聖霊降臨節第5主日 ≪宣教への派遣≫ 礼拝説教抄録 10 2014 年7月6日 ベテルの祭司アマツヤは、イスラエルの王ヤロブアムに人を遣わして言った。「イスラエル の家の真ん中で、アモスがあなたに背きました。この国は彼のすべての言葉に耐えられませ ん。11 アモスはこう言っています。『ヤロブアムは剣で殺される。イスラエルは、必ず捕らえら れて その土地から連れ去られる。』」12 アマツヤはアモスに言った。「先見者よ、行け。 ユダの国へ逃れ、そこで糧を得よ。そこで預言するがよい。13 だが、ベテルでは二度と預 言するな。ここは王の聖所、王国の神殿だから。」14 アモスは答えてアマツヤに言った。「わ たしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を飼い、いちじく桑を栽培す る者だ。15 主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエ ルに預言せよ』と言われた。 アモス書 7 章 10~15 節 1 アンティオキアでは、そこの教会にバルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキ オ、領主ヘロデと一緒に育ったマナエン、サウロなど、預言する者や教師たちがいた。2 彼 らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。「さあ、バルナバとサウロをわたしのために 選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために。」3 そこで、 彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた。 4 聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向 け船出し、5 サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨ ハネを助手として連れていた。6 島全体を巡ってパフォスまで行くと、ユダヤ人の魔術師で、 バルイエスという一人の偽預言者に出会った。7 この男は、地方総督セルギウス・パウルス という賢明な人物と交際していた。総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとし た。8 魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地 方総督をこの信仰から遠ざけようとした。9 パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たさ れ、魔術師をにらみつけて、10 言った。「ああ、あらゆる偽りと欺きに満ちた者、悪魔の子、 すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道をどうしてもゆがめようとするのか。11 今こそ、 主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだ ろう。」するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、 だれか手を引いてくれる人を探した。 12 総督はこの出来事を見て、主の教えに非常に驚き、 信仰に入った。 使徒言行録 13 章 1~12 節 1.あなたがどう変わったのか? 先週、東京の信濃町教会の方た ちが、わたしたちの教会と幼稚園をご訪 問くださいました。わたしが神学生時代 にお世話になった教会の皆さんで、度々 足を運んでくださっている方もあれば、8 年ぶりに再会した方もありました。8 年ぶ りというのは、神学生時代に特に指導を いただいた懐かしい長老です。磐城教 会をおぼえてずっと祈っていた、ずっと訪 ねたかったとおっしゃってくださいました。 それで、わたしの顔を見て「毎週説教し ているんですか?」と言われるのです。 「え、もちろんです」と答えます。長老は 信じられない、という表情です。 考えてみれば、この信濃町教会が、 わたしが神学生になって初めて礼拝説 教を奉仕した教会でした。当時は、1 か 月かけて説教準備をして、礼拝奉仕が 終わって帰ると、翌日は腑抜けのように なって起き上がることができませんでした。 み言葉をいただいて腑抜けになるとは矛 盾していますが、み言葉の奉仕は、文字 通り全力なのです。わたしの場合、何度 か説教奉仕を経験して、正直、毎週説 教することは無理だと感じました。 「毎週説教しているんですか?」と 聞かれて、いつのまにか自分もそうなっ ていたことに気づかされました。この 8 年 の間に、何があっただろうかと思い巡らせ ました。いろいろな学びや訓練をさせてい ただきましたが、自分自身の中で、何か が劇的に変わったと言えるかというと、お ぼつかない思いがします。しかし、たしか に言えることは、わたしは按手礼(牧師の 任職)を受けたということです。わたし自 身がではなく、聖霊が、わたしを牧者へ と変えてくださったのです。信濃町教会 の皆さんにとっては、「あの頼りない神学 生」としか思えないかもしれませんが、わ たしはたしかに変わったと思います。 皆さんも、同じような経験はおありで ないでしょうか? 教会生活が長くても 何も変わっていないとおっしゃる方があり ます。クリスチャンホーム育ちではないか ら、自分の中にクリスチャンになりきれて いない局面を感じるとおっしゃる方があり ます。教会生活の月日を重ねる中で、 自分自身がいかに変わったか、胸に手 を当てて考えてみると、なかなか確信が 持てないという方もあるかもしれません。 しかし、どの方に対してもたしかに言 えることは、わたしたちは洗礼の恵みが与 えられているということです。わたしたちは 偶然とか何かの縁でこの教会に集うの ではありません。神が招いてくださらなけ れば、わたしたちが教会に集うことはあり ません。ただ自らの意志や願望によるの ではない、神の召しによる洗礼を、わたし たちはいただいています。洗礼をまだ受け ていない方にも、神が、ふさわしいときに 洗礼の水を備えてくださいます。 2.礼拝、断食、祈り 今日、この主の日にはひとつの主 題が与えられています。《宣教への派 遣》という主題です。ご一緒に朗読を聞 きました聖書、使徒言行録の 13 章には、 教会の宣教が、西方世界に拡大してい く出発の場面が描かれています。