入居司支化 - 滋賀県立大学

県
立
大
学
人
H日U
比ド
滋 賀
文
ヒ
イ
学
自1
1
研
究
入居司支化
2001.4
nv
r
即
4..
SCHOOL OF H UM A N CULT U円 ES
THE UNIVERSITY OF SHIGA P REFECTURE
幸
H
且二
口
.もくじ・
••
• • •• • ••
ー
••
巻 頭 言/杉本悦郎…
・小特集 1 食生活の知恵と科学
・ ・
・
・
・
・
・・ ・
・2
食-冷食の知恵/藤沢史子
e
一..........6
0
消臭・抗菌からみた野草の利用/浦部貴美子ー
アポリジ二の植物利用の知恵/灘本知憲
.
.
.
.
.
.
..
.
.
.
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.
.
..
.
9
・小特集2 人間関係論の新たな展開と基本課題
.
.
.
.
1
8
人間関係としての民主主義/栗田修
セイフテ ィ
・ ネットの体系とナショナルーキャラクター/小林清- .
.
.
2
3
・論文
国際比較調査研究の体験ノート(1) /大橋松行 .
.
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..
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.
.
3
3
縄文の石皿 ・弥生の台石/羽生由喜子
・・
・
古琵琶湖層地帯の人と水/ 岡田玲子
5
0
6
1
・
・ ・
・ ー・ ー・・・
0
・書評
日本文化のかなめ
ー
ー
・ ・ー.
.
.
.
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.
.・
・
・
・
・・
・
・ ・・
・
・
・・ ・
・
・
・
0
7
7
・人間文化通信
退官メ ッセージ
.
.
.
.
.・
.・
・
.・
・
・
・
・
・
・ ・
0
e
・・・
・ ・ ・・ ・
・
・
・
・
・7
9
e
2
0
0
0
度卒論 修論一覧 ・
・
・
・
・
・
ー ・・
・・
・.
..
..
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8
2
INFORMATI
ON.
.
.
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・
・・・
・
・ ・・
・ ・・・
・
ー・・
・
・・
・
・・
・ ・・8
6
0
0
編集後記
-紫香楽宮有情・
奈良時代、紫香楽宮は聖武天皇 によ り営まれた宮都で、
この遺跡のある信楽町の名はこ刀瓦手によるものである 。
山背国相楽郡 (
今の加茂町) に恭仁宮を造営中 、天平 1
4年
(
7
4
2)
、天皇は紫香楽の地に南住吉を造る命を出し 、造営が始
まった 。 また、大仏を造る詔も/l',して紫香楽に大仏を奉る
2月には恭仁宮の造営
甲賀寺も造 り始めた 。 そして、翌年 1
を中止 し、紫香楽宮を本格的な都に昇格させることになっ
た。 しかし、紫香楽に都を置くことには反対もあったよう
で、周囲の山々ではそのデモンス トレーションとみ られる
7
年 (
7
4
5
)5月、こ
火災がたびたび起こり 、ついに 、天平 1
の宮を捨てて天皇や貴族
てしまった 。
役人たちは奈良の平城宮に帰っ
おおあ ざ さ の せ
大正時代に大字黄瀬の 小丘陵上で礎石の並ん だ多くの建
物跡が確認されたが、
こ の遺構群が紫香楽吉助、なの か甲賀寺
跡なのかを明らかにすることができず、明確な宮の跡を探る
0
年ほど続けられてき た。
調査がここ 2
2 0年秋、信楽町大字宮田]の水田のー画て、の発掘調査で、
∞
宮の中 心施設とみられる長大な建物跡が発見され 、大字宮
町に紫香楽宮の中枢音[1の置かれたことが判明し た。
秋の陽光をいっぱいに浴びながら、獣々と土を掘る人の
姿が印象的である 。広大な遺跡の真中では、調査員は小さ
く見え存在感は薄いが、こ のひたむきな努力の継続が大き
な発見につながっていく 。
写真 ・
文/林博通
口
一
一
村
杉
番 易
手
本
悦 ~ß
1
人間文化学部 学部長
今回は人間文化の第 1
0号発刊のはこびとなりました 。
本号には、 2つの小特集が組まれています。
lつは食生活関係の 「食生活の知恵と科学」 をテーマとした 「温食・冷食の知恵」、 「消臭 ・抗菌から
みた野草の利用 」および「アボリジ、
ニの権物利用の知恵」という論文を、 もう 1つは 「
人間関係」 をテ
ーマとした 「
人間関係としての民主主義Jおよび 「セイフテイネ ッ トワークの体系と社会的粋帯」 とい
う論文が掲載されています。
時の経つのは早いもので、本学も開 学以来 6年が経過し、 この人間文化も 1
0号となりました 。
の春には、学部の第 6期生が卒業し、修士課程では最初となる第 l期生が修了しました。
事
」
そして平成
1
3年度から新しく発足した博士後期課程への入学者、進学者を迎えました 。丁度 2
1世紀の最初の年に、
人間文化学部、人間文化学研究科 (
博士前期課程・博士後期課程) の組織も一応完成し、いよいよこれ
から新たな出発ということになります。
人間文化学部・人間文化学研究科においては、 人文科学、社会科学、及び自然科学の幅広い分野を対
象とした研究を、 フィールドワーク、各種の調査、先端技術を駆使した実験など、多岐にわたる手法に
よって行 っています。 この研究・学習の成果や今後の進むべき方向などについて、学内外の交流を深め
る場として、 この人間文化がますます活用されることを期待しています。
滋賀県の伝統的食品 フナズシ
人間文化・
小特集 1 食生活の知恵と科学
温食・冷食の科学
ふじ
さわ
ふみ
藤津史子
人間文化学部生活文化学科食生活コース
び、摂取後の身体温等の変化を指標として 、漢方に
-はじめに
おける分類どうりの生理効果が本当にあるのかどう
近年、生活習慣病がクローズアップされ、食生活
か調べてみた。
への │
羽心が高まりつつある 。そして、私たちのまわ
りには健康食品と呼ばれるものが数多く出回るよう
表 1 温熱性食品と平性食品と寒涼性食品
になってきた。
ところで、中国で古くから伝わる漢方医学には薬
食同源 (
医食間源) という考え方があり、食べ物に
分類
温熱性
寒i
京性
平性
はつねに薬になる成分が含まれていると考えられて
きた 。そこで、薬と食物の違いはそれらが身体に及
ぼす影響の差であるとし、両者を娘本的には区別し
芋類
山芋
じゃが芋
さつま芋
里芋
種実類
く
り
くるみ
なつめ
ぎん主主ん
ごま
魚介類
工ビ、タコ
サパ
カツオ
カキ
イ力
ウナギ
アサリ
カニ
シンミ
タニシ
肉類
鶏肉、牛肉
豚肉、鶏卵
牛乳
あひるの卵
野菜類
カボチャ
ーフ
ピーマン
キャベツ
にんじん
しいたけ
ほうれん草
キュウリ
トマト
白菜、芯す
ごぼう
果実類
桃、侮
サクランボ
リンゴ
J
C
イナップル
ぶどう
レモン
スイ力、 柿
パナナ
キ
ウィ
フ'
JI
r
ツ
ていない l、"
。 そして食物には 「
体を混めたり冷や
したりする性質がある 」 としている 。それを性と 呼
│
び、食べた時に人体がどう反応するかによって、食
物を温熱性のもの (温食)、寒涼性のもの (
冷食)、
温熱性と寒涼性の中間の平性のものに分類してい
る。 il~t熱性に分類されている食品はエピ、牛肉、鶏
肉、かぼちゃ、ニラ、ショウガ、とうがらしなどで
ある 。平性に分類されている食品は豚肉、鶏卵、牛
乳、キャベツ、にんじん、りんごなどである 。また、
寒涼性に分類されている食品はカニ 、貝類、きゅう
り、ごぼう、なす、
トマト、柿 などである(表 1)
。
この性質を 利用することによ り古くからの生活の知
恵として、また特に最近の自然食指向の中で、健康
増進のため、日常生活の中に取り入れている食品が
いくつかある 。そして、食品の持つ性質を活用し、
いろいろ組み合わせることにより薬膳料理として定
着 しつつある食品もあるJ.J)。
実際に トウガラシや激辛のカレーなど辛いものを
食べると体が熱くなって汗をかいたりすることは
我々が日常的に経験することである 。 また、 シ ョウ
ガは漢方では穏やかで刺激が弱く、身体を温める治
療薬としてよく 使用されている 。今 までに、香辛料
であるトウガラシの生理作用やショウガの薬理作用
についてはラッ トを用いた動物実験において、報告
されている ト川。
梨
しかし、 漢方医学に おける食品の分類は経験的な
ものに基づいており、それらの科学的な証明、裏付
けはほと んどない。実際に食品に身体温を変化 させ
調昧料
黒砂糖、酢
香辛料
ショ ウガ
ニンニク
コショウ
からし
とうがらし
る生理効果があるのかどうかさえも厳密には明らか
にされていない。そこで、いわゆる混食と冷食が身
体温を始めとした身体状況に与える影響をみること
にした。
今回 、温熱性の食品群の 中か らショウガとかぼち
ゃ、寒涼性の食品群の中から柿、アサリ、カニを選
2 ・人間文化
白砂糖
はちみつ
塩
しょうゆ
温食 ・冷食の科学
.実験方法
のではなく、足首のような身体末梢部では必ずしも
被験者は実験に同語、を得た、 1 8~20歳の健康な女
温める効果を期待できるものではなかった。しかし、
子学生 (
体重 5
0
.
3:
t5
.
5kg
) 1 2~ 1
4名を対象とした 。
身体を混める作用が表れる時 間は摂取直後からみら
摂取物は総て凍結乾燥したものを用い、対!!夜食はサ
れ、その後、比較的長時間持続した効果が期待でき
ンプルと同重量の塘質、タンパク質、脂質を含む材
ると考える 。
料で構成し、クッキ
状に焼成後摂取させた。摂取
2
0
k
c
a
l/60kgwei
ght
に相当する量とした。
量ー
は1
カボチャの温冷効果
ショウガは 1
4
3gのショウガ水 (ショウガ 0
.
5
gを
浄水 1
4
3gに懸濁した) とし、対照食として浄水 1
4
3
カボチャは体を温める一
毘の変化を見ると、摂取後、 3
0分まではカボ
体表j
gを摂取させた 。 i
J
!
i
J
定指標は体表温度(額、首、手
チャは対照食に比較し、どの部位においても、身体
首、足首)、鼓)J莫温度、足の甲の r
(
l
l流量、 血圧とし
温 をやや温める結果が観察さ れ るだけであ った。
I
英j
昆
、 血流量は 3分毎、瓜l
圧は 1
0分
た。体表温、鼓1
しかし、その後すべての部位で体表温を高く維持
毎に i
J
!
i
J
定した。 i
l
!
J
定開始 1
5
分後にサンプルを摂取さ
C
i
鼠度下降を抑制 )する傾向が観察され、実験終了
せ、その後約 1I
時間に渡って 測定し、対照食と比較
時まで持続した (
図 2。
) この ように、カボチャは
した。サンプル摂取前 4回の測定値の平均を基準と
摂取後すぐには体表温を高く維持する効果は期待で
し、摂取後の変化を観察した。対照食と比較して摂
昆める作用はゆっくりと表れ、その
きないが、体を j
取後の身体温等における温冷効果をみた。
効果は長時間持続する ことが確認できた。
さらに、柿は指先を冷却 した時の温度の回復状態
を見るため、冷却負荷試験 として、第 2指を氷水に
2
0
分間つけ、引き上げてか ら1
0分後までの j
R度回復
を比較した。
0.3
一・ーかぼちゃ
0.2
温度差
ショウガの温冷効果
ー ショウガは体を温める
額の体表 i
lill.をみると水と 比較して 、摂取後は上昇
寸3
一対照食
0.
1
(
'
C)
ー0
.
1
した (
図 1。
) しかし 、足首では逆に下降傾向が観
察された。 また他の部位では上昇する傾向が見られ
た。一般的にショウガを 摂取すると 、身イ
本が温まる
0.2
0.
3
ことを実感する現象は全身 に現れると思われている
が、今回観察された 体表温の変化に よるとショウガ
の摂取が体表渦を上昇さ せ る効果は全身に見られる
12
18
24
30
38
42
48
54
時間(分)
図2 かぼちゃ 、対照食摂取後の額の温度変化
度取前 4回の測定値の平均値を基準とした摂取後の体表温の経時変化
0.
2
0.
1
温
度
差
柿の温冷効果
o
柿は体を冷やす一
多くの部位において対照食 と比較して、体表温を
:
'
C
)0.
1
低 く維持(温度上昇を 抑制あ るいは低下を促進する )
0.2 ~
ム
→
・
ー ショウガ
する結果が摂取直後から観察 された (
図 3)
。末梢
ィ
ユ
ー
血流量や血圧の測定結果で は末梢血流量は減少傾向
0.
3
12
18
24
30
38
水
‘
48
54
時間(分)
図 1 ショウガ、水摂取後の額の温度変化
を示し、血圧は上昇傾向を示し た。冷却負荷試験の
結果をみると、柿を摂取し た後は指先の温度の回復
が遅れる傾向があることが明らかになった (
図 4)。
摂取前 4回の測定値の平均値を基準とした摂取後の体表湿の経時変化
人間文化・
3
温食 ・;令食の科学
0
.
4
力二の温冷効果
0
.
2
E
一 力二は体を冷やすー
多くの部位 において対照食と比較して、体表温を
-02
差
・
f
f
lく維持 (温度上昇を抑制あるいは低下を促進する )
0
(
'
C
) .
0
.
8
する結果が摂取直後から観察された (
図 6)
。
0.
8
なお、体表 j
毘を低 く維持する傾向は摂取後比較的
1
.0
早 い時間帯により強 く表れることが分かった 。
1
.2
1
..
12
18
24
30
38
42
48
0.6
5~‘
時間(分}
0.5
‘
図3 柿、対照食慎取後の額の温度変化
0
.
'
摂取前 4回の測定値の平均値を基準とした摂取後の体表湿の経時変化
温
0.3
度
差
0.2
40
(
'
C
)0
.
1
30
ー・ーカニ
0
.
1
指
温
度
ー口一対照食
0
.
2
20
12
(
'
C
)
18
24
30
38
42
48
‘
時間(分)
図6 力二、対照食侵取後の首温度変化
10
捜取前 4回の測定値の平均値を基準とした摂取後の体表湿の経時変化
o
o
10
20
30
時間(分}
図4 冷却負荷後の指温度変化
氷水に 20
分間浸けた後、 10
分間指温度を経時的に測定
表2 食品摂取後の体表温の変化
(対照食との比較)
アサリの温冷効果
アサリは体を冷やす一
イ本表JRLの変化は額以外の I~:I) 位で、アサリは対照食
に比し低 く維持する傾向が観察された。 中でも首は
摂取直後からドげる結果が観察され、長 H
寺H
U持続し
。
ていた (
図 5)
0.
4
0.3
温
度
差
0.2
0.
1
(
'
C
)
0
.
1
一.ーアサリ
-D一対照食
-0.2
12
18
‘30
2
'
36
42
48
54
協
同 有 に
.
体動向
時間(分)
図5 アサリ、対照食摂取後の首温度変化
摂取前 4回の測定値の平均値を基準とした摂取後の体表温の経時変化
4 ・人間文化
固
口
体制有に
体制低下
混食・冷食の科学
-おわりに
温熱性の食品群、寒涼性の食品群の中から数種を
選び、身体温を中心として、摂取後の変化を観察し
-参考文献
1)新居裕久、{児 l
晩、中山祐子:薬膳で治す、 i
時事
通信社 (
1990)
てきた。今回 i
J
!
l
J
定指標としたことから見ると温熱性
2)山崎郁子:中 医栄養学、第一出版(1995)
食品と寒涼性食品では摂取後の体表温度の変化は明
3)丹波康頼、粟 島行春
らかに違いが認められた。温熱性食品は体表温を高
く維持し、寒涼性の食品は体表温を低 く維持するこ
とが観察された 。今回実験した食品で見る限りは、
漢方で古くから 言われている食品の性による分類通
りに身体を温めるあるいは冷やす作用は存在するこ
とが実証できた。 しかし、摂取後の体表温の変化は
どの食品も同じではなく、現れる音S
[
位、│時間や強度
医心方、東洋 医学薬学
研究会 (
1997)
4)忽思慧著、金世 琳 訳 : 薬 膳 の 原 典 飲 勝正要、
八坂書房(1993)
5)岡村みどり 薬 膳 で 健 康 に な る 、 新 星 出版
(
1991
)
6)岩井和 夫、中谷延二 :香辛料成分の食品機能、
光生館 (
1989)
には違いがみられ、どの食品も全く同じ作用を表す
7) Mamoru.S
.
.A
t
u
s
h
i
.I
.Kazunori,Y
.
.Kazuhiko.
ものではない ことが分った(表 2)。今後、漢方の
S.
.Masaki,A.and E
i
k
i
t
i
.H.
]
.Pharm.
D
y
n
.
.7
.
考え方も取り入れ、食生活を豊かにしていきたいも
のである 。
836-848 (
1984)
8) 油田正樹-生萎 ・乾萎の薬、現代東洋医学、 8、
4
5
4
9 (987)
9)末川守、湯浅和典、油田正樹
日薬理誌、 88、
263-269 (
1986)
10) 末川守、湯浅和典 、油田正樹.日薬理誌、88、
339
・3
47 (
1986)
人間文化 ・
5
小特集 1 食生活の知恵と科学
消臭・抗菌からみた
野草の利用
春の訪れとともに蕗の輩が顔をのぞかせ、道端や
べ
きみこ
浦部貴美子
人間文化学部 生活文化学科 食生活コース
いる7)例。
炎青色のオオイヌノフグリの花が満開とな
野には、 i
そ こで私たちは、身のまわりで自然に生えている
る。 1民っていた植物が一斉に動き出す。やがて木々
植物を対象として、消臭、抗菌作用の探査研究を行
は緑の芽をふき、新緑の頃となる 。秋の彼岸頃にな
うこととした。 開発が進み、自然、が次第に失われつ
ると、いつのまにか回の岐には真っ赤な長珠沙華
つあるとは 言 え、私たちの身近には、まだまだ植物
(ヒガンバナ)が咲き乱れる 。毎年繰り返されるこ
がたくましい生命力をもって生育し続けている 。一
のような植物の変化が、人々に季節の到来、移り変
般的には、本来生えて欲しくないところに生えた植
わりをいち早く感じさせているようだ。わが国では、
物は「維草」として扱われているが、雑草と野草と
正月 7日には春の七草を食べる、 3J3日は桃の節
の聞の生態的な境界ははっきりしない州ことから、
5月 5円の端午の節供には宮古i
fというように、
作用柄物ではない、身近に自然に生えている植物若手
供
、
府の行事にも植物とのかかわりがみられ、古くから
を、すべて 「
野草」として取り扱うこととした。
生活と植物との i
来い結びつきがあったことをうかが
い知│ることができる 。
人は、白然界の中で植物と密 J
まにかかわり合い、
身近な植物を食べ物、菜、衣服材料などとして生活
の1/'
に巧みに利用する方法をみいだし、
i
Eかな生活
文化を築いてきたのである 。植物による消臭・抗菌
も、そのようにしてみいだされてきたもののひとつ
であろう 。 ,
T
lくは狩猟の時代から、獲物の肉を保存
するために、香りの強い植物の葉で包んだり、ある
1
技生物の存 {
fがまだ明
部のスパイスを使っていた。)
らかにされていなかったにもかかわらず、肉の腐敗
を遅らせ、さらに臭気を消して、肉をおいしく食べ
やすくすることを経験的にま1っていたと思われる 。
身近な野草
** ** **
消臭力 i
W
J定のために対象とした悪臭物質メチルメ
またわが国で、は、刺身に芽じそ、業じそ、タデなど
ルカプタン (
メタンチオールともいう ) は、アンモ
を添え、ワサビをつけて食べる 。小魚を煮る l
時には
ニア(トイレの臭い)、硫化水素(腐った卵の臭い)、
茶の煎じ汁を使ったり、しょうが、 L
L
I
械などを入れ
トリメチルアミン(腐った魚の臭い)とともに 4大
る 。 餅や飯を植物の葉でくるむ(桜餅、 fl~Ø~ 、笹だ
悪臭と H
予ばれる 11)。腐ったタマネギの臭 νや口臭の
んご、柿の葉ずしなど)。乾燥させた茶殻やドクダ
主要成分間のひとつであり、最近の植物抽 出物を対
ミを脱臭剤!
として使う 。緑茶で口をすすぐ。等々 …
象とした消臭力の研究において 、 よく用いられる臭
…。先人が、限られた食糧を確保するために 、身体
い物質である 。消臭力を評価する方法は、消臭力を
に変調をきたさないために、おいしく食べるために
定量的に比較できる機器分析法とした 。 すなわち、
という思いでみいだしてきたことが、 「
生活の知恵」
lg) を
悪臭物質(本実験ではメチルメルカプタン μ
として脈々と今に伝えられてきたのである 。
含む液に植物抽出物(本実験では 5mg
) を添加する
近年、人々の健康への関心が高まり、安全性を重
ことによって、残っている悪臭物質量を機様(ガス
視する傾向がみられ、また環境への負荷を軽減した
クロマトグラフ)により測定する方法である 。抽出
いという観点からも、消臭剤、抗菌剤l
にも天然物が
物無添加 のメチルメルカブタン量を 1
0
0として、抽
好まれ、さまざまな植物抽出物に関心が寄せられて
出物添加 によって減少せしめたメチルメルカブタン
いる 。かつては消臭や保存のための経験的な利用に
量を消臭カとして表した。例えば、減少したメチル
とどまってい た植物について、科学的な実証と解明
メルカブタン量が 1
0
0である時 、 この抽 出物 の消臭
が行われている 11 的。茶による消臭のメカニズムが
力は 1
00である 。
解明されへワサビに含まれる抗菌物質も明かにな
次に 、抗菌力測定は寒天平板培養法によった。一
っている九 一方
、 このように古くから 利用されて
定量の植物拙出物を寒天培地に加 え(本実験では添
きた伝統的な植物を対象とした研究とともに、あら
加濃度 1%)、前もって培養した菌液を塗布し、 一
たに有効な植物 を見いだそうとする研究も行われて
定時間培養後に菌が生育しているかどうかを調べる
6 ・人間文化
消臭 ・抗菌かうみた野草の利用
方法である 。本実験で使用 した菌は、動物の l
腸内や
モデル植物として利用されている 。 “邪魔だから切
1
1
1
に広く分布している腐敗細菌のひと
土壌、水、食 1
捨てる.というのではなく、先人の知恵に学び、 生
つ
、 P
r
o
t
e
u
sm
i
r
a
b
i
l
i
sである 。 ブタ小!協を保存する
かす方 l
u
J
を採ることも必要ではないかと考える 。
と、残存していたこの菌の増殖によってメチルメル
私たちは、あらたな町'草の利 用 として、野 t
Eのも
カブタンが産生される日}ことから、この歯の生育を
っている消失性、抗菌性に着目し、これまで、に行っ
抑制することが、間接的にメチルメルカブタンを?i'i
てきた探査研究から、多くの有効な植物をみいだす
ことができた 。 それらの多くは、古くから楽
臭する ことにもなる 。
1
9
9
91
1
ニから 2
000年にかけて滋賀県立大学 !
t
;
J
辺や犬
mや食
用として使われてきたという経験に支えられ、比 較
2
種類の!L'j'草を採集した 。 なじみのある
上川沿いで4
的安全性 の l古
川 、ものとして 利用することができ るの
もの、名 l
i
jすら知らないもの、可憐な花を咲かせて
ではないかと考えている 。
いるものなどさまざまであった 。 これらの野市 のう
ち
、 2
2穐類の野草が薬用植物としての効能をもち"、
、1
8
稀頒の野草が食べられる野中ーとして記放され
15¥
ているI!
i m。汗段はよ止過ごしているけれど、身近に
-参考文献
1):
1
1江倣J-'佐 l
悠l
辰江・古松藤子・米政誌 3
1
.8
8
(988)
'
1
'
[の '1'に、生 3
5・食物として利 I
I
Jされ
生えている野 1
2)グ‘ュエン .ヴ ァン .チュエン・合間忠 9
J.
J
i
I
I
I
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ている、あるいはかつて 利用されて いたものが立外
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.1
1
.69
(
19
83)
と多くあることに驚かされた 。
3)常 1
1文必
表に示した;れi
刊
':
う高い j打汗消
口
ì''í!立i足只央込~リ,)力]を示した世的野
J'草 lはま、 キク干1
・6f
'
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i知、
シソ
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j
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・イi
川I
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と. ?l~i~耕司・輿水 IE .IM
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J
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5
8
.
5
8
5(
19
84)
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r:
1
1
食
種 類 で あ っ た 。 一 方、抗菌力の結果をみると、 P
4)一色町 ,
i
J・J
I
!
.
j
,
!
引を ・肝坂宣嘉 ・徳 .
I
.
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」
五
二 40.
525 (
19
9
3
)
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b
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sの中 1
4
7を 抑 制 し て い た 野 市 は 、 キ ク 科 3
5)H
.Yasudaand T
.Arakawa:B
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種類、タデ科3f-亘頼、
B
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9.
1
232 (
19
9
5
)
:
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i肉臭 (太 川 静 行 制 )• .~i. )I~.
千t
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亨:
1
.1品
1
.240 (
19
8
1)
7) N.K
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.Fujimoto.1
.Nakajima and K
Shibuya:]
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y
c
o
l
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g
y
.2.155 (
19
9
0
)
科
、
トウダイグサ科、パラ科それぞれ l拘館、計 9
トウダイグサ科、マメ科それ
ぞれ 1
種類であ った。 キク科、シソ科に属する野草
J
:
t
1
省))を示
に高い消臭性やがl:l有性がみられたこと、:J:
した野草の iì~ 央力も 1匂いということは興味深し、 。 こ
れら野草の中で、カワラヨモギの抗菌性については
r
6) ,
け
公l
族
r:
すでに報告されヘ天然L
U来抗菌剤J I
カワラヨモギ
8)安凹英之 ・1
三井美樹:炭化 6
6.1
4
7
5(
19
9
2
)
抽 出 物 」 として、すでに食 品 に利用されている 1
.Negishi:FoodSc
i
. Techno
.
l
9) O.
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ヘ
しかし、他の野草のメチルメルカブタンに対する i
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Res
.5.176 (
19
99)
臭作用や P
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irab
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l
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sの生育に対する抑制作用に│刻
1
0)松 中 H
i
'
4一
する報告は、今のところみあたらない 。
2
3(
19
9
9
)
株 新 し い 消 臭 ・脱臭剤!と技
1
1) アイシーエス (
** ** * *
現在では、身近に自然に生えている野立を利用す
ることも少なくなった 。農業を営んでいる人たちゃ、
雑草のない快適な居住空間を望んでいる人たちにと
っては、野草は疎 まれる存在でしかない 。
一方で、繁嫡力の強いセイヨウタンポポは、牧草
地や芝生では困 っ た雑草であるが、生事~や食糧とし
て有効に利用されている 。 ヒガンバナの根は有毒て、
きらわれものの草の話.岩波苫府 9
術の展望*レリサーチセンター.
4
7(
19
94)
1
2)海津健樹 :1-1本歯周病学 会 誌 .
1
8.
1(
1
9
7
6)
1
3) )
11村 正 純 ・灘本知憲 ・浦部貴 美子・林賢 一 ・安
本 教 W:栄 食 誌 .
5
0.
1
6
9(
19
97)
1
4)木島正夫 ・柴 問 承二 ・下村孟 ・東 丈夫:薬用槌
物大事典.肢 川書応(19
9
1
)
1
5) 木 村 康 一 ・木村孟淳:原色日本薬川植物図鑑,
保育社(19
9
1)
あるが、田畑を荒すネズミの害を防ぐために植えら
1
6) 山田卓三院 修 :野草大百科.北隆館(1992)
れ、また非常の際には豊富なデンプンを食用とする
1
7)星 川 清 親 ・食べられる山野草.主 婦 と 生 活 社
「
救 荒 植 物 j だったという川 。 シロイヌナスナ (
通
89)
(
19
1
8)宮尾茂雄
称“ペンペングサ") は、遺伝研究において重要な
食品工業 .
1
0月30日 号 35 (
1
9
9
8)
人間文化 ・ 7
消臭・抗菌からみた野草の利用
野草メタノール抽出物の消臭力と抗菌力
植物名(学名)
科
消臭力
抗菌力
*
*
ク
キ
*
タ
ア
マ
メ
ン
ソ
ヒガンバナ
ヤマゴボウ
ア
ヤ
イ
ア
メ
不
カ
不
アカパナ
セ
ツユクサ
トウダイグサ
フ
ド
ウ
ノt
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8 ・人間文化
利用
薬用
+
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薬用、食用
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薬用、食用
+
カワラヨモギ (
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楽用、食用
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食用
アキノノゲシ (
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アレチノギ、ク (
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薬用、食用
セイヨウタンポポ (
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薬用、食用
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楽用、食用
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3
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薬用、食用
ギシギシ (
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ムラサキツメクサ (
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)
5
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2
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コメツブウマゴヤシ (
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+
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ヒメノハギ (
薬用、食用
カキドオシ (
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薬用、食用
ヒガンバナ (
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1
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食用
メマツヨイグサ (
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5
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薬用、食用
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薬用、食用
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2
2
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薬用
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2
2
(
+; 抗 菌 力 有 り 抗 菌 力 無 し * , 測 定 せ ず)
タカサブロウ
*
小特集 1 食生活の知恵と科学
灘本知
的 宮中山
アボリジニの医食に
関した植物利用
人間文化学部生活文化学科
中心の記述になったとも思える。アボリジニの伝統
-はじめに
的植物利用法について解説した資料は多くあ った
暮らしの知恵や言い伝えから、食生活分野に有用
が、ここではその構成が共通しており、整理しやす
と考えられる素材を見いだし、科学的裏付けを加え
いと思われる 8つの資料を選んだ。 これ らはオ ース
て、有効利用を図る 。扱う素材が日常生活に端を発
トラリア北部 (
NorthernT
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r
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o
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y) を中心とした
時点で、
しているだけに、科学 的根拠が証明された i
次の 8グループのアボリジニの植物利用に関する資
“そう 言 えば"ということになるのだが。 このテー
料集である 。
マに則して、筆者らが行っている調査 ・研究の一部
1
)G
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ifromDagu
ragu 2
)Mangarrayifrom
を紹介した。
少し話は飛ぶが、ここでは臼本以外の食を巡る生
活の知恵の一例として、オーストラリアの先住民で
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あるアボリジニの植物利用を紹介する 。 ヨーロ ッパ
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などでの食素材の有効利用法とその科学は、香辛料
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a 6) R
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and 7) Al
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i 8
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やハ ーブ類を例に挙げるまでもなく、
卜分な進展を
とげている 。一方、アメリカインデイアンやイヌイ
ット、アボリジニな どのいわゆる先住民の生活の知
恵の中には、まだ十分に科学の目を通していないも
のも多く、有用資源、が埋もれている可能性がある 。
筆者は 1
9
9
9年 1月から 3月にかけての 3ヶ月間、
、山内.
;、
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JDONESIA ~'
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のブリスベン研究所に研修できる機会を得た 。
、
、
CSIRO は全オーストラ リアに 多数の研究機関を持
P
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A
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a を組織しており、豊富なデータベ ースを
利用することができた。制約された時間の中で、将
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、よ
、
曲、
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、
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オーストラリアの CSIRO(Au
つ組織で、現在 AF
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SCと共同して、 FoosS
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〆
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OC'D(Jn
、事
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Tas!
1
1e
Jn
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来トライしでもよさそうな植物リストを作成するこ
とを課題とした。 ここで紹介するのはその一部であ
るが、今回の部分調査でも 、アボ リジニの利用して
北部地域の気候は、北端の海岸部分から 114の
きた植物のなかには、科学的文献に全く登場しない
地域が熱帯モンスーン気候、内陸にかけて 114の
ものも含まれていることが分かった。
地域がサパナ気候、残りの南半分は砂漠地帯である 。
-オーストラリアでの植物の利用用途
有用植物の分類
さて、植物の利用用途といっても範囲は広い 。
A.B.
and]
.
W
.
C
r
i
b
b はオーストラリアでの植物の利
今回の整理では、多岐にわたる利用用途の中から
筆者らの研究テーマに則して、医食 (
薬食)に関連
用用途を、1)油、 2)なめし、 3)染料、 4)ゃ
したものを拾い上げた。その中でも、日常的に口に
に、樹脂、
すること (
つまり経験的に安全、あるいは作用が強
5)魚毒、 6)木材、
7)蜂蜜、花粉、
8) 放牧、 9)繊維、縄、篠、 1
0
) 装飾品、1l)そ
くないもの) を優先し、次の 3つのグレ ー ドに分類
の他(カヌ ー、船、火おこし、 ろうそく、釣り針、
して整理した。 Grade1(
deodorant,f
l
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u
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i
n
go
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石けん、 i
洗剤、モップ、でんぷん、砂糖、タバコパ
d
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r gener
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li
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s)、 Grad巴 2
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p
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ci
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l
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s)
、Grade3
グパイプ、寒天、その他)に分類して説明している 。
特徴として、草より木や潅木の利用が多いこと、道
(
rubbingo
rb
a
t
hr
i
n
s
e
)
その結果、のべで、 Grade1約 3
0種
、 Grade2約 6
0
具としての利用が主であること、が挙げられる 。道
種
、 Grade3約 1
5
0
種となった。以下 Grade1と 2に
笹木
具としての利用用途に重点があるために、木や i
ついてのみ述べる 。
ここには通常の食用としての利用は含まれないが、
人間文化・ 9
アボリ ジ二の植物利用の知恵
医食に利用される植物
Grade1 (
Table1)はのべ 3
1種の組物が該当し
│
時の利用に限定されていた 。 この小特集で一部を紹
介した、漢方を含めた日本での伝承的利用法の豊富
たが、用途は限られていて、風変わりな利用法はな
さとは、比較にならなかった。食生活のスタイルそ
かった 。風味付け、消臭目的と思われる利用法は、
のものの違いに 加えて、今回用いた 資料での調査内
肉や魚を地面で、蒸し焼きするときに、それらを包ん
容にも原因はある 。通常の食物とされた植物では、
だり、下に敷くことに限定されていた。3
1種の植物
その使われ方の詳細 1までは記載されていなかったか
のうち、半分の 1
5
種がそれにあたる 。滋養強壮や万
らである 。 しかしながら、肉や魚の調理時に使用さ
4
種の植物に見られた。それ
能薬的な使われ方が、 1
れる植物に限っては比較的豊富であり、科学的裏付
ら以外の 6極の植物はハーブ茶や I
鳴好品として利用
けも殆どないことから、有用成分探査の対象となる
されていた 。 この地域のアポリジ、ニの以前の食生活
であろう(筆者の準備ははかどっていないが)。
がうかがえるようで興味深い。 また、共通して使わ
漢方以来の言い伝えをヒントに、食品の新たな生
れ て い る も の が 少 な い の も 特 徴 で あ っ た。
理機能を掘り起こすこと、身近な植物の消臭・抗菌
Eucalyptus、Melaleucaが肉類の蒸し焼き時の香り
素材としての有効利用法を見いだすこと 。思えば、
付けとして、 Ocimumがハーブ茶としていくつかの
筆者らが人間文化学部の食生活領域で活動できるの
地域で共通に利用されている程度である 。
は幸いで、あった 。今後も このメリ ットを最大限活か
Eucalyptus
、Melaleucaの代表種の写真を示したが、
しながら、生活の知恵にこだわっていきたし、。
両者とも Myrtaceae
科の樹木で主に葉を利用する 。
Eucalyptusには万能薬的作川もあるらしい。特に
.
Jけ粒物に関しては、特有成分など科学
消臭・香り 1
的裏付けは進んで、
いない。
Grade2 (
Table2)ののべ 6
1種のうち多か った
1
菜、鎮痛薬 (
のど、 1
省
、
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円、頭の痛み ) であった 。 風邪薬は、飲み~に燃や
何発成分の吸引も含めると、のべ 2
9種に及んだ。下
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痢止めは飲みう:
吐き気
各 7稜存イ王した 。その他では、胃薬、赤痢、 I
の薬が各 3種、皮膚病薬が 2極 (
Grade3では塗り
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1
'を丈夫にするもの、
薬が多数登場するが)、あとは','
解熱剤、水痘、心臓、性病の袋、腔内殺菌剤が各 1
種ずつであった。彼らの生前の中でもまた、私たち
と同様、風邪や下痢に悩まされていたらしし N
Grade1とは対照的に、有効成分の検索・決定はか
なりの植物で進んでいる 。
Me/a/euca/eucadendra
-おわりに
本調査は、アボリジニの伝統的食生活の知恵から、
有用植物の検索、さらに成分決定まで至るための、
予備調査であ った。 ピ y クア ップした例々の植物の
利用内容の詳細1は、あえて筆者の主観によるf1}繋理
を行っていない。記載した=つの表を資料集として
も使えるようにという思いからである 。
調査対象資料全体を概観すると、記載植物の約 3
割ずつが、それぞれ通常の食物、医薬品、道具類と
して利用されていた。何らかの生理活性を想像させ
る食部分での利用法は存外少なく、肉類や魚の調理
1
0 ・人間文化
Euca/yptuscama/du/ensis
アボリジ二の植物利用の知恵
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小特集 2 人間関係論の新たな展開と基本課題
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人間関係としての民主主義
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政治の形態は、いくつかに分類することができる 。
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2)の思想、と
とし、その質的な考慮を無視するならば、 ① ただ一
くに教育思想において、民主主義の概念はきわめて
人による多数の支配である君主 j
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)、
大切なキーコンセプトである 。彼の教育論は 主著
② 少数による多数の支配である募頭制 (
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民主主義と教育 j (
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6)において体系 的に詳述さ
または貴族制、 ③ 多数による少数の支配である民主
れているのであるが、その序文で彼は該喜一の意図を
市I
J(
democracy) または共和制、そしてさらに考え
次のよう述べている 。
うるものとしては④一切の政治的支配を認めない無
「
本書において、私は民主主義社会に含意される
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諸理念 (
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政府主義 (
多数による少数の支配の形態とされる民主主義
という営みの諸問題に適用しようと努力した。私の
は、古代ギリシャのプラトン以来、 (
嫌われもの 〉
論議は、この観点から見た公教育の建設的な目標や
であった。それは都市国家アテネを滅亡に導いた悪
方法の指摘を合む。また、過去の [
非民主主義的な ]
しき政治形態であったから 。そのことはスパルタと
社会状況のなかで定式化され、今なお有名無実の民
の戦い、ペロポネソス戦争 (
4
3
1
4
0
4
B
.C
.)によ って
主主義社会において、民主主義的理想の正しい実現
見事に説明されていた。 プラトンは著書『国家 jの
を妨害するのに力を貸している認識論と道徳発達論
なかで、歯車しりしてその衆愚性を糾弾した。彼は人
を批判する 。一読すれば明らかなように、ここに述
間の能力には頭 (
知性) と胸(勇気) と腰(欲望)
べた哲学は、民主主義の成長を、科学における実験
に宿る 3種類の能力があるとし、いかにして玉石混
的方法の発展、生物学における進化論の発展、そし
I
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:
の 素質にすぐれた
交の多数の人々のなかから主 I
て産業再編の発展に結びつける 。そして、これらの
人々を選びだし、イデア論を身につけさせて、哲人
諸発展によ って示される教育内容及び方法上の諸変
王 を育て上げるかを熱心に論じた。彼はすくれた少
革がどうあるべきかを指摘しようとする 。J 民主
数による多数の支配、すなわち哲人政治を実現しよ
主義と教育 J
)
うとしたのであった。
a
デFューイ の教育論はまず民主主義社会 に合意され
民主主義という訴に対する嫌悪の気分はその後長
る諸理念明らかにすることから始まる 。すなわち現
く続いた。近代民主主義の生みの親とされるルソー
実の民主主義社会を考察し、その特質ないしは諸理
(
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2
7
8)でさえも、彼の
念を明らかにする 。そして次に、その諸理念を教育
17
6
2)のなかで、 「民主制という 言
『
社会契約論 J(
の営みに適用することによ って、教育を改革し、こ
葉の意味を厳密に解釈するならば、 真の民主制はこ
の新しい教育によって現実の民主主義社会をよりい
れまで存在しなかったし、これからも決して存在し
っそう民主主義的な社会に成長させる 。その際、科
ないだろう 。多数者が統治して少数者が統治される
学の実験的方法、生物学の進化論的発想、 産業社会
ということは自然の秩序に反する 。 ・・・・民主制
の現実的展開を常にこの企てのガイドラインとす
もしくは人民政治ほど、内乱 ・内紛の起こりやすい
る。彼の教育論はこのように 一貫して民主主義に関
政治はないということをつけ加えておこう」、と民
わろうとする 。すなわち民主主義社会の現実からス
主主 義に対する嫌悪の念をあからさまに述べる 。
タートし、民主主義社会のさらなる民主化、すなわ
(
なおルソーはこうした発言をするさい、直接民主
ち民主主義の成長を企図する 。
制だけを念頭においていて論じていた。
)
民主主義の諾がアメリカ公文書に最初に現れたの
民主主義とは何か
では、民主主義と は何か。民主主義という 言葉は
9
1
7年のこととされている 。
は、す、っと遅く、なんと 1
すなわちその出現は、第一次世界大戦への参戦に 当
多義ではあるが、もともとは (
democracy)の訳語
たって、ウィルソン大統領が参戦要請の教書のなか
demos) (=t
h
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であり、その語源はギリシャ諾の (
で、この戦争を く
民主主義のための戦い〉 と規定し
people) と (kratos) (= rule) か ら な る
(
democrat
i
a)である 。それは 「人民の支配」 とい
aform o
f
う、統治・支配・権力・政治のー形態 (
Government) を意味する 。
たときに始まる 。 それは、顧みれば、デューイが
1
8 ・人間文化
『
民主主義と教育 Jを著した次の年のことである 。
それほどに、民主主義の語は(衆!~{による支配〉 と
してプラトン以来警戒され、厭われ、避け続けられ
人間関係としての民主主義
0
0とすると、 1
0
0人以上の個人が団結して
力を仮に 1
てきたのである 。
今日、 (
民主主義) といえば、どのような時、ど
この大洪水に立ち向かわない 限り、 すべての人聞は
のような場所でも、己の主張を正当化することので
死に絶える 。「人類は、もしも生存の仕方を変えな
(
r
きる (
黄門さまのご印龍〉 にな っている 。「 この紋
ければ、亡びるであろう J 社会契約論 j
) とルソ
所が日に入らぬか!Jと一喝すれば、誰もが無理に
ーは言 う。
でも納得するほど権威を 備えた 言葉になっている 。
しかし、そのように民主主義がみそぎを受けて世に
1
0
0人以上の人々が団結してその力を 1
0
0以上にす
ること自体は容易なことのように思われる 。しかし、
出てきたことの背後には、建国以来のアメリカにお
それと同時に各個人の、人間としての必要不可欠な
830年代以降において、エマスンを初
いて、とくに 1
条件である自由と平等が保証されていなければ、な
めとする多くのすぐれた思想家が民主主義を国民的
るほど人々は生き残ったとし ても、人間 として生き
理念とするための地道な 地固 め作:
業を、根気よく続
残ったことにはならない。団結することは、誰かが
けてきたのである 。
命令し、誰もがその命令に従い、全員が一致した行
f
独立宣言草案Iのなか
動をと ることを要求する 。 したが って、 1
0
0以上の
で
、 「
すべての人間は平等に創造されている Jと宣
)
Jを生み出しながら、なおかつ各個人の I
1由 ・平等
ジェファソンは 1
7
7
6年に
言 し、各個人に生命 ・白f
l
.幸稲追求の権利 を保証
を保証するということは、確かに難問である 。ルソ
すべきことを主張した。これを皮切りに、エマスン、
ーはこの問題を次のような 言葉で表現する 。
r
(市民の反抗.
11
8
4
9
"下)、リンカーン
r
(ゲテイスバーグの演説 J1863年)、ホイットマン
r
(
民主主義への展望 J1
87
1年)といった人達がアメ
そしてソロー
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてを
あげて守り保護するような、結合のー形式を見出す
こと。そうしてそれによ って各人が、すべての人々
リカ民主主義の理念化に努め、かつてピューリタニ
と結びつきながら、しかも 1
:
'
1
分 自身にしか服従せず、
ズムが果たしたアメリカの(社会原理〉に代わる新
以前と同じように白iJ
lであること 」 と。そしてルソ
しい社会原理、すなわち民主主義の理念を模索し、
ーはこ の難問に次のような 内容をもっ社会契約がり
作り上げていったのである 。
っぱに解決を与えると言う 。すなわち、 「各構成員
作り物としての社会
て、全 l
耐的に譲 i
度すること 。」
なぜなら、その場合、 「
各人は向己をすべての人
をそのすべての権利とともに、共同体の全体に対し
しかし、テ、ユーイにとって民主主 義は 〈
政治のー
a
形態〉 ではない 。 それは (人間関係の ー形態 ) (
に与えて、しかも 誰にも自己を与えない。 そして、
formo
fhumanr
e
l
a
t
i
o
n
s
h
i
p
s)である 。 このことの
立l
床を明らかにするために、まず彼の社会観がどの
な、いかなる構成員も存住しないのだから、人は失
自分が譲り渡すのと同じ権利を受け取らないよう
うすべてのものと同じ価値のものを 手に入 れ、また
ようなものであるかを説明することから始めよう 。
テeユーイは、ルソーの契約に基づく社会というも
所有しているものを保存するためのより多くの力を
のは、きわめて不自然な作り物の社会で、あるとする 。
手に入れる 」 ことができるからである 。
すなわち、ルソーは 『
社会契約論 j において、人類
は次のような経過をへて、自然状態から社会状態に
かくして人類は、社会契約を結ぶ ことによって、
1
00以上の )
Jを手に入れ、洪水の猛威に打ち勝ち、
入ったとする 。
人間はもともと自然状態においては、周りの人間
生き残り、なおかつ各人の自 由・ 平等を確保する こ
とができたのである 。 このとき人類は初めて自然状
1
=)
とは何らの係わりあいをもたず、したがって く自1
態から社会状態に移行したのである 。そして、ルソ
であり、 〈
平等)であった 。 向l
封・平等はルソーに
ーはこの人類が新しく創り出した 〈
社会状態) を次
とっては人聞が人間である ための、決して犯されて
のように賛美する 。
はならない必須条件である 。 自然人は誰からの支配
「白然状態から社会状態への、 この推移は 、人 間
も受けず、誰と比較されることもなく、日々この孤
のうちにきわめて注目すべき変化を もたらす。人間
独で幸せな人間生活を享受していた。 ところが、あ
るとき人聞がこの自然状態において生存することを
の行為において、本能を正義によっておきかえ、こ
れまで欠けていたところの道徳性を、その行動に与
妨げる障害が生じた、と ルソーは想定する 。例えば、
えるのである 。その時になっ てはじめて 、義務の声
、 この大洪水の
大洪水である 。各個人の力を 1とし
が肉体の衝動と交代し、権利が欲望と交代して、人
人間文化・ 19
人間関係としての民主主義
間は、その時までは自分のことだけ考えていたもの
ルソーの意図はこうであろう 。特殊意志は各個人
だが、それまでと違った原理によ って動き、自分の
の意志であり、みなそれぞれに相違している 。 した
好みにきく前に理性に相談しなければならなくなっ
がって 一般意志に到達するためには、まずその過不
ていることに、気がつく 。 ・・・
・ 人聞はパカで劣
足(相違点)を相殺しなければならない。相殺する、
等 な動物から、知性あるもの、つまり人間たらしめ
つまり凸凹する相違点を平らにすることができた
たこの幸福な │
瞬間を、絶えず祝福するに違いない 」
ら、それまで相異なっていた個人の意志の総和とし
と。
て一般意志が残る、とルソーは言 うのであろう 。
しかし問題は、まだ未解決である 。 もっと難しい
したがって、ここで大切なポイントは、諸々の相
問題を後に残している 。 というのは、このように各
違点をいかにして平らにするか、つまり無くするか、
構成員 をそのすべての権利とともに、共同体に対し
である 。 ルソ ーはこの点については詳しく論じてい
て
、 全面的に譲渡することによって、 (
一つの精神
ない 。 ただ注記のなかで、 「すべての人の利害は、
的で集合的な団体) (=共和固または政治体) を作
各人の利害 と対立することによってはじめて合致す
り出すことができたとしよう 。 しかしそのさい、そ
る」とだけ付記している 。おそらくルソーはここで、
の団体の (自我〉 あるいは (
生命〉 ないし く
意志〉
それぞれ己の利害 に│
苅わって、構成員間に激しいデ
は分裂していてはならず、ただ (
一つ〉であらねば
イスカ ッションが行われることを考えていたのであ
ならないのだが、果たしてそのような全員 一致の意
ろう 。 そして激しい議論をへて、必ずや公正な全員
志というものは現実に可能なのか、という問題が残
一致 の 結 論 が 出 るという見通しをもったのであろ
るからである 。
つ。
例えば、大洪水に対して 1
0
0人以上の人が団結し
しかし、特殊意志を 一般意志に変え、高めるため
たとしても、その各構成員の自由 ・平等な投票は全
には、別途なすべきことが必要であった。 ルソーは
員一致の決定に至 るだろうか。例えば、今諌早湾で
もちろんそのことはよく知っていた 。 しかし、 『
社
問題になっている可動壌の開放、あるいは非開放に
会契約論j においては、彼はそれ以上のことを論議
対して全員がそろって賛成、あるいは反対するだろ
しようとはしなかった。
うか。「 人は、つねに自分の幸福を望むものだが、
『
社会契約論Jの冒頭においてルソ ーは 「人聞は
つねに幸福を見分けることできるわけではない。人
自由なものとして生まれた。 しかもいたるところで
民は、腐敗させられることは決してないが、ときに
鎖につながれている 」 と言 う。古い社会制度 (
アン
はj
吹かれることがある 」からである 。つまりその共
シャンレジーム)のなかで長年にわたって鎖につな
同体が今何をするかは、その時々の謀題に対する各
がれ、腐り切ってしまった人聞が、どれほど熱心に
構成員の賛否の投票によ って決まるのであり、そし
デイスカ ッションを重ねたとしても、各人は己の私
てその決定は全員一致の決定でなければならない 。
利私欲にしがみつくだけで、決して客観的な公共の
全 員 一 致の意志、つまり 〈
一般意志) (
Volnte
利益に同意することはないだろう 。「万物を創る者
民nerale)がこの精神的で集合的な団体を規制しな
の手を離れるときすべては 普いものであるが、人間
ければならない。 さもなければ、この共同体は分裂
の手 [=社会制度]に移るとすべてが悪くなる 」
した自我しかもたないことになる 。
「
一般意志は、つねに正し く、つねに公の利益を
r
(エミール J
) のであるから、人聞は、特に大人は、
既に皆悪人である 。悪人が公共の利益を願うはずは
目指す」 とルソーは言う 。 しかし、そのためには各
決してない。そこで、 一般意志を達成するためには、
市民は、自然状態における (自然的自由〉を超えて、
人間はまず教育によ って善人に変えられねばならな
(
一般意志によ って制約されている市民 [
社会] 的
い、否、 善人に育てられねばならないのである 。 し
自由) を持たなければならないのである 。
かし、そのことについては、『社会契約論』のなか
では、この達成困難な全員一致の意志、すなわち
では彼は一切何も諮らない。 じつは善人 (=自分の
一般意志なるものはどのようにして達成可能なの
好みにきくまえに、理性に相談する道徳的人間) に
か。このことについて、ルソーは次のように述べる 。
育てる方法は、ほぽ時を同じくして書かれた 『
エミ
r
[諸々の] これらの特殊意志から、相殺しあう過不
足を除くと、相違の総和として、 一般意志が残るこ
とになる j と。
然主義の教育論は、まさに少年エミ ールの特殊意志
20 ・人間文化
ール Jのなかで、詳述されているのである 。彼の自
を一般意志に至らせるための方法論であ った、と私
人間関係と しての民主主義
は思う 。 しかし、ここでは これ以│
二彼の教育論につ
の生き物を 一匹の動物に瞥える場合が多い。 しかし
いては言及しないでおこう。
一匹の動物はデユーイの考える理想的タイプの有機
体ではない。彼は 言 う。「動物の身体は私の考える
一匹の生き物としての社会
以上にみたルソーの社会観は、バラバラな個人が
タイプの有機体ではない。 なぜなら、肢体や諸器官
1
1]的な関係でつながってはいるが、結局のとこ
は空 1
まずあって、後に彼らが契約を結んで社会を構成す
ろ諸部分としてしかその生命をもってはいない。肢
るという、作り物ないし モザ イクとしての社会を主
体や諸持官は確かに全体の生命に参加している 。そ
張するものであった。 これに対して、デューイは言
して全体は肢体や諸出官のなかに生きていて、それ
う。「社会契約論の大切な意味は、じつは人々が
らの部分にそれぞれの活動をあてがってはいる 。 し
[
人間の本質からして当然]契約を結ぶという考え
かし、それらの諸部分はこの全体に飲み込まれ、そ
にあるのではない。そうではなくて、人々は契約を
の独立性を失っている 。[なぜなら、全体にかかわ
結ぶまでは [したがって、人間の本質としては、 ]
る大脳が部分ひとつひとつに備わっているわけでは
いかなる社会的関係をももたない、ただ単なるバラ
ないから 。
] つまり全体は、諸音1分に対して、全体
バラな諸個人であるにすぎない、という考えである J
としての生命をそれほど自由に与えてはいない。 し
(
JohnDewey:TheEth
ic
so
fDemocracy) と。
デユーイは、人!日1
はその本質において社会的存在
たが って、諸音1分は空間に別々に存在する独立的生
命体の観を呈してはいない。つまり、動物の身体に
であるとする 。 すなわち、人々は本来バラバラな ~ I'.
あっては、その有機的関係は不完全である 」 と。
社会的アトムではなく、人〆をどうしの内的関係のな
かにあることにおいてのみ人間でありうるとする 。
デューイは続けて 言う 。「 しかし人間社会はも っ
と完全 な有機体 (=斗ーき物) を体現している 。[こ
つまり彼は、社会有機体説を提起するのである 。
の完全な生き物としての人 間社会においては、 ]全
人々は本来的に社会という 一匹の大きな生き物であ
体 (=社会) はほんとうの立味で各部分 (=個人)
って、各個人はその社会の同 ーの生命を共有してい
のなかに生きている 。[あたかも、全体にかかわる
る。 したがって、無理に 一般意志なるものを製造し
大脳が各部分に存在するかのように。
] したがって、
て、それでもって個々の人々を外側から結びつける
そこにはもはや単なる諸部分の物理的な寄せ集めと
必要はない、と彼はする。
か連続とかいった 印象はない。つまり、社会として
有機体としての社会にあっては、人は本来的に社
会的存在である 。そして一匹の生き物としての社会
の有機体は有機体本来の姿を顕現する 。すなわち理
ani
d
e
a
lo
rs
p
i
r
i
t
u
a
l
l
i
f
e)
念的ないし精神的な生命 (
における、個人と社会との関係は、次のように表現
としての向己を、すなわち芳、志 (
w
i
l
l)の統ーとし
される 。
ての
l
r己を、顕現するのである 。そこで、もし全体
「もし社会がほんとうに有機体(=生き物)であ
としての社会と個人とがほんとうに相互に有機的関
るといえるなら、各市民はその有機体の一員である
係にあるならば、そのとき個人は一点、に集中した社
わけだが、その有機体が完全で、ある程度に応じて、
会である 。[すなわち、個人の内に、身イ本全イ本にか
[
つまり諸個人がそれぞれに独立的人格性を有し、
かわる大脳ともいうべき精神的生命、意志、 〈
社会
かつ他の構成員と平等な立場でキ1
'
1
/
工作用を営む程度
s
o
c
i
e
t
y'
sl
i
f
e)がまるごとそのまま存在す
の生命> (
に応じて ]、彼の内にその有機体の知性と意志とを
るのである 。 したがって、]個人はだた単に社会の
凝縮しでもっているのである 」 と。
似姿でもなければ、社会を 映し出す鋭でもない。そ
換言すれば、 一般意志と知性はどのような社会に
も、その社会が一匹の生き物であるかぎりにおいて、
本来的に存在する 。その存在は程度の問題である 。
うではなくて、個人は く
社会の生命〉の、意志の、
桐人という一点における顕現である j と。
かくしてデューイは動物の身体のなかにではな
したがって、 一般立志と知性をできるだけ実現する
く
、 -jJじの生き物としての人間社会のなかに、理想
ためには、その社会をできるだけ完全な 一匹の生き
的な有機体 (=生き物) を見る 。一 匹の生き物とし
物とすることである 。そして民主主義とはそうした
ての社会は 一人の生き物としての個人以上に完全な
ことを可能にする社会の在り方であり、社会を 一匹
有機体である 。それは精神的生命を宿し、理想社会
の生き物として完成する方法である 。
社会を一匹の生き物と考える場合、われわれはそ
(=より完全に有機 的な社会)を実現せんとする
〈
志志) を備える、より完全な大きな生き物である 。
1
人間文化・ 2
人間関係としての民主主義
しかし、そのより完全な大きな生き物としての人間
文明の精神」であ り、未だ半開の日本国家を近代的
社会においては、個人は決して社会という 全体にひ
な文明国家に再生しよう とする ー凶人民の気風を立
たすら奉仕する非独立的部分ではない。彼は一個の
│床する 。それは 「人力を以てにわかに作るべきもの
独立した人格である 。それぞれに自分の大脳をもち、
にあらず。あまねく 一国人民の 問に浸潤して、広く
判断し 、行動するかけがえのない個人である 。そう
全国の事跡に顕わるるといえども、目もってその形
であればこそ、 この社会は一匹の生き 物 として 一人
を見るべきものにあらざれば、その存するところを
の個人より完全なのである 。 なぜなら、例人の独立
知る こと甚だ難し J 文明論の概略 J
) といわれる
性 (=人権)が、社会と偶人との平等な関係を、し
もので、われわれ は く
一般意志) をそういうものと
r
(
たがって両者の有機的な関係を、保証するからであ
して理解しようと 思 う。それはまさに 一匹の生き物
る。
1
性であり、生命その
としての社会の意志であり、ま1
ものである 。
人間関係と しての民主主義
デュ ーイにと って民主主義とは、 一匹の生き物と
先に、われわれはテ‘ユーイにと って民主主義とは、
しての社会をい っそう完全な生き物にするための方
以上の意味でいわれる ー I~ の生き物としての社会を
法である、と 言 った。そのことの立味は 、こ の理想
より完全な生き物とする方法である、と 言っ た。次
追求の気風を育てる ことによって、現実社会をさら
にそのことの立 l
床を明らかにしよう 。
に生き生きとダイナミックに成長するより良き社会
l
j社会は 2人以上の構成員があ っては
そもそも人 I
に作り替えていくことである 。そのためには、各構
じめて成 立する 。 しかしその 2人以上の人たちがた
成員の個性、主体性、知性が何 よりも尊重され、生
だ物理的に佐イ字しているだけでは、社会は成立しな
かされると同時に、その社会が一匹の生き物として
的なコ
い。その人たちの問に 言制的あるいは非雲市i
の統 一 性、調和、 成 長を保ちながら、その時々のまr~.
