家なき子

家なき子
SANS FAMILLE
Malot
︵下︶
マロ 3
ているあいだ親方はひと言も言わなかった。まもなくあ
わたしたちはやがて人通りの多い 往来 へ出たが、歩い
ジャンチイイの石切り場
けなかった﹂
をあつかう様子を見ては、おまえをあそこへは 置 いて行
くつもりだった。けれどあの男があんなふうに子どもら
ンぐらいは出そうから、それでわしもしばらくやってゆ
であれが冬じゅうおまえを 借 りきる代わりに、二十フラ
か
るせまい 小路 へはいると、かれは往来の 捨 て石 にこしを
﹁ああ、あなたはほんとにいい人です﹂
おうらい
かけて、たびたび 額 を手でなで上げた。それは 困 ったと
﹁まあ、たぶんこの年を取って 固 くなった流
浪人 の心に
じぜんか
こうかつ
くわ
むなざんよう
るろうにん
お
きによくかれのするくせであった。
も、まだいくらか 若 い時代の意気が 残 っているとみえる。
ごと
いし
﹁いよいよ慈
善家 の世話になるほうがよさそうだな﹂と
この年を取った流浪人はせっかく 狡猾 に胸
算用 を立てて
す
かれは独 り言 のように言った。
﹁だがさし当たりわたした
も、まだ心の 底 に残っている若い血がわき立って、いっ
せん
こうじ
ちは一 銭 の金も、一かけのパンもなしに、パリのどぶの
さいを引っくり返してしまうのだ⋮⋮さてどこへ行こう
こま
中に 捨 てられている⋮⋮おまえおなかがすいたろう﹂と
か﹂とかれはつぶやいた。
ひたい
かれはわたしの顔を見上げながらたずねた。
もうだいぶおそくなって、ひどく寒さが 加 わってきた。
かた
﹁わたしはけさいただいた小さなパンだけで、あれから
北風がふいてつらい 晩 が来ようとしていた。長いあいだ、
のこ
なにも食べませんでした﹂
親方は石の上にすわっていた。カピとわたしはだまって
わか
﹁かわいそうにおまえは今夜も夕食なしにねることにな
その前に立って、なんとか決心のつくまで待っていた。と
ひと
るのだ。しかもどこへねるあてもないのだ﹂
うとうかれは立ち上がった。
そこ
﹁じゃあ、あなたはガロフォリのうちにとまるつもりで
﹁どこへ行くんです﹂
す
したか﹂
﹁ジャンチイイ。そこでいつかねたことがある石切り場
ばん
﹁わたしはおまえをあそこへとめるつもりだった。それ
4
に向かって用いるかれの上きげんな合図であった。けれ
これはいつもわたしたちが出発するとき、犬やわたし
子どもたち﹂
はできないが、 行かなければなるまい。 さあ前へ進め、
﹁わたしは休まなかったので、どうもつらい。あまり 無理 ﹁ぼくはガロフォリの所で休みました﹂
を見つけることにしよう。おまえつかれているかい﹂
ひと言も口をきかずに親方は歩いた。かれの 背中 はほ
き会う 巡査 もふり向いてわたしたちを見送った。
きった様子が、かれらの注意をひいたのであろうか。行
めであったか、わたしたちがとぼとぼ歩いて行くつかれ
したちをじろじろ見た。それはわたしたちの身なりのた
歩き 続 けた。たまたま会う 往来 の人がびっくりしてわた
たくさんの大通りがあった。わたしたちは歩いて歩いて
大通りをぬけて、たくさんの 小路 小路を出ると、また
こうじ
ど今夜はそれをいかにも悲しそうに言った。
とんど 二重 に曲がっていたが、寒いわりにかれの手はわ
じゅんさ
ふたえ
あい
おうらい
いまわたしたちはパリの町の中をさまよい歩いていた。
たしの手の中でかっかとしていた。かれはふるえていた
とう
つづ
夜は暗かった。ちらちら風にまばたきながら、ガス 燈 が
ように思われた。ときどきかれが立ち止まって、しばら
り
ぼんやり 往来 を照 らしていた。一足ごとにわたしたちは
くわたしの 肩 によりかかるようにするときには、かれの
む
氷のはったしき石の上ですべった。親方がしじゅうわた
からだ全体がふるえて、いまにもくずれるように感じた。
はら
きぼう
も
せなか
しの手を引いていた。カピがわたしたちのあとからつい
いつもならわたしはかれに問いかけることはしなかった
て
て来た。しじゅうかわいそうな犬は立ち止まって、ふり
が、今夜こそはしなければならないと感じた。それにわ
おうらい
返っては、はきだめの中を 探 して、なにか骨 でもパンく
たしは、どれほどかれを 愛 しているかを語りたい燃 える
かた
ずでも見つけようとした。ああ、ほんとにそれほど 腹 を
ような 希望 を、いや少なくとも、なにかかれのためにし
かた
ほね
らしているのだ。けれどはきだめは雪が 減 固 くこおりつ
てやりたい希望を持っていた。
さが
さが
いていて、探 しても、むだであった。耳をだらりと下げ
﹁あなたはご病気なんでしょう﹂かれがまた立ち止まっ
へ
たままかれはとぼとぼとわたしたちに追い着いて来た。
5
からだにはひどくこたえる。わたしはいいねどこと 炉 の
じょうにつかれている。この寒さがわたしの年を取った
﹁どうもそうではないかと思うよ。とにかくわたしはひ
たとき、わたしは言った。
見えなかった。どこもかしこもがらんと打ち開いていた。
わたしは返事をするまえに四方を見回した。木も家も
﹁大きな黒いかたまりは見えないかい﹂
﹁そんなものは見えません﹂
﹁おまえ、森が見えるかい﹂とかれはたずねた。
ろ
前で 夕飯 を食べたい。だがそれはゆめだ。さあ、前へ進
風のうなるほかになんの物音も聞こえなかった。
ゆうはん
め、子どもたち﹂
の
﹁わたしがおまえだけに目が見えるといいのだがなあ。
がいとう
前へ進め。わたしたちは町を後にした。わたしたちは
じゅんさ
ほら、あちらを見てくれ﹂かれは右の手を前へさし 延 べ
まどあ
おうらい
外 へ出ていた。もう往
郊
来 の人も巡
査 も街
燈 も見えない。
た。わたしはそっけなくなにも見えないとは言いかねて、
こうがい
ただ 窓明 かりがそこここにちらちらして、頭の上には黒
返事をしなかったので、かれはまたよぼよぼ歩き出した。
す
ずんだ青空に二、三点星が光っているだけであった。い
二、三分だまったまま 過 ぎた。そのときかれはもう一
ま
よいよはげしくあらくふきまくる風が着物をからだに 巻 度立ち止まっては、また森が見えないかとたずねた。ば
やぶ
きょうふ
きつけた。幸いと向かい風ではなかったが、でもわたし
くぜんとした 恐怖 に声をふるわせながら、わたしはなに
かた
の上着のそでは 肩 の所までぼろばろに 破 れていたから、
も見えないと答えた。
﹁おまえこわいものだから目が落ち着かないのだ。もう
ほね
そのすきから風はえんりょなくふきこんで、 骨 まで通る
ような寒気が身にこたえた。
一度よくご 覧 ﹂
らん
暗かったし、 往来 はしじゅうたがいちがいに入り組ん
﹁ほんとうです。森なんか見えません﹂
あんない
おうらい
でいたが、親方は 案内 を知っている人のようにずんずん
﹁広い道もないかい﹂
しん
歩いた。それでわたしも 迷 うことはないとしっかり 信 じ
﹁なんにも見えません﹂
まよ
て、ついて行った。するととつぜんかれは立ち止まった。
6
ちがえたかもわからん﹂
たら、ここまで引っ返して来よう。ことによると道をま
﹁もう五分ばかり歩いてみよう。それでも森が見えなかっ
からなかったから。
にいるのかもわからなかったし、どこへ行くのだかもわ
わたしはなにも言えなかった。なぜならわたしはどこ
﹁道をまちがえたかな﹂
円い頭のような形のいばらがある﹂
言った。
﹁それが見えたら言っておくれ。そこの四つ角に
れる道をとって行かなければならない﹂と親方は力なく
﹁車の 輪 のあとを見たら言っておくれ。左のほうへ分か
火で 焼 かれるように思われた。
それはむちのようにぴゅうと顔を打った。わたしの顔は
わたしたちは引っ返した。今度は風に向かうのである。
﹁じゃあ引っ返さなきゃならない﹂
や
わたしたちが道に 迷 ったことがわかると、もうからだ
十五分ばかりわたしたちは風と争 いながら歩み 続 けた。
わ
になんの力も 残 らないように思われた。親方はわたしの
しんとした夜の 沈黙 の中でわたしたちの足音がかわいた
まよ
うでを 引 っ張 った。
い土の上でさびしくひびいた。もうふみ出す力はほと
固 きょり
つづ
﹁さあ﹂
んどなかったが、でも親方を引きずるようにしたのはわ
ひ
あらそ
﹁ぼくはもう歩けません﹂
たしであった。どんなにわたしは左のほうを心配しては
のこ
﹁いやはや、おまえはわたしがおまえをしょって行ける
ながめたろう。暗いかげの中でわたしはふと小さな赤い
ちんもく
と思うかい。わたしはすわったらもう二度と立ち上がる
を見つけた。
灯 ぱ
ことはできないし、そのまま寒さにこごえて死んでしま
﹁ほら、ご 覧 なさい、明かりが﹂とわたしは指さしなが
ひ
うだろうと思うからだ﹂
ら言った。
かた
わたしはかれについて歩いた。
﹁どこに﹂
らん
﹁道に深い車の 輪 のあとがついてはいないか﹂
親方は見た。その明かりはほんのわずかの 距離 にあっ
わ
﹁いいえ、なんにも﹂
しりょく
えいえん
はだれかの仕事場の 机 にともっているランプか、死にか
﹁その明かりがなにになろう﹂ とかれは言った。﹁それ
がだめになったことを知った。
﹁石切り場の入口は左のほうだよ。わたしたちは気がつ
﹁右のほうにあります﹂
﹁車の 輪 のあとはどちらにあるね﹂
のように思われた。
わたしたちはとぼとぼ歩いた。けれどこの五分間が永
遠 かっている病人のまくらもとの 灯 だ。わたしたちはそこ
かずに通り 過 ぎてしまったにちがいない。あともどりす
たが、かれにはなにも見えなかった。わたしはかれの 視力 へ行って戸をたたくわけにはいかない。遠くいなかへ出
るほうがいいだろう﹂
やど
わ
れば、夜になって 宿 をたのむこともできよう。けれどこ
﹁ 輪 のあとはどうしても左のほうにはついていません﹂
つくえ
うパリの近くでは⋮⋮このへんで宿をたのむことはでき
﹁ではまたあともどりだ﹂
ひ
ない。さあ﹂
もう一度わたしたちはあともどりをした。
す
二足三足行くとわたしは横へはいる道を見つけたよう
﹁森が見えるか﹂
わ
に思った。ちょうどいばらのやぶらしく思われる黒いか
﹁ええ、左手に﹂
わ
たまりもあった。わたしは先へ急いで行くために親方の
のこ
﹁それから車の 輪 のあとは﹂
わ
おうらい
手を放した。往
来 には深いわだちのあとが残 っていた。
﹁もうありません﹂
おいで。手を 貸 しておくれ﹂
ひく
﹁ほら、ここに 輪 のあとがある﹂とわたしはさけんだ。
﹁わたしは目が見えなくなったかしらん﹂と親方は 低 い
わたしはなにか黒いものが見えたので、森が見えるよ
﹁おや、へいがあります﹂
すく
うに思うと言った。
﹁いいや、それは石の山だよ﹂
らん
﹁手をお貸し。わたしたちは 救 われた﹂と親方が言った。
声で言って、両手を目に当てた。
﹁森についてまっすぐに
﹁五分のうちにそこまで行ける﹂とかれはつぶやいた。
か
﹁ご 覧 、今度は森が見えるだろう﹂
7
8
﹁そうだ、 へいだ﹂ とかれはつぶやいた。﹁入口はどこ
べてへいにさわった。
延 おりであるか、 試 してみようとした。かれは両手をさし
親方は、一足はなれて、ほんとうにわたしの言ったと
﹁いいえ、確 かにへいです﹂
さ﹂
﹁どうするって。もうわからなくなった。ここで死ぬの
﹁へえ、じゃあ﹂
とはできなくなったのだ﹂
﹁そうだ、入口をふさいでしまったのだ。中へはいるこ
﹁へいが建った﹂
たし
だ。車の 輪 のあとのついた道を探 してごらん﹂
﹁まあ親方⋮⋮﹂
ため
わたしは地べたに身をかがめて、へいの 角 の所まで残 ﹁そうだ。おまえは死にはしない。おまえはまだ 若 いの
の
らずさわってみたが、入口はわからなかった。そこでま
だから。さあ歩こう。まだ歩けるかい﹂
さが
たヴィタリスの立っている所までもどって、今度は向こ
﹁おお、でもあなたは﹂
わ
うの 側 をさわってみた。 結果 は同じことであった。入口
﹁いよいよ行けなくなったら、 老 いぼれ 馬 のようにたお
のこ
もなければ門もなかった。
れるだけさ﹂
うたが
かど
﹁なにもありません﹂とわたしは言った。
﹁どこへ行きましょう﹂
けいさつ
つ
わか
情 けないことになった。疑 いもなく親方は思いちがい
﹁パリへもどるのだ。 巡査 に出会ったら、 警察 へ連 れて
けっか
をしていた。 たぶんここには石切り場などはないのだ。
行ってもらうのだ。 わたしはそれをしたくなかったが、
がわ
ヴィタリスはしばらくゆめの中をたどっているように、
おまえをこごえ死にさせることはできない。さあ、おい
うま
ぼんやりつっ立っていた。カピはがまんができなくなっ
で、ルミ。さあ、前へ進め、子どもたち、元気を出せ﹂
お
てほえ始めた。
わたしたちはもと来た道をまた引っ返した。何時であっ
なさ
﹁もっと先を見ましょうか﹂とわたしは聞いた。
たかわたしはまるでわからない。なんでも何時間も何時
た
じゅんさ
﹁いや石切り場にへいが 建 ったのだ﹂
9
親方はただのろのろ歩いた。息がだんだんあらくなっ
を開けてくれたろうと思われた。
ているか、知っていたら、わたしたちのためにそのドア
いる人たちも、わたしたちが外でどんなに寒い目に会っ
をしっかりしていた。そこに、夜着にくるまってねむって
の勢 いは強くなるばかりであった。 往来 の家は 戸閉 まり
りの星もいつもよりはずっと小さいように思われて、風
てすこしばかり星が出ていた。その出ていたすこしばか
二時か一時にもなったろう。空は 相変 わらずどんよりし
間も長い長いあいだそれはのろのろと歩いた。きっと十
のさくの根かたにふきつけていた。
みごえの山にかけてあるたくさんのわらを、風が 積 往来 さくで大きな花園を囲 った家があった。その門のそばの
はもう歩けない﹂
﹁すこし休まなければ﹂とかれは力なく言った。
﹁わたし
いた。しばらくしてまたかれは立ち止まった。
しかし意地は 張 っても、からだの力はまったくつきて
あ行こう﹂
の 時刻 にどうして起きてうちへ入れてくれるものか。さ
るのは植木屋だ。朝早く市場へみんな出かけるのだ。こ
﹁いいや、入れてくれはしないよ。このへんに住んでい
おうらい
あいか
て、長い道をかけた人のようにせいせい言っていた。わ
﹁わたしはここにすわろう﹂と親方が言った。
じこく
たしが話しかけると、かれはだまっていてくれという合
﹁でもすわれば、今度立ち上がることができなくなると
つ
は
図をした。
おっしゃったでしょう﹂
と じ
わたしたちはもう野原をぬけて、いまは町に近づいて
かれは返事をしなかった。ただわたしに手まねをして、
いきお
いた。そこここのへいとへいとの間にガス 燈 がちらちら
門の前にわらを 積 み上げるようにと言った。このわらの
かこ
していた。親方は立ち止まったとき、かれがいよいよ力
しとねの上にかれはすわるというよりばったりたおれた。
おうらい
のつきたことをわたしは知った。
かれの歯はがたがた鳴って、全身がひどくふるえた。
つ
﹁一けんどこかのうちをたたきましょうか﹂とわたしは
﹁もっとわらを持っておいで﹂とかれは言った。
﹁わらを
とう
たずねた。
たしは集められるだけありったけのわらを集めて親方の
まったく風がひどかった。寒さばかりではなかった。わ
たくさんにして風を 防 ごう﹂
をはらうようにわたしたちの頭にふきつけた。 往来 には
ピはもうねむっていた。風はわらのたばを木からかれ葉
なかった。わたしがひざを立てたその間にもぐって、カ
ができなかった。うでをつねっても、肉にはなんの感じも
ふせ
わきにすわった。
人ひとりいなかった。わたしたちのぐるりには死の 沈黙 いくらか温かくなるだろう﹂
わがっているのだ。わたしはわからなかったが、とりとめ
この 沈黙 がわたしをおびえさせた。なにをわたしはこ
ちんもく
おうらい
﹁しっかりわたしにくっついておいで﹂とかれは言った。
があった。
親方ほどの 経験 を積 んだ人がいまの場合こんなまねを
もない 恐怖 がのしかかってきた。わたしはここで死にか
くわ
つ
すればこごえて死んでしまうことはわかりきっているの
けているように思った。そう思うとたいへん悲しくなっ
こんく
けいけん
に、その危
険 を平気でおかすということは、もう正気では
た。
しょうこ
さいご
ささ
きょうふ
なかつた 証拠 であった。実
際 久 しいあいだの心
労 と老
年 わたしはシャヴァノンを思い出した。かわいそうなバ
きけん
に、この最
後 の困
苦 が加 わって、かれはもう自分を支 える
ルブレンのおっかあを思い出した。わたしはかの女をも
ろうねん
力を失 っていた。自分でもどれほどひどくなっているか、
う一度見ることなしに、わたしたちの小さな家や、わた
み
しんろう
かれは知っていたろうか。わたしがかれのそばにぴった
しの小さな花畑を見ることなしに死ななければならない
よ
じっさいひさ
りはい 寄 ったときに、かれは 身 をかがめてわたしにキッ
のだ⋮⋮。
うしな
スした。これがかれがわたしにあたえた二度目のキッス
するうちわたしはもう寒くはなくなった。わたしはい
よ
であった。そしてああ、それが 最後 のキッスであった。
つか自分の小さな花畑に帰って来たように思った。太陽
、
、
、
さいご
わたしは親方にすり 寄 ったと思うと、もう目がくっつ
はかがやいていて、それはずいぶん 暖 かかった。 き く い
つと
あたた
いたように思った。わたしは目を開けていようと 努 めた
ちんもく
﹁カピをひざに乗せておやり。からだのぬくみでおまえも
10
11
もが金の花びらを開いていた。小鳥がこずえの中やかき
き生きとかがやいていた。
な目がいまにもものを言うかと思うように、いかにも生
よ
ねの上で鳴いていた。そうだ、そうしてバルブレンのおっ
わたしはひじで起き上がった。みんながそばへ 寄 って
あら
来た。
ほ
りの布 を外へ干 している。
﹁ヴィタリスは﹂とわたしはたずねた。
そうりょう
さが
わたしはシャヴァノンをはなれて、アーサとミリガン
﹁あの子は父さんを 探 しているのだよ﹂と、子どもたち
は言った。﹁どこへ行きました。カピはどこにいますか﹂
ふじん
人 といっしょに白鳥号に乗っている。
夫
の中でいちばん 総領 らしいのが言った。
ヴィタリスがほんとうの父親であったなら、たぶんこ
と
やがてまた目が 閉 じた。心が重たくなったように思っ
﹁あの人は父さんではありません。親方です﹂とわたし
の人たちもえんりょしいしいこの知らせを 伝 えたかもし
おぼ
リーズ
れない。けれどその人はほんの親方というだけであった
つた
と知ると、かれらはいきなり事実を打ち明けて聞かして
ねだい
目を 覚 ますとわたしは 寝台 の上にいた。大きな 炉 のほ
くれた。
さ
のおがわたしのねむっている 部屋 を照 らした。わたしは
みんなの話では、あの気のどくな親方は死んだのであっ
て
ついぞこの部屋を見たことがなかった。わたしを取り 巻 た。わたしたちがつかれきってたおれたその門の中に住
へ や
いて寝台のそばに立っている人たちの顔も知らなかった。
んでいた植木屋が見つけたのであった。 あくる朝早く、
ま
そこにねずみ色の 背広 を着て、 木のくつをはいた男と、
かれのむすこが 野菜 や花を持って市場へ出かけようとす
せびろ
三、四人の子どもがいた。その中でことに目についたの
るときに、かれらはわたしたちがいっしょにしもの上に
やさい
は六つばかりの小さな女の子で、それはすばらしく大き
ろ
た。そしてもうなにも覚 えてはいなかった。
ぬの
かあがさざ波を立てている小川へ出て、いま 洗 ったばか
、
12
わたしの 心臓 を温 かにしていてくれたために、かすかな
死ぬところであったのを、カピが 胸 の所へはいって来て、
のを見つけた。ヴィタリスはもう死んでいた。わたしも
まって、すこしばかりのわらをかぶってねむっていた
固 それにかの女の身ぶりと目つきとは、べつにことばの
のであった。
ばでなく、ただ 優 しい、しおらしい 嘆息 の声のようなも
しながらなにか話をした。話といっても、ふつうのこと
き、 片手 を父のうでにかけ、片手でわたしのほうを指さ
かたて
息 が 気
残 っていた。かれらはわたしたちをうちの中に運
助けを借 りる必
要 のないほどじゅうぶんにものを言って、
かた
び入れて、子どもたちの一人の温かい 寝台 の上にねかし
そこによけい自
然 な情
愛 がふくまれているようであった。
のこ
ひつよう
しぜん
わか
たんそく
てくれたのである。それから六時間ほど、まるで死んだ
アーサと 別 れてこのかた、わたしはつい一度もこんな
こきゅう
じょうみ
やさ
ようになってねていたが、 血のめぐりがついてくると、
に取りすがりたいような、親切のこもった、ことばに言
むね
吸 も強く出るようになった。そうしてとうとう目を 呼
覚 えない 情味 を感じたことはなかった。それはちょうど、バ
さ
あたたか
ましたのであった。
ルブレンのおっかあが、いつもキッスするまえにわたし
しんぞう
わたしはからだもたましいもまったくしびれきったよ
をながめるときのような感じであった。ヴィタリスが死
きそく
うになっていたが、このときはもうかれらの話を聞いて
んで、わたしは世の中に 置 き去りにされたが、でももう
か
わかるだけに覚 めていたのであった。
りぼっちではない、という気がした。わたしを 独 愛 して
ねだい
ああ、ヴィタリスは死んでしまったのである。
くれる者が、まだそばにいるような気持ちがした。
せびろ
じょうあい
この話をしてくれたのは、ねずみ色の 背広 を着た人で
﹁ああ、そうだ、リーズの言うとおりだ。こりゃああの
さ
あった。この人の話をしているあいだ、びっくりした目
子も聞くのがつらいだろうが、やはりほんとうのことは
お
をして、じつとわたしを見つめていた女の子は、ヴィタ
言わねばならぬ。わたしたちが言わないでも、 巡査 が話
じゅんさ
あい
リスが死んだと聞いて、わたしがいかにもがっかりした
すだろうから﹂
ひと
ふうをしたのを見つけると、そこを立って父のそばへ行
13
話のすむのを待ちかねて、
の寝
台 にねかしたことなどを残 らず話してくれた。この
タリスを運んで行ったことや、わたしを長男のアルキシー
てなお話を続 けながら、警
察 に届 けたことや、巡査がヴィ
お父さんはむすめのほうへ向きながら言った。そうし
たしは 肩 に負い皮をかけて、家族のいる 部屋 へと出かけ
のハープはねむっていた 寝台 のすそに置 いてあった。わ
ずに、わたしは起き上がって、着物を着かえた。わたし
まったくどうしていいか、どうしようというのかわから
植木屋と子どもたちはわたしを一人 置 いて出て行った。
くほど見物はよけい笑った。
のこ
ささ
ろ
しょくたく
お
お
﹁それからカピは︱︱︱﹂とわたしは聞いた。
て行った。わたしはなんでも出かけて行かなければなら
とど
﹁なに、カピ﹂
ない気がするが、さてどこへ行こうか。ねどこにいるう
けいさつ
﹁ええ。犬です﹂
ちはそんなに弱っているとも思わなかったが、起きてみ
つづ
﹁知らないよ。いなくなったよ﹂
るともう立つことが苦しかった。わたしはいすにすがっ
ねだい
﹁あの犬はたんかについて行ったよ﹂と子どもたちの一
て、やっと 転 がらないょうに、からだを 支 えなければな
ねだい
人が言った。
﹁バンジャメン、おまえ見たかい﹂
らなかった。 うちの人たちは 炉 の前の 食卓 に向かって、
や
﹁ぼくよく知ってるよ﹂ともう一人の子が答えた。
﹁あの
キャベツのスープをすすっていた。そのにおいがわたし
つりだい
へ
犬は 釣台 のあとからついて行った。首を 垂 れてときどき
にとってはあんまりであった。わたしはゆうべなんにも
かた
たんかにとび上がった。下にいろと言われると、犬はな
食べなかったことをはげしく思い出した。わたしは気が
ころ
んだかおそろしい声でうなったり、ほえたりした﹂
遠くなるように思って、よろよろしながら 炉 ばたのいす
ろ
かわいそうなカピ。役者であったじぶん、あの犬は何
にこしを落とした。
た
度ゼルビノのお 葬式 を送るまねをしたであろう。それは
﹁おまえさん、気分がよくないか﹂と植木屋がたずねた。
そうしき
どんなにまじめくさった子どもでも、あの犬の悲しい様
わたしはかれに、どうも具合の悪いことを話した。そ
わら
な
子を見ては笑 わずにはいられなかった。カピが 泣 けば泣
14
うしてしばらく火のそばへ 置 いてくれとたのんだ。
は、 優 しい心でしたのだからね。もっと 欲 しければまだ
﹁おあがり﹂とかれは言った。
﹁リーズが持って行ったの
お
でもわたしの 欲 していたのは火ではなかった。それは
あるよ﹂
ほ
食物であった。わたしはうちの者がスープを 吸 うところ
もっと欲しいかと言うのか。一ぱいのスープはみるみ
やさ
をながめて、だんだん気が遠くなるように思えた。わた
る吸 われてしまった。わたしがスープを下に 置 くと、前に
ほっ
しがかまわずにやるなら一ぱいくださいと言うところで
立ってながめていたリーズがかわいらしい 満足 のため息
す
あったが、ヴィタリスはわたしにこじきはするなと教え
をした。それからかの女はわたしの小ざらを取って、ま
わす
まんぞく
お
た。わたしはかれらにおなかが 減 っているとは言いださ
た父の所へ一ぱい入れてもらいに行った。いっぱいにし
す
なかった。なぜだろう。わたしはひもじゅうございますと
てもらうと、かの女はかわいらしい 笑顔 をしながら、ま
へ
言うよりは、なにも食べずに死んでしまうほうがよかっ
た持って来た。それがあんまりかわいらしいので、 腹 は
えがお
た。
っていても、わたしは小ざらを取ることを忘 減 れて、じっ
はら
あの目にきみょうな 表情 を持った女の子は︱︱︱名前を
とその顔に見とれたくらいであった。二はい目の小ざら
へ
リーズと 呼 ばれていたが、わたしの向こうにこしをかけ
もさっそく 初 めのと同様になくなった。もう子どもたち
しょくたく
ひょうじょう
ていた。この子はなにも言わずに、じっとわたしのほう
もくちびるをゆがめて 微笑 するくらいではすまなくなっ
よ
を見つめていたが、ふと 食卓 から立ち上がって、一ぱい
た。みんなはいっぱい口を開けて 笑 いだしてしまった。
はじ
スープのはいっているおさらをわたしの所へ持って来て、
﹁どうもおまえ、なかなかいけるねえ。まったく﹂とか
びしょう
ひざの上に置 いた。もうものを言うこともできなかった
の女の父親が言った。
わら
ので、かすかにわたしは首をうなずかせて、お 礼 を言っ
わたしはたいへんはずかしかった。けれどもそのうち
お
た。よし、わたしがものを言えたとしても、父親が口を
わたしは食いしんぼうと思われるよりもほんとうの話を
れい
きかせるひまをあたえなかった。
15
立ち上がって、出かけようとした。
熱 いスープがわたしに元気をつけてくれた。わたしは
﹁ではあの人は寒さばかりでなく、 飢 えて死んだのだ﹂
﹁あの人も、やはりどちらも食べませんでした﹂
﹁では親方は﹂
﹁お昼もやはり食べません﹂
﹁それではお昼は﹂
飯 を食べなかったことを話した。
晩
打ち明けてしたほうがいいと思ったので、じつはゆうべ
﹁母さんもありません﹂
﹁母さんは﹂
﹁ええ、ほかにも父さんはありません﹂
ないか﹂
﹁あのひげの白いじいさんは、父さんではないというじゃ
﹁わたしには両親がありません﹂
いなさる﹂
の所へ帰ったほうがいいだろう。ご両親はどこに住んで
﹁パリでかい。おまえさん、それよりかいなかのご両親
をもらいます﹂
あつ
ばんめし
﹁おまえさん、どうするのだ﹂と父親がたずねた。
﹁おじさんか、おばさんか、 親類 は﹂
かつ
﹁おいとまいたします﹂
﹁なにもありません﹂
たがたは親切にしてくだすったし、ぼくは心からありが
しんるい
﹁どこへ行く﹂
﹁いいえ﹂
たく思っています。ですからおいやでなければ、わたし
おっと
﹁どこから来たのだね﹂
﹁宿 はどこだね﹂
は日曜日にここへもどって来て、あなたがたのおどりに
ようぼ
﹁わかりません﹂
﹁親方はわたしを 養母 の夫 の手から買ったのです。あな
﹁宿はありません。ついきのうこの町へ来たばかりです﹂
合わせてハープをひいてあげましょう﹂
しんるい
﹁パリにだれか友だちか 親類 でもあるのかい﹂
﹁ではなにをしようというのだね﹂
こう言いながらわたしは戸口のほうへ行きかけたが、ほ
やど
﹁ハープをひいたり、歌を歌ったりして、すこしのお金
16
わいらしい女の子のためにいちばんかわいらしいワルツ
わたしはハープをひく元気はなかったけれど、このか
﹁うん。ひいてやっておくれ﹂とかの女の父親は言った。
たたいた。
女に 笑 いかけながらたずねた。かの女はうなずいて手を
﹁あなた、いまひいてもらいたいの﹂と、わたしはかの
ズが、わたしの手を取ってハープを指さした。
んの二足三足で、すぐあとからわたしについて来たリー
兄弟があざけるように言った。
﹁はじめはおどりをおどっ
﹁リーズはばかじゃないか﹂とバンジャメンと 呼 ばれた
﹁それで音楽はけっこう﹂と父親が言った。
んだ。
るりとふり向いて、 泣 きながら父親のうでの中にとびこ
しているようにくちびるを動かした。するとかの女はく
しの向こうへ来て立って、あたかも歌のことばをくり返
リスが教えてくれたナポリ 小唄 を歌った。リーズはわた
た。そこでワルツや 舞踏曲 の代わりに、わたしはヴィタ
ぶとうきょく
をひいてやらずにはいられなかった。
て、今度は 泣 くんだもの﹂
な
こうた
はじめかの女は大きな美しい目をじっとわたしに向け
﹁あの子はあんたのようにばかではないわ﹂と 総領 の 姉 わら
て聞いていたが、やがて足で 拍子 を合わせ始めた。する
が小さい妹をいたわるようにのぞきこみながら答えた。
な
うち、うれしそうに 食堂 の中をおどり歩いた。かの女の
﹁この子にはよくわかったのだよ⋮⋮﹂
そうりょう
よ
兄弟たちはその様子をだまってながめていた。かの女の
リーズが父親のひざの上で 泣 いているあいだにわたし
な
父親もうれしがっていた。ワルツがすむと、子どもはやっ
はまたハープを 肩 にかけて行きかけた。
あね
て来て、わたしにかわいらしいおじぎをした。そして指
﹁おまえさん、どこへ行く﹂と植木屋がたずねた。
しめ
ひょうし
でハープを打って﹁アンコール﹂
︵もう一つ︶という心持
﹁おいとまいたします﹂
しょくどう
ちを示 した。
﹁おまえさん、やはり 芸人 でやっていくつもりかい﹂
かた
わたしはこの子のためには一日でもひいていてやりた
﹁でもほかにすることがありませんから﹂
げいにん
かったが、父親はもうそれだけおどればたくさんだと言っ
17
﹁それはそうだろうが、夜というものがあるからね﹂
﹁だってうちがありませんから﹂
﹁旅でかせぐのはつらいだろう﹂
﹁うん、どうだね、おまえ﹂と父親がたずねた。
の手を取った。
するとリーズが、父親のひざからとんで来て、わたし
なかった。わたしはただ植木屋をながめていた。
朝もずいぶん早くから起きて、まる一日働かなければな
働く気はないか。なかなか楽な仕事ではないが、それは
ければならないが、おまえはどうだね。このうちにいて
﹁火に当たったり寝台にねるには、それそうとう 働 かな
たいと思います﹂
わたしがあれほど 愛 した仲
間 でもあり友だちでもあった
のようであった人は死んだ。なつかしい、 優 しいカピは、
わたしが四、五年いっしょにくらして、ほとんど父親
ずにいてくれ。
りぼっちではなくなるのだ。いいゆめよ。今度は消え
独 家族だ。わたしは家族を持つようになった。わたしは
ねだい
﹁それは、わたしだって 寝台 にねたいし、火にも当たり
らないけれど、ただおまえがゆうべ出会ったような目に
カピは、いなくなった。わたしはなにもかもおしまいに
ひと
はけっして二度と出会う気づかいはなかろうよ。おまえ
なったと思っていた。ところへこのいい人がわたしを自
はたら
はねどこも、食べ物も 得 られるし、自分で 働 いてそれを
分の家族にしてやると言ってくれた。
やど
しょうがい
やさ
得たという満
足 もあろうというものだ。それでおまえが
わたしのために新しい 生涯 がまた始まるのだ。かれは
なかま
わしが考えているようにいい子どもであるなら、同じう
わたしに食べ物と 宿 をあたえると言ったが、それよりも
あい
ちの者にして、いっしょにくらしてゆきたいとも思って
もっとわたしにうれしかったのは、このうちの中の生活
はたら
いるのだよ﹂
がやはりわたしのものになるということであった。この
え
リーズがふり返って、なみだの中からわたしをながめ
男の子たちはわたしの兄弟になるであろう。このかわい
まんぞく
てにっこりした。
らしいリーズはわたしの妹になるであろう。わたしはも
しん
わたしはいま聞いたことをほとんど 信 ずることができ
18
としているのだ。わたしはさっそくハープの負い皮を 肩 とうとは考えなかった。それがわたしにあたえられよう
もしれないと思ったこともあった。けれど兄弟や妹を持
いゆめの中で、いつかわたしも父親と母親を見つけるか
うみなし子ではなくなるであろう。わたしの子どもらし
はなみはずれた 程度 に発
達 した。かの女はなんでもわか
のちえを 損 ないはしなかった。その反対にかの女のちえ
ものを言う力を 失 った。この不
幸 は、でも幸せとかの女
たが、四度目の 誕生日 をむかえるすこしまえに、病気で
リーズはおしであった。生まれつきのおしではなかっ
あった。
ていど
うしな
たんじょうび
からはずした。
るらしかった。でもその 愛 らしくって、活発で優 しい気
質 あい
す
そうりょう
ふこう
﹁おお、それでこの子の返事がわかった﹂とお父さんが
が、うちじゅうの者に 好 かれていた。それで病身の子ど
そこ
いながら言った。
笑 ﹁わたしはおまえの顔つきで、どんな
もにありがちのうちじゅうのきらわれ者になるようなこ
い
かた
におまえが喜 んでいるかわかる。もうなにも言うことは
とのないばかりか、リーズのいるために、うちじゅうが
ふくぶん
はったつ
らない。そのハープをかべにおかけ。いつかおまえが
要 おもしろくくらしている。むかしは 貴族 の家の長子に生
えら
さいほう
わす
きしつ
ここにあきたら、またそれを下ろして 好 きなほうへ行く
まれると 福分 を一人じめにすることができたが、今日の
きせつ
な
りょうり
やさ
がよろしい。けれどおまえもつばめのように、とび出し
働者 の家庭では、 労
総領 はいちばん重い 責任 をしょわさ
わら
て行く 季節 を 選 ばなければならない。まあ、冬のさ中に
れる。母親が亡 くなってから、エチエネットが家庭の母親
よろこ
出て行くのだけはおよし﹂
であった。かの女は早くから学校をやめさせられ、うち
かせい
あね
きぞく
わたしの新しい家庭の場所はグラシエール、うちの名
にいてお 料理 をこしらえたり、お裁
縫 をしたり、父親や
す
はアッケン家、植木屋が商売で、ピエール・アッケンと
兄弟たちのために 家政 を取らなければならなかった。か
み
な
せきにん
いうのがお父さんで、アルキシーに、バンジャメンとい
れらはみんなかの女がむすめであり、 姉 であることを 忘 ろうどうしゃ
う二人の男の子、それから女の子はエチエネットに、う
れきって、女中の仕事をするのばかり 見慣 れていた。い
のこ
ちじゅうでいちばん小さいリーズでこれが家族 残 らずで
19
え、夜はおそくまでさらを 洗 ったりなどをしてからでな
ながら、朝は暗いうちから起きて、父親の 朝飯 をこしら
なかった。リーズをうでにかかえてベンニーの手を引き
ることはめったになかったし、けっしておこったことも
う気づかいもない 重宝 な女中であった。かの女が外へ出
くらひどく使っても出て行く心配もなければ、 不平 を言
言った。
﹁うん、むろんカピもいっしょにおくよ﹂とお父さんが
いはすぐに 了解 された。
﹁するとカピは⋮⋮﹂とわたしはたずねた。わたしの問
るわせながら、かれはわたしの顔をなめた。
でにかかえた。小さな 喜 びのほえ声をたてて、全身をふ
カピがわたしにとびかかって来た。わたしはかれをう
ふへい
くては、とこにはいらなかったから、かの女はまるで子
カピはわたしたちの言っていることがわかったという
したが
よろこ
よろこ
どもでいるひまがなかった。十四だというのにかの女の
ように、地べたにとび下りて、前足を 胸 に置 いておじぎ
ちょうほう
顔はきまじめにしずんでいた。それは年ごろのむすめの
をした。それが子どもたち、とりわけリーズを笑 わせた。
げい
りょうかい
顔ではなかった。
で、 よけいかれらを 喜 ばせるために、 わたしはカピに、
あさめし
わたしはハープをかべにかけてから、ゆうべ出会った
いつもの 芸 をすこしして見せろと望 んだ。けれどもかれ
あら
出来事をぽつぽつ話しだした。石切り場にねむろうとし
はわたしの言いつけに 従 う気がなかった。かれはわたし
お
て失
敗 して、それからあとの始末を一とおり話しかけて、
のひざの上にとび上がって顔をなめ始めた。
むね
やっと五分たつかたたないうちに、 園 に向かっているド
それからとび下りて、わたしの上着のそでを引き始め
つ
あたた
わら
アを引っかく音が聞こえた。それから悲しそうにくんく
た。
のぞ
ん鳴く声がした。
﹁あの犬はわたしを外へ 連 れ出そうというのです﹂
しっぱい
﹁カピだ。カピだ﹂わたしはさけんですぐとび上がった。
﹁おまえの親方の所へ行こうというのだよ﹂
その
けれどもリーズがわたしより早かった。かの女はもう
親方を引き取って行った 巡査 は、わたしが 暖 まって正
じゅんさ
かけ出してドアを開けていた。
20
巡査がいつ来るか、あやふやであった。
気づいたら、聞きたいことがあると言ったそうだ。その
言わなければならなかった。でもまったくなんにも知ら
自分のことはそれでいいとして、今度は親方のことを
そのうえその親切な心がけをほめた。
ほうこく
でもわたしは早く 報告 を聞きたいと思った。たぶん親
こうぎょう
ないのが事実であった。
さいご
方はみんなの思ったように死んではいないのだ。たぶん
てんさい
ただ一つわからないことは、 最後 の 興行 のとき、どこ
ロフォリがむかしの名前をどうとか言いだして、かれを
ふじん
親方はまだ生きて帰れるのだ。
かの 夫人 が 天才 だと言っておどろいたこと、それからガ
へ連 れて行ってくれた。
おどしたことであった。
けいさつ
わたしの心配そうな顔を見て、お父さんはわたしを 警察 警察へ行くとわたしは長ながと 質問 された。けれどわ
けれど親方があれほどかくしていたことを死んだのち
つ
たしはいよいよ気のどくな親方がまったく死んだという
にあばき立てることはいらない。でもそうは思いながら、
の
しつもん
告 を聞くまでは、なにも申し立てようとはしなかった。
宣
事に 慣 れた 警官 の前で子どもがかくしおおせるものでは
せんこく
わたしは知っているだけのことは 述 べたが、それはほん
なかった。かれらはわけなくわなにかけて、かくしたい
けいかん
のわずかのことであった。わたし自身については、せいぜ
と思うことをずんずん言わせてしまうのである。わたし
ようぼ
しょちょう
な
い両親のないこと、親方が前金で 養母 の 夫 に金をはらっ
の場合がやはりそれであった。
おっと
てわたしをやとったこと、それだけしか言えなかった。
署長 はさっそくわたしから、ガロフォリについてなに
しょちょう
﹁それでこれからは⋮⋮﹂ 署長 がたずねた。
もかもかぎ出してしまった。
いにん
つ
﹁わたくしどもでこの子を引き取ろうと思います﹂とわ
﹁この子をガロフォリというやつの所へ 連 れて行くより
ゆる
たしの新しい友人がことばをはさんだ。
ほかにしかたがない﹂ と、 かれは部下の一人に言った。
よ ろこ
つ
﹁それをお許 しくださいますならば﹂
﹁一度この子の言うルールシーヌ街 へ連 れて出れば、すぐ
しょちょう
まち
署長 は 喜 んでわたしをかれの手に 委任 すると言った。
21
しょうち
タリアにおいででしたら、あの男についてご 承知 だった
ロ・バルザニと言えばそのころでいちばん有名な歌うた
じんもん
その家を見つけるよ。きみはこの子といっしょに行って、
でしょう。それはほんの名前を言うだけで、どんな人物
しょに出かけた。
いでした。かれはナポリ、ローマ、ミラノ、ヴェネチア、
のこ
その男を 尋問 してくれたまえ﹂
だということは 残 らずおわかりになったでしょう。カル
署
長 が言ったように、わたしはわけなくその家を見つ
フィレンツェ、ロンドン、それからパリでも歌いました。
じゅんさ
わたしたち三人︱︱︱ 巡査 とお父さんとわたしは、いっ
けた。わたしたちは四階へ上がって行った。マチアはも
どこの 大劇場 もたいした成
功 でした。やがてふとしたこ
しょちょう
う見えなかった。 警官 の顔を見て、それから見
覚 えのあ
とからかれはりっぱな声が出なくなりました。もう歌う
ぜんせいじだい
ひょうばん
せいこう
るわたしを見つけると、ガロフォリは青くなって、ぎょっ
たいの中でいちばんえらい者でいることができなくなる
だいげきじょう
としたようであった。けれどみんなの来たのは、ヴィタ
と、かれは自分の 偉大 な名声に相
応 しない下等な劇場に
みおぼ
リスのことをたずねるためであったことがわかると、か
出て、歌を歌って、だんだん 評判 をうすくすることをし
けいかん
れはすぐに落ち着いた。
ませんでした。その代わりかれはまるっきり自分を世間
そうおう
﹁やれやれ、じいさん、死にましたか﹂とかれは言った。
の目からくらまして、 全盛時代 にかれを知っていた人び
ろうじん
いだい
﹁おまえはその 老人 を知っているだろう﹂
とからかくれるようにしました。けれどもかれも生きな
しょくぎょう
﹁はい﹂
ければなりません。かれはいろいろの 職業 に手を出して
のこ
﹁じゃああの老人について知っていることを 残 らず話し
みせものし
みましたが、どれもうまくいきません。そこでとうとう
だいどう
てくれ﹂
犬を 慣 らして、 大道 の見
世物師 にまで落ちることになり
な
﹁なんでもないことでございます。あの男の名前はヴィ
ました。けれどいくらなり下がってもやはり 気位 が高く、
きぐらい
タリスではございません。本名はカルロ・バルザニと申
これが有名なカルロ・バルザニのなれの 果 てだというこ
は
しました。あなたがいまから三十五年か四十年まえにイ
22
でしょう。わたしがあの男の 秘密 を知ったのは、ほんの
とを世間に知られるくらいなら、はずかしがって死んだ
を感じた。病気は 肺炎 であった。それはすなわちあの 晩 実
際 わたしは胸にはげしい 衝 ︵焼きつくような感じ︶
様、 焼 きつくやうな熱
気 を感じた。
ねっき
ぐうぜんのことでした﹂
気のどくな親方とわたしがこの 家 の 門口 にこごえてたお
や
これが長いあいだ心にかかっていた秘密の正体であっ
れたとき、寒気のために受けたものであった。
やぶ
せいじつ
とくべつ
ようだい
や
きんしょう
た。
でもこの 肺炎 のおかげで、わたしはアッケン家の人た
じっさい
気のどくなカルロ・バルザニ。なつかしいヴィタリス
ちの親切、とりわけてエチエネットの 誠実 をしみじみ知っ
ひみつ
親方。
たのであった。びんぼうなうちではめったに医者を 呼 ぶ
きそく
ばん
ということはないが、わたしの 容態 がいかにも重くって
はいえん
心配であったので、わたしのため 特別 に、習
慣 のためい
しんさつ
かどぐち
植木屋
つか当たり前になっていた 規則 を破 ってくれた。呼ばれ
はいえん
て来た医者は長い 診察 をしたり、細かい容態を聞いたり
かんたん
よ
するまでもなく、いきなり病院へ送れと言いわたした。
そうしき
かんびょう
しゅうかん
そのあくる日ヴィタリスをほうむらなければならなかっ
なるほどこれはいちばん 簡単 で、手数がかからなかっ
つ
た。アッケン 氏 はわたしをお葬
式 に連 れて行くやくそく
た。でもこの父さんは 承知 しなかった。
し
をした。
﹁ですがこの子はわたしのうちの門口でたおれたんです
いんねんろん
しょうち
けれどその日わたしは起き上がることができなかった。
から、病院へはやらずに、やはりわたしどもが 看病 しな
ねつ
夜のうちにひじょうに具合が悪くなった。ひどい 熱 が出
ければなりません﹂とかれは言った。
す
むね
て、はげしい寒けを感じた。わたしの 胸 の中は、小さな
医者はこの 因縁論 に対して、いろいろうまいことばの
ばん
ジョリクールがあの 晩 木の上で 過 ごしたとき受けたと同
23
と考えた。そしてまったく看病してくれた。
た。かれはわたしをどうしても看病しなければならない
かぎりをつくして 説 いたが、承
知 させることができなかっ
こまでもがまん強く 誠実 をつくしてくれた。いく 晩 かわ
やきがさしたかもしれなかった。でもエチエネットはど
たびたびあともどりをしたので、ほんとうの両親でもい
わたしの病気は長かったし、重かった。 快 くなっては
こころよ
こうしてあり 余 る仕事のあるうえ、エチエネットには
たしは 肺臓 が痛 んで、息がつまるように思われて、ねむ
しょうち
また一つ、看
護婦 の役が増 えた。でもセン・ヴェンサン・
られないことがあった。それでアルキシーとバンジャメ
と
ド・ポールの 尼 さんがするように、親切にしかも 規則 正
ンが代わりばんこに、 寝台 のそばにつききりについてい
かんごふ
あま
ねだい
なお
ひより
きおく
ばん
しく 看護 してくれて、けっしてかんしゃく一つ起こさな
てくれた。
ぼくじょう
まひる
あたた
せいじつ
いし、なに一つ手落ちなしにしてくれた。かの女が家事
ようようすこしずつ 治 りかけてきた。でも長い重病の
あま
のためにどうしてもついていられないときには、リーズ
あとであったから、すこしでもうちの外に出るには、グ
いた
が代わってくれた。たびたび 熱 にうかされながら、わた
ラシエールの 牧場 が青くなり始めるまで待たなければな
ねだい
のぞ
われし
はいぞう
しは 寝台 のすそで不
安心 らしい大きな目をわたしに向け
らなかった。
しゅご て ん し
ふ
ているかの女を見た。熱にうかされながらわたしはかの
そこで用のないリーズがエチエネットの代わりになっ
いじょう
きそく
女を自分の 守護天使 であるように思って、天使に向かっ
て、ビエーヴル川の岸のほうへわたしを散
歩 に連 れて行っ
かんご
て話をするように、自分の 望 みや願 いをかの女に打ち明
てくれた。真
昼 の日ざかりに、わたしたちはうちを出て、
つつ
ねつ
けた。このときからわたしは 我知 らずかの女を、なにか
カピを先に立てて、 手を組みながらそろそろと歩いた。
ふあんしん
後光に 包 まれた人間以
上 のものに思うようになり、それ
その年の春は 暖 かで、 日和 がよかった。少なくともわた
つ
が白い大きなつばさをしょってはいないで、やはりわれ
しは暖かな心持ちのいい 記憶 を持っている。だから同じ
さんぽ
われただの人間と同様にしていることをふしぎに思った
ことであった。
ねが
りした。
24
り知られていたが、その谷に 注 ぐ川はビエーヴル川であ
た。このへんに小さな谷があるということだけはぼんや
間にある土地で、パリの人にはあまり知られていなかっ
このへんはラ・メーゾン・ブランシュとグラシエールの
うに思われる。わたしに絵がかけるなら、このポプラの林
はあざやかに 記憶 に残 っていて、ついきのうきょうのよ
後ずいぶん 変 わったが︱︱︱それでもわたしの受けた 印象 これがわたしの見た小さな谷の 景色 であった︱︱︱その
いた。
こうがい
のこ
は
けしき
るから、この谷はパリの 郊外 ではいちばんきたない 陰気 の一 枚 の葉をも 残 すことなしにえがき出したであろう︱
みき
さんぽ
むら
はたら
おか
ほうだい
いんしょう
な所だと言いもし、 信 じられもしていた。だがそんなこ
︱︱また大きなやなぎの木を、頭の先の青くなった、とげ
ばすえ
か
とはまるでなかった。うわさほど悪い所ではなかった。ビ
のあるさんざしといっしょにかいたであろう。それはや
け い しゃち
せいかく
のこ
エーヴル川と言えば、たいてい人がセン・マルセルの 場末 なぎのかれたような 幹 の間に根を張 っていた。また 砲台 きおく
で、工場地になっているというので、頭からきたない所
の 傾斜地 をわたしたちはよく 片足 で楽にすべって下りた
そそ
と決めてしまうのであるが、ヴェリエールやリュンジに
丘 ︱︱︱それもかきたい。あの風車といっしょに う ず らが いんき
は自
然 のおもむきがあった。少なくともわたしのいたじ
の絵もかきたい︱︱︱セン・テレーヌ寺の庭に 群 がってい
つづ
まい
ぶんには、やなぎやポプラが青あおとしげっている下を
たせんたく女もえがきたい。それから川の水をよごれく
しん
水が流れていた。その両岸には緑の 牧場 が、人家や庭の
さらせていた 製革 工場もかきたい︱︱︱
へきぎょく
ひつよう
りょうかい
、
、
、
かたあし
ある小山のほうまでだんだん上りに 続 いていた。春は草
もちろんこういう 散歩 のおり、リーズはものは言えな
しぜん
が青あおとしげって、白い小ぎくが 碧玉 をしきつめたも
かったが、きみょうなことに、わたしたちはなにもこと
ぼくじょう
うせんの上に白い星をちりばめていたし、 芽出 しやなぎ
ばの 必要 はなかった。わたしたちはおたがいにものを言
だ
やポプラの若
木 からはねっとりとやにが流れていた。そ
うことなしに、 了解 し合っているように思われた。
、
、
め
うして う ず らや、 こ ま ど りや、 ひ わやなんぞの鳥が、こ
そのうちにわたしにも、みんなといっしょに 働 けるだ
、
、
、
、
わかぎ
こはまだいなかで、町ではないというように歌を歌って
、
、
、
25
ぶんに 働 かなければならないと感じた。少なくともぐる
事はなにもなかった。けれど今度こそわたしは、じゅう
ばというように、いっしょうけんめい 張 りこんでする仕
