﹁城下場末﹂から﹁東西南北人﹂まで 西のミソラ Futahiki Saimon 西門 二引◉著 志士の先駆けとして 最長最強の幕府に挑んだ男 平野次郎國臣伝 上 e-Bookland ﹁城下場末﹂ から﹁東西南北人﹂まで 西のミソラ 西門 二引◉著 ◉表紙写真撮影 上 e-Bookland 目 次 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 1 城下場末 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 旋 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 照 61 周 109 月 173 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 変 身 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 東西南北人 ●下巻目次 不撓不屈 天 変 分水嶺 みよや人 221 城下場末 城下場末 福岡市に西新という地名がある。 現代多くの学生が行き交うこの地は昔、白砂の不毛の地だった。縦横に往来することができた ( ) ため、百道 ももち という俗称があった。江戸時代のはじめ、初代福岡藩主となった黒田長政は、 博多と福岡、姪浜の商家に命じ、一軒ごとに一本ずつこの地に小松を植えさせた。十年後には東 の千代の松原、西の生の松原と肩を並べる美しい松原になったという。 ( ) 寛文六年、三代藩主黒田光之はそれまで早良 さわら 郡橋本にあった八幡宮をこの地に移した。 ( ) 八幡宮は百道の音にちなんで、紅葉 もみじ 八幡宮という愛称を得た。 以後、唐津街道が貫くこの地は門前町として栄えていくことになる。 ( ) 江戸期の福岡人は、唐人町の西から今川橋までを「西町」と呼んでいた。樋井 ひい 川のさら に西の新興地帯は、自然「新西町」と呼ばれるようになった。これがいつのまにか逆転したとい うのが、西新の名の起こりである。 この西新から南に伸びる古道がある。早良街道または菊池道と呼ばれた小道である。 安政三年の秋であるから、明治維新をさかのぼること十二年前のことである。この小筋を頻繁 に往来する壮年の男がいた。 男は、二十九歳の福岡藩士である。 視線が落ち、顔面は蒼白で、苦悩に満ちた表情を浮かべている。抜け殻のように放心状態にも 2 城下場末 見えれば、何かに忌々しいのか人間的に廃れているようにも見える。その男は、地行 じぎょう ( から今川橋を渡り、西新を南下することを近ごろの日課としていた。 男が向かう先は、南郊の七隈原である。 祖原を抜け、荒江にある逢坂で太閤道と交わる。 太閤道は、文字どおり豊臣秀吉が朝鮮の役のころ肥前名護屋へ赴く際に通った道であり、全国 の諸大名が動員されたため、一帯に未曾有の経済的繁栄をもたらした道である。 逢坂から街道は小高い丘陵となる。 とりわけ西側には爽快な景色が広がる。平野の真ん中を室見川が流れ、河口付近に愛宕の小山 があり、博多湾には残島が大きく浮かんでいる。愛宕の隣に姪浜の町並みが見え、その奥には炭 田の煙がかすかに上がっている。 ) 足元の飯倉から平野の先の山並みまで、ずっとのどかな田園が続く。向こうの山並みの中ほど にたたずむ飯盛山は、名のとおり飯を盛ったような格好の山である。その優雅な稜線は、この心 地よい全景を緩やかに束ねているようだった。 (よか眺めばい) 男は、空気を吸い込みながら少し救われる気がした。 男には氏名がない。 ( ) 小金丸種徳 たねとく という名は一応あるが、この男の苦悩は、その名をまさに捨てようと覚 3 城下場末 悟しつつあることだった。といっても、名前を捨てること自体が問題なのではない。改名など日 常茶飯事の時代である。 男の苦悩の核心は、名を捨てることが養家を去ることを指し、それはすなわち妻と三人の愛児 を捨てなければならないことを意味することだった。その上で、食い扶持の当てもない素浪人に なり下がることだった。 言うまでもないが、三十になろうという一端の男が藩職を投げ出し、妻子を捨てるなど世間的 に許されるはずがない。養家や実家に非情な不幸をもたらすだけでなく、親戚や知人、縁者、藩 の同僚や上役にいたるまで、多大な迷惑をかけることになる。 それにもかかわらず、すべてを捨て去ることを決意させるものが、この男の臓腑には静かに湧 き起こっていた。それは容易に口に出せるものではなかったが、敢えて表現するならば、 ―勤皇― という心の高ぶりだった。 時代が動きはじめる直感というか、男にとっては確信とさえ言えた。 とはいえ、後日あまた登場することになる勤皇志士はこの段階では皆、未覚醒の状態でしかな い。手本となるべき人物など、どこにも見当たらない。 そんな中、筑前福岡の一介の下級武士が自ら素浪人となって、己の信じる道を突き進もうとい うのである。奇人狂人の沙汰であることは間違いない。 4 城下場末 男 が 七 隈 原 に 向 か う 理 由は 、 そ こ が 男 が 「 勤 皇 」 を 見 つ め るこ と が で き る 場 所 だ か ら で あ る 。 そこには、菊池武時の胴塚と伝えられる墓がある。 ( ) ちなみに首塚と伝わるものが、これとは別に福岡城のすぐ南の馬場頭 ばばがしら にある。 ( ) 菊池武時は、南北朝のころの肥後隈府 わいふ の武将である。 ( ) その時代、武時は後醍醐天皇の綸旨 りんじ に誰よりも先に応じ、博多にあった幕府方の九州 探題北条英時を攻めた。しかし、菊池勢は背後から同盟軍に裏切られる形となり、ほとんどが討 ち取られ、博多から西に向かって敗走した。ついに最期を悟った武時は、馬場頭まで落ちたとこ ろで自らの首を家来に討たせ、胴体は馬がそのまま七隈原まで運んだと伝えられる。 正確な歴史書は存在せず詳細は定かでないが、今日に伝わる二つの墓塚がその出来事を如実に 物語っているという訳である。 南北朝といえば、世間では湊川で討ち死にした楠木正成があまりに有名である。 だが、その三年も前に忠節に身を捧げた菊池武時こそが勤皇第一の功労者であるという思いが、 地元には根強い。事実、福岡藩の有志一同は天保のころ武時公五百五十年の祭典を催し、七隈原 に碑表を立てていた。 男は、その碑表の前に一人たたずみ、己の運命に思いを馳せた。 (俺にいったい何ができるというのか・・・?) (これからどげん生きていくべきか・・・?) 5 城下場末 自問したところで答えが出るはずもなかったが、少なくともここに来ればそんな思いにふける ことができた。男は、この年の秋から冬にかけ足しげく七隈原を訪れては、一人悶々と苦悩する 日々を送った。 十二月に入ると、男はついに決心した。 出奔前日の夕刻、男は荒戸の商家への所用に息子の六平太を連れ出した。城下の檜通りである 六丁筋を並んで歩きながら、男はそれとなくわが子に問いかけた。 「六平太は、大人になったら何ばしたいとか?」 「そげんこと、まだ分からん」 九歳児の返事は、あっけらかんとしている。 「そうか。まだ分からんのも仕方なか。おとうは、ただ六平太が健康で、人さまに迷惑ば掛けん やったら、それだけで満足たい」 種徳と妻の菊は、次男を産後ほどなく亡くしている。従って、男児は六平太のみである。 男は感情を抑えつつ、普段の口調を心掛けて言い足した。 「出世せんでもよかが、しゃばか奴やこすい奴になったらいかんばい」 つまらない人間やずるい人間にはならないでほしい、という父親の切なる願いだったが、それ を察してかどうか、六平太は無邪気に切り返した。 6 城下場末 「なるもんか!」 「ようし!それで良か!」 男は大声すると、六平太の頭を鷲づかみにして乱暴になでてやった。 帰宅すると、男は長女たきと次女ちよを風呂に入れた。そして、同じように二人の娘にも問い かけ、それぞれの頭を優しくなでてやった。心の中は、既に嗚咽で切り裂かれそうになっている。 (すまない。無責任な父をどうか許しておくれ) 自責の念につぶれそうになるのを堪えながら、三児の健やかな成長を願うばかりだった。 翌朝早起きすると、男は珍しく自ら握り飯をこしらえ、後から起きてきた菊に告げた。 「今日は太宰府で用があるけん、ついでに握り飯ばこしらえた。多めに作ったけん、後で子らに も食べさせんしゃい」 菊は二十五歳になる。十六歳で種徳と祝言をあげて以来、九年間連れ添ってきた仲である。と いうより、元をただせば、種徳が十四、菊が九つの時に双方の父親の計らいで種徳が養嫡子とし て小金丸家に入ったころからの縁である。 菊は取り立てて才女という訳ではないが、子らをここまでよく立派に育ててくれた大恩がある。 種徳は出かける準備を済ますと、さりげなく謝辞を含ませて、 「子らを頼む」 と、小声でつぶやいて家を出た。 7 城下場末 路地に出たとたん、玄界灘の寒風が背後から吹きつけた。 まだ一町も進まないうちに、涙がにじみ出てきた。 生きながら妻子と離別するほど酷なことはない。まさに生き地獄である。自分の涙量に当惑す るほど、とめどもなく涙があふれ出てくる。 それでも悲しみの深層は涙だけでは吐ききれず、臓腑にも染み渡ってくる。その度に胸が締め つけられ、全身が震え、腸がちぎれそうな感覚に襲われた。 人混みを避けたかったこ ともあり、男は 六丁筋とは逆の西新へ渡り、早良街道を南に折れた。 行き慣れた菊池墓への道である。 七隈原の手前の街道沿いに、一本の大楠がある。 小高い稜線上に位置しているため、この大楠は付近の目印になっている。 ここまでたどり着いて、男ははじめて涙をぬぐった。そして、まだ震える体で大きく呼吸をし、 目力を込めて、はるか遠くの東空を見つめた。腰に下げている太刀以外は、すべての持ち物を袋 に詰め、たすき掛けに背負っている。 (ここから俺という人間の真価が問われる。いったん決めた以上、信念ば貫き通さんと、それこ そ菊や六平太、たき、ちよに申し訳が立たん・・・) ここから先どこに向かうか、何をするかは漠然とした考えがあるだけで具体的に何も決めてい ない。すべてはしがらみを断ってから考えること、と腹を決めていた。ただ出奔直後の行動につ 8 城下場末 いては、あらかじめ期するところがあった。 男は、まず菊池墓に向かい、碑表の前で姿勢を正して座した。幸い周囲に人影はない。 そして懐からおもむろに筆と半紙を取り出すと、そこに ―小金丸種徳― と、自名を記した。 それを恭しく掲げ拝礼したかと思った瞬間、八つ切に裂いた。そして脇差しで膝元に小穴を掘 って埋めた。続けて、懐からもう一枚紙を取り出し、 ―平野次郎― と、大書した。 今度は破ることなく丁寧に小さく折り、別の小穴を掘って埋めた。 特に深い意味はない。 それは、小金丸の養家を去り、実家の姓に復したことを宣言する行為だった。 「次郎」とは、自分が単に平野家の次男であることを表したにすぎない。要するに、自ら改名 した訳だが、男なりの独自の儀式を執り行ったのである。男は、そういう明快さや形式を好むき らいがあった。 ほどなく菊池墓を後にすると、男は街道の大楠まで戻った。そこから再び南に進んだ。 ( ) 半 里 ほ ど 進む と 、 野 芥 の け と い う 場 所 に 出 る 。 そ こ に 縁 切 り 地 蔵 と 呼 ば れ る 小 堂 が あ っ た 。 9 城下場末 男がはじめて目にする光景である。 ( ) ( ) 伝承によれば、千年も昔の和銅年間のころ、糟屋 かすや 郡長者原の娘が重留 しげとめ の豪 族に嫁ぐべく婚礼の行列を調えてこの地を進んでいたという。ところが、こともあろうに婿とな るべき男が直前に失踪してしまった。慌てて急使を遣わしたものの、既に重留近くまで達してい た娘の一族は、この凶報に接し、 「もはや嫁ぐべき家もなし」 と、野芥の地で自害したという。 土地の人々は、この姫を哀れんで地蔵を祀った。それがいつのまにか、わが身を削って人を助 ける縁切り地蔵として慕われるようになったという。 男は、もともと伝承や迷信を信じる性格ではない。 縁切り地蔵は、磁器で削った地蔵の石粉をそっと相手に飲ませれば縁切りのご利益があると言 われるが、男はそうした類の話にこれまでほとんど関心を持たなかった。 しかし、今は藁をもつかみたい気持ちでいる。 長年連れ添ってくれた妻と、まだ年端もいかない子らを棄てることを思うたび、自責の念でつ ぶれそうになる。だが、いったん決心した以上、中途半端な思いはかえって菊や六平太らを苦し めることになる。そうである以上、今は縁切りのご利益にすがるより他なかった。男は深々と拝 礼し、静かに手を合わせ、ひたすら地蔵に祈った。 10 城下場末 (どうか菊の悲しみが一日も早く癒え、子らが健やかに育ちますように・・・) 縁切り地蔵を後にすると、男は口元をギュッと結び、空を仰いだ。目を見開いて大きく深呼吸 し、ふっ切った表情に変わった。ここから先は前を向かなければならない。 よく見れば、風変わりな出で立ちである。 冬用の綿入り羽織をまとっているが、下には神主のような直垂と義経袴がのぞいている。また 大小を帯びているが、それは当代主流の太身の差料でない。むしろ異常に細身の長刀である。 それというのも、この男には古風の服飾を好む偏癖があった。 ( ) 男には数人の仲間がいて、そろって烏帽子直垂を調え、古制の太刀を佩 は いて、かつて近所 をよく練り歩いた。刃を上向きに刀を腰に差すのが当たり前の時流にあって、刃をわざわざ下向 きに腰に吊るして佩くのである。いつの世にも奇抜な容姿に走る若者がいるものだが、地行では ( ) この連中はよく知られていて、「お太刀 たち 組」とあだ名で呼ばれていた。 男は、和歌や笛といった風雅も好む。 そのため懐や帯には、いつも携帯用の筆墨や横笛を忍ばせている。気が向けばいつでもどこで も歌を詠み、奏でられるようにしているのである。 この男の面白いところは、そうした風流好きを趣味の範囲にとどめず、自らの人間形成の軸に 組み入れている点にある。そのため、入れ込みようも本格的なもので、興味の対象も多岐におよ 11 城下場末 ぶ。武具や服飾、調度の類のほか、古制の仕組みや作法についても、機会を得て積極的に習得し たいと考えている。 そんな男であるため、早速脳裏に一つの考えが浮かんだ。 西の志摩郡に古の犬追物の馬場跡があると聞くが、まだ訪れたことがない。取り立てて行く当 てもないので、とりあえずそこに向かうことにした。 師走の玄界灘は、分厚い雲に覆われている。風も身を裂くほどに冷たい。 ちょうど雪が降りはじめたので、この晩は飯盛神社近くの知人宅の軒を借りた。翌朝は、まだ 家人が起きてこないうちに出立した。 辺りはまだ闇だが、昨夜はよっぽどの大雪だったようである。 既に降り止んでいたが、外は一面の雪で埋もれていた。身震いするほどの冷気で、暗くても清々 しいほど空気が透き通っているのが分かった。東空が徐々に白んでくるにつれ、周囲の光景はキ ラキラと反射して、まぶしいほどに輝きはじめた。 ( ) 飯盛山の南麓に日向 ひなた 峠越えの道がある。 この山道沿いには人家も田畑もほとんど存在しない。男は、よりによって大雪の直後にここを 通行するはめとなった。 (まるで俺の人生を暗示しとうようばい。だが、それも悪くなか。大雪の峠越えで遭難するくら いなら、俺も所詮それだけの人間やったというだけばい・・・) 12 城下場末 城下から数里しか来てないが、日向峠は驚くほど山が深い。 起伏が盛んな上、何といっても甚大な積雪である。登りはじめると、たちまち俗世から隔離さ れたような感覚に陥った。男は生きている心地がしなかったが、迷うことなく無心のまま一歩一 歩進んだ。雪まみれになりながら蛇行を繰り返し、ひたすら一時ほど歩き続けると、ようやく長 い下り坂の向こうに人里の気配がした。 安堵を覚え、男はおもむろに横笛を取り出した。 静寂の雪景色で笛を奏でようと、咄嗟に思い立ったのである。 男の笛は澄みきった空気に乗って、辺りに広がった。とはいえ、山間に響き渡るような増幅感 はない。ただ積雪に吸い込まれていくだけの感覚が残った。 男の吹く笛は、竜笛である。 音域が広く、天を駆ける龍の鳴き声にたとえられる。花鳥風月や山紫水明、夢幻泡影をも表現 する手段として、男は竜笛を愛用している。 ( ) 笛は、地行の富永漸斎 ぜんさい から学んだ。男の和学の師である漸斎は、尚古主義を教える 私塾を主宰していて、ここに通う数名がお太刀組を構成していた。 「あの、ちょっとよろしいですか?」 奏で歩きながら末永という辻に差しかかった時、男は突然声を掛けられた。 13 城下場末 振り返ると、一人の僧がこちらに歩み寄ってくる。男は竜笛を下げ、会釈した。 「今朝は珍しく大雪ですな。いや、庭先で雪かきばしとりましたら、風情な笛の音が聞こえたも んで す け ん 、 誘わ れ る よ う に 出て 参 り ま し た 。こ の 大 雪 の 中 、 峠ば 越え て 来 ん しゃ った と で す か?」 「ええ、ただこの雪は予想外でしたが」 雪まみれの男の下半身に目をやりつつ、僧は好奇の表情を浮かべた。 「どちらに行かれるとですか?」 「志摩郡までですが」 「お急ぎでしょうか?」 「いや、取り立てて急いどる訳ではありませんが・・・」 男が革袋を出して笛を片付けようとすると、僧はそれを制した。 「いや、どうかそのままで。申し遅れましたが、私はそこの西光寺の住職で、水月僧澄と申しま す。御用のところ足止めさせてしまいますが、お茶でも飲んでいかれませんか?宜しければ、貴 殿の笛をもう少しお聞かせいただきたい」 「いや、手前の笛など、人様にお聞かせできる代物ではございませんので・・・」 と遠慮したものの、是非にとせがむ住職に押され、結局寺へ立ち寄ることになった。 縁とは不思議なものである。 14 城下場末 小さな本殿に上がって住職と歓談してみると、住職も横笛をたしなむという。しかも、驚いた ことに男の師である地行の富永漸斎を知っているという。二人はすぐに意気投合し、しばらく存 分に合奏を楽しんだ。 時に、縁は縁を呼ぶ。合奏を終え、男がそろそろ辞そうとすると、 「いや、しばらくお待ちを」 と、住職は男を引きとめた。 住職はしばらく奥に下がった後、大事そうに両手に赤子を抱えて出てきた。 「昨日生まれたばかりの愚僧の娘ですたい。これも縁にござる。ひとつ、名付け親になってもら いたかとですが、是非ともお願いできんでしょうか?」 心を交わせ大いに合奏した後である。男が固辞する理由はなかった。そのまま庭に出てしばら く思案すると、男は筆墨を借りて、 ―雪の― と記し、僧に手渡した。 それから丁重に謝辞を交わし、男は寺を後にした。 (平野次郎となって最初に出会った人物が、あのような風流人とは・・・) 再び歩き出しながら、男は苦笑いを浮かべて首を振った。 (わが子を棄てたばかりの男が、まさか人様の名付け親になろうとは・・・人の世とは摩訶不思 15 城下場末 議としかいいようがなか・・・) その後、男は志摩郡馬場で犬追物の遺構を見物すると、唐津街道を東へ引き返した。 ( ) 人目を避けるべく城下を夜半通行し、博多湾沿いをそのまま和白 わじろ まで進んだ。そこか ( ) らいったん志賀島を回って古の射術を訪ね、さらに北の宗像郡に向かって神湊 こうのみなと か ら小舟に乗った。 玄界灘に浮かぶ筑前大島は、男にとって特別な場所である。 ここは五年前の嘉永四年、男が宗像社沖津宮の普請方として赴任した地である。 宗像大社は、天照大神の御子神を祀った三宮の総称で知られる。 ( ) ( ) ( ) 長女田心 たごり 姫、次女湍津 たぎつ 姫、三女市杵島 いちきしま 姫の三姉妹神だが、その 配置が実に興味深い。三女神は大陸との海上交通の守り神として古代から崇められてきたが、は るか四十八里先の絶海の孤島沖ノ島と海上三里にたたずむ大島、それに九州本土の宗像郡田嶋に ( ) ( 別れて鎮座する。それぞれを沖津宮、中津宮、辺津 へつ 宮と呼ぶ。とりわけ沖ノ島は不言島 お ) いわず と言われ、島のことを口外することはいっさい許されない。 男は、かつて沖津宮の普請職にあった。 下級職だが、福岡藩という大藩の中で、これほど神域に近いおごそかな職はない。 このため神の御加護のある者しか就くことのできない特別職として、新任者は決まって足軽階 16 城下場末 級の中から厳正な神式のくじ引きによって選ばれた。そのくじに男は当たった。それは、神の思 し召しに他ならなかった。 沖津宮普請方という職名だが、実際の沖津宮は、めったに渡ることのできない絶海の孤島にあ る。このため常任の地を中津宮のある大島とした。男にとってこの大島が特別な理由は、ここで 人生を変える出会いを得たからである。 大島に渡ると、男はすぐに沖吉屋に向かった。 沖吉屋は大島屈指の回船問屋である。男が赴任した当時、男はここの二階に止宿した。沖吉屋 の玄関まで足早に進むと、男はゆっくりと後ろを振り返った。 小筋を挟んで、地元の名士大島家の邸宅がたたずむ。裏手はすぐ小山になっていて、その手前 に土蔵がある。男は、その土蔵をじっと見つめた。 (俺の人生は、ここから開けたとばい・・・) ひとしきり感慨にふけった後、男は沖吉屋に入って、若主人の佐藤大蔵を訪ねた。 当時二十四歳だった男が、よく酒を酌み交わして語りあった相手である。佐藤は突然の男の訪 問に驚いた表情を見せたが、満面の笑みで招き入れた。 「事情が生じ、このたび小金丸から平野に姓を戻すことになった」 と男が告げると、佐藤はただならぬものを感じたのか、しきりに投宿をすすめたが、それに甘 え る訳 には い か な か っ た 。 水 臭 い で は な い か と 問 い 詰 め ら れ て も 、 男 に は 来 島 の 目 的 が あ っ た 。 17 城下場末 「大蔵、頼むけん、今回は何も聞かんで黙って見送ってくれんね?」 佐 藤 は 事 情 が 呑 み 込 め な か っ た が 、 こ れ ま で 見 た こ と も な い 男 の 表 情 に 、 最 後は う な ず いた 。 佐藤は一本気な男である。だからこそ、男は島でここだけにはあいさつを入れようと決めていた。 沖吉屋と大島家の間の小筋は、大人が両手を広げれば塞がってしまうほど小さいが、島の主筋 である。両側には小粒な商家が連なっている。ほとんどが顔なじみである。藩の定番屋敷も近く、 浦庄屋の目原文三郎宅も目と鼻の先である。 (世話好きの目原のオッサンにでも見つかったら、大ごとになってしまうばい・・・) 男 は 小 筋で い く つ か の 視 線 を 感 じ た が 、 歩 を 緩 め るこ と な く 突 っ 切 り 、 左 に 折 れ て 浜 に 出 た 。 舟着き場まで戻り、さらに久昌院を過ぎると、そこはもう中津宮である。 男は、五年ぶりに中津宮の前に立った。 浜に立つ二つの鳥居を抜けると、正面にひょうたん型の池がある。左脇には天の川という名の 一条の小川が流れる。その小川を挟んで右に彦星宮、左に七夕宮という二つの星の宮が配置され ている。こじんまりした境内だが、このおとぎ話のような粋な計らいのために、男女の配偶の願 い立てに参拝する人が後を絶たない。 ひょうたん池の左右の円池が重なる箇所に小橋が架かっている。 男はそれを渡ると、長い石段をゆっくりと上った。上りきると小さな台地が開けていて、中央 18 城下場末 に社 殿が 座 る 。そ の造 りは 小ぶ りだ が 、さす が に姫 神を 祀 るだ け あ って どこ か清 雅な香 が 漂 う 。 加えて姉妹神だけあって、どこか田嶋の辺津宮に通じる雰囲気がある。 男は、正面に座した。 台地上に人影はない。男は宮司の河野若狭之進や社人の浦田主水とも親交があるため、人目の ないうちに目的を遂げねばならなかった。 はじめに社殿に向かって深く一礼し、懐から紙と筆を取り出した。 すかさず所作に入ろうとしたが、その瞬間これまで味わったことのない緊張感に包まれた。 (さすがに緊張するばい・・・) いったん紙と筆を地面に置き、男は静かに目を閉じた。邪念を取り払うためである。 次の瞬間、カッと目を見開いた。再び紙筆を手に取り、背筋を伸ばして息を吐いた。 この数カ月、胸の内で温め続けてきた二字がある。その二字こそ自分が生まれ変わることを意 味するものだった。それを形に表す時がようやくきたのである。 渾身の力を込めた男の腕先が動き出し、その二字がついに顕わになった。 ―国臣― と、書かれている。 こ の 男の新しい名である。 七 隈 原 の 菊 池 墓 で 旧 名 を 棄 て た の が 数 日 前 の こ とで あ る 。 男 は 大 島の 中 津 宮 ま で や って 来 て 、 19 城下場末 名実ともにようやく生まれ変わった。 (日本という国の「臣」として生きようと決意した名である。人は笑うかもしれんが、俺にはこ の生き方しかなか) 国臣は、新しい名を記した紙を折って賽銭箱へ投じた。日本国にわが身を捧げるという、自分 なりの宣誓である。七隈原での行動もそうだったが、この男は人生の節目をより鮮やかにするた めに、自己流の儀式を重んじた。 国臣は、石段を下りながら前方に広がる海を見つめた。 (いばらの道となるか、波乱万丈となるか、人知れず朽ちるか、いずれにせよ己の運命を全うす るしかあるまい・・・) 大 島 か ら 戻 る 舟 の 中 で 、 国 臣 は 海 面 を 見 つ め な が ら 考え た 。こ れ か ら の 日 本 に つ い て で あ る 。 正確にいえば、「日本」という国家概念はこの段階ではまだ構築されていない。実存するのは 徳川幕府と三百諸藩であって、「日本」とはおぼろげな総称でしかない。その二百五十年に渡っ て続いている幕藩体制も、三年前の事件をきっかけにほころびはじめている。事件とは、嘉永六 年のペルリ艦隊の浦賀来航である。 時 代 が 変わ る 気運 が にわ か に 高 ま っ て き て い る が 、 具 体 的 な 変 革 が 起 こ っ て い る か と い え ば 、 まだ明快なものはどこにも見られない。外交における公儀の弱腰が批判されて久しいが、それが 改善された気配もない。「全国諸藩が団結すべき」といった美句もあちこちで躍っているが、実 20 城下場末 態はいまだバラバラな状態でしかない。早い話、 ―時代は変わるだろうし、変わらなければならない― という感覚で人々はおおむね一致しているのだが、 ―誰がどのように変えるのか― という具体論になったとたん、確かなものが何もないのである。 このため大名から足軽、商人、庶民にいたるまで、皆誰かを批評することばかりに忙しく、ど こか他人事で傍観する姿勢に甘んじている。国臣は、そうした世相がどうにも我慢ならなかった。 何であれ、行動を起こさなければ物事は何も変わらないと考えていた。 (俺は奇人か?俺という人間はいったい何をすべく生まれてきたのか?) 国臣は、己の半生に思いを馳せた。 十八歳で太宰府天満宮の普請方に就いて以来、これまでいくつかの藩職を務めてきた。くじ引 きによって沖津宮にも関わることになった。江戸藩邸にも二度詰め、その間にペルリ艦隊が浦賀 に来航したため、世間の動揺をつぶさに目撃することになった。また、長崎の藩屯営で経理も担 当し、偶然にも海軍伝習所が設置された時期と重なったため、異人士官と日本人伝習生たちの習 練の様子を日々目にすることになった。 学問の機会や人との出会いにも恵まれてきた。 十代のころ、西新の亀井塾で徂徠学派に触れ、後に富永漸斎という生涯の師を得たことで、和 21 城下場末 ( ) 学 の 基 礎 を 身 に つ け るこ と が で き た 。 長 崎 で は 、 秋 月 藩 の 学 者 坂 田 諸 遠 もろ とお と 縁 が でき 、 ( ) 古 制 の 礼 式 に ま つ わ る 有 職 故 実 ゆ う そ く こ じ つ の 手 ほ どき を 受 け た 。 友 人 や 知 人 、 藩 の 上 役 、 同僚にもことごとく恵まれてきた。極めつけに、大島で人生を変える奇跡の出会いを得た。 そうやって振り返れば、これまでずっと運命に導かれてきた気がしなくもない。 (これからも天の導きに従うのみたい。俺は俺らしく、与えられた道を進もう) 博多まで戻ると、国臣はそのまま太宰府方面へ歩を進めた。 一人の男に会うためである。改名したことをいの一番に報じるこの相手こそ、国臣が大島で運 命的に出会ったその人物である。 ( ) 日田街道を雑餉隈 ざっしょのくま まで南下したところで、東へ折れる。しばらく進むと御笠 郡中村という集落があった。その人物はそこにいた。 「右門さァ、居られますか?」 門を叩いて声を上げると、中年の男が出てきた。少し肌黒いが、整った顔立ちに小ぎれいな身 なりである。 「やっぱりお前やったか?異装姿でまた太宰府にでも参るところか?」 羽織の下からのぞく国臣の直垂姿を認めるなり、中年の男は無遠慮に聞いた。 言葉に独特の抑揚がある。薩摩なまりである。 22 城下場末 「いや、今日は一つ報告があって来ました。実は先日小金丸の養家を出て、今後は己の志のまま 自由奔放に生きていくことと相成りました。名も実家姓に戻しましたけん、まずは右門さァに報 ずべく参じました」 国臣の口調は普段と変わらなかったが、聞き手はことの重大さを瞬間的に理解したようだった。 しばらく黙って国臣の顔を見つめたが、すぐに笑顔を作って招き入れた。 男の名を北条右門という。 この人物こそ、国臣が五年前に大島で出会った相手だった。 以来、国臣は六歳年上の右門に兄事している。今回、国臣が三十歳を目前に妻子を棄て、志一 つに生きる決断を下したのは、別に右門に入れ知恵されたからではない。それでも、右門との出 会いによって己が覚醒したことが大きいことは疑いのない事実だった。 「そいにしても、国臣とは思い切った名だな」 右門は、感心した表情でつぶやいた。 「別に、深い意味はなかです。自分が進むべき道を考えとる時に、ふと思い浮かんだ名にすぎま せん。名前負けするようなら、その辺でくたばるまでです」 国臣の言葉にはどこか茶目っけがある。 右門は、その陰に潜む国臣の信念や度胸を買っていた。国臣の杯を満たしながら、懐かしげに 言った。 23 城下場末 「思えば、そちとは大島でよう談じた。五年前やけど、昨日んこつのようじゃ」 「私も同じ思いです。右門さァと語りあった日々を思うと、まるでおとぎ話のようでした」 右 門 の 話し ぶ りは 、 薩 摩 言 葉 に 博 多 弁が 混じ って い る 。 一 方 、 国 臣 は 右 門 の こ と を 薩 摩 風 に 、 ―右門さァ― と呼ぶ。 「おとぎ話?」 「ええ。そもそも土蔵に人が隠れ住んどるとは、これっぽっちも思わんかったです」 国臣は、前日に大島で見た光景を思い出した。沖吉屋の玄関先で振り返って見た例の大島邸の 土蔵である。 それは嘉永四年秋のことだった。 国臣ならぬ小金丸種徳が大島に着任して半年が過ぎたある日、定番役である上司の野田勘之丞 から突然呼び出されて一つの命を受けた。その命とは、風待ちのため大島に寄港している薩摩船 の舟客に、ある人物を密かに引き合わせてほしいというものだった。 驚いたのは、その引き合わせるべき人物の存在だった。 野田の説明によれば、その人物もどうやら薩摩人らしく、先の島津家の御家騒動によって筑前 に亡命中の人物だという。その男は極秘に大島で暮らしているようで、しかもその居所が、自分 24 城下場末 が止宿している沖吉屋の目の前の大島家の土蔵の中だという。種徳はわが耳を疑ったが、人目を 避けて土蔵を訪ねてみると、本当に人が潜んでいたという訳である。 以来、種徳は隠密に土蔵に通うようになった。 北条右門という男に惚れこんだのである。右門は詩歌や歴史に造詣が深いばかりか、時勢に対 する鋭い洞察力を持っていた。何より薩摩人である。 ―薩摩― 日本の南端に位置するこの国は独特の響きを有する。 普通、都から離れれば離れるほど劣等感が増すものだが、この国だけは不思議とそんな常識は 通じない。天下第二の巨藩であり、ただの辺境の地とは片付けられない重量感があり、途方もな く強兵な印象がある。少なくとも種徳は、薩摩に対し憧憬の念を抱いていた。 この土蔵通いは、種徳の大島生活を一気に開花させた。 毎晩のように土蔵に上がっては、右門と歴史を談じたり、詩歌を吟じたり、筑薩の国情を語っ たり、世事を論じあったりした。当時、種徳は自分の視野や見識が日々広がっていく抑えがたい 興 奮 を 覚 え た 。 右 門 と の 対 話 を 通 じ 、 自 分 は い か な る 信 念 の 持ち 主 か 、 今 後 ど う 行 動 す べ き か 、 身に思うところが多々あった。 そんな奇跡のような人間成長を福岡城下でも、江戸でも長崎でもない、玄界灘の離島で遂げた のである。しかも、人目を忍んだ土蔵の中でである。国臣にとって、おとぎ話のようだったこと 25 城下場末 も無理はない。 「 右 門 さ ァ が 土 蔵 の 中 で 、 こ れ か ら 日 本 は 大 き く 変わ る と 語 っ と ら れ た の を よ う 覚 え と り ま す 。 まこと先見の明でした」 右門の見立てどおり、二人が土蔵で語りあった二年後にはペルリ艦隊が浦賀に来航し、以後世 の中は激動の兆しを見せはじめている。 「小金丸やなく、これからは平野国臣やったな。世の中はこれからもっと動くだろう。そちが一 大決心したなら、おいたち四人も負けんごつ義を全うせんといけん」 右門は、視線を尖らせて言った。国臣も、目力を込めて返した。 ( ) ( ) 「左門さん、藻萍 もへい さん、五百津 いおつ さんは元気にされとりますか?」 「ああ、皆元気だ。左門さァと藻萍さァとはちょいちょい会うし、五百津さァとも時々便りを交 わしとる。大庭村で息災のようじゃ」 「それは何よりです」 名前の挙がった人々は、福岡で「薩摩の四人」と呼ばれている。 事の起こりは、嘉永二年末の島津家の御家騒動である。 ( ) ( ) 当時、薩摩藩では剛腕藩主斉興 なりおき の後継争いで、斉彬 なりあきら 擁立派と側室筋の ( ) 忠教 ただゆき (のちの久光)擁立派に分裂していた。そんな中、斉彬擁立派の決起計画が未然 26 城下場末 に発覚するところとなり、十二月三日の夜、斉彬派の指導層六人が突如として自刃を命じられる 事態となった。 これを受け、真っ先に脱藩したのが井上出雲守だった。 井上は鹿児島諏訪神社の神官であり、斉彬派の要人山田一郎左衛門の高弟だった。山田は本居 宣長の流れをくむ国学者で、家中随一の尊王家と謳われた人物である。井上は、師の山田の切腹 を目の前で見届けると、即刻脱藩することを決意し、筑前福岡へと走った。 第二の脱藩者は、木村仲之丞だった。 ( ) 騒動後、鹿児島城下では粛清が吹き荒れ、木村も上ノ馬場にある実家の樺山 かばやま 家で蟄 居処分を受けた。井上出雲守が脱藩したことを耳にすると、自らも一念奮起し、三月十四日の夜 に脱藩して同じく筑前へ走った。 ( ) 井上と木村は、それぞれ福岡に到着するや、藩主黒田長溥 ながひろ の近臣である格式奥頭取 吉永源八郎の家に向かった。個々に脱藩の具状書を提出したため、福岡藩は対応を協議した。そ の結果、身柄の引き渡しを薩摩藩が求めても断固たる態度を取ることとし、両名を庇護すること になった。以後、井上と木村は工藤左門、北条右門と変名し、筑前に潜伏することになった。 ( ) 左門と右門が福岡へ走ったのには、理由 わけ がある。 というのも、福岡藩主黒田長溥はもともと島津家の血縁者である。 ( ) 長溥は島津斉興の先々代重豪 しげひで の九男であり、養子藩主として福岡藩に迎えられた経 27 城下場末 緯がある。しかも、幼少のころ斉彬と一緒に仲良く育った間柄にあった。ただ、長溥は福岡藩主 となって十二年になるが、一方の斉彬は、いまだ郷国の藩主にさえ就いていない状況だった。 両者ともに若いころから西洋文明に強い関心を抱き、開明君主との評判があった。それにもか かわらず、世代交代が遅々として進まない鹿児島の惨状に、斉彬擁立派が筑前五十二万石の太守 黒田長溥を頼ることは自然な流れだった訳である。 聞いたところによれは、左門と右門が福岡入りした直後、薩摩藩は二十名を超える捕吏を遣わ し、両名の捕縛を試みたという。だが、長溥の内命を受けた福岡藩の詮議方は、薩摩藩に対して 表向きの協力を装った。両名の存在についてはわずかな関係者だけで情報管理され、領内の閑地 に匿われた。 そ んな 折 、 同年 の 六 月十 八 日 に竹 内 伴右 衛 門が 、 七 月 二 日 に 岩 崎 千 吉 が 福 岡 に 亡 命 し て き た 。 第三、第四の脱藩者である。 ともに薩摩加治木の郷士であり、もともと江戸藩邸で斉彬擁立のために動いていた。郷国の騒 動後、粛正がはじまると消息を絶ち、相次いで福岡に流れ着いた。先の二人と同様に福岡藩の庇 護を受けると、竹内は竹内五百津、岩崎は洋中藻萍と変名した。 そ う いう訳 で 、 工藤左 門 と 北条右 門、竹 内 五 百 津、洋 中藻 萍 の 四 人を 「 薩 摩 の 四 人」 と呼 ぶ 。 四人が福岡に来て七年になるが、この間ようやく島津家の騒動も治まった。 長年世子に甘んじていた斉彬も、嘉永四年の春に晴れて薩摩藩主となった。斉彬が郷国の藩主 28 城下場末 となったことで、亡命中の四人に対する薩摩藩の追及も弱まった。 それを受け、福岡藩もそれまで志摩郡桜井や大島といった閑地に匿っていた四人を城下近くに 移した。今では、右門が御笠郡中村にいるほか、洋中が近くの筒井村、工藤が一里半ほど北の臼 井村、竹内のみは日田街道を十里ほど進んだ上座郡大庭村にいる。 斉彬が藩主になったとはいえ、先代斉興はいまだ健在であり、四人にはいまだ帰国許可が下り ていない。四人は引き続き福岡藩から厚い処遇を受けていた。正式の辞令をもって、工藤と北条 には年米五十俵、洋中と竹内には四十俵が給付されていた。 「最近は皆さん集まって飲まれとらんとですか?」 薩摩の四人がそろった酒席に、国臣はこれまで何度か呼ばれたことがある。 「皆で集まることはあまり無くなった。おいと藻萍どんは妻を娶ったゆえ、そうそう好き勝手に もできんしな・・・」 右門は肩をすくめて、奥の土間で働くフジエの方に視線をやった。 フジエは福岡の町娘である。縁あって薩摩脱藩の侍と恋仲となったため、形式上いったん公用 人吉永源八郎の養女となり、右門に嫁いだ。 「それは残念。また呼んでもらいたかったとですが」 国臣が肩を落とすと、右門は笑みを浮かべた。 29 城下場末 「待て待て、誰もやらんとは言うとらん。そちが一念奮起したと聞けば、左門さァたちもきっと 喜ぼう。国臣の門出を祝って、近いうち一席設けよう」 「願ってもない。楽しみにしとります」 国臣は笑顔で返したが、心の中では右門の気遣いに感謝していた。 (俺の非情な決断を、右門さァはいつもどおりに受けとめてくれる・・・) 思えば、国臣にとって薩摩の四人ほど有り難い存在はない。 左門と藻萍、五百津の三人は、国臣より十歳ばかり年長である。一番若い右門でさえ、六歳年 長である。皆、兄のような存在である。 国臣は、多くのことを彼らから学んだ。 薩摩という巨藩でさえ御家騒動が起きること、それを憂い、命を賭しても義を全うする志士が この世に実在することを直に学んだ。彼らの生き様に触れることで、勇気や希望が湧いてきたし、 至誠を貫く大切さにも目覚めることができた。 中でも、右門は国臣にとって最大の理解者である。 大島の土蔵で談じあったころは、血沸き肉躍る思いを共有した。普通、初めて出会った人間同 士は交誼を深めるにつれ、相手への警戒心が解け、信頼関係が生じていくものである。ところが、 国臣にとっては不思議なことに、右門とは初対面でいきなり馬があった。 右門は、博学である。 30 城下場末 歴史や文学全般に通じている。それにとどまることなく、独自の時代観と分析眼を持っていて、 その弁論に説得力もあるため、国臣にはとてつもなく魅力的に映った。たとえば右門は、 「これからは異国交流が鍵となろう。近いうち日本は井の中の蛙でいられなくなる」 と述べたが、国臣には衝撃的だった。 右門は、薩摩藩が行っている琉球との密貿易にも触れたが、その見識は長崎勤務を経験した国 臣 を う な ら せ る も の だ っ た 。 事 実 、 右 門 の 予 見 ど お り 、 二 年 後 に は ペ ル リ が 浦 賀 にや っ て 来 て 、 ―上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず― と、その後日本中がひっくり返る事態となった。 右門の凄さは、行動力にも裏付けられている。 島津の御家騒動が起きた後、右門は実家に假檻を設けて禁固処分となった。 身内に監守させるという当世の慣例に沿ったものだが、右門は斉彬への忠義を貫くべく、ある 時点で禁固を破って福岡に走ることを決意した。その大胆な行動について、国臣は以前右門に尋 ねたことがあるが、 ―薩摩藩を変えるためには内からでなく、外から働きかける以外になかった― という事情だったらしい。 だが、その代償は決して小さくなかった。 右門が獄を破る際、実母のカヤは鋸を差し入れて、涙ながらに手助けしたという。その罪累に 31 城下場末 よ って カ ヤ は 遠 島 に処 せ ら れ 、 監 守 役 だ っ た 実 兄 の 樺 山 喜 兵 衛 は 責任 を 取 って 自 刃 し た と い う 。 (右門さァは、俺が想像もできんような重かもんば背負うておられる) 右門宅を辞すと、国臣はそのまま太宰府に向かった。思えば、養家を去る際に、 「太宰府に出掛けてくる」 と菊に告げたが、十数日の後にようやくその言葉どおりとなった。 それから数日後、国臣は地行三番町の実家にいた。 太宰府近くの二日市温泉にいたところを知人に発見され、地行に連れ戻されたのである。半月 前に太宰府に出掛けると言い残したきり、いつまで経っても小金丸種徳が戻らないので、地行近 辺は失踪騒ぎで大騒ぎになっていたという。 親族縁者や友人、同輩が手分けして探し回ったところ、右門宅で国臣の消息をつかんだ知人が 太宰府一帯を捜索し、やっと温泉場で笛を興じていた国臣を発見した。ところが、当の本人は 「小金丸の家にはもう帰らんばい」 と一点張りであるため、とりあえず平野家に連れ戻されたのである。 一応、実家に戻ってきたものの、居心地が良いはずがない。 十五年も過ごした小金丸の養家を理由もよく分からず出るというのである。その上、三か月後 には三十歳になる一人前の男が、妻子の面倒も見ず無職無給の浪人になるというのだから、両親 32 城下場末 も親族も皆、開いた口がふさがらなかった。 呆れ顔とともに、冷酷なまでの視線が国臣に注がれた。覚悟はしていたが、筋の通らない愚行 の極みと、誰もがまともに取りあおうとしなかった。 国臣の父は、名を平野吉郎右衛門という。 長く江戸立帰役を勤めたが、年齢を重ねたため、近ごろは城下で男業指南役に徹している。江 戸立帰役とは文書通信役のことで、吉郎右衛門は福岡と江戸を百回以上も往来した経歴を持って いた。また、男業指南役とは杖術や捕術、縄術といった武芸を教える師範のことである。このた め城下には数百人もの門弟がいる。真面目で実直な性格であり、城下の評判もすこぶる良い。 母の名をイネという。 落ち着いた物腰の柔らかい、心優しい女性である。ただ、曲がったことに対しては極端に厳し い 一 面 を 持 っ て い る 。 と りわ け 家 庭で は 子 ど も の し つけ に お いて 容 赦 が な か っ た 。 と い っ て も 、 ( ) 手を上げる訳ではなく、冷静沈着にとくとくと道理を説く性質 たち であり、子らにとっては父 に叱られるより母にしぼられる方がむしろ堪えた。 吉郎右衛門とイネには、四男二女がある。 国 臣 は 次 男 だ が 、 実 家 に 戻 っ た こ の 時 期 、 兄 の 小仲 太 と 弟 の 宇 八 郎 は 既 に 縁 家 を 継 い で い た 。 末弟の鹿三郎も奉公に出ていて、妹の幸も他家に嫁いでいた。このため、実家にいるのは父と母、 ( ) それに十五になる末妹の槌 つち の三人だけだった。とはいえ、間口三間奥行き十間ほどの小宅 33 城下場末 である。無職無給の出戻り息子が快適に暮らせる空間などあろうはずもなかった。 国臣は、両親の前で低頭すると、 「わがままは百も承知の上、申し上げます」 と切り出し、小金丸家には二度と戻らない旨と、姓名を平野次郎に改める旨を告げた。父は烈 火のごとく激怒し、放蕩息子を説き伏せようとした。だが、それ以上何も発しようとしない次郎 の覚悟が命を賭すほど揺るぎないことを知ると、やがて口数を減らした。 次郎の決断の裏には、並々ならぬ思いというか、 ―秘めた信念― があることは、両親には明らかだった。 それが何であるかは本人が言わないので知りようもないが、次郎が奇人であることは、今には じ ま っ た 話で は な い 。 古 制 の 装 束 で 練 り 歩 く な ど 、 こ れ ま で 度 々 変 人 視 さ れ て き た 経 緯 が あ る 。 「これ以上問い詰めてもしょうがないですけん、しばらく様子ば見ましょう」 との母の弁によって、次郎の仮住まいは当分許されることになった。 それからというもの、国臣は実家の隅にこもって読書講学に没頭するようになった。 何もしなければ自分が腐っていくばかりだし、両親にこれ以上迷惑を掛ける訳にもいかなかっ た。そのため、いったん古制の太刀や烏帽子直垂の類を封印し、 ( ) ―独醒軒 どくせいけん ― 34 城下場末 と自称して、四六時中書物と向きあった。 食事も朝夕最低限を摂るだけで、外出もほとんどしない。はじめのうちは同僚や親族が心配し て 様 子 を 見 にき た が 、 国 臣 の 狂 行が 説 得 不 可 能 と 分 か る に つ れ 、 訪 問 者 も 徐 々 に 減 っ て い っ た 。 それでも、夜半忍んでやって来る連中だけは例外だった。 藤四郎や日高四郎、小田部龍右衛門といった仲の良い輩である。彼らは国臣と年齢が近く、地 行から西新、藤崎にかけて暮らす幼いころからの旧友である。小田部だけは真面目であまり踏み 外したことをしないが、藤と日高はともに漸斎塾の門下生で、お太刀組の仲間でもあった。 ( ) 彼らが夜半人目を忍んでくるのには理由 わけ がある。 というのも、同じ地行下町には筋を隔てて小金丸の養家があるのである。国臣がほとんど外出 しない理由もそこにあったが、藤たちは国臣の心中を察し、決まって暗くなってからやって来た。 酒と多少の肴を手土産に、ふらっと寄っては雑談して帰っていくだけだが、四面楚歌である国臣 には彼らの友情が身にしみて有り難かった。 安政四年が明けた。 正月中旬のある夜、例のごとく藤と日高、小田部がやって来て、国臣を強引に家から引きずり 出した。親友同士には遠慮というものがない。 「そげん毎日家に籠っとったら、人間が小そうなってしまうばい。今夜は俺たちがおごっちゃあ 35 城下場末 けん、新茶屋まで付きあえ!」 「俺は今酒はやらんと言ったやろ!気持ちだけ貰っとく」 国臣は、きっぱり断ったつもりだったが、三人は全く聞く耳を持たなかった。 「せからしか。黙ってついて来んね!」 日高が国臣の袖を引きながら言った。小田部も国臣の背中を押して続いた。 「まさか餓鬼大将やったヲッサンを、俺たちがこげんして飲ませる日が来るとは夢にも思わんか ったばい」 ( ) ヲッサンとは、国臣の幼名である乙吉 おときち にちなんだ呼び名である。 四人は、黒門橋を荒戸へと渡った。 ( ) 黒門は城下の要衝である。