ミュニケーション (=有機的な相互作用)があると
忽に向かつて白己更新していくことが求められる 。
き、はじめてその人間集団は社会となる 。そしてよ
では、そういう趣旨での民主主義とはどのような
り完全な 一匹の生き物としての社会とは、こ の コミ
内容のものか。それは上記の要請に応えうる或る径
ュニケーションが独立的人柄性を有する各構成員の
の人間関係を必要とする 。人間関係は人と人とのl
f
J
i
l
f
J
lで自由│調達に行われ、 可能なかぎりの一般立志を
にお けるコミュニケーションに よって成立する 。 し
実現することのできる社会である、と 言っ てよいで
たがって、或る種のコミュニケ ーションの有り様が
あろう 。
は
、
民主主義的人間関係ないし社会の│人j容となる 。で、
一匹の生き物としての人 間社会には確かに 一般意
志が必要である 。 さもなければ、その社会は分裂し
それはどのような有り様なのか。
テ
‘
ユ ーイは、民主主義的人間関係ないし社会で、あ
2つの
た精神 しか持たない生き 物 になってし まうから 。 し
ることの基準として、コミュ ニケー ションの
'
3志といってもルソ ーの言うような、足
かし、 一般 )
宿り桜を挙げる 。その 一つは、 ①「その集団が意識
したりヲ l
いたりして製造される杓子定規な 一般意志
的に共有している関心が、どれほど多く 、 また多様
ではない。われわれはそのような人工的 ・機械的な
で あ る か j、 つ ま り 集 団 内 コ ミ ュ ニ ケ ー ション
な味で、の一般意志の 必要性を主張しているのではな
(
i
n
t
r
ag
r
oup communi
c
at
io
n
) がどれほど自由であ
い。われわれが主張するのは、生き 物 としての生活
るか、である 。 2つ目は②「他の種類の集団との相
共同体 (
コミュニティ ー)がその社会の生命として
互作用が、 どれほど充実し、自由である か」、つま
もともとも っている意志である 。それは一匹の生き
り 集 団 間 コ ミ ュ ニ ケ ー ション
物 としての社会が、時間における現実 的な成長のな
(
i
nter-group
な意志である 。それは変化 しながらも 、統ー を保ち、
communi
c
at
ion)がどれほど自 由であるか、である 。
これら 2つの基 Y停をどれだけ充 たすかに よって 、そ
の社会はより普通 的 ・客観的な気風としての一般意
絶えず新しい理想を追い求める社会の (
気風〉 と呼
志を達成し、自らの生命を歴史のなかで実現するの
んで よいだろう 。
である 。
かで 、理想を 追究しつづけようとするダイナミック
ちなみに、 この (
気風〉 という 言葉は、福沢諭吉
が明治維新後の日本の進路を示すため に用いた 言葉
であ る。それは 「
進んで退かず、達して止まらない
2
2 ・人間文化
小特集 2 人間関係論の新たな展開と基本課題
(1)視点
車問
スウェーデン ・アメリ力・日本・(比較論的考察のための序説) -
本
木
、
,
,
九
一、
、
,
=
こ・川つ
、
‘
セィフテイ・ネットの体系と
ナショナル・キャラクター
かす
人間文化学部生活文化学科
装置の 一環として機能しているわけだから、 「公一
小論の日的は、近年の研究によってゆ]らかにされ
私」の│
刻係のみでなくそれらを含んだ全体社会の制
た知見を援用しながら、 「スウェーデンとアメリカ
御機梢と不可分である 。 この関係を無視して、セー
合衆国と日本jの、社会的保障の体系を比較するた
フテイ・ネ ッ トの体系を性格つ けることはできない
ε
めのおおざっぱな見通しをつけておくことである 。
だろう 。家族の現状や変化する労働の形態との述!認
比較によ って試みたいのは、それらの問の優劣を論
を採りながら、スウェーデン、アメリカ、日本とい
じることでも、先進性 ・後進性を結論づけることで
う異質な社会の 「
安全網」の特質を整理し、それら
もない。あるいはそれによって 「
先進的とみなされ
メカニズムとのつながりを採るた
と全体社会の市lJf,前l
るものをもたらした背景 .!要因を解明し、そこから
めの大まかな見取り@を描いてみたい。
教訓をづ│き 1
:
1
'
,
す 」 ことでもない 。 そうではなくて
「同等の状況にある(と想定した ) l
l
i
l.地域を相互
に比較し Jr それぞれの回有性、相対的な位位、~
困やメカニズムの独自性」 を明らかにすることによ
(
2
) 医療保障
医療 m
I
J
J
主
.がそれぞれの相会的セーフテイ ・ネッ ト
の回-T
J
性をも っとも明快に表している 。
って、社会的保障の可能性と荷回している問題の位
(
A)スウ ェーデンの医療 I
;
I
J
度は 1
9
6
3年の│
玉l
民保険
相を隊認することである '
"
法で、定められた 。国の役割は基本原則と政策枠組み
モンテスキューの [
法の精神jにつぎのような魅
力的な叙述がある 。「多数の事物が人lIiJを文配して
を決定し、
j
由j
]
針作法の是正をはかることなどに限定
されている 。医療サービスを提供するのは県 (
一部
L
j
i物の
いる 。気候 ・宗教・法・政体の絡率・過去の .
はコンミューン )であり、県の病床数は全体の 90%
例 ・習俗 ・生活様式。そこからその品古来たる ー般精
以仁を I
'
iめ
、
│
矢
r
:
,i
lも95%以仁が公務員である 。公共
r
神が形成される 。J 法これらの法はそれが作られ
也ん門治体が直接税金で、同氏全
の責任において、 J
た対象とな っている民族にきわめて特有なものであ
Mを
ヘj
:る
、 l
主│家主導型ともいうべき医療i!
i
j
!
J
主
体の健 t
るべきだ。一 同民のそれらの法が他の一国民に適し
である 。医療費はほとんど公費負担で、患者負担は
わずかであるにすぎな L、
。(
地方所得税 =600
0
、固
うることがあれば、それは非常な偶然と 言 うべきほ
r
どである 。J これらの法は国土の
一 極寒、極熱
または温暖なる風土に、土地の性質、その位置、そ
の広狭に、 112 耕 ・ 狩猟 ・ 遊牧なと、の民族の ~I二 活様式
50
0
、 凶 家 基 金 =1
20
0
、忠-d-負担=
からの交付金=1
40
、全綴雇月 l
主負担の固民健康保険 =
890)
0
高齢者人 1
1の鳩大とともに医療費は増大したが、
に相関的なものでなくてはならぬ。 これらの法は同
その削減 ・抑制のために、医療を福祉サービスと結
士
l
の程度に、住民の宗教に、彼らの
家椛造が許す自 l
9
8
2年の社会サービス法は
合する方策がとられた。 1
性情・京・人数 ・商業・習俗・生活様式に調和しな
高齢者・障害者サービスなどをコンミューン (
基礎
ければならない。」山
ティ・ネ ッ トの体系は、それぞれに 「ナショナル ・
自治体、平均人円 3万人)の全面的責任下に移し、
1
9
9
2年のエーデル改革は、初期医療と福祉を統合し
てコンミューンの色・轄下に委ねたのだった。公的責
任下で地方自治によって、普遍的に福祉を支える典
キャラクター」 と不可分の関係にあると想定するこ
型的な事例がここにある 。"'
この 「
一般粕村リ を言葉の最も広い立│床における
「ナショナル・キャラクター 」 と考えると、セーフ
とはさほど無理ではない。
(B)アメリカの制度はそれとは対照的である 。医
類型化による区分ではしばしば、アメリカは向由
療は最高の水準にあるが、費用は高く公的な保障は
主義モデル、スウェーデンは制度的荷分配 (
社会民
低い。主流は民間医療保険であり、雇用先の企業を
通して国民の 6
50
6
=1
5
0
0
0万人がその適用を受けてい
主主義)モデルと明快に位置づけられるが、日本は
公的福祉の残余的性格においてはアメリカ的であり、
雇用保障においてはスウェーデン的であり、家族主
る。
6
5歳以上) と際害者を
公的医療保険には高齢者 (
義 ・社会保障の分立性という点ではドイツなどの保
守主義モデルと性格を共有すると論じられる 。
日 H削
対象としたメディケアがあり、また公的扶助の受給
だが、 「
社会的」福祉は、それ自体が社会的安定化
8
0
0万人 (
1
9
9
7年)をカヴァ ー して
メデイケアは、 3
Medicaid)が制度化されている 。
者には医療扶助 (
人間文化・ 23
セィフテ ィ ・
ネ ットの体系とナショナル ・キャラ クター
いるが、ケアが長期におよぶ場合の保障がないため、
企業への帰属立識と 地域への帰属立識を重層化する
長期のケアによって資産を q~m し、メデイケイドの
ことで国民全体がカヴァーされるのである 。
適用ド (
公的扶助受給者の地位)に転落してしまう
この制度が修正されたのは、 1982年の老人保険制
が大量に発生している 。 1
9
9
6
"
'
1
三の、長
中間層の悲劇l
度によってであ った。高齢化の進展が国民健康保険
期ケアの資 n
J
負担は、民間の長期ケア保険が 5%、
を財政危機におちいれ、その解決のために、保険者
1%、メデイケイド 48%、 1
=
1己負担
メディケア 1
l
で負担し 、高齢者の部
が「老人保健拠出金」 を共 │
百
分については二つの制度が統合されたのである 。
(
7)
31
%だったのである 。
1946年のビル・パートン法が、雇用主の被用者へ
の医療保険提供に税の優遇措置を認め、保険料を企
分立型!の制度が普遍的な性格を強めていく動向は、
現在の日本のトレンドであるように見える 。
業の課税所得から控除できるようにした。全国民の
このように、スウェーデンが全両的な公的責任と
3/4が民間医療保険 (
大部分が雇用主提供)
にカヴア
介入によって国民の健康を維持しようとしているの
ーされることになる流れはここから始ま った。山
この民間医療保険によ って成立 したアメリカの医
に対して、アメリカはもっぱら公的介入を捌して、
民間のイニシアティブと創意の下で問題が解決され
療保険制度は 二つのきわだ った特徴をも っている 。
ることに固執しているように見える 。日本の場合は、
一つは同民の 16% (=3700万人) にもおよぶ無保
凶家が地域保険のシステムに強い規 j~IJ を行使しなが
Fで
、
らも、財政は│王│
家の管理(政府公定の診療報酬シス
しかもそれを 享受できる地位にある労働者でなけれ
テム )、医療供給体制は民間開業医優位のシステム
ば保障はないからである 。
であり、混合的な性格が強いといえるだろう 。
険者の存在である 。保険を提供できる雇用主の
.
9
l
医
もう 一つの独自性は 80年代以降増大した、ヂP
療組織 ( 第 三 者の管理[)である 。 それは医r:w の臼 I~I
(
3
) 高齢者福枇サービス
裁量ではなくて、保険者(文)
.
1
、い者)が
、 診療ガイ
(
2)
で見たように、現在の先進長l
会の社会保障・福
.
1
、い制などの導入によ
ドラインや診断群別の定傾前)
祉制度を大きく変えているのは、高齢化現象である 。
って、医療内符に介入するものだ、
っ た。医師j
や病院
「
所得保障から対入社会サービスへj というスロー
の評価と選択、診療ガイドライン=医療内容の標準
ガンが福祉の現在を示しているとすれば、高齢化へ
I
己管理などが、保険者主導によ って推
化、予防やr-
の対応がそれぞれの社会の変化のキーポイントにな
G
}
一般的にいえば、民間部門の
進される J
る。
l
r助努力
として福祉同家機能が代替されるアメリカの特質が
(
A) 1965年に制定されたアメリカ高齢者法は、 高
ここに典型的に表われている 。
齢者の自立を支援し、在宅ケァサービスを充実させ
(C) 日木の医療制度は、医療サービスが企業と自
るという原則を雌立した。それによって健康 ・ヒュ
治体という異なる組織をとおして提供される仕組み
ーマン・サービス省に高齢者局が、さらに 州の高齢
になっている 。 ま
す
、 1927年に大企業労働者を対象に
・
画
化対策室と 665 の地域高齢者局が設立されて、 言1
した健康組合保険法が制定され、ついて、 1938年には
の策定と財源の雌保、民間サービス提供団体への補
農民を対象とした医療保険が制度化された。後者は
助金配分を行う体制が整備された。
地方自治体経営の組合方式ともいうべきもので、地
高齢者福祉サービスの内容は、他の固とさほど異
域における相互扶助の精神に基づくものとされたか
なるわけではない。それらはアクセス保障サ ー ビス、
ら、中小商工業者などもカヴ 7 ーするものでなくて
居宅サ ー ビス、地域サービス、施設サービスから構
はならなかった。
980年代以降、施設福祉から在宅福
成されている 。 1
このような制度と帰属怠識の形成はよく 言われる
祉サー ビスへの移行が強調されるとともに 州政府に
日本社会の二重構造、 一方における大企業の形成増
権限が大幅に委設されたが、連邦補助金は削減され
大と 他方における大量の零細│
小規模の自営業者、農
続けている 。問題はこの連邦補助金の絶対 的な少な
林水産業者の共存という状況に照応する 。 「
大企業
さにある 。補助金が削減されればされるほど、サ ー
を中心として、保険料を 主財源とした J 組合健康
ビスの利用に高い料金が課され、高齢者の貧富の差
地域」
保険Jの領域と、保険料の中に税を投入し、 「
が生活の質の極端な格差 となって現れたからである 。
r
を単位とした「国家主導型の国民健康保険」である 。
長期ケア施設の代表的なものはナ ー シングホーム
二つの制度の複合が日本の医療制度を特徴づける 。
960年代にメデイケア、メデイケイドが主
である 。 1
24 ・人間文化
セィフティ・ネ ットの体系とナショナル・キャラクター
要な財源になったことで、こ の施設は飛躍的発展を
ユーンに 全面的に移した。住民参加型の社会福祉委
遂げることになった。医療施設と位置づけられてい
員会を核にし、住み慣れた地域と住居でケアをうけ
6
7
0
0のナーシングホ ームの内、 6
6%は経済効率
る 1
0%は、ホ
られる体制が作り始められた 。高齢者の 9
を優先させ利潤動機で動く営利企業で、その多くが
ームヘルプサービスを受けながら 一般住宅で生活
チェーン企業である 。公的規制が非常に弱いから、
し、自宅での生活が困難になった段階でケアつきの
当然提供されるサービスの質は確かなものではな
特別住宅へ (
サー ビスハウジング、老人ホーム、ナ
い。 オンブスマンや法律による高齢者の権利擁護な
ーシングホーム、グループホーム )移る 。それらは
どが、特にこの国で熱く論議されるのはこのような
地域住民との共用スペース ・施設を備えた、地域の
条件にも原因があった。
共有空間として機能する 。
1
9
9
5年にメデイケイド受給者のうち 6
5歳以上の
1
9
9
2年 (
高齢化率 18%)のエーデル改革では保健
人々は11.4%であ ったのに、ナーシングホ ームへの
医療と福祉が統合され、医療的ケアよりも福祉サー
支出はメデイケイドの 66%を占めた。その大部分が
ビスを 重視した対応が定着した。その際、地方政府
私費とメデイケイドで支払われていることを考える
j
j
:によ って自治
に必要だ ったのは、 一つは市町村合 j
と、長期ケアの財源問題は深刻である 。公的な支援
能力を強化することであり、もう 一つは独自の財政
と規制が控えられ、市場原理に委ねられると、
基殺を保保することであった。 2
5
0
0の市町村は 2
3県
人々の経済力の格差 は、高齢者福祉の領域ではよ
り増幅されて現れる 。(
;
:
)
山 (9)(叩 }
2
8
6コミューンに統合されるとともに地万所得税の
(B) スウェーデンはこのようなアメリカ毛t
会とは
(
C)1
9
6
3年に制定された老人福祉法が、高齢者福
大きく異なる 。一 人暮らしの高齢者は 1
9
5
4年一 2
76
、
祉サービスの骨格を作り仁げた。在宅椛祉サ ー ビス
1
9
9
0年一4
106
であ った。子供と の同居率は 1
9
5
4.
1
1
ミ2
700 1
9
8
6年 5
% と決定的に低い。 しかも女性の
9
6
7年一 4
6%、1
99
7年一 8
1%であるから、
労働力率は 1
ービス (
特別養護老人ホームと養護老人ホーム )が
0
課税権 (
税率の決定権も )が確定する 。川(
川"側
(老人家庭奉仕員派遣事業)が制度化され、施設サ
整備された。
家族の介護機能はいちじるしく低いと考えるべきだ
1
9
9
0年になると高齢者世帯は 1
0
0
0万を越え、要介
ろう 。 これらの動向はアメリカと共通しているが、
護高齢者は 200万、 ~I" 保護高齢者世帯は 24万に及ぶ
その私的機能の欠落を公的機能の創出によって補完
とされた 。老人福祉法が改正されて 、高齢者の健康
したのがこの国の施策であった。市福祉高負担の原
福祉サービスと長期施設ケアの全責任が県から市町ー
則を国民が受け入れたことで、ハイレベルの行政サ
9
9
2
村に移されたのは、そのためであ った。 さらに 1
ービスが、自治能力を確保した地方政府によ って行
年の医療法改正で、 「
療後型病床群 JI
老人訪問看護
われる (
大きな政府というより大きな市町村という
制度」が創設され、高齢者へのサービスが福祉のみ
べきだろうが)
。
ならず医療・保健を含んだ広範聞なものになったの
である 。川}
1
9
6
0年代にスウェ ーデンは、 一人当たり国民総生
高齢化と労働力不足、出生率の低下も深刻な問題と
1
9
7
0年の l
時点で高齢者と子供との同居率 は、欧米
0
平 均 =1
56
にたいして、日本 =50%であった 。家族
なっていた。 この 三重の問題を解決するための模索
による高齢者の介護・扶養がしばしば政策的に誘導
産でアメリカを抜いた。それと同時に
がスウェーデン的福祉国家を作り出したのである 。
され、維持すべき 美徳として宣揚された。そして社
9
5
0年代にすでに 「老人ホームに老人が移
まず、 1
会が子供と同居している高齢者をノ ーマルと考える
動するのではなく、老人の家に介護サービスが山向
分、他方では一人暮らしの老人は逸脱として注目さ
くべきだj と進むべき方向は決ま っていた 。それを
れる 。子供と同居している老人は、所得がひくくて
9
6
0年代初め(高齢化率 1
2
-13%)
実施するために、 1
も公的保護の対象とはならないのにたいして、家族
のステージで、市 1
1
1
]村による高齢者福祉長期計画が
的支援を欠落した 一人暮らしの高齢者は、公的保護
建てられた。そしてホ ームヘルプ事業を拡大するた
0年代の福祉削
の責任下におかれる 。 だからこそ、 8
めに女性の福祉・医療への就労が増大し始めたので
減にもかかわらず、家族の外に取り残された高齢者
ある 。
用の施設と、コミュニティケアの政策は進められた
1
9
8
2年 (
高齢化率 1
6
%
) の社会サービス法は、連
帝の精神を原則にして、福祉の最終的責任をコンミ
のだ った。
7
3年の老人医療費の無料化は、 彪大な社会的入院
人間文化・ 25
セィフティ・ネットの体系とナショナル・キャラクター
9
8
9年
と健康保険財政の危機を生みだした。他方、 1
円環が実現し 、福祉国家を支える物質的基盤ができ
のゴールドプラン (
高齢者保健福祉十カ年計画)の
あがる 。
4年に
年次目標が予想以上に早く達成されたため、 9
LO) と経営者団体 (
SAF)
労働組合の全国組織 (
はスケジ‘ュールを早めて、新ゴールドプランが策定
による集中化された賃金交渉が成立したのは、 5
4
され実行に移された 。 1
9
9
5年に、老人保健福祉審議
5
6年にかけてであった 。労働市場局 (
AMS)がそ
会報告 「
新たな高齢者介護システムの確立について
れを補完した。 インフレ抑制的安定政策を続けなが
Jが 「福祉サ ー ビスの社会保険化」 を主
(
中間報告 )
ら、経済的拡大と積極的労働市場政策によって完全
張し、包括的な公的ケアサービスシステムの確立を
雇用が維持された時、連帯的賃金による団体交渉方
提案したのは、これらの条件と経緯に基づいてのこ
式は、組合 メンバーの信任を得ることができた。 こ
とだ った。 ここから 2
0
0
0年4月の公的介護保険制度
こにいわゆるスウェーデン・モデルが成立するので
笑現まではわずかな距離にすぎなかった。
ある 。
介護保険はステイグマをともなわず、 「
家族の な
だが、安定した状態はいつまでも続かなかった 。
い、特別な社会的カテゴリ ーの人々 j だけではなく
1
9
6
少ー7
0年にかけて、集権的労使関係・再分配中心
て、家族と同居している 「
普通の人々」が、公的な
の労働戦略そのものへの不満が顕在化し、草の根か
支援の正統的な受容者となる、いわゆるサービスの
らの圧力 (
参加、共同決定と仕事の保護を求めた山
普遍化を告げ.
るものだ った。 それは、 「日本人は外
猫ストライキ )が強まったからである 。
部のサ ー ビスが自分の家庭の中に入ってくるのを望
7
0
年代には、工業生産が雇用の中心であった段階
まない」 というこれまでの理解を退け、家族の関係
がすぎて、管理、サービス、コミュニケーション技
と、それをとおして伝統的な家族と 「
公j との関係
見産業化などと表現される局面に
術、研究 ・開発、 J
を大きく変える可能性をヲ包んでいる
スウェーデンは達していた。大量の同質なブルーカ
アメリカは │
五│
家によ って 「
結果としての平等」 を
ラ一層に代わって、例人主義的なホワイトカラー 労
作り出すことを拒否し、民間の自 主性と力と知恵に
働者が増大する 。 それにつれて、経営者は集中化さ
依拠しようとする (
小さな政府)
。 それは公的権力
れた既存の交渉機梢よりも、企業レベルのインダス
による所得の移転を限定するから、高齢者の生活の
トリアル・リレーションにしだいに注目するように
格差 は過大に顕在化する 。 それにたいして、ス ウェ
なっていた。労働における関係の質が、同質的 ・集
ーデンの場合は公的権力が全責任を引き受け、いわ
団的なものから個別的・異質的なものにかわったか
ば「後見人的政府」 の役割を演じることで、 「
結果
らである 。
としての平等
」 を実現しようとする 。 日本ではこの
公共音¥
1門支出の対 GDP
比は 1
9
6
0年の 3
0%から 1
9
8
3
二つの方向が共存しながら、その結節点に 「
家族」
年には 6
7%へと急速に増大したが、これは公共部門
が流動状態に陥りながらもなお、重い位置を占めて
いるのである 。
によって、社会的サービス、チャイルド・ケアサー
ビスを増やした結果生じたものである 。このことは、
女性の 労働市場への参加を急速に進めたという点
(
4
) 労働の形態
で、決定的な意義をもつものだった。公共セクター
現在の私たちの生活の保障にと って高齢者にたい
(
そこにおける女性の増大) およびホワイトカラ一
する所得保障や福祉サービス以上に重要なものは労
層の台頭は、交渉者の増大・多様化と利害の多元化
働 (
雇用)であるが、この分野で今、急激な変化が
をもたらし、賃金交渉を分権化し、 r
LO
-SAFJ関
生じている 。
9
9
1年に賃金
係の弱化に帰結したのである 。 LO は 1
(A)スウェーデンでは同 一労働同 一賃金を原理と
格差を承認し、交渉の分権化を受け入れたのだ‘った。
する連帯に基づく賃金政策が定着 していた。労使の
特定の関係が普遍的、 一律に全社会的な関係を制御
集中化された中央の賃金交渉で、 全体の水準が決定
することができる時代が終わったことをこのことは
示している 。叩 刷 側
されるシステムは、低生産性の企業 に労働余剰を生
みだし、地域間 ・産業聞の労働移動を必然化するが、
(
B)アメリカでは、 7
0年代以降の情報通信技術の
それにたいして政府が移動手当 ・再訓練 ・情報提
革新とともに、雇用形態の多様化がドラスティック
供、住宅計画などの労働市場政策を積極的に展開す
に進展した。 9
0年代中頃の労働力機成は、フルタイ
れば、産業の合理化と高生産性と賃金上昇の幸福な
ムの労働者 6
1
4
0万 (
51%)
、パートタイマー 3
0
0
0万
26 ・人間文化
セィフテ ィ・ネッ トの体系とナショナル ・キャラ クター
(
内、常用パート 40%) オンコールワーカー 2
0
0万
、
独立契約者 8
3
0万、人材派遣 2
4
0万であった。
7
0年代後半からの企業の買収、合併、不採算部門
和l
k
iiXをフラ ッ ト化し、中高年ホワイトカラーを削減
し、事業所 (
J
t
f舗) を不要にしている 。労働組合の
弱体化による組織的抵抗力の衰退もあ って、好況期
~Iõ 正規労働者
にも人員 j
'
i
l
1
i
成
,が経営戦略の観点から常態化する状態
(
Contingentworkers) を増加させた。彼らはセー
0年代の雇用の流動化、
が、日本で生まれている 。 9
フテ イネッ ト (
年金、健康保険、雇用保険)を与え
就業形態の多様化、常用労働者の比 率 低下、 ~Iõ 正規
5
-3
3g
o
にも及
られておらず。その数は全労働者の 2
雇
ぶと推定されている 。
で呼ばれていた関係が大きく修正されつつある 。 こ
の切り捨て、海外生産などは、
mの増大などによって、日本的雇用慣行とこれま
旧来の 雇用関係にあっては、企業の労働者に対す
の変化をよりドラスティ ックに見せているのは、男
る強いコントロールと訓練の見返りに、長期雇用、
性に比較して常用労働者の比率が低い女性の労働市
内部昇進、その他の保障が与えられていた。それに
場への大量参入である 。
たいしてリストラは仕事の任用期間を短縮し、労働
1経連は 「新時代の日本的経営 J(
19
9
5年)でこ
の流動化を進め、付加給付のない低賃金を拡大し、
j向を明白に打ち出している 。盆的には必要最低
の}
労働者を使い捨てのジャストインタイム化し、計画
│
浪に抑えながら、中核従業員には長期雇用を維持し、
的に常 m
労働者を派遣労働者に転換している 。
能力 主義的な併│別管理を強化する 。その周辺部に、
このような状況下において、労働者に対する管
業務量に応じて雇用量を柔軟に変えることのできる
理・コントロールは、より強化された領域とゆるめ
貯を大量に配位し、さらに企業横断的な専門的能力
られた領域に、は っきりと区分された。主 として大
を持 った層を必要に応じて柔軟に利用可能な状態に
企業においては、核となるフルタイム労働者が厳し
司i
場化してお くこと 。
いコントロール下で企業の中心を占め、この周囲に
LI 本的雇月 11見l 係の修rI~ は、このように企業 内処遇
s
t
a
t
u
s も保護もない )が、弱いコン
周辺労働者 (
の例別化と 多機化、(11¥1旬、下請け化などの労働市場
トロール の下で流動的に配置される 。 この ところア
b
i
l
i
ty
)
のニ
!
と
外部化)外部労働市場の繋備と(Employa
メリカで急速に拡大しているのは、この構造である 。
と、ホワイトカラーの支援I:l
9
業務の外部化の形態を
とって急速に進行している 。11日刷5
周縁経済を構成する非正規の,間欠的な.パートタ
てきた。彼らは伝統的に二流の労働力とみなされた
この ようにそれぞれの柑社占
会の雇川
f
月
J
Iの現状と変化の
7
形杉は異なるにしても、変化の方向は共通して 多元
のである 。現在生じていることは、その数のし、ちじ
化 ・分権化・多様化・個性化 ・流動化などと表現さ
るしい増大とメンバーの変化 (
マイナリテ ィー、非
れる 。それは既成の 「
組織化
熟練の女性から、白人男性、女性の専門職、マネー
ジャ 一層をも含むものへの)である 。(
1
(
)
叩
って保障を確保する方式が働きにくくなったことを
示しでもいる 。労働(雇用)における 「
個別化」に
労働者の多くは、法的保護・解雇規制がない状態
対応するセイフティ・ネットはそれぞれの社会にお
lし
イムジョブを、アメリカ社会はネガテ ィフ に評価i
e
対抗力の形成j によ
にある 。労働立法は永続的なフルタイムの雇用を前
いて、どのようなものであるべきかが今、緊急の課
提しているかぎりでは、現代的問題への対応能力を
題として問われている 。 この労働 (
雇用) と最も緊
失っているように見える 。
管に関係する のは、家族 (
世帯 )の領域であるが、
(C)9
0年代のグローパリゼーションは、労使関係
ここでも今急激な変化が進んでいる 。
の柔軟化を日本の企業に求めてきた。それにたいす
'
1核労働者のダウンサ
る企業の対応は、長期雇用の 1
(5)家族のゅうぎ
イジング、下請けなどによるアウトソーシング、周
(
A) 1
9
5
0年代に人々の心をとらえた家族{象に、イ
辺労働者への置き換え、従業貝の女性化による非正
デオロギーとしてのアメリカの家族の、典型を見る
規雇用の増大などであった。 コミュニケーシヨン技
ことができる 。所得の増加、持ち家とマイカーが、
術が可能にした労働者の個別的管理が、賃金の個別
立かさを象徴した。
核家族が繁栄のシンボルとして、
1
1
1
の試みなどを通し
化と格差拡大、成果主義、年俸1
家族至上主義
て進行している 。
とくに、企業内の情報ネットワークの革新は、従
に結びつけられ、夫婦の紳
先する J
)が理想化された 。 そこでは、個人間の契
来の重層的企業組織から中間管理機構を取り払って
約、野心、競争によ って維持される社会関係にたい
,
r家族はあなたの生活の中心です J)
(
r夫婦関係が全てに優
(
人間文化・ 27
セィフティ ・ネッ トの体系とナショナル ・キャラクター
して、プライバシー空間である家庭は、相互依存、
ろう 。(残余的自由 主義モデルの対応応、)削I3
打 t~: ぬきの利他 主 義、共感能力、思いやりによ っ て
(B) スウ エ一デンにおける、家族の変化はアメリ
成 立 する 。 両者の間の深い ìH~ は 「夫 婦の愛の架け橋 j
カとよく似たパターンをと っているが、その国家と
によ ってつながれるはずである 。 このようなイデオ
の関係形成はアメリカとは異質である 。
ロギー的な配置と関係によ って、公的な支援なしで
自立する家族がイメー ジされたのである 。
ここでは、アメリカ以上に家族の揺らぎが進行し
ている 。 │
百
]
;
倭と 事実婚は 1
9
6
0年代後半から増大し始
9
8
4年に 「強力な家族の緋
ロナルド・レーガンは 1
9
8
8年の 「同棲法」は間使形式を 合法化した。
めた。1
こそ社会の礎である 」 と述べた。 1
9
7
0-9
0年代の、
カ ップル 全 体に ,
J
iめる同棲の比率 は 1
9
6
0年 1
%、
0
1
9
7
0年一 7
6
、1
9
8
3
{
1
二
一2
10
&
、1
9
8
5年 2
50
6
、 と急速
歯止め の ない富の追求が政任され是 認された時代
に
、 プライベートな家庭が道徳の中心に位置づけら
に増大し、同棲して子供をもうけることは普通の生
れたことは、家族概念が苧むイデオロギー性を 示す
活形態とな ったのである 。
もの である 。 このような家族像は、公的な 支援 に依
婚姻の減少と離婚の増加は劇的であ った。 1
9
6
0年
存しないで展開する中流階級として の関係形成へと
つながっていく 。
{間1川
0
1
4
9(
婚姻件数) 1
7
.
79
0(
南I
E婚の対婚畑件数比)
、
一5
する )商品の形態に依り J
、血縁よりも友人関係に
0
1
9
8
0年 3
7
5
6
9、 5
2
.
9
%、 1
9
9
0年一 4
0
4
7
7、4
9.
3
0
、
1
9
9
4-3
4
2
0
3、6
6.
5
%0だから家族規模の縮小は顕著
である 。 1
9
9
0年 に は 単 身 世 帯 3
9
.
69
0
、 2人世帯
31%、3人│立帯 12%、4人世帯 12%、5人以上│世帯 5
%
j
I
'流階級は高度にイデオロギ一的な構成物 で あ
る。「 それは血縁 の関係よりは (
等価交換を 本性と
よって支配的なネクサスをつくりだす。友人関係は
であり、西欧社会で千均世帯人 員は最も少なく、単
情新的な支えと 交換によ って維持されるが、 「それ
身者世 1
f
iが最高であ った。子供と高齢者との同居率
(
1
1
縁関係の附与的交換をへらし、それを友情と交
は1
9
9
0年
は (日本 1
換に i
u
:き換える 」
。 そのことが彼らに個性とイニシ
低い水準であるが、 I
目大する l
f
i
.身高齢者は、手厚 い
アテ イブを持ち続けさせるのであ る。 アメリカ社会
公的な施策によ って支えられている 。
の統合のイデオロギーに親和l
的な 家族像がここにあ
る。
0
6
00
6
、スウ ェーデン 1
9
8
8年 4
o
)
1
9
3
4年にミュールダールは人 1
1問題危機に警鐙を
鳴らし、低い出生率 を改善するためには働く女性の
しかしながら中流以下の貧しい断層 にと っては、
保護が不可避だと 主張した。働く女性 の子供を 産み
血縁 のネ ッ トワークはなくてはならないものであ
子供と過ごす時間を持つ権利の保障である 。そして
る。共有し貸し借りし助け合うつながりは、Ji
L
l縁と
現在、スウ iーデンは雇用政策と家族政策を緊密に
いうイデオロギーによ って生 みだされる 。 だから
結合することによ って、ヨーロ yパ最高の出生率を
「虚構の血縁」 もまたイデオロギーとしての 家族の
実現している 。 合 計 特 殊 出 生 率 (
15
-4
9才) は
、
主要な機能として働くのである 。だが、現在進行し
1
9
7
8年に最低で1.6
0、以後 1
9
8
1i
J
三 1
.6
5,1
9
8
8年一
1
.9
6、 1
9
9
0年 2
.
1
4へと回復した。家族政策は普遍
ている 「家族の揺らぎJはドラステ ィッ クである 0
・全家 族の半数が離婚する、再婚も普通であり、
単身家族が増加した。
-非婚のまま同楼する 。 2
0才代後半 から 3
0歳代前
0%が同棲(19
9
1)する 。
半のアメリカ人の 4
・シングルペアレント家族が増えているが、その
多くは非婚者である 。
的児童手当 、公的児竜ケア、両親保険として普遍的
に実行されたのだ、った。
1
9
9
0年の火性の家庭外就労率は 8
2
.
6% で、先進
国中最高で‘
ある 。教育 ・ヘルスケア・ソーシャルケ
アなどを地方政府の責任の下で拡大しようとする決
定が、パブリックセクターの仕事を増大させ、そこ
.1
9
9
4以降、年少の子供のいる婦'人の 6
0%が働い
に女性の雇用を生みだしただ、 った。増大した女性の
ていた 。 女性の個人化。夫の給料に頼らず、離
労働の 90%、女性の労働市場の半部以上が公的部門
婚をし、自分で子育てをする余裕を持った女性。
にあったのである 。 このことカ人アメリカにおける
このような家族の揺らぎは、文化と支配にかかわ
男女平等 (
能力にもとづく ) とは異な った意味にお
る規範的なレベルでの対応を迫るだけでなく、 I
似縁
いて、女性の働らく権利が手厚く保護されている条
と贈与の律する私的空間、中産階級と友人関係と交
件でもある 。
換が形成する私的空間が、公的支援 ・保障 ・介入の
以上の条件を前提にして、シングルペアレントと
薄さにどこまで耐えれるかを、改めて問うことにな
単身高齢者対国家という関係を見ると、福祉国家の
28 ・人間文化
セィフティ・ネットの体系とナシ ョナル・ キャラクター
施策は、この 1
3
4では、資源もサービスも個人のニー
に移動させた 。 アメリカはイデオロギーとしての家
ズに基づき、家朕としての単位ではなく個人の I~I J
L
族を '
J
r
t
iv
、規範として維持しながら、公的支援は強化
'主を前 J
足とし{同人を単位としたものになったこと
を
、 示 しているのである 。州 制 附 側 U!ll
せず、問題の解決は私的イニシアテ イブに委ねてい
(C) 晩婚化、少子化・高齢化が急速に進む中で、
難だから、 「
個人一 凶家 j 関係を政策的に 実 質化す
J本では自立した併│人の設定が困
るように見える 。 I
久性の就労が、それまでの家政を福祉の担い手とす
ることはできない 。「家妙、の個人化」 という現実的
9
8
3年の
る日本のシステムを大きく変えつつある 。 1
動l
i
l
Jと、家族への強い思い入れ
(
1一書大事なもの
r
l
J
I
l
え生活 白書 j は家族をとりあげ、離婚、家庭内
は家紋である J
) を示す村会的志識と の 1
mのスレを
暴力、校内暴力、少年犯罪と家族機能の低下の I~J 係
かかえながら公的支援は 「
介護する家族」の支援に
を論じた 。合計特殊出生率が1.57を記録し、社会
向けられるのである 。
にショ ックを与えたのは 1
9
8
9年であ った。
。
戦後の民主化と産業化は、私的生活領域としての
家族と公的領域としての職場の11¥]の性別分業と家族
(6)ナショナル ・キャラクターとセィフティ・ネ ット
i
l
lJ
l
i
l
以米、アメリカ の最大の課題は社会的統合を
内の性別分業を政策的に拡大深化させることで進め
いかにして実現し維持するかということだ った。民
られた 。 夫婦 ( ~1 !
A)の性差を l
i
i提とした平等矧が
族的人位的文化的に 3~~ t'J な人々に、
それを導いた。 1
9
7
0年代後半からは 「社会の基紘と
待することはできないから、それは人為的にっくり
しての家族」が強調されるようになり、その充実を
だされな くてはならなか った。 そして l
"民的一体感
を形成するのに剥lとなるのが、共通のルールとして
│記│る制度整備が、
f 育て機能と ~ïJ!.のケアを 一 手に
I~I 然の連帯を期
r
1
Eかさを約
引き受けた専業主婦、妻の地位を強化することだ っ
設定された述邦怒法と、 「自由と衡平と
た。(相続法・基礎年金)
束する 」 はずの市場原則で、あった 。共通のルールで
まとま
家族の揺らぎは前提て、あった 「
集同性 J(
つながることによ って、結栄として辿引を作り出す、
り)、「
両親性Jおよびメンバーシ ップの [
永続性」
そのためには、憲法が遵守されるだけでなく、さま
という特徴が崩れはじめたことから生まれた。 8
0年
ざまな施策が市場原 J
'
I
Iに迎合するものでなくてはな
代後半から、結婚もーつの選択肢として、望ましい
らなか った。社会的制祉も例外ではなか った。
配偶者がいなければ必要ないと考える人々の割合が
このようなコンテクストにおいて、社会保険と社
噌大した 。離婚はもはや逸脱でもタブーでもなく、
会扶助によるセィフティ・ネットが構築されたが、
家庭生活もライフスタイルの一つの選択肢とみる考
社会保険は施しではなく権利として位置づけられ
えが、 1
9
9
0年代に上昇ーしたのである 。
る 。 業 ~;l に応じた所得、所得に応じた保険料ー、保険
婚外出産が少なく、同棲するなら結婚 (
出産・子
料に応じた保険金の明快な連関は、 等 しいものを相
育てと結婚が連│刻) というのが、日本では支配的な
互に交換する市場の働きに対応する 。 この 1
'1立した
社会的意識で、ある 。老親と子供との同居率が高いこ
市民のキ1互支援システムで社会全体をカヴァーする
とは、家族の介護機能が大きく減少したわけではな
というのがアメリカでめざされたことであ った。
いことを意味している 。 しかしながら、 一方では、
!日必を第一の福祉の源泉と見る立場は、所得の移
長寿と 「
脱母税期」の延長、女性の就労、離婚の明
転を退けて、雇用に W
J待をかける 。それはアメリカ
大、家族の個人化 (
選択の主体が個人に ) などの傾
の圧倒的泣かさを前提に、 i
豊かさを約束する仕事に
向が強まっている 。そして他方では、 1
9
8
0年代まで
つくこと、その仕事を遂行する能力をすべての国民
見られた、息子との同情、嫁の老親介護 (
家市 I
J
支の
が身につけることではたされる 。 これによってのみ
宵に代って、 「
老後を子供に頼る
立識) を期待した j
貧困は恨淑から真に解決されるからである 。福祉と
つもりはない」 と考える世代が高齢化のステージに
は主 として教育・職業訓練、リハビリによって、こ
入り始めた。 この二重の変化は、介護保険に代表さ
の過税を公的に支援することにほかならなし、。 そし
れる公的保障と家族との関係に、変容の新たなエレ
メントを投入しているように見える。はIl四回山"
ミ
ムJ
てこの残余の部分が、ミーンズテストをともなう公
家族の 「
解体」はスウェーデンとアメリカで顕著
であるが、前者はこの変化 に合わせて、公的支援を
それは常に必要最低限に抑えられるべきものにほか
ならない (26)((川 ¥
(
)山
強化しながら、保 l~~ の体系を 「 匡| 家対個人 」 の関係
異質なもののぶつかり合いに創造の原点を見いだ
的扶助のプログラムとなるのである 。 アメリカでは
人間文化・
2
9
セィフティ・ネットの体系とナショナル ・キャラクター
し、「公的なものの外部で、公的な支援なしでれわ
れる市民の1'1113 で白主的な出動こそ社会の ~I~ の }J で
ある 」 と
、
トクヴイルはアメリカのポジテイフな面
を表現した 。 それと阿賀のこのシステムと J
l
r
r念は、
だが
このようなスウェーデンモデルを成立させ
た基本構造もしだし、に中しみをたて始めている 。公共
肥大化がもたらしたネガテイフな側 1
m、
セクタ ーのj
それに関わるジ、
エンダー問題、集Ij-'化された │
勾係形
社会的統合という点からすれは¥勤労倫理にもとづ
成が新たな条件、たとえば f~ltj の多線化、政府に依
く、支配的な WASP文化への他文化の同化を偵い
{-{しない私的イニシアティブ、新たなコミュニケー
ミ義、文化多 J山市がこ
る呼びかけでもある 。多文化 i
ション、白由・参加、非集中化、不1書と関心の多 Jt
.
:
の関係を来り越える地平はいまだ見えていないし、
化などに対応できなくなっているのである 。全 l
面的
生活のレベルでいえば、仕'jTの不安定性の明大と家
な公的責任のドに問題解決を図ろうとする方式の限
族の変化 ( 自I~ I<丹、シングルペアレント)にたいして、
i
:
f
[花化しつつある 。「個人一 l
玉
│
家J
I
,x1
界と機能不全がt
2
0世紀後半の、既成のプログラムで対!ふしようとす
係
、 「公一私」 関係の l
耳編が新たな課題とな ったの
る方式は、所得絡差の栴大、中産階級の分解と新た
である 。
な不平等化にたいして、有効な処力一築を示している
ようには見えな L、
3
日本的なメンタリテ イ、ナショナルキャラクター
は、このような 「
序説」 の部分的診察とするには竜
AkeDaunはスウェーデン人の心性を、内気、控
すぎる課題なので、日Ijの場で検討するにして、印象
l
E直、同質性と特徴づ
風に 言 えることは、セィフティ・ネ ッ トも、かなり
けた 。「 スウェーデン人は 川本人以上にシャイであ
の部分がアメリカあるいはスウェ ーデン起源と推定
るJ スウェーデンの 1
i
)
:税はアメリカ人以 1
:
.
に、子
できることである 。 これにイギリスとドイツを力日え
えめ、独立心、 (
[
Iいの回避、
r
r
供に独立と1"1
起を鼓舞する J アメリカでは学生は
ると、それら 全部のルーツ採しが 1
1
]
"能かもしれなし 、
通常一人あるいは 三人の友人と府住施設を共有す
ただ、それによ って何カ {
J
'
[
W
i
oされるかという川題は
る。 スウェーデンの学生はほとんど常にひとりで作
)
i1jであろう
む。J 同 質 的 な 文 化 は 統 介 化 さ れ た 文 化 で あ る 。
したが、 I
I
U
:
起はそれらをつな ぐメカニ ズム
、
と点。l
人々は人純 l
旬
、 言語的、宗教的、道徳的に近訟であ
帰属意識を社会的制御・統合のレベルに編成してい
る。スウ ェーデンの文化は同質的である J川
く仕組みにある 。
r
c
L
I本の制度はこの論ィラでは 「混令」的
このようなメンタリティに、スウェーデン的な保
アメリカは公的別iIiリと支援を削減することで (
小
障の体系を Eねてみると、 l
I
J
i
j
{1'の関連およびアメリ
さな政府と内己点任 )、雇用と佐川における不安定
カとの 差 異がは っきりしてくる c Pハンセンが提起
性と格差を極度に J
仏大した c ここではやがて不況応
¥
1
E
点となった 「国民の家」
しスウェーデンモデルの I
而l
にはいる段階で公的介入を強化する }
j向に対応を
1
のビジョン (
人生の全段階で 1
;
1
家が 「良き父」 とし
スウイァチせざるを符ないとチ怨される 。スウ ェー
て人々の~ぶとニーズを調幣・制御する 「 家 」 の役
デンは逆の方 i
j
'
J
Iをすでに取り始めている 。公的計 l
i
l
j
剖を果たす)は、このスウェーデン的心性と不 n
J分
的令而的支援から、伽│人のイニシアテ ィフーへの方向
であるようによL
える 。述刊;の感覚も、同質性、独立
の修正は、 7
0年代以降の新たな条件の そ
t成によ って
心という心性なくしては成立不可能だ、ったろう 。 な
不可避とな ったのである 。
によりもスウェーデン方式を可能にした組織化 (
生
,
活協同組合と労働組合の全 I
q
的組織化、それを支払ー
n本も同様な
「公一 私」関係の I
y.f;漏を緊急な課題
とする局面にありながら、全体として向かうべき方
基盤とする社民党政権の政策構想と合意形成技法)、
l
i
l
Jはまだ捕かれていない。その }
I
I
I
I
I
Jは 「混合」の背
すなわち 「労 働 組 合 組 織 社 会 民 主 党 政 権
後にあるメカニズムとナショナルキャラクターと の
凶家へ
の信認一 昨遍主義的社会サービス j という 1
1
j
l
l
1
史的・
政治椛造的述 W
lは、アメリカの 「独立心 -5
'
.
S
f
'
J
性」
とは対照的な 「
独立心
同質性」の心性によ って成
適合的関係が明維にされてないからである 。
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u
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l
i
s
m ともいわれる特性がこの領域でも強く』よ
られる 。 出発点における 「企業
個人
家族」 と
立し、公的紘戚への信訟はこの条件の tでのみ維持
「地 域 家 族 制 │ 人」 の複合性。公的な責任の縮小
される 。ここでは家族のイデオロギーは強調されず、
要素と拡大要素の混在、たとえば、介護保険に見 ら
例人の自 立性と政府 (
大きな市町村政府) との関係
れる縮小への思惑と t
普遍主義化への萌芽の混在、そ
の中で、たとえば高齢者制祉サービス見らるように
して家族の問題。現実に進行する家族の個人化の流
普遍性が実質化 していくのである 。
れと、あくまで家庭を福祉の現場として公的支援を
3
0 ・人間文化
セィフティ・ネ ットの体系とナショナル・キャラク ター
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i
¥
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I
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9
9
4年
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本│五│における J
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I形態多燥化の'主体と今 1の
(
「家族の過剰な負 }
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Iを避ける」ためのものとする立
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1家の政 i
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川
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れ
斉/
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,大山
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|床づけ 。
(
1
4)
アメリカの 「 独な心 - J'I~.t1. 性 J 、スウェー
l ,iJt'['I"U にたいして、
デンの 「
独占心
11 本の特 '~I
を 「 非独立心(集 卜tl 凝集的 fl~1 人 '1"1) -I
'I
I
nn.J とj
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l
l
l
とすると、それとキl
L介わされるべきセイフテイ・ネ
ットは、どのような像を 結ぶのだろうか。
このように、社会的保隙 ・行
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J
'
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:の現在を線認する
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社会構造の変動と労働問題 j社会政策学会、
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皮古山 、 1
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9
7
ことで、検討すべき川題の設山は出発点に ~"I} ってく
るc 社会的安定化装 i
i'i:は制御機能と分離して考える
ことはできなし、。 その i
l
j
J
l
御機能は、ナショナルキ ャ
ラクターと|凌 l床に衣現した 心作 、
I~J{;系に結びっく 。
その同右性を人々と社会的資J
i
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とのつながりに表現
:
w
できるかどうか、考察すべき l深 はこのようにたて
られるのである 。
1
阿部よ;自S
I・井品
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勉
、 『社会制祉の 1
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斐問、 2
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文献
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ドメス出版、
1999{1~
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2 ・人間文化
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論文
国際比較調査研究の
体験ノート(1)
1.はじめに
おお
まつ
はし
ゆき
大橋松行
人間文化学部生活文化学科人間関係コース
結論
私は 1998年4月から 2001年3月までの 3年間、日
本 ・韓国・中国三国の比較調査研究 (
f日 ・韓・中
M川河
1、
私がこの共同研究に参画するきっかけをなしたの
め
(
研究班主任:君塚大学教授)。私はこの共同研究に
i
属託研究員として参画したのである 。
科¥宜
研究 (
社会科学部門) として実施されたものである
符一
宙人
j
i
の一の
ま一査
生一調
における社会意識の比較研究 J
) に参画する機会を
1教大学総合研究所の共同
得た。 この調査研究は、刊¥
図1 共同研究における 5つの水準
出所 川喜田三郎 f
野外科学の方法一思考と探検1中央
公論社, 1973年.P
40。
が、前年(1997年)に韓国の共同研究者とともに行
った日 ・韓の比較調査
(
f日本 ・隣国の大学生の生
活および社会意識に関する 比較調査 J
) である 。 こ
共同研究の全体像を私の体験を通して素描すること
の調査は在外研修の一環として行ったもので、 主た
にするが、その前に、私たちの 「
共同研究Jとはど
る共同研究者は 、日本の事情に精通している 東 ~II~ 大
ういう性質のものであったのか、 ということについ
学校社会科学大学社会学科教授の沈貞宅博士(現名
誉教授)であった。 この調査は、日本の 3大学、韓
て少し述べておきたい。
川喜田 二郎は、共同研究を図 1のように 5段階に
国の 1大学の学生を対象 として、 集合調査法で、行っ
区分して、このピラミッドの各層において、それぞ
た。授業中に質問用紙を配布し、学生が調査票に記
れの段階での共同が成り立ち得るし、あるいは、 一
載された質問文を読んで、それに回答を自分で記入
つの段階だけでなく、いくつかの段階にわたっての
する自記式調査法を用い た。韓国は、主に共同研究
共同作業もまた、成り立ち得る、と述べている
者がこの方法で実施した 。調査対象・調査期間・調
私たちの共同研究は、川喜田のいう 5つの水準を買
:A大学
。
11
(
関西地
いたものである 。詳細1については具体的に後述する
区の公立大学)、 1997年5月
、 9
1人
、 B大学 (
関西地
が、計聞から資料収集といった基礎段階における共
査有効数は次の通りである 。 日本
、 137人
、 C大学
区の私立大学)、 1997年 6-7月
同か ら方法論や結論という上位段階における共同ま
997:
1
1
三6
月
、 78人。 日
(
関西地区の私立短期大学)、 1
で含んで、いる 。共同研究における各水準で日本の研
本の合計 306人。韓国 :D大学(釜山市の私立大学)、
究メンバーがリードしていったことは否めないけれ
1
9
9
7
年5月
、 1
2
4人。調査有効総数430人。
この調査は、国際比較研究としては決して十分と
ども、各段階での具体的作業は、韓国や中国の研究
メンバーと文字通り共同しながら進めていった。 日
は言い難いものであったけれども、日・韓 ・中共同
本側が打ち出した方針を、そのまま韓国や 中国の研
研究を実施するにあたって、何がしかの 「
先行研究」
的役割を果たすことになった。実際、これを 基にし
究メンバーが忠実に 実行していった、というもので
はなかった。全てのメンバーが、 全ての段階で、主
て検討会も行われたし、また、私たちの共同研究と
体的に参画し、知見や情報を共有しながら、各自の
星明偽教大学教授が独自に行った中国調査(北京市
役割分担を遂行していったのである 。私から見れば、
の国立大学、 1997年 1
0月
、 193人)の成果を、第 71
実に迎想的な共同研究のあり方であったと思う 。
回日本社会学会大会(1998年 1
1月22日、於:関西学
院大学)で共同発表した。 さらに、韓国や中国での
シンポジウムや研究発表会でも報告した。そのとき
に得られたさまざまなアドバイスや知見も、その後
の研究過程で、大いに役立っ たのである 。
日 ・韓・中共同研究は、そのスケールの大きさや
2
. 比較研究の計画概要
私たちの共同研究は、 3ヵ年計画で実施された 。
具体的な計画 内容については、研究班主任の君塚教
授が作成した 「
研究計画書 J(
1
997年 1
2月1日付)に
詳細に記載されているので、主としてそれに依拠し
;
精度等において、私たちが行った比較研究の比で=は
てその概要を述べておくことにする 。
なかった。私は、この共同研究で国際比較調査研究
(
1
) 調査研究期間:1
9
9
8
年4月-2001年3月。
の何たるかを思い知らさ れたような気がする 。その
(
2
) 調査対象とサンプル数:日本の大学生(1, 000
意味では実に貴重な体験であった 。以下で、今回の
人)、韓国の大学生(1, 000人)、中国の大学生
人間文化・ 33
国際比較調査研究の体験ノート(
1
)
(
5
0
0人 )
決められている。ここで特に中国側の研究メンバー
2
.
0
4
0万円(19
9
8年 度 :6
5l
.5
万円、
1
9
9
9年度:8
3
4
.
9万円、 2
0
0
0年度 5
5
3
.
6万円)。
上海社会科学院の沈国明副研究員が予定されてい
(
3
) 研究経費
(
4) 研究班メンバーと役割分担
①
日本側 (
8人)
a)研究班主任:君塚大学 (
偽教大学社会学部助
について少し説明しておきたい。当初の計画書には
た。 しかし、本人の都合で実現しなかったので、中
国青年政治学院の呉魯平高1
)
教授がメンバ ーに加わ っ
た。呉副教授は中国共産党の幹部党員である 。結果
教授、現教授、研究班の活動・運営に関する
的には、呉副教授の参画が、中国調査をスム ーズに
調整)
実施する上においてプラス方向に大きく影響したの
b) 嘱託研究員
である 。つまりこういうことである 。
- 張再三(愛 知大学国際問題研究所研究員、現1?~
中国は人間関係でつくりあげられた 「人間関係社
教大学社会学部教授、日中比較の専門知識の
会 J(=関係主義社会)であることはよく知られて
J
是供と対外折衝)
-近藤敏夫 (
偽教大学社会学部講師、現助教授、
ヒアリングの方法に │
期する専門知識の提供)
・黄嘗時(仰教大学文学部助教授、中国と中国
語に関する専門知識の提供)
-山口洋(刊I
l教大学社会学部講師、調査・方法
論に関する専門知識の提供)
-大橋松行 (
滋賀県立大学人間文化学部講師、
日韓の青年に関する専門知識の提供)
c)研究協力者
いることである 。人間関係社会とは、人と人の関係
でつながっている社会のことであり、
r
l
羽係
(クワ
ンシィ )Jと呼ばれるそのつながりは、組織をこえ
てつながっている 。従って、関係がよければ何でも
通ずるし、関係がなければどこも行き詰まってしま
う。中国で何かをするときには、コネを採さなけれ
ばならないのである
調査研究においても事情は同じである 。石田浩は、
中国で本格的に調資研究するには大学・研究所等の
研究者の協力が必要であると指摘して、次のように
r
・星明 (
似
¥
1
教大学社会学部教授、 r
l
"国に関する
l
)外国人にと って資料の 収集、特
述べている 。 (
専門知識の提供と対外折衝。その後嘱託研究
に棺案や戸口簿の利用は難しい場合が多く、中国
0
0
1年 1
月から l
r
J
.
