに説いた。
その中の一二は成る程と思う所なきにしもあらずだが、概して荒唐無稽、いやしくも知
覚ある男子がどうしてそんな事を真面目に信ぜられるであろうか、と思う事のみである。
僕は躍起となって駁論《ばくろん》を試みた。(尤も恩人の子息に雷同するの阿諛《あゆ》
に近きを思って故意激烈の論鋒を用いたかもしれぬ、若い内はこんなアテ気が多くて困る
のだ)
。何と云ったかよくは覚えぬが、仏教も耶蘇教も畢竟愚人を度する方便に過ぎない、
日本には日本魂があり、儒教の道徳があり、武士道があり、いわんや人各々良知良能を有
って居るからは、安心立命何ぞ必ずしも宗教を待たん、若し宗教にあらずんば人は救われ
ずとすれば雲の如き古の大人君子英雄豪傑は如何にして彼ように赫々の行蹟を残したか、
天は自から助くる者を助くで己を救ふ者は己れ、聖書は読まずも古人の聖経賢伝志士仁人
の蹟を読めば沢山、耶蘇如きを理想とせずも理想とす可き大霊魂は星の如く宇宙に輝やい
て居る、と云う様なことを拉々雑々《らつらつざつざつ》口に任せて説破した。
道太郎君は微笑して聞いて居たが、その夜は更に反駁もしなかった。
それから四五日経って、或日道太郎君は、明日から蜂谷の老人(即ち許嫁の少女の祖父)
訪問の為め松山に行くが、一所に行かないか、と云って来た。幸いこの四五日は夜学も休
みになって居るし、遠くもない所で旅費はいらないと云うので、一も二もなく承諾して、
明くる日未明に陸路をとって出発した。
(十九)
中途に一泊して、翌目の夕方草鞋を松山の唯有る豪家の奥座敷の椽先にぬいだ。何でも
店は油でも搾めるかして、
油糟をおびただしく積んであった。
僕等が突と店を通りぬけて、
一寸した中門を潜って、奥へ入ると、奥座敷の椽端近く縫物をして居た色の浅黒い眼鼻立
のはつきりとした十五六の娘がきっと見かえって、顔を赤くし、莞爾一礼して手ばしこく
縫物を押やり、中庭の方を向いて
「お祖父さん──あの、宇和島から入来《いらっしゃ》いました」と呼ぶと、
「応《おう》
、道太郎さんが来たか」
声を先きに立てて、生平の短衣一つひっかけた眉の真白い顔の真赤な大きな老爺が、草
箒と塵取を左右に提げてあらわれた。
「や、道太郎さんか、この間から最早来そうなものと待っていた。貴家でも何も異変は
あるまいな。はい、はい、この爺もこの通り丈夫、まだ中々急に片づきそうでもない哩《わ
95
い》
、はははツ」
口で笑って、その細い窪眼は僕の頭から爪尖までじつと眺めた。道太郎君が僕を紹介す
ると、蜂谷老人は頷いて、
「左様か、それはよく来なすった、何有《なに》
、邪魔なことがあるものか、この爺は若
い者が大好きぢゃ。ゆっくり逗留しなさるが宜い」
ここへ先刻の娘が大きな金盟にゆすぎの水をとって、手拭を添えて持って来たので、僕
等は足を洗って上った。
店には男女大勢使ってあるが、奥は老人と孫娘と、その娘の弟で即ち蜂谷家の家督であ
ろう十歳位の逞しい骨格の、怜悧《りこう》そうな腕白そうな男児と、それから道太郎君
が叔母さんと云う四十あまりの女と下婢と、これぎりであった。暑かったろうと風呂の馳
走になって、それから逗留中の部屋と二階を示されて、やがて夕餉の膳についた。蜂谷老
人は上戸と見えて、徳利三本瞬く間に倒したが、僕等は無論一滴も飲ぬ方だから、彼娘の
給仕で夕飯を済した。
話は種々の事に渉った。
その中老人は已に三本日の徳利を空虚にし、
三杯日の飯碗に注いだ茶をがぶくと飲みながら、
「道さん、おまえが来たら一つ相談しょうと思って居たが、他ぢゃないが、これが
な ・・・・・・・」
と顋もて娘を指す。
「あらお祖父さん、今そんな──」と娘が遮るのを、
「何、恥ずかしい事では無し、宜ぢゃないか。
」と打消して、老人はその孫娘の已に小学
校をば卒えたが、当人は是非場所へ出て今少し高等の教育を受けたいと切望して居る事、
自身は教育と云うものは金ばかりかかってあまり役にも立たぬように思うが、当人はもっ
と教育がなければ道太郎君もゆくゆく何がにつけて迷惑するであろう(娘は顔を真赤にし
て俯いた)から加勢とならぬまでもせめて邪魔にならぬだけ場所へ出て修業がしたいと云
い云いして居る事を話し、「何せおまえに関る事じやからな、これはおまえに相談する事だ
と思って、実はまた別に相談もあり──」
話が段々僕の聴くをゆるさぬ範囲に入り込むので、僕はそつと座を立って、さきに示さ
れた二階へ上った。
鈴江君が東京へ行ったかと思えば、ここにも修業に出ようと云う娘がある。女、女と侮
って居た女ですら右の通だのに、男と名のつく身を以て、これは愚図々々やって居る所で
ない、と二階の欄干に拳をあてて今向うの物乾し台の上にぶらりと昇ってござったお月さ
まに満腔の憤慨を吐きかけたのであった。
(二十)
松山逗留は都合三日間、この間には松山城址を訪れて加藤左典厩の昔を弔らい、道後の
温泉に浴して半日の閑を消するなど、さまざまの事もあったが、中に就て最も異った出来
事は、兼頭君の案内で、同地の耶蘇教会堂の「奨励会」とか「祈祷会」とか云うものを見
に行ったことである。僕はその会堂の門を入るよりこう思った、これは屹度兼頭君が先夜
の宗教論の返報に、それとなく僕をここへ引張って、余所ながら耶蘇教なるものの働の一
端を見せるのだな、眉に唾つけて居なければならぬと。
96
僕等が入った時は、可なり大きな会堂に人が満ち満ちて、所謂牧師なる者であろう、三
十格好の目鏡をかけた温厚な紳士が祈祷をしていた。兼頭君は無論牧師を識って居るが、
僕と一処に群衆の最後に座った。程なく牧師は祈祷を終えて、
「天地の主なる父よ、この事
を智者達者に隠して赤子に顕し給うを謝す」と云う聖書の文句を題として、細い声で諄々
と話し出した。それを聞き聞き一座を見廻わすと、大方は社会の地位から云えば中以下の
人、智識の程度から云えば牧師が読んだ聖書の文句に所謂「赤子」と云う可き連中で、肴
屋であろう魚くさい男もあれば、紺屋であろう両手を藍染めにして居る者もある。その祈
祷を聞けば、「天に在す在天の父よ」の、「基督の御馬前に討死する」のと抱腹絶倒す可きこ
との限りを平気に言って居るが、しかしその無学その卑賎にかかわらず、上帝の外何人に
も頭を下げぬ毅然たる所がおのづから容子にあらわれて、それで和気融々としている。祈
祷の中間に四十五六の沈鬱な顔をした大男が立って「感話」とか云うものをしたが、その
時兼頭君はそっと僕の耳に口つけて、彼男は三年前までこの界隈に名だたる悪党の博徒で
あったが、或冬の夜質に入る可き古着を小脇に賭場を指して行く途中、不図唯有《とあ》
る格子先きに今の牧師の説教の漏れ来る声に耳立てて、その夜から翻然と心をあらため、
今は立派な菓子屋となって人々の尊敬を受て居ると云う事を告げた。それからその男の云
う事を聞けば、それは会員の家の一小児が死去の事を報じたのであった。その小児は当年
九歳の女児、五の歳から非常の難病に罹って、今年まで殆ど五年間始終床の上に苦しみ通
しであったが、終に一回も不足を訴えず、終りまで明らかに知覚を持して、賛美歌を歌っ
て、微笑して永き眠りについたと云う事である。大聖ソクラテスが毒杯を手にして従容と
して霊魂不死を説いた話は聞いて居るが、当年九歳の何も知らぬ一病女児如何たれば天命
を安んじて唸やかず、秀れた人傑も往々にして惑う死の前に微笑して、ギリシャの聖人が
言を以て示せし所を殆んど身を以って証拠立てたのであろうか。一條の光線がはつとさし
て来たと思えば、また忽ち消え去って、初めて吾心の暗を感ずるように、僕は一種異様の
煩悶を覚えたのであった。
「あつまり」が済むと、兼頭君は僕を伴って牧師(志津信道と云った)の宅を尋ねた。
側へ寄って見れば、少しも迷信者の風は無く、直ぐ人に「叔父さん」と慕い寄られそうな
人物。書斎には和漢洋──洋書が最も多かった──の書籍がおびただしく積んで、彼方の
間からは子供の笑声が聞えていた。
兼頭君の紹介が済むと、牧師はさらさらと隔てない調子で色々の事を尋ね、まだ長く宇
和島に居る積りか、どこかの学校へ行く心算はないかと問うた。僕は無論東京へ行く積り
ですが、しかし──と口籠る。兼頭君が口を添えて、僕が今夜学会を教えて学資を作るに
骨折って居る事を話し、僕がどうしても他人の厄介になるを好まぬと云う事まで語って、
「吾輩もそれでないと一臂《ぴ》の力を致すのですが」と毎常《いつも》その胸中に往来
して居ることを思わず漏らした。牧師はぢっと考えて居たが、礑《はた》と膝をうって、
「是非今すぐ東京で無くも宜いでしよう。普通学なればどこでやったって同じですから
ね、関西学院に入っては如何ですか、彼処《あすこ》なれば──」
その学校では、英語はよほど進歩して居り、且つ貧生には例えば鐘つき、門番、教場の
掃除などをして学資を得る方法もあると云う事を話した。僕の心大に動いた。しかし音に
聞く関西学院は、宗教学校であれば、師範学校の卒業生が教鞭を執るの義務あるように、
97
卒業後伝道師になる義務はないかと尋ねると、牧師は笑って、そこには別に神学科と云う
ものがあって伝道師牧師を養成するが、普通科にはそんな事はない、無神論者も随分居る
と答えた。僕の心ますます動いた。目指す所は東京だが神戸まで行けば已に半途、この四
国に愚図ついて居るよりその方がよほど得策ではあるまいか。
結局、牧師は僕の為めに例の学僕の地位のあきがあるや否やを学校に問いあわして呉れ
ることにまとまった。その夜は別に宗教上の話もせず、唯牧師が探し出して呉れた関西学
院の古い規則書と、新しい新約聖書を貰って、その宅を辞し、而してその翌日僕等は、蜂
谷老人や兼頭君の許嫁(彼女は大阪の梅花女学校と云うに九月から入学することになった
そうだ)や弟の腕白君に別を告げて三津から船で宇和島に帰った。
(二十一)
とにかく松山行は僕にとって今の境涯を脱して進歩の道に復る、その緒を与えたのであ
った。而して僕に劣らずその事を喜んで、賛成して呉れたのは、道太郎君である。
「吾輩は
それで重荷を卸した様な心地がする」としばしば言った。
大兼頭氏にも、毎夜やって来る学生にも、無論その事は黙って居るが、母には未だ明瞭
とは分からぬが、都合によりては近々に関西学院に入ることになるかも知れぬと云う事を
報じ、その学校の程度、学資の都合も略説明して置いた。折かえして母から返事が来た。
それは入学の運びになるのを喜んだ手紙で、いよいよその事となれば、衣類初め入用の物
もあるであろうから、如何ともして送ることにすると云う意であった。しかし学校が学校
だけに、僕が耶蘇教信者になりはすまいかとよほど心配した容子があって、おまえも已に
十七の若者となったれば、事毎に母が干渉する訳ではないが、最初の志を喪わぬように、
一時の都合や当座の感情の為めに魔道に踏み込まぬように随分と注意をして呉れ、と云う
意味がくりかえしくりかえし書いてあった。
愈々彼学僕の口があるか無しかは、とにかく松山の志津牧師から返事の手紙が来なくて
は分からぬ、またその返事は九月に入らなければ来ぬ(関西学院の秋期は九月中旬に始ま
るので)筈であるが、しかしそのままで安閑として居るべきでないので、僕は入校の準備
を夜学を教える片手間にやり始めた。規則書を見ると、普通科が五年、自分の学力を計る
に少なくも三年には入れる。唯怪しいのは会話、更に怪しいのは数学だ。幸い道太郎君が、
よほどその方には心得があるので、僕の為めに数学教師となって呉れ、僕は毎日毎日トド
ハンタアの代数に幾升の油汗を流したかも知れぬ。会話に到っては、道太郎君もあまり長
じて居ないので、これから少しなりとも会話の舌を自由にする為め二人の間は決して邦語
を用いる可からずと云う規定を設けたにも拘はらず、二言目にはもどかしがって直ぐ持前
の国なまりを出すと云う始末。終にはその方は中止として、専ら力を数学の方に用いた。
宗教論もあの後は一寸泣寝入りの姿となった。志津牧師から貰った新約聖書はテーブルの
抽斗に入れて居るが、馬太《マタイ》伝山上の説教を読んだ丈で、これも一時中止とした。
打明けた所が、宗教よりも学問が僕には急務に思われて、今から学校に入ろうと云う急が
しい体に安心立命所かと云う様な浅薄な俗な幼稚な考が僕の心を支配して居たのだ。
しかしながら人品の説教は口舌の説教よりも雄弁で、心霊の耳は肉の耳よりも聡いもの
である。人の心の田地に落ちた種は、早かれ晩かれ決して生えずには居らぬ。庭を歩いて、
98
これは不審議、ここに梅の木が生えた、植えもせぬに、と驚くだけが愚な話、風が吹いた
か、鳥が落したか、抑《そもそ》も内の腕白が投げたのか、何時の間にかころんだ核に土
がかぶって、
何もない何もないと踏む下にちゃんと未来の梅の大木は出来て居るのである。
松山の会堂でちらと射した光は、消えたくと思いの外、数学に汗を流し夜学に欠伸を噛み
くだく忙しい中にもどこやらに温まりを醸して居たのであろう。而して道太郎君その人の
如きは、実に僕の為めに不言の伝道者となったのだ。その潔白な心、沈着な気質、真摯の
情、要するにその一見人を射るの異彩なきにもせよ久くしていよいよ愛す可く敬す可き人
品は、へろへろ伝道師の億言万語にまして──僕はそれと自覚しなかったが──僕の心耳
に耶蘇教証拠論を吹込んだ。
九月の初旬、道太郎君は東上の道についた。その前々夜は、夜の白むまで僕の二階で焙
豆を噛りながら、さまざまの事を語り明し(僕は松村の事を道太郎君に話し、色々の伝言
をした、松村には去年の暮から一度も音信をしなかった)出立のその日は、埠頭まで送っ
て、
手を分った。
埠頭に立って道太郎君を載せた汽船の煙を残して出で行くのを見送って、
僕は思わず涙にくれた。彼俗歌にも云う「残る煙」が実に恨めしく思われた。思えば、涙
は恋の花にのみ宿る露であろうか。僕は知らぬ、僕は唯何故か涙の禁じ難かったのである
──知己の涙とでも云うのであろう。
(二十二)
道太郎君が出発すると程なく、待ち焦れた志津牧師の手紙が来た。わななく手に封を披
《ひら》いて見れば、確たる事はその期に及んで見ねば分からぬが、入学試験が無難に通
りさえすれば、一人位は如何とか都合がつくであろうと云う事で、而して入学試験は十日
から始まり、学業は十五日から始まる筈になって居るから、一刻も早く出発するが宜いと
云う意味を書いて、関西学院の幹事井原と云う人と教師清水と云う人に宛てた都合一通の
添書を封入してあった。
志津牧師の厚意で、とにかくその方の道は開けた。唯試験──これが如何であろうか。
無事に通れば可,通らなければ更に困難から困難に移る様なもの。しかしながら今は如何
か斯様かと躊躇する場合でない。背水の陣と出かけなくてはならぬ。
僕は早速出発の準備にかかった。貯金通帳を広げて見れば、貯の金は十三円となにがし
になっている。これは僕の額の汗を絞ったもの、之を出すのは実につらいが、しかし旅費
とそれから入校──若し試験が通るとすれば──の費用はこれから支弁せねばならぬ。母
には試験が済んだ所で何も報ずることにした。それは、愛する母に旅費万瑞の心配をかけ
るのもつらし、万一試験が面白くない時を慮かったのである。
しかしながらここに、僕は道太郎君の如何に僕の事を思って呉れるかを知るの機会に遭
遇した。兼頭氏を訪れて、嘸驚くであろうと思いながら、出発の事を相談──実は報告──
すると、承知して居たと云い貌に頷いて、送別──と云うも烏滸《おこ》がましいが、所
謂送別の馳走をして、それから熨斗つけた一封を出した。厚意は左る事ながら、謂われな
い餞別を受けるのは──と例の我慢が出かかったが、不図見れば、その一封の片隅に道太
郎君の名が書いてある。ああ僕如何に己を潔うするに余力を残さぬとは云え、斯くも自分
の事を思って呉れる親友の情を仇にしようか。僕は頚を折って、兼頭氏に謝した。
99
僕の夜学生は、僕の出発近きにあるを聞いて、一方ならず驚いた様であった。
「先生は行
っておしまいなさるそうですな」と云われて見れば、先生も嬉しいような悲しいような満
足なような済まぬ様な心地がして、しんみりと別を告げたのである。愈主出発の前日、そ
の内の重な二三人が何か紙包に水引かけたものを二つ、餞別の印として持参し、
「そんな事
をしなさっては困る」と云うのを、無理に押しつけて逃げてしまった。聞いて見れば、
「カ
ステーラ饅頭」を一包に、一方のは表附の駒下駄であった。饅頭の方は兎も角も、駒下駄
の方は勿体なくて気はづかしくて足には履けず、と云って折角呉れたものを棄てられもせ
ず、
余儀なく荷物の中にしまい込んで、宇和島をはき古るした薩摩下駄で出たのであった。
荷物と云っては風呂敷包みが唯った一つだった。否、唯った一つ所ではない、去年の暮
ここに渡って来た時は実に無一物であった。雪の夜道に凍えてはこの命すらない所であっ
た。それを拾い上げて、とにかく今の身の上となり、有形には風呂敷包、無形には幾十人
の好意を持ってここを出るようにならしめたのも、元はと云えば彼西内氏の蔭である。僕
は煎餅一袋持って、西内家に暇乞に行った。門を入ると、例の「赤」や「黒」や「斑」が
鬨の声をあげて突貫して来たが、僕の顔を見るよりむらむらと走りかかって手と云わず足
といわず顔までも舐めまわす。その騒ぎに、水を汲んで居た彼婆がひょいと覗いて、
「おお慎太さんか」
と呼んだ。慎太さんと呼ばれるのもこれが絶と思えば、格別腹も立たなかった。
「慎太さん、おまえさんまあ一寸も顔見せんぢゃねへか」
「忙しかったもんだからな。婆さん、今日は暇乞に来た」
「暇乞ってどこ行きなさるね」
「上方に」
「上方──本願寺さまか、お伊勢参りかね」
憐れむ可き老婆よ。おまえと吾とは最早全く別世界に住んでいる。
「学問に行くよ」
「学問?あまえはんは最早師匠してなさるぢゃねへかよ。まだ学問するのかよ」
「然、学問には上の上があるから」
問答牛に「菊池ぢゃないか」と奥より声をかけたのは旧主人の西内氏である。入って見
ると、相も変らず、帳面を前にして、十六盤を弾いていた。
(甥とやらはどこに行ったか見
えなかった)
。僕が来訪の趣意を聞いて、
「よく金が出来たのウ」
僕は彼学僕の事を話すと、旧主人は頷いて、已にしばしば聞き古して居る西内立身談を
新に説き聞かせ、辛抱は立身の本、節倹は立身の綱、金と云うものは決して粗末にしては
ならぬ事を繰り返えし説いて、果ては長い間奥に入って居たが、頓て塵紙半枚に金弐拾銭
包んで、
「草鞋銭」と云って僕の前に置た。意外の賜物に僕は驚いたが、終に感謝して収め
た。而して主人も老婆も好意たらだら是非飯を食って行けと、老婆が僕の所好と信ずる所
の彼恐る可き魚のぬたを強いるので、僕は涙ながらに某幾皿を鵜呑にして、主人老婆並に
犬に門まで送られて日のくれぐれに別を告げた。
九月七日の夕方、僕は兼頭氏初め埠頭まで送って来て呉れた夜学会諸子(送られる先生
のまだ矮小かったこと!)に別を告げて、大阪行の汽船に乗った。夕風そよぐ甲板に立っ
100
て、後になり行く宇和島を眺めると銀河につづく墨書の陸に灯の影ちらちらと──夢のよ
うに美しい所であった。
四の巻終り
==========
五の巻
(一)
四ヶ月過ぎた。
宇和島の汽船の甲板で吾白浴衣の袂をそよがした涼しい夕風は今六甲颪の骨身に浸む時
候となった。僕は吾三畳の室の西窓に寄り、入り日を追って飛び行く烏のむれを目送って
向見ずに故郷を飛び出した去年の今頃を想っていた。窓の下は一面の枯芝生に砂利道が縦
横について居て、二十四五から十五六迄の青年が、今しがた食堂を出て、かしこにぞろぞ
ろ、ここにがやがや賑やかな群を作っている。その向うには長方形の二階造りの窓の何箇
も明いた建物がいちまつに並んでいる。ここはどこ? 無論関西学院の寄宿舎だ。僕は終
に関西学院の生徒──第三年期生となったのである。
四ケ月前宇和島から来て、
初めてここを覗いた時は胆を潰した。
(田舎者ではあった哩
《わ
い》
)
。神戸を少し山手に離れて、六甲摩耶の諸山を背後にいただき、淡路島を右手に見て、
玩弄の舟を浮べた盆の様な摂津湾を一目に眺むるその位置すら已に過ぎたものと思われる
に、教場、寄宿舎、食堂、礼拝堂と幾棟となく建て離して、これが学校とはいささか勿体
ない位。
(その後一生が京都の同志社と云う学校はここよりも立派で、東京の大学はまた同
志社より十倍立派だ、と云って聞かした時は、僕の胆はまたまた潰れた。ああ潰れ易い胆
ではあった哩)
。こんな所で学問をする学生は皆学者、教師はすべて大学者、校長は聖人で
あろう、僕の様な田舎漢は都の手ぶりとか足ぶりとかも知らぬ身なれば、到底驥尾《きび》
にも稗《ひえ》にもすがれぬだらう、と予め落胆したのであった。
幸い志津牧師の懇切なる紹介状があった為、幹事も清水とか云う教師も細かに世話をし
て呉れ、それから羅生門より尚恐かった試験の難関も、一つ過ぎ、二つ通り、僕の汗搾器
械と称して居た彼代数も兎や角通り、平均して七分と云う出来は、吾れながら出来したと
云って宜かも知れぬ。唯心痛して居たのは、英語(読む方ではない、話す方だ)であった
が、意外な事もあればあるもので、会話の試験場に出て待って居ると、頓て闥を排して入
って来た試験場の西洋人と、顔見合わして愕然、こっちが「ああ」と云えば、彼方も「お
お」と呼び、試験はその方のけで先づ握手する始末。これは別人ならず、曾て宇和島警察
署で僕が不十分の通弁をした彼米人イルキー=ブラオン氏であった。小説の様な奇遇だ。そ
れから今般この校に入学するようになった次第を、先方は問う、この方は答える、やや暫
くして試験にかかったが、僕は意外の奇遇に力を得て大に放胆的英語をふり廻わした。無
論沙汰の限りの成績であったが、ブラオン氏は破格の七点を恵み、加之入学の上は一週二
回宅に夜話しに来ないか、そうすれば英語の進歩によほど効力があるであろうと云う話を
した。実に非常の厚意で、僕は心から感激したのであった。
101
とにかく試験は済む。月謝束修を納めて、僕は第三年級に編入された。それと同時に幹
事の斡旋で、教場の掃部頭《かもんのかみ》に任ぜられた。即ち教場の内二室丈、朝夕一
回ずつ掃除する役を命ぜられたのである。しかしその月給の四円なるものは、月末にあら
ざれば入らぬので、束修月謝書籍及粗末千万の古テーブル古椅子ランプなどの雑用品は、
すベて兼頭君の餞別にかかる金円の中から支弁せられた。実にこの回の事は、もとを云え
ば道太郎君初め諸氏の尽力によるので、僕は入学済むと先づ母に報じ、次ぎに道太郎君及
志津牧師、兼頭氏、さては西内氏におのおの礼状を出したのであった。
(二)
四ヶ月経てば、学校の様子も大略腑に落ちて、僕も先づ関西学院生となり了したのであ
った。
西山塾、育英学舎のそれに引易えて、学科は整頓して居る、教員は完備して居る、教場
が立派で、生活便が比較的に備わって、要するに雲泥の相違である。而して西山塾が勤倹
力行を旗幟とし、育英学舎が自由の大旆《たいはい》をかかげた如くに、この学校は耶蘇
教を精神として居る。
校長片岡氏は仙台の藩士、維新の際は錦旗に抗して白河口に血戦し、
その後明治政府に対して已み難い対抗の一念は激烈なる自由主義を執らせ、身命を擲って
国会開設の請願運動に尽力して居たが、一朝翻然悟る所あって耶蘇教を信じ、爾来一身を
捧げて青年の教育に従事して居ると云う事である。左ればその耶蘇教には一種武士的有志
家的精神が加味して居て、外国宣教師などは随分不安の眼を以て眺めて居たが、青年は喜
んでその嚮導に従うと云う風であった。
已に耶蘇教を以て精神として居る学校であるから、朝は授業の始まる前に必ず礼拝の式
があり、日曜は無論安息日となっている。書生のテーブルには大方小形の新約聖書がのっ
て居、夜十時頃そっとガラス窓から覗いて見れば、必らず一室に一人か二人は椅子に脆い
て就寝の祈祷を捧げている。本科の外、別に高等英語神学科、また邦語神学科なるものが
あって、本科生はその邦語科を呼ぶに反故科の渾名を以てして居たが、それでも耶蘇教の
精神は校内に満ち満ちていた。凡そここに一の範囲を支配する大勢力があれば、そこに偽
善的服従者と奇矯の逆流者を生ずるは必然の勢である。左れば関西学院にも、耶蘇教全盛
については、随分人知らぬ花柳の遊をしながら日曜には殊勝らしくつまらぬ説教長々しい
祈祷に耳傾け、酒臭い口をそっと拭って讃美歌を口ずさむ者もあれば、耶蘇教を世わたり
のつるとすがってはパンが欲しさに「人はパンのみにて生くるものにあらず」と誦する者
もあった。また一方には気を衒って故意に耶蘇教を睥睨し、学生が聖書を広ぐる横で、小
三金五郎娘節用を朗読し、昂然として無神論を唱え、男のくせに西洋人の糟を舐る意気地
のない奴等と鼻尖にせせら笑う者もあった。僕の如きも、素よりその中に入ったからと云
って決して雷同はすまい、心にもない盲従はせぬ、独立の精神、独立の精神とどこまでも
自己を持して行く覚悟は片時も胸中を去らなかったが、それと云て無暗に軽躁の挙動をし
て駆ぎ立てるのも能であるまいと、耶蘇教には中立の態度をとって、学芸の方に全力を注
いだのである。
学科の割合に少なくも、僕は中々多忙であった。それは他の科は兎も角も、数学とそれ
から英語会話は未だ素養が足りないので、人二倍の骨が折れた。午後十時は滅灯就寝の時
102
刻としてあるので、僕は十一時頃からそっと起きて、豆ランプを持って押入れの中にはい
り、火光の漏れぬようにして、幾何と組討をした。ブラオン師の好意で、一週二度の夜話
は、雪が降っても雨が降っても必ず通った。それから例の掃部頭の役目が毎日毎日朝夕に
少なからぬ時間を殺いで呉れる。西山塾で鍛えられ、宇和島の西内で錬った体は、その位
の労は物の数とも思わぬが、どこの社会にも自力で食むを恥辱のように思う坊ちゃまが絶
えぬもので、僕等が左手に大きなばけつを提げ、右に長柄の棕櫚箒《しゅろほうき》を持
って、朝な夕な教場に通うのを、母の懐から直ぐ学校の揺籃へ渡されて忘れていても月々
八九円の為替が飛んで来て、尚その上に暑寒の新衣は勿論所嗜の食物までも取り寄せて金
が足らぬ金が足らぬと郵便毎に云って遣るお坊さま方が御覧じて、眼で笑い顋でしゃくり、
背で指すに、取り合っては詰らぬと知りながら時々は腹も立って、ソクラテス夫人ではな
いが雑巾の汁を頭から浴せて力行宗の洗礼を施し、長柄の箒押とりのべてその脾弱な胴腹
を横薙にして呉れむかと焦つこともあったが、また虫を殺してじつと堪忍の歯を喰しばっ
た。しかし人の鬱憤は何度にか漏れずには居らぬ。僕の憤は学芸の方に漏れて、驀地(ま
っしぐら)に勉強したので、冬期の試験には三十幾人の頭を飛び越して、二番と云う成績
を得たのであった。
(三)
学校の生活は、昔も今もどこもあまり異らぬもの、同じ月日も将来の眼鏡には永く、過
去の眼鏡には短かく、日とよみ、週と繰り、月と翻して行けば、一年の暦は夢の間に大晦
日まで見てしまうのである。
月曜日の朝の起にくさ(一週勉強の初日であるから)金曜日の夜の快よさ(関西学院で
は、日曜を心霊の安息日、土曜を肉体の安息日として、一週五曜を勉強週としてあった)
これは強《あながち》ち僕ばかりではない、皆そう言っている。愉快なのは、一日では晩
餐後、一週では土曜の一日である。一日の課終り、夕飯が済めば、満校の生徒三人、五人、
打連れて学校の周囲を運動するのである。而して往復には必ず東の居寮と西の居寮の間の
広場に寄るので、この場が自然学生の「フォラム」になって、ここに十人、かしこに二十人、
重立《おもだ》った学生を中心として宗教政治文学の得失から近来賄《まかない》の良否
に至るまで、なにかの談をする。発言自由、
(冷評も自由)去就随意と云う結構至極の小議
会、学校の輿論は大抵ここで卜《ぼく》せられる。夏の新月の夕など白浴衣黒がすり、こ
こにそこに環を作って、教場の大時計が八時を報ずるに、本意なく、散り行くこともある。
夜は殊に黙読を励行してあるので、幾個の居寮の窓には読書の灯あかあかと射して居ろう
とも、人無きが如く静かだ。唯戸外は必ずしもこの限にあらずで、冬季寒月昼の如く冴ゆ
る夜などは、豪傑がった青年が雲井竜雄や頼三樹の悲歌を高らかに吟ずる声の、さながら
胡笳《こか》の如く霜夜の空に震うて、幾多游子の腸を断つのである。夜は十時には如何
なる事があろうとも、燈を消し寝に就くの定めで、十時半頃になれば、全校寂々として虫
音と月のみ醒め、三百余人の夢魂はそつとガラス窓をぬけ出して、或は太政大臣(明治十
八年の官制改革前だから)になり、落魄れて学校の小使になり、三井三菱の婿になり、橋
下に薦《こも》着た淑女と結婚し、或は借金の劔が山に角が生えた友人の鉛筆で追い上げ
られ、或は母の懐に帰省して飽くまで餡ころ餅を喰い、試験に落第して唸り、卒業式の洋
服が出来て笑い、三百人の夢は即ち三百種、一々記せば筆が禿《ち》び、「成功」の女神に
103
願かけたらば、娘一人に婿八人と云うものを、三百人の婿様は、と女神も美しい首をひね
り給う外はあるまい。
朝寝日、洗濯日、間食日、入湯日として土曜日は聖別されている。明治の宰予《さいよ》
が朝九時十時頃まで床にもぐって、悪戯友達に蒲団剥がれて大にあはてるもこの日。韓信
が貧に漂母の努まで兼帯とは何たる因果ぞとこぼしこぼし覚来ない手ぶりで綿入の丸洗と
云う新発明の洗濯をする秀才が井戸側に集うもこの日。それから例のあみだは室毎に行わ
れて、さまざまの使命を帯びた大使、公使、代理公使の膝栗毛は下町の道に絡繹《らくえ
き》として、蜜柑、煎餅、豆、餅菓子の輸入おびただしく、えらい静かなこと、御留守だ
そうなと部屋の中を覗いて見れば、お静かな筈、皆猿轡を召して居るのである。竹の皮蜜
柑の皮乃至豆の皮は土曜に於ける関西学院の産物であるとは、どこの地理書に出て居るの
かしらん。
しかし土曜日の本色は、その遠足日たるにあるのだ。晴れた土曜の朝、学校の門に立っ
て居ると、足が三本もはいる様な大きな白ずぼん下をはいた、或は季節によって赤青毛布
を被った、大のステッキをふり廻わした青年が三々五々西東を指して欣々と出で行くを見
る。夕方門に立って見ると、この等の連中が足は重く、財布は軽く(もとより軽く)草臥
れて、しかし愉快らしく、帰って来て井戸の水で顔や手足を洗って、食堂に入って、賄方
の恐慌を起すを見る。実に攝播の春はよく、秋はなお好く、風景は面白く、歴史の懐古は
なお面白く、楠子の墜涙碑、九郎、無官大夫の須磨一の谷、明石舞子布引箕面、生田の森、
尼ケ崎、
(大阪京都や奈良の大遠足は除いても)だだつ子の高平太や、太つ腹の等持院殿や、
正直小気の左中将や、腕白の藤吉や、凡そ日本の歴史で最も興味ある時代の興味ある事蹟
は、方数里の間に取りこめて、好歴史を妙風景に入れて見るは、水晶の盒に金剛石を盛っ
たように、春朝秋日、つえを曳く毎に、僕の心を躍らして、彼久太郎先生をして「分明千
年攻守勢、 著論誰逐買誼風」
(ふんみょうせんねん
こうしゅのいきおい ちょろんたれ
かおわむかぎのふう)と吟ぜしめたインスピレーションは、百尺の高樹を動かす風がまた
その樹下の一草を物かす如くに、僕の心を動かして、僕をして今迄にない史的趣味と藻思
とを涌出するを覚えしめた。
(四)
土曜日が遠足日なら、
金曜の夜は演説夜である。
演説文章は青年の気焔を吐く二大煙筒。
関西学院では学生の手になった一二雑誌(無論筆写の)があって、月に一回位新聞雑誌閲
覧室に出るのであったが、演説に比すれば微々たるものである。金曜の朝食後、食堂の外
の板壁 (この板壁は学校の掲示場で、賄退治の檄文、書籍売却の広告、咋夜ダアインの進
化論を先生に聞いて今日堂々と駁論をする一夜学士の講演の引札《ひきふだ》、十傑投票結
果の披露、その冷評など、凡百の公掲文字はここに張られる)を見ると、曰く、蓋世会、
興風会、曰く何会、何会の名を以て「鳴呼東洋文明の開拓者は誰ぞ」の、
「涙を揮て吾満天
下の同胞に訴う」のと驚く可き演題を弁士の名と共に掲げてある。期に及んでそつとその
場を覗いて見ると、
テーブルにランプが一つ置いてあって、広い教場に聴衆が無慮十数名、
これはと一驚を喫するが、その僅少な聴衆に対してとうとうと演説する弁士の熱心と雄弁
にはまた再驚を喫するのである。金曜の夜、庭に立ってぢいと聞いて居ると、かしこでは
104
「諸君よ」
、ここでは「ノオノオヒヤヒヤ」盛なものだ。
西山塾、育英学舎、その生徒は重に士族の一階級、範囲はたかが一県内に限られて居た
に引易え、関西学院はとにかく関左に雄視して居る私学校だけ引力の及ぶ所も広く、種々
雑多の分子を包含していた。
「おますさかい」の京男、
「ばってんくさい」の九州男、
「しゃ
がばい云うな、しばくぞ」と罵る四国者、中国、関東(関東は少数であったが)士農工商
の子弟がそれぞれの国風、族風、職風、家風、自個の風を持ち寄って、基督教の精神を含
んだ教育を受けるので、さながら芋の子洗うようにごっちゃごちゃと賑やかで面白い。
学校を横断するのが学級の区別で、縦断するのが精神的区別である。縦断的には、関西
学院は凡そ二派に別れた。俗派(即世間派)非俗派(または信徒派)即是である。而して
之を細別すれば、両派おのおの豪傑組、才子組、尋常組、の三つに別れる、俗派は非俗派
を呼ぶに、迂闊、無気力、などの語を以てし、非俗派はまた俗派を気の毒な者視している。
学校の性質から云えば、無論非俗派は実子で、俗派は庶子だ。而して上級になる程信仰が
一致して、
(即ち信徒の数が殖えて)行くので、この縦断線は垂直線よりも、寧ろ対角線と
云ったが適当であろう。
新入の学生は未だ物馴れず、故参《こさん》の学生は大人ぶって妄りに動かぬ。その間
に介立する僕等の階級は蓋し最も活動する階級で、而して恐らく最も各種の人物に富んで
いた。
赤沢、即ち俗派の豪傑組を代表する男。曾て玄洋社に居たそうな。屈強の壮士、肩を掉
《ふ》って歩くのと、破靴と、政論とで名高い「政治家」。教課書《原文のまま》よりは新
聞を読んで、この学校は時事に冷澹(これ丈は僕も同感) だと、居常《いつも》憤慨して
いた。
俗派の才子組を我級に代表するは馬場。頑は丁寧に分け、ペアス石鹸を使い、出るには
玉虫のように光る着物を着て、
机の抽斗の奥には梅暦をかくし、誰にでも調子を合わして、
実はうまい飯くい道ばかり考え、また時々は鼻で信者を笑って世間知らずの時勢おくれと
云っていた。
要がなければ三日も言わず、湯には一月も入らず、五年の間抱茗荷《だきみょうが、紋
の一種》の紋付の真岡木綿の羽織一枚で通し、先生も知らず書物にもない新発明の方式で
幾何の難問題を釈《と》く「思想家」遠藤は、非俗派の豪傑(外面から云って)組の尤物
《ゆうぶつ》である。
学問は出来ぬが、口がうまく、如才が無く、親睦会の幹事、先生や他の級へわたりをつ
ける時の交渉委員、
「交際家」の川田。左る町家の息子とか、十銭の貸金を毎日友人に督促
って、五厘の焼芋の隠食して、他人が菓子買へば真先に飛んで来る佐藤。どこの悪婆に舌
切られたか、舌切雀の舌足らぬ言様しながら、莞爾しながら、詐の名人、借倒しの大統領、
「来る、来る」と云って居る為替は終に来ず、
「返えす、返えす」と云う借金は決して返え
さぬ男、何時か食堂の真中に推参な穢多に踏み込まれて雪駄代の二十銭を大音に強請まれ
ながら、直ぐその翌日から平気に水菓子屋小間物屋を荒らしてあるく「楽天的」の深水。幾
何学の表紙に「脳充血醸造之活機《のうじゅうけつじょうぞうのかっき》」と書き、万国史
の表紙に「六千年之老翁」と洒落れ、数学の教場では簡単な問題に一時間も書きかけた方
式を消したり書いたり黒板と睨めっくらの立往生をしながら、詩歌が達者で、歴史の教場
105
では竪板に水の如く応答する「文学者」 の清浦。質問が癖で、読書が細かで、凡そ翻るがえ
した頁には決して半点の疑義をも剰《あま》さぬ「学者膚《はだ》
」の喜多川。粗末に本を
読み散らして、質問には一として満足な答が出来ぬくせに、試験には何時も最高点をとる
「胡麻化屋《ごましかや》」の本間。家許が富豪の養蚕家で、学費が沢山、甘い物が沢山、
それで人間も少し甘い所につけ込んで、寄ってたかる蒼蝿のぶんぶん云うのを吾徳風にた
なびく草ぞと心得、得意がって居る当世「チモン」の山岸。口に俗物を嘲り、眼に凡骨を
冷晒《あざわら》い、始終苦って逆って自ら「皮肉家」を以て擬しながら、実は夫子自ら
俗骨でまします小宮山。
「法螺」の異名となった沢。信仰で及第する(と云われる)武者小
路。今日は日曜の説教も聞かず、聖書枕にインガソオルの排耶蘇教論でも莞爾として読ん
で居るかと思えば、明日は涕泣悔悟大声をあげて祈るヒステリー性の「瘧」
《おこり》信者
の松本。この等の中に俗派もあり、非俗派もあり、籍は向うに置て当分こっちに寄留する
者もあって、一寸容易に分らない。僕の如きは蓋し俗派の尋常組──寧ろ凡庸組に属して
いた。
(五)
若し大なる困難は小なる辛苦を楽に思わせ、皆無は貧乏を富の如くに思わせるものなら
ば、僕が曾て経た所を以て、今の遭う所に比べる時は、僕は実に楽に且富んで居たのであ
る。掃部頭の役目で勉強時間が少なかろうとも、着物が田舎じみて居ようとも(私立学校
にも最早美服の風がぼつぼつ入り込んで来た)人が三度入浴する時は自分は一回がようよ
うと云う程金力に短かろうとも(僕は何方かと云えば潔癖家の方であったから、湯に入る
かわりに、何時も寝る前に、井戸端で冷水浴をやっていた。菊池の水垢離と云って同級間
に有名なものであった)そんな事は何でもないのである。されば僕は入校以来、賄征伐の
同盟軍にも加わらず、就寝時間が過ぎてから毛布かぶって学校の籬をのり越し饂飩牛肉食
いに行く連中にも加わらず、教場で教課書の蔭に小説本を広げ先生に質問されて慌てて質
問の質問する仲間にもはいらず、そこここの店に借り散らしてつい一丁の湯に行くのに道
の八丁も遠まわりし催促者の影が見えると戸棚の奥に息を凝らす者にもならず、借金して
着物をこしらえ不義理の金で洋食喫ってビーフステーキを切る手つきのうまさを婢に誉め
られて得意になり、早く紳士になって見たさに五円の時計の鎖だけ金被せを閃めかして、
神戸から大阪へ行くに一寸中等汽車と洒落れて見る組にも入らず、只管《ひらすら》に勉
強勉強とかかっていた。それも一つは僕の身辺に競争者があったからだ。
競争者は僕の同級生、僕に一歳優りの矢吹周三と云う中国生れの青年である。実にその
容貌と云い、性質と云い、玉の様な人物で、少しも才はぢけた風はないが、恐ろしく明瞭
な頭脳を持っていた。学才の上から云って肩以上は儕輩《せいはい》を抽《ぬ》いている。
そので寡言で、親に孝行で(家許には年寄の両親があって、あまり豊では無く、只管に倅
の立身を待って居たそうな)その学校に於ける籍は俗派に属して居たにかかわらず、校長
も教師も皆非常に望を属していた。僕は入学の初から、この青年の優然として首座を占む
るのを心憎くく覚えて、例の負けじ魂をふり起し、彼取って代る可しと腕を扼ったが、ど
うしても取て代わられぬ。毎日の成績、毎期の結果、常に雁行の態である。皆が教科書一
つを持余して汗になって居るのに、彼は平気に書籍室から色々の洋籍を借りて来て読んで
いる。果ては僕も到底彼を凌駕するの望を絶った。
106
彼はあまり人と交わらなかった。人が彼に親しまぬのか、彼が人と親しまぬのか、とに
かく彼は独歩の姿であった。文義的に独歩と云ってよかろう、それは夕方の運動にも彼は
独り離れて歩んで居たからである。僕は彼と競争して勝ち得なかったにも拘はらず、しき
りにその人を床しく思い、彼もまた僕に与えるの一瞥は他に向うの眼に異なっていた。し
かし如何したのか、顔見合わしては莞爾しながら、また毎日教場や食堂で顔合せながら、
ついしみじみ話したことも無かった。唯一度(それは明治十八年の春期の春方であったと
思う)彼が学校の庭の芝生生に足投げ出して、何か書を手にしながら、それを読んでも無
く、ぢいと入り日を眺めて居るのを見て、僕はそこに立って居ると、彼が気づいて笑む、
僕が答えて笑む、果ては長い間立って居た沈黙の関がとれて、はじめて親しい話をした。
その本を見ると英語の詩集で彼はグレーの「墓畔」の詩を読んで居たのである。僕は先づ
彼が学力の綽綽余裕あるを羨んだ。彼は唯淋しく笑むのみである。僕は彼が将来の多望な
るを羨んだ。彼は入り日を指して、
「人間の一生にいくら精出しても、事業の額は知れたものですよ。日は今日入っても、
また明日出ると云うことがちゃんと分ってますが、人間は日が入れば最早駄目です、実に
人の生涯は冬の日よりもまだ短かい、その短かい間に何が出来るものですか」
「でも耶蘇教信者は永生《かぎりなきいのち》があると云うですな」
「永生! 永生! 真に永生があったら愉快でしよう──しかし僕は耶蘇教信者ぢゃな
い。僕は永生を信じないですよ。しかし人間は実につまらぬですな、エライ人になって栄
耀の花を咲した所で、こんな無心な草花になって (彼は脚下の蓮華草を指した)子供に
摘まれた方がまだ優《まし》かも知れんですな。目的目的と皆が騒ぐが、僕にはその目的
が一切分からぬ。
人は何の為に生れて来るのか、その目的が先づ分らぬじやありませんか。
学校を卒業して、大学にでも入って、官員か教授にでもなって、親を養って、──それが
目的とすれば、目的もつまらぬものぢゃありませんか。そんな事を考え出すと僕は時々真
暗になってしまうのです」
僕は大に驚いた。一校の秀才として、前途有為の資を抱いて、何人にも望みを属されて
居る矢吹君にして、この事あろうとは実に意外の限りである。
「智慧多ければ憤激多し、智
識を増す者は憂を増す」
。
多学が矢吹君の脳をかきみだしたのではあるまいか。
しかしながら更に意外な事が僕を待っていた。一夕の話はそれぎりになって、間も無く
春期の休暇になり、矢吹君は帰省した。帰省したが、何時までたっても帰校せぬ。学校で
も心配して問い合わせたれば、実に驚く可きではないか、矢吹君は帰省後二階にばかり閉
ぢ籠って居たが、或朝あまり下りて来ぬので、母親が行って見ると、矢吹君は鴨居から兵
児帯をさげて、縊死して居たとの事である。
この変報を聞いた僕は涙も出なかったが、
実に頭から冷水を浴びせられる心地であった。
(六)
湯漬の箸を擲って好敵手の物故を歎じた英雄を学ぶ所ではない、僕は実に云う可からざ
るの感に撲《う》たれたのである。ああ矢吹君は逝いた、彼は一級の首座を僕に遺した、
しかしながらその座と共に彼は自家の懊悩を僕に伝えた。
107
うらうらと長閑な春の野に立って、天外遥かに笑めるが如き遠山を眺めて居ると、忽然
湧いて出た一団の雲見る見る日を遮って、満目《まんもく》の景味も風情もないようにす
うと曇って了う──これがあたかも僕の今の境涯である。実に僕は十七年来この世に住ん
で、色々憂い事辛い事があるとは云っても、心は面白く愉快に過して来た。何かは知らず
前途に限りない愉快が待って居るように思われて、ちとやそつとの困難は青年の早足に跨
いで過ぎるのであった。唯進む、唯知ると云う面白さに (一は秀才と云われる嬉しさに
──さながらおう早い、斑《ぶち》よ、走れと云われて尾をふりふり息を切って犬の走る
ように)僕は当《あて》もない当を当にして無暗に勉強していた。しかしながら今や足を
とどめて考えねばならぬ場合に遭ったのである。
ああ矢吹君は逝いた、玉の細く秀でて全校の望を負った矢吹君は、最早地下の人となっ
た。彼才学も、希望も、人生の目的に関する疑問の懊悩も、今は一片の骨と共に土中に埋
もれて居るのだ。
「明日知らね吾身と思えどくれぬ間の今日は人こそ悲しかりけれ」
。
僕は実に矢吹君の死を哀む。しかし今日人を哀む吾身は、また何時人に哀まれるかも知
れぬ身である。ああ死、死は実に底知らぬ淵の如く吾前途に潜んでいる。全体僕は何の為
に勉強するのであろう?せつせと急いでどこへ行くのであろう?行きつく先は死とすれば、
何の為めに生れて来たのであろう?死んでどうなるのであろう?気がつかなければつかず
に済むものの、一たび気がついては幻の如く影の如く身に添い寝ても醒めても人をせめて
せめて最後までははなさぬこれらの古い、古い、しかし永久に新たな疑問は、今や黒潮の
如く吾脳中に漲《みなぎ》った。
外部の生活は少しも以前にかわらぬ。相かわらず、五曜に勉強して、二曜に休息し、秀
才矢吹のあとに秀才菊池の名は次第に校内に聞えて来る。しかしながら僕はさながら千鈞
の鉛塊を心に帯びて往来していた。歴史を読むランプの蔭にも彼疑問が幽霊の如く現われ
る。夕飯後皆と一所に騒いでいても忽然「何の為?」囁く声が聞える。体が弱った故かも
知れぬと思って、心もち勉強を掟えて、土曜の遠足に精出して見ても、矢張駄目だ。青葉
を吹く風にも心は驚き、摩耶の面に薄れ行く夕日の光も人生の短かきを警めるような。独
居が何となく凄くなって、無理に人中に出て、笑ってふざけて見ても、意味もない高笑が
吾を嘲るように聞えて、またもとの独居に追い返えされる。しかし独居の静寂には、彼疑
問がロッキー山の如く頭上を圧して聳えている。否、──この疑問は断じて遁れられぬ。
必ず解釈されずには居らぬ。死? 解釈? 断じてその一を取らなければならぬ。
僕は志津牧師から貰った彼小形の新約聖書を取出して、馬太伝第一章から読み始めた。
さながら砂を噛む様だ。日曜の説教祈祷にも耳傾けて聞き出した。つまらぬ。心にもない
嘘八百を云っているように聞える。ちょうどその頃学校に不思議な事が始まった。信仰復
興とか事の起りは、よく分からぬが、何でも上級の者が無暗と祈祷をしたり泣いたり、ま
るで狂人の態をし出すと、それが学校中に蔓延して、果ては泣く、わめく、真昼中庭に平
伏して大声に祈る、天を仰いで奴凧のように両手をあげて感謝する、銅鑼声を張り上げて
讃美する、二階の窓から飛び下りて足を折る、町へ説教に押し出して巡査に咎められる。
いやもう癲狂院丸出しで、学課も二三日休業と云う有様。僕の級でも過半この病が伝染し
て、何時も落第点とる男が突然僕の手をつかんで、悔い改めよ、祈れよ、信ぜよ、感謝せ
108
よと一息に説いて答えも待たず「ああ天の父さま、この罪ある兄弟を」なんて祈り出すと
云う騒ぎ、僕は実に人生の疑問に悩まされて居る、且僕は他人の感情を重んずる点に於て
決して人後に落ちぬ積であるが、皆の様子があまりと云えば軽操で、馬鹿馬鹿しくて、折
角の基督教もこれでは南無妙法蓮華経と五十歩百歩だ、宗教は神経病の異名で、天国が癲
狂院の別荘なら僕は地獄に落ちても宗教は嫌だ、それに僕は行いを謹んで決して人の前に
言う可からざる事をすまいと司馬温公を学んで居る者を、
「罪ある兄弟」の「悔改めろ」の
とは生意気なと、一種の嫌厭と反撥を起して、吾と吾心の戸を閉ぢ、冷眼に見ていた。癲
狂院の情態はざっと一週間ばかり続いたが、やがて藁火のように消えて、あとは当分凹ん
だ眼と、落けた頬と、それから彼精神的地震の揺りかえしに意気地なく足をとられて信仰
の絶頂から忽ち不信の谷に野ちた者が俗派の冷笑を招くのみであった。
やがて第三期の試験も済んで、夏休となった。待かねた輩は試験の点が分ると、直ぐ柳
行李をしめて、新しい浴衣に着かえて、莞爾帰郷の途に就く。僕は学校に留守居ときめて
居たが、
あのイルキー=ブラオン師がこの夏京都の比叡山に避暑中道楽に植物採集をするの
で、その手伝に来なかと誘って呉れたので、学校に居残って痩蚤の餌食になるよりも優で
あろうと、七月の上旬ブラオン師と叡山に天幕生活をすることとなった。
(七)
西洋人は気沢山なもので、夏になると一家たずさえて海に山に自然的生活を楽しむが、
中にも京阪神の異人連が好んで寄る処は比叡山だ。山の八合目あたり、杉や樅の大木の間
の勾配やや緩な所に杭をうち板を渡してざっとした床をこしらえ、如何なる強雨長雨にも
堪える厚いゴムひきの天幕を張って、ここに盛暑二ケ月ばかりが間起臥眠食するのである。
夏季の盛りには、三百人からの人数が部落をなして、矢張天幕張の礼拝堂が出来、真青い
樹の間に白い天幕がちらちら覗いて、オルガンや讃美の声が清涼な山気にのって来るなぞ
は、すこぶる面白い。信心もペンキ臭い会堂よりは却って旧約の昔忍ばれるこんな天幕の
殿に起るものだ。
ブラオン師の家族は夫妻に、それから西洋の護謨(ゴム)人形に霊入れた様な四歳ばか
りの女児と、クック夫婦とそれだけである。僕の部屋は、もとブラオン師が書斎にする筈
の小さな天幕だ。それは勾配の大分急な所に、一方は崖、一方は高い柱にもたしてしつら
った三畳位(二畳だけ畳が敷かって居た)の小屋で、母屋との間には板橋がかかっている。
一寸番兵小屋のように、一方口開けて居るが、夜はここも塞いで眠る。道具と云っては白
木の几《つくえ》が一つに、ランプに毛布と煎餅蒲団が一枚、それ丈だ。西南の方に明と
りの小窓があって、夜はこの窓から月が覗き、昼は眼をあげさえすると青黒い樅の梢を見
越して遥かに京都の町に煙があがるのを見る。雨が降る日なぞは、昼でもぐるりと戸をた
てて天幕も青く染まる程ぽとぽと帆布を鼓く木間雨《このまのあめ》の音を聞きながら本
を読んで居ると、何だかロビンソン、クルソオにでもなった様な気持であった。
ブラオン師は少し剽軽(ひょうきん)なしかし実意のある人で、僕を可愛がって呉れる
上に、
他の洋人が多く陥り易い弊──人の感情を重んずるを知らず、無暗に我を通す癖──
もよほど少なかったので、僕は非常に愉快を覚えた。天気の好い日には、或は柄長網を肩
にして蝶取りに行ったり、また例の採集胴乱を下げて、叡山から果ては鞍馬の辺まで珍し
109
い羊歯や種々の植物を渉猟《あさ》り、咽が乾けば杉山の湿つぽい気を嗅いで古株の下に
見出した苔清水に命を湿し、腹が空けば杉ごけの上に足投げ出して古新聞に包んだ「サン
ドイッチ」に舌鼓をうち、あまり遠あるきして烏の声に不図頭を上ぐれば、杉本立を漏る
入り日の光閃々と谷を隔てる山又山は紫に打煙って居るに驚き、いざと立帰る一足一足に
谷は暮れ山は黄昏の靄蒼くああ困ったとふりあふぐ顔にうつすり照り初めた新月のおぼつ
かない光をたよりに幾山越えて、真黒い木の間に燈火を認めた時の嬉しさ。それから飯が
済むと、
早速採集したものを乾燥紙に挿んで、
眠くない時は鈴筆で羊歯などの写生をする。
面白い職務だ。ブラオン師は何時も「菊池さん、あなたあるく達者あります」と僕の健脚
を誉めて呉れた。ブラオン師もこの頃は僕の英語ほどには日本語が使えるようになったの
である。
実に愉快な生活、ああこんな生活は、嘸《さぞ》兼頭君が喜ぶだろう、と思うと矢も楯
もたまらず、僕は東京なる兼頭君に手紙を出して、帰省のついでに是非来て見給えと書い
た。一年位は実に夢の間に立ってしまう。僕が初めて道太郎君を識ったのは去年の夏君が
帰省の時であったが、最早一年立って、また夏休になった。君と僕の間には文通が絶えな
かったが、今この手紙を書くについていよいよ光陰の早くたつを感ずるのであった。
その手紙を今日京都に買出しに行くと云う隣の天幕のクックの処へ頼みに行って帰ると、
横手の崖道から西洋婦人と打連れて下りて来た十六七の女学生は、見た様なと思って見る
と、きってはめた様な話だが、実際去年松山で会った兼頭君の許嫁のお冬と云う少女だ。
一年会わぬ間に、束髪の前髪を切って、すつかり女学生になっている。意外の対面に驚い
て、どうしてここに御出なさると問えば、梅花女学校が夏休みになったから、昨日女教師
に連れられて来たので(それは少し晩れていた英語を暫くでも勉強する積りで)
、しかし八
月には兼頭と一緒に帰省する筈で、兼頭も来月初にはここへ立寄ることになって居ると話
した。所謂事実は小説よりも奇で、天の調合は往々にして小説家の配剤よりも誂えたよう
に行くものだ。
果して日ならず兼頭君の返書が来て、且驚き且喜んだ様子が歴々楮表に躍っていた。
「ど
うしても兄と小生の間には宿世の縁ありと申すべきか、面晤《めんご》の日を待兼候」と
書いてあった。こっちはなお更待ち兼ねて、月がやっと八に入ると、今日か明日かと待っ
て待ちくたびれて少し腹が立って居ると、或日麻の夏服を着た眉の濃い青年が片手に夏帽
をとって満面の汗を拭き拭き息をつきつき莞爾やって来た。
前以てブラオン師の許可を得て置いたので、僕は兼頭君を早速僕の小天幕に誘って、顔
を洗はす、着物を更えさす、砂糖水を飲ます、無暗に笑う、同じ事を何度も繰りかえす、
嬉しさがさす様々の狂態を為尽くして、それから早速お冬君にも知らせ、三人三様の喜に
夏の日の傾くも忘れて打興じ、晩餐にはお冬君の女教師に喚《よ》ばれて、それから夜は
僕の天幕に一枚の毛布を二人して引張りながら、別来無限の情を叙べた。
月は傾いたが、話は中々尽きぬ。東京書生の風儀の漸く乱れて、生活問題が次第に青年
の頭脳を支配する事。兼頭君は来春学校を卒業して、大学に入る積で、昨年来学課の側に
その準備をして居たので、非常に多忙であった事。その故でもあるまいが、少し心臓をわ
るくし、時々息切れがする(僕は大に驚いた、しかし兼頭君は、大したことがない、帰っ
て暫らく休養すると直ぐ治るであろう、と云った)事。去年の夏休は思いがけない友を得
110
て楽しかったが、この年は淋しかる可き事。僕が云った言もあるので、東京に行くと早速
松村を尋ねて見たが、已に何れへか転校して、踪跡《あと》が分からなかった事。などを
兼頭君が物語れば、
僕はまた手紙に書き漏らした学校の生活や、入校後一年間の僕の感触、
前途の空想、などを倫次《ついで》もなく吐露した。手紙の上にもあらわれて居たその人
のゆかしい人品、
ゆったりと人を包む感化、今一年ぶりに枕を並べて寝物語をして見れば、
ますます立優るその人柄、実に有つ可きものは朋友、その友の中でも兼頭君程好きな友は
ない、と僕は関西学院三百の学生に思い比べて、したたかに思い入った。
明くる日も興は尽きず、話も尽きぬので、兼頭君は僕の強請にまかせ、一日出発を延ば
して午餐過ぎから比叡の最高峯なる四明が嶽の絶顛《ぜってん》に登った。お冬君は明日
出発の仕度に忙しくて居たが、僕等が炎天に曝されて山登りするのを見て、兼頭君を呼び
とめて洋傘と鍔広の麦藁帽を渡したので、僕は帽をかぶり、兼頭君は傘をさして、延暦寺
の裏を通り、杉を穿ち小笹を分け、次第に上った。兼頭君が息切れがするので、休み休み
上って、彼将門が純友と遥かに皇城を俯瞰したと云い伝える辺へ来ると、洛陽の平原は一
目の中に落ちて、京都の町や、村や、寺を擁する森や、青田や、鴨桂の諸川や、それから
遥かに淀山崎から彼が大阪の方角だろうと思うあたりまで、僕の指す指頭に俯瞰図を広げ
たように見える。僕等はなお少し上って、唯有る樅林を彼方へ出ぬけると、忽ち脚下に閃々
と琵琶湖の半面が現れた。
「絶景!」と兼頭君は喘ぎ喘ぎ見とれる。僕も満面の汗を揮って、大息をつきつき、高
山の巓《いただき》を繞る「オゾオン」の気を水の如くに吸った。
岩を払って、曲りくねった松の蔭に足投げ出し、なおも滲み出る汗を拭って、僕等は暫
し言もなく絶景に見とれた。脚下にあつまる山又山は笋《たけのこ》の皮の如く重なり重
なって、その下には半面の琵琶今まさに午後の日を満面に受けて鏡の如く光っている。湖
を縁とる條《りぼん》よりも狭い平地の青いのが田で、出崎に一寸ばかり秀たのが松で、
煙があがって居るのが大津、矢橋、坂本、堅田、北の大きな半面は出張った山に遮られて
見えぬが、左手の比良と湖の向うの三上山は手招きでも出来そうな。恰今長浜通いの小蒸
汽が大津を出て行く。玩具程の船が、糸程の煙をはいて鏡の上を滑って行く。耳を澄ます
と、蚊の様な声がする。汽笛の音であろう。
やや久しく黙って居たが、兼頭君は突然莞爾《にっこり》と僕を顧み「如何です、聖書
は相かわらず読んで居ますか」と問うた。
僕は赤面した。彼信仰復興の騒ぎ以来、僕は聖書をなげうっていた。所謂「人心」はず
るいもの、色々な口実を見出しては、人生の問題を兎角後へ廻わしたがるのである。
僕は一切を打明けた。
彼矢吹君の事を話すと、兼頭君は非常に残念な顔をして、
「惜しい、
惜しい」と云い貌に聞いていた。それから僕の懊悩に来ると、ぢいと聴いて、しきりに頷
いて居たが、信仰復興に反撥した一條を聞いて、熱心に説き出した。即ち信仰復興は精神
界の大旋風の様なもの、これに逢えば石も地に飛び木も天に舞い色々不審議《ふしぎ》な
現象を見るのであるが、要するに心靂の活動は決して冷やかな常識の縄墨《じょうぼく》
を以て律す可きものでない、現にインスピレーションとか、感激とか云って霊が霊に火を
燃やすこともあるではないか、信仰復興は即ちその大なるものである、
「ホラシオ、天地の
111
事はおまえが理学に説き尽くされぬ事もあるものぞ」で、宇宙の事は智識の到り得ぬ境が
ある、信仰の眼でなければ上帝の面は仰がれぬ。説くに従って、兼頭君の眼は閃めき、舌
は燃え、実に僕は兼頭君を識って以来、こんな厳粛な容子を見るのは初めてである。
「菊池君、信仰は決して愚夫愚婦の事ぢゃない、士君子の本分です。人間は宇宙の一分
子、どうしても宇宙の大本原と一致しなければ、満足は出来ない。上帝を追い求むるは人
心の本能です。貴君も現に求めて御出だ。心の懊悩は即ち霊の親を慕う煩悶です。何故そ
のままに放擲って置きます? 同じ上帝の懐に抱かれても、眼を瞑って孤立を嘆くと、確
かに至上者の懐にあるを自覚すると、何方が幸福です? 迷って死ぬのと、信じて死ぬのと
何方が幸福です? 人生の疑問は何時までも放擲して置く可きものでない、
時は刻々過ぎ行
くぢゃありませんか」
兼頭君は黙した。僕も黙って俯いた。
「時は刻々過ぎ行く」一句、悲風の如く耳を掠めて、
心に限りなき哀思をかき起し、僕は唯悄然と頭を垂れて何時までも何時までも沈想の淵に
沈んでいた。
どこやらに、かすかな物音がし出して、それが次第に近く、近く、ゴロゴロゴロゴロ云
い出すと思うと、四辺がすうと薄闇《うすくら》くなった。ふつと気づいて、ふり仰いで
見れば、比良の方角が真闇になって、何時湧いたのか洋墨《いんき》色の夕立雲がむらむ
らむらむら天穹《てんきゅう》を捲き上っている。それが天心に達したかと見ると、西の
半穹を目がけて逆落しに崩れ落つる同時に、真黒い蔭が白い光を追うて横一文字に湖水の
面を奔《はし》った。
「夕立!」
「早く!」
声を合して二人が立上る途端に、黒雲の天を裂いて桃紅色の電《いなずま》が五條六條
つづけざまに湖水にたばしる。
「早く、早く」
声かけて一歩踏み出す端を、颯《さっ》と吹く湿風一陣。風にまじって葡萄大の雨粒ぽ
つり真額《まっこう》を撲つかと思えば、雲踏破る宙の一声頭上に轟いて、雨が滝流しに
落ちて来た。
「菊池君、傘、傘」
兼頭君が呼ぶので、一本の傘に二人が頭をつき入れて、また五六歩。
「駄目です、駄目です、僕について御出なさい」
云い棄てて、僕は両手に帽をおさえ、しきりに募る雷の爆々《ばちばち》砕けて、火花
を散す稲妻の光を便りに、最寄の寺を指して駆け下りながら、ぴかりとする拍子にふりか
えると、兼頭君は洋傘をつぼめて手に持ちながら、ずぶ濡れになって、二三歩あとから喘
ぎ喘ぎついて来る。
「走れますか、息切れはしませんか」
「何有《なあに》
」と云う声は闇に聞えて、稲妻の君が笑顔を見するも一瞬、また一しき
り真暗の闇に漲る暴雨を衝いて、漸く杉の森の辺まで来た、と思うとたちまち、おびただ
しい電光に真白の雨を透して森の隅々残なく見る郡時《かのとき》遅く、地軸もゆるぐ物
響《ものおと》の頭上に破裂して僕は俯伏《うつぶせ》に撞《どう》と倒れた。
112
(八)
ああ僕は最早《もう》その後の事を書くに忍びぬ。
吾に返えって小降になった雨の中に立上った時の心地。五六間向うの大杉が二つに裂け
て、弗々《ぶすぶす》煙が立って居るので、さては落雷と気がつく刹那、はつと兼頭君を
ふりかえり見れば、右手に洋傘を握ったまま仰向けに倒れて居るのを見た時の心地。駈寄
って抱き起し、
「兼頭君、道太郎君」と呼べど叫べど、頭はうな垂れて、顔にも手にも血の
気が絶えて居るのを見た時の心地。狂気の如く寺に駈け込んで、助を求めた時の心地。折
よく山に来て居た西洋人の医者が駈けつけて来て、診るより早く、これは心臓破裂だ、最
早駄目と、公言するのを聞いた時の心地。お冬君が真蒼になって、女教師と走せて来た時
の心地。僕が頭をかかえ、医師とクックが足腰をかかえて、天幕に復える時の心地。かな
わぬまでもと医師が百方手を尽くしても、去った霊魂再びかえらず、大息と共に「いけな
い」と云う宣告をあたらめて聞いた時の心地。僕は到底書くに堪えぬ。
それから僕が京都に走せて、宇和島の兼頭家とお冬君の実家に電報をうった時の心地。
死骸を護して、来る人を待つ間の心地。翌翌日の午後兼頭君の厳君が松山からよこした人
と前後して駈けつけて来た時の心地。厳君を導いて遺骸の側に立った時の心地。その日礼
拝堂で基督教の葬儀があって(兼頭の厳君は宣教師等の好意を辞する筈であったが、お冬
君が堅く請うてこの式を行った。お冬君がこの際の挙動は年端も行かぬに、見上げたもの
で、吾兼頭君の許嫁たるにはじなかった)それから直ぐ鳥辺山の火葬場に行った心地。父
と許嫁とに伴われて、宇和島の土になりに行く一片の遺骨を送って、七條の停車場に、去
り行く汽車の煙を(僕は去年宇和島の埠頭で目送った兼頭君の汽船の煙を思い出した)見
送った時の心地。千鈞の足を曳ずって器械的に叡山に帰った時の心地。ああ僕は到底云う
に
忍びぬ。
夢、夢、実に何もかも夢だ。兼頭君が来たのも夢、死んだのも夢、骨を送って帰ったの
も夢、何時かこの夢が醒めてああ苦しい夢だったと寝汗拭って轟く胸を抑える時がありそ
うな心地のみして、僕は事のあったその日から涙一滴出ず、器械的に奔走しながら、脳は
石の如く固まって、唯時々欠伸ばかりするのを、彼医師が見て、無理に僕の脈を検て、寝
がけに飲めと散薬を呉れた。ブラオン師はしきりに僕を慰めて、且信仰を勧めて呉れた。
しかし僕は薬は飲まぬ。信仰の勧めはなお更嫌である。僕は黙って聴いて居たが、心には
否、否、否、僕は信じない、死すとも信じない、と頭を棹《ふ》って居たのである。ああ
僕の疾《やまい》は体にはない、僕は実に天を怨んだのであった。恐ろしく欺かれた様な、
弄《なぶ》られた様な心地がして、芥子粒程の霊に火の如き謀叛心を燃やしたのであった。
兼頭君を活かして返えすならば信じもしよう、兼頭君を眼前に殺して置いて、それで信ぜ
よとは、実に甚しい矛盾ではないか。僕は信ぜぬ、決して信じない、頭上に百千の雷が落
ちようとも、
「恐怖では信じない」
、と言わねど思い、思わねど感じ、真黒になって頭を棹
っていた。
叡山の生活は最早何の面白味も無くなった。僕はどこにも出ず、暇さえあれば、吾天幕
に寝てばかり居たが、兼頭君の遺骨を送って帰った五日目の夕方、僕はぶらりと天幕を出
113
て、彼事のあってから初めて頂上の方へ登った。美しい夕で、日はいまし方入ってしまっ
たが、夕の光明は山に満ち、森の隅々まで月夜でもなく亦昼でもない一種匂やかな光がさ
していた。登る一歩一歩に、過ぎる日の記憶は巻物を繰るようにあらわれて来る。ここで
は兼頭君が足をとどめて息をついた。あそこでは兼頭君が俯いてびろうど苔を摘んだ。あ
あ兼頭君──さわさわさわさわ小笹を分くる足音が後にしたと思えば、誰も居ない。僕は
立留まってぢいと考えて居たが、また上って、先日兼頭君と腰かけて話した彼《あの》松
蔭の岩の辺《ほとり》へ来た。
絶頂はまだはのかに夕の光をとどめて居るが、脚下の峯も谷も最早黄昏の煙靄に包まれ
て、琵琶の水が遥底《はるかそこ》にほの白く見えるのみである。今延暦寺で撞き出した
暮れの鐘が、靄を分けて山から山、谷から谷と伝って行くその行衛を目送って、僕は何時
までも何時までも立っていた。ああ兼頭君──どこを見ても人の影はない、唯「時は過ぎ行
く、過ぎ行く」と云う声がどこかに震えて居るように聞える。
下るともなく下って、杉の森の辺まで来ると、最早日は暮れて露に咽ぶ虫の音が四方に
起った。不図眼の前に白いものが現われた。立ちとまってぢいと見ると先日の雷に裂けた
杉の幹である。僕は知らず識らず先日の道をおって、僕が気絶し兼頭君が永眠したその跡
へ来たのであった。引すえられるように足下の切株に腰をおろして僕は良《やや》久しく
默想に沈んだ。
星の雫か、露か、冷たいものがぽったりと額に堕ちた。驚いて眼を上げると、真黒い巨
杉の簇々《むらむら》と天を刺す間から、星が降るように晃《きら》めいている。未だ初
更《しょこう》の頃であろうか、高山の夜は森々と、虫の声寂しく、耳を澄せば、眠るが
如き吾心の鼓動も仄《ほの》かに聞える様な。
忽焉《たちまち》
、この真黒い森林の奥より、波の寄するが如き声が起った。慄然とし
て僕は耳を傾ける。声は一山の老樹を戦がして颯と千万里の空に消えて了う。
僕は地に平伏した。
(九)
僕が十八年の生涯に、吾霊の底から振蕩された経験が二回ある。
一は故郷妻籠の菊池家先祖代々の墓所、一は洛東比叡の山上。前者は愛する母によって、
後者は愛する吾友によって。不宵僕の如き者にも、なお一茎の草に傍《そ》う影程の歴史
があるならば、この両回の事は実に僕の生涯の歴史の新紀元を作ったものであった。しか
しながら誰が、母をして友をしてこの愚かなる心に新生命を注がしめたのであろうか。
ああ無神論者は何とでも云い給え、功利教、快楽宗の信者は何とでも笑い給え、僕は如
何あっても全能者の摂理を認めずには居られぬ。眼を瞑って吾十八年の生涯を繰って見る
と、吾を導く至上の指が鮮やかに見えるではないか。迷っても、拗《すね》ても、駄々を
捏《こ》ねても、忘れても、忍び忍んで来い来いと手招き給う大なる父の面影が涙の眼に
見えるではないか。手をかえ品をかえて吾を教育し訓練し啓発して行く大智大能の鞭の影
が鮮やかによまれるではないか。僕は信じなくても、霊が信じずには居らぬ。
「信ずる──謙《へりくだ》って、真に赤子となって、身を投げかけて」
寂々たる高山の星夜に、
吾友の斃れし地上に平伏した時、僕は心に斯く叫んだのである。
114
僕は死に到るまでこの一夕の感を忘れぬ。
僕は死に到るまで吾友の身を以てした説教を忘れ得ない。
どうして忘れられようか、己を殺して僕を活かし、己の肉の生命を以て僕の霊生を贖《あ
がな》
った吾為の小基督をどうして忘れられようぞ。
ああ兼頭君は実に僕の為めに死んだ。
死は万事の終りである乎《か》
。否、兼頭君は生きて居る、確に生きている。眼には見えず
も、必生きている。その人品、その性情、その感化──兼頭君それ自身は現に僕が心に生
きて、日々僕を誘掖《ゆうえき》して行くではないか。僕の理想の中に、僕の戦闘の中に、
僕の感謝の念に、兼頭君は何時までも生きている。
僕は兼頭君が僕の側に斃れた彼の八月六日を記念の日として、その日に遭う毎に、人を
避けて黙思を凝らす。僕の書斎には、平常その写真(これは兼頭の厳君から乞い得た君が
浴衣がけの写真で、東京に出た年撮ったのそうな。一緒に撮ろう撮ろうと云って居たが、
ついその折がなくて、永別となった)が、写真掛の上から莞爾に僕を眺めている。而して
その写真と眼を見合はす毎に、僕が心の鼓動は高まるのである。
思えば、花に百合の香なくして、然も人の気品は限りなく香るものだ。
僕は青年にして夭折した人々を思う毎に、二つの面影が直ちに眼前に浮かんでくる。一
は彼矢吹君の面影で、一は兼頭君の面影である。二人ながら秀づ可くして半途に折れた者
──僕は実にこれを悼む。而して矢吹君を思うと、腸を絞らるように苦痛の涙を落すが、
兼頭君の記念は同じ涙を催すにも、さながら滋雨の如く生活の戦闘に枯れ果てむとする吾
心を潤おすように思える。
何故であろう?
