Title 中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズ に関する

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中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズ
に関する調査研究
呂, 暁〓; 高橋, 智
東京学芸大学紀要. 総合教育科学系, 57: 253-268
2006-02-00
URL
http://hdl.handle.net/2309/1478
Publisher
東京学芸大学紀要出版委員会
Rights
東京学芸大学紀要 総合教育科学系 57 pp.253∼ 268,2006
中国における自閉症児の母親の育児・発達支援
のニーズに関する調査研究
呂 暁
* ・ a 橋 智 **
特別支援科学講座 ***
(2005 年 9 月 30 日受理)
キーワード:中国,自閉症児,母親,ストレス,育児・発達支援
Ⅰ.はじめに
上)となる。
このように中国においては膨大な自閉症児者を有し
1.1 問題の所在
ながらも,彼らの療育・保育・教育・福祉に関わる行
中華人民共和国(以下,中国)に自閉症の概念が導
政の施策・システムはほぼ皆無である。とくに自閉症
入されたのはわずか 20 数年前である。それは 1982 年に
児の早期療育・就学前教育は民間の療育施設に全てを
南京児童心理衛生研究センターの陶国泰教授が自閉症
頼っているのが現状であるが,それに対する自閉症児
児と最初に診断したことに端を発するが,それ以降の
の家族のニーズはきわめて高く,中国全土において民
中国における自閉症児の研究や療育・保育・教育・福
間自閉症児療育施設の開設が急増している(この 2 ・
祉の進展はほとんどなく,現在の状況は日本や欧米先
3 年で 10 数ヵ所から 50 ヵ所(2004 年 12 月末)に増加。
進国に比して大きく立ち遅れている。
田恵平: 2004)。
例えば中国唯一の特殊教育・障害児教育の学術誌で
筆者らはこれまで,これら民間自閉症児療育施設の
ある中央教育科学研究所『中国特殊教育』において,
状況を把握し,療育指導を受けた自閉症児の母親の心
1994 年の創刊から 2004 年までの通巻 45 号で自閉症関
理的変化について調査を行い,施設に通所する自閉症
係論文は僅かに 11 件しか掲載されておらず(療育・教
児の母親は子どもの教育や将来に対する強い不安やス
育の実践報告 5 件,訓練方法の紹介 5 件など),同様に
トレスをもっていることや,療育指導で子どもの状況
中国の大学において最初に特殊教育専攻を開設した北
が改善せず,不安・ストレスを解消できないままに退
京師範大学の研究紀要『特殊教育研究』(1992 年創刊,
所する親が少なからずいることを明らかにしてきた
2002 年停刊。年 4 回刊行)においても自閉症関係論文
(呂: 2004)。
は僅かに 8 件という状況である。
さらに就学前の自閉症児をもつ母親の育児不安・ス
自閉症の発病率は「せまい意味で(典型的な)自閉
トレスの調査研究を通して,就学への不安や療育機関
症は,児童 1,000 人に約 3 人いるといわれ,広汎性発達
の不足・不備への不満などが大きなストレス原因であ
障害(PDD)あるいは自閉症スペクトラム障害(ASD)
ることを明らかにしてきたが(呂・ a 橋・千賀: 2004,
も含めると,児童 100 人に約 1 人」といわれるが(日
呂・ a 橋: 2005),その不安・ストレスの緩和にはい
本自閉症児協会(2004)『自閉症の手引き』,p. 5 ),そ
かなる育児支援・発達支援が必要であるのかを,自閉
れにしたがえば人口 13 億以上の中国(2004 年中国国家
症児をもつ母親のニーズ調査を踏まえながら実証的に
統計局発表)では,自閉症スペクトラムの障害児者は
検討することが求められている。
1300 万人以上(うち典型的な自閉症児者は 390 万人以
それゆえに本稿では,中国における自閉症児の母親
* 東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科博士課程発達支援講座修了(2006 年 3 月)