福岡城は西の守りに、天然の入り江だった草ヶ江 くさがえ を大濠 に改良して取り込んでいるが、大濠が海側にしぼんだところに橋が架かっている。その先の人口 の堀を隔てて、東に上中級藩士の屋敷、西に中下級藩士の屋敷が広がる。 欄干の付いたこの橋を東側に渡ったところに、漆黒の屋根瓦と壁板、その中間が白壁でできた 門がある。威風あるこの門は、黒田家の馬印である ―中白の旗― をどこか連想させた。 旗の上下が黒で染められ、中が純白に抜かれる。そのせいもあってか、人々はこの門を 36 城下場末 「黒門」 と、親しみを込めて呼ぶ。 四人は黒門をくぐって六丁筋に出た。 ( ) その名のとおり、唐津街道を兼ねたこの主筋沿いには簀子 すのこ 町、大工町、本町、呉服町、 名 島 町 、 橋 口 町 の 六 つ の 町 が 並 ぶ 。ひ と つ 南 の 筋 が 御 堀 端 と 大 名 町 で 、 重 臣 屋 敷 が 並 ん で い る 。 六丁筋には呉服屋や小物屋、焼物屋、藍染屋、菓子屋、茶屋、酒屋、薬種屋などが連なっている が、既にほとんどの店が閉まっていた。通行人も夜半はまだらでしかない。 「次郎、これからいったいどうするとや?お前の両親のことばい。いつまでも居座る訳にはいか んやろ?」 「まあな。でも、しばらくは居るつもりたい」 小田部の問いに、国臣は気のない素振りで答えた。 実際のところは、胸中は信念で燃えたぎっている。 ―勤皇と世直し― という熱い思いを秘めているが、それは一介の浪人が口にするにはあまりに大きすぎた。 事実、実家に戻ってよりこの方、ただ武家弓馬の故実研究を行っているにすぎない。それが己 の人間基盤のために不可欠だからこそ没頭しているのだが、人からそれについて問われる時、単 なる趣味とか、父の武術指南の補佐とか、あいまいに答えるしかなかった。 37 城下場末 当然、「国臣」という名を披露するのも、それなりの行動が取れるようになってからと心に決 めている。それまでは平野家の次男であるにすぎないから、「次郎」で事足りると考えている。 一行は、ほどなく桝形門にたどり着いた。 城下の西の砦を黒門とするならば、東の砦は、六丁筋が那珂川に突き当たるところに位置する 桝形門である。川に沿って長大な石垣と白壁が伸び、福岡城下を丸ごと要塞化している。 西中島橋を渡って中州を抜け、東中島橋に差しかかったところで藤が突然声を響かせた。 「それにしても、さすが次郎ばい。ヲッサン時分から何かしでかすとは思っとったが、まさにそ の通りになったばい」 「お前、俺をどげん風に見とったとか?」 発言の意図をただそうとしたが、藤は構うことなく続けた。 「何か持っとう奴は持っとうもんたい。お前はきっとそげな奴ばい。これからの次郎がどげんな るか、皆楽しみにしとうぜ」 国臣は再度問いただそうとしたが、藤が再び制した。ちょうど東中島橋を渡りきって、博多の 札の辻に出たところである。 「さあ、博多に入ったばい。今晩はせせこましか話ば止めて、ヲッサンを景気づけるためにパア ッといこう!」 「おう!」 38 城下場末 あとの二人も息を合わせて気勢を上げた。 いつの時代もそうだが、博多は開放的な街である。 当代では福岡城下に対して、博多津中と呼ばれる。 だが、中洲を挟んで向かい合う二つの都市は、水と油ほどに性格がちがう。堅固な桝形門で守 られる福岡に対し、博多の入り口は間延びした制札場しかなく、門の一つすら存在しない。武家 福岡に対する博多商人の対抗手段は、心意気一本といっていい。 それでも、福博が一体化している江戸後期にあっては、既に補完関係ができ上がっている。こ れほど完璧に対を成している双子都市は、日本のどこにも存在しないのである。 福博の場合、絶妙なまでに双方の存在感が拮抗している。 当世が幕藩体制である以上、本来であれば福岡城下が博多を支配してしかるべきである。とこ ろが歴然たる事実として、博多は歴史が古く、福岡は新参でしかない。 福岡は、言うならば黒田家が入筑した後に突如として出現した新興都市にすぎない。それが証 拠に、江戸期になって既に二百五十年もの歳月が流れているが、家数と人数において博多は依然 として福岡を凌駕したままである。 国臣たちは、夜の博多津中を歩いた。 福岡は武家屋敷が建ち並び、東西に長いのに比べ、博多は雑多で、東西に短く南北に長い。そ 39 城下場末 のため、すぐに東端の石堂橋にたどり着いた。 この橋の川下に柳町、東岸に新茶屋という二つの花柳がある。 女郎屋が二十軒ほどひしめく柳町の方が知名度は高いが、近ごろは山海の幸や珍菓、美酒など を謳った新茶屋の方が人気を博している。どちらであれ、藩職だの、世間体だの、武士の誇りだ の、仰々しい話題はこの街にはそぐわない。 藤と日高は、花柳話に既に興じている。ひいきの茶亭を並べては、論評を闘わせている。 「若松屋の白拍子は上物ばい」 「いや、美酒や鮮魚、珍菓でいえば、やっぱり正木屋やろう」 弁が白熱するにつれ、好みの芸妓まで引き合いにして賛否を論じあっている。真面目な小田部 までも、世聞を武器に参戦しはじめた。 国臣は馬鹿らしく思ったが、三人の痴話げんかを温かく見守った。いつのまにか、久しぶりに 心に灯がともっているのを感じた。 (人間所詮一人では生きていけん・・・) 川面に浮かぶ花柳の灯を眺めながら、国臣はそんな思いを抱いた。 数日後、国臣がいつものように自宅で読書に興じていると、昼前に一通の書状が届いた。 送り主は北条右門である。早速開けてみると、 40 城下場末 ( ) ―本日暮六つ、博多入定寺にて梅田雲浜 うんぴん 先生を囲む饗席に参られたし― という案内状だった。 梅田雲浜といえば、全国にその名が轟く学者である。 若狭小浜藩の出身だが、昨今水戸学派とともに勤皇思想の源泉となっている闇斎学を修めた東 西きっての有識者である。幕政改革や海防策においても、歯に衣着せぬ大胆な弁論を行ってはば からないと聞く。 そのせいか、藩塾講主の座を追われたり、除籍されたり、極貧生活を余儀なくされたりと、何 かと逸話の多い人物である。ペルリ来航後はその弁論が一層激しくなり、異国との条約提携の不 適切や攘夷の必要性を各地で説いて回っているとも聞く。そんな高名な学者との饗席に招かれた のだから、これほど名誉なことはなかった。 博多の東境である石堂川沿いには、多くの寺社が連なる。 一帯は蓮池寺町と呼ばれ、十ほどの寺社があり、南の突き当たりが、わが国最初の禅寺である ( ) 聖福寺 しょうふくじ の西門である。入定寺はこの並びの奥にあった。 玄界灘の冬空は連日厚い灰雲で覆われるが、この日は珍しく青空をのぞかせた。 入定寺に着くと、薩摩の四人の一人である洋中藻萍が入り口で出迎えた。 会場に通され一番隅の席につくと、前後して八名の地元の名士が着座した。城下場末の国臣に とっては、半数が見たこともない面々である。 41 城下場末 藻萍と国臣以外、風体から皆武士ではない。 ( ) ( ) 藩医の原三信 さんしん 、侠気に富むことで知られる商家の帯屋 おびや 治平、右門を通じて 知己のある高橋屋平右衛門と楠屋宗五郎の四名は分かるが、あとの人々は分からない。皆それぞ れに知性や気骨のありそうな人々である。年のころは三十半ばから五十くらいの幅に見える。席 次からしても、この中では国臣が最も若輩であることは明白だった。 (天下の学者を囲む席に、右門さァが招いた地元の名士とはこげん面々か。武士が他に一人もお らんとは、いかにも博多らしか・・・) 国臣は、座を眺めながらそう思った。 ほどなく右門が先導して、梅田雲浜が部屋に入ってきた。 着座すると、右門があいさつして雲浜を紹介し、主客が口を開いた。 「梅田雲浜と申します。北条はんのご厚意を得て、皆様と会食する機会を頂戴し、ほんま光栄に ございます。何とぞ宜しゅうお願いします」 上方なまりの卒のないあいさつである。 はじめて接する天下の名士を国臣はじっくりと観察した。肌の色が異様に白い。頬がふっくら としていて、小奇麗な顔立ちでる。京ことばのせいか、想像以上に気さくな印象を受けた。 (まるで能舞台の脇で鼓でも打っておられそうな御顔ばい・・・) 想像すると吹き出しそうだったが、親近感を持てる人物であることに変わりはない。年齢は四 42 城下場末 十過ぎと聞くから、国臣より十歳ほど年上である。雲浜と右門は、はじめに互いの縁について一 同に紹介した。 国臣は以前右門から直接聞いたことがあったが、雲浜と右門を結びつけた人物は、薩摩の重職 山田一郎左衛門である。 例の島津の御家騒動で切腹した斉彬派の要人である。山田がかつて京の藩邸で留守居役を務め ていたころ、雲浜の父は山田邸に出入りしていて、雲浜も付き従ったことがあるという。 山田は薩摩藩きっての勤皇家で、右門にとっては国学の師だった。 その山田の縁で、右門と雲浜は知りあったようである。山田の自刃後、右門が福岡に脱藩した ことを知った雲浜は書簡を送り、今回長州まで所用で赴いたついでに博多に足を延ばしたという 訳らしい。 一同は順番に自己紹介したが、早速いきり立って雲浜に質問をぶつける者もいた。好学な博多 商人たちは、天下の名士に接しても遠慮がなさそうである。 「先生は異国との条約締結をどげん思われますか?」 下名島町の高橋屋の問いに、雲浜は切り返した。 「 先 の 和 親 条 約 に 続 い て 、 公 儀 は さ ら に 踏 み 込 んだ 新 条 約 を ア メ リ カ と 結 ぼ う と し て は り ま す 。 今後おそらくはアメリカ船を受け入れる港が増えることになりましょう。江戸や大坂に異国の商 品が出回り、きっと外交官が常駐することになりましょう」 43 城下場末 「本当ですか?」 侠商の帯屋が目を丸めて聞き返した。当世の庶民感覚でいえば、寝耳に水の話である。 雲浜は、間髪入れず補足した。 「問題は二つありましょう。第一に、公儀に方針がないこと。アメリカは他国に先んじて幕府に 取り入ることで、日本がエゲレスやフランスといずれ争うことになった場合にこれを仲裁すると 言うてはりますが、友好と商売上の利益は巧みに背中あわせになっとる訳です。われらはこれを 鵜呑みにはできまへん」 「なるほど」 皆、雲浜の弁論に聴き入っている。 「第二に、わが邦に情報の乏しきこと。異国からみれば、日本は裸同然どす。足元まですっかり 見透かされてしまっとる。一方、日本からは異国の事情がよう分かりまへん。これでは勝負にも なりまへん。日本は異国の思う壺にはまるばかりどす」 座に沈黙が流れた。はじめて耳にする天下の論客の言葉を呑みこむのに、博多商人たちは多少 の時間を要しているようだった。 だが、国臣は心の中で別なことを考えていた。用語についてである。 国臣は、雲浜が使う用語がいちいち気になった。 たとえば、世間では普通、徳川政権のことを「御公儀」としか呼ばない。しかし、雲浜ははじ 44 城下場末 め か ら 「 公 儀 」 と し か 言 わ ず 、 し ま い には す ぐ に 「 幕 府 」 と 呼 び 捨 て に し た 。 た だ の 用 語 だ が 、 雲浜が用いると、不思議とそこに理念が込められているような気がした。 (公儀を「幕府」といえば、たちまち鎌倉や室町といった昔の政権と同列になる。それは、江戸 幕府もいずれ過去形になると言うとるに等しい・・・) 話題は、雲浜の逸話にまつわる事柄にも及んだ。 八歳で藩校に学んだことにはじまり、闇斎学の奥義、藩主への建言、幕政批判を行った際の処 分などについて、次々と質問が浴びせられた。とりわけ士籍を剥奪され、極貧生活を強いられた ことに関しては、 「二畳に親子三人で暮らされたというのはまことでしょうか?」 とか、 「奥方が豆腐売りまでされたと噂を耳にしましたが、本当でしょうか?」 といった問いまで飛び出した。 雲浜の話しぶりに傲慢さは微塵もない。取り囲む博多商人たちも、好人物ばかりである。話題 に事欠くこともなく、酒量は徐々に増していった。時折どっと笑いが生じたり、拍手喝采が湧き 起こったりしながら、宴は和やかに進んだ。 国臣は、末席からこの様子を見守っていた。賛ずべきところは賛じ、笑うべきところは笑って、 場に溶け込もうとした。だが、心の内では一つのことを考え続けていた。 45 城下場末 ―勤皇― についてである。 梅田雲浜と北条右門をつないだものは、山田の「勤皇」といっていい。 そ の 山 田 一 郎 左 衛 門 が 自 刃 し た の も 、 勤 皇 開 明 派 の 島津 斉 彬を 擁 立 し よ う と し た た めで あ る 。 今こうして面識のない人々が宴席を囲んでいるのも、天下の勤皇学者が来博したためである。自 分に当てはめても、妻子を捨てる非情な人生を歩むきっかけとなったのは、勤皇思想が根幹にあ るためである。 ( ) (いったい勤皇とは何だろう。この先どうなるというのか?天皇が政 まつりごと に携わってい たのは数百年も昔のことばい。再びそんな世が巡ってくるのだろうか?) 参席者たちのやり取りを見つめながら、国臣は思いにふけった。 (士農工商の身分差など、もはや存在しないのかもしれん。日本中の人々が願っとることと、勤 皇はどこかで結合しとる。それは日本人が力を合わせ、新しい世を開かねばならんことを示しと る。そこに俺の進むべき道もある) 酒席にあっても、国臣の心は醒めていた。 勤皇家が集まる中で一人述懐にふけるということは、己が異端でしかないことを意味する。そ こに浮かんでくる一字は、もはや ―狂― 46 城下場末 でしかない。 (俺は、己の狂を突き進むしかあるまい・・・) 次の瞬間、雲浜と視線が合った。それまでも何度か目が合っていたが、その都度国臣は視線を 泳がせて、注目を避けていた。 「平野どのと申されたかな?」 「はっ、はい」 完全に不意を突かれた形となり、 (しまった) と、国臣は思った。 温和な表情を浮かべているが、相手は百戦錬磨の論士である。同じ沈黙でも、中身のある人間 と中身のない人間を瞬間的に嗅ぎ分けているにちがいない。 「あなたは勤皇の志をお持ちで、近ごろ浪人になりはったとか?」 聞 か れ て ハ ッ と し た が 、 右 門 が 自 分 の こ と を ど れ だ け 雲浜 に 話し て い る の か 見 当が つ か な い 。 それでも、雲浜が問いかけたことによって、博多商人たちは地元の若輩藩士が座に加わっている 理由を解したようだった。 「はい。ただ、取るに足らない浪人にございます」 注目をそらそうとしたが、あいにく雲浜は逃がしてはくれなかった。 47 城下場末 「差し当たり何かされはるおつもりで?」 国臣から何かしら引き出そうという魂胆のようである。 だが、ここは赤裸々な勤皇心を披露する場ではない。名士たちが顔を合わせ、互いの見識を称 えあう場にすぎない。国臣は、無難に取り繕おうとした。 「私は学が足りませぬゆえ、精進すべく励んでおります」 「ほう。どないな学問をお好みでしょう?」 「国学や漢学をかじっとる程度です。ただ、最近故実にも凝っております」 「どないな故実でしょう?」 「杖術や犬追物といった古の習わしにございます」 「それは殊勝なこと」 雲浜は歯切れよく褒め、己の杯を乾して付け足した。 「将来京に来られることがあれば、幣宅にもお寄り下され。是非ともご教授いただきたい」 国臣は、頬の火照りを感じ、ただ恐縮するばかりだった。 それからも、国臣の読書ざんまいの日々は続いた。雲浜の饗席に参加したことが、結果的には さらなる発奮材料となった。己の不甲斐なさを痛感したのである。 別に、天下の名士の前で畏縮した訳ではない。ただ、雲浜の人間的な大きさに全く太刀打ちで 48 城下場末 きなかったことは紛れもない事実だった。雲浜の一つ一つの発言には説得力や重みがあった。 (それに引き換え、俺には志一つしかなく、宴席の最中も一人醒めとった。である以上、割り切 ってどこまでも己の「狂」を突き進むしかなか・・・) そう再認識してたどり着いたのが、やはり故実研究だった。 それが今後どのように役立つのか、自分でも想像がつかない。それでも、古の武家礼法を究め ることが、将来何かの役に立つような直感めいたものがあった。 これを説明するのは容易ではない。徳川治世の武士にとって、古の武具や服飾、制度習慣を学 んだところで、一文の得にもならない。そんな暇があるくらいなら、儒学や素読、算学など、藩 職に生かせる教養を磨いた方が増禄という実益で報われる確率が高い。 とはいえ、今は乱世の兆しがある。 戦 の 世 に な る と い う 直 喩 の 意 味 で は な い 。 世 が 乱れ る と い う 広 義 の 意 味 で あ る 。 幸 か 不 幸 か 、 二百数十年におよぶ徳川の世に戦らしい戦はほとんど起きていない。必然的に、武家は武家とし ての本来の機能を喪失している。 もともと、武家は命を賭して凌ぎあう職種だった。自らの実力や働き次第で、誇りや名声、資 財をほしいまま手に入れられた。 ところが、博打性の極めて高いはずのこの職種が、太平の世にあっては農民や商人よりも安定 した職になり下がっているのである。武家には、天災も飢饉も廃業もない。秩序を守りただ勤勉 49 城下場末 でさえいれば、禄を食むことができるのである。そこには、もはや誇りなどなく、思考停止した 日々を繰り返すばかりとなっている。 国臣に言わせれば、これを是正するものこそが故実である。それというのも、故実とは ―武家は本来どうあるべきか― を論ずる学だからである。 そして、武家の「故実」と並び、朝廷儀式などの習わしに通じることを「有職」というが、両 者を合わせて有職故実と呼ぶ。この学問を極めることで国臣は活路を開こうと考えた。 この点において、平野家は好都合だった。 父吉郎右衛門は、城下でも有数の武術師範である。読書好きな性格もあって、実家の一角には 各流派の武術書や伝承書、故実の参考書類が山積みになっていた。 国臣は、父が毎朝決まった時刻に外出するのを良いことに、蔵書を吟味しては数冊ずつ借用し た。手元には、地元の馬場や騎射場を取材して書き留めたものが膨大にある。父の蔵書に目を通 しては、これらに関連箇所を書き写す作業に没頭した。 国臣の生活は単調を極めた。 自活するため手習い師匠の口を知人から紹介してもらったが、それ以外はほとんど家にこもっ た。朝から晩まで故実関連の書籍と向き合い、修学に徹した。 国臣が外出する理由は、他に二つしかない。一つは、書籍の入手である。 50 城下場末 学を深めるにつれ、時折何としても入手したい重要な書物が出てきた。その度に所蔵場所を調 べ、これを借り受けるべくどこへでも出向いた。時には専門書一冊を借りるため一昼夜歩いたこ ともあれば、江戸でしか手に入らない書籍を江戸詰の知人に注文依頼したりした。 もう一つの外出理由は、富永漸斎宅への通塾である。 といっても、同じ地行界隈にあり、数町ほどしか離れてない。国臣は、三日に一度は漸斎塾へ 通った。そこは、国臣にとって息抜きの場でもあった。そこに行けば、藤や日高ら気の置けない 仲間がいるからである。 国学をはじめ佩刀や笛、義経袴、有職故実など、国臣を国臣たらしめるものは、およそ漸斎の 影響といっていい。漸斎は老齢で小柄だが、長太刀を佩き、その厳格な顔つきは初対面の人々を 尻 込 み さ せ る ほ ど の 凄 み が あ る 。 六 十 五 歳 と な っ た 今 も 独 身 を 貫き 、 独 特 の 生 活 を 送 っ て い る 。 といっても、それは城下場末の評判であって、国臣ら門下生にとっては無邪気な人懐っこい翁 でしかない。国臣がはじめて漸斎の門を叩いたのは大島赴任から戻った直後だったので、かれこ れ通塾歴も五年におよぶことになる。 中でも、痛快な思い出がある。 ( ) それは嘉永五年に、漸斎以下八人で香椎宮と猪野 いの 大神宮を参詣したことだった。そろい の古式ゆかしい烏帽子直垂姿でである。 51 城下場末 世間では奇怪極まりない格好も、国臣たちにとっては大真面目な出で立ちだった。 ( ) この年のはじめ、漸斎は会沢正志斎 せいしさい の『新論』を入手し、これを門下生に回覧し たが、これが一種の起爆剤となった。『新論』は三十年前に書かれた論文で、内外の政治危機を 赤裸々につづり、「尊王」が諸藩協力のため不可欠と唱えた書である。さらに、状況次第で「攘 夷」もやむなしと論じる。その意味では、「尊王」と「攘夷」をはじめて体系的に結びつけ、こ れからの時代の指針となるものを示した画期的な書であり、これを読んで血潮がたぎらない男子 はいないほどだった。 ただ、その過激な論調のため、『新論』の出版は幕府によって長年制限された。 そんな状況の下、漸斎は京の縁者を通じてどうにか一冊を入手した。藤や日高、吉田太郎ら門 下生らは、これをたちまち輪読して皆感涙したという。大島から戻ってきた国臣も一足遅れてこ れを読破し、目頭を熱くした。 門下生たちの感涙を認めた漸斎は、ある日彼らを前にして提案した。 「尊王の敬意を表すべく、香椎と猪野に参ろうか」 というのである。 皆が即諾して実現したのが、この参詣だった。 筑前で「尊王」といえば、真っ先に思い浮かぶ場所が香椎宮である。 ここは仲哀天皇が崩御し、その遺志を継いだ神功皇后がとどまって国内の乱を鎮め、天下の万 52 城下場末 民を安んじ、三韓を征伐したと伝えられる地である。豊後の宇佐八幡宮と並んで、皇家が最も古 くから欽慕してきた宮である。 そして、猪野には天照大神を祀る宮があった。 猪野は、香椎から一里半ほど内陸に分け入った地である。ここは九州北部に多数点在する神功 皇后ゆかりの地の一つで、青山高く緑水清い景勝地として名高い。漸斎ら一行は、地行から香椎 宮、猪野までを練り歩いた。 道すがら多くの視線を集めたことは言うまでもない。 当世の常識からいえば、一行の容姿は時代錯誤も甚だしかった。武士でもなければ神主でもな い。平安期の装束のような格好は、異様にしか映らなかった。首をかしげる者、失笑する者、眉 をひそめる者など、人々は冷ややかな視線を向けた。六丁筋に見物客が立ったほか、郊外では一 行を見て腰を抜かした百姓さえいた。 いつの時代でも、調子に乗ることは若者の特権である。 この参詣行脚に味をしめた国臣や藤らは、これ以降適当な理由を見つけては、奇装で近所を練 り歩くようになった。 「お太刀組」が生まれた所以である。 ちなみに、漸斎の講義はいつも漸斎宅の六畳の居間で行われる。講義が終わった後も、塾生た ちはしばらく居座ってよもやま話に興じるのが常だった。 53 城下場末 ある日、昨今の藩政について、日高四郎が日ごろ溜まっている鬱憤をぶちまけた。 「藩庁は天保のころから改革改革とやかましいが、結局何一つうまくいっとらん。小手先ばかり の対策で、根本的な解決を先延ばしにしようだけばい」 賛同者たちといきり立った声を上げていると、奥から漸斎がひょっこり顔をのぞかせた。 「お前たち、まだ居ったとか?」 「先生はどげん思われますか?」 日高が主張を繰り返すと、漸斎はあっさり答えた。 「藩政のことは、わしにはよう分からん。ただ藩の改革など、小さか問題たい」 「小さい?」 日高が問いただした。 「そうたい。徳川の世もいつかは終わろう。そしたら世の中の仕組みすべてが変わる。藩政など 一変に吹っ飛んでしまうばい」 容易ならない発言に、国臣も思わず横やりを入れた。 「先生は、江戸幕府が滅びると思われとうとですか?」 門下生の中でも、近ごろの国臣は実家姓に戻したり、梅田雲浜の饗席に招かれたりと行動が抜 きん出ている。国臣を真っすぐ見返すと、漸斎ははっきりと答えた。 「形あるものは必ず滅びる。幕府も例外ではなか。といっても、それがいつ終わるのか、わしに 54 城下場末 は皆目見当がつかんがな」 禅問答のようなやり取りに、藤四郎が根本的な問いをぶつけた。 「では、先生はこれからの時代に国学がどげん役立つとお考えでしょうか?」 「今さら聞くことか?」 漸 斎 は 取 り あ お う と し な か っ た が 、 意 外 に も 塾 生 ら の 真 剣な 眼差 し を 集 め た た め 、 居 直 し た 。 「まあ良かろう。わしの考えば聞かせちゃろう」 国臣たちは皆、前のめりとなった。 「時代が動くからこそ、わしは国学が必要になると考えとる。国学とは、日本人の先祖が何世代 にも渡って築き上げてきた英知の結晶たい。それはただの過去への憧憬ではなか。将来への道し るべとせねばならん」 門下生らの眼光を確かめ、漸斎は続けた。 「要するに、国学に向きあう中で、お前たち一人一人が守らねばならんものを追求し続けんとい かん。それが見つかれば、お前たちの生き方も自ずと定まろう」 故実を極める国臣の心に、漸斎の言葉は大きく響いた。 その日、漸斎塾から帰宅した国臣は、思うところあって再び外に出た。 一町も歩けばすぐに海に出る。ちょうど夕陽が沈みきった時刻だった。 55 城下場末 浜辺に立つと、国臣は博多湾をぐるっと見回した。 正面に玄界島が浮かび、志賀島の横腹から海の中道が直線状に伸びている。突き当たった根元 には、握り飯を並べたような立花山が隆起する。すぐ脇には荒戸山が座し、西には百道松原と白 砂が続く。その奥に残島や愛宕山、志摩郡の山々が落日の情景にたたずんでいる。 景色とは普通、海や島、平野、丘陵、山、河川が個性を競いあって出来上がるものである。 だが、こと博多湾に限っていえば、個性らしい個性を感じることはほとんどない。むしろ、す べてが湾を取り巻く舞台装飾のように巧妙に配置され、全景としての地形を成している。 (まさに天によって創られた奇跡の地形ばい・・・) 国臣は、腰から竜笛を取り出した。 笛を吹くのは数カ月ぶりである。故実研究に没頭するあまり、しばらく封印していたためであ る。海風と波音の中、笛は遠慮がちに鳴りはじめた。 笛とは不思議なもので、実際に鳴らしてみなければどう鳴るか分からない生き物のようなとこ ろがある。気負って吹いたところで、周囲になじまなければただの雑音になってしまう。そうか と思えば、何気なく吹いた音が周りの情景と合致して、思いがけない響感をいざなうこともある。 この日の笛音には、荒涼とした玄界灘を前にしてもひるまない芯があった。国臣は、まぶたを 閉じ、寒風の博多湾上に龍が舞うのを想像した。逆境に負けぬよう己を鼓舞するように、笛を鳴 らし続けた。 56 城下場末 ひとしきり海に向かって吹くと、おもむろに反転した。 奏じるまま帰宅しようと思ったのである。浜と街を隔てる松林を抜けると、笛は急に明瞭にな った。辺りはもう薄闇に包まれている。そのまま奏で歩んでいると、突然後ろから激しいものが 腰の辺りにぶつかった。 「おとう!」 国臣は、瞬間的に固まった。心と体が凍りついた。 次の瞬間には肩が震え、目頭が熱くなった。甲高い子どもの声主が長女たきであることが本能 で分かった。 「たき・・・」 国臣は、思わず抱き寄せた。 「おとう!おとう!」 五つになったばかりのたきの叫びは、国臣の中で響き渡った。たきが声を上げるたび、国臣の 目には涙があふれ、ただただ強く抱きしめた。 「たき、元気にしとうか?六平太とちよも息災か?」 国臣はしゃがみ込んで、両手でたきの頬を包んだ。 「うん、皆元気にしとうよ」 何よりの返事だった。 57 城下場末 たきの小さな体を冷えぬようにしばらくさすり、養家近くまでたきを送った。 「たき、父に会うたことは誰にも言うたらいかんぞ。たきだけの秘密ばい。たきは姉さんやから、 ちよの面倒もよう見てやっておくれ」 「うん、分かった」 幼子の返事はどこまでもあどけない。たきは最後ににっこりと笑みを浮かべた。 (愚かな父をどうか許しておくれ・・・) 喉まで出かかったが、国臣はそれを口にすることができなかった。 た き が 家 に 入 る の を 見 届 け る と 、 国 臣 は そ の ま ま 路 上 に か が み 、 垣 根 越 し に 聞き 耳 を 立 て た 。 こうして夜陰に紛れて養家の様子をうかがったことも、過去に幾度となくあった。子らを思うた び不憫でならなかったが、家の中からとりわけ変わった様子が聞こえてこないことがせめてもの 救いだった。 実家に戻ると、国臣は書籍の中に埋もれていた歌集を取り出した。 岩木と人や あたら妻子を 思うらむ 心に迫ることがあるたび、書き溜めているものである。この夜、一首を足した。 我が心 世のため捨てし 実家に戻って二ヶ月が経ったころ、父吉郎右衛門が帰宅するなりいきなり言った。 58 城下場末 「次郎、彦六とようやく話ばつけたぞ。もう心配せんでよか。菊さんと六平太らは、彦六がしっ かり面倒ば見てくれることになった」 小金丸彦六は菊の父であり、吉郎右衛門の長年の親友である。 彦六には三人の娘があり、吉郎右衛門には四人の男子があった。それが、そもそも国臣が小金 丸家に養子に入った背景だった。国臣も後日知ったことだが、彦六と吉郎右衛門は互いの子の縁 談に際し、あらかじめ約定を交わしていたという。それは、 ―万が一、何らかの理由で離縁となるような事態が生じたとしても、両家の交際は差し障りな く親密であるべし― という内容だったらしい。 今 と な っ て は 本 当 に 離 縁 と な っ た 以 上 、 父 親 同 士 にわ だ か ま り が 残 ら な いこ と は 救 い だ っ た 。 父の配慮に感謝しつつも、ある意味それ以上に有り難かったのが母の存在だった。 イネは普段は物腰柔らかい賢母である。 だが、曲がったこと、中途半端なことに対しては厳格で、しかも感情的になることなくどこま でも沈着に諭した。国臣がいきなり実家に戻ってきた時も、 「後で構いませんから、きちんと説明できるように整理してお話しなさい」 といったのが母の第一声だった。つまるところ、 ―筋を通し、やるべきことをちゃんとやり遂げなさい― 59 城下場末 という信念の人で、どこか凛とした雰囲気を漂わせている。 どうあれ、次郎にとっては言葉にせずとも母が心情を汲みとってくれるのは有り難かった。体 調を気遣ってくれるばかりでなく、精神面までも支えてくれた。 国臣の元には藤や日高、小田部らが夜半訪ねてきたが、狭い宅内で会話が深夜におよぶことが あっても、イネは嫌な顔一つせず、 「来客は人徳ゆえ、構いませぬ」 と、どこまでも寛容に接してくれた。 ま た 、 時 には 国 臣 が 探 し 求 め て い た 故 実 の 専 門 書 を 突 然 どこ か ら か 借 りて き て く れ た 。 た だ 、 そんな時もイネは恩着せがましいことはいっさい口にせず、 「必要なところを書き写して、三日間で母に戻しなさい」 と、書き置いてくれただけだった。 国臣は、そんな母の優しさにただ頭が下がった。 60 周 旋 周旋 五月二十四日、国臣は一つの行動に出た。 ( ) この日、藩祖如水 じょすい 公と初代藩主長政公を祀る祭礼が城内で執り行われた。 藩の年行事だけあって、この日ばかりは城内へと通じる上ノ御橋、下ノ御橋、追廻門の三か所 が開放された。藩士であれば誰でも入城できる。藩職を辞した素浪の身ではあるが、国臣も正装 姿で参列した。 祭礼が終わると、千人ほどの参列の藩士は一斉に左右に退いて膝をついた。 ( ) 藩主長溥と世子長知 ながとも の駕籠を見送るためである。二つの駕籠は五十名ほどの近臣に 守られ、つつがなく動き出した。 次の瞬間、御鷹屋脇の下がり松の陰から一人の藩士が駕籠に向かって飛び出した。 「申し上げたき儀がございまする!」 国臣だった。 青竹先に「上」と記した訴状を挟んで掲げ、先導の供頭の前に平伏した。騒然となった雰囲気 の中、二三の問答が交わされ、国臣は供侍たちに取り押さえられた。 直訴が不敬の極みであることは言うまでもない。 居あわせた人々は皆凍りつき、緊張して目の前で繰り広げられる珍景を見守った。訴状がその 場で藩主に届けられることはない。供頭はさっと中身を検めると、何事もなかったように場を収 め、駕籠は再び動き出した。 62 周旋 国臣はそのまま拘束され、城内の番所で吟味を受けた。 直訴の内容は、犬追物など故実復興を訴えるものである。筑前各所を自ら取材してまとめた『弓 馬古意三巻』という著書を添えている。国臣渾身一滴の意見書だった。そして、訴状の裏には一 上におく いのちとも見よ 草の下葉の 首が記されていた。 数ならぬ 露のかごとを 一か八かの行動である。 己の存在意義は、もはや「狂」でしかない。であるならば、己の信じるところを命を懸けて藩 庁にぶつけようと考えたのである。直訴するくらいで死罪を与えるほど藩庁に度胸があるとは思 えなかったが、たとえそうなったとして も、故実 復興を訴えて 死ぬのなら本望と腹をくくった。 結果的には、国臣の読みどおり、藩庁の処置はあいまいなものだった。二日後に言い渡された 処分は、 ―その身を顧みず、下意上達せしむること殊勝なり。本来ならば重罪に処すところだが、藩主 の恩情により蟄居謹慎と処す― というものだった。 国臣は、自宅謹慎となった。 といっても、自宅に部屋牢を設けた訳ではない。単なる外出禁止処置にすぎなかった。しかも、 63 周旋 謹慎期間もわずか数日間のものだった。 命拾いした感がなくもなかったが、同時に国臣は肩透かしを食らった気がした。直訴内容が藩 庁に受け入れられた気配もなければ、厳罰に処された訳でもないのである。 国臣は、失望感を抱いた。 藩庁が事なかれ主義でしかないことを改めて痛感したのである。 不完全燃焼に終わった国臣だったが、それでも直訴事件はいくつかの変化をもたらした。 何よりも、その大胆不敵な行動によって、 ―地行下町の平野次郎― という評判が一気に城下に広まったのである。といっても、その中身は、 「恐れ知らずの奇人」 とか、 「お太刀組のなれの果て」 といった手厳しいものが多かった。 加えて、もう一つの顕著な変化が髪型だった。総髪にすることにしたのである。 ( ) 当世では武士から庶民にいたるまで、男は皆月代 さかやき を抱いている。 額から頭の中央にかけ半月形に剃り落した髪型である。だが、謹慎中は慣例として剃刀を用い 64 周旋 ることができない。謹慎はわずか数日間のものだったが、国臣はこれを機に月代を剃ることをき っぱりと止めた。 その背景には、復古主義の思想があった。 ( ) そもそも月代とは唐から伝わった辮髪 べんぱつ の一種であり、わが国においては戦国時代以 降に急に広まったものにすぎない。国臣に言わせるならば、それは日本古来の皇国の風に沿うも のではないのである。 ただ、当世で総髪を蓄えることは、古制の太刀を佩く以上に目立つ。 総髪といえば元服前の童か、医業を営む者、儒者くらいである。それでも、故実研究を信奉す る国臣にとって、言行一致の観点からそれは必然の行動だった。蟄居謹慎を機に、国臣は頭巾を 用いて額髪を生じさせた。 それから二カ月ほど過ぎた仲秋の名月のころ、突如訃報が飛び込んできた。 ―漸斎先生が急死した― というのである。 国臣は、わが耳を疑った。数日前いつものように漸斎塾に行ったばかりだった。その際、漸斎 は多少咳き込んではいたが、 「暑さが緩んだのと同時に、ちょっと気が緩んだだけたい」 と、大したことない様子だった。 65 周旋 生涯独身の漸斎に身内はない。門下生が子ども代わりである。それ以外に世話してくれる人と いえば、隣家の老婆くらいである。漸斎の臨終を看取ったのは、そのばあさんだったという。 ただちに集まった塾生らとともに、国臣は漸斎宅へ走った。 居間に上がると、ばあさんが一人漸斎の亡き骸の脇に座っていた。ばあさんの話によれば、漸 斎の容体は一昨日急変したらしい。流行病だったかもしれぬという。国臣が最後に通塾した翌日 のことである。ばあさんはすぐに塾生たちに知らせようとしたが、 「あいつらが来ても騒ぐばかりで、どうせ何の役にも立たん」 と、漸斎にきつく止められたという。涙にむせる塾生からかすかな笑みがこぼれた。 「先生らしか言い方ばい・・・」 ばあさんは臨終の様子を語ると、一枚の紙をうやうやしく持ち出してきて国臣に手渡した。そ れは遺書であり、形見分けの書だった。冒頭に一文がある。 ―己の研鑽を積み、真理を後世に継ぐべし― 竜笛一品― 続けて塾生の氏名と、それぞれへの形見の品が記されていた。筆頭に国臣の名がある。 ―平野次郎どの 国臣は、とめどもなく涙のあふれる目でその筆跡を見つめた。 漸斎の死から一ヶ月が経った九月中旬、国臣は秋月城下にいた。 66 周旋 ここは、福岡から日田街道を七里ほど下って山間に入り込んだ地である。 秋月藩は、福岡支藩として五万石の分地を有する。 三方を山々に囲まれた要害の地で、背後に古処山を抱く光景は、そのまま墨絵にでもなりそう ( ) な趣がある。国臣が野鳥 のとり 川にかかる長崎橋という石橋を渡って秋月に入ったのは、もう すぐ山々が色づこうとする季節だった。 秋月にやって来た目的は、坂田諸遠の門下で遊学するためである。 坂田諸遠は、国臣が長崎赴任時に知りあった有職故実の先達である。秋月に戻ってからは、藩 の躾方師範役を勤めていた。ちなみに福岡本藩と秋月支藩では、長崎警固の任を幕府より命じら れている関係で、長崎への出張者が多い。 漸斎が死んだ後、国臣はしばらく放心状態にあった。 国臣が一端の大人になれたのは、漸斎に負うところがあまりに大きかった。世間で変わり者と 呼ばれようが、自分の存在意義を見つけ、多少の自負心までも抱けるようになったのは、漸斎の 教えを受けてこそだった。 その漸斎を喪ったことで、国臣は心にぽっかりと穴が開いたような感覚に陥った。小金丸家と の離縁も既に成立していたため、己を地行界隈につなぎ留めていたものがいっぺんに吹き飛んだ ような気がした。 (俺はここから旅立たねばならん) 67 周旋 そう思い立った時、漸斎が今わの際に記した ―己の研鑽を積み、真理を後世に継ぐべし― という言葉が頭をよぎった。考えれば考えるほど、深みのある言葉だった。 その時にふと頭に浮かんだのが、有職故実の学者坂田諸遠だったという訳である。 両親も、国臣の秋月遊学を承諾してくれた。 このまま実家に留めたところで、わが子が朽ちるばかりと考えたにちがいない。イネはどこで うわさを聞きつけたのか、坂田の好物という甘茶の袋をわざわざ土産に持たせてくれた。 こうして、国臣の秋月生活がはじまった。 坂田家に止宿して内弟子となったが、じっとそこに留まっている訳ではない。有職故実の読書 や 写 本 に 励む 一 方 、 秋 月 城 下 で 評 判 の 師 を 耳 に し て は 、 そ う し た 人 々 を 積 極 的 に 訪 ね て 回 っ た 。 国臣の学習意欲は旺盛で、その対象は軍学や薙刀にまでおよんだ。 秋月は居心地のいい土地である。 どことなく地行や唐人町に似た雰囲気が漂う。 それは本藩と支藩の関係というより、藩学の結びつきに基づくものかもしれなかった。言うな ( ) らば、福岡西郊の亀井学と秋月の原古処 こしょ の学風の類似性といっていい。 原古処は、国臣が生まれた前年の文政十年に他界した秋月の名学者である。 ( ) ( ) 若いころ、亀井南冥 なんめい が主宰する唐人町の福岡藩西学問所甘棠館 かんとうかん で徂 68 周旋 ( ) 徠 そらい 学を学んだ。原は亀井門下の四天王の一人と称され、秋月に戻ってからは藩校稽古館 で教えた。 福岡の甘棠館も、秋月の稽古館も昔のことで、今は存在しない。 それでも政治即学問、学問即政治を掲げる亀井学は脈々と息づいている。 亀井学出身者には私塾を主宰したり、長崎で蘭学や西洋医術を学んだりしているものが少なく ない。徂徠学や陽明学も近ごろは幕政批判と結びつき、新時代のうねりを見せはじめている。 ペルリが来航して四年、世の中に閉塞感が漂いはじめて既に久しい。 そんな世情にあって、人々は漠然とした不安や不満を抱えている。幕藩体制に疑問を抱く声も、 少しずつだが広がりはじめている。そんな時下だからこそ、 ―勤皇― という新しい息吹が、人々の期待を惹きつけて芽を出しつつある気がした。 その息吹は、九州の山間の地でも実感することができた。 国臣の秋月滞在は、足かけ九カ月におよんだ。 この間、ひとつの確かな手応えを得た。それは、国臣がこれより勤皇活動を展開していく上で 屋台骨となっていくものだが、それこそが、 ( ) ―周旋 しゅうせん ― 69 周旋 という概念だった。 周旋とは、事を行うために当事者間をめぐり歩くことを意味する。 人を訪ね、互いに論じ、共通理念を見い出して共に行動しようとする気持ちは、馬さえあえば 次から次に他人の心に伝染していくものである。 国臣は、秋月人たちと時局や勤皇を論じた。 胸襟を開いて談じると、時に同志となる人物を発見し、その人物から次なる人物への紹介を受 けた。そうやって徐々に知己が増えるにつれ、いつのまにか孤独感は消えていた。 秋月のふもとには田園地帯が広がり、のどかな農村が点在する。 国臣は、それらの村々を時々訪ね歩いた。 ( ) 四三嶋 しそじま の集落に岡部森右衛門、馬市に岡部諶助、隈村に吉田重蔵といった同志を得 たためである。いずれも農村の出身ながら志の高い人々で、秋月で修学した身である。とりわけ 岡部森右衛門は酒業を兼ねる地元の豪農であり、馬も数頭飼っていた。このため、国臣は一時期 ここに入り浸っては騎射の稽古に励んだりした。 秋月城下にも数名の同志を得た。 ( ) 国臣は、幼いころ亀井暘州 ようしゅう の百道社で学んだことがある。幸い、これが秋月にお いては名刺代わりとなった。 百道社は、藩の西学問所甘棠館が火事で焼失し廃止された後、西新に開かれた亀井学の私塾で 70 周旋 ある。ここで学んだ国臣は、その意味で亀井学派の末流に位置するといえた。この経歴のおかげ で、秋月で原古処の門人や縁者に出くわすたびに温かく迎えられた。 とりわけ息のあう同世代の人々とは議論が白熱し、夜通し語りあうことも少なくなかった。そ れというのも、国臣の思想はこのころ一つの大飛躍を遂げていたのである。それは、 ―討幕― という突拍子もない考えだった。 しかも、話しぶりが尋常でない。臆することもなく真剣な表情で討幕を論じるため、聞く者は 思わずのけ反ったり、言葉を失ったりした。 無理もない。安政五年のこの時点で、討幕をまともに論じる者など、この男以外に日本のどこ にも存在しないのである。 史実に照らせば、この時期は、全国の雄藩が幕府に改革を進言しはじめたころでしかない。中 央 の 学 者 も 、 一 部 が そ れ ま で 顧 み ら れ るこ と の な か っ た 朝 廷 に 注 目 し は じ め た こ ろ で し か な い 。 後日志士と呼ばれることになる人々も、まだ未覚醒である。それもそのはず、二百五十年続く徳 川政権は盤石であり、反対勢力などどこにも見当たらない段階でしかない。 そんな中、九州の山間の地で、平野国臣という素浪人が突如覚醒し、「討幕」を唱えはじめた のである。それは摩訶不思議というより他なかった。 国臣自身、自分がどうして討幕論にたどり着いたのか明確に分からなかった。 71 周旋 具体的なきっかけがあった訳ではない。 有職故実の学問から導き出された訳でもない。大島の土蔵で右門と語りあったことから発した のか、福岡人の気質から発したのか、それとも父母の血筋から発したのか、源は自分でも定かで なかった。 ただ、それらの一つでも欠けていれば、ここまでの確固たる信念までは持たなかっただろうと いう感覚だけはあった。 議論の相手から返ってくる反応は、当然ながら否定するもの、冷めたものばかりである。 「いくら何でもそれは無謀でしょう・・・」 「徳川を倒すような勢力がいったいどこにありますか・・・」 「あまりに現実離れした論ではないでしょうか・・・」 国臣にとっては、どれも覚悟の上の意見ばかりである。 自説が未熟なことも百も承知している。それでも、いったんそれを口にする以上は、己の考え を少しでも理解してもらわなければならない。国臣は、力説した。 「帝の綸旨を受け、雄藩が同盟して幕府を討つ道もあろう・・・」 「全国の有志が錦旗の下に決起すれば、江戸城を落とすことも不可能でない・・・」 内容が内容だけに、議論がかみ合うことはない。 ただ、話がかみ合うかどうかは後日まで取っておくとして、人間的にかみ合うかどうかは直感 72 周旋 が働くものである。国臣は、ある時一人の面白い男と出会った。 それは丸顔で眉が太く、目の異様に大きい青年だった。 その青年は、数人の仲間とともに国臣の論説を聞きにやって来た。国臣の討幕論は、秋月の血 気盛んな若者の間でちょっとした話題になっていた。 ところが、この青年は終始無言で国臣の話を聞いていただけだった。それ自体珍しいことでは なかったが、この青年はどこかちがっていた。 目をキラキラと輝かせ、食い入るように国臣の言葉に耳を傾けていたのである。 表情があまりに印象的だったので、国臣は後日城下で青年とバッタリ再会した時に、改めて話 しかけてみた。 ( ) 青年の名を、海賀宮門 かいがみやと という。 野鳥川をさかのぼった番所近くに居しているという。柔術師範の家柄である。年は二十四とい うから、国臣より六つ若い。 「そなたは、いつごろから勤皇に関心を持っておられる?」 「実をいえば、友人とともに『日本外史』を読み、心に期すものがありました」 「ほお」 国臣は、その返答にうなった。 73 周旋 ( ) 頼 らい 山陽の『日本外史』は、源平より徳川にいたる武家の興亡史を漢文体で叙述した不世 出の名著である。国臣も全二十二巻を繰り返し読んだことがあるが、国臣の信条に照らせば、 (真の勤皇家とは、日本の戦史を踏まえた人物でなければならない) という思いがある。 というのも、混迷する時局にあっては、「勤皇」は一歩間違えば流行語のように薄っぺらいも のになりかねないのである。「勤皇」と唱えさえすれば、猫も杓子も論者であるかのような風潮 がなくもない。 国臣は、海賀の澄んだ丸眼をじっと見つめた。 『日本外史』を読んで勤皇の志を抱いたということは、すなわち武士の栄枯盛衰を踏まえた上 で朝廷の尊きを悟った、と言っているに等しい。 国臣は、一段と興味を抱いて聞いた。 「そなたの友人も、同じ志を抱いておられるのか?」 ( ) 「 は い 。 私 の 一 つ 下 で 、 戸 原 卯 橘 と ば ら う き つ と 申 す 者で す 。 今 は 江 戸 遊 学 に 出 と り ま す が 、 まもなく戻って参ります。いずれまたそろってごあいさつしたいと存じます」 いるところにはいるものである。国臣は、彼らの今後のことが気になった。 「そなたは、これからも秋月で学ばれるおつもりか?」 ( ) 「いえ、近いうちに熊本に赴き、木下犀潭 さいたん 先生の門下で学びたいと考えとります」 74 周旋 青年の両目は澄みきって、大志に満ちている。 (こいつは本物ばい。いつか行動を共にする日がめぐって来るかもしれん) 国臣は海賀と握手を交わし、再会を誓いあった。 安政五年五月、国臣は福岡の実家に戻った。 帰宅すると、自著の『杖棒故実』を父吉郎右衛門の書机にそっと置いた。 親不孝を詫びるには、己の精進をもって示すより他ない。国臣は、遊学中も父の専門である杖 棒術の研究を続け、それを一冊にまとめた。父の仕事の一助になればとの思いがあった。 実家で荷を解くなり、国臣はすぐに六丁筋を博多へと向かった。 北条右門を訪ねるためである。 右門とは秋月遊学中も何度か便りを交わしていたが、右門は藩医の原三信の世話を受け、今年 に入って博多大浜へ転居していた。 六丁筋はあいかわらずの賑わいである。ただ、久しぶりに檜通りを歩いた国臣は、城下の空気 に世間の喧騒というか、ざわめきを感じなくもなかった。 先日、江戸では彦根藩主井伊直弼が大老に就任したという。 秋月で速報を耳にしていたが、この報は国臣を大いに憤慨させた。というのも、世間はこれを 将軍後継問題と絡めて伝えていたからである。 75 周旋 今の将軍家定には子がない。 ( ) そのため、一橋慶喜を押す一橋派と、家定の甥慶福 よしとみ を押す南紀派が政権争いを繰り 広げていた。