カンボジア視察研修報告書(復命書)

カンボジア視察研修報告書(復命書)
平成 20 年 2 月18日
岡山県議会議員
1,視察目的地
波多
洋治
カンボジア
2,旅行日程
1日目 2月2日(土) 岡山県庁⇒関空⇒バンコク経由カンボジア:シェリム
アップ(泊)
2日目
2月3日(日) アンコール・トム遺跡,タ・ブロム視察⇒NPO 法人
ハート・オブ・ゴールド活動現場視察⇒アンコール・
ワット遺跡視察(シェリムアップ泊)
3日目 2月4日(月) 四輪駆動車にてタサヱンコミューンへ⇒地雷原探索
視察とタイ国境地域集合村視察⇒コミューン関係者
懇談会(夕食)(タサエンコミューン/JMAS 宿舎泊)
4日目 2月5日(火) 地雷原視察⇒殉職者慰霊碑参拝⇒井戸視察⇒タサエ
ンコミューン∼バイリン(昼食)∼バッタンバンへ⇒
JMAS 事務所訪問:ブリーフィング(バッタンバン泊)
5日目 2月6日(水) 四輪駆動車にてバッタンバン∼コンポンチュナム(昼
食)∼プノンペンへ⇒NPO 法人 AMDA カンボジア支
部長・JMAS 幹部・HG(ハートオブゴールド)幹部と
の面談懇親会(夕食)(プノンペン泊)
6日目 2月7日(木) 故高田警視(文民警察)慰霊碑参拝⇒ジェノサイドミュ
ージアム視察⇒日本大使館公使・政府役人(総務局
長・次長)合同懇親会(昼食)⇒国立博物館視察⇒プノ
ンペン空港∼バンコク経由関空へ⇒(機内泊)
7日目 2月8日(金) 関空着⇒岡山県庁
3,参加者
団長
戸室
団員
副団長
波多
事務局長 渡辺
加藤
岡崎
小倉
小田
岡本
井元
小林
江本
以上:岡山県議会議員11名参加
1
4,はじめに(妻への便り)
第1便 2/2(土) AM4;30 起床 前夜ほとんどの用意を完了,県庁 AM5:40 集
合
バスにて関空へ。搭乗手続きを済ませ,AM11;10 発
タイ国際航空 623
便にて,一路バンコクへ。時差2時間有り(タイ・カンボジア共)。バンコク
エアウェィズ 907 便に乗り換えて,シェムリアップへ。バンコク空港にて「ラ
ーメン」と「アサヒビール」を食す。腹の空いていたせいもあろうが,とて
も美味しかった。真っ暗なシェムリアップ空港到着は,PM7;00 (日本時間
PM9;00)
第2便
ほとんど街灯もネオンもなく,高層ビルも見当たらず,街全体が
薄暗い。人口10万人程度と思うが,ここが彼のアンコールワット,アンコ
ールトムなどを始めとする東南アジアでも最大級の石造大伽藍群が訪れる者
の感動と興奮を誘うという街だ。ホテルに向かう途中,フランス料理店に寄
って夕食,名前は分からないが,シャレた味のする料理であった。白ワイン
が美味しかった。ホテル到着,五つ星の最高級ホテル,ビクトリア アンコ
ール ホテル,PM11;30 に眠りに就いた。
第3便 2/3(日) 起床 AM5;00 アンコールワットに昇る太陽を拝むため
に,4人のメンバーで早起き,真っ暗な街をマイクロバスでアンコールワッ
トに向かった。生憎の曇り空で終に朝日を見ることが出来なかった。夜が明
けて,周囲を見渡すと,実に大勢の観光客が陣取りをしていた。入場料は1
日終日券で20ドルであった。800 年前の遺跡群が,どれほど多くの人の生
計を支えていることだろうか。
第4便
終に,アンコールワットに注ぐ朝日を見ることが出来なかった。
灰色の雲が空を覆い,わずかに朝焼けの雲を見るだけだった。しかし,結果
として,その曇り空は,今日一日の研修に最高の気温をもたらした。AM9;00
先ず,アンコールトムに向かって車を走らせた。アンコールワットから北へ
約1キロ半,アンコールトムの南大門の城壁にたどり着く。アンコールトム
は,1辺が3キロメートルの広さを持ち,その中に,パイヨン寺院を始め,
アーオン神殿,王宮,象のテラスなど多数の遺跡が続いている。
パ
第5便 アンコールの意味は,サンスクリット語のナガラ(国家)から出た
言葉で,都市国家を意味している。トムはカンボジア語で,「大きい」とい
う形容詞であり,従ってアンコールトムの意味は,大都市国家のことである。
一般にカンボジア人は,アンコールワットを小アンコールと呼び,バイヨン
寺院を中心にした,この城壁内を大アンコールと呼んでいる。アンコールワ
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ットを通り過ぎて,アンコールトムに到着すると,丁度南大門の正面から入
ることになる。
第6便
大門の前面には,通路の両側に巨人の石像が,左右それぞれに5
4体ずつ並べられていると言う。右側の巨人達は目が丸く,髪が縮れ,恐ろ
しい風貌の中にも,ユーモアを帯びた顔をしているが,左側の巨人達は鼻筋
が通り,整った容貌をしている。右側の像はアシュラ(阿修羅)で,左側はデ
ーヴァ(神々)である。アシュラや神々は,綱引きをするような格好で大蛇を
抱えているのである。(便りは第6便で終った)
5,アンコール・トム
アンコール・トムの城壁は,堀によって囲まれ,蛇を抱える巨人の石像は堀を渡る石橋
の欄干の役割を果たしている。城門は高さ20メートルの砂岩を積み上げて築かれている。
城門の上部の巨大な四面像は,ジャヤーヴァルマン七世の信仰した観世音菩薩である。
顔の長さは約3メートルもある。城門は,かつて王や将軍が象に乗って出入りをしたもの
であり,その左右には三つの頭を持つ象が彫刻されている。この象は鼻で蓮の花をつかん
でおり,雷神インドラの乗用獣アイラーヴァタである。
大アンコールの中心寺院であるバイヨンは,東西南北の各大門から1キロメートルのと
ころに位置し,岩石を山のように築き上げた壮大な寺院である。この寺院は,仏教を信仰
したジャヤヴァルマン七世により,大アンコールの中心寺院として建立されたものであり,
王のもっとも崇拝した観世音菩薩の巨大な四面象がそびえ立つ多数の塔に刻まれている。
観世音菩薩は「クメールの微笑」と言われる通り,荘厳さの中に優しい微笑みを浮かべて
いる。観世音菩薩の像は全部で 196 面ある。また,中心塔の高さは約45メートルに達す
る。顔の長さは1メートル75センチから2メートル40センチであり,頭部は蓮の花形
をしており,バイヨン様式と呼ばれる独特の塔を形作っている。
このバイヨン寺院は,チャンバ軍に占領されていた祖国を回復したジャヤーヴァルマン
