動画閲覧資料(H27第6回) (PDF:1.20MB)

道民カレッジ「ほっかいどう学」大学インターネット講座
蝦夷地での日露の出会い~緊張と緩和の交渉~
講師:札幌大学
地域共創学群
川上 淳 教授
◇ 講座の内容 ◇
・江戸時代、蝦夷地で日本とロシアはたびたび出会い、やがてロシアからの公式使節が来航し、幕
府は対外危機を認識する。
・その後、緊張が緩和されて、幕末日本が開国へと向かう歴史を見ていく。
◆日露関係前史
ロシアへの漂流民
・ロシア人は 16 世紀末にクロテンなどの高価な毛皮を
求めて東に進む。
・17 世紀にはカムチャツカ半島に、18 世紀には千島列
島やアリューシャン列島に達し、ラッコを見つけて
毛皮をとった。
・日露の出会いは、18 世紀の日本人漂流民から始まっ
た。
・嵐に遭った日本人の船乗りが、カムチャツカ周辺に漂着し、そこにいたロシア人に保護された。
・漂流民はその後、ロシア本土のイルクーツクやペテルブルグに行き、日本語学校の教師になった。
・日本人の漂流民、ソウザとゴンザである。2 人は薩摩の船乗
りで 1729 年、カムチャツカに漂着後、ペテルブルグに送られ、
日本語学校の教師になった。
・ゴンザは世界最初の露日辞典の編纂を手伝った。
◆日露関係前史
ロシアから日本へ
・18 世紀になると、ロシアは日本への関心を高めた。
・その一方で日本は、ロシアへの警戒心を高めた。
・1739 年にはベーリングの探検隊が来航したが、当時はどこの国の船かは、認識されなかった。
・1770 年と翌年には、ウルップ島をラッコの猟場とする
アイヌと毛皮を求めるロシア人との衝突も起きた。
・こうした中、最も注目されるのが、1779 年、イルクー
ツクの商人、シャバリンが商品を交換する「交易」を
求め、蝦夷地の厚岸まで来航した事例である。
・シャバリンは、蝦夷地を治めていた松前藩と初めて接
触したロシア人だった。
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・厚岸でのシャバリン一行を描いた絵である。
・商人たちが帽子を取って整列している。
・国の公式使節団ではないが、礼儀正しく交渉す
る姿勢が見える。
・遅れてきた松前藩の人たちも見える。
・交易を求めたシャバリンに対し松前藩は、「異
国との交易は長崎以外では許されないから、以
後来ないように」と伝えた。
・仙台藩の医師、工藤平助が、シャバリン来航の 4 年後の 1783 年、
「カムチャツカ風説考」という
本を幕府に提出している。
・内容は「ロシア人が千島列島を伝ってきて交易を要求しているので、ロシアと交易し、蝦夷地を
開発すべき」というものである。
・これを受けて幕府は 1785 年、蝦夷地に調査隊を派遣した。
・ロシア人が蝦夷地周辺に来ていることが調査によってわかったが、当時幕府の実権を握っていた
老中の田沼意次が失脚したことによって、交易も蝦夷地の開発も進まなかった。
◆大黒屋光太夫とラクスマンの出会い
・先ほどお話ししたロシアへの漂流民が大きな役割を果たす出来事が起きた。
・現在の三重県にある白子の船乗りの大黒屋光太夫ら一行が、アリューシャン列島のアムチトカ島
に漂着した。
・ここで島の原住民のアリュート民族や毛皮を求めて
きたロシア人に助けられ、3 年後にロシア人ととも
に島を出るが、日本には帰してもらえず、カムチャ
ツカでの滞在を経て、イルクーツクに到着した。
・この時、17 人いた乗組員は次々と亡くなって 5 人
になっていた。
・イルクーツクで光太夫らは、キリル・ラクスマンと
出会う。
・科学者で、日本に強い関心を持つ人である。
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・彼は光太夫らを連れて当時のロシアの首都ペテルブルグに
行き、皇帝のエカテリーナ II 世と会見する。
・エカテリーナ II 世からイルクーツク総督にあてた「対日遣
使勅令」、日本に使節団を派遣する命令書である。
・キリル・ラクスマンの要請に応えたもので、派遣の目的の
第 1 は、対日通交・通商関係を樹立することであった。
・また、科学的な調査も目的とした。大黒屋光太夫らを日本に送り帰すのは、名目に過ぎなかった。
・イルクーツク総督とキリル・ラクスマンはイルクーツクで次男のアダム・ラクスマンを団長とし、
光太夫らが同行する 42 人の使節団を編成した。
・帰国したのは大黒屋光太夫と磯吉、そして絵にはない
