倉次亨

第1学年
1
単元名
2
単元(佐倉学)について
総合(佐倉学)指導モデル案
佐倉に産業を興した
倉次
亨
倉次亨は,幕末には佐倉藩の重臣として活躍し,明治時代になると佐倉に残り元藩士た
ちの生活のために製茶業を興し,佐倉の産業を支えた人物である。
亨は,25歳で倉次家を継ぎ,藩の重役である年寄役となった。幕末の動乱期に藩政を
担当することになった亨は,水戸脱藩浪士たちによる天狗党の乱の鎮圧に佐倉藩兵を率い
て出陣した。軍制の改革を行っていた佐倉藩は,近代的な武器で戦いこれを鎮圧した。し
かし,戊辰戦争が起こると,藩主堀田正倫は,将軍徳川慶喜の助命嘆願のために京都に上
ったが,朝廷側に味方するかどうかで問い詰められ,幽閉されてしまう。亨たちは,苦渋
の決断を迫られ佐倉城を開き,朝廷側に従うことになった。明治時代になると大参事とな
っ た 西 村 茂 樹 の 指 示 の 下 ,「 同 協 社 」 を 設 立 し 荒 れ 地 を 開 墾 し て 製 茶 業 に 乗 り 出 す の で あ
る。当時,全国の武士たちはその身分を離れ,農業に就く者,商業に就く者,軍人になる
者と様々であったが,多くの武士は,生活に困窮し新しい時代に適応できず苦しむことと
なった。佐倉では,藩主であった堀田正倫が佐倉に戻り倉次
亨たちの士族授産の産業振
興 に 支 援 を 惜 し ま な か っ た た め ,多 く の 元 佐 倉 藩 士 が 新 し い 時 代 を 生 き 抜 く こ と が で き た 。
亨たちの興した「佐倉茶」の製造は,成功し海外にまで輸出できるようになった。この
成 功 の 陰 に は ,佐 藤 尚 中 の 子 で あ る 佐 藤 百 太 郎 の 力 が あ っ た こ と を 忘 れ る こ と は で き な い 。
このように倉次
亨,西村茂樹,西村勝三,大塚岩次郎,佐藤百太郎たちの活躍は,日本
の新しい産業を興す契機となり,佐倉の産業を支えることにもなった。倉次
亨は,武士
の身分を失い,職を失った佐倉藩士のために佐倉藩重臣としての責任を立派に果たし明治
3 8 年 ( 1905), 7 7 歳 の 生 涯 を 閉 じ た 。
倉次亨の功績は,明治期の人々の暮らしを知る上で大変貴重である。農民は,幕藩体制
が崩壊しても生活が一変することはなかったし,商人も日本が開国をしたことで,広く商
売ができる可能性が広がった。しかし,武士は,身分と職を失うだけでなく,専門である
軍事面も徴兵制度の整備によって取り上げられ,生きる術を失い反乱を起こすきっかけと
もなった。そんな中で,佐倉の元藩士たちは,堀田正倫公の支えがあり,西村茂樹や倉次
亨の適切な指導を受けて,苦労はあっても,希望に燃えて新しい時代を切り開くことがで
きた。このことは,人を大切にする佐倉の教育の賜である。
現 在 , 佐 倉 で お 茶 の 栽 培 は 少 な く な っ た が ,「 佐 倉 茶 」 の 名 は ,( 株 ) 小 川 園 が 引 き 継
ぎその伝統を受け継いでいる。当時の人々がお茶の栽培をとおして,連帯感を強め,佐倉
で生きていくことを決断して助け合ったことは,人を大切にする佐倉の誇りであり,人々
の思いを佐倉学のなかで指導していきたい。
3
活動計画(3時間扱い)
過程
主
①
な
学
習
活
動
倉次亨の肖像写真と佐倉茶のパッケー
ジを見て,感想を話し合う。
備
・倉次
考
亨という人物に関心を持た
せ,佐倉とお茶の関係に興味を持
たせる。
導
入
・
②
郷土の先覚者小辞典Ⅰのコピーから,
倉次亨を知る。
・倉次亨の事績を年表で知らせる。
時配
調
べ
る
1
倉次亨と佐倉茶について調べよう。
③
郷 土 の 先 覚 者 「 倉 次 亨 」, イ ン タ ー ネ ッ
トを使い,調べる。
・倉次亨の業績を基に調べさせる。
・学習カードに調べたことを箇条書
きでまとめさせる。
④
ま
と
め
る
調べてわかったことをまとめる。
・倉次亨の肖像写真を中心に調べた
・倉次亨の肖像写真を中心にまとめる。
ことをまとめていく。
・簡易年表に付け足してまとめる。
2
⑤
佐 倉 茶 を 試 飲 し ,感 想 を 書 き ,発 表 す る 。 ・ 学 習 カ ー ド に 学 習 し た 感 想 を 書 き
⑥
教師の話を聞く。
発表させる。
・現在の(株)小川園が,佐倉茶を復活
・倉次亨や佐倉茶の栽培をした人々
させようとしている努力や願いを知ら
の気持ちを考え,佐倉学のねらい
せる。
で あ る「 人 の 優 し さ 」
「責任感」
「好
・西村茂樹の指導の下に,佐倉藩の人々
が様々な分野で活躍し,自分の責任と
学進取」の気風について考えさせ
る。
役割分担をよく理解して行動したこと
を知らせる。
4
考 察(佐倉学を取り入れることについて)
倉次亨は,佐倉藩の重臣として幕末から明治にかけて活躍し,最後まで佐倉とともに生
きた人物である。佐倉藩は堀田正睦公の藩政改革を受けて,大きな転換を図ることができ
た。それは,単に西洋の学問を取り入れた進取の藩であったということだけでなく,日本
の 開 国 以 降 も そ れ ぞ れ が ,自 分 の 責 任 と 役 割 を 明 確 に し て 行 動 し た こ と に あ る 。正 睦 公 は ,
「 学 問 を す る こ と は ,徳 を 成 す こ と に あ る 」と の 信 念 か ら 藩 校 を「 成 徳 書 院 」と 名 付 け た 。
そして,藩政改革の核となった「一芸一術の制」は,様々な分野の先駆者を育てた。そし
て,明治を迎えると,藩士たちは,それぞれの役割に従い,医学,産業,芸術,教育,軍
事と様々な分野で活躍をすることとなった。しかし,佐倉藩は,廃藩後もその組織を維持
し,西村茂樹大参事の指導の下に,佐倉に産業や教育を興すのである。最後の藩主となっ
た正倫公は,佐倉に戻ると私財を投じて佐倉に産業を興し,教育の伝統を残した。多くの
大名家が東京に出たまま郷里に戻ることがなかった例が多い中で,佐倉に尽くした正倫公
も,その責任と役割を担ったのである。佐倉に残った人々は,中央に出て国のために尽く
した人々とは異なるが,それぞれの役割を十分認識した行動であり,その代表が,倉次亨
で あ る 。亨 の 子 孫 の 倉 次 家 の 人 々 は ,戦 後 も 佐 倉 に 残 り ,佐 倉 の 教 育 に 尽 く す こ と に な る 。
多 く の 佐 倉 の 人 々 の 生 き 方 を 倉 次 亨 か ら 学 ぶ こ と に よ っ て ,現 在 に つ な が る 子 ど も た ち が ,
自分の生き方を考える契機となれば,佐倉学の「好学進取」の意味が,さらに深まるもの
と考える。
(資料提供・協力
郷土の先覚者編集委員)