力を捨てよ、知れ、私は神!

力を捨てよ、知れ、私は神!
旧約単篇
詩篇の福音
力を捨てよ、知れ、私は神!
詩 46:1-12
題は 16 節にある「浸しのヨハネ」の言葉から取りました。
この詩篇は「ルターの詩篇」と言われることがあります。マルティン・ル
やぐら
ターを感動させて、「神はわが 櫓 」“Ein’ feste Burg ist unser Gott”とい
う讃美歌を生んだからです。私たちの讃美歌では 267 番に、聖歌では 233 番
に入って親しまれています。作詞・作曲とも、マルティン・ルターのもので
す。しかし、ルターの「わが櫓」よりも、この詩の言葉により近く、平行し
て作詞されているのは、「神はわが力、わが高きやぐら」という讃美歌 286
番です。この方の作詞者は Isaac Watts です。
神はわが力、わが高きやぐら、苦しめる時の近き助けなり。
これは、新共同訳ですと 2 節に当たります。
たとい地は変わり、山は海原の中に移るとも、われいかで恐れん。
これは、3 節と同じです。
神の都には、静かに流るる清き川ありて、み民をうるおす。
これは、一つ飛んで、5 節を少し言い換えてあります。
讃美歌の歌詞の 4 番と 5 番は、詩篇の言葉とは直接つながっていません。
私たちの聖書で“46”という数字の下に、小さい字で印刷してある見出し
の 2 行目の「アラモト」というのは、以前は正確な意味が不明なまま、直訳
しておりました。前の口語訳では「女の声の調べにあわせて」と訳してあり
ました。ヘブライ語の
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は「少女たち」ですが、エルサレム神殿の合
唱団は男声だけで構成され、女声は全く使わなかったものですから、「少女
たちに合わせて」は不可解とされてきました。今日の研究では、これはイタ
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リア語の soprano と同じように、多分、音域を表す術語かと推定されます。
たとえばソプラノ・リコーダーのような高音域の楽器群を、「アラモート」
と言ったのではないか、と言うのです。ですから、新改訳やこの新共同訳で
は、ここの見出しを次のように訳しています。「指揮者に合わせて、コラの
子の詩。アラモト調。歌。」
「指揮者に合わせて」は、多分「合唱曲」という意味でしょう。「コラの
子たち」は、この詩の作者ないし編集者のグループ。コラはレビに属する一
族です。あとは演奏上の指定で、ソプラノ・リコーダーかヴァイオリンのよ
うな高音域の伴奏、ないし助奏をつけて歌われた歌……という意味だと思わ
れます。
本文の下に三度出てくる「セラ」hl's, の意味は、現在でも定説はなく、休
止符の意味に取る人、「クレシェンド」と見る人、その他諸説があります。
私の想像では、アラモートの助奏が上昇音階で高まったか、あるいはクレシ
ェンドして盛り上がったのだと思います。
では、詩篇の本文を味読します。この詩は「セラ」の所で、三つの節に分
かれる形になっています。もっとも、「ヤコブの神は……」のリフレーンを
目安にしますと、7 節までと 8 節以下とに二分されます。
第一段.動揺と不安の中で、神は不動の避け所:1-3.
2.神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
3.わたしたちは決して恐れない。
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
4 海の水が騒ぎ、沸き返り
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その高ぶるさまに山々が震えるとも。
ここに描かれている動揺と不安のイメージは、作者にとってどんな経験だ
ったのか分かりません。「地が姿を変えて、山々が揺らいで海の中に移る」
というのは、もちろん、ヘブライ的な修辞で、文字どおりの天地の変動では
ないと思います。この人は恐らく、目の前ですべてがグラッと傾いて覆るよ
うな恐怖と不安を経験したのです。その衝撃の経験は何だったのか……。ア
ッシリアの大軍が怒涛のごとく侵入するのを見たのだ、という説明もありま
す。また、「山々が揺らいで震え、海の水が沸き返った」という言葉から、
実際に大地震や大洪水が背景になっていると見る人もいます。
しかし、そういう戦禍や災害を見ないでも、私たちは、今の今まで絶対確
かな動かぬものと思って頼りにしていたものが、突然、根底から覆るのを見
る経験をします。自分の生きがいであった仕事が崩れる。自分の誇りであっ
た家庭が壊れ始める。自分の体が蝕まれて、お先真っ暗になる。だれが不正
を行ってもこの私だけは絶対……と思っていた自分が、アッという間に道徳
的な間違いを犯す。不潔に足を取られる。
そういう時に、神を知る人は、神に帰ることができます。嵐と大浪の押し
寄せる中で、詩人は岩陰の避け所を描きます。容易に陥ちない城砦の絵を重
ねます。また、すぐ近くにいる強力な援軍を、生ける神の中に見ています。
日本の諺にいう「苦しい時の神頼み」との違いは、その苦しみの来る前から、
そんな力強い神の命を味わって知っていることです。動揺とパニックが訪れ
る前に、そんな確かな神を知っておくことが先決です。そのヒントはイエス・
キリストの中にあります。
第二段.神は確かに、信頼するものを引き受けてくださる:5-8.
