機械と運動

博 士 ( 文 学 ) 長 谷 川 功 一
学 位 論 文 題 名
機械と運動
―アメリカ 映画におけ るカーチェ イスの表象についての考察―
学位論文内容の要旨
本論文は、アメリカ映画を特徴付けるアクションのひとっであるカーチェイスを、主体(た
とえば車の運転手)の心理とはある程度無関係に進行してゆく一種の機械運動とみなし、その
表象の変遷を映画史初期から現在までにわたり時系列的に、かつ理論的に考察したものである。
序章では、主にジル・ドゥルーズの映画論(『シネマ1
』)およびトム・ガニングのモダニテ
イ研究に依拠して、機械運動としてのカーチェイスを理論付けている。ドゥルーズは、アメリ
カ映画を特徴付ける概念として「行動イメージ」を議論するなかで、映画における車の運動で
は、車内の主体が車外の環境から切り離されて表象されることを指摘している。本論はこれを
発展させて、カーチェイスでは主体船よび車の2
つの運動が分離されて表象されるという事態
を導き出している。そしてこれら2つの運動のうち、車の運動を詳細に分析するために、ガニ
ングの研究に依拠して、フローとショックという2
つの要素からなるメカニズムという概念を
提唱している。フローが車の線的な運動、ショックがそれに対する様々な妨害であり、映画で
はこのショックがスペクタクルとして描かれる。カーチェイスのスリルの質や激しさは、車外
で発生するこのショックを車内の主体にどのように作用させるかでほぼ決まることになるので、
主体と車に分離された運動は、ドゥルーズとは異なった観点から再び関係づけられる。本論で
は、まさにこの関係の考察が最大の焦点となっている。
本論ではアメリカ映画史を大まかに時代区分して、それぞれの時代を代表するカーチェイス
映画(シーン)をテキストとして選ぴ出し、そこでメカニズムがどのように表象されているか
を考察している。
第一章では、映画史初期およびサイレント期の作品を論じている。映画史初期からは、車の
運動を主題とした短編 映画群(このうち、特に詳細に論じられるのは『暴走車を追う警官』
(19
05
)他3
本である) を選び、それらにおいてフローとショックという要素が、それぞれ単
体のスペクタクルとして表象されていることを指摘している。サイレント期では、マック・セ
ネット制作のスラップスティック喜劇を取り上げている。この運動においてフローとショック
が初めて結びついて、機械的表象メカニズムが作動するようになる。このメカニズムの特徴は、
一 11一
主体の身体を物体化してその機構に直接組み込み、その身体を激しく扱うことによって(車と
の激突など)、ショック(=ギャグ)を表象している点にある。
第二章の考察対象もサイレント喜劇であり、2
人のコメディアン、ハロルド・ロイドとバス
ター・キートンが、セネットの運動を基に構築した独自のメカニズムをそれぞれ分析している。
ロイドが様カな乗り物を乗り継ぐという形態のチェイスを考案することによって、フローをロ
イドの身体のラインと乗り物のラインというように二重化しており、それによって乗り物のメ
カニズムに巻き込まれない身体性を確保している。一方のキートンは1
つのカーチェイスの軌
道に、交通機械としての車のみならず機械的世界像という2つの「機械」の運動を同時に表象
するという極めて特異なメカニズムを構築している。
第三章の主題はハリウッド古典期の作品のカーチェイスである。この時期は、リア・プロジ
エクション技法が一般化して、車の走行シーンは屋外、運転シーンはスタジオで撮影されるよ
うになる。この形式では主体と車の表象が完全に分離されるため、ショックの主体への作用が
表象されなくなり、スリリングなカーチェイスの演出が困難どなる。それゆえ古典期ではカー
チェイスは控えめに演出される傾向が顕著になるのだが、例外的に長いチェイス・シーンを有
した作品が2
っだけある。ギャング映画『ハイ・シェラ』(1
9
4
1)
と犯罪劇『横丁』(
1
95
0
)
であ
り、これら2