ぴ
:
"
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J
f究協力者)
員
。 2
2)
言語の問題。
側共同研究者の強力が必要で、ある 。(
-大束貴生 (
仰教大学大学院社会学研究科博士
北京認が通じない地域があり、広東語や閑南語、
課程、現仰教大学非常勤講師、日韓中比較研
あるいは七海語のように各地域の言語が話せなくて
究に関する先行研究の整理)
② 韓国似)
1 (
研究協力者 3人)
はならない。 もし、方言が話せる共同研究者がいな
い場合には、地元の小学校や中学校の教師の協力を
-沈貞宅 (
東亜大学校社会科学大学社会学科教
3)
県
得るようにする 。彼らは必ず北京語ができる 。(
授、現名誉教授、 韓国社会に関する専門知識
政府 ・郷鋲政府 ・村民委員会・公安との交渉等に際
の提供)
し、中国側共同研究者の役割は大きい。(
4)
中国側共
-宋正基 (
全北大学校政治社会大学社会学科助
同研究者の存在は受け入れ側を安心させ、長期の調
教授、現教授、日韓比較に関する専門知識の
査も可能となる 。(
5)
アンケート調査などをする場合
提供)
には、絶対に中国側の共同研究者が重要となる 」い。
-金哲秀 (
大郎発展研究院責任研究員、現甑山
私たちの共同研究に関していえば、経副研究員と
道思!佐川 f
究所社会科学部研究委員、韓国での
星教授とは旧知の間柄なので、彼の研究者としての
先行研究の紹介と実査調整)
人的ネ ッ トワ ークを利用して調査を行うことは可能
③中国側(研究協力者 2人)
であった。そこに中国共産党の幹部党員でもある呉
-羅紅光(中国社会科学院社会学研究所副研究
副教授が加わったことによって、人的ネッ トワー ク
員、日中比較の専門知識の提供と実査調整)
は一層拡大し、充実した。研究者としての人脈の上
・沈国明 (
予 定) (上海社会科学 院副研究員
、
に、共産党幹部党員としての権限や人脈がさまざま
中国に関する専門知識の提供と実査調整)
3人であるが、いずれ
研究班のメンバーは全部で 1
な面において絶大な効力を発揮したのである 。共産
党政権下なればこその効果であ った。
もその分野の専門家である 。役割分担も各メンバー
呉副教授は、計画段階から積様的に協力すること
の専門性および関係性 (
特 に対外折衝) を勘案して
を惜しまなかった 。中国調査に関しては、 当初北京
34 ・人間文化
国際比較調査研究の体験ノート(
1
)
の大学生だけを予定していた。しかし中国では、大
後半では、回収された質問紙にコーデイング等の
学進学率が極めて低いために、大学生が青年層を代
処理を行い、データをコンピュ ー タに入力し、各種
表しているとはいえない。代表性の問題が生じたの
の統計的解析を行う 。 また 、 ヒアリングの整理を行
である 。 そこで、北京の職業青年、河南省および山
う。 これらの作業を遂行するために、韓国および中
東省の農村青年をサンプルに加えることにした 。調
国の研究協力者を交えて研究会を行う(主として日
査対象となる大学、企業、 j
長村との交渉に当たった
本で行うが、場合によっては韓国および中国でも行
のが呉副教授であった。詳細については後述するが、
う)。
中国調査は呉副教授の協力なくしては成果は得られ
なかったといっても過言ではない。特に、石田の指摘
において大きな威力を発陣したのである 。
した(
3X4X5)
(
3
)2
0
0
0
年度
前半では、統計的解析から出てきた数値を解釈、
次に 3ヵ年の計画概要を見ておこう 。 これについ
それと並行してヒアリングからの知見を概念化し
ても、主として君塚教授の研究計画音に基づいて、
て、全般的な考察を深める 。 この過程で補足調査を
その概要を述べることにする 。
行う 。 このための研究会を国内はもとより、韓国と
中国でも行う 。
(
1
)1
9
9
8
年度
前半では、第 1に、研究会を主として、このテー
後半では、報白書作成のための論稿を繰る 。研 究
班の全日が各自少なくとも 1篇の論稿を作成する 。
マでの先行研究を丹念にフォローし、この研究領域
各自の論稿を全員で集中討議し、完成杭に仕上げ、
て、の到達点を確認する 。研究会は囲内だけでなく、
限告書として編む。
韓国および中国でも行う 。 その際、韓国と中国で専
以上が、 3ヵ年の研究計画の概要である 。 ほぽ社
門研究者(当該調交における研究協力者以外の専門
会調査の定行通りの計阿内容であるが、尖際は各段
家を合む)からの学術的な情報の提供を受け、また
階で状況適応的に修正や変更を加えながら、また、
予備調査を行って調査対象の青年府からもヒアリン
柔軟性をもたせながら、臨機応変的に実施されてい
グし、そこでの知見もパイロット調査的に利用する 。
った 。 以下で、共同研究のプロセスの概要および私
方法の検討を行う 。特に中岡でのアン
第 2に、調干E
自身が各段階で感じたことや印象に残ったこと、ま
ケー トによる計量手法の難しさを洗い出し、その克
た、そこから符た知見等について具体的に記述して
服i
去を検討する 。 これをもとにして、この調査での
おくことにしたい。
問題設定を具体的かっ精密にしていく 。
後半では、 一般的な仮説を構成し、これを作業仮
説化して日本語の質問文を練る 。 その質問文を 言語
3.ス テ ー ジ 調 査 問 題 を 選 択 し 定 式 化
する過程
認に翻訳す
の専門化の協力を得てハングルと中 │
主l
る。 また、これと並行して、実査(サンプリング、
1)調査研究の過程
質問紙の配布 ・巨│収等) の方法を雌定する 。 この作
一般論的にいえば、調査研究は、 ① 問題の決定と
業については、韓国および中国の研究者を交えて、
仮説の形成、 ② 調査の計画と準備、 ① 現地調査、 @
主 に日本で行う 。 さらに、 1
9
9
8年 1
2月にマカオで国
データの整理と分析、 ⑤ 調査報告書の作成という手
際社会学会の T
he 4t
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l Symposium
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を踏んで行われる 。
もちろん各段階には、より小
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u
di
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sがあるので、予備調査
さな段階がいくつも存在するし、また、各段階は相
等での知見を基に、何人かのメンバーが発表する 。
互依存の関係にあって、前の段階の要件を満たさな
(
2
)1
9
9
9
年度
調査研究は報告書の作成で 一応のプロセスは終了す
ければ、次の段階で適切な作業の遂行はできない 。
前半では、早い時期(それぞれ学事スケジ、ュ ール
る。報告書 には、
i
寅緯的アプロ ーチの場合は、経験
を考えて 4月 - 9月) に、三国で l
属託研究員および
的水準での調査仮説の検証や概念的水準での理論仮
研究協力者を中心に、その他の協力者の援助を得て
説の検証、また、帰納的アプローチの場合は、経験
サンプリングを行い、質問紙を配布・回収する 。 そ
的一般化が記載されている 。 それらは 一定の結論で
の後、なるべく多くのインフォ ーマントにヒアリン
あるとともに、次の調査研究の循環の出発点でもあ
グを行う c
る。 その意味で、調査過程は循環性を特徴としてい
人間文化 ・
3
5
国際比較調査研究の体験ノート (
1
)
るといえる 。
)
i
:
中道は、 「ある 問題が社会調査によって解明され
もう 一点大事なことは、調査研究の実際のプロセ
スにおいては、 「
研究の具体的な作業の時系列的な
解決されるべき記、義のあるものとして自覚されるに
は、特定の社会的現実 に問題を感得 (
問題の発見)
f
それがなぜ I
l
i
J題なのか Jr
その問題性はいかな
I
)
I
H
序」 と 「
認識論的行為の論理的秩序」 との二つを
し
、
明断に分ける、複日艮的な考え方を導入することであ
る 61。 このことについては、 D
. ブルデューが次の
る点にあるのか Jの認識に到達していなければなら
ない。調査に際して『いかなる問題点の解明 ・記述
ように述べて、その必要性を指摘している 。「研究
を目標にするのか』 を、調査者自身が明確に確立 し
のプロセスを、継起的段階からなるサイクル (
観察、
ていなければならない。調査者は、調査すべき問題
仮説、実験、理論、観察とい ったような ) と考える
点と調査目標の明確化があってはじめて、社会調査
のは、最もありきたりのイメージであり、教育上の
の企画に入ることができるのである J'"と述べて、
有効性くらいならあるかもしれない。 しかし、認識
実際の調査活動に入る前段階での必要にして重要な
論的に有意味と考えられる 一連の操作を、官僚制化
i
i
*題を指摘している 。中道自身は、このステージを
された分業のメカニズムに従 って分断された作業の
「調食問題を選択し定式化する過程 」、すなわち、
列挙へとすりかえてしまうと、このイメージは二重
「
創造的な思考過程であり、経験的な世界にかんす
則的的なものとなる 。 このイメージは 『
実
の意味でJ
るさまざまな考えや論点について思考し、聞を発し、
験のサイクル』の全局面を、お互いぱらぱらの外的
それらに対する可能な解答を考笑したり模索したり
する過程 j として位置づけている l九
契機として空間のなかに投影することによ って、操
作の実際の流れを不完全にしか再構成できないから
である 。実際にはひとつひとつの契機のなかに 全サ
イクルが存在している J;1。
では笑│僚に、社会調査はどこから始まるのであろ
うか。「社会調査は、問題の発見から始まる 」引 と
する中道官は、調査問題の決定過程を図 2のように
t
前いている 。調査研究の実際的な出発点が 「
問題の
r
2) 問 題 の 発 見 」 か う 「 問 題 の 規 定 」 ま で
(
1
)問題の発見と情報収集
さて、私たちの共同研究ではどうだったのか。 l
年目の前半の段階がほぼこの過程に 当てはまる 。以
下で、主として中道の知見を借用しながら、具体的
内容を述べていくことにする 。
決定」 にあるとすれば、 「問題の発見」はその前段
共同研究者全てが共有していたかどうかはわから
階における出発点として位世づけられるものであ
ないが、少なくとも綾数のメンバーは、近年、税国
る。問題発見の原初形態は 「
問題を感じる 」 ことに
や中間からの留学生や研究員が増えていることに注
あると中道は指橋しているが、それには 「
司H
練され
た注意 J91 が必要で、ある 。 ウェ ツブ夫妻は、社会研
る。当然この反日感情は、大学生にも内面化 されて
究者が備えるべき精神的資質の ーっとして、 「自分
の視たり聞いたり読んだりするものに注意を集中で
きなければならない j 川ことをあげている 。
目していた。際問・中国とも反日感情の強い医l
であ
いるとの思いがあった。 しかし、少なくとも私や他
のメンバーが接した留学生や初│
究員からは、それを
感じることはなか った。 なぜなのかわからないが、
図2 調査問題の決定過程
t
I
:
l
所
3
6 ・人間文化
宝月誠・中道質-田中滋・中野正大 『
社会調査 j有斐閣,1989年 .
P
1
7o
1
)
国際比較調査研究の体験ノ ート (
Mとなくそのことがお互い気になっていた 。「問題
て精選する、文献に│刻する情報をメンバー全員が共
の発見Jとい って よいであろう 。
布することが主な H的であった。その結果、最終的
この「問題の発見」から「問題の決定j まで の間
に邦文の文献が 1
7
0
1
1
1
t、中国語の文献が2
6
8
1
1
骨購入さ
!
惑じられた問題」の
には、 「問題意識の形成 J(= f
れた (
ハングルの文献は日本側メンバ ーの中にハン
r
ゃから、探究への動機づけが形成され探究すること
グルに精通しているものが皆無であったので購入さ
の意義を確信できた問題だけが選択される)、 「問題
れなか った。ただし、制訳さ れた韓国の文献は相当
の状況分析 J(=収集 ・整理された情報を素材に、
数購入されている)。③欧文の先行研究論文につい
問題をめぐる全体状況についての分析を行う )、「問
ては、 学術情報センタ ーの CD-ROMで検索し 、そ
題の規定 J(=既存の理論的研究において蓄積され
れをデータベース化して、当該論文を所有している
ている諸概念、それらを用いた概念的枠組みを併用
大学に複写を依頼して関係論文を収集した。収集さ
i
lされた問題の構図を再構成し、同時
して、粗く素:t
れた論文は、各自分担して要約し、フ ァイル化して、
に問題探究に理論的位置づけを与える ) といった作
一括保管・管理することにした。
業過程がある 1。
:
)
1 これら 一連の作業過程で、私たち
が行ったことを具体的に見ていくことにする 。
このように、文献情報の収集においては、 ① イモ
J式 (=収集された文献に注記されている引
ヅル J
私たちの共同研究が、総合研究所の共同研究とし
用・参考文献をつぎつぎにたと、っていく方法)、②
て正式に承認されたのが 1
99
7年 1
2月であったが、実
一点集 中方式 (=当の問題に関連のある記事 ・論文
質的にはその年の 8月からスタートしている 。それ
の掲紋が多い主要な総誌について、その掲載記事・
は、正式に共同研究としてスタートするまでに、調
論文を 一定期間にわたり、 「
総当り式」に探索する方
室研究の実質的な出発点、すなわち、 「
問題の決定J
2
法
)
、 ③ コンピュータ検索などの方法を駆使した 1
段階まで進めておこうという立図からであった 。実
問題把握の情報収集手段として、 今一つヒアリン
際は、思惑通りには事が運ばなかったのであるが、
グ調査によるものがある 。私たちはヒアリング調食
幾分かは余裕をもってスター トできた。 この期間に
を予備調査(1年目 )、 本 調 査 (2年目 )、補足調査
私たちが行ったことは、次のことである 。①研究予
(3年目 )の各段階では行ったが、この前段階では
定メンバーの選定、②役割分担の決定 (
研究主任、
行っていない。ただ、研究会メンバ ーの金哲秀氏が
会計、庶務)、 ③研究会の開催回数の決定 (
原 則月
)
、 ④正式にスタ ート するまで月 2回の勉強会
に 2回
1
l
j
l
i教大学研究員として来日していたので、彼に 『韓
'
l図 .I::l本国民立識調査白 書j (延世大学校 ・
国 ・仁
の開催、⑤情報の収集活動と整理など。
韓国放送公相発行、 1
9
9
7年)をもとにして 、韓国で
ここで情報の収集活動と整理について少し触れて
の先行調資の状況報告をしてもらった。 この報告に
おきたい。私たちは、問題の全体状況を把握するの
よって 、三国国民の意識構造に大きな差異があるこ
に必用な情報を収集する │
祭に、 「関係のある 」情報
とが発見できたし、また、韓国調査におけるサンプ
だけでなく、 「関係のありそうな 」情報も同時に探
リングや回収の方法 (
調査単位は 「
家」 と 「
個人」
検した 10。韓国や中国に関する文献はもとより、社
の 二 通り ) 、韓国の教育 i~IJ 度や学期 Í~IJ I
変 (
前期 :3月
会調査や宗教(特に儒教関係)等に関する文献をリ
~6 月、後期 :8 月 ~ 12 月 ) 、 大学進学率 0996年度
ストアップし 、それをデータベース化して、購入 │
豆l
5
4
.
9%)、 兵 役 (3年 1
1
])な どに関する矢I
L
見を共有
することができた。
書を決定 した。 ここでいう文献とは、学術書 (
研究
書)、評論、調査報告書、関係論文を掲載している
るものをリストアップして、それを研究会ごとに全
(
2
)問題の状況分析
私たちは、このような情報収集を継続しながらも、
これまでに収集・整理された情報を素材に、問題を
めぐる全体状況についての分析を行った 。 これは、
「
複雑な関連を有する問題領域全体を統一的にとら
えようとする作業」川 である 。
体に諮って、購入するかしないかを決める 。全体に
問題状況の全体的把握は、主にブレーン・スト ー
専門雑誌等で、国内のものはもとより、海外 (特に
中国や欧米)の文│献も含まれている 。
1
1
f
tを踏 んだ。① まず、メン
その際、次のような手 1
ー各自が所有している関係文献をリストアップし
ノt
てそれを集約する 。②それ以外の文献で各自希望す
諮ることにしたのは、文献の重複を避ける、文献を
ミングの技法を援用して行わ れた。 この技法の特徴
客観性、妥当性、信頼性という科学的基準に基づい
は
、 ① 各自の知識や収集した情報を自己規制せず、
人間文化・
3
7
国際比較調査研究の体験ノート(
1
)
r
I~I 由奔放 」
に開陳し、 ②他 人の出した情報や知識
一般的水準には達しておく必裂がある 。②読まれる
に対しては 「
批判を厳禁」 し
、 ① むしろそれを受け
べき文献は、主題に │
刻するものといっても、狭く限
た新たな 「
便乗発展 j を心がけながら、 ④ 「量の中
定しない方がよい。 ③単なる抽象論をおぼえるので
から 1~ のよいものが生まれる 」 との精神で、できる
はなく、 t~i き出されている結論的理論を、その実証
だけ多量の情報や知識を出し合い、 ⑤ :
)
'
[
1
1象的な 公式
的根拠に関連させ、それによって批判的に検討しな
論や観念論を避け、むずかしい術語や硬い熟詩に拘
がら読む。 ④調査の前に研究すべき文献は、より専
泥せず、 ⑥ 知的な虚飾を捨てて理屈っぽく考えない、
門的な書物であり、調査報告そのものにのせられた
というところにある 。つまり、 「問題に関係がある
理論的結論まで含むものである削。
とか役立つだろうかという懸念を 一切抜きにして、
さらに、調査の主題に関連をもっ既存の調査報告
頭の中を洗いざらい出しきっていく 。 こうして、あ
書の検討についても、次のような点に意義があると
くまでも日常経験に即しつつ帰納的な姿勢で対象を
指摘している 。①すでに何が研究されているかを知
I
1
i
Iき出す」 というものである lil
ることによって重複を避ける ことがで きる 。 ②いか
なる調査方法が用いられ、いかに分析されているか
(
3
)理論的文献および調査報告書の検討
を考察することによって、多くのことを学ぶことが
このような作業を経て、私たちは、理論的文献の
でき、調査の実施についても有益な示唆をうる こと
検討、調査報告書の検討を行い、調査主題 (=発見
ができる 。つまり、調査目標を達成するために、ど
され探究関心を抱かれた問題)の共有、各自の │
刻心
の ような方法が必要であり、どれだけの対象をどの
領域の提示と分析枠組みの検討を行っていったので
ように選んだらよいかという見当がつくだけでな
ある 。 これらの作業は、主として共同研究1年日の
く、従来の調査のどこに欠陥があるのか、それをの
前半で行われた。以下で、これらの概要を述べてお
りこえるためにはどうしたらよいかという研究がで
くことにする 。
きるということである刊。
問題の状況分析によって粗く素怖された問題の構
既に述べたように、理論的文献や調査報告書の検
図を、既存の里町命的研究において蓄積されている諸
討は、調査主題を 明確にするとともに、その中に 含
概念、それらを用いた概念的枠組みを借用して再構
まれている解明し、解決すべき問題次疋を焦点化し
成する作業は、探究しようとする問題に明確な意味
て、調査問題を 抽出す るための重要な作業であるが、
内平等を与えるとともに、問題探究に理論的位置づけ
私たちの共同研究ではどうだったのか、具体的に述
を与えるという意義をもっている 。 ここでは、 「当
べておこう 。
の問題領域にかかわる既成の研究を学び検討するこ
私たちは l年目の前半部分で、 ① 先行研究の検討、
とによって、これまでになにがなされなにがなされ
① 各自の関心領域の提示と分析枠組み (
分析軸)の
ないままであるかを知り、追求すべき新たな諜題の
検討を │
百
j
時並行的に行 った。先行研究の検討におい
設定や、あるいは応用改善のヒントを導き出してい
ては、各自の関心領域の確定と理論的分析枠組みの
くことが重要 J1引になってくる 。 そのためには、
確立を念頭に置いて行われた。具体的には、 M. ウ
理論的文献の検討や調査報告書の検討が必要不可欠
エーパ ー (
f儒 教 と 道 教 j
)、 R
. コリンズ(“ An
である 。
Asi
a
n R
o
u
t
e t
o C
a
p
i
t
a
l
i
s
m
")
、S
. ハンチント
ンr
(
文明の衝突 J
)
、R
.ベラ ー (
r
徳川時代の宗教 J
)、
理論的文献の検索は、調査主題に含まれている諸
れる問題次元を絞っていこうとする 「問題の規定」
(
r
家族j
)、 R.
r
(ジ、エンダーと権力 J)、 G.アラン (
r
友
情の社会学 J
)、富永健一 r
(日本の近代化と社会変
作業の中心となるものである 問。従って、この検討
動j
)、内藤莞爾 (,宗教 と経済倫理 J
) などである 。
問題次元を明確に規定するとともに、確証 された知
見を整理し体系化する試みを通して、調査が期待さ
T. パーソンズ &R.F
. ベールズ
コンネル
作業においては、主題に関して広く深く文献を批判
メンバー各自が、理論的分析枠組みの確立の基盤と
的にたえず考えながら読むことが必要で、ある 。福武
なりうる理論的文献を抽出して、内容を要約、それ
直は、理論的文献の読み方について、次のような指
を研究会ごとに発表して全員で検討しこの研究領
摘をしている 。①理論的文献をできるだけ多く読み、
域で、の到達点(=学問上ので般的水準)を硲認する、
先学の構成した理論を熟知する 。少なくとも調査し
という形で行われた。
ようとする 主題に関して学問上の常識となっている
38 ・人間文化
それに続いて、比較調査の先行研究サーベイを行
国際比較調査研究の体験ノ ート (
1
)
った 。 これも各自が調査の主題に │
刻速をもっJJ;
μfの
J
l
i出し
調査報告占の中から重要ーと忠われるものを :
(
4
)
シンポジウム・研究発表会・学会・ヒアリング等
韓国でのシンポジウム、
ド固での研究発表会、学
l
て、それについて発表し、全員で討論して、知見を
会での共同発表、韓国および中国でのヒアリング、
共有するというプロセスで行われた。具体的には次
韓国人および中国人研究者の研究発表なども調査主
のような調食報合書を検討した(主要なもののみ)
。
題の明雄化と問題次元の焦点化に多いに役立った 。
①統計数理研究所の国民性比較調査
以下でそ の概要を簡潔に述べておくことにする コ
(
r
国民性の七
o1日本人の国民性」調査は、
か国比較 J
1
9
5
3年の第
I
回調査以降、 5
年ごとに実施されている )。②総務
庁青少年対策本部の 世界青年意識調査
年との比 l絞からみた
(
r
世界の青
H本の青年 jo 1
9
7
2年の第 l問調
[韓国でのシンポジウム]
兆
韓
!
王│
ウリ社会研究学会、嶺南大学校社会学科、 f
教大学総合研究所の 三者主催で、
1
9
9
8年8月1
9日に
嶺南大学校同│深飴で行われた 。 スケジ、ユ ールは図 3
査以降、 5
年ごとに実施されている)。 ③総務庁青少
の通りであるが、このシンポジウムで 1
] ・税両国青
年対策本部の 『
青少年の意識の変化に│刻する基礎的
年の家族制 ・宗教観・政治観 ・職業観等の煩似 l
.
:や
970年
研究ー青少年の連帯感などに関する調査 J0
相違点に ついての論議が行わ れ、多くの知見を得る
の第 1
r
n
l調査以降、 5年 ごとに実施されている)。 ④
ことができた。
東京都生活文化局女性青少年課の
I
大都 r
l
T1
'
[少年の
1
9
7
6年の第 1
1日│調査以
生活 ・価値観に関する調査 J(
[中国での研究発表会]
J
iI
での研究発表会は、北京(9月) と
1
:
:
.
海
中I
02
降
、 3年ごとに実施されている)。 ⑤総開府の 「
男久
月)で、
行われた 。北京では、中国青少年研究,+,心、
共同参両に関する調査 J(
1女性に │
刻する世論調査 J
北京大学、'11
'
王│社会科学院社会学研究所で、ネ:
1
会意
1
9
8
7年3月
、 1
9
9
0年9月
、 「
女性の暮らしと仕事に│羽
9
9
1年 11月、「ソj女平等に関する I
H
する世論訓脊 J1
識に │
長
l
する研究発衣および討論会(発去者 :A
¥塚助
論調査 J1992 i l~ 11 月、「男女のライフスタイルに関
する世論調子E
J1
9
9
3年 1
0月)。⑥ NHK放送文化研究
11
τ
!
と北京大子:社会学:系副教授 1
"
国民村の口述史研究
について J
)、
t
.
J
M
f
EJ
J
1
1
1
および調査方法の研究会を行
所の
った。
11本人の意識 J調査 (
r
現代 1
1
本人 の立識構
造J
o1
9
7
3年の第 1
回調査以降、 5
年ごとに実施され
ている )。⑦中国青少年研究中心の
r
~I'I玉I ,'J'少年発
達状況研究報告 j 0
996年 )0@ 中岡青少年研究中心
の 「世代間関係状況調査 J(呉魯平 「近代化進行過
教授
1
1本における社 会意識の変化と 実態」、孫、z
上海では、仁海社会科学院で研究討論会を行った。
研究発 表者φ とテ ーマは 次の通りである 。 1998年 12)~
28H :!~fo組興ヒ海社会科学院青少年研究所長 「 改革
開放以後の l
'I
''
t!青少年の社会意識の変化」、沈教 J
受
梓における世代間関係の調査分析 J1
9
9
8年)。 ⑨中
におけ る宗教意識」、山口講師 「日緯 r
l
"の大学
「
韓│
王l
(
1全 国 農村 青 年 の 恭 本 的 実態調交」
1
9
8
3年
、 「
全国青年労働者の実態調査 J1
9
8
3年
、 「青
年価値観の調査 J1
988-90年)。⑩最近の中学生 ・
生のアイデンティティ 」、李維上海社会科学院!?少
国の青年調査
年研究所副1iJI究員
高校生の同│祭比較調査(中里至正・松井洋編著 『
異
研究員
質な日本の若者たち j ブレーン出版)等。
橋講師
上記の調子E
報告書?の中には、継続調査に │
主j
するも
のもあれば、そうでないものもある 。 しかし、これ
1
1
''
匡!の青少年問題について 。
」
同年 1
2
)
J
2
9
1
1:楊雌上海社会科学院青少年研究所国J
I
I
r
l
'困の大学生の意識の変化について 」、大
I
U僻中の大学生の結婚観・家族観j。特に
妹氏と楊氏の発表は示唆に寓んでいたので、以下に
その要約を記しておく 。
らの調査報告古は、調査主題の明確化と問題次元の
蘇氏は、故近の調資データに基づいて次の 4点を
焦点化に大いに役立つとともに、特に中因調査を行
指摘した 。第 1に、滅私奉公的価値観から偶人 の利
う上での検討課題(例えば、①統計局の調査以外で
益を優先する価値観に変化したこと 。 第 2に、従来
は、十分な定量調査をする ことが困灘である、 ②大
の「足を知る 」 という意味の後退とともに不満足!惑
学生の調査は 中国ではエリート層の調査になる、 ③
が増大したこと 。 第 3に、友人選択の基準が、個人
日本・韓国との整合性(大学生で青年層を代表させ
の利益を重視した打算的なものに変化しつつあるこ
られる ) を考えると、中国調査では大学生以外に労
と。 第 4に
、 一人っ子政策の影響として、今後、社
J
Z村青年を加えることが必要になるのでは
会性の低い大人が培えるのではないかと懸念されて
し、ること出。
働者層、
ないか等) を提供してくれた。
価値観 J1
個人の
また楊氏は、主として 「政治 J1
人間文化 ・
39
国際比較調査研究の体験ノ ー ト(
1
)
F
湾
u三三
ミこJ~~21 g
J
司 書 白 最 大{量南大}
通聾壷香男{同五t大型)
幸腎斗明 司 幸 司{唱す唱)
幸
司唱曹¥t(
吾司斗司時)
1
4
:
時1
4
:
107
1調4
1
4
:1
0
-1
4
:
判 7
1圭苦哩
1
4∞ー
1
4
:
1
0 関宮前
1
4:
1
0
15
:4
0 基調講揖
唖す唱(司号司)
r唖ー唱ー幸世守司 7
)
号>
15
'
.>
17
)号ア
}ヰ巷9j 1
-亙旦笹J
司昔司
塵量官
λ
}司
1
4
:
4
<
ト
時4
0 干4曽E
司 苛唖 {
菅号唱)
司書
君車大畢 ・
(I.
i
l喧干・世干甘)
「唱 ~'" ~吋 4 斗到9j~ 9j 喧 時斗骨 司 J
召型牛{唖寺号晋吾喧干斗}
'q!号叫到吋>
1司土司斗珂司司 4哩Jf>ll
1司
』
1
5
:
4
0
-1
53)再 4
1
5
:
S
(
ト1
7
:
f
f
i
亘
書
(喧甚寄)
君阜大畢(・比腔研究'置の主任)
r日本に釘ける量宮童謡の聖化 t賓
盤J
壷哲 芳(樟圃圃の研究協力者}
「韓掴に釘ける青~年の量虐章轟の担 ftt 買喧」
紅白ー1
7
:
(
!
iコノノ ト
明{樟世大司 司司 唱9j ~ J
大嵩並行(置買際立大) '
7
)
号(
世圭) 幸.il9j ~ J
(暗号号)
叫す剖(唱す唱噌 *I~J
喧キロ1(菅号司
司 唱 9j ~ J
。1 唱~ (喝唱唱
壷重厚(.北大)
I
本4
0
1
5
:4
0 話題提供
1
5
:
4
0
1
5
:
切 体型
星
ば
悼南贋(1北大}
『
韓 日・中 三圃の草葺絹&t草葺慣値置の比腔考聾』
' 7)号({j王) 守呈司 ~ J
1
7:
f
f
i
-1
8:∞ヰ寄豆吾
(
日 本剖)
星 明(
樟 世 大 政 措 ー 職 重 意 誼J
大睡眠 l
j
(
世買陣立大) ,草葺(先祖} 宗監意誼J
(
韓困圃)
幹 置 憧 ( 嶺 南 太 量 酷 章 轟J
匝 書 量 ( 慶 北 大 車 重 章 畠J
李 英瞳(骨:明大草葺(先匝}・京世章誼J
1
7:
(
6
・1
8
:
∞ 自由討論
T
露
1
図3 韓日国際学術討論会スケジュール
づ
el
{・社会の発展」の 3つの観点から j
Il
j
王│
の大学生
たほうがよい。③墓参は 、中間 では習 俗あるいは慣
の1
1
1識の変化について報告し 、次のような特徴を 指
行であって、宗教や信仰とい うカテゴリーには人ら
加0
年
,
1
下f
代
¥
'
: (=
言
計1
画
摘した。第 1に、政治に関しては、 8
困
ない。④中国には尊厳死や安楽死という 言葉はない。
H
⑤祖先の概念が ~lllm と日本とでは異なるので、それ
本位 (=
主
新J
庁
f
権!成戎主義)であつたが、 9
0年代後半 (=
をr
:
Y
J
維にしたほうがよい等。
転換期j)は価値観が複雑に分化・ 分散し、その結果、
[学会での共同発表]
新権威主義から理性主義 (
個人主義)へと意識が大
0
11
:
1
本社会学会大会 (
1
998年1
1月22日
、 於:
第7
1[
きく変化 していった 。第 2に
、 価値観に │
刻しては、
関西学院大学)の国際 ・エリ アスタデイ部会 (
司
80年代 はあい まいで混乱していたが、 9
0年代は明確
会:服部民夫同志社大学教授)で 、主として私と沈
化 してきた。第 3に、個人の発展と社会の発展に関
教授 とが行っ た 日韓比較調査 と星教授が行った 中国
しては、 9
0年代は両者は衝尖するのではなく、 一致
調査の成果の 一部 を、山口講師、 星教授そして私の
するとの意識が強くなり 、そのため、 社会に対する
3人で共同発表し た。共同発表のタイ トルは 「日韓
反抗的傾向が弱まった。その要因として、 一人っ子
(1)調査の
中の大学生の社会意識j で、山 口講師が 1
政策、市場経済の急激な発展、 │
世代の変化 などが考
えられる 却
。
(2)
家
概 要 ・大学生のアイデン テ ィテ ィ」、私 が 1
また、調査項目および謝査方法の研究会は 、中国
ム」 について、そ れぞれ発表し た。 この共 同発表を
族 ・男女関係」、星教授が 1
(3)
政治 ・ナショナリズ
青少年研究中心のメンバー と共同で弘行ったのである
日 ・斡 ・中共同研究の予備的作業と位置づけ
、 参加
が、多くの有益な示唆を得る ことができた。いくつ
者からできるだけ多く有益 な知見や示唆 を得る こと
r
]
1
主l
は変動期に
か具体的 な事例をあ げて おこ う。①l
を主な H的 としていた。 ここでは 質問文の 制訳 につ
あるため、青年の価値観や行動が多元化 している 。
いて次のような示唆を 得た。非英語圏での比較調査
しかも立識と行動の議離が大 き し ま た 、個人の価
文を翻訳する場合、原 文 (日本語)と翻訳文
で質問l
値 と社会の価値の遠いも大きい。従って 、理想と現
(
中国語、ハングル)との言語上の同等性を維保す
実の両方を調査したほうが よい。②中岡では 「
信仰j
るための 一つの方法として、 特 に日本語独特の言い
は資本主義に対するマルクス主義という政治的な意
まわしゃ言葉や概念について は
、 それを 一旦英語に
味をも っている 。従って 、宗教と信仰は分けて聞い
翻訳する 。そして 、こ の翻訳さ れた英語を媒介にし
4
0 ・人間文化
1
)
国際比較調査研究の体験ノート (
て双方の認識をつき合わせ
、 言語上の誤差を極小化
大郎市にある日本語学校の生徒からもヒアリン
し、翻訳文を作成する 。つまり、原文と翻訳文との
2日)。 このときは初級コ
グを行った (
同年 8月2
聞にワンクッション(英訳)置いて、 言語上の同等
ースと上級コースの双方の生徒から聞き取りを行
性を確保するということなのである 。 この意見は確
った。私と黄助教授は上級 コー スの生徒 (
女性 4
かに傾聴に値するもので あったが、 これは双方の研
人、内 3人は高校 3年生) を担当し、 主として日
究者が英文のニュアンス まで正雌に理解でき るほと
本刊を秤っている理由、日本や 日本人に対するイ
に英語に精通していては じめ て可能で、有効な方法
メージについて質問した 。上級コースの生徒だけ
であろう 。
あって、流暢な円本訟で質問に答えていたことや、
{韓国・中国でのヒアリング]
日本や日本人に対して非常に好感を持っていたこ
ヒアリングは、研究者、大学生、 青年に対して3
年間で 6回行った(1年 目:韓国 1回、中国 2
1
i
:
J
1
、
とが印象的で、あ った。
このヒアリングでは、次のような考えが示され
韓国 1回、中 国 1回、 3年目:中国 l回)
。
た。彼女たちの多くは日本のマンガを媒体にして
f
fった ヒアリングにつ
ここでは 1年目の予備調査で'
日本の文化や日本人 (
勤勉さ、正直さ )に関心を
いて述べておくことにする 。
もったということ、日本や日本人に対するイメ ー
2年日
(
韓国でのヒアリング〉
ジについては大人 (
特に父親世代)とのギャップ
(
1)大学生との座談会
が大きいこと、日本は経済大国で習うことが多く
1998年 8月2
1日に、慶北大学校の学生 (
男女7
人) を対象にして座談会を行い、韓国学生の立識
ある同であること、いずれ日本に留学してみたい
こと 等。
についてヒアリングを実施した 。 このヒアリング
また、初級コ ースでは、次のような知見が得ら
では、伝統的価値観(儒教倫理) と近代的価値観
れた。①家族:昔は父権が強かったが、近年では
1
1として、家族、職
(
西洋近代合理主義)を基本車
母親も強くな ってきた。親が子に従う風潮が出て
業、友人・恋愛 ・性規範、政治、人間関係などの
l
i
J
J
苫しないケースも増加して
きたし、長男が親と I
各領域について考えを聞き、次のような知見を符
きた。若者は家族よりも友人を大切にするように
た。①家族に関しては、 位代 1.
1の断絶、家族の結
なってきた。②社会観・都市部では地縁が弱まり、
束力や意思疎通の欠如、生活のパタ ー ンを自分自
学縁 (
大学の同窓会)が強くなっている 。一般社
身の判断で決めるようになってきたという脱伝統
会では依然として l
f
ll
縁が強いが、会社の中では学
や個人主義的側面と同時に、女性に対する援がA
縁がー若干強くなってきている 。特にソウルではこ
視されたり、チェサ(祭杷)は守っていくべきで
時代になってから、
の傾向が強い。 ③職 業 :IMF
あるとする伝統的側而 とが見 られた。②職業に関
「向己発展」のために転職をする傾向が見られる
しては 、学歴 と職業の結びつきが強すぎることが
ようになった。④政治 :韓国では大きな政治問題
指摘され、司法試験をはじめとするエリ ート 志向
が'lj~・に起ってきたために、若者の政治意識は高い 。
は、個性を無視するものであるとの考えが示され
高校までの学校教育で種々の事件について勉強す
た。 また、新入社 員採用の際に、英語 (
TOEIC)
ること、大学ではさまざまな政治情報が入ってく
の成績が重視される こと、 男性は軍隊経験がプラ
ることも 、
若者の政治意識の高さと関連している 。
ス評価されるが、女性は外見で判断 されるなど不
⑤宗教
利に扱われるとの問題点も示された 。 ③その他、
ある (
信仰している宗教の 如何にかかわらず)
'
"
。
チェサが大切であるとの認識は若者にも
友人 ・恋愛 ・性規範に関 しては、最近女性が男性
(
中国でのヒアリング〉
に求める事項が多くなった、婚前交渉は 〈
愛情で
(
1
)北京の大学生との座談会
可) という意識が強いこと(7人中 5人)、政治
大学生からのヒア リング を北京で 2回 (
1
9
98年
に関しては、意識と行動の不一致、すなわち、政
、 4日)、上海で 1回(1998年 1
2月27日)
9月 3目
治的関心は高く 、友人と政治腐敗について論ずる
行った。 まず、北京でのヒアリングは、
ことはあ っても、そ れが実際の政治行動には結び
中国 青少年研究中心青少年工作学部の学生 6人
1日目が
つかないという こと、人 間関係に 関しては、打算
(男性 4人、女性 2人) を対象に、家族、職業、
的で結束力が低下していること、などが示された 。
政治についての聞き取りであり、 2日目が同学部
(
2
)日本語学校生徒からの ヒアリ ング
の思想政治教育部の学生 7人 (男性 3人、女性 4
人間文化・ 41
国際比較調査研究の体験ノート (
1
)
人)を対象に生活、宗教、信仰、環境についての
青年幹部)、大卒の社会人 1人(女性、共産党員 )
開き取りであった。青少年工作学部とは、中国共
を対象として行った。上海師範大学は、上海市の
産党の青年団幹部を養成する学部で、この学部に
重点大学で、授業料は免除され、卒業生は上海市
所属する学生は、中国の各省から選ばれて入学し
での就職が保証されている 。上海華東師範大学は、
てきたエリートたちである 。私たちがヒアリング
国の重点大学で、レベル的には上海師範大学の上
を行った学生の大半は黒 n~ 省、雲南省、内モンゴ
位に位置づけられている 。 ヒアリングの内容は、
ル、河北省などの地方出身者であった。 このヒア
結婚 ・男女関係、市場経済と政治体制、老親の扶
リングには青少年研究中心の教員が何人か同席し
養などであったが、終始、共産党員の上海華東師
ていたが、学生たちはほとんど彼らの存在を気に
範大学の学生と社会人に主導権を握られてしまっ
することなく、自由に自分の考えを述べていたの
て、肝心の師範大学の学生からはほとんど意見を
が印象的であった(例えば、ある学生は共産党入
聞くことカ fできなかった。 そこで私は、ヒアリン
党の動機を尋ねられた際に、 「自分の出世のため」
グの後に行った懇親会のときに、故意に師範大学
と率直に答えていた 。
) 中国の事情に詳しいある
生の テーブルに座り、食事をとりながら 、雰囲気
班員は、1O{
1
三
前 には考えられなかったことである
が和んだころを見計らって、彼女たちにいろいろ
という 。
質問してみた。 ヒアリンクゃで終始主導権を握 って
このヒアリングでは、次のような知見が得られ
いた共産党員の 2人が別のテーブルにいたことも
た。 ①家族 ・男女関係.夫婦関係は、 「相敬如賓
あって、彼らを気にせずに、自由に質問に答えて
(愛に基づくお互いの尊重 )
Jを重視するようにな
くれた。
ってきた。結婚して殺と別居することは一般に認
ここで待られた知見は、以下の通りである 。 ①
められている 。血縁関係は農村では強いが者I
1
市で
結婚.個人の I~ III であり、愛さえあれば同級もか
は弱まってきた。婚前交渉については否定立見が
まわない 。 離 婚 率 が 高 く な っ て い る の は 、 経 済
多かったが、どの学生も 一般論としては究容であ
面 ・人権面で女性の独立性が強くなってきたため
った。②職業:自分の利絡を追求することは 当た
である 。 ②市場経済と政治体制:北京の市民は政
り前であり、これは富の増大によって家族の生活
治に関心をもっているが、上海の i
l
i民は政治より
が豊かになり、それが国家の発展にもつながるこ
も生活・経済により関心をもっている(市民性の
とになる 。 また、自己の収入と家族全員の収入が
相違)。経済は政治のもとであり、市場経済の発
分けて考えられておらず、子どもが親を主主うのは
展が最優先されるべきである 。 ③老親の扶養
義務であると考えられている 。③生活:個人の利
然の義務である(全員 )。④宗教 ・信仰 :年 2回
当
益追求は社会の発展に貢献する 。個人の制i
l
値を実
(
4月5日
、 1
2月2
4日)墓参 りはするが、先祖との
現させなければ、社会に貢献できない。個人間の
魂のつながりは感じないし、死後の魂の存在も信
競争は社会の発展にとって重要で、ある、などの考
じない。信仰!とは、マルクス・レーニン主義、毛
えが示された。 また、生活のスタイルとしては、
沢東思想の ことであ る。
快楽追求が最大の目的であり、そのためには物質
(
3
)専門研究者との座談会
的な基盤を得ることが必要であ る、という自己本
上 海 社 会 科 学 院 情 報 研 究 所 の 3人 の 副 研 究 員
位の考えが多く示された。④宗教・信仰:祖先崇
(
専 門:国際政治学)からも座談会形式 でヒ アリ
拝は祖父母の世代までで、それ以後は儀式がなく
ングを行った(同年 1
2月29日)。 このヒアリン グ
なっている 。宗教は哲学体系である 。無神論の教
でも次のような有益な知見が得られた。 ①ナショ
育を受けてきた。多くの人はマルクス主義を信仰
ナリズム・改革 ・開放後は外国との接触によ っ
している 。 また、どの学生も、死後肉体は物質に
て、若者は国の差 ・文化の差を認識するようにな
かえり、魂は消滅するという死生観をもっている、
り、海外留学経験者は、よりナショナリズムが強
などの考えが示された。
(
2
)上海の大学生との座談会
上海でのヒアリングは、上海師範大学の学生 8
くなった。同時に、利益の多元化が進み、青年は
自分の地域・企業の利益といった小さい 範囲での
利益を国 の利益に優先させるようになってきた 。
人 (中国 人女性 6人、日本人留学生男女各 1人)
、
しかし、中国では個人の利益と集団の利義と国家
上海華東師範大学の学生 l人 (
男性、共産党員で
の利益とは衝突せずに一致すると考えられてい
42 ・人間文化
国際比較調査研究の体験ノ ー ト(
1
)
る。 ナショナリズムに関しては、改革 ・開放後、
ここで、は主に改革 ・開放後の青年たちの意識・価
愛国主義は強くなったが、利益の面では個人主義
値観の変容が問題とされた。 これ らに続いて、中
家族のメン
国青少年研究中心によって、転換期社会における
く
ノ ー聞のつながりを大事にする、親を扶養すると
青年意識の調査(1992-93年)、社会発展の現状
が強くなった 。②中国文化 の見直し
いう伝統への再評価がある 。 また、家がうまくい
に│
渇する意識調査(1994年)、道徳文化状況に関
けば国もうまくいくというように、家庭は国家と
:
1
三
)、社会・政治意識の状況に関
する調査(1996l
のつながりで考えられている 。若者の見方も 、全
する調査(1997年) などが行われてきた。 これら
体肯定 ・全体否定の立場をとらずに、両面を見る
の調査は、高度経済成長や天安門事件などを経て、
ようになってきた 。 そのような観点から、西 ~!IJ の
青年の経済的・政治的 ・文化的な意識・価値観が
政治体制 ・経済体制のいい而 を摂取するととも
どう変容しつつあるかが主なテ ーマとなっている
に、{需家思想の中の自己反省も重視する 。 ③道
:
m
徳:中国の伝統文化には、国家に対する 「
忠」 と
。
②「中国における社会調査の方法について J
親に対する 「
孝」がある 。忠と孝が両立できない
中国でのサンプリングの特徴は、ランダムサン
場合は、孝よりも忠を優先する 。 また、法律だけ
プリングと準ランダムサンプリングにある 。前者
r
.
情にあう こと Jr
虫1
1
にあうこと Jr
義に
はM
;率法を用いて、大規模な調査が行われる場合
あうこと 」 も重視する 。④法治.文化大革命│時は
の方法で、 これまでに 30省都か ら1
0省都を選ぶこ
トップクラス (4人組)の言葉は法律と同じ立味
とや、人口比率から世帯ごとに選ぶことなどが行
をもっていた (=人治)
01
978年の 4人組の逮捕
われた。 問題点は、 主 として調査会社を通して行
をきっかけにして、人治から法治への転換が行わ
われるため、費用が向いこと、識字学が低い地域
でなく、
れ、法律の 1
1
;
I
J
)
立が幣備されてきた。現在では政治
では l同学歴層に回終が偏る こと 、若い世代の回答
批判は誰でもできる 。 また、 一人っ子政策 (
言I
n
h
j
率が低いことなどである 。後者は、ランダムサン
出産) は、少数民族には適用されない。
プリングの欠点を補うために考えられた方法で、
[
韓国人 ・中国人研究者の研究発表}
省、地方、単位 (
職場、大学等) などでのあらか
韓国人 ・中同人研究者の研究発表も、調査主題の
じめ設定された指標によって層化を行 った後、個
明確化と問題次元の焦点化 に大いに役立った。 この
人をサンプリングするものである 。 この種の調査
段階で行われた研究発表は次の通りである 。
の H休的事例として、 「中国民族性調脊」 や 「
青
(
1
)呉魯平副教授
r
中国における青年意識の先行
年制i
l
他変化調査 j などがある 。青年調査は主に調
1998年7月7日)、「中 1
1
:
1
における社会調資
研究 J(
査会社に依頼されるが、青年の所属する単位が多
の方法について J(
同年 7月8日)、「
改革・開放 F
様であり、家庭訪問では青年がつかまらないこと
での青年意識の変動について J(
同年 7月9
1
二1
)、
が多いため費用が高くつく 。 そこで、 青年連合会
「
現代中国青年の伝統文化に対する意識J(
同年 7
などの青年組織を通じて行うことが回答率を高め
月10日)、「現代中国青年における社会意識の現
るためには重要である 訓
。
況一最近のデー タから 一 J(
1999年2月23日)
。 こ
③「改革 ・開放下での青年意識の変化について J
れらの発表は、いずれも合同併究会のために来
改革・開放下での大きな変化は、精神価値も物
日した際に行われたものである 。 それぞれの発
質的価値もともに重視する よう にな ってきた こと
表の概要を簡潔にまとめておこう 。
である 。改革・開放以前は 、性のことと利益のこ
①「中国における青年意識の先行研究」
中国では、 1980
年代前半までは、青年意識研究
とはタブー視されていたが、改革・開放後、青年
は集団の利主主も何人の利主主も重視するようにな
といえば 「
定性的」研究が主であった。 テーマも
り
、 一時拝金主義に陥った 。その一方で、ボラン
「
青年の本質」 といった 抽象的・哲学的なもので
テイア活動にも参加するなど 「
貢献精神」 もおろ
あった。 1
9
8
0年代後半になって、従来の研究に対
そかにしていない。労働意識に関しては、競争原
する疑念が広がり、 「定量的」 な調査研究が行わ
理の肯定、自分の仕事の達成感の要求の増大が特
れるようにな ってきた。 中国社会科学院による価
徴的である 。道徳商では、寛容度が増大し、特に
値観の変化の研究(1988年)、農村と都市の調査
性 (
婚前交渉、不倫) に関しては究大である 。全
(
1990年) は、その先駆 けを なすものであった 。
般的に青年の観念 ・考え方が開放的になった。
人間文化・
43
国際比較調査研究の体験ノート (
1
)
④「現代中国青年の伝統文化 に対する意識」
開放意識の浸透 "'
1
9
8
7年までは閉鎖的・自尊的
改革 ・開放前は、西洋文化に否定的であったが、
(=自力更正)であったが、最近は開放を評価す
改革・開放後、西洋文化の流入に伴って青年の意
る意識が高くなった (
特に科学技術・生産管理の
識が大きく変化した。 凶洋文化の物質的な面での
面で)0 i
v
. 階層意識の変化・・・農民の非農民化、
成功を評仙Iするとともに、特に知識階級の青年は、
私的起業家の増加。 V. 儒家思想と家意識の復活
中国の伝統文化は市場原理と親和しないとの考え
時に全面否定された儒家思想の見直し (=
…文革 l
をもつようになった。その後、日本 ・東南アジア
新儒家思想)、宗族 (
同族) による事業経営、家
の経済発展に触発されて伝統文化も再評価される
意識の高まり (
柱l
先崇拝の目指の復活、家識の作成
ようになった。9
0年代はじめの青年意識調査では、
など)0 vi
. 宗教 1
2識の増殖…仏教は信仰および
問洋文化の摂取と伝統文化の保持を求める意識が
観光を目的に寺院を建立。
服着になった。人格に関しては、現代的人格 (
西
洋的人絡) よりも伝統的人格を好む傾向が強く見
られる 。 また、地域差 も見られ、経済的に発展し
(
3)金哲秀
「
韓国における育少年の社会意識の研
1998年1
0月29日)
。
究のための試論J(
金氏のこの報告から、次のような示唆に富む知
r
ている地域(上海、広東、北京などの沿海都市部)
見が得られた。 .
i このごろの学生たちは国や社
や文化程度の高い地域では、伝統文化に対する 容
会の全体的な問題への関心は高い。 ところが、そ
認度が低い。
れを行動として笑践するのは別の次元だと思って
⑤「現代中 │
玉│
の青年における社会意識の現況一最
いる 」 といわれるように、社会的な関心の低下を
近のデータからー」
嫌がる立識と、今現在の自分の利益に 答がなけれ
0年の
この報告では、中国青年報での 「開放後 2
ばよいと思う立識の両方をもっアンビヴァレント
l
時代をどう見るか」 に,
)
I
lJ
する調脊報告と 1
9
9
8年に
な若者像が見える 。 1
1
. 以前の l
隣国の若者が厳し
f
fった調査をもとに、現代の青年!習の意識上の特
い状況の中で欲求允足する方法を自ら開拓してい
徴として次のようなものを指摘した 。 1
. 豊 かに
0
代の若者は物質的に豊
ったのに対して、現在の 2
1
. 開放に
なることを求め、実際に豊かである 。 1
かで精神的に安定している社会に執着しているの
1
1
. 勉強を重
究大で、流行に関して敏感である 。 1
で、満足を遅延させながら自己を完成していく、
視する… 70%の青年が自分の子どもに大学院まで
いわゆる 「
満足遅延の訓練」ができていない。lll.
V. 実益を重視す
進学して欲しいと考えている 。 l
2
0
代若者の意識行動は、共同の利益を無視し、度
る。 V. 自主 ・自 立を重んじる…市場経済では自
を越した個人主義として現れている 。 lV. 共同体
分のみが頼りであり、問題事は自分で解決するよ
意識が貧困化し、職場や大学で先輩と後謎との私
うになっている 。 Vl
. 流動性が高まっている…出
l
"
心の集
的な共同体、郷友会 ・同門会などの縁故 r
生地と居住地とが異なっている人が多い
Vll
.
生活のリズムが早く、また生活が多様化してい る。
V
1
1
1
.
自由・民主・平等を重んじるお}
。
(
2)I
盗学婆(中国社会科学院社会学研究所長、中国
社会学会会長
r
中国における社会意識一 持
1998年7月28日)
。
続と変容一 J(
まりが徐々になくなってきている 。 V. 青少年た
ちは、未知の未来より確実な現在に執着し、非合
理的な犠牲を要求する共同体的な暮らしより、合
. 若者の
理的で平穏な個人生活を求めている 。 Vl
宗教的関心は非常に高いが、それは急激な社会変
動が引き起こした価値の混乱と不安 (
自 我に対す
隆氏は、改革 ・開放後 2
0年間の意識変化を次の
る疑問と将来に対する不安)などからの救済とし
ように指摘した。改革・開放は思想、解放からはじ
て、絶対的なものへの関心が高まっているという
ことなのである制。
まった (
マルクス ・レーニン主義、毛沢東思想か
らの解放)。改革 ・開放後は 2つの歴史的変動が
あった。 1つは伝統社会から近代社会へという社
会変動、もう 1つは計画経済から社会主義市場経
(
4)沈貞宅
r
韓国社会における社会秩序意識の世
代5
J
J
I
差異 J (
1998年 1
0月3
1日)。
沈教授は、 100年余りの聞の韓国の近 ・現代史
済へという経済変動である 。生活レベルは現在変
は急激な社会変動によって特徴づけられるとし、
.
動期にある 。次のような点が特徴的である 。 1
そのような歴史的な変革の中で、われわれは正し
「実事求是」の重視…理念よりも実践を重視。 1
1
.
い社会的な価値秩序などの問題に対して関心をも
民主意識の高まり一村長選挙の実施。 1
1
1
. 改革 ・
たず、その結果、今日の社会的な無秩序と混乱が
4
4 ・人間文化
1
)
国際比較調査研究の体験ノ ー ト(
引き起こされてしまったと述べ、特に、 1
ft.史的な
めていったのである 。
経験が逃う各位代の間にある社会秩序意識および
価値秩序志識の差は、既成世代と若い世代との悶
に社会的な葛藤を深化させたと指摘している 。そ
4.ステージ 2 :問題の決定と作業仮説の
形成
して、このような世代間葛藤の原因として、社会
調査研究が実施される前には、問題が明らかにさ
化の速度の差、選択機会の有無、現実主義と理想
れる (=問題の決定) とともに、調査によ って検証
主義のギャップ、親の権威に対する期待の差、共
されるべき仮説が、作業仮説として形成されなけれ
通価値の不在、価値葛藤を解消するための制度的
ばならない。│別組の決定と作業仮説の形成は、社会
な装置の不在および両世代の問に存在しがちな不
調査における作業の時系列的な )
1i'i序の最初の段階に
釣合いな対立などをあげている 。 また、 6・2
5戦
位置づけられるものである 。以下で、それらを具体
争(朝鮮戦争)は、韓国社会の側値秩序に生命の
的に見ていくことにしたい。
軽視、秩序抑止視の傾向、反共と保安立識をめぐる
世代間葛藤を招来し、さらには外来文化の急激な
1)問題の決定
守流入、現住中心および自己中心的傾向などがその
調査研究の実質的な出発点は、解明すべき問題の
中によ音去をされ、その上60、70年代の経済的な高度
決定、すなわち、問題の明確化である 。それは、何
成長政策は物質文化と精神文化の不均衡を深化さ
を解明しようとするのか、という意味での 「
問題白
1に急速に
せてきて、物質主義的な態度を社会の 1
1
-
体」の明俗化と、なぜその問題を選び解明しようと
拡散させた、とも指摘している ヘ
するのか、あるいはどのような意味ないし立義でそ
( 5 ) 宋正 ~I~:
r
現代韓国における社会意識の変化に
ついて J(
1
9
9
9年 1
月2
2日
)
。
の問題を解明しようとするのか、という 「
問題立識」
の明確化の両方を合立している 。つまり、
r
i
J
;
t
点
に
ラ
K
教授は、現代韓国の大学生の行動パターンや
据えられるべき (
問題〉 とは、現実の事象と主体の
価値観の特徴として、次のようなものを指摘した。
問題立識という、 二つの素材の 『
化合物jなのであ
る」刊。
1
.
儀礼の無視、つきあいの小グループ化、遊び
指向…大学の卒業式に見られる学生の式場への不
r
l
i
:mを明石在化するだけでは卜分ではない。
しかし、r:
参加現状。 i
i
. ワンタ」現象一 一径の 「いじめ
立義なものとするためには、 r
l
問題決
調査研究をイI
現象jで
、 「ワンタ 」 は自慢する人、経済的に豊
!
J
'
J
確にしなければならない。佐藤健
定jの規準をも I
かな人、派手な人、目立つ人に対する阿避行動の
二は、 〈而向さ 〉 と く
重要さ 〉が必妥であると指摘
表現。 11し政治への関心の高さ…高い投票率、高
して、次のようにいう 。「 いずれにせよ、ぃ・
(
問
い政治家志望。 IV. 異文化に対する 二重モラルの
題〉を明確にすべきこと 。そうした明確化のなかで、
希薄化一日本文化に対して開放的。 V. 強い自己
研究主体としての臼分が感じている、その問題の
表現性。以上のことから、個人主義化、合理化、
(
面白さ 〉 を深めながら、その問いそのものの く重
1i近の若者における
西欧的な価値の普遍化など、 l
要さ 〉 を姉き
人間関係の急速な変化を感じさせられるが、韓国
wすことが大切だ」 ヘ
さて、私たちの共同研究は、日本、緯国、中間の
という大きな社会構造の中では、以前からの組織
青年層 08
主
自 -25
成の大学生および一
青年)の意識構
原理や社会関係に沿った行動も呈しており、その
造を主として統計的子法を用いて比較分析し、そこ
点では儒教的な生活倫理は依然として守られてい
l三国の 「
国民性 j 川 (精確には 三 カ
から口・4f!i:・tJ
る、との見解を示した則。
岡青年の 「
集│寸│特性 J
) をあぶり出し、また、その
r
社会的交換にみる I
I
I国人の
その他、経紅光 (
1
本の青年 (
大学生)の集
「あぶり出し j を通して1::
立識」、 1
9
9
8年7月2
8日)、陳英芳(大阪市立大学
団特性をより深く解明していくことを意図するもの
大学院文学研究科博士課程、
であった 。つまり、韓国・中国との比較を通して、
r
r
青年』 とr
t
t
J
玉│
の社
会変動j、 1
9
9
9年3月 1
1日)、緒形康 (
愛知!大学現
日本の特殊性と 一般性の諸相、日本と緯国・中国と
、1
9
9
8年
代中国学部教授、 「中国青年の文化立識J
の類似性と相互の独自性の諸相を理解し、さらに韓
1
0月30日)の各氏からも貴重な示唆を得た。
国と中国の類似性と相互の独自性をも理解しようと
以上のような作業手順を踏んで、、私たちは問題
の決定を行い、作業仮説の形成へとステージを進
いうものであ った。
では、なぜ [
1.韓・中の青年の比較なのか。第 1
人間文化・ 45
国際比較調査研究の体験ノー ト(
1
)
の迎由は、日 ・韓 ・中 三回は 1
1
;
,;教」を共通項とす
いう、近代社会の価値観の極端 に肥大化 したもの」
叩
語教文化圏に所属しているからである 。歴史的に
るi
としてのアメ リカニズ ムを受容 ・摂取している 。 こ
儒教文化を共有したことがあるという共通性をより
のようなアメリカナイゼー ションとしての近代化の
どころにして、 三国青年間の類似性と相互の独自性
浸透が、日本では近代深化あるい は伝統厄l
帰やポス
を明らかにしたいという意図が働いたのである 。 も
トモダンを希求するという形で、また韓国では、儒
とより儒教文化圏はこの三国だけで構成されている
教的な伝統的価値観と西洋的な近代的価値観の狭間
わけではない。北朝鮮、香港、台湾、ヴェトナム、
で葛藤するという形で、さらに中国では、マルク
シンガポールなどの国家や地域もそうである 。従っ
ス・レ ーニ ン主義、毛沢東思想からの解放と悩値意
て、儒教文化圏を構成する全ての国家や地域の青年
識での多様化と いう形で、それぞれ大きな影響を与
を比較研究の対象として調査できればベストなので
えたし、また現に与えている 。中でもその影響を最
あるが、研究条件の面(研究費、調査 W
Jl
l、スタッ
も受けており、また影響を受けて いる可能性が高い
フ等)などでそれは不可能で、あった 。そこで、既に
のは青年層 (とりわけ大学生)なのではないか、と
9
7年)に日本、韓国、中国
述べたように、前年(19
私たちは考えたのである 。 このことは、既に述べた
で行われた比較調査によって、検討資料として活用
韓国でのシンポジウム、中国での研究発表会、韓国
できるデータが既に手元にあったこと、また、その
および中同での大学生、高校生、専門研究者からの
ときのメンバーを共同研究者として依頼することが
ヒアリング、また韓国・中国の学者の研究報告等で
可能であったことなどが第 2の主 な瑚由である 。
1
がほぼ浮き彫りにされた。
その輪車¥
林気│己夫は、 「国際比較においては比較対象をい
グローバル化の時代にあって、今後ますます国際
かに選定して事を進めることが有利か、また分析の
f
J
料、足や誤解か
交流は進展していく 。その際に 、理 j
ために何をユニットとして事を運ぶことが研究戦略
な摩擦・障害を羽│除 し、キLlIf
sI
U
切を促
ら
生
ず
る
)
i
!
f
,m
上告利であるかを考慮することが大事である 」 と述
進していかなければならない。そのためには、自国
べて、 「
科学的意味における比絞可能性の確保 Jの
の文化や国民性をよく理解した上で、他国の文化や
重要性を指摘している川。そこで私たちは、日本と
国民性をも迎 W~ し、尊重しなければな ら ない 。
は全く呉なる文化圏に属する国家や地域の青年を比
特 に "*は、第二次世界大戦で韓 国 ・中国と不幸
較の対象とするよりも、相 f
以たところと異なるとこ
j同国民の心の中
な関係を築いてしまった。今なおドL
ろがあるものを比較する方がより生産的であるとの
には大きな傷跡、が残っている 。 この心の傷は、いろ
認識から、日本、韓国、中国の青年を比較研究の対
いろなルートを通じて両国の青年層にも注入されて
象とすることにした。私たちは、調査対象の集まり
いる 。いずれの同家においても、今後の社会や国家
として一般の人びとではなく、青年層 (
特に大学生)
を担 っていく中心的存在は青年層 (
大学生)である 。
をとったのであるが、その理由の lつが研究条件か
彼らの 「あり方」が、今後の国家間の 「あり方」 を
らくる限界性であった 。
左右するとい っても過言ではない。
「近くて遠い国」
しかし、今一つの大きな理由は、日J
Iのところにあ
が、文字通り 「
近くて近い国」 になるのか、その重
った 。それは次のようなことである 。 1
2
1世紀はア
要な鍵を纏 っているのが三国の青年層 (
大学生)で
時代になる Jといわれている中で、アジアの
ジアの l
ある 。 このような私たちの認識が三国の青年層 (
大
2
1
世紀世界におけるプレゼンスの中核を担うのは儒
学生) を比較研究の対象とさせた主要因であ った。
教文化問、とりわけ日本、韓国、そして中国である 。
調査禁の前文に 、 「このアンケートは、 F
I本・韓
これら 三国は、今日、激しい社会変動と意識変化の
国 .r
t1
3
<
1
における青年の意識や人生観などを調べ、
真っ只中にある 。近代化をいち早く達成し、 「
経済
これらを相互に比較することによって、日 ~til\ I:~I 三 カ
9
6
0年代以
大国」にまでのし上がった卜│
本、また、 1
国の青年!胃の特徴および問題状況を的確に把握する
降の経済的近代化や世界化政策によって伝統的な儒
とともに、 三 カ国の相互理解の促進に必要な基礎資
教巾心体制から西洋的な近代的体制へと変化してい
料を得ることを目的として実施 されるものです」 と
9
7
0年代末からの改革 ・開放政策
る隣国、さらに、 1
あるのは、上述の意味においてなのである 。
によって急速に高度経済成長を遂げている中国、そ
のいずれも程度の差はあるもののアメリカの価値
観、すなわち「合理的技術主義と大衆的平等主義と
46 ・人間文化
2
)作業仮説の形成
調査問題が決定され、調査すべき対象現象が確定
1
)
国際比較調査研究の体験ノ ー ト(
したら 、次に作業仮説を 形成し なければならない 。
と質問項目の絞り込み作業は、ほほ一体化の形で進
一般に、仮説とは検証さるべき仮の命題であるが、
められた 。私たちは、 「
伝統
作業仮説とは、 一つの社会調査によって検証さるべ
統一脱伝統」 を基iM
l
とすることをメンバ ー全員の合
社会調
き仮説のことである 3ヘ つまり、仮説は、 「
意事項とした以外は、原則として各自の自由裁量に
近代」 もしくは 「
伝
査に明確な焦点を与え、調査過程を方向づけ、 結果:
委ねられた。従って 、各メンバ ーは、独 自の関心領
の分析や解釈の指針となる。それは調査問題にたい
域から調査問題を決定し、理論仮説や作業仮説を形
する 一時的な解答であり、その真実性が経験的検証
成することにな った 。ただし、各メンバーが何を調
の手続きを経た後に 明らかにされる 事前的な推論で
査問題とし、どういう J
.lli論仮説や作業仮説を形成し
ある J3i10 また、作業仮説は、調査研究における暫
たのかを発表する機会を設け、情報や知見を共有す
定的な仮説であり、真理そのものでは必ずしもない
が、真理への道具で、あるお)
。
ることにした 。
一般に説明的調査では、調査項目の決定に先だ、 っ
1
9
9
8年 1
1月 1
3日の研究会で、日本側メンバーの全
員が、各自、理論仮説ない し学説的イン プリケ ーシ
て仮説が立てられていることが原則であり、実際の
ヨンの概要を提示した 。以下は、そのときに提示さ
学術的調査では、それぞれ異なった仮設をいくつか
れた名メンバーの理論的合意の概要である 。¢西洋
"
1
]
は受容せず、むしろ 「
伝統
用意し、複合的な構造をもった調資票を作るのが一
の例人主義を日・斡・
般的であるとされる 。 また、仮説にと って最も重要
的集│
立│
主義の再構成」 といった形で変動するのでは
な性格は、それが調査に よって符易に検証できるも
ないかという基本仮説を立て、それを社会の 4下位
のであるということである 。そのためには、原凶と
領域での人間関係の望ましさを測定することによ っ
なる社会事象と結果となる社会事象の意味内容をJ1
主義の傾向をみる 。 ②{指数を深 層の生命
て、集 │
干i
体的に明確化し、調査の結果得られる変数ときちん
命
日 ・1
E生観と表!習の道徳意識に分け、後者は衰退し
とした対応をつけておくことが必須となる 制
。
i
i
J-M-は現在で‘も定在しているという説がある c
でも l
さらに、作業仮説の設定は、質問項目の候補を取
そこで、
1
.
