入居司支化 - 滋賀県立大学

県
立
大
学
人
j
'1
1
1
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磁 賀
文ー
化
学
音日
研 究 報
入居司支化
第3号
I
BUL
LETIN
VOL
8
SCHOOL OF HUMAN CULTURES THE UNIVE円 SITY OF SHIGA PREFECTU円 E
止と
口
242
.もくじ・
巻 頭 言/西川幸治
つU
ある“遊牧地域論"の生成過程/小貫雅男
遊牧民家族と地域社会/伊藤恵子
モンゴルにおけるヤギの識別名称について/棚瀬慈郎
64
現代モンゴルの住空間/ 山 根 周
.
..
..
.
.
.
.
.
.
.
.
.
..
..
.
.
.
.
.
.
..
.
.
.7 0
現代モンゴルの住生活と生活財/面矢慎介…………....・ ・
.84
H
ひとつの〈世界単位〉モンゴル/高谷好一…...・. ・
.
.
…
・
・
… 99
H
.人間文化学部棟のデザイン (
3
)
編集後記
-モンゴル牧民の母と子・
1
9
9
6作の夏 、モンゴルはバヤンホンゴル県のツェルゲル
付に滞イ上していた時に織った写1
主です。
地平線に薄ち行く太陽は 、 大地を一瞬~色に輝かせます 。
昼の問中ー
を食べに山かけていた 1
5群は 、その右足勢な光の q
rを
騒々しく帰 ってきます。写真のおりさんの指の先には彼等の
家畜がいます。
やがて H
音くなる頃 、ゲルの r
l
rでは千勾
│ を戸、込んだスー フが
煮え上がります。 アルガリの燃えるストーブを凶んで米か短
をスー プで煮込んだものを食べ、乳 A
与を飲むあとは迫々 l
限り
に着くだけです。
はしばしば酔 っ払った間入者
しかし、夏の夜のゲルの平和 l
によ って彼られます。彼等はしばしばとんでもない復中にや
ってきでは 、 自家裂の 円い馬乳 i
l
J
4
ゃアル ヒ (
蒸留酒)を
1
'
当
てにゲルの戸を激しく 11
j
]¥,、たりするのです。
そんな時でも牧民たちはお客をもてなす ことを忘れません。
満天の星空の下、馬上で揺れている酔っ 払いと 、そ れに吠
えかかる犬達。 モンゴルと聞くといつも 脳裏に浮かんでくる
光景です。
写真 ・文/棚瀬慈郎
人間文化
書
幅
差
置
・
・
・
・
・
モンゴル学術調査特集
ツェルゲル村の 2月の風景、産み落とされた子ヒツジを拾い上げる遊牧民
モンゴル学術調査特集に寄せて
‘逼孟,
ーハjレハ河畔の罵を追う人びと
「キャンパスは琵琶湖、テキス 卜は人 間」をモットーに滋賀県
立大学は 出発した。人間文化学部は地域文化に注目し、まず「虫
の眼 Jで地域をとらえ、しだいに視点をたかめて「鳥の眼 j で
怖撒し、ひろい 地域を観察し 、多様な文化 をはぐくみ育ててき
た地域を比較し考察する研究をめざしている。また、激しく変
化する生活文化に注目し 、
考現学の立場にたって現状を冷静に
観察し、現状を正しく把握し、定点 ・定時の観測 を通じて変化
の相を明らかにし、正確な記録をこころみ、こ れからのあるべ
き生活文化を求め省察する考現学の方法 をきりひらこうとして
いる。こうした観点にたって、 北東アジアにお ける具体的な地
域研究の第一歩として、モンゴル調査を は じめたのである。
この調査は「モンゴル遊牧社会の変容と将来像」を研究課題
として、科学研究費(国際学術研究)で 1996年から 3年計画で
西E
人
里Jl I ~
イ
ヒ
来るべき 2
1世紀は多様な文明が共存し 、自然と人間の共生を
はかるべき時代だといわれている。ところで、人類の生活様式
ー
学
部幸 5
学
長
調査をつづけている。
J
台じ
の一つを形づくってきた遊牧社会は、どのように変容し存続す
るのであろうか。重要な課題である。たしかに、モンゴル遊牧
社会は、いま、大きく変容をとげつつある。この変容の様相を
明 らかにし、その新たな展開について考察するのが、この調査
の目的である。
1
996年の調査は、ボグド班とウランパート ル・フブスグル班
ウランハー トル
・ ナーダムの 弓を射る人
(
西川
│撮影)
の 2班に分けて行なわれた。ボグド班はバヤンホンゴル県ボグ
ド郡で、従来からつづけてきた「ゴビ・プロジェクト」にもと
づく研究調査を継続し、ツェルゲ、ル村を中心に遊牧地域の特質
を自然生態との関連でとらえ、遊牧と人間集団、さらには自然
の「水の大循環系」にまで考察を展開しようとし、その基礎的
作業としてボグド郡に拠点を定め、定点・定時観測をつづけ、遊
牧社会の実態と変容を明らかにしようとしている。
ウランパートル・フブスグル班は、首都ウランパートルを中
心に都市化がすすむ地域とフブスグル湖をめぐるフブスグル県
など伝統的な遊牧社会とを比較して、その変容の実態を明らか
にしようとした。その生活空間を往生活を中 心 に考察し、生活
時間についてききとった。草原で解体し、移動し、組み立てる
伝統的なゲルの構造と構成、その生活道具、ゲルと家畜群につ
いて調べ、ウランパートルの住生活をアパートの構成とその設
計のしくみ、移動しないゲルや木造家屋(バイシン)からなる
団地の構成、夏期郊外ですごす別荘(ゾスラン)の構成などに
ついても調査した。なお、併行してすすめた生活時間、中央と
7年度の調査とあわせて、あらためて報
地方の関連については 9
告する予定である。
第 3号は 1
9
96年のモンゴル学術調査の概報とした。今後も
こうした企画を特集として報告することにしたい。
人周文化 ・ 3
ぉ男
日
雅
一
一
膏
貝
ぉ
小
ある“遊牧地域論"の生成過程
人間文化学部地級文化学科
目
はじめに
1
. “ゴビ ・プロジェクト"の理念
われわれを取り巻く現状の認識
“ゴビ ・プロジェクト"のめざす方│白l
I
I
. “ゴビ・プロジェクト"以前の段階
初期の調査
“遊牧地域論"の生成
“ゴビ ・プロジェク卜"構想の発端
E “ゴビ ・プロジェク卜"の調査
1.本格的な準備へ
2 調査の概要
(
1)定点調査地域の概要
(
2
)サブ ・プロジェクトの設定
3
. “ホルショー構想"の成立
(1)“ホルショー"の構造とその形成過程
(
2
)“ホルショー"の意義
4 越冬調査(1 992 年秋~ 1
9
9
3年秋)
(1)ツェルゲル村と いう 土地
(
2
)
住込み越冬調査の 目標と成果
(
3
)“ツェルゲル村モデル地域構想"実現のための実践
(
4)“ホルショーペボグド郡全域に波及
W 今後の課題
1 “ボグド郡モデル地域構想"
2 追加調査
3.“国際砂漠 ・遊牧地域研究センター"の必要性と将
来の調査
むすびにかえて
むしろ、家畜の利用によってそこから生活の糧を得
はじめに
て生きている人問、さらには家族・共同体といった
日本・モ ンゴル共同ゴ ビ・遊牧地域研究プロ ジェ
クト(略称、
次
ゴビ ・プロジェク卜)の第一次調査が
開始されたのは、 1990年であるから、そのときから
もうすでに 7年間が経過したことになる。
人間集団や、「地域」といったものの側に関心の重点
がおかれてきたように思われる。
自然一家畜一人間集団といった系のそれぞれ次元
の異なる 個々バラバラの事象を、自然と人間 の一つ
昨年の 1
996年夏からは、この“ゴビ ・プロジェク
のまとまりをもった特定の生活空間、すなわち「地
卜"にひき つづき、文部省科学研究費による“モン
域 Jの設定によって、人間の“いのち "の再生産と
ゴル遊牧社会の変容と将来像" (代表者
“もの"の再生産を基本にしておこなわれる物質代謝
西川幸治)
の調査がはじまり、研究は新たな段階に入ろうとし
の循環系の、統一ある有機的なメカニズム の体系と
ている。
して捉えようとする。“遊牧地域論"は、このことを
“ゴピ ・プロジェク 卜"がど のようにしてはじまっ
方法の核心に据えている。したがって、それぞれ次
たのか、“ゴビ・プロジェクト"に至るまでの調査・
元の異なる個々の事象を研究対象にしながらも、究
研究の経緯のあらましと、“ゴビ ・プロジェクト"が
極においては、人間の生産と生活の“場"である「地
はじまってから後の調査の経過とその内実をたどっ
域」、さらには人間そのものに収飲されていく。“遊
ていくと、“遊牧地域論"とでもいうべきものが、次
牧地域論"は、こうした研究として想定されるもの
第に浮かびあがってくることに気がつく。
である。
この“遊牧地域論"なるものが一体何であるのか
本稿の目 的は、“ゴビ ・プロジェクド'の巾間総括
については、ここでは詳しく触れることは差佳える
をおこなうことなのであるが、それはまた、“遊牧地
として、日本における、とくに戦中・戦後の“遊牧
域論"の生成過程をたどることにもなっている。こ
研究"の流れとはかなり違ったものが、そこには想
うした視点からも、この 中間総括を見て いただけれ
定されてくるような気がする。これまでの“遊牧研
ば幸いである。
究"が、主として文化人類学の関心から、家畜の側
ここでは、まずはじめに、これまで“ゴビ・プロ
に重点がおかれ、牧畜技術やそれにまつわる習俗・
ジェクト"が掲げてきた基本となる理念と目標につ
儀礼といったものに関心がむけられてきたとすれば、
いてふれ、“ゴビ・プロジェクト"が開始される以前
“遊牧地域論"は、白然や家畜の領域を包括しつつ、
の時期の調査活動の跡をたどり、さらに“ゴビ ・プ
4 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
ロジェク卜 "がどのような活動をしてきたのか、そ
の調査の経過と到達点を明らかにしたいと思う。
産縮小にすすむべきであり 、大量生産・大量消費シ
ステムの進展とその国際化をとどめない限り、地域
性に根ざした産業の発展の芽は、ことごとく摘みと
I. “ ゴ ビ ・ プ ロ ジ ェ ク 卜 " の 理 念
られるであろう。つまり、地域のあらゆる潜在的な
能力を生かす多穐 ・少量生産システムにもとづく、
多彩で豊かな地域づくりの形成はのぞめないのであ
われわれを取り巻く現状の認識
人類の明日を脅かす砂漠化、森林の消滅、さらに
る。少なくとも、私たちが十数年間考察してきた一
つの地域
モンゴルの遊牧地域と日本の農・山 ・漁
は酸性雨、食品の化学汚染・・・。地球生態系の破
村 ーはそれぞれのちがった立場から、自らの実践に
壊は、北極から南極、成層圏から深海層に至るまで、
よって、このことを指摘している。
実にグ口ーバルな範囲で、加速度的に進行している。
人類の物質的生産は、絶え間なく発展し、生活の水
“コビ・プロジェクト"のめざす方向
準は向上しつつあるかのように見えるが、地球各地
農業と工業、この二つの関係から、一国の社会発
にあらわれる人口集中、巨大都市の出現によって、
展の現状をみるならば、今日、世界はおおさずっぱに、
自然と人間の調和的関係は断たれ、人間の精神的荒
次の五つのグループに分類することができるであろ
廃はますます進行している。人間が生きる上で必要
つ
。
不可欠な食糧を生産する農業は、斜陽産業となり、
農業の危機が叫ばれている。
第一は、工業の未発達のために、生産水準の低い
農業のみに依存し、停滞している国
このような生産力の発展にともなう現実は、生産
第二は、工業を高度に発展させながらも、農業衰
力の発展を手放しでほめることができないことを示
退の危機におちいり、自然破壊、都市問題など人間
している。これまでの人 間と自然、人間と人間の関
の生存にとって根源的で重大な問題を抱え、解決不
係を反省し、人類の生存と、これからの文明のあり
能におちい っている 国
方に根本的な反省を加える必要がある。
人類による生産活動の効率は、労働の生産性た、け
を追い、工業優先主義の弊害を十分に認識できずに
で計ることができないことは、ますます明らかに
すすんでいる新興工業諸国
第三は、この第一の道を歩む先進工業諸国のあと
なってきている。工業は、 土地面積当りの生産性を
第四は、「社会主義 j へ移行し、工業力を発展させ
たしかに増大させたが、自然の物質的循環の人工化、
つつも、社会体制の崩壊、あるいは衰退による経済
あるいは自然破壊の進展となってあらわれてきた。
的混乱の巾で、経済・社会運営の円熟したシステム
人類の生産活動の無制限 の拡大は、自然破壊を極限
を模索し、その改革をめざしている国
にまで押し進めるにちがいない。何らかの理性的な
制限を課すことなく、人類の生産活動を次の世代ま
で拡張し続けることはできないであろう。
いま私たちは、現代社会が追求してやまない価値
第五は、第四のグループに属しつつも、工業力の
未発達の国
モンゴルは、基本的には上記の第五のグループに
位置づけられるものといってよい。
自体までを批判的 に検討する必要にせまられている。
こうした現代世界の現状認識の 上 に立って、第二
自然は有限であり、最大の問題は、この有限性と
のグループに属する 日本と 、第五 のグループに属す
人類の発展をいかに調和させるのかという点にある。
るモンゴル、いわば社会発展のあらゆる意味で両極
先進諸国 においては 、すでに 生産力の絶対的不足は
に位置する 両者の共同によって、モンゴルの 中でも
問題ではなく、生産力の浪費と成果の不平等な分配
最も困難であるといわれているゴビ・遊牧地域を対
が問題なのであり、次代の生産体系の構想、は、自然
1世紀にふさ
象に、 地域を総合的 に調査 ・研究 し
、 2
と調和した生産体系を追求す ることである。これは、
わしい新しい地域構想を打ち出 し、さらに地域づく
現代の私たちにつきつけられた緊急かつ重要な課題
りの実現へと進むことができるならば、私たち自身
である。
にとっても意味のあるものになるにちがいない。そ
地球大の自 然との関係から、 生産活動の飽和を問
れは、こうした地域研究と地域づ くりの実践によっ
題にするのであれば、不均等 ・不公正な世界経済体
て、私たち自身が、いわば世界 の「辺境」との対比
制の是正のためにも、今日の先進諸国は、むしろ生
において、日本の現実の姿を否応なしにきわめてリ
人間文化・ 5
ある“遊牧地域論"の 生成過程
アルに見せつけられざるを得ないからである。
初期の調査
モンゴルでは、ペレストロイカの押し寄せる波の
1
970年の夏、ウランパートルで開催された国際モ
中で、旧体制が崩壊し、今、市場経済への道をひた
ンゴル学会に参加した機会に 、はじめてウムヌゴビ
すらに突き進んでいる。過去の社会主義体制への極
県のダランザドガドを訪れ 、ゴビ地域の調査をおこ
端な反発から、西側諸国への憧れ、無批判的追従と
なっている。ゴビにはわず、か三日間の滞在であった。
模倣をくりかえしながら、主体性を失い、憂慮すべ
モンゴルとの国交がまだ回復していない時期で、
き事態に立ち至っている。今モンゴルは、何よりも
地方での長期滞在は、西側の人聞にはほとんど認め
まず、自国の自然と歴史的伝統に立脚し、その特質
られていなかった。このときはじめて、ゴビ地域の
を十分に生かした「地域 Jの再生が必要になってい
調査の構想がおぼろげながら浮かひ、あがってくる。
る。「地域」再生のためには、まず、さまざまなレベ
それから 6 年間が過ぎ、 1976 年秋 ~ 7 8 年秋までの
ルの伝統的遊牧共同体を基盤に、「地域」再生の新た
2年問、モンゴル国立大学の客員教授として、首都
な主体を確立し、伝統的技術と近代科学技術との融
ウランパートルにはじめて長期 滞 在 。 こ の 時代 は
、
合による “小さな技術"の創出によって、「地域」の
国交が回復したものの、西側からの外国人に対して
あらゆる潜在的能力を生かす多種・少量生産システ
は、首都からら 40キ ロ離れた 地 方旅行は許されず、
ムを 「
地域 Jによみがえらせ、新しい世界認識にも
厳しく制限されていた。
とづく 自然と人間の調和を基調とするモンコcル独自
の道を模索しなければならない。
こうした状況の巾で、 7
7年夏には、ウブルハンガ
8年 2
イ県とアルハンガイ県を転々と調査旅行し、 7
モンゴルは、第二、第三のグループに属する先進
月の厳冬に、ザブハン県のウリヤスタイとアルダル
工業国や新興工業国のように、もはや軌道修正不可
ハーンを調査、同年夏には、 ゴ ビアルタイ県のタイ
能な状況にはまだおちいってはいない。広大な自然
シル郡を調査した。いずれも 、一週 間から一ヵ 月の
と遊牧、その生産と生活の優れた伝統的基盤がいま
8年にか
短期間に制限された。それでも 、76年から 7
でも息づいている。
けてのこれら一連の調査は、それぞれ短期間の調査
私たちは、 1
989年以来 、社会発展の先の五つのタ
ではあったが、モンゴルの 中央部、南部および西部
イプの道とは別の、第六の道ともいえる人類にとっ
の典型的な平原や砂漠や 山岳地帯の遊牧の特徴を把
て新しいモデル ともなるべき社会発展の道をさぐる
握することができ 、その後の調査の貴重な予備的知
そのひとつの具体 的な方法として、日本 ・モンゴル
識となった。また、その後のブルドの調査の方法を
共同“ゴビ ・遊牧地域研究プロジェクト"(略称
編み出す上で極めて大切な時期であったといえる。
ゴ
ビ・プロジェク ト)を提起し、現地での調査活動を
おこなってきたのである。
“遊牧地域論"の生成
2
1世紀は、産業革命以来一貫して貰かれてきた生
982年秋か
本格的な調査がはじめてできたのは、 1
産効率主義に見切りをつけて、新しい世界観にもと
らはじまる一年間のウブルハンガイ県のブルド郡の
づく新しい生産体系をさぐり、新たな世界システム
調査である。
を構築しなければならい課題を背負わされている。
ブルドは、ウランパートルから西へ 350キ口、ハ
世界のこうした「辺境」における実践、その中から
ンガイ山脈の東端に位置している。平均標高 1700
生まれてくる思想が、世界のこの新しい道の模索に
メートル、総面積 2
6万 5000ヘクタール、東西に 90
求められている。
キ口、南北 6
0キロにわたる広大な土地である。滋賀
県にほぼ匹敵する面積である。ここに人口 2900人が
1.“ゴビ・プロ ジェク 卜"以前の 段階
“ゴビ・プロジェク卜"に至る経緯について、より
暮らし、家畜(ヒツジ、ヤギ、ウマ、ウシ、ラクダ)
総原数 9万 6000頭を放牧している。君¥
r
部は、草原が
基調をなしているのであるが、東西にパットハーン
正確な理解を得るために、“ゴビ・プロジェクト"以
とエレーンの山なみが連なり 、 ここを源に、巾央部
前に私自身が個人的に調査活動をおこなってきた初
の平原には、タルナ 川 をはじめ幾筋もの川筋が流れ
期の段階についても、はじめに若干触れておきたい
ている。 北部には砂漠地帯が横たわっている。
と思う。
冬になると、ほとんどの家族が 、山地 の中腹に冬
営地 をかまえ、夏になると 中部 の平原を流れる 川筋
6 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
地図
I モンゴルの地勢
・¥・ 、 画 、 / 戸
、
"
'
、
・.
.
.
.
.
.
∞
5 km
中 華 人 民
和国
4
に降りてきて、夏営地をかまえる。この冬営地と夏
した。そして、ネグデルの機構 ・管理・運営および
営地の巾間あたりに春営地 と秋営地を定めて、この
教育 -文化 ・医療・福利厚生といった公共的機能な
四つの営地をめぐる四季の遊牧循環がおこなわれて
ど、再生産のメカニズムの全体像を浮き彫りにした。
いる。この遊牧のタイプは、モンゴルの草原地帯で
冒頭でも触れた“遊牧地域論"は、このブルドの
広く見られる典型ともいえる。
5
0あり、ブルドは、
モンゴルの全土には、郡が約 2
調査によって、その方法の骨格は、確立されてきた
ように恩われる。つまり、特定の「地域」を設定す
5
0
その一つにあたる。調査は、まさに、モンゴルの 2
ることによって、自然一家畜
分のーの典型を対象地に選んだことになる。
環の系としてトータルに把握し、その内的連関のメ
人間の物質代謝の循
ブルドの調査は、広大な郡内に散在する家族の 巾
カニズムを重視し、「地域」を人間の生産と生活の
から、 4家族を選んで、 四季の遊牧循環をおこなう
“場"として重視する方法である。この方法に基づく
それぞれの家族を追いつづけながら、このブルドの
ブルドの調査の成果は拙著『遊牧社会の現代』青木
自然とそこに生きる人間とその地域社会をトータル
9
8
5.にまとめられているので、ここでは詳
書庖. 1
に把握するようにつとめた。この時期は、ソ連のコ
細は省略することにする。
ルホーズのモンゴル版ともいえる遊牧の集団化経営
9
5
0年代に出現
社会主義集団化経営ネグデルは、 1
ネグデルによって、この地域社会が成り立っていた。
しはじめ、 5
0年代の末にモンゴル全土に広がり、ネ
1
5世紀以来約 5
0
0年間つづいてきたといわれてい
0年代、
グデル体制の確立をみるのである。そして、 6
る伝統的遊牧共同体ホタ ・アイ ルが、社会主義集団
化によって、はたして、このネグデル体制の巾にど
7
0年代、 8
0年代と 3
0年問、ネグデル体制はつづい
てきた。私がブルドを調査した 1
9
8
2年は、このネグ
のように組み込まれ、変容を強いられてきたのか、
デルの最盛期にあたり、このブルドでも家畜頭数は
その伝統の継承と断絶の側面に注目しつつ、新たな
ピークに達し、その後次第に減少傾向をたどり、後
ネグデル機構のもとでの 下位の共同組織である家
にふれる“ゴピ・プロジェクト"の第一次調査がは
族・ソーリ ・ヘセックといったレベルにとくに注目
じまる 1
9
9
0年には、このネグデル体制は崩壊への道
して、家事労働から牧地の利用 の仕方、牧畜労働に
をたどり、やがてモンコずル全土から消えてゆくので
おける分業と協業の関連 、家畜群 の構造、牧畜技術、
ある。
手工芸、個人副業経営(私有家畜)およびネ グデル
モンゴルの風土の奥深いところで長い歴史をかけ
と放牧賃金との関連など、基礎的な実態を明らかに
てじっくりと熟成され育まれてきた遊牧を、外部か
人間文化・ 7
ある“遊牧地域論"の生成過程
炎天下の砂漠を、ヤギ・ ヒツジ混合の
群れが、草をもとめて移動してゆく。
た日本の農業 ・農村問題にじかに取り組み、自分た
ちの足場をしっかりみつめながら、同じその目でモ
ンゴルの遊牧社会の調査をつづけようというもので
あった。
兵庫、鳥取、岡山、人一阪、京都、和歌山、富山、秋
田、岩手、滋賀、北海道の各県の巾から、調査対象
ら人為的に、しかも一気に社会主義集団経営に組み
地域を選定するために、現地を訪れ、予備調査をか
込み、地域の発展をめざそうというこの社会改革は、
さねていった。そして、最終的には、兵庫県の山村
現実からかなりかけ離れた極めて無謀で大胆な実験
但東町と篠山町を巾心にした調査を深めて いくこと
であったというほかない。その結果は、「共同」とい
になった。
う名のもとに「個」を圧殺するという弊筈を生み出
ブルドから帰ってくると、日本ではアフリカの飢
0年間というものは、今日
した。このネグデル時代 3
餓の問題が連日のように報道されていた。アフリカ
から見ればモンゴル遊牧社会の長い歴史の巾でも極
では、人間と自然が調和していた時代は、もはや遠
めて特異な時代であったといえるのである。
い思い出になってしまった、という。人間と家畜に
現在、モンゴルでは市場経済への移行によって、
よってずたずたにされた自然は、干ばつに低抗する
今度はそれとは反対に、「共同」が極端に軽視され、
すべもなく、砂漠化の道をたど って いるともいわれ
@
JJが盲目的に重視されるという
その反動として、 I
ている。飢餓の問題は、単なる自然災害ではなく、人
時代になった。その結果、ここでもまた、逆の新た
間の自然への関与の仕方に大きくかかわっているこ
な弊害が生まれてきている。人々は、私的利益の追
とも明らかになっている。今、私たちは、こうした
求や投機に明け暮れ、失業と物価の高騰、生活の不
問題から目をそらすことは許されなくなっている 。
安定、貧富の格差の増大となって、弱肉強食の様相
私たちがよしとしてきた価値そのものが、今ここで
すらあらわれてきている。人間への信頼にかわって、
根本から検討されなければならなくなってきている
不信と憎悪が助長され、精神の荒廃がすすんでいる。
社会主義が世界的規模で崩壊した今、社会主義は、
のである。
ブルドから日本へ帰ってきたばかりの
私にとって、「アフリカで何が起きているのか」の問
いとも簡単に否定的に批判されている。だが、社会
いは、ただこととではなかった。モンゴルのブルドは、
主義とは一体なんだったのか。人類史の巾でどんな
北アフリカからユーラシア大陸を斜めに走る乾燥ベ
意味をもっていたのか。その失敗の原因はどこに
ルト地帯の東の果てに位置している。飢餓に悩んで
あったのか。具体的事実に基づいて究めることが今
いるアフリカとは同質のベルト上にある。もうかな
求められている。
り旧い時代からこのベルトの上では、遊牧民の定住
0年間の功罪を歴
私たちは、今はじめて、ネグデ 3
農民化がすすみ、都市への流入によるスラム化が進
史に則して広い視野から公正に判断し、評価できる
行し、遊牧の縮小 ・衰退が、長い歴史の流れの趨勢
地平に立たされたといえよう 。
「個」と「共同 Jの問
をなしていた 。
題は、人類の歴史の中で絶えず難解な問題として
しかし、今起きている「アフリカの飢餓 J の問題
あったし、今日でも未解決の諜題として残されてい
は、この歴史の一般的傾向といったものとはかなり
る。この課題を今、私たちは、ブルドと市場経済移
異質なものであり、現代世界の新たな構造的変化に
行後の新しい事態、この一つの厳粛な事実を素直な
深くかかわった深刻な問題として提起されている。
日で受け入れることによって、っきつめて考えるこ
私はブルドの観察から、両者を対比しつつ、そのこ
とが可能になったのである。
とを深く痛感させられたのである 。
“ゴビ・プロ ジェク卜 "構想の発端
北アフリカや、巾東、中央アジアとはかなり異質な
同じ遊牧ベルトにありながら、今日、モンゴルは、
一年間にわたるブルドの調査がおわり、帰国した
発展の方向をたどっている。このモンゴルの実態を
9
8
5年の春に、“遊牧地域研究グループ"
その翌年の 1
組み入れて、現代世界の今日的視点から、遊牧世界
が、大阪外国語大学を拠点に、学生 ・院生が巾心に
の舞台となったこの乾燥ベルトを、空間的にも、歴
なって結成され、活動が開始された。日本の農 ・山 ・
史的にも、トータルに把握する必要にせまられてい
漁村の調査からはじめて、深刻な危機に直面してい
た。私がフルドから帰国し、再度、こんどはモンゴ
8 ・人間文化
或論"の生成過程
ある“遊牧地 i
ルのゴビ ・
砂漠地域へと目がむけ られていったのは 、
こうしたことと深くかかわっていた。
施のための本俗的な準備段階 に入る 。
1988年 12月 6日、モン ゴル科学アカデミー総裁
N ソドノム氏に「“ゴビ ・プロジェクト"に関する
1
1 “
ゴビ・プロジェク卜 "の調査
意見書」を提出している。そして、“ゴビ ・プロジェ
クド'の調査対象地域として有力視していた一つの
内陸アジアの草原と遊牧の国モンゴルにも、ペレ
県
、 パヤンホンゴル県と ウムヌゴビ県 のうちの一つ
I
:
:J
2月、モ
ストロイカの波は押し寄せてきた。1987{
9年 3月の冬期に訪問
であるバヤンホンゴル県を翌 8
ンゴル人民革命党は、はじめて農牧業生産の停滞を
し、現地の責任者と協議している。
認め、絶対視され神聖にして犯すべからざる遊牧の
このバヤンホンゴル県の視察にもとづき、さきに
社会主義集団化経営ネグデル体制も、かげりを見せ
科学アカデミー総裁 N.ソドノム氏に提出した「“ゴ
はじめた。これを機に、牧畜の生産請負制の実施、私
ビ ・プロジェクト"に関する意見書」に検討を 加え
、
有家畜の制限の撤廃がなされ、ネグデル体 *
1
1
は徐々
8
9年 5月 18日、国家科学技術高等教育委員会議長
に基礎から崩れはじめたのである。
M. ダシ氏に最終案「“ゴビ ・プロジェクト"に関す
1
9
8
9年 1
1月、ベルリンの壁の崩壊は、モンゴルに
る意見書・計画書」を提出している。
も強烈なインパクトを与え、政治過程の民主化を促
そして、同年夏 2ヵ月間にわたる日本 ・モンゴル
2月のウランパートルでの
進することになる。同年 1
5年以
共同 の予備調査を実施した。日本側からは、 8
0年 3月のスフパートル広場
民主化要求のデモ、翌 9
来日本の農 ・山・ 漁村の調査をしてきた“遊牧地域
でのハンガーストライキなど一連ーの動きによって、
8名からなる日
研究グループ"に研究者が加わり、 1
政府 ・党幹部は総辞職へと追い込まれ、同年 7月の
本チームを編成し、モンゴル側からは 1
0名の研究者
モンゴルはじめての自由選挙へとめまぐるしく政局
が参加した。この日本 ・モンゴル共同の遊牧地域調
は変わっていった。
査隊は、 2ヵ月間にわたり、ジープとトラックで
1 99 1 年 8 月 ~10 月には 、 急速立法化した私有化法
にもとづき、ネグデルの家畜 ・家畜小原などの固定
4900キロにおよぶ広域調査を実施したのである。
調査行程は、以下の通りである。
資産の私有化がすすみ、これと関連して 9
2年 l月か
ウランパートル→ウブルハンガイ県ブルド郡→岡
らはネグデルに代わって、各地にホビツアートカン
県アルパイヘール→同県ナリーンテール郡→パヤン
パニが出現している。これは、市場経済への風潮の
ホンゴル県パヤンホンゴル→ 岡県パーツ ァガーン郡
巾で、政府が、名ばかりの変更によって遊牧民をあ
→岡県ボーツァガーン郡→ゴビアルタイ県デルゲル
ざむき、家畜の国家調達を維持しようとしたもので、
郡→同県アルタイ→岡県タイシル郡→ザブハン県
本質的にはネグデルとたいして変わるものではな
チョロート郡→岡県アルダルハーン郡→岡県ウリヤ
かった。また、これと並行して、固有財産や県や郡
スタイ→岡県イデル郡→岡県ボルナイ郡→アルハン
の小心地の公的生産基盤や国営商業機関などの資産
ガイ県タリアト郡→岡県ツェツェルレック→岡県
0年の歴史の
の私有化がすすみ、地方は、ネグデル 3
ジャルガラント郡→岡県ウルギーノール郡→ボルガ
巾で最大の転換期をむかえ、旧体制は崩壊へとむか
ン県ダシンチレン郡→ウランパートル。
い、市場経済のうずに巻き込まれていく。
首都ウランパートルを出発し、ハンガイ山脈の南
“ゴビ・プロジェク卜"の構想、が、おぼろげながら
麓を西へ、草原や砂漠、山岳地帯を越えて、ハンガ
頭に浮かんできたのは、さきのブルドの調査が終
イ山脈の東端にあるウリヤスタイを経て、ハンガイ
わって帰国した直後の 8
4年の末であるから、モンゴ
山脈の北麓に出て、それからは北麓を東へむか つて
ルにまだ民主化の兆しがあらわれていない時期から、
すすみ、ウランパートルに戻っている。
この構想はねられてきたことになる。
この調査旅行では 、モン ゴルの基本的地帯である
草原、森林、 山岳、砂漠、あるいは川の流域や湖畔
1. 本格的な準備へ
1
9
8
6年の夏には、ブルドを再訪し、 3週間ほど調
など各地で営まれている遊牧の多種多彩な形態や、
遊牧民たちの暮らしの多様性 を観察することができ
査をしている 。そして、 1
98
8年 9月から翌年の 9月
た。 この予備調査は、その後の本調査において、定
までの一年間、モンゴルに滞在することになり、こ
点調査地での遊牧の実態を絶えず相対化することを
の期間に“ゴビ ・プロジェクト"の構想、は、その実
可能にし、各地の遊牧の特質をとらえる上で大いに
人間文化・
9
ある“遊牧地域論"の 生成過程
地図 E
定点調査地波
パヤンホンゴル1,1
パーツァガーン郡
立ム三豆ζ E
a
並ι
立と量
①第 1:
地区
②第 5地区
ダJ
レ地区
ヱ
墨
主Z
ゴピ研究所
f
6)川ヤングライ1!K
③アルタイ村
@ ツエルグJレ村
役に立った。
パヤン・ ナラン地区
91年夏の第二次調査、 92年夏の第三次調査をふま
さきに触れたように、私有家畜の制限が撤廃され、
え、さらに、 9
2年秋から 93年秋までの一年間の越冬
生産請負制が実施されたのは、 1988年であった。そ
住込み調査に至る調査活動をおこなってきた。また、
のため、この調査旅行巾に、たえず各地で観察され
この問、毎年小グループによる冬期の調査もおこ
たことは、遊牧民が集団化経営ネグデルの家畜に対
なっている。
する関心よりも、私有家畜に関心がむけられ、私有
参加した研究分野は広範囲にわたり、毎年次、日 -
家畜が次第に増加の傾向をたどりはじめたことであ
モ双方合わせて 60名を越える専門家が参加してい
る。そして、旧ネグデル体制内という限界はあった
る。この問、調査に参加した研究分野は、以下の通
ものの、その体制内でなんとか遊牧民たち自身の新
りである。
しい生産形態を模索しようという動きが、各地で見
社会研究(遊牧地域論 ・歴史学 ・文化人類学・経
られたことであった。ネグデル 3
0年間の旧体制から
済学)、医療 ・公衆衛生学、気象 ・砂漠環境論、土壌
次の時代への移行現象をつぶさに観察する機会を得
学、水利用学、植物 ・動物学、牧地・牧草学、飼料
たのである。このことによって、遊牧の基礎過程へ
学、畜産資源学、家畜栄養学、獣医学、乳加工 ・食
の歴史分析のための手がかりがつかめたと同時に、そ
品加工、羊毛加工・染織工芸、生薬・植物化学、太
の後の“ゴビ・プロジェクト"調査の目標と計画を具
陽光発電・風力発電、通信工学、地域活動家。
体的に立案し、調査内容を深める上でも大いに役に
立った。
2ヵ月にわたる広域の予備調査が終わり、 8
9年 8
月末ウランパートルに戻ると、 M.ダシ議長からさ
調査対象地域は、当初はパヤンホンゴル県とウム
ヌゴビ県で、これは九州と北海道を合わせた面積の
ほぼ 2倍にあたる。草原と砂漠と山岳からなる広大
な地域である。ジープとトラックで移動し、テント
きの「“コ。ビ・プロジェクト"に関する意見書 ・計画
を張って野営しながら、地域社会と自然を相手に総
書」を承認し推進する旨の回答を得た。ただちに同
合的に調査するというかなりハードな仕事であった。
案は、国家科学技術高等教育委員会から、モンゴル
調査をかさねながら、調査の対象地域をしぼり込
政府閣僚会議に提出され、正式に承認されることに
んでいく方法をとり、第一次調査の結果、バヤンホ
なった。こうして、 1990年夏から“ゴビ ・プロジェ
ンゴル県およびウムヌゴビ県の巾から、定点調査地
クト"は、バヤンホンゴル県を主要な調査対象地域
域に次の 6ヵ所を選定することになった。
に選定し、調査を実施することになったのである。
パヤンホンゴル県
パーツァガーン郡
2 調査の概要
さきに触れたように、“ゴビ ・プ ロジェ クト"調査
は
、 1
989年の予備調査を経て、 90年夏の第一次調査 、
1
0 ・人間文化
ボグド郡
① 第 1地区
③アルタイ 村
② 第 2地区
④ツェルゲル村
ウムヌゴビ県
ある“遊牧地域論"の生成過程
⑤ボルガン郡
⑥パヤンダライ郡
2
5家族。アルタイ 山中に冬営地があり、ここから
北へハンガイ 地方の夏営地まで 1
5
0キロにおよぶ移
動をおこなう。長距離移動型の遊牧形態である。
(1)定点調査地域の概要
①パーツァガーン郡第 I地区のダラントゥルー
集落
アルタイ山中に位置し、北側と南側を東西に走る
民主化の風潮を受けて、ここでもこの集団は、ネ
グデルとの問で家畜賃貸契約を結んで、新しい経営
形態をっくり出している。この集団には、共同の家
畜小犀や羊毛加工工場や共同所有の家畜なと、徐々
山並が連なっている。この二つの山並の聞には泉が
に共同ファンドを蓄積してきている。また、急病や、
あり、比較的濃い緑の牧地が広がっている。この山
雪害、干ばつなど災害時を念頭において、 日常ふだ
間に夕、ラントゥルーの集落の夏営地がある。冬営地
んから相互扶助の関係を密にしている。セムネ一氏
は北部の 山中にあり、短距離移動型で、ある。
8戸
。 1
8戸は自然に発生した
この集落の家族数は 1
の長女の夫がウランパートルから U ターンしたり、
近辺の家族がこの集団に加入するなど、ここ一、 二
集落で、ネグデルとはそれぞれの家族が個々に、家
年間に急激に戸数が増加している。近い将来には、
畜賃貸契約(民主化への移行期にあらわれた制度)
三年制の小学校分校をこの集団内に開校する計画を
によって結ぼれている。羊毛刈り、井戸 ・家畜小療
立てている。
の建設等では、共同労働がみられるが、ゆるやかな
この集団は、遊牧民の巾から自然に再生してきた
共同が特徴で、ネグデルの第 l地区長の直接の管轄
伝統的遊牧共同体ホタ ・アイルを基礎に、その上位
下にある。
の共同組織として成立しているものであるが、遊牧
0キロ離
この集落は郡の中心地からは、山を越え 5
民の主体形成をめざした共同組織の事例として、こ
れていて、郡の辺境にあって孤立している。ゴビ地
この自然条件とこの地域の歴史的背景を十分に考察
域では一般的現象といわれている女系家族(夫のい
しながら、将来へのその可能性に注目していきたい。
ない家族形態)が多くみられる 。山あり、 川あり、泉
あり、草原 ・砂漠ありで、自然条件からして地域社
③ ボグド郡のアルタイ村
会のあり方をさぐる上で、格好の調査地域である 。
あとで触れる“ボグド郡モデル地域構想"の中で、
アラクチャ一家、ミャグマルジャブ家、パーサン
重要な地域になっている。ここでは省略し 、後述す
家等数家族には、かなり長い日数お世話になり、強
る
。
烈な印象を受けている。イルー ・ゲル(母屋ゲルの
そばに建てられる離れゲル)は、さながら乳加工場
の観を呈していて、伝統的手工芸が全般的に衰退し
ている今日でもなお、乳加工の分野に限つては伝統
④ボグド郡のツェルゲル村
“ボグド郡モデル地域構想"の巾でも詳述するの
で、ここでは省略する。
の技はまだまだ生きながらえているという印象を受
5
0歳)からは、自然に
けた。とくにバーサンさん (
⑤ ポルガン郡のオアシスとダル地区
融け合って生きている人間の人生観・世界観を煩問
ウムヌゴビ県の巾央部に横たわるアルタイ山脈の
見ることができた。ダラントゥルーの人々からは、
支脈ゴルパンサイハン山地の北側に広がる広大な草
私たちとは別の生き方を発見した思いである。
5リット
原・砂漠地帯。この砂漠の真ん巾に 一秒間 1
現地のネグデルの指導者たちは、このダラントゥ
ルの清水が湧き出る泉があり、オアシスを形成して
ルーの集落が、貧しいということを再三言うのであ
いる 。このオアシスに耕地が広がり、郡役所・病院・
るが、同じゴビ地方の他の地域と較べても、そのよ
学校・砂漠牧畜研究所があり、砂漠の巾の都市萌芽
うには恩われなか ったのはなぜなのか、その理由を
を形成している。このオアシス以外にも郡内には
もう少し時間をかけて調査する必要がある。
ー カ所ほど、かなり良好な泉があり、農耕がおこな
この集落で、自然に発生しつつある共同労働の側
面に注目し、新しい共同体の可能性を探ることが、
このダラントゥルーでは大切である。
われている。
砂漠牧畜研究所は、砂漠の巾にあ って劣悪な条件
にもかかわらず、ここの若い所員は、熱心に研究に
励んでいる。この研究所は、現在、ヤギ・ラクダの
②パーツァガーン郡第 5地区のセムネー集団
品衛改良の研究部門が巾心になっているが、牧畜部
1
人間文化 ・ 1
ある“遊牧地域論"の生成過程
復活したオナガニ ・
ウルス(馬乳の初搾りの
儀式)。初搾りの罵乳を桶に入れて、杓子で
まきながら罵に乗って練り歩く若者たち。
門を拡充し、地域研究部門を増設するなどして、将
来、バヤンホンゴル県ボグド郡に計画している“国
際砂漠遊牧地域研究センター"のもう一つの拠点と
して期待しているロ
郡東部には 、ダル地区 があり、半砂漠短距離移動
型の遊牧が、ここではおこなわれている。モータ一
井戸を拠点に、四季の営地が散在している。モンゴ
ルの砂漠遊牧の典型のーっとして、この地区は有望
である。 91年春 、ネグデルから単独で離脱しようと
した馬聞いシャラブドルジ (
2
8歳)の家族、明るい
雰囲気の 1
2人の子供がいるラクダ飼いのホーシャン
(
4
0歳)の家族を知り、この地域がようやく見えてき
た気がする。
ボルガン郡は、政府の私有化法案の決定にそって 、
全面的な私有化への準備をすすめていた。私有化郡
委員会は、ネグデル資産の評価、ネグデル組合員の
の後の追跡調査が必要である。
確定作業をすすめ、 91年 8月末にはネグデル総会が
ロブサンシャラブの集団とは別に、この山麓一帯
開かれ、私有化が決議され、ネグデルは郡から消滅
には、ボヤンフ一家を巾心に、 1
0数家族からなるも
した。ここでも、上からの性急な改革が、遊牧民た
う一つのまとまりがある。オナガニ ・ウルス(馬乳
ちの理解が不十分なまま強行された。その後の状況
の初搾りの祭事)がボヤンフ一家でおこなわれてい
を十分に調査する必要がある。
た。ゴルパンサイハン 山麓の西へ寄った緑豊かな夏
営地。篤飼いボヤンフ一家でのこの祭事にあつまっ
⑥バヤンダライ郡のバヤン地区とナラン地区
てきた人びとの様子から、たしかにここにも、もう
ウムヌゴビ県ゴルバンサイハン山脈の南部へ広が
一つの自然な地域共同体が、徐々に復活しつつある
る広大な砂漠地帯で、ゴルパンサイハン山麓沿いに
ことがうかがわれた。自然の恵みへの感謝と豊穣を
良好な牧地が展開している。この山麓沿いにパヤン
祈る敬度な心を素直に儀式化したこの行事は、たし
地区がある。
かに人びとを固く結びつける粋となっている。都会
夏営地は 、 この山麓地帯であり、春・冬営地の大
では望みようもない遊牧民独自の文化がそこにはあ
部分は 山巾 にある。 山麓か ら南へ下ったところに良
る。この儀式を遂行する馬上の若者たちは、いつも
好な泉があり、そこに地区の中心地がある。民主化
よりも勇ましく誇らしげである。この光景を地上か
の風潮の巾で、最近ここにラマ寺院が復活した。口
ら見上げる幼い子供たちの輝く目、その表情にも、
ブサンシャラブ家を 巾心に、 1
5戸ほどの自然発生的
やがて自分たちが担うであろうこの役割への期待が
な共同労働によって結ぼれる集団があり、ゆるやか
紡例としている。都市にはないまったく別の価値に
な地域共同体を形成している。このなかにはブブ一
もとづく生産と生活の形をつくりあげ、それによっ
家のアーゲン卜(日常必需品の取扱庖)があり、市
て独自の幸せの体系をきずきあげる可能性。このオ
場経済への移行にそなえて、トラクターを購入して、
ナガ二 ・ウルスの光景に 、現代都市文明にはない、遊
この地域の流通を担おうとしていた。
牧社会独自の発展の道の可能性を垣間見る思いがし
トゥムルパートル (
2
5歳)は、民主化運動の高揚
た。この可能性の追求、これがこの“ゴビ ・プロジェ
期に入党した民主党の党員。ウランパートルから U
クト"の最大にして究極のテーマでなければならな
ターンした遊牧民で、彼は、友人のパット トゥムル
し
ユ
。
(
2
7歳)やその妹ツエツェクデルゲル (
2
6歳)を民
ゴルパンサイハン山の南麓のこのパヤン地区から
主党員に勧誘するなど、当時としては、遊牧地域で
南へ数十キロ先の砂漠の中に、清水が湧き出る泉が
は珍しい動きが見られた。彼ははっきりした自分の
ある。ここがナラン地区の 中心地である。ここでは、
考えをもっているようで、この地域社会はこうした
泉の水をひいて農耕がおこなわれている。さらに南
若者たちによってどのような動きを見せるのか、そ
西へゆくと、ダリジャー (
7
0歳)の家族がある。こ
1
2 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
の地方では有名な銀細工師で、息子のイデルツォク
する 。そのための基礎調査およびそれにもとづく実
(
2
5歳)とモンゴルフン(16歳)は、幼少のころか
現への可能性を追求する。
ら父親の仕事を目の当りにして合 ってきた。この息
しては、さきに触れたセムネー集団、ダラントゥ
子一人は、父親の技を継承し、木工、石工の仕事に
ル一、アルタイ村、ツェルゲル村、夕、
ル地区、パヤ
も励んでいた。隣りの郡の山へ石材を採りに数十キ
ン地区とナラン地区の六つの定点調査地域である 。
ロの道のりを馬でゆき、それを素材に石を刻み、ま
た木材を手に入れては馬頭琴の製作を手がけて いた。
地域にあるものはとにかく創意工夫して活用してい
当面の調査対象地域と
このサブ・プロジェクトの主要な調査・研究項目
は、次のようなものである 。
a) 目的に適 った対象地域の地図の作成
b
) 家畜
こうという精神が、この二人の息子にはみなぎ って
群の構造と放牧技術 c) 四季の遊牧循環と牧地の配
いる 。自分でものを創り出していく、これが今のモ
) 家族と家族経営の実態 e) 伝統的遊牧共
分利用 d
ンゴルに 一番必要とされていることなのである。こ
同体ホタ ・アイルの実態f) 上位共同体サーハルト
の芽を大切にして、このパヤンとナランの 一つの地
とヌフルルルの実態 g) 遊牧民協同組合ホルショー
域に、地 i
或再生の手がかりをつかみたいと思う。後
の研究 h)伝統的手工芸と 地域の可能性 i)教育 ・
文
述の「手工業拠点施設構想サブ ・プロジェクト」は、
化 ・医療・厚生など公共的機能と地域形成 i) 流通
この具体的な事例から発想されたものである 。
パヤンダライ郡のネグデルも、政府の家畜私有化
における遊牧民の主体性の確立 k) 地方行政と小
「地域 J
の方針を受けて、 91年 8月末にはネグデル総会で決
議され、全面的な私有化の方向へ踏み出した。ここ
でも、上からの行政主導型の改革が強行されようと
していた。も っと、遊牧民の巾にある自然な動きや
②手工芸・手工業拠点施設のためのサブ-プロ
ジェクト
地域自立への手がかりとして、家族内および地域
新しい萌芽形態に注目し、調査研究を重ねて、遊牧
内に伝統的な手工芸 ・手工業の再生をはかる。その
民たちの自主性を汲み上げて、ゆ っくりと地域に根
ためには、伝統技術の実態調査、およびその再生と
ざした総合的な方法を、遊牧民自身がさぐりながら
伝統技術の改良の可能性をさぐる。
試行錯誤をつづけてゆくべきである 。
木工、銀工、石工、染色工芸、紡糸、織工、革工、
住居ゲル工法、陶工、草工、果実加工、乳加工、食
(
2)
サブ ・プロジェク トの設定
肉加工等の分野が、当面の課題となる 。
“ゴビ・プロジェクト"の調査は、問題が広範囲に
1年の第二次調査からは、とりあえず
わたるので、 9
課題を大きく五つに分類し、そのそれぞれをサブ・
③資源利用のためのサブ・プロジェクト
地域の自然を最大限に活用し、地域の特色を生か
プロジェクトとして位置づけ、調査の目標とその専
した特産品の創造をめざす。また、巾でも重要なの
門性をより明確にすることにした。
は、水資源とエネルギー資源であるが、地域の自然
さきに説明した六つの定点調査地域の設定は、こ
と調和のとれた“小さな技術"の開発が求められて
れら地域に調査を集中させるためなのであるが、将
いる 。 この場合、地域の生産力水準に見合 ったコス
来は、この巾から、さらにモンゴルのゴビ地方(モ
トが肝要で、このことを無視した一時的な“援助"に
ンゴルの全国土の南半分)の地域モデルとなるべき
よる解決は、ただちに地域の 自立性を損う結果にな
「地域」を選定し、そこにさらに調査を集 中させ、“モ
ることは明らかである 。地域にとって持続性のある
デル地域構想"を具体化しなければならない。この
開発とは一体何であるかといった難解な課題を、克
ための調査 ・研究は、“ゴビ ・プロジェクト"調査全
服できるのかどうか、大きな問題である。
体の巾でも、根幹をなすものであるので、サブ・プ
ロジェクトの第一番目に位置づけ、これを含む五つ
a)太陽光発電 b)風力発電 c)地下水資源 d)生
活燃料 e) 生薬 ・果実 ・野草活用等々
のサブ ・プロジェクトを設定した。
④オロック湖保全・南北ライン構想、のためのサ
①モデル地域構想、のためのサブ ・プロジェクト
砂漠 ・
山岳・草原における 2
1世紀の地域社会のあ
り方を模索し、地域づくりのモデルを具体的に提示
ブ ・プロジェクト
主要調査対象地域ボグド郡を巾核に据えながら、
ハヤンホンゴル県南部のエヒンゴル・オアシス
砂
人間文化 ・ 1
3
ある 遊牧地域論"の生成過程
H
漠恐竜の谷
ボグド山頂高原ーオロック糊ーチフ
ル ウ ブ ス ・ス タ ン ツ
し、恐竜の谷では太古の歴史をしのび地球を考え、
シャルガル
ボグド山頂高原では 、ヤクの集落を訪問するなど、
県北森林地帯に至る南北ラインを基
21世紀にむけて、新しいタイプの逗留型ツーリズム
軸に、バヤンホンゴル県全域を視野に入れた 2
1世紀
自然を汚さず、地域住民の主体性にもとづく 、住
の新しい広域づくりをめざす。そのための基礎調
民との交流を基調とする、住民のためになるエコ
査・研究である。
ツーリズム ーを模索し提示することになるであろう。
ジョー ト源泉
トゥイン 川
中国国境に接する県南部の砂漠地帯からオアシス
へ、さらに 中部に横たわる標高三千数百メートル級
の高 山高原、そこから下ってオロック湖から卜ゥイ
ン川流域へと草原地帯を経て、県 北部の森林 ・温泉
地帯に至る 5
50キロにおよぶ大広域を対象にする。
@オアシス都市(ボルガン)構想のためのサブ ・
プロジェクト
これも遠い将来の長期展望に立つものであるが、
前述したウムヌゴビ県ボルガン郡のオアシスの泉
この南北ラインを結ぶ広域では、砂漠 ・高山 ・湖・
(
15リットル/秒の清水が湧き 出 る)を活用 して、既
川・ 草原 ・森林 をめぐる 自然の生態系のマクロの実
設の砂漠牧畜研究所などを基礎に、研究都市および
態を把握することが可能になる。 地球環境の 問題も 、
畜産加工の拠点、農耕地 の拡充による農作物の供給
こうした術徴 的 視野の 中で
、 一層明瞭に浮かびあ
地 として、砂漠の 巾 に美しいオアシス都市の建設の
がってくる。さらに、この広域に散在する個々の「地
可能性を調査 ・研究する。
域」に生きる遊牧民の生産と生活の実態も、マクロ
さきのオロック 湖 南北ライン構想とボグド山頂高
的に把握されよう o この広域づくりは、かなり遠い
原からボルガン ・オアシス都市 を結ぶ東西ラインを
将来の長期展望のもとに考えられるものであるが、
クロスさせることによって 、一層多面的で重層 的な
今後、君.~内各 地 にあらわれてくる 個 々の地域モデル
広域のゴビ広域構想、を 提示する可能性が出てくるで
構想は 、こうした広域次元のもとに位置づけられて
あろう。
研究される必要がある。
こうした“オロック湖保全 ・南北ライン"および
広大な砂漠に固まれた標高 3
9
5
0メートルの西ボグ
“ボルガンのオアシス都市"の二つの広域構想は、当
ド山頂には天文台をおき 、下界の遊牧砂漠地帯で、は
面課題となっている郡内各地 にあらわれる 地域モデ
満天の星空の下、野営しながらのアマチュア天文観
ル構想とあいまって 、ゴヒ、地方の将来への展望と夢
測が考えられ、あるときは、砂漠の遊牧生活を体験
が、より確実な道筋として 提示されることになり、
これからの調査 ・研究の積み重ねによって、一層現
実性を帯びたものになっていくはずである。
地園田
3.“ホルショー構想"の成立
今ふれたように、前項 の五つのサブ・プロジェク
トは、 1
9
91年夏の第二次調査の過程で提示されたも
のであるが、 9
2年夏の第三次調査の時点では、定点
調査地域の調査がすすむにつれて、大きく方針を変
更する必要にせまられていた。パヤンホンゴル県と
ウムヌゴビ県という二県にわたるとてつもなく広大
な地域に設定された六つの定点調査地域にカを分散
させるのではなく、この定点調査から得られた成果
の上に立って、この 巾から一つのまとまりのある特
定の「地域」を設定し、そこに先のサブ・プ ロジェ
グトがそれぞれ掲げる目標と課題にむかつて調査を
集 中 させ 、一つのまとまりのある「地域 Jをとらえ、
その内部のメカニズムを重視しながら調査する方針
へと次第に移行していった。
方針がこのように移行 していった理由は、定点調
1
4 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の 生成過程
査地域が広大な地域に分散しているという物理的な
(
1)
“ホルショー"の構造とその形成過程
理由もさることながら、 調査 を 重 ね て い く に し た
ホルショーの構造の最下位の一次元にあらわれる最
がって、 地域づくりの「主体形成 Jの問題が、当時
小の基礎単位は、アルディン ・アジ ・アホイタン(独
の地域状況から見て、まず第一に掲げられなければ
立遊牧民家族経営)である。その上位の一次元にあら
ならない最重要課題であるということが、はっきり
われる共同体組織がホタ ・アイル(遊牧共同体)であ
してきたからである。
またもう一つの重要な理 由として、次のような点
り、さらにその上位の三次元にヌフルルル(隣保共同
体)があらわれ
、 さらにまたその上位の四次元にホル
があった。世界的視野から見ても、農牧業の大規模
ショー(遊牧民協同組合)があらわれる 。ホルショー
経営の行き詰まりは、明確になりつつあり、農牧業
は、こうした構造をもって成立する 。
における家族経営の優れた面が再評価されようとし
このホルショーは、形成過程の面から見ても基本
ているとき、モンゴルでは、まさに遊牧の集団化経
的 には、アルディン・アジ ・アホイタン→ホタ ・ア
営ネグデルの解体がすすみ、私有家畜を基盤にした、
イル→ヌフルルル→ホルショーという順序で形成さ
自立した遊牧民家族経営が大勢を占める状況にあっ
れていくのであるが、以下この形成過程の順にした
た。こうしたとき、農牧業における家族経営のもつ
がって、それぞれの次元にあらわれる共同体組織を
重要性についての深い理解とともに、この家族経営
順次説明し、ホルショーの構造を明らかにしていく 。
の優れた面 とその限界性の両面を十分に 認識した上
で、この長所を伸ばし、短所を補完し得る、自然性
アルヂィン ・アジ・アボイタン
(
1
唱
すi
i
捺牧民家依終営)
にもとづく、優れた上位の共同組織を構想し、地域
自立した遊牧民家族経営としての家族経営体は、
の未来構想、を明雄に描き 出すことが急務になってき
歴史上その盛衰のさまざまな形をとりながらも、長
たからである。
い時代にわたって存続してきたものであり、 これか
