入居司玄化 - 滋賀県立大学

人
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立 大 学
四
叫q
県
,
滋 賀
文 化
学
部
研 究 報
入居司玄化
│
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即
4EE
SCHOOL OF HUMAN CULTURES
THE UNIVERSITY OF SHIGA PREFECTURE
主と
J
:
l
.もくじ・
巻 頭 言/小 林 清 一 … ・.
.
.
.
..
.
.
. ・.
••••••••.….. ・.
•• 1
・論文
二ウス物語と「事件」の通賠
ーのぞきからくりの継子語における物語構造 /細馬宏通
息子たちの家を巡り歩く父母
一台湾における 〈
輪伐頭〉をめぐって / 襲
..
.
1
2
玉齢
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
/古聞大樹…........・・ ・
・・ ・・・..・ ・…ー ・ ・ー・
0
0
0
0
.
.
.
2
… 1
9
0
ー ..
.・
.2
8
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)/
大橋松行..・
インド仏教遺跡サンチ 、サッ夕、
ーラ修復 ・保全
ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案/土井崇司
4
0
・研究ノート
自分の「忘れ」に気づくこと
一忘却の自然誌へのアプローチ
/細馬宏通
r
lJリイ・シュシュのすべて』のリアル
.
.
.
5
3
ー
ー
・
・ ・ー
差異の具現化と映像表現一 /
大井桂太 ー・・
・
ー
・ 一一 5
9
・地域フォーラム
6
徳山村と北海道一大地にロマンを求めてい ト /野部博子 6
「聴き取り調査」を考える
一地域文化の再生への参画をめざして /渡辺大記 .
.
.
.
.
.
7
4
・ 滋 賀 の 考 古 学 第 5回
甲賀寺・甲賀(紫香楽)宮研究の現状と課題/畑中英二 8
1
・生活デザインの現場かう 第 3回
..
.
8
7
テザイン教育と地域連携事始め/印南比日志..•••••••• .
・人間文化通信
新任教員メッ セー ジ
・
・
・9
7
I
N
F
O
R
M
A
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N 上原結子原画展......一........
.
..
.
一
.
9
8
.
.
.
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.
.
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・
・ ・
・
・
e
e
編集後記
.イタリア紀行より・
J
ア.~'\~.,べ w ヨ
イタリア各地域の建築は 、それぞれデザイン や様式がユニ ー
クで、そしてセンス がす ばらしい。 なかでも南イ タリアは不思
議な田舎 町が多く残さ れていて 、カン パニア地方、ア マルフェ
海岸 、表紙絵のアルベ ロベツロは トン ガリ帽子の屋根の 家 (ト
ウリヅリ)でよく知ら れている 。
プ リア地方に位置す る三か所 が世界遺産に なった。メルヘ
ンの世界 を見るよう な集落である が、よ く見ると 防御的 で合理
良部に白
的な構造とな っている 、擬灰石を平穏みにして、屋根T
漆喰を塗っている 。
集落は 台地 に建造 され、 地盤は 擬灰石で 地下 を少 し掘ればス
ライスされた石が段層 となっている。 身近な建材を使った、安
価でお酒務な家である O
絵 ・文/安土 優
口
一
一
林
人間文化学部
日連凋
守
﹂
Aq
、
‘
.
番 長
子
か苧
学部長
9
世紀末に最初の大学改革が行われた 。 ジョンズ ・ホプキンズが研究を中心にし
アメリカでは 、 1
た本格的な大学院大学として設立されたのは 1
8
7
0年代であった 。 この大学は鉄道事業で財を成した
ジョンズ・ホプキンズの遺産によって設立された。蓄積された巨大な富がダイナミックに展開しは
じめた科学的発見と 、大学という「場Jにおいて結びつけられる 。遺産の半分は病院の設置に当て
るように遺言 は告げていた 。
ジョンズ・ホプキンズとならんで、個人の資金の寄贈によ って、大変身をとげたのがシカゴ大学
であ った。パフ。テイスト派の小 さな神学学校に過ぎなかったモルガン・パーク神学学校を全米屈指
の総合研究大学にかえたのは 、J
.
D.
ロ ックフエラー l世の膨大な資金の寄贈であった 。 だから大学
改革を推進した要 因の一つは、集積された個人的な富を科学に結びつける動機・動因にあったとい
えるのだカ人ロックフエラー、カーネギーなどを、駆り立てたのはい ったい{可だ‘ったのだろうか。
9世紀末のアメリカでつよい影響力を持ったソーシャ
カーネギーの場合は明快であった 。彼は 1
ル・ダーウイニス、ムの信奉者であった 。富める階級の存在は「自然選択の法則」の帰結であるから、
「新たな富の福音j はこの階級に、社会の進歩のために「富の管理の洗練」を委ねた、と 。
それにたいしてロックフエラーの動機は、カーネギーよりもはるかに伝統的なパプテイストの信
仰にあった 。獲得した富は、「神の執事Jである人物に、その有用な使用が委ねられた社会的資源
にほかならない、と 。
一方ではそのビジネス 手法(買収、独占 )において、彼は当時のアメリカで最も悪評を受けた人物
であったが、他方では敬度なパプテイストであるとともに、組織化・合理化などの時代感覚の鋭敏
な持ち主であった。彼の「宗教的な寄贈と慈善」への指向が、組織化のすぐれた才能に支えられた
時代感覚とくみ合わさって、「法人形態の科学的慈善=財団」を生みだした。それによって、「文明
をその根幹で豊かにする支援j にふさわしい領域が発見された 。医学と公衆衛生は人類の貧困とい
う問題をその根元において解決する研究部門にほかならない、とロックフエラーは考えたのである 。
ロックフエラー医学研究所の設立もくわえて、メデイカルスクールの改革を中心にした大学改革へ
の助成に財団が金を注ぎ込んだのは、そのような指向に由来していたのである 。
このように、私たちが、今声高に繰り返されているスローガン (
競争、自己責任 など)の出所で
ある国の、 1
0
0年ほど前の、歴史的場面を見て、ネガテイブにであれ、ポジテイブにであれ、そこ
から引きだすことのできる教訓は 、何であろうか。
1
9
01
現
この指向が研究という特殊な活動と直接に結びついたのが、ロックフエラー医学研究所 (
ロックフエラー大学)の設立である 。
この研究所は私たちにはなじみの深い野口英世が、初代所長とな ったS.
フレックスナーに認めら
れて黄熱病の研究を行ったところであるが、ヨーロッパに比較して研究水準の低いアメリカの医学
研究をレベルアプするために、パスツール研究所とコッホ研究所をモデルにして、当時大きな被害
をもたらしていた伝染病を撲滅するための、細菌学と公衆衛生にかかわる研究を主要な研究課題と
した 。
この研究所は次々と著名な成果を生みだしロックフエラーの絶大な信頼を得るのだが、設置者ロ
ックフエラーは設立運営に 一切口出しをしなかった 。科学的慈善の構想者と展開は 、パプテイスト
の牧師であったF
.
Tゲイツに、研究所の編成と運営については、ペンシルパニア大学のフレックス
ナ一、ジョンズ ・ホプキンズ・メデイカルスクールの部長 W.
H.
ウェルチという信頼できる人材に全
面的に委ねたのである 。
研究員には二つの条件が課されていた。一つは他大学への非常勤講師をしないこと、もう 一つは
ニューヨークの審議会その他の委員会にかかわらないことである 。い ずれもそのような活動が、本
来の活動である研究の阻害要因になるという理由からであった 。 この研究所での研究対象が、急速
に解明されつつあるコレラ、チフス、ジフテリア、マラリア、黄熱病、狸紅熱など人類全体にかか
わる病の原因解明という人類総体の問題であるときに、些細な活動に気をとられるべきではないと
いう、希有壮大な熱気が研究所を覆 っていたのだ、った 。
人間文化・
論文
一ウス :物語と 「事件」の通路
--園田喝
ー の ぞ きか らく りの継子語にお ける 物 語 構 造 -
細馬宏通
人間文化学部生活文化学科人間関係専攻
1.はじめに
そして佐賀県在住の北園忠治氏であり、前者では土
本論では、現存する貴重なのぞきからくりのひと
田年代氏をはじめとする保存会の人々によって、後
図 I、参
つ、新潟県巻町の「幽霊 の継子いじめ J(
者では北園氏によって口上が行なわれ、その芸能を
考資料) を取り上げ、大正期に制作されたと推定さ
今に伝えている 。 その他、復元されたのぞきからく
れるこの継子誇が、どのような構造をも っており、
りを用いた口上が各地で行なわれている 。
それが旧来の継子誇や同時代のからくり節やフィク
シヨンとどのような関係にあるかをさぐ ってい く
。
さらに同時代の継子語の様相を合わせ見ながら、虚
かうくり節の基本資料
河本資料 一
昭和初期に残るからくり節を集めた文献資料とし
実のあいまいな継子譲がいかなる物語の力を持って
ては河本 (
1935/1
9
9
3)が存在し、そこに 4
5個 44
種
いたかを考える 。
のからくり節が収録されている(以下、「河本資料」
考察を始める前に、からくり節とはなにか、また
からくり節における継子語はどういう位置づけにあ
るかについて記しておこう 。
とする)。
河本はどのようにからくり節を収集したのだろう
か。河本は当時関西でのぞきからくり業 (
覗き屋)
を営んでいた岡本修太郎氏から聞き取りを行なって
からくり節について
おり (
河本 1
9
3
4)
、この岡本氏の知見が含まれてい
のぞきからくりは、江戸期に発祥した伝統的な見
る可能性が高い。 また覗き屋は上演の際に、しばし
世物芸能のひとつである 。最初は数個ののぞき穴か
ば口上の内容を印刷したチラシを配ることがあり、
らからくりや浮絵をのぞく簡素なものであったが、
大正から昭和期にかけて印刷されたチラシがいくつ
明治 ・大正期には、 2
0
個もの覗き穴を備え、畳一畳
か現存する 。河本資料に含まれるからくり節には、
ほどもある重い絵に細かい押し絵をほどこした豪勢
こうしたチラシから採られたものも含まれていると
なものが現われるようになった (
山本 1
9
8
2)
。
考えられる 。
のぞきからくりの語りは、からくり節、覗き歌、
覗き眼鏡の歌などと呼ばれており、地方によって節
が違うことから、名古屋節、大阪節などと呼ばれる
かうくり節と新聞報道との整合性
河本資料の内容は多岐に渡っている 。 「不如帰 j
こともある 。 (以下、本論では「からくり宣告」とす
「乳姉妹 JI
金色夜叉 JI
大阪朝日新聞小説
る)。
き」のように、明治 ・大正期の小説から題材をとっ
竹の棒を叩きながら調子よく唄われるのぞきから
かちど
く
たものもあれば、あるいは「三庄太夫一代 記JI
くりの語りは、人々が容易に口ずさめるほどに広ま
ずの葉」のように説教節や浄瑠璃、歌舞伎などから
った。落語「くし ゃみ講釈j の中には、物覚えの悪
題材をとったもの、さらには「地獄極楽」のような
い男が「八百屋お七 j のからくり節に乗せて買い物
説話的なものもある 。
の内容を覚えるというくだりが残 っており、全盛期
のからくり節の流行のほどが伺える 。
のぞきからくりは各地の縁日の盛り場、社寺の境
内でよく見られたが、活動写真の流行とともに衰退
いっぽうで、明治・大正期の実際に起こった殺人、
心中、殉職といった社会事件に題材をとる「事件も
のJも目立つ 。
試みに明治
大正期の読売新聞 CDROM を検索
し、昭和 9年 (
1
934) になると、覗き屋の盛んだ‘
っ
し、河本資料のからくり節の内容と報道された「事
た大阪とその周辺でさえ神戸、大阪、兵庫にわずか
件 」 と の 整 合 性 を 調 べ た と こ ろ 、 「血染の軍旗」
河本 1
934) という状態であった 。昭和 5
5
に 4軒 (
(
M37/ 1
9
0
4
.
5
;日露戦争南山の戦い )、「子ころし
年 (
1
9
8
0) に大阪天王寺を中心に活躍していた黒田
大悪婆箕形おいち J(
M39/1
906.
6)、「鳴呼伊藤公
種一氏が引退したのを最後に、覗き屋による興行は
爵 J(
M42/1909.
1
0;
伊藤博文暗殺事件)、「勧善懲悪
ほとんど見られなくなった。かつての覗き屋の口上
淡路首無事件 J(
M45/1
91
2
.
2
)、「日独戦争 J(
T3/
は小沢 (
1
9
9
9
a,1
9
9
9b,2
0
01
) の記録で見聞できる 。
T3/1
91
4.
J)、「残
1
91
4.
8
-)、「桜島噴火大ばく発 J(
現在、オリジナルののぞきからくりを保存しその
る親子J(
T
6/ 1
91
7
.1
2)
、「鈴弁殺し J(
T8/1
91
9.
6)、
口上を再現しているのは、新潟県巻町の郷土資料館、
2
・人 間 文 化
T11
/1
9
2
2
.
7)、「潜水艦七
「 小 野 訓 導 殉 職 美 談 J(
ニウス 物語と「事件」の通路ー のぞきかう くりの継子護における物語構造 一
拾号 J(
Tl2/1923.8-10)、「爆弾三勇士 J(
57/
1
9
3
2
.
2)の 1
1種について、対応する新聞記事を確認
することができた(かっこ内は報道された年月)。
また、新聞では確認できなかったものの、からく
り節の中で「大正四年十月の二十五日が公判で」
2
. 本論の目的と方法
では、巻町に保存されている「幽霊の継子いじめ」
はどうだろうか。結論を先取りして言えば、他のか
らくり節の継子語同様、その内容に対応する報道は
今回見つけることができなかった。
(
1子を 思う親心 J
) のように、年月が特定されてい
るものが他に 4種あった。今後さらに複数の新聞を
の継子いじめ Jが事実なのかフィクシヨンなのかと
調査することで「事件」と対照できるからくり節は
いうことではない。むしろ、このからくり節を聞く
しかし、本論で明らかにしたいのは、単に「幽霊
J 性が、本
ときに感じられる「ニウス(ニュース )
増える可能性がある。
34)
こうした傾向を考慮してであろう 、河本(19
は、多様なからくり節をまとめて「今で いふニウス
L
論の対象である 。
ここでいうニウス性とは、その言説がどれくらい
で世間の出来事を歌にしたもの」と位置づけている 。
事実に近いかを指すのではない。逆に、その内容を
継子護の虚実
からくり節のモチーフによく使われるものとし
せる力のことを指す。 このような、それ自身がひと
て、後添えとなった継母が継子をいじめるという、
本論では河本のことばを借りて「ニウス j と呼ぶこ
4種中、
いわゆる「継子護」がある。河本資料には、 4
とにする 。
聞いたときに、「これは事実かもしれない j と思わ
「五郎正宗 J1
俊徳丸一代記J1
弘法大師の誠J1
継子
金比羅霊験記
殺の犯罪 J1
浮世の写真ま、子殺」
「継子災難不動の御利厄 J1
美少年の公判
親に孝行
忠義の鏡」の、計 7種に継子習が含まれている 。
新聞との整合性を考えるとき、これら継子誇は微
妙な位置にある 。
0
0
0
)を
、
つの「できごと」であるニュース(佐藤 2
「幽霊の継子いじめj は、後に述べるように昔話
のバリエーションとして考えることができるにもか
かわらず、巻町の関係者の方々からは「本当にあっ
た話じゃないでしょうか」という意見が聞かれる 。
私が本論の検証を行なったのも、もしかして対応す
る事実があるのではないかと思ったのがきっかけで
俊徳丸一代記Jの
まず継子誇には、「五郎正宗 J1
ある 。 このようなニウス性、「本当にあったのかも
ように、浄瑠璃や歌舞伎で扱われている題材からと
しれない Jと思わせる力には、どのような背景があ
られた伝奇的なものと、その他の具体的な地名や実
るのだろうか。
名を備え、巡査のような明治期以降の事物を配した
ものとが、混在している。
「できごと j としてのニュースを考えるにあたっ
ては、何を媒体にどんな形式を与えられ、どのよう
では、具体的な地名や実名を備えたものは、なん
に伝えられ (
伝えられず)どのような主体に受け止
らかの「事件」に基づくものなのだろうか。上記で
められ、どのような身体から作り出されるかを問わ
行なった方法と同じく、読売新聞で「継母 J1
継子」
0
0
0
)。
ねばならない (
佐藤 2
および固有名調で検索されるすべての記事について
そこで本論では、からくり節と旧来の継子護との
内容を検討したが、からくり節の継子聾と対応する
関係、他分野のフィクションとの関係、さらには風
ものはなかった。
間や報道された「事件」と継子誇との関係を論じる
ご
いことの傍証は
継子認が、実話に忠実とは限ら 4
ことで 、のぞ‘さからくりの ヱ ウス性に γプローチす
他にもある 。たとえば、後で述べるように、同じ物
る。巻町の「幽霊の継子いじめj を主な分析の対象
語に対して複数の類話が存在し、異なる筋が語られ
にする理由は、この演目が、からくりの中ネ夕、実
る場合がある 。 また、石をくくりつけられて海に沈
際に演じられた録音とともに残されており、多角的
められた子供が金比羅 山の奇跡で生き返る「金比羅
な分析が可能なためである。
浮世の写真ま、子殺Jのように、導入部は
まず、「幽霊の継子いじめ」の話型分析を行なう
実名地名入りの猟奇事件の体をとりながら、霊験記
ことで、昔話としてのからくり節の水準を明らかに
仕立てのエンデイングへと向かうものもある 。
する 。次に、同時代のからくり節との比較によって、
霊験記
からくり節の継子霞の地名人名は、実話とのつな
からくり節の相互関係という水準について考察す
がりをほのめかしはするものの、その虚実はあいま
る。 さらに、明治期のフィクションとの関係を論じ
いなのである 。
ることで、異分野の物語とのぞ、きからくりとの関係
人間文化・ 3
ニウス ・物語と「事件」の通路
のぞきから くりの継子護における物語構造
という水準にふれる 。
最後に、明治・大正期の新聞に現われる継子いじ
め報道と継子護との関係を例証し、「事件 j と物語
との相互関係という水準を考察する 。
なお、からくり節においては、物語の内容だけで
なく、演者と観客との関係、からくり節を語る声の
問題、そしてのぞきからくりという装置じたいをめ
ぐる考察が欠かせないが、その詳細については別稿
に譲る (
細 馬 準 備 中)
。
3
.r
幽 霊 の 継 子 い じ めJの 話 型 分 析
「幽霊の継子いじめJについて
のぞきからくり「幽霊の継子いじめ j は 1
976年に
古寺信氏宅で発見され、巻町の有志の方々により修
復された。その後、巻町在住の内山ミヨ氏がかつて
この演 Bを演じた経験のあることが判明し、彼女に
よる実演が行なわれた 。 その様子は小沢
図 幽 霊 の 継 子 い じ めj 全体図
(
2
0
0
1)
に収められている 。現在は 、新潟県西蒲原郡巻町の
郷土資料館に保存されており、生前の内山氏に教え
を受けた土田年代氏をはじめ 、
保存会の方々により、
のぞきからくりの上演が行なわれている 。
「幽霊の継子いじめ j の正確な制作年代は分かつ
ていない。が、同じ蔵から発見された「八百屋お七 j
については、中ネタにほどこされた押絵が大正期に
静江はこの恐怖を卒業式の日に先生に告白し、不審に思っ
た先生と熱田巡査は、静江の家を調べることにする。
その夜、とみ子が幽霊姿となり静江をおとかしているとこ
ろに 、先生と熱田巡査が踏み込む。そのとき、起き出してき
て幽霊姿を見た実子の花子がショァク死してしまう。
その後とみ子は裁判l
にかけられるが改 .
L
、が認められて執行
猶予となり、尼になる。
姫路押絵の宮津由吉によ って 制作されたことが分か
っている 。 このことから、「幽霊の継子いじめ」の
題名からは、継母が死んで幽霊となり継子をいじ
絵もまた、大正・昭和初期に中ネタとして使われて
める、という物語を想像しがちだが、じつは、継母
いたと推測される 。大正末期から覗き屋の口上を行
が幽霊に扮装して継子を恐怖に陥らせるという話で
なっていた内 山 ミヨ氏がこの口上を覚えていたこと
あり、しかもその幽霊姿にショックを受けて、継子
は、その 1~ 証といえるであろう 。
ではなく実子が誤って死んでしまうという意外な展
分析では 、小沢 (
2
0
0
1) に収められた内山 ミヨ氏
の口上を書き起こしたテキスト (
巻町郷土資料館
1
9
8
8) を用いる(巻末資料参照)。
開である 。
この奇妙な展開をもっ話は、このからくり節の作
られた大正期に突然生 まれたものなのだろうか、そ
れとも、なんらかの歴史的背景を持っているのだろ
物語の内容
うか。以下、この問題について検討しよう 。
「幽霊の継子いじめ」の内容は以下のように要約
できる 。
継子讃話型の折衷としての「幽霊の継子いじめ」
継子いじめの話は洋の東西を問わず広く流布して
大阪天下茶屋の佐々木勇は、茶屋通いの末、芸者とみ子を
いる 。 日 本 の 継 子 諒 の 起 源 と 発 達 の 経 緯 は 三 浦
身請けした。委のふじゑは病が高じて、娘の静江の行く末を
(
1
9
9
2
) にまとめられている 。三浦 は、継子議の起
案じながら亡くなる 。いっぽう 、とみ子には連れ子である実
源を 「
継母の嫉妬の物語Jと見た場合、それは古く
子の花子があ った。
古事記、日 本書紀まで遡ることができること、また
とみ子は財産を継ぐのに継子の静江がじゃまになるので、
これらの物語内では、継母の嫉妬の対象は前妻に向
亭主のいない夜をねらって幽霊のふりをしては静江の命を縮
けられており、それが継子に 向けられる ことが問題
めようとする 。
になりはじめたのは「続 日本紀」頃であること、さ
4 ・人間文化
二ウス :
物語と「事件Jの通路ー のぞきか 5くりの継子護における物語矯造
らに、継子いじめは当初、男子を対象とした貴種流
パンで角を、
離語や太子いじめの物語に重なっていたが、平安期
の「落窪物語」になると、それがいじめられる少女
としての継子謹に変化し ていることを指摘してい
らコン ニャクの舌を出し、子供の寝ている所へ行 ってその冷
トウキピの毛で髪をつくり、耳まで裂けた口か
たい舌で紙めた 。継子は、声を出すと食うといわれてふるえ
るばかり、人に言ったら殺すなどとおどかされる。継子はだ
る。 この説に従えば、「幽霊の継子いじめ」は、大
んだんやせていき、遂に父親に告げると、その夜父は子の寝
きく 言っ て「落窪物語」以降の継子護の流れを汲む
ものとして捉えることができるだろう 。
しかし、ひとつひとつの継子語はまったく同型と
床に寝て、継母のしわざということをつきとめて離縁してし
まっ た (山形県真室川。
)
(
丸山 1
9
7
7
a)
いうわけではない。継子誇には古来、多 くの話型が
あり、その物語展開もさまざまである (
関 1980)。
では、「幽霊の継子いじめ」は、どのような話型か
母親が化物に扮装して継子をいじめる点、それが
父親の知らないうちに、夜、継子の寝床で行われる
ら派生したものと考えられるだろうか。
このことを検討するために、「幽霊の継子いじめ」
点、さらには継子が大人に自分の恐怖体験を告げる
のモチーフを見てみよう。
1: (
前妻の死と、後妻と連れ子の登場)前妻が死
に、後添えとなった継母には連れ子がいる 。
2: (
継母による継子いじめ)継母は、夫のいない
あいだに毎夜幽霊に扮しては継子の寝床に訪
れ、継子をいじめる。
3: (
継子による苦難の訴え)継子は自分の幽霊体
験を先生に告白する。
4: (継子いじめの発覚)先生と巡査が現場に踏み
込み、幽霊の正体が継母であることをつきとめ
る。
5: (実子の誤殺)継母は継子を殺すつも りが、ま
ちがえて自分の実子を殺してしまう 。
6: (
継母への処罰)継母は裁判にかけられる 。
7: (継母の改心と出家)継母は改心して尼になる 。
1-7すべてを包括するような 一つの話型は、稲
田ほか (
1
9
7
7)や関 (
1
98
0
) を見る限 り見あたらな
い。しかし、いくつかの部分に分けるなら、類似す
る話型が見つかる 。
まず、ト 4の 部 分 に 対 応 す る 話 型 と し て 丸 山
(1
9
7
7) の取り上げて いる「継母の化物 j を挙げる
ことができる 。その 内容を以下に並べて上記のモチ
ーフと比較しておこう。
「継母の化物」
母親が亡くなって父と子だけのところへ同年輩の娘をつれ
点で、この話の構造は「幽霊の継子いじめ」の ト
3のモチーフとぴったり重なることがわかる 。また、
発見する者が父親か他人かという違いはあるもの
の、結局継母の扮装が露呈する点で、 4のモチーフ
とも重なる 。 6のモチーフである「継母への処罰」
は離縁という形で為される。
次に、 5の部分、すなわち継子と実子の取り違え
に対応する話型としては、関 (1
980)の分類した 1
8
型の継子語の中から、「米埋糠埋(こめうめぬかう
め)
J (2058) を挙げることができる。「米埋糠埋j
は「継母が継子を糠の中に入れて寝かせる。→実子
を米の中に寝かせたので凍死する。」という物語で、
継子を殺そうとして誤って実子を殺してしまうとい
う点が「幽霊の継子いじめ」の 5のモチーフと一致
する 。
さらに、継母が改心して尼になるという 7の結末
部分については、継母が尼となる「落窪物語Jをは
1
980)の分類す る継子謹話型にも広く類型
じめ、関 (
が見られる 。 なお、河本資料では、 4
4種中 4種に、
悪女が改心して尼になるという結末が見られる。こ
のことは「幽霊の継子いじめ」を含めて、からくり
節には説教的な力が加わりやすいことを示している 。
以上に見たように、「幽霊の継子いじめ j におけ
るモチーフは、旧来の複数の話型を折衷した形にな
っている。特に、「継母の 化物 j 誇と「米埋糠埋」
誇の接続部分となる 5では 、そ れまでほとんど話の
中に登場しなかった実子が唐突に登場して死んで、し
まい、 1-4の展開との聞に大きな断層が生じてい
る。
子した後妻が来る 。後妻 は継子が憎くてたまらないので、と
うかして父親にわからない ように先安の子を殺 してしまおう
と考えた末、毎晩化物になっておとかし 、だんだん弱らせて
殺そうと決める 。 カボチャを半分にして顔とし、真赤なナン
話型の断層がのぞきかうくりにもたうすもの
のぞきからくりの観客にとって、この話型の断層
は、予想を裏切る驚きである。
人間文化・ 5
二ウス :物語と「事件Jの通路ー のぞきからくりの継子護における物語構造 一
観客は「幽霊の継子いじめ」という題名から、継
子の悲劇と幽霊の正体にもっぱら注意を向けること
になる 。 ところが、いざ、からくり節を聞き進めて
4の段階における聞き手の注意
いくと、前半の 1の焦点(幽霊の正体)は、「となりの部屋の花子さ
んj という実子の登場によって突然、ずらされる 。 さ
子をいじめようとする 。 また殺される子供の名前は
ともに「花子j である 。前述した「幽霊の継子いじ
めj の 1-4までのモチーフを共有しており、明ら
かに「幽霊の継子いじめ j の類話である。
その一方で相違も多く見られる。まず、モチーフ
l以前に、夫の勇が藤江を打ち据え離縁するという、
らにその実子の気絶の声は、先生と巡査を招き入れ、
話の焦点は、継母の捕縛というできごとに切り替え
「幽霊の継子いじめ」にはないエピソードが挿入さ
られる 。 この急展開は「手早くとみ子に縄掛ける j
と、まさに手早く語られて、聞き手が「先生花子を
抱き上げて Jという声に導かれて再び実子に注意を
ており、連れ子はおらず、子供は二人とも継子であ
る。 さらに子供のうちの一人は「幸太郎」と名前だ
向けると、実子は単に気絶していたのではなく死ん
でいたという不意打ちに驚かされることになる 。
実際、土田年代氏による口上を聞きながらのぞき
からくりを見ていた際、「も早やこの世の人でない J
というくだりで、私を含む見物客から「ええっ J
「そんな」という声があがった。
4
.同時期のかうくり節と「幽霊の継子いじめ」
との関係
類話「継子殺の犯罪Jの存在
ここまで見たように、「幽霊の継子いじめ j は複
れている 。 また芸者の「とみ子」は「豊子」となっ
けでなく性別まで変わっている。また「継子殺の犯
罪」では 、継子と実子の取り違えというモチーフ 5
がなく、豊子が殺してしまうのは実子ではなく継子
である 。 また「継子殺の犯罪」にはモチーフ 7の
「継母の改心Jがなく、継母は「法廷の露とぞきえ
にける Jと、死罪になっている。
先に示したように、「幽霊の継子いじめ」では、
r
「継母の化物 J 米埋糠埋 j という異なる継子誇の接
続によって話型に大きな断層が生じていたのだが、
「継子殺の犯罪」には「米埋糠埋」にあたる部分、
すなわちモチーフ 5が欠けており、話型の断層は見
られない。
数の昔話話型の折衷として説明できる。が、物語の
仮に「継子殺の犯罪」のほうが先に作られたもの
構造が昔話の話型と一致するからといって、「事件」
による影響の可能性が消えるわけではない。
であるとすれば、「幽霊の継子いじめ」のモチーフ
5は、後から挿入されたものということになり、不
自然な話型の断層に説明がつく。逆に、「幽霊の継
子いじめ」が先に作られたものであるとすれば、伝
r
語りには「大阪天下茶屋 J 佐々木勇」など、具
体的な地名や人名が登場し、あたかもじっさ いの犯
罪事件を取材したかのような体裁になっている 。で
は、明治・大正期の中に、「幽霊の継子いじめ j と
一致する ような報道が見つかるだろうか。
明治・大正の読売新聞 CD
ROMに収められた記
r r r
r r
事を「継子 J 継母 J 幽霊 J 化け物 J 大阪 J 天
下茶屋 J 佐々木」などで検索したが、物語に該当
する記事は発見できなかった。今後さらに、地方版
r
の新聞を総当たりするなどさらに徹底した調査が必
要であろう。
しかし 仮に「幽霊の継子いじめ Jが何らかの
「事件 j に基づいているとしても、そこには変形が
加わ っている可能性が高い。それは 、河本資料の中
に、同じ人名を用いながら異なる展開を持つ「継子
殺の犯罪 J(
参考資料参照)という物語が存在する
からである。
「継子殺の犯罪」では「ささきいさむ J 藤江」
という「幽霊の継子いじめ」と同じ固有名詞の夫婦
が扱われているだけでなく、継母が幽霊に扮して継
r
6 ・人間文化
聞されるうちに不自然な話型展開が脱落したと考え
られるだろう。
類話の中間形としての「腰巻J
さらに、この二つの類話が同じ話から派生したこ
とを示すものがある 。それは「幽霊の継子いじめ」
の「腰巻」と呼ばれる部分に描かれた絵である(図
2-B)。先に書いたように「継子殺の犯罪」では夫
の佐々木勇が藤江に暴力をふるうくだりがあるのだ
が、「幽霊の継子いじめ j の語りにはそれにあたる
部分はない。が、「幽霊の継子いじめ Jの腰巻には 、
夫が藤江を打ち 据える場面が描かれている 。「継子
殺の犯罪」と「幽霊の継子いじめ」が同じ話を祖先
型に持つと考えるなら、このようなからくり節と絵
の内容とのずれは説明がつく 。おそらく、この物語
には、もともと「夫による妻の打榔Jというモチー
フが織り込まれており 、描き手はそれを絵に反映し
たのだが、そのモチーフは、からくり節が加わる過
二ウス ー物語と「事件」の通路ー のぞきかうくりの継子震における物語構造 ー
f
モ C~豊
ーー一ー
図2
幽霊の継子いじめj の観音絵 (A)および腰巻 (8)
程で落ちてしまい、絵とのずれを生んでしまったの
だろう 0・
1
刺を植えていたのであ った。
お銭は じつは実子のお玉に家を継がせ、家伝を譲り受けた
いと思い、幽霊 に扮してお留をなきものにしようとしていた。
*1 現存する腰巻を含むのぞきからくりは内山ミヨ氏自身が
所有していたものではない。そのため、内山氏がかつて大正
期に使 っていたものとの間に相違がある可能性はある 。 しか
し、仮にそうだとしても、現存するからくりに「継子殺の犯
罪j と内山氏の語る「幽霊の継子いじめ」との中間形にあた
る部分が存在するという議論に変わりはない。
翌朝、お銭は「留、昨夜は有りがたうよ、今にお礼に来るか
らね」と 言 うと、左の足を引きずりながら実子お玉の手を取
り、何処へともな く出て行ってしまう 。
物語の筋書きは、前述した「継母の化物Jの話型
にぴったり 一致しており、 「幽霊の継子いじめ j の
前半部分 (
モチーフ 1-4)と共通のモチーフを持
つ。
5
. 同時期のフィクションと「幽霊の継子いじ
めJとの関係
る。両者とも 、継母の化けたのは単なる「化物」で
永島永州「プラットフォームJ
はなく「幽霊」であり、しか もその「髪」を「丈け
モチーフばかりでなく細部にも共通点が見られ
r
からくり節からさらに範囲 を広げて明治 ・大正期
なる髪をふり乱して(プラッ トフォーム )
J 髪はざ
のフィクションに 目を移すと 、「幽霊の継子いじめ」
んばら乱れ髪 (
幽霊の継子いじめ )
J と印象的に描
とモチーフを共有する物語が他 にも見つかる 。 それ
いている 九 また両者とも「停車場 (プラットフォ
は永島永州の「プラットフォーム J(
M39.
3 少年 J
)
ーム )
J という近代の産物が登場する 。 さらに、子
である 。
供は自分の近親者にではなく、第三者の大人 (
先生、
r
雑誌「少年」をはじめ 、少年少女雑誌に多くの児
和尚 ) に苦しみを告白している。
童文学を著わした永島永州 の作品には継母が継子を
「プラットフォーム」は 、大正期に作られたと考
虐待するというス トー リー が多い(上回 1
99
4)
。中
えられる「幽霊の継子いじめ」よりも制作年代が先
でも「プラットフォーム 」 は先に挙げた話型「継母
行している 。 「幽霊の継子いじめ j に影響を与えた
の化物」に基づく部分を含む点で興味深い 。
か、もしくは同様の物語から 派生した可能性が考え
継母が幽霊に扮するくだりを要約すると 以下のよ
られるだろう 。
うになる 。
r
*
2 幽霊の継子いじめ」の観音絵(図 2A)では、継母が幽
停車場のプラ
y
トフォームで名物「乙女おこし」を売る少
霊に化ける場面、および最後に剃髪する場面でのみ、馬の毛
女お留は、実祖母と継母のお銭、そしてその連れ子である妹
に似た繊維を貼り付けてあって、実際の髪らしく見せており、
お玉と暮らしている 。「乙女おこし」の製法は家伝で、お銭に
おどろおどろしい感じを見る者に与える 。 これに対して、他
もその内容は知らされていない。
の場面での髪は泥絵か押し絵によって描かれている 。つまり、
お銭は、お留にやさしいが、祖母は、お留がなぜか次第に
このからくりに用いられている絵では継母の「髪」は、その
元気がなくなり身体も痩せてきているのに気づき、わけを尋
素材を変化させることによって、人聞から幽霊へ、幽霊から
ねる 。 しかし、お留は祖母には理由を言わずに、近所の寺の
尼へと転換する重要な象徴として表現されている 。
和尚に「この世に幽霊ってものが、員個(ほんとう ) にある
でせうか」と自分の体験を打ち明ける 。
別の夜、お留の寝ている蚊帳のそばに、「霧ともつかぬ薄白
r
い人の姿がJ 丈けなる髪をふり乱して Jたたずむ。その幽霊
は、蚊帳の裾をまくりあげたとき、
I
アッ痛 j と悲鳴をあげる 。
6
. 明治・大正期における継子語と「事件」と
の関係
ここまで確認してきた よ うに 、 「幽霊の継子いじ
r
r
r
その声から、お留は、幽霊がじつは自分の継母であ ったこと
めj は、「学校 J 巡査J プラットフォーム J 裁判
を知る 。お留は和尚の助言にしたがって、蒲団の周りに茨の
所」といった明治以降の事物を織り込んではいるも
人間文化・
7
二ウス :
物語と「事件Jの通路
のぞきから くりの継子護における物語構造 ー
のの、その物語は昔話のモチーフを折衷したもので
あり、類似する話は、明治・大正期のからく り節や
聞に取り上げられ、警察の取り調べを受けたものの
罪をまぬがれる、というのがその内容なのだが、興
小説にも見られることがわか った。
味深いのは、記事の中に「其後同地の大黒座で壮士
では、「幽霊の継子いじめ j のようないっけん異
俳優等が継子虐めと云ふ演劇に仕組んで演ずるに至
様な物語は、じつは単にさまざまな明治・大正の意
りお梅は同地に居堪たま らず一人上京してしまいま
匠を借りただけの、昔ながらの継子語の亜型に過ぎ
した」と記されている ことである 。すなわち、当時、
ないのだろうか。このことを検討するために、話を
実話である継子いじめが壮士芝居化されることがあ
継子いじめ霞全般に広げて、明治-大正期の継子い
ったのである。
じめ報道と物語の関係を見てみよう 。
この例では「事件」と物語は、単に事実/フィク
ションとして対立しているのではない。むしろ「事
風間の「事件」化
「事件Jは必ずしも記者のじ っさいの見聞をもと
に生まれるとは限らない。たとえば警察など「その
件」と物語は相互に関係を持っている 。 「事件Jは
物語に形を与え、逆に演じられた物語が「事件 j の
その後に直接影響を与えている。
筋」の公的機関によって発表されたものは、公式で
はあるものの、ひとつの伝聞である。
「事件」を生むのは公的な発表だけではない。 と
くに明治初期、警察制度の整備が過渡期だったころ
.お初地蔵
新聞で報道された「事件」が風間と相まって、唄
や映画となって広く知られるようになった代表例と
の新聞には、投書や風聞をもとに「事件」を告発す
しては、 「お初地蔵」を挙げることができる 。「お初
る記事が目立つ。継子いじめに関しでも、以下のよ
地蔵」は正確には継子いじめというよりも養女いじ
うに、記者の聞いた風聞が、と きには実名入りで記
事にされている。
めの話であるが、「事件 j の物語化を示す例として
ここで取り上げておこう 。
記事例 l
が漂着し、この中から頭部両足を切断された女児の
1年(19
2
2
) 7月5日、月島荷揚場に手提げ鞄
大正 1
てしまふだらうなんぼ我腹を痛めない子だとて食ひ物もろく
死体が詰められていた。警察の調べにより、これが
浅草でセルロイド業を営んで、いた関蔵と常磐津の師
ろく給させず寒中綿のはいッた着物も着せずに折権ばかりし
1才になるはつであり、
匠マキという夫婦の養女で 1
て近々に大事が始まッて新問屋にとなられるだらうダンナは
夫婦によって殺害されたことが判明 した。新聞には
(前略)今にあの家のおかみさんは先妻の女の子を責殺し
お心よしだから知らないか又かミさんへ向 ッて一言も 云ない
「生地獄の様に養女はつを虐げj とどぎつい見出し
のかと神田明神の水茶屋で近所のものらしい男が話て居まし
が並び、はつの生前の写真も公開された。初七日を
たが此様な悪弊は早く払ひ給へ清め給へといたしたいものだ
前にはつの首が廓橋付近に漂着するに及んで 、はつ
(読売
の話題はさらに紙面を賑わした。
MIO
/
l8
773
.
31
)
記事例 2
(前略)おさんは先妻の子のおゃうといふを邪険にする事
読売新聞は、最初の 一報が報じられてから 20日以
上も経って 、浅草方面で「お初の唄 j が流行してい
ることを報じている。作詞は詩人で翻訳家の佐藤緑
いとて戸棚へ押し込んで飯も殊に喰べさせない程ゆえ偶然や
葉とされており、 以下のような内容である 。
「ぶたれ叩かれ踏み蹴られ、哀れお初は泣く撃も 、
おゃうはおきんの為に責め殺されるであ らうと其辺では専ら
力弱りて最の息、僅かに通ふ其の息、で、絞る撃さへ
は近所の者も見兼ねて居るが此ごろはヒ ィヒィ泣くとうるさ
2
/1
8798.3)
評判であります(読売 ーMI
苦るし気に、猶も許して下さいと詫びるも聞かぬ鬼
• r
事件j の物語化
風聞や、新聞によって報じられた「事件」は、継
夫婦 J(読売 ・TlI
/
l9227.
3
0
)。
興味深いのは、この唄が報道よりも一歩踏み込ん
で、じっさいのいじめ場面を唄いこんでいることで
子いじめの物語に影響を与えることもある 。その好
ある 。作家が見たこともない場面を想像によって補
例として、「継児は此程憎い者か」と題された記事
っている点で、 この「お初の唄」は、報道とは異な
る物語の水準へと 一歩踏み込んでいる 。
/
l9
1
5.
4.
13
)を挙げることができる 。
(読売・ T4
継子を虐待するという風評のたったお梅が地方新
8 ・人間文化
その後、浅草黒船町権寺では、このお初を哀れん
ニウス .物語と「事件」の通路ー のぞきかうくりの継子請における物語構造 ー
で「お初地蔵」を建立したところ、諸方面から同情
の手当を為し一方継母を引致し目下取爾中なりといふ
が集まり日夜香華が絶えなかった(読売・ TII/
l9
22
0
/1
9
0
7
8
.
3)
(読売 ・M4
。
)
8
.
2
1
さらに、 4年後の大正 1
5年 (1
926)、この事件は
継子の蛇 u
茨城県 xx郡 xx村大字 xx内 xx
梅吉の後妻お美代は継
野村芳亭監督により「新お初地蔵」として映画化さ
子広吉 (
四つ ) を虐待する事甚だしく此程向家の近所を廻る
れ、浅草松竹館で上映された。監督をはじめ関係男
喰へて出てくる広吉が見えざ
飴売爺がいつも欲しさうに指を l
女優一同は封切りに際して権寺のお初地蔵へ参詣し
[
fIゆるので益々訪りゐ
るより家の様子を窺へば子供の泣声が J
19
267.16)。
た(読売 ・TI5/
このお初地蔵はいまも権寺に残っている 。現在の
るうち巡回の警官が来合せ共々耳を澄ますに戸棚の中より怪
権寺の住職である山口諦源師に話を伺ったところ、
r
地蔵を建立した当時は「お 初 まんじゅう J お初せ
んぺい j まで発売されたという。当時の都新聞の切
しき泣声のするより屋内を探せしに土問の所へ倒(さかきま)
に伏たる四斗樽ありて其の上には朱に意志を入たる重石が載
せあるに目をつけ重石を除きて起し見れば中より一匹の蛇勢
ひ込んで飛び出したる其のあとには顔色青さめて息も絶々
(たえだえ)なる広吉が涙ながらに座し居たれば抱起し子細を
り抜きは寺の金庫にし まわれているとのことだっ
様当年四才の小児只泣くのみにて何も答へず折りし
問へとがI
た。住職はその記事を「頭部両足(ずぶりょうそく )
を切断し jと、経文風に音読みで、暗唱してくれたが、
Kの中を取調べしに驚くべし中には見るも薄気
調べを為し蚤 J
それはあたかも「事件」が「語り」の水準に移行す
る様を聞くようだった。
も継母のお美代が登策提げて帰り来りしより警官を一応の取
味悪き黄領蛇 (あおだいしゃう)二 匹の入れあるを発見し直
ちに xx箸へ引致し広吉は xxの xx病院に入院させたりと
の事なるが今時にあるべからざる話のやうな話ならずや
(読売
M40
/1
9
0
71
1
.
13なお、地名実名は伏せ字にした。
)
物語の「事件」化:継子の蛇責め
継子語の中には、じっさいの「事件」が物語にな
巡査、警官といった登場人物が新しいものの、父
るだけでなく 、逆に 旧来の物語が「事件j に影響を
の知らぬ問に継母が継子をいじめる点、その方法が
与えたと思われる事例がある。それが次にあげる
蛇責である点で、この二つの事件は明らかに「継子
「継子の蛇責」である。
「継子の蛇責 j は、もともと典型的な継子設の話
飾の可能性もゼロではないが、少なくともこれら 二
の蛇責め j と同じ構造を持っている 。記者による粉
980)。それは「継母が蛇の
型のひとつである(関 1
入った桶に継子を入れて殺す。父が継母を同じ桶に
つの記事は、昔話として報じられているのではなく 、
入れる。 j という凄絶な話で 、丸 山 (
1977b) が
された「事件」として報じられている。
逆に、この記事に書かれて いることがそのまま起
「大国主命の蛇室の話以来の説話Jと指摘する通り
同時代の特定の場所で特定の人間によって引き起こ
その起源は古い。
子供を蛇で責めるとい う話は 、いかにも現実離れ
こった可能性もあるだろう 。継子いじめの物語を聴
した昔語りに思える 。 ところが興味深いことに、明
らない(むしろその内容の凄絶さによってじっさい
くことが則 、継子いじめを 促進するかどうかはわか
治 ・大正期の事件 を調べていくと、じっさいに継子
の継子いじめが忌避される可 能性も考えられる 。
)
を蛇責めにした記事が見つかる。
が、 じっさいに子供をいじめようとする者がその方
法について考えをめぐらすとき、古来物語られてい
継子を蛇責めにす
るいじめの方法に影響を受 けることは考えられる 。
聞 く だ に 身 の 毛 も よ だ っ 怖 ろ し き 事 実 あ り 滋 賀 県 xx
郡 xx村の樵夫某の妻は一人の男の子を泣して先年死亡せし
後迎へたる後姿は本年八歳なる継子を虐待すること甚だしく
昨年懐妊の身となりてよりは一層残忍の度を増し此程も毎日
また、風間や見聞をもとに記者が「事件」を書き上
げるときにもまた、古来の物語に影響を受けるだろ
つ。
一二疋の へピを生捕 (とら) へ帰りては密かに杢長持に入れ
蛇責めという現実離れした方法が「事件 j となっ
置き 一両 日前亭主は例の山稼ぎに行きたる後継子を裸体とし
てしまうこの例は、「事件」がいかに物語の形に沿
いやすいかをよく表わしている 。古来から語り継が
荒縄にて縛り蛇の三十疋余もかたまり居る長持の内に継子を
投げ込み蓋をして重石を置きそのまま回草取りに出たるが無
惨にも蛇責に逢ひ居る子供は夢中になりて岬き居る音の只な
らざるを巡回の巡査が聞き付け同家に入らんとするも戸締り
しあるより隣家の人に立会わせ同家に入り取調べたるに右の
有機なるに流石の筈官も打驚き取敢へず子供を救ひ上げ応急
れてきた物語はおそらく、「事件」にかかわる人々
の行動形式に影響を与えてきた。そしてメディアが
事件」はさらなる物語のデイティール
語り伝える I
を提供する 。それが繰り返されることで物語は次第
人間文化・ 9
ニウス .物語と「事件Jの通路ー のぞきからくりの継子護における物語構造 一
に危うい虚実の聞を漂うようになり、その迫真性を
深めてきたと考えられる 。
7
. まとめ
本論ではからくり節「幽霊の継子いじめ」を題材
に、物語内、物語聞の整合性を検討し、そこにどの
ような変形が見られるかを考察してきた。「幽霊の
継 子 い じ め Jは 、 ま ず 、 旧 来 の 継 子 語 に 見 ら れ る 話
型を折衷したものとして説明できる 。 また、類話が
存在することから、物語の伝播の過程でなんらかの
変形が加えられたものである可能性が高い。さらに
「幽霊 j ゃ 「 停 車 場 Jな ど の ア イ デ ィ ア は 、 す で に
明治期に見られるものであり、かならずしもオリジ
ナルとは言えないこともわかった。
ただし、さまざまな変形の痕跡が見られることは、
「幽霊の継子いじめ j が 昔 話 に 過 ぎ な い こ と を 意 味
するのではない。むしろ、これらの変形の痕跡は、
「幽霊の継子いじめ j が 単 な る 昔 話 の コ ピ ー で は な
く、時代とともに更新され続けてきたことの証拠と
いえるだろう。
本論では継子詩と新聞報道との聞にも相互関係が
あ る こ と を 確 認 し た 。 物 語 は そ の 時 代 の 「 事 件Jか
ら影響を受け、逆に「事件」に影響を与えながら、
更新を続け、その力を蓄えて続けてきた。
このような継子語の力を考えるなら、「幽霊の継
r
r
子 い じ め Jに 登 場 す る 「 巡 査 J 学 校 J 停車場」
「裁判所」といった明治以降の道具立て、「大坂天下
r
r
r
r
r
茶屋 J 佐々木勇 J ふ じ ゑ J とみ子 J 静江 J 花
子」といった固有名詞、そして唐突な話型の断層を、
単なる同時代向けの意匠として片づけるわけにはい
かないだろう。それらは、古来の物語と現実との問
で行われる虚実の往復が、明治以降もなお為されて
きたことをほのめかすしるしであり、物語から「事
件」への通路、「事件」から物語への通路の痕跡で
ある 。
からくりを覗き、からくり節を聞きながら、奇妙
勇とて、夫妻の中に女の子、年は九ツ名は静江、妻のふじゑ
は病気にて、病院通いをいたされる 。二年にわたる患いに、
夫 (
おっと )勇はたまりかね夜昼通う茶屋遊び、遂に芸者に
迷い込み、芸者とみ子を身請けして、妻といたして闘いしが、
それも永くは続かずに、芸者を我が家に連れ込みり 。
V それ芸者に 一人の連れ子あり、年は八ツで名は花子、これ
を見るより本妻は、やけ野のきぎす夜のつる、我が子の行末
案じいて、だんだん病気は重くなる、いまわのきわにふじゑ
さん、かわいい静江を呼び寄せて、母さん死んだるその後は、
父上様を大切に、遺言致してふじゑさん、あわれこの世を去
りにけり 。本妻なくなるその後は、妾とみ子の患いしは、我
が子に後日をやりたいと、恵、いば静江がじゃまになる、その
時静江は十二才、学校通いの愛らしさ、それで我が子をいた
わりて、静江につらく致されて、泣かぬ日とではさらにない。
V 今日は学校の卒業式、あまた生徒が集まりて、卒業証書を
唯一人、唯
もらわれて、喜びいきんで帰られる、中に静江は l
呆然とうちしずみ、これを見られた先生は、いかがしたかと
尋ねれば、問えて下さい先生様、父上留守と思う晩、不思議
とゅうれい現れる、彩、の驚きいかばかり 。
V 話を聞くより先生は、かねて噂が悪いわい、その場を見と
とけてくれんと熱田巡査と相談し、すきをうかがう折りも折
り、それとも知らずとみ子さん、白い着物を身にまとい、髪
はざんば ら乱れ髪、口に輪櫛を座わいられ、ゅうれい姿と身
を替えて、限りし静江の枕辺に、あなうらめしゃと現れる 。
V その物音に目をさまし、見ればゅうれい立 っている、驚き
悲鳴を上げるなら、となりの部屋の花子さん、悲鳴の声に目
をきまし、見ればゅうれい自の前に、アッとその場に気絶す
る、騒ぎを聞き付け先生と、熱田巡査が飛び込んで、手早く
とみ子に縄掛ける、先生花子を抱き上げて、いろいろ介抱致
せしが、も早やこの世の人でない。
V 縄目のはじに縛られて、引出されるは停車場よ、あまた見
物集まりて、あれが鬼人のまま母よ、我が子殺しのゅうれい
と、見る人々にののしられ、引き行かれるは裁判所。
V 被告とみ子は呼び出され、裁判長の御出席、検事判事の立
合いで、いたせし悪事の数々を、取調べればとみ子さん、包
みかくしておかれずに、いたせし悪事をみんな残らず白状す
る、これを聞かれた裁判長、改悔心を認められ、六年間の懲
役も執行猶予とあいなれば、聞えて喜びまま母は、うれし涙
にかきくれて。
V 我が子の菩提をなさんため、みとりの黒髪すり落し、その
身は尼とあいなって、朝な夕なに花手向け、世にもあわれな
物壬
五。
ロ
ロ
な胸騒ぎを覚える 。 そ れ は 、 そ こ に 伝 聞 に よ る 変 形
の 痕 跡 が 感 じ 取 ら れ 、 物 語 と 「 事 件j の 通 路 が 聞 い
ていることが感じ取られるからであろう。そして、
このようなのぞきからくりの力を、河本にならって
「ニウス」と言い当てることができるだろう 。
8
. 巻末資料
幽 霊 の 継 子 い じ め 口 上 ( 巻 町 郷 土 資 料 館 1998
)
Ttl!:にもあわれの物語、所は大坂天下茶屋、其の名は佐々木
1
0 ・人閏文化
継 子 殺 の 犯 罪 ( 河 本 1935
/1993)
V 世にも珍 らしくわいだんは 継子殺しのゅうれいと、こ、
にさ、きいさむとて 二人の子供の有る仲に、生れついたる
ほうとうに 芸者豊子を引きつれて
V 藤の花見や名所や古跡
日々につのるほうとうに、妻の藤
江もたまりかね 夫勇にいけんする 、其耳もたぬと無法にも
かへって藤江を打ちすへる、しかのみならず無残にも
V 妻の藤江をりゑんして 宅にかへれとっき出す、さはさり
ながら藤江には 焼の野きざす夜の鶴、親の心は皆一つ 二
ニウス
物語と「事件j の通路ー のぞきかうくりの継子護における物語構造 ー
児童 文化 史 叢 書 3 久 山 社
人の子供の行末に
V 心ひかる、いじらしや
涙の種となる
かへれば親もおとろきて、語るも
きても本妻藤江には 、我家へかへりしその後
は 愛子を恩ふこ、ろから、それが病の元となり
医師よ薬
とさわけども、ついに医薬の効なく
V あはれやあの世の人となる
太郎は十二歳
それとも知ぬ子供等は、兄幸
妹花子は九歳にて 、学校かよいの愛らしさ
よろこび勇んで立ちかへる
ぜんとうちしずむ
何か幸太郎只一人、た
cぼう
姿ながめて先生は、いかがなせしと尋ぬ
れば毎晩夜中と思ふ頃、不思議やゅうれいあらはれて
等の驚きいかばかり、涙ながらに物語る
生は、あった巡査ともろともに
様子うかがふ時もとき
ぞく身にまとい
をあげてよぶこえに
花子には
我
かくと聞いたる先
現場を見ととけくれんとて、
それとも知らぬ継母が、白きしょう
枕元にあらはれて
V 姿はげにもおそろしく
うれいか
巻 町郷 土 資 料 館
助けん もの と入りきたり 、見ば無残や
こはそもいかに即死せり、継母豊子に縄をかけ
1
9
8
8巻 町 郷 土 資 料 館 N
o
.1
0r
の
ぞきからくり j
1
9
7
7
ar
継 母 の 化 物 j稲 田 浩 二 [
ほ か]編
『日本昔話事典 j 弘 文 堂
丸山久子
1
9
7
7
b I
継 子 の 蛇 責 め j稲 田 浩 二 [
ほか]
編 『日本昔話事典 j 弘 文 堂
r
三浦佑之 1
9
9
2 昔 話 にみる悪と欲望』新 躍 社
山本 慶 一
永井啓夫
二人の子供はをどろきて、ひめ い
vゅうれい姿のそのま、で そのざい悪をさらさんと、引き
出す兵庫の停車場
角川書庖
丸山 久子
今日しもめん状の授1't式、あ また児童が打そろい
V
1
9
3
4r
覗 き 眼 鏡 の歌 」 上 方 4
4
号p
3
2
3
9
関敬吾 1
9
8
0r
日本昔話大成』
第1
1巻 「 資 料 編 j
河本正義
佐 藤 健二
1
9
8
2r
のぞきから く りと写し絵 j 南 博 ・
小 沢 昭 一 編 『 芸 双 書 8 えとく j 白水社
2
0
0
0r
ニュースという物語」
東京大学
社 会 情 報 研 究 所 『 ニ ュ ー ス の 誕 生』 株 式 会社ボイ ジ
ャー
かれがきじんの継母か、継子ころしのゅ
見る人々は山をなす、さでもきじんの豊子には
縄自のはぢにしばられて 、世 にさらされてしかるうへ
所の法庭で 、げんこうはんのじんもんに
なく、つもる悪事を自白する
にあらしのちるごとく
裁判
最早や包によしも
歳は 二八のつぼみさよ、花
一夜の瓜ともろともに
V 法庭の露とぞき江にける
*本論の 引用 文 で は 、 旧 漢 字 は で き る だ け 新 漢字に
改め、旧かなづかいはそのままとした 。 また、 実名
や実在の地名の一部を 仮 名 に し て い る部分がある。
謝辞
のぞきからくりの調査 を許可して下さ った巻 町 郷
土 資 料 館 、そして貴重な ご教示 をいただいた斉藤文
夫氏に感謝します。
参考文献
上田信道
1
9
9
4r
永島永洲の児童文学
偵小説を 中心 にJ 国 際 児 童 文 学 館 紀 要
小沢昭一
1
9
7
1/1
9
9
9
a
冒険 ・探
第9
号
r
ドキ ュ メ ン ト 日 本 の 放 浪
芸 J(
CD) ピクターエンタテインメント株式会社
小沢昭一
1
9
7
3
/
1
9
9
9
b
r
ドキ ュメン ト又日本 の 放
CD) ビ ク タ ー エ ン タ テ イ ン メ ン ト 株 式 会
浪 芸 J(
社
小沢昭一
1
9
8
4/
2
00
1r
新 日 本 の 放 浪 芸 J(
DVD)
ピクタ ーエ ンタテイン メント株式会 社
河本正義
1
9
3
5
/
1
9
9
3r
覗 き 眼 鏡 の 口 上 歌j
日本
人間文化・ 1
1
論文
息子たちの家を巡り歩く父母
一台湾における 〈
輪伏頭
〉 をめ ぐっ て-
襲玉齢
人間文化学研究科生活文化学専攻
博士後期課程
る輪1)c頭制度の歴史と現状について、筆者による
はじめに
年老いた父母を、兄弟たちが順繰りに面倒を見る
という慣行が、台湾に存在している 。 自分の食い扶
フィールド調査の成果も踏まえながら論じてみた
、。
し
持を稼ぐことができなくな った両親 は、息子たちの
家を一定期間ずつ巡り歩き、食事と保護にあずかる
のである 。台湾の i
美人社会において、この制度は
r
〈輪伏頭 (ルンフォ トウ ) (輪食制ともいう
)
J)
と呼ばれている 。
この慣行の背景には、「孝道」という観念がある 。
1.輪似頭の歴史
老親が息子たちの家々を順々に巡り歩いて食事を
供される、という慣行は、中国大陸では広く行われ
てきた。その最古の例としてよくヲ │
かれるのは、
r
i
莫書』第 43陸貿伝に見える次のくだりである 。
漢人の儒教道徳においては、父母に対してその生前
は恭順を尽くし、その死後は祭杷をとどこおりなく
「孝恵時、呂太后用事、欲王諸呂、畏大臣及有口
実施すべき、という基本原理がある 。子供たちが老
いた両親の面倒を積極的に見るのは、美徳というよ
者。貰自度不能争之 、乃病免。以好鴎団地善、往家
りもむしろ当然の務めとされてきたのである 。
また、漢族の家族は大家族で、あるという通念がし
子二百金、令為生産。頁常乗安車蜘馬、従歌鼓琵侍
ばしば語られるが、実際には息子たちが結婚と同時
人馬酒食極欲、十日而更。所死家、得宝剣車騎侍従
に分家していくことも多い。そして、両親からの財
者。一歳中以往来過客、率不過再過、数撃鮮、母久
j
園女為也。 j
産は後に均分されることになる、というのが原則で
鷲。有五男 、乃出所使越嚢中装、貰千金 、分其子、
者十人、宝剣直千金、謂其子、与女約、過女、女給
ある 。そのた め、それに対応するように、彼らの面
倒をみるのも兄弟均分であるべきだとされる 。 これ
が、輪伏頭のもう 一つの背景である 。
もともと輪1
)
c頭は台湾だけの制度ではない。中国
簡訳すると、「前 i
莫高祖の功臣だった陸買が、生
前宝剣だけを留保して、家産を五子に均分し、五子
の家を十日ごとに食べ回った Jというのである 。
大陸の農村では、これが古くから行われてきた 。台
湾へも、大陸から渡ってきた漢人がこれをもたらし
輪イ火頭の詳しい研究を行った台湾中央研究院民族
たものと恩われる 。台湾社会の高齢化が進むにつれ
て、この輪1)c頭の積極的な意義が認められ、 1
980
年
学研究所 (
当時)の謝継昌は 、これを同慣行の最初
の例としている 。
(
;
制
代に非常な流行を見せた。 しかし、その後はだんだ
けれども、中国法制史の仁井田陸は、輪伏 頭とい
んと廃れてきている 。2003年 3月に筆者が調査した
う方式は「農地面積のあまりない、殊に生計のあま
り査でない農家に多く見いだされるものとすると、
*頭は減少傾向にあっ
雲林県斗六市においても、輪1
た。
だのぼる
大金持の陸買の場合はあながちこれとは、同例にな
婦を雇って父母の世話をしてもらうというものであ
らないであろう」と述べ、陸買の逸話を輪食制と同
例に扱うことには反対している。註
(2)
る
。 1
992年 5月に台湾政府が外国人労働者の入国を
許可して以来、増加の一途をたと守っている。共働き
2
. 現代中国における輪似頭
それに代わって増えてきているのが、外国人家政
の息子夫婦にしてみれば、両親と共に住んであれこ
現代中国においては 、〈輪1
)
c頭〉はまた「輪流飯J
、
れと世話を焼くストレスから解放されただけではな
「輪流管飯Jなどと呼ばれ、各地で行われてきた 。
謝が挙げているだけでも、楊怒春、林耀華、凌純声
く、自らが出資していることで「孝道」倫理への違
反という罪悪感を抱かずにすむ。他方、両親は息子
や嫁の顔色をうかがいながら暮らす必要もないし、
がそれぞれ、山東省、福建省、江蘇省の慣行に言及
している事実を謝が注目している 。
{
制
自分たちの住み慣れた場所で輪伏頭と同レ ベル 、な
日本人研究者も、戦前からこの「輪、流管飯Jに注
いしはそれ以上のサービスを享受することができ
る。このことが大きいようである 。
目し、主として家族制度という側面から研究をすす
めてきた。
本論では、こうして現在さびれてゆこうとしてい
そうした研究者の 一人、仁井田陸の基礎資料と
1
2 ・人間文化
息子たちの家を巡り歩 く父母 一 台湾における {
輪伏頭〉をめ ぐって
940年から 1
942年の間に
なったのは、満鉄によって 1
1
942年か ら1
946年にかけて 中国に滞在し、華北を
行われた華北農村法的慣行調査の資料である 。 この
1真義県 -良郷県調査は、主として河北省昌梨県.)