が、小市の 3 人で、あとの 2 人はイルクーツクに残っ
た。
・使節団が出発した 1792 年の時点で光太夫は 41 歳、磯
吉は 26 歳、アダム・ラクスマンも 26 歳であった。
・ロシアに 10 年もいたので、服装も言葉もロシア人同
じようになっていた。
◆ラクスマンの根室滞在
・使節団は、1792 年にオホーツク港からエカテリーナ号という
帆船に乗って、根室に向かう。
・1779 年に厚岸に来たシャバリンが案内して来た。
・根室で使節団は一冬を過ごした。
・ラクスマン根室越冬図である。
エカテリーナ号は、根室港の弁天島に
あり港は氷っていてソリで行き来して
いた。
・港にはロシア人の宿舎が設けられ、
その隣に松前藩の役人が詰めている運
上屋が見える。
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・ラクスマンは松前藩主あて文書を提出し、漂流民を江
戸に行って引き渡すことを求めた。
・まず交渉の場につくことを考え、通交・通商の要求は
していない。
・松前藩は江戸の幕府に相談した。
・幕府は役人を根室に派遣して、漂流民は松前で引き取
ると伝えた。
・ラクスマンと役人の間では、お互いを
理解するための貴重な交流があった。
・根室に派遣された幕府役人がラクスマ
ンから借りて写した地図である。
・日本、ロシア、アメリカが記されてい
る。
・当時の日本ではとても貴重な地図であ
る。
・日本側もロシアのことを知りたいとい
う意欲がとても強かったようである。
・根室に派遣された幕府の役人による日本で作った最
初のロシア語辞典である。
・1107 語を収録している。「居る」が「エス」、「今」
が「テペレ」などと書かれている。
・ロシア語を知ることは、その後の交渉に役立ったの
ではないかと思われる。
◆初めての日露交渉
・ラクスマンは松前での交渉に同意し、1793 年の春に出発する。
・大黒屋光太夫と磯吉も同行したが、小市は根室で亡くなった。
・幕府の役人らが松前藩の船で先導し、ラクスマンらはエカテリーナ号で続いた。途中で離ればな
れになってしまい、1 か月後にやっと函館に入港した。
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ラスクマンの来航について紹介します。(取材 VTR)
・松前藩からは、450 人もの大行列が迎えた。
・こうした歓迎ムードの中、いよいよ初めての日露交渉が 1793 年 6 月、松前で開かれた。
・ロシアの公式使節であるラクスマンと幕府宣諭使石川将監及び村上大学による国と国との初めて
の日露交渉である。
・宣諭使とは、幕府の全権代表のような役割を務める人である。
・第1回会談でラクスマンは初めて、「漂流民送
還を機に対日通交・通商関係を樹立すること」
を求めた。
・これに対し、幕府からの国法書がラクスマンに
渡された。
・内容は、
「従来通交のない国との通信・通交は
許し難いが、今回限り松前において漂流民受領
の用意がある。」
・「なお、望むところがあれば長崎に至るべし」
というものであった。
・第 2 回会談で光太夫と磯吉が日本側に引き渡された。
・第 3 回会談で通交交渉の唯一の窓口、長崎への入港許可証である「信牌」が渡された。
・ラクスマンは、松前から長崎へ行かず、ロシアに帰国して判断を仰いだ。
・ロシア側は、信牌の交付を高く評価し、長崎へ行けば通交通商交渉が成功すると考えていたよう
である。
・しかし、アダム・ラクスマンの父キリルとエカテリーナ 2 世はまもなく亡くなり、第 2 回の対日
使節派遣はしばらく立ち消えとなってしまった。
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・ラクスマン使節団には、礼を尽くし、贈り物をたくさん与えていることからも、友好関係を保ち
たい思いは伝わる。
・通交・通商については、長崎に任せて、松前でのトラブルは避けようとした。
・幕府に引き取られた光太夫と磯吉は、すぐに江戸へ向かった。
・11 代将軍徳川家斉の上覧を受けたほか、蘭学者などか
らロシア事情を聞かれた。
・そこから蘭学者の桂川甫周による「北槎聞略」など、何
冊もの本が書かれて、ロシア事情が広く知れ渡った。
・その後、光太夫と磯吉は、故郷の白子に 10 年ぶりに帰
るが、光太夫は江戸に戻ってから、結婚した妻や子と暮
らし、生涯を終えた。
◆東蝦夷地幕府仮直轄とレザノフの長崎来航
・日本とロシアは緊張関係に進む。