こうしたモンゴルの時代の要請に応えて提起され
らも長期にわたって存続していく性格のものである。
たのが、“ホルショー構想"であった。この構想は、
人聞が未発達で人間の諸能力が全面的に開花され
第三次調査の直後の 1
9
9
2年 8月 2
4日に、ウランパー
ていない段階にあっては、とくにこの独立遊牧民家
トルで開催された“ゴビ ・プロジェクト"のセミナー
族経営は 、人間の諸能力を開発するすぐれた“学校"
で、それまでの三次にわたる現地調査の総括として
の役割を果たす。ここには、すべての要素が含まれ
提起したものである。
ている。生活のあらゆる 知恵、遊牧生産の総合的な
調査の 中で当時、遊牧の集団化経営ネグデルの解
技術体系、共 同労働のシステム、経営の形態や方法、
体の巾から、アルディン ・アジ ・アホイタン(自立
家事労働、手工芸 ・手工業のさまざまな分野、遊牧
した遊牧民家族経営)があらわれ、伝統的な遊牧共
文化・芸術の萌芽形態、医療 、娯楽、スポーツ福利
同体ホタ ・アイルが自然に再生しつつある現象に注
厚生、教育の諸体 系、相互扶助 の諸形態等々が未分
目し、この研究に集巾してい ったのも、こうした状
化のままつまっている。こ こには、人間の発達を促
況が背景にあったからである。
すすべての要素が萌芽のまま凝縮されている。それ
アルディン ・アジ ・アホイタン(自立した遊牧民
は、家族というものが本来“いのち"の再生産と“も
家族経営)→ホタ・アイル(伝統的遊牧共同体)→
の"の再生産の“場"であり、いまだこの二つの“場"
ヌフルルル(伝統的隣保共同体)→ホルショー(遊
が未分離のまま重なり合っているという性格による
牧民協同組合)の過程、つまり伝統的共同体の再生
ものであるからである。
過程から新しいタイフ。
の上位の共同組織への止揚過
基本的生産手段である家畜が、家族の私有である
程を遊牧民たちの自主的 な力によ って 、下から時間
ことから、家族経営の自立性が高まり、労働に対す
をかけて自然性的に熟成していくこと。これをテコ
る経済的刺激、家族経営全体に対する責任!惑が高ま
にして「地域」形成を構想すること。このことなし
り、家族構成員の経営への創造的参加が可能になる。
には、モンゴルの経済の再建も、民主主義の課題も
家族を基盤にしていることによって、親子、兄弟愛
根本的には達成されることはないこと。これが数次
に支えられた緊密な人間的協力関係を基礎に、相互
にわたる調査から得られた私たちの結論であった。
の人間理解が深まる。この良質な人間関係は、家族
の枠を越えて拡大 ・発展していく可能性を卒んでい
る。 こうしたアルディン ・アジ ・アホイタン(独立
人間文化 ・ 1
5
ある“遊牧地威論"の生成過程
遊牧民家族経営)が基礎単位となって、ホタ ・
アイル、
ヌフルルル、ホルショーと上位の共同組織が形づくら
れてしべ。
アルディン ・アジ ・アホイタンは、ネグデル時代
とはちがって五畜(ヒツジ ・ヤギ ・ウマ ・ウシ・ラ
クダ)を放牧する。したがって、多種多様な畜産物
が家族の手元に確保され、こうした畜産原料が素材
となって、手工芸 ・手工業の発達を促す。ここで、人
びとが物を“手づくり"でつくることによって、物
の交流を促すだけでなく、人の交流、したがって心
の交流と心の豊かさを地域にもたらし、色彩豊かな地
域形成の重要な契機になる。羊毛 ・ヤギカシミヤ・ラ
ホタ
・ アイルの家族ゲル。夕 刻、ヤギ・ヒツジを追 っ
て家路を急く。
クダ毛を原料に、“紡ぐ、編む、織る"という行為、人
びとが“使い、着る"という行為、そしてその他の畜
自然性的に発生している。遊牧共同体の伝統の復活で
産原料や地域の自然のあらゆるものを原料にして、さ
ある。
まざまな分野への手工芸 ・
手工業が拡延していく。こ
この復活は、ネグデル時代とはちがって一家族当
のことによって地域の自給性は高められ、地域間の交
りの私有家畜が増人ーし、ほとんどの家族が五畜を全
流の基盤もっくりあげられていく。
部放牧することにな ったことと関連している。ネグ
アルディン ・アジ ・アホイタンは、血縁集団とし
デル解体後あらわれたアルディン ・アジ ・アホイタ
ての家族であるということ、遊牧の基本的生産手段
ン同士、あるいはホビツアート ・カンパニの成員家
である家畜が、家族の私的所有であるということ、
族同士、あるいはアルディン ・アジ ・アホイタンと
“いのち"の再生産の“場"と“もの"の再生産の“場"
ホビツアート ・カンパニの成員家族との間の組み合
が重なり 一致しているということ、この三つの特性
わせによるホタ・アイルの形成がみられた。ホビ
によって、ホルショ一、すなわち地域社会形成の核
ツアート ・カンパニとの賃貸契約による家畜を含み
となり、重要な最小基礎単位になる。
ながらも、基本的には私有家畜を基盤にした自立し
ネグデルが解体し、ホビツアー ト
・ カンパこが
た家族経営が、このホタ・アイルの構成基礎単位に
1
9
9
2年の 1月に全国的に発生したが、その後の経過
なっていることに注目すべきである。なぜなら、郡
を観察すると、この独立遊牧民家族経営アルディ
規模で全家畜頭数の 50~70% が私有家畜になった状
ン・アジ ・アホイタンが急速に増大し、現在では大
況では、ホビツ アート・カンパニの家畜を賃貸契約
勢を占めることになった。こうした状況の 巾で、ア
によって副業的に位置づけて、ホビツアート・カン
ルディン・アジ ・アホイタンがもっ歴史的意義と、そ
パニをむしろ利用している事情があったからであ
の優れた側面を十分に認識し、このアルディ ン ・ア
る。ホビツアート・カンパニの成員家族経営をアル
ジ・アホイタンを土台にして、その上位にどのよう
ディン ・アジ・アホイタンと規定してもおかしくな
な共同体組織が可能なのかを研究することが、今最
9
9
2年の夏の段階でもあらわれていた。
い状況が、 1
も大切な課題として要請されている。
ホタ・アイル(~傍牧共同体)
市場経済への移行直後に、自然に再生しつつある
ホタ ・アイルの構成家族は、近親の血縁関係にあ
る家族から、親密な友人の家族に至るまで、その組
み合わせの選択は、遊牧民の自主性にもとづき、極
ホタ・アイルの形態に注目したい。これは、モ ンゴ
めて自由自在である。決して上部から組み合わせを
ルの遊牧史上およそ 5
0
0年間の歴史を有する伝統的
強制されてできるものではない。ホタ ・アイルの結
な遊牧共同体である。 地域によっては草生量が少な
合 ・離散は、季節によっても比較的自 由自在で、こ
いこと、家族の労働力、つまり働き手の数が比較的
のことをはじめから認めたものでなければならない。
アルデ、ィン ・アジ ・アホイタンからホタ・アイル
多いことなどから、ホタ ・アイルの形成が見られな
いで、一家族が単独で孤立して広大な地域に散在し
への形成過程は、それぞれの家族の内部事情や他家
ている場合もみられるが、ネグデルの解体と家畜の
族との関係など、極めて微妙繊細で、白然性的なも
私有化の実施にともなって、ホタ ・ア イルの形成が
のであること、これを行政的指導によって強制され
1
6 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の 生成過程
るべき性格のものではないことを銘記すべきである。
して、ヌフルルルはあらわれてくる。 一つのまとまり
このことは、過去の遊牧の集団化の歴史経験からも学
ある自然と地域を占める 5~6 個のホタ ・ アイルから
ぶべき大切な教訓である。
ホタ・アイルの内部では、放牧 ・搾乳・草刈・家
なるゆるやかな共同組織である。ホタ ・
アイル内部の
共同労働やその内部に萌芽的に形成される共同ファン
畜小尾の建設 ・家畜小尾の畜糞の清掃・フェルトの
ドでは解決不可能な問題を解決するものとして、ヌフ
製造・大型家畜の屠殺など、一家族では手に負えな
ルルルは形成されてくる。より遠隔地からの生活必需
い労働の共同が特徴であるが、生産活動のみならず、
品の購入 ・
生産物販売のための運搬手段や、より発達
家事労働など生活全般にわたる相互扶助が根底にあ
した手工業的工房の出現を可能にする。その結果、家
る
。
族内部にすでにあらわれてきた手工芸 ・
手工業的要素
四季にわたって組み合わせの結合が強い場合には、
このホタ・アイルを構成する家族内部に手工芸・手
と、ヌフルルル内手工業的工房は、有機的に連携して、
効果的に機能していくにちがいない。
工業の要素が発達する条件が生まれてくる。複数の
ヌフルルル形成の過程において、行政は、ヌフルル
家族が集合していることによって、年齢や男女の差
ル内の共同ファンドの強化育成のための財政支援を講
などから生ずる労働の質の多様性は、労働がホタ・
じ、ヌフルルル育成の具体的政策をもっ必要があるロ
ホルシ守一(静牧民協同組合)
アイルの形成によって斡減されることとあいまって、
家族内部およびホタ・アイル内部に手工芸・手工業
の発達を促す。
ホルショーは、ヌフルルルの力量の限界を補完す
るものとして、さらに 5~6 個のヌフルルルから形
アルディン・アジ・アホイタンの内部に未分化の
成される上位の共同組織、すなわち新しいタイプの
まま潜在していた優れた社会的機能や要素の萌芽が、
遊牧民協同組合である。この組織の構造の最底辺部
ホタ・アイルという上位の共同組織の巾ではじめて
をなすアルディン・アジ ・アホイタン独立遊牧民家
条件を得て、その開花がはじまるのである。つまり、
族経営の重要な生産手段である家畜が、これら遊牧
最初にホタ ・アイルによって、家族内経営が社会性
民家族の私有である点に、旧来の集団化経営ネグデ
を帯び、血縁的集団としての家族がもっ優れた特性
ルとの根本的なちがいがある。このことに留意する
(他人への思いやりとか無償の奉仕の精神であるとか
必要があろう。
相互扶助の精神など・ ・
・ )が、ヌフルルル、ホル
ヌフルルルの形成過程と同じく、ホルショーの形
ショー、・・・へと広範な地域社会に拡延されてゆく
成過程は意識的・自覚的なものであり、この地域に
可能性を秘めている。
相当の歴史的経験の蓄積があり、優れた指導的人材
また一方、一年間の四季を通じて、家族の組み合
わせが安定している強固なホタ・アイルでは、その
があらわれてくることが前提となる。また、その人
材の養成が必要になってくる。
内部に共同ファンドが蓄積され形成される可能性が
ホルショー内部の共同ファンドの形成は、ヌフル
ある。この共同ファンドは、遊牧生産用具であった
ルルよりも蓄積が強化される条件があり、遠隔地と
り、生活必需品の購入や生産物の販売のための運搬
の生活必需品や飼料の購入、生産物の販売などの機
手段であったり、文化・厚生施設の要素であったり
能をになう機関がホルショー 内部に設けられ、ホル
する。しかしピホタ ・アイル内部の共同ファンドに
ショー内部で重要なものとして位置づけられる。私
は限界がある。ホタ ・アイルは、アルディン ・アジ・
有化にともなって現在新しくあらわれてきている郡
アホイタンという独立遊牧民家族経営の不足を補完
の私的商業機関が、独立遊牧民家族経営アルディ
し、その自立を助けるものとしてのみ存在している
ン・アジ・アホイタンと対立的に存在しているが、こ
からである。
ヌフルルル(隣保共同体)
利益のために本来機能すべきである。さらに、畜産
うした機関は 、ホルショー 内部にあって、遊牧民の
ヌフルルルの形成過程は、ホタ ・アイルのように
原料に付加価値をつけ、地域の自然を多面的に活用
自然性的なものではなく、かなり自覚性にもとづく
していくために、ホルショー内部に手工業的小工場
ものであり、その地域に経験の歴史的蓄積とすぐれ
がより強化されていくであろう。
た資質を備えた指導者的立場にある人材があらわれ
ホルショーにとって忘れられないものとして、不
てくることが必要である。ホタ・アイルの人的資源
意に襲ってくる雪害や干ばつなどの自然災害がある。
の脆弱さや、生産物の余剰 の限界を克服するものと
こうした災害から家畜と住民を守るために 、
干草など
人間文化・
1
7
ある“遊牧地域論"の生成過程
アルディン・アジアホイタン (
第 l次元)
(
5
'
虫立遊牧民家族経営)
ホ
タ・
アイル(第 2次元)
(遊牧共同体)
ヌフルルル(第 3次元〉
(隣保共同体)
-ru¥
一一
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¥
次¥
4り
I
三
明粘
一伺
1
I
V
B刷
シ食
υ
r
制暗
ホルシ ョーの悶粒構造
の備蓄や運搬手段の確保など 、
一家族の力では手に負
われる。これが基本である。
えない 問題にホルショーは対処しなければならない。
次に、ホタ ・アイルは、アルディン ・アジ ・アホ
ホルショーの共同の優位性は、こうした災害時にいか
イタンという独立した最小単位粒子がいくつかあつ
んなく発揮される。また、ホルショーの存在意義の大
まって、ホルショー構造の第二次元にあらわれる、
きな一つにこう した自然災害に対する問題がある。モ
いわば団粒組織である。この第二次元の団粒組織で
ンゴルの諺に“英雄は、一矢で射止められ、富豪は一
あるホタ ・アイルが、さらにいくつかあつまって、ホ
度の吹雪で没落する"とある。モンゴルの遊牧の歴史
ルショー構造の第三次元にあらわれる団粒組織を形
において、雪害や干ばつは周期的にくりかえされてき
成する。これがヌフルルルである。このヌフルルル
た。自然災害のおそろしさやそのすさまじさが語りつ
がさらにいくつかあつまって成立する団粒組織が、
づけられてきたのである。ほんとうは、「共 同
」 は、遊
遊牧民協同組合ホルショーである。ホタ・アイルや
牧民にとって死活の問題でもあるのだ。民主化のここ
ヌフルルルは、それぞれ比較的自立した独 自性を発
数年来、
モンゴルは大きな自然災害には見舞われてい
揮するが、その自立性は、ホルショーの存在によっ
ない。そのためもあって、家畜は増加の傾向にあり、そ
てはじめて保証される性格のものである。ホル
の上市場経済の賑わいの 中で、人びとは長い歴史の 巾
ショーの構造内部の第二次元・第三次元のそれぞれ
で練り あげられてきた先人たちの貴重な知恵を忘れて
のレベルで、ホタ ・アイルやヌフルルルが独自の個
しまったかのようである。遊牧社会における「共同」の
性ある活動を発揮することに よって、その結果、ホ
問題は、モンゴルの自然や遊牧の特殊性が故に 、
歴史
ルショーは、全体として、きわめて重層的で多面的
からも学ぶべき ことがおおいのである。こうした側面
な活動が展開されることになる。
からも「共 同」のあり方は 、十分に研究されなければ
ならないであろう。
土壌学によれば、砂のようにさらさらとした単粒
組織の土壌は、保水力が弱く、養分も蓄積できない
ホルショーの地域的規模は、平均的旧ネグデルのヘ
貧弱なものであるのに対して、因子粒組織の土壌は、
セックないしはブリガードの地域の広さに相当するも
その構造上、保水力もよく、空気も適度に含み、微
ので、かなり広い一つの 自然のまとまりをもった地域
生物の活動が活発で、さまざまな物質の要素の分解
の範囲になる。ホルショーは、地域社会として一つの
が促進され、その結果、柔らかでふかふかとした肥
まとまりをもった自立性の高いものになる。
沃な土壌になるといわれている。
ホルショーの構造の第一次元にあらわれる最初で
“ホルショー構想"で言う「地域 Jの構造は、先に
最小の基礎単位は、アルディン・アジ ・アホイタン
触れたように、アルディン ・アジ ・アホイタンを単
独立遊牧民家族経営である。このアルディン ・アジ・
粒として、ホタ ・アイルという団粒が形成され、そ
アホイタンは、私有家畜、私有家畜小屋、その他私
のホタ ・アイルが、また幾っか集まってつぎの次元
有の生産手段を基盤に独立した一個の家族経営体と
の団粒を形成してヌフルルルとなり、さらにこのヌ
して存在するから、国家調達や税は、この基礎単位
フルルルが幾つか集まって、つぎの次元の団粒を形
に課せられ、独立採算制をとる。破産するのも繁栄す
成してホルショーとなる。こうしてホルショーの構造
るのもすべてこの家族経営体の責任においておこな
は、
幾つもの次元からなる極めて重層 的な優れた団粒
1
8 -人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
になるが、ホルショーが遊牧民共同組合の基本単位組
組織になっている 。
団粒組織の土壌が、豊かで活性化 した肥沃な土壌
織である。
であるのと同様に、団粒組織からなるホルショーの
この郡連合は、ホルショーから上納される若干の
「地域」が、重層多重的な人間活動を活性化 し、さま
共同ファンドによって運営され、生産物、冬期用 の
ざまな創造性を汲みあげ¥その成果が蓄積さ れ、養
飼料、日常必需品等の共同購入、共同販売を 巾心に
分が貯えられ、より豊かなものになコていく可能性
遊牧 民の利益をは かる目 的で活動がおこなわれる。
をもっていることは、その構造 の性質から見ても理
この連合組織の活動のほとんどが、当面は流通をに
に適ったものとして鎖けるのである。
なうものであり、しかも初期の段階では、必要に応
遊牧の社会主義集団経営ネグデルの衰退の原因の
一つが、家族を一律に中央集権的に掌握しようとす
じてその都度おこなわれる 時限的な共同活動になろ
つ
。
る行政 的区画に よって成り立つ、その 単粒組織に
あった ことは、 疑いのないところである。 “ホル
(
2
)“
ホルショー"の意義
ショー構想"が、こうした歴史的経験からも学び
ホルショーは 、今述べたように、アルディン ・ア
とったものであることも 、ここ で付言しておきたい
ジ・アホイタン
と思う。
自然性的共同体組織が、このホルショー内部構造の
ホルショーは、その内部に、低学年制の分校、幼
ホタ ・アイ ル
ヌフルルルなどの
それぞれの次元にあって、重層的 ・自立的に機能し、
稚園、保育所、初級医療機関、文化・厚生施設など
その結果ホルショーすなわち「地域 J全体として、多
が設置され、教育 ・文化・ 福利厚生 ・医療などの公
次元で多様な活動が活性化し、それにともなってさ
共的機能が充実されてくるにしたがって、ホル
まざまな創造性 あふれる“小 さな技術"を絶え間な
ショーは 、こ の地域にあって、 地域発展の 中核的役
く生み出していく 。そのため 、自 然に対して は
、 き
割を果た しつつ、一つの まと まりある自立性と完結
め細やかな働きかけが可能になり、自然をむだなく
性の高い地域社会を形成 して いくことに なる 。
こうしたホルショーを中核に形成される地域社会
最大限に活用することになる。活動の分野も牧畜生
産のみならず 、手工芸 ・手工業の分野から、生活改
は、モン ゴルの広大で多様な自 然を、多種少量生産
良、さらには流通から教育 ・文化、福利厚生といっ
システム によ って活用し 、地域の自然の特性を 生か
た人間活動の幅広い豊かな展開が可能になる。
した多用で繊細な生産を 可能に するであろう。これ
今 日おこなわれている首都ウ ランパー トルでの民
は、自然と人間の調和を基本とする永続性をそ なえ
主化 は、きわめて形式的なものであり、民主主義の
た社会の発展を基礎から 保障するものになる。
ごく皮相な段階に とどまっている。むしろ、悪い方
こうした地域社会においては、地域の再生産シス
向にさえむかっている。人間を支え、 人間を育む「地
テムへの人びとの満足感、その自覚にもとづく安定
域」の根本的な改革と創造がない限り、経済の改革
した精神を基礎 に、高い倫理性に支えら れた新しい
も、政治の改革も、 表面的なも のに終わるであろう。
人間関係と新しい精神的秩序が再生される。こうし
モンゴルの経済の源泉は、まぎれもなく「地域」で
た巾で、新しい生産基盤にもとづく、新しい精神的
ある。また、民主主義の課題は 、究極において人格
伝統があらたに形づくられていくのである。
ここまでが、ホルショーの構造とその形成過程に
の変革の問題であり 、人格を育むものは 、人間 の生
活と生産の“場"である「地域」である。したがっ
ついてである。次に、このホルショーの連合組織に
て、この「地域 J をどう熟成させ るかが、すべてに
ついて若干触れておく。
かか っていると言わさ去るをえない。
ソミン ・ホルシ司ーニィ ・ホルボー
(ホル ショー郡津合)
家族の 巾で育 まれる親や子や兄弟の愛、これにも
とづく人間 と人間 との良質な 関係 、これがホタ・ア
ホルショーは、遊牧民協同組合の基本単位組織で
イルやヌフルルルやさらにはホルショーへと拡延さ
あるが、必要に応じて、郡の地域規模でホルショー
れ、地域社会の広がりの 巾で、 人間が鍛練され、人
の郡連合を結成し、ホルショー相互が協力関係を維
間性に深く 根ざ した人への思い遣りや相互尊重・ 相
持しつつ、大都市に対して 、
こ の郡連合が対抗し、ホ
互扶助の精神が培われていく。安定した“もの"の
ルショーを擁護していく 役割を果たす。この都連合
再生産ど‘いのち"の再生産の循環の巾に身をおき、そ
は、あくまでもゆるい連合組織であって 、くり かえし
の永続性を肌で感 じとり 、精神の充足!惑が自覚 されて
人間文化・ 1
9
ある“遊牧地域論"の 生成過程
はじめて「地域」の新しい精神的秩序が形成されてい
の心を駆り立てたものは 、「
協同の思想」によって自
く。地域形成は 、
経済再建のためにだけあるのではな
らのいのちとくらしを守ろうとする民衆の自衛意識
い。こうした地域の熟成の 巾から、都会にはない遊牧
であった。したがってホルショーの形成は、経済シ
地域独自の新しい生活スタイルと、民衆の文化と芸術
ステムの基礎過程の変化にともなう自然性的なもの
が生まれてくる。
と言うよりも、むしろ人間主体の自覚的意識の先行
今日のモンゴルの精神の荒廃は、こうした独自の
にもとづく高度な人間的営為であり、それだけにホ
精神や文化を育む地域社会の基盤を失い、それを新
ルショーの形成には困難が予想される。 1
9世紀の
たに再生し得ずにいることと関連している。今、モ
0世紀におい
「協同の思想」の先駆者たちの悲願は、 2
ンゴルにとって一番大切なことは、時間がかかって
ても無残にも打ちのめされ、 21
世紀へと大きな宿題
も、ゆっくりこの地域づくりから出発することであ
として引き継がれることになったのである。
る
。
企業の追求する私的利益と 、市民社会の公的利益
ここで提起されたアルディン ・アジ ・アホイタン
との黍離が人;きくなればなるほど、“もう一つの経
→ホタ ・アイル→ヌフルルル→ホルショーの形成過
済"の可能性にむけて、多くの試みがなされるのは
程が、この地域づくりのカギであることをここで再
避けられないことであり、それは歴史の哲理でもあ
確認しておきたいと思う。ここに提示したホル
る。むきだしの私的エゴがまかりとおるとき、資本
ショーの構造とその形成過程の基本モデルを、各地
主義内部に民衆の自衛組織、対抗勢力の台頭は必然
域の具体的な自然条件、歴史的条件や社会的条件に
の帰結ということになろう。
照らして、さらに調査研究し、各地域に適した地域
2
0世紀はもう残り少なくなった。現代世界は、あ
づくりの具体的な構想をつくること、そのための基
まりにも私的利益と公的利益の殺離が大きくなり、
礎研究をさらに深めていくことが、“ゴビ ・プロジェ
50年前の
解決不能の状態に陥りつつあるようだ。 1
クト"の最人'の課題である。これが、第三次調査ま
イギリスにおけるものとは違った意味で、今あらた
でに明らかにされてきたものの核心である。
すでにみてきたように、“ホルショーの団粒構造"
内部の各次元にあらわれるアルディン ・アジ ・アホ
に本格的な「協同の思想 jの到来の客観的条件が熟し
つつある。
ここで提起してきた“ホルショー構想"は、まさに
イタン→ホタ・アイル→ヌフルルル→ホルショーと
こうした世界の客観的状況と歴史的経験を背景に、
いった共同体組織は、現実には歴史的発展過程とし
モンゴルのコ手ビ ・遊牧地域において、先の前近代的
ても捉えられるものであるが、第三次元のヌフルル
なるものと、近代的なるものとの結合を試みようと
ルまでの共同体組織は、主として前近代においてき
するものなのである
わめて長期にわたって、ひたすら民衆の知恵と努力
の団粒構造"といった共 同体 の前近代的な伝統の基
o
つまり、それは“ホルショー
によって編み出され熟成されてきたところのもので
盤の上に「協同の思想 Jという 近代の成果を蘇らせ融
ある。これは、モンゴルの遊牧地域に限らず、基本
合させることによって、 21世紀にむけてあらたな
的には世界のいかなる 地域にも共通にあらわれる、
“地域構想"を模索しようとする試みである。これ
前近代における普遍的な現象であるといえよう。
は、特殊な地域の特殊なことがらではなく、人類史
これに対して、最後にあらわれる第四次元のホル
上人びとによって連綿としてつづけられてきた、そ
ショーとそれを支える思想は 、まさに近代の産物で
して今でもつづけられている普遍的価値にもとづく
ある。この思想は、資本主義の勃興期に、資本主義
未完の壮大な実験なのである。
でもなく社会主義でもないもう一つの人ーきな思潮と
して、不条理でむき 出 しの初期資本主義の重圧のも
とで、イギリス・ランカシャー州のロッチデールに
4 .
越冬調査 (1992 年秋~
1
9
9
3年秋)
端を発した協同組合運動の「一人は万人のために、
ゴビ ・遊牧地域における新しい地域構想としての
万人は一人のために」の言葉に象徴される「協同の
“ホルショー構想"の成立に よって、“ゴビ ・プロジェ
8
4
0年代
思想」として誕生したものであり、それは 1
クト"の調査は、新しい段階に入った。
50年が過ぎたことになる。
のことであるからもう 1
それまでの調査が、六つの定点調査地域に分散さ
資本主義経済のもとで、私的利益を追求する企業
れ、五つのサブ ・プロジェクトのほとんどが、特定
社会とは別の、もう一つの経済ブロックへと人びと
の対象地域を想定せずに、調査 ・
研究をすすめてきた
2
0 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
のであるが、“ホルショー構想"の成立後は、特定の「地
の高峰の 山上高原に、夏の酷暑を避けて夏営地を もと
域」を選定し、そこに調査を集中させ、この“ホル
め、冬期には 、山を 下り、 山麓か らオロック 湖周辺、 さ
ショー構想"を具体的に適用することになった。当然
らには、この北部に広がる砂漠地帯に冬営地を定め
のことながら、“ホルショー情想"と、この特定「地域 j
て、遊牧生活を営んでいる。
の現実との聞には、照応関係のズレが生ずるのである
この郡内の広大な地域(東西 1
0
0キ口、 南北 1
0
0キ
が、このことがかえって問題意識を高め、対象への考
ロ)に、家族 698戸、人口 2,953人が、全家畜頭数
察をより鋭くする結果となった。このことが、さらに、
89,393頭を放牧して暮らしている。ここの遊牧民の
特定地域を対象にした具体的な“モデル地域構想"を
大半は、山岳地帯を有効に利用して暮らしているこ
繰ることにもなった。「地域」への認識は、従来とはく
とから、家畜の中では、ヤギが圧倒的に多い(表 I
らべようもなく深まることになった。
を参照)。
ツェルゲル村は、行政区画の第 4パク
1
9
9
2年秋からはじまった越冬調査を含む一年間の調
(地区)に含まれている o この村 は、ボグド連峰の東
査は、こうした経過をたどって J特定地域"として、
端に位置する東ボグド山中一帯にあって、第 4バク
パヤンホンゴル県のボグド郡に注目し、その 巾のツェ
2戸のうち 48
の全戸数のほとんど(第 4パク全戸数 6
ルゲル村に一年間住み込んで、集中的にこの村を調
戸がツェルゲル村)がこの村に住んでいる。この東
査・
研究することになったのである o
ボグド山 中 (東西 40キ口、南北 2
0キロ)の東の高山
部には、 3500メートルの東ボグド 山頂がそびえ、西
(
1
)ツエルゲル村という土地
にいくにしたがって低くなる。ツエルゲル村の人々
モンゴルの国土を西部の国境から、 中央南部の砂
は、標高 1
500~ 2000メートルぐらいまで下った一
漠地帯に延びるモンゴル・ゴビ・アルタイ 山脈の支
帯に冬営地をかまえ、東の高 山部の夏営地とこの間
脈の東端には、西ボグド、ジャラン ・ボグド、ドラー
を移動し、四季折々の自然の変化を実に巧みに使い
ン・ボグド、東ボグドの 3000メートル級の高峰が連
わけで暮らしている。 四季を通して牧地は、ほとん
なっている。はるか北方のハンガイ 山脈に源 を発す
ど山岳地帯を利用 している こと から、ここでもヤギ
るトゥイン川は、この連峰の北麓に横たわるオロッ
が圧倒的に多い(表 I参照)。夏は、渓流や泉の水を
ク湖に注いでいる o パヤンホンゴル県ボグド郡は、
利用し、冬期は井戸の水が不足するので積雪を溶か
こうした 山岳地帯と、連峰の北部に広がる大砂漠地帯
して飲料水にしている。
からなる広大な地域である。ボグド郡の遊牧民は、こ
郡の中心地に は、郡役所、病院、小中学校 、幼稚
園、郵便局、売庖などの施設があるが、このツェル
ゲル村からは、西へ 7
0キ ロも離れたところにあり、
地図 W
ツェルゲル村 の人々は、これらの公共施設を日常的
と
!
に利用 することはできない。ツェルゲルは郡 内で最
東端の 山中に あって、周囲から孤立した格好で、最
ポグド郡略図
も辺郡な土地にな っている。
こうした 地理的 な条件もあって、ネグデル 旧体制
下にあったときからツェルゲル村は、ボグド君.~ の中
でも 、最も自立心の旺盛な土地柄であった。
後で触れるホルショー結成の指導的役割をはたし
たパットツェンゲルは、このツェルゲル村に 1
9
8
4年
〆第 2ハク
1
0
0
k
実"バク
(ツェルゲル村)
に新しい村長とし てやってきた。当時、 2
6才の若さ
であった。このボグド郡の砂漠地帯 で生まれたパッ
トェンゲルは 、幼 いときに両親を失い、養母に育て
られた。 孤児と しての苦しみを知りつくしたバッ
トェンゲルは 、意志の強い聡明な少年であったとい
われている。貧しさのため、ゴビ地方の獣医の専門
学校だけを卒業し、しばらく 郡内で獣医を務めていた
西ポグド山系
1
0
0
k
m
が、結婚後、このツェルゲル村 の若き村長として赴任
人間文化 ・ 2
1
ある“遊牧地域論"の生成過程
ボグド郡概略 (
1
9
9
2年 1
2月 1
5日現在)
地区
戸数
全家畜頭数
表1
ウ
ラクダ
マ
ウ
ンノ
ヒツジ
ヤギ
第 lパ グ
9
8
1
7,2
2
3
1
,3
8
0
1
,3
5
9
9
0
2
4,9
1
1
8
,6
7
1
第 2パ グ
1
1
0
1
8,5
3
5
1
,8
6
7
1
,6
4
3
3
7
4
5
,1
1
8
9
,0
3
3
第 3パ グ
1
2
0
2
4,7
3
4
1
,3
0
7
1
.9
6
6
1
,1
9
6
7
,9
6
7
1
2,2
9
8
第 4パ グ
6
2
1
2
.
2
6
7
7
6
8
1
.0
0
6
4
1
8
3
,6
4
7
6
,4
2
8
第 5パ グ
5
8
8
,8
8
9
7
5
6
6
7
9
2
6
8
,5
9
1
2
4
,5
4
5
第 6パ グ
2
5
0
7
,7
4
5
2
0
5
4
7
8
3
3
9
2
,3
9
8
4,3
2
5
8
9,3
9
3
6
.
2
8
3
7
.1
3
1
3、9
9
7
2
6,6
3
2
4
5,3
5
0
計
6
9
8(
2,9
5
3人)
してきた。
離脱が決議された。しかし、郡中心地の郡役所から郡
それからの数年間は、苦しい時代がつづいた。 1
9
8
4
長の出席もあり、その脱みにおびえて、この席上でネ
年夏の大干ばつ、この年の 9月には、大部分の家族が
4戸にとどまっ
グデルからの離脱を表明したものは 1
ツェルゲル村を捨てて、西のジヤラン ・
ボグド山へと
た。それでも、これは当時としては珍しいケースで、ネ
避難の長距離移動をしなければならなかった。翌春、
グデルから離脱した事例としては、全国で 2番 目で
ツェルゲ、ル村へ戻り、夏の雨を祈願して、当時禁止さ
あった。
れていたオボー祭りを東ボグド 山頂付近のオガルズの
その後 1月 2
5日に郡 中心地で、ネグデル総会が 3
地で決行した。行政当局には極秘裏におこなわれたと
日間関かれ、ツェルゲル村のネグデルからの離脱問
いう。今でもこれはツェルゲル村の人びとの語り草に
なっている 。よほと、痛快だ、ったのであろう o しかし 、
そ
題が討議され、結局、ツェルゲル村の住民の主張を
の冬は、
大雪害に見舞われている。こうした中でも、ネ
2
9戸に増えて いた
。
認めざるを得なかった。この時点で離脱した戸数は、
グデルからの国家調達のノルマは重く、厳しいもので
ツェルゲル村の指導者バットツエンゲルは、村長
あった。しかし、若い村長バ ッ トツェンゲルは、常に
であ りながら、遊牧の集団化経営ネグデル体制に対
0才年上のアディヤスレン
村人の側に立っていた、と 1
しては厳しい批判をもちつづけてきた。ネグデルは
1
9
9
1年の厳冬の 1月 2日、ツェルゲ
本来、遊牧民のための 、
遊牧民の自主的意志にもとづ
ル村では住民の総会がおこなわれ、 村長パットツエン
く共同組織である。定款にもそう書かれている。しか
ゲルの指導の下に、遊牧の集団化経営ネグデルからの
し。ネグデルは、現実には遊牧民の利益にな っておら
は語っている。
パットツェンゲル(左)とその家
族。ゴビ・アルタイ山中の地ツ工
ルゲルの遊牧民パットツェンゲ
ルは、「民主化」以前から過酷な
自然とたたかいながら、ヤギを
放牧して家族を支え、仲間とと
もに「地域Jに根ざした共同体の
再生を模索してきた。
2
2 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
越冬基地。ゴ ビ・プロジェクト隊
員 5名は、 1
9
9
2年 の 秋 か ら 年
問、ハットツ ェンゲルさんたち
の家族とともにここで暮らした。
ず、それどころか、国の中央集権体制の巾で、遊牧民
を収奪する装置になりはててしまった、と彼は批判す
る。だから、遊牧民は、自己の主体性を回復するため
に、ネグデルから離脱して、遊牧民のためになる新し
い形の自主的な共同体を再生すべきである。そこで
は、自己の労働の成果は、自分たちの意志にもとづい
て処理すべきであり、できる限り自力で畜産原料を加
るものは、外国からの物や金や技術援助などではなく
工して、自己の需要を満たす自給自足の精神が大切で
て、こうした同ーの目標を共有するもの同士による対
ある。家畜は私有化して、家畜は自分のものにし、そ
等の交流であるということであった。こうした交流の
の自分の生産手段を基盤に 自立した家族経営を確立し
中から、研究者も「地域 jの人びともともに「地域」を
て、伝統的なホタ ・アイル共同体を再生させ 、この共
しっかりと見据えて、「地域」に 内在している主体性の
同体を基盤に、遊牧民の主体性をほんとうに尊重する
メカニズムの実態やその法則性を捉え、“ホルショー
遊牧民協同組合ホルショーをツェルゲル村 に樹立し、
構想"のツエルゲル村における可能性を具体的にさぐ
この共同の力によって、一家族では手に負えない仕事
ることであった。こうしたことが、この一年間の住込
はみんなで解決していく、そんな共同のあり方を模索
み越冬調査に課せられた最重要課題にな って きたので
する。この共同の組織の中には、自分たちの学校や病
ある。
院など公共的施設や手工芸的工房をもつなど、現実の
越冬調査では、ツエルゲルという「地域」を 、基
ネグデル批判から出発したアンチテーゼを、具体的な
底部から 一つ一つ調査を積みあげていくことにな っ
地域の未来構想につなげていた。
た。さき にも 触れたように、ツェルゲルは広大な砂
モンゴルで民主化運動がおこる以前から、この東
漠に固まれた 山岳地帯の中にある「地域」で 、東西
ボグド 山中 にあ って、この未来像を現実の実践に移
4
0キ口、南北 2
0キロにわたる広い土地である。ここ
にわずか 6
0戸ほどの遊牧民家族が暮らしているにす
そうとしていた点から見ても、この地域は 、 自らの
主体性を回復するに足る力強さをもっていたのであ
ぎない。まず、地図の作成からはじめ、冬営地、春
る
。
営地、夏営地
、 秋営地の配置から、これらの遊牧民
家族が四季の遊牧循環をどのようにおこない、牧地
(
2
)
住込み越冬調査の目標と成果
や、泉 ・渓流・ 井戸といった水 をいかに利用し てい
人間は、結局、自己の生活と生産の“場"である
るのか。家畜の頭数や畜群の構造、さらには牧畜技
「地域 Jから離れては生きていけない。しかし、この
術の実態についての調査。また、ツエルゲル地域社
「地域」を人類は、ほんとうにそこに生きている人び
会の構造とその特徴を究明するために、村のすべて
とのためにとりもどすことができたのであろうか。
の家族について、家族構成や血縁関係を調べ、さら
おそらく、この地球上のどの「地域 j をとってみて
に家事労働や牧畜生産労働に注目しつつ 、遊牧共同
も、未解決の問題として残されている。それほど「地
体ホタ・アイルやサーハルト、ヌフルルル、といっ
域 Jの主体性回復の問題は、人類全体にとっても、大
た上位の伝統的な共同組織の再生の現象を観察し、
きな問題として前途に立ちはだかっているのである。
その共同組織の特徴を調べ、“ホルショー構想、"の可
今私たちは、地球上にあるさまざまな「地域」に
能性をさぐることに務めた。
蓄積されてきた経験を交流によって、また、さまざ
とくに、“ホルショー構惣"の中で、一つの重要な
まな立場に立つ人びとの往来を通じて意見を交わし、
位置を占めている伝統的手工芸や医療 ・福利厚生・
この人類共通の課題に立ちむかつて一歩一歩解決し
教育・文化といった公共的機能についても多面的に
ていかなければならない。私たちが、ツエルゲル村
考察をおこなっている。こうした基礎調査について
で調査し、“地域構想"を具体的に提示しようとして
は、本誌本弓に掲載の伊藤論文「遊牧民家族と地域
いることも、 こうした「地域」に対する 認識が根底
社会」に詳しいので、それを参照していただきたい。
にあるからである。
このように、一年間の住込み越冬期間巾、ボグド郡、
“ゴビ・プロジェクト"が、モンゴル西部の砂漠 ・山
その巾でもツェルゲ‘ル村に集中して基礎調査がすすめ
岳・
草原の各地を調査してきて痛感してきたことは、
られ、これと並行してそれまでの調査の中ですでに繰
モンゴルが、そして私たちがほんとうに必要としてい
られた“ホルショー構想"のツェルゲ、ル村への具体化
人間文化 ・ 2
3
ある“遊牧地域論"の生成過程
がはじまったのである。
ではなく、人間の本質にかかわる思想の問題として
この具体化の作業は、私たちの調査研究の成果が提
育てていくことが、いかに困難であり、また地域の
示され、ツェルケ、ル村の人びとが巾心となって議論が
発展にとってどんなに大切であるかを、モンゴルの
深められ、試行錯誤を重ねながらすすめられていっ
過去の歴史と自らの苦い体験から学びとっている。
た。そして、ついに、ツェルゲル村の“ウーリン ・卜
次に、財政面で 2点にわたって注目すべきことが
ヤー遊牧民協同組合規約草案"として実を結ぶことに
“規約"に凝 り込まれている。まず第 l点が、組合貨
なったのである。この“規約草案"は、“ツェルゲル村
の額を組合員に一律ではなく、家族の人数と、家畜
モデ‘ル地域構想"の骨子を成すものである。
頭数を考慮して 、経済的に不利 な家族に対しては細
かい配慮がなされていること。次に 、私有 家畜頭数
(
3
)“ツエルゲル村 モデル地域構想"実現のための
実践
の 5 %を、ホルショーの共同所有に委ねている点で
ある。家畜の共同所有については、はじめはネグデ
ツエルゲル村の“ウーリン ・トヤー遊牧民協同組
ル時代の集団化に対する悪いイメージが、依然とし
合規約草案"ができあがると、パットツェンゲル、
て遊牧民の中に根深く残っていて、反発が強く、本
ジャンラブさんたち発起人たちは、厳寒の広大な
質的な議論になかなか入れない状態であった。時間
ツェルゲル村の 山岳 ・砂漠地帯に点在する遊牧民家
をかけ議論が深まるにつれて、個人の私有家畜頭数
族の一戸一戸を訪問し、“規約草案"の趣旨説明に精
の 5 %を共同所有にして、ホルショーの共同ファン
力的に動くことになった。そしてついに 1
9
9
2年 1
2月
ドをそれによって強化し、ホルショーの公共的事業
4 日にツェルゲル村の住民総会が開かれ、“規約草
を支えていくことが大切であるという結論に落ち着
案"は採択され、新しいホルショー(遊牧民協同組
いている。また、各戸から拠出されたホルショー共
合)は、“ウーリン・トヤー"と命名され、ツェルゲ
同所有の家畜を、家畜頭数が極端に少なくて縮小再
ルは新しい時代の幕開けをむかえたのである。“ウー
生産の枠から抜け 出せない貧困 家族層に、一時期委
リン・トヤー"とは、モンゴル語で“曙光"という
託放牧させて、立ち直らせるための支援にも活用す
意味である。市場経済に移行したばかりのモンゴル
ることを考えている。 1
9
8
8年に政府が決定した私有
では、独立した遊牧民家族経営は、放置されたまま
家畜頭数の制限撤廃以後、私有家畜頭数はにわかに
方向を見失っている状況であった。こうした混乱の
増加の傾向をたどり、新たに遊牧民の階層分解がす
中に、夜明けをつげる曙光として、ゆく 手を照らし
すみ、貧富の差が拡大しつつあるときに、この“ウー
出す先駆者としての気慨が込められていたのであろ
リン・トヤー"ホルショーが、共同の精神に立ち戻っ
う。人口稀薄で広大なゴビ地域に点在する遊牧民た
て、このような施策を打ち出したことは、画期的な
ちは、寒中、ラクダ‘や馬に乗って、総会の会場につ
ことであった。
めかけた。会場のゲルの巾は、 7
0名を越える人びと
同」の問題は、人類永遠の未解決の困難な問題であ
でぎ‘っしりつまり熱気に溢れていた。
自己の利 i
聞にのみ目を奪われ、ひたすら経済効率
を追求してやまない現況を思うと、採択された“ホ
さきにも触れたように、「個」と「共
る。現実におこった社会主義の「共同」の失敗の経
験に懲りて、「共同」を全否定し、私利私欲に目がく
らみ、極端な方向に走っている今日の風潮の 巾で 、
ルショー規約"の前文が、新しい「共同 Jをめざし、
この問題を正面からとらえて、そのあるべき姿を模
遊牧社会の特質に根ざした新しい価値の創造と、モ
索し、実験しようとしている態度は、きわめて貴重
ンゴル独自の発展の道の模索をかかげている点は注
といわなければならない。「共同 J を Oか 1
0
0かと
目に値する。ホルショーの活動を、経済活動にのみ
ー者択一的に選択するのではな く、遊牧社会の特質
限定することなく、人間の諸能力の全面的開花を謡
をみきわめた上で、 5 %の家畜の共同所有を打ち出
い、ホルショーだけの発展ではなく、広く 地域 の発
した点に重大な意味がある。今後の研究課題でもあ
展のために果たす自己の役割を強調している点に、
る
。
このホルショーの新しい意味を読みとることができ
ょう。
また、この“規約"の特徴的な点は、自然と畜産
原料を最大限に活用するための手工芸・手工業の活
“規約"は、こうした理想と目標を実現していくた
動や、新しく台頭してきた新興商人に対抗して、流通
めの活動を 1
0項目にまとめ、まず、その第一に民主
を自らの手に掌握することを重視していることであ
主義を育てる活動をあげている。民主主義を形だけ
る。そして、地域に小学校分校を開設して、これを拠
2
4 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
厳冬の雪の砂,莫をゆく
遊牧民たちとラクダ。
点に地域の教育 ・文化の全面的な発展を最重要の課題
のーっとして位置づけている。
(
4)
“ホルショーペボグド郡全域に波及
ツェルゲル村に、“ウーリン・トヤー"ホルショー
が結成された翌年の 1
993年 1月 1
6日、ホビツアー
ト・カンパ二の総会が郡巾心地で関かれ、郡全域の
けて帰ることになった。代表者の 一人が、「われわれ
遊牧民を組織しているボグド郡ホピツアート・カン
が、今取り組みはじめたホルショーの意味が、改めて
パニが解散を決定、劇的な展開をみせた。これで、
よくわかった Jと語っているように、遊牧民たちはよ
ボグド郡における 3
0年間のネグデル体制は、実質上
うやく、自分たちがホルショーを結成した今、何をな
崩壊したことになる。あまりにも呆気ない“権力"の
すべきかを、前途に横たわる困難の大きさとともに、
委譲であった。その原因は、一般遊牧民とカンパニ
具体的につかみはじめたようである。
の聞の矛盾がますます深まってきたこと、そして、
遊牧民の主体性を尊重する新しいタイプのホル
同年 3月 1
7日、ツェルゲル村では“ウーリン・ト
ヤ ー " ホ ル シ ョ ー の 第 3回 総 会 が 開 か れ 、 ホ ル
ショーが、郡内のツエルゲル村に生まれ活動をはじ
ショー代表団のウランパートルゆきについての結果
めたことが、都内全域の遊牧民の意識を大きく変え
報告、および小学校分校設立の準備について協議し、
ていったものと見ている。ホビツアート・カンパ二
ウランパートルから購入してきた日常必需品の直売を
に対する郡内の遊牧民の幻想は、この解散によって
おこなっている。郡や県中心地のブ口ーカーの中間搾
決定的に崩れ、郡内の東端の僻地ツェルゲル村に新
取を排除して、遊牧民たちは、首都から直接購入する
しく生まれたばかりの、この“ウーリン・トヤー"ホ
方法をはじめて実践したのである。
ルショーに対する期待は、一層高まっていった。
同年 1月 2
5日には、ツェルゲル村から西へ 9
0キ
ロ離れた郡西部のアルタイ村でも、ホルショー結成
同年 6月ごろから、ツェルゲル村では、分校設立
の準備が本格的にはじまった。“ウーリン・トヤー"
ホルショーのメンバーは、郡中心地の本校から赴任
のための住民総会が開かれ、ホルショーの結成が決
予定の分校先生たちとともに、分校校舎の大修繕の
定され、たちまちにボグド郡全域へ波及してゆき、
作業にとりかかった。本校から来る 4名の先生たち
郡内 6つのすべてのパク(地区)に、新しいタイプ
は、ツェルゲル村から 7
0キロ先の郡の中心地から、
の遊牧民協同組合ホルショーが結成されることに
山々に固まれた村の巾心地に家族ともとも、ゲルを
なった。そして、郡内すべてのパク(地区)に結成
ラクターに積んで移住してきた。こうしてようやく、
された 6つのホルショーがあつまって、ホルショー
村の中心地は、中心地としての体裁を整えはじめる
郡連合(ソミン・ホルショーニィ・ホルボー)の結
のである。
成にまで至るのである。
同年 7月下旬になると、ツェルゲル村では、京都
翌月の 2 月 27 日 ~3 月 9 目、厳寒の巾を、ホル
在住の羊毛手工芸家を迎え、“ウーリン・トヤー"ホ
ショー都連合の 6名の代表者たちは、結成総会で約
ルショー主催の手工芸学校がスター卜する。村内各
束した通り、さっそくウランパートルにゆき活動を
地から十数名が参加して講習会がはじまった。村内
開始している。郡や県の中心地や首都ウランパート
といっても広大な村。女性たちは、近くにゲルを建
ルでは、市場経済への移行後、にわかに現われた新
て、合宿しての講習会となった。羊毛やラクダの毛
興商人勢力が暗躍し、遊牧民たちにはあまりにも不
の手紡ぎ、フェルトの製作、編み物、染色等の技術
利な流通システムが出来あがりつつあった。こうし
を学び、作品の製作にとりかかった。講習会がおわ
た巾で、とりあえず目前にひかえた春のカシミヤの
ると、生徒の中から 2人の優秀者を選び、この 2人
毛を有利に販売する目的と、将来にそなえて流通シ
が専任の先生となって、常設のホルショー付属手工
ステムの改善の可能性をさぐる目的で、出向くこと
芸塾がスター卜した。こうして、“ウーリン・トヤ一"
になったのである。
ホルショーは、“規約"が掲げる目標にむかつて、そ
しかし、首都ウランパートルにいったホルショーの
の第一歩が歩み出されたのである。
代表者たちは、地方とのあまりにも大きな格差と、不
同年 8月2
5日には、ツェルゲル村の住民の永年の
透明な流通のあり方に少なからず精神的ショックを受
念願であった分校の開設記念ナーダム祭が、ツェル
人間文化 ・ 2
5
ある“遊牧地域論"の生成過程
山岳 ・
砂漠の村のツェ
ルゲル分校。
生徒総数
4
0名、先生 4名。
基礎である。このことなしには、おそらく今日の状
況下では、直接生産者である遊牧民の自主性と創意
性を引き出すことは望めないであろう。しかし、同
時に、この生産手段の私的所有は、無条件にそのま
ま放置されれば、階層分解が次第に進行し、やがて
は極端な貧富の差を生み出す原因にもなる。そし
ゲル村の中心地でおこなわれた。県都や近隣の 7つ
て、それはやがて地域社会に亀裂を生み出し、共同
の郡から 600~ 7
00名の人びとが参加して盛人ーに催
の精神をそこない、共同体の存立を危うくする。
された。人口稀薄なゴビ地帯で、突如これだけの人
ツェルゲル村における私たちの観察によれば、
びとが結集した ことからも 、“ウーリン・トヤー"ホ
1
987年の実質上の私有家畜頭数制限撤廃後、この階
ルショー結成の反響が、いかに大きかったかが窺わ
層分解は急速に進行し、その 5年後の 1
993年夏の時
れる。
点では、縮小再生産の悪循環の巾に陥り、そこから
9月 l日には、いよいよ新学期がはじまり、 i年
抜け出すことができずに極貧に鴨ぐ家族が、ツェル
生から 3年生まで総数 4
0名の生徒が初登校し、校庭
0戸のうち 6家族もあらわれ、全戸数の 1
ゲル村約 6
では始業式がおこなわれ、分校長の老先生と生徒た
害I
J
にも達していることがわかった。
.
e
.
、 縮小再生産の悪循環に陥った家族は、外部
ちの手で、“最初の鐘"が打ち鳴らされた。
この新しいタイプの遊牧民協同組合ホルショーが、
からの支援の手立てがない限り、そこからは抜け出
郡内全域に結成されたことによって、すべてが解決
すことができず、家畜を他人から借りたり、借金を
されたわけではもちろんない。むしろ前途にはおお
したりして、ますますその負債は増大して、自立し
くの困難や、解決しなければならない難しい課題が
た家族経営としての基盤が失われ、他に従属してい
今まで以上に 山積していることを、ここでつけ加え
かざるをえないはめに陥る。こうした現象の徴候は、
ておきたい。
すでにツェルゲル村の地域社会にあらわれていた。
調査 ・研究の面で言えば、越冬住込
み調査の前半では、むしろ広く地域の実態を観察し、
ホルショー(遊牧民協同組合)は、本来のホル
具体的個々の現象を帰納する作業に終始し、“ホル
ショーの精神に立ち戻って、家畜の私有化の結果、
ショー構想"を抽象的なレベルで仕上げることが目
不可避的にあらわれるこうした傾向に対して、ホル
標であった。しかし 、一旦このホルショーが現実の
ショーの方針をもち、それを制度化する必要にせま
ものとなって動き出したとき、調査・研究は、今ま
られている。ツェルゲル村の“ウーリン ・トヤー"ホ
でとはちがった全く新しい段階をむかえることに
ルショーは、起こるべきこうした事態に備えて、す
なったのである。この越冬住み込み調査後半から翌年
でに述べたように組合規約に、 5 %のホルショーの
9
3年 9月)までの期間は、今までに見えなかっ
の秋(19
共同所有の家畜制度として設定したのである。
た地域社会の様相が細部に至るまで明確に浮かび上
ホルショーを発展させる キーポイントは、やはり
がってくるようになった。これは、調査 ・研究をさ
「個」と「共同 j の問題に帰着する。この二つは、二
らに深め、一層精微なものにしていく上できわめて
律背反するかのように見えていて、実はどちらもお
意味のあることであった。
互いに欠くことができないものとして両者が一定の
一方、地域住民は 、新しい組織づくりの実践の試
均衡 のもとに成立 している。「共同」なくしては、
みの巾から、貴重な教訓を引き出している。この実
「
個 j の発展は望めないし、「個 Jの発展のない「共
l年という短い期間ではあ ったが、住民に
同」は、「共同 Jそのものが枯渇する運命にある。「共
とっても実にすばらしい体験であった。今、私たち
同」を極端に重視し、「個 Jをおさえ、その結果「共
践は、
は、新しい地域形成の未来を具体的事実や経験にも
同」そのものが崩壊していったのが過去のソ連社会
とづいて、明確な形で展望することが可能になった
主義やモンゴルのネグデル体制 などの例である。
のである。
市場経済に移行した今 日のモンゴルでは、「個」を
次に、この新しいホルショーがかかえている新た
な問題について、若干触れておきたい。
過度に重視し、「共同 Jを軽視したことによって、
生産手段
「個」の発展に障害をっくり 出 している。こうした状
の私的所有についての理解であるが、生産手段の私
況の巾で、ボグド郡において、このような大切な問
的所有は、遊牧民の自主性と創意性を支える経済的
題を正面からとらえ、正しい解決の方向を模索しは
2
6 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
じめたことは、ボグド郡にとどまらず、モンゴルの
この広大なボグド郡の地域に散在するこれら 6つ
遊牧社会の地域形成にとって、きわめて貴重な経験
のパクを、旧ネグデルは、すべて統括し、ネグデル
を提供していることになる。こうしたさまざまな経
という単一の経営体に組織し、ネグデルのすべての
験を私たちはすでに自分たちのものにしている。
中継機能と施設を、この本部中心地に集中し、各パ
“ボグド郡モデル地域構想"は、一年間の住込み越冬
クには本部から役職を派遣し、中央集権的体制を維
調査の巾から、こうした経験を土台に、新たに浮か
持してきた。
びあがってきたものなのである。
このボグド郡全域を見渡すと、この郡が実に自然
の変化に富んだ、それぞれ特色のある「地域」から
I
V.今後の課題
成り立っていることがわかる。ボグド郡の南西部に
そびえる 3950メートルの西ボグド山。ゴビ ・アルタ
イ山脈の支脈の一つである ボグド連峰の北麓から北
1.