広く歩いて実地調査した民俗学の直江広治も、同じ
慣行の存在に注目した。その著 『中国の民俗学 j の
築城県、山東省恩県・歴城県などにおいて実施され
中で、「均分相続 j に関連して彼は次のように述べ
た。そして「得られたデータの謄写版刷は、昭和十
ている 。少し長くなるが、引用しておこう 。
なおぇひろじ
942) の末までに集積して等身大にも達し 一
七年 (1
o
(
設4)仁井田はこの資料をもとにし
大巨冊となった J
「父母存する時は居を分たず」とは、古礼の規定
て、華北農村の具体的なあり方を描き出すことに成
であり、旧代家族制度における倫理であった。 この
功したのだった 。
規定にしたがえば三世間居、十数人の家族の同居と
いうことが普通の形態となるわけで、あるが、少なく
仁井田が見いだしたのは、父母が順番に子孫の家
をまわって食べさせてもらう「輪流管飯」、「輪流養
ともわれわれの調査した範囲内では、父存命中に分
活」、「輪流奉養 j ないし「輪戸飯j などと呼ばれる
家する場合、家産の中から まず養老地として 若干の
慣行が、華北農村に広く行われていることである 。
団地が親のために残される 。親は年老いて自ら耕作
すなわちここでは、父母がまだ生きているうちに財
できない場合は、多くは子どもたちに小作させてそ
産が分割される場合、 あらかじめ家産のうちから養
の小作料によ って暮しを立ててゆく 。あるいは分家
老田と称される土地を留保することが行われてき
後兄弟が穀物を平等に出し合う方法を取る場合もあ
た。 しかし、養老地が分割財産から除外されず家産
がすべて分割される場合には、子は穀物を平等に出
る。 これは「語道官」と呼ばれている。さらに親
し合って父母を養った。 これを養老糧という 。
が分家した子どもの処を 一定期間、 l
順々に廻って歩
くこともある。 こ れ は 「 諮 り
えう敏 j、 あ る い は
それに対し、子が順番に 5日とか 2日のように日
「
諮り
えう嘗厳」と呼ばれている。そして娘の嫁入り
数を決めて父母に食べさせるようにすることもあっ
の費用はこの養老地から出されることが多い。なお、
た。 これが 〈輪{
火頭〉に あたるものであ る。仁井田
は次のような事例を挙げている 。(
制
分家して両親に養老地がある場合、華北では兄弟か
河北省昌梨県侯家営の例では、 30畝のうち、父が
家とか本宅とかいう 言葉は使わない。本宅という言
一存で 1
5畝を養老地と決め、残りを 3人の子に 5畝
葉はあるが、現在自分の住んでいる家のことを指し
ていう 。(
註剖(傍点は直江)
ずつ分けた。 3人の子は養老地をも 3分して 5畝ず
ら父母の家を老家 、老院子、老宅子などと呼び、本
つ耕し、父は 2日ずつ子の家をめぐって「食いに行
輪流管飯)
。 この場合、子は 1
5畝を養老地とし
くJ(
残りを 5畝ずつ分割することについて文句は言えな
たちが順番に親を招いて食事させ、扶養することが
かった 。「もともと何もないから文句はいえない」 。
行われてきた 。それがいったいどのくらい一般的だ
さらに、子になんら家産たる土地を与えず、土地を
全部養老地とすることもあったという 。そして養老
ったのか、という ことについては、 筆者は現在関連
資料の収集中である 。
註
(7)
地は親が売りたくなれば売るのであり、子は反対で
きないし、売った場合にも子はもう食べさせないと
3. 現代台湾における輪似頭(1)
いうことはなかった。 「土地はなくても 養わねばな
らぬ」とされていたとい う。
同省築城県寺北柴村では、母の生前、 家産を分割
した兄弟 5人は、養老(奉養とも養練とも)として、
以上のように、中国華北の農村では分家した息子
一謝継昌の調査か 5一
台湾における輪{
火頭に初めて言及したのは、謝継
昌ms
)によればアメリカの人類学者バーナード・ガ
9
57年から 58年に実施
リーンであ ったようだ。彼は 1
された台湾中部鹿港近郊の農村調査において、この
母に毎年粟 2石-麦 2石および毎月 2吊の金を与
え、母の着物を作るときは兄弟 5人でこれを母に渡
輪1J<頭を見いだし、分家と 兄弟聞での財産均分にと
した。岡県岡村には また、 5日ごとの輪流管飯と養
もなう慣行として次のように述べている 。
老糧も存在した 。養老糧は親を養う以外、「寒食会
.(
前略)……父親はまだ田畑仕事ができるよう
につかう 、即ち j
青明節に墓参に来た兄弟姉妹の接待
費にあてる j という 。昌繁県侯家営では、輪流養活
であれば、分家の際に自分自 身の小さい土地を確保
は I回 5日泊まりで 5日以上はなかった 。
しておくことが多い。両親が公式に核家族となる場
人間文化・ 13
恵子たちの家を巡り歩く父母 一 台湾における {
輪似頭}をめぐって ー
合には、 彼 らは息子たちの新しい家において 、ふつ
したのは 、台北県深坑郷仰之村 (5例)、南投県捕里
0日から 1
5日ずつ 、j
順々に食事と世話を与えられ
う1
鎮竹林村 (1
1例)、扉東県九如郷凌泉村 (
1
8例)、台北
ることになる 。彼らは収穫のたびに息子たちそれぞ
市延平区徳化街(l例 ) という、合計 3
5の輪伏頭の
れから 一定額の小遣いを時に現金で、 しかしふつう
事例である 。謝によれば、「
輪イ
火 頭は台湾の漢入社
会できわめて流行している一つの 制度であるJl註11)
は米で受け取る 。(そして現金が必要な時には米を
売る 。
) 医者にかかる必要がある時には、その費用
を均等に負担するのが息子たちの責任である 。子供
が、この方式を採らない場合には息子たちが送金す
るなどの方法でこれに代えられることがある。註
(12)
たち全員が結婚する前に分家した場合、両親は未婚
の子供たちと共に核家族を形成し 、未婚の娘たちに
持参金を渡したり、既婚の息子たちが受け取 ったの
と同じ面積の田 畑 を未婚の息子たちが受け取れるだ
けの土地を確保することになる 。
世間から批判 されるのを恐れ、また孝道のためも
あり 、
息子が両親に対する務めを怠るのは稀である 。
都市部に移した息子は、両親を世話する費用の負担
をi
帯ることが時にあるが、もっとよくある問題は、
輪伏頭に参加する能力がないということである 。そ
のような場合、他の兄弟たちはいない者の義務を引
き受けることはふつう拒否し 、あたかも都市部の兄
弟が村内にまだいるかのように 、その月をすべての
謝の出した仮説は 、次の 3点にまとめられる。
1 輪イ
火 頭は、中国の家族の理想、と現実生活を妥協
させた一つの結果である 。本来 、中国の家族の理想
とは大家族であり、五世同堂(五世代同居)も実現
可能とされてきた 。 しかし、実際生活においては、
兄弟同士が一緒に生活することが困難になると 、兄
弟均分を原則として家産を分けることとなる 。 この
場合、権利だけでなく義務も均分しなければならな
い。分家の際、家産と債務が均分されるのみならず、
祭杷もできるだけ公平に分担し、父母が健在の場合
には父母への奉養もなるべく公平にするよう努力が
払われていることが、謝のフィールド ・データに表
兄弟の問で分割してしまう 。 こうなると両親は 、面
れている 。父母に奉養を尽くすことは 中国人の重視
倒ながら自炊しなければならなくなる 。不在の息子
が台北から送金してくれるにもである 。
する生活規範である 。その際に兄弟が同じように負
分家の後、土地を受け取った息子たちの 1人 (と
で、多くの家庭がこの制度を採用するに至ったもの
と恩われる 。
その家族)が台北で働いている場合には、父親はそ
担できる輪伏頭というのは 、公平な制度ということ
の息子の土地を耕作してほとんどの時間を過ごすこ
2 輪{
j
(頭の関係する事項は非常に多いため 、その
とがある 。世話をしてくれるだけの大家族を持つ老
変異も大変大きい。たとえば、輪伏頭は生態条件 と
父は、息子たちの畑仕事を手伝ったり、家の回りの
もかかわる 。輪{
j
(頭と農業 ・漁業の関係を見ると、
雑用をしたり、あるいはただのんびりしている 。息
その間の関係ははっきりしていないとはいえ 、初歩
子が少なく土地 も小 さいような男は 、本当に高齢に
なるまで自分で仕事を続けねばならない。(
制
的な資料の分析によれば、漁村ーにおける輪イ
火 頭の例
このように、台湾の輪伏頭も中国大陸の場合と同
多い農村ほど輪{
火 頭を実施している 。 この他、社会
は農村の例よりもはるかに多い。 また 、農業人口の
じく、息子たちの分家にともなって行われるという
内の寿命、婚姻年齢なども輪伏頭の実行 に影響する 。
のが基本である 。
父母の寿命が延びれば輪伏頭の機会も増えるし 、そ
台湾の 〈輪{
j
(頭〉 は別に「吃{
j
(頭」、「輪イ
火閥 j、
「
吃
イ
火 閥」などと 呼ばれ、研究が積み重ねられてき
の年数も増えることが予想される 。それに対し 、婚
姻年齢が遅くなれば、輪伏 頭の機会も減少するだろ
た。先述のガリーン 以降、王忠興、李亦園、荘英章、
う。 こうした寿命と婚姻年齢のほか、政府が進める
黄維憲、許嘉明、陳安 j
台、ノーマ ・ダイアモンド
家庭計画も輪{j(頭に影響しうる 。つ ま り
(NormaDiamond)、陳奇禄 、陳中民、唐美君、ヒ
ユー ・ベーカー (
HughD
.R
.Baker
)など、人類学
者・社会学者を中心とした研究者がこの問題に触れ
ている 。(
註10)
中文“両個恰恰好"的計画)のため、 男子
政策 J(
が一人しかいない、または男子のいない家庭では、
これらの先行研究を取りまとめ、自らのフィール
に食べさせてもらう 制度なのであるから、父母の家
ド調査の成果も踏まえて輪伏頭を本格的に論じたの
と子供の家とを一緒に考察する 必要があると思われ
は、謝継昌であった。彼が 1
98
か-81
年にかけて調査
る。通常、家族の研究は 1つの住居単位を家族と見
14 ・人間文化
1
2人っ子
将来輪伏頭を行うことが不可能になる 。
3 輪{
大 頭は老いた父母がその子供達の問で順繰り
息子たちの家を巡り歩く父母
台湾における {
輪伏頭}をめぐって ー
なすため、輪{
火 頭の場合にも「条件的主幹家族」と
建て替えた 4階建ての透天伏 (トウティエンツー )
か「輪番主幹家庭」のような無理な名称を与えて分
で、部屋数は 5室。 リビング 2室、食事室、台所が
類しようとする研究が過去には存在した 。 しかし、
各 1室ずつある 。
輪伏頭では老年の父母の家庭が高次の単位としてま
ずあり、その中にそれぞれの息子たちの家が内包さ
輪f
火頭の実施状況
A さんが輪{火頭を選択した理
由は、年老いて体力が衰え、子供たちに面倒を見て
れるのであって、父母はこれらの家において共有さ
もらいたいと思ったからである。長男や次男との向
れるのである 。 このように、高低 2層の家庭を含む
居を選択しなかったのは、三男の自宅が空いていて、
ものとして輪伏頭を見る時に、この制度を全面的に
理解することができるであろう 。(
設13)
近くに住むことが可能で、、同居する必要がなかった
からである 。こうして、 1
996年に輪伏頭を開始した。
輪伏頭は息子たちの家族を順番に移動する形態をと
以上の謝による仮説には、まだ今後考察されねば
るのが原則である 。 しかし、 A さんの場合、長男と
ならない点も含まれている。たとえば、輪伏頭が農
次男の家でそれぞれ 1か月ずつ食べさせてもらい、
村よりも漁村に多いという傾向は事実なのか。それ
3か月目は自炊する 。本来この 3か月目は三男の当
が事実だとすれば、その理由は何か。 また、老親の
番であるが、 A さん夫婦は「台北市の都会の生活は
家族と息子たちの家族という 2つの家族を高低の 2
自分たちに合わないし、友人もいない。 また、三男
つの層としてとらえることで輪伏頭の理解が進むと
の住居は 5階建ての 4階にあり、エレベーターもな
謝は述べている 。謝の仮説は大綱において受け入れ
いため体力的に不便である」との理由で三男の家に
られるものであるが、この点が今後の課題と 言 える
は行かないことにした 。結局、三男は自分の当番の
月は食料費として NT (
新台湾ドル ) 1
0,
000元を送
だろう 。
金し、自炊してもらうことにした 。
輪イ火頭の評価
4
. 現代台湾における輪似頭(2)
一筆者による調査か 5ー
輪1k頭を A さんは、「年老いて自
炊しなくて済むから気楽である 。のんびりできる J
と肯定的に評価している 。食事の献立や昧つけ、か
謝継昌の調査は今から 20年も前のものである 。 し
たさなどに少々の不満はあるものの、輪{火頭にほぼ
かし、その後の 20年の 間に台湾社会がさまざまな側
満足している様子である 。
k頭を始めた時点
収入源の状況 A さん夫妻は輪1
面において大きく変化したことは、周知のことであ
ろう 。輪伏頭とのかかわりで言えば、 1
992年 5月に
で、自分の財産 (
土地) を子供たちに均等配分した
台湾政府が外国人労働者の受入を開始して以来、輪
ので、資産は持っていない。 しかし、その代償として
1k頭は滅少傾向にあり、それに代わって息子たちが
000元 、次男から NTIO,
OOO元
毎年、長男から NTl4,
父母のために外国人家政婦を雇う場合が増えてい
の送金がある 。 また A さんの定年退職金として月
る。筆者が2003年 3月に雲林県斗六市の農村地域で
NT14,
000元と農業補助金として月 NT6,
000元が手元
行った調査結果においても、このような傾向が見ら
に入 ってくる 。
れた。以下、まず輪伏頭の事例を 3つ紹介したい。
楽しみその他
Aさんの今の楽しみは、朝晩の公
閣の散歩や 、近所の人との雑談、廟に行って参拝し
事例 1
家族構成
たりボランテイア活動に参加す ることである 。
A さん(男性)は現在 80歳で、もと公
務員であったが56歳で定年を迎え、現在は無職であ
る。 A さんの家族構成は、もと農業従事者で現在無
事例 2
家族構成
B さん (
女性)は現在 8
3歳で、もと農
79歳) と息子 3人、娘 3人である 。長男
職の妻 (
業従事者であったが、現在は無職である 。夫は 22年
(
58歳) は公務員兼農業をしており、次男 (
56歳)
前に他界している 。 Bさんの子供は息子 2人、娘 3
は農業従事者である 。三男 (
4
8歳) は台北で事業経
人である 。長男 (
62歳)、次男 (
52歳) はともに地
営をしている 。長女 (
60歳)、次女 (
52歳 )、三女
元で専業農家をしている 。 長女、次女、 三女はとも
(
46歳)はともに既婚である 。
に既婚である 。
居住環境
現在 A さんが住む住宅は、台北市に在
住している三男名義のものである 。 これは 4年前に
居住環境
現在、 Bさんは長男の家で長男夫婦、
その息子夫婦と孫 3人と住んでいる 。
人間文化・ 1
5
息子たちの家を巡り歩く父母
台湾における 〈
輪似頭}をめぐって ー
住宅は、面積約 8
0
坪の 3階建ての透天暦で、部屋数
火頭の利点
輪f
Cさんは輪イ
火 頭、に対し 、公平性が
は 6室。 リビング 3室のほか、食事室、台所が各 l
あってよいと考えているが、息子の所を次々に移動
室ずつある 。
することは体力的に大変で、あるということを不満と
火頭の実施状況
輪f
Bさんが輪イ
火頭を開始したき
っかけは、 22年前の夫の死であった 。 このとき農業
して挙げている 。
収入源の状況
Cさんの生活費は、 20年前に輪伏
からも引退し、息子たちから 一応自立した生活を営
頭を始めた時に財産を子供たちに均等配分したの
むために輪伏頭という方式を選んだ。輪イ
火頭の内容
で、その代{賞として、息子たちから毎月 NT3,
000元
は特に設定せず、公平性を重視して、子供一人に対
000元の仕送りをもらっている 。 そのほか
から NT5,
して 1
5日間の輪伏頭期聞を設定しただけである 。
輪似頭の評価
子供から 三食の世話をしてもらえ
ることに満足はしているものの 、嫁姑の関係があま
りよくないことが不満として挙げられている 。
収入源の状況
B さんも 20
年前に輪伏頭を始めた
時点で、自分の財産 (
土地)を子供たちに均等配分
OOO元支給されている 。 Cさ
に農民補助金が月 NT3,
んは輪イ
火 頭に行った時、孫によく 小遣いをあげるが、
息子たちには 一切お金を払わない。
楽しみその他
Cさんの毎日の楽しみは 、近所を
朝晩散歩し 、友人たちと将棋をしたり、近くのお庖
でお茶を飲みながら雑談することである 。
した。その後は夫の残した現金のみを保管し、そこ
から小遣いを捻出している 。子供たちからの金銭的
援助は特にないが、 Bさんが旅行に行く時なとごは小
遣い程度をもらう 。
以上の
3つの事例をまとめ、謝継昌の調査報告と
比較してみると、次のようなことが言 える 。
輪イ
火頭は、どの事例においても財産を均等に分配
Bさんの今の楽しみは、孫と遊ん
した後に開始されている 。 その後、息子たちは平等
たり、公園の散歩や近所の人との雑談、テレビ鑑賞
に輪番で親の世話をする 。担 当の交替は、ほほ 1か
楽しみその他
をすることである。
月おきである 。 この輪{
火 頭の時期は、謝の示した諸
事例よりもやや長くなっている。つまり、謝の掲げ
8例、 2か月という
事例 3
た35
例では、 1か月というのは
Cさん (
男性)は現在 82歳で、もと農
業従事者だ‘ったが、現在は無職である 。 Cさんの家
最も多く 1
3例、そして 1週間というのが 6例 、不定
族構成は、もと商売をしていた妾 (
82歳) と息子 3
期 が 4例、不明が 2例であった 。 こうした差異がデ
人、娘 3人である 。長男 (
60歳)は地元で公務員を
ータ数によるものなのか、地域によるのか、あるい
しており、次男 (
57歳) と三男 (
54歳) はともに 、
は調査の年代にかかわるものなのか、今は判断が困
台北 で建築関係 の自営業をしている 。長女、次女、
難である 。
家族惰成
三女はともに既婚で、台北在住である 。
居住環境
現在、 Cさんの住宅は、 2年前に建て
0日というのが
のが I例、半月が 1例あった他 は、 1
筆者の調査結果において、輪イ
火 頭の長所として挙
げられたのは、次のことである。
替えられた 5階建ての透天庖で 、部屋数は 6室。 リ
つまり、親は 三食の心配をせずのんびりと暮らすこ
ビング 3室に加え、食事室、台所が各 l室ずつある 。
とができ、その│努の負担は子供の問で公平に分配さ
この建物は、現在長男夫婦の家でもある 。
輪f
大頭の実施状況
Cさんが輪{
火頭を開始したき
れる 。逆に最も深刻な問題は、高齢者が息子たちの
家を移動する際に生じる体力的な問題である 。すで
っかけは、息子たちがそれぞれに独立したことであ
に今回の調査からも、台北に住む息子の所に行くの
った。公平な輪伏頭を選び、 また自分自身が子供た
は困難なため、金銭でその代わりにするという事例
ちに束縛されないように同居もしなかった 。 20年ほ
や、通常とは逆に嫁が定期的に高齢者の所に来て食
ど前に農業からも引退し、 同時に家業も子供たちに
事を作ったりするという形も見られる 。したがって、
譲渡した。輪
、伏頭の 内容についてはすべて Cさんが
輪伏 頭という方式は高齢者に身体 的な問題がなく、
決定した。それぞれの息子の所へ一か月ずつ滞在す
子供どうしの理解がある場合に限って有効であると
ることにしていたが、次男、 三男が台北在住のため 、
言 える 。
82歳の C さんにとって長距離の移動は体力的に困難
となり、 75歳以降、ほとんど地元にいる長男の家で
過ごしている 。
1
6 ・人間文化
まとめと展望
以上述べてきたように、輪f
j
(頭という制度は本来
息子たちの家を巡り歩く 父母
中国大陸で行われ、台湾もたらされたもののようで
台湾における {
輪似頭}をめぐって ー
“p
e
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tet
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cc
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t" を形成し、転々とその 居所
k頭は
ある 。台湾で人口の高齢化が進むにつれ、輪 t
を移しては、その巡狩の都城、圏内のある一地方
徐々に流行を見せるようになった。 1
98
0
年代はそう
において、年に l度当該地方の住民から、その従
したピークの時期だったようである 。 けれども、
者たちとともに 2
4
時間扶養される 、 という形で貢
1
9
9
6年以降、老親の世話に外国人家政婦という別の
t
r
i
b
u
te
) を得ていたこと(田中正義 『イン
租 (
k頭は不振にな
選択肢が加わったこともあって、輪t
グランド初期経済史の諸問題 j 山川出版社、 1
9
7
8
っていった。試みに統計 を見てみると、台湾全島に
年) も想起されるが、 これは全く別個の問題であ
おける 6
5
歳以上の老人の居住方式のうち、輪 t
k頭を
る。
9
8
6年で 5
.
2
5
%、8
9年で 4
.
3
2
%、91
年
採っている例は 1
(
8)謝継昌前掲論文、9
1頁
。
.
9
9%である(行政院主計処、 1
9
9
2年)0(註 '4)今後
で3
(
9)G
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もこの傾向は続き 、輪t
k頭に代わ って、親に送金し
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9
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6,P.1
4
4
(
1
0
)
謝継昌前掲論文、 91
頁脚注 l。
1
)謝継昌前掲論文、 9
1
頁0
たり外国人家政婦を雇う方式が増えてゆくものと思
ための事例研究であり、今後の研究深化 により台湾
。
高齢者問題の解決策を明らかにしていきたい。
(
1
2
)
謝継昌前掲論文、 1
0
2頁0
われる 。 これら残された課題は多いが,本論はその
(
1
3
)謝継昌前掲論文、 1
0
7
1
0
8頁
。
註
(
1
4
)白秀雄 『
老人福利
r
(
1)
謝継昌「輪伏頭制度初探 J 中央研究院民族学研
J台北 :三民書局 、 1996年、
1
6
9頁。
究所集刊 j第5
9期
、 1
9
8
5年
、 9
2頁。
(
2)
仁井田陸 『中国の農村家族 J東京大学東洋文化
9
5
2年
、 1
2
8頁。
研究所、 1
(
3
)謝継昌前掲論文、
9
2頁脚注 l。
(
4)マルセル ・グラネの著書の邦訳などで知られる
内田 智雄などもこの 調査に参加した 。仁井田前
頁。
掲書、 2
(
5)仁井田前掲書、
1
3
0頁。
(
6)直江広治『中国の民俗学
.
1(
民俗民芸双書、
1
3)
岩崎美術社、 1
9
6
7年
、 1
6
6一 1
67
頁。
(
7)全世界の諸民族における老人の扱われ方につい
てはジョン コティ (
K
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9
3
4)およびレオ ・シモ
Simmons,L
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si
t
y
P
r
e
s
s,1
9
4
5)の研究がある 。 コテイの研究は老
人の虐待・遺棄などを扱ったものなので、本論
の内容とは直接関係しない 。他方 シモンズによ
れば、高齢者が農家から農家へと渡り歩くノル
2
1頁)や 、北米のクリーク-イン
ウェーの例 (
デイアンにおいて、高齢者が同じ氏族の成員の
もとを巡り歩く仔I
J (
22頁)がある 。 また、食糧
を社会全体で共有しようという観念が強いのは、
牧畜民や農耕民よりも狩猟民のもとにおいてで
3
3頁)も興味深い。
ある、という指摘 (
なお 、 アングロ -サ クソンの初期の王たちが
7
人間文化・ 1
息子たちの家を巡り歩く父母
台湾における {
輪伐頭}をめ ぐって
Comment
大橋松行
生活文化学研究科
襲さんの論文は、台湾における老親扶養の慣行と
研究(主として大学生を対象にした「日 -韓 ・中に
して 、現在でも行われている「輪伏頭」について書
おける 社会意識の 比較調査 J
) では 、「どん なこ とを
かれたものである 。 この論文の大きな特徴は、第 l
しても面倒をみる」という「義務的扶養型 j は中
に、中国大陸との比較という視点から「輪伏頭J制
国>韓国>日本の )II~序になっており 、 中国では 8 割
度を歴史的に考察するとともに 、両国 ・地域の「輪
を超えていた 。この老親扶養意識の高さの背景には 、
火
イ頭」の類似性 ・差異性を論じていること、第 2に、
確かに儒教的倫理観 (
特に農村部において)もある
台湾における先行研究の成果を踏まえた上で、筆者
が
、 他方で社会保障制度の貧困 と、それを 補 うもの
自ら事例研究法によって現地調査を行い、「輪伏頭
」
としての法律による扶養の義務づけがあった 。
の時系列的考察を試みている点にある 。
本論文でも述べられているが、儒教文化圏におい
台湾での調査はしていないので確たる ことは言 え
ないが、台湾でも同様の ことが考えられる 。 したが
ては 、老親扶養の背景には「孝Jの思想があると考
って、台湾における「輪伏頭」の今後の推移につい
えられている 。 「孝」観念を 、親子関係を律する生
ては、社会保障制度の充実度との関連で考察を試み
活規範としての「道徳的孝」ととらえるか、招魂再
るのも 一つの方法ではないかと思う 。 そのことによ
生という死生観と結びついた「宗教的孝 j ととらえ
って、 さらに認識が拡大されていくのではないかと
るかの相違はあるが、老親扶養が「孝」のうちで最も
思われる 。私にとっては大変興味深い論考であ っ
重要な要素であるとする点で両者は共通 している 。
た。繋さんの今後の研究の進展を期待したい。
数年前に私が参画した仰教大学総合研究所の共同
1
8 ・人間文化
論文
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
古関大樹
人間文化学研究科地域文化学専攻
縛士前期課程
1.はじめに
い。小林論文は、全国的に地租改正地引絵図の作成
明治2
2年 4月に壬申地券が廃止 され、土地台帳規
が終了した以降でも、同国の特徴を持つ地籍図が作
則が施行される 。 これに従って、「土地台帳 j の付
成されたことを指摘した。 これに対する批判は、こ
属地図として、土地の位置 -区画 -地目・面積・所
れ以降に行われていない。古地図集では、内題や作
有者などを図で示すために「公図」が作成された 。
成年が記される地籍図は種類の比定が行われやすい
初期の「公図」は、地租改正事業や地籍編纂事業な
が、これが記されない場合は種類の比定が行われる
どで得られた情報や地籍図を基にして作成された 。
ことが少ない。後者で比定が行われた場合は、根拠
佐藤甚次郎は「公図」と関係がある、壬申地券地引
が示されないものが多いなどの問題もある 。
絵図、地租改正地引絵図、地押調査更正地図、地籍
私は滋賀県の地籍図のデータベースを作成してい
編製地籍地図を系譜的に位置づけ、これを「明治前
る。近年は報告例が増え、関覧環境も容易になり、
期作成の地籍図」と総称した 1)。
収集の条件が整 ってきた 。市町村史や大字誌に掲載
「明治前期作成の地籍図」は、全国で作成された
される例も多く、ここからは、いくつかの大字では
資料としての普遍性や、近代化が進行する以前の詳
あるが、県内のほとんどの市町村の絵図を確認でき
細な土地情報を記すことで、歴史景観の復原で盛ん
た。特に、大津市・草津市・守山市・野洲町・能登
に使用されてきた。 しかしこうした研究では、地籍
川町-愛東町 ・彦根市・米原町・高月町-新旭町で
図の資料批判が行われることがほとんどなく、佐藤
は、全ての大字で絵図を確認できた。 こうして、県
の研究が発表された以降でも、種類の比定がされな
内全域を確認するにはまだ少ないが、 一応琵琶湖を
いまま利用される例が多く見られる 。
取り囲むように収集することができた。各絵図の内
「明治前期作成の地籍図」には、作成時期や基準
訳は、壬申地券地引絵図が366点、地租改正地引絵
が、府県 ・郡・市町村ごとなどで異なるという問題
図が 1
0
1点、地籍編成地籍地図が 88点である 。地押
がある 。作成の伝達は政府→府県→町村 (
郡役所)
調査更正地図は県内で統ー した図が作られなかった
の JII~ でなされたが、特に府県や郡では地域の事情が
と考えられる 。本論では県内 9村で関連する資料を
考慮され、調査時期や図の担I
E形の調整が行われた 。
関覧した。
作成が進まなかった種類がある府県や、他の地籍図
このように滋賀県では議論や課題が残される点が
が代用された府県も多かった 。地域ごとの差異の把
多く、県が各地籍図を作成した過程の全体像は明ら
握には各地の各論が必要となる。しかし管見の範囲
かにされていない 。 そこで、各地籍図の作成時期、
では、各論が行われた都道府県はあまり多くはみら
各地籍図の特徴を再検討することで、これを考えた
れない。地域ごとの各論は、その地域で地籍図を利
い。 また、内題や作成年が記されない絵図の種類の
用した研究の資料批判を補助する 。 また、その蓄積
比定方法も述べたい。
は明治期の土地制度や地籍図を見直すきっかけにも
なるだろう 。 こうした目的で現在の滋賀県域を対象
に検討を進めたい。
滋賀県では、近年市町村史で明治前期作成の地籍
図をまとめて掲載した、古地図集が刊行される例が
2.絵図の作成時期と分類の再構成
壬申地券地引絵図 (
地券絵図)
土地の私有を公証するために、政府は明治 5年 7
月 4日に太政官布告で地券の発行を指示した。明治
多くなってきた 2)。 この中では分類案が提示され、
5年が壬申年にあたることから、これは壬申地券と
相互に検討が進められてきた。他には小林健太郎と
名づけられた。壬申地券の付属地図として作成され
岩間 一水による研究があり 3)、中でも岩間は、はじ
めて全国的な地籍図研究に沿った 4種類への区分を
たのが壬申地券地引絵図 (
地券絵図)である 。
滋賀県は同年 8月の布達 175号 4) で調査の方法を
提示した。私も大筋でこれを評価する 。 しかし、こ
示し、さらに同年 1
I月22日の布達324号 5) で本絵図
れ以降の古地図集では異なった解釈が報告され、決
の提出を指示した。 これによって、絵図の作成時期
着がついていない点がある 。 また、岩間論文は各地
の上限は 5年 1
1月末とできる 。管見の範囲では、作
籍図の作成時期と、特に地押調査更正地図の性質や
成時期の下限がうかがえる文書を日にすることがで
全県的に作成されたか否かについて不明な点が多
きなかった 。
人間文化・ 1
9
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
25
・郡村地券 口市街地券
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!" I扇
町 回目
1
3
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2
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閣治時の必
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叫
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一一-一一一ー
向からは、郡村の提出期日は 6年末であったと推測
10
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.
.
.
.
.
.
…
守一
・一一ーーー・一
.
.
.
.
.
できる 。 7年のものはこれに間に合わなかったもの
だろう 。 7年 9月のものは、不備などにより再提出
されたものと思われる 。市街地では、旧大津町域の
)
・
..
.
._.ー・ー・ー・ー
・
一・
一 ・.
..-..一ー……
守匂
絵図は明治 7年とだけ記されるものが多い。わずか
であるが、 7年 4月が l点
、 5月が 2点確認できた。
7年とだけある他の絵図も、同時期に作成されたも
5)
-ー…・ー・
一・
一 」ー
・ー
のだろう 。 旧彦根町域では、
7 月 ~ ll 月の作成年月
を持ち、このころに作成時期を置くことができる 。
旧長浜町域は閲覧で、きていないが、おそらく同時期
明治6
年2
月
明治 6. 1 1 ~
明治 7 年e 月明治7 写7 月
明治7年 11同
図 1 壬申地券地引絵図の作成年
になるだろう 。
全国的に山地の地券の交付作業は平地よりも遅れ
た。滋賀県の例はあまり日にできていないが、管見
のものは全て 7
年代である 。 これもおそらくは 、7年
前後に絵図が作成されただろう 。
旧幕時代では、農村と町地とでは、税法が大きく
異なっていた。そのため、壬申地券は一般農村に授
1月 末
このように 、郡村地券の絵図は明治 5年 1
与される郡村地券と、旧幕時代の町地に授与される
6年末に、市街地は 7年 4月頃 同年末頃に、山地
は 7年前後に作成されたと思われる 。 また、平地の
市街地券との 2種類が設けられた。租税寮改正局 日
報の 6年 4月 4日滋賀県伺 6) に、様子が詳しい。
郡村地券の絵図に関しては 、 7年上旬まで提出が遅
れたものも見られる 。
「市街郡村地券書式二様ニ御達有之候慮、今般御
号室令之改正地租分、 三同一之御規則l
ニ付而者、市街
地租改正地引絵図 (
改租絵図)
郡村之地所ニ於テ直別無之、然、ルニ券面ニ直別有之
政府は明治 6年 7月2
8日に地租改正法を公布し、
候而者、反而不鰻裁ノ様相心得候、 (
中略)の而者
従来の現物年貢から近代的な地価課税への転換を図
嘗管下大津彦根長漬右三 ヶ所市街之分、郡村券書同
る。 この前提には 、土地の所有を証明し、さらに地
一億二致シ候方至極簡便ト奉存候 (
後略 )J
価を設定する必要があった。前者は地券の交付によ
ここでは郡村地券に市街地券の書式を合わせるこ
って進められたが、後者は再度調査を行う必要があ
とが申請された。郡村地券に書式を合わせるという
った 。そこで、再び土地調査が行われ、これに伴っ
ことからは、 6年 4月 4日の時点で郡村では作業が
て地租改正地引絵図 (
改租絵図)が作成された。
ある程度進み 、大津 -彦根・長浜の市街地では、こ
れがほとんど進んで、いなかったと推測できる 。 これ
は、絵図の作成年の統計でも確認できる 。
滋賀県は 6年 1
0月に「地租改正取調方心得書 J8)
を布達した。 しかし、実施は 2年も遅れていたこと
が 8年 8月 7日の布達乙 78号 9)でわかる 。
図 1は私がこれまでに閲覧した地券絵図の点数
「本年一月ヨリ一般地租改正着手候付テハ来ル九
を、作成年月別にグラフ化したものである 。 ここで
月初旬より各郡村々エ官員派出実地調査候旨相心得
は私の判断で比定したものを除くため 、「地券取調
総絵図Jの内題を持つ絵図のみをとりあげた。岩間
野帳並等級表本月廿五日限リ差 出事」
論文にはないが、 『
彦根明治の古地図
一
』 は明治
ら着手し、実地調査は 9月上旬を目標としていたこ
6年 7月の布達 678号で、地券絵図の提出期限が 8
とがわかる 。岩間論文にはないが、 『
彦根明治の古
月20日とされたと解説した 九 後で触れるが布達
678号 は旧大津町に対して出されたものであり、全
地図 三1は一部の 7年代の絵図を地租改正地引絵
図と推定したが 10)、上のように 7年にはまだ事業が
ここからは、滋賀県の地租改正事業は 8年 1月か
県域を対象とすることはできない。グラフでは、郡
開始していなかった。指摘された図は市街地券の地
村地 券の大半は明治 6 年 2 月 ~ 7 年 l 月にまとま
券絵図である 。前項で述べたように、 7年末までは
る。 6年とだけ記される絵図は 1
3例だが、 7年とだ
市街地や山地での事業が行われていた。このために、
け記されるものは 2 例と少ない 。
6 年 9 月 ~ 1 2 月に
8年 l月まで地租改正事業の着手が遅れたのだろ
数が多いが、 7年に入ると急に少なくなる 。 この傾
う。絵図は実地調査で作成される 。そこで、作成時
2
0 ・人間文化
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
期の上限は 9月上旬といえる。
1
2年 7月24日には、滋賀県庁から内務卿伊藤博文
11
。
宛に「地租改正事務掛相廃候付御届」が出された 1
更の報告を命じた 。県庁には、これで作成されたと
4年 -1
7年までの地目変換に関する帳簿が
思われる 1
残されている 。
これには、「今般本県地租改正事務完全整頓候付同
布達甲 62号の第二僚には、「別表書式ノ通町村ニ
掛ヲ相廃シ地券及ヒ徴税土地ニ係ル事務ハ租税課ニ
於テ調整スヘキ種目ヲ示シタルモノヲ除クノ外ハ県
於テ為取扱候候此段御届仕候」 と、事業の完了が報
庁ニ於テ之ヲ調整ス其町村ニ於テ調整スルモノハ明
告されている 。そこで、作成時期の下限は 1
2年 7月
治十七年一月一 日現在ノ姿ヲ以シ地籍図一同ニ進達
とできる 。
スヘシ」とある 。同じ日付の作成年月を持つ絵図が
野洲町に残されており 1
71
、ここを作成時期の上限と
明
地租改正事務局別報の「滋賀県出張復命書 J(
21
、県内 1440ヶ村内、約 300
治 9年 5月31日)に は1
ヶ村で地租改正の疎漏があったと記される 。 この資
料を分析した有元正雄に詳しいが 131、滋賀県の地租
できる 。管見の範囲では、作成時期の下限を示す文
7年が 4枚
、 1
8
書を目にすることができなかった。 1
年が 6枚
、 22年3月が l枚確認できている 。地籍地
改正事業には疎漏が多く 、こ こは再提出が命じられ
図の調整は、 1
7年 - 1
8年に集中したと思われるが、
た。 この資料からは、 9年 5月頃には調査がほとん
ど進んでいたことがわかる。管見の図もほとんどが
22年 4月に「土地台帳規則」が出されるまで下限は
8年末 -9年の作成年をもっ。私は、 1
0年代で 1枚
、
下ると推測される 。
このように、地籍地図の作成時期は、明治 1
7年 l
1
1年代で 2枚
、1
2年代で l枚の改租絵図を確認した。
月 1日-22年3月となる 。 また、地籍地図の作成が 1
7
それぞれの背景を具体的に確認できていないが、こ
年まで遅れたのには、 1
4年 -17年の地目変換の調査
れらは前述の「滋賀県出張復命書」を参考にすると、
が関係していた。
再提出されたものと推測できる。
月が作成時期とできる。さらに 8年末 -9年がピー
地押調査更正地図(更正地図)
壬申地券の発行→地租改正という流れの中で、壬
クであったといえる。 9年 5月以降のものもあ り
、
申地券は土地所有の証明と、地租負担の義務を公的
これは再提出されたものと推測できる 。
に確認する役割を担っていた。しかし当時の法の下
での運用には多くの問題があった 18)。そこで政府は
地籍編製地籍地図(地籍地図)
2月28日に地籍編成を通達し
内務省、は明治 7年 1
1
9年 8月に登記法を制定し、これに従 って 土地所有
た。地租改正事業は民有地 を対象とし、地価を設定
Jを制定し 、登記市Ij度
券を廃止して「土地台帳規則J
このように、文書の分析からは 8年 9月 -1
2年 7
を公証するようにした 。 さらに 22年 4月には壬申地
するのが主な目的であったが、地籍編纂事業は、官
に従属する形で土地台帳を課税台帳とした。 こうし
有地と民有地を包括して地種を区分し、境界を確定
て壬申地券は廃され、土地所有の公証と地価課税の
させることが主な目的であった。
役割分担が確立した。政府は 1
7年 1
2月に土地台帳の
滋賀 県は 9年 5月23日に布達丙 35号 '
"1を出した
創設を指示し土地台帳制への移行が開始する。土地
7年まで遅れた。これは 1
7年 6月 1
0日の布
が実施は 1
達甲 62号 15) に詳しい。
基とされたが、これには不備が多く土地の変更も多
「明治九年中地籍編製書式布達セシ以来、追々調
台帳では地租改正などの土地調査で得られた情報が
く見られた 。そこで政府は 1
8年 2月 1
8日に地押調査
理ノ上達セシ町村モ有之候処、其己ニ調理セシ町村
の訓令を出し不備地の修正を 指示した。
ト難モ地籍図ノ調整ナク、其以後地種地目等ニ沿革
アリテ現今ノ姿ニ異同ヲ生シ、今ニ於テ既成ノ地籍
滋賀県は 1
8年 11
月1
4日に布達乙 74号を出し 1
9年 6
月までに報告を行うよう指示した 19)。 しかし 、 1
9年
ニ対スル図面ヲ調整スル事難ク 、且編製ノ年度モ各
8月 1
6日の訓令 29号では、地押調査が徹底されてい
町村区々ニ出テ
ないことが記され、再度調査の実施を指示している
201。管見の範囲では、地押調査に関する資料は 1
9年
3
一様ナラス、随テ全管ノ地籍整頓
不相成ニ付、今般別紙ノ通調理手績更正候俊右ニ準
擦シ更ニ調整可致旨布達候j
ここでは 1
7年まで編製が遅れた原因に、地種地目
3年 6月29日の
等の沿革をあげている。滋賀県は、 1
3号 161で、地租改正以 降の地目や土地の変
布達乙 1
-2
2年代まで見られる 。作成時期の下限を示す古文
書は確認できなかった。 これも 22年 4月に「土地台
帳規則」が出されるまで下限は下ると推測される 。
人間文化 ・ 2
1
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
3
.告種地籍図の基本的特徴
壬申地券地引絵図[郡村地券]
全国的には小字までを描いた 一村全図と、 一筆 ま
ほとんと見られない 。
1
H . 水 ・ 屋 敷 - 薮 荒 地 -山」が
凡例は、「田.1
基 本 的 に 記 さ れ る 。 「湧水出荒・門樋
寛 (掛
でを描いた字限図が作成される例がある 。 しかし滋
樋) ・埋樋 (
底樋) ・禿山 ・木荒・草荒・田畑方今
賀県では、 一筆 までを描いた一村全国だけが作成さ
荒地」は、全ての絵図には記されないが、県内全域
れ、字限図は作成されなか った。内題は、「地券取
で多く確認できる特殊な地種である 。県内全域で確
調総絵図Jとされるものが多い。 これが雛形などで
認できたことからは、これが雛形などで指示された
指示されのだろう 。管見の範囲では外題には県レベ
ことを示すだろう 。 こうした特殊なものは具体的な
ルでの共通性が見られず、市町村役場など、管理者
土地利用を知る手がかりとなる 。「田畑方今荒地 J
レベルで共通する例が多い。地券の交付は民有地の
は、過去の検地帳に記される田畑が、荒地になった
みが対象とされたため、絵図では官有地や公有地は
ことを示す。 これからも 、地券絵図が過去の検地 l
帳
基本的に描かれない。ほとんどの図ではここが白抜
や村絵図を参考に作成されたことがうかがえる 。
きにされている 。
提出責任者として戸長・副戸長・百姓総代の署名
[市街地券]
と押印が記される 。滋賀県は明治 5年 8月の布達
市街地券の絵図は 2種類ある。滋賀県は明治 6年
1
75
号 211で、絵図を 2枚提出し、 l枚は県庁で保管
7月の布達678号 26) は、大津町に対し、小区を範囲
し、もう l枚は村方へ返却することを指示した。同
とした「地引分間絵図 j の提出を命じた 。『彦根明
じ村の絵図が役場と村方の両方に残される例が多く
治の古地図
自にできる 。役場所有のものは、県庁で保管された
区で、区を範囲に 一筆を最小単位とした図が掲載さ
ものが何らかの過程で移管されたと考えられる 。
三 J271 には、旧彦根町域の 8区と 9
れ、旧彦根町でもこれが実施されたことが分かる 。
一筆ごとには地番と反別が記される。字界は点線
として過去の
布達678号は郡村地券と同様に、原則l
で範囲を示す例が多いが、これが記されないものも
検地帳などを基に作成すること、絵図を 2枚提出す
みられる 。道や川などで遮られ、同地番の土地が複
ることを指示している 。 9区の図は郡村地券と同様
数の地筆に分かれる場所は、朱色の丸でくくられて
に、「地券取調総絵図」と内題が記される 。方位は
同番であることが示される 。岩間論文に詳しいが、
東西南北を四方に配す。提出責任者として区長と副
地券絵図の時点で、近世以来の小字が統合される例
区長の署名と押印が記される 。一筆には地番と反別
が見られる 刻
。 村界も同様に付替えられる例が見ら
が記され、凡例は「道・川・屋敷・拝借堤原畑・拝
れる 。壬申地券の発行では、帰属が不明瞭であった
借堤原薮Jが記される 。
土地は強制的に規定が行われ、官有地に没収される
もう 1つは、明治 7年代の図である 。 こちらは旧
ことも多く行われた。絵図に見られる字名や村界の
幕時代の町割を範囲に一筆を最小単位とした図が作
変化の例もこうした一環であろう 。
成された 。大津市のものは滋賀県立図書館で保存さ
全国的に地券絵図は、原則として測量に伴 って作
れ、彦根市のものは 『
彦根明治の古地図
三j に掲
成されず、過去の検地帳や村絵図を参考に作られた。
載される 。 これも「地券取調総絵図 Jと内題が記さ
滋賀県も原則として実測に基づいて作成されなかっ
1
1で統ー される 。提出責任者とし
れる 。方位は方位車1
た23)。岩間 一水が報告した明治 4年の旧彦根県の耕
て戸長・副戸長
地絵図叫 などが参考にされたことだろう 。縮尺は、
一筆には、地番と反別が記され、「宅地 ・道
/
600)で作成された 。平地は県
「壱問壱分之縮 J(l
渠-泥揚場 -堤塘-官地」などの凡例を持つ。
町総代の著名と押印が記される 。
溝
内全域で基本的にこれが守られ精度が高いが、山地
は大きく縮小するものもあり精度は低い。曲尺の使
地租改正地引絵図
用が多いが鯨尺を用いた例も見られ、尺は必ずしも
統ーされていなかった 251。
成される府県が多いが、滋賀県では 一筆までを描い
方位の表示では、東西南北に丸で囲み四方に配し
たものが全県で多く確認できる 。おそらくは、雛形
これも地券絵図と同様に、 一村全図と字限図が作
た一村全国だけが作成された 。内題は「地位等級j
などの語句をもつが、明確な共通性は見られず、設
などでこれが指示されたのだろう 。 これに東西南北
けられないものも多い。外題は地券絵図と同様に共
を四方に配すものがわずかに次ぎ、方位軸の使用は
通性がない。 これも地券絵図と同様に、官有地や公
22 ・人間文化
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
I
無野
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所跡
封h地
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・骨島
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置 附 物 物 波 井 水 林竹 林 山 宅i世畑 田
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1.
.
.
死 塚 古基 火 灯 堂
船 字 村 郡 国 寺 宇土鉄 土 砂 土
墳地葬縞字
牛
入界界界界地地道捨置取
場敷敷
場場場場場馬
場
一村全図の凡例
1
,
(
ZI
I
是
消i
日荒 原 掲 t
と押印が記される 。提出枚数は文書などで明らかに
できなか ったが、これも 2部作成されたと推測され
円即何日地繕全国
}
、
、
、
提出責任者として戸長 ・副戸長 ・地主総代の署名
る。同じ市町村内で比較をすると、役場所有がある
村落で、村所有のものがない例を目にすることが多
一村全 図 の雛形
有地は対象外で白抜きにされる 。
い。実際は役場用に l枚だけ提出され、村方では地
券絵図などを代用するなどが、多く行われたのでは
ないかと推測される 。
一筆ごとには、 等級 ・地番 ・反別が記される 。等
r
¥
級は朱色の漢数字で記される 。滋賀県は明治 8年 4
月1
3日の布達299号 28) で地番の修正を命じた 。壬申
何 郡 何 川何 番 字 限 函
地・寺社地 ・原 野 . i
留池等に 地番が付されなか っ
-号官有働
雄慮
ハ墨 .
ン畏有絶ハ象・ スペン
箇 冊m
鍋M
m
込ムペキ官官官幽眉
ノ醤骨ハ泉 町村 ノ求
じた。 こうして、地租改正事業ではーから地番が付
け直され、地券絵図のものとは一致しない 。 なお、
・
・ヲ還フモ普 Yカラ一ズ
た。 これらに新たな地番を付すと、順序の混乱が生
{子限図の 雛形
地券の土地調査では、非民有地である山林-堤外
新地番は現在のものと対応するものが多い。字界は
地券絵図と同様に点線で範囲が示される 。
改平田会図は実測に伴って作成された。岩間論文に
詳しいが29)、野帳などに 三斜 j
去を 用 いた 一筆図が残
されることが多く、縮尺は 1/l 500 ~ 1/
2
4
00と統一
性が見られない。 これは地券絵図と比べると卓上で
図 2 地籍地図の雛形
(滋賀県庁文書、簿冊 香 号 明 1
4
4、文書番号 明日2)
広げられる大きさであり、これを目安に作成された
と思われる 。尺は改祖事業で六尺竿に統ー された 。
方位は、方位軸の使用が多く見られるようになる 。
しかし地券絵図のように東西南北を四方に配したも
ために隣接村の証明が必要とされた。従って 一村全
国には隣接村の戸長と地主総代の署名と押印も記さ
れる 。字限図は村落ごとで帳簿状につづられる 。提
のも多い。 これは改租絵図の作成時に、地券絵図が
出責任者の 著名と押印は各字国ごとには記されず、
大きく参考とされていたことを示すだろう 。凡例は、
帳簿の巻頭でまとめて記されるものが多い。
「
道 ・川 ・回 ・畑 ・宅地 ・薮地・草生地 j が基本的
滋賀県は明治 1
7年 6月 1
0日に布達甲 62号 30) を出
に記される 。 これ以外の地種が設けられる例は少な
し、図を 2枚提出し、 一枚は県庁で保管し、もう 一
く、郡村の地券絵図のように荒地や山地を細かく分
枚は村方へ返却することを指示した。地券絵図と同
けたり、用水施設が描かれることは少ない。
様に、役場所有のものは県庁で保管されたものが移
管されたものと推測できる 。
地籍編製地籍地図
一村全図には、小字ごとに小字名と字番号が記さ
)
地籍地図は雛形を確認することができた (
図 2。
れる 。字限図では、地番だけを記すのが原則である
全国では、小字までを描いた一村全国と、 一筆まで
が、等級を記した図も多く見られる 。道路や水路に
を描いた字限図が作成された。滋賀県でも同様に 2
まで地番を記した図も多く見られる 。地籍地図は改
種類の図が作成された。図 2のように 一村全図は
租絵図と同様に、実測に伴って作成され三斜法が用
「地籍全図」と内題を持ち共通性が高い。 これは裏
いられた 。一 村 全 図 の 縮 尺 は 、 管 見 の 範 囲 で は 、
打ちされることが少なく、基本的に外題にあたるも
1 / 15 00~ 1
/
2
8
0
0のものが見られ、改租絵図と同様に
のは見られない。一村全図の雛形には村総代とある
卓上で広げられる大きさとなっている 。字限図は、
が、管見の範囲では、戸長と地主総代の署名と押印
1/
600で作成することが指示され、管見のものはこ
が記されるのを多く目にする 。地籍調査は法的に境
れに従う 。地籍地図は字限図をおこして一村全図が
界を画定する意図が強く、提出図には村境の確定の
作られた。そのため 一村全閣には精度が低いものも
人間文化・ 23
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
十
図
3
表現は見られない。
地押調査更生地図の例
(高月町尾山区有文書)
多く見られる 。方位は、方位軸に統ー されこの他の
宇
ー
谷
..
u
田 富 冨
九
.