五の巻
終り
六の巻
(一)
関西学院に於ける僕の第二年は、何の異条《いじょう》もなく始まった。相も変わらず、
朝早起してバケツと箒を提げて学僕の務をする、田舎臭い弊衣を着て往来する、丈くらべ
では何時も最尾に落ちて教場では何時も最首に座わる僕を見る者は、去年の菊池と今年の
菊池と少し国訛りが減った外には何の異なる所も発見しなかったであろう。僕の外部の生
活は実に少しも以前に異らなかった。
しかしながら張りつめた氷の下に湖水の心は躍り、降り埋む雪の下に火山の情は燃える
が如く、静平《せいへい》なる生活の裏に僕の精神的発酵作用は吾ながら恐ろしい勢を以
て行われて居たのである。
僕はそれを秘していた。
それは俗派の嘲弄を恐れる故でもなく、
またあながち己が心の動擾を濫りに人に漏らすの瑞《はした》なきを厭うが為でもなく、
吾心の八重霧を分けて一線閃めき落ちた不思議の光、厳の如く頑《かたくな》なる魂を透
して一滴したたり落ちた天の霊漿《れいしょう》を、漏らすまい、零《こぼ》すまいとわ
ななきわななき、かき抱いて居たからである。少女子の初恋を秘する如く、僕はこの新光
115
を心の奥に秘めた。
僕はここに一々吾信仰の歴史を辿るまい。曾て志津牧師から贈られた、半歳前に一たび
読かけて擲《なげう》った、その聖書を再び取り出して、閑を偸《ぬす》んで幾度繰り返
えし読んだか。土曜或は日曜に同輩を避けて独り山に上り森に隠れ読みては祈り、祈りて
は想い、或は疑い、或は信じ、或は悔い、或は喜び、かって吾冷笑した彼「瘋癲」
《ふうて
ん》の挙動を幾たび親《みずか》らしたか、それは説くまい。
唯、僕は聖書を読む毎に、奇跡や異様の言行の雲霧を分けて、
「神の子」と名のる基督の
次第に大きく、大きく、その頭がまさしく天に聳えるまで偉大に現われ、その放つ光はい
よいよ照り輝やいて日よりも眩しく、昔吾理想として崇めた百の偉人英傑もさながら日の
前の星の如くに光を失い、仰げば仰ぐほどあやに妙なる天の光はこの大なる「プリズム」
を通して見えると云うよりも、寧ろこれが即ち光そのものの源──即ち神の顕現と覚え、
僕はここに全く心の戸を開き──若くは開かれ──乾ける海綿の水を吸う如くにこの光を
吸ったのである。
ああその光をば吾霊乳の如く吸った時、その光が櫛の如く吾身心を梳いた時、
「吾」を挙
げてその光の流れに浴びた時、僕は実に口云う能わず心思うだにも堪えぬ千万無量の愉悦
の泉の如く湧き出るのを禁じ得なかったのである。夜半に不図眼ざめては、何故とも知ら
ぬ涙が雨の如くに流れる。書を読んでいても、何時しか「感謝」の頭が低れる。僕は実に
吾心の喜に悩み、何故吾はエリヤの衣の如くにこの肉を脱ぎ棄てて、直ちに天に行かれぬ
のであろう、と喜のあまりに嘆いた。
明治十九年新年第一の日曜日に、僕はブラオン師から洗礼を受けた。洗礼を受けたその
日に、僕は事の顛末を細かに書た手紙と共に、小形の新約聖書を母に送り、且兼頭君につ
いで僕が信仰の親とも云う可き志津牧師にも年詞に添えてその由を報じた。
(二)
僕がなお故郷妻籠に居た頃──十歳の秋であったと思う──或日二三の友達と山に椎拾
いに行って、帰途に踏迷ったことがある。何でも最早日没近い頃だに、行っても行っても
椎や樫やらが暗く茂って居て、物音と云ては唯足下にがさつく熊笹の音ばかり。三人泣き
顔を見合わして、茫然立って居たが、不図友達の一人がこっち行って見ようと唯有る雑木
山を指したので、僕等は草臥《くたびれ》足曳ずってその小山を攀《よ》ぢ、絶頂に立つ
より、あっと見惚れた。僕等の立つ山の下には、驚く可き一の大きな谷が横たわっている。
金の帯の様なものが谷の中央を閃々とくねって、その向うにもこっちにも紫の雲の様なも
のが簇々《むらむら》として、処々に青いものがあがっている。「ああ奇麗、何と云う処だ
ろう」と吾を忘れて旦訝り旦眺めた。ああそれはどこでもない、矢張り妻籠の谷、金の帯は
大川で、紫の雲は村や森、青いのは僕等が家より立つ夕炊の煙であったのだ。誰がこんな
幻術を行ったのか、魔法使はどこに居る、と見廻わしても、異形の者はどこにも見えない。
唯火の玉のように真紅な日輪様が素知らぬ顔して今西の山に入りかかっていた。僕はその
時の驚異を今も歴々《はっきり》と覚えている。
。
人の生涯には、こんな事が時々あるものだ。人生の旅にも、或山角を一歩曲がると、忽
焉《たちまち》見馴れぬ新山川が埋伏より躍り出して眼下に開展するに会うことがある、
116
真昼中ぽつかりと眼を開いて見れば、一睡の間に宇宙はぐるり彼方向いて、眼を驚かす新
天地、ここはどこだろう、全体吾は今迄どこに何を見て居たのであろう、と思い惑う様な
ことがある。畢竟新光即新天地(ひつきょうしんこう すなはちしんてんち)。僕は今その
新天地の前に唖の如く彳《たたず》んだ。
唯一片方寸の心に無辺の宇宙を千変万化さす光の作用も奇妙なものではないか。恋人が
見る薔薇色の宇宙、聖徒が観ずる白光の天地も、究竟《つまり》吾霊の或外来の霊力と摩
擦する途端に発する火花の作用で、悟を聞くの新天地を見るのと云うのは、この発火の瞬
間に心眼の閉ぢてまた開く一刹那の働を云うのであろう。これは固より一次一回と限った
事ではあるまい。若し細かに観察したらば、人間は母胎を脱《いで》てからまた幾回生れ
るも知れず、天地開闢は毎日の事、あたかも幾度開けるか知れぬ。人も所謂一節《ひとふ
し》ある人間になるまでには、幾回が筍の皮をぬいでは長《ふと》るものだ。しかしその
間に自づから大小軽重の相違あるを免れぬ。
僕は今その最も重大な時期に会ったのである。
僕が明治十九年の上半はいとも平和に、着々関西学院の課程をおって行く間に、一たび
心に射し入った新信仰の光は実に驚く可き勢をもって、内に漲り、僕の理想も目的も批評
判定の標準も、要するに吾思想の風は何時しか悉皆一変してしまった。この新しい光で見
れば、昔僕が眺め眺めして居た目的の青雲も実は浮雲のはかなきよりもはかなく、名誉の
光、黄金の花、学位、勲章、地位、勢力、所謂富貴利達《ふうきりたつ》なるものも、子
供が玩弄の線香花火の火花よりも空しく思われ、従来僕の馬刺輪《すばあ》となって居た
空漠なる希望は根底から崩れて、更に覚悟をあらたむ可き必要を感ずるのであった。何と
なれば、僕は従来「人」を最後の判官とし観客とし、人の眼の前に菊池慎太郎を輝やかす
を目的として居たが、今は人を措いて直ちに「神」の前に立つ身ではないか。
僕は熟々
《つくづく》
自家の天職を考えた。
世に最も貴重なるものは即ち天来のこの「光」
である。世に最も貴重なる働きは即ちこの「光」を伝える事ではあるまいか。僕は課業の
暇に、書籍室から色々の宗教書籍を借り出して来て、読んだ。中にもザヴィエー、ヘンリ
ー、マアチン、リヴィングストーン等伝教師の伝記は深く僕を感激せしめた。僕は之を読
む毎に、彼等が世の棄て難いものを棄て、忍び難しと思うものを忍び、命を擲って大光を
暗黒の民に伝える高潔、熾烈の精神を慕うて、涙の巻上に滴るを覚えず、ひそかに思った、
僕の天職もまた彼等の轍を踏むにあるのではあるまいか。
(三)
昔ルーテルはその友と道を行いて居た時、落雷に友を撃たれて、己は免れた。それがや
がて発心の一動機となって、終には宗教改革の大立者となった。彼は固より稀世の人物、
一粟《いちぞく》よりもなおはかない吾身をそれに比する訳ではないが、事も相似て吾醒
覚も原はと云えば彼落雷に兼頭君を喪った時からである。思えば思う程、この事件にはど
こやらに吾を導く皇天の指の痕がよまれるように覚え、兼頭君が不言の遺言もここにある
ように思い、所謂名を揚げ家を興すにも、昔は専らその外面の光華をのみ考えて居たに引
易え、今はその内実を先にして、上天の聖旨、良心の嘉賞には印度の富も千載の名も弊履
《へいり》を棄てる如くに拠《なげう》つの覚悟を定め、どうしても僕の使命(と云うも
烏滸がましいが)は伝道師だと思い、関西学院の普通科を修めた上では、高等英語神学を
117
修めて、一生をこの聖事業に獻げようと、洗礼を受けて三日日の夜学校の後の松林に默座
して心に誓った。
僕は愈々耶蘇教伝道師と心を決した。而して早速に伝道を始めた。心に溢れる喜を汲ん
で誰かに分たねば自らその重に堪えかねたのである。朝日の光が先づ接吻するは高山の頂、
人の心の何事にも先づ向うは愛する人の上、僕の伝道は先づ故郷の母から始まった。前に
も云った通り、僕は受洗後早々聖書を母に送って、吾信仰を述べ母の信仰を勧めた。母が
初めてその手紙をよんだ時は、
(後に母自ら僕に話したように)手紙を引裂き、聖書を抛ち
而して泣いたと云うことである。それとは知らなかったが、僕は母の返書に接して、意外
の手強い反対におどろいた。何でも母は僕が学資の都合より己を屈して心にもない信仰を
したように思いなしたと見えて、悲憤の詞が書中に満ち満ちていた。そんな腑甲斐ないこ
とで、菊池家の再興が出来るか、どこに男の節操があるか、町人百姓(関西学院の書生に
平民が多いと云う事は曾て僕の書中に並べて置いた)と一所に居ればそうにまで根性が腐
ったか、七年前妻籠の墓所で母が云い聞かした事をよもや忘れはしまい、と書き、それか
ら手紙の末には、母もおまえが学資の事には一方ならず心を苦めて、何れその内関西学院
を卒えてまた高等の学校に移る時の学資の補《たし》にもと去年以来狭い家に蚕を飼い、
忙しい中に糸をとり、夜も晩くまで紡糸をひき、一粒の米、一枚の紙屑も慎太郎が出世の
たよりにとしまつして貯えた金が少許ある。その金をこれから送るほどに心にもない信仰
など必ず思い止まって呉れ、一度汚れた体は中々もとの清白にかえらぬもの、おまえも今
が一生の大事な場合と云う意味が一尋《ひとひろ》の余も書き列ねてあった。
僕は大きに驚き、その夜徹夜して僕が信仰の理由顛末を三丈ばかり書いた、即ちこんな
次第であるから決して為にすることあっての信仰では無く、また学費は日々教場《きょう
じょう》洒掃《さいそう》の報酬と夜学(僕は書き落したが、去秋以来僕は人の周旋で兵
庫の唯有る英語夜学校に一週八時間教えに行って、資金の欠を補って居た)の報酬で立派
に支弁して行くので、一度の負債もなければ、勿論金の食めに己を枉げることもなく、且
身体は強壮で無暗な勉強は為ぬによってかならず御安心なさるようにと、くりかえし書い
た。
この手紙は母を満足せしめぬまでも、
幾分かその心配を減ずるの効を奏したと見えて、
おりかえして来た手紙は、最初のよりよほど和やかな調子になっていた。しかしながら、
信仰の事は断じて勧めな、おまえも一応も二応もとっくり考えて見るが可、若い時には善
悪共に一図になるもの、必ず向う見ずな事をすな、大事は干渉がましい様だが一応母が耳
にも入れた上で打って貰いたい、と書いてあった。要するに、僕が伝道の第一歩は、意外
の失敗に帰したのである。僕は方略を一変して、唯祈祷と忍耐を以て母の心の和らぐを待
つことにしたが、初陣の失敗は当の敵が吾母だけに少なからぬ失望をおこし、且つ今後彼
伝道の目的を明かす日には名誉心の熾《さかん》な母と僕の間に必ず齟齬《そご》衝突の
起る可きを予想して、ひそかに心を痛むるのであった。
しかしながら僕の目的は更に動かぬ。この夏は若し都合が出来たらば帰って顔を見せて
呉れぬか、と母の手紙にはあったれど、僕は帰省を明年に延ばし、今年の夏休は予ねて伝
道会社に頼んで置いた通り夏期伝道に岡山に赴くことに定めた。
(四)
118
聖書一冊抱えて中国に飛び込んだ僕は、惟うに比類少なき無鉄砲──年少気鋭な伝道師
の一人であった。
右に剣を握り、左にコランを握る回々教徒のそれではないが、僕は真理の押売り、圧制
的伝道、強迫的説教もしかねぬ程、熱心であった。今から思えば、忽然天来の光に射られ
て少し眼が眩み気がふれて居はしなかったかと危ぶむ程激烈な伝道師であった。僕は思っ
た、他の牧師宣教師伝道師などが、伝道の困難だの、日本人は宗教心が乏しいの、と云う
のは実に腑甲斐ない話で、畢竟熱信が足らぬ故だ、一個の霊魂を救うには一万度の苦艱(く
なん)も吾甘んずる所と云ったザヴィエーの熱心があるならば、日本を挙げて基督教国と
するも十年を出でずであろう、僕の如きは新参の信徒、一ケ月の伝道期は短かくも、身を
粉にして働いたらば、土産話の一つや二つ持って帰られぬことはあるまい、働かう、働か
う、と吾れながら燃えるばかりの熱心をもって、伝道地に乗り込んだ。僕の職務は二様、
信徒の奨勧と、未信者の誘導である。僕は二つながら精出した。中国教会の雄鎮《ゆうち
ん》と云われるだけ信徒は三百名、立派な会堂もあって、盛んなものである。僕は牧師の
指図によって、一々信徒の家を訪問した。金満家の信者を訪れては、
「富める者の天国に入
るは如何に難いかな」と云う聖書の文句を引いて、大に慈善を勧め(何となれば、その頃
教会の伝道費を募るに、この金満家は身代に似合わぬ少額の出金をした。僕は思った。僕
が彼身代の主人なら、生活費だけを残して余は遠く施してしまうと。しかしこれは有たぬ
者の考えで、実際金が出来たら案外彼金満家同ようになったかも知れぬ。富限の財布は小
さくて、貧乏人の腹太は昔からあり来った事実がある。しかしその頃の僕は全くの共産党
であった)或は忙しい菓子屋の店頭に上り込んで、カステーラの焦げつくを気にする亭主
に頭を掻き掻き「誰か思い煩ひてその命を寸陰も延べ得んや」の説明を聞かせ、青年職人
の無駄話する処を襲っては明夜の祈祷会に欠席する決心を翻させ、越後上布の単衣をねだ
る嬢様の頭上に「価貴き衣を以て飾とせず善行をもて飾とせよ」の句を浴せ、所謂奨励の
職務を熱心に尽したので、「熱心な菊池部」の名と顔は忽ちにして三百の信徒に知られ、中
にも青年は僕の言を喜び納れて、果ては来って教会内の不平を漏らしなど、気焔すこぶる
盛になったので、教会の執事が「菊池君、何卒若者を余り教唆《おだて》ずに置いて下さい」
と内々頼んで来ると云う有様であった。
青年の不平も無理ではない、教会には色々弊害があった。
(どこの社会に弊害が無ものが
あろう?)
。中にも僕の不快に堪えなかったのは、平等無差別真に精神的共和国なる可き教
会に種々の閥があり、従って嫉妬猜忌陰謀など云う悪徳がちらちら角を出して居たことで
ある。
(僕は忘れて居た、信者も矢張人間であったことを)。それは僕が着したその夜、祈
祷会の席で直ちに感じた所であった。座席一つ見ても、八字髯、金縁眼鏡、絽の羽織が真
先に座って、
後になる程見すぼらしい風をしている。
多く教会費を出す者は低い鼻も高く、
県会議員県官代言人など云う肩書のある肩は自然に張って、北米土人が功名の人頭と一般
牧師が手柄話の実例にずらりと並んでいる。金閥、官閥、職閥、──地位閥ではないが。
古株の信者の長々しい祈祷感話は欠伸を噛み殺しても聞き、新参の信者の祈祷は往々にし
て司合者の呼鐘に胴ぎりされる。これも一の信閥ではないか。最も片腹痛いのは、祈祷会
後伝道の事について相談会があって、或青年の信者が口角沫を飛ばして熱心に或建議をす
119
ると、種々批評が出て、立消となったは宜かったが、やがて重々しい年寄株が頼りに咳払
して述べた建言は、一も二もなく採用され、加之《しかも》その建言はまさしく立消とな
った青年の所論と同じ意味であった。これも一の閥ではないか。
僕は余り奇怪に思ったので、後で牧師にその事を話すと、牧師は笑って「年の功は仕様
がないものさ。言を弾丸に譬えるなら、信用は火薬だね、火薬がなけれげ弾丸は透らない。
先あせらずと火薬を積むさ」と答えた。その後僕は自身の意見が当って居ることの見す見
す知れきってあるに拘はらず、青二才の言として排斥軽蔑され、後では却って吾言った通
りの事が、他の年長者の名でずんずん通って行くのを見る毎に、歯痒くてたたまらず、ビ
ットと共に「白髪何の尊ぞ、年少何の咎ぞ」と罵る言をわずかに呑み込んでぢつと堪える
折々は、牧師のこの言を思い出るのであった。
しかしながら世俗は兎も角も、神聖なる教会にこんな閥が行われたりするのは、実に奇
怪なる話と、僕は窺に憤って、攻撃の機会を待っていた。
(五)
性急の伝道師は真黒になって働いた。六十余日の滞在に、名高い後楽園も見ず、只管(ひ
たすら)職務に従事した。信徒の奨励は素より、未信者の誘導も非常に骨折った。連夜説
教、路傍説教、膝詰祈祷、悪戯小僧が投げる石の矢面にも「神よ、彼等を赦し給え」と祈
り、
長張短李が面白半分のまぜつかえしにも笑顔を見せ、
情迫っては汗と涙を一時に揮ひ、
声を張上げ、地鞴を踏み、腕をふりまわし、天を指し、
「まるで狂気」と云れて少しも恥ぢ
なかった。
僕は更に遠征の領分を広げて、単騎貧民窟に乗込み、或は稼多村を訪うた。基督はパン
の屑を少しも失わぬように拾い集めよと宣ふた。社会の層を棄てず、その霊魂を拾い集め
よ、との聖旨であろう。僕は悪臭を穿ち、汚穢を潜り、襤褸にまぢり、癩病の婦にも「貴
君」と云って信仰をすすめ、皮臭い稼多の手を握っては「兄弟」と呼んだ。昨日筐底を探
って、古い日記を見出した。左に掲ぐるは、即ち明治十九年の夏僕が伝道地の貧民窟を訪
れて帰ったその夜認めて置いたもの、一字も更えず載するも強ち物数奇の故ではない。一
歩踏込めば、臭気鼻を撲つ。町とは名のみ、獣の小屋の幾個ともなく並べるなり。砂地の
上に細き木竹を立て、この竹木の骸骨に藁席を纏ひつけたる小屋、素より天井もなく、窓
もなく、甚しきは床もなく、戸もなし。折しも雨降りの後なれば、砂湿ひて物のしめりた
る臭気は歩々鼻に浸み、黒める藁よりは汚れし雫、涕涙の如く滴れり。足駄を一方に着け、
片足古草履を穿ち来るは贅沢、大抵は皆跣足、何の顔を見るも蒼黒き顔のみ。この頃の不
景束に立上る煙も絶々なり。
余は、左手に聖書を抱き、右手に一の最も憐れなる小屋の戸を引離して、内に入れり。
暫くは物の善悪も分かず。ややあって真黒に煤けし屋根裏と、床と見え来りぬ。床、床は
土より高きこと僅かに三寸、荒削りの板なり。この床の左の端に堆きものあるを近寄り見
れば、荒むしろを一枚敷き、上に襤褸を蔽う。襤褸の中より白きものの漏れるを、なお寄
りて見れば白髪の頭、少しく動く様なり。余は静かに揺り起せるに、白髪の頭は襤褸を出
でて余が方に向へり。八十許りの老爺なりき。干からぴて血の気更になく、眼は惘々と乾
き果てたり。涙を流す力もなしと見ゆ。
120
余は「病気」かと問う。老爺は眼を閉ぢて唯その口を指す。既にして右手もて徐ろに襤
褸を掻やり微かなる息つきて、三日食せず、と云い、余が立てる後を指せり。顧みれげ、
そこには欠け土瓶、真黒の土鍋、欠け茶碗一つ、竹箸二三本散在す。水の気もなく、火の
気もなく、冷やかに乾けり、この老人の眼の如く。
「飯釜は」と問えば、「税が出されぬか
ら役揚の役人衆が持て行かれた」と答ふ。「畳はないのか」。「それも御役人が」と答える。
余は覚えず唇を噛めり(慎云、僕はその時全くの虚無党になった。今も何か腹が立つと、
黒塗馬車に爆裂弾でも投げげたくなって困る)。彼は語をついで「体はわるし、商売は無し、
お上は厳重にとりたてをなさるし、食うことは出来ず、寝るばかり-追っ付け最早かたが
つく」と。
余は袂を探れり。袂に二十銭あり。余は直ちに出でて、米と干鰯を買い来り、之を老人
の前に置きたり、この時ここかしこより集まり来れる憐れの一群、皆羨まし気に余が顔を
見つめたり。然も二十銭はこの日の余が身代なりき。余は心に思いぬ、
「嗚呼余が白井なら
ば」と。白井は山陽屈指の金満家にて、信者なり。
この時老人の後より又一の白髪あらわれ来れり。これはその老妻なりき。彼は先刻より
暗黒の中に眠り居りしなり。未来の暗黒に移るの日も遠からざるべし。
余は聖書を開きて、彼等に暫く話し、終にその字を握り、跪きて祈れり。皆驚き、俯き
て云う「まあ、汚い手を」
。
余はこの日曜に会堂に来る可き旨を約し、帰れり。ああ社会わこの憐れむ可き輩を容れ
るの余地なきや。法律は唯富者強者をのみを護するの器なりや。彼等は世に生れて、楽を
知らず、苦んで生れ、苦んで生き、また苦しんで死す。彼等は心の楽を知らず、彼等若し
不徳の行いあらば、是れ彼等の罪にあらず。
万軍の主耶和華(えほば)の神、願くは彼等を憐み給え。
次ぎの日曜日に、彼等は果してどやどや会堂に入って来た。僕は恥しがる彼等を引張っ
て、会堂の上座に座らせた。信徒の中には、目を側つる者、憤を含む者、微晒む者、鼻を
掩う者、実に千種万様であった。中には「伝道伝道と云って、そう無暗な事をせられちや
困る」と呟やく声も僕の耳に入った。しかしながら信徒の苦情も、長くは続かない。僕の
弟子等はこの一回を限りとして、最早来なかった。而して僕の貧民伝道も長くは続かなか
った。何となれば、彼等が求むるものは、神の道よりも衣食の道、僕は「先づ神の国とそ
の義を求めよ。然らばこの等の衣食はこれに附加せられん」と説くに、彼等は「耶蘇宗信
者には御上からお金が下がりますか」などと云う。僕は自ら恥ぢた。これは自から欺き彼
等を欺くのである。僕は伝道の景物(と云うのは俗な話だが)に米と干鰯を与たに、彼等
は本品を措いて景物ばかり欲しがる。しかし景物の供給は大に限りあって、彼等の需用は
底ぬけである。この割合で行けば、僕がヴアンダルビルトかせめて三菱の親玉ならば知ら
ぬこと、僕の身代では百万遍の身代限をしても一個の霊魂を救うことは覚束ない。しかし
やりかけた事は惜しいもので、僕は少し変則かも知れぬが、衣食足而知礼節(いしょくた
ってれいせつをしる)の格で彼等の身霊を併せ救うの建議を教会に持ち出したが、彼金満
家白井翁の首唱で直ちに排棄された。そんな高価な霊魂──加之虱だらけ垢だらけの──
を買おうより、外に廉価の──加之びかぴか光った──が幾個もある、その方が上帝の経
済に適ふ、との事であった。
121
僕はこの頃の事を思う毎に、慙愧に堪えぬ。乗輿を以て人を渡す子産の仁酢を隣に乞ふ
て施す男の義には遥かに劣った無暗の慈善、先方の利益思うよりも吾私情を満足さすばか
りの仁恵、真心ではなく一種の好奇心、功名心、所謂あて気から出た奇矯の行──悪くな
いまでも幼ないと云うことは免れぬ。
ああ僕は若かった。
(六)
ああ僕は若かった、若かった。十七年何ケ月と云う齢をして、僕の眼にはなお一重膜が
かぶっていた。その膜がかぶった眼で眺むれば、理想の峯はつい谷一重、躍り越えても行
かれそうに見え、実はその道こそ紆余曲折の千万里、行く程に行く程に近くなったり、遠
くなったり、汗と血と涙を流して一生旅で暮すが人の運命と云うことも忘れ、唯一息とあ
せった結果は、忽ち息を切らして、足下の石に躓いた。
火のようになって働いた骨折は、大海に投げた一粟の痕だも残らぬ。信徒の奨励、何の
結果を生じたか。年寄株の眼顔は「若い、若い」と晒(わら)っている。未信者の誘導──
貧民窟の虱が会堂に落ちて、直ちに掃き出されたに過ぎぬ。これは僕の熱信の足らぬ故で
はあるまいか。或は僕に伝道師の資格が元来ないのではあるまいか、とひそかに惑い、ま
たその惑うのを腑甲斐ないと悶え、僕の目的が潔白でなかったのかと迷い、未だ真の信仰
と云うものを知らぬのかと焦(いらだ)ち、教会や牧師に対する不満の上になお甚しい自
家に対する不満を覚えて、僕は半精神的半肉体的頭痛を発し、僕の生涯に珍らしい不眠の
病にかかった。
腹壁切開よりも、脱疽切断よりも、苦痛は「実際」の荒々しい手に理想の眼の膜を切ら
れる時である。支那の詩人は。
「脚力尽時山更好、
(きゃくりょくつきるとき やまさらによ
し) 莫将有限趁無窮(かぎりあるをもってむきゅうをおこなうことなかれ)
」と吟じた。
しかしながらその無窮がつい眼の前に閃めくに当っては、走らずには居られぬが、僕等の
常である。走る、走る、しかし理想は映景の如く走っても追っても後ざまに逃げる。追い
疲れて、ばったり砂場に倒れながら、眼をあげてなお前方にたたずむ笑貌の「理想」を眺
むる時湧き出づる涙こそ真に人生に於て最苦最痛の涙であろう。
「老年」は吾耳に口つけて、
「詮めよ、有限に安ぜよ、無窮を趁うなかれ」と皺枯れ声に囁く。しかしながら僕等の涙
眼には、どうしても彼詐(うそ)つきの「理想」めの手招が見えて仕方がないのである、
詮らめられぬ、走られぬ、悶える──自殺は唯一歩の境だ。僕は告白する、眠られぬ夜半
に独り牧師の家の後園に出で、星だらけなる夏の夜の空を仰いで悄然と立つ中に、吹くと
もない風のすうと体を包む同時に、
「死にたい」と思う念がむらむらと起ったことは、一回
二回郎ではない。阿片を飲むように、不可思議な、朦朧な、甘美い魔力を以て吾を引つけ
る「死」の抱擁を脱れるのは中々容易ではなかった。
僕はこの心裡の動擾を牧師にも秘した。牧師は世馴れた老兵、青年の寝言と真面目に聞
いても呉れまいし、呉れた所で彼通りの気焔で居た僕が今になって阿容々々(おめおめ)
内兜を見するは、口惜い話だ。僕は默って悶えた。若し他の憂を身に担わずば、僕は少な
くも病んだであろう。他の憂と云うは、曽根君の失恋である。
曾根君は当教会の信徒、関西学院では僕の一級上で、学校の新年宴会では何時も道化役
122
をふられる人、但理科はよほど得意で教師を毎(つね)にやり込める、と云う事を知って
居た丈で、別に話もしたことは無かったので、当地に来て彼人に恋人があると云う事を聞
いた時は、やや意外であった。曽根君の心を擒(とりこ)にした婦人は矢張同教会に属し
た信者、姓は池田、名は金子、某女学校を卒業した俊秀の女学士、雪白の面、十八と云っ
ても通る当年二十一の美人(であったと思う。何となれば、青年の眼には、すべての少女
は皆美人で、美人は尽(ことごと)く賢婦人に見える時代がある。僕もその頃は蓋しこの
時期に属して居たから、僕の所謂美人は、主観的美人であったかも知れぬ。ここに青年と
云ったのは、青年男子の事で、
。青年女子にも果してすべての少男は、皆好男子で、好男子
尽くエライ人に見える時代があるや否や、僕は女でないから知らぬ。しかし西洋の俚諺に
も、女は男の不完全なものと云う事を直ぐ知ってしまうが、男は何時までたっても世界の
どこかに理想的婦人が居そうにばかり思うものだ、と云う事があるから、女性の夢は男性
よりも早く醒めるのであろう)学問は少くも中学の教師が出来、英語は米国禁酒会の遊説
員レビット夫人の演説を通弁した程の達者、オルガンピアノが上手で、唱歌がうまくて、
それで如何にもしとやかな少女。僕も一度対話の栄を得て、婦人はやさしかる可し、包ま
しかる可しと云う素論を少し述べると、彼女学士は吾を忘れたように同意を表して、不図
云い過ぎたかと云うように口を掩うてさし俯いた。実に学問もあり、淑徳もあり、畳表は
備後、女は岡山と云う内にも、地田金子女史の如きはすぐれた者と僕はしたたか敬った。
この淑女と曽根君の間に、どんな恋の歴史があったか、門外漢の僕は一向知らなかった
が、唯不思議な事は、英国帰りの文学士、加之(しかも)信者、加之百円どりの官員隈谷
規矩之介とか、風采瀟洒として十歩の外に佳香のする紳士がその旧友なる牧師を訪問かた
がた来て暫らく逗留する内、曽根君の顔はさながら渋を呑んだようになり、同時に文学士
と金子女史と相伴って夕方後楽園に行ったなぞ云う噂が立った。而して、良禽は木を択(え
ら)んで棲み、淑女はよき紳土を択んで嫁すが自然の道理、未成品の曽根と肩書の金箔ぬ
り収入の金鋲うった既製品の隈谷とは勿論比べものにならぬ、今時の世に桐の木から育て
て嫁入り箪笥作るものがあろうや、金さえ出せばいくらでも上等の既製品がある、これは
金子さんで無くても誰しも牛を馬に乗りかえる所と教会の俗論はしきりに飛んでもない方
に雷同附和していた。
(七)
或夜牧師の宅で、ロングフェロウの輪講があって、彼隈谷と云う文学士、曽根君、僕、金
子女史、その他男女四五人一座に落ち合った。この間からの評判もあるし、何となく殺気
座に満ちて、鴻門の会にでも出た様な心地であった。やがて「ハイアワサ」の篇の講義が
始まると、忽ち左る一句の解釈について、隈谷対曽根の衝突が起り、曾根君が青筋立てて
争うと、隈谷氏は冷然として、
「匹夫も志は奪う可からず、頭脳が違えば解釈も違う、最早議論は止したまえ」
「匹夫──失敬」と曾根君は立ちかかった。
「曽根君、曽根君」と牧師が制する。
「否、そう邪推をされちゃ困る、匹夫とは僕自身を云ったのです」
。
にやり笑って、隈谷氏は金子女史とちらり眼を見あはせた。実に瞬間の事であったが、
123
忽焉曾根君は身震いして躍り上り、隈谷を突倒して、二三回踏みにぢった。一座は総立。
「失敬な、君」ちと云う声。
「踏み殺すぞ」と叫ぶ声。つづいて米搗く様な響。女の呀と叫
ぶ声(これは顔をうたれた金子女史の叫であった。うったのは誰の手であったか、足であ
ったか、混雑の際よくは知らぬ。
)「曾根君、曾根君」。
「逃げ給え、早く」。
「打殺すぞ」
。平
和の家は忽修羅場となった。約五分やつさもつさもめかえした後、僕は漸々曾根君を介抱
してその家に行た。曾根君は年寄の母と唯二人士族屋敷のはづれにあまり豊かならね生計
を立てていた。
ああ僕は生まれて初めて恋の劇薬の人を悩乱さす状を見た。而して初めて、人の親の如
何程その子を思うかと云う事の一端を覗い得た。怒の反動で石の如く黙った曾根君と、お
ろおろする母君の間にはさまって、無経験の僕は如何慰めて宜か知らず、さりとてこの場
を見棄てかねて、一夜まんぢりともせず「男ぢゃないか、しつかりし給えしつかりし給え」
と同じ事ばかり云っていた。やや明方になると、曾根君の石の様な沈默は融けて、雨の如
き涙となり、戸棚の奥から竹の小行李を持ち出して、一抱程の手紙を一切の事情と共に僕
の前にうちあけた。これは金子女史の曽根君一に送った「ふみ」であった。「見て呉れ給え」
と迫られて、僕は恐る恐る一つ宛て披いて見るに未だ十五六の筆跡もあれば(近い頃のは
よほど稀であった)英語まぢりの読みにくいのもあり、歌が書いてあるのもあり、言文一
致もあり(僕は旧弊な男で、艶書は必ず変体仮名で来るものと思って居たので、この等は
やや意外であった)滑稽を云ってあるのもあり、飴の様な文句もあり、「君は妾にうつり気
あるように云い給えど、妾が心は鉄石よりも堅く侍る、君は妾が富貴利達を求むるように
思い給えど、妾の幸幅は成業の人に嫁すよりも是れより業を為す可き人と困難を共にする
に侍るを知り給わずや」
、
「兄が日本の科学界に一新紀元を開き給う日を今より信じて且待
つものはこの小妹」
、など云う句もあって、要するに証券印紙張った契約証書はないが、双
方の間に立派な默契(アンダアスタンヂング)が成立して居たことは歴然と見える。
然るにその默契を無にして、彼少女は軽薄男子に僕を見かえた、と曾根君はいかる。
「そ
のだから阿母が云わぬことぢゃない、この頃の学問が出来る女は皆斯様です、猫をかぶる
のが上手で、若い男は直ぐ欺されてしまうが、本当は中々勘定だかで、すわと云うと面を
とって如何な不実な事でもします。あんな女はいけないいけないと阿母が云い云いしたの
を、おまえが聞かないものだから、御覧な、御顔はお奇麗でも彼腐った魂がおまえの目に
もお見えか──菊池君、貧乏程つらいものはありませんねエ、何かと云うとひけげかりと
って」と母君は泣いた。聞けば聞く程、思えば思う程、僕は不思議でたまらぬ。彼淑女に
限って──万一したら曾根君の思い違ではあるまいか、こんな手紙も書いた人、あの様な
しほらしい容子の人が──兎も角もおせつかいな話だが、行って様子を見てやろうと、僕
は直ちに金子女史の家を尋ねた。
女史は居らない。父君に聞けば、昨夜電報がかかって今朝坂府の学校へ帰ったと云う。
その足で牧師の家に帰って聞けば、隈谷は昨夜立ったと云う。さてこそ彼噂も実、曾根君
の疑も実、昨夜の二人の見合わした眼の意味も分かった。咄《とつ》
、あのしおらしい顔で
──僕は実に意外に思った。而して四五日後、曾根君の母の許へとどいた金子女史の手紙
(辞令の妙を極めて居たが、畢竟その意は明白な約束した訳では無し、今後自身の事に故
障を入れて貰うまい、と云うのであった)を見ては、吾ながら切歯して「如夜叉、如夜叉」
124
と罵るを禁じ得なかったのである。僕の女性に対する尊信は、一大打撃を蒙った。
「そのだから阿母が、彼女はよくないよくないと口を酸くして言ったぢゃないか」と口
惜涙に咽ぶ母の言耳にも入れず、黙るかと思えば呵々(からから)と笑い、泣くかと思え
ば牧師を罵り(牧師が二人の媒介者と曾根君は信じて居た)彼等二人を探し出して、血の
雨降らさずには置かぬと息巻く曾根君を如何したら宜かろうかと、相談の結果、当分讃州
琴平在の親類に預ける事となって、最早休暇も四五日になった僕が途中警護の任に当るこ
とになった。
九月十日と云うに、僕は曾根君とこの初陣の伝道地を立った。教会からは「御苦労でご
ざいました」の挨拶を貰い、曽根君の母君からは「如何した御縁でこんな御世話になるや
ら」と涙ながらに船中の用心を頼まれ、吾失望やら人の心配やらに洋傘一本小行李一つの
身も重く、この失望の子は彼失恋の兄を件ふて、悄々(すごすご)と児鳥湾を乗り出した。
瀬戸海を横断する間は、片時も曾根君に眼を離さず、漸つと琴平在の親類に同君を渡し、
上帝と時日と骨肉の同情に同君の心の疵の治療を托し、懇ろに別を告げて、僕は多度津か
ら神戸行きの汽船に乗った。
(八)
保命酒・しば鰈さまざまの物売る舟、艀《はしけ》、荷舟などがさつと漕ぎ開くと、汽船
は笛を鳴らし水を泡だたせて多度津の港を離れた。
僕は荷物を蒸暑い下等室に置いて、甲板に上った。日は暑くも、
余の進行に風少しそよいで、然も海には波と云う波もなく、銅色の雲の影をひたして鏡の
様な海の面、遊山に似たる穏やかさに、乗客の過半は甲板に薄べり敷かせて、日遮の下に
胡踞(あぐら)かき肩袒(かたはだ)ぬいて持参の酒をさしつおさえつまだよくは名も知
らぬ知己と飲むもあれば、「せつせつせ」を歌う者もあり、近頃の船の競争が盛んでどこの
会社の船では船賃を一割に下げた上に手拭一筋宛て景物に呉るの、横浜まで金の一円五十
銭あれば行かれるの、この競争が続けば無賃で載せた上に金巾の蝙蝠傘の一本宛も呉れる
ようになるかも知れぬ、
こんな時に船に乗らぬは馬鹿、なんぞと種々様々の話をしている。
さながら浮世の態を縮めてここに見るように、面由くもまたあはれに思われた。実に船ほ
ど人の感を惹くものはない。上等中等下等と位は分れても、畢竟浮世は乗合舟、目に見え
ぬ船長の梶とりで、大人豪傑の火夫、水夫、歴史の船痕をあとに曳きあとに曳き、永遠の
海を乗り行けば、生れて乗る客、死んで下る客、悲喜憂歓のさまざまを載せて、見るもは
るかに思うも遠き無窮の海原をどこまでもどこまでも行く──船は如ち浮世の雛形ではあ
るまいか。
僕はそこを離れて、船尾の甲板に行った。ここには誰も居ない。半月形に船尾を覆った
格子甲板に腰をかけて機械のごとごと、客の話声、つい頭上にはたたく旗のそよぎを耳に
して、大きな蜘蛛の糸ひくように船が繰り出して行く白い船痕の一里も二里も海面に残る
を目送り、船の進むままにこっちへこっちへと流れ来る漁舟、盆石の様な島山の煙立つ人
家を載せてぐるりと廻わるを眺めながら、心はさまざまの事を思った。僕が伝道の失敗、
今日多度津在に残して来た友の身の上、その友の母の上、それからひいて故郷の母の事、
125
この年は帰省せよと云って寄越されたのを写真だけ送ってつい帰らずにしまったがどんな
に案じて居られるであろう、曽根君の母君の痛心を見ても人の子の一人前の人間になるま
でには親の心づかひは実に一通りではあるまい、それにつけても青年に恋は莟の虫よりな
ほ大敵恐る可きものである、
と思う心は一転して、
一昨年の丁度今頃ここの海を通った事、
去年の夏ここを通って帰る筈で思いがけなく比叡の山に不帰の客となった兼頭君の事を思
えば真に夢の様な世の中、人の身の上、──涙にあまる思の重味に頭は自づと垂れて、眼
は甲板を見るともなく眺めて居ると、左の方から何か黒いものが甲板を蝕んで来た。ひょ
いひょい寄って来るままに、見れば頭の大きな影法師であった。僕は不図見上げた。
紺飛白(こんがすり)の単衣に角帯の大男が、僕の顔を熟と眺め眺め立っていた。
「おまえは新五ぢゃないか」
愕然と立上るその時遅く、大きな鼻は動き、細き眼は糸のように閃めき、崩れる如く笑
って、
「はははははは、慎ちゃまだ、慎ちゃまだ、矢張慎ちゃまだ。はははははは」
(九)
思掛ない再会に、互に顔見合わせて、彼が「大きく成んなさった喃《なあ》」と見とるれ
ば、僕も新五が大分落ついて身装(みなり)も一寸竪気な商人と云った様な容子をまぢま
ぢ見詰め、暫らくは徒にやにや笑つでいた。最初彼が一寸僕を識らなかったのも道理、こ
の前新五に会ったのは僕がなお西山塾に居た頃で、
指を屈すれば最早彼是五年の上になる。
「而しておまえは一体どこに行くのか」僕は格子甲板に腰を下ろして問うた。新五も腰
かけた。
「新五でござすか(彼は自ら新五と名いうを好む)新五は大阪まで、而して慎ちゃまは
──本当に大きくなんなさった喃」とまた僕の頭から足の爪先まで眺める。
僕は関西学院に在学する事から、
夏休に岡山に行った帰途である事を手短かに物語って、
「おまえは豊前の方に居るように聞いたが、矢張炭の方をやっとるのかね」
莞爾と新五は笑って「はい炭は炭でございますが、近来は石炭の方をな」
と新五は、不同した事から肥前の某炭坑の所有主に見込まれ、今はその重手代の一人にな
り、今度もその所要で大阪に上る事を話した。実に三日見ざれば眼を拭うて見る、と古人
も云った。彼は最早昔の馬士ではない。どこかに、大勢の人を使って、物馴れた風が備わ
って見える。昔から性根の据わった男であったが、果して会う毎に進歩している。彼が大
きな鼻を見る毎に、僕は千荊万棘をつき分け押分け進んで来る豪猪の鼻を想い起こすので
ある。
「本当に久振でござした喃、慎ちゃま。ははははは斯様大きくなんなさったに慎ちゃま
は。可笑ござす喃慎ちゃま、これから若旦那と云います、喃慎──そうぢゃなか、あの──
若旦那。ははははは」
何時会っても愉快な男だ。僕も「若旦那」の御礼ではないが、
「新五、おまえ」を「中村、
君」にあらためた。
五年ぶりの話は中々尽きない。新五は事務員に談じて、僕の行李を自分の中等室に移さ
せ、それ茶を持って来い、餅菓子だ、とボーイを怒鳴り、毛布を敷いて呉れる、鞄の中か
126
ら梨子を出して剥いて呉れる、他の乗客の目を側立てて見る様な次第。問は問を促し、答
は答を生んで菓子は平げ、茶は飲乾し、梨子は心と皮ばかりになっても、話はこんこんと
して尽きない。
僕は育英学舎出弄以来の概略を物語った。宇和鳥の経験、関西学院の苦学、新五は唸々
(うんうん)唸って頷いて聞いて居たが、話し終ると極印でも捺くようにその巨頭でがく
と一つ空をついて、
「そこぢゃ(余り声が大きかったので、隣に寝て居た客が愕然刎ね起きてきよろきよろ
四辺見廻わした)新五もな、それは大分骨が折れましたぢゃ。骨は折れたが、延年寺の和
尚様(慎ちゃま、覚え居なはるか)和尚様が書いて呉れさつしやった立身出世の心得な、
一、嘘をつくまじき事、一、借金(戻されぬ)すまじき事、一、
「女と博打と大酒つつしむ
べき事、一、人間の為た事は人間に出来る事、このを毎日読んでは腹におさめたお蔭でな、
とにかく、
新五と云う和郎は嘘は云わん、
盗賊はせん男と云う事がいささかは知られてな、
まあ借銭もなし、この大きな鼻も無事(右隣りの客が笑った)
、それから慎ちゃま──若旦
那、喜んで下はれ、新五もこの頃は一通り手紙も書きますな、東京の新聞も社説論説が先
(まあ)大半分かるようになってな(彼詩の碁の歌の豚の云うやつは分かりもせねば大嫌
ぢゃがな)辛抱ぢゃ、辛抱ぢゃ、慎ちゃま、世の中は気根くらべぢゃ、面白いな」
愉快な男ではある、何だか先月来の事で少しくづをれかけた僕の気分を太鼓たたくよう
にたたき立てた。僕は妻籠の消息を問うた。彼はその方面の戦に暇無しで、僕の母の方へ
も(遠方ではあり)最早何年と云う程無沙汰をして居る位で、妻籠の方も頓斗(とんと)
出たきりだが、風の便に聞けば、菊池の分家堅吾叔父の家では、長女のお藤が養子を置き
ざりにしてのつぺりした小学教員と駆落し、性の知れぬ女を叔父が妾にして大分家内が乱
れて居るそうな。
「否、慎ちゃま、天網ばりばり漏らして疎ならず、正直が頭に神宿るで、今に彼家は丸
潰れになりますぢゃ。慎ちゃまや、お福老様は今一息の御辛抱ぢゃでな。お袋様は御達者
ぢゃろか。野田様でもお変りはなかぢゃろな」
僕は母が近頃は野田家に居ぬ事、野田家では別に変りもあるまいと思う事を話した。
新五が声の大きいので、否でも耳に入る話を、隣に居た六十許の田舎者らしい爺が聞く
ともなく聞いて居たが、この時一寸辞儀して、
「失礼ながら貴君方は野田様の御知己でございますか」
僕は親戚と答えて誰方と問うた。彼は野田伯父の隣村の隠居で、この年会社の競争で舟
賃が非常に廉いのを幸い、伊勢参宮から本願寺参詣を兼ねて上る途中と云う事を話し、
「野田様も御気の毒な事で」と挨拶した。僕はその後久敷野田家へ無沙汰をした上に、
母から何とも云って来ないので、この挨拶の返事一寸しかねて居ると、彼爺は一向頓着な
く、
「飛んだ事でございました、身代限りなさらんでも、如何か仕様があらつしやりそうな
ものに、お気の毒にな」
僕は驚いた。
(十)
127
驚いて、様子を問えば、偖は未だ御存知ないかと彼爺は小聾に左の顛末を物語った。
野田伯父の奇行わ久しく県下の評判になって居たが、この一両年は殊に甚だしかったそ
うな。中にも、今春村に立派な小学校を新築すると云うので、
(まだ外に橋梁のかけかえな
ど、材木入用の事もあるので)官林の無代価同様の払下を願ひ出たが、係官が黒木某と云
って先年或事件で伯父に撲たれたと云う歴史つきの男で、中々埒明かぬを、伯父は腹を立
てて未だ正式の手続も終えぬに、己が許すと村の者を指図してどしどし伐らせた。黒木某
は天の輿へと雀躍して、忽ち官林盗伐の騒ぎを惹起す。伯父が拘引される。事重大になり
かけたのを、伯母や親戚の婦人(蓋し僕の母であらム)や二三の老友が骨折って知事を説
き、
外ならぬ公共の稗益を慮る為めの過失だからと云う事になって、免許の日附を更めて、
何千円とかでその伐りかけた部分を払い下げることになった。しかしどこにも「ないもの
は金」で、その中幾分は村の出金や残の材木抵当で融通がついたが、二千円ばかりはどう
しても伯父が引受けねばならぬ事になり、家屋敷残らず売り払ってしまった。小学校は建
ったが、伯父の生計が立たぬ。因で伯父夫婦は四里程田舎の山里に、小さな茅舎を求めて、
今はそこに暮らして居るそうな。
「如何も飛んだ事で、皆御気の毒に思って居ます。はい。でも人間の慾は恐ろしいもの
でな、野田様の御親戚──エエと、左様左様、笠松様、その笠松の後家さんが、何か少し
ばかり貸金があったのを、あろう事か、血の出る様な屋敷代の残りがあった内から、到頭
搾つたと云う話で、野田様が打殺すと云って怒りなさる、それは夫人が御心配だったそう
で、──本当に世の中が面倒になって、迂闊に善事も出来ん世の中になりましたなあ」
と語り終って、彼爺は歎息した。新五はぢいと聴いて居たが、
「慎ちゃま、段々負荷が重くなって行きます喃、その肩に負えますか」と云い貌に僕の
顔を眺めた。実に左様だ、別に頼母敷親類もなし、鈴江君は女であって見ると、傾いた伯
父の家をまた建て直すは即ち恩義をうけた僕の責ではあるまいか。僕は手負猪の様な伯父
の怒の顔と、急に白髪の殖えた伯母の顔を思い浮べて、離れて居るとは云いながらこの春
の事を今までも知らずに居た僕の迂闊を悲み、且は一言の報知もせぬ母を恨めしく思った。
思うに母は、修業中の僕に言っても詮ない凶報を伝えるを忌んだのであろう。
様々の話に、播磨灘も明石海峡も何時過ぎたやら覚えぬ内に、船は灯影水に乱れる神戸
の港に着いたので、僕は大阪まで直行する新五(帰途には是非学校を尋ねると云った)と
彼老爺に別を告げて上陸し、学校に帰った。
関西学院に於ける僕の第三年の第一期は事も無く始まって、五日ばかりすると、果然新
五は学校に尋ねて来た。僕は学校の盛大に呆れる新五を引張って、遍ねく校内を観せ、そ
れから新五が是非御馳走すると云うので、神戸一と云う牛屋の離座敷に、ロースをつつい
て寛話した。僕は新五の問に応じて、卒業後の目的──印ち基督教伝道の目的を話した。
新五は大不承知である。僕は生煮の葱を飲み込み、肉の黒焼を噛って、箸で牛鍋の縁をた
たきく、精神的事業の貴重なる所以、伝道師は後生願の老耄にあらずして志士仁人の事で
ある所以を反覆論じたが、何如しても新五は聴かぬ。
「それは伝道師とか貧乏士とか云う者も大事な役目ぢゃござしょうが、菊池の慎太郎様
が伝道師ぢゃ、人は何と云ってもこの新五が承知は出来ませんぢゃ。お袋様もそうでござ
しょう。総理大臣でも(新五は新聞を読むから昨年の官制改革を知って居る)
。陸軍大将で
128
も大学者でも大金持でも腕一つでなりほうだいと云う今時の時勢に、
慎ちゃま──若旦那、
この新五──覚えて居なはるか、馬牽いて『新五、うぬが、新五、わりが』なんて村の馬
鹿和郎共に云われたこの新五が罷り違えば国会議員になった夢でも見ると云う時勢に、慎
──若旦那程の方が耶蘇教の坊主──情ないぢゃござせんか、後生願は老爺になってから
で沢山でございます。
」
と万丈の気焔を吐いて、大の身体を揺さぶる拍子に、天井に釣ってあった金色の蝿除玉が
正に牛鍋の上に落ちて、微塵になった。二人は顔見合わせたが、莞爾ともせずまた小半時
論じた。新五はどうしても聴かぬ。僕も「勘考して見よう」で一先づ論陣を繰りあげた。
新五は一席の弁論で僕を改宗させぬを遺憾に思った様子であったが、しかし「聴き置」か
れて満足の由を述べ、それから僕の出世は自分の立身よりもなお嬉しく思う事、これから
高等教育を受けるについて学資の入用があったり、またそれに限らず何でも金の入用があ
る時は、決して人に談ぜず、この新五に兵糧奉行を勤めさして呉れるようにと、繰り返え
し頼んだ。
(若し僕が力学が志竪きを見ずば、彼は必ずこの月から関西学院の学資を負担し
ようと云い出したであろう)。而して書籍代だと云って、五円の包を呉れた。僕は一寸考え
喜をのべて収めたので、新五は更に喜び、別れる際にもまた繰りかえして伝道師などにな
らぬようにと呉々も積んだ。僕はフランクリン「致富要訣」と云う冊子を贐(はなむけ)
にして、新五と手を分った。
新五が去って、五六日すると、伯父の事を尋ねてやった手紙の返事が母から来た。その
文意によれば、伯父伯母は目下城下から四里の田舎に住んで、別に変りも無く、村の者も
親切にして、骨を刺すと云う程の貧でも無く、伯父は例の公共心で、村に桑を植えさした
りなぞして、暇には銃猟など(如何な血迷った鳥、獣が伯父の筒先に獲られるだらうと僕
は怪んだ)して居るそうで、無用の心配はせぬように、と書いてあった。僕は絶えて久し
い無沙汰の詫やら、事変の見舞(延引ながら)やらをかね一通の書を添えて、牛肉の缶詰
を伯父に送った。
(十一)
僕は非常に多忙であった。毎日の正課の外に、朝夕の学僕の務一週八時間の夜学教授、
まだその外にブラオン師が聖書註釈の箪稿を翻訳するに、すこぶる時間を費した。しかし
ながらこの最後の務は、一は文字の習錬にもなり、一は些少ながら報酬を齎らしたので、
僕は進んで之を引受けた。その後の経験でも、兎角人間は忙しい時程仕事がよく出来るも
ので、僕は毎日この丈の仕事をした上に、まだ運動もすれば、新聞も読み、無駄話もすれ
ば、楽読楽書をする余裕もあった。僕が学校の雑誌に掲載した「青年伝道師の懺悔」と云
う一種奇怪な文字も、即ちこの百忙の中から、零砕の時間を偸んで、書いたものである。
或日心理学の課終って散ずる時、教師は特に僕を呼び留めて夕飯を食いに来い、と云わ
れた。この教師──菅先生は矮小男の痩せぎす、殊に短気を以て有名で(枝炭と異名がつ
いて居た、細くておこると云う謎だ)凡そ学生に一たびこの先生に叱られた経験がない者
はない位。加之信仰の点に於てすこぶる正統派と意見を異にするので、宣教師仲間の受も
あまり宜くない。しかし学問がしっかりして、殊に英文学の素養があって、教員会議の席
でも往々米国大学出の宣教師をやり込める位だから、とにかく必要な人物として忌々なが
129
ら置いてあった。先生に同情を有って居たのは、校長位なもの。僕もこの先生には、不釣
合の肥大な細君があって、時々恐ろしい夫婦喧嘩をすると云う噂を聞いて居た丈で、教場
で会う外は、一度もその私宅を訪うた事がなかったので、思いがけない夕飯の案内を受け
て、吉凶を測りかねた。
しかし脳中を遍ねく捜っても、最近一ケ月間には、別に譴責を受ける覚もなし、御馳走
に召んで叱ると云うこともあるまい、と思い切って、その夕菅教師の宅を訪うた。直ぐ書
斎に通されて、──四畳半の書斎に、几と青表紅冊と算を乱して跋扈(のさば)って居た
ので、人間の坐る所はやっと一畳位──先生は真鍮の煙管(きせる)で煙草をのみながら、
僕は煎餅を噛りながら、色々の話をした。百歩の鬼は五十歩の人、五十歩の人は十歩の兄
弟とやら、可畏(こわ)い先生も側へ寄って打とけて見れば、案外やさしい人である。彼
肥大夫人の手料理であろう、恐ろしく塩辛い牛蒡飯──先生はあまり饒(ゆたか)でなか
った、俸給は大底書籍に化けたから、惟うに家内合戦の原はこれであったろう──の馳走
になって、また書斎に帰ると、先生は胡踞かき、僕にも膝を崩させ、偖瑞を改めて僕が明
年卒業後の目的を間はれた。僕は神学科を修めて伝道師になると答えた。僕はなお僕の目
的は確かにこの点に向って居ると信じたのである。先生は少し沈吟して居たが、
「成程その
事は薄々聞いた、また先頃雑誌に出た彼『青年伝道師の懺悔』を見て君が志の程は知って
居るが」と冒頭を置いて、彼一篇の文字は近頃面白く読んだ事を話し、
「如何です、文学をやっては。乃公が不信仰で云う訳ではないが、何も伝道師にならな
ければ上帝の道にかなわぬと云うではあるまい。大工ばかりぢゃ家は建たぬ。砲兵ばかり
ぢゃ戦争わ出来ない。薔薇の隣に百合を咲かす造物者の意は、各自の花を開けと云うのち
ゃないか。人間の第一職分は、自家の天職を探求するのが第一で、その天職をどこまでも
遂行するのが第二の本分であろう。若い内には、理想の光が眼の前にちらちらするので、
往々精神的色盲になって、飛んでもないものを吾本色と心得違をすることがある。決して
強る訳ではないが、菊池君、先老婆心と思って乃公の言うことを聞いて呉れ給え。乃公の
僻目か知らぬが、君は確かに天賦の職分を持って居られる。先日『青年伝道師の懺悔』を
読んで、乃公は確にそれと認めた。伝道も宜い、教育も宜かろう、政治家も望ましい、し
かし乃公の見た所では、
如何あっても君の天職は別にある。伝道必ずしも壇に立って祈り、
晩餐の葡萄酒を調合し、日曜の説教をするに限るまい。鞭を執て教場に臨むが教育なぞは
そもそも迂闊な話ぢゃ無いか。一管の筆には百年の説教が出来る。日本を教場にして教育
することも出来る。人が自己の立場を知らぬ程憐れむ可き事はあるまいと思う。その所を
得ぬ総理大臣と、その所を得た小学教員と、何方が幸福であろう、何方が上帝の旨に適お
う? 何方が天の経済に合わう? それは専門伝道師にして同時に文学に堪能なる者もない
ではない。しかし二本のステッキは丸太一つに如かない。勿論天才は必ず己を主張せずに
は居らぬ。押しまげられても、磁石の鍼は北を指すように、天賦の能力は必ず一度はあら
われて来る。犂(すき)をとっても、バルンスの吟心は動く。東印度商会の簿記台に坐っ
ても「エッセイ、オヴ、エリア」は書かれずには居らぬ。しかし出来ることなら順路を行
きたいではないか。喃、菊池君。今大事な準備時代だから、乃公が斯様言うのだ。」
(十二)
、
この期の初、雨降の土曜の夜、僕の部屋に同級残らず打寄って、様様の戯も仕飽き、饅
130
頭は竹皮になり、
豆は殻になった揚句、誰かの首唱で全級の未来を品定したことがあった。
アルファベットの順で、一人宛品定して行く。誰か原案を出す、修正が起る、多数に決す
る、能書を以て自任する某が紙と筆を持って控えて居て、片端から筆記する。曰く、赤沢
某、警視総監。曰く、馬場某、割烹店の入婿。大学の教授もあれば、郡長もあり、米相場
師もあれば、牧師もあり、執達吏もあれば、全権公使もあって、得意、不得意、顛覆る騒
ぎであった。やがて、僕の番になると、誰やら頓狂な声で、
「小説家」と云う原案を出した。
ヒヤヒヤと云う声が起る。
「ノオノオ、菊池君は自らムーデホィットフィルドを以て任じと
るぢゃないか、残らく伝道師に改む可し」。「否、吾輩は未来の、関西大学総長を以て擬す
る」
。曰く何、曰く何、種々修正も出たが、矢張原案賛成の声が高くて、僕が躍起となって
抗議を試みたにも拘らず、到頭原案通りにしてしまった。あたかも佳人之奇遇の第一冊が
出て、幽蘭紅連が非常の跋扈を極め、小説熱が大分関西学院にも起って居たが、或時僕は
戯談半分「諸君は彼様ものに感服するか、僕が筆をとるならあんな拙いものは書かぬ」と
大言したのを、あの頓狂声が小顔悪くく思ってこの原案を出したのであろう。僕は立腹し
た。小説家──戯作者は士君子の事であろうか、人を馬鹿にするも程がある。それから側
に居た男が慰めて、
「何有、ヂスレリーも小説家ではないか、ユゴーも小説家ではないか、
人民に自由平等の理想を吹き込むには奈何したらよかろうと板垣君が問うたら、乃公の小
説を読ますが宜いと云うたもユゴーではないか、小説家何の恥る所があるか、要するにそ
の人にあるのだ、菊池君にも似合わぬ、甘受す可し甘受す可し」と到頭誤魔化してしまっ
た。
それとやや趣は違っても、意外の菅先生の勧告に、僕は種々様々の感情を以て耳を傾け
た。彼唆励苛酷人を好かず人に好かれぬ菅先生が斯様親切に言って呉れられるかと思えば
嬉くもあり、またその言に幾分の條理締るようにも思われる。しかしながらこんな事は決
して軽軽に然と云い否と断ず可きではないので、僕は篤斗熟考する由を答えてなお文学の
何れの方面を指す可きであろうかと、その目を請ひ問うた。先生はしきりに頷いて、先づ
英文学の研究を勧め、その中に君が執る可き方針は必ず歴然と見えるであろう、と云て、
架上の書を三四冊抽いて貸された。それは「ハムレット」解釈、カーライルの英雄崇拝、
ターヌの英文学史等であった。
ああ僕の砦塞は未だ壁も乾かず矢間も明かぬに、最早入りかわり立ちかわり強敵を引き
受けねばならぬこととなった。而して最も心外なのは、砦の内に内応者が潜んで居るのを
発見したことである。目的堅く定って、金輪際動かぬ大地に立って居る積であったに、愕
然眼を開けば、足下の地はずるずる動き出した。ああ僕は大地の上でなくて、遊島の上に
立って居たのである。僕が伝道の目的は、一年も立たぬに、最早掻ぎ出した。
それと気づいた時の失望は、実に一通りでは無かったのである。その様な飽きっぽい事
で、何事が出来ようぞ、どこまでも初一念を貫くが男子の本分と歯をくいしばった。しか
しながら、あの時の決心は天意をまさに感得したのであったか、それとも吾一時の感情で
は無かったか、若しそうとすれば之を株守するは偽主に殉死するよりも愚な話で、吾真の
天職を空うするの責は却って僕の頭上にあるかも知れぬ。否々、それが信仰の冷やかに、
俗心の湧いた証拠、天に通ずる荊辣の路の淋しく辛きを厭うて、浮世の栄華につづく大道
を闊歩する気になったので、即ち名利の奴となる所以だ。否、待てよ、その名利と云うや
131
つも、私に溺るればこそ禍なれ、使い様では非常な武器である。口に献身と云い安心と云
った所で、ないものを捨てるが何の献身、出来ぬものを詮らめたとてそれが安心と云れう
か。
「後生願は老後の事」と新五が俗論の中には、実に一大真理を含んで居るのではあるま
いか。若者の生悟り、十七八の数珠爪繰りは、意気地無なければ偽信心。今ですら斯よう
に心が動く様では、今後の事も思れるが、それと云うのも青年の気血は奈何しても活動せ
ずには居らぬ故であろう。負けるが恐さの中立は卑怯の骨頂、世間に成功が出来ぬから伝
道師になるなぞは情けない話。出来ることなら、競争場裡に打て出で、勝か負くるか腕の
力も試し見て(人に見せる為めではなっく、己の安心思い出の為め)名と云い利と云うも
のも獲て(己の用でなく、人の為めに)自己が力量の程を知った上で、然る後快よくその
すべてを拠って、翻然洒脱の境涯に入って見たい。素裸のまま神の宝座の階投の下にかぢ
りついて、亜孟(ああめん)をのべつに言はうよりも、天から賜はった手もあれば足もあ
る、いささか殺生でも野山かけ廻って吾弓勢(若し弓矢が身に備わって居るならば)の程
も試し、
獲物を提げて天壇に燔祭を獻げたいもの、
その方が確かに天意に適ふのであろう。
否々、悪魔は由来口説上手、尤らしい口をしてずるく人を淵に引込むもの、祈祷はここと
跪いて吾心の眼を開き、正しき道を見せしめ給えと祈る最中、不図「左様すれば、母の心
も傷めず」
と思い、咄、何事ぞ祈祷半にと自から責め、何有、水到渠成(すいたうきょせい)は絶好
の処世法、芥子拉程の意地を張って蟷螂程の腕を揮はうより、感ずるままに云い、云うま
まに行い、身をあげて自然の成行に任すが却って天意に従うと云うものと自から宥め、と
つおいつ思案に暮れた。
しかしながら僕は吾決心の日に日に守弱くなって、踏みこたえるも唯申訳の様な心地が
して、已に不満を覚えるの結果は、些細の衝撞にも焦燥易く、病気ぢゃないかと怪んで問
う者もあった。
否、僕は病気ぢゃない。少なくも生理的病気ぢゃない。僕の病は心──身の大疾に悩ん
だのは、僕では無く、二百里外の伯父である。
丁度明治十九年十二月二十四日と云うに、
母の手紙が届いて、野田伯父が中瘋にかかり、
この冬を過ごされぬかも知れぬと云う事を報じて来た。
(十三)
僕は母の手紙を見ると、
早速帰省に決した。
幸いその翌日日から冬期休業になったので、
聖書註釈翻訳料を受取ると、直ぐその日の汽船に乗って、翌々日の朝博多に着し、直ぐ腕
車に乗って僕が第二の故郷へと急がせた。時はあたかも十二月の二十六日、煤掃き餅搗き
の騒ぎも賑やかに、正月の仕度とりどり忙しい状を見て、不図憶ひ出せば僕が育英学舎を
出奔して東上の道についたのも丁度三年前のこの月この頃、三年四年の月日は実に今そこ
の櫨の木を立った烏のぱたりと一つ弱たたく間に過ぎてしまう、人の一生も思えば吾乗る
車の輪の上になり下になりしばらくも定まらぬもの、あの強健な大漢の伯父が命旦夕に迫
ろうとは──何卒着くまで事無くて居て呉れれば宜いが、母も定めて今日明日に僕が帰ろ
うとは思うまい、など思うほどに只管先のみ急がれて、車のめぐりもどかしく、川風寒き
筑後川の渡を渡て福島と云う村駅に一夜を過し、翌朝はやく立ってかって住馴れし城下に
132
着いたのは最早黄昏の頃であった。母の住居は城下はづれの士族屋敷とかねて手紙で承知
して居たので、杉籬に格子門何の家も多くは似寄った屋敷小路をあっちこっち尋ねて居る
と、今夕飯を終へたのであろう十歳位の男児が犬を連れて向側の家から駈け出して来た。
呼かけて、
「菊池」と云う婦人の住む家を問うたれば、
「菊池? 家の姉様の先生の家?、直ぐそこのね、竹のある家」
と二三軒先きを指した。そこに車を下りて見ると、果して門札に母の手跡で小さく「菊池