“ボグド 郡モデル地域情想"
へむかつて広人ー
な草原と砂漠がつづく。この下界の
モンゴルにおける旧体制下の遊牧の集団化経営の
真夏の 日中は、砂漠 の熱風で 、草はちりちりに枯れ
基本単位は、ネグデルであった。ネグデルは、旧ソ
て、乾燥ーしきっている。西ボグド山北麓からウブ
連時代の農業の集団化経営コルホーズに相当するも
ティン渓谷にそって頂上高原に達すると、涼風が一
ので、いわばコルホーズのモンゴル版ともいうべき
気に疲れをいやしてくれる。さらに頂上付近を尾根
ものである。
づたいに走る広大な高原に至ると、緑は一段と濃く
パヤンホンゴル県のボグド郡を例にとれば、この
なって、黄色や紫色や白色の草花が風にそよぎ咲き
ネグデルは、東西 1
0
0キ口、南北 1
0
0キロにわたる
乱れている。山頂の高原からは四方に視界をさえぎ
砂漠性草原と山岳からなる広大な郡の全域を領有し
るものなく 、はるか東の地平線に、 ツェルゲル村の
ていた。人口約 3000人、戸数約 700戸(19
9
2年現在)
東ボグドの山々が紺青につづく。眼下に青く輝くオ
が、ここに生活し、ネク、デルの本部役所は、オロッ
ロック湖の湖面、北方の地平から南西へ限りなくつ
ク湖の北へ 20キロのところにある郡巾心地にあっ
づく黄褐色の砂漠、そのただ中を、湖面にむか つて
0キロのところに西ボグド山があ
た。そこから南西 4
白く幽かに光を返して蛇行するトゥイン川の流れ。
り、それより東へジャラン ・
ボ グド 山とドラーン・ボ
残照に映える南方の砂漠は、暗紅色に沈んでいる。
グド 山が連なり、こ の山岳地帯が行政区画としては
南西に走るイチェーティン渓谷を下ると、手が痛む
第 3パク(地区)と第 5パク(地区)になっている。
ほど冷たい清流がとうとうと走っている。これら西
郡中心地から南東 70キロあたりの東ボグド山一帯
ボグド、ジャラン・ボグド、 ドラー ン・ボグドの山
が、ツェルゲル村の第 4パク(地区)である。第 4
岳地帯にある第 3パク(地区)、第 5パクの約 1
8
0家
パクと第 5パクの北側の砂漠地帯一帯が、第 2バク
族は、ヤギ、ヒツジ、ウマ、ウシ、ラクダ、ヤクな
で、さらにその北側に砂漠平原が広がっているが、こ
どを飼い、この西ボグド山頂高原の良好な牧地を夏
vを参照)。そして、郡
の一帯が第 iバクである(地図 r
営地に選び、冬は北麓の下界におりて、砂漠とオ
中心地一帯が、第 6パクになっている。
ロック湖周辺を冬営地に利用している。山頂と山麓
の問のこの移牧の上下運動は、アルプスの少女ハイ
ジの世界を初仰とさせる。
西ボグド山から東へ百数十キロのところに、標高
3500メートルの東ボグド山頂がそびえている。この
一帯の山岳地帯にあ るツェルゲル村と 北西の麓に広
0家族の
がる砂漠地帯が第 4バクになる。ここに約 6
遊牧民が暮らしている。ツェルゲル村の人びとは、
ヤギを主体にヒツジやウマやラクダやウシを飼って、
夏は山頂付近の高原の緑濃い良好な牧地に放牧し、
山腹や渓谷を実に巧みに 細やかに利用している。冬
は、この山頂付近の山岳地帯から西へおりた、標高
ホタ・アイルの家族たちのゲル。
1500メートル のやや低い 山岳地帯に冬営地をかま
人間文化 ・ 2
7
ある“遊牧地 i
或論"の生成過程
ボタド郡中心地、人口1.0
0
0人の
小さな町。
このような単一の巨大経営体で一元化することは、
土台無理な話であった。
はじめ、東ボグド山巾の第 4パクのツェルゲル村
に、“ウーリン・トヤー"ホルショーが結成され、そ
の後まもなく、西ボグド、ジャラン ・ボグド、
ド
ラーン・ボグドの山岳地帯の第 3パク、第 5バクに
え、山岳部と砂漠平原を巧みに組み合わせて家畜を放
“ムンフ ・オルギル"、“シン ・オルギル"の 2つのホ
牧している。四季を通して山中にあるツェルゲル村
ルショーが誕生し、その後 、郡北部の砂漠地帯の第
0キロも離れた辺境に位置し
は、郡小心地から東南へ 7
2パ夕、第 lパク、および郡巾心地周辺の第 6バク
ていることもあって、早くからネグデルから離脱し
に、それぞれ“タワン・エルデネ"、“アルダル"、“ボ
て、自立の方向を模索し、ついに“ウーリン・トヤー"
ディ"の 3つのホルショーが引き続き誕生したこと
ホルショーを結成し、先進的な役割を果たしたことに
は、こうした「地域」、「地域」の特殊性や多様性に合
ついては既に触れたところである。
致した組織を編み出し、ボグド郡全域にようやく、
オロック湖周辺の泉や、 卜ゥイン川流域、山岳高
原の牧地の利用は、他県の砂漠地帯では見られない、
ボグド郡の一つの大きな特色といってもよい。
オロック湖から北へ広がる広大な砂漠平原には、
地域づくりの主体性を確立する基盤が形成されてき
たことを物語っている。
“ボグド郡モデル地域構想、"は、ボグド郡全域に広
がる、今みてきたような山岳地帯や砂漠平原やオ
1
0戸の家族が暮らし、これは第 2バクに属して
約1
ロック湖、これに注ぐトゥイン川流域など、変化に
いる。さらに郡中心地の北側につづく大砂漠平原に
富んだ大自然の巾に、それぞれが、一定のまとまり
0
0家族が生活し、第 lパクに属しているロい
は、約 1
をもった自然領域を基盤に、個々に結成されてきた
ずれの砂漠平原地帯でも、ラクダが主体で、ヤギ、ヒ
“ウーリン・トヤー"、“ムンフ・オルギル"、“シン・
ツジ、ウマ、ウシを合わせて放牧し、第 3、第 4、第
オルギル'¥“タワン・エルデネ"、“アルダル"、“ボ
5パクの山岳地帯とは、かなり違った遊牧の方法や
0戸から 1
5
0戸ぐらいの家族からなる、
ディ"など 6
生活の様式を編み出している。
小さな遊牧民協同組合ホルショーを基礎に構想され
郡中心地には、郡役所、学校、病院、郵便局、底、
るものである。
その他のサービス部門があり、公務員、教員、医師、
そして、それぞれのホルショーは、すでにみてき
5
0家族が暮
労働者、商人、遊牧民、年金生活者等 2
たように、アルディン・アジ・アホイタン(独立遊
らしている。小さな萌芽的都市を形成している。
牧民家族経営) ホタ・アイル(遊牧共同体) ヌフ
このように、広大なボグド郡全域には、それぞれ
ルルル(隣保共同体)などの共同組織が、ホルショー
の「地域」、「地域」によって違った自然条件があり、
の内部のそれぞれのレベルで、自主的、重層的に機
それぞれの「地域 J には、社会的にも、歴史的にも
能しているために、ホルショー全体としては、多次
異なった特殊性があり、人びとは、長い時間をかけ
元で多様な活動が保証され、自然にむかつても細や
て、それぞれの「地域 Jの特殊性にふさわしい生産
かな働きかけが可能になり、その結果“小さな技術"
や暮らしの形を 個々にっくりあげてきた。しかも、
を絶え間なく生み出し、自然を最大限に無駄なく有
それぞれの「地域」は、広大な郡全域に、お互いが
効に活用することになる。活動の分野も牧畜生産の
遠くはなれて存在している。しかし、旧ネグデル体
みならず、流通部門や手工芸・手工業の分野から、
制は、このような「地域」、「地域」の多様性を認め
生活改良の活動、さらには教育・文化、福利厚生と
ず、ネグデルという単一の巨大経営体のもとに、一
いった人間生活に必要な幅広い、しかも豊かな活動
元的に統括し、上意下達のシステムを強固にっくり
が展開されることになる。ホルショー構造内部の各
あげてしまったのである。
レベルにあらわれるそれぞれの共同組織が、自己の
個人の主体性に依拠し、個人の自主性と創意性を
レベルにふさわしい狙自の活動を展開し、鍛練さ
最大限に尊重し、住民が日常的に話し合い、助け合
れ、経験が蓄積され、それらの総和として「地域 j
い、こうした共同の力によって一人一人の暮らしを
は、独自の個性豊かな成長をとげることになる。こ
人ー切にし、向上させていく立場、つまり民主主義と
うした豊かな活動を通じて、ホルショーは、「地域 J
暮らしの向上の立場に立つならば、ボグド郡全域を
において、地域づくりの中心的な役割を担っていく
2
8 ・人間文化
ある“遊牧地域論"の生成過程
ことになるのである。
東ボグド山 中のツェルゲル村や、西ボグド、ジャ
ラン・ボグド、
なったのであるが、 市場経済の影響は、きわめて深
刻であった。モンゴル政府の農牧業政策は、ほとん
ドラーン・ボグドの 山岳地帯、それ
ど市場経済の成り行きに遊牧民たちをゆだねている
に郡北部の砂漠地帯や卜ゥイン川流域やオロック湖
だけで、無策である。こうした 中で、生まれたばか
畔など 、それぞれの「地域」でこうしたホルショーの
りの小さなホルショー(遊牧民協同組合)は、新興商
活動が展開されていくうちに、やがて、「地域 Jの巾
人の資金力に対抗できず苦境に陥っている。ツェル
心には、牧畜生産や手工芸 ・手工業、教育 ・文化、
ゲル村を発端に、ボグド郡全域にせっかく現われは
医療、福利厚生などの小さな拠点が自然に生まれ、
じめた主体形成の新しい芽は、その成長をはばまれ
都市萌芽としての巾枢的機能をはたしていくことに
消え失せようとしている。
なる。その結果、「地域」のまとまりは必然的 に強化
こうした新しい事態を組み込みながら、当面 2年
され、「地域」としての個性ある豊かな成長が一層促
間はもう 一度、ボグド郡の東ボグド 一帯の ツェルゲ
進されていくであろう。
ル村をはじめ、西ボグド 山一帯の第 3パク・第 5パ
郡内各所 に、このような個性ある「地域」が形成
ク、そして郡北部の砂漠地帯の第 1パク・第 2バク
されてくると、その結果、「地域」間の物の交流や人
の村 々の基礎調査を重ねながら、再度“ボグ ド郡モ
の往来が促され、相互に横に結びつく客観的な条件
デル地域構想"を新しい事態に見合ったものに完成
が準備されてくる。こうしたネットワークが、郡全
させていきたいと思っている。
域に張りめぐらされ活性化 してはじめて、“ボグド郡
モデル地域構想"は、実体化していくのである。
3.“国際砂漠・遊牧地域研究センター"(仮称)の必
ホルショーに照応するこうした「地域」が、ふた
要性と将来の調査
たび郡全域にわたって一元的に統括され、 一つの巨
これから、当 面 2、 3年間つづけられる追加調査
大経営体に統合されるとすれば、それは、かつての
によって、“ボグド郡モデル地域構想"が、この間の
社会主義集団化経営ネグデ、ル体制への回帰を意味す
地域の新しい事態をも組み込み、よ り精微なものに
るものであり、そのようなことは、当然のことなが
完成されたとき、この“地域構想"は地域の現実世
ら避けられなければならない。“ボグド郡モデル地域
界の 巾で具体化され、調査・研究は新たな段階に
構想"にもとづく新しい「郡地域」は、あくまでも、
入っていくことになろう。
生産と生活の“場" 1
こ根づ、いた小さなホルショーの
これまで 5つのサブ ・
プロジェク卜のほとんどが、
主体性を尊重した、棺互協力関係を基軸に構想され
特定の対象地域を想定せずに調査をすすめてきたの
る、ゆるやかで自由な“ホルショ一連合"が、その
であるが、この新しい段階からは、この“ボグド郡
基礎になければならない。
モデル地域構想"の実現にむかつて、これまで、“ゴ
2. 追加調査
野
ビ・プロジェク卜"に参加してきたすべての専門分
社会研究(遊牧地域論 ・経済学 ・
歴史学)、医療・
1
9
9
3年の秋に、一年間の住込み越冬調査が終了し
公衆衛生学、気象・砂漠環境論、 土壌学、水利用学、
てから、もうすでに 3年以上が経過した。そして、さ
植物・動物学、牧地・牧草学、畜産資源学、家畜栄
きにもも触れたように、昨年の 1
9
9
6年夏には、それ
養学、太陽光発電、水力発電、通信、獣医学、乳加
までおこなってきた“ゴビ・プロジェク卜"調査対
工、食肉加工、羊毛・皮革加工、染織工芸、生薬・植
象地であるボグド郡で、調査(文部省科学研究費「モ
物化学等
ンゴル遊牧社会の変容と将来像 J
)が再開されること
いくことになろう。
になった。
モンゴルでは、数年前に市場経済に移行 してから、
都市部でも地方でも急激な変化がおこっている。再
は、ボグド郡に対象をしぼ り、集中して
なお、畜産資源グループがウムヌゴビ県ボルガン
郡の砂漠・牧畜研究所と連携して積みあげてきた調
査も、同時並行させておこなうことになる。
開されたこの調査では、ここ 3年間の変化を取 り入
将来、“ボグド郡モデル地域構想 "の実現 を め ざ
れながら、これまでに、っくりあげられてきた“ボ
す、こうした本格的で総合的な長期にわたる調査を
グド郡モデル地域構想"をよ り確実で精微なものに仕
すすめるには、ボグド郡の現地に調査研究の恒常的
上げていくことを目標にしている。
な基地を設定することが不可欠にな ってくる 。この
昨年夏は、ツェルゲル村に 入り調査を再びおこ
ような現地に設定される調査研究基地は、これまで
人間文化・ 2
9
ある“遊牧地域論"の生成過程
“ゴビ ・プロジェクト"がおこなってきた季節時限的
が、これまで見てきたようにホルショー(遊牧民協
な調査活動の欠陥を根本的に改め、年間を通じて調
同組合)が、まさにこのボグド郡全域の各地に誕生
査研究を恒常化させ、その成果の継承と蓄積を確実
し、地域づくりの主体性確立の基盤が、ボグド郡全
なものにすることであろう。
域に形成されつつあるという、このことが最大の理
現在、ボグド郡には、郡中心地のトゥイン川流域
由になっている。
に、チフルウブス・スタンツ(砂漠植物研究所)が活
“国際砂漠 ・遊牧地域研究センター"が、ここに設
動している。この研究試験所を改組して、地域研究
立されることによって、何よりもまずこの郡内に地
部門、畜産研究部門、砂漠環境研究部門、および地
域住民と研究者と技術者の恒常的な相互協力関係が
域活動家養成部門の 4部門からなる“国際砂漠 ・遊
っくりだされ、このことがまた、地域づくりの主体
牧地域研究センター"(仮称)を設立することが検討
性回復の確かな手立てとなって、今生まれたばかり
されてきたが、今日の“ゴビ ・プロジェクト"の調査
のホルショー(遊牧民協同組合)に活気を与えること
研究の段階からみて、これはまさに時宜にかなった
になるであろう。
構想であるといえよう。この“国際砂漠・遊牧地域
やがて、ボグド郡全域に 、“ボグド郡モデル地域精
研究センター"設立の基本方向については、チフル
想"のめさ。す目標と理念が現実のものとなったとき、
ウブス ・スタンツの所長との協議が重ねられ、モン
このボグド郡を拠点に、その周辺の砂漠郡から、さ
ゴルの文部大臣にもその意向が伝えられ、設立につ
らに他県の砂漠郡へと、この“ボグド郡モデル地域
いての基本的合意がなされてきた。
構想"は、しだいに波及していくことであろう。そ
この“センター"構想、は、既存の研究試験施設と
のとき、この“国際砂漠 ・
遊牧地域研究センター"は、
その人材を有効に活用できること、トゥイン川流域
モンゴルの国土の南半分に横たわる広大な砂漠地帯
にあって、良質で、水量豊かな水源を利用できること、
の巾にあって、その“センター"としての役割をい
近傍に郡巾心地があって、学校、保育所、病院、郵
かんなく発問していくにちがいない。“ボグド郡モデ
便局、電話局、庖舗等公共施設があること等々、そ
ル地域構想"は、このような方法によって、一層確実
の立地条件に恵まれている 。
に実現されていくものと期待されている。
この“センター"設立の候補地であるボグド郡は、
今までにもみてきたように、バヤンホンゴル県の巾
にあって、この県の南部の砂漠地帯にあるオアシス
むすびにかえて
=エヒンゴルから北へむかつて、エヒンゴル→大砂
以上見てきたように、“ゴビ・プロジェクト"以前
漠地帯→恐竜の谷→東 ・西ボ グド 山頂高原→オロッ
の準備期間から、“ゴビ ・プロジ ェクド'のいくつか
ク湖→チフルウブス・スタンツ→ トゥイン川流域→
9
9
6年夏から調査は新たな段
の段階を経て、昨年の 1
シャルガルジョート漏泉→ハンガイ山脈の森林地帯
階に入っている。
5
0キロにおよぶ南北ラインの巾央部に位
に至る約 5
粁余曲折があったものの、結局は、ボグド郡の
置している。この砂漠のボグド郡周辺部には、同じ
ツェルゲル村を調査対象の「地域 Jとして設定し、こ
ように南西にバヤンリク都、南東にパヤンゴビ郡、
こに収赦してきたことになる。今から 1
5年前のブル
北西にジンス卜郡、北東にパローン・パヤン・オラー
ドの調査が、ブルドを特定の「地域 Jに設定してお
ン郡の砂漠郡が周囲を取り巻いている。
こなわれたという点で、今回も同じ方法をとってい
ボグド郡は、この大砂漠地帯の真っただ巾にあっ
ることに気がつく。このことは、偶然の一致という
て、都内を北から流れ込むトゥイン川、これを受け
よりも、むしろめざす研究の性格上、必然的にそう
るオロック湖などがあり、郡南部には、
3千数百
メートル級の西ボグド、東ボグドの高峰がそびえ立
ならざるをえなかった何か本質に根ざすものが、そ
ち、尾根伝いに良好な牧地高原が広がっているなど 、
ルドとツェルゲルの両者には、調査・研究の内実に
この郡は、これらの周辺砂漠郡の巾でも特異な存在
も大きな違いがあらわれてきている。こうしたこと
になっている。
をもっと掘りさげて考えてみたいと思っている。
このボグド郡を、“国際砂漠・遊牧地域研究セン
こにはあったような気がする。同時にまた、このブ
“遊牧地域論"は、冒頭にも触れたように、自然一
ター"設立の候補地に選んだのは、こうしたボグド
家畜
郡の地理上の位置や自然の特色などの利点もある
謝の循環に根ざす、一つのまとまりをもった「地域」
3
0 ・人間文化
人聞社会という系の 巾でおこなわれる物質代
ある“遊牧地域論"の 生成過程
乾燥 しきったモ ンゴルの地も、 高
度があがる につれて緑が濃くな
り、森林もあらわれてくる。
という“場"の設定が基礎にあり、今日 、人聞を根源
治過程が進行しようと、「国家 Jがどんなに繁栄しよ
的に問い直し、現代文明の行き詰まりや限界性を根
うと、とどのつまりは「地域」に何をもたらしたかに
底から見直す強力な方向性が、この方法そのものの
よってのみ、歴史は審判されなければならない、と
巾に内包されているように思われる。「地域」は、自
いうことである。調査をしながら、「地域」の視点か
然と人聞社会の一つの要素の統一的存在であり、ま
9世
ら歴史をとらえ直すことの大切さを感じつつ、 1
た、歴史的にその内実が変革されてきたという点
紀以降のモンゴル近 ・現代史の再構成を試みてきた
で、歴史的範囲毒でもある。「地域」をこのようにとら
9
9
3
)。
(拙著『モンゴル現代史』 山川 出版社, 1
は、自然と人聞社
えるものとすれば、現実の「地域 J
会それぞれ二つの要素が、ゼロから 1
0
0パーセント
1
9世紀東部モンゴルの一地方ト・ワン・ホショー
で、遊牧民トゥデッブとともに決起した民衆と、
r
:t也域」を自分
の間のバリアントとして存在している。したがっ
「民主化」後の今日の不透明のなかで、
て、人聞社会の要素が限りなく 1
0
0に近いとみられ
のものにとり戻そうとして今なお模索している民衆
る超巨大都市の特定の空間を「地域 Jに設定すること
を、ともに視野に入れて、過去と現在の「地域」のあ
も可能であり、それはそれなりの意味をもってく
りょうを 一連の連続した歴史過程としてとらえ直す
る。われわれは 、今日まで主として遊牧地域に特定
こと、これは“歴史研究"であると同時に、“遊牧地
の「地域」を設定してきたのであるが、その設定は、
域論"のもう一つの方法でもある。つまり、時空の
日本の農・山・漁村のいずれであってももちろんよ
縦横一二つの次元の広がりの巾で、特定の「地域」をと
いわけである。
らえ直すことである。長い調査の巾から生成し煮詰
しかし、“遊牧地域論"は、今、世界のすべてがこ
められてきたこの“遊牧地域論"の核心部分は、結局
ぞ、って、大量生産・大量消費・大量廃棄型の工業化
のところ、すでに再三指摘してきたように、特定の
社会をめぎし、一つの方向に突き進んでいるとき、
「地域 Jの設定による“方法"と、この“歴史的考察"と
その考察の対象「地域 jを世界の工業化の大きな流れ
の統ーであると言えよう。こうして 、本稿で「地域」
からはるかに遠くとり残された 「辺境」、すなわち工
として概念規定されてきたところのものは、今後
業化社会とは明確な対極に位置する遊牧地域に設定
は、“地域態"と明確に再規定しつつ、方法をさらに
しているが故に、かえって世界を根源から見詰め直
鍛錬していくことになろう。
す可能性を秘めているような気がする。
また、“ゴビ・プロジェクト"の調査の巾で痛感し
今再びはじまったばかりの調査が、さらに先に進
んだとき、もう一度調査の経過をたどり、その内実
てきたことは、それは、あまりにも当り前のことな
を検討しながら、今触れてきたさまざまな問題を新
のであるが、結局、人間は「地域 J
なしには生きてい
たに組み込みながら、“遊牧地域論"を考え直してみ
けないということであった。歴史の上層をどんな政
たいと思っている。
1
人間文化・ 3
ツェルゲルの場合一
﹂
子
-砂漠・山岳の村
伊藤
恥吉山
遊牧民家族と地域社会
総合研究大学院大学
1
専士後期課程(
国立民族学1
専物館)
目 次
はじめに
I 分析対象の設定
l 遊牧社会における「地域
2.分析対象地域
3
.r
地域jを解く鍵ーホタ=アイル共同体
H 遊牧共同体ホタ=アイルの基本構造と歴史的位置
1
. ホタ=アイルの機能
2 ホタ=アイルの規模 ・内部精進
E ツェルゲルという「地域
1.白 然環境 ・飼養家畜の特徴
2.四季の移動 ・常地選定
3 人間関係
W 遊牧民家族経営と「地域
」
1
. 家族経営再生への過程
2.開花する家族経営
3
. あらわれはじめた諸問題
V ツェルゲルのホタ =アイルの特質
l ホタ=ア イルの機能
2.ホタ=アイルの規模 ・内部構造
3
. ホタ=アイルを補完する共同
4.“開い た"ホタ=ア イル
むすび
は、気ままに当て度もなく放浪するというイメージ
はじめに
モンゴルでは、 1
9
5
0年代末に遊牧の集団化が完了
であろう 。 しかし、モンゴルの遊牧を実際に観察す
れば、遊牧民は勝手気ままに生活の場所を変えてい
し、生産性向上が目指されてきた。しかし、 1
9
8
0年
るのではなく、土地土地の自然環境の巾でかなり規
代半ば以降、内外の研究者によって牧畜生産の停滞
則的な四季の移動形態を確立していること、そし
がさかんに指摘されるようになり、特に、家畜群の
て、そうした移動循環の中で 同一範囲の土地を利用
専門化 、地域共 同体の喪失 、政治経済の硬直した大
している一群れの人々が、生産と生活の上で何らか
規模管理 ・中央集権体制 に関する問題が取り上げら
の共同関係を形づくっていることがわかってくる。
れてきた。その 巾で再評価 されてきたのが、集団化
これが、遊牧社会における“ 小地域"で、ある。
体制に編成統合されるまで遊牧地域に存続してきた
ホタ=アイルという伝統的共同体であ った
。
この小地域は現行の地方行政区画単位とは必ずし
も一致しないが、地域の自然環境と深く結びついた
その後、 1
9
9
0年代に入り 、集団化体制の崩壊・私
自然発生的なものであるがゆえに、遊牧と遊牧民社
有化によって家族経営が復活したのにともない、実
会の本当の姿を根本的に研究し、問題点を探ろうと
際にホタ=アイルが再生してきたのであるが、その
するならば、こうした“小地域"としてのまとまりを
実態については 、体制転換の過渡期であることや、
見出だし、その成り立ちのメカニズムを解き明かす
西側の人間による長期調査の可能性が出はじめたば
ことからはじめなければならない。
かりである ことな どの理 由から、いまだ十分に 明 ら
かにされていない。
2.分析対象地域
本稿は、再生前になさ れたホタ=アイル再評価論
本稿で分析する “小地域"は、学部在学中の 1
9
9
2年
を整理した上で(第 E章)、実際再生してきたホタ =
9
9
3年秋にかけて越冬調査を行った*パヤン
秋から 1
アイルの分析に着手したものである。ツェルゲルと
ホンゴル県ボグド郡第 4パク 料 一ツェルゲル村であ
いうゴビ=アルタイ 山中 の一遊牧地域での長期調査
る。調査基地は、このツェルゲル村内の B バット
に基づいて、この地域社会の成り立ちのメカニズム
ツェンゲルという遊牧民家族のゲルに隣接して定め
を燦りながら 、ここ に再生してきたホタ=アイルの
られた。さらに 1
9
96
年夏には、 3年の時間を経て、
段階までの共同関係の実態 ・特質を明らかにしよう
再び同一家族の隣り に墓地 を構 えて、 この地域での
と試みた。
調査を続行する材*、と いう 機会に恵まれた。
パヤンホンゴル県 は
、 首都 ウランパー トルから南
分析対象の設定
西拘 6
5
0
kmに位置する乾燥し たゴビ地方の県である
が、県北部にはハンガイ 山脈が横たわっており 、そ
こでの降水量は年間 4
0
0
m
m以上と、 比較的恵まれて
1 遊牧社会における「地域」
いる。この降水は、パイドラック、
一般に“遊牧"という言葉自体から連想されるの
河川 にのって南部の乾燥地帯へと運ばれる 。 トゥイ
3
2 ・人間文化
トゥインの二大
遊牧民家族と地域社会
ン川の終着するオロック湖は砂漠地帯にありなが
ら、ハンガイからの恵みの豊かな水を湛えて輝いて
牢*本
文部省科学研究費(国際学術研究)による
調査。
いる。このオロック湖を有するのがボグド郡であ
る。ボグド郡は県を構成する 2
0郡のーで、県都から
3
.r
地織」を解 く鍵ーホタ=アイル共同体
2
5
kmほど南下したところに位置する東西
さらに 1
ツェルゲル村のような“小地域"を分析するにあ
1
0
0
k
m、南北1l0
k
mの広大な半砂漠地帯である。(小
たって、鍵となるのはホタ=アイルと呼ばれる伝統
9
9
0年代に入
的な遊牧共同体である。モンゴルでは 1
l
l
)
地図 I .i
貫論文
ポグド郡は現在、 6つのパクから構成されてい
り、市場経済システムへの移行 ・私有化によ って、
る。まず、オロック湖の北部に広がる平原地帯が、
人民革命から約 7
0年、牧畜の全面的集団化から約 3
0
第 1.第 2パクに分けられる。一方、湖南は、西ボ
年の問、社会を規定してきた体制が崩れ、牧畜経営
グド、ジャラン=ボグド 、 ドラーン=ボグド、東ボ
においても、私有家畜に基づく家族経営が主流を占
グド、と 3
.000~4. OOOm級の山並みが西から東へ
めるに至った。それにともなって地域を形づくる秩
と連なる山岳地帯を成している。ゴビ=アルタイ山
序も徐々に再編されてきている。 巾でも特に注目さ
脈の支脈のーである。この山岳地帯に沿ってその裾
れるのが、それまでの集団化経営ネグデルの末端組
野の平地を合わせた区域が、第 3~ 第 5 パクに三分
織ソーリにかわり、家族問の共同として自然に再生
されている。第 6パクすなわち郡の中心地は、
してきたホタ=アイル共同体なのである。
トゥ
イン川西岸に築かれた定住地であり、君1
[行政、病
9
5
0年代末にソーリに編成統合
ホタ=アイルは、 1
0年制学校、郵便電話局、商底、ガソ
院、幼稚園、 1
されるまで、私有家畜に基づく家族経営を補完する
リンスタンドなどが集中してある。ツェルゲル村
必須の共同体として、約 7
0
0年の長きにわたり存続し
0戸余の家族が、
は、このうち第 4パク内にあり、 9
0年間のブ
てきた。そうした共同体が集団化による 3
半砂漠に孤島のように聾えたつ東ボグド 山一帯に 四
ランクを経ても復活してきた、という現象自体、非
季を通じて営地を定め、 山羊を主体とした家畜群を
常に興味深い事実であるが、その根強さは、このホ
飼養して暮らしている。(小貫論文地図 N)
注)
* 日本・モンゴル共同ゴビ・プロジェクト
による基礎調査の最終段階。
料
タ=アイルという共同体が、遊牧と「地域」の問題を
分析する上で一つの切り口になりうることを自ずと
示している、と恩われる。
“パク"は、地方行政区画の最小単位。
砂
、
ムa
冬営地のホタ=アイルのスケ ッチ
羊・山羊のための石垣家畜置場とゲル (
タンガ ッ ト画)
3
人間文化 ・ 3
遊牧民家族と地域社会
1
遊牧共同体ホタ=アイルの基本構造と歴
史的位置
れる、とされている。また 、同 一地方にお いても 、
季節や飼養家畜頭数の増減によって 、ホタ=アイル
の規模や組み合わせが変化する。これも、その土地
実際にツェルゲル村の分析に入る前に、本章で
がその季節 ・その時点に、家畜 ・人間に対してどれ
は、このホタ=アイル共同体の基本構造と歴史的位
だけの収谷力をもっているのか、という観点から説
置を確認しておきたい。これによって、現在のツエ
明される現象である 。
ルゲルという“小地域"がおかれている位置も、はっ
きりしてくるはずである。
加えてこれ らには、牧畜労働内谷の変化もかか
わってくる。つまり 、各季節ごとの労働内容 、 ま
た、飼養家畜の積一類 ・頭数 ・性別・年齢とい った畜
1 ホタ=アイルの基本構造
群構造などによって 、必要とされる労働力が違って
(1)共同内谷 ・成立条件 ・存続J
m間
くるために 、ホタ=アイルによって補完すべき労働
モンゴルでは、ラク夕、 ・馬・牛(高原地帯ではヤ
力にも違いが出てくるからである。
ク)・羊 ・山羊を“五家畜"と呼 び、間養に際、しては
このように、土地 の収容力という条件からも必要
羊・山羊を一群にまとめて放牧するほかは、それぞ
とする労働力という条件からも 、ホタ=アイルは、
れの鴎類別に管理している。しかし、その他の牧畜
それを成立させる条件の変化 に対応して同じく流動
労働や家事労働を合わせると、一家族内ではこれら
的で あり、それゆえの存続期間 の短さは、共同内容
すべての管理に手が回らなくなってくる。そこで、
の進展や共同財産の蓄積には一つの疎外要因になっ
いくつかの家族があつ まって、それぞれの所有する
ている。しかし 、逆に言えば、モンゴルの厳しい自
家畜を稀類別に一群にまとめて管理することにし、
然の巾では、気象の変化や牧畜の経営具合に柔軟に
必要な放牧者は各家族から交替で出す、という労働の
対応しながら、その都度、臨機応変に集合離散を繰
合理化と労働不足の補完の方法が編み出されてきた。
り返し、調節することが可 能 であるという点こそ
これが、私有家畜に基づく家族経営の共同体ホタ
が、長い歴史の巾で編み出してきたホタ=アイルの
=アイルである。ホタ=アイルでは、このような日
優れた特性であり、これこそホタ=アイルが遊牧と
常的な分業のほか、夏の羊毛刈り・フェルトづく
いう独特の生産様式に見事に適合することができた
り ・四季の移動、といった季節労働における協業
所以である。
や、ちょっとした日用品の貸し借り、乳幼児の世
(2
)諸類型・社会的位置
話、といった列挙にいとまない日常的な小さな助け
ホタ=アイル共同体の形成は、 1
3世紀初頭のチン
合いにとどまらず、さらには、親から子へ、また年
ギス=ハーンによる古代統一国家に組み込まれなが
長者から年少者への牧畜技術の伝媛、老齢者への扶
らも進行し、
助、皐魅や雪害など天候の異変 ・自然災害への対応
なった時期に完成されていったといわれている。小
など、小地域を支える重要な役割をも担っている。
貫雅男教授によると、この時期のホタ=アイル共同
人口密度のきわめて低い遊牧地域社会の巾で、ホタ
体は、その構成要素である家族の相互関係から、 ①
=アイル共同体は、実にさまざまな機能をその巾に
家畜を主とする財産上の目立った不平等がない民主
包含しているのである。そしてホタ=アイルは、老
的なタイプ②親族関係が濃く、かつ家族聞に複雑な
14~ 1
5世紀、封建的割拠が支配的に
若男女さまざまな人間を含んでいるので、こうした
身分的隷属関係が成立し、時には長老家族による剰
機能が必要に応じて、柔軟に、有機的に、かつ有効
余労働の一部の搾取がみられるタイプ③家畜財産の
的に作用する。
貧富の差があり、富俗家族がその他弱小家族から剰
このホタ=アイル共同体の規模や組み合わせ ・存
続期間は、遊牧そのものが地形や草・水の状況と
余労働の一部を封建地代として搾取する関係が明確
に存在するタイプ、という 3つの類型に大別される。
いったその地域の自然条件に直接左右される、とい
そして、モンゴルにおいて私的な封建的領主制が
う性質をもっているために、基本的に自然条件、つ
確立してゆくこの頃、いずれの類型も、この私的な
まり、家畜と人間に対する土地の収谷力によって異
封建的所領内に組み入れられていた。封建領主は遊
なってくる。 地方別に見るならば、ゴビ地方では l
牧民を経済外強制を通じて身分的に隷属させ、剰余
~2 家族、ハンガイ地方(森林ステップ)では 5 ~10
労働の基本部分を封建地代として搾取していたので
家族、その巾聞の草原地帯では 2~4 家族で構成さ
ある。よって、そうした基本的関係構図の巾では、
3
4 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
②と③の類型で観察される r
l
'間搾取家族も農耕社会
建領主層の経済外強制と剰余生産の搾取、そして、
の国家や領主のもとに見られる 巾間搾取腐として の
ホタ=アイル内部にも存在していた構成家族問の貧
地主と比べれば、脆弱なものにすぎなかった。むし
富の差と搾取関係が、徐々に取り除かれていったから
ろホタ=アイル共同体は 、いや増ししてゆく封建領
である。
主層の攻撃から自己の構成 員を保護することにおい
しかし、これらは一掃されたわけではない。人民
て、その民主的な側面を発陣し、小地域共肉体とし
革命から 1
0年あまり経った 1
9
3
3年の夏、ロシア人研
ての重要な役割を果たしていた、ととらえられる。
究者 A
このような状況の巾、ホタ=アイル共同体は、 1
7
シムコフは、アルハンガイ県イフタミル郡
(資料 1
3
)においてホタ=アイル共同体の調査をおこ
世紀後半、モンゴルが清朝の植民地となり、清朝の
なった。その報告‘ XOTOHb
I
'によると、この地
皇帝を頂点とする国家的封建制が確立するまで、発
域では家計の独立をはかる目安は、牛またはヤク、
展していった。それ以後、この共同体が辿った道を
そのうち特に搾乳可能な個体の数であり、それらが
次の節で整理しておきたい。
1~
2 頭の場合は弱小戸、
6~7 頭の場合は中流
戸
、 8頭以上の場合は富裕戸、とおおまかに区分で
2 ホタ=アイルの辿った道
きるとされている。この基準からすると 、当時、調
(1)人民革命とホタ=アイル
査地域の第 3地区においては、
清朝の国家的封建体制がモンゴルに確立されてか
あった。そして、ホタ=アイルを組んでいる家族に
7.5%が弱小戸で
ら、遊牧民家族そしてホタ=アイル共同体は、その
着目すると、経済的に独立した家族同士によって構
体制下に編入されていった。遊牧民は、国家の公民
成されている場合は全ホタ=アイル巾 64%、なんら
ソムニ=アルド、封建領主の私的隷民ハムジラガ、
かの経済的な従属関係のある家族によって構成され
寺院領の隷民シャヴィ=アルドに三分され、それぞ
ている場合は 36%であったという。
れ清朝、モンゴル俗封建領主、聖封建領主の搾取を
受けることになった。俗封建領主はしだいソムニ=
富俗戸が弱小戸と組んで形成される経済的従属型
のホタ=アイルでは、具体的には、弱小戸は富俗戸
アルドをも自己の支配 下におこ うとするようにな
の家畜の搾乳および乳加工の仕事を 主に誇け負い、
り、彼らは、国家的義務と私的な収奪という一二重の
その報酬は、
苦しみの 巾で困窮 していった。
羊 ・母山羊 の自家用搾乳権など、現物で得ていた、
さらに、 1
9世紀後半からは、清朝自体が帝国主義
の植民地と化して ゆく 巾で、外国商業・高利貸し 資
lへ
, 2頭の乳牛あるいは相当数の母
と報告されている。経済的に独立して生活してゆけ
ないほどの弱小戸は、富裕戸へ従属する形でホタ=
本・商品貨幣経済が浸透し、遊牧民を苦しめてゆ
アイルに参入することによって、こうして食糧を確
く。税を逃れるためにラマ僧になる者、家畜を失い
保するほか、富俗戸の所有する役畜を借りて、燃料
浮浪民となって都市へ逃散する者が出る一方、富裕
用の薪や家畜小厚用の丸太の運搬 ・四季の移動をま
な遊牧民もあらわれるようになり、遊牧民間の階層
かなっていた。
分解が進んでいった。一つの試算によれば、革命前
の遊牧民の 6~7 割は、
自己 の所有家畜のみでは生
計を立てることができなかったという。
弱小戸の富硲戸への従属をいや増しにする要素と
して、不慮の出費が挙げられている。例えば、ラマ
僧の祈梼への謝礼 ・寺院への寄付 ・治療費 ・来客の
こうして、もともと民主的な側面を強くする小地
接待・家庭の行事や祝いごと・旧正月などが、弱小
域共同体としてのホタ=アイルも、このような存立
戸にとって大きな負担となっている。特に病気を患
の基盤の 崩れか ら、崩壊の危機に直面することに
うことは実際の治療費だけではなく、治癒のための
なった。
祈祷費をも必要とするので、 不慮の出資の大きな原
しかし、 1
9
2
1年のモンゴ‘ル人民革命の後、人民政
府の打ち出す外国資本追放 ・反封建の諸政策が、こ
の状況を変えることになった。土地の全人民所有
因となっているという。
また、表だ、った従属関係に加えて、“共同・協力"
の名のもとにおこなわれる “隠れた搾取"が、次のよ
化、封建領主からの財産没収とその再配分、累進課
うな形で観察されたとしている。①共同労働におけ
税、弱小戸支援と富俗戸の規制などの政策がとられ
る“平等"の名のもとにあらわれる場合(家畜の共同放
たことによって、ホタ=アイル共同体誕生当初か
牧やフェルトづくりなどでは、弱小戸は結果的には
ら、その発展の外部からの阻害要因となっていた封
必要以上の労働を投入していることになる。フェル
人間文化 ・ 3
5
遊牧民家族と地域社会
トづくりの際は、富裕戸は弱小戸に謝礼として御馳
金労働者のような立場に組み込まれてしまった。
走や酒を振る舞い、祭りの様を呈する o )②“相互扶
1
9
6
0年代の初め 、巾ソ対立が表面化してくると、
助"の名のもとに不定期あらわれる場合(不定期で具
ソ連の対中戦略の中でモンゴルは重要な位置を占め
体的な契約もないその暖昧さのゆえに、報酬はほと
ることになり、ソ連の対モンゴル経済援助が強化さ
んどない。こうした搾取はホタ=アイル内・外にお
れていった。それと並行してモンゴルの国家権力は
いて広く見られる。)③親戚関係のあるホタ=アイル
強大化し、中央集権的専制支配体制が確立してゆ
の場合(この場合が他の場合の隠れた搾取よりカモフ
く。首都ウランパートルには畜産原料加工の工業コ
ラージュ度が高く、重荷である。長老への “援助
ンビナート・高層住宅群が建設され、人口の増加と
H
奉仕"の名のもとにおこなわれるこの搾取に対する
9
6
0年に 9
6,8100人であった総
集中を引き起こし、 1
報酬は、非親戚関係の場合より少ないことが多い。
人口は、 1
9
9
0年には 2
1
4,9300人と 2倍以上に増加し
富裕戸の主が弱小戸の男に自分の娘を嫁がせること
た。特に 1
9
5
0年代後半から、都市人口増加の速度が
もよく見られ、富裕戸のホタ=アイルに引き入れら
急激になっている。(資料 1)1956~63 年 の聞に増加
れた娘婿は、隠れた搾取の好対象となる。離婚した
した都市人口 1
8
8,200人のうち、地方からの移住に
場合は娘の持参金を取り戻し、娘婿をホタ=アイル
よる増加が実に 7
3,5%を占めている。つづいて 1
9
7
0
から追い出すとが多い。)
年にかけては、農耕地の開墾・工業化の基盤が築か
地域社会に根強く残存するこうした状況下、牧畜
部門における集団化が進められてゆく。
れる巾で、地方から都市へ大量に人口が流出し、
1969 ~79 年の聞についに都市人口と地方人口が逆転
(2)集団化とホタ=アイル
した。現在、都市人口は総人口の 6割ほどを占め、
国民経済の中で牧畜部門が大部分を占めていたモ
特に首都には総人口の約 4分の lが集中している。
ンゴルでは、牧畜部門における集団化が社会主義建
次に全人口に占める産業別人口構成の変化を見る
設の前提とされた。それは、 1
9
2
0年代の末から 3
0年
9
6
3年に 5
3,3%であった遊牧民人口が、ネグデ
と
、 1
代の初頭にかけての行政的力による教条主義的な集
ル体制末期の 1
9
8
9年には全人口の 3分の 1を割り、
団化などいくつかの段階を経て、ネグデル農牧業協
のこりの 3分の 2以上の人口を支えなければならな
同組合体制下に家族経営を組み込むことによって、
くなってしまった。(資料 2)
1
9
5
0年代の末に終了する。
こうした都市人口の増加と産業構造の変化の中
1988年の数値)組織されたネグデル
全国に 255(
で、遊牧民家族一戸あたりに割り当てられる飼養担
l郡 =1ネグデルの大規模経営で、郡内すべて
当ネグデル家畜の数は増加してゆき、放牧地の疲弊
は
、
の遊牧民家族がその地方のネグデルに所属した。ネ
を避けるために、ソーリを構成する家族数を減らさ
グデル体制下では、主要な生産手段である家畜が、
ざるをえなくなってしまった。 1
9
8
8年の時点で、全
上限 7
5頭まで認められていた私有家畜以外は、ネグ
国で 4万あるソーリのうち 70%が一家族で成り立 っ
デルの共同所有とされたのをはじめ、家畜小屋や運
ている、という状況であった。遊牧民家族は、広大な平
搬手段も共同所有とされた。
原に孤立して生活しなければならなくなったのである。
実際の牧畜生産の最小基本単位としては、
2~3
このようにして、
lソーリ = 1家 族 が 一 般 的 に
戸の家族によってソーリを編成し、種類別・性別・
00年もの長い問、小
なったことにより、成立から 7
年齢別に細分化し専門化したネグデル共同所有家畜
地域共同体として重要な機能を果たしてきたホタ=
の一部分の飼養を担当させた。伝統的遊牧では、畜
アイルは、ネグデル体制のソーリに継承発展される
群の再生産は基本的に家族経営やその共同体ホタ=
条件を失ってしまった。労働力不足の補完、生産お
アイルでおこなわれてきたが、集団化体制では、こ
よび生活面の相互扶助・協力、遊牧技術の伝授、災
れがネグデル単位でなされる。遊牧という自然と深
害への対応など、伝統的な遊牧社会でホタ=アイル
く結びついている生産様式に工業の論理をそのまま
が果たしてきた役割を担うことのできる組織のない
適用し、ネグデルのレベルで統合される分業に基づ
状態に、地域社会は陥ったのである。
く協業、という大規模経営方式で生産力の向上をは
加えて、 1
9
7
0年代以降、特に工業基盤や農牧業の
かろうとしたのである。こうした体制のもと、遊牧
技術的基盤の建築に力が注がれるようになり、それ
民家族は、この大規模経営の末端組織ソーリの一員
にともなう機械・建築資材・輸送手段などの輸入増
として月々の放牧料を受け取る、いわば大工場の賃
加は、輸出と のアンバランスや借款の埋め合わせを
3
6 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
、
畑
資料 1 人口増加の推移
《万人】
a
白
.
.
・
.
'
‘
.
カ
地
叩川
・
20
人
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句
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1924-81, 1987.
“仇 r~"nll
x9rHC.H.
n
1988 Oll/l.
CTaTI
t CTHκtinll 5MXTr:!Jt. YG.. 1989 よ り 作 広 .
資料 2 全人口に占める産業別人口構成の変化
1
963年
1989年
労働者 ・公務員(家族員を含む)
46.5
71
.9
農牧業協同組合員 ・国営農場員(家族員を含む)
53.3
27.
8
0.
