口腔心身症と日常臨床に必要な心身医学的知識

歯科医の時間
ラジオ NIKKEI 2006 年 6 月 6 日午後 9 時 15 分~午後 9 時 30 分放送
日本歯科医師会企画
株式会社ヨシダ提供
口腔心身症と日常臨床に必要な心身医学的知識
愛知学院大学歯学部口腔外科学第一講座
伊藤
幹子
●口腔心身症の症例●
今日は“口腔心身症”と呼ばれる病態と、その診断・治療に必要な医学的知識について
お話します。
愛知学院大学歯学部口腔外科学第1講座では、7年前から、名古屋大学医学部付属病院
精神科の協力のもと、医療チームを作って、口腔心身症の診断・治療に当たってきました。
診断は歯科医師と精神科医師による二つを併記しています。まずは、難しい定義はなしで、
症例を三つ紹介します。なお、患者様のプライバシーに配慮して、症例の本質を損なわな
い範囲で変更を加えました。
第一の症例は、朝のワイドショーを観るのが日課の白子さん、40歳代の女性です。ある
日、ご自分が好きな俳優が舌ガンで亡くなった話を耳にしました。「へえー、舌にもガンが
できるんだ。私は大丈夫かしら」と鏡をのぞき、赤くただれたイボを見つけました。これ
は、葉状乳頭という正常組織でした。白子さんはガンの“しこり”と思い込み、心配にな
りました。舌に意識が集中し、先日入れてもらったブリッジに擦れるような気がしてヒリ
ヒリ痛み、歯科医院に駆け込みました。先生は笑いながら「何ともないですよ」と言って
くれました。でも、心配でドクター・ショッピングをしました。どこの歯科でも、「心因性
でしょう」などと取り合ってくれません。頭の中では大丈夫と理解できても、「痛みが続く
とガンになるかもしれない。いっそ、ブリッジをはずしたい」という“とらわれ”が半年
以上も続いています。白子さんは、歯科診断では正常な舌がヒリヒリ痛む「舌痛症」、精神
科診断はこころの気と書いて「心気症」でした。誤った解釈に基づく、重篤な病気にかか
る恐怖が基本にあると理解できました。
第二の症例です。緑さん、50歳代の女性で、ご主人とうどん屋さんを営んでいます。近
くの歯科医院に通院中ですが、ご主人は保険診療の義歯を選び、緑さんは自費診療のイン
プラントを選択しました。手術は大成功でした。しかし、その後、原因不明で下あごが落
ちるような感覚に襲われ、喉にピンポン球のようなものを感じて、食物を飲み込めなくな
りました。睡眠も3時間位しか取れず、憔悴しきって来院されました。お話を聞くと、イ
ンプラントの治療費は緑さん夫婦にとっては、大変な出費であったということ、そのこと
で夫に負い目があること、しかしここ数年、夫は昼間からお酒を飲み遊んでばかりいるの
で、緑さんは自分の方の治療費が高くても当然だと考えていたことがわかりました。歯科
診断は「口腔異常感症」、精神科診断は、葛藤やストレスが症状に転換するという意味で、
「転換性障害」でした。転換性障害は他に、原因不明で腕がおろせない、声が出ない、な
どの随意運動機能または感覚機能を損なう症状が現れます。
第三の症例です。紅子さんは、60歳代の女性で、半年前まで、小さな喫茶店を営んでき
ました。2年前、検診だけの軽い気持ちで歯科受診したところ、十分な説明もなく、第一
大臼歯にインレー治療を受けたといいます。その後、治療を受けた歯がほぼ持続的にジン
ジン痛むようになり、疼痛は、反対側の臼歯、顔面にまで広がりました。臨床所見・レン
トゲン所見では異常なしでしたが、あまりの痛さに、歯科医師に頼み込み、抜歯を受けま
した。しかし、疼痛は消失せず、紹介で来院されました。お話を聞くと、痛みには波があ
り、家庭内離婚状態のご主人と言い争うと症状が悪化することがわかりました。歯科診断
は「非定型歯痛」、精神科診断は、心理的要因が痛みと深く関与していることを示唆する「疼
痛性障害」でした。
●抜く前に共感的態度で話を聴くことが重要●
さて、三つの症例のような、説明不能な身体症状や身体的とらわれは、最近では「身体
表現性障害」というカテゴリーで理解されます。からだに現れる障害と書きますが、昔で