七世が戦勝を記念し,永遠の平和を願う意味から建立したと伝えられる。静寂の中にそび
えるこの寺院には,「死者の門」を通る勇者の菩提を弔い,菩薩の慈悲により,己が罪を永
劫の彼方に滅却しようとする王の悲願が込められている,と言う。
バイヨンの北へ約200m進むと,青々とした芝生の王宮前広場に出る。左側には象の
テラスが続いているが,その手前,南端がパブーオン寺院である。パブーオンとは隠し子
という意味である。この名称の由来は,昔兄弟であったシャム王とカンボジア王との悲し
い戦いの歴史から生まれたものであるが,破損状態がひどく,一見廃虚とも見える寺院で
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あり,今なお粛々と修復作業が続けられている。
パブーオンは,9世紀の第一アンコールの中心プノン・バケン(山上の遺跡)と12世紀
の第3アンコールの中心バイヨンの丁度中間期,第2アンコール王朝の菩提寺として建立
された,と言われている。もし,中央塔の回廊などが崩壊や破壊を免れ,そのまま残され
ていたならば,この寺院は,数多いアンコールの遺跡群の中でも特に美しい雄姿を示した
であろう,と言われている。
王宮は東西600メートル,南北300メートル,高さ5メートルの二重の城壁に囲ま
れている。ここには有名な象のテラス 0 はじめ,五つの城門と王のテラスなどが残されて
いる。
アンコール・トムの次に訪れたアンコールワットとて,同様であるが,いずれの遺跡の,
あらゆる箇所の,あらゆる石造建築・城壁・城門そして数々の石仏像には,破壊に次ぐ破
壊が繰り返され,どれ一つとして完成品はなく,実に無惨極まりなく,その荒廃の凄まじ
さに,ただため息を漏らすだけである。戦争による破壊があったであろうし,自然の災害
もあったかも知れない。今また,大木の根による破壊が進行している(それはそれで観光ス
ポットにはなっているが)。大木の根は,全くの手入れもなく,次々と城門や石像の建築物
を破壊しながら天に伸びている・・・・・・
6,アンコール・ワット
いつ,だれが,どのように,なんのために,この驚くべくアジアのピラミッドを建造し
たのだろうか? だれが,このように正確な,整った設計を行い,どこからこれだけ大量の
石を切りだしてきたのだろうか?
アンコールワットの東北約13キロにボック山,南南西約14キロにクロム山,東北約
40キロにクレーン山がある。建造に用いられた砂岩やラテライトなどの石材は,おそら
くこれらの山から切りだされたものと言う。切りだされた石は,いかだに積み,水運を利
用して運んだものと想像される。遺跡の石に二つずつ小さな穴が刻まれているのは,運搬
の時,棒をさした跡だと言われている。
アンコールワットは,それを囲む堀と,参道と,三つの回廊と,中心部の五基の塔と,
それらを結ぶ階段や石門から成り立っている。堀は南北 1300 メートル,東西 1500 メート
ル,幅 190 メートルあり,ラテライトと砂岩によって築かれた高さ3メートルの石段で縁
取りされている。この石段の全長は10キロ以上にもなるという。
参道は,西側から入る表参道と東側から入る裏参道の二つがあり,門は東西南北の4箇
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所に設けられている。境内を進み,中心部に達すると,そそり立つ五基の塔を囲み,三重
の回廊が巡らされている。第一回廊の長さは南北 180 メートル,東西 200 メートルあり,
壁面は余すところ無く,浮き彫りで飾られている。第二回廊は南北 100 メートル,東西 125
メートル,第三回廊は1辺 60 メートルあり,中央塔の高さは地上 65 メートルに達する。
7,ハート・オブ・ゴールド
被災地や開発途上国などの子供達,障害者,貧困者層の人々に対して,スポーツや教育
その他の活動を通して,自立につながる事業を行い苦境に立ち向かう人々や子供達が人生
にチャレンジする為の「勇気と希望」を持つことが出来る機会創造に寄与することを目的
としているハートオブゴールドの,
「日本語教育支援」の為に活動している檜尾先生と懇談。
地元の小学校の一角に日本語教室を展開,岡山県の学芸館高校との交流活動(今春より1名
の留学生派遣),無報酬でのボランティア活動,など氏の意欲的・献身的な取り組みに感動。
懇談会の後,現地日本語学校の視察と実際に教室で学んでいる子供達の生き生きとした姿,
心血を注いで作った,正に手作りの学習教材,教師現職時代の「誠意を尽くせば必ず子ど
もは変わる」という信念,そして師として仰ぐ檜尾先生への子供達の信頼感,実に新鮮な
感動であった。
「人はみだりに人の師となるべからず,真に教うべくことありて,人の師となりぬ(吉田
松陰)」の通り,カンボジアという辺境の地にあって,クメール語も話せず書けず,劣悪な
社会環境の中にあって,「この子らに愛を」「この子らに生きる力を」と心に刻みながら,
齢60を越えてからの格闘は,ただただ敬服と敬意,感謝の誠を捧げるだけです。
8,地雷原探索視察
◆ JMAS「ジェーマス」について:特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会」Japan
Mine Action Service
①事務所所在地 〠162-0845 東京都新宿区市谷本村町 13-18 エムズビ
ル5階 ☎03-5228-7820 FAX 03-5228-7821
②カンボジア・プノンペン代表事務所 NO.170,St.156.angkat Toek Laak
Ⅱ Khan Kork Phnom Penh CAMBODIA
③設立年月日 2002 年 6 月
④目的 この法人は,地雷(対人地雷,対戦車地雷,不発弾及びこれらに
類する爆発物)に苦しむ地球上のすべての地域と人々に対して地雷処理
の支援・協力に関する事業並びに各種組織が行う活動に協力する事業
を行い,全ての地域と人々の自発的発展に寄与することを目的とする。
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⑤地雷処理事業:カンボジア王国・西部における住民参加型の地雷処理事
業を実施⇒支出見込み額:7,500 万円 (他事業については割愛)
⑥タサエンコミューン村⇒高山氏に会う!