表層と深層との こ層
、 i
i
. ~!~固では 二回
捨選択して調査票に記載できる誌にまで絞り込んで
が残 っているが、中国では衰退している、
{
Iな作業仮説なしに、
いくためにも重姿であるヘ明石'
では似教的死生観とは兵なるとい った仮設を検証す
1
1
1
.
日本
具体的な質問群を組み上 げていくことは難しいとい
る。③ J
I
三
凶i
干世界では、経済 的領域、政治的領域、
うことである 。ただし、佐藤健二は、実際には調任
社会的領域、文化的領域の順で近代化するが、後の
の最初から必ず作業仮説を文字化す ることをガイド
二領域では近代化が起りにくいし、起るのも遅いと
ラインにする必要はない、ともいう 。つまり、こう
いう説がある 。 この説が日・韓 ・中の立識の近代化
いうことなのである 。「 データの収集一 分析ととも
にも適用できるか検証する 。④新世紀は文明 ・文化
g
、い描かれていた問題そのものが立
に、当初漠然と j
聞の l
l
l
l解 衝 突 が 焦 点 に な り 、 そ の 主要主体の一つ
てなおされ、新たに捉えなおされるというダイナミ
は{布教文化圏という説がある 。 この説の前提 (
儒教
ズムは、むしろ調査そのものの認識生産力として、
文化の持続と強化)
が成り立っかどうかを確かめる 。
高く評価すべき場合も多い。そうした [
意外』によ
って教えられる用意は、調査研究者に必要な資質で
⑤ 日 ・際・中におけるジエンダ ー意識の変化を包括
的かつインテンシブに捉えた研究はなし、。 ジエン夕、
もある 。(中l
略)
。 調査するというプロセスを組み立
ー観は社会意識だけでなく制度にと っても根幹的で、
てる態度として 、わからないことはわからないと 認
その究明は社会学的にも実践的にも喫緊で、ある ヘ
めたうえで、なお積極的に調べてみようという率直
以後、これらの理論仮説をベ ースにして、各自が
は、第一の原点である 。 なにがわからないのかにつ
作業仮説の形成と質問項目の絞り込み作業を行って
いて明確化しておく必要は十分に強調されていい
いったのである 。[未完]
が、それを超えて、最初からわからないものの内容
を先取りして形式的な作業仮説の設定だけを急ぐ必
[註]
要はない。わからないから調査するのである J川。
1) 川 喜匠l
二郎 『
野外科学の方法一思考と探検j中
私たちの共同研究では 、作業仮説の形成と質問項
央公論社、 1
9
7
3年
、 p
.
4
0。
2) その後、日本の大学生 1
.2
0
0人、韓国の大学生
0
0人、中国の 大学生 7
0
0人、職業青年 4
0
0人
、
1
.6
目の絞り 込み作業お よびサンプリング方法の検討を
ほぼ同時並行的に行ってきた 。特に作業仮説の形成
人間文化・ 4'
7
国際比較調査研究の体験ノート (
1
)
4)石田浩 「中国社会主義下の農村を調べる J佐藤
1
9)中道賓 f
前掲書jp
.
3
1。
2
0)r
福武直著作集 j (
第2
巻 社 会学 社会調査)束
京大学出版会、 1
9
7
5年
、 p
.
3
0
4o
2
1)r
福武直著作集 J(
第2
巻)p
.
3
3
6o
誠編 『
地域研究調査法を 学ぶ人のために j 世界思
2
2)山口洋 「日韓 lいの社会意識の現状比較研究検討
9
9
6年
、 p
.
6
0。
想社、 1
6
号
、 1
9
9
9年6月
、
会H例教大学総合研究所報 J第 1
p
.
2
9
。
2
3)拙 稿 「中国の大 学生の意識の変化について 」
1
?
l教大学総合研究所報1第1
6号、
(
楊雄)要旨、 r
p.
3
0o
2
4)近藤敏夫 r
フィールド ・ワーク 1
1
1大
丘l
i
j若者
仰教大学総合研究所報 j 第 1
6
からヒアリング Jr
号、p
.
2
4o
2
5)1
1
1口洋 「中国における 青年立 識 の先行研究 」
農村青年 6
0
0人に修正。
3)郎永漢 『中国人と日本人j中央公論社、 1
9
9
3年
、
p
p
.
1
1
5
-1
1
8
。
t
rr
5)中道
調査問題の決定と仮説の椛成の仕方」
o道官・回中滋・中野正大 『
キ1
:
会調査j
宝月誠・Ij
有斐閣、 1
9
8
9年
、 p
12、p
p.
3
4
-3
7。
6)佐藤健二 「問うということ一問題の組織化」石
E
F
I-成編 『見えないものを
川淳志 ・佐藤健二 ・
i
JI
見る力 一相会調査という認識 j八千代出版、 1
9
9
8
年
、 p
.
2
4
8
。
7) Bourdieu ,P.,J
.-C、Chamboredon e
t
J
.-C Passeron,Le metier de s
c
i
o
J
o
g
l
l
e
:
一
(
呉魯平)要旨、
r
1?~ 教大学総合研究所報j
第 16号 、
prealab
les epistemoJogiql
l
e
s, d巴 uXleme
e
d
i
t
i
o
n,Mouton. (
田原白ー
和 ・水島和則訳 『
社会
、
学者のメチエー認識論上の前提条件 j藤原古広
p
p.
l9
-2
0
。
2
6)大束貴生 「中 l
:
l
i
l
における社会調査の方法につい
1
9
9
4年
、 p
p.
11
8
-1
1
9)
。
1
6号、p
.
2
0o
2
7)大束貴生 「現代中国の青年における社会意識の
8)中道官「前掲論文 Jp.
11
。
9) S
idney & Beatrice Webb,Methods o
f
S
o
c
i
a
l S
t
l
l
d
y
. Longmans,Green&C
o
.1
9
3
2
.
(
川喜多脅訳 『
社会調査の方法』東京大学出版会、
1
98
2年
、 p
.
3
2)
。
1
0
) S.&B ウェッブ r fÌÍi-t~訳:占 j p
.
31
。
1
1)中道官 『社会調査方法論J恒星社厚生問、 1
9
9
7
年
、 p.
18
。
1
2)中道官 『前掲書 Jp.
17
。
1
3)中道官 『前掲書 Jpp.
1
少一2
9。
1
4)川喜閉 二郎は、 「外部探検」のときの重要な基
関係の
準を 2つあげている 。第 1点は、問題に 「
ある j情報だけを集めたのではいけない。 さらに
問題に 「関係のありそうな」情報までを 含めねば
ならない、ということ 。第 2点に、問題をめ ぐっ
て多角的な角度から、多様な'情報を集めるという
探しもの
ことである 。 また、川喜聞は、 「
探索 J(
がわか っていて、それだけを探す ) と 「探 検 J
てJ(
呉魯平)要旨、 f
1
i
弗教大学総合研究所報j第
呉魯平)要旨、 『
仰
現 況 最 近 の デ ー タ か ら 一 J(
6
号
、 p
.3
3
o
教大学総合研究所報j第1
2
8)金哲秀 「韓国における青少年の社会意識の研究
のための試論Jr
仰教大学総合併究所報1第 1
6号
、
p
.
2
6o
2
9)沈貞宅 「斡国社会における社会秩序意識の世代
リ
日差異 J(
洪i
f
.
<
.i
寅訳) r
偽教大学総合研究所報j第
1
6
号
、 p.
27
o
3
0)宋正基 「現代韓国における社会意識の変化につ
いて Jr
例教大学総合研究所報』第 1
6号
、 p
p
.3
2。
3
3
31)佐藤健 二「 問うということ 一問題の組織化」
p.
2
4
0
。
3
2)佐 藤 健二 「 問うということ 一問題の組織化」
p.
24
1o
3
3)林知己夫は、 国民性を 「ものの見方、考え方、
とを区別して、野外科学的な意味の情報の集め方
感じ方 (
bei
!e
fsystems、t
h
eway o
ft
h
i
n
k
i
n
g、
sentiments) に 関 す る 集 団 特 性 (
col
le
c
t
ive
c
h
a
r
a
c
t
e
r) と定義して、それを次のように説明
I
I
喜回
は後者の立場であることを指摘している (
J
している 。「国民性は集合概念である 。色々の調
二郎 『
発想法j中央公論社、 1
9
6
7年
、 p
p
.
3
2-3
3)
。
査を行っても各人の考え方はかなりバラバラであ
(
問題に関係があるかもしれないところまで探る )
1
5
)中道貫
1
6)中道官
1
7
) 中道官
1
8)中道官
「
前掲論文 Jp
.
15
。
る。 しかし人々が集まり社会が形成されるとその
f
前掲書.
Jp
.
2
6
。
バラバラの考え方が積み上がってき、相互干渉を
『
前掲書 Jp
.
27
o
経て 一つの集団的特徴が形成されてくる 。それは
『
前掲書jp
.
2
9o
個人を超えての集団的特性の形成と 言 うべきもの
48 ・人間文化
国際比較調査研究の体験ノー ト(
1
)
他芸術や思 i
朝、諸学問、科学の方向付けが生じ 、い
う見るか J:
1
I
-'fI:放送出版協会、 1
9
9
7年
、 p
.
48
。
3
6)安 田三郎 ・原純車i
lr
社会調査ハンド ブック J第
3版、有斐 │
湖
、 1
9
8
2年
、 p
.
3
0
7o
3
7
) 中道官 「前掲論文 Jp
p
.
2
8
-2
9o
3
8)r
福武直著作集 J(
第2
巻)p
.
30
3
。
3
9)岩永雅也 「調査票調査の設計」岩永雅也 ・大塚
わゆる文化的気候 ・風土を形成する 。 これが外的刺
雄作 ・高橋一男 『
社会調査の基従 j財団法人放送
激や人々の相互交流を通して個人に働きかけること
9
9
6年
、 p
.
41
o
大学教育振興会、 1
4
0)辻新六 ・有馬昌宏 『アンケ ート 調査の方法一実
践ノウハ ウとパソ コン支援 1
朝倉書席、 1
98
7年、
p
.
6
3
。
4
1)佐藤健二 ,r
β法』から見た調 査」石 川淳志 ・
p
.
2
4
4
-245
。
佐藤健二 ・山田 一成編 『
前掲書jp
4
2)君;塚大学, F
I韓中社会意識の比較調査の理論仮
説 Jr
仰教大学総合研究所報j 第 1
6
号、p
.
2
8
。
である 。 ものの見方、考え方、感じ方を土台に考え
れば国民性 (
時には民族性)というものになる 。
。……。 これが一つの文化的環境となり、この下
で外部刺激を受けつつ 社会のノル ム、パラダイム
(
規範)、制約、制度、慣習、教育、宗教感情、その
になる 。 これがまた積み上がるというように絶 えず
林知己
循環しながら働いている という相であ るJ(
夫「日本人の国民性研究と国際比較」統計数理研究
所国民性国際調査委員会『国民性七か国比較 j出光
書j
古、 1
9
9
8年、p.
14
)。
3
4)林知己夫 「前掲論文 Jpp.
1
92
0。
3
5)佐伯啓思 『現代民主主義の病理一!淡後日本をど
人間文化 ・ 49
論文
縄文の石皿・弥生の台石
羽生由喜子
人間文化学研究科地域文化学専攻修士課程
る主に ヒエのすりつぶしなど粉食用の石器と想定し
はじめに
Ulが要求された縄文式時代の生
ている。そして「石 l
石胆・台石は、植物質食料の加工や、石器の製作
活様式」、「
選択使用された石材」という 2面に焦点
に用いられた石擦である 。石
J
l
l
l
は縄文時代の単い段
を当て、出土地、立地条件、出土状況、石材という
階からその存在が知られ、特にその出土が顕著な東
lを体
各方面から研究を進めている 。 このように石J]
日本では、
系的に研究対象とし、分析研究を行ったのは澄問氏
ドングリ類の加工には欠かせない道具で
あったようである 。 しかし、西日本においては、石
が最初であり、その評価は高い。
l
Ulの出土は主に縄文時代後期以降にならないと増加
また、海外にも目を向け、アジア諸地域で製粉具
しない。 また、東日本に見られるものほど形態に変
として使用されている石器を日本の石Jll
I
と比較する
化は見られず、 一遺跡から出土する量も少ないため、
という研究も試みられている t。 この研究は、中期
ほとんど研究の対象とされていなかった 。 また台石
農耕論が盛んであったこの時期に、アジア諸地域で
も同様に、石器の製作や木の実の叩き潰しに用いら
は、すでに農具として使用されている製粉具と比較
れたとされているが、研究の対象となることはほと
んとずなかった。
えようとしている 。 しかし、
そこで近綴地方の石皿 ・台石について、時期を縄
文時代晩期から弥生時代に設定して分析を試みる 。
しており、石 J
Ulを日本での農耕を 示唆するものと考
1
2具であると証明する
にはいたっておらず、朝鮮半島の 「
すりうす」との
形態の比較に留まっている 。
稲作が伝播する前後の状況を把握することによっ
その後、石J]J]の l
児術的な側面が論題に上ることが
て
、 これ らの石器が、どのように使われてきたかを
9
5
0年の
多くなった。現在では一般的ではないが、 1
明らかにしたい。
鳥居論文の中でも石棒との関係が若干述べられてい
る。 また、縄文 l
時代の石J]J]の H
l土状況に日を向け、
I 研究略史
まず、石J
JIl.台石の研究史を簡単に見てみること
にする 。
破片で出土することが多い点に新11し、何らかの祭
配との関係を論じるものがある 九 この論考によれ
ば、破片で出土のものについて、故意に塁打jられてい
文献上に 「
石J
I
I
U の名称が使われるようになるの
る可能性を考え、破片の平面形態の分類を試みて い
8
8
0年代の後半になってからのことで、それま
は
、 1
る。 また、現在の生活の中での粉食が特別な日 (
ハ
では、 「石の 草粧」、「
石舟」、「石斧砥」
、
「雷斧砥J
など
レ)の食物であることから、製粉の道具である石J]1l
の名称で呼ばれていた。 その後、坪井正五郎によっ
に何か特別な意識があったことを指摘している 。
て 「
石皿Jの名称が確立し、普及することになった l。
さらに、石 J
Ulの機能面以外の縁辺部や、裏面など
1
9
2
0年代には、鳥居龍蔵によって、石器の器種別
の分類が試みられているらそこで、はじめて石 I
阻
の形態分類がなされ、以下の三類に分類されている 。
に見られるくぼみ穴に注目して、 l
児術的な意味を指
I類
摘するものもある九 一般にくぼみ穴は、機能する
J
U
l
i
百以外のところにつけられていることから、食粘i
方形で多く底面に 四脚を有し、製作巧級、
の安定供給を願うものとして、故意につけられてい
形容端麗なもの。
るものと結論している 。 しかし硫証はなく、現在で
窪んだ部分は、浅くそして平而である 。
も解明されるには至っていない。
周縁は狭く劃然とつけている 。
1950年代は、中 J
m農耕論7が盛んで、あり、その中
E類 楕 円 形 で 窪 み 深 く、かつ湾 曲してい る。
で、初期農耕のJ
j
ミ具として取り上げられてから、祭
皿類
形状が不整で表面平らなものに僅か窪んで
示 との関連で論じられることが多かった 。 しかし、
いる 。
石J]1l本来の形態や機能などについて論じられてい る
またこの 鳥居龍蔵の論文では、形態分類だけでな
e
ものは ほとんどな く、漠然と農具のーっとして考え
く、用途に関しでも触れられていた。1
9
3
0年代以降、
登田
られてい たようだ。そのため、鳥居氏の分類、 j
他の遺物に関する研究が進む中で、石Jll
l
に関しては
氏の論考以上の研究は見られない。
鳥居による研究をしのぐものは現れなかった。
1
9
8
0年代に入 って鳥居氏の分類をもとに、安達厚
1
950年代に入ると、澄田正ー により濃飛越山地に
分布する石J]
I
I
に関して研究がなされた 3。 この論文
途もまとめられた"。 この分類が、現在では指標と
の中で石J]J]の用途について、遊農性の焼畑農耕によ
なっている 。
50 ・人間文化
三氏により石皿の形態分類(第 1図)がなされ、用
縄文の石皿・弥生の台石
I
a
I
I
b
W
1
I
I
V
b
a
b
a
b
d
)O00@回
00O{
〉 Cフ
C二フ ヒ二コ C二ク C三
t
期
皐~J
ト ーー
ヒク
丘二ゴ
む とフ
. . .
. .
.
.
圃
早
期
.
. .
. .
ト一一ー
前
期
調
ト
ー一一
期
中
卜一一
.
.
同
a
期
後
. .
.
•
ト一
一一
晩
期
.
第1
図 安達厚三による石皿形式分類模式図及び時期消長表
(安達!亨三 1995 r
石血」純文文化の研究7 道具と技術より転級)
l
I
lの機能や形態 などの研究 よりも、 1
1
)
[
その後、右 J
ると~王いとされ 、
また IJ', 1
二数も 少なく 、有縁で整形
術的な面の研究がなされる ようになる 。鈴木保彦氏
されるものはほとんどな し、
。中でも近後地方では右
は、縄文時代では 「どの ような道共にも 2つの仮J
I
l
f
L
J
縁のものは皆無に等しい。出土するほとんどが無縁
があり、それが互いに相違える ことなく共存し 、ひ
で、経形されていないものである 。そこで、本論で
とつの道具として成り立っていた 。J9という前提か
は
、 地域と時期を限って、 イ
ゴ皿1.台石の分析を試み、
ら石 1
mの二回性に 迫ろう としている 。
これらのわー器がかかわ った生活に ついて考える 。
最近では、中森敏晴氏に よって祭肥や儀礼 に│
苅わ
る遺跡から出土する石皿 について分類が試みられ、
E 石血 ・台石の定義と研究方法
出土状況や出土遺構別に右 J
U
lの形態を検討している
九 また、石皿 には大きく分けて 2つのタイプがあ
研究の方法
ることにも注目し 、形態分類や機能についてまとめ
ここ で取り扱う資料は、すべて近綾地方の遺跡か
縁
、 有脚 のものと無縁で整形が
ている 11。それはゐー
ら出上したもので、縦文 I
時代晩期 から弥生時代に属
ほとんどなされていないものである 。中森氏は、こ
するものである 。その形態や用途を考える上での研
の差を用途の差であるとしている 。
i法についてここでは触れてお きたし、。
究の )
このように、 l
児術的な 側面へのアプ ロー チは脱ん
l
l
l
l.台イヲの l
ぎJ
)
j
Iを明 らかにするため、石
まず-fi
1とイ討議 ・脚っきのイI
に行われているが、従来の石 1
J
血・ 台行の名 称、で報告書等 に報告さ れているものを
I
1
l
Iとの用途、出現の経過に ついて、また、地域 的、
収集し、形態分類を試みた 。分類の方法は、平面の
時間的な消長、形態分類などの恭本的なと ころの研
形態に特徴が見られない ことか ら、使用痕に よるこ
究は、やや遅れているといえる 。その中で、中森氏
ととし、時期別の分類表を 作成する 。
の研究は石 肌の新しい見方を提案し 、また石1
I
f
l
とい
次に、
w
土状況を検討する 。縄文時代において石
う名称にある問題を浮き 彫り にするもの として興味
J l fl は似片での 出 土が多く、 I~士意 に打 ち割っている可
i
*
、。
し
能性も与えられ、何らかの祭記 との関わりも 指摘さ
さて、これらの論考に 取 り上げられているのは、
れている 。 このことから、 破片 での出土を縄文時代
ほとんどが中森氏の言 う定型石 J
mであり、無縁で務
の要素のーっとすると純文か ら弥生への生活の変化
形きれない石l
I
l
l
は取り上げ られる機会は少ない。特
の一つの指標としてみなす こと ができると考えた 。
に西日本では石 l
I
J
lが一般的に なるのは東日本に比べ
そ こ で、縄文時代 Iぬ J~j から 弥生時代 後期まで に 属す
人間文化・ 5
1
縄文の石皿 ・弥生の台石
E
eUO
類 | 己|ロ I~I 口 I c~ I 己 | ?
第2図 石皿 -台石形態分類模式図
れらの石器の性格を明らかにするため、遺跡の時間
W類 円 j
j
t状のくぼみを有するもの
V策 特に使用痕を持たないもの
I類は次の 3頒に細分できる 。
'
1
1
0な分布、地理的な分布をまとめる 。
①
る石肌 ・台石の出土状況を検討する 。
さらに、石皿 ・台石の出土遺跡の立地環境からこ
以上のような方法にもとづいて、以下では石肌 ・
台f
iの変還を概観し 、これらの石器の来たした役割、
社会的な位置付けを述べていく 。
使用面が平坦なもの
② 使用而が使用により磨りくぽむもの
③ 縁が作り出され、その内仮I
Jを使用しているもの
E煩
頒は特に細分を要しないと判断したの
-v
で、これ以上の細分は行わなかった。
2 石田・台石の定義と形態分類
まず、石皿・台石の定義について考えてみたい。
石肌は、 「
対象物をすりつぶしたり、粉末化する
これらに準じて分類を行った結果を第l
表に示す。
最初にこれらの石器の名称、について触れておこ
う。以上の形態分類と照合すると、
I類のほとんど
機能を持ち、指円系あるいは、長方形に近い平面形
と
、 E類のー古1
¥
で特に縄文時代 に属するものと W類
態で中央に浅いくぼみのある J
Ill形の石昔話 J"と定義
は石 J
H
lとして 、 I頒の一部、 E類 、阻 類の弥生時代
されている 。
しかし近畿地方において見られる石 1
1
I
lのほとんど
に属するものと V頒は台石として報告されることが
多いようである 。今後、名称の問題はさらに検討し
が肌状を 呈するものではなく、使用 l
面の平坦なもの
ていかねばならないと思われる 。 本論では、以下 、
である 。 また平面形態についても特にまとまりはみ
食物のすりつぶしに用いられたと考えられる、磨痕
られない。扇平な石の表而に磨而を持つものの多く
を残す I類と皿類、円錐状のくぼみを有する W類を
が石皿として報告されている 。
「
石皿」 として取扱い、高長打痕や打撃痕が顕著で、あ
一万、台石は、 「母岩から無加工の状態で作業用
る E頒や用途のはっきりしない V類を何らかの作業
の台として使用された磯石器」 とされ、 「
通常地上
の際の下石として用いられた 「台石」として取扱う 。
に固定して利用され、容易に動かせないもの J13と
それではまず、これらの石器の分布状況 ・出土状
定義されている 。近畿地方で見られる台石は、形態
況から 、石J
1
1.台石類の性格を考えてみよう 。
はさまざまで、 打ー撃痕などを持つものが台石として
報告されている例が多い。 しかし、明確な使用痕を
E 石皿・台石の分布
持たないもの 、石皿との区別が明確でないものも台
石として報告されている場合が多い。
1出土量の時間的変遷
このように、現在までの研究と照らし合わせてみ
第 l表において示した結果から時間的変遜を概観
ると、定義付けはなされているものの、実際は石皿
する 。縄文時代晩期には 1
7
遺跡から 3
7点が確認でき
と台石が互いに混同していることも考えられる 。
た。 このうち、
I類 が32点で 9割近くをしめ、 E類
このことを踏まえて、次に用途の違いを考えなが
は 3点で全体の 8%に過ぎず、 阻類
、 W類もわずか
ら、使用痕に よる形態分類と出土状況からの分析を
であった。弥生時代前期では67点が出土し、 この時
試みる 。ここでの分析の対象としたのは収集できた
期も I類が51%と高い割合を 占めている 。 この時期
1
8
0点である。これらは、まず、次の 5類に分類できた。
I類 磨痕を使用痕として残すもの
E類 故打痕、打撃痕を使用痕として残すもの
ずかであり、 V類は全く見られない。
皿類
から、 E類が46%と増加 している 。
m類、
W類はわ
弥生時代中期には、 5
7点が出土している 。 I類 が
磨痕と敵打痕の両方を使用痕として有する
40点で 70%と最も多く 、こ のうち① 類 が2点出土し
もの
ている 。他の時期には見られないが、この時期に見
52 ・人間文化
縄文の石血・弥生の台石
第 1表
石皿・台石分類表
時代分類
縄文時代晩期
弥生時代前期
弥生時代中期
弥生時代後期
ぷ
口込
I類
3
2(
8
6
.
5)
3
4(
5
0.
7)
4
0(
7
0
.
2)
6(
31
.6)
E類
3 (8.
1)
3
1(
4
6.
3)
90
5
.
8)
8(
4
2.
1)
E類
1 (2
_
7)
v
r類
2 (3
.0)
o(0)
4(
21
.
1)
o(0)
o(0)
1
1
2
6
2.
2
5
1
2
8.
3
7
3.
9
言
十
割 合 (%)
1(
5
.
3)
2
1
.
1
3
70
0
0
_
0)
8 04.
0)
o(0)
6
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0
0
.
0)
5
7 000.
0)
1
9 (001)
8
4
.
4
1
8
0
9
9
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V類
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一
に
フ
第 3図
石皿 ・台石出土遺跡分布図
られる ことは注 目すべきである 。このうち の一点は、
めて、 H類が I類よりも高い割合で 出土している 。
兵庫県龍野市養久山・前池遺跡、
から出土したもので
また、 E類の占める割合が高く、 20%以上を占めて
ある 。一辺 48cmの正方形を呈した大型品で'42kgを
i
s
I
Jり、住居内から完形で出土した 110 使用而には水
いる 。W類はわずかであり、 V類は全く見られない。
銀朱の付着が見られた。 このことから祭記に関わ る
2地理的分布
ものであると報告されている 。完形で出 土 している
次に石血 ・台石の地理的分布を見る 。 まず、どの
ことか ら縄文時代における石lIf
l
とは性格の違うもの
地域に分布が集中しているのか、地理的な状況を検
に変化している様子が現れていると考えられる 。他
討し、さらに時間的な変遷を考える 。
に
、 E類の出土も確認でき たが
、 1
6% と弥生時代前
石1
[
[.台石の出土が確認できたのは、 52遺跡であ
った 。遺跡の分布は第 3図に示し、図上の番号は第
期と比較すると割合的には少ない。
I類 が6点
2表石皿・台石出土遺跡一覧に 一致する 。石皿 ・台
で31%、 E類が8点で 42%とこの時期になってはじ
石を出土する遺跡、は、大阪平野、京都府の北部地域、
弥生時代後期には、 1
9点が確認でき、
人間文化 ・
53
縄文の石皿 ・弥生の台石
第2表 石皿・台石出土遺跡一覧
番号
迂t
跡名
H
寺 !
V
J
分類
l
北仰西海道遺跡
縄文晩期後半
I
ワ
2
弘部野遺跡
縄文 l
ぬ則前半
1- 11
I ~
4
I
3
弘
1
1
1 遺跡
弥生中期後半
I一
大L
1-②
I
l
1
05m
段丘
4
杉 沢 遺 跡
縄文晩期中葉
IーくL
IベZ
2
l
160-165m
散布地
扇状地
5
掛 樋 遺 跡
縄文 I
晩期
1- J
;
1
90m
1
1
1
;状遺構より出土
9
9
0 「能登
能登川町教育委員会 1
川町埋蔵文化財調査報告書 第 1
4
集」
6
I
晶ノi';I¥遺跡
弥生中期後半
I一
Q
.
88m
扇状地
I
梓より出土
滋賀県教育委員会 財)滋賀県文化
995 I
i
易ノ官¥
1
遺跡発
財保護協会 1
掘調査報告書 1J
7
北 笠 遺 跡
縄文│晩期]
IぺL
2
82
.
3-84m
8
麻 生 遺 跡
縄文 l
晩期後 1
'
Iー
イ1
I
集部
滋賀県教育委員会 ・財)滋賀県文化
129-134m
日目f川 右 岸 第 二 段 財保護協会 1
9
8
7
ほ場整備関係
段丘
発掘調査報告書 JXIV-5
丘上
9
森西城遺跡
弥生中期]後半
1- 1
l
1
7
5.
8m
円 野 川 上 流 集 務 滋賀県教育委員会・財 )滋 J~ 日~..文化
土 坑 よ り 出 土 石 財保護協会 1
9
9
5 「ほ1
品援備関係
器製作時の剥片
発掘調査報告占 JXI
X
1
0
滋賀盟遺跡
縄文晩期前 1
'
1- 斗
95m
扇状地
主
E
坑
1
1
平
縄文 l挽 WJ'II~
1- ,
.
J
2
1
5-20m
砂 E上
埋う盟
弥 I~二中 IVJ
E
I
3-5m
砂丘上
t
長j再
列点状の政打痕
丹後町教育委員会
野遺跡 j
H
?
38-39m
丘陵端部
i
出よりiJJJ
こ
!
付
) 示者
¥
1
府鹿 蔵文化財澗査研究セン
ター 1
988
京1lI¥府泣跡調査報告
書第9冊』
6m
段E
集
古
存
尽都府教育委員会
化財発掘調査概報
財) 京都府盟 蔵文化財調査研究セン
タ- 1
9
9
3 『京都府遺跡;湖査概報
第5
4
冊』
且
i
J
"
跡
1
2 竹 野 遺 跡
点数
立地 ・標高
1
0
0m
扇状地
保i
考
集落
竪穴住居床面より
出土
f
伊吹町教育委員会 1
9
9
2 I
f
1
吹1
I
可
文 化 財 調 査 報 告 書 第 3集 伊 吹 町
!
} 第H
I
甘」
内遺跡分布調査報告 i
滋賀県教育委員会 財)滋賀県文化
財保護協会 1
9
9
4 「
北笠逃跡発掘
調査報告書」
百三編 1
973 「湖西線関係遺
田辺 H
跡発掘調査報告書j
財)京都府埋蔵文化財調査研究セン ;
タ- 1
997
京都府遺跡調査概報
第7
9柵 1
石組炉
1
3
r
1
i 般 遺 跡
弘、
g
:後 W
J
1
4
僑 爪 遺 跡
弥生中期
1--; ~
日
2
1
5
蔵ヶ崎遺跡
弥生前期
日
ワ
1
0m
台地
i
長治
1
6
4
J
1
与
z
Iー l
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4
3
1m
自然堤防上
t
長j
存
住居内床面より
上
1<
l
4
自然堤防上
3l~ は住居内より t:1J
、 τ
i
'
i
i
:
i
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F
ヤ
1
7 桑飼 j 遺跡
弥生中期後半
弥生中山]後ド
興
.
i
l
d
跡
1
9 上野平造問ト
則 後期
弥生中 j
縄文 l
晩期j
べl
I
1
983
『丹後竹
1
9
8
1 f
埋蔵文
第2分
i
1
1
1
J
財)尽都府埋蔵文化財調査研究セン
1
9
8
9
京都府遺跡調査報告
書 第1
2
冊j
r
B タ-
件1
良川河岸
土
1
8
参考文献
今津町教育委員会 1
9
8
6 今津町文
化財調査報告書第5集 j
今津町教育委貝会 1
9
8
2 I
弘吉¥
1
野」
今津町文化財調査報告J
? 第 l冊
滋賀県教育委員会 財)滋賀県文化
t
J
)
j
整備関係
財保護協会 1
981 m
¥
1
1
-3
発掘調査報告書 J'
r
集務
財) 呆者¥
1
時f
J!R蔵文化財調査研究セン
ター 1
993
京都府遺跡調査報告
苫 第1
9冊 j
25m
自然堤防上
集1
裕
件l
良川河岸
財)J
?
、
者1
¥
府埋蔵文化財調査研究セン
タ- 1
992 『
京都府追跡調査報告
者 第1
7冊I
J
Iーイb
;
I
7
0-78m
1
f
!
i布地
J
T
,
者
¥
1
府教育委員会 1
9
7
3
遺跡発振調査報告書 j
1- 1
;
I
2
5
.9m
自然堤防上
寄
集F
財)尽都府埋 蔵文化財調査研究セン
タ- 1
9
9
2
京都府遺跡調査報告
書第 1
7冊』
f
上野平
2
0
観音寺遺跡
2
1
ケシケ谷遺跡
弥生中期後半
11
くE
3
75m
丘 陵上
集落
財)尽都府埋蔵文化財調査研究セン
ター 1
988
京都府遺跡調査報告
書第 1
0
冊』
22 奥 谷 西 遺 跡
弥生中期後半
Iー ①
2
7
8m
台地
集落
財)尽都府埋 蔵文化財調査研究セン
京都府逃跡調査報告
ター 1
988 『
0
冊j
書第 1
2
3
今 林 遺 跡
弥生後期終末
Iー ①
2
1
50m
丘陵
集落
財)京都府埋 蔵文化財調査研究セン
京都府遺跡調査概報
タ- 1
988 『
7冊j
第2
2
4
太 田 遺 跡
弥生前期末
Iー ①
H
1
0 1
0
0m
I 段丘
4
長
吉
与
財) 京都府埋 蔵文京化財調査研究セン
ター 1
9
86
都府遺跡調査報告
書第 6
冊j
Iー ①
日
1
l
25 育 田 近 衛 町 遺 跡
5
4 ・人間文化
弥生中期
後期
~中期初ry~fi
縄文晩期
51m
扇状地
子
王、
都 文化博物館
近衛町遺跡』
平成冗年
『
吉田
縄文の石皿・弥生の台石
番号
遺跡名
2
6
平安尽左尽北辺
三 坊五
町
2
7 長
│可京跡
H
寺期
分類
弥生前期後半
縦文 f
晩期
2
8 畑ノ前遺跡
弥生中期後半
2
9 寄 井 遺 跡
弥生中期末
点数
1L
I
1-J)
3
田
W
l
H
l
立地 ・標高
49m
3
.9m
1
mi
監原
l
34 ~50m
b
段丘
弥生後期
E
6
31 養久山・前地遺跡
弥生中期中葉
1@
V
2
丘陵尾恨音1
3
2 川除・藤ノ木造跡
弥生後期
W
I
I
i
*積地
3
3 対
縄文晩期
I
4
縄文晩期末
弥生中期
1 -J
.
,
1-1
:
7m
1- 1
;
/町1
中
遺跡
3
4 口酒井遺跡
3
5 中ノ回遺跡
3
6 本
山 遺 跡
I
弥生後期後半
縄文 l
晩期
弥生前期
3
7 楠 ・ 荒 田 町 遺 跡 弥生前期末
中期
4
2 寺
4
3
山
中
遺跡
賀 遺 跡
l
4 ~ 5m
1②
1
扇状地
後期 Iーム
4
弥生前期
弥生後期l
後半
弥生前期日I
J
半
1-1
;
1-{~ì
田
5~6 11l
平野
4
皿
I
I
l
弥生中期後半
E
l
附文後期 晩期前
半
E
2
弥生中期
I.
f
i
4
9 池田 下 遺跡
弥生中期
1{
f
5
0 越部ハサマ遺跡
縄 文 晩期
弥生中期前半
1(
i
1;
]
)
5
1 大王山遺跡
弥生後期
I一 包
弥生中期後半
1
能 遺 跡
1m
.
5m
1
4 2
自然堤防上
1(
[
,
山
台地
1
3
縄文晩期
弥生前期
5
2
21m
H
原 遺 跡
遺跡
40 ~ 60m
丘陵
/
4
5 長
山
15 ~ 20m
I
H
4
8 東
段丘上
平野
弥生削期前半
山 ノ 内 B遺 跡
沖積地
l
図 遺 跡
4
7
8日1
10~16日1
4
4 美
4
6 陶邑・伏尾遺跡
148~150m
段正上
3
縄文晩期中葉
弥生前期
雨 流 遺 跡
149m
不明
3
9 上 沢 遺 跡
4
1
7
4
.
4
m
1- 1
弥生前期前半
4
0 大 森 谷 遺 跡 弥生中期末
自然堤防上
段 E上
E
国
4~7m
自然堤防仁
1O ~13m
台地
3
0
日1
丘陵
3
0
日1
丘陵端部
110m
1
0 丘陵上
1
45~50m
段 E上
165m
2
丘陵上
3
40m
丘陵上
16~20m
丘陵端部
向日市埋蔵文化財センター 1
9
9
3
『向 日 市 埋 蔵 文 化 財 調 査 報 告 書 第
1
0・2
9・3
7集 j
財)古代学協会 1
9
8
7 『仮 称 精
華ニュータウン予定地内遺跡発掘調
査報告書』
集落
住居内から出土
集落
9
9
4 「龍野市
龍野市教育委員会 1
寄井遺跡J
兵庫県教育委員会 1
9
8
5 「了・柳
ケ瀬遺跡発掘調査報告書j
集落
住居内から出土
水銀朱付着
龍野市教育委員会
山・前地遺跡」
集落
住居内から出土
磨石 6点出土
9
9
2
兵庫県教育委員会 1
川除・藤ノ木造跡J
集落
自然堤防上
1<
D 3
開 遺 跡
3
8 大
I
長岡京跡
台地
V
f.柳 ケ 瀬 遺 跡
参考文献
財)尽都府埋蔵文化財調査研究セン
9
9
6 京都府遺跡調査概報
ター 1
8
冊』
第6
56~58m
Iー ①
3
0
備考
住居周辺から粉砕
した状態で出土
集落講より出土
集落
集落
集落
焼土含む土坑他よ
り出土
集落
集落
住居内より出土
水田跡
集落
集落
集落水田跡
1995
高地性集落
集落
士坑墓群
同地位集落
住居内より出土
集落
住居内より出土
「三田市
兵庫県教育委員会 1
9
9
2 「対中遺
跡」
南博史編 1
9
8
8 「伊丹市口酒井
I次 発掘調査報告 ;
!
}J
遺跡第 I
尼崎市教育委員会 1
9
7
1 「尼崎市
中ノ田遺跡」
古代学協会 1
9
8
4 「神戸市東灘区
本山遺跡発掘調査報告書」
9
8
0 「楠・荒
神戸市教育委員会 1
田町遺跡発掘調査報告書」
神戸市教育委員会 1
9
9
3
跡発痢調査報告書 J
「
大 関遺
神戸市教育委員会 1
9
9
5 「上沢遺
跡発掘調査報告書」
兵庫県教育委員会 1
9
8
5 「大 森 谷
遺跡」
9
9
0 「雨 i
t遺
兵庫県教育委員会 1
跡」
兵庫県教育委員会 1
9
8
8 「寺中遺
跡」
9
9
1
財 )大 阪 府 文 化 財 セ ン タ ー 1
r
i
可l
人l
平野遺跡群の動態 j
財 )大 阪 府 文 化 財 セ ン タ - 1
9
9
1
『河内平野巡跡群の動態 j
財)大阪文化財センター
「
長 !京遺
跡j
集落
大阪府埋蔵文化財協会
住 居 内 よ り被 熱 し
邑-伏尾遺跡』
た状態で出土
集落
「養久
1
9
9
0 『陶
大阪府埋蔵文化財協会 1
9
8
8 「山
ノ内遺跡 B地区 山直北遺跡発掘調
査報告書」
財)大阪府文化財センター 「東山遺
跡」
和 泉 丘 陵内遺跡調査会 1
9
9
1 「池
田下遺跡」
9
9
5 「越部ハ
大淀町教育委員会 1
サマ遺跡」
柏原考古学研 究所 1
9
7
7 「大王山
遺跡」
「三重
三
重
県
県
埋
埋
蔵
草文 化 財 セ ン タ ー 1
995
蔵文化財調査報告 1
1
5-4
一般国道 2
3号中勢道路建設事業に伴
う大古曽遺跡・山箆遺跡・宮ノ前遺
跡発掘調査報告J
人間文化 ・
5
5
縄文の石皿・弥生の台石
琵琶湖周辺、兵庫県南部に集中している 。兵庫県の
晩期から弥生時代後期のどの時期にも確認でき、大
北部や、 三重県、和歌山県など太平洋側の地域には
阪平野、京都府北部、兵庫県南部などに集中してい
見られない。
る。琵琶湖の周辺の遺跡からは線認できなかった。
この状況を時期別に概観す ると以下のようにな
時期別に分布の状況を見ると、純文時代晩期では 2
る。 まず純文 l
時代晩期には 17遺跡からの出土が確認
迂i
跡、からの出土が線認できただけである 。 I類の出
でき、琵琶湖の周辺に集中している 。扇状地や段正
土追跡;数に比べて極端に少ない。弥生時代前期では
には大阪
上の遺跡からの出土が多い。弥生時代前期l
5遺跡から出土している 。大阪平野の自然堤防上や
湾周辺に集中する傾向が見られ、自然堤防上や低地
京都府北部の台地上から出土している 。弥生時代中
からの出土が多い。中期には京都府北部に集中して
期では 5遺跡から出土している 。遺跡の立地状況は
いる 。特に後半以降、由良川流域に石皿・ 台石を出
それほど変化がなく 、京都府北部の由良川流域の自
土する遺跡が多い。 また、同じく中葉以降、大阪湾
然堤防上や、兵庫南部の段丘上などの遺跡から出土
周辺をはじめとして各地で丘陵上の遺跡からの出土
している 。後期には 2遺跡から出土している 。立地
1
l.台石を出土する遺
が多くなる 。後期になると石 1
にはほとんど変化は見られず、自然堤防上の遺跡、か
跡は急激に減少し、集中する部分は見られなくなる 。
ら出土している 。丘陵上の遺跡、からも若干出土して
特に琵琶湖周辺での出土が全く見られない。
いる 。 しかし、 I類が中期以降丘陵上から出土する
縄文時代では、集落はやや高いところに営まれる
のに比べれば顕著ではない。
ものが多いが、晩期になると低地へ移動して くる傾
E類は 4遺跡から出土している 。弥生時代中期に
向にある 。 この地域における石皿・台石を出土する
属するものは確認できなかった。他の時期も出土点
遺跡はこの時期、やや低地に立地している 。弥生時
数はわずかである 。縄文時代晩期では 2遺跡から、
代になると前期では低地からの出土が増え、中期に
弥生時代前期では 1遺跡から、後期では 1遺跡、から
なると台地上や丘陵上から出土するものが増える 。
出土している 。立地は、後期の例を│徐いて平地から
特に、弥生時代中期後半から丘陵上の遺跡;からの出
出土している 。弥生│
時代後期に属するものは台地上
土が見られ、高地性集落で、の生活との関わりが指摘
の遺跡、から出土している 。 皿類は、後期の例を除 く
されているヘ
と I類とともに出土している 。
N類は 3遺跡から出土している 。弥生時代中期以
3 時間的分布
外のすべての時期に存在する 。琵琶湖の周辺や大阪
次に、分類ごとに時間的な分布状況を見る 。
まず I類は分析の対象とした 52遺跡のうち、 44遺
跡から出土が硲認できた。今回設定したどの時期か '
湾周辺の遺跡からは出土は確認できなかった。
V類は弥生時代中期後半中葉以降の遺跡から出土
するのみで他の l
時期には見られない 。2遺跡で磯認
らも出土している 。特に琵琶湖周辺、京都府北部由
でき、両者とも兵庫県南西部の段丘上や丘陵上に位
良川流域の自然堤防上の遺跡、からの出土が目立つ。
置する遺跡である 。用途不明の石器が台石として報
時期別に分布を見ると、純文時代晩期では 17遺跡
からの出土が権認でき、琵琶湖周辺の扇状地上や大
河川の自然堤防上の遺跡から多くが出土している 。
告される こともあるようだ。
これらの状況から以下のようなことがわか った。
1
. 1類は中期までは低地や平野部からの出土が多
弥生時代前期では 6遺跡から出土している 。 この時
く、中期以降、丘陵上の遺跡からの出土が増え
期も縄文時代 l
晩期の立地と変わらず、自然堤防上な
どから多くが出土している 。 しかし弥生時代中期に
てくる 。高地性集落の出現とも 重なる。
2
. I類は時期が下 っても、丘陵上に分布するもの
なると I類を出土する造一跡の立地にやや変化が見ら
6遺跡から出土しており、丘陵
れる 。 I類は 1
地上の遺跡からの出土が多くなり、平野部や低地で
の出土が減っている 。 これは、高地性集落と呼ばれ
る集落が出現するのと同じころである 。弥生時代後
期になるとさらにその傾向は強くなり、ほとんどが
丘陵上の遺跡から出土している 。
次に、 H類は 14遺跡から出土している 。縄文時代
56 ・人筒文化
よりも自然堤防上など低地や平野部での出土が
tや台
多く見られる 。
3
.
m ~v 類を出土する遺跡は少なく、また、単独
で出土することもなく、多くの場合 I類を伴っ
ている 。
1
で稲作が開始されはじめても、
特に I類は平野音1
後期まで変わらず出土しているが、丘陵上に立地す
る遺跡から出土する例が中期以降多くなっている 。
縄文の石皿・弥生の台石
縄文時代 l
晩期では 1
7遺跡のうち l遺跡のみであ った
ものが、
ι
1
]J
切になると 1
7遺跡中5
追跡、が、{変則では 5
遺跡のうち 2
遺跡が丘陵上に立地している 。 また、
2
0
0
1
5
0
時侍代中 期
j則
で
これらの遺跡、から出土した数量は 、弥生 l
5 逃跡跡、 I凹
9}~
点
l
1
0
0
では 1追
i
i
立
I
助
跡
;
で
で、2点、弥生時代前期では全 く確認でき
5
0
なか った。
E類は弥生時代中期に焦点を当ててみると、 6遺
跡、から I
l¥土が確認できたが、このうち 1追跡が日凌
0
糾H
文l
挽J
U
J
弥生中期
弥生前期
上に位世するものであり、 I類の出土状況とは対照
弥生後期
合計
口出土点数回絞片数
的である 。
第4図
傾向として I類は、縄文時代晩期や弥生時代前期
出土点数に対する破片の割合
には、17. ~í' 音11 でのtI\上が、弥生時代中 JVJ 以降、丘陵上
に位置する遺跡からの出土が増加するようである 。
第3表
分類別破片での出土の割合
N 石田 ・台石の時間的な性格の変化と用途
1石皿・台石の破片
さらにこれらの行総の性格について考えてみた
い。 これらの石持のうち、特に石.
s
l
l
は純文│時代では
倣片での I
H1
二が多いことがま1
1られている 。その石材
や使用法では考えられないほど紺│
かな破片で出仁
し、もとの形態がわからないまでに打ち砕かれたも
のも存在する 。そこで、破片での出土を純文時代の
このように、 I頒が破片で 出土することが圧倒的
要素と考え、この│時期の石皿・ 台石類について、依
に多く、それが純文時代晩期や弥生時代前期に集中
片の状況を調べることによって、純文 l
時代から弥生
し、弥生時代中期以降になると完形での出土が増加
時代へと変化する過程で、これらの石総のもつ性絡
していることがわかる 。 H類
、 E類
、 N類に関しで
がどのように変化したのかを考えてみたい。
分類別に破片と完形品の割合を見ていこう 。第 4
も縄文時代!ぬ N
J
に限 って見ると破片で出土している
ものが兄られ、何かの作業に用いた後に、 「
打ち割
図において 1
:1:'.土数に対する破片の割合を 示す。純文
る」 ことが行なわれていたと考えられる 。 しかし、
即刻と弥生時代前期に破片が多く出上している
│
時
代l
時期、特に中期以降、完形での出 土が多
それ以降の l
ことがわかる 。また、分類別に見ると (
第 3表)、I
くなる 。 また、 l1
頒
類の破片が最も多く、縄文時代晩期・弥生時代前期
なくなる 。
これら の ことから、 「
磨る 」行為に関して、使用
に集中している 。弥生時代前期後半に属する京都府
平安京跡の例は、
1<
D
類に属し、故立に打ち割 っ
.
m類 ・N類 ・V類の破片も少
後あるいはその他の行事などの際に、 「
打ち割る j
たと考えられる状況で出土しており、完形に近い形
ことが行なわれ、弥生時代前期までは縄文の伝統が
に復元された資料である 。部分的に復元できないと
文化として残 っていたといえるのではないだろう
ころがあり、持ち出された 可能性が指摘されている 。
か。何かの意図を持って破片にしたとすれば、弥生
E類から V類は、破片で見 られるもののほとんど
時代中期以降、 「
打ち削る」 ことの意味が失われた
が縄文時代に属する 。 I類の比較として E類の時期
別の出土状況を見ると、前期以降、破片での出土が
減少し、中期に至っては全く見られない。弥生時代
後期には若干破片での出土が見られる 。 皿 .N .V
類はわずかであり、破片での出土もほとんど見られ
ない。
ことになる 。
2 石田・台石の用途
次に、以ヒの分析から、 これらの石器の用途を考
える 。
一般に 石 J
i
l
lとH
乎ばれる石器には、まれに水銀朱や
人間文化・ 57
縄文の石皿・弥生の台石
には含まれている可能性がある 。 w
頒に残
ベンガラが使用耐i
に残っているものが見られること
ものも
亡を生成するための道具として!日いられたこと
から、うi
されたf..f.み穴は、関東地方で 出土する l
iJ
l
I
lの裏面に
も知られている 。今回分類を行った石総のなかにも、
つけられる窪み穴と類似のものと忠われ、食料加工
使用│師に水銀朱の付着が見られるものが確認できた。
l
わる石器であろう 。 V類は用途不明である 。
に│
見
本分鎖での I類は出土遺跡、の分布から水山可耕
1
=
1
'
このように、
]].m.wで行ってきた分析から用
tのようになる 。 これらはTiJ
l
I
l・
地、 ~I, 可耕地にかぎらず、対象とした全 |時期にわた
途を考えると、以
り出土している事が篠認できた。縄文 l
時代晩期から
台石として記載されているが、
弥生時代前期にかけて、 I頒が破片で出土すること
は更なる分析 ・検討が必要であろう 。
m途・機能について
が多いことから、おそらく食糧の加工に使用されて
いたと考えられる 。
稲作での食料生産が始まっても、
1
寺代以来の
すぐに米が主となったのではなく、純文1
V まとめ
以│
このように、縄文時代晩期
弥生時代後期にお
食料獲得、加工方法もまだ重要な生活の 一部であっ
II1と台石について、形態分類など分析を試み
ける石 J
たことを示している 。 しかし、弥生時代中期以降、
I
Z
而形態か
てきた。それによれば、石皿・台石は、 て
完形での出土が多くなり、丘陵上や台地上での出土
ら分類するのが困難であるものが多く、特に台石に
が見られるようになる。このような立地から出土して
ついては使用痕のはっきりしないものを合めて報告
いるものについては食料加工にかかわるものと考えて
される例が多かった 。特に、本分類での V類は使用
もよいと思われる。
痕を持たないが、住居内等から出土すると何らかの
これらのことから、 I類の多くが食料の加工 に用
作業台や腰掛としての用途が考えられて、台石とし
1や河川に近い
いられていたが、稲作が可能な平野音¥
て報告される例が見受けられた。実際に何らかの作
│
壬
l
然堤防上などでは、稲作による生産が安定すると
業が行われたことを示すものは I類から W類に属す
彩が薄い石出となっていったと考えられる 。 また、
るものである 。
破片ーでの山土が多い弥生│
時代前期までは、祭杷に用
幸代晩期、弥生時代
tI寺間的な変遂を見ると、縄文 H
いられていた可能性が考えられる 。純文│時代におい
前期からの I類の出土頻度が高く、徐々に減少して
ては土 1
1
1
¥の存在などから、生産することに関する何
いく傾向が見て取れた。 これとくらべて 、 E類は
らかの 祭杷が想定されていることを考え合わせる
類ほど減少の傾向は著しくなく、量的にはどの時期
と、食材を食べられる状態に加工する、つまり、食
も少ないが、 一定量の出土が確認できた。破片に関
I
品を生み出す道具として使用されていたことを裏付
しては、破片での出土が見られなくなるのは弥生時
けているように思われる 。
代中期以降であり、農耕│による生産力の向上に伴っ
E類はどの時期においてもあらゆる場所から出土
しており、時期・立地によって出 土が増減するとい
て、精神而でも新しい文化を受け入れた様子を示し
ていると 言 えないだろうか。
う傾向は見られない。弥生時代以降、 主に工具 と考
E
i
;跡、は弥生1守代に入
また、 I類 .]]類を共伴する i
えられる石器とともに出土することが多い。石器製
ると増加している 。深く生活にかかわる こつの作業
作の作業台として使用されたと考えるのが妥当で、
あ
が、同じ集落内で存在していたことが考えられる 。
る。純文時代晩期や弥生時代前期のものでも破片で
遺跡の立地環境との関係をみると、近畿地方の北
の出上は少なく、破片になるほど使用したり、ある
部 -'
l
'部にかけての地域に石 l
l
l
l.台石を出土してい
いは、故意にうちかいて破片にして廃棄する可能性
る遺跡が多か った。特に、縄文時代晩期から弥生時
の低いものであったと考えられ、祭杷に用いられて
代前期の I類に関して、水田の営めない土地での出
いた可能性は低い。
土ももちろんであるが、低地や低台地など縄文│時代
1.]類ともに、米の生産が高まると考えられて
では好まれなかった位置にある遺跡、からも出土して
いる弥生時代中期後半以降、減少の傾向を見せ始め
いた。 しかし、弥生時代中期以降になると、丘陵上
ている 。稲作が定着 ・安定化し、道具が鉄器化した
に位置する遺跡、からの出土がみられる 。 E類は、立
りするとそれぞれ必要のないものとして使われなく
地条約二にかかわらず、広く出土していることからも、
なる石器であったと考えられる 。
I類が生活環境に関係のある石器であったと考えら
E類は敵打痕と磨痕の両方を持つので、石 1
1
1
1とし
れよう 。 また、弥生時代中期以降になると農耕の技
ては使用できなくなったものを叩石等に再利用した
術も進歩し 16、今まで集落のなかったところでも農
58 ・人間文化
縄文の石皿・弥生の台石
ね
│
ー
がI
'
J能 に な っ た と 考 え ら れ て い る 。 このこ ろから
I類の,'
1
'
,1:が減少している 。
l
以られた資料ではあったが、イ I
I
ll
.f
i石 の こ の 11
.
¥
'
稲作に過する仁地での
J~J におけるあり }J について与えてみた 。 これ らのイ l
総は、新しい文化の流入に影響されながらも、この
出版的制 tU
ける J
使I
Jす る 人 身 の 立 j
哉の変化を受けている様子をぶし
ているように思われる 。 つまり、稲作が開始されて
ll
などをJiJ
い た 純 文│
時代以米の食生川や
すぐに、石i
jが 完 全 に 変 化 し て し ま っ た の で は な
道具の扱い )
く、 徐 々 に 変 化 し て い っ た 悌 子 が こ れ ら の 必 絡 に 脱
れ て い る よ う に 思 わ れ る 。 今後、さらにこれらのイ i
器について、他地域との比較を交えて考えていきた
い。 日本だけでなくMt界にも日を向けて、研究の帽
│主!米地 )
Jの事例を'1'心に一」 帝 京 大
について
第 6~長
1
9
9
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イI
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i人 I
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J'Ji.yl~
学山梨文化財研究所。│究組古
1
2(
1 鈴木道之助
縄文 )J
相~lll;: }
j
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IE\Jm を通じて存在しつづけている 。 狗 1ììl採集 ~I;.ì ,íi か
ら'
t
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i生 活 へ の 変化によ って、 こ れ ら 石 i
l
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.台イ lを
第1
6号
史的
1
1 '1'森倣 I
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j 1
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1
ム'達原 二 1
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先│今日日
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lで は 水 銀 朱 の '
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れている c
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. 東京大学出
版会
を広げていきたいと考えている 。
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反秀爾
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│潟、この小論 を ま と め る に あ た っ て は 、 市 t
1
9
9
0r
弥生│時代の始まり j東 京 大
学iI¥
J
阪会
生 ( 京都文化 t~J 物館)、中村健:氏 ( 滋賀県文化財
保 護 協 会) に綿々ご指導を、また、ゼミ主任林博.iill
参考文献
先生に有益なご教示をいただいた 。 深く感謝の}~‘を
禰]"(1
1任リ
1
9
9
3r*
1ヒの弥生石部 J/J~、生文化博物
館研究報告
表 し ま す。
第 2~在、
大阪府立弥
生文化博物館
註
藤村点リ
1講 座 円 本 考 , I
i学
2鳥居龍蔵
3i
登田正 一
1
9
2
4r
諏 訪 史 第一 巻 』
1
9
53 r
濃飛山地に出土する石皿の研
i教 育 委 員 会
jヒ J ~ d
植FIl文雄
1
9
6
4r
股 飛 山 地 に 分 布 す る 石I
阻の機能
について J名 古 屋 大 学 文 学 部 川 究 論 集 XXXII
同
金
│
品l 忽 ・ 佐 原 民 祈i
1
9
9
7r
弥 生 文 化 の 研 究』 第 2
巻
1
9
8
4r
純文時代のまJ識 j東 京 美 術
三輪茂男
1
9
7
8r
F
lj も の と 人 I
Jの 文 化 史 法
政大学,'
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¥版
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J引 の 石 器 組 1
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1 近 畿 (大
渡辺
史学1
1
4有 光 教 一 1
9
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朝鮮石部1
1;¥代の 「す り う す J
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史 林 第3
5巻 第 4~J'
5平 内 一 治 1
9
7
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縄文時代のイ 1
I
I
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lに つ い て
こ
われた石]
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lを め ぐ っ て 」 伝 波 第 3
0巻 第 40~
誠
阪・兵JrI0 ・中問・問│五
信濃史学会
1
9
7
8r
純 文I
時代の川火に関する党,J.fJ伝
三
│
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1: る
!
