シュメールの心 その16 シュメール都市文明の滅亡 栁 幸夫 「文明の滅亡」などというと、若い時にはS Fの世界か、仮想的な歴史ドラマの世界であっ て、いささかの現実感も感じる由はなかった。 しかし、21世紀になり、わが身に迫る老い や病とともに、絶え間ない戦争やテロや大規模 災害が起こり、さまざまな地球上の異変の情報 が毎日のように伝えられ、地球温暖化などの現 象も肌身で感じられるようになってきた。生き とし生けるものの「滅亡」への危惧、恐怖、警 戒感。おそらくそれは、いま世界中で多くの 人々が感じているにちがいない共通の危機意 識であろう。 ◆これから、「世界最古の都市文明」として花 開かせたシュメール都市文明の衰退、そして、 滅亡について触れなければならない。 ◆記憶を甦らせるために参考年表を再掲しよ う。<その2>で「メソポタミア南部に初めて住 み着いたのは、ウバイド文化をもった人たちで あることはわかっているが、彼ら彼女らがいつ 頃此の地に定住したのかは解明されていない」 と述べていた。つまりウバイド人がシュメール 人であったのかどうかは確定していないので ある。そして前3500年頃のウルク期にシュ さて、次は1989年バビロンの遺跡での撮 メールの都市文明が成立してくるのであった。 影。但し、残る遺跡(省略)はシュメールより さらに、セム人のアッカド王朝(サルゴン王) およそ1400年も後代の新バビロニア時代 が覇権を握り181年続いた。その後ウルク第 のものである。ネブカドネザル2世が建設した。 四王朝が30年、グティ人の侵略支配が91年、 ① 塩が吹き出している荒地(バベルの塔址付 グテイ人を打倒したのがウルク第五王朝のウ 近) トゥヘガルであった。そして、彼の臣下であっ ② バビロンの想像復元図 イシュタル門、空中 たウルナンム王によって再びシュメール人の 庭園、右奥にバベルの塔(ジッグラト) ウル第三王朝が覇権を取り戻した。ウル第三王 ① 朝は、東地中海沿岸からイランのエラムにいた るまでに支配の版図を広げていた。シュメール のルネサンスとも呼ばれるウル第三王朝の栄 華はおよそ100余年ほどの短命であった。 結論としてウル第三王朝はシュメール人が建 てた最初にして最後の統一王朝であった。とい うことができる。 ② ③ バベルの塔跡にも塩が吹き出ていた。この 上にジッグラトが建っていた。後代の住民 によってその煉瓦がすべて持ち去られたと いう。 ④ バビロン博物館展示のバベルの塔復元模型 らないように気を配り、土地をつねに耕し続け なければならない。 シュメールの地は絶えず洪水や旱魃に悩ま されていた。都市間で運河の水や土地をめぐる 争いはくりかえされていた。シュメール都市の ラガシュはとなりの都市ウンマと境界をめぐ って抗争が絶えなかったことが明らかにされ ている(ラガシュ碑文)。 ◆本稿の<その6>で、ウルの人口3万4千人 くらいだと推定し、そのほとんどが農業や牧畜、 土壌が塩化している写真を重ねたが、何をか 漁業といった「食料生産活動」に直接関わらな いわんやお察しいただけるだろう。このような い人々であった、ウルの都市は第一次産業から 現象は四千年前のメソポタミアでもすでに起 切り離されてしまっていた、ということを指摘 きていたのである。 していた。農村や漁村や山村から都市への人口 ◆前号でシュメールの高度農業技術と生産性 移動、水争い、灌漑設備の荒廃、農地の放棄な の高さを京都大の前川和也教授の研究によっ ど、急速な「塩化」が進んだにちがいない。 て紹介した。その前川教授が、シュメール末期 ◆<ウル第三王朝>は最初の官僚制国家だと に起こったあらたな事実についても明らかに されているが、100余年しか続かなかった。 されている。 復習のため、歴代王朝を挙げておく。 