シェリムアップより北西数百キロ,四輪駆動車(パジェロ)にて5時間
半,未だ舗装されていないデコボコ道という過酷な道路状況の中,人
口約6000人程度の,タイ国境に近い,タサエンコミューン集合村
に向かった。そこでお会いした「高山
良二」氏は,義に篤く,純真
で,正義感に燃え,勇気ある,誠に爽やかな日本のサムライでありま
した。彼は地雷処理の専門官であり,現地の最高指揮官であります。
⑦地雷原探索をしている現地の山中に案内されました。高山氏の後につ
いて,蛇のようにうねりながらついていきました。所々に地雷の危険
を知らせるドクロマークの立て札が立っておりました。途中最近,対
戦車地雷によって犠牲となった家も立ち寄りました。現地に着くと,
防護服に身を固め,プラスチック製の仮面を被り,地を這うようにし
て探索している人,金属探知器で探査している人達がいました。この
野も山も畑も,金属探知器で,反応が無くなるまで,地道に,粘り強
く,続けられていくのです。ポルポト政権下の,わずか4年間の期間
に,埋められた地雷の数は,400万個から600万個に及ぶという。
彼らが1年間に発見する地雷の数は,せいぜい1万個,実に400年
から600年間かかるという,気の遠くなる作業だ。
⑧高山
良二氏の報告書から
バッタンバン事務所
地雷処理専門家
高山
良二
『地雷で負傷した村民の救援』
2006年12月26日(火)、午後3時ころカンボジア、バッタンバ
ン州カムリエン郡タサエンコミューンのオ・チャムロン村の畑の中で、2
0歳代の既婚の男性が対人地雷を踏んで右足に重症を負いました。午後は
ちょうどオ・アンロック村の04小隊の現場指導をしている時に01小隊
長から「オ・チャムロン村で地雷による怪我人がでました。私とメディッ
クは現場に行きます」と無線で連絡が入りました。ちょうど、NHK松山
放送局の安藤ディレクターが04小隊が作業している地雷原を取材中でし
たが、急遽、オ・チャムロン村の負傷者が出た現場に急行しました。
現場ではMAG(イギリスの地雷除去のNGO)のメディック他数名の
隊員と01小隊の小隊長、メディックが応急治療をしていました。すぐに
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MAGの責任者と病院への搬送などを調整しましたが、MAGは車両を出
せないというので、CMAC、DU2のマネージャーと電話で調整しCM
ACの車両を出してバッタンバン首都にあるエマージェンシー病院に搬送
することを決心しました。3時間半はかかりますが、地雷などよる負傷者
の専門治療が優れている病院ですのでそう決心しました。
今回、地雷による怪我人が出たと言うことは残念ですが、村民の救護、
CMAC、JMAS、MAGなどのスタッフの連携、特にメディックの適
切な応急治療はすばらしかったと思いました。
事故原因など詳細な調査は今後実施する予定です。
『無事故の祈り』
カンボジアの人々の誇りとも言われているアンコールワット、そのアン
コールワットで2007年の初日の出を拝みながら、住民参加型地雷処理
事業に携わっているデマイナー(地雷探知員)に本年も怪我のないことを
祈った。
『これが村の現実(タサエン集合村)
』
カンボジアの正月は4月13− 14− 15日ですので新正月は普段の生
活です。
(1日は休日)今日、3日(水)もいつものように、村に行って
活動しました。大変悲しい出来事に遭遇しました。しかし、これがカンボ
ジアの現実なのでご遺族に断って写真を撮りました。そして、事実のまま
日本の皆様にお伝えしょうと思いました。
悲しい事故を防ぐため、急遽村長さんたちと話し合いをして、対策を考
えて下さるようにお願いして帰りました。
1月3日の行動を報告します(写真割愛)
一日の始まり2007年1月3日のタサエン村の朝日です。
1月3日(水)、06:00起床、シャワー(池から汲んできた水をかぶ
る)で外に出たら、
「マオ」(隣の家の子犬)がいたのでバナナをやった。
バナナよりも私と遊びたかったようだ。マオ(お隣さんに聞いたら名前は
ないと言うので、日本の私の愛犬と同じ名前を付けた)は実に頭がいい。
05小隊が作業しているオ・タクラー村までは車で1時間、途中で行商
に行くモトバイに会った。村に到着し、村長さんと一緒に概成した井戸の
確認に行った。水はOK。後はコンクリートで洗い場とサインボード(ネ
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イムプレート)を作れば完成。小川で水汲みの子供に会った。生活用水全
てに使う水は、池や川、手掘りの井戸などから汲んできて使う。子供たち
の仕事だ。重たい水を天びん棒で担いで家まで運ぶ。
悲しみに遭遇
ちょうど近くの手堀のため池で昨日(2日午後3時半ころ)、少女が溺
れて亡くなったと言うので、その現場に行って状況を聞いた。一人で水汲
みに来て誤って落ちたらしい。
お葬式の準備をしている家に行った。パール・パリーさん(15才)4
人兄弟の上から2番目、両親と6人家族だったと言う。パリーさんは黒い
布に包まれて安置されていた。パリーさんは何事もなかったかのように、
眠っているような感じだった。悲しさで胸が張り裂けるような思いを抑え
てご冥福をお祈りした。カンボジアの風習に従ってご遺族にお悔やみを告
げた。「悲しくて言葉がありません」と。
地雷処理現場の指導
お参りを終えた後、直ぐ近くの地雷原に到着するまで、涙が止まらなか
ったが、気分を切り替えて05小隊の作業指導に行った。デマイナーが怪
我をした時には、無線連絡によりヘリコブターが来ることになっている。
(ランディングゾーン)05小隊の作業現場は、昨日から新しい地雷原に
なった。IDNoはM7693、地雷原面積は約20ha、使用目的は畑。
作業をするデマイナー。気温も30数度ある。
家の周辺やバナナ畑の中も地雷原。生活をしている家も地雷原の中にあ
る。昼食は11時半から。小学校の教室で昼食をとった後、デマイナーと
雑談。先ほどの安置されていた少女の顔と、デマイナーの顔がダブって見
えて複雑な心境であった。結婚式の準備を手伝っていた男性に聞いた。1
985年に内戦で戦っていた時、地雷を踏んでしまったと言っていた。
地雷原の指導を終え、今度は明日の結婚式(デマイナーのお姉さん)の
準備で料理を作っていると言う。実に楽しそうだ。私は今日ばかりは底抜
けに明るい気持ちにはなれなかった。その近くで井戸掘り業者のMrボン
メイ一家が井戸掘りの作業をしていたので、事後の作業の調整をした。「道
が悪いので器材を運ぶのに大変だ」と言う。完成しなければお金は渡さな
いと言って激励した。
手前の家は結婚式(今晩は前夜祭でみんなで踊ると言う)、100mほ
ど向こうにあるブルーシートの家は夕方からお葬式・・・・・
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これが村の現実・・・・・
結婚式に誘われたが今回はお断りをした。
結婚準備の家を後にして、近くの家でおばあちゃんが双子らしい孫を見
ていた。
やや心が落ち着く。安らぎを求めて1時間かけてデ・クロホー
ム村まで帰ってきた。ダムン(芋)の干芋を満載にしたタイの大型トラッ
クがゆっくりタイ国境に向かっていた。
宿舎に 3 時頃帰って遅い昼食を取った。今日は日本から持参していたカ
レーのグーをハウスキーパーに作ってもらった。副食はスイカ。夕方5時
頃、村に行った、いつものようにみんなで出迎えてくれた。ター、ター(お