作品においてカーチェイスがどのように機能しているかを、映画のストーリー展
開 に お け る カ ー チ ェ イ ス 場 面 の 意 義 を 指 摘 し つ つ 、 詳 細 に 分析 し て い る 。
第四章では現代期(ポスト古典期)のカーチェイスのメカニズムを、刑事スリラー映画『ブ
リット』(
19
6
8
)を例にして分析している。現代期のメカニズムは複雑で、モンタージュに大き
く依存した形態を取っているが、その最大の特徴は、主体が視覚に媒介されてメカニズムに組
み込まれていることである。現代期において初めて、一種の自動車の視点による映像(主体の
位置とは無関係に車内あるいは車体の表面に置かれたカメラによるショット)が表象の中心を
占めるようになり、主体の視線がそれと融合するような形でモンタージュされる。その結果、
主体は一種の視覚的存在に還元されてメカニズムに組み込まれることになり、カーチェイスは
それ自身の論理に従って運動を持続してゆくようになる。この機構の完成によって、カーチェ
イスはアメリカ映画において最大のアクションの地位を獲得する。
第五章では、コンピューター・グラフイックスが普及した1
99
0
年代後半以降のカーチェイ
スを取り上げている。デジタル・テクノロジーによる車の運動の表象には、現代になって構築
されたメカニズムと相容れない側面があり、そのためにC
Gを使ったカーチェイスでは、デジ
タル技術の使用が現代的メカニズムの補完的役割程度に留まるか、逆にそれにとらわれずに、
現実 離れ した アク ショ ンの 描写に使われるかといった二極化現象が起きている。
終章では、本論全体の議論をモダニティの観点から捉えなおし、カーチェイスの運動形態お
よび そこ に孕 まれ る運 動・ 機 械・モダニティ について考察する本論の意義を提示する。
- 12―
学 位 論 文 審 査 の要 旨
主査
副査
副査
准教授
応
雄
教授 佐藤淳二
准 教授 浅沼 敬子
学 位 論 文 題 名
機 械 と運 動
―アメ リカ映画に おけるカー チェイスの 表象についての考察―
( 論文 の目 次)
序 章
カー チェイ スの 表象に 関す る基礎 的考 察
第 一章
サ イ レ ン ト 期 に お け る カ ー チ ェイ ス の 運 動
ー 初期 映画 とマ ック ・セ ネッ ト
第 一 節 初 期 映 画 に お け る フ ロ ー と シ ョッ ク の 表 象
第二 節マ ック ・セ ネッ トの 運動
第 二章
1
17
17
23
サ イレ ント 喜劇 にお ける 車の 運動
― ロ イ ド の 『 猛 進 ロ イ ド 』 ( 1924)、 キ ー ト ン の
『 忍術 キー トン』(1
92
4)
と『滑稽恋愛 三代記』(1
92
3)
に おけ るチ ェイ スの 運動
第一 節ハ ロルド ・ロ イドの 二重 化され た運 動
第二 節『 忍術キ ート ン』の 無人 バイク の運 動
第 三 節 車 ・ バ イ ク の 二 重 表 象 の メ カ ニズ ム
第四 節キ ート ン・ 蒸気 機関 車・ 近代 性
第 三章
35
36
44
51
57
ハ リウッ ド古 典期の カー チェイ ス表 象
一 『 ハ イ ・ シ ェ ラ 』 ( 1941)と 『 横 丁 』 ( 1950)
の 作品 構造 と自 動車 の運 動
第 一 節 古 典 期 のカ ー チ ェ イ ス の表 象メ カニ ズム
第二 節『 ハイ ・シ ェラ 』の 作品 構造
第 三 節 『 ハ イ ・ シ ェ ラ 』 の 西 部 劇 的 カー チ ェ イ ス
第四 節『 横丁』 の構 造と迷 宮的 カーチ ェイ ス
第 四章
過 剰な 行動 イメ ージ の領 域へ
-1
3―
66
67
70
76
84
一『プリット』(
1968
)における現代的メカニズムの形態
第 一 節 カ ー チ ェ イ ス の 運 動 にお け る主 体 の二 重 化
第二節モ ンタージ ュと視点
第 三節
現 代 的カ ー チェ イ スの 表象 と その展開