J
波 第3
0
巻 第4号
7藤 森 栄一
8安達厚三
1
9
9
8r
無 縁 石l
l
l
l考 Jr
列島の文化史
1
渡 辺 先 生 還 暦 記 念 論 集-
究 j名 古 屋 大 学 文 学 部 十 刷 年 記 念 論 集
6能 登 健
1
9
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8 r 北上 di 文化 H~ 前iJ 1ì' ~II寺
; 第 47集
九年;jf~遺跡第 11 次調干E 報告書 」
文献解!起他講座本より
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純文農耕
:PUt
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石 皿 J r 純文 IIS 代の研究
桝 井i
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ンス社
巻 道 具 と 技 術 雄1
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1閣
9鈴 木 保 彦 1
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第2
の道具としての石Jll
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J縄 文
時 代 第2
号 純文時代文化捌究会
1
0中 森 敏 晴 1
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縄文時代行 I
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の形態変化にお
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考古学ライ
ブラリー 6
4 ニューサイエンスネ:
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機 内 の 必 生 石 器」 考 古 学 ジ ャ
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弥 生 石 器 と 地 域 文 化j
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7 r 第 ll~
弥 生 11'代の畑!の前遺跡」
r J~l 有151if (
仮初、)精華ニュ ータウ
ン予定地内逃湖、発抗1
1
調f
E報 告 書』
人間文化 ・ 59
縄文の石皿 ・弥生の台石
新宅信久
r
1
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9
6 パズルの 一 片 j
福岡考古第
1
7
号福岡考古懇話会
坂本嘉弘
r
中間靖人
小野
1
9
9
6 東北部九州における石器組成の
変遷
r
小林達雄編 1
994 純 文 人 の 道 具 』
古代史復原3
講談社
r
1
9
9
2 石の動き、 土 器の到Jき H 新 版
古代の日本 ⑤ 近畿
日本
)明学会
第4
集大分県考古学会
山中 一郎
r
1992 図解・日本の人類遺跡』
ー 純文時代後期から 古墳時
代にかけてー」 おおいた考肯第 8
r
1
9
9
2 農耕文化の定着 J向上
H
百・春成秀爾 ・小田前十
夫
│河村道雄
I
J角川書広
r
1998 石 器 の 盛 衰 J 歴 史 発 掘 l
談社
Comment
"やし
林
ひろみち
博通
人間文化学部地域文化学科
わが国は今、飽食の時代と 言 われて久しい 。 が
、
希で、多くの場介、残された 1
'
1
,士泣物一 食料 }
J
IL
J
/J
よりよい原材料を求め、より旨く、より経済的な料
J
(.やドングリ・クルミなどの杭物辿存体などー を検
理へのあくなき執着は、ますます激しいものとなっ
討・吟味することによって具体的実相にせまらざる
ている 。
を得ない 。
近年の諸科学の発達により、わずかに造存する食
この論文は、原始 ・古代の人述の具体的な食べ物
物の残浮を分析することによ って 、縄文人が何をど
l
j
jかそうとするものではないが、純物
の内容を解き I
のように調理して食していたか、具体的に匁│ること
性食料の加工用具として使われたとみられる石 J
l
I
l.
ができるようになった 。 たとえば、縄文時代前期の
台石の分析を通して、縄文時代から弥生時代への食
山形県押出 (おん だし )遺跡出土のクッキー状炭化
料袋得や加工方法の変化を読み取ろうとするもので
物を残存脂肪分析法により分析した結果、クリ・ク
ある 。 これまで近畿地方ではあまり顧みられること
ルミ・シカ ・イノシシ ・m
J
'l
:
; (キジ ・マガモなど 1
1
のなかったこの騒辿物を集成 ・分頒して、新たな視
種)の肉、 イノシシの l
組、野鳥の卵、野生の酵母な
点からその用途や変遷を検討している 。小論ではあ
どを塩で調 l 床し、 200~250)交で焼いたものと推定さ
るが、示唆に富んだ内容といえる 。
れている 。想像以 Uこ栄養官
l
I
i
が高く、豊かな食生活
を享受していたのである 。
しかし、こうした科学的分析の可能な資料はごく
60 ・人間文化
こうした視点・考察を基礎として、この後、彼女
は修士論文 「稲作 Im~台による漁携活動の変化
琵琶湖
地域を中心としてー」 へと展開していくことになる 。
論文
古琵琶湖層地帯の人と水
ーこの地域の農作業とくに客土作業について-
岡田玲子
人間文化学研究科地域文化学修士課程 1
回
生
に上部で1ま砂 手;が優勢になるのに対して、後者は火
1.はじめに
山灰と粘土の混じ った擬灰質泥岩が多くて砂岩が少
滋賀県甲南町の一部と 叩賀町の一部、そして 三重
なく、泌岩が優勢である 。 この地層はまた特殊重粘
県阿 I
1
[~Il から伊賀町にかけた地域は、今から 1000 万
J
:ともいわれるように文字通りきめのつまった粘土
年前くらいには湖の中にあった。 これが現在の琵琶
である 。阿山町と甲南町の境界辺りの地域における
湖の始まりである古琵琶湖である 。 5
00万年前くら
市琵琶湖層の大部分は後省の 甲賀累層に属している
いになると、この古琵琶湖が大きくなりながら推積
(
'
i
i
立さとの歩み
阿山町、ア ーバンクボタ 1
9
9
0)
。
物を何百メー トルもためつつ、 3
00万年前には甲賀
すいでん)である
阿山町で1ま耕地の 89%が水田 (
地区にまで移動して古甲賀 湘l
となった。最初の古琵
が、その半分がこの特殊重粘土地域に属している 。
琶湖を古伊賀湖といい、 これが堆積した地層を伊賀
この特殊重粘土よりなる水田は、酸性が強いばかり
累層、古甲賀湖が堆積した 地層を甲賀累層という
でなく、いったん日照りにあい乾燥すれば、たちま
(
自立さとの歩み
ち深さ 2メー トル余の亀裂ができ、水が抜けてしま
阿山 町‘
。
)
さて本題の地域は、古伊賀湖から古甲賀湖へ移動
した 2つの湖の重複した部分に位置している 。 した
がってこの地域の土壌は侵食されていなければ、
F
部に伊賀累層、上部が甲賀累層である O 伊賀累層と
甲賀累層の違いは、前者が砂 岩、泥岩の互層で、特
って再ひ:'~f.f めることができずに、荒地と化す こ とも
しばしばであった。そのため、 このような日照りに
あった水田の復旧には、多大の労力と費用を費やし
て、床ばり、あぜ堀りをお こなわねばならなか った
0
0
0人間文化)
。 本題の 地域の特殊重粘土の仁
(
岡田 2
壌においての稲作は、文字通 り水と土との戦いて、あ
った。
ここ ではその地域独特の農作業の実際を紹介し、
なかでも客土作業について土壌との関連や農耕上の
意味について詳しく分析する 。 この客土作業は これ
まで土壌改良 (
滋賀県内部資料)とか肥土を入れる
と解釈されてきたが、
私には 地元の人たちの作業は、
それらでは納得できない意味がある と思われた。土
壌分析の結果、 この問題は重粘土地帯の農民が創り
出 した土壌の性質に適合した稲作技術である ことが
示された。
古琵琶湖層(阿山町)
図 1 甲南町・向山町
人間文化・ 6
1
古琵琶湖層地帯の人と水
滋賀県
甲南町
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甲賀町
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しかし、はるか昔より、先人たちの経験と知恵に
2
. との地域特有の農作業について
よって、自分の回に必要な水は 一年中田に水を張っ
1)天水にたよる稲作
て水田 (
みずた、湿田)にして確保し、それ以外の
この地域はその生い立ちにより、なだらかな丘陵
非常用の水は、各所に小さい i
留池を作って、普通の
地荷とな っているため、大きな山が全くない。阿山
気候の年では水がまかなえる ように 工夫してあっ
町の Jさんは、 「阿山の阿の意味は 「
無い」 という
た。だが異常気象である早魅の年ではこの水のバラ
ことやで」 と教えて下さった。つまり山がない町と
ンスがくずれ、田がひび割れて水がi
留まらなくなり
いう町名であるそうだ。本当はもとは阿拝村と鞠田
稲が枯れてしまう 。 そうした過酷な皐 害時の農民
村を 合わせて阿 山になった。話が少しずれたが、大
(玉滝村
、 4
6才男性)の思いを、明治 2
6年の農業日
留まる
きな山がないというのは、この地域には水がi
記より抜粋する(東北伊賀五ヶ村皐筈史)。
場所がなく、田の水源がほとんどない。 しかも丘陵
の浸食により、複雑な樹枝状谷 (
谷の形がショウガ
「ああ
今日も天を見あげて雨水を憂ふる 。雨は
一滴も降らない。天は雨を降らすのを忘れたのであ
の形をしているため地元の人はこういう地形をショ
ウガ谷といっている)であるため、大きな i
留池を作
る場所はどこにもなかった。だからほとんどの回は、
谷の上部に小さな溜池をつくり、そ の下に段々に谷
間をハガネ土(溜池の堤防などに用いる粘りけのあ
る土で踏み固めると頑強になって、水を漏らさない
印池の水は天水
土)で固めた形になっていた。 この i
(雨の水) をi
留めるしかなかった。
しかも山が浅いということは、空気が i
1
i
l
l
.
め
ら
れ
で
も上昇気流ができにくいので、暑い夏の日の夕立も
あまり期待できないということだ。 これがまた降雨
の少ない、水源の少ない原因となる 。
62 ・人間文化
アゼの高い西湯舟の田
古琵琶湖層地宇野の人と水
らうか。清水も出なくなって来た 。わずかの水を、
釣瓶で汲みあげては田に流す。だが徒労の作業だと
思へば涙が流れて来て致方なし 。米に命をかける 。
これは農夫の業とはいいながら、この酷熱と戦いな
がら希望なき日を思ふ時、汲いあげる釣瓶の手が涙
で、すべってしまった。六すにのびた稲株。その株を
阿山町西湯舟)
「
田舟J(
泥田で刈った稲を田舟で集めてアゼまで出 した。この舟
の大きさや形も集落や田の固さによって違っ ている。
眺めるに堪えな くなっ て来た。 (
後l
略)
J
今 までの歴史を振り返ると、程度の差はあれ、こ
のような早魅が平均 6年に一度この地域をおそって
に置いておくなどの手の込んだ工程が加わってい
いる(東北伊賀五ヶ村皐害史)。 しかし、現在では、
遥か遠くの深い 山の奥に大きな溜池 を作 り、ここか
f
こ。
春先からの客土やアゼヌリなどの農作業の順番
ら延々と各集落へ閏用水を送っている 。また、力強
は、その工程のうちのいくつかを 一緒にできるよう
いポンプによって、回よりはるか下を流れる川の水
に前の年に準備しておいたり、手 J
l
iょくできるよう
をいつでも揚げることも可能になっている 。 だが、
に組み合わされて行われた。重粘土の土の 回は、た
この大きな溜池を作るまでの、この地の人々の苦労
とえて 言 うなら、ホットケーキの生地のようなもの
は並大抵のものではなかった。
で
、 一度回へ入ると足に泥が雪だるまのように付く
この地域の日常の農作業と用水、 皐魅時の農作業
ので、回に入るからにはいろんな作業を 一度にすま
を少し説明して本題に入る 。
せてしまおう、というこの地の知恵があった。
2)この地域特有の農作業について
3、皐魁時の農作業について
回の土が重粘土であること、田の畔や 田の底を構
早)訟に見舞われた年は次のような聞の復旧作業が
成する土も粘土質であること、平地でなく丘陵地で
必要となる 。 日照りが続き、回にひび割れが生じ始
あることと、山の湧き水などの田用水の水源がない
めると、先ず応急処置としては、あぜの近くの亀裂
ことにより、この地域にはこの地特有の作業を伴う
の入った所を見捨てて、その内側に手あぜを作って、
ものがある 。一つには皐魁時の田のひび割れの復旧
水が漏れないようにしたりした。しかし、それはそ
トコハリ作業である 。 もう 一
の時だけのことで、次の田植えをするために、この
つは、日常の農作業の工程の一音1に組み込まれてい
割れた田を修復しなければならなかった。その作業
た客土作業である 。
さてこの地域で本題の客土作業が、農作業の年行
の一つが、あぜ堀りである 。 またあぜだけでな く
、
回の底までひぴ、が入った回を修復するのが底張り作
事の 中でいつ行われるかというと、盆前に夏草を刈
業である 。
作業であるアゼボリ、
り取り、その草をクマシにして次の年の客土にする
用意をしておく 。 このクマシは、 草やワラ、家畜、
1)あぜ堀り
家禽の糞と、はl
から取ってきた山土を交互に積み上
まず阿山町西湯舟の事例で説明する 。西湯舟は、
げたものである 。 クマシ作りは稲刈りまでにはすま
集落の山手の回のほとんどが重粘土でできているの
せなければならなかった。普通にはこうして積み上
げた土を翌年の春に旧へ運んで、いって回の中へ入れ
割れに苦労した集洛の 一つである 。
る。言葉で言 えばこれだけであるが、世間 一般の農
と、あぜが高いことにより、 雨の少ない年には回の
あぜの土手が高いと、地中の水面より、または水
留池の復旧作業に加えて、はl
作業や、早魅時の回や i
気より田の而が遠くなるためにあぜ近くは乾燥しや
から大量の山土を取ってくる作業と、夏草を大量に
すい。粘土は水を十分に含んでいると土の体積が膨
刈り取る作業、それを積み上げてクマシにする作業
、
張しているが、これが乾燥すると縮むから、その体
さらにこれらを田に運んで回の中へ掘り込む作業が
積差がf
色裂となる 。西湯舟は、あぜが高いため、大
加わることになる 。詳しい事例は後で述べるが、山
早魅の時には、回の表面に幅 6cm深さ 2 mくら い
土を細かく砕く作業やク マシを切り返す (空気と良
のひびが開いたそうだ。
く触れさせるためにひっくりかえしたり、混ぜ返し
たりする こと)作業や、またこれを何年も家の周り
あぜ掘りは、このひび割れがなくなるところまで、
あぜ塀,り用の大きな鋤で、掘っていく 。
人間文化・ 63
古琵琶湖層地帯の人と水
な経験ではなかった。あせ、掘りの一段目は一鋤分の
1は二鋤分の幅というふうに上 に行くほど
幌
、 二段1=
鋤の検問ぶんずつ広くなる 。やはり、深いあぜ堀り
では板を 立ててつっかえ棒をしながら掘り進んだ。
大皐魁の年は、正月の餅を食べたらすぐに、あぜ垢i
り、床張り(タタキともいう)を始めて、 一年中米
のことに明け暮れていた、と Kさんだけでなく、出
会った人すべてが訪っている。 この地は小さい凹ば
かりなので、あぜの総距離が長い。それがさらに大
変さを憎した。
実際どれくらいの作業なのか。阿山町東湯舟の F
さん(昭和 1
3年生まれ)の体験によると、例えば長
さ 3 mのf
色裂を修復するために、 i
奈さ 二鋤分 (
約l
m) を掘 って土を放りあげて、また土を固め直して
西湯船の Bさんは、写真に写っている後の塀の高さくう
いの深さは「アゼ堀り Jしたという 。深い「アゼ堀り J
は土が くすれるので板を立てた。手に持っているのが B
さんのアゼ堀り用の鋤、田打ちのクマデ(右)、田打ち
のクワ (
左)
完成させる 一連の仕事を約半日で完成できた。 この
場合掘り下げる深さを 二鋤で 1 mとい っているが、
人によって掘る程度が遠い、何鋤が何 m に相当する
という定義はない。 旺l
の状態、道具や土の掘り方が
みな違 っているからである 。 F さんの場合 「
半日で
できた」 と言っていて、半日もかかった、と言って
この地の場合、阻の底の地層は青い粘土で、この
いない。つまり Fさんは優秀な腕を持っていて、仕
土で日の水を止めている 。 回の底は真っ青な色をし
事が速かった ことを現している 。私の感じ方が鈍い
ているが、こ こにひび、が入っている場合には赤い筋
のか、それともそれ以上のあきらめが先に立ってい
に見えてはっきりわかるそうだ。酸素を含んだ水が
たのかもしれないが、夜、が話を聞いた人たちには思
通ったり、空気が入ったりしているので酸化されて
いの外、悲壮感がなかった。おそらく皆んな積極的
色が変化するのであろう 。だから、この赤い筋がな
に農作業をしていた方ばかりで、技術力、体力共に
くなる所まで、きっちりと掘下げておかねばならな
優れた方がそろっていたということと、平均 6年に
誌の中に入
かった。掘り下げるといっても、自分がj
一度すればよかったということがあるのだろうか。
って、掘った土を講の上に放り投げない といけない。
この作業より皆一様に嘆いていたのが、後に述べる
だから掘り下げた講の形は V字形になる 。西湯舟の
回おこしてあるのと対照的であった。
Bさん (
昭和 1
0年生まれ)の体験では、最高の深さ
田の状態や乾燥状態で簡単には比較できないが、
が背丈以上の 2 m程で、 V字の仁の帽が 1m50cm
他の集落で聞いた別の事例では、男 3人で 1日で 7
くらいになるまで掘った。 これがあぜに沿って続く
- 8 mのあぜ堀りができた。それが一坪の床張りだ
わけである 。 またこのような深いあぜ堀りでは、 i
誌
と、一日はしっかりかかる(じゅうぶんかかる)そ
うだ。
J
i
l
l
iがくずれてくるので、板を 立てて間につ っか
の似I
え棒を挟んで、土崩れを防ぎながら作業をした。そ
大正 1
0
年生まれ)は、あぜ
阿山町川上の M さん (
誌の底から土を足で踏み固めていく 。 ここに
のあと i
掘りをした経験での掘り下げた深さの最高は 2 m、
留池の水を汲んできて、土
水気が無い場合は、柄で i
采さにも よるが、 一枚の回
上の幅も 2 mであった。 i
を水でしめらた 。 こうして足でこねて踏み固めて、
Iかかった。 M さんはひどい年のあぜ堀り
に 4 -5E
田の表面まで踏んで上がる 。
足に力を入れるために、
の経験は 3回くらいある 。あぜ堀りが間に合わない
両手を回の上に出して土につけ、踏み固めた。回の
回は、次の年、田植えしないで、ほっておいて、翌年
状態によって、あぜの側而や、山際の側面に横穴を
にあぜ塀 りをまわしたこともある 。 こういう田には
掘ったり、草粧を履いた足で踏み固めたりした 。
サツマイモを作ったりする 。 「田んぼでサツマイモ
昭和 3年生まれ) に
阿山町上友田に住む K さん (
来さ 1m50cmくらいのあぜ堀りは特別
とっても、 i
64 ・人間文化
p
ょうけとった」 といっておられた。
手が無い家は、あぜ堀りもお金を払って人にやっ
古琵琶湖層地帯の人と水
1枚ずつ回を
てもらった家もあった 。水を止めるのは、しっかり
ね土を底と側面へ打ち付けていって、
した技術力がいる 。お金を払って人にあぜ堀りをし
広げていったものと考えられる 。 この場所を見てい
てもらっても、水が止まらないことがあったが、雇
ると、この地の先祖が、水のある所の谷に、はがね
う方も、この人ならという人にしか頼まなかった 。
上を持ってきて、あぜ堀り出を作り、その次ぎに床
せっかくあぜ堀りしても、雨が降らなかったらまた
張り同を広げていった様子がよくわかる 。
ひびわれした 。 M さんもやりなおしたこともある 。
この床張り回を広げるための全ての作業が、この
「
雨降ったら正直や、すぐたまる 。 まだ日照りのと
地の全部の農作業をやり終えた後の余力の労働で行
きはあかん」
われたものである 。小さい溜池一つ、小さい床張り
M さんも、人の田のあぜ掘りに行ったこともある 。
よほど腕に自信がないと人の家のあぜ堀りまでは行
1
1
:
11
枚で、何年、いや何十年の年月が費やされたの
か計り知れない。 しかし 、米やお金で貯金できなか
かない。 どれだけ深く掘るかは経験がいる 。 ここで
った昔の人身は、 「
少しの田でも 」 と、労働力の貯
ええやろ、と思う 。 「カナケで赤うなっとるからょ
金をしてきた。 この先祖たちの思いが、床張り回に
うわかる 。すうっと赤いキズがあってもだめ。真っ
立つと見えてきた。
青のキズのない所まで掘らんとあかん。 1日あぜ堀
さてこのような床張り回が、平魅にあうと真っ先
りに行って、 8
0銭から 1円もらった。 当時は酒 1升
に水不足のために穂が出なくなり、稲が枯れてしま
買えた 。今のねだんにすると l万 5千円くらいか、
ったのだが、このひび割れたIJ:.Iの修復は本当に大変
とにかく値打ちがあった 」
。
であった 。 この床張り作業(たたき)について説明
する 。
2)床張り(ととはり)
まず田の地味土 (
稲を育てるために回に入ってい
床張り回はどの集落にもあったが、山のてっぺん
る土) を、田の端から 50cmほど全部掘って、それ
のようなところで、どこからも水が入らないような
をこの凹の今掘った反対側の端に積んでおく 。次ぎ
場所にあることが多い。 田の総面積の 15%くらい
にこの土を取った部分は回の底が見えているので、
の割合で床張り回だ、った。ある集落で、かつては床
この底を木槌でたたく 。 また凶の側面の全面をたた
張り回だった凹に案内してもらった。 そこは丘の上
く 。 木槌の直径は 1 2~13c m で、あるが、叩けていな
で、小さい溜池があり、その溜池一つで床張り回数
いと ころができないように、ていねいに叩くと木槌
枚の水源となっていた。
は 5cmくらいしか進まないことになる 。 こうして
記録も残つてないので、いずれの時代にどうやっ
面5
0
cmのl
隔で回の長さを叩いてしまう 。
11
て作られたのかわからないそうだが、まず、はがね
u
n
き終わったら、その部分は完了したという目印
土を持ってきて、丘の上にこの小さい溜池をつくっ
に、叩いた底にヌカ (
モミガラ)を敷きつめるか、
たのだろう 。 そしてその後、この溜池の下へ、はが
集落によっては灰をまく 。叩いた側面には目印にワ
ラを立てていく 。敷き詰められたヌカは田の底にあ
り、水田であるために酸化 されずに残り、この次の
床張りのときに 「
土をまくりやすい」ことになるし、
田の底である日印にもなる 。灰をまく地域は、少し
でもアルカリ分が回にょいという先人の知恵であろ
うか。
こうして完了した 5
0
cmのモ ミガラの上に、すぐ
隣の 5
0cm分の土を掘って乗せ る。次は今見えてい
る聞の底を、同じように 5cmずつ木槌で、たたく 。
最後の部分をたたき終わったら土を戻して、 この I
枚の聞の床張り作業が終了する 。 このような床張り
「床張りヅチj
床張。で田の底をたた くツチ。柄が聞いて床が叩きやす
くなっている。ツチの径が 12cm
であるがこの円が重
なりあうように少 しすっすうし芯がらたたいた。
作業は、例えは、夫婦とおじいさんなどの 3人のペア
ーで田に入り、 一人が土を掘る、 一人がたたく 、一
人が土を戻すなどの分業で作業を行った。
阿山町中友田の K さん(昭和 10年生まれ)が子供
人間文化・ 65
古琵琶湖層地帯の人と水
の頃、お父さんが床張りをしていた 。床暖りが終了
に最後の時。 田んぼより、イケの方を大切にした 」
すると聞にはたちまち水が溜まり 、ちょうどプール
留池の水は最後の最後の命の水だ っ
と言っ ている 。 i
のようにな ってうれしくて泳いだことを覚えてい
た。
る。 この地域では川もなく、 昔はプールなどなかっ
昔 は天水だけといえども年中水を張 った水田であ
たので、このような水たまりが大変珍しか ったそう
ったし、 「そんなにむちゃくちゃ水がい ったわけで
'
ー
。
もなか ったj よほどの異常気象以外は対応できるよ
守 、
以前、小作と地主 という制 度があ った時には、床
うに、 長年の経験により自分の回に必要な水量は溜
張り回みたいなところは、小作料ー
が安かった。例え
池で賄えるように設計されていた。それがおかし く
ば川 上では回の階級が1
0
段階に分かれていて、小作
なったのが、機械を入れてからである 。1
2作業の機
f
戎が i
tまないように 、田 をできるだけ車iかす。「田
来│もそれぞれ違っていた。安い田を借りて、水をき
っちり止めて、ょうけ米を取ると小作人は得だが、
の面積が増えたわけでもないのに、 昔の何倍もの水
万一皐魅年に当たると、こういう田は真 っ先に水が
が必要にな った」しかも田植えの前の一時期だけに、
なくなるから、リスクも大きか った。あぜの高 さに
みんな 一斉に乾いた回に水を入れるので、 一年分の
よっても小作料が違ったというか ら、他人の回を借
水がほぼ一瞬に必要となっている 。 だか ら全部の回
りても少しでも安い小作料のため に、あぜ堀 りや床
が一年かか って溜めていたのと同じ水量の大きな溜
張りを した人も多かったのだ ろう。
この地域はこれらの小作の人々によ って、あぜ堀
池が必要になる 。 「その工事費がまた水代とな って
負担になる 。そのお金を外の稼ぎで稼ぎ出すために、
り聞や床張り回が守られてきたとも 考えられる 。大
時間をまた削る 。 また水がいる日がみな
農業 をする l
きなリスクがあってもあえて小作料・
の安いあぜ堀り
同じ日にな ってしまう 」 このことは何人もの方が同
回や床張り回を借りて、より多く の収穫を目指した
様のことを感じている 。
のがこの地域の人達であるのかもしれなし、。 自分が
持っている水止めの技術によ って、農作物の収穫に
差がで るという能力主義の農業がこ の地で、
はず‘
っと
行われてきた。
4
. 日常の農作業について
これか ら述べることは、早魅に 会っ ても会わな く
ても行わなければならない普段の農作業であり、他
の地域で も一般にやられていることだが、こ の地で
3) 溜池の修理(池普請、いけぷしん)
降雨の少ない年には溜池の水 も少な くな り、池の
水が入 っていない部分が乾いてひび割れができる 。
ひび割れができてしまった池は、日照りの後に雨が
は特に念入り であった り、独特な工程が入 ってい る
と思われる、あぜぬり、あぜの修理、回おこし 、客
土作業 につい て述べる 。
これらの作業は 、その適切な時期になると毎年必
降ったとしても雨水が溜まらない。 このようにひび
ず
、
や っていた作業であり、早魅の年にはこれらの作
が入 ってしま った池の修理は、回のあぜ堀 りと同じ
業に前述の作業が加わったと考えて欲しい。 この日
ように、粘土の亀裂がなくなるまで掘 って、土を柔
常の作業 も現在は機械化 されているので、以下の聞
らか くして足で踏み込んで、池 の上 まで土 を練り直
き取り 事項はすべて機械化された農作業になる前の
す。ただ溜池の場合は田のあぜ堀 りより l
幅広 く (3
ことである 。
尺 -4尺) 掘り、練る土の量 も多かった。 このよう
な溜池の修理作業を池普請 (
いけぶ しん)とい った。
1)あぜぬり
自分の溜池は作業の 「ゆい J(
作業仲間をこし らえ
この作業は稲作をするどの地域で も必ず‘
やってい
てお互いに労力を出し合う組織) をしたり、お金 を
るが、この地域ではさらに念入りな工程が加わ って
払って池普講をしてもらったりした。池普請は冬の
聞からおそくとも 5月までには終わらなければなら
いる 。 この地域の田のあぜには、はがね土が入 って
いて、回 1枚ずつが溜池の形状をと っている 。 この
なか った。
回での小さいあぜ堀りはしょ っちゅうや っていた
はがね土 を中心にして、あぜにひびが入らないよう
に、入念にアゼヌリをする 。
が、池普請 までするのはよほどの大皐魅の時であっ
以下にこの手順を説明する 。阿山町城出の N さん
た。 甲南町下馬杉の Fさん (大正 5年生 まれ) は
(
昭和 5年生 まれ) と阿山町中友田の Kさん (
昭和
「イケをやかすと大変なので、溜池を抜くのは本 当
1
0年生 まれ)の体験をもとにしているが、その他の
6
6 ・人間文化
古琵琶湖層地帯の人と水
集落や甲南町の場合も大きな違いはない。現在はあ
ぜぬり機というトラクタ ーのような形をした機械が
できているし、あぜシ ート を買 ってきで あぜに敷け
ばよいそうだが、以下の事例はこれらが存在しない
ときの作業である 。
務とした畦の土と回の水を一緒に田の内側へ向
0cmくらい移動させて、あせ、の際の
けてクワて、 6
水を退かせて、手あぜを作ってあぜの方へ水が来
ないようにする 。あぜが高いときはこの引きずり
込む場所をあぜから遠くする。
アゼヌリは春になってからするが、前年の秋の
7
. アゼウチ
あぜの内側、田の面を槌でたたく 。城出ではあ
稲刈りの後のワラカタヅケの時に、あぜぬり用の
ぜの上部は勾配のついた底張り用の槌を使い、横
ワラをあぜから1.5mくらい離れたところに 2m
の側面はまっすぐなハラタタキ用の槌を使った 。
間隔くらいで置いていく。
中友田では底張り用の槌を使った。 また槌で打っ
1.ワラの束を置いておく 。
2
. アゼケズリ
あぜの天(てん)場をくわで削ってあぜの高さ
と幅を決定する 。
てから、あぜの回の底の方を足で平らに踏む作業
わっている 。
が力u
8.土を付ける
あぜの天と腹にクワかクマデで土を付ける 。
3
. 土手たたき(中友田)
板に棒がついたドテタタキを使って、固と反対
側のあぜの側而をたたく。
4
. アゼパラ(城出)スキメ、アゼマエトリ(中友
田) をとる 。あぜの中のはがね土ぎりぎりまで、
9.イナワラを置く
稲のワラを長いまま敷いていく 。穂が上で株が
下になっている状態である 。
1
0
. ワラの上に 土をのせる
0cmくらいのところへ鋤を入れてい
回の方から 2
く。
5
. この鋤を入れた部分の土を鋤またはクマデを使
あぜの角へクワで回の土をかきあげて土のかた
まりをワラの仁にのせる 。
11
.j
)
裂をクワでたたいて土をまっすぐにする 。
この時使うのがあぜぬり用のクワで、このクワ
ってはずして回の方へ落としていく 。
6.手あぜをつくる
は真ん中に木の部分があり、軽く作られているた
めに細かい作業がしやすい。
1
2
. 天もクワでたたいてク ワでなぜて、 天 と腹をま
っすぐにする 。
1
3.旧あせ.に使った土と水を元に戻してあぜぬりは
完成する 。
以上の作業を中友田ではワラカタヅケを男と女が
共同でやり、アゼケズリは男の人が 3-4月にすま
せる 。 スキメは力のいる仕事で男の人がやり、あぜ
ぬりは主として男がしたが、 j
尼を付けるのとワラ付
けは女の人がした。最後のあぜの成形は男の人がし
た。
あぜぬりをしている時期はあぜぬりばかりしてい
る。雨が降るとできない作業でもあるので、ほとん
どの集落の人があぜぬりだけで 1ヶ月近くかかって
いた。 この地域は小さい聞の集まりであぜの長さが
長かったこともあるが、このあせ、ぬりで一年間の水
が止まるかどうかの別れ際だ、ったため、時間をかけ
てもみんなじっくりこの作業を行った。
あぜぬりの際に、 1スキ くらいのあぜ堀り をや っ
左)とアゼの土をはずした部分をたた く
「土手たたき J(
ツチ (
右)
ておいた人が多い。 これを東湯舟ではスキパナシと
いっている 。 こうしてし っか り水を溜めてからあぜ
人間文化・ 67
古琵琶湖層地帯の人と水
ぬり作業を始めた。
また川上では、客土してあった仁を、あぜぬりの
│時に、女の人が手で広げる 「
土さがし Jの作業をし
ている 。粘土の仕│はー且 E
F
Iに入ると泥がたくさん足
に付くので、作業能率よく回にはいっていることが
わかる 。
2)あぜひろい(あぜの修理作業)
この地方は年に 1度は必ず台風が米る 。台風の大
mが│経ると、
I
I
Iが浅いのと各谷の上の潟池が小さい
ので、谷筋に 一気水(鉄 i
{
包水)となって流れた。各
があるため、この一気水
谷には、段々に区切った m
はこの田の上を流れ去り、 [
E
Iのあぜを押し流してし
まう 。下の回の中程まであぜが流されたこともたび
たびあった。 このあぜの修復には、まず流されたあ
ぜのはがね土を下の回まで拾いに行く 。かごに釆せ
「クマデ」水が少ない乾いた堅い回はクマデを用いてた
がやした。ひざまで入るやわらかい田はクワを用いた。
て元の位置までリ │
っ張り上げ‘て、またあぜのハガネ
を作り直す。 この作業をほとんど毎年ー今度はやらな
ければならなかった。
回うちの作業とは、クワやクマデで去年の株をひ
っくり返す ことである 。 この地域のクマデは、クワ
3)田うち(田おこし)
の刃が数本に分かれているものを指す。 この地域の
ここの土地の人々に、良作業で何が大変だったか、
留めているのだが、
水田は、 一年中田の水を精一杯 i
と伺うと、誰もが 「回うち」といわれる。よそ者か
水分の多い回をれつのにはクワ、水分の少ない固い
、らみると、あぜ腐りとか床張りの方が、と思ってし
回を打つのにはクマデを使 った。本稿では詳しく触
まうのだが、それらも非常に大変な作業には違いな
れないが、この道 Hも集落ごとに違いが見られ、ク
いが、田うちは毎年必ずやらねばならない仕事であ
マデの刃の数も田の同さによって変えて使用する 。
った。あぜ掘り等も言葉では言い表せないほどつら
e
V
J
!
1.や粘土や砂地の含有
一つの集落の中で、も水との s
いイ│事であったが、それは起こってしまったことの
の固さが変わってく
量、またあぜの高さによって旺l
修復作業であり、とてつもない技術力の必要な専門
る。大げさにいえば悶 1枚ずつで、田の固さが違っ
作業であった。 こういう非常'事態での作業より、平
常の厳しいつらさもまた記憶により残りやすい。そ
ていたといってよい。 この違いを知っているのは実
ういうことから問うちは絶対にやらねばならない、
力と忍耐のいるしんどくて嫌な仕事である 印象が残
際に田うちをしていた回の持ち主だけで、この田の
固さや凶難さを隣の家と比べてもどうしようもない
ことであ った。
っているのだろう 。 またそのくらい、この地の粘土
田うちは最も力のいる重労働であったから、よほ
は粘り強くて作業がしにくい、重い土であるともい
ど強い男の人でも数時間も回うちをすると疲れて足
える 。
が震えてきたそうだ。「 田うちをする時は、朝 6-
中友田の一部を除いて、この地域では午馬が聞に
7時頃から始めて、午前 1
0時前に 「けんずい」とい
入れない。牛馬が沈んでしまうのと、牛馬が歩けな
う小食をとる 。これにはおにぎりやぼた餅を食べた。
いほど土がねばいからである 。ゆえに、どの田も人
「けんずい」 を取らないと腹が減って次の田うちが
できなかった。
」
の力だけで起こさなくてはならなかった。 また闘い
回は、桶に水を汲んで、きておいて、その水で田をし
時くらいの早じまいに
田うちの日には、夕方も 31
ような、沈めた丸太がゆらゆらしているようなフケ
して、普段より少しだけごちそうを食べて、次の日
の回うちに備えて休憩を十分にとった。
聞の方が、回おこしが楽、と喜ばれたほど、この地
の凹は固かった。
柔らかい田のクワ打ちで 1反を 1日で耕すことがで
めらせてから旧おこしをした。首まで入ってしまう
6
8 ・人間文化
、
集落にもよるが、闘い田のクマデ打ちで 5-6畝
古琵琶湖層地帯の人と水
きた 。 というより、これが目標で、 「これだけ出来
段々にな っている 問は一番下の旧から耕してい
れば一人前の男 」 という数値が各集落にあった。 だ
く 密 下 のI
T
Iの水は、 l
王│が小さい場合は水を抜く
からさっさとその分量だけ起こしてしまえば、たと
か、この旧のすぐ上の田に移しておいた。そして一
え昼から遊びに行こうと何ともいわれなかった。終
番下の田をおこす。 この回をおこし終わ ったら、す
わってから遊ぶかどうかは個人差があるが、決まっ
ぐ上の凹の水を、このおこした凹へ入れる 。 この上
た量だけやってしまえばよろしいという、いわば出
の旺!の水が抜けるのを待つ時間を 「
水まち 」 とい っ
来高市J
Iの能力主義的農作業になっていたところが隣
た。日
1
おこしで1I(t-の休憩時間であった。 そしてす
の滋賀県の場合との遠いといえる 。
ぐ上の旧をおこす。水を抜いても、打つと泥水がか
また入手のない家は人を雇ってでも凹うちをしな
かったので、木で、作 った泥防止板をクワに付けたり、
ければならなかったので、夜、が出会った人のほとん
椋欄の柴を付けたり、またゴム制のエプロンを付け
どの方が、よその家の回おこしに行った経均失があっ
たりした。 だけど泥が跳ねない角度をマスターする
た。その金額も柔らかい田と聞い凹でfi!
I
I
絡がJil!い、
のが一番、と話しておられた 。 こうして次々おこし
クマデうちの田で 1日いくらとか決まっていて、今
ていって、 一番上の 1
3
3には焔池の水を入れた。
のお金にして 2万円くらいだそうだが、昔はお金の
また大きな凹は、水を抜いてしまうのがも ったい
価値がもっと高かったので、当時としては大変な価
ないので、この mの真ん中に手あぜを作り、片一方
値であったようだ。
の 水 を も う ヴJへ締l
で、移しておいてから耕した。一
束、西湯舟のような固い凹の多い集落の人が 「
強
方が終わったらまた水を移動させてもう 一方を耕し
かった Jょうで、よその集落にも道具を持って問う
た。両方こうしておこし終わったら、手あぜを取 っ
ちに歩いていた人もいた。固い旧は、問おこしした
た。 これほど
後、ごろごろしている土をクマデで細かく砕く 「こ
なげ」 も大変であった。
mの水は貴重であった。
Fくらいの小さい i
留をたくさん作
また回には、 2f
1
日が¥
1
年ると少しの水で、も何l
で・しゃくり
っておいて、 :
甲南 I
I
I
Jでは和子の皐魅の年の固さと、野尻の普?段
あげた。 このような 2坪くら いの溜は 2人であげた
の固さが同じである 。 どのように回の固さが比較で
ら30分くらいで水がなくなってしまったが、そんな
きるのかを説明すると、阿山町では、束、西湯舟と
くらいの水でもためて桶であげた。 このような気休
玉滝地区においては 回の用水の量に反比例して聞の
1
1
1枚に一つくらいの割合であっ
めみたいな池は 1
土が聞くなっている 。 だから昔の回の等級は 旧の水
た。今はナカボシとかするが、そんなナカボシみた
量に比例していると私は考えている 。
いな増産のための理想的なことより、聞に水を i
儲め
また阿山町で、
は
、 よその家の凹おこしに行 っても、
ていた。
機能
決められた量をおこせばよかった。 これは一応l
1
1
3
3うちした ら
、 前の年の稲株が土の中でそのま
給制であるが、滋賀県側は、一応夕方までおこし続
まだった 」
。 というこの地の人々の 言葉が次の客土
けないといけない日給制であった。だから広い聞に
作業に関係してくる 。
入れられた人は同じ日給でも大変不利なこともあっ
Iには田おこしで渡り歩いている
た。 これは阿山町領J
技術集団のようなものも伝統的にあったため、働き
4)土持ち (
客土作業)
この地特有 の農作業の一 つが 「
土持ち 」である 。
方も雇い方も経験が豊富であったためだと思われ
この作業は、まず近くの山土を取ってきて、夏場に
る。
刈った夏草をはさんで積んでおく (
これをクマシと
家内での田うちは、何人かがー列になって、男の
よぶ)。翌年 の春に、このクマシを肩て・担って田へ
人は 4株ずつ等受け持つ。女の人は一株少ない 3株
竹
運んで行 って 、竹で、作った 5 mくらいの筏状の 「
i
Eんで
受け持って小ぶりの道具を持って、みんなで、 i
橋」 を波って、FI3の中に入り、この背負ったノンゴ
耕していく 。少しでも遅れると迷惑がかかるので、
の中の土を背をかがめてポイと回へ土をほかす。 こ
一生懸命だった。 この女持ちの道具 は、婚家で嫁の
の一連の客土作業について、開き取りをした多くの
ものを用意した。それは当然のことで、 実家の 田と
事例の中から、私は次のようないくつかの疑問を持
婚家の回では、田の固さが違ったからである 。聞い
った。
回の実家から柔らかい回へ嫁いだ人は婚家で・幸せそ
うだったという 。
この地域の人々だけがなぜこのようなしんどい作
業をわざわざしたのか、なぜいちいちクマシを作ら
人間文化 ・
6
9
古琵琶湖層地帯の人と水
なければならなかったのか、なぜ毎年ほぼ全員の人
侍本当にそうであったか」 という間い 直し 、さら
のI
が同じようにしたのか、なぜクマシのいい、悪いが
に 「
その当時はみんなしたから」とか 「盆前になる
あったのか、なぜ何年もたった土の方が良かったの
と当然だ、った」や「事業のひとつであたりまえゃっ
か、大きな山が一つなくなるほどみんなが取りに行
た」 という記憶。 よそ者の私が冷めた気持ちで問い
った土とはどんな土なのか、なぜ山から取ったその
ていると、なんでこんなにしんどいことを、とまた
ままの土の方が効果があったという人がいるのか、
疑問が湧いてきた。 甲南町の柑子の事例は前回に述
などいくつかの点で疑問が多く残 った。 これらにつ
べているので、これも含めてこの地域の人達がほぼ
いて一つずつ事例をあげながら考察してみようと思
同様の作業を同じような時期にしていたといえる 。
つ。
しかし、集落によって少しずつ違いがあり、これを
詳しく聞き比べてみた。
1.客土の方法について
阿山/1汀川上の M さんは、近く の山のアオ土(アオ
を取 ってきて、まずヌリだけを家の庭に和んで、おく 。
ズリンともよぶ)を取ってきて、回の近くのちょっ
何年か後、このヌリに 豆 を植える 。そして何年か豆
と空いた場所で、夏草を刈って、アオ土と 草を サン
を作 った後、このヌリをクマシにする 。野尻では家
甲南 町!
野尻では青ズリン(ここではヌリという )
tに
ド
イ ツチのように交互に、低いのは 3段くらい、高
の畑で数年以上すごしたヌリの層を和み、その
いのはピラミット状に積み重ねた。高 いのは 2 mく
主 やマヤのタイヒの混ざった層、その上にまた数年
らいまで積んでおく 。 これを毎年作り、半年間置い
以上た ったヌリの層と、各層それぞれ 15cm程度を
た後、約 1ヶ月かけて田へ運んでユ入れた 。
自分の家の庭に 1
0段くらい積んで、また l
年問置い
まず 2- 3月頃、全部の回に、田のあぜから田の
ておく 。そして、このクマシを回へ土持ちした。野
ぐるりに間隔は 2 mくらいで運んできた土 を入れて
尻の場合では、山からヌリを取ってきたときから、
おく 。 この作業を「ぐるりもち 」 という 。なぜ先に
0年近くかか っている ことにな
!日へ入るまでに約 1
「ぐるりもち 」 だけしておいたかというと、この時
る。
期はまだ田に氷が張ったりして回の水が非常に冷た
生ワラは田に入れても腐らなか
野尻の M さんは 「
の中に入るのが大変だ ったからである 。 また
く、旺l
った。マヤ (
牛 などのタイヒ )は良か った(回へ入
面積の小さい凹はこの 「
ぐ るりもち 」するだけで土
れでも腐 った)
。 凹を乾かすとワラが腐るが、水が
入れが終わってしまった。
ついているからワラが腐らんかったので客土しない
そして春の彼岸がすぎて、ワラジを履いて回に入
といけなか った。客土しない家もあ ったが、客土し
っても水が冷たくなくなった頃、竹橋を使 って回の
た方がよか ったと思う 。野尻はほとんどの家が (
客
真ん中へ入 っていった。 このように客土作業におい
土の回へ入れる間隔が)粗い、細かいの差はあって
て土を背負って回の中へ入ることを 「ノンゴもち」
という 。 これはノンゴという竹でできたこの地特有
価値がなくなる 。今でも回を 2回おこさないとワラ
のモッコ状のかごを背負うからである 。
はなくならない。ワラが十分腐ってな くならないと、
も、土持ちしていた。 ワラは焼いて入れると肥料の
こうして入れた 土を、 川上ではあぜぬりの時に、
女の人が田の中で広げる作業 「土さ がし 」 をする 。
「客土すると (
米が) ょうできた 。それせんと悪か
った。行事のうちでせんわけにいかんかった。年中
(
回には)水がつかっているから、じっと土を入れ
んことには (
ずっと入れ続けないと )土があかんか
ったわけや。家内に 2夫婦いる人手が足りている都
合の良い家はよかったが、それ以外の家は土入れの
ために人を雇った。 この客土作業はゆいなどの共 同
作業でやるのはむつかしかった J(
Mさん)
この地の人々からの、この件に関する聞き取りに
おいて共通することがいくつかある 。一つは客土す
ると 「ょ くできた j と効果を確信しながらも、「そ
7
0 ・人間文化
ヌリ(青ズリン)の細かくなったもの(現在のこの土は
買ってきたものである)
古琵琶湖層地帯の人と水
根ぐされになってワラがじゃまになる」と教えて下
さった。何十年も前の客土の効果をしつこく聞いた
ことを、ここでみなさんにお詫びしたいが、みんな
効果を見ながら土持ちしていたのだから、その効果
があったのは確かである。マヤのタイヒまで混ぜて
入れているのだから肥料分としては、クマシを回へ
入れた方がよかったと考えられる 。ではなぜ山から
取ってきた土を 1
0年近くも置いておいたのか。また、
なぜ野尻からわざわざ柑子の境までヌリを取りに行
ったのか、という 疑問が残る 。
ここで同様なことを甲賀 町で聞いている 。 まず山
から取ってきたヌリを庭一面に置いて、モミを干す
ムシロの下敷きに使った。これはゴロゴロしていて
風通しがよくなるからという理由だった。庭で一年
たったヌリを次の年にクマシに積んでいる 。
また上友田では、昔、客土用の土取り場 (
土取り
コバという)が、隣の集落 と取り 合いになり上友田
が負けた。 このことで割腹して藤堂藩に直訴した人
を祭ったほこらがあるという。
0才の人がその方の人生で知る
甲南町では、現在 8
限りでも大きな山が一つ無くなるほど、みんなが競
争で青ズリンを取りに行った(人間文化 8号)。 ま
甲南町柑子)この竹橋を繋いで田の上を歩いて
「
竹橋J(
客土した。
た阿山町では人が命までかけた青ズリンとはどうい
う土なのだろうか。
また中友田では、土を取らせても らうために、そ
の土取りコパの地主に年貢(年間料金)を払ってい
から使う家があった。たくさん土が手に入ったよう
な余裕のある家は 2年間家に置いておいた。
た。 この中友田では 4カ所ある土取りコ パの土の種
中友田は、土がねばくないので、フジフゴに入れ
類が全部異なっている。土の種類が異なっているの
て土持ちした。 フジフゴは軽くて強く、斐で編んだ
に、その効果は同じなのかという疑問が湧 く。 また
箆のような形をしていて持ちやすいが、西湯舟のよ
牛がいる家は、草の問にタイヒを入れたが、その草
うに土がねばい所は、土が滑って出やすい竹で編ん
の上に石灰窒素や石灰を買って手でふって入れて、
だ、背もたれの付いた椅子のような型を したノンゴ
その上に土を乗せていた。 この集落はワラを切 って
でないと客 土しにくいそ うだ。 Kさんは、竹橋 (
西
はさんだり 、草がクマシの側面から出るように積ん
湯舟では竹スダレ、またはスダレという ) を使わず
5cm幅の板を敷いて土持したが、丸太では木
で、土が落ちないようにきちんと真四角に積んだ。
に
、
高さは 1m ,
l5mくらいで、積み方がへたな人が
三角に積んだ。ていねいな人は縁をたたいて、きれ
の表面が面になっていですべるので、やはり竹を並
べて組んで、橋のようにした竹スダレでないといけな
いな四角に成形していた。
い。竹スダレを敷きつめる時は、ピシャ、ピシャと
クマシを作る時期は盆前であり、回のあぜ等の草
いうこれ特有の水を跳ねる音がした。
を刈 って 、この草を持ち帰るのが重いから 、その場
中友田のように石灰を入れる所はよそでは聞いて
で干し草 にしてから家に持ち帰って積んだ。 クマシ
いないし、隣の町の甲南町の柑子の Tさんに確認す
作りは稲刈りまでにすませてしまう仕事であった 。
ると、入れたことは無いそうだ。そこで、客土する
できあがったクマシに日野菜やダイコンやミズナを
土と 地味土の PHを測定してみると 、柑子の青ズリ
蒔いて作った。特に日野菜が良 くできた。 日野菜の
ンが柑子の地味土より P Hで約 1高い 6
,
7以上であ
花が上に咲いている土 を閏へ客土した こともあるそ
った。中友田では地味土と客土の土の PHはいずれ
うだ。 このクマシはすぐ使う家と 2年くらい置いて
も6
,
0で差がなかった 。 これより中友田 のクマシ作
人間文化・ 7
1
古琵琶湖層地帯の人と水
りにはアルカリ分を加えなけ ればならな かったと い
う地元の人の農作業の実体験 との整合性があるとい
える 。
客土について多くの人の話 を聞 くに連れ、客土を
しなか った人や、その効果に否定的なことをいう人
もでてきた。 またクマシにしなくて山から取 ってき
た土をそのまま入れた方がよか ったという人もい
仕 事は一生懸命の篤農家
た。上友田の K さんは、旺l
である のに、 クマシはしてい なくて、 山から取 って
きた土を 直接間に放り込んで いた。それの万が効果
があったとい っている 。 また東湯舟の F さんは今ま
で全く土持ちをしたことがない。東湯舟では仁持ち
をしたのは 5割くらいという か ら 2軒に l軒であ
る。
「ノンコ J(
阿山町「ふるさと資料館J所蔵)
これを用いて土を運んで田へ入れた。竹でスノコのよう
に編んだノンゴを用いないと 、粘土がうま くすべって回
へ入 らなかった。
城出では、みんな個人情!人で
城出の N さんは 、「
迷うところから取った土を荷車で運んできた。 8月
に土をと ってきてクマシにする 。土 と田の草などを
上の方がよか ったといっていることとクマシの効果
それぞれ 15cmす、つ交互に積み重ねる 。馬は悶には
に疑問を持 っていたことである 。 Nさんは土だけ の
入らないが、荷物用に飼 っていたの で、その厩肥は
客土はやっていないので、クマシを入れてさらに土
[日へそのまま入れた。 このクマ シを 3月にノンゴで
を入れたのがよか ったのかもわからない。だから I
J
:
J
Fちし た。 ノンゴで背
背負 って竹橋で凹へ入って !
こ
接の土がほんとに勝 っていたとは言 えない。 また N
負って竹僑で 1
1
1
へ入っていく のは、し っかりした足
さんの方法が他の集務と違 って、馬の厩肥を直接 凹
腰でバランスをとらなければできないので児の人が
へ入れているので、この厩肥に肥料効果があ ったと
した。残りの家族は、子供も 合めて 「中持ち 」つ ま
思える 。 この馬 の I!~肥にさらにクマシを入れるとど
り、回の近くまで土を運んだ。城出の集務では、み
うであったか。
んなの家が士持ちしていた 。 N さんはさらに、 「山
また乾いたクマシしか効果がなく、四角く積んだ
から取 った土をそのまま回へ同まりのまま放り込'
ん
i
毘ったクマシは符がある点も重要である 。 さらに重
だ。すると溶けて細かくな って、明くる年の秋に実
要なポイン卜は Nさんが山から直接放り込んだ土は
りが違 った。 クマシ土は乾いたのはいいけど乾かな
日
1
で溶けた、とい っていることだ。先の例の上友田
いのは田へ入れてはいけなか った。 クマシを 三角に
の Kさんも直接放り込んだが回で溶けたといってい
積んだのはよか ったが、凹角 くまっ す ぐに和んだの
た。 また、こんなに 上 を入れたのに回の土が増えと
は良くなか った。昔からするさかいに、するほうが
らんという謎もある 。以上のことを 一つずつ考察し
いいと思 っていた。 クマシの i
時期がくるとどこもし
ていく 。
ていた。 しかし山から取 った土の方がええことは知
っとったし、ょうわかっとった。 山からそのまま放
2
.
1 ["土が増えとうん」乙とについて 一一一一一一
り込んだ方がええ米できてた もん な。 けど 8月にな
例えば 1 tの土 (
比重を 1とすると 1 mとなる )
を l反の田に入れたとして、この時に田の士の高 さ
ったらクマシというて、なんと のう みんなやり始め
たし、クマシを作り始めていた。けど湿ったクマシ
は 1mmしか上がらない。 人力だけで 1 tを運ぶの
はほんまに害があるだけでようなかった。効果はな
はとてもたいへんなことで、しかも入れた 田んぼは
かったけどなんとのうやってたけど、ょうやめんか
l反ところの広さではなかったはずだ。 というわけ
ったな。 しかし、あんだけ土を放 り込んだのに田の
土はちっとも培えとらんか ったな J
で、入れても入れて も土が増えないように思えたと
いえる 。
2
. 客土についての疑問点
うな均ー な汚泥の状態をモデルにして考えてみる
またここで例えば下水処理における活性汚泥のよ
N さんの問題提議のなかでのポイン トは、直接の
72 ・人間文化
と、仮に含水率 90%の汚泥が含水率 85%の汚泥にな
古琵琶湖層地需の人と水
ると、その体積は 33%減る 。つまり水分が 5%減る
合は、夏草と厩肥を入れているが、肥料分としては
とその体積は 3分の 2になるということである 。 こ
夏草より馬の厩肥の方が強力であっただろう 。 しか
れは全く均一な汚泥の場合の例であるので田の泥に
し、この厩肥分解と酸化に多量の酸素が必要で、さ
はそのままあてはまらないといえるが、同じような
らに夏草が入ったとなると、まったくの酸素不足と
傾向はこの地域のような水田ではいえるのではない
なり、このため夏草は入れない方がよかったと考え
か。つまり、少しの水分量の変化 によって聞の土が
られる 。
膨れたり縮んだりしているので、入れた土より、そ
ここでもう 一つこの地域で聞いていることで重要
の水分量による体積の増減の方が大きいこともあり
な点は、春の回おこしで、去年の秋に刈り入れた稲
うるのではないか。 このことにより田にひび割れる
の株をひっくり返すと、その下に一年間も経つのに、
ことも説明できる 。高いあぜの回であるので自然浸
透の状態であれば、あせ.の下の方に水が流れていき、
前の年の稲株がまだ腐っていなかったということで
あぜに近い回の土は水がなくなり、よく乾く 。だか
になるので、 1本 l本拾い歩いた」という人もいる 。
ある 。 これに関連することで、 「生のワラは 田の 筈
らあぜに近い土の体積が小さくなるのでひび割れが
これらのことは、少しの有機物で溶存酸素が使われ
できるのである 。
てしまうことを示している 。先日、福井県三方町に
ある純文造物の博物館で泥の下から出てきた 3千年
2.
2
r
乾いたクマシしか効果がなくて 、湿った
前の丸木舟が展示されているのを見てきたが、さら
クマシは害があった」ととについて一一一一
に発掘事例では 6千年前の地層から完全な造物が出
てきた例もあるそうだ。 これは柔らかいワラでも、
乾いているクマシは十分に空気に触れて酸化され
しかも地表のすぐ下でも 1年間ではほとんど酸化さ
ていると考えられる 。湿ったクマシは酸化が不卜分
れないことと同じ原則である 。一旦 無酸素になると
なままで、この中には酸化の中間物質である有機酸
長時間、真空パァク状態になってしまうのである 。
が多く含まれ、酸性になっていると思われる 。 この
ような酸化が不十分な有機物を田へ入れると、水を
張った水田であるために 、ただでさえ少ない浴存酸
素が使われてしまい、恨ぐされの原因となる 。
2.3 r
山かう取って直接放り込んだ方がよかったJ
ということについて
客土に使う土の名称は背ズ リンとか ヌリといって
例えば今、液相と気相が接していて、液相には水
同じ物を指していると思われているが、これが同ー
を考え、気相には大気を考える 。静かな水相では、
の時代の堆積物て、なかったり 、地表への現れ方が遠
水の表面に溶けた酸素は自然に下の方へも拡散して
い、風化の状態がかなり違っていたりしている 。青
いくから、lOcm-15cm程度水を張 った田んぼの土
ズリンの層は、おそらく昔;湖で鉄細菌が大発生し
との接触面 (
回の底の土)あたりまでも溶存酸素は
f
t積したものと考えられるが、その
て、その死骸が:1
飽和量で存在すると考えてよい。 し か し こ の 液 相
大発生が何度もあるので各集落が同じ時代の青ズリ
が水ではなく泥の場合、拡散の速度は泥の粒子が邪
ンを使っているとは限らない。 また甲南町下馬杉の
魔をして遅くなる 。 さらに例えば泥田において、
F さんのように、先の l
時代の人々が下馬杉にある青
50%の泥の国体があるとすれば酸素を拡散できる水
の量は、水を張った回の 5
0%の水分しかないことに
はもうなくなってしまっていて、しかたなく次善の
ズリンを全部使ってしまったので、 Fさんの時代に
なるので、澄んだ水をたたえた田んぼの半分しか底
シロズリンの土で我慢しているという所もある 。
の方には酸素が届かないことになる 。
「ほんまは青ズリンがナンバ ー 1で、宝の土なんや
いずれの場合も、水面下では酸素が使用されない
ことを前提としているが、もし何か有機物でもあれ
けど」と
、 F さんは生まれた時代が遅かったようだ。
そこで私は、野尻の
r
lO年ものしかあかん」 とい
ばこれに酸素が使われてしまう 。水だけの場合は酸
う青ズリンと下馬杉の宝の土である青山ズリンと下馬
素が消費されても、たちまち水面近くの酸素が拡散
杉の 「ナンバ ー 2や」 という白ズリンをそれぞれ水
してきておざなえるが、 j
尼の場合ではこれが難しい
の中に入れてみた。 白ズリンは色も白いのだが、ほ
だろう 。 もし発酵途中のクマシを入れると、多量の
んの 1
5分で薄い紙の層の集まりのように割れてしま
酸素を必要とするので、回は酸素不足になってしま
って、薄い紙の山のようになってしまった。下馬杉
う。 これは稲の害になるばかりである 。 Nさんの場
の青ズリンは、色は青色をしていて見たところは水
人間文化・ 73
古琵琶湖層地帯の人と水
の中でしっかりしているように見えたが、箸でつつ
にしなくてもよい。
くと簡単に壊れてしまった。最後に野尻の青ズリン
ここで、現在も甲賀郡農 協 が毎年夏になると、
は箸でつっこうが、力ではびくともせず約一 ヶ月間
「含鉄優良粘土の斡旋 j をしていることに着目しよ
何の変わりもなかった。
う。去年もこの地で、買った土を聞の近くの空き地
に堆く積んで、ある風景を 何 カ所かで目にしている 。
以上のことより、青ズリンはその青い色に何か意
味があることと、そのまま田へ放り込んでもそのう
さすがに今は トラックで運んでもらうが、それも田
ちに溶けていく青ズリンと、何年経っても田の中で
の横の道までであるから、それより先は自分で入れ
ゴロっとしたままの青ズリンがあることがわかっ
ることになる 。 またその値段も、ほとんどが運賃と
た。野尻の青ズリンは太陽に当たったり、雨に打た
はいえ、数 tで l万円はしているから、安くはない。
れたりすることを繰り返して、始めて細かく砕けて
ここで、その商品名に含鉄とあるので、青ズリンの脊
いくことは、地元の人々から聞いていたし、力任せ
+ (2価の鉄)の
は土の 中で安定に存在している Fe'
では細かくならないことも地元の人が話していた 。
青色だとわかる 。
だから地元の人はこの土の性質をよく知っていて、
一般には F e,
+ (2価の鉄)は、水中や空気中で
日と雨に何年も当てて、自然に細かく風化させてい
は 5分と存在できなくて、赤褐色の F e3+ (3価の
たのである 。一方、田へそのまま放り込んだ人の青
ズリンは自然に田の中で溶けるタイプの青ズリンで
鉄)に変わってしまうが、岩石の中では何かに阻ま
れた形で F E2
+として長時間存在するという(人の
あるといえる 。
命を支える土)
。 また 、 まわりに酸素がない状態で
は
、 3価の鉄が簡単に 2価の鉄になる (
人の命を支
2
.