じさん、おじさん)と言って着いてくるちびっこたち。井戸が完成したの
でみんなで井戸の周りで遊んでいた。TBSの取材クルーの皆さんからの
プレゼントだ。バナナの木の向こうに夕日が沈むころ、水浴びをする子供
たちと井戸で遊んだ。村人はいつものように夕食の準備をする。
(豚肉の
炒め物)こちらは鶏肉の焼き物こちらはどうも新婚さんの夕食準備で奥さ
んが焼き魚を焼く。若い旦那さんが、焼き魚と一緒に食べるスバイ(あお
マンゴーのスライス)を刻む。悲しいこと、楽しいこと、全てを包んで夕
日はタイ国境に沈んでいった。
『地雷除去跡地に学校建設始まる』
2007年1月4日(木)04小隊の地雷処理現場指導に行きました。
04小隊の地雷処理作業現場近く、タサエンコミューンの復興の重要な地
域である「147高地周辺」。その147高地で地雷を除去した跡地に中
学校の建設が始まりました。通称147高地と呼んでいるこの小高い丘は
内戦当時、ポルポト軍とベトナム軍の間で激しい争奪が繰り返された緊要
な場所だったようです。発見される地雷は中国製、ソ連製、ベトナム製が
殆どです。
中学校が建設される工事が始まった147高地の麓。しかし、周囲はま
だ地雷原です。04小隊はこの現場近くの地雷原で作業をしていますので
緊密な情報交換が重要です。工事を担当するのはコンポンチャム州のKM
Lという建設会社。ヨーロピアンファンドが使われるようです。現場責任
者のMr.オッチナーに周囲の地雷原について説明しました。9名が現場
に居住して作業をしています。
40m×9mの基礎工事中の現場。平屋建ての5教室1棟をまずこの乾
季間(4月ころまで)に建設の予定で、残り2棟はファンドが付けば建設
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される予定です。
地雷処理現場指導を終え帰ろうとした時、近くのデ・クロホーム村の村
人から「畑の中に不発弾があります」との情報が入り、早速現場に行って
確認したところ対戦車ロケット弾や迫撃砲弾が50発程見つかりました。
早速CMACのEODチームに連絡し、回収しました。村民に聞いた話で
は、畑の持ち主は探知を商売にしている人に1600� を6万リエル(約
$15)で探知依頼したと言っていました。畑の中から発見された50発
程の不発弾種は移動可能と判断しEODチームの車両に積載し,夕方までに
全てを回収しました。
『信頼は住民とのふれ合いから』
昨日(1 月9日)夕方、思いがけない、楽しいこと出会いました。村の
民家の建築現場を通りかかった時、村の大工さんたちとスラソー(カンボ
ジアの米で作った焼酎)をみんなで回し飲みになりました。皆さんはスラ
ソーのことを「サクライ
サムライ」と言います。以前、西元会長が来ら れ
た時に頂いた日本酒「侍」をスタッフで飲んだ時、私が「サムライ」と言
ったことや、私が一時帰国の時に日本酒を持ってきて、スーパーバイザー
に飲ませたのがいつの間にか村人の言葉になっていることに驚きました。
昨日も、回し飲みの時、一人の青年が「サムライとはどういう意味です
か?」と聞いてきました。私は新渡戸稲造の『武士道』を思い出し、「日
本人の心です」と答えました。
(説明が不十分と気がついてはいました
が・・・)青年は解らない(当然ですが)様子で、更に「それはどんな意
味ですか」と尋ねてきました。私は、「人のために正しいことをすること
です」と言いました。
う∼ん・・・少し納得した顔をしていました。こ
のサムライの話はまたしましょうと言って、ご馳走になった御礼を言って
タイ国境に沈む夕日を見ながら宿舎に帰りました。
2007年1月9日(火)、夕方村の井戸を見に行った帰りに、村人に
呼び止められた。村の大工さんが家の建築のための作業をされていた。
ンボジアは鋸もカンナも日本とは逆で押して使う日本とカンボジアの道具
カ
の違いなどいろいろ話すと実に面白い。村人はみんな私のことを知ってい
る。村人とたわいのない話をするのは本当に面白い。
デマイナーの家族
もおられた。小さな椰子の葉の家に住んでいる方の家を作るようだ。今度
は立派な木の家を作ると言う。
まずまずの家で建築費は約$5000∼
10
$7000(約80万円)かかるようだ。家の依頼主がスラソー(カンボ
ジアの米で作った焼酎)と漬物を持ってきた。
仕事はおいてみんなで回
し飲みになった。私にも廻ってきたので、ちびりと飲んだ。ちびりと飲ん
だことに皆さんは「グーッと一気に飲み干しなさい」と言っている。嫌い
ではないのでグーッと一気に飲んだ。皆さんは大喜び。日本の高知県の飲
み方に似ている。実に旨い。そのあと「サムライ」の話になった。国際貢
献活動は、その国の住民に溶け込んだ生活がとても重要だと思います。信
頼はそんなところから自然と生まれてきます。そして、たわいのない話の
中から、お互いの文化の違いや考え方、価値観などが自然と出てきて、お
互いを理解し合うことができるようになるのだと思います。
(以上で高山さんの報告記を終ります。写真は割愛させていただきましたが,氏のお便り
で,村人の思いを進取に受け止め,地雷探査の最前線で格闘している氏の人柄や村人の様
子が良く伝わってきます。)
9,地雷爆破
2月5日(火)
昨晩は高山氏も一緒に,村の人達や村長さん,それに昨日訪れたタイ国
境警備隊の軍人さん達と,炭火の肉のシャブシャブを食べながら,楽しく愉快な懇談会を
した。小生は,アトラクションで空手の形を演武,拍手喝采を浴びた。結構アップテンポ
のカンボジア民謡もみんなで踊った。地雷のことなど忘れた平和で穏やかなひとときであ
った。
5時起床,真っ暗ではあったが,久しぶりに鶏の「コケコッコー」の鳴き声で目が覚め
た。昨晩は床の上に1枚のござを敷き,1枚の肌着を掛け,蚊帳を吊って眠りに就いた。
疲れていたせいもあり,ぐっすりと眠れた。床の上も背筋が伸びて,健康にはいいかもし
れない。歯磨きも洗顔も,溜めた水を使った。トイレには紙はなく,溜めた水で,指を使
って尻を吹いて流した。それから少しばかり,空手の突きと蹴りの,寝覚めの運動をした。
今日は始めに,昨年の1月,対戦地雷によって7名の尊い犠牲者の慰霊碑にお参りを致
しました。この時の詳しい様子を伝える高山氏の報告記です。
地雷処理専門家 高山
良二
『地雷原で地雷が爆発7名が死亡』
1月19日(金)、午前8時45分ころバッタンバン州
カムリエン郡タサエンコミュー
ンオ・チャムロン村で地雷が爆発して7名が死亡しました。
怪我人はありません。当初
19日に速報しましたが、その後の状況をご報告します。19日の段階では、遺体の確認
11
により4名の死亡が確認されましたが3名が確認できず行方不明として発表していました。
しかし、現場の目撃者の情報から3名は小隊長の Mr.デップ チューン、チームリーダ
ーのMr.タン ダエン、デマイナーのM r.チョン ルーンであることが分かっていまし
た。園部代表が現場に駆けつけて状況を把握すると共に、夕方7家族を訪問し哀悼の意を
お伝えしました。この間帰国のためPNPにいた高山は急遽帰国を取りやめBTBを経由
してタサエンに夜帰りつきました。
20日は殉職した隊員の7家族が朝から自宅で葬儀をしました。園部代表はタサエンの
宿舎で諸々の処置事項をすると共に、高山は7家族を訪問し葬儀に出ました。6家族はタ
サエン内でしたが、1家族だけは3時間ほど離れたコミューンでしたので、葬儀が終わっ
てタサエンに帰り着いた時は夕刻になっていました。その日は隊員は葬儀に参加したので、
行方不明者の捜索には一部の者が参加し、大半は親戚や村人が捜索をして、小隊長のMr.