109
110
116
124
第五章デ ジタル時 代のカー チェイス
− 『 マ ト リ ッ ク ス ・ リ ロ ー デ ッ ド 』 (2003)
における CGチェイス
138
13 9
第一節C
GチェイスとC
G
I効果
14 5
第二節機械とC
G
チェイス
終章
16 0
モダニティ的運動としてのカーチェイス
16 4
参考文献一覧
主 要 な カ ー チ ェ イ ス 映 画 作 品 の り スト
174
他 の カ ー チ ェ イ ス 映 画 作品 の りス ト
17 6
(本文18
3
頁:4
0
0字詰原稿用紙換算4
8
8
枚)
平 成 22年 5月 14日
審査委 員会発足
平 成 22年 5月 14日
平 成 22年 6月 9日
第 1回 審 査 委 員 会 : 論 文 配 布 、 審 査 日 程 の 調 整
平 成 22年 6月 23日
口頭試 問
平 成 22年 6月 23日
第3
回 審査委員会:試問結果の検討、学位授与の判定
平 成 22年 7月 2日
平 成 22年 7月 7日
第 4回 審 査 委 員 会 : 審 査 報 告 書 の 作 成 ・ 検 討
第 2回 審 査 委 員 会 : 論 文 内 容 の 確 認 ・ 討 議
第5
回 審査委 員会:審 査報告 書の確定
壷査堕抵要
1、本論文の観点と方法
本論文は、アメリカ映画を特徴付けるアクションのひとっであるカーチェイスを、主体(た
とえば車の運転手)の心理とはある程度無関係に進行してゆく一種の機械運動とみなし、そ
の表象の変遷を映画史初期から現在までにわたり時系列的に、かつ理論的に考察したもので
ある。
カーチェイスは、一見して単に娯楽的な見世物でしかなぃようにみえるのだが、理論的に
は重要な問題を孕んでいる。そこで、新しい理論的アプローチを試みる本論文の考察は、現
代映画理論の頂点とされる『シネマ』におけるジル・ドゥルーズの「行動イメージ」論の再
検 討から出発する。「行動イメージ」はS
AS
’の定式で表現される。すなわち、主人公を取
り 囲むある包括的な状況(S
=
ニs
it
u
a
ti
o
n)
があり、主人公は行動(
A
=a
c
ti
o
n
)によってその状
況(
S)
に 働きかけ て、主 人公に通常有利な局面となる新たな状況(S
’)を生み出すという
- 14―
形式である。この定式は「感覚―運動的連関(
l
ie
nse
n
s
or
i
-m
o
t
eu
r
)」というドゥルーズによ
るもうひとつの概念と結びっき、多くのアメリカの映画を特徴付けるものとされた。しかし、
ここからドゥルーズは、19
70
年代の『タクシー・ドライバー』について、車内に位置するド
ライバーがキャブの外側の世界に働きかける契機を持てないため、感覚一運動的連関におけ
る断絶が生じてしまい、このことによって、積極的に行動することが抑制され、かわりにさ
すら い( 彷徨 )を 生きる 観察 者の 性質を 帯ぴ てし まう 、と指摘している。
ドゥルーズの『シネマ』の論考は、「行動イメージ」からヒッチコック論を経て感覚一運動
的連関の断絶を前提・契機とする「時間イメージ」へと移行していくわけだが、長谷川氏は
ドゥルーズによる分析には収まらないものとして、カーチェイス独自の問題を提起するので
ある。機械である車の介在によって感覚―運動的連関にある種の断絶が生起したにもかかわ
らず、カーチェイスは「時間イメージ」に向かうどころか、その反対にある「行動イメージ」
を徹底的に強化するように働くのであり、こうした様相においてこそ、カーチェイスの孕む
理論的真価が発揮されるというのである。本論文は、まずアメリカ映画における各時期の支
配的なカーチェイスの表象様式をそれぞれ異なる機械的なメカニズムとして解明し整理する。
のみならず、カーチェイスの表象が、時期によって機械や、機械がうみ出す動きという問題
を孕む「モダニティ」という概念と結ぴっけられ、また物語との関係性において分析的、理