それはシュメールの都市の一つであるラガ シュでは、前2350年から前2100年にか ① ウル・ナンム(前 2112 頃 - 前 2096 頃 けて、麦類の収穫高が4割も減ったという事実 ② シュルギ(前 2095 頃 - 前 2047 頃) である。もう一つは、シュメールの初期には麦 ③ アマル・シン(前 2046 頃 - 前 2038 頃) 類の収穫高の約20%を小麦が占めていた。し ④ シュ・シン(前 2037 頃 - 前 2029 頃) かし末期になると大麦が収穫のほとんどを占 ⑤ イビ・シン(前 2028 頃 - 前 2004 頃) めて、小麦はたったの2%にまで減少したとい う粘土板の解読から判った事実である。 収穫高と小麦から大麦への転換は、「塩害」 によって引き起こされたと前川教授は指摘す る。灌漑農業の宿命として、大地に水を撒くと 水分は強烈な日光によって急激に蒸発する。そ の蒸発の力とともに地中の塩分が上昇し、作物 を枯らせてしまうのである。小麦は塩害に弱く、 大麦は比較的強いということも先述していた。 塩害を防ぐには、「つねに大地の世話をし続 けること」よりほかに方法はないという。イラ ク南部のシュメールの地は、地下水位が高く、 放置すればすぐ塩害に見舞われる。したがって 絶えず灌漑用水の排水を行い、農地に水が溜ま ◆2代王シュルギの「改革」 前川和也氏によ ると、ウル第三王朝時代について、大量の記録 が残されている分野と、ほとんど史料がない分 野があるという。二代王シュルギの治世後半以 後に、膨大な数の行政・経済記録が作成されて いる。首都のウル王室には、属州の周辺諸国か ら穀物や家畜などの貢納物が送られた。ウル第 三王朝が支配する北部メソポタミア、ディヤラ 河地方、イランなど、シュメール・アッカドの 周辺諸地域からは、大量の家畜が定期的に送ら れてきた。シュルギ王はニップール近くに、家 畜群を収容し、登記するための大施設ブズリシ ュ・ダガンを建設した。例えば、2万8601 頭の牛、34万7394匹の羊や山羊、そして ロバやペルシア・オナーゲル、シリア・オナー ◆ウル王朝の末期には、外敵の侵入が深刻な脅 ゲル、馬など。こうして税・貢納と再分配のシ 威となった。セム語系のアモリ(アムル)人は ステムを確立し度量衡も統一された。 ユーフラテス川の上・中流域地方で、部族的紐 帯を保ちながら牧民として生活していた。ウル 第三王朝時代には、彼らが次第にシュメール・ アッカド地方に入り込んできたのである。 彼らの流入を防ぐために第2代シュルギ王 は「国土の防壁」を建設していたが、第4代シ ュ・シン王の時代になるとさらに長大な防壁が 作られた。いわば、「万里の長城」がシュメー ル第三王朝の時代に建設されたのである。もう ジッグラト建設どころではなくなっていたの である。 ◆しかし、シュメール末期には、人類史上初の ある文書では、「防壁建設を命じられた辺境 インフレがシュメール諸都市に起きていたと の軍事司令官がシュ・シン王に手紙を書いて、 いう。税は高く、細々した取引、例えば魚にも アモリ人たちが近くにまで住みついているこ かけられた。神殿は結婚式や、離婚や埋葬の際 と、周辺地域から税を徴収できないこと、長城 にも高い手数料を取り上げた。高利貸しの「銀 を建設するための労働者の数が足りないこと 行業」も生まれ「ヤミ金」並みの強制徴収。収 などを訴えた」ことがわかっている。 穫直前に返済を強行し、庶民から収奪した。こ (『世界の歴史1人類の起源と古代オリエント』 うして物価高騰、社会不安と貧富の格差が増大 前川和也論文 中央公論新社98年) した。一方で、大金持ちは王や神殿に対し自ら の力を誇示し、インダス川から地中海、エジプ 最後の第5代イピ・シン王の治世(前 2028~ トからメソポタミア北部までに世界最初の貿 2004)になると、東からエラム人、西からアモ 易網をはりめぐらしていた。