世界のなかの日本生糸と埼玉県(1)

埼玉彩発見 知られざる歴史を探る
世界のなかの日本生糸と埼玉県(1)
―幕末開港と生糸輸出―
埼玉大学教育学部教授 田村 均
よいとの評価であったのです。驚くことに、
1 はじめに
価格的に日本生糸は国内相場の60 ~ 70%
幕末期の安政6年(1859)の横浜開港後、
前後のかなり割安な値段で横浜居留地の外商
座繰り製糸
に買い取られ、
大量に輸出されていたのです。
(注)
の増産が海外需要へのすばや
い輸出対応を可能にし、生糸不足にあえぐ
もとより、外商に買い叩かれる以前にヨー
ヨーロッパ市場に日本生糸が参入する大きな
ロッパ市場での取引価格が抑制されていた状
推進力となりました。とはいえ、幕末開港を
況下で国内での生糸増産を急ぐあまり、手挽
契機に世界市場と遭遇した日本生糸の品質評
き法よりも能率的な座繰り製糸法が濫用され
価は開港当初からあまり高いものではありま
るにつれ、維新前後には日本生糸の品質劣化
せんでした。ヨーロッパとりわけフランスの
が顕著に進んでしまいます。輸出用生糸の粗
リヨンでの格付けが低く、取引価格が安価に
悪化は対外関係における懸案問題になります
押さえられていたからでした。
が、しかしもう1つ重大な価格面での日本生
概括的に言いますと、当時の日本生糸は、
糸の過小評価は、世界の生糸市況を左右する
ヨーロッパ市場にとって品質的にアジア産品
ヨーロッパきっての絹業都市フランスのリヨ
のうち中ないし下等クラスの中国産生糸と同
ンの動向を知る由もない同時代の日本人に
等程度またはその代用品として使用できれば
とって、誰の目にも明らかなものではありま
せんでした。
(注)座繰り糸
座繰りは、歯車や円盤の付いた手動の糸繰り器で、ハン
ドルを手回し糸取り枠が増速回転させる仕組みになってい
ます。鍋で煮た繭から数本の繊維を取り出し、撚りを掛け
ずに糸取り枠に巻き付けます。座繰り糸は、座繰り器で繭
から糸条を引き出して数本接緒した生糸。
世界市場に遭遇した日本生糸が抱えこんだ
2つの大きな問題点は、明治維新後に新政府
によって政策課題として明確に意識化され、
官営富岡製糸場の創設となっていくもので
す。ヨーロッパ式の機械製糸法を導入して日
本生糸の品位を向上させ、世界市場で通用す
る文字通り上質な生糸を安定的に供給しうる
模範工場プロジェクトとして、大掛かりに構
想・設立されたのが富岡製糸場でした。新政
府は世界水準の機械製糸法を大規模かつ積極
的に導入し、それを日本国内に広めることに
よって、ヨーロッパでの評価が低い日本生糸
の国際価格の上昇を企図し、もって対外的な
経済関係の抜本的な改善をはかろうとしたの
です。新政府が選択したのは、農家単位の分
散的な小生産ゆえに品位向上はおろか品質の
上州座繰り(写真提供:さいたま市立博物館)
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ぶぎんレポート No.177 2014 年 5 月号
安定が見込めない座繰り法の改良ではありま
せんでした。国運を賭けた
といえる官営機械製糸場の
設立プロジェクトは、在来
法=座繰り製糸に見切りを
つけた明治新政府の世界市
場への積極的な関与として
ゆえん
とらえる必要がある所以で
す。
本稿は、これから幕末開
港を契機に世界市場に参入
した日本生糸の約100年に
歌川国輝(二代)画「上州富岡製糸場之図」1873(明治6)年
(写真提供:さいたま市立博物館)
およぶ激動の軌跡を追跡していきますが、と
いずれにしても、座繰り法をめぐって今の
くに新政府が選択・主導した機械製糸法の導
ところ歴史経済系の研究者で開港以前から普
入の背後で進行した民間での座繰り製糸法の
及していたとする立場を表明するのは私だけ
改良の動きに注目します。そのうえで、①幕
ですが、蚕病(微粒子病)で大打撃を受けた
末~維新期の繭と生糸の経済事情、②明治前
上等糸のイタリアおよびフランス生糸の穴を
期に着手された官営富岡製糸場プロジェクト
埋めるかたちでヨーロッパ市場に吸引された
の意義と限界、そして③明治期に「シルク王
のが、中・下等糸の中国生糸や日本生糸など
国」の1つとなった埼玉県における近代製糸