一橋派の中心人物は、薩摩の島津斉彬や越前の松平慶永、水戸の徳川斉昭といった いわゆる改革派の人々である。一方、南紀派の中心は、保守派筆頭の井伊直弼だった。その井伊 が最高権力者である大老に就任したということは、すなわち改革派が政権争いと後継問題に敗れ たことを意味した。 この事態に、一橋派の人々がこのまま黙っているとは思えない。 ただでさえ異国との条約締結問題などを抱えていて、国事多難な時局である。開明君主と呼ば れる雄藩の賢公の協力を得ずして、幕府だけで難局を乗り切れるとはとても思えない。とりわけ 島津斉彬は「聡明な太守」と世評が高く、水戸の大御所徳川斉昭をも凌ぐ発言力を持っていると ささやかれている。 (右門さァに近況を聞いてみよう。井伊の大老就任を受け、薩摩で何か動きがあるかもしれん) 国臣は、博多大浜へ足を速めた。 博多湾沿いの筋に右門の新居はあった。 帰省のあいさつもそこそこに、二人は時勢について談じた。 にらんだとおり、右門は郷国や京の薩摩人と密に連絡を取りあっていた。右門が相手であれば、 76 周旋 国臣も遠慮なく聞くことができる。 「それで、薩摩藩はこれからどげん動くとですか?」 「待っとれ。良かもんば見せてやろう」 そう言うと、右門は一通の書状を持ってきて国臣に見せた。鹿児島からの書状である。 「斉彬公の意を受けたもんが、既に鹿児島を発ち、京に上ることになったようじゃ。数日以内に そん使者は福岡に立ち寄って、長溥公に謁するらしい」 「本当ですか?」 国臣は、胸の高鳴りを覚えた。 (ついに斉彬公が動き出す・・・) 島津斉彬への期待は大きい。その存在は、全国の開明家の羨望を一身に集めている。 斉彬は、西洋技術や殖産産業の振興にも通じる国際感覚の持ち主である。 幕政改革にも積極的で、西洋列強に対抗するためには幕府や藩の垣根を越えた連合体制を築か ねばならないとかねてより主張している。従四位上の官位を持ち、天下第二の巨藩藩主であるた め、その存在感には他の追随を許さない重みがある。 その斉彬がいよいよ政局に乗り出すというのである。 右門の見立てによれば、万が一非常事態が起これば、斉彬は藩兵を率いて禁裏を護衛する覚悟 まで抱いているという。国臣にとっては興奮を抑えられない話である。 77 周旋 談議はそのまま酒席となった。頃合いをみて、国臣は持論を切り出した。例の ―討幕論― である。 相手は己を開眼させてくれた恩人である。理解されないまでも、何かしらの反応を得られれば と思った。 国臣の論旨に右門ははじめ驚いたが、あとはただ黙って聞いた。ようやく区切りがついたとこ ろで、右門は独り言のようにつぶやいた。 「まっこと不思議なやつだなァ」 「そうですか?私は、普通のつもりですが・・・」 「その論のどこが普通だ?勤皇を論ずるもんは五万とおっても、討幕を論ずるもんなどどこにも おらん。まったく大した奴だ」 ほめ言葉のようでもあるが、感想を述べてくれた訳ではない。国臣は、率直に尋ねた。 「右門さァは幕府を討つべきとは思いませんか?」 「いきなりとんでもないことを聞く・・・」 右門は、少し考えてから返した。 「どうあれ、物事には順序というもんがあろう。幕府を倒すのが最終目標としても、まずは当面 の難局を乗り切るべく幕政改革を促すために、諸藩を連携させねばなるまい」 78 周旋 国臣は、大きくうなずいた。 「ごもっとも。ただ、これまでの武家の興亡史を見れば、難局に立ち向かうべく、時の権力の下 に勢力を結集させようとしても、必ず頓挫しています。たとえ将軍や幕府であってもです」 「だからといって、江戸幕府をいきなり倒してしまえば、日本が空中分解するだけではないか? どうやって団結して異国に立ち向かう?」 「朝廷です。帝です」 国臣の即答に、その単純明快なまでの回答に、右門は白い歯をこぼした。 ―それは誰もが頭で分かっている― 声にならない右門の反応を、国臣は敏感に感じ取った。そして、一種の手応えを得た。 (ここまでは議論になる。問題はここからだ。嘆かわしいほどにか弱い天皇と朝廷を、どうすれ ば日本の中心に据え直すことができるか、これが究極の問題ばい・・・) 次の瞬間、国臣はまだ誰にも告げたことのない台詞を口にした。 「六六六年です」 「はあ?何がだ?」 右門は狐につままれたような表情を浮かべている。 国臣は、沈毅な声で答えた。 「鎌倉幕府の開幕から数えて、今年がちょうど六六六年なのです。鎌倉、室町、江戸と延々に続 79 周旋 いてきた武家政権を、われらの代で是が非でも終わらせなければなりません」 決意に満ちた国臣の表情が、右門の目に鮮やかに映った。 「そちが国臣を名乗るまことの理由が、今宵はじめて分かった気がする。これからきっと薩摩は 動き出そう。そちの力を頼みとする時が来るかもしれん」 国臣は、微笑してその言葉を受けとめた。 秋月から戻った国臣は、以前とは人が変わったように終日出歩くようになった。 (秋月の人々とあれほど論じたのだから、福岡で同じことができんはずはなか) と考えたからだが、これがなかなか思うようにはいかなかった。昨年の直訴事件の影響もあっ て、地元では国臣は論者というより、変人や狂人で通っている。 それでも、この時期何人かの知りあいを得ることができた。 仙田市郎はその一人である。 仙田は右門の知り合いである。右門と同じ齢で、右門が博多大浜に移ってからはよく二人で時 勢を論じあっているという。右門の薦めで、国臣はちょうど出張で博多に来ていた秋月の坂田門 下の江藤正澄とともに、矢倉門近くの仙田宅を訪ねた。 「そなたが平野どのか?右門さんからよう聞いとります。さすが右門さんが筑前第一と評される 男ばい。よか面構えをされとる」 80 周旋 「ご冗談を・・・私は素浪の身にすぎません」 (右門さァも、ずいぶん大げさなことを言ってくれる) 国臣は、恐縮した。 脇にいる江藤も、目を丸くして国臣の評判に驚いている。そして、仙田の後にも一人の若者が 控えていて、羨望の眼差しを国臣に向けている。 ( ) 「弟の淡三郎です。ようやく二十歳になり、最近は月形 つきがた 塾で学んどります。今日は是 非平野先生にごあいさつしたいと申すゆえ、勝手ながら同席させました」 「どうか先生などと呼ばんで下さい」 と返しながら、 (やりにくくてたまらん) と、国臣は思った。 仙田兄弟が勤皇思想を抱いていることは、その眼光から明らかだった。国臣は、話の流れから この兄弟に対しても討幕論を披露する形となった。 六月二十六日の朝、国臣の元に右門の使いがやって来た。 使いといっても、国臣が先日訪問したばかりの仙田淡三郎である。淡三郎は右門と兄市郎から 「すぐに平野を連れてくるように」 と言付かっただけのようで、何の用件か分からない。 81 周旋 国臣は、ともかく淡三郎とともに博多大浜へ急行した。 右門宅に着くと、右門と工藤左門、仙田市郎の三人が真剣な表情で談議していた。右門は国臣 の姿を認めると、すぐに座に加わるように促した。 「実は、斉彬公の内命を帯びた薩摩からの使者が昨日長溥公に謁し、今朝京へ発ったとこだ。今、 善後策を相談しておるので、そちも聞いておくとよか」 「そうだったんですか」 国臣の目つきは一気に変わった。 斉彬の行動が、井伊政権に対する何らかの対抗措置であることは間違いない。だが、それが建 白書の提出なのか、諸藩連合の策なのか皆目見当がつかない。ただ、何らかの思い切った行動に 出ようとしていることが、三人の言葉尻からうかがえた。 「ご両門はどこかへ行かれるおつもりですか?」 国臣は、左門と右門の両方に話しかける時、二人を親しみを込めて ―ご両門― と呼ぶ。 「おいは、近いうちに京に上ろうと思う。今そん準備について話しあっとるとこだ」 右門は短く答えると、話題をすぐに戻した。 福岡藩に無届のまま出発する方法や連絡手段、妻フジエの上京時期などについて話し合われた。 82 周旋 左門はしばらく福岡にとどまり、仙田とともに出発後の福岡藩の動向を右門に報じ、また上方と 薩摩の間にあって通信を補佐するという。 国臣は、黙って会話を見守った。両門の言葉や息づかいには、これまで目にしたことのない興 奮が入り混じっている。 (ご両門が薩摩を脱してはや八年半。郷国に尽くす機会がやっと訪れようとしとる。きっと感慨 もひとしおなのだろう) 薩摩の藩状についてはおおむね両門から聞いている。とはいえ、両門の郷国の記憶は、言って し まえ ば 八年 前 の も ので し か な い 。 斉 彬が 藩 主 と な って 取 り立 て ら れ た 近 臣 を 両 門は 知 ら な い 。 国臣は、ふと斉彬の近臣のことが気になった。 ( 内 意 を 得て 京 に 向 か っ た 使 者 とは い っ た い ど んな 人物 だ ろ う ?藩 主 の 機 密を 受 け 、 福岡や 京 、 江戸を奔走するのだから、よっぽどの人物にちがいなか・・・) ほどなく、話し合いに一応の区切りがついた。 右門は、いつでも京に発てるよう身辺を身軽にしておくことになった。最後に各々の役割を再 確認し、右門が国臣にひと声掛けた。 「他に、何か聞いておきたいことでもあるか?」 国臣は、今しがた頭に浮かんだことを口に出した。 「一つだけ伺いたいことがあります。斉彬公の命を受け、長溥公に謁した薩摩の使者とはいかな 83 周旋 る人物でしょうか?」 両門は互いに視線を合わせ、目を丸くした。 ―面白いことを聞く― と、言わんばかりの表情である。 笑みを浮かべたまま左門が答えた。 「西郷吉兵衛という者だ。一昨日ここに来て、おいたちもはじめて会ったが、斉彬公の御庭方役 を勤めておるらしい」 「御庭方役?」 忍びが庭先で命を拝すような、いかにも近臣っぽい役名である。 「これがまあどう表現したらいいか、独特というか、雄大な男だった。文政十年の生まれと言う とったから、そちと同じくらいであろう?」 文政十年といえば、国臣の一つ年上、薩摩の四人で最も若い右門からみれば五つ下である。 (薩摩では、俺と同世代がそこまで抜擢されているのか・・・西郷吉兵衛・・・) 国臣は、胸の中でその名をつぶやいた。 七月一日、右門が急きょ博多を発った。 詳しい事情は分からなかったが、上京中の薩摩人と合流を図るべく、急ぎ出発したようだった。 84 周旋 そして七月も下旬となったころ、左門の元に右門から便りが届いた。 それを聞くなり、国臣は臼井村の左門宅へと全力で走った。 そこで悲しみに打ちひしがれた左門の姿を目にした瞬間、国臣は前日に城下で耳にした風聞が 誤報でなかったことを知った。その風聞とは、 ―島津斉彬が急死した― という驚愕の訃報だった。 右門の便りによれば、斉彬は炎暑だった今月八日、鹿児島城下で諸隊操練を行っていたという。 指揮を終えると、気分がすぐれぬと漏らし帰城した。ほどなく発病したかと思うと、高熱や下痢 ( ) でみるみる衰弱し、十六日未明に薨去 こうきょ したという。 郷国や上方の薩摩人は皆慟哭しているという。 これに殉じんようとする者が噴出する中で、 「斉彬公のご遺志を継ぎ、禁闋を守護し幕政改革を遂げねばならん」 と互いに励ましあい、何とか思い止まっているという。 抜け殻と化している左門の隣で、国臣も愕然と膝をついた。 そ の 勤 皇 思 想や 聡 明 さ は も ち ろ ん の こ と 、 官 位 石 高 か ら い っ て も 、 義 臣 の 多さ か ら い っ て も 、 島津斉彬に並ぶ人物はこの世にない。斉彬は薩摩人のみならず、日本の将来を憂う人々すべてに とって希望だった。 85 周旋 その巨星が、突如落ちたのである。 併せて伝わっている最新情報によれば、大老の井伊が強権を発動し、水戸の徳川斉昭や越前の 松 平 慶 永 ら 一橋 派 に 対 し 、 隠 居 や 謹 慎 を 申 し つ け た と い う 。 こ の 難 局 に 斉 彬 が 斃 れ た の だ か ら 、 井伊の弾圧が一層強まることが予想された。 国臣は、京で悲しみを堪えている右門のことを思った。 ―斉彬公のご遺志を継ぐ― という忠義心のみを励みに、今ごろは涙ながらに郷国人や水戸、越前の同志とともに、朝廷を 盛り上げるべく行動を起こしているにちがいない。 それを想像するだけで、国臣は血肉が沸き立つ思いに駆られた。 「勤皇」「討幕」を信条とする国臣にとって、右門の行動は何としても応援しなければならな い対象である。大島の土蔵の中で出会って七年、右門は多くのことを教えてくれたが、今再び朝 廷に直に奉仕する道を示してくれている。 (俺も、京に上って合流しよう) そう思い立つと、国臣は居ても立ってもいられなくなった。 ただ、すぐに京に上ろうにも先立つものがない。そこで便宜的に、 ―菊池武時の顕彰碑の建立と二墓の考証のため、上京したい― と、手当たり次第に触れ回った。 86 周旋 顕彰碑とは、忠臣武時を偲んで七隈原に建てようというものである。菊池武時が楠木正成や名 ( ) 和長年 なわながとし と並ぶ忠臣であることは、地元勤皇家にとっては明白である。 武時は後醍醐天皇の綸旨に真っ先に応じ、奮戦の上敗死した。その功績の割には、馬場頭に首 塚、七隈原に胴塚と伝わるものがあるだけで史実が明らかでない。馬場頭に碑はあるが、七隈原 には存在せず、碑文を建てようという意見が以前からあった。また、撰文揮毫 せんぶんきごう ( をしかるべき京の人物に頼み、学者に二つの墓所の考証もお願いしようという声があった。 国臣は、この役を自ら買って出たのである。 ) 菊池なるべき 名和とも人の 言わば謂え 有志数人が連署した紙に自分の歌を添え、路銀の工面に歩き回った。 楠や 先ずいさほしは 幸い菊池氏の縁者や右門を知る豪商の援助を得ることができ、すぐに十分な額が集まった。こ うして中秋の名月のころ、国臣は福岡を発した。 七日後、陸路と廻船を継いで国臣は京に入った。 二度目の江戸赴任の途中に畿内をめぐって以来、五年ぶりの京である。 国臣は、早速右門の居場所を探した。 何の手掛かりもなく、広い洛中で一人の薩摩人を探さなければならないのである。丸二日歩き 87 周旋 回った挙句、ようやくある書店で右門とおぼしき歴史に造詣の深い薩摩人が錦小路の藩邸に出入 りしていることを突きとめた。 国臣は、薩摩藩邸の門を叩いた。 そこで知っている限りの薩摩人の氏名を並べて何とか信用してもらい、数筋離れた柳馬場にあ る鍵屋という薩摩定宿を教えてもらった。 店主に用向きを伝え、しばらく外で待っていると、右門がひょっこり出てきた。飛び上らんば かりに嬉しかったが、相手も当然国臣を見て驚いた。 「こりゃたまげた。国臣やなかか?いったいどうした?」 国臣は、後頭部を掻きながら答えた。 「いや、やっとお目に掛かれました。理由は他でもありません。右門さァの下で何かお手伝いで きんもんかと、勝手に押し掛けてきました」 国臣の眼光を認めた右門は、笑みをこぼした。 「うむ。そちならきっと同志たちも歓迎しよう。京にはいつまで居る?」 「ご承知のとおりの素浪の身ゆえ、お役に立つ限り居りまする」 涼しい顔をして国臣がそう言ってのけると、右門はポンと国臣の肩を叩き、 「よか、しばらく待っとれ」 と言い残し、中に戻った。 88 周旋 しばらくすると、国臣は奥の座敷へ招かれた。 ( ) 右 門は 、 居 合わ せ た 同 志 に 早 速 国 臣 を 引 き 合わ せ た 。 伊 地 知龍 右 衛 門 と 吉 井 幸 輔 こ う す け 、 ( ) 有村俊斎 しゅんさい の三人である。国臣は、慇懃にあいさつを述べた。 「筑前浪士平野次郎にございます。お目に掛かり光栄の極みに存じます。何とぞ宜しゅうお願い 申し上げます」 一介の福岡浪士が薩摩同志たちと京の一角で知りあっただけだが、この後の歴史転換を考えれ ば、この意味は決して小さくない。 というのも、やがて薩長同盟という形に完結する藩士たちの藩枠を越えた連携は、事実上この 瞬間から幕開けするからである。それが平時の他藩交流でなく、「勤皇」という指針の下に他国 人同士が結合しはじめるのは、国臣がこの錦小路上ル柳馬場の鍵屋を訪れた瞬間から本格化する といっていい。 飛び入り参加ながら、国臣はいきなり密談の中に身を置くことになった。 それというのも、ち ょうどこ の 時、朝廷と幕府を揺るがす 大事件が 発覚して いたからで あ る。 天皇の密勅降下だった。 事件の発端は、六月に幕府が朝廷の勅許手続きを得ることなく、アメリカとの条約調印に踏み きったことに起因する。孝明天皇はこれに激怒し、違勅調印をとがめるとともに、先の将軍後継 争いで敗れた一橋派に対する処分を問いただず前代未聞の密勅を下した。外圧に腰砕けの幕府に 89 周旋 怒り心頭の孝明帝は、反意を示すため譲位までほのめかしていると噂されていた。 問題の根幹は、密勅が幕府ばかりでなく、水戸藩にも下されたことだった。 しかも、幕府より二日早く水戸藩に下った。幕府の臣下であるはずの水戸藩に、しかも幕府の 頭越しに先に下ったのだから、大老井伊にとっては面目丸つぶれとなった訳である。水戸藩は二 ( ) 代藩主光圀 みつくに 以来、天皇を重んじる意識が強く、前藩主斉昭も開明派重鎮として、幕府 改革について歯に衣着せぬ言動を行ってきた経緯がある。 この密勅降下を裏で工作したのが、京の薩摩人たちだった。 斉彬の死に奮起することを誓った薩摩人は、斉彬を死に至らしめた発病日からわずか一か月後、 幕府を転覆させる大博打を打った。密勅は通常の関白裁可を得ることなく、京の水戸藩留守居役 を通じて、幕府より先着するよう水戸藩に対して下されたのである。 この裏工作について、幕府が嗅ぎ回っていることは明らかだった。 威信にかける幕府は、密勅降下に関わった者を片っ端に調べている。その対象に、薩摩や水戸 の勤皇志士が含まれることは自明だった。 世の中でほんの一握りの人間しか知り得ないこの秘匿に、国臣はいきなり関わることになった。 それは、薩摩同志にとって国臣が血肉を分けるほどの身内となったことを意味した。同時に、命 の保証のない志士活動に踏み入れたことを示唆した。 90 周旋 数日後の八月末、一人の薩摩人が江戸から戻ってきた。 西郷吉兵衛である。 以前両門からその名を聞いた、斉彬の御庭方役を務めたという男である。 福岡で長 溥公 に謁した のが 六月 末だ った から、こ の男はこ の二カ月間、 鹿児 島から 福岡、 京 、 江戸と出て、再び京に舞い戻ってきたことになる。 (それにしても何とも偉容な男ばい・・・) 鍵屋に入ってきた西郷を見て、国臣はそんな第一印象を抱いた。 身長は六尺ほどあり、体重も二十貫はあろうかという巨躯である。大顔だが、威圧的な素振り はない。薩摩人らしい愛嬌や純朴さを感じさせ、どこか人を惹きつける魅力を匂わせている。 この男が首領格であることは明らかだった。 西郷が奥座敷に入ると、同宿の人々はこの男を待ちわびていたかのように集まってきた。そこ に見覚えのない顔が一つあることに気づくと、西郷は国臣の方を見た。 「この御人は?」 西郷の問いに、右門が口を開いた。 「福岡の浪士平野国臣にごわす。二か月前西郷どんが福岡に寄った折、おいが話しとったのがこ ん人です。薩摩に助力すべく京に上って来られたゆえ、止宿してもらっとります」 西郷は笑顔を浮かべ、国臣に話しかけた。 91 周旋 ( ) ( ) 「ああ確か、国 くに の臣 しん と書いて国臣どんと申されるとか・・・」 国臣も、そう聞かれれば応じざるを得ない。 「恥ずかしながら、微身の名にございます。といっても、名に相応しいことはまだ何も出来とり ません。今はただ薩摩の皆様とともに、天朝を盛り上げたいと考えとるだけです」 西郷は座を見渡し、皆の表情から国臣という人物を読み取ろうとした。そしてうなずくと、声 量を上げた。 「どうやら薩摩は良か友を得たようにごわす。国臣どん、以後宜しくお願い申し上げる」 西郷と国臣は、小さく会釈を交わした。 「そいでは、江戸表のことを話しもんそ」 西郷の語調の変化に、薩摩同志たちは視線を光らせた。 西郷は、水戸や江戸で密勅降下の反応を見極めるべく関東に下っていた。水戸藩では思いがけ ない密勅の到着に、藩内の議論が紛糾しているという。薩摩人と通じる勤皇派が勅諚を重く受け 止めるべきと主張する一方、保守派は幕府への面目を保つため、ただちに勅諚を返却すべしと唱 えて いるという。 江戸では、密勅がどのような手続きで下されたのか、幕府が本格的な調査に乗り出そうとして ( ) いるという。近日中に所司代酒井若狭守を入京させ、続いて老中の間部 まなべ 下総守までが京 に赴く動きがあるという。幕府の対応は本腰の入ったもので、京での行動が単なる調査にとどま 92 周旋 らず、容疑者の一斉捕縛を伴うものであることが予想されるという。 一同は、対策を話しあった。 はじめに、斉彬公のご遺志を継ぎ、皇威をもって幕政改革を推し進める方針が確認された。彼 らは密勅を実現させるために、公家や在京の学者たちに働きかけてきた経緯がある。自分たちば かりでなく、それらの人々を幕府の捕縛から守らなければならない。 同時に、幕府が水戸藩に勅諚の返上を迫る前に、勅諚の内容を広く天下に知らしめる必要があ った。当然幕府の怒りを一層あおることになるが、はじめから薩摩人たちは死も辞さない覚悟で いる。すぐに勅諚の謄本を作成し、島津家と懇意の近衛家をはじめ、しかるべき公家に接触して 全国の雄藩に内報してもらうことになった。 役割分担も決まり、国臣も勤皇学者の安全を図る任を負うことになった。有職故実の学識と顔 の割れてない非薩摩人であることを買われたのである。 ( ) 翌日、国臣は鴨川の東岸に梁川星巌 やながわせいがん を訪ねた。梁川星巌は、 ―洛中の勤皇家で、星巌を知らぬものはない― と謳われる天下に知られた詩人である。 七十歳と高齢だが、水戸への密勅降下では西郷や公家らとともに主導的な役割を果たした。天 下の著名人を単身訪問することに身が震えたが、国臣に躊躇する暇などなかった。今は一刻も早 93 周旋 く幕府捕縛方の強襲に備えなければならない。西郷の書状を見せながら、国臣は星巌に一斉検挙 に備えて身を隠すよう促した。隠れ家は薩摩が用意している。 「いっそまた紅蘭と漫遊に出るかのう」 星 巌 には 放 浪 癖 が あ る と 聞 く が 、 そ れ だ け に 妻 と 諸 国 行 脚 に 出 よ う と い う 星 巌 の つぶ や き は 、 本気とも冗談とも取れなかった。 国 臣 は 、ひ と ま ず 隠 れ 家 の 場 所 と 薩 摩 人 と の 連 絡 方 法 を 伝 え 、 つ いで に 質 問 を 一 つ ぶ つ け た 。 福岡の菊池墓についてである。 これを天下の著名人に聞かない手はなかった。博識の星巌は、さすがに菊池武時を楠公に劣ら ぬ忠臣と讃えたが、福岡城下に墓が二つあることまでは把握していなかった。 ( ) 次の日、国臣は烏丸 からすま 通の梅田雲浜宅に向かった。 博多入定寺での饗席以来、一年九カ月ぶりの再会である。 まさかこのような形で本当に雲浜を訪問することになるとは、国臣は夢にも思わなかった。雲 浜にしても、あの時の浪人からわが身に迫る危険を聞かされることになるとは思いもしなかった はずである。国臣は、雲浜にも早急の避難を促した。 「ほどなく所司代が入京します。捕縛者たちがいつ押し掛けてきてもおかしくない状況ですので、 先生もどうか身を隠されて下さい」 梁川星巌や頼三樹三郎、池田大学らとともに天下に聞こえた学者であり、将軍継嗣問題などで 94 周旋 大老井伊を大っぴらに批判し、水戸密勅にも関わった雲浜を幕府が放っておくはずがない。国臣 は必死に説得を試みたが、当の雲浜は意に介そうとしなかった。 「私は学者どす。逃げ隠れする必要はありまへん。それよりせっかくの機会や、平野はんに是非 紹介したい人がおる」 そう言うと、たまたま雲浜宅に居合わせた人物を引き合わせた。 ( ) 「こちらは私の義兄弟で、備中連島 つらじま の商家三宅定太郎はんや」 産物交易を重要視する雲浜らしい人脈である。忍びよる幕府の強襲に気が気でない国臣の心配 をよそに、雲浜は持論を語りはじめた。 「平野はん、これから時代は大きく動きまっせ。変革の力は刀ではありまへんで。経世済民の経 済の才が大きく物を言います」 「経済の才?」 国臣には馴染みのない用語である。雲浜は続けた。 「難しく考えんでええ。時代が変われば、民の暮らし向きも変わるいうもんや。機会があれば三 宅はんとこに是非寄りなはれ。きっと御身のためになりましょう。洛外の川嶋村にも山口薫次郎 という商家の友人がおるゆえ、そちらも併せて訪ねはるとええ」 「はァ、それは痛み入ります」 国臣は、話題を戻して一斉検挙について再三喚起を促したものの、雲浜は最後まで耳を貸そう 95 周旋 とはしなかった。 直後の九月四日、ついに事態が動いた。 所司代酒井若狭守が入京したという一報が入ったのである。 京の警察権を掌握する所司代は、幕府の重職である。それは幕府が威信をかけ、密勅関係者の 摘発に乗り出すことをほのめかしていた。 この事態に、薩摩同志たちの議論は紛糾した。 命を懸けても幕政改革を推し進めるべしという強硬意見がある一方、ここはいったん身を隠し て再起を図った方がいいという慎重意見もあった。そのまま翌日まで潜んで幕府の出方をうかが ったが、洛中の捜査網がいよいよ拡大するのを目の当たりにし、 「ひとまず逃避すべし」 という方針で固まった。 そうなった以上、同志たちはただちに京を離れ、捕縛の憂き目に遭って藩に迷惑を掛ける事態 を避けなければならない。 解散の評議を終えると、西郷がおもむろに国臣に近寄ってきた。 「国臣どんにお頼みしたかこつが一つありもす」 「私に出来ることなら、何なりと」 即答した国臣に、西郷は小さく頭を垂れた。さすがの西郷にも疲れが見える。 96 周旋 無理もない。斉彬が急死して以来、悲しみに暮れる間もなく奔走し続け、全く休んでいないの である。西郷の精神を支えているものはただ一つ、 ―斉彬公のご遺志に報いる― という気力だけである。 「福岡に戻ってくれもはんか?」 「福岡に?」 「いかにも。勅諚の内容を長溥公の御用人に取り次いでくれもはんか?」 西郷の頼みには、どこか人間的に断れない情感がこもっている。 ど の みち 、 す べ て の 薩 摩 同 志 が 京 を 離 れ るこ と に な っ た 以 上 、 国 臣 だ け が 留 ま る 理 由は な い 。 国臣は承諾し、そのまま帰郷の途についた。 九月十一日、国臣は福岡に戻った。 ( ) 旅装を解くなり、唐人町の北にある大圓寺 だいえんじ 町の吉永邸に向かった。 吉永源八郎は、藩主長溥の近臣である。公用人として藩外との折衝役を担っている。薩摩の四 人もかつて福岡に脱藩してきた折、それぞれが吉永のところに駆け込んだ。実直で面倒見がよく、 右 門 と 恋 仲 に な っ た 町 娘 の フ ジ エ を 養 女 に 迎え て 嫁が せ た こ と も あ る 。 勤 皇 の 理 解 も 多 少 あ り 、 勅諚の中身を報じる相手としては申し分ない。 97 周旋 とはいえ、こちらは藩庁に無届のまま上京した身である。 非公式に応じてくれた吉永に、国臣は勅諚の写しを提出し、京で見聞した事柄を報告した。併 せて、叡意に応えるため福岡藩も奮起すべきと私見を述べたが、吉永の表情は固かった。 「薩摩人らの気持ちも分からんではないが、殿は色よい返事はされんだろう」 国臣は、思わず食い下がった。 「なぜにございましょう?長溥公は斉彬公と並び称される御方です。斉彬公のご遺志を継ぎ、幕 府改革を担うのは長溥公であるべきかと存じます」 扇子が畳でパンっと鳴り、吉永が一喝した。 「平野、口が過ぎるぞ。そちは無届のまま京に上ったことを忘れとらんか?罪に問われても文句 の言えん身ぞ」 国臣は、口を閉じるしかなかった。 平伏して無礼を詫びると、それからは吉永の質問一つ一つに真摯に答えた。その神妙な態度に 納得したのか、最後は吉永の方から手を差し伸べてくれた。 「この一件、一応殿に上言いたそう。ただ、勅諚の写しをそちから受けたことにする訳にはいか ん。臼井村の左門から受けたことにいたすが、異存ないな?」 「はっ、ございません。有り難き幸せにございます」 「では、待っておれ。殿から何か御言葉があれば知らせてやろう」 98 周旋 「ははっ」 (斉彬の血縁者である長溥ならば、密勅の内容に奮起するのではあるまいか・・・) 国臣は、ほのかな期待感を抱いた。 あいにく、その期待は長くは続かなかった。 二日後に吉永から届いた書状は、むしろ国臣を奈落の底に突き落とすものだった。 京の最新情勢が伝わったのである。 ―御公儀はこのたび梅田雲浜ら密勅関与者を捕縛したとのこと。藩庁でも御公儀から要請を受 ければ、領内の調査に乗り出すゆえ、即城下を立ち去るべし。殿は浪士運動に助勢しない御意向 であり、この期に及んでは勅諚の吟味どころではない― というのである。 国臣は、愕然とした。 雲浜が捕らわれたことに大きな衝撃を受けるとともに、他の勤皇家や薩摩同志のことが按じら れた。国臣自身、京では一応偽名を用いていたが、万が一素性が割れてしまえば、幕府の捕吏が 福岡まで追ってこないとも限らないのである。 国臣は、吉永の配慮に感謝する思いだった。 国臣の身を案じているのか、それとも藩への災いを回避しようとしているのか、いずれにせよ 99 周旋 国臣を逃そうとしてくれている。それだけに迷惑を掛ける訳にはいかなかった。もし国臣が捕縛 される事態となれば、藩庁や親族、薩摩の四人などに多大な災いがおよぶのである。 もはや一刻の猶予もなかった。国臣は、再び荷をまとめて旅に出た。 はじめに臼井村に向かい、これまでの経緯を左門に説明し、しばらく国外に逃れる旨を伝えた。 十五日には筑後、十七日には肥後に入り、福岡から遠く離れた。 とはいえ、もともと国臣に罪の意識などない。 転んでもただでは起きない性格である。どのみち上方が騒然としているなら、 (いっそのこと、この機会にやりたいことをやっとこう) と開き直った。 その時、是非とも訪ねたい地があった。それが肥後だった。 肥後には見物すべきものが多い。何といっても菊池氏の本拠地がある。 国臣にとって菊池武時は身近な忠臣である。その人物ゆかりの地を肌で感じるべく、かねてか ( ) ( ら隈府 わいふ の菊池館跡を訪ねたいと思っていた。 ) また、矢筈岳 やはずだけ を望む隈府の光景以外にも、菊池一族の千本槍や竹崎末長の蒙古襲 来ノ図など、武家故実にまつわる資料が肥後には多い。研究の対象を筑前から九州全域に広げる 意味でも、肥後武者の息吹に触れたいと思った。 国臣は、期待に胸を膨らませて肥後を歩いた。 100 周旋 身なりは、あいかわらず平安朝の装束を基にしたものである。一応旅装姿だが、総髪に太刀を 佩いている。懐には漸斎形見の竜笛を収めている。 十七日は山鹿温泉に泊まり、翌朝から三日間、隈府周辺で菊池氏の遺構を訪ねて回った。それ から再び山鹿を経由して熊本に進み、京町の木下犀潭塾に立ち寄った。 そこでは戸原卯橘という秋月藩士が学んでいた。 以前秋月で出会った海賀宮門の親友という男である。国臣は、てっきり海賀の方が犀潭塾で学 んでいるかと思ったが、今は入れ替わって戸原が遊学中だった。戸原も海賀から国臣のことを聞 いているらしく、二人はしばらく世事を談じた。 犀潭塾を後にすると、はじめて熊本城を間近に見た。 清正公石垣と呼ばれる堅固な石垣上に、数十もの櫓が長大な塀でつながれ、それが幾重にもめ ぐらされ白と黒の壮観を成している。本丸には三つの天主がそびえ、中でも入母屋と千鳥の三角 形の破風を上下に重ねた大天主は、威風堂々たる重厚感を漂わせている。 (なるほど、武骨な肥後一国を束ねる城だけのことはある。筑前にはない重みがある・・・) そんな印象を抱きつつも、別の感情が込み上げてくるのを抑えられなかった。それこそが、 ―薩摩の戦闘力― だった。 太平の世とはいえ、城そのものの機能は防御にある。 101 周旋 ところが、九州における熊本の位置を考える時、筑後や肥前、豊後、日向といった周辺国にこ の城を攻略する意義はほとんどない。上方に展開するために、わざわざ熊本を経由する必要がな いためである。 ただ唯一、薩摩だけが事情がちがう。薩摩のみがこの城を攻略して進まなければならない。言 うならば、熊本の巨城は薩摩一国に対する備えといってしまっていい。 (熊本城が威容であればあるほど、薩摩の力がいかに強大かを示すようなもんばい・・・) 城郭沿いを進みながら、薩摩への畏敬を覚えずにはいられなかった。 熊本城の東南を廻ると、古町や新町が広がる。 古町は六十間の方一町、新町は長方形の短冊形に町割されている。街区ごとに中央に寺院を一 つずつ配する町並みは、この城下に特有である。 国臣は、地元の勤皇家のうわさを頼って訪ね歩いた。 小山一太郎や山形典次郎、津田山三郎、臼杵享助といった人々である。中でも、二百石の家柄 の山形典次郎は、三つ年下だが故実の心得もあり、すぐに馬が合った。そのまま山形宅に泊まり、 錦のみはた 靡くまで 酒を酌み交わしながら勤皇を談じあった。笛を合奏し、歌を詠みあった。 ささらがた ただ世の中に 身をまかせてむ と、山形が詠むと、 102 周旋 もとに語らむ 幕府だに やがて靡かん ささらがた 錦の旗の と、国臣も応じた。 国臣の熊本滞在は合わせて七日間におよんだ。 二十九日に山鹿まで戻り、三十日は久留米に泊まった。翌朝の十月一日、久留米寺町の遍照院 ( ) へんしょういん に向かった。高山彦九郎の墓を訪ねるためである。 高山彦九郎は、上州の奇男児として知られる。 今をさかのぼること六十五年前、ここ久留米で自刃した人物である。高山が生きたのは、禁中 並公家諸法度が定められ、幕府が朝廷に弾圧を与えた時代だった。 高山は十三歳で太平記を読んで以来、熱烈な尊王主義者となったと言われる男で、全国を行脚 して皇権の復活を訴えた。 九州各地も遊歴し、緻密な旅日記を残している。福岡にも立ち寄り、国臣も末流に組する亀井 学 の 祖 南冥 を 訪 ね た と い う 。 だ が 、 そ う し た 遊 説 の 果 て に 皇 室 不 振 を 憂 う ば か り 悲 観 し た の か 、 久留米の知人宅で自刃した。享年四十六である。 そんな伝説的な男が、昨今の勤皇の隆盛を受けて秘かに注目を集めている。男を慕う歌も世間 に広まっている。 103 周旋 人は武士 名前は高山彦九郎 京の三条の橋の上 遥かに皇居を伏し拝み 堕つる涙は加茂の水 思想といい、生き様といい、国臣にとっては共感を抱かずにはいられない人物である。 国臣にとって身近な忠臣といえば七隈原の菊池武時だが、武時は数百年前の南北朝を生きた武 将である。その意味では、同じ 徳川政権 下に生き、素浪の身で 全国行脚した高山彦九郎の方が、 よっぽど親近感を持てた。 国臣は、はじめて遍照院の墓前に立った。 知る人ぞ知る墓だが、名の大きさの割にはあまりに粗末で小さな墓である。ただ、そこには比 較的新しい石燈が一基あった。刻銘をのぞき込んでみると、 ( ) ―安政二卯三月十四日 平朝臣 あそん 伊地知龍右衛門季靖― と、記されていた。 伊地知龍右衛門は、このあいだまで京の鍵屋で同宿していた薩摩同志の一人である。安政二年 三月とあるから、国臣が長崎に赴任していたころ、伊地知はここに来たことになる。 石燈は一基しかない。 彦九郎にただならぬ因縁を感じた国臣は、同型の石燈を寄進しようと思い立った。その場で油 104 周旋 さりながら 筑前隠士平野次郎國臣― 代を添えて注文し、寄進名とともに二首を奉納した。 ―安政五年戊午十月旦 一筋に おもひしみちは ますらおの せむすべもない 大君のため 時こそいたらね まだき時よは よしやその すてし命は 久留米を発つと、その晩は松崎宿に泊まり、翌日筑前に入った。 福岡を離れてから、既に二十日ほどが経過している。 (まずは城下の動向を探らねばならん・・・) そう考え、馬市の岡部諶助の家に立ち寄った。岡部は、秋月遊学中に知りあった七歳年上の半 農郷士である。 状況が分からない中、すぐに福岡や久留米に近づくのは危険だった。この点、両城下からほど よく離れた馬市は、長崎街道と薩摩街道が交わる要地に近く、情勢把握には好都合だった。 結局、国臣は岡部宅に十日ほど滞在した。 近くの隈村には、やはり秋月遊学中に知りあった三つ下の吉田重蔵がいる。国臣を挟んで十歳 ほど年の差のある二人の郷士は、国臣とともに連日勤皇を談じた。そして交互に福岡方面に出向 105 周旋 いては、国臣のために城下の動向を探った。 そんな矢先、十六日に吉田が一つの情報をもたらした。北条右門が密かに博多に戻ったという のである。 この情報に接し、国臣も福博に戻ることを決意した。 (右門さァが戻っとるなら、今後のことを相談せねばならん) ( ) 翌十七日に馬市を発ち、辺りが十分暗くなるのを待って、石堂川に架かる西門 さいもん 橋を 渡って博多に入った。 すぐに大浜の右門宅に向かったが、右門は不在だった。応対に出た妻のフジエは、 「口止めされとりますが、平野さまだけには伝えてよいと言付かっとります」 と耳元でささやき、右門の居場所を告げた。 ―下名嶋町の高橋屋― そのまま東西の中島橋を渡り、桝形門から福岡城下に入った。 高橋屋平右衛門は、梅田雲浜を囲む饗席で一緒だった福岡の商人である。右門とは数年来の親 交があり、国臣もこれまで何度か顔を合わせたことがある。 早速高橋屋の裏口に廻って尋ねたが、ここにも右門の姿はなかった。 それでも、家人は訪問者が平野次郎であることを知ると、小声でささやいた。 「右門さまの御一行は、昨晩、住吉村の楠屋宗五郎さんの別宅に移られんしゃった。誰かに追わ 106 周旋 れとうみたいで、えらく慌てとんしゃったばい」 (右門さァの一行?誰かに追われとうとはどういう意味だ?ともかく急いだ方がよか) 国臣は、その脚で住吉村へと急行した。 下名嶋町から天神町を抜け、肥前掘に架かる数馬門をくぐれば、もう住吉村春吉である。国臣 は楠屋宗五郎とも面識があり、楠屋が営む元結の店を知っている。だが、さすがに別宅までは知 らなかった。一帯をしばらく歩いたものの、夜間のため屋号すら判別できない。 国臣は、一計を案じた。 懐から漸斎形見の笛を取り出し、鳴らしはじめたのである。笛は静寂の闇に包まれている春吉 一帯に鳴り渡った。そのまま奏で歩いていると、突然一軒の戸がバッと開き、中から勢いよく人 影が飛び出してきた。右門だった。 107 周旋 108 月 照 月照 「国臣!国臣ではなかか!」 叫びたかったのはこちらも同じだったが、右門の喜びようは半端でなかった。 一気に駆け寄ってくると、国臣に矢継ぎ早に質問を浴びせた。 「左門さァから肥後に向かったと聞いとったが?」 「たった今、戻ってきたところです」 「肥後でいったい何をしておった?」 「史跡めぐりなどです」 「して、なぜこんなところで笛ば吹いとる?」 最後の問いには、苦笑いするしかなかった。 右門の後ろには、楠屋宗五郎が続いている。楠屋も、国臣を見て手放しに喜んでいる。よほど 国臣のことを待ちわびていた様子である。 ともかく誤解されたままでは決まりが悪いので、切り返した。 「いくら私が笛好きでも、夜半に近所迷惑になるようなことはせんです。楠屋さんの別宅を存じ なかったゆえ、こちらの場所をお知らせした次第です」 ようやくその意図を解すと、右門は大きくうなずいた。 「妙案。妙案。さすがは国臣じゃ」 右門は感嘆の声を上げ、何度も楠屋とうなずきあいながら国臣を中へ招き入れた。そして国臣 110 月照 を座らせるやいなや、真顔を作った。 「いきなりですまんが、そちに引き受けてもらいたかこつがある」 右門の表情は真剣そのものである。国臣は、口を結んで次の言葉を待った。 ( ) 「清水寺成就院の月照 げっしょう さまを知っておろう?」 京の鍵屋にいたころ、よく耳にした名である。 ( 直 接 会 っ た こ とは な いが 、 勤 皇 勢 力 と 朝 廷 を 結び つけ る の に 尽 力 し た 高 僧で あ る 。 靑蓮 院 し ) ょ う れ ん い ん 宮や 三 条 家 な ど 、 公 家 か ら の 信 任 が 篤 い と 聞 く 。 併 せ て 近 衛 家 の 祈 祷 僧 で あ り 、 島津家とも気脈を通じていて、とりわけ斉彬とは昵懇の仲だったらしい。 また、斉彬が薨去した時はこれに殉じようとした西郷を説き、思い止まらせた人であるという。 国臣は、黙ってうなずいた。 「 そ の 月 照 さ ま が 今 朝 まで こ の 家 に 居 ら れ た 。 今 朝 発た れ 、 今 晩は 太 宰 府 に 泊 ま っ て お ら れ る 。 そして明朝大庭村の五百津さァのとこに向かう手筈となっておる」 国臣は、そこではじめて口を開いた。 「それで、私に何をしろと?」 右門は楠屋と視線を合わせ、意を決したように切り出した。 「実は、京の目明しが月照さまを追って既に福岡に入っとる。われらは何としても月照さまをお 守りせねばならん。頼みとは他でもなか。月照さまを薩摩まで送ってもらえんか?」 111 月照 「私が?月照さまを?薩摩に送るのですか?」 「そうだ」 それがいったい何を意味するのか、国臣の思考はめぐった。 右門は、そのままここまでの経緯を語りはじめた。 九月上旬、国臣が京を去るやいなや、幕府は梅田雲浜を捕縛したという。梁川星巌については、 国臣が訪問したわずか数日後、まさに捕縛されようという直前にコロリに罹って急死したという。 これらの情報は国臣が肥後で風聞に接したとおりである。 この時、月照は近衛家に身を隠していたという。 ところが、町奉行の詮議が厳しくなるにつれ、近衛家も月照を匿いきれない状況となった。や むなく月照は大坂に移って、十日ほど潜んだという。 この間、薩摩同志の何人かはまだ京にとどまっていたらしい。 ところが、所司代に続いて老中間部下総守が入京すると、たちまち水戸同志の鵜飼吉左衛門父 子が水戸への密勅送付に関わった罪で捕らえられた。京都留守居役を担っていた鵜飼は西郷ら薩 摩人とも親交が深く、右門らも予断を許さない状況となった。 そんな矢先、同志定宿の鍵屋が突然幕府の捜索に遭い、主人直助と妻子が町奉行に呼び出され、 薩摩人の出入りについて吟味を受けた。いよいよ切迫した事態となり、藩邸は右門らに即帰国す るよう命じたという。 112 月照 最後まで留まっていた右門と西郷、有村、伊地知の四人は、ただちに京を脱した。 伊地知は足に怪我を負っていたため一人伏見にとどまり、あとの三人は大坂に向かって潜伏中 の月照と合流したという。 黙って聞いていた国臣だったが、気になることを聞かない訳にはいかなかった。 「雲浜先生や鵜飼父子のほか、いったいどれほどの人々が捕縛されたのでしょう?」 右門は、視線を尖らせて答えた。 「おいたちが把握している限りでは、鷹司家や三条家の御家来、頼三樹三郎、日下部伊三次、越 前の橋本左内、水戸家老の安島帯刀といった人々が捕らわれたようだ」 「公家も、学者も、諸藩の士も根こそぎではなかですか」 そう漏らしたきり、国臣は言葉を失った。 事態の大きさに茫然となったが、徐々に怒りが込み上げてきた。 (いくら何でも強引すぎるばい。幕府は理性も慈悲も持たんのか・・・) 右門は、話を元に戻した。 大坂で月照と合流した一行は、十四日朝に海路大坂を発ったという。 月照と従者、右門、西郷、有村の五人である。やがて下関に着くと、期せずして一つの情報に 接した。薩摩の老君斉興が前日通過したばかりで、薩摩に向かっているというのである。 急ぎ相談した結果、西郷がすぐに発って斉興を追いかけることになった。 113 月照 というのも、斉彬亡き後の薩摩藩庁は幕府に恭順を示すことばかりに忙しく、月照の入薩には 相当の困難が予想されるからである。西郷は老君に直談判することで、月照庇護の内諾を得よう と考えたらしい。 残 り の 四 人は 、 下関 竹 崎 の 白 石 正 一 郎 宅 で 一 泊 し 、 十 月 二 日 朝 、 漁 舟 を 雇 っ て 九 州 に 渡 っ た 。 ただ、譜代藩の小倉領を避けるべく、筑前に直接舟を向けたという。 しかも、通常ならば黒崎に着けるところを、人目を避けるため手前の戸畑浦で上陸したという。 そこ か ら 博 多 まで 一 昼夜 歩 いた ら し い 。 博 多 の 右 門 宅 に 着 いた の は 三 日 の 明 け 方 だ っ た と い う 。 翌日には、有村俊斎が郷国に報ずべく単身薩摩に向かい、以降、月照主従は太宰府を訪ねたり、 下名嶋の高橋屋に移ったりして数日を過ごしたという。 「前置きが長いようだが、よう聞いてくれ。むしろこっからが本題だ。昨日、下関の白石正一郎 どんから急な知らせが届いたのだが・・・」 右門は懐から書簡を出すと、国臣に開いて見せた。 それは、京の捕吏が追跡してきたことを知らせる急書だった。 京の町奉行配下の徳蔵と甚助という二人の捕吏が、地元の目明しを従えて白石邸に踏み込んで きて、月照について尋問したと書かれてある。 右門らを震撼させたのは、その内容ばかりでなく、十一日という書簡の日付だった。 実際に届いたのは昨日の十六日である。理由は定かでないが、届くのに五日も要している以上、 114 月照 既に足取りをつかまれていると見なさざるを得なかった。 月照と右門、高橋屋はただちに相談し、楠屋の別宅へと移った。 昨晩のことである。そして今朝、月照主従が太宰府へ向かったという次第である。 主従だけで発ったのは、右門は太宰府方面に知人が多く、足がつく恐れがあったからだという。 月照は一度太宰府を訪ねているため道に迷う心配はないし、主従だけの方が目立たなくて良いと いう判断だった。 右門の話が終わるころには、国臣の心は澄みきっていた。 目 に は 光 が 宿 り 、 頬 に は か す か な 笑 み ま で 浮 か んで い た 。 天 を 仰 ぐ と 、 ポ ツ リ と つ ぶ や い た 。 「やはり野間関ですかね?」 間接的な言い回しだが、要するに、 「薩摩行きを引き受けましょう」 と、承諾しているのである。 右門にしても、言葉にせずとも国臣と心を交わせる仲である。飛びつくような言い方はしない。 「薩摩入りがいかに困難かをいまさら説明する必要もあるまい。秘策など何もなか。頼むべきは、 そちの度量と気転のみだ」 今一度天を仰ぎ、国臣は小さなため息をついた。 115 月照 国臣は、いったん地行に帰宅した。 既に深夜である。急いで旅支度を整え、短い睡眠を取ると、まだ暗いうちに出発した。月照主 従に追いつくためには、まず昨晩の宿所である太宰府参道の松屋を目指さなければならない。 暁に浮かぶ半月を見上げながら、国臣は月照について考えた。 もともと清水寺本坊成就院の住職だが、安政元年ころに寺務を弟の信海に譲って以来、勤皇運 動に関わっているという。公家や学者たちの信頼が篤く、月照の尽力なくしては南北朝以来の反 幕密勅の降下は実現しなかった、ともっぱらの評判である。 だが、そのほとばしるような勤皇心とは対照的に、容貌は小柄で眉目清秀だと聞く。名刹の高 僧にふさわしい品格が漂い、肌は女のように白いという。 国臣は、かつて一度だけ清水寺成就院を訪れたことがある。 そこには、 「月の庭」と称される名庭があった。 ( ) 背後の音羽山 おとわやま を借景とし、紅緑の植栽の中心に心字池が湧き水をたたえる。 昼夜の陽陰が巧みに組み込まれ、心字池に映る名月はこの世のものとは思えない美しさと讃え られる。国臣が訪れたのは昼間だったが、優雅な女性的な美観の中に、凛とした端厳さが漂って いた記憶がある。まだ見ぬ月照の形象は、その庭の情景と重なった。 九時ごろには、太宰府天満宮前の松屋に着いた。 ここの主人の名を栗原孫兵衛という。 116 月照 十八歳で普請方手附として太宰府に赴任して以来、国臣にとって天満宮周辺は庭のようなもの である。