4 なぜ 10年近くも自分の庭に土を置いておい
える土)。 これは「はがね土(青ズリンが粘土にな
たのか。
野尻の青ズリンは力では刻1かくならない土である
ったもので赤褐色の色をしている)が、はがねに打
ことは今までに述べた。 さらにこれを細かくするに
ち込んで 1年も経つと真っ青になっている」という
地元の人の話ーからもわかる 。
は太陽と雨に当たるしか方法がないことも地元の
また鉄分が不足するとアキオチという稲の実りが
人々は知っていた。同じ所から土を取っている柑子
惑い現象が起きる 。鉄元素は、稲自身にはごくわず
でも、 「この青ズリンを取ってきて、まず対s
に入れ
かの量しか必要ないが、その生育環境を整えるのに
る。そしてこの土で畑作をする 。畑で、数年経ったも
非常に重要である 。稲のまわりにできた、硫化水素
のをクマシに積んで最低 l年は置いておく 。 これを
と化合して溶解度の低い硫化鉄の沈殿を作り、稲の
回へ入れる 」
。 という手順をとっている 。 だから柑
発育を阻害する硫化物をおさえる働きをする 。 この
子でも 5-6年経った青ズリンを田へ入れている 。
ように鉄は稲にとって重要な元素であるが、それだ
自然の力でしか風化 しない青ズリンを使っている集
年近くもの時間をかけて、じっくり風化
落は 5-10
けならば土だけを取ってきてパラパラと入れるだけ
で、クマシにまでしなくて良いはずで、ある 。
させ、中の鉄分を酸化した形に変化させているとい
今もう 一度この地域はほんの一瞬でも田が乾くと
える 。
いけない、年中水田になっている田である ことを思
2.5 なぜ青ズリンを客土するのか。
が奪われて稲に害が出るくらいに水を張っておかな
い起こしてみる 。 ワラが一本落ちていても田の酸素
なぜ青ズリンを、みんなが 「
宝の土や」といって
いと水が漏れてしまう 。だからクマシは、発酵が完
いるのか、という疑問がまだ残る 。 この青という色
全に終了したものでなければならなかった。 田には
の名前が付いているように、この土は地層の中でも
肥料として、身欠きニシンや大豆かすをいれたそう
青灰色をしている 。 またこの土が回の底にある場合
だが、 この田でドジョウが丸々と太ったことを考え
には、きれいなコバル トブル ーの色をしている 。ス
れば、 このニシンもなかなか腐らなくて、
コップで堀取ると、見とれてしまうような青である
の餌になって、その糞が田の肥料となっていたのか
が、たちまち酸化されて黄土色になってしまう 。だ
から水が漏れている場所を見つけるための指示薬の
もしれない。 このくらいの方が酸素がなくならなく
てよかったとも思える 。 ドジョウも料理屋へ売って
ような役目は確かにはたしている 。 しかしそのため
いたそうだから、餌に ニシンをやって、養殖してい
だけなら、毎年客土しなくても、またなにもクマシ
たと思えば惜しいものでもない。
74 ・人間文化
ドジョウ
古琵醤湖層地帯の人と水
入りのある田の持ち 主なのだろうと考えられる 。 こ
2.
6 鉄の効果
ういう場合は、田自身に酸素を含んで、いるし、酸素
るカを考えてみる 。平均的な分量で鉄を含む普通 の
の補給が自然にできるので、客土をやった効果が大
きく現れないと思われる 。以上のことより、野尻や
土では、その土の体積の 1
0倍の空気に相当する酸素
柑子の回い固い青ズリンを 1
0年近くも寝かせて客土
鉄の効果でアキオチ以外の効果、鉄が酸素を抱え
を化合して取り込むことができる 。 これは物質量か
した場合も含めて、すべての開き取りの事例の説明
ら計算して出る値であり、ここではその理論を省略
ができた。
するが、土は自分の体積の 1
0倍の空気に相当する酸
素を化学結合により備蓄していることになる 。青 ズ
リンは合鉄というくらいだから、さらにその鉄の分
量や酸素の分量は多いだろう 。
5.1
今の田はキレツが入うないJ
(ごとについて一一
段後に、 何人もの方から同様のことを聞いている
「今の田は昔の田みたいに キレツが入らんようにな
さて、甲南町野尻の青ズリンは固く、壊れにくい
った Jという ことについて考えてみる 。 これは 1つ
ので何年も庭に置くという作業をしているが、これ
には、柑子の Tさんが言 っておられるように、最近
は同時に土の中に 2価に形で存在する鉄を、 3価の
は機械で耕作して、回の泥をひっかきまわしている
形に変える化学変化を起こさせていると思われる 。
ので、泥の目が細かくなって、少しのキレツができ
酸素とどんどん化合して 3価 にな って、風化が進ん
てもこの泥が詰まって水が漏れないようになったと
で 2価鉄はもろく、ぼろぼろにな っていく 。つまり
いう事が考えられる 。
もう 一つ下馬杉の Fさんが興味深い事を話して下
この工程は、自然の力を借りて、土を細かくしてそ
の表面積を大きくして、土の中の酸素にせいいっぱ
さったので紹介する 。「今は機械を閏に入れないと
い酸素を抱き込ませている 。 またさらに、ふかふか
いけないので、田を必ず乾かすようにな った。 この
の草と交互に積むことによって空気との接触面を増
証│を乾かすことも、大きな潟池ができているために、
0,
キャ ッ
加させている 。 だからこの土はいわば 1
チャー」である 。 この酸素と結合した土は、日]の中
ができるようにな った。 こうして回を卜分に乾かす
もう水の心配もなくなり、安心して回を乾かすこと
でほぼ 1年かか つて、じわじわと酸素を出すと考え
ようにな ってみると、あれほど怖れたひび割れがだ
られる 。それは酸素を手放してふたたび青色の土に
んだん深く割れなくな ってきた。
なってしまうことが証明している 。 このような鉄を
ると思 っていた時は、少しの水も切らすことがない
-i
商も漏れたら困
媒体とする酸化や還元のメカニズムを知っていて、
ように水を 一年中張っていたが、ちょっとの乾燥で
この地の人々は、ワラ 1本も腐らないような水田に、
ひび割れた。 しかし乾かす回にしていくと、乾いて
稲に与える 1年間分の酸素を、土の中に含ませて放
も割れが少なくなってきた。昔は稲の恨張りが悪く、
出させていたといえる 。
寝た稲ばかりを稲刈りしていたが、今は稲もしっか
2.
7 事例の考察
れも少なくなった。 これも 全部乾田化したためだと
りしたのができるし、耕作も楽になったし、あぜ割
例を考えてみる 。「そのまま放り込んだ方がよか っ
思う 。J
また Fさんは、土持ちは少しでも乾田化するため
た」 という人は、十分酸化 しているボソボソの青ズ
にやっていたのだと考えている 。
以上のことより、開き取ったいろいろな場合の事
リンを使っていたのだろう 。 これならばすでに、水
これを理解するために少し関連の勉強をしてみる
の中ですぐ壊れるようになっているし、酸素も十分
と
、 「
土の進化の頂点にいる乾田」 という記述まで
に抱きかかえているのでもうクマシにする必要も無
見つか った。 これはどういうことかというと、土に
いと考えられる 。窒素肥料分はクマシでなくとも何
水を湛えたり、落水したりして利用すると、他の土
でもよいだろう 。 また、不卜分なクマシなら、入れ
ではみられないような土壌の分化が起こり、地上で
ない方が酸素欠乏にならなくてよかったともいえ
見られる 土の中で、最も複雑な土層分化をおこし、
る。
「客土 しでもせんでも効果はあ ったかどうかわか
らない」 という人は、その人の回が、最も固い粘土
水田耕作に良い土に進化していくということである
質の田ではなく、少しは砂の混ざった回や、水の出
れていた (
土壊通論)。各々の数値が増えたからど
(生きている土の世界)。 また別の資料では、乾田化
して 1
3年目の土質分析で各項目で数値に変化が見ら
人間文化・
7
5
古琵琶湖層地帯の人と水
うだ、というようなことは大変専門的なことである
以上のことでわかることは、どの人も自分の回の
3年で分析の数値に表れるような変化が起きて
が
、 1
土や水のことを本 当によく 理解して、先人から 受け
いるということは理解できる 。 これは人の体の中で
継いだ知恵と知識により、最善の方法でもって、全
異常が起きていて、例えば血液検査で調査項目の数
力でや ってこられたことである 。最後に、この地の
値が変わ ったというようなものである 。 ちょっとし
何人もの人から自然にでたことば 「
今 まで一年中米
た頭痛くらいでは、検査では数値に表れないから、
のことばっかりやってきたなあ。ほんまの休みは雪
検査の数値で表れるような変化は大変大きいといえ
の下に聞がある時だけやった」。この地の積雪は極
る。民業をしている人は、自分の回も、自分の体も
│吋じ程 度に真剣に見ているはずだから、旺│
を 毎日見
めて少なく、 10cm以上の積雪日は年に数日しかな
、。
し
ている地元の人には、数値で i
!
l
J
1
定できるほどの変化
最後に本稿の問題を実際に確かめてみるにあた っ
であるので回の変わり方は、はっきりわかっている
て、滋賀県立大学環境学部久間研究室の皆様方に大
と思われる 。
変お世話になったこと、特に実験室や設備を使わせ
ていただいたことは心よりありがたく感謝してい
6.おわりに
何百年間も凹のひび割れを怖れ、毎日毎日田に水
る。また大勢の地元の方々のご協力にも感謝しつつ、
本稿が地元の方々のなんらかの役にたてばと願う 。
0年間の乾由化で、す っかり 回の
を張り続けたのに 1
土質が変化していまうとはなんともやりきれない思
参考文献
いがするが、今一度冷静に考えてみる 。耕作機械が
1)阿山町教育委員会「放さとの歩み阿山町」昭和 5
5年
2)宮林 春雄「東北伊賀五ヶ l
町村早害史J
1
[
併[12
5年
なく、耕すには人の手ばかりであり、大きく、あふ
「中友田の歩み J
れるほとフkを湛えた溜池も無く、電気で動くポンプ
3) I二1
:
1
友E
H老人クラブ百働会
もなか った時代には、 一旦聞にひび割れができると
4 )山1
1
崎耕字他
「
植物栄養・肥料学
」
いうことは、もう稲が実らないということと同じ意
味であ った。つまり田を乾かすことは稲が実らない
5)松尾嘉郎他
6)松尾嘉郎他
「
生きている土の世界」
ことを意味した。だから 1
0年間も聞から水を抜くこ
7)高井康雄、 三好洋
とを繰り返すことはおこりえなか ったのである 。 も
8)山1
奇
,耕字他
し乾回化できたらとか、乾田化してみたら 等 という
仮定はありえなかったのである 。
「
人の命を支える 土
」
「
土壌通論」
朝倉書房
「
植物栄養、肥料 学J
9)問問玲子「 甲南町の人と水 J
(人間文化 8号
、2
0
0
0
年)
1
0) アーバンクボタ M ARCH1990 株)クボタ
Comment
農作業を具体的に突き詰めていくおもしろさ
黒田末書
人間文化学部地域文化学科
最近の岡田さんは、甲賀 ・伊賀で、の農業用水に関
ずからわかるようなものでもなく、これなくしては
する調査を述続して発表している 。通常の論文を読
この地域の農業が成り立たなかった重要な技術なの
み慣れた目で見れば、これらは同じような内容の繰
である 。農業の経験がない岡田さんが、ここまで聞
り返しで論文としても未完成と映るだろう 。しかし、
き取りして書き留めたことに敬意を表したい。
古琵琶湖層の特殊重粘土地帯で農民がどのように生
後半の謎解きにも似た客土の機能分析もおもしろ
きていたのかを知ろうとすれば、それぞれの論文の
い。個々人のアオズリ、クマシに関する多様な使用
怠l
床と重要性が浮かび、上がってくる 。
法から導き出した、客土を酸化鉄によ る酸素補給で
本論文の前半では、農作業の手順が具体的に細か
あるとする仮説は斬新で興味深い。伝統的決業技術
く表現されている 。 これは普通の研究態度の持ち主
ではその存在も価値も気づかなか ったに違いないよ
の新再発見につながる研究といえるだろう 。農作業
の意味を具体的手順の中に求め、具体的にわかりた
うな、 一見些細に見える作業である 。 しかし、決し
いという岡田さんは、<具体力>とでも表現できる
て些細なことでも、作業の骨格さえ知っていれば自
パ ワーを身につけたに違いない。
7
6 ・人間文化
市
T
室田
『日本文化のかなめ J
一つがや ま市民教養文化講座二十年の記録
高 橋 正 隆 高 谷 好一 舟橋和夫編
サ ンライズ 出版 、
彦恨
2 i
年 、2
85+9
頁
2
.
2
∞円+税
∞
応地利明
副題の 「
つがやま市民教養文化講座 j とは、守山
作業にかかわ っている 。その作業をつうじて、野洲
9
8
1年以降ほ
市野洲郡勤労福祉会館を会場として、 1
川下流域に住む人々がもっ空間のとらえ方いいかえ
ほ毎月 l回のペースで開催されてきた市民講座であ
れば空間認識に、村々に共通する特質があることに
る。序文によると、その発端は、 「近江太郎町'洲川
気がついてきた。それは、小字の地名 l
呼称を通じて
J
J
Lで
という大川の恵みで育まれたこの地方の文化に J
窺える 。 この地域の小字は、いわゆる条里地割の坪
触れ、これを学んでい こう」ということであったと
呼称にみられる
を基本として成立している 。小字の l
いう 。本書の巻末には、各回の演題と講演者の一覧
一つの傾向は、ほ!i'東西方向に隣接している同名の
が掲げられている 。ほぽ月 1固という頻繁な頻度で、
小字の場合には、東には 「
上」、西には 「
下Jとい
0年にわたって、このような地味な講座が公
しかも 2
う接頭諾を付して両者を区別していることである 。
共団体やマスコミとは独立して開催されつづけてき
それは、野洲川さらには;産税水路の基本的な上流と
たのは、偉観というほかはない。それは、企画者・
下流に対応する│呼称である 。つまり東西に関しては、
講演者 ・市民 (
聴講者)という、相互に係わりあう
水流の流下方向という局地的な地形に注目して小字
当事者のすべてに人を得るうえに、たがいに熱意を
I
呼称としているのである 。 これに対して南北に接す
共有しあわなければ継続不可能なことである 。
る場合の区別には、
1
1
布」 と
「
北」という方位をそ
序文は、また、市民講座が 2
0周年の節目を迎えた
のまま採用している 。つまり南北 に関しては、場所
ときに、.そろそろ 「
守山学Jについて考えようとの
的な条件とは無関係な方位という局地を越えて延び
声があがったことを述べている 。本書は、まさに
る普遍的な原理によ って、小字を識別しているので
「
守山学Jの意欲的な旗揚げの書である 。 いま日本
ある 。 この局地と普遍という二つの原理を組みあわ
100学Jの提唱
せて、守山の人々は空間認識の体系をつくりあげて
の各地で、地元地域の名を冠した
が活発になされている 。 しかし本書から窺える 「
守
山学」は、いわゆる郷土研究を目指す
100学」の
きたと考えられる 。
というと
100ムム上がる東入る 」 という京都や
多くとは 一線を画する内容をもっ 。
『 日本文化のか
初期札幌の地名 │
呼称もおなじではないかという反論
なめ』 というタイトルが、なによりも 、その意図を
があろう 。 しかし京都の場合には、あくまでも 0 0
物語る 。立気込みだけでなく、内容においても、本
ムムを基準として、それと関連づけて方位を意味す
書は単なる郷土研究の書ではない。現実に<住み、
る東西をも局地化して地名 l
呼称としているのであ
働き、考える>場である地元地域に蓄積されてきた
り、守山のように南北方位を、局地を越えた 普遍原
歴史事実を掘り下げることによって、守山とその周
理として捉えているわけではない。
辺地域が、実は、日本文化の内実形成に来たしてき
た重要性を詰ることに、本書は目的をおいている 。読
う特徴は、近江のもつ特質と関連しているのではな
みすすむにつれて、 「
守山学」がもはや成立の可能性
いか。 とりわけ湖東では、東西は鈴鹿山脈と琵琶湖
の問題ではなく、現実のものとして大きく姿を顕現
のあいだに介在する局地的な空間である 。 まさにそ
してくるのを感じた。その意味では、本書は、意図す
れは、野洲川の上流と下流という「上」 と 「
下」 に
ることに成功しているといえる 。
実は守山にみられる局地と普遍の組みあわせとい
よって認識できる空間である 。 しかし南北は、歴史
その成功は、もちろん、各執筆者の研究蓄積と力
をつうじて都と東国とをむすぶネットワ ークが縦走
量の賜物である 。 と同時に、私は、守山ひいては近
する空間であ った。 まさにそれは、地域をこえて延
江のもつ特質をそこに感じる 。 というのは、あるき
びる軸線であ った。それは、山の彼方の普遍へと速
っかけで、私は、このところ守山市の旧藩政村に伝
なる空間認識を 生みだす。守山の村絵図で観察され
存されてきた村絵図を中心とする絵図類を精査する
る空間認識は、この近江のもつ特質と対応するもの
人間文化・ 77
書評 I
日本文化のかなめ一一つがやま市民教養文化講座二十年の記録 j
だと思うようになった 。当然、本書の諸論文も、守
日本では、まず畿内の四至確定として始まった。そ
山が歴史的に培ってきた局地と普遍の二つを軸とす
の間に変化はあったけれども、 8世紀中期には大和
る空間認識とかかわっている 。
まず局地軸に車l
d
足を置いているものとして、 ①辻
や山城とは接していない和泉(河内から分立)を包
摂して五畿内となった。 これによって摂津・河内 ・
広志 「
野洲 川の流れと堆積」、 ② 川畑和弘 「
初期稲
和泉の 3国が、大阪湾という王都の外港所在地帯を
作と弥生集落 j、③高橋正隆「荘園の崩壊と惣村の
取り囲むかたちで臨海に配列し、その前面は瀬戸内
成立」、④舟橋和夫「村社会の成熟」、⑤高谷好一
海という海域に接続している。これら臨海 3国の後
「琵琶湖とのかかわり」がある 。 これらは、いずれ
背内陸に王都の所在地である大和あるいは 山城が位
も局地としての守山を扱っているという点では共通
置している 。 9世紀末の時期をとると、山城に王都
する 。 しかし守山のすごさは、扱われた事象のもつ
としての平安京が、そしてその中枢に平安宮があり、
汎日本性にある。①では「日本最大の湖岸沖積平野」
そこに天皇が南面して立つ。つまり古代日本は、基
が
、 ② では「熱帯ジヤボニカの発見」が
、 ③ では
本的に海洋国家としての性格をもっていたのであ
(守山だけでなく近江全体に敷街できるものである
る。内陸から海洋へと順序を逆にして述べれば、天
大般若経の分布密度最大の県」が、 ④ では
が) I
皇が南面する王都、それをとりまく内陸畿内 2回
、
「完成された濯淑システム、日本の典型的な農村」
大阪湾を囲む臨海畿内 3回、そして西方の海域世界
が、そして⑤では 「
農漁複合文化・湖上水運 ・水資
へとつらなる瀬戸内海、という海を指向する空間編
源の担い手として地元民がかかわってきた日本最大
成をもっていたのである 。 さらに南面する天皇の身
の湖」が、いずれも語られている 。局地としての守
山、いいかえれば、守山とその周辺に蓄積されてきた
体方位の左に位置するのが悠紀国としての近江、右
文化ストックを語ることが日本に通じることを、期
配置は、山本氏の掲げる豊楽殿の図において、中央
せずしてこれらの論文が物語っているのである 。
足を置いているものとし
つぎに南北の普遍軸に刺1
て
、 ⑥ 内田秀雄・高橋正隆「守山地名考 J
、⑦進藤武
に位置するのが主基固としての丹波で、あった。その
の高御座に南に向かつて座す天皇の左には悠紀御帳
阪が配されるのとおなじである 。
が、右には主基御 l
こうして海洋国家体制の背後にひろがる内陸世界
「
銅鐸文化の終駕」、⑧松下活「信長の近江支配と天下
を、悠紀国としての近江と主基国としての丹波が表
布武」、①井上優「もうひとつの近江商人」がある 。⑥
徴する役割を果たしていたといえる 。天皇の身体方
は「
守人の山」という古代大和の橋頭壁として守山の
位に関わる左と右は、左大臣と右大臣の関係がそう
地名を理解できることを、 ⑦ は日本有数の銅鍔出土
であるように、左が上席であった。いいかえれば悠基
地としての野洲川流域での銅鐸文化の展開を畿内の
国である近江は、五畿内の外にひろがる七道諸国の
歴史展開と関連させて整理できることを、 ③ は信長
筆頭に位置づけられていたことを物語るのである 。
にとって近江支配のもつ意味を、そして① は江戸と
本蓄を読み終えて、日本における国史(いまはこ
その周辺で活躍した辻村出身の鋳物師とその大庖商
の用語は廃語化しつつあるが)と地方史をめぐる
業への進出を、いずれも述べている 。まさに近江を貫
「
幸運な地方」 と「不運な地方」について考え込ん
通する南北ネットワ ークのなかでのフローをつうじ
だ。「幸運な地方」というのは、その地方の研究が
て、守山から日本という普遍を語っているのである 。
ただちに国史となりうるところである 。たとえば古
本書には、地元の人々が日常の営みをつうじては
代の大和と山城、中世の鎌倉、近世の江戸あるいは
知りえないもう 一つの空間認識があっかわれてい
近代の東京などによって代表される地方である 。 こ
る。それは、日本のなかに近江がどのように位置づ
れに入りえない地方では、その歴史研究は「郷土史」
けられてきたかという問題である 。 これを正面から
なるやや軽さをともなう表現のなかに押し込められ
取りくんだのが、⑩高木叙子 「
悠紀主基の文化」で
てきたきらいがある 。まさに「不運な地方」である 。
ある 。それは、大嘗祭の枢要な祭杷施設である悠紀
近江は、どちらかといえば「不運な地方」 に分類さ
殿と主基殿の調度進達にあたる悠紀固と主基国のう
ち、悠紀国には 9世紀末以来ず、っと近江が、また主
れよう 。その「不運な地方」にあって、地方史の研
究が国史へと連なることをみごとに証したのが本書
基国には主として丹波国が選定されてきた理由を考
ではないか。そこに、この小さい書物の大きな貢献
察している 。 さまざまな角度からの検討をもとに、
があるのではないかと思う 。
結論として、 両国が五畿内に隣接し、七道を犯する
戦略的要衝を占めていることをあげている 。 しかし
もって対象としての 「
守 山学」を終えているのはさ
しかしそれにしても、本書が基本的には近世末で
これについては、別の角度からの近江論を展開でき
びしい 。 それは、近代における守山、さらには近
ると考えられる 。
江・滋賀県の位置づけがむつかしいことを物語って
それは、古代日本の国家をいかに理解するかの問
題と関わっている 。中国に範をもとめた畿内制度は、
7
8 ・人間文化
いるのであろう 。 この難問への「守山学」からのさ
らなる挑戦と成果を大いに期待したい。
人・閏・文・化・通・信
-退官メッセージ
で、酵素は 1.
l
e
J
:1
浪りの使い拾てでしたから、非常に
雑談の効用
高くついたわけです。土佐博士の頭の中には、 「
何
とか酵素を 一般の固体触媒のように安定な状態で連
続使用できないものか」 ということが常にあったよ
杉本悦郎
うで、このことが雑談に霊場しました。 ワイワイと
人間文化学部生活文化学科食生活コース
話しているうちに、 「
半透膜の袋の中に酵素液を閉
じ込め、それを雨どい状にして基質をゆっくり流し
平成 1
3年の 1月の下旬に N H Kテレビで、たまた
てはどうだろうか」 という話しが飛び出してきまし
ま 「
雑談の効用」 という番組が放映されているのを
た。土佐博士はこの話しに大変興味を持たれたよう
見ました。それは 1T化の進む昨今において、企業
です。当時国辺製薬の研究所におられた千畑一郎博
などでは 「
飲みニュケーション Jも含めた本音で語
士 (
元社長)や土佐博士が中心 となって、その後固
る雑談の重要性が見直されているという内容でし
定化酵素の研究を発展させ、実用化へ突進する 一つ
た。それを見ながら、私が数年前に日本農芸化学会
のきっかけになったと述べておられます。
が編集している 「
化学と生物」 という雑誌の企画委
その後私は、昭和 5
0年には、名古屋大学へ移り、
6
3年には再び、
京都大学へ戻って 、それぞれ独立の研
員長をしていた時に、同じ「雑談の効用」 という雑
3
4巻
、 1
14-1
15
頁(19
9
6)
] に書
文を、その絢誌 [
究室を持ったわけですが、“ まあ座れ"で始まる千
いたことを思い出しました。 この場合は、研究を進
葉先生達との雑談による燕│淘のおかげで、独立した
める上での雑談の効用ということなのですが、今、
後も、研究室の仲間や他研究室の人達と素朴な疑問、
改めて、繰り返しになりますが、「雑談の効用 j に
願望、遊びゃ趣味を含めたとりとめのない雑談をす
ついて述べたいと思います。
るのが好きでした。今になって考えてみますと、研
研究の方向づけやテーマの選択は充分な文献調査
究として取り組んだ、あるいは取り組もうと試みた
等を伴った検討と共同研究者などとのデイスカッシ
テーマの中には、何らかの形で雑談に役場していた
ヨンを経て決められていくのが通常ですが、時には、
ことがき っかけになっていた ように思います。
¥した 素朴な疑問、素朴な願
全くの雑談の中で飛び 1
望、奇抜なアイデア等がきっかけとなって生まれて
例えば、
(
1)
リボソ ームで合成された酵素などの機能タンパク
くることがあります。雑談がきっかけとなって、研
質が、合成された場所から、どのようにしてそれ
究が進展し、新技術の開発 ・実用 化へ結びついた例
ぞれ所定の場所に運ばれ局在化するのだろうか?
として、土佐哲也博士(凹辺製薬元副会長)が 研
(
2)
動物において、核以外に何故ミトコンドリアだけ
究のうらぱなし"として、日本醸造協会誌 [
86巻
、
5
9
5頁(19
91
)]に書かれていたことが思い出される
のです。
に遺伝子が在るのだろうか?
(
3)
植物の摂取に応答して、代謝や泣伝情報発現が変
動するが、摂食というシグナルがどのように伝達さ
今から 4
0年以上前になりますが、夜、は京都大学農
れて遺伝情報発現に影響を与えているのだろうか?
学部農芸化学科栄養化学研究室において、当時助教
(
4)・やせの大食い"とか、逆にあまり食べていない
授の千葉英雄先生 (
京都大学名誉教授、日本農芸化
のに太りやすい人がいるのはなぜだろうか? 肥
学元会長)のもとで助手として仕事をしておりまし
満になりにくい(あるいは、なりやすい) 1
本
;質つ
た。 自称‘趣味談話"の千葉先生は、"まあ座れ"
であるのだろうか?その体質をどうしたら変える
で始まって、研究の話しはもとより、それ以外にも、
ことができるのだろうか?
歴史、スポーツ、芸術、社会問題、人生問題から世
間話しに至るまで、止まるところなく話題が広がる
雑談に花を咲かせることがしばしばでした。その研
(
5)
水や炭酸飲料等は一度に沢山は飲めないのに、ビ
ールだと何故大量に飲めるのだろうか?
(
6)i成食して体重を減らしながらでも、
トレ ーニ ング
究室の卒業生である土佐博士は、田辺製薬の研究所
をしていたら筋肉は維持され、逆に食事を摂取し、
に勤務してからも、しばしば研究室を訪ねて来られ、
体重は維持していても、使わなければ筋肉は萎縮
その雑談に参加される機会がよくありました。その
してしまうのは{可古文だろうか?
頃は、生体触媒である酵素を工業的な触媒に用いて
有用物質を生産する方法が実用化されつつある時代
(
7)
食生活を始めとするライフスタイルを制御するこ
でしたが、当時は、酵素は不安定なもので、バッチ
長生きで且つ死ぬ直前 まで元気におれるような生
き方をすることがどこまで可能になるだろうか?
法といって反応槽の中で溶液状態で反応させるの
とによって、“ピンピンコロ リ"と言われるような、
人間文化・
7
9
人・閏・文・化・通・信
1
町初期か。色 ・形 ・
特に気に入っている 。時代は室 1
ここに挙げたようなことは、雑談の中によく登場
呆色ともに、いつ兄ても、いつまで見ていても飽き
した話題の一部です。我々が行ってきた研究のテー
0セ
がこない、不思議な蛮である 。サイズは高さ約 4
マは、このような雑談に登場した大きな問題に、正
ンチで、 6畳のr:u
にi
丘くとぴったり収まる 。
直│
から取り組んだというようなおこがましいもので
先日、骨董にはまったく関心のない客人がたまた
はなく、極めてささやかなものに過ぎませんが、ど
まこの壷を見て、「これはいいですね 」 と褒めてく
こかで繋がっており、研究を進めるドライピングフ
れた。ほかの品については消極的評価しかしなかっ
ォースとして維談が良い肥料になっていたように思
たのに。世の中には、そういう完全な姿をしたもの
います。
が維かに存在する 。 しかし、どうしてこの壷がその
欧米の大学や研究機関の{リ│
究宅では、コーヒーブ
ようによいのか、魅力があるのか、私には説明がつ
レイクの│時 I
I
Jがもうけられている所がよくありま
かない。いくら見ていても、いくら考えても、納得
す。その場が研究者同士の人間的なふれあいの場に
のいく説明がつかない。
なっているのはいうまでもありませんが、気 t降に行
デカルトは疑い深い、病疑心の強い人であった 。
われる雑談の 1
'
'から、新しい研究へのヒントが得ら
彼はあらゆるものの存在を疑った。 この私の 70年に
れることがあるのではないでしょうか。
床談話"の千葉先生の影響で、研究室の
自称“魅 l
令部夢だったということも起こりうる、と彼は言 う。
わたる人生でさえも、成るときハッと目が覚めたら、
内外における、いろいろな人とのとりとめのない雑
まさかそんなことが起こるとは信じられないが、し
談が大好きな私でしたが、県立大学へ来てからは、
かしそう言われてみると、ほんとうにそうなのかも
1
=
1
分の責任ではありますが、どうもこの雑談の頻度
しれないと思うようになる 。彼によれば、維かなも
が大幅に減少したように思います。本学部には、立
のは人間の内側にある精神作用そのものだけで、人
派な談話室なるものがありますし、非常に幅広い専
間の外側に存在する客観的な事物は全部当てにはな
門分野の方々が居られます。談話室で改まって談話
曜かなものだそうな 。
らない不 f
するのではなく、いろいろな分野の方と、いろいろ
しかし私はこの必を見ていると、デカル トの主張
な坊で、ランダムに雑談をするような雰囲気が醸さ
にもかかわらず、 止
!の中には侃:かなものが事物とし
れたらよいなと思います。 C
'
i
^
成1
3年 2月 1
9r
I記)
て容観的に存伝していると考えざるをえないのであ
る。何百年にもわたって、多くの人々の日の鑑 ・
に
n
耐えてきたこの壷は、デカル トがその存在を否定し
信楽の壷
栗田
修
人間文化学部生活文化学科人間関係コ ス
たものの存在を託しているように思えてならないの
である 。 私は幸~J' 喧の魅力はそこにあると思う 。 何千
人
、 何万人に上る人の心が、何 1
守年にわたって、 一
つの心 となって支えている<よいもの>は、デカル
トがどう言おうと、やっぱり確かなものとして存在
していると 言 ってよいのではないか。
滋賀県には県同有の骨査がある 。そういう県は古
この壷の出所は、 ごく 一般的なお百姓である 。応
くから庶民の生活のなかに泣かな文化が生まれ、育
まれ、伝えられてきたところだ。 この県立大学に赴
主がその朝応の戸を開けたら、 一人のお百姓が戸の
前に突っ立っていて、ぴ‘っくりしたそうである 。
任して最初に心に浮かんだものは、ひょっとすると
6年の任期期間中に、すばらしい骨董に出会えるか
(
そしてその日の午後、私がそれを買った。
)骨堂に
はそういう庶民性がある 。王侯貴族から出た品は骨
もしれないという期待であった。 もちろん、赴任す
董とはいわない。それは美術品である 。仁清の壷は
る前から滋賀の骨董には興味をもち、何点かはすで
骨董屋では扱わない。否、扱ってはならない。 この
に手に入れていた。信楽、湖東、書画では横井金谷
軍-はおそらく穀物を保存するのに使われていた日常
など。 しかし、正直なところ、過去 6年間にはほと
時代末に民芸運動を展開した柳
雑待であろう 。大正 l
んど何もゲットしていない。
宗悦はこの点に着目した。素性の知れない骨董はそ
その理由は、魅力のある品を不思議に次々と掘り
の地の人々の日常生活の底に流れている豊かな美意
出してくる馴染みの骨董屋の主人が、惜しいことに
識を明示している 。民芸の魅力はそこにある 。名も
突然癌で亡くなってしまったことだ。 まだ 70歳にな
知らぬ陶工が何の 1
f
Tいもなく 、無心に作り 出 した作
らない若さ (?)で。 この庖主は半ばプロ、半ばア
マの好き者で、あったために、私とも気が合って、良い
滋賀はすばらしい多様な文化 をもっ郷である 。 なに
ものが出ると庖の奥にこっそりとっておいてくれた。
その庖で求め、今居間においている信楽焼の壷は
80 ・人間文化
品こそ、その地の文化を表明する資格をもっ 。
も信楽焼だけが滋賀の固有の文化財ではない。私が
ゲッ 卜したもののなかで、いま ーっすばらしいもの
人・間・文・化・通・信
は横井金谷の筆になる 「
弁慶読経の図」 だ。そのの
学博物館の構成をまねて、アジアを中心に国際文化
びのびとした筆で一気に描きあげた弁慶の姿には、
をかんがえたが、たしか木村さんが文部省へ経過報
誰が観ても作者金谷の心の気迫をビシッと感じる 。
告にでかけた時、担当官が「滋賀県で国際ですか」
横井金谷(1761-1832) は栗太郡笠縫村大字下笠
といわれたということだった 。 「霞ヶ関の窓からみ
に生まれ、破天荒の坊主生活を送った南画僧である 。
る国際と琵琶湖畔からながめる国際はちがうのや j
天衣無縫、世間の欲に囚われず、したい放題の彼の
といってみたものの、やはり 「国際」は地域に根ざ
人生は、自伝 『
金谷上人行状記.1 (
平凡社刊、東洋
し、地域への深い思いで結ばれなくてはならないと
文庫 3
7) に詳しし、。そのわるさの一端のみを紹介す
かんがえた。
ると、大坂天満の宗金寺に修行に出されたとき、
そこで、 「
地域」 をまず身近な環境としての地域
に注目し、 虫の眼..で観察し、しだいに視点を高
「
乱暴悪戯至らさーるなき所業に耽る」ので、温情の
円応住持もあきれはてて、ついに手痛い折鑑を加え
くし、より広い地域を
る。すると金谷はぷいとお寺を抜け出すのだが、途
比較し地域を絶対視して夜郎自大におちいることな
中で再び連れ戻されたときの出来事。「住持の姉の
くし、地域を相対視し客観視する視覚をもち、地域の
妙順という老尼が中風に躍って寺へ養生に来てい
特性を明らかにしたいとかんがえた。
た。住持は [
金谷]上人にその世話をさせていたが、
また考古学者が限定された地区で調査し、その遺
奴め、或る寒夜、消えかかったコタツの火を火吹き
跡や遺物を検討し、過去の生活を復原し考察するよ
竹で吹きおこしたとき、尼のあけはだけた陰 (
ホド)
うに現代の生活について、はげしく変化する生活の
が火の光りに照らし出されたのを、何とおもしろい
相を客観視する視角が必要であるとかんがえた。そ
ものかとつくづく見ているうち、例のいたずらごこ
こで、かつて今和次郎さんがとなえた考現学を思い
ろがムラムラと発して、熱い灰を [
火吹き竹で]ー
起こした。今和次郎さんは関東大地震後の東京の急
すくいそこへほうり込んだから、たまらない。あわや
激な変貌に注目し、その変化の相を観祭して記録す
死ぬかとばかりの悲鳴を尼はあげ、さては子どもの
る作業を考現学として提唱された。私たちはこの考
ように泣きわめいた。
J
金谷 1
4歳の頃のことである 。
現学の発想をうけつぎ、発展させたいとかんがえた。
金谷は天保 3年滋賀郡坂本村において 72歳の生涯
まず、激しく変化する私たちの身近な 生活を見つめ、
F笠の宗栄寺を訪れ、彼
その変化の相を明らかにするため定点 ・定時の観察
の墓に詣でた 。今は、「太陽の子 Jのモデルとして
をくり返し、この観察を克明に記録し、新たな記録
もてはやされていることを知った。
の手法をとりいれることに努め、観察と記録を通じ
を終えた。私はかつて一度
こんな金谷が弁慶の山伏姿よろしく私の前に突 っ
て明らかになった生活の実体を、その変化の相がは
立っている 。悪びれたところもなく 。私はこの絵が
たして私たち人間の生活としてふさわしいかどうか
を反省する省察こそが重要だとかんがえた。考現学
無性に好きである 。
滋賀県立大学での 6年間は思い出多い、楽しい
は観察 →記録→省察の課程をへて考察をすすめ、
日々の連続であった。お付き合い下さった教職員の
現在の生活を的確に捉えることができるとしたので
皆様に心からの謝意を表し、ご健勝を祈念して、お
ある 。このようにかんがえて、開設準備室での人間文
別れの挨拶とする 。
化学部をめぐる作業はきわめてなめらかにすすんだ。
人間文化学部には、出身の学部を異にするたくさ
んの先生に集まっていただいた。先生たちの研究ス
八坂の実験
タイルも異なっていた 。川喜田二郎さんが研究のス
タイルを 三つに分けられたのを思いだした 。書斎、
実験、野外調査の 三つである。喜一斎は史料、文献、
西川
幸治
人間文化学部地域文化学科
書物などを通じて、文字の聞から真理をくみとろう
とする最も伝統的な研究スタイルである 。 これに対
して、 実験は近代 になって著しく発達したもので、
関学以来、
6年の歳月がすぎた 。 思い返せば、
仮説をたて実験によって検証し法則を発見しようと
1
9
9
4年の秋、開設準備室から八坂を訪ねた時、ひろ
する 。野外調査は自然と生活について過去から現在
い建設現場のあちこちて、泥水にまみれて作業がつづ
にわたり調査し観察し、その真実を見きわめようと
けられていた。今、キャンパスにたつ時、みごとに
する 。人間文化学部には、 これらの三つの研究スタ
成長した姿に隔世の思いがする。ここで、今までの
イルをもっ猿者がつどい、壮観であった。それぞれ
「八坂の実験」 についてふり返ってみよう 。
の研究スタイルでの研究がすすめられ、成果があげ
人間文化学部をめざしての作業は、 2学科で構成
られている 。 これからも、それぞれの研究スタイル
することからはじまった。当初、その一つに、民族
の先生たちが交流し、力をあわせて協力し、競い合
人間文化 ・ 8
1
人・閏・文・化・通・信
い、高めあって、人間文化学部の独自の学風がうま
り、ガンダ ーラやアフガニスタンで西方ギリシア・
れ、つちかわれていくことを深く期待したい。
ローマの神像 ・人像の彫刻、ペルシアの磨崖に彫像
それにしても、この 3月は私にとってきわめて憂
をきざむ習慣の影響をうけ 、 ガンダ ー ラで仏像が、
欝な季節となった。 タリバンによるバーミヤーン石
アフガニスタンで磨崖の大仏がうまれた。東西文化
9
6
0
年、仏教文化の源流を探
仏破壊の報道である 。 1
の交流、異なる文化の衝突のなかでバーミヤーンの
り、東西文化の跡をたどる学術調査(京大イラン・
石仏はうまれた。 この文化遺産が偏狭な勢力によっ
アフガニスタン ・パキスタン学術調査隊)に参加 し
0世紀は
て破壊されたのは歴史の皮 肉 といえよう 。 2
0
年代 7
0年代には度かさねてパーミヤ ー ン
てから 、 6
1世紀はもう少し
「戦争と革命」の 世紀 といわれ、 2
を訪ね、 '
7
6年にはパ ー ミヤーンに 2か月滞在し、パ
安定した平安な世紀 になると 期待していたのに、ま
ー ミヤ ー ン谷の東と西の支谷カクラクとフォラデイ
ことに残念である 。 しかし、 この蛮行をも歴史事実
で調査したのも忘れがたい思い出である 。私たちが
と認め 、人類の英知 をあつめて 、その保存修復の工
ガンダ ー ラをかんがえる時、パーミヤ ー ンは常に不
作がやがてすすめられるであろう 。
動の原点としてつよい位置を占めてきた。そのパー
こうした混迷した世界にあって、人間文化学部で、
ミヤーンの石仏が無残にも破壊されたことはま こと
外国人研究者、 外 国人留学生を まじえ、Jl.なった研
に痛恨のきわみである 。 じっさい、インドのガンジ
究スタイルをもっ研 究者 が力 をあわせ、競い合い、
ス河流域でうまれた仏教文化 はもと人間 的容姿をも
たがいに高めあって新しい学風 をつちかう こ とは、
っ仏像をもたず、必ず法輪、菩提樹、仏足跡などで
きわめて重要な意義深い こ とだ と思う 。 「八坂の実
象徴的に表わされてきた。やがて仏教が酋へひろが
験」の更なる展開を 心から期待している 。
.
2
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年度事業論文・修士論文一覧
~で、、
NN‘\
地
糊
域
文
刻
イ 県 執一円
初
一
ア
刀
一
コ
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久世
亜紀
背伸びした自分がいつか等身大の自分になる
ために 自ら選んだ道の中で見つけたもの
小岩井洋
土門拳がとらえたもの
杉村知子
琵琶湖湖底遺跡・尚 江千 i
l
[
l遺跡に│期す
i
争土真宗
¥ ノ ¥ /
る一考察
山本邦彦
柳宗悦と朝鮮
園木英生
清水
亮
日本の 「うた」 一民謡からの一考察
寺田
植田
亮平
人 と 生 き る 二十二歳の僕はこんなことを
中谷希望
中世芸能から採る故郷の心
旅ーアジア連帯の可能性一
中原
聞くという こ と 幸せを感じるき っかけ
地域文化学科を考える一卒業生の声から
中村敬吾
中小私鉄における乗客流動の推移
潰田宏明
近江鉄道を例に
近江の鉄生産遺跡、について
燈
考えながら生きています
小川加容子
須井
隆行
虞川雄一郎
移民から見る世界一八坂のカナダ移民より一
村田耕一
奈良公園に住むシカについて
泉
真吾
伊藤
治
滋賀県湖北地域を舞台に
景子
琵琶湖湖底遺跡の研究
湖北長浜を中心として
電波による情報の地理的考察
古代近江の鉄生産について考える一
林
平見
依美
歩
て見た、地域 ・人
近江の縄文時代
犬上川中流域における縄文遺跡群について
井ノ上靖
三条西実隆と戦国期における天皇制
植村真也
野球害毒論争に関する 一考察
加藤優子
中世山陰の製鉄に関する 一考察
出雲地方を 中心に
土谷篤史
琵琶湖湖底遺跡
祭りに対する私の想いー *ビデオ有り
宮西涼子
北川
千秋
82 ・人間文化
中世北陵地域の海運の展開
中山道高官 ・鳥居本宿の p
町家の天井高
に関する考察
山川恭代
「や ま」 と 「ひと J-羽黒修験を体験し
山田茂之
て
遺跡保存につい て
山田
灘五郷のい ま。 阪神・淡路大震災を越え
陽子
c
、
ーー
葛箆尾崎湖底遺跡についての一考察
河合聡史
大和飛鳥 ・猿石の顔面表現に関する考察
品 故郷(香川県牟礼町)の秋祭りを通し
福井県でのテレビメディアを中心に
乾津
天人女房説話に関する 一考察
吉田いつみ
アンコ ールの都市遺構の復原に関する一考察
池本
一都市の造営方位と尺度を探るー
石崎貴美子
陽子
“ことば"に目を傾ける
介護にみる現代家族 水口町の場合
装身具の世界 耳飾りから見た純文社会
人・間・文・化・通・信
伊藤祐滋
井野
綾子
し
、
.
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.
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・
I
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森)
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V
]鮮 外 交
「失わ れた」家族の i
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象 りの実家にみ
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コンピュータ・グラフィックスをJlJ
¥
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文子
たえ;線復!瓜の 1試み
jヒ IIJ 川弘 ~H\ 1全彩
JHbi片に│刻する研究
色
:
i
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人・閏・文・化・通・信
野崎真佐人
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萩下弥生
彦根城東小学校で交流しよう
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宮川幸子
天然染料の染着性に│渇する研究
森田紗規子
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城 念車 希 子
一近江 t布の今後の展望ー
北村達也
ウエデイングドレスの研究・製作
嶋岡
美幸
創作的パーティードレスのデザインと製作
田口
恵理
久性卜着のファッション性に|却する →考 ~1
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ドクダミメタノール抽出物からの消臭
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土居美紀
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人・間・文・化・通・信
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ョンスキルトレ ーニ ング実施の試み
藤田朋子遺伝子組み替え植物の安全性について
松田晃枝
摺 井 博 子 肥 満 制 御 に 関 わ る 蛋 白 質 UCPに関す
宮田義浩
青年期における友情と孤独
宮地佳世
優勢前額皮上電位と 心拍数の関係につ
山田真純
転校経験がもたらすもの
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吉田
生 活 文 化 学 科一 人間関係コース
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塩野徳史
ライフヒストリ ーの研究
北川晶子
ルソ ー教育論に関する一考察
人はコンピュ ータにも礼儀正しく振舞うか
眠¥
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伊熊
相互行為としての消費者行動
地 域 文 化 学 専 攻一 修士論文
文 ユ ング理論における「個性化」 と禅思
想、の関係
池田紘子高齢女性のライフヒストリーに学ぶ
宇野ゅう子
飯田史恵
岩淵加奈子
共働きが与える影響
新聞・錦絵にみる対韓ナショナリズム
一大衆に朝鮮蔑視!蕗を煽動した手段としての
大下周平父性と家庭教育のあり方について
大薮篤史
両晋・南北朝における墓誌の変遷
新開と錦絵について
ヒトはどのような動物にどのような影
上田洋平
感性の地域学
響を受けるのか
生方美菜子
地理情報システムを用いた歴史的景観
奥村拓也
死刑の是非
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彦根市の介護保険
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上岡亮一
画面上の距離が人物の印象形成に与え
熊谷貴文
北川智美
昔話の語り手論
花房大祐
豊臣秀長と政権機構
羽生由喜子
稲作開始による漁拶活動の変化
真木玲奈
植民地時代の朝鮮半島における朝鮮語
木下奈美チンパンジー母子の関わりの発達
久保
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秀長の機能と権限をめくって
琵琶湖地域を中心として
長浜と彦恨の事例を比較して
酒井裕樹
生涯発達を通しての教師の力量形成
行動観察を用いた河川空間の分析
隅田千鶴
暮らしの中の年中行事
伊藤公一部
現代学生の対人関係観調査研究
田村直樹
大規模小売庖舗の 出現 とその周辺地域
研究朝鮮語学会と朝鮮語学研究会の論争か
ら考える
渡遺洋樹
道元仏道の特質を再考する
への影響
鉄尾
綾紙芝居が幼児に果たす役割
愛
西崎安恵
おんぶとだ、っこー親子の緋ー
根岸弥生
景子
ガラスと生活
一板ガラスの普及による住宅と住まい方の変化
金氏周平
家庭用置きスト ーブ の変遷石油・ガス・
電気ストーブのデザイン変遷と使用実態
セルフ・エスティームが高学年児童の
進路意識に及ぼす影響
林
‘嶋崎制
池田綾子
高校生におけるストレスと性格特性の
関連性
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中村
皮悟
近年の労働紛争と新しい紛争処理機関
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中田智之
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ソー シャルスキルトレ ーニ ングと社会
生
中谷香織
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証上の修」 を通しての菩薩行
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佐々木和之
中世武家官位制の意義
戦国期伊達家臣団の宵途を通じて
る影響
山崎干草
高齢者の居室に対する色彩感情
林
タンポポに含まれるメチルメルカプタ
高齢者と若年者の比較
クレ ー射撃競技時における心拍数の検討
佳男
日比野久美
生涯学習に関する一考察
星野智子
音楽腹想テープを用いた心拍制御トレ
ンに対する消臭作用を持つ物質の単離
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と構造決定
スへの効果
本田
誠社会人スポーツ選手へのリラクゼーシ
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撃麻衣子
キムチ文化に関する調査研究滋賀県内
におけるキムチの特産品化活動の事例報告
人間文化・
85
人・間・文・化・通・信
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3
生活文化
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拙著
I日本研究原論Iに関しては、日本社会学会
誌で、正村俊之氏による書評論文の対象として取り
9巻
上げられた 。 (社会学評論、 4
-栗田修 (
く りたおさむ)教育学
9年 1
0月23R-2
4
少し以前のことになりますが、 9
4号
、 651-656
頁
、 1
9
9
9年 )0 I
司論文に対しては、リプライ
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関係
日の 2日間にわたって、日本デューイ学会第 4
3会研
体 j としての日本人と日本社会」 と題してリジョイ
究大会が本学交流センタ ー を会場として開催されま
57-661頁)。
ンダーを書いた(同誌、 6
した 。 シンポジウムのテーマは 「デューイのここが
平成1
2年 8月23-26日には、フィンランドのラハ
おもしろい」、課題研究のテーマは「デユーイはア
ティ市で開催された第 9回ヨ ーロ ッパ日本研究学会
ジアをどのようにみていたか」 でしたが、参加者の
(EA JS) に出席し、いくつかの分科会で討議に
楽しい活発な議論に花がl
咲きました 。
参加すると共に、多くの学会メンバ ー との研究交流
集まった学会の人たちはみな異口同音に琵琶湖畔
を行った 。 なお、それに先立つて、ノールウェイの
に件む本学の校舎に賛辞を惜しみませんでした 。 と
ベルゲンを訪れ、ベルゲン大学の日本研究者、ベネ
くに交流センターはこうした学会を開催するのに最
デイクテ ・イルゲンス講師と意見交換を行った 。
適の施設である、と大変好評でした 。
また 27-29日には学会の研修旅行に参加し、ロシ
学生時代から長年にわたってご指導いただいた、
下程勇吉先生(京都大学名誉教授)の第 3回忌を記
ア・サンクトペテルブルグの多くの文化施設を見学
した 。
念して、 2
0
0
0年 3月論集『教育人間学の根本問題』
1
0月 1-10円には、外務省からの依頼により、カ
(灯影舎)を出版し、「デユ ーイの人間観と社 会観」
ナダおよびアメリカに出張し、シンポジュウムにお
を掲載しました。下程先生は古美術に興味をお持ち
けるキ ー ノート ・スピーチおよび日本文化について
93歳でお
の講演を行った 。 1
0月 4日には、カナダ・トロ ント
で、私も宵い物は何でも好きですので、
亡くなりになる直前まで、骨董談義で人間関係を保
の日本総領事館が主催した文化・ 経済面の交流行よ
れ
ってきました 。
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0の一環として開催された Two-
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三夏には 『デユーイの再評価 J と題する
この 2
書物が出版される予定になっていて、夜、は 『デユー
イの心理学』 を書くことになっています。心理学者
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" と題する報告を行い、その後の質疑
としてのデューイはあまり知│られていませんが、彼
応答にも加わった 。 コメンテーターとして
はアメリカ心理学界の会長もやり、彼の最初の著作
は 『
心理学 Jでした 。心 理学という視点で、彼の思
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¥席した 。 その提出論文は、日本
想、の特質を浮き彫りにしたいと思っています。
人の国民性を集団主義者としてとらえることは妥当
かんじん
現在のところ、私はデューイの [
経験としての芸
ではなく、人間モデルを 「
個人 Jから「問人」 にシ
術 Jの翻訳に専念しています。 この本は昭和 2
8年頃
フトし、「間人主義」の立場から理解すべきである
に我が国では 一度春秋社から翻訳出版されているの
ことを、調査データを提示しながら主張するもので
ですが、新訳の必要を感じ、ここ 2、 3年の内には
あった 。
完訳して出版したいと思っています。 今春には定年
1
0月 6日には、アメリカ・ワシントンの日本大使
退職しますので、ゆっくり股を据えて作業にあたる
館広報文化センターで聞かれた大使館主催のセミナ
つもりです。
ーで、同じく日本人の価値観と国民性について発表
-漬口裏俊(はま ぐちえしゅん)比較社会論、比較文明学、臼本論
Pro
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fTomokoHamada.Dr
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研究活動
テーターを務めた 。
し 、 引 き 続 き 討 議 を 行 っ た 。 このセミナーでは、
前 8号で報告した「日本人の心情と日本型人間関
0月 9日には、コロンパスのオハイオ州立
さらに 1
係の特性一一映画 『
男はつらいよ 』 シリーズの分析
大学日本研究所主催の講演会で、すでになされた比
を通して 」 の共同研究は、大阪市立大学文学部の金
較価値観調査のデータに基つ3 ながら、日本人の価
児l
暁桐教授によ って同大学で実施された映写につい
値観についての再検討を行った 。
て学生たちが書いた感想文に基づいて、同映画に見
これらの 一連のスピーチによって、カナダ人やア
られる日本人の典型的な行動形態を共同討議によっ
メリカ人の日本に対する認識が少しは変わってくれ
て分析した 。 この研究は、資料の整理作業を続行中
たのではないかと思っている。
8
6 ・人間文化
人・間・文・化・通・信
.鄭大聾(ちよんでそん)食文化
鶴岡と H本との食文化の比較研究を行っている 。
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これは 2
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0年6月にチェコのプラハで行われた
2}-Jにはハワイ大学で開催された同際日麗学会
エキステ イクス(居住の科学)の国際会議で発表
1.研究
で
、 「日本に定着したキムチの文化」 について発表。
6月
、 8月
、 9月
、 1
1月と韓国の地方における食生
活調査を行った。 とくに 8月には中国吉林省延辺朝
したもの。
b 都市デザインに関する研究:I
人間文化」
号
一
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彦被の I
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'づくりと都市デザインへの提案 j
鮮族自治州における民俗生活文化展に参席、食文化
交流での意見交換を行った。特別研究で 「
朝鮮通信
n
第9
2
0
0
1i 月
景観デザイン・ 1978年頃の信楽町での「神慈
C
使接待の記録にみる朝鮮人好物に関する研究(その
秀明会滋賀の御苑」の敷地全体計画および景観設
2)Jを 9月の日本生活文化 史学会総会にて講演、
計以来実務はない。
9号に、日比嘉子、 i
宰麻衣子の 3名で発表。
同学会誌 3
d 建築・住居デザイ ン :在来工法を主とし、 O M
国立民俗学博物館の共同研究「酒をめぐる地域間比
ソーラー ・システムを用いた木造小住宅を現在設
較研究」にて 「
朝鮮半島の 酒」 について調査したも
計中。
のを整理発表。
2
. 著書など
集落調査 ・保存修景デザイン:2
0
0
0年度の残り
E
には湖北の湖岸の二、三の集落を調査し、 2
0
0
1年
『
食文化の中の日本と 朝鮮 J(講談社
現代新書
1
9
9
2年刊 )の訳本が韓国の s
o
l (松)出版社にて 1
0
度からは長浜市の田園 地帯の集落の調査を行う予
定にな ってい ます。
月 1日出版、その記念講演会があった。
「
朝鮮通信使と飲食 J(雑誌
BESETO 韓国語
論文)
2
.
集住の場所の空間構造の研究』 というのが
夜、の理論的な蘭での大きなテーマです。 日本の
3.セミナー講演
集落や都市は他の文明のものと大きく異なって
キムチセミナー 「キムチのすべ
いるが、どこがどのように違うかを明らかにす
同志社大学自主講座 「日韓関係史 シリ ー ズ」 で
都市や地方に 至る異 なるスケールでの 「
住 まう杢
食品研究社主催
てJ(8月 ・東京)
るのが目的です 。 日本での部屋、住居から│町、
f
朝鮮の食文化と日本 j (
12
月)
問」で、空 間構造がどのような特徴をも っている
4
. その他
昨今、日本にキムチ文化の広が りが顕著になった。
かということです 。 これらはわれわれ日本文化
での 「住まう空間 」の特徴を明らかにすること
これと関連してそのような T V番組の取材が多くな
になり、設計作業での前提知識となると考えて
ってきました。
います 。比較の対象としては主として中東 ・地
中海・西欧のものと比較していますが、さらに
-土井崇司 (
どいたかし)住居学、建築意匠、都市デザイン
東南アジアの諸都市などへともう少し広げたい
・研究活動
私は自分を設計者・デザイナーと思っていて、そ
と考えています。 この点で今年度に発表したの
は 「緑の 閉合性一 日本における伝統的な集住の
の立場に立った上での集住設計に結びつく研究活動
場所の空間構造の特性
を行っています。活動分野は大きく次の二つに分け
計画系論文集
その 1J日本建築学会
N
O
.