のアジア産品でした。中国よりもやや遅れて
業の発展プロセスとその歴史的遺産などにつ
日本からヨーロッパへ送り出されたのは在来
いて、シリーズで述べていくことにします。
糸(手挽糸、座繰り糸、副蚕糸)で、のちに
2 幕末開港後の世界市場と日本生糸
座繰り糸が輸出の大半を占めるようになりま
した。ヨーロッパ向けの生糸はロンドン経由
世界市場とのリンクによって開港後に本格
もありましたが、おもにフランスのリヨンで
的な座繰り製糸法が普及したとする学界の通
検査を受けて商取引にかけられ、リヨンをは
説に対し、私は幕末開港以前から座繰り法は
じめ、スイスのチューリヒとバーゼル、ドイ
北関東・甲信越・南東北地方のかなり広い地
ツのクレフェルト、そしてイタリアのコモな
域ですでに普及していたとみています。仮に
どの絹業都市に送られていきました。
開港後に本格的に普及・定着したとみなすと、
しかし、蚕病が終息しヨーロッパの生糸不
富岡製糸場プロジェクトを構想する明治新政
足がひとまず落ち着きをみせはじめると、日
府の指導者は手挽き法に替わって「新技術」
本生糸は世界市場から品質面でのバッシング
となった座繰り法をたかだか10年程度で見
を受けることになります。幕末維新期に生じ
限ったことになります。そうであれば、その
た、いわゆる生糸・蚕種の粗製濫造問題です。
きわめて迅速ともいえる政策的な「決断」の
すでに指摘したように、開港後、ヨーロッパ
根拠が問われなければならないのに、これま
へ大量に輸出された在来糸のなかで過半を占
で学界ではこの問題を十分に議論していませ
めるようになるのが座繰り糸であり、国内で
ん。そればかりか、そのような速断それ自体
の生産が急上昇した結果、その品質が劣化し
がどうにも不自然な印象をまぬかれません。
たからでした。輸出市場の拡大が在来糸の生
この点については重要な論点を含みますの
産を刺激し、いきおい座繰り糸の増産に拍車
で、次号以降で具体的に述べる予定です。
がかかって粗製品が大量に出まわりました。
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折しも不正な粗悪品の混入や意図的な便乗商
移でみておきます。
売の横行もあいまって、日本生糸の品質劣化
1854年日米和親条約によって、日本が開
=粗悪化が顕在化したのです。
港(下田と箱館)した5年後の1859年に40
19世紀中頃に成立した世界市場に生糸を
フラン(1kg当たり)以下にいったん暴落
供給した主要国は、フランス・イタリア・中
するものの、おしなべて1850年代後半から
国・日本の4カ国でした。世界市場の中心地
60年代にかけての時期の平均単価は50 ~
=絹都リヨンにはトルコなど中近東諸国から
70フランと比較的に高い水準が維持されて
も生糸が集められました。そして19世紀後
いました。そのため、国際評価が低かった日
半~ 20世紀初頭の世界生糸市場において、
本生糸も横浜開港後しばらくは相対的に高い
①フランス糸、②イタリア糸、③中国産の上
相場で取引されていたことになります。しか
海機械糸、④日本生糸(機械糸・座繰り糸)
、
しそれもつかのまで、不況期の70年代にな
⑤中国産の広東機械糸、⑥中国在来の上海七
ると生糸価格は35 ~ 45フランへと下落し、
里糸(再繰糸)および広東座繰り糸、という
76年の繭凶作で生糸価格が65フランにいっ
格付の序列が形成されました。この格付は
とき急騰するものの、不況が長期化する80
1920年代後半にいたるまで基本的に変化し
年代には40フランを上回ることはありませ
ませんでしたが、1880 ~ 90年代には日本
んでした。
だけでなく中国やインドなどでヨーロッパ式
この動きは、幕末開港から維新前後にかけ
の機械製糸工場が設立されていきましたの
ての15年間は外国産の生糸価格が比較的好
で、取引価格が高い上等糸の生産をめざしな
調に推移したことを示すものとなりますが、
がら、いっぽうで競合が激化する中等糸市場
官営富岡製糸場が開業する1872年以降はフ
からの脱落を防ごうとする思惑が各国に働い
ランスの長期不況とぶつかり、日本生糸の国
たのは当然の成り行きであったといえます。
際価格がかつてないほどに低迷したことを意