2
O
.3
個人営業・手工芸者(家族員を含む)
(単位%)
必要とし、結果として牧畜業への負担はいっそう重
全面的集団化 から 30年問、 遊牧地域を規定してき
くなっていった。こうして国家調達量は増加し、遊
9
91
年 8~ 1 0 月に、家畜や家畜
たネグデル体制 も
、 1
牧地域は単なる原料供給基地 と化していった。
小屋などネグテソレ所有の固定資産の私有化がすすめ
全面的集団化から 3
0年、硬直した管理体制は、遊
られることによって基盤を失い、 1992年 1月頃か
牧民から労働の自主性 ・創意性を奪 い、生産意欲の
ら、ネグデルの後釜として行政指導によって全国一
減退と民主性の喪失、 地域共同体の衰退、という大
律に設立されたホウずィツアー ト =カンパ二へと姿を
問題を抱えることになった。
変えることになった。しかし 、私有家畜が全家畜頭
(3)民主化・市場 経 済 シ ス テ ム へ の 移 行 と ホ タ =
アイル
このような現実を前に、 1
9
8
7年 1
2月、党中央委員
数の 60~70% を占め、さらに私有家畜が全面的に増
大してゆくという時勢にあって、このカンパニは、
その基盤自体、非常に軟弱なものであり、会社利潤
会総会は、 初めて公式に農牧業生産の停滞を認め、
の追求か遊牧民経営の擁護か 、目的そのものも不明
牧畜の生産請負性の実施など農牧業における諸改革
瞭な性格 の組織であ ったために、私有家畜が場え 、
にのりだすことになった。さらに、ベルリンの壁の
独立できる条件が多くの遊牧民側に整い出すと、そ
崩壊、これにつづく東ヨーロッパでの民主化の高ま
の存在意義を失い、
l年もすると崩壊していった。
りは、モンゴルにも 押し寄せ、首都ウ ランパートル
こうして、現在、地域の牧畜業においては、私有
では、 1
989年 1
2月 1
0日に民主化同開が初めてデモを
家畜に基づく家族経営が主流を占めるようになっ
敢行して以来、民主化運動は急速に高揚した。そし
た。それにともない、地域社会を形づくる秩序も新
て
、 1
9
9
0年 3月には人民大会において、複数政党性
たに再編されはじめ、家族経営問の生産 ・生活を補
を認める憲法改正案が採択、新選挙法が承認され、
完する共同の姿として現れてきたのが、あの伝統的
7月2
9日にはこれを受けてモンゴル史上初の自由選
遊牧共同体ホタ=アイルである。長い歴史をもちな
挙がおこなわれるに至っ た
。 1
1月には市場経済 シス
がら、ネグデル体制下ではソーリにうまく継承され
テムへの移行フ。
ログラムが発表され、政治・経済の
得なかったホタ=アイル共同体は、家族経営の復活
大きな変革が次々とすすめられてゆく。
とともに、今、再び思を吹きかえし、地域社会の巾
人間文化 ・ 3
7
遊牧民家族と地I
或社会
砂漠地待である第 2パクではラクダの飼養が特徴的
である。
これに対して 山 岳地帯の第 3~5 パクでは、山岳
地帯に適した山羊が牧畜経営の基盤とな って いる。
特にツェルゲル村のある第 4パクでは、バク内全家
晩秋の東ボグド山麓。
まもなく訪れる厳冬に備えて、山羊たちは 1日中草や;差木の
葉を食べ歩き、体力をつける。
6,4%にのぼっ
畜頭数のうち、山羊が占める割合は 6
ている。第 3パクでは、加えてヤクが比較的多く飼
,9
50mの
養されている。これは、第 3パクが山頂 3
においてその多様で重要な機能を発問する条件を得
高峰西ボグド山をかかえていることによる。第 3~
ることができたのである。
5バクには 3
,000~4 , O
OOm級の山並みが連な って
このように、ホタ=アイルは、 7
0
0年とされるその
歴史の長さ・地域の自然との結びつきの深さ ・それ
資料 3 ボグド郡
戸数・人口・飼養家畜頭数
ゆえに集団化による 3
0年のブランクを経ても地域社
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きた。本章からいよいよ、ツェルゲル村を舞台に現
在の「地域 Jを分析してゆく。この章ではまず、なぜ
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のおかれている歴史的位置が確認で
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前章でホタ=アイル共同体の趨勢を見ることに
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う根強さ、という事実から見て、遊牧という生産様
式に基づくモンゴルの地域社会とって、きわめて本
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しているのかを、「地域 Jの構成要素の大きな部分を
占める土地利用と人間関係から見てみたい。ただ
資料 4 ボグド郡
飼養家畜の種類別割合
し、人間関係は、ここでは血縁・親戚関係について
とりあげる。共同関係の側面からは、第 W章で共同
(見)
部合計
の主体としての個々の家族経営を分析した上、第 V
章で詳しく述べる。
第
1パク
第
2パク
第
3パク
第
4パタ
第
5パテ
1 自然環境 ・飼養家畜の特徴
ツェルゲル村のあるボグド郡全体および郡内各バ
クにおける戸数と飼養家畜頭数の近況は、資料 3 ・
4の通りである。バヤンホンゴル県自体、山羊頭数
1
,0
3
,
18
0
0頭と全国第 I位を誇り、それは、モンゴ
ル全土の飼養山羊頭数の 1
2
,1%、県内全家畜頭数の
4
6,3%を占めているが、ボグド郡においても山羊の
飼養頭数は 7
1,21
0頭 と多く、郡内全家畜頭数の実に
5
7,8%が山羊となっている。
同じボグド郡の巾でも各パク別に見れば、第 1 ・
第 2パクにおいては平原地帯に適した家畜が多く飼
養されている。この 2つのパクのうち相対的に草の
多い第 1パクでは、モンゴル牛、馬、羊が多く、半
3
8 -人間文化
第 6パク
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おり、乾燥地帯に位置しながらも比較的降水量の多
季を通じて 山中 で営地 を選択 している。(資料 5)
い地域である。山の下では地面がひび割れをおこす
夏、高山部の涼所の谷筋に分布する井戸や泉と
ほどの日照りでも、 山上には雲がかっている、とい
いった水源を中心に、村東部に集中して営地 を構え
う光景にはよく出くわす。特に西ボグド 山の標高
ている遊牧民たちは、秋、数回移動しつつ降山し、
2
,5
00m付近以上は草丈高い見事な高原地帯であり、
冬には村西部のより低所に位置する防風に適した地
ヤクを飼う遊牧民は、高度差を利用しながら一年巾
形にゲルを建てる。その冬営地 で半年にもわ たる長
を西ボグド 山中で過ごすのである。
ツェルゲル村の遊牧民たちの住む東ボグド山は、
い冬を越す。冬の聞の重要な水源であった雪が消え
はじめると、牧地の疲弊も限界に達する頃なので、
対を成すかのように笠えるこの西ボグド 山よりはひ
水や草なと、諸条件の整った新地 を求めての移動が促
とまわり小規模であるが、山頂標高 3
,5
9
0mを誇るそ
される。遊牧民たちは住み慣れた冬営地を後にし、
の青く美しい姿は、はるか 1
2
5
k
m北の県都の丘からも
やや高度を上げた春営地へと移ってゆくのである。
確かめることができる。この東ボグド山ツェルゲル
春から夏にかけては、
村では、 山岳に適した山羊の飼養を基盤としながら
移動をおこないながら、東部高原へと、再び営地を
も、私有化以後、それぞれの家族の労働力等諸条件
寄せてゆく。高山部は降水に恵まれ、草の成育がよ
に応じて、他の 4家審も組み合わせた創意工夫に富
いのである。
む経営が行われはじめている。
l~ 数ヵ月単位で l~ 数回、
(
2)営地選定の要因
この四季の営地選定について、 さらに詳しく分析
2
. 四季の移動・営地選定
(1)四季の移動パターン
ツェルゲル村は、東西;こ 4
0km、南北に 20kmもある
してみる。(資料 6 ・7)
四季の営地決定は、自然条件に諸々の人間関係・
家庭事情などが複雑に絡み合って成されるが、牧畜
東ボグド山の広大な 山岳地 一帯を占めている。この
を営む限り 、最大の決定要因は、草(牧地の状態)と
東ボグド 山の最高峰は 3
,5
90mで、西にゆくほど低く
水(飲料水・生活用水・家畜用水)である。
なってゆき、裾野の最も低いところの海抜は約
まず、草を見ると、夏、草の豊富な時期には、遊
,
15
00mほどである。ツェルゲル村の遊牧民約 9
0戸
牧民家族はかなり接近して幕営しても家畜飼養が可
2
,O
OOmあまりの高度差を利用 して四
能であるが、草の粗い冬には、相互に適当な間隔を
は、この最大
9
人間文化・ 3
遊牧民家族と地域社会
おいて営地を配置しなければならない。さらに、各
るのはもちろん、 他 の家族の家畜飼養にとっても妨
季節に各家族が使用する放牧地をある程度、配分し
害となり、迷惑はなはだ、しい。
て確保しておく必要がある。好き勝手に放牧してい
次 に 、 水 源 と し て は 、 普 通 、 手 汲 み 井 戸 ・手回し
ては、その家族自身の家畜自体が一年を越せなくな
井戸 ・渓 流 ・泉 ・湧き水・染み出る程度の71<などか
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ら、その水量 ・水質によって、飲料水・生活用水・
家畜用水それそ手れに適当なものを選定する必要があ
る。ただし、積雪のある期間は、とかした雪を飲料
水として利用でき、家畜も雪原での放牧巾に草とと
もに雪を食べることによって、ある程度の水分を補
給しているため、この期間に関しては、水は営地選
定の限定要素から除外できる。
このような草と水の相関関係から、東ボグド山中
のツェルゲル村では、冬営地が巾腹から麓にかけて
極寒の冬営地スージン=ド ヴ(
資料 6の冬営地番号 3
4
)寒
風をさえぎる丘が頼みの割問。ハッ トツェンゲル家とその弟フ
レル家のホタ =アイルに隣接 して、越冬隊も住み込む。
の村全体にわたり分散して配置されているのに対し
て、夏営地は大部分、草の豊かな村東部の高山域に
分布する水源の周囲に、かなり接近して選定される
ネク、デル時代に築かれた家畜小屋は、私有化法に基
ことになる。
づき 1
9
91
年 8~ 1 0 月のいわゆる「小私有化」の対象と
春と秋の営地は、この夏営地と冬営地の巾問地帯
なり、過去数年間の主なる使用者が、その所有権を
に選定され、それぞれの家族の移動ルートの中に組
得ることとなった。それ以降、新しく小屋を築け
み込まれることになる。
ば、築いた当人の所有になる。これは、家畜小屋を
このように、営地は、広い土地のどこにでも選定
必要不可欠とする冬営地そのものの占有者が、事実
できるわけではなく、季節ごとにかなり限られてく
ヒ、明確化したことを意味する。つまり、毎年その
ることが分かる。
冬営地を使用するのは同一家族となる、という傾向
(3)営地選定の多年的傾向
が決定づけられたのである。そして、何らかの理由
ツェルゲルでは、一般に、半年あまりの長く厳し
で他家族の冬営地に幕営を希望する場合には、その
い冬を過ごす冬営地には、居住用の 5~6 ハナ(ハナ
旨を例年のその冬営地使用家族、つまりそこの家畜
は伸縮自在の格子状壁。畳のごとく、ゲルの規模を
小屋所有家族に事前に伝え、承諾を得なければなら
あらわす単位としても用いられる。)の大きなゲル
ない。これによって引き起こされる問題も数々ある
と、場合によっては、収納および春先に誕生する仔
が、それについては第 r
v章の第 3節で述べることに
羊 ・仔山羊のための 4ハナのゲルとを建てる。居住
する。この冬営地の固定化によって、近隣関係もま
用のゲルは、厳しい寒気の中でも快適に生活できる
た固定化してゆく。
ように、厚いフェルトが幾重にも巻いて建てられ、
このように、 一年の半分を過ごす冬営地は、遊牧
保視がはかられる。さらに、循回りにハヤプチとい
地域社会において、生産と生活のいわば拠点とし
う帯状の綿入れ布を一巡させたり、扉口にピンと呼
て、ますます重要な位置を占めるようになってきて
ばれる小屋を接続したり、天窓にガラスを入れたり
おり、それゆえに将来、遊牧民の生活を充実させて
することによって、より一層の保濡の工夫がなされ
ゆく上でも、可能性を秘めているといえよう。
ることもある。床には、木製の床板がしかれること
ツェルゲルのような山岳地帯では、険しい谷間を
もあるが、小家畜の糞を敷きつめた上を、羊毛フェ
伝つての移動は非常に困難である。移動手段として
ルトを刺し子した自家製カーペットで覆っても暖か
は、草原地方に見られるような牛やラクダに牽引さ
く、自然なその風合いが見た目にも快い。居住用の
せる荷車の使用は不可能で、数頭のラクダの背に家
ゲル内には、しっかりとしたかまどを巾心に、長持
財道具をくくりつけての移動が一般的である。
ト
ち ・寝台・台所用品棚といった生活必需品だけでな
ラックによる移動も見られるが、少ない。それは、
く、刺繍を施した寝台のカーテン・三面鏡 ・家族や
ネグデルが解散してそうした移動サービスを受けら
友人の写真を飾った額縁・置物・仏壇などの調度品
れなくなったからでもあるが、もともと細く険しい
も配置され、殺伐荒涼たる外の冬景色とは対照的
谷まではトラックで入り込むのが困難な上、雨の多
に、家族にゆとりと安らぎを与える空間として、そ
い夏に突発的に起こる洪水が谷筋を流れくだる時、
れなりに小締麗に整えられている。
かなり大きな石までも動かすため、それまで侵入で
また、冬営地には、羊や山羊を夜間の極寒から守
るために、石垣や木材の家畜小屋が築かれている。
きた谷まで通行不可能にしてしまうことがある、と
いう地形的な理由が大きい。
人間文化・ 4
1
遊牧民家族と地域社会
どの自然を巧みに使い分ける、という遊牧のスタイ
ルをしっかりと確立していることが分かる。
(4)営地選定における他村との関係
ツェルゲル村のある第 4バクには、もう一つの村
サイル村が含まれている。東ボグド山を 北へ降り、
海抜1, 200~,
14
00mのこのサイル村は 、潅木サcクや
ボダルガナ(にがよもぎ)、デルス(はねがや草)などが
ひろがる乾燥した平原地帯であり、ラクダが多く飼
養されている。サイル村の 1
5
戸あまりの遊牧民たち
は、普通、四季を通じてこの平原地待内で移動し営
雪が消える 頃、春営地へと移動してゆ く
。
地 を定めているが 、特に降雨量が少なく草の状態が
芳しくない夏には、比較的、水 ・草の状況の良い東
ボグド山まで 4
0
km以上の長距離移動をしてのぼって
その年の気象状況によっては、春から秋にかけ
て、頻繁にこの移動と短期幕営の生活を繰り返さな
ければならない。そこで、大きなゲルや床板、木製
くる家族が出ることもある。 山羊を多く飼養してい
る家族にこの傾向が強い。
こうして営地を求めてやってきた家族が拒まれる
寝台、装飾的な家具 ・調度品など、余計な家財道具
ことはない。なぜなら、逆の場合もまたしかりで、
は、冬営地のピン(先述の保混用小犀)や倉庫用の小
相手を受け入れることは自分に対する保険でもある
犀に残してゆく。よって移動は 、小さなゲルと必要
からである。つまり、こうした寛容さは、ツェルゲ
最小限の家具が乗せられたラクダを馬上の人が引
ル村とサイル村が同じ第 4パクであるという行政的
き、また別の馬上の人が 山羊や羊の小家畜を追う、
な理由からというより、厳しい自然の 中で生きてき
という形でおこなわれる。
た遊牧民たちの巾に培われた相互扶助の精神から出
このように夏の間は、軽装備な上、家畜小黒も必
ているものだということができょう。
要とされないので、冬営地のような事実上の占有状
態は起こらないはずであるが、数年間の夏営地の選
3. 人間関係
択状況を見ると、ほぼ同じ家族が同じ夏営地を選択
血縁・交友関係からこの 2つの村を見てみよう 。
する傾向が強い、ということが明らかになってく
(血縁関係国は、付録資料 l参照。) ツェルゲル村
90数戸の家族の血縁関係における祖を辿ってゆく
る。もちろんその夏の降水や草の成育状況によっ
て、多少の変化が見られるのは当然であるが、先述
と、大部分がドルジジャンツァンという人物にゆき
のように夏は、冬のように積雪を水源とすることが
あたる。直接の血縁関係だけでなく婚姻による繋が
できないため、井戸・泉などが頼りとなり、牧地の
りや養子関係も含めれば、多くの人が、彼の 7人の
状況も合わせて考えれば、東ボグド山中で夏に幕営
息子と 8人の娘から広がった枝葉のどこか一部を成
することのできる場所は限られてくる。生産 ・生活
しており、相互に“親戚同士"ということになっている。
上の協力者としての近隣関係も考えれば、さ らに選
それに対して、
ドルジジャンツァンと直接的血縁
択の幅はせばまり、結局 、毎年、条件の整った住み
関係の稀薄、あるいは皆無な家族群も幾派か存在す
慣れた場所を選択することになるのである。どの家
る。また、ネグデル時代の後期、西ボグドからヤク
族がどの夏営地に幕営するかは、一穐の不文の慣習
朗養担当家族が移住して来るなど、外来家族も一、
となり、不要な争いは原則として回避され得る。
三いる。
ツェルゲ、ルの人々は互いを尊重し合って、営地選定
をおこなっているのである。
以上(l)~(3) で見てきたように、四季の移動と営
地選定をよく分析すれば、東ボグドーツェルゲル村
血縁・親戚関係は、生産・生活上の協力の必要性
から、先に述べた自然条件と並んで、営地選定の際、
の人きな要素である 。一般にこうした関係にある 家
族同士は、互いに近隣に幕営する傾向がある。
の遊牧民たちは、各家族が村内での秩序もうまく保
また、血縁 ・親戚関係によって、精神的な秩序が
ちながら、めぐる季節i
の巾で、山岳地帯の高度差を
できているのも事実である。例えば、ネグデル時
利用した垂直的土地移動によ って、 水・草・地形な
代、ツェルゲル地区会計士を務めていた J
. ジャ ン
4
2 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
ラヴは、
ドルジジャンツァンか ら数えて 3世代目 の
直接的子孫にあたり、現在のツェルゲル において男
I
V 遊牧民家族経営と「地域」
性の中では最高齢層であるため、この地域社会に対
集団化体制ネグデルによる大規模経営の崩壊に
しである稀、長老的立場を保持している。こうした
よって、現在 、ツェルゲル村でも家族経営が再生し
親戚関係の濃薄や年齢の上下に、性別・所有家畜頭
ている。家族経営の動向とその共同のあり方は、「地
数 ・歴史的経緯などが複雑に絡み合って、ツェルゲ
域」の分析に欠かせないキーポイントである。この章
ルという 小地域における微妙な秩序の素地が形づく
では、まず、家族経営を詳しく分析する。
られているのである。
血縁関係のつくるそうした規範 ・秩序にある程度
規制されつつも、民主化 ・ネグデル体制の崩壊 ・市
1 家族経営再生への過程
(1)集団化体制下のツェルゲル
場経済への移行など、社会体制そのものが人一きく変
ネグデル体制末期、ツェルゲルの遊牧民たちは過
谷している近年、遊牧民の聞においても、信念上の
酷な暮 らし を余儀なくされていた 。当時、 ボグド郡
同異に基づいて新しい人間関係が形成されつつあ
“スフパートルの道"ネグデルの巾でノルマ達成率の
る。それは、後述するネグデル離脱や地域住民主体
最も低い地域は、実にこの東ボグド山巾のツェルゲ
の組合t
邸哉“ホルショー"編成の過程で表面化してくるの
ル=ヘセックの家族群だ、った。
であるが、信頼感に基づくこの新たな人間関係 ・社会
ヘセックとは、生産指導や管理の徹底のためのネ
秩序の萌芽は、将来、個々の人間の個と地域社会の主
グデルの下位地域区分で、ボグド郡のネグデルの場
体性が確立してゆく上でその基礎となり、既存の規
合は 6ヘセックに分割され、ヘセック別に主要な問
範・秩序の良質な部分を包合しながら、より豊かな
養社会化家畜の積類が指導されていた。ツェルゲル
ものへと止揚されてゆく可能性を秘めているロ
さて一方、サイル村は、ツエルゲル村とではな
=ヘセックでは、数戸を除いて山羊の飼養を担当し
た。第 E主
主 で述べたような要因から、しだいに l戸
く、むしろ 地理的条件も等しく、以前、同 一区画で
あたりに割り当てられる家畜頭数が増加してゆく巾
あったフーヴル(現第 2バク)との関係が深いようで
で、特に母 山 羊を担当する家族では 200~ 3
00頭を
ある。ツェルゲル ・サイルでは、各村内のみならず
朗養するとなっては、仔 山羊を一時期に集中して出
岡村聞にも親子 ・婚姻関係など何らかの親類関係が
産させる管理方法のもと、春先には零下の寒夜も毎
ありながら、
30~40k lll もの隔たりがあるという物理
的な要因から、村相互の交流が自ずと稀薄である。
晩、家族全員が交替で見張つての仔 山羊取り上げ作
業をつづけなければならなくなった。労働力に余硲
ツエルゲル村のみでは戸数が少なすぎる、ツェル
のない家族にとっては特に厳しく 、仔山羊育成ノル
ゲル山間部で積雪の多いとき、降山して営する土地
マの未達成を重ね、不足分は私有家畜からの補填を
が必要である、皐魅の夏にはサイル村の遊牧民は比
強いられていた。
較的降水量の多いツエルゲル村へ登山して営するこ
こうしてツエルゲルの人々のネグデルへの不満は
とができる、ツェルゲルには山羊、サイルにはラク
募ってゆき、 1984年
、 2
6歳でヘセック長として赴任
ダの飼育が多いため、相互に利するところがある.
してきた B パットツェンゲルを指導者に、医師 ・
などの理 由を以て、郡行政は、 1
9
92年からこの 2つ
製靴職人などの人材育成、村内分校設置への働きか
の村をを第 4パクとして統合 、バ ク長にサイル村の
けなどを通して、自らの手に自らの生活の場として
遊牧民を任命したのであるが、結局、 1993年 3月に
の
「地域」を取り 戻し、より豊かなものへと再編して
はツェルゲルの遊牧民らは、第 4パクからの独立と
ゆく努力が展開されていった。バットツェンゲル
独自の長の任命とを、郡行政に要請するにまで至っ
は、ヘセック長、つまりネグデルの一幹部でありな
9
9
6年 9月現在、この要求は認められていない。
た
。 1
がらも、むしろ遊牧民の視点から思考し、行動し
以上のこの章で見てきたような事実から、同じ第
た。遊牧民と管理層との黍離傾向の巾で長年生きて
4バクに含まれていても、ツェルゲル村とサイル村
は
、 地形がは っきりと分かれているだけではなく、
遊牧民の立場に立つ誠実な彼に対して、信頼を寄せ
四季の移動のスタイル・土地利用の面から見ても共
ていった。
有する部分は少なく、交友関係も稀薄な、互いに独
立度の高し湯I
J々の小地域社会を形成しているといえる。
きたツェルゲルの遊牧民たちは、若いながらも常に
しかし、ツエルゲルの人々はさらなる試練を強い
られる。立てつづけに自然災害に見舞われたのであ
人間文化・ 4
3
遊牧民家族と地域社会
る
。 1
9
8
6年夏、大干魅のためにヘセック内の放牧地
2 開花する家族経営
が疲弊し、西のジヤラン=ボグド山へと、冬営地を
(1)戸数・家畜頭数の増大
求めてのヘセック外長距離移動を余儀なくされる。
ネグデルによる集団化以前、約 60戸あ ったという
さらに翌年の冬も追いうちをかけるように雪蓄に見
ツェルゲルの遊牧民家族数は、人口の都市部への集
舞われ、ヘリコプターによる飼料投下を受けるほど
中が進行する中で、この体制末期の 1984年、バット
ツェンゲルがヘセック長として赴任した当時には、
の打撃を受けた。
ただでさえ過酷なネグデル体制下の暮らしに、こ
のような自然災害の連続が拍車をかけ、折りからの
2
7戸にまで落ち込んでいた。
しかし、その後、前述のように家族経営がはじま
民主化への胎動の気運の中で、ツェルゲルの遊牧民
ると、急激な物価上昇や燃料・原材料不足による都
たちは自主独立の気概を高めてゆく。そしてそれ
市部・地方中心地での生産活動や生活の逼迫という
は、やがて 1
9
9
1年 1月のネグデ‘ル離脱決行へと収数
状況とあいまって、それまでの牧畜業離れとは逆
してゆく。
に、若者の村内定着と村外からの家族流入とによっ
(
2)民主化と私有化の巾で
て、遊牧民家族の増加という現象が見られるように
こうして、パットツェンゲル、つまりネグデル=
なった。ツェルゲルでは、 1993年夏には再び 60戸台
ヘセック長自らを筆頭に、意志を同じくする 25戸が
を取り戻し、さらに 1996年夏には 90戸を越すに至っ
ついにネグデルから離脱した。ネグデル離脱の例は
ている 。増加した家族のうちわけは、村内で独立し
2番目のケースであった。当
た若い家族が 8戸、東ボグド山の北に広がる半砂漠
全国的にも少なく、
時、すでに民主化がすすめられ、初の自由選挙も前
地帯など村外の遊牧地域から移住してきた家族が 9
年 7月に実施済みであったが、地方では依然として
戸、郡中心地からの移住家族が 7戸、県都からの移
硬直した管理体制から脱し切っておらず、いくらネ
住家族が l戸、首都ウランパートルからの移住家族
グデルに不満をもっていたとしても、地元で権力を
が 2戸、となっている。特に郡中心地からの移住家
握りつづけてきたネグデル幹部層の腕みの巾にあっ
族の中には、 1993年 9月 1日に村内に開校した分校
ては、遊牧民たちが離脱を実行することは、かなり
の教師の家族や、準医師の家族が含まれており、遊
困難だったからである。
牧民たちのみで構成されていた小地域社会は、新た
こうした状況の中で果敢にも離脱を決行したパッ
な局面をむかえている o
トツエンゲル家を含む 25戸の遊牧民たちは、離脱に
一方、家畜頭数に注目すると、家族経営への移行
あたって大人 I人 1
6頭、子供 1人 1
0頭の家畜をネグ
が労働意欲の増進を招き、加えてこの問、気候に恵
デルから分配され、家族経営による生活に入った。
まれたこともあって、同 3年間に 10,699頭から
ネグデル体制の歯車と化していた彼らにとって、私
1
7,5
7
1頭へ 61%増と、こちらもまた、順調な伸びを
有家畜に基づく家族経営の確立は、何よりもまず、
見せていることが分かる。(資料 8)
自己疎外からの脱却を意味する o そしてそれはさら
に、自己の生きる場としての「地域」を自己の手に取り戻
し、その再編をはかつてゆくための大前提であった。
ツェルゲルの一部の家族群は、こうした先駆的な
こうして家族経営は、ここ数年の比較的安定的な
気象条件の中、開花しようとしている。
(2)労働意欲と牧畜技術
先に述べたように、ネグデル体制下では、ネグデ
動きによって、自らの手で、家族経営確立への基盤を
ルレベルで畜群の再生産がおこなわれていたため、
獲得したが、 1992年のネグデル崩壊、そして、その
個々の家族は畜群の再生産の大循環過程のうち、ご
後釜ホヴィツアート=カンパニの設立と解散を経
く一部分を担うにすぎなかった。しかし、私有家畜
て
、 1993年以降、ボグド郡のすべての遊牧民が私有
に基づく家族経営では、それぞれの家族は、自己責
家畜に基づく家族経営を営むようになった。こうし
任のもと、各々の労働力に応じて、五種類の家畜を
て、それぞれの家族はそれまでの管理体制から解放
創意工夫によって自由に組み合わせ、必要な場合は
され、“
ヤ
ル
タ
HA T a
eA θ B λ θ r θ θ T
イ ト ゥ ル
H
T
'
: 1 ル グ ー 卜
共同関係を結びながら、畜群の再生産過程を総合的
M a且(ノルマ未達成については法的責任を負わなけ
に運営することになる。それゆえ、暮らし向きは、
ればならない計画家畜)"の飼養担当者としてではな
ある程度まで個々人の努力にかかっている。このよ
く、“遊牧民"として、自己責任のもと、創意工夫し
うな巾で、遊牧民の自己の家畜への執着ぶりはなみ
牧畜を営む条件を得たのである。
なみならぬものとなる。
4
4 ・人間文化
遊牧民家族と 地域社会
資料8 ツェルゲル村
(頭)
家畜頭数の推移
15000~
/(..
総家布削教
の 将 来 計 画 を 立 て る 。 畜 群 の 年 齢 や 性 の 構 成 を見
て、食 肉用に屠殺す る個体を選んだ り、今後どんな
1
0
0
0
構成にするのが望ましいか方針を立てたり、群れ全
体の毛色の傾向や市場で高値の毛色の傾向を考慮し
つつ、次期の種山羊はどんな個体 にすべきか考えた
5
0
0
0
うち社会化家高"I
i
l
'
<
りする。)
具体的な名前は、以下の 3つの型に大別できる。
ι
1
9
8
8
8
9
9
0
9
1
9
2
(付録資料 2参照。)①毛色、毛質、耳や角の形状、
9
3
9
4
9
5
年)
体型など、個体の外見的な特徴からの命名。シャル
フヴン
シャルガイ
ガイ(薄黄の毛色)・フヴン(毛が綿のようにふわふ
ホ
注数値は、各年度の年末統計資料による。
ヴ
ハル
わ)・ホヴ=ハル(耳が小さく、黒い毛色)・オー ノ
オ ー
ポル
ノ
ン(かもしかのような角)・ ボ ル =イシク (
茶の毛色
例えば、ツェルゲル村では 、その自然条件から 山
で仔 山羊のように小さい体)など。授乳や搾 乳 の作
羊の飼養が多く、その乳は年間の重要な食糧となる
業の際に、迅速かつ確実に個体を区別することが求
各種乳製品として、また、皮やカシミヤは換金畜産
められての命名なので、こうした外見的特徴からの
物として、遊牧民たちの暮らしを支えている。彼ら
命 名 が 最 も 多 い 。 ② 個 体 の 性 質 か ら の 命 名 o ムン
の山羊の管理技術は、この家畜への執着をよくあら
ドゥル(搾乳するために捕らえるとき、
ム ン ド ゥ ル
わしている。
やまねずみの仔のようにすばしつこく捕らえにく
山羊は春先に出産するが、仔山羊をどれだけ育成
い)・ソーダック=シャルガ(搾乳されている時、パ
できるかは、山羊によって生活が支えられているこ
ケツに座る癖があり、薄黄の毛色)・ゾジク=ボル
ソダック
ン句ルガ
の地域の遊牧民の経営と生活そのものを大きく左右
(放牧巾、群れの 巾でいつも遅れて歩き、茶の毛色)
する。そこで、母山羊と仔山羊の管理を徹底するた
など。③ 仔 山羊誕生に関連する命名。ソヴァイ=ハ
めに、遊牧民たちは、初めて仔を出産した年にそ の
ル(不妊がつづき、今春、初めて仔を産んだ黒い毛
母山羊に名前をつけ、他の個体との区別をはかり、母
色)・ヘーリン=ボル(雪原で仔を出産、数 日後 に仔
ノヴァィ
と仔の相関関係を 1ぺアも間違うことなく把握してい
を連れて家に戻ってきた茶の毛色)・アゴイニー=
る
。
ハル(洞窟で仔を出産した黒い毛色)など。少数なが
アゴイ
100ペアを越えても、これは確実に記憶される 。
ハル
命名の主なる効用は、次の 3点である。①仔山羊
ら非常に特徴的な この命名の仕方から、仔 山羊の出
の授乳において。(仔 山羊は、群れに混じってを牧草
産と育成が、遊牧民の生活にとってどれほど重要で
を食べれるほどに成長するまでの期間、朝夕 二 回
、
あるかうかがえる。フルングー(財産 ・資本)という
人間が母乳飲みの介添えをしてやる必要がある。家
名前の母山羊さえいる。フルングーの母は、廃畜と
族総出で仔 山羊を順次抱き、それぞれの母山羊の乳
なるまでの約 10年間に、双子を含む 20頭の仔山羊を
房に近づけておいてやるのだが、その時、名前を呼
出産 し た 。 フ ル ン グ ー は 、 こ の 母 の 最 後 の 仔 で あ
ぶ こ と に よ っ て 、 自 ら 寄 っ て く る 母 山羊 もいるの
る。まさに暮らしを支える源泉としての母 山羊への
で、労働がいくらか楽になるし、独特の掛け声と合
思いが、名前に込められている。
わせることにより、母山羊が安心し、授乳がスムー
普通、山羊の搾乳は、女児も含めて女が主にする
ズになるという作用 もある。)②母山羊の搾乳にお い
仕事であるので、彼女らは、この朝・タ毎日 J 度の
て。 (夏になり、母 山羊を搾乳するときには、一頭 ・
母山羊との関わりの 中で、母山羊の形状・性質を適
一頭、捕らえながらおこなわれる方法があるが、名
礁にとらえている。さらには、仔山羊を何度出産し
前を呼ぶことによ って捕らえやすくなるし、自分以
たかによって、年齢までも確実に把握している 。
外の者に母山羊の捕獲と保定を頼むときに、明確に
よ って、母 山羊の名前は、それらの要素をもとに初
指示できる。さらに、搾乳に携わる者 同志で、搾乳
出産時に 一応、与えられながらも、その後、搾乳と
済みか否かのチェ ック を お こ な う に も 、 有 効 で あ
いう作業の 巾で彼女らの問で呼ばれるうちに、より
る。)③経営計画において。(特に経営発展をのぞむ
的確なものになってゆき、最終的に上の例のような
勤勉な遊牧民は、どの母山羊からどんな特徴をもっ
名前として定着してゆくものなのである。労働の必
仔 山羊が産まれたか、毎年、ノートに記帳して経営
要性から生まれるこうした名前は、それゆえに母山
人間文化 ・ 45
遊牧民家族と地域社会
ハッ トツェンゲル家の;欠女ハン ドー
春先はイ子家畜誕
生のラッシュ。仲間がたくさ ん増え ます
。
(3
)四季の愉しみ
家族経営の確立によって 、生産活動そのものの自
主性回復の条件が得られたわけであるが、娯楽とい
う 要 素 も ま た 、 遊 牧 民たちの 心 豊かな暮らしとっ
て、欠くことができない。遊牧地域では、それは主
にそこでの自然の恵みの 巾に存在する。
夏の東ボグド 山上は、草丈深い放牧地 、群れ咲く
色とりどりの可憐な高 山の草花 、乾燥保存され食さ
れる白きのこツァガーン=ムー夕、茶に加工される
里子生の草花シュヴゲン =ツァイ 、 ジュースにもされ
る粒状の木の実トシ ロイ、野生の玉葱、各種.薬草、
絶好の狩猟の対象であるタルヴァガン(マー モ ッ
ト
)
、 山頂部に湧き 出す鉱泉、清 I
i
9
J
な渓流など、天然
資源の宝庫である。ハンハという谷には、ウリヤス
(やまならし)がこの 山唯一の木立ちをもつくってい
る。山上に夏営する遊牧民はもとより、より低地に
夏営している者も、個人で、家族で、また気のあっ
た仲間たちで登山し、採集、狩猟、鉱泉汲みなどを
堪能する。ツエルゲルの老若男女にとって 、 この豊か
な自然の恵みにひたることが夏の最も人-きな喜びのひ
羊それぞれの特徴を見事にとらえている。
以上のように、母山羊の命名は、仔山羊の出産と
とつなのである。土地の誰もが誇り称えるこの東ボグ
ドの夏の 山上は、村外の遠方からもまた人々を誘う。
育成、母山羊の搾乳、さらには経営の将来計画立案
一方、裾野の乾燥地帯には、砂地に成育する野生
と、家 族 経 営 に お け る 山 羊 と い う 家 畜 の 再 生 産 に
の長フムールが群生する。これは、ゴビの家畜に
とって、ひとつの“牧畜技術"というべき、重要なも
とって最も良質な滋養を含む牧草であるばかりでは
のである。ここでは、特に母山羊の命名を例に挙げ
なく、ひと冬用いる肉料理の薬味として、人間のビ
たが、家族経営を営むためには、何段類かの家畜群
タミン不足をも補ってくれる。ツェルゲルの遊牧民
を再生産してゆかねばならず、それには、家畜群に
たちは、夏から初秋にかけて 、 フムール群生地帯に
対する各穐かけ声 ・放牧時における家畜群の誘導 ・
赴 く機会があれば、これを大量に摘み、刻んで塩漬
牧草や薬草の知識 ・種つけ・去勢 ・耳 印 つけ ・焼き
けにして保存食とする。また 、秋に、 山の北 に広が
印つけ ・搾乳・乳製品加工 ・革なめし ・革ひもづく
る砂漠地帯まで、ツォル ヒルという様木の実をあつ
荏木)収
り ・毛純づくり ・ホジル採集・燃料(畜糞 ・j
めにゆく者もいる。この実で乳茶を沸かすと、香ば
集など、実にさまざまな牧畜 ・生活技術に習熟して
しい独特の風味が加わる。
いることが必要である。また、フェル卜づくり・大
厳しい冬にも冬なりの愉しみがあり、晴れた日の
型家畜の屠殺・ 四季の移動・家畜小屋づくりなど、
雪原の放牧は、夏の高原にも増してさわやかであ
一家族ではできない作業は 、共同の力によっておこ
る。毎日、乳から酒が蒸留されていた夏とは違い、
なわれるが、これも個々の人間の確かな技術なくし
男たちにとっては、長い冬を無事に越すための仕事
ては成し得ない。こうした技術は、親から子、子か
に、一家の主としての責任と充実を感じる季節であ
ら孫へと、また経験豊かな先人から若い世代へと、
るo また、男たちは 、 こうした冬の間も時折り 、狩
家族 ・ホタ=アイル ・「
地域」の 中で、合ーまれ継承さ
りを愉しみ、狐や兎なと、の小動物、ヤットー(いわ
れてきたものである。牧畜 ・生活技術は、まさに家
しゃこ)・ノク卜ロー(えぞやまどり)などの鳥を雪原
族と「 地域」の財産なのである。モンゴルの遊牧の生
に追う。一方、女たちの方は、搾乳と乳加工の繁雑
産と生活が、こうしたこまやかな技術体系によって
さから解放され、かまどで暖をとりながら、羊毛や
支えられていることを考えれば、家族と「地域」の果
ラク夕、の毛で糸紡ぎや編み物をしたり、刺し子の
たす役割の大きさを改めて理解できよう。
カーペットをつくったりして、春先 、仔羊や仔 山羊
4
6 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
晩秋のハンハ谷 東ボグド 山で唯一の木立ち。
泊まり
がけの狩りは、
男たちの最高の愉 しみ。
ツェルゲル本l
においても 顕著にな ってきている。
1
99
5年の年末統計資料をもとに、 ツェルゲル村 の
家族を所有家畜頭数の規模にした がって分類 しピラ
ミッド=グラフ化すると、 資料 9のようになる。所
有頭数の差をより明確にする ために、ラクダ l頭=
山羊 9頭、馬 1=山羊 7、牛 1=山羊 7、羊 1=山
1 4の比率で山羊頭数に換算 した上で処理 した。
羊,
また、統計資料上は別名義であっても、実際には一
つの家族として生活している と見た方がよい場合(老
人や独立前の若者などと 本家の 関係。ゲルは別個に
建てていることもある。そ の場合はホタ =アイルを
組んでいる。)は、原則 とし て一戸 とみなし、その合
計頭数によって処理した。このグラフから、 地域内
の家族問の格差がかなり 拡大していることが明らか
によみとれる。同資料によると 、ツェルゲル村 にお
の出産に追われる時期までのひとときを、静かに
いて最も所有家畜頭数の多い家族は 、実に 1
,0
4
8頭
ゆったりと過ごす。
,31
5
頭)を有するまでに成長しているの
(
山羊頭数で 1
仔家畜の出産は、農耕民にとっての収穫のよう
に対して、最も少ない家族は、わずか 2
9頭(山羊頭数
に、遊牧民たちの大きな喜びである。家畜小犀のあ
で3
6頭)しか所有していない。その差は実に ,
1 01
9
頭
たりで走りまわる仔羊や仔山羊は、子供たちにとっ
(
山羊頭数で 1
,2
7
9頭)である。
ては良い遊び相手でもある。
このように、四季折々の自然の恵みに遊牧民たち
I限
ネグデル体制下では、私有家畜は所有頭数が市J
されており、ゴビ地方では上限が7
5頭であった。後
の喜びがある。その半 面 、 自然はある時には、砂
に牧畜業における諸改革がすすめられ、 1
987年に
嵐 ・洪水 ・干魁 ・雪害 ・火災など、猛威をふるうこ
は、この制限が事実上撤廃される。それ以後、どの
ともある。事実、干越と雪害の連続は、先に述べた
ようにして最大 1
,0
19頭もの家族間格差ができるに
ようにネグデル時代の末期 、東ボグド 山中 のツェル
至ったのか。
ゲルの人々を苦しめてきた。ここ数年は比較的天候
制限が撤廃されてまもなくの 1
9
8
8年、一部家族が
に恵まれているが、これから先、自然の脅威はいつ
ネグデル離脱 によって私有家畜を獲得し、また 、ネ
襲ってくるか分からない。
ツェルゲルの人々は こうした 巾で、ネグデル体制
からの独立をはかり、「地域」再編を模索してきた。
グデル崩壊とホヴ、イツアー ト =カンパニ設立 にとも
なう「小私有化」がおこなわれた 1
9
9
1年、カンパニ解
体 による全面的私有化が完 了した 1
9
9
3年、という節
厳しくも豊かな東ボグド 山の自然とそこで繰り広げ
0である。こ
目の年の状態をグラフ 化 したのが資料 1
られてきた歴史は、自らの生きる場としての「地域」
9
8
8年には、 9
れを見ると、 制限撤廃後まも な くの 1
への愛着と誇りと自信とをツェルゲルの人々の心に
割の家族が O~ 1 99頭の層に含 ま れ、所有頭数最多と
引き起こし、彼らを一つの小地域社会として結びつ
最小の差も比較的小さかったのが、 1
9
9
1年の部分的
ける鮮となっているのではないだろうか。ツェルゲ
な私有化を経て 1
9
9
3年に全面的な私有化が完了する
ルの人々は、まさに自然と歴史の共有者である。
巾で、ピラミッドは多層化し 、その後も格差がます
ます拡大していることが分かる。
3 あらわれはじめた諸問題
(1)地域内階層分解
私有家畜を獲得したことによって、個々の家族は
私的な利潤を追求する条件 を得 、遊牧民たちの労働
意欲が増進しているのであるが、これは同時に家族
現在、私有家畜を多く 所有す る「富俗戸」の過去を
辿 ってみると 、 こうした家族は、 普通、ネグデル時
代にも社会化家畜を多く担 当 していた。これら家族
は、労働力や遊牧民的資質といった面で条件が整っ
ていたため、ノルマを 確実に 達成でき、「優秀遊牧
問の格差が生まれる条件でもある。「私 J
の成長と格
民Jとして表彰されることもあ るほどであった。私有
差増大の緩和という二律背反の命題は、ここ数年、
家畜の方も、余力のある限りできるだけ制限頭数の
人間文化 ・ 4
7
遊牧民家族と地域社会
ル村
資料 9 ツェルゲ‘
所有家畜頭数によるピラミ ッ ド
=グラフ (1995年)
(頭)
1
200-129
1
1
00-1
1
9
1
00
0-109
900- 9
9
800- 8
9
7
00- 7
9
600-6
9
500-5
9
4
00-49
加算すると、独立自営家族として充分に経営してゆ
200-2
9
1
00- 1
9
れる。その一つは、 確かな牧畜技術を駆使して勤勉
は、一般に家族員数がよ り多いため、 私有化 によっ
て獲得した家畜頭数も よ り多 い。 これ を、制限頭数
近 く、あるいはそれ以上
、 所有している私有家畜に
けるだけの素地 を持つことになる。しかも、母家畜
の数が多いほど、産 まれる 仔家畜の数も多いので、
「富裕戸 Jほど、年間の増加 頭数は多くなる。しか
も、それは、年を追って累乗的 になってゆくのであ
る。富裕戸の巾には 2つの特徴的なタイプが認めら
。
-
に生産労働に取り 組む ことによ って、 地道に頭数の
9
(戸 )
増加 と畜群構造の充実をはかる、いわばベテランの
優秀遊牧民であり、もう一つは、家畜の交換によっ
上限 7
5頭ぎりぎりに近づけてゆき、さらに増加すれ
て、頭数の増大と構造の充実をはかる 、いわば経営
ば、超過分を独立前の子や高齢の血縁者の名義で、
家的才覚を有する者である。 私 的所有の条件下、こ
帳簿上は別途に登録する、という便法を用いること
うした個人的資質も開花し、富裕戸の経営は飛躍的
もあった。こうして、実際には、一家族で制限頭数
に拡大している。
以上の私有家畜を所有する家族も出てきていた。
一方、現在、私有家畜の少ない「弱小戸」は、ネグ
以上のように、家族問の格差は、ネグデル時代の
状況を家族経営下においてもひきずった形であらわ
デル時代にもやはり厳しい状況におかれていた。こ
うした家族は、 母子家庭であったり小さな子供を抱
える独立して問もない若い家族であったりして、労
動力が不足していることが多い。ところが、急激な
資料 10 ツェルケー
ル村
人口増加と産業構造の変化 によって、ネグデル末期
には家族の労働条件が整っておらずとも、飼養担当
家畜が過剰に割り当てられるようになった。「弱小
戸J
は、ノルマ未達成をつづけ、未達成分をなけなし
の私有家畜から補填することを毎年繰り返す悪循環
所有家畜頭数によるピラ
1/93年)
ミ ッ ド=グラフ (1988/9
{頑),
1
9
8
8
l
下
300-3
9司
2
200-2
9司 I 1
100- 1
9司
0- 9~
じ2
~
に陥っていった。
このように、すでにネグデル体制下でも、ある程
(頑)
度の限度がありながらも、遊牧民間の格差が存在し
ていたのに加えて、一連の私有化も、「弱小戸」に
とって不利なものとなった。私有化 による家畜分配
は、家族員数にしたがってなされたため、家族員数
の一般に少ない「弱小戸 Jは、より少ない頭数しか獲
1
99
1年
500-5
9
400-49
300-3
9
200-2
9
100- 1
9
2
0
0- 9
得できなかった。それでも、生きてゆくためには、
(戸}
毎年、一定数を食肉用に屠殺しなけらばならない。
持ち分の少ない「弱小戸」では、まだ出産可能な母家
畜に手を出したり、借金で他家族から食肉を買った
盟盟主
りして、やっとそれらを確保する状態である。これ
を繰り返してゆき 、母家畜が一定数以下になると 、
家畜群は、仔畜出産による増加分より、消費による
減少分の方が上回ってしまうことになる。これで
は、拡大どころか縮小再生産へむかう道である。
これに対して、労働力のそろっている「富俗戸 J
500-5
9
9
400-+
300-3
9
200-2
9
100- 1
9
0- 9
2
2
1
2
(戸)
4
8 ・人周文化
(戸)
遊牧民家族と 地域社会
れている 上 に、全面的私有化 によって限度が取り払
的裕福な遊牧民から圧力がかかり、また、 移動用役
われたために、さらにかなりの程度 、 しかも急速
畜をもたないために 、夏営地 フ レ ン =トルゴイ (夏営
に、その拡大が進行していったのである。
3
)に残留したまま越冬するところであった。
地番号 1
それでも、「弱小戸 jの遊牧民たちも、自分の努力
それを見かねた別の遊牧民が、せめて石煽の家畜小
しだいで必ず経営は拡大できる、という 希望を失わ
屋がある場所へと、元来、春営地 として築かれた 1
ず、日々 、労働に励んでいる。例えば、 母子家庭の
k
m先のビルーン=ホロー ト(冬営地番号 4
2
)まで、ラ
992年
「弱小戸 JN マーム家は、カンパニ所属時の 1
クダで移動させてやった。その後、家畜頭数が少し
には、私有家畜は 1
9頭であったが、その後、カンパ
ずつ増加し、移動用の役畜をももつに至った現在で
7
ニ解散にともなう家畜分配によって、家族 4人で 5
も、この弱小戸は、夏と冬の 2度だけ、しかもあま
11
5
頭まで増加させている。こ
り距離の離れていないフレン=トルゴイとビルーン
の家族は、夏の聞は乳製品 を食べ、東ボグドの高 山
=ホロー トとの聞を移動するので、村の遊牧民か
部でタルヴァガンを狩ったり、きのこやフムール(野
ら、「住みっぱなし」とさえ、あだなされている。こ
頭を獲得し、現在、
ガ
ー
生の韮)を採取したりして、食生活を工夫し、なるべ
の弱小戸も、やはり母子家庭で、外部と対等に交渉
く食肉用に家畜を屠殺しないよう努力して、ここま
する男手を欠くことが、この家族を常に不利な立場
で増やしてきたという。長男が 1
995年秋に結婚し独
に追いやってきたようである。
立したため、現在この家族は、 5
0歳の母と、今夏兵
階層的な差がなくても、ツェルゲル村のこ こ数年
役から帰ったばかりの 2
0歳の次男と、 1
6歳の娘との
の家畜頭数と戸数の増加によって、冬営地の獲得は
3人になったが、 1
0年後には 1
,0
0
0頭にするとの意欲
難しいものとなっている。新しく独立した若い家族
を語っていた。
や村外からの流入家族が、冬営地を確保しなければ
しかし、小麦粉を買う現金にも不足している現状
ならないのはもちろん、従来の村内居住家族の 中に
にあって、今後 、 こうした個人のささやかな努力と
も、所有家畜頭数の増大に合わせて、より良い場所
勤勉さとだけで、どれほど経営を拡大してゆけるの
へと冬営地を変える者が出てさており、こうした家
だろうか。 1
9
9
6年 6月末の選挙で政権の座についた
族は、ず、っと昔使用されていた冬営地を新たに整備
民主同照は、選挙時の公約の巾で、弱小遊牧民家族
し直すなどして、何とか自己の冬営地を確保してい
の免税を謡っていたが、弱小戸に向けられる公的補
る。こうして冬営地の数は、 1
9
9
2年冬の 43から 1
9
9
5
助は、もっと多面的に行われるべきであろう。
年冬の 5
4へと増加しているが、牧養力や水の条件か
(
2)営地確保
ら、ツェルゲ、ルという限られた土地内での営地は、し
こうした地域内の階層分解は、営地確保にも影響
だいに飽和状態に近づきつつあるのが現実である。
を及ぼしている。例えば、先の母子家庭マーム家を
ツェルゲ、ルへの流入と定着を志向する家族と、従
含む弱小戸 4戸は、他のほとんどの家族が東ボグド
来からの居住家族との聞に見られたトラブルの例を
高山部に幕営する夏の間も、冬営地(資料 6の冬営地
挙げてみよう。 D. アディヤスレン家(以下 、 A家)
番号 1
3・1
4
)からさほど離れていない村西部の低所
は、ネグデル時代の最後の数年間、冬は毎年ザミン
モー=スージ(資料 7の夏営地番号 1
6
)に幕営する 。
8
)に幕営しており、私有化の
=ボーツ(冬営地番号 2
家畜がその付近の土地に慣れているので 、高所への
際もここを自己の冬営地として獲得した。それ以
移動はむしろ適応を欠くであろう、というのが彼ら
後、毎冬そこに幕営している。さて、 1
995年夏、東
の弁であるが、村内の他の家族との交流が稀薄であ
ボグド北麓に広がる半砂漠地帯フーヴルで草の状況
るという事実から、彼らの営地選択の仕方に、階層
が悪かったため 、S
a フルレーという家族(以下、 H
分解による社会的偏見が絡み合っている可能性が全
家)がツェルゲルに幕営地を求めてあがってきてい
く無いとは言い切れない。
た。あがってきた理由には、単に自然的要因による
また、第 皿章で触れたように、冬営地の私有化に
一時的なものだけでなく、ゆくゆくはツェルゲルに
ともなうトラブルが、階層分解に絡んで起こること
冬営地を確保して住みつき、就学年齢の近い子供た
もある。 別 の「弱小戸」を例にとると、 D. ナツアツ
ちをツェルゲルにある分校に入学させたい、という
ク家は、私有化の際、村西部の冬営地パローン=ド
将来的な展望も含まれているようであ った。そし
ゴイ(冬営地番号 1
5
)を自らの所有とし、帳簿にも登
て
、 2度、場所を変えながらも、秋もツェルゲル内
9
9
2年冬、先にこの冬営地に入った比較
録したが、 1
で過ごした H家は、冬を迎える頃、家畜の半分は別
9
人間文化 ・ 4
遊牧民家族と地域社会
の所に預けるという条件で、ザミン=ボーツに冬営
させてほしい旨 、 A家に申 し込んだ、。 A家はこれを
V
ツェルゲルのホタ=アイルの特質
承諾したが、実際には家畜の半分を 他 に預けるとい
0
0頭ほども家
う約束は果たされなかった。 H家は 5
畜を所有するので、 A家の 1
3
9頭と合わせると、こ
1.ホタ=アイ ルの機能
家族経営では、家畜 ・家財等の所有は各戸別であ
の付近の牧地は例年より早く疲弊してしまい、 A家
るが、生産労働や生活上の必要に応じて、家族問に
は翌年 i月2
0日に早々と春営地への移動をいそがな
協力関係が結ばれる。こうした共同の形として、
ければならなかった。 2月の旧正月をザミン=ボー
ツェルゲル村でも、第 E章で見たような伝統的遊牧
ツでむかえ、やや寒さが緩んでから春営地へ移動す
共同体ホタ=アイルが再生してきている。ホタ=ア
るのが普通なので、約 1ヵ月も早い、寒気の 巾の移
イルの基本的な共同内容については、第 E章第 l節
動を強いられたことになる。
で述べたが、ツエルゲル村におけるホタ=アイルの
この体験から A家の主は、人の所有する営地の使
機能について、さらに分析してみる。
用に関しては、何らかの規則を設けるべきだ、とい
(1)ライフサイクルの中で
う意見を述べていた。しかし、その一方で、先祖
遊牧では、季節によって自然条件や労働内容が変
代々この地方の厳しい自然の巾で生きぬいてきた経
化する ので、ホタ=アイルの組まれ方も変化する。ま
験 豊 か な 巾 堅 遊 牧 民 と し て 、 “ X a5
1 a
た、間養する家畜頭数 ・種類や家族成員数の変化に
6arTaxaap 6yy}¥(, Xa3aap
6arTaxaap 1,U Hヨー(場所がせま いな
よっても、必要とされる共同の内容が変わるので、
ら
、 2つの家族はゲルを寄り添うように建て、草が
経営がともに成長 ・成熟し、次の世代へと交替して
ホタ=アイルは、一つの家族が生まれ、家族 ・牧畜
少ないなら、 2頭の馬は轡が擦れ合うほどに仲良く
ゆく、という一連の過程、つまりライフサイクルの
食べる。)"という旧くからの諺を引き合いに出し
巾でも変化してゆく。それぞれの段階(ライフステー
て、天候異変などの非常時には、 地区割を越えてさ
ジ)において、その必要性に基づき、それに適する組
え、営地提供による助け合いをすることが必要であ
み合わせでホタ=アイル体制 がとられるからであ
るとし、モラルともいうべき遊牧社会独特の慣習の
る。そして、この組み合わせの変更は、ゲルが固定
正当性も、捨て切れない様子であった。
家展でないために比較的容易に行うことが可能であ
他家族との兼ね合いがありながらも、家族経営を
る。遊牧社会ならではの柔軟さである。
営む者にとって、自己の家畜頭数の増加が一大関心
例えば、殺は、青年期を迎えた息子にゲルを別に
事であることに変わりはない。そして、家畜を増や
用意し、家畜を分け与えて自分の家の横に住まわ
すには、条件の整った良い営地が必須である。 f富
せ、独立への準備をさせる。巣立ちゆく息子は、や
俗戸」では、牧地 の疲弊を避けるために、冬から春
がて結婚してからも 、 しばらくは経験ある遊牧民と
にかけての草の少ない季節には、出産する母 山羊 ・
しての親の家族とホタ =アイルを組み、生活する。
母羊の群と、その他の群、というように小家畜を分
そして、一家の主という責任ある者として、確実に
類し、独立前の息子や独立まもない若夫婦に一方の
技術を体得し、独立できるだ、けの家畜が整ったとこ
群を任せ、それぞれ別々の場所に幕営する、という
ろで、親とのホタ=アイルを解消し別の幕営地へと
方法までとっている者が多い。私的利潤の追求の巾
独立してゆく。もちろんその後も、必要に応じて親
で、限られた良質の営地の獲得は、さらに織烈なも
とホタ=アイルを組むし、経験豊かな助言者として
のとなる可能性がある。ゴビという自然条件のもと
親を尊敬しつづけることに変わりはない。
では、土地の牧養力に限りがある。「地域」人とし
また、出産間近の妊婦をかかえる家族が、遊牧民
て、村内の他家族との共存も考慮しなければならな
でありながら助産の技術をもっ者のいる家族とホタ
い。このまま個々の家族が家畜頭数(特に山羊)の増
=アイルを組む場合がある。郡中心地の病院から 7
0
加のみを追求することが、いずれ限界をむかえるの
kmほども離れているツェルゲル村では、迅速な通
は、避けられない事実である。今、「富裕戸」に求め
信 ・交通手段をもっているわけでもなく、村内を巡
られているのは、数的成長から質的向上への転換で
回往診する医師がいても突然の場合は間に合わない
あるといえる。
ので、結局、ホタ =アイルのように絶えず暮らしを
ともにしている者が、最も頼りがいがあるからであ
5
0 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
資料 1
1 B パ ッ トェンケJレ
家
・ Jジャルガル家の
名前
戸
主
パットツェン ゲ )~
妻
パドローシ
年齢
面
考
9
8
4年、ヘセック長として ツェl
レゲルに来る。
3
8 1
パ
ヤ
ルマ
ー
の
叔
母。
3
4
長女パダムス レ
ン
4
1 郡中心地で 2
年就学後、分校へ。 5
)
&
4年
生
。
;
x
女 パダムハンド
1
0 )
)
校3
年
生
。
年
生。
)
)校1
長
男 パダムセッド
改
男 サンギパット
三
男 iャンガンポー
p主 ジャルガル
2
9
パヤル 1-
2
8
妻
1994年冬、砂謀の村かりツェルゲ)~に来る。
パ
ド
ロー
ー
ゾ
の払
長
男 トゥムルチュドゥル
ムガうン
政
男 7
パットツェンゲルの弟の妻ドラム ;窪木あつめ。長い冬を越
すために、とくに秋口からは大切な仕事になる。
る
。
働き盛りの家族が、年老いた者とホタ=アイルを
組む場合もよく見られる。放牧などの家斉管理.7l<
注
)本 軍
監構成 l
I、1
9
9
6年現在。家事頭数 l
I、1
9
9
5年度の年末統計百料による。
i
及み ・燃料(畜糞 .i
笹木)収集・四季の移動など、年
老いた者にはできない 、体力 が必要とされる仕事を
でいるものがある。その具体例と して、 1
9
9
6年夏、
若い家族が担うのである。「年老いた者」というの
「弱小戸 JJ ジャルガル家(以下、 J家)と「成長戸」
は、自己の親、あるいは妻の親の他、親戚の老人や
B. パットツェンゲル家(以下、 B家)とが組んでいた
血縁関係のない老人の場合もある。このことは、ホ
ホタ=アイルを分析してみよう。(資料 11)
タ=アイルという遊牧社会独特の共同体制によっ
「弱小戸 J
J家は、 2
0代後半の夫婦と幼い子供 2人
て、地域全体で老齢者の生活を扶助している、と考
の 4人家族である。夫 ・妻とも、元来は東ボグド山
えることができる。もちろん若い家族にとっても、
の北麓 に広がる砂漠地帯の 出身で、結婚後もそこで
老齢者と組むホタ=アイルの利点は人ーきく、小さな
ネグデルのラクダ飼養担当家族として暮らしてい
子らを世話してもらったりするほか、薬草の利用
9
9
3年
た。しかし、ノルマ未達成を重ねたために、 1
法・営地選択 ・対人関係など、何かにつけ、経験に
のカンパニ解散に ともなう 私有家畜分配 の際 、そ の
基づく老人の知恵・助言は大切なものである。
補填分を規定分配頭数から 引かれてしま った。その
このように、ホタ=アイルは、人口稀薄な土地柄
後も経営は進展せず、所有家畜頭数は、 1
9
9
4年年末
において、家畜の再生産という牧畜労働の補完 ・技
統計で 4
3頭(山羊頭数で 1
0
4頭
)
、 1
9
9
5年年末統計で
術の継承と同時に、人間の生命そのものの継承 ・再
ステージでの必要に応じて臨機応変に離合集散でき
4
4頭(山羊頭数で 7
4頭)と、ツェルゲル村で最も少な
い家族の一つである。東ボグド 山巾 のツエルゲル村
9
9
4年の冬である。
に移住してきたのは 1
0代の夫婦と 2~ 14 才の
一方、「成長戸 JB家は、 3
る、柔軟性という優れた特性も兼ね備えている。
子供 5人とから成る 7人家族である。バットツェン
生産にとっても重要な機能 を担っている。ホタ=ア
イルではまさに“命がひとつ"であり、かつ各ライフ
(2)r
弱小戸」にとって
前章第 3節で見たように、ツェルゲル村の内部で
は、現在、所有家畜頭数の格差拡大が進行してお
り、それは「富硲戸 jから「弱小戸 Jまで多層化してい
る。この「弱小戸 J
の巾には、牧畜労働においても、
消費生活においても 、独立しては暮らしが成り立た
ないので、「富俗戸 jや「成長戸 jとホタ=アイルを組ん
9
8
4年
、
ゲルは、これまでにも触れてきたように、 1
2
6歳でネグデルーヘセック長としてこの村に赴任し
てきた。以来、土地の人々の指導者的役割を担い、
1991年 1月
、 ヘセック長という立場にありながら
も、意志を同じくする遊牧民たちとともに自らネグ
デル離脱を実行し、ひとりの遊牧民として私有家畜
9
8
7年の私有家
に基づく家族経営を営みはじめた。 1
人間文化 ・ 5
1
遊牧民家族と地域社会
畜所有頭数制限撤廃後まもなくの 1
988年の年末統計
る。そこで、ジャルガル夫妻の協力が有効となる。
で1
0
0頭(山羊頭数で228頭)であった家畜は 、ネグデ
これは、冬営地 を貸すことによ って、暮らしをとも
ルを離脱した 1
9
91
年の年末統計では 224頭(山羊頭
にしなければできないことである。富裕な家族は、
数で438頭)、さらに 1
9
95年の年末統計では457頭(山
弱小戸に与えるばかりではなく、自己にとっても必
羊頭数で 7
7
3頭)と着実に増加している。
この 2
要だからこそ、ホタ=アイルを組むのである。
家族は、 1
994年冬に J家がツエルゲルに移住してき
第 E章 第 2節で触れたシムコフの 1
9
3
3年夏の調査
て以来、 1
996年夏に至るまで一貫してホタ=アイル
報告によれば、当時見られた f
富俗戸 Jと「弱小戸」によ
を組んでいる。
る経済従属型のホタ=アイルでは、表立った搾取の
J家は、所有する母山羊が 1994年末には 16頭
、
他、様々な形で“隠れた搾取"が行われていたとされ
1
9
9
5年末には 1
7頭しかいない上、毎年仔山羊育成率
ている。しかし、現在のツェルゲルにおける富硲な
が低い。それは頭数が増加しないことばかりか、そ
家族と「弱小戸」とのホタ=アイルの関係は、そこま
の年の夏に搾乳できる母山羊の数がさらに少なくな
で達していないと言えるのではないか。なぜなら、
ることを意味する。実際、 1
9
9
6年夏に搾乳していた
弱小家族は、自己の少ない所有家畜頭数を考えれ
のはたった 10頭で、冬期の自家消費用の乳製品さ
ば、富硲戸と一群れにした小家畜の放牧当番を等し
え、充分に確保できない状態にある。 B家は、こう
く担当したり、仔畜出産に伴う作業を“協力"するこ
した J家に対して、自家の乳製品から援助をしてい
とによって、なるほど必要以上の労働を投入してお
る
。 1
9
9
5年を例にとると、ツァガーン=卜ス(羊の胃
り、シムコフの指摘する“隠れた搾取"になっている
lつ1
0.
f)
を 5つ、山羊の乳
とも言えるが、ツェルゲルの現状では、富硲な家族
袋に詰めた白バターで、
0.
f与えた。乳製品は
のシミン=アルヒ(蒸留酒)を 1
とホタ=アイルを組むことによって受けている多面
その他ジャルガルの妻の実家からも、ある程度届け
的な援助から見て、マイナス面より、むしろプラス
られる。
面の方がまさっている、ととらえる方が適当であろ
また、 J家は、自己の冬営地をもっていない。し
うからである。 B家が家族経営をはじめてから今ま
かし、 B家とホタ=アイルを組んでいるので、彼の
でに組んできたホタ=アイルの相手は、常にその時
冬営地を使用させてもらうことができる。 J家が
点で家畜頭数の少ない家族である。 B家は自己の家
1
9
9
4年冬、砂漠の村からツェルゲル村に移住してき
族経営の拡大に努めると同時に、彼ら弱小家族の生
たのは、冬営地を求めてのことであった。両家の妻
活を支援してきたのだとも言える。弱小家族の個人
同士がおばと姪の関係にあるので、それを頼って来
的資質も関係するので、富裕家族とホタ=アイルを
たのである。
組んでいる問に、必ずしもすべての弱小家族が独立
役畜も少ない J家にとっては、四季の移動の際に
も
、 B家とホタ=アイルを組んでいることによっ
するほどに成長できるとは限らないが、一つの大き
なチャンスであることは間違いない。
て、助けられている。パットツェンゲルの親戚の遊
以上、(1)と (2)で見てきたように、現在のとこ
牧民が所有するトラックで、家財道具を運徹しても
ろ、ツェルゲルにおけるホタ=アイル共同体は、こ
らうのである。移動できないと牧地の疲弊を招くの
の“小地域"にあって、民主的に機能している状態に
で、移動を手伝ってくれる者の存在は、遊牧民に
あるといえよう。
とって非常に重要である。
このように、「弱小戸 Jは、より余俗ある家族とホ
タ=アイルを組むことによって、様々な面で援助を
受けているのだが、もちろん富俗な家族にとっても
2
. ホタ=アイルの規模・内部構造
(1)規模
このようにホタ =アイルは、“小地域"での暮らし
利点がある。例えば、 B家は、男手が戸主のみなの
にとって、重要な役割を担っているわけであるが、
で、日々の小家畜放牧や、大型家畜の管理、四季の
ツェルゲル村の巾でこの共同を組む家族は、実は、
移動、冬営地の家畜小尾の整備などに、ジャルガル
全体の 6~7 害IJ で、しかも、その 8~9 割が 2 家族
の力が必要なのである。また、 B家の所有する母
から成る、という、たいへん小規模なものである。
羊・母山羊は、合わせて 1
5
0頭を越えるので、春先の
(資料 1
2
)
出産時には、昼夜を問わぬ仔羊・仔山羊の取り上げ
これに対して、シムコフが調査を行ったアルハン
や、朝夕の授乳など、集巾的に労働力が必要とされ
ガイ県イフタミル郡では、ホタ=アイルを組まない
5
2 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
家族は、全体 のたった 0,05%にす ぎず、 椛成家族数
について見ても、
5~8 家族から成り立っている場
合が多い。 2家族から 成るも のは全体の i割程度し
かなく、最も多い場合は、 1
3家族から成り立つもの
まである。
この遠いの原因は、何であろうか。ツェルゲル
、q
資料 1
2 ホア=アイルの構成家族数による割合
全世2(戸)
イ7?".