** 東京学芸大学総合教育科学系特別支援科学講座・連合学校教育学研究科発達支援講座
*** 東京学芸大学(184-8501 小金井市貫井北町 4–1–1)
− 253 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
Ⅱ.調査の結果
の育児支援・発達支援に対するニーズを,質問紙調査
および参与観察・面接法調査によって明らかにするこ
2 .1
とを目的とする。
子どもの状況
子どもの障害について回答した 176 名のうち,「自閉
1 .2
研究の方法
症のみ」105 名,「自閉症と知的障害」53 名,「自閉症
本調査では,広大な中国の地域特性を考慮して,5
地域の代表的な民間自閉症児療育施設に通園する自閉
と他の障害」7 名(他の障害についての回答なし),
「障害がよく分からない」11 名であった。
症児の母親各 40 名ずつ,合計 200 人(平均年齢 33.6 歳)
子どもの「知的障害程度,IQ 値」については,回答
を対象とした。療育施設は,西南部の中心都市である
した 146 名のうち,
「軽度」42 名,
「中度」54 名,
「重度」
四川省成都市の「四川聖愛特殊教育培訓センター」(教
16 名,「最重度」なし,「知的障害はない」16 名,「そ
育局登録),西北部の中心都市である
西省西安市の
の他」18 名であった。IQ については 22 名の回答を得た
「西安智障児康復センター」(未登録),東南部の中心都
が,そのうち 12 名が「未検査」であり,残る 10 名の
市である上海市の「上海星雨児童康健院」
(民政局登録),
IQ は IQ40 ∼ 114 と幅広い回答があった。
北部の中心都市である北京市の「北京星星雨教育研究
2 .2
所」(工商局登録),東北部の中心都市である青島市
「青島以琳培訓センター」(民政局登録)であり,これ
らはすべて通園施設である(表 1 参照)。
母親の育児困難・ストレスと育児ニーズ
母親の育児の困難・ストレスに関する項目の回答を
表 2 に示した。とくに「問 31.医療機関の情報がなく
調査方法は以下のとおりである。調査者(筆者)が
て不安」「問 34.療育にかかる費用への心配」につい
2003 年 11 月から 12 月に 5 施設を訪問視察して療育指
て「あてはまる」「ややあてはまる」と回答した母親が
導の参与観察,母親・スタッフへのインタビュー調査
顕著に多く,対象者となった母親はこれらに対して大
および母親の質問紙調査の依頼を行い,全ての施設か
きな困難・ストレスを抱えていることが示された。そ
ら許可を得た。2004 年 6 月から 8 月に再度,5 施設を
の他,「問 21.睡眠不足」「問 23.自分の自由時間がな
訪問した際に質問紙調査票を対象者に直接配布し,後
い」「問 29.外出時の子どもの世話への心配」「問 30.
日回収する形で行った。回答数 184(回収率 92 %)で
自分が病気時の子どもの世話への心配」「問 33.託児
あったが,有効回答 177 部を分析に用いた。
場所がなく働けない」についても,母親が大きな育児
質問紙調査票「中国における自閉症児の母親の育
の困難・ストレスを抱えていることがみられた。
児・発達支援のニーズに関する調査」は文末の資料を
一方,「問 24.夫婦間の話し合いの欠如」「問 25.夫
参照されたいが,調査項目は上述の 2003 年の予備調査
婦間の意見の不一致」「問 26.夫の無理解への不満」
をふまえ,さらに日本の自閉症児の母親の育児・発達
「問 27.夫以外の家族の無理解」については,「あては
支援に関する先行研究を参考にして作成した。すなわ
まる」「ややあてはまる」と回答した人は半数(50 %)
ち,q「子ども状況と母親の家庭状況」に関する 22 項
以下であり,夫や家族との関係についてのストレスは
目,w「母親の育児困難・ストレス」に関する 14 項目,
相対的に小さい傾向がみられた。
e「母親の育児支援」に関する 10 項目,r「子どもの
また表 3 のように,育児ニーズ項目については多く
発達困難の状況とニーズ」に関する 17 項目,t「発達
の母親が「あてはまる」「ややあてはまる」を選択して
支援のニーズ」に関する 14 項目から構成されている。
おり,ニーズが高いことが示された。なかでも「問 37.