つらいものではあるが、どうでもこれだけ仕上げなけれ
仕事らしい仕事をしたことがなかった。長い 流浪 の旅は
やりたいと思っていたからであった。わたしはこれまで
くしてくれた親切な友だちに、こちらからもなにかして
日を待ちかねていた。それはわたしのためにこれだけつ
けじょうぶになる日が来た。わたしはその仕事を始める
なむちをふるって馬をはげましていた。兄弟の一人はこ
トが、回しつかれて足が 働 かなくなると、かの女は小さ
ていた。そして皮のマスクで目をかくされた老
馬 のココッ
このあいだリーズは 灌水 に使う水
上 げ 機械 のそばに立っ
ラスを毎日二度ずつ動かさなければならなかった。
かったが、一日ひまがかかった。なにしろ何百というガ
らなければならなかった。これはむずかしい仕事ではな
らなかった。昼のうちはわらのおおいで日よけをしてや
になって寒くならないうちにまたそれを閉めなければな
しはガラスのフレームを開けなければならなかった。夜
るろう
りにいる人たちをお手本にして、元気を出さなければな
の機械が引き上げたおけを返す、もう一人の兄弟はお父
はたら
ついや
ねっしん
ゆうき
きかい
らないと思った。このごろはちょうど に お い あ ら せ い と
さんの 手伝 いをする。こんなふうにしててんでに自分の
ひゃくしょう はたら
はたら
みずあ
うがパリの市場に出始める 季節 であった。それには赤い
仕事を持っていて、むだに時間を 費 すものはなかった
かんすい
のもあり、白いのもあり、むらさき色のもあって、その
わたしは村で 百姓 の 働 くところを見たこともあるが、つ
は
色によって分けられて、いくつかのフレームに入れられ
いぞパリの近所の植木屋のような 熱心 なり勇
気 なり勤
勉 ばん
ねだい
ろうば
てあった。白は白、赤は赤、同じ色のフレームが一列に
なりをもって 働 いていると思ったことはなかった。 実際 、
、
、
、
、
、
、
、
はたら
ならんでみごとであった。夕方フレームのふたをするじ
ここではみんないっしょうけんめい、朝は日の出まえか
てつだ
ぶんには、花から立つかおりが風にふくれていた。
ら起き、 晩 は日がくれてあとまでいっぱいの時間を使い
きせつ
わたしにあてがわれた仕事はまだ弱よわしい子どもの
きってのちに 寝台 に休むのである。わたしはまた土地を
そうおう
じっさい
きんべん
力に 相応 したものであった。毎朝しもが消えると、わた
、
26
たがや
きんろう
きゅうけい
くろう
ろうどう
ばん
行くほかに 苦労 のなかったのに引きかえて、いまは花畑
はたら
と
したことがあったが、勤
耕 労 によって土地にまるで休
憩 を
の 囲 いの中に 閉 じこめられて、朝から 晩 まであらっぽく
かこ
あたえないまでに 耕作 し 続 けるということを知らなかっ
かなければならなかった。 働 背中 にはあせにぬれたシャ
つづ
た。だからアッケンのお父さんのうちはわたしにとって
ツを着、両手に如
露 を持って、ぬかるみの道の中を、素
足 こうさく
はりっぱな学校であった。
で歩かなければならなかった。でもぐるりのほかの人た
せなか
わたしはいつまでも温室のフレームばかりには使われ
ちも、同じようにあらっぽい労
働 をしていた。お父さんの
かいふく
かいふく
せき
ねだい
うしな
すあし
ていなかった、元気が 回復 してきたし、自分もなにか地
如露はわたしのよりもずっと重かったし、そのシャツは
とくい
ひと
じょろ
の上にまいてみるということに 満足 を感じてきた。その
わたしたちのそれよりも、もっとびっしょりあせにぬれ
まんぞく
が 種 芽 を出すのを見るのが、 いっそうの満足であった。
ていた。みんな平等であるということは、 苦労 の中の大
そうぞう
め
これはわたしの仕事であった。わたしの 財産 、わたしの
きな楽しみであった。そのうえわたしはもうまったく失 っ
たね
造 であった。だからよけいわたしに 創
得意 な感じを起こ
たと思ったものを回
復 した。それは家族の生活であった。
てきとう
しょくたく
くろう
させた。
わたしはもう 独 りぼっちではなかった。世の中に 捨 てら
ざいさん
それで自分がどういう仕事に 適当 しているかがわかっ
れた子どもではなかった。わたしには自分の 寝台 があっ
す
た。わたしはそれをやってみせた。そのうえよけいわた
た。わたしはみんなの集まる 食卓 に自分の席 を持ってい
ほねお
しをゆかいにしたことは、まったくこれでは 骨折 りのか
た。昼間ときどきアルキシーやバンジャメンがわたしに
え
ろうどう
いがあると感じ 得 たことであった。
に
げんこつをみまうこともあったが、わたしはなんとも思
ふろうにん
この新しい生活はなかなかわたしには苦しかったが、
ばん
わなかった。またわたしが打ち返しても、かれらはなん
な
しかしこれまでの 浮浪人 の生活と似 ても似つかない 労働 とも思わなかった。そうして 晩 になれば、みんなスープ
あんがい
の生活が 案外 早くからだに慣 れた。これまでのように自
を取り巻 いて、また兄弟にも友だちにもなるのであった。
ま
由気ままに旅をして、なんでも大道を前へ前へと進んで
27
を習った者はなかったが、アルキシーとバンジャメンは
の兄弟 姉妹 におどりをおどらせる。だれもかれもダンス
ておいた 例 のハープを外 して持って来る。そうして四人
な集まった。わたしはその週のあいだかけっぱなしにし
日曜の午後には家についているぶどうだなの下にみん
ゆかいであった。
間もあった。むろんそれは短かったが、短いだけよけい
うことはなかった。わたしたちにも 休憩 の時間も遊ぶ時
ほんとうを言うと、わたしたちは 働 いてつかれるとい
シャラントンやムフタール 区 からはいって来たとき見て
うに大理石や黄金の町ではなかったが、あのとき 初 めて
わかりかけてきた。そうしてそこはわたしが 想像 したよ
りの家に連れて行ったので、わたしもすこしずつパリが
やの花市場へ 連 れて行ったり、よく花を分けてやる花作
よくさかり場や、波止場や、マドレーヌやシャトードー
二年はこんなふうにして 過 ぎた。お父さんはわたしを
返してやりたがった。
それで一とおり役目を終わると、かれはいくらでもくり
あった。 その日はかれにむかしのことを思い出させた。
はたら
一度ミルコロンヌで 婚礼 の舞
踏会 へ行って、コントルダ
早飲みこみに思ったようなどろまみれの町でもないこと
しまい
こんれい
せいかく
きおく
きゅうけい
ンスのしかただけ多少 正確 に記
憶 していた。その記憶が
がわかった。わたしは 記念碑 を見た。その中へもはいっ
ぐんしゅう
きねんひ
く
す
かれらの手引きであった。 かれらはおどりつかれると、
てみた。波止場通り、大通りをも、リュクサンプールの
どうぞう
つ
わたしに歌のおさらいをさせる。そうしてわたしのナポ
公園をも、チュイルリの公園をも、シャンゼリゼーをも、
はず
リ小
唄 はいつも決まって、リーズの心を動かさないこと
歩いてみた。 銅像 も見た。群
衆 の人波にもまれて、感心
れい
はないのであった。
して立ち止まったこともあった。これで大都会というも
せつ
はじ
そうぞう
このおしまいの一 節 を歌うとき、かの女の目はなみだ
のがどんなふうにできあがっているかという考えがほぼ
ぶとうかい
にぬれないことはなかった。
できてきた。
こうた
そのとき気をまぎらすために、わたしはカピと 道化芝居 幸いにわたしの教育はただ目で見る物から受けただけ
どうけしばい
をやるのであった。カピにとってもこの日曜日は休日で
28
を開けても三、四ページもめくるとすぐいねむりを始め
さんぽ
ではなかった。パリの 町中 を散
歩 したりかけ歩いたりす
るのであった。わたしはしかしそんなにねむくはなかっ
まちなか
るついでに、ぐうぜん覚 えるだけではなかった。このお父
たし、ずっと本が 好 きだったので、いよいよねどこには
おぼ
さんはいよいよ 自前 で植木屋を開業するまえに植物園の
いらなければならない時間まで読んでいた。こうなると
おぼ
す
畑で 働 いていた。そこには学者たちがいて、かれにしぜ
ヴィタリスの手ほどきをしてくれた 利益 がむだにはなら
じまえ
ん、物を読んで 覚 えたいという 好奇心 を起こさせた。そ
なかった。わたしはねながらそれを 独 り言 に言って、か
はたら
れでいく年かのあいだためた金を書物を買うために使っ
れのことをありがたく思い出していた。
けっこん
のぞ
ひと
りえき
たし、その本を読むために休みの時間を 費 した。けれど
わたしがものを学びたいという 望 みは、はしなくお父
こうきしん
婚 して子どもができてからは、休みの時間がごくまれ
結
さんに、自分もむかし本を買うために毎朝 朝飯 のお金を
りえき
あさめし
ごと
になった。なによりもその日その日のパンをもうけなけ
二スー 倹約 したむかしを思い出させた。それでたんすの
ついや
ればならなかった。しぜん書物からはなれたが、 捨 てら
中にあった書物のほかの本までパリからわざわざ買って
ひょうだい
けんやく
れたわけでもなく、 売りはらわれたわけでもなかった。
来てくれた。その書物の 選 び方 はでたらめか、さもなけ
す
わたしが 初 めてむかえた冬はたいへん長かったし、花畑
れば 表題 のおもしろいものをつかみ出して来るにすぎな
ちつじょ
かた
の仕事はほとんど中止同様に、少なくとも何か月のあい
かったが、やはり書物は書物であった。これはそのじぶ
ばん
えら
だの仕事はひまであった。それでわたしたちは 炉 を囲 ん
ん 秩序 もなく、わたしの心にはいっては来たが、いつま
はじ
で、いっしょにくらす晩 などには、そういう古い本をたん
でも消えることはなかった。それはわたしに 利益 を残 し
かんけい
かこ
すから引き出して、めいめいに分けて読んだ。それはた
た。いいところだけが残った。なんでも本を読むのは利
こうかい
ろ
いてい植物学の本か植物の 歴史 のほかには、航
海 に関
係 益だということは、ほんとうのことである。
のこ
した本であった。アルキシーとバンジャメンはお父さん
リーズは本を読むことを知らなかったが、わたしが一
しゅみ
れきし
の学問の 趣味 を受けついでいなかったから、せっかく本
29
うだんごとには身のはいらないほうであったから、やが
いつも物わかりがよくって、つまらない遊びごとやじょ
いだの新しい 結 び目 になった。いったいこの子の 性質 は
んで聞かせてくれと言いだした。これがわたしたちのあ
しが本のほうへ心をひかれる様子を見て、今度は本を読
まになるので、本を取り上げたが、それでもやはりわた
りたがっていた。 初 めのうちはかの女も自分と遊ぶじゃ
て、なにがそんなにおもしろいのだろう、そのわけを知
時間でもひまがあれば、本と首っぴきをしているのを見
﹁そらね、わたしがおまえを引き取ったのはずいぶんい
だいて、 笑 いながら言った。
うれしがったであろう。アッケンのお父さんはわたしを
したか人にもわかるようなもののかけたとき、どんなに
のものができるようになった。かの女はなにをかこうと
先生と 生徒 の美しい協
力一致 から、ほんとうの天才 以上 ではなかった。でもわたしたちは力を合わせて、やがて
うやら 目的 を達 しかけた。むろんわたしはりっぱな先生
れは長いことかかったし、なかなかむずかしかったがど
た。まあやっと図画とでもいうようなことを教えた。こ
め
せいと
わら
たっ
てわたしが読んで聞かせることに楽しみを感じもし、心
いじょうだんであった。リーズはいまにきっとおまえに
もくてき
の養 いをえるようになった。
お礼を言うよ﹂
はじ
何時間もわたしたちはこうやって 過 ごした。かの女は
﹁いまに﹂とかれが言ったのは、やがてかの女が口がきけ
いじょう
わたしの前にすわって、本を読んでいるわたしから目を
るようになってということであった。なぜならだれもか
きょうりょくいっち
はなさずにいた。たびたびわたしは自分にわからないこ
の女が口がきけるようになろうとは思わなかったが、お
せいしつ
とばなり 句 なりにぶつかると、ふとやめてかの女の顔を
医者たちはいまはだめでもいつか、なにかひょっとした
むす
見た。そういうときわたしたちはかなりしばらく考え出
機会で口がきけるようになるだろうと言った。
やしな
すために休む。それを考えてもやはりわからないとき、か
なるほどかの女はわたしが歌を歌ってやると、やはり
す
の女はあとをと言いたいような身ぶりをしてあとを読む
さびしそうな身ぶりで﹁いまにね﹂とそういう心持ちを
く
合図をする。わたしはかの女にまた絵をかくことを教え
30
だが流れているのを見た。それがかの女の心の苦しみを
に残
念 がっていた。たびたびわたしはかの女の目になみ
を歌うことを学ぶことはできなかった、これをひじょう
のするとおりに動くことができた。もちろんかの女は歌
れと 望 んだ。もうさっそくかの女の指はずんずんわたし
した。かの女は自分にもハープをひくことを教えてく
現 を言った。
言 このごろわたしは一人でいるとき、よく考えては 独 り
一家の 離散 るのであった。
あらわ
語っていた。でも 優 しい快
活 な 性質 からその苦しみはす
﹁おまえはこのごろあんまりよすぎるよ。これはどうも
ざんねん
のぞ
ぐに消えた。かの女は目をふいて、しいて 微笑 をふくみ
続 きしそうもない﹂
長
ながつづ
よそう
りさん
ながら、こう言うのであった。
でもなぜ 不幸 が来なければならないか、それをまえか
ようし
うたが
はんせい
ひと
﹁いまにね﹂
ら 予想 することはできなかった。だがどのみち、それの
じけん
ごと
アッケンのお父さんには、 養子 のようにされ、子ども
やって来ることは 疑 うことのできない事実のように思わ
せいしつ
たちには兄弟のようにあつかわれながら、わたしは、ま
れてきた。
かいかつ
たしてもわたしの生活を引っくり返すような 事件 はもう
そう思うと、 わたしはたいへん心細かった。 しかし、
やさ
起こらずに、いつまでもグラシエールにいられそうには
一方から見ると、その 不幸 をどうにかしてさけるように
びしょう
思えなかった。それはわたしというものが、長く幸福に
いっしょうけんめいになるので、しぜんにいいこともあっ
ふこう
くらしてゆくことができないたちで、やっと落ち着いた
た。なぜというに、わたしがこんなにたびたび不幸な目
ふこう
と思うときには、それはきっとまた幸福からほうり出さ
に会うのは、みんな自分の 過失 から来ると思って、反
省 のぞ
かしつ
れるときであって、自分の 望 んでもいない出来事のため
するようになったからである。
か
にまたもや変 わった生活にとびこまなければならなくな
31
パリの市場に持ち出されるのであった。ただこの花でむ
がついていて、四、五月ごろになると、これがさかんに
た。その草は短くって大きく、上から下までぎっしり花
易 で、パリ 容
近在 の植木屋はこれで商売をする者が多かっ
をやっていたと言ったが、この花を作るのはわりあいに
培 わたしはまえに、お父さんが に お い あ ら せ い と うの栽
来るという考えはちっともまちがいではなかった。
そう思ったのは、自分の思い 過 ごしであったが、 不幸 が
でもほんとうは、わたしの過失ではなかった。それを
屋 の中から二人の話し声をはっきり聞いた。
部
いるか、または帰って来る足音で目を 覚 ましたときには、
も、きっとねずに待っていた。わたしがまだねいらずに
そんなとき、エチエネットは、どんなにおそくなって
も回らないし、手足もぶるぶるふるえていた。
れて、夜おそく帰るじぶんには、まっかな顔をして、 舌 ん一けん回って歩くうちに、ほうぼうでお酒を飲ませら
ばん悪いときであった。なぜというと、お父さんは一け
節が、わたしたちとりわけエチエネットにとって、いち
のまれて、うちにいることが少なかった。そしてこの季
め ば
のこ
や え
ひとえ
さいばい
ふこう
ずかしいのは、 芽生 えのうちから葉の形で八
重 と一
重 を
﹁なぜおまえはねないんだ﹂とお父さんは言った。
す
す
見分けて、一重を 捨 てて八重を残 すことであった。この
﹁お父さんがご用があるといけないと思って﹂
かんべつ
とくべつ
けんぺい
や
した
別 のできる植木屋さんはごくわずかで、その人たちが
鑑
﹁なんだと。そんなことを言って、このおじょうさんの
なかま
きんざい
家の 秘法 にして他へもらさないことにしてあるので、植
兵 が、わたしを 憲
監視 するつもりだろう﹂
ようい
木屋 仲間 でも、特
別 にそういう人をたのんで花を見分け
﹁でもわたしが起きていなかったら、だれとお話しなさ
ね べ
さ
てもらわなければならなかった。それでたのまれた人は
るおつもり﹂
じゅんかい
じゅくれん
へ や
ほうぼうの花畑を 巡回 して歩いて、いろいろと注意をあ
﹁おまえ、わたしがまっすぐに歩けるか見てやろうと思っ
ひほう
たえるのであった。これをレセンプラージュと言ってい
ているんだな。よし、この 行儀 よくならんだしき石を一
かんし
た。お父さんはパリではこの道にかけて 熟練 のほまれの
つ一つふんで、子どもの 寝部屋 まで行けるかどうか、か
きせつ
ぎょうぎ
高い一人であった。それでその 季節 にはほうぼうからた
、
、
、
、
、
、
、
、
、
32
﹁ええ﹂
﹁なんだ、わしの席を見ていたと﹂
﹁リーズはお父さんの席 を、なんだか見ていました﹂
はしなかったかい﹂
わたしが 夕飯 のときいなかったのを見て、なんとか言い
もせいぜいまっすぐに歩かなくてはならぬ。 リーズは、
なにしろおじょうさんたちがやかましいから、お父さん
﹁だいじょうぶさ。わたしはまっすぐに歩いているのだ。
﹁ええ。よくねていますわ。どうかお静かに﹂
﹁リーズはごきげんかい﹂とお父さんは言った。
やがてまた静 かになった。
不器用 な足音が台所じゅうをしばらくがたつかせると、
けをしようか﹂
﹁エチエネット、おまえはいい子だ。あすはわたしはルイ
しばらく 沈黙 が続 いた。
ければいいと思っていました﹂
﹁わたしはリーズが、お父さんのお帰りのところを見な
﹁で、おまえはどう思っていたえ﹂
んのお帰りを待ちかねていたようです﹂
﹁いいえ、つい十五分ほどまえねたばかりです。お父さ
からねこんでいるかい﹂
﹁なに、あの子が知ってるって。あの子が⋮⋮もう早く
らっしゃる所をようく知っていますよ﹂
も言いませんでした。あの子はでもお父さんの行ってい
﹁いいえ、なんにもたずねませんでした。わたしもなに
ちに行っていると答えたろう﹂
たずねたろう。そしておまえは、わたしがお友だちのう
ぶきよう
﹁何べんもかい。何べんぐらい見ていた﹂
ソーのうちへ行く。わたしはちかって 夕飯 にはきっと帰
ゆうはん
しず
﹁それはたびたび﹂
る。おまえが待っていてくれるのが気のどくだし、リー
せき
﹁それからどうしていたね﹂
ズが心配しいしいねるのがかわいそうだから﹂
せいごん
つづ
﹁
﹃お父さんはいらっしゃらないのね﹄と言いたいような
だがやくそくも 誓言 もいっこう役には立たなかった。か
ちんもく
目つきをしていました﹂
れはちっとも早く帰ったことはなかった。一ぱいでもお
ゆうはん
﹁じゃあリーズは、わたしがそこにいないのはなぜだと
33
おうらい
ぱいになる。ふつうの店や市場だけではない。 往来 のす
ジュの 季節 がすむと、もうお父さんは外へ出ようとも思
でもこんなことはしじゅうではなかった。レセンプラー
もう忘 れられてしまった。
いた。 と りわ け 八 月 に は、 セ ン ・ マ リ、 セ ン ・ ルイの
すむと、七月、八月の 祝 い日 の用意にせっせとかかって
季節 が
アッケンのお父さんは、 に お い あ ら せ い と うの ことのできる場所にはきっと花を売っていた。
いしだん
酒がのどにはいったら、もうめちゃめちゃであった。う
みずみ、家いえの 石段 、そのほかちょっとした店を開く
わない。むろん一人で 居酒屋 へ行く人ではなかった。そ
祝日 があるので、これを当てこんで何千本という え ぞ
大
ほんぞん
んなむだな時間を持つ人ではなかった。
ぎ く、フクシア、 き ょ う ち く と うなどを温室や 温床 には
わす
ちの中でこそ、リーズがご 本尊 だが、外の風に当たると
に お い あ ら せ い と うの 季節 がすむと、今度はほかの花
いりきらないほどしこんでおいた。これらの花はどれも、
きせつ
び
たし
い
おんしょう
きせつ
を作らなければならない。植木屋の花畑は一年じゅうむ
ちょうどその当日に早すぎずおそすぎず花ざかりという
しっぱい
いわ
だに土地の遊んでいるひまはなかった。一つの花を売っ
ふうに作らなければならないので、そこにうでの 要 るの
きせつ
てしまうとほかの花を売り出す仕度をしなければならな
は言うまでもないことであった。だれだって、太陽と天
いざかや
かった。セン・ピエールだの、セン・マリだの、セン・ル
気を自由にすることはできない。天気は人間にかまわず
だいしゅくじつ
イだの、そういう年じゅうの 祝 い日 にはおびただしい花
よすぎたり、悪すぎたりするのであった。アッケンのお
び
び
が町へ出る。ピエールだの、マリだの、ルイだのと 呼 ば
父さんは、そういううでにかけては、 確 かなものであっ
いわ
いわ
れる名前の人たちの数はおびただしいもので、したがっ
たから、花が当日におくれたり早すぎたりするなどとい
ることはしかたがなかった。
よ
てそういう祝 い日 には、花たばやら花びんを買って、名
う 失敗 はなかったが、それだけにめんどうな手数のかか
い人が 限 りなく多かった。
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
、
この話の当時には、花の出来はまったくすばらしいも
いわ
づけ親やお友だちにおくってお 祝 いをしなければならな
、
、
だから、この祝い日の前夜には、パリの通りは花でいっ
かぎ
、
、
、
、
、
、
、
、
、
34
のであった。それはちょうど八月五日のことであったが、
曜日の夕方、わたしたち 残 らずうちそろってアルキュエ
ができあがったので、そのほうびとして、八月五日の日
のこ
花はいまが見ごろであった。花畑の中の野天の下で、 え
イまで、お父さんの友人で、やはり植木屋 仲間 のうちへ
ごちそうを食べに行くことが決定されていた。カピも一
なかま
ぞ ぎ くの花びらはいまにも口を開こうとしてふくれてい
た。
行の一人になるはずであった。わたしたちは四時まで 働 はたら
温室の温度と日光を弱めるために、わざわざ 石灰乳 を
くことにして、仕事がすんだところで、門に 錠 をかって、
かた
せっかいにゅう
ガ ラ ス の フ レ ー ム に ぬった 温床 の下で、フクシアや き ょ
アルキュエイまで行くことになった。 晩食 は八時にでき
ねもと
じょう
う ち く と うがさきかけていた。うじゃうじゃと 固 まって
るはずであった。晩食がすんでわたしたちはすぐうちへ
おんしょう
草むらになっているものもあれば、頭から 根元 まで三角
帰ることにした。ねどこにはいるのがおそくならないよ
で四時二、三分まえにわたしたちはみんな仕度ができた。
ばんしょく
形につぼみのすずなりになったものもあった。どうして
うに、月曜の朝にはいつでも 働 けるように、元気よく早
さ
まんぞく
ていた。
﹁さあ、みんな行こう﹂とお父さんがゆかいらしくさけ
んだ。﹁わたしは門にかぎをかけるから﹂
むね
こうかれはむすこたちをふり返って言っていた。
びしょう
お
リーズの手を取って、わたしは走りだした。カピはう
ほね
だけ売ればいくらになるという 勘定 をしていた。
れしそうにはねながらついて来た。また旅かせぎに出る
す
ここまでするには、みんなずいぶん 骨 を折 った。一時間
はたら
のだと思ったのかもしれない。この犬は旅がやはり 好 き
きゅうけい
と 休憩 するひまなしに 働 いたし、日曜日でも休まなかっ
であった。こうしてうちにいては、思うようにわたしに
じゅんび
た。でももうとうげはこしたし、すっかり売り出しの 準備 かんじょう
﹁来い、カピ﹂
、
、
かれはくちびるに 微笑 をたたえて、 胸 の中では、これ
﹁ことしは天気がいいなあ﹂
はたら
目の 覚 めるように美しかった。ときどきお父さんはいか
くから起きられるようにしなければならなかった。それ
、
にも満
足 らしく、もみ手をしながら、うっとりながめ入っ
、
、
、
、
、
、
、
、
35
時間が知らないまにずんずん 過 ぎていった。
のうえなく活発なかわいらしいむすめであった。
ど、リーズは水色の服に、ねずみ色のくつをはいて、こ
たしは自分がどんなふうに見えるかわからなかったけれ
わたしたちが通るとふり返って見る人たちもあった。わ
に行く仕度をしていたので、 なかなかきれいであった。
わたしたちは日曜日の晴れ着を着て、ごちそうになり
かまってはもらえなかった。
がいい﹂
﹁ルミはエチエネットと、リーズを連れてあとから来る
で行く﹂とお父さんが言った。
﹁わたしはバンジャメンとアルキシーを 連 れて先へ急い
た。
フレームをこわしたら、それこそたいへんなことであっ
屋にどれほどだいじなものかわかっていた。風がうちの
ちはみんなフレームの 値打 ちを知っていた。それが植木
これでもうだれも 異議 を申し立てなかった。わたした
い ぎ
わたしたちは庭の に わ と この木の下でごちそうを食べ
かれらはそのままかけだした。エチエネットとわたし
う
ていた。するとちょうどおしまいになりかけたとき、わ
はリーズを連れてそろそろ後からついて行った。だれも
かた
ね
たしたちの一人が、ずいぶん空が暗くなったと言いだし
もう 笑 う者はなかった。空がだんだん暗くなった。あら
ひ
つ
た。雲 がどんどん空の上に 固 まって出て来た。
しがどんどん来かけていた。 砂 けむりがうずを 巻 いて上
す
﹁さあ、子どもたち、早くうちへ帰らなければいけない﹂
がった。砂が目にはいるので、わたしたちは後ろ向きに
わら
とお父さんが言った。
なって、両手で目をおさえなければならなかった。空に
くも
﹁もう﹂みんなはいっしょにさけんだ。
いなずまがひらめいて、はげしいかみなりが鳴った。
こんなん
こころ
ま
リーズは口はきけなかったが、やはり帰るのはいやだ
エチエネットとわたしがリーズの手を 引 っ張 った。わ
すな
という身ぶりをした。
たしたちはもっと早くかの女を引っ張ろうと 試 みたが、
ぱ
﹁さあ行こう﹂とお父さんがまた言った。
﹁風が出たらガ
かの女はわたしたちと歩調を合わせることは 困難 であっ
のこ
ラスのフレームは 残 らず引っくり返される﹂
、
、
、
、
36
に着いたろうか。かれらがガラスのフレームを 閉 めるひ
バンジャメンとアルキシーはあらしの起こるまえにうち
た。あらしの来るまえにうちへ帰れようか。お父さんと
﹁ああ、これではガラスのフレームも﹂とエチエネット
板やいろんなものがこわれて落ちた。
へすべり落ちるとともに、屋根やえんとつのかわらや石
ガラスのこわれる音が聞こえた、ひょうが屋根から 往来 おうらい
まさえあれば、風が下からはいって引っくり返すことは
がさけんだ。
し
ないであろう。
わたしも同じ考えを持った。
らいめい
雷
鳴 がはげしくなった。雲がいよいよ深くなって、も
﹁お父さんはたぶんまに合ったでしょうね﹂
ふ
うほとんど夜のように思われた。
﹁ひょうの 降 るまえに着いたにしても、ガラスにむしろ
そこ
をかぶせるひまはなかったでしょう。なにもかもこわれ
あかがね
風に雲のふきはらわれたとき、その深い 銅
色の 底 が見
えた。雲はやがて雨になるであろう。
てしまったでしょうよ﹂
れんたい
らいめい
がらがら鳴り 続 ける 雷鳴 の中に、ふと、ごうっという
﹁ひょうは所どころまばらに落ちるものだそうですよ﹂
つづ
ひどいひびきがした。一 連隊 の 騎兵 があらしに追われて
と、わたしはまだそれでも 無理 に希
望 をかけようとして
きへい
ばらばらとかけてでも来るような音であった。
言った。
ふ
まい
きぼう
とつぜんばらばらとひょうが 降 って来た。はじめすこ
﹁おお、それにはあんまりうちが近すぎます。もしうち
む り
しばかりわたしたちの顔に当たったと思ううちに、石を
の庭にここと同じだけ 降 ったら、父さんはお気のどくな
ひなん
ふ
投げるように 降 って来た。それでわたしたちはかけ出し
ほど 大損 になってしまいます。父さんはこの花を売って、
ふ
て大きな門の下のトンネルに 避難 しなければならなかっ
いくらお金をもうけてどうするという細かい 勘定 をして
たまご
おおぞん
た。ひょうの夕立ち。たちまち道はまっ白に冬のように
いらしったのだからそれはずいぶんお金が 要 るようよ﹂
かんじょう
なった。ひょうの大きさははとの卵 ぐらいあった、落ちる
わたしはガラスのフレームが百 枚 千八百フランもする
い
ときには耳の遠くなるような音を立てた。もうしじゅう
37
ことを聞いていた。植木や 種物 を別 にしても、五、六百
ごなにこわれていた。花とガラスのかけらとひょうが
粉 なんというありさまであろう。ガラスというガラスは
べつ
もあるフレームをひょうがこわしたらなんという 災難 で
いっしょに 固 まって、あれほど美しかった花畑に 降 り積 たねもの
あろう。どのくらいの損
害 であろう。
もっていた。なにもかもめちゃめちゃにこわされた。
こな
わたしはエチエネットにたずねてみたかったけれど、
お父さんはどこへ行ったのだろう。
さいなん
おたがいの話はまるで聞こえなかったし、かの女も話を
わたしたちはかれを 探 した。やっとかれを大きな温室
つ
する気がないらしかった。かの女は 絶望 の表
情 で、自分
の中で発見した。その温室のガラス戸は 残 らずこわれて
ふ
のうちの 焼 け落ちるのを目の前に見ている人のように、
いた。かれは地べたをうずめているガラスのかけらの中
ふ
つづ
かた
ひょうの 降 るのをながめていた。
にいた︵手車の上にこしをかけてというよりは、がっか
そんがい
おそろしい夕立ちはほんのわずか 続 いた。急にそれが
りしてこしをぬかしていた。アルキシーとバンジャメン
つづ
ひ な ん じょ
さが
始まったように、急にやんだ。たぶん五、六分しか 続 かな
はそのそばにだまって立っていた。
つ
ひょうじょう
かった、雲がパリのほうへ走って、わたしたちは 避難所 ﹁ああ、子どもたち、かわいそうに﹂と、かれはわたし
ぜつぼう
を出ることができた。ひょうが往
来 に深く積 もっていた。
たちがガラスのかけらの上をみしみし歩く音に気がつい
えんかい
のこ
リーズはうすいくつで、その上を歩くことができなかっ
て、こうさけんだ。
や
たから、わたしは 背中 に乗せてしょって行った。 宴会 へ
かれはリーズをだいてすすり 泣 きを始めた。かれはな
は
おうらい
行くときにあれほど 晴 れ晴れとしていたかの女のかわい
にもほかに言わなかった。なにを言うことができようぞ。
せなか
らしい顔は、いまは悲しみにしずんで、なみだがほおを
これはおそろしい 結果 であった。しかもそのあとの結果
な
っていた。
伝 はもっともっとおそろしかった。
けっか
まもなくわたしたちはうちに着いた。大きな門があい
わたしはまもなくそれをエチエネットから聞いた。
つた
ていて、わたしたちはすぐと花畑の中にはいった。
38
しかもこの植木屋が 支払 いの期
限 をおくらせて、おかげ
十五年の 年賦 で、毎年しはらうはずであった。その男は
料 を買う金をもやはりかれに 材
貸 していた。その 金額 は
を建 てた。かれに土地を売った男は植木屋として 必要 な
十年まえかれらの父親はこの花畑を買って、自分で家
こんなことを言って、かれはわたしたちに 例 の印 をお
よう、アルキシー﹂
﹁ごきげんよう、エチエネットさん。いよう、ルミ。い
を覚えるほどになった。
あまりたびたび来たので、しまいにはわたしたちの名前
わたした。これは執
達吏 であった。かれはたびたび来た。
しった つ り
で土地も家も材料までも自分の手に取り返す 機会 ばかり
した紙を、お友だちのような顔をしてにこにこしながら
ざいりょう
きんがく
きげん
そうば
さいけんしゃ
そん
しょうもん
きんがく
ひつよう
をねらっていた。もちろんすでに受け取った十年分の支
わたした。
た
払い金
額 は、ふところに 納 めたうえのことであった。
﹁みなさん、さよなら。また来ますよ﹂
か
これはその男にとっては 相場 をやるようなもので、か
﹁うるさいなあ﹂
ねんぷ
れは十五年の期限のつきないまえにいつか植木屋が 証文 お父さんはうちの中に落ち着いていなかった。いつも
しはら
どおりにいかなくなるときの来ることを 望 んでいた。こ
外に出ていた。かれはどこへ行くか、ついぞ話したこと
きけん
しょうもん
けっか
さいばんしょ
やさいもの
いん
の相場はよし当たらないでも 債権者 のほうに 損 はなかっ
がなかった。たぶん 弁護士 を 訪問 するか、 裁判所 へ行っ
さ い む しゃ
きせつ
しゅうり
れい
た。万一当たればそれこそ 債務者 にはひどい 危険 であっ
たのかもしれなかった。
きかい
た。ところがひょうのおかげでその日はとうとう来たの
裁判所というとわたしはおそろしかった。ヴィタリス
おさ
だ。さてこれからは、どうなることやら。
も裁判所へ行った。そしてその 結果 はどうであったか。
きげん
のぞ
わたしたちはそれを長く心配するひまはなかった。 証文 そしてその結果をお父さんは待ちかねていた。冬の半
いん
ほうもん
の期
限 が切れたあくる日︱︱︱この金はこの 季節 の花の売
分は 過 ぎた。温室を 修理 することも、ガラスのフレーム
しんし
べんごし
り上げでしはらわれるはずであったから︱︱︱全身まっ黒
を新しく買うこともできないので、わたしたちは 野菜物 ふくそう
す
な服
装 をした一人の紳
士 がうちへ来て、 印 をおした紙を
39
たいしたもうけにはならなかったが、なにかの足しには
やおおいの要 らないじょうぶな花を作っていた。これは
を受けた。でもわたしは金がないのだから、このうちに
れは言った。
﹁けれど 裁判所 から支
払 いをしろという命
令 ﹁ああ、おまえたちと 別 れるのはまったくつらい﹂とか
わか
なった。これだってわたしたちの仕事であった。
あるものは 残 らず売らなければならない。それでも足り
い
ある 晩 お父さんはいつもよりよけいしずんで帰って来
ないので、わたしは五年のあいだ 懲役 に行かねばならな
ちょうえき
きざ
け い む しょ
べんごし
き
めいれい
た。
い。わたしは自分の金ではらうことができないから、自
な
て
しはら
﹁子どもたち﹂とかれは言った。
﹁もうみんなだめになっ
分のからだと自由でそれをはらわなければならない﹂
さいばんしょ
たよ﹂
わたしたちはみんな 泣 きだした。
ほうりつ
ぬし
のこ
かれは子どもたちになにかだいじなことを言いわたそ
﹁そう、悲しいことだ﹂とかれはおろおろ声で続 けた。
﹁け
ばん
うとしているらしいので、わたしはさけて 部屋 を出よう
れど人は 法律 に向かってはなにもしえない。 弁護士 の言
か
ほ
つづ
とした。かれは手まねでわたしを引き止めた。
うところでは、むかしはどうしてこんなことではすまな
や
﹁ルミ、おまえもうちの人だ﹂とかれは悲しそうに言っ
かった。 貸 し主 は借 り手 のからだをいくつかに 切 り刻 ん
へ
た。
﹁おまえはなにかがよくわかるほどまだ大きくなって
で、貸し主のうちで 欲 しいと思う者がそれを分けて取る
か
はいないが、めんどうの起こっていることは知っていよ
利 があったそうだ。わたしはただ五年のあいだ 権
刑務所 わか
けんり
う。みんなお聞き、わたしはおまえたちと 別 れなければ
にいればいいのだからね。ただそのあいだにおまえたち
な
ならない﹂
はどうなるだろう。それが心配でたまらない﹂
つづ
ほうぼうから一つのさけび声と苦しそうな 泣 き声が起
悲しい 沈黙 が続 いた。
のだ﹂とお父さんは続けた。
ちんもく
こった。
﹁わたしが決めたとおりにするのがいちばんいいことな
ま
リーズは父親の首にうでを 巻 きつけた。かれはかの女
をしっかりとだきしめた。
40
ヌの所へ手紙を書いて、事がらをくわしく 述 べて、すぐ
﹁ルミ、おまえはいちばん学者なのだから、妹のカトリー
こうへ行けばなかなかいい人間がいるよ﹂
るのは、おまえが思うほどおそろしいものではない。向
まえに来た巡査の一人が言った。
﹁ 借金 のために牢 にはい
ろう
に来てくれるようにたのんでおくれ。カトリーヌおばさ
わたし は庭にいた二人の 子どもを 呼 びに行った。帰っ
しゃっきん
んは、なかなかもののわかった人だから、どうすればい
てみると、小さいリーズはすすり 泣 きをしてお父さんの
の
ちはんいいか、うまく決めてくれるだろう﹂
両手にだかれていた。 巡査 の一人がこしをかがめて、お
お
よ
わたしが手紙を書くのはこれが 初 めてでなかなか骨 が
父さんの耳になにかささやいたが、なにを言ったかわた
な
れた。それはひじょうに痛 折 ましいことであったが、わ
しには聞こえなかった。
きぼう
つ
じゅんさ
たしたちはまだひと 筋 の希
望 を持っていた。わたしたち
﹁そうです。そうしなければなりませんね﹂とお父さん
じっさ い か
ほうもん
ほね
はみんななにも知らない子どもであった。カトリーヌお
は言って、思い切ってリーズを下に 置 いた。でもかの女
はじ
ばさんが来てくれるということ、かの女が 実際家 である
は父親の手にからみついてはなれなかった。それからか
いた
ということは、なにごとをもよくしてくれるであろうと
れはエチエネット、アルキシー、バンジャメンと順
々 に
お
いふ 希望 を持たせた。
キッスして、リーズをねえさんの手に 預 けた。
すじ
けれどかの女は思ったほど早くは来てくれなかった。
わたしはすこしはなれて立っていたが、かれはわたし
じゅんさ
じゅんさ
じゅんじゅん
四、五日ののちお父さんがちょうど友だちの一人を 訪問 のほうへ 寄 って来て、ほかの者と同様に 優 しくキッスし
きぼう
に出かけようとすると、ぱったり 巡査 に出会った。かれ
た。
あず
は巡査たちとうちへもどって来た。かれはひじょうに青
これで 巡査 はかれを連 れて行った。わたしたちはみん
やさ
い顔をしていた。子どもたちにさようならを言いに来た
な台所のまん中に 泣 きながら立っていた。だれ一人もの
よ
のであった。
を言う者はなかった。
な
﹁おまえ、そんなに力を落としなさんな﹂と、かれをつか
41
さいご
て、最
後 にわたしたちを集めて、取り決めた次第を言っ
じかん
カンテンで植木屋をしているもう一人のおじの所へ行く。
きじょう
カトリーヌおばさんは一 時間 おくれてやって来た。わ
て聞かした。
た。
そしてエチエネットはシャラント県のエナンデ海岸にい
やしな
たしたちはまだはげしく泣いていた。いちばん 気丈 なエ
リーズはモルヴァンのかの女のうちへ行って 養 われる
みずさきあんない
チエネットすら今度の大波にはすっかり足をさらわれた。
ことになった。アルキシーはセヴェンヌ山のヴァルスで
ところでカトリーヌおばさんはなかなかしっかりした
るおばの所へ行くことになった。
つと
わたしたちの 水先案内 が海に落ちたので、あとの子ども
夫 を勤 鉱
めているおじの所へ行く。バンジャメンはセン・
人 であった。もとはパリの 婦
街 で乳
母奉公 をして、十年
わたしはこういう取り計らいをわきで聞きながら、自
うしな
のあいだに五か所も 勤 めた。世の中のすいもあまいもよ
分の番になるのを待っていた。ところがカトリーヌおば
こうふ
たちはかじを 失 って、波のまにまにただようほかはなかっ
く知っていた。わたしたちはまたたよりにする 目標 がで
さんはそれで話をやめてしまって、とうとうわたしのこ
うばぼうこう
きた。教育もなければ、 資産 もないいなか女としてかの
とは話が出ずにしまった。
せきにん
まち
女にふりかかった 責任 は重かった。びんぼうになった一
﹁ではぼくは⋮⋮﹂とわたしは言った。
そうりょう
ふじん
家の 総領 はまだ十六にならない。いちばん下はおしのむ
﹁だっておまえはこのうちの人ではないもの﹂
つと
すめであった。
﹁ぼくはあなたがたのために 働 きます﹂
こうしょうにん
う ば
たず
もくひょう
カトリーヌおばさんは、ある 公証人 のうちに 乳母 をし
﹁おまえさんはこのうちの人ではないよ﹂
そうだん
しさん
ていたことがあるので、かの女はさっそくこの人を 訪 ね
﹁わたしがどんなに 働 けるか、アルキシーにでもバンジャ
かんごく
はたら
て相
談 をした。そこでこの人が助言して、わたしたちの
メンにでもたずねてください。わたしは仕事が 好 きです﹂
うんめい
はたら
命 を決めることになった。それからかの女は 運
監獄 へ行っ
﹁それからスープをこしらえるのもうまいや﹂
す
て、お父さんの意見も聞いた。そんなことに一週間かかっ
42
ばで言う 以上 の意味を表していた。
へ出て来て、おばさんの前で手を合わせた。それはこと
人です﹂という声がほうぼうから起こった。リーズが前
﹁おばさん、あの子はうちの人です。そうです、うちの
みんな兄弟でもあり、 姉妹 でもあった。カトリーヌお
を好いていた。
でもわたしはみんなを 好 いていたし、みんなもわたし
ばこじきになる。
もできない。なにもたのむこともできない。それをすれ
しまい
す
﹁まあまあ、かわいそうに﹂と、カトリーヌおばさんは
ばさんは決心したことはすぐ実行する 性質 であった。わ
いじょう
言った。
﹁おまえがあの子をいっしょに 連 れて行きたがっ
たしたちにはあしたいよいよお 別 れをすることを言いわ
ま
せいしつ
ていることはわかっている。けれど世の中というものは
たしてねどこへはいらせた。
つ
いつも思うようにはならないものなのだよ。おまえはわ
わたしたちが 部屋 へはいるか、はいらないうちに、みん
わか
たしのめいだから、おまえをうちへ連れて行って、おじ
なはわたしを取り 巻 いた。リーズは泣 きながらわたしに
へ や
さんにいやな顔をされても、わたしは﹃でも 親類 だから﹄
からみついた。そのときわたしはかれら兄弟がおたがい
ひと
な
と言って通してしまうつもりだ。ほかのセン・カンテン
に別 れて行く悲しみをまえにひかえながら、かれらの思っ
しんるい
のおじさんにしても、ヴァルスのおじさんにしても、エ
ていてくれるのはわたしのことだということがわかった。
感じた。そこでふと一つの考えが心にうかんだ。
わか
ナンデのおばさんにしても、そのとおりだろうよ。やっ
かれらはわたしが独 りぼっちだといって気のどくがった。
いっぱい食べるだけのパンはむずかしいのだからね﹂
﹁聞いてください﹂とわたしは言った。
﹁おばさんやおじ
やしな
かいだと思っても、親類なら 養 ってくれるだろう。けれ
わたしはそのときほんとうにかれらの兄弟であるように
わたしはもうなにも言うことがないように思った。か
さんがたがわたしにご用はなくっても、あなたがたがど
はら
ど他人ではそうはゆかない。一つうちの者だけでも、 腹 の女の言ったことはもっともすぎることであった。わた
こまでもわたしをうちの者に思ってくださることはわか
もと
しはうちの者ではなかった。わたしはなにも 求 めること
43
ほうぼうの 便 りを持って行きましょう。そうすればぼく
たよ
りました﹂
の 仲立 ちでみんないっしょに集まっているようなもので
が言った。
﹁きみはいったいどこに行くつもりだ﹂とバンジャメン
う﹂と、わたしは力を入れて言った。
と 晩 ねむれなかった。
れもろくろくねむる者はなかった。とりわけわたしはひ
トは一人ひとりねどこへはいらせた。けれどその 晩 はだ
長いあいだわたしたちは話をして、それからエチエネッ
なかだ
﹁そうだそうだ、 きみはいつまでもぼくたちの兄弟だ﹂
す。ぼくはいまでも歌だってダンスの 節 だって 忘 れては
﹁ペルニュイの所に仕事があるのよ。わたしあした行っ
あくる日夜が明けると、リーズはわたしを庭へ 連 れ出
わす
と三人がいっしょにさけんだ。
いません。自分がくらしてゆくだけのお金は取れます﹂
て話をしてみましょうか﹂とエチエネットが聞いた。
した。
ふし
もの言えないリーズはわたしの手をしめつけて、あの
みんなの顔がかがやいた。わたしはかれらがわたしの
﹁ぼくは奉
公 はしたくありません。奉公するとパリにじっ
﹁ぼくに言いたいことがあるの﹂とわたしはたずねた。
よろこ
大きな美しい目で見上げた。
考えを聞いてそんなにも喜 んでくれたのでうれしかった。
としていなければならないし、そうすると二度ともうあ
かの女は何度もうなずいた。
しょうこ
﹁ねえ、ぼくは兄弟です。だからその 証拠 を見せましょ
なたがたに会うことができません。ぼくはまたひつじの
﹁わたしたちが 別 れて行くのがいやなんでしょう。それ
しめ
つ
ばん
毛皮服を着て、ハープをくぎからはずして、 肩 にかつい
は言うまでもない。あなたの顔でわかっている。ぼくだっ
ばん
で、セン・カンテンからヴァルスへ、ヴァルスからエナ
てまったく悲しいんだ﹂
ほうこう
ンデへ、エナンデからドルジーへと、あなたがたのこれ
かの女は手まねをして、なにか言いたいことがほかに
わか
から行く先ざきへたずねて行きましょう。わたしはあな
あるという意味を 示 した。
かた
たがたみなさんに、 一人ひとり代わりばんこに会って、
44
なずいたり、首をふったりして答えた。かの女はわたし
はそのうえにいろいろ問いを重ねていった。かの女はう
わたしたちがおたがいに 了解 しい合うために、わたし
﹁ぼくがドルジーへ行くのがいやなんですか﹂
かの女は首をふった。
ルジーへ 訪 ねて行きますよ﹂
﹁十五日たたないうちに、ぼくはあなたの行くはずのド
七時ごろ今度はエチエネットがわたしを庭へ 連 れ出し
別々の 停車場 に 別 れて行くという 手順 を決めた。
それからてんでに荷物を持って別
々 の汽車に乗るために、
り先に 刑務所 へ行って、 父親にさようならを言うこと、
ヌおばさんはみんなを乗せる馬車を言いつけて、なによ
かれらは八時にたたなければならなかった。カトリー
ことができるからというのであった。
ジーへ来るときにはほうぼうの 便 りを持って来てくれる
たよ
にドルジーへ来てはもらいたいが、しかしそれより先に
た。
あね
たず
さんや 兄 姉 さんのほうへ行ってもらいたい意味を、指を
﹁ルミ、わたしあなたにほんのお形見をあげようと思う
ていしゃじょう
け い む しょ
三方に向けてさとらせた。
の﹂とかの女は言った。﹁この小ばこを 納 めてください。
りょうかい
﹁あなたはぼくがいちばん先にヴァルスへ行き、それか
わたしのおじさんがくれたものだから。中には糸と 針 と
てじゅん
べつべつ
らエナンデ、それからセン・カンテンというふうに行っ
はさみがはいっています。旅をして歩くと、こういうも
わか
てもらいたいのでしょう﹂
のが入り用なのよ。なにしろわたしがそばにいて、着物
つ
かの女はにっこりしてうなずいた。わたしがわかった
のほころびを直したり、ボタンをつけたりしてあげるこ
あに
のがうれしそうであった。
とができないのだからねえ。それでわたしのはさみを使
おさ
﹁なぜさ﹂
うときにはわたしたちみんなのことを思い出してくださ
はり
こう聞くと、かの女はくちびると手を、とりわけ目を
せつめい
い﹂
のぞ
動かして、なぜそう 望 むか、そのわけを 説明 した。それ
エチエネットがわたしと話をしているあいだ、アルキ
あね
あに
は先に 姉 さんや 兄 さんたちの所へ行ってもらえば、ドル
45
シーがそばをぶらついていた。かの女がわたしを置 いて、
したちの 別 れる時間が来た。
時間はかまわずずんずんたっていった。いよいよわた
お
うちの中へはいると、かれはやって来て、
リーズはぼくのことをなんと思っているだろう。馬車
わか
﹁ねえ、ルミ﹂とかれは言いだした。
﹁ぼくは五フランの
がうちの前に近づいて来たときに、リーズがまたわたし
ぎんか
貨 を二つ持っている。一つあげよう。きみがもらって
銀
に庭までついて来いという手まねをした。
お
よ
くれると、ぼくはずいぶんうれしいんだ﹂
﹁リーズ﹂とかの女のおばさんが 呼 んだ。
よくば
わたしたち五人のうちで、アルキシーはたいへん金をだ
かの女はそれには返事をしないで急いでかけ出して行っ
のこ
いじにする子であった。わたしたちはいつもかれの 欲張 た。かの女は庭のすみに一本 残 っていた大きなベンガル
ちょきん
りをからかっていた。かれは一スー、二スーと 貯金 して
かんじょう
ばらの前に立ち止まって、一えだ 折 った。それからわた
たか
しじゅう貯金の 高 を勘
定 していた。かれは一スーずつた
しのほうを向いてそのえだを二つにさいた。その両方に
ぎんか
めては新しい十スー、二十スーの 銀貨 とかえてだいじに
ばらのつぼみが一つずつ開きかけていた。
ことわ
くら
持っていた。そういうかれの申し出は、わたしを心から感
くうきょ
くちびるのことばは目のことばに 比 べては小さなもの
ゆうじょう
つめ
動させた。わたしは 断 りたかったけれど、かれはきらき
である。目つきに比べて、ことばのいかに 冷 たく、空
虚 り
らする銀貨をわたしの手に 無理 ににぎらせた。わたしは
であることよ。
たから
む
だいじにしている 宝 が分けてくれようというかれの 友情 つ
﹁リーズ、リーズ﹂とおばさんがさけんだ。
わす
がひじょうに強いものであることを知った。
荷物はもう馬車の中に 積 みこまれていた。
すがた
よ
バンジャメンもわたしを 忘 れはしなかった。かれはや
わたしはハープを下ろして、カピを呼 んだ。わたしのむ
こうかん
せいきゅう