1
9
3
3年
夏
日(財) 1
0
1
1
02
1
1
1
51
1
1
1
4 511 11011
。
。。
。。
。o
。
。。
。。
。o
7ェルゲ,. 1
9
9
2
年
冬
9
0(
9
6
) 515
1010
1
9
9
3年夏
8
4(
9
6
) I
I
15
1010
は、山岳地帯に位置するため、いわゆるゴビ(砂漠地
帯)にありながら、降水量は比較的恵まれている。普
311 516 718 91
1
0 11
1
21
3
Yェルゲル
通、ゴ‘ビでは 1
0
0
m
m以下しかない年間降水量が、ツェ
ルゲルのある東ボグド 山高山部では 1
7
5m
mを越す。
営できるゲルの数が限られてしまう。
このため、標高が高いところほど草の状況もより良
2家族でやっとホタ=アイルを組んでいる場合で
好である。とはいえ、モンゴルの全土平均は 200~
も、ライフサイクル的に見ると、家族の成熟にとも
220mm、最も降水量の多い北部地方では 400m
日
1を越す
なって、一方あるいは双方の家畜頭数が増加し、土
ので、ツェルゲルは良好だとい っても、 限りがある
地の収容力を越えるまでに成長すれば、この最小規
ことなのである。(資料 1
3
)
模のホタ=アイルさえ解体が促される。つまり、
このような土地のもつ牧養力や水源の条件から、
ツェルゲルでは、ホタ=アイルの規模に限界がある
ツェルゲルでは、一つの場所で収容可能な家畜と人
だけでなく、ホタ=アイルが構成されること自体に
間の数が、北部地方に比べて、より制限されてく
とって厳しい条件下にある。もし土地の収容力の許
る。ホタ=アイルを組むどころか、前章第 3節で述
容範囲を越えるようなホタ=アイルが組まれ、一つ
べた通り、一家族にとってさえ、家畜の数的な成長
の幕営地に居住しようものなら、その付近の牧地は
は、不可避的に限界があるのである。加えて、ツエ
たちまち疲弊してしまう。無理に組めば、前章第 3
ルゲルでは、広く平らな草原でなく、谷間の傾斜地
節で触れた冬営地ザミン=ボーツの例のような問題
であるという地理的な条件からも、一つの場所に幕
をひき起こす結果となるのである。
資料 1
3 モンゴル
よ
二
ヨ
年間降水量による区分
F2mZ22
喝容ヨ円響評山
本地図中の数値 I
t,年町l
降水鼠(回)。
人間文化 ・ 53
遊牧民家族と地域社会
これに対して 、アルハンガイ県イフタミル郡は、
ルを構成する家族の関 係 に、 ある傾向ができてく
モンゴルの巾でも最も降水量に恵まれた地方である
る。いわゆる「弱小戸」は、母子家庭や独立後間もな
ので、家畜と人間に対する土地の収谷力も、より大
い若い家族であるが、これに加えて、第 l節(1)で
きい。よって、ホタ=アイルが組みやすく、規模も
述べた老人のみや独立前の青年のみ、といった帳簿
大きくなる条件下にある。(資料 1
3
)
上の所有名義こそ本家とは別々であるが、実際はそ
以上が、ツェルゲルのホタ=アイルとイフタミル
の人だけではやってゆけない、という家も、一種の
のホタ=アイルの規模的違いの原因である。ホタ=
弱小戸と見ることができる。ツェルゲルのホタ=ア
アイルは、ある時点までは、労働を合理化し、家族
イルの組み合わせを分析すると、こうした広義の弱
経営の拡大にとって有効に働くが、それを過ぎると
小戸とより富俗な家族とが組む場合がほとんどで、
土地の収容力の条件上、牧地の疲弊を招き、かえっ
全ホタ=アイル巾、 1
9
9
2年冬には 74%、 1
9
9
3年夏に
てその阻害要因となってしまう。そして、ツェルゲ
は実に 89%を占めている。
ルのようなゴビ地方と、イフタミルのようなハンガ
このように、ツェルケ‘ルのホタ=アイルは、その 8
イ地方とでは、その限界規模レベルに差がある、と
~9 割が 2 家族と小規模で、それも、広義の弱小戸を
いうことなのである。
扶助するためのものがほとんどであるといえる。
(
2)内部構造
ホタ=アイルは、あくまでも遊牧民が必要性に応
じて、自ら形成する自主的な共同体である。だか
これに対して、イフタミルのホタ=アイルは、 5
家族以上で
構造も、経済的に独立した家族同士の民主的なも
ら、その組み合わせば、それを組むことによる相互
の、経済的に従属関係にあるもの、その巾でも、表
の利害関係さえ一致すれば、外的強制があるわけで
立った搾取関係にあるもの、「隠れた搾取」関係にあ
ないので、自由に都合の良い相手と組めばよいのが
るものなど、複雑化す る条件下にある。シムコフ
原則である。しかし、例えば、ツェルゲル村では、
は、「一般に遊牧民間に存在する社会的 ・財産的分化
富裕戸が富俗戸と組むことはない。遊牧民としての
は、ホタ=アイル内部に具現化 されている。」とさえ
資質を考えれば、富硲家族はやはりそれなりに優れ
述べている。また、構成家族数が多いので、内部で
ているのだから、そうした家族と組めば良いように
行われる共同内谷にしても、フェルトづくりや大型
思われるが、そうしないのである。富十谷戸は、ホタ
家畜の屠殺など、男手のたくさん必要な作業まで行
=アイルを組むならば、家畜頭数の少ない弱小戸を
うことが可能である。
相手に選ぶことが多い。
ツェルゲルの場合は、小規模なため、フェルトづ
その理由は、親戚などの関係にあるための人道的
くりや大型家畜の屠殺・四季の移動 ・家畜小尾の整
配慮からであるのは当然だが、弱小戸と組むことに
備などは、ホタ=アイル内部の労動力だけではまか
よって得られる 利点の面からも説明できる。その一
ない切れない。それらを行うには、さらに上位の共
つに、第 l節 (2)で触れたように、春先の仔羊 ・仔
同が必要である。また、財産上の分化状況にして
山羊出産時の臨時労働力としては、相手家族の所有
も、ホタ=アイル内部だけではすべて見ることがで
する母羊 ・母 山羊が少ない方ほど、自家族には都合
きず、ツェルゲル全体の地域内階層分解としてとら
が良い、ということが挙げられる。しかし、もっと
える方が適当であろう。さらに事態が進行して、何
根本的には、先に述べたゴピ地方の牧養力こそが、
らかの主従関係が出てくるとすれば、一つのホタ =
最大の理由である。つまり、一つの営地に収谷でき
アイルでは許容できる家畜頭数や共同内谷が限られ
る家畜頭数に限界があるので、家畜頭数の多い富裕
てくるので、それは広域的に現れると考えられる。
戸同士がホタ=アイルを組めば、牧地の疲弊という
ネグデルによる集団化以前、ツェルゲル村が、ま
不利益を招いてしまう。そこで、労働力が必要なら
だ、サイン=ノヨン=ハン県ラミン=ゲゲー=ホ
ば、家畜頭数の少ない弱小戸と組まなければならな
ショー内の 一地区であった頃、東ボグド 山頂付近の
いのである。土地の収谷力の条件は、ホタ=アイル
ハンハ谷に、グンドという富豪遊牧民家族が幕営し
にとって、前に述べた規模だけでなく、構成家族の
ており、所有するヤク ・ラクダ・羊 ・山羊をこの山
組み合わせにも影響を及ぼし、自由な選択の制限要
一帯に暮らす貧しい遊牧民たちの家に、分割して管
素として働いている、と言えよう。
理させていた、という過去の状況がそれを暗示して
この制限要因から、ツェルゲルでは、ホタ=アイ
5
4 ・人間文化
いる。
遊牧民家族と地域社会
“丁稚奉公"の少年ム
ンフ (
8歳 =左)とエ
ルデネ (1
6
歳
)
。
"事
3 ホタ=アイルを補完する共同
小規模のホタ=アイルを補完する共同のあり方と
して、今回は次の 3つを挙げておく。
(1)“丁稚奉公"
若い家族は、まだ子供が小さく労働力が不足して
いるので、ホタ=アイルを組むことによってそれを
補完している他、子供の多く労働力が充分に足りて
いる家族から、少年や少女を借りて、“了稚奉公"の
ように仕事を手伝わせていることがある。これらの
少年少女は、必要ある期間 中
、 “奉公"先に住込み、
旧正月など特別な時にしか実家に戻らない。
992年冬の場合、 B家は 、弟家族とホタ
例えば、 1
=アイルを組んでいた。弟家族は、 2
0代半ばの若い
夫婦で、労働力に余裕がなく、自の離せない乳児を
3I
J
の
抱えていたため、ホタ =アイルを組むほかに 、7
るいは実家の都合で 、 またあるいは入学や徴兵を
冬営地に幕営している姉の息子(当時 8歳)を子守と
きっかけに、再び実家に戻る。ある子供は、養子 ・
して借りていた。また、 B家の方は、当時、子供は
養女として 、それを望む家へともらわれてゆくこと
1
1歳 ・7歳の女児と 5歳 ・2歳の男児であ った。女
もある 。 このような遊牧民の少年 ・少女による住込
児 2人は、幼い弟たちゃ隣家の乳児の世話、お茶沸
み“奉公"の他 に、夏休み巾には 、郡 中心地や県都、
かし ・料理づくり、その他家の巾の細々とした手伝
ウランパー トルなど都市部から、親戚の子供たちが
い、71<汲み、春先の 仔羊 ・仔山 羊の授乳など、かな
休暇を兼ねてやってきて 、手伝 いをする風景もよく
り労働力として役立つていたが、男手が不足してい
見られる。
た。一家族合わせたホタ=アイルとしても、男手が
(2)家畜依託 ・仔 山羊交換
不足していた。なぜなら、この 二家族は、各々の所
さ ら に 小 家 畜 管 理 に 注 目す る と 、 そ れ に 関 連 し
有 す る 羊 ・山 羊 を 一 群 れ に ま と め て 放 牧 し て い た
て、特別な協力体制が見られる。
が、冬の厳寒期や春先の 出産期には、放牧当番を交
小家畜の数が増えたために 、あるいは幕営 地 の草
替で毎日欠かさずしなければならならず、それを担
や水の条件のために、所有小家畜を一群にしておい
えるのは 、家族構成上、各家の主人しかいなかった
ては、やってゆけない場合がある。このような時、
か ら で あ る 。 ど ち ら か が 病 気 を 患 っ た り 、用 事 が
群れを分割し、 別 の場所に幕営ている条件のある家
あったりすれば、その期間中 はもう 一方だけに負担
族に依託することがある。 例えば
、 1
996年夏、 B家
がかかってしまう。そこで 、 B家に 1
6
歳になる親戚
は
、 羊群をすべて別 の家族 に依託 している。ツェル
の少年を住まわせ、男手不足を解決していた。
ゲルでは、 山羊と違い羊は搾乳 しないので 、 自宅に
この少年は、こうした小家畜放牧の当番に加わる
いなくても支障がないのである。ただし、毛刈 りの
だけでなく、仔家畜の授乳、馬やラクダの大型家畜
際には、依託先まで何人かで赴 いて、そこの家族の
の管理、ラクダの鼻木づくり、水汲み、燃料として
協力も得つつ行 った
。
f
1
i木収集、幼い子供たちの世話、家の 中の細々と
のi
また、積家畜に関しでも依託 は行われる。小家畜
した仕事など、実に良く 働 いていた。この少年の実
群を母家畜群とそれ以外の群れ(去 勢雄 ・出産年齢に
家は、 9人家族で労働 力 も充分なので、食い扶持を
達しない雌家畜)に分けて放牧 している家族では、種
減らすためにも、また 、パ ットツェンゲルのような
家畜を後者の群れに混ぜて お くことで 、時期 はずれ
勤勉かつ 聡 明な者と暮ら しを と も に さ せ る こ と に
の 勝 手 な 磁 付 けを防ぎ、 出産 の 時 期 を 調 節 し て い
よって 、少年を遊牧民と して、 また一人の人間とし
る。しかし、 2群に分けてい な い家族では、もちろ
て鍛えるためにも、少年を住込みの“丁稚奉公"に出
んフグ(避妊用 前掛)もつけるが 、より確実にコント
したのである。少年自 身も、 B家で手伝っているこ
ロールするために 、 2群に 分 けている家族に穐家畜
とを誇りとしていた。
を預ける。母家畜と種家畜と を物理 的 に隔離してし
こうした“丁稚"たちは 、必要性がなくなれば、あ
まうのである。預かった家族は 、これらを母家畜以
人間文化・ 5
5
遊牧民家族と地域社会
外の群れの方に混ぜておく。羊や山羊は、種付けか
できるが、ツェルゲルでは、ホタ=アイルが小規模
ら約 5ヵ月後に出産するので、出産させたい時期か
で、
ら逆算して、種付けの時期を確定することができ
ないので、このサーハルト=アイルが大きな役割を
る。その種付けの時期に来たら、種家畜を依託先か
1
'
1
:
[
っ
て
い
る
。
3~4 害1) の家族に至っては、それを組みさえし
ら再び手元に連れ戻し、フグをはずして母家畜を含
サーハルト=アイルは、作業においてその機能を
9
9
3年
んだ群れに混ぜれば良いのである。例えば、 1
発揮するばかりではなく、遊牧民にとって精神的に
夏
、 B家は、小家畜群を上記のように 2群に分けて
も重要なものである。例えば、 1
9
9
3年夏、ジムゲル
いないので、それをしている家族に種羊・穐山羊を
谷の下に位置するフンディ一=ウトウクという場所
依託した。 7月2
9日にはそれらを連れ戻し、翌年 l
の湧き水を利用して、その近辺に幕営していた 5戸
月頃出産させたい羊に関しては、フグをはずした上
の家族を見てみよう。(資料 1
4・1
5)この 5家族と
で母家畜を含んだ群れに混ぜた。
小家畜管理に関連するいま一つの協力体制とし
は
、 A家、親友 R. サンギツェヴェック家、その長
. パザル家、 A家の長女の嫁ぎ先 s
. ダンザン
男s
て、仔山羊の交換がある。これは、夏の搾乳の時期
家、ダンザンの養母 D. ムンフ家である。 A家は、
に見られる。母山羊と仔山羊を同じ群れに混ぜてお
ホタ=アイルを組んでいないが、サンギツェヴヱツ
くと、仔山羊が乳を吸ってしまう。といって、別々
ク家は結婚間もない長男家族と、また、ダンザン家
の群れにすると、放牧の手聞がかかるし、それぞれ
は母の家と、それぞれホタ=アイルを組んでいる。
の群れのために別々に確保できるほど放牧地に余硲
もない。そうした家族が、別の家族と仔山羊を交換
その夏、 A家の妻トゴスは、家畜の貸し借りをめ
く、、って別の家族との聞に起こったトラブルがもと
するのである。仔山羊は自分の母から乳を飲むの
で、病床についたことがあった。その時、彼女のか
で、こうすれば一群にしても吸われるのを防ぐこと
わりにダンザンの妻 (A家の長女)が馬の搾乳を手
9
9
6年夏、こうした
ができるわけである。 B家でも 1
伝ったり、親友サンギツエヴェック家の人々がトゴ
仔山羊交換を行っていた。
ス夫人の介護をしたり、その原因となったトラブル
以上のような小家畜の再生産にとって合理的な牧
への対処に関して夫アディヤスレンに助言したり
畜技術は、ツェルゲルにおいては、小規模なホタ=
と、サーハルト=アイルの人々は、 A家のために尽
アイル内部ではなく、地域的な広がりをもっ協力体
力した。サーハルト=アイルの人々が、労働面でも
制の巾で、観察することができる。
精神的にも大きな支えとなったのである。また、サ
(
3)サーハルト=アイル
ンギツェヴ エック家の馬群管理には、 A家の 2人の
ホタ=アイルを組む家族同士は、同じ幕営地に暮
息子たちが手を貸し、サンギツェウマエツク家の長男
らし日常的な協力を行っているが、これに対して、
F
の結婚式では、宴進行役をアディヤスレンがつとめ
近隣の幕営地の家族同士では、臨時的な協力が行わ
る。アディヤスレン・サンギツェウぞエックは共に狩
れる。この近隣同士は、“サーハルト=アイル"と呼
猟を楽しむし、息子たちは働くときも遊ぶときも、
ばれる。冬期は、幕営地が互いに 3~4km ずつ程度
紳が強いロ家族内では女ひとりのトゴス夫人にとっ
ては、サンギツェウ、エック家の妻や娘らとのおしゃ
離れているために、サーハルト=アイルもそれだけ
離れている。一方、夏期は、幕営地が井戸や泉など
べりは愉しみであり、また、孫娘(ダンザン夫妻の
の限られた水源近くに集中して定められるので、
子)が近くにいることが喜びでもある。ダンザンの母
サーハルト=アイル間の距離も近い。
ツェルゲルのサーハルト=アイルでは、次のよう
な共同が見られる。つまり、ある家族が、四季の移
は
、 5家族の巾の最長老で、経験者として頼りにさ
れている。このように、彼らは、家族ぐるみのあた
たかく深いつきあいをしている。
動やフェルトづくり、家畜小屋の整備、冬期食肉用
これが、サーハル卜=アイルの典型的な例であ
の大型家畜の屠殺など、一時に多くの入手を必要と
る。ツェルゲルの中には、こうしたサーハルト=ア
する作業を行う場合に、このサーハルト=アイルの
イルとしてのまとまりが、幾グループか形づくられ
人々が寄りあつまって、その家族にカを貸すのであ
ている。「ホタ=アイルの命はひとつ、サーハルトの
る
。
心はひとつ。」という話は、この二つの次元の共同体
イフタミルのようなホタ=アイルの規模が大きい
地方では、こうした作業をホタ=アイル内部で解決
5
6 ・人間文化
の特徴を見事に表現しているといえよう。
遊牧民家族と 地域社会
資料 14 1993年夏
フンデ ィ=ウトウクの
サーハルト=アイル 5戸の家族構成
備考
年跡
名前
戸主
7ディヤスレン
妻
卜ゴス
4
3
4
3
1
9
1
5
長男
v
;
;
ツェレンド I
次男
チメッドドル子
戸主
サンギツェヴェック
歪
ナムハイ
長女
7ディヤ
次男
パットパートル
次立
チョローン
ルを“関じた"ホタ=アイルとすれば、ツェルゲルの
ホタ=アイルは、さらに外部に協力的つながりを必
要とする 、いわば“開いた "ホタ=アイルだというこ
5年生卒。
4年生不。
とができょう。
、
越冬調査 中の 1992年 12月 4日、ツェルゲル村 に
5
9
4
4
2
6
アイル
三9
j
パットパヤル
2
2
2
0
1
1
三女
パットツェ Yェック
6
四女
トゥムルトゴ
3
2
孫息子 セl
レオッド
アディヤスレノの鋭友。
元ヘセック長パットツェンゲルの指導の下、意志を
同じくする 41戸の遊牧民家族によって、遊牧民自身
夫がなく、親兄弟と同居。
のための自主組織ホルショー(遊牧民協同組合)が結
1
0年並卒。
成された。 1991年 i月にネグデルから自主的に独立
8年生部。
したものの、自己にとって有利な流通経路の確立、
6年生卒。
冬期の飼料確保、 トラック ・
ト ラクターなど運搬・交
通手段におけるサービスの享受、雪害なと、自然災害へ
の対策と、そのまま個々の家族が分散した状態にあっ
7ディヤのひと り息子。
ては解決不可能な問題に直面した彼らは、 自分たち
戸主
パザル
妻
ツェツェック
2
4
1
8
サンギツェヴェッ 7の長男。
の生活と生産を擁護する何らかの共同組織の必要性
1
9
9
3年8月に結婚。
を痛感していたのである。このホルショーは結成以
戸主
ダンザノ
2
9
ムンフの聾子息子。
来、流通、つまり畜産物の共同出荷 ・小麦粉などの
妻
ツェグメッド
アディヤスレノの長女。
食糧や生活物資の仕入れを担うだけでなく 、かねて
長女
ガンソヴド
2
5
5
戸主
ム
ン7
1
3
ダノザンの聾母。
から念願の村内分校の設立にも尽力するなど 、自ら
の地域再編のために多面的な活動をおこなってき
た
。
ゴビの 山岳地帯という、モンゴルの 中でも厳しい
条件下にありながら、ツェルゲルの遊牧民たちが、
4. “
開いた"
ホタ=アイル
なぜ、こうした先駆的な動 向を展開してきたのか。
以上見てきて、ツエルゲルでは、家畜と人間に対
する収容力の条件から、ホタ=アイルに規模的にも
その要因には、パッ トツェンゲルという指導者の存
共同内容の面でも限界があり、それを様々な方法で
在に加え、この村のホタ=アイルが、その自然条件
補完している、ということが分かった。それは、イ
のゆえに“開いた"ものにならざるをえないことが、
フタミルにおけるような、ほとんどの問題を内部で
大きく影響していると思われる。なぜなら“開いた"
解決することができる、自己完結的なホタ=アイル
ホタ=アイルは、必ずその外部に上位の共同組織を
と、極めて対照的である。イフタミルのホタ=ア イ
要求とするからである。つまり、この“開いた"ホタ
」
1
50m
rpp
令ぐごとと、
〈ーヘ巧寸¥
ーン家
。
〆
ヘ
ムン フ家 凸 ] ミ サン ギ Yエ ヴ エ
ツ
下へ
人間文化 ・ 5
7
遊牧民家族と地域社会
=アイルの特質こそ、個々の家族やホタ=アイルを
いう“点"から、それらの聞にはりめぐらされている
ツエルゲルという「地域」全体に有機的に結びつけ、
“
網の 目"へ視野を広げる必要性を確信した。
この“網の目 "は人間の間だけのものにとどまらな
広域的な共同性を醸し出す素地とな っているのでは
い。一 人 の 遊 牧 民 の 命 が 育 ま れ 継 承 さ れ て ゆ く の
ないだろうか。
に、どれだけ の 自然環境・物質 の再生産・人間関係
その後、内外両面の要因から、ホルショーの試み
は必ずしも順風満帆に進展しているわけではな い
。
の広が りが必要なのか。 こうした多様な“網の目 "を
しかし 、ツェルゲルの遊牧民は、一家族でもホタ=
明ら か にするために、もう一度、基本に立ちかえ
アイルだけでも暮らしてゆくことができず、「地域」
り、家族経営という“点"の徹底追究からはじめた
の広がりの巾でこそ、生きることができる存在であ
い。家族経営における四季の家畜再生産労働(五家畜
る
。 自然と歴史 の共有者である東ボグド 山
ツエル
について)と家事労働、家計 ・流通、ライフ=ステー
ゲルの人々は、今後も自らの 「
地域」でさらなる試行
ジ ・ライフ =サイクル、そしてそうした人間の営み
を重ねつづけてゆくことであろう。そのとき重要な
と自然との関わり ……。 これらのさらなる追究が結
のは 、 この 「
地域」の特質を礎に模索されてゆくこと
局、おのずとそこから広がる人間および人と自然聞
であると考える。
の重層的な“網の 目"を時間軸の巾で浮び上がらせる
ことへと導いてくれるだろうことは、この論文で述
べてきたツェルゲルの遊牧生活の特質から見て明ら
むすび
かである。
ツェルゲルのホタ=アイルの特質を探ってみれ
家族経営時代の遊牧「地域」社会は、もはや単純に
ば、その外部に結ばれる補完的共同関係の詳細な調
線 引 き さ れ た 区 画 に よ っ て 把握 さ れ 得 な い 。 そ れ
査が、新たな課題、として浮かび上がる結果となっ
は、現行の地 区境・郡境 ・県境に必ずしもとらわれ
た。つまり、 個 々の家族や小規模のホタ=アイルと
ない自然環境 ・空間の 中で、ここで言う多様な要素
.
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.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
.
(
付録資料 1 第 4バク 血縁関係図およ び冬営地番号)
※1
9
9
2年当時の状態。
※紙面の都合上、省略 した部分がある。
※( )は死亡した者を
、 Oは夫が不明の場合をあ らわしている。
※番号 1、2、3 はツェルゲル地区の冬営地番号(資料6参照)
を、
番号回、図、 図
は、サイル地区の冬営地番号を、
番
号
(
1
)
、 (2)、
(
3
)は
、
その他 (
第 4ハク外)の冬営地を
あらわしている。
主
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A
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(A -1 直系〕
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8 ・人間文化
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字2人
目ド ーフグイ
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♂ 6人
04人
遊牧民家族と地域社会
聞の重層 的な“網の 日"としてあらわれてくるはずで
主な参考文献
ある。この濃淡様々な“網の目"の巾で最も有機的な
連聞を有する小統一体を、「地域」と再認識し、今後
A.
CI
l ~I YK 0 B ,
‘ X OTOHb
I
'“C O B p e M e H
の研究に取り組んでゆきたい。
M
oH 了 Oλ Il 5
1
Ha日
ぬ
3
.1
9
3
3
正毅遊牧の世界』巾央公論社, 1
9
8
3
松原
ツェルゲルという「地域」、そこに暮らす人々から
飯 田 由 里 子 現代モ ンゴル牧畜業の問題点 J
Wモンゴ
どのような“縞の目 "が描き出せるだろうか。ひとつ
の「地域」を本当に描き出すことができたとき、それ
ル研究~No.13 ,
は普遍的意義を伝える糸口になってくれるだろうと
小貫
思っている。長い長い時間と過程が必要である。
三秋
雅男
1
9
9
0
1
9
9
3
Wモンゴル現代史』 山川出版社,
尚 モ ン ゴ ル 遊 牧 の 四季』鉱脈社, 1
9
95
小 長 谷 有 紀 モ ン ゴ ル 草原 の 生 活世界』朝 日新聞
社
, 1
9
9
6
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1
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♂3人
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4人
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早パゥト
♂
早ミャグマルスレン
ジャルガル
人間文化・ 5
9
遊牧民家族と地域社会
<付録資料 2 B.バットツェンゲル家における母山羊の命名>牢
母山羊の名前
通番
名前の意味・命名の理由
灰・白・薄黄がまじった毛色
シャーズガイ
白・黒のまじった毛色
ーズガイ
ースガイ
シャーズガイ
腹部がまじった毛色
奇 ガ ー
ヤガーダイ
ピンクがかった灰色の毛色
ヤ ガ ←
ヤガーダイ
シャルガ、イ
グフー*ネ
ピンクがかった灰色の毛色
ンヤ凡巧イ
薄黄の毛色
フ フ
青みがかった灰色の毛色
ポル
ボル=ツォーホロー
ツ寸ーホル
茶色と自のまだらの毛色
シャ J
/
1 i f i 1よ 1 i I l - - 1よ 1よ 1よ 11 つん
ツ寸ーホル
黄色と白のまだらの毛色
ガル
ガル=シャルガ
ハル=ハルザン
ヤガーン=ハルザン
シ 令 ル ガ
火のようなオレンジ色の毛色
、
ル
ハ ル サ ン
黒いの毛色で額から鼻筋のみ白色
ヤ ガ ー /
ハ ル ザ
ン
フレン=ハルザン
茶色の毛色で額から鼻筋のみ白色
アテイル=ハル
8
7と似ており黒い毛色
シャル=ホルゴイ
デー J
レの襟飾り布のようにまだらの黄色
ヘレー
マノール
野生の猫のような毛色
アデ fル
ハル
ホ ル ゴ イ
シャル
からすのように真っ黒
ゼ ル
ηL ワ︼ワ ω つω つ乙
ゼール
かもしかのような毛色
シャル=ハイローン
黄色でかわうそのような毛色
ヨJレ
はげたかのような毛色
ン ヤル
トグロー
ハ リ オ ン
ヨ ル
トグロー
つるのような毛色
Yァガーン
フーヘン
ツァガーン=フーヘン
真っ白で娘のよう
η4 つ乙つム
トホム卜
背中のみラクダの鞍をつけたように別色
ゴショーダイ料*
鼻先が白い
オーツァン=ツァガーン
腰部が白
ホショー
オーツ
ツァえトノ
ツァ犬←ン
ツァガーン =フル
フル
白色の足
ツァガー/
ソー =ツァガーン
・
P D 7 RUG-u nu
内 n J 4 A
η 4 q d n d つd q u n J q υ q u q O J
ハル=トルゴイ
ボル=ト ルゴイト
腹部が白
ハル
'
.
1
レゴィ
黒色の頭部
ボル
ポル
ボル=ダル
トルゴイ
ト
茶色の頭部をもった
ダル
茶色の肩
ボル
チフ
ボル=チフ
ボーラル=チフ
茶色の耳
サルラ ック
腹部の毛がヤクのよう
フウ ン
毛が綿のようにふわふわ
ナヴスガル
毛がふさふさ
ポ ー ラ ル テ フ
白毛まじりの耳
サルラック
ε
フヴン
ナヴスガル
ドーノン=ボル
毛が多く茶色
ハリマック
ホルガラー
長い髭と胸毛、“ハリマ ック "は男の髪の刈り方の一種
ホルガル=ヤガーン
耳が短い
"ルガル
ホヴ=ハル
ヤ
ブ
f
耳が短く体がピンクがかった灰色
ボ ヴ
,
、
ル
耳なしで体が黒色
注) *
1996年夏に淵査したもので、母山羊の年齢は当時 のもの。
6
0 ・人間文化
ハ ル ザ /
ピンクがかった灰色の毛色で額から鼻筋のみ白色
フレン
745?53633
ハ
U lA q L q U 4 A R υ ρ口 7
・ RUQυ ハU lA n L q υ A A 己υ n h U 7' nxuQu nv tlム 内 L q u A A R υ
①外見的特徴からの命名
シャル=ツオーホ口ー
34334343464455544344?346533353
- 円L q J A A R U ρ b 7e OOQυ
ザ ガ ル
ザグラー
年齢(才)
**標準的な発音なら‘“ フフ ー
"
。
材*標準的な発音なら、“ホショーダイ"。
遊牧民家族 と地域社会
通番
母山羊の名前
名前の意味・命名の理由
耳なしで体が茶色
ホヴ=ボーラル
耳なしで耳と鼻が白毛まじり
ホヴ=ザガル
耳なしで体がまだら色
サ
ポ プ
ガ
デ ル ヂ
戸
①外見的特徴からの命名
デルデーネー
耳が突き出している
フjレメン
耳が片方垂れている
ボル=トーライ
茶色の毛色で耳がうさぎのよう
ハルパガン=シャルガ
スプーンのような耳で体が薄黄色
ハルパガン=オラーン
スプーンのような耳で体が赤茶色
ショーロン=ツァガーン
角が直立しており体が白色
ショーロン=ハル
角が直立しており体が黒色
ルハプ
ヤ ルガ
ルハガ
オ
一口ノ
ショーロン=ボル
角が直立しており体が茶色
オーノン
角がかもしかのよう
オ
ブドウ
ラ/
ヅ 7 ガーノ
ノ
ノヱヴェル
ブドウーン=エヴ、エル
太い角
ホガルハイ
角が割れている
モンゴル=ツァガーン
角がモンゴル牛のような大きく体が白色
ヤルタン=ハル
角が薄べったく体が黒色
ドゴイ=ツァガーン
角が丸まっており体が白色
ドゴイ=シャルガ
角が丸まっており体が薄黄色
ドゴイ=オラーン
角が丸まっており体が赤茶色
ド ゴ
l
イ
ゴ
ツァガーン
イ
オーラン
ショルジョル
角が片方折れている
メーテン
角が小さく曲がった
ホロー=ツァガーン
角が指のように小さく曲がっており体が白色
ゲドゲル
角が反りかえった
オールゴル
角が並行して真っ直ぐな
ホルボー=シャルガ
角が直立並行で体が薄黄色
ダルガイ=ツァガーン
フ。フトゥ jレ
プ フ ト ヲ ル
ツェズゲル
体は小さく腹部のみ大きく突き出ている
ボンボート
首に大きなこぶのある
モjレ
Yォック=オラーン
首から肉垂がさがっており体が赤茶色
パガ=ハ jレ
体が小さく黒い毛色
ルガ
角が両外に反っており体が白色
背中が曲がっている
ツ
エ
ズ
ゲ
ル
3463?36366343633634535665454544
且
・
」
“ / ポ ト
モルツ 寸ク
オーラン
ハル=イシク
黒い毛色で仔山羊のように体が小さい
ボル=イシク
茶色い毛色で仔山羊のように体が小さい
ウードゥスン=ツァガーン
切れ端のように体が小さく白い毛色
ポル
イ
r
ク
ウ ー i ゥス
ツァガー ン
ウードゥス
ハル
門
門
ウードゥスン=ハル
切れ端のように体が小さく黒い毛色
ジョーハン=オラーン**本木
体が小さく赤茶色の毛色
エル=ツァガーン
去勢雄山羊のように体が大きく白い毛色
ウンドゥル=オラーン
背丈が高く 体が大きく赤茶色の毛色
ウンドゥル=ツァガーン
背丈が高く体が大きく白い毛色
ウンドゥ jレ=ハ jレ
背丈が高く 体が大きく黒い毛色
ノ ヤ ← ハ ノ オラ ーシ
ウン
i ゥル
オラシ
ウ ン ド フ ル
ヅァガーノ
ウ ン } ゥ ル
ム ザ
ハル
ガ ル
体がA.きくまだら色の毛色
卜ム=ボル
体が大きく茶色い毛色
ト
ム ポル
品
トム=ザガル
74
ト
5 83353433
I Fbhb7
ハ
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t o o n u n u - - つん nJAU
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り p b ρ b ρ o p o n b ウt i
弓
ゥ
i ウ4 ウt ウt i ワt η i i o O 0 0 0 0
ポル
ヴ
ホヴ=ボル
年齢(才)
注)**料標準的な発音なら、“ジャー ハ ン"。
人間文化 ・ 6
1
遊牧民家族と地域社会
母山羊の名前
通番
やまねずみの仔のようにすばしつこくつかまえにくい
ムンドゥル
七ル レ ク
ザ
J~
t
j
野生のままのようにつかまえにくくまだら色の毛色
ゼルレック=ザガル
セムレ
ク
l
② I8
5
ゼルレック=ボル
性
オ口一=ヤガーダイ
っかまえにくくピンクがかった灰色の毛色
ノムホン=ハル
おとなしく黒い毛色
ノムホン=ツァガーン
おとなしく白い毛色
ノムホン=シャルガ
おとなしく薄黄色の毛色
8
6
質 I8
7
I
I8
8
~
L>-
ロn
I8
9
I90
ノ ム
ノ ム
h
ボ
ノ
ノ:
J ,.ガノ
ノJ 弓 ル ガ
ノムホン=ハルタル
おとなしく顔にすじ状に別色の毛が入っている
ゾジク=ボル
放牧巾、群れの巾でいつも遅れて歩き茶色の毛色
I
名 I99
野生のままのようにつかまえにくく茶色の毛色
オ ロ ー ヤ ガ
か│
年齢(才)
4435636?4
8
3
84
名前の意味 ・
命名の理由
“ゾジク"は“仲間はずれ"の意
メダァク
92
山
斗
I
l
搾乳の時、バケツに座る癖があり薄黄色の毛色
ソヴァイ =ハル
不妊がつづき今春初出産し、黒い毛色
ヘル
9
4 ヘーリン=ボル
関│白
書I96
~ I97
3
44っ 4?
害I93
シ
,-)
レガ
ソーダック=シャルガ
ヲ~)l
雪原で出産、数日後に仔をつれて家に戻ってきた茶色の毛色
アゴ
f
ハル
アゴイニ一 =ハル
洞窟で出産し、黒い毛色
ゴルドック
レ
ハイタごック=ハ J
仔を顧みず乳を与えない
ゴルドソ
イ
ダ ソ ク
、
"
i
,必乳期を終え、次の仔を産まずに乳を出しつづける、黒い毛色
y
85764?
、/
ルガ
ボアガ
=ツル
不明
不明
不明“ゾーン"は“百"、“シャルガ"は薄黄色の毛色
・
つ
ン = イヤ
一ンオクシト
=トク
イギヴパ
メヴヨク一イユ
チダシパゾボシ
nU 1 L n ノ- n ぺυ A 句
υ ハ
叫u nH
U ハ
H
U ハ
HU ハ川V ハ
H
U
,
t 1 11 1i 1よ 1i
④その他・不明
デ ア 一 一一ンルル
パ
。Q v Q d
チメッドという人からもらった茶色の毛色
ダヴァクという人からもらった白い毛色
不明“ボイル"は“ラクダの鼻水"
不明“シュルク"はイ子に乳を吸わせないようにその鼻
につける器具
Comment
姉弟の論文を読んで
先日、モンゴル大使館に問い合わせたら、去年モ
NHK東京
日
ハ
雪国
ツェルゲル村と彦根を結ぶもの
;
苗
工グゼクティブ・テ ィレクター
a
た。その晩、早速池田市にある小貫さんのお宅を訪
0
ンゴルを訪れた日本人は 1万人だという。しかし 2
ね、モンゴルウオトカのアルヒをいただきながら、
年ほど前 、私たちがテレビ取材をもくろんだ、頃、モ
熱のこもったモンゴル観をうかがっているうちに取
ンゴルは近くて遠い知られざる国であった。何をど
材すべき遊牧の国のイメージが急に湧いてくる気分
う撮影してきたら良いのか皆目手がかりがなく、途
になったのだから不思議である。
方にくれていた私たちに「そんなら小貫君に会うのが
当時、小貫さんは二年間のウランパートル大学日
ええわ」と教えて下さったのは司馬遼太郎さんであっ
本語科交換教授を終えたばかりで、さらに引き続き
6
2 ・人間文化
遊牧民家族と地域社会
ハンガイ地方に調査に出かける準備をされていると
た
。
ころであったが、モンコとルの土地とそこに住む人々
伊藤さんの論文には、ツェルゲル村の人々の血縁
への深い愛情に根ざした関心は、歳月を経て今回の
関係図や、ツェンゲル家の山羊 100頭につけられた
論文に述べられているゴビ ・プロジェク卜へと結実
すべての名前とその由来、そして広大な東ボグド山
していくのである。そこにはツェルゲル村という地
麓に広がる牧営地の配置が克明に記されるなど、そ
球上の一角に拠点をおき、地域と暮らしのあり方を
の旺盛な好奇心と行動力ならではの基礎的な観察と
真剣に模索する人々の思いと行動に近接し、思索を
調査の成果が各所に見られる。そのことが、激変の
する小貫さんの変わらない姿勢がある。
そしてこの論文から発せられるメッセージには、
見せかけの豊かさの巾で迷走する日本の農山漁村の
巾で解体し再生する牧野の共同体の、新た な展開を
述べるに当たって強い説得力のもとになっているこ
とがわかる
行方や、飢餓に苦しむアフリカの問題をも視野に入
かつてモンゴルのテレビ取材で私たちの通訳を引
れつつ、行き先の見えなくなった世界に、大地に根
受けてくれたエンフトヤ簸は、ウランパートル大学
ざして生きる人間への信頼感を取り戻し、新しい方
の小貫さんの教え子であったが、「これから貴方がた
途を探ろうとする願いが込められている。
をモンゴルの遊牧の巾心地アルハンガイに案内しま
その小貫さんが教え子の伊藤さんを紹介して下
すが、そこには家畜に関して数えられないほどの専
さったのは 4年前のことであった。「伊藤さんはあな
門用語があります。それをわかりやすく日本語で説
たがたのモンゴル取材記を中学生時代、おじいさん
明することを思うと頭が痛くなりますが、私は小貫
の書棚から見つけ出して読んでいるうちにモンゴル
パクシに鍛えられていますから、きっとうまくゆく
に憧れ、大阪外国語大学に入学してきたのです。一
と思います。もしダメだったら、それは小貫先生の
冊の本が一人の少女のその後の針路を決めてしまう
鍛え方が足りなかったと思ってください。」と笑みを
ことがあるわけですから、ものを書くということは
浮かべて小貫パクシに熊陶をうけた自信を語ったこ
相当に覚悟のいることで、気をつけなければいけま
とがある。
せんよ」小貫さんは笑いながら答告して下さったので
ある。
実はこのとき、お二人は越冬生活も含めたゴビ・
あれからの 20年、伊藤さんの論文を読むにつけて
も、小貫さんのモンゴル、日本における教え子たち
への感化力の強さを思わずにいられない。
プロジェクトのツエルゲル村現地調査から戻った直
ところで、今、お二人はゴビ・プロジェクトの活
後であったが、小貫さん自らがビデオカメラで撮影
動の巾で取材した貴重な映像記録を構成編集する最
2
5時間にものぼる映像記録も持ち帰っ
したという 1
終作業に入っているという。「四季、遊牧
ていた。小貫さんが、いつこのような表現方法に興
ルの人々
味を持ち、撮影技術を身につけられたのか知る由も
6巻のこの映像ドキュメンタリーは、論文の精微さ
ツェルゲ、
1992 年秋 ~1993 年秋 J とタイトルされる全
ないが、画面にはツェルゲルの自然と村民の姿が正
とはまた異なった豊かなメッセージを伝えてくれる
確なカメラアイでとらえられているのであった。そ
はずであり、その完成が待たれるところであるロ
してその映像の巾には、険しい高山地帯を行く山羊
「彦狼はいいですよ、まだ低い尾根の家が並んでい
の群れを コンパ スを持っ て追跡し、*汲みや乳しぼ
て落ち着きます。しかし、好物の鮒寿しにするニゴ
りを手伝い、ゲル(包)の家族の団幾に加わり、新し
ロブナや素焼きにするモロコが減 っているら しいの
い遊牧 民協同組合(ホルショー)の結成大会の係子を
が心配です。それにしても水清き岸辺にありて一層
傍聴したりしている伊藤さんの姿も見えるのであ
朔北への思いがつのります。」という過日の小貫さん
る。しか も映像とは奇妙な力を持 ってい て、こ の一
の述懐であるが、琵琶湖畔の伝統的な暮らしと文化
見もの静かでキャシャな感じの女性が、子どもに好
遺産の消長を気づかうことは直接、モンゴル大草原
かれる働き者であり、なかなかの健吹家であり、聞
の自然、と人間の営みへの関心につながっていくかの
き上手であることをも 明らかにしてしまうのだ っ
ようであったロ
3
入居文化 ・ 6
モンゴルにおけるヤギの
本論は、 1
9
9
6年の夏にモンゴル国バヤンホンゴル県
ボグド郡のツェルゲル村に、約 lヵ月滞在した際お
せ
じ
ろう
棚瀬慈郎
人間文化学部地媛文化学科
識別名称について
はじめに
たな
とは指摘しておきたい。
1.調査の対象
こなった聞き取りに基づき、モンゴル牧民がヤギの
筆者が、調査期間(lヵ月)の大部分を共に暮ら
外的な特徴に対して与える、識別のための名称の付
したダンパ家は、家畜規模でいえばツェルゲル村の
け方について報告したものである。
最上層に属する家である。調査当時ゲルにはダンパ
モンゴルを訪れた多くの人々が指摘する様に、モ
夫妻とその長女一家 3人、さらにダンバ夫妻の未婚
ンゴル牧民が自らの家畜を過たずに識別する能力に
の 6人の子供たちの都合 1
1人が生活していた。一家
は驚くべきものがある(1)。家畜の各個体はそれぞれ
9
9
5年の統計でラクダ 2
5頭、馬 3
3頭、羊 2
3
0
は
、 1
無数の特徴を持つわけであるが、個体の持つどの特
頭、ヤギ 3
3
0頭を有していた (4)。モンゴル牧民が飼
徴を捉えて他の個体との相違点とするのかというこ
う、いわゆる五畜のうち牛だけは全く所有していな
と、つまりどの特性を以てして示差性を有するもの
いことになるが、ダンパ家ではヤギから飲用や乳製
としているかということは、家畜を巡る認識のシス
品作りに必要な乳を十分得ており、牛を飼育せねば
テムの網の自の構成に関わる問題である。それは例
ならない積極的な理由はない。また羊とヤギは共に
えば、東アフリカの牛飼育を中心とした牧畜社会に
放牧することが可能であるが、牛を飼えば放牧のた
おいてみられるように、単に家畜の分類に関わるだ
めのまた別の畜群を形成せねばならず、したがって
けでなく、家畜という存在がその社会において占め
余分な労働力が必要となることも、牛を所有しない
るイデ、オロギ一的な重要性に従って、個人や、社会集
理由となるであろう。
汗されてくる場合がある。
団のカテゴリ一分類にまで敷f
ヤギ、羊、ラクダ、馬からは搾乳が可能である。し
福井の報告する、エチオピア西南部に住む牛牧民
かしタンパ家ではヤギと、馬乳酒用に雌馬から搾乳
ボデ、ィは、個人がその生涯にわたって維持する自分
するだけでラクダと羊からは搾乳していない。その
の色・模様(モラレと呼ばれる)をもっており、そ
理由はやはり、ヤギから得られる乳だけで一家の必
れと同じ毛色をした牛は彼の自己同一化の対象とな
要量が満たされているからであろう。
るという。その程度は甚だしいもので、自己同一化
よく知られているように、モンゴルでは乳から実
の対象となっている牛が死んだ後、彼は近隣の他民
に多様な乳製品が生産される(日。それは草が豊富で
族へ殺人の旅へ出るが、その殺人は親族の仇討ちと
乳が潤沢に得られる夏に生産され、生乳を得ること
同じ名で呼ばれるという ω。
またボディの様々な行事や儀式においても、犠牲
とされる牛の毛色は定まっているとされる ω。
もちろんモンゴル牧畜社会を巡る家畜認識のシス
テムを、牧民の持つより全体的な世界認識のあり方
の中に位置付けるためには、少なくともそれが彼等
のできない冬期の重要な食料となる。ダンバ家では
乳製品造りの他、生乳を沸かしてそのまま飲んだり、
床を付けて飲まれるが、
或いは茶に加えて、薄い塩 l
いずれもヤギの乳だけが用いられていた。
さらにヤギの柔毛はカシミアとして高価に取引さ
れ、牧民達の主要な現金収入となる。
のもつ他の分類システム、たとえば色彩語禁や親族
一般的に モ ンゴル社会では、ヤギは牛や羊に比べ
語棄とどの様な関係をもつのか、ということが検討
て重要性の低い家畜であると評価されるともいわれる
されねばならないであろう。
が{
的 、少なくとも山地と半砂漠(コ ビ)の入り混じっ
もとよりモンゴル語が不自由なこともあり、筆者
J
た、家畜を維持するのには必ずしも好適とはいえない
が調査期間中の大部分を共に過ごした牧民一家にイ
自然環境の巾にあるツェルゲ?ル村では、厳しい自然環
ンフォーマントが限られているという条件もあって、
境に耐え、またその肉、毛、乳の全てが利用され
本論はモンゴルにおける家畜の識別名称研究の準備
るヤギは牧民たちの最も重要な家畜となっている。
段階となるレポートであるにすぎない。しかし、家
ダンパ氏が他の家畜も多く飼いながら、自らをヤ
畜という存在がモンゴル社会において果たしている
マーチン、すなわち山羊飼いと自己規定するのも、
決定的な重要性ゆえに、家畜に関する民俗分類研究
彼にとってのヤギという家畜の重要性を物語るもの
というテーマそのものは、彼等の世界認識のあり方
であろう。
の理解につながる可能性をもつものであるというこ
6
4 ・人間文化
筆者が家畜の中でも殊更にヤギを観察の対象として
モンコルにおける ヤギの識別名称 につ いて
選んだ、のは、一つにはこの 地域におけるヤギの重要性
b 耳に関するもの
ということがあるが、より大きな理由はヤギのもつ毛
ボーラル
耳が 白い(図 1の 5)
色、模様の多様性が目覚ましいものであった為であ
トーライ
兎耳
ホブ
小耳
る。一般的に動物は家畜化 の課程で、それが野性種で
あった時にはもっていない多様な毛色を獲得するとい
C
顔面の模様に関するもの
われる (7)。夕、ンパ家でも 2匹のヤギの毛色は白と赤毛
ハルツン
で、殊更にヤギの毛色、模様を統一しようとする努力
ハルタル
顔面に縞模傑がある(図 lの 3)
は払われていないようであった。
サルタイ
顔面に丸い斑がある(図 lの7)
ヤギは.モンゴルにおける他の家畜と同様に性と
顔面に白い部分がある(図 lの 2)
d 体の模様に関するもの
年令に基づいて分類される。
トjレゴイ
頭部のみ有色(図 1の 2)
ヤギ(総称) :ヤマー
ナラン ・オーツ
丸い斑がある(図 lの 8)
ツォーホル
まだら(図
I(年令による分類)
I 1歳 未 満 イ シ ク
(性による分類
種ヤギオホナー
雌ヤギ ・エム ・ヤマー
去勢ヤギ:エル ・ヤマー
歳:ボルロン
I 2歳.ゾサック
3歳:サギル
4歳.ボドゥロン
パルラック・ツォーホル
1の 4)
体 の半分がまだら
(
図 1の 6)
ザガル
縁取り状の模様がある(図 1の 9)
e.色に関するもの
ツァガーン
白
ハル
黒
シャラック
淡灰褐色
シャ jレ
柴犬の様な毛色
6
0頭である。ことさら雌
ヤマ一、すなわち雌ヤギ約 1
フフ
灰青色
筆者が観察の主な対象としたのはダンパ家の工ム・
ヤギを選択したのは、夏の問、雌ヤギ群は朝夕 2回搾
オラーン
シャルよりも鮮やかな赤褐色
乳のためにゲルの周囲に集められるので、観察が用意
オロック
薄茶
だったことによる。(去勢ヤギ、子ヤギ、羊は雌ヤギの
ヤガーン
フフよりも淡い灰青色
群れとは別の畜群を形成する)
ホルン
チョコレート色
ボル
葦毛
2
.識別名称の付与
各ヤギには、その個体の有する特徴に従って 1つ
これらの名辞が単独で、或いは組み合されて実際
8通 り確認され、それぞ
にヤギに 付与される仕方は 2
れのパターンに分類されるヤギの頭数は以下 の通り
から 3つまでの、その特徴を表わす名辞が付与され
である。
る。例えばツァガーン(白)、ハル・トルゴイ (
黒 ・頭
a)色名のみ
(
頭数)
部のみ有色)、ハル ・
ハルツン・トルゴイ(黒 ・
顔面に白
ツァガーン
3
2
い部分がある・頭部のみ有色)といった調子である。
/¥Jレ
5
6
シャラック
8
に関するもの 5、耳に関するもの 3、顔面の模様に
シャル
関するもの 3、体の模様に関するもの 5、色に関す
フフ
るものが 1
0ある。特に色に関する語棄を言棄で説明
オラーン
2
3
1
0
することは難しく、微妙な色彩の相違を 的確に表現
オロック
2
するのは不可能 であるが 、一応の説 明 を試みる。
ヤガーン
1
6確認された。その 内角
そういった名辞は全部で 2
a 角に関するもの(指示する特徴の内容)
ント
一ヨ
ノ一
オソ
モホル
角なし
大型の角(カモシカ形の角の意味か)
b)顔面、体の模様に関する名称、(以下「模様」とす
る)のみ
ナラン ・オーツ
1
2
仲 びた形の角(牙状の角)
ツォーホル
ボドーンエベル
先端が接する形の角
パルラック・ツオーホル
ヤグタン
三角形の角
サガル
1
人間文化・ 6
5
モンゴルにおけるヤギの識別名称について
3
2 ノリレ・ハルツン
1 ハル ・トルゴイ
/\)~ ・ ハルタル
4 ツォーホル
5 ボラル
6ノ
¥
)
レ
ラ ック ・ツォーホル
7 サルタイ ・ハル
9 ザガル
B ナラン・オツ
1
0
/\j レ・/\) ~ ツン・卜 l レゴイ
図 1 様々なヤギの模様
c) 耳形に関する名称(以下「耳形」とする)のみ
ボーラル
2
d)角がないもの
モホル
6
6 ・人間文化
2
e)色名十模様
ハル・トルゴイ
3
ボル ・トルゴイ
I
フフ ・トjレ
コイ
l
フフ ・
ハJ
レタ jレ
1
J
モンゴルに おけるヤギ の識別 名称に ついて
ハル ・ハルタル
7
がその特徴を備えている場合は毛色と併せて採用さ
れるという点で、前に述べた A群と C群の 巾問の強
ホルン ・ハルツン
3
ハル ・ハルツン
8
さの示差性をも った指標であると考えられる。(指
サルタイ ・ハル
5
標 B群とする )A、 B、 Cの各群に分類される指標
f)色名十耳形
シャラ ック ・トーライ
群とその内容は以下の様になる 。
l
指標 A群(特に強い示差性をもったもの。他の特徴
g)角形十色名
オーノン・ツ ァガーン
i
と組み合わされる必要がない)
ソヨート ・ツァガーン
i
ナラ ン ・オーツ
丸 い斑がある
ツォーホル
まだら
パルラック ・ツオーホル
体 の半分がまだら
h)耳形十模様
ボーラル・ハルツン
ホブ ・ハルツン
2
i)色名十模様十模様
ハル ・ハルツン ・トル ゴイ
1(
図 Iの 1
0
)
3
. 名称を付与するための原則
以上の様な名辞の組合せはと、の様な原則に依 って
いるのであろうか。
ザ ガル
縁取 り状の模様がある
ボーラル
耳白
モホル
角なし
指標 B群(強い示差性をもったもの。他の特徴と組み
合わされるが、個体がその特徴を持つ時は採用 され
る)
ハjレツン
顔面に白い 部 分がある
色名のみをもって区別 されているヤギの頭数は
ハルタル
顔面に縞模様がある
1
14頭 で 、全 体(159頭)の 約 72%になる。しかし全
サルタイ
顔面に 丸 い斑がある
体に占める割合の大きさのみを以てして、毛色がヤ
トjレコ「イ
頭部のみ有 色
ギの個体識別 の有力な指標 であるとはいえない。な
トーライ
兎耳
ぜなら模様や耳の形、角形を以て区別 されるヤギ達
オーノン
大型の角(カモ シカ形の角の意味か)
も、いうまでもなくそれぞれ固有の毛色をしている
ソヨート
伸びた形の 角 (牙状の角)
筈であり、毛色ではなくその他 の特徴のみで呼ばれ
るヤギがいるということ は、毛 色がむしろ示差性の
指標 C群(弱い示差性をもったもの。個体が A 、 B
弱い特徴であると考えら れ ている ことを意味するか
グループの 特徴を欠く時、 も しくは B群の特徴と併
らである。つまり毛色 は、そ の羊がこ れ といった特
せて採用 される)
徴 を 持 た な い 場 合 に 採用 される特徴なのである。
毛色 に関するもの
(指標 C群 とする)
色名 以外 で、或る 固有 の特徴を表す名辞が単独で
したがって、各ヤギに識別 の為の名称を 付与する
用いられるものは 6例(9頭)存在する。それはナラ
時
、 現実には各ヤギのもつ 特 徴 に従って手持ちの名
ン・オーツ(l頭)、ツォ ー ホル(2~夏) 、 パルラッ
辞のストックの 巾から適切 な ものが与えられるだけ
ク ・ツォーホル(l頭)、 ザガル(l頭)、ボーラル (
2
であろうが、認識のモデルとしては、図 2のような
頭)、モホル(2頭)である。これらは 、そこに分類
2項対立的な操作を繰り返 していると見倣すことが
される羊の頭数こそ少ないものの、他の特徴と組み
できる。
合わされる必要のない、 強 い示差性をもった指僚と
考えられる。(指標 A群と する)
その 他 の名辞は主に 毛色に 関する名辞と結び付 け
られて 、そのヤギの特徴を 表現する。 例 えばハル ・
おわりに
冒頭で述 べた様に 、
本事例はわずかに I牧民の保有
トルゴイ(黒 ・頭部のみ有色)、オーノン ・ツァガー
する 雌 ヤギ群 に関するものに す ぎない。モン ゴルの家
ン(大角 ・白)といった 具合である。これらの「頭部
畜一般に関する識別 名称体系 の研究を進めるために
人;角 jといっ た特 徴 は 、単独 ではそのヤ
のみ有色 Jr
は、今後事例 を増やすと共に 、ヤギのみならず馬、羊
ギを特徴付 けるものとし ては用 いられないが 、ヤギ
など他の家畜のもつ様々な特徴を表現する民俗語誌を
人間文化 ・ 6
7
モンゴルにおけるヤギの識別名称について
(付与される名辞)
A.B
一
ぐ
標 :
:
A
B.C或いは B.B.C
C
図 2 識別名称付与のための 2項対立モデル
収集してゆくことが必要となる。またツェルゲル村の
分類の項目とそこに帰属するヤギの頭数を検討する
事例が、モンゴル牧畜社会においてどの程度の一般性
と、各項目ごとに非常に大きな不均衡が存在すること
を持っているか、ということについての検討も必要と
がわかる。例えばツァガーン(白)とだけ分類されて
なるであろう。
以上の様な、本事例がデータとしてもつ基本的な
いるヤギは 3
2頭もいるし 、同じく ハル(黒)と分類さ
6頭もいて、この 2タイフoのヤギだけ
れているヤギは 5
弱さを認めた上で、ダンバ一家のヤギの識別名称付
5パーセントにも及ぶ。勿諭そういっ
で雌ヤギ群の 5
与に関する特徴的な点を若干述べて本報告の結びと
た、傍目にはただ白いだけ、或いは黒いだけでこれと
したい。
いった特徴のないヤギ達についても、彼等は l頭 l頭
前節から明らかなのは、個々のヤギの識別に関し
を個体識別しているのであり、したがって現実のヤギ
て、そのヤギが持つ特徴として与えられる名辞、すな
の識別には、こういった分類の網の日にひっかからな
わちそのヤギの個性を表現する指標の聞には、示差性
い特徴が大きく問題となってくるのである。いいかえ
の強度に関して差異が存在するということであった。
れば、今まで述べてきたヤギのタイポロジーは、彼等
最も強い示差性をもつものは指標 A群であり、そこに
の家畜識別能力のごく一部を反映するものにすぎ、ない
分類されるものには斑や縁取り状の模様など、体の模
ということになる。
様に関する特性と、角がないもの、耳が白いと、小さ
いという特性が含まれる。
レヴィ・ストロース風にいえば、ヤギは有用だか
ら分類されるのではなく、分類するのに適当な対象
また次に強い示差性をもっ指標 B郡には、頭部の
だから分類されるのである。ここには外界に対する
模様に関する特性、耳の形に門する特性及び角の形
認知という、いわば人聞がおこなう全身的行為と、
に関する特性が含まれる.指標 C群、すなわち毛色
分類のためにその文化が伝統的に用意してきた道具
に関するものは、ヤギが指標 A群や B群に含まれる
(タイポロジー)との不均衡をみることができる。
ような特徴を持たないときに採用されるという意味
で、最も弱い示差牲をもった指標と考えられる。
しかし、そのタイポロジーそのものも等質的に構
成されているのではなく、そこには自ずから網の自
前節の認識モデルにしたがっていえば、ヤギはまず
の粗密が存在する。各社会が保持してきた文化的な特
角の有無、体の模様によって認識され、次に頭部の特
性のある面は当然そこに反映される筈である。本論で
徴的な模様、角、耳の形が問題となり、それらの部分
述べてきたように、ヤギの個性を表現する様々な指標
に特徴的なものが存在しない場合は毛色のみをもって
群が、示差牲の強度に関して異なっているということ
分類されることになる。
自体、モンゴル牧畜文化の個性の一面を表現するもの
特に耳の特性に関しては、それが体全体に占める
と考えることができよう。
割合の小ささに比して、高い示差性が与えられてい
註
る様な気がする。モンゴル牧民の聞には家畜の帰属
を明らかにするために、家畜の耳にイムと呼ばれる
特徴的な切り込みをいれる慣習が存在する。イムの
形は伝統的に何種類もあり、それによって持ち主は
1) (
張1
9
8
6:6
4
6
6
)
9
9
1)の特に第 8章及び第 9章
。
2) (福井 1
自分の家畜の帰属を明確に認識することができると
3
) 伊藤恵子氏作成の統計による。
される。耳の特徴に対する敏感さは、或いはモンゴ
4) ツェルゲル村において生産される乳製品につい
ル牧畜文化の特徴の一つかもしれない。
ところでこういった分類のシステムは、実際に牧
民が各ヤギを認識す るためにと、の程度役にたっている
のであろうか。
6
8 ・人間文化
ては(三秋
1
9
9
5
) の第 5章において詳しく述
べられている。
5) (
車
里
務J
I 1
9
9
2
:1
3
4
1
3
8
)
6) (ゾイナー 1
9
8
3
:6
1
6
3
)
モンゴルにおけるヤギの識別名称について
7)(鯉か1 1
9
9
2
:1
5
1
)
張承志
1
9
8
6 W
モンゴル大草原遊牧誌』朝 日新聞社
引用・参考文献
鯉洲信一
1
9
9
2 W
騎馬民族の心』日本放送協会出版
福井勝義
1
9
9
1 W認識と文化』東京大学出版局
三秋尚
1
9
9
5 Wモ ン ゴ ル 遊 牧 の 四 季 』 鉱 脈 社
ゾイナー・ F.E
1
9
8
3[
1
9
6
3
J w
家畜の歴史』法攻大学出版局
モンゴルにおける山羊の識別名称について
泰
叩
Comment
谷
人間文化学部地域文化学科
同じ一頭の羊を前に、それを狩猟民の日で見るか、
いるがゆえに、なんらか個体が群からはぐれたときで
牧畜民の目で見るかによって、注目される内容に差が
も、ふとその欠如に気づき、それがどの個体かをやが
あるだろうことは、容易に想像できる。
て割り出すことになる。そのようなとき、牧夫は、ど
狩猟民にとって、視線のかなたで見えかくれし、追
の様にしてそれを割り出しているのか。おそらくは、
跡される対象が、若か/成獣かの差異が意味をもつこ
年齢ごと、あるいは母子系列など、いくつかの手がか
とはあっても、当の特定個体の正確な年齢など、知る
りをもってソーティングしつつ、欠如個体を割り出す
よしもない。また、およそ知っても意味がない。とこ
ようだが、すくなくともその操作の過程で必須なの
ろが、牧人の場合、その管理戦略からして、特定個体
は、身体特徴上の差異にもとづく個体識別であること
はまちがいない。
の性、年齢、出産経験や去勢の有無など、個体の年々
変化する属性は、季節ごとの群編成や屠殺戦略に重要
では、牧夫は、どのような外見的特徴を手がかりに、
な情報として参照される。その証拠に、旧大陸のどこ
頼の上記
この種の個体識別をおこなっているのか。棚j
の牧人でもよい。みずから管理する群をまえにして、
論文は、まさにこのような牧人の基本的な知識、山羊
かれに、任意の個体を指さして、その年齢を尋ねてみ
をどのように個体識別しているかを、モンゴルはバヤ
ればよい。かれらは、たちどころにその年齢を答える
ンホンゴル県のある牧民家族にかんして、具体的な調
ばかりか、その個体が、どの母雌の何番目の子である
査にもとづいて明らかにしたものである。
かをたちどころに答えてくれるはずである。まさにか
もちろん、この種の調査は、モンゴルはさておくと
れらは、そのとき、他個体と区別される特異的個体と
して、これまでもさまざまな牧民にかんしてなされて
して、当個体を弁別したうえで、それがどの母雌の子
きたものであり、そのことだけなら、なんら事新しい
であるか、固有のネットワークのうえに位置づけてい
調査とはいえない。ただ、この棚瀬が関心をよせ、読
るのである。
んで興味をそそるのは、むしろ、しばしば相互に類似
いうまでもなく、この種の知識は、<若はしかじか/
している個体を含む集合をまえにして、いかなる識別
成獣はしかじかのものとして、かく取り扱われねばな
の戦略がとられているか、弁別の戦略に注意がむけら
らない>とか、<春はしかじか/秋はしかじかだから
れている点にある。具体的には、そこで、示差性の強
かく取り扱わねばならない>といった、カテゴリー化
度におうじて、まさに柄として目立ったものから順次
されたケースにおうじて援用される技術的知識ではな
階層性を示すようなかたちで、個体の特徴が注目さ
い。むしろ会社の人事担当役が、年々付加・更新して
れ、全体的差異化がなされていることが指摘されてい
把握しておかねばならない個人情報の総体にも似た個
る。はたしてこのような識別の戦略が、牧民の世界で
体毎の個別情報であり、新生子の出現によって付加さ
一般的なものか。すくなくとも、わたしがこれまでみ
れるだけではなく、年々の間引きや売却によって消去
てきた事例に関しては、一般的だとは思えない。とす
される、構成員全体についての個別情報の総体であ
れば、それはどのような地域性をもった特徴なのか?
