襟裳メヌキ場所の話―新漁場開拓の蔭で 大正八年、吉之助兄貴(次男)が庶野にタラ釣りに行ってたんだけども、地元の連中はサガ(メヌキ) ば狙わないんだわ。聞いてみたら、いないって言うんだけども、兄貴は研究熱心だったから、山の姿 や水の色見て、サガいると思ってたんだべな。それであるときタラナワ(縄)のとき、なんぼかガラ ス玉つけて浮かし気味にしてナワおろしておいたっけ、何本もかかってきたんだとよ。 九年の頃、吉之助兄貴は様似の梅田の船頭やっていて、 オレも様似の中津の船に乗っていたんだ。で、 あるとき、兄貴が「カヅ(勝五郎)、庶野の沖さサガ釣りにいってみるべや」と言うもんだから、 よし ということになって。それでタコナワの鉤のあいだを一本づつ抜いてナワ入れてみたのよ。岩縄にひ と抱えもある石ばしばって沈めるのよ。三百尋(四五〇メートル位)もあって深いのよ。上げてみた ら船に積まれないだけ釣れたんだ。重しの石をあげたら、目ん玉プクッと飛び出して、海の上にメヌ キが浮かんでくんのよ。船に積みきれなくてナワをふるって何バイも何バイも投げてきたんだ。様似 さ帰ったら連中びっくりして「メヌキで大漁した船なんて初めてだ」といって大騒ぎよ。 そんなことがあったもんで、今度庶野沖へ行くというときに、岩瀬の船、そのときできたばかりの 新造で、誰かが借りてやってたんだども、一緒にサガ釣りに連れて行ってけれっていうもんだから、 一緒に行ったのよ。こっちは帆かけの風まかせだから、えりも岬に行ったら、カミカゼ(北西風)が 吹けば十勝の入澗(入江)に入るし、ヤマセ(南東風)が吹けば日高に入るという具合だったんだ。 えりも岬はちよっとの風でもシケるところだべし、オレたちの場所は帆かけで二時間半も行ったと ころなんだが、あのへんは普通あんまり漁はやらないんだ。カミカゼのとき岩瀬の船は普通は目黒に 入るし、オレらはいつも広尾に入っていたんだ。 サガやることになって、オレら広尾から出て行ったんだども、岩瀬の船は目黒からだべし、先に漁 場についていて、もうナワ下ろし終わってて、帆下ろしてアカシ(燈火)つけて寝てんのよ。それで 吉之助の船も、兄貴(長男)の吉三郎が船頭で乗ってたオレの船も、ナワ下ろす場所探してあっちこっ ちしてたんだ。ナワ下ろす準備もできて、いよいよスタンバイということになったんだけども、オレ はいやだなと思ったんだ。 「今日はどうも面白くないからナワ下ろすのやめるべや」と言ったら 「テメエなにを言ってるんだ。みんな用意できて待ってるんだ、バカ言うな」 「いやそうじゃネェ。空見てみれ、南のほうに雲あるべや。それに十勝のほうから 少し風が来てるべ。このあと南風が来てシケる」 「そうかカヅ、そういうことだったら今日はテメエのいうこと聞いて帰るべ。ここはカ ヅが何度も来ている場所だで、よく知ってるべや」 オレが言うのもなんだけども、上の兄貴の吉三郎は天気見の天才といわれた人なんだども、あのと きはオレの言うこと聞いたんだ。それで吉之助の船にも合図したら、帰るということになったのよ。 岩瀬の船は、折角ナワ入れたんだからということで、オレたちだけ大帆を上げて帰ってきたんだ。 「できるだけ大帆で走って、風が来たら短い帆に替えるべ」といったら、 「テメエ、今日はずいぶん用心深いな」というから 「そのうちバクチどころでなくなるぞ」といって帆を変えさせているうちに、ドカンと吹き出しが 来たんだ。 帆ももたないくらいの凄い風だった。船に乗っていた安藤という人だけども「カズ、何処でもいい から浜へあげてくれ、命だけは助けてくれ、頼むぞ、頼むぞ」といって手合わすんだ。そう言われても、 あのへんで変なところに近づいたら岩でバラバラになってしまうべや。必死になって舵(かじ)取っ てたのよ。うしろ見たら兄貴の船もついて来てるんで安心したんだ。 ようやく様似の浜につけることが出来たのよ。それでほっと安心したら 岩瀬の船どうしたべな、 このシケだったらゆるくないべ と岩瀬の船が気になったんだ。そのあとも入って来ないし ・・・・・・。 まあ夜になってオレたち無事帰港できたということで、みんなで呑んでいたんだ。そしたら、岩瀬の 船に乗ってた人の嬶(かか)や親がやって来て、 どうしてうちの船を曳っぱって来てくれなかった んだ といって泣くんだ。夜通しそばで泣かれたな。 次の日、様似に避難していた定期船日高丸に探して貰ったんだけども、見つからなかった。岩瀬の 船は結局、金華山(宮城県)まで流されて、七人乗りだったけども、一人は櫓に体をしばりつけて、 一人は表のバン(船倉)の中で死んで打ちあげられていたっていうな。そんなこともあったのよ。 ※ その後、勝五郎は、浦河に帰ってきて春日の船の船頭になり、さらに請われて畑中の船に乗った。 このとき、畑中は浦河で初めて八馬力の焼玉動力船を導入したが、勝五郎がこの船を降りた翌年 の大正十二年、畑中惣四郎はその船で、石橋、阿部の船とともにこのメヌキ場所で操業していたが、 春の大シケのとき、ここで死んだ。後に本間や浜出を始め浦河の動力船は、メヌキといえば後に 大 難 と呼ばれたこの海域で操業するようになったのだが、この話は道内でも有数のメヌキ水揚港 だった浦河メヌキ漁の草創の頃の話である。 [文責 高田] 【話者】 館 勝五郎 浦河町堺町西 明治二十九年生まれ 阿部 金蔵 浦河町浜町 明治四十一年生まれ
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