はりわたしにおくり物をしようと思った。かれはわたし
かしに返ったおなじみの 姿 を見ると、かれはうれしがっ
と
にナイフをくれて、それと 交換 に、一スー請
求 した。な
て、とび上がって、ほえ回った。かれは花畑の中に 閉 じ
ゆうじょう
ぜなら、ナイフは 友情 を切るものだから。
46
こめられているよりも、広い大道の自由を 愛 した。
﹁おまえさん、ここにいたければ﹂と、かれはたぶん気
﹁どこへでも、足の向くほうへ﹂
あい
みんなは馬車に乗った。わたしはリーズをおばさんの
きゅうきん
のどくに思っているらしく、こう言った。
﹁わたしの所へ
お
ひざに乗せてやった。わたしはそこに半分目がくらんだ
いてあげよう。けれど給
置 金 ははらえないよ。おまえさ
んはまだ一人前ではないからなあ。いまにすこしはあげ
られるようになるかもしれない﹂
やさ
ようになって立っていた。するとおばさんが 優 しくわた
し
﹁さようなら﹂
わたしはかれに 感謝 したが、﹁いいえ﹂と答えた。
しをおしのけて、ドアを 閉 めた。
馬事は動きだした。
﹁そうか。じゃあかってにおし。わたしはただおまえさ
かんしゃ
もやの中でわたしはリーズが 窓 ガラスによって、わた
んのためにと思っただけだ。さようなら。 無事 で﹂
まど
しに手をふっているのを見つけた。やがて馬車は町の角
かれは行ってしまった。馬車は遠くなった。うちは 閉 ぶ じ
を曲がってしまった。見えるものはもう 砂 けむりだけで
ざされた。
ぜんと
ろうじん
ばん
きこう
と
あった。わたしはハープによりかかって、カピが足の下
わたしはハープのひもを 肩 にかけた。カピはすぐ気が
おうらい
すな
でからみ回るままに 任 せた。ぼんやり 往来 に立ち止まっ
ついて立ち上がった。
かた
て目の前にうず 巻 いているほこりをながめていた。たっ
﹁さあ行こう、カピ﹂
りんか
まか
て行ったあとのうちを 閉 めてかぎを家主にわたしてくれ
わたしは二年のあいだ住み 慣 れて、いつまでもいよう
ま
ることをたのまれた 隣家 の人がそのときわたしに声をか
と思ったうちから目をそらして、はるかの 前途 を望 んだ。
し
けた。
日はもう高く上っていた。空は青あおと晴れて︱︱︱気
候 な
﹁おまえさん、そこで一日立っているつもりかね﹂
は暖 かであった。気のどくなヴィタリス老
人 とわたしが、
のぞ
﹁いいえ、もう行きます﹂
つかれきってこのさくのそばでたおれた、あの寒い 晩 と
あたた
﹁どこへ行くつもりだ﹂
47
いよいよ 流浪 の旅を始めるまえに、わたしはこの二年
るろう
はたいへんなちがいであった。
のあいだ父親のように 優 しくしてくれた人に会いたいと
やさ
こうしてこの二年間はほんの休息であった。わたしは
思った。カトリーヌおばさんは、みんながかれに﹁さよう
つ
また自分の道を進まなければならなかった。けれどもこ
なら﹂を言いに行くときに、わたしをいっしょに 連 れて
この
の休息がわたしにはずいぶん役に立った。それがわたし
行くことを 好 まなかったが、わたしはせめて一人になっ
やさ
に力をあたえた。 優 しい友だちを作ってくれた。
たいまでは、行ってかれに会うことができるし、会わな
行った。カトリーヌおばさんも、子どもたちも、お父さ
ひと
わたしはもう世界で 独 りぼっちではなかった。この世
ければならないと思った。 借金 のために 刑務所 にはいっ
前へ。
んに会えたのだから、わたしもきっと会うことが 許 され
もくてき
け い む しょ
の中にわたしは 目的 を持っていた。それはわたしを愛 し、
たことはなくても、その話をこのごろしじゅうのように
るであろう。わたしはお父さんの子どもも同様であった
じみち
し、お父さんもわたしをかわいがっていた。
しゃっきん
わたしが愛している人たちのために、役に立つこと、な
聞かされていたのでその場所ははっきりわかっていた。
前へ
でも思い切って 刑務所 の中へはいって行くのがちょっ
あい
ぐさめになることであった。
わたしはよく知っているラ・マドレーヌ 寺道 をたどって
とちゅうちょされた。だれかがわたしをじっと 監視 して
しょうがい
新しい 生涯 がわたしの前に開けていた。
前へ。世界はわたしの前に開かれた。北でも南でも東で
いるように思われた。もう、一度そのドアの中へ、おそ
し
かんし
ゆる
も西でも、自分の行きたいままの方角へわたしは向かっ
ろしいドアの中へ 閉 めこまれたが最
後 、二度と出される
け い む しょ
て行くことができる。 それはもう子どもは子どもでも、
ことがないように思われた。
さいご
わたしは自分白身の主人であった。
48
知った。
なかった。さんざんひどい目に会って、わたしはそれを
ていた。しかしそこへはいるのも容易でないことを知ら
刑
務所 から出て来ることは容
易 でないとわたしは考え
シュリオだって、おまえに仕事を見つけてやることはで
しはようく知っているのだがね。どうもわたしの 妹婿 の
から一人でくらしを立ててゆこうとしていることもわた
うとおりにはならないものだよ。ところでおまえがこれ
﹁いや、そういうわけでもなかったのだろう。なかなか思
ようい
でも力も落とさず、それから引っ返してしまおうとも
きないだろうしね。シュリオはニヴェルネ 運河 の水
門守 け い む しょ
思わずに待っていたおかげで、わたしはやっと面会を 許 をしているのだが、知ってのとおり植木 職人 の世話を水
しょくにん
たびげいにん
くうふく
ひと
すいもんもり
いもうとむこ
されることになった。かねて思っていたのとちがい、わ
門守にしてもらうのは 無理 だからね。それにしても、子
ゆ
うんが
たしは 格子 もさくもないそまつな 応接室 に通された。お
どもたちの話では、おまえはまた 旅芸人 になると言って
ゆる
父さんは出て来た。でもくさりなどに 結 わえられてはい
いるそうだが、おまえもう、あの寒さと 空腹 で死にかけ
り
なかった。
たことを 忘 れたのかえ﹂
む
﹁ああ、ルミや、わたしはおまえを待っていた﹂と、わ
﹁いいえ、忘れません﹂
おうせつしつ
たしが面会所にはいるとかれは言った。
﹁でも、あのときはまだしも、おまえは 独 りぼっちでは
こうし
﹁わたしは、カトリーヌおばさんがおまえをいっしょに
なかった。めんどうを見る親方があった。それもいまは
わす
れて来なかったので、こごとを言ってやったよ﹂
連 ないし、おまえぐらいの年ごろで一人ぼっちいなかへ出
つ
わたしはこのことばを聞くと、朝からしょげていたこ
るということは、いいことだとは思われない﹂
このときカピは自分の名を聞くと、 いつものように、
わす
とも忘 れて、すっかりうれしくなった。
﹁カピもいっしょです﹂
うとしなかったのです﹂
︵はい、ここにおります、ご用ならお役に立ちましょう︶
つ
﹁カトリーヌおばさんは、ぼくをいっしょに 連 れて来よ
わたしはうったえるように言った。
49
﹁しかしカピ一人ぼっちで、芝居はできやしないだろう﹂
﹁わたしが歌を歌ったり、カピが芝
居 をしたりして﹂
のだ﹂
な。おまえはいったいどうしてくらしを立てるつもりな
﹁うん、カピはよい犬だ。しかしやっぱり犬は犬だから
というように一声ほえた。
村から村へと追い立てられたりしたようなことに出会っ
が刑
務所 に入れられて、一スーももうけることができず、
会ったり、あれほどひもじいめをしたり、ヴィタリス親方
た夜や、ジャンチイイの石切り場のあの 晩 のような目に
浪 の生活を送って、あの犬たちがおおかみに食べられ
流
らい 経験 もしている。そうだ、人びとがわたしのように
の 危険 なことはよくわかっていた。それはさんざん、つ
きけん
﹁いえ、 わたしはカピに 芸 をしこみます。 そうだろう、
たら、だれだってあすはまっ暗やみ、 現在 さえも 不安心 け い む しょ
けいけん
ね、カピ。おまえ、なんでもわたしの 望 むものを習うだ
でたまらないのが当たり前だ。 危険 な、みじめな、 浮浪人 るろう
ろう﹂
の生活をわたしは自分が送ってきたことも 忘 れはしない
しょく
しょくにん
わす
げんざい
ばん
カピは前足で 胸 をたたいた。
のだ。だがいまそれをやめたら、わたしはいったいどう
しばい
﹁ルミ、おまえがよく考えたら、やはり 職 を見つけるこ
していいかわからないではないか。それにもう一つ、旅
げい
とにするだろうよ。もうおまえも一かどの 職人 だ。流
浪 に出るについて決心を 固 くするものがあった。いまさら
るろう
み す
ふろうにん
ふあんしん
するよりもそのほうがましだし、だいいち、あれはなま
よそのうちに 奉公 するよりも、わたしにはこの 流浪 の旅
のぞ
け者のすることだ﹂
がずっと自由で気楽なばかりでなく、 エチエネットや、
はたら
は
きけん
﹁ええ、もちろんわたしはなまけ者ではありません。わた
アルキシーやバンジャメン、それからリーズとしたやく
むね
しはお父さんといっしょにならできるだけ 働 きます。そ
そくを 果 たすためにもこの旅行を思いとどまることはで
るろう
していつでもお父さんといっしょにいたいと思っていま
きなかったのだ。どうしてこのことはあの人たちを 見捨 かた
す。でもほかの人のうちで働くのはいやなんです﹂
てないかぎり、やめられないのだ。もっともエチエネッ
つづ
ほうこう
もちろん、たった一人、大道ぐらしを 続 けてゆくこと
50
みた。
持って来るのがおいやなのですか﹂とわたしはたずねて
﹁では、お父さんは、お子さんたちの 便 りを、わたしが
なってしまうのだ。
えば、もうかの女はなにもかも世界の様子がわからなく
いのだから、ここであの子のことをわたしが 忘 れてしま
で手続も来ようが、リーズといえば、書くことも知らな
トやアルキシーやバンジャメンからは、手紙が書けるの
をわたしの形見に持っていてもらいたい。たいした 値打 ﹁さあ、おまえ、これをあげる﹂とかれは言った。
﹁これ
キのかくしを 探 って、大きな銀時計を引き出した。
てわたしをおさえていた。やがていきなりかれはチョッ
ならを言う時間が来た。しばらくのあいだかれはだまっ
わたしはかれの首にうでをかけた。そのうち、さよう
うに 真心 がある﹂
﹁まあ、よくおまえ、言っておくれだ。おまえはほんと
にわたしの両手を取った。
まごころ
﹁なるほどみんなの話では、おまえは子どもたちの所へ
ちのものではない。値打ちがあればわたしはとうに売っ
わす
一人ひとり訪 ねて行ってくれるということだが、それは
てしまったろう。時間も 確 かではない。いけなくなった
たよ
ありがたいが、といって、わたしたち自分のことばかり
らげんこでたたきこわしてもいい。でもこれがわたしの
さぐ
考えているわけにはゆかない。それよりかまずおまえの
持っているありったけだ﹂
かんじょう
ね う
ためを考えなければならないのだよ﹂
わたしはこんなりっぱなおくり物を 断 ろうと思ったけ
たず
﹁では、わたしだってお父さんのおっしゃるとおりにし
れど、かれはそれをわたしのにぎった手に 無理 におしこ
たし
て、自分の身の上の 危険 をおそれて、今度の計画をやめ
んだ。
ことわ
てしまえば、やはり自分のことばかり考えて、あなたの
﹁ああ、わたしは時間を知る 必要 はないのだ。時間はず
む り
ことも、それからリーズのことも考えなくてもいいとい
いぶんゆっくりゆっくりたってゆく。それを 勘定 してい
きけん
うことになりますよ﹂
たら、死んでしまう。さようなら、ルミや。いつでもい
ひつよう
お父さんはしばらくわたしの顔をながめていたが、急
51
長いあいだ刑
務所 のドアの回りをうろうろした。ぼんや
たしに 優 しくしてくれたであろう。わたしは 別 れてのち
わたしはひじょうに悲しかった。どんなにあの人はわ
い子でいるように、 覚 えておいで﹂
しと同様に 喜 んでいてくれることに気がつかなかった。
わたしのうれしいのにまぎれて、カピがほとんどわた
くれなければ、ぼくは 忘 れるところだったよ﹂
だ。いいことをおまえは教えてくれた。おまえが言って
﹁おやおや。ではあれをしたり、これをしたりするとき
おぼ
りわたしはそのまま夜まででも立ち止まっていたかもし
かれはわたしのズボンのすそを 引 っ張 って、たびたびほ
わす
れなかったが、ふとかくしにある 固 い丸 いものが手にさ
えた。かれがほえ 続 けたときわたしは 初 めて、かれに注
わか
わった。わたしの時計であった。
意を向けてやらなければならなかった。
やさ
ありったけのわたしの悲しみはしばらくのあいだ 忘 れ
﹁カピ、なんの用だい﹂とわたしはたずねた。かれはわた
け い む しょ
られた。わたしの時計だ。自分の時計で時間を知ること
しの顔をながめた。けれどわたしはかれの意味が 解 けな
よろこ
ができるのだ。わたしは時間を見るために、それを引き
かった。かれはしばらく待っていたが、やがてわたしの
き ひ ん しょく ん
ぱ
出した。昼だ。それは昼であろうと、十時であろうと、十
前に来て、時計を入れたかくしの上に前足をのせて立っ
りんせき
ひ
一時であろうと、たいしたことではなかった。でもわた
た。かれはヴィタリス親方といっしょに 働 いていたじぶ
まる
しは昼であるということがたいそううれしかった。それ
んと同じように、
﹁ご 臨席 の貴
賓諸君 ﹂に時間を申し上げ
かた
がなぜだか言うのはむずかしい。けれどそういうわけで
る用意をしていたのであった。
そうだん
たび
わす
はたら
はじ
あった。わたしの時計がそう知らせてくれる。なんとい
わたしは時計をかれに見せた。かれはしばらく思い出
つづ
うことだ。わたしにとって時計は 相談 をしたり、話ので
そうと 努 めるように、しっぽをふりながらそれを、なが
わす
きる親友であると思われた。
めたが、やがて十二 度 ほえた。かれは 忘 れてはいなかっ
と
﹁時計君、何時だね﹂
た。 わたしたちはこの時計でお金を取ることができる。
つと
﹁十二時ですよ、ルミさん﹂
52
屋へ行けば、それの 得 られることを知っていたので、わ
入り用なものは、フランスの地図であった。河
岸 通りの本
それからずんずん進んで行った。なによりもわたしに
れているのだ。
くれた。そのへいの後ろにはリーズの父親が 閉 じこめら
前へ進め、子どもたち。わたしは 刑務所 に最
後 の目を
これはわたしがあてにしていなかったことであった。
かれはわたしを 覚 えていた。かれの青ざめた顔はにっ
マチアであった。
しはよく見るためにそばへ寄 った。ああそうだ、そうだ、
けれどかれはちっとも大きくはなっていなかった。わた
の、優 しい、いじけた目つきの子どものマチアであった。
確 かにそれはマチアであった。大きな頭の、大きな目
うに思った。
かっているのを見た。その子はなんだか 見覚 えがあるよ
みおぼ
たしは川のほうへ足を向けた。やっとわたしは十五スー
こり 笑 った。
し
と
さいご
で、ずいぶん黄色くなった地図を見つけた。
﹁ああ、きみだね﹂とかれは言った。
﹁きみは 先 に白いひ
け い む しょ
わたしはそれでパリを去ることができるのであった。
げのおじいさんとガロフォリのうちへ来たね。ちょうど
わら
やさ
たし
すぐわたしはそれをすることに決めた。わたしは二つの
ぼくが病院へ行こうとするまえだった。ああ、あれから
よ
道の一つを選 ばなければならなかった。わたしはフォン
ぼくはどんなにこの頭でなやんだろう﹂
じょうまえ
ぜんりょう
か
テンブローへの道を選んだ。リュウ・ムッフタールの通り
﹁ガロフォリはまだきみの親方なのかい﹂
え
へ来かかると、山のような 記憶 が群 がって起こった。ガ
かれは返事をするまえにそこらを見回して、それから
ろうじん
つ
け い む しょ
おぼ
ロフォリ、マチア、リカルド、 錠前 のかかったスープな
声をひそめて言った。
か
ころ
せん
べ、むち、ヴィタリス老
人 、あの気のどくな善
良 な親方。
﹁ガロフォリは 刑務所 にはいっているよ。オルランドー
えら
わたしをこじきの親分へ 貸 すことをきらったために、死
を打ち 殺 したので 連 れて行かれたのだ﹂
むら
んだ人。
わたしはこの話を聞いてぎょっとした。でもわたしは
きおく
お寺のさくの前を通ると、子どもが一人かべによっか
53
ているかい。知らない。うん、それはたいした曲馬団で
をはらってもらったのだ。きみはガッソーの曲馬を知っ
しを二年のあいだガッソーの 曲馬団 へ売った。前金で金
の人はわたしを手放したくなった。そこであの人はわた
ぼくは病気で、もうぶっても役に立たないと思って、あ
きには、ぼくはいなかった。ぼくが病院から出て来ると、
﹁ああ、ぼくは知らないよ。ガロフォリがつかまったと
﹁それでほかの子どもたちは﹂とわたしはたずねた。
いた刑務所が、これはなるほど役に立つものだと考えた。
めてわたしは、あれほどおそろしいものに思いこんで
初 ガロフォリが刑務所に入れられたと聞いてうれしかった。
かれはがつがつして、見るまに食べてしまった。
て、まもなく一斤 買って帰って、それをかれにあたえた。
たしは言った。わたしは町の角のパン屋までかけて行っ
﹁ぼくが帰って来るまで、ここに待っておいでよ﹂とわ
にその人の幸福をいのったであろう。
一きれのパンでもくれる人があったら、わたしはどんな
をいまのマチアのように飢 えてうろうろしていたじぶん、
アにやるだけのものはあった。わたしがツールーズへん
わたしも金持ちではなかったけれど、気のどくなマチ
た。﹁ぼくはきのうから一きれのパンも食べない﹂
﹁それにぼくは金を持たない﹂とかれはつけ 加 えて言っ
か、わからない﹂
くわ
はないけれど、やはり曲馬は曲馬さ。そこでは子どもを、
﹁さて﹂とわたしは言った。﹁きみはどうするつもりだ﹂
はじ
かたわの子どもを使うのだ。それでガロフォリがぼくを
﹁ぼくはわからない。ぼくはヴァイオリンを売ろうかと
う
ガッソーへ売ったのだ。ぼくはこのまえの月曜までそこ
思っていたところへきみが声をかけた。ぼくはそれと 別 きょくばだん
にいたが、ぼくの頭がはこの中にはいるには大きすぎる
れるのがこんなにいやでなかったら、とうに売っていた
きょくばだん
きん
というので、追い出された。 曲馬団 を出るとぼくはガロ
ろう。ぼくのヴァイオリンはぼくの持っているありった
わか
フォリのうちへもどったが、うちはすっかり 閉 まってい
けのもので、悲しいときにも、一人いられる場所が見つ
し
た。近所の人に聞いて様子がすっかりわかった。ガロフォ
かると、自分一人でひいていた。そうすると空の中にい
け い む しょ
リが 刑務所 へ行ってしまうと、ぼくはどこへ行っていい
54
ろんな美しいものが、ゆめの中で見るものよりももっと
になろう。まあどうかぼくを 捨 てないでくれたまえ。ぼ
﹁ああ、なんでもかまうものか。ぼくがもう一人の 仲間 なかま
美しいものが見えるんだ﹂
くは 腹 が減 って死んでしまう﹂
﹁ぼくは一
座 の親方だよ﹂とわたしは 高慢 らしく言った。
いで、こっけいなほらをふいてしまった。
にもなる。言うことも聞く。金をくれとは言わない。食
える。なんでもきみの 好 きなことをするよ。きみの家来
かずに言った。
﹁なわの上でおどりもおどれるし、歌も歌
す
﹁なぜきみは往
来 でヴァイオリンをひかないのだ﹂
腹が減って死ぬ。このことばがわたしのはらわたの 底 それは 真実 ではあったが、その真実はずっとうそのほ
べ物だけあればいい。ぼくがまずいことをしたらぶって
へ
﹁ひいてみたけれど、なにももらえなかった﹂
にしみわたった。腹が減って死ぬということがどんなこ
うに近かった。わたしの一座はたったカピ一人だけだっ
もいい。それはやくそくしておく。ただたのむことは頭
はら
ヴァイオリンをひいて一文ももらえないことを、どん
とだか、わたしは知っている。
た。
をぶたないでくれたまえ。これもやくそくしておいても
おうらい
なによくわたしも知っていたことであろう。
﹁ぼくはヴァイオリンをひくこともできるし、でんぐり
﹁おお、きみはそんなら⋮⋮﹂とマチアが言った。
らわなければならない。なぜならぼくの頭はガロフォリ
そこ
﹁きみはいまなにをしているのだ﹂とかれはたずねた。
返しをうつこともできる﹂と、マチアがせかせか息もつ
﹁なんだい﹂
がひどくぶってから、すっかりやわらかくなっているの
いきお
わたしはなぜかわからなかった。けれどそのときの 勢 ﹁きみの 一座 にぼくを入れてくれないか﹂
だ﹂
しんじつ
いちざ
な
す
かれをあざむくにしのびないので、わたしはにっこり
わたしはかわいそうなマチアが、そんなことを言うの
こうまん
してカピを指さした。
を聞くと、声を上げて 泣 きだしたくなった。どうしてわ
いちざ
﹁でも一座はこれだけだよ﹂とわたしは言った。
55
も、やはり腹が減って死ぬかもしれない場合がある︱︱︱
が減 腹 って死ぬというのか。でも、わたしといっしょで
たしはかれを 連 れて行くことをこばむことができよう。
いること、ありったけの心をささげてかの女を 愛 してい
わたしはかの女に手紙を書いてやって、かの女を思って
のおっかあに会いたいためであった。どんなにたびたび
わたしがこの道を通ってパリを出るのは、バルブレン
つ
わたしはそうかれに言ったが、かれは聞き入れようとも
ることを、言ってやりたかったかしれなかったが、亭
主 の
へ
しなかった。
バルブレンがこわいので、わたしは思いとどまった。も
はら
﹁ううん、ううん﹂とかれは言った。
﹁二人いれば 飢 え死 しバルブレンが手紙をあてにわたしを見つけたら、つか
この
あい
にはしない。一人が一人を助けるからね。持っている者
まえてまたほかの男に売りわたすかもしれなかった。か
きけん
ていしゅ
が持っていない者にやれるのだ﹂
れはおそらくそうする 権利 があった。わたしは 好 んでバ
じ
わたしはもうちゅうちょしなかった。わたしがすこし
ルブレンの手に落ちる 危険 をおかすよりも、バルブレン
う
でも持っていれば、わたしはかれを助けなければならな
のおっかあから 恩知 らずの子どもだと思われているほう
けんり
い。
がましだと思った。
おんし
﹁うん、よし、それでわかった﹂とわたしは言った。
でも手紙こそ書き 得 なかったが、こう自由の身になっ
かんしゃ
てみれば、わたしは行って会うこともできよう。わたし
え
そう言うと、かれはわたしの手をつかんで、心から 感謝 のキッスをした。
の 一座 にマチアもはいっているので、わたしはいよいよ
いちざ
﹁ぼくといっしょに来たまえ﹂とわたしは言った。
﹁家来
そうしようと心を決めた。なんだかそれがわけなくでき
なかま
ではなく、仲
間 になろう﹂
そうに思われた。わたしは先にかれを一人出してやって、
かた
かの女が一人きりでいるか見せにやる。それからわたし
ごうれい
ハープを肩 にかけると、わたしは号
令 をかけた。
﹁前へ進め﹂
が近所に来ていることを話して、会いに行ってもだいじょ
み す
十五分たつと、わたしたちはパリを後に 見捨 てた。
56
たくつが一足あった。
三足、ハンケチが五枚、みんな品のいい物と、少し使っ
財産を広げた。中には三 枚 のもめんのシャツ、くつ下が
ようと思った。カバンのふたを開けて、わしは草の上に
ふと思いついて、わたしは自分の 財産 をマチアに見せ
んでいるように思われた。
マチアもならんで歩いていた。かれもやはり深く考えこ
わたしはこのくわだてを考えながら、だまって歩いた。
ある。
所へ来るようにたのんで、そこで会うことができるので
ンがうちにいれば、マチアからかの女にどこか安心な場
うぶか、それのわかるまで待っている。それでバルブレ
いじなおくり物だから﹂
た。
﹁けっしてはこにさわってはいけない。⋮⋮これはた
﹁きみはぼくを 喜 ばせたいと思うなら﹂とわたしは言っ
でしまった。
いじることすら 許 さずに、カバンの中にまたしまいこん
見たがったが、開けさせなかった。わたしはそのふたを
れた小さなはこをも広げた。マチアはそのはこを開けて
わたしはエチエネットの小ばこと、リーズのばらを入
かれに﹁おだまり﹂と命令した。
そく、 自分でもひどくゆかいな、 命令 のくせを出して、
マチアは品物をもらうまいとした。けれどわたしはさっ
そのつぎの一時間はぼくが持つから﹂
いいのだから、きみは一時間ぼくのカバンを持ちたまえ。
よろこ
こうしゅう
あらわ
めいれい
マチアは驚
嘆 していた。
﹁ぼくはけっして開けないとやくそくするよ﹂とかれは
ざいさん
﹁それからきみはなにを持っている﹂とわたしはたずね
まじめに言った。
なかま
ゆる
た。
わたしはまたひつじの毛の服を着て、ハープをかつい
まい
﹁ぼくはヴァイオリンがあるだけだ﹂
だが、そこに一つむずかしい問題があった。それはわた
きょうたん
﹁じゃあ分けてあげよう。 ぼくたちは 仲間 なんだから、
しのズボンであった。 芸人 が長いズボンをはくものでは
なか
げいにん
きみにはシャツ二 枚 と、くつ下二足にハンケチを三枚あ
ないように思われた。 公衆 の前へ 現 れるには、短いズボ
まい
げよう。だがなんでも二人のあいだに 仲 よく分けるのが
57
かれはひき始めた。そのあいだわたしは思い切っては
﹁ああ、いいとも﹂
らいたいな﹂
﹁きみはどのくらいヴァイオリンをひくか、聞かせても
は言った。
わたしがズボンのしまつをしているうち、ふとわたし
道具ばこからはさみを出した。
かなければならない。わたしはさっそくエチエネットの
わたしは芸人であった。そうだ、わたしは半ズボンをは
長いズボンは植木屋にはけっこうであろうが⋮⋮いまは
レースをつけて、 色のついたリボンを 結 ぶものである。
ンをはいて、 その上にくつ下をかぶさるようにはいて、
﹁そうさ、ぼくはなんでも知っているはずだ。 座長 だも
﹁きみはなんでも知っているの。では⋮⋮﹂
﹁ぼくが教えてあげよう、ぼくが﹂
﹁いいえ、ぼくは耳に聞くとおりをひいている﹂
い﹂
﹁だれかきみに音楽のことを話して聞かした人があるか
﹁だれも。ぼくは一人で 覚 えた﹂
をたたきながら聞いた。
﹁だれがきみにヴァイオリンを教えたの﹂とわたしは手
んどヴィタリス親方ぐらいにうまくひいた。
手をやめて、耳をそこへうばわれていた。マチアはほと
を切るのにいそがしかったが、まもなくはさみを動かす
はわたしもマチアのほうに気がはいらなかった。ズボン
むす
さみの先をズボンのひざからすこし上の所へ当てた。わ
の﹂
おぼ
たしは 布 を切り始めた。
わたしはマチアに、自分もやはり音楽家であることを
こうた
そんけい
げいにん
ざちょう
けれどこれはチョッキと上着とおそろいにできた、ねず
見せようとした。わたしはハープをとり、かれを感動さ
きれ
み地のいいズボンであった。アッケンのお父さんがそれ
せようと思って、名高い 小唄 を歌った。すると 芸人 どう
とくい
をこしらえてくれたとき、わたしはずいぶん 得意 であっ
しのするようにかれはわたしにおせじを言った。かれは
さいのう
た。けれどいま、それを短くすることをいけないことと
りっぱな才
能 を持っていた。わたしたちはおたがいに尊
敬 はじ
は思わない。かえってりっぱになると思っていた。 初 め
はいのう
し
し合った。わたしは 背嚢 のふたを閉 めると、マチアが代
た。かれは高い白えりをつけて、プレンス・アルベール
服を着ていた。かれはわたしの問いに答えないで、客の
かた
わってそれを肩 にのせた。
ほうへ向きながら、口に二本の指を当てて、それはカピ
こうぎょう
わたしたちはいちばんはじめの村に着いて 興行 をしな
をおびえさせたほどの高い口ぶえをふいた。
﹁どうだね、みなさん、音楽は﹂とかれはさけんだ。
﹁楽
はつ
ずであった。
師がやって来ましたよ﹂
いちざ
ければならなかった。これがルミ 一座 の 初 おめみえのは
﹁ぼくにその歌を教えてください﹂ とマチアが言った。
﹁おお、音楽音楽﹂といっしょの声が聞こえた。
﹁カドリールの列をお作り﹂
たし
で合わせることができるから。するとずいぶんいいよ﹂
おどり手はさっそく庭のまん中に集まった。マチアと
じんど
確 かにそれはいいにちがいなかった。それでくれるも
わたしは荷馬車の中に 陣取 った。
き ひ ん しょく ん
﹁きみはカドリールがひけるか﹂と心配してわたしはさ
ひゃくしょうや
石のような心を持っているというものだ。
す
さやいた。
さいしょ
わたしたちが 最初 の村を通り 過 ぎると、大きな 百姓家 ﹁ああ﹂
しゅちん
せつ
の門の前へ出た。中をのぞくとおおぜいの人が晴れ着を
かれはヴァイオリンで二、三 節 調子を合わせた。運よ
にん
着てめかしこんでいた。そのうちの二、三 人 は襦
珍 ︵しゅ
くわたしはその 節 を知っていた。わたしたちは助かった。
すす
ふし
すの織物︶のリボンを結んだ花たばを持っていた。
マチアとわたしはまだいっしょにやったことはなかった
こんれい
ご婚
礼 であった。わたしはきっとこの人たちがちょっと
が、まずくはやらなかった。もっともこの人たちはたい
す
した音楽とおどりを 好 くかもしれないと思った。そこで
して音楽のいい悪いはかまわなかった。
ど
戸 へはいって、まっ先に出会った人に 背
勧 めてみた。そ
﹁おまえたちのうち、コルネ︵小ラッパ︶のふける者が
せ
の人は赤い顔をした、大きな、人のよさそうな男であっ
りんせき
のをたっぷりくれなかったら、﹁ご 臨席 の貴
賓諸君 ﹂は、
﹁ぼくたちはいっしょに歌おう。もうじきにヴァイオリン
58
59
あるかい﹂と赤い顔をした大男がたずねた。
かれらはかっさいした。そしてカピがおじぎをするふ
たしは言った。
﹁わしが行って 探 して来る。ヴァイオリンもいいが、き
ていませんから﹂
貨 をぼうしに落としてくれた。ぼうしは金貨でいっぱ
銀
花むこさまはいちばんおしまいに 残 ったが、五フランの
うを見て、うれしがっていた。かれらはたんまりくれた。
がっき
﹁ぼくがやれます﹂とマチアは言った。
﹁でも 楽器 を持っ
いきい言うからなあ﹂
いになった。なんという幸せだ。
ひゃくしょうや
もとで
のこ
わたしはその日一日で、マチアがなんでもやれること
わたしたちは夕食に 招待 された。そして 物置 きの中で
さが
がわかった。わたしたちは休みなしに 晩 までやった。そ
ねむる場所をあたえてもらった。
ぎんか
れにはわたしは平気であったが、かわいそうにマチアは
あくる朝この親切な 百姓家 を出るとき、わたしたちに
つと
ものお
ひどく弱っていた。だんだんわたしはかれが青くなって、
は二十八フランの 資本 があった。
しょうたい
たおれそうになるのを見た。でもかれはいっしょうけん
﹁マチア、これはきみのおかげだよ﹂とわたしは 勘定 し
ばん
めいふき 続 けた。幸いにかれが気分が悪いことを見つけ
たあとで言った。
﹁ぼく一人きりでは 楽隊 は務 まらないか
かんじょう
たのは、わたし一人ではなかった。花よめさんがやはり
らねえ﹂
つづ
それを見つけた。
二十八フランをかくしに入れて、わたしたちは福々で
がくたい
﹁もうたくさんよ﹂ とかの女は言った。﹁あの小さい子
あった。コルベイユへ着くと、わたしはさし当たりなく
がくし
は、つかれきっていますわ。さあ、みんな 楽師 たちにや
てならないと思う品を二つ三つ買うことができた。第一
しゅうぎ
るご祝
儀 をね﹂
はいのう
はコルネ、これは古道具屋で三フランした。それからく
さいご
わたしはぼうしをカピに投げてやった。カピはそれを
つ下に 結 ぶ赤リボン、 最後 にもう一つの 背嚢 であった。
むす
口で受け取った。
さず
代わりばんこに重い背嚢をしょうよりも、てんでんが軽
めしつか
﹁どうかわたくしどもの 召使 いにお授 けください﹂とわ
60
ことができた。わたしはもう金持ちであった。なにより
こうと決心した。わたしはかの女におくり物を用意する
は少しも早く、バルブレンのおっかあの所に向かって行
わたしたちのふところ具合がよくなったので、わたし
とマチアがうれしそうに 笑 いながら言った。
﹁きみのような、人をぶたない親方はよすぎるくらいだ﹂
い背嚢をしじゅうしょっているほうが楽であった。
ルブレンにはやらない。ちょうどあの 謝肉祭 の日にあの
りんごの 揚 げ物 をこしらえて、三人で食べる。けれどバ
らわたしたちはおたがいにだき合ってから、どら 焼 きと
そこへわたしが 現 れて、かの女をだき 寄 せる。それか
﹁王子さまとは﹂
たの所へこれをおくり物になさるのですよ﹂
う。そらおとぎ話の中にあるとおり、
﹃王子さま﹄があな
﹁あなたはシャヴァノン村のバルブレンのおばさんでしょ
わら
もかよりも、かの女を幸福にするものがあった。それは
男が帰って来て、わたしたちのフライなべを引っくり返
しゃにくさい
よ
あのかわいそうなルセットの代わりになる 雌牛 をおくっ
して、自分のねぎのスープに、せっかくのバターを入れ
あらわ
てやることだ。わたしが雌牛をやったら、どんなにかの
てしまったときのように意地悪くしてやる。なんという
とくい
ほ
ねだん
や
女はうれしがるだろう。 どんなにわたしは 得意 だろう。
すばらしいゆめだろう。でもそれをほんとうにするには、
もの
シャヴァノンに着くまえに、わたしは雌牛を買う。そし
まず 雌牛 から買わなければならない。
あ
てマチアがたづなをつけて、すぐとバルブレンのおっか
いったい雌牛はどのくらいするだろう。わたしはまるっ
めうし
あの背
戸 へ引いて行く。
きり見当がつかない。きっとずいぶんするにちがいない。
まる
めうし
マチアはこう言うだろう。﹁ 雌牛 を持って来ましたよ﹂
でもまだ⋮⋮わたしはたいして大きな雌牛は欲 しくなかっ
せ ど
﹁へえ、雌牛を﹂とかの女は目を 丸 くするだろう。
﹁まあ
た。なぜなら太っていればいるほど、雌牛は値
段 が高いか
めうし
おまえさんは人ちがいをしているんだよ﹂
ら。それに大きければ大きいほど 雌牛 は食べ物がよけい
めうし
こう言ってかの女はため息をつくだろう。
るだろう。わたしはせっかくのおくり物が、バルブレ
要 い
﹁いいえ、 ちがやしません﹂ とマチアが答えるだろう。
61
こんなん
お
めうし
ちち
れはちょうど注文の品を持っていた。それはうまい 乳 を
しょうめい
ンのおっかあのやっかいになってはならないと思う。さ
︱︱︱正
銘 のクリームを出すいい 雌牛 を持っていた︱︱︱し
ねだん
しゅるい
しあたりだいじなことは、雌牛の 値段 を知ることであっ
かもそれはほとんど物を食べなかった。五十エクー出せ
ほ
た。いや、それよりもわたしの 欲 しいと思う種
類 の雌牛
ばその雌牛はわたしの手にはいるはずであった。 初 めこ
ばん
のこ
はじ
の値段を知ることであった。幸いにわたしたちはたびた
そこの男に話をさせるのが 骨 が折 れたが、一度始めだす
よ
しょくたく
ね
ほね
びおおぜいの 百姓 やばくろうに行く先の村むらで出会う
と今度はやめさせるのが 困難 であった。やっとわたした
ひゃくしょう
ので、それを知るのはむずかしくはなかった。わたしは
ちはその 晩 おそく、とにかくねに行くことができた。わ
わら
はじ
その日 宿屋 で出会った初 めの男にたずねてみた。
たしはこの男から聞いたことを 残 らずゆめに見ていた。
やどや
かれはげらげら 笑 いだした、 食卓 をどんとたたいた。
五十エクー︱︱︱それは百五十フランであった。わたし
がくし
スーとたくわえて百五十フランになることがあるかもし
めうし
それからかれは宿屋のおかみさんを 呼 んだ。
はとてもそんなばくだいな金を持ってはいなかった。こ
をたくさん出すのだそうだ﹂
れない。けれどそれにはひまがかかった。そうとすれば
つづ
﹁この小さな 楽師 さんは、雌
牛 の価 が聞きたいというの
とによってわたしたちの幸運がこの先 続 けば、一スー一
みんなは 笑 った。でもわたしはなんとも思わなかった。
わたしたちはなによりまずヴァルセへ行ってバンジャメ
ちち
だ。たいへん大きなやつでなくて、ごくじょうぶで、 乳 ﹁そうです、いい乳を出して、あんまり食べ物を食べな
ンに会う。その道にできるだけほうぼうで 演芸 をして歩
わら
いのです﹂とわたしは言った。
こう。 それから帰り道に金ができるかもしれないから、
めうし
えんげい
﹁そうしてその 雌牛 はたづなに引かれて道を歩くことを
そのときシャヴァノンへ行って、王子さまの 雌牛 のおと
めうし
いやがらないものでなくってはね﹂
ぎ 芝居 を演 じることにしよう。
わら
えん
かれは一とおり 笑 ってしまうと、今度はわたしと話し
わたしはマチアにこのくわだてを話した。かれはこれ
しばい
合う気になって、事がらをまじめにあつかい始めた。か
62
﹁ヴァルセへ行こう﹂とかれは言った。
﹁ぼくもそういう
になんの 異議 をも 唱 えなかった。
た。 きらきらした太陽が晴れた空にかがやいていたが、
わたしたちが、ヴァルセに着いたのは午後の三時であっ
足りない二十二フランぐらいはわけなく得られよう。
とな
所へは行って見たいよ﹂
だんだん町へ近くなればなるほど空気が黒ずんできた。
ぎ
天と地の間に 煤煙 の雲がうずを 巻 いていた。
い
わたしはアルキシーのおじさんがヴァルセの 鉱山 で 働 ま
煤
煙 の町
いていることは知っていたが、いったい町
中 にいるのか、
ばいえん
外に住んでいるのか知らなかった。ただかれがツルイエー
はたら
この旅行はほとんど三月かかったが、やっとヴァルセ
ルという鉱山で働いていることだけ知っていた。
こうふ
こうざん
の村はずれにかかったときに、わたしたちはむだに日を
町へはいるとすぐわたしはこの 鉱山 がどのへんにある
ばいえん
くらさなかったことを知った。わたしのなめし皮の 財布 かたずねた。そしてそれはリボンヌ川の左のがけの小さ
じ む しょ
ふじん
まちなか
にはもう百二十八フランはいっていた。バルブレンのおっ
な谷で、その谷の名が鉱山の名になっていることを教え
つづ
こうざん
かあの 雌牛 を買うには、あとたった二十二フラン足りな
られた。この谷は町と同様ふゆかいであった。
さいふ
いだけであった。
鉱山 の事
務所 へ行くと、わたしたちはアルキシーのお
めうし
マチアもわたしと同じくらい 喜 んでいた。かれはこれ
じさんのガスパールのいる所を教えられた。それは山か
こうざん
だけの金をもうけるために、自分も 働 いたことにたいへ
ら川へ 続 く曲がりくねった町の中で、鉱山からすこしは
よろこ
ん得
意 であった。実
際 かれのてがらは大きかった。かれ
なれた所にあった。
はたら
なしには、カピとわたしだけで、とても百二十八フラン
わたしたちがその家に行き着くと、ドアによっかかっ
じっさい
なんという金高の集まりようはずがなかった。これだけ
て二、三人、近所の人と話をしていた 婦人 が、 坑夫 のガ
とくい
あれば、ヴァルセからシャヴァノンまでの間に、あとの
こにいる人はだれ﹂と、マチアを指さした。
の子はおまえさんを待っていたよ﹂こう言ってなお、
﹁そ
﹁アルキシーがよくおまえさんのことを言っていたよ。あ
﹁ああ、おまえさん、ルミさんかえ﹂とかの女は言った。
﹁わたしはおいごさんのアルキシー君に会いたいのです﹂
﹁おまえさん、なんの用なの﹂とかの女はたずねた。
スパールは六時でなければ帰らないと言った。
を 好 いてくれることを 望 んでいた。
だろうと思った。でもわたしはかれがひじょうにリーズ
ことを話しても、わたしと同じ 興味 で聞いてはくれない
くない感じを持つだろうと思われた。これではリーズの
これではマチアが、わたしの友人に対してもおもしろ
るやって来たのであろう。
た。こんなことなら、なんだってあんな遠い道をはるば
だろうと考えて、こんな 待遇 を受けたのがきまり悪かっ
たいぐう
﹁ぼくの友だちです﹂
おばさんがわたしたちにあたえた 冷淡 な待
遇 は、わた
こうふ
ゆうき
きょうみ
この女はアルキシーのおばさんであった。わたしはか
したちにふたたびあのうちへもどる勇
気 を 失 わせたので、
こうどう
のぞ
の女がわたしたちをうちの中へ 呼 び入れて休ませてくれ
六時すこしまえにマチアとカピとわたしは、 鉱山 の入口
す
ることと思った。わたしたちはずいぶんほこりをかぶっ
に行って、アルキシーを待つことにした。
す
うしな
こうざん
たいぐう
てつかれていた。けれどかの女はただ、六時にまた来れ
わたしたちはどの 坑道 から 工夫 たちが出て来るか教え
れいたん
ばアルキシーに会える、いまはちょうど 鉱山 へ行ってい
てもらった。それで六時すこし 過 ぎに、わたしたちは坑
よ
るところだからと言っただけであった。
道の暗いかげの中に、小さな明かりがぽつりぽつり見え
こうざん
わたしはむこうから申し出されもしないことを、こち
ゆうき
始めて、それがだんだんに大きくなるのを見た。工夫た
せいきゅう
らから 請求 する 勇気 はなかった。
ちは手に手にランプを持ちながら、一日の仕事をすまし
の
さが
わたしたちはおばさんに礼を 述 べて、ともかくなにか
て、日光の中に出て来るのであった。かれらはひざがし
らが痛 むかのように、重い足どりでのろのろと出て来た。
いた
食べ物を食べようと思って、パン屋を探 しに町へ行った。
﹁わたしはマチアがさぞ、 なんてことだ﹂ と思っている
63
64
ずいぶん注意して見ていたのであるが、やはり向こう
をくぎに引っかけた。
ぶっていた。やがてみんなは 点燈所 にはいって、ランプ
あった。かれらの服とぼうしは石炭のごみをいっぱいか
かった。かれらの顔はえんとつそうじのようにまっ黒で
下りて行ったとき、それがどういうわけだかはじめてわ
わたしはそののちに、地下の 坑道 のどん 底 まではしごを
ながら言い返した。
﹁おまけにおまえさんの足は短いからな﹂とかれは笑い
たしは 笑 い返しながら言った。
﹁パリからヴァルセまではずいぶんありましたよ﹂とわ
とかれはにっこりしながら言った。
﹁わたしたちは長いあいだおまえさんを待っていたよ﹂
ることを知った。
なかった。わたしはすぐそれがガスパールおじさんであ
そこ
から見つけてかけ 寄 って来るまで、わたしたちはアルキ
カピもアルキシーを見ると、うれしがっていっしょう
こうどう
シーを見つけなかった。もうすこしでかれを見つけるこ
けんめいそのズボンのすそを 引 っ張 って、お 喜 びのごあ
てんとうしょ
となしにやり過 ごしてしまうところであった。
いさつをした。このあいだわたしはガスパールおじさん
わら
実
際 頭から足までまっ黒くろなこの少年に、あのひじ
に向かって、マチアがわたしの 仲間 であること、そして
よ
の所で 折 れたきれいなシャツを着て、カラーの前を大き
かれがだれよりもコルネをうまくふくことを話した。
はだ
なかま
よろこ
く開けて白い 膚 を見せながら、いっしょに花畑の道をか
﹁おお、カピ君もいるな﹂とガスパールおじさんが言っ
ぱ
けっこしたむかしなじみのアルキシーを見いだすことは
た。
﹁おまえ、あしたはゆっくり休んで行きなさい。ちょ
こんなん
よ
ひ
難 であった。
困
うど日曜日で、わたしたちにもいいごちそうだ。なんで
す
﹁やあ、ルミだよ﹂とかれはそばに 寄 りそって歩いていた
もアルキシーの話ではあの犬は学校の先生と役者をいっ
じっさい
四十ばかりの男のほうを向いてさけんだ。その人はアッ
しょにしたよりもかしこいというじゃないか﹂
お
ケンのお父さんと同じような、親切な 快活 な顔をしてい
わたしはおばさんに対して気持ち悪く感じたと同じく
かいかつ
た。二人が兄弟であることを思えば、それはふしぎでは
65
いるにちがいない。わたしはこのコルネをそんなにじょ
に言った。
﹁きっとおたがいにたんと話すことが 積 もって
﹁さあ、子どもどうし話をおしよ﹂とかれはゆかいそう
た。
らいこのガスパールおじさんに対しては気持ちよく感じ
ごとを言わなかった。言うことがあれば、おとなしい、 静 を 好 む、事 なかれ主
義 の男であった。かれはけっしてこ
このお軽少な夕食を食べていた。かれはなによりも平和
た。ひどい労
働 をする坑
夫 は、でもこごと一つ言わずに、
のおばさんは、その晩 ごくお 軽少 のごちそうしかしなかっ
事は長くはかからなかった。なぜなら 金棒引 きであるこ
かなぼうひ
うずにふく若 い紳
士 とおしゃべりをしよう﹂
かな調子で言った。だから夕食はじきにすんでしまった。
こと
しゅぎ
つづ
きぼう
こうふん
や
けいしょう
アルキシーはわたしの旅の話を聞きたがった。わたし
ガスパールおばさんはわたしに、 今晩 はアルキシーと
ばん
はかれの仕事の様子を知りたがった。わたしたちはおた
いっしょにいてもいいと言った。そしてマチアにはいっ
ばん
こうざん
つ
こうふ
がいにたずね合うのがいそがしくって、てんでに 相手 の
しょに行ってくれるなら、パン 焼 き場 にねどこをこしら
ばんめし
ろうどう
返事が待ちきれなかった。
えてあげると言った。
つ
うちに着くと、ガスパールおじさんはわたしたちを 晩飯 その 晩 それから続 いてその夜中の大部分、アルキシー
この
に招
待 してくれることになった。この招待ほどわたしを
とわたしは話し明かした。アルキシーがわたしに話した
たいぐう
わか
はたら
ば
しず
ゆかいにしたものはなかった。なぜならわたしたちはさっ
いちいちがきみょうにわたしを 興奮 させた。わたしはも
しんし
きのおばさんの待
遇 ぶりで、がっかりしきっていたから、
とからいつか一度 鉱山 の中にはいってみたいと思ってい
かどぐち
わか
たぶん 門口 で 別 れることになるだろうと、道みちも思っ
た。
たんこう
こんばん
ていたからであった。
でもあくる日、わたしの 希望 をガスパールおじさんに
あいて
﹁さあ、ルミさんとお友だちのおいでだよ﹂おじさんは
話すと、かれはたぶん 連 れて行くことはできまい、なん
しょうたい
うちへはいりかけながらどなった。
でも 炭坑 で 働 いている者のほかは、よその人を入れない
しょくたく
しばらくしてわたしたちは夕食の 食卓 にすわった。食
66
だ﹂とかれは言った。
﹁ほかの仕事に比 べて悪いことはな
﹁だがおまえ、 坑夫 になりたいと思えばわけのないこと
ことになっているからと言った。
にぶらぶらしていなければならなくなったからである。
をおしてくれる者はなかったし、かれもしたがってうち
ルおじさんはがっかりしていた。なぜならもうかれの車
に 絶対 の安
静 をあたえなければならなかった。ガスパー
あんせい
いよ。大道で歌を歌うよりよっぽどいいぜ。アルキシー
でもそれはかれにはひどく具合の悪いことであった。
ぜったい
といっしょにいることもできるしな。なんならマチアさ
﹁じゃあぼくで代わりは 務 まりませんか﹂とかれが代わ
こうふ
んにも仕事をこしらえてやる。だがコルネをふくほうで
りの子どもをどこにも 求 めかねて、ぼんやりうちに帰っ
くら
はだめだよ﹂
て来たとき、わたしは言った。
もと
つと
わたしは、ヴァルセに長くいるつもりはなかった。自分
こうきしん
﹁どうも車はおまえには重たすぎようと思うがね﹂とか
こころざ
の志 すことはほかにあった。それでついわたしの 好奇心 れは言った。
﹁でもやってみてくれようと言うなら、わた
み
こうふ
を 満 たすことなしに、 この町を去ろうとしていたとき、
しは大助かりさ。なにしろほんの五、六日使う子どもを
じじょう
ひょんな 事情 から、わたしは 坑夫 のさらされているあら
すというのはやっかいだよ﹂
探 きけん
さが
ゆる危
険 を知るようになった。
この話をわきで聞いていたマチアが言った。
こうざん
めうし
﹁じゃあ、きみが 鉱山 に行っているうち、ぼくはカピを
けて来よう﹂
つ
れて出かけて行って、雌
連 牛 のお金の足りない分をもう
明るい野天の下で三月くらしたあいだに、マチアはすっ
うんぱんふ
運
搬夫 ちょうどわたしたちがヴァルセをたとうとしたその日、
かり人が 変 わっていた。かれはもうお寺のさくにもたれ
か
大きな石炭のかけらが、アルキシーの手に落ちて、 危 なく
かかっていたあわれな青ざめた子どもではなかった。ま
あぶ
その指をくだきかけた。いく日かのあいだかれはその手
67
こうざん
こういうわけで、 わたしが 鉱山 に下りて行くあいだ、
へ や
してわたしが 初 めて屋
根裏 の部
屋 で会ったとき、スープ
マチアとカピが町はずれへ出かけて、音楽と 芝居 の興
行 やねうら
なべの 見張 りをして、 絶 えず気のどくな 痛 む頭を両手で
をして、それでわたしたちの 財産 を増 やすという、やく
はじ
おさえていた化け物のような子ではなかった。マチアは
そくができあがった。わたしはカピに向かってこの計画
ひつよう
きょうふ
こうぎょう
もうけっして 頭痛 がしなかった。けっしてみじめではな
を言い聞かせると、かれはよくわかったとみえて、さっ
そこ
しばい
かったし、やせこけても、悲しそうでもなかった。美し
そく 賛成 の意をほえてみせた。
わら
いた
い太陽と、さわやかな空気がかれに 健康 と元気をあたえ
あくる日、 ガスパールおじさんのあとにくっついて、
た
た。旅をしながらかれはいつも上きげんに 笑 っていたし、
わたしは深いまっ暗な 鉱山 に下りて行った。かれはわた
は
なにを見てもそのいいところを見つけて、楽しがってい
しにじゅうぶん気をつけるように言い聞かせたが、その
み
た。かれなしにはわたしはどんなにさびしくなることで
告 の必
警
要 はなかった。もっとも昼の光をはなれて地の
そう
だん
こうどう
ふ
あろう。
へはいって行くということには、ずいぶんの 底 恐怖 と心
こうふ
はたら
ざいさん
わたしたちはずいぶん 性質 がちがっていた。たぶんそ
配がないではなかった。ぐんぐん 坑道 を下りて行ったと
しょう
ずつう
れでかえって 性 が合うのかもしれなかった。かれは 優 し
き、わたしは思わずふりあおいだ。すると、長い黒いえ
きしつ
さんせい
い、明るい気
質 を持っていた。すこしもものにめげない、
んとつの先に見える昼の光が、白い玉のように、まっ暗