シュメールには既 リ人の脅威が強まった。さらに、同王の治世6 に資本主義的な要素が存在していたのである。 年にウル市で数年続く飢饉が発生し、穀物価格 ◆同時にウル第三王朝末期の対外状況をもみ なければならない。 ⑤外敵の侵入(『古代メソポタミアの神々』監修三笠 宮崇仁監修 小林・岡田著 集英社より) が60倍にも高騰した。首都の食糧危機に対処 するために、イピ・シン王はマリ出身のアモリ 人イシュビ・エラに、軍隊を率いてシュメール 北部の都市イシンとさらに北のカザルに行き、 穀物を買いつけてくることを命令した。詳細は 省くが、まもなくイシュビ・エラは叛旗を翻し てイシン第一王朝(前 2017~1794 頃)を樹立 して王位についた。 こうして、ウル第三王朝の統一は崩壊した。 やがて、イピ・シン王は、治世25年(前 2004 年)、ウルの都市神ナンナの神像とともにエラ ムに連れ去られた。ウルは徹底的な破壊を受け た。廃墟にはエラムの駐屯軍がとどまったが、 7年後にイシュビ・エラによって駆逐された。 イシュビ・エラはイシンの王から今や全メソポ ⑥『ウル滅亡哀歌』の粘土板 タミアの支配者へと成り上がった。そしてイシ 戦禍による ンを首都とするセム系の王朝を開始すること 悲惨な状況が になるが、これは100年後にバビロンへと受 500行以上 け継がれることになる。 に わ た っ て ということで、およそ1500年間続いたシ 延々と述べら ュメールの栄華物語はここで幕を閉じた。 れている。 ◆哀歌にうた ◆『ウル滅亡哀歌』 われた状況が シュメールの詩人が破壊されたウルをうた 現在なおも続 った。 いている。イラ クやアフガン、そしてシリアや周辺諸国、南ス 一陣の突風が、時代を変え、法をなきものに ーダンなどの過酷な戦乱の状況が収まる気配 せんと、吹き付けてきた。 はない。戦争こそ文明崩壊の最大の元凶である その嵐はシュメールの古い法秩序を破壊し、 ことは、これまでの世界史がくりかえし示して かくして良き帝王の時代は過ぎ去った。 きた。 国の町々は今や廃墟となり、家畜を囲った柵 いわゆる四大文明(この呼称はもういささか の内は荒れ果てた。・・・ 古くなっている)であれ、マヤやインカ文明で 運河の水は苦くなり、穀物畑には、草がちら あれ、ローマやペルシアの大帝国であれ、他民 ほら。草原には<嘆きの草>だけが生えてい 族等の侵略によって殺戮がくりかえされ壊滅 る。母親は子供を抱くこともなくなり、父親 させられてきた血なまぐさい歴史。一握りの支 は妻に向ってやさしく呼びかけることもし 配者によって、圧倒的多数の庶民が自由を奪わ ない。・・・ れ、貧困と飢餓に陥れられ、命を奪われた。 王様は外国へ行ってしまった。正しき裁きの 声は、一体どこへいけばきかれるのだ? ⑥ バビロンの遺跡に残るライオン像 敵兵 ・・・人々は故郷から追い立てられ、敵の国 を組み敷いている。イラン・イラク戦争 へと連れて行かれた。夕べになるとスパレア 後、束の間の平和のひととき 人は彼らをののしり、東方のエラム人は彼ら に恥ずかしい目をあわせた。 あー、シュメールの王は宮殿から連れ去られ、 エラム人の国へとイピ・シン王は行ってしま った。はるかアンシャンの果てまで、巣を荒 らされた鳥のように、故郷がもはや見えない 異国の土に。ユーフラテスとチグリスの荒れ 果てた岸辺に、雑草だけが生い茂っている。 ・・・・・(『シュメール文明』ヘルムート・ ウーリッヒ 戸叶勝也訳 79年 佑学社) ◆「泣いても泣ききれない歴史」(大田秀通) という。人間の歴史はあまりにも、繰り返され る戦争による惨禍の、生命と財産を奪いつくす 史実の膨大さに呆然となってしまう。(続く)
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