参道に並ぶ店々もほとんどを知っている。目隠ししても、店ごとの餅の味を言い当てる ことができるほどだった。当然ながら、松屋が薩摩藩の定宿であり、主人の栗原が情に篤い性格 であることにも通じている。 国臣は、主人に月照主従のことを尋ねたが、既に発ったという。 栗原は、月照の素性を知る国臣を奥へと招き入れた。国臣が月照を追っている理由を述べると、 事の重大さを理解した主人は、知っている限りのことを話した。 それによれば、昨晩の月照は口数が少なかったらしい。 早めに床に就き、早朝の出発に備えているようだったという。そして今朝六時すぎ、武骨な男 が一人やって来て、連れ立って出発したという。 この手筈については右門から聞いたとおりである。武骨な男とは洋中藻平のことで、大庭村の 竹内五百津のところまで月照を案内する任を負っている。 ただ、昨晩こそ口数は少なかったが、月照は十日ほど前にもここで三泊したという。 その時の主人の印象は、月照は肌白で気高く、公家のような風を漂わせていたという。太宰府 に 来 て か ら は 天 満 宮 に 詣 で た り、 付 近 の 名 所 旧 跡を 歩 いた り 、 一 日は 宝 満 山 に も 登 っ た と い う 。 国臣は、その最後の箇所が気になった。 「御僧も宝満山の頂上まで登られたとですか?」 117 月照 月照は、四十五歳の京の清僧である。 その脚力の弱さで薩摩入りすることを右門もずいぶん心配していた。 自 然 、 国 臣 も 容 易 に 追 い つ け るだ ろ う と 高 を 括 っ て いた 。だ が 、 そ ん な 国 臣 の 懸 念 を よ そ に 、 栗原はあっさりと答えた。 「ええ。私が案内しましたが、山頂で存分に紅葉を満喫されとりました」 「御僧の足はいかがでしたか?山頂辺りは結構急でしょう?」 「私も最初心配しとりましたが、意外にしっかりされた足取りでした」 「そうですか・・・」 つぶやきながら、国臣は不安を募らせた。 月照の行き先が大庭村であることは間違いないが、想像した以上に一行の足取りは速そうであ る。万が一大庭村までに追いつけなければ、そこから先で追いつくのは困難になる。月照主従の 顔も分からなければ、どの道を取って薩摩に向かうかも、皆目見当がつかないのである。 (これは急がねばならん) 国臣は、松屋を後にすると足を早めた。 ( ) 五条から南に下ると、針摺 はりすり で日田街道と合流する。 ( ) 街道はそこから東南に向かって直線的に伸びる。半里ほど進んだ山家 やまえ で長崎街道と交 118 月照 ( ) わり、その先の石櫃 いしびつ で今度は薩摩街道が分岐する。この辺りは家数こそ少ないものの、 九州の主街道が交差する要衝となっている。 国臣は、大股で歩を進めた。 左には月照が登ったという宝満山が雄々とそびえている。普段なら誇らしげな山容も、この日 ばかりは国臣を恨めしい気持ちにさせた。今はともかく、この霊山を踏破した人物に急いで追い つかなければならないのである。 速度を維持しつつも、国臣は自分の置かれている状況を客観的に考えた。 勤皇派の主だった人々が皆捕縛された今、月照はおそらく日本一のお尋ね者になっているにち がいない。その人物を追っているのは、この瞬間自分ただ一人なのである。不思議な気がしたが、 同時に運命のようなものを感じなくもなかった。 山 家 を 過 ぎ 、 ほ ど な く 石 櫃 に 差 し か か ろ う と し た 時 、 街 道 を 逆 方 向 か ら や って 来 る 一 行 か ら 、 いきなり大声を掛けられた。 「平野!やっぱり平野ではなかか!」 「こ、こ、これは!」 先を行く人々の後ろ姿ばかりに気を取られていたため、すれ違う人々には全く注意を払ってい なかった。完全に不意を突かれた格好となった。 声主は、秋月の師坂田諸遠である。息子と二人の門人を伴っている。 119 月照 「先生、まさかこげんとこでお会いするとは・・・お出掛けですか?」 「それはこっちの台詞ばい。お前こそ、ここで何しとる?」 「いや、大庭村の方で用がありまして・・・」 「何だってよか。こりゃ天運ばい」 坂田は国臣の返事を気にする様子もなく、やたらと喜面を浮かべている。 「実は、ちょうどお前に会いに行こうとしよったとこばい。上方の情勢が不穏らしいが、秋月で は詳しいことがよう分からん。そしたら、お前がちょうど京に上っとったと聞いたけん、こげん して福岡に向かいよったとたい」 「そうだったんですか・・・」 国臣は、困惑気味につぶやいた。恩師の性格が手に取るように伝わってくる。 嫌な予感は的中した。 「ちょうど良か。今から一緒に秋月に戻って、じっくりと話ば聞かせてくれんね。今晩は久しぶ りにうちに泊まるとよか」 「いや、申し訳なかですが、今は急用ですので改めて伺わせて下さい」 国臣としては、一瞬たりとも無駄にはできない。 「こっちも藩命を帯びとる身ぞ。寄り道するくらい構わんやろ?急用とはいったい何だ?」 公の街道上で説明できるような用件ではない。何とか場を逃れようとしたが、拒めば拒むほど 120 月照 坂田はますます意固地になっていった。 「そげんあいまいな返事で納得できるか!わしの頼みを聞けんというのか?」 国臣は、泣きたい気分になった。 事情を分かってもらえれば、坂田は当然信頼できる人物である。ただ問題は、今は一刻の猶予 もないことだった。坂田は、国臣の用事に付きあってでも話を聞かせろとせがんだが、その坂田 の体形こそが難点だった。小柄でどっぷりとした肥満体は、どう見ても速歩には向かない。坂田 を道連れにすれば、月照に追いつくのが難しくなるのは明らかだった。 加えて、坂田には三人の従者がいる。 子息は仕方な いとして も、二人の門弟は 坂田の 目的とは 何の関 係もなさそうで あ る。聞け ば 、 秋月での修学を終えたところで、福岡に戻るところだという。 そこで、ともかく坂田親子とともに大庭村方面に向かって歩き出すことにした。二人の門弟と は、その場であいさつを交わして別れた。 「さあ、もういい加減よかろう?京の話ば聞かせてくれんね?」 そう切り出しては、坂田は歩を緩めようとする。そのたびに国臣は、 「立ち止まっていた分、急がねばなりません」 と促し、前に進み出た。 121 月照 十三歳になる坂田の次男吉之助も必死に付いてくる。だが、肥満体の坂田が少しずつ遅れては、 国臣が立ち止まり、ともに歩き出しては再び坂田が遅れはじめる形となった。 「いくら何でもそげん急がんでよかろうもん。老体には酷ばい!」 国臣は、ついに天を見上げた。 いっそ駆け出して坂田父子を置き去りにしようかと思ったが、有職故実の恩師に対してそのよ うな非礼を働けるはずもなかった。 (こうなれば、手段を選んでられん) 国臣は、いきなり坂田に向かって、 「先生たちはこんまま来よって下さい。私は先回りして馬を探してみます」 と言い残し、前方へ走り出した。 そのまま街道の継所まで走り続けると、そこで三頭の駄賃馬を雇った。 ほどなく追いついた坂田父子をそれぞれ馬に乗せ、自分も乗馬して進みはじめた。馬の速度は 国臣の早歩きと大差なかったが、坂田の徒歩よりははるかに速かった。 列を成して大庭村への分岐となる十文字まで進み、そこで馬を下りた。 再び遅足となったが、日暮れ前にどうにか大庭村にたどり着くことができた。 ここは薩摩の四人のうち、竹内五百津が暮らす土地である。 右門と左門、藻平の三人は博多周辺に暮らすが、五百津のみは十里も離れた地で起居している。 122 月照 五百津はかつてここに假居したことがあって、村民との親睦が深まり、再びこの場所で生活する 許しを藩庁から得ていた。国臣自身も、秋月遊学中に一度藻平に地図を書いてもらい、五百津を 訪ねたことがあった。 記憶を頼りに五百津宅に向かい戸を叩いたが、応答がない。 そこで隣家に回ってみると、五百津は星野四郎平という大庄屋宅にいることが分かった。坂田 父子にはひとまず外で待機してもらい、国臣一人が大庄屋宅を訪ねた。訪問者と聞いて飛び出し てきた五百津と藻平は、驚きと喜びの表情を浮かべた。 「これは驚いた。国臣やなかか!よう来たな!」 二人は国臣を中へ招き入れた。 客間の上座では、肌白の小柄な僧がお茶をすすっていた。どこか荘厳な雰囲気を漂わせている。 月照その人だった。 座につくと、国臣は慇懃にあいさつを述べた。だが、当の月照は、 「月照にござる」 と、軽く会釈しただけだった。 すぐに藻平から来訪理由を聞かれたので、国臣は昨晩春吉の楠屋宅で右門から事の次第を聞き、 早朝福岡を発って月照主従を追いかけてきたことを話した。 123 月照 藻平と五百津は国臣の足労をねぎらったが、月照は時折国臣に視線を送るだけだった。 (俺のことを誰かから聞いておられるな・・・) 国臣は、直感でそう感じた。それが右門なのか西郷なのか分からない。ただ、 (こいつがうわさに聞く福岡の浪人か) と、言わんばかりの視線をこちらに向けている。 国 臣 は 、 こ こ に 至 っ た 経 緯 を 話 す と 、 外 で 待 た せて い る 坂 田 父 子 を 招 き 入 れ る 許 し を 乞 う た 。 五百津と藻平が坂田の素性を尋ね、月照の同意を得ると、併せて七名の座が調った。月照と下僕 ( ) の大槻重助 じゅうすけ 、五百津と藻平、坂田父子、それに国臣という異色の組み合わせである。 一行は風呂と夕食を済ませた後、薩摩入りについて協議した。 幕府による大獄が吹き荒れ、全国の諸藩が井伊の圧政に身を縮める中、勤皇勢力にとってわず かな望みとなっているのが薩摩藩である。 ( ) その薩摩では、斉彬が世を去った後に茂久 もちひさ が後を継いでいる。だが、まだ若年であ り、実父の忠教がこれを後見したり、祖父の先々代斉興が一時帰国して政務を司ったりしていて、 混沌とした状況にある。 目下の時勢では、薩摩藩庁が月照庇護をすんなり認めるとは考えにくい。 それでも一縷の望みとして、西郷ら勤皇派による藩内工作に期待が寄せられる。公に月照の庇 護を謳わないまでも、領内に潜伏する内諾さえもらえば十分なのである。今はその可能性に賭け、 124 月照 一刻も早く薩摩を目指す以外になかった。 ただ問題は、薩摩入りの難しさにある。 著名な学者や商人でさえ入国を拒否されることが多く、その閉鎖性は天下に際立っている。関 所を破ろうにも、国境付近の険しい山海の地形がそれを阻むという。幕府の隠密でさえ斬って捨 てられるという噂まである。 その難関に、日本一のお尋ね者が挑もうというのである。 五百津と藻平は薩摩加治木郷の出身なので、どちらかが同行すれば少なくとも道に迷う心配は ない。だが、脱藩の身である二人にそれが叶うはずもなかった。ここはやはり、国臣を置いて他 に同道できる者はなかった。 薩摩入りには二つの経路がある。海手の出水筋と山手の大口筋である。 月照の体力を考慮すれば、起伏の多い大口筋には大きな不安がともなった。相談の結果、舟を 雇って南進し、出水筋から薩摩入りするのが妥当だろうということになった。 入薩計画が定まると、話題は京情勢へと移った。ここで待っていましたと言わんばかりに矢継 ぎ早に質問をはじめたのが、坂田諸遠だった。 坂 田 に し て みれ ば 、 国 臣 と 面 会 す べ く 福 岡 に 向 か い 、 正 反 対 の 大 庭村 に 来 る 羽 目 と な っ た が 、 おかげで京の高僧の話を直に聞けることになった。月照は、坂田の質問一つ一つに丁寧に答えた。 このやり取りで、国臣も京情勢や月照の境遇について理解を深めることができた。 125 月照 翌日は、長旅に備えて休養に当てた。 「やはり修験僧と弟子が一番ピッタリだろう」 入薩用のいくつかの偽装案が検討された結果、最終的にそう落ち着いた。 修 験 僧で あ れ ば 諸 国 行 脚 の 名 目が 立 つし 、 万が 一 山 に 分 け 入 る 事 態 と な って も 弁 解 しや す い 。 「どうせなら名前まで決めとこう」 ( ) ということで、月照が修験僧の静渓院鑁水 じょうけいいんばんすい と称し、国臣と重助は二 ( ) 人の弟子となって、それぞれ雲外坊 うんがいぼう 、藤次郎と名乗ることにした。 早速修験の法衣を試着している国臣の元に、藻平が近づいてきた。 「国臣、その太刀だけは止めとけ。修験者には奇抜すぎる」 国臣にとって、佩刀は己の分身といっていい。世間の常識からかけ離れていることは百も承知 だが、簡単に手放せるものではなかった。 「修験者に物好きがおっても構わんでしょう?」 藻平は、真顔で言ってのける国臣に呆れ顔を作った。 「そちの好みの問題やなか。そいでは無用に目を付けられてしまう。月照さまをお守りすっとに 目立たんに越したことはなか。おいの刀を代わりに持ってけ」 苦渋の判断だったが、月照のためとあらばあきらめるしかなかった。 躊躇しつつも愛用の佩刀を藻平に渡した。藻平はうなずいて微笑むと、後事を国臣に託し、こ 126 月照 の日坂田父子とともに福岡方面へ帰っていった。 翌朝、一行は出立の準備を整えた。 薩摩に向かうのは、月照主従と国臣の三人である。 加えて、五百津と五百津の娘テツ、それに大庄屋に奉公している正作という村の若者が、筑後 川の河口まで随行することになった。テツは父を訪ねるため薩摩から来ていて、ちょうど大庭村 に滞在しているところだった。 六人はそろって、河岸に繋いでいる舟へ向かった。 この九州隋一の大河の対岸は筑後領である。京の捕吏が追ってきても足がつかないよう、舟は わざわざ前日に対岸から雇い入れた。 とりあえず目指すのは、筑後久留米である。 有馬藩二十一万石の居城は、筑後川が大きく蛇行したところの河岸に位置する。 このため、人々は乗船したまま脇を通行することを許されず、手前でいったん下船して歩いて 城下を横切らねばならなかった。城下を過ぎた後、再び乗船する形となる。 舟出を偽装するために、大庄屋は村の娘たちを呼び集めていた。 久留米見物の装いに仕立てるためである。月照と重助、国臣、五百津が船底に身をかがめ、正 作が漕ぎ手となって村の娘たちを送る風を調えた。 127 月照 やがて舟は久留米に着き、一行は娘たちと別れて城下を進んだ。 街道のそばに、先日国臣が訪ねたばかりの遍照院がある。 「先に行っとって下さい。すぐに追いつきますけん」 そう言い残し、国臣は高山彦九郎の墓へと駆けた。 だが、自分が今月一日に注文した石燈籠はまだ設置されてなかった。 無理もない。注文日からまだ二十日しか過ぎてないのである。墓の様子は何も変わっていない。 むしろ、変わったのは自分の方である。たった二十日で、逃亡の素浪人から命がけで薩摩を目指 す志士へと変身しているのである。 (人生一寸先は分からんもんばい・・・) ( ) そんな思いを抱き、国臣は再び急ぎ足で一行に追いついた。そのまま瀬下 せのした の水天宮 まで進み、宮前に宿を取った。 予定どおり、この宿で三人は修験姿に変わった。 手筈どおりに静渓院鑁水と弟子の雲外坊、藤次郎となったのである。正作が道具屋まで使いに ( ) ( ) 走り、錫杖 しゃくじょう や兜巾 ときん 、ホラ貝といった修験道具を買いそろえてきた。併せ て、国臣も総髪をテツに櫛で山伏風に撫でつけてもらった。 十月二十一日、三人の修験者と随行者たちは瀬下から再び乗船した。 ( ) 次 に 向 か う は 、 久 留 米 領 南 端 の 若 津 港 で あ る 。 そこ か ら 隣 接 す る柳 河 領 の 小 保 こ ぼ に 進 み 、 128 月照 有明海へと漕ぎ出す計画である。 若津行きの舟を貸し切り、まさに出港しようとしたその時、一人の町人が慌てた形相で駆け寄 ってきた。 「もしや、若津まで行かれるとでしょうか?」 地元の商家のようである。一行が相づちを打つと、商人は手を叩いて喜んだ。 「私、若津本町下通で宿店を営む濱崎屋庄兵衛と申します。不躾ですが、次の便船までずいぶん 時間をつぶさねばならんもんで、宜しければ同船させてもらえんでしょうか?むろん、相応の船 賃はお支払します」 偽装の一行にとっては迷惑な話である。皆、表情に出さないように戸惑ったが、月照があっさ りと答えた。 「どうぞ」 「有難うございます。どう御礼を申し上げたらいいか」 舟が進みはじめると、濱崎屋は土地の話を色々とはじめた。御礼のつもりなのか、不案内の一 行に地元の産物や名所について詳しく説明した。 話し相手は、主に国臣ならぬ雲外坊が務めた。 月照主従は上方の人であるし、五百津も薩摩人である。会話の流れ次第では下手に怪しまれか ねない。国臣は、福岡の修験者が京の山伏を案内して修行地に向かう風を装った。 129 月照 濱崎屋も会話がはずむにつれ、自らの身の上を述べた。 「実を申しますと、本日久留米藩庁から目明しの任を拝命したとです。家人も喜びましょうゆえ、 早く帰って聞かせてやろうと思うとります」 「それは、実にめでたい」 平静を装いつつも、「目明し」のひと言に皆が凍りついたのが国臣には空気で分かった。 それでも今は同船の人であり、じたばたしてもはじまらない。他の人々も、河面や景色に視線 を泳がせて動揺を隠している。 ようやく若津港が見えてきたところで、濱崎屋が声を張った。 「これも何かの縁にございましょう。大したおもてなしはできませんが、是非とも手前の店で休 まれていって下さい」 幸い濱崎屋が一行を疑っている様子はない。 どのみち、土地に疎い者ばかりである。船上の会話の流れからも、これを拒まなければならな い理由はなかった。一行はその言葉に甘え、休息に立ち寄ることにした。 濱崎屋は一行を宿の茶亭へ案内した。 「これは竹内さまではございませんか?お久しゅうございます」 女中の一人が、五百津を見るなり声を裏返した。 130 月照 「これは、奇遇ですなァ」 五百津の反応から察するに、二人は顔見知りのようである。 どうやら福岡の高橋屋平右衛門を介して以前どこかで一緒だったことがあるらしい。思いがけ ず五百津の素性が割れてしまったが、濱崎屋は別段気に留める様子はなかった。 山海の幸を取りそろえた酒席が一行のために用意された。想像以上のもてなしが続き、一行は すっかり辺りが暗くなるまで世話になった。 挙句の果てに、是非泊まっていけと濱崎屋が薦める形になった。だが、一行にそのような余裕 はない。しばらく押し問答が続いた結果、とりあえず国臣と正作が留まることになった。 二人が残ったのには理由がある。 それは、茶亭が遊女屋を兼ね、国臣と正作のみが独り身だったからである。 濱崎屋は、見るからに高貴な修験老僧に酒や女を薦めようとはしなかった。重助ならぬ藤次郎 はこれに従わなければならない。五百津も娘のテツを連れている以上、遊女屋に泊まることはで きない。このため月照主従と竹内親子は一足先に小保へ去った。 この夜、国臣は女を抱いた。 正確には、久しぶりに女肌に触れたといった方がいい。 素浪の身となってこのかた、自意識ばかりが先行し、他人に気を許したことが一度もない。こ の心持ちが少しでも変化するかどうか、女肌で試そうと思った。 131 月照 (女は容姿ではなか。仕草や振る舞いに愛らしさや奥ゆかしさがなくてはならん) と考える国臣にとって、女は詩歌や笛にも通じる情感の対象である。 あてがわれた女と体を重ね、愛撫してみたものの、ついに男女の交わりには至らなかった。 (よか女子やけど、ひと晩枕を並べただけで情が生じるもんではなか・・・) 情が生じて愛しいと思えばこそ、女は抱けるものである。その前提となる情がなければ、詩歌 も、笛も、女も満喫できないようにこの男は出来ていた。 夜明け前、国臣はこっそりと茶亭を抜け出した。 正作は、隣室でまだ遊女と寝ている。大庄屋に奉公する正作にとっては、滅多に味わうことの で き な い 娯 楽 に ち が い な い 。こ の 若 者 の 役 割 は 、 ど の みち 若 津 ま で 見 送 るこ と で 完 了 し て い る 。 国臣は、そのまま正作を置き去りにした。 小保の宿に着くと、五百津が既に薩摩行きの舟を手配していた。 出発準備はつつがなく整ったが、大問題が一つ生じた。天候である。 昨晩から徐々に風が強まり、明け方から雨まで降り出したのである。普段は雄然と流れる筑後 川にも荒波が立っている。 一行は、天候の回復を待つことになった。 薩摩を目指すには、ここから有明海に出なければならない。いったん海原に漕ぎ出せば、島原 半島までは途中小島すらない。このため、荒波が収まるまで出発を見送るしかなかった。 132 月照 焦る気持ちとは裏腹に、風雨は翌日もさらに激しさを増した。 やることもなく一行が宿で時間をつぶしていると、ずぶ濡れの男が突然飛び込んできた。 「右門どんか!ようここが分かったな!」 五百津の叫びに続いて、皆が歓喜の声を上げた。 「いや、間にあった。おっ、国臣もおるな。なかなか山伏姿が似おうとるぞ」 雨具を外しながら国臣の姿も確認すると、右門は月照の前に進んであいさつした。 「 藻 平 か ら 小 保 を 目 指 さ れ る と 聞き 、 駆 け つ け て 参 り ま し た 。 早 速で す が 、 報 告 が ご ざ い ま す 。 京の目明しですが、既に大庭村まで足取りをつかんどります。大庄屋の星野四郎平が尋問を受け たそうです」 一行は、固唾をのんで右門の話を聞いた。 「あと一つ、一昨日薩摩藩の伊地知龍右衛門と吉井幸輔が福岡に立ち寄りました。月照さまのこ とは、私から両名に言い聞かせました。両名とは昨日瀬高宿で別れましたゆえ、薩摩に戻り次第、 同志たちと受け入れの手筈を整えてくれましょう」 右門の報告は、自分たちの置かれている状況を改めて認識させた。 京の目明しは、執拗に月照を追いかけてきている。おそらく薩摩関の手前で捕らえようと考え ているにちがいない。それを振り切って薩摩同志の元に駆け込めるかどうか、成否は時間との競 争の様相を呈している。 133 月照 ところが、静渓院鑁水と雲外坊、藤次郎の三人は、結果的に十日近く小保に留まることとなっ た。悪天候がずっと続き、想定外に日数を費やしてしまったのである。この間、小保の入り口に 見張りを立てたが、幸い目明しらしき人物が現れることはなかった。 十一月一日の朝、天候はようやく回復の兆しを見せはじめた。 ( ) 三人は意を決し、二人の舟子を促して艫綱 ともづな を解かせた。 舟は有明海へと漕ぎ出した。 肥前と肥後の海岸を両側に眺めつつ、雲仙岳を擁する島原半島を真っすぐ目指した。 波風はまだあったが、一日漕ぎ続けて何とか島原にたどり着くことができた。そこで再び二日 間潮がかりすると、ようやく天候は全快となった。風は冷たいが北よりの順風に変わり、舟は快 走しはじめた。 やがて天草本渡の瀬戸を抜け、八代海に出た。 ここまで南下すると、気温が上昇した。同じ九州とはいえ、寒さもずいぶん緩む。 月照と重助はもちろん、国臣にとってもこれより南は未知の世界である。 既 に 後 方 に 下が っ た 天 草 の 島々 は 、 宇 土半 島を 経て 熊 本 城 下 へ 続 いて い る 。 そ の 熊 本で さ え 、 国臣はひと月前にはじめて訪れたばかりである。 南九州の風が国臣を新鮮な気分に包んだ。ふと、船首の舟子が前方を指差した。 134 月照 「対岸辺りが芦北ですばい。右手が水俣、その先はもう薩摩ですたい」 その声が余韻となって、国臣は前方を見つめた。 夢にまでみた薩摩がついに近づいてきたのである。 (いよいよ薩摩・・・俺はその地に踏み入ることができるだろうか?) 舟は九州本土を左に見ながら快調に走り続けた。やがて海岸線の一角に白いものが浮かぶとこ ろまで進むと、舟子がそれを指差した。 「あの白かとこが、きっと関所ですばい。こっからじゃ見えんばってん、幟には島津さまの紋が 付いとるはずです」 さすがに紋様までは確認できないが、目を凝らせば幟らしいことが分かる。 出水筋の野間原の関である。かつて高山彦九郎や頼山陽といった著名人でさえ通行を拒否され たという天下の難関である。 だが、頭ではそう理解しても、沖合を航行する限りその難関さは微塵も伝わってこない。 海上に監視の舟が浮かんでいる様子もなく、一行はそのまま薩摩の領海へ漕ぎ入った。 ほどなく米之津の港が見えてきた。早速その辺りに上陸しようと試みたが、すぐに港の役人が 近づいてきて、一行に向かって厳命した。 「ここでの上陸はいっさい認められぬ。野間原の関まで戻るように」 弁解しようとしたが、役人は聞く耳をもたない。 135 月照 仕方なく舟を反転させ、関所の手前まで戻った。海岸沿いに手ごろな岩場を見つけると、三人 の修験者はそこで上陸した。国臣は、すぐさま舟子に指示を与えた。 「よいか、舟を繋いだままここで一晩待ってくれ。明朝までにわれらが戻らんかったら、もう筑 後へ帰ってもよか。くれぐれも頼んだぞ!」 「へい」 筑後川の河口からはるばる出水まで漕ぎ続けてきた二人の舟子は、小気味のいい返事を返した。 さすがに五百津が人選した船乗りだけあって、信頼できる連中だった。 静渓院鑁水と雲外坊、藤次郎の三人は野間原関まで歩き、通行を申請した。 旅行券を提出したが、もちろん偽造である。 表向きは、洛外山科三宝院の甲村左京を発行元とし、自らは鹿児島日高存龍院への御使僧と名 乗った。日高存龍院は、薩摩第一の修験寺である般若院下にあり、領内の修験僧元締めとしてそ の名が通っていた。月照はかつて京で日高存龍院と面談したことがあり、多少の事情にも通じて いるため、申請名義には打ってつけだった。 しかし、関所の役人は三人を刺すような視線で見回すと、首を横に振った。 「三宝院の御使僧としては、行装がいささか軽すぎる。しかも、存龍院どのは先日帰国された折、 そのような御使僧が来ることは言っておりもはんかった。疑わしきゆえ、通す訳には参らぬ」 136 月照 月照は、京ことばで必死に食い下がった。 薩摩の修験道振興のために重要な使命を帯びていると述べ、三宝院当山派の山岳修行は幕府法 度で庇護されており、通行拒否となれば後々災いとなると力説した。ついには道中の苦労話まで 持ち出し、役目を果たせず帰ってしまえば生き恥をさらすと、涙ながらに訴えた。 それでも、役人は頑として首を縦に振ろうとしない。 それどころか、雲外坊や藤次郎にも尋問し、三者の回答に食い違いがあることを追求しはじめ た。粘れば粘るほど疑いが深まる形となり、結局関所を立ち去らざるを得ない状況となった。 「もうあかん、ここまでや」 関所から遠ざかりながら、月照は肩を落としてつぶやいた。 重助も、ぐったりとうなだれている。主人を救うために気転をきかせた回答ができなかったこ とを悔やんでいるようだった。 国臣は、無言のまま主従の後ろを歩いた。 後ろ姿の月照は、完全に意気消沈している。だが、国臣の心はまだ折れてなかった。 (通行困難なことははじめから分かっとったこと。要はここからどうするかだ・・・) 改めて周囲の地形を観察した。 関所の脇まですぐ山が迫っていて、沿岸の街道以外に道はありそうもない。山間に分け入って 関所を破ることは不可能に近い。 137 月照 国臣は思考を働かせた。 窮地に陥ってこそ奮起する力がこの男には備わっている。 (背後には目明しが目を光らせとる・・・肥後境に戻って粘っても状況は悪くなるばかり・・・ 月照さまは死もご覚悟のご様子・・・となれば、道は一つしかあるまい・・・) 三人は舟に戻ったが、月照と重助は思い詰めた表情のままひと言も発しない。国臣は、舟子に 向かって言った。 「少々事情が変わって戻ってまいった。すぐ舟を出してくれ」 「へい」 月照たちの重々しい雰囲気から、舟子も通行が叶わなかったことを察したようだった。 「このまま筑後にお戻りになられるとでしょうか?」 恐る恐る舟子が聞いたが、返事が戻ってこない。 しばらく沈黙が続いたが、後ろに座した国臣がつぶやくように答えた。 「とりあえず、そうしてくれ」 この返答は、薩摩入りを断念したことを宣告する響きを持った。それっきり口を開こうとする 者はなく、ただ舟を漕ぐ音だけが海上に響いた。 舟が沖合に出たところで、突然後方から竜笛が鳴りはじめた。 138 月照 後ろ向きに座った国臣は、笛を吹きながら遠ざかっていく薩摩の海岸と対峙していた。笛は大 海原に掻き消されそうだったが、背中で海風を遮り何とか音律を保った。 二曲奏じたところで、笛を拭いて懐に収めた。 そして、はるか後方に下がった国境の幟を見つめ、おもむろに前方に向き直った。目には力が こもっている。 「舟頭、すまんが黒ノ瀬戸に向かってくれ」 このひと言に、舟子らは一瞬で凍りついた。 黒ノ瀬戸とは、野間原や米之津よりずっと奥の薩摩領である。九州本土と長島の間の狭い水道 のことで、そこは ―一に玄海、二に平戸、三に薩摩の黒ノ瀬戸― と、詠われるくらい九州屈指の航海の難所である。 「旦那、いくら何でも無茶ですばい。見つかったら皆斬られてしまう・・・」 どうやら舟子の心配は航海の方でなく、薩摩役人のようである。 次の瞬間、国臣はその舟子をにらみつけ、刀の柄に手を掛けた。大庭村を発する時に交換した 藻平の太刀である。 「この場で斬られるよりマシだろう?」 国臣の殺気だった声に、緊張が走った。 139 月照 月照は野獣でも見るような視線を一瞬国臣に向けたが、すぐに向き直ってこれを黙認した。舟 子らもこれに歯向かう訳にもいかず、すぐに開き直った。 「承知しました。こうなりゃ、舟も命も旦那方にお預けします」 「かたじけない」 国臣は、小さく頭を垂れた。 薩摩への不法入国が危険極まりないことは言うまでもない。 それでも、国臣の見るところ勝算がない訳ではなかった。 海 上 に は 変 わ ら ず 北 風 が 吹 い て い て 、 順 風 で あ る 。 ほ ど な く 日 も 沈 み 、 辺 りは 闇 に 包 ま れ る 。 風と陽が味方する以上、沖合を進めば闇に乗じてどこかに上陸できないこともないように思えた。 国臣の思惑どおり、日没後も舟は順調に進んだ。 舟は一晩中西進し、やがて背後の東空がかすかに白みはじめたころ、両岸が一気に絞り込んだ 地形に差しかかった。黒ノ瀬戸である。 舟子は船を浜に寄せると、三人の修験僧をそこで下ろした。 舟が瀬戸を戻っていくのを見届けると、三人は陸路を進みはじめた。 やがて朝日が昇りきったころ、脇本という浦にたどり着いた。 ここの浦役人に再び尋問されることになったが、幸い野間原関ほど厳しい追求は受けなかった。 140 月照 月照は、再び洛外三宝院より遣わされた存龍院への御使僧と名乗り、夜間潮に流されてきたと告 げると、浦役人は高僧の来訪にひどく感銘した様子で、あっさりと通行を許可した。 こうして十一月七日の朝、国臣らは念願の薩摩入りを果たした。 とはいえ、ここは三人にとって未踏の地である。道中いつまた尋問を受け、拘束されないとも 限らない。頼むべきは、国臣の判断力と気転だけである。 国臣の進言により、一行は沿岸の本街道を取らず、山間の脇道を進むことにした。 無用な嫌疑を受けないよう、薩摩人との接触もできる限り避けた。 食事も茶屋などにはいっさい寄らず、国臣が農家に交渉に赴いては甘藷や餅を仕入れ、何とか 飢えをしのいだ。宿もどこかの納屋を借りられればまだ良い方で、野宿まで余儀なくされた。 薩摩路の歩行は、困難を極めた。 途中鹿児島へ通じる山道に迷ってさんざん苦労したが、八日には川内を過ぎ、九日には市来に 達した。 黒ノ瀬戸から歩き続けて二十里あまり、三人の草鞋には既に血がにじんでいる。 それでも休むことなく歩き続け、伊集院を通過し、ついに鹿児島城下の西端にたどり着いたの は、十日の夕暮れ時のことだった。 「これが桜島か・・・何ともデカい・・・」 時に、風景は人を感動で包みこむ。 141 月照 日が沈んだ後だったが、少し前まで夕陽を浴びていたであろう山肌は、わずかに赤みがかって い る 。 薩 摩 人 か ら 何 度 と な く 聞 い て い た 桜 島 が 、 想 像 以 上 に 大 き いこ と に 素 直 な 感 動 を 覚 え た 。 街道の景色にも、心憎いばかりの演出効果がある。 薩摩街道は鹿児島城下に入る手前で、台地上から蛇行しながら一気に下る。 ( ) 水上坂 みっかんざか というその急坂を下っていると、桜島の全容が見え隠れする。やがて坂 が緩やかになると、蛇行を繰り返していた街道も直線的になる。 この時点から桜島に向かって真っすぐ進む形となるのである。進んでいくにつれ、ただでさえ 大きな桜島が視界に収まりきれないほどに広がっていく。 (さすがは鹿児島ばい。こげん雄大な風景は日本のどこにもなか・・・) ここまでの道中、時々耳にする薩摩ことば以外に薩摩を実感することがなかっただけに、感動 が一気に込み上げてきた。国臣は、目頭が熱くなるのを感じた。 ( ) 甲突 こうつき 川にかかる西田橋を渡り、通行人に日高存龍院の邸を尋ねた。 高見馬場を右に折れ、再び甲突川に突き当たる。この橋のたもとに目的地はあった。存龍院は 突然の来客に、しかもそれが月照であることに驚いたが、丁重にもてなした。口には出さないが、 存龍院は月照が修験僧に扮して鹿児島にやって来た理由を察しかねているようだった。 梅田雲浜が捕縛されて二カ月あまりが経過するが、それ以降も続く世間の粛清のことを人々は 当世の年号を用いて、 142 月照 ―安政の大獄― と、呼びはじめている。 日本の最南端においても、この動向が伝わっていないはずはなかった。兎にも角にも、この夜 三人は久しぶりに夜具に包まれて眠った。 安息も束の間、翌朝は早くから動き出した。 薩摩の役人がいつ嗅ぎつけて踏み込んでくるか分からない。月照は支度を整え、国臣に告げた。 「西郷の家は五町ほどしか離れとらんそうや。わしは今から訪ねてくる。その間、他の同志とも 連絡がつかんか当たってもらえんやろか?」 「承知しました」 国臣は、とりあえず有村俊斎あてに書状を認めた。それを存龍院の家人に託すと、近所だとい う伊地知龍右衛門を訪ねることにした。 幸い伊地知は在宅だった。筑後小保で右門から聞いたように、伊地知は瀬高宿で右門と別れて 陸路南下し、五日前に鹿児島に戻ったばかりだという。 思えば奇遇の間柄である。 伊地知とは同年齢である。そして久留米の高山彦九郎の墓前に、はじめに石燈籠を寄進したの がこの男である。その対となるものを先日国臣は注文した。ここで二人が再びまみえたのは、彦 九郎が招いた縁のように感じられた。 143 月照 二人は早速薩摩の藩情を談じあった。 「藩内工作はどげんなっとる?藩庁は月照さまを守ってくれようか?」 国臣の問いかけに、伊地知は言葉を詰まらせた。 「そいがのぅ、藩庁の反応は思わしくなか・・・」 曇りきった表情は、状況が好ましくないことを如実に表した。 伊地知の話によれば、薩摩藩庁は目下、斉彬の異母弟である忠教(のちの久光)の子が十九歳 で 家 督 を 継 いだ ば か りで 、 幕 府 へ 恭 順 の 意 を 示 す の に忙 し い と い う 。た だ 、 家 督 は 相 続 し た が 、 幕府への届け出が済んでないため、まだ藩主の座には就いていない。折しも、新藩主がちょうど 申請の参勤途上にあるため、幕府の機嫌を損ねないよう神経をとがらせているという。 伊地知は、さらに続けた。 「近衛家と島津家が昵懇の間柄にあることは、国臣どんもご存じでしょう。斉彬公を助けるべく 奔走いただいた近衛家お抱えの月照さまを、薩摩は見殺しにできもはん」 「ごもっとも」 「 じ ゃ っ ど ん 、 天 下 の お 尋 ね 者 の 月 照 さ ま を 薩 摩が 匿 え ば 、 幕 府 は 新 藩 主 を 認 め な いば か り か 、 近衛家とともに厳罰に処しかねん。藩庁はそいを恐れとる」 「ふうむ」 国臣は、唇をかみしめた。 144 月照 月照の捕縛については、事が事だけに公家や大藩を巻き込む騒動になりかねない。 この難局にあたり、同志たちは斉興に働きかけているという。 斉彬と忠教の父であり、前々藩主に当たるが、斉興は若年藩主を補佐すべく江戸から帰国して い る 。 西 郷 もこ の 老 君 に 取 り 入 る べ く 、 先 に 下関 で 月 照 と 別 れ て 帰 国 途 上 の 斉 興 を 追 い か け た 。 追いつくには追いついたようだが、色良い反応はその後まだないという。 ひと通り情勢を聞くと、他の同志への連絡を託し、国臣は伊地知宅を後にした。 存龍院に戻ると、月照主従も西郷宅から帰っていた。 互いに持ち帰った情報を突き合わせて談じていたが、正午前に事態が急変した。突然二十名ほ どの役人が押し寄せてきて、 ―至急使者宿に移るように― と、命ぜられたのである。 導かれるまま国臣らは柳之辻の田原助次郎が営む「使者宿」に入った。そこの二階に部屋をあ てがわれたが、外出と通信のいっさいを禁じられた。軟禁状態に置かれたのである。 外部と隔離されてはどうしようもない。 それでも月照が西郷に、国臣が伊地知に面会を遂げている以上、一行が城下に入っていること は同志たちに知れ渡っているはずである。誰かがここを付きとめ、藩庁に掛けあって解放してく 145 月照 れるのを待つ以外になかった。 ところが、数日過ぎても何の音沙汰もない。 同志らを月照に近づかせないように、藩庁が使者宿の周辺を厳重に立ち入り規制していること は明らかだった。三人はやることもなく七日間を浪費した。 事態が動いたのは、十一月十五日の夜だった。 三人が寝静まったころ、一人の男がそっと使者宿を訪ねてきたのである。 その足音にいち早く気づいた国臣は、それが西郷吉兵衛であることを確認すると、そっと揺さ ぶって月照を起こした。月照と国臣は、西郷と対坐した。 国臣にとっては京の鍵屋以来、二ヶ月半ぶりにまみえる西郷である。 西郷は道中袴姿である。その落ち着いた様子から、藩庁の許可を得ている訪問であることがう かがえた。 「ようやく再会できましたな」 微笑みかける月照に、西郷は目礼で返した。 「藩庁の様子はいかがか?愚僧のために色々迷惑を掛けていましょう?」 だが、その問いかけにも西郷は言葉を発しようとしない。 月照ほどの高僧に話しかけられて無言を通せる人間など、滅多にいるものではない。 それでも、西郷は腕組みしたまま沈黙し続けている。表情らしい表情もなく、太い眉と大きな 146 月照 黒眼が下方を向いたまま固まっている。 「国臣はん、すまんが茶を所望できまへんやろか?」 月照の呼び掛けに、国臣はハッとした。 月照は、国臣が同席しては西郷が話しにくいのではないかと考え、それとなく合図を送ったの である。敏感に感じ取った国臣は、すぐに立ちあがった。 「お安い御用です。では御免」 と応じ、階下へと降りた。 炊事場に入るなり茶道具を物色し、湯を立てながら思った。 (月照さまと西郷どんの関係には並大抵でないもんがある。二人の間には、他人が入り込むこと のできない強固な信頼関係があるにちがいなか・・・) 二人に十分な時間を与えるべく、国臣はゆっくりと茶を点て階上へ戻った。 部屋に入るなり、西郷がいきなり言った。 「国臣どん、急なこつで申し訳なかじゃっどん、これから日向に向けて出発することになりもし た。すぐに支度してくれやんせ」 二人の間で何かしら話がついたようである。 日向に赴く目的が何なのか、国臣には知る由もない。だが、月照は既に立ちあがって、重助を 起こしにかかっている。国臣も手際よく支度を整え、四人そろって使者宿を出た。 147 月照 時刻は夜十時を回っている。鹿児島の街は静まりかえっている。 柳之辻の裏手はすぐ浜になっていた。 一角にかがり火が煌々と焚かれ、五十尺はあろうかという上荷船が闇に浮かんでいた。近づい てみると、それは屋形風に改修された舟だった。 その先は漆黒の海である。というより、漆黒の桜島といった方が正確かもしれない。海風が吹 きつけているが、それは冬の寒気を十分に含んでいた。 「阪口周右衛門にごわす。皆様のお供をさせていただきます」 舟の手前まで進んだところで、老練な男が出迎えた。藩庁から派遣された案内役のようである。 月照がこれに返礼した。 「御苦労をお掛けします。何とぞ宜しゅう」 一行は乗船した。 驚いたことに、船内には心づくしの重箱と酒が用意されていた。 国臣は、使者宿での西郷のただならぬ様子から胸騒ぎを覚えていたが、豪勢な饗応を目の当た りにし、ひとまず安堵した。 (このもてなしは、月照さまへの餞別だろうか・・・) 舟はここから大隅の福山浦を目指すという。阪口が右手を広げ、一同に着座を促した。 148 月照 「さァさァ、どうぞこれへ」 中は畳敷きとなっている。 上の間に、月照と西郷が対坐した。ふすまを取り払った次の間に国臣と重助が座わり、向かい あって阪口が座した。五人以外には舟子が数名乗船しているようである。 皆が座すと、西郷が改めてあいさつした。 「こん度はようこそ薩摩におじゃいやした。今宵は気の詰まる話は止めて、心ゆくまで酌み交わ しもんそ」 それから西郷は、使者宿の時とは人が変わったように饒舌になった。 月照、国臣、重助と順に酒を注いで回っては、重箱の郷土料理について細かく説明した。その 無邪気さというか、親しみやすさは薩摩人共通だが、西郷はけた外れに器が大きかった。形式や 礼節に囚われない人間的な大らかさが、この男からは溢れんばかりに伝わってくるのである。 「気分直しに、景色を御案内しもんそ」 ある程度酒が入ったところで、西郷は三人の客を外へと誘った。 舟は、板と障子で仕切られた屋形内を囲むようにへり伝いに歩けるようになっている。といっ ても、月明りの下では景色などあったものではない。 だが、西郷は まるでそこ に見えて い るかのように、錦江湾が 壮大に広がって いるさまを述 べ 、 北に天孫降臨の高千穂の峰、南に薩摩富士で知られる開聞岳を望める情景を語った。 149 月照 酒の力も働いて、それは国臣たちの想像力を大いにかき立てた。湾内を漂う寒風が、火照った 頬を心地いいほどに冷やした。 それからも饗宴は続いた。 中で話に花が咲いたと思えば、時折外に出て月や海を肴に杯を重ねた。宴は大いに盛り上がり、 笑い声や歓声が断続的に鳴り響いた。 「そうや国臣はん、笛を披露してもらえへんか?」 話の成り行きから、月照が唐突に提案した。 国臣は遠慮したが、たちまち他の人々も賛同するところとなった。断れない状況になると、国 臣も開き直って大風呂敷を広げた。久々の酒量にかなり酔っている。 「今宵は見事な月が出とりますゆえ、酔い覚ましに障子を開け、月の照る夜空を眺めながら吹い てみようと思いますが・・・」 「そりゃ名案にごわす。ぜひぜひ」 西郷が膝を打って応じた。 月 照 を 主 客 と す る 宴 に 、 こ れ に 優 る 演 出 は な い 。 国 臣 は 立 ち 上が る と 、 障 子 を い く つ か 開 け 、 月を望める位置を探した。そして腰を据えると、懐から笛を取り出し口元に当てた。 笛は、湾上を漂う冷気に乗って響いた。風が強すぎると鳴らないが、ほどよい冷気は響音を生 みやすいことをこの男は経験則で知っている。 150 月照 奏でながら、国臣は己の幸運に思いを馳せた。 薩摩への慕情を長年温めてきたが、こうして月照とともに入薩を果たし、今は薩摩領の中心で 漸斎形見の竜笛を吹いているのである。これほど幸せなことはないと思った。国臣は、続けざま に二曲奏でると、 「さァさァ、耳直し耳直し」 と再び酌み回って、酒宴はさらに続いた。 午前三時を過ぎると、ようやく船内は静まりかえった。 既に酒膳は下げられ、寝具が用意されている。次の間の片隅では二十を越えたばかりの重助が、 規則正しく寝息を立てている。阪口も柱にもたれて目を閉じている。月照と西郷は、先ほどから 再び二人で外に出ているようだった。 「あん辺りが竜ヶ水・・・島津家にとって由緒ある地にごわして・・・」 名所案内でもしているのか、西郷の声が一瞬聞こえただけで、話の内容までは分からない。 (二人で斉彬公の思い出でも語るのだろうか・・・) 国臣は、明日からの運命について考えた。 使者宿での西郷の様子と今宵の心づくしの宴から察するに、日向行きが困難なものであること は間違いない。 151 月照 (何であれ、ここまでよう来たもんばい。この上、日向まで足を延ばすことなど大したことなか。 明日は明日の風がきっと吹くだろう) 枕上でそんなことを思いつつうとうとしていると、突然外で大きな水音が鳴った。静寂の湾に 似つかわしくない大音である。次の瞬間、舟子の狂声が轟いた。 「大変だ!」 国臣の体は咄嗟に反応した。阪口も同時に飛び起き、ともに外に出た。 嫌な予感は的中した。 そこ に月照と西郷の姿はなく、後方の水しぶき に向かって舟子たちが必死に叫びあって い る 。 舟は帆を膨らませ、速度に乗っている。 「止めろ!舟を止めろ!急げ!」 国臣が叫んだ。 咄嗟に、阪口が雨避けの戸板をはずし、後方の水しぶきに向かって思い切り投げた。背後では 重助が狂ったように主の名を叫びはじめている。 阪口の投じた戸板が、一同の取るべき行動を決定づけた。 舟子たちはすぐに舵を一杯にきり、右に旋回しようと試みた。だが、帆が満風を受けているた め思うように旋回せず、戸板はみるみる遠ざかっていく。 次の瞬間、阪口が脇差しを抜いて帆を張っている左右の元綱を斬った。 152 月照 たちまち帆は暖簾のように垂れて速度が落ちた。それでも優に一町は進んでいて、戸板ははる か後方に見えない。ようやく舟が旋回しはじめると、国臣は方角を見失わないように視点を一定 に保ちながら、船尾から側面、舳先へと移動した。 「右だ!もう少し右!」 国臣の指示を頼みに、舟子たちは全力で櫓を漕いだ。 ほどなく波間に漂う戸板を発見したが、肝心の月照と西郷の姿が見当たらない。既にかなりの 時間を要してしまっている。国臣は、体中が凍りつく思いに襲われた。 「月照さま!月照さま!」 重助は、泣き崩れんばかりの声を上げている。 舟の前後左右に分かれ、それぞれ必死に首を動かして二人の姿を探した。 「あそこだ!」 舟子の一人が大声すると、皆がその方向に駆け寄った。舟を寄せるにつれ、塊の正体が明らか になってくる。 「一緒ばい!二人一緒におられる!」 国臣は叫びながら、その光景にわが目を疑った。 月照の左手と西郷の右手が肩を組むようにしっかりと抱きあっているのである。 大きな水音からして、二人がひと塊となって飛び込んだことは間違いない。それは、おそらく 153 月照 事故でないことを物語っている。だが、仮にそうだとしても、これほど長い時間水中で互いに離 れないことは、尋常の沙汰とは思えなかった。 すぐに舟を近づけて、二人の塊を手繰り寄せ一気に引き上げた。 そのまま中へ運んで畳の上に並べたが、二人とも全く息が途絶えてしまっている。肢体は冷え きっていて微温すらない。肌という肌から血色が消え、肉体が硬直していた。 「すぐに着替えさせよう」 「そいがよか。船頭、一番近か浜にすぐ向かってくれ!」 国臣と阪口は、月照と西郷の衣服を剥ぎながら応急処置を談じあった。 まず二人の体を寝具で拭い、自らの体温を含んだ衣服を脱いで着させた。重助と舟子らも加わ り、月照と西郷を順番に抱え上げては、逆さにして水を吐かせようとした。湯を沸かし、皆で体 をさすり続け、無我夢中で手当てを施した。 ( ) ほどなく舟は花倉 けくら という浜に着いた。 東の空がわずかに白みはじめている。薄明かりの下に数軒の漁師宅が見えたが、国臣と阪口は 舟を飛び下りるなり、それらの戸を叩いて回った。 「誤って人が海に落ちた。急ぎ火ば焚いてくれ!」 一軒の民家で火を起こしはじめると、徐々に村人が集まってきた。 国 臣 は 村 の 男 と 家 屋 の 雨 戸 を 外 し 、 こ れ に 月 照 と 西 郷 を 順 番 に 乗 せ て 舟 か ら 運 んだ 。 そ し て 、 154 月照 焚火のそばで二人をひたすら温めはじめた。重助が月照を、阪口が西郷の身体を温め続け、国臣 も両者の間で必死に動き続けた。 