けんこう
いつもきげんよく 困難 に打ちかってゆく気風があった。
な星のない空にぽっつりかがやいている月のように見え
こうどう
こうざん
わたしには学校の先生のようなしんぼう気がなかったか
た。やがて大きな黒いやみが目の前に大きな口を開いた。
けいこく
ら、かれは物を読むことや音楽のけいこをするときには
下の 坑道 にはほかの 坑夫 がはしご段 を下りながら、ラン
む り
せいしつ
よくけんかをしそうにした。わたしはずいぶんかれに対
プをぶらぶらさげて行くのが見えた。わたしたちはガス
やさ
して 無理 を言ったが、一度もかれはおこった顔を見せな
パールおじさんが 働 いている二層 目の小屋に着いた。車
こんなん
かった。
68
よ
わら
ばくはつ
が、いつもものにこわがるといっては 笑 われていたのを
だいく
をおす役に使われているのは、ただ一人﹁先生﹂と 呼 ば
こうざん
思い出して、ついきまりが悪くなって立ち止まった。爆
発 のこ
わか
れている人のほかは、 残 らず男の子であった。この人は
へいし
だろうか、なんだろうか、ちっともわからなかった。
あやま
れんたい
もうかなりのおじいさんで、 若 いじぶんには鉱
山 で大
工 ふと何百というねずみが、一 連隊 の兵
士 の走るように、
ずしんと当たるきみょうな音が聞こえて、水の走る音が
こうどう
の仕事をしていたが、あるとき 過 って指をくだいてから
すぐそばをかけ出して来た。すると地面と 坑道 のかべに
た。
した。わたしはガスパールおじさんのほうへかけてもどっ
す
さて 坑 にはいってまもなく、わたしは 坑夫 というもの
た。
しょく
は、手についた 職 を 捨 てなければならなかったのであっ
が、どういう人間で、どんな生活をしているものだかよ
﹁水が鉱
坑 にはいって来たのです﹂とわたしはさけんだ。
こうふ
く知ることになった。
﹁ばかなことを言うな﹂
こう
﹁まあ、お聞きなさい。あの音を﹂
いやでも仕事をやめて耳を立てさせるものがあった。物
こうこう
そう言ったわたしの様子には、ガスパールおじさんに
音はいよいよ高く、いよいよものすごくなってきた。
こうずい
洪
水 それはこういうことからであった。
﹁いっしょうけんめいかけろ。 鉱坑 に水が出た﹂とかれ
こうこう
運
搬夫 になって、四、五日してのち、わたしは車をレー
がさけんだ。
うんぱんふ
ルの上でおしていると、 おそろしいうなり声を聞いた。
﹁先生、先生﹂とわたしはさけんだ。
ろうじん
その声はほうぼうから起こった。
わたしたちは 坑道 をかけ下りた。 老人 もいっしょにつ
こうどう
わたしの初 めの感じはただおそろしいというだけであっ
いて来た。水がどんどん上がって来た。
はじ
て、ただ助かりたいと思う心よりほかになにもなかった
69
いきお
ざいもく
た。気ちがいのような 勢 いでうずをわかせながら、 材木 だん
﹁おまえさん先へおいでよ﹂とはしご 段 まで来ると老人
をおし流して、 羽 のように 軽 くくるくる回した。
ろうじん
かる
は言った。
﹁ 通気竪坑 にはいらなければだめだ。にげるならあすこ
はね
わたしたちはゆずり合っている場合ではなかった。ガ
だけだ。ランプを 貸 してくれ﹂と﹁先生﹂が言った。
たね
つうきたてこう
スパールおじさんは先に立った。そのあとへわたしも 続 いつもならだれもこの 老人 がなにか言っても、からか
か
いて、それから﹁先生﹂が上がった。はしご 段 のてっぺ
う種 にはしても、まじめに気を 留 める者はなかったであ
つづ
んに行き着くまえに大きな水がどっと上がって来てラン
ろうが、いちばん強い人間もそのときは 精神 を失 ってい
だん
プを消した。
た。それでしじゅうばかにしてした老人の声に、いまは
ひ
こうふ
と
﹁しっかり﹂とガスパールおじさんがさけんだ。わたした
ついて行こうとする気持ちになっていた。ランプがかれ
つ
じごく
うしな
ちははしごの横木にかじりついた。でもだれか下にいる
にわたされた。かれはそれを持って先に立ちながら、いっ
こうこう
たてこう
お
せいしん
人がほうり出されたらしかった、たきの 勢 いがどっどっ
しょにわたしを 引 っ張 って行った。かれはだれよりもよ
いきお
となだれのようにおして来た。
く鉱
坑 のすみずみを知っていた。水はもうわたしのこし
ほね
ぱ
わたしたちは第一 層 にいた。水はもうここまで来てい
までついていた。﹁先生﹂ はわたしたちをいちばん近い
そう
た。ランプが消えていたので、明かりはなかった。
坑 に連 竪
れて行った。二人の 坑夫 はしかしそれは 地獄 へ
しず
﹁いよいよだめかな﹂と﹁先生﹂は静 かに言った。
﹁おい
ちるようなものだと言って、はいるのをこばんだ。か
落 とな
のりを 唱 えよう、こぞうさん﹂
れらはろうかをずんずん歩いて行った。わたしたちはそ
だん
こうふ
このしゅんかん、七、八人のランプを持った 坑夫 がわ
れからもう二度とかれらを見なかった。
お
たしたちの方角へかけて来て、はしご 段 に上がろうと骨 あっさく
そのとき耳の遠くなるようなひどい物音が聞こえた。
おおつなみ
を折 っていた。
こう
津波 のうなる音、木のめりめりさける音、 大
圧搾 された
きそく
水はいまに 規則 正しい波になって、坑 の中を走ってい
70
で七人、
﹁先生﹂とガスパールおじさんに、三人の坑夫の
ばくはつ
空気の 爆発 する音、すさまじいうなり声がわたしたちを
パージュ、コンプルー、ベルグヌー、それからカロリー
だいこうずい
おびえさせた。
という車おしのこぞう、それにわたしであった。
せかい
つづ
﹁大
洪水 だ﹂と一人がさけんだ。
せつめい
鉱山の物音は同じはげしさで 続 いた。このおそろしい
さぐ
きょうふ
﹁世
界 の終わりだ﹂
さいご
うなり声を 説明 することばはなかった。いよいよわれわ
ぜつぼう
﹁おお、神様お助けください﹂
れの最
後 のときが来たように思われた。 恐怖 に気がくるっ
あいて
人びとが 絶望 のさけび声を立てるのを聞きながら、
﹁先
たようになって、わたしたちはおたがいに 探 るように相
手 の顔を見た。
けいちょう
生﹂は平気な、しかしみんなを 傾聴 させずにおかないよ
うな声で言った。
﹁鉱山の 悪霊 が復 しゅうをしたのだ﹂と一人がさけんだ。
あな
ふく
﹁しっかりしろ。みんな、ここにしばらくいるうちに、仕
﹁上の川に穴 があいて、水がはいって来たのでしょう﹂と
あくりょう
事をしなければならない。こんなふうにみんなごたごた
わたしはこわごわ言ってみた。
かた
まっていても、しかたがない。ともかくからだを落ち
固 ﹁先生﹂はなにも言わなかった。かれはただ 肩 をそびや
たし
かた
着ける 穴 をほらなければならない﹂
かした。それはあたかもそういうことはいずれ昼間くわ
あな
かれのことばはみんなを落ち着かせた。てんでに手や
の木のかげで、ねぎでも食べながら 論 じてみようという
けいしゃ
あくりょう
ろん
ラ ン プ の か ぎ で 土 を ほ り 始 め た。 こ の 仕 事 は 困難 であっ
ようであった。
こんなん
た。なにしろわたしたちがかくれた 竪坑 はひどい傾
斜 に
﹁ 鉱山 の悪
霊 なんというのはばかな話だ﹂とかれは 最後 たてこう
なっていて、むやみとすべった。しかも足をふみはずせ
に言った。﹁鉱山に 洪水 が来ている。 それは 確 かだ。 だ
さいご
ば下は一面の水で、もうおしまいであった。
がその洪水がどうして起こったかここにいてはわからな
こうざん
でもどうやらやっと足だまりができた。わたしたちは
い⋮⋮﹂
こうずい
足を止めて、おたがいの顔を見ることができた。みんな
71
こうざん
水はもう一尺 ︵約三〇センチ︶も上がっては来ない。鉱
山 しゃく
﹁ふん、わからなければだまっていろ﹂とみんながさけ
の中は水でいっぱいになっているにちがいない﹂
よ
んだ。
こうこう
﹁マリウスはどうしたろう﹂
ろうじん
わたしたちはかわいた土の上にいて、水がもう 寄 せて
﹁鉱
坑 は水でいっぱいになっている﹂と言った﹁先生﹂の
はたら
来ないので、すっかり気が強くなり、だれも 老人 に耳を
ことばで、パージュは三 層 目で働 いていた一人むすこの
きけん
けんい
そう
かたむけようとする者がなかった。さっき 危険 の場合に
れいせいちんちゃく
ことを思い出した
しめ
した 示 冷静沈着 のおかげで、急にかれに加わった 権威 は
﹁おお、マリウス、マリウス﹂とかれはまたさけんだ。
うしな
もう失 われていた。
なんの返事もなかった。こだまも聞こえなかった。か
心細くなっているではないか﹂
うか。あまりといえばおそろしいことだ。百五十人は少
リウスは助かったろうか。百五十人がみんなおぼれたろ
こう
﹁われわれはおぼれて死ぬことはないだろう﹂とかれは
れの声はわれわれのいる 坑 の外にはとおらなかった。マ
﹁魔
法使 いみたいなことを言うな。なんのわけだ、言っ
なくとも坑の中にはいっていた。そのうちいく 人 竪
坑 に
ひ
てみろ﹂
上がったろうか。わたしたちのようににげ場を見つけた
しず
やがて静 かに言った。
﹁ランプの灯 を見なさい。ずいぶん
﹁おれは魔
法使 いをやろうというのではない。だがおぼれ
ろうか。
あっさ く く う き
まほうつか
まほうつか
て死ぬことはないだろう。おれたちは気室の中にいるの
うすぼんやりしたランプの光が心細くわたしたちのせ
にんたてこう
だ。その 圧搾空気 で水が上がって来ないのだ。出口のない
まいおりを 照 らしていた。
たてこう
て
この竪
坑 はちょうど潜
水鐘 ︵潜水器︶が 潜水夫 の役に立
せんすいふ
つと同じりくつになっているのだ。空気が竪坑にたくわ
せんすいしょう
えられていて、それが水のさして来る力をせき止めてい
生きた 墓穴 はかあな
るのだ。そこでおそろしいのは空気のくさることだ⋮⋮
72
ちんもく
あっぱく
黙 がわたしを圧
沈
迫 した。
ひ な ん じょ
しはい
わたしたちの 避難所 のでこぼこした、ぎざぎざなかべ
ちんもく
いまや 鉱坑 の中には絶
対 の沈
黙 が支
配 していた。わた
が、いまにも落ちて、その下におしつぶされるような気
ぜったい
したちの足もとにある水はごく 静 かに、さざ波も立てな
がしてこわかった。わたしはもう二度とリーズに会うこ
こうこう
かった。さらさらいう音もしなかった。鉱坑は水があふ
とができないであろう。アーサにも、ミリガン夫
人 にも、
しず
れていた。この 破 りがたいしずんだ重い沈黙が、 初 め水
それから 好 きなマチアにも。
たよ
ふじん
があふれ出したとき聞いたおそろしいさけび声よりも、
みんなはあの小さいリーズにわたしの死んだことを了
解 はじ
もっと心持ちが悪かった。
させることができるであろうか。かの女の兄たちや 姉 さ
あね
くなバルブレンのおっかあは⋮⋮。
やぶ
わたしたちは生きながらうずめられて、地の下百尺︵約
んからの 便 りをつい持って行ってやることができなかっ
はか
す
三〇メートルだが、ここでは深いという意味︶の 墓 の中
たことを了解させることができようか。それから気のど
を感じていた。
﹁先生﹂すらもぐんなりしていた。
﹁どうもおれの考えでは、だれもおれたちを 救 うくふう
きょうふ
りょうかい
にいるのであった。わたしたちはみんなこの場合の 恐怖 とつぜんわたしたちは手に 温 かいしずくの落ちるのを
はしていないらしい﹂とガスパールおじさんはとうとう
こうざん
ちんじ
なかま
こうふ
みごろ
すく
感じた。それはカロリーであった⋮⋮かれはだまって 泣 黙 を破 沈
って言った。﹁ちっとも音が聞こえない﹂
あたた
いていた。ふとそのとき引きさかれるようなさけび声が
﹁おまえさん、 仲間 のことをどうしてそんなふうに考え
な
聞こえた。
られるかね﹂と﹁先生﹂は熱 くなってさけんだ。
﹁いつの
なかま
やぶ
﹁マリウス。ああ、せがれのマリウス﹂
山 の椿
鉱
事 でも、仲
間 がおたがいに助け合わないことは
ちんもく
空気は息苦しく重かった。わたしは息がつまるように
なかった。一人の 坑夫 のことだって、あの二十人百人の
なかま
感じた。耳のはたにぶつぶついう音がした、わたしはお
間 がけっして見
仲
殺 しにはしないじゃないか。おまえさ
あつ
そろしかった。 水も、 やみも、 死も、 おそろしかった。
73
ろうとしていっしょうけんめいやっているのだ。それに
﹁思いちがいをしてはいけないよ。みんなもこちらへ 近寄 ﹁それはそうだよ﹂とガスパールおじさんがつぶやいた。
ん、それはよく知っているくせに﹂
カロリーはわたしの手を取って 固 くにぎりしめた。
われよう。
わたしたちはみんな立ち上がった。ああ、われわれは 救 に当たった音は、電流でさわられでもしたように感じた。
これはいっしょの声で言われた。いまわたしたちの耳
つ
すく
は二つしかたがある⋮⋮一つはこのおれたちのいる下ま
﹁きみはいい人だ﹂とかれは言った。
ちかよ
で、トンネルをほるのだ。もう一つは水を 干 すのだ﹂
﹁いいや、きみこそ﹂とわたしは答えた。
あな
かた
人びとはその仕事を仕上げるにどのくらいかかるかと
でもかれはわたしがいい人であることをむちゅうになっ
ほ
いうとりとめのない 議論 を始めた。 結局
少 なくともこの
て主
張 した。かれの様子は酒に 酔 っている人のようであっ
こうふ
けっきょくすく
の中にこの後八日ははいっていなければならないこと
墓 た。またまったくそうであった。かれは 希望 に酔 ってい
ぎろん
に意見が 一致 した。八日。わたしも坑
夫 が二十四日も穴 たのだ。
よ
の中に閉 じこめられた話は聞いたが、でもそれは﹁話﹂で
けれどわたしたちは空に美しい太陽をあおぎ、地に楽
しんじつ
しゅちょう
あるが、このほうは 真実 であった。いよいよそれが、ど
しく歌う小鳥の声を聞くまでに、長いつらい苦しみの日
はか
ういうことであるか、すっかりわかると、もう回りの人
を送らなければならなかった。いったいもう一度日の目
よ
の話なんぞは耳にはいらなかった。わたしはぼんやりし
を見ることができるだろうか。そう思って苦しい 不安 の
きぼう
た。
日をこの先送らなければならなかった。わたしたちはみ
ちんもく
いっち
また 沈黙 が 続 いた。みんなは考えにしずんでいた。そ
んなひじょうにのどがかわいていた。パージュが水を取
と
んなふうにして、どのくらいいたか知らないが、ふとさ
りに行こうとした。けれど﹁先生﹂はそのままにじっと
ふあん
けび声が聞こえた。
していろと言った。かれはわたしたちのせっかく 積 み上
つづ
﹁ポンプが動いている﹂
74
ひ
たった一つの 灯 しかなかったのであった。みんなの中か
せなか
げた石炭の土手がかれのからだの重みでくずれて、水の
ろうじん
ち
ら同じさけび声が起こった。幸いにわたしはもう水にと
い
中に落ちるといけないと気づかったのであった。
どく 位置 に下りていた。 背中 で土手をすべりながら、わ
か
﹁ルミのほうが身が軽い。あの子に長ぐつを 貸 しておや
たしは 老人 を 探 しに水の中にはいった。
さが
り。あの子なら、行って水を取って来られるだろう﹂と
ヴィタリス親方と 流浪 していたあいだに、わたしは泳
はたら
るろう
かれは言った。
ぐことも、水にはいることも 覚 えた。わたしはおかの上
おぼ
カロリーの長ぐつがわたされた。わたしはそっと土手
と同様、水の中でも楽に 働 けた。だがこのまっ暗な穴 の
とき、それを少しも考えなかった。わたしはただ老人が
あな
を下りることになった。
中で、どうして見当をつけよう。わたしは水にはいった
げよう﹂
おぼれたろうと、そればかり考えた。どこをわたしは見
か
﹁ちょいとお待ち﹂と﹁先生﹂が言った。
﹁手を 貸 してあ
﹁おお、でもだいじょうぶですよ。先生﹂とわたしは答
かた
ればいいか、どちらのそばへ泳いで行けばいいか、わた
うに感じた。わたしは水の中に引きこまれた、足を強く
こま
えた。
﹁ぼくは水に落ちても泳げますから﹂
しは 困 っていると、ふとしっかり 肩 をつかまえられたよ
あ、手をお持ち﹂
けって、わたしは水の 面 へ出た。手はまだ肩をつかんで
は
﹁わたしの言うとおりにおし﹂とかれは言い張 った。
﹁さ
かれはしかしわたしを助けようとしたはずみに足をふ
いた。
おもて
みはずしたか、足の下の石炭がくずれたか、つるり、 傾斜 ﹁しっかりおしなさい、先生﹂とわたしはさけんだ。
﹁首
けいしゃ
の上をすべって、まっ逆 さまに暗い水の中に落ちこんだ。
を上に上げていれば助かりますよ﹂
つづ
助かると。どうして二人とも助かるどころではなかっ
さか
かれがわたしに見せるつもりで持っていたランプは、 続 いて転 がって見えなくなった。
た。わたしはどちらへ泳いでいいかわからなかった。
ころ
たちまちわたしは暗黒の中に投げこまれた。そこには
75
がついた、わたしはただ手をのばせば土手にさわること
ランプが暗やみの中から 探 り出されて、すぐに明かり
﹁ランプをつけてください﹂
こう言ったのはガスパールおじさんの声であった。
﹁ルミ、どこだ﹂
んだ。
﹁ねえ、だれか、声をかけてください﹂とわたしはさけ
わたしが半分目が 覚 めて身動きすると、かれはただき
る子どものようにねむった。
はじゅうぶんであった。わたしはそこで母のひざにねむ
かりおさえてはいなかったが、わたしが落ちないだけに
のからだをうででおさえてくれた。かれはたいしてしっ
しいのを見て、かれの 胸 にわたしの頭をつけて、わたし
り落ちそうであった。すると﹁先生﹂はわたしの 危 なっか
につごうのいい場所ではなかった。じきに水の中に 転 が
ころ
ができた。片
手 で石炭のかけらをつかんで、わたしは老
人 つくなった自分のうでの 位置 を変えた。そして自分は動
あぶ
あぶ
を引き上げた。もう、少しで 危 ないところであった。
かずにすわっていた。
じんじふせい
むね
かれはもうたくさんの水を飲んでいて、半分 人事不省 ﹁お休み、ぼうや﹂とかれはわたしの上にのぞきこんで
さぐ
であった。わたしはかれの頭をうまく水の上に上げてやっ
ささやいた。
﹁こわいことはない。わたしがおさえていて
きょうふ
さ
たので、どうにかかれは上がって来た。 仲間 はかれの手
あげるからな﹂
ろうじん
を取って引き上げる。わたしは後からおし上げた。わた
それでわたしは 恐怖 なしにねむった。かれがけっして
かたて
しはそのあとで今度は自分がはい上がった。
手をはなさないことをわたしはよく知っていた。
ち
このふゆかいな出来事で、しばらくわたしたちの気を
ぜつぼう
い
転じさせたが、それがすむとまた 圧迫 と 絶望 におそわれ
なかま
た。それとともに死が近づいたという考えがのしかかっ
救助 あっぱく
てきた。
きゅうじょ
わたしはひじょうにねむくなった。この場所はねるの
76
死ぬことばかりが心の中にあった。
あった。もうだれも救 われることを考えてはいなかった。
たか、六日いたか、わからなかった。意見がまちまちで
わたしたちは 時間 の 観念 がなくなった。そこに二日い
がさけんだ。
﹁あいつを水の中にほうりこめ﹂とパージュとベルグヌー
だ。それはおれの 寝台 の下にはいっている⋮⋮おお⋮⋮﹂
おれがそのどろぼうだった。ほんとうはおれがとったの
んで、五年の 宣告 を受けたリケを知っているか⋮⋮だが
せんこく
﹁先生、おまえの言いたいことを言えよ﹂とベルグヌー
﹁じゃあ、おまえは 良心 に罪 をしょわせたまま神様の前
かんねん
がさけんだ。﹁おまえ水をかい出すにどのくらいかかる
に出るつもりか﹂と先生がさけんだ。
﹁あの男に 懺悔 させ
じかん
か、 勘定 していたじゃないか。だがとてもまに合いそう
ろ﹂
りょうしん
ねだい
もないぜ。おれたちは空
腹 か窒
息 で死ぬだろう﹂
﹁おれは懺悔する、おれは懺悔する﹂と大
力 のコンプルー
すく
﹁しんぼうしろよ﹂と﹁先生﹂が答えた。
﹁おれたちは食
が、子どもよりもっといくじなく 泣 いた。
つみ
べ物なしにどれくらい生きられるか知っている。それで
﹁水の中にほうりこめ。水の中にほうりこめ﹂とパージュ
じょうけん
ざんげ
ちゃんと勘定がしてあるのだ。だいじょうぶ、まに合う
とベルグヌーが、
﹁先生﹂ の後ろに 丸 くなっていた罪
人 かんじょう
よ﹂
にとびかかって行きそうにした。
ちっそく
このしゅんかん、大きなコンプルーが声を立ててすす
﹁おまえたち、 この男を水の中にほうりこみたいなら、
な
くうふく
り泣 きを始めた。
おれもいっしょにほうりこめ﹂
ばち
たいりき
﹁神様の罰 だ﹂とかれはさけんだ。
﹁おれは後
悔 する。お
﹁ううん、ううん﹂やっとかれらは水の中に罪人をほう
な
れは後悔する。もしここから出られたら、おれはいままで
りこむだけはしないことにしたが、それには一つの 条件 ざいにん
した悪事のつぐないをすることをちかう。もし出られな
がついた。罪人はすみっこにおしやられて、だれも口を
まる
かったら、おまえたち、おれのために神様におわびをして
きいてもいけないし、かまってもやるまいというのだっ
こうかい
くれ。おまえたちはあのヴィダルのおっかあの時計をぬす
77
しみに打たれて、 絶 えずくちびるを動かしながら、こう
の間に空き地をこしらえた。数時間のあいだ、かれは悲
に、できるだけ遠くはなれて、この悪い事をした人間と
われたので、それがすむとわたしたちはみんないっしょ
﹁先生﹂のことばはコンプルーに下された判
決 のように思
公平な 裁 きだ﹂
﹁そうだ、それが相当だ﹂と﹁先生﹂が言った。
﹁それが
た。
しばらくのあいだ、コンプルーはのどがかわくと言い
れは言った。
﹁もうあいつにはかまわないとやくそくしたのだ﹂とか
の手をおさえた。
たしを 呼 び止めた。同時にガスパールおじさんがわたし
りに行こうとした。けれどそれを見つけたパージュがわ
もう長ぐつに水はなかった。わたしは立ち上がって取
を 貸 してくれ﹂
﹁おれはのどがかわいた﹂とかれは言った。
﹁その長ぐつ
か
つぶやいているように思われた。
けた。 わたしたちがなにも飲み物をくれないとみて、
続 さば
﹁おれはくい改 める。おれはくい改める﹂
かれは自分で立ち上がって、水のほうへ行きかけた。
はんけつ
やがてパージュとベルグヌーがさけびだした。
﹁あいつ石炭がらをくずしてしまうぞ﹂
よ
﹁もうおそいや、もうおそいや。きさまはいまこわくなっ
﹁まあ、自由だけは 許 してやれ﹂と﹁先生﹂が言った。
た
たのでくい改めるのだ。きさまは一年まえにくい改めな
かれはわたしがさっき 背中 で下へすべって行ったのを
つづ
ければならなかったのだ﹂
見ていた。 それで自分もそのとおりをやろうとしたが、
あらた
かれは苦しそうに、ため息をついていた。けれどまだ
わたしの身が軽いのとちがって、かれはなみはずれて重
あらた
ゆる
くり返していた。
かった。それで後ろ向きになるやいなや、石炭の土手が
ねつ
せなか
﹁おれはくい改 める。おれはくい改める﹂
足の下でくずれて、両足をのばし、両手は 空 をつかんだ
くう
かれはひどい 熱 にかかっていた。かれの全身はふるえ
まま、かれはまっ暗な 穴 の中に落ちこんだ。
あな
て、歯はがたがた鳴っていた。
78
んと﹁先生﹂がわたしの手を両方からおさえた。
下りて行くつもりでのぞきこんだが、ガスパールおじさ
水はわたしたちのいる所まではね上がった。わたしは
皮を食い切るあの大きな白い歯で、ずいぶんそんなこと
リーと、ベルグヌーは、とりわけベルグヌーは長ぐつの
わたしを食べようとは思えなかったが、パージュとカロ
いかとおそれた。
﹁先生﹂と、ガスパールおじさんだけは
だけであった。けれどそれもわたしたちのしずんでいる
時間が過 ぎていった。元気よくものを言うのは﹁先生﹂
もどった。
やくような声で言っていることを聞いてびっくりした。か
いると、
﹁先生﹂がゆめを見ているように、ほとんどささ
一度こんなこともあった。わたしが半分うとうとして
をしかねないと思った。
せき
のがとうとうかれの 精神 をもしずませた。わたしたちの
れは雲や風や太陽の話をしていた。するとパージュとベ
きょうふ
半分死んだように、 恐怖 にふるえがら、わたしは 席 に
腹 はひじょうなものであったから、しまいにはぐるり
空
ルグヌーが、とんきょうな様子でかれとおしゃべりを始
す
にあるくさった木まで食べた。まるでけもののようであっ
めた。まるで 相手 の返事をするのをおたがいに待たない
せいしん
た。カロリーが中でもいちばん 腹 をすかした。かれは 片 っ
のであった。ガスパールおじさんはかれらの 変 な様子に
くうふく
ぽの長ぐつを切って、しじゅうなめし皮のきれをかんで
は気がつかないようであった。この人たちは気がちがっ
くうふく
みちび
きょうふ
ひょうちゃく
あいて
いた。 空腹 がどんなどん 底 のやみにまでわたしたちを 導 たのではないかしら。それだとどうしよう。
せ
かた
くかということを見て、正直の話、わたしははげしい 恐怖 ふと、わたしは明かりをつけようと思った。油を 倹約 ろうじん
はら
を感じだした。ヴィタリス老
人 は、よく難
船 した人の話を
するため、わたしたちはぜひ入り用なときだけ明かりを
くうふく
いしき
へん
した。ある話では、なにも食べ物のないはなれ島に 漂着 つけることにしていたのである。
ぞこ
した船乗りが、船のボーイを食べてしまったこともある。
明かりを見ると、はたしてかれらはやっと 意識 をとり
なかま
けんやく
わたしは 仲間 がこんなにひどい 空腹 に責 められているの
もどしたらしかった。わたしはかれらのために水を取り
なんせん
を見て、そういう運命がわたしの上にも向いて来やしな
79
たちはおたがいにとんきょうなふうでおしゃべりをし 続 く乱 れていた。いく時間も、あるいはいく日も、わたし
た。わたし自身も心持ちがなんだかぼんやりとりとめな
しばらくしてかれらはまたみょうなふうに話をしだし
に行った。もういつかしら水はずんずん引いていた。
﹁まあおまえの考えどおりやってごらん﹂とかれは言っ
﹁先生﹂はしばらく考えて、わたしの手を取った。
ルおじさんがさけんだ。
﹁行っといで、ルミ。おれの時計をやるぞ﹂とガスパー
くことを止めた。けれどわたしは言い 張 った。
いいか聞くことができると 告 げた。
﹁先生﹂はわたしの行
つ
けていた。そののちしばらくするとわたしたちは落ち着
た。
﹁おまえは勇
気 がある。わたしはおまえができそうも
あんがいせいこう
は
いた。で、ベルグヌー は、いよいよ死ぬなら、そのまえ
ないことをやりかけているとは思うが、そのできそうも
みだ
にわれわれは書
置 きを残 して行こうと言った。
ないことが 案外 成
功 することは、これまでもないことで
しょめい
つづ
わたしたちはまたランプをつけた。ベルグヌーがみん
はなかったのだから。ささ、おれたちにキッスをおし﹂
だいひつ
ゆうき
なのために代
筆 した。そしててんでんがその紙に 署名 を
わたしは﹁先生﹂とガスパールおじさんにキッスをし
のこ
した。 わたしは犬とハープをマチアにやることにした。
た。それから着物をぬぎ 捨 てて、水の中にとびこんだ。
かきお
アルキシーにはリーズの所へ行って、わたしの代わりに
とびこむまえにわたしは言った。
きぼう
す
かの女にキッスをしてチョッキのかくしにはいっている
﹁みんなでしじゅう声を立てていてください。その声で
ひ
からびたばらの花を送ってもらいたいという 干 希望 を書
ぎもん
は たら
見当をつけるから﹂
こうどう
いた。ああ、なつかしいリーズ⋮⋮。
坑道 の屋根の下の空き地が、自由にからだの 働 けるだ
なかま
しばらくしてわたしはまた土手をすべり下りた。する
へ
け広かろうかとわたしはあやぶんでいた。これは 疑問 で
いちじる
だん
と水が 著 しく 減 っているのを見た。わたしは急いで 仲間 あった。少し泳いでみて、そっと行けば行かれることが
こうどう
の所へかけもどって、もうはしご 段 の所まで泳いで行け
わかった。ほうぼうの 坑道 の出会う場所のそう遠くない
きゅうじょ
ること、それから 救助 に来た人たちにどの方角ににげて
80
を下へやって、鉄のレールにさわりながら、またそっと
はしご段を見つけることができた。しじゅうわたしは足
かな道しるべがあった。これについて行けば、たしかに
べにはならなかった。地べたにはレールというもっと 確 ってしまう 迷 危険 があった。坑道の屋根やかべは道しる
ければならなかった。一度道をまちがえると、それなり
ことを、わたしは知っていた。けれどわたしは用心しな
た。
な水の中で、どちらへどう向いていいか、わたしは 迷 っ
いが、わたしには聞こえなかった。この 冷 たい、まっ暗
なったのはどうしたのだろう。呼んでいるのかもしれな
たしは後もどりしたにちがいない。でもみんな 呼 ばなく
わたしはちがった 層 にはいったのだ。知らないうちわ
り 成功 しなかった。レールはなかった。
わたしは深い息を 吸 いこんで、またとびこんだが、やは
す
上へうき上がった。後ろには 仲間 の声が聞こえるし、足
するととつぜんまた声が聞こえた。わたしはやっとど
せいこう
の下にはレールがあるので、わたしは道を迷わなかった。
ちらの道を曲がっていいかわかった。後へ十二ほどぬき
そう
後ろの声がだんだん遠くなると、上のポンプの音が高く
手を切って、わたしは右のほうへ曲がった。それから左
きけん
なった。わたしはぐんぐん進んで行った。ありがたい、も
へ曲がったが、かべだけしか見つからなかった。レール
まよ
うまもなく日の光が見えるのだ。
はどこだろう。わたしが正しい 層 へ出ていることは 確 か
こうどう
よ
坑
道 のまん中をまっすぐに行きながら、わたしはレー
であった。
たし
ルにさわるために、右のほうへ曲がらなければならなかっ
そのときふとわたしは、レールが 津波 のために持って
つめ
た。すこし行ってから、また水をくぐって、レールにさ
行かれたことを確かめた。わたしはもう道しるべがなく
たし
まよ
わりに行った。そこにはレールがなかった。坑道の右左
なった。そういうわけでは、わたしのくわだてをとげる
なかま
と行ったが、やはりレールはなかった⋮⋮。
わけにはゆかない。
そう
わたしは道をまちがえたのだ。
わたしはいやでも引っ返さなければならなかった。
なかま
つなみ
仲間 の声はかすかなつぶやきのように聞こえていた。
81
坑 の入口に着いた。わたしはすぐ声をかけた。
竪
して、力がはいっているように思われた。わたしはすぐ
だんだん近づくと、 仲間 の声が 先 よりもずっとしっかり
わたしは急いで声をあてに避
難所 のほうへ泳ぎ帰った。
ら、石炭がらの中に横になっていたが、寒くはなかった。
わたしたちはいくじがなくなった。わたしはふるえなが
いた。ふしぎにだんだん救 い出される時間が近づくほど、
るはしの音はやまなかったし、ポンプはしじゅう動いて
てから 幽閉 の最
後 の時間がこのうえなく苦しかった。つ
さいご
﹁帰っておいで、帰っておいで﹂と﹁先生﹂がさけんだ。
わたしたちは口をきくことができなかった。
ゆうへい
﹁道がわからなかった﹂とわたしはさけんだ。
とつぜん 坑道 の水の中に音がした。 頭をふり向けて、
ひ な ん じょ
﹁かまわないよ。もうトンネルができかけている。みん
わたしは大きな光がこちらにさすのを見た。 技師 はおお
せん
なこちらの声を聞いた。こちらでも向こうの声が聞こえ
ぜいの人の先に立っていた。かれはいちばん先に上がっ
なかま
る。じきに話ができるだろう﹂
て来た。かれはひと言も言わないうちにわたしをだいた。
はたら
つつ
し
きゅうじょいん
うしな
すく
わたしはすぐとおかに上がって耳を立てた。つるはし
もうわたしの正気は失 われかけていた。ちょうどきわど
たてこう
の音と、 救助 のために働 いている人たちの 呼 び声がかす
いところであった。けれどまだ運ばれて行くという 意識 こうふん
こうどう
かに、しかしひじょうにはっきりと聞こえて来た。この
だけはあった。わたしは 救助員 たちが水をくぐって出て
ぎ
と
ぎ し
ゆかいな 興奮 が過 ぎると、わたしはこごえていることを
行ったあとで、 毛布 に 包 まれた。わたしは目を閉 じた。
あたた
よ
感じた。わたしに着せる 暖 かい着物が別 にないので、み
また目を開くと昼の光であった。わたしたちは大空の
きゅうじょ
んなはわたしを石炭がらの中へ首までうずめた。そして
下に出たのだ。同時にだれかとびついて来た。それはカ
つ
いしき
ガスパールおじさんと﹁先生﹂がわたしを暖めるために、
ピであった。わたしが 技師 のうでにだかれていると、た
す
その上によけい高く 積 んだ。
だ一とびでかれはとびかかって来た。かれはわたしの顔
きゅうじょ
もうふ
もうまもなく 救助 の人たちがトンネルをぬけて、水に
を二度も三度もなめた。そのときわたしの手を取る者が
べつ
ついて来ることをわたしたちは知った。けれどもこうなっ
82
た。それはだまり返った 群集 であった。さけび声を立て
おおぜいの人がまっすぐに、二列になってならんでい
けた。それからそこらを見回した。
それはマチアであった。わたしはかれににっこりしか
﹁ルミ。おお、ルミ﹂
でつぶやくのを聞いた。
あった。わたしはキッスを感じた。それからかすかな声
るのであろうか、それを悲しく思っていたのであろう。
いたましい死がいになって、暗い水の中をただよってい
たのに、なぜかれらの父親やむすこが、まだ 鉱山 の中で
つけていた。かれらはこの親もない家もない子が 救 われ
顔をそむけて行く者もあった。そういう人たちは 喪服 を
みだをうかべながら、 わたしの手をにぎる者もあった。
を 連 れて、村の往
来 を歩いていた。そばへ来て、目にな
二日ののち、わたしはマチアと、アルキシーと、カピ
すく
す
けいけん
おうらい
て、わたしたちを 興奮 させてはならないと言つけられた
つ
ので、かれらはだまっていたが、この顔つきはくちびるの
こう
ぎ
あや
すく
こうざん
なかま
ほね
しょうたい
お
もふく
代わりにものを言っていた。いちばん前の列に、なんだ
音楽の先生
きんらん
きゅうじょ
ぐんしゅう
か白い 法衣 と 錦襴 のかざりが日にかがやいているのをわ
こうふん
たしは見た。これはぼうさんたちで、 鉱山 の口へ来て、わ
坑 の中にいるあいだに、 わたしはお友だちができた。
ころも
たしたちの 救助 のためにおいのりをしてくれたのであっ
あのおそろしい 経験 をおたがいにし合った仲
間 が一つに
こうざん
た。わたしたちが運び出されると、かれらは 砂 の中にひ
ばれた。ガスパールおじさんと﹁先生﹂は、とりわけ
結 すな
ざまでうずめてすわっていた。
たいそうわたしが 好 きになった。
ぎ し
つ
むす
二十本のうでがわたしを受け取ろうとしてさし 延 べら
技師 も 災難 をともにはしなかったが、自分が 骨 を 折 っ
じ む しょ
の
れた。けれど 技師 はわたしを放さなかった。かれはわた
て 危 ういところを救 い出した子どもということで、わた
さいなん
しを 事務所 へ 連 れて行った。そこにはわたしたちをむか
しに親しんだ。かれはわたしをそのうちへ 招待 した。わ
ねだい
し
える寝
台 ができていた。
83
たしはかれのむすめに 坑 の中で起こったことを 残 らず話
めているあいだ、マチアはひどくぼんやりして考えこ
勧 みんながわたしをヴァルセに止めたがって、いろいろ
のこ
してやらなければならなかった。
むようになった。そのわけをたずねると、かれはいつも、
こう
だれもわたしをヴァルセへ引き止めたがった。 技師 は、
なになんでもないと打ち消していた。
すす
わたしが 望 むなら、 事務所 で仕事を見つけてやると言っ
いよいよ三日のうちにここを立つことをわたしがかれ
し
た。ガスパールおじさんも 鉱山 でしじゅうの仕事をこし
に話したとき、かれは 初 めてこのごろふさいでいたわけ
こう
こうざん
ぎ
らえようと言った。かれはわたしが 坑 へ帰ることがごく
を語った。
じ む しょ
然 なように思っているらしかった。かれ自身はもうま
自
﹁ああ、ぼくはきみがここにこのまま 残 って、ぼくを 捨 まいにち き け ん
のぞ
もなく、 毎日 危
険 をおかすことに 慣 れた人の見せるよう
てるだろうと思ったから﹂とかれは言った。
こうざん
なむとんちゃくさで、また 坑 へはいって行った。でもわ
わたしはかれをちょいと打った。それはわたしを 疑 わ
はじ
たしはもうそこへ帰って行く気はしなかった。 鉱山 はひ
ないように、 訓戒 してやるためであった。
こう
じょうにおもしろかった。それを見たということはたい
マチアはいまではもう自分で自分の身を立てることが
しぜん
へんゆかいであったけれど、そこへ帰って行こうとはゆ
できるようになっていた。わたしが 鉱山 にはいっていた
こうざん
とくい
す
めにも思わなかった。
あいだ、かれは十八フランもうけた。かれはこのたいそ
のこ
めうし
のこ
それよりもわたしはいつも頭の上に大空を、それは雪
うな金をわたしにわたすとき、ひどく 得意 であった。な
しょう
な
をいっぱい持った大空でも、いただいていたかった。野
ぜならわたしたちがまえから持っている百二十八フラン
れい
うたが
外の生活がわたしにはずっと 性 に合っていた。そう言っ
に 加 えれば、 残 らずで百四十六フランになるからであっ
くんかい
てわたしはかれらに話した。だれもおどろいていた。と
た。 例 の﹁王子さまの 雌牛 ﹂はもう四フランあれば買え
くわ
りわけ﹁先生﹂がおどろいていた。カロリーはとちゅう
るのであった。
よ
で出会うと、わたしを﹁やあ、ひよっこ﹂と 呼 んだ。
84
せなか
むす
はじ
にかく、音楽となると、 初 めからかれはびっくりするよ
にもつ
前へ進め、子どもたち。
しつもん
はくじょう
うな進歩をした。おしまいにはもうわたしの手におえな
よろこ
ころ
荷
物 を背
中 へ結 びつけてわたしたちは出発した。カピ
いことを 白状 しなければならなくなったほど、かれはむ
すな
が喜 んで、ほえて、砂 の中を転 げていた。
ずかしい 質問 を出して、わたしを当
惑 させた。でもこの
めうし
せいと
とうわく
マチアは、 雌牛 を買うまでにもう少しお 金 をこしらえ
白状はわたしをひどくしょげさした。わたしはひじょう
かね
ようと言った。金が多いだけいい雌牛が買えるし、雌牛
に 高慢 な先生であった。だから 生徒 の質問に答えること
ようしゃ
こうまん
がよければ、よけいバルブレンのおっかあがうれしがる
ができないのが 情 けなかった。しかもかれはけっしてわ
かぎょう
なさ
であろう。
がくてん
つづ
たしを 容赦 しはしなかった。
しょほ
さず
パリからヴァルセに来るとちゅう、わたしはマチアに
﹁ぼくはほんとうの先生に教わろう﹂ とかれは言った。
のこ
読書と、 初歩 の楽
典 を 授 け始めた。この 課業 を今度も続 ﹁そうしてぼく、質問を残 らず聞いて来よう﹂
こうざん
けてした。わたしもむろんいい先生ではなかったし、マ
﹁なぜ、きみはぼくが 鉱山 にいるうち、ほんとうの先生
ればならなかったから﹂
せいと
チアもあまりいい 生徒 であるはずがなかった。この課業
から教えてもらわなかった﹂
た。
わたしはマチアが、 そんなふうに ﹁ほんとうの先生﹂
せいこう
は成
功 ではなかった。たびたびわたしはおこって、ばた
﹁でもぼくはその先生に、きみの金からお礼を出さなけ
﹁それはほんとうだよ﹂とかれはにこにこしながら言っ
などと言うのがしゃくにさわっていた。けれどわたしの
と
んと本を 閉 じながら、かれに、
﹁おまえはばかだ﹂と言っ
た。
﹁ぼくの頭はぶつとやわらかいそうだ。ガロフォリが
ばかな 虚栄心 はかれのいまのことばを聞くと、すうとけ
きょえいしん
それを見つけたよ﹂
むりのように消えて行かなければならなかった。
つづ
こう言われると、どうおこっていられよう。わたしは
かぎょう
﹁きみは人がいいなあ﹂とわたしは言った。
﹁ぼくの金は
わら
いだしてまた 笑 課業 を 続 けた。けれどもほかのことはと
85
わたしたちがマンデに着いたのは、 もう夜であった。
このつぎの大きな町は、マンデであることがわかった。
いるようなりっぱな芸
術家 であった。地図を開けてみて、
生﹂は、いなかにはいなかった。それは大きな町にだけ
さてその先生は、われわれの 要求 する﹁ほんとうの先
うから﹂
きなだけけいこを受けるがいい。ぼくもいっしょに習
好 ほうがたいていぼくよりもよけいもうけている。きみは
きみの金だ。やはりきみがもうけてくれたのだ。きみの
﹁それはお金さえ持って行けば、だれにでもお会いにな
﹁あしたの朝、先生が会ってくださるでしょうか﹂
くってどうしましょう﹂
﹁ええ、ええ、おいそがしいですとも。おいそがしくな
どめんどうくさがってしてくれまいと気づかった。
ようなちっぽけなこぞう二人に、たった一度のけいこな
はたずねた。そういう名高い音楽家では、わたしたちの
﹁その先生はたいへんおいそがしいんですか﹂とわたし
を聞かなかったかもしれないと言った。
どそんな遠方から来たのでは、エピナッソー先生のこと
す
つかれきっていたので、その 晩 はけいこには行かれない
りますよ⋮⋮むろん﹂
やどや
ばん
ようきゅう
と決めた。わたしたちは 宿屋 のおかみさんに、この町に
わたしたちはもちろん、それはわかっていた。
げいじゅつか
いい音楽の先生はいないかと聞いた。かの女はわたした
その 晩 ねに行くまえ、わたしたちはあしたこの有名な
もと
ばん
ちがこんな質
問 を出したので、ずいぶんびっくりしたと
先生にたずねようと思っている 質問 の 箇条 を 相談 した。
しつもん
言った。わたしたちはエピナッソー 氏 を知っているべき
マチアは 求 めていた﹁ほんとうの音楽の先生﹂を見つけ
そうだん
はずであった。
たので、うれしがってこおどりしていた。
がっき
かじょう
﹁ぼくたちは遠方から来たのです﹂とわたしは言った。
つぎの朝、 わたしたちは︱︱︱マチアはヴァイオリン、
しつもん
﹁ではずいぶん遠方から来たんですね、きっと﹂
わたしはハープと、てんでんの 楽器 を持って、エピナッ
し
﹁イタリアから﹂とマチアが答えた。
ソー先生を 訪 ねて行くことにした。わたしたちはそうい
たず
そう聞くと、かの女はもうおどろかなかった。なるは
86
う有名な人を 訪 ねるのに犬を 連 れて行く 法 はないと思っ
た。
﹁エピナッソーさんはこちらですか﹂とマチアがたずね
ほう
たから、カピは 置 いて行くことにして、 宿屋 の馬小屋に
小鳥のように、ちょこちょこした、気の 利 いた小男が、
つ
つないでおいた。
一人の男の顔をそっていたが、
﹁わたしがエピナッソーだ
たず
さて宿屋のおかみさんが、先生の住まいだと教えてく
よ﹂と答えた。
やどや
れたうちの前へ来たとき、わたしたちは、おやこれはま
わたしはマチアに目配せをして、 床屋 さんの音楽家な
お
ちがったと思った。なぜなら、そのうちの前には小さな
んか、こちらの求 めている人ではない。こんな人に 相談 き
ちゅうの看
真 板 が二枚 ぶら下がっていて、それがどうし
をしても、せっかくの金がむだになるだけだという意味
とこや
たって音楽の先生の看板ではなかった。そのうちはどう
を飲みこませようとしたが、かれは知らん顔をして、もっ
そうだん
見ても 床屋 の店のていさいであった。わたしたちは通り
たいぶった様子で一つのいすにこしをかけた。
もと
かかった一人の人に向かって、エピナッソー先生のうち
﹁そのかたがそれたら、ぼくの髪 をかってもらえますか﹂
とこや
まい
を教えてくださいとたのんだ。
とかれはたずねた。
かんばん
﹁それそこだよ﹂とその男は言って、床屋の店を指さし
﹁ああ、よろしいとも。なんなら、顔もそってあげましょ
しん
た。
う﹂
とこや
だがつまり先生が床
屋 と 同居 していないはずもなかっ
﹁ありがとう﹂とマチアが答えた。わたしはかれのあつ
かみ
た。わたしたちは中へはいった。店ははっきり二つに仕切
かましいのに、どぎもをぬかれた。かれは目のおくから
、
、
どうきょ
られていた。右のほうには は けだの、 く しだの、クリー
わたしをのぞいて、
﹁そんな 困 った顔をしないで見ておい
りはつよう
こま
ムのつぼだの、 理髪用 のいすだのが 置 いてあった。左の
で﹂という様子をした。
お
ほうのかべやたなにはヴァイオリンだの、 コルネだの、
そのお客がすんでしまうと、エピナッソー 氏 は、タオ
がっき
し
トロンボンだの、いろいろの 楽器 がかけてあった。
、
、
87
は一曲ひいた。
かみ
ま
ルをうでにかけて、マチアの 髪 をかる用意をした。
﹁いやあ、それでもきみは、音楽の調子がわからないと
ぬの
﹁ねえ、あなた﹂と、 床屋 さんがかれの首に 布 を巻 きつ
言うのかい﹂と 床屋 さんは手をたたきながら言った。そ
とこや
けるあいだにマチアが言った。
﹁音楽のことで友だちとぼ
してむかしから知り合って 愛 している子どもに対するよ
とこや
くにわからないことがあるんです。なんでもあなたは名
うになつかしそうな目で、マチアを見た。
そうろん
あい
高い音楽家だと聞いていましたから、二人の 争論 をあな
﹁これはふしぎだ﹂
はんだん
たにうかがったら、なんとか 判断 していただけるかと思
マチアは 楽器 の中からクラリネットを 選 んで、それを
えら
うのです﹂
ふいた。それからコルネをふいた。
とこや
がっき
﹁なんですね、それは﹂
﹁いやあ、この子は 神童 だ﹂とエピナッソー 氏 はおどり
しつもん
し
そこでわたしはマチアの考えていることがわかった。
上がって喜 んだ。
﹁おまえさん、わたしの所にいれば、大
ため
しんどう
まず先に、かれはわたしたちの 質問 にこの 床屋 さんの音
音楽家にしてあげるよ。朝はお客の顔をそるけいこをす
から、音楽がわからないと思ってはいけない。だれだっ
よろこ
楽家が答えることができるか 試 そうとした。いよいよで
る。あとは一日音楽をやることにする。わたしが 床屋 だ
くつもりであった。
て毎日のくらしは立てなければならない﹂
こうぎ
マチアは髪 をかってもらっているあいだ、いろいろ質
わたしはマチアの顔を見た。なんとかれは答えるであ
さんぱつ
問を発した。床屋さんの音楽家はひどくおもしろがって、
ろう。わたしは友だちをなくさなければならないか。わ
とこや
きるようだったら、かれは 散髪 の代で、音楽の 講義 を聞
かれに向けられるいちいちの質問を、ずんずんゆかいそ
たしの仲
間 を、わたしの兄弟を 失 わなければならないか。
かみ
うに答えた。
﹁マチア、よくきみのためを考えたまえよ﹂とわたしは
うしな
わたしたちが出かけようとしたとき、かれはマチアに、
言ったが、声はふるえていた。
なかま
ヴァイオリンで、なにかひいてごらんと言った。マチア
88
しは知らないけれど、このエピナッソー 氏 がたった一人
し
﹁なに、友だちを 捨 てる﹂と、かれは自分のうでをわた
知っている人で、しかも一生 忘 れることのできない人で
す
しのうでにかけながらさけんだ。﹁そんなことができる
あった。
わす
ものか。でも先生、やはりあなたのご親切はありがたく
すす
し
思っていますよ﹂
ほうほう
めうし
エピナッソー 氏 はそれでもまだ 勧 めていた。そしてい
王子さまの 雌牛 たし
まにかれをパリの音楽学校へ出す 方法 を立てる、そうす
あい
ればかれは確 かにりっぱな音楽家になると言った。
わたしはマンデに着くまえにもむろんマチアを 愛 して
いたけれど、その町を去るときにはもっともっとかれを
す
﹁なに、友だちを 捨 てる、それはどうしたってできませ
ん﹂
愛していた。わたしは 床屋 さんの前でかれが﹁なに、友
とこや
﹁そう、それでは﹂と床
屋 さんは残
念 そうに答えた。
﹁わ
だちを 捨 てる﹂ とさけんだとき、 どんな感じがしたか、
ざんねん
たしが一 冊 本をあげよう。わからないことはそれで知る
ことばで語ることはできなかった。
とこや
ことができる﹂ こう言ってかれは一つの引き出しから、
わたしはかれの手をとって強くにぎりしめた。
りろん
す
音楽の 理論 を書いた本を出した。その本は古ぼけて 破 れ
﹁マチア、もう死ぬまではなれないよ﹂とわたしは言っ
さつ
ていた。けれどそんなことはかまうことではない。ペン
た。
しる
やぶ
を取ってこしをかけて、かれはその第一ページにこう 記 ﹁ぼくはとうからそれはわかっていた﹂とかれはあの大
かちくいち
わら
した。
きな黒い目で、わたしににこにこ笑 いかけながら答えた。
きおく
﹁かれが有名になったとき、なおマンデの 床屋 を 記憶 す
なんでもユッセルでさかんな 家畜市 があるということ
とこや
るであろうその子におくる﹂
を聞いたので、わたしたちはそこへ行って、雌
牛 を買うこ
めうし
マンデにはほかにも音楽の先生があるかどうか、わた
89
ていた。わたしたちはこれだけの金をためるには、それ
セルに着いたじぶんには、二百四十フランも金が集まっ
したちは道みち通る町ごとに村ごとに音楽をやって、ユッ
とに決めた。それはシャヴァノンへ行く道であった。わた
マチアはにせもののしっぽだけならなにも心配するこ
かけることができた。
とした手品で、 雌牛 はさもたくさん乳を出しそうに見せ
か 採 れなかったという話もある。ばくろうのやるちょい
な 雌牛 を買ったが、二十四時間にコップに二はいの 乳 し
ちち
こそできるだけの 倹約 をしなければならなかった。でも
とはないと言った。なぜなら売り手といよいよ 相談 を始
めうし
マチアはわたし同様 雌牛 を買うことに 熱心 であった。か
めるまえに、ありったけの力で 雌牛 のしっぽに一つずつ
めうし
と
れは白い牛を買いたがった。わたしはあのルセットのお