慎太郎」と書いてあるのが、黄昏の薄明かりに読まれた。騒立つ胸を押えて、音なへば、
ランプを持って三十許の婢があらわれ、
「誰氏様?」と云ながらしげしげ僕の顔を眺めた。
「阿母は?」
「ま、如何致しましよう、若旦那様で──道理でまあよく御肖《おに》まして──」
僕は奥の方を覗き込みながら「阿母は?」
「さ、何卒奥へ──お袋様は、郎君(あなた)
、昨日野田様の方へ──」
「野田へ──左様。どんな容態かしらん」
「如何やらまた御悪い御様子で」と婢は火鉢をあせりながら「都合によったら二三日帰
られんかも知れぬ、と、郎君、そう仰有いまして」
「左様か。それぢゃ直く行こう」と僕は膝を立て直した。
「ま、郎君、御草臥でございましように──それでは一寸御饌(ごぜん)をさし上げま
すから」
婢は立って行った。茶を飲みながら、四辺を見ると、ここは六畳の室、一間の床に、一
間の押入、床にはなお莟の水仙を生けて、掛地の梅月は見覚えある一軸、僕が六七歳の頃
楽書した不思義の鳥がまだ梅の枝にとまっている。これは祖先伝来の物とやら、僕も楽書
の咎によって小半日庫の中に閉籠められた程のもの、破産の時にもこの丈は残してあった。
片隅には小形の机、一隅には裁縫用の大きな箆板(ひらいた)、切り張りした障子のはづれ
から、突の四畳の絹機(織りかけた上に風呂敷を覆うてあった)が顔を出し、柱にかけた
手細工の状差には僕の手紙が挿してある。奇麗に片づいて、古畳に塵一つ落ちて居ない。
種々母の消息を聞きながら、婢がすすむる熱飯を嚥込み、寒いから見苦くもとかけて呉
た古い赤毛布を頭から引被いで、僕は伯父の居村に向った。
伯父の棲む山下村は城下から四里、昔西山塾に居た頃一二回兎狩に行ったことがある。
車は無くも、幸い十七日位の月が霜の如く冴えて居るので、僕は影と唯二人、凍てた道を
足駄踏鳴らして、只管急いだ。道は畑中を穿って、一里に一村、二里に一落、人通りも絶
えて淋しいことだ。三里許行くと、忽ち野川の滸に出た。川の向うには月に背いた一帯の
山が黒く横わっている。これからは一本道、川堤伝いに遡ると、山は次第に寄って来て、
川はくの字に曲り、道は橋を渡って一寸した丘を上っている。この橋を渡る時、夜をこめ
て城下に裏白売に行く馬子に逢って、伯父の家を聞くと、
「先生様」
の宅は向山下の高みで、
茅葺の家と教えて呉れた。
馬子に別れて、うす闇い石だらけの板を上り、丘を向うへ下ると、即ち山下村である。
月影流れる川を中に、こっちに人家が六七十、あっちにも五六十、こっちは山蔭で真闇だ
が、向う山下は一帯に月光を浴びて家も木も石も寂然と眠っている。大方最早夜の十二時
133
過ぎでもあろう、燈の影もなく、人声一つ聞えぬ。唯どこか遠方の一軒家に犬が吠えてい
る。姿は見えぬが、唐碓の時を隔ててぎいと唸る音が聞える。その間には、月を砕いて流
れる川瀬の音のさあさあと松風を鳴らすように聞えるばかり。夢中の景を見る様な。
不図已にかえって、僕は川に下り、飛石伝いに彼岸へ渡った。馬子が教えた通り、坂路
を上がって、似た様な茅葺を夫れかこれかと覗いて見、耳を傾けて見たが、寂然してこれ
ぞと思う家もない。起きて居る家はないか、どこぞたたき起して尋ねようか、と思い思い
「右の方の径(こみち)に入って、肥壷の側へ来ると、月の光では無く黄色の光がどこか
らかちらと漏れて来た。ふりかえって見れば、僕が立って居る径の上に、桑の生垣をした
家があって、そこから糸の様な光がさしている。ここに尋ねて見ようと、僕は生籬を潜っ
て、一寸裏庭と云った様な明地に立つと、人の話声が聞える。ちょうどそこに筧の水が小
鼓をうつように落ちて居て、話声がよくは分からぬ。僕はそつと雨戸の傍へ寄て耳を傾け
た。
「嘸案じて居らさう、喃」
僕の胸の鼓動が忽ち止まった、と思うと、波の如く拍ち出した。
「彼も嘸案じて居ましよう、昨夜も帰った夢を-」
「阿母」
内の話声はばったり己んで、固唾を呑む気はいが聞えた。
僕はホトホト雨戸をたたいて
「御免」
「誰氏?」母の声。
「阿母、私」
「エー」
戸は忽ち二尺ばかり明いて、僕は光の流の中に立った。
「ま、おまえは──」
「慎さんぢゃないか」
僕は忽ち母と伯母に手をとって引あげられた。
(十四)
母と伯母と夜伽の火鉢にあなりながら伯父の病を僕がどんなに案じるであろうと話して
居たその六畳へ引ずられるように上って、暫らくは僕も母も伯母も言葉の出途を失って居
たが、
「よく帰れた喃」
と母はようよう云って、かき立てた行灯の光に、なつかしい彼清しい眼で、喰入るよう
に僕を見詰めた。僕も三年の間に眼立ってふけた母の顔を眺めて、胸一ばいになった。
「噂をすれば影て、本営に喃、唯った今のこと阿母と噂をして」
と、伯母は火鉢の火をあせりながら、
「伯父様は如何です?」僕は漸問う隙を見出した。襖越しに,忽ち高く忽ち低く人の寝息
が聞える。
「今日は亦いささか宜い方でね」と伯母は一寸襖の隙から覗き「お眼がさめたら嘸喜び
134
なさらふ。このように晩く、嘸寒かったろうな、慎さん」
「手紙を見て直ぐ立ってお出かい」
「は、今日夕方家に着いて、直やって来たんです」
「左様」伯母は熟々僕の顔を眺め「よくまあ。鈴江も丁度昨日──鈴さん、鈴さん」
「はあ」
襖が明いて、羽織の紐を結び結び束髪の娘が出て来た。
これは鈴江君であった。三年の間に、喫驚する程大きくなって、まるまると肥えて、女
学生じみている。鈴江君は僕が出奔した翌年の春上京して、三年ぶりに今回帰ったので、
実は叔母(伯父の妹)と一同に帰る筈であったが、叔母なる人が足痛で寸歩も移されぬの
で、鈴江君一人帰ったとのことである。熱い茶を嚥《の》み、火鉢を中にして、伯父の眠
を乱さぬ程の小声に、途切れ途切れの話をした。伯母の話によれば、この春破産してこの
村に引込んで以来、伯父は案外機嫌よく、養蚕の利を説いては村の家毎に桑を植えさした
り、病気は御祈祷や葛根湯では行かぬと云って一里程の所から医師を移住させたり、猟を
したり、山上りをしたり、村人も「先生様先生様」となづいて、芋を掘ったと云っては持
って来、盆の小麦団子をこさえたと云っては寄越し、この分なれば寿命が延びて身代限り
が仕合わせかも知れぬ、と喜んで居る内、伯父はついこの程村の若者共が新に買入れた竜
吐水《りゅうどすい》の使用初式に臨んで、その半に不図倒れたので、それから最早体が
自由にならず、言は出るが話がよく分からぬと云う容態で、城下から召んだ医師もこの寒
は六ケ敷と云ったそうな。
話途絶えて、四人共に火鉢の火を眺めて居ると、襖の彼方にうううと唸って、一つ咳嗽
が聞えた。僕が伯母の後について、奥の間に入った。行灯の光で見ると、ここも六畳位で、
その真中に、枕を高くし仰仰向けに寝て居るのは伯父である。ふつと僕の顔を見て、
「うん(口へんに云)?大一郎── どうして来た?」
僕はぐっと詰まった。伯母は俯き、母は側向いた。鈴江君が、
「阿爺、慎太郎さんですよ」
と云うと伯父はいよいよ怪訝の顔「慎太郎々々々」と云って居たが、
「ホウ、慎どんかい、慎どんかい。どこへ今まで行っとった? ここへ来い、ここへ来
い」
出さうとした手は力なくばたりと落ちた。僕は膝行(いざり)寄って、その手を握り、
「伯父様」
と云った切り(会ったら彼様云おう斯様云おうと途すがら思ったことはどこへやら)頬
骨高ふ、眼は惘惘として、然も莞爾莞爾子供のように笑う伯父の顔を見つめて、声を呑ん
だ。
伯父は大晦日の夜まで永らえた。その間、燈火の明るく闇くなるように、知覚がつくか
とすれば、忽ち失せ、
「慎どん慎どん」と呼ぶかと思うと、「大一郎大一郎」と呼び、村の
蚕種を上州から取り寄せねばならぬと独語《ひとりご》つこともあり、またもとの屋敷に
居る積りで「豚小屋を取り払らって蜜蜂飼おう」なぞ云うこともあり、伏見鳥羽を云うか
と思えば、
「西郷未だ止めんか」と歎じ、実にさまざまであったが、しかし始終莞爾々々し
ていた。唯待ち兼ねて、飯を呼ぶ時のみは、駄々を捏ねる子供の様であったが、伯母と母
135
はしきりに珍味を工夫しては、機嫌をとり、食事は伯父の手がかなわぬので、鈴江君がい
つも箸をとってすすめた。
(僕が先月送った牛肉の缶詰の伯父に喜ばれたことを聞くにつけ
ても、
今度あまり急いで何もかも忘れたのを残念に思った)。僕も昼夜伯父の傍らを去らず、
寝返りに抱きかかえ、手足を摩り、伯父は知らずも、せめて吾心やりに十分看護の手を尽
した。時々その骨太の体を摩りながら已に亡骸の様な寝顔を眺めては、覚めたらば一言た
りとも未来の安心を説かうと思っても、
さめて子供の様な莞爾々々を見てはまた思い断へ、
唯安らかにこの大なる、不幸なる霊を迎え給えと祈った。
大晦日の午後は殊に機嫌よく、冬ながら日影の暖かなるに、障子開かせて村の者共が大
紙鳶(たこ)の試揚をするのを莞爾々々眺めて居たが、その夕方から次第に昏睡の状態に
陥って、午後の容態の良好のに欺かれて城下に帰った医師が追かけ使者と打伴れてまだ返
えらぬその内、丁度夜十二時と云うに、伯父はぽつかりと眼を見開き、
「国会が開けたか、どれ──」と云うを末期の一句、かなわぬ体を半分起こしかけた。驚
いて扶くとすれば、忽ち大木の倒れるように体はばたりと僕の腕に倒れて、最早伯父の大
なる霊魂はこの世には在なかった。
(十五)
旅に病んで、おきなが夢は枯野を駈け廻り、孤村に死して伯父の魂はその多くの事を企
てて一の事をも成し遽げぬ世をば遺憾の眼に顧みたであろう。思えば伯父の一生は、あの
アマゾンの河に生えるという鬼蓮(オニバス)の葉は徒らに大きくて、このと云う花もな
く実をも結ばず、例えば翔傷めし大鷲の志はやれど身従わず、鳶烏にさえ笑われて、世を
憤り、身を悶え、吾と吾腸を食いやぶって斃れしこと、思えば哀しく、而してその産を破
って孤村に病みながら、なお朦朧とした脳中にも国家を思う暮年の壮心、国の前途を気遣
ふ末期の一句にも櫪に伏す老驥千里の志あらわれて、愈々哀しく、伯父の死顔を眺めて死
別の悲にはあらぬ涙の湧き出るのを僕は抑え難《かね》たのである。
ああ伯父は逝った。十二から十六の年まで子の如くに僕を可愛がって呉れた伯父は、ま
だ何の報復をする間もなく、一時の誤解に生じた行違をまだ十分に直す間もなく、永久不
帰の人となった。切《せめ》てその息ある内に帰って、末期の床に侍したのを、吾思いや
りに、仮令儀仗兵祭粢料の栄典は無くもその愛する妻子に護せられて、村人の飾らず作ら
ぬ同情に囲まれて、和やかに瞑したのを、伯父の記憶に伴う遺憾の中の慰としなければな
らぬ。
正月の三日と云うに、伯父は川向うの清泉寺と云う寺の樫木の下に葬られた。墓は大一
郎君の墓に並んでいる。
大一郎君の墓は彼屋敷を売払う時、ここまではるばる移したので、
伯父は常に「乃公が死んだら大一郎が傍に埋めるが宜い、決して坊主なぞ呼ぶな、立派な
石塔を建つな」と云って居たそうである。葬式は至って質素であった。伯父が異常の人物
で敵の多かった為、一は場所の僻地であった為、会葬者は親戚の者二三人(笠松後家も三
次郎君も来なかった)伯父の旧友総代が一人(西山先生は他県に逗留中であった)伯父の
もとの居村の者が三四人、あとは皆村の者。村の者の厚意は実に尋常では無く、棺かつぎ、
墓穴掘り、台所の手伝、人数が多くてまどつく位であった。この村はもと伯父の祖父なる
人が、郡代を勤めて居た時の管下で、水源に杉山をしたて、寺子屋を設けて算筆を奨励し、
心学道話の様なものを開かして村の風儀を正すなど、色々徳政も多かったので、村人も今
136
に到る迄野田家に一方ならぬ厚意を有って居るのであった。
葬式済んで二三日は、それこそ真の大風の吹いた後のように、僕等母子が居なければ、
伯母も鈴江君も恐らく悲寥に堪えかねたであろう。夜は殊に寂しく、あの奥の六畳に火鉢
を囲んで、つい四五日前まではここに臥して居、今は白木の位牌になって立上る線香の煙
越しに僕等を眺めている亡き人の上を物語った。伯父は逸事の多い人、分けて僕が出奔後
の三年間は、奇行も多かった。不図途上に魚売りに会って、一荷の海鼠を買い占めて往来
の者に配ったり、山の蕨を馬に三駄も負わせて知人の許へ贈ったり、或時はまた奉加帖を
腰に下げ白馬に乗って知己親類の家を乗廻って(大久保彦左のように)死んだ後の香典は
つまらぬ、生きて居る内に貰って置かうと己が石塔料の寄進につかせたり、無一文で鰻屋
に上って一円のかたにその白馬を置いて帰ったり、車夫を裸にして茶代を払はせたり、盗
賊を叱って酒を飲まして帰したり、奇人伝の材料は伯父の生涯に満ちていた。伯父は彼屋
敷を手離すのをよほど残念に思ったと見えて、買主が定って、明日はいよいよ引払と云う
日は、何の監督もせず、唯屋敷中をあっちこっちぶらついて、柿樹桃木を撫ては「よく生
れよ」など云って居たそうな。僕は耳にとめてこの話を聴いた。
伯父の逝去について、今後の処置を協議の結果、鈴江君は矢張上京して勉学をつづける
ことになり、伯母は種々片付次第城下に引出て母と同居することに決した。それと聞知っ
てか、村の者共がしきりに伯母を引とめて、決して御不自由はさせませぬ、何卒何時まで
もこの村に御在なされて、と歎くに、伯母の袂はまた一入《ひとしお》湿ったのであった。
伯父の一七日が済むと、僕は母と一先づ山下村を引揚げた。
(十六)
母は蝙蝠傘を杖《つ》いて黒天鵞絨《くろびろおど》緒の下駄、僕は桃色になった赤毛
布を頸に巻いて薩摩下駄を踏み鳴らし、打伴れて山下村を出で、帰途についた。この十日
ばかりは、伯父の事で殆んど夜の目もあはず、人の出入の多くて、母と差向いに話す機会
もなかったので、この日は途すがら問いつ答えつ、語りつ聴きつ、四里の道をゆるゆる話
しながら歩いた。霜枯れ時の田舎道を面白いものとは、この時知った。
僕は手紙に書き漏した出奔以来の遭遇を話せば、母は僕が出奔後伯父の怒の甚しくその
為伯父の家を引払って別居するに到った事、伯母が中に立って苦心した次第、今年伯父の
家の破産の時母が伯父に知らさず奔走心配した事、
今は独居が却って都合好く春夏の養蚕、
秋冬の機織、余暇は近所良家の子女に裁縫習字など教えてつましくすれば活計に事を欠か
ず、なお僕が将来の為め一糸一毛も積んで居る事、已に旧冬も左る有志の人々が女子英語
学会と云うものを設くるについて是非その監督をして呉れと頼んで来て居るがこれは伯母
に譲ろうと思って居る事などを話し、なお僕が新五の事を物語ったに対して、昨年の春彼
お重の父の勝助爺が絶えて久しい御機嫌伺かたがた清正公様へ願ほどきに出た事、延年寺
の和尚様は入寂《にゅうじゃく》した事、堅吾叔父の家では山師にかかって銀山で大分身
代を傾けた上に、近来叔父が胃癌とかになって非常に苦んで居る事、病気の父、気弱い母、
妾にかきみだされたあとの身代を負って次女のお芳が一人で苦労して居る事、手紙は恥ず
かしくてやれぬと云って勝助にくれぐれ伝言を頼んだ事を物語った。さて話は僕が卒業後
の事に及んで、僕は未だよくは分からぬが、今一二年は学校の生活をするかも知れぬと云
137
うことをざっと話した。母は手紙の上で思ったよりも、逢ってよほど安心した様子で決し
て干渉する訳ではないが、自己を安売りする様な事はすな、幾年でも待って居るから、こ
っちの事には掛念なく、第一等を目ざして呉れ、おまえが今迄他人の厄介にならず独力で
道をきり開いたその覚悟を何時までも失わずに居て呉れ、年毎に帰省するよりも、結構な
物品送るよりも、
早く月給取になって引取って呉れるよりも、
それが第一の孝行と云った。
しみじみした話に、何時か道の二里ばかりも歩んで、丁度城下へ半途と云う虎が石の所
へ来た。往還の側に小家程の大石が臥虎の如くに蹲《うずくま》って、注連縄《しめなわ》
を張った大榎がその上に葉もない枝を広げている。
その蔭に一寸した茶店があって、草鞋、
馬沓を吊し、駄菓子、飴、かちれた蜜柑などを並べ、七十位の老媼が日光を横頬に受けて
繽々木綿をひいていた。僕等はここに暫らく腰かけて、老媼が汲んで出す渋茶に咽を湿し
た。
往来に母の顔を見知って居る老媼は、早や伯父の死を聞き知って「彼お丈夫な御方が」
とくやみを述べ、なお一場の逸話を語った。
(伯父の逸話は、この往還の石の様到る処にご
ろごろして居た)
。それは、丁度明けて去年の収獲時分、或夜破れるばかりこの小家の戸を
鼓く者があるので、老媼は恐々ながら戸を開けて見ると、頬被りした雲衝く程の大男がぬ
つと立って居たので、老婆は胆を潰し、お盗賊様、命ばかりは御助けと売留の銭を入れ物
の升ごとさし出して平伏した、すると彼盗賊は呵々と笑って、銭は入らぬが、腹が減つ溜
らぬ、飯を呉れと、冷の麦飯湯漬にして七八杯平げ、ついでにいささか寒いからこれを借
りて行くと老媼が着古しのちゃんちゃんを被って、銭は有たぬからまた与ると、言い棄て
て悠々と出て行った、老媼はやれやれ一命を拾ったと胸撫で下ろし、それから逢う人毎に
昨夜の不敵な強盗の話をして居たが、或日馬の上から「おい」と呼ぶ声に眼をあげると、先
夜の強盗が莞爾莞爾と笑って「先夜は重畳《ちょうじょう》、生憎銭入を忘れたから──そ
れ飯代ぢゃ」と素晴しい金具つきの煙草入(これも破産の名残)を投げて通った。強盗は
野田様であった。老媼が話に、僕等は涙まぢりの笑声を立てて居ると、呵々と下駄の音が
近づいた。不図見ると、古いラッコ帽に黒紬の紋付羽織、懐手して大きな緒の下駄を穿い
た中老人が、萌黄の風呂敷包を提げた丁稚を伴れて、前を通りながらこっちを見た。
「や、尊老は──」
驚いて立上る僕。立とまって怪訝な顔の老人。
「誰人《どなた》だったかな?」
「尊老は清磨君の──御忘れでございますか、菊池──」
「ああ、慎三郎(老人僕の名を間違えて居る)さんだったか。これは不思議な所で──」
実に不思議な所で不思議な人に逢うものだ。この老人は即ち僕の旧友松村清磨の父君、
僕が清磨君に伴われてこの老人の家に行ったのは最早六年前、十四の春であった。
(十七)
「貴君が余り長った(ふとった)ものだから、見忘れてしまうた」と云い云い松村老人
は茶店に入って来た。
母は座を起って、一礼し、席を掃って老人を請じた。
「ああ、慎三郎君の母君?」
「慎太郎が母でございます、初めまして」と母は慇懃《いんぎん》に礼をした。
138
僕と松村は莫逆《ばくげき》の中であったが、母は初めて松村の父君と会ったのである。
以前松村老人が一寸伯父の家に来た時も、懸け違って母は会わなかった。
「そうして、貴君は矢張城下に居なさるか」と老人は僕の顔を見た。
僕は関西学院から野田伯父の見舞に帰った事、母は城下に住んで居る事を話し、清磨君
の近況を問うた。
「ああ、申晩れたが、野田様は如何も笑止な事で、嘸御力落なさったろう。──清磨も
達者で居ります、北海道の方にな」
「北海道に?」
「はあ、農学校に、札幌の──彼奴も百姓になどしなさうと思って、北海道へやりまし
た」
この三年越、一向消息を聞かなかったが、さては札幌に居るのか。
「何時城下へ御出浮《おでうき》で?」
「やあ、これは御存知ないも尤ぢゃ。老拙も愚息(清磨ぢゃない、長男でござる)その
愚息が商売の都合もあり、田舎にばつかり居ると小供も大児も馬鹿になってしまうから、
丁度──最早明けたから去年の十月城下へ引越してな、野田様は先年御目にかかったこと
もあるし、菊苗や家禽を世話して下さったこともあるから、丁度一月ばかり前に御尋ねし
て見ると、あの屋敷は他人の名前になって、野田様は田舎にお出での様子で、一寸御尋ね
しよう御尋ねしようと思いながら、つい不精をやって──昨日不図した所で、ご不幸の事
を聞いて、実は落胆した訳でな、墓参などしようと思って今日は出かけて来ました。
」
「まあ御遠方の所をわざわざ──どんなに姉も喜びますでございましよう。そうしてど
こに御住居でございます?」
「はあ、老拙は坂町、貴女は──榎小路、それは遠くもない所を、ちっとも知らずに居ま
した。慎三郎君、阿母とちと遊びにお出なさい。しかし最早そろそろ上京《のぼ》んなさ
ろうな」
僕は最甲学校も始まって居るから、不日《ふじつ》東上する由を答えた。
老人は突と身を起し「左様なら、お袋さん。何、道は聞いて知っとる、老拙はおつとめ
が大嫌ぢゃ(僕が母と道しるべに戻ろうかと小声に相談するのを老人聞いたのである)左
様なら」
丁稚を捉して出て行くかと思うと直ぐ取って返えした。
「お忘れ物?」
「ははははは、老媼、茶代を忘れた」と天保銭五六枚どさりと投げ出して、松村老人は
行ってしまった。
僕等が帰途の話の題目は、また一個殖えた。而して僕は清磨君の母君の人柄を知って居
るので、母が話相手のまた一人出来たのを心ひそかに喜んだ。
僕等が帰って程なく、伯母も鈴江君の上京が余り遅延するので、あとを村の知辺《しる
べ》に頼んで、母子打連れて出て来た。二軒の家内が一所になり、二人の上京が一時に落
合ったので、狭い家が愈々狭く、それ茶碗がない、箸が足らぬ、蒲団を借る云う騒ぎ。鈴
江君は終日「阿母わたしの襦袢はどこにあるでしよう?叔母様、針はどこにありますの?
慎太郎君、あなたわたしの革鞄を知らないこと?」と物ばかり捜して居ると、母が笑って
139
「家が広いから物が紛失って困りますね、はい、はい、出してあげましょう」としまって
置いた戸棚の中から出してやると云う始末。伯母もこの混雑に少しは悲哀をまぎらした様
であった。
男役に会葬の礼廻りやら、何やら角やらで、僕は松村家を尋ねる暇も無く、思うように
母や伯母に伝道する機会もなく(唯一度聖書の文句を引いて、伯母を慰めたが、しかし伯
母は唯慰められるを嬉しく思って、肝腎な聖書の文句に注意しなかった)勿論旧友先輩を
訪う閑も無かったが、唯一日伯母の寄留届を戸長役場へ出しに行ったついでに、一寸廻り
道して、なつかしいあの育英学舎を尋ねた。
十町四方は草葉の数さえ暗じて居るなつかしい土地、早や七八町の辺に来ると、僕等が
革命の地造《ぢつくり》と云って土塊投げ合戦をやった麦畑、或暗夜の湯帰りに高橋と云
う男が板橋から落ちて「高橋、高橋より落つ」と云う秀句を生んだ小川、枯草を燃して百姓
に叱られた畦路、どこかそこらに十四五の菊池慎太郎が莞爾笑って立って居そうに思われ
て、僕の胸は打騒ぎ、ここを出ぬけると学校が見えると云う竹薮に入ると、僕は狂気のよ
うに独笑した。
薮を出ぬけて、眼をあげた。不思議、何もない、唯一面の麦畑。
僕は愕然と立とまった。
(十八)
万一したら場所違ではないか。しかし以前学舎の窓から毎《いつ》も眺めた隣村の八幡
の大銀杏は、依然冬枯の村を抽《ぬ》いて、寒空を衝いて居、練胆修行の一課として夜中
札張に行った墓場は、依然二本の杉を擁して累々と灰色の墓碣《ぼけつ》を見せて居、土
塊合戦の時毎も伏兵が起った肥料壷の藁屋根は、昔ながらに一羽の鴉をとめている。あの
育英学舎はどこに消え失せたのであろう?
一歩毎に霜融の泥が入り、確かにくっついて重い下駄ひきずって、麦畑の中に入り、確
かに学校のあった位置と思う辺に立った。何もない唯一面の麦畑、褐色の地に織り出す緑
の縞の幾段も幾段も底寒い冬の日影に栄えるとはなく唯匂っている。
「奈何《どう》したのだろう?」
と僕は独語《ひとりご》った。冷たい風がどこからか瓢と吹いて来て、満目《まんもく》
の麦は「知らない知らない」と云うように、一斉に頭を掉っている。
「本当に如何したのだろう?」
と僕は足下の吾影法師に問うた。唖々と云う声がしたので、不囲眼をあげると、一羽の
鴉が肥料壷の屋根を立って、彼方の冬枯の村を指して飛んで行った。ああ育英学舎、駒井
先生、この麦畑──吾は浦島の子ではあるまいか。
良久しく佇んで居たが、僕は大息ついて、麦畑を出た。干大根を二三本入れた畚(ふご)
をつっかけて一人の老農がぶらぶらやって来た。
「爺さん、ここらに学校があったが、如何なったか知らないかね」
「何、学校?左様、左様、若者達が軍の真似事をするといっちゃ菜花畑を荒らして困った
が、最早一昨年潰れたでがすよ」
「左様? 潰れた? 最早どこにも何もないのかね?」
140
「左様さね?よくは知んねえが、何んでも建家は売れるし、何もあんめえよ。何かね、
貴君はその学校にでも入学る積で来なさったかの?」
「何、そうでもないが──有り難う」
老爺に別れて、僕は今更世事の変遷の劇しきに胸を撲たれ(後で聞けば、育英学舎は僕
が出奔した翌年、主管その人を得ない為に自然瓦解し、家は売れ、学生は散じ、唯彼眼鏡
先生が城下の片隅に十四五人の書生を集めて、教えて居ると云うことであった。
)駒井先生
や旧友の上を考えながら、ぶらぶら榎小路の家に帰った。
帰ると、すこぶる怪しい手つきで襦袢を縫って居た鈴江君が、
「慎太郎さん、好い同伴が出来てよ」
「好い同伴て、誰です?」
「松村の母君がお嬢さんを連れて上京するのですって──今帰ったばかり」
「嬢(むすめ)?──清磨の妹か知らん」記憶帖を繰って見ると、成程僕が遊びに行っ
た時、八歳位の莞爾々々した女児がいた。
「左様でしよう、十四ですって──可愛い嬢。わたしが世話をしてあげる積なの」
世話も可笑しい、先御自身のその袂の綻のお世話からなさい、と悪口が出かかったのを
ぐっと呑み込み
「ブルーストッキングが殖えて結構」
「ブルーストッキングて何?」
「鈴江君の様な女学士の事です」
「わたしそうに茶かすこと嫌い──、女だって学問してはならぬと云う仔細はないわ。
フォセット、マダム──」
「そうですとも。僕も大賛成ですとも。日本中の女が皆エラクなって、男が飯焚《めし
たき》──」
「沢山冷かして頂戴、
人ガ真面目に云ってるのに、
本当に貴君はすれて来なすったのね」
鈴江君の気焔当る可からず、僕は笑いながら舌を捲いて、奥へ背進した。さて母の話を
聞いて見ると、松村の妹のお敏と云う娘が、平生東京に行たがって居た所に、先日松村老
人が野田伯父の吊儀(くやみ)に来る伯母がその答礼に行くして、不図鈴江君が近々に上
京する、僕も神戸まで行く、と云う話が出たので、あのお敏君が是非一所に行きたがり、
愛嬢の事ではあり、同伴も好し、高等小学を卒えてからと思って居たが、それでは今回遣
ろう、それにはお敏君の母も東京見物かたがた送って行って、兎も角も学校に入れて来よ
う、と云う話になり、今日その打合せかたがた母子打ち連れて来たの事であった。母も伯
母も好同伴と喜んでいた。
何やら角やらに日数たって、一月の十五日と云うに、漸出発することになった。今回は
海路長崎に出ることになり、
伯母も母も艀の出る所まで送って来た。問屋の前まで来ると、
待合わせて居た松村列(松村老人とその僕は送りに、母子は旅装して)が立って僕等を迎
えた。久振に清磨君の母君に挨拶して、見ると、その後に紫のシャツ、赤襟、黄八丈の綿
入に黒奉書の羽織、銀杏髷に梅の花簪を挿した、色の透き通るように白い、痩せ形の女児
が莞爾々々笑いながら立っていた。これがお敏君であった。僕が清磨君の家に遊びに行た
頃は、未だふさふさした振り分け髪を被って、人形を負って居たが、最早遊学などと生意
141
気を云うようになったか。思えば早いものだ。
離別は如何な場合でも、余りよくないもの。伯母は眼を赤くして、鈴江君の羽織の襟を
直しながら、こまごま東京の叔母への伝言を述べて居ると、こっちには松村の母君がその
僕に留守中よく老人に気をつけるように色々云い含めている。送る者、行く人、別れて艀
に乗るまで打湿っていた。
「お連は好、お天気は好、何だかわたくし共も書生になって上京(のぼ)りたくなりま
すね」と母が埠頭の段に立ちながら、沈默を破った。
「いやお連れがお連れで大安心でござる、慎三郎さん(老人まだ斯く云う)、お世話にな
ります」
「左様なら、松村のお袋様。慎さん、頼みますよ」
「慎太郎よく気をつけてお出。鈴さん、左様なら、東京の叔母ようによろしく」
「左様なら」
「左様なら、御免遊ばせ。良人行って参ります」
「阿爺、左様なら。お淋うございましょう」とお敏君が初めて銀鈴を振る様な声で明瞭と
言った。
「心配すな心配すな、病気せん様勉強するが宜ぞ」
櫓鳴って、艀は岸を離れた。
(十九)
僕等の一行は長崎に着いて、横浜行の汽船に乗り更えた。
五島海峡を遡って、玄海を廻る間は、北の氷蔵から吹き来る寒風波をあげて船体の動揺
甚しく、松村母子は枕が上らず、大分船に馴れた僕すら少々怪しい心地、悠然として三度
の弁当を平げるは独り吾勇敢なる鈴江君のみであったが、船瀬戸内海に入ると、大分穏や
かになり、皆々人心地つき、寝て居た者も起きて隣同士挨拶を始める始末。松村の母君も、
ようようペンキの臭いと機関の響きに馴れて、隣の女客と言葉をかはし、四方山の噂をす
るようになれば、鈴江君はその頃大分流行って来た毛糸の編物をしながら、屋島と壇浦は
同地異名で、安芸の宮島と厳島は全く別、太閤様が昨日その沖を通った博多に陣どって元
寇を殲《みなごろし》にしたなんぞと驚く可き誤謬に満ちた歴史地理を、黙って胡乱《う
ろん》気に聞いて居るお敏君に授け、僕は時々その話に冷評を挿みながら、他の客から借
りた近頃の新聞を広げて、鹿鳴館の舞踏の、仮装舞台の、学生英語演劇のと近頃西洋華奢
風の帝都に吹きすさぶを慨嘆し、また風日穏やか時は、一同打連れて甲板に上り、僕が指
点の下に盆石の様な島山の船を迎えて開闔《かいこう》往来しばらくも止まぬ景色の妙な
るを賞玩した。鈴江君は寧ろ菓子でも食って客室に臥ころんで居るを好んだが、お敏君は
場所珍しいのであろう、
ややともすれば甲板に出て見ましょう出て見ましょうと催促した。
お敏君は実に妙な女児であった。莞爾々々笑ってばかり居るから、何も分らぬのかと思
うと、本人は勿論、鈴江君も松村の母君すら気づかぬ僕が袂の綻を見つけて、母君に囁や
いて縫はせる。始終無口で居るが、ぢいと人の話を聴いて、幼ながら独りで判断を下して
居る様子。三人の女性の保護を引受けた菊池勲爵士は、よほど心を用いたが、そこは男の
142
意到って手随はぬ所多く、松村の母君が初旅の心細く兎角家の事を気にしたり、大様でも
流石に女は女、鈴江君が亡父を思い母を懐《おも》い出して塞ぐ時、男の保拇《もり》役
には持余すことも多かったが、こんな時には無口のお敏君がちょいちょい機嫌をとった。
とると云っても、眼にもまらず、耳にもたまらぬ微妙の早技、畢竟清々しい心胸から自然
に流れる気あい所為《しょい》で、無為而化《むいにしてかす》と云うのであろう。鈴江
君は妹でも得た心地で大得意、当初の宣言通り、頻に「世話」をやいていた。松村の母君
が躊躇するに拘はらず、お敏君の銀杏髷を束髪に結ひ直してやったり(束髪と英語はその
頃の婦人社会の二大流行であった)学校は是非自身の入って居る静養女学校になさいと強
いたり(僕はその女学校なるものを知らないが、鈴江君に徴して或は足下から鳥が立つ的
の教育をする所ではないかと危ぶんだ)
一寸甲板に出るにも「お敏さん、
階梯があぶないか」
ら、用心なさい」と云いながら己が袂の新塗のペンキに触れるをお敏君が後からそっとか
かげるに気もつかないで、あくまで姉を以て任じていた。
同伴ある旅は早いもの、三十六灘何時か過ぎて、攝津湾の夕日に響く汽笛の音に、最早
神戸かと驚いた。時間があれば須磨明石案内しようと云って居たが、玄海の風波に着が晩
れて碇泊時間をきりあげるとの事で、その目算もはづれ、僕は船中近づきになった商人夫
婦に一同の世話を頼み、さて別を告げた。
「菊池さん、有難う、ご親切に色々お世話になりました。隠居にも早速そう申して遣わし
ます。──本当にあとが淋しくて詮方があるまい」と松村の母君は羽織を被せて呉ながら
別を惜んだ。
「左様なら」鈴江君は一揖《いちゆう》し、お敏君も黙って一礼した。
「左様なら、鈴江君、気をつけてお出なさい」
云い棄てて僕は小行李を提げながら艀に下り、ふり仰いで見ると三人は甲板に立ってい
る。僕は今漕ぎ出す艀に立ち、帽をとって一礼した。松村の母君は微笑んで答礼した。
「左様なら、早く上京っていらっしゃいな」と鈴江君が呼んだ。お敏君は鉄欄につかまっ
て、まぢまぢこっちを瞰めている。
また一礼して、腰を下ろす途端、不図向うからさつさと漕ぎ来る艀を見て、愕然立ち上
がった。
「先生──菅先生!」
紛れもない先生だ、肥大夫人も一所に居られる。
「や、菊池君か」
「どこへお出になります?」
「東京だ」
何の用でと問う間もなく、鈴江君等の上を托する間もなく、三挺櫓の艀はさつと両方に
行違った。
(二十)
関西学院に帰って、第一に耳に入った新聞は、あの菅先生が学院教授を辞して東京に赴
いたと云う事であった。全体何の為めに、正月早々そんな事をせられたのであろうか、仔
細を聞き糺《ただ》して見ると、先生は宣教師派の聯合排斥運動の犠牲となったのである。
143
先生が宗教上の持論の正統派の教義と相容れざる所多きは、巳に前にも云った通り、且そ
の人物の狷介峻しょう(山と肖)にして、学問あるにまかせ、往々宣教師輩を舌端に侮弄す
る様の事もあって、雙方の間に久しく悪感の潜伏して居たのは、これもすでに述べた通り
である。而してその破裂を来した最近因は、菅先生が新年始業の当日徳育講話をするに当
って、
「迷信と信仰」と云う題をかかげ、アブラハムがその子イサクを犠牲にして上帝を祭
らんとしたのは、当時カルデア辺に流行せる迷信の蛮風に化せられたもので、信仰の模範
とす可きではない、総じて迷信は何時の世にもあり易いもの、洗礼とか晩餐とか云う儀式
の上に拘泥して宗教の真精神を忘却する如きは、即ち一の迷信で、宗教の罪人であると云
うことを演説せられた。所で、宣教師間には非常に物議が起り、斯の如き異端邪説を公々
然稠人《ちゅうじん》広座の真中に演説するとは、我々を侮辱したも同然、所謂基督教教
育を以って主義とするこの関西学院に斯る教師は到底置く可からざるものであると、かっ
て菅先生の教授法の争論に言い負けて腹に怨みを蔵して居た首座の宣教師が躍起となって
運動し、終に菅先生を罷めるか、宣教師の総辞職従って学校の補助を悉皆引払うの結果を
甘んずるか、と進退ならぬ手詰の談判をしかけた。それに就ては校長の苦心一方ならず、
あのブラオン師の如きも仲間の宣教師の怨みを買うまで中に立って色々調停の労を取った
が、宣教師達の火手中々おさまらず、遂に菅先生自ら校長の苦心を諒して辞表を出し、袂
を払って東京に去ったと云うのである。あの艀の上でちらと見た先生の顔に、針にもまし
て怒りと憤激の色が漲って居たのも、当然である。
僕の心は憤に満ちた。
何と云う宣教師輩の跋扈であろう?菅先生を見殺にして満校の学
生、実に何と云うざまであろう? 僕は枕に就いたが、どうしても寝られぬ。夜十一時と
云うに、そつと起き出て、豆の様な灯火の蔭に、安着の報知を母に書いた墨の未だ乾かぬ
筆を執って満腔の弧憤を漏らした。菅先生の貸された文学書類は、眼前に並んでいる。艀
の上に見た無聊無頼の先生の顔は、歴々《はっきり》と目の前に跳っている。僕は殆んど
考えもせず、書き流し、書き飛ばし、駿河半紙五十余枚さらさらと書き果てて、戞然《か
つぜん》と筆を擲って、玻璃窓《るりまど》の東雲に対した。題は「基督教を過《あやま》
るものは誰ぞや」と云うのである。
「余は自ら基督教を信ずる者なり、余は菅先生に対して
恩怨ある者にあらざるなり、然れども今回の事たる実に默止す可からざるものなり、我基
督教の為に、我関西学院の為に、思想の自由の為め、言論の権利の為に、鳴呼我満校三宮
の同窓諸君、幸に耳を余が孤憤の言に仮せ」と云う句を冒頭にして、菅先生が学殖饒《ゆ
た》かに学者として直往勇進の気象に富む事実を挙げ、堂々関西学院の如き私立学校を以
てし一個の大胆率直なる学者を容れるの余地なきを憤慨し、
「基督教を過る者は誰ぞや。世
界万民の為に上帝の下したまへる真理的専売権を壟断《ろうだん》する者は誰ぞや。バリ
サイを嘲って己れ天国の鍵を緊握する者は誰ぞや。宗教改革者の子孫と称して第二の羅馬
法皇たる者は誰ぞや。吁誰ぞや、基督教を過る者は誰ぞや。」と畳みかけて彼基督教徒と称
して寛容の精神に乏しき輩を攻撃し、博愛を唱えて漫《みだり》りに藩籬《はんり》を作
り、形式を先にして宗教の魂を忽せにし基督教の大旆(「はたじるし」の意味)を偏僻の糞
土に塗《まみ》らす者あるを痛罵し、次第に鋒鋩《はうぼう》を露はして、「尭の子に丹朱
あり、舜の弟に象あり、ワシントンフランクリンの子孫には何人かある。学殖の富無くし
て人の能を妬み、
『羅馬に入っては羅馬に従う』可きに漫りに自家の偏僻を他邦の民に課せ
144
んとする者は、基督教を過る者なり。恩を売り、義を衒い、己を尊るを知って異風の民を
敬するを知らざる者は、基督教を賊する者なり。
『狐は穴あり、天の鳥は巣あり、然れど人
の子は枕する所なし』
、然るに彼輩は高給を貪り、美屋を建て、料理番を使い、避寒避暑し
て、なお道を伝えると云う。鳴呼彼れ何の道をか伝える?彼等は道を伝うる宣教師にあら
ずして基督教に衣食する雇傭兵にあらずや」
と憤り、
「余は決して攘夷論者にあらざるなり。
色の黄白を以て字の縦横を以て、斉しく上帝の子たる人類に人為の差別を加るを悪《にく》
む者なり。然れども今回の事の如きは基督教を過る所為として私立学校の面目を傷くる者
として決して默止する能わざるなり。吁基督教を過る者は誰ぞや。基督教を過る者の集め
に過まられたる菅先生に一滴の涙を洒ぐ者は誰ぞや」と絶叫し、満校の輿論を以て彼不当
なる判決を取消し菅先生を復職せしむるようにしたしと論じて筆を収めた。
書き果てて、緊しく隅を綴じ、天明(よあけ)を待って、新聞縦覧室に出し置き、且つ
その旨を筆太に書いて食堂の掲示場に張り出した。
(二十一)
朝飯の頃になると、食堂前の掲示場には、真黒に人がたかって、それから新聞縦覧室に
入る者出る者織るが如き有様を、僕は吾室の玻璃窓から眺めて、思い切ってはなした彼一
箭の手答えあるをひそかに喜んだ。
菅先生が余り人望が無かったのと、宣教師派の気焔が余り熾であったので、事件の当時
は左まで激昂しなかった校内の輿論は、菅先生已に去った後の僕が一篇の檄によって不思
議に燃え立った。どこに行ってもその話ばかり、出ると顔を見られるのが余り気恥しいの
で、室内にじつとして居ると、種々様々の人々が入りかわり立ちかわり遣って来る。
「菊池
君、思い切ったことをやったな」と云う者もあれば、
「君の身上に万一の事が無ければ宜い
が」と心配して呉れる者もあり、
「伝道師を以て任ずる君が宣教師攻撃は実に奇観だ」と冷
評する者もあり、
「今後運動の方針如何」と問う者もあり、「実に同感だ、あの赤髯を引っ
こ抜いて、鳶鼻の曲る程打撲ってやりたい」と飛んだ相槌うつ者もあり、就中俗派の豪傑
組未来の警視総監赤沢、非俗派の豪傑組の二三子の如きは、
「菊池君、実に我輩は恥ぢ入っ
た、その場にも居合わさぬ君に先鞭を着けられて、済まなかった」と懺悔して、善後策を
講ずるもあり、極々温順しい連中と、喧嘩過ぎての棒ちぎり今から騒いで如何するよせよ
せと笑って居る連中を除くの外は、多少その熱に感染せぬ者はない位。僕は吾点したマッ
チの火の爆々焉と燃え広がる勢の熾なるに、且は驚き且は勇み、更に「善後策如何」と云
う一篇の意見書を公にした。
学校の輿論は次第に燃え立ち、その結果として、各級各派の総代は、土曜日の朝を以て
学校の後の松林に会合し、種々討議の結果、校長に一篇の建白書を呈して菅先生の復職を
歎願することになり、この建白の主意を貫ぬく為めに一同袂を連ねて退校するも辞せずと
云う決議をして、僕は即ち建白書起草委員の第一に撰まれた。容易ならぬ大任を負うた僕
は、窺かに人無き教場に退いて、筆をとって建白書の草案を稿し、
一、菅亀太郎先生の免職は、
基督教寛容の精神に戻り、
学校の不利益不面目なるにより、
145
速やかに復職せしめられたき事。
一、菅先生免職事件に関する宣教師某、某、某等の挙動は卑劣にして、紳士の体面を汚
し、基督教信徒にあるまじき所為と認む。因て某、某、某は菅先生復職の上、公然謝罪す
可き事を誓──
ここまで書きかけると、後の扉が開いて、小使の声で「ここにお出になります」と云っ
たので、回顧(ふりかえ)ると思い掛けないブラオン師と清水教師であった。
「菊池さん、貴君、ひどい事します」とブラオン師は泣き出しそうな声で云えば「菊池
君、逸まった事をして呉れたぢゃないか、最早半年で卒業と云う際に!」と清水教師も云
った。その話によれば、僕が彼激烈な檄文と従ってその影響が学校を沸騰せしめた事は、
あの宣教師(ブラオン師も宣教師であったが、師は非常に我々に同情を有って居て、何時
も宣教師と我日本人の間の連鎖となって居た)の耳に入って、非常に激昂し、厳重なる処
分をしなければならぬと云う意気込で、首謀者の僕は従来伝道師候補生として望を属され
て居た丈一層憎悪が強く、十字架にでもつけそうな勢であったのを、片山校長が非常の苦
心で宥め、今校長親《みずか》ら学校の重立たる連中を集めて鎮撫の談話をして居られ、
僕には特に両教師を遣わして懇々説諭せられるとの事であった。両師は言を齋うして、僕
が校内上下の望を負う身にてありながら、菅先生その人すら已に校長の苦心を諒として去
られた後に、
斯る軽挙に出づるはかえすがえすも残念な話、速やかに彼の檄文を取り消し、
扇動を止められよ、そうすれば宣教師仲間の憤怒は校長初め吾儕がどんなにもして宥める
と、一時間余も諭された。
口もとまで出かかる反駁をぐっと飲み込んで、篤斗熟考す可き旨を答え、あの建白書の
草案を巻いて懐にし、教場を出て見ると、あの方の礼拝堂から彼赤沢を初とし、局外派の
所謂「曹達水」
(沸騰さんと云う謎)の連中が三々五々出て来た。涙ぐんで居る者もあれげ、
思案顔もある。一見して僕は事の状態を認めた。校長一滴の涙は、感じ易い学生の烈火を、
一席にして消滅したのである。僕等は再び例の松林に会議を開いた。彼一句、この一句、
要するに外国宣教師の菅先生排斥は甚だよくない話だが、菅先生も已に合意的に辞職せら
れ、云わば軍陣の名誉を保って去られたことではあり、今更復職と云うも学校の威信に関
する訳で、この際軽挙妄動するは情誼父の如き片山校長の苦心を無にし、衷情を蔑にする
所以で、男児の所為ではない、校長が罪を一身に引受けて謝すると云われた、そので十二
分ではないか、それにこの回の示威連動で宣教師等も定めて胆を冷やしたであろう、兵法
にも窮寇は追はずとある、最早きりあげ時、と云うのが輿論であった。間々二三子の、そ
のではあまり意気地がないぢゃないか、と云う者もあったが、畢竟藁火は燃え尽して、一
同の意気性最早消沈していた。しかしながら火元の僕はそう云う訳には行かぬ。
「菊池君、
君も異論はないか」と問われて、
「僕か、僕は──左様、先勘考して見る」と口早やに云っ
た答の裏には、已に対し同輩に対し校長に対し誰とは頂く揮てのものに対して云う可から
ざる「売られた」と云う感を懐いて居た。
その夜、その次の日曜日、片山校長は特に僕を二回まで招いて、懇ろに諭された。自家
壮年の実歴を物語って、
「菊池君、吾輩も覚えがあるが、客気は決して事を成す所以ではない。世事は複雑窮り
146
ないものだ、気に任せれば一歩毎に衝突は免かれない。無暗な衝突に気力を消磨するは、
千里を期する貴君にとってこの程憂可き事はないです。何卒自重して戴きたい」
と、一回屈を忍んで彼扇動運動を中止し、あの意見書は過激であったと云う事を公に承
認しては呉れまいか(それは種々宥めて見たが、宣教師等は極度の寛典が「謝罪」と云っ
て一歩も引かぬから)それは貴君が純ら義侠の精神から彼意見書を発表せられた事は十分
吾輩も酌んで居るが、内外人の中間に立ち、大勢を統ぶる吾輩の苦衷を諒して、犠牲とな
った積りで淮陰を学んでくれ、とまた余儀もなく頼まれた。
(二十二)
僕は校長の厚意を感謝し、明日決答する旨を答え、学校に帰ると、またブラオン師がわ
ざわざ僕を晩餐に招いて、繰り返えし諭された。
その夜僕は寒風に吹かれながら例の松林を何十回何百回となく往返して考えた。僕の味
方は尽く敵に降って、今は唯った僕一人になっている。
(敗軍の将は毎も一人だ)
。校長の
苦心を諒とし、ブラオン師等の厚意に従い、僕もまた降らふか。それも男児の所為かも知
れぬ。しかし僕は彼意見書の一字一点も撤回す可き理由を見ない。ちと激烈でも僕の言は
確かにあたっている。己の非を認めたら、乞食の前にも跪いて詫びもしよう。さもないの
に、上帝と吾母の外何人にも下げぬこの頭を無暗と人に下げられうか。否、僕は謝罪はせ
ぬ、断じてしない。仮に百歩を譲って、謝罪して宥された所で、敗軍の将何の面目あって
大手をふって行かれうか。いわんや阿容々々(おめおめ)と箒かたげて学資を学校に仰が
れうや。吾攻撃した輩の説教を日曜毎に有り難がって聞かれうや。否、僕は断じて謝罪は
せぬ。しかし校長等の厚意も決して仇にはしない。一面校長諸師の厚意に答え、一面自家
の自尊心を宥むるの道は果して何れにあるであろうか。百考千思、僕は終に自ら進んで退
学する外に、その道を見出さぬのであった。しかし最早六ケ月で卒業──卒業証書一枚が
そうに欲しいか、と心の内で或ものが吾を叱った。
僕は松林から籬を乗越え、
(最早門がしまって居た)、吾室に帰った。幸いに僕は一人で
三畳の室を占めていた。音がせぬように、書籍衣類を行李に詰めて、立派に荷造し、あと
を奇麗に整頓し、友人から借りた書籍は一々名前を書いた札を挿んで机上に並べ、校長に
一通、ブラオン師清水師に各々一通、同級諸子に一通、殊に懇意にした「思想家」の遠藤
に一通(これは僕が東京──僕は無論東京を指した──に着後、報知次第彼柳行李を通運
で送って呉れるように《通運料は蒲団を売り払って》頼んだのである。僕は夜中出奔する
を屑とせず、白昼せめてこっちばかりなと告別して行く積であったが、しかしこんなって
は引とめられるを恐れたので、荷物は気どられぬように残して、机、ランプ、破椅子、そ
の他諸雑品は、貧乏仲間の甲乙に遺した。幸いにして僕の嚢中には、母が入れて呉れた金
の残りが六円許あるので、東京までは無論行かれるのであった。負債は一厘も無く、当期
の月謝は払ってある)夜学会の世話人に一通、手紙を認めた。書きながら、不図四年前育
英学舎であたかも同様の挙動をしたその夜の事を思い出て、僕は沈吟した。出奔又出奔、
あまり忍耐がないではないか、且彼出奔の後にはあの様な困難に会ってあたら月日を徒消
した、この回の出奔も或はその二の舞をするのではあるまいか。思い惑うて、聖書をひき
出し、吾に決心の枝折を与え給えと祈って、手当(てあたり)にひきあけて、その頁の初
147
一句を読むと「さんとし、既に彼を縛りひきゆきて方伯のボンテオ、ピラトにわたせり」
とある。何の事だと舌鼓うって、また眼をねぶりひきあけて見ると、
「らに帰るべし、その
家にとどまりて供う所のものを飲食せよ、----家より家に移ることをせざれ」とある。僕
はいよいよ迷った。迷い迷って茫然として居ると、西山塾で習った屈原卜居(くつげんぼ
くきよ)の末節「用君之心、行君之意、亀策誠不能知この事(きみのこころをもって きみ
のいをおこなへ
きさくは まことにこのことをしるあたはず)」の句が忽然脳に浮び出た。
僕は得たりと頷いて、さらさらと手紙を書いてしまった。
それから鉄の様な蒲団にもぐり込んで、夜が明けると、例の通りさり気なく起き、盥嗽
済んで、食堂に入り、心の中に諸友に別を告げて、これから朝の礼拝の鐘が鳴り、全校の
生徒が礼拝堂に集ったその隙に、僕は校長に宛てた書翰《しょかん》と退校届を懐中し、
風呂敷包一つ提げ、居寮を出て、門にかかると、向から清水教師が走って(礼拝の時刻に
後れるので)来る。手早く風呂敷包を門の蔭にさし置き、さり気なく立って居ると、清水
氏は走り入りざまに不図目をつけて、
「菊池君か、礼拝には何故出ないのか」
僕は曖昧な返事をして、
見つかったかと胸を轟かした。
しかし清水氏は心せいたる体で、
「君、あの事は如何した。宜教師の方でも昨夜また校長に迫ったそうだ。暇どるといよ
いよ事が大きくなる──
「今日午前の中に校長の所まで確答する筈です」
「そうか、それは宜い、それは宜い、──ぢゃ失敬」
と清水氏は、礼拝堂の方へ走って行った。僕は風呂敷包をとって、門を出さまにふりか
えった。礼拝堂で一同が歌う讃美の声が、遠い波の音のように響いて来る。誰にともなく、
何にともなく僕は一揖して、門を出た。
海岸通りの西村へ行って横浜行の汽船を聞き合わすと、今明には出帆せぬと云うので、
僕は不便でも四日市から乗ることに定め、さて最後の難関たる校長の宅に向かった。引き
とめられるが五月蝿さに諸師友には告げずとも、この二年あまり薫陶をうけこの回の事に
ついてもあれ程懇切に云って呉れられた片山校長には一言の謝辞訣別の語なかる可からず
と思ったのである。素より僕が退学の決心は万牛も動かす可からざるものであるが、進退
の節に闇い点を残すまいと、ひそかに心がけたのであった。
唯有る店の時計を見ると、最早九時二十分、先生も確かに礼拝から帰って居られる時刻
である。僕は風呂敷包を提げながち、校長私宅の門を入って玄関に立ち、胸は動悸、手は
案内の鐘をうち鳴らした。婢が出て来た。
「先生は最早お帰り?」
「へえ、お帰りりやした──」
僕の胸はいよいよ急にうち出した。
「──が、唯った今使が来てまたお出はりました」
血闘に出かけた者が、半途に相手の頓死を聞いたように、僕はがつかり大息した。残念
な様な、免れた様な。
僕は少し考えて、懐中から彼退校届と陳情書を出して、婢に渡し、
「御告別に上ったが、御留守で残念──とそう申上げて呉れ給え」
148
云い棄てて直ちに三の宮停車場に向った。
* *
* * * *
*
京都で汽車を下りて、その夜は石部に泊り、明日は雪中に鈴鹿を越え(頃日来の余憤炎々
としてさまで寒を覚えなかった)てその夜四日市の汽船に乗ったが、遠州灘でしたたか鍛
えられ、降りしきる霙を冒して横浜に上陸した時は身神ともに海月の如くなっていた。そ
れから辛《やっと》汽車にのり、皆掏摸の様な顔した人々の中に小くなって、寒さに歯の
根もあはず、しぶきに曇る瑠璃窓から面白くもない景色を眺めながら、丁度明治二十年一
月二十七日の午後四時、夢には古いちかづきの新橋停車場(僕は故国からここまで四年の
歳月を費やした) に着いた。
汽車を下り、車や人や押合いへし合う泥だらけの混雑をあやうく縫って、風呂敷包片手
に石段の上に立ち、降りしきる霙(この時からして僕は英語のミゾレブルと云う字を思う
毎に、霙降る、と云う語を思い出す)に愛想も見栄もなくびしょぬれに濡れた芝口の通を
眺めて、僕は思った、
「これが東京か、何と云う汚い所だろう!」
六の巻
終り
==========
七の巻
(一)
明治二十年一月二十八日の朝九時頃、銀座通の西側を往来した人は、
(記臆しても居るま
いが)
、日報社前の柳の下に、思い出し思い出し降る小雨に傘もささず、灰色になった黒の
鍔広帽を阿弥陀に冠り、風呂敷包一個提げて珍らしい好奇心と心配をわざと冷笑に包んで
傲然と立って居る一個の青年を見たであろう。その青年は斯く云う僕。僕は昨夜芝口の宿
に泊まって、今朝本郷を指して行く途中である。今もその前を通ると、大人気ない話なが
ら、拳固をふりまわしたくなるは、僕が東京に於ける第一夜を過した芝口の宿(勿論今は
家も主人もあらたまって居るが)である。書生君の一人旅、荷物と云っては風呂敷包一つ、
どこをたたいても茶代が出る気遣なしと見込まれたが最後、汚い三畳敷に押込まれ、都の
人の心も汲んで知る生温き薄茶一杯、あとは火鉢の火が消えようと、手ばれかり鳴らさし
て、偖二時間も待たしてやっと持って来た飯は砂利沢山の生温飯、表面澄んで実少なの汁
に、塗盆を膝に立てて人を馬鹿にした給仕の婢も同様性の知れぬ煮肴の向うづけ、口ばか
り甘い煮豆に、浮世の味は偖辛い塩漬大根の噛めば我利我利と音するやつを菜に強いて二
碗をかき込み、草臥れたからと泣ようにして敷いて貰ったのは薄く小さく硬く臭くて十九
世紀の夫差が薪がはりに敷いて寝そうな蒲団に縮こまり、
「東京と云う所は、寒い所とは聞
いて居たが、人の心までが氷点以下であったか」と不平で堪らず、僕が一朝志を得たらば、
市中にこの旅宿を十倍した程の一大宿舎を建築し、金紋付や馬車で来る大官豪商など云う
連中は「お生憎さま、ここは君達がお宿ぢゃありませんよ」と気の利いた婢に顋で追はせ、
「未来」の徽章を真額に帯びた弊衣破帽の人達は、一丁もこっちから飛んで出て迎え、思
う存分優待して可愛がってやろう、なぞと途方もない空想に耽り耽りつい目睡んだが、今
朝朝飯が済むと、早速勘定を払って、宿を飛び出した。実は蟇口の底をはたいて、茶代に
149
呉れた上で、
亭主を呼びつけて昨夜来の不埒を叱りつけ、
「御気の毒様」
の百遍も云わして、
恐れ入らしてやろうかとは、思ったが、一銭は百円にも値る目下の場合、見栄所でないと
眼をつぶって、耳を塞いで、逃げるように宿を出たのである。
足の塵をはらって新橋を渡り、音に聞く銀座の通に出ると、思った程立派ではないが、
流石朝から人の往来の繁く、立並ぶ店の賑合も成程日本一の都一の街丈あって珍らしく、
僕はあっち見、こっち見、おりおり人に行当ろうとしては危く身をかはしながら、ぶらぶ
ら歩いた。日報社の前まで来ると、またその建物の宏壮に一驚を喫し、あの名筆を福地君
はこの二階で揮ったのかと見あげ見おろし、しばらく片寄って眺めていた。往来の路人は
つくねんと柳の下に佇む一寒書生を何と思って(若くは思わずに)見たのであろうか。僕
が心の中の独語はまさに左の如くであった。
「東京、東京、おまえはこの菊池慎太郎君の来遊を一向知らず貌に、せつせと生活の戦闘
をやって居るな。行人、行人、おまえ等は僕の顔を見ても何も知らず、居るな。今に見給
え、菊池慎太郎と云う名が揚がり、今おまえ等が読んで居るその新聞(日報社の掲示新聞
の前に人が三四人立読して居た)に、今ここに立って居るこの青年の名があらわれ、おま
え等も菊池君だ、
慎太郎氏だと道をよけて通し、足をつまだてて見る時が来るかも知れぬ。
喃、柳、そうぢゃないか」
と僕は撫づるように柳の幹をたたいた。時は今冬の最中、柳の葉は落ち尽して、幹は真
黒に、どこに春が籠って居るとも見えぬ。しかし春は来る。必ず来る。春が来て死んだ様
な柳が緑に息ふきかえすも最早二月を出ないのである。しかしながら吾生の春は何時、吾
芽の吐くは何れの日であろうか。それは恐らく五年、十年、二十年、汗血を揮ひ尽して長々
しい冬と闘った後の事であろう。
(二)
僕は、本郷湯島天神町の松谷と云う下宿屋に一先づ落ついた。一は先年友人の松村が寄
寓して居た縁故もあり、一は僕が上京の目的に兎も角も近い方角を撰んだのである。
僕が上京の目的は、帝国大学であった。吾足関西学院の門を一歩踏み出した時は、最早
文科大学に心は飛んでいた。否、若し僕の枕を仔細に糺(ただ)したならば、吾夢の赤門
を潜ったのは、恐らく一朝夕の事であるまいと思う。新五の攻撃、菅先生の勧誘、は無く
とも、僕が伝道師たるの決心は早夏の頃から秋立っていた。唯一縷の痩我慢あって僕を関
西学院に、神学修行の決心に、伝道師の目的に繋いで居たものの、吾心の軽気球は次第に
昇りつめて、彼方の空に輝やく別世界が近く見えるはど、吾をこの世界に繋ぐ糸はいよい
よ伸びていよいよ細く、風の一吹き、刃の一触を待つの有様であった。菅先生の一件は、
あたかも僕の為めに快刀の一揮となったのである。若し一面の物事の本質を写す物をとっ
て、僕の心の前に押立てたならば、菅先生問題に関するあらふる憤激失望のその奥には、
微笑する或ものの面影が映ったかも知れぬ。しかし僕はそれと知らず、若くは知るを欲せ
ず、どこどこまでも菅先生に対する同情より宣教師輩の狭隘なる感情の犠牲となって──
云わば基督教の公儀を維持せんとして斃れた一種の殉道者、諸同輩の身替りとして、昂然
と関西学院を出たのであった。僕が去ったのでは無く、関西学院が僕を追い出した。僕は
当初の目的を維持する筈であったのを、事情が僕に迫って決心を翻させたのだ。即ち僕は
150
是非なく関西学院を出で、是非なく伝道師たる可き目的を中止し、是非なく帝国大学を指
して来たのである。
大学の事は、
関西学院に居た頃から薄々聞知して居たが、下宿に落つくと直ぐ入学試験、
受験料、保証人等入学の手続を詳らかに糺した。入学試験は九月初旬に行うとの事で、試
験課目は打見た所左程恐れるにも及ばぬ、唯理科数学だけが少し骨折と思われたが、是と
ても今から六ケ月間勉強したらば滅多に後れを取る気遣はあるまい。唯困難はとにかく九
月まで自から支えるの計を定めなければならぬのである。
僕の懐中には、剰す所僅かに二円なにがし、素より一ケ月分の下宿料に足らぬ位。愈々
大学に入った上は兎も角も、関西学院を出奔した、東京に来た、金送り給われ、とは如何
あっても母に云いたくなし。新五に云ったら一も二もなく出来もしようが、それもあまり
意気地がない。東京に百万の人はあっても、僕の知人は殆んど皆無と云って宜い位。勿論
菅先生は来て居られる、関西学院の遠藤(僕が荷物の送り方を托して置いた男)に尋ねて
やったら先生の宿所も分からうが、今の場合先生に顔を合わすは、男児として妙に面白く
ない感もある。鈴江君なぞの女達(僕が斯く速やかに来ようとは夢にも思わぬであろう)
は無論話にならぬ。こんな時に、亡くなった兼頭君や、札幌に居る松村が居たら、力にな
って呉れるのだが、今は愚痴を並べる暇はない。僕は下宿の主人を呼んで、事情を打明け、
沢山の報酬は望まぬが、日間の勉強を礙げず《さまたげず》夜だけ稼ぐ道はあるまいか、
と相談に及んだ。主人は新七とか云って、奥州訛の極篤実らしい五十余の男。
仔細に聞き終って、
「成程御尤の次第、
私もこんな稼業を致して居ますれば、
書生の御方々
とは大分御交際も致しますし、及ばずながらお世話申して、今では立派な御方になって、
まだ時々は『おい、新七君』なんて仰有って下さる方もございます、何でも御辛抱が肝腎
でございます」と前置して、色々話す所によれば、神田本郷あたりは夜学の教師なぞは生
徒の数より尚多い位、また然る可き家の書生の口なぞも中々今日明日と云っては無し、夜
の稼業では活版職工は修練がいるし、牛乳配達か、少し骨折りでも車挽か、さもなくば新
聞配達は馴れさえすれば案外楽なもの、それには少し心あたりもあればと、座をすべり出
た主人はやがてその日の暮方にまた「御免」と入って来て、その知人の知人にこの頃新に
発行した平民新聞の庶務係があって、その人の話では配達を一人社では求めて居るそうで
日給は二十五銭、一っためしにやって御覧になってはと話した。
何かありそうなものとは思ったが、つまらない仕事でも辞す可からざる今の場合、車は
収入が多くても到底体がつづかず、同じ配達なら牛乳よりも寧ろ頭脳の飲み物を配達する
が宜かろう、それにしても平民新聞と云うはどの様な新聞かと、一枚取り寄せて見れば、
昔育英学舎に居た頃争って読んだ「自由之灯」の成人した様なもの、社説は誰の筆か知ら
ぬが、仏蘭西学者の香味を帯びてエネルギーは人に迫るの概ありとも云う可く、これなれ
ば配達して歩いても先々可なりと思案を定め、即ち新七君を保証人に立って貰い、その知
人とか云う赤木某の世話で、僕はいよいよ平民新聞の配達人を拝命した。
三)
一月の三十日に僕は薬研堀の平民新聞社に初めて出勤して、その日は故参の者に跟いて、
僕が配達区域と定まった麹町一円の得意の家を彼是と教えて貰い、その次の夜も案内に跟
151
いてまわり、二月一日から愈一本立の配達人となった。