.
,
2
尻 園 田
e
制鎗
J
'
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外畝
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型式合
主?繁
峰 岡
崎 "
調
、
図 2の凡例の「物置場、堂宇敷、火葬場、 墓地
【
、
,
、
-百五百,、百侠
民, 、
旬
、
弐
此齢
( 肝
主
"
A
夜七五四五ニー
社地、寺地Jなどは、地籍地図だけに見られる特徴
百
,、縛鎗鎗五事
九
争含倉呼縛 H
氏
"九プモ..~
的な記号であり、種類の比定のポイントになる 。地
拾
籍地図 の一村全国は小字を最小単位とすると述べた
五 合
A
壬守
八六縛縛
I
I
2
2
名
玲そ勺勺"九
勺勺
合九
九勺
が、上で述べた特徴的な記号を持つ、 一筆までを描
勺
一
いた一村全図を目にすることがある 。 これは管見の
米 経 舗 が...,れる併倍以
~r
)
"0 ・ ι f~ •
、
範囲では彦根市、守山市、草津市でそれぞれ l村
愛東町で 1村、高月町で 3村と広い範囲で確認でき
る31)。これらは全て一筆に地番のみを記し、官有地
他種の図の転用
も彩色されている 。 作成時期は明治 18 ~2 2年 3 月で
管見の範囲では他穫の図が転用される例が多く自
ある 。 これからは、地籍編纂や地押調査との関連が
にできる 。代表的なものを 2つ示したい。 1つは、
推測される 。 これは 、作成の背景や普遍的な事例で
改租絵図に地券絵図を転用する例である 。例として
あったのかなど今後の課題は多いが、報告をしてお
彦根市野口村の絵図をあげよう 34)。 これは作成年が
きたい。
見られないが、「地券取調総絵図」と内題を持ち、
凡例は図 2に準じる 。地券絵図や改租絵図では官
他の特徴も地券絵図と同じである 。一筆には地番と
有地や公有地は対象外とされたが、地籍地図では細
反別を記すが、その上には付築が貼られ、別の地番
かく地目が分けられ、土地利用が詳しく分かる 。
と朱色の等級が書き込まれている 。 これは、改租絵
図を作成する際に、 ① 参考として付築を貼った 、②
地押調査更正地図
地券絵図を改租絵図の代わりとするために付築を貼
地押調査は修正地のみを対象としていた。管見の
範囲では、統ー したスタイルの一村全国や字限図は
った、などの背景が考えられる 。 このように、改租
絵図に地券絵図を転用する例が多く見られる 。
見られない。提出書類には一筆図があり、例として
こうした例は、村所有の図で多く見られる 。 この
高月町尾山村の提出書類を示したい(図 3)刻。 こ
中には、改租絵図が残されない村落も多く見られる 。
れは別図として提出されたのではなく、提出 書類の
この場合は、提出用の絵図を 1部だけ作成し、村控
端に書き込まれたものである 。書類にはまず字名と
えは地券絵図で代用した可能性が考えられる 。写し
地番が記され次に反別と地主の署名と押印が続く 。
を作成し、改租の年に作成年を書き換える例もわず
一筆図には 三斜法の測線と地積が記され各反別はそ
かに見られるが、管見の範囲では、地券絵図に直接
の下に列記される 。図には方位軸が必ず添えられる 。
書 き込むのを目にすることが多い 。付築以外では、
地押調査では、原則として 一村全図は作成されな
地番や反別を塗り潰して新地番・反別 ・等級を書き
かったと恩われるが、過去の図を転用してこれにあ
加える例、同筆に 2つの地番・反別を併記する例、
てたと推測されるものがある 。例をあげると、新旭
町針江村の絵図 33) は、明治 9年 9月の作成年を持
等級だけが新たに加えられている例などがある 。
ち、一筆に等級と地番を記す。凡例に墓地が設けら
図の転用である 。地租改正の完了が報告された 1
2年
もう 1つは地目変換調査での、地券絵図や改租絵
れるが彩色がない。 こうした特徴からは、原因は改
7月24日以降でも、改租絵図の特徴を持つ図が見ら
租絵図であると判断できる 。 この図には、「明治弐
れる 。これは地押調査と同様に合分筆や貼紙がみえ、
拾弐年壱月訂正Jとある 。 いくつかの筆では、
修正されたことが確認できる 。 こちらも中には写し
r
o
00ノ一、 000ノ二j などと地租改正以降に分筆
を作成し、全ての情報を書き換える例も見られる 。
された地筆が見える 。貼紙がされる地筆もある 。 こ
本論の冒頭、では、 小林論文が全国的に地租改正地引
れらの特徴は、地押調査で修正されたことを示すだ
絵図の作成が終了した以降でも、同国の特徴を持つ
ろう 。 このように地押調査では、統ー したスタイル
図が作成されたことを指摘したと述べた 。小林の指
の一村全図は作成されないものの、過去の図を転用
摘する図は、地目変換調査や地押調査で改干L絵図が
する例が見られる 。
特に改租絵図からの転用が多い。
転用されたものといえる 。
他種の図を転用する例は、村所有の図で多く見ら
24 ・人間文化
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
e
"
o
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る
匂
・
耐引柑
蝿兎
'H
鎗
a同 調 作
f1
した保存状況からは、能登 川町では地籍地図が「公
図」の参考にされ、高月町では改租絵図が参考にさ
れたと考えることができる 。佐藤によると、 「公図 J
の 参 考 と さ れ た 図 は 府 県 ご と で 異 な る と さ れ る 36)
が、滋賀県で、は両方の事例が確認され、県内全域で
統ー した方法がとられなかったといえる 。 どちらの
即⑥回
11111111
閣
1
い一
ケースが多かったのかは今後の諜題としたい。
表 lでは 、県内 の各地籍 図の特徴を示した 。本論
は、滋賀県で、の図の転用例についてはじめて具体的
H1
一
,
内 惜
11
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1-
@町・園闘閥闘
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③ い
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U ②同門岡闘凶一 一
14
①門幽・・同一一一一
}一 一
引
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平
成2
l
.
.
l
① 地 轟絵 図
(平地 の郡 村地
②地 轟 軸図
{市 缶 地 轟)
③地 轟 絵 図
(中地 の町 村 地
@ 改租 絵 図
@地目変換調査
@地 培 地 図
⑦地 押 調 査
u
に触れ、特に村所有の図でこれが多いと述べた。 こ
うした事例は、複数の特徴から資料批判を行わなけ
れば状況がつかめない 。表のように各種絵図の特徴
18
.
1
1 -
は分かれるので、複数の特徴の整合性を根拠に比定
19
.
8 -
を行う必要がある 。 内題や作成年が記されない絵図
土 地 台 帳 申I
J
もこのような方法をとる必要があるだろう 。本論で
2
2
.
4
図 4 滋賀県の絵図の変遷
は改租絵図や地籍地図の特徴的な凡例の地種に触れ
たが、これも種類の比定のポイントとなる 。 これま
での古地図集では外題を根拠に種類の比定が行われ
ることがあった 。本論で述べたように外題には県レ
ベルでの統一性が見られないので、比定の根拠にす
れる 。数度に渡る地籍図の作成は村落にとって大き
るのはひかえるべきだろう。本論では新たに、市街
な負担であっただろう 。管見の範囲では 、特に lつ
地券の地券絵図、 一筆 までを記した地籍地図を分類
めの事例を日にすることが多い 。滋賀県では改租絵
したが、特に後者は作成の背景を具体化させること
図が残されるのが少ないといわれるが、その背景に
ができなかった。 これも今後の課題としたい 。
はこうした事情もあるのではないだろうか。
4
. まとめ
付記
本論をまとめるに際しては、高橋美久二先生と水
各種絵図の作成時期に関しては図 4に、特徴に関
野章二先生にご指導や便宜を図っていただいた 。現
しては表 1にそれぞれまとめた 。 図 4では文書で時
在、高月町史の古地図集の編纂に関わっている 。執
期を確認した範囲を実線で囲った 。管見の範囲で特
筆委員の岩間一水氏、上杉和央氏、今本暁氏とのや
に確認数が多い時期は黒で示した。 ここからは、郡
りとりは大変勉強になる 。 中でも岩間氏には、先行
村地券の地券絵図→市街地券 -山地の地券絵図→改
の研究と合わせて様々なご指導をいただいた。元滋
租絵図→地目変換事業→ 地籍地図 ・地押調査、と段
賀県庁県民情報室の河崎幸一氏にもさまぎまなご指
階的に変遷することがわかる 。他府県では同時進行
導をいただいた 。特に氏が作成した県庁の公文書の
で事業を行った例も多いが、こうした傾向からは、
リストを提供していただき、多くの公文書を検討す
滋賀県はそれぞれの事業がほぼ完了するのを待っ
ることができた。 国立歴史民俗博物館の「非文献資
て、次の事業を進めたといえるだろう 。 滋賀県のこ
料の基礎的研究j の諸先生方には共に調査に参加さ
うした各絵図の段階的な作成は、村落にとって大き
せていただきご教授をいただいた 。高月町史編纂室
な負担であっただろう。こうしたことが、図の転用
の花房大裕氏、愛東町教育委員会の明日 一史氏、能
をうながしたのではないだろうか。 これは全体の中
登 川町史編纂室の飯田充氏、元彦根市史編纂室の斉
で占める割合や背景、ケースなど今後の課題が多い 。
藤望氏をはじめとする市町村役場の皆様には資料の
ところで、能登川町では地籍地図が「公図 j と同
じ帳簿でつづられて残され、高月町では改租絵図が
閲覧に多くの便宜をいただいた。 これ らの方々をは
じめとする皆様に重ねてお礼申し上げます。
「公図 j と同じ袋で残される 35)。 どちらの役場でも、
他の種類の図はほとんど残されていなかった 。 こう
人間文化・ 25
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
種類
!図の形式
郡村地券
作成時期
ー筆毎の文字位置
5年1
2月-7
地番・反別
一村全国 年上旬
提出責任者
市街地券
※1区
6年下旬
※1町割
7年4月-7
地番 ・
反別
年下旬
地番 ・ 反 ~II
8年9月-12
一村童図 年7月 ※Z 等級・
地番 ・
反別
改革E
絵図
地籍地図
縮尺
百姓総代
東西南北を丸で
囲み四方に配す
戸長 ・
副戸長
百姓総代
方位紬のみ
戸長 . i~ i":!l .
地券絵図
方位
戸長・副戸長・ 東西南北を丸で
囲み四方に配す 1/600
百姓総代
一村全国
1
7年1月18
、字名
-22年4月 字番・ 1
字隈図
1
7
年1月1日
-22年5月 地番
凡例
5.
荒地 ・
山・湧水出荒・門樋・
寛(
掛
回・畑水・屋敷 .
樋)・
埋樋(底樋)・木荒・草荒・田畑方今荒地
宅地・道・溝渠・泥繍場・ I
1塘 ・官地
戸長 ・
副戸:!l.
地主総代
方位"が多い
1
/15001
12400 道
・1
ト困・畑・宅地・薮地・
草生地
i":!l・副戸畳 ・
地主総代※3 方位翰のみ
1
/15001
/2800 図2参照
なし
方位輸のみ
1
1
600
図2多照
1
8年1
1月
2
2年6月
更正地図
ー筆園
地番
土地所有者
方位軸のみ
種頚がある
※ 1 区吾扇面正子亙函正面調吾範囲とする国の 2
※2 9
年5月l
こ3∞ヶ村で再提出が命じられた.これ以降の作成年月を持つ図の多くは、再提出に伴う図と撞1
則される
※3 村墳の確認のために、隣接村の戸長と地主総代の署名と押印もされる
一十分な検討ができなかった.
なし
表 1 各種絵図の特長
1
5)簿冊香号:明い 1
4
4、文書番号:明 62 地籍編
注
1
1)佐藤甚次郎 『明治期作成の地籍図 J古今書院
1
98
6
2)野洲町 『
野洲町史資料集第 1冊
明治の村絵図』
1
9
86、新旭町 『明治の村絵図新旭町.1 1
9
8
8、五
2
)
地名と景観J
1
9
9
3、
個荘町 『
五個荘町史第四巻 (
9
9
4、米原町
草津市『古地図に描かれた草津 J1
9
9
6、
『
米原町史資料集第 l冊 明治の村絵図 J1
彦根市 『彦根明治の古地図 一~ 三 .I 2000 ~2003 、
愛東町 『
明治の古地図
愛東
j2
0
03、守山市
『
守 山 市 誌 地 理 編 資 料 古 絵 図 J2
0
03
3)小林健太郎「明治前期滋賀県下の地籍図類j小
r
林健太郎(代表) 科学研究費報告書
近畿 ・
製土地調査手続更定」
1
6)簿冊番号:明い 1
1
4、文書番号:乙 1
3r
改組以
後地目変換届洩ナキ様取調方J
r
r
1
7)前掲 2) 明治の村絵図(野洲町)Jp5
9 明治
十七年行畑村絵図j
1
8
)研究例は多いが特に、奥田春樹 『日本の近代的
0
03P127 ~ 1
3
4を参照した 。
土地所有』弘文堂 2
1
9)簿冊番号:明い 1
58、文書番号 :乙7
4r
土地台
帳編製方ニ付実地取調順序ニヨリ報告方」
2
0)簿冊番号:明い 1
6
7、文書番号 :言
1
1
1令 2
9r
土地
台帳編製取扱方1
21
)前掲 4。
) これは絵図の裏書に記すように指示
中国地方における地籍図類の歴史地理学的活用
され、 『
五個荘町史第四巻 (
2)
1
. p1
0
5にはその
に関する総合的研究 J1
9
9
7、
実例が報告されている 。
岩間一水「滋賀県下における明治期作製の地籍
22)前掲 3)岩間
図
2
3)岩間 一水「彦根県下における 明治四年作製絵図
例教大学大学院研究紀要第 2
3
の基礎的研究 Jr
号
.
11
9
9
5
2
4)明治 5年 10月の布達 3
4
4
号(文書番号 :明い 3
2、
4
4)では、 申告高と過去の検地帳
文書番号:3
現草津市域の事例を中心に
教授古稀記念論文集
Jr
桑原公徳
歴史地理学と地籍図jナ
9
9
7
カニシヤ出版 1
4)簿冊番号 :明い 31
、文書番号:3
6r
地券取調掛
心得ノ件 J(滋賀県庁県民情報室蔵/以下省略)
5) 簿冊番号 :明い 3
2、文書番号 :3
2
4r
地所取調
入れを行わないと指示し 、境界が不明な場合や
凡例書中野帳雛形ニ地価書キ」
r
6) 明治初年地租改正基礎資料
上巻』有斐閣
r
-J p10
8)簿冊番号 :明い 43、文書番号:8
9
8
0、文書番号 :乙7
8r
地租改正
9)簿冊番号 :明い 7
ニ付官員派出実地検査」
r
1
0)前掲 2) 彦根明治の古地図
三
.
1 p1
9
0
1
1)簿冊番号:明う 7
8、文書番号 :庶甲 1
7
816
1
2) 明治初年地租改正基礎資料 中巻』有斐閣
1
9
5
6P2
08
1
3)有元正雄 『
地租改正と農民闘争 』新生社 1
9
6
8
p2
1
8
1
4)簿冊番号:明こ 6
1、文書番号 .丙 3
5 地籍編成
r
r
地方官心得達ノ件」
26 ・人間文化
減少する場合は竿入れを行うと、部分的な実測
を指示している 。
1
9
5
3P4
18
7)前掲 2) 彦根明治の古地図
と比較して違いが無い場合や増加する場合は竿
2
5)例えば、 『五個荘町史第四巻 (
2
)
J p5
3に所収さ
れる葉、瀬村の絵図には、「全図鯨尺分間ヲ以記
載仕候」と端書がある 。
2
6)簿冊番号:明い 48、文書番号 6
7
8r
地券御発行
ニ付地所取扱方ノ儀差当 リ現地取調之方法」
r
27)前掲 2) 彦根明治の古地図
三』
2
8)簿冊番号:明い 6
3、文書番号:29
9r
地券取調
ニ付地番号ノ付ケ方改正j
2
9)前掲 4)岩間
3
0)前掲 1
5)
r
31)前掲 2) 彦根明治の古地図
r
二j P77 犬上
郡三津屋村地引 絵図」、『守 山市誌古絵図.1 p
滋賀県下における明治前期作成の地籍図の再検討
21
4I
野洲郡中村土地等級図」、 『
古地図に描かれ
九年針江村地引全縮図」
た草津 Jp20 I
馬場村地籍図 j、『明治の古地図
34)前掲 2) 彦根明治の古地図
愛東
JP94 I
滋賀県下近江国愛知郡第二 区
梅林村 j
32)高月町尾山区蔵
r
r
二 Jp1
7I
近江国
犬上郡野口村地券取調総絵図 J
35)両町とも町役場の税務課で所蔵する
36)前掲1)
3
3)前掲 2) 明治の村絵図(新旭町 )Jp69 I
明治
Comment
高橋美久二
人間文化教授
滋賀県下には、明治時代に作成された地籍図がよ
種の報告書などには、使用した地籍図の種類や年代
く保存されている 。 しかも、それが現役で活きてい
を必ずしも明らかにしないままに、混同して利用し
て、役場や各旧村守 (
各大字)で使用されている 。そ
解説されている例が見られる。
の地籍図には、詳細な土地の情報が書き込まれてい
古関氏の本論文の研究成果は、佐藤氏や岩間氏の
て、現役の土地や水利などの権利関係の証拠に現在
先行の研究成果をもとに、滋賀県内の関覧可能にな
も使われるだけでなく 、過去の景観を復原する際の
った多くの地籍図を実見し 、 さらに関係する県庁文
基本的な資料となる 。かつては、地籍図の利用とい
書を検索して検討した 。その結果、各地籍図の滋賀
えば、歴史地理学などで利用されるだけであったが、
県内での具体的な作成時期を特定するとともに、各
近年では地域史、都市史、環境史、考古学など広い
地籍図の基本的特徴を明らかにした。各地籍図の作
分野で使用されるようになってきた 。 これらの地籍
成年代については、各地籍図が同時進行で作成され
図は、多くが巨大な地図で取扱が難しいことや、そ
たのではな く、各地籍図作成事業が継起的に作成さ
れぞれが分散保存されているために、広域にわた っ
れていったもので、中には前の事業で作成されたも
て一括して閲覧することが難しいという条件にあ っ
のを再利用して作成したもののあることを具体的に
た。近年は市町村史の資料編で「地図編 j が刊行さ
明らかにした 。 また、各地籍図の、図の形式、 一筆
れることが多くなってきたことや、滋賀県立図書館
ごとの記載内容、凡例の項目 、絵図作成の責任者名、
などでは大判の写真に焼きつけてあって、比較的簡
方位、縮尺、実測方法など、それぞれの具体的な特
便に閲覧ができるようになってきた 。
徴を明らかにした。 これによって、各地籍図に年代
これらの地籍図は、壬申地券地引絵図、地租改正
や内題がかかれていない場合でも、その地籍図の種
地引絵図、地籍編成地籍地図、地押調査更正地図と
類や年代を明らかにすることができるとともに、各
いう 4種類の地籍図が、作成の年代や目的、事情、
地籍図の転用関係が明らかになるとした 。
方法などの作成背景を異にして作られた。 これらを
このように、本論は今後の滋賀県下の明治期の地
全国的に整理分析した佐藤甚次郎氏、滋賀県内で具
籍図利用の際の指針ともなるべき研究成果となって
いる 。ただし、各地籍図の厳密な作成開始終了の年
体的に検討した岩間 一水氏などの研究成果によ っ
て
、 4種類の各地籍図の作成の年代や性格が明らか
月が明らかでないもの、地押調査更正地固など実見
にされた。これらの明治前期作成の地籍図に加えて、
例の少ない地籍図の性格について明らかでないも
旧村単位に明治4年に 旧彦 根 県 (旧彦根藩)でつく
の、実見した地籍図に地域的な偏りがあるなどによ
られた耕地絵図、幕藩時代の村絵固など村の耕地一
ってこの研究成果を滋賀県下すべてに及ぼせるもの
筆ずつの情報を書き込んだ絵図もある 。 ところが、
かなど今後の検討課題も多い。氏の今後の研績を期
近年刊行された市町村史の資料編の「地図編」や各
待したい。
人間文化・
2
7
論文
国際比較調査研究の体験ノート (
4)
大橋松行
人間文化学部生活文化学科人間関係専攻
5
. ステージ 3:調査の計画と準備
12) 社会測定と尺度
(l)調査票づくりの基本姿勢
(
2) 社会測定と尺度
社会調査の場合には 、意見や態度を数量化するた
measur
e
ment)ということが問題に
めに、測定 (
なる 。一般的にいうと、測定とは、「対象がもっ属
ければならない大きな視点を 3つ指摘している 。第
性に対して、ある決められた規則に従って数値(測
定値)を与えること」と定義する ことができる 169)。
1は、調査票は、調査の「目的 j に合致するように
この場合、対象は人間その他の動物、物体、現象な
直井道子は、調査票を作成する場合に、考慮しな
作成しなければならないということである。この場
どであり、属性とはその対象がもっ特性の一つ一つ
合、独立変数(説明変数)、従属変数(被説明変数)
をさす。つまり、測定の対象となるのは、その対象
および統制変数が必要になるし、 i
P.1J定法も問題にな
のもつ属性であって、対象そのものではないし、ま
るという 。第 2は、調査票は「実査Jに適したよう
に作成しなければならないということである 。予算
た、数値を 与える規則は一つだけではないというこ
とである 170)。
や人手や現実的制約などを考慮に入れながら、実査
福武は、「測定とは、たとえば身長とか温度とか
の対象や調査方法を決めるということである 。そし
のような量的特性に対して、ある尺度 によって数値
て第 3は、調査察は「分析」に適しているように作
成しなければならないということである l刷。
義し、「測定は 、量的測定に関して、第 lには、そ
私たちの共同研究では、基本的にコンピュータを
の把握を精密にし 、第 2には 、客観的にし、第 3に
(
me
a
s
u
r
e
) を客観的にあたえることである」と定
用いて量的な分析を行うことを主眼としていたの
は、演算を可能にして高次の理論の樹立へと導くの
で、それに適した調査項目を確定し、質問項目を設
である」と、その意義を 指摘している 。 しかし、社
定し、それらを文章化して、質問文と回答文の形に
会現象における測定が、物理的世界のそれと異なる
しなければならなかった。その際、特に直井のいう
重要な点は、間接的に社会測定をすることができる
第 3の視点、とりわけ「調査項目聞の関連を分析す
にすぎないとも述べて、その限界を 指摘しでもいる
るJ(2変数聞の関連の分析、多変数間の関連の分
1
7
1)
析)という視点が重要になる。私たちが分析に使用
。
さて、実際に質問項目を設定する場合、質問項目
することを考えていたデータは、主にカテゴリー-
が測定したいと思っている 測定内容や定義と合致し
データである 。 カテゴリー・データとは、選択肢形
ていることが必要であるし、測定水準(尺度の水準)
式の質問によって得られるデータで、「質的データ j
をどこに設定するかということも検討しておかなけ
あるいは「定性的データ」ともいい、「名 義尺度」
「順序尺度 Jのデータがこれに該 当する 167)。私たち
ればならない。それは、通常、得られる(=ある尺
度によって付与された数値)の意味と 、それに可能
は、質問項目の大半を、このカテゴリーデータが
な統計的処理を考慮して設定される 。
得られるものに設定することにした。 しかし、デー
一般に、尺度とは、「測定用具そのもの 、すなわ
ち『対象の特性に数値を対応させる規準、つまり目
タが数値として得られる数値データ (
f
量的データ」
あるいは「定量的データ Jともいい、「間隔尺度」
や「比例尺度」がこれに該当する 168))も必要で、
盛(規則)を含んだ物差し J
J を意味する 17九 中 道
私たちは、被調査者および被調査者の父母の年月日、
は、「この意味での 『
尺度 j は、測定対象である概
念の存在度の査定を客観的に遂行し 、その適切さに
満年齢、被調査者の兄弟姉妹の数とその中での被調
ついての、社会科学者間の合意の基盤を与える標準
査者の順序をたずねる質問項目を、このデータを得
的な測定手続きとして性格づけることができる Jと
るためのものとして設定することにした 。その他に、
指摘するとともに、「しかし 、社会測定では、社
会 ・文化 を問わずまた通時的に妥当性をもつような
言語データ (=回答者が自由に記入した文章などの
データ ) を得るための欄も設定することにした。 こ
れは主にこの調査に対する意見・感想、をたずねるこ
とを目的とするもので、調査票の最後に設けること
にした。
28 ・人 間 文 化
尺度は、基本的には考えられない。調査者はそのと
きに応じて自ら尺度をつくらなければならない j と
。
も述べている 1叫
そこで私たちの場合は、各自が設定した仮説を検
国際比較調査研究の体験ノー ト(
4)
証する際に、どの水準の尺度を用いるかということ
「水準 j が高いということができるが、尺度として
については、メンバ一個々人に委ねることにした 。
の水準が「低い」からといって 、それが劣っている
「肝心なのは、いかなる目的で、どのような性質の
という意味では決してない。要は、尺度構成の基本
尺度を用い、どんな分析を行なうかを、研究者自身が
しっかりと把握していることなのである jからだ 175)。
概念である信頼性 (
r
e
l
i
a
b
i
l
i
t
y)と妥当性 (
v
al
i
d
i
t
y)
その際留意すべき点は、第 1に、「より高い水準に
その物差しを用いて同じ対象について測定を繰り返
ある尺度で得られたデータは、いつでも低い水準へ
落とすことができるが、その逆は不可能で ある J176)
=観察の
が得られる程度のことである o 偶然誤差 (
L
が高いことが肝要なのである。尺度の信頼性とは、
したとき、何回調J
Iっても、誰が測っても同じ観察値
ということである 。つまり、 一般に、より高い水準
時どきによって変化する、法則性のないバラツキ )
の測定値はより低い測定値のもつ性質をすべて備
が小さくなるよう設計された尺度ほど、信頼性が高
え、情報量が大きいために、より高い水準の測定値
い。他方、妥当性とは、その尺度が本来測っている
からより低い水準の測定値 を作り出すことが可能で
はずの概念を、確かに測っているといえる程度のこ
あることを意味する 。それゆえ、できるだけ高い水
とである 。系統的誤差 (
=本来測っているつもりの
準の測定値が得られる尺度を用いることが望ましい
もの以外の概念まで含めて測っている可能性がある
ということになる 177)。しかし、第 2に、原純輔が
とき、その余分な分)が小さく抑えられているほど
妥当性が高い 180)。
指摘しているように、「自然現象に関しては、高水
準の確立された尺度の存在していることが多いけれ
両者の関係について、中道は次のように述べてい
ども…、社会現象に関しては、そのような尺度は少
る。 「妥当性は調査者が測定していると思っている
なく、測定の水準も、通常は、せいぜい }
I
夏位尺度ぐ
らいである J
1
78) ということになる。
に対して、信頼性は測定を反復しでもその結果に安
ものを真に測定しているか否かに関心をもっ。 これ
s
.s
. スティーブンスの分類
定性があるか否かに関心をもっ。もし測定値が真の
が有名であるが、彼は測定値を導く尺度を名義尺度
値に 一致していれば妥当性は達成されたとみなさ
(nomi
n
a
ls
c
al
e, 水 準 1)、順位 (序 ) 尺 度
(
o
r
di
n
a
ls
c
a
l
e,水準 2)、間隔尺度Cin
t
e
r
v
a
ls
c
al
e,
水準 3)、比例(率)尺度 (
r
a
t
ios
c
al
e,水準 4)
れ、測定問で一貫していれば信頼性は達成されたこ
に区分している 。 ここで各尺度について簡単に説明
が真の値を十分表わしている)ならば、その測定を
尺度に関しては、
とになる 。(中略)
。 妥当性と信頼性とは、非対称的
な関係にある 。 もしある測定が妥当である(測定値
しておこう 。名義尺度とは、一般に、異なる対象を
反復しても安定した結果が得られるだろう 。しかし、
互いに区別するために用いられる尺度で、この場合、
信頼性のある測定が妥当性もあるとは限らない」 。
数字には符号としての意味しかなく、同じ数字の現
そして、続けて、調査者にとっては、信頼性よりも
実は同じカテゴリーであり、違う数字の現実は違う
カテゴリ ーであることを示しているだけである (
例
むしろ妥当性の方が重要な問題であり、それ故、調
えば、背番号、電話番号、性別など)0 }!I買序尺度と
査者は、自らの測定の妥当性の考慮により大なるエ
ネルギーを費やす必要があると十旨摘している 181)。
は、対象のもつある属性に関して順序づけが行われ
私たちの共同研究も、測定の妥当性により重点を
る場合に用いられる尺度で、この場合に問題となる
のは、大小や高低といった 測定値のl
)
l
t
f
序であり、そ
置いて、特に l年目に先行研究の検討を繰り返し行
ったり、また、韓国や中国や 日本でシンポジウム、
の間隔には何の意味も含まれていない (
例えば、競
研究発表会、あるいは学会での共同発表を積極的に
技会の順位など)
。 間隔尺度は、測定値間の )
1買序だ
行 って専門家の教示を得て、内容的妥当性を高める
けでなく、その差の大きさ(間隔)にも意味がある
努力をしてきた 。そのことについては、既に述べて
尺度である 。ただし、原点 (0)には本質的な意味
はない。 この間隔尺度の場合には「単位 j が存在す
いる 。
る (
例えば、気温、体温など)。比例尺度には絶対
13) 国際比較調査における質問文の構成と翻訳の
原点が存在し、ゼロにも意味がある 。 したが って
、
プラスとマイナスではその意味が異なる (
例えば、
身長、体重、金額など)179)。
これら 4種類の尺度のうち、後に挙げたものほど
問題
(
1
) 質問文の構成の問題
統計的な社会調査を利用する国際比較調査では、
母集団の定義、調査対象の選定(サンプリング)、
人間文化・
2
9
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)
調査方法、調査票の構成、質問項目の選定、質問文
という質問文と、「規則をまげてまで、無理な仕事
の翻訳等、調査の各段階における標準化、比較可能
性の確保の諸問題に直面することになる 182)。私た
倒をみないタイプJI
時には規則をまげて、無理な
をさせることはないが、仕事以外のことでは人の面
ちの共同研究においても、これ らの問題については、
仕事 をさせることもあるが、仕事以外のことでも人
それぞれ時間をかけて議論を重ね、 一定の結論を出
の面倒をよくみるタイプ」という回答選択肢がそれ
してきたことについては既に述べた 。 ここでは、主
に該当する 。ただ、この場合、次のような 問題が存
として比較可能性の確保の問題について、特にその
在することは否定できない。すなわち、回答選択肢
中心に位置する質問文の構成と観訳の問題につ いて
が
、 一方が伝統的と考えられるもの、他方がそうで
ないものというように、対立したカテゴリーで作成
見ておくことにしたい。
林知己夫は、「比較Jについて次のような見解を
されている場合、これをそのまま他の社会において
示している 。「
一見違うが似たところがあるかもし
適用しでも、非伝統的な考え方のカテゴリーが、そ
れない、 一見同じだが違っところがあるのではない
のままその社会の考え方に合致するということは恐
か、というところが比較の根本である 。似た ところ、
らく、ほと ん ど考えられないことである 。つまり、
違うところを仕分けすると共に、似ているようで異
非伝統的な回答カテゴリーの方は、その社会におい
なり、異な っているようで似ているというあや模様
を科学的に描き出すというのがこつである J
1
8
九 既
ては、多少とも的外れの選択肢になったり、幅広い
解釈が可能にな ったりするということである 18510
に述べたことではあるが、私たちもこのような認識
に基づいて、いわゆる「儒教文化圏 Jの構成メンバ
れない問題である 。例え儒教文化圏の構成メンバ一
ーであり、かつ、アメリカナイゼーションとしての
間であっても、そのことは該当するであろう 。
このようなことは、比較研究を行う場合、避けて通
近代化を受容・摂取している日本 ・韓国・中国の三
カ国の青年、とりわけ大学生の意識構造の類似性と
(
2) 質問文の翻訳の問題
相互の独自性を明らかにすることを意図した比較研
国際比較調査では、異なる 言語を用いて、同 一質
究を試みたのである 。 また、これも既に述べたこと
問と想定される質問文や回答選択肢を表現し 、それ
ではあるが、その際、私たちは比較するための基本
ぞれの言語で回答を得るという形をとる 。 この言語
軌を「伝統近代」あるいは「伝統脱伝統」にお
いたのであるが、ここでいう「伝統Jとは儒教的な
の相違は、特に意識の国際比較の場合、単に言語上
の差異だけでなく、文化 ・社会システムの相違等を
あるいは儒的なものの見方・考え方のことであり、
含め、そもそも異なる言語で異なる文化地域の社会
「近代 j とは西洋的な、主としてアメリカ的なもの
調査によって、意味のある比較が可能なのかという
ことが問題になる 186)。 国際比較調査をする場合、
の見方 ・考え方のことであるとの理解に 立っ てお
り、「伝統J=非合理的、遅れている、正しくない、
「近代 J=合理的、進んでいる、正しい、とい った
価値判断は排除している山)
。
質問および回答についての「比較可能性」が問題に
なるのであるから、比較可能性を考えて同等な測定
手段をとる際、質問文や回答選択肢の翻訳は大きな
さて、私たちは、日・韓 ・中の比較意識調査 にお
問題となる 。本来ならば、質問文や回答選択肢を 一
いては、「伝統 一近代 Jあるいは「伝統一脱伝統」
の尺度は、まだ有効性をも っているとの理解のもと
つの言語から他の言語へ翻訳して、それが両方の言
に質問項目や回答選択肢を設定した 。特に、 二者択
ーの形式で選択させる場合には、 一方の選択肢には
語で、調査上「同等な」測定手法となることが望ま
しいのであるが、翻訳とは、「違うことばによ って
、
近似的に意味を伝えること J187) であるとすれば、
「伝統的 (
=儒教的あるいは儒的)な日本人のもの
の考え方」と見られるものを取り入れ、他方には、
完全な「同等性」を期待することは不可能で、ある 。
これに対応する「近代的 (=西洋的、主としてアメ
必ずずれがある、ということでもある Jからだ 。
リカ的) なものの考え方 J(
ある項目では「脱伝統
的 (
=儒教的でない、あるいは儒的でない)なもの
「
翻訳上使用される相互に対応することばの意味の
聞には、必ずずれがある」のである 188)。柳父章に
の考え方 J
)を取り入れている 。例えば、「あなたが
よれば、共通普遍の意味というものが初めにあって、
就職したとき、上司としては次のどちらのタイプが
望ましいと思いますか。一 つだけ選んで、ください J
意味があるのであるから、言葉が違えば、その意味
30 ・人間文化
というのは、「近似的である、ということは、他面、
それに言葉が与えられるのではなく、言葉があって
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)
が違うのは当然であるということになる 。特に、観
いる 。従 って、字面が同じでも、同じことをきいて
念的な意味の翻訳語では、翻訳語と原語との閑で、
いるかどうかわからない (
質問文や回答選択肢は、
一般に意味のずれが大きく、しかも無視されている、
それぞれの国や社会固有の考え方に基づいているも
と柳父は指摘している 。
のであるから、そのまま 言葉を移し替えれば翻訳で
翻訳の問題性が、以上に述べたような点にあると
きるというものではない 。
) 林の指摘にもあるが、
して、では手続上はあくまでも「同ーの意味を表わ
特に簡単な質問を翻訳したような場合、その意味を
す」質問文や回答選択肢の翻訳を目指す方法として
汲み取れるものかとなると問題が多い。言外の多く
何があるのだろうか。吉野諒三は、「同じ質問 j の
のもの、その言葉によ って包まれる範囲の方面が、
作成を目指す具体的方法の一つが、パック・トラン
日本語のニュアンスと比較対象国の言語のニュアン
スと同じものか、あるいは、それぞれの国のイメー
スレーション (
BT、再翻訳) であるという 。パッ
ク ・トランスレーションとは、次のようなものであ
る。例えば、本来は日本語である質問文の場合は、
ジとして、同じものを意味しているか明確で、はない
のである 19310
それをある翻訳者に英訳(私たちの場合はハングル
このことに関わ って、実際に、質問文および回答
および中国語に翻訳) させたものを、別の翻訳者に
選択肢を作成するに当た って、相互理解のために検
日本語に再翻訳させ 、それをわれわれ研究者がもと
討を要した具体的な事例をいくつかあげておこう 。
の日本語質問文と比較し、些末な点は除いて、同じ
lつ日は、「祖先」という 言葉である 。 日本人が一
意味の表現となっているかを検討する 。必要であれ
般的に観念する祖先とは、個性のある固有名詞をも
ば適切な修正を施し、最終確認ができるまで、この
った祖先 (
祖父母までの近祖)と個性を消して 一つ
プロセスを繰り返すのである 。 しかし、これにも次
に融合した祖先 (
曽祖父母以前の遠祖) という区別
のような問題点がある 。①具体的な手続はかなり煩
はあっても、家の祖先という観念を基礎としている 。
雑であり、時間と労力を必要とすること 。② 「同じ
つまり、家を単位として、代々の主人夫婦が祖先と
質問 Jが構成されたという確実な最終判断ができる
という保証があるわけではないこと 1則
。
して認識され、それ以外の者は祖先カか当ら排除されて
いる 19ヘ
4
韓国では、始祖もしくは派祖を同じくす
では、私たちの共同研究の場合はどうであ ったの
る系譜に属する父系祖先 (
従って、通常 30
世代かそ
れ以上の過去にさかのぼる祖先を共有する 195))の
か。私たちの場合は、主として日本側で作成した質
問文および回答選択肢(これは、韓国および中国の
ことであ り、また、中国では祖先とは 、各々の家の
共同研究者との問で検討を重ねた上で合意したもの
中で「祖先崇拝 j の対象になる近い祖先と、リネー
を、日本側研究者が質問文および回答選択肢という
ジ(Ji
neage) がもっ洞堂に名前が移される遠い祖
先のことである 196)。 このように、「祖先」とい って
形でまとめたもの) と「同じ質問文および回答選択
肢」の作成を、韓国調査においては韓国側共同研究
者に、中国調査においては中国側共同研究者に翻訳
も、そのもつ意味内容は国ごとで異なっている 。
も含めて依頼した。その際、 言葉の概念を共通理解
一般に盆-彼岸・正月に家族や近い親族が墓参す
するために、より正確に言えば、内容理解を共有す
る。他方、韓国では祭杷は家祭と墓祭に大別される 。
前者は高祖父 (4代前の父系祖先)の子孫たちが集
るために日韓および日中の共同研究者間で何度か検
討会をもった 。翻訳作業では 言葉の移し替え (
字面
2つ目は、「墓参」という言葉である 。 日本では、
まって祭杷を行うというものであり 、後者は 5世代
の翻訳の一致)、すなわち、いかに正確に翻訳する
以上前の祖先たちに対して、毎年一定の日 (
陰暦 10
かということが重要だが、質問文や回答選択肢の糊
月または 3月) に墓地(山所)で行われるものであ
る。 この儀礼に参加が許されるのは男性のみで、女
性は直接的な参加は許されない 197)。 中国では、全
訳は実に難しい 。林が指摘しているように、「いき
なり短い文章が示され、これを訳すからで、文脈の
なかでの翻訳ではないからである J
1
9
1)
。
それと同時に 、
私たちにとって重要で、あ ったのは、
言葉の相 E理解 192) であった 。言葉は文化の反映で
あるとの理解に立てば、文化が違えば言葉のもつ意
土で共通するのは、清明節(冬至から 106日日 )の
墓参で、一般に北部では墓地の盛り土を家族ごとで
行うが、南部では馬蹄型をした石造りの墓の前で一
族が供物をともに食べる 198)、というものである 。
味内容も異なる 。例え、字面が同ーの言葉であって
また、中国では墓参は習俗あるいは慣行であって、
も、その言葉のもつ意味内容はそれぞれに異なって
宗教にも信仰にも入らない。 このように墓参に関し
人間文化・ 31
国際比較調査研究の体験ノート (
4)
ても各国各様で、特に韓国の場合、女性に墓参の機
また、信仰は宗教的な意味と政治的な意味とをもっ
会が与えられていない点が他と異な っている 。
ていて、後者の対象はマルクス主義である 。②中国
3つ目は、「家族j や「親族J(
あるいは「親類J
)
という言葉である 。 このことに関して韓国の共同研
には「尊厳死 j や「安楽死」といった言葉はない 。
③ 日本では「跡継ぎ」は基本的に「家 j を継ぐこと
究者との検討会 (
於・韓国の嶺南大学校、 1
9
9
8年 8
を意味するが、韓国では「代」を継ぐことであって、
月20日)において、韓国側研究者か ら次のような問
「
家 Jを継ぐという観念はない。④ 日本では「伝統
題提起がなされた 。「家族および親類に関する質問
文化 j とは、「自国に固有の文化」のことを意味す
では、どのような範聞の人を家族あるいは親類と考
るが、中国ではそれは「西洋文化」の対概念として
えるかについて、三国で違いがあるので注意が必要
位置づけ られている 。 @また、ジェンダーの質問項
である 。 この点に関する質問項目を設定するか、あ
目として、原案では、「学級委員長は男性に向いて
るいは事前調査によって、その点を把握すべきであ
るJ199)。一般に、家族とは夫婦 ・親子・きょうだ
いる Jという文章を入れておいたが、韓国の教育制
度では小・中学校は男女共学、高校は男女別となっ
いなど少数の近親者を主要な成員とする集団のこと
ており、しかも全員が学級委員長(級長)になるの
であって、この点においては、三国間で大きな意味
で、最終的には質問文から削除した。いずれにして
上の相違はないであろう 。家族構成に着目すると夫
も、質問文や回答選択肢を日本語からハングルおよ
婦家族が主体なのか、それとも直系家族ある いは複
び中国語に翻訳する際、内容理解を共有するために
合家族が主体なのかという点での相違はあると考え
多大の時間と労力を費やしたのである 。
られる 。ただ、中国語の「家」は、家族を意味する
場合もあれば、同族を意味する場合もあって、中国
家族の実態は誤解を生みやすい 200)。参考までに中
14) ブリテスト
調査票の原案ができあがったら、本調査を行う前
国調査票では、日本語の「家族j も「家庭Jもとも
にプリテストを行う 。 プリテストとは、本調査に先
に「家庭」と翻訳されている 。
立 って、作成した調査察の出来具合をチェックする
しかし、「親族」の場合は、 三国聞の相違がより
ために行う小規模な事前テストのことである 。 この
大きい。 日本では、血縁と姻縁のいずれかによ って
プリテストの対象者は、本調査の対象と性質を同じ
結ぼれていると、認知しあ っている人びとのことを
親族という 201)。民法では、親族の範囲を 6親等内の
為抽出した人びとがベストであるが、実際は、調査
くする人びと、すなわち、本調査の母集団から無作
血族、配偶者、 3親等内の姻族としている (
第725
対象者の属性(性別、年齢等)に近く、積極的に意
条)
。 これに対して中国では、親族とは直系血族お
よび三代 (4親等)以内の傍系血族のことであり 202)、
見や感想を述べてくれるような人を対象として行う
ことが多い加)
。私たちの場合は、日本調査につい
また、韓国では、父系血縁の原理に基づく父系親族
(8親等)が最も基本的なものであ って、こ の父系
ては日本国籍をもっ社会学専攻の大学院生(修士課
程、博士課程)、韓国調査および中国調査について
血縁による親族集団は、 一般に門中または宗中と呼
は、日本の大学に留学している社会学専攻の大学院
ばれており、その最大範囲が同姓岡本(同姓で本貫
も同じ )の氏族となる 203)。 このように「親族Jに
生を対象として、熟練した調査員によ ってプリテス
関しては、 三国で意味内容も範囲も大きく異な って
調査の調査員として協力してもらった。
いる 。従って、韓国の共同研究者がその範闘をどう
するかということについての理解を共有するための
問題提起をしたことには、重要な意味があったので
ある 。
他にも、いくつかの概念 (
言葉)等 の差異につい
て共同研究者間で検討して知識を共有した。そのこ
とについてもいくつか具体的な例をあげておこう 。
①「宗教」という概念については、日本では、宗教
とは神や仏など神聖なものに関する信仰のことを意
味するが、中国では宗教は哲学体系のことであり、
3
2 ・人間文化
トを実施した。そのうちの一部の院生には、後に本
プリテストの主な目的は、本調査で実際に使用す
る調査票 (
質問文、回答選択肢)の問題点を最終点
検し、検討することである 205)。私たちの場合は、
具体的には次のようなことをチェックした。①質問
文に不備な点はないか…質問文がわかりやすい表現
になっているか、すなわち、回答はしやすいか、と
いうことである 。「わからない」という回答や無回
答が多い場合には、それらの質問がなぜ有用な回答
をもたらさなかったのかを検討する 206)。②回答選
択肢に不備な点はないか… 「その他j という回答が
国際比較調査研究の体験ノート (
4)
多い場合には、選択肢 リスト が可能な回答内容のす
私たちの共同研究も 、上記に述べたようなポイン
べてを網羅していないと考えられるので、「その他」
トに十分注意 を払いながら 、調査日程の計画を作成
の具体的記入欄に付記された回答内容を分析して、
していった 。①調査 (
予備、補足)およびヒヤリン
選択肢の追加を検討する。 ③質問数や質問形式が妥
グの時期は、例教大学の学事スケジュールと相手国
当か…回答に時間がかかりすぎれば質問数を削減す
の学期などを考慮し、韓国、中国とも毎年 7月25日
る。④質問の順番-配列は適切に行われているか。
~ 9 月 15 日、 12 月 2 1 日 ~ l 月 5 日 、 2 月 10 日 ~ 20 日、
また、次のことも重要である 。「プリテストの段
階で、調査票のチ ェ ックとともに重要なのは、仮説
3 月 1 6 日 ~ 24 日の問で 15 日間 ( 年間 )
を予定した 。
実際には、予備調査は 1
998年 8月 (
韓国大郎 )、
の再検討という点である Jという大谷の指摘にもあ
1
9
98年 9月 (
中国北京)、 1998年 1
2月 (
中国上海)、
るように、「仮説が外れた場合の原因や要因を可能
中国河南省)、 1
999年 1
0月
補足調査は 1999年 8月 (
な限り考えておく」ということも極めて重要なこと
である 20九 私たちの場合も、その点の配慮は十分
~ II 月
に行 った。
15) 調査日程・調査費
(
1
) 調査日程
( 韓国 全 州 ) 、 2000年 8 月
( 中国山東省 )
に
日程として組み込まれて実施された 。本調査の実施
時期については、三国で大きなズレが生じないよう
に配慮するとともに、各国の学事スケジュールを勘
案して、日本および中国では 4月から 6月にかけて、
韓国では 5月に設定し、実施した 。②スケジ‘ユール
「調査の企画」では、調査の内容や実施方法とい
については、できる限り時 間的余裕をもたせるため
った細目を決定するだけでなく 、調査日程と調査費
に、私たちは総合研究所の共同研究として正式にス
用を決定しておかなければならない。つまり、限 ら
タート (
1
9
9
8年 4月)する前に、実質的に共同研究
れた予算 と時間の制約の範囲内で調査を完了するこ
を立ち上げた (
1
997年 8月。総合研究所の共同研究
とができるように、調査の日程と予算の配分を計画
しておくことも必要になるのである澗)
。
とではあるが、正式にスタートするまでに、
一般に、調査日程の計画を作成す る場合のポイン
トとして 、次のようなものがあげられるであろう 。
①調査対象者の生活やスケジ、ユールを検討して、回
として承認されたのは 1
997年 1
2月)
。 既に述べたこ
i)共
同研究者の選定 (日本、韓国、中国)、 i)組織と
しての役割分担の決定 (
研究班主任、会計、庶務)、
答者からの協力が得やすい時期を本調査の実施時期
i
i)定例研究会の開催曜日、回数の決定 (
原則月 2
回、第 2.4金曜日午後)、 i
v) 情報の収集活動と
とする 。調査者の方で時間的な解決ができても、調
整理等を行 った。 もっとも 、こ のように事前に共同
査対象者の時間が許さなければ調査は行えないか ら
研究のスタートがきれた背景には 、共同研究の申請
である 。②各作業には、時間的余裕をできる限 りも
を行えば、非常に高い確率で採用されることが予測
たせる 。スケジュールに無理があれば、かえって調
されたという事情があ ったのであるが。③申請の際
査を混乱させたり、正確さを失わせたりして、調査
に、概略的な計画を記した正式な企画書が研究班主
任か ら提示 されている 210) が、詳細な日程計画につ
結果の信頼性を損なうからである 。特に、調査 プロ
セスの前半の作業が遅れても差し支えないように、
いては、基本的には企画書のスケジ、ユールに沿いな
後半の作業に余裕をもたせておくことが望ましい 。
が ら、しかし、場合によ っては状況に応じて臨機応
①正式な企画書が必要な場合には、概略的な計画を
変に組み立てたり、変更したりした。そのため、正
立てておけばよく、詳細な計画 (
作業日程)は調査
報告書の提出期日から逆算して組んで、いけばよい 。
@ f
調査票の作成 j や「調査データの解析j とい っ
た主要な作業プロセスでは、調査者スタ ッフ間のコ
ミュニケーションをはかるとともに、意見をまとめ
ていくための中間検討会や最終検討会の開催を組み
込んでおくことが望ましい。⑤ 日程計画は絶対的な
ものではないので、計画に固執せず、場合によって
は計画を変更するといった柔軟な対応をする必要が
ある 2刷 。
式な計画書には提示されていない事項も日程に組み
込まれた りもした (
例えば、 日本社会学会での共同
発表… 1
998年 I
I月
、 2000年 1
1月、韓国・中国共同研
究者の日本での学会等参加のための来日にあわせて
の研究会の開催… 1
998年 7月
、 1
999年 1月、韓国で
の国際セミナーの開催… 1
999年 II月)。④調査票の
作成については、多くの日程を検討会に当てたとい
うことについては既に述べた。調査データの解析に
ついても、データ・クリーニング処理後、各自の分
析の中間報告という形での研究会の開催日程を相当
人間文化・ 33
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)
画を立てていくことが必要になる 212)。
期間にわたって設定した(約 1年 間 。 その問に、中
アンケート調査にかかる費用は、調査の実施場所
間的な成果報告として関連学会での共同報告も設定
(
囲 内 、 海 外)、 調 査 の 実 施 方 法 、 サ ン プ ル 数 、 調 査
された 。
)
地域の範囲などによって異なるが、私たちの場合は、
(
2
) 調査費
圏内と海外での調査なので多額の経費を必要とし
た。詳 細 に つ い て は 表 2-1、 2-2、 2-3に記載さ
調査費に関して、福武は次のように述べている 。
「調査事項が整然と定められ、立派な調査票がつく
れているので 、 そ れ に 依 拠 し な が ら 少 し 説 明 し て お
られでも、費用が調査の範囲と規模に合わないなら
040
くことにしたい 。 3年 間 の 研 究 経 費 の 総 額 は 2,
調査は必ず失敗する 。(中 略)
。 ……、 最 も 重 要 な 現
万円で、各年度の研究経費は 1
998年 度 (
平成 1
0年 度 )
実 的 条 件 は 調 査 費 だ と い っ て も 過言 ではない J211)。
651
.
5万円、 1999年 度 (
平成1
1年 度 ) 834.9万円、
確かに、社会調査の場合、 一般にそれに使うことの
2000年 度 (
平 成 12年 度 ) 553
.
6万 円 と な っ ている 。
できる費用が多ければ多いほど、より信頼性の 高 い
各年度の経費の合計額が異なるのは、主として、調
情報を得ることができるであろう 。 しかし、 一般 の
査の性質の違いによる 。 すなわち、 1998年 度 は 事 前
調査では、費用に制約があるため、「調査から引き
999年度は本調査、 2000年 度 は 補 足 調 査 と 位
調査、 1
出される情報には、どの程度の誤差が許されるのか」
置づけている 。 そ の た め 、 経 費 が 重 点 的 に 配 分 さ れ
という調査の精度と費用のバランスを考えて費用計
998年 度 は 事 前 調 査
る項 Eが年度によ って異なる 。 1
表 2・ 1
研究班主任
君塚大学
│所属・職階 │社会学 部 社会学 科 助 教 授
(
和文) 日 韓・中における社会意識の比較調査
一 一 一 一 一一一一一一一一一…一一
一
_
.
.
.
.
.
__.一一
一一一一一一一一一一一ー一一一 ・・-一一一一一
(
英文)Comparative Studies of Social Consciousness in Japan,
Korea,
Chin
研究課題
H
年
研
度
1
0
.
0万円
6
51
.5
万円
7
0
.
0万円
平成 I
I年度
834.
9万円
1
0
.
0万円
費
平成 1
2年度
5
5
3
.
6万円
計
2
0
4
0
.
0
万円
用
支払報酬
内
旅
H
訳
費
備品費
その他
81
.0
万円 4
4
7
.
9万円
3
2.2万円
1
0.
4万円
8.
0万円 2
71
.0
万円 447
.
9万円
2
5
.
0万円
7
3.
0
万円
5
.
0万円
7
.
0万円 31
2
3
.1
万円
0
.
0
万円 2
o
万円
8.
5万円
8
5.
0万円
2
5.
0万円 6
6
2
.
0万円 1
11
8
.
9万円
5
7.
2万円
91
.9万円
所属 ・職階
研究種別
役割分担
君塚大学
社会学部社会学科 助 教授
研究班主任
近藤敏夫
社会学部社会学科 講 師
嘱託研究員
ヒアリングの方法に関する専門知識の提供
山口
社会学部社会学科 講 師
嘱託研究員
調査・方法論に関する専門知識の提供
文学部中国文学科 助 教授
嘱託研究員
中国と中国語に関する専門知識の提供
大橋松行
滋賀県立大学
嘱託研究員
日韓の青年に関する専門知識の提供
F
長
愛知大学国際問題研究所研究員
嘱託研究員
日中比較の専門知識の提供と対外折衝
黄
織
消耗品賞
平成 1
0年度
氏名
組
吏
イ
図書費
士
*
又
総
究
研究経費
プ
i
;
q
高
万
H1
0
.1
.1
6
平成 1
0年度共同研究班研究計画書
洋
首時
洋
講
自
市
研究班の活動 ・運営に関する調整
星
明
社会学部社会学科 教 授
研究協力者
中国に関する専門知識の提供と対外折衝
金
哲秀
大u
[
¥発展研究院
責任研究員
研究協力者
韓国での先行研究の紹介と実査調整
宋
正基
全北大学
助教授
研究協力者
日韓比較に関する専門知識の提供
沈
貞宅
東亜大学
教授
研究協力者
韓国社会に関する専門知識の提供
羅
紅光
中国社会科学院
副研究員
研究協力者
日中比較の専門知識の提供と実査調整
沈
国明
上海社会科学院
副研究員
研究協力者
中国に関する専門知識の提供と実査調整
大東
貢生
仰教大学大学院
博士課程
研究協力者
日韓中比較研究に関する先行研究の整理
34 ・人間文化
国際比較調査研究の体 験ノート (
4
)
表 22
│
研究代表者
j
君塚大学
研究経費使用内訳明細
│研究課題
j日 ・韓
・消耗品費の明細
-図書費の明細
・文具類及び雑誌類
新聞、雑誌を除く図書
書
成
平
1
0
金 額
名
I
社会意識関連図書
500
千円
比較調査関連図書
200
度
年
小計
700
千円
1
0
0
千円
1
1
度
年
小計
1
0
0
千円
t
h
平
成
管
度
H三
50
小計
1
0
0千円
50千円
30
小計
80千円
50寸
'
"
20
小計
総計
70千円
250千円
線
文誌
具
F
度
年
ーパート交通費、研究目的の交通貨 、宿泊費等。
小計
50千円
総計
8
50千円
.支払報酬(謝金)の明細
ーパー ト アルバイトの手当 、研究発表謝礼等
事
講師謝礼 X1
0
耳
人
項
額
200千円
成
平
1
00
専門知識謝礼
1
0 通訳料
年
度 翻訳料
1
5
0
200
ヒアリング謝礼
8
0
アルバイト謝礼
8
0
小計
81
0千円
講師謝礼 X5
1
00千円
専門知識謝礼
1
0
0
1
50
1
1 通訳料
度
年 実査
2,
000
翻訳料
200
ヒアリング謝礼
80
アルバイト謝礼
80
小計
1
0
0
千円
専門知識謝礼
1
0
0
1
0
0
2,
400
翻訳料(韓/中)
アルバイト謝礼
事
項
韓
北 国へ 8人
京へ 8人
成
平
1
0 上海へ 8人
韓国から 3人
度
年
中国から 2人
韓国内移動費 I
I人
ピ ザ 中 国 6人 X 2、韓国 2人
関西空港使用料 X29人
釜山空港使用料 XI
I人
北京空港使用料 X 9人
上海空港使用料 X 9人
はるか京都/ 関空往復 X29人
400
ノj
、
言
十
3,
1
0
0千円
総計
6,
620千円
金
韓北京
国 へ 6人
へ 4人
平
成
1
2 上海へ 4人
韓国内移動費 9人
度
年
ピ ザ 中 国 4人 X 2、韓国 2人
関西空港使用料 X1
4人
釜山空港使用料 X 6人
北京空港使用料 X 4人
上海空港使用料 X 6人
はるか京都/ 関空往復 XI
4人
額
920
千円
1
,
28
0
1
.