ぶら下がってみればわかるのだからと言った。でもそれ
ちち
めうし
形見に、茶色の牛をと思っていた。わたしたちはしかし、
がほんとうのしっぽであったら、きっとおなかか頭をう
けんやく
どちらにしても、ごくおとなしくって、 乳 をたくさん出
んとひどくけとばされるだろうと言うと、かれの 空想 は
めうし
じゅうい
くうそう
そうだん
す牛を買うことに意見が 一致 した。
すこしよろめいた。
じゅうい
もくひょう
ねっしん
わたしたちは二人とも、なにを 目標 に 雌牛 のよしあし
ユッセルに着いたのは五、六年ぶりであった。あれは
さ
めうし
を見分けるか知らなかったから、 獣医 の世話になること
ヴィタリス親方といっしょで、ここで 初 めてくぎで止め
きけん
いっち
にした。わたしたちはよく牛を買うときに 詐欺 に会う話
たくつを買ってくれたのであった。ああ、そのときここ
あず
はじ
を聞いていた。 そういう 危険 をおかしたくはなかった。
から出かけた六人のうち、 残 っているのは、たったカピ
つい
ぎ
獣医をたのむことはよけいな 費 えではあろうけれど、ど
とわたしだけであった。
のこ
うもほかにしかたがなかった。ある人は、ごく安い 値段 わたしたちは町に着いて、あのときヴィタリスや犬と
ねだん
で一ぴき買って帰ってみると、しっぽがにせものであっ
とまったことのある 宿屋 に荷物を預 けて、すぐ獣
医 を 探 さが
たことがわかったという話も聞いた。またある人はごく
し始めた。やがて一人見つけたが、その人は、わたした
ちち
やどや
じょうぶそうな、どこからみてもたくさん 乳 を出しそう
90
﹁でもぜんたいおまえたち子ども二人で、 雌牛 をなんに
いことに思ったらしかった。
て買ってくれるようにと言うと、それをひどくおもしろ
ちが 欲 しいという 雌牛 の様子を話して、いっしょに行っ
こうと思ったからである。
時には市場に着いた。 獣医 が来るまえに、 選 り取ってお
わたしたちはいきなり頭から着物をひっかぶって、六
けたり、てんでんにじょうだんを言い合ったりしていた。
牛 はうなるし、ひつじは鳴く。 雌
百姓 は家
畜 にどなりつ
かちく
するのだね。お金は持っているのかい﹂とかれはたずね
なんという美しい 雌牛 であろう⋮⋮いろんな色、いろ
ひゃくしょう
た。
んな形をしていた。太ったのもあれば、やせたのもあり、
めうし
わたしたちはそこで、 どのくらい金を持っているか、
子牛を 連 れたのもあった。馬もいたし、大きな太ったぶ
めうし
それをどうしてもうけたかということ、それからわたし
たは地べたに 穴 をほっていた。小さなぽちゃぽちゃした
ほ
が子どものとき世話になったシャヴァノン村のバルブレ
赤んぼうのぶたは、いまにも生きながら皮をはがれでも
めうし
めうし
けんさ
よ
ンのおっかあにおくり物をしておどろかせるつもりだと
するようにぶうぶう鳴いていた。
じゅうい
いうことを話した。かれはするとひじょうに親切らしい
でもわたしたちは雌
牛 よりほかには目にははいらなかっ
めうし
心 を顔に見せて、あした七時に市場へ行って会おうと
熱
た。それはみんな落ち着いて、おとなしく草を食べてい
つ
やくそくした。それでお礼はと言って聞くと、かれはま
た。かれらはまぶたをばちばち動かすだけで、わたした
あな
るっきりそんな物を受け取ることをこばんだ。そして笑
ちがしつっこく 検査 するままに任 せていた。一時間もか
ねっしん
いながらわたしたちを送り出して、その時間にはきっと
かって調べたのち、わたしたちは十七頭気にいったのを
まか
市場へ行くようにと言った。
見つけた。その一つ一つにちがった 特質 があった。色の
ぎろん
とくしつ
そのあくる日夜明けから町はごたごたにぎわっていた。
赤いのもあったし、白いのもあった。もちろんそんなこ
や
わたしたちのとまっている 部屋 から、馬車や荷車が下の
とがいちいちマチアとわたしとの間に 議論 をひき起こし
おうらい
へ
来 のごろごろした石の上をきしって行くのが聞こえた。
往
91
じゅうい
す
めうし
わたしたちのくちびるは下に下がった。ああ三百フラ
うつ
た。やがて獣
医 がやって来た。わたしたちは 好 きな雌
牛 ン。わたしは獣
医 に向かって、ほかの牛に移 らなければと
じゅうい
をかれに見せた。
いう手まねをした。かれはまたかけ合ってみせるという
ひひょうてき
ひゃくしょう
﹁ぼくはこれがいいと思います﹂とマチアは白い雌牛を
合図をした。そのときはげしい 談判 が獣医と百
姓 の間に
ちちくび
だんぱん
指さしながら言った。
はいぞう
とど
つの
ねだん
始まった。わたしたちのかけ合い人は百七十フランまで
ね ぎ
﹁ぼくはあのほうがいいと思います﹂とわたしは赤い雌
切 った。百姓は二百八十フランまでまけた。この 値
値段 ひゃくしょう
めうし
牛を指さして言った。
まで下げてくると、獣医は 雌牛 をもっと批
評的 に調べ始
す
獣医 はしかしその両方の前を知らん顔で通り 過 ぎて、
めた。この雌牛は足が弱かったし、首が短すぎたし、 角 が
じゅうい
わたしたちのやりかけた 争論 を中止させた。そして第三
長すぎた。 肺臓 が小さくって、 乳首 の形が悪かった。ど
めうし
どう
そうろう
の 雌牛 に向かった。 この牛はほっそりしたすねをして、
うしてこれではたんと乳は出まい。
めうし
赤い 胴 に茶色の耳とほおをして、目は黒くふちをとって、
百姓 はわたしたちが 雌牛 のことをそんなにくわしく批
わ
口の回りに白い 輪 がはいっていた。
評するので、きっと世話もよく行き 届 くだろうから、二
じゅうい
百五十フランにまけてあげようと言った。
のぞ
﹁これがおまえさんたちのお 望 みの牛だ﹂と 獣医 が言っ
た。
そうなるとわたしたちは心配になり始めた。マチアも
じゅうい
まったくこれはすばらしかった。マチアとわたしは、今
じゅうい
わたしも、ではろくでもない牛にちがいないと思った。
めうし
度こそなるほどこれがいちばんいいと思った。 獣医 はそ
﹁もっとほかのを見ましょう﹂とわたしは獣
医 の手をおさ
ひゃくしょう
の雌
牛 のはづな︵口につけて引くつな︶をおさえていた
えて言った。それを聞くと、百
姓 は十フランまけた。それ
ねだん
からだんだんにせり下げて、二百十フランまできて、そ
ひゃくしょう
にぶい顔の百
姓 に、その雌牛の 値段 はいくらかとたずね
た。
こで止まった。獣医はわたしのひじをついて、いま 雌牛 めうし
﹁三百フラン﹂とその男は答えた。
れどわたしたちは牛に食べ物を買ってやるにも、自分が
じゅうい
の悪口を言ったのは、本気ではない。ほんとうはすばら
食べるにも、一スーの金ももう 残 らなかった。獣
医 には
のこ
しい牛だという意をさとらせた。でも二百十フランはわ
ていねいに世話になった礼を言って、手をにぎってさよ
めうし
たしたちにとってはたいした金であった。
うならを言った。そして 宿屋 に帰ると、雌
牛 をうまやに
やどや
そのあいだにマチアは 雌牛 の後ろへ行って、そのしっ
つないだ。
めうし
ぽから一本長い毛を引きぬいた。 すると牛はおこって、
きょうは町に市場があるので、ひどくにぎわって、ほ
かいけつ
かれをけりつけた。これでわたしの考えが決まった。
うぼうから人が集まってもいたから、マチアとわたしは
じけん
﹁二百十フランで買おう﹂わたしは事
件 が解
決 したと思っ
べつに出かけて、いくらお金ができるか、やってみる
別 べつ
て、そう言いながら牛のはづなを取ろうとした。
ことに 相談 を決めた。
ひゃくしょう
その夕方、マチアは四フラン。わたしは三フランと五
そうだん
﹁おまえさん、 つなを持って来たか﹂ と 百姓 は言った。
﹁わしは牛は売るがはづなは売らないぞ﹂ こう言ってか
十サンチーム持って帰った。七フラン五十サンチームの
とくべつ
れは、せっかくおなじみになったのだから、 特別 ではづ
お金で、わたしたちはまたお金持ちになった。女中にた
ぎゅうにゅう
なを六十スーで売ってやると言った。はづなは入り用で
のんで 雌牛 の乳 をしぼってもらったので、夕食には 牛乳 ちち
あったから、もうあとそれでわたしのふところには二十
があった。これほどうまいごちそうを、わたしたちは味
めうし
スーしか 残 らないと思いながら、六十スー出した。それ
わったことはなかった。わたしたちは 乳 のいいのにめちゃ
ひゃくしょう
たからもの
くうまやへ出かけて、わたしたちの 宝物 をだいてやりに
やさ
﹁わしははづなは売っても、なわは売らないぞ﹂
行った。 雌牛 はいかにも優 しくしてもらったのがうれし
めうし
それで 最後 の二十スーも消えてしまった。
いらしく、その返礼にわたしたちの顔をなめた。
めうし
さいご
これで 雌牛 はとうとうわたしたちの手にわたった。け
のこ
で二百十三フランを数えて、それから手を出そうとした。
めちゃにのぼせ上がってしまって、食事がすむとさっそ
ちち
﹁おまえさん、 なわを持っているか﹂ と 百姓 は言った。
92
93
れて感じるゆかいさを人一 倍 感じるわけがあった。それ
わたしたちは 雌牛 をキッスしたり、雌牛からキッスさ
起こった。
く行く計画にした。ところがそのうちにこういうことが
ヴァノンに着くことはよして、それよりもあしたの朝早
めうし
にはマチアもわたしも、これまでけっして人からちやほ
わたしはその晩 、むかし 初 めてヴィタリス親方ととまっ
ばい
やされすぎたことがなかったということを 記憶 してもら
て、カピが悲しそうなわたしを見てそばへ来てねてくれ
はじ
わなければならない。わたしたちの生まれ合わせは、ほ
た、あの村にとまることにした。
ばん
かのあまやかされて 育 った子どもたちが、あんまり多い
この村にはいるまえにわたしたちはきれいな青い草の
きおく
キッスにへいこうしてそれをさけなければならないのと
生えた所に来た。荷物をほうり出してわたしたちはそこ
そだ
は、大ちがいであった。
で休むことにした。わたしたちは 雌牛 をみぞの中に放し
めうし
そのあくる朝、わたしたちは太陽といっしょに起きて、
てやった。 初 めはなわで引いていようと思ったが、この
はじ
シャヴァノン村に向かって出発した。わたしはマチアが
雌牛はたいへんすなおで、草を食べることによく 慣 れて
めうし
な
あたえてくれた助力に、どれほど感
謝 していたであろう。
いるようであったので、わたしはしばらくつなを牛の角
かんしゃ
かれなしには、わたしはけっしてこんな大金をためるこ
に 巻 きつけて、そのそばにこしをかけて 晩飯 を食べ始め
めうし
へ
ばんめし
とはできなかった。わたしはかれに 雌牛 を引いて行く楽
た。もちろんわたしたちは雌牛よりずっとまえに食べて
ま
しみをあたえようと思った。そこでかれはたいへん 得意 しまった。そこでさんざん雌牛を感心してながめたあと
う
とくい
らしく雌牛のつなを引いて行くと、わたしはあとからつ
で、これからなにをしようというあてもないので、わた
ね
いて行った。かの女はひじょうにりっぱに見えた。それは
したちはしばらく遊んでいた。それがすんでも牛はまだ
おおよう
様 にすこしゆれながら、自分で自分の 大
値打 ちを知って
食べていた。わたしがそばへ行くと、 雌牛 は草の中に 固 かた
いるけものらしく歩いていた。わたしは雌牛をくたびれ
く首をつっこんでいて、まだ 腹 が減 っているというよう
ばん
はら
させないようにしたいと思ったので、その 晩 おそくシャ
94
﹁すこし待ってやりたまえ﹂とマチアが言った。
であった。
を見ることができた。おおぜいの人が通り道をふさい
姿 けもどった。道はまっすぐであったから、遠方でもその
牛はとうとうわたしたちが通って来た 最後 の村までか
さいご
﹁だってきみ、雌牛は一日だって食べているんだぜ﹂と
でつかまえようとしているのも見えた。わたしたちは牛
みうしな
すがた
わたしは答えた。
を 見失 う気づかいはないと思ったので、すこし 速力 をゆ
めてくれた人たちから、それを受け取ることであろう。
そくりょく
﹁まあ、しばらく待ってやりたまえ﹂
るめた。こうなるとしなければならないことは、牛を止
やめなかった。
わたしたちがそこへ着いたとき、おおぜいの人間がも
がっき
﹁ぼくは牛のためにコルネをふいてやる﹂と、じっとし
う集まっていた。そしてわたしたとが考えていたように、
はいのう
わたしたちはもう 背嚢 と 楽器 をしょったが、まだ牛は
ていられないマチアが言った。
﹁ガッソーの曲馬には、音
すぐに牛をわたしてはくれないで、どうして牛を手に入
めうし
楽の好 きな雌
牛 がいたよ﹂
れたか、どこから牛をとって来たかをたずねた。
す
かれはゆかいなマーチをふき始めた。
かれらはわたしたちが牛をぬすんだこと、そして牛は
はじ
初 めの音で、雌牛は頭を上げた。するととつぜんわた
持ち主の所へかけて帰ろうとしたのだということを 主張 しゅちょう
しがかれの角にとびかかってつなをおさえるまもないう
じゅんさ
せんこく
いた。かれらはほんとうのことがわかるまで、わたした
ろうや
ちに、かの女はとっとっとかけ出した。わたしたちはいっ
ちは 牢屋 へ行かなければならないと 宣告 した。牢屋と言
よ
しょうけんめい、止まれ、止まれと 呼 びながら、あとか
われたばかりで、わたしは青くなって、どもり始めた。お
うしか
ら追っかけた。わたしはカピに牛を止めるように声をか
まけにさんざんかけて息が切れていたので、ひと言もも
ばんのう
けた。だがだれでも万
能 ということはできない。牛
飼 い、
のが言えなかった。そこへちょうど 巡査 がやって来た。二
せつめい
馬飼いの犬なら鼻づらにとびついたであろうが、カピは
言三言で全体の 事件 が 説明 された。それを聞いてもいっ
じけん
牛の足にとびついた。
95
牛 を 雌
預 かること、それがわたしたちのものだというあ
こうはっきりしないことであったから、とにかくかれは
らその 晩 は閉 じこめられることになった。
されて、金もマッチもナイフも取り上げられた。それか
すみっこに 積 み重 ねた。わたしたちはからだじゅう捜
索 そうさく
かしの立つまで、わたしたちを 拘留 することに決めた。村
﹁ぼくをぶってくれたまえ﹂とわたしたちだけになると、
かさ
じゅうが行列を作って、わたしたちのあとに 続 いて、ちょ
マチアが 情 けなさそうに言いだした。
つ
うど 警察署 をかねていた町の役場までつながった。やじ
﹁ぼくの耳をぶつか、どうでも気のすむようにしてくれ
けいさつしょ
あず
うまがわたしたちをつついたり白い歯を見せたり、ありっ
たまえ﹂
めうし
たけひどい名前で 呼 んだりした。巡
査 が 保護 してくれな
﹁ぼくも 雌牛 のそばで、コルネをふかせるなんて、大き
だいざいにん
じゅんさ
ご
なさ
めうし
と
かったら、かれらはひどい 大罪人 でもあるように、わた
なばかだった﹂とわたしも答えた。
しけい
てんごく
ろう
ばん
したちを 私刑 に行なったかもしれなかった。
﹁ああ、 ぼくはそれをずいぶん悪いことに思っている﹂
あず
だ い り しっこ う か ん
こうりゅう
役場を 預 かって い る 人 で、 典獄 ︵刑 務 所 の 役 人︶ と
かれはおろおろ声で言った。
﹁かわいそうな雌牛、王子さ
つづ
理執行官 をかねていた人は、わたしたちを 代
牢 に入れる
まの雌牛﹂とかれは 泣 き始めた。
この
ほ
ことを 好 まなかった。わたしはなんという親切な人だろ
そのときわたしはかれに、これはそんなにむずかしい
よ
うと思ったけれど、 巡査 はあくまでわたしたちを 拘留 し
ことではないわけを話してなぐさめようとした。
ろう
じゅうい
な
なけばならないと言った。そこで典獄は二重になってい
﹁ぼくたちは雌
牛 を買ったあかしを 立 てればいいのだ。
てんごく
こうりゅう
るドアに、大きなかぎをつっこんで、わたしたちを 牢 に
ユッセルの獣
医 の所へ使いをやればいい⋮⋮あの人が 証人 じゅんさ
入れてしまった。中へはいってはじめて、なぜ 典獄 がわ
になってくれる﹂
ほ
た
たしたちを中へ入れることをおっくうがったかそのわけ
﹁でもそれを買った金までもぬすんだものだと言われた
めうし
がわかった。かれはねぎをこの中へ 干 しておいた。それ
ら﹂とかれは言った。
﹁わたしたちはそれをもうけた証
拠 お
しょうこ
しょうにん
がどのこしかけにも 置 いてあった。かれはそれをみんな
96
ざいにん
な
﹁まあ、みんなが牛は養っていてくれるだろうよ﹂
マチアががっかりして言った。
それにさしあたりだれか牛を養 ってくれるだろうかと、
これはまったくであった。
うだろう﹂
かあにおくるという考えでずいぶんうれしくなっていた。
なかったからさ。ぼくはきみの 雌牛 をバルブレンのおっ
﹁だってつごうのいいじぶんには、そんな考えは起こら
た。
﹁なぜきみはそれを先に言わなかった﹂とわたしは言っ
考えが、どうしてこれまで起こらなかったろう。
わたしはかの女までも 亡 くしたかもわからない、という
﹁あしたたずねられたら、なんと言うつもりだ﹂とマチ
あの人がどんなに 喜 ぶだろうと思うと、死んでいるかも
がない。運悪くゆくと、みんなはどこまでも 罪人 だと思
アが聞いた。
しれないなんていう考えはてんで起こらなかった﹂
やしな
﹁ほんとうのことを言うさ﹂
こう何事につけても悪いはうばかり見るのは、この暗
めうし
﹁そうなれば、あの人たちはきみをバルブレンの手にわ
い 部屋 のせいにちがいなかった。
よろこ
たすだろう。バルブレンのおっかあが一人きりだったら、
﹁それから﹂とマチアはとび上がって、両うでをふり上
へ や
あの人に向かってわたしたちの言うことがうそかどうか
おどろ
げながら言った。
﹁バルブレンのおっかあが死んで、あの
い
こわいバルブレンのほうが生きていて、そこへぼくたち
ふ
聞こうとする。そうなればもうあの人の 不意 を 驚 かすこ
とができなくなる﹂
が行ったら、きっと 雌牛 を取り上げて自分のものにして
めうし
﹁おやおや﹂
しまうだろう﹂
かぎ
わか
﹁きみはバルブレンのおっかあとは長いあいだ 別 れてい
午後おそくなって、ドアが開かれ、白いひげを生やし
あくとう
こうりゅうしょ
る。あの人がもう死んでしまって、いないとも限 らない﹂
た 老紳士 が拘
留所 にはいって来た。
ろうしんし
このおそろしい考えだけはついぞこれまでわたしも起
﹁こら 悪党 ども、このかたに答えするのだぞ﹂といっしょ
ろうじん
こしたことがなかった。でもヴィタリス 老人 も死んだ⋮⋮
97
さいなん
いしく
かない
﹁ああ、五、六年まえパリで 災難 に会った石
工 の家
内 だ
てんごく
について来た典
獄 が言った。
けんじ
な。それも知っている。調べさせよう﹂
しんし
じんもん
﹁それでよろしい﹂と 紳士 は言った。この人は 検事 であっ
しつもん
とうわく
﹁まあでも⋮⋮﹂
こま
た。
﹁わしは自分でこの子を尋
問 する﹂
わたしはすっかり 困 ってしまった。わたしの 当惑 を見
しめ
こう言ってかれは指でわたしをさし 示 した。
つけて、 検事 は厳 しく問いつめた。そこでわたしは、検
事 めうし
つ
しつもん
けんじ
﹁きみはもう一人の子を 預 かっていてもらいたい。その
がもしバルブレンのおかみさんを調べることになると、
きび
ほうはあとで調べるから﹂
せっかくの 雌牛 がちっとも不
意 ではなくなること、しか
もくてき
けんじ
わたしは検
事 と二人になった。じっとわたしの顔を見
も不意のおくり物でおどろかすというのがわたしたちの
あず
つめながらかれは、わたしが 雌牛 をぬすんだとがで 告発 第一の 目的 であったことを 告 げた。
めうし
じゅうい
まんぞく
ていしゅ
ふ い
されていることを 告 げた。
けれどこんなことでまごまごしている 最中 に、バルブ
けんじ
わたしはかれに 雌牛 をユッセルの市場で買ったことを
レンのおっかあのまだ生きていることを知って、わたしは
こくはつ
話して、買うときに世話をしてくれた 獣医 の名前を言っ
大きな 満足 を感じた。そのうえわたしに向けられた 質問 めうし
た。
のあいだに 亭主 のバルブレンがすこしまえパリに帰って
つ
﹁それは調べることにしよう﹂とかれは答えた。
﹁さてな
しまったことをも知った。これはわたしをゆかいにした。
あいじょう
さいちゅう
んの必
要 でその雌牛を買ったのだ﹂
するうちにとうとうマチアがおそれていた 質問 が出て来
ようぼ
た。
ひつよう
わたしは、それを 養母 へ愛
情 のしるしとしておくるつ
もりであったと言った。
だがどうして 雌牛 を買うだけの金を 得 たか。
え
﹁その女の名は﹂とかれはたずねた。
わたしはパリからヴァルセまで、それからヴァルセか
めうし
﹁シャヴァノン村のバルブレンのおかみさん﹂とわたし
らユッセルまで、一スー一スーとこれだけの金を 積 みた
つ
は答えた。
98
せつめい
へ や
のこ
を一人心配なまま 部屋 に残 して出て行った。しばらくし
は放免してやる﹂
つ
てたことを説
明 した。
てかれは、マチアを 連 れてもどって来た。
なければならなかった。
﹁それから 雌牛 は﹂とマチアは心配そうにたずねた。
しんじつ
﹁ではおまえたち二人のうち、どちらがルミだ﹂とかれ
﹁おまえたちに返してやる﹂
たし
﹁でもおまえ、ヴァルセではなにをしていた﹂とかれは
﹁わたしはユッセルへ、おまえの話の 真偽 を 確 かめさせ
しんぎ
たずねた。
にやる﹂とかれは言った。
﹁幸いそれが真
実 なら、あした
は声を 優 しくしてたずねた。
﹁ぼくの言うのはそうではないんです﹂とマチアが答え
ちんじ
﹁ぼくです﹂とわたしは答えた。
た。
﹁だれか 雌牛 に食べ物をやっていますか。 乳 をしぼっ
こうざん
それからわたしは、いやでもかれに 鉱山 の椿
事 を話さ
﹁それがほんとうなら、おまえはその 事件 がどうして起
ていますか﹂
めうし
まんぞく
めうし
めうし
こったか言ってみよ。わたしはその事件を 残 らず新聞で
﹁まあ、心配しなさんな﹂と 検事 が言った。
やさ
読んでいる。わたしをあざむくことはできないぞ。おま
マチアは 満足 して、にっこり 笑 った。
わら
ちち
えがまったくルミであるか、ないか、わたしにはわかる。
﹁ああ、では 雌牛 の乳をしぼったら、ぼくたちも 晩 にす
じけん
用心しなさい﹂
こしいただけないでしょうか﹂とかれはたずねた。
のこ
わたしはかれがわたしたちに対してひじょうに 優 しい
﹁それはいいとも﹂
こうざん
こうりゅう
けんじ
心持ちになっていることを見ることができた。わたしは
わたしたち二人だけになると、わたしはマチアに、ほ
ほうこく
ばん
かれに 鉱山 での 経験 をくわしく語った。
とんど自分たちが 拘留 されていることを 忘 れさせるほど
ほうめん
やさ
話をしてしまうと、わたしはほとんど優しくなってい
のえらい 報告 をした。
たいど
けいけん
たかれの 態度 から、すぐにもわたしたちを 放免 してくれ
﹁バルブレンのおっかあは生きているし、バルブレンは
わす
るかと思った。けれどもそうはしないで、かれはわたし
99
パリへ行っている﹂とわたしは言った。
の。
た。ただでごちそうを食べさせて、とめてくれるのだも
わけだね﹂
めうし
﹁ああ、では﹃王子さまの 雌牛 ﹄もいばって乗りこめる
かれはうれしがっておどりをおどったり、歌を歌いだ
バルブレンのおっかあ
しず
した。かれの元気につりこまれて、わたしはかれの手を
みとど
けんじ
ころ
つかまえた。カピはそのときまですみっこに 静 かに考え
そのあくる朝早く、 検事 はあのわれわれのお友だちの
じゅうい
こんで転 がっていたが、はね上がって後足で立ちながら、
医 君といっしょにやって来た。獣医君はなんでもわた
獣
わ
わたしたちの間に 割 りこんで来た。それからは三人いっ
したちが 放免 になるのを見
届 けたいといって、わざわざ
いん
ほうめん
しょになってめちゃくちゃにおどり回ったので、 典獄 な
やって来てくれたのであった。
てんごく
にが始まったかと思って、とびこんで来た。たぶんねぎ
いよいよわたしたちが出て行くときに、 検事 は一 枚 、
てがた
まい
が気になったのであろう。かれはわたしたちにやめろと
お役所の 印 をおした紙をくれた。
めうし
りょこうけん
じゅういくん
けんじ
言ったが、さっきまでの様子とはだいぶ 変 わっていた。そ
﹁そら、これをあげるからね﹂とかれは言った。
﹁どうも
か
の様子でわたしはもうたいしたことはないとさとった。
形 も持たないでいなかを歩くなんというのはとんだば
手
しょうこ
そのうえもう一つの 証拠 には、しばらくたつとかれは大
かな子どもたちだ。わたしは市長にたのんで、おまえた
もの
つめ
とど
ぎゅうにゅう
きなはちに牛
乳 を入れて持って来た。わたしたちの 雌牛 ちにこの旅
行券 を出してもらった。なんでもこれからは、
ちち
の乳 である。しかもそれだけではなかった。かれは白パ
これだけ見せればおまえたちは 保護 してもらえる。では
けんじ
ご
ンの大きな切れと 冷 たい子牛の肉を持って来て、これは
ごきげんよう、子どもたち﹂
ほ
事 さんからの届 検
け物 だと言った。
わたしはかれと 握手 した。それから 獣医君 とも握手し
ろうや
あくしゅ
どうして、こうなると 牢屋 もそんなに悪い所ではなかっ
100
わたしは雌牛をつかれさせたくなかったが、きょうは
いる村のやつらを 肩 の上から見てやった。
首を高く上げて歩いて、戸口に立ってわたしたちを見て
いばって出て行くのであった。 雌牛 のつなを引きながら、
わたしたちはみじめなざまで村へはいったが、今度は
た。
わたしはこしかけからとび下りて、マチアをだきしめ
れた。
と、かしの葉のにおいがすっと鼻をかすめたように思わ
ていた。そのけむりがわたしたちのほうへなびいて来る
じに見えた。けむりまで同じようにえんとつから上がっ
にはなにも 変 わったものはなかった。それはそっくり同
一とびでわたしはこしかけの上に乗った。谷の中の景
色 けしき
どうしてもシャヴァノンまで急いで行かなければならな
た。カピがわたしにとびついて来た。わたしは二人をいっ
そう
か
いので、わたしたちはせかせか歩き出した。もう 晩 がた
しょにして、 固 く固くしめつけた。
めうし
近く、わたしたちはむかしのうちに着きかけていた。
﹁さあ、こうなれば少しでも早く行こうよ﹂とわたしは
かた
マチアはどら 焼 きを食べたことがなかった。そこでわ
さけんだ。
ばん
たしは着いたらさっそくこしらえて食べさせるやくそく
﹁情 けないことだなあ﹂とマチアがため息をついた。
﹁こ
がいせん
う
おうらい
かた
をして、とちゅうでバターを一ポンドと 麦粉 を二ポンド
のけものさえ音楽が 好 きなら、 どんなにもどうどうと、
や
に、卵 を十二買いこんだ。
旋 の曲を奏 凱
しながらはいって行けるのだけれど﹂
なさ
わたしたちはいよいよ、 初 めてヴィタリス親方が、わ
わたしたちが 往来 の曲がり角まで行くと、バルブレン
むぎこ
たしを休ませてくれた場所に着いたので、わたしはあの
のおっかあが小屋から出て来て、村の往来の方角へ向かっ
ふ い
す
ときこれが見
納 めだと思ったその場所から、バルブレン
て行くのを見つけた。どうしよう。わたしたちはかの女
たまご
のおっかあのうちをもう一度見下ろすことができた。
にいきなり 不意討 ちを食わせるくわだてをしていた。わ
はじ
﹁つなを持っていてくれたまえ﹂とわたしはマチアに言っ
たしたちはなにかほかのしかたを考えなければならなく
みおさ
た。
101
を知っていたので、わたしたちは 雌牛 を牛小屋につない
なった。ドアにはいつでもかけ金だけかかっていること
ふとわたしは白いボンネットを見つけた。門はきりき
つけてあった。それがすすと年代で黒茶けていた。
た。わたしのこわした 窓 ガラスにはまだ小さな紙がはり
まど
で、ずんずんうちの中にはいって行くことにした。小屋
りと開いた。
するとはいって来てぼくのここにいるのを見つけるから
﹁じゃあ、それではぼくはこの 炉 ばたにこしをかけよう。
マチアに言った。
それからわたしたちがうちの中にはいると、わたしは
来た雌牛を入れた。
女はわたしを見返した。ふとかの女はふるえだした。
わたしは返事をしないで、かの女のほうを見た。かの
﹁どなたですえ﹂とかの女はびっくりしてたずねた。
の女は目を 丸 くしてわたしを見た。
て、バルブレンのおっかあがはいって来た。はいると、か
わたしは自分をよけい小さく小さくした。ドアが開い
めうし
の中はまきがいっぱいはいっていた。そこでわたしたち
﹁きみ、早くかくれたまえ﹂とわたしはマチアに言った。
ね。門を開けるときりきりという音がするから、そのと
﹁おやおや、おまえさん、ルミだね﹂とかの女はつぶや
つ
ききみはカピといっしょにかくれたまえ﹂
いた。
つ
はそれをすみに 積 み上げて、ルセットの代わりに 連 れて
わたしはむかしいつも冬の 晩 になるとすわったそのい
わたしはとび上がって、かの女を両うででおさえた。
ばん
まる
すの上にかけた。わたしはできるだけ小さく見えるよう
﹁おっかあ﹂
ろ
に、 背中 を丸 くしていた。こうして少しでもあのバルブ
﹁おお、ぼうや、ぼうや﹂これがかの女の言ったすべて
まる
レンのおっかあのかわいいルミに近い様子を作ろうとし
であった。かの女はわたしの 肩 に頭をのせていた。
せなか
た。わたしのすわっている所から門はよく見えた。わた
数分間たって、わたしたちはやっと感動をおさえるこ
かた
しは門のほうに気を取られて見ていた。
とができた。わたしはかの女のなみだをふいてやった。
か
なにも変 わってはいなかった。なにかが同じ場所にあっ
いっぱいにわたしをおさえてみてかの女はこうさけんだ。
﹁まあ、おまえ、なんて大きくおなりだろうねえ﹂うで
﹁さあ、行って庭がどんなふうになっているか見て来よ
う合図をした。
﹁わたしはおまえさんの花畑はそっくりそのままにして
う﹂とわたしは言った。
なったねえ。ええ、ルミ﹂
おいたよ﹂とかの女は言った。
﹁いつかおまえがまた帰っ
出して来た。
﹁ああ、おまえはわたしに不
意討 ちを食わせるつもりで、
﹁ぼくのきくいもを食べましたか﹂
ねだい
息をつめた鼻声で、マチアの 寝台 の下にいることを思
て来るだろうと思ったからねえ﹂
﹁マチアです﹂とわたしは言った。﹁ぼくの兄弟のね﹂
あれを植えたんだね。おまえはいつも人をびっくりさせ
う
﹁おお、ではおまえ、ご両親にお会いかえ﹂とかの女は
ることが 好 きだったから﹂
い
さけんだ。
いよいよそのしゅんかんが来た。
ふ
﹁いいや、これはぼくの 仲 よしです。でもほんとうの兄
﹁牛小屋はルセットがいなくなってから、そのままになっ
す
弟同様なんです。それからこれがカピです﹂とかの女が
ているの﹂とわたしはたずねた。
そうかの女が言うころには、わたしたちはもう牛小屋
﹁いいえ。あすこにはこのごろまきがはいっているよ﹂
しろ﹂
めうし
に着いていた。わたしはドアをおし開けた。するとさっ
へ
カピは後足で立って、もったいらしくバルブレンのおっ
そくおなかの 減 っていた 雌牛 が﹁もう﹂と鳴きだした。
わら
かあにおじぎをした。かの女は 腹 をかかえて笑 った。こ
﹁雌牛だよ。まあ、牛小屋に雌牛がさ﹂とバルブレンの
はら
れでかの女のなみだはすっかり消えてしまった。マチア
おっかあがさけんだ。
ふ い
う
はわたしに向かっていよいよ 不意討 ちにとりかかれとい
﹁さあ、カピターノ、ご主人さまのお母さんにごあいさつ
なか
マチアとあいさつをすますとわたしはこうつけ加えた。
よ
い出したわたしは、かれを 呼 んだ。かれはのこのこはい
﹁おまえ、 ずいぶん大きくおなりだし、 じょうぶそうに
102
103
のこ
くしに五十八スー 残 っています﹂
ちち
マチアとわたしはぷっとふき出した。
わたしは 乳 おけを取りにうちへかけて行った。そして
う
﹁これも不
意討 ちさ﹂とわたしがさけんだ。
﹁でもきくい
うちの中にいるあいだにバターと 卵 と麦
粉 を 食卓 が上に
ふ い
もよりかずっといいでしょう﹂
ならべて、それから小屋までかけてもどった。乳おけに
しょくたく
かの女はぽかんとした顔をして、わたしをながめた。
美しいあわの立つ乳が七分目まであふれているのを見た
むぎこ
﹁ええ、これがおくり物ですよ。ぼくはあの小さな 迷子 ときに、どんなにかの女は 喜 んだであろう。
たまご
の子どもに、あれほど優 しくしてくれたおっかあの所へ、
それからかの女は食卓の上にどら 焼 きをこしらえる仕
まいご
っ手 空 では帰れなかった。これがルセットの代わりです。
度のできあがっているのを見ると、 また大喜びをした。
よろこ
マチアとぼくとでもうけたお金でそれを買って来たので
そのどら焼きを死ぬほど食べたがっている人がいるのだ
やさ
す﹂
とわたしは言った。
や
﹁まあ、ねえ﹂とかの女はさけんで、わたしたち二人に
﹁ではおまえさんたちはバルブレンさんがパリへ行った
て
キッスした。
ことを知っていたにちがいないね﹂とかの女は言った。わ
から
かの女はいまおくり物を 検査 するために、小屋の中へ
たしはそこで、それを知ったわけを話した。
かんき
﹁どうしてあの人が行ったか、話してあげよう﹂とかの
けんさ
はいって行った。一つ一つ見つけては、かの女は 歓喜 の
さけび声を立てた。
女は意味ありげにわたしの顔をながめて言った。
めうし
﹁なんというりっぱな 雌牛 でしょうね﹂とかの女はさけ
﹁まあ先にどら 焼 きを食べようよ﹂ とわたしは言った。
﹁あの人のことは言わないことにしよう。ぼくはあの人が
や
んだ。しばらくするとかの女はとつぜんふり向いた。
﹁まあおまえ、いまではきっとたいしたお金持ちなんだ
四十フランでぼくを売ったことを 忘 れない。あの人がこ
わす
ね﹂
わいんで、あの人がまたぼくを売るのがこわいんで、ぼ
わら
﹁お金持ちですとも﹂とマチアが 笑 った。
﹁ぼくたちはか
104
そしてまもなく、マチアとわたしはどら焼きに 舌 つづみ
わ た し た ち は み ん な で さっそ く 材料 をこなし始めた。
ら下がりながら言った。
﹁まあ、どら 焼 きを食べようよ﹂とわたしはかの女にぶ
た。
﹁でもバルブレンさんのことを悪くお言いでないよ﹂
﹁ああ、きっとそれはそうだと思うよ﹂とかの女は言っ
くはここへ様子を知らせることをがまんしていたのだ﹂
た。バルブレンはまたわたしを売るために、わたしを探
の一家がほんとうに自分を探していることを 信 じなかっ
このときふとわたしはこわくなってきた。わたしは自分
おっかあ。バルブレンのおっかあ﹂
も家族があるのですか。話してください。残 らず。ねえ、
﹁ぼくの家族﹂ とわたしはさけんだ。﹁おお、 わたしに
の人はおまえを探しているのだよ﹂
ルブレンがパリへ出かけたのは、そのためなのだよ。あ
たい
のこ
をを打った。マチアはこんなうまいものを食べたことは
そうとしているのだ。今度こそわたしは売られるものか。
や
ないと言った。わたしたちが一さらを 平 らげると、すぐに
こう言ってわたしはバルブレンのおっかあにその心配
ざいりょう
つぎのさらにかかった。カピもおすそわけにあずかりに
を話した。けれどかの女はそうではない、わたしの一家
しん
来た。バルブレンのおっかあは、犬にどら焼きをやるな
がわたしを 探 しているのだと言った。
した
んてもったいないと言ったが、わたしたちはカピが 一座 それからかの女はいつか一人の 紳士 がこのうちへやっ
さが
の主 な役者で、そのうえ天才であることを 説明 して、な
て来て、外国のなまりのあることばで話をして、いく年
いちざ
んによらずだいじにあつかっているのだと言い聞かした。
かまえパリで拾った赤子はどうしたかとバルブレンにた
しんし
やがてマチアがあしたの朝使うまきを取りに出て行っ
ずねたことを話した。するとバルブレンはその人に、ぜ
さが
せつめい
たあいだに、かの女はバルブレンがなぜパリへ行ったか
んたいそれになんの用があるのだと言ったそうだ。この
おも
話して聞かせた。
返事はいかにもバルブレンのしそうな返事であった。
ば
﹁おまえの家族の人たちがおまえを 探 しているのだよ﹂
﹁ほら、パン 焼 き場 から、台所で言っていることはなん
や
とかの女はほとんど聞こえないほどの小声で言った。
﹁バ
つづ
おんがくし
たず
かの女は続 けた。
﹁おまえさんをやとい入れた 音楽師 を 訪 つ
でも聞こえるだろう﹂とバルブレンのおっかあが言った。
ねるためにね。あの音楽師がおまえさんを 連 れて行った
まち
﹁二人がおまえさんの話をしているときわたしはむろん聞
ときの話では、ルールシーヌ 街 のガロフォリという男に
よ
あてて手紙をやれば着くと言っていたそうだよ﹂
あの人がやっと言ったことは、さっきのお客がおまえを
わたしはあの人からなにかを 残 らず聞き出そうとしたが、
て、 三時間あとでバルブレンだけが一人で帰って来た。
そ外へ出て話しましょう﹄と言った。二人は出かけて行っ
すると、そのお客は﹃台所はたいへんむし暑いからいっ
﹃ええ、います。なあに家
内 ですよ﹄とあの人は答えた。
たよ。
ともに分けて感じているとは見えなかった。
ために 喜 ぶとは言ったが、わたしだけのゆかいと興奮を
親がわたしを 探 していることを話した。かれはわたしの
しながら、かれに向かって、わたしにうちのあること、両
ちょうどそこへマチアがはいって来た。わたしは 興奮 人が町のどこに住んでいるかも知らないよ﹂
﹁いいえ、ひと言も﹂とかの女は言った。
﹁わたしはあの
がありましたか﹂とわたしはたずねた。
たよ
っていた。
折 ﹁それで、バルブレンさんが出かけてから、なにか 便 り
していること、でもその人はおまえのお父さんではな
探 かない
いこと、それから百フラン、お金をくれたことだけだっ
こうふん
た。たぶんあの人はそののちもっともらったろう。そうい
古い友だちと新しい友だち
ばん
さが
うことがあるし、あの人がおまえさんを拾ったときりっ
のこ
ぱな着物をおまえさんが着ていたというから、おまえさ
わたしはその 晩 すこししかねむらなかった。バルブレ
よろこ
んので両親はきっとお金持ちにちがいないと思うのだよ。
ンのおっかあはわたしに、パリへ向けてたつこと、そし
さが
それからジェロームはパリへ行って来ると言ってね﹂と
しんし
﹃おや、だれかいますね﹄とその 紳士 はバルブレンに言っ
お
いていた。わたしはもっとそばに 寄 って、そこでまきを
105
106
ばならない。それには 運河 に沿 って行ってパリへ行ける
わたしはしかし行くまえにリーズに会いに行かなけれ
ともだと思った。
ごしたいと 望 んでいたが、でもかの女の言うことももっ
やることを勧 めた。わたしはかの女と五、六日ここに 過 でも早くわたしを見つけようとしている両親も 喜 ばせて
て着いたらすぐにバルブレンを見つけて、せっかく少し
を起こすとでも思ったらしかった。わたしはかれに、そ
ことを悲しがっていた。それがわたしたちの 友情 に変
化 は知っていた。かれはわたしにお金持ちの両親ができる
マチアはたいへん考えこんでいた。そのわけをわたし
で歩き出した。
さようならを言ってから、わたしたちは 運河 の岸につい
そのあくる日、 好 きなバルブレンのおっかあに 優 しい
がら言った。
のぞ
あい
ゆうじょう
やさ
のだから、してできないことはなかった。リーズのおじ
うなれば学校へ行って、いちばんえらい先生について音
す
さんは水門の番人をしていて、 河岸 の小屋に住んでいる
楽を勉強することができるのだからと言ったが、かれは
よろこ
のだから、そこへとまってかの女に会うことはできる。
悲しそうに頭をふった。わたしはかれが兄弟としていっ
うんが
わたしはその日一日バルブレンのおっかあとくらした。
しょのうちに住むようになること、わたしの両親もわた
す
夕方わたしたちは、いまにわたしがお金持ちになったら、
しの友だちのことだからそっくりわたし同様に 愛 してく
すす
かの女になにをしてやろうかということを話し合った。
れるだろうと思ったということを話したが、まだかれは
のぞ
めうし
へんか
かの女は 欲 しい物をなんでも持たなければならない。わ
首をふっていた。
そ
たしにお金ができれば、どんな 望 みだってかなえてやれ
しかしさしあたりわたしはまだそのお金持ちの両親の
うんが
ないということはないであろう。
金を使うまでにならないので、 通りすがりの村むらで、
し
﹁でもおまえがびんぼうでいるあいだにくれた 雌牛 は、
食べ物を買うお金を取らなければならなかった。それに
か
お金持ちになったときくれられるどんな物よりもわたし
リーズにおくり物を買ってやるお金も少しこしらえたかっ
ほ
にはずっとうれしいだろうよ﹂とかの女はほくほくしな
107
と言ったが、きっときっとリーズもこのおくり物と同じ
ちになってからなにをもらったよりもずっとありがたい
た。バルブレンのおっかあはあの雌
牛 を、わたしがお金持
ぞきこんで、リーズがおばさんのそばにすわっていると
たが、窓にはカーテンがなかったから、わたしは中をの
ている 姿 を見ることができた。ドアと 窓 は閉 じられてい
と打った。わたしはかれらがそのうちの中で 夕飯 を食べ
ゆうめし
ように考えるだろうと思った。わたしはかの女に人形を
ころを見た。わたしはマチアとカピに 静 かにするように
めうし
やろうと思った。幸い人形は 雌牛 のように高くはなかっ
合図をして、それから 肩 からハープを下ろして、それを
しず
しょくたく
と
た。わたしたちが通ったつぎの村で、わたしは美しい 髪 地べたの上に 置 いた。
ふじん
こうた
まど
の毛 と、青い目をしたかわいらしい人形をかの女のため
﹁ああ、なるほど﹂とマチアがささやいた。
﹁セレナード
うんが
すがた
に買った。
をやるか。なるほどうまい考えだ﹂
めうし
運
河 の岸を歩きながら、わたしはたびたびミリガン 夫人 わたしは 例 のナポリ 小唄 の第一 節 をひいた。声でさと
かた
と、アーサと、それからかれらの美しい 小舟 のことを思
られてはいけないと思って歌は歌わなかった。わたしは
うんが
かみ
い出していた。その小舟に 運河 の上で出会いはしないか
ひきながら、リーズのほうを見た。かの女は急いで顔を
お
と思っていたが、でもわたしたちはついにそれを見なかっ
上げたが、その目はかがやいていた。
け
た。
それからわたしは歌い始めた。かの女はいすからとび
せつ
とうとうある日の夕方、わたしたちはリーズの住んで
下りて、戸口へかけて来た。まもなくかの女はわたしの
まど
ゆうめし
れい
いるうちを遠方から見る所まで来た。それは木のしげっ
うでにだかれていた。
ろ
こぶね
た中にあった。きりでかすんだ中にあるらしかった。大き
カトリーヌおばさんがそれから出て来て、わたしたち
て
な炉 の明かりに照 らされた窓 を見ることもできた。だん
を 夕飯 に呼 んでくれた。リーズは急いで 食卓 の上におさ
しんぞう
よ
だんとそばに近づくに 従 って、赤みを持った光が、わた
らを二つならべた。
したが
したちの通り道に投げられた。わたしの 心臓 はとっとっ
108
﹁おいやでなければ﹂とわたしは言った。
﹁もう一 枚 おさ
の所へ会いに行くことができなくなったことを話した。
パリへも急いで行かなければならないし、エチエネット
まい
らを出してください。ぼくたちはもう一人かわいらしい
もちろん話は、たいていお金持ちらしいわたしのうち
つ
お友だちを連 れて来ました﹂
のことであった。そうしてお金ができたときに、わたし
はいのう
こう言ってわたしは 背嚢 から人形を出して、リーズの
あね
のしようと思ういろいろなことであった。わたしはかの
あに
おとなりのいすにのせた。そのときのかの女の目つきを
女の父親と、兄 さんや姉 さんたちをとりわけかの女を幸
福にしてやりたいと思った。リーズはマチアとちがって
わす
わたしはけっして 忘 れることはできない。
それを喜 んでいた。かの女はお金さえあれば、たいへん
よろこ
幸福になるにちがいないと 信 じきっていた。だってかの
とも
しん
バルブレン
女の父親はただ借
金 を返すお金さえあったなら、あんな
しゃっきん
幸 な目に会わなかったにちがいないではないか。
不
ふこう
パリへ行くのを急ぎさえしなかったら、わたしはリー
わたしたちはみんなで︱︱︱リーズとマチアとわたしと
さんぽ
ズの所にしばらく足を止めていたであろう。わたしたち
三人に、人形とカピまでお 供 に連 れて、長い散
歩 をした。
つ
はおたがいにあれほどたくさん言うことがあって、しか
わたしはこの五、六日ひじょうに幸福であった。夕方まだ
やさ
もおたがいのことばではずいぶんわずかしか言えなかっ
あまりしめっぽくならないうちは家の前に、それからき
ろ
た。かの女は手まねでおじさんとおばさんがどんなに 優 し
とくい
りが深くなってからは炉 の前にすわった。わたしはハープ
す
く自分にしてくれるか、船に乗るのがどんなにおもしろ
あぶ
をひいて、マチアはヴァイオリンかコルネをやった。リー
こうざん
いかということを話した。わたしはかの女にアルキシー
ズはハープを好 いていたので、わたしはたいへん得
意 に
はたら
の 働 いている鉱
山 で 危 なく死にかけたこと、わたしのう
なった。時間がたって、わたしたちが別
々 にねどこへ行
さが
べつべつ
ちの者がわたしを 探 していることを話した。それがため
109
くうふく
わす
つかるかどうだかわからないからねえ。そうなると、き
ばん
かなければならないときになると、わたしは、かの女の
みはあの 晩 、空
腹 で死にそうになったことを 忘 れている
こうた
ためにナポリ小
唄 をひいて歌った。
と言われてもしかたがないよ﹂
﹁でもきっとあの人は見つかるよ。待っていたまえ﹂
べつ
でもわたしたちはまもなく 別 れて別 の道を行かなけれ
﹁おお、 ぼくは忘れはしない﹂ とわたしは軽く言った。
わか
ばならなかった。わたしはかの女にじき帰って来ると言っ
た。かの女に残 したわたしの最
後 のことばは、
﹁ああ、でもあの日、きみがぼくを見つけたとき、お寺
さいご
﹁ぼくは今度来るとき、四頭引きの馬車で来て、リーズ
のかべにどんなふうによりかかっていたか、ぼくは 忘 れ
のこ
ちゃんを 連 れて行くよ﹂というのであった。
ない。ああ、ぼくはパリで 飢 えて苦しむのだけはもうつ
わす
そうしてかの女もわたしを 信 じきって、あたかもむち
くづくいやだよ﹂
つ
をふるって馬を追うような身ぶりをした。かの女もまた
﹁ぼくの両親のうちへ行けば、その代わりにたんとごち
とみ
う
わたしと同様に、わたしの 富 とわたしの馬や馬車を目に
そうが食べられるよ﹂とわたしは答えた。
しん
うかべることができるのであった。
﹁うん。まあ、なんでも、もう一ぴき 雌牛 を買うつもり
ちゅうこく
めうし
わたしはパリへ行くのでいっしょうけんめいであった
で 働 こうよ﹂とマチアは聞かなかった。
はたら
から、 マチアのために食べ物を買うお金を集めるのに、
これはいかにももっともな忠
告 であったが、わたしはも
めうし
ときどき足を止めるだけであった。もう 雌牛 を買うこと
うこれまでと同じに 精神 を打ちこんで歌を歌わなくなっ
ひつよう
めうし
せいしん
も、人形を買うこともいらなかった。お金持ちの両親の
たことを 白状 しなければならない。バルブレンのおっか
はくじょう
所へお金を持って行ってやる 必要 もなかった。
あのために 雌牛 を買い、またはリーズのために人形を買
り
﹁取れるだけは取って行こうよ﹂とマチアは言って、 無理 うお金を取るということは、まるっきりそれとはちがっ
む
にわたしがハープを 肩 からはずさなければならないよう
たことであった。
かた
にした。
﹁だってパリへ行っても、すぐにバルブレンが見
110
るのに、 どうしてまだかれが悲しそうにしているのか、
わたしたちはどんなにしても 別 れないと言いきってい
マチアはますます 陰気 になった。
なるほど、ますますわたしはゆかいになった。そうして
だろう﹂とマチアは言った。だんだんパリに近くなれば
﹁きみはお金持ちになったら、どんなになまけ者になる
ダーム寺の前でわたしたちは会うことにしよう。
しはリュー・ムッフタールへ行こう。それからノートル・
言ったいろいろの場所へ行くことにした。それからわた
がそこへ行けば、バルブレンを見つけるかもしれないと
わたしはマチアと 相談 をして、バルブレンのおっかあ
わたしはガロフォリのことはなにも考えていなかった。
あの人はぼくのおじだからね﹂
そうだん
わたしはわからなかった。とうとうわたしたちはパリの
わたしたちはもう二度と会うことがないようなさわぎ
いんき
大門に着いたとき、かれはいまでもどんなにガロフォリ
をして 別 れた。わたしはこちらの方角へ、マチアは向こ
わか
をこわがっているか、もしあの男に会ったらまたつかま
うの方角へ向かった。わたしはバルブレンが 先 に住んで
わか
えられるにちがいないという話をした。
いた場所の名をいろいろ紙に書きつけておいた。それを
しゅくりょう
か
せん
﹁きみはバルブレンをどんなにこわがっていたか。それ
一つ、一つ、訪 ねて行った。ある木
賃宿 では、かれは四年
ろうや
ていしゅ
あくとう
きちんやど
を思ったら、どんなにぼくがガロフォリをこわがってい
前そこにいたが、それからはいなくなったと言った。そ
たず
るかわかるだろう。あの男が 牢屋 から出ていればきっと
の宿
屋 の亭
主 は、あいつには一週間の 宿料 の貸 しがある
やどや
ぼくをつかまえるにちがいない。ああ、この 情 けない頭、
から、あの 悪党 、どうかしてつかまえてやりたいと言っ
なさ
かわいそうな頭、あの男はどんなにそれをひどくぶった
