『国民車構想』と軽乗用車工業の形成

The 4th East Asian Economic History Symposium 2007
EHCJ 15
第3論文
『国民車構想』と軽乗用車工業の形成
呂
寅満
(江陵大学)
Ⅰ
問題意識と課題
高度経済成長過程を通じて日本の自動車生産・販売は急速に増加し、1980 年にはついに
世界第 1 位の生産大国となった。その過程で日本自動車メーカーの国際競力の強さが世界
の注目の的となり、その後これに関する数多くの研究成果が蓄積されてきた。
しかし、一方で日本自動車産業の国内市場の構造及びその特徴に関する関心は相対的に
薄かった。欧米諸国の自動車市場構造に比べて日本市場の特徴としては、トラック比重の
大きさ、多数のメーカー間の競争、軽自動車の比重の大きさ等が挙げられる。こうした特
徴を形成した歴史的な背景について、筆者はトラックを中心として分析したことがあるが、
本稿ではその分結果を念頭に置きつつ、乗用車を対象として検討する。
ところで、高度経済成長が終期にあたる 1970 年頃の乗用車の販売・保有台数を排気量
別にみると、小型車(エンジン排気量 361 ㏄~2,000 ㏄)が圧倒的に多いものの、軽自動
車(同 360 ㏄以下)も 3 割という相当の比重を占めていた。当時のヨーロッパ諸国と比べ
ても軽乗用車の比重の高さは注目すべき現象である。しかも、日本の軽自動車の規格は、
一般的にヨーロッパ諸国のそれより一回り小さかった。この現象は、トラックの方がより
顕著であるものの、乗用車の場合にも見られる特徴となっているのである。
ところが、これまでの乗用車工業に関する先行研究は主に小型車に注目した。その研究
から 1950 年代における乗用車の開発過程、とくに技術能力の向上に関する部分が多く解
明された。こうした研究は、先述の国際競争力の問題と関連して、主にメーカーの供給能
力の側面に焦点を当てており、自動車の普及あるいは需要の変化といった側面には相対的
に関心が向けられてこなかった。ところで、軽自動車という分野は、需要側面を検討する
にあたって格好の素材でもある。それまではまったく存在しなかった新しい市場を狙った
商品であるだけに、ユーザーの潜在的な購買力を考慮した製品開発がより重要だったから
である。
以上のような問題意識から、本稿は日本における軽自動車工業の形成過程とそれが日本
の自動車市場構造に与えた意味を分析する。ところで、軽乗用車の開発過程は、「国民車
構想」という政府の産業政策とも密接に関わっていた。この政策については、正式に公
表・推進されたものではなかったものの、その後のメーカーの軽乗用車開発に一つの方向
を与えたと一般的に評価されてきた。すなわち、特定メーカーの集中育成という政府の意
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図に業界が反発したため、この構想は具体的な政策として実施されることはできなかった
ものの、その後の展開過程は構想の通りに実現したと理解されてきた。しかし、この構想
が業界全体としてではなく、個別メーカーにどのように受け止められ、企業戦略にどう影
響したかについては、資料上の制約のためか、あまり立ち入った分析は行われてこなかっ
た。本稿では、新三菱重工業の内部資料を使ってこの点について具体的に検討する。
Ⅱ
1950 年代前半の乗用車工業の現況と「国民車構想」
日本で乗用車の生産台数がトラックのそれより多くなるのは 1960 年代半ば以降であり、
1950 年代にはトラック、その中でも三輪車が最も多く生産されていた。乗用車の場合は、
進駐軍の払い下げ車が多数利用され、ダットサンとトヨペット SKB など国産車は非常に少
なかった。こうした中で輸入拡大を求める運輸業界の求めに対応する形で、1952 年末から
外国車との技術提携が通産省の主導のもとで積極的に進められ始めた。それによる日産―
オースチン、いすゞ―ルノー、日野―ヒルマンの提携事業が軌道に乗り始めた 1955 年 5
月に突然「国民車育成要綱案」という通産省の方針が日経新聞にスクープされた。
この要綱案を起案した川原晃は 1947 年に入省してから自動車産業を担当していたが、
とくに 1952 年からヨーロッパの自動車産業の変化に注目していた。それは、それまでの
自動車より一回り小さい「大衆車」あるいは「超小型車」が急速に増加し、自動車の普及
が急速に拡大していることであった。これにヒントを得た彼は、当時トヨタの発行してい
た『流線型』1953 年 2 月に「新しい国民乗用車の構想」という論文を発表した。