しばらくすると、西郷に蘇生の兆しが生じた。 かすかな呼吸が起き、わずかに血色が戻ったのである。取り囲んだ人々は歓喜の声を上げ、こ れに励まされて総がかりで月照の蘇生を試みた。だが、月照の身体はあいかわらず青白く硬直し たまま何の変化も見せない。 国臣は、全身全霊を傾けた。 医術の心得も多少あったので、思いつく限りの処置を試みた。民家から大がめを出してもらい、 中から火を焚いて月照の腹に当てたり、鼻下の縦みぞに灸治を施したりした。 だが、必死の介抱の甲斐なく、月照はついに蘇らなかった。 重助はその場に泣き崩れた。国臣も茫然と浜に立ちつくし、天を仰いだ。 先ほどまで海を照らしていた月が、いつのまにか落ちている。 月照最期の情景としては、あまりに舞台が調いすぎていた。暁の下はじめて目にする周囲の景 色と、すっかり忘れていた空気の冷たさに、新鮮な感覚を覚えた。 気がつくと、阪口がいつのまにか国臣の隣に歩み寄っていた。 無言のまま何かを手渡され、阪口は離れていった。ずぶ濡れの紙入れだった。 国臣は、直感的にそれが何であるかを悟った。 155 月照 船内で 二人の衣服を着替えさせた際、阪口が 西郷の懐に見つけたものにちが いない。国臣は 、 慎重にその紙を広げた。藍色の着物に染まり文字がにじんでいる。初句と終句は月照の筆跡だが、 中の句は西郷のものにちがいない。 曇りなき こころの月の さつま潟 捨て小舟 惜からん 風ふかばとて 道にこの身を 沖の波間に やがて入りぬる ふたつなき 波たたばとて 大君の ためにはなにか さつまの瀬戸に 身は沈むとも 歌意と定まった筆跡から、使者宿で国臣が席を外した際に記したものにちがいない。 だとすれば、はじめから入水するつもりで二人は乗船したことになる。彼らの言動すべては死 を覚悟したものだったことになり、思い返すだけで国臣の胸は裂けそうになった。 国臣と阪口は、事件の処置について話しあった。 月照は死んだが、西郷の容体が予断を許さない以上、一刻も早く藩庁に届け出て、医者に診て もらわなければならない。阪口がおもむろに口を開いた。 「こうなった以上、お話しもんそ。実は、筑前の捕吏が城下に入って目を光らせています。藩庁 156 月照 は月照さまの入国を表向き感知してないことにしとりますので、極秘に報じねばなりもはん」 「筑前の捕吏が?」 「いかにも。京の捕吏は肥後境に留まり、筑前の捕吏が代理で来たようにごわす」 阪口はそのまま漁師宅を借り、藩庁への報告書を作った。極秘の受け入れを願い出るべく、報 告書を村の漁師に託し、詳細な指示を与えて城下へ先発させた。それから出発までの間、西郷の 着物を乾かして再び着替えさせた。辞世もそっと懐に戻してやった。 一行は月照の遺骸といまだ意識の戻らない西郷を舟に乗せ、九時ごろ花倉の浜を発った。舟は 一時間ほどで鹿児島沿岸の防波堤に着き、まず阪口が下船した。 ほどなく阪口は数名の役人と医者、それに二つの棺をそろえて戻ってきた。 西郷の診断と月照の検死が済むと、二人は棺に入れられ町会所に運ばれた。 「今は捕吏の追及を避けるため、死んだとした方が西郷のためにごわす」 阪口が国臣の耳元でささやいた。 事件は極秘扱いにされ、国臣と重助も近くの民家に隔離された。 二人はそこで藩庁の沙汰を待ったが、昼ごろになって罵声の混じった男たちの叫び声を聞いた。 (もしや同志ではあるまいか?) 国臣は、直感的にそう思った。 噂を聞きつけ、同志たちが西郷の安否確認にやって来たにちがいない。 157 月照 だが、西郷を死んだものと処理する藩庁が面会を許すはずがない。そのため言い争いが起きて いるにちがいなかった。国臣は、何とかして同志たちに真相を知らせたかったが、隔離された状 況ではどうすることもできなかった。 夕方になると、国臣と重助にも沙汰が下った。 月照を弔いたいと嘆願していたのが、ようやく認められたのである。ひとまず月照の遺骸とと もに南林禅寺に移るように、という内容だった。 「西郷どんの容体は、その後いかがにござる?」 国臣の問いに、対応の役人は返した。 「昼すぎに親族に引き取られましたゆえ、自宅で静養していましょう」 ひとまず胸をなで下ろしたが、依然として西郷の回復具合が分からない。 も し 西 郷 の 意 識 が 戻 っ て いれ ば 、 す べ て の 経 緯 を 自 ら 語 る だ ろ う が 、 も し 戻 っ て い な け れ ば 、 同志たちはいったい何が起きたのか見当もつかないはずである。 阪口周右衛門がすべてを目撃しているが、藩庁が派遣した役人であり、同志とつながっている 様子はない。である以上、入水始末を伝えられるのは自分だけではないか、と国臣は思った。 国臣と重助は、その日のうちに南林禅寺へ移った。 そして十七日の朝、寺の一角にある老松の下に月照を葬った。 埋 葬 に は 国 臣 と 重 助 、 阪 口 ら 藩 庁 の 役 人、 使 者 宿 の 主 人、 町年 寄役な どが 参列した 。藩 庁は 、 158 月照 ―後日公儀による検死の可能性がある― という理由から、月照を荼毘に附すことを許さなかった。 葬儀が終わると、国臣と重助は原田郷兵衛が営む「飛脚宿」に移された。 ここは一昨晩まで滞在した使者宿と比べ、粗末な一般宿である。ここでも監視下に置かれ、外 部との通信いっさいを禁じられた。 ほどなく薩摩藩庁が二人の身柄について筑前の捕吏と交渉中であることが伝えられた。 これは、国臣にとって分が悪かった。 自分の素性について、京の目明しや筑前の捕吏がどこまでつかんでいるか知る由もない。だが、 月照事件の生き証人であり、入薩を手助けしている以上、何らかの罪に問われることを覚悟しな ければならなかった。 (下手すれば、京か江戸に送られ打ち首か・・・) 最悪の結末も覚悟した国臣だったが、もたらされた交渉結果は意外なものだった。 ―下男は月照死去の証人として連行するが、弟子は途中からの同行にすぎず捨て置く― と、決まったという。 筑前の捕吏は、弟子が福岡人であることを知ってか知らずか、放免することにしたらしい。国 臣は、九死に一生を得た思いだったが、一方で重助の身を案じずにはいられなかった。 大庭村より鹿児島まで七十里におよんで苦楽を分かち、月照の最期を並んで見届けた間柄であ 159 月照 我身の上は 思はねど る。重助との別れは胸に迫るものがあった。重助と過ごす最後の晩、国臣は歌を贈った。 捨てはてし 心にかかる 君の行末 ちなみに、重助はこの後京で獄につながれることになるが、やがて解放され、清水寺のそばで 茶屋を営みながら月照と弟信海両上人の墓を守り続けることになる。そんな重助に、清水寺は永 代にわたって茶店を営むことを許し、「忠僕茶屋」が現代まで続いている。 十九日の朝、重助の身柄は引き取られていった。 国臣一人が残った。 その国臣は同志たちと連絡を取る方法を模索し続けていた。何とか伊地知や有村にこちらの居 場所を知らせることができないか思案しているうちに、ついに国臣に対しても、 ―速やかに国外に立ち去るように― との命が伝えられた。 国臣としては、このまま同志と連絡を取らずに易々と薩摩を去る訳にはいかない。翌朝もまだ 居座っている国臣に対し、藩庁はついに人数を差し向けてきた。 「即刻城下を出立せよ。大口街道を取って退去すべし」 わざわざ随行の護卒を付け、これから国境まで見送るという。逃亡の機会を与えることなく国 160 月照 外送還するという強制処置に、ただ従うしかなかった。 とはいえ、そこは肝の据わった男である。 「ただ今朝食を摂っておる。しばし待たれよ」 と、堂々と返した。 藩庁の役人を待たせることなど何とも思ってない。十分時間を掛けて朝食を済ますと、旅支度 を調えて外に出た。 「なんじゃ、その格好は?」 国臣の身なりを見るなり、役人たちは腰を抜かした。 烏帽子に平安風の衣と義経袴をまとった出で立ちである。荷をたすき掛けにくくり、手には笛 を携えている。腰には藻平から借りた通常の太刀があるが、わざわざ下げ緒を付けて佩き姿にし ている。十八番のお太刀組姿である。 国臣は、涼しい顔をして護卒に向かって答えた。 「小生の郷国では故実が盛んである。古式にのっとり出立するゆえ、了承願いたい」 徳川二百五十年の治世にあって、古式の習わしなど流行っているはずがない。でまかせにすぎ なかったが、国臣は構わず笛を鳴らしはじめた。 辺りは、鹿児島城下で最もにぎわう一角である。 たちまち人だかりが出来て、珍奇な視線が奏者に浴びせられた。 161 月照 護 卒 は 渋 りき っ た 表 情 を 浮 か べ て い る が 、 国 臣 を 退 去 さ せ るこ と を 第 一 に 心 得 て い る ら し く 、 ゆっくり歩く奏者に辛抱強く付きあっている。入り組んだ町家を抜けると、重臣屋敷が両脇を固 める大路に出る。そこを過ぎるまで、国臣は笛を吹き続けた。 城下の東端まで来ると、街道は上り坂となる。 右側の木々の隙間には、四日前に月照と西郷が入水した錦江湾が広がる。そのまま四里ほど進 ( ) むと、今度は下り坂となる。白銀坂 しらかねざか というその急坂を下りきったところに、重富 という駅があった。 ここまで来ると、周囲の風景はすっかり牧歌的に変わる。鹿児島城下では空を覆わんばかりに 大きかった桜島も、ここから見ると視界にすっぽり収まるほど小さくなっている。この晩、国臣 と護卒は重富に宿した。 翌日未明、突然階下でドタドタと鳴った足音で国臣は目を覚ました。 数人が踏みこんできた騒々しい音だが、何かを物色しているような無遠慮な足音は、尋常のも のとは思えなかった。 (盗賊か・・・いや刺客かもしれん・・・) 国臣は跳ね起きると、枕を蹴って刀をたぐり寄せた。 階段を駆け上がってきた次の瞬間、ふすまが勢いよく開き、二つの影が現れた。 162 月照 「国臣どんにごわすか?」 いきなり名指しされ、国臣は硬直した。 無言を通すかどうか迷ったが、相手が自分の名を知る以上、それが得かどうか分からない。と りあえず最小限の返事に留めた。 「人違いにござる」 その声に一方の影が反応した。緩みきった声だった。 「国臣どん、おいにごわず。有村俊斎にごわす」 「有村どん?本当に有村どんか?」 有村は、国臣に近づいて握手を求めた。そして振り返ると、もう一つの影を紹介した。 「大久保正助どんです」 「はじめまして。大久保にごわす」 「そなたが大久保どんか?」 国臣は、大久保のことを何度か耳にしたことがある。 福岡で薩摩の四人から、京の鍵屋で西郷や伊地知たちから、鹿児島城下の同志として折々に聞 いた名である。体格が良く顎が張った顔つきは、相応の人物であることを匂わせている。西郷の 三つ下と記憶しているから、国臣より二歳若い。 国臣は、大久保に話しかけようとしたが思い止まった。 163 月照 隣室で護卒が聞いていると思ったからである。国臣が隣室に目配せすると、二人はすぐに護卒 に直談判して、逃亡しないことを条件に面談する了解を得た。 護卒が階下に下りると、大久保と有村はいきなり頭を下げた。 「同志を代表し、まずは国臣どんに御礼を申さねばなりもはん。こん度は西郷さァの命を助けて いただき、心より感謝いたします」 「いや、そんなことより西郷どんの容体は?」 ずっと気になっていたことである。 「命に別状はありもはん。じゃっどん、いまだ意識がおぼろげで言語も不明瞭なままです。そい もあって、入水の詳細を国臣どんにお尋ねしたく、追いかけてきた次第にごわす」 大久保はここまでのいきさつを語った。 それによれば、西郷が自宅に戻ってから同志らは交代で看病に当たり、同時に手分けして国臣 の居所を探していたという。すると昨日の朝になって、飛脚宿から神主のような格好をした人が 笛を吹きながら出立したという奇妙な噂を耳にした。集まって協議したところ、 「国臣どんにちがいなか。向かった方角は大口筋、ならば今晩は重富に泊まるはず・・・」 と目星をつけ、夜を徹して駆けてきたという。 あの白銀坂を月明りのみを頼りに駆け下り、旅宿という旅宿をを片っ端から叩いて自分を探し たという二人に、国臣は大きな感動を覚えた。 164 月照 言われてみれば、二人の呼吸はまだかすかに乱れている。朝日が差し込みはじめた中、二人の 足元に目をやれば、袴が汚れているのが分かる。 (これほどまでして、俺に会いに来てくれたのか・・・) 国臣は、温かい気持ちに包まれた。同時に、己の幸運を謝した。 ―異装姿の出立が同志の耳目に触れるかもしれん― と考えた行動が、見事狙いどおりとなったのである。 早速二人の求めに応じ、国臣は入水のいきさつを語った。 国臣が語る現場の出来事と、大久保らが補足する藩の背景や動向を合わせることで、入水事件 の全貌をようやく理解することができた。 濃 密な 会 談 は あ っ と い う 間 に 時 間 を 費 や し 、 護 卒 と 約束 し た 刻 限 と な っ た 。 大 久 保 と 有 村 は 、 出発を促す護卒に向かって 「こん人は薩摩の恩人にごわす。丁重に送ってやんせ」 と、頭を垂れて頼んだ。 そして、同志一同の餞別として金五両を国臣に贈った。 金一両もあれば、福岡までの帰路、上等な旅籠を泊まり継いでもおつりが戻ってくるほどの額 である。月照の墓に石燈籠を寄進したことで、国臣の所持金は底をついていた。帰りは野宿も覚 悟していただけに、この志は骨身にしみて有り難かった。 165 月照 再会を期して二人と固い握手を交わし、国臣は宿を発した。 振り返るたび、大久保と有村は大きく手を振った。ついに姿が見えなくなるまで二人はずっと 見送ったが、その背後に白銀坂が広がる光景が印象的だった。坂の向こうで起きた出来事が、走 馬灯のように脳裏をよぎった。 (きっとまた戻ってこよう) 白銀坂の向こうの空を見つめながら、国臣は心の中で誓った。 ( ) 二十三日、国臣は小川内 こがわうち の関を抜け、薩摩領を出た。 そこから水俣に出て、八代海沿いに進み、二十八日に熊本城下に着いた。山形典次郎宅に二日 滞在し、そこから大久保と有村あてに礼状を送った。 熊本を三十日に発つと、十二月一日に筑後、三日に筑前に入った。 情報収集を図るべく馬市の岡部諶助宅に泊し、続いて筒井村の洋中藻平宅に進んだ。筒井村は、 太宰府と福岡のほぼ中間に位置する。 国臣は、月照の入水事件を藻平に報告した。 藻平は沈痛な面持ちでそれを聞いた。そのまま藻平宅に泊まったが、ゆっくりする暇などなか った。月照が死に、筑前の捕吏が帰藩した今、幕府や藩庁の捜索が月照逃亡に関わった薩摩の四 人や国臣にいつまたおよぶか分からないのである。 166 月照 五日朝、出発しようとする国臣に藻平が思い出したように言った。 「そういえば、そちの海老鞘巻の佩刀を預かっとるままじゃ。さすがにおいが佩く訳にはいかん やろ?持っていかんのか?」 木強漢の藻平の佩き姿を想像し、国臣は吹き出しそうになった。 「 実 は 、 近 々 京 に 上ろ う と 考え と り ます 。 藻 平 さ ァ に 言 わ れ た と お り 目立 つ訳 には い か ん の で 、 しばらく預かっといてもらえませんか?」 「構わんが、京へ上るんか?」 「はい」 「こん時期に危険すぎんか?」 「重々承知しとります。ですが、わが身に何か起きた際には近衛家に知らせてほしいと、月照さ まから直々に頼まれとりましたので・・・」 「そうか・・・ならばやむを得まい。気をつけて行けよ」 藻平は、国臣の肩をポンと叩いて送り出した。 国臣は、続いて臼井村の左門宅に向かった。 月照入水の詳細を左門にも報じ、近々京に上るつもりであると告げた。それを聞くなり、左門 は保管していた一通の書簡を取り出してきた。 「近衛公を訪ねるなら、こいば持ってけ。月照さまが高橋屋に残した両掛に入っとったもんじゃ。 167 月照 目明しに押収されんように、おいがそっと抜き取っておいた。こいがあれば、近衛家の信用もす ぐに得られよう」 「なるほど、確かに」 目を通しながら、国臣はそれが月照と島津家重臣の間で交わされた書簡であることを確認した。 一たび幕府の手に渡れば、密勅降下にまつわる近衛家と薩摩藩の結びつきを裏付ける決定的な証 拠文書となるものである。 翌朝、国臣は博多大浜へ向かった。 薩摩の四人の中で、右門は月照と最も関係の深かった人である。 京から福岡まで同道し、福博に来てからも自宅から高橋屋、楠屋と潜伏先を世話し、最後は筑 後小保浦まで来て月照の舟出を見送った。それだけに国臣は二日間右門宅に留まり、入薩と入水 事件のいきさつを報告した。 七日夕刻、国臣は五十日ぶりに実家に戻った。 と い っ て も 、 た っ た 一 晩だ け で あ る 。 父 吉 郎 右 衛 門 には 長 期 の 留 守 を 短 く 詫 び た だ け だ っ た 。 「もっと、とと様とお話しすることがありましょうに」 母イネは家庭の雰囲気を気遣ってか、そうつぶやいた。 「親父と息子はもともと口数の少なかもんたい。それより、かか様に是非とも頼まれてもらいた かことがあるとやけど・・・」 168 月照 「何ね?」 次郎は、母に月照のことを順序立てて話した。 国臣は、実家にあっては次郎である。その次郎が天下のお尋ね者だった月照のことを母に話す のには理由があった。 一つには、放蕩息子がどこで何をしていたか報じる意味もあったが、何より月照の供養を母に 頼みたかったからである。曲がったことには厳しい母だが、心優しい母ならきっと息子の心情を 汲みとってくれるにちがいないと思った。 次郎は、月照との出会いから道中の出来事、人柄、志操に至るまでを細かく語った。 イネははじめこそ驚いた表情を見せたが、最後は息子の話に心を打たれたのか、両目に涙をた たえた。次郎は、母の前で半紙に記した。 静渓院鍛水清月比丘 安政五戊午年十一月十六日滅 イネは、その戒名と忌日をうやうやしく受け取った。 「明朝発つとね?」 「ああ」 「次郎、あんたはあんたの生き方ば貫きんしゃい。中途半端はいかん。月照さまのことは母がし っかり引き受けちゃるけん、あんたは思う存分、自分の道ば進みなさい」 169 月照 「かか様、有難う。どうか頼みます」 次郎は、母に頭が上がらなかった。言葉になったのはそれだけだった。 「今度はいつ戻って来るとね?」 「何カ月か後かもしれん 」 「たまには便りば寄こしんしゃい」 母は、次郎に行くなとは言わない。いつまでに帰れとも、危ないことに首を突っ込むなとも言 わない。ただ息子の行動を尊重し、陰でそれを応援してくれる。そんな母の優しさが次郎には痛 いほど身にしみた。 十二月八日の早朝、国臣は地行三番町を出た。 目指すは薩摩の四人の最後の一人、大庭村の竹内五百津である。月照の死を見届けた者として、 薩摩の四人に自分の言葉で報じることを、国臣は己の責務と捉えた。 目的地も、道筋も、十月中旬の時と同じである。ちがいがあるとすれば、あの時は月照を追い かける出発だった。今回はその死を報じる出発である。 五百津宅に着くと、小保を出航して以来の出来事と入水事件を再び報じた。五百津は、 「ここ大庭村で二泊、久留米で一泊、小保で七泊、併せて十日ほどだったが、志操堅固な御僧で あった・・・」 170 月照 と、しみじみと漏らした。 そのまま二人で月照供養の酒を酌み交わした。 五百津は小柄だが、どこか人間心理に卓越したところがある。このため会話が進むと、人間の 感情や哀楽、思考、運命などについて追究することがあった。国臣も、五百津とは国事を論じる だけでなく人間精神を談じることが面白かった。 「そういえば、帰路は大口筋を取りましたので加治木を通りました。五百津さァと藻平さァの故 郷はよかとこでした」 「のどかだったろう?」 「ええ、まあ」 国臣は、返事に窮した。確かに、のどかすぎるほどのどかだった印象がある。だが、単に辺鄙 なだけではなかった。 南に円形の錦江湾を抱き、北にシラス台地の平行線を見上げる情景は、どこか原始的というか、 人間の原点のようなものを感じさせた。円形の湾の中心に座る桜島と、台地の上に屹立する高千 穂峰がそこに人間の祈りというか、神々しさを添えていた。 国臣は、その情景を思い起こした。 「あの土地が五百津さァの精神と藻平さァの武骨を育んだ訳ですね?」 「知ったようなことを言うわい」 171 月照 「何となくそげん思ったまでです」 翌九日は、秋月に寄って坂田家に泊まった。ここでも月照を知る恩師に入水事件を報じた。 ( ) ( ) 秋月を発すると、涙坂 なみだざか から冷水 ひやみず 峠に抜け、長崎街道に出た。 いよいよ京を目指す旅路である。途中、遠賀の郡役所に兄の都甲小仲太を訪ね、下関竹崎の白 石正一郎邸で月照の入水を報じた以外は、ひたすら上洛を急いだ。 172 変 身 変身 十二月下旬、淀川の便船に乗り合わせた医者一行に紛れ込んで、国臣は大獄の粛清下にある洛 中に潜入した。 早速近衛家や清水寺を訪ねようとしたが、警備が厳重で近づくことができない。 仕方なく何人かの知人に接触しようとしたが、皆幕府の嫌疑を恐れて堅く門を閉ざしたままで、 思うように連絡できなかった。 国臣は、出直さざるを得なかった。 正月になれば警戒も緩むだろうと考え、いったん京を離れることにした。 はじめに、拘束中の梅田雲浜の情報がないかと、雲浜自らが紹介してくれた山口薫次郎を洛外 の川嶋村に訪ねた。そこから山崎に進み、楠公父子訣別の桜井駅を訪ね、石清水八幡宮を詣でた。 さらに河内に廻って小楠公の墓を参り、紀州に下って湯浅浦まで足を延ばした。 わざわざ湯浅浦に赴いたのには理由がある。海洋防備視察のためだった。 ペルリが浦賀に来て、はや五年半になる。 幕府が異国の開港圧力に押され続ける中、いつ異国船が皇城の地を犯さないとも限らない。 その際、防衛線となるのが大坂湾であり、その入り口に当たる紀州と阿波の間に砲台を築く必 要性を国臣はずっと感じていた。その要衝地を自らの目で確認しようと思ったのである。 ( ) そして年が改まると、再び京を目指し、今出川の左大臣近衛忠煕 ただひろ 邸に夜陰に紛れて 転がり込んだのが、正月八日のことだった。 174 変身 国臣は、近衛公の侍女に面会し、月照の遺品とともに入水始末記を献じた。 そこで、近衛家の老女村岡と月照の弟信海が三日前に幕府に拘束されたばかりであることを知 った。近衛公への拝謁は叶わなかったが、このような困難な時期にわざわざ月照の最期を報じて くれたのは殊勝と、わざわざ感状を賜った。 洛中を後にすると、川嶋村の山口薫次郎を再訪した。驚いたのは山口である。 「平野はん、それは忍びでもようやらん離れ業やわ。あの警戒の中、ほんまに近衛家に忍びこみ はったとは・・・」 「野良猫をまねて塀をよじ登ったまでです」 さらっと言ってのける国臣を、山口は珍奇の目で見つめた。 「それで、これからどないしなはるつもりで?」 「筑前に戻ってもどのみちお尋ね者ですし、他に行く当てもないので、とりあえず因州か但州の 勤皇家でも訪ねようかと思うとります」 「それは止めといた方がええ。この時勢どこの藩も一緒ですやろ?」 山口の忠告は正論だった。 粛清下の時勢にあっては、たとえ勤皇の噂が聞こえる地方に赴いたとしても、白昼堂々と同志 を訪ね回ることはまず不可能と考えた方がいい。 「いっそ、備中の三宅定太郎はんという商家のとこに世話になったらどないでっしゃろ?」 175 変身 薦められた名に、国臣は敏感に反応した。 「その方なら雲浜先生の御宅で紹介され、お会いしたことがあります」 そういう流れで、国臣は備中連島に向かうことになった。 ( ) 便船で播磨灘を過ぎ、四国が接近するところに鷲羽山 わしゅうざん という景勝地がある。そ の先に下津井の港があった。そこで舟を下り、四里先の連島を目指した。 国臣の容姿は町人風に変じている。 総髪はきれいに剃り落とされ、通常の銀杏髷になっている。風呂敷包みを背負っていて、どこ からみても出張中の商人にしか見えない。 三宅の商家に着いてあいさつすると、三宅は雲浜が結びつけた縁と国臣の来訪を喜んだ。 三宅定太郎は、備中に代々続く富家の生まれである。 国臣よりも十歳年長である。山口から聞いた話では、廻船問屋と各種販売店を営むほか、六十 余町もの田畑を有する。学問を好み、時勢を憂う心が強く、勤皇の志も旺盛である。雲浜と義兄 弟の契りを結んでいるため、雲浜の捕縛後に偵吏が三宅の商家にも来て尋問を受けたという。引 責は免れたが、厳重注意を受けたという。 国臣は、山口の紹介状を差し出し、来訪の趣を述べた。 昨 秋の 一別 以 来 、 月 照 の 入 薩 に 同 行し た こ と 、 入 水 始 末を 近衛 家 に報 じ た こ と な ど を 話し た 。 176 変身 三宅は、勤皇活動が困難な時期であることをすぐに理解し、国臣の受け入れを快諾した。そし て国臣の容姿を改めて見回すと、感心してつぶやいた。 「それにしても、見事な変わりようですな。この前お会いした時とはまるで別人だ。どうみても 商家の旦那にしか見えませんで。平野はんは、ほんま不思議な方ですな」 国臣は、気恥かしかった。 「それが久々の月代だけに、頭がスゥスゥしていけません」 三宅はどっと笑った。そして、大きくうなずいた。 「いや、ご立派ご立派。では、平野はんの度胸を見込んで、ひとつ鉄物店の番頭を引き受けても らえませんか?」 「鉄物店ですか?」 ( ) 「そうです。この先に高梁 たかはし 川があって、その向こうが玉島の湊です。そこの支店の番 頭になっていただくというのはどうでしょう?」 「光栄な話ですが、私に務まりましょうか?」 「大丈夫。平野はんなら三日もあれば、ひと通り仕事は覚えられましょう」 翌日、国臣は玉島支店へ案内された。 早速そこに住み込み、鉄物店の仕事を覚えることになった。 177 変身 ここは砂鉄で作られる金物を取り扱う店で、とりわけ備中鍬が主商品である。近隣や出入りの 商家にも新任のあいさつを入れ、表向きは三宅の遠戚ということにして、言語風俗のちがいをご まかした。 仮宿にはちがいないが、国臣は久々に定住地を得ることができた。思えばこの半年、筑前から 京、京から薩摩、再び筑前から京、紀州、備中と絶えず動きっぱなしだった。 人間誰しも、時に休息を要するものである。 ところが、国臣に関してはどうやらこれは当てはまりそうもなかった。わずか数日後には、新 規の交易案を三宅に持ちかけていた。 「ううむ、それは何とも壮大な案や。薩摩、長州、備中を結んで産物交易を図ろうという訳か・・・」 真顔となった三宅に、国臣は力説した。 「そうです。下関は西国交易の要地です。そこには高崎善兵衛という薩摩の苫船役が常駐しとり ます。博多の工藤左門は、その高崎と竹崎の白石正一郎とともに薩長交易を進めています。白石 正一郎は昨秋鹿児島にも出張し、本案について藩庁と直に協議しています」 「交易の中身は?」 「薩摩からは染料の山藍や煙草の類、長州からは米や大豆、綿、昆布といったところです。両藩 は担当を下関に置き、これを推進していく方針と見受けます」 三宅は、腕組みして考え込んだ。 178 変身 大藩の公用交易となれば、天下の相場にも影響を与えかねない機密情報である。それを面前の 素浪人が論じているのである。 国臣も、論じながら己の経験と見識がつながっていく手応えを感じていた。 勤皇活動に没頭するうちに、いつのまにか人脈や知識が広がっているのである。これらを実益 で結びつけようという交易案に抑えがたい興奮を覚えた。国臣は、畳みかけて言った。 「これに筑前を加えれば、一層の効果が出ましょう。筑前は良質な陶器や薬、塩を産します。運 搬には私の知人で、宗像郡で廻船問屋を営む佐藤大作が適任でしょう」 「大したもんや。平野はん、あんたは身なりだけやない。第一級の商人が務まりまっせ。私もこ の案を一つ真剣に検討してみましょう」 三宅は、満面の笑みで国臣の着想をほめ称えた。 数日後、国臣は商船で下関に向かった。 勤皇浪士が瀬戸内の豪商を後ろ盾とし、西国雄藩を相手に商計を企てるという前代未聞の用命 を帯びている。二月二日に下関竹崎に着くと、そのまま白石正一郎邸に六日間滞在した。 両門の紹介を受け、ひと月前にはじめて白石邸に泊まった際は、一晩だったこともあって月照 入水の始末を報じただけだった。月照が九州へ下る際にここに宿し、その後京の目明しが追って きたことを右門に急書で知らせた経緯があったためである。 179 変身 だが、今回は事情も身なりもちがう。 国臣は、産物交易の可能性について白石とじっくり話しあった。 白石正一郎は、下関西郊の竹崎で廻船業を営む。備中の三宅と同業であるが、下関は西廻り航 路隋一の港であり、規模が格段に大きい。 正一郎は、文化九年生まれの四十八歳である。温厚で高潔だが、中身は情熱的で、義侠心と勤 皇心にあふれている。高名な鈴木重胤に付いて国学を学んだこともあり、左門や右門とも親交が ( ) 深い。正一郎には国臣と同じ齢の弟廉作 れんさく がいるが、折しも廉作は交易計画を詰めるべ く薩摩へ出張中だった。 国臣は、白石との相談をひと通り終えると、八日に福岡へ向かった。 薩摩の四人に対する藩庁のその後の処分が気になっていたからである。 だが、夜陰に紛れてやって来た国臣の心配をよそに、右門は笑いをこらえて国臣の頭を差した。 「そん頭はどうした?」 まだどこか青白さの残る国臣の月代姿に、失笑している。 「そげん笑わんで下さい。実は今、備中連島の三宅定太郎という商家に世話になり、玉島湊で鉄 物店の番頭をやっとります」 「そちが鉄物店の番頭を?」 「へい」 180 変身 国 臣 の 茶 目 っ け に は 慣 れ て い る は ず の 右 門 だ が 、 そ れ が 本 当 な の か冗 談 な の か 判 断 が つ か ず 、 困惑の表情を浮かべている。 もともと国臣を梅田雲浜に引き合わせたのは右門である。 だが、雲浜と三宅のつながりを右門は知らない。どうあれ、国臣が商人となって瀬戸内の商家 に身を寄せているなど、言われてすぐに信じられる話ではない。 「 い つ も お 太 刀 組 の 格 好 を し と っ た お 前 が 、 小 保で 見 た 時 は 山 伏 姿 、 今 は 町 人 姿 に 変 わ っ と る 。 全く変幻自在なやつだ。いったいどれが本当の姿か、分からんくなってきたぞ」 「どれも正真正銘の勤皇浪士です」 澄まして答える国臣を、右門はまともに取り合おうとしなかった。 それはそうと、ずっと気になっていた薩摩の四人への処分について国臣は尋ねた。右門の話に よれば、月照事件からほどなくして藩庁は、 ―月照を庇護したことを看過する訳にはいかぬ― と、厳罰に処す方針を言い渡したという。 具体的には四人を島流しにするもので、右門を姫島に、左門を玄海島に、藻平を大島に、五百 津を相 島に分け 、 近 いうち に移す 予定だ と いう 。とは いえ 、居宅や 給俸 米は 変わ らず与え られ 、 妻子の同居も許されるというから、処分は軽微といっていい。「厳罰に処す」という表現は、む しろ幕府に対する体裁のようだった。 181 変身 それから半年間、国臣は廻船問屋の助手として東奔西走の日々を送った。 綿や鉄の見本を携え西航しては、薩摩産の藍玉を持ち帰ったり、備中周辺の染料家と商談を重 ねたりした。 ( ) ある日、国臣は出張で玉島から十里ほど東の備前長船 おさふね 地方に足を延ばした。 山陽道沿いのこの地は、国臣にとって特別な場所である。二十一歳の時、江戸赴任から帰郷す る折に立ち寄って以来、十一年ぶりの訪問である。近ごろは瀬戸内の便船がずいぶん利用しやす くなり、山陽道を歩く機会が減った背景がある。 特別な感情を抱かせる理由は、この土地の名称にある。 ―福岡― 黒田如水と長政の親子が、この名称を筑前にもたらしたことは言うまでもない。 その地名は、草が江を大濠に改良して築城された城名となり、博多の西に創られた城下町名と なった。そればかりか、戸畑、若松から飯塚、朝倉、志摩にいたる筑前五十二万石の拠点名称と なった。今日、「福岡」の名称の下に暮らす人々がいかに多いかを考えただけで、胸に迫るもの がある。 その原点が、眼前にたたずむ小集落なのである。 国臣は、吉井川の土手に上って一帯を見渡した。 182 変身 鎌倉時代ににぎわったという福岡の市は、今となっては見る影もない。それでも、整然と区画 された街路や商家の邸宅には相応の風格が残っていて、昔の栄華を彷彿させるものがある。その 風景をじっくり眺めながら、国臣は悠久の時空のつながりを感じた。 さ て 、 交 易 計 画 を 進 め て いた 国 臣 た ち だ っ た が 、 七 月 ご ろ か ら 雲 行 き が 怪 し く な り は じ め た 。 染料となる薩摩産の山藍を綿産地の備前に持ち込んで分析したところ、品質に問題があること が発覚したのである。 山藍の栽培は 良好なのだが、 種子が粗悪だ と分かった 。改善を 施そうと動き 出したその矢 先 、 今度は技術顧問を担っていた地元の染料熟練者がコレラに罹り急死してしまった。 事態を打開するため、国臣は七月十七日に下関に赴き、白石と協議した。 悪いことは重なるものである。 頭の痛いことに、薩摩産山藍を優先確保する目処が立たなくなったという情報が苫船役の高崎 善兵衛からもたらされた。新規の売り先として備前は未知数であり、着実な需要が見込める既存 の顧客に原料を回したいと、生産者が主張しているという。 国臣は、左門と打開策を相談すべく、白石廉作とともに福岡に赴いた。 それから一カ月ほど、下関と博多間にあって山藍の仕入れ先をいくつか検討してみたが、条件 のあう卸元を見つけることはできなかった。 (こうなれば備前の需要を掘り起こし、購買力をもって薩摩産を再交渉するしかなか・・・) 183 変身 八月二十四日、国臣は下関を発ち備中に戻った。 ところが、戻って数日後、国臣は突然発病した。 伝染病の疑いがあった。とりわけ昨夏からコレラが猛威をふるっている。 コレラは外国貿易の副産物ともいわれ、長崎から広まったとも、東海道から広まったとも噂さ れる。朝元気だった人間が夕方にはころりと死ぬので、俗に「コロリ」と呼ばれる。江戸では二 万余、全国では十万以上の人間が既に病死したと伝えられている。風評被害により、全国的に漁 師や魚屋の廃業が相次ぎ、卵や野菜の相場が高騰し、棺桶屋が大繁盛しているという。 (俺もこのままコロリと死ぬとやろうか?であれば、勤皇と討幕に目覚めた俺の生涯はいったい 何やったとやろうか・・・) 国臣は、高熱にうなされ続けた。 三宅や商家の人々も、コロリと疑って手をこまねいていたが、数日過ぎても国臣の熱が一向に 下がらないのを見て、 「コロリとは症状がちがうんやなかろか?」 と、医師や看護人をあてがった。 その甲斐あってか、十日ほど生死をさまよった後、国臣の容体はやっと峠を越した。 ところが、復調しはじめた国臣の元に、今度は信じられない悲報が飛び込んできた。 三宅が大獄の捕縛者について最新情報を入手してきたのである。それは驚愕の内容だった。 184 変身 水戸藩の家老安島帯刀が切腹を命じられたという。そればかりか、同藩の奥右筆頭取や京都留 守居役も死罪、前藩主斉昭も永蟄居になったという。密勅降下で幕府の顔に泥を塗った水戸藩に、 厳罰が下されたのである。ただそれだけでなく、そこに ―九月十四日、梅田雲浜が獄死した― という凶報が混じっていた。 詳しいことは何も分からない。ただそれだけである。 国臣と三宅は、事態が収まれば雲浜は釈放されると信じていただけに、この悲報に打ちひしが れた。義兄弟を喪った三宅の悲しみは、察するに耐えられないものがあった。 大老井伊の弾圧は留まるところを知らない。 今回の処罰はまだ見せしめにすぎない。国臣が月照入水を報じた左大臣近衛忠煕や右大臣鷹司 ( ) ( 輔 煕 す け ひ ろ も 辞 官 落飾 と な る 見 込 み だ と い う 。 一 橋 派 の 大 名 も 蟄 居 や 急 度 慎 き っ と つ つ し み を強いられている。幕閣でも、外国奉行や作事奉行、軍艦奉行を歴任した岩瀬忠震 ただなり ) ( ) ( ) や永井尚志 なおゆき など、先に老中阿部正弘に抜擢された人々が罷免されたという。 (いくら何でも無茶苦茶ばい。井伊は日本をつぶす気か?) 抑えようのない怒りが、病床の国臣の中で沸々と湧き起こった。 世間に目を転じれば、民が幾重もの辛苦に見舞われている。 コ ロリ の 大 流 行 に よ っ て 人々 は 生 命 を 脅 か さ れ 、 経 済 失 政 に よ っ て 生 活 が 苦 し め ら れ て い る 。 185 変身 開国以来、輸出超過による品不足が激しさを増し、物価上昇がどうにも止まらない。生糸や蝋は 貿易商の買い占めもあって、値が数倍に跳ね上がっている。 金の流出も歯止めが利かない。 国内と海外で金銀交換率が異なるため、異人が日本から金を大量に持ち出して、国際相場で銀 に交換するという信じがたい泥棒状態が放置されたままである。日本人にとってこれほど馬鹿な 話はないが、内政統制ばかりに忙しく、異国との関係改善の気概に乏しい井伊政権に、世間の風 当たりは徐々に強くなりはじめている。 ちょうどこのころ、一人の薩摩人が国臣をひょっこり訪ねてきた。 有村次左衛門という二十二歳の青年は、国臣と京の鍵屋で出会い、大久保とともに重富駅に国 臣を追いかけてきた有村俊斎の弟だという。言われてみれば、顔の作りが兄に似ている。 次左衛門は一時帰国の後、再び江戸に赴く途中だという。 月照の死を見届けた国臣のことを兄から聞いて以来、国臣に敬慕の念を抱いていたらしい。下 関の白石邸でたまたま国臣の居場所を聞き、あいさつすべく立ち寄ったという。 「直にお目に掛かることができ、光栄にございます。おいたち薩摩人にとって国臣さまは恩人に ごわす。兄もしきりにそう申しております」 「それは身に余る御言葉」 186 変身 軽く答えた国臣に、次左衛門は真顔で言った。 「 そ んなこ とは あ り ま せ ん 。薩 摩 に と って 月 照 さ まは 必 ず お 守 り せね ば な ら んか った 御 方で す 。 その月照さまを最期まで守っていただいた国臣さまは、薩摩の恩人に他なりません」 ―薩摩の恩人― という表現が心を温めた。兄の俊斎と大久保からも、同じことを言われた記憶がある。 その後しばらく、次左衛門は郷国の近況について語った。 去年の入水事件以降、薩摩の事情があまり分からなかっただけに、この情報は貴重だった。西 郷 の こ と も 、 事 件 後 し ば ら く し て 意 識 を 取 り 戻 し 、 南 島 に 流 さ れ た こ とは 耳 に し て いた 。だ が 、 奄美大島で息災にしているとまでは知らなかった。 二人は続いて時勢を論じあった。 次左衛門は二年前から江戸に詰めているため、世情に明るい。 藩邸で小姓役を担う一方、高名な千葉周作道場で北辰一刀流を学んでいるという。話題は昨今 の大獄にもおよび、国臣は数日前に入手した受難者の速報を伝えた。 その報に触れるなり、次左衛門は急に黙り込んだ。唇を堅く噛みしめている。 国臣は、受難者の中に知り合いでも含まれているのかと思ったが、長い沈黙の後、次左衛門は おもむろに口を開いた。 「国臣さま、あなた様を信じて打ち明けたいことがあります」 187 変身 「はあ、何でしょう?」 国臣は、次左衛門の真剣な眼差しにただならぬ凄みを感じた。 「親にも言えぬことです」 青年の一直線な視線に、国臣も口元をキッと結んでうなずいた。 「実を申せば、今回一時帰国したのは親と永訣するためでした」 「永訣?」 国臣は、耳にした言葉が間違ってないことを確認しようとした。 「はい」 青年の声は落ち着き払っている。 尋常でない切り出し方に、国臣も理由を聞かない訳にはいかなかった。 「いったい何をされるつもりか?」 次左衛門は視線を落とし、脇の帯刀にチラッと目をやった。そして低い声で言った。 「井伊を斬りもす」 国臣の背筋に戦慄が走った。 井伊を嫌い、憎むものは世の中に五万といる。とはいえ、それを斬ると公言する者など滅多に ( ) い る も の で は な い 。 相 手 は 幕 府 大 老 で あ り 、 将 軍 家 茂 いえ も ち を 後 見 す る 最 高 権 力 者 で あ る 。 酒席の戯言ならまだしも、しらふでこれを口にするにはあまりに大胆不敵な台詞だった。 188 変身 言 葉 を 失 った 国 臣 に 向 か って 、 次 左 衛 門は 誰 に も明 か す こ と の な い秘 事 と 念 を 押し た 上 で 、 重々しく語りはじめた。 それによれば、首謀者は水戸藩の勤皇急進派と薩摩藩の江戸同志たちだという。 水戸藩では、密勅事件の後、幕府の圧力を受け勅諚をただちに返納したが、関鉄之助ら一派が これに憤慨して脱藩した。こうした急進派の人々が、異国の恫喝外交に屈するばかりの井伊を除 くべし、と唱えているという。 一 方 、 薩 摩 の 江 戸 同 志 は 、 有 馬 新 七や 田 中 謙 助 、 有 村 俊 斎 の 弟 の 有 助や 次 左 衛 門 ら だ と い う 。 襲撃の日時や場所はまだ決定していないが、来春までに決行する合意があるという。 (数人の戯言でないことだけは確かばい。だが、果たして浪士たちの手で大老を打ち取ることが できるものだろうか・・・) 事が事だけに、国臣は続く言葉が浮かばなかった。 たとえ万に一つの可能性であっても、井伊を取り除くことができれば、世の中にとってこれほ ど良いことはない。確実に時勢が変わるのである。ふと、 ―天誅― という言葉が脳裏をよぎった。 正悪のどちらかでいえば「悪」だろうが、対象が時の権力者であるだけに、杓子定規に測れる ものではない。事実、井伊の粛清によってあまたの人材が命を奪われ、これからも犠牲者が増え 189 変身 続けることが必至なのである。 (ついに、殺らねば殺られる時代がめぐって来たということか・・・) 国臣は、瞬間血の匂いを嗅いだ気がした。 だが、目の前で秘事を打ち明けた青年の目は、驚くほど純粋に澄みきっている。 次左衛門は、国臣を直視して言った。 「私は、己や薩摩のために井伊を殺る訳ではありません。日本のためにやります。井伊を除ける かどうかは天運によりましょう。ただ、私は間違いなく死にましょう。国臣さまにこのことを打 ち明けたかったのは、後の日本のことをあなた様にお頼みしたかったからにございます」 二十二歳の青年が発する言葉とは思えなかった。 次左衛門と視線を合わせ、国臣は大きくうなずいた。うなずくしかなかった。 (この一事を成すためにこの男は生まれてきたのかもしれん) この秘事が決行されることは、まず間違いない。 二度と再会することはないかもしれぬ青年のために、国臣は酒を注いでやった。一杯、二杯と 飲み干したところで、青年はそれ以上を辞退した。剣客らしく自制が効いている。 翌朝、国臣は病後はじめて玄関先まで出て、次左衛門の出発を見送った。 十月半ばになると、国臣の体調はようやく全快した。 190 変身 合わせたように、三宅定太郎が下関の白石廉作と薩摩藩苫船役の高崎善兵衛をともなって連島 に戻ってきた。薩摩産の山藍を大量に積んでいる。当面確保できた量を病床の国臣に代わって引 き取りに行ったものだった。 一行は国臣の快復を喜ぶと、すぐに山藍販売の見本市を催した。 周辺の染物屋という染物屋を招いて、商談機会を作ったのである。結果は、予想どおり種子に 関する厳しい評価はあったものの、多くの試作品を配布し、まずまずの成果を収めた。 ところが、わずか数日後、事態が急変した。 地元の役人が突然三宅の店に踏み込んできて、取引差し止めを命じたのである。 理由が分からず背景を調べてみると、どうも既得権を握る競合業者が他国産の流入を防ごうと 役所に働きかけたらしいことが分かった。即刻異議を申し立てようとしたが、地元領主が相手で ある以上、これが一筋縄にはいかなかった。 ( ) 連島は、備中の山間にある川上郡成羽 なりわ を本拠とする山崎家五千石の飛び地となってい る。巨藩薩摩から見れば、豆粒ほどの大きさしかない。 だが、幕藩体制とは時に理不尽にしか機能しない。 どんなに不釣り合いであろうが、藩と藩の関係である以上、煩雑な手続きを取らなければなら ないのである。苫船役の高崎は馬鹿らしいと思いつつも、十里の山道を分け入って成羽の役所に 赴き、取引停止の撤回を求めた。だが、役所の回答は、 191 変身 ―他国との応接すべては江戸屋敷の留守居役を介すことになっている― との一点張りで、埒が明かなかった。 さらには厄介なことに、妨害者の陰謀があってか、 ―素性を隠しているが、どうやら他国の浪人者らしい― と、国臣の身元をいぶかしむ流言が広がりはじめた。 当世の浪人が他国に居住するためには、藩庁から特別に許可を得なければならない。釈然とし ない思いを抱えながらも、三宅に無用な迷惑をかけないように、国臣は連島を立ち去らざるを得 ない状況になった。 「拘束されては元も子もない。早く去った方がいい」 偵吏らしき人影が付近に出没したことを受け、三宅も国臣の背中を押した。 国臣は、後ろ髪を引かれつつも備中の仮居を急いで引き払った。 地元領主との折衝を断念した高崎善兵衛と白石廉作とともに連島を発ち、十二月十五日に下関 竹崎に着いた。国臣は、そのまましばらく白石邸で世話になることになった。 下関は天下の公道である。 白 石 邸 に も 来 客 が 途 絶 え るこ と は な い 。 三 日 後 に は 、 偶 然 に も 工 藤 左 門 が 博 多 か ら 来 訪 し た 。 国臣の下関移住を聞いて喜び、瀬戸内の山藍の件は商運がなかっただけと一蹴すると、代わりに 筑前の商機について熱弁を振るった。 192 変身 こ のこ ろ 、 左 門 と 白 石 は 福岡 藩 が 中 洲 で 経 営 す る 精 練 所 用 の 原 料 調 達 に つ い て 相 談 し て い た 。 新しい精練所の総裁は、薩摩の四人と関係の深い吉永源八郎である。とりわけ吉永と左門は昵懇 であり、左門は白石とも親密であるため、橋渡し役となって商計を立てていた。 十二月二十九日には、三人の薩摩人が白石邸を訪ねてきた。 堀仲左衛門と高崎猪太郎、原田彦右衛門である。 初対面だが、国臣は堀と高崎の名を知っていた。両名とも江戸詰である。九月に連島に来た有 村次左衛門の話によれば、ともに井伊の誅殺計画に関わっているはずである。 また、高崎猪太郎は山藍の件で国臣と共に奔走した苫船役高崎善兵衛の長男だという。今日下 関に着くなり父から国臣のことを聞き、早速訪ねてきたという訳である。 堀と高崎は、国臣に丁重にあいさつした。 他の薩摩人同様、月照事件について謝意を述べ、薩摩交易の尽力に対しても礼を述べた。堀は、 入水後の西郷を看病した一人だという。高崎の方は、国臣の瀬戸内での奔走ぶりを父から細かく 聞いているようだった。 だが、二人の話しぶりはどこかぎこちなく、遠慮気味だった。 話題の割には、会話が浅いのである。しかも、原田彦右衛門という男は 全く言葉を発しない 。 国臣の表情に違和感を読み取った高崎が、含みのある言い回しをした。 「実は、おいたちは急に郷国に呼び戻され、一時帰国するところです。こちらの原田どんに同道 193 変身 いただいとります」 そして目力を込めて、補足した。 「そういえば、幣藩の有村次左衛門も以前ごあいさつ申し上げたとか。その折に一献頂戴したよ うですが、おいたちもいずれいただきたいと思うとります」 この発言で、国臣は二人の事情を解した。 要するに、堀と高崎は何らかの理由で薩摩に送還される途次のようである。 原田という男は、藩庁が遣わした二人の護送役にちがいない。もしかすると、江戸の誅殺計画 が漏れ、暴発を避けるために二人は送還されているのかもしれない。どうあれ、次左衛門が井伊 襲撃計画を国臣に打ち明けたことを二人は言外に匂わせている。 