ていた。
りょう り や
たず
ことだろう。そうすればあの男はきっとぼくたちを引き
わたしはすっかり気落ちがしていた。もうわたしの 訪 ね
し
けんり
のこ
分けてしまう。むろんあの人はきみをも子分にして使い
る所は一か所しか 残 っていなかった。それはあの 料理屋 り
たいであろうが、それをきみには 無理 にも 強 いることが
であった。そのうちをやっている男は、もう長いあいだ
む
できないが、 ぽくに対してはそうする 権利 があるのだ。
111
からせきをし始めた。その様子で、わたしはガロフォリ
じいさんは返事はしないで、わたしの顔を見て、それ
へきたないぼろをぶら下げているのを見た。
と、 初 めて行ったときと同様、あのじいさんがドアの外
おみやげを持って帰りたいと思った。そこの 裏庭 へ行く
リのうちへ行って、あの男の様子を見てマチアになにか
オテル・デュ・カンタルへ行くまえにわたしはガロフォ
てくれた。
ら、近ごろオテル・デュ・カンタルにとまっていたと言っ
て食べていたお客の一人が声をかけて、うん、あの男な
あの男の顔を見ないといったが、ちょうど 食卓 にすわっ
れをしたのかしれなかった。とにかくわたしが両親を見
つに 愛情 もなかったし、たぶんお金のためにいやいやそ
いなかった。でもあのときはあの人もわたしに対してべ
手からはなして、よその人の手に売りわたしたにはちが
た。なるほどあの男はわたしをバルブレンのおっかあの
のとき、寒さと 飢 えのために死んでいたかもしれなかっ
ルブレンという男がいなかったなら、わたしは赤んぼう
りバルブレンのことをよく思いたい気になっていた。バ
は希
望 と歓
喜 が胸 にいっぱいたたみこまれて、もうすっか
出して、オテル・デュ・カンタルへ急いで行った。わたし
わたしはできるだけ早く、このおそろしい 路地 をぬけ
アはほっと息をつくであろう。
しょくたく
についてなんでも知っていることをよく向こうにわから
つけるまでになったのは、あの人のおかげであった。だ
あいじょう
う
きちんやど
ろ じ
せないうちは、この男からなにも聞き出すことができな
からもう、あの人に対してけっして悪意を持ってはなら
むね
いことをさとった。
ないはずであった。
かんき
﹁おまえさん、あの人がまだ 刑務所 にはいっているとい
わたしはまもなくオテル・デュ・カンタルに着いた、オ
きぼう
うのではあるまい﹂とわたしはさけんだ。
﹁だってあの人
テル︵旅館︶というのは名ばかりのひどい 木賃宿 であっ
うらにわ
はもうよほどまえに出て来たはずではないか﹂
た。
はじ
﹁ええ、あの人はまた三か月食らったのだよ﹂
﹁バルブレンという人に会いたいのです。シャヴァノン
け い む しょ
ガロフォリがまた三か月刑務所にはいっている。マチ
112
﹁死にましたよ﹂と、かの女は 簡潔 に答えた。わたしは
なってさけんだ。﹁ではバルブレンさんは﹂
﹁おお、あなた、知っているの﹂とわたしはむちゅうに
んが、あの人のたずねていなすった子どもかい﹂
﹁おやおや、おやおや﹂とかの女はさけんだ。
﹁おまえさ
たねこが、びっくりしてとび下りた。
げた。その勢 いがえらかったので、ひざに乗っかってい
そうするとかの女は大あわてにあわてて両手を空へ上
なった。
﹁バルブレンという人を知っていますか﹂とわたしはど
と言った。
いつんぼで、いま言ったことをもう一度くり返してくれ
たならしいばあさんに向かって言った。かの女は、ひど
村から来た人です﹂とわたしは 写字机 に向かっていたき
だんなは、バルブレンさんがあれほど言っていなすっ
若 ﹁たいへんなことではないか。この子どもさんは、この
向いた。
た。オテル・デュ・カンタルの女主人はかの女のほうへ
このしゅんかん、女中のようなふうをした女が出て来
﹁ねえ、話してください。なんです。それは﹂
かの女は天に向かって、高く両うでを上げた。
はせがむように言った。
ていませんでしたか。おお、話してください﹂とわたし
﹁バルブレンさんが、わたしの両親のことをなんとか言っ
﹁わたしはいま言っただけしか知りませんよ﹂
す。わかりませんか﹂
﹁ええ、ええ、ぼくがその子です。ぼくのうちはどこで
た。
うだ、おまえさんにちがいない﹂とばあさんはまた言っ
しゃじづくえ
ハープにひょろひょろとなった。
たご当人だとよ﹂
いきお
﹁なに、死んだ﹂とわたしはかの女に聞こえるほどの大
﹁でもバルブレンにぼくのうちのことをあなたに話しま
かんけつ
きな声でさけんだ。わたしはくらくらとした。いまはど
せんでしたか﹂とわたしはたずねた。
わか
うして両親を見つけよう。
﹁それは聞きましたよ︱︱︱百度もね。なんでもたいへん、
さが
﹁おまえさんがみんなの 探 していなさる子どもだね。そ
113
﹁むろん、どうしてさ﹂
﹁まあ、あなたは知らせてやりましたか﹂
もできないところでしたよ﹂
ら、あの人のおかみさんの所へ死んだ知らせを出すこと
ことを書いたものだけです。その紙でも見つけなかった
﹁いいえ、ただあの人がシャヴァノン村から来たという
﹁なにか書き物を 置 いては行きませんでしたか﹂
自分一人でお礼を 残 らずもらうつもりでいたのですよ﹂
んでしたよ。あの人はきみょうな人でしたよ。あの人は
﹁それについてはバルブレンさんは、なにも話をしませ
です﹂
﹁それでどこに住んでいるのです。名前はなんというの
お金持ちのうちだそうですねえ、若 だんな﹂
でもこのばあさんの言ってくれることは考え直す 値打 たしはかなりきたない 宿屋 をいくつか見ていた。
る 限 りでいちばんきたならしい 宿屋 の一つであった。わ
オテル・デュ・カンタルは、わたしもおよそ知ってい
ろうろしていたら、ろくなことはありはしないよ﹂
﹁まあ、考えてごらん。子どもが二人で、パリの町にう
﹁ぼくよりすこし小さいんです﹂
めですよ。お友だちはいくつになんなさる﹂
んを見つけるはずだ。わたしの言うのはおまえさんのた
とこのうちへ聞きに来るでしょう。そうすればおまえさ
レンさんから返事の来るのを待ちかねなすったら、きっ
なうちですよ。そのおまえさんのおうちの人も、バルブ
ちへおいでなさいな。じゅうぶんお世話もするし、正直
﹁へえ、あなたがたは、とまる所がなければ、まあこのう
わか
わたしはこのばあさんから、なにも知ることができな
ちがあった。それにわたしたちは 好 ききらいをしてはい
お
のこ
かった。わたしはしょんぼり戸口のほうへ向かった。
られなかった。わたしはまだりっぱなパリ風のやしきに
す
やどや
﹁おまえさん、どこへ行きなさる﹂とかの女はたずねた。
住んでいる自分の家族を見つけなかった。なるほどこう
かぎ
﹁友だちの所へ帰ります﹂
なると道みち集められるだけの金を集めておきたい、と
やどや
﹁ははあ、お友だちがありますか。それはパリにいるの﹂
マチアの言ったのはもっともであった。わたしたちのか
はじ
ね う
﹁ぼくたちはけさ 初 めてパリへ来たんです﹂
114
んなに親切な、あれほど友人としてたのもしいかれに会
はたずねた。
た。するとかげからカピがとび出した。かれはわたしの
七時すこしまえにわたしはあわただしいほえ声を聞い
きぼう
くしに十七フランの金がなかったらどうしよう。
うことにただ一つの楽しい 希望 を持った。
﹁一日十スーです。たいしたことではないさ﹂
ひざにとびついて、やわらかいしめった 舌 でなめた。わ
だい
﹁なるほど。じゃあ 晩 にまた来ます﹂
たしはかれを両うでにだきしめて、その 冷 たい鼻にキッ
へ や
﹁友だちとわたしとで 部屋 の代 はいくらです﹂とわたし
﹁早くお帰んなさいよ。パリは夜になると、子どもには
スした。マチアがまもなく 姿 を現 した。二言三言でわた
がいとう
ほっ
つめ
した
よくない場所だからね﹂とかの女は後ろから声をかけた。
しはバルブレンの死んだこと、自分の家族を見つける 望 ばん
夜のまくが下りた。街
燈 はともっていた。わたしは長い
みのなくなったことを 告 げた。
しつぼう
あらわ
こと歩いてノートル・ダームのお寺へ行って、マチアに
するとかれはわたしの 欲 していたありったけの同
情 を
どりょく
すがた
会うことにした。わたしは元気がすっかりなくなってい
わたしに 注 いだ。かれはどうにかしてわたしをなぐさめ
さが
どうじょう
のぞ
た。ひどくつかれて、そこらのものは 残 らず陰
気 に思わ
ようと 努力 した。 そして 失望 してはいけないと言った。
そうさく
つ
れた。この光と音のあふれた大きなパリでは、わたしは
かれはいっしょになって、まじめに両親を 探 し出すこと
そそ
まるっきり独 りぼっちであることをしみじみ感じた。わ
のできるようにしようと、心からちかった。
いんき
たしはこんなふうでいつか自分の 親類 を見つけることが
わたしたちはオテル・デュ・カンタルへ帰った。
のこ
できるであろうか。いつかほんとの父親と、ほんとの母
ひと
親に会うことになるであろうか。
しんるい
やがてお寺へ来たが、マチアを待ち合わせるにはまだ
捜索 ひつよう
こんばん
二時間早かった。わたしは 今晩 いつもよりよけいにかれ
ゆうじょう
の友
情 の必
要 を感じた。わたしはあんなにゆかいな、あ
115
もしよくならなかったら、ロンドンのリンカーン・スク
その返事にかの女は、 夫が病院から手紙を 寄 こして、
えに、なにか便 りがあったかたずねてやった。
て、 不幸 のおくやみを言って、かの女の 夫 の亡 くなるま
そのあくる朝バルブレンのおっかあの所へ手紙を出し
には三十二フランあった。わたしたちはそのあくる日ロ
八日がかりでやっとボローニュに着いたとき、ふところ
パリからボローニュまで道みち 主 な町で足を止めて、
荷作りができて、わたしたちは出発した。
それから数分間のうちにわたしたちの荷物はすっかり
マチアが言った。
よ
な
エアで、グレッス・アンド・ガリーといううちへあてて
ンドンへ行く 貨物船 に乗った。
たし
おっと
手紙を出すように言って来たことを 告 げた。それはわた
なんというひどい航
海 であったろう、かわいそうに、マ
さが
ふこう
しを 探 している弁
護士 であった。なおかれはかの女に向
チアはもう二度と海へは出ないと言い切った。やっとの
たよ
かって、自分が 確 かに死んだと決まるまでは、手をつけ
ことで、テムズ川を船が上って行ったとき、わたしはか
こうかい
おも
てはならないとことづけて来たそうである。
れにたのむようにして、起き上がって外のふしぎな 景色 きかん
かもつせん
﹁じゃあぼくたちはロンドンへ行かなければならない﹂
を見てくれといった。けれどもかれは、今後も 後生 だか
つ
とわたしが手紙を読んでしまうとマチアが言った。この
ら一人うっちゃっておいてくれとたのんだ。
べんごし
べんごし
手紙は村のぼうさんが 代筆 をしたものであった。﹁その
とうとう 機関 が運転を止めて、いかりづなはおかに投
じょうりく
はたら
けしき
護士 がイギリス人だというなら、きみの両親もイギリ
弁
げられた。そしてわたしたちはロンドンに 上陸 した。
きょくばだん
ごしょう
ス人であることがわかる﹂
わたしはイギリス語をごくわずかしか知らなかったが、
だいひつ
﹁おお、ぼくはそれよりもリーズやなんかと同じ国の人間
マチアはガッソーの 曲馬団 でいっしょに 働 いていたイギ
リス人から、たんとことばを教わっていた。
ふじん
でありたい。だがぼくがイギリス人なら、ミリガン 夫人 やアーサと同じことになるのだ﹂
上陸するとすぐ 巡査 に向かって、リンカーン・スクエ
じゅんさ
﹁ぼくはきみがイタリア人であればよかったと思う﹂と
116
ていることを知った。 とうとうわたしたちはテンプル・
う一度たずねてみて、やはり正しい方向に向かって歩い
たびたびわたしたちは道に 迷 ったと思った。けれどもも
アへ行く道を聞いた。 それはなかなか遠いらしかった。
兄弟も、女のご 姉妹 もあります﹂とかれは答えた。
﹁ええ、お父さんばかりではなく、お母さんも、男のご
と﹁お父さん﹂ということばを口に出した。
﹁ぼくにはお父さんがあるんですか﹂とわたしは、やっ
した。
まよ
バーに着いた。それから二、三歩行けばリンカーン・ス
﹁へえ﹂
きょうだい
クエアへ着くのであった。
かれはベルをおした。書記が出て来ると、かれはその
じ む しょ
しんぞう
こどう
いよいよグレッス・アンド・ガリー 事務所 の戸口に立っ
人にわたしたちの世話をするように言いつけた。
ン・ドリスコル氏です﹂
しず
べた。
グレッス氏のみにくい顔は好 ましくなかったが、わたし
みょうじ
わたしたちはすぐとこの事務所の主人であるグレッス
はそのときよほどかれにとびついてだきしめようと思っ
し
たとき、わたしはずいぶんはげしく 心臓 が鼓
動 した。そ
﹁おお、忘 れていました﹂とグレッス氏 が言った。
﹁あな
わす
れでしばらくマチアに気の 静 まるまで待ってもらわねば
たの名
字 はドリスコルで、あなたのお父上の名前は、ジョ
の私
氏 室 へ通された。幸いにこの 紳士 はフランス語を話
た。しかしかれはその時間をあたえなかった。かれの手
の
ならなかった。マチアが書記にわたしの名前と用事を 述 すので、わたしは自身かれと語ることができた。かれは
はすぐに戸口をさした。で、わたしたちは書記について
この
わたしに向かってこれまでの細かいことをいちいちたず
外へ出た。
しんし
ねた。わたしの答えはまさしくわたしがかれのたずねる
ししつ
少年であることを 確 かめさせたので、 かれはわたしに、
し
ロンドンに住んでいるわたしの一家のあること、そして
ドリスコル家
たし
さっそくそこへわたしを送りつけてやるということを話
117
のだということを知った。
こしをかけていた。あとでこれがハンサム馬車というも
からかぶさっているほろの後ろについたはこに、 御者 が
中へとびこめと言いつけた。きみょうな形の馬車で、上
往
来 へ出ると、書記は 辻馬車 を 呼 んで、わたしたちに
とうとうかれはすっかり馬車を止めてしまった。ハン
からないのか、馬車を止めた。
いびんぼう町のはうへ曲がって、ときどき 御者 も道がわ
の上にはね上がった。それからわたしたちはもっとひど
ひどくごみごみした町へはいった。まっ黒などろが馬車
うにいなからしい様子にはならなかった。わたしたちは
いと思われた。でも馬車から見るあたりの 景色 はいっこ
けしき
マチアとわたしはカピを間にはさんですみっこにだき
サムの 小窓 を中に、グレッス・アンド・ガリーの書記さ
よ
合っていた。書記が一人であとの 席 を占
領 していた。マ
んと、 困 りきった御
者 との間におし問答が始まった。な
つ じ ば しゃ
チアはかれが 御者 に向かって、ベスナル・グリーンへ馬
んでもマチアが聞いたところでは、御者はもうとても道
おうらい
車をやれと言いつけているのを聞いた。御者はそこまで
がわからないと言って、書記にどちらの方角へ行けばい
ぎょしゃ
馬車をやることをあまり 好 まないように見えた。マチア
いか、たずねているのであった。書記は自分もこんなど
こま
ちんぎん
きゅうでん
ぎょしゃ
とわたしは、きっとそこは遠方なせいであろうと思った。
ろぼう町へなんかこれまで来たことがなかったからわか
こまど
わたしたち二人はグリーン︵緑︶というイギリス語が
らないと答えた。わたしたちはこの﹁どろぼう﹂という
せんりょう
どういう意味だか知っていた。ベスナル・グリーンはきっ
ことばが耳に止まった。すると書記はいくらか金を 御者 せき
とわたしの一家の住んでいる大きな公園の名前にちがい
にやって、わたしたちに馬車から下りろと言った。御者
か
ぎょしゃ
なかった。長いあいだ馬車はロンドンのにぎやかな町を
はわたされた 賃金 を見て、ぶつぶつ言っていたが、やが
ぎょしゃ
走って行った。それはずいぶん長かったから、そのやし
てくるりと方向を 変 えて馬車を走らせて行った。
この
きはきっと町はずれにあるのだと思った。グリーンとい
わたしたちはいまイギリス人が﹁ジン酒の 宮殿 ﹂と 呼 よ
ぎょしゃ
うことばから考えると、それはいなかにあるにちがいな
118
たちはあとに 続 いた。わたしたちはこの町でもいちばん
ン酒の 宮殿 ﹂の回転ドアを開けて中へはいった。わたし
はいやな顔をしてそこらを見回して、それからその﹁ジ
んでいる酒場の前の、ぬかるみの道に立った。案
内 の先生
案
内者 はふと立ち止まった。かれは道を 失 ったらしかっ
からはくさったようなにおいがぷんと立った。
はぶたが、たまり水にぴしゃぴしゃ 鼻面 をつけて、そこ
路地 に
ま二、三人着ているのも、ほんの ぼ ろであった。 くかかっていた。子どもたちはほとんど 裸体 で、たまた
らたい
ひどい場所にいるのであったが、またこれほどぜいたく
た。けれどちょうどそのとき一人の巡
査 が出て来た。書記
あんない
な酒場も見なかった。そこには金ぶちのわくをはめた 鏡 がかれに話すと、巡査は自分のあとからついて来いと言っ
はらづら
じゅんさ
じゅんさ
りょうかい
も
へ
おうらい
ろ じ
がどこにもここにもはめてあって、 ガラスの 花燭台 と、
た⋮⋮わたしたちは巡査について、もっとせまい 往来 を
きゅうでん
銀のようにきらきら光るりっぱな帳場があった。けれど
歩いた。 最後 にわたしたちはある広場に立ち止まった。
つづ
もそこにいっぱい集まっている人たちは、どれもよごれ
そのまん中には小さな池があった。
れい
、
、
あんないにん
うしな
た ぼ ろをかぶった人たちであった。
﹁これがレッド・ライオン・コートだ﹂と 巡査 は言った。
あんないしゃ
あんないしゃ
案
内者 は 例 のりっぱな帳場の前についであった一ぱい
なぜわたしたちはここで止まったのであろう。わたしの
もと
かがみ
の酒をがぶ飲みにして、それから 給仕 の男に自分の行こ
両親がこんな所に住んでいるものであろうか。巡査は一
はなしょくだい
うとする場所の方角を聞いた。 確 かにかれは求 めた返事
けんの木小屋のドアをたたいた。案
内人 はかれに礼を言っ
え
さいご
を得 たらしく、また回転ドアをおして外へ出た。わたし
ていた。ではわたしたちは着いたのだ。マチアはわたし
きゅうじ
たちはすぐあとについて出た。
の手を取って、 優 しくにぎりしめた。わたしもかれの手
たし
通りはいよいよせまくなって、こちらのうちから向こ
をにぎった。わたしたちはおたがいに了
解 し合った。わた
ものほ
やさ
うのうちへ物
干 しのつなが下がって、きたならしい ぼ ろ
しはゆめの中をたどっているような気がしていると、ド
かた
や
がかけてあった。その戸口にこしをかけていた女たちは、
アが開いて、わたしたちは 勢 いよく火の 燃 えている部
屋 け
いきお
青い顔をして、よれよれな髪の 毛 が肩 の上までだらしな
、
、
、
、
119
子が二人、女の子が二人︱︱︱みんな女親に 似 てなかなか
落ち着かなかった。それから四人子どもがいた︱︱︱男の
めていたが、いまでは色つやもぬけて、様子はそわそわ
女はむかしはなかなか色が白かったらしいなごりをとど
の男と、六つばかり年下の女がこしをかけていた。かの
んをかぶっていた。一つの 机 に向かい合って四十ばかり
人 がこしをかけていた。その頭にはすっぽり黒いずき
老
その火の前の大きな竹のいすに、白いひげを生やした
にはいった。
の 愛情 には 報 いてくれなかった。かの女はただわたしに
けた。かの女はわたしにキッスをさせた。けれどわたし
わたしはまず母親の所へ行って、両うでをからだにか
さんも、弟や妹たちもいるよ﹂
﹁さあ﹂とかれは言った。
﹁おまえのおじいさんも、お母
た。でもわたしは進んで行って父親にキッスした。
していた。けれどいまはまるでそんな感じは起こらなかっ
なりながら、父親のうでにとびついてゆくだろうと 想像 に考えては、きっともうそのときは幸福に胸 がいっぱいに
わたしはまえからこのしゅんかんのことをゆめのよう
むね
色白であった。いちばん上の男の子は十一ばかりで、い
わからないことを二言三言いった。
ちゅうき
そうぞう
ちばん下の女の子は三つになるかならないようであった。
﹁おじいさんと 握手 をおし﹂と父親が言った。
﹁そっとお
ろうじん
わたしは書記がその人になんと言っていたのかわから
いでよ。 中気 なのだから﹂
つくえ
なかった。ただドリスコルという名前が耳に止まった。そ
わたしはまた弟たちや、女の 姉妹 と握手した。小さい
べんごし
に
れはわたしの名
字 だとさっき弁
護士 が言った。
子をうでにだき上げようとしたが、かの女はすっかりカ
むく
みんなの目はマチアとわたしに向けられた。ただ赤ん
ピに気を取られていて、わたしをおしのけた。わたしは
はらだ
あいじょう
ぼうの女の子だけがカピに目をつけていた。
むなしくそここことめぐって歩いて、しまいには自分に
あくしゅ
﹁どちらがルミだ﹂と主人はフランス語でたずねた。
立 たしくなった。
腹
きょうだい
﹁ぼくです﹂とわたしは言って、一足前へ進んだ。
なぜやっとのことで自分のうちを見つけたのに、すこ
みょうじ
﹁では来て、お父さんにキッスをおし﹂
120
とを考えて、その 喜 びに気がくるいそうになったことが
同様に、自分のものと 呼 んで愛 し愛されるうちを持つこ
んをどんなに 望 んでいたろう。わたしもほかの子どもと
に母親に、兄弟に、 祖父 まである。わたしはこのしゅんか
しもうれしく感じることができないのか。わたしは父親
わたしはかれに向かってマチアがいちばん 仲 のいい友だ
﹁あれはだれだ﹂と父親はマチアを指さしながら聞いた。
でないとわたしは思った。
わたしの 愛情 はそんなふうにして受け取らるべきもの
わたしの父親の 嘲笑 とが 深 くわたしの心を 傷 つけた。
いことを言うと、夫はふふんと 笑 った。かの女の冷
淡 と、
れいたん
あった⋮⋮それがいま自分の一家をふしぎそうにながめ
ちであって、ずいぶん世話になっていることを話した。
わら
るばかりで、心のうちにはなにも言うことがない。 一言 ﹁よしよし﹂と父親は言った。
﹁あの子もうちにとまって、
よろこ
よ
あいじょう
なか
きず
の愛
情 のことばが出て来ないのである。わたしはけもの
いなかを見物するがよかろう﹂
よろこ
ふか
なのであろうか。わたしがもし両親をこんなびんぼうな
わたしはマチアの代わりに答えようとしたが、かれが
ちょうしょう
小屋でなく、りっぱなごてんの中で見いだしたなら、もっ
先に口をきいた。
ふ
と深い愛情が起こったであろうか。わたしはそれを考え
﹁それはぼくもけっこうです﹂とかれはさけんだ。
そ
てはずかしく思った。
わたしの父親はなぜバルブレンがいっしょに来ないか
のぞ
そう思ってわたしはまた母親のそばへ 寄 って、両うで
とたずねた。わたしはかれにバルブレンの死んだことを
あい
をかけてしたたかかの女のくちびるにキッスした。まさ
げた。かれはそれを聞いて喜 告 んでいるようであった。か
いちごん
しくかの女はなんのつもりで、わたしがこんなことをす
れはそのとおりを母親にくり返して言うと、かの女もや
あいじょう
るのかわからなかった。だからわたしのキッスを返そう
はり喜んでいるようであった。どうしてこの二人は、バ
よ
とはしないで、きょときょとした様子でわたしの顔をな
ルブレンの死んだことを 喜 んでいるのか。
おっと
よろこ
がめた。それから 夫 、すなわちわたしの父親のほうへ向
﹁おまえは、わたしたちが十三年もおまえをたずねなかっ
かた
つ
いて 肩 をそびやかした。そしてなにかわたしにわからな
121
けっこん
た。﹁母さんと 結婚 して一年たっておまえは生まれたの
けっこん
たことをふしぎに思っているかもしれない﹂と父親が言っ
さ。わたしがいまの母さんと結
婚 するとき、そのまえから
めがもう一人あった。それが結婚のできなかったくやし
わか
た。﹁しかも急にまた思い出したように出かけて行って、
てっきり自分と結婚するものと思っていたある 若 いむす
あ﹂
まぎれに、生まれて六 月 目のおまえをぬすみ出して行っ
たず
おまえを赤んぼうのじぶん拾った人を 訪 ねたのだからな
わたしはかれに自分のたいへんおどろいたこと、それ
た。わたしたちはほうぼうおまえを 探 したが、パリより
つき
からそれまでの様子をくわしく聞きたいことを話した。
遠くへはどうにも行けなかった。わたしたちはおまえが
けいさつ
おんがくし
さが
つき
さが
﹁では 炉 ばたへおいで。 残 らず話してあげるから﹂
死んだものと思っていたが、つい三 月 まえ、このぬすん
ふ
のこ
わたしは肩 から背
嚢 を下ろして、勧 められたいすにこ
だ女が死んでね。死にぎわにわたしに悪事を 白状 したの
ろ
しをかけた。わたしがぬれてどろをかぶった足を炉にの
だ。わたしはさっそくフランスへ出かけて行って、おまえ
すす
ばすと、 祖父 はうるさい古ねこが来たというように、つ
が 捨 てられた地方の 警察 から、 初 めておまえがシャヴァ
はいのう
んと向こうを向いてしまった。
ノン村のバルブレンという石屋のうちに 養 われているこ
かた
﹁おかまいでない﹂と父親は言った。
﹁あのじいさんはだ
とを聞いた。わたしはバルブレンを 探 して、今度その人
ろうじん
とうりゅう
はくじょう
れも火の前に来ることをいやがるのだ。 けれどおまえ、
からおまえがヴィタリスという旅の 音楽師 にやとわれて
そ
寒ければかまわないよ﹂
行ったこと、フランスの町じゅうを歩き回っていること
はじ
わたしはこんなふうに 老人 に対して口をきくのを聞い
を聞いた。わたしはいつまでもあちらに 逗留 してもいら
す
てびっくりした。わたしはいすの下に足を引っこめた。そ
れないので、バルブレンにいくらかお金をやって、おま
やしな
のくらいな心づかいはしなければならなとわたしは考え
えを 探 すようにたのんだ。そうしてわかりしだいグレッ
さが
た。
ス・アンド・ガリーへそう言って 寄 こすようにした。わ
そうりょう
よ
﹁おまえはこれからわたしの総
領 むすこだ﹂と父親が言っ
122
し ょをそえたものが、食卓のまん中に 置 かれた。
お
たしはあのバルブレンにここの住まいを知らせておかな
﹁おまえたち、 腹 が減 っているか﹂と父親がマチアとわ
へ
かったというわけは、わたしたちは冬のあいだだけロン
たしに向かってたずねた。マチアは白い歯を見せた。
せき
はら
ドンにいるので、あとはずっとイギリスとスコットラン
﹁うん、 机 におすわり﹂
にく
つくえ
ドの地方を旅行して歩いているのだからね。わたしたち
しかし 席 に着くまえに、かれは 祖父 の竹のゆりいすを
や
ふ
の商売は 旅商人 なのだよ。まあそんなふうにして、十三
卓 に向けた。それから自分の 食
席 をしめながら、かれは
きょうぐう
ぎょうぎ
そ
年目におまえがわたしたちの所へ帰って来たというわけ
き肉 焼 を切り始めた。背
中 を火に向けて、みんなに一つ
たびあきんど
だ。 おえはわたしたちのことばがわからないのだから、
ずつ、大きな切れといもを分けた。
おぼ
しょくたく
かたて
せき
はじめはすこしきまりが悪いかもしれないが、じきにイ
わたしはいい 境遇 の中に育ったわけではないが、兄弟
しょくたく
ギリス語を覚 えて、兄弟たちと話ができるようになるだ
たちの 食卓 の行
儀 がひどく悪いことは目についた。かれ
ふ
き
せなか
ろう。それはもうわけなく慣れるよ﹂
らはたいてい指で肉をつかんで食べて、がつがつ食い 欠 そ
わら
か
そうだ、もちろんわたしはかれらに慣れなければなら
いたり、 父母の気がつかないようにしゃぶったりした。
うぶぎ
そうぞう
ない。かれらはわたしの一家の者ではないか。それはりっ
父 にいたっては自分の前ばかりに気を取られて、自由
祖
きぬ
ぱな 絹 の産
着 で想
像 したところと、目の前の事実とはこ
とみ
の利 く片
手 でしじゅうさらから口へがつがつ運んでいた。
たっと
あいじょう
のとおりちがっていた。でもそれがなんだ。 愛情 は富 よ
そのふるえる指先から肉を落とすと、兄弟たちはどっと
ほ
りもはるかに 貴 い。わたしがあこがれていたのは金では
った。
笑 ひとふし
ろ
ない、ただ愛情である。愛情が 欲 しかったのだ。家族が、
わたしたちは食事がすんでから、その 晩 は炉 ばたに集
にく
ばん
うちが、欲しかったのだ。
まってくらすことと思っていた。けれども父親は友だち
しょくたく
や
わたしの父親がこの話をしているあいだに、かれらは
ばんさん
が来るからと言って、わたしたちにねどこに行くことを
、
、
餐 の 晩
食卓 をこしらえた。 焼 き肉 の大きな 一節 に ば れ い
、
、
、
たがらなかった。わたしはかれがだまっていてくれるの
や
命じた。マチアとわたしに手まねをして、かれはろうそ
へ
がうれしかった。わたしたちはろうそくをふき消したが、
つ
くを持って先に立ちながら、食事をした 部屋 の外にある
とてもねむれそうには思えなかった。わたしはせま苦し
できなかった。
ねだい
うまやへ 連 れて言った。そのうまやには荷台まで大きな
い 寝台 の中で、たびたび起き返っては、これまでの出来
これがわたしの家族からこの夜 初 めてわたしの受けた
いく時間か 過 ぎた。だんだん夜がふけるに 従 って、と
つき
屋台 付 馬車があった。かれはその一つのドアを開けると
事を思いめぐらした。わたしは上の寝台にいるマチアが
迎 であった。
歓
りとめもない 恐怖 がわたしを 圧迫 した。わたしは 不安 に
お
中に小さな寝
台 二つ重なって置 いてあるのを見た。
やはり落ち着かずに、しじゅうねがえりばかりしている
感じたが、 なぜわたしが、 そう感じたのかわからない。
ねだい
﹁ほら、これがおまえたちのねどこだ﹂とかれは言った。
音を聞いた。かれもやはりわたしと同様、ねむることが
なにをわたしはおそれているのか。このロンドンのびん
きょうふ
るろうせいかつ
きけん
ご
たび
ひ
したが
りっぱすぎる父母
ぼう町で馬車小屋の中にとまることがこわいのではない。
す
これまでの流
浪生活 で、いく度 わたしは今夜よりも、もっ
かんげい
父親はろうそくを 置 いて行ったが、車には外から 錠 を
とたよりない夜を明かしたことがあったであろう。わた
きょうふ
ふあん
さした。わたしたちはいつものようにおしゃべりはしな
しは 現在 あらゆる 危険 から 庇護 されていることはわかっ
あっぱく
いで、できるだけ早くねどこの中へもぐった。
ているのに、 恐怖 がいよいよつのって、もうふるえが出
じょう
﹁おやすみ、ルミ﹂とマチアが言った。
るまでになっている。
お
﹁おやすみ﹂
時間はだんだんたっていった。ふとうまやの向こうの、
げんざい
マチアはわたしと同じように、もうなにもものを言い
はじ
﹁まあ、おやすみ﹂
123
124
むっていると思ったから、 それを起こすまいと思って、
たび
来 に向かったドアの開く音がした。それから五、六 往
度 そっとだまっていた。
おうらい
を置 間 いて規
則 正しいノックが聞こえた。やがて明かり
父親はそのとき二人の男に 手伝 って荷物のひもをほど
きそく
が馬車の中にさしこんだ。わたしはびっくりしてあわて
かせて、やがて見えなくなったが、まもなく母親を 連 れて
お
てそこらを見回した。わたしの 寝台 のわきにねむってい
もどって来た。かれのいないあいだに二人の男は荷物の
ま
たカピは、うなり声を立てて起き上がった。わたしはそ
を開いた。中にはぼうしと下着とくつ下に手ぶくろな
封 てつだ
のときその明かりが馬車の 小窓 からはいって来ることを
どがあった。まさしくこの男たちは両親の所へ品物を売
ねだい
しょうふだ
じゅんさ
つ
知った。その小窓はわたしたちの 寝台 の向こうについて
りに来た商人であった。父親はいちいち品物を手に取っ
ねだい
いたのを、さっきはカーテンがかかっていたのでとこに
て、ちょうちんの明かりで調べて、それを母親にわたす
ふう
はいるとき気がつかなかったのであった。この窓の上部
と、母親は小さなはさみで、 正札 を切り取って、かくし
ねだい
こまど
はマチアの寝
台 に近く、下部はわたしの寝台に近かった。
の中に入れた。 これがわたしにはきみょうに思えたし、
まよなか
カピがうちじゅうを起こしてはいけないと思って、わた
それとともに、売り買いをするのにこんな 真夜中 の時間
えら
しはかれの口に手を当てて、それから外をながめた。
がわ
を 選 んだということもふしぎであった。
む
すると父親がうまやにはいって来て、 静 かに 向 こう側 母親が品物を調べているあいだに、父親は商人に小声
かた
しず
のドアを開けた。そして二人、 肩 に重い荷をせおった男
で話をしていた。わたしがもうすこしイギリス語を知っ
よ
を外から 呼 び入れて、やはり用心深い様子で、またドア
ていたら、たぶんかれの言ったことばがわかったであろ
し
を 閉 めた。それからかれはくちびるに指を当てて、ちょ
うが、わたしの聞き得 たかぎりでは、ポリスメン︵ 巡査 ︶
え
うちんを持った 片手 でわたしたちのねむっている事に指
ということだけであった。それはたびたびくり返して言っ
あたて
さしをした。わたしはほとんどそんな心配は 要 りません
たので、そのためわたしの耳にも止まったのであった。
い
と言って、声をかけようとしたが、もうマチアがよくね
125
としたが、いくらそう 望 んでも、そう信ずることできな
自分の見たことがごく当たり前のことであると 信 じよう
するために、うちの中にはいったのであった。わたしは
車はまた 暗黒 のうちに置 かれた。かれらは 確 かに勘
定 を
と二人の男がうちの中にはいった。そしてわたしたちの
残 らずの品物がていねいに書き 留 められたとき、両親
めて、またその上に 砂 をはき 寄 せた。その砂の上に二人
うちんを見せていた。それからかれは落としのドアを 閉 取って、落としから下の穴 へ下ろした。母親はそばでちょ
にすっかりなわをかけておいたので、父親はそれを受け
た。かれはそれを引き上げた。そのときもう母親は荷物
がかわいた 砂 をもり上げたそばに、落としのドアがあっ
荷作りをするまに、父親はうまやのすみをはいた。かれ
と
かった。
はわらくずをまき 散 らしてうまやのゆかのほかの部分と
のこ
なぜあの両親に会いに来た二人の男が、ほかのドアか
同じようにした。そうしておいてかれらは出て行った。
のぞ
しん
すな
らはいって来なかったのであろうか。なぜかれらはなに
かれらがそっとドアを 閉 めたしゅんかんに、マチアが
かんじょう
か戸の外で聞くもののあることをおそれるかのように、
ねどこの中で動いたこと、まくらの上であお向けになっ
じゅんさ
しょうふだ
たし
小声で 巡査 の話をしていたのであったか。なぜ母親は品
たことをわたしは見たように思った。かれは見たかしら。
お
物を買ったあとで、 正札 を切り取ったのであろうか。わ
わたしはそれを思い切って聞けなかった。頭から足のつ
あんこく
たしはこの考えをとりのけることができなかった。しば
ま先までわたしは 冷 やあせをかいていた。わたしはこの
ひ
ひとばん お
し
あな
らくして明かりがまた馬車の中へさしこんで来た。わた
ありさまでまる 一晩 置 かれた。にわとりが夜明けを知ら
し
しは今度はつい 我 知らず外をながめた。わたしは自分で
せた。そのときやっとわたしはまぶたをふさいだ。
さ
よ
は見てはならないと思っていたが、でも⋮⋮わたしは見
そのあくる朝わたしたちの車の戸を開けるかぎの音が
すな
た。わたしは自分では知らずにいるほうがいいと思った
したので、わたしは目を 覚 ました。きっと父親がもう起
ち
が、でも⋮⋮わたしは知ってしまった。
きる時間だと言いに来たのであろうと思って、わたしは
われ
父親と母親と二人だけであった。母親が手早く品物の
れたかとも聞かなかった。わたしもかれに 質問 しなかっ
わたしたちは着物を着た。マチアはわたしによくねむ
開けて出て行ったよ﹂
﹁きみの弟だったよ﹂とマチアが言った。
﹁ドアのかぎを
かれを見ないように目を閉じた。
﹁なんだと言うのだね﹂とわたしは言った。
げんを直したように見えた。
わたしたちの一人がイギリス語を話したので、すこしき
マチアはわたしの言ったとおりにした。すると 祖父 は
つ、父さんや母さんは出て来るのだか﹂
﹁聞いてくれたまえよ﹂とわたしはマチアに言った。
﹁い
ほんやく
ふ
た。 一度かれがわたしのほうを見たように思ったから、
﹁きみの父さんは一日よそへ出て帰らない。母さんはね
そ
わたしは目をそらせた。
むっている。それで出たければ外へぼくたちが出てもい
しつもん
わたしたちは台所まで行った。けれども父親も母親も
いというのだ﹂
れい
そこにはいなかった。 祖父 は例 の大きないすにこしをか
﹁たったそれだけしか言わないの﹂とわたしはこの 翻訳 そ ふ
けて、もうゆうべからすわったなりいるように、火の前
がたいへん 簡単 すぎると思って言った。
かんたん
にがんばっていた。そうしていちばん上の妹のアンニー
マチアはまごついたようであった。
しょくたく
というのが、 食卓 をふいていた、いちばん上の弟のアレ
よ
﹁そのほかのことばはよくわかったか、どうだか知らな
へ や
ンが 部屋 をはいていた。わたしはかれらのそばへ 寄 って
い﹂とかれは言った。
﹁ではわかったと思うだけ言いたまえ﹂
そ ふ
いで、仕事を続 けていた。
﹁なんでもあの人は、ぼくたちも町でなにか商売でもし
めし
わたしは祖
父 のほうへ行ったが、かれはわたしを見て
ばん
て、一もうけして来るがいい。ただ 飯 を食われてはやり
よ
そばへは 寄 せつけなかった。そうしてまえの晩 のように
きれない、というようなことを言っていたと思う﹂
せつめい
わたしのほうにつばをはきかけた。それでわたしは行き
祖父 はかれの言ったことを、マチアが 説明 して聞かし
そ ふ
かけて立ち止まった。
つづ
﹁おはよう﹂と言ったが、かれらはわたしには目もくれな
126
127
の女が 机 の上につっぷしているのを見た。かの女は病気
出て来なかった。開け放したドアのすきからわたしはか
わたしたちがうちへ帰ったとき、母親はまだ 部屋 から
かなかった。ときどきかれはわたしの手をにぎりしめた。
ひどい所であった。マチアとわたしは、ほとんど口をき
た。ベスナル・グリーンは夜見るよりも昼見るとさらに
が、道に 迷 ってはいけないと思って遠くへは行かなかっ
二、三時間のあいだわたしたちはそこらを歩き回った
﹁出かけよう﹂とわたしはすぐに言った。
それから目配せをして見せた。
にかをかくしにおしこもうとするような身ぶりをして、
ているとさとったものらしく、 中気 でないほうの手でな
﹁ルミ、きみはどこへ行くつもりだ﹂とかれはとうとう
当てもなしに、まっすぐに歩いた。
らんで歩きながら、何も言わずに、どこへ行こうという
長いあいだわたしたちはおたがいの手を組み合ってな
人でうちを出た。
わたしを見ていた。わたしはかれに合図をして、また二
ほうを向いた。かれは両
眼 になみだをいっぱいうかべて、
して立っていたか知らなかった。ふとわたしはマチアの
た。からだが石になったように感じた。どのくらいそう
わたしはそのほうは見向きもせずにじっと立ちどまっ
した。
﹁ジンに当たったのだよ﹂と 祖父 は言って、歯をむき出
たりとなった。
ちゅうき
なのだと思ったが、わたしは話をすることができないか
心配そうにたずねた。
つくえ
ふ
ら、代わりにキッスしようと思って、そばへかけて行っ
﹁ぼくは知らない。どこかへとだけしか言えない。マチ
そ
た。
ア、ぼくはきみと話がしたい。だがこの人ごみの中では
まよ
するとかの女はふらふらする頭を持ち上げて、わたし
話もできない﹂
あつ
りょうがん
のほうをながめたが、顔は見なかった。かの女の 熱 い息
わたしたちはそのとき、いつか広い町へ出ていた。そ
へ や
の中には、ぷんとジン酒のにおいがした。わたしは後ず
のはずれには公園があった。わたしたちはそこまでかけ
つくえ
さりをした。かの女の頭はまた下がって、 机 の上にぐっ
128
て行って、こしかけにこしをかけた。
を 求 めるためではなかった。それはわたしのためではな
たしがマチアを公園に 連 れて来たのは、かれのあわれみ
つ
﹁ねえ、 マチア、 ぼくがどんなにきみを 愛 しているか、
かった。かれのためであった。
もと
知ってるだろう。だから今度ぼくがうちの人たちに会い
﹁マチア﹂とわたしは思い切って言った。
﹁きみはフラン
あい
に来るとき、いっしょにきみに来てもらったのは、きみ
スへ帰らなければならないよ﹂
す
のためを思ったことだったのだ。きみはぼくがなにをた
﹁きみを 捨 てて、どうして﹂
うたが
﹁ぼくはきみがそう答えるだらうと思っていた。それを
ゆうじょう
のんでも、ぼくの 友情 を疑 いはしないだろうねえ﹂とわ
たしは言った。
聞いてぼくはうれしい。ああ、きみがぼくといっしょに
﹁きみはぼくを 泣 きださせまい思って、そんなふうに笑
た。
﹁なぜさ、そのわけを言いたまえ﹂
みはすぐにフランスへ帰らなければならないよ﹂
いたいというのは、まったくうれしい。けれどマチア、き
わら
うのだね﹂とわたしは答えた。
﹁ぼくはきみといっしょに
﹁だって⋮⋮ねえ、マチア、こわがってはいけないよ。き
り
いるときに、 泣けないなら、 いつ泣くことができよう。
みはゆうべねむったかい。きみは見たかい﹂
む
﹁ばかなことを言いたまえ﹂とかれは 無理 に 笑 って言っ
でも⋮⋮おお⋮⋮マチア、マチア﹂
﹁ぼくはねむらなかったよ﹂とかれは答えた。
な
わたしは両うでをなつかしいマチアの首にかけて、ほ
﹁するときみは見た⋮⋮﹂
なさ
ろほろなみだをこぼした。わたしはこんなに 情 けなく思っ
﹁ああ 残 らず﹂
ひと
のこ
たことはなかった。わたしがこの広い世界に 独 りぼっち
﹁そうしてきみはそのわけがわかったか﹂
な
だい
であったじぶん、かえってわたしはこのしゅんかんほど
﹁あの品物が、代 をはらったものでないことはわかるよ。
ふこう
に不
幸 だとは感じなかった。わたしはすすり 泣 きをして
だって、きみのお父さんは、あの男たちに 母屋 のドアをた
おもや
しまったあとで、やっと気を落ち着けることができた。わ
129
たかないで、うまやのドアをたたいたというのでおこっ
かあの所へも行ってくれたまえ。ただうちの人たちは思っ
たわけを話してくれたまえ。それからバルブレンのおっ
﹁ぼくが行かなければならないなら、きみだって行かな
たろう﹂とわたしは言った。
﹁それできみは行かなければならないことがよくわかっ
と言っていたもの﹂
だからというのではない。だからぼくは行かない﹂とマ
﹁きみがぼくに行けと言うのは、あの人たちがびんぼう
から。でもそのほかのことは言わないでくれたまえ﹂
のないということはなにもはずかしいことではないのだ
たほど金持ちではなかったとだけ言ってくれたまえ。金
は
ければならない。それはぼくにだって、きみにだって、い
チアは強
情 に答えた。
﹁ぼくはゆうべ見たところでそれが
み
いはずがないもの﹂﹁パリでガロフォリに会ったとして、
なんだかわかった。きみはぼくの身の上を 案 じているの
じゅんさ
ていた。するとあの二人は 巡査 が見
張 りをしているから
あの人が 無理 にきみを 連 れ帰ろうとしたら、きみはきっ
だ﹂
ごうじょう
と、ぼくに一人で 別 れて行ってくれと言うと思うよ。ぼ
﹁マチア、それを言わないでくれ﹂
あん
くはただきみが自分でもするだろうと思うことをするだ
﹁きみはいつか、ぼくまでが代 のはらってない品物の正
札 つ
けだ﹂
を切り取るようなことになるといけないと心配している
り
かれは答えなかった。
のだ﹂
む
﹁きみはフランスへ帰らなければいけない﹂とわたしは
﹁マチア、マチア、よしたまえ﹂
わか
言い張 った。
﹁リーズの所へ行ってぼくがやくそくしたこ
﹁ねえ、きみがぼくのために心配するなら、ぼくはきみ
しょうふだ
とも、あの子の父親のためにしてやることも、みんなで
のために心配する。ぼくたち二人で出かけよう﹂
だい
きなくなったわけを話してくれたまえ。ぼくはあの子に、
﹁それはとてもできない。ぼくの両親はきみにとっては
は
なによりもぼくのすることはあの人の 借金 をはらってや
なんでもないが、ぼくには父親と母親だ。ぼくはあの人
しゃっきん
ることだと言った。きみはあの子にそれのできなくなっ
130
﹁マチア、それまで言わずにいてくれ﹂とわたしはこし
父親だって。あの飲んだくれ女が、きみの母親だって﹂
﹁きみの家族だって。あのどろぼうをする男が、きみの
族なのだから﹂
たちといっしょにいなければならない。あれはぼくの家
たらどうする﹂
﹁でももしきみの気のどくな頭が、そのために一つ食らっ
え。それまではぼくは動かないよ﹂
とき着ていた着物のくわしいことを聞かせてもらいたま
お父さんといま 呼 んでいるあの人に子どもがぬすまれた
うであったか、たずねてみたらどうだ。それからきみが
よ
かけからとび上がってさけんだ。
﹁きみはぼくの父親や母
﹁なあに友だちのためならぶたれても、そんなにつらく
わら
親のことをそんなふうに言っているが、ぼくはやはりあ
はないよ﹂とかれは 笑 いながら言った。
あい
ない﹂
そんけい
の人たちを尊
敬 しなければならない。愛 さなければなら
﹁そうだ。それがきみのうちの人なら、そうしなければ。
カピの 罪 ばん
つみ
だが⋮⋮あの人たちは﹂
に
わす
﹁きみ、あんなにたくさん 証拠 のあるのを忘 れたかい﹂
わたしたちは 晩 までレッド・ライオン・コートへ帰ら
しょうこ
﹁なにがさ、きみは父さんにも母さんにも 似 てはいない。
なかった。父親と母親はわたしたちのいなかったことを
さが
よ
きゃく
あの子どもたちはみんな色が白いが、きみは黒い。それ
なにも言わなかった。 夕飯 のあとで父親は二 脚 のいすを
ゆうめし
にぜんたいどうしてあの人たちが子どもを 探 すためにそ
のそばへ 炉 引 き寄 せた。すると祖
父 からぐずぐず言われ
ふ
んなにたくさんの金が使えたろうか。そういういろいろ
た。それからかれは、わたしたちがフランスにいたころ、
そ
のことを集めてみると、ぼくの考えでは、きみはドリス
食べるだけのお金が取れていたか、わたしから聞き出そ
ひ
コル家の人ではない。きみはバルブレンのおっかあの所
うとした。
うぶぎ
ろ
へ手紙をやって、きみが拾われたときの 産着 がどんなふ
131
﹁おまえたちはなかなかりこうなこぞうだ﹂と父親が言っ
でどういうことが起こったか話した。
チアはきっぱりと言った。そのついでにかれはその雌牛
せん。 雌牛 を一頭買うだけのお金を取ったのです﹂とマ
﹁ぼくたちは食べるだけのものを取っただけではありま
﹁だからわたしはマチアにも、いっしょにこのうちにい
び目をぱちくりやって、﹁どうもえらい犬だ﹂と言った。
えて言ったらしく、みんなを 加 笑 わせた。 祖父 はたびた
に翻
訳 した。そのうえわたしの言ったほかになにかつけ
かれに話した。父親はわたしの言ったことをイギリス語
教えれば、教えたいと思うことはなんでも 覚 えることを
おぼ
た。
﹁どのくらいできるかやっておみせ﹂
てくれるかと言いだしたわけさ﹂と父親が言った。
めうし
わたしはハープを取って一曲ひいたが、ナポリ 小唄 で
﹁ぼくはルミといつまでもいたいのです﹂とマチアが答
くわ
ほんやく
はなかった。マチアはヴァイオリンで一曲、コルネで一
えた。
そ ふ
曲やった。中でコルネのソロが、ぐるりへ 輪 になって集
﹁なるほど。それではわたしから申し出すことがあるが﹂
わら
まった子どもたちからいちばんかっさいを受けた。
と父親が言った。
﹁わたしたちは金持ちではないから、み
こうた
﹁それからカピ、あれもなにかできるか﹂と父親がたず
んながいっしょに 働 いているのだ。夏になるとわたした
わ
ねた。
﹁あれも自分の食いしろをかせぎ出さなければなら
ちはいなかを旅をして回って、子どもらは、向こうから
はたら
ん﹂
買いに来てくれない人たちの所へ品物を持って売りに行
げい
わたしはカピの芸 にはひどくじまんであったから、かれ
くのだ。けれども冬になると、たんとすることがなくな
だいせいこう
るのだ。ところでおまえとルミにはこれから町へ出て音
れい
にありったけの芸をやらした。 例 によってかれは 大成功 をした。
楽をやってもらおう。クリスマスが近いんだから、すこ
わら
﹁おや、この犬はりっぱな金もうけになるぞ﹂と父親が
げい
しは金ができるだろう。そこでネッドとアレンがカピを
つ
さけんだ。
れて行って、芸 連 をやって笑 わせるのだ。そういうふう
しょうさん
わたしはこの 賞賛 でたいへんうれしくなって、カピに
132
しごと
を言いふくめなければならなかった。わたしはかれをう
﹁なあにあれはアレンや、ネッドとじきに仕事をするこ
なかった。
しかしがっかりした様子でついて行った。
手にひもをわたして、 犬は二人の子どもにおとなしく、
どんなに耳を立てていたか、わたしはそれからアレンの
やさ
なことにすれば、うまく 仕事 がふり分けられるというも
でにだいて、その 冷 たい鼻に 優 しくキッスしながら、こ
とを覚 えるよ﹂と父親が言った。
﹁そういうふうにしてよ
父親はマチアとわたしをロンドンの町中へ 連 れて行っ
つめ
のだ﹂
れからしなくてはならないことを言って聞かした。かわ
けい金を取るようにするのだ﹂
た。きれいな家や、白いしき石道のあるりっぱな 往来 が
はたら
﹁カピはぼくとでなければ 働 きません﹂とわたしはあわ
いそうな犬よ。どんなにかれはわたしの顔をながめたか、
﹁おお、ぼくたちもカピといっしょのほうがよけい金が
あった。ガラスのようにぴかぴか光る馬車がすばらしい
わか
てて言った。わたしはこの犬と 別 れることはがまんでき
取れるのです﹂とわたしは言い 張 った。 馬に引かれて、その上に 粉 をふりかけたかつらをかぶっ
おぼ
.