それを評価され、55 年 3 月には自動車課長から正式に要綱案の作成を命じられた。それ
に対して作成したのが「要綱案」だったのであるが、そこには排気量 360~500 ㏄の「超
小型乗用車」としての条件から仕様の決定、育成内容などまでが含まれていた。とくに、
具備すべき性能については、フィアット 500、ルノー4CV、シトロエン2CV を参考にして
原案を作成したあと、自動車技術会、東京大学の専門家に依頼してその妥当性を認められ
た。また、製造原価は、月産 2,000 台の時点で 15 万円とすべきとしたが、これはダット
サンの原価計算表を参照したものであった。
要するに、この構想は、当時の国民所得水準を考慮した場合には短期間に乗用車の急速
な普及=乗用車工業の確立は不可能であるから、供給価格の低下を通じて普及を促進させ
ようといたものであった。そもそもこの発想は、当時のヨーロッパとりわけ西ドイツの経
験を大いに参考にしたものだったが、実行方法・政策手段の面においては戦前の「自動車
製造事業法」に類似していた。
Ⅲ 新三菱の軽自動車開発過程――モデル選択過程を中心に
戦後 3 社に分割された旧三菱重工業の 1 社である新三菱重工業のうち、自動車関係事業
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を持っていたのは水島、京都、名古屋製作所であった。この中で水島製作所は三輪車を主
力しており、当時のほかの三輪車メーカーの転換過程と同じく、61 年には軽四輪トラック
とバン・ピックアップを開発し、62 年には軽乗用車を発表した。それに対してスクーター
生産と自動車修理を専門としていた名古屋製作所では独自的に超小型乗用車の開発を推進
し、60 年に「三菱 500」を発表することになった。なぜ、事業所を網羅した共通の開発が
行われなかったかについては不明であるが、いずれにせよ、この「三菱 500」の開発をめ
ぐった議論の過程で当時の「国民車構想」がどのように受け止められたかを確認すること
ができる。
新三菱では以下のような諸点において、国民車構想の担当者の観点とは異なる見解を持
っていた。まず、軽あるいは超小型乗用車の主な需要者は、当分の間、個人ではなく事業
所にならざるをないとみた。また、当時のヨーロッパの趨勢からも軽自動車級の増加は一
時的であり、それより大きなサイズの車に需要の中心が移動することと予測した。しかも、
日本では小型車の中古車需要が多いため、軽自動車がヨーロッパほどには増加しないと予
想した。それ以外にも軽自動車の規格が拡大することと予想した。以上のような判断のも
とで、新三菱は開発モデルの排気量を軽自動車より大きい 500cc 級とした。こうして開発
された「三菱 500」は、60 年から発売されることになった。
一方で、この新三菱の軽乗用車への新規参入過程の前後に他のメーカーの参入も相次い
だ。新三菱の参入の前にすでに市場には富士重工業の 360cc 乗用車が存在していたが、60
年代に入ってからはトヨタと東洋工業はそれぞれの市場調査にもとづき、新三菱とは異な
る 700 ㏄級や 360 ㏄級の乗用車をそれぞれ開発し、この部門の市場に参入した。
Ⅳ軽乗用車工業の形成とその意味
個人所有の拡大という意味でのモーターリゼーションが日本で本格化するのは 1960 年
代半ばからであり、60 年代前半はその準備の時期であった。この時期に前述した 360 ㏄級
の軽乗用車や 360 ㏄~1,000 ㏄級の「大衆車」のモデルが出揃い、需要を喚起していった。
もっともこの時期に需要の中心は、新三菱が予想したとおり個人ではなく事業所であった。
しかし、その事業所も新三菱の予想とは異なって価格に敏感な反応を示した。
その結果発表当時に「最初の本格的な国民車の登場」として大きく注目された三菱 500
の販売はそれほど振るわなかった。それは価格競争に不利だったためであった。軽自動車
よりは高い性能、小型車よりは低い価格といった当初の目標が裏目に出て、軽自動車と小
型車(大衆車)に挟まれる結果となったのである。その後、モーターリゼーションの進展
の中で急速に販売を増加させたのは、軽乗用車と 700 ㏄級の大衆車であった。
とくに新しく形成された軽乗用車部門には三輪車・二輪車メーカーからの新規参入が相次
ぎ、その後日本自動車産業の競争構造を形作るきっかけとなり、モーターリゼーションの
進展を早めることとなった。
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