新聞を満挿した口広のズックの革嚢を右の肩からつり、余れる新聞を左の小脇にかかえ、
右手に「平民新聞社」の印提灯《かんばん》を提げて、左の掌に配達名簿を繰り繰り歩く
僕の容態を、
故郷の母上に見せたら何と思われたであろう? 関西学院の学友が見たら何と
評したであろう? 人は寝静まって、盗賊と、夜行巡査と、夜稼の車夫と、おでん大福鍋
やき饂飩の類のみ僅かに眼さめて居る夜の東京の面影を、僕は日間の東京よりもさきに識
った。それも霞うつとりと大路の柳をこめて月影おぼろの春の夜か、八宵八荷の空に銀河
流れる夏の夜か、せめて月影霜の如く万家の甍に落つる秋の夜ならばまだしも、東京の一
月将軍、二月将軍との夜合戦は、とって二十歳の僕の血気にもちとこたえたのである。饅
頭笠傾けても吹雪面を撲って、頼切の提燈の半丁毎に消える夜、寒月昼の如く凸凹道は劔
の山と冰ってひゆうひゆう吹き通る空っ風に夜深按摩の笛の音のさながら号泣ぶように震
える夜、三日以来降りつづいた雨に路は沼、空から氷の鍼や霙の錐が降って降って油紙の
合羽の裏かくまでずぶ濡れになり爪尖から脳天までぞくぞく痛んで、果ては骨も髄も痺れ
る雨の夜、板にすべってベたりと手をつき、大事の大事の新聞を可惜《あたら》泥だらけ
にした時なぞは、年の七八も若かったら泣き出してやる処であった。今も覚えて居るが、
九段にかかるのは何時も夜の十二時一時の間であった。坂下に七十近い老人が毎夜かかさ
ず屋台店を出している。僕は毎もその前を過ぎると、吃度立寄って、五厘の大福餅を二つ
買って、老人と二言三言交えて行くが例であった。老人何時も「お若いに、よくお稼ぎな
さいますのウ」と誉めて呉れた。僕も今更に「男は稼ぎ、女は泣く」が浮世の常と云うキ
ングスレーの句を憶ひ出し、あの七十の老人さえ毎夜大道の寒風に吹かれて稼ぐに、血気
盛りの僕が義理にも寒いの辛いのと云われようか、とまた勇気を鼓して九段を上るのであ
った。
市会議員に十日許りも新聞配達を命じたら市区改正、道路修繕も今もすこしはかが行く
かも知れぬ。東京で候、日本一の首府で候と云いながら、道の悪るさ、巷衝《まち》の立
てかたの雑駁《ざっぱく》さ、番地の分からなさ、僕が受持の麹町の中でも、番丁などと
来るとまるで迷宮に踏み込んだ様で、僕も初の内は幾度そこの小路に迷い、ここの辻に惑
い、同じ処をぐるぐる廻りに、情けない夜めに明けられて、得意先の利いた風な下婢に「大
層早くお出だね、わたしの家では旧聞は入らないよ」などと剣突を喰はされ、社の発送掛
から「君の配達区域から大分苦情のはがきが来るぞ、横着をやるぢゃないか」と苦られた
こともある。成程地の利を知らざれば以て戦を為す可からず、僕は日間も当分百事差措い
て、下駄の歯のつづく限り、麹町区を東西南北に縫って歩いた。今でもこの区だけは精密
な地図を記臆からひき得るはどである。
麹町区に限らず、山の手を歩くのは、僕が東京に来て当座の一大快楽であった。上野浅
草向島下町の賑合は見ずもあれ、山の手を歩いて、新聞や雑誌の上で知って居る名士の門
札を見るのは一の愉快で、若し折よく主人公の出入に出会してその顔を瞥見する時は、更
に愉快であった。時々は入って尋ねて見ようかと、殊に慕って居る名士の門に躊躇して、
巡査に怪まれ、犬に吠えられたこともある。来て見れば聞くより低し富士の山、名士など
云うものは霞を隔てて遠くから拝んだ方がよはど有り難く近寄れば随分と火山灰の醜い所
も見えるものと云うことを思わず、すぐれ者は十六七から世に名士と云う者の鼎の軽重を
152
見破って十分批評的に世をも人をも観察するに、恥しくも年のみとったこの「熱中者」は、
一度会って吾精神気宇を養いたいと蘇轍もどきに名士を慕った。白状すれば、僕の幼稚な
る、突然名士の玄関を驚かしたのも、一二回ではなかった。然るにその一軒では、
「紹介な
き者には面会せず」と玄関に張り出した廻避牌に追払はれ、他の一軒では「お無心のお方
はお気の毒さまながらお断り」とおの字尽くしの三指ついた婢にふわりと刎ねられ、留守
が三軒(この内二軒は確かに居留守也)多忙が二軒(一軒では碁子の盤に落つる音が聞え
て居た)御用なら承はり置きますが一軒、如何したはづみか最後の一軒は在宅、御面会申
さう(愚按するによはど退屈の折柄ででもあったろう)と通されて、会って見た主人公は
金縁の眼鏡に大島紬の羽織髯を撚って「何か要ですか」
「御高名は久しくうけ──」
「ははは
は飯食い道を積みに来たのだろう」
「否、何か私等青年の心得──」「はははは心得も糸瓜
《へちま》もあるものか。金即力、力即理さ。飯食いはづさぬ分別が肝腎だよ」と真額か
ら浴びせられ、僕は匆々《そこそこ》に罷《まか》った。
僕の名士訪問病はここに一頓挫を来したのである。青年の時代には愛するも憎むも兎角
一図になり易いもの、名士など云う者は、すぐれた長所がある丈、短所も亦往々甚しいも
の、それを知ずにうつかり見て真黒に惚れ込むと、案外な短所を見せられた時打殺したい
程嫌になる。それから思うと、あの金縁眼鏡の紳士の三日は、即ち僕の為めに一貼の頓服
解熱剤を与えられたものと云わなければならぬ。
然だ、然だ、僕は最早々々理想を人間界には置かぬ。鳥ですらも、猛きは直ちに日を睨
んで昇るではないか。
(四)
僕は依然湯島の下宿に住んでいた。室料の廉いのを取柄にわざと撰んだ西向二階下便所
側の三畳、夏暑くて冬寒く、所謂熱時人を熱殺し寒時人を寒殺すると云う瘧部屋。三尺の
椽の向うは、猫の額程の庭に、二階から投げおとす鼻ふき紙、蜜柑の皮、竹の皮が年が年
中狼籍と横わって、その向うが薪炭屋の物置。鬱陶しくて、寒くて、臭くて、騒々しくて
困るが、しかし僕が東京での初夢を結んだ芝口の宿屋などに比べては天壌が相異があると
云うのは、前に云った亭主の新七とやらが至て実体に、主婦はたきとかかきとか云っては
きはきしたよく話の分る女、唯一の癖はよく下婢を更迭するの一事で、現に僕が来てから
一ケ月の間に下婢の顔が十三度替わった位、仏蘭西の内閣も中々及ばぬので、無給で下婢
を使ふ法を主婦が発見したかのように穿った評判もあったが、兎も角も先づ手堅い下宿屋、
加うるに同宿の連中も、亭主の所謂「お堅い方ばかり」で、唯日曜や祭日の朝なぞ僕が配
達から帰ってどれゆっくり一やすみと寝て居る頭の上で、二階も落ちる様な相撲柔術のど
たばたをやったり、喫驚する程大音に失脚落来江戸城(しっきゃく おちきたる えどのし
ろ)を怒鳴ったりするには聊か弱ったが、是迚月琴端唄や猥褻の話で邪魔されるよりまだ
幾干《いくら》か詮めがつくと云うもの。この豪傑組の四人の外には、猫のようにおとな
しい留学生で国の許嫁の写真を始終懐中して居るとか云う男と、矢張り開業試験を受けに
出京して居る未来の名医で胃が悪い胃が悪いと云いながらするめ噛って酒飲んで急にビッ
トルを飲む人と、なお他に四五人。唯一人、
「悪いお方ではありませんが、滅多に金などお
貸しなさいますな」と主人が注意して呉れた木村某と云う青年、長崎の者で高等中学をし
153
きりに落第する男とか、東京馴れた愛嫡者、僕が下宿へ来て二日目に「常、失敬、何卒以
来お心安く」と馴々しくはいり込んだが、六日目には 「君、お気の毒ですが、壹円立替え
て呉れませんか、今日あたり為替が来る筈だが」とやって来た。嚢底無一文の由答えると、
一寸困った様子で「君の羽織か、不用の着物でも宜から一寸貸して呉れませんか」と云う
ので、
「お寒いのですか」とは僕が一生の大出来、流石に質に置く為とは云い兼ねて、苦笑
して帰って行った。しかし僕はこの木村某には感謝す可き理由を有するのである。平民新
聞発行停止(激烈な非政府新聞だけ停止は毎度の事であった) の際、僕の為めに十行二
十字詰一枚五厘の筆耕を周旋して呉れたのは、君であった。尤も後で聞ば、原依頼者は一
枚一銭五厘の割で金を渡したそうで、差引一銭は僕の手に届くまでの途中で煙と消えたの
である。しかし僕は尤もとこそ思え、万々不平は云わぬ。今の世に誰か世話料を取らずに
世話をやく人があろうぞ。
(因みに云う、或時僕は某学校教師の講義録とか云うものの浄写
を頼まれたが、初二十枚ばかりで忽ち謝絶された。誤写がおびただしいとの口実であった
が、実はあまり文章がまづいので、よせば宜いのに僕がちょいちょい添削したのが、先生
の逆鱗に触れたのであった)
。
配達を終えて新聞社から帰ると、冷汁冷飯で晩い朝飯を食って、一寸睦(まどろ)むと、
僕は梅干入の握飯を拵えて貰って、上野の書籍館に通った。一は書籍代を倹約し、一は下
宿附近の騒々しきを避けて、心静かに大学入学の準備を整える為である。馴れない昼夜顛
倒の仕事に、睡眠時間がどうしても不足するので、兎もすれば頭がふらふらして、理科の
書やユークリッド、トドハンタアの上に意気地なく点頭し、一度は吾れ知らず鼾を立てて
はっと心づけば、
満室の青年老年或は哄笑し、
或は不礼な男と云い貌に憤激して居るので、
僕は思わず火のように赤面したことがある。その後は少し怪しくなると、そっと出て、庭
のベンチにもたれ、早咲きの梅が香鳥の音の清きに魂を浮かべ軽風暖日に背を曝して三十
分か一時間快く睡って、さめるとまた入って書巻に対した。閉館の時間になると、僕は種々
の事を考えながら上野の森を穿って、夕照(ゆうやけ)流れる不忍池の方へ下りるのが常
であった。僕は今も非常に、上野の森を愛する。人に限らず、樹木でも大きいものは側へ
寄っても、誠に心地の快いもので。
燈火がつく頃、下宿に帰って夕飯を食うと、非常に睡ければ燈火を消して三時間ばかり
寝るし、さもないと早めに下宿を出て(これも一は燈油代の節倹である。僕はしばしば思
った、こんな風なれば西内さんの養子にもなれそうだ)平民新聞社の土間の大火鉢の側の
長ベンチに腰かけて、他の同僚が草鞋ばきのまま荒莚の上に鼾をかいたり、今は昔の栄華
の夢を繰り返えしたり、或は卑猥な冗談を云ったりして居る横で、薄闇いランプの光に、
事務室から数種の新聞を借りて読んだ。
配達の分際だから、勿論編輯局の模様は知らぬが、
二階の笑声など聞いて已に落涙しかけて唇を噛んだことは幾回か知れぬ。
(五)
去年の秋の暮、僕は愛宕山上の腰掛によって、暮れ行く都の状を眺めていた。折ふし四
辺に人もなく、増上寺の鐘夕を告げ渡ると、靄の中に市街の燈光は一個宛眼をあいて、ぢ
いと耳を澄ますと、さまざまの人声物音が一つになって、これぞ「東京」と云う巨人のつ
く吐息かと思われる一種の悲歌が身に浸みて聞える。やや暫し恍惚夢現の境に遊んで居る
内に、不思議、見渡す限りの市街が次第に白け白けて、何時しか淼々(びょうびょう)一
154
面の水となり、恐ろしい大渦を巻いている。而して、この頃の落葉の様なものが、おびた
だしく浮きつ沈みつその渦に巻かれている。見れば木の葉は皆人間、足掻き手掻き坤く声
が遠波の音のように聞える。僕はぞっとして眼を転じた。すると、この渦に吸い寄せられ
たのであろう、方数十里数百里の間、秋川を下る木の葉の如くおびただしい人が流れて来
る。見て居る内に、底は奈落へ通うこの大渦へ入るより早く、ずぶずぶと吸い込まれて、
そのまま影が消ゆるもあれば、死骸になって浮くもあり、半死半生になって渦に廻わされ
て居るもあって泅《およ》ぎぬけるは誠に稀である。しかし後の輩は少しもそれが見えぬ
かして、多くは勇みに勇んで泅いで来る。あぶないあぶない、──と声ふり絞って叫ぶと
して、僕は愕然と眼を開いた。身は依然愛宕山上の暮色に座している。下には燈光を漁火
と浮べた東京の市街が梅の如く茫々と展いて、波の咽ぶ様な都のどよみが耳に通うている。
僕は額の汗を拭って大息ついた。この都に百何万の人間が桶の中の芋のように上になろ
う上になろうともがいて居るが、幾個《いくら》得意の人があるか。遑々《こうこう》と
して奔走し、嗚々《おお》として坤吟しながら、生きている。何がよければ、そう都に執
着するのだ。千島台湾、行く所は広いではないか。田舎の空気はよく、故郷の水は甘いで
はないか。
何の為めにバチルスだらけの空気を吸って居るのだ。氷川の故賢ではないが 「田
園将蕪」
《でんゑん まさにあれなんとす》に、何時まで虚名空利を石の様な東京から搾ろ
うとするか。
──しかしながら人は生きねばならぬ、
生くる為めには戦わなければならぬ、
名は揚げねばならぬ、金は儲けねばならぬ、命がけの勝負はしなけれげならぬ、都鄙の懸
隔が甚しいので一たび都の飯を食った者はどうしても田舎に落ついて居られぬ、それで瘠
せながら、肺病になりながら、掏摸の様な眼をしながら、生きた死骸になりながら、何時
までも都に齷齪《あくせく》している。而して年々歳々厭くことなき首府の無底洞の腹を
肥しに、幾多の青年壮年は落ちて来るのである。ああ僕もその一人であった。
東京に来て六十日、僕が未来の保証人に擬した銀座街頭の枯柳がさんさんと緑の糸を垂
れて、山の手の配達に梅花を踏む頃になると、僕も少しは東京馴れて、生活もやや順序立
って来た。故郷の母から案外快よき事後承認の手紙が来て(先頃の帰省で、母もよはど安
心する所があって、殊に関西学院に齷齪するより大学に入ると云うのが母の気に入ったの
であろう)関西学院からは友人の遠藤が僕の柳行李を送ってやったついでに、上下挙って
僕の出奔を惜んだと云う事を報じて来た外は誰の手紙も来ず(僕は遠藤にだけ宿所を明し
たが、堅く秘密を守って呉れと頼んで置いたのである)吾働いて吾食い、吾志して吾励む
ばかり、自由と云えば自由、気侭と云えば気侭、淋しいと云えばまた随分淋しくもある。
唯一度、或日曜の朝、例よりも晩く配達を終えて帰る途中、番丁の唯有る巷路から出て来
た大小二人の束髪を不図見ると、白茶の肩掛が鈴江君、海老茶のがお敏君であったので、
僕は饅頭笠傾けて忽ち横丁へきれ込んだことがあった。鈴江君等は無論僕が上京を知らな
かった。試験が済むまでは、誰にも、伯母にも僕の行動を秘して呉れるように、母へ云っ
て遺ったのである。顔を見ても名は知らず、名を聞いても辞儀はせずに済む、東京はど世
を忍ぶ(も凄じいが)に都合の宜い所はない。
あせらずに勉強するが宜い、
病者になっては学問ももちぐされと母の訓戒を身にしめて、
貴重な時間だが、日曜丈は(号外の出ない時は)朝の配達が済むと、存分に寝る、或は会
堂に行き、或は東京を縦横に見物して歩いた。歌舞伎新富は看板で済まし、精華軒や八百
155
善は遠い香りで埒を明け、丸善や池の瑞の「バイブル」の前は眼をねぶって駈け通った。
この日は僕の贅沢日で、そつと袂から出す焼薯の三銭や、恐々入る縄暖簾の鯨汁一杯は、
吾れと大目に見て置いたのである。雨が降って退屈な日曜は、平民新聞の投書を書いて慰
んだ。
これは僕が平民新聞社から受ける報酬以外の報酬であった。平民新聞は寄書投書を奨励
したので、色々な投書がのって居たが、中には随分拙いのも人気とりに出してあった。僕
は見るより例のごとく腕がむずむずして、或時新聞の漫録に真似た一文を草して、そっと
社の投書函に入れて置いた。翌晩新聞の刷り上るのを待兼ねて折る加勢をする風でそっと
開いて投書欄内に僕の文を見出した時の心地! 僕も関西学院などでは吾書いたものを公
にした事もあるが、堂々帝都の一新聞に僕の文字が出て、四千五千の人の目に触れるは、
これが始めて──僕は実に微笑を禁じ得なかった。読者よりも先づ作者の僕がその夜配達
の道道街灯の光で何回、何十回読んだかも知れぬ。而して僕は新聞受函に挿入するにも、
例よりよはど心を用いる程、現金であった。それから味を覚えて、閑さえあると書いては
投じたが、十の八九は掲載されて、天晴僕も新聞記者となった積で得意になっていた。無
論投書は半銭を齎すでも無く、また編輯局の評判は聞きたくも耳に入らなかったが、新聞
に出ると云うその事が已に十二分の報酬であったのである。
僕が平民新聞で最も愛読したのは、社説と漫録とそれから鉄嶺と云う人の巴里通信であ
った。聞けばこの鉄嶺と云うは三四年前洋行した佐藤とか云う仁で、近きに帰朝して今の
主筆に代る筈とか。その通信は文の妙、事の精、説の卓は更にも云わず、どこか不思議に
僕の心を鼓動さす所があった。先づ昔聞いた喇叭の音、と云ったように、今の感と昔の記
臆を一時に喚び起すのであった。
(六)
そうする内に佐藤氏は帰朝して、噂通り平民新聞社の編輯局に主なる椅子を占めること
となった。歓迎の宴、入社の辞、その噂は大分耳に入っても、不幸にして僕は同氏を瞥見
するの機会を有たなかったが、桜ざかりの或日の夕、例よりも早く社に行って、配達の控
席の腰掛に踞して、薄闇いランプの下に事務局から借りた雑誌を読んで居ると、洋服の立
派な紳士が二階から靴音優に下りてきた。編輯局員は、こっちからは大抵顔を見知って居
たので、この見馴れぬ容子の人は、確かに佐藤氏であろうと思って居ると、あの紳士は入
口の方へ出るとて、一寸会釈して僕等の前を通った。ランプの光で、ちらと横顔を見るよ
り僕は愕然と立ち上った。紳士は何も気付かぬ様子で、さつさと行き過ぎるあとより、僕
は吾を忘れて追かけながら、
「先生、駒井先生──」
今や車に乗ろうとした先生は驚いた体でふりかえりながら、
「誰氏でしたか」
ああ僕は四年ぶりにこの声を聞いて、胸は一ばいになった。
「私は!お忘れでございますか、育英学舎で──菊池慎太郎です、お世話になった──」
育英学舎と云う声に、先生は車夫が提灯の光にすかして、熟と僕の顔を眺めたが、忽ち
莞雨と笑を含んで、仏蘭西流に僕の手を執って二三回打ふり、
156
「ああ菊池君でしたか、余り大きくなってお出だから見忘れてしまった。そうして今は
──否、ここぢゃ話が出来ぬ、こっちお出なさい」
先生は取ってかえして二階へ上られる。僕は同僚や事務の人達が愕然とうちまもる視線
の中を、慙かしいとも嬉しいとも何ともかとも云い様のない心地で、胸はどきどき、膚は
ぞくぞく、泥だらけの革鞋を穿いたまま、階段を三四段上って、急に思い出して、解かう
とすれば生憎手さきに絡む草鞋の紐をひきちぎってはうり出し、飛ぶが如くに二階へ上る
と、先生は已に応接間の瓦斯の下ににつこり立って居られる。
「実に暫らくでしたね、よく僕を覚えてお出だった──」と云い云い椅子を薦め、自分も
椅子に倚られた。
否、先生、何十年たったって先生を忘れることが出来ますか、と云いたい心は一ぱいで
も、僕は一言も発せ得ずに、唯気が狂ったように、ひひ(口偏に喜 )と笑ってばかりいた。
応接間の会話はせいぜい十分間、僕はざっと今の身の上を話し、駒井先生はその宿所=
帰朝即下で先生はまだ日本橋の旅館に居られた=を書いた名刺を僕に渡し、明日を期して
別れたが、僕の心は愉快に満ちた。同僚の連中が不思議がって、色々尋ねるを僕は殆んど
答えかねた、言えば不覚の涙がこぼれそうで──実に奇遇だ。噂に聞く佐藤氏が駒井先生
であるとは、嘘の様な話だ。先生は俗に所謂兵隊養子となって一時駒井を名乗って居られ
たのを、先年来本姓の佐藤に復せられたのであった。
翌朝配達を済ますと、僕は直ちに先生の寝こみを襲って、先生が詳らかに問うままに、
育英学舎出奔から、先生を指して土州に行く途中宇和島にさすらえた一條、関西学院の生
活、伯父の死去、東上の次第、目下の生活、前途の希望、嬉しさが授ける雄弁の吾ながら
滔々と思う存分物語った。先生は長々しい話に退屈の容子も無く、細かに注意を払って、
しばしば頷いて居られたが、語り終ると少し考えて、僕に何か文章を書いたものがあるか
と問われた。あたかもその日の新聞に、僕が例の悪戯の投書がのって居たのを、
(先生に見
せるのならもつとよく書いて置くのだったにと思いながら)それと答えると、先生は一読
して、床の間に積んだ乱巻乱冊の中から英国時事評論を一冊取出してその中の東洋問題に
関する一論文を指示し、このを訳して持て来て見せよと云われた。僕はその日午餐(先生
は朝餐)の馳走になって帰ると直ぐ翻訳にかかって、翌日(夜業があるので)成し果てる
と、直ちに社に持参した。先生は早速一読せられたと見えて、その夕また僕を応接間に呼
んで、翻訳は可なりよく出来て居る、多分の事は出来ぬが当分の学資はこっちで勉強片手
にとれるように都合をつけるから、配達の方はよすがよかろう、と云う事を話された。こ
れさえ僕には非常の喜であるのに、
先生はなお話を進めて、近々に家を持つ積りであるが、
仕事の上の相談もあるし、女気のない家だから、育英学舎の昔に返った積りで、下宿を引
払って一所に居ては如何だ、と話された。さながら夢の様な話。
しかしながらこの夢は実となって、僕はその月の末、下宿を引払って駒井先生──佐藤
先生の新居に移った。
(七)
上根岸の門前小橋を渡し樫の生垣をめぐらした家に、鉄嶺先生の書剣は安頓せられた。
家族は先生、僕菊池、他に書生が二人、飯焚の老婆が一人、兵站部はこの老婆がきって廻
わす、玄関番掃除番は他の書生が引受けてやる、僕の務はちょいちょい先生の秘書官をや
157
る位で、云わばお客分、昼間は書籍館に通い、夜は新聞雑誌の翻訳に従事し、時々は同居
の書生に英語の不審を聞かれ、先生が閑な時は打寄って海外の話をせがむ位なもの。新聞
配達から今の身分へは実に夢かと思う一足飛、以前昼夜顛倒の生活をして、夜寒夜露に身
体の和を傷り、店頭の玻璃障子に映る吾顔見ても、色蒼ざめて眼に光なく頬殺げ、吾なが
らやつれたと思った体も、次第に旧へ復って、大分人間らしくなって来た。これも駒井先
生(佐藤先生とはどうしても云い馴れぬから、以前の通り駒井先生で通さして貰らはう)
のお蔭である。
先生が育英学舎を去られた後の話は極簡単。故郷に帰って厳君の終焉に侍し、東上して
間もなく旧藩主家の公達のお守役と云う資格で洋行し、公達の勉学を監督かたがた巴里大
学に政治学を修め、大陸議院制の運用、政党の事情など観察し、滞留三年にしてこのたび
帰朝して直ちに平民新聞に入られたのである。育英学舎の昔に比すれば風采一層あがり、
先の峻峭人を畏れしめた風は巴里の土を踏まれただけすこぶる洒落の風にかはって、一寸
角のとれた立派の紳士になられた。しかしながらこれは皮相の話で、気分はどこまでも昔
のままの一書生、洒々落々として裏に、火の如き理想、鉄の如き意志を蔵して居られる。
三日とたたぬに先生の体から迸《はとばし》る一種の魔力は忽ち僕を檎(とりこ)にして
しまったのであった。
先生は妙に嗜好などの淡泊な人であった。熾烈な理想の焔が肉情を焼き尽したのであろ
う。唯一の癖は青年書生を愛せられるのであった。曾て戯れて云われるには、人は洋行し
て制度を見て来る、
僕は人間を見て帰った、今の世に払底は国庫の金で無くて人才である、
要路に立って志を行うと思うままに人才を教育するのが僕の愉快の南北極である、他日総
理大臣になったら家塾から内閣に出勤しようと思うと。閑さえあれば、僕等を集めて、焼
薯を噛りながら、さまざまの話をされた。政治家も空疎な頭ではいけない。学者も志士で
なくてはならぬ、と云うのが先生の素論で、毎《いつ》も同宿の粗豪な二三子には読書を
すすめ、僕にはまた時々は書巻をなげうってちつと外に出たまえと勧められた。
しかしながら僕にとっては、時事の実物教育は決してその少なきを患えなかったのであ
る。久しい間僕が配達人控所に腰かけながら羨望して居た平民新聞編輯局にも自由に出入
を許されて、翻訳物なぞ持って行った折は、ちょいちょい手伝しながら、先生初め諸君が
天下を吾有顔の快活の談話に耳傾けて、人物の長短、時務の得失、内治外交、街中の瑣談、
戯談から真面目を出す記者、泣面つくって滑稽ものを書く人、鍼が棒になったり、随分と
重大な問題が滑稽諧謔の舌さきに滾々(ころころ)と団子のように転んで行ったり、不可
思議な新聞発生の作用を目撃して、僕も従来過し来った十有九年の歳月よりもこの編輯局
を見舞う数時間こそ却って世の中と云うものを知る心地するのであった。
(八)
明治二十年は明治政史に一花咲かした年であった。就中条約改正問題は、瑞なく藩閥政
府攻撃の導火線となって、久しく蟄伏して居た民間の気焔は、また明治十三四年の頃のよ
うに燃え上って来た。某雇外人の意見書、某大臣の意見書など云うものが漏れて、ここそ
こ煙出すと見るが内に、忽ち燃え広がって、新聞演説が非常に賑やかになり、民間名士の
車が東西に走せる、壮士が飛揚する、秘密出版が、行われる、人の血を鼓舞する檄文は全
158
国隅々へ飛んで行く、地方有志家が血眼になって上京する、当路大臣の門には威嚇詰問的
訪問者がつめかける、政府攻撃の熱度は都門の暑気とともに弥まし(いやまし)で、示威
運動は恐る可き勢となった。云うまでもなく、駒井先生は管下の新聞を提げて、この運動
の中心に飛び込まれたのであった。而して示威運動その効を奏して、条約改正中止、外務
大臣辞職の報が伝わると、先生は手を拍って、面白い、最早一息だ、と勇まれた。
僕は斯際往来の頻繁なるにつれて大分名士の顔も見覚え、襖越しに実話の模様も聞き、
(贔屓目かは知らないが、
年こそ若けれ、
駒井先生に及ぶ者は一人も所謂名士の中にない、
と僕は思った)ちょいちょい先生が文筆の労を手伝い、民間党が放つ弾丸の政府の塁《と
りで》に見事破裂するを見てはおのづから喝采禁ずる能わざるのであったが、しかし例の
熱中病にも罹らず、壮士となって外務大臣の門に押かくるの挙動にも出でなかったのは、
僕も亦別に戦う可き一大敵を有したからである。この敵と戦う為めに、僕は関西学院を出
奔して、背水の陣を布き、この敵に勝たんが為めに僕は新聞配達ともなって苦労したので
ある。即ち僕は目前に迫った大学入学試問に、是非とも吾学んだ関西学院の名誉ともなる
可き好良の成績を以て及第しなければならぬ、と思い込んで居たのである。上野戦争の砲
撃を聞きながら洋書を講じた福沢先生を学ぶではないが、僕もまた政府包囲攻撃の本陣に
居ながらせつせと試験の準備を整えていた。
関西学院の遠藤から手紙が来て、愈愈卒業式が済んだ事、都合によっては秋になって上
京する事を報じ、
「唯残念なるは尊兄がこの内にあらざることに候、同級の者皆之を惜む」
と書いてあった。しかしながら逸りに逸った僕の心には、さまでの感を与えなかったので
ある。仰山な話だが、万の恥辱を雪ぐのも、万の辛抱に酬うのも、僕自家の面目を保つの
も、母の心を慰めるのも、この一戦に打勝つにあり、とそう思い込んでいた。
月は九に入って、僕は出来得る限りの準備は已に整え、首尾よく入学を許された日には
正副保証人は駒井先生の知辺《しるべ》の誰々と云うことまで定めて、文科大学長宛の入
学願書を出し、入学受験料五円を大学会計課に納めて、愈愈その日を待っていた。月の初
から少し感冒の気味で、兎角頭が重く、この二三日は飯も箸をつけたばかり、その癖茶ば
かり飲んで居たので、駒井先生は書生に命じて、鶏を買わせ、元気づけだと云って馳走さ
れたが、それすら嬉しく思う程には咽に入らず、吾ながらあまり腑甲斐ない様で、時々井
戸側に出ては素裸になって、釣瓶七八はいもかぶりなどして、元気をつけていた。しかし
頭はますます重い。
さて待ちに待った試験の日は来た。僕は起上るとふらふらとするのを、なにと刎ね起き、
顔を洗う間も倒れそうなのをやっと我慢して、形ばかりの朝飯の卓に向かったが、素より
一粒も咽を通らぬ。不図駒井先生は僕の顔を見て、
「菊池君、非常に顔が赤い、熱があるのぢゃないか」と云い云い僕の手を握って、
「火の
様な手をしとるぢゃないか。医師に見せたまえ」
しかし僕は自ら冷笑して、先生に謝し、垢つかぬ木綿縞の単衣に同宿の書生から借た袴
を辛《やっと》つけて、玄関の方へ出ようとすると、またふらふらと倒れかかった。同宿
の甲乙が驚いて立ち寄る、駒井先生も聞きつけて、立ち出で、
「本当に菊池君、押しちやいかん。試験はまた出来るぢゃないか──それとも是非今日出
るなら、一寸医師に見せて行きたまえ」
159
と書生を呼んで、医師を迎えにやられるのを、僕は遽てて押とめ、
(医師にとめられるの
を恐れて)車を呼んで貰った。どうしてもとまらぬと見て、先生は自ら宝丹を取り出して
来て、一杯の水とともに与えられた。押しいただいて師の恵を口に啣(ふく)み、無理に
嚥みこみ、ふらふらするのを、歯を喰いしばって、
「では一寸──」
先生に一礼して、
車に乗らうとすると忽ち眼前が真闇になって、
ばったり玄関に倒れる。
(九)
山の周囲に人垣作って、必ず通る道筋に手練の射手数多伏せ置いても、獣は往々逃げる
もの。九分九厘まで人力で押つめても、残一厘は如何あっても侭にならぬが、所謂天であ
ろう。
大学に入る筈の僕は大学病院に入る身となった。病は重症の腸チフス、無理押して居た
丈、すこぶる悪性のものであった。
口惜、残念と思いながら、動かぬ身を釣台に載せられて、大学病院の門にかつぎ込まれ
た後は、一切夢中、後で聞けば久しい間、熱は四十度の上を往来して、医員もよく是れで
もてると驚いた位、試験の答案を述べる様な譫言をしきりに云ったそうだが、本人の僕は
殆んど何の記臆もなく、唯地獄の釜に蒸される思で、熱い熱いと感ずるばかり、日に百何
斤からの氷を湯にしてのけて、氷枕に氷嚢、氷の片を啣んで果敢ない命を繋いでいた。よ
く死ななかったと自ら怪しむ位。
幸い天命未だ尽きず、発病二週ばかりにして、熱は退口となり、さながら気体となって
濛々《もうもう》と蒸して居た身軽の分子がまたようように凝り固まって、浮々《ふわふ
わ》と宙にさまよった「吾」が已にかえって、二方壁、一方が玻璃窓、一方が扉、世の味
気なさをこの二坪の内に縮めた様な伝染病室の寝台に己を見出したが、この半月の大熱に
体はさながら燃え殻の如くなって、舌は真黒に、唇は乾割れ、咳嗽をする力もなく、頭は
二秒と同じ事を思うの疲労に堪えず、先づ生きて居ると云うばかり。忙しい中を、時々見
舞に来て呉れられる駒井先生にも唯「有り難う」と云うばかり、病気柄御出は御無用なさ
れたいと思っても口に出されぬ疲労。云わば揺籃を世界の孩児《あかご》にも劣った容態
であったが、流石に血気盛りの体質の弾力強く、熱が分離し、滋養物が咽に入るようにな
ると、さしも衰弱した体もぼつぼつ見直して、退屈千万の回復期に入ったのである。
体が回復期に入るとともに、精神の衰沈は始まった。阿母の方へは駒井先生から僕が病
気の様子を心配しない位に云って遣られたそうで、こっちの掛念は先ず免かれたとした処
で、詮らめられぬは僕が目的の一頓挫である。何の、高が大学入学が一年延びたと云う位
なもの、と云ってしまへばその迄だが、最早半年で卒業証書を握ると云う関西学院を飛び
出し(宣教師事件で追出されたとは云うものの、実はこっちからおん出たのである)大分
辛苦を重ねたのも、元はと云えばこの目的の為であった。然るに、受験の上落第でもする
事か、未だ一兵を動かさず一太刀も交えずしてがっくり膝を突くとは何と云う馬鹿々々し
い話だろう。母に対し、駒井先生に対し、関西学院の諸友に対し、実に面目もないめぐり
合わせである。眠られぬ夜半にランプの影かすかな病室の天井を眺めて、この一年間の事
を考えると、さながら意地悪の天が故(ことさ)らに僕の新芽の出はなをぽつきと折った
160
様で、勿体ないが蘇生の感謝よりも寧ろ摂理の不公平を天廷に争いたい位。僕は鬱々とし
て病床に横わっていた。
未だ行歩はかなはずも話が出来るようになれば、折々見舞者が来て、秋の日の長きをた
まにはまぎらして呉れるのであった。駒井先生も自づから来られぬ時は、必ず書生を遣わ
して、慰問された。日曜には時々鈴江君が遊びに来た。鈴江君は僕が上京した事も、病気
も少しも知らなかったそうで、伯母から僕が病気で大学病院に入って居ることを報じて来
たので初めてそれと知って、直ぐ尋ねて来たのであった。一年も前から東京に来て居なが
ら黙って居なさるのだもの、病気になって居ながら、はがきで知しもせずに居なさるのだ
もの、と見舞に来ながら立腹していた。而して僕が病気が病気だからと毎もすすめて帰す
と鈴江君はなお更立腹して、袂から毛糸編棒をとり出し、悠々と枕頭の椅子に腰かけなが
ら、当地の叔母は今も足痛に悩んで居る事、故郷の母(即ち僕の伯母)は目下小さな女塾
を取締って居る事、今年の一月一同に上京した松村のお敏君は一ツ橋外の高等女学校に入
学した事、今年の夏前お敏君が上野で恰僕の様な後姿を認めた事、しかし鈴江君がそんな
筈はないと云い張った事などを話し、「ほんとうに貴君はひどいわ」とあらためて立腹し、
薬瓶を袂にかけて引倒したりしながら看護婦所を務めて呉れるのであった。
十)
寝がえりにも人手を仮りてさながら孩児のように横わったのが、積蒲団に倚りかかりて
起座すようになり、それから歩行が上手と看護婦に笑われながら寝台の縁につかまってよ
ろよろと二足三足、それが進んで寝台一周の大事業、はっと息ついて寝台に倒れる拍子に
不図薬瓶に映る吾顔見つけてどこの卵塔場からさまよい出た幽霊だろうと怪しんだ第六週
もようよう後になり、駒井先生のやさしくも書生に持たしてよこされた一枝にああ最早菊
が咲いたかと思わず一滴を意気地なく落した頃は、退屈も云い飽きて今少しはかが行きそ
うなものと医員に喰ってかかりたい位、待ち兼ぬるは退院の日、三度の食餌、見舞の客で
あった。
前回に云った人々の外に、
稀には珍らしい見舞の客もあった。その一人は思い掛もない、
僕が下宿して居た湯島のあの新七爺、どうして知り、どうして来たのか、てらてらとした
彼の頭は暫し病室の暗鬱を照したのである。看護婦が椅子を寝台近く寄せて請ずると、室
内に満つ石炭酸の臭に鼻を鳴して居た新七君頭掻く掻く椅子を遥に入り口の方へ引き退け
て、そこでは話が出来ぬ、お進み下さい、と云っても、最方こっちで沢山で、とたって辞
退した。遠慮深い男だなと思う途端に、ははあ病気の故か、と気がついて見れば、成程是
は遠慮深いと、
僕が寝ながら莞爾と笑った。しかしその厚情は真実嬉しく思ったのである。
誰が鐚《びた》一文呉れるでもない寒書生をわざわざ見舞に来て呉る者があろうか。更に
思掛ない見舞者は、菅先生であった。先生は目下府下の某私立学校に教鞭を執って居られ
るそうで、僕が関西学院出奔の一條は少しも知らずに居られたが、この夏学院長片山氏が
所要を帯びて上京された時、僕の事を残念であった、何卒この上勉強の都合をつけ加勢を
してやりたいが、痕跡を晦《くら》ましてしまって、東京とばかり居所が分からない(僕
の秘密をよくも遠藤は守って居て呉れたと見える)と語られたそうで、菅先生もその後は
心にかけて居られたが、不図その友人なる大学教授某の縁から大学入学志願者の内に僕の
161
名前を見出し、駒井先生宅から病院へと尋ねて来て呉れられたのであった。
「一寸尋ねて呉れりや宜いに、遠慮が過ぎるぢゃないか、菊池君」
と怨せられた。しかし菅先生は関西学院の記臆を喚び起し、学院の記臆は一も取らず二
も取らぬ僕が身の上を嘲る様で、打明けた所が、先生の見舞は純《もつ》ぱら快き感謝を
惹起する訳には行かなかったのである。
遂に退院の許可が出た。単衣を着て入った僕は、同居の書生が持って迎えに来て呉れた
綿衣つけて娑婆に迷い出た幽霊のように、車の上から天長節の国旗がひらひら打たなびく
街の賑合を物珍らしく眺めながら、
上根岸の駒井先生の宅に帰り着くと、気が緩んだのか、
まだ足に力がない故か、二ケ月前昏倒した玄関にべたりと尻餅ついた。
僕が退院したその夜、駒井先生は僕を書斎に招いて、退院を祝し、僕が云い尽されぬ感
謝の辞を打消し、
「菊池君は実に羨ましいね、珍らしい母御を有って居て」
と当初僕の病気を国許へ先生から報ぜられると、病の見込を隠さず明して呉れと云う母
の電報が来た事、それから激症ではあるが多分快復するだろうと云う名医の見込を返電せ
られると、上京は見合わすから何卒万事宜しくお頼み申すと云う手紙とともに、五十円送
って来た事を話し、更に一通の手紙を取り出して披見せよと渡された。見れば、母から駒
井先生に宛てた手紙(先日退院の近きにあるを報ぜられたその返事と見える)で、僕が先
年は教育薫陶の恩になり今回はまた再生の恵に預かるその礼を呉々も述べ、御承知通りの
性質で、あちらこちらに気をかね面目ながるの余り身体の病は癒えて心は却って鬱屈する
様の事あっては、それこそ先生の厚恩を空しくする訳、何卒何事も宜しく梶とって下さる
ように、母はまだまだ白髪の一筋もはえず、何年でも待って居る、とそう諭して下さるよ
うに、と書いてあった。俯いてその手紙を巻きかえす僕の顔を覗き込んで、駒井先生は、
「御互にしつかりしないと、母御に笑われるよ、菊池君」
医師の言もあり、駒井先生の勧めも放置し難く、三日ばかりして僕は房州へ病後の静養
に赴いた。
(十一)
僕は殆んど病院に居た丈の日子を房州北条の田舎宿屋に過ごした。
海水浴と云う事、この年あたりから流行出して、夏季の盛には東京の「書生さあ」も大
分入り込んだそうだが、今は十一月、北條館山どこを尋ねても都臭い客に会わず、小蒸汽
が齎らす新聞郵便に東京の消息は伝わるばかり、賑合わ地引網、鮪漁、筋向の旧の名主が
宅の無尽壷位、長閑なものである。
僕は斯大なる自然の揺籃に、裕々と足差伸ばした。最初は浜の運動に一丁行っても草臥
れて、砂の上に横になり、或漁師の女に「江戸のお客さあがおつ死んで」居ると叫ばれた
こともあったが、一日又一日、鮮けき魚と鮮けき空気は肉を添え力を増して、浜の漁師も
顔見識って「今日は」と辞儀する頃は、那古船形まで徒歩の往返も出来るようになり、半
頁読まずに退屈して抛り出した書籍も少しは頁を翻えし、母や駒井先生に少しは長い手紙
を書く気根も附き、湯に入っては、なお吾手足の細々と折れそうなのが気になっても、宿
の女房が所謂「干瓢の様な」顔は潮風に「好えお色」になり、生活の悦喜がぽつぽつ吾胸に湧
162
きかえって来るのであった。
実にこの一年ばかりは、
「気性張弓、心は矢竹」身は生存競争の闘に閑隙なく、殆んど静
かに考える余裕もなかったが、思わぬ病気に暫し閑散の身となって、否と云っても自から
省み静かに思わなくてはならぬ境涯に置かれて、軒の松風、磯の白波、窓を撲つ夜の雨、
吾霊を喚び醒ます天籟に耳傾けて、つくづく越方行末を思う夜半も多かった。
或夕僕は館山北條の間を流れる名無しの川の川口に添う松林の下に坐して、夕景色を眺
めていた。日は伊豆の方に落ちて、とろとろ金を溶した鏡が浦の水一面の白きに返えり、
濃き紺色の鷹鳥、沖の島の二つ双んだ間から金地に染めぬく紫の富士やがて藍色になると
見れば、ぼうん、ぼうん、暮の鐘撞く那古観音の辺から暮靄は湧いて、何時となくぼうっ
と鏡が浦一湾の水をこめ、果てはこっちの松林を一本づつ這ひ寄って、やがて吾が膝を抱
いて倚りかかる松の隣まで蒼く暮れてしまった。漁火が二つ三つ見え初めた。浜には人影
人声ともに絶えて、茫々とした暮色の中を大いなる海の汀に言う声のみ聞える──ああま
た鐘を撞く、緩やかな音が夕靄と一つになって湾内に満ち渡る。
ぢいと耳を澄まして居ると、不図一昨年の夏、兼頭君が変死の後、比叡の山上で聞いた
鐘の音がどこかに聞えて、微笑した兼頭君の面影が夢ともなく現でもなく、閃と眼前に浮
み出る。──僕は顔を掩うてやや久しく泣いた。
何の為めに泣いたか。強て名づけたならば、その涙は服従の涙、醒めて悲むの涙とも云
う可きものであろう。
ああ僕は誤まった。顧えばこの一年間、僕はひたすら気力に任せて、一直線に走ろうと
した。僕は自ら吾力を恃み過ぎた。功名心の急なるままに、静かに天命を待つ信仰も何時
しか冷やかになり、稀に聖経を披き、祈祷をばしても、心実にここに在なかったのである。
宣教師攻撃、関西学院の出奔は、名義は立派に飾っても、私を営むの念がその中に籠って
は居なかったか。在京一年の辛苦、勉強、確かに吾薬ではあったにもせよ、その中に不醇
の野心が興奮剤となっては居なかったか。否とは答えられぬ。僕は実に血気に任せて走っ
たのである。走る者は躓く。僕は思いがけない病に鋒《はこさき》を挫かれた。
圭角《かど》とりて円《まど》かにして呉れる波の韃《しもとけ》をけかえす岩の心は
頑なものだ。僕は実に天命に刃向った。九死の中に求め得た一生を謝すよりも、一簣に欠
いた九仭の功を憾むのである。
しかしながら鏡が浦の一夕は吾頑な心を融かした。彼無窮の前には、果敢ない人の一生
は、そも何ものであろうぞ。彼大なる意思の前には人間の小さな意思果して何ものであろ
うぞ。千万年走っても終に仏掌の上をば越え得ぬ身を有ちながら、擅《はしい》ままに驀
地《まっしぐら》にどこまで走って行く積であったか。四時の歩みも、潮の満ちるのも、
悠々として迫らず止まぬ中に進歩はあるものを、僕は実に無暗とあせった。足は地に着い
て居なかった。思えば、病は僕の為に攪眠《めざまし》時計であった。曩《さ》きには友
の死を眼前に見せて、今は吾死を近くに望ませて、天は吾を警醒したのに、如何なれば僕
は無情と恨むのだのであろう?而して熱い涙はまたさらに頬を伝って落つるのであった。
*
*
*
*
*
思わず五十日あまり房州に費やして、気力も大分恢復したので、十二月の二十五日と云
163
うに、僕は帰京の船に上ぼった。
霊岸島に着いて、駒井先生の根岸の宅に帰ると、すっかり暮れてしまった。車を下ると、
横合いから靴音とともに真黒い形像が二つ三つぬつと出て、
角灯の光さっと吾面に注いだ。
見れば警部と巡査だ。警部は違ったと云う様な顔をして
「あなたは佐藤哲太郎ぢゃあいますまいな?」
「左様です、僕は菊池慎太郎と云う者です」
「佐藤に用があつとぢゃかな?」
「否、僕はこの宅に居る者です、何か先生に御用ですか」
云う内、がらがらの響とともに提灯が三つ四つ走って来るかと思うと、忽ちとまった。
真先に車を下りられるのは、駒井先生だ。眼早く僕を見て、
「やあ、菊池君、帰ったね」
返事する僕よりさきに、件の警部はつかつか立寄り、
「貴所が佐藤氏ごあんすな」
「左様、何か御要ですか」
警部はポケットから一葉の書付を取り出して、
駒井発生に渡した。先生は披き見るより、
愕然、
「退去を命じるのですな、三里以外に!」
「左様、三日以内」
(十二)
条約改正中止運動の成功以来、民間党の気焔大にあがり、攻撃の鋒《はこさき》非常に
鋭くなるにつれて、政府も愈愈防禦の手を尽す様子は房州滞在中、新聞や駒井先生の書簡
によって承知して居たが、まさか年の暮々にこんな非常手段を政府が取ろうとは、僕は素
より、犠牲となった駒井先生も意外であったろう。
「失敬な、先生、やっつけましょうか」と猛り立つ二三子を叱して
「御役目御苦労」
僕等に後の事云々と云い含め、取って返して出られる所へ、「佐藤君、々々々」と玄関に
呼ぶ声、出て見れば平民新聞の前主筆、駒井先生には伯父君株の青山居士、満口の酒気を
吐いてよろよろと上りながら「佐藤君、やられたやられた、まさかと思ったら到頭クーデ
ーターをやりおったぞ、君は──そう、二年か、吾輩も御同然──ははははは、流罪祝に
ブラン君を一寸聞召した所さ、ははははは、御互にこれでも大臣格になったね、護衛巡査
がついてさ、ははははは」泣くか、笑うか、怒るか、分からぬ鬱勃たる言葉は酒気ととも
に四辺に迸った。
実にこの夜とその次の日の騒ぎは、筆舌の及ぶ所にあらずで、所謂保安条例の犠牲は駒
井先生、青山居士等僕の平生親近して居た人物を初めとして、名を聞いて面を見ぬ人、名
も聞かぬ者まで、上下総て五百七十人、三年二年一年、家あるは三日、家なきは二十四時
間を限って京城三里以外に追っ払われ、
聊かにても抵抗する者は片端より拘引されるので、
その騒ぎは実に名状す可からざる程であった。
駒井先生は二人曳きであちらこちら走り廻わり、緊急の用を済まして、直ちに横浜に赴
164
かれた。僕は他の二三子と家をたたんで、それぞれ始末をつけ、差当り必要の荷物を携え
て、直ちに横浜にいる先生の宿に赴いた。その頃の替歌にも「連れ衆はあとから汽車で来
る」と歌ったように、都落の連中相追うて横浜に落合ったので、同港の騒ぎは実に非常な
ものであった。志士の多くは、故郷に帰って地盤を造ると云う者、地方新聞に従事すると
云う者、横浜にとどまって東京の政論壇を賑はさうと云う者、何れとも決せず徒《ただ》
悲憤する者、帰らうにも旅費がないと先輩に泣きつく者、さまざまであったが、駒井先生
は逸早く心を決せられたと見えて、僕等が先生に会って初めて聞いた新聞(ニュース)は、
旅行免状が下がり次第海外へ行かれるとの事であった。
(平民新聞は主筆が退去命令を受け
ると同時に発行禁止を命ぜられ、大阪に名を更えて同新聞を出さうとの経画もあったが、
先生は辞せられたそうである。なお洋行費は先生の知己の豪商中川とか云う人が出すとの
事であった。
)今二三年はこの土にいても、別に面白い事もあるまいし、窮屈な思をしよう
より外国に遊んで、自家の修養もし、及ばずながら日本を外国に紹介して、外人の誤解疑
団をも解くように務めたら、将来條約改正の一助にもなろうと思う、と先生は云われた。
この間僕は先生の要を帯びてしばしば京浜の間を往来して居たが、免状もいよいよ下っ
て、明日は乗船と云うその日、いささかの閑に先生は僕を伴って野毛を散歩しながら種々
諭された。その中に今も忘れぬのは、左の数言である。先生が云われるには、
「今の所謂藩閥は患うに足らぬ、年配から云っても彼等の前途は知れたものさ。しかしな
がら患う可きは敵たる彼等にあらずして寧ろ味方にありだ。
君も目撃して知って居ようが、
今の民間党──志士と云う者の中、話が出来る者が幾箇あるか。大抵は不学無術、で無け
れば徳操も識見もない輩だ。
この輩が国家の継続者と云うでは、実に心細い訳ぢゃないか。
否、菊池君、これから後の日本は決して従来の空疎な事では行かぬ。すべて実力の勝負だ。
政治界でも、真の困難は二十三年以後に始まると思うね。政治に限らず、皆然りで、日本
が世界の舞台に出れば出る程、国家の実力を試す機会わ多くなる。志士自ら愛して大に修
養勉励す可き秋《とき》ではないか。僕が所謂志士は政治家に限らず、揮ての方面に於て
国家に貢献するの志を抱くの士を云うのである。
」
と僕に向っては飽くまで今の目的を追うて、且つ志士の魂を維持するようにと勧められ
た。
殆んど遺言を聞くような厳粛な訓戒に不覚の涙を堕した僕は、翌日(明治二十一年一月
三十一日)大勢の見送客とともに先生を米国へと奪い行く「オセアニツク」号の甲板を去
るに臨んで、吾ながら女々しと思うまでに落涙を禁じ得なかった。
「暫時握手還分手」
(ざんじてをにぎりて またてをわかつ》とは、実に先生と僕の間を
云った句である。
唐人の詩に「同人一人去、 坐覚長安空《どうしんいちにんさって そぞろにおぼう
ち
ようあんのむなしきを》と云う句があるが、茫然とした二三子と埠頭に立って見す見す消
え行く「オセアニツク」号を目送った時、僕は日本が空になるように思った、而して僕自
身も魂は彼船が持って行ってしまってここに立つのはその亡骸であるように思ったのであ
る。
七の巻
終り
165
==========
八の巻
(一)
明治二十一年の一月末に僕は恩師駒井先生の洋行を見送り、同年の秋九月の初旬に僕は
愈愈文科大学の第一年に入って、英文学を修むる事となった。駒井先生と別れて後は、あ
の湯島の下宿に再び小生涯を始めた。先生があの百忙の中に不肖の一弟子を忘れず、後々
の事まで考えて、僕の事を保安條例に漏れたその頃評判の好かった雑誌「明治評論」の主
幹安藤と云う人に紹介委托し置かれたので、僕は早速自活の道を得、翻訳などして得る金
額は、仮令肥美を食い車に乗る程に無くも、優《ゆた》かに下宿料を払って、あまり垢の
つかぬ衣服を着るに足り、また昨年の春のように新聞配達を再びするに及ばなかったので
ある。
稀に菅先生を訪うの外、病中鈴江君に見舞物持たして寄越された礼に唯一度鈴江君の叔
母なる人の宅を音づれた外、月に一両回明治評論社を訪うの外、僕は誰をも訪わず、誰に
も逢わず、さながら猫の如くにおとなしくして、ぼつぼつ勉強していた。実は一年後れた
ついでに、大学の第二年に入る程の準備をと思ったのであるが、大病後一年間は身体も十
分旧に復しかねて、無理する所があるので、僕は思い切って落つきに落つき、牛の歩のぬ
らぬら行くことと定めた。而して試験に臨むにも、昨年の意気は無くて寧ろ平々淡々とし
てその場に臨んだのであった。
しかしながら試験は無事に通った。後に聞けば、外来の受験者には近来出色の出来であ
ったとか。去年であらば兎も角も、今年となっては別に格外の愉快でもなく、──無論不
快でも無く──先づ当然の事として、母や常時米国に居られる駒井先生や正保護人となる
の約束ある商人中川氏(駒井先生の洋行費を引受けた人)や副保護人たる可き菅先生に報
ずるのも、唯事務的に報じた迄であった。惟うに安心した者は、僕よりも、三百里外より
日夕東の空を眺めて口にこそ云わねその立身を片時も祈って居る母その人であったろう。
気強くても流石母親、入学済の通知の返事の字はおのつから喜色溢れて、やがて送って寄
越した新らしき袷、袴の丈は従来よりも長かった。大学に入って、急に大人になった心地
がしたのであろうか。
関西学院を出て、殆んど二年ぶりに僕は再び規則立った学校生活、寄宿舎生活に立返っ
た。学府と内々恐がった大学も、入って見ればな何有《なに》思った程にもなく、博士学
士教授、成程エライ人もあれば、案外エラクない人もある。
(意外なのは、一昨年の夏備前
岡山で、あの曾根君が失恋の幕に、立敵の役を務めた隈谷文学士が助教授とやらをして居
る事であった。以前なれば冷評の一句も献ずる所であったが、今は僕も大人になっただけ
に、目礼したのみ、既往の事は何とも云わなかった。その後同助教授はしばしば私宅に遊
びに来いと云ったが、僕は終に行かなかったので、その家の主婦──当年の金子女史が果
して如何な令夫人となって居られるかは、終に見るの機会に遭はなかった)同窓生にも成
る程俊才もあれば、随分の不俊才もある。僕は沈黙菊池(きくち ざ さいれんと)と云う
166
渾名を博した程無口に、また別名を隠者菊池(きくち ぜ はあみつと hermit )と云われ
る程独居の生活をして、真面目に勉強した結果、学年末の試問に好成績を得て、第二年よ
り特待生となった。
(二)
大同団結の騒ぎ、
憲法発布の盛典、
外務大臣の隻脚を吹き飛ばした條約改正再度の破裂、
明治政史の二十一年、二年、三年は国会の幕明き前、賑やかな年であった。文学史から云
っても、文運勃興、文士輩出、印刷大繁昌の時代であった。しかしながら僕はこの両三年
を一直線に駈け通る積である。何となれば、この両三年間は、僕は別に書く可き事を有た
ぬ。成る程僕の生涯も多事であった、しかしその多事は多く脳裏の出来事、紙上に写して
は殆んど幾何もないのである。 西山塾、育英学舎、関西学院とおのおの一癖ある私立学
校を通って来た僕は、主義気風感情のすべてにおいて、多く官立校の正課を踏んで来た諸
子と、どうしても合い難い所あるを自覚したのは、大学に入ってなお幾何《いくばく》も
あらぬ程の事であったが、時たち事情ますます分明なるにつれて、僕はいよいよこの相違
の著しきを感じたのであった。噴火山が投げ出す最初の石は大にして後はど小さくなるよ
うに、一国の歴史でも、一学校の歴史でも、創業若しくは復興時代のこう(サンズイ+景
+頁)気が生み出す子は粗豪有為なのが多く、万事整頓世話が届き過ぎる家庭に育つ坊ち
ゃまはよく風をひく、と云ったように、大根を食って馬鹿に騒ぎ大学の寄宿舎からインキ
だらけの手を伸ばして一つ日本を撼(うご)かしてやろう、などと調子はづれの騒ぎをや
った少年時代は過ぎて、大分々別がついて来るとともに、曩時《のうじ》の元気はここし
ばらく伏流の姿となって、能吏の卵、おとなしい学者の卵、渡世上手の卵、などを孵えす
に至極適当な生温な空気が満ち満ちて居るように覚え、
知識の源泉は成程開かれてあるが、
その内に入って人の脊骨を凛とさす風気は、どこの教室に、どこの寄宿舎に隠れて居るの
だらうと怪しむ位。間には毛色の異った男もないではないが、兎角耳目に触れる所は不快
心の種子が多く、学問を商売道具と心得て立身出世の近道ばかり研究したり、教授にすり
込み身分ある人に電信求めて卒業前から身のふりかたに憂身を窶したり、随分と風流遊び
の負債を拵えたり、する者下に少なからねば、学者にしては香しからぬ朋党比周の争いも
上に盛に、これでは国士の養成所ではなくて気概ある論者が「曲学阿世の本場、俗吏製造
所」なんどと罵詈《ばり》するのも万更否とは云われない、と思うこともあった。
僕は失望した。徳望識量一代の師表たる可き人物を戴くの日は兎も角も、今の所では、
僕は殆んど「師」と指す可き者を有たぬ、
「友」と云う可き者も発見し得ない。僕は決心し
た、ここに在る間は、単に知識の食道を開いて、空気は一切呼吸すまい、微力到底他を化
す能わぬまでも、他に化せられぬように警戒しなければならぬと。それで僕は伯夷主義を
執って、眼に悪色を見ず、耳に悪声を聞かず、手に酒盃を把らず、公事にあらざれば教授
の宅を見舞はず、
(菅先生の宅には時々行って史学上の話など聞いた)
、日曜には聖書を衣
兜にして或は会堂或は上野の森、或は郊外に独往独察し、一寸の鉛筆も棄てず、反古も背
《うら》がえしにして筆記の用に供し、
(時々は塵紙を筆記に用いた。僕は母を擾はすを欲
しなかったので、大学から月四円の奨学貸費を受けた。余は明治評論の翻訳や、菅先生が
世話でちょいちょい調物などして、費用を弁じた)冬季春季の休業に寄宿舎の騒がしく、
聞き苦しい話が出れば、図書舘の閲覧室に逃げ込み、或は他の辺りの楓樹の下に足投げ出
167
して考え、吾ながら頑固一徹の生涯を送ったので、
「隠者菊池」
「沈默菊池」の外に「野暮」
「高慢」
「吝嗇(けち)
」など云う結構な渾名を貰ったのである。
(三)
しかし僕はあまり同窓の毀誉に心をとめず、孤立の地位に甘んじた。孤立は固より不利
なもの、淋しいもの、しかしまた自由なもの。好かれて困れば、嫌われて結構な事もある。
人を悪《にく》むは吾心に毒を孕む様なものだが、人に悪まれるのは(若し吾に清白の良
心だにあらば)たかが皮膚の痛に過ぎない。旅は固《まこと》が道づれだが、伴侶《つれ》
がなければ、一人で歩かなけれげならぬ。
幸いにして僕は健康を有っていた。先年の大病は却って体の組織を一新して、殆んど旧
に倍《まさ》るの元気を与えた。僕の如き鈍才は、長生しなければ何事も出来ぬと思い、
俊秀の士が可惜《あたら》玉を抱いて半途に斃れるを残念に思って、僕は故《ことさら)
に健康に注意した。
隠者菊池には一の現象と云われる程戸外運動に出精し、
ボートレース、
ベースボールどこにでも顔を出したが、中にも大学競技会の六百ヤード撰手競走には毎も
第一着の賞を得て菊池長髄彦《ながすねひこ》の渾名を得、明治二十二年の夏期遊泳には
西山塾以来鍛え込んだ伎量をあらわして、隅田川を千鳥がけに十三回まで往復して、また
一つ河童菊池の渾名を得た。
身に健康あり、心に希望あり、出るに車なくも読むに書あり、友を古人に求むると云え
ば仰山に聞えるが、所謂友を古へに求め、印度の富もなお貧しきまで限り無き富の溢れる
文学の野を渉猟する僕の生涯は実に幸福と云わなければならぬ。幸福の生涯、また多忙の
生涯。何と。なれば、僕は正課の外に、図書館に参考書を渉猟する外に、明治評論の翻訳
またおりおりは匿名で新著(文学上の)批評を草する外に、駒井先生が米国にありて英文日
本歴史を著わすにつきてその材料を集めて送る外に、僕自身の道楽を始めたからである。
それは徳川時代封建的日本の研究である。僕は先年東京に入って以来、千代田の城を仰ぐ
毎、戊辰の弾痕なお残る東台の森を散歩する毎、見附見附の大石を撫して通る毎、新東京
の真中に封建の昔を語る長屋門、屋敷跡を見る毎、新聞紙上にその侠客某の老爺など江戸
時代の遺物の没去を見る毎、大学に来て日夕の散歩に不図梅鉢の紋ついた瓦の片を蹴る毎
に、封建時代の面影は髣髴として眼前に湧き出るのを覚え、昔し寝物語に父母が話して呉
れた談片とともに、小児時代に眼に触れた絵双紙の記臆とともに、非常の興味を喚び起す
のであった。或秋の夕僕は麹町に菅先生を訪れて、帰途これも昔の名残りの長屋門をさっ
さと人の取崩すを見て、九段へ来かかると、秋の日落ちて暮靄ようよう万家をこめ、近衛
の喇叭の音はしきりに夕を催おしている。あの銃劔形の記念碑の側に立って、眺むる吾脳
中に「蒼茫万古意、遠自荒烟落日之中来」《そうぼう ばんこのい とおくこうえんらくじ
つの うちよりきたる》の句が閃く途端、三四羽の烏がああ《口偏に、亜》と鳴き連れて、
一瞬の影を牛が淵の水に曳きつつ、遥かにニコライ塔の方へ飛んだ。殆んどその瞬間に、
僕は一の決心をなしたのである。実に世の変遷は、今水に映った飛鳥の影の、在るかと思
えば已にないもの、維新を距る僅か二十余年の今日この頃でさえ、幕府の代は最早雲霞と
隔って居るに、今の若者の子や孫曾孫の時代となったら、如何であろう。未だその記臆の
較《やや》新なる今、故老の存する今、記録物件の多き今、而してその物の実形実質を見
るに最も都合よき距離を隔つる今は、即ち画布の上にしつかと描き留め置く好時機である
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まいか。まさにその時機である。僕は試に之を描いて見よう。而して僕は之を描くに、正
史の体を用いず、史的小説の体によって(僕はその頃課余の閑暇にスコットの歴史小説を
読んで居た)この封建日本の活写真を伝えて見たい。事実を挙げ、時処人を考証し、微を
ひら《手偏に斥》き、細を叙づる歴史は他に書く人もあろう、僕は歴史以外の歴史を書い
て見よう、封建日本の真面目真精神を活写して見よう、即ち一部の新日本外史を書いて見
ようと思った。思えば日本外史の著者がその不朽の著作の第一稿を終える年配に、僕はぼ
つぼつこんな妄想を起したのである。才と庸との別も亦甚だしであるが、そのかわり僕は
百歳の寿を保って気長にやって見よう。九段の夕に佇んで、ちらちら見え染める街の灯光
を瞰めながら、僕が想った所、右の通りであった。
四)
斯く多忙の中にも、僕は聖経の霊漿を吸って心の枯渇を慰すを怠らず、日曜には、会堂
に行かなければ、野外を歩るき歩るき默思していた。同輩の多くは今日宗を奉じて、苟《い
やし》くも日本の最高学府に籍を置きながら時勢後れの信心沙汰は沙汰の限りと冷笑する
のであったが、僕はここに拠る可きの大盤石を見出したのみならず、英文学を研究するに
当って、その汪洋たる詞海想海のどこに漂うとも、少し潜って見ればその経には万古不尽
の宗教思想が底流となって漲り、眼を驚かす雄大の産物もこの底流の湧き上る結果に帰す
可きものすこぶる多いのを見て、いよいよ信仰の事の軽忽に附す可からざるを思ったので
ある。僕は「信仰なき学問は往々にして人を驕傲《きょうごう》狂、若くは憂鬱狂に導き
易き」ものなるを思い、
「潭清疑水浅」《たんきよくして みずのあさきをうたがう》如く
に、宗教の直覚が授くる真理は往々平凡に見え、学者の高談微妙の論も往往人を五里霧中
に見すてる事あるを思って、想界の迷室を辿るにも、手にこの一條のおだまき《苧環》を
離すまいと決心したのである。
而して僕はこの点に於て倔強の味方を故郷の母に見出した。
是非と思った時は成らず、忘れた頃におのづから成る。
「時」は従来呑気な然し記臆の好
い仕事師だ。先年の失敗以来、伝道は暫らく思い絶って居た今日この頃、母が心を信仰に