た大きな太った 御者 が乗っていた。
つ
﹁もういい﹂と父親が手短に言った。
﹁わたしがこうと言
わたしたちがレッド・ライオン・コートへもどったの
きょり
おうらい
えばきっとそうするのだ。口返答をするな﹂
は、もうおそかった。ウェストエンドからベスナル・グ
は
わたしはもうそのうえ言わなかった。その 晩 とこには
リーンまでの 距離 はかなり遠いのである。わたしはまた
こな
いると、マチアがわたしの耳にささやいた。
カピを見てどんなにうれしく思ったろう。かれはどろま
ぎょしゃ
﹁さあ、あしたはいよいよバルブレンのおっかあの所へ
みれになっていたが、上きげんであった。わたしはあん
ばん
手紙をやるのだよ﹂
まりうれしかったから、かわいたわらでかれのからだを
ねだい
こう言ってかれは 寝台 にとび上がった。
よくかいてやったうえ、わたしのひつじの毛皮にくるん
いんが
しかし、そのあくる朝わたしは、カピにいやでも 因果 133
の金を取って帰れば、これからはしじゅうわたしたちに
ひじょうに喜 んで、いっしょうけんめいやってたくさん
しさせることがあるから﹂と言った。マチアとわたしは
カピを 連 れて行ってもいい、二人の子どもにはうちで少
するとある日の夕方、父親が﹁あしたはおまえたちが
方角へ行った。
たしは 別 な道を行くと、カピとネッドとアレンがほかの
こんなふうにして五、六日 過 ぎていった。マチアとわ
で、いっしょにとこの中に入れてねかしてやった。
わたしはあとから追いつけるようにかれを待っていた。
て来るのであったから、これはめずらしいことであった。
この犬はいつだって、わたしたちのあとにぴったりつい
行くと、 ふとカピがいっしょにいないことを発見した。
わたしたちはいちばん人通りの多い町の一つを通って
えもつかなかった。
なければならないことであったか、それだけはまるで考
のおかげを、もう二、三分あとでは、どれほどこうむら
仕事にはじつにやっかいなことであった。でもこのきり
すぐそばのカピの 姿 を見なかった。これはわたしたちの
すがた
犬をつけて出すようになるだろうというもくろみを立て
ある暗い 路地口 に立って、なにしろわずかの 距離 しか見
つ
す
た。ぜひともカピを返してもらわなければならない。わ
えなかったから、そっと口ぶえをふいた。わたしはかれ
べつ
たしたち三人は一人だって 欠 けてはならないのだ。
がぬすまれたのではないかと心配し始めたとき、かれは
よろこ
わたしたちは朝早くカピをごしごし 洗 ってやって、く
口に毛糸のくつ下を一足くわえてかけてやって来た。前
しょうさん
かたて
もと
きょり
しを入れてやって、それから出かけた。
足をわたしに向けてかれは一声ほえながらそのくつ下を
た
ろじぐち
運悪くわたしたちのもくろみどおりには運ばないで、
ささげた。かれはもっともむずかしい 芸 の一つをやりと
か
深いきりがまる二日のあいだロンドンに垂 れこめていた。
げたときと同様に、 得意 らしくわたしの 賞賛 を求 めてい
あら
そのきりの深いといっては、つい二足三足前がやっと見
た。これはほんの二、三秒の出来事であった。わたしは
げい
えるくらいであった。このきりのまくの中でたまたまわ
開いた口がふさがらなかった、するとマチアは 片手 でく
とくい
たしたちのやっている音楽に耳を止めている人も、もう
ドはぷっとふきだした。
ぱ
つ下 をつかんで、片
手 でわたしを路
地口 から 引 っ 張 った。
﹁さあ、これがくつ下です﹂とわたしは言った。
﹁あなた
ひ
﹁早く歩きたまえ。だが、かけてはいけない﹂とかれは
がたはぼくの犬をどろぼうにしましたね。ぼくは人のな
ろじぐち
ささやいた。
ぐさみに使うために犬を 連 れて行ったのだと思っていま
かたて
かれはしばらくしてわたしに言うには、しき石の上で
した﹂
した
かれのわきをかけて通った男があって、
﹁どろぼうはどこ
わたしはふるえていて、 ほとんど口がきけなかった。
つ
へ行った、つかまえてやるぞ﹂と言いながら行ったとい
でもこのときはどしっかりした決心をしたことはなかっ
じ
た。
ろ
うのである。わたしたちは 路地 の向こうの出口から出て
行った。
あぶ
﹁うん、なぐさみのほかに使ったら﹂と父親は反問した。
こういん
﹁きりが深くなかったら、ぼくたちは 危 なくどろぼうの
﹁おまえ、どうするつもりだ。聞きたいものだね﹂
つみ
で 罪 拘引 されるところだったよ﹂とマチアは言った。し
﹁ぼくはカピの首になわを 巻 きつけて、これほどかわい
ま
ばらくのあいだ、わたしはほとんど息をつめて立ってい
い犬ですけれど、ぼくはあいつを水にしずめてしまいま
す。わたしは自分がどろぼうにされたくないと同様、カ
はたら
た。うちの人たちはわたしの正直なカピにどろぼうを 働 かせたのだ。
れば、わたしは犬といっしょにすぐ水にしずんでしまい
ピをどろぼうにはしてもらいたくないのです。いつかわ
わたしたちは急いで歩いた。
ます﹂
﹁カピをしっかりおさえていたまえ﹂とわたしは言った。
父親と母親は 机 の前にこしをかけて、せっせと品物を
父親はわたしの顔をしげしげと見ていた。わたしはか
たしがどろぼうにならなければならないようなことがあ
しまいこんでいた。
れがよっぽどわたしを打とうとしかけたと思った。かれ
つくえ
わたしはいきなりくつ下をほうり出した。アレンとネッ
﹁うちへ帰ろう﹂
134
135
でカピを 連 れて歩くがいい﹂
たそういうことのないように、おまえ、これからは自分
﹁おお、ではよしよし﹂とかれは思い返して言った。
﹁ま
の目は光った。でもわたしはたじろがなかった。
た。でもそれすら、かくしにかの女のためのキャンデー
た一人赤んぼうのケートが、わたしのかまうことを 許 し
の愛
情 を感じていた全家族はわたしに 背中 を向けた。たっ
こうしてわたしがイギリスへ 上陸 したとき、あれほど
ことは 忘 れなかった。
にあつかった。そのくせ 毎晩 わたしから金を取り立てる
まいばん
か、みかんの一つ持ち合わせないときには、 冷淡 にそっ
あいじょう
わす
ごまかし
ぽを向いてしまった。
じょうりく
わたしははじめマチアの言ったことを耳に入れようと
うたが
せなか
わたしは二人の子どもにげんこつを見せていた。わた
はしなかったが、だんだんすこしずつ、わたしはまった
つ
しはかれらにものを言うことはできなかったが、でもか
くこのうちの者ではないのではないかと 疑 い始めた。わ
ゆる
れらはわたしの様子で、このうえわたしの犬をどうにか
たしはかれらに対してこれほどひどくされるようなこと
れいたん
すれば、わたしにひどい目に会うであろうと思った。わ
たたか
はなにもしなかった。
ほ ご
たしはカピを 保護 するためには、かれら二人と 戦 うつも
ひと
ごと
マチアはわたしがそんなにがっかりしているのを見て、
よ
りでいた。
のこ
そ
ふ
り言 独 のように言った。
ぞうお
その日からうちじゅうの者は 残 らず、大っぴらでわた
よ
﹁ぼくはバルブレンのおっかあから、早くどんな着物を
はらだ
しに対して憎
悪 を見せ始めた。 祖父 はわたしがそばに 寄 きみが着ていたか言って 寄 こすといいと思うがなあ﹂
れい
ると、 腹立 たしそうにつばをはいてばかりいた。男の子
とうとうやっとのことで、手紙が来た。 例 のとおりお
だいひつ
と上の妹はかれらにできそうなあらゆるいたずらをした。
寺のぼうさんが代
筆 をしてくれた。それにはこうあった。
む し
父親と母親はわたしを 無視 して、いてもいない者のよう
136
﹁小さいルミよ。お手紙を読んでおどろきもし、悲しみも
ださい。雌牛もたいそうじょうぶで、 相変 わらずいい乳 じゅうのおくり物 残 らずもらったと同様です。 喜 んでく
よろこ
しました。バルブレンの話と、あなたが拾われたとき着
を出しますから。このごろではごく気楽にくらしていま
のこ
ていた着物から、あなたがよほどお金持ちのうちに生ま
す。その雌牛を見るたんびにあなたとあなたのお友だち
やさ
ちち
れたこととわたしは思っていました。その着物はそのま
のマチアのことを思い出さないことはありません。とき
あいか
まそっくり、しまってありますから、いちいち言うこと
どきはお 便 りを寄 こしてください。あなたはほんとに 優 よ
はわけのないことです。あなたはフランスの赤子のよう
しい、いい子です。どうかせっかくうちを見つけたのだ
のぞ
たよ
に、おくるみにくるまってはいませんでした。イギリス
から、おうちのみなさんがあなたをかわいがるようにと、
あさ
の子どものように、長い上着と下着を着ていました。白
あなたの 養母 ようぼ
そればかり 望 んでいます。ではごきげんよろしゅう。
ぬいはく
ご
バルブレンの後
家 より﹂
け
いフランネルの上着にたいそうしなやかな 麻 の服を重ね、
きぬ
白い 絹 でふちを取って、美しい白の 縫箔 をしたカシミア
きぬ
の外とうを着ていました。またかわいらしいレースのボ
なつかしいバルブレンのおっかあ。かの女は自分がわ
ンネットをかむり、それから小さい 絹 のばらの花のつい
た白い毛糸のくつ下をはいていました。それにはどれも
たしを愛 したようにだれもわたしを愛さなくてはならな
あい
はありませんが、 印 膚 につけていたフランネルの上着に
いと思っているのだ。
しるし
はだ
は 印 がありました。でもその印はていねいに切り取られ
﹁あの人はいい人だ﹂とマチアは言った。
﹁じつにいい人
しるし
ていました。さて、ルミ、あなたにご返事のできること
だ。ぼくのことも思っていてくれる。さあ、これでドリ
く
はこれだけですよ。やくそくをしなすったりっぱなおく
スコルさんがどう言うか、見たいものだ﹂
わす
り物のできないことを 苦 にやむことはありません。あな
﹁父さんは品物の細かいことは 忘 れているかもしれない﹂
ちょきん
めうし
たの 貯金 で買ってくれた 雌牛 は、わたしにとっては世界
137
にしよう﹂
﹁とにかくなんと言うか、聞いて、それから考えること
が手ががりだもの﹂
親が 忘 れるものか。だってまたそれを見つけるのは着物
﹁どうして子どもがかどわかされたとき着ていた着物を、
の 頭字 がついていたが、それはおまえをぬすんだ女が切
ち二枚 までは、F ・
D 、すなわちフランシス・ドリスコル
箔 のあるカシミアの外とうを着ていた。その着物のう
縫
スのボンネットに、白い毛糸のくつ下と、それから白い
話しだした。
﹁おまえはフランネルの服と麻 の服と、レー
﹁おまえがぬすまれて行ったとき﹂とかれはそろそろと
しつもん
まい
かしらじ
さぐ
ほんやく
あさ
わたしがぬすまれたとき、どんな着物を着ていたか、こ
り取ってしまったそうだ。そのわけは、そうすれば手が
わす
れを父親にたずねるのは 容易 なことではなかった。なん
かりがないと思ったからだ。なんならおまえの 洗礼証書 かんたん
ぬいはく
の下心なしにぐうぜんこの 質問 を発するなら、それはい
をしまっておいたから、それを見せてあげよう﹂
エフ デ ー
たって 簡単 なことであろう。ところが 事情 がそういうわ
かれは引き出しを 探 って、すぐと一枚の大きな紙を出
ようい
けでは、わたしはおくびょうにならずにはいられなかっ
して、わたしに手わたしをした。
ゆうき
さいご
せんれいしょうしょ
た。
﹁よかったらマチアに翻
訳 させください﹂とわたしは 最後 じじょう
さてある日、 冷 たいみぞれが降 って、いつもより早く
の 勇気 をふるって言った。
ふ
うちへ引き上げて来たとき、わたしは両うでに 勇気 をこ
﹁いいとも﹂
つめ
めて、長らく心にかかっている問題の口を切った。
マチアがそれをできるだけよく翻訳した。それで見る
ゆうき
わたしの 質問 を受けると、父親はじっとわたしの顔を
と、わたしは八月二日の木曜日に生まれたらしい。そし
しつもん
見つめた。けれどわたしはこの場合できそうに思ってい
てジョン・ドリスコルおよびその 妻 マーガレット・グラ
いじょう
しょうこ
つま
た以
上 だいたんに、かれの顔を見返した。するとかれは
ンデのむすこであった。
びしょう
にっこりした。その 微笑 にはどことなくとげとげしいざ
この上の 証拠 をどうして求 めることができようか。
もと
んこくな様子が見えたが、でも微笑は微笑であった。
138
だけの金があったろう。 旅商人 というものは、そんなに
子どもにレースのボンネットや、 縫箔 の外とうを着せる
と、マチアは言った。
﹁でもどうして 旅商人 風
情 が、その
﹁これはみんなもっともらしい﹂とその 晩 車の中に帰る
からながめることができなかった。かれは疑い 得 る⋮⋮
地 なく証
余
明 された。わたしはそれをマチアと同じ立場
ドリスコル氏 がわたしの父親だということは、もはや疑 う
わたしはそんな考えを持つのはまちがっていると感じた。
同様な 想像 をしたかもしれなかったが自分の位置として
そうぞう
金のあるものではないさ﹂
けれどわたしは 疑 ってはならない。かれがなんでも自分
ばん
﹁旅商人だから、そんな品物をたやすく手に入れること
の思うことを、わたしに信 じさせようと努 めると、わたし
ぬいはく
たびあきんど ふ ぜ い
ができたのだろう﹂
はかれにだまっていろと言い聞かせた。けれどもかれは
しょうめい
がんきょう
ごうじょう
ふいはく
こんなん
うたが
マチアは口ぶえをふきふき首をふっていた。それから
なかなか 頑強 で、その強
情 にいつも打ち勝つことは 困難 し
また小声で言った。
であった。
ち
﹁きみはあのドリスコルの子どもではないが、ドリスコ
﹁なぜきみだけ色が黒くって、うちのほかの人たちは色
よ
ルがぬすんで来た子どもなのだ﹂
が白いのだ﹂とかれはくり返して、その点を問いつめよ
たびあきんど
わたしはこれに答えようとしたが、かれはもうずんず
うとした。
しつもん
え
ん寝
台 の上にはい上がっていた。
﹁どうしてびんぼう人がやわらかなレースや、 縫箔 を赤
はんもん
うたぐ
んぼうに着せることができたか﹂これがもう一つたびた
ぎゃく
つと
びくり返される 質問 であった。するとわたしはこちらか
そうさく
しん
アーサのおじさん︱︱︱ジェイムズ・ミリガン
ら 逆 に反
問 して、 わずかにこれに答えることができた。
ねだい
氏 あの人たちにとってわたしが子でないならば、なぜぼく
し
を 捜索 したか。なぜバルブレンや、グレッス・アンド・
い ち
わたしがマチアの 位置 であったなら、おそらくかれと
139
﹁そんなことができるものか﹂
れは勧 めた。
﹁ぼくらは二人でフランスへ帰るのがいいと思う﹂とか
かれはけっして 承服 しようとはしなかった。
マチアはわたしの反
問 に返事ができなかったけれども、
ガリーに金をやったか。
がはいって来た。かれは五十才ぐらいの 年輩 で、流行の
もうちへ父親を 訪 ねて来る人とは、まるでちがった紳
士 時間ばかりいたが、やがてドアをたたく音がして、いつ
父 だけが一人、二階に残 祖
っていた。わたしは父親と一
だけを一人外へ出した。 ほかの者もみんな出て行った。
からうちにいろとわたしに言いわたした。かれはマチア
ある日曜日のことであった。父親はきょうは用がある
しょうふく
はんもん
﹁きみは一家といっしょにいるのが 義務 だと言うのかい。
を集めた身なりをしていた。犬のようなまっ白なとん
粋 すい
わら
のこ
でもこれがきみの一家だろうか﹂
がった歯をして、 笑 うときにはそれをかみしめようとで
けっか
ふこう
そ ふ
こういうおし問答の 結果 は、一つしかなかった。それ
もするようにくちびるをあとへ引っこめた。かれはしじゅ
すす
はわたしをいままでよりもよけい 不幸 にしただけであっ
うわたしのほうをふり向いてみながら、イギリス語でわ
うたが
しんし
た。疑 うということはどんなにおそろしいことであろう。
たしの父に話しかけた。
たず
でもいくら疑うまいと思ってもわたしは疑った。わたし
それからしばらくして、かれはほとんどなまりのない
こうわたしはびっくりして答えた。
ねんぱい
が自分にはうちがないと思って、あれほど悲しがって 泣 フランス語で話し始めた。
む
いていたじぶん、こうしてうちができた今日かえってこ
﹁これがきみの話をした子どもか﹂とかれは言った。
﹁な
ぎ
れほどの 失望 におちいろうとはだれが思ったろう。どう
かなかじょうぶそうだね﹂
むね
な
したらわたしはほんとうのことがわかるだろう。そう考
﹁だんなにごあいさつしろ﹂と父親がわたしに言った。
しつぼう
えて、いよいよ胸 にせまってくるとき、わたしは歌を歌っ
﹁ええ、ぼくはごくじょうぶです﹂
わら
つら
て、おどりをおどって、 笑 って、しかめっ 面 でもするほ
かはなかった。
140
﹁三年まえです。ぼくは一
晩 寒い中でねました。いっしょ
﹁はあ、それはいつだね﹂
﹁一度 肺炎 をやりました﹂
﹁おまえは病気になったことはなかったか﹂
父親は帰って来て、
﹁行きたければ外へ出てもいい﹂と
あんな人の所へなんか行くものか。
家来にもなりたくない。まして 初 めっからきらっている
れなければならないのかしら。いやだ。わたしはだれの
れるつもりなのかしら。わたしはマチアともカピとも 別 わか
にいた親方はこごえて死にましたし、ぼくは肺炎になり
わたしに言った。わたしは 例 のうまやの車の中へはいっ
はいえん
ました﹂
て行った。するとそこにマチアがいたので、どんなにびっ
はじ
﹁それからからだの具合はなんともないか﹂
くりしたろう。かれはそのとき指をくちびるに当てた。
ひとばん
﹁ええ﹂
﹁うまやのドアを開けたまえ﹂ とかれは小声で言った。
﹁ぼくはそっとあとから出て行くからね。ぼくがここにい
れい
﹁つかれることはないか、ねあせは出ないか﹂
﹁ええ。つかれるのはたくさん歩いたからです。けれど
たことを知られてはいけない﹂
おうらい
ま
ほかに具合の悪いところはありません﹂
わたしはけむに 巻 かれて、言われるとおりにした。
よ
むね
かれはそばへ 寄 ってわたしのうでにさわった。それか
﹁きみはいま父さんの所へ来た人がだれだか、知ってる
せなか
ら頭を心
臓 にすりつけた。今度は背
中 と 胸 にさわって、大
かい﹂とかれは往
来 へ出ると、目の色を変 えてたずねた。
しんぞう
きく息をしろと言った。かれはまたせきをしろとも言っ
﹁あれがジェイムズ・ミリガン 氏 だよ。きみの友だちのお
か
た。それがすむと、かれは長いあいだわたしの顔を見た。
じさんだよ﹂
がお
し
そのときわたしはかれがかみつこうとするのだと思った
わたしはしき石道のまん中に行って、ぽかんとかれの
わら
ほど、かれの歯はおそろしい 笑 い顔 のうちに光った。し
顔をながめた。かれはわたしのうでをつかまえてあとか
ぱ
ばらくしてかれは父親といっしょに出て行った。
ら 引 っ張 った。
ひ
これはなんのわけだろう。あの人はわたしをやとい入
141
サがこのうえ生きようとは思えない。それができれば 奇跡 きせき
﹁ぼくは一人ぼっちで出かける気にならなかった﹂とか
というものだ。おれは奇跡を心配しない。あれが死ねば、
つづ
れは続 けた。
﹁だからねむるつもりであすこへはいった。
あの 財産 の相
続人 はおれのほかにはないのだ﹄
まか
そうぞくにん
だがぼくはねむれずにいた。するうちきみの父さんと一
﹃ご心配なさいますな。わたしが見ています﹄とドリス
しんし
ざいさん
人の紳
士 がうまやの中へはいって来た。その人たちの言
コルさんが言った。
のこ
うことを 残 らずぼくは聞いたのだ。はじめはぼくも聞く
﹃ああ、おまえに任 せておくよ﹄とミリガン 氏 が答えた﹂
し
耳を立てるつもりではなかったが、のちにはそれをしず
これがマチアの話すところであった。
はじ
にいられないようになった。
マチアのこの話を聞きながら、わたしの初 めの考えは、
しんし
﹃どうして、岩のようにじょうぶだ﹄とその 紳士 が言っ
父親にすぐたずねてみることであったが、立ち聞きをさ
はいえん
れたことを知らせるのは、かしこいしかたではなかった。
きけん
た。
﹃十人に九人までは死ぬものだが、あれは 肺炎 の 危険 を通りこして来た﹄
ミリガン 氏 は父親と打ち合わせる仕事があるとすれば、
し
﹃おいごさんはどうですね﹄ときみの父さんがたずねた。
みつき
たぶんまたうちへ来るだろう。このつぎは向こうで顔を
すく
﹃だんだんよくなるよ。 三月 まえも医者がまたさじを投
おうらい
知らないマチアが、あとをつけることもできる。
ふじん
げた。だが母親がまた 救 った。いや、あれはふしぎな母
きょくばだん
それから二、 三日ののち、 マチアはぐうせん 往来 で、
いぜん
親だよ。ミリガン 夫人 という女は﹄
前 ガッソーの曲
以
馬団 で知り合いになったイギリス人の
ボブに出会った。わたしはとちゅうでかれがマチアにあ
まど
ぼ く が こ の 名 前 を 聞 い た と き、 ど う し て 窓 に耳をくっ
つけずにはいられたと思うか。
いさつするところを見て、ひじょうに 仲 のいいことがわ
なか
﹃ではおいごさんがよくなるのでは、あなたの仕事はむ
かった。
つづ
だですね﹄ときみの父さんがことばを 続 けた。
かれはまたすぐとカピやわたしが 好 きになった。その
す
﹃さしあたりはまずね﹄ともう一人が答えた。
﹃だがアー
142
いった場合、わたしたちのひじょうな力になったのであっ
ができた。かれはその 経験 とちえで、のちに 困難 におち
日からわたしたちはこの国に一人、しっかりした友だち
﹁ねえ、フランスへ帰ろうよ﹂とマチアは 勧 めた。
﹁いま
やれと言いわたした。
見て、まえの 晩 わたしたちにかれについて行って音楽を
ど父親はわたしたちが音楽でなかなかいい金を取るのを
ばん
た。
がいいしおどきだ﹂
こんなん
﹁なぜイギリスを旅行して歩いてはいけないのだ﹂
けいけん
﹁なぜならここにいると、きっとなにか始まるにちがいな
すす
マチアの心配
いから。それにフランスへ行けば、ミリガン 夫人 とアー
ふじん
サを見つけるかもしれない。アーサが 加減 が悪いのだと、
かげん
春の来るのはおそかったが、とうとう一家がロンドン
人 はきっと船に乗せて来るだろう。もうだんだん夏に
夫
ふじん
を去る日が来た。馬車がぬりかえられて、商品が 積 みこ
なってくるから﹂
つ
まれた。 そこにはぼうし、 肩 かけ、 ハンケチ、 シャツ、
でもわたしはかれに、どうしてもこのままいなければ
かた
着 、耳
膚
輪 、かみそり、せっけん、おしろい、クリーム、
ならないと言った。
みみわ
なんということなしにいろいろなものが 積 まれた。
その日わたしたちは出発した。その午後かれらがごく
はだぎ
馬車はもういっぱいになった。馬が買われた。どこか
わずかの 値打 ちしかない品物を売るところを見た。わた
つ
らどうして買ったか、わたしは知らなかったが、いつの
したちはある大きな村に着くと、馬車は広場に引き出さ
よく
ね う
まにか馬が来ていた。それでいっさい出発の用意ができ
れていた。その馬車の 横側 は 低 くなっていて、買い手の
そ ふ
ねだん
ひく
た。
をそそるように美しく品物がならんでいた。
欲 よこがわ
わたしたちは、いったい 祖父 といっしょにうちに残 る
﹁ 値段 を見てください。値段を見てください﹂と父親は
のこ
のか、一家とともに出かけるのか、知らずにいた。けれ
143
﹁いつまできみはこれをしんぼうしていられるのだ﹂と
マチアは気がついていた。
かれらはしかしわたしに気がつかなかったとしても、
いよいよ 推察 の当たっていることを知ったであろう。
ばでわたしがきまり悪そうな顔をしているのを見たら、
ているのをわたしは聞いた。かれらがもしそのとき、そ
品物の値
段 づけを見た往
来 の人がちょいちょいこう言っ
﹁あいつはどろぼうして来たにちがいない﹂
あさあ﹂
ありません。まるで売るんじゃない。ただあげるのだ。さ
さけんだ。
﹁こんな値段はどこへ行ったってあるものじゃ
﹁それはそうだ。けれどぼくたちはどろぼうといっしょ
ている﹂と、わたしはどもりながら 弁護 しようとした。
﹁でもぼくたちはぼくたちで自分の食べ物を買う金は取っ
思った。
て、いきなり顔をまっこうからなぐりつけられたように
わたしはついにそこまでは考えなかった。こう言われ
いか﹂
物を売って 得 た金で、三度のものを食べているのではな
見せることができよう。ぼくたちは 現 にあの人がこの品
まえられる。なにもしなくっても、どうしてその 証拠 を
をあいていなければならない。ぼくたちは二人ともつか
﹁きみが目をふさいでいれば、ぼくはいよいよ大きく目
すいさつ
べんご
さが
ろうや
しょうこ
かれは言った。
に住まっていた﹂と、マチアはこれまでよりはいっそう
げん
わたしはだまっていた。
思い切った調子で答えた。
﹁それでもし、ぽくたちが牢
屋 え
﹁フランスへ帰ろうよ﹂とかれはまた 勧 めた。
﹁なにか起
へやられればもう、きみのほんとうのうちの人を 探 すこ
おうらい
こる。もうすぐになにか起こるとぼくは思う。おそかれ
ともできなくなるだろう。それにミリガン 夫人 にも、あ
ねだん
早かれ、ドリスコルさんが、こう品物を安売りするとこ
のジェイムズ・ミリガンに気をつけるように言ってやり
すす
ろを見れば、 巡査 がやって来るのはわかっている。そう
たい。あの人がアーサにどんなことをしかねないか、き
ふじん
なればどうする﹂
みは考えないのだ。まあ行けるうちに少しも早く行こう
じゅんさ
﹁おお、マチア⋮⋮﹂
144
言った。
﹁まあもう二、三日考えさしてくれたまえ﹂とわたしは
じゃないか﹂
二、三人やくそくしたが、まぎわになってだめになった
そうとしているところであった。そのためある 音楽師 を
友だちといっしょに 競馬場 へ来て、力持ちの見世物を出
ちを見つけたので、たいそう 喜 んでいた。かれは二人の
よろこ
﹁では早くしたまえ。大男 退治 のジャックは肉のにおい
ので、あしたの 興行 は失
敗 になるのではないかと心配し
こうぎょう
しっぱい
けいばじょう
をかいだ︱︱︱ぼくは危
険 のにおいをかぎつけている﹂
ていたところであった。かれの仕事にはにぎやかな 人寄 に
いちざ
えんげい
りえき
ひとよ
おんがくし
こんなふうにして 煮 えきれずにいるうちに、とうとう
せの音楽がなければならなかった。
たいじ
ぐうぜんの事
情 が、わたしに思い切ってできなかったこ
わたしたちはそこでかれの 手伝 いをしてやろうという
きけん
とをさせることになった。それはこうであった。
ことになった。一
座 ができて、わたしたち五人の間に利
益 けいば
じじょう
わたしたちがロンドンを立ってから数週間あとであっ
を分けることになった。そのうえカピにもいくらかやる
のぞ
てつだ
た。父親は競
馬 のあるはずの町で、屋台店の車を立てよ
ことにした。ボブはカピが 演芸 の合い間に芸 をして見せ
げい
うとしていた。マチアとわたしは商売のほうになにも用
てくれることを 望 んでいた。わたしたちはやくそくがで
きて、あくる日決めた時間に来ることを申し合わせた。
けいばじょう
がないので、町からかなりへだたっていた 競馬場 を見に
行った。
おんがくし
わたしが帰ってこのもくろみを父に話すと、かれはカ
し
イギリスの競馬場のぐるりには、たいてい市場が立つこ
や
ピはこちらで入用だから、 あれはやられないと言った。
しゅるい
とになっていた。いろいろ種
類 のちがう香
具師 や、 音楽師 すいさつ
うたが
わたしはかれらがまた人の犬をなにか悪事に使うのでは
こ や
や、屋台店が二、三日まえから出ていた。
ないかと 疑 った。わたしの目つきから、父はもうわたし
は
わたしたちはあるテント 張 り小
屋 で、たき火の上に鉄
の心中を 推察 した。
きょくばだん
びんがかかっている所を通り 過 ぎると、 曲馬団 でマチア
﹁ああ、いや、なんでもないことだよ﹂とかれは言った。
す
の友だちであったボブを見つけた。かれはまたわたした
けで行って、友だちのボブさんと一かせぎやって来るが
ら、品物をかすめられてはならない。おまえたち二人だ
ばならん。きっとおおぜい回りへたかって来るだろうか
﹁カピはりっぱな番犬だ。あれは馬車のわきへ 置 かなけれ
るときに、かれらが 演芸 に使っていた大きな鉄の 棒 がマ
もう夜中を過 ぎていた。いよいよおしまいの一番をや
までもコルネをふいて、ほとんど息が出なくなった。
ちくちく 痛 んだし、かわいそうなマチアはあんまりいつ
けた。 わたしの指は何千という 続 針 でさされたように、
はり
いい。たぶんおまえのほうは夜おそくまですむまいと思
チアの足に落ちた。わたしはかれの 骨 がくじけたかと思っ
つづ
うから、そのときは﹃大がしの 宿屋 ﹄で待ち合わせるこ
たが、運よくそれはひどくぶっただけであった。骨はす
お
とにしよう。あしたはまた先へたって行くのだから﹂
こしもくじけなかったが、やはり歩くことはできなかっ
いた
わたしたちはそのまえの 晩 ﹃大がしの宿屋﹄で夜を明
た。
す
かした。それは一マイル︵約一・六キロ︶はなれたさびし
そこでかれはその晩 ボブといっしょにとまることになっ
ふうふ
ばん
ざいさん
ぼう
い街
道 にあった。その店はなにか気の 許 せない顔つきを
た。わたしはあくる日ドリスコルの一家の行く先を知ら
えんげい
した夫
婦 がやっていた。その店を見つけるのはごくわけ
なければならないので、一人﹁大がしの 宿屋 ﹂へ行くこと
やじゅう
ていしゅ
ほね
のないことであった。それはまっすぐな道であった。ただ
にした。その宿屋へわたしが着いたときは、まっくらで
やどや
いやなことは、一日つかれたあとで、かなりな道のりを
あった。馬車があるかと思って見回したが、どこにもそ
ばん
歩いて行かなければならないことであった。でも父親が
れらしいものは見えなかった。二つ三つあわれな荷車の
ふくじゅう
ゆ
ゆる
こう言えば、わたしは服
従 しなければならなかった。そ
ほかに、目にはいったものは大きなおりだけで、そのそ
かいどう
れでわたしは宿
屋 で会うことをやくそくした。
ばへ寄 ると野
獣 のほえ声がした。ドリスコル一家の 財産 けいばじょう
やどや
やどや
そのあくる日、カピを馬車に 結 わえつけて番犬におい
であるあのごてごてと美しくぬりたてた馬車はなかった。
やどや
て、わたしはマチアと競
馬場 へ急いで行った。
わたしは 宿屋 のドアをたたいた。 亭主 はドアを開けて、
よ
わたしたちは行くとさっそく、音楽を始めて、夜まで
145
146
語を使うことを 覚 えた。 わたしはかれの言ったことが、
わたしはイギリスに来てから、かなりうまくイギリス
しまった。
ないとせきたてた。それでぴしゃりとドアを立てきって
かけろと言って、もうすこしでもぐずぐずしてはいられ
両親はもうルイスへ向けて立ったから、急いであとを追っ
れはわたしを見
覚 えていたが、中へ入れてはくれないで、
ランプの明かりをまともにわたしの顔にさし向けた。か
かれはこう言って、わたしのえりをつかんだ。
﹁ではいっしょに来い。おまえを 拘引 する﹂
﹁そうです﹂
﹁これはおまえの犬か﹂と 巡査 がたずねた。
ほうへとんで来て、うでの中にだきついた。
いと引っ張った。そして巡査の手からのがれてわたしの
カピがわたしを見つけたしゅんかん、かれはひもをぐ
あろう。
こちらへやって来るのであった。どうしたということで
おぼ
みおぼ
はっきりわかったが、ぜんたいそのルイスがどこらに当
﹁この子を拘引するって、どういうわけです﹂とボブが
じゅんさ
たるのか、まるっきり知らなかった。よしその方角を教
火のそばからとんで来てさけんだ。
こういん
わったにしても、わたしは行くことはできなかった。マ
﹁これはおまえの兄弟か﹂
お
チアを 置 いて行くことはできなかった。
﹁いいえ、友だちです﹂
けいばじょう
わたしは痛 い足をいやいや引きずって 競馬場 に帰りか
﹁そうか。ゆうべ、おとなと子どもが二人、セント・ジョー
いた
けた。やっと苦しい一時間ののち、わたしはボブの車の
ジ寺へどろぼうにはいった。 かれらははしごをかけて、
まど
中でマチアとならんでねむっていた。
はんこう
からはいった。この犬がそこにいて番をしていた。と
窓 あさはん
あくる朝ボブはルイスへ行く道を教えてくれたので、
ころが 犯行 中おどろかされて、あわてて窓からにげ出し
ぱ
お
わたしは出発する用意をしていた。わたしはかれが 朝飯 たが、犬を寺へ置 いて行った。この犬を手がかりにして、
ひ
たし
のお湯をわかすところを見ながら、ふと目を火からはな
どろぼうは 確 かに見つかると思っていた。ここに一人い
じゅんさ
して外をながめると、カピが一人の 巡査 に引 っ 張 られて、
147
わたしはひと言も言うことができなかった。この話を
た。今度はそのおやじだが、そいつはどこにいる﹂
うでをかけた。それはあたかも、わたしをだこうとした
わたしが引かれて行くときに、マチアはわたしの首に
じゅんさ
もののようであったが、マチアにはほかの考えがあった。
よ
聞いていたマチアは、車の中から出て来て、びっこをひ
す
﹁しっかりしたまえ﹂とかれはささやいた。
﹁ぼくたちは
み
きひきわたしのそばに 寄 った。ボブは巡
査 に、この子が
きみを 見捨 てはしないよ﹂
ざいにん
人 であるはずがない、なぜならゆうべ一時までいっしょ
罪
﹁カピを見てやってくれたまえ﹂とわたしはフランス語
やどや
にいたし、それから﹁大がしの宿
屋 ﹂へ行って、そこの主
で言った。けれど 巡査 はことばを知っていた。
じゅんさ
人と話をして、すぐここへ帰って来たのだからと言った。
﹁おお、どうして﹂とかれは言った。
﹁この犬はわしが 預 す
てじょう
あず
﹁寺へはいったのは一時十五分過 ぎだった﹂と巡
査 が言っ
かる。この犬のおかげできさまを見つけたのだ。もう一
なかま
じゅんさ
た。
﹁するとこの子がここを出たのは一時だから、それか
人もこれで見つかるかもしれない﹂
じゅんさ
ら仲
間 に会って、寺へ行ったにちがいない﹂
巡査 に手
錠 をかわれて、わたしはおおぜいの目の前を
いじょう
﹁ここから町までは十五分以
上 かかります﹂とボブが言っ
通って行かなければならなかった。けれどこの人たちは
りゅうちじょう
ころ
ひゃくしょう
た。
しょうこ
わたしがまえにつかまったときの、フランスの 百姓 のよ
たし
﹁なに、かければ行けるさ﹂と巡査が答えた。﹁それに、
こういん
てきい
うに、はずかしめたりののしったりはしなかった。この人
しょうにん
こいつが一時にここを出たという確 かな証
拠 があるか﹂
たちはたいてい巡査に 敵意 を持っていた。かれらはジプ
ちんじゅつ
ろうや
やど
﹁わたしが証
人 です。わたしはちかいます﹂とボブがさ
シー族や 浮浪者 であった。どれも 宿 なしの浮浪人であっ
かた
はんじ
ふ ろ う しゃ
けんだ。
た。
じゅんさ
巡
査 は肩 をそびやかした。
今度拘
引 された 留置場 にはねぎが転 がしてはなかった。
ぼう
﹁まあ子どもが判
事 の前へ出て、自分で陳
述 するがいい﹂
これこそほんとうの 牢屋 で、 窓 には鉄の棒 がはめてあっ
まど
とかれは言った。
148
ンモックがあるだけであった。わたしはこしかけにぐっ
気を起こさせた。 部屋 にはたった一つのこしかけと、ハ
て、それを見ただけで、もうどうでもにげ出したいという
しただろうと言った。
らなかった。親切な人間らしい看守は、きっとそれはあ
引 されたあくる日、 拘
裁判所 へ 呼 ばれるということを知
うかと聞いた。 わたしはそのときまで、 イギリスでは、
ないしょう
い
よ
たりたおれて、頭を両手にうずめたまま、長いあいだじっ
わたしは 囚人 が差 し入 れの食べ物の中に、よく友だち
わ
あら
さいばんしょ
としていた。マチアとボブは、よし、ほかの 仲間 の加
勢 を
からの内
証 のことづけを見つけるという話を聞いていた。
まど
こういん
たのんでも、とてもここからわたしを 救 い出すことはで
わたしは食べ物に手がつかなかったが、ふと思いついて、
や
きそうもなかった。わたしは立ち上がって 窓 の所へ行っ
パンを割 り始めた。わたしは中になにも見つけなかった。
へ
た。鉄の格
子 はがんじょうで、目が細かかった。かべは三
パンといっしょについていたじゃがいもをも 粉 ごなにく
さ
︵約一メートル︶も 尺 厚 みがあった。下のゆかは大きな
ずしてみたが、ごくちっぽけな紙きれをも見つけなかっ
はんじ
そん
ばん
しゅうじん
石がしきつめてあった。ドアは厚い鉄板をかぶせてあっ
た。
しょうこ
しょうにん
かせい
た。どうしてにげるどころではなかった。
わたしはその 晩 ねむられなかった。つぎの朝 看守 は水
むざい
なかま
わたしはカピがお寺にいたという事実に対して、自分
のはいったかめと金だらいを持って、わたしの 部屋 には
げんじょう
すく
の無
罪 を証
拠 だてることができるであろうか。マチアと
いって来た。かれは顔を 洗 いたければ洗えと言って、こ
こうし
ボブとは、わたしが 現場 にいなかったという 証人 になっ
れから 判事 の前へ出るのだから、身なりをきれいにする
ていきょう
かんしゅ
こな
て、わたしを助けることができようか。かれらがこれを
ことは 損 にはならないと言った。しばらくしてまた 看守 しょうめい
あつ
明 することさえできたら、あのあわれな犬が、わたし
証
はやって来て、あとについて来いと言った。わたしたち
じゃく
のためにつごう悪く 提供 した無
言 の証明があるにかかわ
はいくつかろうかを通って、 小さなドアの前へ来ると、
ほうめん
へ
や
かんしゅ
かんしゅ
らず、 放免 になるかもしれない。 看守 が食べ物を持って
かれはそのドアを開けた。
はんじ
むごん
来たとき、わたしは 判事 の前へ出るのは、手間がとれよ
149
こわした。かれらは外へ 張 り番 の犬を 置 いた。一時十五
お
﹁おはいり﹂とかれは言った。
分 過 ぎにおそい通行人が寺の明かりを見つけて、すぐに
ばん
わたしのはいった 部屋 はたいへんせま苦しかった。お
寺男を起こした、五、六人、人が寺へかけつけると、犬は
は
おぜいのわやわやいうつぶやきをも聞いた。わたしのこ
はげしくほえて、どろぼうは犬をあとに 残 したまま、 窓 す
めかみはぴくぴく波を打って、ほとんど立っていること
からにげた。犬のちえはおどろくべきものであった。つ
へ や
ができないくらいであったが、そこらの様子を見ること
ぎの朝その犬を 巡査 が競
馬場 へ 連 れて行った。そこでか
にんしき
ほばく
げんじょう
の
きょうはんしゃ
てつづ
きょうかんしゃ
しゅうじんせき
まど
はできた。
れはすぐと主人を 認識 した。それはすなわち 現 に囚
人席 ついせき
のこ
部屋は大きな 窓 と、高い天
井 があって、りっぱな構 え
にいる子どもにほかならなかった。なお一人の 共犯者 に
けんじ
やどや
つ
であった。判
事 は高い台の上にこしをかけていた。その
対しては、 追跡 中であるからほどなく 捕縛 の 手続 きをす
さいばんかん
しょうげん
けいばじょう
前のすぐ下には、ほかの三人の 裁判官 がこしをかけてい
るはずである。
ほうふく
やどや
こういん
ちんじゅつ
じゅんさ
た。そのそばにわたしは 法服 を着て、かつらをかぶった
わたしのために言われたことはいたってわずかであっ
なかま
ざいじょう
まど
げん
士 といっしょにならんだ。これがわたしの 紳
弁護士 であ
た。わたしの友人たちはわたしが 現場 がいなかったとい
けんじ
かま
ることを知って、わたしはおどろいた。どうして弁護士
う証
言 をしたけれども、検
事 は、いや、寺へ行って 共犯者 てんじょう
ができたろう。どこからこの人はやって来たのだろう。
に出会って、それから﹁大がしの宿
屋 ﹂へかけて行く時間
しょうにん
ていしゅ
まど
証
人 の 席 には、ボブと二人の仲
間 、
﹁大がしの宿
屋 ﹂の
はじゅうぶんあったと言った。わたしはそれからどうし
がわ
はんじ
主 、それからわたしの知らない二、三人の人がいた。そ
亭
て犬が一時十五分ごろ寺にいたか、その理由を 述 べろと
じゅんさ
せっと う じ け ん
べんごし
れから 向 こう 側 には五、六人の人の中に、わたしを 拘引 言われた。わたしは犬はまる一日自分のそばにいなかっ
しんし
した 巡査 を見つけた。 検事 は二言三言で、 罪状 を陳
述 し
たのだから、それをなんとも言うことはできないし、わ
せき
た。セント・ジョージ寺で 窃盗事件 があった。どろぼうは
たしはなにも知らないと申し立てた。
む
おとなと子どもで、はしごを登ってはいるために、 窓 を
150
るということを 証拠 立 てようと 努 めた。かれはわたしの
で、寺男が戸を 閉 めたとき、中へ閉めこまれたものであ
わたしの弁
護士 は、犬がその日のうちに寺に 迷 いこん
その 晩 日のくれかかるまえ、わたしははっきりとコル
ならないのであろう。
て、 巡回裁判官 の前に出る 恥辱 と苦
痛 をしのばなければ
すると、わたしはその男とならんで、 囚人席 に入れられ
しゅうじんせき
ためにできるだけのことをしてくれたが、その弁護は力
ネの音を聞いた。マチアが来ているのだ。なつかしいマ
まよ
が弱かった。
チアよ。かれはじきそばに来て、わたしのことを思って
べんごし
そのとき判
事 はしばらくわたしを郡
立刑務所 へ送って
いることを知らそうとしたのであった。かれはまさしく
しょうこ だ
じゅんかいさいばん
ばん
おうらい
くつう
おいて、いずれ 巡回裁判 の回って来るまで待つことにし
の外の往
窓 来 にいるのであった。わたしは足音とおおぜ
えんげい
たし
ちじょく
ようと言いわたした。
いのぶつぶつ言う声を聞いた。マチアとボブが、きっと
じゅんかいさいばんかん
巡回裁判。わたしはこしかけにたおれた。おお、なぜ
芸 を始めているのであった。
演
し
わたしはマチアの言うことを聞かなかったのであろう。
ふとわたしはよくとおる声で、
﹁あした夜明けに﹂とフ
つと
ランス語で言う声を聞いた。わたしはそれがなんのこと
ぐ ん り つ け い む しょ
だか 確 かにはわからなかった。とにかくあしたの夜明け
はんじ
ボブ
にはしっかり気を 張 っていなければならなかった。
まど
暗くなるとさっそくわたしはハンモックにはいった。た
つ
ほうめん
きょうはんしゃ
しはい
は
判
事 が子どもを連 れて寺へはいったどろぼうの 捕縛 を
いへんつかれてはいたけれど、ねこむにはなかなか手間
けんじ
ほばく
待つために、わたしはとうとう 放免 されなかった。かれ
がとれた。そのうちやっとぐっすりねこんだ。目が 覚 め
はんじ
らはそのときになって、わたしがその男の 共犯者 である
るともう夜中であった。星は暗い空にかがやいて、 沈黙 ついせき
ちんもく
さ
かどうか 初 めて決めようと言うのである。
がすべてを 支配 していた。時計は三時を打った。わたし
はじ
かれらはただいま 追跡 中であると検
事 が言った。そう
151
かんじょう
まど
が聞こえた。もう明け方であった。
わたしは 弾丸 をわしづかみにつかんだ。それはうすい
しの足もとに落ちた。ボブの頭が消えた。
まめでっぽう
かれはわたしに 窓 からどけという合図をした。ふしぎ
わたしはごく 静 かに 窓 を開けた。なにがそこにあった
紙をまめのように小さい玉に丸めたものであった。明か
てっぽうたま
ふくじゅう
はこれで一時間、これで十五分と 勘定 していた。かべに
に思いながら、わたしは 服従 した。かれは豆
鉄砲 を口に
か。 相変 わらず鉄の格
子 と、高いかべが前にあった。わた
りがあんまり暗いので、なにが書いてあるか見えなかっ
まど
よりかかりながら、じっと目を 窓 に向けて、星が一つ一
当ててふいた。かわいらしい 鉄砲玉 が空をまって、わた
しは出ることができない。けれどばかげた考えではあっ
た。夜の明けるまで待たなければならなかった。わたし
とり
つ消えてゆくのをながめた。遠方には 鶏 がときを作る声
ても、わたしは自由になることを待ちもうけていた。
はそっと 窓 を閉 めて、小さな紙玉を手に持ったまま、ま
こうし
こどう
し
じゅんさ
ころ
だんがん
朝の風が耳がちぎれるように寒かったけれど、わたし
たハンモックに 転 がった。光の来ることのどんなにおそ
まど
まど
は窓 のそばに立ち止まって、なにを見るということなし
いことぞ。やっとわたしはその紙に書いてある文字を読
しんぞう
しず
に見て、なにを聞くということなしに耳を立てた。
むことができた。それにはこうあった。
あいか
大きな白い雲が空にうかんだ。夜明けであった。わた
﹁あしたきみは汽車に乗せられて、 郡立刑務所 へ送られ
まど
しの心
臓 ははげしく鼓
動 した。
るはずだ。 巡査 が一人ついて行くことになっている。き
そくりょく
かんじょう
ぐ ん り つ け い む しょ
するとかべをがりがり引っかく音が聞こえた。でも足
みは汽車の戸口に近い所にいたまえ。よく 勘定 していた
れんけつてん
音をすこしも聞かなかった。わたしは耳をすませた。引っ
まえ、四十五分目に汽車は 連結点 の近くで速
力 をゆるめ
あらわ
る。そのときドアを開けてとびだしたまえ。左手の小山
つづ
かく音が 続 いた。ぬっと人の頭がかべの上に現 れた。う
す暗い光の中にわたしはボブを見つけた。
を登れば、われわれはそこに待っている。しつかりやれ。
てつごうし
かれは 鉄格子 に顔をおしつけて、わたしを見た。
なによりもうまく前へとんで、足を下に着くことだ﹂
しず
﹁静 かに﹂とかれはそっと言った。
152
たほうがいい。どろぼうの宣
告 を受けて死ぬよりましだ。
んのんな仕事だ。でもそれをやり 損 なって死んでも、し
四十五分⋮⋮左手の小山⋮⋮汽車からとび下りるのはけ
わたしは書きつけを二度読み直した。汽車が出てから
人では、とてもこれだけできやしない。
くれるボブはずいぶんいい人だ。かわいそうにマチア一
りがたい、マチア。それから、ボブ。マチアに 加勢 して
助かった。わたしは 巡回裁判 の前に出ないですむ。あ
わなかった。
そう言うと 巡査 をおこらせるだろうと思って、なにも言
わたしはなにも白
状 することがないと言おうとしたが、
ルリングやる。牢 の中で金を持っていればよけい気楽だ﹂
ういうしだいの 事件 だか、話してごらん。おまえに五シ
かれは言った。
﹁法
律 をあなどらないようにしろ。まあど
﹁そうか。よし。それでは少しおまえに 相談 がある﹂と
えた。
﹁あまり早く言われなければわかります﹂とわたしは答
じゅんかいさいばん
わたしはまたもう一度書きつけを読んでから、それを
﹁まあ、よく考えてごらん﹂とかれは続 けた。
﹁で、 刑務所 じゅんさ
かんぼう
かせい
くちゃくちゃにかんでしまった。
へ行っても、向こうで、いちばん先に来た者に言わない
じけん
はくじょう
ろう
じゅんさ
そうだん
そのあくる日の午後、 巡査 は 監房 にはいって来て、す
で、わたしの所へそう言ってお 寄 こし。おまえのことを
いじょう
よろこ
ほうりつ
ぐついて来いと言った。かれは五十 以上 の男であった。わ
心配している人間のあることは、つごうのいいことだし、
そこ
たしはかれがたいしてはしっこそうでないのを見て、ま
わたしは 喜 んでおまえの加
勢 をしてやる﹂
せんこく
ずよしと思った。
わたしはうなずいた。
まど
おぼ
け い む しょ
事
件 はボブが言ったように進んで行った。汽車は走り
﹁ドルフィンさんと言ってお聞き。おまえ、名前を 覚 え
せき
つづ
出した。わたしは汽車の戸口に席 をしめた。巡査はわたし
たろうなあ﹂
よ
の前にこしをかけた。車室の中はわたしたちだけであっ
﹁ええ﹂
じゅんさ
かせい
た。
わたしはドアによりかかっていた。 窓 はあいていて、
じけん
﹁おまえはイギリス語がわかるか﹂と 巡査 はたずねた。
153
がった。わたしが正気に返ったとき、わたしはまだ汽車
いぶんひどかったから、わたしは 人事不省 で地べたに 転 へ出していたわたしの手が草にさわった。でも 震動 はず
ドアをおし開けて、できるだけ遠くへとんだ。運よく前