わたし たちの教会が使っている新共同訳の聖 書では、巻末に聖書地図がついていま す(第7図参照)。この地図では、使徒 言行録の 13 章に始まる宣教旅行の道 のりが線で示されていますが、まさにこの 旅の出発の場面です。 アンティオキアの教会の教師たち、 また預言者たちの名前が挙げられます。 キプロス島出身のバルナバ、ニゲル、つ まりアフリカ名のニゲルとも呼ばれる黒人 のシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロ デと同じ教育を受けたというエリートのマ ナエン、そしてダマスコ途上で劇的な回 心を経験したサウロです。民族も背景も 違う彼らは、ひとつになって「礼拝し、断 食して」(2 節)いました。すると聖霊が告 げます。「さあ、バルナバとサウロをわたし のために選び出しなさい」(2 節)と。 そこで、彼らはさらに「断食して祈り」 (3 節)ました。聖書では「断食」は「祈り」 と結びついています。自らをもっとも弱い 状態にして、悲しみや悔い改めを祈るの です。主御自らが断食をされました。断 食などの苦行は、一方で、自己を正当 化することや自らの信仰深さを測るものと して行われる危険をはらんでいます。そ のため多くのプロテスタント教会ではこの 習慣をほとんど失くしてしまいましたが、 断食の祈りを重んじる教会もあります。 最初期の教会は、重要な場面で断食 と祈りを欠かしませんでした。それぞれの 教会の長老たちもまた、祈りと断食によ ってその職務に任命されました(使 14:23)。「礼拝」と「断食」と「祈り」によ って、教会は自らを神に明け渡します。 わたしたちの教会が、人の集まりとしての 民主主義 democracy に生きるのではな く、神の統治 theocracy のもとに歩むこ とができることを教えています。 3.宣教旅行へ 「聖霊によって送り出された」(4 節) バルナバとサウロは、早速、バルナバの 故郷でもあるキプロス島に向けて旅立ち ました。最初に伝えられているのは、サウ ロとユダヤ人魔術師バルイエスとの対決 の場面です。占いやまじないなどの祭儀 を行う「魔術師」(マゴス)は、キリストご 降誕のクリスマスの場面に要人として登 場しますが(クリスマスの場面では「魔術 師」ではなく「占星術の学者」という柔ら かい表現)、これは異例のことで、聖書 全般では忌み嫌われる存在です。バル イエスという人物も、「偽預言者」などと 呼ばれて酷評されていますが、地方総 督と交際のある社会的地位の高い身 分でした。神に由来しない偽の力への、 サウロの厳しい糾弾が描かれています。 福音は、この世の諸々の力にまさる力を 持って進んでいきます。 ところで、9 節に、「パウロと呼ばれ ていたサウロは…」とあります。ここまで来 て初めて、サウロという人が、あのパウロ と同人物であったのかと気づかれた方が あると思います。サウロという名は、ヘブ ライ名です。一方、パウロという名前は、 ギリシャ名です。パウロという名を知らな い人は少ないと思います。パウロという人 は、もともとは熱心なユダヤ教徒であり、 教会の迫害者でした。キリスト教会の最 初の殉教者であったステファノの殺害 記事の中で、初めてその名前が登場し ます(使 7:58)。「サウロは、ステファノの 殺害に賛成していた」(使 8:1)と伝えら れています。 パウロは、「なおも主の弟子たちを 脅迫し、殺そうと意気込んで」(使 9:1) いました。キリストに従う者を見つけ出した ら「男女を問わず縛り上げ…連行する ため」(使 9:2)に、教会を迫害するため に、ダマスコという町に向かっていました。 しかし、サウロはこのダマスコへの道の途 中で、劇的な出来事を経験します。天 からの光にサウロは倒れ込みます。呼び かける声があります。「サウル、サウル、な ぜ、わたしを迫害するのか」(使 9:4)。復 活のキリストの声です。復活のキリストに 出会ったパウロは回心し、異邦人伝道 の召命を受けました(使 9:15)。 4.サウロからパウロへ 召命の後、精力的に宣教の旅を 続け、多くの手紙を書き残したキリストの 使徒パウロ。新約聖書のうち、ほとんど の手紙は、このパウロの名によるものです。 パウロは、自身の手紙でも「パウロ」と名 乗っているように、このギリシャ名以外で 登場することはありません。唯一、この使 徒言行録で、ヘブライ名に触れられる のみです。わたしたちは、この使徒言行 録で初めて、パウロのヘブライ名がサウ ロであったことを知ることができるのです。 当時のユダヤ人はほとんどの人が、 ヘブライ名とギリシャ名の2つの呼び名 を持ち、家庭や社会等で使い分けてい ました。ギリシャ名は、もともとのヘブライ 名を翻訳したものです。キリストの12弟 子ひとりのペトロ。「ペトロ」という名前は、 ギリシャ語で「岩」という意味ですが、ヘ ブライ名では「ケファ」(岩の意味)と呼 ばれていました。もうひとりの弟子のトマス。 「トマス」という名前は、ヘブライ名で「双 子」という意味ですが、ギリシャ名では 「ディディモ」(双子の意味)と呼ばれて いました。主イエスも、ギリシャ名では「イ エス」ですが、ヘブライ名では「ヨシュア」 です。どちらも「神は救う」という意味の お名前です。いずれも名前に込められ た意味を重んじてのことです。 パウロは、家庭で呼ばれるヘブライ 名が「サウロ」で、さらに広い公の場面で は、ギリシャ名の「パウロ」と呼ばれました。 この2つの名前は響きが似ていますが、 意味の上では対応していません。「サウ ロ」とはヘブライ名で「求める」という意 味ですが、「パウロ」は「小さい者」という 意味です。パウロは自らを「月足らずで 生まれた」(Ⅰコリ 15:8)と告白しながら、 小さな者としてキリストに召された「パウロ」 として遣わされていきます。使徒言行録 に表されたこの呼び名の変化には、非の 打ちどころのないユダヤ人であったサウロ が、パウロという名の異邦人伝道者にな るという変化が表されているのです。 わたしたちはどのような名前を持っ ているでしょうか? 特別な名前を持っ てはいないように思われるかもしれません。 しかし、神は、わたしたちに特別な名前を くださいます。クリスチャン―キリストのもの ―という特別な名前を、わたしたちに備 えられます。わたしたちは、キリストの名を 身に帯びる者として遣わされるのです。 (祈り)
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