120
31
5
280
1
1
0
1
4
0
75
1
4
1
3
1
3
1
9
9
小計
4,
479千円
920
千円
1
,
28
0
1
,
1
20
31
5
280
1
1
0
1
4
0
75
1
4
1
3
1
3
1
9
9
小言
十
4,
479千円
690千円
640
560
90
1
00
36
8
6
6
9
5
韓
北 国へ 8人
京へ 8人
成
平
上海へ
8人
II
韓国から 3人
度 中国から 2人
年
韓国内移動費 I
I人
ビ ザ 中 国 6人 X 2、韓国 2人
関西空港使用料 X29人
釜山空港使用料 Xl
l人
北京空港使用料 X 9人
上海空港使用料 X 9人
はるか京都/関空往復 X2
9人
2,
71
0千円
講師謝礼 X5
1
2 通訳料
度
年
成
平 I
薙
文
吾
具
1
0
-旅費の明細
1
2
度
年
成
平
ロ
口
50
千円
成
平 │社会描関連図書
平
成
・中における社会意識の比較調査
小 計 2,
2
3
1千円
1
1,
1
89千円
総百十
人間文化・
3
5
国際比較 調 査研 究 の 体験 ノ ー ト (
4)
表 2-3
│研 究 代 表 者
j
君塚大学
研究経費使用内訳明細
│研 究 課 題 ! 日 ・ 韓 ・ 中 に お け る 社 会 意 識 の 比 較 調 査
-その他の明細
-備品費の明細
I個ま たは I組の価格カ勺0万円以上のもの
ロ
Eロ
3
平
成
印刷費、製本費 ー通信、運搬費 ・会合'it等
目
金
t
en
keyboa
r
dx2/s
f
3263
20
千円
modem c
a
r
dX 2/ md503
60
1
0 ポータブルプリンター X 2
度
年
80
k
o
r
e
a
nl
a
n
g
.
k
i
t/ ma
30
ロ
30
平
s
日中之星 /do
62
成 会合費
1
1
通信費
度
年
コピー費
30
50
小言十
25
50
30
250千 円
データ入力費
250
千円
会合費
25千 円
通信費
30
コピー費
30
500
小計
ノ
ト
言
↑
0千 円
平
成
1
2
平
成
1
2
度
年
度
年
総計
1
0
4千 円
1
25千 円
質 問 紙印 刷 費
1
1
度
年
額
24千 円
通信費
1
0 コピー費
度
年
40
s
ps
s/ windows用
金
平
成
k
o
r
e
a
nwr
i
t
e
r/d
o
s
322千 円
目
会合資
c
h
i
ne
s
el
a
n
g.
k
i
t/ ma
小計
平
成
D
額
572千 円
730
千円
ノ
l
、
言
十
85千 円
総言十
919千 円
名/1回/1万、及び中国籍者の韓国入国 l名/1回/ 1万として算出。
※ピザ代は日本国籍者の中国入国 1:
6
∞円、韓国釜山金海空港9
0
0
0ウォン (
約1
3
0
0日本円)、中国北京 上海空港9
0元 (
約1
4
0
0日本円)とし て算出。
※空港使用料は関西空港2
5
∞o
日本円/呂 、京都 1
3
0
0
0円/日で算出。この調査ではいずれも 5泊で算出。
※旅費のうち宿泊費は本学の経理課の基準によって、国外 1
※旅費の うち、航空運賃はいわゆる格安航空運賃の実勢価格で算出。
※格安航空運賃の実勢価格である関空/北京往復運賃 8
50
0
0円 (ノーマル 1
3
7
4
0
0円)、関空/上海 6
5
0
0
0円 (
9
3
5
0
0円)、関空/釜 山4
0
0
0
0円
(
4
8
4
0
0円)として算出。
0万円を超える時、また同一業者から l度に 3
0
万円を越える商品を購入する時は、 2社以上の業者から
※経費での l個ないし);組の価格が3
同一条件で、見積ないし裏付けのある価格表を取る 。
※講師謝礼は総研の従来の目安、つまり定期の研究会での発表は研究協力者 3万、大学院生 2万、班外の発表者学内 3万、学外 5万を採用
せず、研究協力者は0、大学院生0、その他を 一律 2万として算出。
※参考 総研の目安は講演学外 8万 (
学内 5万)、シン ポ 5万 (
3万)、司会 2-3万 (5万)、コメンテイター 2-3万 (2-3万)であ る
。
2
年度の紛訳資は韓国語版と中国語版のものであり、いずれも 2
0
0頁を想定している 。6
0
0
0円/ 1頁 (
4
0
0字 X3枚)、2
0
0
0円/400
字
※平成 1
で算出。
※各年度によって合計が異なるのは王として 、調査が事前調査 1
9
98
年度、本調査 1
9
9
9
年度、補足調査2
0
0
0
年度になることによる 。
5
0万を目安とし、ー ・
・ 概算を記入し j とある 。実際に、谷口班
※『
総研共同研究班研究計画書記入要領 j によれば、「各年度それぞれ総額7
5年度 8
0
0万
、 6年度 1
0
0
0
万
、 7年度4
0
0万、今堀班 6年度 7
5
0万
、 7年度 8
5
0
万
、 8年度 6
5
0万、香川班 7年度 9
0
0
万
、 8年度 7
50
万
、 9年度
5
8
0
万
、 三谷班 9年度 7
7
7
.
2万
、 1
0
年度7
2
2
.
2万となっており経費は年度ごとに違いがある。
※海外旅行保険は自己負担。
※パスポ ト作成に掛かる経費は自己負担。
※海外での公共交通機関、リムジンパス、タクシーの運賃は自己負担。但し 、釜山/ソウル聞の往復航空運賃は経費に計上する 。
0
0
0円/1聞を越える分については自己負担。
※会合費のうち、飲食は一人当たり 1
※調査及びヒアリングの時期は本学の学事スケジュールと相手国の学期などを考慮し、韓国、中国とも毎年 7
/
25-9/
15
、1
2
/
21
- 1/5、
2
/1
0-20
、 3/
16
-2
4の問で 1
5日間 (
年間)を予定している 。
(韓国、中国でのヒヤリング調査、研究会等)のため
「研究経費使用内訳明細」の注に詳しく記載しであ
の旅費(
4
4
7
.
9万 円 ) が 年 度 経 費 合 計 の 68.
7% を 占 め て
るが、これらの経費は専ーに当該調査のために使用
J
999年 度 は 本 調 査 (三カ国での ア ン ケ ー ト 調
いる。 1
される費用としての「調査原価
200万 円 ) と ヒ ヤ リ ン グ 調 査 や 研 究 会 の た
査)の経費 (
タッフ費用は含まれていない(当該研究においては、
めの旅費 (
447.
9万 円 )が年 度 経 費 合 計 の 大 部 分 を 占
研究班主任および、嘱託研究員に対して研究機関から
め て い る ( 前 者 は 24.
0% 、 後 者 は 53.
6 %)。 そ し て 、
スタッフ費用が支給されることになっている)。
2000
年 度 は 報 告 書 (韓国版 、 中 国 版) の 翻 訳 料 (
240
万 円 ) お よ び 補 足 調 査 ( ヒ ヤ リ ン グ 調 査 、 研 究 会)の
旅費(
223.
1万円)が、 そ れ ぞ れ 年 度 経 費 合 計 の 43.
4% 、
40
.3%を 占 め て い る 。 な お 、 経 費 の 算 出 に つ い て は 、
3
6 ・人間文化
213)
であって、ス
(未完)
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)
註
1
6
6)直井道子「調査票をどうつくるか」森岡清志
編 著 『 ガ イ ド ブ ッ ク 社 会 調 査 j 日本評論社、
1
9
98
年
、 p
p.
1
4
5
1
4
6o
.
2
0
5o
1
6
7)直井道子「前掲論文 Jp
1
6
8)直井道子「前掲論文 Jp
.
2
0
6。
1
6
9)土田昭司は、「測定とは言語、それも多くの場
1
7
6)唐沢穣「前掲論文Jp.
42
o
1
7
7)井上和子「測定尺度の構成」井上丈夫・井上
和 子 ・小野能文・西垣悦代 『
前掲書 Jp
.
I
O
lo
が重視されるのは 、数字が現実の微妙な 差異を
1
7
8)原純輔「尺度構成法(項目分析 )
J 原純輔・海
野道郎 『
前掲書 jp
p
.
8
28
3o
1
79)安 藤 清 志 「 前 掲 論 文 Jpp.
434
6o土 田 昭 司
『
前掲書 Jp
p
.
5
0
5
2o
1
8
0)唐沢穣「前掲論文 Jp
p
.
2
9
3
0。
1
81
)中道賓 『前 掲 書Jp
p
.
1
1
8ー1
1
9。
1
8
2)鈴木達 三 「標本抽出計画と実際の諸問題」林
正確に表現できる特殊な言語であるからだと述
知己夫編 『
社 会 調 査 ハ ン ド ブ ッ ク j 朝倉書庖、
合数字という特殊な言語を用いて現実を表現す
ること j と定義し、 一般的に測定において数字
べている (
土田昭司『前掲書 Jp.
49
。
1
7
0)安藤清志「測定の基礎」末永俊郎編 『社 会 心
98
7年
、 p
.
41
o
理学研究入門』東京大学出版会、 1
l
7
l)福武直 『
社会調査』補訂版、 p
p.
1
7
6
1
8
0。
1
7
2)原 純 輔 ・海 野 道 郎 『 前 掲 書 Jp
.
8
3。 安藤は、
波
J
I
定には、研究者が関心をもっている対象の属
2
0
0
2年
、 p
.
2
7
4o
.
1
5
7o
1
8
3)林知己夫 『日本人研究三十年 Jp
1
8
4) このような伝統と 近代(あるいは非伝統)を
対比させて考えるのは日本人だけであるが、そ
特に 1
9
8
8年頃
のような「考えの筋 j も、近年 (
以降)に なって崩壊してしまった、と林は指摘
性を、直接的に測定することが可能な直接測定
している(林知己夫『数字からみた日本人の こ
と、研究者が関心をもっている対象の属性を直
ころ 』徳間書応、 1
9
9
5年
、 p
p
.
88
91
。
)
接的に測定することが困難なために、直接測定
1
8
5)鈴木達 三「国民性国際比較 の 方 法
日本人と
できるものの中からそれと関連が深いものを選
ハワイ日系人の比較から
び、その測定によって得られた値をいわば代用
『日本人研究 1 .特集日本人の心は変わったか』
」日本人研究会編
する間接測定とがあると指摘している 。 そして、
至誠堂、 1
9
7
4年、 p
p
.
2
7
4
2
7
5。また 、林は次の
社会心理学の研究においては、「態度」など、間
ように述べている 。 「ある国の質問は、いくら注
接 ì~IJ 定に頼らざるをえない構成概念が測定の対
意しでもその国固有の発想となっていることは
象になる場合が多いために、用いられた測度が
注意しなくてはならない。アメリカで作られた
測定しようとしている概念をどの程度正確に反
質問はアメリカ的発想のもので、ヨーロッパに
映しているのかという 、測定の妥当性の問題が
すんなりと受け取られるものではない 。客 観的
生じることになる、と指摘している (
安藤清志
たろうと努めても一 一見どこにでも通じると見
「前掲論文 Jp
p.
41
4
3
)。また、 中道は、
えてもーどこでも必ず同じ意味に受け取られて
r
r
測定 j
(
me
a
s
urem
e
n
t)は、『一定の規則を用いて、対
いるとは限らない 。研究に当たっては、自分の
象のある経験的特性に数値を与える手続き 』の
論理感覚は必ずしもどこにでも通じるものでは
ことである j と定義し 、「量的
ないことを自覚しないと独善的なものになって
質的水準のいず
J(林知己夫
『日本人の国民性研究j南 窓
れにせよ、測定というプロセスは、観察の結果
しまう
を数の体系に還元することによって、複雑な現
社
、 2
0
01
年
、 p
p
.
2
5
2
7)
。特に家族観についての
実をより扱いやすい 単純なものにす るとともに、
比較分析を意図していた筆者は、{需教的伝統の
概念 (
変数)聞に仮説された関係を検討するた
指標として、①「孝」の思想(儒教倫理、祖先
めの数学的操作を施すことを可能にする」と、
崇拝信仰等)、①血統観念(男系血統による家の
測 定 の 意 義 を 指 摘 し て い る ( 中 道 賓 『前 掲 書 j
継承、嫡庶長幼の序、親子関係の重視、親族関
p
p
.
9
6
9
7)
。
1
7
3)中道賓 『前掲書 Jp
.
1
2
1o
.
1
2
1。
1
7
4)中道賓 『前掲書 Jp
1
7
5)唐 沢穣「信頼性と妥当性」栗田宣義編 [メソ
係の重視、血族外婚等)、③男女の役割分担 (
分
-J川 島 書
義、①合理主義(呪術信仰や超自然的啓示など
ツド/社会学
現代社会を測定する
庖、 1
9
9
6年
、 p
p.
42
43
o
業)を、それに対して西洋的近代(脱伝統)の
指標として、 ① 個人主義(個人的・私的な世界
の優位、個人的幸福の追求等)、②自由・平等主
の非合理的信条の拒否、伝統的権威の排除、科
人間文化・
3
7
国際比較調査研究の体験ノート (
4
)
学的知見への信頼等)を措定した(拙稿「日・
r
.
5
7
0。
学会編 『
前掲書 Jp
韓 -中の大学生の家族観 -男女観J 悌教大学総
1
9
9) 山口 洋「日韓中比較調査設計討議 Jp
.
2
3o
合研究所紀要 j 第 7号
、 2000年 3月、「現代青年
200) 中生勝美
J
の家族観一日・韓・中 三 カ国の比較分析 -
I
日・韓・中における社会意識の比較調査J<偽
教大学総合研究所紀要別冊>、 2001
年3月)
。
1
8
6)吉野諒三「調査票の翻訳 ・再翻訳(パ ック・
トランスレーション )
J林知己夫編『社会調査ハ
ンドブック Jp
.294o
『
前
201)森岡清美「家族への接近」森岡清美 ・望月嵩
共 著 『新 し い 家 族 社 会 学 ・ 改 訂 版 j 培風館、
1
9
8
7年
、 p
.
3o
202) 大 塚 勝 美 『 中 国 家 族 法 論 J御茶の水書房、
1
9
8
5年
、 p
.1
6
3o
1
8
7) 柳 父 章 『 比 較 日 本 語 論 j パ ベ ル ・プレス、
1
979年
、 p
.
21
2。 また、柳父は、「翻訳とは、基
本的に、 二つの異質な 言語の交渉の出来事であ
p
.
2
2
8)
。
る」とも述べている (
1
8
8)柳父章『前掲書 jp.
21
2o
r
l
. 中国 J比較家族史学会編
.
1
4
0o
掲書 Jp
203)伊藤亜人[親族J伊藤亜人・大村益夫・梶村
秀樹・武田幸男監修『前掲書 Jp
.
2
2
6。
204) 大谷信介「コラム・予備調査とプリテスト」
大谷信介-木下栄二 ・後藤範昭 ・小松洋・永野
r
武編著 『
前掲書 jp
.
1
4
5。
1
8
9)柳父章 『
前掲書 Jp
p
.
21
7218o 観念を語るこ
205) ランドパークは、このことについて次のよう
とばのばあいには、私たちの翻訳はほとんど常
に述べている 。「調査票のプリテストをする 一般
に誤訳ではないのだろうか。少なくとも、いつ
目的は、その信頼度と妥当性とを測定すること
でも誤訳と紙一重の危ない翻訳が行われている
である 。 これは、実際に使用する調査票の修正
のではないか J(
pp.
2
1
5
21
6)
。
が可能であると否とに拘わらず重要で、ある 。何
1
9
0)吉野諒三「前掲論文Jp
.
2
9
4o
故なら、調査結果に付与すべき有意義性の程度
1
91)林知己夫 『日本らしさの構造 j東洋経済新報
は、この知識にもとづいて推定されるからであ
るJ(
ランドパーク 『
前掲訳書 Jp
.
2
2
5)
。
社
、 1
9
9
6年
、 p
.
1
2
6o
1
9
2) このことに関して、林は次のように述べてい
206)福武も次のように指摘している。「質問の適否
る。「さらに相互理解となると翻訳はいっそう重
を判断するひとつの基準が、 D.K.
の少なさであ
要な問題となる 。……。翻訳そのものの問題と
るJ(
福武直 f
社会調査j補訂版、 p.
l6
)。
同時に、互いに、相 E理解のストラテジーを考
えなくてはいけなくなる 。…… 。相互理解は、
207) 大谷信介「コラム・予備調査とプリテスト j
p
.
1
4
5o
共通のロジック、つまり科学のロジックに基づ
208)辻新六-有馬昌宏 『
前掲書Jp.
1
5o
いて、異なったところと同じところの関係を描
209) 辻 新 六 ・ 有 馬 昌 宏 『前 掲 書 Jp.70。福 武 直
き出し、それを知識として共有することから始
めなければならない J(林知己夫『日本らしさの
構造 Jp
.
2
1
5)
。
1
9
3)林知己夫 『日本人研究三十年 Jpp.
l3
0
1
3
1。
1
94)福田アジオ
r本土 jの祖先祭杷」
比較家族史
『
社会調査』補訂版、 p
p
.
7
4
7
5。
21
0)例教大学総合研究所に提出された平成 1
0年度
の共同研究班研究計画書(君塚研究班主任が作
成)には、次のように書かれている 。
[
平成 1
0年度]
前半は研究会を主とする。第
学会編 『
事典家族 j 弘文堂、 1
996年
、 p.
5
6
8。
ーに、このテーマでの先行研究を丹念にフォロー
1
9
5
) 丹羽泉「親族 (門中)J秋月望 ・丹羽泉編著
し、この研究領域での到達点を硲認する 。第二に、
『
韓国百科j大修館書庖、 1996年
、 pp.
7
9
8
1。
調査方法の検討を行う 。 とくに中国でのアンケー
1
96) 中林伸浩「祖先 [
人類学 l
J比較家族史学会編
『
前掲書 Jp
.
5
6
5o
1
9
7) 嶋陸奥彦「祖先祭最E
J伊藤亜人 ・大村益夫・
梶村秀樹 ・武田幸男監修 [
朝鮮を知る事典 j平
トによる計量手法の難しさを洗い出し、その克服
法をあみだす。 これらの検討をもとに、この調査
での問題設定を具体的かっ精密にしていく。研究
会は、本学ではもとより、韓国および中国でも行
凡社、 1
996年 (増補版)、 pp.256-257。丹羽泉
う。その際、韓国と中国で専門研究者(この調査
「儒教と韓国社会」秋月望・丹羽泉編著『前掲書J
における研究協力者以外の専 門家を含む)からの
p.
1
54o
1
9
8) 中生勝美「中国漢族の祖先祭杷」 比較家族史
38 ・人間文化
学術的な情報の提供を受け、また調査対象の青年
層の幾人かからもヒヤリングし 、そこでの知見を
4)
国際比較調査研究の体験ノート (
もパイロット調査的に利用したい。 この予備調査
議し、完成稿に仕上げ、報告書として編む。
のための渡航の時期は 、 7 月 2 5 日 ~ 9 月 15 日とし、
21
1)福武直 『
社会調査 j補訂版、 p.
7
4o
この問、出張可能な者が数人で出かける 。後半で
21
2)辻新六 ・有馬昌宏 『
前掲書 Jpp.
7
0
7
1o
は
、 一般的な仮説を構成し、これを作業仮説化し
21
3)加留部清「調査実施 j 林知己夫編 『
前掲書 j
て日本語の質問文を練る。さらに、ハングルと中
p.
367。
国語に翻訳する 。 これには言語の専門家の協力を
得る 。 また、これと並行して、実査 (
サン プリン
グ、質問紙の配布、回収)の方法を確定する 。 こ
の作業は主に日本で、韓・中両国からの協力者を
交えてする 。場合によっては、こちらが 1
2月2
1日
~ I 月 5 日、 2 月 10 日 ~ 20 日 、 3 月 1 6 日 ~ 24 日の問に
渡航する 。年聞を通じ、日本側の研究者は一人平
均1
5日間の海外出張を予定している 。なお、 1
998
年 12月 に マ カ オ で 国 際 社 会 学 会 の The 4t
h
I
nt
巴r
n
a
t
ional Sympos
ium on Asi
a
n You
t
h
S
t
u
d
ie
s があるので、予備調査等での知見をも
とに、数名が発表する予定。 この経費は、学術委
員会 (
国際学術課)からの、助成を受ける 。
1年度] 前半は、早い時期 (
双方の学
[
平成 1
事スケジ、ユールを考えて 4 月 2 日 ~ tO 日、
日 ~5 月 5 日、
6 月 2 5 日 ~29 日、
4 月 28
7 月 25 日 ~ 9 月
1
5日)に三国で、研究協力者を中心にその他の協
力者の援助を得て、サンプリングを行い、質問紙
を配布、回収する 。サンプル数は 、できるだけ多
くしたいが、日本で 1000、韓国で 1000、中国で
500を目安とする 。 また、なるべく多くのインフ
ォーマントにヒヤリングを行う 。後半では回収さ
れた質問紙にコーデイング等の処理を行い、デー
タをコンピュータに入力し、各種の統計的解析を
行う 。 また、ヒヤリングの整理を行う 。 これ らの
作業を行うため、韓・ 中両国の協力者を迎えての
研究会を開く 。 こちらから渡航することもある 。
時期は、
1 2 月 2 1 日 ~ 1 月 5 日、
2 月 10 日 ~ 20 日、
3 月 1 6 日 ~ 24 日のいずれかを予定している 。
[
平成 1
2年度] 前半では、統計的解析から出
てきた数値を解釈、並行してヒヤリングからの知
見を概念化し、全般的な考察を深める 。 この過程
で補足調査が必要になる 。 この種の作業は非常に
大事で、ある 。数値を出して調査はおしまいではな
く、本研究は数値の解釈と概念化を重要視する 。
このための研究会を本学はもとより、韓国と中国
でも行う 。韓国、中国での研究会は、主に 7月2
5
日 ~ 9 月 1 5 日となる 。 後半で、報告書作成のため
の論稿を練る 。研究班の全員が各自少なくとも ー
篇の論稿を作成する 。各自の論稿を全員で集中討
人間文化・
3
9
論文
化ン
司
料
町
一
部活
文イ
昌示問押
学生
1.まえがき
井批
間
人
インド仏教遺跡サンチー、サッダーラの修復・保全ならびに
世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
土
告にもとづくものであることがわかった。 この使節
もうだいぶ前の話になるが、 93年の 1月の中旬で
団はインド文化庁と、 ①学術交流の拡充、 ②仏教美
あったか、外務省文化交流部文化第一謀の野本英男
術に関する共同研究、 ③仏教遺跡の発掘、周辺の環
文化協力官という方から電話があり、 3月から 4月
境保全、人材育成、④歴史都市の保存、 ⑤仏教遺跡、
にかけてインドのサンチー附近の仏教遺跡の保存に
の観光開発、 @ 日本研究・日本語教育のためのセン
関して調査に行ってくれないかとの電話があった 。
ター設立等について意見を交換してきたということ
唐突な話なので驚いたのですが、出来ることがあれ
である 。その結果が南西アジア ・フォーラムの第二
ばお手伝いさせていただくというようにお答えし
た。それに続いて千原大五郎先生証lから電話をい
年度の提言 に凝り込まれた。
ただき、インドの調査に君を推挙しておいたという
体化例として、その③にもとづいて、インドのサン
お話しを頂いた。それで合点がいった訳である 。 と
チーおよびその周辺の仏教遺跡の発掘と修復・保全
いうのは、今から二十年も前であ ったろうか、ユネ
が適当でないかということであった。それは先の使
スコからのスリランカへの文化財保存の専門官の派
節団の中根千枝先生が精力的に現地を巡られてのご
提案ということであった。
遣に際して、各国からの専門家の人選を進めていた
その時のインド訪問の結果、その提言の最初の具
際に、都市計画、都市デザインの専門家として、私
我々の第 l回のインド・サンチー訪問の日程は
がやはり千原先生の御推挙により、その候補の一人
93年 3月23日から 4月 8 日までということになっ
として挙げられ、履歴書などを出したことがある 。
た。 日本の外務省からの依頼ではあったが、公式に
それには神戸芸術工科大学名誉教授 、東大の建築史
出身の専門家として、伊藤延男氏が選ばれたが、そ
はユネスコの専門家 (
Exper
t) としてユネスコか
の関係から私の名が出たということであるらしい。
その周辺の遺跡をも含めて、予算内で、どうするの
その話の内容とは、日本政府がユネスコに拠出して
が最もよいかを、視察 ・調査し、その修復・保全計
いる金(Ja
p
a
nT
r
us
tFund、 日本信託基金)のう
画を現地の専門家と立案し、その実施を指導してい
ら委嘱される形となっていた。仏教遺跡サンチーと
ち5
0万ドルをインドの仏教遺跡の保存・修復に使
くというのがその仕事の内容であった。 しかし、そ
うことが決った。ついては事業計画をインドの専門
の計画はユネスコのプロジェクトであるので、その
家と立ててくるようにということであるらしかっ
資金は純粋に遺跡の発掘 ・修復・保全に対して使用
た。同時に同行する専門家のメンバーもわかってき
するよう限られており、上記の⑤の仏教遺跡の観光
開発については使用することは出来ないということ
た。当時京都大学におられた西川幸治先生と国立奈
良文化財研究所の考古学の 山本忠尚氏(現在、天理
大学)ということであった。それにパリのユネスコ
であった 。
本部から係宮がー名同行するということであった 。
2
. インド文明の多様性と自然のなかの
私はその頃、学位論文を書き始めなければならない
仏教遺跡
のに、忙しくてとりかかれずにいた。指導していた
インドについての話であるから、その歴史と文明
だくことになっている西川先生に、どうなっている
の特徴である多様性について、簡単に触れておきた
かを報告しなければならないのに、その内容がまだ
い。 インドの領域は、北のカシミール、ヒマラヤか
進展していない状態であった 。そういう時期に西川
ら赤道近くの亜大陸南端にいたる広大な地域であ
先生と御 一緒に外国に調査旅行に行くのはまずいと
り、その気候・地形も多様である。インドには古く
思ったが、断れなくなってしまっていた段階であっ
より北西方面から多くの民族が何 回にもわたって流
たので、吐をくくらざるをえなかった 。
入し、さらにそれらが領域内で移動することにより
1
993年 3月 2日に外務省で打ち合せがあり、そこ
多様な文明が形成され、地域的に多くの文化が複雑
に入り込んで、いる文明が成立してきた。現在、イン
で、このプロジェクトは、 93年 1月下旬に派遣され
ド全土に見られる言語、宗教、民族、建築やその他
た佐藤誠三郎慶大教授を団長とし堤清二氏、中根千
の芸術のなかにその多様性と豊かさが表われている
枝東大教授が参加された南西アジア文化使節団の勧
のはよく知られているが、インドの現実に広く触れ
40 ・人間文化
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全ならびに世界遺産と しての仏教文化景観圏の提案
てみるとそれが実感できる 。 また自然そのものもス
この時代の後期になるとイスラムのインドへの侵入
ケールが日本と異な って非常に大きく、きわめて多
が始ま り、 1
3世紀には北インド中にイスラムの勢力
様であり、概してあまり汚されない無垢な状態をい
が確立した 。 その頂点がム力一ル朝の成立であり、
まだ、に保っていて、雄大で、美しい景観が残されてい
インドでのイスラムの興隆のはじまりとなる 。
る。そのような自然、の中に多くの文化遺産が残され
南インドは北部インドとはまた大きく異なった複
雑な歴史をもっ。 まだ研究が進 んでいないこともあ
ている 。
って自 我々外部のものには余計によくわからない
歴史的には、旧石器時代の岩に描かれた絵画や岩
ほど複雑で、
ある 。北部のインド中心部から南進する
かげのキャンプ跡などの遺跡から始まり、 BC2300
のが地理的に容易ではないことと、農業に適した広
年から BC1750
年 にかけてのモへンジヨダロ、ハラ
大な平野地帯が存在しないことなどが、北部とは異
ッパーや最近発掘されつつある BC2500年頃とい
なった独自の歴史を刻んできた 。
われるドーラヴイーラなどのインダス文明の都市遺
跡。 アーリア人の侵入とその後のガンジス文明、バ
さらに 1
7世紀末ころから 、 ヨーロッパ列強による
ラモン教の成立。 そのなかで紀元前 600
年ころには
インド進出が始まり、 1
8世紀中ごろからはイギリス
ガンジス流域を中心として広域的な都市国家が数多
帝国が次第に植民地化 を進め、 1
9世紀 になるとイン
く成立し、つづいて仏教やジャイナ教などの新しい
ドは完全にその植民地と化した 。第2次世界大戦と
宗教が形成される 。 BC4世紀にはいるとマ
その後の独立などは周知の事実であるが、このよう
ウリア朝が輿り、アショカ王(在位 BC268ころ
232ころ)が即位するに及んで仏教は保護され、そ
ぞれの時期に多くの文化遺産が生れ、その結果、多
思想
ダルマ
の法を基礎とする徳治主義を国政の原理とした。仏
にインドはきわめて多様な歴史を刻んできた。それ
様な特色のある文化遺産に恵 まれ ること になる 。 そ
教ははじめ上流の貴族や商工業者、すなわち都市の
してそれらは広大な自然、の 中に現在 も多く残ってい
上層民の間で信仰されていたが、次第に広範囲にひ
る。
ろまっていき、アショカ王の政策によって領土内全
この小論の主要テーマとなる仏教遺跡は、上述の
ように紀元前 3世紀頃からのアショカ王の治世の頃
域にさらにひろがった。
この小論での話はこの時期とそれに続く時代の仏
以後インド各地に見られる ようにな り、次に述べて
教遺跡の話が中心となる 。次に述べるようにアシヨ
いくサンチーやサッダーラの仏教修行者の修行の場
(
s
a
n
g
h
a)の
所であった遺跡もその時代に 始ま り、 ヒンドゥー教
(
v
i
h
a
r
a
) を、仏塔とアショカ王
に呑み込まれてしまう 12世紀頃までつづくことにな
カ王は仏教の修行者のための共同体
修行の場所、精舎
柱を中心に、おそらく全領土にわたって作り、仏教
る。
を広めていった 。 この小論の対象となるサンチーを
中心とする仏教遺跡群のある地域はそれが最もよく
残っている 。
3.サンチー遺跡の現状
インドの中央部、やや北寄りにマッディーヤ・プ
ラデツシュ
その後、クシャーナ朝と続きカニシュカ王の治世
(
MadhyaP
r
a
d
e
s
h)州があり、その西
(
Bho
p
aI)があ る。サンチー
寄りに州都ボパール
を中心としてアフガニスタンのガンダーラの仏教美
はそこから北東約 46kmのと ころにある小さな村で
術が栄えるなど仏教の隆盛は続いた。続くグプタ朝
ある 。現在は鉄道が通じていてデリーから陸路容易
では古典文化が最も発展した時期であり、アジャン
に行くことが出来る 。ナト│都ボパールに空港があるこ
ターの仏教石窟群が開撃されるなど仏教信仰はまだ
とから空路からも可能で、ある 。 しかしボパールから
盛んで、あった 。 しかしグプタ朝 中期 頃からヒンズー
サンチーまでの道路は舗装 も不完全で、、整備されて
教が密教と結びつき民衆の問で広まる 。仏教もヒン
おらず、日本の感覚からいえば道路交通によるアク
ドゥ一教の影響を受け始め 、結果 としては、仏教の
セスは便利とはいえない 。
独自性を失い次第にヒンドゥ教に吸収され、 1
2世紀
しかし、この地域はイン ド主要部のガ ンジス平原
頃には仏教は衰退し消滅することになる 。その後も
のデリーやアグラ、重要な 商業都市であったベナレ
ラージプト時代を通じて、ヒンドゥー教が民衆の間
スと、南のデカン地方やペルシャ湾側のキャンベイ
に広まり、ヒンドゥ一文化の隆盛を 見ることになる 。
湾とを結ぶ古代からの重要交通路 上 に位置してい
人間文化・ 4
1
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全砿らびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
AroundSanchi
デり
φ
600m、比高約 91mの赤砂岩
の丘陵地全体がその仏教修
行者共同体の修行の場所で
ある精舎 (
v
i
h
a
r
a)の仏教遺
跡である 。彼 は 仏 教 を 国 の
政治の基本の「法」とし、
仏教の功徳を広めるために
インド各地にストゥーパ
(
stupa、仏塔 ) や柱の頂に
鐘型の柱頭の上にライオン
が乗り 、仏 陀 を 記 念 す る 碑
図 1 サンデー-サ ッダーラの位置
文を刻んだ記念柱を建設し
.
ω
一
た。ストゥーパは元来 、仏
T干
量EH
l
l
.
.
lOFSANCH
I
酬""".,.-.,
の遺骨・髪 ・爪などを納め
るもので礼拝の対象として
作られた 。記 念 柱 は 一 つの
岩塊から 削 りだして磨いた
I
l
f
:
モノリスで、それをインド
全 土 で 30以上作ったといわ
れ て い る 。 各 地 に 現 在 8本
残っており 、 そのうちの一
本がサンチーに残っている 。
ストゥーパについては、彼
の帝国に 8
4,
000を作らせる計
画であったといわれている
が、彼自身は多くは作って
いないらしい 。 サンチーの
.
tupa、 直 径
主 塔 (MainS
刷。-叩
図2
36.60m、 伏 鉢 部 の 高 さ
サンデー仏教精舎遺跡の配置(インド考古局作成)
1
6.
46m) は石造のカバーの
下にレンガ造の核のストゥ
ーパがあり、その核の部分
た。 インドでは文化遺産が現在にまで、残っていると
は彼の時代にまで、すなわち BC3世紀にさかのぼ
ころは、このように古代からの重要幹線路沿いにあ
るとされている 。 このほかにもこの丘の上には後代
ることが多い 。サンチーの 北東約 9kmのところに
の寺院 (
t
e
m
p
le
s
)
、洞堂 (
v
o
t
i
v
es
h
r
i
n
e
s)、それに
あ る ヴ イ デ ィ シ ャ (V
i
d
is
hao B
h
i
ls
a或 い は
Besnagarともいわれる )はアシヨカ王の時代には
monas
t
er
i
e
s) などがあり 、仏教修行者たち
僧院 (
この地域の中心都市であ った。
ヴィディシャは王の妃デヴィの出身地であるとい
sangha) をつくって共 同生活を送りなが
は集団 (
ら修行していた。サンチーはこのような修行者がお
そらく百人前後、あるいはそれ以上が生活をしなが
われ、また主が若いころ滞在したこともあるといわ
ら、仏教の伝授と 研究を行う場所であった。この付
れている 。 この地域がアショカ王に縁が深い土地で
近には後で述べるように多くのそのような精舎が点
あったことがうかがえる 。そこからわずかに離れた
在しているが、そのなかでもサンチーは主要なもの
現在のサンチーの地に王は紀元前三世紀頃に仏塔と
であった 。
アショカ王柱を建て仏教の修行センター (
s
a
n
g
ha
)
を作 った 。現在のサンチ一村のすぐそばの直径約
42 ・人間文化
サンチ ーの精舎仏教遺跡のある丘陵は周囲に平原
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復-保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
写真 1 サンチ一、メインストゥー J(の卜ゥラーナ
写真 2 サンチーの石切場であった貯水池
が広がり 、遠くからも遠望される 。その E陵の頂上
部から山腹にかけて、 BC3世紀頃から AD1
2世紀
の BC3世紀と見られるレンガ造のものの上に、後
300年間にわたる仏教の遺物・遺跡が
ころにおよぶ 1
の BC2世紀とみられる石造がカバーされている
見られる 。仏教がヒンズー教に次第に吸収されてい
(
c
a
s
i
ng)のが現在見られるものである 。現状の伏
81
8
くにつれて、ついには 忘 れられてしまうが、 1
mudmortar)
鉢部の 一部にはマッド・モルタル (
年に英国の士宮によって再発見された。そのときに
によ ってカバーされていたオリジナルな部分も残っ
は
、 S
t
u
panO
.
1、n
O
.
2、n
O
.3 はほとんど完全な形
ている 。 これらのスト ゥーパは 一時荒らされていた
で発見されている 。その後、財宝めあての者たちゃ
ものをジョン ・マーシャルが修復したものである 。
素人考古学愛好家などによって荒らされたが、カニ
これ らの丘陵の頂上平坦部の北部に集ま っていた規
ングハム (
A
le
xanderCunningham)や、就中ジョ
模の大きな遺跡構造物はマーシャルによって発掘さ
S
i
rJohnMa
rs
ha
l) らによって調
ン・マーシャル (
れ、修復されていたが、敷地の平坦部の南の部分と
査と修復が行なわれ、ほぼ現在の状態に至っている 。
丘の西斜面にまだ調査発掘されていない部分が残 っ
この辺りのことは西川先生の本に詳しい 。註 3
ていて、まだ何か出てくる可能性もあ った。
サンチーに残っているアショカ王柱はもともとは
また丘の中腹や麓にある乾季のための水を貯める
9世
完全なモノリスであったと上に述べたが、実は 1
3つの貯水池と丘の下の大きな池は、古代から中世
紀末に村人によって砂糖きびを絞るためのローラー
にかけてのサンチーのこの精舎のための建設用石切
に使われたため破壊されてしまい、現在サンチーに
り場の跡であって、それを貯水タンクとして利用し
はその破壊された断片になって残っている 。
てきたものである 。それらは何年当時、水がもれて
貯水池としての役割は果た していない状況であっ
建築史の教科書;でもおなじみの、伏鉢塔の形式の
仏塔で有名であり、その 四方に仏陀の生涯を刻んだ
た。
また、この丘陵全体は、現在では樹木が少なく、
見事な彫刻のあるトラーナ (
塔門、 BC1世紀頃 )
乾季に炎熱の日差しによって照りつけられるので、
MainStupa)
がある第 l塔 (
露出した赤砂岩の岩盤が熱せられ、特に雨季には雨
大塔、基壇のまわ
りの綾道の外側の欄楯に 見事なレリーフのある第 2
によ って急に冷やされるため浸蝕がひどく、遺跡の
塔 、 仏 陀 (Buddha) の 高 弟 で あ る 舎 利 弗
地盤自体が浸蝕されている 。その結果、遺跡建造物
(
Sa
r
i
p
u
t
r
a) と目援連 (Maudga
l
y
ayana、或いは
Ma
ha-Mogalana)の舎利が容器に納められていた
第 3塔がほぼ完全な形に復原されて残っている 。 ち
なみにこのトラーナの形 は鳥居に似ていて、 トリイ
の語源ともいわれている jH この他にも、中型の
にも影響がおよぶおそれがあった。地盤の浸蝕を防
石をかくす必要がある 。更にその植林の樹木を枯ら
ものから 、大塔のそばに最近発掘された信徒が奉納
水をなくすと同時に、乾期にも水を確保するための
したとみられる直径 1mあまりの小さな仏塔もいれ
掘りぬき井戸も必要とされた。
ぎ、土壌を確保するためには 、植林をして、裸の岩
さないためには、当然水の確保が必要であり、雨季
に水を貯めるための古代からの貯水池を改修して漏
ると数十にも達するであろうか。
小さいもののうち 、
相当数は部分的に復原されているが、瓦礁のままの
4 サッダーラ仏教遺跡の概要
ものや、基礎部分がわずかにみられるものまでいろ
サンチーの丘からは、広大な平原のところどころ
いろとある 。塔の全部、ないしは 一部を寄進するこ
にいくつもの同じような E陵が点在しているのを望
とは、功徳をつむ有力な手段であったから、大きな
み見ることが出来る 。 このような丘の点在する景観
仏塔はそのうえに増築され、また多くの仏塔が寄進
はこの地方の特徴である。古代 から中世にかけて 、
されたのであった。サンチーにおいても大塔は初期
そのような丘のいくつかにサンチーと同じように、
人間文化・ 43
インド仏教遺跡サンチ一、サッ夕、
ーラの修復・保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
/⑪ STUPASATSAID山
¥¥
.
.
-
¥J¥:二
ー
_
.-.
/
.
グ
/
/一一 ーユコプー
て 一一一
写真 3 サッダーラ精舎遺跡断崖下のハラり川と周辺の原野
仏塔と僧院などからなる仏教修行者の共同生活の場
図 3 サッダーラ仏教精舎でのス トゥーパ、僧院の配置
(インド考古局作成)
所 、精舎が作られた。そのなかでもサンチーの他に
は 4つの遺跡がすばらしい。 S
a
t
d
h
a
r
a、S
o
n
a
r
iがサ
ンチーの西側に 、Mure
l
Khur
d、 Andher
が東側に、
5、 6kmから I
Okmの間隔で位置し、サンチーも含
めた 5遺跡はアショカ王時代の地域の首都であった
V
i
d
i
s
haを中心とした直径 20kmの範囲内にある 。 こ
の他にもパングラリアなどいくつかの小規模な仏教
遺跡もこの地方に点在している 。 これらのうちでも
特に Sa
t
d
h
a
r
a=サッダーラは規模においてサンチ
ーに匹敵し、その環境は人皇からはなれた、人によ
って汚されていない美しい雄大な森林の景観の中に
写真 4 サッダーラ、主培の当初の状況
そびえ立つ丘陵の上にあるという絶好の場所にあ
る。丘陵を限る断崖の下に Hara
l
i川が流れ、濃い
緑に図まれた美しい 、静かな場所である 。サンスク
リットで S
a
tは f7J、dharaは 日 1=流れ」とい
うことで、この地方では貴重な水が珍しく豊富なと
ころである 。丘の上の遺跡群の場所からは、断崖の
すぐ下の緑の 川の向うには、無限に広がる原始林が
見わたせて、静な修行の場であ ったであろう 。
サッダーラもほぼサンチーと同じ時代、アショカ
王の時代に建設が始められた。その後 l、 2世紀の
聞にも盛んに建設が進んで、いたらしい。当時はむし
写真 5 サッ
ダーラ、主第の清掃後
ろサンチーより栄えていたと考えられている 。 しか
し、サンチーと 比べて当時の大都市のヴイデイシャ
査が行なわれ、 さらにいくつかの未発見のストゥー
には少し離れすぎていて 、不便な場所であった。 こ
パが再発見されている 。
のことからサンチーよりも早く放棄され忘れられて
そのような状態であったので、サッダ ーラにはど
しまったらしい。特にライオンなどの野獣も出没す
れくらいの遺跡がさらに残っているか正確にはわか
る森林の中にあったため 、人聞が長い間接近しなか
らないままであった。93年の第 l回の訪問時にわか
ったところである 。
っていたのは、 33の仏塔と 2つの僧院であった。そ
1
8
5
3年に再発見された後、カンニングハムや素人
考古学愛好家が仏舎利容器を探るため、いくつかの
の時点でも周辺の林の中に埋もれて、もっとあるの
ではないかと推測されていた。
ス トゥーパの 中心 に穴を開けた。サンチーとちがっ
てここではその跡がそのまま放置され、荒れるにま
かせられていた 。熱帯地方にある遺跡の常として、
5 ユネスコ日本信託基金によるサンチ一、
サッダーラ仏教遺跡の修復と保全
構造物の上には叢林が繁茂し、遺跡、建造物は殆んど
日本は従来東南アジヤへの援助 は多いが、南西ア
原形を留めず破壊され、主塔は石とレンガのガレキ
ジヤ方面に対しては 、ややもすれば手薄になりがち
の小山 で、あった。やっと 1
9
92年以後になってインド
であった。 この点が反省され、ユネスコに信託した
考古局側で叢林を除き清掃をおこなった 。同時に探
日本の基金(Ja
panTrus
tFund) によってインド
44 ・人間文化
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観匿の提案
の仏教遺跡の発掘 ・修復を援助することになった 。
また従来のように経済援助だけでなく違う方面の援
助、文化的な援助をすることが求められていた 。 こ
の計画は援助についてのそのような新しい流れに沿
って行なわれることになったものである 。
写真 6 サンチーの未発掘部分の発掘
日本側は 、援助によって遺跡の修復・保全をする
限りはまとまった形でしたいと考えていた。 またサ
ある僧院がいくつか発掘された。更に 、勾配の緩い
ァダーラ遺跡、の現地を 視察すると、その主塔の規模、
西斜面には、小塔や嗣堂と 思われる建造物の基礎部
遺跡全体の規模もサンチーに匹敵し、その上周辺の
分が残っていて 、発掘が行われた 。 このサンチーの
景観もすばらしい。そこでサッダーラに援助を集中
遺跡全体では何年 2月現在で、分かっているものを
したいと提案した 。 しかし、インド側にとっては、
註5
合せると、 SIの構造物があるという ことである 。
すでに修復され古代の景観のわかるサンチーが世界
また古代に使用され、石で築かれた境内の道も残っ
遺産にも登録され、有名になっていて重要であるこ
ているのが幾筋か発見された。それを現在の使用に
とから、サンチーへの援助 も望んで、いた。サンチー
耐えるように整備されている 。
遺跡で緊急に必要なのは、先に述べたように遺跡の
そしてサッダーラの発掘 ・復原には、サンチーに
地表面の侵蝕を防ぎ、土壌を確保するための植林と、
まわした基金の残りで行うこととなった。そのため
それを可能にするための水の確保が主たるもので、
にサッダーラへの援助の金額の量は少なくなり 、今
丘陵南部分と西側斜面の未発掘の部分の発掘と復原
回の援助では、サッダーラにおいては 、主塔と第八
がその次に要求された。日本側はインド側の強い要
搭の発掘・復原と全般的な探索のみがその主要な内
望でそれを容れることになった。
容とな った。それはサッダーラ全体の発掘と復原に
何年の第 1回の訪問でインド側と日本側の専門家
とってはほんの一部にすぎない。残りはインド考古
とで発掘 ・修復計画の打 ち合せが行われ、帰国後、
局 (
インド政府文化庁内の部局)側の資金で数年か
r
o
jec
tP
r
o
p
o
s
al
" を書き 、外務省
土井が詳細な“ P
けて行うこととなった 。
を通じて、ユネスコに提出した。それに基づいて 、
サッダーラには前述のとおり 33のストーパと 2つ
例年 3月に日本政府、 ユネスコ、インド政府の 間で
の僧院がわかっていたが、この計画による探査によ
合意 ・調印された 。その後インド側によって作業が
って、更に 7基のストゥーパと 14棟の僧院の遺跡が
開始されていたが、その状況の調査・確認とインド
周辺の森林から見つかり、ストゥーパは合計40、僧
側との打ち合せのため何年 l月2
9日から 2月 8日ま
6にのぼることが何年の第 2回の訪問時に報
院は計 1
で、西川幸治先生と私の 2人で 2回目の訪問をした 。
告された。 まだこれからなんらかの遺跡建造物が発
西宮に住む私にとっては 、あの阪神淡路大震災後 、
見される可能性も大きい。
1
0日あまり後の 、まだガ レキの中 、水もガスも供給
されていない災害地からの 出発であった。 インドで
に、石造の表面の下にサンチーと同じように焼レン
もあの地震については TVや新聞、雑誌で広く報道
ガの核の搭が発見された 。 これも BC3世紀まで遡
サッダーラの主塔においても 、発掘を進めるうち
されていて、インド外務省の 日本課長のヴァルマ氏
り、外側の石造のケーシングは BC1世紀頃と考え
はあのような地震を被災しながらもインドのこのプ
られている 。立派な彫刻のある 欄楯も 2割弱残って
ロジェクトのために来てくれたのは、これをたいへ
いる 。
ん重視しているしるしで悦ばしいという話をされて
またこのプロジェクトで は
、 コンピューターや ト
いた。私にとっては 、実は西宮では満足な食事も出
ラックなどの機材を提供して 、インド政府考古局側
来ず、風目にも入れない生活だったので 、インドの
の仕事の内容も向上を計るという面も含んでいたこ
ホテルの生活の方がはる かに快適に過すことができ
とも付言 しておく 。
たのである 。
サッダーラでのこの計画は 、近年のインドでの産
この計画によってサンチーでは、敷地の全面に植
業の進展とそれに伴う所得の向上によって、人件費
林が行われ、 また古代の貯水池が使用できるように
が高騰し、予算内での作業量が当初の計画よりも低
修復された。南部分の未発掘部分では、居住部分で
くなってしまい、計画の変更と遅延が余儀なくされ
人間文化・
45
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全芯らびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
写真 7 サッダーラ、主塔の基壇部分が修復されている、レ
ンガのコア部分が出現
写真 B サッダーラ
出土した主浴の欄楯の部材
写真 1
1 サッダーラ
ストゥーパの 9
3年 no.8当時の状況
写真 1
2 復元されたサッダーラのストウーパno.