デップ チューンとチームリーダーのMr.タンダエンの遺体を発見したと聞きました。証
言では一人は170m、一人は220mも爆発地点から飛ばされていたと聞きました。2
1日はまだ発見されていないデマイナーのMr.チョン ルーンの遺体を捜索しました。親
戚、近所の方、CMACの方、CBDの仲間が現場で捜索し、昼前に地雷原の中で発見さ
れました。爆発地点から150mほど離れていました。親戚が現場で荼毘にして遺骨を持
って帰りました。 まだまだ遺品や肉片などが散乱していましたので一部収集しましたが、
明日もう一度収集することにして帰りました。
22日は01と04小隊の隊員を集め、心のケアーや今後のことについて話しました。
その後現場に行って遺品や遺骨を収集し、お坊さんに来て頂いてカンボジアの風習に従っ
てお祈りをしてパコダに一時保管して頂きました。
23日は午前中、パコダでお祈りをして頂き、午後から高山は05小隊のいるオ・タクラ
ー村に行って隊員のケアーをする予定です。村人や隊員家族の今の気持ちは、村人はとて
も心配しています。家族はとても心配していることは当然ですが、大半の家族はデマイナ
ーを辞めて貰いたいと思っています。 隊員は大きな悲しみとショックを受けていますが、
大半はデマイナーを続けたいと考えています。村人も今は悲しいけども、このプロジェク
トを続けてタサエンから地雷を除けて貰いたいと強く考えています。関係者は心に大きな
傷を負っていますが、時間が経てば少しずつ癒えて来ると思います。
『地雷事故殉職者合同慰霊祭の報告』
2007年1月19日(金)、カンボジア
バッタンバン州の北西部タイ国境に接するタ
サエン集合村のオ・チャムロン村で発生した地雷による爆発で7名が殉職するという大惨
事は今日25日で初七日を迎え、タサエン集合村主催による合同の慰霊祭が執り行われま
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した。式には7名のお坊さん、7名の殉職者の家族、親戚、ケム・ソポアンCMAC長官
はじめ、バッタンバン州の副知事、カムリエン郡長、その他各機関の代表者、CMACス
タッフ、CBDProjectの同僚隊員、村人、園部代表他現地JMASスタッフなど
多くの関係者が参列し執り行われました。各代表者の哀悼のことばの後、フンセン首相の
哀悼のことばが読み上げられるなど、心のこもった式典でした。
今後は7名の犠牲者の尊い命を無駄にすることなく、このCBDProjectを継続し
てタサエンの地雷原を除去し、コミューンの復興に力を合わせることをみんなで誓いまし
た。日本の皆様からもご香典やご激励が多く寄せられています。大変有難う御座いました。
『慰霊碑の建設開始』
2007年1月19日(金)にカンボジア西部、タイ国境付近のバッタンバン州カムリエ
ン郡タサエン集合村において地雷探知作業中の7名が対戦車地雷の爆発のより殉職すると
いう大変悲しく残念な事故が起きてしまいました。その7名の殉職者を慰霊するため今月
初旬から慰霊碑の建設が始まりました。これは殉職者のご遺族や村民の皆さんが是非とも
慰霊碑を建立して殉職した7名を慰霊するとともに末永く彼らの業績を後世に伝えたいと
いう願いからのものです。CMAC(カンボジア地雷対策センター)とJMASは、村民
の要望を受け建設費などを共同で拠出するなど協力することになったものです。中でも事
故を知って大変ご心配して下さいました日本の皆様、特に愛媛の皆様から寄せられました
多額のご寄付の資金が使われることになりました。
建設場所は2005年1月から住民参加型地雷処理事業の草分けとして彼らが地雷探知を
して安全にした場所です。ここはタサエン集合村全体が見渡せる147高地という小高い
山の裾野に位置するタサエン集合村の管理地で将来はタサエン集合村のパコダ(寺院)が
建設される予定の場所ですまだまだ基礎部分の建設が始まったばかりですが、その様子を
写真でご報告いたします。
完成予定は11月30日です。村民の要望では来年の1月19日の一周忌までには完成
した慰霊碑の前でタサエン集合村主催の合同慰霊祭を行いたいと考えておられます。現在
は雨期の時期で現場までの資材等の搬入に建設業者は苦労されていますが、りっぱな慰霊
碑が建立できることをお祈りしたいと思います。
9月初旬から慰霊碑の建設が始まった。4m四方、高さが10.4m。基礎部分の建設時
に計測確認をした。現在3m82cm、完成した時点で装飾などでちょうど4m四方にな
る。新設されたタサエン中学校から約70mほど南に位置する。ここに将来はパコダのお
坊さんが居住する施設が建つ予定。7名の殉職者は毎日お経をあげて貰いながら、中学生
の成長を見守りながら安らかに眠って頂くものと思う。周囲は現在は大豆が植えられてい
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る。収穫後はきれいに整地される予定である。土地はタサエンコミューンの管理地で中学
校の敷地が100m×100m、パコダの敷地が100m×100mある。この敷地は2
005年に住民参加型地雷処理第一号となった#01小隊が地雷探知して安全な土地にな
った場所である。建設に携わる皆さんにこの慰霊碑が大変重要なものであることを説明理
解していただいた。「必ずりっぱな慰霊碑を作ります」と約束して下さった。中学校のそば
で寝起きして現在約10名が建設に携わっている。
「地雷爆破事故殉職者慰霊碑が完成」
昨年1月19日にタサエンコミューンにおいて住民参加型地雷処理事業の任務遂行中、
対戦車地雷の爆破事故で 7 名の方が亡くなられました。尊い犠牲となられた方々を慰霊す
るためにコミューン JMAS および CMAC(カンボジア地雷処理センター)の共同で建設されてい
た「慰霊碑」が去る2008年1月4日に完成致しました。
慰霊碑は高さ10.4m、底辺が4m四方の鉄筋コンクリートレンガ作りでコミューンの
概ね中心に位置する147高地の東側の裾野に造られました。この場所は殉職した隊員が
所属していた01小隊が2005年に始めて地雷除去した場所で、現在はタサエンコミュ
ーンの管理地になっております。北側約70mの位置には新しく建設された中学校があり、
慰霊碑のある場所周辺はタサエンコミューンのお坊さんが起居して生活する場所になりま
す。村の復興に携わった彼・彼女達の業績は、今後末永く村民や関係者にこの慰霊碑を通
して伝えられるものと思います。
心からご冥福をお祈りし、謹んで慰霊碑の完成報告とさせて頂きます。合掌
慰霊碑が2008年1月4日完成しました。東の方角に向いて建てられました。朝日を
受けて黄金色が輝いています。正面の右には『日本政府とカンボジア政府が協力して実施
していた住民参加型地雷処理活動においてタサエンコミューンのオ・チャムロン村の地雷
