D. ステュアート:筆禍体験から経済学の独立へ

D. ステュアート:筆禍体験から経済学の独立へ
久保
真1
コンドルセの名に言及したことで、拙著の一部の評判を落としてしま
ったことは、私にとって悔やんでも悔やみきれないことです。
(Stewart 1858, lxxiv; 1794 年 2 月 20 日付クレイグ卿宛書簡)
コンドルセらの計画に関しては、マルサス氏の推論は全く正当なもの
ですが、だからといって、氏が主張するような人類の状態に関する陰
鬱な見通しが確固たるものだということではありません。(Stewart
1808–9b, 1:47)
I.
問題の所在
アダム・スミスの最初期の学術的伝記(Stewart [1794] 1858)を著した D. ステュアートは、エ
ディンバラ大学道徳哲学教授として、イギリスで最初の独立した経済学講義を行った(1800–10
年)ことでも知られる。近年、とりわけ 1980 年代以降、その講義が後世へ与えた影響を強調する
研究者は多い。しかるに、イギリス(とりわけスコットランド)におけるフランス革命の余波(お
よびそれへの反動)が彼の活動に大きな影響を与えたことは知られる一方で、これと彼の経済学
との関わりはあまり論じられてこなかった(Winch 1983; Rothschild 2001)。本報告はこれを明ら
かにすることを目的とする。とりわけ、彼によるコンドルセとマルサスへの言及に留意する。
II.
ステュアートの経済学とフランス革命
ステュアートの経済学とフランス革命との関係は、時系列に従い、おおよそ以下のようにまと
めることができる。
【その一】ステュアートは、フランス革命当初(1788–89 年)それに「熱狂的」
(Meikle 1912, 49)
とも言える好意を寄せていた。1792 年に出版した『人間精神の哲学要綱・第一巻』
(Stewart [1792]
1854)において広義の政治学(=経済学を含む)の方法論を論じた第四章(「抽象について」
:経
験から理論をいかに引き出すかが主題)では、彼が「強い感化を受けた」(福鎌 1984, 353)コン
ドルセを「[フランス]エコノミストたちの体系(the economical system)」の支持者として肯定
的に引用しつつ、
「哲学の勝利が広がる」につれて「政治秩序」が「理想的」ものへ「暴力や流血」
なしに漸近していくことを強調した(①)。
【その二】フランス革命が恐怖政治へ転化していく 1793 年は、ステュアートの後年(1810 年)
..........
..........
の回想によると、「フリートレードの教義(the doctrine of a Free Trade)はそれ自体一種の革命
........
的傾向を持つものと主張されて」おり、
「スミス氏との親交…を以前は誇りとしていた人々のなか
.....
にも、国家政策の奥義…を哲学者たちの討論に委ねることの便宜に疑念を抱き始めた」(Stewart
[1794] 1858, 87/訳 176–77)時期であった。この年、「スミス伝」をエディンバラ王立協会で講演
する(1・3 月)一方、11 月には、自らの道徳哲学講義において、広義の政治学の一部門たる統治
形態論(=狭義の政治学)よりももう一つの部門である経済学を先行して取り上げるというプラ
)。
ンを明らかにした(『道徳哲学概要』
(Stewart 1793, 299–302)
1 関西学院大学; [email protected]
【その三】1794 年、前年に続く反動的情勢のなか、『要綱・第一巻』におけるコンドルセへの
言及は「筆禍事件」
(福鎌 1984, 359)に発展し、ステュアートは事実上「[それを]撤回するとい
う途方もない行為を余儀なくされた」(Rothschild, p. 57; cf. 惹句)。同年、「スミス伝」は『エデ
ィンバラ哲学協会紀要』上で活字となるが、
『国富論』については「ここで言及する必要はないい
くつかの理由」
(1810 年に政治的な事情として回想)があったことから「[印刷するにあたっては]
はるかに一般的な概観にとどめる」
(Stewart [1794] 1858, 53/訳 61)こととした。結果として「非
常識に思えるほど『道徳情操論』の解説に力が注がれ…る」(福鎌 1984, 350)こととなった「ス
ミス伝」は、翌年出版されたスミスの遺稿集『哲学論文集』にほぼそのままの形で再録される。
【その四】
「スコットランドに対するフランス革命の直接的な影響が終わりを告げる」(Meikle
1912, 214)1802 年の前年(学事暦としては 1800–1 年度の冬学期)より、道徳哲学講義から独立
させる形で経済学講義を始める(②)。また 1802 年には、『人間精神の哲学要綱(第一巻)』の第
二版を出版し、初版における「エコノミストたち」への礼賛が彼等の経済学のみに対するもので
あった(=狭義の政治学における彼等の所説に対しては当初より批判的であった)のだと弁明す
る註が加えられた(Stewart [1792] 1854, 240)。
III.