傾けたと云う報を聞くのは、実に意外であった。
前回の末に述べたあの頃の事であった、母はやや久しく眼病(仕事に夜深かした故であ
ろう)に悩んで、徒然のあまり来る人毎につらまえては色々物の本、新聞雑誌、など読ん
で貰った。それと聞いて僕は新版の小説数種を送ったが、それも母は忽ちで聞いて飽きて
しまい、何か珍らしいもの珍らしいものと求めて居たそうな。恰《ちょうど》その時お冬
君、
(僕は書き漏らしたが、
この夏伯母からその管理する女学舎の英語女教師を一名欲しい、
と云って来た。鈴江君も恰その夏静養女学校を卒業したが、まだ二年ばかり留まって高等
英語科を修め、その上洋行がしたいなどと云って居る位、 中々田舎の英語教師などしそ
うもない権幕なので、伯母も吾子ながら鈴江者には強いかねたのである。僕はその頃左る
所で不図「基督教新聞」を翻えして、大阪梅花女学校卒業生人名の中に故兼頭君の許嫁で
あった彼お冬君の名を認めたので、なお松山に居ると聞いた志津牧師に手紙を出し、周旋
を頼んだが、首尾よく話纏って、お冬君が赴任したのは八月末であった。僕は先年叡山で
のお冬君の挙動、確乎した婦人と見込んで、斯く計らったが、果して思いがけない良教師
が出来て皆々大満足と云う伯母の礼状が程なくとどいた。)そのお冬君が母を見舞に来て、
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何か読みましょうか、彼もこれも最早お聞きなさいましたのならそれでは聖書でも読みま
しょうか、と云う調子で、年来押入に押こめられた彼小形の聖書(僕が受洗の当時送った)
がここに取り出されることとなり、母はその日初めて聖経の奇異なる文言を聴いた。而し
てこの一日の事が如何母の心を動かしたか知らないが、母はその後日毎に聖書を読んで貰
って、新約全書一部読み終る頃は、心融け、眼病癒えて、眼も悟も一時に開けたのである。
而してその眼病平癒を知らして来た手紙に、先年彼程切に云って呉れたのを拒んだのはわ
たしが心が到らなかった、年甲斐もなくて恥じ入ると、白白地《あからさま》に子に詫び
た母は子よりもなお熱心に信仰の道に進んで、たゆたう伯母を攻め落し、その年の暮二人
ともに受洗した。その後母の手紙には、気をつけてやりたひ母は遠くに隔っていても絶え
ず気をつけて下さる父が在すと思えば少しは慰む、云うまでもないが学問に耽り過ぎて信
仰を忽《ゆるがせ》にしなさるな、と云う意味の文言が毎も書いてあった。
(五)
悲歌憂喜のよれてしばらくも定まらぬ世の中とは云いながら、母が受洗の吉報を受取っ
て未だ三日とたたぬに、腸を断つ一悲報に接しようとは、実に思いもかけなかった。恩師
駒井先生の訃報、卒然英国より達したのである。
去年一月横浜を解纜《かいらん》されて以来、駒井先生は米国の西部に半年、東部に一
年余滞在して、種々研究される傍、講談《れくちゅあ》を聞いては日本を米国人に紹介し、
また英文日本歴史を編述せられるについては僕も命によって材料を蒐集して送ったりした
が、二十三年国会の開設も近まったれば、大西洋を渡って、欧大陸を一巡し、七月の総選
挙前には是非帰朝するとの事で、新約克《ニューヨーク》を発して英国に渡られたのは、
つい二月許り以前の事であった。先生の手紙、先生の時々明治評論に寄せられる論文及海
外通信、米国新聞に出て居る先生の講談その他の記事、総て先生の身神愈々健やかに、薀
蓄の益々深きを想わしむるばかり、師已に斯くの如くなれば弟子もまた三年たっても依然
たる呉下の旧阿蒙と笑われぬ様奮励しなければならぬと、僕も思っていた。帰朝の上は、
どんな面白い有益な土産話があろう、日本開闢以来初めて開かれる第一議会に先生の人品
と識見と雄弁は如何に光彩を放つであろう、と指を屈して帰朝の日を待ち詫びた。然るに
突然とこの悲報は何事ぞ。倫敦の毒霧寒煙はああ終に先生を奪い去ったのか。三十を過ぎ
るわずかに一歳、花も実もこれからと云う年をして、沖天《ちうてん》の猛志を懐いて、
知己後輩の望を負って居ながら、異郷の鬼となられたか。余りの事に、涙も出ず、茫然と
なって居ると、その翌日(さながら人生の果敢なきを悪鬼の嘲けるように)一通のはがき
が倫敦から達した。見ればまさしく先生の手跡(心が動転した時とて僕は先生自ら死去の
電報の誤を正されたはがきかと思った)日附を見れば十一月の中旬、文言は、倫敦の冬は
中々こたえそうだから用事仕舞次第多分来月中旬あたりから大陸漫遊の途に上る筈、身体
は壮健、安藤君(明治評論主華)に宜敷、と書いてある。さてはこれはがきを投函された
後で、まだ英国滞在中に発病されたのであろう。情ないではないか、書いた人はそれはが
きが地球を半周する間に果敢なくなってしまって、心ない筆の跡ばかりさり気なくとどい
て来るとは。今は記念《かたみ》のこの一通のはがきの上に、僕は抑え難い千行の涙を洒
《そそ》いだのであった。
170
その電報がついて四十日余りたって、先生の遺髪とともに先生の病気及臨終の模様を報
ずる我公使館書記官の手紙が、安藤氏宛に届いた。その手紙によって、先生の病気は急性
肺炎であった事。病床には本邦人数名かはるがはる侍して居た事。大熱の譫言にも頼りに
国会の事を云ったり、演説をする様な事を云ったり、また故郷土州須崎の兄君の事を云っ
たりせられた事。最早臨終と云う際に、先生は勃然《むつく》と寝床の上に起き上り、眼
を瞠《みひら》いて、
「しつかりやって呉れ」と明瞭に一言云い放って、やがて昏睡の状態
に陥られた事。英医が先生の気分の確かなのに驚いた事。先生が暫時の滞留に往来された
英人、何れも教養ある好紳士と辞する称するに一致し、吊《ちょう》するに慇懃であった
事等を知った。数日の後、土州から出京された先生の実兄(先生とは異なって純然たる田
舎漢《でんしゃかん》
)や諸先輩と先生の遺髪を谷中墓地に葬った。保安条例執行後まさに
二年を過ぎて、
逐客の帰京し会葬する者多きを見るにつけても、僕は落涙に堪えなかった。
その日帰る道すがら、浅井(読者諸君は、育英学舎に非常の美音を有った俊敏の短小少年
が居たことを記臆せられるか。斯少年浅井は僕が出奔後、中学、第一高等中学を経て、今
年法科大学に入った。不図寄宿舎の階段で相見て、互に篤き、ここに旧交を暖めたのであ
る。彼は僕よりさきに出京して、大分世馴れた如才ない男になって居たが、一皮剥れば当
年の腕白者は依然として存して居る)と先生が育英学舎の昔を語り合い、それから帰って
も夜深くるまで眠られぬままに、僕は寄宿舎をぬけ出て、庭内をあっちこっち歩いた。霜
夜の風颯々と面を吹いて、骨も痛む様。
(六)
不図雁が鳴き渡る。愕然とし僕は空を仰いだ。凄まじい星の夜だ。空のどこを望んでも、
寒星爛々と今にも降りそうである。さながら 4 年前叡山の杉木立の隙から仰いだ空も思い
出でられる。否、その時よりも空は弥々《いよいよ》冴えて、一天の星光驚くばかり明ら
かに、何の星を眺めても、氷の糸霜の鍼よりなお鋭き光の殆んど吾胸を射ぬくように覚え
る。僕はやや久しく空を仰いで立っていた。涙にあまる感想が湧いて来た。あの泰西詩人
の句にも、
宇宙に一の大なる社会あり、
これを組織する者は、
高尚なる古人と今人と。
とあるが、実にその通り、志士の魂は決して死なぬ、大人の霊は万古に生きている。生
きて万々世の後までも挺然流俗の外に奮ふ霊魂を勧まし、言はずして而も相呼び応えてい
る。時何ものぞ、空間の隔何ものぞ、人種の相違、信仰の異同、要するに大海の水上に劃
した無跡の線に過ぎない。あの燦たるものは果して星か、創世以来世に生れ来て貴き生拝
を送り死の関門を経て更に無窮の生に入った百千限り無き霊魂が天上より下界を見おろし
て居るのではあるまいか。駒井先生、兼頭君、人は死したと云う、しかし歴然と生きて居
る、生きて彼大なる社会の一員となっている。──何の星がそのであろう?と不図空を仰
いだ。
人類の進軍も思えば悠久なものである。生きかわり、死かわり、歩んで、歩んで、どこ
まで行くのであろう、何時が終極であろう?思えば駒井先生と云い、兼頭君と云い、吾先
頭に立って足を揃えて進んで来た師友は、ここに一人斃れそこに一人落ちして、否でも独
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歩しなければならぬ時が来た。独歩? 独歩? ──否、僕の眼には見えぬが、千万限り
無き足音を前に後に右に左に聞く。皆僕とともに進軍する人の足音である。行かねばなら
ぬ。足の続く限り進まねばならぬ、斃れた師友の分まで負って進軍しなけれげならぬ。児
女の泣を学ぶ時であろうか。涙を払って、酸脚を踏みしむ可き時である。駒井先生が末期
の言に。
「しつかりやって呉れ」とは誰を指されたか、恐らく僕もその遺言の分け前に与る
のであろう、また与らねばならぬのである。
湧きかえる感想を傾けて、僕は寄宿舎に帰るや否《いなや》、灯に対して「恩師駒井先生」
の一篇を草した。この一篇はその次号の明治評論に掲載され、後ち先生の先輩青山居士の
「佐藤鉄嶺伝」の中に収められ、「教育家としての鉄嶺」を紹介する便にせられた。僕自身も
その内には先生の詳伝を物して、せめて知遇の万分一に答えたいと思っている。
僕は最早児女の泣を学ぶまいと決した。しかしながらまたその覚悟を空《あだ》にした。
葬送の後よはどたって、或日用あって安藤氏を訪うと、先日倫敦からついた故駒井君の遣
物の中にこんなものがあった、菊池と名ざしてあるから君に渡すと、小形の洋書を一冊渡
された。手に把って見れば、白羊皮に金文字入の表紙、ミルトン詩集である。表紙をあけ
て、僕は唇の震えるのを禁じ得なかった。ブランクペーヂに、ペンで
哲
贈
菊
池
君
と書いてあるは、まさしく先生の筆である、察するに、クリスマスの贈物にせられる筈
で、名宛まで書いて置いて、病気になられた為めつい果されなかったのであろう。──僕
は涙とともに無量の恩情篭る先生の遺物を収めた。
詩集は十回百回爛読されて、頁は手垢によごれ、縁の金は色褪せてしまったが、二重に
三重に包まれた羊皮の表紙はまだ雪の如くに白く、今も兼頭君の写真とともに、僕が書斎
の二大宝物となっている。僕の一生に大感化を及ぼした者、母を除いては、駒井先生と兼
頭君とがその最なる者である。兼頭君はその沈毅の人格をもって僕に基督教の光を齎し、
駒井先生は僕に烈士の活模範を示された。僕は自ら省みて吾不才下劣の器なるに失望し、
世の腐敗に失望し、進めば進む程理想のいよいよ遥なるに失望する毎に、斯師友の面影が
突然浮み出して、吾を励ますように覚える。
単にそれから言っても、霊魂は実に不朽なものである。
(七)
左駒井先生遺髪の埋葬式に鬢の毛を吹き切るように冴えた北風何時か和らいで、梅白く
笑み、柳緑に眠り、東台墨陀の桜薄紅に莟《つぼ》む頃、内国勧業博覧会は数多《あまた》
田舎人の足を東京へ運ばせた。
過る一月、菅先生が第二高等中学教授に任ぜられて仙台に赴かれし以来、僕は副保証人
を下谷の中島氏に頼みかえた。即ち鈴江君の叔母、故野田伯父の妹の家である。当主は海
軍少佐で、大概船に乗って居、夫人は兼子と云って大の好人、男隠居はまた嫁に劣らぬ楽
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人、年が年中謡鼓《うたいつづみ》に凝って居られて、留守の天下は女隠居の手に握られ
ている。仙子と云って、今年五十六、持病の足痛が盛に起る時は、従六位の肩書ある八字
髯の主人すら七八歳の悪太郎同ように叱り飛ばす位で、良人とは云え男隠居なぞは、恐ろ
しきもの、一、鰒《ふぐ》
、一、大晦日のかけ取の顔、一、細君(寧ろ大君が適当である、
鈴江君の父なる人の妹だけ、体格屈強の大女、権力から云ってもおさおさ徳川家の将軍に
ひとしかった) と恐らく日記帳の片隅へ楽書されたであろうと思われる程内を畏れて、
それ女御隠居の御機嫌が悪いと云えば、一間どころに逃げ篭り、溜息ばかりついて居られ
る位。況して好人物の嫁御寮は変色蜥蜴《かめれおん》のように日に幾度か青くなり赤く
なり、鍛治屋のふいごのように五色の息を吹いて居るが常であって、平気にその病間に出
入するのは、大様の鈴江君か、頑是《がんぜ》ない嫡孫《ちゃくそん》の不二男と云う童
ばかり。しかしながら野田伯父が「妹はエライ」と賛称したと云うだけ、女に稀なる侠気
《おとこぎ》あって、難を釈き諾を重んずる魯連季布《ろれんきふ》の風を具へ、才を憐
み、書生を愛し、主人の大礼服を質に置いて窮生の急を済《すく》ったり、吾巾着は勿論
嫁の臍くりの底はたかせて来る者毎に馳走をしたり、さしより奇人伝中の人であった。そ
れで若い者間の評判は非常によく、僕なぞも時々行っては世話になった。
或日この中島の宅で鈴江君に会い、松村隠居が博覧会見物かたがた近々に上京するとお
敏君の噂であったと云う事を聞いた。僕は未だ一度も東京の土踏まぬ母に是非今回の賑合
を見せたいと思って居たので、それは好同伴《よきつれ》と、早速母に上京を促した。折
り返して来た母の返事には、上京したいは山々、またその位の費用はちゃんと用意して居
るが、今年の養蚕前に是非かたづけて置かねばならぬ仕事もあり、鈴江さんの阿母も学校
が忙しくて一寸はづしかぬるに、一人は出たくない心地もあり、残念ながら見合わす、そ
のかわりおまえが思いがけない人が多分来るであろう、こっちの様子万端その人から聞い
て呉れ、と書いて来た。
思いがけない人、誰だろうと思ったまま、五六日たって、博覧会開会の第一日曜、朝餐
食ってこれから上野へ出かけて見ようと帽を取る所へ、面会だと報じて来た。応接間へ行
って見ると、黒綾のモーニングを着た大の男が莞爾々々笑って立っている。
新五だ。
「やあ、これは珍らしい。突然ぢゃないか」
彼は糸の如き眼に僕を見上げ見下ろし、しきりにその大なる鼻孔を動かしながら(読者
は記臆されまい、これは新五君が満足の徴候である)
「はい、昨日着きましたが。喫驚しなさったぢゃろな、ははははは、新五もお目にかか
って斯ういう嬉しかことあござせん」と崩れそうに笑う。僕もつりこまれて、笑いながら、
「阿母から、思いがけない人が行くと云って寄越しなさったが、それぢゃおまえの事だ
ったね」
「お袋様──今年は八年ぶりにお袋ようにもお目にかかります、四年──慎ちゃま、神
戸で慎──若旦那にお目にかかった年は戌の年でござしたな──四年ぶりにまた若旦那に
お目にかかります、結構な年ぢゃござせんか。──慎ちゃま、よウく新五が云う言をきい
て、大学校に入んなさった。本当に立派な男ぶりになんなさった。こんな好男子になんな
173
さった所をお袋ように見せたら、泣きなさろうな」
言葉は暫し途切れた。
「そうして、今度は矢張り商売用をかねて来たのかね」と僕は問うた。
「はい、慎ちゃま、喜んで下され、新五も最早番頭手代ぢゃござせん、小ちやか石炭山
の所有主でござす」
新五は、先年炭坑坑夫問題の起った時、坑夫に同情を寄せた廉で、解雇されたが、少し
許《ばかり》蓄えた金で、不図福岡県某郡の掘かけて見込がないとかで売物に出た小さな
炭山を棄値に買い取り、高島を逃げ出した坑夫などつかって、ぼつぼつやって見た所、案
外の好成績で、もと顔知りあった問屋取引先も信用を置いてくれるし、かたがた好都合を
得て、その後また同じ鉱脈に当る一二の山を買い入れ、大した事はないが、今は中村新五
と云えば、一寸九州の北部にうん《口偏に云》、彼かと頷かれるようになった事をかい撮《つ
ま》んで話し、
「新五もまだまだこれからでござす、ござすが一寸土台石がまあ一つ据った
で、喃慎──若旦那、新五も久しか振りに今年はまあ妻籠にも行きます、お袋ようにもお
目にかかりに行きます、
それから今度はまた慎ちゃまにお目にかかるなり、
東京見物なり、
博覧会見物なり、それにいささか要事もござすので、のこのこ出て来ましたでござす」
「そうしておまえは最早見たかね、博覧会は?」
「慎ちゃま、何を言いなさる、慎──若旦那にさか、今お目にかかるぢゃござせんか、
未でござす」
「僕も未──ぢゃこれから一緒に行こうぢゃないか」
僕は新五と打連れて寄宿舎を竜岡町の方へ出た。
新五は歩るき歩るき目を側だてて 「本
当に好男子になりなさった喃」と独語のように云う。
「おまえこそ立派になった、洋服が似合うよ」
新五は窮屈そうに肩を動かして、額の汗を風呂敷大のハンケチで押拭い、カラアのあた
りを出来得るだけくつろげながら、
「本当に似合いますか喃、嬶もそう云いますが」
「嬶?──細君が出来たのかね」
「ははははは、これは大失策、──慎、若旦那、新五も到頭女房持になったでござす、
はははは、新五も昔は金儲は独身者ぢゃ云いましたが、否、好嬶持や大金持でござす、は
はははは」
「そうしてその細君と云うのは?」
その細君は士族の孤児、辛い目をして学問した女、容貌は「似た者夫婦でござす」が、
実があって(昔から北の方なんて女房はつめたか者の様云いますが、新五のは南の方で、
はははは、温かでござす、と新五は洒落れた。無論新五は北半球の人だからそう云ったの
だ)
弁も算筆も達者で、
帳簿から問屋の応接何くれと一人できって廻わすと云う事を話し、
その細君が今度東京初上りについては是非洋服になさいとすすめ、大急ぎで福岡の洋服屋
に挑へ、やっと仕立上るを待ちかねて、早速着用して出て来たのである事を話した。履歴
を聞いて、あらためて見れば、猪首にカラアの摩あと赤く、胴衣《チョッキ》のボタンは
下二つが程ちぎれて、一歩一歩に溜息をつき、堅唾を飲んでいる。不図足を見ると紺足袋
に表附と云う不思議の形装《みなり》。
174
「靴は如何したのかね」
「いやその靴でござすが」と新五は福岡一番と云う大きな靴を買ったが、それも出来合
で、足には小さかったのを、細君が、少し辛抱して居るとすぐよくなります、西洋あたり
では踵が入らぬ靴を爪先につっかけて歩くのが上流社会と云って貴びますと云うので、痛
を忍んで穿いては来たが、東京に着いた頃は踵の皮が剥けて湯にも入られず、昨夜宿で即
効紙を買って張り、今日はこの通り和洋折衷で来た、と云った。ひどい「実がある」細君
だと僕は思ったが、新五は中々動じない、
「いや、慎──若旦那、持つ可きものは好女房でござす、お待ちなされよ、新五がいま
に好奥様を見つけてあげますぢゃ」
(八)
巨躯の新五が身材、和洋折衷の身装が已に人目を惹き易い所に、こんな事を傍若無人の
大声にわめくので、往来の者がしきりと顔を見るに、僕ははらはらしながら、池の瑞を通
って、蟻の行列ただならぬ群衆とともに上野に繰り込んだ。
四月初旬の上野は花の真盛り、博覧会開けて第一の日曜と云うに、昨夜の小雨今朝は痕
なき浅碧の空に晴れて、日かげうらうらと木蔭も悪からぬぽかつきに、吾も吾もと綺羅を
飾って上野に押寄せたので、衣香簪影《いこうさんえい)何千何万と云う人のぞめきの中
に乱れて、十歩の彼方は人の息とも塵とも霞とも分かぬ曇りのぼいやりと立迷い、ああ熱
とハンケチを扇かわりの、花よりも先づ人の顔が桜色になる程の人出。僕は聊か人出のお
びただしきに呑まれ顔の新五をせきたてて、押分け押分か石段を上った。
桜が岡から都の春を一眺め、
「成程東京は大きうござす」と嗟嘆する新五を引張って、案
内役の僕は先づ彰義隊の碑前に維新の昔物語から、井戸側の酔はあぶない秋色桜の由来、
濃い緑に映る花の微妙さ、残る隈なく講釈したが、新五は例の大手巾《はんけち》で湧き
出づる額の汗押拭ひ、熱さうな溜息ばかりして居るので、僕は彼を摺鉢山の方へ導いた。
流石にここは人の往来も少なくて、大木の林が含む冷冷とした気の汗ばんだ面を撲つ心地
よさ。新五は鼻を鳴らして木の香を嗅ぎ、時々大樅大杉の下に立とまっては、木の丈を目
測り、子でも撫づるようにとんとんと敲いて見て、
「好い木材でござす喃、官林じやろな」
と嘆称した。
さ、これから博覧会、と林を出ぬけて広場へ下りる途端に、これも今迄林中を歩いて居
たのだろう、猟虎《らつこ》帽と花色の蝙蝠傘と横合いからたらたらと下りて来て、はつ
と思う間もなく、僕は忽ち松村老人の前に立った。
「やあ、御出になりましたな」
制帽をとって、慇懃に一礼する僕の顔を眺めて一寸寄せた老人の眉皺が忽ちのびると同
時に、掻巻大の大紋付黒紬の羽織の袖口から懐中した手が出て、やおら猟虎の帽(見覚え
ある)を脱り、
「や、これは、慎三郎君、久し振──」
しかし僕の耳には、ここ迄しか聞えなかった、老人の後に咲いて居た花色の蝙蝠傘がす
うとつぼんで、驚く可き幻像《まぼろし》が嫣然《にっこり》目礼したから。
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僕は自分の眼を疑った。これがお敏君であろうか。桜花の精ではあるまいか。
足かけ四年と云うもの、同じ東京に住みながら、懸違ってつい会わなかった。僕が出京
した年、新聞配達をして居た頃、麹町で一寸その姿を見かけた事はあったが。その間に、
祝す可き年よ月よ日よ時よ、おまえはお敏君を斯くも美しく育てたか。
八歳の年会った時は可愛い女児であった。十四の年見た時は愛らしい娘であった。十七
の今日見れば──ああ最早僕は言う可き言を知らぬ。桜、桜、それでもおまえは花と威張
れるか。
足はわななく。体はぞくぞくする。魂はふらふら。眼はその方を見つめても、殆んど何
も見えぬ。
最早駄目だ。
春秋の筆法を用いれば、
明治二十有三年春王四月松村敏、菊池慎太郎を殺してしまった。
(九)
やっと吾にかえって見れば、紹介を待ちかねて、新五が自から進み出て老人に挨拶を始
めて居るので、僕は遽てて、これは同郷の中村新五云々とすこぶるとんちんかんの紹介を
した。
「而して何時御出京でした?」
と問う声は吾声ながら怪しく顫えていた。
「拙老はこれで三晩東京にいます。一寸お尋ねする所じゃったが、不精閑なしでな。はは
はは、国許では母御方とも始終お心易くして居ります。──うん? うん? (お敏君が
何か囁やいた、僕は老人の耳になりたかった)応、それそれ、お礼が後れた、先年は慎三
郎君、家内や娘が一方ならぬお世話になって、重畳かたじけなう──いや、成長盛だ云い
ながら、三四年ぶりに会って見ると、また見違える様大きくなんなさった喃」
と老人はあらためて僕を見る。老人の背後から黒眼勝の星の様な一双の明眸も僕に注ぐ。
僕は紅くなって側向きながら、心に叫んだ、こんな事と知ったら、今朝顔の五六遍も洗っ
て、せめてカラア、カフスだけでも新しいのにとりかえて、靴も磨いて来たものを。
莞爾莞爾して居た新五がこの時進み出て、最早博覧会は御覧になったか、と問うた。
「未見ませんぢゃ。先刻来ましたが、余り人がどやどやするから、今そこで休息して来た
所──貴君たちも、未? ああそれは好伴侶、慎三郎君、一つ案内して下さらんか」
こっちから案内さして下さらぬかと願う所を、案内せずに何としよう、博覧会は云わで
もの事、有頂天まで真先にと、僕は群がる人を押分け押分け一行を導いて会場に入った。
国旗や紫に県名を白くぬいた旗など交叉した門を潜って、岸に見立つる両側の列品の間
をぞろぞろ流れる人の川に、僕等一行も身を委ねて、あっち見、こっち見、しかし素より
僕の眼には何もとまらぬ。唯腹立たしきは、若い男女が云い合わしたようにお敏君の姿を
顧って、色色の相をするのが、ねたくてたまらず、僕の眼にだけ姿が見えて他人には見え
ぬかくれ蓑笠をお敏君にうち被せるか、さも無ければ僕等一行四人を除く外老若男女一切
の見物客の眼に無二膏張って、当座の盲にしてやりたく思うのであった。
沖縄県出品区で、新五は琉球緕《かすり》二反に売約済の札をつけさせ《一反はお袋よ
うにと云った。他の一反は蓋し彼が所謂南の方へ土産であろう)
、 青森県の部で、松村老
176
人は国に帰って野遊びの携帯用にと通草《あけび》蘿《つる》の食籠《じきろう》を買っ
た。京都府の出品には織物の美を尽くして、流石にお敏君の眼を惹くものが多かった(友
禅なぞにはあまり眼をとめなかったが)が、中にも西村出品の黒天鵞絨《びろうど》に絹
糸で月の白浪千鳥に芦を刺繍した大幔幕にはやや久しく見惚れていた。僕は僅か一円なに
がしを入れた衣兜の蟇口を握って、千何百円の正札を怨めしげに睨んだ。しかしこの遺憾
は、新潟県の部に入って、松村老人がお敏君の為に越後上布の極柄の好いのを求め(お敏
君は父にねだって母と嫂の為に更に二反を買った)たので、その幾分を減じた。僕はお敏
君を斯く可愛がる老人を可愛ゆくも亦妬ましくも思ったのである。
美術館に来た時は、老人もやや退屈し、新五は欠伸ばかりして居たが、お敏君は一枚毎
に丁寧に見て行くので、案内者の僕は詮方なくも二人に後れて、お敏君の為めに説明兼先
導者とならざるを得なかった。
胸はしきりに動悸つく。何か云わなければならぬと思って、
「油絵お好きですか」
と云った声の半は咽にかかって出なかった。
「面白いのですけれど何だかわたくしにはよく分かりませんの」
すらすらと答えたその声の清さ、涼しさ。
僕は恍惚となった。
(十)
弾琴美人の画の前へ来ると、お敏君は
「まあ奇麗」
と見惚れた。若しこの時僕に今程のおちつきと、思い切った事を云う面皮があったなら、
「お敏さん、あなたはこんなものを奇麗と思うのですか。否、否、僕の眼には画よりも画
を眺むる人が百倍千倍も美しくみえるのです」と斯様云ってやる所だったが、
初心の僕は唯
仔細もなく胸うち騒いで、云おうと思った気の利いた言も出て来ず、少し引下がって、画
を見る風して見る人を眺めていた。眩しくてよくは見えぬが、何かぱつちりした縞の綿入
に白茶の帯をしめ傘をついて少し仰向き加減に画に見惚れて居る姿の好さ、解かば地に曳
き鑑《かがみ》せば人顔も映りそうな黒髪を揚巻に結んだ頭の好さ、少しのぼせて耳から
横頬の桜色になった美しさ、眼の涼しさ、顋の愛らしさ、藤色に桜模様の半襟に映つる襟
筋の清さ、──もとから可愛い児ではあったが、唯った四年足らずの間に、すっかり磨か
れて、清々しくて、どうして斯様美しくなったろう、と僕はひそかに大息したのであった。
「菊池君、々々々」
愕然と顧れば、同じ文科大学生で、すこぶる口の悪い斎藤と云うのが、僕の背後に微笑
している。
「ああ斎藤君か」
「ひどく喫驚するぢゃないか」と意地悪く言う。
「なにそうでもないが──時に君一人か」
「五六人拉《らっ》して来たが、余り人が多いもんだかはなればなれになったんだ──
如何だ、油絵も未だ中々前途遼遠だね、こんな俗画に人がたかる様ぢゃ──しかし君もも
ひどく熱心に見とれて居たぢゃないか」
「何有、馬鹿な」
177
「しかし実際見とれるも無理はないね、中々美人だ」と斎藤が眼は二三間さきに画を見
て居るお敏君を流眸に見た。
恰その時、
「若旦那、若旦那」
と四辺構わぬ新五が大音に呼んだので、僕はやっと逃れる機会を得て、
「如何だ、君、一処に行かないか」と捨ぜりふを云うと、齋藤は、
「行っても宜いが、お伴侶がある様だから先よそう」と云って意味あり気に笑った。
何か機警な返答をと思ったが、容易に出ないので、
「失敬」と云い棄てて、荏柄《えがら》
の平太が大蛇を退治る画の前に佇んで居る一行に加わって、一寸ふりかえって見ると、齋
藤はなおにやにや笑ってこっちを見て居たが、竜頭観音の画前に来た時ふりかえれば、最
早斎藤の影は見えなかった。僕はやっと胸撫で下ろし、観音の図に対《むか》った。しか
し画については何の感も起らず、唯彼観音のかわりにお敏君を龍頭に立たしたらなお神々
しかろう、と思った迄である、
名残り惜しいほど早く済んだ見物も、時計の時間にしては大分長かったのであろう、会
場を出て見ると、午はよはど過ぎて、人出はますます多く、午後の日に蒸されて花はうつ
とりと眠げに、草臥れた人は花の下に大欠伸している。僕も何やら飲まぬ酒に酔って、気
が遠くなった。
珍らしい処でお面識《ちかづき》になった祝に、どこかで是非午餐をと新五が云うので、
僕等四人は松源に上った。しかしながら珍味佳肴も殆んど僕の咽には入らなかった。
「東京
の料理は宜うござすが、塩が甘いな」と云いながらそのしお甘い料理を片端から平げるの
は新五。老人は米がわるいと悪口し、お敏君は微笑み、僕は茶ばかり飲んでいた。
その後ヂッケンスの 「カツパアフィルド」を読んで、主人公がドラを恋うる條下《く
だり》に「ドラと珈琲で生きて居る」と云う句を読んで失笑したが、僕自身も松源の一席
は確かに「お敏君と茶」で済ましたのである。
ああ恋は実に「腹ふくれる」ものである。
(十一)
松源を出て、これから神田の親戚の家へ帰ると云う松村父子の為めに車を雇って、別れ
る際に「有り難う──」とお敏君が礼の一句余韻嫋嫋として耳に残り、僕-お敏君=ゼロ
と云う不思議な方程式を造って帰った翌々日、僕は松村老人と新五を引張って大学構内を
隈なく案内し、更に数日を経て、僕は松村父子及びその親戚石川(主人は軍医、夫妻に子
供の外は男ぎれ無しと聞いて、僕は眉をのべた)鈴江君及び中島一家(男隠居は謡の方が
多忙で来なかったが、
鈴江君の叔母君は出馬して、
松村老人や新五との初対面の一幕が中々
賑やかであった)並びに新五を墨田のボートレースに招待した。不幸にして世に感冒など
云うつまらぬものがあって、
僕のかわりにお敏君にとり憑た為、僕の預算はがらり狂って、
失望は非常であったが、松村老人も新五もみなみな喜んで、故郷へ土産が出来たと云って
いた。 新五は十日ばかり滞京した。幸い春期休業中であったので、僕は東道の主人とな
って新五に東京を紹介し、また僕の保証人(即ち故駒井先生の洋行費を出した中川と云う
男、天秤棒かついで一代の中に八百万からの資産を拵へた人物、僕は貧の傲《おごり》で
178
あまり近しくしなかったが、新五が会いたいと云うので紹介した。流石世馴れた人の、一
見新五に見所ありと見てとったのであろう、一寒生の紹介もて来た初対面の田舎漢と、忙
しい中を緩々話して、新五が事業の上にも有益な助言を与えたそうで、これもつまり郎君
《あなた》のお蔭と片腹痛い礼を新五は云った)や一二知名の政治家(これは明治評論主
筆安藤氏の紹介で)にも面会さしたが、如何した拍子か、新五は彼中川翁程には他の政治
家には感服せず、評判もあてにならぬと唸《つぶ》やいていた。愚案ずるに、新五が風采
言語の粗野なるに驚いて、あの政治家が冷と云う字のつく遇を与えたのであろう。孔夫子
すら、
子羽は見損ねたと懺悔せられた位だから、必ずしも彼政治家を咎む可きにあらずだ。
新五は今年一ばい逗留して、国会の開会を見ずに帰るのは残念とこぼしていた。而して
僕の年齢を指折って勘定して、三十にはまだ中々と大息し、
「しかしその迄には新五が沢山
儲け出して、若旦那、撰挙費は一文でも郎君には出させませんぢゃ」と大言した。
彼が帰図の途に上る前日、馬喰町の宿で、僕等は緩々話した。創業の苦心、人使いの困
難さまざまの彼が経験談を聞いたが、中にも身慄せられるは、彼が妻籠に帰省して詳しく
聴いた堅吾叔父の末路であった。実に邪《よこしま》に咲く栄耀の花の盛は一時、吾家没
落後は妻籠一と云われた叔父の身代も、意満ち気驕った女狂いが原になり、あの恐ろしい
知慧者に魔がさしたかと村の者には云われて己れは得意の冒険事業の損が損を生み、三都
すりからしの山師に腹をあわした腹黒の妾に大分掻さらはれ、さしもの身代もめきと弱っ
た所へ、養子を嫌った姉娘が当歳の子を残し大金と小学教師を連れて駆落し、叔母の気鬱
症、そのあとが叔父自身の大難病、百日に近い間苦痛坤吟の声に四近を怖《おのの》かせ、
病苦に疲れてうとうと眠るとすれば、忽ち圧《おそ》わはれて、片時も安眠の暇なく、骨
だらけの手で蒲団の上を払うを何事と問えば、
「慎吾さん (僕の父、叔父の実兄) が来
て胸を圧《おし》つける」と額から冷たい汗を流し、
「悪うございました、悪かった」と人
も居らぬに詫び、あの剛毅な人が一人では恐くて居られぬと云って、始終妹娘を側からは
なさず、死ぬる時も娘の手を握って、
(寧ろ握られて)苦しい息を引取った。而して葬式の
日は車軸を流す大雨、汲み乾しても汲み乾しても瞬く間に墓穴が水になって、棺が浮き出
すので、誰一人色を喪わぬものはなかったと云う事である。
「はんに親子の何のと如何した縁でござすか喃」と新五は更に話を進めた。可愛想なは
妹娘のお芳で、二十歳かそこらの細腕で、この倒れかかった大きな家の心張棒になり、背
には姉が残した当歳の児をあやして大病の父、半狂の母を左右に撫でさすり、
気をつかい、
心を配って、菊池分家の命脈人望を唯一縷に繋いで居たさうな。父の没後はいよいよ家も
細う畳んで、骨と皮ばかりになって働いて居るが、半病人の癖で、母は娘に不足たらたら、
杖柱の子は措いて不義に走った姉娘に是非逢いたい逢いたいと云って居て、何かと云えば
直ぐ姉娘に逢いに巡礼でもしそうに云うので、お芳は何卒姉を尋ね出して、母に逢わせた
い一心に、人に頼んだり、神仏に祈願をかけたり、新五にまでも頼んだそうな。菊池の分
家と云えば、昔は荒神のように恐れ、中頃は蛇蝎のように忌み、終には糞土の如く蔑んだ
村の者も、お芳には我を折って、おのづと見舞の大根の一本も提げて来るようになって、
現に天罰覿面好心地と聞いて空嘯いた新五も、お芳が姉の子を負って、裏の井戸側に洗濯
する姿を見て落涙し、思わずゆっくり上り込んで慰めて来たとの事である。その時お芳の
話に、家は斯うなってしまうし、これが尋常であれば力になっていただくのだけれど、本
179
家の伯母様や慎太郎様も人非人のように思ってお出なさろう、と泣いたそうな.
「感心な人でござす。如何して彼爺の娘にああした娘が生れたぢゃろな。あの松村の嬢
さんのように学問や容貌が好いと、立派な夫人じやが」
と新五は深く嘆息した。
(十二)
新五が帰って三十日、松村老人が帰って二十日、花の上野は青葉となって、さしもの賑
合も大風のあとのように淋しくなった。
僕の心の中も亦。
何故? 僕は非常の苦痛を忍んでで自殺を行った。とばかりでは分るまいが、僕は心を
えぐって、そこに深く深く印された或人の面影を削り去ったのである。
僕は最早決して松村とも敏とも思うまいと心を決したのである。 誰が故障を入れたの
か。お敏君がそれと知って拒絶をしたのか。杏、杏、誰も知らぬ、──少なくとも知らぬ
と思った──僕自ら考えて僕自ら断行したのである。即ち僕は自殺したのである。
彼上野の博覧会見物以来は、菊池慎太郎は最早世に存在して居なかった。魂はお敏君と
名づくる憎む可く将《はた》愛す可き獄丁の手に錮《こ》せられて、娑婆に往来して居た
のは、僕の亡骸であった。自由自主不羈独立の菊池は彼日お敏君の明眸一閃に殺されて、
あとは奴隷であった。
僕が愛は従来天地同虹唯一人母の上に集った。あのお敏君何者ぞ、突然と上野にあらわ
れ出して、忽ちに僕の愛を占領してしまう、とは実に不思議ではないか。
審美学の巻上にもお敏君の莞爾笑を含んだ姿が立顕れる。翻訳物をしかけて、何時か筆
は原稿紙の端に松村敏、松村敏、お敏、お敏、など楽書をしている。新聞雑誌を見ても、
「松村」とか「敏」とか云う字は電《いなずま》の如く眼に閃めく。日曜にはお敏君がよ
く行く親戚の近辺を用もないのにぶらついて見たり、お敏君が寄宿する学校を眺めて見た
り、母への土産物を托するに言よせてわざわざ半日の課を廃して松村老人の出発を新橋に
見送ったり、せめてお敏君の間接の消息なと聞く積りで中島の宅へ出かけながら、鈴江君
の顔見ては松村とも敏とも云い兼ねて、大様な鈴江君にすら、「貴君どうかなすったの、変
だわ」と怪まれたり、お敏君を讃美する歌百首を一夜の中に作ったり、下手な肖像を鉛筆
で書いて見たり、白茶の帯に胸を轟かし、揚巻に肝を冷やし、縞お召の着物に眼から電を
出し、花色の洋傘に道に立すくみ、ない髯を剃らしたり、顔の皮をこすり剥いたり、支那
の女が穿きそうな靴をはいて見たり──要するにこの頃の僕は実際正気では無かった。誰
が発狂せしめたか。松村敏の罪当《まさ》に諌す可しである。
僕は従来小説では恋の物語も読み、芝居では恋の幕も見、実際の舞台でも友達なぞが半
狂になって躍るのを冷やかに笑って見物していた。然るにお鉢は今や僕にまわって、五尺
何寸の男、見事敏の奴《やつこ》となり了ったのである。
この時若しお敏君が隻手をあげてさし招いたならば僕は奈落の上の一足飛をしたであろ
う。幸にして、
(若くは不幸にして)
、僕もお敏君も学業暇なく、暇があっても相会う機会
少なく、僕も初恋の唯意気地なく羞かしくて、うちつけにずうずうしくそれと明かす勇気
もなく、稀にく顔が合えば黙ってしまい、言えばぶるぶる顫ひ、而して別るればやるせな
く思う位、先様は多分御存じ無しの片思い、ああ馬鹿らしい、男が立つか、意気地がない、
180
咄と叫び、喝と罵り、斯様したら熱が冷えるかと井戸側に行って頭から冷水を浴び、夢な
ら醒めろとペン尖で膝頭をつついたりしていた。
(十三)
こんな状態の最中に、僕は不図小事件に遭った。官吏侮辱罪で入檻して居る明治評論の
指名編輯人に面会の要あって石川島監獄に行った時、思いもかけずあの曽根君に会ったの
である。罪人の曾根君では無く、押丁《おうてい:この場で世話をする立場》曽根君に会
ったのである。意外の再会に、僕は驚き、君は面伏の容子であった。指を折れば、最早四
年になる、初陣の夏期伝道に図らず曽根君が失恋の苦痛を目撃し、君を送って讃州多度津
で手を分った後は、杳《よう》としてその消息を聞かなかったが、大学で助教授の彼隈谷
文学士の顔見る毎に、失敗の競争者の曾根君を思い出してどうして居るかと思うのであっ
たが、所謂「遠即千里、近即咫尺」
(とおければすなわちせんり ちかくばすなわちしせき、
咫は 8 寸を意味するという)
、同じ東京の加之《しかも》こんな所にこんな役を勤めて居た
のか。
余の意外に碌々話も出来なかったが、二回目にその築地の下宿の少閑を訪れて、事情を
聞けば、実に気の毒な話。失恋の後間も無く、母君は病没して、曽根君は孤児となった。
この哀と彼不快を一に集めた故郷の土踏むも嫌になって、君は少許《わずかばかり》の家
産を金に代え、ぶらりと出京した。もとは理科大学、大学院、海外留学と行けるだけの道
を行って、
造化の秘庫を探って見ようとの志望もあったが、淋しさ面白くなさ味気なさに、
つい自棄《やけ》を起して瞬く間に無一文となった。造物主の判廷に情状酌量はない、播
《まい》た丈は是非とも苅らなくてはならぬ。曾根君は流浪の身となった。流浪の果は今
の身となった。でも普通学の素養もあり、英語も出来、理科は殊に得意の君が押丁になら
なくても何かありそうなものと僕は問うた。しかし君は答えた、破廉恥な奴輩が大きな顔
して跋扈する世の中には、顔見るも嫌、見られるも嫌でたまらず、名誉とか利達とかそう
なものは思い切って、せめて罪人と云う不幸者の世話でもして世を過さうと思って、こん
な所に来たが、来て見ればここも世の中、金もものいい、位ものさばる、何方向いても不
愉快な事ばかり、もとは改革の矯正のと分に過ぎた事も思い、看守長典獄にもなって世話
を焼いて見ようの心もあったが、最早そんな事も嫌になり、眼を閉ぢ、耳を塞いで、免職
されない限りは押丁で終るつもり云々。而して君は僕が避けて言わなかった金子女史の事
を言い出して、その東京に来た一の目的は、あの夫婦に会って腹が癒える程復讐して見た
いのであった事を語り、一度はその門まで行ったことを語り、或時銀座の通りで金子女史
が二歳位の男児を抱いて、車を走らすにはたと行き逢いこっちは石のように立すくんだが
彼方は車の上から一寸見下ろしてにやり笑い、会釈して行った事を語り(この時曽根君は
唇を噛んでほろり涙を落した)一時は彼等を押並べて真二つにして死なうかきまで思いつ
めたが、今はその復讐の念も燃え下がって、何もかも唯夢の観をなすことを語り、
「私は敗者です。敗者は蹂躙されても、抵抗する力はないのです。最早私は何の望もな
い。死ぬるまで生きて居ればそので可のです」
と云って、重病患者のつく様な微かな息を漏らした。
実にこのまま置けば曾根君は次第に唯消え行くに違いない。どこか君を復活さす境遇は
あるまいか、と僕は思い廻らしたが、不図思い出たのは新五が話に、技師の手伝や書記を
181
する様な男が一人欲しいと云って居た、それが出来れば監獄に居るよりよほど優で、第一
新五が彼快活な進撃喇叭の様な笑声聞いたばかりでも、曾根君には興奮剤になるであろう
と、斯様思ったので、早速新五に照会し、無理に曾根君を説いて、監獄を辞させ、九州に
立たしたのは月の末であった。
(十四)
曽根君の一條は深く僕の心に徹した。新橋に送った時、別を告げて汽車に乗る君が姿の
如何にも力無く、
影のように薄いのを見て、四年以前の打撃がまだまだ残って居るを認め、
実に「恋は癖者」と心に叫んだ。
ああ「恋は実に癖者」である。
「而して僕は?」
愕然として僕は目を見開いた──僕もその癖者に憑かれている。 油断がならぬ世の中
だ。掌にのりそうな可愛気なあのお敏君と思って居る間に、堂々五尺の男子が却ってその
掌にのせられて居る(先方はその気もあるまいが)
。
それと気がついて見れば、成程近来の僕が挙動は、吾ながらあまり誉めた話ではないの
である。男子の独立と云うこと、どこへ行ったやら、高手小手に縛られて、その縄末をお
敏君にとられ(先方はとる気もあるまいが)行くも止まるも、吾意思の力に及ばぬ。学業
の上にも吾知らず懈怠勝になって、書見考索も疎かになり、揮《すべ》ての事皆手後れと
なっている。一銭の冗費も厭い、半文の剰余も積んで居た僕が、日記帳を繰って見れば、
兎角出入相償わずで、石鹸、はみがき、摘髪、カラア、カフス、鞄新調、手巾、を初め種々
虚飾費が非常に蚕食している。博覧会で会った斎藤が尾鰭をつけて吹聴したと見えて、寄
宿舎の僕に対する眼口は、僕の霞んだ眼にも、どうしても笑を帯びて居るとしか見えぬ。
現に五六日前も、僕が書見をして居る側で、突然一人が、
「品行矯正の近道は如何」
と誰やらが問うと、あの斎藤が
「美人を意中の人に有つにありだ」
と答えて、一同哄然《どつ》と笑った。それはなお可が、中には将几《しょうぎ》下ま
で切り込んで、
「菊池君も近頃は急に垢抜がしたね、非常に有力な洗礼を施されたのだろう」
などと皮肉を云う者もある位。要するに、この一刻千金の勉強盛りを、僕は夢見て暮ら
している。眼を皿にしていても兎角つまづき易い世の中を、眼を閉ぢ驀地《まっしぐら》
に走っている。志業の荒廃、名声の失墜も唯一歩の境だ。
誰の為に?か弱き一少女子の為めに。而してその少女は、果たして僕の一生を賭す程の
値ある女乎。或はそうかも知れぬ。僕の心は然云う。しかしまたそうでないかも知れぬ。
分からぬ者は女、迷い易いは若い女を見る若い男の眼。曾根君も売られるまでは金子女史
を天女と信じていた。ただに曾根君のみならず局外者の僕すら欺かれていた。局外巳に然
り、いわんや当局の今日をやである。恋は馬鹿なもの、結婚は籤引にかぎると云ったのは、
自身に好かぬ妻持ちあてたジョンソンのやけ腹から怒鳴り出した暴言としても、有り難く
もない一少女子に可惜《あたら》男の一生を犠牲にした実例は手近く曾根君にある。何と
182
云っても、分からぬものは女、危険なものは恋の道。吾行く道は野越え、山越えはるばる
と有形の外へ通って居るに、秋の日かべの傾き易い身をもちながら、色美しと袖をひかれ
て女郎花の野に暮さうや。
否、僕は断じてお敏君を思い切らねばならぬ。
僕は思い切った。片思いでも思い切るは痛いもの。思い切った胸の中はさながら火が消
えたように冷たく味気なくなった。起きて見つ寝て見つ蚊帳ならぬ僕の心もその空しく広
きに堪えなかったのである。しかしながら「恋は癖者」
、踏にぢっても容易に死なぬ。とも
すれば死灰またとろとろと燃え立って、焔の末にお敏君の姿が嫣然と現われる。その時は
詮方なさの対症薬に、新五が話のお芳君の幻影を喚び起して、一方を打消さうと試みた。
実に燐れむ可きは従妹の彼お芳である。堅吾叔父の末路に慄然とすれば、その妹娘の身
の上には燦然とするのである。実に金をかけて磨く都の玉に石多くて、山中に転がって居
る石には却って玉があるもの。僕等母子が妻籠を立つその朝、村はずれの茶小屋に待ちう
けて、涙ながらに葡萄蔓の蒔絵した小箱を僕に餞別に呉れたのは昨日の様だが、指折れば
已に十年、一度も音信をしなかったが、さてはそうに苦労をしたのか、感心な娘、見上げ
た女、学問容貌が無くともそんな賢い女こそ真に好家妻──と僕は義理堅い女が先妻の子
を誉めそやすように、従姉妹を誉めていた。
(十五)
曾根君は去る、お敏君をば思い切る、先々心にかかる隈はなくなったので、僕は必死と
学業の方にはまった。隙さえあれば、いたづら者の心めが淋しがったり、思い出したりす
るので、殆んど一秒の余裕もない程僕は頭脳に仕事を課していた。
去る程に、絶えて久しい札幌の松村清磨の手紙に接した。書中は、非常の無沙汰を詫び、
先年妹の書状で僕が関西学院に居る事を承知し(妹と云う字に胸が急に躍り出したのを僕
は一喝して次の文句を意味分からずに四五度読んだ)手紙を出したが付箋して戻った事、
その後僕が大学に居ることを聞いて音信をしようしようと思いながら筆不精でつい怠った
事、先頃宿許から手紙が来て老人状況の際色々僕の世話になった由を報じて来た事など書
き列ね。
、この六月は学校を卒えて多分東京に変ると云う意を漏らし、農林学校が農林大学
になると聞いたは事実か、など書いてあった。
折角松村と云う字に遠かろうと思って居るものを何故誘惑が斯様来るであろうと思った
が、しかし妹こそ憚る由もあれ、兄その人には何の遠慮もないに、恐がらずともの事と思
いかえして、直ちに返簡を出した。それから学年末の試験験ぎで、松とも村とも暫らく忘
れて居たが、諮問もようよう済んで少し手足をのばすところへ、松村清磨と署した名刺が
僕の几前に齎された。来たなと思いながらいそいで出て見れば、浴衣がけに兵児帯の一壮
年が莞爾として待っていた。
「やあ、菊池君、非常に失敬した」
云う声は昔に変って大人び、体格も倔強になって、鼻下には好い加減な鰌髯を蓄えてい
る。しかし札幌の林檎畑から偸んで来た様な頼の赤味、これも北海道の熊にでもあやかっ
た様な眼もと口もとの愛嬌は、八年以前野田伯父の門前で別れた時の松村そのまま、否寧
ろその時にもまして快活になっている。久別の後相合う時の初一瞥は、先方が相見ぬ年の
その間を愉快に過したか不快に送ったか、今後の交態は親しかる可きか疎かる可きかを、
183
大抵は告げて誤まらぬものである。若しこの断定が誤まりないならば、僕は当年の親友清
磨を今の農学士松村に見たのである。新鮮な北海の野に、クラアク教頭の遺風なお存する
学舎に、自然を相手の学問に幾年を送った彼は、都門の学生に滅多に見られぬ爽やかな眼
色と新鮮の気風を帯びていた。
「吾輩こそ非常に御無沙汰した。──而して今帰途だね」
「昨夜着いた。──最早君も休暇だろう」
「試験が済んだばかりだが。君はちっと逗留する積りか」
「僕か、僕は九月からこっちの研究科へ入って見ようと思っとる。無論一寸帰県するが、
その前にいささか休んで行こうと思う、明日から親類の者が海水浴に行くからね」
「海水浴、洒落るぢゃないか。どこ?」
「江ノ島の近辺だ、何でも──」
「そうか、僕の親類の者も大磯に行くなんて云って居たが」。僕は中島の叔母が鈴江君や
孫を連れて保養に行くと云う事を一寸聞いていた。
「ああ、中島さんぢゃないか。中島さんなら、僕も聞いたが、大磯は波が荒いし、騒が
しくていけないて、僕の親類の石川と云うのがそう云ってね、多分一所にその──何とか
云ったけ──その僕等が行く所に行くことになったそうだ。──君も行くだろう、それと
も帰省するのかね」
「それなら是非来たまえ。要はないのだろう、宜ぢゃないか、是非来たまえ」
「しかし──」僕は彼愛す可き敵、天使の悪魔も彼と一所ではあるまいかと恐れたので
ある。
しかしながら松村は切りに迫り、昨日着いて明日は立つと云うに話は山ほどある、彼地
に行っても親類の者ばかりで誰も遠慮する者はないから(否、大に有りだ》是非来いと勧
め、別れる際にも二三度念を押して行った。
*
*
*
*
*
松村には是非ゆっくり逢いたいが、松村の近辺に恐ろしい者が一人ついて居る(であろ
うと僕は思った、しかし松村には敢てその有無を問わなかった)上に、僕は明治評論の為
に夏期附録編輯の手伝をして居たので、三日にあげず鵠沼(松村が行ったのは鵠沼であっ
た)から今日来い明日来いと矢を射る如き松村が催促状にも、曖昧な返事ばかりして居た
が、或日中島叔母自筆の手紙が来て、風景の好い事、魚の鮮《あきら》けくして廉い事、
客が少なくて静かな事等を列挙し、是非脳を休めに来い、それにはまた是非相談したい事
もあるから是非来いと退引《のっぴき》ならぬ命令が来た。
相談とは何事であろうとしきりに胸騒ぎしたが、否とは云われぬ場合、明治評論の方の
仕事を終わると、着物一二枚、書一二巻、手拭一筋を破革嚢《かばん》に押しこんで、国
府津行きの汽車に乗った。
八の巻
終り
184
==========
九の巻
藤沢停車場に着いたのは、午後の五時過ぎであった。江の島行の汗臭い白衣道者の中に
まぢって、汽車を下りる途端、忽ち眼についたのは、柵外の人待顔の海水帽三つ。驚破《す
わや》と胸は躍る、眼は彼三つの帽に注ぐ。むこうも僕を認めて、六個の眼斉しく笑を帯
びて輝やいた。松村兄妹に鈴江君だ。改札口を出るより早く、松村は僕が革嚢を引奪《ひ
ったく》って、
「君はひどいね。僕等にお百度を踏ましたぞ」
と怨ずる。両女史は大きな麦藁帽を脱いで、にこやかに目礼した。
居るであろうか、居らぬであろうかと疑い、居て呉れれば宜、居て呉れなければ可、と
迷った僕の大敵の彼妖魔は果然待伏せしていた。妖魔、々々、しかしこんな可憐な妖魔が
どこの世にあろうぞ。雪恥かしいあの顔が、少し日にやけ、汐風に焦れ橄欖色になって居
るに、頬のあたりほのかに紅いを含んだ具合、鬢の毛の幾筋かこぼれかかるをかきあげか
きあげ嫣然笑を含んだ可愛い口もと涼しい眼もと、西廼牙《スペイン》あたりの秀れて美
しい人を見るように、白がすりに紅の帯、右手に海水帽をとって、すらりと立った風姿──
僕には天の使よりこの妖魔がよほど厳かに美しく拝まれた。万一会ったらば椎児も蹄き止
む泣面作って、砲丸もはねかえる程堅固の応対して呉れようと、固めて居た決心も、如何
やらぐらぐらと揺るぎ出して、駟馬《しめ》も及ばぬ笑がつい顔に浮び出た。
「待たすにも程があるじやないか」と松村は重ねて怨じた。
「実に失敬した、用が多くてね」
「お敏さん、あなた勝ちなすったのね」と鈴江君が云うを、何事?とふりかえると、松
村が引取って、
「何、あまり欺されるものだから、昨日のあのはがきは見たがね、またおだましだろう
と思って、吾輩は最早今日は行かんと云ったのさ。すると妹はね、今日は吃度君が来ると
云うのだ。来る、来ぬ、いや来ぬ、来る、で吾輩と妹と賭をしたのさ」
「左様か」
口は冷やかに云った積りでも、胸の中では心臓が頼りに三番を踏んでいる。而して命令
をきかぬ笑めがまたぞろ顔へ現われた。
「さあ、辛《やっと》帰り力が出来た」と松村が言を進行曲の音頭にして、僕等男はさ
きに立ち、両女史は僕等が蹴立つる砂ほこりを笑って袂に払いながら後に従い、線路を踏
み切って少し行くと、忽ち鈴江君が、買物を茶店へ預け忘れたことを思い出して、「徐々《そ
ろそろ》行ってらして頂戴な」と敏君とともに引返えしたので、僕等は砂だらけの桑畑、
大豆畑、甘藷畑の間をくねる一條の砂路を話し話し緩歩した。
「東京は暑いだろう」
「うん、随分暑い。こっちはよほど違うだろうね」
185
「左様さ、海は近し、魚はよし、俗客も少なくて宜が、しかし非常に淋しかった。何し
ろ女ばかりだからね」
「左様だったろう。でも中島の手紙には君が時々話に来て呉れるので、賑やかで結構と
書いてあった」
「中島の叔母君は中々面白い人だね、僕も始終行っては話すが、女には。珍らしい捌《さ
ば》けた者だね」
「左様さ。何しろ、君も知っとるだろう、あの野田伯父の妹だからね」
「野田様!野田様は残念な事だったね。吾輩の親父なぞもひどく誉めて居た」
「左様? 実に不遇な人だった」
「あの鈴──江さんはあまり親父に顔は肖《に》て居ないね」
「顔は肖て居ないが、気質はよほど似とるさ。君も見とるだろうが、極く大様な、こせ
こせしない質でね──」
「さっぱりした人だね。着物なぞも聊《すこし》も頓着しない方で、微塵も鄙吝《いや
し》げな所がないて、妹なんぞもそう云って居る──」
妹の一語に僕は耳を傾けて、まだ何か妹の事を云うかと心待に待って居ると、松村はや
はり本題をどこまでも辿って、
「それに中々沈着《おちつ》いた女だね、一寸したことだが、吾輩は実際感服した事が
ある」
と松村は、鈴江君等が宿の主翁《あるじ》が村の若者と喧嘩を仕出して切るの突くのと
云う騒ぎになった時、
恰叔母は留守であったが、鈴江君は逃げ込んだ主翁を一間に隠して、
独り椽側に立出で、今にも闖入して来そうな若者輩を叱り退ぞけた一條を話した。流石に
薩軍の陣中に鼾声を放って熟睡した伯父の娘だけあって、落ついたものだ。話に足捗取っ
て、何時か七八町来て居たので、僕等は桑蔭に夕日を避けてしばらく待って居ると、鈴江
君とお敏君は手に風呂敷包を提げて話し話しやって釆た。僕は無理にその風呂敷包をとっ
て左右に提げ、妙に操《あやつり》人形になったように、手も足も吾有ではない様な心地
しながら、飄々然と歩いた。
夕日弱って蝉の音なお残る村に入って五六丁、路は二筋に岐れて、羽黒山云々と石に彫
った供養塔が立っている。
「少しまわりだが先一寸寄りたまえ、鵠沼一と云う水があるから」
と松村が云うので、僕等は右に折れてまた一二丁、椿、珊瑚などの雑った寒竹垣の絶間
から、唯有る農家の庭に入った。養蚕をすると見え屋根窓を開いた大きな農家だ。庭の一
隅には、農家の風流、小さな花壇に桔梗《ききょう》天鵞絨《びろうど》草鹿子《そうか
のこ》草鳳仙花《そうほうせんか》など咲いている。左手の納屋の側には、三四羽の鶏が
乾麦をほじくり、右手の欅の枝から枝に海浴衣、手拭などが乾してある。椽前に立って、
石川(松村の親類)の細君に挨拶して居ると、お敏君が手早くその所謂鵠沼一の水に、白
糖を和し橙皮油《とうひゆ》を落して持って来た。
ああその水! 今思っても実に慄ひつくほど。但《ただ》僕はその香を聞くと夢の様な
気になって、僕が水を飲んだか、水が僕を呑んだか、その点は今に到るまでいささか分明
を欠くのである。
186
(二)
中島叔母の寓は、松村兄妹の居を東へ距る二丁ばかり、小奇麗な農家であった。家族は
叔母、鈴江君、不二男と云う当年五歳の男児、その保姆なり婢なりのお吉、これだけであ
る。
吾室と与えられた東向の六畳に草臥れた五尺の体横たえて、青蚊帳に通う松風、
波の音、
颯々たる天籟《てんらい》に夜一夜夢を洗はれ、明日は早起して裏へ立出で、藤豆に朝顔
の分く由もなくからんだ棚の下に暁の星を浸した浅井の清水汲みあげて顔を洗い、南瓜畑
甘藷畑の向うに見える片瀬の山々次第にはつきりと朝の空にわかれ行く清清しい景色に見
とれる時、
「菊池君、未だ起きないか」
表面の声に出て見ると、跣足に尻端折りはさみ手拭と云う態で松村が立っている。
「昨夜は失敬、──海に行こう」
「昨日は御苦労、非常に早いぢゃないか」
「水浴は朝に限る、──はだしで来給え、冷々して実に好心地だ」
早出の農夫に道を譲っては浅茅にまぢる昼貌《ひるがお》の花の露したたか蹴散らし、
夢と云うものの色はこんなものでもあろうかと思われる蒼白い靄のまだ枝から枝へ這う松
原を穿っては浴衣も染まる程満身の露を浴びて浜へ出た。清々しい朝景色だ。海ははの白
くしてまだ光なく、つい対面の江の島も睡げに、右手に延いた長汀の松の梢の富士、箱根、
足柄、大山、何れも薄りと夢さめあえぬ風情。
脳天に響く冷さを忍んで、僕等は海に飛び込み、やや暫し泳いだ。忽ちきらきらと朝日
が流れて来た。僕等は二羽の家鴨の如く、黄金の水をかきみだして、またしばし騒いだ。
冷きった皮膚を緊《きびし》く摩擦して、浴衣の砂を振って引被け、五分刈頭をさっと
摩でて八方に金雨を飛ばし、太息《といき》一つして、沖の白帆を眺むる心地はまた格別
である。
手拭を絞って居た松村は突如として、
「吾輩は実に困っとる、最早帰省しなけりゃならんようになってね」
さしも美しい朝景色、富士も江の島も、索然としてしまった。
(僕は今までこの景色の霊
は朝日であると思ったが、豈《あに》図《はか》らんや朝日はお敏君であった)
。
「如何したんだ、一体」
「何、ね、君達が帰った後で、昨夜また国から手紙が来てね。何、何も別に要があると
云うぢゃないが、先月中もたびたび帰省を催促して来たのを、延ばし延ばしして居たもの
だから、大分怒って、この状見次第直ぐ立てさ。何せ帰るから、そう急がんでもよささう
なものだ、そこは親だね」
「いわんや農学士の顔はまた別だからね──しかし僕が来ると直ぐ帰るのはひどい」
「詮方がない、君が散々待たした罰と思いたまえ」
「でも直ぐ帰省はひどい、せめて一週間、宜かね、僕が君の厳君《おとっさん》慈堂《お
っかさん》
に詫状を書いたら可だろう──実際僕を呼び寄せて置てぷいと立つのはひどい」
「左様だね──僕も折角君が来たのに、──妹も非常にここが気に入って居るから──」
「左様し給え、一週間位は宜かろうぢゃないか。──而して君は九月また来るのだね」
187
僕等はそこに引揚げられた舟の簀板《すいた》を裏がえしに敷いて、ややしばし話した。
松村は、その目的なる牧畜事業をやるについて、獣医学を今少し研究して置きたい事、多
分新設の農科大学に研究生としてヤンソン博士の講義を聞いて見たいと思う事、次男では
あるし、父母はまだ比較的にわかし、別に成功をあせる必要もないからぼつぼつ思う丈の
事をやって見ようと心がけて居る事を話し、僕は僕の志望の一斑を語った。
「君が理想派なら、僕が実際派と云う所だね。しかし僕の実際は怪しいものさ。加之《そ
れに》趣味とか想像とか云うものは一切有たないからね──妹はまた僕と違ってよはどそ
の方には長所があるが」
と嘆息した。真率は松村の人物に於て最も僕が愛する所である。殊にその妹々と妹を誉
める所がまた一層僕の気に入った。
不図気づけば、日が大分高くなって居たので、僕等はやおら立上った。鵠沼館の横手の
松原をぬけると、お敏君が鈴江君と僕等を尋ね来るのにはたと行き逢った。
お敏君は、今日は藤色がかった縮み浴衣に白襦袢を重ねて、帯は日用《ふだん》の紅、 素
足に麻裏はいて、まだ露がこぼれそうな浜撫子花《はまなでしこ》を持っている。昨夜髪
を洗ったのか、阿弥陀にかぶった海水帽の下から幾筋ともなく黒髪の眉にこぼれかかった
風情、実に可憐だ。僕を見ると、そっと小褄《こづま》を下ろして、嫣然帽をとった。束
にあまる垂髪を白いリボンで結へた風姿、憎いはど好い。
「昨日は有り難う」と云ったのは僕の精一ばい。そう早く帰られてたまるものか、と僕
は心に泣き出したくなった。
打連れて、松影を踏み、露を踏み、朝日を踏んで、岐路《わかれみち》が来た。
「それぢゃ、あの事は是非そうしたまえ」
「左様さ、妹とも相談して見よう──失敬」
松村兄妹は左へ曲った。
「何?」と鈴江君が後から問うた。
「松村兄妹が急に帰るのですと」
「そう?」と鈴江君は少し気ぬけした調子。「如何したんでしょう?