論的に検討されており、単なる通史以上の論考となっている。本論文は、従って、映画ジャ
ンル 論と 映画 史的 研究 と映 画理 論面での探求との総合を目指すものといえよう。
2
、本論文の内容
「学位論文内容の要旨」に書いている通り。
3、当該研究領域における本論 文の研究成果
@カーチェイス映画を取り上げた従来の研究は、カーチェイスを主に文化的文脈において
論 じている。たとえば、カーチェイスはアメリカ的個人主義の発露、移動性に象徴される自
由 の獲得手段、アメリカ社会の権威や保守性に対する反抗の表現などとして解釈される。ま
た 、ジャンル論的な観点から言えば、カーチェイス映画はロード・ムービーの傍流として解
釈 されることも多く、またカーチェイス映画にしてもロード・ムービーにしても、サブジャ
ン ルとして西部劇の流れの中で考察されることもしぱしば見受けられる。総じていえば、カ
ー チェイス映画に対する学問的関心は低く、それが単に娯楽的な見世物であると即断される
傾 向が強い。このように十分に研究されてこなかったカーチェイスに、運動のメカニズムと
い う新たな角度から光を当てて、このアクションが有しうる学問的な意義を提示しえたこと
が 、本論文がなす学術的な貢献のひとっといえる。
◎この論文全体の最も重要な成果は、前項とも関係するが、映画史的な時代区分に応じて
支 配的なカーチェイスの表象様式が存在していること、そしてその様式が時代を経るごとに
前 の様式を組み込みながら展開してきたこと(カーチェイス映画の自律的展開)を、各時期
の 作品群からカーチェイスの諸メカニズムを析出・整理する作業を行うことによって、初め
て 明らかにした点にある。この意味で本論文は、当該学術領域において新しい分野を開拓す
― 15―
る ことに 成功し ている と評価 できる 。
◎ こ の論 文 は 、 映画 ジ ャ ン ル論 と 映 画 史的 な 次 元 に韜 い て 、 カー チ ェイスに 見られ る映画
に 韜 け る 運動 の 表 象を 究明す るだけ でなく 、現代 映画理 論の次元 におい ても、 「ポス ト.『 シ
ネ マ 』 」 とも い う べき 新しい 問題を 提起し ようと してい る。ただ し、こ の点に おいて は、本 論
文 で 同 時 に援 用 さ れ てい る ジ ル ・ド ゥ ル ー ズの 映 画 論 とト ム ・ ガ ニン グの理 論との 間の整 合
性 と い う 課題 が 残 っ てい る 。 ま た本 論 文 で は、 物 語 と カー チ ェ イ スの 関係性 につい ての考 察
が 個 別 の 章で ま だ 十 分に な さ れ てい な い と いう 印 象 も 否め な い 。 さら には、 カーチ ェイス の
表 象 に お ける モ ン タ ージ ュ の 形 態お よ び 現 代思 想 の 問 題と し て の 主体 の存在 論的な 様相に つ
い て も 、 さら に 深 く 考察 さ れ る べき で あ る 。し か し 、 この よ う な 問題 点は、 本論文 が持つ 理
論 的 射 程 の長 さ と 課 題の 先 端 性 に由 来 す る もの で あ り 、本 論 文 の 達成 した成 果を損 なうも の
で は な い 。 長 谷 川 氏 は 、 博 士 課程 在 学 中 の3年間 に 、 研 究論 文 を 8本 発 表 して お り 、 その う
ち の3本が 全国学 会誌( 『アメ リカ研 究』、 『映像学』、『映画研究』)査読論文である。このこ
と も 、 長 谷川 氏 の研 究 の学 術 的レ ベ ルの 高 さを 物 語 るも の とい え よう 。
4、 学位 授 与 に 関す る 委 員 会の 所 見
本審 査 委 員 会は 、 以 上 のよ う な 審 査結 果 に よ り、 全 員 一 致し て 本 申 請論 文が 博士( 文学)
の学 位 を 授 与さ れ る に ふさ わ し い もの で あ る と認 定 し た 。
ー 16―