ステュアート経済学講義
今日、ステュアート経済学講義は、ハミルトン(William S. Hamilton, 1788–1856)が編集した
『D. ステュアート著作集』の第 8・9 巻でそのおおよその内容を知ることができる(Stewart 1855–
56)。しかし、このスコットランド常識哲学の後継者が 19 世紀中葉に『講義』を編集した際には、
ステュアート自身が出版に向けて準備していたとされる草稿のほとんどがすでに失われており、
著作集版『講義』は主として聴講者がとった講義ノートとステュアート自身による初期の草稿と
を利用してパッチワーク的に編集されたものである。またその編集方針は必ずしも全面的に信頼
に足るものではない(篠原 2008, 308)。そこで本報告では、経済学講義の後期(1808–9 年度)の
聴講者によるノート(Stewart 1808–9a; 1808–9b)を利用して、ステュアートが実際教室でどのよ
うに経済学を講じたのか──また、それ以前の著作や講義ノートを参照しながら、その内容がど
のように変化していったか──を見ていく。
講義ノートからすると、1808–9 年度の講義が全集版『講義』ともっとも異なるのは、本編に先
立つ「準備的考察」とされる部分、経済学の範囲・方法・歴史などを論じた部分(Stewart 1808–
9a, 1:1–33; 1808–9b, 1:1–23)である。また、講義ノートを経年的に比較した場合、この「準備的考
察」部分は変化が大きく、この部分の改訂に比較的大きな精力が注がれたであろうことが推測で
きる。
1808–9 年度の講義において、
「準備的考察」は第一回講義より第五回講義の冒頭までを占める。
第一回講義では、経済学の範囲(=「政治社会の幸福と改良を目的とするあらゆる思索を含むも
の」)を定める。また、この学問分野は、実際にビジネスに従事する人とは区別される「全般的富
[に関する]哲学者」によって追究されるものとする。しかるに、こうした富の増大は秩序ある
..........
(well constituted)社会でありさえすれば統治形態と関わりなく可能である。したがって、
「哲学
者」
(=経済学者)にとって統治形態に関する考慮はひとまず捨象されなくてはならない、とする。
第二回講義では、
「哲学的考察の一般的効用」を擁護する(すでに一部は、第一回講義で展開され
2
ている)。ここでいう「哲学」とは「信頼に足ると証明された事実(well authenticated facts)」に
もとづき理論的な考察を行うものである。しかるに、経済学における「哲学者」とは区別される
別種の経済学者──「政治算術家」──が蒐集する個別的な事実は、経済学者たちの理論がなけ
れば無価値である。したがって、経済学は──広義の政治学全般について言えることだが──ま
ずは「哲学者」が担わなくてはならない。第三回講義と第四回講義の前半では、近代社会(=古
代とは経済的に見て根本的に異なる)に関する経済学の原理(=経済学において「もっとも重要
な部分、すなわちフリートレード(the freedom of trade)に関する部分」)はすでにスミスによっ
て明らかにされているので、我々に残された課題は、その原理を同時代の状況に拡張したり適合
させたりする作業であるとする。第四回講義の後半と第五回講義の冒頭では、再び広義の政治学
の二部門、すなわち経済学と統治形態を扱う狭義の政治学との区別の必要性を論じ、従来の想定
とは逆に、経済学が優先されるべき次第が詳述される。
こうして「準備的考察」を終えた後、ステュアートは「人口」
「国民の富」
「貧民」
「下層階級の
教育」
(前二者は従来の経済学の主題、後二者はステュアートによって新たに加えられた主題)と
いう具体的な主題へ順次話を進めていく。
IV.