原で2007 年1月19日午前8時45分に対戦車地雷の爆発事故で7名の村人による地
雷探知員が殉職した。』と書かれ、その下には7名の殉職者の名前と年齢が書かれています。
サインボードにはプレゼントと書かれカンボジアと日本の国旗、そしてCMACとJMA
Sのロゴが書かれています。(以上で報告記を終ります)
今年の1月4日に完成したばかりの慰霊碑は,まさしく朝日を受けて金色に輝いてい
ました。未だこの慰霊碑の場所に至る道路は未整備で,四駆のパジェロも手こずるほどで
あった。お線香を供えてから,慰霊碑とはほど近い地雷原探索場所に移動した。 今朝ほど,
運良くと言っていいかどうか,11個の地雷原が発見され,爆破に立ち会うことが出来た。
ハンドマイクを使って,周辺住民へ避難の勧告がなされ,「バーン!」という凄まじい爆発
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音とともに黒煙を巻き上げた。百メートルは離れていたと思うが,それでも地響きのする
ような激しさであった。あんな地雷を踏んだら,誰しもが足を落とすか,悪ければ命を落
とすかもしれない。今更ながらに,地雷という無差別・非人道的・非人間的な武器に怒り
を覚えるとともに,命を担保にしながら懸命に探索しているデマイナーの心情を思うと,
出来うる限りの援助を惜しんではならないし,その最前線で指揮監督の重責を全うしてい
る高山氏に篤く感謝と敬意の誠を捧げたいと思います。
10,タサエンからバッタンバン,そしてプノンペンへ
デコボコ道をひたすら走り続けた。途中バッタンバンの街に入った。ここはカンボジア
北西部の大穀倉地帯であって,フランス植民地時代には大規模な米のプランテーションが
開かれた地域である。タイに近いこともあって,住民にはタイ系の人も多く,私にとって
はカンボジア料理は少し苦手だが,タイ料理は口に合って美味しい。ここで JMAS の事務所
を訪問 ,高山氏からのブリフィーングを受けた。その後,ゴールデンパレスホテルに到着,
シェリムアップのビクトリアアンコールホテルと比べれば,数段格は落ちるが,それでも
昨夜の,蚊帳を吊って寝た JMAS 事務所のことを思えば,まずまずのホテルではあった。ツ
ーリストの心憎いほどの配慮である。
美味しいタイ料理の朝食をいただき,プノンペンに向かってスタートした。
バッタンバンから更に南下,200キロメートル位は走っただろうか。プノンペンまで
後100キロメートルというところに,コンポンチャムと言う街で昼食。ここはメコン川
沿いにある都市で,天然ゴムの栽培が盛んであり,また米やトウモロコシの集積地でもあ
り,河川交通の要所ではあるが,メコン川はついにバスの窓外からしか見ることができな
かった。そして, プノンペン到着。ホテルは五つ星の,インターコンチネンタルプノンペ
ン。しばらく休憩の後,ホテル内で NPO 法人 AMDA カンボジア支部長の,活動レクチュアを
拝聴,各種災害における AMDA の救援活動の実態をパワーポイントで紹介された。
11,NPO 法人 AMDA カンボジア
◆ AMDA カンボジアクリニック:ACC (1997 年∼現在)
首都プノンペン市内において、主に社会的弱者と呼ばれる人々(貧困層、障がいをも
つ人々)への保健医療サービスの提供を目的としたクリニックを運営している。医師、
看護師、検査技師ら 12 名のスタッフにより、一般外来、小手術、各種検査などのサービ
スを提供している(現在、一時閉院中)。
◆ HIV 予防啓発プロジェクト (2005 年 8 月∼2007 年 3 月)
カンボジアでは 70 人に 1 人に相当する約 22 万人の国民が、HIV に感染していると推測
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されている。本プロジェクトでは、HIV 感染ハイリスクグループの中でも特に、近年、増
加している農村部から首都への出稼ぎ女性労働者を中心とした成人女性層と、中学校か
ら大学生の青少年層に焦点を当てた HIV 予防啓発活動を行っている。なお、本事業は、
公益信託アドラ国際援助基金、フェリシモ地球村の基金からの支援により実施している。
◆ コミュニティ開発プロジェクト (2003 年 4 月∼2006 年 3 月)
2003 年より 3 年に亘り、コンポンスプー州プノムスルイ地区にて、保健セ
ンターなど公的保健医療機関との協働のもと、地域住民の健康が住民自身の
手で増進されることを目的としたコミュニティ開発事業を実施した。2003∼
04 年度にかけては、保健ボランティアの発掘と育成、また地域住民の啓発活
動に重点を置いた。最終年度となった 2005 年度は、各村の保健ボランテア
を軸にした地域保健活動の推進と、公的医療機関との連携強化を目的とし
た活動を行った。結果、対象となった多くの村で、排水溝整備、衛生施設の
設置、栄養調理実習といった地域保健活動が企画・実施された。また、アウ
トリーチ活動への協力や、保健センターでの定期会合出席などを通じ、公的
医療機関と地域の連携強化が図られた。なお、本事業は、財団法人国際開発
救援財団からの支援により実施された。
12,最後の夜の懇親会
2月6日(水) 最後の夜は中華料理店である。そこで,ハートオブゴールドの山口さん,
JMAS カンボジアの山本さん,中島さんと合流,海外におけるボランティア活動の困難さに
ついて,ザックバランの意見交換会が行なわれた。特に HG の山口さんとは,向い席に座っ
たせいもあり,ボランティアの在り方について,熱く語り合った。安易に行政に頼ること
なく,真にボランティア活動に打ち込むことは,ある意味では命を懸けた仕事であり,時
間が少し余っているから,とか,お金が少し余っているとか,また体力が余っているから,
とかで,その幾ばくかを恵まれないこのカンボジアの人々のために奉仕したい,というよ
うな単純なことではない。思いもあるし,本気で取り組みたいから,資金の提供をお願い
したい,日本政府あるいは行政府,助けて下さい,などという安易な考えに陥るな。自ら
事業を興し,事業の収益をもってホランティア活動に奉仕したいというなら,それは理解
出来る。自らの命も削り,食えなくなったら死ぬ覚悟も肝要。しかし,それもしないで,
食えなくなったら助けて下さい,というのは如何なものか,とかなり手厳しい意見も申し
上げた。しかし,この地にあって,様々な思いや悩み胸にいだきながら,汗を流している
姿を見ると,ただただ感動するばかりです。
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13,故高田警視の慰霊碑参拝
1993 年5月4日,カンボジア・バンテアイミアンチェイ州の日本文民警察隊が武装集団