表1
中国の 5 民間自閉症児療育施設の概況
1 元= 15 円
− 254 −
呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
表2
母親の育児困難・ストレス
n =177 人
各地における療育機関の設立ニーズ」がとくに高かっ
とどのように結びついているかを明らかにするために,
た。
「問 35.早期発見・診断制度の設立ニーズ」
「問 36.
50 %以上が「あてはまる」「ややあてはまる」と回答
相談機関に関する情報提供ニーズ」「問 39.専門家へ
した育児困難・ストレスに関する項目について,育児
の相談ニーズ」「問 42.公的機関による就学相談への
支援ニーズとの関係を検討した。表 4 には有意な相関
ニーズ」「問 43.各地で親の会設立ニーズ」のニーズ
のみられた項目を示した(相関係数が 0.30 以上のもの
も高かった。
について網かけをした)。
育児困難・ストレスと育児支援ニーズとの間にはい
2 .3
母親の育児困難・ストレスと育児支援ニーズ
くつかの相関がみられたが,なかでも「問 31.医療機
の関係
関の情報がなくて不安」「問 34.療育にかかる費用へ
母親の抱える育児困難・ストレスが育児支援ニーズ
の心配」は多くのニーズ項目との間で相関がみられた。
− 255 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
表3
表4
母親の育児支援ニーズ
n =177 人
母親の育児ストレス・育児困難と育児支援の関係
「問 31.医療機関の情報がなくて不安」は「問 44.補
「問 44.補助金制度のニーズ」項目と相関係数が 0.30
助金制度のニーズ」と相関係数が 0.30 以上で,比較的
以上で比較的強い正の相関がみられ,母親の育児困
強い正の相関がみられた。「問 38.ショートステイ利
難・ストレスは,経済的な援助に対する強いニーズと
用ニーズ」「問 39.専門家への相談ニーズ」とも相関
結びついていることが示された。
そのほか高いニーズがみられた「問 35.早期発見・
があった。また「問 34.療育にかかる費用への心配」
は「問 40.療育・相談機関の休日利用へのニーズ」以
診断制度の設立ニーズ」「問 36.相談機関に関する情
外のすべての項目と相関がみられた。
報提供ニーズ」「問 37.各地における療育機関の設立
「問 33.託児場所がなく働けない」以外の項目は
ニーズ」「問 42.公的機関による就学相談へのニーズ」
− 256 −
呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
2 .4
「問 43.各地で親の会設立ニーズ」項目は,育児困
子どもの発達困難と発達支援ニーズ
子どもの発達困難に関する項目の回答を表 5 に示し
難・ストレスに関する項目と相関がみられなかった。
た。子どもの発達困難に関して母親の大きなストレス
となっていたものは,「問 59.就学先が少ないことへ
表5
子どもの発達困難の状況
− 257 −
n =177 人
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
の不安」「問 60.子どもの発達への不安」「問 61.子ど
した人が半数(50 %)以下であり,これらに関しては
もの将来ヘの不安」であり,子どもの就学や将来に対
相対的にストレスが小さい傾向が示された。
発達支援のニーズについての回答を表 6 に示した。
する不安が顕著であることが示された。また子どもの
パニック・危険な行為などの行動問題,言語やコミュ
「問 68.子どもの言語指導ニーズ」「問 69.子どもの認
ニケーションなどの認知面の発達困難に大きいストレ
知面の指導ニーズ」「問 71.他児との交流機会のニー
スを抱えていることが示された。
ズ」「問 72.集団生活のルール習得のニーズ」「問 73.