もし誅殺計画に関与して二人が送還されているのなら、それだけ事態が切迫していると言えな くもない。国臣は、近いうちに何かとんでもないことが起こるような胸騒ぎを覚えた。 年が明けた。 安政七年だが、桃の節句のころには日本中を揺るがす大事件が起き、三月十六日をもって万延 元年と改元される年である。 正月だというのに、世相はどこか暗く重苦しい。井伊の弾圧が続いているのである。 八 月 の 水 戸 藩 重 職 に 対 す る 断 罪 に 続 き 、十 月 に は 福 井 藩 の 橋 本左 内 、 京 都 の 儒 者 頼 三 樹 三 郎 、 194 変身 長州の吉田松陰などが相次いで処刑された。 梅田雲浜の獄死は、先に伝わっていたとおりだった。 噂によれば、雲浜はほうき尻で何度も全身を打たれる拷問を受けたという。月照の弟信海や水 戸と薩摩双方に籍のある日下部伊三次なども獄死したと伝わっている。 大獄に連座した者は、既に百名におよぶ。 幕府批判者や尊攘論者のうち、大名や幕臣は隠居や謹慎、公家は落飾となり、それ以下の者は 片っ端からひっ捕らえられている。日本の将来を憂い、改革の志が高ければ高いほど拷問を受け、 辛酸を嘗めさせられているのである。 新年を迎えた国臣は、筆と硯の日々を送っていた。 下関竹崎に仮居を移したことで、実家から故実書などの稿本や写本、書誌、研究書、参考書の 類を取り寄せた。若柳の皮を麻糸で編んだ柳行李二つが裂けそうになるほどの量だが、それらの 書物が手元にそろったこともあり、もっぱら書机に向き合った。 冬の海岸部には容赦のない寒風が吹きつける。 国臣は、頭巾を着用した。 冷たい海風を遮るためのものだが、目的はそれだけでない。備中を離れた国臣は、もはや鉄物 屋の番頭でなくなった。再び総髪に戻すことにした。 頭巾姿の国臣は、毎日白石邸前の浜を散策した。 195 変身 浜門を出れば、文字どおり浜に出る。正面には彦島が横たわる。 左手に、海峡の中ほどに舟島が浮かぶ。というより、佐々木厳流と宮本武蔵がそこで決闘して からは、厳流島と呼ばれることの方が多い。その奥に門司の海岸線が広がる。 右手は、小瀬戸という水道である。先は日本海に抜けているが、手前に伊崎という集落がある。 福岡唐人町の海側にも同じ町名が存在するが、もともとここの漁師が移り住んでできた町である。 この浜を左手にぐるっと回り込んだところが、下関の街である。その先に壇ノ浦と続く。 この天下第一の海峡を見渡しながら、国臣は数百年、数千年におよぶ人々の往来や栄枯盛衰に 思いを馳せた。その感慨を句にした。 すずりの海は前にあり 筆かけ山は後なり 誰かけりとは知らねども 昔のもじの関のあと 正月下旬、国臣の元にひょっこり珍客が現れた。 「こげんとこで何しようとや?」 福岡風の無遠慮なあいさつの声主は、藤四郎だった。 一年半ぶりに見る竹馬の友である。どういう訳か同郷の中村円太をともなっている。 196 変身 「妙な組み合わせやな。お前たちこそ何しに来たとや?」 国臣も、福岡風に応じた。 ぶっきらぼうなあいさつだが、だいたい察しはついた。藤は昨年の春、国臣に触発されるよう に脱藩した。以来、長州の勤皇派の元に身を寄せていると便りで知らせてきていた。 中村円太の方がむしろ意外だった。 円太は七歳下の同郷人だが、学閥でいえば富永塾と月形塾の両方に関わっている。新進気鋭の ( ) ) 変わり者だが、秀才であることは間違いない。二十二歳の若さで藩学修猷館 しゅうゆうかん の ( 訓導補となったが、どういう訳か昨年いきなり福岡を脱して江戸の儒学者大橋訥庵 とつあん の 下で学び、ちょうど戻ってきたところだという。 どうあれ、国臣の知る限り、福岡を脱した異端児は現時点でここにいる三人だけである。 藤は、臆面もなく言った。 「俺は今、長府の大庭さんとこに世話になっとる。お前が白石家に厄介になっとると大庭さんか ら聞いたけん、顔ば見に来たったい」 「大庭さんって、白石さんの弟の大庭伝七さんか?」 「そうたい」 返事を受けるなり、国臣は渋い表情となった。 「ということは、お前も、俺も威勢よく福岡を飛び出したのはいいが、二人とも白石兄弟に世話 197 変身 になっとるという訳か?」 「まあ、そういうことになる」 藤は、ばつが悪そうに頭を掻いた。 白石正一郎には二人の弟がいる。白石廉作と大庭伝七である。 廉作は国臣と同じ齢だが、四歳下の伝七は、長府大年寄の大庭家を継いでいる。 長府は毛利支藩清末藩の城下町である。下関から壇ノ浦を過ぎ、二里ほど進んだ先に位置する。 円太もしばらくそこに滞在しているという。 三人は国臣の居室にこもって、福岡の近況を談じあった。 気心の知れた仲だけに、批判も手厳しく、言葉を選ぶ必要もない。 「全国を見渡せば、どこの雄藩にもたいてい勤皇勢力が育っとる。水戸や薩摩、肥後、越前など 皆そうばい。それに比べ、筑前福岡は遅れとる」 円太が口火を切ると、藤も吐き捨てるように論じた。 「福岡はダメばい。藩主がいかん。長溥公は賢公と世間ではもてはやされとうが、実際のところ は時流に乗り遅れんごと、勤皇の仮面を被っとうにすぎん」 歯に衣着せぬ批判だが、 (確かに的を射ている) と、国臣は思った。 198 変身 関ヶ原の恩賞行賞により、黒田家は豊前中津十七万石から筑前福岡五十二万石へ大加増された。 加増率は全国のどの大名よりも大きく、天下第一の躍進である。これは主戦場で石田勢の前面で 奮戦したばかりでなく、小早川勢の寝返りに貢献し、九州にあっては西軍勢力を蹂躙した黒田家 の功績に対する徳川家の褒美だった。 必然的に、福岡藩の江戸幕府への恭順色は他藩よりも濃い。 歴史的にも、筑前は昔から中央権力に対する恭順性が強い。かつては朝廷が太宰府に政庁を置 き、鎌倉幕府が鎮西探題を、室町幕府が九州探題を博多に置いた。福博は中央から離れた地方と しては極めて稀なことに、古くから中央が直轄する土地なのである。 「藩がダメでも、勤皇の旗印になりそうな人物は福岡におらんのか?」 国臣の問いかけに、中村円太が即答した。 「あえていえば、月形さんや鷹取さんでしょう」 ―月形洗蔵― ( ) 祖父に藩主侍講を務めた月形質 すなお 、父に藩儒を務めた月形深蔵を持つ男である。 深蔵は城下で月形塾を営むが、ここに鼻息の荒い連中が集まっているという。長子月形洗蔵を ( ) ( ) はじめ、藩医家の鷹取養巴 ようは 、江上栄之進、浅香市作、筑紫衛 まもる といった連中であ る。皆、中級藩士以上の家格である。月形家は馬廻組として百石、鷹取家は藩医として三百七十 石の家禄を食んでいる。 199 変身 国臣は、同じ齢の月形と一つ年上の鷹取とは顔見知りである。 といっても、特別な交流がある訳でない。国臣ら富永漸斎門下は「お太刀組」で通っているが、 それも広い城下でいえば、黒門以西の場末のことでしかない。月形らに言わせれば、お太刀組の 奇行などは、 ―足軽連中の悪ふざけ― 程度にしかすぎず、鼻から眼中にないのである。 一方、月形の門下生はほとんどが追廻門から赤坂口、薬院、荒戸と城を囲むように居している。 その月形一門が敵対心を燃やすのは場末の足軽連中ではなく、藩の正学修猷館である。藩の人材 育成の主流を担う修猷館は、彼らにとって負ける訳にはいかない競合相手なのである。 円太の話によれば、月形一派は近ごろ勤皇色を強めているという。 国臣も後日知ったことだが、月照が福博に潜入した折にも、察知した月形らはその庇護を求め て藩庁に意見したという。それ以降目立った動きはないが、月形らは最近よく集まっては熱心に 勤皇を論じあっているという。 国臣は、下関竹崎の生活に適応した。 このころ、白石正一郎は新規事業として筑前産陶器の取り扱いを模索していた。 ( ) 博 多 の 東 郊 に 須 恵 す え と い う 村 が あ る 。こ こ は 眼 科 治 療 が 盛 んで 全 国 に 名 が 轟 い て い た が 、 200 変身 陶器の産地としても有名だった。 折しも、藩主肝いりの殖産振興によって品質改善が施されたばかりで、陶器は輸出産品として 急成長しはじめていた。白石は福岡藩の御用達となって一手に販売することを検討していた。 居候の国臣は、当然これを手伝わなければならない。 藩の殖産興業の総裁は吉永源八郎であり、主任もかつて大島在番頭として国臣を右門に引き合 わ せ た 野 田 勘 之 丞で あ る 。 須 恵村 には 知 人 も い る し 、 筑 前 の 廻 船 問屋 に も 幾 分 通 じ て い るた め 、 こういった情報を白石に提供した。 そうやって白石を補佐する以外は、変わらず書机に向かった。 故実研究のほか、詩歌の整理も手掛けた。国臣にとって詩歌は日記のようなものである。実家 から送ってもらった柳行李だけでも、優に三百首が収められている。新しいものとしては、肥後 遊歴や訪薩時に詠んだものが含まれている。 加えて、京や河内、摂津、紀伊など畿内を歩いた時のものや、備中のものが手元に多数あった。 柳行李の中と併せると、ざっと五六百首ほどもある。手にすれば、一首一首がその時その場所で 詠んだ思い出の句ばかりである。それらを年月ごとに歌集にまとめた。 それとは別に、国臣にはやらなければならないことが一つあった。それが、 ( ) ―月照坊筑紫下りの今様 いまよう 歌― の複写だった。 201 変身 今様とは、七五調四句を様式とする歌謡である。 月照の最期を見届けた者として、この今様歌をきちんとした形で世に出さなければならなかっ た。京の高僧がいかに誇り高く生きたかを人々に伝えたいと思ったのである。 入水事件の後、国臣は京での出来事などを右門から聞き出して、都を落ちてから入水に至るま での全節を作り上げた。七五調を一節と数えるなら、六十六節にもおよぶ大今様である。 歌詞には、月照がたどった地名が二十以上も登場する。 国臣は、この今様を宴席などで何度か披露したことがあるが、そのたびに人々から全節の書を せがまれた。正確を期すためにも、あらかじめ複写しておく必要があった。 花の都も秋はなお 夕べ淋びしき風情なり 名に流れたる清水や ( ) 落来る瀧の乙羽 おとわ 山 (中略) なお世の為に身をつくし つくさんとてや筑紫潟 (中略) やがて博多の仮住居 202 変身 ここも波風騒かしく (中略) 野間のせきやの関守に せきとめられて又ふねに (中略) 浪にゆられて行先は 黒の瀬戸という名も憂しや (中略) 今は鹿児島籠の鳥 翼ちぢめて潜みしが また木枯しに驚きて 日向をさして船出しつ (中略) 身も大君の為にとて やがて波間に入りぬるを (中略) はや東雲の明烏 203 変身 啼くより外はなかりけり 二月十七日、一人の薩摩人が国臣を訪ねてきた。江戸詰の田中謙助である。 国臣は、白石邸の離れで田中と面会した。 同じ齢の二人は、初対面にもかかわらずすぐに打ち解けた。西郷や大久保、有村兄弟、伊地知、 堀、高崎といった多くの薩摩人と気脈を通じる国臣は、もはや彼らにとって欠くことのできない 存在になっている。 ( ) ひと通り時勢を談じあうと、田中は眼光炯々 けいけい に切り出した。 「今から申し上げることは機密事項ゆえ、どうかそんつもりで聞いて下さい」 国臣が視線を据えると、田中は意を決したように発した。 「井伊を斬る段取りがいよいよ整いました。これより薩摩に戻って決起の士を誘い、急ぎ江戸に 舞い戻ろうと考えています」 まさに天下を揺るがす大機密である。 国臣は、沈着な声で問うた。 「して決起はいつにござる?」 「ただ今、井伊の登城予定を調べ上げています。ただ、三月二十日までには決行することで水戸 同志と合意しています」 204 変身 国臣の関心は、決起の手段に移った。 「いかにして首をねらうのでしょう?登城時に斬りかかるにしても、井伊家の上屋敷から江戸城 桜田門までは四五町しかないでしょう?」 「さすがは国臣どん、よくご存じで。いかにも、その間に仕留めねばなりません」 「討ち手の人数は?」 「おそらく二十人から三十人となりましょう」 田中の言葉を受けながら、国臣は周辺の光景を思い起こした。 江戸赴任時に、桜田門の近くで何度か登城行列を見物したことがある。幕閣や大藩の行列には、 堀端によく見物の人だかりができる。 だが、そこは見通しの良い大路である。襲撃者が潜めるような物影があった記憶はない。浪人 風の者が多ければ不自然だし、皆が帯刀していればなおさらである。見物客の中に紛れ込むにし ても、せいぜい七八人が限界のように思えた。 (果たして二三十人もの人数が一帯に潜めるものだろうか?仮に潜めたとして、それだけの人数 で井伊の首を上げられるだろうか?) 相手は幕府の首脳である。供侍も百名は下らないはずである。とりわけ駕籠脇には、名立たる 剣客をそろえているにちがいない。 (どうあれ、井伊を除けるかどうかは天運次第だろう) 205 変身 翌十八日の早朝、帰薩を急ぐ田中謙助のために国臣は漁舟を手配した。 ( ) 自ら同船し、対岸の大里 だいり まで田中を送った。すぐに門司往還を駆け出した田中の後ろ 姿を国臣はしばらく見守った。 国臣を訪ねてくる薩摩人が絶えることはない。 八日後の二月二十六日、今度は堀仲左衛門が白石邸にやって来た。 堀は、高崎猪太郎とともに郷国へ召還される途次の十二月に寄ったので、二か月ぶりの訪問で ある。今度は江戸へ向かうところだという。 国臣は、離れを借りて早速堀と会見した。 だが、話の内容にいささかズレがある。先日田中謙助が立ち寄ったばかりであることを国臣が 告げると、堀の表情が一変した。 鹿児島から下関までは、急いでも七日か八日掛かる。 北行の堀と南行の田中は、どうやら肥後辺りで行きちがったようだった。深刻な形相となって 詰め寄る堀に、国臣は決起の同志を募るべく帰郷すると田中が話していたことを伝えた。 堀の表情が一段と険しくなった。唇を噛んでいる。 「そいはいかん。鹿児島の同志たちは突出行動を望んでおりもはん」 「何と?」 206 変身 堀の発言に、国臣は思わず叫んだ。 堀の説明によれば、郷国の同志たちは井伊誅殺の成功率に懐疑的だという。 加えて、井伊襲撃に乗じて水戸同志が品川の外国公館や横浜の外国商館を焼き討ちする動きが あり、これに難色を示しているという。 こ の た め 同 志 た ち が 協 議 し た 結 果 、 兎 に も 角 に もひ と ま ず 江 戸 同 志 の 突 出 行 動 を 抑 え る べ く 、 堀が急行することになったのだという。 水戸急進派による異人襲撃計画については、国臣もそうした動きがあることを田中から聞いた。 その点では、国臣も薩摩同志たちと同じく、水戸激派の考えには反対だった。現段階で異国と事 を構えるようなことをしても、何一つ利点がないためである。 世間では、 「尊王攘夷」という言葉がにわかに流行語になりはじめている。 だが、それはそもそも二つの異なる概念を組み合わせた造語にすぎない。 「尊王」とは、文字どおり勤皇家の金科玉条である。 将軍や藩主が主君と崇められる時代だが、国臣に言わせるならば、彼らは天皇から官位を授か って役割を担っているだけにすぎない。元来君主は天皇一人しかおらず、その君主の下に民が団 結して国家を成すというのが、国臣の国家観である。 一方の「攘夷」は、現実離れした極論でしかない。 水戸激派のような国粋主義思想にとって、それは異人排斥と同義となっている。 207 変身 だが、国臣や薩摩同志にとってそれは暴論でしかない。長崎警護や朝鮮通信使を担ってきた福 岡人たる国臣や、琉球貿易や密貿易を手掛けてきた薩摩人にしてみれば、「攘夷」とは現実から 目をそらせた偏った発想にすぎない。 国臣の狙いは、どちらかといえば外国との積極交流にある。 開始時期こそ慎重に選ばなければならないが、王政復古が成就した暁には、富国政策を図るべ く積極的に開国した方がいいと考えている。 といっても、当世の感覚に基づいていえば、二百五十年にもおよぶ鎖国体制にあって、開国の 恩恵を肌で知る日本人など滅多にいるものではない。 そ の 中 で 敢え て いえ ば 、 筑 前 人 と 薩 摩 人 の みが 遺 伝 子で こ れ を 継 承 し て い る の か も し れ な い 。 古の遣唐使のころより、博多や坊津が海外交流の窓口を担ってきたからである。国臣は、かつて 大島の土蔵で右門とそんな会話を交わしたことを思い出した。 しばらく沈思していた堀が、重々しく口を開いた。 「謙助どんがそう話したなら、なおのこと。おいは急いで江戸に向かい、突出行動を控えるよう 同志をなだめんとなりもはん」 「・・・・・」 国臣は、これには何も返さなかった。 有村次左衛門や田中謙助の決意を目の当たりにした以上、彼らを諌められるとはとても思えな 208 変身 かったからである。堀は、語調を変えて続けた。 「そいはそうと、平野どんにお願いしたかこつが一つあります」 「何でしょう?」 「薩摩は今後幕政改革を押し進めるためにも、福岡藩と連携したいと考えとります。こいは藩主 の父忠教公の考えでもあります。そんことを福岡藩に打診いただけんでしょうか?」 「私が、ですか?」 国臣は、一瞬ためらった。 むろん、堀も国臣の地元での立場をわきまえている。 「実は、平野どんの案内を乞うて福岡に参ろうと考えとりましたが、江戸同志が今にも暴発せん ことが分かった今、おいは急ぎ江戸に向かわねばなりもはん。代わりに、おいの書状を福岡藩庁 に届けてもらえんでしょうか?」 断る理由はない。 井伊政権への鬱憤が募っているこの時下、筑薩連携を打診したいというのである。 一触即発の江戸情勢によっては、時代が大きく動き出す可能性がある。そんな折に筑薩が連携 すれば、これほど心強いことはない。九州で一大勢力を形成し、幕府に対抗する道が開けてくる のである。 「分かりました。お引き受けしましょう」 209 変身 国臣が承諾すると、堀は早速一室にこもって福岡藩への建白書を作りはじめた。 翌朝、ほとんどで徹夜して書き上げた建白書を堀は国臣に見せた。文面に入れきれなかった項 目については、口頭で補足した。その上で、情勢を見定めながら臨機応変に対処するよう国臣に 託し、便船に飛び乗って東へ去った。 堀の出発を見送った国臣は、自室に戻ってじっくりと建白書に目を通した。文面を繰り返し眺 めながら思考を働かせた。 (この建白書では足りん。併せて上書を添えよう・・・) そう腹を決めた国臣は、ただちに文章を練りはじめた。 大老襲撃が現実味を帯びてきているが、そんな機密を記す訳にはいかない。言葉を選びながら も、予想される時局展開を示し、万が一、水戸浪士が外国公館や商館を焼き打ちした場合にも備 えて、いくつかの提言を折り込んだ。 筑薩連携の重要性についても、肉付けが必要だった。 堀が口頭で伝えたように、福岡藩に関心があれば、次回の参勤時に、薩摩藩主が福岡に寄って 会談する用意があることも記さなければならなかった。また、連携強化の具体案として、薩摩の ( ) 良質な大砲を購入し、筑前の焚石 たき いし をもって 決済す る 交易計画 も入れて おき た か った 。 上書は自ずと長大になった。 (浪人の分際で、長々と論じすぎたかもしれん・・・) 210 変身 国臣は、推敲を重ねた。 三年前に長溥の駕籠前に直訴して以来、二度目の上書である。 その時は犬追物の復興を訴えるものだったが、今回はまるで次元がちがう。天下を揺るがす大 事件が起きかねない時局への警鐘と、その対処方針の提言である。 国臣は、思い切って末尾に一項を付け足した。紀州海峡の防備についてである。 もし外国公館や商館が焼き打ちされる事態になれば、報復措置として異国艦隊が大坂湾に侵入 してくると国臣は見ている。それゆえ、長崎警固の実績のある福岡藩が紀州と阿波間の海峡を守 ることが最良の策であると考えた。 一年前現地を視察した国臣にとって、この主張は切り札ともいえた。 長崎警固を大坂湾守衛に転じさせることができれば、福岡藩をまるごと勤皇化できるかもしれ ないのである。それは、徳川家にただ盲目的に従ってきた旧体質から、天皇に積極奉仕する姿勢 に転じる象徴となり得る。 二月末日、国臣は福岡に戻った。 殖産興業総裁の吉永源八郎に面会を申請すべく、まずは吉永と懇意の左門を玄海島に回って誘 い出した。そしてそろって吉永を訪ね、堀の建白書と自らの上書を提出した。 数日後には白石正一郎も来福し、下名嶋町の高橋屋平右衛門宅に泊した。 211 変身 国臣は、白昼福博を歩ける自由を久々に得た。左門や白石と精練所の役職にあいさつ回りをし たり、白石を父吉郎右衛門に引きあわせたりした。 夜は夜で、連日のように知人と会合した。 ひと晩は、予期せず月形一門の会合にも招かれた。その日の昼、たまたま六丁筋で出くわした 鷹取養巴から同夜予定されていた会合に誘われたのである。 薬院の鷹取邸に着くと、月形一門が既に二十人ほど居並んでいた。 国臣は、彼らが自分に対して冷淡なことを予想していた。 地行の足軽階級であり、お太刀組の奇装に凝ったり、直訴騒ぎを起こしたりと、国臣の行動は 月形一門からは蔑まれていると思っていたからである。 ところが予想に反し、国臣は温かく迎えられた。 それほど意識してなかったが、国臣の行動は月形門下でも知れ渡っていた。薩摩の四人と親交 を深め、京で薩摩同志と奔走し、梅田雲浜や梁川星巌を訪ね、月照の入水を見届けた国臣の功績 は、月形たちにも一目置かれていた。会合の中で、彼らが勤皇を熱弁する様子を目の当たりにし、 国臣は地元勢力の台頭に期待感を抱いた。 (福岡も捨てたもんじゃなか。こういう連中が奮起すれば、藩政を動かすことだって夢ではない . か も し れ ん ・・・) また、高橋屋の国臣の元には数名の来客もあった。 212 変身 旧友の小田部龍右衛門や仙田市郎淡三郎兄弟、実弟の平山宇八郎らである。数日後には、志摩 半島の先の姫島に流されている右門もようやく抜けてきて、久々の再会を遂げた。そうした日々 を過ごしながら藩庁から回答を待っていたが、ほどなくして ―家老職の内諾が得られたので、次回の重役会議にかける― との内意が伝えられた。それを聞き届けると、国臣と白石は三月十四日に福岡を発った。 そして竹崎に戻って二日後の十八日、一つの流言が舞い込んできた。 「何やら江戸で騒動があったらしい」 国臣は、はっとした。 (もしや井伊襲撃ではあるまいか?) ( ) そのまま半里を駆け、下関阿弥陀寺町の御手洗屋 みたらいや という状屋に向かった。 そこは書状通信を生業とする店であり、速報の発信元となることが多い。国臣は、ここで流言 がただの噂でなく、予感が当たったことを知った。 ―今月三日、江戸城外で御大老が浪士襲撃によって討たれた― というのである。 瞬間、地殻が揺らぐような大きな衝撃が走った。青天の霹靂とはまさにこのことである。大老 が浪 士の襲 撃によって 、しかも白 昼堂々 江戸城外で 誅殺され るなど、前代未聞の大珍事で ある。 (本当に起こってしもうた・・・・・) 213 変身 膝が崩れそうになったが、じわじわと感動が込み上げてきた。 躍るような気持ちで竹崎に舞い戻った国臣は、白石正一郎と肩を抱きあい狂喜した。 事件が発生して十五日が経っている。 天下の速報にしては、日数が掛かりすぎている。可能性として考えられるのは、襲撃者がいま だ逃亡中であり、幕府が街道ごとに厳戒体制を敷いていることだった。 (ともかく同志らに一報せねばならん) 国臣は、薩摩の大久保正助と有村俊斎、高崎猪太郎、伊地知龍右衛門あてに書状を作った。 ちなみに、国臣が白石邸を留守にしていた今月六日、田中謙助が再び立ち寄って、国臣に大久 保の書状を残して江戸へ去っていた。書状の内容は、江戸の突出行動と筑薩連携に関するものだ ったが、事件が既に起きた後では何の意味も成さなかった。 (義挙が三日朝に起きたのならば、田中どんはおろか、先月二十六日に発った堀どんも間に合っ とらん。ということは、江戸同志は有村雄介と次左衛門兄弟だけか・・・二人は義挙に加わった のだろうか?) 続いて、福岡の同志にも書を作った。 先日時局を論じあったばかりの鷹取養巴と月形洗蔵、博多矢倉門の仙田市郎淡三郎兄弟、さら には下名嶋町の高橋屋平右衛門にあてて一報した。高橋屋には、玄海島と姫島にいる両門への伝 言も頼んだ。 214 変身 それから数日間、国臣たちは事件について情報収集した。 日を追うごとに続報が増え、やがて行列に斬り込んだ際の状況や襲撃者の氏名、死傷の様子な どが判明した。 ( ) それによれば、三月三日は上巳 じょうし の節句で、江戸は季節外れの大雪だったという。 大老井伊直弼は、九時ごろ六十名ほどの行列を整え、登城のため桜田門へ向かった。ほどなく 一人の男が直訴を装って行列の前に躍り出て、突然刀を抜いた。先頭の異変に気づいた供侍が駆 け出した瞬間、合図の号砲が鳴り、十八名の襲撃者が井伊の駕籠を目がけ斬り込んだという。 最初に駕籠に取りついた一人が槍を突き刺した。 次の者が隙をみて一太刀、二太刀と入れて駕籠を蹴破った。最後に井伊を引きずり出して首級 をあげたのは、何と有村次左衛門だという。 有村以外の十七名は、全員水戸藩士だったようである。 襲撃の結果、有村をはじめ五人が討ち死に、もしくは重傷の上自刃したという。襲撃の生存者 たちは老中屋敷や熊本藩邸などに自首したが、数名が逃亡中だという。 (奇跡としか言いようがなか・・・) 井伊の従者の大半は帯刀していたはずである。そこにわずか十八人で斬り込んで、見事首級を あげたのだから、あっぱれと讃えるしかなかった。 季節外れの大雪こそが天運だったにちがいない。 215 変身 行列の供侍たちは雨合羽を着用し、刀に防水用の革袋を掛けていたため、このことが襲撃側に 有利に働いたようである。降りしきる雪は、襲撃直前の浪士たちの気配や殺気までもうまくかき 消したのだろう。 だ が 、 国 臣 を 何 よ り 感 動 さ せ た の は 、 井 伊 の 首 を あ げ た 男が 有 村 次 左 衛 門 と い う こ とだ った 。 半年前に一人備中連島に国臣を訪ね、秘策を打ち明けた薩摩の青年は、まさに有言実行の男とな ったのである。 伝聞によれば、次左衛門は井伊の首をあげた後、それを抱えてしばらく満身創痍で歩いていた という。だが、追手に背後から斬りつけられ、ついに歩けなくなり切腹したという。 それでも、斃した相手は江戸幕府の最高実力者である。 大獄の元凶を見事取り除いたのだから、次左衛門は日本一の男になった訳である。国臣は、ま だあどけなさの残る次左衛門の顔を思い浮かべた。 「己や薩摩のために殺る訳ではありません。日本のためにやります。・・・後の日本のことをあ なた様にお頼みしたかったからにございます」 次左衛門の残した言葉が、まざまざと脳裏によみがえった。 国臣は、残された者として使命感を新たにせずにはいられなかった。 (浪士に大老が斬れたのなら、志士に幕府を倒せぬはずがない。俺は、次左衛門の期待に何とし てでも応えんといかん) 216 変身 白石正一郎も、次左衛門に国臣の備中の居場所を教えた経緯がある。 名も面白し 桜田の 二 人は 、 次 左 衛 門 の た め に 祝 杯 を 挙 げ た 。 桜 田 の 情 景 に 思 い を 馳 せ 、 有 言 実 行 の 士 を 讃 え た 。 所がら 火花にまじる 春の淡雪 春の雪 雪を見るにも 神風を なに疑わん 桜田の 花桜田の 花咲くころの 武夫の ついに消えても めでたかりけり 国臣が桜田事変を知ったまさにその日、幕府は改元し、 「万延」となった。 凶事を忌み、改元して世相を一新しようとするのは、治世者の常套手段である。こうして幕府 批判者を徹底的に処分した安政年間は、最高権力者の死をもって幕を閉じた。 とはいえ、改元はあくまで心理的なものであり、俗世が変わった訳ではない。 幕府は、さすがに江戸城外で大老が首を討たれたとは発表できなかった。 このため井伊をわざわざ病気静養中と取り繕い、将軍が見舞いの菓子まで贈った。それは世間 の笑い草となったが、幕府はあくまでも体裁を守ろうとした。 譜代の名門井伊家でさえ、襲撃浪士から主君の首を取り戻し、後日末期養子願を提出して何と 217 変身 か御家断絶を免れたような時代である。何かしらの落ち度があれば、大藩であっても即取りつぶ しの対象になりかねない。 とりわけ慌てふためいたのが、筑前福岡藩だった。 先日提出された堀仲左衛門の建白書に添えられた上書の中に、 ―万が一江戸で予期せぬ事態が生じた際の対処として― と、あたかも桜田事変を予言するような記述があったからである。 言葉こそ濁しているが、上書の著者は襲撃計画を事前に知っていたのである。この事態に、藩 庁上層部はひっくり返った。 ―福岡藩の捕吏が平野君を探し回っている― という一報が、薩摩出張の帰路福岡に寄った白石廉作からもたらされた。 兄の正一郎は、精錬所の原料取引について福岡藩の産物方と交渉中である。近々福岡藩の役人 が来訪する予定になっていたため、国臣を急遽どこかに匿わなければならない状況となった。 竹崎の北に、新地の花街がある。 ここに春風楼という遊女屋があった。ここの主人は、正一郎と同じく鈴木重胤の門下で国学を 学んだ人で、信頼置ける男だった。国臣は、しばらくそこで一時避難することになった。 ほどなく福岡の役人は去ったが、それからというもの、国臣は周囲の視線を避け白石家の酒庫 の二階で寝起きするようになった。 218 変身 今回ばかりは、捕まればただでは済まない。 幕府への転覆行為が容疑なだけに、捕まれば江戸に護送された上で拷問にかけられ、関係者を 自白させられることは必至である。そのため、何としても潜伏し続けなければならなかった。 そんな矢先の閏三月二十六日、福岡藩の盗賊方二名が白石邸に現れた。 博多と竹崎の目明しを従え、国臣のことを白石に尋問しに来たのである。 国臣は酒庫の二階で息を潜め、この難を逃れた。 盗賊方の尋問に対し、白石は産物交易の件で国臣と面識はあるものの、今の居所までは知らな いとかぶりを振った。盗賊方は捜索網を拡大する必要を感じたらしく、博多の目明しをそのまま 備中連島へ向かわせた。 国臣は、このころほど白石家の人々に世話になったことはない。 廻船 問屋の番 頭から手代、 丁稚、老婆 にいた るまで 、 協力して 国臣を 匿って くれ るので あ る 。 「はよう二階へお上がり!」 「おっちゃん今のうちや。こっちこっち!」 国臣は、それらの声を頼りに竹崎と新地を潜行した。それというのも、厄介なことに地元の目 明しが白石家の周辺を昼夜探りはじめたからである。 四月十八日には、京の町奉行所支配の目明しが田中謙助の人相書を手に押し掛けてきた。下関 と竹崎の目明しがこれに付き添っている。翌日には、国臣を捜して備中まで行っていた博多の目 219 変身 明しが、白石邸に戻ってきた。 京と下関、博多の目明しはほどなく去ったが、仁作という竹崎の目明しは、執拗に白石邸周辺 を嗅ぎまわった。白石が国臣を匿っているのでないかと疑っているのは明白だった。物陰から商 家の出入りを監視したり、代わりの者を雇って見張りに立てたりと、執念深く探り続けた。 ここに至っては白石家の人々も疲労困憊してしまい、これ以上迷惑をかけられない状況となっ た。五月十二日、国臣は朝日が昇らないうちに舟を出し、豊前大里へと渡った。 220 東西南北人 東西南北人 それから四カ月ほど、国臣は神出鬼没の行動を取った。 瀬戸内では宮崎司という偽名を使っていたが、その名も盗賊方に割れているため、新たに藤井 五兵衛という変名を用いることにした。 藤井に擬した国臣は、はじめに筑前を抜け、肥後に向かった。 旧知の山形典次郎を熊本に訪ね、そこから薩摩への潜入を図った。薩摩同志の協力を得るべく 一足先に書簡を送り、国境まで南進して返答を得たが、同志らの反応は思わしくなかった。桜田 事件の襲撃者に薩摩人が含まれていたことに薩摩藩庁は驚愕し、今はただ自粛するばかりとなっ ていて、他国人の入国が極めて困難な状況にあるという。 入薩をあきらめた国臣は、仕方なく筑前へ戻った。 ところが、福岡に近づいたとたん、知人や目明しに目撃されるところとなり、そのたびに盗賊 方 の 追 跡を 受 け た 。 二 日 市 で は 旧 知 の 役 人 と ば った り 出 く わ し 、 ほ と ん ど 捕 縛 さ れ か か っ た が 、 一瞬の隙に駆け出して何とかこれを振りきった。そこから西へ迂回し、宮ノ浦から玄海島に渡っ たが、海上の監視まで強化されていて気が抜けなかった。 玄海島に着くと左門を誘い、そのまま二人で相ノ島に渡った。 そこで五百津とも合流し桜田事変後の情勢を談じたが、追手がついたとの急報を受け、一行は 急いで大島へ渡った。折しも高名な国学者鈴木重胤が沖津宮参拝のため大島を訪れるというので、 左門と五百津はこれに面会すべく島に残った。 222 東西南北人 国臣のみはそのまま舟を継ぎ、八月十一日に密かに下関に上陸した。白石家に留め置いていた 私物を引き取るためである。 慎重に白石邸に駆け込んだつもりだったが、驚いたことに福岡藩の盗賊方が白石邸まで国臣を 追尾してきた。どうやら盗賊方は国臣が雇った舟の足取りをつかんだらしく、動かぬ証拠として これを白石正一郎に突きつけた。 盗賊方は白石邸の家宅捜査を行った。 国臣は邸内の倉庫に隠れて何とかこれを逃れたが、留め置いていた私物の行李三つが発見され、 証拠品として押収された。 純潔な白石はこの追及にかえって開き直り、毅然として盗賊方に国臣の罪状を問いただそうと した。だが、捕吏は国臣を捕らえることしか頭にないらしく、正確な罪状をついに示しきれない まま退散していったという。 その後、国臣は新地の春風楼に移ったが、二十八日に一人の薩摩人が白石邸を訪ねてきた。 二十二歳の青年で、これより少し後に村田と改姓する高橋新八である。薩摩同志の若手で、江 戸情勢の視察に向かうところだという。大久保や堀、高崎の意を受けてきたらしく、国臣に面会 を求めているという。 国臣は白石邸に忍び戻り、離れで高橋と会見した。 高橋はあいさつもそこそこに、丁重に詫びた。先に国臣が薩摩境まで来たにもかかわらず、入 223 東西南北人 薩の援助ができなかったことに対してだった。そもそも国臣が福岡藩から追跡を受けることにな ったのも、有村次左衛門が国臣に井伊襲撃を打ち明け、堀が福岡藩への建白書を国臣に依頼した からである。 その場で一ヶ月後に合流することを約し、高橋は東国へと去った。 帰 国す る 高 橋 と 一 緒 な ら ば 入 薩 も 可 能 か も し れ な い と 、 急 遽 相 談 を 遂 げ た の で あ る 。 国 臣 は 、 高橋にとある肥後の住所を渡した。一ヶ月後に落ち合う場所である。 そういう訳で、今肥後の仮居にいる。 熊本から北へ五里進んだところに、高瀬の町がある。そこから東へ一里半外れたところに安楽 ( ) 寺村がある。背後に木葉 このは 連山が並ぶのどかな山里である。 ここに代々医業を営む松村家があった。主人の名を松村大成という。 大成は国臣より二十歳上の五十三歳である。傲慢なところが微塵もなく、志操高潔な人である。 文学や儒学をたしなみ、村人の尊敬が篤く、私塾を主宰していた。 ( ) ここを紹介してくれたのは、河上彦斎 げんさい という熊本藩士だった。 肥後の人脈を広げるべく、国臣はこれまで何度か熊本城下を歩いた。山形典次郎をはじめ、小 ( ) 山一太郎、津田山三郎、轟武兵衛、宮部鼎蔵 ていぞう らと面談したが、山形を除いてすぐに気 脈が通じあう人物はいなかった。 224 東西南北人 そもそも肥後人には堅物が多い。 勤皇こそ盛んだが、他藩とは大きく事情が異なる。 ( ) というのも、熊本で国学皇学の師といえば、ほとんどの場合、林桜園 おうえん という神道色 の強い古老にたどり着くのである。だがその割には、同郷人に結束が見られない。個人的に談じ れば、少なくない人々が勤皇心を持つのだが、互いに連動するところがない。 そうした肥後人の気質に、国臣は違和感を覚えた。 国臣がこれまで築いてきた人脈は、右門との出会いを皮切りに、薩摩同志、京の学者、勤皇僧、 廻船問屋という具合に、次々に連鎖して広がったものである。 ところが、肥後人は概してバラバラで互いに連動していない。そのせいか、国臣がいくら勤皇 を熱弁しても、どこか冷めた反応で発展性がないのである。 ただそんな中でも、山形典次郎と最近知りあった河上彦斎だけはちがった。 二人とは馬が合うのである。山形とは初対面で意気投合して以来、熊本城下を通るたびに止宿 さ せて も ら っ て い る 。 ま た 、 六 歳 下 の 河 上 彦 斎は 十 七 石 の 微 禄で 西 郊 谷 尾 崎村 に 居 し て い るが 、 秀英多感な男である。皇学を林桜園に、文学を轟武兵衛に、兵学を宮部鼎蔵に学んだという典型 的な熊本人だが、柔軟な思考も併せ持っている。 河上は桜田事変のころ江戸藩邸にいたが、井伊襲撃後肥後藩邸に出頭した水戸浪士四名に応対 した稀有な体験を持っている。元禄のころ赤穂義士大石内蔵助以下十七名に肥後藩が礼節をもっ 225 東西南北人 て接した例にならって、この四名はわざわざ肥後藩邸に自首した。河上は、彼らの凛とした態度 に心を打たれ、志を新たにしたという。 こ の 河 上 彦 斎 か ら 薦 め ら れ て 、 国 臣 は 安 楽 寺 村 の 松村 大 成 を 訪 ね た 。 七 月 下 旬 の こ と だ っ た 。 「長州の藤井五兵衛と申しますが、道中で痳病をわずらい難渋しております。どうか診ていただ けませんでしょうか?」 そう言って患者に扮し、国臣は松村邸を叩いた。 松村は、どこの馬の骨とも知れない他国者を快く招き入れた。 「こんな田舎までよう参られた。さあ、どうぞ」 何気ない診断の中で、両者は互いの人物を探りあった。 どこか運命的なものを感じさせる出会いだった。国臣は、松村に田舎の名士以上の志操を感じ た。後に松村から聞いたことだが、松村の方も、眼光炯々とし口元の引き締まった国臣の面構え に、尋常の患者でないと感じたという。 この時代、療養滞在は珍しくない。 しばらく医者と患者として接していたが、三日の後、国臣はついに素性を打ち明けた。福岡藩 の盗賊方に追われている事情を正直に打ち明けると、松村は即答した。 「それはお困りでしょう。ここで良ければ、ゆっくり留まって下され」 河上から紹介されたとおり、松村大成は至誠の人だった。 226 東西南北人 これも後に聞いたことだが、大成はいつも先代の家訓を心に留めているという。 ―自分が父祖の跡を受け貨殖の道に進んだのは、一は子孫のためだが、別に国家のために用い んと欲したためである。国家のためならば、財を傾け家を亡ぼしても後悔なし― という家訓のようらしい。 こうして、八月上旬の時点で国臣は安楽寺村に仮居の目星をつけていた。 その後、福博や下関で盗賊方の追跡を切り抜け、今回高橋新八と約したことを機に、潜居を安 楽寺村へ移すことにしたのである。 安楽寺村の居心地は悪くなかった。 勤皇浪士といえども、財を食むだけの居候となっては肩身が狭くなる。 世話人に何か報いるところがなければ、申し訳ない気持ちばかりが先立ってしまう。幸い松村 は私塾を主宰しており、村の年少者たちがたくさん集まってくる。国臣は臨時講師となり、漢学 から国学、書歌などを教えることになった。 松村大成には四男二女がある。 長女は既に他家に嫁いでいたが、長男と次男は父親譲りの勤皇心を抱いている。 長男深蔵は二十四歳、次男大眞は十九歳である。二人は、客人が福岡の平野国臣と知ると歓喜 した。月照入水にまつわる国臣の評判を耳にしていたからである。 227 東西南北人 国臣は、年少の兄弟や塾生ともよく遊んだ。 思えば、六平太、たき、ちよと別れてから四年が経とうとしている。安楽寺村の子どもたちに わが子の面影が重なったが、その分愛情を注いでやるしかなかった。 医業の松村家では、腹調丸などの製薬も盛んに行っている。 当然、慣例どおり総髪である。国臣にとってここは容姿の上でも溶け込みやすかった。 「勤皇といえば、筑後の真木和泉守どのをご存じか?久留米藩から禁固処分ば受け、長いこと水 田村で蟄居されとると聞くが・・・」 数日後、大成がふと国臣に聞いた。 大成の知る限り、真木は勤皇心が最も篤い人物だという。 「ええ、私は富永漸斎という老師の下で国学を学びましたが、先生から真木どののことを聞いた ことがあります。昔富永塾に一度来られ、教えを乞われたことがあるとか」 ―真木和泉守― その名を耳にするのは数年ぶりである。 大成の話によれば、真木は 嘉永五年 に久留米の藩政改革で 失脚し、 禁固処分を受けたという。 もともと水天宮の神職だが、それも赦免されたという。嘉永五年といえばペルリ来航の前年だが、 足かけ九年に渡って蟄居していることになる。年齢四十七という。 和泉守と尊称が付くのは、真木が二十歳で水天宮大宮司となった際、神職の官位従五位下和泉 228 東西南北人 守を拝命したことにちなむ。 大成は面識こそないが、知人によれば偉大な体躯の持ち主で、目鼻口が大きく、迫力と威厳に 満ちているという。大成は、一度真木を訪ねてみてはどうかと国臣に薦めた。 「何でも真木どのは藩政に口出ししたことを省みて、山梔子(くちなし)にちなんだ山梔窩(さ んしか)という庵を結んで蟄居されとるらしい」 「口無し、という訳ですか?」 ( ) 国 臣 は 、 そ の 人 物 を 想 像 し た 。 正 式 名 は 、 従 五 位 下 真 木 和 泉 守 平 朝 臣 保 臣 やす お み で ある 。 代々神職を務める久留米水天宮は、平氏ゆかりの宮である。 壇ノ浦で平氏が滅亡した後、安徳天皇以下一門の御霊を弔うために建てられた庵が水天宮の発 祥である。真木家自身も平氏を遠祖に持つという。 平氏は武家として天下を握っても、幕府を開かずに天皇の臣として公家の立場から政を行った。 朝廷復権を掲げる国臣にとって、これこそまさに正道である。 真木はかつて水戸にも遊学し、 『新論』の著者である会沢正志斎から直接教えを受けたという。 天下第一級の人物であることは疑いない。 (これも同じ時代の、同じ九州に、同じ思想をもって生まれてきた縁かもしれん。思いきって会 いに行ってみよう) 229 東西南北人 九月二十六日の午後、国臣は水田天満宮を参拝した。 大成の長男深蔵を伴っている。深蔵は、父の敬慕する真木和泉守を遊客平野国臣が訪ねると聞 くと、居ても立ってもいられなかったらしい。従者として同行することを願い出た。 水田天満宮は、太宰府に次ぐ九州第二の天満宮といっていい。 真木和泉守の下の弟はここの神職大鳥居家の養子に入り、大鳥居理兵衛と名乗っている。つま り、真木は実弟の管理下で蟄居していることになる。 天満宮の脇に、大鳥居家の邸宅があった。 敷地の片隅に粗末な茅葺の庵が見えた。横目でそれを確認し、国臣は玄関へ回った。あいにく 主人は留守らしく、まだ年端のいかない子息が応対に出てきた。 国臣は、来訪の趣を述べた。 「実は私、太宰府の天満宮や宗像大社などで藩職に携わったことがあり、今回はじめて水田を訪 ねましたので、ごあいさつ申し上げたく寄らせていただきました」 「それは、ご丁寧にありがとうございます」 菅吉という子息は十代半ばで、理兵衛の次男らしい。 客間に通されると、菅吉は神職の子らしく熱心に各地の神事のことを国臣に尋ねた。 国臣には筑前各地に神職の知人がいる。有職故実に通じているほか、かつて鹿児島諏訪神社の 神職だった左門からも色々話を聞いているので、話題には事欠かない。 230 東西南北人 実直な菅吉は、教えを請うように国臣の話を聞いた。 しまいには、国臣が音律をたしなむと聞くと、奥から楽器を取り出してきた。国臣も、竜笛を 懐から出して応じ、しばらく合奏した。この間、松村深蔵は沈黙したまま後ろに控え、国臣の一 挙一動に注目していた。 頃あいをみて、国臣は口火を切った。 「実は、この竜笛は富永漸斎という私の恩師の形見なのですが、そういえば、こちらにいる真木 和泉守どのも、かつて漸斎先生を訪ねられたことがあるとか。恩師のよしみで、真木どのにひと 言ごあいさつできませんでしょうか?」 あどけない菅吉の顔から笑みが消えた。 「ご存じかと思いますが、真木は蟄居中の身ですので、あいにく家人以外と面会することは許さ れておりません」 もっともな返答である。 真木は菅吉の伯父に当たるが、蟄居中の罪人を監守する家の者であることを意識して、真木の ことを呼び捨てにしている。 大きくうなずくと、国臣は一段と真剣な表情となった。 「ごもっともにござる。では、それがしの意を紙に記すので、それを真木どのに取り次いでもら うというのはいかがにございましょう?」 231 東西南北人 思いがけない申し出に菅吉は少し困惑したが、すぐに小さくうなずいた。 「まあ、取り次ぐだけで宜しければ・・・」 謝意を述べると、国臣は携帯用の筆と半紙を取り出し、すらすらと歌を記した。 四の緒の 古き調の 音にめでて 富永門人筑前處士平野国臣 聞こえま欲しく かねて忍びつ 一発勝負の賭けだった。 真木は既に邸宅から流れてくる笛を耳にし、来客に気づいているはずである。ここは勤皇心を 表に出すより、恩師の縁に賭けようと考えた。かつて漸斎が真木のことを述べた際に、 「彼は琵琶に長け、いつか錦旗の下で弾じるのが夢と言うとった」 と、言っていたのをかすかに記憶していたのである。 しばらくすると、菅吉は客間に戻ってきた。国臣に半紙を渡しながら言った。 「真木からにございます」 そこには返歌が記されていた。 四の緒の 調べあわなくに 世の中に ひき乱されて 人をも今は 面会を遠慮したいという歌意である。国臣は、その筆跡を見つめた。 232 東西南北人 控えめな表現の中にも、いまだ世事を憂いている心が宿っているのを感じた。 国臣は今一度、菅吉に口頭での取り次ぎを頼んだ。 「お手数だが、ただひと言、今宵は必ずや調べもあいましょうと、お伝えいただけませんか?」 やがて国臣一人が庭隅の庵に案内された。 手前には山梔子が植えられている。実際の庵は、想像以上に小さく粗末なものだった。そこに は四畳半と四畳の二室しかない。目的の人物はそこにいた。 巨躯である。狭い居室だけに異様なほど大きく見えた。噂どおり目が大きく、顔立ちがはっき りしている。巨躯といえば薩摩の西郷を思い起こさせたが、西郷が相手を包み込むような雰囲気 を持っているのに比べ、真木はその体から志操があふれ出すような雰囲気を持っている。 国臣と真木は、時を忘れるほど語りあった。 互いの人物を理解するのに、それほど時間は掛からなかった。真木は、九年におよぶ蟄居生活 にもかかわらず国臣の勤皇論に敏感に反応した。国臣が世情を述べるにつれ、封印されていた真 木の赤心が少しずつ熱を帯びていくのが傍目にも分かった。 (この人物はただ者でなか。情熱と信念、才気を備えた第一級の人物ばい。年齢、風貌、見識か らして勤皇の旗頭にさえなり得る・・・) 国臣は、真木という人間の大きさに感動した。 その晩は、深蔵ともども隣家に泊まった。そして翌朝再び、大鳥居家で勤皇論を披露すること 233 東西南北人 になった。真木の求めに応じたものである。 集まった人々を前に、国臣は京情勢や月照入水、桜田義挙などを語った。蟄居の身のため表立 っ て で は な い が 、 真 木 は こ の 辺 り の 藩 士や 農 家 、 医 者 、 神 職 の 青 年 た ち に 、 国 学 や 歴 史 、 漢 学 、 書道、楽器などを教えているという。 筑前の月形や鷹取、肥後の宮部や轟、薩摩の西郷や大久保など、九州各地で勤皇同志が湧き立 っていることを付け加え、今後連携しなければならない必要を国臣は説いた。その上で、自ら近 日中に再び訪薩するつもりであることを述べた。 論じ終えると、訪薩後に再訪することを真木と約し、国臣は水田を後にした。 安楽寺村に戻った翌々日、高橋新八が来訪した。 