に攻撃され,高田晴行警視が殉職。1997 年,故高田警視の父・雅夫氏が,プノンペン郊外
のタン・コサーン寺院に慰霊碑を建立,線香と華を手向けるために参拝。異郷の地で,こ
の地の平和を願いつつ殉職された故高田警視に謹んで哀悼の意を表しました。
14,ジェノサイドミュウジアム
TUOL SLENG
続いての訪問は,ジェノサイド博物館であった。その残酷さは,とても同じ人間の仕業
とは思えないほど「凄まじい」の一語に尽きます。誰しも言葉を失ってしまうだろう。以
下,熊本大学法学部教授
北村氏の報告記を載せてみたい。
カンボジアの再生とポルポト裁判
北村 泰三 (きたむら やすぞう) 熊本大学法学部教授
■ はじめに
カンボジアの人権問題と将来の発展を考える上で切り離すことができない重要な課題
として、かつてのポルポト派の残した傷跡からどう立ち直るかという問題がある。このポ
ルポトとは、1975 年 4 月から 1979 年 1 月までカンボジアを支配した民主カンボジア共和国
政府の首相の名前である。その約 5 年にわたる統治の間、170 万人(300 万人という推計も
ある)とも推定される多数に対する大量虐殺行為の最高責任者でもある。いま、カンボジア
が過去の清算を果たし、真に民主的国家として再生し国際社会からの認知を得るために、
これらの大量虐殺の責任を明らかにするとともに責任者を処罰することが国際社会から求
められている。そこで、今回のツアーでの印象を含めて、ポルポト派裁判の意味について
簡潔に触れてみたい。
■ ポルポト時代の大量虐殺
ポルポト時代の大虐殺は「キリング・フィールド」(1984 年、米国作品)という映画にも
取り上げられたことがあるので、一般に知られていると思われる。しかし、映画化されて
から、既に 20 年近く経過しているので若い方の間では知らないも人も少なくないだろう。
ポルポトは、政権を奪取した直後から、プノンペン市民を強制的に農村部に移住させ、
農業生産に従事させ、自力更生の原始共産主義革命を実現しようとした。しかし、この強
制移住だけでも多くの犠牲者を生み、その後の苛酷な強制労働による栄養失調、飢餓、病
死によりさらに多くの人々を死に追いやった。また、猜疑心の強いポルポト派幹部は、同
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胞を徹底的に管理し、それに従わない人々を次々に拷問し、処刑に追いやった。そのよう
な急進的なポルポト派は、結局内部路線の対立から隣国ベトナムの介入を招くことになり、
1979 年 1 月にベトナムの支援を受けたヘン・サムリン政権によってプノンペンを追われた。
以後、タイとの国境付近の密林地帯に逃げ込んで、プノンペン政府に対して武装ゲリラ闘
争を継続した。
1993 年、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)の下で総選挙が実施され、カンボジアは、
民主主義と市場経済を軸とする立憲君主国となった。その後もポルポト派は、タイ国境付
近の一部地域を支配し続けたが、次第にその勢力は弱体化し、1997 年には武装解除に応じ
て投降した。同時に、ポルポトをはじめとする虐殺行為の責任者の刑事責任を問う声が高
まった。しかし、そうした中でポルポト自身は何等の罪を問われることもなく、1998 年に
この世を去ってしまった。
■ ツゥール・スレン虐殺博物館探訪
そのポルポト時代の大量虐殺の事実を今に伝えるのが、ツゥール・スレン虐殺博物館で
ある。8 月 6 日午前、ツアーの一行は、プノンペンの市内南部にある同博物館を訪れた。こ
こは、かつてポルポト時代に S-21 収容所と呼ばれた虐殺収容所の跡である。建物は、かつ
て中学校であったためか、遠目には瀟洒に見えなくもない。しかし、周囲の塀はさび付い
た荒々しい鉄条網により覆われているので、学校ではないことは一目瞭然である。
1979 年プノンペンがベトナム軍によって解放された時に、ここが発見された。この収容
所の最後の犠牲者であると思われるポルポト派の幹部数名の遺体が建物内部に横たわった
ままだった。現在、入り口横に整然と並んでいるのは、それらの人たちを葬った墓である。
建物の内部に入ると、鉄製の足枷が付いた金網のようなベッドが置かれた小部屋が幾つか
並んでいる。ここは、最後の犠牲者たちの死体が発見された当時の様子のままで公開され
ている。展示室内に入ると多数の拷問を受け、殺害されていった人々の顔写真が掲示され
ている。ここでは被収容者の写真等の記録が細かに記録されていたのである。膨大なデー
タを調べた結果、ここで 1 万 4 千余名が犠牲になったと言われている(詳しくは、デービッ
ト・チャンドラー『ポルポト-死の監獄 S21』白揚社、2002 年)。これらの犠牲者は、何等
罪を犯した訳ではなく、大半が普通の庶民であった。ポルポト派が信奉していた急進的マ
ルクス・レーニン主義の思想により勝手に階級の敵とされた人々がここに送られ、少年の
面影を残す兵士たちに、拷問された上、殺害されていった。夥しい数の死体が、プノンペ
ン郊外の村外れの地中から発見されている。
■ ポルポト派裁判の課題
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ツゥール・スレン刑務所は、過去の虐殺を記憶にとどめ、忌まわしき愚かな行為を 2 度
と繰り返すことのないようにとのメッセージを我々に伝えている。しかし、皮肉にも実際
は、これらの残虐行為の責任は何等問われていない。過去の例をみても、ナチスドイツの
ユダヤ人虐殺は、ニュルンベルグ裁判により断罪され、責任者は処罰された。その後にで
きた国連のジェノサイド条約によれば、そうした大量虐殺行為は、だれがどこでどのよう
な理由で行った場合にも犯罪として処罰されなければならないとしている。最近、10 年間
でも旧ユーゴスラビア、アフリカのルワンダ、東ティモールで起こった虐殺行為は、国連
の作った法廷により裁かれている。また、1998 年には、国際刑事裁判所を設立する条約が
採択され、同裁判所で裁かれる対象となる犯罪として大量虐殺行為が掲げられているので
ある。ポルポト時代の虐殺行為については、各種の証拠、証言がある。事実は明確である
にも拘わらず、なぜこのような大量虐殺が行われたのか真の理由は不確かなままである(井
上恭介、藤下超『なぜ同胞を殺したのか-ポルポト墜ちたユートピアの夢』NHK 出版、2001
年)。もしも、何らかの理由があるにせよ、大量虐殺の本当の理由とその責任の所在を明ら
かにして処罰がなされなければ、現代史上の汚点を残すことになるだろう。また、何より
もカンボジア国民が虐殺の真相解明を望んでいるのである。
カンボジア政府は、ポルポト派の投降後に国際裁判方式で処罰するために国連に協力を