・ラクスマンが帰って 3 年後、蝦夷地の内浦湾に
イギリス船が来航したこともあり、幕府は外国
船に対する警備が重要だと考えた。
・蝦夷地調査隊が派遣され、ロシアの千島列島南
下が著しいと判断した。
・そこで 1799 年に、それまで松前藩の交易地であ
った東蝦夷地を幕府の仮直轄とした。
・東蝦夷地とは、北海道の太平洋岸から択捉島あ
たりの地域を指す。
・こうして幕府が警戒心を強めた時期に、ロシアから
第 2 回遣日使節レザノフが長崎に来航した。
・レザノフは、ラクスマンが持ち帰った信牌を携え、
漂流民を伴っていた。
・ラクスマンに続く 2 回目の日露交渉は、1805 年にロ
シアの公式使節レザノフと幕府目付遠山金四郎景晋
(かげみち)との間で行なわれた。
・レザノフは、第1の目的を漂流民の引き渡しではな
く、日本との通交・通商関係を結ぶこととした。
・これに対し幕府は、
「教諭書」を渡し、ロシアと通信・通商はしないとはっきり拒絶した。
・この結果、レザノフは、武力で通商関係を実現することを皇帝に申し入れ、許可を得ないうちに
日本北方攻撃隊を組織した。
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◆蝦夷地における日露の緊張関係
・レザノフが組織した日本北方攻撃隊は、軍人のフヴォ
ストフ中尉が率いた。
・攻撃隊は、まず 1806 年に樺太南部を襲撃した。
・1807 年、幕府は蝦夷地全域を直轄とします。その矢先、
フヴォストフは択捉島を襲って、南部藩と津軽藩の警
備隊を敗走させ、さらに利尻島を襲撃した。
・襲撃はこれで終わったが、幕府は対抗策として、奥州
4 藩の蝦夷地出兵とロシア船打払令を発令し、再度の
襲撃に備えた。
・襲撃を受けたことによる幕府の危機感が、フヴォストフ襲撃の 4 年後に起きたゴロウニン事件を
もたらすことになる。
・1811 年、千島列島を測量中のロシア海軍少佐ゴロウニン率いる船が国後島に上陸したところ、厳
重警戒中の幕府警備隊に捕まった。
・ゴロウニンは、松前に連行され、2 年あまり幽閉
される。
・ゴロウニンは、襲撃ではなく、測量が目的であっ
た。
・残された副艦長のリコルドは、ゴロウニンを奪還
できず、その生死を確認する手段を得ようと、翌
年国後島沖(削除)に戻り、函館で海運業などを
営む大商人、髙田屋嘉兵衛が乗っていた船を襲い、
嘉兵衛らをカムチャツカに連行した。
・髙田屋嘉兵衛は函館と国後島・択捉島を結ぶ航路を開発した人でもあり、国後島はなじみの場所
であった。
◆日露の緊張関係の緩和
・ここで髙田屋嘉兵衛が大きな役割を果たす。
・嘉兵衛はカムチャツカでリコルドと信頼関係を築く。
・嘉兵衛はこの時 43 歳、リコルドは 36 歳であった。
・嘉兵衛は相手を尊重し、度量が大きく、交渉をまとめるのが上手であった。
・嘉兵衛はリコルドに平和交渉を相談し、リコルドは交渉役を引き受けた。
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・2 人は国後島に戻り、リコルドは嘉兵衛を解
放した。
・嘉兵衛は、ここで松前奉行の役人から説諭書
を受け取り、それをリコルドに渡した。
・これは、フヴォストフらの襲撃にロシア政府
が関与していないことを証明する公文書が
あれば、ゴロウニンを解放するというもので
あった。
・リコルドは、説諭書を受けて、いったんロシアへ戻り、説諭書の内容に沿った公式文書の釈明書
を持って、箱館に来航した。
・嘉兵衛による事前折衝を経て開かれた交渉では、釈明書が受け入れられ、ゴロウニンは解放され
た。
・40 年後の 1853 年、ロシアのプチャーチンが長崎に来航し、1855 年に日露通好条約が結ばれた。
・箱館、下田、長崎の港がロシア船のために開かれたほか、日露両国の国境を択捉島とウルップ島
の間とした。
・これは現在の北方領土問題で、日本が主張する国境線でもある。
・40 年後とはいえ、日露の緊張関係の緩和の条約締結の背景にあったといえるであろう。
日露友好の碑を紹介します。(取材 VTR)
・近世後期(追加)のラクスマンに始まるロシアの来航は通交・通商を求めるものであった。
・幕府は蝦夷地に進出する脅威と感じてきたが、武力で対抗するのではなく、交渉によって問題を
解決しようとしてきた。
・この精神は、今後の日露関係においても生かされるべきではないか。
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