法 話 - 人間禅

法
話
<禅者の闘病>
禅者の死
小野
Ⅰ
円定
はじめに
平成13年11月4日、一行庵義堂老師が帰寂されました。その年の東京第
一支部10月摂心会、茶席の会話で生前、青嶂庵古幹老師が一行庵老師のご
子息から、癌である事を親父に告知すべきかどうか相談を受けられた。老
師はすかさず“告知すべきである!”と答えられたとの事。
そして、“その為に修行しているのだから”と、一人言のように呟いて
おられた。その後“その為に”という言葉が気にかかっており、この法話
を機会に考えてみたいと思います。
Ⅱ
禅による生死観(霊魂について)
磨甎庵劫石老師著『学道用心集講話』の中に、道元禅師は「霊魂」(心
性)について、次のように取り上げておられます。
「身体と心性(霊魂)とは別々のものであって、身体は死ねば無くなる
が、心性は不滅であることを明らかに知れば、生死の苦しみから離れるこ
とができる。従ってこのように心性が常住であることを了知する事こそが
仏法の要諦であって、ただ坐禅しても駄目である。」
道元禅師は、このような考えは釈尊の開かれた仏法とは全く関係のない、
外道の誤った妄想であると強く否定されており、次のように述べておられ
ます。
「本当の仏法というものは、身心一如、性相(心の本性と身体)不二を
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おしえ
明らかにした 教 であって「生死即涅槃」、「煩悩即菩提」こそが、本当の
釈尊の明らめられた諸法実相の真理で、生身の煩悩によってさいなまれて
いる自分の心を離れて、不生不滅の仏はないし、現実のこの世界を離れて
極楽浄土というものはない。」
磨甎庵老師は、「これを禅では転迷開悟、つまり迷いを転じて悟りを開
くといいます。迷いの五欲七情を捨てるのでなく、その本末転倒の姿を坐
禅の行によって、本来の姿にグルッと転化させる。そうすると、五欲七情
の迷情がそのまま仏の三身四智に転化するのです。ここの処が臨済宗の見
性というものの素晴らしさで、迷いの根源の我見を布団上で殺し尽くして、
絶後に再蘇すると本来の面目が甦ってくるということです。
これは祖師禅独自のもので、世界に冠絶した道行といってよい点です。
ただこれは口で言い耳で聞き知ることができても、実際に脚実地、自分で
行証してみないことには、本当のところは全く分かりません。」と述べて
おられます。
次に禅者(禅僧)の消息をみてみます。
Ⅲ
禅者(禅僧)の遺偈
1.永平道元(1200~1253
行年54歳)
日本曹洞宗の開祖。
53歳の秋頃から身体不調となり、名医に看てもらうため弟子の懐奘を伴
い、永平寺より京都へ行き、信者の家に宿泊しそこで重病となり、54歳の
生涯を閉じられました。
<遺偈>
五十四年
第一天を照らす
ぼっちょう
箇の 跳を打して大千を触破す
いい
咦
渾身覓むる無く
活きながら黄泉陷つ
54年の生涯、自分とは何か、その悟りの境地とは何か、ということを解
き明かしてきた。一個の人間ではあったが多くの人々を教化してきた。あ
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あ、懸命に生きたこの渾身にさらに何を求めよう。次の世界、黄泉が自分
を待っている。
2.宗峰妙超(大燈国師)(1282~1337
行年56歳)
京都大徳寺を開山。
永年患っていた足を、死ぬときぐらい言うことを聞け、といって自分の
手で足を折り曲げ結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染ま
り、そのまま坐亡されました。
<遺偈>
仏祖を截断
吹毛常に磨く
機輪転ずる処
虚空牙を咬む
仏祖さえも否定超克して、吹毛の剣にも比せられる性根玉をいつも磨い
てきた。その心の機はまさに、虚空が牙を咬むようだ。
吹毛とは、フッと吹きつける毛をス-と截断してしまうほど、鋭くよく
斬れる剣の事で、一切の相対的な見所をズカリズカリと截断してしまう、
文殊根本の大智慧の事であります。
3.関山慧玄(1277~1360
行年84歳)
京都妙心寺を開山。
旅装をととのえ、弟子の授翁1人を伴って、妙心寺の風水泉(井戸の名)
に来られたとき、突然松の老木によりかかり動かなくなった。授翁がいぶ
かって駆け寄ると、立ったまま静かに息を止められた。そこで最後の遺誡
を訓示され「さて旅立とうとするか」と言ったままに、杖を持ち目を閉じ
られそのまま立亡されました。
<遺誡>(要約)
私は花園上皇の招きで妙心寺の開山となった。しかしその私を育てて
くれたのは、大燈国師とその師大応国師の二人だ。だから後に私のこ
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とを忘れてもよいが、二人の祖師の恩を忘れたら私の児孫とはいえな
い。どうか本当の自己を究明することに全力を尽くしてくれ。
関山国師の禅は、師の大燈国師の遺誡を身をもって実践され峻厳そのも
ので、坐禅と作務をもっぱらとし、読経その他の形式を嫌い「貧」に徹せ