「哲学」を擁護する──Vindicating “Philosophy”
フランス革命との関連で言うならば、ここでもっとも注目に値するのは、ステュアートが経済
学は「哲学」的方法によるべきだと力説していることである。蓋し、
「哲学の名の下で革命によっ
てフランスにもたらされた公然たる害悪のために、その名に値するあらゆるものが捨て去られた
一方で、
[広義の]政治学と関連する科学が汚名を着せられてしまっている」
(Stewart 1808–9b, 1:7)
という嘆かわしい現状のために、彼はまず「哲学」を擁護しなくてはならないと考えているから
である。
ステュアートは、第一回講義の後半部分で、世紀転換点に戦わされたオートリーヴ(Comte
d’Hauterive, 1754–1830)とゲンツ(Friedrich von Gentz, 1764–1832)との論争を紹介しつつ、
「哲
学」の汚名を晴らそうとする。両者の論争は直接にはフランス革命後の国際的な政治経済秩序を
めぐるものであったが、フランス革命が必然であったかどうかが係争点のひとつでもあった。前
者によれば、商工業の発展が人々の結びつき方を変容させる一方、これと旧来の法体系とが齟齬
を来すこととなるが、旧来の政治体制ではこの要求に応えることは難しいため政治的革命が要請
される。すなわち革命はある種必然であったという。他方後者によれば、イギリスを見れば、伝
統的国制を維持しつつ商工業の発展と相補的に法体系の漸次的修正がなされていることがわかる
(③)。こうしたイギリス経済の発展とその国制の相対的安定性という事実に鑑みれば、フランス
やその他の大陸諸国の不安定な状況は決して必然ではないという。ステュアートは上の趣旨のよ
うなゲンツの記述を長く引用した後、諸制度が全般的かつ漸進的に修正されていく傾向を指摘す
ると同時に、政治的革命が必然であるという考えを断固否定する。すなわち、近代社会の来し方
行く末を商工業の発展という観点から理論的に考察することが、政治的革命を必然と見なすこと
に決して繋がらないという指摘をもって、「哲学」的探究の擁護とする。
こうした「哲学」の擁護は、1792 年の『要綱・第一巻』初版では、
「エコノミストたち」が唱
える「理想的な…秩序」の実現過程において暴力や流血を見ることはないという形で、先述した
3
ようにコンドルセを援用して行われていた。が、1802 年に出版された第二版では、「同時代の著
述家のひとり[コンドルセ]にたまたま自分と同じような感情を見出したのでそれを利用した[に
すぎない]」
(Stewart [1792] 1854, 237)との脚注を付して、かつて筆禍事件の原因となった自らの
コンドルセへの礼賛という嫌疑を否定しなければならなかった。その彼にしてみれば、もはやコ
ンドルセを援用することはできない。かくして彼は、かつてと同じく「哲学」を擁護するために、
かつてのようにコンドルセではなく、今度はバーク『フランス革命の省察』の翻訳者であるゲン
ツを援用するのであった。筆禍に際してステュアートは、スコットランド高等民事裁判所判事を
通じて、「かくも大きな災厄を招いた教義に対する…賛意を撤回する」ことだけでなく、「イギリ
ス国制への愛着と崇拝の念を若者たちに植え付ける」(Veitch 1858, lxxi)ことをも要求されてい
たが、それから 15 年後に行われた経済学講義ではまさにその要求に沿う形で「哲学」を擁護する。
こうした変化は、意識的なものであれ無意識のものであれ、ステュアート自身のフランス革命と
関わる筆禍体験という背景から理解できる。
i. 経済学と(狭義の)政治学の分離、それらの“不自然なる配列”
こうした変化は、講義において誰の言説を援用するかという表面的なものにとどまらず、経済
学講義を独立させることによって、以前の「エコノミストたち」への礼賛が経済学の領域にとど
まるものだという弁明を実質化させるという、より本質的なものに及んだ。よく知られたステュ
........
アートのアイディア──経済学と狭義の政治学との分離、そして前者を後者に論理的に優先させ
.