「問 46.子どもの発作への対応が困難」「問 47.子
家庭における指導方法応用のニーズ」「問 74.指導に
どもの生活リズムが不安定」「問 48.子どもの生活リ
関する説明へのニーズ」「問 76.施設での入園・就学
ズム形成が困難」「問 51.子どもの身辺自立が困難」
準備のニーズ」「問 77.施設退所後の相談ニーズ」な
については,「あてはまる」「ややあてはまる」と回答
どの項目について,
「あてはまる」と回答した人が多く,
表6
子どもの発達ニーズ
− 258 −
n =177 人
呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
いニーズであったが,発達困難に関する項目と相関が
高いニーズがみられた。
みられなかった。
2 .5
子どもの発達困難と発達支援ニーズの関係
Ⅲ.考 察
子どもの発達困難に対する母親の大きな不安が,ど
のような発達支援ニーズに結びついているかを明らか
3 .1
にするために,50 %以上が「あてはまる」「ややあて
母親の育児支援ニーズ
本調査では,母親が医療機関の情報を得る機会が少
はまる」と回答した発達困難に関する項目について,
発達支援ニーズとの関係を検討した。表 7 に有意な相
ないこと,療育費用がかかることについて大きなストレ
関のみられた項目を示した(相関係数が 0.30 以上のも
スを抱えていることが明らかになった。それと強い関
のについて網かけをした)。
係をもつのは補助金制度に対するニーズであった。母
子どもの発達困難と発達支援ニーズとの間には多く
親の育児支援においては,医療・教育機関の積極的な
の相関がみられた。なかでも「問 49.子どものパニッ
介入や経済的な援助が重要であることが明らかになっ
クが大変」「問 55.子どもの行動理解が困難」「問 56.
た。
親子間の関わりへの不安」は,「問 66.子どものパニ
しかし何よりも,中国国内では自閉症児の診断基準
ック・発作対応へのニーズ」と相関係数が 0.30 以上で
が標準化されていないことが問題となっている。本調
比較的強い正の相関がみられた。また子どもの言語面
査でも子どもの障害名や知的障害の程度に関する質問
や認知面,関わり方等における発達困難のストレスは,
項目を設けたが,不明・無記入の回答が多く,適切な
それぞれの適切な指導に対するニーズと強い相関がみ
診断を受けていないケースの多いことが推察された。
2002 年に「北京星星雨教育研究所」が報告したデー
られた。
分析に用いられた全てのストレス項目は「問 69.子
タによると全国で自閉症の診断ができる病院は僅かに
どもの認知面の指導ニーズ」と相関がみられ,子ども
13 ヵ所ということであるが,今回のインタビューでも
の発達困難,子どもとの関わりにおける不安,子ども
「診断を受けているうちにわが子は 8 歳になってしまっ
の将来に対する不安が高いほど認知面の指導ニーズが
た」と述べた母親がいたことはまさにその証左である。
中国では国民健康保険制度が確立されておらず,子
高いことが示された。
その他,「問 49.子どものパニックが大変」「問 50.