8
断崖のむこうに広がる汚されていない原野
写真 9 主洛の欄楯
写真 1
3 サッダーラ
4
6 ・人間文化
発見された僧院(居住部分)跡
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
た。今回の事業は現実には 94年
3月頃に始まり、 96年の 1
1月頃
までには終ることとなっていた 。
しかし、発掘・修復の 仕事 量 が
予想していたよりも巨大となり、
また発掘による大きな発見があ
ったので仕事が非常に慎重とな
り、長百│いた 。 95年の第 3回訪
問の時も 、 99年の第 4回の訪問
の時にも、未だ完成できない状
写真
況であった。そして基金の枯渇もあ って、この時点
で日本側のユネスコ専門家としての仕事も終ること
1
4
たと考えられる 。
そこでユネスコの担当官は心配になり、自身ドイ
になった。そこで最終的にどうするかの方針を決め、
ツ人でもあることから、よく 知 っている石造考古学
残 りの仕事はインド考古局のイニシアテイプによ っ
の専門家であるドイツ、アーへン大学の教授で、モ
て完成されることになり 、 日本側としては、この計
へンジョダロの発掘等でも有名なヤンセン教授にユ
画は終結されたこととなっていた 。
0
0
1年に彼を現
ネスコとしてのチェ ックをたのみ 、2
地に送 った。 もともと西欧での建造物の修復の考え
6
. 今回 (2004
年 1-2
月)のワークシヨツ
プの内容
は、オーセンテ ィシティ (
本物{
生) を{呆つことを重
視し、修復する材料もオリジ ナル に使われていたも
9
9年以後、計画の進展状況は日本側でははっきり
のを厳密に使うという考えで あった 。 これは日本の
つかめず、
私は当然もう完成し たことと思っていた 。
木造の修復の考えとは異なる。木造では、部分的に
2
0
0
3年) 1
0月ころに外務省文化交流部国際文
昨年 (
のみ修復し、部分的に未完成でおいておくという考
化協力室の小野さんという方から研究室に突然電話
えは成 り立たない。材料を補充して原型に復原する
があり、サッダーラのス トゥーパの復元に問題が生
のが通常である 。西欧の考えから見るとオリジナル
0
0
4年 1月 にインドに行ってほしい
じているので 2
な石材がないのに、それを補充して復原するのは望
という連絡があ った。ユネスコから私の名前を指定
ましくないわけだ。そういう観点からヤンセン教授
してきているということだった。 これは私が過去 4
はサ ッダーラの主塔ではオリジナルな石材が 2割程
回の専門家評価のすべてに 出席 していたことか らで
度しか残 っていないのに 、新 しい石材を補給して全
あろう 。
体を復原するということはオーセンティシティの観
その後の外務省の小野氏やユネスコとの連絡や現
点から望ましくないとクレー ムを つけたらしい。 こ
地に行ってわかったことは以下のことだった。サ ッ
れらのことは実際にインドに行 ってみて後にはっき
ダーラの主塔の発掘と修復は、 99年以来ゆ っ くり進
りわか ったのであ った。
行していた。紀元前 1世紀頃のものと考えられる石
ユネスコとしては、このサッダーラの主塔の修復
造のストゥーパの表面の下にあ った紀元前 3世紀の
方法とその他サンチーも含めた修復の一般的方法に
アショカ王時代の焼 レンガのスト ゥーパが、表面の
ついて 、再 び、関係者を招い て検討するワークショ
石とガレキをとり除いて全貌を表わした段階で、そ
ップを開くということであった 。ヤンセン教授と私
の表面の石造のストゥーパをどのように復元するか
(I
n
t
e
r
n
a
t
i
o
n
a
lCouncil on
MonumentsandS
i
t
e
s) の会長 (
p
r
e
s
i
d
e
n
t)であ
り
、 ドイツ人のミュンへン大学の教授であったペツ
エツトさんが来るという 。 イコモスというのは国際
記念物遺跡会議とい って世界遺産を決定する母体で
ある 。 この計画は、日本がサンチーという世界遺産
に金を出し、さらにサッダーラもサンチーの延長と
という問題が出てきた。 というのは我々日本側とイ
ンド考古局側では、当初は 、全部を復元し 、一部は
復元せずに残し、内部の レンガ構造をも示すという
9年段階では表面の
計画であった。それを決定した 9
石造のスト ゥーパを覆う石はほとんと7
支っていると
考えられていた 。 しかし発掘を完了した段階で、実
の{也に、イコモス
際には 2割たらずしか残 っていないことがわか っ
して世界遺産になる可能性が大き いという重要な事
た。多分、いつか昔に何か付近 の別の工事に使われ
業であることから、会長自身 の出 馬となったのであ
人間文化・
4
7
インド仏教遺跡サンチ一、サ ッダーラの修復 ・保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
7
. サンチ一、ボパールを中心
とした観光圏の提案
インドはここ 7, 8年来、経済開
発においても開放政策をとり、経済
的に大きく発展している 。最近日本
からも大型の経済視察団が次々と訪
問しているようであるが、経済面で
の日本からの投資も欧米や韓国、シ
写真
1
5 0
4年ワークシ ョップー報告書の調印
ンガポールなどに較べて出遅れてい
るといわれている。観光面において
もインドへは 、日 本からの観光客に
ろう。日本は例のタリパンに破壊されたアフガニス
とっては、東南アジアや欧米に較べて、比較的知ら
タンのパーミヤンの大石仏の処理に多額の金を出す
れていない地域であるといえよう。インドは観光面
など、文化財の修復-保全の分野では、いまや非常
においても日本に期待するところが大きい。
にZ
重要な固になっているということもあったかもし
この事業は、このような日本のインドに対するや
れない。ペ ツエツトさんはパーミヤンをはじめ世界
や低い関心を、観光、文化面において更に高めたい
中の文化財の保存のために世界中を飛びまわってお
というインド側の期待によるところが大きい。サン
られるということであった。
チーやサッダーラの仏教遺跡に対する発揚・修復事
業は、仏教徒である日本人のインドへの関心をより
2
004年の l月2
8日から 2月 6日までデリーとボパ
ール、サンチーとサッダーラにおいて、以上 3人の
専門家とユネスコからの若い美しい女性の係官、
高め、文化的な観光対象として 、 このような期待を
満たすことの出来る絶好の機会であった。
従来日本からインドへの観光客は 、限られた数で
S
ar
a
hF
i
n
k
e (この人もドイツ人)さんとインド考
はあったが、ガンジス平原にある仏跡といわれる仏
古局の専門家 1
0人ほどがワークショッフ。を開いて保
教の聖地、例えば仏陀が悟りを聞いたボド・ガヤ一、
存方法を検討した。 ドイツからの 2人の専門家は考
仏陀が最初に説法をした鹿野苑=サールナート、晩
古学者であり、従来のオーセンティシティの観点か
年も長く滞在し、多くの説法をした地として知られ
ら石造のケーシング部分の修復をオリジナルに残っ
るラージギル、入滅の地クシーナガルや、ベナレス、
ている石材にのみ限ろうとしていた。既に下部の基
カジュラホーなどのヒンヅー教の有名な聖地や、タ
壇の円筒部分が復原されていて、それがヴォリュー
ージマハールやファテプール ・シクリ 註6のあるア
ムとして既に巨大で、あることから、上部の半球部を
グラに集中しがちであった。
小さいレンガのまま残すと、スト ゥーパのイメ ージ
インド政府としては日本からの観光客全体の数を
を誤ったものとし、またその寿命も短くすることに
増加させるのは勿論、従来あまり日本人の訪れなか
なるので、新しい石材も加え、少なくとも 8割近く
った中央より南の地方にも多くの人が訪れることを
まで復原するように私は主張し、それが受け入れら
期待している 。 もっと南のアジャンターやエローラ
れた 。 またストゥーパの周囲には地上と基壇上にあ
の石窟群は、その知名度が高いし 、観光のための施
る欄楯(手すり)も部分的にしか残っていないが、
設がすでに相当整備されていることから、ある程度
これも補ってできるだけ復原すること提案し、受け
の日本からの観光客も惹きつけている 。サンチーや
入れられた。この背景には西欧流のオーセンテイシ
その周辺は、従来、道路の整備が遅れていて、道路
ティの考えが、世界の異なる文化からのインプット
を受けて、最近少しずつ変化 してきていることがあ
交通の不便な地域であり、またホテルなどの観光施
設も十分でエなかったことから観光客は限られてい
るのだろう。
た。 しかしサンチーは仏教遺跡でもあり、その地域
このようにサッダーラの主塔の修復方針は決定さ
を全体として整備することは、北の仏跡地と南のア
れた。 2005
年の今頃には計画は全て完成しているこ
ジャンターやエローラとの聞を埋める地として臼本
とであろう 。
人や他の仏教固からの観光客の訪問地としては格好
の場所である 。 このユネスコの日本信託基金による
48 ・人間文化
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復・保全たようびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
写真 1
6 ボパールの広場に面したイスラム支配者の宮殿
写真 1
7 ボジュ プールの建設途上で放棄されたヒンドゥー寺院
左側に建設周スロープが見える
事業、サンチーとサッダーラの発掘 ・修復事業は こ
のような背景の上にあったの である 。
そしてこの背景にある目標を達成するためには、
このBhoj王はボパ ールから 28km南東の Bhojpur
にも 400k
n
iにもなる巨大な人造湖を造ったが、 1
5世
紀にその巨大な堤が破壊され、その湖は現在存在し
インド側としてはサンチーやサ ッダーラを発掘 ・修
a
j
aB
h
o
jによ
ない 。 しかしそのほとりの高台に、 R
復し、そこを整備するばかりでなく、その周辺地域
って建設が始められ、彼の敗戦によって権力が失わ
も観光圏として整備する 必要があると考えている 。
れたときに放棄されたヒンズー教の Bhojeshwar寺
何年の第一回の訪問時には、インド側の汁│レヴェル
院が未完成のまま残されている 。その周辺の石切り
では、観光開発にも基金が使えるとの期待が大きく 、
場には、寺院の材料の石を切り取るための岩盤上の
道路の髪備やホテルの整備に基金を使うことを提案
原寸図や、建設中の寺院に石材を運ぶスロープも残
してきた 。 しかし最初にも 述べたように、このユネ
っており、巨大な寺院の建設過程がみ られるのが輿
スコの基金はモニュメントに関するものにしか使う
味深い。 これはそれ自体で世界遺産になってもおか
ことができないので、 ナ
卜
│当局の期待にこたえること
しくないものである 。
は出来なかった。 しかし イン ド側 の期待に答えるた
サ ン チ ー の 北 約 7 ~ 8kmには Udayagiri
めのより具体的な方策として、また 日本人のインド
(Ud
a
i
g
i
r
i
) の石窟群がある。 4世紀から 6世紀に
への理解を少しでも深めるように役立つためにも、
至るグプタ時代のヒンズー教とジャ イナ教の石窟寺
この地域の観光開発を考え、できればその実現を計
院が20ほどで、アジャンターやエローラのように大
る必要がある 。 ここ では 、そのために以下のような
規模なものではないが、比較的小 さな石窟の前に柱
サンチーとこの地域の 中心都市、ボパールを中心と
をたて小寺院を形成しているものである 。
した観光圏の可能性について考察する。その圏内に
idishaには 、 現在のパキスタンに
先 に述べた V
は以下に述べるような、 仏教遺跡以外にも立派な観
あるタキシラのギリシャ植民地からの大使であった
光対象が数多くあり 、各々 の場所は直径約 60kmあ
Heriodorus によ っ て 建 て ら れ た KhambBaba
P
i
l
l
a
r という記念柱が残っている 。 これは彼がヒ
まりの圏内に収まり、サンチーとボパールからはそ
れぞれ 40km以内にあり、容易に訪れることの出来
ンスー教に改宗した記念に 、ヴイシュヌ神に捧げら
る圏内である 。
れたものである 。
まずこの地域に行くには、デリーより空路約 1時
ボ パ ー ル の 南 東 40km の ヴ ィ ー ム ベ ト カ
間のところにある 州都ボパールに飛び、そこから行
くことになるが、そのボパール自体がすばらしい観
Bhimbet
k
aでは、ごく最近になって、森林の中にあ
る岩山の崖の窪みなどで初期旧 石器時代から中世に
光対象となる 。人口約百万の都市で、工業都市でも
至る狩猟民の洞窟函がよく保存されて大量に発見さ
あるが、巨大な二つの美しい人工湖のほとりにある
れた 。野牛、クマ、 トラ、サイなどの動物、狩猟シ
1世紀伝説的な 王 Ra
j
a
美しい町である 。 この湖は 1
ーン、通過儀礼、子供の誕生、踊りなどを描いてい
B
h
o
j によって造られたといわれ、現在では緑の豊
る大変貴重なものである 。 また浸蝕された岩山の景
富な美しい景観と各種の水上のスポ ーツの機会を提
観も森林の中にあって独特なものである 。 またこの
供している 。現在の町は B
h
o
j王によって建設され
周辺 には伝統的な生活を
たB
h
o
ja
p
a
1の上に 1
8世紀初頭に建設された 。 モス
といわれるインドの先住民の集落がいくつかあっ
レム時代のマーケッ ト広場とインド最大級の巨大な
て、建築的にも、その生活様式もわれわれにとって
モスクが現在もなお機能している 。古い町並みが中
極めて面白い。 これも含めて全体が世界遺産に登録
心部にあ り、イスラム式の建築の多くのモニュメン
されている 。
トがあって、建築的にも興味のある町である 。
r
i
b
a
lv
i
l
l
a
ge
続けている t
aisenには J3世紀初期の
ボパールの東約 30kmのR
人間文化・
4
9
インド仏教遺跡サンチー、サッダーラの修復・ 保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
頃のこの地方のマルワの王国の中心であった砦があ
り良質の宿泊施設が完成するであろう 。 日本からの
る。丘の頂上のカラフルなストライプのある巨大な
なんらかの援助によりサンチーにある程度の質を備
砦で、大砲の砲身、宮殿、井戸、貯水池などがある 。
えた宿泊施設がさらに造られることが望ましい。あ
またボパールにはインド全土から集められた多様
な住宅を実物展示している広大な野外博物館
るいは経済発展中のインドの民間で独自に建設され
ることも可能となるであろう 。
(
N
a
t
iona
lMus
eumo
fMan
k
i
nd
) がある 。 これはき
わめて大規模なもので、インド各地の村人がここに
一時期滞在して、自分たちが村で住んでいる住宅を
チーのいずれを観光基地としても、それぞれ日帰り
この博物館に展示のために建て、そこに生活用具も
の観光圏として成立させることを提案する 。
これらの地域は先に述べたようにボパール、サン
の圏内にあり、その圏域を全体として整備して 一つ
置き、場合によってはその土地の服装をして住宅内
にいるというものである 。インド各地の多様な住宅
がこの博物館ー ヶ所で見ることができ、われわれ住
宅を勉強する者にとっては非常に面白い野外博物館
である 。
8
. サ ン チ 一 、 サ ッ 夕、
ーラを中心とした仏教文
化景観圏を世界遺産に
上に述べた観光圏の大きな目玉としてサンチーと
サ ッダーラを中心とした仏教文化景観圏を考えてい
る。 もちろんこの提案は単に観光圏の一部としての
これらの地域の交通面については、サンチー遺跡
みではなく仏教文化景観という新しい概念の文化遺
は鉄道の駅がから 1km以内の場所にあり、ボ、パ ー
産の保全という非常に重要な事業であることは申す
ル、ヴイデイシャも鉄道でも便利にアクセスできる 。
までもない。既にサンチーが世界遺産であることか
その他の観光の場所は車によることになるが、それ
ら、その拡張として附近の仏教遺跡をつなぐ紅、教文
らにも鉄道の拠点から容易に行けるところにあり、
Buddh
is
tCu1
turalLandscape) 圏という
化景観 (
鉄道を中心とした観光にも便利で、
ある 。インドは鉄
新しい概念を入れ、それを世界遺産とするよう提案
道網が発達し、また私的セクターによる 豪華な列車
をしたい。その概要は以下のとおりである 。
ホテルによる観光も計画されているので、鉄道に近
サンチーとサッダーラ以外の他の仏教遺跡群のな
いという点も重要である 。 またサンチーか ら約
かでも、 Mur
el
khur
d とAndher
は特にすばらしい
46kmの南西のボパールには鉄道が通じているのは
もちろん、空港もあり、ボパールへは交通の点から
は問題は少ない。ボパールなどの拠点からの道路は
環境にある 。見わたすかぎりのまわりを広大な無垢
な自然、に固まれている 。そこへの訪問者は、昔仏教
の修行者達が、その壮大な自然の中で嘆想し修行し
従来十分には舗装されておらず、車での観光は不便
ていた様子を感じることができる 。 またわれわれは
であったが、現在着々と舗装部の拡幅と改良と が進
壮大な自然景観の中で、昔の修行僧たちの生活を追
行中で、まもなく快適な道路が整備 ・完成され、こ
体験することが出来る 。古代の僧たちはこれらの教
れからは便利になるであろう 。
団 (
s
angha) で嘆想し、修行していたのみではな
問題はホテルがいまだ整備されていないことであ
く
、 Eいのサンガを巡礼し、教えを請い、修行して
る。サンチーには遺跡の近くに、国営のツ ー リス
いたのであろう 。 またそれらのサンガから附近の
ト-ロ ッジというのがあるが、設備が悪く観光客受
d
is
haに托鉢に行 ってい
村々や古代の主要都市の Vi
0
0
4年現
け入れのためには全く不十分で、あ ったが、 2
たであろう 。あるいは附近の人々はこれらの仏教の
在、拡張・改良工事が進行中である 。ホテルがある
修行センターに教えを請いに、あるいは布施をしに
程度整備されている州都ボパールを観光の基地にす
訪れたであろう 。 このようにこれらの古代の修行共
ることも十分可能であるが、サンチーやサッダーラ
同体の仏教遺跡地は、それらの遺跡のみではなく、
遺跡での朝明けの景色や夕陽の景色を見ることは、
周囲の自然景観、自然そのもの、集落
この地や古代の僧たちの生活を知るためには欠かせ
み、またそれらを結ぶルートも含めて、当時の仏教
ない。それを見るためにはサンチーに泊ることによ
僧の生活と外部の人々との交流を推測させ、実体験
ってしか可能ではない。現在はサンチーのツーリス
できるような文化遺産だといえる。これは建造物な
都市をも含
ト・ロ ッジの施設に耐えられる元気な人達にしかそ
どのモニュメントの文化遺産や自然景観、周辺の集
の貴重な経験は恵まれないが、そのロッジが改修さ
t
a
ngi
bl
e
) の文化財に、僧の
落や都市などの有形 (
れている途上なので、間もなく数に限りはあるがよ
托鉢や巡礼を行った生活やそのルート、周辺の広大
50 ・人間文化
インド仏教遺跡サンチ一、サッ夕、
ーラの修復・保全ならびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
冥想して修行した生活のような無形
な自然、のなかで H
(
in
t
a
n
g
i
b
le)の部分をも含んだ文化景 観 (
Cu1
tu
r
a
l
L
ands
c
a
pe)、 古 代 の 仏 教 文化 景観ということが出
来るであろう 。 このような新しい概念の世界遺産と
なるのではないだろうか。
まずこのアショカ王ゆかりの仏教遺跡サンチーと
サッダーラがその中心となるのは当然である 。サン
チーは世界遺産にも指定されている 。サッダ ー ラも
写真 1
8 ムーレルカード仏教精舎遺跡
発掘 -修復の完成後にはサン チー の拡大した仏教遺
跡の 一部としてその指定を受ける可能性 が大きい 。
周辺の丘陵にあるこの他の仏教遺跡、ソナリ、アン
ダハー、ムーレル ・カード、ノ Tングラリアなどはそ
れぞれ特色があり、周囲に雄大で静かな緑の景観が
広 が っていて、仏教の修行にいかにもふさわしいと
思える場所である 。 それらの場所もおいおい発掘 ・
修復されていくとすれば仏塔 ・僧院を中心とした仏
教遺跡群をつなぐ巡礼回廊というべきルートの復原
が完成する 。 これは古代の修行僧たちが巡礼 し、修
写真 1
9 ムーレルカード仏教精舎遺跡からの眺望
行したルートであり、現代 の仏教徒にとってそれを
なぞることによって古代の仏教のようすを体験する
ことができる貴重な場所である。
これらの丘の上の大宗教施設群には 、最盛期には
おそらく何百人もの僧が共同 生活をし、巡礼しなが
ら修行していたのであろう。 9
4年から今年にかけて
サッダーラの遺跡で発見され た多くの僧院の遺跡か
AroundSanchi
写真 2
0 アンダ八一仏教精舎遺跡のストゥーパの状況
(
I
)
.
.
.
.
J縫光薗
図 4 サンチーを中心とする仏教文化景観圏と
写真 2
1 アンダ八一仏教精舎遺跡の敷地からの銚望
サンチー・ボパールを中心とする観光圏
人間文化 ・ 5
1
インド仏教遺跡サンチ一、サッダーラの修復 ・保全芯らびに世界遺産としての仏教文化景観圏の提案
らもこのような人数の僧たちが住んでいたことが推
うな計画の一端を担うことは、そしてさらにこの計
測される 。 また当時の仏教の教団のこのような共同
画を進め完成することに参加できるとすれば、日本
生活の場所は、教法の伝授と研究の場とであるのと
とインドの関係にと って望ましいばかりでなく、東
同時に、土地の人びとがここを訪れて布施し、それ
南アジアや他のアジア諸国の仏教徒に対しでも大変
によって人びとが功徳をつむことのできる場所、い
意義のあることであろう 。
わゆる「福田」として機能していたのである 。註7
サンチーの古代の参道のほとりに、人びとか らの喜
参考文献および註
捨を容れるための巨大な石のボウルが現在も 残っ て
註 l 千原大五郎:故人 ( 1 9 16 ~ 95? ) 。 インドネシ
いるが、 当時は附近の町や村か ら多くの信徒がこれ
アのボロブドウール遺跡の保存に従事。拓 殖 大
らの場所を訪れて功徳をつんでいたにちがいない 。
学教授、大建設計専務などを勤める 。
このように多くの仏教精舎遺跡を結び、当時の中心
著書に「東南アジアのヒンドゥー教 ・仏教建築」
都市であるヴイデ ィシャや周辺の集落を結ぶルート
とそれらを取り巻く雄大な自然景観を一括して、仏
鹿島出版会
註 2 近藤
治
「インドの歴史一多様の統一世界 j
講談社現代新書 4
5
6
教文化景観圏として世界遺産にしようとする提案で
ある 。
註 3 西川幸治「仏教文化の原郷をさぐるーインド
9
. むすび
註 4 前田専皐「インド哲学へのいざない
からガンダーラまで JNHKブックス
ここで述べてきたようにサンチーに加えてサ ッ夕
、
ダとウパニシャ ツ ド
ヴェー
j 日本放送協会
5 Arc
h
a
e
o
l
o
g
i
c
a
lS
u
r
v
e
yo
fI
n
d
i
a
“S
a
n
c
h
i"
ーラのすばらしい仏教遺跡が日本信託資金により修
註
復され、仏教文化景観圏が成立し、さらに今後、以
註 6 ファテプール ・シク リ:アグラ西方約 30km
上に述べたような周辺の多くのモニュメントを加え
にある 。 1
6世紀後半アクパル大帝のときムガー
て一つのまとまった観光圏が形成されたときには、
ル帝国の首都として建設されたが、数年後に放
北部の豊富な観光資源に対して、また南のア ジ ャン
棄された都市遺跡。水の不足のためであったと
ターやエローラのグループの問を埋める文化観光の
言 われている 。宮殿、モスク、廷臣たちの住居
地とし て、この地域が浮かび上がってくることにな
などすばらしい建築群がそのまま残っている 。
る。 日本人にとってもより広い選択の余地が与 えら
註 7 奈良康明
れることになり 、 より深くインドを知ることが出来
典弘文堂
るようになる 。更に将来には、サンチ一、サ ッダー
ラのみではなく、アンダハー 、 ムーレルカードも発
掘・修復されれば、古代の仏教修業の巡礼回廊
(
p
i
l
g
r
i
mc
o
r
ri
do
r) がより具体的に復原されるこ
とになり、アショカ王時代からの古代の仏教の修行
のありさまが追体験できるように復原され、文化的
観光の対象として、特に仏教徒にとっては貴重 な場
所となるであろう 。私としては、日本がさ らにユネ
スコの信託基金を用いてアンダハーとムレルカード
の修復 ・保全 を笑行するようユネスコに提案はして
おいた。
このようなルートが整備されれば、デリーから出
発し、ターシ、マハルの古都アグラ、ヒンド ゥ寺院と
彫刻のカジュラホ、仏教遺跡中心のサンチ一周辺の
仏教文化景観の地域を通 ってか らエローラ、ア ジ ャ
ンターへと連続した文化的観光のルートが完成する
ことになり、日本や仏教諸国からの多くの観光客が
訪問することになろう 。仏教徒の国の日本がそのよ
5
2 ・人間文化
「インドの仏教」
日本宗教事
研究ノート
自分の「忘れ」に気づくこと
忘 却 の 自 然 誌 へ の ア プ ロー チ
細馬宏通
人間文化学部生活文化学科人間関係専攻
この小論で、は、自分で自分の
I
忘れ j に気づく、
r
がどこでその傘を「忘れた jのか、あの駅だ‘ったか、
という現象について、「忘れた J 忘れていた j とい
あの喫茶庖だっただろうかと、自分の「忘れた j 現
ったことばを手がかりに考えます。
場を思い出そうとします。そして、喫茶庖に入ると
ある場面で使うことのできることばが、別の似た
きには、どうも傘立てに傘を置いた「記憶がない j
場面では使えないことがあります。 このとき、 二つ
ことに気づ く。さらにさかのぼって 、電車を降りて
の場面の差には、そのことばをめぐる認知を考える
駅の改札に切符を入れようとポケットを探ったとき
鍵があります。 このように、ことばの使用例をいく
の両手に、もう傘はなかったような気がしてくる 。
つか考えて比較していく方法は認知言語学をはじめ
では、電車に乗るときはどうだったか。確かわたし
とする言語学の領域でよく使われます。そこで同じ
は端の席に座って、その席のひじ掛けので、っぱりに
手法を以下の議論でも取り入れようと思います。
傘を置いたはずです。 ときどき傘の柄がひじ掛けか
ただし、議論の目的は、「忘れる j ということば
らずれそうになって、ちょっと押さえたのも覚えて
の性質自体よりも、「忘れる」という現象のもって
います。 となると 、 どうやら電車の中に「忘れた」
いる性質を明らかにすることです。そこで、言語学
らしい。
的な手法にとどまらず、さまざまな「忘れj の状況
についても、より自由に考えを拡げていこうと思い
たぶん、電車を出るときが、わたしが傘を「忘れ
ます。 この小論が通常の学術論文とは異なる文体で
る」決定的瞬間だ‘ったのです。けれども、じつを言
書かれているのも、考えを拡げるためのひとつの方
えば傘に気づかなかったのは、電車を降りるときだ
法です。
けではありません。電車がホームに着く少し前から、
わたしは傘がどうなっているか気にもとめていなか
(
1
)
にいるあいだ、傘に気をとめていた瞬間など、ほと
ったような気がし ます。いや、それどころか、電車
「忘れる j ということを考えるときに、思い出す
んどなかったと言っていいかもしれません。さらに、
ことがあります。
いつだ、ったか、電車で、向かいに座 っている見知
電車を降りたあと、手がなんとなく軽くて物足りな
らぬ人の脇に傘が置かれていて、わたしの降りる駅
うのが、これまたよく思い 出せま せん。
はまだずいぶん先で、何となくその傘に目をやって
こんな風に思い出してみると「傘を意識しなかった
時間 jというのはじつはいくらでも見つかるのです。
いたのです。そのうち電車がホームに着いて、扉が
開きました。すると、向かいの人がとつぜ、ん立ち上
い感じがしたはずなのに、その物足りない感触とい
もちろん、 電車を降りる ときに、少しでも傘に目
がって、すたすたと扉の方に歩き出したのです 。
をやれば、傘を取り上げて電車を降りたはずです。
「忘れましたよ」と声をかければよかったのですが、
その意味で、「傘を意識しなければならない瞬間」
どういうわけか、ホームに出て行くその人の背中が
があったことは確かです。
妙に自分の背中に似ているような気がして、わたし
ですから、「傘を忘れた瞬間」とわたしがあとか
はぼう っと してしまいました。そして、自分は自分
で何かを忘れるところを見ることができないのだ、
ら考えるのは、正確に言えば、「傘を意識しなけれ
ばならなか った瞬間と 、傘を意識しなかった時間の
という当たり前のことに気づいて、ひどく動揺した
重なり Jのことなのです。
のです。
じつを 言 えば、わたしは傘を扱っているときでさ
この、「自分が忘れるところを見ることができな
い」という感じは、過去の自分を思い出すときにも
え、傘のことを意識しているとはかぎりません。手
起こります。
わけではないし、傘を取るときだって、そういつも
に提げているときに、いつも傘の重みを感じている
いつも「傘を忘れてはいけない」と意識しているわ
たとえば、小雨が降り出してふと手元に傘がない
のに気づく。しまったと思ってからわたしは、自分
けではない。
そう考えると、じつはわたしは電車を降りるとき
人間文化・ 5
3
自分の「忘れ」に気づくとと一 忘却の自然誌へのアプローチ ー
にいつものクセで傘をひょいと取り上げて降りたの
見ながら、「わたしは 1
0月 1
0日にも、 1
1日にも傘を
に、そのことを思い出せないだけなのではないか、
忘れている j と言うことはできます 。つまり同じ
という気もしてきます。そういえばわたしは電車を
「忘れている j でも、過去の経験や記録のことを言
降りてから、ホームの自動販売機で缶コーヒーを買
うばあいは「わたしは傘を忘れている」と言っても
ったのを思い出します。とすると、もしかして、その
不自然、ではないのです。
販売機のかたわらに置いたのではないでしょうか。
こんな風に、傘を意識しなければならなかった瞬
(3)
間がいくつも現われると、わたしの考えはとたんに
何かに気づくとき「あ j ということばを発するこ
揺らいでしまいます。あそこにもあそこにも、わたし
とがあります。「あ」ということばは、何か新しい
の傘が置き忘れられているような気がしてきます。
できごとに気づいたことのしるしであると言えるで
しょう 。
わたしは、自分がいつ傘を意識し、いつ意識しな
かったかを、 一刻一刻正確に思い出すことはできま
この「あ」をつけて「あ、忘れた」あるいは「あ、
忘れていた j と言うこともできます。 しかし考えて
せん。ただ、傘を意識しなければならなかった瞬間
みると 、こ れはふつうの動詞にはなかなか当てはま
をいくつか拾い上げて考え、その瞬間に、自分の意
りません。走っている人が自分のことを「あ、走 っ
識が傘にとどいていないのに気づくとき、自分はお
たJI
あ、走っていた」と言ったり、捜している人
そらくその瞬間に傘を「忘れた j のだろう、と考え
が「あ、捜した JI
あ、捜していた j と言 うのは、
るしかないのです。
よほどのことです。たぶん、走ったり捜したりしな
がら、疲れでもうろうとしていたか、うとうとして
(
2
)
「忘れる」ということは、には、考えてみると不思
議な性質がいくつかあります。
たとえば「わたしは傘を忘れている」ということ
ばは、文法の上ではなんの問題もありませんが、ち
ょっとおかしな感じがします。 自分のいまの状態を
いたに違いありません。
こうした表現にうまく合うのは、かぎられた動詞
です 。 たとえば、字を書き損じて「あ、まちがえ
た リ と 言 う。あるいは、約束の時聞から何分も過
ぎているのに気づいて「あ、遅刻した !Jと言う 。
あるいは自動車を運転していて、いつのまにかセン
指して「わたしは傘を忘れている」と 言 えるわたし
ターラインを越えているのに遅れて気づいて「あ、
は、まさにいま、わたしと傘のことを思い出してい
センターライン越えてた !Jとあわててハンドルを
切る 。
るからです。思い出せることをどうして「忘れてい
るJと言えるでしょうか。
自分がおぼえていることをきして「あ、おぼえて
彼は傘を
いっぽう、「あなたは傘を忘れている JI
忘れている」と言うことはできる 。電車から降りて
たJとはあまり言いませんが、たとえば何十年ぶり
かでひもを手にとって、手が勝手に動いていつのま
傘を持っていない人に「傘を忘れてるよ」と言えば、
にかあやとりができてしまったときに、「あ、おぼ
えてた」ということはできます。
その人はあわてて電車に戻るでしょう 。「いま傘を
忘れている Jという状態は、他人によってしか言い
当てられないのです
他の動詞ならどうでしょうか。「わたしは走って
いる JI
わたしは探している」どれもそれほどおか
どうやら「あ、 00した JI
あ
、 00していた j
ということばは、意識しないうちに自分とかかわり
のあるできごとが発生していて、それに自分の意識
が遅れて気づくときに発せられるようです。
しくない。
どうやら「忘れる」ということばには、他の動詞
「忘れる j という動詞には、この性質はぴったり
にはない奇妙な性質があって、それは、「自分は自
分でいま何を 『
忘れている j か
、 言い当てることが
あてはまります。ある状態が進行しているにもかか
わらず、自分がず、っとそれに気づかずにいる 。次の
できない」ということと関係しているようです。
瞬間、「あ」という声とともにその人はその状態を
このことは、現在の自分ではなく、かつての自分
のことについて「傘を忘れている j と言うばあいを
考えると、さらによくわかります。たとえば日記を
54 ・人間文化
「忘れていた」ということに気づきます。
多くの動詞では、「あ、 00した JI
あ
、 00して
いた j ということ、すなわち「できごとに自分が遅
自分の「忘れ」に気づくことー 忘却の自然誌へのアプローチ ー
れて気づく」ということは特別なばあいでしか表現
されません。それに対して、「忘れる」という動詞
にとって、「できごとに自分が遅れて気づく
Jとい
(また)忘れた」と言えるようです。
さらに、空気枕を見て、突然それを人に渡す約束
をしていたのに気づいて「あ、(空気枕を人に渡す
うことは、むしろ本質なのです。
のを )忘れた」ということもできます。
(
4
)
に空気枕があるかどうかが問題ではな い。空気枕の
ということは、「忘れた j でも 、やは り、目の前
わたしたちは自の前に物がないときに、忘れ物に
存在をき っかけに、過去のある時点で空気枕に対す
気づくことが多い 。「あ、忘れた」も「あ、忘れて
る行為が欠けていたこと、いわば自分の為すべきだ
いた j も、自 の前になにかがないときによく発せら
った過去の行為の不在に気づくのです。
れます。ですから、つい「忘れるということは自の
前の不在が原因なのだ」と考えたくなります。
以上からわかるように、「あ、忘れていた」も
「あ、忘れた」も、単に目の前にものがない、とい
しかし、よく考えてみると 、自の前 に物があると
う不在感だけでは説明できない。たとえ目の前にも
きでも「あ、忘れた」あるいは「あ 、忘 れていた J
のがあ ったとしても、そこからわたし自身の感覚や
が発せられるばあいがあることに気づきます。
行為の不在感へと注意が向かないと、これらのこと
ばは発せられないのです。
たとえば、わたしの自の前 にとつぜん空気枕があ
らわれたとき、「あ、(空気枕を)忘れていた j と言
(5)
って空気枕をカバンに入れることができます。つま
ここまでですでに明らかになったように、じつは
りわたしは、空気枕を見て、空気枕をカバンに入れ
同じ 「忘れる」という動詞でも、「あ、忘れた」と
「あ、忘れていた」のあいだにはいくつか違いがあ
ることを忘れていたのに気づくわけです。
ただし 、空気枕をあち こち探したあ げくにようや
ります。
く空気枕が目の前に現われたときには「あ、 (
杢気
枕を )忘れていた」とは言えない。あるものをあち
たとえば、旅仕度をしながら 、カ バンの中に杢気
こち探すという状態は、「あ、(あるものを )忘れて
枕がないのに気づくとき、「あ、忘れていた j と言
いた」の直前としては、ふさわしくない。いっぽう、
うのと「あ、忘れた」というのとでは、少し状況が
別のもの、たとえばあちこち探していた寝袋を見つ
違ってきます。
けたときに、「あ 、(空気枕を )忘れていた Jと言う
ことならできます。
「あ、忘れていた」といったあと、たとえばわた
しは、部屋のどこかから空気枕を探し出してカバン
ということは、日の前に空気枕があるかどうかが
に入れることができるかもしれません。わたしに欠
問題なのではなく、むしろ、直前の自分の状態、つ
けていたのは、空気枕そのものではない。わたしに
まり「空気枕」に対する感覚が欠けているという状
欠けていたのは、カバンに空気枕がないという感覚
態が、「あ、 (
空気枕を)忘れていた」ということば
(
不在感)だったのです。
につながっていることになります。言 い換えれば、
が、「あ、忘れた Jのばあいはどうか。おそらく
その場に空気枕はありません。わたしはたとえば、
「あ、忘れていた」というとき、わたしは、なにも
のかに対する感覚がたったいままで自分に欠けてい
あらかじめどこかの庖で空気枕を買っておけばよか
たこと、いわば自分の感じるべきだった感覚の不在
ったのですが、それをしなかったために、「あ、忘
に気づくのです。
れた」と叫ぶはめにおちいったのです。このように、
「あ、忘れた」には、ある種のとりかえしのつかな
「忘れた j はどうか。 いきなり空気枕が自の前に
さが含まれています。
現われたのを見て、「あ 、(空気枕を )忘れた」とは
「
あ 、ま た忘れた 。 これで二回目だ」のばあいは
ふつう言いません。 しかし、「あ、また忘れた 。わ
どうか。わたしは「あ、忘れていた j と同じく、部
たしったらうっかりしてるなあ j とか「あ、また忘
れた 。2回も忘れるなんて」ということはできます。
屋のどこかから空気枕を探し出してカバンに入れる
どうやらいままでの忘れの履歴を 言 うときは「あ、
はとりかえしがつきません。
かもしれません。 しかし、 2回忘れた という履歴に
人間文化 ・
55
自分の「忘れ」に気づくこと
忘却の自然誌へのアプローチ
向けます。つまり 、「あ、忘れていた」とは、「直前
さて、旅先で、カバンの中に空気枕がないのに気
づいて、わたしは「あ、忘れた j と言います。 この
までの自分の感覚に対する不在感」のあらわれです。
ときわたしが悔やむのは、なぜ 自分はあのときカバ
(6)
ンに空気枕を入れなかったのだろう、ということで
すでに 書いたように、他人はわたしが忘れている
す。 ここでも、とりかえしはつかない 。「あ、忘れ
ことを 言い当てることができますが、わたしは自分
た」では隔たった過去に注意が向いています。
が忘れていることを言い当てられません。そのため、
それから何回かして、そろそろ寝ょうと旅行カバ
わたしは、他人から 言い当てられてはじめて、自分
ンの中をのぞきこんだわたしは、今度は「あ、忘れ
が何かを忘れていたことに気づくことがあります 。
ていた」と 言います。 このとき、わたしが悔やむの
「忘れ」が明らかになる過程では、他人がかかわり
やすいのです。
は、空気枕がないことをすでに一度確認していたは
ずなのに、なぜいまのいままで、気つ功、なか ったのだ
?
J とたずねられた
ろう、ということです。「あ、忘れていた」では直
前までの過去に注意が向いています。
とします 。 このとき、「そうそう、忘れていた」と
ここで、電車に傘を忘れる話を思い出しておきま
かしい。いっぽう、「空気枕は?J["あ、忘れた j な
たとえば、誰かに「空気枕は
いうことはできますが、「そうそう、忘れた j はお
しょう 。わたしは、何かを「あ、忘れた j と感じる
らおかしくない。
とき、その何かを意識しなければならなか った瞬間
「忘れていた j のほうは、相手のことばを「そう
をいくつか拾い上げて考える 。そして各瞬間に、自
そう」と認めることができるのに、「忘れた」のほ
分の意識がその何かにとどいていないのに気づく 。
うは「そうそう Jと認めることはできず、「あ」と、
あくまで自力で気づかなければならない。
過去になんらかのできごとが時間的にひろがってい
て、そのひろがりの中の特定の時点に、為すべきで
あった行為を見いだす。 これが「あ、忘れた j とい
う感じでした 。
「あ、忘れた」でも「あ、忘れていた j でも 、直
前から過去に向けて、できごとがひろが っている 。
しかし「あ、忘れた Jでは、その広がりの特定の時
点に、自分の行為の不在を見いだそうとします。い
っぽう、「あ、忘れていた」では、その広がりのい
ここから、「忘れていた j と「忘れた」とのもう
ひとつの違いがわかってきます。 まず、相手のこと
ばは杢気枕そのものではありません。「空気枕は ?
J
ということばによって喚起させられるのは、相手の
注意に対応する「空気枕j がないこと、つまり「不
在感」です。
相手のことばに対して「そうそう j と応じること
は、自分にもその不在感が生じたことを認めること
ちばん最近の時点、つまりいまの直前の時点にいた
です。そして、その不在感がいままでは生じてこな
るある時間の長さに、自分の感覚の不在を見いだそ
かったと認めるとき 、「不在感の不在感」が遅れて
や ってきます。 わたしは「そうそう、忘れていた j
うとします。
と続けます。「忘れていた」では、いま自分にも相
どうやら「あ、忘れた」と「あ、忘れていた j と
の違いは、その注意が過去のどこに向けられている
かにあることがわかってきました。
「あ、忘れた Jでは、時空間の配置変化によって、
手と同じような感覚 (
不在感)が生じていることを
認めながら、それまでその感覚(不在感)が不在だ
ったことに注意を向けています。
い っぽう、「あ、忘れた j とわたしが言 うとき、
過去の自分の行為の不在に注意が向けられます。つ
わたしは「感覚の不在」よりも、わたしの過去の行
まり、「あ、忘れた Jは、「隔たった過去における自
分の行為に対する不在感」のあらわれです。
為が不在だったことに注意を向けている 。「忘れた J
とは、本来自分が行なうべきだ、った行為を認めなが
「あ、忘れていた j でも、時空間の配置変化がき
っかけとなります。 しかしそこからは「忘れた」と
は違う 。わたしは、ほんの直前まで自分がある感覚
に気づいていなかったこと(感覚の不在)に注意を
5
6 ・人間文化
ら、ある時点での「行為の不在Jに注意が向くこと
なのです。
つまり「忘れていた」では、自分の感覚の不在に
自分の「忘れJに気づくことー 忘却の自然誌へのアプローチ ー
さかのぼっていくにあたって、いまの不在感を相手
約束の当の相手に「会う約束は
?
J とたずねられ
と共有できるのに対して、「忘れた」では、自身の
て「あ、 (
会うのを )忘れた」と答えるのは、不可
過去の特定の時点へと退却するにあたって、いまの
能ではありませんが、いかにも不自然です。会うと
不在感を「そうそう」と認めることができない。
いう行為はすっぽかされてしまってもはやとりかえ
しがつかないのですから、「あ、 (
会うのを )忘れた j
「そうそう、忘れていた」とわたしが言う場合、
そこでその話が終わるわけではありません。おそら
くわたしは、その場から空気枕を探し出して、カバ
ンに詰めたり、相手に「ハイ Jと手渡すでしょう 。
という 言い方は、うまくあてはまりそうな気がする
のに、じ っさいはうまくあてはまらない。
いっぽう、約束の相手ではない人から「そういえ
ば彼と会う約束してなか った ?
J と言われて「あ、
つまり、「そうそう」ということばは、単に相手の
(
会うのを )忘れた j と答えることならあります 。
ことばに現われた不在感に和しているだけでない 。
このことから、「忘れた Jと言えるかどうかには、
相手のことばによって現れた、自分と相手の不在感
相手と約束の感覚を共有するかどうかがかかわ って
を解消する方向に注意を向けている意味でも「そう
いることがわかります。約束の当の相手を前に、約
そう Jなのです。
束の感覚を共有しないことは、むずかしい。しかし、
いっぽう、「あ 、忘れた」とわたしが言う場合、
わたしはすでに空気枕を入れるという行為をやりそ
約束とは関係のない相手となら、約束を共有しなく
こなったあとです。それが旅行前だとしても、その
「あ、忘れた j と、彼と会うのをすっぽかしたこと
てもさほど不自然ではないのでしょう 。わたしは、
行為をもう一度やり直さなければならない、たとえ
を心の中で悔いながら、自の前の相手とは楽しく時
ば、どこかの庖へ行って空気枕を買いに行かなけれ
間を過ごしてしまうかもしれません。
ばならない。旅行後だとしたら、もはやとりかえし
がつかない。ですから、「あ、忘れた」のあとの不
当の相手に「さあ、 (
約束なんて )忘れた j とし
在感は解消されるとは限らず、あきらめられる場合
らぬふりをすることは、できなくはありません。が
、
が出てきます。
完全にしらを切 ったことにはなりません。なぜなら、
「忘れた」と判断できるということは、その対象で
このように考えていくと、「忘れていた Jはどち
ある「約束」を忘れたか忘れていないか判断できる
らかといえば未来志向的でとりかえしがつきやすい
ということであり、つまりは、指し示し可能な「約
のに対し、「忘れた j のほうは過去志向的でとりか
束Jらしきものがその人の意識にあることを示して
えしがつきにくいことがわかります。
いるからです。
(
7
)
0の内容は思い出せなくとも、 00が意識の中で指
相手に「今日わたしと会う約束だったでしょう ?
J
と言われたとき、わたしたちはふつう「あ、忘れた」
し示し可能な輪郭を伴っていることは確かです 。
f(OOを)忘れた」と人がいうとき、たとえ 0
ではなく「あ、忘れていた」と答えてしまいます。
「あ、忘れていた j と答えることは、いま約束を
思い出したという意味を含んでいます。相手のこと
ばに対して「あ、忘れていた」と答えるとき、わた
「彼女のことなんて忘れた」ということばがどこか
強がりに聞こえてしまうのは、その人が、「彼女の
こと j と忘れた対象を特定できるていどには「彼女
のこと」を意識しているとわかってしまうからです。
ですか ら「約束は
?H忘れた」と答えたとしても、
しは単に約束を忘れただけではなく、「自分は約束
を思い出せるにもかかわらず、いまのいままで気づ
おそらく「とぼけてもだめ Jと言 われるのがオチで
かなかった」ことを明らかにしているのです。
束?
J とでも答えるところでしょう 。
しょう 。 本当に心当たりがなければ、「え? 約
わたしは、「あ、忘れていた」ということで、約束
に対する感覚を相手と共有しながら、それまで約束
に対する自分の感覚が不在だったことを悔い、さら
少し話がそれました。ともあれ、約束についても、
他人とのやりとりで発せられる「あ、忘れていた」
に「ごめん j と付け足してから、相手に何か埋め合
には、 「あ、忘れた j にくらべて、より回復的なは
わせをしなければと考えます。「あ、忘れていた j と
いった瞬間にそれだけの借りができてしまうのです。
たらきがあることがわかります。それは「忘れてい
た」ということばが、話し手の過去の感覚の不在だ
人間文化・ 5
7
自分の「忘れJに気づくこと一 忘却の自然誌へのアプローチ ー
けでなく、いま現われた感覚の存在を浮かび、上がら
せて、約束の感覚を相手と共有してしまうからで
しょう。
(
8
)
r
ここまで、「忘れた J 忘れていた Jということば
について考えることで、自分の「忘れ」に気づくとい
うことがどのような現象なのかを論じてきました 。
自分の「忘れ」に気づくということは、なん らか
のできごとに遅れている自分に注意を向けることで
あり 、自分の感覚や行為に対する「不在」に注意を
向けることである、ということカf明らかになりまし
た。また、こうした「不在」に対する注意は、単に
話し手一人で閉じられているとは限らず、聞き手と
の関係が問題になるということ、とくに、「約束」
という関係においてそれははっきりすることも明ら
かになりました。
この小論では架空の文や対話をもとに、「忘れJが
どのように捉えうるかについて考えてきました。 し
かし、今後わたしたちの複雑なコミュニケーション
r
に分け入っていくには、じっさいに「忘れた J 忘
れていた j ということばがどのように使われている
か、そこにどのような韻律や強弱、そして身振りが
{半っているかを考えて いく 必要があるでしょう 。
*この稿を書くにあた って 、神戸大学国際文化学部
の定延利之氏に貴重な助言をいただきました。感謝
します。
58 ・人間文化
研究ノート
f
リリイ・シュシュのすべて Jのリアル
大井桂太
差 異 の 具 現 化 と 映 像表 現
人間文化学研究科地域文化学専攻
博士前期課程
1.はじめに
映画の良し悪しを判断する際、ほとんどの人たち
は重要だからである 。
『 リリイ 』の ような、少年少
女の成長とともにいじめや心の聞が進んで、いく映画
がその判断基準として重きを置くのが、「リアルに
にとって、そのシナリオ演出は時間の経過とともに
描かれているか」ではないだろうか。史劇や戦争
閣がエスカレートしていく様をリアルに表現出来る
もののように大抵元となる事象があるものはもちろ
か否かのポイントとなるはずで、ある 。
ん、アクションやサスペンス、 ドラマ、ホラー、果
てはファンタジーまで様々なジャンルの映画に対し
もう一方のシーンごとの表現方法についてはどう
だろうか。
てリアルさを追求する。人々は作品の感想を述べる
現実の世界で人は、五感をフルに働かせ出来事を
際に「映像がとてもリアルでした J["臨場感が伝わ
リアルと感じ取る 。すべての感覚器官からの情報を
ってきて 、とてもリアルでした」と言言し、そのよう
総合して、その出来事をリアルだと判断するのであ
な映画をリアリズム映画と呼称する 。岩井俊二監督
る。 しかし、映画は主として視覚(サイレント映画
『リリイ・シュシュのすべて 』 もキャッチ ・コピー
を考慮して聴覚はあえて外しておく)しか働かせて
4歳の、リアル"と 明示され、少年少女のいじ
で“ 1
いないのに、映像上で起こっている出来事をリアル
めや心の聞に支配された日常を採り上げた作品であ
に感じてしまうのである 。 ということは、映像だけ
ることからも、リアリズム映画であるといわれる 。
で観客にリアルを感じさせる表現方法がそこには用
では、岩井監督が作り上げたリアルとは一体どの
いられているのである 。そして、リアルを主題とす
ようなものであろうか。
映画をどれだけ現実に似せようとも、映画はフィ
る 『リリイ jではその手法がより特徴的に用いられ
ているのではないかと思うのである 。
クションであり、映画自{本カfリアルになることはな
私はこれら、シナリオ演出とシーンごとの映像表
い。 これは観客たちも十分承知の上だろうが、私は
現という両面の観点を出発点として、それらが観客
『リリイ j を観て「リアル」を感じ取り、あたかも
の身体の中でリアルへと変換される過程を検証しな
現実の出来事を観たかのように作品内容を受け取っ
がら、岩井監督のリアリズムに対する映画的表現を
たのである 。今は無き京都朝日会館で映画を観終わ
明らかにしたい。
った私は 、衝撃と驚↑号、そして感動を感じなが ら呆
然とした面持ちで家路に着いたことを記憶してい
る。一般的にリアリズム映画といわれる作品に大抵
の場合、表層的リアリズムしか感じない私が、 『リ
2
. シナリオ演出分析
考察を始める前に簡単に『リリイ・シュシュのす
べてjのあらすじを紹介しておこう 。
リイ j にはリアルを感じ取 ったのである。これは 一
体どのようなことなのであろうか。
『リリイ jの場合、この疑問を検証するには、シ
田んぼの緑葉が美しい、とある地方都市。中学二
はすみ
年の蓮見雄一 (
市川隼人)は学校でかつて親友だっ
ナリオ演出とシーンごとの表現方法、両面から言及
た星野 (
忍成修吾) とその仲間からいじめを受け、
しなければならないだろう。いじめなどのような特
窒息しそうな毎日を送っている。そんな雄一の救い
異な事象は体験したことがなければ、なかなか詳細
は、カリスマ的歌姫、リリイ ・シュシュの歌だった。
にそこに至るまで、の流れや状況を物語ることは出来
自分の部屋に閉じこもり、彼女のファンサイト [リ
ない。戦争未体験監督が戦争映画を作って失敗する
リフ ィリア ] を主宰する中で、[青猫]と名乗るリ
ことが多いのと同じことである 。 このように十分に
リイフ ァンと知り合い 、心を通わせていく 。
物語れないものを元に映像などを用いて表現するこ
-1
9
9
9年。十三歳。
とは困難なことから、シナリオ演出とシーンごとの
表現には重要な関連性があるからである 。
シナリオは大抵の観客にとって最も作品を理解す
リリイすら知らなか った 時代。それは雄ーにとっ
ては蓄夜色の時代だった 。中学生にな った雄ーは星
野と同じクラスになり、ともに剣道部へ入部し仲良
るための重要なファクターである 。あくまでそれは
くなる 。剣道部では夏になり 、三年が引退。厳しい
表面的な部分のところだけかもしれないが、その作
練習に耐え、合宿終わりにみんなで沖縄旅行を計画
品を一つの物語として一貫して観るためにシナリオ
する 。西表鳥へ旅立った彼らだったが、現地で交通
人間文化・
59
『リリイ ・シュシュのすべて』のリアルー 差異の具現化と映像表現ー
事故やいろいろな体験をし、星野に不穏な空気が立
の少年少女は、公式パンフレットの中の座談会で
ち始める 。新学期、星野は豹変し子分を従え、剣道
“14歳の、リアル"というコピーに O Kを出せるか
部へもこなくなってしまう 。そして、雄ーはそのい
どうか聞かれ、半数は出せるといいながらももう半
じめの対象となってしまう 。
数はハッキリ出せないと答えている。いじめ 以外 に
-2
0
0
0年。十四歳。
二年になっても万引きなどで星野にお金を上納す
る雄一。そんなある日、星野から同じクラスの津田
詩織 (
蒼井優)の援助交際の見張り番の仕事を任さ
れ、彼女とともに行動するようになる 。そんな雄ー
にとっての唯一の光は、憧れの久野陽子 (
伊藤歩)
の存在だった 。成績もピアノの腕前も優秀な彼女だ
が、他の女子からすれば気分が悪い。そんな彼女に
嫉妬した女学生は男子を使い、彼女をレイプさせる 。
雄ーはそのおとり役となり心を痛める 。
[リリフィリア ]の中だけで自分の感情を吐露す
る雄一とそれを慰める[青猫]。二 人はリリイのラ
イヴで会うことを決め、雄一はライヴ会場へ向う 。
そこにいたのは星野だった 。なんともいえないよう
な感情に苛まれた雄ーはライヴ終わりの群衆の中、
星野を刺してしまう 。縁側の木漏れ日に身をすくめ
ながら 、
雄ーは更に自分の殻に閉じこもってしまう 。
(
公式パンフレットより抜粋)
4歳という時代には楽しいこともあるはずだ、と
も1
いうのが大半の反対意見なのだが、やはり映画にす
ることで捻じ曲げられてしまう部分を懸念している
意見もあった。しかし 、その中にも「でも、いじめ
とかも実際に起こっていることだから、それを考え
るとリアルですね。」といじめに関する部分でリア
ルを感じ取っていることが伺える彼らの発言から 、
この映画が様々な人から部分部分だけであってもリ
アルを享受できる映画であることがいえるのではな
いだろうか。
このような捉え方は、いじめに関するエピソード
だけではないだろう。雄ーが剣道部に入部する シー
ンや星野の母親に憧れるシーン、合唱祭で採めるシ
ーン、などサイドストーリ一的な 一つ一つのエピソ
ードにも、観客にとってリアルを享受できる部分と
なかなか受け入れ難い音[¥分が存在するのではないだ
ろうか。 これらサイドストーリーはまさに少年時代
に体験したこと、感じたことを岩井監督が自然に映
画の中に挿入しているような気がしてならない。 こ
ここで考えたいのは、岩井監督の「あえて現代の
の映画には一般的に幸せそうな日常を送る 人物はほ
子供たちを使いながら、自分の感覚で分かる守備範
とんど出てこない。しかし、岩井監督からしてみれ
4歳の物語にしたんです。
J
'という発言である 。
囲の 1
ば、ちょっとした上記のサイドストーリー的なエピ
リアルを追求するのであれば、シナリオ上のいじめ
ソードこそが“蓄桜色の時代"といわしめるものだ
や心の聞は現在進行形の 14歳を表現しなければなら
と考えたのだろう。
ない。そこをあえて、岩井監督は自分のテリトリー
岩井監督はいじめや心の閣とい った現代若年層の
内の 14歳を表現しようとしているのである 。では、
大きな問題を、自分の視点から切り開いてみようと
したのではないか。本質的には自分の時代と変わる
4歳というものをこ
これで実際のところ、リアルな 1
の映画は捉えることが出来ているのだろうか。岩井
ことのない思春期の戸惑いや強い感受性を持ってい
監督はこうも話している 。
ることとしてシナ リオを組み立てることによ って 、
「現代の子供を大人が、何を考えてるか分からな
現在と過去で何が違うのかを見出そうとしているの
いモンスター的な位置付けにしていることへの疑問。
である。そして、その差異を 観客が享受するところ
J2
思春期って、昔からあんなもんじゃないかと 。
にこの映画のリアルが発生しているように感じるの
岩井監督は 1
4歳の本質というも のは、過去も現在も
である。自分の実体験を観客に提供することで、リ
変わっていないのでは、という視点からこの映画を
4歳を生きる少年少女に訴えかけるだ
アルタイムで 1
作っていることがわかる 。いつの時代も思春期の頃
けでなく、彼らとの相違から生じる差異に岩井監督
というものは、物事に敏感で感受性の最も強まる時
が表現したかったリアルが存在するのではないかと
期である 。人を傷つけるのも傷つくのも同様に酷く
考えるのである。
強い影響を与えるものだと 。
この考 え方はもちろん現代の少年少女からしてみ
岩井監督がインターネットというツールを映画の
中で重要なファクターとしているのは、現代の若者
れば、この映画に対する多種多様な捉え方を生み出
たちのいじめや心の閣がインターネットに原因カfあ
しやすい。 リアルタイムでこの年代を生きる同年代
るとする問題提起的なものからではない。彼らが昔
60 ・人間文化
『リリイ・シュシュのすべてjのリア八「 差異の具現化と映像表現 一
からある思春期の悩みを表現する場が、インターネ
これらシナリオ演出によって見出されるリアル
ットという場に変化したという差異を表現している
は、表層的リアリズムではなく、本質的な部分で同
だけなのである 。 ツールの変化が子ども達の本質的
な変化ではないということだ。
の映画に対する姿勢を表しているものとして理解す
私はこの差異を最も強く感じたシーンがある 。映
じリアルを追求し、創造しようとする岩井監督のこ
ることカf出来る 。
画の中盤、星野が稲を 刈 り取られた田んぼの中でウ
ォークマンを聞きながら、一人叫びまくるシーンで
ある 。
私はこのシーンを観たときに強い共感を覚えた 。
3.映像によるリアル
さて、前節で岩井監督のこの映画に対するリアル
の基本的な捉え方を考察してみたが、今章では実際
私もいじめをしていたことがある。いじめというの
にそれを映像として表現する際に用いられる手法に
は、いじめられる方はもちろんいじめる側も強いス
目を向けていくことにしよう。
トレスを感じるものだと私は思う 。根がいい奴なら
人間がモノやコトをリアルとして認識するとき、
尚更のことで 、いじめている最中は自分勝手で自由
五感といわれる感覚器官が働く 。人間は視覚 ・聴
に振舞っているのに、あとで思い返してみると強い
覚 ・嘆覚 ・味覚・触覚である五感を使い、それらす
後悔の念に駆られるのである 。いじめられている人
べてを総合しリアルかリアルでないかを判断するの
には失礼だが、申し訳ないという気持ちではなく、
である 。 しかし、映画というものは主に視覚のみで
自分の情けなさや弱さに対する後悔なのである 。そ
判断する媒体である 。 こんな風にいうといろいろ語
留まりに i
留まると大声で叫んで吐き出
して、それがi
したくなるのだ。 このような“キレる"という行為
弊があるが、元来の映画の形であるサイレント映画
を考慮すれば聴覚はほとんど意味をなさないし、音
は環境や社会に対する不満から起因するものだと 一
による空気の振動や特別な仕掛けを映画館に施さな
般に恩われているが、私が思うに自分の弱さを相手
いと伝わらない触覚も例外としてあるのみである 。
にずばり射抜かれた際に、自分を叱陀激励するよう
なものに起因しているのではないかと思うのであ
嘆覚と味覚に関しては 、ほほ一般的な映画を観てい
て感じることは不可能で、ある。それでは何故映画は
る。その意味でこの星野の行為は、中学 l年まで普
視覚のみでリアルを伝えることができるのだろう
通に過ごしてきた彼が突然、暴力的になったという
か。
夜、は映画には五感を視覚に集約する表現手段があ
シナリオを考えると、私と同様の行為ではないかと
感じたのである 。
るのではないかと考えた 。ょうするに 、音や手触り、
では何故この共感するシーンに差異を感じるのか
匂いや味などを映像化する手法が映画の中では採ら
というと、この他のシーンには共感するほど私の経
れているのではないか、ということである 。直接的
5
貴と同じようなシーンがなかったからである 。その
に感覚器官に訴えるのと異なり、映像によって間接
ため、このシーンの共感の度合いが非常に強く感じ
的に訴えるこの手法は、映像を主体としてリアルを
たのである 。確かに他のシーンもいじめの生々しさ
伝える映画において大変有効な表現手段といえよ
を感じるところは幾つもあった。しかし、私が経験
したいじめとは表層的な部分でやはり異なっていた
う。そして、これは 『リリイ j の中でも特徴的に使
われているのだと考えるのである 。ここで 『リリイ j
のだ。
の中の例を採り上げながら、その表現方法を説明し
このような相違からも分かるように、結局のとこ
ていくことにしよう 。
ろ、岩井監督の描こうとした“ 1
4歳の、リアル"と
4歳でもなく、かとい って岩井監
いうものは現在の 1
冒頭のシーン、初夏の田園の中で立ち尽くす雄ー
督自身が体験した 1
4歳でもない。 これらの相違から
を、揺れながら傭鰍で捉えていくシーンである 。背
生じた差異による新たな 14歳像こそが、岩井監督が
景で光り輝く太陽を尻目に雄ーはウォークマンを聞
創造し、表現したかった“ 1
4歳の、リアル"なので
いている 。
はないだろうか。それは 、この映画自身が一つの世
このシーンで特徴的なのは 、焦燥感が漂っている
界を作り上げ、その中の 1
4歳が両世代を通じ本質的
雄ーに射し込む光が痛々しいまでの鋭さを放ってい
な部分で同じところに成り立 っていることが根本に
るところと、回国の刺々しい緑に囲まれている点で
あるからだろう 。
ある 。 この映像を作り上げるのに大変大きな役割を
人間文化・ 6
1
『リリイ ・シュシュのすべてjのリアルー 差異の具現化と映像表現 ー
果たしたのが、デジタル撮影である 。今作品のデジ
リアルを表現できる世界を作り上げることにもある
タル撮影に関する詳細は私の卒業論文 3を参照して
のである 。そして、この世界こそが映画全体のリア
頂きたい。
乍り出しているといえるのである 。
ルを f
このデジタルによる撮影によって雄ーに射し込む
ここでもう一つ、前例とは逆の柔らかいイメージ
光は、より洗練されたような鋭利な形状を持って雄
を与える事例を挙げて検証してみることにしよう 。
ーを刺すように降り注いでいる 。そのような光景が
観客から見れば“刺すように痛く"感じるのである 。
テレビ番組などで自分が直接体験しているわけでも
映画終盤、久野陽子がレイプされ翌日、丸坊主に