られた。残した真筆も「黙」の一字だけといわれています。伝えられてい
る言葉は、
「本有円成仏何としてか迷倒の衆生となる」
「慧玄が這裡に生死なし」
「柏樹子の話に賊機あり」
現在、
「応・燈・関」の禅がわが国臨済禅の唯一の法流となっています。
4.一休宗純(1394~1481
行年88歳)
正月になると人間の骸骨を棒にさして、<正月は冥土の旅の一里塚、め
でたくもあり、めでたくもなし>と謡って、街を練り歩かれたという。風
狂の禅を説き奇怪な行動をされました。
<遺偈>
須弥南畔
誰か我が禅を会す
虚堂来るも
半銭に直せず
この世界にわしの禅のわかるものが居るであろうか。否一人もおらん。
よしんば、わが尊敬する虚堂和尚が今ここに出現してきたとしても、半文
銭ほどの役にもたたんわい。わしの禅をいかんともすることはできない。
5.道鏡慧端(正受老人)(1642~1721
行年80歳)
白隠禅師の師として知られています。
19歳の時、江戸へ出て至道無難禅師に師事。20歳にして奥義に達し、そ
の後信州飯山に正受庵を立てて隠棲します。
年寄られても気力が少しも衰えず、病気らしい病気もなく、朝早く遺偈
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を書かれ和歌を読み坐禅をされたまま、カラカラと大笑せられそのまま坐
死されました。
<遺偈>
末後一句
(末後の一句)
死急難道
(死急にして道い難し)
言無言言
(無言の言を言とし)
不道不道
(道わじ道わじ)
い
い
突然死というやつがやってきた。末期の一句を言おうと思ったが、何も
ないよ。無言の言を言とし道わじ道わじ!
正受老人の書かれた『一日暮し』の中に、有名な<一大事と申すは今日
只今の心なり>という句があります。
一日一日とつとむれば百年千年もつとめやすし。一生と思ふからにたい
そうである。一生とは永いと思へど後の事やら翌日の事やら、死を限りと
思えば一生にはだまされやすしと。「一大事と申すは今日只今の心也」そ
れをおろそかにして、翌日あることなし。総ての人に遠き事を思ひて謀る
ことあれども、的面の今を失ふに心づかず。
6.白隠慧鶴(1685~1768
行年84歳)
日本臨済宗中興の祖。
84歳を迎え、身体の不調を感じるようになり、暁天に高いいびきをかき
うん
ながら眠っていて、にわかに「大吽
一声」して、右を脇にして寂されま
した。
遺偈も残されておらないが、末後の大吽は上、宙天に透り、下、黄泉に
徹して遺偈にまさる。又法嗣の東嶺禅師は、末後の大吽の一声は、真に死
の一瞬に発した叫び声で、有名な中国の巖頭禅師に比せられる、と評した
といわれています。
逸話として、20歳の時禅に疑問を持たれ、『禅関策進』の中で慈明楚円
禅師の道心堅固で、朝夕修行に励み夜眠いときは錐で股を突きさして坐禅
をしたという、その故事を知って猛省し、禅道一途に生きることを決定さ
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れました。
7.山岡鉄舟(1836~1888
53歳帰寂)
剣と禅を極め、江戸城無血開城で功績を残す。
帰寂される日の早朝、烏の鳴き声を聞くと<腹張って苦しき中に明烏>
という句を示して“まあこんなものですな”と言って、人払いをして静か
に床を離れ、皇居に向かって結跏趺坐をされた。しばらくして団扇を右手
にとり、目をつむったままで団扇の柄で左の掌に何か字を書いておられた
が、急に呼吸が迫ってきて大往生されました。
絶命してなお正座をなし、びくとも動かなかったという。
残された句に有名な、<晴れてよし曇りてもよし不二の山
元の姿はか
はらざりけり>があります。
8.耕雲庵英山老大師(1893~1979
行年85才)
人間禅第一世総裁。
入院中激痛に際し、「苦しい時はうんうん唸ればいいね」と洩らされ、
事実大きい声で苦しまれた。後年明方、自室の布団の中で眠るように、大
往生を遂げられました。
著書の中で、「死んだ先が真っ暗だったり、半信半疑だったりするから
不安なのじゃ。安心したければ、自性を徹見すべきである。自性を徹見す
れば去住自在で、死ぬなんて隣りの家へお茶に呼ばれて行くのと何ら変わ
りはない。行くも帰るもよそならずじゃ。」
9.妙峰庵孤唱老師(1914~1976
行年62歳)
人間禅第二世総裁。
『人間禅』誌第92号(1975)巻頭言より。
人生長しと云い、短かしと云い、国広しと云い、狭しと云うも、畢
竟コップの中の見に過ぎない。宇宙の命脈は広大無辺・無始無終にし
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て、人間の都合に依って方域を定め、年月を刻して測ることは出来ぬ。
この大生命の当体として、この宇宙の中に生まれたる人間がその一生
を夢の如く、幻の如く、コップの中で右往左往過ごして何のかんばせ
かある。
人生再度来たらず。人の命は今生を以って限りとする。しかも生死
は入息出息の間、今をも期し難い。覚悟や如何?