求め、国連もそれに積極的に応じようとした。しかし、その後カンボジア政府は、内政不
安を抱えた状況下で国内融和と治安の安定を優先させようとして、国連の介入を極力抑え
た形の裁判を主張して、国連と対立するようになった。一時は裁判自体の成立さえ危ぶま
れたが、今年の 6 月に国連との協議がようやく整い、国連の協力の下でカンボジア国内に
特別法廷を設置することが合意されたばかりである。合意された裁判所は、旧ユーゴ、ル
ワンダ型の臨時の国際裁判所ではない。裁判官の構成面では、カンボジア人裁判官だけで
なく国際裁判官が入る形をとって、国際性を持たせたが、形としてはカンボジア人裁判官
が多数を占める混合裁判所である。
■ おわりに
カンボジアの社会は、伝統的にはクメール文化と仏教の伝統を受け継ぎ豊かな国であっ
た。しかし、ポルポト時代の虐殺とそれに続く内戦の傷痕は、今なお尾を引く形でこの国
の発展を阻害している。UNTAC の総選挙以後、民主化に向けてすべり出してきているが、市
場化の波が一層の貧富の差を作り出している。この国をかつて直接、間接に蹂躙した国際
社会は、この国の再建に責任を負うであろうし、その責任を果たすよう期待されている。
そうした支援に正当性を付与するためにも、国際的な基準によるポルポト派の裁判が必要
とされよう。我が国も法整備支援活動や弁護士養成校の支援などを通じて、カンボジアに
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おける法の支配の実現と人権の促進に貢献している。さらにその方向を一歩進めて、ポル
ポト時代の大量虐殺を繰り返さないためにその責任を問う姿勢を明確にし、裁判所の設立
を支援し、その運用に協力していくことが必要であろう。歴史を作るとはそういうことで
はないだろうか。
15,日本国大使館との懇親昼食会
インターコンチネンタルホテルにて,在カンボジア公使:丸山 則夫氏,二等書記官:三
和 浩一氏(岡山県警出身),三等書記官:村松 香氏,政府総務省局長・次長等を交え,昼
食をとりながらの,カンボジアの今後の経済発展の諸政策並びに地方自治・地方分権をテ
ーマに意見交換を行った。小生は,カンボジアには日本の農村の原風景があり,民主化後
は誠に穏やかで平和な暮らしが息づいており,人々の幸せ度で言うならば,あくせくカネ・
モノを求めながら,貪欲に生きている都会人よりも幸せであると言えると思う。後は,第
一次産業の国策により,少なくとも作物生産等で生きていけれる社会を作るべきだ,と申
し上げた。
16,カンボジア王宮視察(別添:資料参照)
何層もの屋根が重なりあい,中央には高い尖塔がそびえ立っている。かつてのタイ旅行
の時に見た建築物に似ている。1886 年,ノロドム王が木造で建築した後,1913 年から3年
間をかけてシスド王がコンクリート造りに建て直したという。即位後,アプサラ劇場,象
のテラス,そして 1873 年にはフランスのナポレオン三世からノロドム王に贈られた建物(周
辺の王宮建築には全く不釣り合いで,独立した時点で撤去移転されても仕方がないと思う
が,当時のまま現存)など荘厳・瀟洒な建物が並んでいる。1991 年 11 月 14 日,シアヌーク
殿下が 13 年振りに帰国したとき,空港から真っ先に直行したという。(地球の歩き方参照)
17,国立博物館視察
首都プノンペンの王宮の北側にある赤いクメール様式の外観が特徴の国立博物館を視察
した。1920 年に開設されたものだ。カンボジア全土から出土した考古学的にも貴重なクメ
ール美術の作品が収められている。しかしながら,アンコールワットやアンコールトムの
遺跡と同様に,完全な作品は一つとしてない。いまだ,美術品の展示は年代順に並べられ
ているらしいが,かなりの仏教史を理解していないと,無造作に陳列されているが如くで
ある。真に国立博物館として,カンボジアの文化の歴史に誇りを持ち,彼らのアイデンテ
ティとして博物館がその役割を果たすためには,今後も地道な収集と整理,そして美術品
の格付けもまた必要であろう。
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18,カンボジア開発評議会会談
カンボジア開発評議会のソク・チェンダ・ソビア氏との会談が行なわれた。氏は首相経
済アドバイザーを務めており,評議会の事務局長として海外投資の最前線で,これを推進
している方である。日本投資が少ないことを嘆いての話であった。現在の投資国としては,
マレーシア・中国・韓国・タイ・台湾・シンガポールなどアジア諸国が圧倒的に多く,い
ままたロシア,アメリカやベトナムなども参入,観光開発や鉱物資源の開発・バイオマス・
縫製産業など急伸している中で,なぜに日本の投資が少ないのか,疑問である,との話で
あった。日本人からは1週間に1∼2回の投資相談を受けるが,市場の規模を検討し,ほ
とんどが中国の市場が大きいからという理由で,カンボジアへの投資が鈍る。なぜか? 私
は,日本の銀行にあっては融資の仕組みのハードルが高く,石橋を叩いて渡る慎重さと,
開発途上国ほど計画段階から発注に至るまでが大変時間がかかり,その間様々な人が介在
し,不透明で,賄賂が横行するようなことに対して慎重である,との意見を申し上げた。
その答えは・・・ごもっとも,と。たとえそうであっても・・・と言わんばかりであった。
19,最後の夜は日本食(2/7 木)
いよいよ旅も終わりに近づき,プノンペン最後の夜は,初めての日本料理店であった。焼
き魚は塩鯖,てんぷら,卵焼き,茶わん蒸し,みそ汁,漬物などの詰まった幕の内であっ
た。日本酒の熱燗も戴いて,カンボジアを去る直前に元気の出るような食事になった。
20,終わりに
1週間という,誠にハードなスケジュールの中で,しかも気温差や食事・水の違う異郷
の地で,ともかく11名の仲間達が無事に帰国できたことを先ず以て感謝するとともに,
所期の目的を達することが出来て,喜びたいと思う。また,終始お心遣いを戴き,種々の
事柄に対して丁寧に対応された両備ツアーズ津山支店:小童谷(ひじや)靖則氏並びに視察
団事務局長:渡辺吉幸氏にあっては,格段の互助句を戴き,その御足労に対し,深甚の謝意
を表したい,と思う。
以上でカンボジア視察の報告に替えたい。
[平成 20 年 2 月20日 作成・完]
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添付資料
1,カンボジア視察旅行スケジュール表
2,カンボジア全図
3,カンボジア王国概況̶ 在カンボジア日本国大使館
4,ジェノサイド博物館資料(英文)
5,王宮資料(英文)
6,スナップ写真集
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