いよいよだいじなしゅんかんが来た。わたしは急いて
つかんだ。数分間たった。汽笛が鳴って 速力 がゆるんだ。
外へ回ってハンドルを回した。右の手でわたしはドアを
しかけのまん中へ 席 を移 した。わたしの左の手がそっと
風がふきこんだ。 巡査 はあまり風がはいると言って、こ
くらはきみが死んだと思ったよ。まったく心配したよ﹂
かけ下りて、きみをうでにひっかかえて帰って来た。ぼ
がいつまでも来ないから、ボブが馬車を下りて、小山を
だが 震動 で目が回って、みぞの中に 転 がりこんだ。きみ
﹁きみはぼくらの言ったとおりに、汽車からとび下りた。
﹁どうしたんだ﹂
﹁よし﹂とマチアは言った。﹁どこもくじきやしない﹂
わたしは手足をのばして、かれの言うとおりにした。
かせるか﹂
﹁どうだな﹂とボブが御者台から声をかけた。
﹁手足が動
じゅんさ
の中にいると思った。わたしはまだ運ばれているように
わたしはかれの手をさすった。
うつ
感じたのであった。そこらを見回して、わたしは馬車の
﹁それから 巡査 は﹂とわたしは聞いた。
せき
中に転がっていることを知った。きみょうだ。わたしの
﹁汽車はあのまま進んだ。止まらなかった﹂
あたた
した
じんじふせい
そくりょく
ほおはしめっていた。やわらかな 温 かい 舌 が、わたしを
わたしの目はまた、そばでわたしをながめている、み
ころ
なめていた。少しふり向くと、一ぴきの黄色い、みっと
にくい黄色い犬の上に落ちた。
しんどう
もない犬がわたしの顔をのぞきこんでいた。マチアがわ
それはカピに 似 ていた。でもカピは白かった。
しんどう
たしのそばにひざをついていた。
﹁なんだね、この犬は﹂とわたしはたずねた。
ころ
﹁きみは助かったよ﹂とかれは言って、犬をおしのけた。
マチアが答える間もないうちに、そのみっともない小
じゅんさ
﹁ぼくはどこにいるんだ﹂
さな動物はわたしの上にとびかかった。はげしくなめ回
ぎょしゃ
に
﹁きみは馬車の中だよ。ボブが 御者 をしている﹂
154
言えない。 もっともカピはぼくのにおいをかぎつけて、
これからどこへ行くのだとたずねた。
にくふうしてくれているあいだに、わたしは、いったい
ボブとマチアが馬車の中にうまくわたしをかくすよう
﹁だって見つからないようにさ﹂
﹁染めた、どうして﹂
がらさけんだ。
﹁きみはこわいか﹂とわたしがだまって 転 がっていると、
かなければならなかった。
夜になりかかっていた。わたしたちはまだ長い道を行
足のことを考えているひまがなかった﹂
﹁よくなったよ。たいていよくなったよ。じつはぼくは
﹁それからきみの足は﹂
ているのだ﹂
じゅつ
して、くんくん鳴いていた。
ほとんど一人で出て来た。ボブは犬どろぼうの 術 を知っ
﹁リツル・ハンプトンへ﹂とマチアが言った。
﹁そこへ行
マチアがたずねた。
わら
けば、ボブのにいさんが船を持っていて、ノルマンデーか
﹁いや、こわくはない﹂とわたしは答えた。
﹁だってぼく
そ
﹁カピだよ。絵の具で 染 めたのだよ﹂とマチアが 笑 いな
らバターと卵 を運んで、フランスの海岸を回っているの
はつかまるとは思わないから。でもにげ出すということ
じゅんさ
ころ
だ。ぼくらはなにからなにまでボブの世話になった。ぼ
が罪 になりやしないかと思うのだ。それが気になるのだ﹂
たまご
くのようなちっぽけな者が、一人でなにができよう。汽
﹁ボブもぼくも、きみを 巡回裁判 に出すぐらいなら、な
つみ
車からとび下りるくふうもボブが考えたのだ﹂
にをしてもいいと思ったからな﹂
そうさく
じゅんかいさいばん
﹁それからカピは。カピをうまく取り返したのはだれだ﹂
あれから、汽車が止まったところで、 巡査 がさっそく
たし
﹁ぼくだよ。だが、ぼくらが犬を交番から取りもどした
き
索 にかかることは 捜
確 かなので、わたしたちはいっしょ
はんじ
じゅんさ
あとで、見つからないように黄色く絵の具をぬったのは
うけんめい馬を走らせた。わたしたちの通って行く村は、
まど
ボブだった。判
事 はあの巡
査 を気が利 いていると言った。
ひじょうに 静 かであった。明かりがただ二つ三つ 窓 に見
つ
しず
だがカピを連 れて行かれるのは、あんまり気が利いたと
155
た。
からい味がした。ああ、わたしたちは海に近づいてい
塩 のあいだ寒い風がふいていた。くちびるに 舌 を当てると、
えた。マチアとわたしは 毛布 の下にもぐった。しばらく
わたしはボブに礼を言おうとしたが、かれは手短に打
を知るはずがないよ﹂
れとしよう。だれもぼくがきみをここへ 連 れて来たこと
に乗せて行ってくれるはずだ。そこでぼくはここでお 別 ﹁これがぼくの 兄貴 だ﹂とボブが言った。
﹁きみたちを船
あにき
まもなくわたしたちは、ときどき明かりのちらちらす
ち切った。わたしはかれの手をにぎった。
もうふ
るのを見つけた。それが 燈台 であった。ふとボブは馬を
﹁それは言いっこなしだ﹂とかれは軽く言った。
﹁きみた
お
わか
止めて、馬車からとび下りながら、わたしたちに待って
ち二人は、このあいだの 晩 ぼくを助けてくれた。いいこ
した
いろと言った。かれは兄弟の所へ行って、わたしたちを
とをすればいい 報 いがあるさ。それでぼくもマチアの友
かんぱん
つ
その船に乗せて、安全に向こう岸までわたれるか、様子
だちを助けてあげることができたのだから、自分でもゆ
しお
を聞きに行ったのであった。
かいだ﹂
とうだい
ボブはひじょうに遠くへ行ったらしかった。わたしは
わたしたちはボブの兄弟のあとについて、いくつか 折 ばん
口をきかなかった。すぐ間近の岸に、波のくだける音が
れ曲がった 静 かな通りを通って、 波止場 に着いた。かれ
むく
聞こえた。マチアはふるえていた。わたしもふるえてい
はひと言も口をきくことなしに、一そうの小さい 帆船 を
ば
た。
指さした。二、三分でわたしたちは 甲板 の上にいた。か
と
﹁寒いね﹂とかれはささやいた。わたしたちをふるえさ
れはわたしたちに下の小さな船室にはいれと言った。
は
せるのは寒さのためだけであったろうか。
﹁二時間すれば船を出す﹂ とかれは言った。﹁そこには
しず
やがて往
来 に足音がした。ボブは帰って来た。わたしの
いって、音のしないようにしておいで﹂
どうふく
はんせん
運命が決められた。 胴服 を着て油じみたぼうしをかぶっ
でもわたしたちはもうふるえてはいなかった。わたし
おうらい
たぶこつな顔つきの船乗りが、ボブといっしょに来た。
たちはまっ暗な中で 肩 をならべてすわっていた。
﹁おまえさんがまたイギリスへ帰りたいと思うときには﹂
船の中でねて行ってもいいと言った。
いたので、ボブの兄弟はわたしたちによければ今夜 一晩 もう、バルフルールに着いたときは、夕方おそくなって
かた
白鳥号
とそのあくる朝、わたしたちがさようならを言って、か
こうい
こうぎょう
てつだ
ひとばん
れの骨
折 りを感
謝 すると、こう言った。
﹁エクリップス号
かんしゃ
ボブの兄弟が立ち去ったあと、しばらくのあいだわた
は毎火曜日ここから 出帆 するのだから、覚 えておいで﹂
ほねお
したちは、ただ風の音と、キールにぶつかる波の音を聞く
これはうれしい 好意 であったが、マチアにもわたしに
ほね
おぼ
だけであった。やがて足音が上の 甲板 に聞こえて、 滑車 も、てんでん、この海を二度とわたりたくない⋮⋮とも
とうぼう
しゅっぱん
が回りだした。 帆 が上げられて、やがて急に一方にかし
かくも、ここしばらくはわたりたくないわけがあった。
かっしゃ
いだ。動き始めたと思うまもなく、船はあらい海の上へ
運よくわたしたちのかくしには、ボブの 興行 を 手伝 っ
かんぱん
ぐんぐんすべり出した。
てもうけたお金があった。みんなで二十七フランと五十
ほ
﹁マチア、気のどくだね﹂とわたしはかれの手を取った。
サンチームあった。マチアはボブに二十七フランを、わ
たしたちの 逃亡 のために骨 を折 ってくれた礼にやりたい
お
﹁かまわないよ。 助かったのだから﹂ とかれは言った。
よ
と思ったが、かれは一スーの金も受け取らなかった。
す
そのあくる日、わたしは船室と 甲板 の間に時間を 過 ご
﹁さてどちらへ出かけよう﹂わたしはフランスへ 上陸 す
かんぱん
した。マチアは一人うっちゃっておいてもらいたがった。
るとこう言った。
じょうりく
とうとう船長が、あれがバルフルールだと指さしてくれ
﹁運
河 について行くさ﹂とマチアはすぐに答えた。
﹁ぼく
うんが
たとき、わたしは急いで船室に下りて、かれにいい知ら
は考えがあるのだ。ぼくはきっと白鳥号がこの夏は運河
つた
せを伝 えようとした。
﹁船に 酔 ったってなんだ﹂
156
157
に出ていると思うよ。アーサが悪いのだからね。ぼくは
けん浴 石 をやった。幸いノルマンデーは小川の多い地方
れでかれをもとの色に返すまでには、ずいぶんたびたび
よく
きっと見つかるはずだと思うよ﹂とかれは言い足した。
であったから、毎日わたしたちは根気よく行水をつかっ
ぜんと
せっ
﹁でもリーズやほかの人たちは﹂とわたしは言った。
てやった。
さが
﹁ぼくたちはミリガン 夫人 を探 しながら、あの人たちに
わたしたちはある朝小山の上に着いた。わたしたちの
う人ごとにたずね始めた。あのろうかのついた美しい船
ふじん
も会える。運
河 をのぼって行きながらとちゅう止まって
途 に当たって、セーヌ川が大きな曲線を作って流れて
前
すと、それはセーヌ川であることがわかった。
の白鳥号を見たことはないか︱︱︱だれもそれを見た者は
うんが
リーズをたずねることができる﹂
いるのを見た。それから進んで行って、わたしたちは会
﹁ぼくたちはセーヌ川をのぼって行って、とちゅう岸で
なかった。きっと夜のうちに通ってしまったのかもしれ
さが
わたしたちは持って来た地図で、いちばん近い川を 探 会う船頭に片 っぱしから白鳥号を見たかたずねようじや
なかった。わたしたちはそれからルーアンへ行った。そ
かた
ないか。きみの話では、その船はだいぶなみの船とはち
こでもまた同じ問いをくり返したが、やはりいい 結果 は
しつもん
けっか
がうようだから、見れば 覚 えているだろうよ﹂
られなかった。でもわたしたちは失
得 望 しないで、一人
おぼ
これからおそらく 続 くかもしれない長い 旅路 にたつま
ひとりたずねながらずんずん進んだ。
れい
しつぼう
えに、わたしはカピのからだを 洗 ってやるため、やわら
行く道みち食べ物を買う金を取るために、足を止めな
え
かい石けんを買った。わたしにとっては、黄色いカピは、
ければならなかったから、やがてパリの 郊外 へ着くまで
たびじ
カピではなかった。わたしたちは代わりばんこにカピを
は五日間かかった。
つづ
つかまえては、かれがいやになるまでよく洗ってやった。
幸いシャラントンに着くと、まもなくどの方角に向かっ
あら
でもボブの絵の具は上等な絵の具で、洗ってやってもや
ていいか見当がついた。さっそく 例 のだいじな質
問 を出
こうがい
はり黄色かった。だがいくらか青みをもってはきた。そ
158
ぎきっていた。とつぜんダンスをやめて、ヴァイオリン
ちの中で 舞踏曲 をやることになったので、たいへんはしゃ
わたしたちは岸の近くに下りてみた。マチアは船頭た
た、というのであった。
が、左のほうへ曲がって、セーヌ川をずんずん上って行っ
取った。白鳥号に 似 た大きな遊
山船 が、この道を通った
すと、 初 めてわたしたちは待ちもうけていた返答を受け
ちリーズのいる近所を通りかけていた。わたしはかの女
だセーヌ川について行けばいいのだ。わたしたちは道み
がわたしたちの先に立って進んで行く。わたしたちはた
いちいち立ち止まって人に聞く 必要 はなかった。白鳥号
細かく 解剖 することができなかった。わたしたちはもう
もしれない。けれどわたしは自分の心を自分自身にすら
ひじょうに大きな 希望 を持っていることを打ち明けたか
わたしに 勇気 があれば、マチアに向かって、わたしが
ゆうき
を持って、マチアは気ちがいのように 凱旋 マーチをひい
がその家のそばの岸を船の通るとき、見ていなかったろ
はじ
た。かれがひいているまに、わたしはその船を見たとい
うかと 疑 った。
うたが
きぼう
う男によくたずねた。疑 いもなくそれは白鳥号であった。
夜になっても、わたしたちはけっしてつかれたとは言
ゆさんぶね
なんでもそれはふた月ほどまえ、シャラントンを通って
わなかった。そしてあくる朝は早くから出かける仕度を
に
行った。
していた。
かいぼう
ふた月か。なんという遠い話であろう。だがなにをちゅ
﹁ぼくを起こしてくれたまえ﹂とねむることの 好 きなマ
けんやく
あらものや
ひつよう
うちょすることがあろう。わたしたちにも足がある。向
チアは言った。
ぶとうきょく
こうも二ひきのいい馬の足がある。でもいつか追い着く
それでわたしが起こすと、かれはすぐにとび起きた。
がいせん
であろう。ひまのかかるのはかまったことではない。な
倹
約 するためにわたしたちは 荒物屋 で買ったゆで卵 と、
うたが
によりだいじな、しかもふしぎなことは、白鳥号がとう
パンを食べた。でもマチアはうまいものはたいへん 好 ん
す
とう見つかったということであった。
でいた。
この
たまご
﹁ねえ、まちがってはいなかった﹂とマチアがさけんだ。
ふじん
たしたちが行くかわかっているらしいカピは、先に立っ
いきお
﹁どうかミリガン 夫人 が、そのタルトをうまくこしらえ
て勢 いよく走った。かれはわたしたちの来たことをリー
りょうりばん
る料
理番 をまだ使っているといいなあ﹂とかれは言った。
だれもあの美しい 小舟 を見たし、あの親切なイギリスの
水門にかかって、わたしたちは白鳥号の 便 りを聞いた。
のみにしたように口を開いた。
﹁へええ﹂こう言ってマチアはまるでタルトを一口にう
﹁はたんきょうさ﹂
んだね﹂
ムの上にいっぱいくっついている、白い小さなものはな
のタルトは知らない。見たことはあるよ。あの黄色いジャ
﹁ぼくはりんごのタルトを食べたことはあるが、あんず
﹁きみはそれを食べたことがあるかい﹂
マチアとわたしはあきれて顔を見合わせた。わたした
﹁なにエジプトへ﹂
言った。﹁エジプトに行っていますよ﹂
﹁あの人はもうここにはいませんよ﹂とやっとかの女は
言わないばかりに、わたしたちの顔をながめた。
しばらくのあいだかの女は、ばかなことを聞くよ、と
ずねた。
﹁シュリオのおかみさんはどうしました﹂とわたしはた
知らない女の人が一人立っているだけであった。
けれどもわたしたちがその家に着いたとき、戸口には
をむかえに来るだろう。
ズに知らせようとしたのであった。かの女はわたしたち
人 と、 婦
甲板 の上のソファにねむっている子どものこと
ちはほんとうにエジプトのある 位置 をよくは知らなかっ
たよ
を話していた。
たが、それはぼんやりごくごく遠い海をこえて向こうの
こぶね
わたしたちはリーズの家の近くに来た。もう二日、そ
ほうだと思っていた。
かんぱん
れから一日、それからあとたった二、三時間というふう
﹁それからリーズはどうしたでしょう。知っていますか﹂
ふじん
に近くなってきた。やがてその家が見えてきた。わたし
﹁ああ、小さなおしのむすめだね。そう、あの子は知っ
い ち
たちはもう歩いてはいられない。かけ出した。どこへわ
﹁あんずのタルトはきっとおいしいにちがいない﹂
159
160
﹁まあ、シュリオさんは、水で死にましたよ⋮⋮﹂
﹁ええ﹂
﹁おまえさん、ルミさんかい﹂とそのとき女はたずねた。
顔を見合った。
ゆめを見ているのではないか。マチアとわたしはまた
﹁へえ、リーズが白鳥号に﹂
きましたよ﹂
ているよ。あの子はイギリスのおくさんと船に乗って行
いた。でもマチアはわたしのようにぼんやりはしなかっ
わたしはなんと言おうか、ことばの出ないほどおどろ
うだ。それだけですよ﹂
こうこう言ってくれということづけをたのんで行ったそ
がおばさんに、 もしおまえさんがここへ 訪 ねて来たら、
らと言った。それでいよいよたって行くときに、リーズ
が 治 っていつか口がきけるようになろうということだか
おくさんの言うのには、この子を医者にみせたら、おし
リーズをもらって行って、教育してみようと言ったのさ。
なお
﹁ええ、水で死んだ﹂
た。
たず
﹁そう、あの人は水門に落ちて、くぎにひっかかって死ん
﹁そのイギリスのおくさんはどこへ行ったでしょう﹂
せん
だのだ。それから気のどくなおかみさんはどうしていい
﹁スイスへね。リーズはわたしの所に向けて、おまえさ
ふじん
よ
かわからずにいた。するとあの人が 先 におよめに来るま
んにあげるあて名を書いて 寄 こすはずだったが、まだ手
ほうこう
えに 奉公 していたおくさんが、エジプトへ行くというの
ば
紙は受け取らないよ﹂
う
で、そのおくさんにたのんで子どもの 乳母 にしてもらっ
こま
た。そうなるとリーズはどうしていいかわからずに 困 っ
しょうこ
ていたところへ、イギリスのおくさんと病身の子どもが
生きた 証拠 うんが
船に乗って運
河 を下りて来た。そのおくさんと話をして
さが
ひと
いるうち、おくさんはいつも 独 りぼっちでたいくつして
あいて
﹁さあ、進め、子どもたち﹂ 婦人 に礼を言ってしまうと、
あそ
いるむすこさんの 遊 び 相手 を 探 しているところなので、
161
わたしたちはそれからまた白鳥号 探索 の旅を 続 けた。
たものではないなあ﹂
んという幸せだ。どういう回り合わせになるか、わかっ
ガン 夫人 だけではなく、リーズまでいっしょなのだ。な
﹁こうなるとぼくたちがあとを追うのは、アーサとミリ
マチアがこうさけんだ。
したちは 河岸 についてかけ出した。どうしたということ
たとき、どんなにわたしはびっくりしたであろう。わた
するとそのつぎの町でふと白鳥号の 姿 を遠くに見つけ
でスイスへ行ったものと思っていた。
らなかった。わたしたちはミリガン 夫人 がまっすぐに船
ヌ川からジュネーヴの湖水までは船が通らないことを知
追い着くかもしれないと思った。そのときはまだ、ロー
すがた
ふじん
ただ夜とまって、ときどきすこしの金を取るだけに足を
だ。 小舟 の上はどこもここも 閉 めきってあった。ろうか
ふじん
止めた。
の上に花もなかった。 アーサはどうかしたのかしらん。
かんじょう
つづ
﹁スイスからはイタリアへ出るのだ﹂とマチアが 感情 を
わたしたちはおたがいに同じようなしずみきった顔を見
たんさく
こめて言った。
﹁もしミリガン夫
人 を追いかけて行くうち
合わせながら立ち止まった。
か し
に、ルッカまで出たら、ぼくの小さいクリスチーナがど
するとそのとき船を 預 かっていた男がわたしたちに、
あい
つづ
し
んなにうれしがるだろうな﹂
イギリスのおくさんは病人の子どもと、おしの小むすめ
お
こぶね
気のどくなマチア、かれはわたしのために、わたしの 愛 を 連 れてスイスへ出かけたと言った。かれらは一人女中
ふじん
する人たちを 探 すことに骨 を折 っている。しかもわたし
を連れて、馬車に乗って行った。あとの家来は荷物を 運 あず
はかれを小さな妹に会わせるためにはすこしも骨を折っ
びながら、 続 いて行った。
たよ
つ
てはいないのだ。
これだけ聞いて、わたしたちはまた息が出た。
ほね
リヨンで、わたしたちは、白鳥号の 便 りを聞いた。そ
﹁それでおくさんはどちらに行かれたのでしょう﹂とマ
さが
れはほんの六週間わたしたちよりまえにそこを通ったの
チアがたずねた。
はこ
であった。それではいよいよスイスまで行かないうちに
162
わたしたちはヴヴェーに向かって出発した。もう向こ
すことになっているのだ﹂
のへんだかわからない。なんでも夏はそこへ行ってくら
﹁おくさんはヴヴェーに 別荘 を持っておいでだ。だがど
る人はわたしたちを山の 中腹 に造 りかけた 別荘 へ行かせ
聞いて、返事をしてくれそうな人にたずねて歩いた。あ
て、しじゅう 往来 の人の顔つきをのぞいたり、ことばを
わたしたちは湖水から山へ、山から湖水へ、右左を見
歩いた。けれどまだミリガン 夫人 の手がかりはなかった。
ふじん
うはずんずん歩いて行く旅ではない、足を止めているの
た。また一人は、その人たちは湖水のそばに住んでいる
べっそう
だから、ヴヴェーへ行って 探 せば、きっとわかる。
と断
言 した。なるほど山の別荘に住んでいるのもイギリ
おうらい
こうしてわたしたちがヴヴェーに着いたときには、か
スのおくさんであった。湖水のそばに家を持っていたの
ふじん
れい
た
せつ
おうらい
べっそう
くしに三スーの金と、かかとをすり切った長ぐつだけが
もイギリスのおくさんであったが、わたしたちのたずね
その
つく
った。でもヴヴェーは思ったように小さな村ではなかっ
残 るミリガン 夫人 ではなかった。
おもや
こうた
ちゅうふく
た。それはかなりな町で、ミリガン 夫人 はとか、病人の
ある日の午後、わたしたちは 例 のとおり 往来 のまん中
さが
子どもとおしのむすめを 連 れたイギリスのおくさんはと
で音楽をやっていた。そこに大きな鉄の門のある家があっ
だんげん
か言ってたずねたところで、いっこうばかげていること
た。母
屋 は園 のおくに引っこんで建 っていた。前には石の
のこ
がわかった。ヴヴェーにはずいぶんたくさんのイギリス
かべがあった。わたしはありったけの高い声で歌を歌っ
ふじん
人がいた。その場所はほとんどロンドン近くの 遊山場 に
ていた。例のナポリの 小唄 の第一 節 を歌って第二節にか
つ
よく似 ていた。いちばんいいしかたは、あの人たちが住
かろうとしていたとき、か細いきみょうな声で歌う声が
ゆさんば
んでいそうな家を一けん一けん 探 して歩くことである。
した。だれだろう。なんというふしぎな声だろう。
に
そしてそれはたいしてむずかしいことではないであろう。
﹁アーサじゃないかしら﹂とマチアが聞いた。
さが
わたしたちはただ町まちで音楽をやって歩けばいいのだ。
えんげい
﹁いいや、アーサではない。ぼくはこれまであんな声を
こん
それで毎日根 よくほうぼうへ出かけて、 演芸 をやって
163
おさえることができなくなってさけんだ。
﹁だれが歌を歌っているのだ﹂と、わたしはもう自分を
かかっていた。
喜 の 歓
表情 のありったけを見せて、かべに向かってとび
けれどそのうちカピがくんくん言い始めた。はげしい
聞いたことがなかった﹂
ろう、それはたぶんはげしい感動の場合だと言っていた
医者は、いつかリーズがかの女のことばを取り返すだ
リーズが歌っていた。リーズが話しかけていた。
﹁わたしよ﹂とリーズが答えた。
なり持ち出した 質問 であった。
これがマチアもわたしも、やっとことばが出るといき
﹁でもだれが歌を歌ったのだろう﹂
きせき
しつもん
﹁ルミ﹂と、そのときそのきみょうなか細い声がさけん
が、わたしはそんなことができるはずがないと思ってい
よ
ひょうじょう
だ。いまのわたしのことばに返事をする代わりに、わた
た。でも目の前に 奇跡 は行われた。そしてそれはわたし
かんき
しの名前を呼 んだのだ。
がかの女の所に来て、いつも歌い 慣 れたナポリ小
唄 を歌
かいふく
こうた
マチアとわたしはかみなりに打たれたようにおたがい
うのを聞いて、 はげしい感動を起こしたしゅんかんに、
な
に顔を見合わせた。わたしたちがあっけにとられて、て
かの女がその声を 回復 したことがわかった。わたしはそ
ふじん
の
んでんの顔を見合ったまま立っていると、かべの向こう
う思って、深く心を打たれたあまり、両手を 延 ばしてか
まい
む
にハンケチが一 枚 ひらひらしているのが見えた。わたし
らだをまっすぐにした。
その
たちはそこへかけ出して行った。わたしたちは、 園 の向 ﹁ミリガン 夫人 はどこにいるの﹂ とわたしはたずねた。
﹁それからアーサは﹂
がわ
めてハンケチをふっている人を見つけた。
初 リーズはくちびるを動かしたが、ほんの聞き取れない
ま
こう 側 を取り 巻 いているかきねのそばまで行ってみて、
﹁リーズだ﹂
音を出しただけで、じれったくなって、いつもの手まね
はじ
とうとうわたしたちはかの女を見つけた。もう遠くな
のことばになった。かの女はまだことばをほんとうに出
ふじん
い所にミリガン 夫人 も、アーサもいるにちがいなかった。
164
ガン氏 がいた。
いた。そしてもう一つこちらには⋮⋮ジェイムズ・ミリ
用のねいすにねているのを見た。そのそばに母の 夫人 が
かの女はそのとき 園 を指さした。そこにアーサが病人
すだけに 器用 に 舌 が働 かなかった。
た。
はかれを出してやったのが、 失敗 ではなかったかと 疑 っ
わたしは長いあいだマチアを待った。十何度も、わたし
なれた大きなくりの木のかげに待っていることにした。
れを出してやった。わたしはしばらくのあいだ、少しは
マチアの言うところに道理があったので、わたしはか
はたら
こわくなって、 実際 戦
慄 して、わたしはかきねの後ろ
やっとのことで、わたしはかれがミリガン 夫人 を連 れ
した
にはいこんだ。リーズはわたしがなぜそんなことをする
てもどって来るのを見た。わたしはあわてて夫人のほう
きよう
か、ふしぎに思ったにちがいない。そのときわたしは手
へかけて行って、 わたしに 差 し出された手をつかんで、
じっさいせんりつ
その
まねをして、かの女に向こうへ行かせた。
その上にからだをかがめた。しかしかの女は両うでをわ
ふじん
﹁おいで、リーズ。それでないとぼくが、 災難 に会うか
たしのからだに回して、こごみながら 優 しくわたしの 額 ふじん
ごと
ひたいがみ
ひと
ひたい
つ
うたが
ら﹂とわたしは言った。
﹁あした九時にここへおいで。一
にキッスした。
しっぱい
人でだよ。そのとき話してあげるから﹂
﹁まあ、どうおしだえ﹂と 夫人 はつぶやいた。
し
かの女はしばらくちゅうちょしたが、やがて園へはいっ
夫人は美しい白い指で、わたしの 額髪 をなでて、長い
ふじん
やさ
ふじん
て行った。
あいだわたしの顔を見た。
さ
﹁ぼくたちはミリガン夫
人 に話をするのをあしたまで待っ
﹁そうだそうだ﹂とかの女は優 しく独 り言 をささやいた。
さいなん
ていてはいけない﹂ とマチアが言った。﹁こう言ううち
わたしはあまり幸福で、ひと言もものが言えなかった。
やさ
もあの悪おじさんがアーサを 殺 しかねない。あの人はま
﹁マチアとわたしは長いあいだお話をしましたよ﹂とか
ころ
だぼくの顔は知らないのだから、ぼくはすぐにミリガン
の女は言った。
﹁でもわたしはあなたがどうしてドリスコ
ふじん
人 に会いに行って話をする﹂
夫
165
わたしはかの女に問われるままに答えた。そしてかの
いと思うのですよ﹂
ルのうちへ行くようになったか、あなたの口から聞きた
だいろいろなことをね﹂とかれは答えた。
﹁あの人がいまきみに言っただけのことさ。それからま
マチアに 質問 した。
﹁きみはミリガン 夫人 になにを話したのだ﹂とわたしは
ふじん
女は、そのあいだときどき口をはさんで、所どころ要
点 を
﹁ああ、あの人は親切なおくさんだね。りっぱなおくさ
ねっしん
しつもん
かめるだけであった。わたしはこれほどの 確 熱心 をもっ
んだね﹂
ようてん
て話を聞いてもらったことがなかった。かの女の目はす
﹁アーサにも会ったかい﹂
たし
こしもわたしからはなれなかった。
﹁ほんの遠方から。でもりっぱな子どもだということは
さいご
わたしが話をしてしまったとき、かの女はしばらくだ
よくわかった﹂
ま
つづ
まって、わたしの顔を見つめていた。 最後 にかの女は言っ
わたしはまだマチアに質
問 し続 けた。けれどもかれは、
しつもん
た。
何事もぼんやりとしか答えなかった。
あいか
﹁これはなかなか重大なことだから、よく考えなければな
わたしたちは相
変 わらずぼろぼろの旅仕度であったが、
べ
あんない
らない。けれどいまからあなたはアーサのお友だち⋮⋮﹂
ホテルでは黒の礼服に白のネクタイをした 給仕 に案
内 を
ね
まど
きゅうじ
こう言ってかの女はすこしちゅうちょしながら、
﹁兄弟
された。かれはわたしたちを 居間 へ 連 れて行った。わた
ねだい
つ
だと思ってください。二時間たったら、ザルプというホ
したちの寝
部屋 をわたしはどんなに美しいと思ったろう。
あんない
い
テルへ来てください。さしあたりそこに待っていてくれ
そこには白い 寝台 がならんでいた。 窓 は湖水を見晴らす
この
しょくたく
や
れば、 だれか人を 寄 こしてそちらへ 案内 させますから。
台 に向かって開いていた。給仕は﹁夕食にはなんでも
露
よ
ではしばらくごめんなさいよ﹂
お 好 みのものを﹂と言った。そうして、よければ露台へ
ろだい
ふたたび夫
人 はわたしにキッスした。そしてマチアと
卓 を出そうかとも言った。
食
あくしゅ
ふじん
手 をして、足早に歩いて行った。
握
166
あくしゅ
チアと 固 い握
手 をして、出て行った。
かた
﹁タルトがありますか﹂とマチアがたずねた。
四日 続 けてかの女は来た。そのたんびにだんだん優し
あいじょうぶか
つづ
﹁へえ、 大黄 のタルトでも、いちごのタルトでも、すぐ
くも、 愛情
深 くもなっていったが、やはりいくらかひか
だいおう
りの実のタルトでも﹂
ふじん
え目にするところがあった。五日目に、わたしが白鳥号
しゅ
﹁よし。ではそのタルトをぜひ出してください﹂
でおなじみになった女中が 夫人 の代わりに来て、ミリガ
ふじん
﹁三種 ともみんな出しますか﹂
ン 夫人 がわたしたちを待ち受けている、もうおむかえの
かどぐち
﹁むろん﹂
馬車がホテルの 門口 に来ていると言った。マチアはさっ
そく一頭引きの馬車の上に、むかしから乗りつけている
やさい
﹁それからお食事は。肉はなんにいたしましょう。 野菜 は⋮⋮﹂
人のように乗りこんだ。カピもいっこうきまり悪そうな
まる
いちいちの 口上 にマチアは目を 丸 くした。でもかれは
ふうもなく中へとびこんで、ビロードのしとねの上にゆ
へいこう
こうじょう
いっこう 閉口 したふうを見せなかった。
うゆうと上がりこんだ。
馬車の道はわずかであった。あまりわずかすぎたと思っ
れいたん
﹁なんでもいいように見計らってください﹂とかれは 冷淡 に答えた。
へ や
た。わたしはゆめの中を歩いている人のように、ばかげ
きゅうじ
給
仕 はもったいぶって 部屋 を出て行った。
た考えで頭の中がいっぱいであった。いや、すくなくと
ふじん
つ
そのあくる日ミリガン 夫人 は、わたしたちに会いに来
の
ふじん
もわたしの考えたことはばかげていたらしかった。わた
すんぽう
た。かの女は洋服屋とシャツ屋を連 れて来た。わたしたち
したちは客間に通された。 ミリガン 夫人 と、 アーサと、
さ
の服とシャツの 寸法 を計らせた。ミリガン夫人は、リー
リーズがそこにいた。アーサは手を差 し延 べた。わたしは
つと
ズがまだ話をしようと 努 めていることを話して、医者は
かれのほうへかけ出して行って、それからリーズにキッ
なお
もうじき 治 ると言っていると言った。それから一時間わ
スした。ミリガン夫人はわたしにキッスした。
﹁やっとの
やさ
たしたちの所にいて、またわたしに 優 しくキッスし、マ
167
わたしはこう言われたことばの意味を話してもらおう
置 に、あなたを 位
置 くことができるようになりました﹂
ことで﹂とかの女は言った。
﹁あなたのものであるはずの
りましたので、あなたにお引き合わせしたいとぞんじま
はやや声をふるわせながら言った。
﹁長男がやっと見つか
﹁あなたにおいでを 願 いましたのは﹂と、ミリガン 夫人 リガン 夫人 はかれにものを言うひまをあたえなかった。
ふじん
と思って、かの女の顔を見た。かの女はドアのほうへ 寄 っ
して﹂こう言ってかの女はわたしの手をにぎりしめた。
つ
はくじょう
し
ふじん
て、それを開けた。そのときこそほんとうにびっくりす
﹁でもあなたはもうこの子にはお会いくださいましたそ
とうぞく
い ち ぶ し じゅう
ねが
るものが現 れた。バルブレンのおっかあがはいって来た。
うですね。この子をぬすんだ男の家で、この子にお会い
お
その手には赤んぼうの着物、同じカシミアの外とう、レー
になって、からだの具合をお調べになったそうですね﹂
ち
スのボンネット、毛糸のくつなどをかかえていた。かの
﹁それはなんのことです﹂とジェイムズ・ミリガン 氏 が
い
女がこれらの品物を 机 に置 くか置かないうちに、わたし
反問した。
ふじん
よ
はかの女をだきしめた。わたしがかの女にあまえている
﹁なんでもお寺へ 盗賊 にはいったその男が、 残 らず白
状 あらわ
あいだに、ミリガン 夫人 は召
使 いに何か言いつけた。そ
いたしましたそうです。その男はどういうふうにしてわ
お
のときほんの、
﹁ジェイムズ・ミリガン﹂という名を聞い
たくしの赤んぼうをぬすみ出して、 パリへ 連 れて行き、
つくえ
ただけであったが、わたしは青くなった。
そこへ 捨 てたか、その一
部始終 を 述 べました。これがわ
やさ
のこ
﹁あなたはなにもこわがることはないのよ﹂とミリガン
たくしの子どもの着ておりました着物でございます。わ
ふじん
めしつか
人 は優 夫
しく言った。
﹁ここへおいで。あなたの手をわた
たくしの子どもを育ててくれましたのは、この正直なお
れい
の
しの手にお置 きなさい﹂
ばあさんでございました。この手続をお読みになりたい
し
す
ジェイムズ・ミリガン 氏 は例 の白いとんがった歯をむ
とおぼしめしませんか。この着物を調べてごらんになり
お
き出して、にこにこしながらはいって来た。ところがわ
たいとおぼしめしませんか﹂
びしょう
じゅうめん
たしの顔を見ると、 微笑 がものすごい 渋面 になった。ミ
168
うにたのんでおいたのです﹂とわたしの母が言った。
﹁そ
し
ブレンのおっかさんに、着物を持ってここまで来てもらっ
ころ
ジェイムズ・ミリガン氏 はわたしにとびかかって、しめ
て言った。
たのです。こんなにしたうえで、つまりそれがまちがい
しょうこ
れはあなたがわたしの子だということはわかっていたけ
﹁いずれ 法廷 が、この子どもの作り話をどう聞くか、見
だということになったら、どんなにつらい思いをするか
たし
してでもやりたいような顔をしたが、やがてくるりと
殺 れど、わたしも 確 かな証
拠 をにぎりたかったから、バル
てみましょうよ﹂
しれないからね。わたしたちはこれだけの証拠のあるう
ぎわ
か か と を ふ り 向 け た。 そ し て し き い 際 でかれはふり返っ
わたしの母、もういまはそう 呼 んでもいいが、︱︱︱母
えは、もう二度と 別 れることはないのよ。あなたはこれ
しず
ほうてい
はそのとき静 かに答えた。
からずっとあなたの母さんや弟といっしょにくらすので
よ
﹁あなたが法廷へこの 事件 をお持ち出しになるのはご随
意 す﹂こう言ってマチアとリーズを指さしながら、
﹁それか
わか
です。わたくしはあなたが 夫 のご兄弟でいらっしゃるた
ら﹂と言いそえた。
﹁あなたが貧 しかったときおまえの 愛 ずいい
めに、わざとそれをさしひかえたのでございます﹂
したこの人たちもね﹂
し
じけん
ドアは閉 まった。そのとき、生まれて初 めてわたしは、
おっと
母を、かの女がわたしにキッスしたようにキッスし返し
あい
た。
家庭で
ひみつ
せんぞ
まず
﹁きみ、お母さんに、ぼくが 秘密 をよく守ったことを話
はじ
してくれたまえ﹂とマチアがわたしのそばに 寄 って来て
いく年か、それはずいぶん長い月日が短く 過 ぎた。そ
のこ
よ
こう言った。
のあいだしじゅう楽しい幸福な日が 続 いた。わたしはい
す
﹁ではきみは残 らず知っていたのか﹂
までは、わたしの 先祖 からのやしきであるイギリスのミ
つづ
﹁わたしはマチアさんにそれをそっくり言わずにいるよ
169
ひんきゅう
いわ
ようとしている。今夜わたしのやしきには 貧窮 であった
せんれいしき
リガン・パークに住んでいる。
す
時代の友だちが集まって、いっしょに 洗礼式 を 祝 おうと
わす
うちのない子、よるべのない子、この世の中に 捨 てら
している、わたしの書きつづった少年時代の思い出は一
さつ
れ、 忘 れられて、運命のもてあそぶままに西に東にただ
とうだい
の本にできあがっていた。今夜集まる人たちに一冊ず
冊 もくひょう
よって、 広い大海のまん中に、 目標 になる 燈台 もなく、
めいよ
あい
つ分けるつもりである。
ひなん
難 の港もなかったみなし子が、いまでは自分が 避
愛 し愛
そうぞく
か
つま
これだけわたしのむかしの友だちの集まるということ
せんぞ
ざいさん
される母親や兄弟があるだけではない、その国で 名誉 の
が、 わたしの 妻 をおどろかした。 かの女はこの一夜に、
みょうせき
ある 先祖 の名
跡 をついで、ばくだいな 財産 を相
続 する身
父親と、 姉 と、兄と、おばさんに会うはずであった。た
ものお
あね
の上になったのである。
だ母と弟にはまだ 内証 にしてあった。もう一人この 席 に
ゆいしょ
せき
夜な夜な、 物置 きやうまやの中、または青空の下の木
だいじな人が 欠 けていた。それはあの気のどくなヴィタ
れきし
ないしょう
のかげにねむったあわれな子どもが、いまは 歴史 に由
緒 リス親方。
こじょう
の深い 古城 の主人であった。
親方の生きているあいだには、わたしはなにもこの人
じゅんさ
わたしが汽車からとび下りて、 押送 の 巡査 の手からの
のためにしてやることができなかった。でもわたしは母
しろ
おうそう
がれて船に乗った、あの海岸から西へ二十里︵約八十キ
にたのんで、この人のために大理石の 墓 を築 かせた。そ
はんしんぞう
ま
きず
ロ︶へだたった所に、わたしの美しい 城 はあった。
の墓の上にはカルロ ・ バルザニの 半身像 をすえさせた。
はか
このミリガン・パークの 本邸 に、わたしは母と、弟と、
その半身像の 複製 はこうして書いているわたしの 卓上 に
ぶんこ
ほんてい
と、自分とで、家庭を作っていた。
妻 あった。
﹁思い出の記﹂を書いている 間 も、わたしはたび
じょうない
たくじょう
半年前からわたしは 城内 の文
庫 にこもって、わたしの
たび目を上げてこの半身像をながめた。わたしの目はわ
せんれいしき
ふくせい
長い少年時代の思い出を、せっせと書きつづっていた。わ
けなくこの像にひきつけられた。わたしはこの人をけっ
つま
たしたちはちょうど長男のマチアのために 洗礼式 を上げ
170
らだもじょうぶになって、いまではりっぱに母をだきか
出て来た。弟のアーサはもうすっかりおとなになって、か
そう思っているとき、母が弟のうでにもたれかかって
を忘れることはできない。
して 忘 れることができない。なつかしいヴィタリス親方
デの 床屋 さん 兼業 の音楽家エピナッソー先生の 予言 がな
ずん先生を 凌駕 ︵しのぐ︶していた。こうなると、マン
テン語こそいっこう進歩はしなかったが、音楽ではずん
ついて勉強していたじぶん、マチアは、ギリシャ語やラ
を 予期 していた。わたしと弟とかれと三人、同じ 教師 に
そやすが、わたしはとうからかれのめざましい 成長発達 せいちょうはったつ
かえする人になっていた。母の後ろからすこしはなれて、
るほどとうなずかれた。
わす
フランスの 百姓
女のようなふうをした婦
人 が、白いむつ
そのとき、 配達夫 が一通の 電報 を配
達 して来た。その
つつ
もんごん
とこや
けんぎょう
はいたつふ
どうはん
よげん
きょうし
き︵おむつ︶に 包 まれた赤子をだいてついて来た。これ
言 にはこうあった。
文
よ き
こそむかしのバルブレンのおっかあで、だいている子ど
﹁海上はなはだあらく、ひどくなやまされた。とちゅう
まい
りょうが
もは、わたしのむすこのマチアであった。
パリに一 泊 。妹クリスチーナを 同伴 四時に行く。出むか
つうしんきじ
ふじん
アーサがそのとき﹁タイムズ﹂新聞を一枚 持って来て、
えの馬車をたのむ。マチア﹂
ひゃくしょう
ウィーンの通
信記事 を読めといって見せてくれた。それ
クリスチーナの名が出たので、わたしはアーサの顔を
だいせいこう
あい
けっこん
いわ
しょうち
はいたつ
を見ると、いまは大音楽家になったマチアが、 演奏会 を一
見た。するとかれはきまり悪そうに目をそらせた。アー
でんぽう
とおりすませたところで、とりわけウィーンでの 大成功 サがマチアの妹のクリスチーナを 愛 していることはわた
ぱく
がかれをせつに引き止めているにかかわらず、あるやむに
しにはわかっていた。そしていつか、それがいますぐと
と
えんそうかい
やまれないやくそくを果 たすため、ただちにイギリスに向
いうのではなくとも、母がこの 結婚 を承
知 することはわ
は
かって出発の途 に着いたと書いてあった。わたしはそのう
かっていた。子どもの 誕生 のお 祝 いばかりですむもので
たんじょう
え新聞記事をくどくどと読む 必要 がなかった。いまでこ
はない。母はわたしの結婚にも反対しなかった。いまに
ひつよう
そ世間はかれを、ヴァイオリンのショパンだといってほめ
171
意討 ちを食わせて、おどろかそうというのでしょう。
不
た く ら みにかかっておいでなのですわ。それであなたに
﹁ねえ、お母さま﹂とかの女は言った。
﹁あなたはうまく
て出て来て、わたしの母の頭に手をかけた。
リーズ、わたしの美しい美しいリーズがろうかを通っ
にも反対するはずがなかった。
そうするのが、つまりアーサのためだとわかれば、これ
するのであった。この 老人 と青年というのは、言うまで
今度の調
査 の結
果 いっそう重大な発見をとげて帰ろうと
ルセの町で鉱
石収集 をやって町で重んぜられているので、
けようというのであったし、 老人 のほうはこのごろヴァ
エールの鉱山でしめている重い 位置 にいっそうの箔 をつ
国にたんとみやげ話を持って帰って、かれがいまツルイ
になっていた。 この青年のほうは鉱山の 視察 をとげて、
をすませると、ウェールズまで 鉱山 見物に出かけるはず
こうざん
それもおもしろいでしょう。でもわたしはちっともお
もなく、ヴァルセ 鉱山 で働 いていた﹁先生﹂と、アルキ
ふ い
う
ちょうさ
けっか
こうざん
はたら
らいひん
ろうじん
しさつ
どろきませんわ﹂
シーとであった。
よ り ん ば しゃ
つづ
ぎょしゃ
はく
﹁おい、リーズ、そんなことを言っているうちに、だし
リーズとわたしが 来賓 にあいさつをしていると、また
い ち
ぬけを食ってびっくりするなよ﹂とわたしは言った。そ
がらがらと四
輪馬車 が着いて、アーサとクリスチーナと
こうせきしゅうしゅう
のとき外でがらがらと馬車の止まった音がした。
マチアが中から出て来た。すぐそのあとに 続 いて、一両
せなか
ろうじん
一人、一人、お客が着くと、わたしとリーズは広間へ
の二輪馬車が着いた。気の 利 いた顔つきの男が 御者 をし
き
出てむかえた。アッケン 氏 、カトリーヌおばさん、エチ
て、これと 背中 合わせに一人、ぼろぼろの服を着た船乗
し
エネット、それからたったいま 植物採集 の旅から帰った
りが乗っていた。たづなをひかえて御者をしているのは、
しょくぶつさいしゅう
ばかりの有名な植物学者バンジャメン・アッケンの 胴色 このごろ金のできたボブで、いっしょに乗って来たのは、
や
どういろ
に 焼 けた顔が 現 れた。それから青年が一人、 老人 が一人
あのときわたしをイギリスの海岸からにがしてくれたボ
しょうたい
きょうみ
ろうじん
やって来た。今度の旅行はかれらにとって二重の 興味 が
ブの兄であった。
あらわ
あった。というわけは、この人たちはわたしどもの 招待 、
、
、
、
172
つ
こうわたしは言って、にっこりしながら、そばに立っ
まどぎわ
さて 洗礼式 がすむと、マチアはわたしを 窓際 まで連 れ
ていた 妻 をふり向いた。
せいれいしき
出した。
来賓 はわたしたちのぐるりを 取 り巻 いた。
だいす
つま
﹁わたしたちはこれまで、知らないよその人のためにば
ふと一ぴきの犬がとび出して来た。
らいひんしょくん
えんげい
しりょく
ま
かり音楽をやっていた。さあこの 記念 の 席上 でわたした
大好 きなカピのじいさん、この犬はもうたいへん年を
と
ちの 愛 する人びとのために音楽をやろうじやないか﹂と
取って、耳が遠くなっていたが、視
力 はまだなかなかしっ
らいひん
かれは言った。
かりしていた。ねていた 暖 かいしとねの上から、むかし
せきじょう
﹁おい、マチア、きみは音楽のほかに楽しみのない男だ
なじみのハープを見つけると、
﹁ 演芸 ﹂が始まると思って
めうし
きねん
ね﹂とわたしは 笑 いながら言った。
﹁きみの音楽のおかげ
はね起きて来た。歯ぐきの間には下ざらを一 枚 くわえて
あい
で雌
牛 をおどろかして、ひどい目に会ったっけなあ﹂
いた。かれは﹁ご 臨席 の来
賓諸君 ﹂の間をどうどうめぐ
あたた
マチアは歯をむき出して笑った。
りするつもりでいた。
がわ
わら
ビロードで 側 を張 ったりっぱなはこから、売ったら二
かれはむかしのように、後足で立って歩こうとした。け
むね
まい
フランとはふめまいと思う古ぼけたヴァイオリンをマチ
れどもうそれだけの力がないので、まじめくさってぺっ
りんせき
アは取り出した。わたしもふくろの中から、むかしのハー
たりすわったまま、前足で 胸 を打って、来賓にごあいさ
うけんめい立ち上がって、﹁どうどうめぐり﹂を始めた。
は
プを取り出した。雨に 洗 われて、もとのぬり色ももう見
つをした。
あら
分けることができなくなっていた。
わたしたちの歌がおしまいになると、カピはいっしょ
た。
みんなが下ざらにいくらかずつほうりこむと、カピはほ
こうた
﹁うん、この歌のおかげで、リーズは口がきけるように
くほくしてそれをわたしの所へ持って帰った。これこそ
す
﹁きみは好 きなナポリ小
唄 を歌いたまえ﹂とマチアが言っ
なったのだからなあ﹂
173
きんか
かれがこれまで集めたいちばんの金高であった。中には
つめ
貨 と銀貨ばかり︱︱︱百七十フランはいっていた。
金
こんきゅう
わたしはむかししたように、かれの 冷 たい鼻にキッス
らいひん
した。するうち、子どもの時代の困
窮 が思い出して、ふと
だいどうおんがくし
きゅうごしょせつりつ
ある考えがうかんだ。わたしはそこで 来賓 に向かって、こ
きふきん
せんげん
の金はさっそくあわれな 大道音楽師 のために 救護所 設
立 の第一回 寄付金 としたいと宣
言 した。そのあとの寄付は
わたしと母とですることにする。
じ ぜ ん じ ぎょう
てつだ
﹁おくさん﹂とそのときマチアがわたしの母の手にキッス
えんそうかい
しながら言った。
﹁わたしにもその 慈善事業 のお 手伝 いを
しゅうにゅう
させてください。ロンドンで開くはずのわたしの 演奏会 さんせい
第一夜の 収入 は、どうぞカピのさらの中へ入れさせてく
ださい﹂
︵おわり︶
こう言うと、カピも﹁ 賛成 ﹂というように、一声高く
ウーとほえた。
後註
﹁ベルグヌー﹂は底本では﹁ベリグヌー﹂
底本:
「家なき子(下)」春陽堂少年少女文庫、春陽堂
1978(昭和 53)年 1 月 30 日発行
※底本中、難解な語句の説明に使われた括弧内の文章は、割り注になっています。
入力:京都大学電子テクスト研究会入力班(大石尺)
校正:京都大学電子テクスト研究会校正班(大久保ゆう)
2004 年 4 月 29 日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。
入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
お断り:この PDF ファイルは、青空パッケージ(http://psitau.kitunebi.com/aozora.html)を使っ
て自動的に作成されたものです。従って、著作の底本通りではなく、制作者は、WYSIWYG(見たとおりの形)
を保証するものではありません。不具合は、http://www.aozora.jp/blog2/2008/06/16/62.html
までコメントの形で、ご報告ください。