芭蕉翁云く“昨日の発句は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、
われ生涯いいすてし句一句として辞世ならざるはなし”と。茶人曰く
“一期一会”と。正受老人云く“天下の一大事とは、今日唯今の心な
り”と。新年頭に際し、古人先聖の上来一句、相い共に肺肝に銘すべ
し。
昭和51年12月24日、妙峰庵老師が急逝されたとき、雲龍庵老師は<今ご
ろは三途の川で水遊び>と詠まれました。
10.一行庵義堂老師(1924~2001
行年77歳)
人間禅師家。
帰寂される2週間前、葬式、導師、香典の取り扱い、会葬御礼状の文案
等、平常と変わらぬご様子で死後の段取りをされ、そして熊本支部の修禅
会を見守るように、円了するのを待って静かに帰寂されました。
『合掌』追憶特集号よりますと、「一行庵老師は道場に来られるときは
いつもニコニコした顔で“道場に来るのが一番楽しい”と言っておられま
した。師家になられる前は道場を我が家の如く、道場の行事がない時でも
週に2、3度、多い時には毎日のように夜、静坐のために来山されておら
れました。」
平成13年新年の句
<元旦や癌もめでたきもののうち>
辞世の句
<秋天や今はの際の懺悔文>
青嶂庵老師は、一行庵老師の追憶摂心会ご提唱の中で、【生も亦風流
死も亦風流】と、獅子吼されました。
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11.青嶂庵古幹老師(1925~2007
行年81歳)
人間禅第四世総裁。
葬式のとき、ご長男のご挨拶の中で、帰寂される1週間前に、立つこと
も無理な状態にも関わらず、ご自身でトイレに立たれようとされ、2~3
日前にはお孫さんとお別れの挨拶をかわし、ご家族には感謝の言葉を述べ
られた。前日には喉につまった痰をとる事を拒否され、ご自身の意思で死
を迎えられた、親父(老師)らしい立派な最期だった。と述べられました。
生前、葬式は「しめっぽいよりも楽しい方がよい。」と語っておられた。
Ⅳ
おわりに
昨年夏、親戚の方が57歳の若さで胃癌のため亡くなった。「女房ともっ
と海外旅行をしたかった。後は悔いのない人生だった」と話されていた。
最期を迎えたその姿勢を立派だと思います。
只、本当に生死の問題を解決した上での事なのかどうかとなりますと、
疑問が残ります。「生とは何か?」「死とは何か?」、この問題とは真正面
から取り組み、明確な「答」を用意しておかなければ、本当に生死を解決
したとは言えないのではないか。
「生きがい」は、禅以外の方法でも見つけられると思いますが、根本的
な生死の解決となりますと「禅」、これしかないと思っています。
人は必ず最期を迎える。そして、10年も経てばその存在すらほとんど忘
れ去られる。生きているときは「生
三昧」、死ぬときは「死
三昧」。
只今を精一杯生きる。そして、何事もなかったかのように、終わりにした
いと念じております。
合掌
(埼京支部摂心会において)
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■著者プロフィール
小野円定(本名/平四郎)
昭和21年生まれ、千葉商科大学商経学部卒。
(株)ワンビシ ア
ーカイブスを平成15年定年退職。昭和42年人間禅立田英山老師に
入門。現在、人間禅師家。庵号/鸞膠庵。
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