どもの医療費などへの家庭の負担はたいへんに重い。
子供の危険行動が大変」を除くすべての発達困難に関
「中華人民共和国残疾人保障法」(1991)や「中国残疾
する項目は,「問 76.施設での入園・就学準備のニー
人分類標準」(1994)に規定されている障害種別は「視
ズ」と相関がみられた。とくに「問 54.他児との交流
覚障害」「聴覚障害」「言語障害」「肢体不自由」「知的
における不安」「問 59.就学先が少ないことへの不安」
障害者」「精神障害」の 5 種類であり,自閉症が除外さ
「問 60.子どもの発達への不安」「問 61.子どもの将来
れている。すなわち中国では自閉症は法的にはまだ障
ヘの不安」は「入園・就学準備ニーズ」と相関係数が
害と承認されておらず,障害児家庭への僅かな補助金
0.30 以上で,比較的強い正の相関がみられた。子ども
制度の対象にすら含まれていない。
の発達困難に関する大きな不安は,入園・就学に向け
それゆえ本調査結果に示されたように,療育費用の
た適切な指導に対するニーズと関係が強いことが示さ
負担が母親の大きなストレスになっているのである。
れた。なお「問 71.他児との交流機会のニーズ」は高
補助金の制度化,自閉症の早期発見・早期診断システ
表7
子どもの発達困難と発達支援ニーズの関係
− 259 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
ムの確立,相談機関の情報提供などが,母親の育児支
の言語指導・認知面の指導と施設での入園・就学準備
援の手掛かりとなると考えられる。
ニーズと強い関係を持っていた。
1989 年に中国国家教育委員会は「知的養護学校と随
本調査では家庭の年収について回答を求めたが,1
万人民元以下(日本円で約 15 万)は僅か 12 人であり,
班就読クラスには軽度知的障害児の入学を推進」する
年収 10 万元(約 150 万)以上の家庭が圧倒的に多く
ことを明記し,軽度知的障害児の就学に積極的に取り
(143 人),年収 50 万元(約 750 万)以上も 3 人あった。
組むことが奨励された(七田・呂・ a 橋: 2005)。今
中国では地域格差が大きく,都市部と農村部では年収
回のインタビューでも軽度自閉症児の母親の多くが,
の算定方法が違っており中国全土における平均年収を
これを手がかりにして「施設で自閉症児に療育・訓練
示すことはできないが,中国国家統計局の統計によれ
を受けさせて何とか小学校に就学できるようにさせた
ば,都市部の平均月収は 865.05 元( 1 元約 15 円),農
い」と語っていた。
村部の 2004 年上半期の現金収入が平均 1,345 元であっ
施設に通所している自閉症児のほとんどが,幼稚
た(中国国家統計局: 2005)。すなわち調査対象者と
園・保育所を障害を理由にして退園・退所させられて
なった母親の家庭の多くは高所得層であるが,このよ
いるために(呂: 2004),施設で療育指導を受け,居
うな家庭の母親でさえ経済的支援などのニーズが強か
住地に戻って何とか通常の小学校に就学できるように
ったことから,経済的負担のために療育施設に通うこ
というのが母親の大きな願いである。それゆえに本調
とができない低所得の家庭の母親は,ストレス・ニー
査のニーズ項目でも入園・就学準備ニーズが最も高い
ズがさらに大きいことが推察される。
ものであった。
そのほかに子どもの言語指導,他児との交流機会,
そのほか母親の睡眠不足,自由時間がないこと,外
出・病気時の子どもの世話,託児場所がなくて働けな
集団生活のルール習得のニーズも高かった。言語指導
いことがストレスとなっているが,しかしこのような
のニーズが高いのは,インタビューにおけるある母親
母親自身のストレスは,子どもの療育に直接関係する
の「話をしてくれないと学校に入られない,この子の
ストレスよりも小さい傾向がみられた。また夫や家族
人生がダメになる」という言葉が象徴しているように,
へのストレスはあまりみられなかった。すなわち自閉
就学拒否や退学という事態を回避するための母親の苦
症児の母親の抱える育児ストレスの多くは,外的ある
しい思いが背景にある。
中国では知的障害児学校の数が少なく,小学校の就
いは社会的な環境より生じたストレスと考えられる。
中国では自閉症児の入園・就学がきわめて困難な状
学も,前述の随伴就読システムのように実質的には軽
況である(焦青: 1996)。実際に今回の現地調査の時
度知的障害児に教育対象が限定されている。したがっ
に行った自閉症児の母親へのインタビューでも,「まわ
て自閉症児の場合,小学校への就学は拒否されること