る。そして幼稚園児を引率する先生が、員数チェック
このあたりは、弁別の戦略という一般問題とは別個
をせずとも、ふと欠員に気づき、やがて誰が不足する
に、文化的特徴として追求してみる価値があるだろ
かを割り出すように、牧夫は、この種の知識をもって
う。今後のより一層の追求が期待される点である。
人間文化・ 6
9
現代モンゴルの住空間
やま
ね
山根
周
人間文化学部生活文化学科
ラン(遊牧における夏営地という意味)と呼ばれる
はじめに
郊外の別荘地に移り住むスタイルをとる人々もいる。
モンゴルは遊牧社会である o そして遊牧に必須の
1996 年 7 月 ~8 月にかけておこなわれた 今回の調
条件である移動という生活スタイルに最も適合する
査ではへ遊牧民の移動型の生活と都市における定
べく発達してきた組立式住居であるゲルは、モンゴ
住生活、さらに定住の巾でも集合住宅とゲル居住区
ルの住居の代名詞と 言っていい。ハナ、オ二 、トー
という異なる生活スタイルにおける居住形態の違い
ノ、パガナ、ハールガ、エスギ一、ブレース、ウル
とその特徴を見ていくことが一つのテーマであった。
フ、ブスルールといった少数の部材 1) によって、大
そして遊牧民の生活についてはフブスグル県、セレ
人 3~4 人で 1 、
2 時間もあれば組上がる程の移動
ンゲ県、ウブルハンガイ県におけるホ卜・アイルを、
と建設の簡便さをもちながら、冬には-30~40oC に
都市における定住生活についてはウランパートルの
もなる極寒の大地で人々の生命を守ることができる
高層集合住宅とゲル居住区およびゾスラン、フブス
という、まさに究極のシェルターである。そして春
グル県の県庁所在地であるムルンのゲル居住区にお
夏秋冬の季節ごとに場所を変え移動しながら、生産
いて調査をおこなった(図1)ロ本稿はその調査報告
性の向上と相互扶助の利点を得るためいくつかの家
であるが、中でもフブスグル県フブスグル湖周辺の
族が集まり、ホト・アイルと呼ばれる一つの宿営地
ホト・アイル、ウランパートルのゲル居住区におけ
を形成するというのが遊牧民の一般的な居住スタイ
る住居、ウランパートルの高層集合住宅を事例とし、
ルなのである九
先に述べたそれぞれの生活スタイルにおける住居お
しかしモンゴルのすべての人々がそのような移動
よびその集合形態の特徴を見ていくことにしたい。
式の生活スタイルをとっているわけではない。首都
ウランパートルや各アイマグ(県)、ソム(市や町に
草原のゲルとホト・アイル
相当する行政単位)の中心地など都市部においては
多くの人々が定住している。歴史的にもラマ教の寺
・ホ卜・アイルの構成
院を巾心としたフレーと呼ばれる円陣から発展した
季節ごとに移動しながら生活する遊牧民は、それ
都市形成の伝統があり、現在では都市部つまり定住
ぞれの場所でホト・アイルと呼ばれる宿営地集団を
民の人口はそれ以外 の人口を上回ってさえおり
、
構成することは先に述べた。ホト・アイルは多くの
3)
場合親戚など血縁関係を拠り所にまとまっているこ
定住も一方ではモンゴルの一般的な生活スタイルと
言っていいのである。そして現在 、都市における居
とが多いのだが、必ずしもそれだけではなく、特に
住スタイルは、中心部に建設された近代的な集合住
若い世代では友人など気の合う仲間同士で集まる例
宅に居住するものとゲル居住区での居住との二つに
もかなりあるというロ今回の調査で訪れたウブルハ
大きく分けられるが、さらには夏の聞に限ってゾス
ンガイ県のホト・アイルはそのような集団であった。
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図 1 調査地域
7
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αコ拘引
現代モンゴルの住空間
選委輯叩
内げア
も@
輯割り 1
1
1
世 静 ロ グ ハ ウ ス 用丸保
文圃のゲル
亘 ¥1
'
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"
物置台
ログハウス (
麹集中 )
G
う
@
長男穣畿のゲル
打 つ 材 梅 { シ ヨ ン)
次男 IU
長町ゲル
ウマつなぎ棟 (ショーン}
移動前町ゲル町 1
1
1所
畜演の・, 1
1
1
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喝
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牛
子
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ウマつなぎ縛 {ショーン)
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⑧
⑦
1
0
2
0
m
牛=ーーニ:;=i
次男の署の両観のゲル
図 2 ホト・アイル配置図
またホト・アイルを構成するメンバーも常に同じと
ルンから北へ約 1
3
0k
m程の所、フブスグル湖近辺の
いうわけではなく、季節 ごとの宿営地でそ の数や家
7
ウルント 川の川畔に開けた草原に位置している。 5
族にも変化がある。一般に夏は数が多く、冬は少な
歳の父親とその長男 (
2
7歳)の家族、次男 (
2
5歳)
くなるといわれている九このようにホト・アイルは
の家族、および次男の妻の両親と いう親族 同士でま
固定的なユニットではなく、季節ごとに離合集散を
とまった集団である。このうち長男は牧民ではなく
繰り返す流動的で緩やかな集合原理を持った共同体
大工で、普段は近郊のハトガルという街に住み夏の
なのである。
問だけこの夏営地に合流している。
今回の調査で訪れることのできたホト・アイルは
ホト・アイルの構成を見てみると(図 2)、まず父
すべて夏営地(ゾスラン)のみである。遊牧生活に
親、長男家族、次男家族および次男の妻の両親の住
おける居住空間の特質をトータルに杷濯するために
む 4棟のゲルが建つ。父親のゲルの近くには丸板を
は、一年を通した春夏秋冬の各宿営地の場所やそこ
材料としたログハウスが制作巾であるが、これは長
での構成、移動ルート、ホト ・アイルを構成す る家
男が父親のために建てているものである。またゲル
族の離合集散の実態などをつぶさに見ていく必要が
の中で父親のものには柵が巡らせであるが、これは
ある。当然今回の調査ではそれらすべてをおこなえ
ヒツジやヤギがゲルの布を食べてしまうのでその侵
たわけではなく、遊牧民の住空間の全体像を明らか
入を防ぐためである。次に次男のゲルとその両親の
にできたわけではないが、その一端をかいま見るこ
ゲルとの聞にはハシャーと呼ばれるヤクおよび子ヤ
とはできたように思える。ここではそれら夏営地に
クそして子ウシ用の三連の柵がつくられ、営地の北
おける遊牧民の住空間の特徴を見ていくことにしたい。
西のはずれには子ウシ朋の別な柵が設けられている。
今回訪れたホ ト・アイルは、北部のフブスグル県
それらの周囲には燃料用の畜糞をためる場所がいく
フブスグル湖周辺で 3ケ所、セレ ンゲ県で lケ所、
つか山になっている。これら柵用の木材は周囲の山
巾部のウブルハンガイ県で lケ所、合わせて 5例で
に自生しているカラマツに似たハルモトと呼ばれる
ある。ここではそのうちフブスグル湖周辺の草原に
木を利用している。三連の柵の南にはその外形と同
設営されていたホト ・アイルを例としてとりあげる
じ様な形をした土があらわになった所があるが、こ
ことにする。
れは以前この柵があった場所である。柵に家畜をい
このホト・アイルはフブスグル県の県庁所在地ム
れておくとその場所が踏まれて草がなくなり、また
人間文化 ・ 7
1
現代モンゴルの住空間
糞尿などでぬかるんでくるため、ときどき 柵の場所
トーブが置かれ、 その煙突が トーノから外へと突き
を変えてやるのである。同じことはゲルについても
出ている。家財道具はハ ナに 沿って 配置される。
言え、同じ位置で長く生活しているとその場所が
ハールガの正面奥に 獅子の絵の描かれた家財道具入
湿ってくるので時々ゲルの位置をかえるのだという。
れの箱が置かれ、その 上には鏡や家族の写真などが
このホト ・アイルでも調査時にちょうど次男のゲル
置かれている。そしてベッドや食器、調理用具など
を移しているところであった。その他営地には長男
が、ハールガを通る 中心軸をはさんでほぼ対称、にな
のゲルのやや北と次男のゲルの北西、子ウシ用の柵
るように配置されている(詳しくは面矢氏の稿を参
の近くにそれぞれショーンと呼ばれる馬つなぎ用の
照)。床板はなく 地面 の上に直接建てられているが、
俸が立てられているほか、ホト ・アイル内には木で
正面奥の部分には級王室が敷かれており、また正面奥
つくった薪割り台や物置台、荷車がある。
特徴としては、まずゲルの入口がすべて南東を 向
と両横のベッドの置かれている場所ではハナにも級
訟が飾られている。壁に紙訟 を飾るのはモンゴルで
いているという ことがある。モンゴルでは北西の風
はよく好まれる装飾の手法で、ゲルに限らず後で触
が吹くためゲルの入口は南東から南を向いて建てら
れる集合住宅などでもよく壁に級訟が飾られている。
r
れるといい、今回調査した他の 4O
Jのホ卜 ・アイル
遊牧民のゲル一般に関して言えば、部材に施され
でもゲルの入口はどれも南東あるいは南を向いてい
る模様の図柄や彫刻など、装飾的な面では様々なも
た。 これは遊牧民の住居の一つの特徴と 言える 。 し
のが見られるが、建築構造的 に見ればゲルにはバリ
かしゲル同士の位置関係や家畜の柵などの配置など
エーションはほとんどないと言っていい。あるのは
については特に決まったパターンを見 いだすことは
ハナの枚数によるゲルの大きさの違いと、 パガナの
できず、ホト・アイルの集合形態に何 らかの構成原
形態やトーノのタイプ(これらは多分に装飾的な要
理があるのかという点については今回の調査では明
素をあわせ持つが)の違いくらいである。そして自
確にできなかった。
らゲルを製作することも多い ためであろうか遊牧民
のゲルは概してあまり装飾的ではなく、扉の色ゃあ
-ホ卜・アイルにおけるゲル
るいはゲルの汚れ具合といった点を除けば外観上は
次にゲルについてであるが、このホト ・アイルの
どれも同じように見える。以下は今回の調査で見ら
長男(ムンフパッ ト)のゲルを事例として取り上げる
れた遊牧民のゲルにおけるいくつかの特徴である 。
(
p
.
8
8図 3)。ハナの数は 5枚、オニは 7
6本である 。
トーノは内側の円が 4等分され、内側と外側の円の
聞は前方(入口側)が 4等分、後方が 6等分されるタ
ハナのゲルとか 6枚ハナのゲルとかいう言い方をす
イプである。 トーノは全体がオレンジ色に塗られて
今回の調査では、ハナが 5枚ないし 6枚、ハナ下端
いる。 トーノの外側のリングには 2本の梁が渡され
.5 m ~ 6 m程度のものが標準的な
部での直径が約 5
その下にパガナが立ち、パガナの 上半分は青 、下半
ゲルであった。
ゲルの大きさは一般にハナの数で表される 。 5枚
る。彼らにはそれで大体の大きさが分かるのである 。
分は赤く塗られている。ゲル各部の寸法は、ハナ下
パガナに関しては 、 4枚ハナ程度の小さなゲルで
端部すなわち床面での直径は 5.95m、上端部での直
はパガナがないものも見られたが、それ以外ではパ
径は 5.68m、 トーノの直径は l
.46mあり、側壁の
ガナは大きく 2つのタイプに分けられる。一つは
.38m、扉と反対側の部分で
高さは扉の部分で 1
トーノ外周のリングの下端を直接パガナの柱頭部が
1
.35mある。床面から トーノ下端までの高さは
2
.
11
m、 トーノの最上部までの高さは 2.
39mであ
る。オニの長さは 2.4mあり、 卜一ノ側の半分が青
受けるもので、もう一つはトーノの円弧上に短い梁
く塗られ、ハナ側は赤く塗られている 。
なっている。トーノの直径がある程度大 きくなると、
が渡されそれをパガナが受けるものである(写真
1)ロ後者は短い梁の部分 を含めた全体がパガナと
ゲルの各部材はどれも 非常にシンプルなもので、
2点で支えるよりも梁を渡して 4点支持としたほう
特に装飾が施されていたりはしないが、トーノはオ
が安定性が高くなるため と思われる。形態的には両
レンジに、ハールガは緑に塗られ、パガナやオ二は
タイプとも、柱頭部の両側に板などをつけるなどし
青と赤に塗り分けられているなど彩色が施されてい
て上部の幅が広くなっている。これは構造的には
る。住人へのヒアリングではこれらの色に特別な意
トーノを支持する面を大きくすることで安定度を高
味はないという。内部には 、中央のトーノの下にス
めるという意味があると恩われるが、それ以外に象
7
2 ・人間文化
現代モンコルの住空間
な部材が 2組あり、それらがトーノの 中央で格子状
に直交する よ うに渡されるタイプがある。
ウランパートル・ゲル居住区の住まい
・ゲル居住区の概要
ウランパートルでは、 北部のチンゲルテイ 山の斜
面および市を東西に流れる トーラ川の南岸にゲル居
9
9
5年時点で市の人口の約 1/ 4に
住区が広がる。 1
あたる 1
6万人がゲル居住区に住み 7) 、市内には 1
8
のゲル ・ホローロル(ホ口ーロルは団地 という意味)
がある 8)。以前は各敷地にゲルが建ち並び、広大なゲ
ル群落という様子であったというが、バイシンと呼
ばれる簡素な木造住居での居住が進むにつれゲルの
数は減少し、今ではむしろ木造住宅群と呼ぶ方がふ
さわしい景観となっている。
ゲル居住区の宅地は、四周をハシャーと呼ばれる
写真 1 異なるハガナのタイプ
板塀で囲んだ区画であり、この一つ一つの区画その
ものもハシャーと呼ばれる。ハシャーがいくつか集
徴的な意味もあると考えられる。パガナはゲルの巾
合してできたブロックはゴダムジュと呼ばれる。ゴ
心にあるかまどのすぐ両側 に立つことから火やかま
夕、ムジュとは本来「通り」という意味であるが、面
どそのものの象徴として考えられているというへ
している通りの番弓によってブロック自 体が「第0
装飾的なバガナの巾には柱本体の両側にうねるよう
な曲線をもった板が取り付けられ、そこに炎や煙を
0番ゴダムジユ」と呼ばれるのである。各ゴダム
ジュはハシャーが 1列あるいは背割り状に 27
]
1
に並
恩わせる渦状の文様が描かれているものもある。パ
んだ形態をとり 、入口がとれなくなるため 3列以上
ガナの頭部の上方に向かつて広がっていく形態はこ
のものはない。またハシャーの各辺はタルと呼ばれ、
のような火や煙を象徴的に表現したものとも考えら
ブロックの 巾で最初につくられるハシャーは四周す
れるのである。
べてつまり 4タルを建設しなければならないが、そ
またトーノのタイプにもいくつかあるが(図 3
、
)
れに連なる隣のハシャーは 3タルずつ付け足してい
最も一般的なのは内側と外側 の 2重のリングがあり
けばよく、ハシャーが 2列のブロックでは 2タル付
内側のリング内が 4等分され、 2つのリングの間の
け足すだけでよい区画もでてくる。それぞれのハ
扉倶I
J (前方)が 4等分、反対側(後方)が 6等分さ
シャーには、バイシンが少なくとも l棟、多いとこ
れるものである。そして扉側の 4等分された部分の
ろ で は 3、 4棟 あ り 、 ゲ ル が 建 て ら れ て い る ハ
一つからストーブの煙突が外へ出る。このタイプと
シャーは全 体 の 1 ~2 割程度であり、それもほとん
似て 2つのリングの聞が前方も後方も 4等分つまり
どの場合 l棟のみであった。オープンスペースには
全体が 8等分されているものもある。それと数は少
ジャガイモやカフーなどを栽培する菜園がつくられた
ないが、リングは外周部の 一つのみで、 3本の平行
り、牛などを近辺に放牧しながら飼育している家庭
では家畜小犀が建てられたりする。
後方
現在ウランパートルのゲル居住区のインフラは、
電気については居住区全域に供給されているものの、
水は居住 区 内 に一定の割合で設けられた給水施設
(コンクリート製の建物の巾にタンクが設置されてい
る)に給水車が水を供給し、 住 民はそこで水 をくみ
前方
図3
トーノのタイプ
各家庭へと持ち運ぶ。下水はなく、各家庭では地面
に穴を掘り、その上に小尾を建てたトイレを使用 し
人間文化・ 7
3
現代モンゴルの住空間
~ 九
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写 真 2 イフ・フレ
絵図(録影ー西川幸治)
ている。また各ホローロルにはハルーン・オス(熱
南岸には活仏の宮殿が建っているという当時のウラ
い水という意味)と呼ばれる公共の浴場が設けられ
ンパートルの様子が細かく 描かれている。
ているが、現在機能 していないところが多いという。
ここで注目したいのは街を構成している建築群の
モンゴルでは現在のところまだ土地の私有は認め
形態である。 一部の街、特に中央政庁を中心とした
られておらず、ゲル居住区にお いても市から区画の
円形状の街の西側に南北に長く広がる街では、巾国
使用権を与えられた住民が自らの経済力に応じてハ
の四合院住居を思わせる 中庭状のオープンスペース
シャーやゲル、パイシンなどを建設し、それらにつ
を持った建物が整然と建ち並んでいる様子がうかが
いての所有権を持つという形態をと っている。その
える。またそれ以外の大半の部分、特に前述した二
ため、行政から何らかの理由でその区画からの立ち
つの円形状の街では全域が、まったく同じタイプの
退きを要求されれば否応なく移動しなければならず、
建築群によって構成されていることが見て取れる。
どうしても住居が仮設的で安普請なものとなり居住
それらはラマ僧の居住区として形成されたのだが、
環境の質が向上しないという傾向がある。そこで
その形式は、木の板のようなもので四角い塀を巡ら
1
9
9
0年の民主化以後、土地の私有化を認める議論が
した区画の中に切妻屋根の平屋の建物とゲルとが建
起こっているがまだ決着はしていない。また現在世
てられ、それが速なって短冊状のブロックを構成し
界銀行の援助によるウランパートルのゲル居住区の
ているというものである。そして敷地内 の上側つま
居住環境改善のためのプロジェクトが進行 中で、上
り北側の塀に接するように建物(おそらく木造の住
水道の整備や洪水対策用の排水溝の建設のための調
居であろう)が建てられ、その前すなわち南側に ゲ
査、計画がおこなわれており、その他モンゴル通産
ルがあり、南側の柵に出入口を表すと思われる扉の
省によってゲル居住区に電話線を設置する計画も進
ようなものがある。この配置パターンも、ほとんど
行中である。
の区画でまったく 同じである。
-ゲル居住区とフレー
各敷地の周囲に塀で巡らせその巾にゲルやパイシン
現在のゲル居住区はラマ僧の居住区ではないが、
ゲル居住区の形成過程を考える上で参考になるの
が建てられ、その区画が連続して一つのブロックを
91
2年にジュグデルによって描かれたイフ ・フ
が
、 1
形成しているという点では基本的にこのフレーの絵
レーの絵図である(写真 2)九イフ ・フレーとは革
図に画かれた街区と同じ構成をしている。全体が円
命以前のウランパートルの呼称であるが、この絵図
形となるような配置にはなっていないが、それは現
を見ると、そこにはシャラ・オルドンと呼ばれた中
在のゲル居住区がラマ僧の居住区ではなく、またウ
央政庁を中心とした円形状の街とガ ンダン寺を 中心
ランパートルに流入する人口に対する近代的な集合
とした少々いびつではあるがやはり円形状の街との
住宅の建設が間に合わないために都市周辺部に形成
二つが核となり、そ の二つの街の聞や 巾央政庁 の南
されてきたという事情によるものであり、居住区の
側、さらには 山あいにまで街が広がり、トーラ川の
構成や集合形態はすでに近代以前の伝統的なフレー
7
4 -人間文化
現代モンコルの住空間
において形成されていたものが受け継がれていると
じ形態をとっている。これなどはまさにフレーの街
見ることができる。
区構成をそのまま継承していると 言ってい いだろう 。
ウランパートル以外にも同じような例がある。フ
このようにイフ・フレーやムルン ・フレーの絵図
ブスグル県の県庁所在地であるムルンの民族歴史│専
からわかるのは、モンゴルでは都市での集住におい
物館には、イフ ・フレーの絵図と同様革命前のムル
て伝統的に敷地の周囲を塀で囲んだ区画が連続して
ンの街を描いたムルン ・フレー の絵図が ある (写真
街区を形成するという形態がとられてきたというこ
3)。絵図自体はバヤンオチルという画家によって
とであり、それが現在のゲル居住区の構成に受け継
1
9
4
2年に描かれた比較的新し いものだが、ラマ僧達
がれていると考えられるのである。
から聞いた街の様子に関するさまざまな話を総合し
て往事のムルン ・プレーを再現したものであるとい
う。この絵図にもイフ ・フレーの絵図同様、中央に
寺院群がありややいびつではあるが全体としては円
-ゲル居住区におけるゲル
ウランパー トル、チンゲルテイ区のゲル居住区に
あるツェレン夕、ワ邸(チンゲルテイ ・ドゥーレグ、
形状をした街全体の様子が画かれている。そしてこ
1
7番ホ口一、 5番ヘセグ、 3
41
番地 10)の敷地にはゲ
こで見られるラマ僧の住居もイフ ・フレ一同様、塀
ルとパイシンの両方が建つ(図 4
)。ゲル居住区の中
を巡らせた巾に切妻屋根の建物とゲルとが建つもの
では敷地の規模や建物、ゲルのタイプなどの点で平
で、やはり同じように短 冊状の街区を形成している 。
均的な区画であると言 っていい。ここには 2家族が
一方写真 4は現在のムルンの街を上空から見たもの
居住し、 6
9世帯からなるこのヘセグの長を務めてい
であるが、整然と区画割りされた街の構成がよく見
るツェレンダワ氏とその妻がゲルに住み、パイシン
て取れる。塀で固まれた一つ一つの区画が短冊状の
には夫婦の親戚家族が 2棟に分かれて住んでいる 。
街区を形成しそれが平行に並んでいくという構成は、
ハシャーの形態は東側の一辺がやや短い台形状で、
ムルン ・プレーの絵図に画かれた街区とほとんど同
7
0n
i
ある。通りに面する西側の柵には住
面積は約 8
人用の扉と車の出入りできる大きな扉の二つの出入
口が設けられ、住人用の入口の横にはタバコ、
ジュース、飴などを売る小さな売庖がつくられてい
る。敷地内には北側の柵に沿って大小 2棟のパイシ
ンおよび、物置小尾が、敷地の中央よりやや北東の位
置にゲルが建てられ、ゲルの入口の前には冬用の
フェルトなどを保管しておく小さな物置がある。そ
してハシャー南東の角にはトイレが 2つ設置されて
いる。南側の柵沿いには燃料用 の石炭貯蔵庫がつく
られ、その 西側はジャガイ モ畑と家畜の牛小屋に
なっており、牛に荒らされないよう畑の周囲には柵
写真 3 ムルン ・フレー絵図
が巡らせである。また隣家との境である南側の柵は
ジャガイモ畑の部分だけ針金でつくられているが、
これは畑に 日光が当たるようにするためであろう。
牛小屋の 上は牛糞の乾燥場となっており、乾燥した
ものは燃料としてジ ャガイモ畑の隅につくられた柵
のなかに蓄えられる。その他パイシンの脇と、東側
の柵沿い、また南側の柵沿いのトイレと石炭庫の聞
には薪用の木材が積み上げられ、 2つの入口の聞に
は犬小尾があり番犬がつながれている 。
ハシャーの構成の特徴としては、住居であるゲル
およびパイシンが敷地の北側部分に建ち南側がオー
プンになっていることが挙げられる。この一帯はほ
写真 4 ムル ン市街地
ぼ東南東から西北西に走る谷筋に沿った両側の緩や
人間文化・ 7
5
現代モンゴルの住空間
間窪寺
t
l
卓
l
、
町、
リ
,ー
勺'砂
⑨
木造パイシン
図 4 ツ工レンダワ邸ハシャー配置図
、
)
かな斜面上にゲル居住区が帯状に広がり(写真 5
反対側すなわち北を向いた斜面にはハシャーが少な
ツェレンダワ邸はその北側の斜面に位置しているの
いこと、またそこでは敷地の西側(より正確には北
だが、同じ側にあるほとんどのハシャーで同様に住
西側)の柵に接して多くのバイシンが建てられてい
居を北側に寄せて南側をオープンにするという構成
るという事実からも推察することができる。北を向
がとられている。特にパイシンは北側の柵にひ。
った
いた斜面では午後の日照があまり得られないことか
りと沿うように配置されている例が多く、ツェレン
ら、午前中の日照が効率よく得られ同時に北からの
ダワ邸でもパイシンはそのように建てられている。
風の侵入も防げるようにバイシンが配置されている
これは南側を広く開放することで多くの日照が得ら
のである。草原のゲルでは、北あるいは北西の風に
れるということと、北側の柵に接して住居を建てる
対する防御のために入口は伝統的に南から南東側に
ことで北からの風が直接住居に吹きつけるのを避け
向けられるのが一般的である。ツェレンダワ邸でも
るという意味があると考えられる。これは、谷筋の
ゲルの入口は南東に向けられている。またパイシン
の南側にゲルを建てているのはゲルに吹きつける北
風を弱めるための配慮、と言え、こうした例は他のハ
シャーでも見ることができる。前述したフレーの絵
図においても同じように区画の北側に木造住居が建
ちその南にゲルがある様子が見られ、このような配
置がフレーにおいてすでに一般的であったことが分
かる。このように、草原の遊牧民のゲルの伝統やフ
レーにおける伝統が現在のゲル居住区の立地や建物
の配置などに受け継がれているのである。
p
.
8
9図 4)。ツエ
次にゲルの特徴を見ていきたい (
レンダワ邸のゲルは側壁のハナの数が 5枚、尾根の
写真 5 チンゲルテイ区のゲル居住区
7
6 ・人間文化
オニの数は 8
1;
本である。 卜ーノの下にはパガナがな
現代モンコルの住空間
く、代わりにトーノを支える部分が十字型になった
選択しているのである。そのために若干の手を入れ
鉄パイプ製の支柱が立つ。ゲル各部の寸法は、ハナ
ているが基本的な構成は変えていない。ゲル居住区
.80
下端部の直径が 5.00m、ハナ上端部の直径が 4
においては今や大部分パイシンでの居住が一般化し
m、 トーノの直径は 1.35mあり、ハナの高さは
1.45m、床面からトーノの下端までの高さは 2.08
m、 トーノの最上部までの高さは 2.28mである。敷
地が緩やかに傾斜しているためゲルの周囲約 1mほ
ているのだが、ゲルによる生活も 一方で存続してい
どの範囲は簡単な盛土によって水平にならされ、ゲ
る背景には、かつて味わっていた遊牧での生活の快
適さを都市においても享受し続けていきたいという
願いと、伝統的な生活スタイルを守っていこうとす
る住民の意志があるのである。
ルの床には木製の床板が敷かれている。入口と物置
との聞には板が渡されている。この物置は夏には冬
-ゲル居住区におけるパイシン
用のエスギー(フェルト)の保管用などに使われるが
次にゲル居住区において現在一般的な住居となっ
(夏場はゲルのエスギーは l枚だが、冬には 3枚重
ているパイシン(木造住居)について見ていきたい。
ねられる)、冬には入口に直につけられて、この物
ツェレンダワ邸と同じくチンゲルテイ区にあるパ
置がゲルの入口となる。 トーノは内側のリングが 4
トゲレル邸にはパイシンのみが建つ(図 5)。パトゲ
等分され、内側と外側のリングの聞は前方(入口側)
レル氏の家族と彼の弟の家族の 2世帯が住む。この
が 4分割、後方が 6分割されるタイプで、前方の各
5番ホローでは住民の約 8割は自宅で野菜
家のある 1
部分にはガラスがはめ込まれている。オニは長さが
を栽培しているということだが、特にこの家では敷
1
.9mあり、ハナから1.2mまでは円形断面である
地が積極的に菜園として利用されている。
が、そこからトーノのさし込み口に向かつて正方形
ハシャーの形態は東西に長い長方形をし、(東西方
断面となり先が細くなっていく。そして円形断面部
8
0r
r
i
) 南側の
向 40.5m、南北方向 19.2m、面積約 7
分は赤く、正方形断面部分は青く塗られている 。
柵の西端に約 0.8mの出入口と約 4 mの車用の扉が
トーノも全体が赤く塗られている。
隣接してつくられている。パイシンは北側の柵に接
ゲル居住区におけるゲルの特徴は、遊牧民のゲル
して大小 2棟建てられ、中央よりの大きな方がパト
とは異なり定住生活において使用されることであ
ゲレル氏の家族、西端の小さな方は弟の家族の住居
り、それに適合するような工夫がいくつか見られ
となっている。入口のすぐ東側および 2棟のパイシ
る。ツェレンダワ邸のゲルでも、電気が引かれてい
ンの聞にはそれぞれ物置用のコンテナ が置かれ、南
ること、パガナの代わりに鉄パイプ製の支柱が用い
側の柵のほぼ中央付近にトイレが建つ。また中央の
られていること、 トーノに雨風を防ぎなおかつ光を
パイシンの入口とハシャーの入口およびトイレとの
取り入れられるようガラスの窓がとりつけられてい
聞にはセメントで固めた道がつけられ、その 2本の
ること、床板が敷かれていること(草原においても
道で挟まれた部分には砂場とジャガイモ畑があり、
床板を用いるゲルもあるが、移動時の負担になるた
肥料をつくるためのドラム缶が並べられている。小
めあまり一般的とは言えない)、夏には物置、冬に
さなパイシンとコンテナとの聞には番犬がつながれ
は住居の入口となる小屋が併設されていることが挙
ている。
げられる。しかし定住のためにゲルの構造が大きく
先に述べたようにこの家では野菜作りが熱心にお
変えられているわけではなく、内部の家具や家財道
こなわれ、今は自分の家で消費したり親戚に配るだ
具の配置も、遊牧民のゲルと比較してそれほど大き
けだが、将来的には商品として売り出したいという
く異なってはいない。住人であるツエレンダワ夫妻
希望もあり、敷地の大部分が菜園として利用されて
6歳
、 7
0歳で、ザブハン・アイマグから
はそれぞれ 7
いる。主にジャガイモとカブが栽培されているが、
1
9
7
6年にウラ ンパートルに移り、現在の場所には
1
9
8
3年から住んでいるという。そして長年ゲルに住
その他にニンジンやタマネギ、キュウリなどもつく
んでいるため、少々不便でもゲルの生活に対する愛
シャーの西の柵に沿った部分に、作物別に短冊状に
着があり、またトーノとハールガを開け放しておく
耕された畑が並ぶ。
ことで常に住居の巾に新鮮な空気が取り入れられそ
られている。敷地の東半分とバイシンの南そしてハ
ハシャー 内のパイ シンの配置はツェレンダワ邸と
れが健康にいいのだということを強調していた。つ
同様北側に寄せられ南がオーブンスペースとなり、
まり定住しながらもあえてゲルに住み続ける生活を
これは先述した理由によると考えられる。またハ
7
人間文化・ 7
現代モンゴルの住空間
j
j
;
i
i
;
i
Rift:
i
ブ
H
i
l
i
;
j
F
;
:
!
;
;
i
j
酬の
ドラム缶
ミルク缶
(肥料)
・
ピニー Jレハウス(キュウリ)
?
?
?
!
;
t
1
0
m
図 5 ハ卜ゲ レル邸ハシャ
シャー内でのトイレの位置であるが、南側の柵に隣
配置図
の枕木の廃材を績に積み上げたものであった(写真
接したその位置はパイシンから見れば南東の方向に
6)。その上からモルタルを塗って仕上げるという
あり、先のツェレンダワ邸でもトイレはハシャーの
ことで、おそらくはパトゲレル邸も向様の構造をし
南東の角に位置していた。草原におけるゲルの周辺
ていると思われる。パイシンの内部であるが、入口
ではトイレはゲルから離れた東側、あるいは南東側
にあるのが一般的で、それは北西から吹くことの多
部分は主室の前室のようになっていて、71<を運ぶた
めの台車なと、が置かれている。その奥は石炭庫を兼
い風の 向きを考慮しているといい川、ここにも遊牧
ねた物置となっており、外へ出なくても石炭が補給
生活の伝統がゲル居住区に受け継がれている例を見
できるようになっている。またこの入口部分は冬場
ることができる。
に室内に寒気が流入するのを防ぐための風除室的な
5ばであ
バイシンは、木造平屋建てで、面積は約 5
役割をも持っていると言える。主室部分は 2つに仕
p
.
91
図5
)。入 口部分は別棟と なっていて他の部
る(
切られ、入口側が台所となり調理器具と暖房を兼ね
分より低く 、壁は入 口部分は板壁であるが主室部分
るストーブがそこに置かれ、奥には食堂や寝室が一
はモルタル仕上げ、 屋根はどちらも防水シートを細
、
体となった部屋がある。南側の壁には台所に lつ
材で固定して仕上げてある。他のハシャーに建設中
食堂兼寝室に 3つの窓があり、台所の窓は二重窓に
のバイシンがあったのだが、壁の構造を見ると鉄道
なっている。またこの 2つの部屋にはストーブでわ
かした熱湯を循環させる暖房器具が窓際にとりつけ
られている。
住人であるバトゲレル氏は 1
99
5年にこのハシャー
に移ってきたといい 、その購入費は 6
0万トゥグルク
であったという
1
2)
。また先述した建設中のパイシン
0
0万トゥグルクであるという。ゲルの
の建設費は 1
あるハシャーでのヒアリングでは、現在ゲルを一棟
0
0万トゥグルクすると
つくると家財道具込みで約 3
いい、コスト的にはパイシンはゲルよりもはるかに
安い。現在ゲル居住区の住居がほとんどパイシンに
ぷ 軸 品 目
e
,
.
写真 6 木造ハイシンの徳造
7
8 -人間文化
なっている背景にはこのような事情もあるように恩
われる。
現代モンコソレの住空間
ウランパートルの集合住宅
・集合住宅の概要
3 階建ての低屈か 4~5 階建ての 巾 層で、勾配屋根
のものが主流であったが、プ レキ ャストコンクリー
ト板の製造工場が完成した 1
9
7
0年代以降プレフ ァブ
ウランパートルの 中心部には巾 層、高層の集合住
工法による建設が採用され、 同一形式のものが大量
宅がずらりと建ち並ぶ(写真 7)
。市の都市計画の基
に建設されるようになる。 階数的 には 4~5 階建て
本政策は、すべての住民が近代的な集合住宅に居住
の巾層と 9~ 1 2 階建ての高層の 2 つのタイフ。 が主流
することを目標としている。しかし増加し続ける人
となり、屋桜もフラ ッ トルーフになる。各住練には
口に建設が追いつかず、周辺部に広大なゲル居住区
いくつかの住戸タイプが設定され、台所や浴室など
が形成されていることは先述したとおりである。
のユーティリティを除いた居室の数が 1室のものか
集合住宅はウランパートル市住宅公団によって管
ら4室のものまでがある。プレファブ工法が採用さ
理運営され、市内に 1
8の事務所が設置されている。
れるようになってからは、 lフロアーにそれら I居
今回の調査では、住宅公団作成によ る各事務所管内
室タイプから 4居室タイプまでのいくつかのタイプ
における集合住宅の使用開始年月日、階数、戸数、入
を組み合わせて基準階平面とし、それを垂直方向に
居世帯数、入居者数などのデータが記載された一覧
積層させたユニットを水平方向にいくつか連結させ
表を入手することができた。それによると 1996年に
て一 つの住棟とするという 手法 がとられるように
おけるウランパートルの集合住宅棟数は 755練、戸
なった。図 6はその l例であり 、第 21ホロー ロルで
数は 52,9
1
4戸、入居世帯数が 5
2,838世帯、集合住
9
8
3年に
建設された集合住宅の l階平面図である。 1
,
1 999人である。ウランパートル
宅の居住人口は 24
旧ソ連で設計されている。 巾廊下型の構成で、巾央
の人口が約 619,200、世帯数が 1
35,776であるから
にある階段室およびエレベーターの両側に 3居室タ
ゆ、人口、世帯数ともに約 39%が集合住宅に居住し
イプの住戸が 2戸、廊下を挟んだ向かい側に l居室
ていることになる。
タイプの住戸が 2戸、合計 4戸が 1フロアーに配置
集合住宅の建設はウランパートルの都市計画に
され、 i居室タイプの住戸も居室の大きさによって
沿ってホローロルと呼ばれる団地単位で計画されて
さらに A、 B2つのタイプがあるのが見て取れる。
いる。 1
986年に作成された最新の都市計画案では市
2階以上では手前側の住棟入 口の上部に も居室が設
全域で 28のホローロルが計画さ れ、現在そのうちの
けられ、住棟平面は 3居室タイプが 2戸
、 2居室タ
1
8程度が完成している という 。集合住宅自体は 1
9
3
0
年代から建設されはじめ 、民主化以前にはそ の設計
、 l居室タイプが I戸という 構成にな っ
イプが l戸
ている。
はすべて 1
9
2
9年に設立された国立設計研究所におい
現在もウランパートル市の都市計画に基づいて基
ておこなわれていた。そ こでは旧 ソ連や 巾固からの
本的には7
0年代以降のプレファブ工法タイフ。を主流
技術援助があり、旧ソ連の場合モンゴルの集合住宅
とした集合住宅の建設が続いているが、民主化以後
、
は極東居住 、特にシベリアでの居住のための実験的
政府や市当局による建設以外に民間による集合住宅
住居としての意味あいもあったという。住棟の形式
建設もおこなわれるようになってきている。そこで
は、 1960 年代までは構造 的には煉瓦造、階数は 2~
は従来のような固定化されたタイプではない間取り
が設計されたり、レストランや商店などと複合した
住宅が計画されるなど、集合住宅にも多様なスタイ
ルが求められつつある。
園集合住宅の住戸
集合住宅も、移動式住居であるゲルに対する定住
型住居という意味で、ゲル居住区の木造住居と同様
バイシンと呼ばれることが一般的である。特に両者
を区別する場合には、木造住居のことをモドン・パ
イシン ~ 1 0 .
l
l0 H
6an
山 H H (純木造)あるいは
シャパル山 aB apパイシン(木造モルタル仕上げ)
写真 7 ウランバー卜ルの集合住宅群
と呼び、集合住宅は構造形式によってセメントン U
人間文化・ 7
9
現代モンゴルの住空間
7
図 6 集合住宅平面の一例
eM eH T eHバイシン(コンクリート造)、ウグサ
で5400mmであった。住戸面積はベランダも合わせる
ルマル y r c a p M aλパイシン(プレファブ工
と4
2
.