貴君も来なすったばかりだのにねエ」
僕は松村が家から手紙の一件を話し、
「だから僕は松村に是非四五日と云ったんです、
鈴江君もお敏君を説いてごらんなさい」
「そうしましょう。お敏君は吃度延期説だわ」
「何故?」
と問うた僕の耳は「でも貴君が来なすったから」と云う返事を予期して、手廻の好い心
臓が已に動悸をうち出して居たが、鈴江君は他の無意味な返事をしてしまった。
帰ってその事を叔母君に話すと、
「そりゃそうだろうな、子の顔は見たいものです」と云
って少し考えて居たが、朝餐が済むと、鈴江君を全権大使に四五日延期の談判を命じ、不
二男は保姆に連れさして遊びに出し、人払いして然る後僕を一間に呼んだ。
(三)
ややあらたまった叔母の前に坐わると、吉凶の運命をこめた秘密箱の蓋に手かけるその
188
刹那の一種の悩が僕をとらえた。
「他でもない、鈴江の事ですがね」
「はあ」と僕は唾をのんで叔母の真面目な顔を見た。兄妹と云って争われぬもの、数年
前鈴江君問題で伯父が怒ったあの時の面影が叔母の顔に残って、僕は、白状するが、少し
恐かった。
「彼女も最早段々年はとるし、姉からも始終その事を云って来る様な仔細で、わたしも
色々考えて見たが」
何事を云い出すか、と堅くなって熟と聴いて居ると、急流一転、叔母はあの松村清磨を
養子に貰うことは出来まいか、次男とは聞いたし、人物も極く手堅いと見たし、国の姉は
無論大喜と思うが、あなたは如何思うか、異存なければあなたから松村君の心を聞いては
呉れまいか、と平生の鋭気にはかはって如何にもしんみりと頼まれた。
思いがけない話に、僕は一たびは驚き、再びは喜悦の眉を開いた。
同意の、異存のと云う段か、無論大々的賛成である。異存など唱える奴があるなら、叔
母を総大将に押立て、僕が先鋒となって、卵を砕くが如く挫《ひし》いでやる。
実に鈴江君の事は伯母叔母の気にかかったように、僕の気にもかかっていた。あれ程恩
になった伯父の一人娘、殊に兄弟のように育って今も互に兄弟の思ある鈴江君、その身の
振り方が気にかからずに居られるものではない。無論僕等の間には、兄弟の関係より到底
一歩を進む能わざる自覚があった。子供の時から一所に育ち、互に気心を知りあって、余
所からは似つかはしい夫婦の候補者のように目ざされても、どうしてもその関係は兄弟の
親味に止って、愛情を生まぬことは間々あるものだ。王陽明(と云っても楽屋落になるか
ら、割註を加える。これは大様姪の隠語で、母の洒落である。僕の母は時々こんな口の悪
いことを云った)と僕の間まさに斯くの如くであった。王陽──否その鈴江君は僕を兄視
し時としては弟現して何事も打明け、僕はまた鈴江君を且つ笑い且つ好いていた。しかし
僕等の間は何時まで立っても唯その切り、加之僕は菊地家の一本柱、鈴江君はまた野田家
の女主人、到底結婚などは問題外であって、この等は当人の僕等は勿論、僕の母も、鈴江
君の母も、中島叔母も、いやしくも《草冠に句》事情を知る程の者にそれと知らぬ者は無
かったのである。僕等の結婚は問題外である、しかし鈴江君の結婚は決して僕の思案の外
では無かった。亡き伯父に対しても、伯母に対しても、別して妹とも思う当人《尤も当人
は時々姉ぶって困ったが──鈴江君は僕より四ケ月早生れだ)に対しても、先年野田家の
養子となるを拒絶した僕は、一度は野田家の養子を周旋せねば済まぬ感がある。而してそ
の養子が、親友の松村とは。──成程今朝右の耳がしきりに痒かったのも道理、僕は発案
者中島君万歳と心に叫んだ。
殊に昨日の松村が容子口ぶり、それと思って見れば、決して鈴江君を憎くく思って居な
い事が分かる。大分気に入って居る様子は、僕の眩んだ眼にも見えた。すれば斯事は多分
成就するであろう。成就すれば、実に野田家万歳、殊に松村が牧畜事業なぞ野田家には持
て来いである、故伯父が生て居たら娘はさし措いて吾婿にしたかも知れぬ。鈴江君は良人
を得、松村は好妻を得、伯母叔母は安心し、あの遠い山下村の樫木の下に眠る伯父も地下
に満足するであろうし、僕と母とはまた伯父夫婦に報恩の一端にもなる。加之松村に鈴江
君を妻わして置けば、──いや、云うまいぞ、言うまいぞ。
189
僕は無論大賛成の旨を答え、且その事の多分成就するであろう事を予言し、早速松村の
心も聞いて見て、返事次第国の母にも云ってやろうし、要するに今回の事は僕等母子が肩
を入れて是非成就させると誓ったので、
中島叔母は顔を崩して悦んだ。
恰話が終った所に、
鈴江君が帰って来て、首尾よく使命を全うし、五日間滞留の確答を受取った事を報じた。
僕は叔母と顔見合して、幸先よしと含笑んだ。それから鈴江君は、僕に松村の伝言をった
えた。午餐馳走の案内だ。
「鈴さん、わたしは除物になるのかい」と叔母が笑った。
「はあ、何せあとであらためて御馳走があるのだそうですけれど、今日はわたしと慎太
郎さんだけよ。今松村さんが地曳の魚を買いに行って、お敏さんが芋の皮剥いたりして、
大願ぎですわ。叔母君、わたしも手伝に行って宜でしょう」
「宜ですとも、でも慎さん、鈴さんの料理を食べるなら、宝丹を持ってお出なさい」
「あら叔母君、ひどい、わたしだって魚の煮付位は出来ますわ」
「煮付じやない、黒焼でしょう」と僕が口を挿む。
「お二人で沢山冷やかして頂戴。本当に黒焼きを拵えて上げるからそう思っていらつし
ゃい」
鈴江君は笑ってすぐ引かえして出て行った。
(四)
二度日の御使者に来た松村と打ち伴れて、彼の宅へ行って見れば、八畳の座敷は清く掃
はれて、真中に食事と継ぎたしの低几を据え、大きなコップに桔梗撫子をつかみ挿しにし
たのが、卓布《てえぶるくろす》の雪に色添えて、先づ眼ざむるばかり。これは無論吾敏
君の手に成った風流であろう。
客は僕に鈴江君、
主は石川の細君に松村兄妹、婢はとって三歳の女児を抱いて出たので、
お敏君と石川の細君が時々箸を置いては盆をさし出す始末。献立は、小鯛の吸物、鰹の刺
身、缶詰の鮭、胡瓜もみ、
「デザアト」が新薩摩芋のふかしたのに、冷水に浸した梨。鈴江
君がおどしした肴の黒焼は幸いにして無かったが、唯困ったのは、何の品と何の品がお敏
君の彼可愛らしい手を煩わしたのか、せめて札でもつけて置いて貰いたいのであったが、
まさか聞きもされず、僕は是非なく揮ての物を味い、すべての物を誉めた。
(尤も薩摩芋だ
けは、確かに鈴江君の手際と見えて、大に心があった。しかし北海道はっと出の松村は珍
らしがって、しきりと平げて居た)
。
「実に久振だね、君と一処に飯を食うのは」と松村は愉快に堪えぬ容子。僕も、馳走は
よし、給仕はよし、あの松源で茶ばかり呑んだ当時に引易えて、今日は全身胃であるかの
如く食った。食わざるを得んや、お敏君が彼愛橋で頻《しきり》に強るのだもの。
一座いよいよ賑やかに、食にも話にも口は頻に動いた。流石東京っ子の石川の細君は、
如才なく色々面白可笑しいことを云っては、僕等を笑わした。その話の一二を紹介して見
よう。或田舎者が東京の鰻屋に上って、牛肉を持って来いと注文した、女中が、
「牛肉はお
あいにくさま」と云うと、
「応、そのおあい肉を持って来い」と云ったそうな。また一つ。
これは東京の客が田舎に行って、
恰夏初の事で、食後宿の婢に枇杷を持って来いと云った、
やや久しくたって、亭主罷り出で、
「エエ、先刻びわと仰有いましたが、如何も手前ともに
190
琵琶はございませんで、エエ、何なら月琴では如何さまで」。落語家跣足と云う石川の細君
の話に、僕等はどつと《口偏+とも、然》と笑った。而してこの笑声は、さながら綿火薬
の爆発したように、遠慮の関門を吹き飛ばしてしまったのである。
食物の話が出る一座は親しいものだ。話は大食の事に移って、古いところでは廉頗《れ
んぱ:中国の将軍》の斗米肉十斤、新しい所ではビスマアクの一餐に鶏卵五十のオムレツ、
さまざま引合に出たが、僕は健全なる身体は健全なる精神に伴うと云うことは例外がある
もの、例せば文学の如きも飢腸奇作を出すなんぞ云って、そこへ来ると「慷慨悲憤は胃病
より起る」のみならず、古今文学の精華も往々胃病より起ることがある、カーライルの文
や杜甫の詩は或点までは胃病の産物と云って宜い、これに反して吃度消化の好い胃をもっ
て居たと思われるマコーレーや白楽天は名家は名家でもカーライル杜甫に及ばぬのはその
証拠で、文学を進歩せしむるの道は文学者が大食して胃を悪くするにありと云う様な咄々
怪事の結論まで漕ぎつけた。
(お敏君の前では何時も渋柿の一片を含んだようにこだわる舌
が、どうして今日はこう動くかと吾れながら怪んだ。鮭に酔ったのかも知れぬ。
)
すると松村は忽ち得意の肉食論をかつぎ出した。欧米の実例に照しても、大国民は即ち
肉食国民である。君が云うように支那文学が剛健雄大の男性文学であるならば、それは肉
食の結果である。お粥にせいぜい鮎の塩焼位で生きて居た平安宮廷時代の日本文学を見た
まえ、総じて一国の元気は一個人の元気、個人の元気は個人の体力、個人の体力は即ち肉
食で、畢竟富国と云うも強兵と云うも文明と云うも肉食の化けたもの、今日の急務は国会
よりも、政党内閣よりも、宗教よりも、教育よりも、先づ牧畜であって、愛国者は即ち牧
畜家、牧畜家即ち救世主と云う様なおびただしい我田引水説を唱え、
「今に見給え、吾輩が
濠洲米国の産にも劣らぬ牛羊豚山羊をどしどしこさえて、北は千島の占守《しむしゅ》か
ら南は沖縄八重山まで、戸毎に毎日二斤三斤の肉は豆腐を食うように食わすから」
と大気焔を吐いた。鈴江君は頻に感心した容子であった。
「しかし君、そう肉食万能を唱えられては困るさ。
『蘇格蘭《すこっとらんど》人は麦粥
《おーとみーる》で文学を養う』と云う諺もあって、現にトルストイ初め菜食論者も欧米
に多いぢゃないか」
「いけないいけない、それは肉食にあきた結果さ、酔醒《よいざめ》の水と一般だ。そ
れを魚と野菜ばかり食って居る日本人が唱道するのはひどい──妹なんぞも矢張菜食党で
困る」
お敏君を見れば、可愛らしい手附で梨子をむきながら、少し顔を赧して、含笑んでいる。
「僕も莱食党の一人だ」と僕は云った。
「あら、いけません、貴君は昨夜も叔母が一番お好きはと云ったら、牛肉って云いなす
ったではありませんか。わたくしそうに説をかえること嫌い」
と鈴江君が先刻の返報に素破ぬいたので僕は苦笑い、お敏君は嬉笑い、石川の細君と松
村は高笑い、而して椽先にしげしげこっちを眺めて居た鶏までけたたましく鳴き出した。
午餐は愉快に済んで、女連は台所に、松村は
「僕の昼寝台に来て見たまえ」
と僕を引張って裏へ出た。
191
(五)
屋外は十二時過ぎの日盛り、吾影すら吾足もとに逃げ込む暑さ、満地の砂は日を照りか
えし赭くはてり、甘藷畑大豆畑も砂はこりを浴び、どこを見てもきらきらしい光が眼を射
て、未だ百歩に到らずして汗は満身に流れた。
しかしながら砂畑を行き尽して、畑の端に聳立《そばだ》った砂山を上り、翠影婆娑《す
いえい》たる松林に入ると、流石に冷たい風が吹いている。僕等はその松林を縫って、最
も影深い辺に行った。ここは松山の半腹、紫幹翠葉の間から富士足柄箱根大山高麗山がち
らちら顔を出し、白帆を浮ベた相模灘の漫々たる青海原も松の間々に透いて見える。浜に
海水浴客の帽は見えて、騒がしい声は聞えず、颯々たる海風松を梳《くしけづ》って、翠
香動き、紫影戦《そよ》ぎ、若しここに結んだら夢も亦香しかろうと思われた。蝉の音す
らここには涼しく聞える。
松村は携えて来た吊網床《はんもつく》を丈夫そんな松の幹から幹へ緊と縛って、
「さあ、かけ給え。僕は午後毎もここへ来て一睡するのだ。時々蟹に足をはさまれて眼
をさますこともある。──何、今日はいささかも睡くない、存分話そうぢゃないか」
僕等は低く吊った網床に腰かけて、足の爪尖で松影だらけの砂に文字を書きながら、
「存
分話し」た。書窓の生活でも、別れて八年と云えば、随分話は多いものだ。西山塾の昔話、
東京から札幌へかけての松村が生活、僕が一浮一沈の実歴談、駒井先生兼頭君に松村を逢
わせぬ遺憾、
さまざまの話に松影の頻に移るも知らなかったが、話は松村が家事に入って、
「君は無論別家を興すのだね」と僕は問うた。
「左様、
僕はそんな事は未だよく考えて居ない方だが──君も知っとる通り、僕はその、
家名門地なんか云う事にはあまり頓着しない方でね、自分のやりたい事業さえやると、余
事は先《まあ》如何でも宜と云った様な訳で、僕の義兄と云う男が非常に律義な男で、両
親の方は気遣なしだから、十分勉強して見る積りで居る」
「野田家を嗣いで呉れる気はないか」僕は突如として問うた。
「何?」松村は愕然として未だ十分僕の問を解せぬ容子。
「野田姓を名乗って呉れないか」
「何を冗談云うのだ」
「否、冗談ぢゃない、君、本当に鈴江君を娶って、野田伯父の名跡を立てて呉れないか」
松村は熟と僕の顔を見て、やや暫し考えて居たが、
「どうして突然そんな事を云い出したのだ?」
「云い出すのは突然だが、熟議の結果さ、決して冗談ぢゃない」
松村はまたしばらく考えていた。
「でも僕には到底野田家の名跡はつがれない。不相応だ」
「何、不相応はこっちから云う事だ。打明けた所が、君も知っとるが、野田家も不幸に
遭ってね、今は母子の体二つ、財産があるでは無し、真の名ばかりだ。実に君には気の毒
さ。しかしそこを折入っての頼だ。見込まれたと思って、考えて呉れたまえ」
松村は三たび考えた。
「でも吾輩は未だこれから勉強と云う体だから」
「何、今直ぐ家持になって呉れと云うんぢゃないがね。唯その積で居て呉れれば宜いの
だ。それとも鈴江君が君の気にいらなけれや詮方がないがね」
192
松村は赧くなった。
「余り突然で吾輩には考えることも出来ん」
「左様さ、余り突然云い出して、余り性急に返事を促す様だが、四五日中に君も帰省す
るだろう、その前に是非君の意向を聞いて置きたいのだ。僕だって君と斯様親しくするか
らには、僕の姉と云った様な鈴江君と君の結婚を望むのは無理ぢゃあるまいぢゃないか
──あ、待ちたまえ、誰か来る様だ」
松の間に衣の影がちらちらしたが、やがて石川の婢が来て、茶が入ったと報知した。
婢が帰って、僕等もやがて帰った。家に入る前に、松村は斯う云った、
「何しろ余り突然で、吾輩には何と云って宜か、知らんが、まあ一両日考えさして呉れ
給え、妹にも相談して見よう──無論何も国の両親の指図次第だが──」
家に入ると、お敏君は鈴江君と東の椽に腰かけて、麦藁で何か小さな籠様のものを編ん
でいる。ぽちゃぽちゃした色黒の不二男坊と、色白の露ちゃんと二人の肩におっかかるよ
うにして見ている。僕の贔屓目はこんな際にも忽ち二人の性質性格《ひとがら》の相違を
認めた。お敏君のは目がつまって緊《きちん》と出来て居るが、鈴江君のは形も目も大き
く、先刻の話の枇杷でも漏りそうだ。しかし松村はそう思わなかったであろう、とにかく
鈴江君があのゆったりした顔をあげて莞爾目礼すると、松村はそこに乾した梅干のように
紅くなって、茶を飲み、片瀬饅頭をつまむ間も、先刻の雄弁に似げなく、手足に鯨でも入
れたように、糊でもしたように、堅くなっていた。
(六)
夜明方から降り出した雨、午頃になってもなお止まず、松村が許からは先刻明治評論を
婢が借りに来たばかり、
多分勘考中の彼を妨ぐるも如何と已に出かけた足を控えて見たが、
退屈でたまらぬ。午餐が済むと、叔母は横になって鼾をかき、午前は昔話をねだって僕を
弱らせ「お家帰ろう」を云いつづけて皆を困らした不二男君も叔母のからびた乳房を握っ
て鬼が島の征伐に行ったので、淋しくてたまらぬ。詮方なさに携えて来た美学の書など引
出して見たが、一向興味がない。ショッペンハウエルが何と云おうが、ハアトマン(哲学
者のハルトマン:Eduard von Hartmann)が何と論じようが、美しいものは可愛ゆく、可愛
いいものは見たく、要するに百巻の美論も一個の美そのものに及ばない。この回は革嚢の
底に押込んで来た一二雑誌の夏期附録小説を読みはじめたが、それもまどろかしくて厭に
なったので、抛り出して、欠伸しながら糸の様な茅屋の雨を眺めた。隣りの室では、これ
も先刻松村許行こうとして今日は止せと叔母にさしとめられた鈴江君が、
『風雅でもなく洒
落でなくしょうことなしの』手すさびに手風琴《てふうきん:アコーディオン》をいぢめ
ている。その何十回となく繰りかえされるすこぶる怪しい「おもい出れば」の睡そうな節
は、物置きの方で宿の老爺が藁をうつ単調な響に和して、それを聞いただけで人の気がめ
いりそうな。僕は忍びかねてまた欠伸した。
退屈でたまらぬ。何故だろう。いや思い出した、今日は見たいものをまだ一度も見ない
からだ。と思うと、不図先月最早二度とその人の事を思うまいと決した事を思い出して、
面目ないと云う様な感が少し浮みかけた。僕はかけたと云う、何となれば更に強大な或勢
力が忽ちその感を圧倒し去ったからである。否、僕にどうしてもお敏君を愛さずには居れ
ぬ。僕は承知しても、僕の心胸《むね》が承知しない。官を得て黒塗馬車に乗らずとも、
193
妻を娶らばどうしてもお敏君を獲なければならぬ。また欠伸する途端に、手風琴の拷問が
止んで、欠伸とともに鈴江君が入って来た。
「如何したんでしょう、今日はお敏さんも誰も来ないのね」
「怒っとるのです」
「何故? 誰が?」と鈴江君は少し眼を瞠る。
「わたしが松村と喧嘩したんです、それで先方も来ない、こっちも行かないのです」
「嘘」
僕も少しぢらしくたびれて、黙った。
両掌に団扇を捻って居た鈴江君は、ややあって突然に、
「お敏さんは可愛い嬢になりましたねエ」
僕の胸は忽ち三ツばんをうち出した。近火だ。
「学校でも大変によく出来るのですって、絵なんか巧いんですよ、怜悧《りこう》な娘」
「そうですか、喃」
「貴君、そう思いなさらなくって?」
「貴嬢、そう思いなすって?」
「そうにはぐらかしちやいやですよ。本当に貴君はお敏さんを如何思いなすって?」
「そうですな──多分松村の妹で、女学生ですかな」
「最早嫌」と云って、ややあって「わたくし彼娘大好き」
「それなら細君にお貰いなさい」
「わたしが男なら本当に貰ってよ」
と鈴江君は笑った。叔母が寝がへりする。
「静かになさい、不二男さんが醒めるです」
鈴江君は急に声を落して、
(大きな声で話すかと思うと忽ち小声にかはる処は、故伯父そ
のままであった)
「兄妹でも違うのね、松村氏とお敏さんはよはど気質が違うわ」
僕は不図思いついて、話を転じた。
「鈴江さん、貴嬢、来年の四月卒業でしたね」
「はあ、そうよ」
「卒業後は如何するのです、洋行?」
「そうね──」
「而していつか云いなすったように生涯独身で、女子大学を興すのですな、?」
鈴江君は默っている。
「しかし鈴江さん、独身の女性はどうしても不具ですよ。聖書の文句ぢゃないが、男女
一人居るは宜からずです。それは大きな事業は独身と定まった様なものだが、そんな人は
万人の中一人あれば大したものです。それよりも良妻賢母の必要は一般に渉っての事です
よ。どうしても大国民の建物は好家庭の煉瓦を積まなければならぬ。家を粗略にするのは
女の恥辱です。僕は子供に破れ衣を着せたり良人に焦飯を食わしたりする社会的事業(婦
人のですよ)には賛成が出来ない」
「それならわたくしは如何したら宜いのでしょう?」と鈴江君は顔をあげた。
194
「無論適当の紳士を助けて、内家政を理し、子女を育養し、而して余あらば一臂を外に
振うのです」
「でも家政なんか面倒くさいわ」
「そんな乱暴な事があるものですか。それが女の職分です。それともたって厭なら、良
人と二人で下宿住をするのです」
「でも下宿はひどいわ」
「それぢゃ嫌でも家を持っのです。何、少し持ってごらんなさい、面倒と思った事に趣
味が出来て、どんなに楽しいか知れない」
「老爺の様なことを云ってらっしゃる」と鈴江君は笑った。
「宜ですか」と僕は一歩を進めた「仮に、仮りにですよ、松村なら松村──」
鈴江君の頬に薄《うつす》り紅がさした。
「松村でも誰でも宜が、教育ありですね、品行方正で、前途有望の紳士が、宜ですか、
鈴江君と一処に家庭を造りたいと云ったら、如何ですか。それでもわたしは家政なんか面
倒くさいからお断りします、どこか他をきいてごらんなさいて云いますか」
鈴江君は更に一段顔を赧くして、而して笑った。
「そんな紳士を万々一拒絶するなんてそんな事があったら女冥利がつきます。そんな時
は否応なしに──」
「そんな圧制な媒《なこうど》はないわ」と鈴江君は笑った。
「そりゃ少しは圧制かも知れんが、しかし若い内はよくまだまださきに好縁が幾箇も金
の車を挽いて待って居るように思って、折角の好縁を見のがす者です。まだまだでのばし
のばしして、年をとった揚句が、それ、発句にありますね、
『秋くちの水瓜《すいか》ごろ
りと投げて売り』
、すて売りとは情ないぢゃないですか。それを思うと僕は女は何十何歳ま
でに是非結婚す可しと云う法律を設けたくなるのです。出来ることならそんな人達に一々
会って云って聞かしてやりたい位──」
「老婆《おばあさん》の様な事を云ってらっしゃる」と鈴江君が莞爾した。
「冗談ぢゃない、本当の事です」
「でもそれぢゃ女に撰択の権がないようになるわ」
「若い男女の撰択があてになるものですか。
(尤も僕の撰択丈はあてになると独り心にこ
とわった。
)今の若い者に夫妻の撰択さすのは、色盲に幽禅の買物頼むよりなおひどい
「でも自身の良人を自身に撰まれないと云うのはひどいわ」
「だからさ、教育の必要はそこでしょう。僕の教育と云うのは学校ばかりぢゃない、社
交的教育を云うのです。珍らしいから眼迷うのです。ね、男珍らしかったり、女珍らしか
ったりするから、直ぐ迷うのです。だから成丈男女離隔しないようにして、宜ですか、せ
めて中学位までなと合同教育《コーエジユケーション》を行って、それから先づ一家親類
知己朋友の間からなど男女の交際を頻繁にし(そうすれば家政の整理に暇がないと切り込
まれた時は、そこで衣食住改良の必要があると応える筈だったが、鈴江君は幸に僕の撞着
を認めなかった)たいものです。そうでしょう?」
「それはわたしも同意よ。だからあなたもせい出してお敏君と交際をなさい」と鈴江君
が笑った。
195
僕はぐっとつまった。鈴江君にこんなきわどい手があろうとは、実に意外。
忽然日が暮れたように室内闇くなって、思いがけない雷が鳴り出し、雨がざあと降り出
したので、戦は先づ交綏《こうすい:休戦》となった。
( 七 )
今暁来の雨は知らぬ顔に、突然降り出した暴雨、雷鳴電光の加勢引連れて、崩れよ潰れ
よと茅屋を襲ったが、四時の時計が鳴るを宛ながらの相図に、すうと明るくなって、縄大
の白雨何時か疎らな糸雨となった。
止むを待ち兼ねて、僕は跣足で飛び出した。晴れ際の小雨ひやりひやり顔を撲って、足
下には雨水が砂路を且流れ且吸われている。青い雫の降りそうな竹教の彼方で鶏が鳴いて
いる。
不図気づけば、松村が宅近く来て居たので、僕は一寸考えたが、また気をかえて、遠ま
わりして浜へ出た。
雨は止んだ。
南の方、
大島の空にはまだ洋墨色の雲がむらむら遠雷の響を包んで居るが、
富士の方角は薄くなった綿雲の間からはうつと明光《あかり》がさして、海はとろりと白
く澱んでいる。富士は見えない。しかしむらむら巻き上る雲の下から、大磯国府津小田原
真鶴あたりの山が濃い藍で抹したように露はれている。つい対面の江の島はたつぷり水を
含で、今にも流れそうだ。水際に、裸体の漁師がしきりに小舟のあかを汲み出して居ると、
こっちに引きあげた舟のみよしの茶笄《ちゃせん》から雫がぽたりぽたり落ちては小さな
穴を砂にはっている。雨後の冷々した風が顔に当る。
波打際をぶらぶら歩いて、あの大船のみよしを廻ると、これは意外、お敏君が露ちゃん
を負って立っていた。
「や、お一人?」
胸はまた例の驀地《まつしぐら》にうち出す。
(僕の心臓の発動機はお敏君であると見え
る)
。お敏君は薄紅に含笑んだ。
「兄様は?」
「少し休んで──」
「如何かなすったんですか」 「否、何も別に──昨夜をそくまで何して居ましたから」
と少し顔を赧くした。
言葉が一寸途切れる。露ちゃんが背でぴんぴん飛び立った。
「重たいでしょう──さあ、露ちゃん、僕が抱《だつこ》しよう」と手を出すと、露ちゃ
ん (白いボンネットを冠って、桃色のちゃんちゃんを着て居た)は「否《や》よ否よ否
よ」と笑って、敏君の肩に顔を隠した。敏君は「如何したの」と嫣然《につこり》顧みる。
僕は唯莞爾見惚れて居たが、不図心づけば未だ昨日の礼を云わなかった。
「昨日は御馳走でした」と頭を掻いた。
「如何致しまして」と云ったようにお敏君は御辞儀をした。
日のあたり少し雲切れがすると、忽ち白金色の光がさつと斜に落ちて、海も江の島もき
らきらとさながらに笑を溢す。
「好い景色ですな」
196
「本当に好景色で──」とお敏君は眩しそうに眺める。冷々した風が鬢の毛を吹いて、
その美しい額から頬のあたりをひらひら撫でている。
「兄様からお聞きでしょう」と僕は思切って尋ねる。敏君は「はい」と云ったように見
えた。
「兄様怒っては居ませんか」
「否《いいえ》
」と敏君は含笑む。
「貴嬢の御意見は如何です」云い終って、吾ながら大胆に驚いた。
「わたくし別に──」と敏君は口籠った、嬉しげに。
「如何でしょう、兄様は承──」
「母ちゃん母ちゃん」露ちゃんが突然反ったので、驚いて顧ると、海水帽を冠った石川
の細君が両手をさし出しながら莞爾莞爾やって来た。
僕は敏君の親戚として、気さくな婦人として、石川の細君を好んで居たが、この時ばか
りは世に石川の細君なる者の在る可き理由を発見し得なかったのである。
*
*
*
*
*
その翌日朝から松村兄妹、僕、鈴江君、石川の細君、打連れて江の島に行った、帰途コ
キン別荘の横手を通る時、松村は遥かに後れた鈴江君等を見かえり、然る後声を低めて、
「両親さえ同意するなら、吾輩──は別に異存はない」
と赤くなって意外に早い承諾を与えた。
(八)
意外に早く松村が返答を得たので、帰るを遅しと僕は中島叔母に告げ、叔母は早速鈴江
君を呼んで旨を論した。昨日の僕が話の意味をさてはと今日悟った鈴江君、おいそれと承
諾するも権式がないと思ったか、色々故障を持出すのを、叔母は「そんな分からぬ事を云
う者ではありません、わたし達に任せなさい」と頭から叱り飛ばして鈴江君の口を塞いで
しまった。それと云うも畢竟鈴江君の心底がよく見えて居たからで。
とにかく善は急げで、叔母は直ぐ鈴江君の母なる人に、僕はまた僕の母に宛てて手紙を
認め、夕飯が済むと僕は自ら二通の書を携えて、藤沢停車場の郵便函に投入した。
停車場を出ると、日は暮れた。野路の夕暮、露は未だ置かないが、冷々した微風面を撫
でて、道側の草叢や大豆畑や桑畑にしきりに虫が鳴いている。最早月の出に間はないので
あろう、片瀬の山の上がぼうっと黄ばんで来た。今日は陰暦の七月十五在、盆踊(この辺
は重に陽暦より一月おくれに年中行事をするが、
稀には真の陰暦を用いることもあるので)
の催でもあるのか、行く方の村には頻に笛太鼓の音が聞える。
嬉しいとも、哀しいともつかぬ一種の感がずうと身を包んで来た。嬉しいのは無論鈴江
君の為め松村の為めであろうが、何の為めに哀しいか、自から解せない。何か心に不足が
ある、不満がある、欠陥がある、僕の心は悶えている。吉野紙を隔てて櫻花を見るように、
歯痒《はが》ゆくて堪らぬ感がある。僕は愛して居る──それは事実だ。しかしその愛は
酬われて居るであろうか──僕はあのなつかしい人の一言一動をずらりと心に列ベて見た。
己惚か知らぬが、確かに嫌われては居ない様だ。しかし様だでは決して満足が出来ない。
197
最早明後日は兄妹も帰省するのだ。今別れるとまたゆっくり会う機会はない──永久にな
いかも知れぬ。
左様すると今迄の嬉しいも何も皆夢になるのだ。ああ何とかしたいものだ。
しかしどうして宜か僕には分からない。打明けてあの人の心底を聞いて見ようか、不可《い
けない》
、不可、僕は羞しくて到底左様な事は出来ない。人に頼もうか。なお羞しくていけ
ない。こんな時にこの僕が今一人他にあると宜が、と愚痴をこぼしたが、こぼしても湛え
ても愚痴は矢張愚痴で、何の役にも立たぬ。僕は腹を立ててステッキふりあげ、虫の音を
はっしとうった。
ステッキがきらりと光る。ふりかえって見ると、橘黄《おれんじ》色のぶら提灯を吊っ
た様なまん丸なお月さまが出ている。
僕が移す一歩々々に、そのお月さまは次第に高く、次第に澄んで、銀光が豆の葉や草葉
や桑の葉にきらきら流れると、その光を吸ったかして虫の音がいよいよ繁くなって来た。
昨日の雨で悉皆《すつかり》洗いあげた空は月光を帯びて、たらたらと今にも露が滴りそ
うな。
僕はセルリー の「Art thou Pale ──」と云う月に寄する短歌を訳して見たが、それ
も面白くないので、ステッキをふるって後半節を打きった。つまらぬ、つまらぬ、詩人が
歌おうが、月が照ろうが、吾敏君は明後日の朝は行ってしまうのだ──限りなくかも知れ
ぬ。空は勝手に澄むが宜い──僕の心はどうしても晴れない。月ばかり円満に澄んだって
如何するのだ──敏君を除却した僕はどうしても半円に過ぎない。
僕は革をうちたたきうちたたき野路を行き尽して、うど闇い鵠沼の村に入った。
帰って見れば、叔母を始め誰も居ない。盆踊の留守にちゃんちゃん一つ着て椽瑞に水沢
山の南京酒を手酌に飲って居る老爺に聞くと、皆石川──即ち松村の方へ行ったと云う。
僕も後追って松村が許へ行った。
月は大分高くなって居るが、村中は木立に遮られて、わづかに蛍程の光が砂地に落ちて
いる。例の寒竹短の絶間からぬつと入れば、閉た障子にランプの光がさして、静閑として
いる。
「松村君──留守かね」
人の起き上る気はいがして、小さな咳が聞えた。
と思うと束髪の大きな(しかし可愛い)影が障子に浮いて、忽ちお敏君の姿が障子の外
にあらわれた。光を負ってよくは見えぬが、どこやら悩まし気に──或は泣いて居たので
はないか、と思った。胸は頻に騒ぐ。
「松村君は?」
「皆様と御一緒に」
「散歩ですな。──貴嬢は」
「わたくし、あのいささか──頭痛が致しまして」と敏君は鬢を撫でた。
「やすんでいらつしたのですね。よはどおわるいのですか」
「否、別に──最早清々致したようでうでございますの──何卒おかけ遊ばして」と敏
君は一寸はたいて藺《い》の座蒲団をすすめた。
「暑気中りなすったんですね」云って、僕はまだ立っていた。
「何卒おかけ遊ばして」
198
「は、有り難う。何方へ、浜の方へですか、兄様達は?」
「浜で──ございましょう。最早帰りましょう、何卒おかけ遊ばして」
僕は到頭腰かけた。敏君が囲扇をすすめる。
「しかしあなた起きていらつしてはわるいんぢゃありませんか」
「否、最早いささかしも──何卒御話遊ばして──宿の者もあの、踊とかに参って、わ
たくし淋しくて仕様がありませんのですから」とにつこり含笑む。
僕は消え入りそうな心地になった。
「あの、藤沢にいらつしたのでございますか」と敏君が沈黙を破る。
「は、郵便を出しに──彼事を早速国許へ申してやったのです」
「色々お世話になりまして──」と敏君は可愛らしい頭を下げた。
「否、お礼はこっちから申すのです、松村君が早速承諾して下すったので、叔母や一同
非常に喜んで居るです。しかし父上や母御の御意見は如何でしょうな」
「父や母も喜びましょうと存じますが──」
「そのお話が出たら、何卒貴嬢からも──貴嬢の仰有ることになら父上や母上も直ぐ御
聴になるそうで、否、松村君がそう云って居られたです」
敏君は少し頭をかしげて、含笑んだ。
螢がとまって居るように、寒竹垣の間からちらちら覗いて居た月は、垣を過ぎて、そこ
に茂って居る欅の間からひよつくり顔を出した。同時に木の葉がさわさわと鳴って、月の
息かとばかり涼しい風が面を撫でる──と思うと、敏君の背後のランプが吻と消えた。
月の光が水の如く流れ込む。
(九)
「まッ」
敏君は微音に叫んで、手早くマッチを擦り、二三度つけたが、今は水の流れる如く吹き
出した風に忽ち吹き消されるので、敏君はランプを次ぎの間に移し、隔ての障子を一枚引
きたてた。
燈火が退いたので、月は得たりと僕等が──僕は椽に腰かけ、敏君は四五尺離れて少し
身を側《そば》め団扇をいぢって──話す八畳にさし込み、隅々隈々の深黒い蔭の中に劃
然水際だった光を投げ、寒竹や欅の影はまた庭から椽、椽から座敷と上って、僕等の浴衣
も月光と樹影とさながら染め分けたようになる。
葉越の月の移る毎に霜と置いた畳の光は伸縮み、
風わたる毎に墨絵の影は椽にそよいで、
古歌の所謂「影定まらぬ夕月夜」
。敏君を見ると、可愛らしい笑顔が半ば月に出で半は蔭に
入ってゆらゆらと凝りもあえぬ愛嬌の露と湛え、団扇まさぐる膝の上、胸のあたり、両袂、
白地の浴衣に墨染の木葉模様のちらちら動いて、掬《すく》えば手に漏り抱けば腕に融け
るかと危《あやぶ》まれる姿。
恍然《うっとり》と僕は夢中の人となった。
寒竹垣の下で、虫が鳴いている。どこかに踊の笛の音が聞える。
「好月ですな」
「本常に好月でございますこと」敏君はそつと息ついた。
199
「斯ように貴嬢や兄様と御一処にお心やすくするのは珍らしいですね。ずっと昔お宅に
上ったことがありますね、覚えていらっしゃらないでしょう、貴嬢はまだお小さかったか
ら──僕が十四でした、兄様とよくお化をしては貴嬢を嚇したり、悪戯ばかりして居たの
でしたが」
「否、よく覚えて居りますの。あの、画を描いていただいたのをまだ持って居ますの、
国許に」
「左様でしたか」と云った僕の心は張り裂ける様。
「年が立つのは早いものですね」
「本当に早く立ちますのね、あの、母や鈴江さんや御一処に連れて来ていただいたのは
最早四年になりますのね」
「来年卒業なさるのですな」
「何も出来ませんで」
「否、大変よくお出来なさるって、鈴江君がそう云ってました」
「嘘でございますよ」
「画をおかきなさるさうですね」
「嘘でございますよ」
「歌もおよみなさるでしょう」
「否、何も出来ませんの、──何か致したいと思って、兄にそう申しても、いささかも
相手にして呉れないものですから」
「あなた方は御兄妹で羨ましい」と云って、はっとして僕は急に語を転じ「兄様と御一
所に遊びにいらつしゃい」と時処の分からぬことを云った。僕は居常《つねに》大学寄宿
舎に居るから、敏君が遊びに来られないのは無論である。しかし敏君は嬉しいと云う相《か
お》を月かげにはの見せた。
僕は夢から夢に深入りする心地。
「最早直ぐ御帰省ですね」
お敏君は黙っていた。極めて微かな吐息を聞いた様であったが、それは木の葉のすれた
音かも知れぬ。
「松村君が居なくなると、淋しくて仕様がありません──、僕も──帰っちまはうと思
っとるです」
「兄も大変居たがってますけど──」
お敏君は俯いた。
ああ僕が西洋に生れた西洋人であったなら、この時跪いて、お敏君の可愛らしい手をと
って、
「可憐の敏子嬢よ、吾生命よ、おんみはこのむくつけ男と一生をともにしてたまはら
ぬか、ゆくゆく吾妻になってたまはらぬか」と白々地《あからさま》に云うのであるが、
僕は最早寸歩も前へは踏み出せぬ。無論後へも退かれぬ。僕は唯大息した。
敏君も差俯いて、団扇を見つめている。
風はさらさら欅を揺って、葉毎にこぼれる月かげは千万の玉を閃めかすように見える。
(十)
平生左様不弁ではない積りであったが、今夜に限ってどうしても言葉が見つからない。
200
否、見つからないのではない、僕の全身心に溢れるものは、到底人間の発明した言葉や文
字のまどろかしい運搬器では運び了《おお》せぬのである。
実に好機会、恐らく二度とありそうにない好機会、僕の心を明し彼方の心を聞くに誂え
ても出来ぬ機会、しかし僕はどうして宜か知らず、何と云って宜か知らぬ。そうする内に
は、一同が帰って来るに違いない、云うならば今、明かすならばこの瞬間、とあせる程心
は乱れ、口は渋って、実に吾ながら吾を引裂いてしまいたい心地。
「あまり長話して、御気分に障りはしませんか」
と云って、ああまた同じ無意味な言を繰りかえして居ると落胆した。
「否」と敏君は俯いたまま。
話はまた途切れる。
風はさらさら流れるが、僕等の座辺は恐ろしい濃厚な空気の圧迫があって、息もつまる
ばかり、言わずば心も裂けそうな。
一分間過ぎた──殆んど一世紀にも捗る長さの。ばたばた云う響を見れば、敏君の側近
く風が白いものを翻えしている。物の本だ。
「その書は何ですね?」
「あの昨日貸していただいた──」
「明治評論ですね──御覧なすって?」
「はい」
「つまらないでしょう?」
「否、大変に面白うございましたの」
「彼中に西洋の矩篇小説を訳したのがありましょう、御覧でしたか」
「はい、あれ大変に面白うございましたの」
「どうしても西洋人は甘《うま》いですね、まだまだ我邦《こつち》のは幼稚なもので
す。矢張あの作者の書いたので、短篇に面白いのが幾篇もありますよ」
「何様《どんな》のでございます?」
「何様って、幾篇もありますがね」
「伺はして頂戴な、何卒」
僕は思い出づるままに一短篇の筋を話した。露西亜の或田舎の別荘に、貴族の嬢君が住
んでいた。年は十八,美しい、悧巧な、やさしい、可愛い (恰《ちょうど》貴嬢の様な、
と云う言葉が驀地にかけ出したがどうしても唇の関所を通れなかった)娘であった。そこ
に二人の恋人が現れた。一人は中年の紳士、風采も立派、爵位も富もあって、一寸彼嬢君
を訪問に来るにも、一葉何十ルーブルと云う珍花の花束を持って来る、結婚したらば、蜜
月遊《ホニームーン》は何年でも構はぬ、亜米利加にでも日本にでも行こうし、交際社会
に出るならば、冬宮の舞踏会に金剛石の光を輝かさして、世の中の人の所謂幸福はこの紳
士が捧げて結納にする程の運命の寵児。今一人は平民の子の大学生(恰僕の様な、と心は
謂ったが、口は言わなかった)腕一本でこれから身を興さうと云う体、無論財産もなく、
爵位もなく、容貌すら醜くて──しかし、しかしその嬢君を愛する事に於ては、世界を敵
としてもいささかも恐れず、その嬢君が死ねと云えば今眼の前で直ぐ死に、飛び込めと云
えば水火の中にも笑って飛び込む位一心に思いつめて居たが、臆して羞ぢてどうしてその
201
心を明かして宜いか分からず、恋ひて恋ひて恋死ぬる程恋ても何時までも黙ってばかり
──
はつと思って、僕は話を止めた。止めてまたついだ。しかし話の糸はいよいよ纒繞《こ
んがら》かって、僕か人かを分き兼ぬるようになってしまう。僕は黙ってしまった。
幾秒か過ぎる。
不図忍び音の歔欷《すすりなき》が耳に入ったので、驚いて見れば、敏君は突俯《つっ
ぷ》している。
「あツ、お敏さん、如何しました?」
敏君は顔をあげた。涙が真珠の如く頬を伝っている。何か云おうとして唇を開いたが、
言《ことば》が聞えない。敏君はまた俯いてしまった。
僕は身も世もあられぬ心地、
「如何しました? ヱ?
ヱ?」
「わたくし ---- あの----」敏君の声は歔欷《すすりなき》に埋れて聞き取れない。
「僕の云った事が気にさわったら堪忍して下さい。ヱ、ヱ、お敏君」
僕は夢中になって背を撫でた。
突然僕の手は燃えるが如き手に緊《ひし》と握られた。熱い雫が手に滴る。
僕は狂気の如く、
「堪忍して下さい」と云いつづける。
「わたくし ---- あの ---- 」
「僕が悪いのです、僕が悪いのです」
「御免 ---- 遊ばして ---- わたくし ---- あの」
「ヱ? ヱ?」
「わたくし ---- あの ---- うれ、嬉しくて ---- 」
四辺の世界は忽焉《こつぜん》と消えてしまう。永遠に架《わた》す夢の浮橋に僕等は
唯二人立っている。
月は照っている。風は吹いている。虫は鳴いている。しかし僕等は見もせず、聞きもし
ない。
何秒若くは何時間若くは何世紀過ぎたか知らないが、人間の声(後で考えると、石川の
細君が松村と垣の外を高笑して帰る声であった)に愕然と吾にかえった時は、 手は敏君の
左手を、敏君の左手は僕の右手を互に緊《ひし》と握っていた。
九の巻
終り
==========
十の巻
(一)
鵠沼の農家の一室に、僕が中島叔母に誓った言は、反故にはならなかった。松村は終に
野田を名乗り、鈴江嬢は清磨夫人となったのである。
しかしながらこの事の中島叔母の胸中に湧き出してから事実となって現われるまでには、
202
実に予想外の手数を費やした。
「媒酌は草鞋千足とは云うが、この位骨が折れた縁談は初め
て」とは母の述懐であったが、実にこの事件の発瑞から結末まで一人で樽俎折衝の役目を
引受けた母の骨折は並大抵の事では無かったのである。
松村兄妹が鵠招を立って帰省の途に上ると、間もなく僕も東京の炎塵の真中へ引返えし
た。松村からは、何日何時無事到着仕候の報告的はがきが一枚ぶらりと来たばかり、
「やっ
と四五日前に帰って来た、駒場の方の手数彼これで、直ぐ来る筈だったが、失敬した」と
間の悪そうな顔して本人が尋ねて来たそのまでは、縁談の件については、呍《うん》とも
啐《すつ》とも云って寄越さなかった(無論羞かしかったので)が、しかし彼件談判の進
行は僕や中島にちょいちょい来た母や伯母の手紙でよく承知した。松村老人は最初から大
賛成、不宵の清磨が野田家の様な名家の跡を嗣ぐのは、当人の仕合、親の面目、と大喜び、
殊に鈴江君のさつばりと大竹を割った様な性質が至極老人の気に入り、真に当世の娘のよ
うに白粉くさくしゃならしゃならとした所が寸分無くどうしても大家の娘、清磨には過ぎ
た奥様と、しきりに乗地??になっていた。しかし清磨君の義兄で松村家の総領の謹次と云
う男が、義理ある弟に他姓を名乗らすも世間の手前如何と妙な所に義理を立て、殊に名家
とは云え一枚の田半銭の貯えあるでなき野田家にわざわざ財産背負わして異姓を名乗らせ
に義弟をやるにも当らぬ事とのさばった。それはなお可として、松村の母なる人の脳中に
は、
清磨君の身の上を、
卒業したらば斯うして彼様してと云う分別も已に出来て居た所で、
嫁も色は少し浅黒いがはつきりした悧巧な女と頻に彼お冬君を望んで居たそうな。しかし
お冬君は故兼頭君を亡くして以来最早人に見える心もなく、殊に松山なるその実家もあの
活気な老人は次第に老衰の境に向い、弟の戸主はなお弱し、近々に帰って家の世話をせず
ばなるまいと云う都合で、その方の望は絶えたが、しかし立派な壮年まで育て上げた清磨
君をむざむざ野田家に奪られるをつらがり、且は応揚な鈴江君に兎角十分の同情が行き兼
ねて、未だ早い未だ早いを口実に、頻と防御の陣を張ったのであった。その堅固な陣を破
り、あの謹次氏が一徹の砦さえ陥れて、どうして首尾よく成功まで漕ぎつけたか、そこは
蓋《けだし)手紙や伝聞では到底云い尽されず聞き尽されぬ苦心の潜む所で、実に斯事の
成就は、この時こそと双肩ぬいだ母の骨折と、またこれはあまり人の知らぬ事実だが、吾
敏君が内にあって石を融かし鉄を和らぐる繊腕(はそうで)を振った結果であろう。
とにかく帷子(かたびら)で始まった縁談は、僕が朝夕の散歩に大学校内の楓樹の早狐
色になるを見る頃に到って、初めて首尾よく結了した.
野田伯母が、故伯父の四週忌前に是非とも内祝言だけでも済したいとの情願《のぞみ》
もあり、故障が多かった縁談だけまた種々事の持上らぬ内にさっぱりと方づくるがよかろ
うと誰しも念《おも》ったので、結婚は取り急ぐこととなり、東京で中島叔母が痛い足引
ずって一通りの買物整えれば、国許では僕の母が指に針だこをこしらえてあれを縫い直し
これの仕立てに余念なく、年の暮押つまって松村が東京を立ったその三日前に中島叔母も
亡兄の墓参かたがた鈴江君を連れて下り、恰(ちょうど)くれの二十八日血眼になって懸
取の馳せ廻る最中に悠々と結婚式は挙げられた。風変りの故伯父の娘だけ、結婚までがよ
はど風変りであった。
僕は遺憾ながらこの結婚式には列しなかった。
(敏君も同様と聞いた)。しかしながら時
刻を計って、一通の祝電をうった。而して後で聞けば、この電報はあたかも一同が式饌《し
203
きぜん》の箸取り上げるその瞬間に着いて、あのむづかしやの謹次氏がギナタ読に読みあ
げると、中島叔母は列座の前で頭を下げて僕の母にこの回の労を謝し、
「お礼には吃度わた
くしが慎さんに立派なお嫁を世話します」と大音に言ったそうな。野田伯母も僕にこまご
ま礼状を寄越して、母御やあなたの骨折で大安心した、この上は唯あなたの身の固まるそ
のみ心にかけて居る云々と書いてあった。
(二)
野田伯母は、その管理する女学舎の日に月に盛大に赴くにつけて、父兄の信用も重く、
どうしても中途に辞する訳に行かぬので、依然国許に留まることとなったが、新郎は農科
大学になお獣医学の研鑚をつづけ、新婦はまだ四ケ月の学課を剰して居るので、一月上旬
中島叔母と打連れて帰京し、渋谷の辺の唯有る小奇麗な茅舎に、小さな野田清磨の門札を
かかげた。
結婚がとにかく人の生涯に一時期を劃することは承知して居たが、初めて新夫婦に会っ
て驚いた。松村の泥鰌髯にどことなく位がついて、ちんと澄ました所どうしても人品が一
段上って見え、鈴江君も確に女振を上げた様な。夫婦仲の好いのは、楽器の調子がうまく
合って行くのを聞くように、余所目余所耳《そよめよそみみ》にもわるくないもの、殊に
この回の結婚は僕も与って大に力あるので、新家庭に穆々《ぼくぼく》たる清風の満つる
を見て、心ひそかに両人の為めに欣んだ、尤も家庭と云っても、これはまた随分風変りな
家庭。寧ろ一種家塾の様な家庭。主人が駒場の大学へ通へば、細君は肩掛引かけ、紫包の
弁当提げて麹町まで日毎の通学。留守は、大丈夫と保険付で中島叔母が自宅に使ったのを
そのままお譲りの婢のお銀が預って、午後の四時五時頃までは淋しいことであったと思わ
れる。この婢の報告によれば、旦那様の奥様思いはまた格別で、朝は遠方の事ではあり、
夫人が先きに出馬するので、松村否野田君が肩掛まで取ってきせ、少しわるい日和にはそ
れ車を雇へ、やれ風邪をひくなと子供を可愛がる様な可愛がり様、履物揃えぬばかり、夕
方もまた旦那が先きに御ひけになるので、最早奥様が帰る時分、茶は湧いて居るか、炬燵
に火を入れて置けと、それはそれは余所目にも歯痔ゆい位、婢も今一度年をあとへ取って
彼ように可愛がられて見とうございます、とは虫の好い婢が述懐。夫人もまた劣らぬ旦那
思いで、麹町から帰途買って来た赤坂豆を良人の膝にのせて、良人《あなた》、これは脳に
宜そうですから、とは飛んだ恕道《じょどう》。清磨君が彼髯を引張って仔細らしく豆をか
じる顔付が見たかった。
節倹家は着物を立派にして食物を粗末にし、食物に奢って衣服を粗にするは不経済家と
或世間通は云ったが、その定木から割り出して見れば、鈴江君の如きは余り経済家の方で
は無かった。良人の肉食論を演繹した訳でもあるまいが、着物などは垢つかぬものを着て
居れば木綿で沢山、食物は成る可くよくせねば、万事の原の健康を全うすることが出来ぬ
と云うのが鈴江君の主義で、従って賄費は野田家の予算の大部分を蚕食するのであった。
加うるに、
「今日途中で林檎のあまり宜のがありましたから買って来まし」たり、
「雨が降
って運動には出られず、淋しいから菓子でも買わせにやりまし」たり、客があれば婢が魚
屋蕎麦屋に走るし、走るは足の事だが、今一つのあしもその毎に出る数がつもって、忠義
のお銀が内々中島叔母へ訴訟したとは成程左様ありそうな話。夫妻の間は至極和して居た
204
が、家内の秩序は随分と乱れて居たと云っても宜からう。六畳二間、二畳一間、三畳一間
の家は殆んど膝を容れるの余地なきまでに色々の物品が占領していた。主人の外套と細君
の肩掛と押込につめ込んであるかと思えば、床の間には農学書類が女学雑誌と同居して居
り、主人公の卓子《つくえ》にマツチのからやピンがのって居れば、夫人の針挿には菓子
皿やたばこがのっている。
「どんなに片附けましても、こちら様ではどうしてこうひっ散ら
かりますかしら」とお銀も渋谷の七不思議の外にまた一不思議を算えている。敏君が日曜
毎に遊びに来て、
奇麗に片づけて行っても、翌日からまた忽ちもとの渾沌にかえるそうだ。
この渾沌の上に更に一層の混雑を加うるのは来客の群集であった。敏君は妹、僕は旧い
友人、石川や中島の一家は親戚の事で、往来に不思議はないが、鈴江君の女朋や、清磨君
の新知己が好遊び所を得たり貌に押し寄せるのは、片腹痛かった。主人が愛嬌は夫人間に
評判よく、鈴江君が座上客常満《ざじょうかく つねにみち》、樽中酒不空《そんちゅう さ
けむなしからず》の孔融気どりで好く客を待つ主婦気質は男子間に称賛を博して、日曜な
ぞに行って見ると、五分苅頭と束髪頭とここにもがやがや、かしこにもどやどや、菓子で
も肉でもどしどし通《かよい》でとって馳走する鈴江君、内の徐世賓《じょせふぃん》は
成程人心を獲る哩《わい》と云い貌に眼を細くして居る清磨君、この主人主婦を中心とし
て、近眼の甲君、顋の長い乙君、滑稽家の丙君、大学で作り出す西洋南瓜のように平たい
顔の丁君、お洒落の戊《ぼ》君や顔が真黯《まっくろ》で歯だけが真白い歯美人の A 女史、
冬顔のように青白い B 女史、学問なぞ廃して、寧《いつそ》浅草の女相撲にでも出れば好
さそうな倔強の C 女史、暇さえあれば鏡と睨めつくらをして天下の美人は唯君とわらはと
のみと己惚れる D 女史、この等の連中がかしこに騒ぎ、ここに笑いして居るので、折角僕
が遊びに行ってもゆっくり話も出来ぬ始末。少し控え目にしては如何だと、忠告して見た
が、清磨君は莞爾としてあの髯を撚るばかり、夫人はまた「でも男女交際は貴君の素論だ
わ」と鵠沼での僕が言を引張り出し、まさか僕の男女交際は或二人を意味したのですとも
答えかねて、僕は唯苦笑する外はなかった。それはなお可が、折角敏君と会っても、しみ
じみ挨拶も出来ぬのみか、鈴江君が今はいよいよ姉の威光をふりまわして(真実妹として
可愛がっても居たが)敏さん、一寸ああして頂戴な、こうして下さいよ、なぞ吾敏君を使
いまわすさえ腹が立って溜らぬ所に、何の事情も知らぬ逸り男の奴輩が中原の鹿視して八
方から眼光の矢を敏君に射かくるのが忌々しく、敏君の居る一町四方に「菊池慎太郎所有
地、禁銃猟、東………間、西………間」と高札立てて置きたくも左様は行かず、独り気を
揉んで居ると、同じ思の敏君も彼歯美人や冬顔が僕に笑顔をするのを一方ならず嫌って、
若し僕が彼束髪連に愛想のいい返事でもして居ると、敏君は耳まで紅になって、口には一
語も云わぬが、眼は電《いなづま》の如く僕の心を貫いた。
(三)
鵠沼の月夜以来、僕と敏君の関係はすっかり一変した。一片の誓紙を取りかはした訳で
なく、一語の将来を約した訳でも無く、無論公に承認を経た訳でもないが、後にも先にも
唯一回吾を忘れての握手に、僕等は最早金輪際解く可からざる関係を結んだのである。僕
はそれと自覚し、且敏君がそう自覚して居ることを自覚した。
秋月夜の出来事を回想する毎に、僕は慙愧と欣喜と交々《こもごも》到るのであった。
205
慙愧に堪えないのは、一旦の情に駆られて、前後を忘却し、深く秘す可き心の程を恣《は
しいまま》に打ち明けたのは、瑞《はした》ないと云おうか、無分別と云おうか、殊に先
方はまだ十七、年端も行かぬ少女、親友の妹と云えば吾妹も同然の娘を唆《そその》かし
たと云われても否とは云われぬあの場の仕儀、何故あの様な向不見《むこうみず》をやっ
たかと今更後悔に堪えない。しかしながらまた一方から云えば、あの為めに僕の心は明々
地《あからさま》に敏君に通い、敏君の心底はまた白々地に僕に分かり、殆んど一語を費
やさず一紙の誓を待たずして十分の默契を来したのは、或は勿怪《もつけ》の幸であって、
若しあの事が無ければ僕等は互に思に堪えずして病み、鬱に忍びずして傷《やぶ》れたか
も知れぬ。あの夜僕は松村が許を辞して、久しく月影を踏んで鵠沼の浜を往来した。僕は
その夜の感想を到底吾拙い筆舌にあらわし得ない。僕が心の欠陥は実に湛れるまでに満た
された。この茫々たる手前に於て、僕は最早一人ではない、半円ではない、他の半円が忽
然天外より飛び来って吾と合したのである。僕の愛は酬われた。僕が思うその人は正しく
僕を思って居るのだ。花の如く美しい人、姿のみか心迄、否心こそ殊に花も及ばぬ清香を
帯びた怜悧なやさしいあの敏君が僕を愛する──不思議、不思議、夢の様だ、と僕は独語
したのであった。
ああ敏君の心底は已に解った。誰が何と云っても敏君は僕の妻である。妻である、妻と
なる可き者である。しかし世間晴れての妻となるまでには、まだ幾多の時日を経、幾多の
順序を踏まねばならぬ事は、無論当初から僕の心に浮んだ所であった。そこの砂上に横わ
る舟を見てもそれは分かる。海を懐うは舟の心、舟を浮めたいはまた海の情であるが、し
かし海が舟を得、舟が海を獲るまでには、潮時も待たねばならず、枕木を敷いて押し出す
人の力も待たなければならぬ。
むこうの心底を吾知って、
吾真情を相手が解した上からは、
余は何事もうまくほうつツて行く時日と云うものの手も借りなければならぬし、僕等の益
を思って呉れる人々の腕もまた煩わさなければならぬ。情は情として身を切るように切な
くも、礼は礼として岩の如く堅く守らねばならぬ、愛して忍び、信じて待つ、この外に僕
等の踏む可き道はないのだ。患ふる所は情を窓にして業に荒《すさ》み、吾短気ゆへに自
づから成る可き事をも毀《こぼ》つのである。これは僕のみならず、敏君も正にそう思っ
たであろう。
故に彼月夜の翌日、僕等は相会っても、唯きまり悪く默然としていた。その翌日藤沢停
車事場に別れる時も、
敏君の涼しい眼に暗涙の宿るを見て、心は裂くるが如くであったが、
双方唯目礼して別れたのであった。兄妹が帰省して居る間も、松村へ出す手紙に、令妹に
宜敷とだに書かず、彼等兄妹が帰京して後も、日曜に石川の宅へ行けば十に八九敏君に会
われるとは知りながら、つとめて足を遠くし、稀に会っても言葉少なに挨拶し、鈴江君が
その話を持出しても忽ち傍へそらしていた。若し浅人の眼から見たらば、喧嘩でもしたの
か、非常に遠々しくなった様な、と観察したかも知れぬ。しかしながら僕も敏君もかく背
いて反対の方向に行くのも、終に地球の一角で正に相逢うことを知って居たのである。松
村と鈴江君の結婚は、実に僕等の為めに日出たい序幕を出した様なもの、敏君も僕も兄の
為め従姉の為めならずして更に非常の喜を感じたのである。
結婚済の報に接たた僕の心は、
(敏君の心も蓋《けだし》
)未莟勝《いまだつぼみがち》の吾庭の梅に対して隣の梅花が咲
いた噂を聞く様であった。
後れて残念とは浅い話、
春は最早隣家まで来て居るではないか。
206
大様でも流石は女、僕の敏君に於ける、敏君の僕に於ける情緒は、鈴江君がよく知って
いる。妹々と妹の事を御馳走貌に僕の耳に振舞う兄者人《あにじゃひと》も、存外の通り
者かも知れぬ。中島叔母が鈴江君の結婚式で、僕の妻を屹度《きつと》世話すると母に誓
ったのは、豈心当なくして可ならんやである。僕の顔さえ見ると莞爾笑う石川の細君、こ
れもまさかの時には加勢の一刀位は頼まれよう。さて肝腎の吾母は如何であろう。敏君を
見るは即ち愛する所以、少しも利いた風は無くて、しかも恐ろしい底ばやり、素直で、や
さしく、加之抜ける程悧巧なあの敏君を、あの眼力に富む母が見損ずる事は、万々あるま
じい話。松村家一統も、婿に二頃《けい:頃は 1 ヘクタール》の田はなくも、
「前途」だけ
は有って居るに、まさか敏君や清磨君の希望を徒にはすまい。
斯う数え立てて見ると、未だ戦わずして勝算已に歴々たるものだ。
(四)
敏君の心は已に明らかに知れたし、四辺の形勢も右の通り有望であるし、何をあせり、
何をくづをれる要があろうぞ。唯得々と歩いて行けば、目的地には達せられるのだ。懸い
煩ったり、思い屈したり、物や思うと人に問われて得意がるのは、色の蒼白い神経質の小
説の主人公なら知らぬ事、僕にはそんな和事師《わごとし:「和事」は、恋愛沙汰を意味す
る歌舞伎用語》の役は出来ない。学に志さば是非とも名の称されるまで、人を恋うるなら
是非とも吾家の妻に娶るまで行かなくてはならぬ。こう思うと、僕は更に勇気の全身に満
渡るを覚えたのである。
幸に先年の大病後は非常に壮健で、殆んど一回の風邪もひかず、夜もよく眠るし(鵠沼
以前は一時あまり眠れぬ事があった)些《ちつと》やそつとの困難はこっちから衝撞《つ
きあた》っても見たい位。書窓の月日の立ち易く、つい先頃大学に入った様だが、最早卒
業も今年の夏と迫って、身は故参の一人、文科大学の菊池と云う名はおこがましいが一部
の社会に有望とか多望とか云う形容詞をつけて噂をされるようになったし、明治評論に執
る文学評論の筆は月々学資を齎すのみならずなお幼稚な文学界だけに幼稚な筆も少しは読
者の好評を博して居るそうで、修養中の片手間仕事には、実に分に過ぎた報酬。閑を偸み
嗜好に任せてあさる東西文学の宝庫は、入れば入る程無尽の富を示して、及ばぬと思う失
望的嘆美を吾より搾る一方には、大樹を撼《うご》かして見たい妣蜉《ひふ》の野心も煽
《あお》って呉れる。古人が鎌を入れない田地はないように当初思ったのは愚の又愚で、
僕が課余の道楽にぼつぼつやり出した徳川時代の研究も、やって見れば先から先へ眼界は
広がって、特別に研究したい事項、書きたいと思う題目は、天上の星より多く、実に生命
が百も欲しい位。貧を云ったら帝国大学々生の中で最も貧なる一人は僕であろう。しかし
ながら僕は母もある、敏君もある、健康も有って居る、希望もある、理想もある、瘠せて
もからびても独りで立つ抱負もある。然れば家許が金満家で卒業後は直ちに自費で海外留
学に行くと云う同窓の阿某《あなにがし)を僕は羨まない。貴顕に知己があって、時々行
って馳走のブランに赤くなり、金紋付の抱車で送られて得々と帰って来る以某《いぼう》
をも羨まない。僕は誰をも羨まず、亦何も不満に思わぬ。若し不満に思う事があるなら、
それは咋年の秋以来僕が監督することになった故兼頭君の義弟が兎角学業に性根が入らぬ
事位なものであった。
(兼頭の父君は去年の総選挙にいよいよ愛媛県撰出の衆議院議員とな
207
って、出京の際後妻の子の名は正道と云って実は極々横道者の十六になる少年を宜しく頼
むと連れて来たが、頼まれた僕は毎度この少年には手古擦《てこず》った。どうしても甘
く育った子は大きくなって困り者になる。)
瀑布に近く水流の騒立つように、
とにかく一段落の卒業も半年足らずの間に迫ったので、
同窓の中にも種々身の振方に憂身を窶《やつ》し、学課以外に大分多忙な者が多くなって
来た。僕もこれから社会と云うものに出るについては、一分別しなければならぬ。否、僕
の方針は最早夙《とう》に定まって居たのである。僕は政治家ではない、無論軍人ではな
い、実業家でもない。官海は僕の遊泳場で無ければ、株式取引所も僕の舞台ではない。以
前は説教壇を僕の戦場と思ったが、今は必ずしもそう思わない。僕の戦場は書斎、僕の武
器は筆である。無論文士も活きなくてはならぬ。望を云ったら、海外留学も是非して見た
い、万巻の書も積んで見たい、学校も興したし、千人の書生も養って見たし、金庫や壮麗
の家屋や馬車や別荘や少しも悪《に》くくはない、吾母に日本一の生活をさせ申して、敏
君にせめて拇指大の金剛石の頸飾位は結納に贈りたし、枯木死灰でない限りは、慾も野心
も山程ある。しかしながら大学の寄宿舎からこの栄華迄は中々遠い。否、随分と近道もあ
るそうな。しかし僕には盗賊の行く径は踏めない。どうしても、この頭は下げられぬ。こ
の腰は折られない。
(恥を言う様だが、僕がまだ東京に来たての頃、平民新聞の配達をして
居た時分、あまり前途が覚束ないので、大枚十銭を拠って、銀座の本国堂に将来を占って
貰ったことがあった。その時相者がぢいと僕の顔を見て
「こりゃ大分苦労をしなさる哩《わい》、頭が下りませんな」と云った事を今日までよく
覚えて居る)
。時が来、運が向いたら金の車にも乗ろうが、僥倖の近道を狙ったり、お奥に
泣きつき玄関にエヘヘ笑をして、頭を下げて地位を上げる事は如何にしても出来ない。頑
固と云われ、偏狭と笑われ、野暮と罵られても、仕方がない、僕の体質が左様組織されて
いる。半点の束縛を自覚すると最早僕は手も出ぬ、足も動かぬ、無論筆も動かないのであ
る。因《そこ》で僕の方針は唯一筋、富貴若し自から到らば天の賜《たまもの》を拝しよ
う、正道にして求め得可くば求めても獲よう、しかしながらその代償に「自己」を渡せと
云われたら、切れるまでもこの首を振ろう。同窓の秀才が官府に五彩の羽を翻えして「痴人
なお汲夜塘水」《ちじんなおくむ やとうのみず》と嘲ったら、僕は「海内文章落布衣」《か
いだいのぶんしょう ふいにおつ》と答えてやろう。目下の所では、粗食を食い、水を飲み、
筆をとって奮闘する外に、僕の執る可き道はないのだ。望は無論山程あるが、差寄り望む
所は、職務以外に何の束縛も受けぬ地位、露命を繋ぐ収入と、心の余裕と時間の余裕と是
丈である。その位は小学教員をしても得られるであろう。しかしそうすると、母を迎え、
敏君を迎える時が、中々急に来ないかも知れぬ。但喜ぶ所は、吾母心身なお健やかに、意
気烈しい人だけ、必ず僕の志を燐れんで呉れるであろうし吾妻となる可き敏君も、まさか
の時は僕の為めにあの美しい手で米を磨いで呉れるであろうと確信したのである。
(五)
春は三月初旬、本所小梅の別荘の紅梅が真盛で、この日曜に梅見の小宴を開き度、家族
の者ばかりで別に御遠慮になる客も無し、是非御来車を仰ぐ、と保証人中川氏から云って
来た。
208
已に前回にも云った通り、貧乏人の瘠我慢、金満家の門を潜るを士の恥かなんぞのよう
に心得て居た僕の事だから、保証人の中川と云えば同じ金満家でも勤倹力行以て今日の富
を致した堅気な男、駒井先生を識って洋行費まで吾れから進んで出した人、一寒書生にも
決して礼を失わぬ人物、要するに同じ素封家《ものもち》でも尤も銅臭《どうしゅう:金
をため、立身を計るものを蔑む表現》のない英吉利《いぎりす》風の紳商と云う事は承知
して居たにも拘わらず、万已を得ぬ場合の外は滅多にその邸を訪うたことなく、徒って本
所の別荘も噂は聞いて未一回も見たことはなかった。それに突然この招待は何事であろう
と思ったが、折角の案内を無下に断わるも無礼であろうし、殊にその日になってわざわざ
迎の車まで寄越したので、僕は渋谷行を見合わせて兎も角も制服の塵を払い角帽の埃をは
たいて、車にのった。
吾妻橋を渡り、枕橋を渡り、右に折れて三四丁、黒板塀に見越の樫の生垣は霜にうたれ
てやや黄ばんだ一構の別荘の門にからから車を挽き込むと、
程なく玄関に顕はれた中川翁、
今年六十二と聞いたが、小男ながら鉄鎚でうちかためた様な骨柄、眼ざし確固として一文
字に結ぶ口もと、天秤棒一本で日本の長者鑑の五六番目に据わった男だけ、人をそらさぬ
応対ぶり。
「や、これは好うこそ──夙《とう》からそう思って居ながらついつい失敬ばか
り、今日はゆっくり御話を伺います。何、客は貴君と外に一両名、あとは家族の者ばかり、
柄にない風流ですが、花に対して家族の者に琴でも弾せましょう、それにはまた拙老が天
狗の庭園も褒ていただきたいので」
。
成程主人翁が天狗だけ、気の利いた江戸の植木師が腕をふるった庭の作りはまた格別。
小梅の流を引いて中央に池を湛え、池細りて流れる辺に柴橋をわたし、蓮菖蒲の頃も忍ば
れる眺。幽邃《ゆうすい》を云えば鳥鳴いて樫実こぼれる辺に稲荷祠を半ば隠して椿の花
小闇く、花やかなるは牡丹花壇薔薇の塢《お》菊花壇七草の区そのおりおりの眺も思われ
る。家にありたきとならびが岡の法師が書いた松櫻、霜蔽いした橘頬合抱の楓、東披竹、
一石一木の配置にも金目は推測られて、成程この翁の資力あってこそと頷かれる。その間
を縫って程よく植え散らした紅梅は、八重、一重、薄紅、深紅、鶯宿《おうしゅく》、内裏、
枝垂《しだれ》
、咲分の類を尽して竹に隣り、松に映り、泉水に鑑《かがみ》し、或は紅の
雲を緑苔にこぼすも趣深く、木の間隠れの鶯の音を可愛ゆしと愛《め》でれば、誰が結び
さげたのか女筆の短冊を冷やりとした東風のひらひら舞わすのもまた憎からぬ風情。
「成程
結構な」と僕も案内して行く主翁に称賛の一句をおしみ得なかった。
紅梅林の奥に小さな四阿《あずまや》があって、陶製の腰かけ三四個据えてある。主翁
と僕と対座して、故駒井先生の事、新五が事(新五を中川氏に紹介した事は前に述べた。
主翁はしきりに新五を誉めていた。あの後間もなく十万からの資本を低利に貸したことは
新五の手紙で承知した。惜む所には一銭の金も惜んで出す所には十万の金もどしどし出し
て行く、成程左様無くては一代に千万近くの身代は持ち出されぬと、僕は感心したのであ
った)僕が卒業後の事など話して居ると、十八九の高島田がそこに咲いて居る紅梅のよう
に紅い顔をして、盃盤の設整った由を報じた。
客と覚しいのは、三鱗紋付羽織の四十位の商人風、痘痕《あばた》だらけの三十余の洋
服紳士、外二三人、あとは何れも亭主方、羽織、洋服、中学生、小学生、小丸髷、大丸髷、
島田、桃割、稚児髷、大分の人数、酒の座に下戸程困ったものはなく、満々と注いだ盃二
209
つ三つ前に控えて弱りきって居ると、主翁が眼早く見て「や、これは御迷惑でした、今の
若い方には御珍らしい ──早くベルモットを上げないか」と救って呉れたので、僕はや
っと息つき、一同に顔見られるたれ隠くしに、ベルモツトを舐め、刺身をつつきして、敏
君はどうして居るであろうと考えていた。
それから余興の座に移って、先刻四阿にお使者に来た彼島田の娘が琴についで、主翁が
得意の鉢木、これも亭主なり保証人だけ一曲は是非謹聴せねばならず、畏まって候ふ程に
足の痺を忍ぶ苦しさ、流石に手堅い家風だけ常磐津清元やつぶし島田の責苦は免れたが、
主翁はいよいよ興に入って、あれ御覧候へ、日もはや傾きて庭前の紅梅斜陽を帯ぶ姿のい
みじく候ふ程に、あれをさかなにお茶一つさし上げうずるにて候と、別室に請じて、英雄
の閑日月、何時の間にか習い覚えた千家の表、服紗さばきの手も鮮やかに捧げ出でた一碗
の濃茶のお鉢は僕へまわって、心の中は四苦八苦、どうして飲もうか、人真似は嫌なり、
無礼も気の毒、可、可、達人は自ら法門を開く、僕も菊池流の茶の蕩の開山をしようと、
茶碗をむづと取ってぐっと乾し、菓子をむしゃむしゃと平げたので、末座の島田や桃割は
くすくす笑い出し、僕も思わず赤面したが、主翁は莞爾と笑っていた。実に僕はこの日の
馳走はど苦しい馳走に会ったことはない。花見の宴か、苦の宴かと云いたい饗応が済んで、
門外に出た時は吻と息ついた。
それにしても主翁は何故突然僕を花見の宴に呼んだか。紅梅の影は眼に消え、琴謡の音
は耳に絶えても、この疑問は残って居たが、あの日曜から五日目と云うに、僕の疑問は忽
然と氷解し、それと同時に僕は思い掛ない一の難問題に遭逢《そうほう》したのである。
(六)
観梅の宴後程なく、僕は一夜あの宴で会った三鱗氏に招かれて、思いがけない相談を受
けた。
僕が卒業後の方針、係累の有無を聞いた所で、三鱗は言葉をあらため、貴君の御事は故
佐藤氏(即駒井先生)以来の関係もあり、ゆくゆく一臂の御力を添えたい中川の所存、何
れお若い方の西洋の土もお踏になろうし、そんな時はまた御遠慮なく御相談に与りたい心
底、不躾ながらこっちの力に及ぶ事は御腹蔵なく云っていただきたく、それに就て近頃突
然な話ながら、先日観梅の宴に琴を弾いた彼娘(名は糸と申して、今年十八、もとは親類
の娘で今は中川の養女分、今年華族女学校を卒業する筈で、容貌は御覧の通りすぐれて美
しいとは申し難いが、性質は極順良で、手堅い躾を致してあるつもり、と三鱗氏は媒酌《な
こうど》口をきいた)をゆくゆく妻に貰っては下さるまいか、中川姓を名乗っていただけ
ばこの上もないが、承はれば一家中興の大事のお体、そうも参るまい、とにかくあまり突
然な申條とそうお疑もあろうが、実は中川も失礼ながら夙から貴下の御人品に眼をつけ、
当世の若い方には珍らしい手堅い御仁、お糸には無論過ぎた方だが成ろうことならとそう
思案致してのことで、若し御承諾下さるならこの上もない仕合せ、実は中川自らご相談申
上ぐる処ですが、そのでは却って御遠慮もあろうと、拙者から右の通り云々と、これが所
謂藪から金の棒、突然と云い出した。
僕は驚いた。
何れ熟考の上と言葉をつがえてその夜は別れたが、無論返答はも予《あらかじ》め定ま
210
っている。白石先生ならぬ凡夫の身は、若し若し吾心がまだ或人の名を書いてない白紙の
ままであったなら、原憲の貧に誇ると云う吾も、或は(僕は或はと云う)心動いたかも知
れぬ、少なくも返答を決するに半月そこらのなお予を要したかも知れぬ。僕もとにかく一
通りの辛酸は嘗めて、黄金の能力はよく知っている。日本屈指の金満家を舅に有つの便宜
は、僕と雖も知らぬではない。紙に書いては唯一字の「否」と云う語に、おびただしい便
宜、おびただしい機会、を塗布してしまうことを悟らぬではない。いわんや吾がいとおし
と思う人といっても、心にこそ互に許せ、公然と契約をしたでは無し、鵠沼の月夜は夢と
見做して、中川家の婿の一人となって、随分大手をふって歩かれることは今の日本には何
でもない事を知らぬではない。しかしながら誘惑の来る已に晩矣《おそし》
、僕の心には敏
君が住んでいる。美人のはまれ高い英国の某公主が、英蘭《いんぐらんど》銀行をポケッ
トに入れ、印度全領を手提につめ込んで、一生をともにしようと云って来られても、お気
の毒さま、と断わって返えす所を、いわんや十万二十万の金で僕を動かそうとは、到底出
来ない相談。敏君を除却した富貴は金の額縁あって絵なきが如く、どうしても満足が出来
ない。僕は帰ると直ぐに返書を裁した。
一寒書生を斯く愛顧されるのは、真に知己の感深き次第、無論一も二もなく有難く御承
致す所であるが、残念ながらこの儀は御断り致さなくてはならず、破格の遇を与えられる
芳志に労して何も打明けて申上げるが、小生は最も中川家の婿に不適当の男、不才不宵は
更にも云わず、どちらかと云えば現実界よりも寧ろ思想界に棲む小生、自ら撰んで居る生
涯の方針は世の所謂利達の路とは大分違って、云わば椽の下の力持、功を目前に収むる業
でもなければ、今日播いて明日刈る利益も有たない、仮令知己の感に絆《はだ》されて中
川家と姻を連ねても、同家の恩義に一芥の報も出来ず、淡泊に云えば小生には節を曲げる
嫌いがあって、中川家には利する所がない者を養うの損がある、大学にも俊秀の才有望の
士は林の如く、伎量から云っても、目的から云っても、恰好の人物は幾箇《いくら》もあ
る、現に小生の友人の中にもこの人ならば推薦したいと思う者もある(僕は浅井を意味し
た)適当の人物を措いて不適当の小生を撰まれたのは、小生にとっては光栄余りあるも、
中川家にとっては決して得策とは申されぬ、故にこの相談は十分の感謝を以て謹んで御こ
とわり申たい、云々と書いた。
冠は帝者にきせよ、僕は今日に到るまでも、この返書は僕が書いたか、僕の内に棲む敏
君が書いたか、を判するに苦しむ者である。
折かえして三鱗氏の返書が来た。御書面の趣篤斗中川へ申し通じた、ついては中川もま
すます潔白な御気象に惚れ込み、枉《ま》げて御承引を仰ぎたく、なお決して急ぐ訳では
ないによって、かさねてゆるゆる御熟考を仰ぐ云々。
僕は非常に弱った。小生には相契の許嫁がある、と云ってしまえば何でもないが、僕は
未だそう云い得る地位には居ないのだ。
あたかも春期休暇前の学課多忙に逐はれて、
「ゆるゆる熟考」を幸い、暫らくその事を拠
棄って居ると、中川から九州へ電気が伝わったと見えて、新五が例の一寸角位の大文字の
手紙を寄越した。無沙汰の詫、曾根君がなお鬱ぎながら勉強して居る事、なお意《おも》
いがけないのは故郷妻籠の従妹お芳がこの回正直一途の陸軍中尉の妻となって叔母諸とも
に福岡に来て居る事を報じ、さて仄に承われば云々の御話があるそうで、実は新五も以前
211
はあのお芳様を郎君の奥ようにと思った事もあったしまたあの松村の嬢様は容貌なら人品
なら学問なら揃いも揃っててっきり郎君の奥ように出来て居るお方と思って実は事のつい
でに先頃もそう阿母様へ申上げた事も有之(さては母上に敏君の事を云ったのかと僕の胸
は頻に騒いだ)しかし今度のはまた大極上々吉、箱崎八幡様も照覧あれ、決して新五が吾
田へひく水では候はず、天の与えるものを取らざれば取る可き所を取るものにあらず(何
の事だか僕には解せない、時々新五がこんな無意味《のんせんす》を書くには弱った、し
かし彼が自造の人物たる所はこんな所にあらわれて僕には却ってゆかしく思われる)で、
これは是非御承引と書いて来た。
それはなお可《まだいい》が、新五の奴め、直ぐ母へそう云って遣ったと見えて、母か
らかよう云って来た。実は一寸その噂を聞いたので、今日は云って来るか、明日は相談し
て来るかと待って居たが、一向便りがないので、如何かと案じる、無論考があるであろう
が、一体その娘と云うのは如何な人か、何も仔細に知らして呉れ、妻定めは男一生の大事、
これはかりは云うまでもないが篤斗母に相談の上でなければなりませぬ云々。
僕は最早なお予が出来ない。忙しい中であったが、二尋《ふたひろ》ばかりの手紙を書
いて、事の顛末を詳報し、富豪と姻を結ぶの望ましからぬ理由十三ケ條を挙げ、妻定めの
事については少し考も有之、実は一寸御耳に入れて置こうかと思ったのでしたが、何しろ
まだ修業中の身をもちながら大早計に妻定め所ではないと控えて居ました、しかしこの回
の様な事が出来て見ると何も打明けて申上げねば話が行違になり易い訳、小子《わたくし》
の理想の妻は、普通の学問あって身体壮健に、母上にやさしく、良人に親切に、心に品あ
って、身に貧を厭わぬ女、譬えて申そうならあの松村の妹お敏(僕は書きながらかつと手
紙の上に赤面した)の様な風なのが宜しいかと思います、勿論何も母上の御心次第ですが
──と書いた。
何や角やに取紛れて、渋谷の方へも暫らく無沙汰をして居たが、母へ手紙を出したその
夜、松村の野田からはがきが来て、近来顔を見せぬのは病気ぢゃないか、さて国許の母(新
に非ず、と云う括狐註が入って居た)も僕等の新世帯検分かたがた、妹の卒等式も最早二
三日内に迫って居れるので、迎えかたがた昨夕到着した、ことづかり物もあり、話もあり、
この日曜には是非来て呉れと書いてあった。
(七)
あたかも春期休暇となったので、一日繰上げ、土曜の午後渋谷に行って見ると、鈴江君
唯一人南椽の障子を開けて珍らしく裁縫して居る、清磨君はと聞くと、母と妹を連れて石
川から中島へ行ったと云う。期した事だが、やや拍子抜の気味であった。
婢の銀が茶を持出て暫く無駄口をきく。休暇になったのに、あの A 女史 B 女史甲君乙君
が一人も影を見せぬは如何したものと尋ねると、銀が「お国の御母様がいらつしてから頓
斗《とんと》皆様のお出がございません」と笑いながら勝手へ立った。はて飛んだ案山子
《かかし》もあったものだ。
「慎太郎君、貴君何が好いこと?お蕎麦?天麩羅?」と例の鈴江君が馳走主義をやっと
押止め、僕等は暫らく国許の噂、鈴江君が卒業すればお敏君も卒業するこの夏は僕も卒業
するこの年は卒業年であると云う噂をして、偖清磨君の帰りが晩いとすれば明日また出直
して来ようかと中腰になると、鈴江君が引とめた。
212
「何故? 宜ではありませんか。色々御話があるわ」
「話て何です?」
「貴君が喫驚しなさる話よ」
「何?」
「当てて御覧なさい」
「何です、面倒臭い」
「喫驚しなすってはいけませんよ。お敏さんの結婚問題が起ったのですわ」
「馬鹿な」
「本当に」
「鈴江君も奥ようになって大分口が悪くなったですな」
「あら、本当に、本当ですよ」
鈴江君の真面目な顔見て、僕ははっと思った。
「一体如何したんです?」と叫んだ僕の声
音は、或は恐る、狂人のそれに近くはなかったか。
「だから喫驚しちゃ嫌ですよと断わったのだわ。その話はこんなんですよ」
と遽てず騒がず鈴江君が物語る次第を聞けば、吾敏君を盗んで行こうとする奴は、松村
家の故郷の撰挙区から撰出された新代議士、蒲谷徳郎と云って、三十三歳の立派な髯男、
資産名望学問も相応にあって国権党の一員、つい昨年の撰拳前に細君に死別れた二度日の
新郎、去年の夏撰挙あがりの礼廻りに(清磨君の義兄がなにかと尽力したので)松村家に
立寄り、恰帰省して居た敏君を見染め、敏君兄妹が帰京した後で、徐々談判を始めたのを、
まだ修業中と断わって置いたが、この頃最早追付《おつつけ》卒業と聞いてまたまた是非
にと云い込んで来たそうな。
「それに周旋人が可笑しいわ。貴君覚えて居なさるの、ね、はらずっと昔、内で、貴君
が喧嘩しなすったでしょう、ね、井戸端で、はら笠松──」
「あの三次郎が?」
「否、三次郎さんぢゃないの、あの母さんよ、忌な人! 」
「左様!」
白状するが、僕はこの時心に殺人罪を犯した。今ここにその人が居るなら、刺違えても
死にたい笠松後家!