るという「自然的だと思われる配列の逆転」──の発展は、こうした本質的変化のなかに位置付
けることができる。
先述したように、1793 年に出版した『道徳哲学概要』初版(Stewart 1793)で、広義の政治学
の一部門たる統治形態論よりももう一つの部門である経済学を先行して取り上げる講義プランを
明らかにした。さらに、1801 年の『概要』第二版では、経済学は「立法の一般原理」を扱い統治
形態論は「統治の一般原理」を扱うものとして両者を以前よりも截然と分離した上で、広義の政
治学を独立させるという当初の予定を変更し、前者の内容のみを「経済学の独立講義」へ委ねた
と述べた(Stewart 1801, 9, 321–24)。また、1802 年の『要綱・第一巻』第二版では、
「エコノミス
トたち」に対する自身の礼賛が彼等の「経済学」にとどまるもので、彼等の「統治の理論」に及
ぶものではないとの脚注を付した(Stewart [1792] 1854, 240)。そして、1802–3 年度の経済学講義
では、
「政治的主題に関する著述家は、統治の第一原理を定義し措定するが、一見するところこれ
のほうが自然な方法のように思われる。だが、…もっとも明らかなものがもっとも適切であると
いうわけではない。私はむしろこの順序を逆転させ、まず経済学の原理より始め、続いて統治に
関するより理論的な概念へ進みたい」(Stewart 1802–3, 80–81)と述べる。この年度には、経済学
講義に先立って行われた道徳哲学講義の最終盤で統治形態論が扱われていたことを勘案すれば、
......
これは統治の原理に対する立法の原理──すなわち、経済学の原理──の論理的優先性を主張し
たものと解される。結局のところ、上の文言はほぼそのままの形で、1808–9 年度の経済学講義に
も現れる(④)。
こうしていわば“不自然な配列”によって統治形態に関する議論を形式上経済学講義から閉め
出すというアイディアのなかに、
“危険な理論”として怖れられることすらあった経済学を、むし
4
ろ“統治に害を与えないもの”、さらには“政治的に立場にかかわらず有用なもの”として提示す
るという意図──彼の筆禍体験に由来するであろう意識──が見て取れる。
ii. 経済学における哲学的アプローチと統計的アプローチ
こうしてステュアートは、経済学の原理を広義の政治学における論理的優先性という高みに据
えたが、結局のところ(1808–9 年度の経済学講義では)これを、スミスによって実質的に明らか
にされた(と彼が考える)もの、すなわち「フリートレード」に関するそれへと収斂させていく。
だからこそ、経済学においても「一般的原理」の観点から考察をなす「哲学」的なアプローチが
採用されるべきなのだ。ステュアートによれば、これと対照的に「個別的事実」の蒐集に従事す
る「政治算術家」がとる「統計」的なアプローチは、信頼に値するものではない。蓋し、前者の
アプローチをとることは「自然によって命じられ支えられているところの、自由かつ無制限の諸
原理に対する不動の支持者」たることを意味するのに対して、後者のアプローチをとる連中は「フ
リートレードに対して次々と制限条項や禁止条項を設けたいと感じる性癖を常に有する」 からだ
(Stewart 1808–9A, 1:11)。だからこそスミスも政治算術を信じないと『国富論』で述べたのだ、
とステュアートはスミスの権威を引き合いに出す(⑤)。
「統計(学)」という用語をこのように政治算術に接続するものとして使用するのは、当時とし
ては必ずしも一般的ではない。
「統計学」という用語をこのような意味で英語の語彙に加えたとさ
れるシンクレア(John Sinclair, 1754–1835)の著作(Sinclair 1791–99)は、スコットランドの統計
調査をまとめたものであった(ステュアートは批判対象を明示していないが、シンクレアの可能
性あり)。実際ステュアート自身、それ以前の講義ではこの用語を「国状学」という意味で使って
いたのに対して(Stewart 1805–6, 11–12)、経済学講義を辞めた後に出版された『要綱・第二巻』
では統計学を政治算術とほぼ同一視しながら、それが経験の名の下に「個別的帰結」にこだわり
すぎる傾向をもつことに警告を発している(Stewart 1814, 331)。ここで注目すべきは、このよう
に「哲学」的アプローチと「統計」的アプローチとを截然と分かつ議論──これは、
『要綱・第一
巻』における理論と経験との関係についてのもっと丁寧な議論を危うくさせる要素を含むかもし
れない──が、経済学講義の改訂を通じて発展させられてきた、ということである。蓋し、彼の
思想の展開を上のように跡づけてみると、それが、筆禍体験を媒介にして、「経済学」(=すなわ
............. .....................