5
3
72
0
0
0・1
1
ることができます。一つは設計 ・デザイ ン分野に関
また、祭りの空間など一時的に出現す る空間構
するもの。二つ目は集住の空間特性に関するより理
造の特性もこれから調べていきたいと思っており
論的な面です。 これらの二つの大きな分野は、夜、の
ますが、まだ資料を収集したり、どのようになる
生涯のテ ーマ で、特に本年度に限りません。 これら
のか模索中です。
のなかのいくつかが、チャンスの有無、興味と時間
の都合などでゆっくりと同時進行しているのが現状
-教育活動
私の教育面での担当は住居デザインですが、単に
です。
住居や共同住宅のデザインのみでなく、もっと広い
1 国土デザイン、都市 ・集落デザイン、建築・住
都市デザインも含むような方向にも広げています。
居 デ ザ イ ン 、 あ る い は保存修 景 デ ザ イ ン な ど
それらに│刻する設計演習と講義を受け持っていま
(
これら全てを含む言葉として集住デザイン ) に
す。設計 i
v
i習では現実の課題を解決することを重視
ついての研究活動。
し、毎年課題のーっとして彦根の都市デザインに結
その中で最近のものは:
びっくものを共同設計として出題しています。 これ
a 日本の都市配置に関する研究:
らは彦根での現実の都市のデザイン問題を解決する
人間文化・ 8
7
人・間・文・化・通・信
ことを目指して出題されていて、市民の方々とも接
(
2
)ナショナリズムの形成と社会
触を持ちながら行っています。最初は「花しょうぶ
(
1
) これまで、福祉国家論を整理しながら、アメ
通り商庖街の活性化計画」、次は 「市場街商応街の
リカ・スウェーデンという、異質なタイプの国
再開発 J1
歴史的市街地空間の再生ー立花 I
l
r
T.佐和町
家 ・社会の社会保障と福祉制度の特徴を、日本
1
汀づくり計画 j と続き、今年度は「彦根市街
の民観1
のそれと比較するための準備作業を進めてき
地の屋外散策ル ート ー緑のネットワークの設計 jで、
た。今年度から、それにくわえて、ヨ ーロ ッパ
これからの彦板の都市デザインとしての屋外の散策
の大陸型といわれるモデルを考慮にいれて、比
ルートをどのように設計するかを受講生諸君に提案
較分析の作業に入る予定である 。先進国におけ
してもらいました。今年の 4年生ゼミは 6人で、全
る社会政策、高齢化と貧困をめぐる社会保障と
員卒業設計を行っています。
社会福祉の制度化問題、医療、雇用などの問題
が
、 「家族 ・地域・職域・同 家」 のあり方とど
-安土優 (
あづちまさる)美術、造形
l
J作
1
. 本年度の主たる活動 .f
のように組み合わされば、適合的な関係が形成
されるのかを、明らかにしたいと考えている 。
平成 1
0年
、 1
1年
、 1
2年にかけて 、イタリア、スペ
(
2
) ナショナリズムについての政治思想史的検討。
インの中世に栄えた山岳都市の人と景観の歴史につ
ナショナル ・アイデンテイテイの侃点から、国
いて写生やスケッチを重ねてきた。 山岳地帯に住む
民が生みだされ、 一体性を 1
1
6
:保するに至
家 ・匡l
人々の生活はつつましく過疎化と少子化が加速化し
るプロセスとメカニズムを、アメリカを事例に
ているが、人情が厚く景観や住居空間は実に美しい。
して分析している 。 1
9世紀後半までの、アメリ
以下はそれらを日本画、水彩画、水墨画等による
カの支配的意識である WASP的文化とイデオロ
J
l
jIJ作発表である 。
ギーが成立する過程の分析はほぼ終った。今年
1
) 第4
2回滋賀県美術協会展 「乾いた河原」 日本画
1
1
¥,
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,
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' 2
0
0
0年3月 大津市立歴史博物館
ナショナリズムとの関係、アメリカが本格的に
2
) 2000年滋賀双線美術展
対外政策 l
こ采ーり出していく際のナショナリズム
イタリア ・スペイン写
生スケッチ 1
3点水彩画出品
は2
0世紀への転換期の、大量に流入した移民と
8月
の問題、そして 20
世紀後半の、多文化主義・エ
i
ゑ笠{県立近代美術館ギャラリー
スニシティとナショナリズムの問題について考
3
) 安 土 優 イ タ リ ア ・スペイン紀行展
4
) 第 26 回造 JI~ 展
1
2
0号日本画出品
10 月 ~ 11 月
滋賀県立近代美術館ギャラリー
5)第54回滋賀県美術展覧会 「
星の降る街 mJ50
号
円本園出品
1
1月
滋賀県文化産業交流会館
6)第 1
2回 F展 「イタリア 山岳都市 1 .IJ日本画
I
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¥, ',~,
察する予定。
滋賀県造形集団 「星の降る街 J
1
0月 大阪市立美術館
2
. 社会的な活動
日本阿向好会ならびに美術クラブ員の発表成果
-早川史子(はやかわふみと)食昂学、栄養指導論
茶の効能は体験に基づいて様々に伝承され,近年
その成分や作用機構が科学的に立証されてきつつあ
るが,未解明のものも多い .現在の研究テーマは茶
の効能の伝承とその科学的解明である.数ある 茶の
効能のうち,茶カテキンの抗酸化作用,殺菌作用の
作用機構解明を主たるテ
マとしている .本年は茶
カテキンが Cuh共存下で,陰性菌(大腸菌)では表
は、本学院生岡村康臣の彦根市展の特選
而のリポ多機体に Cu'
+が結合し,茶カテキンにより
をはじめ佳作賞 1
名入選3名であった。
3
. 主な所属学会ならびに活動
過酸化水素を発生し,細胞質膜に障害おこすことに
にCu+還元され,局所的に活性酸素のひとつである
滋賀県造形集団副代表
より殺菌されるが,グラム陽性菌 (
黄色ブドウ球
滋賀県美術展覧会実行委員会委員
菌)では Cu'
+は表面に結合できず,殺菌に結びつか
架東町美術展覧会審査員
ないことを明らかにし,日本薬学会,日本農芸化学
日本美術教育学会 ・基 礎 造 形 学 会 ・大学美術学
会,日本化学会,磁気共鳴医学会 ・SFRR]apan合
会 ・京都市立芸術大学美術教育研究会 ・
京都日本画家協会・滋賀県美術協会 ・滋賀県造形
同学会, I
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Pacificchem 2000 Congress などの学会で講演し,
集団
その一部を論文 1
Bacteri
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copper(
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I) complexes against Staphylococcus
-小林清一(こばやしきよかす)社会・経済政策、社会思想史
最近の研究テーマ
aureuscomparedt
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3
21
7Jにまとめた . また,
Microbio
(
1
)社会政策の国際比較
茶の効能 1
1
1
民気覚まし効果 J1
ボケ防止効果 J1
使秘
88 ・人間文化
人・閏・文・化・通・信
予 防 効 果j に つ い て 静 岡 県 庁 お 茶 振 興 室 が 新 し く 開
設 し た お 茶 ネ ッ ト ーお茶の情 報 デ
タ
ベ
こ し た 、 と い う 意 味 は あ る は ず で す。
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) に載せた. 一 方 , 茶 の 伝
承面では茶粥習俗と健康のかかわりを調べている .
-郡須光章 (
なすとうしよう)心理学、教育心理学
最 近 の 主 たる研究の方向は、 「青 年 期 の ス ト レ ス
茶 粥 習 俗 は 江 戸 時 代 , 近 畿地 方 の ど こ か が 発 祥 の 地
と問題行動に関すること 」 や 「 青 少 年 の 進 路 成 熟 と
であろうと考えられることから近畿地方の茶粥習俗
学 校 ・生 活 不 適 応 の 関 係」 な ど で す。 ま た 、 健 康 心
を詳細に調べ,その結果茶粥を食べる理由のひとつ
理学の動向にも│羽心が向いています。 これに関して
に胃腸の調子を整える 作用があること が示唆 さ れ
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0年 8月 に 開 催 さ れ た r
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た . こ れ ら は 論 文 「奈 良 ・和歌山・ 三 重 ・大 阪 ・京
都 の 茶 粥 習 俗 と 分 布 , 日 本 食 生 活 学 会 .Jに ま と め
共 著)
た. 以 上 の 研 究 以 外 の 成 果 と し て は 論 文 (
「あ る 地 域 の 女 子 学 生 の ナ イ ア シ ン 摂 取 量 と 血 中 ナ
イアシン補酵素レベル(ビタミン、
1
4
1頁 )J. 著書 (共 )
7
4巻 3号
、 1
3
7・
:1)栄養科学シリーズ 『食 生
r
ど の 論 文 を 入 手 し て 翻 訳 を 試 み て い ま す 。 さらに、
7歳 の 少 年 に よ る 突 発 的 凶 悪 犯
最近の頻発している 1
罪についての外国雑誌記事・新聞報道を集めて分析
j 講 談 社 サ イ エ ン テ ィ フ . 2)
. 近江のめし・
活 論J
しています 。 こ れ ら に よ る と 、 こ の よ う な 問 題 行 動
もち・だんご J サンライズ印刷,などである.
は、いわゆる 「日本的文化 ・人 間 関 係 か ら き て い る 」
-土屋敦夫 (
っちゃあつお)建築史、都市計画史、都市開発史
Born K
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との皮相的な見解や、これらの少年を“N
2年
私事になりますが、平成1
などと報じているように、 一 面 的
2月 に 手 術 を し た た
な 分 析 が 少 な か ら ず あ り ま す。 このためも っ と的篠
め、少し体をいたわらなければということで、今年
に 論 説 を す る 必 要 を 感 じ て い ま す。 研 究 を ま と め る
度はフィールドワ ー ク な ど、 残念 な が ら 控 え ざ る を
に は 今 少 し 時 間 が か か り そ う で す。
えませんでした 。
一 方 、 進 路 指 導 ・進 路 発 達 に 関 し て は 、 従 来 の 調
昨年度から始めた彦根の伝統的な家屋の悉皆調査
査研究をまとめて、 「日 本 進 路 指 導 学 会」 ゃ 「青 年
も 、 い ち お う の 結 論 が で ました 。 城 下 1
1
1
]彦根には、
心 理学 会」、 「
佐 賀 県 中 学 校 進 路 指 導 協 議 会」 な ど で
江 戸 期 以 来 の 古 い 家 が2
70
軒 ほ ど あ り 、 商 人住 宅 の
のシンポジウムやセミナーで報告しました。
1
0
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fほ ど 、 武 士 住 宅 ( 大 部 分 は 足 軽 の 家 )
町 家 が2
が6
0軒ほとさ残っています。 多 く の 古 い 家 が 建 て 替 え
さらに、 今 年 度 は 「 滋 賀 県 教 育 カ ウ ン セ リ ン グ 研
究 会」 を 発 足 さ せ 、 そ の 会 を 主 宰 す る こ と に な り ま
ら れ て い き 、 古 い 町 並 み と し て ま と ま っ て 残 ってい
した 。 現 在 は 県 内 の 小 中 高 校 の 先 生 や 県 大 、 滋 賀 大
るところは確かに少なくなりましたが、それでもま
5名 程 で 、 学 校 教 育 相 談 の事 例 検 討
の 学 生 ・院生 約 1
だ こ れ だ け あ る の で す。 こ ん な に 武 士 住 宅 が 残 っ て
や 交 流 分 析 、 構 成 的 エ ン カ ウ ン タ ー の学 習 を 進 め て
いる城下町は、ほかにないでしょう 。 お城だけでな
い ま す。 将 来 的 に は 、 側)
日本教育カウンセラー協会
く、彦根城下町全体の有効な保存策が考えられねば
の 滋 賀 支 部 と し て 登 録 し て 、 協会 の 支 部 活 動 に ま で
な ら な い と 強 く 感 じ ま す。
発展させて、滋賀県の教育カウンセラー活動の中核
そして今年度は、長浜の 町をゆ っくり見る機会が
として行きたいと考えています。興味や関心のある
ありました 。 長 浜 は 民 活 中 心 の 1町づ く り で 、 優 等 生
方は、所属や経歴を問いませんので、どなたでもご
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J
づくりの
の 町 で す。 行 政 や 民 間 の い ろ い ろ な 方 に I
参 加 下 さ い 。 連 絡 を お 待 ち し て い ま す。
経験談を聞く機会がありましたが、聞けば開くほど
また、月 1、 2ill1ですが、今年度も引き続き、滋
お も し ろ い 話 で し た 。 こういう 話 は 、 研 究 と い う 意
賀県少年アドバイスル ー ム、草津少年センタ ー など
味ではいったいどうまとめたらいいのか、今のとこ
で、悩みをもっ父母や少年本人のカウンセリングを
ろ は よ く わ か り ま せ ん。 し か し 何 か 方 法 が あ る は ず
担 当 し て い ま す。 非 行 や 不 登 校 で 苦 し ん で お ら れ る
だと、にらんではいるのですが-
方々に微力ながらもサポートできる体験は、小生の
「城 下 町 の 近 代 化」 と い う テ ー マ で 、 金 沢 を 対 象
教 育 や 研 究 に 大 い に 役 立 っ て い ま す。 さらに、大学
として、近代の都市計画史をずっと研究しています 。
の授業の一環ではありましたが、県立荒神山少年自
今 年 度 は 「金 沢 の 大 正 期 の 街 路 計 画」 を 、 都 市 計 画
然の家や県立長浜養護学校との交流を深めることが
学会で発表しました。大正期にはじめて城下町時代
で き ま し た 。 学生 と 共 に 訪 れ て 、 野 外 活 動 の 進 め 方
の狭い道の拡幅がおこなわれ、市電の通る幹線道路
や 、 自 然 体 験学 習 の 意 義 を 実 体 験 と し て 知 る こ と が
が造られるわけですが、 こ れ は 明 治末 期 の 市 区 改 正
できて有意義な経験でした。 そして、障害児理解や
計画を 実施したものだということを明らかにしまし
子どもの発達と学習における 仲 間や人間関係の重要
た。 金 沢 で は 忘 れ ら れ て い た 市 区 改 正 計 画 を 掘 り 起
さを改めて深めることもできました。
人間文化 ・
89
人・閏・文・化・通・信
-八木英二(ゃぎひでじ)教育学
特別な教育ニードをもっ子ども達への教育的対応
の目的で利用するという生活の知恵が数多く伝承さ
を検討するための基礎的調査 を行いマンチェスター
臭 ・抗菌活性の検索を進めた結果、数多くの有効植
れている 。野菜類から野草類にまで範閉を広げ、消
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大学の 7月の国際学会 (
物を見いだした。 このうちドクダミ、タンポポは 今
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発表を行 った。 テーマは、 A Area Study on
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hSENi
nOsakaJで、今回は教科学習
面での 「
得意J 好き J ついていける 」科目数の学
年進行にみられる変化と 「
勉強はおとなにな った時
に役に 立つ」などの勉強観とのクロスにみられる特
徴を析出し、日本における通常学級における学力遅
滞の実態の特徴と教育システム改善にかかわる若干
の示唆を行 った。本学の特別研究費をあてて、こう
した子どもの発達的状況や教員がかかわるシステム
の実態調査研究を継続する矛定である 。
教育における国際的合意の研究については、本年
度も継続した。昨年と同じく、パリのユネスコ本部
とジュネーブの国際教育研究所 (
I
B
E)
、欧州国連
年度主要な消臭活性成分の構造決定まで研究が進展
果となった。共同研究者にはご迷惑をかけてしま っ
本部図書館での資料収集を行った。関連する本年度
たが、公立大学に勤めるものとして社会との関わり、
分の研究成果には、
貢献は必須の仕事の一部と考えている 。
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r人権としての教育」論はどこ
まできたか 一人権規約教育権の一般注釈 (
G
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部落問題研究所紀
CommentNo.1
3) について J (
要 『部落問題研究 J(
2000年 1月)や
、 「
教育要求の発
展と人権 J(
部落問題研究所 『
部落 J2
000年 1月号)が
ある 。前者では、国際人権規約の条約機関 (
社会権規
約委員会)の 「
教育権に関する 一般注釈」を全訳紹介
し、同注釈をめぐる論点と背景についてやや詳 しく
論じ、国際教育権論議の到達点を明らかにした。
なお、本年度は、単著 『ヒューマンサービスの教
育 j (三学 出版、 2
0
0
0年4月)を出版することができ
た。同書は、モノを加工する対自然の労働とは異 な
るヒューマンサービス労働のあり方から、人間が人
聞を相手にする教育の特質といくつかのトピ ックを
論じたものである 。 とりわけ、今日の学校 ・学級崩
擦その他の教育病理の解明をめざすための基礎作業
として、 「なぜ学校なのか」 という視点から 学校教
育の特殊性を明らかにしている 。教職の不確実性
、
教育決定論や教育万能論の誤り、教職のアカウンタ
械の無際限性などの論点を扱い、これ
ピリティ、教 I
まで取り組んできた教員実態調査結果をふまえ、あ
るべき教職のジヨツブデザインを構想している 。
-灘本知憲 (なだもととものり )食昂栄養学、食晶生化学
0年近く、新規用途開発をめざして、自然に
ここ 1
ある食材なと手の生理活性の検索を行ってきた。内容
は大きく 2分野からなり、 一つは天然物の消臭 ・抗
菌活性、いま 一つは食品のヒト自律神経制御活性で
ある 。
長年の生活の営みの中から、天然物を消臭や抗菌
90 ・人間文化
した 。今後、これらの実用的利用法の開発とともに、
他の有効植物の活性成分の構造解明が期待される 。
一方、漢方以来伝承されている、食品のヒ卜への
温冷作用の科学的実証に関する研究も、 一定の進展
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J
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定装置、心拍・血圧
を見ることができた。皮膚 I
J
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J
定などを駆使し、
変動解析による自律神経活度の i
ショウカ恨の温作用、柿の冷作用を始め、いくつかの
食品の温冷作用を実証できた。従 って、本研究も有
効成分決定と 実用法の開発への前進の時期に来たと
言 える 。
社会との関わりも今年、講演活動、栄養学関連の
執筆、マスコミによる取材など、結構時間を割く結
人間文化というヒトの営みを科 学 する分野で、
「
生活の知恵」、「
安全」、「
実用 」 という 三つのキー
ワードを大切にしつつ、共同研究の利点を生かして
楽しく研究を行 っていきたい。
-柴田克己 (
しばたかっみ)食糧科学
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.ある地域の女子学生のナイアシン摂取量と血中ナ
イアシン補酵素レベルビタミン, 74,1
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)
1 第 375回 ビ タ ミ ン B研 究 委 員 会
世話人 (
彦根キ
ヤッスルホテル ).
8.Mechanism o
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. Am. J
.
2 第2
3回日本トリプトファン研究会学術集会
世話
人 (
ホテルサンルート彦根,滋賀県立大学).
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Development o
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method
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high-performance
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.Chromatogr
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)
- 中 谷 員 三 代 (なかたにまさよ)消費者問題、消費者教育、服飾デザイン
研究活動
高齢者や若者を取り巻く消費環境はめまぐるしく
変化している今日ですが、「高齢者をめぐる消費者
問 題」 の研究が高齢者の消費環境をいくらかでも整
(
2
)書籍
備するき っかけになれば と思い、続けてきて現在 8
1
.ModernC
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報となりました 。
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を分担執筆) p
p.325-364. (edited by A. P
一方、 2
0世 紀 の 終 わ り ?
にあたり、 「日本にお
ける 2
0世紀の服飾に関する初│
究 ( l~ 3報 )
J をま
Leenh巴e
r
)Marcell Dekker. I
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c.
.270 Madison
とめることができました 。 第 1、 2報は既に掲載さ
Avenue.NewY
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0
1
6(
2
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)
れており、
(
3
)実用・ 普及記事
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[J因子としての可能
1.ニコチンアミド.エイズ防 f
性. ビタミン. 7
4
.
3報は投稿中です。
教育活動
同 一 山
(
2
0
0
0
)
.
大学における公務のほか、県レイカデイア大学校
の授業や地域で各種講座を担当し、啓発を行ってい
(
4
)口頭発表
ます。 時に、京都や大阪等の消費生活センターの講
1
.Protein Crystal Growth and I
nfluence
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座 を 受 け 持 つ 機 会 も あ り ま す。 滋賀県の高校生向け
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消費生活副読本作成のため、先生方への基調講演を
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l Macromolecules
行いました 。
1世紀の主役としての未来をもっ、若者に対
また 2
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.USA).2000
2生来の紫外線防御物質を高めるための栄養生化学
2年 3月に出版
する消費者教育の 一環 と し て 、 平 成 1
的 研 究 .I.モデル系の開発.日本農芸化学会第
した 「実 践 的 消 費 者 読 本 J(共著) ~Sup port Your
41
5回支部例会 (大阪府 立 大学).
L
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3 口腔におけるオレイン酸,
トリオレインの認識.
16回 支 部 例 会 (
奈良先端科学
日本農芸化学会第 4
の内容のさらなる充実をはかるため執筆中
(l月現在) で
、
3月には改訂版発刊の予定です。
社会活動
滋賀県個人情報保護審議会、大津市、長浜市情報
技術大学院大学 ).
4抗結核剤ピラジンアミドがナイアシン代謝におよ
公開審査会、長浜市個人情報保護懇話会等の委員と
9回近畿支部大
ぼす影響. 日本栄養・食糧学会第 3
して条例制定・改正に向けて、知事や市長への提言
会 (
大阪府立看護大学). 2
0
0
0
.
づくりに参画しています。
5可塑斉J
Iフ タ ル 酸 エ ス テ ル の 摂 取 は ト リ プ ト フ ァ
滋賀県エコライフ琵琶湖賞審査会委員としては環
ナイアシン転換率を増大させる,第 2
3回日本
境問題と、伊吹、近江町では街づくりや郷土の特産
ン
トリプトファン研究会学術集会(滋賀県立大学),
2
0
0
0
.
6
.腎機能障害時におけるキヌレニンおよびキノリン
品開発との関わりを持ち、消費者の視点から提言を
行っています。
滋賀県消費生活コンサルタント協会員として、県
3回日本トリプトファ
酸の上昇機構について.第 2
下の公共機関や 交通機関等の トイレに関する調査を
ン研究会学術集会(滋賀県立大学), 2
0
0
0
.
行し、ました 。 高 齢 者 や 障 害 者 にとってよりよき環境
7運 動 週 間 が ト リ プ ト フ ァ ン
す影響
NAD代 謝 に お よ ぽ
マウストレーニング群と非トレーニンク
群との比較.第 2
3四日本トリプトファン研究会学
NAD経 路 に お よ ぽ
す 影 響 . 一鍛練者による 300m全力疾走
ています。
昨年1
1月には 1
2000年きもの装いコンテスト (日
本 き も の コ ン サ ル タ ン ト 協 会 主 催 )Jの 審 査 委 員 を
0
0
0
.
術集会 (
滋賀県立大学), 2
8運 動 負 荷 が ト リ プ ト フ ァ ン
づくりの 1ステァプとして代表者が報告書を作成し
. 第2
3
させていただきました 。学 生 の 部 に 私 が 推 薦 し た 本
学 生 活 デ ザ イ ン コ ー ス 3回生 2名 が 出 場 し ま し た 。
回日本トリプトファン研究会学術集会(滋賀県立
幸運にも 2位 に 入 賞 し 大 変 嬉 しく、ミレニアムのよ
大 学),2
0
0
0
. 他 2編
い思い出となりました 。
(
5
)
社 会活動
人間文化・ 91
人・閏・文・化・通・信
-鈴木伸子(すすきのぷ乙)色彩学、服飾造形論
今年度は諸々の事情で、講義、ゼミ、卒論指導、
祭礼行事に参加している子どもの姿を写真にも記録
その他学内の雑事以外特に研究らしい活動が殆どで
展を開催し、多くの方に観てもらうことができた。
した。 これらの写真は、写真仲間の協力を得て写真
きなかった今までになく残念な l年であった。前年
凹つには児童文化財の一種である紙芝居に関して
度
j
'
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J
lしておいた研究成果をまとめ上げ、学会誌に
である 。 卜│本で誕生した紙芝居の研究と啓発活動に
投稿できたことが唯一の慰めである 。教育活動の感
'11
¥
前紙芝居大学」 に参加して 全国の図書
関わり、 1
想のみ記すことにする 。
館、児屯館、文庫の人達と交流をもった。 テレビか
女色彩検定
大学・短大の部で優秀団体校に毎回選ばれながら
もある 。
も表彰式に出席する意志はなかったが、今年度初め
社会的活動
らの悪影響を見直す ことの重要さを 考える 一手段で
て一度覗いてみようという好奇心から出席させてい
滋賀県環境影響審査委員
ただいた。全国から優秀団体賞受賞・の企業部門、大
滋賀県立びわ湖 こどもの国運営委員会委員
学・短大部門および専門学校部門の各代表者達や個
滋質県児童凶書研究会顧問
人の在日代表の人々が、主催者以外に文部省関係者を
はじめとする国会議員、報道陣等と共に 一向に東京
の会場に集まるという非常にスケールの大きいもの
-日比喜子(ひびよしこ)調理学
食べ物 ・飲み物のおいしさについて、それを発現
であった。l
時代の要請であろうか"色彩"にカを入
する食品側 (
主 として澱粉性食品)の物性や食べる
れている各部門がいかに増えてきたかを実感として
人側の│幣好にかかわるテ ーマで研究を進めている 。
米に水を加えて加熱すると米飯ができる 。炊飯直
捉えることができ、とても良い体験になった。
後の米飯は軟らかく粘りがあって食べておいしい
会公開講義
受講生の内、熱心な方が受講後 2-3回、社会活
が、温度の低
動中に生じてくる質問や報告のため研究室を訪ねて
食感(テクスチャー)は悪くなる 。 しかし、冷えた
ドさったが、このことは講義をしている者にとって
米飯を泊めると、また軟らかさや粘りが反り、おい
Fとともに米飯は硬くポロポロになり、
しくなる 。 これらの変化には生澱粉の糊イヒ、約l
化澱
や'
Jよ
り 意義深く感じられた。
粉の老化、老化j
投粉の糊化とい うことが関わってい
-野部博子(のべひろこ)児童学、児童文化・伝承文化
る。今年は、老化澱粉の粘性に関する基礎研究を行
研究活動
.4以下は、長年取り組んだ調査研究のまとめの年で
粉を食素材として利用することについても検討し
あった。
一つは滋賀県における樹木伝承に関する研究であ
る。人々は自然とどのようにかかわって生活をして
うと共に、生澱粉とは異なる粘1化特性を持つ老化澱
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11
.2000J 1
老化モチトウモロコシ澱粉添加
いるのかを樹木を通して概観する 。それには、どの
によるパンの老化抑制効果: 日本食品科学 L学会
ような樹種が伝説に登場し、それは左のあたりに分
第 47I
I
'
I
大会講演集 1
3
0
.2000J
布しているのかを調査することからはじめなければ
人の食 l
格好には食習慣が大きく彩科するため、国
ならない。本誌に発表した資料はこの研究の一部で
格好は異なる 。一方では、調理・加
が違えば当然食 I
ある 。
二つには、昔話の研究である 。 ダム建設計画で廃
工名は同じでも、時代と共に新しい食材や方法を取
村となった、岐阜県揖斐郡旧徳山村(現藤橋村)で
が、それらの食べ物は依然として I
格好される 。 いず
伝i
j
.
(されている昔話を 『ダムに i
tむ昔話の世界 た
あばあちゃんの昔がたり 増山たづ子 ・
│日徳山村の
略好にあわせて変化させ、新しい食 l
格好の形成、定
J (発行
昔話-
り入れることで内容が変化してきているものがある
れの国においても、伝統的に確立されている独自の
イ
着となっているのだろう 。「朝鮮通信使接待の記録
ンテグラ・ジヤノ fン) として C D化した。 この C D
に見る朝鮮人好物に関する研究ーその 2
-キムチについ
に関しては朝日 ・毎日 ・読売の各紙や地方紙、朝日
て:生活文化史 38号 J1
日本と朝鮮半島の食文化の
人間の足跡をたどる会/発売
系のテレビでも紹介され、また N H Kのラジオ番組
比較研究ーその 2若者の辛味に対する l
格好性ー日本と
の中で昔話が紹介されるなどして、高く評価された。
号」
韓国の場合ー:人間文化9
三つには、地域で執り行われている祭礼行事と人
間形成に関する研究である 。地域に伝承されている
行事に参加 ・関わりをもった人々が、成長過程のな
-吉田一郎(よしだいちろう)教育学、教育方法学
引き続き教育における人権問題について考察して
かでどのように影響を及ぼしたかを調査した。 また
いる 。現在は特に教育実践の次元における人権保障
9
2 ・人間文化
人・間・文・化・通・信
について考えている 。 2000
年 6月に、論文 「
精神活
県 内 デ ザ イ ナ ーの 団 体 「デザインフォ ー ラム
f
部落問題研究j第 1
52号を発表した。 これは、人権
SHIGAJの有志で、家庭用生ゴミ処理器の研究会
電動
を続けている 。微生物分解式の 3種の既製品 (
擁護推進幕議会答申 (Hl
l
.7.
2
9
) に対して、教育学
式、手動式、 ミミズ式)の使用実験を行いながら検
動の自由と教育実践 ー内心 の自由を中心にして j
の立場から批判的な検討を 加 えたものである 。本論
討しているが、オリジナル製品の設計 ・試作には至
文で私が主張した論点は、答申が推進しようとする
っていない。機械工学などの専 門家にも加わっても
「人権教育」が、子どもの「 内心の自由 」 を侵す危
らい、さらに具体化に近づけたい。
険があるという問題性を 明 らかにしたことと、内心
教職員組合でおこなってきた 「
エコ ・キャンパス
の自由を保障する教育のありかたに関して、教育指
づくり 」活動のひとつの成果として、学生ホ ールに
導論のレベルでその原理を究明 したことである 。
H12.12.
6に 「人権教育及び人権啓発の推進に関す
6分別できるゴミ箱セットを設置していただいた 。
学内ゴミ分日Ij収集の徹底化のために、同種のものの
る法律」が公布されたが、そこにも同様の問題性は
各学部への設置をさらに当局にお願いしている 。
ヲ│き継がれている 。
日本生活学会大会の開催-
今後は、法学的な人権論と教育実践論を教育の本
同学会の全岡大会を本学の交流センタ ーを会場に
質にそくしてどのように 内在的な関連性を明らかに
開催 した(10月21・22日)。記念シンポジウム 「
祝
してゆくのかという課題 をさらに追求していきたい
多様を中心と する 地元住民の方々に
祭の百年」 には j
と考えている 。
もお越しいただいた。大会実行委員長役をつとめる
-面矢慎介 (
おもやしんすけ)道具デザイン論
数多くのみなさんにお世話になった。 ここ で改めて
海外調査 :
お礼したい。
中で、学部、事務部、生協、ゼミの学生たちまで、
米国の東海岸を中心に、道具関係の大規筏コレク
ションとオ ープンエア ー ミュ ー ジアムを見て回る機
-道明美保子 (
どうみようみほと)染色学
会を得た (4 月 27 日 ~5 月 10 日 。 本学在外研修 )。
2え
染め織りの分野において 、その知恵と歴史を 4
米国ニュ ー イングランド地方の基層文化 をかいま見
るとともに、染色の伝統的手法 を現代の科学から検
ることができたばかりでな く
、 その後の近代化の痕
証し 、さらにそれらを発展さ せていく方法を探ろう
跡や造物が、アクセス 可能 な資料として数多く残っ
としている 。
ていることが確認できた。
春には、今も伝わる色鮮やかな天然染料で染めら
学会発表 :
れた染織布、特に緋や更紗の発祥の地インドで、伝
「アメリカの道具ミュ ー ジアム:へンリー・フォ ー
承技法のよる染織の現状を調査し、染色実習を行っ
ド博物館、アメリカ歴史博物館を中心に J(
道具学
た。緋の最高峰の経緯絹緋の 「パトラ 」は生産地パ
会第 4同研究フォ ーラム、 9月24日、江戸東京博物
タンで現在織り続けているのは一家のみとなり、複
館)で上述の調査旅行を レビュ ー。 また前日の会員
雑工程を辿って長い年月を費やすパトラの将来を考
シンポジウム 1
2
0世紀の道具たち :その功と罪」の
えた。茜染め木版更紗の染色実習からは、その伝承
司会をした。
技法は化学的な工夫が自然 となされている ことに驚
社会活動 :
かされた。また、現在も産業 として成 り立っていた。
今年も彦根仏壇産業との関わりにあけくれた。産
学官が集まって振興策を考えてきた研究会の報告書
泥防染更紗、インド藍による染色等、多くの知見を
得た。
を 3月にまとめ (
1
伝統産業 ・彦根仏壇の展望 J虹
染織の発祥地インドから 、特に緋は東南アジアの
の匠研究会 )、 5月からはそれを受けた産地組合の
島々に伝播し、さらにそれが沖縄を経て日本に伝わ
「新分野等調査研究委員会」に顔を出し、 1
1月の
ったと考えられている 。そこで、初冬には沖縄の離
「
彦根仏壇まつり 」の企画 ・開催にかかわった 。 1
l
j
J縦は亜熱帯の烏で、染料となる天然
島を訪れた。 i
2月には同組合青年部に よる仏壇技術を応用した新
商品の試作が完成(和装用の手持ちバッグ、車輪付
きキャ リー バッグ、 化粧入れケース、ハンド‘バッグ
植物が今も豊富で、Ilf
'
縄独特の天然染料による染色
の 4点。私がデザインし たわけではないのだが、ど
また、先人達が築き上げてき た優れた工芸技術を次
れも高級感のあるおしゃ れなカバンに仕上がったの
の世代へ保存継承する事業を実施している島もあ
で、多くの人にぜひ ご覧いただきたい 。
) 今後はこ
り、将来に希望を繋いだ。
ういう新しい動きをどう 外に広めていくかが謀題に
なる 。
から織り出される緋は、古い伝統の中に培われた古
典的 な渋みに近代的風合い を加 えたものであった 。
今年度の学会活動としては 、我々が日頃愛飲して
いる茶葉がらの色素抽出条件 と媒染による染織結果
人間文化・
9
3
人・閏・文・化・通・信
と和紙布の染色性を木綿及び絹と比較検討した 。 そ
…この共同研究は 3年目に入り,本年度は行政
の結果を日本家政学会第 5
2回大会で発表した 。
調査を行った (
対象:約
7科目の講義に追われている
教育活動としては、
が、今年度のゼミの 学生が、身近かにあり、害草と
されているセイタカアワダチソウや葛の染料として
の実用性の検討を行い、興味あるデータを得た 。 ま
た、近江上布の歴史的変遷を調べるとともに、上布
の着尺制作に取り組むことにより、近江上布の伝統
的手法を 学び、現代の近江上布についての考察を行
1万 5
0
0
0人)。 現在集
計作業中であるが,集計が終了次第 ,分析作業
に入る予定である 。
6
. 自治体史
『蒲生町史 ・資料編』 …昭和時代の 「
村 政」 に
関する 資料の解説等を執筆
『
米原町史 ・通史編 』 …戦後の行政について執
筆
い、多くの事を 学生と共に得る事ができた 。
7
. その他
-大橋松行(おおはしまつゆき)政治社会学,教育社会学
トワーク滋賀 」 の代表の一人として,人権・福祉・
本年度も,引きつづ合市民団体 「
市民運動ネッ
本年度の主な活動は次のとおりである 。
環境問題に取り組んだ。特に大きな取り組みとして
は
, ① 栗東町産業廃棄物処理問題
1.著書 (
単著)
『
地域変動と政治文化の変容一滋賀県における
事例研ヲ'
'
ej (
サンライズ出版,
2
0
0
0年 1
1月干1
]
)
-当該著書の出版に関する紹介記事が次の各紙に
r
(4月,現地視察
と懇談 ),②吉 野 川 第 十 堰 問 題 (5月,吉野川 「十
寅),③第 1
堰住民投票の会」代表・姫野雅義氏 の講 i
回県政を考える県民フォーラム (9月
,
1
びわこ空
掲 載 さ れ た . 中日新聞 j (
2
0
0
0年 1
2月2
0日),
港を考える J
) が あ げ ら れ る 。 ① と③ については,
『京 都 新 聞 j (
2
0
0
0年 1
2月 2
5日)
,
当日の活動内容が各紙で紹介された 。 また,
r
朝日新聞』
(
2
0
0
1年 1月 1
0日), r
毎日新聞1
.(
2
0
0
1年 1月2
3
1
憲法
「憲 法 を 考 え る つ ど い 」
実 行委員会, 5月2日,於彦根勤労福祉会館)では,
日)
2
. 学 会発表
・第 7
3回日本社会学会大会 (
2
0
0
0年 1
1月 1
1日,於
広島国際学院大学
パネラ ー として参加 した 。大変忙しい年であったけ
れども,充実した 1
年であった 。
1
日・韓・中における 青
年の社会意識一家族観・男女観の比較分析ー 」
3.講 i
寅
-東山明子 (
ひがしやまあきこ)スポーツ心理学、健康教育学
これまで、スポーツ選手を対象としたメンタルト
.1~B 教大学通信教育部滋賀学友会講演議会制
民主主義と政治参加 J(
20
0
1年
1月2
8日)
4
. 新聞論評等
日新聞 j2
0
0
0年 10月2
0日.他
今年度は、その中でリラクゼ ーショ ンスキ ルトレー
いの頻度で、
トレ ーニングをするとより効果あるの
かを研究しました 。具体的には、高校生アーチェリ
ー選手を対象とした音楽膜想と心拍制御トレーニン
グを週 1回ずつ 2ヶ月実施し、
5
. 共同研究
トレーニングの効果
がみられること、さらにトレ ーニ ング終了後もその
1)側 教 大 学 総 合 研 究 所 共 同 研 究 ( 社 会 科 学 関
1
日・韓
レーニンク‘の 実施方法について、研究 してきました 。
ニング、に絞って、どのようなメニューで、どれくら
r
「
総選挙顧みて Jr
朝日新聞 J2
0
0
0年6月2
7日
「
投票率は 40%
前後か J(
参議院補欠選挙 ) r
中
「
総選挙に思う J 産経新聞1
.2
0
0
0年6月3日
係
を 考 え る つ ど い J(主催
・中における社会意識の比較調
査 J(
研究班主任
効果が残存すること等がわかりました 。 また、クレ
ー射撃国体選手を対象に、脳波や心拍を用いたバ イ
君塚大学教授) …最 終 年 度
オフィードパックトレ ーニングに加えて、スポーツ
の 本 年 度 は , 昨 年 実 施 し た 調 査、
のデータ分析
カウンセリングを実施し、社会人選手へのメンタル
0
0
0サンプル ) を行うとともに,
(
約4
トレーニングの手がかりを得ました 。
8
月に中国
山東省 (青島市近郊農村) および河南省 (
済南
市近郊農村)で開き取り調査を行った 。
健康教育では、教育現場で禁煙教育について話を
する機会が増えてきました 。若い人たちの健康意識
その後,報告論文 (
1
現代青年の家族観一
を高めて自主的、自発的に責任を持って健康管理す
日 ・韓 ・中 三 カ国の比較分析 J
) を作成。 そし
る姿勢を育てるとともに 、 リラクゼ ー ションスキル
て,中国語版および韓国語版の報告論文集が3
月に刊行された 。 日本語版の報告論文集は来年
度
(
2
0
0
1年度) 早 々に刊行される予定である 。
2)文部省科学研究費・基礎研究 (A) (
1
)
: 1
地
域社会の政治構造と政治文化の総合研究ー近畿
圏を中心に一 J(代表:青木康容仰 教 大学教授)
94 ・人間文化
トレ ーニ ングの有効な方法を見いだすことで、より
質の高い生き方を提案できたらと願っています。
2000年度研究発表
「
心拍制御トレーニングが弓道行射に及ぼす影響」
8回大会発表抄録集 4
8
4
9
日本幼少児健康教育学会第 1
「インターネットによる禁煙教育」
人・閏・文・化・通・信
日本健康教育学会誌 V
o
.
l8、5
7
「
大学生を対象とした禁煙教育の試み」
論にとりくみました。女性の生涯発達と高齢化社会、
転校経験と性格形成、対人認知の初期発達など、そ
.
l8、 1
1
4
1
1
5
日本健康教育学会誌 Vo
「
心拍制御トレーニングによるパフォーマンス向上の検討J
日本スポーツ心理学会第 2
7回大会研究発表抄録集 7
6
7
7
「
膜想を用いたメンタルトレーニングによるアーチェ
リ一得点への効果」日本体育学会第 5
1回大会号1
9
2
れぞれ自分自身が 「
心の発達」 についてもった興味
を出発点にして、独自の方法を模索しながら、実証
的な研究と論文の作成に励みました 。それぞれ、マ
スコミ、流通業に就職予定です。人と物とのかかわ
りを終始考える職場にあって、この間の経験が生か
されることを願っています。私自身の研究では、ヒ
ト以外の霊長類種を対象とした実験・観察を主とし
-竹下秀子(たけしたひでこ)発達心理学
今年は、京都大学霊長類研究所の"天才チンパン
てきましたが、これも、近縁種 との比較という方法
ジー "
アイに赤ちゃん (
アユム)が生まれ、共同利
で、ヒトの行動やその発達をより正しく理解するこ
用研究員として、アイ母子の生活やアユムの発達過
とをめざしているからです 。学生の皆さんには、
程を観察する機会を得ました。同研究所では、クロ
「心の発達」 にかかわる多様な問題に関心 をもち、
エ、パンも今年初めて出産し、無事に子育てしてい
それを自分なりに解く能力を身につける努力をして
ます。お母さんになったチンパンジーのうち、最年
もらいたいと思っています。学部 3回生の自主ゼミ
9
8
3年霊長捌生まれの 1
7歳。私にとっ
少のパンは、 1
では、このような思いを共有するための学習や議
ては、出生直後から観察させてもらった初めてのチ
論を進めてきました。社会活動としては、彦根市内
ンパンジーの赤ちゃんでした。今でも美人の誉れ高
の社会福祉法人の理事を設立当初から務めていま
いパンですが、あの愛くるしかった、思わず 「ぱん
す。現在は保育園の運営が大きな仕事ですが、今後
ころりん Jと呼んでひとときをともにした赤ちゃん
は、高齢者介護にかかわる施設の必要も視野にいれ
が、お母さんになったことをとても嬉しく思ってい
た活動が必要となってくるでしょう 。生涯を通じた
ます。パンの赤ちゃんのころからの研究も含め、こ
健やかな生活、豊かな発達。幸せと感じて生きる時
れまでとりくんできた、ヒトとヒト以外の霊長類の
間をすべての生命に。 これらの願いの実現する社会
赤ちゃんの発達を比較してわかつことを、高校生 ・
に、大きな夢ですが、少しずつでも近づきたいもの
一般向けに 「
赤ちゃんの手とまなざし
です。
ことばを生
み だ す 進 化 の 道 す じ J(岩波科学ライブラリー、
2
0
0
1年
、 岩波書庖) としてまとめました 。共著の
-岡本秀己(おかもとひでみ)健康と栄養、健康管理論
人間性の起源をもとめて J(
松沢哲郎・
最近は、生活習慣病の予防を目指し、栄養だけで
0
0
0年、岩波書庖) も出版されまし
長谷川寿一編
、 2
なく運動や休養の重要性が認識されてきている 。 し
「
心の進化
た。他に、チンパンジーの子どもの積木積みなど、
かしながら、昨年の獄暑は線実に 「
地球温暖化Jが
物同士を関係づける行動が、どのようにヒトの l歳
進んでいると実感されるものであり、このような暑
児と似かよっているかについて述べた論文
熱の中での逐動や生活活動時での熱中症の発症も
(
D
巴 velopmento
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年々多くなっている 。
chimpanzee i
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s) を執筆 し、現在投稿中です。
そこで、本年は、健康増進や運動持久力の増強に
また、 4年間継続参加してきた文部省科学研究費補
つながる食品の新しい機能について研究を継続する
助金特定領域研究 「
心の発達.認知的成長の機構
傍ら、国際教育センターの寄本先生との共同研究で、
Jが最終年度にあたり、とり
(
領域代表者 ・桐谷滋 )
暑熱下での運動時や高齢者の生活場面における水分
まとめの国際会議などでこの間の研究についてポス
摂取についても検討を開始した。
タ一発表しました。 アフ リカ大型類人猿である、チ
本年度の研究テーマは、
ンパンジーやボノボ、ゴ リラの物のとりあっかいと
それに関連する社会的交渉について、その発達過程
をヒトの場合と比較する 一連の仕事です。指導した
・ハナナ摂取のタイミングが強度運動負荷時におけ
るヒ トの運動持久力に及ぼす影響について
・ウォーミングアップとバナ ナ摂取のタイミングが
期生の関根すみれなさんが、
学生では、修士課程第 l
強度運動負荷時におけるヒ トの運動持久力に及ぼ
「チンパンジ ーの子どもの遊びの発達 j というテー
す影響について
マで修論を提出しました。東京都多摩動物公園 (
東
「
生活習慣に起因する疾病の、生活習慣の改善に
京都日野市)、林原自然科学博物館類人猿研究セン
よる 一次予防確立のための運動・栄養・疲労の相
ター (
岡山県玉野市)のでの観察データをまとめま
互作用に関する統合的研究」国立健康栄養研究所
した。学芸員の資格も取得し、博物館に研究員とし
て勤務する予定です。学音1
¥
4回生ゼミでは、 3人が卒
との共同研究
(
厚生省科研費補助研究)
-運動能力評価の新しい 指標と しての NAD (
ニコ
人間文化 ・ 9
5
人・間・文・化・通・信
チン酸アミ ドアデニ ンジヌクレオチド ) (
文部省
科研費萌芽的研究)
-暑熱下におけるゴルフ中の水分摂取状況とそれに
青土社)をまとめている 。
めぐる話、 「
浅草十二階J(
まもなく出版予定。 もうひとつ 、「人はな ぜ メディ
アを 人間扱いするのか J(リーヴス&ナッス /湖泳
社)の全訳。 こちらは、コンピュ ー ターに人がお世
影響を及ぼす要因の検索
-夏期における高齢女性の活動別水分摂取状況と活
辞を使うという話 な ど、社会心理学 をメディア研究
動別水分損失についてで、学部学生 5名、大学院
に応用 した興味深い 内容の本。 これまたまもなく出
修士学生 I名の指導にも追われたが、また、 学生
版予定。
遠にも随分助けられて研究をすすめることができ
調査・運営
たと思う 。その他、 「
栄養指導論」化学同人 (
運
2000年夏には昨年に 引 き続きイギリス、スイス 、
動、高齢者の福祉、在宅医療の章)の完成、大阪
ドイツを回り、ヨ ーロ ッパに現存するパノラマ館の
体育大学 にて、 「運動と 体脂肪のヴァーニング」
ほとんどを 実地調査した 。 この調査の成果は 一部
(日本私学振興共済事業団補助対象研究) につい
「浅草十二階Jに反映されているが、いずれまとま
て特別講議や新聞、テレビからの研究に対する問
った ~I:; にしたいと思っている 。 また 2000年度は 「 日
い合わせなど、社会に向けての発信も若干できた
本ボランティア学会 J1
日本動物行動学会」と、滋
l
年であった。
賀県立大学で二つの学会大会の運営にも携わり多忙
であった。
-細馬宏通(ほそまひろみち)人間行動学
あいかわらず興味の内容は多方面に分裂している 。
地元彦根のイベントの話 .
滋賀県立大学の学生集団 ACTは
、 2001年 3月か
研究発表 ・雑誌掲載記事等 ・
ら「銀座光路」第二弾として、銀座商庖街をライト
まず、昨年から続けている、人間の日常会話の最
中に行なうジ、ェスチャ ーに関する研究の成果を少し
アァプし 、 さらにア ーテイス トを呼ぶイベン トを行
ずつ発表している 。
アップは大変美しかったので今回も期待ができる 。
「身振りの近接学
私は顧問の一人 (何人かいるのでコ モ ンズ、と I
呼ば
響を与える
一話者間の距離は空間表現に影
J(日本動物行動学会大会
2
00
011
.25)
なう予定。2000年 12月に行われた第一弾のライト
れている ) として少しだけお手伝いしている 。
「
身振りにおける体の座標車l
iと想起 J(日本動物行動
0
0
0
.1
1.
2
6)
学会大会 2
「話者間の距離とシ、エスチャ ーの空間表現J(
人間行
ググ ルー プに委員として参 加 させていただいた 。
動進化研究会 200012.
9)
「人間の身振りを観察する
析への招待
-宮本雅子(みやもとまざと)インテリア計画
今年度は 、 日本建築学会の色彩評価サブワ ーキン
日常会話の身振り分
J(1遺伝」平成 12年 11月号)
SWGでは、建築 色彩の設計基準がなく、適当な参
考資料もないことから、建築色彩計画に必要なガイ
いずれも昨年度の卒論生、前 田千寿子、萩山泰代
ドラインや基準を 作 っていく 必要性が主 に話し合わ
らとの共同作業が基になっている 。 また高橋綾がロ
れた。 また、 これに関係して、現在、研究を進めて
ボットを用いて行なった研究は朝日新聞に取り上げ
いる高齢者にとって望ましい室内色彩計画について
られた 。 毎年、院生や卒論生と 1~ き合っているうち
さらに検討を進めていく予定である 。
に違った研究のアイデイアが浮かんで、くるのは楽し
、。
し
また、 引 き続き 、老人小規模住宅改造助成事業利
用者宅への訪問聞き取り調査を行なった。
電子コミュニケ ーション論としては、チャ ッ トが
社会活動としては、滋賀県男女共同参画懇話会の
持っている問題とチュー リング-テス トの話を結び
委員として、滋賀県の特性や男女共同参画社会を目
つけて論じた 「チヤ ツ トは何を前提としているか
指す上で問題となっている事柄などについて話し合
チャットの時間構造と音声会話の時間構造
」
い、知事への提言 としてまとめていく作業をしてい
(
b
i
t別冊 「身体性とコンピュ ーター」岡田 ・三l
嶋・
る。 これに関係するが、住環境の視点から、男女が
佐々木編/共立出版)
。
共に子育てをしながら安心 して仕事ができる環境作
映画や音楽についての文章としては 「ブニユエル
りのひとつである、学童期の子供の放課後や長期休
『
昇天峠』 をめぐる眠り一 J(
1ユリイ
暇中のための施設について調査した。 この学童保育
ヵ」平成 1
2年9月号) レイ モ ンド ・スコッ トという
音楽家につい て 「 電子音楽の理想宮-J(
1インタ
施設については、 施設の設置に対する何の基準もな
く滋賀県内で、も市 町村によってその扱いが様々であ
.3
5)
。
ーコミュ ニケーション JNo
り、今後の方向性について検討し たいと考えている 。
の朝の歌
単行本 .
明治に日本で初めてエ レベー ターを設置した塔を
96 ・人間文化
今年度は卒論生 7名、修論生 1名を抱え、その研
究内容も多岐に渡ったため、その指導に追われたが、
人・閏・文・化・通・信
した。今後は、他の有効植物の活性成分の構造と作
新しい分野にも取り組むことができた。
学会発表では、 「高齢者のための居住環境の一考
用機構の解明を進めていくとともに、有効成分の安
滋賀県福祉学会)、「 トイレ照明 に関する 一考
察 J(
全性の確認、実際的な利用のための検討へと進んで
高齢者を対象とした実験から J(日本人間工学
察
いきたいと考えています。
照明学
会)、「
望ましいトイレ照明に関する研究 J(
会)、「
長寿社会対応設計指針に対する住宅供給業者
薗山根
周(やまねしゅう)地域生活空間計画学
の認識 J(日本建築学会)について発表した。
[調査研究]
-藤津史子(ふじさわふみと)調理と食晶機能
科研国際学術研究)において、コー
る調査研究 j (
『植民都市空間の起源、変容、転成、保全に関す
ここ数年、生活習慣病予防の観点から、食に関心
チン (インド )、 ハ ー グ ( オ ラ ン ダ)、ノ Tラマリボ
が持たれるようになってきている 。 また、自然食晴
(スリナム )、ウィレムシュタット (
蘭領アンテイル、
好から漢方ブームになっている 。 そして、漢方で、は
キュラソー )、カラカス(ベネズエラ ) を訪問、資
体を温める食品と冷やす食品があると言われてい
料収集、調査。 (
2000.7-8)
る。しかし、その分類の基準は経験的なものであり、
日百究室活動]
『
川上村木匠塾2000
1
.奈良県吉野郡川上村をフィ
科学的根拠に欠けている 。
そこで、その科学的実証を目指して研究を進めて
ールドとして、木、森、山について学ぶサマースク
いる 。今までにショウガや柿なとの他、いくつかの
ールの第 3年目 。近畿から 6大学が参加。 間伐材を
食品について温 ・冷効果を実証してきた 。
使用した展望台の制作等を通して、林業の現場、山
本年
は体を冷やす食品の中で、動物タンパク質食品を中
の生活、現状の問題点などを学んだ。 (
2
0
0
0
.
8)
心に検索を進め、 一定の傾向を確認することができ
『
京都コミュニテイデザインリ ー グj京都のまち
た。今後、食品群別に多種類の食品について検索し、
づくりについての継続的な調査研究と提言 を目的と
食品成分の類似点について明らかにしようと考えて
した多大学参加の共同研究会。 2
001年春からの本格
いる 。
的活動へ向けて準備中。
また、昨年に引き続き、滋賀の食文化財調査を行
[学会発表]
い
、 2年間の調査結果から、湖東地区における湖魚、
rSpace Formation o
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10ck within
のなれずしを中心とした、食文化財調査報告書のま
th巴 Walled City o
f Ahmedabad (Gujarat
とめに取り組んだ。
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fMohalla,Kucha.G
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and Kat
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n the Walled Cit
yo
f Lahore,
.;甫部喜美子(う 5べきみと)食品学
PakistanJ / rStreet Pattern and the Block
私たちの生活の営みの中に、長い年月の間に培わ
Systemo
f]
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rC
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.Rajasthan,l
n
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l
.(以上 3rd
れてきたさまざまな 「
知恵」があり、消臭や抗菌と
International Symposium on Architectural
いう目的においても、野菜を始めとした植物が経験
0
0
0
.
2)
Interchangei
nAsia,Cheju,Korea,2
的にあるいは言い伝えられて利用されてきていま
『インドの都市における街区構成とイスラーム
ラホ ール、アーメダーバード、ジャイプルを事例と
す。
私は、数年前から、食品の保存、防臭あるいは消
してー j (
1イスラーム地域研究」第 5班 (イスラー
臭の目的で伝承的に利用されてきている植物の探索
ムの歴史と文化)第 5回 「中東の都市空間と建築文
を行いながら、身近かに自生している野草について、
0
0
0
.
6)
化」研究会 2
消臭、あるいは抗菌効果のスクリーニングを行って
います[研究テーマ
1
消臭効果、抗菌効果を示す
『フオフアリア・ワド地区(パタン、グジャラ ー
ト、インド)の空間構成
その 1
パタンの都
野草の探索 J1
食品汚染微生物に対する野草の生育
市形成と住み分けのパターン 1
. (日本建築学会大会
抑制作用 (
滋賀県立大学特別研究)J
]
。 その結果、
2
0
0
0
.
9)
これまでに多くの有効な野草があることを確認しま
『パキスタン・ラホールにおける歴史的環境の保
存
.
1 (日本建築学会大会第三 世界歴史都市・住宅特
した。
また、このような消臭性を示す植物から消臭活性
別研究委員会研究懇談会 2
0
0
0
.
9
)
成分を分離し、消臭活性成分と臭い物質との反応機
[論文]
構を明かにするための研究を行っています (
研究テ
『ジャイプルの住区とその変容に関する考察
ーマ
ド調査局作製の都市地図 0925-28年)の分析
ドクダミ消臭活性成分とメチルメルカブタン
との作用機構)
。 今年度も、
ドクダミからあらたな
消臭活性物質を単離し、構造決定することができま
イン
そ
,
の 3j 日 本 建 築 学 会 計 画 系 論 文 集 、 第 539号
pp.
1
l9
1
2
6
.
2
0
01
.
1
人間文化・ 97
人・間・文・化・通・信
『アーメタ拘バ ー ド!日市街における街区空間の構成 』
日本建築学会計画系論文集,第 5
3
8号
, p
p
.
1
4
1
1
4
8
.
12
2
0
0
0.
『マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャ
ラート、インド)における都市住居の空間構成と街
by h
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.
ChromatographyB7
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12
8
5(
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0)
."
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9(
2
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0)
.
区構成 j 日 本 建 築 学 会 計 画 系 論 文 集 , 第 535号
,
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8
5
2
8
8(
1
9
9
9)
[報告書]
3
7
1
4
1
ナイアシン補酵素レベル j ビタミン 74,1
『
川上村木匠塾 2
0
0
0j木構造住宅研究所、2
0
0
0
.
1
2
(
2
0
0
0
)
[緊急諜題]
.2
0
01
年 1月2
6日、インド西部グジャラ ートト
ナl
を震
「ある地域の女子学生のナイアシン摂取量と血中
.r
崎乳動物における D
-アスパラギン酸からのナイ
アシン生合成の可能性」 ビタミン 7
3,5
2
7
5
3
2(
1
9
9
9
)
源とするマグ、ニチュード 7
.
9 (米地質調査所発表 Ms)
[総説]
の大地震が発生し、死者 2万人以上、負傷者 1
6万人
「
運動による筋肉のグルコース吸収機構 -AMPa
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nK
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e (AMPK)の関与を中心
以上、全半壊家屋 6
0万棟以上という大惨事となって
いる 。被災地の一つである都市アーメダーバードを
とする最近の研究の進展一」日本栄養・食糧学会誌
研究した者として、被害状況の把握のため現地を訪
5
3,3
337 (
2
0
0
0)
れた。壊滅的な被害を被った町や村がいくつもあっ
[学会発表]
た。今後長期にわたる現地の復興に対する継続的な
.r
口腔におけるオレイン酸、トリオレインの認識」
支援、協力を考えたい。各方面にも支援、協力を l
呼
2
年度関西支部大会 (
奈良)
日本農芸化学会平成 1
びかけたい。現地の被害状況については、以下のホ
「
抗結核薬ピラジンアミドがナイアシン代謝にお
ームページにて報告中。
よぼす影響 J日本栄養 ・食糧学会第 3
9回近畿支部大
http
://www.
geocities.co.jp/HeartLand
M
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会 (
大阪)
-福渡努(ふくわたりつとむ)栄養化学
平成 1
1年9月より平成 1
2年3月までハーバード大学
医学部ジョスリン糖尿病センターで長 f
t
J
J在外研修を
."
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,USA
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nAntoni
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他2
編 (
平成 1
2年度)
行いました 。研修を行った Goodyear研究室 で
'
,;
土骨
格筋で行われる糖代謝および糖輸送に関与する分子
について研究を行っており、インスリンによつて骨骨'
ご地域文化]
格筋で
究を行いました。本研修で得られた結果はアメリカ
糖尿病学会で発表しました。
究
」
、 「
肥満形成を抑制する食品因子に関する研究」、
-西川幸治 1
(
こしかわこうじ)都市史、保存修罰画、ガンター芳郎の総合調査
『長浜市史』 も通史編 4巻が完成した。 その第 4
「ナイアシン代謝に関する l
i
JI
究」 に取り組んでいま
巻終章 「
未来への展望」 を分担執筆した。長浜の町
す。
づくりの伝統を、「不原の精神」と把え、城下町か
現在は 「
脂肪のおいしさを受容する機構に関する研
{発表論文 1
ら町人の町への転換にみる町人たちの技術革新への
."