なって教室に入ってくるシーンがある 。周りは呆然
ないのに、罰ゲームを受けているタレントを見てあ
とした目で彼女を見つめるが、彼女は少し目を潤ま
たかも自分がやられているような気分になるのと同
せながらも何知らぬ顔で自分の席につき、頭を掻い
じである 。 これは、光だけでなく田園の緑からも受
て見せる 。
け取ることができる 。刺々しく立っている青い稲の
このシーンで特徴的なのは、教室全体を淡いスモ
中で立つ雄ーは針の韮の 中にいるのと同じように見
ークが覆っている点だ。 このスモークに光をあてる
えるのである 。
このような鋭利なところを特徴付けるような映像
は、観客に対し“痛さ"を感じさせる 。映画批評
ことによって光は乱反射し、強い光でも画面全体を
柔らかく見せる効果がある。これは教室など校内の
シーンのほとんどに使われている。
家 ・金原由佳氏はこの痛さをあえて適切ではないと
これは若者達の日々アンニュイとした生活を送る
語っている 九 岩井監督の映画は痛さを麻庫させる
環境を視覚的に表現しているといっていいだろう 。
感覚があり、身体的に大きな欠落があるというので
いじめのような過激と思われる題材を主題に置きな
ある 。主人公たちが日常生活の中で精神と身体を誰
がら、若者の日常はこんなにまったりとした刺激の
離させ、苦痛を麻痔させることで毎日を過ごすよう
ない空間であることを表現することで、学校生活が
に、この映画も直接的な苦痛を回避し、間接的な苦
若者にとっていかに重苦しい雰囲気を醸し出して い
痛を感じさせることで圧倒的なリアルを生み出して
るかを視覚で感じ取るのである 。
いるというのである 。 これこそがまさに岩井駐督が
このようにしっとりとした空気!惑を映像で表現す
作り出した映像によるリアルとい えるのではない
ることで、観客に教室内の明るくまったりとした中
か。痛さという触覚を間接的に感じることにより、
にもどこか重さを感じさせるような印象を与えるの
観客はこのシーンにリアルを感じるのである 。
である 。 この触覚を利用した映像表現は、映画全体
さて、もうひとつ注目しておきたいのが、田園の
緑である 。 この鮮やかな緑色に覆われた田園を見て
に重量感を持たせ、観客をその場にいるような重い
雰囲気にさせてくれる。
いると、植物の青臭さを感じないだろうか。植物の
このような表現手段は岩井監督の他作品にも見る
4歳の少年の若さを間接的に表
青臭さはそこに件む 1
ことが出来る 。
『 スワロウテイルjの少女 -アゲハ
現しているのだが、痛々しい雄ーとの対比によ って
が胸にタトゥを入れるシ ー ンや、 『四月物語』の主
その若さが生き生きとしたという感じではなく、未
人公・検野が引っ越したばかりの自宅でたたずむシ
成熟な青臭さというものの方を強調している様 に見
ーンなど、岩井作品には欠かせない手法といっても
えるのである 。
いいだろう 。 しかし、この手法によって表現される
これは田園の鮮やかな深い緑という映像から、観
ものは、各作品によって微妙に異なる。温かい光で
客に青臭さを感じさせているのである 。それによっ
優しさを表現することもあれば、湿度を持たせて重
て、雄一の未成熟な感じを間接的に表現しているの
いアンニュイな感じを表現している場合もある。
である 。 このように若さと未成熟さの両方を田園の
岩井監督がこの手法にこだわるのは、リアルを映
緑だけで表現しているところに、映像でリアルを表
像で表現する手段として多様性があるからではない
現する利点がある 。 リアルなものというのは決して
だろうか。同じ手法で異なる捉え方が出来ることは、
一つに限られたものではない。現実はもっと入り組
田園での手法と同様である 。 ただ、スモーク演出の
んでいて、多用な面を持ち合わせているものである 。
方が田園という限られた背景を用いずに、使うこと
一つの映像に多面的な意図を持たせることは、五感
が出来るところに手法としての有効性が高いといえ
へ間接的に訴えるだけでなく、現実と同様に多用な
るのである 。そして、その根本にはリアルを映像で
62 ・人間文化
『リリイ・シユシユのすべて』のリアルー 差異の具現化と映像表現 一
表現しようとする岩井監督の映像表現を感じるので
4歳との相違から生じる差異は、観客にそれを具
る1
ある 。
さて、ここまで見てきたこつの事例から、映像が
現化し、新たな 1
4歳像を作り出す元になっている 。
それ一つで五感の役割を果たしているということが
異から新たに具現化したもう一つの 1
4歳なのではな
岩井監督の考えるリアルな 14歳とは、観客自身が差
いえるだろう 。では、その視覚に集約された五感が
いか。そして、その具現化に岩井監督の映像表現が
リアルを生み出すのは、一体 どの時点なのだろうか。
用いられていると思うのである。
それは、観客が自らの身体の中で映像化 された五感
新たな 1
4歳像を具現化するために用いられる表現
を再構築するときではないかと考える 。観客は視覚
手段は、視覚から入る情報がほぼすべてとなる 。普
から入った情報を映像としてではなく、五感で感じ
段、五感すべてを用いてリアルか否かを判断してい
取るリアルなものとして再構築するのである 。岩井
る私たちにとって、それはある意味窮屈なこととい
監督はそのような映像を作り上げ、リアルを表現し
えるかもしれない。 しかし、それは逆にリアルとい
ょうとしたのである 。
うものの多面性を広げる大きな役割を果たしている
岩井監督が映像で表現したリアルは、映画が映像
といえる 。普段は何の変哲もないように見える田園
で表現する媒体だからこそのリアルということがで
風景を視覚に統合することによって、そこに痛みや
きる 。ボキャブラリが豊富で、、文章力がある小説家
苦しみ、憂欝感を強調し、 一つの風景に多用なリア
の著書なら、その本から リアルを読み取れるかもし
ルを見出すのである 。 ここに映画としてのリアルが
れない。 しかし、映像による表現は小説にはない感
存在し、それは映画ならではのオリジナリテイがあ
性によるリアルを感じ取ることができるのである 。
るものとして映画芸術とされるのである 。
この映画ならではである リアルの表現方法は、映画
の本質は映像であることを裏付ける一つの要素とも
ここまで
I
リリイ 』 についてのリアルを検証して
きたが、それは映画のリアルともいうべき手法であ
ることがいえる 。 ここに岩井監督が作り出したこの
いえるだろう 。
映画のリアルが存在する 。映画が映画として、その
4
. 岩井俊二のすべて
私は昨年、 『
雨月物語絵巻
表現範囲の中で生み出すことの出来るリアルの追求
繰り広げられる映画
というものは、映画というものの空間をいかに観客
~j5 の中で、溝口健二監督と宮 川 一夫 キャメラマ
と共有できるかという点にあると私は思うのであ
ンが作り上げた映画『雨月物語』の映像の世界観が、
る。そしてそこに現実でも虚空でもない新しい世界
映画館全体を覆うまで広がり、観客をあたかも映画
観を構築することによって、観客を世界に一つしか
の中にいるような感覚さえ与えるものだと書いた 。
ない空間という圧倒的なリアルに導いているのであ
今回、 『リリイ 』のリアルを検証していて岩井監
督の作り出すリアルは、そのような世界観に重大な
る。
映画はその 1
0
0年余りの歴史の中で、常に新しい
ファクターがあるのではないかと考えた 。一つの映
表現方法を模索してきた 。移動撮影、パン・フォー
画を一つの物語として、現実に起こった物語を誰か
カス、望遠撮影、 CG、デジタルなど数え始めたら
第三者に伝えるような感覚を与える映画としてどこ
まで作れるかが、リアルを感じさせることができる
キリがないだろう 。そしてその表現方法が現れるた
びに観客は驚きを持 ってそれを迎え、映像世界にも
大きなポイントなのではないかということである 。
う一つの世界を見出す可能性を生み出してきた。映
そのために岩井監督がこだわったのが、世代によ
画のリアルとはそのような新しい表現方法によって
る表現としての差異と映像によるリアルの表現方法
作り出される、新しい世界観にあるのではないか。
にあったのだと私は思う。どちらの世代ともいえな
それがどれだけ表層的リアリズムがあるかではな
いが本質的に同じものを持つ新たに具現化された 1
4
く、その映画の持つ世界観がいかに観客にとって見
歳像と映画ならではといえるこの映像表現を駆使す
ることによって、映画独自のリアルな表現をこの映
たことのないリアルな世界になっているかどうかな
のである 。
『 リリイ j が何故リアルな映画と呼ばれ
画は持つことになった。この表現こそ、岩井監督の
るかは、岩井監督が過去と現在の相違から生じる差
リアルに対する映画芸術の一つの答えではなかろう
異 を 視 覚 だ け に 集 約 し 表 現 し て 出 来 た Anot
he
r
か。
4歳とリアルタイムで生き
自分の実体験に基づく 1
Wor
ldを構築したためなのである 。
人間文化・
6
3
『リリイ・シュシュのすべて jのリアルー 差異の具現化と映像表現 ー
ス』が公開された。一人の男の子をめぐる 二人の女
-監督、脚本 :岩井俊二
.撮影:篠田昇
の子の恋愛と友情を描いた青春映画である 。岩井監
・音楽:小林武史
督はこの作品でも少年少女の日常に迫ったリアルな
-出演:市原隼人、忍成修吾、伊藤歩、蒼井優
今年、 2004年 3月。岩井監督の最新作『花とアリ
映画を作り出している 。私はこの映画を観て、岩井
殴督はまだ純粋な青春時代の若者たちだからこそ、
自分の時代との差異を見出し、少年少女たちを映像
参考文献・映像
『フィルムメーカーズ l 岩井俊二
』 宮台真司編
キネマ旬報社
化することに長けているのだと感じた。
今後も映画は新たな表現方法を求めて進化 を続け
ることになるだろうが、そこにリアルが発生しない
2
0
0
1
『キ ネ マ 旬 報 2001年 9月下旬 号 j キ ネ マ 旬 報 社
2001
限り、映画の魅力は衰退していってしまうのではな
『リリイ・シュシュのすべて
いだろうか。私はそんなことを危倶する 。
湯 山玲子編
公式パンフレット 』
ノーマンズ ・
ノ ース
2001
『
新映画理論集成 j岩本憲児 ・武田 i
累 ・斉藤綾子
編
註
r
キネマ旬報20
0
1年9月下旬号 Jp
134より引用
2 r
キネマ旬報2001年9月下旬号 Jp133より引用
3 r
r
活きる j 日本映画 J(大井桂太 滋賀県立大
1
学卒業論文
4
2003) 第5章第 3節第 2項を参照
r
キネマ旬報2
0
0
1年9月下旬号 Jp140を参照
5 滋賀県立大学人間文化学部研究報告『人間文化
フィルム -アート十土
庖
角川書
20
0
1
『
映画の構造分析
ハリウッド映画で学べる現代
思想 j内 田 樹 品 文 社
『プ レ ミ ア 日 本 版
2003
2001年 1
1月号 j 角 川 書 庖
2001
『
呼吸
N014J (
2003) p
S
I
2003
『リリイ ・シュシュのすべて 』岩井俊二
〈リリイ ・シュシュのすべて 〉のすべて J
岩井俊 二監修
ピクター・エンタテイメント
2002
『リリイ・シュシユのすべて j
(
2
0
0
1年 1
0月6日公開
ロックウェルアイズ作品
1
4
6分)
C
o
m
m
e
n
t
梅原賢一郎
人間文化学部研究科地域文化学専攻
く14
歳〉のいくつもの線分
岩井俊二の f
リリイ・シュシュのすべて j のキャ
もらしいあらゆるく 1
4歳の 、リ アル 〉である 。須磨
での少年事件がそうであったように、 <1
4歳〉はい
ッチコピーにはこう記されているという 。<
14歳の 、
ろいろな くこころ〉ゃ くからだ〉の問題をかかえて
4歳の、リアル 〉をめぐ
リアル 。
〉 大井の文章は、 <1
いるらしい 。
〈 いじめ ><虐 待 ><自傷 ><不 登 校 〉
っての考察ということができる 。<1
4歳の、リアル 〉
〈援交 >
0<14歳の、リアル 〉はそうした く現実 〉を
4歳の、リア
はどこにあるのか。 また、岩井は、 <1
くモデル 〉にして表現されるべきであると 。 さらに、
ル〉をどこに見つけ、それをどう表現したというの
映画の役者もそうした く現実〉のく当人 〉をつかう
であろうか。
べきであると 。すくなくとも、それに似せて演じら
大井の文章のやや舌足らずな言い回しの隙聞をぬ
って読みすすめてみると、しかしながら、この映画
4歳の、リアル 〉の解体
にあるのは、ありうべきく 1
れるべきであると 。
ありうべき く1
4歳の、リアル〉はほかにもある 。
岩井俊二 の思い出のなかのく 14歳の、リアル 。
〉 か
といえるのかもしれない。ありうべき く1
4歳の、リ
つてそうであ ったく過去 〉をくモデル 〉にして く1
4
アル 〉とはなにか。 それは、「モデル」ゃ「規範 j
歳 の 、 リ ア ル 〉は語られるべきだと 。 あるいは、
をあらかじめ設定することから帰着されうるもっと
〈過去 〉と く現実 〉との く対比 〉のなかで く1
4歳の、
64 ・人間文化
『リリイ・シュシュのすべて』のリアルー 差異の具現化と映像表現 一
それぞれの 〈解 〉だけである。〈解 〉の集合だけで
リアル 〉は思考されるべきだと。
岩井は、 〈モデル 〉ゃく規範 〉を く再現 〉するこ
ある 。岩井の記憶のなかで去来する、け っ して一つ
とから成立するこうしたあらゆるありうべき く1
4歳
に集約されることのない、さまざまな青春のイメー
の、リアル 〉からは離脱している 。大井のやや粗い
ジ。少年少女の日常のなかで繰り広げられる 、予定
文面から読み取ることができることは、結局、そう
いうことだと思われる。大井は、つぎのように書い
調和することのけっしてない破片のような、出来事
ている 。「結局のところ 、岩井監督の描こうとした
つどそのつど引かれていくいくつもの く小さな線分
く14歳の、リアル 〉というものは現在の 14歳でもな
たち 。
〉 この意味で、 『リリイ ・シュシュのすべて j
4歳でもな
く、かとい って岩井監督自身が体験した 1
いのではないだろうか j。
では、<I4歳の、リアル〉は、『リリイ -シュシュ
のすべて j において 、 どう表現されたのか。大井は
「自分のテリトリー内の 14歳」とやや不鮮明な言葉
で述べているが、それはこういうことかと思われる 。
岩井は、 『リリイ ・シュシュのすべて j において、
の群れ。他を圧する決定的なく直線〉はなく、その
にあるのは、 ドゥルーズ的な意味での く差異 〉とい
うことになろう (
大井自身、消化が十分であるとは
けっしていえないが、「差異」という言葉をつかっ
ている 。
)
『リリイ ・シュシュのすべて Jにあるのは、この
意味で、青春の周辺に生起する生のモザイクという
ことができる 。 だから、 (14歳の、リアル 〉がいい
<
I4歳 〉の く現実 〉の〈当人〉をつかっているので
4歳の、リアル 〉は感得されるべ
うるとしても 、(1
はない 。あるいは、 〈現実〉の く当人 〉としてつか
き固定した実体としてはどこにもない。ただ 、そこ
っているのではない。そうではなくて 、ある意味で
にあるのは、青春のまわりでそのつどそのつどなさ
は
、 f
リリイ ・シュシュのすべて j にいるのは普通
れてい く〈 解 〉のただなかにほうりこまれていくと
の少年少女である 。青春のある時期をそれぞれが生
いうことだけである 。そして、映画を見るものは 、
きている普通の少年少女である 。 また、大井が指摘
また一人一人
、 青春の周りでく解 〉をだそうとする 。
するように、この映画においては、「サイドストー
〈解 〉を加算しようとする 。<
I4
歳の、リアル 〉がい
リ一的エピソード」がいくつか展開する 。 しかし、
いうるとすれば、こうしたひとりひとりの 〈解 〉の
それらはたんに く中心 〉を彩る く脇 〉の資格として
生成のなかにこそあるといいうるのではないか。い
ではない。つまり、<I4歳の、 リアル 〉とい っても、
みじくも、大井は 、つぎのように述べている 。「
岩
どこにも、その専一的なく主題〉もなければ、その
井監督の考えるリアルな 1
4歳とは、観客自身が差異
確定的な く主役 〉もいない。あるのは、それぞれの
から新たに具現化したもう一つの 1
4歳なのではない
生においてそのつどそのつどなされる生きることの
か」と。
(
梅原賢一郎)
人間文化・
6
5
地域フォーラム
徳山村と北海道
野部博子
一 大 地 に ロマ ン を も と め て い)一
人間文化学部生活文化学科人間関係専攻
はじめに
岐阜県揖斐郡徳 山村。 日本一の巨大ダム建設計画
によって全村が移住を余儀なくされ、昭和 62年 3月
をもって隣の藤橋村に合併して廃村となり今はもう
地図上に存在しない村である 。ダム建設工事は 2007
年の完成を白指して現在進行中である 。
徳山村は福井県と岐阜県と滋賀県に程近い奥深い
山間部で、揖斐川の上流に位置する村である 。揖斐
川本流に沿った東谷に 5集落、支流に沿った西谷に
3集落のあわせて 8集落(下関田、本郷、山手、櫨
原、塚、上関田、戸入、門入)からなり、広大な面
積を占める村であった。
図 2 8集落の位置
で、縄文時代の遺跡も発見されている 。 この長い歴
史のあいだには人間や動物の営みがあり、これらは
自然の恵みを受けながら生活し、そこから文化が生
まれている 。このような自然と歴史と文化の宝庫が、
ダム湖に沈み消失してしまうことは耐え難く、保存
できるうちに記録に止めようと、他の研究者ととも
に昭和 53年から 5
8年にかけて全村を対象に聞き取り
調査を行った 。内容は昔話、わらべうたの口承文芸
に関すること 、あそびに関することであった。これ
らはそれぞれの大学の研究紀要において報告してき
た。
時を前後して他の分野の研究者も調査のため徳山
村を訪れていた。そして自主的な研究発表・報告の
図 1 旧徳山村の位置
この徳山村にダム建設計画がもちあがったの昭和
場が地元の有志の人達の尽力で設定され、近隣や他
府県からの参加を得て「徳 山村の自然と歴史と文化
を語る集い j として毎年行なわれていた。廃村にな
決定が出されたのが昭和 5
2年である 。その後水資源
ってからは「揖斐谷の自然と歴史と文化を語る集い」
と名称を変えて隣接の村を会場に 8回ほど続いてい
公団(当時)と住民の問で保証交渉の場が何度もも
た。 しかし、残念ながら廃村から時間の経過ととも
党年、その後さまざまな問題を抱えながらも、建設
たれ、昭和 5
8年に交渉の解決をみ、村民は公団の用
に、居住する場所の隔たりも手伝 ってだんだんと意
意した土地や、個人が見つけた場所へと移っていっ
識もうすれ、報告内容も出尽くしたのか集いは消滅
たのである。当時の各集落の世帯数および人口は、
してしまった。 この間筆者も何度も報告の機会を得
下関田 48世帯 1
7
5人、本郷 1
6
3世帯 539人、上関田 64
て参加して来た。
時を経て、改めて今までの記録を紐解いて見ると、
世帯 1
9
1人
、 戸入 74世帯 219人、門入 37世帯 1
3
1人
、
91
人、櫨原 70世帯 217人、塚 3
3世帯 1
1
4
山手46世帯 1
資料に片寄りが有るのに気づいた。特に門入地区の
人であった。
記録が乏しかった。その要因は何かと考えたとき、
徳山村の歴史は 2万 2千年以上の旧石器時代から
6
6 ・人間文化
一つは徳山村の中心地本郷から 1
5キロ余、隣の集落
徳山村と北海道一 大地に ロマンをもとめて(l)ー
戸入からも 6キロ程離れていて遠かったこと 。二つ
には集落の人口が他地区と比して少ないこと 。三つ
には調査時山仕事、建設作業等で昼間留守が多かっ
たこと 。四つには民宿等、宿泊場所がないため夜間
の聞き取り調査が出来なかったこと等があげられ
る。そのために住人に会うことが難しく被調査者が
図3
現在の真狩村桜川地区後方の山は羊蹄山
少なく資料が乏しかったのではないかと考えた。一
方で他にも何か理由があるのではないかとも考え
た。調査時、少ないながらも人に出会っているのだ
が、なかなか話を聞くに至らなかったことが多くあ
った ように恩われた 。単 なる忘却だけではない他の
要素が内在しているのではないだろうか。そのよう
な折り、徳山村門入地区の方が明治期から昭和初期
にかけて、北海道へ入植、移住しているとの情報を
得た。そこで未採集の採話をおこなうために北海道
において門入出身者を見つけだし話を聞き資料を補
充し、徳山村の伝承文化財 の記録保存をしたいと考
図 4 真狩村今井家の墓に刻まれた門入出身の文字
えた。
本報告では門入地区で子ども時代を過ごし、生活
経験のある女性の直接の思いの諮りを報告する 。
1
9
0
5~2000 ) の手記 I 農
忠五郎の息子奥野善三氏 (
魂一代 Jよりヲ│用している。善造氏は道会議員を務
めた人で、父である忠五郎は滋賀県杉野出身の人で
門入と北海道
門入地区はかつて 7
0
戸あり共有林も含めると周囲
ある 。忠五郎の妻たかが門入の人だったことから、
岐阜団体として渡道したようである 。門入地区の人
40キロある集落であった。落ち人が拓いたところで
が始めて北海道に足をふみいれたのは現在の虻田郡
7ヶ所から落ちて住んだと言う 。そ れゆえ宮 7軒と
真狩村桜川である 。羊蹄山の裾野に広がるこの地区
もいわれていて宮も 7社あった 。のちに 5杜となり、
は、当時は羊蹄山も見えないほどの原野であった 。
ついには 3社 (
八幡 ・鎌倉・南宮)となった。
与えられた土地を苦労して開墾し農地とした。その
ケヤキを用いた立派な家が並んで、いたが、昭和 31
後も身内を頼って次々と渡道してくる人が増えてき
年に大火に見舞われて 3軒を残してみな消失してし
た。道内で更なる転地を求めて真狩から、栗沢、上
まった 。個人の家財道具はもちろんのこと、古文書
富良野倍本へと移り住んだ。昭和 2年を最後にその
古記録もなくなってしまっている 。その上移住記録
後の渡道者は少なくなっていった。現在では富良野
などない、村史にも記載されていない。そこで近隣
市、上富良野町、中富良野町の周辺に集中的に居住
の門入地区の知人を通して北海道での移住先を求め
て北へ飛んだ。
明治期 、北海道の開拓が進む中 、内地から志しを
抱いて移住する人が多くなってきた。そのような中
で、岐阜の山間部にもニュースは流れ、長男以外に
は土地が与えらない当時の社会情勢からすれば新天
地を求めて一旗あげようという大志をいだくのも当
然、の事である 。
門入地区から始めて i
度道したのは明治 3
6年4月で
あった 。今井茂八を団長として、茂八一家 6名、広
、
瀬岩次郎 4名、奥野忠五郎 3名、今井茂三郎 4名
名であると
橋本佐次郎 2名、今井三造 2名、計 21
『
真狩村史j には記録されている 。 この村史は奥野
図5
真狩から移った上富良野倍本、後方の山裾一帯
人間文化・
67
徳山村と北海道
大地にロマンをもとめて(1)ー
自
ー
とは 20くらい離れている 。現在ナツエさんには娘・
孫がおり、旭川に在住。姉妹はすでに皆他界。
図6
門生会J参加者記念鑓影(平成 1
5.
3
.
1
1)
いくつで北海道へ来たか
大正 6年 1
2月 8 日徳山村門入に生まれ、 1
2歳まで
門入で生活。 12歳の 4月に中富良野へ父母・兄夫
している 。 しかし農業を離れ、札幌、旭川の都会に
移って住んでいる人も多くなって来ている 。
婦 -姉妹と共に移住。姉妹の中には既に北海道で生
活している者もいた。ナツエさんにと ってはこの時
昭和 55年には先祖への報恩感謝と、地縁血縁の団
初めて対面する姉である 。 i
度道当初、富良野の生活
結を図り親睦の会を結成した、「門生会」と銘々さ
では、チセのような、柱を立て 、かや葺の屋根・壁
れた。門入出身者とその子孫、門入に縁のある人が
を作 っていた 。床は穴むしろで窓は壁面のかやを切
会員となり、毎年集いが催されている 。今では 三世
、
って作 っていたようである 。北海道への移住には電
四世の時代になってきているので参加者もだんだん
車を乗り継ぎ青森まで行き、そこから函館へ船を利
と減少傾向にあり、故郷への関心が薄らいで来てい
用した。 さらに富良野へは汽車に乗り継いだ。服装
ると懸念されている 。
は着物にマント (
羽織と着物でイ乍 ったガシャナマン
ト) をはおり、 藁靴を履いていた 。中富良野旭中町
調査の方法と期間
4年 1
1月 1
8日、平成 1
5年 7月31日から 8月 3
平成 1
にて 25歳の時、福井県出身の人と結婚した。六女を
もうけた 。
日
、 9月 1
0日から 1
4日までの 3回にわた って富良野
周辺の方々への聞き取り調査を 実施した 。故郷徳山
門入での生活
村門入をどのように記憶しているか、まだどのよう
一村のようすー
に身内親族から故郷のことを聞いているか、そして
郵便物などは真冬になると届かなくなる事がある
故郷に対してどのような思いを抱いているのかを聞
0日は外との交流が完
という 。そのため 1週間から 1
くためである 。子ども時代に育まれた生き方、生活
全に断たれてしまう 。
環境は人生のなかでどのような位置づけにあるのか
山の動物たちもナツエさんの生活には密接に関わ
5名の方から話
を見いだすためである 。 この期間に 1
っており、狩猟によって得た動物は村の者みんなで
を聞くことができた 。 8
6歳か ら1
0
歳までの人達であ
分け与える 。 うさぎや猪、熊、そして猿など。猿は
2歳まで徳山村門入で過ごした坂本
る。本報告では 1
脂肪分が少ないらしく 、出 産後に体調のことを考え
ナツエ氏について報告し他は次回に譲る 。
て食されていた 。 また動物の皮や肝等は向に出る時
家族構成
物らは塩漬けにされる 。その際の塩は本郷ではなく
に販売するため乾かし残されていた 。狩猟で得た獲
父-母それに女 8人男 2人の 1
0人姉妹。ナツエさ
隣村の坂内村の方から調達する。尾根伝いで山越え
んは姉妹のなかでも 一番下の末 っ子にあたり、長子
すると、村の中心地本郷より距離が近かった為であ
る。本郷に行くのは大抵年に l度の本郷での運動会
の時期ぐ らいだそうだ。生死に関わらない限り、医
者へ通う事は無い。出産なども村の人や母親自身が
取り上げるのが通常である 。
ナツエさんの家では昔、牛(肉牛) を屋内に飼 っ
ていて、その後蚕に変えたという 。 2階で飼育し、
飼育には十分な配慮がされており、飼われていた部
屋で遊ぶ事は禁じられていた。子どものお守りは親
よりその兄 ・姉が行 っていたようである 。その者を
“守子"と呼び、近所の子であっても守子をする事
はあ ったそうだ。
図7
坂本ナツ工さん(自宅前にて 平成 1
5
.
8
.
2)
6
8 ・人間文化
徳山村と北海道一 大地にロマンをもとめて (
1
)ー
ーあそび一
じよりかくし:草履 (
履き物)を順番に数えていく 。
こ ん め:中に古い小豆を入れて、つきあげるあ
その際特に歌いながら行う事は無かっ
たらしい。
そびの方法。最初は二つくらいで練習
して段々慣れてくると 三つ四つと数を
人
あ
て :輸にな って一人だけ真ん中に入って、
増やしていった 。 こんめは自分で作 っ
真後ろに来た人の名前をあてる 。
た。
タスキとり:あやとり。七つ位からあそびだした 。
一伝承話一
はしごや蛙、 川等を作って遊んでいた 。
昔話①~@
北海道に来てからは一人あやとりが中
①猿蟹合戦(大成 24 猿蟹柿合戦)
心らしい。
蟹がおにぎりを持ってたんですよね。猿は柿を
縄 跳 び ・一人や大勢で楽しんでいた 。「郵便屋
持 ってたんだ‘ね。そしてその猿はおにぎりが欲し
さん走らんせ、もうかれこれ十二時だ、
一時
、 二時
、 三時、…十二時 j で終わ
かったもんだから「おにぎりと交換せんか j って
いってね 、いやおにぎりもね、いたわしい自分が
る歌を歌いながらすることもある (
一
食べたいってのにさ、いたわしいしね、どうしょ
人の時も)。
り・土の上に丸を書き 、そこを片足でケン
うか つて考えて、猿はなかなか口がうまいから猿
石蹴
ケンで跳びながら石を蹴っていく 。丸
の口にだまされて、ちょうど柿の種、今は小さい
けれども大木になったらものすげ、え柿の実がなる
から出るとアウト 。
ってそれに編されたんだよね。そしてその種をも
玉 転 が し .地面に穴を作り、クルミなどをケンケ
ンで、転がしその穴に入れる。入れたク
石取
らってね、持って帰って種を植えて、毎日水をや
ったんですってね。そしたらだんだんだんだんお
ルミは取ることができ、取られると
つきくなってね、木になったから、今度は「早く
次々に足していく 。穴入れ。
実がなれ実がなれ」って水をかけたら本当に実が
り :おはじき 。買わずに河原等できれいな
なったんですってね。そして今度その実が赤くな
石を探し、それで遊ぶ。
りかけたら今度猿が来て、「蟹君蟹君ょうあがら
人形あそび :自作の人形で着せ替え等を楽しむ。着
んだろう、木にはね、おれは木登り上手だから俺
物も自作。布製。
い:家の手伝いとしてでなく、拾った栗は
がもいであげるわ」って。「お前下で待っとれ」
自ら自由にできたので、あそびとして
食べて、自分ばっかり食べておる」って。今度は
の性格が強い。食用でもあり、あそび
真 っ青な柿をもいでね、蟹にぶつけたんですって
栗拾
って。そして今度は上へあがって赤いのは自分で
道具でもある。
クルミ拾い :栗拾いと同様にあそぶ。
ね。でもう、蟹はかなわないからね、もう自分で
ボウシとり:イチゴのような赤い実のなる木。その
仲間がたくさん来てね、「どうした」ってわけ聞
実を採って食べる 。
桑の実とり:竹を採ってきて節を抜いて、そこに桑
の実を詰めて 押す。でてきた物を口に
入れる 。筒の穴は焼け火箸で穴を開け
花占
どうしょうもないから、なげいとったらそしたら
いて、「猿に青い柿ぶつけられて俺はこんなあわ
れな体になったんだJって …。けがしたの。それ
で敵討ちに蜂と栗と臼と、あと牛の糞が一緒に行
ったんだね。で、猿が囲炉裏端で腹いっぱいにな
る。
い:何かを選ぶ時に、どれにしょうかな、
ってあたっと ったら、火もだんだんおこってきた
これにしょうかなって花びらを 一枚づ
っちぎって、最後これにしょうかなで
ね、「熱い熱い」 って火傷したから水っけに行っ
終る 。占いの時も花びらを 一枚づっち
がめに行ったんだけど今度は蜂に刺されてね、そ
ぎって占う。
したら今度は上から臼が落ちてきてね。牛の糞で
とすべって 。 もう猿、動かれないからこれで仇が
てまりっき :歌を唄っててまりをつく 。
手 あ そ び :セッセッセノヨイヨイヨイで歌を唄い
し、火にあたってると栗がパーンと弾いたんだよ
たんだよね。猿が。水っけに行ったら、今度は水
ε
取 ったんだよね。
ながら手踊りをした。
人間文化 ・
69
徳山村と北海道一 大地にロマンをもとめて(l)ー
②桃太郎(大成 143 桃の子太郎)
お婆さんが川へ洗濯に行き、お爺さんが山へ芝
たら入ってきてね、機を織っていた人の着物を脱
いじゃって萱畑まで連れ出して殺しちゃって》。
刈りに行き、で、お婆さんが洗濯していると、桃
だから、萱の皮剥いたら赤くなるでしょ。赤いの
が流れてきたんですね、 ドンブラコドンブラコと
があるでしょ 。だからあれがうり姫御前さんの血
ね。「あら、おつきな桃が流れてきたjってね。で
、
だって言ったよね。そして帰ってきたら自分がう
お婆さんがこれを受けとめて取ってさ、ひらって
り姫御前さんの格好をしておったんです。それで、、
さ、「ああ、これはおいしそうだから、今晩はお爺
お爺ちゃんお婆ちゃんが帰ってきたら、なんかし
さんと二人で食べよ」と、家に持って帰ってお爺
ゃべることがなんでも違うんだ‘ってね、うり姫御
さんに見せて、「あらあ、素晴らしい桃だj ってい
前さんとね。おかしいと思ってそして気がついた
うのでね、「お爺さん、いただかんかj ってね、包
ら、あまんじゃくがうり姫御前さんの服装そっく
丁入れて切ろうと思ったら、桃が開いてね、中か
り。聞いたら「うり姫御前さんを殺した」って言
ら太った可愛い男の子がね、はいってたんでLすね。
うもんだからね。 うん。爺さん婆さんはがっかり
お爺さんとお婆さんは喜んで、、子どもの無い人だ
してね。
から大事に育てて、そして強い武土になったんで
すね。鬼は娘をさらっていったので、村の人は本
当に困ってたんですよ 。それで、鬼が島の鬼退治
④肉付きの画(大成 388 肉附面)
後生願いのお嫁さんがおってね、そのお嫁さんは
に出たんで、すわ。犬、猿、雑がお供に行ってね。
お寺へ参りに来たんだよね。そしたらそのお寺へ
で、鬼が島じゃ鬼はもう腹いっぱい食べて昼寝し
参ったら仕事できないからばあさんは参らしたく
てたのね。それを今度は桃太郎が殺したんですね。
ないのね。お嫁さんを脅かしてやろうと思って。そ
ってね。
それで村の人がね、「もうこれで安心だ J
れで面をかぶってそのお嫁さんが参るのを妨害し
「鬼が出てきて娘さらったりしないから、もう大丈
たんだよね正、もばあさんの面が取れなくなってね、
夫だjってんで大祝いしたんですわ。
ばあさんが商を取ろうと思ったら肉そっくりが付
いてきたってね。それが本当にお寺にあるって。
③うり姫御前(大成 144 瓜子織姫)
爺ちゃんは山へ行くし、婆ちゃんは洗濯に川へ
⑤年寄りを嫌う殿様(大成 523 親棄山)
行きますね、そしたら瓜が流れてきて、だから、
親孝行の息子がおって、歳になったら姥棄山へ
「あらあ大きな瓜が流れてきた」ってね。「これを
0歳になったら自
もっていくんだよね。そこでは 6
拾ってって爺ちゃんといただく j って。そしたら
分の親を捨てに行かねばならんおふれが出てたの
今度だんだん婆ちゃんの方に流れてきたから、婆
ね。でも親孝行な息子はそれがどうしてもかわい
ちゃんは拾ったんですってね。それで晩に食べよ
そうで、ね、自分ちの縁の下に隠してひっそりと面
うと包丁をいれかけたらひとりでに割れてきて
倒見てたの 。で、ある日息子は殿様から難題を出
ね、中から締麗なお姫さんが出てきたんですって。
されてね 、大変な目にあったの。 ところが息子は
でもう、お婆さんは喜んじゃってね、その子を大
その難題を全部解いてね、いぶかしげに思った殿
きくなるまで大事に育てたんですって。そしたら
様はその息子に「その知恵は一体どこから授かっ
今度大きくなったら機織をして家の助けをするよ
た」って聞いたんですってね。すると息子はしぶ
うになったんですってね。それで、「婆さん爺さ
しぶ「縁の下に隠していた親から授かりました j
んは仕事に行くからね、となりのあまんじゃく来
って、こう答えたのね。それを聞いて殿様は「年
ても絶対に戸を開けるんでない」って言ってきか
寄りというのは大切にしなくてはいけないんだな
せたんですね。そしたら「はいはいj って言っと
あ」って思って、ついにそのお触れを取りやめに
ったんですって。そしたらやっぱりあまんじゃく
したんだってね。
が来てね、「うり姫御前さん、少しその戸を開け
てください」って言うもんだからね、「いや爺さ
⑤和尚さんと小僧さん(焼餅)
ん婆さんがね、駄目だ、って言うもんだから開けら
和尚さんが餅焼いてね、小僧さんが起きていた
れません Jって言ったらね、「少ーしでいいから」
J、僧さ
からかくそうと思って、あくかけたので o /
って言うもんだからね、少しすかして 開けてあげ
んに見つかったら「自分ばっかり食べてる」って
70 ・人間文化
徳山村と北海道一 大地に ロマンをもとめて(1)
言われるから。小僧さんがわかってるもんで、し
言ったんですと 。そしたらお仏飯頂いたっていう
ゃべりながら「火ばしかしてくれんか」って 。
のでね相手にならないで、行っちゃったと 。
「ちょっとここで書いてみせる」ってね。 とんと
ついたら餅がささってきたってね。それで、もう
⑩河童の話 (
3)
河童は頭にお椀のようなものがあって、水が入
かくされなくなってさ 、分けて食べた って。
っているんですってね。だから水をたたいてこぼ
れたら、力がなくなるんだ、って。
世間話⑦ ⑮
⑦あすきぼう(きつね)
秋になると小豆を収穫しに行くからね、さやの
⑪天神さん (
1
)
ままも って これないから。だからさやは山小屋で
ふきの葉つばを採り取りに行った時にですね、
干して焚き火して上で干して、青いのはもう粒に
ポンポンボンポン、ボンボンボンポン 、天神さん
はならないから、だから湯がいて自分でたべるの。
の太鼓だ って言われたけどね 、いや、ほんとにね、
すじが残るっしょ。投げては食べまた投げてね、
太鼓なんですわ。ポンポコポンポン太鼓叩くから
それをまねして「ばば口ですごいては投げまた食
ね、今にも雨降 ってくるからね、雨に濡れないう
べてすごいては投げる。なんだ
?
J って言ったて
ちに帰らんかつてね、帰ったことあるんですわ。
ね、きつねがね。すきまから見とるんです って。
そのうちにポンポコボンボン叩いてるの、法華の
昼間でもね 、昼間でも編すんですと 。仕事場に戻
太鼓みたいに。だ けど大人の人に聞いたらね、あ
ろうとするでしょ、山へね。そしたら行く途中で
れは天神さんだ って。
木に登ってね、あの、縄の代わりに藤の蔓を使う
だからね、わたしが小さい時にね、おトイレで
するのにね。藤を取りに行
使う紙がも ったいない から使わないでね、ふきの
くのにね 、自分の知ってるねおじさんが行って取
葉っぱの、若い葉つばを取りに行くんですわ。そ
ってるんだと。 日に見えるの。おじさんこんなは
れを陰干しで干しといてね、そして冬使うのにね
やく何で藤取りにいってるんだって息子が行くで
ちゃんとしまっとくんです。拭き紙の変わりに …。
んだよね。あの
※
しょ、それも自分の本当の親に見えるんだと 。
しま っとくとね、ちょうど湿気が戻ると言うのか
乾燥したのがね、柔くなるんですわ。
@河童の話(
1
)
河童はね。山川の方へ入ってい って 川釣りに行
きますわね 、すると河原の石に赤ちゃんの足跡み
2)
⑫ 天神 さん (
山へ番 に行くんで、すわ。 それにはや っぱり槍持
たいなのがあるんだってね。赤ちゃんそっくりな
っていくの。槍はまだあっ たけど、家にね。そし
足跡なんですってね、足跡が。ああ、これは河童
て今度は出てくると槍で、 小屋の中におって突く
の足跡だなと思って、その魚釣る人はね。釣っと
んです って。だからそんなの聞いてね、家帰って
ったら釣れるんですっ てね。紐に入れとったりし
くるときにでもね、「夕方だから、早く急いで帰ら
てたらね。夕方も薄暗くなってきたから帰ろうと
なあかん」からって山道をす、っと行くとね、道路の
思ってね、そして家帰ってみたら箆空つぼなんで
側の木がみんなバタパタパ タパタ倒れる んですっ
すって 。 もう入れたつもりがみんな河童が食ぺち
て。見てる方は、困った、道がふさがって帰れん
ゃってて。ちょうど七夕にはね、雨降 りが続きま
くなると思 ってね、側まで、行ったら木はイ可でもな
すはね。その時に瓜畑行くなってよく 言われてた
いんですと 。そんなに見えるんです、化かされて。
んですわ。
それみんな天神さんの仕業だって言ってるけと<~'J 。
⑪ほうとうがえる
2)
⑨河童の話 (
男の子がね、遊びに行ったんですって、河原の
、
ほうとうは、かえるのおつきなの 。それカfね
方へね。そしたら体格のええ坊ちゃんが出てきて
夜になると道路にでてくるんですわ、道路って歩
ね、「相撲とらんか」って言うんですってね 。そ
く道にね。だから、歩いてる人は普通の道だと思
f
1
奄
って歩くでしょ。脚でポ ーンと蹴るとポー ンと音
したら「相撲とらんか」って言われた人は、
はね今日はお仏飯頂いてきたからとらんわ」って
がするんだ って。 こんなにお腹膨れてるからね、
人間文化 ・ 7
1
徳山村と北海道一 大地にロマンをもとめて(l)ー
音がすごいんで、す よ。そしたら蹴 って欲しくて出
お父さん言っ たんですって。そしたらね 、あの、
てくるんですってね。牛の声みたいにね。ハ ァー
姉の方かな 。「私は 三 日ほ ど前から寝つきが悪い
ハァー って鳴くんです。
から脇の下に鱗が三枚生えている」 ってね、ほだ
から「私に縁があるんだからね、私が行きます」
⑪きつねに化かされた話 (1
)
って娘の方から 言 ったんですって。そしたらそれ
同じ道を何回も夜が明けるまで歩いと った。夜
を連れて侍さんも行くしね。それからお盆が来て
があけてはじめて気がついたら我が家へ来とっ
里帰りしてね、お家帰ってきてご馳走食べて昼寝
た。一晩中歩いとっても、疲れないの。
したんです ってね。そしたら部屋に入 ってね 、お
父さんやお母さんにね、「私昼寝するからね、寝姿
⑮きつねに化かされた話 (
2
)
お風呂だと思ってはいっとたら肥つぽだった。
を見ないで下さい J
って言ったんですって 。そし
て戸を閉めて杯に一杯の水をも って入ったんです
って。見るなって言われたら見たいもんですよね、
⑮きつねに化かされた話 (
3)
一晩中歩いとっても、歩いているように見せか
けんできつねが速くてしっぽをふ っているの。振
ったほうへ行くんですって。
人間 ってね。だからお母さんもソォーっとね 、戸
をちょ っとだけ開けてね、見 たらもう部屋一杯に
水がi
留ま ってね、その部屋一杯にな って大蛇が浮
かんでるんですと 。それで、もうお母さんび、
っ くり
しち ゃっ てね。 もう見ないで、そしたら今度お母
(
4
)
さんに見られたから、だから水と 一緒にザ ァーと
いや、昼間でもね、昼間でも騎すんですと 。仕
水と 一緒にズ ーっと 川へいったんですね。そした
事場に戻ろうとするでしょ、 山へね。そしたら行
く途中で、木に登ってね、あの、縄の代わりに藤の
て。だからね、そこへはね一年に 一回お参りする
蔓を使うんだよね。秋にハサこしらえたりするの
ときは、化粧品を持ってね、舟を浮かべて沖のほ
⑪きつねに化かされた話
ら、お母さんがついて行 ったら夜叉が池へ行った
にね。藤を取りに行くのにね、自分の知 ってるね
うへ行くんですと 。そしたら 沖のほうへ行 ったら
おじさんが行って取ってるんだと 。目に見えるの。
ひっ くり返 ってお礼状がね返ってきた って。で
、
おじさんこんなはやく何で藤取りにい ってるんだ
毎年安八郡から娘さんが上がってたんです って
って息子が行くでしょ、それも自分の本当の親に
ね
、 一人づっ。順番になんですね、だから今年は
見えるんだと 。
家がやるな ってね、気使って親たちが困 ったな っ
て思 ってたんですって 。娘の方から 言われたら親
伝説
も承知してね。
⑪夜叉が池
あんね、水田農家で、ね、少しずつ作 ってるんで
大きくな って夜叉ケ 池も 家族が増えて 、 とって
もせまい って、住むのに。「と っか移らなき ゃな
ε
すけどね。
水田たってたくさんないからね内地は 。
らん」 って、また池をさがして 出て行くときは水
田んぼ見に行ったのね、お父さんが。そしたらね 、
もって出てくからね。
干ばつでねもう水がないから回んぼが干上がって
いくのね。そしてお父さんは独り 言 にね、「ああ
これで一雨降ってくれたら、そしたら家の娘三人
まとめ
おるけど、どの娘でもやるからなあ j って独り言
ことができた 。一世は門入での生活経験のある人、
言って畦を歩いてたんですって 。そしたらお父さ
二世は親あるいは身 内が昭和の初期に渡道し、自身
んが家の中に入った途端に雨が降 ったんですっ
て。「ああ 、い い雨だ、良か ったね」 って。そし
は北海道生まれで自ら「わしは道産子だ」と話す。そ
こでは故郷を懐かしみ 、故郷を知 りたいと 言 う。
たら 一人の侍が「こんばんは」 って入 ってきたん
、
だって。そしたらね「約束通りね、娘さんいただ
「
一度だけ行 ったことがある H一度行ってみたい」
0歳8
0歳代
「ダムができたら行きたい」等々 。殆どが7
今回の調査では主に一世
、 二世の方から話を聞 く
きにきました j と言うんですと 。ね、だから、そ
の人達である 。三世は40歳50歳代、四世は 20歳以下
う言っ たかなとお父さんも思い出して 、「
三人お
が多く、地縁血縁かにはあまりこだわりが無く、親
や祖父母が話せば聞くことはあるが、積極的に聞こ
るけどね、好きなのを一人連れて行 ってください j
72 ・人間文化
徳山村と北海道一 大地にロマンをもとめて(l)ー
うという姿勢は見られ ないようである 。この ことは、
現在の生活に追われて 、少 し
ヲ│
いて自分の人生を見
つめてみるという時間 的
、 精神的な余裕がないため
では無かろうか。人は精神的 にゆとりが出て来れば、
必ずや自分のルーツを 辿 りたくなり 、知りたくなる
ものと確信している 。そのためにも語り伝えること、
記録にとどめることの重要性 を感じるものである 。
増してや、たずねる故郷は湖 の底では直接的に確認
することが不可能な場合、一層その感が強くなる 。
坂本ナツエさんは現在 86歳である 。 75 ~ 80年前の
記憶を呼び起こしな が ら一生懸命話してくださっ
た。20余年まえ、徳 山村で聞 くことのできなかった
参考文献
『日 本 地 名 大 辞 典
北海道上・下j角川書庖
1
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集委員会
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-岐阜県揖斐郡藤橋村教育委員会 『
古文書総目録 j
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岐阜県揖斐郡藤橋村教育委員会
1
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-岐阜県揖斐郡藤橋村教育委員会 『
古文書総目録 j
岐阜県揖斐郡藤橋村教育委員会
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・富良野平原土地改良区『農魂一路 ・奥野善造伝 1
奥野善造伝刊行委員会
1
9
9
4
.
3
.
1
5
-朝日新聞岐阜支局 『浮いてしまう徳山村』 ブツク
5.
1
ショップ「マイタウン J 1986.
・水資源開発公団 [
美濃徳山の地名 j徳 山夕、ム建設
図8
現在の旧徳山村門入地区
所
1
99
7.
1
2.
20
r
「徳山村の自然と歴史と文化 を語る集い J 徳 山
生活、あそび、昔話が多 く諮られていた 。 1
2歳まで
村 ーその自然と歴史と文化 -Jブックショップ
のナツエさんにとっては「とてもいいところ」だった。
9
8
4.
9
.
1
「マイタウン J 1
r
外へ出れば自然が叢かで 、食べ物は豊富にあり、あ
2)
J 徳
「徳 山村の自然と歴史と文化 を語る集い (
そび場所、あそび仲間も絶 えず、いて粋は強く 、みな
山村ーその自然と歴史と文化 -j ブ y クショップ
兄弟同然の付 き合いで楽しく暮らしていた故郷であ
9
8
5.
9
.1
「マイタウン J 1
った 。奥深い 山間部であるため、お庖もなくお金を
-滋賀県立短期大学学術雑誌編集委員会 ・聖徳学園
使うところもないので 、手伝いの褒美は品物をもら
女子短期大学紀要編集委員会 ・中京女子大学紀要
う事がいちばんうれしかったという 。冬場雪に閉ざ
編集委員会「岐阜県徳山村の口承文芸に関する調
され、戸外のあそびはほとんどできない 。 しかし、
査 報 告 第 1報
あそびを成立させる三つ の条件、仲間・ 空間 (
場所)・
時間が整っていて、物の豊か さよりも 、心の豊かさが
満たされていて、「故郷は良いこところであった jとの
第1
7報 J滋賀県立短期大学・聖
徳学園女子短期大学・ 中京女子大学
・大橋和華
1979 ~
1
9
8
4
野部博子編 『
岐阜 -揖斐渓谷の昔話と
唄』民話と文学の会
2003.
11
.20
印象になったのではない か と思われる 。さらには兄
弟の多い中で育ち末子であったこと、生活のための
仕事がナツエさんにはかかつてこなか ったことが、
一層好印象をもたらしたのではないかと考える。
謝辞
本調査を行なうに当たり 、富良野市在住の今井一
道、すみ子ご夫婦には話者の紹介、案内 、助言等多
ナツエさんは昭和四年 に離村直前の門入地区を訪
大なお世話になりました 。 また、長時 間にわたり根
れている 。先の門生会が企画 した「徳 山 ツアー j に
気よくお付き合いくださった坂本ナツエさんはじめ
参加しての訪問であった。その目的は「娘に 一度故
ご家族の方、忙しい中調査にご協力いただいた方々 、
郷を見せておきたかっ たか ら」だという 。
録音テーフ。
の整理に協力してくださった福島三佳さ
ナツエさんとっての故郷 は子ども時代のよき思い
ん、原草平さんに感謝申し上げます。
出の場所として残っている ようである 。
人間文化・
7
3
地域フォーラム
「聴きとり調査」を考える
地 域 文 化 の再 生 へ の 参 画 を め ざ し て 一
渡辺大記
入間文化学研究科地域文化学専攻
博士前期課程
1.はじめに
現代の日本社会が抱えている諸問題の一つに、地
地域外の者が地域活動に参画するには、地域に暮
らす人びとと新しいコミュニティーを形成しなけれ
I
J
降、きとり調査」を行
域社会の問題がある 。「地域社会の崩壊」などと 言
ばならない 。そのためには、
われることがある中で、地域の内部での、これまで
うことで、インフォマント (
話し手)は自らが伝え、
の家族のあり方や人間同士のかかわりの形態が急速
地域に生きる人びとからの言葉によって、聴き手に
に変化してきていると言えよう 。
そうした中で、地域文化の再生は重要なテーマの
は「地域に学ぶ」という姿勢が大切になるのではな
かろうか。
一つなのではなかろうか。現代の地域社会の構造で
こうして、互いが学び、実践的な活動を支えあ っ
は、地域文化が受け継がれていく基盤が失われつつ
ていくという関係の中では、その成果をどう表現す
あるように思えるからである 。
本文では、そのために「聴きとり調査j を用いる
るのかという ことを 真剣に考える 必要があるのでは
なかろうか。なぜなら、そうした表現があってこそ、
ことで、地域の内外を問わず、広く地域文化の再生
その内容をもとにして地域文化を理解し、その再評
の鍵となる文化の伝承の新たな形を、現代に創り上
げることができないかということについて述べた
価をしていくことができるからである 。
、。
し
3.人と地域のあるがままを聴いていく
2
.r
聴きとり調査Jを表現する
聴きとり調査の場合、そこから得られる話の内容
には 、インフ ォマン トの主観による表現が多分に含
まれている 。 このため 、聴きとり調査から得られた
地域文化の再生には、まず地域文化の伝承のあり
情報に対しては、普遍性を求めることが困難であり、
方を考え直すことが必要なのではなかろうか。それ
あくまでもそこから得られる情報は一次資料とされ
には様々な形態があろうが、 一般的なのは、地域内
る。つまり、研究対象となる事象をまず具体的に把
。
ト品
、
﹁ノ
吉
一
、ぇ
において年長者から若者へ教え伝えられていく形と
しかしながら、少子化や家族関係のあり方、さら
握するための手段にすぎないのであって 、会話の内
容からは、専門的に分化した聴き手が研究対象とし
ている事象に関係する内容だけが抽出される 。
には個人と地域とのかかわりの変化は、地域文化の
しかし、私が行ってきた「聴きとり調査」は、最
伝承の受け手である地域内の若い世代が減少すると
初から研究対象となる個別の事象を明確に設定せず
いう数の問題だけでなく、異なった世代同士がかか
に進めていくというものである。
わる機会自体がi
成少していることをも示しているの
つまり、地域の暮らしの中に存在している作業や
ではなかろうか。 こうした状況では、相対的に地域
文化の伝承が滞ってしまうことが考えられるのであ
労働、習慣、信仰などの具体的な多くの要素を、聴
き手の側が個別に切り離してテーマ化するのではな
る。
そこで現実的には、地域や家族という枠を超えた
く、そうした要素が絡み合いながら存在している地
域のあるがままを、そこで暮らすインフォマント自
様々な立場の人間が、地域文化を伝承するなど、地
身に自由に語ってもらうことを第一の目的に設定す
域活動に広く参画していくことが求められるのでは
るのである 。
極めて主観的な言い方をすれば、これは欝蒼とし
なかろうか。
そうした場合に大切なことは、地域社会とかかわ
た大きな雑木林を、外地からの人間が探検しながら、
る中で、変化しつつある地域文化を現代社会にどう
手探りで一歩ずつ進んで行くようなものである。実
位置づけるのか。 さらには、それをどのような形で
際に分け入った雑木林では、欝蒼とした木々の姿や
表現し、伝えていくのかということである 。
この場合の表現の形態は、単に分かりやすい言葉
音、木陰が生み 出すひんやりとした雰囲気、落ち葉
のにおいなど、そこに存在している多様な要素に、
で表現するということではなく、専門家の聞に通用
分け入る者は感覚を研ぎ澄まし、そこで知覚したこ
するような、従来型の表現形式にとらわれないとい
とのすべてを受容することになろう 。
うことである 。
7
4 ・人間文化
それは時に、分け入った人間の側 (
聴き手)があ
「聴きとり調査Jを考える一 地域文化の再生への参画をめざして
っている 。聴き手は、幹から出ている枝葉の広がり
やその繁茂に、自身が足をつけている大地とその枝
葉とがつながっていることを実感する 。 これは、枝
葉が切り落とされ、製材されて横たわっている木を
見ているのではないのである。
70歳代以上のお年寄りの多くは、機械化や社会シ
ステムの発達が未熟な時代と、今という便利で快適
な暮 ら しの両方を経験してきたと 言っ て良い。そう
した時代を生き抜いてきた人びとは、今を生きる中
で一体どのようなことを思い 、何を考えるのだろう
か。
現代社会では、高齢者はとかく若年世代にとって
は、支えなければならない対象として捉えられる傾
向にあると言えよう 。 そうして高齢者の数が増え、
それを支える若年世代が減少すると、若年世代から
写真 1 苔の暮らしを伝えるべく、 2
0
0
2年に湖東町大沢地区
の文化祭で再現された、石臼で大豆を挽く様子。子どもはど
んなことを感じ取ったのだろうか。
医療 -介護施設の充実など、現実的な問題を解決す
らかじめ持ち合わせている思いや考え 、感覚とい っ
れる 。
は、その負担の軽減が求められ、高齢者にとっては
るための施策や取り組みを生み出すことに力が注が
たものを転倒させたり 、思わぬ発見か ら物事を再認
しかし、話を聴くという ことで表現される、人間
識させたりする 。 こうして「聴きとり調査」とは、
が齢を重ね、経験してきた人生や、そこから生み出
地域文化の存在の前で、私たちに謙虚さを与え、ま
される実感とい った、人間の 内面 に形成されるもの
た好奇心をかきたてる作用を持った手法なのであ
は、高齢化社会が抱える負担や介護問題など、社会
る。
全体の問題として具体的に解決していくこととは別
4
. お年寄りに聴く
会に提示する価値を持っているように思えるのであ
に、何か人間の生き方や社会のあり方をも 、現代社
本来なら 、 インフォマン トは老若男女を問わない
る。 それは、単に支える対象という事物的な捉え方
ということになろう 。 しかし、私はこれまでに 70歳
ではない 、齢を重ねた人聞の存在自体に 、周 りの人
代後半からのお年寄りを 中心 にして「聴きとり調査」
聞が敬いのこころを持つことにもつながるのではな
を行ってきた 。
かろうか。
それは、極めて主観的な表現ではあるが、インフォ
マントから得られる話は、地域の暮らしの詳細な情
また、お年寄り個人が極めて主観的に語る話は、
単なる個人的な思い出の域に留まるものではない。
報を今に伝えるだけではなく、聴き手に「味わい j
を与える作用があると感じたからである o
この作用をもたらすためには、 一人の人聞が生き
た人生を話の軸に据えて 、じ っくりと語ってもらう
ことが必要で、あると考える。
人生を軸に 1
)
1
買を追いながら語られる話の内容は、
これまでの経験やそこから得た知識、あるいは親か
らの伝承や暮らしの中での知恵、地域の中 にある 言
い伝えなどが、広がりを持って表される 。
主観的な言い方をすれば、イ ンフォマントの語り
は、これまで生きてきたと い う実感を幹に、そこか
ら様々な枝葉が伸びている樹木のようなものであ
る。その幹は、地域という大地に しっかりと根を張
写真 2 古写真を見ながら、芦屋の近江商人宅へ奉公した
、当家への縁入りからデイ・サービスまで、幼少
「しおふみJ
2歳のおばあさん。
時代から現在にいたる話を聞かせてくれた 9
人間文化・ 75
「聴きとり調査Jを考える一 地域文化の再生への参画をめざして ー
ある一人の人間が語る話には、その地域の諸相が自
極めて主観的な話になるかもしれないが、長きに
然、と表現されてくることが多いことを実感するので
渡り大地に根を張り続けてきた大樹に、人は癒され、
ある 。
こころ惹かれるのは、その大樹に刻まれた木目や樹
現代社会の中で、地域の問題を考える時に必要な
皮のしわ、凹凸による陰影など、おおよそスマート
ことは、問題解決のための施策を具現化することだ
でない、一見すると意味の無いようで、余計なもの
けではない。地域とはどういうものか、また 、地域
とも思える要素が存在するからではなかろうか。
はどうあるべきかという哲学的とでも言うべき問い
かけを真剣に考える必要があろう 。そうした時に、
「聴きとり調査」から得られる話も同じである 。
人生を軸にして、あるがままが語られる話には、暮
地域の人の語る具体的な話から地域の諸相が見える
らしの中の体験や思い、実感、さらには地域の様子
ことは、地域というものの具体的なイメージを形成
など、大樹で言うところの木目やしわで溢れている 。
しやすくなるのでなかろうか。
耳で感じ取ることのできる話のしわに、聴き手は味
「聴きとり調査」におけるインフォマントと聴き
わうということを覚えるのである 。そうしたものを
手という立場は互いに違い、まったく同化すること
単に余計なこととして、排除してしまっては、話を
は現実的に不可能である 。 しかし、聴き手の側がイ
聴いて味わうということはできないと私は考えてい
ンフォマントの語りに自分自身の思考や感性を映し
る。
重ねていくことで、これまではまったくの他人であ
自身の子や孫、あるいは地域内部の人間に文化が
った両者の聞に、何か臨場的な時間の共有というか、
伝承されにくい現代社会では、家族や地域の枠を越
一体感が生まれる 。 こうした関係は、もはや知識を
えて、語るという行為と聴くという行為が行われる
蓄積するためのプロセスなどという次元を超えて、
必要がある 。そうした時に、味わうというこころの
共に学び、共に地域を再生していくという共感を生
動きは、家族や同じ地域に暮らしてきたという背景
み出す原動力になるのではなかろうか。
私は、インフォマントが自身の人生を通して、地
に代わって、地域文化の再生の基礎になるものなの
ではなかろうか。
域の暮らしのあるがままを語るという行為は、美で
あると考えている 。
5
. 話を文字化し、表現する
「聴きとり調査」で得られた話は、臨場している
者同士で共有するだけではなく、文字化するなどし
て、表現することが大切であると考えている 。
しかしながら、インフォマントの話はあくまでも
会話の中で「話し言葉j によって表現されたもので
あり、紙面上に文字化して表現する場合の「書き 言
葉」、あるいは「読み言葉j によるものとは、異な
るものと考えるべきなのではなかろうか。
つまり、「聴きとり調査」によって得られた話を
どう表現するのかということは、地域の人たちから
の話し言葉による「表現体」を、聴き手の側が書き
言葉、あるいは読み言葉を用いて、どのように表現
するのかということである 。
しかし 、ここで大きな問題になるのは、インフ ォ
マントからの話をどこまで修正していくのかという
ことである 。 この点については多様な判断があるだ
ろう 。 しかし、「聴きとり調査」によって得られた
話を、ほぼそのままの形で表現することよりも、話
写真 3 写真は多賀町向之倉の野鍛冶さんで、鋸の目立てを
見せてもらいながら、話を聴いた。自宅ゃいつもの作業場だ
と、穏やかに語ってもらえて、話も続いていくととが多い。
7
6 ・人間文化
の内容を精査する作業が必要で、あると考えたい。 こ
れは、翻訳作業において、他国の言語による文章を、
自国の言語で直訳するだけでは、不十分なことと同
「聴きとり調査」を考える一 地域文化の再生への参画をめざして
様である 。
この修正は、「聴きとり調査Jから得られた話の
が見えるのではなく、 山全体を も見えるということ
である 。
持つ価値について、一般的に理解が進んでいないと
そうした全体を見通す捉え方は「味わい j となっ
考えられるからである。特にそうした感覚は、お年
て、読み手の身体に印象づけられることになろう 。
寄りほど強いことを実感する 。それは時代の変化が
急速に進んだ結果、現代 において過去の話をすると、
それは古臭く 、時代錯誤も甚だしいだけだなどと認
識されてしまうことを懸念してのことであろう 。
さらには、インフォマントが自身の話し方は下手
だと思う傾向にあるからである 。人生を通して経験
6.古写真を用いて聴く
具体的に「聴きとり調査」を進めていく中で、話
の内容が過去の範囲に及ぶと 、イ ンフォマントと聴
き手との世代の開きが大きい場合、その格差を実感
するようにな った。
し、体験してきた中には膨大な トピ ックがあり、そ
それは、視覚的な知識が乏しく、さらには実体験
れらを限られた時間の 中で表現する場合、必然的に
がないために、耳から入る情報と理解とが遊離して
同じ話の繰り返しになったり、話の前後が入れ替わ
しまい、話についていけない状況になるのである 。
ることになろう 。 しかし 、日 常生活の中で、若い世
こうした状況を踏まえて 、私が滋賀県内で、行って
代に昔の話を伝えるという機会が失われているから
きた「聴きと り調査」では 、古い写真 (
以下、古写
であろうか、そうしたことを悲観的に捉え 、語ると
真 と書く ) を用いることを試みてきた。
いうことを跨路する人が多いことも事実である 。
一例を挙げると、滋賀県豊郷町での調査で使用し
つまり、「聴きとり調査」に基づいた表現作品を
た古写真は戦前のもので、豊郷小学校の新校舎が完
インフォマントが読んだ時に、やはり自分の話は恥
2(
1
93
7)年に勤務し始めた、用務員兼
成した昭和 1
ずかしいとか、読みにくいとかいうような感を印象
スチーム暖房設備のボイラーマンだった秦荘町出身
づけてはならない 。なぜ、なら、せっかくの「聴きと
の杉立淳蔵氏が撮影したもの(以下、杉立写真と書
り調査jが話をすることの恥ずかしさや時代錯誤の
く)である 。 これらの写真には 、豊郷村で、の日常の
感を増幅させることになれば、口述 による地域文化
暮らしの様子が写されている。
の伝承がいっそう行なわれなくなってしまうことが
予測できるからである 。
私は「聴きとり調査」の事前作業として、ガラス
乾板を専門業者に依頼し紙焼きしたものを、傷や劣
逆に言 えば、話の内容を聴き手の側がインフォマ
化部分をある程度までデジタル処理し修正と整理を
ント自身の懸念や地域内に おける影響を予測 、 また
行 った。そして古写真を綴じたファイルをできるだ
は把握し、文字化する過程で具体的にそれらを修正
け多くの地域のお年寄りに回覧を依頼した 。 このフ
することができれば、前述のような不安要素を払拭
ァイルの回覧は、その余白に被写体の場所や日付、
できるということである。
人物の名前などを自由に書き込んでもらうためであ
つまり、「聴きとり調査」を表現することは、イ
る。その後、地元の人の紹介で数人のお年寄りのお
ンフォマントが今後、地域活動の中などで文化を伝
承していく役割を担い 、積極的にその活動が行うこ
とができる方向へ向けることのできる手法であると
も言えるのである 。
さらに私は 、文字化されたものを声に出して読む
という行為を考えたい。文字を声に出して読んだ時
に読み手や聞き手に伝わることは、話の内容そのも
のだけではなかろう 。方言やその地方独特の言い回
しは、人や地域の多様性 を表し、私たちに伝えるも
のである 。その方言の持つ響きや言い回しは、発話
者自身の生き方や話の 内容などと相乗効果となり、
伝
イ
i
:
!