言うノイローゼのことです。この用語は、アメリカ精神医学会の「精神疾患の診断・統計
マニュアル」
、頭文字をとって、DSM と略されますが、その中の1カテゴリーです。
ここで、少し DSM に触れましょう。DSM は、日本には20年ほど前、改良された第3版
が画期的に紹介されました。何が画期的か説明しましょう。それまでは精神疾患も、我々
歯科と同じように原因による診断でしたから、原因が特定できないと医師によって診断が
まちまちになるという重大な問題を抱えていました。ところで、大手ハンバーガー・チエ
ーン店のハンバーガーは、マニュアルどおり作られるので、北海道で食べても沖縄で食べ
ても同じ味です。そこで、精神疾患もマニュアルに照らし、症状を当てはめ、操作的に診
断すれば、世界中、だれでも一定の患者群に同じ診断をつける事ができると発想を転換し
て作られた点が画期的なのです。
話を戻しますが、身体表現性障害という概念を理解すれば、器質所見が無いからといっ
て、「病気じゃない」と患者様を突き放さずにすみます。
ここで一句です。
器質所見なくても訴えそこにあり
では、身体表現性障害で理解できたとして、どうすればよいでしょうか。結論から申し
上げれば、「医療面接」が大切です。器質所見が無くても、「心因性だ」とか「気のせいだ」
と否定せず、一定の時間を決めて「つらかったですね」と共感的態度でお話を聴きます。
そうすれば信頼関係が構築され、さらに患者様の病気に対する考え方が把握できます。「解
釈モデル」と言いますが、患者様は、どんな病気と考えているのか、思い当たる原因は何
と考えているのか、この先どうなると心配しているのかなどです。
提示症例でも、ガンを心配していた白子さんにはガンではない保証と舌痛症の病態説明
をすれば、ブリッジをはずす必要はありませんでした。ご主人に対する葛藤があった緑さ
んには、まず、睡眠薬で睡眠を確保し、期間を限定して抗不安薬を処方し、イライラ感を
軽減させ、比較的暗示にかかりやすいご性格を利用し、「日にち薬ですから大丈夫ですよ」
とこちらがどっしりと構え、インプラント治療をした先生に噛み合わせの調整を進めても
らったところ、症状は落ち着き、インプラントを撤去せずにすみました。ジンジンする歯
痛に苦しんでおられた紅子さんには、ストレッサーと考えられたご主人との物理的距離を
可能な限り保ち、温泉旅行などの気晴らしを増やしながら、痛みに効果があるとされる抗
うつ薬ミルナシプランを処方したところ、疼痛は徐々に消失しました。昨今、体の中には、
痛みをやわらげる「下行性疼痛抑制系」というシステムがあり、抗うつ薬によってセロト
ニン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質の再取り込みを阻害し、システムを賦活化で
きるという、有力な仮説が登場しています。まさに、身体・心・社会環境、すべてを全人
的に治療する、これが心身医学の目指すところです。
ここで一句です。
医療面接、器具の要らない最強ツール
しかし、忙しい臨床で、話に時間を割けない先生もいらっしゃると思います。どうぞ、
お近くの口腔心身症を扱っている医療機関にご相談ください。もちろん、身体疾患の見落
としはあってはいけませんが、大切なことは、不必要な抜髄・抜歯・外科的侵襲の強い検
査などで、問題を複雑にしないことです。
ここで一句です。
泣かれても抜いちゃいけない歯もあるさ
その他、我々の口腔心身症外来では、うつ病が約10%、パーソナリテイー障害が約6%
でした。うつ病には自殺の危険があり、「励ましは」禁忌です。ある種のパーソナリテイー
障害は、自殺の脅し、ストーカー行為、歯科医師・患者関係を超えた性的誘惑などの報告
もありますので、それらが疑われた場合は、一人で抱え込まず、専門家に相談するのがよ
いでしょう。どうぞ、お役に立てることがございましたら、ご紹介、ご意見賜りますよう
お願いして、本日は、終わらせていただきます。
◆番組1タイトル(1研修コード)の研修で、日本歯科医師会生涯研修の1単位を取得で
きます。詳しくは日本歯科医師会へ。