ち、近代社会の厚生についての、
「フリートレード」を原理とする「哲学」的探究)をいかにして
擁護するかという問題に、彼が応えようとした際の苦心に動機づけられていた、ということが分
かるから。
かくして、こうした特徴あるイントロで始まる 1808–9 年度の経済学講義において、ステュアー
トは、もはや「哲学」的探究をなした者としてではなく、それと区別されるべき「ユートピア」
的計画を提出した者として、コンドルセを描くのである(cf. 惹句)。
V.
「人口」を手なずける──Immunising “Population”
上で論じたことからすれば、コンドルセの「ユートピア」的計画を主要な批判対象として副題
に掲げたマルサスの『初版人口論』が、
「当初よりステュアートの関心を強く掻き立てた」
(Stewart
1855–56, 1:202; cf. 1:64)のは、不思議ではない(⑥)。多くのデータで補強され道徳的抑制概念を
5
導入した『人口論』第二版が世に出た 1803 年以降も、依然として、ステュアートの語るマルサス
像は『初版人口論』のそれであった(cf. 惹句)。かくしてステュアートが下すマルサス評価は、
....
....
正しくもコンドルセらの「ユートピア」的計画を論難したけれども、不当にも立法上の改善の一
切を無効とすることによって「人類の状態に関して陰鬱な見通し」を与えてしまった、というも
のである。
マルサスの与えた「陰鬱な見通し」を否定すべく、ステュアートは、マルサスが困窮や悪徳を
生み出さざるを得ないとした要因──食糧生産に比して不均衡な人口成長──を、経済成長の主
因として位置付け直そうと試みる。ステュアートによれば、
「人口の成長が生存手段のそれに比し
て急速であることは間違いない」が、実はそれこそが「農業への刺激」(Stewart 1808–9b, 1:46)
となるという。すなわち、かつては人口が富の結果であったけども、
「封建制度が廃れてしまって
.............
以降」はそれ以前と対照的に「人口が富の原因となっている」(1:48)。地主の手に土地が集積さ
れ、その下で人々が自らの勤労によって食糧生産に従事するという環境のなかで、人々の「意識
(opinion)が変わったこと」、これこそがかつては災厄をもたらした不均衡な人口成長をして恵
みの原因となさしめたのだ。このように論じるステュアートからすれば、
「マルサスは、自然体と
同様に政治体においても改善をもたらすのに強大な力を発揮する自然の治癒力(vis medicatrix)
をあまりに軽視しているように思われる」
(1:47–48)。かくしてステュアートは、不均衡な人口成
長という要素が「懐疑主義」
(Winch1983)という形で政治領域へ侵犯していくことを止まらせる。
個別的事実への着目に過ぎるものとして「統計」的手法を斥け、一般原理を重視する「哲学」
的方法を称揚したステュアートにとって、マルサスの提示した「人口原理」を様々なデータによ
って反証するのではなく、マルサス「人口原理」そのものを改鋳(⑦)することが重要であった。
ただし、こうして改鋳された「人口原理」は、マルサスによるコンドルセ批判が正当であるとい
う自らの主張の根拠を曖昧にしてはいまいか。他方、マルサスによるコンドルセ批判の正当性を
主張し続ければ、ステュアートの「人口原理」の改鋳の意味が見えにくくなりはすまいか。
VI.
結論
ステュアートが経済学講義のなかで提示しようと努めた「経済学」とは、
「フリートレード」を
基底的原理に据え「哲学」的アプローチにもとづいて、立法上の指針として有用な結論を導く「経
済学」であった。そして彼は、人類社会の斬新的改善を否定しないような形で、しかしそれと同
時に、フランス革命以降そのなかに革命的傾向を見ようとする風潮から切り離された形で(=政
治的に中立なものとして、しかしそれは結局、どのような政治的立場とも結びつき得るものとし
て)、それを提示した。その意味で、彼の試みは、単に「一方の憲政上の革新を求める情熱と他方
の政治的懐疑主義との中間に進路を取るこころみ」
(Winch 1983, 38/訳 35)というよりも、すな
わちコンドルセとマルサスという政治的両翼を批判した上でその中道を行こうとしてこころみと
いうよりも、そうした政治的な領域からは相対的に独立した「経済学」という地平を措定するこ
ころみであったと言える。それこそが、ステュアートが広義の政治学を含む道徳哲学講義から経
済学講義を独立させていく所以であった。
※○囲み数字に対応する註、および参考文献表は当日配布します。
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