4
8n
lとなる。また住棟の廊下の幅が同じく心々
法
)
、 トースゴン T o o c r O Hバイシン(煉瓦造)
で1
8
0
0m
mあり、 1800mmあるいは 900mmという寸法が
と呼ぶことがある。
住棟設計の基準として用いられたことが読みとれる。
バヤンゴル区、第 3ホローロルにあるユンデンバ
住戸の入口は二重扉になっており、室内側には防
ト邸は 9階建てのウグサルマル・バイシンの 1住戸
寒のための断熱用のクッションが取り付けられてい
.9
2図 6)。住戸は中央の壁で二等
である(写真 8、p
る。台所および居室の窓もすべて同様に二重窓に
分されている。片方はベランダ付きの居室であり、
なっている。居室および台所の窓の下には暖房用の
トイレ付きの浴
潟水を循環させるヒーターが備え付けられている。
室および台所などのユーティリティが配置され、先
もう片方にはエントランスホール、
集合住宅では暖房用も含めて家庭で使用する混水は
述の住戸タイプでいえば l居室タイプである。ユン
すべて発電所から供給されるシステムになっており、
デンパト氏の妻及び子供の 3人が住み、居室の部分
は居間兼寝室として使われている。
またガスはなく調理器具にはすべて電気が使用され
ている。
実測により居室部分、ユーティリティ部分の短辺
この住棟では一つの階段からアプローチできる住
方向はどちらも壁の心々で、 3600mm、長辺方向は心々
戸の数は 1フロアにつき 4戸で、 1戸はユンデンパ
ト邸のような I居室タイプ、
l戸は 2居室タイプ、
残りの 2戸が 3居室タイプだということで、住戸の
配置は先に挙げた住棟と同じような形式である。先
述したようにプレファブ工法の採用以後、一つの住
棟の巾にいくつかの居室タイプを組み合わせるのが
基.本的な構成となったのだが、住棟ごとのヴァリ
エー ションはあまりないようである。
旧ソ連の技術援助などによって開発された集合住
宅の設計理念は、家族規模に応じていくつかの住戸
面積を設定し、必要な諸設備を組み入れながら効率
写真 B 典型的なプレファブ式集合住宅
8
0 ・人間文化
よく配置した上で、規格化と工業化によって建設コ
現代モンゴルの住空間
ストを最小限に抑えるものだと言えるだろう。そこ
があり、伝統的な生活の巾で培われてきた居住スタ
にはゲル住居などのモンゴルの伝統的な居住形態は
イルはまったく反映されていない。
まったく反映されていない。近代的な設備の整った
このように見てくると、遊牧民の移動型の住居と
集合住宅での生活に満足している住人のいる一方で、
都市でのゲル居住区の住居の聞には、移動と定住と
ゲルでの生活に戻りたいと言う住人もいる。高層の
いう生活スタイルの違いからくる住居や集合形態の
住宅では地面から離れて暮らすことへの違和感もあ
差異は当然あるのだが、それらはどちらも気候や風
るという。住人の中には、ウランパートルの巾心部
土の影響の巾で形成されてきた伝統的な形式を持ち、
から 1
0~ 2
0k
m程離れた郊外に木造住居を構え、夏
両者はまったく異なる次元に成立しているのではな
の聞はそこで生活する人も多い。新鮮な空気と大地
く互いに関連性を見いだすことができる。一方近代
に密着した生活が落ち着くのだという。ここでその
的な集合住宅は、それらとまったく異質のコンテク
構成については触れることができなかったが、夏営
ス卜上に計函、建設されてきた。したがって住空間
地という意味のゾスランと呼ばれるこのような居住
の根本的な違いは移動型の生活と定住生活との間に
形態は、都市での定住にあって遊牧生活の伝統を感
あるのではなく、伝統的な住居と近代的な集合住宅
じさせるものである。
との間にあると言える。その違いとは、前者が大地
に根ざした住まいであるのに対し、後者が人;地から
まとめ
現代モンゴルの住空間を草原の遊牧民の移動型の
住居、都市におけるゲル居住区、同じく都市の近代
遊離した住居だということである。今回詳しく触れ
ることはできなかったがウランパートル近郊に広が
るゾスランと呼ばれる夏の別荘群は両者のギャップ
を埋めるために形成されてきたのだとも言える。
的集合住宅という居住スタイルの違いから見てきた。
今回の調査で感じられたのは、遊牧民の移動型の
遊牧民の住空間は、ホト・アイルのまとまりの巾
居住スタイルには今後とも大きな変化は見られない
にゲル、家畜用の柵、ウマつなぎ、畜糞の乾燥場、薪
であろうということである。ゲルの部材の多くは遊
割り場などが配置されることで構成される。住居で
牧民自らつくることのできるものであり、長い年月
あるゲルは多くがあまり装飾の施されていない簡素
をかけて発展してきたその形式は実にうまく環境と
なものである。ゲル自体の大きさや卜ーノやパガナ
共生している。またホ卜・アイルという宿営地にお
の形態などにいくらかのバリ エーショ ンが見られる。
ける共同体のあり方も遊牧という生業においては合
また決まって入口の扉が南東から南の方向に向くよ
理的なシステムのようである。実際、訪れたホ卜 ・ア
うにゲルは建てられる。ホト・アイル全体の構成に
イルでも若い世代が上の世代と変わらない伝統的な
関しては、諸要素の配置に何らかの構成原理がある
生活スタイルを守っている姿が印象的であった。
のかどうか、今回の調査では明確にできなかった。
一方都市部について見れば、ゲル居住区における
今回訪れたのは夏営地だけであり、 l年を通した季
住居と近代的な集合住宅では、住環境の基盤があま
節ごとの宿営地の立地や移動ルートなどを地形や気
りにも異なりすぎている。一方では伝統的な都市居
候さらには遊牧民のコスモロジーといった観点から
住のスタイルを引き継ぎながらも、インフラや住居
見れば、より大きなレベルで彼らの住空間の構成原
理が浮かび、上がってくるのかもしれない。
は言えず、もう一方では近代的な設備は充実してい
都市におけるゲル居住区では、ハシャーと呼ばれ
るものの、伝統的な居住スタイルとは完全に切り離
の質といった商で必ずしも良好な居住環境にあると
る板塀によって区画された敷地の中にゲルや木造パ
された住空間である。ウランパートル市の都市計画
イシンが建つ。現在それは都市周辺部に広がってい
の基本政策は今後も集合住宅建設を推進し、できる
るが、そこにはラマ教寺院を 巾心 とした近代以前の
だけゲル居住区の数を少なくしていくことであると
都市フレーにおける集住形態や、草原のホト ・アイ
いう。現在ゲルや木造パイシンの建ち並んでいる地
ルにおける構成の影響を見ることができた。
区にも、近代的な集合住宅群を建設する計画が立て
ウランパートル中心部の集合住宅群では、規格化、
られている。しかし集合住宅群を支えるインフラは
工業化によって大量生産された住戸が積み上げられ
巨大なシステムであり、以前は旧ソ連などの援助に
ている。そこには近代的な都市計画、建築計画に
よって建設されてきたものだが、社会主義の崩接以
よって合理性と効率が最大限に追求された住居の姿
後その維持管理にも支障が出て いるようで、例えば
人間文化 ・ 81
現代モンゴルの住空間
発電所に依存している漏水の供給システムなどがう
ルト製の覆 しけなどの呼称もある。ブレースはそ
まく稼働せす室内の暖房ができないこともあるとい
の上にかぶせられる白布。ウルフはトーノの 上を
う。また補修などの老朽化対策も十分ではないとい
覆う四角いフェルト入りの布。これによって天窓
う。そのような現状を耳にすると、はたしてこれら
の関 口の大きさを調節する。ブスルールはプレー
の集合住宅群がモンゴルに適合する住居であったの
スの上からゲルの側壁を縛り固定する縄で、主に
か疑問を抱かされる。都市においては、集合住宅建
設一辺倒の計画理念を見直し、ゲル居住区に見られ
る伝統的な住空間の特性を生かしながら居住環境の
整備を図るという方向性が必要なのではないかと強
ラク夕、の毛を編んでつくられる。
2)ホトとは宿営地、とりわけ家畜の寝ている場所を
意味し、アイルとは家族、家庭を意味する 。
3)1
9
8
9年 に お け る モ ン ゴ ル の 都 市 部 の 人 口 が
,
11
62,2
0
0な の に 対 し て 、 そ れ 以 外 の 人 口 は
く感じさせられた。
8
7
7,1
0
0である(由川稔 「政治
新憲法の制定と政
治動向 J ~入門・モンゴル国』平原社
謝辞
所収
p
.1
91
)。
今回の調査では、モンゴル各地の家庭を訪問しヒ
4) 調査期間は 1996 年 7 月 14 日 ~8 月 11 日。調査メ
アリングや実視J
Iなどをおこな った。彼らの協力がな
ンバーは西川幸治、高谷好一、 トゥムル・ナムジ
ければ調査はおこなえなかった。ここに深く感謝の
ム、面矢慎介、山根周の 5人に通訳としてモンゴ
意を表したい。また本稿の作成にあたっては、モン
ル国立大学のムンフツエツエグ氏が加わった。
ゴル語の表記について滋賀県立大学人間文化学部
トゥムル・ナムジム教授と伊藤恵子氏の指導を得、
5)小長谷有紀「モンゴル草原の生活世界 J朝日新聞
社
p
.9
同じく人間文化学部 2回生の、庄田詳美さん、田辺
6)向上
鈴賀さん、矢守永生君、環境科学部 2回生の大岡忠
7)ウランパートル市統計課内部資料 (
1
9
9
5
)
紀君には図面作成にあたって協力してもらった。あ
8)1
2の地区の名称は、シャル・ハド凹 a p x a )
1、
p
.92-95
ダリエフ)1 aPb
わせて感謝したい。
本稿は 1
9
9
6年度文部省科学研究費補助金国際学術
ヨ X 、ダンパダルジャー且
a
M 6 a)
1 a P A a a、チンゲルテイ可 1
1H r ヨ λ
n、ハイリヤスタイ
8041021 I
モンゴル遊牧社会の変
研究(課題番号:0
T3
容と将来像 J
) の成果の一部である。
ジーン且 3 H A日前 H 、ナラン H a P a H、ガン
x a 首 λ a a C T、デ ン
1 a H、パヤンホショー 6 a 5
lH X O
ダン r a H)
注
山
1)ハナは木の細材(柳が用いられることが多い)を
yy、 トルゴイ
PM
T 0λ
了
oU
T 、ヤルマグ 5
1a
ar、ニセフ H H C 3 X。
格子状に組んだ伸縮自在の壁の骨組み。数枚のハ
9)ウランパートル、ボグドハーン宮殿博物館蔵
ナを繋げて円形の壁をつくる。オニは傘の骨状に
10) ウランパートルの行政組織は 50~60 戸で構成さ
屋根に張り渡される棒材。 卜一ノは円形の天窓。
れるヘセグ(町内会的組織)を最小単位とし、そ
パガナはトーノの下に立つ柱であるが、組立時に
の上にホロ - X OP O O (町)→ドゥーレグ)1Y
は卜ーノを持ち上げるために必要であるものの、
y P ョ r (区)→ホト X 0 T (市)という構成を
ゲルが建ち上がった時点ではオ二、フェルト、壁
とる。
を縛る縄(ブスルール)によるテンション構造で
卜ーノ が支えられるため、構造材としては必ずし
も必要ではなくなる。むしろその存在は象徴的な
意味が大きい(小長谷有紀「モンゴル草原の生活
世界」朝日選書
p.92、同「儀式のなかのゲル」
1
N
A
XB
O
O
K
L
E
T~遊牧 民の建築術 ゲルのコスモロ
ジー』所収 p
.
4
7
5
1
)。ハールガはゲルの入口とな
る扉、エスギーとは骨組みの上にかぶせられる
フェルトのこと。トールガ(側壁のフェルト製の
覆い)、ツァワク、デーベル(いずれも屋根のフェ
8
2 ・人間文化
1
1
)蓮見治雄 「ゲルのコス モロジー J 1
N
A
XB
O
O
K
L
E
T
『遊牧民の建築術
ゲルのコスモロジ-~ p
.
1
7
。
1
2
)
1
9
9
6年 7月時点で 1トゥグルクは約 0.2円
1
3
)ウランパートル市統計課内部資料 (
l9
9
5
)
現代モンゴルの住空間
Comment
脇田祥尚
モンゴルと集住文化
島根女子短期大学
モンゴルの人々は現在どの様な住まいに住んでい
るのか
。
モンゴル遊牧民の住まいと 言えばゲルがよく知ら
ない、というのが答えであろう。しかし 一つ一つの
住戸を見たとき、木造パイシンとの比較で考えれば、
その聞には大きな違いを見いだすことができない 。
れる 。遊牧民だからこそ、簡単に解体し、組み立て
全くのウソであるが、木造パイシン居住が集合住宅
られるゲルに住む。 しかし定住生活が行われて いる
の計画に反映されて いると言えなくもない。
ウランパートルなどの都市部でもゲルに住んでいる
都市定住によ って生み出された木造パイシンの存
ケースが多いと いう。遊牧の民である彼らは定住し
在を 、
モンゴルの住文化の 中に どう位置づけるのか。
でもゲルを手放すことができない。
そんなモンゴルにプレファブ工法の画一的な中高
おそらくは移動に便利なようにゲルが考案され、ゲ
ルとのつきあいの中で、モンゴルの独自な住文化が
層の集合住宅が建てられている。地域の集住文化を
育まれていった。その独自性を結果的に否定するか
ふまえた集合住宅が構想されなければならない 。集
たちで、木造パイシンが生まれたというのは言い過
合住宅計画に関する適地技術の問題である。日本で
ぎだろうか。
いうと町屋や長屋、漁村集落などに、西欧ならば都
現代の集合住宅計画の中で最も重要視されなけれ
市居住に、インドネシアならばそれぞれの民族の集
ばならないのは、住戸内ではなく住戸外空間である 。
落あるいは都市カンポンの巾に、その地域の集住文
都市部のゲル居住区においても、ホト・アイルにお
化の発露を見ることができる。モンゴルではどうだ
いても、外部空間が彼らの生活においてしめる割合
ろうか。
は大きい。にも関わらず、集合住宅においてはなん
手がかりの一つはウランパートルのゲル居住区に
ら配慮がされていないと考えられる 。共同性の契機
ある 。フレーの絵図にあるように、ウランパートル
ともなる外部空間をきちんと評価する必要がある 。
では古くから集住が行われていた。そこには集まっ
遊牧生活を続けるゲル ・
コ ミュニティの多様なあ
て住む文化が育まれていたといえる。矩形の敷地に
りょうを採集することも有用ではないか。どの様な
ゲル、バイシンといった住居を構え 、他 にもトイレ、
集団でコミュニティが形成されるのか。その時のゲ
倉庫、畑等をもうける。単一の世帯のみの居住では
ルの配置関係はどうなっているのか。様々なバリ
なく、血縁でつながった複数の世帯が一つの敷地に
エーションを採集することは、コレクティブ ・ハウ
住まう。比較的大きな敷地 にオープンスペースを大
ジンク守の発想、へもつながっていく。
きく残すという特徴がある。
いずれにしてもゲ、ルは興味深い住居形態である。
遊牧生活を続ける人々の住まいも面白い。ホト・
実際に内部空間がどの様に利用されているのだろう
アイルでは血縁だけでなく、仲間同士で集まる例も
か。男の空間、女の空間といった区別があるのか。死
あるという。血縁に縛られることなく、自由に離合
者は住居内でどの様に扱われるのか。中央には矩形
集散を繰り返すコミュニティのすがたは、近代家族
の木製の炉が置かれていたという報告を読んだこと
崩壊以降の新しい家族像を考える上でも、大きく示
、
がある。仏教と関連して「地、木、鉄、水、火 Jを
唆に富むはずだ。草原の中に、ゲルがお互いに距離
炉ややかんや火でシンボライズしたという。現在そ
をおきながら集住体として一つの領域(ホト・アイ
ういった考えはどの様に認識されているのか。 一 日
ル)を形成している。
の生活の中で、ゲルの内部は、どの程度利用されて
この様な集住文化が、現代の集合住宅の計画にど
の様に反映されているのか。ほとんど反映されてい
いるのか。彼らの生活の中でのゲルの役割を明らか
にする必要がある。
人間文化・ 8
3
現代モンゴルの住生活と生活財
おも
ゲルの土問にしゃがんで、ゲルの巾にあるさまざ
しんすけ
人間文化学部生活文化学科
その考現学的調査
はじめに
や
面矢慎介
現学を継承しようとの意図にもとづいている。今自
身は、この手法を「持ち物調査」と呼んだ。一人の
人
、 一軒の家が所有するすべての品物を忍皆調査す
まな物(生活財)をひとつひとつ図面に書き込んで
ることによって、その入 、その家の生活像を浮かび
いると、まず決まって子供たちが覗き込みに来て 、
上がらせようとする試みであった 位2。
)
にやにや笑っていく。言葉は通じなくとも何を描い
住居の巾に置かれているそれぞれの物は、なんら
ているかは子供にもすぐわかる。ゲルの巾の物の配
かのかたちで居住者の生活行為と対応しているばか
置の仕方など、彼らにとってはあたりまえのこと。
りでなく、それらの物の集まり方は居住者の生活意
こんな当たり前のことをわざわざ遠い外国から来た
識を反映しているはずである。今たちの持ち物調査
大人が一生懸命に図にしている。それが滑稽に思え
は、激しく移りゆく 1
9
2
0年代の日本の風俗をとらえ
るらしい。
ようとした手法であったが、ここではそれを現代モ
我々のおこなった生活財 註
( 1) の調査は、現地の人
からみても「大の大人がやるべきこと」ではないの
ンゴルの住生活の実態をリアルに把握するために用
)
いてみた(証 3。
かもしれない。しかし、円形のゲルの中の独特の空
今回の調査 ( 1996 年 7 月 ~8 月 )は、定住生活と
間に置かれているさまざまな物(生活財)の集まり
遊牧生活の比較のための事例を採集することを意図
は、現代のモンゴルの日常の暮らしぶりを最も直接
して、主にモンコ ル中部のウランパートル市内と北
ε
的に目に見えるかたちで我々に伝えてくれる、との
部のフブスグル県の 2地域でおこなったが、セレン
直感があった。
ゲ県、ウブルハンガイ県の遊牧地域でもそれぞれ若
物の持ち方・置き方の家ごとの差異はどこからく
干の事例を得た。
るのか。遊牧生活と都市生活のちがいが物の持ち
方・置き方にどのように現れるだろうか。そして市
場経済の導入による物の生産や流通の変化が、各家
3 現代モンゴルの住居タイプ
庭の生活様式に今後どのような影響を与えていくの
いうまでもなくゲルは、家畜を伴って季節ごとに
か。そして遊牧生活とまったく異なる生活原理で暮
移動する遊牧生活に最も適したかたちに発達した住
らす日本家庭における物の集まりと比較したならど
居形態である。しかし現代モンゴルの都市部では、
のような違いが見つかるだろうか。今後これらのこ
このゲルで定住している例も多く見られる。首都ウ
とを考えていくためには、単なる写真記録ばかりで
ランパートルでは、遊牧地域から移り住みゲルで定
なく、ゲルの空間とそこの物たちの全体を一覧でき
9
7
0年代から増加したという。草
住する人口が特に 1
る記録に留めておきたい。そのためには、どんなに
原でのゲルと対照的に、都市に定住したゲルは、板
稚拙な行為であるとしても、置かれている生活財を、
塀で囲った敷地のなかに建てられている。遊牧ゲル
時間の許す限り細部まで図に描き込んでいくしかない。
と定住ゲル、それぞれでの日常生活の実態の違いを
このようなことを考えつつおこなった調査の一端
観察 ・比較することが、今回の調査の主要な関心
だ、った。
を、以下に報告する。
都市に定住したゲルのなかには、同じ敷地内に建
2 生活財の考現学的調査について
今回の調査の目的は、現代モンゴルの住生活の実
てられた木造住宅と併用されているものがある。夏
は風通しのよい木造に住み、冬は暖かいゲルに住む
という住まい方が一般的である。また近年はゲルか
態をできる限り具体的に観察 ・記録することであっ
ら木造へ完全に移り住んでしまうことも増えている。
た。そのために、典型とおもわれるいくつかの住居
ゲルでの定住は、生活用水や下水の問題など、現代
タイプを設定し、それぞれの事例となる家庭を選
都市のインフラストラクチャーとの創簡を引き起こ
び ・訪問して、住居と住居の巾の生活財を観察 ・記
している。都市におけるゲル定住は、過渡的な現象
録するとともに、各家庭の居住歴、生業、家族構成、
なのか否か、その今後の動向を見据えることにも関
日常の生活時間・生活空間等についての聞き取りを
心があ った。
おこなった。
生活財の記録という調査手法は、今和次郎らの考
8
4 ・人間文化
一方、ウランパートル 巾心部には近代的なコンク
リー卜造の中層アパート地区がある。これ らアパー
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
!
r
"
,
国の援助
めて保守的で変化しにくいと考え られる。モンゴル
を受けて建設され、現在も増加している。アパート
では、現在でこそ木造やコンクリート造アパートに
での住生活は、ゲルでのそれと大きく異なり、まっ
住んでいる人でも、圧倒的多数がかつてはゲルに住
ト群は 、1
9
4
0年代以降、旧ソ連・東欧・
たく純西洋風である。その多くがゲルでの生活体験
んでいた体験を持つ。ならば、以下にみるようなゲ
がある都市生活者の 中には、夏 の間だけ 、郊外 の別
ルでの起居様式は、彼らにとって「身に染まった文
荘(遊牧生活での夏営地と同じく「ゾスラン J と呼
化」となって、何らかの形で共有され、伝承されて
ぶ)から都心に通勤する人々がいる。都市に 出て定
いるのではないだろうかロただし、今回の調査で は
年まで働き、年金生活に入ると故郷の遊牧地域に
参与観察などによる住まい方の本格的な観察は行っ
帰ってゲルで暮らす人もいる。これら都市のアパー
ていない。以下は、あくまで訪問時の短時間の観察、
ト居住者たちの意識の巾には、ゲルでの生活はどの
および生活財配置の状況からの推測を含んだ概観モ
ように映っているのだろうか。これも、モンゴルの住
デルである(図 l ・伝統的ゲル内の主要生活財配置
居・住生活の今後を考えるために大きな課題である。
図参照)。
今回の調査では、以上の概観にみるように現代モ
ンゴルにおける主要な住居タイプとして 、遊牧生活
(
ある遊牧ゲルの夏の一日:生活財と起居様式の素描〉
の伝統的住居であるゲル(遊牧ゲル)のほか、都市
夏の朝、一番にベッドから起き出すのは一家の主
に定住しているゲル(定住ゲル)、木造住宅、コンク
婦役の女性だろうか。夫は反対側のベッドで寝てお
リート造アパートの計 4タイプを設定し(証 4)、それ
り、小さな子供たちはゲル奥側の地面に敷かれた
ぞれ調査対象となる家庭を探した。訪問調査する家
フェルトの上で眠っている。 靴を履き(基本的にゲ
庭は、ウランパートル市内では現地共同研究者・協
ルの中でも靴は履く)、ストーブに燃料(畜糞あるい
力者を介して典型的と思われる事例を選んだが、そ
は薪)をくべ、朝食の乳茶の準備を始める。71<は前
の他の地域では旅程の途中で見つけたゲルの巾 から
日に汲んできて置いた容器から使う(食器や食材、
選び、特に前触れもなく訪問した。生活財配置状況
調味料は食器棚に置いてある)。調理は立ち姿勢が基
の記録までを許していただいた家庭は、ゲル 1
0例
、
本だが、膝を 地面についてナイフを使 ったり 、図茶
木造 2例、コンクリート造アパート 2例の計 14例
である惜の。
みるときには小椅子を持ってきて座ることもある。
を突き臼でついたりもする。ストーブにかけた鍋を
いて正確 に論じることはもとよりできないが、各家
食事はストーブ奥側の低いテーブルに配膳する。
まだ、眠っていた家族を起こし、年少の子供たちに着
庭内の生活財の具体的様相をつぶさに観察すること
替えをさせる。衣類は奥のチェストに入れてある。
によって、まったく異なる生活環境に暮らし、異な
起き出してきた家族はそれぞれゲルの外で歯を磨き、
る住生活体験を持っている我々でも、彼の地の人々
小椅子に座ってテーブルを囲む。隣のゲルに住む夫
この限られた事例からモンゴル全体の住生活につ
の日常生活のおおよその姿をある程度まで推しはか
ることができるだろう o
1
. テーブル
2 ストーブ
4 ゲルの住まい方 :基本的起居様式の概観
3 ベッド
個々の調査事例を紹介する前に、ここでモンゴル
4 扉付木製矧
の伝統住居・ゲルの巾での基本的な生活スタイル、
5.食器棚
中でも特に生活財との関連の深 い起居様式(つま り
6
. 小精子
ゲル内部での生活動作・姿勢などの身体技法)につ
7
. 水容器
いて概観しておきたい。本稿で注目する生活財とは、
8 薪入れ
結局のところ、以 下 のようなゲルにおける住まい
9
. 家事ゾーン
方・動作の様式(ソフトウエア)をサポートするモ
ノ(ハードウエア)とみることができる。そして、住
まい方の起居様式というものは、日本の住居での靴
脱ぎ・床座習慣の例でもわかるように、 一般にきわ
図 1 伝統的ゲル内の主要生活財配置
(
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a
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a
r,D
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9
2
1"による )
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o円g
人間文化・ 8
5
現代モン コルの住生活と生活財その考現学的調査
の両親も食べに来る。小椅子に座りきれない者は器
を持ってベッドに腰掛ける。食事が済んだ後の食器
はゲルの外に盟を持ち出してしゃがんで洗う。
以上の素描にみるように、ゲルでの基本的な起居
様式は、地面あるいはフェルト面上の床座(腰を床
一室住居のゲルに、もちろん トイレはない 。家族
面につける、膝を床面につける)、椅子座(小椅子あ
たちは思い思いにゲルから出て遠くに歩いて行く。
るいはベッドを使う)、立ち姿勢が混在している。図
「プライパシー J はゲルの外、広大な草原にあるの
lのような主要生活財の配置がそれらに対応してい
だ。「大」の方はゲルから数十メートル離れた所に穴
る綴子をある程度はイメージしてもらえたであろう。
を掘っておき 、溜まると埋めて新しい穴を掘る。
次に、今回の調査事例のなかから、前述した住居
夫は家畜の放牧に出かける。残った妻は、夫の母
タイプ別に最も典型的と思われた事例を紹介しつつ、
とともに乳製品づくり(バター、チーズ、クリーム、
各々の生活財の様相から読みとれる住生活スタイル
ヨーグルトなどの自家生産が夏の間の大きな作業で
についてさらに述べてみたい。
ある)を始める。ここでもストーブが活躍する。ス
トーブの周囲と入り 口側の空間が主な作業場所であ
る(乳製品づくりの道具は、入り口に近い壁際に並
んでいる)。ひと休みするときはベッドに腰掛ける。
年長の子供はゲルの巾の掃除(等で床を掃き清める)
5 住居と生活財の考現学的記録
(
1
)遊牧のゲル
草原の遊牧民は春夏秋冬の季節ごとにゲル設営地
を手伝い、71<汲み、燃料拾いに出かけたりする。年
を移動する。今回の調査で実見することのできた以
少の子供たちはゲルの周囲で遊んでいる。
下の事例は、すべて夏営地の状況である 。
夫の父は、自分たちのゲルに戻り、ゲル奥側の地
面に敷いたフェルトに腰を下ろして、ときどき煙管
で煙草をすいながら、皮なめしゃ家畜用の革綱の手
入れをする。
夫は放牧地から搾乳する家畜を連れて帰ってくる。
妻はゲルの外に 出て、夫と二人で一日に何度か搾乳
の作業をする。昼食をはさんで乳製品づくりは続く。
事例 1 ・ロブサーダエ家(遊牧ゲル)
我々が最初に出会ったフプスグル湖畔のロブサー
ダエ家のゲル(図 2)は、今回調査した巾でも伝統
的遊牧生活の様式をよく残しているゲルだ、った。
0
0
m離れた所
このゲルを含むゲル集団は 3戸。数 1
) このゲルに
にさらに 2戸の親戚のゲルがある{註 6。
そのうち、同じ郡内に住む顔見知りの夫婦がふらり
とやってくる。客はケ、ル奥側左の小椅子に腰掛ける
は、ロブサーダエ (
7
6歳)と妻 (
7
3歳)、養女とそ
(客の数がもっと多いときには西側のベッドに腰掛け
る
。
てもらうこともある)。さっそくストーブに鍋を架
ロブサーダエ氏は県内のリンチンルンベ郡出身の
) ここハトガル郡には 1
9
8
0年に越し
ダルハト族(且 7。
け、乳茶を作って出すロテーブル上に干しチーズを
の娘、隣のゲルに住む長男の娘の計 5人が住んでい
盛った皿を出し、つまんでもらう。彼らは近くを通
てきた。例年の民営化まではネグデル(社会主義の
りかかるといつもこうして、しばらく世話話をして
農牧業協同組合)の牛を闘っていたが、現在はヤク
いく。今日は馬乳酒も出してあげる。女たちはとき
2
0頭、牛 9頭(うちヤク牛 4頭)、羊 2
0頭、馬 8頭
どき乳製品づくりの手を休めて、立ったまま、ある
を飼う。放牧は若い者たちにまかせているのか、現
いは小椅子に座って応対する。
在の彼の主な仕事は、革紐をなめして編んだチュド
やがて夕刻までには外に出かけていた家族全員が
帰ってきて、小精子やベッドに腰掛けて休む。夕食
ル(馬の足を留める綱)づくりだという。
このゲルは 4年前に長男が自作したもの。 4枚ハ
づくりは夫の母も手伝ってくれる。夕食とその後か
ナ(伸縮格子の側壁。通常 4~6 枚を円く連ねて側
たづけが済んでしばらくすると、両親は隣のゲルに
壁とする)の小さめのゲルである。生活財の配置を
もどる。夫婦と子供たちは、テーブルに置いた蝋燭
見ると(図 2)、家具はやや少なめである。ここから
の明かりを囲んで話をしたり、ラジオを聞いたりし
約1
0
k
m隊れた冬営地には木造の物置があり、家具類
ながら、思い思いの姿勢で(小椅子、ベッド、床の
フェルト上に座って)時間を過ごす。今日は暑い一
を少し置いてきている。
ゲル奥正面の 2つのチェスト(証 8)は祖父の代から
日だった。濡らした布で体を拭いた後、やがて全員
持っているもので 1
9
4
0年ころの購入。その上には家
が就寝する。
族の写真や仏画などが飾られている。 2台のベッド
8
6 ・人間文化
現代モンコソレの住生活と生活財その考現学的調査
1 パイプベッド
2.絹 子
3.ストーブ
4.テーブル
5 厩付木 1
1
棚
プレース
ヱスギー
ハナ
ハールガ
ー
キ
2m
6 食器繍
7 繍
8 木箱
9 鉄製の台
10 仏画
1
1.写真
1
2
.鏡
13 石油ランプ
14.ポッ ト
15 トランク
16 カバン
1
7 小麦粉袋
18 馬 具
1
9
. たらい
2
0
. ナベ
2
1 ヨーグルト製造用車時
22 ミルク缶
23 大ナベ
24 バケツ
2
5
. フェ l
レ
ト
26.布
27 毛 皮
2
8
. カーテン
図 2 口ブサ
ダエ家
はスチールパイプ製で比較的新しそうだ。一台はや
であった。ムンフバット (
27歳) はこの家族の長男
や変則的に巾央横よりも奥に置かれ、その分、いわ
である。妻 (
2
6歳)と男の子(0歳)とともに、夏
ゆる「女の領分」、つまり食器棚やヨーグルトの入っ
の聞はここで暮らすが、普段はハトガル(数十キロ
た大鍋、各積の乳缶などを置く台所的な空間が広く
離れた町)で大工などをしている。所有する家畜は、
とられている。細かく見ると、ここには 、図茶を砕
雌馬 2頭、牛(ヤク含) 4頭、羊・山羊 1
0頭と少な
く突き臼、刃の短い包丁、乳製品づくりの撹枠桶な
ど、伝統的な形の生活財(証 9)も散見される。ここで
い。この夏は、ここで父のログハウスを建てている。
働くのは、妻と養女の二人である。我々が訪問して
2
2歳 ・既婚)は大学生で普段はウラ
ているが、妹 (
弟
(
2
5歳)の夫婦はここで父とともに遊牧民をし
いる聞にも 、さまざまな乳製品づくりがおこなわれ、
ンパートルの学生寮に住む。その夫はゴビアルタイ
ゲルの尾上(東側)には板に載せたチーズ類が干さ
県の商社勤め。私たちが訪れたのは、ひと夏の問、普
れていた。この夏営地は森林に近く、ストーブの燃
段は離れて暮らすこの家族が集っているゲル集団で
料は糞よりも木切れが巾心のようだ、った。(今回の調
あった。定住化がすすめられている現在のモンゴル
査地はモンゴル全体から見れば森林の多い北部 ・中
では、遊牧地域で見られるゲルの巾にも、この事例
部であったため、獣糞を燃料にしている事例は少な
のような期間を限ったゲル住まいが多数含まれてい
かった。)水は湖から採り 、乳缶に入れて運んできて
ると思われる。特に夏営地では、休暇を利用して故
いる。ストーブ奥側の小卓(図では我々にふるまっ
郷の遊牧地に帰り、ひと夏を家族と過ごす都市生活
てくれた乳茶やチーズ類が載っている)の配置は、
者がいる。
今回見た 他のゲルでもほぼ定式化していた。
函 3の ゲ ル は 夏 の 間 (7月から 9月の約 3カ月)
以上、このゲルは湖と森林に近いというやや特異
だけここに設営される。ここにある家具の一部は、
な立地であるものの、遊牧生活の伝統的な暮らし方
夏が終わればハトガルにある木造の家に持ち帰ると
をよく示す事例であった。
いう。夏の間だけのゲル暮らしであるためか、全体
的に 家具は少なめである。
事例 2 ・ム ンフバッ ト家(遊牧ゲル) (江川
それでも、伝統的な区分にならって、入口に入っ
遊牧地のゲルをもう一例みておこう。図 3のムン
て右側には食器棚、水のドラム缶、ヨーグルトなど
フバット家は、北部フプスグル県ウルン ト川畔の草
が入った乳缶、鍋類などが集められている。ここに
原に設営されていた 4戸からなるゲル集団の一戸。
中央 のストーブを含めた 、台所にあたる空間ができ
この 4軒は互いに親戚同土(最近寡夫となった父、
ている。配膳のスペースがないためか、入って左側
長男夫婦、次男夫婦、次男の嫁の両親)のゲル集団
のミシン台の上に魔法瓶や小鍋などを置いている。
7
人間文化 ・ 8
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
1 ベッド
2 精子
3 ストープ
4 テーブル
5 扉付木製繍
6 食器棚
7 木製台
B 木箱
9.
10
1
1
12
ミシン
鏡
家族写真
時計
1
3 段ボール籍(ごみ箱)
14 水準器
15 トランク
1
6
マホービン
ヤカン
1
8
. 毛布
19 解体したヒツジ肉
20 バケツ
2
1 ホウキ
22 ナベ
23 ドラム缶(水用)
24 大ナベ
17
25 ミルク缶 (
ヨーグル卜用)
26 じゅうたん
27 じゅうたん(壁面)
ウl
レ
フ
卜 ノ
ルガ
o
一
一
一
一一
1
.
.
.
_._
2m
→
図 3 ムンフバット家
これはやや変則的配置である 。
は二個以上を並べることが多い)だが、上面 には鏡、
ちょうど我々の訪れた 日、ムンフパ ッ トは外で羊
置物、時計とともに家族写真を飾って、人の視線を
を一頭解体してみせてくれたが、解体した羊の肉は
集める室内景観上 のポイントになっている。ベッド
ゲルに入って左側のハナ(側壁)に架け、頭・皮・足
2台(うち 一台はソファーベッド)は、奥に寄った
先はその下に飾った。(多分、賭殺儀礼であろう 。内
やや変則的な置き方。夫婦と赤ん坊ならこの 2台で
臓は女たちが鍋に入れてどこかへ持ち去 ってしまっ
寝られるが、奥側に敷かれた布級訟の 上で並んで寝
た。)この位置が伝統的定式によるものかどうかわか
てしまうのかもしれない。級訟の上などには、這い
らないが、ゲルの中心線から右(東)側が女の空間、
はじめた子供のための玩具(プラスチック製である)
左(西)倶J
Iが男の空間、というゲルの伝統的空間区
が散らばっている。図 中、左側ベッドの前に食べ物
分註
( 11) を守っている、とも受け取れる ロ (家畜の解
を載せたテーブルを寄せているのは 、ベッドに腰掛
体は男の仕事なので、その結果としての肉や頭など
けた来客、つまりこの日訪れた我々を乳茶とチーズ
Iに置かれると解釈できる 。
)
は左(西)倶J
でもてなすための置き方なのか、普段もここでこう
奥正面のチェスト(アブ夕、ル)は 一個だけ(普通
8
8 ・人間文化
して食べているのかは不明だ、った。
現代モンコルの住生活と生活財その考現学的調査
この図のムンフパットのゲルの巾には 、チェスト
パートが林立する都市に、草原で見るのと 同じ ゲル
(アブダル)や火ばさみ(ハイチ)などを 例外と して、
が併存する特異な状況こそ、今回の調査で最も探っ
近代化以前の伝統的な形や素材そのままの生活財は
てみたい現象のひとつだ、った。首都ウランパートル
ほとんど見られない。しかし、ひとつひとつは現代
市には、現在 1
8箇所のゲル集中地区がある。これら
の製品に置き換わっていても、その配置は伝統様式
の地区の 巾には木造住宅もあり、すべてがゲル居住
を踏襲しており、これらの生活財を使って営まれる
というわけではない。コンクリート造アパートを建
ゲルの住生活は、昔ながらの遊牧生活とほとんど大
設して、ゲルからの住 み替えをすすめていくのが、
現在の市の基本政策である(誼 12)。
差ないように思われる。
事例 3 ・ツェレンダワ家(定住ゲル) (立 13)
(2)定住のゲル
次に、遊牧生活とは対照的な、都市に定住してい
ツヱレンダワ家(図 4
)は
、 市北部のチンゲルティ
るゲルの生活を見ておこう。コンクリート造のア
区のゲル地区の 中にある。(同区 は
、 l万 7千世帯の
1
. ベッド
2目 椅 子
3. ストーブ
4 テーブル
5 扉 付 木E
世相
6. 机
7 楓
8 冷蔵庫
9 食緑棚
10 仏 壇
1
1 時計
12 テレビ
13 鏡
14 写 真
15. レコードプレーヤー
16. ラジオ
17 トランク
X
し
18 洗 濯 板
19 ブリキ箱(小麦粉)
20 オノ
2
1 ホウキ
2
2
. 竃県器
2
3
. ナベ
2
4
. ミルク缶(水用)
2
5 ヤカン
26 マホーピン
27 フェ Jレ
ト
ハールガ
o
2m
i一一
一一一一一一斗一一一一一
一一- 1
図 4 ツェレンダワ家
9
人間文化・ 8
現代モン ゴルの往生活と 生活財 :その考現学的調査
6パーセントがゲル居住。)市の北側のチィン
うち、 6
に置いてある石炭を併用 しているようだ。牛乳を
ゲルティ山に続く丘陵地帯にあり、各戸ごとの板固
搾っているため 、量は少なくとも乳製品を自作して
いの 巾にゲルと木造とが混在するゲル地区の一戸。
いる。しかし、食料品が近くの庖で買えること 、そ
9
8
4
この辺りにゲルで住み着く家が増えてきたのは 1
して電気冷蔵庫の存在は、この家の食生活のあり方
に大きく影響していることだろうは IG)。
年ころからだといい、比較的新しいゲル地区である。
ここに住むのは、主人のツェレンダワ (
7
6歳)と
以上のように、この定住ゲルの暮らし方は、草原
7
0歳)の年金生活の老夫婦。二人とも西部のザ
妻 (
での遊牧生活とはまるで違う生業 ・生活様式であり
ブハン県の出身である o 氏はもともと遊牧民で、後
ながら、その生活財と起居様式において、遊牧ゲル
97
6年、進学する息子とともにウ
に獣医をしたが、 1
との共通性もかなり認められる。遊牧ゲルの 巾での
ランパートルに出てきた。今の場所に移ってきたの
暮らし方をできる限りそのままで都市 に持って来よ
9
83年という。
は1
この辺りは牧地のある 丘陵に近く、ツェレンダワ
家でも牛 4頭(うち乳牛 3頭)、子牛 3頭を飼ってい
うとして、不便な点はそのつど臨機応変に解決して
きた。その結果が、このような生活財配置に現れて
いるのではないか。
る。朝 、乳を搾って牧地に 出 し、夕方戻ってきたと
4リッ トルの乳になると
きにまた搾る。 3頭で一 日1
(3)木造住宅とコンクリー卜造アパート
いう。この家のように、都市郊外のゲル居住者の場
周囲を一戸づっ板塀で囲ったいわゆるゲル地区の
合、家畜を飼うことがよくある。この家では野菜畑
巾には、ゲルでなく木造住宅に住む人もいる。ゲル
でジャガイモなどもつくっている。
住まいとの比較のために、前述の定住ゲルと同じウ
このブロックのすぐ近くに給水所があり、飲料水
はそこから汲んでくる(クーポン券との交換方式)。
ランパートル市チンゲルテイ区の木造に住む一家の
場合を見てみる。
洗濯は家でするが、入浴は地区内の公衆浴場(詳細
不明だが、男女別の個室式シャワーらしい。今は壊
れているので、週一回、親戚の所にシャワーを浴び
ている)にいく。便所(汲み取り式か)は敷地内に
I4 ・パトゲレル家(
木造) (証 ¥G)
事符J
この木造(図 5)には、パドゲレル (
44歳)、妻 (
4
3
歳
)
、 4人の子供(14歳
、 1
3歳
、 1
2歳
、 6歳)が住
小屋を設けてある。食料品は、この近くの庖で買っ
む。主人のパドゲレルは北部のポルガン県出身。昨
ている。
年除隊したもと軍人で 、モスクワの陸軍学校卒業
ゲルの巾の生活財配置(図 4) を見ると 、基本的
後、東部スフパートル県で国境警備に従事していた。
な配置の原理は遊牧地のゲルと大差ないが 、都市に
今は庭での野菜づくりのほか、商人である弟の仕事
定住するゲル生活の特徴がいくつか見て取れる。ま
を手伝ったりしている。
ず、遊牧生活では移動の際に重い荷物になる板床は
この家は除隊して年金生活に入ってから、野菜が
ほとんど見られないのに対して、定住のゲルでは、
作れる家を探して購入した。我々が訪問したとき、
湿気対策のためか、ほとんど板床を敷いている。電
パドゲレル以外の家族たちは郊外のゾスラン(夏別
気がひかれ、電気製品を使っているのも定住ゲルの
荘)に出かけて留守だ、った。家具が少ないのは、ゾ
特徴だろう。このゲルには、 一つのコンセントがあ
スランに持っていっているからだという。
り、天窓下の電灯(裸電球)のほか、台所部分には
図 5でみるように、入り 口に入ってすぐの前室と
冷蔵庫が置かれ、ほかにテレビ(カバーが掛けてあ
物置をのぞけば、主室と台所との 2室居住である。
る)、ラジオ、レコードプレーヤ一、電熱器を使って
いるほ ¥4)。奥のチェストは 4個が並び、夫婦二人に
ゲルでの「女の空間」にあたるものが、ここでは台
所として別室になっている点がゲルとの最大の違い
しては所有している物の多さがうかがえる。正面の
である。ストーブを調理・暖房兼用の熱源にするの
チェス ト上は、仏画、バターの灯明、マニ車などを
はゲルと共通だが、主室には熱湯を循環させて放熱
置いた仏壇になっている。今回調査で訪問した家の
器で暖房している。冷蔵庫を持ち、少量の調理には
なかでは、これが最も本格的な仏壇のしつらえで
(あるいは夏の聞は)電気コンロを補助的に使ってい
あった(仏壇については後述する)。
るようだ。飲料水は地区の給水所で大型のプラス
中央のストーブの燃料は、薪のほか、外の牛小屋
チック容器に汲み、前室に置いてある台車で台所ま
の犀根と壁に貼って乾燥させた牛糞、外の石炭小尾
で運んできている。ストーブの燃料は薪と石炭。{更
9
0 ・人間文化
現代モンコルの往生活と生活財その考現学的調査
回
明
言
1 台車(水運償用)
2
3
4
5
6
7
B
9
10
石 炭庫
ー
⑬
15
,-.
1
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1
1
台所
で
長
斗/
古 島
¥
一
一
一j
n
u
I
ストーブ
冷蔵庫
電燃器
テーブル
ベッド
テブル
精子
テレビ
鏡
1
1 機帯電話
12 ベビーベッ ド
¥、
13 掃 除 償
│国
14 温水循環式暖房装置
15.プラスチ ック 大缶(水用)
1
6 ラジオ
l
o
5m
}一一 一一→一 一一一一ト一一一 一
←一一一ー
一
一
ー
図 5 パ ドゲレル家
所は庭に小尾を設けている。
の工場勤めの後、 1
992年から友人とテレビ修理の仕
普段の主室には、おそらくもう I台か 2台のベッ
事をはじめた。妻は鉄道局でコンビューターのオペ
ドが入っているだろう。衣類収納用の家具(チェス
レータをしている。娘はすぐ近くの幼稚 園に 通う。
卜あるいは洋服だんす)の置かれている位置が床の
近くに食料品市場や食品庖があり 、日 常の買い物は
痕跡からわかる。裸電球の電灯、テレビ、ラジオ、掃
そこですま せている。
除機などの電気製品のほか、弟の会社の物だという
このアパートは 7
9年の新築時に入居。ユンデンパ
携帯電話も使っている。 丸 テープールを囲んでいる椅
トの母親が固から入居権を得た。ここを息子夫婦に
子はゲルでよく見られる小椅子(スツール)ではな
住まわせ、 母親はこの近くの木造に住 んでいる。市
く、背付きの椅子(チェア)であるロテーブルをベッ
の住 宅管理局に払う家賃は、熱湯式暖房の費用 を含
ドに寄せて置き、ベッドをソファ一代わりに(腰掛
む冬の方が高い。
けに)する使い方は 、ゲルでも普通にみられる o 丸
生活財の配置(図 6)からは、おそらくどこの国
テーブルを中心にしたこの座具配置は、円形のゲル
の団地アパート暮らしとも大きな違いは感じられな
の巾での家族の「集い方 j を無意識のうちに再現し
いだろう。台所には電気冷蔵庫とオーブンっき電気
レンジ 註
( 18)。潟水も出る o そして W
C、洗面台つきの
ているのではないか。
以上を全体的にみると、この木造での暮らしはゲ
パスルーム。ほとんど「西洋式」である。入り口ド
ルでの居住習慣そのままを踏襲してはいないものの、
ア脇の洗濯機は旧ソ連製か。今は使っていないよう
ゲルでの暮らしとの連続性もある程度認められる。
で
、 上 に電話機(他に携帯電話も 2台持っている)が
これは、給水、下水(の欠如)、公衆浴場、燃料供給、
載っている。
送電など、定住ゲルと同じ都市インフラ・施設に支
えられている当然の帰結でもある。
居間には、日本で言う応援セットのソファーと
テーブル。ベッドの側にも腰掛 ければテーブルを完
全に囲むこともできる。テレビ修理業という商売柄
事例 5 ・ユンデンパト家(コンクリート造ア
パート) (立17)
からか、テレビ、ビデオデッキ、ステレオ(2台)な
なかば自然発生的に成立してきたゲル地区と対照
なシャンデリア風のもの。ゲルの伝統を思わせる数
的に、ウランパートル市内のコンクリート造アパー
少ないものに、居間の壁 3面 にカーペットを掛けて
ト団地は、市当局によって計画的に建設されてきた
いる点がある。ゲルでは、ベッドの横やチェストの
居住区である。
後方のハナ(壁)に、装飾的な色柄の布やカーペッ
どが置かれている。電灯も裸電球ではなく、モダン
図 6のユンテ、ンバト家は、 1979年築の 9階建てア
トをタペストリーのように掛けている例があった。
D
K
。若い夫婦と 3歳の娘が住んでいる。
パート 8階の 1
これはその伝統をアパートにもちこんだものだろう
夫のユンデンバト (
2
5歳)も、同い年の妻も 、ゲ
ほ問。三面鏡の上に置物を飾って装飾的なポイント
ルで暮らしていたことがある。主人はウランパート
にしているのも、ゲル奥正面のチェスト 上のしつら
ル生まれだが、ここに入る前までゲル暮らし。妻は
え方に通じるものがある。
北部のセレンゲ県生まれだが、小さいときにウラン
注目したいのはこの三面鏡の位置である。前の事
パートルに来てゲルで暮らしている。夫は建築会社
例 4でも、この事例でも、 三面鏡の置かれるのは、主
人間文化 ・ 9
1
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
室の入り口から最も奥まった場所であり、ここに家
い方の事例をみてきた。ここで、これらの事例を通
族や客の視線を集めるかのような配置を選んでいる。
して読みとれることを考えてみたい。
これは、たとえ無意識にせよ、ゲル内の伝統的配置
(仏壇あるいは家族写真を奥正面に飾る)のあり方
(
1)遊牧ゲルと定住ゲルの生活財
が、彼らの「身に染まった文化」として継承されて
いるためではないか。
遊牧・定住を問わず、今回調査したゲルの巾の生
活財をみると、その地域内の材料を使って在来の技
ともにゲル居住を経験しているこの夫婦にゲルに
術でつくられた「民具」的なものは、意外に少なかっ
ついて聞くと、夫は「アパートも良いが、小さいと
た。つまり大半の生活財がどこか別の場所で、手工
きから住み慣れているゲルにまた住みたい Jという。
芸的にあるいは工業製品として作られ、何らかの流
「空気の循環もゲルの方が良いし」と。一方、妻は「ア
通経路を経て持ち込まれたものだ、った。現代のゲル
パートの方が断然良しりという。「火を起こす必要も
の巾の生活財の集まりは、都市から遠く離れた遊牧
なく、薪を割ることもないし、蛇口をひねれば湯も
地域にあっても、この回全体の工業や流通の現状を
出てくるから J とロおそらく、このあたりがゲル住
色濃く反映している。
まいに対する都市住民の一般的な感情だろう。
その意味では、遊牧ゲルと都市定住ゲルの生活財
に決定的な違いはない。もちろん、遊牧のゲルには
当然ながら馬具や、遊牧生活の重要な構成要素であ
6 まとめ.生活財調査からの考察
る乳製品づくりの用具が多く、定住ゲルでは多くの
生活財に着目しつつ、現代モンゴルの代表的住ま
場合それらが欠けている。そして遊牧ゲルには、自
v
二重]
二回百四
13
1 洗濯横
2 電話
3 棚
居室
白
12
日
ベランダ
4 パスタブ
5 純子
6 テーブル
7 流し場
8 食緑樹
9 電熱調理器
1
1
10 冷蔵庫
1
1 ベッド
12 ソファ
13 タンス
1
4 テレビ
1
5 ビデオ
16
1
7
1
8
1
9
。
図 6 ユンデンパト家
9
2 ・人間文化
J
m
@
携帯電信
ステレオ
鏡台
じゅうたん(壁画)
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
立
作した物(あるいは地域の巾の誰かに作ってもらっ
た物)の割合が、定住ゲルよりは多いようである。し
かし、これはあくまで程度の問題である。
ゲルの巾にある生活財の点数については、季節ご
との移動を強いられ不要不急のものを持てない遊牧
H山~
二
ど3
ゲルよりも、その必要がなく物の溜まりやすい定住
ゲルの方が多いだろうとの予想が成り立つ。点数ま
で数えられなかった今回の調査では結論できないが、
配置図でみる限り、チェスト(アブダル)や戸棚な
同e
どの収納家具は、定住ゲルの方がやや多い。その巾
の物までを含めるなら、馬具や本格的な乳製品づく
りの用具の欠如を補っても、定住ゲル住まいの方が
物持ち、といってよいだろう他加。ベッド、戸棚、
テーブルなどの大型生活財の数については、ゲルの
大きさ(特殊なものを除けば 4 枚ハナ ~6 枚ハナの
範囲)ともある程度の相関があった。
図 7 ゲル内部空間の伝統的意味つけによる区分
[
M
ai
d
ar1
9
7
6
]
(註 2
3
)
事例 3でみたように、冷蔵庫、電気コンロ、テレ
どなどの機械製品、いわゆる耐久消費財は、やはり
定住ゲルの方に多く入っている。しかし、遊牧ゲル
なお、ベッドをもう l台置く場合は、奥正面の、か
でも、ラジオやラジカセ、ミシン、テレビなどを持っ
つての仏壇の位置に置く例が多い。ゲル内の左右対
ている例があった。(テレビは、ガソリン式の発電機
称性がある程度意識されているとも考えられる。
をつないで使う。)また、オートパイを馬代わりに
どのゲルも、生活財の配置は非常によく似ている。
乗っているゲル家族も少数ながらみられるほ 21)。こ
れらの機械製品の導入は、遊牧地にあっても、かつ
なぜここまでみなが画一的な配置なのか、と疑問に
思うほと、だ、った。しかし、男女に対応した左右の慣
てのゲルでの生活の伝統を徐々に変えつつある。
習的区分を 別 にすれば、このような配置には機能的
な理由も考えられる。例えば、 トーノ(天窓)から
(2)ゲル内の生活財配置
の排気のためにもストーブは中央に置かねばならず、
ゲル内の空間には、伝統的な使い分けの区分があ
その他の生活財はストーブから一定距離を離して、
ることが知られているほ泊。入り口からゲルの巾心
壁際に並べることになる。貴重な物をしまっておく
を通る線を仮想し、ゲルに入って巾心線より右側
のは(飾って置くのは)人の 出入りしない奥壁際が
(奥から入り口を見れば左側)が、女の持ち物が置か
良い。乳製品づくりの用具や容器、食器などは、ゲ
れ女が座る女の空問。反対の左側(同 ・右側)が、男
ル尾外への 出 し入れがしやすい入り口のそばが便利
の持ち物が置かれ男が座る男の空間とされる。ゲル
だろう。ストーブ手前側では人が立ち働き 、奥側で
の中心は炉(地床炉)の定位置。巾心線の一番奥が
は人が座りこむ、という機能的使 い分けが意識され
仏壇の定位置。その手前が家の主人(あるいは高位
ている(床にフェルトやカーペッ トを敷くのも奥側
の賓客)の座。客の座は左側奥、などと区分される
である)。また、清潔意識と関わる使い分けも認めら
(図7)。
れる。例えば、入り口のすぐ左側に等、歯ブラシ入
この伝統的空間区分は、現代のゲルにあっても意
れ、洗面台(定住ゲルの場合)を置く家が多いのは単
外なほどによく守られている。調査に訪れた我々が
なる偶然とは思えない。右側の台所部分と入り口を隔
招き入れられたのも、(座れる人数の許す限 り)巾央
てて離す意識が感じられた。
奥とその左側(ベッドあるいは小椅子)であったし、
ゲル内の生活財配置は、遊牧 ・定住を問わず、彼
ほとんどすべての調査事例で、ゲル巾央にはストー
らの住生活の実態を直接的に反映しているはずであ
ブが置かれ、左右の壁際にベッド、鍋や食器棚など
る。ゲルにおいては、生活行為と生活財との対応が、
が並ぶ台所的なる空間は入り口に入って右側手前で
あったほ 24)。
特に目に見えやすいかたちで生活財配置のパターン
に現れている。この理由として、円形一室住居と い
人間文化・ 9
3
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
う単純な空間のかたちが一定であること、そして、後
成り立っていると考えられる。このような意味で、ゲ
述するように不要不急のモノを持たず、生活財の数が
ルの生活財配置の実態記録は、
今後もモンゴルにおけ
限られていることなどがあ L
ずられる。
る住生活の構造を探っていくための基本資料となるだ
住生活のスタイルといわれるものは、起居様式
ろう 。
(↑貫習的な生活動作ばかりでなく、視線のありようや
方位感 、清潔!誌等までを含めた「身に染まった文
(
3)ゲル内の景観と装飾
化J
) と、それを支える住空間のかたち 、および住空
生活財の配置は画一的であるとしても、それら生
間内に配される道具群(生活財)との相聞によって
活財が集まってつくられるゲル内部の景観には家ご
との個性が認められる。それは家の生業のちがい、
遊牧生活か都市の定住生活かを反映する。特に景観
要素のひとつである装飾(広い意味での飾る物)は、家
人の好みや生活意識の表現と見ることもできる。
ゲルのなかで家人の装飾意識を最もよく表す場所
は、奥側のチェス卜の上である。遊牧か定住かにか
かわらず、ほとんどのゲルで、ここが飾 り物の置か
れる特別の場所になっている。その標準的な形式は、
チェストの上に三面鏡を置き、その手前や横に家族
写真、置物、置き時計、ラジオ、ラジカセなどを並
べる(写真 1
)。ここに 仏檀 のしつらえをする家もある
写真 1 三面鏡を使ったチェス卜上の装飾
(写真 2)。この配置の仕方からみて、三面鏡が姿見だ
けのために使われているのでないことは明らかだろ
う。ゲルばかりでなく、木造やコンクリートアパート
の事例においても、主室の入り口から最も奥まった所
に三面鏡が置かれていた。鏡には、何らかの象徴的あ
るいは記号的な意味があり、 これを 置くことでその周
囲が聖なる空間として印づけられているのかもしれな
い。三面鏡を使うこの装飾形式がいっころから主流に
なったのかは不明だが、伝統的な ものではないだろ
う。ラマ教の信仰が弾圧された社会主義政権下で起
こってきた新様式ではないか。
写真 2 三面鏡を使った仏壇のしつらえ
調査したゲルの全戸が、奥のチェスト上になんら
かのかたちで家族写真を 飾 っていたほ 25)。写真は一
枚物の場合と、さまざまな機会に撮られた家族の写
真を集めて額に入れたものとがある。家族写真は、
ゲル内の視線を集め 、家族の精神的なよりどころと
して、かつての仏壇にとって代わりつつある。
今回調査では、独立した家具形式の仏壇 (註 ~6) を置
くゲルはひとつも見られなかったが、それでも奥の
チェスト上に仏壇のしつらえを設けているゲルも半
数あった(10戸巾 5戸)。うち 2戸は仏画や教典な ど
を専用の箱に納め、 3戸はチェストあるいは戸棚の
上に出し並べていた(写真 3)。日常生活におけるラ
マ教信仰の現況を示すものとして興味深い。
写真 3 箱を使った仏塩のしつらえ
9
4 ・人間文化
このほか、数は少ないが、そのゲルの家人の趣味
をあらわす装飾品も見られた。仔1
Iとしては、モンゴ
現代モンゴルの往生活と生活財その考現学的調査
ル相撲の力士の写真入りカレンダ一、草競馬の入賞メ
の流れが、必ずしもすべてにあてはまるわけで、
はな
ダル、雑誌から切り抜いた映画俳優の写真等があっ
"
Il。
た。
(5)
ゲル居住の将来
(4)ゲル居住と パイシン居住
遊牧地域のゲルと都市のパイシン(ゲル以外の固
ゲルは遊牧生活に密接に結びついたものであり、
部分的な改良が加えられたとしても、これからも遊
定住居。木造住宅やコンクリート造アパー トを指す)
牧民の標準的な居住形態であり続けるだろう o 自動
とでは、日常生活の実態は人ーきく異なる。しかし、事
車道路沿いの遊牧地域では トレーラーハウスに住ん
例でみてきたように、遊牧ゲルと定住ゲルとの聞に
でいる例も希に見られたが、ゲルの居住性や軽便さ
は、基本的な起居様式や生活財配置において、かな
を考えると、多数を占めるようになるとは到底考え
りの共通性がある 。遊牧生活と都市での定住生活と
にく1"lo
が非常にかけ離れているにもかかわらず、ゲルとい
一方、都市 におけるゲルでの定住は、都市 への急
う住居形式(ハード)の巾での住まい方(ソフト)は
激な人口集 中 とアパート不足が生んでいる 過渡的現
あまり変えずに済ませている 。見方を変えれば、遊
象のようにみえる。しかし、都市への流入が今後も
牧地でのゲル内の住まい方・住み心地をできる限り
続くとするなら、市場経済に移行した現在ではなお
そのまま維持していたいために、都市での生活に多
さらのこと 、低廉な家賃の公共住宅が、近い内に充
少の不便はあってもゲルに住まい続けているという
分に供給されるようになるとは考えにくい。すると
側面がある。
この現象は、今後も続くものと予想される o
都市のゲル地区内の定住ゲルと木造住宅とを比較す
今回調査した遊牧地のゲル に住む人々の 巾には、
若
ると、ゲルの方が雨 の後の手入れが大変だというし、
い頃は都市に 出て働き 、
定年 を迎えるととともに故郷
冬には外側のフェルトを増やして防寒しなければなら
に帰ってゲ ル暮らしに戻っている例がいくつもあっ
ないなど、維持管理の手聞がかかる 一方で、いざとな
た。また都市 の定住ゲルでは 、都市の巾で何度も 引っ
れば簡便に移動できる柔軟さもある。同じゲル地区に
越しているものがあった。このような流動のケースが
あるゲルと木造では、住空間のかたちこそ異なるが、
例外的でないとすれば、 木造への過大な投資は得策で
日常の生活行為や家事労働の実態には大差がない。電
はない。遊牧民が都市 に出ょ うとするなら 、すでに
気、給水、燃料、便所、入浴などの条件は、ゲルでも
持っているゲルで定住して しまうのが資本 も要らず、
木造でも 同等である。
手っ取り早い。その後の 日常生活に多少の不便は ある
都市の 日常生活における決定的な違いは、ゲルか
だろうが、いざとなれば移動できる柔軟性は 、
ゲルに
パイシンか 、ではなく、ゲル地区居住かアパー ト居
よる定住を続けさせる 理 由のひとつだろう。そ してな
住かの間 にある。アパー ト地区には上下水道が完備
によりも 、ゲルな らばこれまでの遊牧生活 を通して
され、おそくとも 7
0年代以降に建てられたアパート
しっかりと「身に染まった」 住ま い方(住文化・ 起居
には各戸に浴室があり、集 巾暖房方式のアパートで
様式)をほぼそのままの形で続 けていられる。ゲルに
は、潟水も供給される。 調理は電気オーブン・レン
は、
それを 可能 にする柔軟さがある、といっても よい
。
ジでおこなう。ゲル生活の慣習とはまったく断ち切
ウランパー トルのような大都市の周辺部でも、各都の
られた別世界といえる。アパートへの入居権(これ
巾心地になる小都市で、も、木造との併用を含めて、今
は相続もできる)を得ることで、日常の生活はまる
後も引き続きゲルによる定住は残るのではないだ、ろう
で変わってしまうのである。
か
。
ゲルの暮らしに愛着がある老人はゲルを好み、そ
れのない若者はアパー トを好む、という話もきいた。
しかし、前述した事例 5の若夫婦のよう にゲル居住
の体験があっても、できるなら便利なアパートに入
居したい、というのが本音ではないか。家事労働の
終わりに一一物を必要以上に持てない
暮らしが示唆すること
ゲルの生活財 を記録して実感したのは、一戸のゲ
多くを担う女たちにとっては特にその思いは切実だ
ルの 巾にある 物の数の少なさである。
ろう o しかし、次に述べるように、ゲルから 木造な
今回調査では品 目数を数 える ことも、チェス トや戸
いしはアパートへの住み替えという一様な 「
近代化」
棚 の 巾まで見 ることもでき なかったが、そ れでも 、
5
人間文化・ 9
現代モンゴルの住生活と生活財:その考現学的調査
現在の日本の一般的家庭の物の数量と比べれば、かけ
離れて少ないと予想できる。この傾向は都市の木造や
アパートでもいえるだろう。
ルの外側を木造で覆った実験的な事例、木造のうち
l例は都市居住者の夏別荘「ゾスラン」であった。
6)このゲル集団の 3戸は、一年中いっしょに移動し
いうまでもなく、ゲルの物の少なさは、季節ごと
ているわけではない。ロブサーダエ家を中心にみる
の移動を強いられる遊牧生活と無縁でないだろう。
と、秋営地はゲル 2戸、冬営地はゲル 4戸、春営地
物を必要以上に多く持つことは死活問題であり、日
ではゲル 3~4 戸になるという。移動はハエナグ
本の住宅にあふれでいるような死蔵されている物は
(ヤク牛)に家財一式を積んだ荷車(ゴムタイヤ付
ほとんどない。物を必要以上に持てない暮らしをし
き)を牽かせていく。最大の移動は夏営地・秋営地
ている遊牧民にとって、物を所有することの意味は、
の聞の約 20km。
日本の我々の考えることとはかなり違っているので
7)ダルハト族はフプスグル県に最も多く住む少数
はないか。翻ってみると、なぜ、日本の住宅には物
部族。しかし、このゲルや生活財を見る限りでは、
が多いのだろう。もしも、物であふれかえった日本
モンゴルで大多数を占めるハルハ族との相違はみ
の住宅の実態を彼らに見せたなら、どんなふうに思
うだろうか。今回試みた生活財の考現学的記録を、
このような問いを含む比較研究の出発点としたい。
つけられなかった。
8
) 現地で「アフ手ダル J などと呼ばれる、前開きの
扉付き木製収納家具。以下向。
9)ツェグメッド「遊牧民の身のまわりの物いろいろ」
註:
(未公刊資料・大阪外国語大学モンゴル語研究室)、
梅樟忠夫「モンゴル遊牧図譜 J(梅悼忠夫著作集・第
1
)r
生活財 Jとは、生活のために人々が所有している
二巻『モンゴル研究』中央公論社、 1990、p562-614)
物の総称。もともと生産のための物、「生産財」と対
などに、遊牧生活で使われる伝統的道具類の総覧的
比した語だが、本稿では遊牧に使う物(生産財)も
9
4
4
な図示記録がなされている。上記[梅悼]は、 1
含めて、住居の中に置かれている物の総称として使
う。なお、この語を発案し、近年の生活研究の分野
で使いはじめたのは、商品科学研究所と(株)C
D
I
の一連の「生活財生態学」調査である。『生活財生態
8
0
) 参照。
学』リブロポート(19
~45年の内モンゴル調査での見聞に基づく。
1
0
)同家の立地・集落・敷地・建築については、本誌・
山根論文 p72参照。
1
1
) 伝統的ゲル内部空間の使い分け・意味的区分に
ついては、
D
.マイダル『草原の国モンゴル』新潮
2
)民家研究の草分けでもあった今和次郎は、考現学
干
土 (
1986) p99-109、 Tsult
巴m
, T
. "Mongorian
に先立ち、日本各地の民家調査においても、建物
9
8
8、
Architectureぺ StatePub!ishingHouse, 1
ばかりでなくその中の物(生活財)をふくめたス
蓮見治雄「ゲルのコスモロジー J (
W遊牧民の建築
ケッチ記録を数多く残している。(今和次郎『日本
術
.