3 フランスの長期不況と日本生糸
味します。もともと低い相場水準に押さえら
れていた日本生糸にとって、もはや価格上昇
そこで、19世紀後半期におけるヨーロッ
の可能性はまったく見込めない状況であった
パの生糸市況をフランスの輸入生糸単価の推
といってよいでしょう。ちなみに、1884年
(明治17)に埼玉県内で勃発した秩父事件(秩
父困民党の蜂起)の遠因はこのフランスでの
長期的な生糸不況でした。
ここで要点をまとめると、以下のようにな
ります。すなわち、①新政府はヨーロッパの
生糸市場が比較的好調であった明治維新の直
後に模範的な機械製糸工場の設立プロジェク
トを政策構想し、その具体的な実現である官
営富岡製糸場を創設しますが、②しかし、そ
の巨大な機械製糸工場が実際に開業し営業開
明治40年代の本庄町(現本庄市)の繭市の風景
(写真提供:埼玉県立浦和図書館)
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始する1872年(明治5)以降は、まさに輸
出先であるフランスの長期不況に遭遇してい
埼玉彩発見 知られざる歴史を探る
埼玉県の養蚕の歴史(明治期まで)
弥 生
紀元前後
大陸から養蚕機織の技術が日本に伝来
奈 良
8世紀頃
武蔵の国では租庸調のうち調を絹で納める
室 町
(南北朝)
貞治年間 高麗郡内で帖絹(つむぎ)が広く生産される
(大永)
(元禄)
1521年 熊谷で木綿市開かれる
同末期 秩父・小川・飯能・越生・川越等の絹市が活発化
江戸中期
秩父絹・小川絹・飯能絹・越生絹・川越絹と呼称
(享保)
18世紀 秩父絹が大坂で高く評価される
(天保)
19世紀 絹糸取引の増大に伴い、繭のまま売却するものが現れる
※養蚕と製糸の分離が起こる
このころ埼玉県の蚕糸業は、秩父郡・入間郡・高麗郡が中心
江戸後期
明 治
(天保)
1852年頃 フランス・イタリアの蚕糸業が微粒子病により壊滅的打撃
(安政)
1861年頃 横浜開港により生糸貿易が盛んになる
(6年)
1873年 狭山市に県内初の器械製糸「暢業社」が起業
(14年)
1881年 県が養蚕組合概則を布達、養蚕業の発達を図る
1890年頃 藍作などの商品作物地帯である児玉郡・大里郡で急速に発達
繭の産額が増大するとともに生繭販売が増加
このころ県内には22か所の繭市場が存在
明治中期
(27年)
1894年 入間市に石川組製糸が設立
明治末期
日清戦争前後 片倉などの信州系資本の各地への進出が活発化
1905年頃 器械製糸が座繰製糸を圧倒、座繰の生産高を追い越す
参考資料:埼玉県農林部生産振興課「埼玉県の養蚕・絹文化の継承について」
たのです。まさに歴史の皮肉というべき事態
ぎを削ることになり、富岡製糸場をはじめ信
が、国際評価の向上を期待された日本生糸の
州系などの有力な県外製糸家への原料繭の供
前途に真っ向から立ちはだかったのでした。
給地化していく埼玉県の養蚕・製糸業も大き
こうしたなかで、開業当初からしばらくは
な影響を受け、かつてない変貌を余儀なくさ
フランス向けの生糸生産を行っていた富岡製
れていきます。
糸場は営業成績が低迷したため、経営再建の
ためにアメリカ向けの生糸生産に転換してい
きます。とりわけ、諏訪製糸業の興隆にとも
筆者紹介
ない有力な製糸家たちの対米市場へのシフト
埼玉大学教育学部教授 田村 均 氏
が加速し、日本生糸はアジア産品を受け入れ
て変質したヨーロッパ市場の趨勢のみなら
ず、19世紀後半から生糸需要を急増させる
「絹の新興国」アメリカの市況に大きく左右
されていくことになります。
かくして、絹の大衆化と機械化が世界中で
もっとも急速に進行したアメリカ市場で、イ
タリア糸と日本生糸と中国生糸の3者がしの
1957年 埼玉県児玉郡生まれ
79年 埼玉大学教育学部卒業
87年 明治大学大学院文学研究科地理学専攻
博士後期課程 単位取得満期退学 取得学位 博士(経済学)
90-92年 北九州大学商学部助教授
92-01年 埼玉大学教育学部助教授 等を経て2002年より現職
専門分野は社会経済史、染織業史、地域史
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