?
!
?
J
i
その内容にある個別具体的な要素だけではなく、イ
写真 4 杉立淳蔵氏が撮影したガラス乾板。フィルムの代わ
ンフ ォマントによる表現体の全体に、読み手の関心
りにガラスが使われていた当時、 ガラス乾板は再利用される
ことが多かったので、今では貴重なのだという 。
が向いていく 。主観的な表現をすれば、単に木だけ
人間文化・ 77
「聴きとり調査」を考える一 地域文化の再生への参画をめざして
宅を回り、詳しい「聴きとり調査j を行った 。
加えて、インフォマントによる表現体を文字化す
古写真を「聴きとり調査」に用いることの利点は、
るなど、「聴きとり調査 j の結果を出版物などの形
事前作業として古写真の整理が含まれることであ
で外部に公表する際にも 、古写真があることによっ
る。学校など、地域に残されている古写真は、整理
が行われていないものが多い。 しかしながら、現在
て、文字化された内容を読み手により視覚的に訴え
かけることになるだろう 。
普及しているデジタル機器などを使えば、大量の写
古写真の価値は近年、高まりつつあるようで、古
真でも比較的容易に古写真の再生と整理が可能であ
る。 こうした作業の結果は、「デジタルアーカイブ」
写真を再生する取り組みが行われ始めている。以下、
滋賀県内で行われている二つの事例を挙げる。
などと称されて、地域の文化財として保存や今後の
活用に向けた準備ができ、地域貢献にもつなが って
いる 。
加えて、「聴きとり調査」の過程で古写真を使用
することは、聴き手に対して、インフォマントとの
間にある世代問の格差を越えて、視覚的なイメージ
を与えることができる 。つまり、インフォマントの
体験やそこから得られた知識などの具体的な情報
と、聴き手が見ている画像とが一致する 。そうして、
当時の暮らしゃ人間の生き方を冷静に再考できるの
である 。
さらには、 一枚の写真を囲んで、今という時間を
共有しているという、インフォマントと聴き手とが
写真 5 古写真を前にして、親子や嫁姑という世代を超えて
話に花が咲く
。 その表情は実に明るい。
一体となれる道具でもあろう 。その地域に暮らす人
一つは、愛知郡湖東町出身のアマチュア写真家、
びとと外部の人間とが一体となることこそ、「聴き
故浅岡利 三郎氏が残した写真(以下、浅岡写真と書
とり調査」で大切なことの 一つである 。 この一体感
く) を再生する活動である 。浅岡氏は湖東地方を中
は、地域の暮らしを語るという行為が持ち得る価値
心に昭和 30年代の風景や暮らしを写真に収めること
を、インフォマントを始め地域の人たちに浸透させ
を精力的に行った人物である 。現在では、浅岡氏の
ることにもなろう 。
子孫や写真仲間、博物館の学芸員や図書館司書など
また、杉立写真のような古写真は、地域の人たち
の中でも、特にお年寄りに見せることは、大きな関
で構成する「写真で見る昭和 30年代の地域を研究す
心を呼ぶということを実感する 。 インフォマントの
の中だけに留められていた自身の歴史が、日の前に
9 (1
9
9
7)年ごろから活動している 。
この会の活動の特徴は、浅岡写真が滋賀県内の自
治体単位で、ある程度の写真の集積があることを活
かして、地域の図書館や博物館と連携し、浅間写真
の中から、その地域内で撮影された写真を展示して
いることである 。
展開されていることに、こころ動かされるのであろ
この展示には、実際に写真を見に来た人に、写真
う。こうした作用は、話を聴くという行為と併せて、
の人物や場所、思い出などを具体的に書き込んでも
側にすれば、特に昭和初期から昭和 30
年代ごろまで
の時代は、写真自体が貴重だったことが挙げられよ
う。さらには、日常の暮らしのー コマを写すという
ことは極めて稀だった。そうした状況の中で、記憶
る会 (
代表、津田弘行氏 )
J が主体となって 、平成
老人の痴呆症状を改善したりするなどとして、近年
らうため、専用の用紙を写真ごとに用意する 。加え
注目されつつある 。
て、研究会のメンバーが展示会場に赴いて、見学者
さらに、「聴きとり調査」では膨大な経験や知識
の中から、ある 一定の限られた時間の中で何を話せ
から聴きとり調査をするというものである 。
近年の市町村合併の推進によって、各自治体によ
ば良いのかと、インフォマントを悩ませてしまうこ
る自治体史刊行が活発化する中、自治体史の編纂室
とが多い。そこに古写真があることで、最初は写真
の活動との連携もあった。 さらに、自治体の担当者
の被写体について語り始め、次々と話が展開してい
からは、展示された古写真を見るために、地域の人
く流れを生み出すことができる 。
たちが互いに誘い合わせて多く集まり、結果的に施
78 ・人間文化
「聴きとり調査」を考える一 地域文化の再生への参画をめざして ー
設の認知と利用の促進が図られたという声も聞かれ
しかし、「聴きとり調査」をもとに地域文化を 文
字化して伝承していくプロセスと、新旧の写真の有
た。
しかし 、
展示と並行して行われ る聴きとり調査は、
効な使用とを考え合わせながら、試行錯誤していく
いわば立ち話的なものであり、時間的なことや人員
ことで、地域文化を捉える多様な視点や具体的な活
不足も伴って、聴きとり調査としては不十分なもの
動を生み出していくことが可能になるのではなかろ
になりがちであった。 また、 短時間での聴きとりや
うか。
個人が用紙に記入する方式では、地域文化の表現や
伝承というよりも、写真に写っている人物や場所の
特定に重きが置かれることが多かった 。
二つ目は 、定点対比の手法である 。 これは、古写
真と同じ場所、同 じアングルから現代の風景を撮影
した写真とを比較するもので、代表的な事例は、
『
今昔写真で見る世界の湖沼の 100年 J(
財)国際湖
沼環境委員会
2001
) にま
滋賀県立琵琶湖博物館 (
とめられているものであろう 。
これは、古写真が撮影された場所や年代を聴き手
の側が「聴き込み調査」することによって特定し、
風景や暮らしの様子の変化 を視覚的に見せるとい
う、外部へのアピール 的要素の強いものである 。
古写真を用いた定点対比の手法は、地域の人たち
0年代に撮影された沖島の写真に見入るおばあ
写真 6 昭和 3
さん。写真の場所や人物について、左の男性に教えてあげて
いた。(写真 5・6共に 2
0
0
2年の沖島文化祭にて)
に地域文化の再生を目 的と活動 の理念が伝わりやす
いようである 。それは、自身が語ろうとすることが、
新旧二枚の写真 を並べることで、変化として視覚的
に具体的にイメージできて、記憶と共に分析できる
からであろう 。
しかし、この手法では、あくまでも現代で撮影し
た写真は 、古写真と同じ場所で写したものとしての
7
. 現代社会の再考と「聴きとり調査J
「聴きとり調査」を行い、その結果としてインフ
ォマントから得られた情報には、地域の風景や暮ら
しの様子、地域連帯の姿などが具体的に表わされて
いる 。
価値しか見出されないと言える 。いま求められてい
ところがそれらの多くは、今では失われてしま っ
るのは、地域の外部と 内部の人間が共にかかわるこ
たものであったり、あるいは無用とされたものであ
とで 、外部の人間のみならず、地域内部の人間が価
ったりすることが多い。
値の再発見や新たな考え方を生み出すきっかけづく
りなのではなかろうか。
日本における高度経済成長期に始まる生活の様相
の変化は、長きに渡 って人聞が行 ってきた営みの破
こうしたことを考えると 、現代の写真は古写真 と
壊であ ったと 言 えよう 。その時代には機械が普及し
比較するためだけのものではなく、地域文化の美 し
始め、人びとは非合理的な作業や肉体的な労力負担
さや素晴らしさを地域の人たちに表現し伝えるとい
から解放された 。その結果として、人びとの意識の
う側面を持っていると言えるのではなかろうか。
中に、合理性や効率性にすぐれた生活が良いという
加えて、写真は風景や生活のー コマを単に写し出
暮らしの理想像が形成されてきたのではなかろう
したものである 。写真を用いる場合には、写らない
ものに対する配慮がより重要になることだろう 。写
か。
しかし当時、追求されていた理想像や良い生活を、
真を「聴きとり調査」に 用い ることは、視覚的な印
私たちはいまの時代に実現し、その結果、本当に豊
象を強め、話が写真の被写体の説明に終始する傾向
かな暮 らしを営んで、
いると言えるのだろうか。
になることも懸念材料の一つで、ある 。
そうして、今や消え失せてしま った事物に秘め ら
古写真や現代に撮影された写真が持つ様々な要素
れていた要素とは、どのようなものだ ったのか。そ
を、同紙面上に 一度に盛り込むことは不可能なこと
れは作業や技などの中に存在していた 、人間 が自身
かもしれない。
の身体を動かし、身体で得ていた身体の一部として
人間文化・ 79
「聴きとり調査」を考える
地域文化の再生への参画をめざして
の知識や暮らしの知恵であった。 また、地域で行わ
ものではあるが、それらが互いにかかわり合うこと
れる年中行事などには、地域の歴史や伝統が表れて
で、風土というものを創り出していくのである 。
いたし、自然を含めた景観は、自然の存在と神や仏
地域の人間と、何らかの関心が縁とな ってかかわ
を敬い、それらを大切にするこころや美の感覚をも
ることになった外部の人間とが、共に今後の地域の
形成してきたのではなかろうか。
あり方を考え、地域文化を捉え直し、地域を再生し
こうして、ごく普通に行われてきた営みやごく普
ていくためには、情報や思考、その理念をそれぞれ
通に存在してきた風景には、多様な価値を見出すこ
が自由に交換し合うことのできるコミュニティーを
とのできる要素を内包していたのである 。
構築していくことが重要で、ある 。
こうしたものの破壊は、いま思えば、資本の論理
そのためには、風が吹き、伸びた樹木の校葉を揺
や合理性の追求といった実益重視の価値判断が、全
らし、音として空気を振動させながら周囲へ伝える
国各地でごく短絡的に行われた結果と 言 えるのでは
作用、つまり表現し、伝えていくことの重要性が高
なかろうか。
まることであろう 。
現代社会が抱える問題を、いま考える時に大切な
そのように考えると、固定化された集団や専門化
ことは、これまでのような価値基準によ ってのみ、
された枠内でのみ共有され、通用する表現手法に頼
物事を取捨選択し、全国一様のものに仕上げていく
るだけではなく、これまでに述べてきた「聴きとり
のではなく、かつての地域社会の営みの中にあ った
調査j による表現のような、地域の人びとと共に行
所作や人間のこころのあるがままを知り学び、それ
うことのできる新たな表現手法が必要にな ってくる
のではなかろうか。
が持ち合わせていた多様な意味や価値とい ったもの
を、現代の暮らしの中に再置することが重要なので
はなかろうか。
ここで重要なことは、多様な立場の人間が、こう
した活動に参画するということである 。 これは、地
域社会の中で実際に生活している人聞にと っては、
日常生活の中で自身が生きることに直結する問題に
直面しており、すぐにそれらの解決策を見出す必要
に迫られる 。そうしたサイクルの中にいる人間にと
って、独力で日々の暮らしの営みや所作の中にある
諸相を、地域の文化として、その意味を冷静に捉え
直し、現在の生活に再生していくことは、困難なよ
うに思えるからである 。
主観的に例えて言うならば、地域内部の人間は
「大地」、外部の人間は「風」であり、さらに地域文
化は「樹木 j と言えよう 。風は大地の表面を吹き流
れていく 。 しかし、その大地に風の流れを遮り、留
めるものが何もなければ、そのまま風は吹き流れ去
ってしまう 。
ところが、その大地にしっかりと根づいた樹木が
存在していれば、風は樹木に当たり、その地に滞留
することになる。そこで風は、大地に新たな空気を
送り込み、土壌を改良するのである 。そうして、弱
った樹木にさらなる成長を促すとともに、活力をも
与えることにつながっていく 。あるいは、今や切り
倒された樹木の切り株から、新芽を芽吹かせるかも
しれない。
こうして、大地と風、樹木は、それぞれに異質な
8
0 ・人間文化
(財)滋賀県文化財保護協会主任 畑
甲賀寺跡・甲賀(紫香楽)宮跡は滋賀県甲賀市信
楽に所在する 。近年、長年にわたる所在地論争に終
中 英 二
過程を考古学的に辿る意義は極めて大きいと云える
のである 。
止符を打ったとして 、新聞やテレビなどのメディア
ここで問題となるのは、 甲賀寺 と近江国分寺の関
によって広くその名が知られるようになった。 メデ
係である 。
両者の関係が如何なるものであったのか、
ィアを通じて公表された 明解な説明とは裏腹に、未
現状で見られる内裏野丘陵上に位置する伽藍との関
だ解決を見ない幾つもの課題がある 。それは単純明
係は如何なるものであったのかが明らかではないが
快ではない寺と宮の造営の経緯と、 一筋縄ではない
故に、幾つもの選択肢が用意されてしまい、求める
調査研究の流れによるものである 。 そこで、「甲賀
べき結論が遠のいていくのである。
寺-甲賀(紫香楽)宮研究の課題」と題して、研究
の現状と共に課題について簡単に記すこととした
、
。
(
2)腫舎那仏造像の歴史的背景
何故日本列島において鹿舎那仏像がつくられたの
U
か。 この問題については、 日本列 島内の事象のみで
1. 甲 賀 寺 に お け る 塵 舎 那 仏 造 像
は意義付けられないものであると考える 。以下に簡
ーその歴史的意義について一
一般的に甲賀寺と 甲賀(紫香楽)宮とを比較する
と、後者の知名度が圧倒 的に高い。 どちらが歴史的
単にふれてみよう 。
一般的には 、天平 1
2(
7
4
0
) 年 2月
c
r続紀 J
)に
聖武天皇が河内知識寺において「知識Jによってつ
に重要かという二者択一の議論そのものは意味を成
くられた巨大な仏像を見たことから、自らも底舎那
さないとはいえ、甲賀寺が軽視されている現状は極
仏像をつくることを思いついたものであるとされ
めて憂慮すべきであると考える。まず、甲賀寺とは
る。 ただし、大仏像顕の詔にもあるように、民衆の
何だったのか、次いで庭舎那仏造像の歴史的背景に
力(知識) を得て仏像をつくることを思いついたの
ついて簡単に触れることによって、甲賀寺の歴史的
であって、ここではじめて鹿舎那仏像そのものの造
意義について述べることとしたい。
像を思いついたのではない。底舎那仏像そのものは、
(
1
)甲賀寺とは何だったのか
甲賀寺は、天平 1
5(
743)年 1
0月 1
5日
u続紀 J)
に、聖武天皇によって紫香楽において発せられた
「大仏造顕の詔 Jを承けて 、同月 19日
(
r
続紀 J
)よ
り造営が開始された寺院である。同 1
6(
744)年 1
1
月1
3日 (
r続紀 J
)に(底舎那仏の)体骨柱が建てら
れたという記事があることからも、甲賀寺において
金銅底舎那仏像をつくろうとしていたことは間違い
ない。 ただし、聖武天皇が天平 1
7(
745)年 5月 5
日 (
r続紀 J
) に紫香楽を離れ、同年 8月 (
r東大寺
要録J
) には東大寺において大仏殿の整地が開始さ
れていることからみて 、こ の年には紫香楽における
大仏造営は停止したものとみて良いだろう 。天平 1
7
年以降の甲賀寺については 、す ぐに廃絶してしまっ
たのではなく、近江国分寺になった可能性がある 。
つまり、甲賀寺においてっくりはじめられた金銅
庫舎那仏像の造像を東大寺が受け継いだのである 。
東大寺における金銅塵舎那仏造像そのものは古代史
上の一つのエポックであることは云うまでもない 。
甲賀寺 ・紫香楽宮関係の遺跡
その前史である甲賀寺における金銅鹿舎那仏造像の
人間文化 ・
8
1
暗闇同!
の│
考│
盲│
学ゆ│
作例は少ないものの、為政者側からの働きかけによ
名称、である 。 この言葉の持つ美しさから 、広 く用い
って造像されるものであることはっとに指摘されて
られている現状がある。地元教育委員会の刊行物を
いる 。つまり 、鎮護国家のシンボルとして造像され
はじめ、「紫香楽宮 Jと題した刊行物も散見される 。
たものであることを理解する必要がある 。
ただし、研究史を繕くと「紫香楽」の「宮」という
名称、が、学術的には適切なものではないことが判る 。
また、古代の日本列島において巨大な仏像をつく
るという事柄自体は、アフガニスタンのパーミヤン
以下に簡単に記しておこう 。
をはじめとしてアジア世界の中では突発的に生じた
6年後半を境に
橋本義則氏の研究によると 、天平 1
ものではない。中でも唐代の大仏は竜門石窟、敦士皇
「紫香楽宮」もしくは「信楽宮 Jから「甲賀宮」へ
と変わっていったこと、 760年台の保良宮 ・石 山寺
石窟、天梯山石窟 、:柄霊寺石窟 、須弥 山石窟、凌楽
寺大仏などが知られており、 一般的であるとは言い
難いものの類例がないものでもない。 こういった情
の造営が開始される頃になると 、「甲賀」から「信
楽」へと戻っていったことが明らか となった(橋本
勢の 中で、高宗の奉先寺大仏 と共に則天武后の洛陽
1994)
。天平 1
6年後半の「紫香楽 Jから「甲賀」へ
城内天堂の乾漆弥勤大仏および白司馬坂の銅製大仏
の変化は、甲賀寺の造営と軌を ーにして離宮から主
と大雲寺の造営事業が、日本における大仏および国
都への移行を意味するものであると考えられた。
分寺の造営の影響を与えていると考えられている
つまり、ここに宮が置かれた最盛期には「甲賀宮」
(宮治20
03)
。
と呼称されていたことが明らかにされているのであ
(
3
)洛陽と竜門、恭仁と紫香楽
知されているとは言い草住いことから、敢えて「紫香
る。残念ながら「甲賀宮 j という名称は、 一般に周
加えて、瀧川政次郎氏の指摘によると、紫香楽に
楽宮」と呼称せざるを得ない状況もあるが、学術的
おける底舎那仏造像は、地理的関係を含めた上で、
には「甲賀宮」と 呼称すべきである 。ただし、辞書
中国の龍門奉先寺の鹿舎那仏の影響を強く受けてい
の類にも「紫香楽宮」と記されており 、こ の点につ
るとされる(瀧川 1
967)。龍門は洛陽城の郊外に位
いても 一筋縄では解決しがたい 問題が横たわってい
置し、両者の関係は不可分のものとされる 。一方
、
ると 言 えるだろう 。
紫香楽の近隣には恭仁宮があり、両者の関係は地理
的関係もさることながら、造営過程を見る限りにお
いても極めて密接である 。更に、足利健亮氏による
3.甲 賀 寺 か 甲 賀 ( 紫 香 楽 ) 宮 か
恭仁宮 (
京)の復元平面プランでは宮と京の聞に泉
ーその所在地論争について一
川 (木津川 )が流れ、唐代の洛陽城のそれと酷似す
甲賀寺・甲賀(紫香楽)宮の研究は、 20世紀のは
る(足利 1
9
7
3
)。幾つかの間題は内包しているもの
じめから「ボタンを掛け違っている」状態が続いた 。
の、復元平面プランが大筋において的はずれではな
いや、現在なお解決していな い点 が残されている 。
いとすれば、唐代洛陽城に倣って恭仁京の平面プラ
ンが計画されたと考えることが出来るだろう 。洛陽
簡単に流れを見てみることとしよう 。
城に擬した恭仁宮の郊外に、巨大な底舎那仏像を蔵
(
l
)史蹟名勝天然記念物法以前
する龍門奉先寺に擬した紫香楽甲賀寺があるという
史蹟名勝天然記念物法以前の甲賀寺に関する調
査・研究としては、江戸時代のものが知られる 。 こ
脈絡でとらえると 、紫香楽における金銅底舎那仏造
像を理解することが不可能ではなくなるだろう 。
広嗣の乱の際には、聖武天皇に重用されていた唐
帰りの玄肪と吉備真備を政界から追放せよという文
の時点で内裏野丘陵上の礎石建物は紫香楽宮若しく
は甲賀寺にあてて考えられていたことが判る 。有力
言があったように 、当時の政局での唐指向はかなり
な根拠としては宮の存在を示唆する「内裏野」、寺
の存在を示唆する「寺野」という 地名であったこと
のものであったと推測でき、そもそも、当時の日本
に着目しておきた い。
が唐の影響を大きく受けていた事は言を待たない。
東アジアの中で理解する必要があるのだ。
2
. 紫香楽宮か甲賀宮かーその名称について一
「紫香楽 j とは、 『
続日本紀 j に記載のある地域
82 ・人間文化
(
2)20
世紀前半の調査・研究
大正 8年に制定された史蹟名勝天然記念物法は、
欧米での議論に影響を受けつつ成熟をみた黒板勝美
(
黒板 1
912) や浜田耕作 (
浜田 1
916)両氏の提言が
暗 闇 隅│
の│
噌古│
字削
活かされたとは言い難く 、先行した古社寺保存法の
置)も破壊される 。 「宮」として指定されているが
延長線上にあり、保存金の交付といった積極的な保
故に皇国史観に基づくイデオロギーの片棒を担ぐこ
護策を定めた条項を欠いている点においてはむしろ
とを余儀なくされ、時代と共に生きて行かざるを得
982)
。更に黒
後退したものであったという(田中 1
なか った 史蹟の姿がここにある 。
板・浜田両氏の提言とはうらはらに同法制定の最大
の狙いは国家による歴史の選別的保護顕彰にあった
といえる 。
(
3
) 1980年台以降の調査・研究
9
8
0年
甲賀 (
紫香楽)宮 ・甲賀寺の調査 -研究は 1
この様な背景の中で「紫香楽宮」の史蹟指定がは
台に入って俄に活況を呈するようになる 。
かられていくのである。ここで紫香楽宮の指定に大
考古学的な調査-研究が進展しない中で 、 甲賀
きな役割を担ったのは「内裏野」という地名であっ
(紫香楽)宮 -甲賀 寺の所在地に関する議論は停滞
た。大正 1
2年 4月 4日に史蹟名勝天然記念物調査員
していたが、 1
980年台に入ってから 二つの調査・研
の黒板勝美が内裏野丘陵上の遺跡を指定すべく現地
究が地平を切り開いた。
踏査を実施し、「内裏野j という地名から「紫香楽
一つ は、光谷拓実氏による宮町出土柱の年輪年代
宮」そのものであると 判断 され、大正 1
5年 1
0月20日
年から雲井地区における園場
測定であ った。昭和 44
には、「紫香楽宮」として史蹟指定された。
整備が開始された 。信楽町宮町地区の圃場整備にお
しかし、内裏野丘陵上の遺跡の評価が一変する調
いて、昭和 46年頃に 3本の巨大な柱が引き上げられ
査 -研究が行われる 。 昭和 5 年 1 月 6 日 ~9 日 、 滋
た。昭和 5
5年に光谷氏によって開発中であった年輪
賀県保勝会(調査員
年代測定法によって、宮町から出土した巨大な柱が
肥後和男 )が内裏野丘陵上の
遺跡の発掘調査を実施し、それらは甲賀(紫香楽)
天平 1
4(
742)年の秋から翌 日年の冬に伐採された
宮そのものではなく東大寺式の伽藍配置をとる寺院
994)、宮町に「紫香楽宮 j の
ことが判明し(光谷 1
跡であることが判明した。翌 6年に刊行 された 『
滋
時期の巨大な建物が存在していたことが示唆され
四J(
肥後 1
9
31
)では、甲賀寺
た。 このことから俄然宮町に甲賀 (
紫香楽)宮に関
の金堂では“巨大な "屋舎那仏をおさめるには小さ
連する遺跡が存在していた可能性が高まってきたの
いので 甲賀寺を国分寺に改修したものであると解釈
である 。
賀県史蹟調査報告
している。つまると ころ内裏野丘陵上の遺跡は寺院
もう 一 つは石上英一氏らによる文書調査であっ
そのものであるものの、 当初 の姿を示しているとは
た。昭和 5
6年に東京大学史料編纂所の石上英一-吉
言い難いとされている。
村武彦氏らが信楽町の近世文書の調査を実施した 。
ここで、黒板 ・肥後両氏の調査結果は大きな制約
「内裏野」の地名が何時まで遡るかに焦点が当てら
を前提にしていることに留意しなければならない 。
れたが、「内裏野」と呼ばれた延宝 5 (
1677)年以
掘立柱建物の検出方法が確立
前の寛文 9 (
1
669)年に は「寺野」もしくは「寺野
普及していなかった
ことをはじめ 、平地の大規模発掘調査が実施されて
惣山」と呼ばれていたことが判明 した。つまり「内
いない ことを勘案すると、礎石のみを探索する様な
裏野」の地名を以て、「紫香楽富 j の存在の根拠と
「発掘調査 j しか実施し得なか った。それ故礎石を
することが困難となったのである 。
用いない建物の発掘は不可能に近かったといえるの
以上の様に、近世文書の調査から内裏野丘陵の遺
である 。文献史料の調査 ・研究および礎石の探索を
跡を「紫香楽宮」とする大きな根拠が失われ、宮町
限界とするような発掘調査の結果を情報の全てとし
から出土した巨大な柱が甲賀(紫香楽)宮の存在し
た場合、自ずと 導き 出せる結論も限定されるも のと
ていた期間に伐採されたことが明らかとなった。つ
なろう 。結論的に言えば、「紫香楽宮」
まり、内裏野丘陵上には寺院が、宮町には富が存在
・甲賀寺の
調査 ・研究はここでボタンの掛け違いをしてしまっ
たということになるのだ。所在地論争に決着がつく
していた可能性が高まったのである 。
以上の調査結果を受けて、昭和 5
8年以降信楽町教
のはこれより半世紀以上の時間を待たなければな ら
育委員会によって宮町地区での発掘調査が実施され
なかった。
ている(鈴木ほか 1
9
8
9、鈴木ほか 1
990、鈴木ほか
なお、昭和 20
年には進駐軍を恐れて石造標識周囲
1
994、足利ほか 1
99
7
)。昭和 6
1年に実施された 4次
石柵 (
昭和 7年設置)を撤去、礎石周囲の木柵(昭
調査では「奈加王 j、「垂水口」と書かれた木簡が出
和 8年設置)も欠損、除去。制札木柵 (
昭和 9年設
土したのを始め、「万病音」と墨書された須恵器杯
人間文化・
83
暗 闇│
県│
の│
輔副学1
01
も出土した。 この調査から、宮町遺跡が甲賀 (
紫香
に例をみない大規模な銅の鋳造工房の検出(畑中
楽)宮に関連する可能性が極めて高いことを示した
2003)があり、宮町という点の調査に留まらず、面
ことになる 。以降の調査においては、各地から物資
的なデータの把握へと向かっていく兆しが見られ
がもたらされた事を示す荷札木簡が出土している 。
た。 また、聖武天皇見直し論ともいうべき瀧浪貞子
中でも平成 5年度の「造大殿所」と書かれた木簡は、
氏の論 (
瀧浪 1
991
) をうけて 、小笠原好彦氏に よっ
宮の存在を確実に示す木簡として、宮町に宮が存在
て「紫香楽宮」に関する現状までの調査 -研究がま
していた可能性を高めるものとなった 。ただし、明
とめられている(小笠原2002)
。
確な遺構は見出されておらず、論争を終結するには
(
5
)甲賀寺か甲賀(紫香楽)宮か
至らなかった。
昭和6
3年 9月 1
0日に足利健亮氏が「歴史地理学か
ーその所在地論争の問題点についてー
ら見た紫香楽宮」と題して講演を行 った。宮町地区
ただし、あらためて留意しておかなければならな
での発掘調査の進展を受けて、昭和45年に発表した
い点がある。以下に記しておきたい。先にも述べた
「紫香楽宮」は内裏野丘陵上にあるとした自らの説
ように、宮町遺跡において朝堂と目される建物が検
(足利 1
970) を撤回し、風水思想等を用いつつ宮町
出されたことを以て、当該地点に宮が存在したと考
にこそ「紫香楽宮」が存在した可能性を指摘したの
えることは充分に可能であろう。石上氏らの調査に
である (
足利 1
990)。 また林博通氏は、 1
990年前後
よって内裏野丘陵上にある伽藍を、地名から宮と考
に「紫香楽宮」・甲賀寺についての研究史をまとめ、
えることは困難となったが故に、甲賀寺であったの
当時発掘調査の進展していた宮町遺跡での調査成果
だと考えるのは、あくまでも消去法によるものであ
をふまえて、内裏野丘陵上に位置する寺院こそが甲
り、積極的な根拠に基づくものではない 。加えて、
賀 寺 で あ る と い う 見 解 を 出 し た (林 1989a、 林
創建当初の甲賀寺の規模や構造が明らかではない現
6年には「東大寺建立にか
在
、 内裏野丘陵の伽藍を、甲賀寺と呼称してよいの
1989b、林 1991
)。平成
かわ った市町村サミ ッ ト'94しがらき」における記
かどうかという学術的な手続きは成されていないの
念シンポジウムにおいて「紫香楽宮と大仏建立」が
が現状であり、それらを棚上げして所在地論争終結
テーマに選ばれた 。近藤滋氏 (
滋賀県教育委員会)
が報道されているのである 。
を司会に、足利健亮 (
京都大学)、栄原永遠男 (
大
現状で見られる内裏野丘陵の伽藍は、小規模なも
阪市立大学)、小笠原好彦(滋賀大学)、平岡 定 海
のではないものの、東大寺と比較するとあまりにも
(東大寺)、岡田 章(奈良国立文化財研究所)氏が研
小さく、金堂には東大寺級の大きさの仏像を安置す
究の現状を討議した 。 史跡紫香楽宮跡を甲賀寺に、
ることは不可能である。それ故、創建当初の甲賀寺
宮町遺跡を「紫香楽宮 j にあてる考えが強く押し出
ではなく近江国分寺へと改修された姿であるととら
された (
足利ほか 1
995)
。
える考え方も充分に成り立つのである 。 ただし厳密
には、それも推測の域を出ず、当初から現状で見ら
(
4
)2000年以降の調査・研究
れる伽藍が計画されていた可能性を全面否定するこ
平成 1
2年度の調査は、かねてから紫香楽宮調査委
とは出来ない。 ただ、紺野敏文氏が説くように、甲
員会委員長であった足利が中心建物が存在するので
賀寺から東大寺へと大仏造立事業が移って 行く中
はないかと指摘した区画が選ばれた。秋も深ま った
で、天平 1
5年の発願以降に変更がなかったとはいえ
頃、宮町は未だ嘗て無い喧綴に包まれた 。 甲賀 (
紫
ないことから(紺野2003)、東大寺での在り方を直
香楽 )宮の朝堂と目される建物が検出されたのだ
接的にあてることは出来ない。 加えて、栄原永遠男
(
鈴木 ・栄原2000、鈴木2001
)。報道によると、これ
氏によって、内裏野丘陵上の伽藍の北側に「大仏殿
を以て黒板勝美氏の調査以来続いていた紫香楽宮の
院Jが存在する可能性があるという説も出されてい
所在地論争は、半世紀以上の歳月を経て、ほほ終結
る(栄原2003)が、地形からみると肯定しがたいも
したとされた。 ただし、宮の構造の全貌が明らかで
のの、全否定するには至らない。
はないとされており、調査は継続している 。
つまり、内裏野丘陵上の考古学的調査が行われて
その後、新宮神社遺跡における宮町と内裏野丘陵
いない現状では、倉IJ建当初の甲賀寺の所在地が確定
を結ぶ道路遺構の検出 (
畑中 2004)、北黄瀬遺跡、に
できず、如上の論争は終結をみていないのが現実で
おける巨大な井戸の検出、鍛冶屋敷遺跡における他
あり、実体解明が急務であることを認識しておかな
84 ・人間文化
障 岡 田│
の│
考 圃│
学 問│
ければならないのである。
参考文献
足利健亮 1
970r
紫香楽宮について Jr
山間支谷の人
4
.甲賀寺・甲賀(紫香楽)宮研究の課題
文 地 理』地人書房
地確定にあったことは先に述べた 。 それを明らかに
973 r
恭 仁 宮 域 の 復 元 Jr
社 会 科 学 論 集1
足利健亮 1
4・
5合併号
するための調査として宮 町遺跡の発掘調査が精力的
足利健亮 1
9
9
0r
歴 史 地 理 学 から見 た紫香楽宮 Jr
宮
近年の調査 ・研究の大きな課題は、宮と寺の所在
に進められてきた現状がある 。調査を行うに充分な
町遺跡発掘調査報告 IJ信 楽 町教育委員会
目的があったことと、十二分な成果があがったこと
9
9
5r
紫香楽宮と大仏建立 j東大寺建
足利健亮ほか 1
から、調査そのものを否定する訳ではない 。 ただ、
立にかかわった市町村サミット ,9
4しがらき実行委
天平年間における紫香楽宮の成り立ちを考えたと
員会
き、甲賀 寺および大仏造営の存在が主軸にあったこ
足利健亮ほか 1
9
9
7r
天平の都
紫香楽』信 楽 町
とを認識すべきであり、平城・難波・恭仁宮とい っ
石上英一 1
9
8
3r
信楽町における紫香楽宮関連資料の
た同時代の宮との関係を重視すべきであろう 。 そう
調 査J 続 日 本 紀 を 中 心 と す る 八 世 紀 資 料 の 編 年 的
した視点に立 って、調査 ・研究を進めていく必要性
集成とその総合的研究 j
がある 。
小笠原好彦 2
0
0
2r
聖武天皇と紫香楽宮の時代 j新日
また 、鍛冶屋敷遺跡 ・新宮神社遺跡・北黄瀬遺跡
の発掘調査成果からも明らかなように 、甲 賀 寺 -甲
r
本新書
黒 板 勝美 1
9
1
2r
史 蹟 造 物 に 関 す る 意 見 書 Jr
史学雑
賀 (
紫香楽)宮に関連する遺構が、周辺数百メート
35
誌 J2
ルにわたって面的に展開している可能性が極めて高
紺 野 敏 文 「 東 大 寺 大 仏 造 立 の 意 義 J ザ・グレイト
い。寺単体のみを明らかにするのではなく、関連施
ブッタシンポジウム論集第一号
設を具体的に解明すべきであり 、周辺 の綿密な調査
史と教学 Jj
去蔵館
が必須となるだろう 。
栄原永遠男 2
0
0
3r
紫香楽から大養徳へー庫舎那大仏
また、昨今の状況を勘案すると、上述の調査より
r
論集東大寺の歴
r
の 遼 転 -J ザ ・ グ レ イ ト ブ y タシンポジウム論集
も急を要する案件がある。近年の調査成果から明ら
第一号 論 集 東 大 寺 の 歴 史 と 教 学 j法蔵館
かとなったことではあるが、甲賀寺・ 甲賀 (
紫香楽 )
鈴木良章 ほか 1
9
8
9r
宮町遺跡発掘調査報告 JI 信
宮に関連するとみられる遺跡が広域に展開している
楽町教育委員会
可能性が高いことが推測できる 。 内裏野丘陵の東に
鈴木良章ほか 1
990r
宮町遺跡発掘調査報告 JI 信
第二名神高速道路の信楽 イ ンターチェンジが建設さ
楽町教育委員会
れることとな っているが、周辺地域において民間開
994r
紫香楽宮関連遺跡発掘調査報告』
鈴木良章 ほか 1
発の進捗が促されることは想 像 に難くない 。 これら
信楽町教育委員会
の遺跡群の様相は殆ど判明し ていないことから 、場
鈴木良章 -栄原永遠男 2
0
0
0r
紫香楽宮関連遺跡の発
合によっては後世に現状で残すことが困難となるこ
掘 調 査 J 条里制 ・古 代 都 市 研 究 J1
6 古代都市-
とが予測される 。 それ故、文化財行政側としては民
条皇帝Ij研究会
間開発に先行して遺跡の範囲や内容を確実に把握
鈴木良章 2
0
0
1r
紫香楽宮関連遺跡、の調査朝堂建物
し、都市計画と協調しつつ遺跡の保護を進めていか
考 古 学 ジ ャ ー ナ ル J470
の 発 掘 調 査 を 中 心 に 一Jr
なければならない 。つまり 、広域的な詳細分布調査
ニューサイエンス社
r
の実施が急務となるのである 。民間開発との無用の
瀧川政次郎 1
9
6
7r
京制並びに都城制の研究j 角川書
トラブルを避けるため、文化財行政としては、最低
庖
でも年間に 2 ~ 3 万 m' を対象とする綿密な試掘調査
瀧浪貞子 1
991r
聖 武 天 皇 『 初 径 五 年 j の 軌 跡 Jr日
を継続的に実施できる 体制を 整えなければならない
本古代宮廷社会の研究』恩文閣出版
だろう 。 甲賀寺そのものを明らかにしていく為の調
田中
琢1
9
8
2r
遺跡造物に関する保護原買Ijの確立過
r
査を実施することを勘案すると、複数人数の文化財
程 J 考古学論考』平 九 社
専門職員の専従が必須条件となる 。 町村合併の進行
橋 本 義則 1
9
9
4r
紫香楽宮の宮号について Jr
紫香楽
している混乱期でもあるが、こ の問題を如何に取り
宮関連遺跡発掘調査報告J信 楽 町教育委員会
組んでいくかが大きな課題となるのである 。
畑 中 英二 2
0
0
3r
甲賀寺雑考(続々 )
Jr
紀 要j 第 1
6
号
人間文化 ・
85
障 関│
県│
の│
考 圃 学│
馴
滋賀県文化財保護協会
畑中英二 『
新 宮 神 社 遺 跡 j滋賀県教育委員会
県文化財保護協会
r
滋賀
r
浜田耕作 1
916 歴 史 紀 年 物 の 保 護 J 大 阪 毎 日 新 聞 1
2 月 22~27 日
r
r
林 博 通1
989a 甲賀寺跡 J 近 江 の 古 代 寺 院 j近 江
の古代寺院刊行会
r
r
林 博 通1
989b 紫 香 楽 宮 小 考 J 宮 町 遺 跡 発 掘 調 査
報 告 1J信 楽 町 教 育 委 員 会 年
林
r
博通 1
991 近 江 国 分 寺 に 関 連 す る 発 掘 調 査 」
『新修国分寺の研究』 第三巻
r
吉川弘文館
r
肥後和男 1
9
31 紫 香 楽 宮 壮 の 研 究 J 滋 賀 県 史 蹟 調
査報告
四j 滋 賀 県 保 勝 会
r
r
光谷拓実 1
994 年 輪 か ら 歴 史 を 読 む J 発 掘 を 科 学
する 』 岩 波 新 書 3
45
宮治
r
昭 2003 アジア的視点からみた大仏の造立」
I
ザ ・ グ レ イ ト ブ ッ タ シ ン ポ ジ ウ ム 論 集 第 一号
集 東 大 寺 の 歴 史 と 教 学』 法 蔵 館
86 ・人間文化
論
生活デザインの現寝か S回
ヂザイシ教育と地域連携事始め
人間文化学部生活文化学科生活デザイン専攻 印
はじめに
いま日本のいたる所で、さまざまな形の住民活
南
比日志
1.デザイン演習捜業における地域連携
3回生を中心とした道具デザイン演習jの授業に
動 -地域活動が芽生え、産学連携、産官学連携から
0
0
2年より実践的課題を与えて進めてきた 。
おいて、 2
新しいビジネスのありかたにまで発展している。そ
現物、本物を製作するということや 、教員 評価の他
して注目したいことは 、これ らの活動を進めている
にクライアント評価が存在するということが、現場、
人たちがパートナーとして力を合わせて共同体的な
市場の分析と共に、ビジネス感覚のあるデザインア
活動組織をつくり、自治体運営や 、教育のありかた
プロー チを生 んでいる。ま た、地域のクライアント
までを変えていくような営みもしばしば起こるよう
を設定することで、地域の視点に立ったスケールで
になっていることである。
デザインを構築する力を育んで、いる 。 ここで言う地
まず、地域貢献だ社会貢献だという盲目的な正義
感に異議を唱えることから 始めたい。地域貢献活動
域とは、住民であり他の公共機関であり 、中小の第
一次
、 二次産業を主に想定している 。
を否定しているわけではない。結果として貢献にな
ったかどうかは 、相手側が評価することであり、貢
献などという言葉を掲げての活動には、福祉的な慈
悲、慈善の気持ちが常識的に潜んで、しまっているの
ではないか。現在、社会において進められているユ
ニバーサルデザイン社会実現にむけての運動を例に
とってみても、創始者 ロン ・メイス日く、「この運
動の概念には慈悲、慈善の気持ちはない。j と言い
切っている 。 ノーブレス ・オブリージ‘ュ精神の育た
ない日本の現状では、ボランテイア活動にしてもし
かり、かわいそうな人のためになんでいう主従関係
ができてしまうような枠組み の中では地域連携の発
展は難しいだろう 。産学連携の実状と言えば、ほと
んどが大手企業と学者の連携といういわゆる TLO
授業成果広報物
(
民、農、商 、職人)と学(学生) を基本とした文
a)段ボール素材を使用した幼稚園児のための椅子
0
側若林晋/彦根市)
(
協力:金城幼稚園 /
大学近くの金城幼稚園を課題のためのフィールド
化活動を中心に進められている 。 この場合認識して
おかなけれは、ならない ことがあ る。プロとも言えな
査し、職員の方々からのヒア リングなどを通して 、
い繁明期の人材 (
学生)とお付 き合いいただく地域
実際に使用可能な椅子のデザ イン製作を行 った。段
事業の推進を看板に掲げている 。 しかし、私たち滋
賀県立大学地域においての産学連携活動の実際は産
として、幼児の体格や行動、園舎の空間を実際に調
の本音に謙虚な姿勢で耳を傾けることである 。学生
ボール素材については、地元の包装材料メーカー(
槻
だから、若気のいたりで 、な んて言葉は問題が起き
若林晋に依頼して、椅子製作に適した段ボール板を
た時の言い訳であって、 始動段階で促してはいけな
準備した。調査において園児たちとのコミュニケ ー
い。危機管理も含めた、 社会常識とビジネス感覚を
ションの中で発見されたさまざまなキーワードが、
両立させた一個人の育成ということを基本に 向かわ
各々の造形や機能を生むこととなった。試行錯誤の
なければならない。 また、無{賞だからという安易な
末、デザイン、製作された成果物(椅子)を園舎に
気持ちで産学連携支援を要求してくる地域とのスタ
持ち込んで、園児たちが実際に使用している姿を期
ンスも気を付けておかなければならない。
待をこめて観察した。予想もつかない使い方や 、遊
現在、生活デザイン専攻の印南、面矢、両研究室
び方を眼の辺りにし 、園児の評価、職員の評価、教
が行っている地域連携プ ログラムについて話をすす
員の評価というさ まざまな価値観を総合化して評価
めていきたい。主にまちづくり、地場産業、伝統産
を行った。金城幼稚園職員のみなさんには、安全性
業をテーマに研究、教育と実践をフィールドワーク
の問題への理解や 、園のカリキュラムの調整など、
として進めている 。
最大限協力をいただいた上、地元大学の試みにも大
きな評価をいただいた。何よりも、園児たちの笑顔
人間文化・ 87
生活デザインの現場から 回
とエネルギッシュな反応が印象に残っている 。 この
ときの成果の中には、東京でのデザインウィーク展
に選定された作品もあり、実際に商品化にむけて、
企業からのオファーも届いていた。地域にとどまら
ない、グローパルなデザイン評価を得ることのでき
る成果が生まれていたことは、喜ばしいことである 。
デザイン製作された精子
と戯れる金減幼稚園園児
たち
棚瀬邸での成果発表会
ふくさ
c) 新しい作法を創造する械紗
b) 伝統的民家にしつうえる照明器具
(協力:棚瀬邸/彦根市八坂町)
地元の集落にある古民家を再生して生活してい
る、本学教員 、棚瀬慈郎氏のご自宅をデザイン演習
課題のフィールドとして協力をいただいた 。 これま
でも本専攻の授業等で幾度とお邪魔させていただ
き、古民家再生についての苦難の経緯をお聞きして
きた 。学生を含めその興味をきっかけとして、課題
設定を行った。伝統的民家に調和する照明器具をデ
ザイン製作せよという課題である 。棚瀬氏ご家族に
も評価をいただき、 一番の評価作品については買い
取っていただくこととなった。面白いことに、この
授業の課題を知った他学部の学生や大学院生までも
が飛び入り参加することとなった 。授業が、ますま
すコンペティティブな雰囲気を呈してきた 。照明器
具という、空間に陰と深みを与える道具のデザイン
は、単に形態だけでなく光の現象を創り出すことに
重きをおいている 。そのため、建物空間と棚瀬氏家
族の生活スタイルにまで踏み込んだ調査を課した 。
プレゼンテーション当日、照明器具の講評というこ
ともあり夕方暗くなってからの棚瀬邸での授業は、
予想どうりの盛り上がりであった 。
この授業で製作された照明作品はその後、同専攻
の宮本研究室が進めていた守山のまちづくり プロジ
ェクトの展示会に参加した。その他、多賀町の提灯
コンペに応募したものや、長浜の街路灯コン ペで賞
を勝ち取ったものまで現れた。一授業の成果が、学
生たち独自の積極的な判断で、地域のさまざまなイ
ベントに展開出来たことは予想外のことであ った。
88 ・人間文化
(
協力:株式会社清原/守山市)
最近のキャッシュレス社会で、ものやお金を贈呈
するための作法が稀薄になっている 。その現状に、
伝統的作法の見直しと、新しい作法を見つけだそう
と、「微紗」という若者にはあまりなじみのない道
具をテーマにデザイン製作を課した。
守山で和装小物の製造販売を行っている老舗メー
カー附清原にお願いして、同社の次世代商品開発と
いうプロジェクトを授業課題とした 。
工場見学から、
製作技術の説明、伝統的和装商品のラインナップか
ら、使用作法に至るまで実践的な講義を社長自ら行
っていただいた。産学連携に大きな期待を寄せてい
る清原健社長の前向きな態度に、学生たちの意識も
少しずつ変化してい った。
学生たちの調査デザインアプローチにはさまざま
なものがあ った。実家の両親や祖父母にまで及んで、、
各家庭の械紗事情を調べ、地域に根ざした慣習や伝
統を掘り起こしたものもいた 。実家の親とのチーム
ワークで成果を出した者もいた。 これらは、企業側
からすると、とても価値ある市場分析の資料となる
わけである 。その上、次世代の若者たちが望む、新
たなアイデアカf出てくるということは、原夏ったりか
なったりなわけである 。
清原社長を招いての、プレゼンテーシヨンは驚き
の連続であった。冠婚葬祭にちなんだ服装でイメー
ジをしっかり表現したものや 、地場の素材を使用し
て、地域の意識をし っかりだしたものなど、的を射
た回答が多く現れた 。清原社長の目に 叶 った、すぐ
にでも商品化可能なアイデアが数点上げられ、秋ま
でには試作、現物の製作が進みそうである 。 また同
生活デザインの現渇か§ 回
,
e
、
1
ベ
、
寺
. て
、
時に、産学連携の試みと して展示会を実現すること
を約束いただいて、この演習を締めくくることがで
きた。学生たちは、早くも展示会に向けて、新たに
作:品のブラッシュアップを 開虫
色iしている o
学生たちによって編集印刷された実習成果報告書の数々
えて参加履修可能な単位として始められたことによ
り、学生のスキル、知識レベルの差が実習活動の大
きな壁とな っている 。しかし 、現在の状況としては 、
先輩後輩としての 上下関係がうまく連帯感を生ん
で、学生によるアシスタント的指導支援が期待でき
るようにな ってきている 。
これからは、学生たちが相手側の要望に応じて、
即興的にレスポンス良く地域に出かけていけるため
清原社長を審査員として招いた俄紗作品の成果発表会
のカリキュラム調整など、教員間での連携や融通が
求められてくる 。 また、さまざまな危機管理を含め
た保障や活動経費の補助など、スポンサー探しゃ地
d)次代の住環境が必要とする仏橿
(
協力:彦根仏壇事業協同組合)
3回生の後期課題として現在準備が進められてい
る仏壇デザインは、彦根の地場産業に密着した成果
を期待して、彦根仏壇組合の年間調査事業へのコラ
ボレーションを予定している 。すでに組合の方々と
年間の事業ヒアリングを受け、学生レベルでの参加
方法を検討している 。被紗同様、学生たちにとって
最初は全く興味の沸かないであろう課題をいかに、
興味を持たせ、地場産業支援の一活動として認識さ
せていくかかが我々教員の謀題である 。
この課題が期待している回答は、単に仏壇という
道具のデザインだけではない 。地域 CI
プログラム
VI
、商標登録)や 、広報販売戦略の検討
の検討 (
(
短期、長期予測1
]
)、知 的財産権の確保に向けての検
討、営業戦略および地場組織検討(異業種との協働)
など、まちづくりやブランドづくりとい ったデザイ
ンという言葉のもつ広い意味を網羅したものを組合
共々期待している 。
域からの支援など、大学や教員は自身のネットワー
クを総動員して最大限力を発揮しなければならな
、。
し
a)奥四万十自然体験学習
(
協力 :高知県大正町/下津井集落/下道集落)
今回単位履修となったこの学外実習のテーマ地域
は
、 一昨年より学生たちと共に集落の催事参加活動
に関わりながら、基礎的な人 間関係を築いてきた地
域である 。一昨年「奥四万十自然体験村森と湖と生
き物サミ ッ トj が行われた際、県立大として奥四万
十自然体験村憲章に共同捺印 して、町のサボーター
として認められている 。 この実習のテーマは、年開
通じて集落のさまざまな営みに参加協力して、地域
のアイデンティテイや町村合併など差し迫った本音
などを感じと っていくことで、まちづくりの本質に
迫ろうとするものである 。
四万十川流域の自治体は、環境教育に根ざしたさ
まざまな活動を行っている 。琵琶湖 、奄美大島と高
校生レベルでの環境教育活動の交流も続いている 。
2.地 域 活 動 を 目 指 し た 学 外 実 習 の 試 み
生活デザイン専攻では、本大学の精神であるフィ
地元の大学生も敬遠するほどの辺境地に我が校の学
生が通い続けていることは誇りに思えることであ
ールドワークを単位認定したかたち (
学外実習 )で
る。
学生を地域に飛び込ませていく試みを昨年より行 っ
ている 。短期集中のものや 、年開通した息の長い活
実際、「まちづくり」は能動的な活動である 。そ
れは、日々変化する環境の中で将来を見通しながら
動など、相手地域とのバランスを考慮してプログラ
丁寧に組み上げていくものである 。地域課題への共
ムを組んでいる 。 l回生から大学院生まで学年を超
通の認識がある限り、それは絶えることなく細々と
人間文化・ 89
生活デザインの現窃から 団
森と湖と生き物のサミット
奥四万十自然体験村憲章
森と湖と生き物サミ ット会場
奥四万十自然体験村サミ ッ トポスター
であ っても持続していくことに疑いはない。住民独
学から建築を主としたデザイン,アート系の学生約
自の手づくりの地域実践や、日常の絶え間ない活動
200名が 1
5のスタジオに分かれての競技設計方式の
が続けられていれば、ふと気がつくとその成果があ
ものである 。韓国固有の街のアイデンテイティを採
ちこちに現出しているはずで、ある 。みんなが望む方
ることをテーマに徴兵生活のごとき 1週間が皆を待
向にむかつて行政も頑張る、住民も協力する、事業
ち受けている 。倉庫の一部や小学校の教室などが各
者もその力を発揮する 。学生たちはその中で探まれ
スタジオに割り当てられ、毎日の講義は結婚式場を
ながら、汗を通してその本質や問題点を感じ取 って
利用したりと電波少年的?忍耐と従順さが必要なイ
いくわけである 。それは、興味本位の短絡的な行動
ベントとな っている 。講師陣は、アメリカ、ヨーロ
とは大きく異なるものである 。
集落の祭りや草刈り、
ッパなどの留学組みから、国内純粋培養組、アトリ
廃校の整備、プール掃除、そして地元の料理を食し
エ派の建築家によって進められている 。地元現場調
集落の過去現在未来を語らい第二の故郷になるくら
査、午前午後 2回の講義、朝まで続くミーテイング
いのどっぷりとした浸かり方が求められる実習であ
と製作、これだけでも大変な中での 、スタジオ対抗
る。
水泳大会。 こんな体育会系序列社会を冷めた目で見
b) SAサマーワークショッブ
ばる自分のスタジオの学生達とインターネットで連
(協力:SASCHOOL/韓国)
7年前に韓国の建築家有志が資金を持ち寄 って新
しい大学院大学を創設しようと立ち上がった。その
学校は、 30数年前に建てられた故金寿根の空聞社の
絡を取り合って、到着と同時に終了宣言をするスタ
カ月前から圏内に散ら
る参加者は皆無である 。開催 l
ジオなど、個 1
生豊かなワークショップでもある 。
これだけの規模のイベントが地域で行われている
ことを地元のジャーナリズムも放っておくわけがな
ホールを間借りして開校した。韓国現代芸術文化の
く、新聞や雑誌、 TVなどの取材が開始直後から訪
発祥とも言えるこの場所に居を構える学校の精神は
れはじめ、にわかに街のイベントの様相を呈してく
言うにおよばないだろう 。設立の経緯は韓国の文部
るのである 。 これは街と SA SCHOOLがしかけた 一
種の戦略だ、ったのかもしれない。小 さな街に突如と
省との戦いでもあった 。私もその創設と同時にその
運営に参加した 。その学校が SAスクールである 。
して若者が大挙して街頭インタビ、ユーを始めるは、
998年の第 1回済州島を初めに、茂朱、
その学校が 1
文房具庖やコピー屋はパンク寸前になるは、喫茶や
江景、陽口 、釜山、セマングンと毎年サマーワーク
欽み屋もしかり、街に活気が蘇ってくるのである 。
ショップを開催してきた。わが県立大学も第 5回釜
そうこうしていても学生達はいつ寝ているのか不
山より参加している 。テーマに基づいて地域を選定
思議になるほとずのバイタリティと明るさを失うこと
して問題提起し地元行政の全面的な支援を受けて続
は無い。最終日には早朝から評論家を中心とした審
けられてきた。
査員達が到着し、一日かけて各スタジオのプレゼン
ワークショップは約 30名の講師と韓国内約 50の大
90 ・人間文化
テーションが参加者全員を集めて行われる 。綴密な
生活デザインの現窃から 回
調査と分析、そして結果としての提案にはさまざま
ていることへのアイロニー、つまり現在に至ってし
C) 環琵琶湖文化論実習/上丹生編
(
協力 :米原町上丹生集落)
昨年の実習成果が地元で大きな評価を得て、今年
も先方から請われてのプログラムであった。今回の
上丹生地域でのフィールドワークのテーマは「スロ
ーライフ Jというキーワードで地士或のコミュニティ
まった韓国社会経済へのアイロニーが垣間見えるこ