一か月前に下関で国臣と別れてから、高橋は中央視察を終えて戻ってきたところだった。国臣 が渡した住所を手掛かりに、ここまでやって来たのである。 「そういえば、彦九郎の墓で国臣さァの刻銘を見ましたぞ」 再会するなり、高橋はそう言った。 「おお、遍照院に寄って来られたか」 高橋は久留米の彦九郎墓に立ち寄って、玉垣を寄進してきたという。そこで、左右の石燈籠に 刻まれた伊地知龍右衛門と国臣の名を確認したらしい。 234 東西南北人 ( ) 二人は早速薩摩行きを相談したが、高橋は同志の税所 さいしょ 喜三左衛門の到着を待って同 道することを提案した。 何でも税所も藩用で上京中らしく、先日まで高橋と大坂で一緒だったという。税所には安楽寺 村 で 落ち あ う こ と を 既 に 伝 え て あ り 、 今 ご ろ は 福 岡 を 経 て こ ち ら に 向 か っ て い る は ず だ と い う 。 福岡に立ち寄るのは、藩情の視察が目的らしい。 その言葉どおり、数日後、税所も安楽寺村にやって来た。 税所は国臣にあいさつを述べると、福岡藩の動向を知らせてくれた。 それによれば、福岡藩は目下混乱を極めているという。勤皇勢力に弾圧を加える動きが出はじ めているためである。対象は月形一門などである。 桜田事変後、月形一門は福岡勤皇党として行動を活発化させていたらしい。 五月には月形洗蔵が藩庁に建白書を提出し、参勤中止、幕政改革、対外武備充実などを訴えた という。そして八月には筑薩連携を図るべく、中村円太、江上栄之進、浅香市作の三人が脱藩し て密かに薩摩に向かった。今年正月、藤とともに国臣を白石邸に訪れた円太ら、若手同志による 突発行動である。 だが、藩上層部が幕府への恭順強化を打ち出したため、藩情は一変したという。月形一門など への処分が噂される一方、筑薩連携や両国の交易案についても慎重論が優勢になったという。 税所は、福岡藩庁に国臣を赦免するよう薩摩の意向を伝えたが、それも徒労に終わったらしい。 235 東西南北人 それどころか、福岡藩は藩政撹乱の根元を国臣に見ている節があり、盗賊方による捜索を続ける と回答したという。 「力及ばず、申し訳ない次第にごわす」 頭を下げる税所に向かって、国臣は笑みをこぼした。 「いやいや、身から出た錆にござる。筑前は筑前、それより今は薩摩でござろう」 それから三人は、国臣の入薩方法を話しあった。 税所は出張先が複数に渡っているため、単身の帰国でなければ不自然となる。相談の結果、国 臣を高橋の縁者に仕立て、従者に取り立てるべく同道させる形を取るのが一番安全だろうという ことになった。 方針が定まると、三人はそろって松村邸を発した。 国臣と高橋は並んで歩きながら、関所問答を念頭に入れて身の上話に興じた。 安楽寺村を南下すると、ほどなく高瀬や伊倉からの街道と合流する。 しばらく進むと前方に丘陵が見えはじめ、奥には風変わりな山容が望める。丘陵の名を田原坂、 山の名を半高山という。 これより十七年の後、この一帯は日本史上最も熾烈を極める戦場と化すことになる。国臣と並 んで歩く男は、西郷の指揮下で二番大隊長として奮戦することになるが、そうした未来について はまだ知る由もない。 236 東西南北人 三人は薩摩街道を南進し、出水口から入国した。 二年前、月照主従と通行を拒否された野間原の関も、薩摩藩士の従者として難なく切り抜けた。 これを見届けた税所は、国臣の入薩を同志に一報すべく先行し、国臣と高橋も後を追うように進 んで伊集院の坂木六郎宅に入った。そこから高橋のみが鹿児島へと向かった。 坂木六郎は、国臣より三十歳上の老士である。薩摩同志有馬新七の叔父であり、同志の活動を 側面的に支援しているという。 国臣は、そこで連絡を待った。 ほどなく有馬新七、田中謙助、高崎猪太郎の三人が城下から駆けつけてきた。 田中と高崎とはそれぞれ下関で会合しているので、旧知の仲である。有馬新七とは、事実上こ れが初対面だった。京の鍵屋に出入りしていたころにすれ違ったことがあるが、その時は互いを 知るまでには至らなかった。 有馬新七は、薩摩同志の中でも中心的な人物である。 同志の領袖といえば、奄美大島に流刑中の西郷を除けば、藩庁との調整役を担っている大久保 や堀たちである。有馬はその大久保より五つ、堀より一つ年上で風格があり、京や江戸に詰めて いたことから人脈が広い。闇斎学を修め、梅田雲浜や月照とも交流を持ち、藩内外で勤皇派の急 先鋒と評される。高山彦九郎にちなんで、「今彦九郎」とあだ名されるほどである。 237 東西南北人 その有馬が国臣をねぎらった。 「よう参られた。月照さまの事件より、おいたちにとって貴殿は藩外第一の同志にごわす。福岡 藩から捜索を受けておられるらしいが、薩摩に関わるばかりに迷惑をお掛けします」 薩摩人は示し合わせたように同じようなあいさつをする。 「いえ、身から出た錆にございます」 気さくに返す国臣に、有馬も好感を抱いたようである。 「福岡藩は薩摩の四人に庇護を与えた上、合力米まで支給していると聞いています。薩摩も爪の 垢をせんじて飲まねばならず、ただ今、平野どんの滞在許可を藩庁に申請しています」 これに謝すと、国臣は率直に聞いた。 「して、桜田事件後の藩情はいかがにござる?」 「あいにく良くはありもはん。困ったことに、忠教公は他国人との連携を嫌っておられる。おい たちの考えはむしろ逆で、他藩の士と積極的に事を計った方がいいと思うとります」 老君斉興が没して以来、薩摩では藩主後見として実父忠教が実権を握っている。忠教には斉彬 の遺志を継いで幕政改革に取り組む意思があると噂される。だが、その手法が問題だった。忠教 はあくまで挙藩一致、薩摩単体の行動を目指しているという。 だが、有馬同様、国臣もそれでは不十分と考えている。巨藩薩摩といえども、そう幕府に口出 しできるものではない。他藩連合を軸としなければ、それなりの発言力など持てないはずである。 238 東西南北人 しかも、最近江戸では気になる動きが出はじめている。 井伊の死後、幕閣は老中安藤信正と同じく老中に返り咲いた久世広周が中心となっている。 この新体制の方針は、公武一和である。 大獄が人々の反発を生み、大老襲撃をもたらした反省から、新体制は朝廷勢力と手を結ぶ路線 へ大きく舵を切ったのである。世間ではこれを幕府が軟化したと見なしている。 だが、国臣はむしろこれを危険視している。 幕府が朝廷と協力して国事に当たるというのは、なるほど耳触りは良い。しかし、これは取り も直さず幕府が権力を握り続けることを意味する。言ってしまえば、これは幕府の姑息な保全策 でしかない。幕藩体制そのものを変えるものでない限り、真の変革は得られないのである。 とはいえ、世間の動きは動きとして注視しなければならない。 事実、公武合体論は幕府の新しい方針として完全に定着しつつある。 (本来ならば公武合体論の化けの皮を剥がすべく、雄藩連合を作らねばならん時に、肝心の薩摩 藩が内向きでしかないとは・・・) 有 馬 に よ れ ば 、 今は とて も 他 国 人が 薩 摩 藩 庁 に 意 見 で き る よ う な 状 況 で な い と い う 。 国 臣 は 、 そのまま伊集院に留まるしかなかった。 翌日には高橋新八が戻ってきて、続いて有村俊斎もやって来た。 それぞれ鹿児島の情報をもたらしたが、国臣の滞在許可が下りなければ元も子もない。そのた 239 東西南北人 め、藩庁重職と折衝している大久保と堀から連絡を待つより他なかった。 数日後、大久保と堀がようやく伊集院にやって来た。 大久保とは月照事件の直後に重富駅で初めて会って以来、二年ぶりの再会である。だが、二人 の表情は固かった。まず大久保が重い口を開いた。 「 残 念 な が ら 、 平 野 ど ん の 滞 在 許 可は 下 り ま せ んで し た 。 藩 庁 は 他 藩 士 と の 交 流 を 認 め な い と 、 一点張りにごわした。挙句の果てに、他国者が入国しているなら調査に乗り出すと言いはじめる 始末で・・・ここは平野どんの御身のためにもご帰国された方が宜しいかと・・・」 「・・・・・」 国臣は、返す言葉もない。堀がこれに続けた。 「領内で手違いがあってはならぬゆえ、おいたちが国境まで送りもんそ」 是非もなかった。 国臣は、大久保と堀に付き添われ退去することになった。他の同志とは伊集院で別れ、三人は 二十里の道を北上した。肥後境まで三泊の行程である。 失 意 に 満 ち た 出 立 だ っ た が 、 わ ざ わ ざ 国 境 ま で 見 送 る と い う 大 久 保ら の 気 遣 いは 嬉 し か っ た 。 そしてふたを開けてみれば、これが実に愉快な旅路となった。 前向きで胆力のある若者には、 240 東西南北人 ―開き直り― という便利な機能が備わっている。 時にヤケクソで荒削だが、彼らは逆境にあっても意気消沈するということを知らない。空騒ぎ であろうが何だろうが、持ち前の元気をもって逆境を吹き飛ばすたくましさがある。 夜は決まって晩酌となった。 堀も、国臣も、いくつかの笑い話を披露したが、最も滑稽だったのは大久保だった。 大久保は、去年から碁を習いはじめたという。 きっかけは忠教の囲碁好きを耳にしたからである。はじめに、忠教の手合いを務める税所の実 ( ) 兄の吉祥院 きっしょういん 住職乗願に取り入ったという。大久保は乗願から忠教の手筋を細か く聞き出し、熱心にこれを研究した。これが功を奏し、やがて忠教の目にとまって相手を務める ようになった。この男が飛躍した直接のきっかけである。 大久保は、対局中の忠教を真似た。これが国臣たちの爆笑を誘った。 忠教は難局に差しかかると、決まって眉間にしわを寄せ、口を尖らせるという。しまいには顔 が紅潮しはじめるらしい。 「まるで茹で上がったタコにごわす」 大久保の細かい性格も手伝って、忠教本人を見たことがなくても、その動作が特徴を捉えてい ることが直感で分かった。この皮肉たっぷりの真似はたちまち国臣らの気に入るところとなった。 241 東西南北人 「大久保どん、あいばやってもんせ!」 「こィですか?」 大久保が堀や国臣の求めに応じるたび、笑いの渦が巻き起こった。 (こいつはただ者でなか・・・) 腹を抱えつつも、国臣は大久保正助を観察してそう思った。 普通、人間とは自分の視野を広げながら成長するものである。国臣もそう信じ、これまで諸国 遊歴を重ねてきた。多くの勤皇同志もまた同様である。 ところが、大久保一人だけはちがう。 この男が藩外に出たことは、上京する西郷に同道し肥後まで見送ったことが三年前に一度ある だけである。天下の学者と交わったこともなければ、国臣以外に他藩士との交流もない。 それでも同志の中で頭角を現し、忠教に積極的に取り入るなど、大久保の実力を疑う者はない。 国臣も大久保と会うのは二度目だが、議論の相手として不足を感じることはない。 (こいつは天才かもしれん。世の中には不思議な輩がおる。西郷といい、大久保といい、型には まらん男たちばい) 三人は出水筋を北上したが、野間原の関は警戒が最も厳重である。 こ の た め 米 之 津 で 舟 を 雇 い 、 海 にこ ぎ 出 す こ と に し た 。 長 島 を 回 遊 し 天 草 島 の 牛 深 に 着 く と 、 大久保と堀はそこで国臣を下ろして引き返した。 242 東西南北人 「国臣さァ、また必ず会いもんそ!」 二人は大きく手を振って海原へ漕ぎ去った。 牛深に渡った国臣は、宇土、熊本を経由して安楽寺村に戻った。 休む 間 も な く 筑 後 水 田 へ 進 んだ 。 訪 薩 後 に 再 訪 す る と い う 真 木 と の 約 束 を 果 た す た め で あ る 。 正直、報告内容は乏しい。 薩摩の現状は、他藩同志と連携するどころでなく、今は貝のように閉じこもったままだからで ある。それでも、近いうちに筑肥薩を軸に連携する機会がきっと巡ってくると国臣は考えている。 その意味でも、真木に薩摩の近況を報じておかなければならなかった。 言うならば、真木を再訪することにこそ意義があった。 勤皇志士にとって、己の言葉ほど重いものはない。義を貫き、約束を守り、信念の下に千里を 駆けてこそ、はじめて同志から信頼を勝ち得ることができる。十一月十一日、国臣は真木に訪薩 を報じた。 再び安楽寺村に戻ると、国臣はしばらく私塾や薬研を手伝いながら静かな日々を送った。 だが、心の平穏は長くは続かなかった。 ある日、父吉郎右衛門から驚きの書簡が届いた。福岡で勤皇派の人々が一斉検挙されたという のである。 243 東西南北人 書面によれば、八月に脱藩し薩摩に向かった中村円太、江上栄之進、浅香市作の三名が閉塞処 分となったという。鷹取や月形、海津らも蟄居処分になったらしい。竹馬の友の藤四郎や日高四 郎も捕らわれたとある。玄界灘の島々に流される見込みだという。 藩主長溥は、十一月十八日に発駕したと記載されている。 桜田事変後しばらく見送っていた参勤が、ついに再開されたのである。幕府への機嫌うかがい を前にして、反幕的な藩士を大量処分したことは明らかだった。日和見主義で打算的な福岡藩ら しい行動である。 (これで当分福岡には戻れんくなった・・・) 記されている同志たちの氏名を見つめながら、国臣は彼らの苦難を思った。 年が明けた。 万延二年だが、公武一和を掲げる幕閣は朝廷への配慮もあってか二月に再び改元し、「文久」 となる。 「万延」は完全に名前負けし、わずか一年で終わることになる。 ( ) 正月十四日、国臣と松村家の次男大眞は、熊本名物左義長 さぎちょう の見物に出かけた。 熊本城二の丸の西隣に藤崎神社がある。ここの祭事は火馬、流鏑馬、駿馬、飾馬など、多くの 馬を用いることで有名だった。 弓馬故実の研究家としては、これを見ない訳にはいかない。 244 東西南北人 とりわけここでは正月飾りの火中に馬を乗り入れるなど、神事の中でも豪気を養うものが多い。 これが肥後の士風となり、肥後武者の自慢となっている。 見物を終えた国臣と大眞は、熊本城北側の京町に宿を取った。 そこへひょっこり河上彦斎が顔を出した。 国臣に松村大成を紹介した男である。熊本西郊に暮らす河上は、時折国臣を訪ねては世事を談 じる仲になっている。その河上が唐突に言った。 「近くの酢屋という旅籠に権大納言中山家の御用人田中河内介さまが宿泊されとります。いっそ そっちに宿を移しませんか?」 むろん、国臣はその名を知っている。 ( ) 但馬出石 いずし 出身の高名な儒者で、中山家御用人に取り立てられた人物である。 諸大夫河内介に任ぜられたことから、俗に田中河内介と呼ばれる。数年前に御用人を辞してか ( ) らは、京の丸太橋東詰に臥龍窟 がりょうくつ と呼ばれる寓居を構えている。 国臣も、安政六年正月に月照の入水を近衛家に報ずべく入京した折、そこに寄ったことがある。 だが、あいにく主人は留守で面会は叶わなかった。 (なぜそのような人物が熊本にいるのだろう?) 不思議に思いながらも、国臣と大眞は河上に導かれて酢屋へ移った。 偶然は偶然を呼ぶ。 245 東西南北人 酢屋に入ると、たまたまそこに熊本遊学中だという但馬人二名が滞在していた。河上がそれと なく話しかけると、桜井熊一と西山員直という豊岡藩士だという。 やがて辺りが暗くなったころ、田中河内介が外出先から戻ってきた。子息の左馬介をともなっ ている。林桜園が営む坪井川沿いの原道館を訪ねてきたようだった。 早速面会を申し入れたが、既に夜分であるため翌朝改めてということになった。話の成り行き から、同宿の但馬人も加わることになった。 翌朝、国臣らは田中父子と会見した。 中山卿に乞われて出仕した人物だけあって、河内介は顔も体格も引き締まり、凛とした雰囲気 を漂わせている。年齢は四十代半ば、左馬介はまだ十代半ばである。左馬介は父の傍らで世事を 学んでいるらしく、澄んだ瞳を輝かせている。 国臣は無言のまま頭を垂れ、半紙にさらさらと記した。 ―長州清末の歌人、田中作八と申し候。耳に難あり、筆談での会談をお許し願いたい。同宿の 栄誉を拝し、ごあいさつ申し上げ候― ( ) 国臣は、聾唖 ろうあ を装った。 肥 後 熊 本 とは いえ 、 世 間 の お 尋 ね 者で あ る 以 上 、 う か つ に 本 名 を 名 乗 る訳 には い か な か っ た 。 下関の事情に通じているため、便宜上清末出身と名乗った。歌人と称したのは、その方が筆談し やすいと思ったからである。 246 東西南北人 国臣は、はじめに田中父子に来訪の趣を尋ねた。 河内介は豊後を経由してきたらしく、これから太宰府に向かうと返書した。 九州訪問は三度目だという。今回は豊後竹田で小河弥右衛門を訪ね、続いて阿蘇大宮司と会見 してきたという。面会の相手からして、河内介が勤皇家であることは間違いない。 そこまで筆談したところで国臣は筆を置き、続く会話を見守った。といっても、理解不足を装 わなければならず、時折意味もなく視線を泳がせたりした。 幸い二人の但馬人が、河内介から多くの話を引き出してくれた。 それによれば、河内介は安政三年に真木和泉守を訪ねたが、謹慎中の真木に会うことができな かったらしい。安政の大獄の折には難を逃れるべく、豊前小倉に半年ほど滞在したという。 耳だけを機能させ、国臣は河内介の言葉一つ一つを噛みしめた。じわじわと伝わってくる勤皇 の赤心に国臣の心もいつのまにか満たされていた。聾唖を装ったにもかかわらず河内介の信条に 踏み込めたのは、両但馬人と河上のおかげだった。 (左義長が引き寄せてくれた縁かもしれん・・・) 会見が終わり、桜井と西山が外出すると、国臣と河上、松村大眞の三人は、改めて田中親子の 居室を訪ねた。 国臣は、先の聾唖の風を丁重に詫びた。 そ し て 本 名 を 告 げ 、 真 木 を は じ め 九 州 各 地 の 勤 皇 志 士 と 気 脈 を 通 じ て い るこ と を 打 ち 明 け た 。 247 東西南北人 さっきとはまるで人がちがう国臣の言動に、河内父子は驚き眼光を尖らせた。 面談の結果、一行はそろって安楽寺村へ向かうことになった。田中父子にとってはどのみち太 宰府への途次である。 松村邸に着くと、大成も加わり心ゆくまで勤皇を談じあった。 河内介は、上方の動向を詳しく語った。そこには、孝明天皇の妹宮を将軍家に降嫁させようと する幕府の信じがたい動きがあることも含まれていた。河内介と国臣は互いの人物を認め、皇権 復活のため今後協力することを約した。 文久元年の夏、国臣は牛深にいた。 昨年十月、大久保と堀に舟で送られて以来、数か月ぶりの肥後南西端の地である。 こ の 地は 熊 本 か ら あ ま り に 遠 い 。 あ る 意 味 、 秘 境 と い う 表 現が し っ く り く る ほ ど 距 離 が あ る 。 はるばる牛深まで来たのには、二つの理由があった。 一つは、福岡藩盗賊方から逃れるためである。 五月に入ると、福岡藩庁は捕縛者の追加発表をした。伝聞によれば、家老預けや流罪者など対 象者は三十名を越えるという。 そ れ で も 、 藩 庁 は 藩 論 撹 乱 の 元 凶 た る 国 臣 を い ま だ 捕 ら え て な いこ と に 苛 立 っ て い る ら し い 。 下関方面を執拗に嗅ぎ回っていた盗賊方も、筑後や肥後に目を転じはじめている。安楽寺村がい 248 東西南北人 つまでも安全という訳ではなくなった。 松村家は医業を営むため、人の出入りが多い。最近、偵吏とおぼしき男が国臣の素性を尋ねた こともあって、しばらく身を隠した方がいい状況になった。 別に、もう一つ重要な理由があった。それは、 ―持論を文章にする― ということだった。 ここのところ、国臣は人知れず葛藤を抱えていた。自分の考えと進むべき道を、いま一つ明確 に示しきれずにいたからである。 幕府は、公武合体という大衆迎合の看板を掲げたままである。 河内介が言っていたように、ついには天皇の妹である和宮を将軍家茂に降嫁させるべく、朝廷 に攻勢をかけているという。もしもこの縁談が調えば、天皇家と将軍家は義兄弟となる。それは 次の将軍に天皇家の血筋が入ることを意味し、権威を保ちたい幕府にとっては好都合となる。 だが、国臣にしてみればこれこそ愚の骨頂である。 将軍はあくまで天皇の臣下であって、義兄弟ではない。この論旨を明確にしなければ、国体そ のものが揺らぎかねないのである。 問題は、世間で勤皇を唱える声が多くても、それを具体的変革に昇華させる意見が見当たらな いことにある。このため、国臣は自らの考えを整理し、誰もがそれを読める形にする必要を感じ 249 東西南北人 ていた。 それというのも、勤皇家は各地に点在するが、彼らの思考や目標にはまるで一体感がないので ある。天皇崇拝を精神論的に掲げる者がいる一方、攘夷主義の背景に利用する者もいて、共通性 に乏しい。こうした状態が続く限り、勤皇志士は個別撃退されてしまう危険を常にはらんでいる。 これは筑肥薩の例を見ても明らかだった。 筑前では、幕府に恭順を示すために志士が一斉に捕縛されている。肥後では、個々の志士を結 合させる努力が欠け発展が見られない。薩摩では、挙藩一致の藩是に固執するばかり志士が飼い 殺しにされている。 こういった惨状を打開するためにも、藩枠に捉われることのない勤皇派共通の理念を示さなけ ればならない。その一助にすべく、持論を文章にしようと考えた。 と は いえ 、 論 文 を 書 く 以 上 、 有 力 者 の 目 に 触 れ な け れ ば 大 き な 効果 は 期 待で き な い 。 そ こ は 、 かつて藩主に上書を提出した男である。気持ち一つで誰にだって書くことができる。割り切って ありったけの思いをぶつける相手を考えた時、頭に浮かぶ人物が一人いた。それが、 ―薩摩藩主― だった。 といっても、藩主は若年茂久であるため、実質的には実父忠教ということになる。折しも、そ の忠教は四月に島津宗家に復帰したばかりで、久光と改名していた。 250 東西南北人 国臣が久光について知っていることといえば、大久保が真似ていた、例の囲碁を打つ滑稽な仕 草くらいである。それでも、 (薩摩が動かなければ、討幕など叶うはずもない) と強く思うだけに、この指導者にぶつけるしかなかった。 歴史を振り返っても、薩摩ほど胆勇な地はない。古くは隼人の乱にはじまり、秀吉の天下統一 においては終盤まで対抗し続けた。関ヶ原では小勢だったにもかかわらず、徳川本陣に向かって 決死の退却戦を展開した。こうした戦史すべてが、覇者への挑戦である。 それを踏まえれば、討幕という悲願のためには是が非でも、 ―薩摩の底力― を組み込む必要があるというのが国臣の見立てである。 天草の空気は世の喧騒とは無関係に、どこまでも澄みきっている。 国臣は、再び河上彦斎の紹介を受け、ここで寺小屋師匠の食い扶持を得ることができた。早速 浜辺の空き家を借り、古びた机を譲り受けて質素な書斎を作った。 戸を開けると、南国の海風が入ってくる。 借家からの景色は、浜に繋いでいる舟々の向こうに小島が浮かんでいるくらいである。その奥 に大きな島影がある。出水郡長島つまり薩摩領である。 251 東西南北人 長島を臨む位置に机を据え、国臣は筆を執った。 思考をめぐらせ、はじめに論点を整理した。そして少しずつそれらを文章に練り上げる日々を 送りはじめた。天下国家を論じる書だけに、格調高い漢文体とした。といっても、素浪人がつづ る我流の文章でしかない。 華美な表現に走ることなく、あくまで内容に重点を置いた。長島の情景に薩摩への思いを重ね つつ、ひたすら筆を動かした。その熱い思いには、恋にも似た一途さがあった。 朝寺小屋に行っては、借家に戻って長島と向きあう。そんな執筆生活は三カ月に及んだ。七月 にようやく脱稿したその論文は、七千語を越える長大なものとなった。その著書を国臣は、 『尊攘英断録』 と名付けた。 「尊攘の英断を促す」という大胆不敵な標題である。以下、その要旨である。 謹んで天下の形勢を観るに、黒船来航以来九年、幕府の無策ぶりは極まっている。 論調らしい論調が見られなくもないが、どれも空論ばかりで実行性がない。その場しのぎの小 手先を論じるにすぎない。このまま手をこまねいては、ますます外夷の術中にはまっていくばか りである。 開港によって四海八面が西洋の巣窟となり、周到な商売の計をもって日本の財が奪われ続けて いる。金貨の大量流出、物資不足、物価高騰など世の中は混乱を極めている。これ以上の混乱を 252 東西南北人 防ぐには、一時的に門戸を閉じ、外国船への食料提供を中断し、内政の充実を優先させなければ ならない。 と りわ け 幕 府が 外 夷 の 圧 力 に 屈 す る ま ま富 士登 山や 内 地測 量を 許 し た こ とは 未 曾有 の 恥 辱で ある。王命に背く幕閣をこのまま放置しては、信用も忠義も崩れ落ち、神は怒り、民は叛き、転 変地異が起きかねない。戦禍すら招きかねない。 これを回避し、日本人の心を一つにする策こそが王室を尊ぶことである。 王室であればこそ、覇者の私計に惑わされることなく、正明な名分をもって天下を刷新できる。 幸い今上帝は希世の聡明英知、神武不殺の元聖であられる。 治世が窮すれば、乱を招くのは必至である。そうなる前に制度を改め、国を健全に立て直さな ければならない。 はじめに雄藩が力を合わせ、天子の車を促し、親兵をもって海内一定を図ることが急務である。 それが実現できれば、後日たとえ外夷と戦火を交えることになったとしても、大敗を喫すること はないはずである。 大坂と堺、兵庫の畿内三港の開港盟約は、来年十月に期限が迫っている。この幕府による勝手 な盟約によって、叡慮は悩まされている。 明石や由良の水道は、たとえれば宮門である。 これらを開港することは蚊帳の中に蚊を招き入れるようなものであり、天下無道の極みとしか 253 東西南北人 言いようがない。まさに栄枯存亡を決する重要事項である。今はまだこれら三港を開くべき時期 ではない。 物事には時節がある。時が至れば物事が成るのは天地の常である。 来 年 は 嘉 永 六 年 の 黒 船 来 航 か ら 数え て 十 年 、 安 政 五 年 の 大 獄 か ら 五 年 の 節 目で あ る 。 加え て 、 来年は天に彗星が現れるというから、時節の到来を象徴している。改革の機運は熟している。明 年こそが事を挙げるその時である。 ( ) 親兵の発動については、密かに詔命 しょうめい を請い、雄藩が連携して兵を挙げ、まず大坂 城を抜いて天子を奉じるのが上策である。 その上で、靑蓮院宮を征夷大将軍とし、伊勢神宮に拝し、神軍として堂々と東征する。外寇に 備えるためにも、国内統一を速やかに行うべく、一大決心の下に大軍を率いて電撃的に事を進め なければならない。 全国の海岸に砲塁を築き、外夷に備える必要がある。 ( ) 廃仏毀釈 きしゃく を促し、寺人の一部を兵卒に転身させ、武を講じ、航海の術を習わせるべ きである。また、全国の罪人をもって蝦夷や無人島を開拓させ、砲艦を練り、内地にあっては騎 射を講じる。砲艦が整った段階において三韓と渤海を制し、商船を派遣して上海や香港で外国事 情を探索する。 さらには、皇国に則した衣服の制に改め、帝都を広く盛んな地に移すべきである。 254 東西南北人 平安京は四方を山々に囲まれた要害だが、皇都は元より犯されるものではなく、自然の嶮を必 要としない。 大学国学の制を興し、国体を明らかにして学風を改革する。 皇族をもって大将軍に任じ、全国の海岸を巡視する。天子は自ら兵仗を帯び、皇子親王や公卿 群臣を率いて 閲兵す る。祭祀を興し、騎射相撲の 類を復古して 先祖 本来の徳行を重んじてこ そ、 万世の天功となる。 以上が、積年温めてきた小生の愚考にございます。 生国を離れて四年、いまだこれらの成就を見るに至らず、非礼を顧みず神明に誓うまま公に誠 意を陳べること、まさに天地震動にございます。 言は書き尽くせず、意は言い尽くせません。無学の上知識も足らず、つたない文章にて恐縮に 東西南北人 天 民 敬 申 存じます。公の憐みと英察のほど宜しく頭を垂れる次第にございます。失敬死罪。 (これで俺は死んでもいい・・・) 国臣は、率直にそう思った。 これまで諸国遊歴の中で、勤皇や討幕を何百回となく論じてきた。 だが、思いの丈をここまで表現できたことは一度もなかった。はじめて己の分身ともいうべき 『尊攘英断録』が脱稿した今、たとえわが身は滅びても魂は生き続けるような気がした。 255 東西南北人 とはいえ、一応の形にこそなったが、一介の浪人が書いた素人論文であることに変わりはない。 自ら名乗ること自体が非礼だし、たとえ国臣の名を記したところで何の意味も成さない。このた め、筆者名をただの ―東西南北人― とした。 江戸から長崎、また薩摩から筑前を遊歴してきた国臣にとって、これ以外に自らを適切に表現 する言葉を思いつかなかった。 執筆を終えると、国臣は原稿を抱えて舟に乗り込み、単身薩摩への潜入を試みた。 だが、沿岸の警備が厳重で近寄ることができず、断念せざるを得なかった。やむなく牛深に引 き返し、九月になって天草を離れることにした。 『尊攘英断録』を書箱に収めて背にくくり付け、 天草下島、上島、宇土を経て熊本に戻った。ひとまず西郊の谷尾崎村に寄った。 ここに河上彦斎の居宅がある。 この半年、僻地の牛深で世事をほとんど耳にしていない。ここではじめて、皇女和宮が十月二 十日に江戸に降嫁する予定であることを知った。国臣は、最近の世事を河上から聞き出すと、安 楽寺村へと向かった。 「これは傑作ばい。論点も明快やし、文体も崇高ばい。これならば薩摩の殿様をうならせること 256 東西南北人 ができよう・・・」 松村大成は『尊攘英断録』を絶賛した。 口をキッと結び、何度もうなずきながら繰り返し文章を眺めている。無理もない。これほど高 らかに尊皇と討幕を唱えた文章は、この時点で日本のどこにも存在しないのである。 それはそうと、松村は 国臣の留守中に福岡藩の捕吏が ついに安楽寺村まで来たこ とを告げた 。 いつ再来しても不思議はないという。 ひとまず松村邸を後にし、国臣は筑後方面へ向かった。どのみち英断録を真木和泉守にも見せ なければならない。 薩摩街道を一気に瀬高宿まで北上した。真木のいる水田はもうすぐそこである。 だが、国臣は突然進路を西に変えた。柳河城下をかすめ、若津と小保浦まで進んだ。 ここで月照主従と十日ほど潮待ちしたのは、ちょうど三年前のことである。当時の記憶がまざ まざ とよみがえ り、国臣の心を締めつけた 。 目に 浮か んだ 涙をぬぐい、国臣は 対 岸へと 渡った 。 目指す先に、肥前佐賀がある。 ( ) 胸には一つの決意を抱いていた。それは、『尊攘英断録』を佐賀藩主鍋島閑叟 かんそう に提 出することだった。 この論文が薩摩藩主を想定して起草されていることは言うまでもない。 だが、実際のところは「邦君」という汎用語を用いているだけで、どこにも「薩摩」という固 257 東西南北人 有名称を記載していない。勤皇を胸に秘める雄藩の藩主であれば、そのまま適用できる内容にし ているのである。 国臣は、これを試しに佐賀藩主にぶつけようと考えた。 ( ) 佐 賀 を 選 んだ 特 別 な 理 由は な い 。 儒 者 の 草 場 佩 川 は いせ ん の 名 が 西 国 に 轟 いて い る 以 外 は 、 さして佐賀人の噂もない。勤皇家も数人が伝わっている程度でしかない。 それでも、鍋島閑叟は開明賢公との評判がある。 他藩に先駆けて反射炉を築き、洋式大砲を長崎警備に配備し、もっぱら洋式銃陣の訓練を施し ているという。その極端な西洋式化の背景に何か思惑があるのか、あるいは単なる西洋かぶれか ら来ているのか知る由もないが、佐賀藩が最先端の技術立藩であることにちがいはない。 そもそも閑叟の思想が佐幕と勤皇のどちらなのか定かでない。 どちらにせよ、変わり者であることにちがいはなさそうである。国臣は、その閑叟の非常識に 賭けてみようと考えた。どのみちある種の変人でなければ、無名浪人の論文などに興味を示すは ずもないのである。 英断録に記したように、来年こそが勝負の年になると国臣は見ている。 年末に再び訪薩し、薩摩藩庁に英断録を献納するつもりだが、その前に他藩藩主の賛同を得る ことができればそれに優ることはない。 とはいえ、他国浪人が藩主へ具申するなど、常識的に許されるものではない。佐賀の藩情がよ 258 東西南北人 く分からないだけに、大胆行動によって拘束される可能性もある。それも覚悟の上だった。 十月初旬、国臣は佐賀城下に入った。 だが、ほどなく鍋島閑叟は江戸参勤のため先月二十六日に発ったばかりであることが判明した。 藩主が不在では打つ手もない。佐賀には知人もないため、とりあえず地元勤皇家の噂のある枝吉 神陽を訪ねることにした。 佐賀城の北に八幡宮がある。 この境内に、安政の大獄がはじまる直前、楠社が創建されている。 当代にあって楠公を祀る一派は、勤皇派と同義である。佐賀の場合、その義祭同盟を作ったの が枝吉神陽であることを国臣は耳にしていた。 実際に面談した枝吉は、細身で気概を感じさせる壮士だった。国臣の六歳上である。 江戸の昌平黌で学び、藤田東湖や頼三樹三郎とも交わったという。帰藩してからは藩校で国学 を教えているらしい。国臣は、あいさつ代わりに幕政の問題点を論じはじめたが、 「いや、そういう話ならしばらく」 と、枝吉は一時の中断を求めた。 すぐに使いを走らせ、副島次郎と大木民平、江藤新平という三人を呼び寄せた。副島は枝吉の 弟で 国臣と 同じ 齢、 大 木は 四 つ、 江 藤は 六 つ 下で あ る 。皆、 義 祭同盟 に 参加した 面々だ と いう 。 四人を相手に、国臣は勤皇を論じた。 259 東西南北人 結果的には、彼らとの議論はかみ合うにはかみ合ったが、一定の溝は埋まらなかった。理念は 一致するのだが、それを実現させるための行動において情熱が全く伝わってこないのである。国 臣の討幕論に対し、佐賀人たちは冷淡とも消極ともつかない不明瞭な弁を並べた。 透明度を欠く彼らの弁は、どこか有明海の干潟を連想させた。それなりに尊皇を論じる割には、 主体性や積極性がともなわないのである。 打ってもすぐに響かない点では、肥後人と似かようところがあった。 と い っ て も 、 肥 後 人 の 場 合 は 、 軽 々 し く 人 と 迎 合 す るこ と を 卑 し む 傾 向 が 強 い 。 そ れ だ け に 、 いったん意を決しさえすれば、容易に物事に動じない重厚感がある。 と こ ろ が 、 佐 賀 人 の 場 合 は 、 論 理 的 思 考こ そ 働 く の だ が 、 ど こ か 天 の 邪 鬼 な と こ ろ が あ っ て 、 明快な言動になりにくいのである。肥後人とちがい佐賀人には結束力はあるが、それは薩摩同志 のような団結力ではない。むしろ、藩則に縛られた統制力といった印象である。 そんな気質でありながら、佐賀は諸国随一の洋式軍隊を有するのである。 それが幕藩体制のためなのか、それとも朝廷復権のためなのか分からないため、ある種の不気 味さが漂う。外夷に備えるためと一応論じるのだが、その割には佐賀藩が攘夷の先駆けとなるよ うな動きは微塵も感じられないのである。 ( ) 佐 賀城 下を 去 る と 、 国 臣は 長 崎 街 道 を 折 り 返 し た 。 筑 前 に 入 り 原 田 は るだ 宿 か ら 道 を 折れ 、 馬市に岡部諶助を訪ねた。 260 東西南北人 七歳上の岡部は農村にいながら勤皇の志が篤く、国臣の良い兄貴分となっている。 鷹取や月形、藤、中村といった城下の同志がことごとく処分を受けた今、国臣が最も頼りにで きる同国人となっている。折々に潜伏場所や往信拠点として利用させてもらっている。 国臣は、英断録を岡部に見せた。 岡部は姿勢を正し、目を潤ませながら全文に目を通した。 読後多くは語らなかったが、その表情から感銘を受けたことは明らかだった。ただひと言、国 臣を見つめながらつぶやいた。 「いずれ決起の時がきたら、俺にも必ず声ば掛けてくれ。すぐに馳せ参じよう」 「もちろん。岡部さんがおらんと討幕できるもんもできんくなる」 翌朝、国臣は父宛ての書簡を岡部に託し、馬市を発った。 十月二十三日、国臣は水田に着いた。 真 木 和 泉 守 を 訪 ね る の もこ れ が 三 度 目で あ る 。 早 速 、 天 満 宮 留 守 職 の 大 鳥 居 家 の 門 を 叩 く と 、 主人理兵衛が出てきた。真木の実弟である。 続いて真木自身も現れた。意外なことに、真木は山梔窩でなく本邸にいた。奥にはさらに数人 の気配がある。どうやら親族の集まりが行われているようだった。 事 情 を 呑 みこ む な り 、 国 臣 は 出 直 そ う と し た が 、 真 木 に 呼 び 止 め ら れ 強 引 に 引 き 入 れ ら れ た 。 261 東西南北人 客間には五人の親族がいた。真木以外の旧知の人は、はじめて訪れた時に応対してくれた大鳥 居の子息菅吉だけである。 真木は無遠慮に声を上げた。 「心配はいらん。福岡の平野国臣君ばい。久留米藩とは関係なか。蟄居中のわしを訪ねて来られ、 ( ) 色々世事を教えていただいとる。平野君は禁闋 きんけつ を慕うこと第一等の志士ばい」 大げさな紹介に国臣は思わず身をたじろがせたが、傍らの若い男女は、真木の言葉に安堵した 様子だった。 ( ) 「すまん平野君、紹介が遅れた。これは娘の棹 さお と次男の菊四郎じゃ」 「棹にございます。父がいつもお世話になっております」 指をついてお辞儀する仕草に、柔らかな品がある。 「平野次郎にござる。こちらこそ、父上様からは身に余るご厚情を賜っております」 菊四郎ともあいさつを交わし、真木はさらに続けた。 「こっちが当家の主大鳥居だ。主人理兵衛はわしのすぐ下の弟じゃ。平野君とは今回が初めてや ったかな?」 「はい。ご尊顔を拝し、恐悦に存じます」 ひと通りあいさつが済むと、親族たちは話題を元に戻した。 その内容から察するに、お棹と菊四郎は近くに所用で来たようである。ついでに蟄居中の父を 262 東西南北人 按じて立ち寄ったらしい。話題の中心は、真木の日々の食事や運動など健康面である。 「どうせ母の入れ知恵だろう。平野君、わしには睦子という九つ上の妻がおってな、これがいつ も小うるさいことを言うてくれる」 「はぁ」 国臣としては返すべき言葉がない。 そこに、お棹がはっきりした口調で割り込んだ。 「自覚しておられるのなら、もう少し自身でお気遣い下さい。瀬下の者は、皆父上のことを心配 しているのですよ」 「父のことを心配する暇があるくらいなら、お前たちはもっと自分のことを心配せんか。ちょう どよか。平野君にわしの愚痴でも聞いてもらおう。開けっ広げなことだけが、わが家の取り得と いうもんばい。平野君、一つ聞いてはもらえまいか?」 「はァ、私でよろしければ」 どうやら国臣を緩衝材に使おうという魂胆らしい。である以上、真木の話しやすいようにここ は付き合うしかない。嫌がるお棹と菊四郎をよそに、真木は身内話をはじめた。大鳥居の親子は これを微笑して見守っている。 真木の話をかいつまめば、妻の睦子は数年前から肺を煩っているという。お棹は一度嫁いだが、 どういう理由か離縁して出戻って久しいようである。そして菊四郎は、町娘と駆け落ち騒動を起 263 東西南北人 こした挙句、最近子まで設けたらしい。 「父上、いい加減お止め下さい。そんなみっともない話ばかり聞かされてしまっては、平野さま がお困りになるでしょう?」 「いや、私は別に・・・」 国臣は、真木家に無上の愛着を抱きはじめていた。 真木が語った家庭の事情は、身内にとってはそれぞれ深刻な問題にちがいないが、よくある話 といえばそれまでである。それらは聞く者の眉をひそめさせるようなひどい話ではない。 む し ろ 、 犬 も 食 わ な い よ う な 身 内 話を 笑 い 話 に し て し ま う 器 量が こ の 家 族 には あふ れ て い る 。 しかも、何気ない会話の中で妻子が父を慕い、父が妻子を思いやる気持ちがにじみ出ている。 身内の会合が終わると、真木は国臣を山梔窩に誘った。 「棹と菊四郎も明後日までおるようだし、平野君もゆっくりしていくとよか。ついでといっては 何だが、そなたに頼みたいことがある」 「何でしょう?」 尊攘英断録を真木に見せるために訪れた国臣だったが、思いがけず真木の身内に出くわし、肩 透かしを食らう形となった。だが、悪い気はしなかった。むしろ、真木家の清々しい家風に接す ることができたのは幸運だと感じた。 真木の頼みとは他でもない。次男の菊四郎に男子の心得を一つ説いてやってほしいというもの 264 東西南北人 だった。 長男の主馬が実直温厚で、蟄居中の父に代わって水天宮職を務めているのに比べ、次男の菊四 郎は未熟な上、学問も遅れているという。菊四郎は十九歳だが、素読も三年前にはじめたばかり らしい。末っ子として奔放に育てたせいか、両親や兄弟がいくら説いても効果がないという。挙 句の果てに、未熟なまま最近父親になったので、男子の剛毅や覚悟について何とか国臣から諭し てやってほしいという。 「私は藩職を投げ出した上、妻子を捨てたような男ですから、人様の模範となるようなことは何 一つ申し上げられませんが・・・」 「 そ れ は 謙 遜 で あろ う 。 男 子た る も の の 覚 悟や 決意 に つ いて 話し て も ら え ば 、 そ れ で 十 分 じ ゃ 。 わしからも言って聞かせるつもりだが、どうせわしの話などろくに聞きはせん。平野君の話なら、 あいつもきっと耳を傾けよう。ひとつ頼まれてはくれまいか?」 国臣は、小さくため息をついて返した。 「分かりました。私も白状すれば、有能な兄の下に育ち、素読も遅れ、婚前に相手の腹に申し分 を生じさせた身にございまする。菊四郎どのとは境遇も酷似しておりますゆえ、男同士一つ談じ てみましょう」 「なんと、勤皇の志士にもそげん経歴がおありやったか?」 「いかにも」 265 東西南北人 二人は目を丸めて視線を合わせ、大笑いした。 翌日の午後、国臣は菊四郎を外へ誘った。 父や 姉 の そ ば で は 羽 を 伸 ば し に く い だ ろ う と 気 遣 っ た か ら で あ る 。 二 人 は 並 んで 歩 き な が ら 、 世事や趣味、志向など雑談に興じた。なるほど父の言葉どおり、菊四郎の学識はまだ浅く、意識 的にもあどけなさが残っていた。 だが、そこは真木和泉守の男児である。荒削りながらも根底に気概や胆力が宿っていることを、 国臣はそうした会話の端々に感じ取った。 帰宅後、国臣は真木に短く報告した。 「心配には及ばんでしょう。菊四郎どのは大丈夫です」 「そげなもんか?」 「はい。そげなもんです」 三日目の朝、国臣はお棹と大鳥居邸の一室にいた。 菊四郎は、父に呼ばれて山梔窩にある。大鳥居家の人々も天満宮の行事を控えて皆多忙で、朝 から出払っている。父から指示されたのか、お棹は琴まで用意していた。 「不躾かと思いましたが、平野さまが音律を好まれるとお聞きし準備いたしました」 「それはわざわざ。私が音律を好むことをどなたから?」 266 東西南北人 「菅吉さんから聞きました。以前、ここでお見事な笛を披露なさったとか?」 「下手の横好きです。それも父上様に面会すべく、あの手この手を使ったまでのこと」 「あの手この手?宜しければ、お聞かせいただけませんか?」 父と国臣の関係について、お棹は関心を持っているようである。 興味の対象が父なのか、浮浪の士なのかは定かでない。ただ、爛爛と無邪気に輝くお棹の目が 国臣に向けられた。 「話すほどのことはなかです。竜笛は菅吉どのと話の弾みに奏じたまで。面会申し込みには歌を 取り次いでもらいました」 「へぇ、どのような御歌ですか?」 お棹の好奇の目は、ますます丸くなった。 あ ど け な い 質 問 に 、 国 臣 も 思 わ ず 微 笑 んだ 。 そ し て 自 分 の 歌 と 真 木 の 返 歌 を 諳 んじ て み せ た 。 お棹は視線を落とし、歌の意味を理解しようとした。やり取りの情景を想像しているようでも ある。それは純粋なほど澄んでいて、目力のある美しい目だった。 国臣は一瞬ドキッとしたが、次の瞬間、お棹の中でも何かが氷解したようだった。 歌意を理解したのか、父と浪士の関係に納得したのか、ハッとふっ切れた表情となった。 「いけませんわ。何でもズケズケ人に聞いてしまうのが棹の悪い癖です。また父に叱られてしま います。どうかお許し下さい」 267 東西南北人 笑顔で詫びようとするお棹に、国臣は愛おしさを覚えた。 「それを悪い癖とは言いませんぞ」 「え?」 二人の視線が重なり、お棹は一瞬言葉を失った。次の瞬間、お棹の頬に小さな笑みが浮かんた。 「有難うございます。少しでも御心安めになれば幸いです」 お棹は両手をそろえてお辞儀すると、立ちあがって琴の脇へと回った。 右手の親指、人差し指、中指と順に爪をつけ、二三の絃を軽くはじいて箏柱を調弦した。一連 の動作には無駄がない。表情をのぞくと、先ほどの無邪気さは消え、凛と引き締まっている。 (さすがは真木家の才女。素養と気品がある) お棹は会釈すると、絃を鳴らしはじめた。和やかな箏音である。 朝の空気に遠慮がちに鳴りはじめた絃音は、国臣の心に響いた。右手の指が弾く主旋律には確 かな主張があり、弦を押さえる左手がそこに和やかな余韻を与えて辺りに広がった。 国臣は、究極の奏法とは、奏者と楽器が一体化することだと思っている。 ( ) その意味で、お棹は琴の龍頭 りゅうず に座し、両腕の指先が弦をかすめているだけにもかか わらず、見事なまでの一体感をかもし出していた。お棹は絃を制す訳でも騒がす訳でもない。本 来絃に備わっている音をそのまま弾き出してやるような奏法だった。 268 東西南北人 午後になって、お棹と菊四郎は久留米へ帰っていった。 水田滞在三日目にして、国臣はようやく英断録を真木に見せた。 真木は感嘆し、大いにこれを讃えた。そして応じるかのように、自著の『道弁』と『何傷録』 を国臣に披露した。国臣と真木は互いの著書を深夜まで読みこみ、翌朝再び論じた。 真木の言動は、国臣がはじめて山梔窩を訪ねたころから大きく変化している。 今年三月、門人の淵上郁太郎を京に送って公家に建白書を提出したことを皮切りに、長男主馬 や門人らが筑前や肥前、肥後各地を歩くようになっている。その総元たる真木は、国臣と勤皇を 熱弁する中で、 ―一族郎党一人残らず討ち死に覚悟で天子に報いることも辞さず― と、その覚悟を打ち明けた。 もはや議論の段階でなく、行動しなければならない段階にきたことを二人は確認しあった。皇 女和宮の降嫁計画は、幕府のゴリ押しによって着々と進められている。風聞によれば、三万の輿 入 れ の 大 行 列 は 既 に 京 を 発ち 、 過 激 派 の 妨 害 を 警 戒 し て 東 海 道 を 避け 中 山 道 を 東 下 中 だ と い う 。 沿道二十九藩から十万の藩士が警護に動員され、江戸は祝賀騒ぎ一色というが、これほど馬鹿げ た話はない。 また、長州藩が中央政局に乗り出していることも看過できない。 ( ) これは長州の長井雅樂 うた が、破約攘夷を論外とし、積極的に開港し、海外に雄飛すべしと 269 東西南北人 いう『航海遠略策』を打ち出したことによる。この主張は、公武一和を掲げる幕府の方針に近く、 さらには皇威を海外にとどろかすという美句を用いて朝廷の覚えも良いため、長州の藩是となり、 近ごろ世間でもてはやされている。 こうした公武一和が一定の成果を上げていることは認めざるを得ない。 だが、あくまで天皇中心の新国家を志す国臣や真木にとって、それは聞こえのいい詭弁にすぎ ない。幕権が存在する限り、真の変革など実現するはずがないのである。世論の風当たりが弱ま れば、幕府が再び自らに都合のいい私政に走ることが目に見えている。 