りの人は自閉症のことが理解できないし,また自閉症
が多く,仮に就学できたとしても何らかのトラブルが
の診断を受けるのにも北京にまで来なければならない
発生した場合に退学させられるケースも少なくない。
学校での集団生活のルール習得については,母親が
状況である。さらに自閉症の教育機関は近くになく,
子どもに教育を受けさせることが全くできない」こと
就学後のことを心配して適応訓練を強く施設に求めて
が述べられた。
いることが伺われた。本来,民間自閉症児療育施設は
2002 年 9 月の「社会団体登記管理条例」の改正によ
自閉症児の早期療育のための施設であり入園・就学の
り中国においても NPO 組織の設立が認められた結果,
準備機関ではないが,しかし調査結果からも示される
前述のように民間自閉症児療育施設がようやく 50 ヵ所
ように,母親は子どもが就学できるよう就学後も退学
に増えた。しかし全土で僅か 50 ヵ所では焼け石に水の
させられないようにと願って通所しているために,実
ような状況である。療育機関の設立,公的機関による
際には「親の願いにこたえて生き残るために,多くの
就学相談のニーズの高さが示すように,自閉症児の母
施設が就学のための予備校になってしまっているのが
親は,各地に公的な自閉症児の療育施設や幼稚園・学
現実である」と施設の責任者らは語っていた。
母親が民間自閉症児療育施設の教育方針や子どもの
校の設立を強く求めているのである。
発達の不十分さに不満をもったまま退所するケースも
3 .2
子どもの発達支援ニーズ
少なくない(呂: 2004)。その原因の多くが,スタッ
本調査では,子どもの発達困難に対して母親が大き
フの専門性の低さとそれに伴う療育指導・方法の不適
な不安をもっていたのは,就学先が少ないことや子ど
切さである。5 施設のスタッフの最高学歴は大学卒業
もの将来ヘの不安であった。これらの不安は,子ども
(10 %)であるものの,いずれも専攻は特殊教育・障
− 260 −
呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
害児教育ではなく,また中学・高校卒業を最終学歴と
ムの開発にまで進めていきたいと考えている。
する者も 12 %いた。専門家養成の短期研修は全員が受
けていたが,その期間は僅かに 1 週間から 1 ヵ月にす
【付記】本研究は,q財団法人日本科学協会平成 16 年度笹川
ぎないものであった。スタッフへのインタビュー調査
科学研究助成「中国における自閉症児の母親への育児・発達
では情報・時間・予算が不足するなかで専門家養成や
支援の実態と支援プログラムの開発に関する研究」(研究代表
現職研修を望む意見が多かったが,現状では自閉症児
者:呂),w東京学芸大学連合学校教育学研究科平成 17 年度
療育の専門家養成が行われておらず,その整備・拡充
広域科学教科教育学研究経費「多文化協同社会とインクルー
が急務の課題である。
ジョン教育理論の創出に向けた東アジア拠点の形成」(研究代
各施設における療育指導の方法は,ABA 行動療法,
表者: a 橋)のもとに行われた共同研究の成果の一部である。
感覚統合療法,TEACCH などの導入段階であることが
示された。しかし参与観察・インタビュー調査から,
文 献
スタッフが各指導方法についての十分な理解や研修が
ないままに部分的に取り入れて,試行錯誤を繰り返し
国家教育委員会(1994)『関与開展残疾児童少年随班就
ている状況であった。またIEP(個別指導計画)を
ようやく導入し始めた段階であり,IEP作成時にお
読工作的試行方法』.
焦 青(1996)自閉症児教育に関する諸問題,『特殊教
いて親は参加しておらず,期間も通園の時期のみに限
育研究』通号 17,pp.10_13.
定されていた。現状で母親のニーズに応えているかと
呂 暁 (2004)中国の一教育研究所における自閉症
いう質問には,スタッフ全員が「ニーズには十分に応
児の発達支援と母親の心理的変化,『ケア研究』第
えていない」と答えており,母親支援の必要性を認識し
4 巻,pp. 6 _19.
ていながらも対応が追いついていないことが示された。
呂 暁 ・ a 橋 智・千賀 愛(2004)中国自 症儿
童家
Ⅳ.おわりに
的苦
和育儿支援(中国における自閉症児
をもつ母親の育児ストレスと育児支援),『2004 中
美特殊需要学生教育大会 ABSTRACTS』,p.50,北
本稿では中国における自閉症児の母親の育児支援お
京師範大学教育学院特殊教育系・北京師範大学特
よび発達支援のあり方を検討するために,自閉症児を
もつ母親の育児支援・発達支援に対するニーズを質問
殊教育研究中心.