「そうして如何返事したんです?」
「それからね、何せ阿母さん、清磨のですよ、阿母が上るから、わたし達にも本人にも相
談した上で、兎も角も御挨拶をするって、そう云ってあるのですと」
「左様! ──而して阿母、お敏君の阿母は如何な意見です?」
「阿母はね、先方が少し年が多いし、加之二度目だからって、そう云ってお出ですがね、
しかし先方も子供があるではなし、とにかく立派な人ですから、敏さんの意向《こころ》
次第では──加之《それに》
、謹次さんが代議士を縁家に持てばなにかに都合が宜かろって
大変にすすんで居なさるのですと。阿母も謹次さんにはなにかにつけて遠慮があるのです
から、それで!」
咄々、復一人刺違えたい男が出て来た。
「左様?──而して阿爺は(お敏君の)?」
213
「阿爺はあまりお敏さんを手放したくない様子ですわ」
「清磨君は?」
「良人も、まだ年は少いし、そう急ぐことはない──」
それつきり? 僕の胸は沸へ立った。
「それぢゃ松村-清磨君も代議士党ですね」
「あら、そうぢゃありませんわ。だから貴下に手-」
「そうですか、それはお目出度ですな-ぢゃ阿母が連れて帰り次第目出度結婚があるの
ですな」
「あらそうぢゃないわ。お敏君は!」
「お敏君は如何したんです?」
「お敏君は最早少し東京に居て、英語が勉強したい──」
「でも最早高等女学校を卒業すれば、立派な衆議院議員の令夫人ぢゃないか。愚図愚図
せずと早く帰って結婚してしまうが宜い」
「そうに憤んなさるものぢゃないわ」
「否、いささかも憤つちや居ない、誰が憤るものか。だから目出度て云うのです。──
僕は最早帰──」
「お待ち──お待ちなさいよ。
貴君はいささかもこっちの話は聞きなさらないのだもの」
「いくら聞いたって、目出度事は目出度のです。目出度から目出度と云っとるのです。
馬鹿々々しい」
「ま、お待ちなさいよ。わたくしだって──」
「皆代議士党だ!」
「そんな事はないわ」
「あるからあると云うんです!」
「まあ、何もそうに怒ることはないわ。安心していらつしゃいよ。わたくし達が居るぢ
ゃありませんか。大舟に乗った気でいらつしゃいよ」
大舟もよく出来た。あなたのは大舟ぢゃない、狸の土舟だ、当になるものか、と云おう
として、口を噤《つぐ》んだ。
口は噤んだが、胸はさながら鼎の如くに沸きかえる。
ああ、この月は何と云う悪月だろう。僕の方に思いがけない故障が出るかと思えば、敏
君の方にもこんな事が生ずる。こんな事なら去年の夏、打つけに清磨君に口をかけて置け
ば宜かった、全体清磨君夫婦が気が利かぬ──と腹を立っても、最早已に晩矣《おそい》
。
(八)
鈴江君は朝鮮飴を切ったり、甘い葡萄酒を出したり、色々慰めて呉れたが、僕の興味は
最早灰の如くなってしまった。
如何したら宜かろうか。
「いささかもそうに心配しなさることはないわ。何もなお先方の話がきまったと云うで
はなし、こっちから求婚したら宜ではありませんか」と鈴江君が真面目に持ち出した。
「しかし僕は代議士ぢゃないから」
「あらそうに怒ってばつかり居たって仕方がないわ──お敏さんを下さいと云ったら宜
214
ではありませんか」
「でも僕には乞食の真似は出来ない」
「ま、そんな事──お敏さんの心底はわたくしよウく知ってますよ。否、本当よ、お敏
君はどうしても菊池夫人ですわ」
「そうでしょう、それだから代議士に嫁くが宜です」
「最早代議士代議士ってよして頂戴よ、お敏さんが聞きなすったら吃度怒って泣きなさ
るわ」
「御勝手にお泣きでも笑いでもなさるが宜です、僕の知った事ぢゃなし」
「まあこっちの話を聞いて頂戴よ、わたくしだって見も知らない人にお敏さんをやりた
くもなければ、見も知らぬ人を貴君の夫人に来て貰いたくもないぢゃありませんか、貴君
も心底もお敏君の心情もわたくし最早ずつと以前からよウく知ってますよ、だから清磨と
も始終その事ばかり話して居るのですわ、だからあなたと相談の上で阿母(清磨のですよ)
にも打明けて、何する積りで、それであの手紙をあげたのですわ」
「だって僕は母の意向さえ知らんぢゃありませんか」
「国許《あちら》の阿母なら大丈夫よ。否、本当よ、去年帰った時も阿母は大変にお敏
さんをほめて居なすったわ、而して色々お敏さんの事をわたくしに聞きなすってよ。吃度
お敏さんをあなたに欲しがって居なさるのだわ」
「いくら欲しがって居なすったって──ああ最早いやだいやだ、あっちも縁談、こっち
も縁談、縁談は最早あきあきだ」
「おや、何か別に縁談がありますの?」と鈴江君が不審の耳を立てる。
隠す可き理由もないので、僕は中川の事を仔細に話した。鈴江君は驚いた容子。
「而して貴君は如何返事なすって?」
「無論断っちまったです」
「まあ、──お敏さんの身になったらどんなに嬉しいでしょう。それはかりでも吃度出
来るわ」
「しかし僕はそんな報酬的結婚は嫌です」
「ま、貴君今日は如何なすったの、まるでものが云えやしないわ」
と少し考えて、とにかく今度は好機会だから、内相談だけでも取りきめる事にして、阿
母(清磨君の)の方へ鈴江君夫妻と中島叔母と内外から攻略し、国許の方は愈愈母(僕の)の
意向を確かめた上で鈴江者の阿母に談判を委任し、総攻撃で是非とも成就さする事にしよ
うと述べ、
「大丈夫ですよ。第一お敏さんがあの心底ですもの──安心して居なさるが宜いわ。何
ですって? 女はあてにならんのですって? そんな失敬な事を、あなたまだいささかも
御存じないのね、女でも思い込んだら男なんかに負けやしないわ、男よりもよはど執拗で
すわ、だから幽霊でも女の方が余計出るわ」
鈴江君が真面目くさってこんな事を云い出したので、僕も思わず笑い出した。
「やっと御機嫌が直ったのね」と鈴江君も溜息つきつき笑った。
それから鈴江君はお銀を呼んで到頭鰻飯の馳走をした。先刻からの話が思わず声高であ
ったので、あのお銀め確かに一伍一什を聞いて居たに違いないと、僕は少しきまり悪かっ
215
たが、そこは怜悧の江戸女、少しもそんな風を見せず、色々可笑しい事を云っては僕等を
笑わした。鈴江君も松村老人が彼笠松後家が大鯛を勿体らしく持って来たのを、
「わしが家
にはそう云うものは大嫌、無用無用《いらんいらん》、持って帰らっしゃい」と剣突喰わし
た可笑味、老人が蒲谷代議士の事を 「髯ばつかり御立派で」と冷笑した話、それから今
度清磨君の母君が着いたその夕、鈴江君が御馳走ぶりに自ら飯を焚いた所が、つい火をひ
き損なって真黒焦げの飯が出来、幸いお銀が吾身の咎にかぶって呉れたが、非常にきまり
悪かった事を自白し、
「彼時は本当に困ったわ、わたしだって食べられないのだもの」
「でも旦那様が召し上って下すって宜うございましたこと」とお銀が笑う。
「はははは清磨君は感心だ──しかし細君が焚いたとなると焦飯にでも随喜の涙をこぼ
さなくちやならんでは、人生良人たるも亦難矣ですね」
果ては一同大笑いして、僕は日のくれぐれに清磨君の宅を辞した。
(九)
その翌日から僕は草鞋脚袢で五日ばかり千葉成田の方へ膝栗毛を乗り出し、月末に帰っ
て見ると、中島叔母のはがきが二通に、清磨君の手紙が二通、名刺が一葉、外に中川家か
ら一通、三鱗から一通、何れも召喚状が来ている。
先づ中島叔母の召喚に応じて延引ながら出頭して見ると、叔母は待ち受けて直ちに一通
の電報を見せた。母から中島へ来たのである。
「マツムラヲトシサンヲ、シンタロウノサイ
ニモライタク、バンジタノム、イサイユフビン。」察する所、母は僕のあの書状を見るや否、
手紙はまどろかし、敏君の母君が東京に居る間にと、電報を飛ばしたのであろう。人を射
るには先づ馬を射よ、娘を獲るには先づ母を攻むるが一の手である。
時として母を懐わぬことはないが、事ある毎にいよいよ母のありがたさを感ずる。今日
の場合の如きは即ちその最も著しい一である。吾母ながら、どうして斯うはきはきして居
るであろう──と僕は且嬉しく且恥かしく思った。
「阿母がこんなに捌けた人だから、こっちも負けぬ気になって、あなたの留守に最早あら
かた形をつけて置いたのです」と中島叔母は詳かに事の次第を物語った。即ち叔母が清磨
君夫婦と熟議の上、僕を待たずして敏君の母君に談判を開始した事。敏君は、母の問に応
じていささかの躊躇もなく承諾の明答を与えた事。敏君の母も一時は色々困難を唱え、一
方には僕が非常に好い立身の機会を拠つを惜む(中川の件を聞いたので)と同時に、一方
にはまた敏君が一躍して代議士夫人となるの機会を見す見す逸するを惜み、何もそうわざ
わざ立身の機会を棄てずもの事と云って居たが、何を云っても多勢に無勢、殊に本尊の敏
君が明らかに決心の程を示して居るし、中島叔母がこの時こそと母への礼ごころ敏君の母
御を呼んで馳走して話した上で、またこっちから渋谷まで一回ならず押かけて行っての正
面攻撃、清磨君夫妻の起きても寝ても承諾を得る迄は巳めぬと云う背面攻撃、ともには四
方より攻め立てられて敏君の母御が逃げ込む石川家の夫人までが、果して一臂の力を攻撃
軍に仮して攻め立たので、流石敏君の母御も我を折り、義理ある謹次へ気の毒ではあれど
娘の幸福や慎太郎君の切なるお心や皆様の御親切にはかえられず、慎太郎君の身が固まっ
た上では、わたくし別に異存は無く、随分と隠居(松村老人)や義理ある倅にも説いて、
と先づは立派な承諾を獲た事。それについては敏君も実は修業の為めこのまま東京に滞っ
216
ていたい様子なれど、とにかく今回は母御とともに帰るがよかろうとの事で、潔く敏君も
承諾した事。中島叔母からこっちの都合は上首尾と云う電報を僕の母へやった事を話し、
すこぶる愉快な容子であった。実に三日見ぬ間の花ざかり、鈴江君と前回の談をして帰っ
てその足がまた中島家の門を入るまでの間に、斯く事が迅速に運ぼうとは実に意外であっ
た。なお別れるに臨み、叔母は敏君母子も不日帰国の途に上るについては、明後日あたり
打揃って花見の趣向がある筈故、あなたも是非来て下さらなくてはならず、今度逃げたり
隠れたりしなさるなら、最早お敏さんはわたしが貰ってしまって、あなたにはあげない、
と冗談まぢりに念を押した。
哲学の真理の美の人生のと大学では大分むづかしい問題をも云々して、可なり大きくな
って居るつもりの菊池君も、こんな問題にかけては、まるで三歳児のようにあやなされ、
腹も立てば、嬉しくもある、どこを掻いて宜いか分らぬが、とにかくどこかがむづ痒い心
地。
敏君は可としても、未来の義母の眼にまづく見えるも残念と、花見の前日から僕は行李
を虚にし破れ鏡に向って服装及態度の研究をしたが、矢張り正直は最良の政略で、質素は
粧飾の極意と云うことをやっと悟ったので、当日は例の通り角帽に制服ステッキと云う装
で、さも平気らしく、かねて落合所と定められた中島家に赴いた。
(十)
僕、敏君親子、清磨君夫婦、中島叔母中島夫人及不二男君、石川夫人及露嬢、婢一人、
総勢十一人、早めに午餐を済して上野から浅草、それから竹屋の渡しを渡って向う島へ押
出した。薄曇りの月曜日、人出の少ないのが至極の好都合。
敏君の母御に四年ぶりに会ってこっちから挨拶しあっちから顔見られる時のきまり悪さ、
少し見ぬ間に敏君が大分面痩せて見えるいぢらしさ、中島叔母と石川夫人を饒舌の二幅対、
敏君と僕を沈黙の二幅対にして、花に埋れる長堤をねり行く時の感、これ等は暫らく省く
としても、僕は帰途の一小事件を漏らす訳には行かぬ。
僕等一行が已に木母寺《もくぼじ》まで行って、帰途中の植半で早夕飯を済まし、
(今日
は又々松源の二舞をやった)ぶらぶら言問の渡の辺まで来ると、遊人は皆帰る時刻を何事
ぞ悠々とこれから散歩がてらの花見と云い顔にこっちへと来る女連を、近《ちかづ》くま
まに見れば、南無三、人もあろうに中川の老夫人、外二人の女伴は識らぬが、島田はまご
う方なき彼のお糸とか云う娘。しまったと思っても一筋道、容赦なく双方の足は進んで、
はたと行逢う。僕は是非なく列を離れて、中川夫人に挨拶した。
世馴れた老婦人の如才なく「おや、菊池君、あの時からいささかもお顔をお見せなさら
んから、どうしていらっしゃるかと思って居ました。今日はお花見?──ついお目にかか
りませんが、御親戚様でいらっしゃいますか」と眼は十一人を隈なく見渡す。中にも敏君
をしげしげ見る様であった。
中島叔母がこの時つと進んで、
「慎さん、貴方は?──ああ左様ですか、これは始めてお
目にかかります、中島と申してこの甥が叔母でございます、かねがねお世話になって、つ
いまだお礼も申しませず──」と四辺構わぬ大音に挨拶をしている。あのお糸とか云う娘は
顔を朱の如く紅くしてしきりにこの方──殊にお敏君を見ている。お敏君もさつと顔を紅
くして彼の娘を見ている。あちらの二人の女件もこっちを見ては、引下がって何か小声に
217
囁やいている。
「如何です一か、菊池様、何もお構は申しませんが、お茶一とつ、何せお帰途ですから、
なにわたくしともは最早帰ろうと致して居たのですから──」
中川夫人が勤めるので、僕は弱りきって居ると、よせば宜いに、中島叔母が折角ああ仰
有って下さるから、では一寸お邪魔をしましょうかと引受けてしまった。僕はますます弱
わる。
中川夫人が何かささやいたのでお糸嬢は真紅になって一礼し、他の二人と急ぎ足に土手
を左手に下りてしまった。生面者《みしらぬひと》の伴が殖えたので、不二男君や露坊ま
でが静かになって、一行言葉少に刻み足で小梅の別荘に行ったのは、最早誰彼時《たそが
れどき》
、昼間の雲はさらりと消えて、夕月の光薄く地に落ちて来た。座敷には電灯をつけ
て、人数だけ絹座蒲団を敷き、火鉢まで整然として、あの娘が恭しく一行を迎えた。車に
でも乗って急いで帰ったものと見える。
一月の間に、梅の代は過ぎて、池畔の老櫻雪の如く咲いている。風のすうと渡る毎に、
月影の散るかと見えてほろほろと花の池水にこぼれる風情、はさながらの歌である。しか
し僕は唯もう鍼のむしろに座るように冷々《ひやひや》している。敏君もしきりに落つか
ぬ容子。あのお糸とか云う娘も、茶をくみ、菓をすすむる間も、しきりに敏君を見つめて、
これも心騒げる様子。平気なのは鈴江君夫婦に石川の夫人、敏君の母御はしきりに電灯を
見、座敷の粧飾を見、庭の構の壮麗を見、あのお糸嬢を見て、黙って考えている。話は中
島叔母と中川夫人の間に専ら行われていた。
やがて中川夫人は一寸お談があるからと、中島叔母を別室に請じたので、あとはますま
すてれて、僕等はいよいよかたくなり、果てはこの体の筋が張り切れはせまいかと心配す
る程であったが、幸に如才ない江戸児の石川夫人がなにかと口軽くばつをあはせて、あの
お糸とか云う娘と四方山の問答して居たので、幾何か苦艱《くげん》を免れ、それから叔
母が出て来るを機会に、一同謝礼を述ベて立上った。
先の花見でも苦しみ、今の花見でも苦しむ、世に花見はど辛いものはない、と僕は逃げ
るように真先に別荘を出てからつくづく花見が厭になった。しかしこの回の花見は少くも
僕に二個の利益を与えた。一は敏君の母御の胸中に、僕が敏君の為めには如何なる利益も
拠棄地して顧みぬと云う感を意外に深く印象したのと、今一つはこれが為めにすっぱりと
中川の方の係累を免れたのである。別れる際に中島叔母は僕を招いて耳に口よせ、二間さ
きの者に聞える位の小声で、
「慎さん、少し荒療治だったけれど、中川の方はわたしがすっぱりとやったよ。何有、
先方もはやいもので、敏君を見ると直ぐ感づいた容子だった。何しろ一方は切れて、一方
は繋がる、今日は目出度花見だった。これでわたしもゆっくり寝られる。慎さんも今夜は
高鼾でおやすみなさい」
(十一)
中島叔母の所謂手荒な療治で、中川の方がすっぱり手切になった翌々日、敏君母子は無
事帰国の途に上ったが、五月の五日と云うに母の手紙が来て、談判首尾よく結了し、敏君
はいよいよ菊池慎太郎の妻と定まった事を報じて来た。
これについては、松村老人を説き、
218
義兄の謹次氏を宥むるなど、定めて一卜方ならぬ手が入った事であろうし、またあの蒲谷
代議士や周旋人の笠松後家の方でも随分激烈な対抗運動があった事であろうと思われるが、
三百余里を隔てた僕には母の苦心伯母の骨折敏君の母御の肝煎も大方は想像で、歴然と眼
に見たのは唯松村敏君が遠からず菊池敏子となると云う吉祥文字であった。
実に明治二十四年と云う年は、僕にとってなつかしい嬉しい年だ。
その五月にの節句に敏君の事もいよいよ定まったと云う確報に接し、その七月の五日に
僕は母を新橋停車場に迎えた。実はこっちから帰省する筈であったのを、母はまだ東京の
土を踏まぬので、一には僕が卒業式にも列し、二には東京も見物し、三にはまた帰省の往
来に無駄びまを費やすよりもとその間に身を固めるが大事と云う意見なので都合よくば僕
が最初の家持を世話する為め、国許の家は忠実な稗に留守をさして、さて上京したのであ
る。中島叔母や、鈴江君夫婦の切なる招きはあったが、母は寧ろ下宿の気楽を撰んだので、
荷物丈中島に預けて、旧い馴染みの彼本郷湯島の下宿松谷の二階の六畳を母の本陣と定め
た。
僕は最早この前後の事は順を逐って書くに堪ない。書く事がないではない、あり過ぎて
困るのである。しかしながらその中最も著しく今まで僕の脳裏に残って居る幻象を挙げれ
ば、新橋停車場の電燈の光で足かけ五年ぶりに見た母の笑顔、
(五年の歳月はやや母を老い
しめぬまでも熟させたように思われた、子を以て母を議するではないが、若し僕の眼誤ら
ずば、母は確かに年とともに圭角を磨し去り、どこか裕然《ゆったり》とした風を帯びて
来た、一は年、一は基督教を奉じた結果ではあるまいか)、七月十日の卒業証書授与式に僕
が卒業生総代として謝辞を述べ席に復する時参観者席にそっと涙を拭いて居た母の姿、大
きかったのは送別留別の騒ぎ、小さかったのは新聞の大学卒業生姓名の中に六号文字で出
た自身の姓名、きまり悪かったのは母と同道して保護人中川氏に礼に行った時、
(あの事件
後僕は彼の保証の進退伺でも出す筈であったが、一向意に介した風も見せぬ中川氏の大腹
中に恥じて、そのままにして居たのである)
、涙に咽んだのは母と打連れて谷中に恩師駒井
発生の墓に詣でた時、愉快は中島叔母や鈴江君夫妻に招かれた母の歓迎なり僕が卒業祝な
りの小宴、更に愉快は赤門に最後の別を告げて(僕は大学院には入らない事にしたので)
がらくたを人力二台に積んで母の下宿に行った時であった。あの下宿も三年の間に、客は
大分変わって、失脚落来《おちきたる》を朗吟した連中も最早立脚地を得て去り、僕の羽
織を質入にしようとして失敗した某氏もどこへか失せ、唯許嫁の写真を始終懐中して居る
と云う彼の医学生ばかり毎年毎年開業試験に落第して依然逗留して居たが、僕はその許嫁
とか云う人の為め真実その失敗を悲しみその成功を祈ったのであった。客は変ったが、相
変らず人の好い主人、僕の卒業を喜んで呉れて、これで手前ともから学士が三人お出にな
りましたと誇り、心ばかりのお祝いと称して神酒を持ち出したまでは宜かったが、僕等が
飲まぬかわりにさてひたすら手酌で傾け、果ては客よりも肝腎の主人が酔って散々に管を
まき、僕がおかたい方である事を繰りかえし繰りかえし母に保証するには弱った。幸に痘
痕の政子夫人が出て来て、亭主を叱り叱り引き立てて行ったので、やっと息をついたが、
しかし悠々行路の心ばかりの東京に、いささか酒臭くともこんな温かい心は珍らしいもの
の一かも知れぬ。
数年前下の三畳に新聞配達から帰って草臥れ果てた体を横えた時とは違って、同じ下宿
219
でも一階上って今は畳の数も倍、自分こそ片腹痛くも思う肩書きの文学士も主婦の待遇疎
かならず、朝涼夕涼の散歩にも母と打連れて、五年資竭《つ》きて老母を省し得ぬと云う
同宿の書生に羨まれ、
(散歩には何時も大分時間を費やした、
それは古道具屋を過ぎる毎に、
母は長火鉢とか、竃《へっつい》とかに眼をつけては値ぶみして見るので)夜は新を語り
旧を話してしばしば夏の夜の更くるを忘れ、よはど小声に話す積りでも、時には隣室の立
腹の咳払いを聞いて、尽きぬ話をそのままに明日に譲って黙ってしまうこともあった。
東京の夏を愉快な季節とは、後にも先にも唯この夏の感であった。
(十二)
望んではるかな三年の月日も、顧れば、唯一炊の夢の間に過ぎて、昨日かぶり初めたと
思えば今口は早角帽をぬいで文学士も気恥しい。何ぞや唯三年の課程を踏んで、幾冊の筆
記を拵えて、云わば手をとって教えられたいろはのいの字、上手に書いたればとてたかが
人真似、恥を知る身の吾は顔も出来る訳ではないのである。されば赤門に立って小手を翳
した僕は、今太郎坊を出て金剛杖つき立てて頭上の岳影を睨む登山の客にも似たろうか。
今までは多人数がやがやの遊山、草鞋の踏試し、これからが真の登山、特立独行独で汗を
たらして独りで上らなくてはならぬ。唯喜ぶ可きは、学は登山の二歩は一歩より眼界広く、
道は艱くも楽もまたのぼるはど深くなって、滴り落つる吾汗にそれを流さぬ人の到底知り
得ない鹹中の甘味が満ちてあることだ。
とにかく僕は帝国大学の三年を終えて、社会大学の第一年級に入ったのである。さてこ
れからは如何云う道をとって進もうか。
人間は振り出しが最も大事、首途に踏み損なうと、
生涯まごまごするもの。僕も身の振方には大分思案を凝らしたのであった。
なまじ秀才の優等のと学窓の虚名を博した結果、思わぬ手蔓が幾条かふりかかって来た
中で、一寸首を捻ったのは洋行の相談と、一は仙台に居られる菅先生の手紙であった。恰
卒業式の二ケ月ばかりが以前の事であったが、大学の教授で文部省の左る要職を占むる某
氏或日僕を召んで、馳走した上帰朝後文部に奉職する條件つきで僕に海外留学の香餌をあ
てがった。洋行は憎くくないが、僕は某氏が学問以外に文部省に自己の勢力を扶植するに
汲々たるを知って居たので、官金を以て私恩を売る挙動には何分にも感服出来かね、他人
の爪牙となって拍噬《はくぜい》の御用に立つのもあまり不見識な話と、忽ちに断わって
しまった。菅先生のはそれと違って、休養かたがた暫らく二高の英文教授に来ないか、校
長にも内々推薦して置いた位で、君さえ諾すればその筋の都合は如何でもつくと云ってや
られたのである。しかし僕の考では、ここ五六年はどうしても東京に留まって居た方が、
なにかの都合に宜いと思ったので、
(母もこの点は至極同意であった)
、先生の厚意を辞謝
し、その他一二地方からかかった口 (一は兼頭氏の周旋で愛媛県の中学校からの)はし
ばらく見合わせて、己むなくば下宿に藷をかじって売文の生活をする積りで居る内、明治
評論主筆の安藤氏の手から恰好の位置が見つかった。それは城北の某私立学校に一週十時
間英文学史の初歩を担当することとなったのである。無論私立の事ではあるし、今大学を
飛び出した新参の講師、
報酬が多くないのは当然の次第、
またあまり出世とも云われぬが、
そのかわり職務以外に何等の牽制も受けぬ事と、英文学も極の初歩であれば格別僕に骨も
折れず、学生には相当の満足を与えてこっちには比較的に時間の余裕を享けるが、何寄の
220
好都合。僕は母と相談の上早速応諾していよいよ九月から出勤する事に約定した。
僕が職掌も已に定まったについては、下宿住居も不便利不経済であるし、どこか学校に
あまり遠からぬ家をと、母と二人で毎日牛込を歩いて、市ヶ谷仲の町に家賃五円の小奇麗
な家を見出した。杉籬《すぎがき》を饒らした一構え、広くはないが庭に松櫻梅などもあ
り、八畳六畳二畳の玄関二畳の婢部屋、それに母屋から鍵の手に折れて四畳半の茶室がか
った部屋があり、僕の書斎にもなれば、母の部屋にも持って来いである。総じて南向きの
建方で、夏は涼しく、冬暖かく、台所の北向は疵だが、そのかわり井戸は和らかで好い水
だ、とこれは母の鑑定。表は巷路、東隣は士官学校に勤むる教官とか、西隣はどこかの楽
隠居、煩わしい事もないので、早速取きめ、八月下旬松谷の下宿を引払ってここに替り、
中島家に預けてあった荷物をとり寄せ、門に菊池慎太郎の札をかけ、両隣に引越蕎麦をく
ばり、ここに母と二人の生活を始めた。
仮にも、吾がと名のつく家に母と住むのは、故郷を出て以来今が始めて、指を折れば実
に十三年ぶりである。
僕は九月の中旬から、毎日袴を着けて、足駄を踏み鳴らして、学校に出勤し、暇暇には
明治評論に筆を執り、読書研究に忙しくて、唯時々水を汲んだり、跣足になって庭の草を
むしる位なもの、家事は一切母の手一つで行われた。母も旅での家持、世帯道具揃える丈
でも中々の世話、
(中島家や鈴江君等が頗りに加勢を申込んだが、掃除と買物はどうしても
自身でしなければ満足せぬ母の性分、それもその筈母は塵埃汚穢《ちりあくた》を仇敵の
如く憎み、また火箸一具求むるにも吟味して少し値は高くも持の宜いのをと求めたので)
大膳職、掃部の務、外務の応対、その隙には押入から畳紙を取り出してはせつせと裁縫を
している。
「阿母、最早およしなさい」と云っても、母は「何有、この位は何でもありませ
ん」と云っている。婢を雇いましょうと迫っても、ま、お待ちなさい、その内にと云って
いる。僕も教場では随分新学土の威厳を保って、ない髯を引張って見たり、澄ましたもの
だが、帰ると袴をとって「阿母、何かありませんか」とは吾れながら恐ろしい若返り様。
しかし母は叱りもせず、手づから茶を入れて、拵えて置いた薩摩煎りを蝿入らずから出し
て、母子相対して無駄話しながらの味は実に云い難い程であった。時たま清磨君が来て見
ては、
「君の家は非常に立派だなあ、我輩の家は、家が狭いか、道具が多いか知らないが、
始終居所もない位だ」と感嘆していた。
実に僕はこの頃程幸福な日を送った事はない。このようにして母と住むならば百年も一
日の如く過ぎるであろうと思った。しかしながら僕等が唯二人住む時も最早長くはない、
僕が身生の一変動は今や刻々迫って来たのである。
(十三)
今年の櫻花季節に業を卒えて帰国した以来、敏君の消息は重に清磨夫妻の手から伝わっ
た。その後母の上京で、更に詳細な事情が知れ、また母の上京後も、野田伯母や敏君の母
御と吾母の間に始終文通があって、彼方の様子は略知れるのであった。しかしながらその
消息の何れの手から伝わるを問わず、敏君に関する報道はすべて満足す可きものばかり。
一度の病気もいたし申さず、針仕事や台所の事に日日出精致し居、近頃は台所(隠宅ので
あろう)にわたくしの足をいれさせ申さず、と母なる人が報ずれば、野田伯母もまた敏君
がどこにも評判よく、あの様であってこそ東京遊学の甲斐もある、見上げた者、と近所の
221
噂とりどりである事を報ずる。敏君の談が出れば、母は毎も「怜悧で、やさしくて、而し
て心に張りがあって──先づわたしが今迄見た娘の中にあの位気に入ったのはない」とそ
う誉めた。信ずる者に愛する者を誉められるのは、朝日に玉を翳《かざ》して見る様なも
の──光は倍するのである。
僕は満足した。無論二人の間には文通もなく、
(尤も唯一度、母御が病気ででもあったと
見えて、代筆の書状が来たことがある。美しい仮名の書きぶり、まだどこかに芽出し柳の
若若しい嫋《たお》やかな所があって、確かにお敏君の手跡とは知られた。その中に、慎
太郎ように宜敷と、書いてあったが、母御の名前ではあれど、書いた人の心情が見えて、
なつかしさもまた一層であった)何事も間接のまどろかしく、若しこれが鵠沼以前であっ
たなら、片時もぢつとして居られぬ所であるが、最早互の心も知れ、前途も確かに定まっ
た以上は、何を左様悶うることも、急くこともないのである。しかしながら母を始め清磨
君夫妻、野田伯母、中島叔母、また松村の母御の間に、何時か結婚問題の気脈は通じて、
或日突然母は僕に結婚式を年内に挙げては如何かと云う相談を持ち出した。
僕は躊躇した。何となれば、僕は当年かぞへ齢の二十四、敏君は十八、何方かと云えば
早婚である。加之僕もこの夏大学を出て、つい先月から専門学派の新参教師になったばか
り、位置もなければ、財産もない、まだ真の一寒書生を、──結婚などとは実際早過ぎる。
せめて今少し身も立ち、名も揚り、産も出来、とにかく世間普通の門戸を張ってからの事
にしたいもの。せめ敏君に縮緬の三枚襲《かさね》繻珍《しゅちん》の丸帯位は心易く贈
って、来早々敏君の彼可愛らしい手に皹《ひび》あかぎれは知らさぬようにしたいもの。
西洋では婚約の時期は往々二年三年五年十年の久しきにも捗ることがある。今山年位はこ
のままで──と僕は逡巡した。
しかし母の意見はとくに決まっていた。成程西洋ではそんな事もあろうが、日本の事情
では、その婚約とかをあまり延ばすのはよくない、加之何も結婚が人の最後ではなし、云
わば真の土台の据えはじめ、二十四を早いとは云われぬ、成程身も立ち名も揚っての結婚
は望ましいが、土台から夫婦で築き起した家はまた格別の煩悩がつくもの、気心を知り合
った仲では何もそう見栄を張るにも及ばぬこと、枉げてこの事は阿母に任せて下さい、と
僕を退引《のつぴき》ならぬ地位に置いた。何時とはなく四辺が妙に匆々し出すとともに、
僕の身達に一種香しい靄が立てこめた。譬えば旅人が遥かに霞こめたる一区の山水を眺め
て、未だ遠い遠いと思って居る中に、足は進み、景は寄って、何時ともなく霞の中を歩い
て居ると同じく、結婚々々と何か遠い事のように思って居た結婚も間近に迫って、不図気
づけば温かな香しい靄が朦朧と身を包んだのである。
僕の生涯は少しも変わらない。朝早く起きる。母の手助けに雨戸を明ける、水を汲む。
学課の予習(教師としての)をする。足駄を鳴らして早稲田へ通う。帰る。読書する。明
治評論の原稿を書く。散歩する。或は明治評論社へも行く。清磨君も尋ねる。大学から遊
びに来る浅井や二三の知己と談ずる。或は図書館(大学も上野のも)に調物に行く。日々
の行動は少しも変わらぬ。しかし四辺の光景は、秋ながら春霞がかけている。こんな時に
はいよいよ落ついて、澄まして、厳然として、冷澹にして、平気にして居なければならぬ
と思って、随分と自己を保って居た積りであったが、或は恐る、それは酔った人の酔わぬ
酔わぬに類しては居なかったか。
222
何だか夢の様だ。
否、夢ではない、厳然とした事実である。母が今迄よりも一倍忙しくなった。松村家や
野田伯母からしきりに手紙が来る。母がしきりに手紙を書く。清磨君や中島叔母がたびた
びやって来て、僕を除外物《のけもの》にして何か母としきりに相談している。
然だ。夢でもなければ、嘘でもない、僕と敏君の結婚は最早旬日の間に迫ったのである。
(十四)
秋雨季節が過ぎて、秋晴れの玉の如き季節は始まった。蝸牛の歩捗取らぬようにもあれ
ば、電光石火のあまり短かいようにも思われる一日又一日は取次に過ぎて、
「今日立つ」と
云う電報が国許から届いた五日目、十月の二十五日に松村隠居夫妻が敏君を連れて、渋谷
の清磨君宅に着いた、と云う報知があった。僕が身辺の霞はまた一段の濃を加える。
松村老人夫妻が僕の留守に訪問に来る、母が答礼の訪問に行く。二十七日には、媒酌役
の中島隠居が、今日は謡をやめ、小鼓をさし置いて、羽織袴で、結納を渋谷に齎らす。
(慎
さん、結納には何か実用になる様なものをやりたいが、何にしようか、と母が云うので、
家政学の本でもやりましょうか、と真面目に云ったら、何ですね、そんな事を、と母は笑
って到頭帯にした、白茶地に白菊を織出した七糸の)。二十八日には、清磨君が鹿爪らしく
羽織袴で、礼物を持って来る。
(魚子地が一反、糸織りが一反外に品々)。式の日取が定ま
る。十一月三日、天長節の吉日。場所は狭くも牛込の自宅で、客は水入らずの誰々彼々と
定まる。僕も相談の席に列するが、所謂員に備わるばかり──大抵の事は母と清磨君、中
島叔母、松村の母君の間に定まるのである。
僕は未だ敏君を見ない。見ないが、二里とは離れぬ渋谷に、──以前のように、帰国し
てしまう為めに出京したのではなくて、限りなく留まる為めに──来て居ると思うと、云
う可からざる悦びが心に溢れるのである。なつかしい面影を見ず、なつかしいその声を聞
かずも、その気はいを感ずる。時としては一寸行って、あの枳殻《からたち》の垣の隙か
ら、何をして居るか、覗いて見たくてたまらぬが、馬鹿な事をと、自から叱っている。中
島叔母の話によれば、敏君は少し面瘠せて、更に一段美しくなったと云う。清磨君の噂に
よれば、内が狭いので、敏君の荷物は尽く石川家まで運んであるそうな。しかしそんな事
は如何でも宜い。吾敏君がいよいよ吾敏君になるも、最早一週日を出でずである。
僕は依然として早稲田に通っている。
日々の勉強をつづける。若くはつづける風を為る。
結婚位に驚くものか、と世にも落ついている。若くは落ちついた積でいる。しかしながら、
英文学の教場で、学生が皆莞爾々々して居るのは、如何したのであろう?書に対すると、
頁が左右に開いて、活字が一つ宛起き上っては、お辞儀をして、とんとんとんと足拍子を
踏んで、万歳を舞うのは、如何したのであろう? 門前を「目出度イ」とふれて歩くを、
誰かと見れば、豆腐屋だ。庭に一枝吹き出でた菊を眺めて居ると、それが段々人の笑顔に
なって、果ては溢れそうに笑う。不図軒端で誰か早口に僕の噂をして居るように思って、
見れば二羽の小雀が仔細らしく小頚傾けては、一寸こっちを睨めて、また早口にしゃべ《口
偏に堯+舌》っている。日々早稲田に通う道すがら、散歩に出る路すがら、今まで見もせ
ぬものが見え、聞えもせぬものが聞えて、全体ここはどこであったか、と立とどまった事
は一度や二度でない。僕は如何かしている。否、こっちが如何かして居るではなくて、全
体四辺がまわるのだ──それに違いない。こんな時には、落ついて、二倍も勉強するのだ。
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と思って、僕は一心不乱に書見をする──しかし読み終って何の事か分からず、よはど注
意しないと、同じ行を何十遍も眺めている。明治評論の原稿紙を前に置いて、筆を握って、
文案は宜いが、ややともすれば、原稿紙に誰が書いたのかか僕ではない──菊池敏、敏子、
お敏など云う咄々怪事の文字が何時の間にか現われている。ままよ、誰も居ない、一寸云
って見ようと、小声に「お敏」と云って、恣《ほしい》ままに微笑を溢して居ると、
「旦那
様」と後に声がする。喫驚して顧れば、二三目前に雇入れた年若の婢だ。
「何か」。
「一寸御
隠居様が」
。叱られに行く悪戯小僧と云う格で、六畳に行って見ると、母は今仕立上げた仙
台平のしつけをふっつり噛んで「さ、慎さん、一寸穿いて」と莞爾。婢も畏って笑ってい
る。人を馬鹿にした袴までがキュウキュウ笑う。
この頃の僕はどこに住んで居たのか、多分この世界では無かったかも知れぬ。あの霞の
区に入って以来、僕の視聴はまるで逆ようになって、小さいものが大きく見え、大きいも
のが小さく見え、不思議と思った事が通常で、通常が不思議に思われ、都の騒がしい真中
を通っても春の水唯悠然と流れ行く緑の野辺を歩くように、而して声なきものに却って声
を聞くのである。何を見て。も、四角三角なものはなくて、唯楕円形に見える。僕の霊魂、
僕の存在はさながらの流動体になって、感と云う感、想と云う想、すべて融け合い、揺々
して、一の定形をなさぬのである。一廉鍛ひもし、磨きもし、随分と硬くなった積の菊池
慎太郎も、何時の間にか鎔炉に投げ込まれ、坩堝《るつぼ》の中に融けてしまって、──
実際僕はこのまま蒸発して了うのではあるまいか、と恐れた。
しかしながら幸に形だけはこの世に取とめて、僕は心得顔の秒、分、時、日の送るまに
まに次第に結婚と云う不思議の国へ近づいた。僕を睡遊者の共に比すなら、ぱつちりと醒
めて居る母ははきはき万瑞の事務を捌いて、式の前日には、なにかの手筈も全く整い、板
の間は光るように、畳は滑る位に、庭は鉋をかけたように、隅の隅まで掃除は立派に出来
て、婢も無事に苦しむ位。夜は、磨かれて光まさるランプの下に、母子相対《さしむか》
いて、茶を飲みながら、話すとはなく良久しく時を移した。
(十五)
十一月二日の夜は夢もなく明けて、起き出づれば天長節の日本霽《はれ》
。
「今日が結婚の日だ」とは醒めて第一の思であった。
未だ結婚の意味もよくは解せず、良人たるの道も知らぬに、最早今日は結婚するのだ。
と思うと、独身の生涯が名残惜しいようにもあり、また共棲の時を待遠い心地もする。明
瞭に今の位置を考えて、過去の清算をして、整然と心の緒を揃えて──と心の整理にかか
って見たが、感も想も唯溶々と解けて流れて、眼には見えても手にはとられず。さながら
サウナにでも入ったように、清清しくて、うつとりとして、何と云い様もない奇妙な心地。
朝飯《であったと想ふ》が済むと、当分要もない僕。いささか散歩でもして来ようと、
ステッキを振って出かけた。千門万戸にはたたく国旗の影、君が代は千代に八千代にと子
供が歌う声も、今日は殊に可愛いくてたまらない。それから道を転じて、処々の菊園を音
づれた。多分花盛りであったと思うが、よくは覚えていない。
帰って見ると、早や中島叔母が加勢の婢を二人引連れて来ている。書斎の四畳半に入っ
て見ると、これは如何したもの、白桐の箪笥、行李、革嚢、萌黄の大風呂敷包、鬱金《う
224
こん》木綿の袋、その他品々室も狭しと積んである。驚いたが、忽ち莞爾と笑んだ。叔母
が後からついて来て、今日はこの室を花嫁の更衣室休憩室にするから、慎さんは六畳の方
に居て下さい、と云う。
昼飯《であったと想う》が済むと、僕は理髪舗に行って、それから湯に入って、それで
もまだやっと二時、秋の日の長いことおびただしい。幸い思いがけない新五がやって来た
ので、取りとめもない事を話して、時間を殺した。新五は所要あって十一月下旬に上京す
る心算《つもり》で居たのを、母が僕の結婚を報じたので、是非その式にと急いで来たの
であった。「矢張松村の嬢様が御縁がござした喃」、あの中川の事を御勧め申したのは、新
五が勘違い、何卒堪忍して下されよ、と新五はしたたかに詫びた。而して何であったかよ
くは覚えぬが、母や僕や敏君に銘々に山の如く土産物を持ち出した。それから程なく絶え
て久しい彼の志津牧師が来た。志津氏は今度東京に開かれる基督教の教師牧師の大会に出
席する為め上京したので、僕や母や松村一統と相談の上、同牧師に折衷流の結婚式を司ど
って貰うことに依頼したのである。同牧師の面影は故兼頭君の面影を喚び起し、噫兼頭君
が居たらどんなに喜んで呉れるであろうと思い、その許嫁のお冬君の寂しい面影がどこか
らか朦乎《ぼうつ》と現われて来たが、夫も唯一霎時《しばらく》の事、何も角も今日の
悦に吸われてしまうのであった。
日が傾く。暮れる。間毎にランプがつく。母の手添で、僕は晴着に更えた。桔梗の紋付
の小袖、羽織、仙台平の袴、皆母が蚕から飼い、糸からとって、手づから織り、京都に染
めさして、手づから縫ったのである。中島叔母が側から見て、「立派、立派」と囃す。僕は
さつと赤面しながら、六畳の溜へ行く。
柱時計が六時拍つ。忽ち門前におびただしく車がとまる。僕は息を呑む。遽《あわ》て
て玄関へ出た中島隠居や叔母や、それから松村老人や松村の母御や僕の母の声が、襖一重
越しにごっちゃになって聞える。花嫁は直ちに僕の四畳半に導かれた気はい。
清磨君や石川氏や明治評論主筆の安藤氏が莞爾々々僕の溜へ挨拶に来る。丸髷の鈴江君
が何か取りに来て、誤って僕等が話して居る六畳の障子を明けながら、
「おや」と云って莞
爾笑って「お目出たう」と僕に挨拶し、清磨君を見て「良人、一寸」と呼び立てて、何か
云っている。清磨君が頭を掻いている。
門前も、勝手元も、座敷も、六畳も、笑声だらけ、目出度の挨拶だらけ、何だか吹き上
げの泉でも見るように、人声や物の光やすべての物が、さざめいて、きらきらして、狭い
家に溢れている。
*
*
ややしばらくたった。
新郎新婦相並んで、座敷の床の間に向って、志津牧師の聖書朗読を耳にしている。羽織
の紋の桔梗と、羽織の紐と、襟と、足袋を除けば、僕の服装はすべて純黒。面の桜色と烏
羽玉を除けば、敏君は渾身雪白(これはその母君の嫁時の白無垢を是非と云って敏君が着
たそうな。ただし帯は結納に贈ったあの白茶地に白の乱菊を織り出した七糸のをしめて居
た)
。僕は敏君を見ない、唯神々しい白光に照らされる思。
志津牧師が祈祷を始める。背後に一同の粛然とした気はいがする。しかし、その実僕は
何も聞かず、何も見ない。耳に残ったのは、唯志津牧師が祈祷の後で、朗読した契約書中
225
の「憂歓苦楽を共にし偕老終天の約を全うし」という一句であった。
媒酌役の中島叔母夫妻が志津牧師から二通の契約書を受取って、一通を敏君に、一通を
僕に渡す。懐中して志津牧師に一礼する。互に一礼する。中島叔母夫妻の注意で、顧みて
一同に一礼する。一同が答礼する。
式は済んだ。松村敏子は最早限りなく菊池敏子となったのである。
*
*
*
*
*
同じ座敷の正面床の間を背にして、僕は新婦(薄色縮緬の三枚襲《かさね》に着更えて
居る)と相並んで座している。僕の右には松村の老人、新婦の左には吾等の母が座してい
る。松村の阿母、中島隠居夫妻、清磨君夫婦、石川氏夫婦、安藤氏夫婦、中島若夫人、志
津牧師、新五、
(中島若主人は航海中。兼頭一道氏も招待したが、去り難い急要あって、断
わりの使が来た。残念なのは野田伯母が道遠い上に、学校のはづし難くて、この座に漏れ
た事であった)皆程よく右左に居流れている。家婦と、渋谷から加勢に来たお銀が、おの
おの服をあらため眼八分に大きな黒塗の饌を捧げて来る。しかし僕は何にも箸をつけぬ。
つけても、更に物の味は覚えぬ。のみならず、何も見ず、聞かず、云わず、思わず、唯座
していた。吾側に敏君──吾妻が座っている。感ずる所唯そのみである。室が狭い割に客
が多くて、次の六畳の一部を屏風で取きって、新五や中島若夫人などは敷居の向うに座っ
て居る程であったが、しかし幸に一の混雑もなかったそうな。一切酒を用いなかったが、
しかし陽気な一座で笑声や話声は始終絶えなかったそうな。清磨君が立上って、野田伯母
から送り越した祝歌を読み上げたそうな。中島隠居が得意の高砂を謡ったそうな。新五が
狭い家にはあまる程の大の洋服体をやおら起して、演説をしたそうな──新五が僕を孩児
《こども》の時から知って居て、屹度秀れ者になる見込みをつけて居た事の述懐や将来の
予言や、若し僕が平生の耳で居たら慙死する程の大言壮語を例の「ござす」言葉でやったそ
うな。それから明治評論主筆の安藤氏も負けぬ気になって僕が貧書生で居た時の事を述べ
て、文士の為に大気焔を吐いたそうな。中島叔母があの向う島の花見に僕が中川連に会っ
て弱ったことを素破ぬいて、満座の喝采を博したそうな。如才ない石川夫人の良人の如才
ない石川氏が、
自身の結婚の時の失策談を持ち出して、この又満座の大笑を博したそうな。
僕は「そうな」と云う。何となればこの等は大抵後で確めた話で、思いめぐらして見る
と、実際その事があった様でもあり、また無かった様でもあるからである。唯一座が非常
に賑やかで、皆がよく笑い、殊に松村の阿舅が言毎に高笑したと云う丈は、ただ記臆して
いる。
*
*
*
*
*
約三時間あまりも過ぎた。
賑やかに笑った一座は、また賑やかに立った。松村の阿舅阿姑を始め、媒酌夫婦、清磨
君夫婦以下或は「大安心しました」と笑を傾け、或は「お目出度ございました」と会釈し、
賑やかに帰って、座敷には母と僕と吾妻と唯三人残っている。
「阿母、嘸おくたびれなすったでしょう?」と僕は母の真面目な顔を眺めた。
226
「否、いささかも」と母は莞爾したが、また直ぐ容をあらためて「慎さんも、敏さんも、
一寸来て下さい」と身を起した。
椽側伝いに四畳半に入ると、母は床の前に立てた二枚折の小屏風を静かにかたよせた。
床には小机を据えて、茶色がかった古い写真を飾ってある。亡き父の写真だ。
僕等夫婦が写真の前に跪いて一ように頭を下げると、母も跪きながら、
「御目にかけたい!」
と落涙した。
僕も思わず落涙する。敏子は差腑いている。
これが斯目出度日に於ける唯一の涙であった。
十の巻 終り
227
巻外
(一)
僕と敏子の結婚式が済んで一月ぶりに、松村の舅姑と打連れて、
母は帰図の途に上った。
僕も敏子も是非にと引留めたが、母は夙に思案を定めて居て、彼方の片づけやら何やら角
やら是非一先づ帰国しなければならぬ、と云って立った。これには蓋《けだし》母の深い
考があったので、兎も角も新婦が家馴れ物馴れ人馴れるまでは、同じ家に二人の主婦が居
る様でもなにかの為に宜くない、と飽くまで僕等の上を思っての挙動《しうち》であった。
出発の前日、僕等三人例の四畳半にさまざまの物語をしたが、母は敏子に向って、今後
は家内の全権を挙げてあなたに譲って、吾身は真の隠居になるのだから、何事も二人の相
談で、決して遠慮がましい事がないように、存分やってもらいたい、共についてあなたに
何か置土産をと思ったが、
と云いさして、
袋棚の手箱の中から紙に巻いたものを取り出し、
「慎さんも、敏さんも、聞いて下さい。ここに公債証書が四百円許《ばかり》ありますが
ね」
と母は僕が明治十六年に国許を出奔して以来、僕が学資にと、蚕を飼い、糸をとり、織
物をし、その他一銭の収入でも差寄残し置かれるものは、尽く或は銀行に、或は郵便局に
貯金をして置いたのが、この八年間に利子共に五百円あまりになった事、しかし僕がこの
八年間にいささかも母の手を煩わさず徹頭徹尾自から働いて勉強したので五百円には少し
も手をかけなかった事、尤も一回病気の時に五十円ばかり出金しまた鈴江君の結婚の時五
十円ばかりその内から出したので今は四百円余になって居る事、
(結婚費は僕が小冊子を書
いたり、何かして、零砕の金を貯えて置いた中から支弁した)菊池家も不幸後は殆んど一
紙の残る物もなくて僕等に譲るものとては系図一巻、刀剣が二本、掛物少々の外は唯この
公債証書四百円に過ぎぬ事を話し、しかし千両箱を山のように積んでも落魄《おちぶ》れ
る者もあれば、腕一本で立派な人になる者もあり、皆その人の器量次第、心がけ次第であ
る事を話し、
「慎さんもこの迄随分骨が折れたが、これからがまだ中々ですよ。でも、困難
に打勝って道を開いて行くのは、辛くも楽みなものです」
*
*
*
*
*
母の言葉は違わなかった。
若し結婚前を戦闘の生涯と云うならば、結婚後の戦闘は更に複雑更に多方面の戦闘であ
った。而してこの三十年戦争の上巻二十年に於て、僕は百万騎の味方にまさる味方を吾母
に見出したが、後十年間の戦闘には更に一の強大なる味方を得た。それは云うまでもなく
妻敏子である。
万の物に貧くとも、僕は確かに天与の二大幸福を有する。賢母と良妻とである。母が一
家没落の中から確と僕を抱き上げて、この頑鈍の心に生命を吹き込み、二十何年の間陰に
陽に僕を刺衝《ししょう》し監督し奨励し慰藉し、僕をしてあらふる悪魔と奮闘するの勇
気を起さしめた事は、已に述べ来った十巻の歴史によって、略その一班を明らかにしたと
信ずる。而して彼の結婚以来、敏子が如何に僕の光明となり、生命となって、僕をして倒
れてもまた起ち、失敗してもいよいよ向上の勇を鼓せしめたかは、まさに是れから述ぶ可
228
き所であるが、今はその機会を有たぬのである。
結婚のその月、僕が敏子と相談して、家憲を定め、如何なる事があっても、負債をせぬ
事、
(何となれば、財布を握られるのは、往々にして霊魂を縛られることになる)
、綿服に
あらざれば拵えぬ事、緊急にあらざれば車に乗らぬ事、月収の十分一乃至十五分の一を必
ず貯金する事、
(これは甚だ困難であった。収入が少ない上に、予算外の費用が遠慮なく加
わって来て、加之少額ではあるが、大学で受けた奨学貸費の月賦返済も、きまりきって加
わるのだから)
、要するに勤倹の二字を厳重に励行する事を約定した始末。貧家浄掃地《ひ
んか きよく ちをはらう》と云う格で、敏子がその溢れる趣味と器用の手を以て、殆んど
一物もない寒家を暖かに、美しく飾り(僕の書斎の前の掌大の空地に、薔薇を挿したり、井
戸側の猫の額程の地に西洋苺を植えたり、障子の破一つ繕うにも花形を切り、状挿し一つ
も手づから厚紙で製えて、朝顔の花でも書くと云うように)
、最もつましく消極的経済を行
う同時に、僕の心身の快を慮り(最も驚いたのは、敏子が何時の間に見聞いたのか、僕の
食性を諳《そらん》じて、巧みに僕の嗜好物を調理してすすめた事である。若し西洋の諺
に云う通り、男子を攻落す間道は即ち食道であるならば、細君は確かに僕の死命を制する
の手段を有って居るのだ)
、家政の傍しばしば僕の為めに引用書を調べたり、草稿を浄写し
たり(女の字のように見えても宜くないとか云って、しきりと右あがりの硬くるしい字を
書き、顔真卿《がんしんけい》の楷帖など習って居た)実に渾《すべて》の意味に於て僕
の封助者となった事。これ等は今ここに詳しく述べる機会を有たぬ。
明治二十四年十一月から今日に至るまでの十年間、我日本は非常に多事であった如く、
僕の生涯もすこぶる多事の生涯であった。専門学校は二年ばかり通って、三年目からは一
週三時間出ることになった。
(関西学院の片山校長から、当時下谷教会の牧師をして居る旧
友遠藤──五年間羽織一枚で通した「思想家」の──を以て、僕に史科の教授になるよう
に論《さと》され、その他一二高等学校に奉職の口もあったが、思う所あって断わった)
。
明治評論の方は、主筆安藤氏が仔細あって身を実業界に投じて以来、僕の主管に帰し、幸
いに雑誌界落寞の間を以前にまさる読者を繋ぎ得て、政治上社会上文学上の評論は、幼稚
ながらも一切世論に頓着せず、思うが如く云い、行わんと欲する通り論じて、いささか無
位の諌官、無官の弾正、説教家ならぬ説教家、教育家ならぬ教育家、進歩軍の別働隊とし
て立言の機会を得ると共に、一方にはまた卑名も少しは人に知られることとなった。二三
の小著も公にした。篋底《きょうてい》には未定稿のや大部の著述もある。大学に居た頃
からやりかけた徳川時代の研究は、
更に僕を駆って、封建の末路から新日本出現の逕路を、
非常の興味を以て辿らせたのである。さながらイリー湖がオンタリオ湖へ移る間にナイア
ガラの瀑布は轟く如くに、封建的日本が二十世紀の日本に替る過渡──維新前後の五十年
は、実におびただしい戯曲的色彩を以て僕の眼を射たのである。僕は自ら揣《はか》らざ
るの大胆を以て、試みに一篇の歴史的小説を草した。篋底に蔵すると云たのは、この一篇
である。
十年の月日は、大抵人の浮沈を定むるもの。大学の門から肩を揃えて社会の海に飛び込
んだ者の中には、十年経った今日、どこに居るか影も見えぬ者があれば、逸早く浮み出し
て、抜手をきって島に泅《およ》ぎ着く者もある。僕の如きも、有体に云えば、わづかに
溺れるを免れた一人であろう。しかしながら風潮の便を仮らぬ泅手は、骨が折れるも当然
229
の理、おくれ勝なるもまた致方ない次第と云おうか。しかし凡夫の眼は近くして心狭く、
身は是れ永劫の海に結ぶ間もなく消える泡沫の果敢なきものとも知らず、長短大小尽く大
能の掌上に載す運命の圏を伝ってめぐるものとも知らず、人生の競争に遅速の見はただ是
れ眼迷ひ《おぷてぃかる でりゅーじょん》のわざ、エジプトアッシリアの文明を早しと羨
むにも及ばねば、おくれて開けし日本を不幸とも吊《ちょう》されず、
「後なる者は先にな
り、先なる者は後になり」して躍るも観るも皆共にめぐる浮世のまわり舞台、千両役者も
とったりもなくて叶わぬ共稼ぎと悟って見れば何の不平所かと思っても、誰は高等官何等
になって年俸が如何したの、誰は博士になってどこの講話で大喝采を博したの、誰は株式
取引所の何になって金が金庫に唸るのと云う評判を聞いては、何だか後くれた様な気がし
て溜まらず歯がみして地鞴《ぢたたら》を踏む気にもなったが、しかしながら幸に踏みも
迷わず、大学を出る時の覚悟をどこまでも維持し得たのは、これ実に吾力では無くて、吾
信仰理想の管を通じて落つる天来の光、師友の感化、母の感化、敏子を中心にした家庭の
感化に帰せなくてはならぬ。これについては、述ぶ可き事もおびただしいが、今は茲に詳
説するの機会を有たぬのである。
僕の家庭もまた大分成長した。母は帰国した翌々年の十月、長男慎一郎が生れる頃に、
国許の家をたたんで上京した。而して慎一郎が三歳の秋、長女の静が生れた。玄関側の六
畳には知己から頼まれた子弟三人寄寓している。僕はなお牛込の借家に住んでいる。しか
し最初の家よりは遥かに手広で、庭には慎一郎が筋斗翻《とんぼがえ》る芝生もあり、二
階には親類朋友が来て泊る室もある。
この十年間を回顧すれば、僕は実に書く可き事の多きに堪えぬ位。前二十年を記して、
後十年を省くは、非常に遺憾に思う所である。しかしここには書く可き機会を有たぬ。他
日必ず「後十年」と云った様なものを公にする積である。それには敏子が家政の余閑に書
いた「わらわがおもひ出の記」も添えて、公にしようと思う──僕等が結婚の生涯は、詳
らかにここに説いてあるから。
僕は最早この長物語を終る可き時となった。しかしながらここに省き難い一節がある。
それは両三年前、久し振りに故郷妻籠に帰省した一件である。
(二》
強者の堅吾叔父が没して以来、菊池慎太郎の名がぼつぼつ世間に知れて来ると共に、絶
えて久しい故郷妻籠の親類から何時とはなく文通が始まって、色々の事を尋ねたり相談し
たり頼んだり、する中に、是非一度帰省して、今は昔にかはる故郷のさまも見て呉れるよ
うにと云いおこせた事も度々であった。僕も母と相談して父の十七回忌には必ず帰省して
法事も営み、なつかしい父の墓に香花を手向けようと思って居たが、恰その年征清の役《せ
いしんのえき、日清戦争》が起って果さず。その後一両年は殊に寸暇もない多忙に追はれ
て、帰省の事も暫らく一辺《かたえ》に押やられて居たが、明治三十年の春しばらく閑を
得たので、一家打連れて久々振に帰省の途に上ることとなった。
帰省の勧めは独り妻籠から来るのみではなかった。清磨君夫妻、松村一家からもしきり
に一度下って来るようにと云って来たのである。清磨君は僕が結婚の翌年、獣医学の研究
を一先づ卒えて、あたかも好し、国許の農業試験所の顧問に聘せられたので、一家を挈《た
230
づさ》えて帰国し、而して間もなく野田伯父が売払ったあの屋敷を買い取って(村人も野
田伯父の旧恩を思って、ここを先途と尽力したので、清磨君はよはど廉価に買い得たので
あった)故養父の志を嗣ぎ、しきりに園芸牧畜の業をやって、牛酪の缶詰、杏、桃、梅、
種々の果物で製したジャムの缶は、清子《長女》大一郎《長男》大次郎《次男》三人のぽ
ちゃぽちゃ太った可愛らしい写真と共に、年々東京に上っては僕の家庭を見舞った。清磨
君も時たま上京しては宿る毎に、
是非一度下って屋敷の整頓して来たさまを見て呉れ給え、
写真だけでは物足らず是非東京の孫共の生きた笑顔を見たがって居る実家の父母を満足さ
して呉れ給え、と切に迫った。野田伯母からもしきりに云って来た。
かの新五もその炭鉱事業のますます盛大になって、社会問題労働問題研究の一瑞として
僕が種々新五に注文して置いた諸般の設備も大分緒についたに付ては、是非一回見て下さ
るようにと、しばしば云って寄越した。のみならず新五は是非とも僕を衆議院に出したが
って、已に妻籠の有志者とも内々手筈を定めて居るらしく、無論まだ僕の年齢も三十に満
たぬのであるから、今明年と云う訳には行かずも、是非撰挙区民に一度僕の顔を見せて置
きたい心根で、しきりと展墓《てんぼ》を促したのであった。無論文学者は必ず書斎にか
ぢりつく可きものでもなく、衆議院の一席は左程有り難くないにもせよ、何れの党にも派
にも属せず真に国家の利害を思って行動する独立不羈の議員は唯一人と雖《いえ》ども無
用ではあるまいと思ったので、僕も若し撰挙区民にして決して一地方の利害の為めに天下
の利害を後にする様な要求をせず、全く僕の良心次第に運動する自由を与えるなら、故郷
の選挙区を代表するも差支はない、と云う意を新五に通じて置いたのである。
とにかく帰省の理由は連《しき》りに重って来たので、明治三十年の三月三十日と云う
に、留守は寄寓の書生達に託して、母、僕、敏子、長男慎一郎、長女静、婢、
(中島叔母も
是非一所にと云って居たが、今年は例の足痛で、見合わした)一行六人、霞と共に東京を
立って東海道汽車の中も賑やかに、神戸に二日逗留し(一日は須磨明石に遊んだ為め、一
日は絶えて久しい片山校長を訪問して昔の事ども謝し、それから校長の依頼でなつかしい
関西学院に演説した為め)汽車の長旅もよくあるまいと云うので、神戸から商船会社の汽
船に乗った。
幾度通っても飽かぬ瀬戸内海の春景色。一家挙《こぞ》って甲板に出て、当年五歳の腕
白者の「僕さん」
(これは長男慎一郎の綽名である。僕が「僕、僕」云うのを小耳に聞き覚
えて、二歳三歳の頃から「僕、僕」云うので、何時しか皆が僕さんと云うようになった)
が船にも驚かず悠々と鏡の如き水の上に浮いて居る鴎を捕えると云って船外に飛び出しそ
うにするのを僕がやっと制して居れば、女の静は母の手に抱かれて、清々しい海風に吹か
れるのが快よいかして連りにひょいひょい飛び立つと、彼女が祖母の吾母は手を拍《たた》
いて「お出でお出で」とあやしている。やや久しく遊んで、母と婢は二人の子女を連れて客
室へ下り、僕は敏子となお暫し海山の長閑かな景色を眺めている。折ふし船尾には誰も居
ず、僕等はさまざまの物語をした、──国許の父君母君がどんなにか指を折って待って居
なさろうと云う事、清磨君や鈴江君がどんな生活をして居るであろうかと云う事、土産が
不足する様だったら門司からでも買って行こうかと云う事、それからまだ種々様々の僕等
には興味があって他人には五月蝿い細件。話はしばし途絶える。僕等は向うの島──菜の
花が咲いて、家は見えぬが煙があがって居る──を掠めてふうわりと滑り行く白帆を目送
231
っている。
「良人《あなた》
」と敏子は声を低くする。
「何?」
「覚えていらっしゃいますの、わたくしが初めて東京へ上る時──」
「左様々々、 国許の母君や鈴江君と、矢張船でここを通ったね」
「あの時わたくしは──」といよいよ声を低くする。
「あの時-?」
「あの時わたくしは、あの、姉さん(鈴江君の事)が心易く良人に言を仰有るのが羨ま
しくって──」とまでは云って、僕の側に立つ丸髷の夫人はさつと面を紅くする。僕の眼の
前には、銀杏髷に結った言葉少ない、色白の十四の少女が嫣然と立あらわれる。
*
*
*
*
*
*
多度津に着いて、曾て曾根君を伴ってここに来た事などを思い浮べながら、甲板に立っ
て客の上下を見て居ると、今漕ぎ寄せた艀から、見た様な大胴乱を首につり下げ、灰色に
なった黒帽を冠った男が上がろうとして、梯子段が汚れて居るのを厭ったのか、新しくも
ない紺足袋をぬいで袂にいれて、やおら艙口《はつち》にはいった。顔は見えなかったが、
どこか見覚えがあるように思った。出帆の騒が静まって、僕は客室に下るつもりで船尾の
方へ行く拍子に、
煙突の蔭からひょいとあの大胴乱があらわれた。
僕はその顔を見て愕然、
「貴君は──西内君ではありませんか」
と叫んだ。然《しかり》
、確かに僕の旧恩人に違ない。顔の半面を埋むる鬚髯がよほど白
くなって、額に皺が寄って居るが、その他は寸分も違はない。
西内氏は胡乱気《うろんげ》に僕を右見左見《とみこうみ》して居たが、
「つい御見忘れしましたが、誰氏でございましたかな」
西内氏が見忘れるも尤だ。年始状だけは吃度こっちから出して居たが、一度も写真を送
ったではなし、指を折れば最早十五年も会わずに居たのである。
僕は十五年前雪の夜道に救われてしばらくその家に小僧をして居た菊池慎太郎である事
を説明した。西内氏は非常に驚いた様子。僕は西内氏を船尾に件って、種々問答した。西
内氏は相かわらず独身で(最早わしも本卦《はんけ》がへりが近うてなと西内氏は嘆じた)
ある事、あの相続者の筈であった甥とやらは金づかいを始めたので早速離縁した事、僕を
慎太さん慎太さんと呼んで鰯のぬたで僕を泣かした彼の老婆は最早年寄って役にもたたぬ
が行き所もない体だから生涯飼殺にする筈で今に置いてある事、あの盗賊の恐怖であった
三頭の猛犬は最早死んでその子が家の番をする事
(わしもその子があると死んでも宜いが、
子が無からな、と西内氏は嘆じた)今度は訴訟用で大阪まで出て用があって多度津にわた
りこれから広島に行ってそれから宇和島へ帰る筈である事、留守にはあの雪の夜に僕を西
内家まで負った治左が(あのやかまし嬶は到頭男を見放して駆落をしてな、と西内氏は言
い添えた)老婆と二人で番をして居る事等を話した。
僕は西内氏が六十も已に過ぎる齢をして遑遑《こうこう》と身忙しく心安からぬ有様を
気の毒でたまらず、なおよくその訴訟用なるものを聞いて見ると、西内氏は性の悪い相手
にかかって血の汗を絞って溜めた財産の殆一半を踏み倒されようとして居るので、裁判に
232
持出しても、弁護士が先方と共謀《ぐる》になって、誰一人西内氏の為めに力を出さぬの
で、二三度敗訴し、今度大阪で最後の黒白を争うことになって居ると云うことであった。
法律に縁遠い僕ではあるが、聞いた所無論西内氏に條理があって、且万づの欠点はあると
も虚偽だけは決して云わず聞かぬ西内氏が一亥の性質を知って居たので、如何か加勢がし
たいものと考えて見たが、不図旧友の法学士浅井が弁護士になって、当時大阪で若手の腕
を鳴らして居る事を思い出し、紹介の事を話すと、西内氏はやや喜んだ様であったが、し
かし「そんな名のある御方では──」と逡巡の模様が見えた。僕は重ねて、報酬の事は少
しも御掛念に及ばず、何も詳しく浅井まで申通ずるによって、その辺は決してご心配なき
ように、と云って、不取敢《とりあえず》名刺の裏に浅井氏の住所氏名と、旧主人西内氏
を紹介する旨を鉛筆で認め、認印を押して、西内氏に渡した。
思わぬ再会に、僕は聊か旧恩を謝するの機会を得、母もしみじみ昔年の礼を述べ、敏子
も眼早く西内老人が古びた黒紬《つむぎ》の羽織の綻見つけて縫ってやるなど、心ばかり
の待遇をした(尤も子供丈はあまりなづかず、僕さんは鬚髯の伯父さん鬚髯の伯父さんと
やや恐がって、伯父さんが来いと云っても頭を掉って居た)ので、西内氏も真鍮の口金を
はめたあの大胴乱の底に僕の名刺を大事に仕舞い、昔世話になった彼老婆へ心ばかりの土
産にと贈った手巾、手拭を懐中におさめて、宇品へ上陸する際にも、その干からびた面の
どこかに少しは喜色に似た様なものを浮べていた。
(三)
その後は船中も別に事無く、門司の港に着くと、新五が一の番頭と云う男が待受けて、
僕等一行は小憩の後、
九州鉄道を折尾駅から南折して、日のくれぐれに新五が宅に着いた。
さて新五が如何に歓天喜地の大々的歓迎をなしたか、彼が所謂南の方なる新五夫人が口
も八丁手も八丁出来る限りの歓待をなして如何に僕等を困却せしめたか、鼻大に眼細くし
て乃爺《おやぢ》そのままの子供が一小隊ばかりもあらわれて雪の進軍、君が代、ちゃん
こ節、その他あらゆる芸尽しに如何に東京新下りの「僕さん」を後に瞠若《どうじゃく》
たらしめたか、これ等はしばらく他日の話に譲るとしても、新五が居間の床にはどこの画
家の筆から知らぬがまさしく股引草鞋で山路に炭馬を新五がひいて行く画をかけてあった
事、延年寺の和尚様が巻紙に書いた「立身出世の心得」を額にしてかけてあった事、僕が
新五に迫られて悪筆を揮った「受けるよりも与える者は福《さいわい》なり」と云う聖経の
一句も立派な表装の額になって居た事、僕がまだ五六歳の時是非こっちから書いてやった
いろはの手本を新五が保存箱の中から出して見せた事などは、項目だけでも挙げて置かな
くてはならぬ。翌日新五が案内で、詳しく見物した炭鉱の模様、採掘から貯蔵門司若松へ
運搬の手続まで、複雑にして然も整然たる機関の運転、これ等は確かに非常の興味を与え
たのであるが、しかし坑夫飯場の清潔にして風日のあたりよく建ててあった事、夜学校の
設ある事、
説教場にもなれば軍談講釈幻灯会などの寄席にもなる板葺きの一大平屋(平民倶
楽部とか云た)が建てられてあった事、疾病創傷の為め小さいながら信頼すべき病院の設
がある事、中村貯蓄銀行と云うものがあって役夫の貯金を奨勤し利子は無論、半季半季の
利益を貯金の高に應じて配当する仕組みになって居る事、八時間労働日曜安息をやって居