5.大河とその流れは、神の都に喜びをあたえる
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いと高き神のいます聖所に。
6.神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
「夜明けとともに」は多分、恐怖の夜には終わりがあるという意味でしょ
う。詩篇 30 の、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさ
せてくださる」(:6)と同じように、神に目を上げる限り、夜は永遠に続き
はしない。必ず明るい朝をお与えになる、という意味です。
「大河とその流れ」は、一つのシンボルになっています。人の渇きを潤す
水が、豊かに流れている所を指しています。命の源である神御自身の臨在を、
「大河とその流れ」で象徴してあります。これと似た言葉としては、詩篇の
36 に、「命の水はあなたにあり……あなたの甘美な流れに渇きを潤す」(:
9,8)とあります。
6 節の「都は揺らぐことがない」の「都」は、“the City”、つまりエルサ
レムです。言葉自体が表わすのは、堅固な地盤の上に立つ不動の都の絵です
が、実際には、その都に住む市民が揺るがない。神を仰ぐ者が倒れたり潰れ
たりするのを、神はお許しにならないことを「神の都」“the City of God”
に託して表しています。しかし、都が揺るがないのは、世界が安定している
からではありません。むしろ、逆なのです。次の言葉の背後に、何が起こっ
ていたのかを想像してください。
7 すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は溶け去る。
8 万軍の主はわたしたちとともにいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
「万軍の主」the Lord of hosts は、「世界で最も力強い支配者」を指すヘ
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ブライ語の熟語です。「アドナイ・ツェヴァオート」tAab'c.
hwhy
の「ツェ
ヴァオート」は、元々“armies”を指す言葉です。「多くの軍団を率いる主」
ですが、この「軍団」ab'c'; は、武器を持った軍隊という意味の外に、天使の
群や天の万象、つまり、天体の総称としても使いますから、「ツェヴァオー
トの主」は、すべての天体の運行を支配し、天使の群を従える力強い主、と
いう意味に、後代では理解されました。
しかし、ダビデの時代の元々の意味は、「多くの軍勢を動かす主」です。
ダビデに率いられる一握りの武装集団が、ペリシテ人、アマレク人その他の
民族の脅威にさらされていた時代の言葉として、受け止めれば、あながち“好
戦的言辞”とは言えないでしょう。今のヘブライ語でも、army は「ツァヴ
ァー」ab'c'、その軍団が集合すると「ツェヴァオート」tAab'c. になります。
イスラエル国軍は、「ツェヴァー・ハガナー・レ・イスラエール」
laer'f.yIl. hN"g:h] ab'c.(イスラエル防衛軍)です。
こういう、「万軍の主」というような呼び名は、現代の私たちに反発を覚
えさせるでしようか。そうかも知れません。しかし、本当に、自分の精神力
だとか信念だとかいうもの頼りなさを知る人には、万軍の味方、巨大な軍団
を率いて私を助けてくださる主、という言葉の内容を、いくらか実感できる
と、私は思います。
第三段、神は歴史を完成なさる:9-12.