この状況を打破するためにも、まずは薩摩の力を頼らなければならない。 国臣が英断録を携えて訪薩することに真木は太鼓判を押したが、ついでに自分の建白書も持参 してもらえないかと頼んだ。これを了承した国臣は、真木に執筆の猶予を与えるべく一ヶ月後に 再び訪ねることにした。 いったん安楽寺村に戻るべく、国臣は水田を後にした。 街 道 を 歩き な が ら も 、 真 木 一 族 のこ と が 頭 か ら 離れ な か っ た 。 菊 四 郎や お 棹 と 接 し た こ とで 、 思いがけず真木家の家風に触れ、愛着を抱くことになった。真木の門下生たちとも親交が深まり、 気脈を通じるようになっている。それだけに真木が熱弁中に発した、 「一族郎党一人残らず討ち死に覚悟で・・・」 という台詞が、頭の中で尾を引いた。 270 東西南北人 (そんな日がめぐってくるのだろうか。俺がやろうとしていることは、幸せに暮らす一族一門を 不幸に陥れることではあるまいか・・・) 国臣の心に一瞬迷いが生じた。 同時に、お棹の声が心を離れきれずにいた。 「久留米に来られたら、是非お立ち寄り下さい。またお目に掛かるのを楽しみにしています」 (浮浪の分際で、俺は恋をしたのか?) 国臣は、かすかな胸の高鳴りを覚えた。 一カ月が経ったころ、国臣は再び水田に向かった。 真木は、尊攘英断録に添える建白書をちょうど清書しているところだった。 「一日待ってくれれば、急いで仕上げよう」 と話す真木に、国臣は言った。 「ならば、筑前南境の同志を訪ねようと思うとりますけん、帰りにまた寄らせてもらいましょう」 「そうしてもらうと助かる」 真木はそう返すと、思いついたように言い足した。 「それなら久留米ば通ろう。面倒ばってん、瀬下に寄ってくれんか?わしの代わりに水天宮を切 り盛りしとる主馬とも、一度世事を談じてもらえまいか?」 271 東西南北人 断る理由はない。承知すると、真木は自宅あての書付を用意し、国臣に渡した。 「これを棹に渡してくれ」 「お棹さまにですか?」 「そうじゃ。あれは意外にしっかりしとる。平野君を既に知っとるから、話も早かろう」 一瞬戸惑ったが、不自然に取られないよう了承し、国臣は久留米へ向かった。水天宮は筑後川 沿いの瀬下にある。境内は広く、木々に挟まれた堂々たる参道が大河の横に伸びる。 国臣は、ここを参拝したことが過去に二度ある。 鳥居の手前には旅宿がある。ちょうど三年前、月照主従や五百津と泊まった宿である。その時 は、まさか自分がここの神職家と関わるようになるとは夢にも思わなかった。人生一寸先は分か らないものである。 真木家は、水天宮の脇にあった。早速、国臣は門を叩いた。 応対に出てきたのは、お棹だった。 白と薄青の神官着を身にまとっている。木々の隙間から夕陽が差しているが、それがお棹の頬 と表着をまぶしいほど薄紅く照らしている。 「平野さまではございませんか!先日はどうもお世話になりました」 衣 装こ そ ち が う が 、 一 か 月 前 と 同 じ 笑 顔 で あ る 。 国 臣 は 、 知 人 を 訪 ね る 途 次 で あ る 旨 を 述 べ 、 真木から託された書付を渡した。 272 東西南北人 「ご丁寧に有難うございます。お立ち寄りいただき、嬉しく思います。ともかくお上がり下さい。 母と兄も居りますので、ごあいさつさせて下さい」 「では、お言葉に甘えて失礼します」 国臣は、心の高ぶりを抑えながら真木家に上がった。 内心はお棹と再会した喜びで一杯だった。形式上のあいさつだが、立ち寄って嬉しいと言って くれたのである。国臣は、舞い上がらんばかりの気持ちを抑えた。 結局、そのまま真木家に一泊することになった。 和泉守はどうやら書付の中で、国臣を丁重にもてなすよう指示したようだった。母睦子は和泉 守より九歳上というが、どちらかといえば可愛らしい印象の人で、明るい性格の女性だった。主 馬 と も 会 見 し た が 、 さ す が に 父 の 代 理 を 務 め る だ け あ って 、 責任 感 の 強 い性 格の 持ち 主だ った 。 翌朝、周辺を案内すべくお棹は国臣と外に出た。 十 一 月 末 の 朝 だ が 、 辺 り に は 真 冬 並 み の 冷 気 が 漂 っ て い る 。こ こ は 大 河 の 脇 に 位 置 す る た め 、 参道の並木以外遮るものが何もない。それでも、国臣の心は温もりに包まれていた。 男女の恋事に理屈はない。 第 一 印 象 が 良 け れ ば 相 手 を 意 識 す る よ う に な り 、 あ と は そ れ を 裏 付 け る 要 素 が 加わ る た び に 、 好感が恋心に発展するだけの話である。国臣とお棹の場合、昨晩の何気ない会話が互いを意識す るきっかけとなった。 273 東西南北人 母睦子のあどけない身内話の中で、互いの経歴が明らかになったのである。 お棹は、四年前に睦子の親戚に当たる家に一度嫁いだらしい。ところが、どうにも家風が合わ なかったらしく、ほどなく離縁となって実家に戻ったという。折しも、母睦子が肺を煩ったため、 お棹は看病と家事に多忙となった。水天宮の仕事も再び手伝うことになり、再縁の機会に恵まれ ることなく今日に至っているらしい。 「母上、もうその辺でお止め下さい」 お棹は、睦子をキッとにらんで言った。 睦子は、構うことなく国臣に尋ねた。 「平野さまのご妻女は、どのような方にございましょう?」 国臣は、戸惑いつつも妻子と離縁したことを告げた。 私事を明かすことははばかられたが、勤皇志士として真木和泉守と知己を得た以上、事実を隠 す訳にはいかなかった。言葉を選びながらも、浮浪の孤身であることを述べた。 「それでは御身の回りが大変でしょう?お困りのことがあれば、棹に言い付けて下さいね」 睦子の言葉に、お棹がすばやく反応した。 「母上、言葉が過ぎます。平野さまがお困りになるでしょう!」 国臣は、母と娘の応酬を見守るしかなかった。 そんな会話が昨晩交わされた上で、二人は今朝並んで散策している。 274 東西南北人 沈黙が生じれば、妙に互いを意識しかねない。照れ隠しもあって、二人はよく話した。お棹の 質問に応じつつ、国臣は自分のことを大いに語った。藩庁の職歴にはじまり、童のころの遊びや お太刀組の奇行、食べ物や衣服の好みまで打ち明けた。 話題が変わるたび、お棹は笑ったり、感心したり、目を丸くしたりした。 国臣は、表情豊かなお棹をさりげなく観察し続けた。そうしているうちに、その笑顔をずっと 見ていたい衝動に駆られた。 「いけません、散策がずいぶん長くなってしまいました。そろそろ戻りませんと。平野さまのお 話が面白すぎて、時間が過ぎるのをすっかり忘れてしまいました」 「私も、話ができて楽しかった。おかげで久留米のことも、真木家のこともよう分かった」 「あら、余計なことを言っていなければいいのですが・・・」 「・・・・・」 二人は顔を見合わせて、大笑いした。 三日後の正午、二人は再会した。場所は、久留米寺町の遍照院である。 国臣は、いったん馬市の岡部諶助を訪ねて戻ってきたところである。お棹の方は、用事ついで に高良山に詣でてくると家人に告げてきている。 三日前の別れ際、久留米見物に興味を示した国臣のために、お棹が案内役を買って出てくれた 275 東西南北人 のである。といっても、このことは真木家の人々は知らない。二人だけの待ち合わせである。 待ち合わせ場所が遍照院になったのは、国臣が他に適当な場所を知らなかったからである。国 臣が到着した時、お棹はもう先に来ていて、墓碑の刻銘をのぞき込んでいた。 「本当に平野さまのお名前がここに刻まれているんですね。安政五年戊午十月・・・何だか不思 議な感じがします」 お棹は、墓主と目前の男との接点をつかみかねているようだった。 「不思議はあるまい。相応の寄進料を納めたし、名がなければただの詐欺ばい」 冗談を言ったつもりだったが、お棹はしげしげと墓碑を眺めるばかりで、何の反応も見せない。 「こちらは伊地知龍右衛門と書かれています。お知り合いですか?」 「薩摩同志の一人です。そういえば、高橋新八どんの名もどっかにあるはずだが・・・あったあ った、ここにある」 お棹は、高山彦九郎について多少の知識を持っている。 待ち合わせ場所を決めた際も、 「久留米で最期を遂げられた方のお墓がある御寺ですね?」 と、念を押していた。 そこは真木和泉守の愛娘である。折に触れて勤皇の逸話でも聞かされて育ったのかもしれない。 次の瞬間、お棹は素朴な質問を発した。 276 東西南北人 「高山彦九郎さまは、それほどご立派な方だったのですか?」 どう答えるべきか一瞬迷ったが、国臣は自分なりの言葉で答えた。 「自刃のいきさつを後世の人間が憶測で語るべきでないとして、己の志を貫いた尊敬に値する人 物であることは間違いなか」 「そうですか・・・」 つぶやくような小声だったが、墓碑を見つめるお棹の表情は真剣だった。 その凛とした横顔に、国臣はお棹の体に勤皇の血が流れるのを見るような気がした。父親は日 本有数の勤皇家である。その愛娘に血統というか、相応の品格を感じずにはいられなかった。国 臣は、心からお棹を愛しいと思った。 お棹は物事に真っすぐに向き合う純粋さと、人を和ませる気転を兼ね備えている。加えて、周 囲に流されない知性と、困難に打ち負けない明るさを持っている。 浪士になって以来、国臣は対等に向き合える相手を人物と認めてきた。藩や家柄など権威にす がったり、誰かの従属に甘んじたりするようでは、人間の重みに欠けるのである。 女も同様である。 家や主人の付随感覚しか持たない女は、魅力や尊さに欠けてしまう。その意味で、お棹ほど不 足を感じさせない女に国臣はこれまで出会ったことがなかった。 夕陽が傾くころ、国臣とお棹は筑後川の河岸に座っていた。 277 東西南北人 茜色の西日が九州随一の大河を照らしている。暗くなる前にお棹を帰すにはそろそろ立たなけ ればならない時刻となって、国臣はさりげなく自分の気持ちを伝えた。 「私も、平野さまをお慕いしています」 お棹の反応に、国臣は優しく肩を抱き寄せた。ほどなく立ち上がって歩きはじめると、お棹が おもむろに聞いた。 「これから肥後に戻られて、すぐ薩摩に行かれるのですか?」 「ああ」 沈黙が続いた。 お棹が何かしら不安を抱いていることが伝わってきた。国臣としては、それが余計な心配であ ることを説明しなければならない。 「心配には及ばん。今回は薩摩に上書を提出しに行くだけばい。長旅にはならん」 お棹は、国臣の言葉に小さくうなずいた。が、口を開こうとはしない。思いつめたような表情 のままである。 国臣は、これ以上の弁解は不要だと思った。 お棹が心の中で何かと闘っている気がしたからである。もしかしたら、他に見初めた男でもい るのかもしれない。浮浪人に対して心を許せないのかもしれない。あるいは、父の知己と恋仲に なることを恐れているのかもしれない。国臣は、お棹が自分には所詮過ぎた才女であると言い聞 278 東西南北人 かせようとした。 その時、お棹がふと口を開いた。 「平野さま、一つ教えていただいても宜しゅうございますか?」 国臣は、唾を飲んでうなずいた。 「棹の思い過ごしなら、どうかお叱り下さい。ただ・・・」 「ただ?」 「彦九郎さまがご自分の御意思を貫かれるために死を選ばれたようなことが、いずれ平野さまや 父にも訪れるのでしょうか?」 国臣は、一瞬にして言葉を失った。勤皇志士に向けられる究極の問いといっていい。 「なぜ、そのようなことを聞かれる?」 「何となく、そう思っただけにございます」 (何たる賢女だ。大方の志士よりよっぽど時代を見抜いとる。しかも達観しとる) 国臣は、返事に窮した。 余計な心配はさせたくないが、勤皇のためなら死も辞さないというのは、自分も真木も同じで ある。ただ、その時流がめぐってくるかどうかまだ正直分からない。めぐってきてもらわねば困 る一方、めぐってきたとしても、死ぬ運命にあるかどうか今はまだ想像すらつかない。 (その究極の問いを、この女は母性の直感で問うている・・・) 279 東西南北人 国臣は、お棹との出会いを天に謝す思いだった。 天皇中心の新国家を作るためには、必ず討幕を果たさなければならない。 そうである以上、過酷な運命が待ち構えていることは間違いない。枕の上で死ぬことなど、あ り得ないのである。 国臣は、沈黙した。 お 棹 ほ ど の 女 に 嘘 は つけ な い し 、 気 休 め を 言 っ て も 意 味 が な い 。 二 人は 無 言 の ま ま 歩 い た が 、 水天宮を臨める位置まできたところで、国臣がようやく口を開いた。 「俺のような俗人には人の定めなど分からん。一歩一歩進んでいくだけばい。ただ、俺は今回の 薩摩行きで死にはせん。年明けには必ず戻ってくるが、また会いに来ても構わんか?」 「はい。棹はいつでも平野さまをお待ちしております」 お棹はふっ切った笑顔を見せた。国臣は、この女を抱きしめたいと思った。この女に会うため なら、千里の道も駆けられると思った。 十二月二日、国臣は再び山梔窩に寄った。 真木は薩摩藩あての建策を書き上げ、国臣の到着を待っていた。国臣は、瀬下の本宅で丁重な もてなしを受けたことを謝したが、お棹のことは話題に出さなかった。 「身命に懸けて薩摩にお届けいたします」 国臣は、真木の建白書をうやうやしく受けて言った。 280 東西南北人 「 わ し の 論 文 な ど 、 尊 攘 英 断 録 の 前 文 に す ぎ ぬ 。そ れ よ り 、 そ ち の 命 の 方 が よ っ ぽ ど 大 切 ば い 。 入薩には苦難もあろうが、きっと無事に戻って来られよ」 頭を垂れて返礼すると、国臣は真木の門下生らに見送られて水田を発った。十里あまりの道を 一気に進み、翌日には安楽寺村に着いた。 時は川の流れに似ている。 時にゆったりと進み、時に急流となって走り出す。国臣にとっての時の流れは、十二月三日に 安楽寺村に戻ってから加速しはじめた。国臣の帰着を待っていたものが二つあったのである。 一つは、一通の書状だった。送り人は薩摩出張中の白石廉作である。 そ れ は 、 下 関 竹 崎 の 廻 船 問屋 白 石 家 が 晴れ て 薩 摩 御 用 達 と な っ た こ と を 知 ら せ る も の だ っ た 。 白石兄弟や高崎善兵衛、左門、国臣たちが三年に渡って努力してきたことが、ついに結実したの である。廉作は兄正一郎の名代として薩摩に赴き、御用達の命を拝し、産物購入予算ならびに貸 付金の交付を受けたという。 廉作は、鹿児島で高崎善兵衛、猪太郎父子とも会見したらしい。 その中で、大久保や堀たちが藩庁組織で躍進していることを聞いた。ほどなく訪薩しようと考 えている国臣にとって、廉作が報じた薩摩の近況はそれを後押しするものだった。 待ち構えていたもう一つが、来客者たちだった。 281 東西南北人 ( ) 清河八郎、安積 あさか 五郎、伊牟田尚平の三人である。彼らは、今年正月に肥後を訪れた田 中河内介の意を受け、国臣を松村邸に訪ねてきたという。 首領の清河は、弁の立つ男のようである。 江戸なまりだが、もともと出羽の産というその色白な顔立ちは、九州人とはずいぶん雰囲気が ちがう。対照的に安積五郎という江戸の浪人は、あばた顔に右目がつぶれた強面である。清河よ り年上だが、清河に兄事している様子である。もう一人の伊牟田尚平は、驚いたことに薩摩人だ という。今は脱藩し江戸にいるという。 来訪の趣については、ほとんどを清河が話した。 その内容は大言壮語というか、どこか調子のいいところがあって、国臣は多少の違和感を覚え たが、聞き捨てならない重要な事項ばかりだった。 ( ) 清河の話によれば、幕府はこのほど和学所の塙 はなわ 次郎に命じ、廃帝の先例を調査させた という。事実であれば、これほどあからさまに朝廷を侮辱した話はない。 孝明天皇の妹和宮は将軍家茂との婚儀を来春に控え、既に江戸入りしている。表向きは公武一 和を唱えつつも、開国路線に難色を示す孝明帝を陥れようと幕府が水面下で動いていることは十 分に考えられることだった。 清河は、今こそ義挙に討って出るべきと熱弁を振るった。 今回の出張は、同志糾合が目的だという。 282 東西南北人 九州で義徒がそろう見込みが立てば、粟田宮法親王の令旨をもって檄を飛ばし、さらなる同志 を募るという。その上で親王を征夷大将軍に担ぎ、幕府に対抗する腹づもりだという。 清河の流暢すぎる弁論は、にわかに信じがたい側面もあった。 ( ) それでも裏付けとして、中山忠愛 ただなる 卿の教書と田中河内介の添状を持参している。国 臣と松村は真一文字に口を結び、それらにじっくりと目を通した。 計画の方向性は、もとより国臣の尊攘英断録と同じくしている。 国臣に異存があろうはずはない。ただ問題は、義挙の成否は同志糾合の結果次第であり、どれ ほどの人数が九州で集まるかという点であった。筑前であれ、肥後であれ、薩摩であれ、それぞ れに事情を抱えていて、にわかに義徒が駆けつける状況にはない。 それでも、これが千載一遇の機会であることに変わりはなかった。 国臣は、三人に向かって返した。 「私は、数日以内に薩摩に参るゆえ、喜んで薩摩同志に働きかけてみましょう。その前に、ひと まず 勤 皇 家 の 旗 印 と も いえ る 筑 後 の 真 木 和 泉 守 ど の に 相 談さ れ て は い か が か ? 真 木 ど の の 賛 同 を得れば、同志糾合の道も広がりやすくなりましょう」 清河たちはこの案に同意した。 早速真木に連絡すべく、松村深蔵が急使として水田に向かった。翌日の深夜には、深蔵は真木 門弟の角大鳥居照三郎を連れて戻ってきた。 283 東西南北人 十二月六日の朝、一同はそろって協議した。 深蔵の報告によれば、真木は清河ら来訪の主旨を聞くと、一連の相談に国臣が関わっているこ とを確認し、いざ決起の折には幽居を破って馳せ参じようと回答したという。ただ、今蟄居を脱 しては咎めを受け、かえって今後自由を失うので、角大鳥居を遣わしたという。九州の同志糾合 については第一に薩摩同志との連携を図るべきであり、これについては国臣の訪薩に期待すると いう意見だった。 真木の賛意を得たことで、一同は大いに活気づいた。そしてこれに乗じるかのように、 「私が平野どのに同行しましょう」 と、伊牟田尚平が突如言い出した。 これには清河が反対を唱えた。 理由は、一年前に江戸赤羽橋でアメリカ公使館のヒュースケンという通訳官が斬られた事件で、 伊牟田が指名手配を受けているからだという。この衝撃の告白は皆を驚愕させたが、手配犯の伊 牟田がわざわざ薩摩の関所に挑むような危険を冒すべきでないと、清河は主張した。 それでも伊牟田は意見を曲げようとはせず、結局国臣に同道することになった。 事態は急を要する。 というのも、年明けには清河らは帰京し、中山卿と田中河内介に九州義徒の可否を報じなけれ 284 東西南北人 ばならないのである。このため国臣たちの訪薩については、 ―十二月二十五日を期限に、必ず安楽寺村に戻ってくること― と決し、急ぎ支度を整え、出発することになった。 大雑把にいえば、薩摩への往復に十日、鹿児島での糾合活動に八日という計算である。その間、 清河らは筑後や肥後、豊後において同志糾合を図ることになったが、最大の頼みが薩摩であるこ とに変わりはない。もし国臣が期日までに戻らなければ、清河はそのまま帰京し、九州の同志糾 合は失敗したと報じられることになる。 七日朝、一行は松村邸の門前で別れた。 清河と安積は、角大鳥居を案内役に北へ向かう。水田村の真木に面会するためである。一方の 国臣と伊牟田は、熊本の所用に向かう松村深蔵とともに南へ発った。 国臣たちは歩を緩めることなく街道を進み、二日後には水俣に達した。二人はそこから出水筋 には向かわず、山間の大口筋を進んだ。 互いの経験をもって相談したところ、野間原よりも小河内の方が通行しやすいと判断したから である。山間の大口筋であれば、最悪でも山に分け入って越境できるという目算があった。 二人は、互いの幸運を祈って関所の手前で別れた。 手筈としては、国臣は福岡藩の飛脚に扮して関所に進み、伊牟田は地元の木こりを装って間道 を抜けるという計画である。どちらも中山卿の教書の写しを携え、最低でもどちらか一方が鹿児 285 東西南北人 島にたどり着くことを目標とした。 国臣にとって小河内の関は、月照入水の帰途以来三年ぶりである。 今回は、旅慣れた飛脚姿である。 「筑前藩家老黒田美作の飛脚、藤井五兵衛と申します」 淡々と述べると、役人は書簡の表を改めただけであっさりと通行を許した。 同 時 に 間 道 を 進 んで い る 伊 牟 田 の こ と が 気 に な った が 、 立 ち 止 ま る 訳 には い か な い 。 国 臣 は 、 足早に鹿児島城下を目指した。 加 治 木 ま で 駆け 下 り る と 、 重 富 か ら 白 銀 坂 を 上 り 吉 野 で 再び 下 っ て 、 十 日 に 鹿 児 島 入 り し た 。 飛脚姿のままのため、飛脚宿の原田郷兵衛宅に身を投じた。月照を埋葬した後に泊し、お太刀組 の格好で出立した例の宿である。幸い主人はあの時の奇装の客と飛脚が同じ人物であると気づく 様子はなかった。 ( ど の みち 尊 攘 英 断 録 と 真 木 ど の の 建 白 書 を 提 出 せね ば な ら ん 。 飛 脚 姿 の ま ま の 方 が 都 合 よ か 。 福岡からの飛脚と聞けば、きっと大久保どんや堀どんの耳にも入るにちがいなか) そう考えた国臣は、飛脚宿から信書の提出を申請した。 十二日の午前、国臣の元に迎えがやって来た。 案内された先は藩庁ではなく、大久保一蔵の自宅だった。大久保は、この頃までに名を一蔵と 286 東西南北人 改めていた。久光の信任も最近ますます厚く、御小納戸に抜擢されているという。 「国臣どん、お久しぶりにごわす。よう参られた」 大久保は、茶を勧めながら親しげに話しかけた。 だ が 、 一 年 前 と は 比 較 に な ら な い ほ ど 大 久 保 に 貫 禄 が 付 いて い るこ と を 国 臣 は 敏 感 に 感 じ た 。 久光の囲碁打ちを真似ていたあのひょうきんさは面影もない。代わりに、藩政の中枢を担う人物 にふさわしい重厚感を漂わせている。その飛躍は、かつて斉彬の御庭方役に抜擢された西郷を彷 彿とさせるものがあった。 国臣は、訪薩の目的を述べた。 英断録と真木和泉守の建白書の提出と、同志糾合の打診についてである。中山卿の教書の写し を大久保に見せ、薩摩人の決起を促したが、大久保の表情はにわかに険しくなった。 「ご来訪の趣は分かりもした。じゃっどん、ご承知のとおり久光公は藩内一致を掲げ、他国人と の連携を快く思っておりもはん。ひとまず理解ありそうな家老職に掛けあってみましょう」 「お手数をお掛けするが、宜しくお願い申し上げる」 国臣は、小さく頭を下げた。 「国臣どんと真木どのの著書については、私の方でじっくりと拝読させていただきます。そいは そうと、伊牟田尚平が城下に護送されているようにごわす。途中ご一緒だったのでは?」 さすがは大久保である。 287 東西南北人 情報収集と分析に卒がない。国臣と伊牟田の接点は薩摩領ではないので、大久保は既に拘束さ れた伊牟田が同じ教書の写しを持っているのを確認していることになる。国臣がうなずくと、大 久保は言った。 「いずれにせよ、二三日以内に上層部から回答がありましょう」 どこか事務的な大久保の態度が気になったが、藩庁との折衝は大久保に頼る以外にない。 三日後の十五日、国臣は再び大久保宅に呼ばれた。 九州の同志糾合の件について、久光側近の小松帯刀や家老の喜入摂津から回答があったという。 だが、その内容は ―薩摩は挙藩体制を優先する。今は他藩士との連携を必要としない― というものだったという。あまりに杓子定規な返答に、国臣は落胆した。 国臣は、全身全霊を懸けて訪薩している。 己の魂ともいえる尊攘英断録を携えているばかりでなく、真木の建白書や松村、清河、田中河 内介といった多くの同志の思いを背負っている。 諸国の勤皇家にとって、薩摩こそが一縷の望みなのである。 この藩が立ちあがるかどうかで、日本の未来が変わるのである。国臣は、全国の同志を代表し て薩摩の奮起を促しにきたといっても過言ではない。簡単に引き下がる訳にはいかなかった。 国臣は、大久保を見据えて論じた。 288 東西南北人 薩摩が決断すれば、全国の有志がこれに呼応するだろうと切り出した。 それは諸国の勤皇派を励まし、諸藩連合を促進させると述べた。その上で公卿と協調し、朝廷 の名をもって天下に義挙を呼びかければ、外敵の干渉に対し隙を与えずに、天皇中心の新国家を 一気に樹立できると主張した。 これに対し、大久保は薩摩の方針転換が難しい実情を述べた。 そんな状況の中、一部の同志が決起に血走っても不毛な結果に終わるだけと切り捨てた。むし ろ、多少時間が掛かっても薩摩全体を勤皇藩に脱皮させることを目指し、一丸となって行動した 方が幕府に対抗しやすいと見解を述べた。 国臣は、真っ向からこれに反論した。 各 地 の 急 進 派 の 動 き に 触 れ 、 突 出 行 動 が も は や 避 け ら れ な い 段 階 に な っ て い るこ と を 説 い た 。 安政の大獄で多数の勤皇家が殺められた例に見るまでもなく、この機を逃せば、幕府の粛清に再 び多くの尊い芽が摘み取られてしまうと訴えた。 大久保はついに口を閉ざし、沈黙を決め込んだ。 業を煮やした国臣は、声量を上げて一気に畳みかけた。 「諸国の同志と組まずに、新しい日本を築けるはずはないであろう」 「薩摩は他国の同志を見殺しにしても構わんというのか?」 「薩摩がずっと単独行動にこだわれば、世間は島津が徳川に代わって天下を握ろうと企んでいる 289 東西南北人 と見なすだけであろう?」 大久保は、下を向き黙り込んだままである。横顔は目がカッと見開き、涙があふれそうになっ ている。長い沈黙の後、おもむろに顔を上げて言った。 「国臣どん、おいは肥後に一度出た以外は、藩外のことは何も知らん男にごわす」 「・・・・・」 発言の意図が分からない。国臣は、大久保の目をじっと見た。 「そん男が多少なりとも天下の事情に通じ、藩政に携わっておるのは、国臣どんという天下の志 士と面識を得て、世間の広さを学んだおかげにごわす」 今度は、国臣が無言となった。 「国臣どんとのお会いするのもこいで三度目です。藩職や妻子を捨ててまでも、国事に邁進する 貴殿のような志士がある限り、おいは天下の計は必ずや成就すると思うとります」 「・・・・・」 「おまんさあを真の同志と見なし、薩摩の秘策を打ち明けもんそ。ただ、こんこつは藩内でも数 人しか知らない機密にごわす。他言しないと固くお誓いいただかねば、お話しできもはん」 大久保の表情が一変した。潤んでいた両目が人を刺さんばかりの鋭い視線に変わり、国臣に向 けられた。国臣は、その視線を真っすぐに見返した。 「もとより私は全身全霊を懸けて薩摩に来ておる。二言はござらん。お誓いしよう」 290 東西南北人 国臣の眼光を確認すると、大久保は低い声で発した。 「久光公は、近々藩兵を率いて上洛するご存念にごわす」 「何と!まことか?」 国臣は、わが耳を疑った。 尊攘英断録の主眼は、薩摩の決起を促し回天の起点とすることである。その意思を久光が持っ ているというのである。 「ただし、討幕の兵ではござらん。あくまで幕政改革のための率兵にごわす」 「兵の数は?」 「まだ分かりもはん。おそらく数百から千ほどになりましょう。朝廷護衛の名分を掲げることに なるやもしれません」 国臣の思考はめぐった。 薩摩が率兵すれば、それはうねりとなって各地の勤皇有志を喚起することになる。そして、幕 府に対抗する結束を生むことになる。まさに国臣が掲げる討幕への道すじである。国臣は、身震 いするのを抑えながら聞いた。 「時期はいつにござる?薩摩の参勤予定は今月でござろう・・・」 「参勤は延期することになりましょう。しかも藩主の茂久公でなく、久光公自らが上洛すること になりましょう」 291 東西南北人 「参勤を延期する?しかも久光公が?」 国臣は、眉間にしわを寄せた。幕府の許可なく勝手に決められるような事項でない。 (若年藩主の仮病を装うにも若干無理がある・・・) 腑に落ちない国臣の表情に、大久保が補足した。 「ともかく久光公の上洛については年明けには発表されましょう」 (いよいよ薩摩が行動に出る・・・) 国臣の中で、じわじわと感動がこみ上げてきた。それと同時に、一筋縄ではいかない薩摩との 連携の難しさについて思った。 万が一外部に漏れ、幕府に察知されれば、首謀者が処罰されるばかりか、島津家自体が取りつ ぶされかねない。それだけに、事の運びようがとてつもなく難しい。 「このことは、同志に打ち明けておられるのか?」 「いえ、同志といえども打ち明ける訳にはいきもはん。ただ、有馬さァらは薄々察しとるようで、 参勤行列に何とか加わろうと志願されています。じゃっどん、上層部は彼らを危険視しとるため、 おそらく許可されんでしょう」 国臣は、計画の全体像を理解しようとした。 久光は、率兵上洛の準備を密かに進めている。だが、尊攘急進派を参加させない以上、それが 政治的影響力を狙った上洛であることは疑いない。何であれ、 292 東西南北人 ―藩兵多数を率いて上洛する― という一項がただ事でない。 そこに久光の覚悟が表れている。国臣は、大久保の見立てを尋ねた。 「大久保どんは、今回の率兵上洛で幕政改革が実現するとお考えか?」 大久保は少し考えて答えた。 「正直すぐには難しいでしょう。物事には順序がありもす。一手打てば、次の手も自ずと変わっ ていきます。情勢は刻一刻と変わっていきましょう。おいも久光公に従って上洛し、そいを見極 めていきたいと考えておいもす」 「おう、大久保どんもついに中央に乗り出されるか?」 国臣は称しながら、この俊才のさらなる飛躍を予想した。 それから二日間、国臣は使者宿で続報を待った。 粘れるだけ粘って、大久保や堀による上層部への働きかけに期待したが、ついに最後まで色よ い反応は得られなかった。薩摩藩の方針は、他藩との交流自粛で目下凝り固まっている。十六日 夕刻、ついに役人が使者宿に来て言い渡した。 ―明日伊牟田とともに城下を発ち、国外へ退去せよ― 翌朝早く、大久保が来訪して力不足を詫び、餞別の金十両を国臣に贈った。受けるには受けた 293 東西南北人 が、国臣の心は晴れなかった。 ―年明け早々、久光が率兵上洛する― という重大機密を聞き出すことこそできたが、肝心の ―義挙に向け薩摩同志と連携する― という一大目標については、何の進展も得られなかったのである。 結果的には、薩摩藩庁から体良くあしらわれた気がしなくもない。大久保が送った餞別の十両 も、三年前に重富で受けた五両の時のような温かみは感じられなかった。 (あの時は、同志が工面した心のこもった五両だった。それに比べ、今回の十両は藩費から捻出 されたものにすぎん) 国臣は、城下を去る前に一か所立ち寄る了解を得て、護卒に付き添われ使者宿を発した。南に 数町下ったところに南林寺がある。 かに斯く命 あるものを ここで静かに手を合わせ、二首を墓前に供えた。 ながらへば 死ぬるも同じ 大王の 過ぎにし人の 心みじかさ ながらふも 御国のために つくす心は 月照の墓を後にすると、ほどなく伊牟田と合流し、護卒とともに鹿児島を発った。 294 東西南北人 護卒といっても、大久保の計らいで同志筋の人である。今晩は伊集院の坂木宅に泊まるという。 ( ) 水上坂 みっかんざか に差しかかったところで、国臣は後ろを振り返った。 城下の背後に桜島の雄姿が広がる。どんな時でも期待を裏切らない存在感がそこにあった。 桜島の噴煙は一見の価値ありと耳にするが、過去二回の訪薩を含め、国臣はついにその光景を 目にすることはできなかった。雄大ながらも噴煙を上げるには至らないもどかしさは、そのまま 薩摩の藩情と重なって見えた。 そんな印象を抱いて水上坂で何度か振り返っていると、心にふと一首が浮かんだ。旅の情景で 歌を詠むのはこの男の性癖である。 十七日夕刻、国臣たちは伊集院の坂木家に到着した。 去年十 月 に十 日ほど滞 在した 家で あ る。あの 時は 、有 馬や 田中、有村 、 高崎、 高橋 、 大久 保、 堀といった同志とここで会合した。 ( ) 到着すると、有馬と田中のほか、今回は是枝柳右衛門と美玉 みたま 三平が待ち構えていた。 国臣への帰国命令を聞きつけ、先回りしてきたらしい。 国臣は是枝と美玉の名を知っていたが、実際に会うのは初めてだった。 ともに年長の同志で、鹿児島の町人出身である。是枝は行商を生業とし、美玉は焼酎屋のせが れだったという。それぞれ学を修め、勤皇の志を抱いてからは京坂に出て、朝廷工作に関わった。 臥龍窟に田中河内介を訪ねたり、中山卿や大原卿に拝謁したりしている。 295 東西南北人 さらに、隣家では伊牟田の親族が待っていた。 伊牟田は、万延元年の脱藩以来故郷を離れているため、噂を聞いた親族が面会を求めて押し寄 せてきたらしい。伊牟田が親族と会っている間、国臣は有馬らとこれまでの経緯を談じた。 清河らが九州の同志糾合を目的に来訪したことにはじまり、伊牟田とともに入薩し、大久保を 介して藩庁に義挙を打診したこと、結果的に良い反応は得られなかったことを報じた。また、幕 府が廃帝の先例を調査した風聞が広まっているなど、中央情勢についても伝えた。こうした報は 伊集院までは届いておらず、有馬らはそろってこれに憤慨した。 ほどなく柴山愛次郎と橋口壮助も駆けつけた。 ともに薩摩同志の若年組で、是枝や美玉とは親子の年の差ほどもある。国臣にとっては、はじ めて見る連中である。ほどなく伊牟田も合流し、併せて十名ほどの座が調った。そろったところ で、有馬が伊牟田に改めて聞いた。 「伊牟田どん、藩庁の反応はいかがじゃった?」 「全く駄目です。藩庁は幕府の顔色ばかり気にしとる様子でした」 伊牟田は吐き捨てるように返した。 会話を見守りながら、国臣は大久保から聞いた機密について考えた。国臣は、それを伊牟田に 話していない。むろん、有馬らに話すつもりもない。 だが、大久保がほのめかしていたように、有馬はさすがに急進派領袖だけあって、次の参勤上 296 東西南北人 洛が鍵となると見ている節がある。だが、藩庁中枢にいる大久保に比べると、情報量に格段の差 があるように思われた。国臣は、じっと談議を見守った。 ここに参集している面々は、同志の中でも急進派である。 不満や怒りの矛先は藩庁に対してばかりでなく、大久保や堀にも向いている。 薩摩同志は事実上分裂しているといっていい。伊集院にいる急進派に対し、中道派は藩庁で久 光に抜擢されている。大久保と堀は御小納戸、有村と吉井は徒目付の職にある。 国臣は、複雑な思いに見舞われた。 国臣にしてみれば大久保派も、有馬派も、かけがえのない同志である。 大久保が重んじる薩摩の団結力も、有馬が訴える薩摩の突出力も、決起のためにはともに不可 欠な要素である。だが、目の前で繰り広げられる急進派の熱弁を聞く限り、彼らの大久保らに対 する不満や不信感は募りに募っている。 その時、田中謙助がふと国臣を見た。 「国臣どんの意見はいかがにごわすか?」 「私の意見ですか?」 「はい、是非とも承りたい」 一同の視線が国臣に集まった。 薩摩人にとって、国臣が友好と敬愛の対象になって久しい。 297 東西南北人 薩摩の四人とよしみを結び、京の鍵屋で同志と交わり、錦江湾で西郷の命を救い、大久保、有 村俊斎と重富駅で会し、有村次左衛門が大老襲撃の秘儀を打ち明け、下関で同志往来の中継点と なり、三度に渡って入薩するなど、平野国臣という男は薩摩にまつわる逸話であふれている。 国臣は、集まった視線に熱い期待感が込められているのを感じた。 ただ、国臣にしてみれば大久保の慎重姿勢を批判すれば済むような話ではない。分裂した二派 のどちらに付くという問題ではないのである。どう答えるべきか迷ったが、脳裏にふと一つの情 景が浮かんだ。 「ご承知のとおり、私は討幕と王政復古に一身を賭ける身にござる。今も、その思いに変わりは ござらん。宜しければ、心境を歌に表したいと思いますが・・・」 「歌、でごわすか?」 「ほお、そいは面白か」 驚きとも賞賛ともつかない声が上がった。 「今、ここで詠まれるのですか?」 はるばる安楽寺村から同行した伊牟田も、興味津々に国臣を見つめている。 「いや、実を申せば、鹿児島を去る際、水上坂で浮かんだ歌にございます」 「水上坂?」 意外な固有名詞に、薩摩同志たちは顔を見合わせた。 298 東西南北人 半紙を手に、国臣はすらすらと記しはじめている。筆を置くと、会釈して隣の有馬に手渡した。 有馬はひとつ咳払いをして、 「では、披露しもんそ」 桜島山 燃ゆる思ひに くらぶれば と断って、声を張った。 わが胸の 煙はうすし 一 瞬 の 沈 黙 の 後 、 感 嘆 の 声 と 拍 手 が 沸 き 起 こ っ た 。 坂 木 宅 か ら 桜 島 を 望む こ と は で き な い が 、 歌は不思議とその窓景になじんだ。 翌十八日、国臣らは伊集院を発し、夕方には川内の向田 むこうだ 駅に着いた。 ( ) 宿に入ると、驚いたことにすぐ後ろから柴山愛次郎と橋口壮助が飛び込んできた。二人は伊集 院から七里の道のりを追いかけてきたという。驚いた国臣に向かって、二人は言った。 「昨日は目の覚めるお話をいただき、有難うございました。ですが、おいたちは途中参加だった 上に、有馬さァや是枝さァらがおられたので、思うように聞けませんでした。おいたちは年明け に江戸に参ります。そん前に国臣さァからもう少し話を伺いたいと、追いかけてきた次第です」 どこまでも薩摩人に愛される男である。もちろん悪い気はしなかった。 両青年の目に純粋な赤心を見た国臣は、聞き返した。 299 東西南北人 「年明けに江戸に上ると?」 「はい。おいたち二名は江戸詰の内命を受けております」 柴山が返すと、橋口が補足した。 「役目はまだ決まっていませんが、久光公自ら上洛される動きもあると聞いております。そいも あって、おいたちは情勢視察の任を負うのではないかと考えております」 「ふうむ」 国臣は、思考をめぐらせた。 大久保の話を思い起こしても、ありそうな話である。柴山と橋口は勤皇心を抱きながらも、性 格は温厚実直である。そうした類の任には適役である。 安楽寺村に戻らなければならない十二月二十五日の期限まで、あと七日しかない。 長い帰路を考えれば、一瞬たりとも無駄にできない。それでも、国臣は両人の心意気と重要性 を認め、伊牟田と護卒を説いて川内に一日留まることにした。 柴山と橋口はその晩、国臣から借りた尊攘英断録を回し読んだ。 そ し て 、 夜 明 け と と も に 国 臣 の 居 室 にや っ て 来て 、 勤 皇 論や 今 後 の 時局 展 開 に つ いて 国 臣 に 様々な質問を浴びせた。話は尽きることなく、再び夕闇となって近くの料亭で小宴となった。 「京と江戸で同時挙兵するのでしょうか?」 「そうだ」 300 東西南北人 柴山と橋口、伊牟田との宴席で、国臣は討幕の理について論じた。 「義挙に必要なのは、名分と勢いの二つばい。朝廷を奉じれば、名分は立つ。勢いの方は、全国 規模で同志糾合を図っていくためにも、京と江戸で同時決起する意義は大きか。お膝元で決起と なれば、幕府の威信は一気に失墜する。桜田義挙が良い例だ」 「ごもっともです。次左衛門に井伊の首が取れたのなら、おいたちも奸の何人かを除けんはずは なか・・・」 国臣の熱弁に触れ、柴山と橋口は鼻息を荒げた。 二人は有村次左衛門と同世代である。同輩が大老の首をあげたことに感化され、自分たちも命 の懸けどころを探しているようである。 とはいえ、二人の性根はどこまでも純朴である。人懐っこさを濃厚に漂わせている。 そ れ は 薩 摩 人 に 共 通す る が 、 若 い柴 山 と 橋 口 は 、 誰 よ り も 鮮 明 に そ れ を 感 じ さ せ た 。 聞け ば 、 二人とも西郷によく可愛がられたという。 (愛嬌とは尊かもんばい。万人に愛される人間とは、きっとこういう連中ばい) 翌朝、二人が正月江戸に上る途中で再会することを約し、国臣らは川内川を渡った。 ( ) 振り返ると、渡唐口 ととんくち でいつまでも手を振る二人の姿があった。 (もしかしたら、これが最後の訪薩となるかもしれん・・・) 川内から出水までの街道上で、国臣はそんな予感を抱いた。 301 東西南北人 明年は決起の年となる。当然ながら、舞台は京坂や江戸へ移っていく。そこに命の保証はない。 (素浪の身ながら三度も入薩できたのは、われながら幸運やったばい) ( ) 北薩最高峰の紫尾山 しびさん を望みながら、国臣は天運に謝した。 十二月二十四日の夜、国臣と伊牟田は安楽寺村に帰着した。 約束の期限ギリギリに何とか滑り込む形となった。清河、安積、松村家の人々、河上彦斎、真 木の門弟らが国臣たちの帰りを今か今かと待ちわびていた。 「どうだ、無事鹿児島に入れたか?」 「同志とは接触できたか?」 矢継ぎ早に浴びせられる質問に、二人は顔を硬直させ沈黙した。 「・・・・・」 「駄目やったとか?」 すがるような松村の問いかけに、ついに国臣は訪薩が不成功だったことを告げた。 「嘘であろう?」 「薩摩から何の返事も得られんかったとか?」 「それでは、すべてが水の泡ではなかか!」 待機組は、失望とも憤怒ともいえない言葉を次々に吐いた。 302 東西南北人 「それなりに報告はあるんだろう?」 詰め寄る清河らに、国臣と伊牟田は重々しい口調で語りはじめた。 その報じた内容は、国臣は飛脚姿、伊牟田は地元の木こりに扮し、小河内の関を越えるには越 えたが、ほどなく二人とも捕らわれ、鹿児島に護送された。中山卿の教書の写しをはじめ所持品 すべてを没収され、外部との通信を断たれた。十日ばかり拘束された後、退去命令を受け、同志 との接触を試みたが、ずっと護卒の監視に置かれたため、ついに連絡を取ることができなかった、 というものだった。 もちろん作り話である。 国臣は、かつてこれほど辛い思いをしたことがなかった。 同志に嘘をつかなければならないのである。これは伊牟田とさんざん話しあった結果、二人で 決めた方針だった。嘘をつかなければならない理由は、 ―久光が率兵上洛する― という薩摩藩上層部しか知らない極秘情報を守るためである。 大久保と交わした約束である。 国臣は、一人で考え抜いた結果、安楽寺村に戻ってから真木と清河の二人にこれを打ち明ける ことを決意した。 大 久 保 に は 他 言 無 用 と 誓 っ た も の の 、 急 進 派 の 有 馬 ら は こ の 動 き を 既 に 読 んで い る 節 が あ る 。 303 東西南北人 どのみち年が明け、久光出府が発表されれば、藩兵多数を率いた上洛の噂が多かれ少なかれ広が るはずであり、あとは周知の事実となる。国臣にとって何より重要なのは、これをどうやって王 政復古の行動につなげていくかである。 そのためにも、薩摩藩の上洛に呼応する準備に早速取り掛からなければならない。 その意味で、九州の同志糾合の要となる真木と、上方の連絡役の清河にはこれを打ち明けなけ ればならなかった。そう覚悟を決め、大久保との秘談をひとまず伊牟田に打ち明け、二人で芝居 を打つことにしたのである。 事が事だけに、慎重にも慎重を期さなければならない。 万が一この機密が漏れれば、薩摩藩の首脳部は極刑を免れず、藩は取りつぶしの危険にさらさ れることになる。討幕の夢も、必然的に露と消える。打ち明ける相手の二人については、国臣が 真木の人物を保証できたし、清河についても伊牟田が太鼓判を押せた。だが、その二人以外には とても打ち明ける訳にはいかなかった。 とりわけ、肥後の士が心配だった。 肥後人の性格が問題なのではない。一人一人は重厚で、むしろ敬服に値すべき士が多い。とこ ろが、同志の結束力となると、首をひねらざるを得ないことが少なくない。この場合、それは取 吹きもいたらず 火の国の りも直さず情報の守秘力と裏合わせとなる。 都には 304 東西南北人 阿蘇が根をろし 音のみはして とは、かつて肥後人の内向き姿勢を揶揄して国臣が詠んだ歌である。 「なぜ、わざわざ他国人と組まねばならんのか?」 「どうしてわれらが薩摩の力を当てにせねばならん?」 肥後人の言動には、そうした性根が時折見え隠れする。 むろん、肥後人すべてがそうという訳ではない。松村大成や河上彦斎、山形典次郎など、普段 から信頼を寄せる同志もいる。ただ、その一方、大成の弟永鳥三平や轟武兵衛などは、国臣や清 河ら他藩の浪士をただの煽動家としか見ていない節がある。 (初期行動においては、肥後人を外すべきである) との考えで、国臣と伊牟田は一致した。 国臣としては、せめて松村大成にだけは打ち明けたかったが、伊牟田に反対されてあきらめざ るを得なかった。医業を営む松村家は出入りが多く、秘密保持に向かないことは明白だった。 その晩皆が寝静まると、国臣と伊牟田は清河をそっと揺り起し、外へ連れ出した。 そこ で 、 は じ め て 訪 薩 の 真 実 を 告 げ た 。清 河は 驚 いた 表 情 を 作 っ た が 、 す ぐ に 理 由 を 理 解 し 、 ひとまず肥後人を除いて同志糾合を進めることで同意した。 清河は、国臣らが訪薩していた間、筑豊肥の同志勧誘に奔走していたという。清河が真木和泉 守を訪ね、安積と真木の門弟が竹田の小河や阿蘇の大宮司を訪れたという。清河は、熊本で永鳥 305 東西南北人 三平とも会合したらしいが、意見の一致を見ることなく物別れに終わったという。 国 臣 に は 、 す べ て 予 想 ど お り の 結 果 で あ る 。 一 つだ け 気 に な っ て い た こ と を 清 河 に 確 認 し た 。 「真木どのをどう見られた?」 清河は、にんまりと笑みを浮かべて答えた。 「真木どのは、全国の勤皇家の首魁たる人物とお見受けいたした」 「それは上々」 国臣は、そう返しながら確信した。 (同志糾合のことは、真木を旗頭に進めていけばよか・・・) 思想や人柄、教養、年齢、容姿、血筋、判断力、略歴、どれを取っても、真木ほど領袖に適し た人物はない。国臣と清河、伊牟田はその場で相談を遂げ、夜が明けて安積をともなって真木に 会いに行くことにした。 二十五日未明、四人は他の人々に何も告げず松村家を出た。 瀬高宿まで進み、国臣一人がそこから水田へと赴いた。国臣は、すべてを真木に話し、夜が更 けてから真木を山梔窩から誘い出した。ともに瀬 高に戻って清河らと合流し、善後策を講じた。 清河はいったん帰京し、田中河内介に九州の情勢を報告しなければならない。その間、国臣と 真木は同志糾合を進め、義挙準備に取り掛かることになった。 方針が合意され、真木は夜明け前に水田に戻り、国臣らも安楽寺村へ引き返した。 306 東西南北人 清河と伊牟田はそのまま熊本に進み、豊後を抜けて帰京の途についた。国臣は、安積五郎とと もに安楽寺村にとどまった。 307 ●著者プロフィール 1969年生まれ。福岡市出身。 修猷館高、横浜国立大経済学部卒。 都銀勤務後、渡米。 ミネソタ州ハムリン大学院行政学修士。 1999年より外国公館勤務。 西のミソラ 平野次郎國臣伝 上巻 西門 二引 発 行 2014年4月30日 発行者 横山三四郎 出版社 eブックランド社 東京都杉並区久我山4-3-2 〒168-0082 http://www.e-bookland.net/ ⒸFutahiki Saimon 2014 本電子書籍は、購入者個人の閲覧の目的のためのみ、ファイルのダウンロード が許諾されています。複製・転送・譲渡は、禁止します。
© Copyright 2025 Paperzz