! INAX出版, 1993, pI3-19) 参照。
の民家』相模書房, 1
9
5
4
)。所有している生活財と
1
2
)現在のウランパートル市全人口の約 1/4がゲル地
その配置から生活像を読みとろうとした考現学草
区に居住。ゲルは約 4万戸という。
創期の試みとして、今和次郎「新家庭の品物調
1
3
) 本昔、・山根論文 p75~ 7
6参照。
査」、同「下宿住み学生持ち物調べ(l)(2)J(Wモ
1
4
) 公式統計によると、 1989年時点で、テレビはモ
デルノロジオ』春陽堂, 1930 所収)等。
3
)現代モンゴルの住生活の実態についての本格的
な記録化・紹介はまだ少ない。例外として、内海
W遊牧民の建築術J]I
N
A
X
旬子「モンゴル人の生活術 J(
出版, 1
9
9
3 所収)、
牧民~ (原書房,
野沢延行『モンゴルの馬と遊
1
9
91)の一部 に、考現学的な視点
からのゲル内部空間の記録が見られる。
4) 現代モンゴルの住居空間の概要については、本
誌・山根論文参照。
5) ゲルの 1
0例のうち、遊牧生活のものが 6例、定
住しているものが 4例。定住ゲルのうち l例はゲ
9
6 ・人間文化
ンゴル全家庭の 4
1パーセント、冷蔵庫は 35パー
a
"(統計図集) ,State
セントに普及。 "Mongo!i
Statistica! Office, (
1991
)
1
5
)ききとりによると多くの都市生活者が、遊牧地 の
親戚から大量の肉類をもらっている。
1
6
) 本誌・山根論文 p77~ 7
8参照。
1
7
) 本誌・山根論文 p80参照。
1
8
) モンゴルでは家庭用熱源としてのガス供給はな
い。停電時の非常用あるいはゾスランに行くとき
に使うカセット式ガス・コンロは売られている。
1
9
)ゲルのベ ッド横の壁に カーペ ットを掛けるのは、
現代モンゴルの住生活と 生活財その考現学的調査
もともと就寝時の断熱効果のためにフェル トを掛け
ていたのが装飾を兼ねるも のに変化したのではない
か。旧ソ連の影響とする説もあるが詳細不明。
2
0
) 生活財の点数については、居住している家族の
。
ス ト上に飾っていたのは 6戸
2
6
) 滋賀県立大学では、ゲルとその巾の伝統的生活
用 具類一式を資料 として所蔵して いる。 (
19
9
6年
春購入。ゲルはフプスグル県出身者の製作。)この
人数、年齢構成、その家の「経済力」などとも関
中には分解・組立式の独立家具型の仏壇があるが、
係するはずである。また、遊牧生活では、持ちき
今回調査では、ラマ僧の僧坊以外でこのような独
れないものを冬営地の物置に置いておくなど、季
立型の専用の仏壇を使用して いる家は一例 もみら
節的変動もある。ここはあくまで夏営地 の調査事
れなかった。現在一般的な仏壇の形式は 、チェス
例からの推察にとどまる。
2
1
)1
9
8
9年時点で、ミシンは 6
5パーセント、ラジオ
は4
8パーセント、オートパイは 1
0パーセントの
家庭に普及。前掲註 1
4に同 じ
。
2
2
) 前掲、註 11に同じ。
2
3
)M
a
i
d
a
r,D
. "A
n
a
l
y
s
ed
e
sW
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h
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s
t
a
n
d
e
s
i
nd
e
rM
o
n
g
ol
e
iv
or1
92
1ぺ(c
.1
9
8
0)より。
(図版は M
a
i
d
a
r,D.
;D
a
rs
u
r
e
n,L
. :G
e
r (D
i
e
a
n
B
a
t
o
r,1
9
7
6からの再掲。)
J
u
r
t
e
), Ul
2
4
) 今回調査では、この原理にあてはまらない例外
ト(アブダル)の上の一角を使って、仏画の額や教
典、灯明、小マニ車などを配置したも のとみてよい。
謝辞:
ウランパートル市での調査家庭は、現地研究協力
. ミエゴン
者である「ゴビ・プロジェク卜」代表の G
ボ氏(元 ・党大学長)、およびご子息の M .エ ンフボ
ルト氏(チンゲルティ 地区次長) の仲介によって訪
問調査することができた。また市内のゲル地域、ア
.ジャ
パート地域の現状と再開発計画については、 T
的な事例として、台所部分に収まりきれないため
ダ ン パ 一 氏 ( ウ ラ ン パ ー トル市 ・都 市 建 設 計 画 課
か、入口に入って左側に乳製品の入った大鍋を並
長
)
、 D
.ダンダルパートル氏(国立デザイン ・リサー
べている例(セレンゲ県バロンブレン郡)、入って左
チセンター長)にご教示い ただいた。聞き取り調査
側に食器棚を置き、右側には馬乳酒っくりの革袋を
はすべて、 T
.ムンフツェツェック姉(ウランパート
釣り下げている例(ウブルハンガイ県ブルド郡)を
ル国立大学)の通訳による。 そし て、異邦人の突然
実見した。
2
5
)三面鏡を使った飾り物 コーナーを設けていたゲ
ルは、調査した 1
0戸 中で 8戸。この形式で家族写真
を飾っていたのは 4戸。家族写真の額を独立でチェ
の訪問をこころよく迎えていただいたばかりでなく、
めんどうな調査に長時間協 力して くださった全調査
家庭のみなさんにも、心から感謝したい。
7
人間文化 ・ 9
現代モンゴルの住生活と生活財その考現学的調査
Comment
真 島 俊 -
生活と道具の調査研究について
~!nEM 研究所
人間の生活は沢山のモノに支えられて成り立 ってい
オートパイなどの動力機器によって牧畜の生産方式
る。これらのモノは様々な方法によって入手、使用、改
に変化が起こっていないか、自然とのつきあい方や儀
良され、あるものは捨てられる 。モノによっては必需
礼的な生活慣行がどのように変化しているのか。残念
品となり地域に普及する。
そして、これらのモノの支援によって人々は、白
然や環境を生かしたライフスタイルを熟成させて、
地域ごとの独特の生活文化を形成してきた。
なことに、こうした動力機器による遊牧生活への具体
的な影響が報告では不明であった。
住生活と生活財といった視点からは 、生活の近代
化で大きく変化した家族や女性の労働の姿が近代化
近年 、モノを対象とした研究が培えている。これ
以前と以後ではどうなったかも気になる。労働力の合
は、モノや道具が文明や生活の特性を端的に示すか
理化が進んだ結果、モンゴルの家族生活や女性の働き
らである。だが 、この分野でも生活像全体の構成に
方や社会進出はどうなったか。こうした点についても
論究するものは極端に少ない。
具体的に述べてほしい。そこからは逆に地域生活の伝
面矢論文;
は道具と住生活からみた地域の生活文化に
わたる研究であり、サブタイトルに 「
その考現学的調
統性や生活慣行の動態も発見できるはずである。事例
の範囲であっても論及してほしかった。
査 jと明言している通り、モノを 中心とした現代生活
程度の差はあっても地球規模で現在、
生活の近代化
の動きを追求し再構成を試みているところに魅力があ
は進んでいて、地域に綬ざしたライフスタイルの質を
る。考えてみれば生活像を捉えるには、過去では部分
大きく変えている。だからこそ地域生活の研究では、
的にしか捉えられず、未来では予測の断片的世界とな
近代的な生活用品の選択がどのように始まり 、
それに
る。現代でなければ人間の生活とモノの関わりは観察
よって起こった生産、生活変動の姿を 具体的 に伝えて
もできず、
文化的特徴も、また把握することが不可能
ほしいのである。石油物質文明の巾から生まれた道具
なのである。
群は、過去の歴史に類例 のない性能 を持ち、動力源や
ゲルの報告を読み進めると、ずいぶん工業製品が
石油を消費する姿を持っている。この点からは地域生
混入していて生活の近代化が進んでいることが解る。
活の国際化やエネルギー依存の 問題、あるいは今まで
興味を引いたことを挙げてみる。
活用していた地域の 自然環境のあり方の今後といった
例えば家族写真である。家族の新しいよりどころと
視点が発生するはずである。
して、仏壇に代わりつつあるという点である。モンゴ
調査ははじまったばかりで、学際的な内容である。
ルの宗教がより直接的になり、旧来の宗教的慣行が日
進行中の調査の中では多くの注文を消化することは
常世界では変動し始めているのであろう。
できないだ、ろう。だが、面矢論文の考現学的手法は、
次いで気になったのは、オートパイを馬代わりに
多面な論究に耐える内容であり、学べることが多い。
し、ラジオ、ミシンを持ち、テレビなどが発電機に
そこには現代の文明と文化の動きを考えることので
よって使われるといった生活である。
面矢氏はここで伝統と 近代化の一つの視点で分析
きる優れた手法が内在しているからである。考現学
的な研究方法については、時には「細部にとらわれ
を進めている。具体的 には遊牧による移動生活と定
すぎ、て全体が見えなしリなどの批判があろうかと思わ
住化の対立的問題である。
れるが、あわてず、に、しかも着実に進めてほしい。
9
8 ・人間文化
ひとつの〈世界単位〉モンゴル
たか
や
よし
かず
高谷好
人間文化学部地織文化学科
今は目立たないのだが、 2
1世紀 中にはモンゴルは
れである。
再び草原の花として生き返ってくるのだと私は思う。
このモンゴルをひとつの(世界単位) として捉えて
みたい。
2 草原の (
世界単位)
モンゴルを一つの (
世界単位)だとすると、それ
1.<
世界単位 〉とは何か?
(
世界単位)とい うのは私の提唱している新しい概
念なのだが、まず最初にこの言葉について説明させ
は草原で特徴づけられる「世界単位 j ということが
できる。そのことを述べたいのだが 、それに入る前
に、まず草原とは一体何なのか、ということを考え
てみておこう。
ていただきたい。(世界単位)とは、そこでは人々が
価値観を共有している地理的範囲である。これはま
W
地域研究の問題と方法』京大出版会、
た立本成文 (
2-j 砂漠と草原の帯
実際には草原は砂漠とくっついて、砂漠・草原帯
1
9
9
6
) によると、 s
o
ci
o
c
ul
tu
r
al
-ecodyna
mi
c に作
とでも呼ぶべきものを作り、これがユーラシアを横
りあげられた一つの ent
it
y だと定義されている。
断して東西に伸びている。この砂漠・草原帯の最大
一つの生態の上に 一つの文化と社会が出来、それが
の特徴は、木がなく見通せるということである。ま
歴史的な展開をとげて一つの意味のある 地域を作 っ
た、馬やラクタ守を駆って迅速な移動が可能であると
ている、それが (
世界単位)だというのである。
いうことである。砂漠・草原帯はその北も南も森林
なぜ、こんなことをわざわざ言い出すかというと、
帯になっていて、そこは見通せない空間であり 、馬
現行の国家という枠組みが極めて怪しいものだから
やラクダで疾駆できない。こうして、砂漠 ・草原帯
である。やがて近代的秩序というのは崩壊してしま
は、そこを通れば迅速な移動が可能であるというこ
うのだろうが、そうなった時には国家という枠組み
とを大きな特徴としている。
も崩れてしまう可能性が大きい。何故ならば、国家
というのは近代の植民地分捕り合戦の過程で作られ
草原
た政治的な、したがって、いってみれば大変無理を
当然なことながら、砂漠と草原は違う。草原 は遊
して作られた枠組みであるからである。だから、近
牧の世界である。普通、人々は五畜と呼ばれる馬、
代が終わり、新しい世界秩序が現れるとしたら、そ
牛、羊、 山羊、ラクダを飼う。遊牧が基本であるか
れは無理のない自然な枠組みに取って代わられる、
らテント住まいになる。特別 な場合以外は定まった
という考えである。では、その無理のない枠組みと
家屋や集落というのは作らない。
いうのはどんなものなのか?この問に答えるために考
草原の遊牧民はまた騎射に長じた騎馬民でもある。
え出されたのが、ここにいう (
世界単位)である。こ
強弓を操り 、機動力に富んでいるために、彼等はそ
れは 2
1世紀の世界の単位と考えておいてよい。
のままで強力な騎馬軍団にもなりうる。実際、こう
もっとも、この (
世界単位)については、本当は
した特殊能力の故に、火器が出現する前は、彼等は
あまり難しい議論をする必要はないのかも知れない。
世界最強の戦闘集団でもあった。ヂンギスハンとそ
普通の人が見て、「あ
L 、成程、ここはこんな所か J
の軍団はその典型例であった。
ということが簡明、直裁に判るような範囲があれば
そこはもう一つの (
世界単位)をなしている、と考
砂漠
えてもよいのである。難しく、あれやこれやと説明
砂漠の人達の生活は全く違っていた。 ここでは
してやっと説明がつくような範囲は普通は(世界単
人々は城郭都市を作って住み、交易を主たるなりわ
位)をなしてはいない。(世界単位)というのは普通
いとした。それはもう少し 具体的 にいうと次のよう
はよく纏まってい、極めて 明確な特質を持っている。
な具合である。
いってみれば、固有の魂を持っている。モンゴルと
いうのは、実はそういう所なのである。
砂漠というのは文字通り 水のないところであるが、
そんな砂漠にも所々にオアシスが発達する。高い山
さて、 抽象論はこのぐらいにして、 地球上でのモ
があると、そ こに降った雨や雪が斜面を伏流 してき
ンゴルの相対的位置を知るために、ユーラシアにあ
て、麓に泉を 作 る。そ こがオアシスである。 北アフ
る代表的な (
世界単位) を示しておこう。図 lがそ
リカから 中国 にかけて伸びている砂漠の 中には、こ
人間文化・ 9
9
ひとつの(世界単位)
モンゴル
(
、
, 砂
,呈と草原の中の出界単位
、
、
"
00
制 問 世界単位
ロ 砂 ,員
口
草原
日本
図 1 モンゴル周辺の「
世
界単位」と砂漠の草
原帯の分布
0
0
0年
ういうオアシスが点々と速な っている。紀元前 2
ない 。騎馬民が商人に転身することもしばしばあ っ
ぐらいになると、こういうオアシスを伝わ って地中
た。城郭都市を陥落させた騎馬民は、そ の後は草原
海・巾国貿易をしようとする人達が現れ、彼等はこの
に帰り、徴税の時にだけ町に来るというようなこと
オアシスの鎖を結んで東西交易のルートにした。
交易
もあ ったけれども、時には城郭都市にそのまま居座
者逮は高価な物品を取り扱ったから外敵からの防御を
り、そこの支配階級になることもあ った。こうして、
必要とした。こうして、彼等が交易拠点とした所は例
騎馬民や商人というのは必ずしも固定した騎馬民人
外なく、強固な城壁で因われた城郭都市に作りあげら
穐、商人人穐というのがあったのではなく、むしろ
れてい った。
かなり自由に相互に入り込むような関係にあ ったの
である 。
不可分の砂漠と草原
砂漠は商人の世界であり、草原は牧民と騎馬軍団
ともあれ、ユーラシア大陸を横断して、こういう
砂漠 ・草原帯があったし、今もあるのである 。
の世界であるということになるわけだが、それでは
両者はお互いに独立し、無関係であったのかという
とそうではない。むしろ、両者は相互に密接に関係
2- ii モンゴル高原
モンゴルの位置を把握するためにもう 一度、図 l
しあってい、切り離しえないというのが実状である。
を見てみよう。モンゴル高原 を中心 に見ると、ここ
だから、砂漠 ・草原帯として両者を一括しているの
には 3つの大きな野の世界があり、それらに挟まれた
である。この両者の関係は一面では共生的であり、
ような格好で砂漠 ・
草原帯が伸びている。 3つの野の
一面では敵対的である。
世界というのは中国の野とインドの野、それに今一つ
牧民は乳製品や皮革や羊毛をオアシスの城郭都市
はロシアの野である。原植生との関係でいうと、前の
に出し、そこから布などの日用品や小麦粉などの食
二つはサバンナ林であった所である 。それが 2
0
0
0年
料品を手に入れる。町は交易の巾継点であると同時
の昔に関かれて、その後ず、っと大農地であり続け、そ
に工場でもあるロ牧民の持ち込んだ皮革や羊毛は革
れぞれに中華文明、インド文 明 を築きあげた所であ
製品やジュータンなどに加工され他 の都市に転売さ
る。ロシアの野は、厳格な意味では野ではない。ここ
れていく。ここはしかし 、一歩間違えば争いの場に
は農地としての利用 密度は 中園 、インドのそれに比べ
なる。武力をもっている騎馬民達は、城郭都市が油
る主粗放であるし、しかも開墾の歴史は高々数百年ほ
断するとそれを攻め落とし、そこの富を奪ってしま
と‘の短いものである。歴史の深さからいっても、文明
う。こうして共生と争いが繰り返されるのである 。
の確立程度からい っても前二者とは同列に並べられる
ところで、この草原の民とオアシスの民との関係
べきものではない。
そういうことを承知のうえでここ
は本当はもう少し複雑である。騎馬民は常に騎馬民
ではロシアもまた野の (
世界単位)としておこう 。現
であり続け、商人は常に商人であり続けるとは限ら
実には今ここには、農地がかなり広く広が っているか
1
0
0 ・人間文化
ひとつの(世界単位)モンコル
相当低い。こういう低標高のために、ここの主体部は
砂漠である。ただ、このトルキスタンにはその中央に
天山山脈が走ってい、その南西端はパミール山地に続
いている。天山山脈には 5
000mを越す峰々があるし、
000mを越す峰々がある。だから、
パミール山地には 7
その麓には多くのオアシスが発達している。トルキス
チベットの風景① ラツェの麦畑
タンは砂漠とオアシスの地区なのである。
豊かな草で覆われた典型的な草原の広がるモンゴル
高原、氷と雪の高冷地チベット高原、それに砂漠とオ
らである。(野の(世界単位)についての詳しい議論は
アシスの世界トルキスタン。この三者はともに砂漠 ・
拙著『多文明世界の構図~ (巾公新書)を参照にしてい
草原帯にあるのではあるが、三つの聞にはこれだけの
)。このロシアの野は実は針葉樹林帯がロ
ただきたし 1
はっきりとした違いがあるのである。だからこの三つ
シア人達によって聞かれたところである。このロシア
の地区はそれぞれに独自の(世界単位)を作りうるの
の野の世界の東にはまだ開かれていない針葉樹林帯が
である。
ある。いわゆるシベリアの森林帯である。
砂漠 ・
草原帯というのは、こうした 3つの大きな野
2- iii 世界単位〉モンゴル
の世界と 1つの大森林地帯の聞に広がっているのであ
周りとは違った豊かな草原だから、これはひとつ
る。そして、この砂漠・草原帯は実際には、いくつか
の(世界単位)として独立させようというふうにい
の(世界単位)に分かれており、モンゴルというのは、
うと、環境決定論だといってひんしゅくを買いそう
そうした(世界単位)の ひとつなのである。モンゴル
である。だから 、もう少し、 別の角度からも見てみ
の(世界単位)に隣接しては、チベットとトルキスタ
よう。実はここはモンゴル人という人達が住んでい、
ンという 2つの(世界単位)が存在している。さて、モ
彼等自身がこのモンゴル高原は自分達モンゴル人の
ンゴルの(世界単位)の特徴をはっきりさせるために、
土地だと考えているのである。だから、それを踏ま
とりあえずは、この隣接するチベットならびにトルキ
えて私はここをひとつの(世界単位)モンゴルとして
スタンと比較してみよう。
いるのである。
まず、モンゴルそのものであるが、これは典型的な
ところでモンゴル人とは何かといわれると、これ
草地高原である。ここは平均標高が千数百メートルで
は答えるのが難しい。ただとにかく彼等は、 自分達
あるが、この高さはこの緯度では草原植生を作るのに
はロシア人や 巾国人とは全く違うし、トルコ人やチ
最適の条件である。実際にはこのモンゴル高原の中に
ベット人とも違うというのである。そう彼等が主張
も、モンゴルアルタイやハンガイ、ヘンティなどとい
することを重視して、私はモンゴル人とは一つの民
う高い山脈があって、そういう 山々の高みは森林に
族であり、また彼等がここは自分達の世界だという
なっている。また、高原の南縁は高度が低いために草
この高原はひとつの (
世界単位)だとしてよかろう、
は貧弱になり砂漠的になっている。詳しく見るとこう
とそう考えるのである。
して地方差はあるのだが、大局的に見るとこのモンゴ
歴史的にいうと、このモンゴル高原は古くはトル
ル高原は典型的な草原地帯なのである。この見事な草
コ系の人達によって占拠されていた。だが、やがて
で覆われた高原というのが、この地域の一番大きな特
モンゴル人が現れて、 トル コ人は西に移動した。こ
徴である。
の民族の入れ替えは、あのヂンギスハンの頃に起
さて、比較の対象となるチベット高原である。こ
こったのだという。ここを 出た トルコ人はず‘っと西に
れも、高原という言葉で呼ばれている。しかし 、その
移動し、アナトリアで大きな勢力になった。オスマン ・
内容はモンゴルのそれとは全く違う。ここは平均標高
トルコを作った人達である。
が 4000mであり、極限の高冷地である。草は良質な
ものが少なく、むしろ、氷雪と岩原の地である。
アナトリアまでいったトルコ人とは別に、そこまで
行かないトルコ系の人達がモンゴル高原の西端からア
このモンコ ル高原とチベット高原の間に割りこむ
ナトリアまでの聞にも広がった。それはいくつかの小
ような格好で広がる低地帯がトルキスタンである。
グループに分かれたが、それらのなかで比較的濃厚な
Om以下という 所 もあって、
トルコ人集住地帯として残ることになったのが今のト
ε
その最低部は海抜標高
0
1
人間文化・ 1
ひとつの (世界単位)
モン ゴル
ルキスタンである。トルキスタンとはトルコ人の土地
んだ偉大な民族だという誇りを持っている。やっぱ
という意味である。
り、チベット人は同じ高原の民といってもモンゴル人
トルコ人とモンゴル人が形質的にあるいは言語的
とはだいぶ違うのである。
にどのように違うのかといわれると私には答える力
こうして比較して見てみると、モンゴルは生態以
はない。ただこの 2つの集団は私のような素人が見
外の面でもやはり トルキスタンやチベットとは別穐
てもはっきりと違う特徴を持っている。前者がイス
のものなのだということになる。ところで、モンゴ
ラームであり、後者がチベット仏教を奉ずる人達で
ル人自身が他の民族にはなく、これこそ自分達だけ
あるということである。ついでに、なぜこうしたこ
のもので本当に誇りうるものだと考えているものは一
とが起こっているのかというと、イスラームは本来が
体何なのだろうか。それは一言で言ってしまえば、極
都市の宗教であるからであろう。すでに見たようにト
めて高度に発達した牧民文化であり、騎馬民文化であ
ルキスタンにはオアシスが多く、したがって都市が多
る。と、私は思う。そこの草が牧畜には理想、の草であっ
い。だからイスラームが広がっているのである。一方、
たが故に、彼等はここで牧畜文化を極相にまで高め
草原の広がるモンゴル高原には都市はなく、したがっ
た。加えて、それから派生させた騎馬戦力でもって
て、イスラームの拡散もなかった。これが一つの解釈
ユーラシア人ー陸の覇者になった。モンゴル人はこのこ
である。
とに本当に大きな誇りを持っている。モンゴル人の集
チベット人がまたモンゴル人とはずいぶん違う。
住するモンゴル高原が一つの(世界単位)を作ってい
とはいえ、チベット人とは何かということになると、
るというのは実はこういうことがあるからなのであ
これまたその定義がなかなか難しい。チベット高原
る。ここが単に一つの草原区であるというだけではな
に住んでいて、チベット語を話し、チベット仏教を
く、こういうモンゴル人の文化 と誇りがあるからであ
奉ずる人ということにしたとしても、その生業や生
る
。
活を見ると実に多様なものがあるからである。しか
し、モンゴルに 比べてはっきりと違うところは農業
がかなりあることである。チベッ トの農民はこの高
3
. 国際関係の中で
冷な高原を刻んで流れる谷川ぞいにムギやソパなどを
こうしてモンゴルは一つの(世界単位)を作ってい
作っている。それにこうした農民は厚い石積みの壁や
るわけだ、が、それは決して、その場だけで自生的に出
巨大な住を用いた立派な家を作る。それはテン ト住ま
来たわけではない。むしろ周辺諸地域との複雑な関係
いで遊牧するモンゴル人とは全く違う。こうした農民
があって、歴史的産物として作られてきたものでもあ
はチベット高原の南縁を走るツァンポ川ぞいには特に
るわけである。だから、この点 も見ておこう。 モンゴ
多い。この農業の多さがチベットの特徴である。それ
ルの場合だと、 巾国とロシア との関係が重要であっ
に、チベッ ト人達は、 自分達こそはチベット 仏教を生
た
。
3-j 中国との関係
何人かのモンゴル人は、世界で一番嫌な人聞は巾
国人だ、という。中国人には何百年もの問ずっと抑
えつけられ続けてきたからである。モンゴル ・巾国
関係を見たいのだが、その前に、まず最初にその嫌
われている巾国人とはどういう人達なのかを見てお
こっ
。
中華世界というもの
巾国人は巾華意識というものを持っている。これ
はー積の選民意識である。 世界の 巾心 には 巾華文明
という極めて勝れた文明を持った 巾国人がい、その
トルキスタ ンの風景①
ボハラのチャイ ハナ(
茶庖) 慢影菅谷文則
1
0
2 ・人間文化
火という蛮族達がい
四周には東夷、南蛮 、西戎 、北 1
る。この華夷秩序は世界が平和に生き続けていくた
ひとつの(世界単位)モンゴル
めにはどうしても維持されなければならない、と考え
る。だが、モンゴル人の元朝の場合は違った。彼等は
ている。この考え方は漢代の昔から、今にいたるまで
モンゴル文化を隈持した。科挙制度を退けて、自分遠
ず‘っと受け継がれてきている。
の兄弟分であるトルコ人達を重用 した。漢族を見下
華夷秩序の巾では、蛮族の国々は巾国の属国とい
し、自分達を第一級人種と考えたのである。己の文化、
うことにされ、臣下の礼を取らなければならなかっ
文明に対する強烈な自信と誇りを持ち続けたモンゴル
た。こうした属国にはモンゴル、チベット、 トルコ
のこの姿勢に私は強くうたれるのである。
系諸国、ベトナム、朝鮮、等々があった。日本も昔
さて、そのモンゴルの歴史に戻 ろう。元朝は長く
はその一つであった。こうした考え方や仕組みは属国
続かなか った。 9
0年の後、明朝が現れると、モンゴル
にされた方にすれば、まさに屈辱である。しかし、残
人達は中国から追い出されて、再び本拠のモンゴル高
念ながら世界というのはもともとがそういうことにな
原に帰ることになった。そして、これ以降、す、っとモ
らざるをえないような構造になっているのも事実なの
ンゴルは中華世界の北辺の草原の民であり続けざるを
である。
えなかった。
なぜ巾国がこういう自 己中心的 な世界になったの
かつて世界帝国を作った モンゴルが衰退しなけれ
かというと、それは次の よう な具合である。とにか
ばならなかったのは明が強大になったからではある
くここには黄土平原という巨大な可耕地があった。
が、それがなくともモン ゴルは早晩衰退する運命に
だからそこには巨大な人口が集まり、それが巨大な文
あった。時代が変わってきたのである。具体的にいう
明を作りあけ、た。周辺諸民族をも纏めあげていく大き
と、火器の 出現が世界を変えつつあった。強弓の名手
な統治思想まで備えた巨大な文明を作りあげた、その
モンゴルも鉄砲と大砲には対抗できなか った。こうし
ためにこういうことになったということである。詳し
て騎馬民族は鉄砲民族に覇権を譲りわたしていったの
くは、拙著『多火:~月世界の 構図.D (
19
9
7、巾公新書)を
である。この新しい流れは 1
6世紀 に始まっている。
参照していただきたい。
衰退し、分裂状態にあった モンゴル系 民族の 巾で
、
この頃最も勢力を持っていたのはジュンガルであ っ
モンゴル・中国関係
た。これは最初トルキスタンの東部にいたが、勢力を
属国とされた国々は皆大変な屈辱!惑を抱き続けてき
伸ばしてくると、モンゴル高原に いたハルハ ・
モ ンゴ
たわけだが、モンゴル人の屈辱感はとりわけ激しいも
ル族を圧迫し、彼等を東方に追いやった。モンゴル人
のであった。それは、この人達の過去の栄光がそうさ
にとって不幸なことはこの時に起こった。ジュンガル
せている。巾国との係わりでモンゴルの歴史を概観し
に圧迫されたハルハ族は清朝に援助 を求め、清朝に服
てみよう。
属することを条件にジュンガルを追い返してもらっ
仮に一部のモンゴル人達がいうように旬奴もまた
た。こうしてモンゴル高原の中央部に勢力を持つよう
モンゴルの祖先だとすると、その歴史は次のように
になったのが今日のモンゴル国に続くハルハ族モンゴ
なる。すなわち、モン ゴル族に代表されるような草
ルである。しかし、この事件のおかけ、で、モンゴルは
火といわれながらも、紀元前 3
原の騎馬民は、北 1
清朝の属国であるということがはっきりと決まってし
4世紀の頃から強くて、巾国を悩まし続けてきた。
まった。1
7世紀末の話である。
そして、ヂンギスハンが現れると、いよいよそれは
国際関係という のは実に織烈なも のである。この
強大になり、ユーラシア大陸を席巻し、 巾国をさえ
不覚でモンゴルは巾国の属国に自らなってしまい、
叩き潰してしま った。こ うして出来たのが元朝であ
それ以降、この属国の立場からずっと逃れられな
る。元朝は完全にモンゴルの方式に従って巾国を支
かったのである。本来は誰にも増して誇り高いモン
配した。
ゴル人である。巾国の属国という立場は我慢ならな
このモンゴル方式による 中国支配というものを私
いものであったに違いない。にもかかわらず、属国
自身は大変高く評価している。 他の民族だと軍事的
であり続けざるをえなかったのである。ちなみにい
勝利によって 巾国を打ち負かすと 、小国の支配者に
うと、 中国 がモンゴルに対する宗主権を放棄するの
はなったが、その際、自らの文化を打ち捨てて 巾華
は 1946年になってからである。
文明の巾に入り込みそれに 同化 してしまっている。
結局、中華世界は軍事面では敗北したのだが、中華
文明そのものは、いささかも揺らいでいないのであ
3- ii ロシアとの関係
モンコ‘
ルは中国から独立するためにロシアの力を
0
3
人間文化・ 1
ひとつの(世界単位)モンゴル
利用した。そして、独立は成功したのだが、今度はロ
社会を作るためには、古くさい因習にとらわれていて
シアのおかげで‘
ひと、い火傷を負った。ここでは対ロ関
はならないというのが言い分であ った
。
係を見てみよう 。だが、その前にまず、ロシアとはど
んな国かを見ておこう 。
1
9
4
0年代末になると、コメコン(経済相互援助会
議)が作られた。これは共産圏を 一円的にまとめて 、
一つの能率のよい経済圏を作って行こうというもので
ロシアという国
ある 。この精神そのものは良か ったのかも知れな い
ロシアはイギリスと並ぶ世界最人ーの帝国主義国家で
が、いざ始めてみると、周辺の弱小共和国はますます
あった。イギリスが七つの海を制覇して海外に植民地
独自性を失わざるをえないことになった。巾央に巨大
を広げてい ったのに対して、大陸国家のロシアは自分
なロシアが座り、共和国は原料供給地か、もしくはせ
の周辺の小国を次々に併呑していった。
1
8世紀末までのロシアはまだそれほど超巨大な国
いぜいロシアの割 り当てる部品製造だけをや らされる
ような存在になってしまったのである。
9世紀に入るとグルジアやア
ではなかった。それが 1
以上がロシアの歴史である。こうして見てみると、
ゼルパイジャンなどのカフカス地方を奪い、 1
9世紀
ロシアは 19世紀の初頭から一貫して帝国主義的拡
中葉にはボハラやコーカンドなど中央アジアの汗国
0世紀初頭ま
張者であり続けたことがよく分かる。 2
群を併合した。同じ頃、アムール川下流部など の巾
ではツアーの帝国として周辺を侵略、併呑してい っ
国の北東縁もかすめ取っている。この頃だと、カフカ
た。ソ速に変わってからは、今度は共産主義社会の
スも、巾央アジアも巾国北東縁も皆弱く、鉄砲を持っ
完成ということで、民族文化や地域産業の抹殺を徹
たロシア人にとっては侵略するのはいとも簡単なこと
底的に行 った。ロシアというのはそういう固なので
であ った
。
ある。
9世紀末
イギリスとロシアの急激な拡大の結果、 1
になると、アジアでは 3つの勢力が純張りを主張し、
対ソ関係史
0
0
0年
角を突きあわせることになった。ひとつは、 2
モンゴルは上に見たようなロシア人を利用して中
の昔からこの地に問主として居続けていた中園、今一
国からの独立を克ちとろうとしたのである 。
独立は克
つは海路侵略して来、この時点ではインドを手巾に治
ちとった。しかし、その代償は極めて大きなもので
めていたイギリス、そして、今一つは上に見たロシア
あった。モンゴルの対ソ関係については、小貫雅男、
である。そして、こうした国際状況の巾でアフガニス
1
9
9
3W
モンゴル現代史.D(
山 川出版社)が極めて詳し
タンとモンゴルが、いわば緩衝帯の役目を果たしてい
い。以下に述べるものはこの書物から学んだことの粗
た。アフガニスタンはロシアとイギリスの、モンゴル
筋である。
はロシアと中国の緩衝帯をなしていた。 1
9
0
0年という
2
0世紀に入ると清朝中国の力は大幅に弱くなって
時点を取ればロシアを巾心として見た状況はまず上の
いた。そういうなかでモンゴルでは領主層を巾心と
ようなものであ ったと考えて間違いない。
さて、そういう国際状況の中で、ロシアでは革命が
して独立の動きが強まっていた。ロシアはこの期を
逃さなかった。背後から領主層への援助を行った。
9
1
7年にはロマノフ王朝が倒れ、ソヴィエ
勃発した。 1
9
1
1年、領主達は、チベット
この援助に助けられて、 1
ト政府が打ち立てられた。そして、これはいくつかの
仏教の首長ボクド・ゲゲーンを推戴して、君主制国家
屈曲の後、ソ連へと形を整えて行った。この革命後の
の建国を宣言した。しかし、この建国は国際社会の認
変動の 中で、仔I1の巾央アジアの植民地 もいくつかの共
知を得ることはできなかった。
和国へと衣替えをさせられていった。
1
9
1
4年にはキャフタ協定が結ぼれた。ロシアが聞
ソ連への変化も、周辺の被征服地からすれば、決
に入り、モ ・口 ・巾 の三国の問でモンゴルの地位に
して良いものではなかった。ロシア人達は革命当初
ついて一応の決着がつけられた。モンゴルは独立国
は革命は民族解放だなどと宣伝した。しかし、一旦、
ではないが大幅な自治権を行使できるということに
ソ連が成立してしまうと、むしろ、民族の抹殺へ乗
なった。
り出していった。例えば中央アジアの共和国では、
イスラームの信仰やアラビア文字の使用が禁止され
1
9
1
7年、ロシア革命が起こ った。革命に続く混乱
91
9年、中国は 自治権の取り消しを宣言し、
の巾で、 1
た。モスクは閉鎖させられ、アラビア文字に替わ って
加封典礼を強行した。これを目撃してモンゴルの青
キリル文字の使用が強制された。理想のプロレタリア
年達が怒り、奮い立った。
1
0
4 ・人間文化
ひとつの(世界単位)モンゴル
1
9
2
0年、こうした若者逮はモンゴル人民党を結成、
独立運動を展開した。しかし、この独立運動は同時に
世界共産主義運動の一貫でもあった。ロシア人達はこ
の時、すでに若い民族主義者を充分に洗脳して いたの
である。
1
9
2
1年、人民党軍が首都のクーロンを命)
1圧した。そ
して、ボクド政権から権力の移譲を受けた。君主制そ
のものは放棄されなかっ たが主権は人民にあること が
チベットの風景② ラサの中心部
確認された。
1
9
2
4年、コミンテルン派の勢力が強まり、君主制
から人民共和市 1
)
への転換が宣言された。同時にクー
ロンをウランパートルと改名した。国際的にはこの
時が独立国モンゴルの建国とされている。
ある。
次に驚いたことは、この 1
0階建 てのアパートの近
代的設備である。アパートは皆冷暖房完備で、 2
4時
1
9
3
0年頃よりコミンテルンの指示でモンゴルの左
間の給湯サービスを受けている。だから人々はしばし
傾化が著しくなった。やがて、仏教寺院の破壊と僧
ば朝シャンを楽しんでいる。何とも賛沢な話である。
侶の追放が行われ、牧畜の集団化が行われた。内務省
とはいえ 、
短めてしばしば停電があり、給湯も中断す
が作られ、チョイパルサンの独裁体制が固まり、恐怖
るということであった。これがロシア式ということな
政治が始まった。この時点から、モンゴルはソ連の植
のだろうか。ともあれ、私には、このアンバランスが
民地と何ら変わらないものになってい った。そして、
ひどく印象に残った。
その後はこれがずっと続いた。
1
9
8
0年代の 巾頃になってソ連の崩壊があり、上の
9
9
0年、そ
体制の見直しがやっと始まった。そして、 1
第 3にこれまた強く印象づけられたことは、牧民
の落ちついた生活であった。首都のウランパートル
では上に見たように、とにかく異常づくめという感
れまでのやり方の非を認めて、政府と党幹部の全員が
じだ、ったが 、一歩 、郊外に出るとそこには落ちつい
辞職するという事態が起こった。いわゆる民主化が起
た牧民の世界があ った。その生活をつぶさに見て、草
こったわけである。以上がモンゴルの現代史である 。
原に生きる人達の伝統に基づいた豊かな生き方、落ち
こうして見てみると 民族の独立を求めて立ち上がっ
た若いモンゴ‘ルの革命家達だ、ったが、いつの間にかソ
ついた生活にはつくづく感心させ られた。
こんなモンゴルを見て、私はやっぱり、モンゴル
連の手中に陥ってしまっていた。その後の指導者逮も
はモンゴルらしく生きていくのが一番いいと強く
皆そうであった。そして、ソ 連が崩壊して初めて自分
思ったのである。自分の歴史を振りかえり、今の
達の来た道が誤りであったことを悟ったのである。
狂ったような経国のやり方は一刻も早く正すべきで
以上が、今日までにモンゴルがたどってきた歴史で
ある。
はないかと思ったのである。
0
0年前まで
考えてみると、モンゴル人達は つい 1
は本当にいい、モンゴルらしい生活をしていた。ヂン
4. これからのモンゴル
今回モンゴルを訪れて、強く印象に残ったのは次
ギスハンが世界制覇をした時は勿論素晴らしか った。
それと同じように、その後も彼等はモンゴルらしい生
活を続けてきた。巾固に抑えつけられて いたといわれ
の 3点であった。第 1はウ ランパートルの田T
の件ま
る明 ・
清時代もそれなりのモンゴルらしい生き方をし
0
いである。これが何とも不自然で、ギョッとした。 1
てきたのではなかろうか。私には封建領主達が希望を
階建てぐらいのアパートが林立しているのだが、そ
かかげ、ボクド ・
ゲゲーンを戴いて君主制国家の建国
のすぐ脇には粗末な木造りのバラックが解、数に広
を宣言した時などは、そのモンゴルらしさがひとつの
がっていた。その 巾にはいくつものゲルも混ざって
クライマックスになった時ではなかったのかと考えて
いた。 2-3年前まではゲルはもっと多かったのだ
いる。
が、急激に木造りのバラックに変えられているのだ
モンゴルがおかしくなったのは、彼等が共産主義国
という話だ、った。こういう状態で 6
0万の人達がこの
家の建設などという悪夢にとりつかれてからである。
平原の 中の首都に、いわば仮住まいをしているので
1
93
0年頃にはまだ、モンゴルにはモンゴル族という民
人間文化 ・ 1
0
5
ひとつの(世界単位)モンゴル
族に生きるべきだという人達と、いや世界のプロレタ
な状態に達してしまっている。もし、まだ発展を望む
リアートとして生きるべきだ、という一つのグループが
とすればそれは世界を一律に発展させるという考え方
あった。しかしソ連の後押しを受けたチョイバルサン
ではなくて、もっと、個々のケースに応じた、地方に
が出てからは、前者は徹底的に駆逐され、モンゴルは
根ざした、木目細かい発展である 。すなわち、世界資
モンゴ‘ル性を一気に失っていった。固有の文字を投げ
本主義などというものではなく、個別主義的な手法で
捨て、固有の宗教から引き離され、固有の社会組織を
やって行く発展である。
崩壊させ、あげくの果ては回有の牧畜の仕方まで変質
話は少し大きくなるが、この問題は超近代の世界
させてしまった。結果は先に見た奇怪なウランパート
の生き方の問題と直結している。地球世界を単質な
ルの件まいなのである。そして、人々は、やっと今に
ものと考えて、そこに一つの普遍論理を通そうとす
なって、この半世紀以上の歴史が誤りであったことを
るのか、それとも、世界は多様であり、それぞれの
確認したのである。
(世界単位)ごとの生き方が追求されるべきであると
9
9
0年の確認は正しいことだと私
モンゴル人達の 1
考えるかの違いに直結しているのである。
は思う。だが、私をしていわしむれば、モンゴル人
私自身は (
世界単位)論者である。その世界単位論
達は今また同じ誤りを犯そうとしている。今度は共産
者の目から見た時、モンゴルほど魅力的な (
世界単
主義に替わって、世界資本主義を受け入れようとして
位)は他にはあまり例を見ない。モンゴル高原とそ
いる。だが、これは大変危ない。特にモンゴルのよう
こに現存する牧民文化やモンゴル社会は人類の宝の
な国にとってはそうなのである。
ようにさえ私には見えるのである。
考えてもみよう。およそ“普遍論理"といわれるも
個別文化を残すということは決してパラ色のことば
のにはいつも大きな欺臓がある。例えば、世界の経
かりがあってできるのではない。経済的にも、また政
済発展といっても、その根底にあるものはまず自国
治的にもがまんしなければならないこともあるかも知
の発展である。先進国は経済発展は相手国にとって
れない。例えば、多少の貧乏は甘受することが必要に
も良いことなのだという。だがこれはごまかしであ
なることもある。人-事なことはそれに耐え、しかし斡
る。多くの場合、それは搾取以外の何物でもない。
持を持って生きて行くということである。それがあっ
ロシアの場合がそうだ、ったし、今、日本やアメリカ
てはじめて、一つの地域はそれ自体でありうるし、ま
のやっているのがそれである。
た、それを踏まえて多文明の共存した本当に美しい 2
1
それに、こと世界資本主義に関しては、もうひと
世紀の地球はありうるのである。私はそう考え、モン
つ問題がある。それは成長の限界ということである。
ゴルはぜひその体現者になってほしいと思うのであ
世界経済の発展というけれど、もう地球は谷量一杯
る
。
まで発展してしまっているのだから、これ以上の発
最後になったが、モンゴル滞在中にお世話になっ
展はありえない。どこかがより大きなパイを取ろう
た多くの方々には深い感謝の意を表したい。ゲルや
とすれば、どこかはより小さくせざるをえないよう
アパートで私達の質問に答え、御馳走をして下さっ
た方々は大変多い。こうした方々のお名前をいちい
ち上げることは出来ないが、せめて、
G. ミエゴン
ボさんとムンフツエツェックさんのお名前だけは記
しておきたい。前者は元党大学長であり、今回の調
査のカウンターパートであった。後者は完壁な日本
語を話される、女性歴史家であり、フィールドには、
いつも通訳兼歴史の先生としてついて来て下さ った。
このご両人にはことの外お世話になった。ありがと
うございました。
トルキスタンの風景② ボサラのマドラサ(神学校)
撮影菅谷文則
1
0
6 ・人間文化
-編集後記・
本 号 は 人 間 文 化 学 部 が 3年 計 画 で 進 め て い る モ ン
ゴル学術調査の中間報告となる論文を集めました O
¥
f
t
特集とするため、地域文化学
・生 活 文 化 学 のあり
方 に 関 す る 論 考 、 地 域 フ ォ ー ラ ム へ の 投 稿 、人 間 文
化通信などの情報ページは次号送りとしました。
昨年に続いて、今年の夏にも本学部の教員・学生
を中心とする百十 1
0数名がモンゴルに渡り 、 い く つ か
の テ ー マ で 調 査 を 行 っ て き ま し た 。 ただし 、編 集 の
都合により 、こ の 号 に 掲 載 し た 論 文 は 昨 年 夏 ま で の
調査にもとづくものです。
モンゴルは 1990年 前 後 か ら の 新 体 制 へ の 移 行 、 経
済 の 白 山 化によ っ て 、 日 本 で も 急 速 に 閃 心 が 高 まっ
ている固です 。観光やビジネスのための波航者も増
え、豆、速な柏会変動による混乱についての報道など
亘読すると、それ
も 増 え て い ま す 。 しかし 、 本 号 を j
ら と は ま た 別 の 、 地 域 文 化 研 究 、生 活 文 化 研 究 の 視
,t:.r:からみたモンゴル遊牧社会の様相、その変動のあ
り さ ま が 浮 か び 上 が っ て く る の で は な い で し ょ う か。
また、私たちの
連のモンゴル研究を通じて、大学
内外を含めた議論・交流が進められ、ありうべき人
間文化研究のひとつの方向がいっそう明確になって
いくことにも期待しています。
最後になりましたが、またしても発行の遅れによ
り 各 方 面 の み な さ ん に ご 迷 惑 を お か け し ま した 。 次
号 以 降 は 、 編 集 体 市J
Iの見直しを合め、定期刊行に│白l
け努力します。今後もみなさんのご理解・ご協力を
お願し、します。(I
I
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矢)
人間文化f
開問東のデザイン (
3
)
人間文化学部のゲル
人間文化学部では、一棟のゲルとその中(こ人る生活財 (
家財
編集委員・
黒田末書 ・
面矢 限介 l
甫音目安美子・大橋松千丁・棚瀬慈郎
d
道具)のワンセットを研究資料として所蔵している 。これは現
9
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6年春、ウランパートル市で購入し
地調査の実胞に先立ち、 1
たもので、ゲ J
レは昨年の調査でも訪れたフブスグ ル県の出身者
ヒ以前の伝統的生活様式を
によって製作された。
生活財は近代 f
想定して収集しである 。
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現夜までに、本学キャンパスのけ "
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jの広場、交流センター内のホワイエ (
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ロビー)などに組み立
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て、授業での活用のほか、学生や市民にむけて、期間を I
公開展示している 。
人間文化
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
発行日
3号
3号
1997年 1
1月 30日
発行滋賀県立大学人間文化学部
干522滋 賀 県 彦 根 市 八 坂田J
2500TEL07492
8
8200
制
発行人西川幸治
印
刷
サンライスぃ印刷株式会社
本詰は再生紙を使用しています。
出E
﹂H
﹂同体川
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人間文化学部のゲル
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