呂 暁
・ a 橋 智(2005)
于自
症儿童的母
紙調査および参与観察・インタビュー調査によって明
在
らかにした。
通号 61 号,pp.47_53,中華人民共和国教育部・中
自閉症児の母親は,自閉症児療育機関の不足・不備
育
程中的需求的
研究,『中國特殊教育』
央教育科学研究所.
と療育費用の負担に大きなストレスを感じ,子どもの
日本自閉症児協会(2004)『自閉症の手引き』.p. 5
就学問題の解消に高いニーズを有していた。それゆえ
七田 怜・呂 暁 ・ a 橋 智(2005)中国における
に自閉症児の早期療育,就学前教育,学齢期教育の保
障害児の「随班就読」の実態と課題―北京市の随
障は中国自閉症児教育の緊急課題であり,それに対応
班就読推進モデル小学校の調査を通して―,『東京
する早期診断システム,公的療育機関の設置,就学相
学芸大学紀要』第 56 集(第 1 部門・教育科学).
談システムへの着手も不可欠な課題である。
田恵平(2004)自閉症動向,『星星雨通訊』第 32 号,
なお今回の調査対象は,民間自閉症児療育施設に通
p. 6 .
所している比較的裕福な階層の軽度自閉症児の母親が
中国障害者連合会ウェブサイト: http://www.cdpf.org.cn/
中心である。しかしq経済的制約のために施設に通所
中国国家統計局ホームページ: http://www.stats.gov.cn/
できない,w都市部ではなく農村部・辺鄙に居住して
いるためそもそも施設・学校がない,e他の障害や病
気を併せもつ重度の自閉症児や女児のケースなどの場
合には,その母親はさらに高いストレスやニーズを有
していることが予想される。
今後はそれらの解明が課題であり,それをふまえな
がらさらに中国における自閉症児の母親の育児支援・
発達支援のあり方,さらには育児・発達支援プログラ
− 261 −
東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
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呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
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呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
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東 京 学 芸 大 学 紀 要 総合教育科学系 第 57 集(2006)
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呂・ a 橋:中国における自閉症児の母親の育児・発達支援のニーズに関する調査研究
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Bulletin of Tokyo Gakugei University, Educational Sciences, Vol. 57 (2006)
Investigation of the Needs for Childcare and Developmental Support of
Mothers with Autistic Children in the People’s Republic of China
Xiaotong LV*, Satoru TAKAHASHI**
Department of Special Needs Education***
Key words : the People’s Republic of China, Children with Autism, Mothers, Stress, Childcare and Developmental
support
The purpose of this paper was to clarify the needs and stress of mothers who have autistic children in China, in order to
examine the tasks of childcare and developmental support for them. Our subjects were 200 mothers who were attending private
nursing institutions for autistic children in five areas. These were located in Shanghai, Xi’an, Chengdu, Beijing, and Qingdao. We
handed out our questionnaires to them directly when we visited there, and collected that few days later. Survey period was from
June to August in 2004. We received 184 responses (92%) but used only 177 samples for analysis because some had many blanks.
There were few institutions such as specialized hospitals, facilities and schools, for diagnosis/treatment, consultation,
nursing/childcare, or education for autistic children in China. They worried about childcare, education and the future of their
autistic children. However, it became a serious factor of parenting stress because of lack of opportunity to talk about it. In addition,
a correlation was found between the stress of mothers and their economic burden. Combined with there were no public support, it
was indicated that their economic burden had great influence on the treatment and education for autistic children.
*
**
***
Ph.D., the United Graduate School of Education,National University Corporation Tokyo Gakugei University
Ph.D., Professor of Department of Special Needs Education, National University Corporation Tokyo Gakugei University
Tokyo Gakugei University (4-1-1 Nukui-kita-machi, Koganei-shi, Tokyo, 184-8501, Japan)
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