9.主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
10.地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。
2 行目は、訳文により少しずつ違っています。原文は「主は地にシャンモ
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ートを置いた」なのですが、この「シャンモート」tAMv; は「荒廃」あるい
は「恐怖」ですが、地上から戦いを止めさせる前に、主がまず全地を戦火で
荒廃させ給うた……と読めば、新改訳のような訳になります。「震え上がる
ほどの驚き」と読めば、新共同訳や口語訳のような訳文になるでしょう。
主がなされた、驚愕すべき、圧倒的な御業は、地上から戦いを消滅させら
れたということです。地上から弓と槍と盾とを一掃する仕事は、主なる神の
事業で、罪ある人間の手では成就しないということです。人間は戦をする能
力と、戦の効果的な道具生み出す能力を誇りましたが、戦を終わらせる事業
だけは、人間の手では完成しないのです。神だけがこの地上から、弓と槍と
盾と、戦車と核弾頭とを一掃されるのです。「主よ、来り給え」(マラナ・
タ)at'
aN"r;m'
という告白が、使徒パウロの言葉の中にも見えます(1 コリ 16:
22)が、それは人間の罪の告白、無力の告白であると同時に、最終的な希望
の告白でもあります。
11.「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」
12.万軍の主はわたしたちとともにいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
11 節の最初の一行は、文語訳や口語訳になじまれた方には、オヤと思われ
たでしょう。以前の口語訳はこうでした。「静まって、わたしこそ神である
ことを知れ。」これは、その前にあった文語訳を書き換えただけのものでし
た。「汝等しづまりて我の神たるを知れ。」そして、その原型になったのは、
古い英訳(AV)の“Be still and know that I am God.”「うろたえずに落
ち着け。静まれ」という意味です。
しかし、11 節の冒頭の言葉「ハルプー」WPr.h; は、「静まれ」とか「落ち
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着け」という意味はなくて、直訳すると、「捨てよ」、「手放せ」なのです。
何を手放すのか……。
必死で何かにしがみついている人に、手を放して委ねよと命じるこの言葉
を、新改訳は、「やめよ。わたしこそ神であることを知れ。」と訳しました。
新共同訳は、
「力を捨てよ」です。New English Bible はここを、
“Let be then”
と訳しています。「構うな、放せ」です。“Relax”と訳している例(Edwin
McNeill Poteat)もあります。
キリストに信頼を全部委ねて、「キリストで」“in Christ”生きていた筈
なのに、いつの間にか、「キリストを信じている私」と「私の実績」を誇り
にして、しがみついていることがあります。外の人と一緒にしてもらいたく
ない私の信仰、私の成し遂げた事業、どこに出しても恥ずかしくない私の家
庭……そんなものにしがみついていることがあります。そのためかえって、
恥と不安にさいなまれるのです。「だれが神なのか! 力を抜け。しがみつい
ている手を放せ。肩の力を抜け。私が神であることを知れ。神の子イエスの
十字架だけを誇れ。神の子の復活の力に委ねて手を放せ!」そういう意味で
は、「やめよ。力を抜け」という呼びかけは、今も生きています。素直に、
無資格で、主が下さる恵みを受けよという呼びかけです。
《 結 び 》
最後に、8 節と 12 節に繰り返される「折り返し句」(リフレーン)から福
音を聞きたいと思います。
万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。
ヤコブという人は、矛盾だらけの人です。アブラハムの孫、イサクの息子
であったヤコブは、ヘブライ書によれば信仰で生きた人のリストに名を連ね
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ています。しかし、創世記のヤコブ物語を読んで驚くことは、彼が決して首
尾一貫した、百点満点の「信仰の人」ではなかったことです。神を信じると
言いながら、自分の小細工を弄して、先手先手を打っては人を出し抜かずに
は安心できない。偽りと策略の人です。そのヤコブが、そんな矛盾したまま
でも一生神に食いついて、いつも悔い改めるたびに神に戻って、信仰を告白
したのです。
その「ヤコブの神」であることを恥じずに、最後までヤコブを大事になさ
った主であれば、この私も、失敗だらけ、破れだらけのままで、おすがりで
きるのではないか。詩篇の作者が果してそんな意味で「ヤコブの神」と言っ
たのかは別として、私には大きな慰めなのです。
最後に、使徒パウロの第1コリント書から、1 章の 30~31 節を味わって結
びます。
神によってあなたがたは、キリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、
わたしたちにとって、神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。「誇
る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
私たちは、自分の義と聖と贖いを自前で取り繕おうとして、あせってはい
ませんか。そのために肩身が狭いと錯覚したり、私は失格だと恥じたりして
いないでしょうか……。
「手を放せ。力を捨てよ。知れ、わたしは神」と詩篇作者は歌いました。
そこに立てば、私の平和は戻ってきます。
(2003/07/06)
(84/9/9,交野,92/11/22,大東,改稿第3版)
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