形成を探るということであった 。昨年は職人達の工
とが常である 。短期間のワークショップでは往々に
房、現場での聞き取りを中心に、職人による職人の
して、エゴイスティックな抽象表現に逃げて、知 っ
ための地域づくりを体験したわけだが、今年は、も
な解答が用意されている。都市、環境、プロダクト
デザイン、イベントプログラムといった様々な視点
でハード、ソフト含めた回答が構築されている 。つ
くる 、建てるということが最終目標となってしま っ
たかぶりしてしまう族が普通はいるものだが、これ
う一歩踏み込んで彼ら家族の本音も含めて、地域の
だけ街の現実と日常にと守っぷりと浸かつてガラス貼
真の結びつきに着目したわけである 。
り状態での作業していると 、う っかりとその一線を
超えてしまいそうな姿勢を無意識に遠ざけている 。
家族の方々(主に奥さん方)から職人たちの日常、
そして不満や自慢を忌憾なく聞き出すためにはやは
審査会での参加学生の 一人の 言葉が印象的であっ
り台所かな 、
! というのがミソだった。一緒に料理
た。「私たちは朝畳夜となく街を駆け抜け、。財団し、
街に溶け込み,街そのものになるために、結局この
をしながら、「昨年うちのだんながあんなかっこい
いこと 言っ ていたけど本当は家ではだらしないんで
一週間でソウルにたどり着ける程の距離を歩いたの
すよリなんて言葉を引き出したかったわけで、ある 。
かもしれない 。
j この言葉は、このワークショ ップ
それと、やはり食というのをイベントに介在させる
が空調管理された空間での机上の夢想では得られな
ことは、連帯感をつくりだすのにうってつけだった
い、もの創造に対する真撃で謙虚な姿勢を彼等に気
ように思う 。 自然、の風景と食とものづくりの三位一
づかせたことを物語っている 。 このワークショップ
の成果はソウルと開催地元、両市で毎年展覧会とし
体のま ちづくりという答えを 期待しながらのフ ィー
ルドワークだったわけで、ある 。びわこ放送の取材も
て一般 に公開されている。この学校の活躍は政府も
入り、地域の人たちも含め大変な盛り上がりとなっ
見逃せない状況となっており、現在、国立韓国芸術
大学建築学部との合併を模索している 。既に、 当学
た。
今年のもうひとつの課題は 、「聞き書き Jという
校の事務局は芸術大学内に構えられている 。
技術についての実践教育であった 。「聞き書き」と
今年 2
0
0
4年は、前大統領金大中の故郷であ る全羅
は、人の話を聞くことと、その話をまとめることか
南道の港町、木浦である。わが県立大学からは生活
ら成る文章である。相手の話 ことばだけで文章にま
デザイン専攻の 2回生、 3回生計 5名の女子が参加
とめるという特徴的な表現形式である 。話し手の 一
する 。
人材、による話しことばであり、ルポルタージュや対
談、質問応答形式の文章との違いを理解させること
にあ った。
ワークシ ョップ授業風景(釜山)
木彫職人工房聞き取り体験
人間文化・ 9
1
生活デザインの現爆か S回
その基本は、歩く+観る+聞く、そして書く 。そ
の人の暮らしの場、仕事の場まで出向いて、その人
進めているいくつかの活動について概略を説明す
る。
とその土地に蓄えられた知恵に学ぼう、教えていた
だこうという気持ちで、じっくりと観察しながら聞
a)信楽町グランドデザイン事業計画
く。人や仕事や土地の風土などを、スプーンで一杯
(信楽焼振興協議会他)
ずっすくいとるようにして、奮いていく 。 これが
信楽 町では、伝統産業である陶器産業の将来への
「聞き書き Jの心得である 。人の話を正しく確かに
危機感が高まっている 。 これまでさまざまなデザイ
聞くためには、相手を敬い、おもいやり、謙虚に感
ナーやコンサルタントによって製品開発やブランド
謝をしていなければかなわないことである 。事前に
開発、まちづくりを進めてきた。 しかし、結果とし
できるかぎりのことを調べ、質問事項を整えること
て、調査分析が単なる研究のための研究になってし
が求められる 。相手のささやきや、かすかなしぐさ、
まったり、有名デザイナ ーの売名行為的活動(作品
表情の変化を感じ取れるこころを鍛えておくことが
制作)支援になってしまっていた 。本質をついた、
大切なのである 。
まちのアイデンティティを議論するような活動を興
聞くことがじゅうぶんにできると、相手の本音に
迫り、本心を語ってもらうことができる 。聞く側の
事前の準備や対話する力によ って、おなじ人に開い
してこなかったのかもしれない。
研究室の 3回生が中心 となって、地元の芸術家 ・
笹山忠保氏と共に、信楽町の歴史と現状の調査、ヒ
ても、ま ったく異なる物語が生まれてくのである 。
アリングを開始した。戦前戦後の繁栄していた時期
昨年、学生たち自身による編集印刷された報告パ
の生き証人からの口承、伝承を中心に活動していく
ンフレットは、地元の米原町含め、集落のまちづく
予定である 。町村合併により甲賀市となってしまう
り展示会でも利用していただいた。 また、滋賀銀行
この地域の最後の町史を目指した活動の一端であ
経済文化センターでの産学連携の活動成果発表会で
る。 この活動のミッションは 、まちの個性と誇りの
も紹介させていただいた 。滋賀県民に対しでも、職
継承と新たな経済活動への道筋をつくることにあ
人のまち上丹生を知ってもらういいきっかけとなっ
る。地場産業の組織構造や、まちの景観、自然環境、
た。
人々の暮らし、観光精神の再検証など、グランドデ
3
.研究室(ゼミ、プレゼミ)の実践活動
標をもって始められる事業の全容を模索するもので
ザインという合言葉で、平成 1
7年度より長 中期的目
現在、我が研究室には大学院生 3名、学部 4回生
ある 。
6名
、 3回生 1
4名のゼミ生が、各自のスケジュール
と興味、研究テーマ、能力に合わせて精力的に 実践
活動を行っている 。 l、 2回生の有志や他学部の学
b) 吾川村地域再生事業計画
(
高知県吾川郡吾川村下名野川地区)
生たちもゲスト参加している 。地域への参加活動の
四国 山地の標高 1
500メートルの高原地帯にある山
みならず、共同研究や受託研究など、実際のビジネ
村である吾川村の地域再生事業に研究室として参加
スにつながる「仕事Jの経験も積み重ねている 。
徒党を組んで活動するような仲良しグループ的な
している 。今年度のメイン事業は、下名野川地区に
ある廃校 (
小学校)のリニューアル再生プロジェク
ゼミではなく、各自のモラルと自発性によって活動
トである 。宿泊施設や飲食庖舗、銭湯、地元名物販
している 。ただ、チームワークは必要で、、さまざま
売の市場や工房などの村の基幹複合施設として、新
な情報は最大限共有できるよう努めている 。そして
しい用途に変更 (
コンパージョン)されようとして
教員の活動には極力帯同するようにしている 。そこ
いる 。村民主体の協議会を毎月行って、これからの
での人間関係や 、プレゼンテーション、コミュニケ
村の将来を見据えた施設の輪郭を描いていった。
ーション技術含め、危機管理、ビジネス感覚を感じ
6月には、橋本大二郎県知事をこの廃校に迎えて
取らせるようにしている 。徒手空拳な活動とな って
座談会を開いた。座談会というより、集まった村人
しまわないようにすることである 。我が研究室では、
の自慢大会とでもいえるような、名物料理や仕事話
あえて指導するというような中高校生的な教育はし
を披露する集まりとなった。村民のエネルギーをし
ていない。 どちらかというと、見て覚えろ、感じ取
っかりと受け止め、より一層引き出していく知事の
れというような職人的教育なのかもしれない。現在
話術は見物であった 。県からの助成金が約束され、
92 ・人間文化
生活デザインの現場から 回
秋から施設の改修工事が始まることとなった。夏に
さまざまなビジネス活動を始めている 。能登空港の
は学生たちがモニタ リングツアーを計画して いる。
開港とともに、金沢よりも時間距離の近くなった東
この工事計画の検証や 、実際の村の生活に接して、
京への進出が目立っている。東京での漆教室の開設
よそ者の視点として意見書を出すことにしている 。
や、毎月聞かれる展示会や販売会など、輪島の伝統
また、秋からの工事にも現場経験を目的としたサポ
漆の布教に奔走している 。それら情報発信がもたら
ート活動を予定している。学生たちは、来春の施設
す結果は、経済的活性化のみならず、職人を目指す
完成にむけて 、地域一体となった創造活動に参加す
人材の育成確保ということにまでつながっている 。
ることで、地域再生のひとつの回答を身をもって感
それら教育、育成に行政がさまざまな支援を行って
じとることができるはずである 。
いる 。 また、地域のまちづくり景観形成に至る職人
たちの参加コラボレーシヨン活動が盛んになってい
る。独自の美意識、価値観のなかで町並みや製品を
考え、それらが輪島独自の個性となって、豊かな観
光事業にまで及んでいる 。テーマパーク的に町並み
を操作してしまっている彦根の状況とは、本質から
して異なる取り組みと言える。生活デザイン専攻の
学生たちが、生活者の視点でのものづくり、環境づ
くり、デザインを学ぶ上で非常に価値ある地域であ
る。
橋本大二郎知事を迎えて座談会
C)北陸地域産業調査(高岡、輪島)
(
三協アルミ株式会社、輪島漆職人)
県立大学に赴任して以来ゼミ実習として続けてい
る、北陸地域の地場伝統産業の調査活動である 。 日
本海側の大規模産業であるアルミ関連メーカーと
は、私自身20
年来のつきあいがある 。これら 産業は、
最近の公共事業批判の社会環境の中、企業倒産、合
併統合と荒波に採まれている。こういった社会経済
状況は、地域社会に与える影響は大きなものがある 。
輪島の漆軍事人工房でのヒアリング(桐本工房)
先端的大規模産業がすすめている、地域に根ざした
ものづくり、開発プロセスや、企業精神などを学ぶ
ことにより、社会人、地域人としての企業の責任に
ついて認識することができる。また地方からグロー
バルに発信しているさまざまな製品群を見るにつ
け、デザイン=中央(都市)という 一元的な考え方
d)共同研究、受託研究
(地域産学連携センター/キントー /キョ ージン )
地域産学連携センターへの申し込みのあった企業
との連携で、製品開発の研究事業を進めている 。
を払拭させることもできる。地域のモラルと企業の
彦根の食器メ ーカーであるキント一社との製品開
モラルが一致一体となってクオリティの高い製品群
発は、食生活の実態調査や量産にむけた技術調査な
を生んでいる北陸の地域性や歴史にまで踏み込んだ
ど、ゼミ実習や大学院での授業課題として、学生の
調査を目指している。
参加する研究活動となっている 。実際のデザインス
また、一方スケールは異なるが、輪島地域の伝統
キルを高めることと、クライアントとのミーティン
殺人の生活に接している。絶滅危倶種の職人たちと
グなどビジネス感覚を磨く意味でも、社会人予備箪
いうテーマを掲げて、ヒアリング、見学を続けてい
の教育にはうってつけの研究プロジェクトと言え
る。現在輪島の漆職人たちの中には、若手を中心に
る。 申し込み企業側としも、事業予算の効率化、軽
人間文化・
93
生活デザインの現場か§ 回
j
成などや、産学連携実績など社会的メリットがある
りと、学生たちにとっては調査活動以外にさまざま
はずで、ある 。学生にとっても、自分なりに達成感を
な経験をすることとなった。昨年参加した学生の 一
持って研究ができる状況ならば、積極的に活動しよ
人は 、その経験を生かして日本の椅子生産地である
うとする 。教育、仕事の与え方、責任と権限の与え
飛騨高山の木工椅子メーカーに就職した 。地場産業
方によって、学生は使命感に近いものを持って活動
のグローパル化を限の辺りにしたとき、日本でも挑
に取り組むものである 。 2回生のデザイン演習課題
戦したいというモチベーションが生まれてきたので
においても、企業担当者に講義を行 っていただいた
ある 。今年の夏は地域を南イタリアのシチリア州に
り、実際の製品を手にと って調査する機会を与えて
までひろげて活動する予定である 。最近では日本の
いただいたりと 、連携がひろがっている 。 プロジ ェ
創作仏壇などまで手がけるようになったイタリア木
クトについては、現在試作段階にまで進み、これか
工殺人の現状や、職人の社会環境など興味は尽きな
らは市場を院んだ生産販売方法を模索している 。
い。昨年の先輩らの現地トラブルなどの経験談も参
埼玉の精密機メーカ一、キョージン社とは、新し
考に、今年も我がゼミ生 4人が参加する 。
いシステムによるソーラ一発電街路灯の開発を進め
ている 。新開発のコンデンサーと、発光ダイオード、
曲面ソーラーパネルなど、新機能満載のストリート
ファニチュアの開発である 。 デザインの教育には、
このようなプロジェクトに参加できるだけでも満足
してしまう学生に、地味な仕事を愚直にや っている
人たちの現実をいかに見せるかが重要なのである 。
o
n
t
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.
.
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1
イタリア・ウディネ郊外の椅子工場 ・M
さまざまな異業種入り乱れてのミーティングや、公
共物が守らなければならない厳しい法律、社会規範
を知ることで、安易な正義感では乗り越えられない
現場のジレンマを知ることもできるのである 。今年
f)大学広報物デザイン支援
(
交流センター )
広報委員として学内の広報物、広報メディアに関
度内に基本形となる廉価版の製品が完成予定であ
わってきている状況の中で、さまざまな検討事項が
CG、模型など
起こっている 。実際は予算内での業者入札、委託と
る。学生のサポートにより、図面、
フットワークの良い作業が進んでいる 。
いう経過をとってこなしているのが現状であるが、
全体のクオリティ管理、セキュリティ管理、メッセ
ージ統ー など、全体を通したデイレクションは行わ
れていなか った。昨年、我がゼミ生が卒業論文で取
り上げた、学内ヴイジ、ユアルアイデンティティの調
査研究において発見された問題点や提案を、広報委
食器新製品開発「立つ皿Jf
紛キント
ー
員会で取り上げていただき、学生たちは委員会にお
いて直にプレゼンテーションを行った 。 シンボルマ
ー夕、ロゴタイプのデザイン管理、ホームページの
e) 北イタリア木土産業調査
(ウデイネ市/プロモセーデイア )
北イタリア地域において木製椅子の一大生産地と
基本フ ォーマット、環境におけるサインデザインな
ど、実際にすぐにでも使用可能なものばかりであっ
た。事実この時の成果は、現在発信されているさま
して有名なウディネ市周辺の、メーカーや工房、国
ざまな印刷物やホームページの基本データとして活
際見本市を訪れ、国際会議等に参加した 。 この地域
用されている 。 また、キャンパスガイドの表紙、中
が生産する椅子群は、ヨーロッパ内のシェアの約 70
表紙などのデザインも今年から、学生の参加により
パーセントを占めている 。 1
200社を超える関連企業
実現した新鮮なものとな っている 。今年の卒業研究
が椅子生産に関わっている 。 このまちの郊外に 学生
の中にも 学内サインデザインの検証や、大学ビジネ
たちと小さなアパートメントホテルを借りて調査を
スフォームの検証など、成果がそのまま現実のもの
行った。 日本のインテリア雑誌の記者にインタビュ
に生かすことのできる研究が進められている 。 これ
ーを受けたり、メーカーの社長宅の食事に招かれた
ら活動をきっかけとして、学内プロジェクトを学内
94 ・人間文化
生活デザインの現窃か 5回
でビジネス化できる可能性がある。学生たちの意欲
て投げかけたユニバーサルデザインの回答である 。
をうまくビジネスにしていく学内ベンチャーの設立
(株)清原の縫製技術力と販売力のバランスを考えな
が待ち遠しいものである。
がら 、手作り感のつよい商品へと向かうこととなっ
4
. ユニバーサルデザイン研究会による社会活動
即座に形 (
実物)にする力を持っていたことで、す
た。 レスポンスの良い企業で、アイデアスケッチを
滋賀県の取り組みとして 、滋賀県工業技術総合セ
ぐに実用新案登録申請まで進むことができた。そう
ンターが窓口となって 、一昨年より面矢教授を座長
なると市場にむけてのアピールも早いもので、問屋
としてセミナーや研究会を毎月開催している 。面矢
からのフィードパック、雑誌や新聞、 TVでのパブ
S (デザインフォーラム
教授が会長をしている DF
リシティなどの活動も盛んとなり、あっという聞に
滋賀 )のメンバーや、県 内企業の面々が参加して、
販売開始となった 。製品開発のプロセスを、これま
さまざまなとり組みを行っている。ユニバーサルデ
でのように研究者や大手企業のインハウスデザイナ
ザインの理解がバリアフ リーのみ になってしまって
ーたちの常識で、調査だ分析だ、アンケートだとや
いる後進国としての日本の現状では、まず運動の理
っていたら完成できなかったプロジェクトである 。
念や精神の理解から進めねばならず、最初の段階か
その後、インターネット上での販売や、デザインバ
ら蹟いていた。 しかし異業種交流とでも言えるくら
リエーションの充実など自由奔放に企業が独自に奔
いさまざまな価値観の人たちが参加していること
走している 。 また、産学連携の 目玉プロジェクトと
で、少しずつユニバーサルデザインの本質に近づい
して、滋賀銀行経済文化センターの「野の花賞Jを
ている 。 また、他県との横並びの行政意識による運
受賞し、これら商品は滋賀銀行主催の展示会等で発
動になってしまわないように、滋賀県独自のメッセ
表するとともに、県庁のロビ ーにも展示されている 。
ージを発信しようとしている。「ユニバーサルデザ
(械清原はこの活動を契機として、前記で述べさせ
インという言葉や運動が必要の無い社会づくりを目
ていただいたように、生活デザイン専攻の演習授業
指して 。
」というのが合言葉である。大学が地元の
を新たな産学連携事業として位置付け、協力を行っ
産業界、経済界と連携して活動することはあたりま
ている 。
えのことであり、そのあたりまえのことになぜか積
極的に行われていない本大学の意識を変えていくこ
b)セミナー事業
FS)
(
滋賀県工業技術総合センター /D
とが急務である 。
滋賀県では県民を対象にしたユニバーサルデザイ
ン社会を築くための布教活動として、セミナーを聞
いている 。 これまで福祉のまちづくりや人権、男女
共同参画などさまざまなバリアフリーに対する運動
が行われてきているが、ユニバーサルデザイン運動
滋賀銀行経済文化
センターでの展示
‘
,
.
Z玄
は、それらとは全く異なる運動として進められてい
る。 まずは、さまざまな社会状況や環境に適応、対
応可能なシステムづくりと言えるユニバーサルリレ
ーションへの理解からはじめている 。セミナーにパ
a)和装小物カードケースデザイン開発
掬清原)
(ユニバーサルデサ、イン研究会 /v
県主催のユニバーサルデザイン研究テーマ募集に
応募してきた企業とのデザイン開発事例である 。
ネラーとして参加していただいた面々も多彩に富
み、人権、福祉、伝統産業に関わっている人や、メ
ーカ一、流通、コンサルタントの職員、研究者から
市民など、人材のユニバーサル性も考慮したセミナ
お庖のレジで必ず見るポ イントカ ード、会員カー
ーとなっている 。先進企業においては、 トヨタやコ
ド、クレジットカードなど、多い人 では20
枚以上を
クヨなど大企業の社会的戦略としてユニバーサルデ
常に持ち歩き、その都度財布の中 から 、l枚を探索、
ザイン運動に会社をあげて取り組んでいるものもあ
発掘しているのである。この作法に作業効率と驚き
る。それら企業の担当者を講師に呼んで、、ビジネス
と楽しさ、美しさを与えようと検討を始めた。 この
とユニバーサルデザインの精神の狭間で揺れ動く彼
プロジェクトは和装小物という保守的な市場に対し
らを問いつめたりもしている。県民のみならず学生
人間文化・
9
5
生活デザインの現質量から 団
や京都からの参加者もあ り、徐々にセミナーとして
の意義を達成しつつある。これも持続することが大
おわりに
県立大学に赴任して約 2年半の聞 に学生と共に汗
切であり、ユニバーサルデザインという 言葉が死滅
をかいてきた現在進行形の活動の概略を述べてき
するまで続けなければならないのかもしれない。
た。 ここでは確実に手応えの感じられた活動をあげ
てきたが、実際、徒労に終わるものや目的意識の脆
弱な活動も少なくない。つまり 、地域貢献の大号令
で始まっている安易なフィールドワークや産学連携
活動に警鐘を鳴らすことを忘れてはいけない。基礎
企業の UD担当者を招
いてのセ ミナー ・ピア
ザ淡海
教育をないがしろにしたり 、大学本来の精神や、研
究活動という枠を暖昧にするような活動であっては
ならない。学生のみならず教員の意識改革はもっと
深刻だろう 。例えば、多くの在外研修の報告文を見
てもわかるように「多くの知見を 得た Jなどという
5
. その他の地域活動
なんとも気楽な、具体性に欠ける 一言で締めくくっ
最近、地域に関わるさまざまな委員や担当を依頼
ている現状をなんとかしなければいけない。在外研
されているが、名前だけで本来の活動や意見を望ま
修の監視役という意味も含めて 、 どんどん学生を帯
れているものは少ない。そういった消極的なガス抜
同するべきである 。教員のネットワークや機会を総
き行政や地域運動に加担する気持ちはない。
動員して、学生たちを研究現場に飛び込ませ、その
今、学生たちから依頼されて活動しているものが
職能や厳しさ、汗を見せつけて自覚を促すくらいの
ある 。湖風祭で、の恒例、ファッションショーの地域
時間と労力は割いてもいいはずだ。地域と連携をす
連携にむけた取り組みである 。昨年より、県立の能
るためには、自分の力量を 知るこ と、そして、自分
登川試験所(繊維関連)へ足を運び、 地元繊維組合
の評価は他人しかできないという事実に早く気づか
との仲立ちをお願いし、また繊維に関する技術資料
なくてはならない。答えは貢献という言葉で、返って
等の提供やアドバイスをいただいてきた。その流れ
くるはずだ。
が学生の意識を徐々に地場産業の経済活動や、地域
連携といった視点に向かわせていった 。昨年は百貨
庖のファッションショーへの参加や地元の祭りへの
参加など、単に学園祭だけの 出展だ‘ったものが、地
域のイベントに関わり始めたのである 。今年は、企
画
、 製作段階から地元とのコラボレーションができ
ないものかと、さまざまな事業計画を繊維組合や試
験所に持ち込んで議論を進めている 。学生たち独自
の活動には、 相手側 の立場を無視した無礼な要求も
多々あることを地域の人たちは、時には厳しく、時
には甘んじてっき合ってくれている 。 これらへのフ
ォローを大学としてやっていくことも考えておいて
良いだろう 。最近では地域文化学科の学生や環境科
学部の学生たちも、これら地域のメーカーや組合、
試験所へさまざまな要望を携えて通ってくるようで
ある 。
学生たちが独 自に活動を始めたものには、ビジネ
スにつながるものや、ボランテイア活動など、各々
の異なる価値観ではあっても、自分自身で育つ、自
分に投資をする、という意味がしっかり認識できる
活動が増えてきている 。期待したい。
96 ・人間文化
調査のために学生たちと 自炊を ともに した北イタ リアの
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a&Ve
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アグリツーリズムの宿・ Ve
人 ・ 間 ・ 文 ・ 化 ・ 通 ・信
-新任教員メッセージ
森下るおい
{
生 活 文f
と学科生活デザイン専攻助教授j
4月に生活文化学科に着任し、京都から彦根へと
電車で通うようになりました。車窓、に広がる自然の
風景は、朝夕の陽の様子や少しずつ移り変わる季節
が印象的で、京都の街とは異なる感覚をもたらして
くれることに気づきました 。幼い頃から絵を描くこ
とが好きだ、った私は、学生時代にモードイラストを
また最近では BSE問題や食品表示の偽装につい
てなど食の安全性や、健康の維持増進のための機能
性食品の開発など食べることへの関心度は年々高ま
っています。 しかしこんなに身近なことでありなが
ら、実際のところ「豊かな食生活 って何だろう?J
と多くの人が疑問に患 っているのではないかと思い
ます。私自身もそのひとりです。 これからの研究の
中でその疑問が少しでも解決できるようにがんばっ
ていきたいと思 っています。
描き始め、人の体形の上 に美しい色彩や形態をつく
りだす服飾デザインに強く興味をもち、現在まで
様々な作品制作を行ってきました。 またデザインと
体形との関連を分析するために、日本の成人女性の
高山滞史
{
生J
皆文 1
t
学 科 食 生 活 専 攻 教 授j
体形の特徴とその変化についての研究を行い、特に
この度 4月 l日付けをもちまして本学人間文化学
計測データ数の少ない明治や江戸時代を対象として
部生活文化学科食生活専攻に着任いたしました。私
調査中です。 日本の大学における服飾デザインの教
が赴任しました背景には新たに管理栄養士養成コー
育は、年月が浅く、ファッションという 言葉の印象
スが設置されたのに伴い医学生理学および臨床医学
で、表面上の華やかな話題で注目されることはあ っ
を専門とする教育スタ ッフの常勤が国の方針により
ても、直接身に纏うことで心身両面に強く影響する
その設置条件として義務化されたことがあります。
服飾デザインのもつ問題について、結局のところ不
従いまして、私の責務は臨床医として特に生活習慣
明瞭な見解が多くなされているように感じられま
す。近年の生活スタイルの変化に関連して、服飾デ
病を中心とした疾病の病態、診断、栄養指導、治療
について管理栄養士をめざす学生さん方に学んでい
ザインの関わる領域はとても広く複雑になっていま
ただき、また研究もしていただくことを指導し教育
す。 しかしこうした現状であるからこそ、より服飾
することにあ ります。管理栄養士の職場は必ずしも
と社会や人間との関係について、学生達が自らの世
病院とは限りません。 しかし、これからの管理栄養
界観をもち得るよう、活発な議論を交わしていきた
士は将来たとえ直接臨床に関係する病院のような職
いと考えています。制作に関しては、新しい発想を
場以外で活動するにしても、およそ栄養を管理する
もとに自らが持 ったイメージを形にしていくまでの
専門家として人の疾病と栄養との関わりについて深
過程では、多くの悩みや失敗がありますが、またそ
い知識と思考力を持つことが以前にもまして要求さ
れ以上に思いがけず、貴重な発見を得ることがたび
れるでしょう 。 また、その方面において実力を養っ
たびです。着任前に予測していた以上に、学生のデ
ておくことが高い評価を得るための強みとな ってい
ザインに対する興味や意識は高く、これからがとて
くでしょう 。本学にはもとより医学部はありません
も楽しみです。
が人問看護学部が新設され彦根市立病院も隣接して
おり、さらには滋賀県立の施設として成人病センタ
度瀬;湾子
f
生 活 文f
と毛主将食生活専攻助手j
たいへん自然に恵まれ 、落ち着いた雰囲気の中、
新しく教育 -研究生活をスターとさせることができ
たことをとてもうれしく思っています。学生時代は
アレルギ一、とくに乳幼児の食物アレルギーについ
て分子レベルでの解析を行ってきました 。現在は新
ーとその研究所とい った環境まで視野にいれますと
いわゆるコメデイカルの教育環境としては医学部に
匹敵するものがあります。 また 、全国の管理栄養士
養成機関のなかでも難関に属するためか入学してこ
られた学生の向学心は高いと感じております。本学
において私の臨床経験から発する様々な知識と情報
を若い学生さん方に提供し身につけていただきなが
ら共に研究することを大変楽しみにしております。
たに、対象である「人間」に直接触れる臨床栄養学
や給食経営管理論などに取り組んでいます。 これら
は反応がダイレクトに伝わるため対象への影響が大
きく、たいへん難しいのですが、その分やりがいも
大きい仕事です。
7
人間文化・ 9
人・間・文・化・通・信
圃INFORMATION
上原結子原画展
今よみがえる 『
金子みすゴ j心の物語
日時 ・5月25日から 5月27日
午前 9時から午後 5時
場所:滋賀県立大学交流センターホワイエ
内容 :雑誌 fMOEJ2003年 6月号、巻頭大特集
J心の物語j に
「今よみがえる 『
金子みす,.
,
金子みす ずミ二講座
「
みんな違ってみんないいなにがいい つj
掲載された上原結子の原画2
0点を展示。
2
5日午後 O時3
0分から鮫子の試食会。
26日午後 O時30分から「金子みす σ ミニ講
座
」 。講師は滋賀県立大学人間文化学部武巴
尚彦教授。
主催 :滋賀県立大学地域学研究室
協力:安曇川町立図書館
筆耕 :星野志保
展示の様子
来場者数:約2
4
0名
上原結子の世界
この川にね、ぽてっとこのくらいの総がね、よく
滋賀県立大学大学院人間文化学研究科地域文化学専攻樽土前期課程
飯島 珠美
が置かれていた 。 ここは上原の自宅から歩いて 3分
流れてきたんですよ 。それを捕まえてたんです。み
ほど、手前には祖母の畑がある。自宅からは、その
んな信じてくれないんですけどね。本当にいたんで
様子がうかがえる 。
すよ 。このくらいのが、あれ総やと思うんやけどな 。
両手で3
0センチくらいの円を描き、「こうぼてっ
とね」と繰り返す上原。
家から 小学校 までは歩いて 30分くらい 。「普通や
と3
0分。なのに道草が多くてね。シロツメクサ編ん
でネックレスにしたりね、 川で魚と って遊んだり、
よく捕まえていたという川、魚、たちがすばしこい。
だいたい l時聞かけて帰ってきましたねんとった
「ほらっ、たくさんいるでしょう」 。川を眺めながら
魚はバケツに入れて 1日家で楽しみ、翌日、元気な
このような話をしていると、自らの幼少の風景が浮
うちに川へかえした。
このあたりは、ほどほどの田舎だと上原はいう 。
かんでくる 。
5月下旬、交流センターで行われた上原結子原画
山深く、木々ばかりというわけではなく、そうかと
展。多くの人が作品から懐かしさを感じていた。老
若男女の境や、生まれ育った地域の差もなく生れて
いって市街地があるわけではない。そして特に静か
というわけでもない。歩いていると 、あち らこち ら
くる懐かしさ 。
から撚糸工場の規則正しい音が聞こえてくる。一定
原画展終了後、上原に案内されながら、上原自身
した リズムにピッチ。工場内だと話の邪魔をするほ
の懐かしい風景を歩いてみた。
どの音が、道に届くころには伴奏にかわる 。
友だちの家が撚糸工場で、そこでもよく遊んで、い
川、撚糸工場、藁園神社
川で遊ぶことが多 く、雨の日は 川の中を歩いて帰
たという 。 「工場でも危ない機械の方ではなくて、
糸を積んで、運ぶ台車みたいなのがあるんですけど、
って来たと言う 。 どちらにしても雨で靴がぬれてし
それに乗って、遊んだりしてねん小学校のころは
まうからだ。需拡がいたという川は上原が高校生のと
工場のような場所が面白かった 。「綿ぼこリがすご
きまで暮らしていた祖母の家の近くを流れる 。澄ん
だ水に藻が揺れ、小さな魚がいきいきと泳ぐ。 この
くて 、それを丸めたりねん上原の家でもかつては
撚糸工場を営んでいたらしい。当時のことを 祖母か
ら聞いたことがあるという。
あたりは湧水が生活用水。「かたづけが苦手みたい
でjといいながら案内してくれた祖母の家の川端は、
毎日使われているらしく、無造作にタオルやバケツ
98 ・人間文化
大学の卒業制作の絵本は、近所の二つの神社を題
材にした 。その一つが藁園神社。家から歩いて 3分
人・間・文・化・通・信
と近い。「ここは夜がいいんですよ j。夕方、曇りが
透明感を大切にする彼女は 、濁ることを恐れる 。
ちな天気にこぎれいな神社は、訪れたものを別の世
塗り重ねれば塗 り重ねるほどいい、暗い絵は重厚と
界へと導く 。夜、灯龍に灯がともると、空想の世界
思 っている人もいるかもしれないが、そう じゃなく
が広がり、そこから物語が生まれる 。
夜の神社で人間の姿をした狐の少年に出会う少
女。ポケットには祖母からもらった金平糖。 きれい
てもいいんじ ゃないかと 。 もちろん重厚な絵や塗り
重ねるほどいい絵もある 。 しかし彼女の描きたい透
明感は、そうすることで失われていく 。
な金平糖に興味を示す少年に、少女は金平糖を手渡
高校の美術の授業 、油絵で自画像を描き、「もっ
す。そして少女は色とりどりの夢をみる 。雪景色、
紅葉、桜・…・、
・ 金平糖色の夢
。
とぬらなあかんj といわれ、無理やり塗った記憶が
あるという 。 「最初はね、良 か ったんですよ 。表情
絵本 『
仔宥益平副は上原の身近な世界から生
もいきいきして、明るい絵が仕上がったと思ったの
れたファンタジーである。この作品を契機に、幼い
にね j 自分のなかではもう完成していた絵。「先生、
ころ描いていた自分のまわりの世界へと、再び目を
向けるようになる 。
これ以上塗 ったら色濁るんやけどって思いながら言
われたとおりに塗っていったらどんどん暗い絵が出
透明感
描きたいイメージを表現するには透明水彩の方が向
来上がってい って…… J
。油絵の良さもある 。ただ、
はじめて上原に会ったのは 5月 l日。今回の展示
いていた 。
の打ち合わせのため、安曇川町立図書館を訪ねたと
「沢山描きたかったんです j。水彩は乾きも早く、
きのことだ。快晴の青空の下、新緑の山々、藤棚、
イメージが浮かんだらすぐ絵にできる 。沢山塗って
レンガ色の建物が肱しかった。約束よりも早くつい
たため、先に開催中の同展示を 眺め ながら 、勝手に
上原結子のイメージを膨らませていた 。
1
0分後、日の前に座った 上原は、イ メージに重な
った 。思ったとおりの人だった。
仕上げていく油絵だと絵がイメージに追いつかな
、。
し
上原はイーゼルに立てかけられたキャンパスでは
なく、床に座り、机に向かつて絵を描く 。 このスタ
イルは小さいころから変わっていない。彼女が机と
「生き物、動いているものがすきだったんですよ
言 うA3用紙くらいの簡易テーブルは、子どもが座
ね。ザリガニはよく描いてましたね」 。 自らを野生
ってちょうどいいくらいの 大きさ 。「この机だと細
児だったと語る彼女は、当時、川で捕まえたザリガ
かいところがかけて 、いろいろ込められるんです j。
ニや近所のうさぎを描いていた 。 クレヨンで、クー
机や床に 5枚
、 1
0
枚と紙を並べ、それらが全て同時
ピーペンシルで、マジックで、白い画用紙、色画用
進行。「
こ っち描いて、大体仕上が ってきたから今
紙、模造紙と 、いろんな紙に描いていた 。そこには
度はこっちみたいに」 。 だから一枚描くのにどのく
母親の配慮もあった。いろんな画材 に興味を示す彼
女に、ひとつに固まらないよう様々な画材を触らせ
らい時間がかかっているのかわからない。 5枚
、 1
0
枚がだいたい同じくらいに仕上がる 。
た。 白い紙じゃないと 描けないという風 にはしたく
風景をあまり描かなかったという上原。過去には
なかったようだと、当時の母親の心境 を振り返る 。
少女が主役の作品が多い。内側からでる透明感にひ
一歳半くらいから、放っておかれるとずっと絵を
かれるからだという 。植物に 固まれたまっすぐな瞳
描いていた 。絵が好きで小学校、中学校、高校と 一
は、花の妖精を思わせる 。西洋風な夢の方に惹かれ
日のほとんどは絵を描いていた。 どんな紙でも描け
ていたという 言葉に領ける幻想的な世界。
たが、ひとつだけ描く気の起こらなかった紙がある 。
大学ノート 。線が入っているだけで嫌だった。
けるうちに、疑問を抱き 、自分に問いかけ た。「
も
I
小学校のころって、先生が絵が描いであるノー
トを使わせてくれなかったんです。落書きしたくな
「ちょっと違うなって思った」 。卒業制作を手が
っと身近なところに目を向けて行こうって 、身近だ
けどファンタジーなんですよね。手に入りそうで入
るからって 。でも私はその逆で、絵が描いてあるほ
らない世界。 そういうのを 描いて いこうって思っ
うが描く気がしないんですよ 。邪魔で。むしろ何も
た
」。
描いてない紙のほうが落書きしたくなってね。そっ
r1子狐金平糖j の登場人物は地元の言葉で会話を
かわす。 カタカナを 一つも 用い ていないのも、この
ちの方があかんのになあって思ってました 。 白があ
ると描きたくなってしまって 。壁にクレヨンで描い
絵本の特徴だ。「金子みすゾ特集」はこの絵本の持
て怒られてましたから 。 自由帳は好きでしたね j。
透き通ったものが好きで、ガラスや小瓶を集めて
ち込みで決ま った。
いる 。植物も好きで先日の個展でも庭のペチュニア
を描いた。人物は特に子どもを描く 。それぞれが持
い
」 。ザリガニを捕まえていた幼いころから、この
地で創造力を膨らませ描きつづけてきた上原の絵
つ「きれいさ j を描いていきたいと語る 。
は、「植物が生きているように JI
いつも目にしてい
「この地域だから描ける、ここに居ないと描けな
人
間
文
化・99
人・間・文・化・通・信
る空や花が自然に J
1描かれている 。 その絵から、
です」。
それぞれが各々の子ども心を思い起こす。草も虫も
「三角形の関係Jと上原はいう 。絵で描かれてい
動物も植物もただ面白く、不思議で、触れたか った
る自然、は、上原の見てきた木々や緑である 。絵を見
ころ 。
ている人が触れてきた自然とは、時も場所も違う 。
こうして上原が描きたい「透明感」から、多くの
人が「懐かしさ j を感じる 。
お年寄りが「懐かしい Jと感じるその時代、上原は
まだこの世に存在していない。絵に描かれている風
景は、上原が見て、触れたことにより創りあげたも
つながり
上原らしさはあっても、絵に自身のメッセージや
が持っている風景が絵によってつながる 。「不思議
魂が押し出せれているわけではない。だから、す っ
ゃなぁと、でもそうやって何かを感じてもらえたら」
とその絵の中に入ってゆける 。
と彼女は目を細める 。
のである 。それを懐かしいと感じる人がいる 。相互
世代を問わずいろんな人に受け入れられるような
絵が「第三の世界 j を感じさせるという声もあっ
絵を描きたいと、絵によ ってつながっていくことが
た。おそ らく上原の言 うファンタジーの部分がそれ
できたらという上原。そばにいてほしいと思える絵
を感じさせるのだと思う 。 また、情熱や心を表に出
を描いていきたいと語る 。
すことなく、一歩さがったところで表現している、
「
一緒にすごせる絵を描きたい。仲良くや ってい
という感想もあった 。それは上原が筆を持つときの
精神状態も影響している 。
上原は嬉しいとき、楽しいときにしか絵は描かな
い。悲しい時には筆を執らない 。怒っているときに
手をつけない。そういう時に描く絵は怒 っている 絵
や暗い絵となり、それは描きたい絵ではないからで
ある 。
そして嬉しすぎても、またいけないと 言 う。そこ
そこ落ち着いて天気のいい日がいいのだと 。「
やっ
ぱりお臼様 っていうのは明るくなります。 まあ雨の
日でも描く絵はあるんですけどね」 。
藁 園 鎗のいた川
絵の登場人物はいつも控えめな表情を浮かべてい
る。悲しげだったり、嬉しそうであったり、寂しげ
だったり、と様々だが、いずれも落ち着いている 。
落ち着いた状態で描くことが、歯を見せて笑ってい
たり、泣き叫ぶとい った激しい表情を描かずにいる
要因であり、それが上原の絵となる 。
見る側はそれを敏感に感じとる 。 こころが和やか
になり、落ち着いていく 。
金子みすゾ
「優しさが痛い」 。上原が金子みすピの作品に出
藁園神社
会ったのは大学生のとき 。当時は作品が読めなか っ
たという 。惹かれていた。だが入っていくには寂し
く、悲しすぎた。避けているわけではない。すごく
けるような作品を描きたいですねん
優しいから、悲しいのに優しいから、最初は読めな
側にほしいとき、そこにあり、ただながめることの
かった 。「こんなに悲しい思いをしているのに、な
できる一枚。
んでこんなことが言 えるんだろうって。そのときそ
「高校生の男の子がね、私の絵がほしいって、そ
のときのみすゾさんの気持ちを考えると切なくな っ
う言ってくれたんですよ」と彼女は嬉しそうに語っ
てくれた。上原の絵が母校の図書館に展示されたと
てね」 。絵を描くには、みすゾの作品だけでなく、
みす?の人物像にも迫らなければならなかった 。明
きのことである 。展示された作品はどれも今の風景
を描いてるわけではなく、お年寄りが、懐かさを覚
るさもあり、想像力も豊かで読んでいる人が元気に
なる詩もあるから、きっと楽しいときも幸せなとき
える時代の絵だった 。「それを高校生の男の子が欲
しいと思い、そこから私がまたなにかを感じとるん
もあった、そう上原は信じる 。
金子みすどと向き合うようになると、作品から情
1
0
0・
人
間
文
化
人・間・文・化・通・信
景が浮かんで、きたという。絵本に興味を持っていた
るんだと思い嬉しくなったという 。今回の展示でも
上原にとって、絵と言葉のイメージのつながりはず
この作品を小学校のころに読んだという方が何名か
っとやってみたいことだ、った。読んで、いるだけで楽
いた。
しい 『
象の鼻 jは上原のお気に入り、また 『
鯨法曾 j、
大学院のときは、先のことを考え不安もあった 。
悲しい雰囲気の漂う 『
花のたましひjは場面が浮か
自分の行くべき道を悩んだ。ちゃんと生きていける
び描いてみたい気もするという。
だろうか。 この絵でやっていけるのか。芸術性はど
うなんだろうか。それでも車会とかかわっていくだろ
むうく、むうく、
山の上、
巨きな象が白い。
うし、絵を描いていくことは決めていた。
むうく、むうく 、
空に 、
象の鼻が伸びる 。
一一水いろ空に。
失くした牙が
しィろくほそく。
った。そんなとき 、漫画家のアシスタントの話があ
教育学研究科に所属していた彼女には、先生とい
う立場になり、教えながら描いていくという道もあ
り、仕事として引き受けた 。ベテランのアシスタン
トの方をみるだけでも勉強になったという 。そして
転機は訪れた 。地元の喫茶庖での初めての個展、作
品は完売した 。すこしづっ自信を持ち始め、恩師の
勧めで東京へ行った 。南青 山での個展と雑誌の「金
子みすず特集」の仕事が決まった 。
むうく、むうく、
鼻が、
伸びても伸びても遠い。
「私は私の絵を描いていけばいいんだ。私が私と
して生きて行ったらいいんやなんなんだかふっき
れたような気がしたという。
とどかぬ
ままに、
灰いろに暮れて、
一一しづかな空に 、
とれない牙は 、
いよいよしろく。
私が雨手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに 、
f
象の鼻 J
'
地面を速くは走れない 。
私がからだをゆすっても、
鯨法舎は春の暮れ、
海に飛魚採れるころ。
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうに
演のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
たくさんな唄はしらない よ。
村の漁夫が羽織着て 、
演のお寺へいそぐとき、
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
'
『
私と小鳥と鈴と J
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
いっぱいいろんな絵がある 中の「私の絵j。上原
が守っていきたいものであり 、大切なものである 。
死んだ父さま、母さまを、
こひし、こひしと泣いてます。
広告のイラストを依頼されることもあり、イラス
トレーターとしての作品も手がける 。 クライアント
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら 。
の要望に沿って絵や画材を変える人もいる 。 しかし
『
鯨法曾 J
3
上原はあくまでも「私の絵」にこだわる 。私の絵が
いかせる仕事をしていきたい。私の絵を描いていき
たい。「そんなに選べる立場ではないんですけれど」
i
fみんな違ってみ んないい Jってそのとおりゃ
と、控えめに語る彼女。 この芯は揺るぎない。
なあって、ああこれでいいんやって」 。上原を後押
しした一篇、 『
私と 小鳥と鈴と jのー フレーズであ
る
。
この作品に再会したのは教育実習に行ったときだ
普通の生活
o8時に起きて、朝か ら
「普通に暮らしてます J
きちんとした生活をする 。お昼か夕方くらいまで描
った。 小学校 3年生の 国語の教科書に載っていて、
いて、夕方には家族みんなのご飯の仕度。夜は母親
こんなこと勉強するんだ、こう いう詩が読まれてい
0
が家で塾をしているので、そこで一緒に教える 。 1
人
間
文
化・101
人・閏・文・化・通・信
時くらいから描きだし、だいたい 1
2時には仕事が終
わるようにする 。その後 、お風呂に入り 、 1時くら
いまでには寝るという毎日の繰り返し。上原なりの
規則正しい生活である 。
普通の生活をしないと絵が描けないと上原はい
う
。 こういう類の仕事をしている人は 、生活が不安
定、あるいは不規則という 印象が強い。作品に没頭
するあまり、寝食がおろそかにな ってしまう 。 また
そうすることによっていい作品が生れていると信じ
上原 結 子 安曇川町立図書館 (5月 1日)
る人もいる 。 しかし彼女はそういう生活をすると絵
が変わってきてしまう 。大切にしている透明感は、
夜に描くと違うものにな ってしまう 。
「料理は好きですねん学習塾を経営している母
しいつながりがひとつできる 。それでいい。
多くの方の協力のもと、展示は開催された。
親は夕方忙しい。そのため上原が夕飯の仕度をする 。
アンケートには様々な意見があった 。賞賛ばかりで
なんでもつくるが、よくつくるのはパスタ 。近くに
はなく 、それぞれの感性 で正直な感想が綴られてい
住 む父方の祖母のところにも運ぶ。 「祖母も食べま
た。違った視点からの意見は参考になり 、今後へつ
すj。
ながる 。 そして私がここに書き記したことは、多く
のかたが、このように文章にするまでもなく作品か
母方の祖父の家も近い 。「祖父はよく絵を見に来
てくれます」 。今回展示した作品は、ただ明るいだ
ら感じとっていたことである 。
上原結子の伝えたいこと 、金子みすゾの心 の物語
けではなく、やや影を帯びていた。その影が上原の
は、最初 は一人のものであった。原画展を終え、そ
祖父を 心配させた 。 「結子こんなに悲しい絵を描い
れは見た人すべてのものとなった 。そして、そこか
。 そんな祖父のお気に入りは 、三歳の
て大丈夫かJ
らそれぞれが自身の心の物語をほんのひとときでも
みすずが?靖国に入っている絵だ。他の絵のような暗
思い浮かべていただけたら 、嬉しく思う 。
さがなく、かわいい感じのする 一枚。表情がちょっ
といたずらっぽいと ころがいいとのこと 。 「
心配さ
れました」と上原はすこし照れながら微笑んだ。
夕飯の仕度が終わると、母親の学習塾を手伝う 。
子どものやさしい雰囲気に惹かれ、描きつづけてい
る上原にとって学習塾は子どもたちと同じ学習の
場。子どもの体型、動き、かわいらしさ、やわらか
さは間近でみないとわからないもの。絵に直接役立
っているという 。
朝起きて 、昼は仕事をし 、夜限る 。家族と同じ屋
根の 下に住み、揃って食事をすることが難しい分、
寝る前、お菓子をたべながらの団築は欠かさない。
炊事をし、親を手伝う 。 これが上原の普通の生活。
普通であると同時に 、そこには上原独自の生活パタ
散ったお花のたましひは 、
み併さまの花ぞのに 、
ひとつ残らずうまれるの。
だって、お花はやさしくて、
おてんとさまが呼ぶときに 、
ぱっとひらいて、ほほゑんで 、
蝶々にあまい蜜をやり、
人にや匂ひをみなくれて、
風がおいでとよぶときに 、
やはりすなほについてゆき、
なきがらさへも、ままごとの
御飯にな ってくれるから 。
『
花のた ま しひ J
5
ーンができあがっている 。家族とともに暮らしなが
ら身近 な絵を 描 き、日 の光の下、透明感を表現し続
けている 。
引用資料
r
1 上原結子原画展」アンケー トに寄せられた感想
r
2金子みす," さみしい王女 新 装 版 金子 みすマ
おわりに
全集J
J町 LA出版局
p
p
.
31
,
32(1
984)
3 前掲書
p
p
.
2
21
,
222 (
1984)
戸涼子が言った 。 「目が澄んでます。 あの絵を描く
4 前掲書
p.
1
4S (
1
984)
人ですJ
。
5金子みすず 『空のかあさま
打 ち合わせ終了後、今回の展示のチーフである瀬
そして私たち 二人の中で、展示のイメージが出来
全集
r
JJULA出版局
新 装 版 金子 みすザ
p.
1
0
9(
1984
)
上がっていた。
ふらりと立ちどまることのできる展示にしよう
と。そこから 一人でもなにかを感じてくれたら、新
・
人
間
文
化
102
参考文献
『
月
干I
J
M
O
Ej第2
S巻第 6号
白泉社
(
2
0
0
3)
-編集後記・
1
宇今大学の独立行政法人化の動きが急ですが、それ
に平行する形で、大学 自体の改革の必要性が喧しく叫
ばれています。 しかし、現在おこなわれている、いわ
ゆる「改革 j の論議の中で気になるのは、つまりは改
革な るものの内容が、管理の一元的強化にすぎないと
いうことです。
'
1
'
t
u
:ヨーロ ッパには、 「都市の空気 は自由にする 」
という格言があ ったそうですが、大学の空気も自由で
あってこそ、創造性豊かな学問が生まれてくる可能性
があります。
ここ数号の問、本誌には多くの投稿があり、紙面の
都合 k、掲載の先送りをお願いする場合がある程です。
今後も管理強化という風潮に抗して、自由な学問的発
想の場として本誌を維持し、発展させてゆきたいと思
います。皆様の ご協力をお願いいたします。 (
棚瀬)
林
編集委員・
博通 ・棚瀬慈郎・ 灘本知憲・野部博子 ・山根 周
滋賀県の北部、
賎ヶ岳の南に位置
し小高い山に閉ま
れた余呉湖は 、周
閲6
.
4キロの訓l
であ
る。水面が伝やか
で、周囲の鼠色を
映すことから「鋭
湖Jとも呼ばれて
いる 。
かつては 、伊香の小江とも 称され、!符けさと美しさから多くの物
語が生まれている 。
代表的な話に「余呉湖の天女」がある 。一般的には「羽交伝説J
として、日本列島の束から西へと広い地域で伝承されている話であ
る。 また日本昔話では「天人女房Iに分類されて類話は全凶各地に
分布している 。
天満天神社縁
余呉湖に伝わる羽衣伝説に は 『
帝王編年記j型、『
起j型
、 『
雑話集j型、『
桐畑文書』型があり 、それぞれの型の訴が
伝承されているが、現在書物に著 されている話は主には 『
桐畑文古j
型が多いようである 。湖のそばには天人が羽衣をかけたという「衣
掛けの柳 jが生えている 。
他にも雨を降らす「菊石姫jの訴が伝えられていて 、余 1
兵湖の周
蛇の枕石 Jが残っている 。
りには この伝説にちなんだ 、「目玉石 JI
余呉湖は現代でも話の仁'
lに登場し て、水上勉の小説『湖の琴』の
舞台にもなっている 。
との話も 、もの悲しい内容が展開されている 。やはり美しいゆえ、
静かゆえ、 このような話が f
J.えら れているのであろうか。神秘の湖
余呉湖はなぜか人の心を落ち着かせるi
市
l
である 。
冬の余呉湖はすばらしい景観を装い多くの 人々が好むところであ
るが、秋の景色もまた新たな物語りが誕生しそうなそんな気配を 2
している 。
写 真 文/野郎博子
人間文化
1
6号
16号
発行日 2004
年 11月 30日
発行滋賀県立大学人間文化学部
〒522-8533滋賀県彦根市八坂町 2500TEL0749-28-8200
附
発行人小林清一
回刷株式会社スマイ日刷工業
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
本誌は再生紙を使用しています。
E
話
川げ
市
汁
工C 豆
AW
kyZ
↓
﹁
のC
﹀
C 刃m
ω
亙
門
U 会
O
AW
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Bω 一ー寸︿
明
裂さ一浦
ω 工 一 の ︾ 刀 刃 m 明mo ↓cEm
滋賀県立大学
o
R
~
瀬
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伝説の湖“余呉湖"秋景
議