る事、保険及恩給扶助の役夫の為めに十分安心の道を開いてある事、五人組の制を設けて
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一種の自治機関が出来て居る事、
これ等は更に一層の興味を喚び起した。これ等の中には、
僕が勧めて行わしたものも少なからぬので、その結果の比較的に良好なるを見るは、非常
の愉快であったのである。しかしながら畢竟機関制度は死物、活殺は人にありで、すべて
これ等の機関を活かして行く新五が器量は大したものと云わなければならぬ。実に馬士か
ら身を起して独力この位置に達した新五の成功は、目ざましいものである。しかしながら
僕が殊に喜んだのは、新五が規模の広大にして、自から利して併せて人を利するの主義を
とり、坑夫に対するも労働者封資本主の関係では無くて寧ろ親子の関係をとって居ること
である。実に九州北部の炭鉱業者の中にも、資力に於ては遥かに新五の上に立つ者も少な
からずであるが、真に「親方」の名称に値《あた》る者は恐らく新五をその一位に推さな
くてはならぬ。労働時間を短縮したり、休暇を与えたり、役夫の為めに自腹を切って種々
の設備をしたり、一見不利の位置に立ちながら、慾の外には親子も知らぬ他の同業者と角
逐して、豪も後れを取らず、じりじり押しに進んで行くのは、無論新五の技倆だが、また
その間に微妙の消息がなうては叶わぬのである。実に「ない袖は振るに振られず」、僕等書
生が百年の空論も富豪は一朝にして実行し得るもの、僕は新五が為に万歳を唱え、アンド
リウ=カアネギーの事を引いて、新五が億万の富を積んで、億万の功徳を散ぜむことを希望
し、また新五が望により彼の平民倶楽部で坑夫に演説する時も、新五を活きた模範にして
勤倹力行すべき事、人は職業よりも而上にわが心がけを据えて居らねばならぬ事を反覆説
明したのであった。
新五が家に逗留の二日三夜の間、色々眼を喜ばし心を慰むる事少なからずあった中に、
嬉しかったのはあの曾根君がむかし石川島の押丁で会った時に比すると全く別人の如くな
って、新五の大事な裨将《ひしょう》となり、已に妻子を持ち、一家を構えて、非常に勉
励して居ることであった。悲喜相半ばしたのは、二十何年ぶりに分家の叔母と従妹のお芳
に会ったのである。これは新五が計らいで、僕等が着する日を計って、福岡なる彼等を招
いたのであった。従妹は僕よりも一歳下だが、打見には三十四五、四十近くも見える程に
ふけて、二十年前妻籠の茶小屋で別れた時の面影は、唯凛々しい眉と、澄んだ眼に残るば
かり、久しぶりに会って嬉しいのか、恥かしいのか、悲しいのか、よくは顔も得あげなか
った。叔母はなお更骨と皮ばかりのようにやつれて、しきりにその長女のお藤が十何年前
に出奔して以来、生きたとも死んだとも便りがないのを苦にして、死ぬる前に一度どんな
にやつれて乞食になった顔でも宜から一目見たい、
などと云う様な事ばかりこぼしていた。
後で聴けば、従妹の良人の光永中尉と云う人は朴訥一図の軍人気質、働がないかわりに、
叔母にも従妹にも随分よくする方であるが、家計はあまり豊かでなく、それに姉の置き去
りの男児まで預って居るので、従妹の心づかひは中々一通でないそうな。成程何も不如意
な事は、男の僕が眼にも見え、随分質素に質素にとして居ますけども、吾家の子女の着物
が奇麗で、奢った様で、あちらに済まない様な気がしました、と吾妻は後で僕に囁やいた。
唯喜ぶ可きは、従妹が連れて居た熊彦と云う当年七歳の児、従妹そのままの眼ざししつか
りと、故叔父の強情な所も見え、梶さえよく取ったら随分家を興して行きそうな怜悧な童
であった。まさか広大無辺の天意を吾小さな杓子で量る訳ではないが、分家の命脈も従妹
によって繋がって、この蔓からまた一花咲く時節が来るであろうと、土産にやった玩器の
短銃持って早速己れより年上の新五が二男を追まはすその児を見て、僕がそう思えば、母
234
も親子と云っても分からぬもの、あの人の娘によくまああの様なのが出来た、わたしが最
早二十年も昔別れる際にやった櫛を今日もさして居た、と嘆じた。
さきがあるのにあまり長滞留も如何と、僕等一行は南の方が切に留むるをふりきって、
新五と妻籠で再会の期を約し、
(従妹母子は、留守が無人だから、と断わって帰った。本当
ならば妻籠にも是非御伴して法事の御手伝も致すのでございますが、と名残惜しそうに従
妹は母や僕等に挨拶して、顔を隠して行った)四月六日の朝また九州鉄道の便を仮りて、
その日の午後には、松村の舅姑、野田伯母、清磨君夫婦及子供、清磨君の義兄等が歓迎の
中に汽車を下りた。
(四)
十二の春から十六の冬まで青春の時を過して、西山塾、育英学舎、野田伯父の家などさ
まざまの記臆が籠ってある第二の故郷に、十年ぶりにかえって、第一の愉快は、松村家も
野田家も共に息災にして、駸駸と繁栄に向いつつある事であった。
清磨君を得て、野田家はまさしく復興時代に入っている。着実真率な清磨君の人物は、
知事議員農商課の吏員より居村の老翁老媼に到るまで、交渉する程の者の信頼を博して、
野田家の新主人の名は大分県内に広まっている。農業試験所顧問、農工商青年会会長、九
州農学校創立委員、九州肥料会社顧問、蚕業取調委員、その他さまざまの肩書の数を見て
も、その位置の漸く鞏固に、信用の日を逐って増長し居る事は、分明にト《ぼく》される。
鈴江君も好個の細君となっている。大体に通じて決断が速いのは、清磨君も常に賛称して
居る所、故伯父に似て随分下々には寛大な方で、雇人初め村の者共にも中々人望があるそ
うな。伯母は相かわらず女学舎に宿泊して、休暇に帰って来る位であるが、伯母が所謂「帰
ると学校に行くのが厭になる」程に、養母子の間は最も親しく円滑であった。実際清磨君が
あまりよく養母に事えるので、実家の母はやや妬ましく、何時も敏子への手紙に、鈴江ど
のがあまり気が大きくて家計に糸目をつけぬが心配の、清磨が細君の言ばかり聞いて一向
わたし達が云う事を聞いて呉れぬの、と不平を訴えて居たが、しかし近頃清磨君の次男大
次郎坊を松村隠宅の跡目に定めてから、可愛がる者が出来て、大分心落ついた様子、(尤も
鈴江夫妻があまり子供に物を食わせ過ぎるを気にして、何卒貴婿から清磨にそう云って聞
かして下さい、と姑が僕に頼んだ。僕はスペンサアの教育論を引張り出して、胃は正直な
ものだから、子供には食う丈食わすが得策である事を諷《はのめか》し、しかしそう無暗
に食わしても宜くあるまいからその辺の所は篤斗御相談」申して置きましょう、と慰めて
置いた)舅は固より大の鈴江君贔屓、要するに野田松村両家の関係は先々満足す可き情態
で、あの偏屈者の名取の謹次氏(清磨君の義兄)も、一度女子教育とかの問題で、うつか
り偏屈論を持出し、
鈴江君の為めに散々説破されて以来、
少し恐がり気味になったそうな。
前の所有主があまり手を入れなかったと見えて、家屋敷の模様は、さながら故伯父の時
そのままに残っている。鈴江君母子がこの旧巣に棲むようになった時は、定めて流浪の夢
が醒めたようであったろう。僕が伯父の秘書官として占めていた奥の四畳は、今清磨君の
書斎になって、野田伯父の写真、実父母の写真、札幌農学校の写真、僕等一家の写真が四
方から眺めている。
(床例の柱の横手に僕が楽書した「少年才子不如愚」
《しょうねんのさい
し ぐにしかず》の七字は未だ分明に残って居た)
。あの笠松三次郎氏が常にその蔭に昼寝
235
した楠樹、僕が三次郎氏と喧嘩した井戸側、清磨君が初めて上京する時僕がその側に立っ
て泣き顔で目送った金柑樹、鈴江君がよく一口噛んで見た一歳柿、皆旧のままであった。
しかし新主人の代になって、版図は更に拡張され、且種々の設備が新に出来ていた。
僕等が野田家に泊した翌早朝、野田菊池両家の人数打揃って、清磨君の牧場に、搾り立
ての牛乳を飲みに行った。大人は皆歩き、子供達は驢車にのせて、清磨君が驢馬の口をと
って行く。親が親しいのを子も見倣って、昨日まで写真で会ったばかりの従兄弟同士が、
今朝は最早仲よく車に乗って、お清坊《清磨君の長女で今年八歳の昔の鈴江君そのままと
云う子)が僕の長女の静子を抱いて(よはど可愛かったと見えて、清坊が敏子に、叔母様、
孩児を頂戴な、と云った)居ると、大一郎、大次郎の両童は一ように東京土産の赤帽をか
ぶって、僕さんと軍歌を謳っている。牧場は屋敷から十町ばかり、丘の麓で、草地の一端
を野川が流れ、周囲に一寸した柵を遶らして、西隅に幾棟かの板屋が建ててあった。
(ここ
の総監督は、あの無口早足の松村家の旧僕萬吉であった。清磨君が紹介すると、無口の萬
吉も「まあ」と驚いて、
「大きうおなんなさりましたなあ」と暫らく呆然として居た、これ
があの舟に酔ってやんちゃを云って困らした坊ちゃんかと云い貌に。)
僕等は朝露を踏んで、
場内そこここ見物し、
各自にコップを傾けて温かい乳を飲み、
あれが純粋濠洲種の乳牛で、
あれが雑種の牡牛で、あれが代価に積って何百円、誰役が生れて何ケ月と清磨君が一々牛
を指しての説明に耳を傾け、牛酪コンデンスミルク、チース製造の順序、牧牛の経済談等
を聞いた。清磨君は段々この牧場の規模を拡めて、是非屠牛をやると云っていた。僕等が
この話をする間、僕さんは従兄姉と場内を走せ廻って居たが、忽ちわっと云う声に驚いて
見ると、それは僕さんが従兄姉に倣って、家が臥た様な濠洲牛の鼻づらを恐々ながら撫で
て居ると、牛が「もう」と大に鳴いたので、喫驚して二三間飛びのいたのであった。牧場に
は、牛の外に、豚、山羊、羊、馬なども少許飼ってあり、また密柵を経った小池の辺には、
鵞、家鴨、七面鳥、和洋鶏の類が大分飼ってあった。帰途には、屋敷内の養蜂の仕組、ポ
テトオ葛製造場など見た。要するに、どこを見ても実着な主人が性質は、整然なる揮ての
様子にあらわれ、伯父が一たび行わんとして失敗した事業は、学理に基き実功を期する清
磨君の精細周到な管理によって、着々成功に向っている。 僕はその日一同打連れて伯父
の墓に詣でた時、心にその事を陳べて、喜悲相半ばしたのであった。伯父の墓は、大一郎
君の墓と並んで、
屋敷の最高所に立っている。
これは清磨君がこの屋敷を買戻したその年、
山下村の樫木の下からここに移したのだそうな。僕等は良《やや》久しく墓畔にとどまっ
た。麗《うら》らかな春の日で、雲雀の歌は耳に満ち、春風は袂に満ち、どこを見ても悠々
と霞み渡っている。屋敷内は、段々畠の麦を彩どって、桃、李、郁李《いくり》
、米桃《よ
ねもも》
、桜,林檎などの花が咲きこぼれ、左手には今朝見に行ったあの牧場に牛羊の点々
臥すのが見えている。僕は伯父が臨終の当時を想って、その墓を顧み、あのように心にか
けて居た旧の屋敷にかえって、その家の繁昌をここから眺めて、嘸地下に嬉しいであろう
と思い、また伯母の心根を思って、あれを傷みこれを哀み、ややしばらく思に沈んでいた。
実に月日ばかり早いものはない。山の上から眺められる景は、黄菜緑麦の野も、それを
限る霞の遠山も、
村も川もさながら昔のまま、
遥かに一條の鉄軌が走って居るのを除けば、
少しも昔にかわらぬが、眺むる人の身上は如何であろう? 僕が十二の年母と故郷を出て
伯父の家に着いた翌日、鈴江君と共に腰かけて東京の話をしたあの紫色の大石は、少しも
236
二十年の月日を知らず顔に黙々とそこに横わって居るが、その下に鬼子ッ子をして居る僕
等の子供が最早追々その年になる。
「ねヱ、君」と僕の側に立って居る清磨君がやや小声に云った。
僕は顔を上げた。
「吾輩は別に何の不足もないが、
こんなに東西離れて居ると、
君達に頻々会われないのが、
一の遺憾だ。細君と始終そう云っとるがね、せめて避暑でも一所にしたらって──鵠沼は
愉快だったじゃないか」
「僕等も始終そう云っとるがね──如何だ、須磨明石あたりででも毎年出会おうか。し
かしそれも六ケ敷かろう」
「それは戯談として、吾輩は実際考えとる事があるがね」と清磨君は屋敷の西隣に当る
一区の地を指し「吾輩はあの屋敷を買おうと思っとるさ。あれを買って置いて、君達が行く
行くの住所にするのだ。
今から隠居の相談も可笑しいが、
何年かの後君達が来て姉妹兄弟、
朝晩行ったり来たり、ね、同じ牛の乳を呑み、同じ風に当りさ、そうして死んだら墓を並
べて──愉快だろうぢゃないか」と云って、大息した。
僕も大息して、ふりかえって見れば、母は伯母と墓前の石に腰かけてしめやかに話して
居り、敏子はこっちの石に腰かけて蓮華草を束ねながらお静を抱いて鈴江君と何か話して
居る、僕さんは三人の従兄弟とあの大石を廻って蝶を追ったり草花を摘んだり嬉々《もと
は口偏》と笑っている。
別期の近きを思って、僕は重《かさね》て大息ついたのであった。
(五)
松村家に一日一夜、野田家に二日一夜、三家打揃ってあの牧場で写真を撮ったり、伯母
の女学舎で僕が演説したり、母がもと世話して居た女弟子等が尋ねて来たり、何や角《か》
に日数延びて、
父の命日も近くなった上に、故郷の方でも待兼ねて居る様子が知れたので、
尽きぬ名残を帰途の滞留の予約に托して、僕等一行は四月十日の未明に清磨君宅を辞し、
車を連ねて故郷へ向った。
城下を離れて二三里、路は菜圃《なばた》麦畦《むぎばた》を貫いて、車の響に和す雲
雀の歌面白く、春の日のぽかりぽかりと睡催す長閑さ。菜の花の香を嗅いて、驀然思い出
せば、僕等母子が新五の馬に乗って、故郷を出たのが、十九年前の今月今日であった。
「慎さん、大変道がよくなったではないか」
僕さんを抱いて前の事に乗って居る母が莞爾顧みた。実に──十九年前僕等を乗せて新
五の馬が踏み艱んだ凸凹の石逕は、今坦々たる砥の如き県道となっている。
「見達へた道路になりました──少し坊主をとりましょうか」
「否、好心地で、すやすや睡って居ます。──静ちゃんは?」と母は顧みる。僕も顧み
る。
「おとなしくして居ますよ──ほら祖母様が」と後の事の敏子は莞爾静をこっちに向け
ると、薄桃色の涎がけをした静ちゃんは、母の膝に抱かれて、鈴の様な眼をぱつちり開い
て、車を隔てて「おいおい」と頷く祖母様の方へ両手をさし出して、嬉々と笑っている。
春風一路障る事も無く、半途に午餐小憩して、故郷の入口の彼の七曲阪へ来たのは、あ
237
たかも日暮時。
「さあ、最早直ぐ見えますよ」と母は車を下りて、僕さんの手をひいた。打ち連れて、あ
の杉の平まで来ると、故郷の谷──思の他に狭かった──が忽ち幻の如く眼下にあらわれ
た。村々の夕煙が静かにあがっている。大川ははの白く、莱花ははのかに黄ばみ、最早ち
らちら灯光が見えている。唯なつかしいあの高鞍山は、巓に一点の夕日をとどめて、靄然
《あいぜん》と笑を含んでいる。ああ高鞍山! 多く名山を見た眼は、爾を意外に低く思う
も余儀ない次第であるが、なつかしさは昔にも弥《いや》増す心地がする。
二十年の月日はどこに行ったか。
彼新五が馬を繋いだ一本杉は依然としてそこに立っている。あの石地蔵も、昔ながらに
褪め果てた紅木絹の涎かけして、その下に立っている。思えば、僕は母と今朝出て、今夕
帰るのではあるまいか。
「阿爺《おとうさま》
、早く行きましょう」と僕さんが顧みて叫ぶまで、僕は暫時恍然と
杉の平に立っていた。
*
*
*
僕は故郷の出来事を一々ここに挙る暇を有たぬ。僕等が従妹のお芳と別れたあの茶小屋
の辺に、歓迎の一組が提灯ともして待って居た事、親類の家に引ずり込まれた時の賑合、
辞儀に頚の骨痛く、挨拶に声が嗄れた事、同じ様な馳走の受け廻りに、腸胃を悪くした事、
法事が非常の賑合であった事(新五のみならず、松村の舅姑、野田伯母まで突然に僕等の
後を迫って来た)額、掛物の揮毫を山の如く持かけられて弱り果て、東京に帰ったら早々
法帖を買って手習を始めようと決心した事、百科字典でもあるまいに、大は日本の前途よ
り小はなまけ息子の処分方に到るまで、宇宙間にあらふる質問を持かけられた事、新五が
先達となって、妻籠初め諸処引ずり廻わし、僕に演説の稽古をさせた事、敏子が非常に評
判よく、母の嫁入を知って居ると云う親類の老嫗が、あたかも若い母を見る様なと云った
事、お重が母や僕に取縺って泣いた事、僕さんや、静ちゃんが親類の女の手から手に渡っ
て、僕等が東京から連れて来た婢が、いささかも抱くことが出来ないと憤った事。これ等
は唯その項目をあぐる丈で置かねばならぬ。
十九年の間に、故郷も大分変っていた。大川にペンキ塗の橋がかかって、僕等が通った
茅葺の小学校がどこの異人館かと思う程の立派な建物になって、妻籠銀行が立って、妻籠
倶楽部と云う様なものが出来て、煙突がそこここに見えて、料理屋の二階から媚めいた絃
歌が聞えて、大分華奢の風が入りこんでいる。親類の家も、大抵代がはりで、柿剥《かき
むき》自慢の隠居や、猫好の老嫗や、将棋の名人や、多くは故人になり、その頃の当主は
大抵隠居し、今は地方中学の卒業生、慶應義塾、早稲田専門校の卒業生などが、一家のさ
いはい《摩の下が毛》を揮っている。その細君の中にも、現に野田伯母の女学舎を卒業し
た者もある。要するに、故郷も大分変って来た。
*
*
*
*
妻籠に着いた翌朝、僕等一行、お重を連れて、第一になつかしい父の墓に詣でた。
親類やお重等の掃除が届くので、墓地は少しも荒れて居ないが、僕等が故郷を出た年に
建てた父の墓石は二十年の風雨に大分黒くなっている。
僕等は更に墓辺を掃除して閼伽
《あ
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か》を濯ぎ花樒を立て、香を焼き、母を始め子供に到るまでかはるがはる默邦《もくはい》
した。
僕等母子は十九年ぶりの対面、
敏子や二人の孫には初対面の──ああ石が言うなら、
と僕は不覚の涙に咽び、母も顔を背けてしきりに眼を拭いていた。
時は恰四月中旬、墓地一はいに枝をひろげた彼の老櫻はなお八分の花を剰して、風わた
る毎に落花繽紛《ひんぷん》
、墓も香炉も敷石も掃く片端から忽ち一面の雪になる。墓域の
瑞には蝴蝶花《しやが》や童菜花《すみれ》が咲いている。母が敏子に一々祖先代々の墓
の歴史を教えるこっちには、慎一郎が落花を拾っては吻《ふつ》と吹き飛ばし、董菜花を
摘んでは墓前の花立に挿している。
父の墓前に佇む僕の目の前には、十九年前の恰この頃ここに別の涙に暮ていた寡婦孤児
の姿が髣髴と現われる。──懐剣を閃かして子に迫る母の面影が現われる。僕は心に天に
謝し、父に謝し、母に謝した。
「慎さん」と母が呼ぶ。
行って見ると、母は墓地の一段低くなった片隅になお新らしい墓標を指して、
「あれにも花を立ててやりましょうか」
墓標は堅吾叔父のである。
僕は大息した。あれ程父に僕等につれなかった曲者の叔父──
しかし墓には恩も怨みもないもの、何卒ついでにとも云い兼ねた従妹の心を酌んで、一杓
の水、一把の花を僕は叔父の墓に手向けたのであった。
僕等は延年寺(ここの住持も某学林出の若僧になって居る)に詣で、あの老和尚の墓に
詣でた。僕が何時も遊びに来ては、その花をちぎり、蜜を吸ったりした八重椿は昔ながら
満地に花を落して居るが、「ヱラクなって来い、死なずに待って居る」と云ったあの活気な
和尚様は、未だヱラクもならぬに最早言《ものい》はぬ墓と為っている。お重が父の勝助
も四年前に没して、この寺に葬られている。僕はその墓の前に立って、彼が雪達磨の譬を
思い出した。
僕の旧家は、堅吾叔父の落魄《らくはく》後、名も知らぬ他国人の所有になって、矢張
酒屋をやっている。母と僕とお重と淋しい生活をした彼の隠宅は、小学教師の住宅になっ
て、僕が何時もその蔭で行水した垂楊《しだれやなぎ》は依々として緑の糸を籬越に垂れ
ていた。
「児童相看不相識《じどう あいみてあいしらず》、笑問客従何処来《わらってと
う きゃくいずくよりきたると》
」
。僕は二十年前顔や手足に墨塗ってそこに通った小学校
に演説する時、物珍らしげに僕の顔を見つめる小さな聴衆の顔を見て、この感を催おした
のであった。
僕等は十日ばかり妻籠に滞留した。十日の間殆んど懐旧の感に耽る間もない程歓待を受
けて、演説と挨拶と下戸のことわりと揮毫と馳走と宿変えと(親類がかはるがはる僕等を
要求したので)に、ぐったりとする程であった。僕等が妻籠を立つ前夕、妻籠の有志者は
僕等一行を妻籠倶楽部に招待して、送別の宴を張った。非常の盛会で、昔の僕の学校仲間、
今は村長、町長、県会議員、その他種々の働き役者になって居る甲乙丙丁の紳士がかわる
がわる立って背に汗する送辞を述べた。最後に僕も立って一場の演説をなした。まずこの
回の帰省について非常の懇情に預った謝辞を述べ、故郷の繁栄を喜び、それから転じて地
方と都会の関係に入って、英仏の例を引いて、国家の実力は地方に存する事、地方の生血
新鮮なれば一国の元気旺盛なる事、文明の頭脳に野蛮の元気を兼備えるが今日の急務であ
239
る事、奢侈文弱の弊を戒め勤倹力行の風俗を奨励し都会に汚されずしてドシドシ健全の血
液を都会に送るは地方の責任で、殊に地方有志家の責任である事を論じ、故郷の前途を祝
して、喝采拍手の裡に演説を終った。
その夜会散し、親類の家に帰って後、僕は独り飄然と裏門を出て、ややぶらぶら散歩し
た。恰高鞍山の肩にかかった一輪春の夜の月の光はおぼろの妻籠の谷を籠め、どこを見て
もうつらうつらとさながら夢の国でも見る様である。僕は畑中道に佇んで、しばらく耳を
傾けた。野も山も村も空も寂然として眠るが如きこの谷の夜を、流水の音のみ淙淙《そう
そう》と耳に満ちている。……種々の感想が湧いて来た。過去の生涯はさながら巻物の如
く吾眼の前にひろげられた。実に人の運命程分からぬものはない。人の志望ほど満され難
いものはない。昔は錦を飾って故郷に帰る筈であった──しかしその飾る錦は今どこにあ
るか。短刀を擬して母に迫られたあの日、是非とも父の土地財産を快復して、祖先の名を
堕すまい、
と決心したその決心は今も歴として居るが、僕は未だに東都流寓の客であって、
故山に二頃の田も獲なければ、祖先の墓も人手に任してある。しかしながらまた一方から
考えて見れば、この十九年の間には、種々艱難にも会ったが、幸に心身を全うし、母も健
やかに在せば、妻子も出来て居る、故郷に山林田地をもたずも無形の田地は少なからずも
って居る、僕を代議士にと望む有志家もあれば、資格が入用な時は何時でも吾所有地の一
半を僕の名前にしてやろうと云う親類もある。鄙名も少しは世に知れて、同士の士も少な
からず出来た。要するに故郷で枯れかかった菊池の家はまた東都に新芽を吐いてい
る。・・・・・・・思えば実に上天に感謝する他はない。感謝、感謝、然だ、僕は実に過去三十年
の恩寵を上天に感謝し、向後の天祐を祈り、百敗不屈の気を鼓して理想に向って進まなけ
ればならぬ。
(六)
拝啓
長物語は前回にて結了候得共、なお一回書き添え申候。長々御目をかけられし諸人物の
最近消息を申上ぐる為に候。
野田家はますます繁昌致候、あの後賎江、勝江と云う女児二人加わり候。野田伯母は十
五年一日の如く女学舎を監し、令名九州に遍ねく、この程東京の有名なる某女学校より校
長に聘したれ共、当人は勿論、父兄が手離し不申《もうさず》
、立消となり候由。清磨君は、
あの蒲谷代議士(以前僕の競争者)があとを承けて、今回の総撰挙に衆議院議員となる筈
に候。
「君と二人で二人党を組織し、政友会にも、憲政本党にも、八つあたりをやろうでは
ないか」と申越され侯。同君が鵠沼で揚言されし素志──千島以南台湾以北戸毎に肉を豆
腐同ように食わす事──はまだ実行に遠く候へ共、あの牧場はいよいよ繁栄、但先頃乳牛
十五頭まで鵞口瘡のストライキをやったには困ったと申す事に候。鈴江君は東京に女子大
学が興るなら、九州にも是非と専ら躍起となり居られ候由。あの隣りの屋敷はいよいよ清
磨君の手に入り候。僕等も「明月好同三径夜《めいげつおなじうせんさんけいのよる)
、緑
楊宜作両家春《りょくようよろしく りょうかのはるをなすべき》」と云う境涯を他日に期
し申候。
240
松村家は皆健在。僕の舅姑は、来年は大阪の博覧会見物かたがた是非上京して孫の顔を
見ると申居候。あの偏屈謹次氏も年と共に少しづつ軟らかになられ候。
中島の好謡隠居は昨年歿し候。墓に入ってやっと息がつかれたろうと、悪口屋が申候。
中島叔母は不相変英雄に候。僕の母に対して、天下の英雄は君と吾と、と云う様な言を発
せられ候を承はり申候。石川氏は軍医監となって、北方の某師団に勤め居られ候。同氏は
医も上手なれば、処世の術も中々上手に候。遠からず総監は受合に候。
中村新五君はますます太り(体も身代も)候。最早貝島、平岡及三池等を除けば、九州
北部に匹敵者無之候。あの後どこに行ってもカアネギーをふりまはすので、中村カアネギ
ーの渾名が出来候。何時か出京の際僕の母に「麻布に家屋敷二万円と云う若旦那のに持っ
て来いの家がござすが、
若旦那が叱りなさらんと、
買って上ぐるとじゃがな」と云ったとか、
母が笑い居候。南の方はますます雄健に候。曾根君は新五の用を帯びて目下渡米致居られ
候。あの隈谷文学士及金子女史は一向消息を承はり不申、大学に関係なき丈は事実に候。
中川家にはいよいよ金が唸り候。遠からず男爵になられる由の風聞致申候。あのお糸と
か云う娘には、仏国巴里大学法学博士某と云う人が婿に来り候由。
菅先生は日本文学と英国文学の比較研究に関する論文を提出して、文学博士の学位を受
けられ候。
イルキー=ブラオン師は病気保養の為関西学院を辞して、一先づ故国に帰られ候。
片山校長清水教師皆健在に侯。志津牧師は目下東京に来住し、大挙伝道に忙はしく候。旧
友遠藤君も同ように候。前回に書き漏らしたるは、先年帰省の節、一日清磨君と同道旧師
中西西山先生を訪問致したる事に候。先生は矢張り城西の梅花林中に隠栖《いんせい》し
て、七十近き体に、寒中も袷で通され候由。尤も近来は歯が少しかけて、粟飯が食われぬ
ので、蕎麦がきを食うと申され候。僕を見て、
「はウ菊池かい大きくなったな」と云い、
「国
会議員になりに来たのかい」と冷やかされ候。しかし段段融けて、半日寛話し、例のとろ
ろ汁の馳走に、十七年ぶりの師弟会食を致し候。同先生はあまり人と交際せず、野田伯父
の縁から、時たま清磨君宅へは遊びに来られる由に候。あの僕の袂に梅干を恵まれた干か
らびた夫人は、最早五年ばかり以前に没せられ候。
浅井弁護士の尽力で、西内氏はあの後訴訟に勝たれ候由にて、僕の手許にも礼状が届き
候。浅井君の所には、実費の外に、謝礼として干物一連送り来りし由に候。母は西内氏の
事を気の毒がり、恰好の婦人があったら後妻に世話してやりたい、と申居候。
兼頭一道氏は学堂氏等と憲政本党を脱し候。あの正道少年は兎角横道へきれ込むので、
先年国許に呼び戻され、近日結婚する由に候。松山のあの隠居は死亡し、家督の子息は最
早追々法科大学を卒業する筈に候。留守はお冬君がきって廻わし候。その後度々縁談の口
があっても、尽く断わって、弟の為めに留守師団長を致居候由に候。
分家の叔母、従妹お芳及その良人、熊彦妨、皆達者にてなお福岡に住み候。従妹よりは
折々母へ手紙を寄せ候。相変らずかつかつにて暮居候様子に候。他の同僚が上手をやって
ずんずん立身致候を憤って、良人がやけ酒を飲みはじめ、従妹も大に心配致居候由。気の
毒なものに候。
ここに奇異なる話有之候。一昨年の冬、僕は不図した事より分家の従妹お藤が消息を知
り候。従妹は国許を駆落して以来、五人男を拵えて五人に捨てられ、六人目の男と浅草馬
道の裏屋に住み居り候。この六人日の男は、巡査にて、人もあろうに僕の旧友あの笠松三
241
次郎氏に候。分家の叔母の依頼もあり、母と相談して、右夫婦に旅費を与えて下し、新五
に使って貰う事に致し候。叔母も娘に逢って本懐と存候。目下夫婦に、長らく妹の厄介に
なった彼子、三人ぐらしにて、新五が下に使はれ、よく夫婦喧嘩をしながら暮居候由。分
家の叔父叔母、従姉従妹の事は、細かに述ぶればそれ丈で一篇の哀史が出来申候。これは
他日機を得て、披露仕る可くと相考候。
三次郎氏の母君、笠松後家氏は今も遑遑《こうこう》として、少し芽の出さうな所へは
血眼でかけつけ居候由、気の毒なものと母も申居候。
前の明治評論主筆安藤氏は実業界に投じて志を得ず、また筆戦場に逆戻りして、目下中
立新報の主筆を致居候。浅井君はいよいよ阪地に評判よく、刑法改正問題については別に
一派の意見を懐き居られ候由、詳解は未だ承はり不申候。
湯島の下宿屋の亭主松谷君は今以て時々遊びに来り候。西山塾、育英学舎、関西学院、
帝国大学、この四学校の同窓諸友の中、別れた切り頓斗名を聞かぬもあれば、街でひよっ
くり出会って「やあ」と互に声かけるもあり、去年北清戦役戦死者姓名中に二人程旧相識
の名を見申候。新聞や実際の遭遇に於て、思いがけない人が思いがけない所で思いがけな
いものになって居るを見るのは、誰も経験ある事と存候。已に昨日も育英学舎の俊秀なる
当年の一少年が落魄して合力を求むるに会い候。五たび業を更えて成らざりし末と申候。
人も己の真事業を発見するまでには中々骨が折るものに候。発見してどこまでも遂行する
のは、是亦いよいよ困難に候。逸早く已に恰当《こうとう》の事業を知り得て、固く執っ
て動かざる者は、幸福に候。僕は知友の才子の中にも、才にまかせ東塗西抹、精力を八方
に耗《つい》やした果は、却って昔し吾眼下に見た魯鈍者──精力を一方に傾注した──
の下に立つ運命に会える者少なからざるを見て、哀痛に不堪《たえず》候。
故郷なる父の墓、第二の故郷なる伯父の墓、谷中なる駒井先生の基、宇和島なる兼頭君
の墓、皆更に四年の苔を加え侯。
最後に僕の一家も幸に恙なきを得申候。母は片手に孫を撫して、片手に婦人矯風会を助
け居候。細君は閑を偸んで、文筆の練習を致し居候。
「小公子」位は書けそうなものですね
エ、と気焔を吐き候。慎一郎は尋常小学の三年、静は幼稚園に、毎日仲よく(時々は喧嘩
して)通い候。僕は──相かわらず眼高手低の嘆を漏らしながら、理想を目がけて蝸牛の
歩を運び居候。
終に臨んで、菊池慎太郎は斯面白からぬ長物語に耳傾け給いし諸賢の健康を祈り候。早
早不悉《ふしつ》
。
(明治三十三年三月──三十四年三月「国民新聞」)
巻外
==========
終り
242
入力者注記:辞書など
入力者諏訪邦夫が、いわば「勝手に」手を入れたのは、下のような事柄です。
辞書:
本書は難解な用語が少なくないので、入力者のために作成した辞書を、ここに加えます。
原則として、原本からコピーして検索すればそこにジャンプできるようになっています。
辞書の内容は、いろいろな国語辞典・人名辞典・インターネットからの情報などに拠ってい
ますが、岩波の広辞苑(電子版)をおそらく一番多数回参照しています。
Unicode 文字について:本書には、Unicode 文字が多数登場します。これは Windows パ
ソコンの場合、大抵のワープロソフトでは扱えますが、テキストファイルやhtmlファ
イルでは扱うのが困難です。
その場合、文字にあたるところはなるべく仮名表記として、文字そのものは辞書で説明す
る方針をとりました。これは青空文庫の方針と少しずれていますが、そのほうが実際に読
む人にとって便利と考えたからです。
実例:
ひひと笑って:「ひひ」の「ひ」は「口偏に喜」で、やはり Unicode 文字。
==========
一の巻
(一)
潺湲《せんかん》:水の流れを描写する単語
(二)
鎮西八郎《ちんぜいはちろう》:源為朝のこと。豪傑で有名。保元の乱で父の為義と共に崇
徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流される。江戸時代になって馬琴が、「椿説弓張月」を
書いて、生涯を膨らませている。ここはそちらの話だろう。
(三)
宰《ほふ》れる畜:「ほふる」はけだものを殺すことで、通常は「屠る」と書く。
(四)
板額《はんがく》:鎌倉時代の勇婦。転じて、容貌は見にくくて力の強い女性を云う。
彼は:お重の描写に「彼は」と使っている。「彼女が」としている個所もある。本書では、「彼」
と「彼女」の使い分けに現代ほどには性別を意識していない。
追附《おっつけ》:ほどなく、間もなく
行々《ゆくゆく》
:将来、やがて
(六)
がさがさ風に鳴る井戸端のすずだま:「すずだま」の部分の原文は「枯茄+草冠に意」となっ
ている。この「草冠に意」の文字(薏) が Unicode 文字である。すずだまが何を意味する
243
のかは不明。
(八)
砌《みぎり》
:「時」「折り」と同じ。
承塵《なげし》:鴨居のところに空間をあけて、ものが置ける構造にしたもの。
(九)
馬二駄:「駄」は、馬に載せる荷物の重量の単位で、一駄は百三十キロ程度。
(十)
棒縞《ぼうじま》
:太いまっすぐな縦縞。
一の巻終わり
二の巻
(一)
江湖《こうこ》
:文字通り川と湖だが、「世の中」の意味もある。
一町:町は長さの単位で六十間、つまり百十米
とつかは:いそいで、いそいそと
(二)
郷士《ごうし》
:武士でありながら農村に住んで農業を営みながら、武士の特権のあった立
場の人。
巨魁《きょかい》:頭領、首領。「魁」も同じで、「悪者の首領」に使う場合が多い。
ばりけん鳥:南アメリカ産の鴨の一種、オランダ語
神樹:別名ニワウルシ、葉の形は似ているが、漆とはまったく違う。大きな木である。
椽《えん》
:本書を通じて、縁側をあらわす用語には「椽」の字を使用している。「椽側」と書
いてある個所もある。「えにし」のほうは「縁」を使用している。
筒袖《つつそで》
:たもとのない袖、通常の洋服のようなもの。
(四)
広瀬淡窓《 ひろせ‐たんそう》
:江戸時代後期に活躍した九州の儒学者。
夙く《はやく》:時期的に早いこと、特に世間に先行することを云う。
匱乏《きぼう》
: 乏しいこと。不足すること。貧窮。
政岡《まさおか》:歌舞伎の「先代萩」で、わが子を犠牲に御家安泰をはかる乳母。
郁李《いくり》
:梅の別名
(五)
醇乎《じゅんこ》
:まじりけのないこと
生平《きびら》の帷子《かたびら》
:「生平」は麻製、「帷子」は単衣《ひとえ》の衣服。「生
平の帷子」は、夏の「甚兵衛」に近いもの。
几案《きあん》整然として:几案は机のこと
風流王莽《おうもう》
:「王莽」は、前漢と後漢の間に短期間興った「新」の皇帝。ここの意味
はわからない。
吶喊《とっかん》:大勢で鬨の声を揚げること。
郁子《うむべ》
:「むべ」とも読む。「あけび」のこと。
244
(六)
原被両造《げんひりょうぞう》
:法廷用語で「原告と被告の両者」を指す
稠人《ちうじん、ちゅうじん》
:衆人、大勢を指す
(七)
反帆:「反」は布の広さの単位。幅 36cm(並み幅)で、長さは二丈六尺(八メートル弱)。
つまり 2.3 平方メートル。「五六反帆」は帆の面積が五六反ということだから、10~15
平方メートルということになる。
(八)
機《はた》:織機のこと。
弥縫《びほう》:おぎなう
銅壷《どうこ》:火鉢とくに長火鉢で使う銅製の湯沸し
煙草刻《たばこきざみ》:煙草製造業を少し可笑しく表現した用語か。
弥縫《びほう》
:とりつくろう、欠点を補う。
きんしょう【#衝
(九)
伯林《ベルリン》会議:1878 年、ロシアとトルコの戦争(露土戦争)の後の講和会議。ビス
マルクが調停役で、英仏と組んでロシアの南下政策を抑えた。
(十)
杳《よう》として:
「杳」は暗いさま。はっきりわからないさま。
「―として音沙汰もなく
なった」
二の巻 終わり
三の巻
(一)
大慶:めでたいと喜ぶこと。
(二)
富贍《ふせん》:豊かなこと
(三)
一籌《ちゅう》を輸する:ひけをとる。「籌」は勝負に使う竹の棒の単位。
交誼《こうぎ》:親しいまじわり
撰挙:本書全体を通じて、現在慣用の「選挙」ではなくて、「撰挙」と書かれている。
四五町:一町は六十間だからつまり百十米。「四五町」は五百メートル位か。
(四)
輦轂《れんこく》の下:「天皇のおひざもと」の意味、「輦轂」は天子の乗り物
少勲爵士:「勲爵」は「勲位」と「爵位」。しかし、ここの用語法の意味ははっきりしない。
(五)
地鞴《ぢたたら》を踏む:「力を入れる」意味と「力を入れてまとはずれになる」「無駄なこ
とをする」意味とがある。地鞴(蹈鞴)は、鍛冶屋が脚で動かす吹子《ふいご》。
(六)
245
小厮《こもの》
:下男、通常は「小者」と書く。「厮」の文字が、「召使」「しもべ」の意味。
南蛮鴃舌《なんばんげきせつ》
:意味が通じず、うるさいだけの言葉、外国語を卑しめる表
現
適従《てきじゅう》
:たよってしたがうこと。
黌《こう》:学舎、まなびや、学校とほぼ同じだが、「建物」を意味するニュアンスがやや高
い。
(七)
一伍一什《いちぶしじゅう》
:現在では「一部始終」と書くだろう。「伍」は五,「什」は十をあ
らわす軍の用語で、それをまとめて「全部」ということになるらしい。
(八)
毫も:いささかも、ちっとも、などで否定に使用する。「毫」はごく細い毛のこと。
小碓尊《おうすのみこと》
:日本武尊のこと
皎《きょう》
:白いこと、皎々とも使う。
横着《おうちゃく》
:現在では、「なまける」「ずるける」意味に用いるが、本来は「強固で押
しが強い」意味がある。ここはそちらだろう。
(九)
好以宝刀加渠頭:「渠」は「暗渠」などの「みぞ」の意味の他に、「首領」「頭」の意味もある。
(十)
豹子頭林沖《ひょうしとうりんちゅう》
:意味不明
別乾坤《べっけんこん》:別天地、「乾坤」は世界とか天地をあらわす語
(十一)
興旺《きょうおう》
:不明。「旺盛な興味」というような意味だろうか?
経国美談《けいこくびだん》
:この頃発表された政治小説。セーべ(テーべ)は都市国家の
名。イパミノンダスとピロビダスは主人公二人。
ラファエット:ふつう「ラファイエット」と表記する。フランスの軍人で、アメリカの独立
戦争に尽力したので、アメリカ史では重要視される。
パトリク ヘンリー:アメリカの政治家。独立戦争に尽力した。ここに引用される「吾に自
由を与えよ。然らずば死を与えよ」は、現在も引用される有名な演説。原文は " Give me
liberty、 or give me death !"
グラッドストーン:この頃のイギリスの大政治家。ディスレーリが保守党で、グラッドス
トーンは自由党(つまり進歩的)。
(十二)
水車へ粉を挽かせに:水車で粉を挽いたり米を搗くのは、ゆっくり時間をかけるので米や
粉の温度が上がらず、美味だと言う。
(十三)
大様:細かいことを気にしない性質を、現代では「鷹揚」(鷹の飛ぶ様子)さらには「応揚」
とさえ書くが、辞書には「大様」という表記も載っている。
周旋する:現在では売買の斡旋を意味するが、単に「たちまわる」意味もある。
手誉め:自讃、自分のことを褒めること。
246
(十四)
口誼《こうぎ》
:口頭の挨拶
宰予《さいよ》:孔門十哲の独り。ここでは「偉い人」
結伽趺座《けっかふざ》:「結跏趺坐」とも書く。座禅の特殊な体勢だが、「座り込む」意味
にも使う。
(十五)
痴漢:現代の用法とは違う。ここでは本来の意味(「ばかもの」「おろかもの」)で使用
バスチール: フランス革命の発端となったバスチーユ監獄のことだろう。
(十六)
トランスヴァール:現在の南ア連邦の一部。元来オランダ系のボーア人が 19 世紀半ばに建
国したが、その後イギリスとの戦いに敗れて、大英帝国の南アに組み込まれた。
舌鼓うって:「舌鼓うつ」は「美味なものを味わう」以外に、「舌打ち」と同じ意味がある。
(十七)
斗米肉十斤の老廉頗:中国の故事。武将である老廉頗が、文官の下につかされて憤激した
が、宥められて仲良くした。斗米肉十斤は、「僅かな米」つまり低額の給料のこと。
(十八)
羽翼《はがい》
:文字通り「羽と翼」、ここでは勿論比喩的に用いている。
尽瘁《じんすい》
:苦労する意。駒井先生の挨拶
飲泣《いんきゅう》
:涙を飲んですすり泣く状態。
(十九)
眉宇《びう》
:眉のあたり。眉を眼の軒と見立てていう。
(二十)
(二十一)
面目な訳:現在では、
こういう肯定的な使い方はせず「面目ない」としか言わないが、元来「面
目」は「世間に向ける顔」というような意味で、「面目な」は「名誉な」という意味になる。
(二十二)
没義道《もぎどう》
:これは現代も使う。情け知らず、道徳に反する、と言った意味。
(二十三)
弁疏《べんそ》
:言い訳
四の巻
(一)
牢晴《てんき》つづき: 意味不明
(二)
(三)
どんざ:古い布を刺し子にして、敷物や上掛けにするもの
(四)
一丈:10 尺つまり 3m 余り
そふか:意味不明
(五)
247
紛々霏々《ふんぷんひひ》
:雪が激しく降る様
宇和島で遭難の様子
青羅傘:意味不明
(七)
(八)
疎末《そまつ》
:今は「粗末」と書くが、「疎」と「粗」は、音だけでなく意味も似ている。
(九)
要慎《ようじん》
:「用心」と同じ。西内氏の用心
気根《きこん》
:根気と同じ
(十)
ぬた:魚や野菜を酢味噌であえたもの。ここは鰯のぬた。
問うも管《くだ》
:「くだ」は「下らない」、「よけいなこと」。管は当て字.
(十一)
淹留《えんりゅう》
:長逗留のこと
勁節《けいせつ》
:頑固で屈しないこと
(十二)
(十三)
(十四)
(十五)
樊籠《はんろう》
: 鳥かごのこと。西内氏に「捕らえられた」状態。
即下《そっか》:直後のこと
(十六)
(十七)
(十八)
中心:「内心」と同じ意味にも使う
阿諛《あゆ》:へつらうこと
(十九)
(二十)
(二十一)
(二十二)
驥尾《きび》にも稗《ひえ》にも:一種の洒落または掛詞だろう。「驥尾にすがる」は蝿が
駿馬の尾について遠くまで走る意から転じて、「賢人の跡をたどって賢くなる」意味。驥尾
は穀物の「黍《きび》」と発音が同じで、「きびにもひえにも」とならべたもの。主人公が宇
和島から関西学院に入学して圧倒されて、「とても立派過ぎすぎて安らかに勉強出来そうに
ない」心境を描写している。黍と稗はいずれも「雑穀」の一種。
四の巻終り
五の巻
(一)
(二)
248
絡繹《らくえき》として:「人通りが絶え間ない」様子
(三)
胡笳《こか》
:笛の一種、関西学院の生活に登場
卜《ぼく》す:亀の甲を焼いて、そのひび割れ方で占うのだという。転じて「決する」
(四)
故参《こさん》:通常は「古参」と書く。
尤物《ゆうぶつ》
:優れたもの、「美女」にも使う。
儕輩《せいはい》
:仲間、同輩
(五)
(六)
(七)
面晤《めんご》:面会のこと
楮表に躍る:「楮」は「こうぞ」つまり和紙の原料。「楮表に躍る」は、紙の上に躍るように表
現されているという意味であろう。
縄墨《じょうぼく》
:規則、法則
(八)
初更《しょこう》の頃:時刻の表現。午後 7~9 時頃
(九)
誘掖《ゆうえき》:導き助ける、「輔佐」に近い。
五の巻
終り
六の巻
(一)
霊漿
《れいしょう》:「漿」は一般に液体を示すので、「天の下した液体」というニュアンスか。
何回か出てくる。
(二)
彳《たたず》んだ。:「たたずむ」は通常は、「佇む」をあて、本書もそちらをつかっているが、
「彳」も使う。辞書にも載っている。
(三)
洒掃《さいそう》
:掃除のことだが、「神聖な場所を掃除する」ニュアンスがある
一尋《ひとひろ》:両手をひろげた中指の間隔、つまり 1。5~1。7m 位
三丈:一丈が 10 尺つまり 3m だから、三丈の返事は 9m。一尋の手紙に対しては、5 倍以上
の長さということになるか。
(四)
雄鎮《ゆうちん》
:「鎮」は軍隊用語で「軍勢」「グループ」の意味がある。つまり優勢なグルー
プというような意味。
(五)
単騎《たんき》
:これも軍用語、「一人だけで」。「騎」は馬に乗った人。
ヴアンダルビルト:C Vanderbilt (1877 没)のアメリカの大富豪。主に水運で巨万の富を築
249
いた。
(六)
趁《お》う:追いかける。
(七)
鴻門の会:西暦前 200 年、項羽と劉邦が鴻門で会見した。項羽は劉邦を暗殺する計画であ
ったが、劉邦はその謀議に気付いて逃走した。
咄《とつ》:「何ということだ」という
(八)
(九)
(十)
老耄《ろうもう》
:おいぼれること又は人。老は 70 歳、耄は 80 歳を呼ぶという。
フランクリン「致富要訣」
:原タイトルは不明だが有名な作品なのだろう。タイトルの意味
は、「富裕にいたる秘訣」というようなことだから、フランクリンの作品のどこかにありそ
うだ。
延引ながら:「延引」は「えんいん」又は「えんにん」。遅れる事。「遅れ馳せながら」の意。
(十一)
バルンス:「犂をとっても」というのは Robert Burns のことと推測される。しかしその後
の「東印度商会の簿記台に坐っても「エッセイ、オヴ、エリア」は書かれずには居らぬ」が、
誰のことか不明。Burns ではなくて別の人のことかも知れない。
(十二)
カーライルの英雄崇拝:カーライルの代表作の一つ。
(十三)
腕車《わんしゃ》
:人力車のこと。
火鉢をあせりながら:「あせる」がどういう行動を意味するのか不明。
裏白売:丁度暮れのことだから、今も飾りに使う裏白を販売するのだろう。
(十四)
竜吐水《りゅうどすい》:消火用具の一つで、「水鉄砲」の大型のもの。
(十五)
鬼蓮《オニバス》
:鬼蓮自体は日本にもあるが、アマゾンには特殊な鬼蓮があるのだろう。
(十六)
一荷の海鼠:「一荷」は本来は天秤棒で担ぐだけの量をいう。しかし、海鼠は天秤ではなく
て篭で担ぐだろう。「篭1杯分」でもよさそうだ。
入寂《にゅうじゃく》
:僧侶の死に使う語
重畳《ちょうじょう》
:ふつうは「重なる」意味に使うが、ここでは「好都合」、「ありがとう」
の意味
(十七)
莫逆《ばくげき》:仲のよいこと、親密なこと。
笑止なこと:「笑止」は現在では「笑うべきこと」の意味につかうが、本来は「ふつうでない」
「お気の毒」の意味で、ここでもそうした本来の意味。
250
不日《ふじつ》
:まもなく、日にちを決めない意味。
(十八)
満目《まんもく》:見渡す限り
墓碣《ぼけつ》:墓石のこと、「碣」は碑などの石をいう
(十九)
胡乱《うろん》:でたらめ、いい加減
開闔《かいこう》:開くことと閉じること、これから転じて「正否を分つ」「見えたりみえな
かったり」というような他の意味にも用いる。
三人の女性の保護を引受けた菊池勲爵士:「勲爵」は、勲章と爵位。「両手に花」という意味
合いの用語。
所為《しょい》
:振る舞い、行為
無為而化《むいにしてかす》
:何も特別な手段を用いずに世の中がうまく行くという聖人の
政治を指す言葉。
一揖《いちゆう》
:ちょっと挨拶すること
(二十)
狷介峻峭《けんかいしゅんしょう》
:狷介も峻峭も「きびしい」「頑固」。悪い意味に使うこと
も多いが、ここは好意的な意味だろう。
稠人《ちゅうじん》
:衆人,大勢
戞然《かつぜん》
:「ゴツン」というような音
玻璃窓《るりまど》:ガラス窓のこと
藩籬《はんり》
:垣根、派閥
鋒鋩《ほうぼう》:「鉾先」のこと
(二十一)
(二十二)
書翰《しょかん》:手紙のこと、「書簡」と同じ。
六の巻 終わり
腸窒扶斯《ちょうちふす》
:チフス菌で発症する伝染病。当時はワクチンも抗生物質ももち
ろん存在せず、治療に難渋する重篤な疾患であった。
濛々《もうもう》:霧や煙でよく見えない様子
面目もない仕合せ:「仕合せ」には、「幸福」以外に「始末」「めぐり合わせ」の意味もある。こ
こはそちら。
(十)
天長節:現在の用語では「天皇誕生日」、当時は明治天皇の誕生日で 11 月 3 日。現在の「文
化の日」は、元来明治時代の「天長節」(天皇誕生日)が、後に「明治節」となり、戦後になっ
て現在の名称に改められた。
早口にしゃべって居る:「しゃべる」の原字は《口偏に堯+舌》
(?)で、Unicode 文字で、
パソコンでの表記はむずかしいので仮名書きした。
黙止《もだ》す:放置すること。「黙止し難く」は「無視する訳にもいかず」
251
(十一)
客気《かっき》:勇気、血気のこと
韃《しもとけ》
:意味不明だが、この字は「鞭」と同義だから「愛の鞭」のニュアンスだろう
か。
八の巻
(一)
襯衣《しんい》: シャツのこと
隠者菊池(きくち ぜ はあみつと)
:hermit は、「隠者」「世捨て人」
千鳥がけ:斜めに打ち違えることを云う
咫尺(しせき、
「咫」は 8 寸):近い距離のこと
(二)
(三)
(四)
跌宕《てっとう》
:些事にこだわらず、のびのびしていること。「雄大」に近い
おだまき《苧環》
:本来は麻糸の「巻いた形」を云うようだが、ここではその糸のことか。
(五)
沖天《ちうてん》:空高いこと、空高く昇ること。
吊《ちょう》する:「弔する」と同じか?
(六)
酸脚:意味不明
(七)
(八)
魁梧《かいご》:身体の大きいこと
(九)
(十)
のこり多い:名残惜しいの意味?
(十一)
大廈《たいか》
:大きな建物
(十二)
(十三)
押丁《おうてい》
:看守の下で手伝いをする刑務所の勤務者
色代《しきだい》
:会釈、一寸頭を下げる様子
(十四)
(十五)
とつかは:いそいで、あわてて
八の巻
九の巻 辞書
終わり
252
(一)
うん:ここは原文は「口偏に云」(呍)で表示されていて unicode 文字である。
呍《うん》とも啐《すつ》とも:現在では、「うんともすんとも」と表現するが。
駟馬《しめ》も及ばぬ:「駟馬」は 4 頭の馬でひく馬車。高速の乗り物の譬えで、「駟馬も及
ばぬ」は「とても速い」
三番を踏む:よくわからないが、別のところの類似表現からみると、「火事を知らせる半鐘
の鳴らし方」を意味すると解釈するべきか。
鐫《え》った:「鐫る」は石などに鑿で彫ることを云う。
珊瑚:ここは「珊瑚樹」のことだろう。海岸の家で庭木に使うと云う。
(二)
天籟《てんらい》:天然に発するひびき。風が物にあたって鳴る音。
簀板《すいた》
:船の底に敷く簀の子式の板。
(三)
(四)
廉頗《れんぱ》:中国、戦国時代の趙の武将。食物との関係は不明。
どつと:原文は、口偏+共の字と「然」で《どっと》と振り仮名がしてある。これも unicode
文字。
占守《しむしゅ》
:千島の最東北端の島。この時点では千島全体が日本の領土だった。
(五)
翠影婆娑《すいえいばさ》
:翠影木の葉の影、婆娑は、その影の動くさま。「翠」は「青い」
を意味する。
(六)
ハアトマン:ショウペンハウエルと並列してあるので、おそらく哲学者のハルトマン
(Eduard von Hartmann)のことだろう。
手風琴《てふうきん》:アコーディオンの日本名。本作品では、手風琴のことはここにしか
出てこない。
水瓜《すいか》
:ふつうは西瓜と書くが、こういう表記も辞書には載っている。
合同教育《コーエジユケーション》
:振り仮名があるので「男女共学」のこととわかる。
交綏《こうすい》
:
「綏」は軍隊がしりぞくこと。 敵味方が疲れて、互いに退陣した状態。
( 七 )
舟のみよしの茶筅《ちゃせん》:意味不明。「茶筅」は茶の湯で茶を泡だてる道具だが、ここ
にはあてはまらない。船の一部を指すと解釈するが。
コキン別荘:意味不明。原文には「コキン」に傍線が引かれている。
(八)
セルリー: P。B。Shelley のこと。
「Art thou Pale ──」はみつかった。" To the Moon "
と題する作品が
"
ART thou pale for weariness/
Of climbing heaven, and gazing on the earth, /
Wandering companionless/
253
という風に始まっている。
(九)
身を側《そば》める:身体を横に向ける。
嚇《おどす》
(十)
纒繞《こんがら》かって:「纒繞」の読みは元来「てんじょう」であるが、意味の通りに振り
仮名がついている。本書にはこういうところが多い。
歔欷《すすりなき》
:これも元来の読みは「きょき」である。
九の巻
十の巻 辞書
(一)
ウンともスンとも:原文は漢字で、ウンは「口偏に云」(呍)スンは「口偏に卒」(啐)で、いず
れも unicode 文字。
乗地《のりぢ》
:本来は狂言用語。乗り気、調子に乗ること。
樽俎折衝《そんそせっしょう》
:元来は「外交の手練手管」を表現する用語らしい。ここは単
に「交渉」「折衝」
帷子《かたびら》:単衣(ひとえ)つまり夏の衣服。「帷子《かたびら》で始まった縁談」
は、「夏に起った縁談」を意味する。
式饌《しきぜん》:「饌」は神にそなえる食物
(二)
穆々《ぼくぼく》たる清風:「穆」は「なごやか」を意味する。
恕道《じょどう》:「恕」はおもいやり。
徐世賓《じょせふぃん》:ナポレオン夫人のことか?
真黯《まっくろ》
:「黯」は「暗い」ことを強調する文字らしい。
(三)
頃《けい》:「頃」は地面の広さの単位で約 1 ヘクタール
(四)
和事師《わごとし》
:恋愛ものを得意とする役者。「和事」は、恋愛沙汰を意味する歌舞伎用
語。
烏滸《おこ》がましい: 「烏滸」はおろかなこと。「烏滸がましい」は、「ばかげていて、み
っともない。物笑いになりそうだ」が原義だが、転じて「出過ぎている。さしでがましい。
なまいき」にもなる。
妣蜉《ひふ》の野心:「妣蜉」は蟻のこと。自分の力量や身分をわきまえず、むやみに大き
い事をしようとするたとえ。
塘:とう、つつみ。「池塘」は「池のつつみ」だが、転じて「塘」が池を指す。
(五)
素封家:本来の読みは「そほうか」であるが、ここは「ものもち」とふり仮名してある。意味
は「財産家」
254
銅臭《どうしゅう》:金をため、立身を計るものを蔑む表現
吾妻橋:隅田川にかかる橋の一つ。主人公が住む本郷から本所にいくにはここを渡る。こ
の橋は江戸時代からあった。中川別邸は、現在の桜橋(の向島側)に近いあたりと想像さ
れる。現在、炎の形が乗っているビール会社のビル(俗称「うんちビル」)が吾妻橋のたも
とである。2012 年に東京スカイツリーができて、この橋は縁が深くなったろう。
枕橋:吾妻橋上流の東武鉄橋のところで十間川にかかる橋。
幽邃《ゆうすい》:物静かで奥深い。景色を描写する語。
塢《お》
:土手や堤を云う
尋中生:尋常中学生の意味か?
疑団:疑問、とくに「心のわだかまり」
(六)
原憲:中国の人名、清貧で名高い聖人。
二尋《ふたひろ》
:「尋《ひろ》」は手を広げて中指同士の距離、1。5~1。8m 位。
(七)
(八)
(九)
不日:ちかいうち、間もなく。近未来に使う。
(十)
木母寺《もくぼじ》
:墨田区向島にある寺の一つ。梅若寺。謡曲「隅田川」に登場する。
言問の渡:隅田川の言問橋は、大正年間にかけられたもので、この小説の発表の時点では橋
はなくて渡しであった。吾妻橋は江戸時代からあった。
(十一)
ひたもの:ひたすら、一途に
(十二)
拍噬《はくぜい》
:意味不明
(十三)
約婚《びとろーざる》
: 婚約の英語は、通常"engagement "で、 betrothal は「古語」だと
いう。
(十四)
秋霽《しゅうせい》
:秋晴れ、「霽」は晴天。
(十五)
土耳其浴《とるきっしばす》
:トルコ風呂
十の巻
終り
巻外の辞書
(一)
落魄《らくはく》
:おちぶれること。「魄」は魂とほぼ同義らしい。この小説では「おちぶれ
る」と読ませている場合もある。
刺衝《ししょう》:つきさす、刺激する。
255
顔真卿:中国唐時代の書家。
篋底《きょうてい》
:篋は「はこ」。「篋底に秘す」は大事なものを「仕舞っておく」意味で、特
にここのように、大事な原稿などに使う。
(二)
征清の役《せいしんのえき》
:日清戦争の別名
展墓《てんぼ》
:墓参、墓参り
胡乱気《うろんげ》
:「胡乱」は「いい加減」だが、ここは「いかがわしい」
遑遑《こうこう》と身忙しく:
「遑」は、「暇」「ひま」の意味だが、それを重ねた「遑遑」は、「あわただしい」さま
(三)
裨将《ひしょう》
:副将軍、副官。ここでは秘書とか番頭の意味か。
(四)
駸駸と繁栄に向い:「駸駸」は「速く」だが、ここのように「順調に」の意味にも使う。
十町ばかり:町は距離の単位、60 間つまり約 110mだから、十町は 1 キロ強。
嬉々と笑って居る:ここの「嬉々」は元来口偏の文字(嘻)で表示されているが、それは
unicode 文字で、
パソコンで表示しにくくなじみでもないので慣用の女偏の字で代用した。
(五)
閼伽《あか》
:仏前に供える水。
蝴蝶花《しやが》
:花の種類は不明。蝴蝶菫ならパンジーのことだが。
久しく散歩した:原文は「しょうよう」《徜 と徉、いずれも unicode 文字》「ぶらぶら歩く」
様子。
淙淙《そうそう》と:川の流れの表現、「さらさらと」に近い。
二頃の田:一頃は 1 ヘクタールあるいは 1 町歩だから、昔の尺度では随分広い。
(六)
鵞口瘡《がこうそう》:口のカンジダ症(カビ)。
不悉《ふしつ》
:思うことを十分に言いつくさないこと。それから、手紙の末尾に添える決
り文句。「至りませんで」というニュアンスか。
巻外の辞書:終り
以上で、全体の辞書:終り
==========
256
全体の表記に関して
※
「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底
本の表記をあらためました。
旧仮名を原則として新仮名にしました。しかし、一部引用などはそのままの個所も残して
おり、無理に統一していません。
句読点の読点を少し増やしました。
ほんの数カ所ですが、パラグラフがあまりに長いところで、内容から判断して改行して分割
した個所があります。
「最大」を意味する「もっとも」に「尤も」との漢字を当てはめている表現があって不自然なの
で、それは「最も」に書き換えました。
Unicode の漢字は、当初の入力時には通常のパソコンと通常のソフトウェアの組み合わせ
では入力あるいは表示できませんでした。原則としてかな書きとし、「辞書」の中で漢字を
解説しました。辞書のほうで、書けるものは加えたものがあります。
原文は、促音の「つ」をはじめ小さい仮名文字で表現する習慣の文字も通常のサイズの文字
で書かれています。これを慣用に修正しました。
例:ごつちやごちや→ごっちゃごちゃ
原文には大量の振り仮名がついています。その中で、
出現回数の少ないものは、そのまま振り仮名をつけました。
出現回数の極端に多いものは、振り仮名は煩わしいので、不自然にならない限り単純に仮
名書きにしました。ただし、前後の関係で一部は漢字で残したところもあります。主に、
書きかえで仮名が続き過ぎる場合を対象としています。
例:振り仮名なしに仮名書きにした表現の例。
此山→この山
其処→そこ
其れ→それ
卿→おまえ
渾て→すべて
此処→ここ
宛ら→さながら
宛然→さながら
猶→なお
窃と→そっと
些→いささか、ちと
如何様に→どんなに
257
靡く→たなびく
夥し→おびただし
「そうです共。大賛成です共。」「是非共」のような「共」→とも
ゝ →該当する文字に
玉う→給う
本書を通じ、「汽車」「汽船」の「汽」は、原文では「さんずい+氣(滊)」という字を使ってい
ます。この文字も Unicode で現在は使いません。
人名についた「君」は、原文の振り仮名では「くん」と「さん」を使い分けていることを述べて
おきます。この電子文書では振り仮名は省略しました。
莞爾と莞爾々々:慣用では「かんじ」と読みますが、原文では「にっこり」と「にこにこ」と振
り仮名があります。
送り仮名を少し増やしました。現在の慣用では送り仮名を振るものは、それに合わせまし
た。
例:
殆→殆ど《ほとんど》
彼《かの》→彼の
258
底本
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底本:現代日本文学全集 17
徳富蘆花集
編集: 伊藤整、亀井勝一郎、中村光夫、平野謙、山本健吉
講談社、東京
初版 1966、
増補改訂版 第一刷 1980
武蔵野市立図書館所蔵のものから採取
入力:諏訪邦夫
2001 年 4 月中旬に原入力ファイルを青空文庫に送付。
ファイル名:Omoi103g.txt,Omoi103g.lzh として圧縮
ファイル送付先:[email protected]
#############################################
259
あとがき:電子化にあたって
諏訪邦夫
この作品は、徳富蘆花の代表作の一つです。
私にとっては、中学生時代の愛読書でした。それで青空文庫を知った時に、早速探しま
したが登録されていません。2001 年に意を決し、青空文庫に登録する意図で入力しました。
当時は ScanSnap もなくフラットヘッドのスキャナーを使って 1 頁ずつ手作業で入力し、OCR
の性能も低いものでした。
折角入力して青空文庫に送りましたが、私の扱い方が青空文庫の規定から大幅にはずれ、
また校訂を申し出て下さる方もいらっしゃらなかったので、結局ボツになりました。2011
年の現時点で、
別の方が入力されてはいらっしゃいますが、やはり校訂が進まないようで、
公開に至っていません。正直なところ、入力はまだしも校訂というのは労多い仕事ですか
ら逡巡するのも当然です。
今回、他の事情でホームページを開きましたので、そちらに登録しました。初校から 10
年ちかく経過し、私自身の寿命があまり永くなさそうと推測するので、ほんの少し手を入
れて公開を決意しました。「書籍は電子化で寿命が伸びる」というのが私の認識です。それ
でも、当初はテキストでしたが現在は PDF につくりかえ、目次を付けて目次と各項目をリ
ンクしてあります。また、私が原文に手を入れた箇所は、「辞書」とともに、最後に書き加
えます。
徳富蘆花と本作品に関して少し述べます。
東京の西部環状 8 号線に沿って、「蘆花公園」という名の公園があります。近くには同名
の京王線の駅もあります。でもどれだけの方が、この名の由来をご存知でしょうか。この
場所は、徳富蘆花が晩年を晴耕雨読で過ごしたところで当時の周囲は畑でした。蘆花の没
後 10 年を期に、夫人が土地を東京都に寄付して「蘆花公園」ができ、公園の中に恒春園と
いう記念館もあって農機具なども展示してあります。
文豪の記念館は数多くありますが、名前のついた公園のある数少ない例で、奥様の功績で
しょう。明治中期に女子師範学校(現在の御茶ノ水女子大学)を卒業された由ですから、
当時のインテリ女性の代表格で先進的なお考えをお持ちだったのでしょう。
本作品は、私にとってはいわば「青春の書」です。中学生の下級生で読み初めて数年間愛
読しました。次兄諏訪貞夫(経済学者、先年亡くなりました)が購入した改造社版の現代
日本文学全集の中の「徳富蘆花集」に、有名な「不如帰」や「自然と人生」も載っていたもの
の、前者にはまったく興味を惹かれず、後者も眼は通しましたが精読したのはごく部分的
で結局本書部分だけを熟読しました。立身出世物語ですから小気味もいいのですが、特に
松村敏との愛の物語の部分に強く惹かれました。「恋することを恋している少年」の気持ち
だったと思います。
この部分は今読んでも、著者が力を入れて書いているのがわかります。
内容には古めかしい表現が残っており、現代表現に直したい気持ちもありますが、テーマ
260
や環境が古いのでいじれません。
私にとって、この作品の入力にはパソコン使用の上で重要な意義があります。それは、長
い文章を入力した最初の経験でこれによって OCR の使い方が上手になり、同時に「OCR 使用
は学習になる」という気持ちを確立してくれた点です。「OCR なんか性能が低くて使いもの
にならない」という評価を聞きますが、実は「間違えてくれるからありがたい」面がありま
す。一字一字丁寧に読んで訂正することによって、本当によく頭に入るので、中学生の頃
に行った「写して学習」と似ています。私は行いませんが、写経もおそらく類似の性格でし
ょう。OCR 使用にそういう要素があることはあまり指摘されませんが、私はその後しっか
り学習したい時に何度もその目的で利用してきました。
こんなことは本書の内容とはまったく無関係ですが、それでも述べておきたい気持ちです。
諏訪邦夫
2011 年 8 月
2012 年 5 月 改訂