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Developmento
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lmethod
つよい関心と町への強い憧れに注目した 。 さらに近
98 ・人間文化
代の展開と現在すすめられている町づくりの 実験
も、長浜の市民的伝統に根ざしていることを指摘し
た。
長浜市史も、いよいよ分野編にはいり、第 7巻地
域文化財では、市内の各地域の地域文化財と町づく
りの動きについて調査し、記録したいと考えている 。
『新修彦根市史』も、この春第 5巻史料編古代・
中世が発刊され、『彦根
明治の古地図』 も発刊さ
れることになり、「景観編」 の調査にとりかからな
ければならない。
人・間・文・化・通・信
ガンダーラの調査は、調査報告書 『ラニガト jの
野洲・中主でやっている 「つがやま教養文化講姥」
最終段階にはいっている 。 ほかに「インドの石待寺
にかかわるものであった。 この講座が20周年を迎え
院」 について、その変化を平面構成の展開を小心に
たので、記念事業をやろうということで、地元の連
のべた 。 (
f
季刊文化遺産 j 第1
0巻2
0
0
0
) また、 「ガ
中だけで、本を作った。20年間の講座の結果、守山周
ンダーラ仏教遺跡、の保存 J(シルクロード‘学研究叢
辺はなかなか大したものではないか、ということに
書 2)について 概観し、『ガンダーラにおける仏教
なった。いつも日本の歴史の本流にかかわってきた
寺院の復原と整備に関す る調査研究j (シルクロ ー
し、日本の文化のエッセンスが ここ にはあるではな
ド学研究第 9巻)では、ガンダーラ仏教追跡の調査、
いか、ということになったのである 。それで、 『日本
危機にたつ現況、 60年代からの調査した遺跡の追跡
文化のかなめj という本を作った。
調査、保存修復の作業についての問題点、最後にガ
私はその編集の一端を担ったのである 。それとも
ンダ ーラ遺跡の保存修景計画と地域開発について提
うひとつ、この数年来続いてきている 『
守山市誌地
言し、調査隊の作業報告 とした。
理編jの作成のためにもだいぶ時間をきいた。
ところで、 1
9
6
0年秋、アフガニスタンの北部のハ
専門外のことにも可能なかぎり自分の身を l
爆して
イバク石窟の調査を終え、パキスタン商北のシャー
みた。例えば、県の委員会だと次のものに出席した。
バーズガリでの調査に向かう途中、はじめてパ ー ミ
協議会、高齢化対 策協議会、持続可能
高校入試改善t
ヤー ン石穏を訪れた。それ以来、バーミヤ ー ンは私
な21世紀の虫地っくり検討会、夢発見エコ交流委員
がガンダーラについて考える時、常に不動の原点の
会、などである 。
ーっとしてつよい位置を占めてきた 。そのパーミヤ
業績刊行という点では少し淋しい年であった。先
r
H
本文化のかなめ』の編集の他には
ーン 石詣寺院の破壊の報に接し、なんとも悲しい無
に述べた
念の思いにさらされている 。
l
i
正とアジア J(村井吉敬編著
鳥海の海と島 Jr
書応)所載と 「
素人の知恵が2
1世紀を拓く
-高谷好一 (
たかやよしかす)地域研究
1
¥かけない年に
この30数年来で始めて外国旅行に 1
なった。その割には結構忙しい 1年だった。 I
A
:
I
内の
仕事が割合多くあったのである 。
水と文化研究会編
なでホタルダス J(
「多
岩波
Jr
みん
新l
庄社)所
載だけであった c
地域に生き、なおかつ業績のずJ
I行をもすると いう
のは、なかなか難しいものである 。
まず、ゼミを中心としたものであるが、これには
1
¥
次のようなものがあった。2000年 1rJに第 l号が 1
た 『
人と地域jは、その後順調に進み 3月末までに
-萎 徳相 (
かんとくさん)朝鮮近代史、日韓関係史
この人の評伝は是非書きたいと思って資料あつめ
8号が出た。これは武邑さんにハッパをかけられて、
をはじめて20年、それをつまみ食いのようにしてス
学生達が頑張って作っているいわば、ゼミの 「
生き
0年
、
ケッチのようなものを 7、8編書いてからもう 1
方、学び万」報告書である 。今までのところでは次
そのスケ ッチをヒ合にもう少し踏み込んだ研究に煮
のものが出ている 。
庖谷美質著 「山愛いから願愛へ」、
手して 4、 5年、いまようやく完成しようとしてい
上岡洋平新 「
ー本のうちわから 」 、前旧 JJn 奈子~
る研究 E 与がある 。
タイトル名は 『 円運亨 ~l伝 j もう
「
余呉に生きる 」、渡辺大記若「琵琶湖に生きる漁師
一つ
の
中
}
日
1
,
(
i
o
独立運動史とサブタイトルをつけると、
の姿」、森雄二郎編「地域文化学とは何か」、大坪寛
もっとわかりやすくなるかも知れない。あれもこれ
子著 「
顔は同じ、中身は中華風味」、武藤志 l
肌「
雫」、
もと行科令,!?的に欲張ったせいか、 21輩
、 3
.
0
0
0枚
I
!
'
j
-空去り空 J-インド ・ネパール紀行
t田洋平君の主催する I
l
tの会j も1
}
l
'
にもなったが、 1
1
¥版にあたってダイエットが要求さ
小西洋子
大学院生の
誠にい っている 。 これは月 11
旦l
行う研究発表と共食
の会である 。お巧;いにみっちりと話しあ って、会の
終わった後には充足感が味わえている 。
小さい旅行は別にして、まとまったゼミ旅行は 3
回行った。 5月の能登の棚 l
干
│
見学
、 1
2
)Jの伊勢、志
摩
、 2月の瀬戸内の海民文化の見学である 。
私個人としては、日帰り旅行を多くやった。 自分
のつもりでは 「
笠地滋賀を体感する 」 といったこと
が狙いである 。似たようなことを考えている安土優
さん、上回洋平君、岡村泰臣君と 一緒に歩いている 。
学外の仕事もかなり多かった。 ひとつは、守 1
1
1•
萎ゼミ韓国旅行にて
人間文化・ 9
9
人・間・文・化・通・信
れるかも知れないが、太るのは簡単だが痩せるのは
完成す前であるが、付記してお礼を述べておく 。 ま
辛いといわれるとおり、もう少し格闘は続きそうで
たゼミの学生諸君に文献整理、打ち込みなど多くの
ある 。
日連亨といわれでも馴染みのない人も多いかも匁 l
協力を得た。ある怠味で一緒に学んだといってよい
れないが、在、は朝鮮近代、亡国、植民地の時代に生
情をもつことから始まると思うが、必ずやこの人物
きた 4
えも傑出した人物だと,E
lっている 。一側面を例
カ{
1
:
j
X愛の的になったものと信じている 。
かも知れない。他民族を知ることは、対象に対し愛
にとれば、彼は中国の孫文と親交があり、孫文の弱
0
0点は
またキ卜慶槌文庫の整理はすでに 一次分1.2
匡l
ナショナリズムに大きな影響を与えたばかりか、
入力、小fII
r
子となっている 。引き続き 学生諸君の協
中凶革命の友として、中国国民党員の j
王精街、蒋介
0
0
1年 3月には 5
,
0
0
0点ほどの入力
力で進行中で、 2
石とも交流があり、陳独秀、程秋白、李大到など
が可能と思える 。
中国共産党員とも親しく、国共合作のパイプ役であ
った。 また極東民族大会の朝鮮代表として、レ ーニ
-脇田晴子 (
わきたはるこ )女性史、中世商業史
トロッキーやジノヴイエフ、
2
0
0
0il
ニは比 t絞的よく勉強した年でした。 ここ卜年
そしてヴェトナムのホーチンミンとも会っている 。
来の懸案の 『中世被差別民の研究 j (仮題)を夏休
米アジアの革命家列伝の面々のみではない、その
みに仕上げて、出版社に原稿を渡しましたが、結局
ンとは 2回も会談し、
市:命と対的した日本帝国主義の銘々の人物、例えば
'
1
"、史料を読み下し文に代えたり、事後処理に
は年 1
J
!
j
(1
孜、近衛文麿、田中義一、宇垣一成、中野正剛、
掛かつてしまいました。 もう一つ凶
大川周 WJ などと対談、接近戦を通じて ~1月鮮独立の必
いる 『
女性芸能の源流』 も年内にやっと原稿を渡し
要性を主張し続けている 。それだけで、当時の朝鮮
ました。
五年かかって
を代長する政治家であることはうかがい知れるが、
海外へもよく行きました 。 6月には、このところ
この朝鮮ナショナリズムの最も正統的発現者は、
引き受けている石見銀山の調奇で、銀貿易やザビエ
1
9
4
5年の解放、その後の建国運動のなかで暗殺され
ルのあとを 4生ねて、インドやインドネシアに行きま
てしまう 。暗殺の魔手をふるったのは永年の政敵、
した 。 1
1月にはアメリカ ・ハワイでの 「誤解と偏見
李/兵晩で、その流れのなかで南北朝鮮の分断、朝鮮
の日本史 J凶際研究会で、
n中世神話』の成立過程」
戦争の悲劇があり、その後韓国ではこの人物は容共
Hi
'
I
;
:
の 「
事1
1
話 J(
寺
という報告をしました 。 中世にL!
政治家として忘れ去られ、 1
:
ヒ(共手I
JI
'
K
I)では金日成
社縁起)が数多く作られて、それが寺社の縁起とし
路線に忠実な人物に書きかえられ、分断の谷間に沈
て能り通っていって、その最たるものが村務の名も
諭してしまう 。私は呂運亨が忘れ去られるのは南北
ない「産科I
Jが布1
1
功皇后に習合して行く過程だと 言
分断│古│定化の歴史意識で、あると思う 。学生の頃読ん
う話です。大阪外大時代の友人たちが 『
英国ロマン
だニムウエルズの 「アリランの歌」その主人公キム
ス集j を訳出していますが、私がその報告で、使った
サン (
張志楽)の生き方にどれだけの勇気を与えら
日本の 『
事"道集j とよく似ています。そんな縁起を
れたか、今そのことを思い出しながら、朝鮮民族の
孝次の
謡ったり、舞ったりしたのが、白拍子夕、ーや山 4
_
t
lになっている 。 この人
誇るべき人物像の復元に夢 I
火性芸能者です。そして彼女らは被差別民出身のス
物をとおして、南北朝鮮、朝鮮半烏と日本、そして
ターでもあったわけで、テーマは関連しているわけ
朝鮮半烏と中国の友好親善の過去を知 lり、未米を考
です。 1
2月には、このところ共同砂f
究を続けている
えることができればと思っている 。 なお県大当局に
フランスの友人の推薦で、極東学院というアジア研
は 3年にわたり多額の研究資'を付けていただいた 。
究の拠点の行周年記念シンポジユウム 「
文献史学と
フィールドワークの間」というのにお招きいただき、
「日本中世における文献史学と考古学の問」 という
報告をしました 。 これは私のもう 一つの専門である
流通史を、中世考古学の発掘の成果を使って論じた
もので、フランスでは日本における考古学と文献史
学との 「
蜜月のような関係」 という誤解?を生んだ
かもしれません。
遊びと実宵を兼ねて、 5月には能楽
I
F
I,勾」を舞
いました 。 中世の 1"1 舞女の伝説的なスターを 1~i いた
観阿弥作、世阿弥改作の名曲です。前記の符占に写
真がほしいので、頑張って舞ったわけです。そんな
ことであっと 言 う聞に一年が過ぎてしまいました。
雲南省デチ工 ンの家屋
1
0
0・人間文化
人・閏・文・化・通 ・ 信
-小貫雅男(
おぬきまさお)遊牧地域論・モンゴル近現代史
2000年 2月、猛吹雪の中、朽木村の撮影を開始し
た0 ・・ 四季・遊牧ー ツェルゲルの人々
ドキュメンタリ ー映像作品"四季・山村
ゆくという、新しい地域研究の方法を掲げて出発し
"に継ぐ、
た “
映像地域学"なるものは、まだまだ始まったば
朽木谷の
かりではあるが、所期の目標にむかつて着実にすす
人々 ー "の作品制作のためである 。雲洞谷から生杉
の集落あたりまでくると、吹雪はますます激しくな
る。北 J
I
!沿いの谷筋は、
そのことによって 「
地域」 を掘りさげ認識を深めて
んでいるという確かな手応えを感じている 。
私たちが主催する上映会のほかに、地域サークル
1メートルほどの積雪 にも
や小・中・高校そして大学、あるいは地方自治体や
なろうか。 山腹に沿って裾を走る村道は除雪 されて
生涯教育機関など、各地の民間や公共の団体が主催
いて、意外にも安全に運転できた。 この先の撮影で
するいわば“自 主上映会"の輸が、並行して広がり
一番心配していたことが、これで解消した。
を見せているのが、今期の特徴である 。
3月 に 入 札 「
三 世代 『
菜園家族』酔夢詔一 21世
紀・日本のグランドデザイン J(B5判・ 88頁) を
-トゥムル ・ナム ジム
書 きはじめる 。南は沖縄から北は東北地方まで、 2
著書
年間に 亘 ってつづけられてきた“四季 ・遊牧"の上
中央アジア ・ロシア極東地域論
歴史の三時代
における -j上巻・下巻 (
モンゴル語版)
映活動の中で、日本の 「
地域Jについて考えてきた
(
ウランパートル. 2000年)
2
)r
TheEconomyofMongoliafrom
J (イン
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onalTimet
ot
h
ePresent
ことをまとめてみた。
これは、モンゴルの山岳・砂漠の村ツェルゲルと
いう 「
辺境Jを大切な視点として受けとめ、そこか
ら日本の現状を凝視し、日本の 「
地域」の未来を構
r
1
) モンゴルの経営 ・経済
デ イアナ大学,アメリカ. 2000年)
論文
『モンゴルの遊牧文明 j (モンゴル語)
(
r我
想したものであると 言 ってもいい。科学技術は人間
が国モンゴル j誌,第 3号,ウランバー トル,
の労力を削減すると思われていたが、市場原理と手
2000年)
を結ぶやいないや、事情は一変する 。 まさに現在の
先進国社会は、その様相を呈している 。それは人間
-鹿地利明 (
おお じと しあき)地域研究
の無意識の欲望を掻き立て、煽り、 一挙に暴走を始
1999年の 1
1月末と 1
2月初旬に南アジアに関わる国
める 。私たちは、自らがっくり上げた市場競争社会
際シンポジュームがあり、その双方で発表を求めら
という魔物のような機械の歯車のひとつにな って
、
れた。 それを終えて、すぐに 2000年 2月初旬までパ
わけもなくせわしく動き回っているだけではないの
キスタンとインドのかねて継続中の農耕調査に出か
か。いのちに対する愛や感謝、尊敬の気持ちが根 っ
けた。東経 80度線以西の畑作地帯の農法と農具 を村
こにある暮らしをとり戻したい、という思いを込め
落訪問調査を通じて明らかにすることが、夜、が 6年
て書いた。
間代表者を務めてきたこの国際学術調査の本年度の
5月初旬にこの小冊子が刷り上がると、 早速これ
目的であった。約3
5か村を訪問して、農法について
までの上映会の参加者に郵送。 そして、新たな注文
の聞き取り調査を行い、また使用農具の計測々図と
に応じての発送もつづけられてゆく 。
撮影を行った。 これで、長い時間をかけたが、南ア
8月の大津・ピアザ淡海ホール (
定員 426名) を
ジア全域でおよそ 330村で調査したことになり、同
9月には大阪 ・森ノ宮ピロテ イホール
地域の畑作農耕に関する村落訪問調査はひとまずの
(
定員 1000
名)、 1
1月には東京・世田谷区民会館ホー
区切りをつけることにした。 これまでの西アジアや
皮切りに、
ル (
定員 1200名) と、・ 四季 ・遊牧"の上映会を開
西アフリカでの調査を加えると、 1000を越える村を
催。 ここでは 「
菜園家族」のこの小冊子が参加者全
訪問して資料を集めたことになる 。これらをもとに、
員に配布されることになった。跳ね返るようにかえ
、[
南アジア村落論』、『
西
今後は 『
南アジア農耕論 J
0
ってくる生き生きとした感想や意見。共感あり、助
アフリカ農耕論』 などの書物を書くことに重点を移
言あり、具体的な提案ありで、その内容は様々では
すことにした。
あるが、こんなに真剣に大勢の方々が応えてくれる
とは予期していなかった。新聞紙上にもとりあげら
2月初j句に帰国してから、前記の国際シンポジュ
ームでの 2報告を英文論文とする作業にかかった 。
れたこともあって、東京・大阪・京都とい った大都
現在までに刊行されたのは、 "Agro-ecology o
f
市部ばかりでなく、北海道や東北の遠隔地の農山村
M
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n Deccan :Continuity and
Change" i
n RPINFCCSA
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. "Economic
Developmentand t
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n South
l6
5
1
8
6
.だけである 。
A
s
i
a
"
.pp.
からも、多数、手紙や FAXや電話で意見や感想が
年の今もつづいている 。
寄せられた。年明けて 2001
調査 ・制作・上映という系の終わりのない繰返し
の連続によって、 「
地域」の人々との関わりを強め、
前任校での最終講義 (
その概要は、後に 『
地域研
人間文化・ 1
0
1
人・閏・文・化・通・信
究スペクトラム j 第 5号
、 216頁に掲載された)
スラム協会理事などの職責も一応果たすことができ
を終えてから、 3月にはメンバーとして参加してい
た。
る別の国際学術研究でブラジルのアマゾン河流域を
中心に生態変化に関する現地調査に出かけた。それ
.官谷文則 (
すがやふみのり)考古学
を終えてから、研究室の移転準備と本学への移動に
① 海外調査
取りかかった。現研究室の整理が終わったのは、 5
月の末であった。
夏休み前には、まず、かねて調査を進めてきた西
日
f
J
学:の年から文部省科学研究費の交付を受けて実
施してきた中国 2
8
2夏回族自治区固原県を中心 とした
0
0
0年 7月1
2
・・中日連合原州古墓調査隊"の調査を 2
アフリカの歴史的交易都市 トンブクトゥでの収集資
日-8月1
4日まで実施した。科研費による調査の最
料を、エスニック関係の観点から整理することを開
終年である 。本学の院生、学生も参加した(院生 3
始した。 しかし膨大なデー タなので、その整理には
名
、 4回生 1名
、 3回生4名
、
相当な時間を要した。 これは、まだ活字にはなって
外の学生や教官の参加は 、共立女子大学、東京大学、
いない。 また以前から依頼されていた 『
角川世界史
お茶の水大学、立教大学、早稲田大学、徳島大学、
1回生 3名)。本学以
辞典 j の 「
世界図 Jを書きあげることにした。同辞
出光美術館などで、院生、学生の異大学問交流が長
典冒頭の特大項目ではあったが、短い頁のなかで世
原での調査以外に、
期合宿を通じてお こなわれ た。
匡l
界の主要文化匿│
における世界図の特徴とその相互交
内蒙古自治区の統万城、陳西省の塩池県博物館、寧
流について書くのはかなり苦労した。
阿i
品
旧石器遺跡などを踏査した。 この期間中
夏の水 I
夏期休暇の 2か月強は、建築学の人たちと行って
に、私は北京で考古研究所が開催した国際考古学研
いる植民都市の国際学術研究にあてた。前半は、イ
究会に出席し、 「
正倉院の唐様太万の源流 Jという
ギリス・オランダ ・フランスの各国立図書館で文献
研究発表をおこなった。 また、谷ー尚、大貝静夫、
および図像資料の収集を行った。後半は、東アフリ
梅原市一氏らと居延遺跡から青海省への南北方向の
カのポルトガルとイギリスの植民都市の現地調査を
踏査研究を実施できた。居延では、超乾燥と超高温
した。植民都市研究も 4年を経たが、この調査を通
にややへこたれた 。
じて、近代ヨーロッパがilI:界システムの構築と平行
9月1
9日から 9月3
0日には、院生 2名とともに科
研費 I
I
J
I日山七鋭の比較研究」の調査で山東省へ行
して建設した植民都市の形態と立地変動について、
l
j
i
J
維な見通しをもつことができた。それについては、
0
0枚もの青銅鋭を調査した 。 この調査は、国
き
、 4
2
0
0
1年 2月に開催される別の科研貨 (
総合研究)に
立高岡短期大学の横田、小掘、 三船、清水氏らと、
よるフロンテイア研究会で、フロンテイアの 2理念
中同社会科学院考古研究所の白雲朔氏らが参加し
型設定と絡めつつ、報告することになっている 。 ま
た。
たこれまで個別の時期にしか資料収集をしたことが
1月 4F
Iから 1月1
2日には高橋美久二教疑ととも
なかった英 ・前・仏の各国立図書館で同時に仕事が
に、本学の海外研究費の交付を受けてベトナム調査
できて、それぞれのもつ特質をよく迎解できたのも
に行った。わたしは、中国系文物の調査を目的とし
収穫であった。
ていたが、ホ ーチミン市博物館に多数の日本製文物、
9- 1l月は、設立にあたって協力した筑紫女学園
なかでも江戸時代後半の鎖国期の仏像や銅鏡が多い
大学アジア文化学科でめ集中講義、いま走っている
ことにおどろいた。 また 、その組織的調査の必要性
特定領域研究プロジェク ト (南アジア地域研究)の
を!惑じた。
研究会での 2回の発表、その他の原稿古きなどで終
わっていった 。冬期休暇の 1か月間は、別のグル ー
② 圏内での調査
プの国際学術研究で、スマトラ島を中心に惣の調査
前年度ではあるが、 3月 1日から 3月1
4日には、
をした。東南アジアの平野音1
¥
では、軽地作業はもう
兵庫県三田市の古墳測量調査、 I
I月から 1
2月2
6日に
ハンドトラクタ ーに変わっていて惣を探すのにはい
は、和歌山県那智勝浦町の国指定史跡下型古墳の範
つも苦労するが、スマトラ島でもそうであった。東
囲確認調査を実施した 。 この両調査ともに、院生、
南アジアに関しては、東北タイとカンボジアとの国
学生が多数参加して行った。別に奈良県山岳遺跡調
境部だけが、撃に関しては調べなければならない唯
査会の大峯小篠宿調査にも学生 2名が参加]した。 こ
一の地帯となった。東南アジアを含めた農具論を本
の調査は連日の雨で、雨中での測量調査となった。
にするときがきたのを喜んでいる 。
以上の国内外の調査に多数の院生、学生が参加し、
これらの期間を通じて、学外では福岡アジア文化
考古学調査の第一歩を踏み出したもの、調査参加を
賞(学術部門)選考委員会の副委員長や東京外国語
通じその専攻を定めたもの、その過酷な調査から考
大学アジア ・アフリカ言語文化研究所運営委員、イ
古学以外の専攻を定めたものなど、学生の進路決定
1
0
2・人間文化
人・閏・文・化・通・信
に一定の影響を与えたことに襟を正す思いで指導し
[
社会活動]
ていかねばと、改めて思っている 。
1)大学院生の岡 田玲子さんが企画した 『
お茶の木
昨年以前の中国調査の学術報告書ーでもある 『
北周
引っ越しプロジェクト j (工場団地造成で潰され
回弘墓
』 が科研出版費でもって刊行できた。 この大
るお茶の木を救う計画)に参加。 甲南町柑子で学
部の報告書の挿図作成、図版作成、中国語文の日本
生諸君と茶摘み、重粘土の泥回での稲刈りなどを
語訳などは、全て本学の院生、学生によるものであ
やり、地元の農家と交流しながら学生諸君ととも
ることは、本学の教学での一つの大きい成果である
に農業実践。茶摘みの成果は無農薬栽培茶として
と自負している 。 同様に、「古代武器研究 1号』の
生協と湖風祭で販売。
刊行と 1月1
3日
、 1
4日に開催した第 2回古代武器研
2)城陽小学校、高島高校で人類進化に関する講演。
究会の開催 (
於交流センター)も、関係研究者か
ら本学の学生に対して多くの賞賛をえた。 これも院
高橋美久二 (
たかはしょ し
く に)考古学、歴史地理学
生、学生の努力の結果であるといえよう (
紙幅もつ
奈良平安時代の古代交通の考古地理学的な研究で
きたので、わたし個人の研究動向は省略することに
は、前年に書いた 「
古代の近江の東山道 J 地理と
する 。
)
歴史空間 』足利健亮先生追悼事業会、 2
0
0
0年8月刊
r
(
行)が刊行され、さらに「古代道路研究の現状と課
r
(
-黒田末書(くろだすえひさ)人類学、地域学
題 J 歴史地理学』第4
2巻第3
号
、
[研究・教育活動]
や
1)滋賀県甲南町と 三重県阿山町で干害 との闘いの
集
I
i
1
J海の駅と 二
r
(
2
0
0
0年6月刊行)
卜凹塊石 J 京都府埋蔵文化財論
第四集 』、 2
0
0
1年刊行予定)、 「奈良時代の交
r
(
現在に至る歴史を大学院生と調査中。 このあたり
通・域陽市の条里遺構・平安時代の交通 J 城陽市
は古琵琶湖によって形成された重粘土質の土壌
史
で、重労働を伴う農作業と干害に悩まされてきた 。
た。 また、 「
古代の官衡と交通 J(
栃木県考古学会大
0
0
1年刊行予定)なとの論文を 書 い
第 l巻』、2
私も高校生まで、手作業の農一
業を手伝っていたから
サンピア明石
会講演)、「明石駅家と古代山陽道 J(
だいたいのことは体験済みと思っていたが、聞き
歴史教室) など8回の講演をおこなった 。 また、東
取りの内容は想像を越えていた。 この地域の農民
山道下野路、北陸道若狭路、山陰道の但馬・因幡-
の誇りと技術、そして風土については来年度中に
1
:
¥
雲の道、山陽道安芸路、長門路、南海道紀伊路な
まとめたい。
どの遺跡の現地調査にも行って来た。
2)多賀町の鍛冶屋さん、松浦さんの厚意に甘えて
2
0
0
0年には、地域史の調査研究にも積極的にかか
弟子入りさせてもらった。鍛冶が数十年前まで産
わってきた 。昨年執筆し編集してきた 『亀岡市史
業と生活において重要な技術であったことはよく
資料編』が刊行され、 『
南山城村史 Jの調査 ・執筆
知られているが、それが人と地域を結びつけ、も
もおこなった。彦根市史関係の調査として、滋賀県
のと人を結び・巡らせる大きな原動力になってい
I量
立大学に最も近い古墳群で ある荒神山古墳群の涜J
たことに注目する人は少ない c 火と鉄と人々の関
0
0
0年 3月からは湖北の木之本町
調査をおこない、 2
係に思いめぐらせ開き取りを兼ねる実践研究のつ
0
0
0年夏には、湖
の遺跡分布調査も継続している 。2
もりだが、困ったことにハンマーを振るうときは
北の仏教文化に大きな影響を与えたとされる、木之
なにも考えられない。
本町古橋の山岳寺院の測量調査をおこなった。古橋
4)研 究 会 活 動 等 。.
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Chimpanzees andBonobos" (Max Planck
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y,ドイ
ツ
)
、 「ジエンダーとセクシュアリティ
Jプロジェ
クト研究会 (
東京外大アジア・アフリカ 言語研究
の集落から歩いて 2時間半もかかる山中にある寺院
跡であるために、キャンプをしながらの調査であっ
た。地元の協力によって、iR
l
J
量調査は大きくはかど
り、中世の山岳寺院の伽墜を明らかにすることがで
き、大きな成果があった。
1月)、
所)、「
進化論と社会 J(京都大学人文研究所 1
このほかに、数年前から滋賀県内の金石文等の文
「人類進化と人間性の起源 J(サン ト
リ ー財団 )、
化財に 書かれた銘文資料をあつめてパソコンでデー
「
共存の維持と破綻ーヒト科の多様性と種間関係を
9年度にはそのデー
ターベースを作成しているが、 9
いかに理解するかJシンポジュウム組織 (日本
ターベースに画像データーベースを加える作業を行
人類学会 ・進化人類学分科会)、 「
最終氷河期以降
0
0年度には滋賀県以外にも地域を広げ
い、さらに 2
のニホンザルの形態の 小進化 J(文部省科研費)、
てデーターを集めて、入力をおこなっている 。
「アフリカの熱帯雨林地帯における内発的自然保
博物館学芸員課程の教育、研究もおこない、学芸
護の可能性 J(
文部省科研費)、「ゴミと所有 J(
個
員課程でおこなった、実習の成果などを報告する
人研究)など。
『
滋賀県立大学学芸員課程報告書
第 3号』の編集
03
人間文化・ 1
人・間・文・化・通・信
忙しすぎた 一年だったが、多くの人たちに、また美
もおこない、刊行にこぎつけることカ fできた。
しい自然に感謝しつづけた一年でもあった。
-武巴尚彦(たけむうたかひと)社会学、地域研究
海外では、春先にはエスパーニャ王国各地の宗教
文化の歴史的状況を、夏には中国の雲南省と湖南省
の少数民族と最近の囲内情勢を、それぞれ一 ヶ月ず
つ学生たちと共に見てまわった。前者には永谷崇正、
後者には青山繁、紺谷敏邦が参加した 。いずれも 三
回生である 。
国内では、近江の地域文化の発掘に努めた 。春先
には豊郷小学校の理科室に I
I
Kっていた古いガラス乾
板約 1
0
0
0枚を、秋には昭和 3
0年前後の近江各地の風
-林 博通 (
はやしひろみち )日本考古学
今年度の湖底追跡の調査はゼミ学生とともに主
として次の 3遺跡について実施した。
尚江千 i
l
q
:遺跡、で、は米原町筑摩神社沖約 310mの昨
年度大きな石の集積した地点付近で新たに人為的に
置かれたとみられる石が確認された。 また、朝妻筑
摩集落の沖合で素 i
替り調査を行ったが、この水域は
I
t合 100m
付近まで古代末 中世の造物が
遠浅で、 )
湖底に散乱している 。
①
長浜 )I~' には F 坂浜千軒や西浜千軒の伝jf.(があり、
0
0本を発見した。
俗を写したネカフィルム約 3
前者は、豊郷小学校の用務員をしておられた方が
遠浅が広がっている 。水中ロボットを夏場に 2回i
替
械J
1
5されたもので、戦前から戦中にかけての周辺地
m底は地面が見えないほどの一面の
らせてみたが、i
域の暮らしぶりが記録されている 。後者は、湖東町
2月に再度挑戦すると、藻は少し枯れてわずか
藻。 1
北菩提寺の故浅岡利三郎氏が撮影されたもので、余
に地而がうかがわれたが、効果的な調査はできなか
'
1
'ノ島、湖東町や能登川町など、当時の自然と
呉や )
った。
奥琵琶湖の葛綴尾湖底遺跡にも何度か水中ロボッ
共に暮らす人々の生業と生活風景が活写されてい
る。 いずれも保存状態はよくないが、当時の地域文
トを潜らせてみた 。 岬の先端沖の水深 20 ~40m 地点
化の実態を立体的に再現するための足がかりになる
や州!の東側の水深 30~70m 地点など。 明瞭に造物と
貴重な資料である 。
認められるものはなかったが、あまり知られていな
現在は、所蔵者の許可を得て、保存と活用に向け
ての恭礎作業、すなわちデジタル方式への変換作業
い深湖底の状況が観察でき、意外に水流のあること
がわかった。
年度末の 3月には、大津市歴史博物館の企阿展
を行っている 。いずれは開き取りとあわせて、近江
の地域文化を再考するためにも、また「地域展開論J
「 琵琶湖と水中考古学~湖底からのメッセージ ~ J
の構築のためにも生きてくる資料である 。関心のあ
において、これまでのわれわれの調査成果の一部が
る方には、大いに活用してもらえればと願っている 。
一般に初めて披涯され、多くの関心を集めた。
これらの活動はいずれも、ゼミ 学生や地域文化学
7月には中国の四川省 ・雲南省の地を踏んだ。
科教員の支援の賜物である 。ゼミ活動の主なものを
②
簡単に紹介する 。①大学院生の坂本健次郎を中心と
四川省では三星推遺跡およびその博物館・四川 省博
する 「
棚田の研究」で能登へ (
5月)、②大学院生の
物館・成都都城・王建墓 (
永│
凌) ・世界最大の石仏
森雄二郎を中心 とする 「
海民の研究」で伊勢の答志
楽山大仏など、雲南省では雲南省博物館・麗江古
1
1月)、③武藤恭子を中心に 「
瀬戸内の海民
向へ (
城・束巴博物館・白沙村の白沙壁画など、広州では
の研究」で香川県の詫間町へ (
2月)、それぞれ I
泊2
南越王墓およびその博物館などを見学した。
日で出かけた。
その他の活動としては、大学院生の森雄二郎、学
③
昨年度から活動している 『琵琶湖がつくる近江
部生の岸川綾、武藤恭子を中心に、県立大学国際交
の歴史』研究会は、今年も同一テーマの 「
湖岸 ・河
流センターで 『
浅岡利 三郎遺作展 j を開催(l月)
岸の城 J 千軒伝承の湖底遺跡」で、現地研究会や
した。 またフォーラム誌 『
人と地域 jの発行は、多
実地調査を 実施した。
r
くの人たちの尽力のおかげで 1
0号まで進んだ。残部
僅少だが、ご希望の方にはお分けしたい。
春先には、西堀栄三郎記念 「
探検の殿堂 j 活性化
委員会に参画する機会を得た 。 この委員会活動が機
④ 今年は湖底追跡に関する論稿を 2つまとめるこ
とができた 。「琵琶湖湖底遺跡研究序論」と琵琶湖
湖底追跡の研究一 三 ツ矢千軒遺跡、の調査
」である 。
縁となって、湖東町に暮らす人たちと親交を深める
ことになったが、今年に入ってからは学生たちと 地
⑤ 今年度は私の研究生活のうえで一つの画期とな
域の人たちの協力を得て、地域に点在する溜池をめ
る年といえる 。 これまで長年ライフワークとして取
ぐる生活文化の発掘とその応用・展開に向けて、地
り組んできた大津京に関して、博士論文 『
大津京跡
域ぐるみの共同研究に取りかかっている 。
の研究 j をまとめ、学位を取得することができ、そ
1
0
4・人間文化
人・間・文・化・通・信
れを忠文閣出版から上梓できたことである 。
今年も多忙で充実した年でした。
悪く大韓航空のパイロットのストライキがあり、帰
る予定の使が飛ばなくなりました 。 そこで次の日、
早朝 5時くらいに空港につき、キャンセル待ちの 1
-田中(愛明 (
たなかとしあき)朝鮮古代史、古代日朝関係史
2
0
0
0年も、たびたび海外調査の機会がありました 。
番にならび、ょうやく帰ることができました。朝 1
番の使は 1
0
1
時ちょっとなので、
9時半ころにキャン
あいかわらず、韓国 ・中固など東北アジアの直接研
セルがあるかどうかわかるのですが、そのころ空港
究の対象とする地域のみですが、いまのところ他地
にやってきてキャンセル待ちにならんだあの人たち
域を訪れる余裕がありません。 と、昨年と同じ書 き
Iおいて、
は、いつ帰ることができたでしょうか。 1E
出しです。実は、他地域へ行こうという気がないの
大学の在外研修で中国東北へ行きました。 93年か
です。 というのは、韓国の場合、重要な発掘がつづ
ら毎年つづけている、高句麗 .i
'
J
'
J
J
i
毎山城の分布調査
いており、それを見ることさえ、十分で、はありませ
です。特に発掘閥もない湖海の上京龍泉府の宮殿遺
んし、中国は、予定している調査がなお数年はかか
構や西古城の城壁断面は圧巻で、した。 あと数年はつ
るからです。それにしても昨年は、韓国 7m
l、中国
づける必要があります。 これで今年は最後かと思っ
3回、合計 1
0回、というように、例年よりは多めの
ておりましたら、京都女子大の知人たちと出した科
機会でした。 まず 1月に大田で、百済文化圏開発の
研が補欠であたり、年末クリスマスの頃に、北京へ
ためのシンポジウムのコメンテ ー ターとして参加
行くことになりました。他のメンバ ーは近世以後の
し
、 2月には、ほんらい予定していた高句麗の時文
専門家なので、目的が随分異なり、わたしは古代遺
のワークショップが、当初の日程を変更して、入試
跡を中心に別行動です。歴史博物館の 「
梁職貢 図」
の時期にあたってしまったので、それに参加するこ
(南京博物院旧蔵)や房山石経を実見しました。 ちょ
とはかなわず、西部から南部、そして度サト│へと移動
うど山東大学へ留学 中の大学院生川上さんに、北京
しました。松広寺という名刺で泊まりました。 もち
に来てもらい、助けてもらいました。
ろん無料ですが、 4時に起きて参拝、というおまけ
昨年活字にな ったのは、 「
古朝鮮から 三韓へ J(
武
っきでした。 3月には西北境界の臨津江から南端の
田幸男編 『
新版世界各国史 2 朝鮮史』山川出版社)、
莞島まで縦断し、船で済州島へ渡りました 。 1万年
li~Jj 鮮半島の歴史と文化」蒲生町の石塔寺のシンポ
前、韓国で最古という土器が出ている高山盟という
ジウムの記録に、参加していないわたしが概説を加
遺跡、を見ました。 その写真を、そのあと書いた、山
えたもの。「百済後期王都相経の防禦体系 J(
国立扶
r
i
凶謀者¥
1
城と百済の域事¥
I
J苫景文
川出版社の各国史シリース 2朝鮮史の口絵に使いま
絵文化財研究所編
した 。 4月のゴールデンウィークには、中国遼寧
化社)、 「
栄山江流域の前方後円形古墳の性絡 J(
木
省 ・吉林省の高句麗山城の踏査です。 これは日本の
古代山城を研究する仲間違を案内してのもので、有
浦大学校時物館編 『
栄山江流域古代社会の新たな照
明j全羅南道 ・木浦大学校博物館)などです。昨年
名な残りもよい大型山城を中心にして 8日間まわり
から刊行しはじめた、 『
朝鮮古代研究』の第 2号は、
ました 。帰国して l日おいて、韓国へ行きました 。
4月に出る予定です。
国立扶自主文化財研究所の 1
0周年記念のシンポジウム
最後に、去年と同じことを書いておわります。実
の発表のためです。その時は、それに出ただけで帰
際は、パソコン上で、ペース トして貼り付けるだけ
りました。 6月には、木浦大で栄山江文化に関する
ですが。何のことかといえば、大学の研究費 ・旅費
シンポジウムがあり、今度は、それが終わってから、
で外国調査に行けるようになることを強く希望して
発掘中の現場をいくつかみました 。 特に~尚大によ
いるということです。 日本囲内を対象とする研究者
る宜寧の景山里古墳の発掘は、韓国で最初に見つか
には、研究旅費が有効に使え、外国を対象とする研
った、日本的な石棺をもっ、特異な古墳です。 9月
究者には使えないというのはおかしいと思っており
には、京都のキワ(韓国語で瓦のこと )研究会のメ
ます。文部省の科研費でさえ、自由に外国旅費に使
ンバーといっしょに、南部地方のやはり発掘現場を
えるようにな ったのですから、無理なことではない
見学しました。手口順公林寺社・ i
車陽邑内里・固城松
と思います。 わたしの行きたい韓国など、国内旅行
鶴洞などです。 この旅行には、科研費の旅費を使い
よりもむしろ安く行けるのですから、何とかならな
ました。 1
0月には、ソウルの東に隣接する九盟市で
いものかと思っております。
峨嵯山のシンポジウムがあり、参加しました。 わた
しのテ ーマは、 「
北韓における高句麗域事¥
1の調査研
究とその問題点」 というもので、北朝鮮における高
鳳梅原賢一郎 (
うめはうけんいちろう)美学、芸術学
去年の夏に、宮古島の西原で「六月ニガイ Jとい
句箆城郭の研究状況を紹介・批判するものでした 。
う儀礼を見ました。酋原は宮古島の北部の西海岸に
これもそれに参加しただけで帰る予定でしたが、運
位置します。西 j
京は島の北端より海を隔てて遠望で
人間文化・ 105
人・間・文・化・通・信
きる池間島からの移住者たちによ って形成された集
子たちの運動や所作は、中心である湯釜からはずれ
落です。西原では、今はもう本籍地の池間島では廃
)
慎々に
ることはほとんどありません。湯釜の四方を 1
れてしま った祭りや儀礼がまだおこなわれていま
巡 ったり 、皆で輸になって湯釜を取り囲み、 一斉に
す。
i
易釜に近づいて千1
/1々に湯を献上してはまた離れ、湯
「六月ニガイ 」ですが、 「ニガイ 」 とは 「願ぃ」
釜のまわりで人の輸が何度も何度も狭ま ったり広が
のことで、旧暦の六月に、海のカミに航海の安全や
ったりします。夕刻からはじまった祭りは、劇的な
豊漁を祈願して執りおこなわれる行事です。海のカ
変化を見せることなく、湯釜を囲む密なる空間の近
ミであるリューキューヌヌス (
龍宮の主)にお供え
辺で端正に繰り広げられていきます。火や水という
をして祈ります。本来、浜辺でおこなわれるべきも
生の素材の存在、相同な動作の執効な反復に、時代
のでしょうが、移住地の西原では、直ぐ 5、 6メー
を超えたなにかしら古いものを目の 当たりにしてい
トル下が海面の、海に突き出た陸の突端部分の広場
る思いでした。
で、皆で海の方に向いですわり、 「ニガイ 」 をしま
日付もかわり、深々と夜も更けていきます。突如、
す。
そのとき、カミにいろいろなものを供えます。一
縦しの調子が変わり、面をかぶったものたちがあら
われます。商は次から次へとあらわれ、湯釜の周り
つは、整然と並べられたお踏の上の供物です。お膳
を一回りしては去っていきます。人形を抱いた女の
は縦方向に何!活か連ねられていて、それぞれのお憾
面が主主場しました 。{府き加減の異様に白い而です。
の上には、 j
酉や米や餅や海の幸である蛸が、正しい
侍風の面もある 。精惇な面立ちというにはほど遠く、
数や正しい形に、秩序立って配列されています。そ
面長のの っペりとした白い顔面に目玉l
がおかしみを
して、縦に連ねられたひとまとまりのお膳が、横方
誘発するような 具合に配置されている 。肉がほ っぺ
向に数回、恐らくは神役の数だけ、正しく反復され
ています。お騰とお膳の上の供物は、概ね、そのよ
たからこぼれ落ちそうな女の面もある 。 目はどんよ
りと淀み、現代風の表現をすればストレスの塊のよ
うに規則正しく整列され、カミに供せられています。
うな而。「 出戻 り」 と嚇している人がいました 。祭
さて、この秩序づけられた供物の領域の脇に、無造
場は異様な熱気に包まれています。間もなく狐の面
作に、豚の肉片が、生け賛として、生々しく吊され
が登場しました。稲荷社がこの近くにあるので、そ
ています。肉片は今しがた自の前で殺毅され解体さ
この神様が面をかぶってあらわれたのでしょう 。狐
れたばかりの豚のものです。抽象的で幾何学的に整
の登場を椛認した人たちは、待 ってましたとばかり
列された供物の横で、豚の肉片は、自らの具象の姿
に
、 「おきつねさんのおでましだ」 と手 を打ちなが
を剥き出しにし、光沢を帯びて熱く!!百り輝いていま
ら大声でl
縦しはじめました。面にたいして手荒な扱
す。素性が途う 二つの事物が、お供えという共通の
いもありました。面をかぶ ったものを 2、 3人で抱
空間で、無理矢理出会されているのでしょうか。
宮古 島の狩俣というところも 訪 れました 。祖神
えて放り投げ、反対側で受け止める 。要するに、キ
ャッチボールのような扱いをしている 。場内はあち
(
うやがん ) と呼ばれる祭犯は、それを執行するこ
こちで興1'
'の渦が巻きあがり、狂喜 に包まれていま
とのできる神役の不在によって、中断されたままに
した。
なっているとのことでしたが、琉球弧のこの地にの
この祭りは霊たちとの交感ではないか。人形を抱
こる古い祭紀をまもってきた幾人かのおばあさんた
いてあらわれた女而は、子供を遺して死んだ未練た
っぷりな母親の霊ではないか。侍風の面は、恨みを
ちから、いろいろなお話をうかがうことができまし
f
こ。
去年の暮れには、長野県の南信濃村の八日市場と
もって死んだ武将の霊ではないか。「 出戻 り」 と雌
いうところで、 「
遠山の霜月祭り 」 を見ました 。二
た女の恨み 辛 みがのりうつった生霊 ではないか。
つの釜に湯を沸かして、湯でも って神々を饗応する 。
「おきつねさん」 は、稲荷神の使者として形象化さ
判l々を清め、神々に力を取り 戻 させる祭りといいま
す。 ちょうど太陽の力が一年で一番弱る冬至 に近い
日におこなわれます。
装置は単純ともいえます。始めから終わりまで、
湯釜は絶対的な中心です。湯釜の周囲に築かれる聖
なる空間に、まず、神名 l
肢を読んでは全国の神々を
勧請し、歌のなかに名を組み入れては地元の神々を
招き入れ、湯釜の湯でもって繰り返し繰り返し神々
をもてなします。禰宜と呼ばれる 祭 りの執行者や氏
れたものというよりも、動物霊そのものであるよう
1
0
6・人間文化
し立てられていた女面は、陰口をたたかれ虐められ
な趣ではないか。人たちはさまざまな霊 たちと交感
しているのではないか。湯釜の周りを 一回りする霊
l!t¥されるのだろう 。
たちは、湯によって清められ慰 t
また、人たちと霊たちとは抱き合い愉楽を共にする
ことによ って、両者の関係のなかで成立するであろ
う、あらゆる種類の車L
際や凝りや澱を浄化させるの
だろう 。そこは、死と生とが霊たちと人たちとがI
軍
然一体とまみれ合い、交歓する場ではないか。私の
人・閏・文・化・通・信
第一感はそのようなものでした。祭りの最後に、霊
1
1
5
0
0
0の詳細地図をもとにおこなった。 これまで寺
たちのなかの親王とでもいうべき天狗の面が、物凄
院群しか注目されていなかったアンコール遺跡の都
い形相であらわれました。;
場内の熱狂は最高潮に達
市遺構に焦点を絞り,密林に埋もれた土塁や道路,
し、湯釜の周囲で繰り広げられた 十数時間に及ぶ祭
水路の踏査をおこなった 。
りは終わりました 。
また,地理情報システムを用いた彦根城下町の地
家に着いてから、本を調べていると、 この祭りが、
域文化財データベ ースの構築を進めた。 とくに善利
「
死霊祭り 」 とも呼ばれていることを知りました O
組足軽屋敷地区を調査の対象として取り上げ,その
この地をおさめていた一族がー撲によって殺されそ
成果を第 6回シンポジウム『人文科学とデータベ ー
れらの霊を鎮魂したとい う話です。
また、同じく暮れに、宮崎県の椎葉村の議之校尾
というと ころで神楽を見ました。椎葉村の神楽は過
ス』において大学院生の生方美菜子とともに 「
地理
情報システムを用いた城下町の復原的研究
彦根城
下善利組足軽屋敷地区を中心としてー 」を発表した。
去に数回目リの地区で見たことがありますが、緑之校
0
戸ほどしかない集落です
尾のはまた格別でした。2
奇
が、夕方からはじまって次の日の昼前まで、 実にj
-水野章二(みすのしょうじ)日本中世史
これまで書いてきた日本中世村落・荘園に関する
麗な舞いが続けられました。最後に 、台にのせられ
論文を 『日本中世の村落と荘園市I
Jjという著書にま
た米盛りのまわりに輸になって舞子たちが集まり、
0
0ペー ジを超えて、定
とめ、校倉書房 から出版。 5
扇の先で米を撒き散らしながら、 「
神送り 」の歌を
制
i
l
が 1万円にな ったこともあり、売れそうにない 。
問書により博士 (
文学) 取得。『地図と歴史空間
足利健亮先生追悼論文集.
1 (大明堂) に 「
原 「
里
1
1
1
Jの光景一 中世成立期の近江から一」 を執筆。里
山空間成 立の問題を歴史的に検討したものである 。
「中世の額安寺と周辺地域 J 国立歴史民俗博物館
8集) は2
0
01
年 3月に刊行予定。奈良時
研究報告.
18
代の国宝の絵図を伝える額安寺の中世の姿を明らか
にしたもので、同立歴史民俗博物館の共同研究の成
果である 。『 彦被市史史料編古代 ・中世』 は鎌倉時
代を担当。同じ く2
00l年 3月に刊行予定。 1
2月に早
稲田大学での環境史シンポで近江の環境史について
報告 。内容は 『
民衆史研究 j などに発表する予定で
あるが、環境史 (
人と自然の関係史) は
、 今後の研
究の中主の一つになると思う 。
昨年度に引き続き、県立琵琶湖博物館 ・京都大学
の協力者とともに、山門領木津荘 (
現新旭町)の現
況調査を新旭町教育委員会協力の下に 5地区で実
施。田地一筆レベルの水利システムや俗称地名、伝
統的な用水慣行、集落の祭杷や葬儀 ・墓制などを聞
き取り調査し、得られた歴史情報をカ ー ド化し、
1
0
0
0分の l地形図に記録した O 昨年度調査分は 2
0
0
0
分の lの 3色刷の図 2商にまとめ、仮報告書 を作成
し、今年度分も現在、図と仮報告書の作成を進めて
00l年度に終了する予定であるが、
いる 。調査自体は 2
4月以降、あわせて本報告書 2冊・ 論文集 1冊の出
版準備を開始することになっている 。 中央大学を幹
事校とする丹波国山国荘(京都府京北町)の共同研
究も継続しており、歴史的景観の調査を担当してい
る。 このような調査に院生・学生も積極的に参加し
てもらったが、彼らの楽しみはなによりも調査終了
後の酒宴にあったようである 。いずれにしろ他大学
や地元古老たちとの接触はよい刺激になっている 。
声を合わせて歌っていたときは、はからずも感涙し
てしまいました。文化はけっして富ではない、つく
づくそう思いました。
この国には、実にさまさまな感性がまだまだ埋も
れている感を強くしています。 これからもそれらの
一つひとつを自己自身の身のなかで発掘していきた
いと考えています。
-潰崎一志 (
はまざきかすtし)保存修景計画学
2月から 7月にかけて,国際協力事業団(JI
C
A
)の
文化財保存修復技術コースのコ ース ・リーダーとし
て研修体制を組織し,ブー タン,カンボディア,中
国
,
ミャンマ ー,パキスタン,スリランカ,ヴ イエ
トナム,ニウエからの研修生 8人を対象に研修をお
こなった。 また,講師の委託を受け,約 3週間にわ
たり,保存修復技術の講義をおこなった。
3月には,彦根市において日本ナショナルトラス
トから調査費の交付を受け、彦根の町なみの調査を
進め 『
城下町彦根の町なみ
ー歴史的景観の調査と
保存修景 -Jをまとめた。
6月には、シリア・アラブ共和国パルミラの西南
墓地 F号墓の保存修復事業に参加した。発掘調査が
終了した F号墓の保存修復事業は,前年度の躯体工
事に引き続くもので,今年度は内装の仕上げをおこ
なった。剥落した石材の原位置を復原し,石材の散
逸している部分は材質の同じ石灰岩で補った。 8月
には、パルミラ遺跡を再訪し、内装工事の仕ヒがり
の確認と修復工事の細部の確定をおこなった。現在,
発掘調査報告書の作成中である 。
1
2月にはカンボディア国アンコール遺跡を訪れ,
9
9
7年に
都市遺跡の調査をおこなった。 この調査は 1
国際協力事業団がカンボディア国に供与した縮尺
r
(
人間文化・ 107
人・間・文・化・通・信
8月に中国雲南省の少数民族の村落調査を行った
前者は西川先生を代表とする海外学術研究 「
モン
が、日本の村落を考える上で、非常に参考になった。
ゴル遊牧社会の変容と将来像」の調査に参加して得
東アジア全体の中での日本の特質を考えるために、
られた匁│
見を中心にまとめたものです。
今後も継続して朝鮮 ・中国の勉強もしていきたいと
また f
走者は 1
9世紀から 20世紀にかけて生きた、チ
思っている 。
ベットの女性望者の自伝について論じたものです。
-棚瀬慈郎(たなせじろう)文化人類学、チベ ット
学
-東 幸代(あすまさちよ)日本近代史
着任から 1年が過ぎ、講義数も増え、学生と交わ
昨年は、久々にインドに長期間滞在することがで
る機会が明えました。 なかでも、初めて受け持 った
きました。
3月には、ゼミの学生 1名と共に、カルカ ッタか
らダージリン、シッキムをまわってきました。 これ
は今世紀の中頃活動していたチベット仏教ニンマ派
環琵琶湖文化論実習で、新入生と比叡山登 山等を行
ったことは大変良い思い出です。
もともと漁業史の研究をしているのですが、ここ
トウルシュク ・リンパの事践を訪ねること
l年枚、琵琶湖上で江戸時代に行われていた烏猟の
がF
I
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I
0の旅でした。 リンパは結局カンチェンジュン
ことを調べています。夜間にトリモチをつけたツル
の行者、
ガの麓で雪崩のために亡くなるのですが、その前に
I
飼に浮かべ、水鳥(主に 1
1
鳴)を捕獲する猟です。
を湖J
信者の前で色々な奇践を現じています。 シッキムで
現在は行われておりません。魚を t
mる抑I.f:mが冬場に
はリンパが岩に残したとされる足跡が、現在も把ら
i
ですが、従来の研究では漁業ほど注目され
行った事l
れているのを見ることができました。
ておりませんでした。調べているうちに、烏猟は泊、
またダージリンでは、かつてのチベットの対中レ
業と異なり、湖上一円に彦根務の支配が広く及ぶよ
(
f4つの河、
うになることが明らかになってきました。その成果
6つの山脈jの意)の生き残りのメンバーにも会う
は、本学教員や県内自治体の文化財担当者の方々で
ことができ、想い出深い旅となりました。
機成される 「
環琵琶湖地域文化研究会」で
幸l
i
常させ
ジスタンス組織、チュシ ・ガントゥク
一旦1-1本に戻り、 4月から再び、大学の長期研修
の制度を利用してインドへ行きました。今回はチベ
ット亡命政権のある夕、ラムサラから、インドヒマラ
ていただき、皆様から御指導いただきました 。現在、
成果の一 部を原稿化 したと ころです。
学 11-] 古文-占の ~~Jl唱は順調です 。 堅 FFI 辻家文書、野
ヤ山中のラホール、スピティ地方を訪れました。 ラ
洲村野円家文書、稲里村藤野家文古の整理を併行し
ホールは、以前フィ ールドワークをおこなっていた
1のデータをパソ
て行いました。堅田辻家文書はー音¥
懐かしい土地です。 この 7年程は訪れる機会が無か
コン入力しました。野洲村野口家文書は 4凶生の博
ったのですが、以前世話になった家族に再会してみ
物館笑習で整理を行ったもので、 2日間で何とか目
ると、僕が子守をしていた赤ちゃんは可愛い少女に、
録をとり終えることができました 。成果は、 『
学芸
おじいさんはもっとおじいさんになっていました。
員IDll程報告書』第 3号 (
2001年)に掲載されており
社会の変わり方も激しく、各家には電話が引かれ、
ます。 また、稲里村藤野家文書は古文書研究 Eの受
そればかりではない、村の対岸の 1
1
1
]
"まで出かければ
講生と有志数名とで整理を行い、現在目録入力の段
インタ ーネット ・カフェ(!)で Eメールを送るこ
階です。付袋入れ、編年作業、目録作成の過程で、
ともできるようになっていました。全く現実は、僕
学生が崩し字を l
徐々に読めるようになっていくのを
の想像力の遥か彼方で動いているようです。
目にするのは、当方としても大変嬉しく、指導のし
またスピティという所は、中国因坊に近いために、
がいがありました。 これらの作業を通じて、皆が家
以前は入ることの困難な地域でした。その為今回初
や地域に残る肯文書に対する意識を高めてくれるこ
めて訪れることができたのですが、その風土ばかり
とを願いたいものです。
ではなく 言語や習慣、社会システムのあり様などが、
この他、水野章二団長の下で旧木津荘域(現新旭
チベットそのものであるような印象を持ちました 。
町)の調査に昨年同様参加したり、教育委員会の
今回は長期間のフィ ールドワークをおこなうことは
方々と県内の古文書調査等に参加したりしながら、
できなかったので、是非再訪して調査をしたいと思
近江のことを勉強する日々が続いています。 また、
います。
夏には魚市場の見学のため香港に行きました。塩干
論文としては 『人間文化 J8号に『越えるもの、
魚、の市場では、鱗鰭が地面に散らばっていたり、見
モ ンゴルにおける仏教リパイパリ
慣れない海産物があったりで、興味深く見学しまし
ズム j、『
女性史学 J1
0号に「チベットの女性聖者の
た。近江のことも漁業のこともまだまだ勉強すべき
物言昔ーシュンセプ ・ジ‘ェツン ・ロチェン・リンポチ
ことだらけです。
結びつけるもの
ェ自伝」 を掲載しました。
108・人間文化
-編集後記・
本号では、退職される生活文化学科の二人の先生、
杉本先生と栗田先生の専門分野にちなんで、食生活
コー ス と 、 人 間 関 係 コ ー ス の 先 生 方 を 中 心 と し て 二
つの小特集を組みました。改めて、我が人間文化学
部 の 先 生 方 の 研 究 領 域 の 拡 が り 、 バ ラ エ テ ィの豊か
さを感じました 。 またそれと同時に、学部を単なる
寄り合い所帯で終わらせるのではなく、学問領域を
ク ロ ス オ ー バ ー さ せ る る こ と に よ っ て 、 よ り豊かな
成果を挙げる場とする可能性もあるのではないかと
も感じました 。
本 号 に 杉 本 先 生 が 「 雑 談 の 効 用 Jと し て お 書 き に
なられたように、異なった学問分野の者が、知的な
交流を深め、刺激を相互に与え合うことによって、
学部の活力はより 一層増してゆくのではないでしょ
うか。
本 「 人 間 文 化j が そ う い っ た 知 的 交 流 の 場 、 発 表
の場となってゆけば編集担当者としてこれ以上の喜
i
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工・町なみの点最
(
5
)
びはありません。
(
棚i
頼慈郎 )
木之本町木之本の木製看板.
北国街道旧木之本宿、木之本地蔵で知られる浄信寺のほど
近くに建つ町家の軒下に、古い木製の看板がずらりと下がっ
ている 。すべて薬の看板である O 薬局を営むこのお宅は、江
編 集 委 員.
灘 本 知 憲 面 矢 慎 介 林 博 通・
竹下秀子 棚瀬慈郎
戸時代には代々本陣を勤めていた家で、 1
8世紀前半に建てら
れた町家は、宿内最古かつ随一の規模を誇る 。明治になり廃
藩置県後、現当主の三代前の当主が本格的に薬の販売を手が
けだしたといい、二代前の当主は日本薬剤師第一号の免状を
取得した方である 。以降現当主の息子の代まで凹代にわたっ
て薬剤師を受け継ぐ由緒ある薬屋である 。
ところで、薬業は昔から広告と縁が深い。現在でも柴は広
告宣伝が盛んな商品であるが、江戸時イ t
からそうであったら
しい。看板に関していえば、衝立看板、掛看板、屋根看板、
建看板などあらゆる種類の看板が作られ、また看板を立派に
することで薬への信用も高まるというので、木彫漆塗り、金
銀箔打ちなどをほどこした豪華な看板も多数残っている 。
写真の看板は明治、末から大正初め頃のものだそうで、下げ
看板あるいは吊下看板と呼ばれるが、上部の吊下用金具の他
に、持ちやすいように板の両側而に取手金具を取 り付けてあ
る。開庖 H
寺に厄から出して、夜に庖を閉める時には看板もは
ずして庖内にしまうためであり 、ちなみに閉庖のことを「看
板Jと言うのはここから来ている O 中には、浅田飴や中将湯、
万病感応丸などいまだにロングセラーを続けている薬の看板
もあり、広告としてはいまだに現役だともいえる 。
往時の宿先の風景をしのばせるこうした看板を探し歩くの
も、また楽しいものである。
写真・文/山 根 胎l
人間文化
滋賀県立大学人間文化学部研究報告
1
0
号
10号
発行 日 2001年 3月31日
発行滋賀県立大学人間文化学部
干5228533滋 賀 県 彦 根 市 八 坂 町 2500TEL0748288200附
発行人杉本悦郎
印刷サンライズ印刷株式会社
本誌は再生紙を使用していま 9。
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