宮商和して自然なり 保険医協会 新年号『声』 原稿 法事の読経のあと、時よりお参りの方から「住職さんエエ声してはりますな!」とおほ めの言葉をいただきます。 (半分はお世辞だと思う。)そんな時私は、謙遜とユーモアを込 めて「声が大きいだけで得しますねぇ、それとまあ私はカラオケで鍛えていますから。」と 答えることがあります。先方は真に受けて「やっぱりカラオケですか」などと納得したよ うす。内心は「冗談でしょ!ホンマは修行してはるからでしょ。」と言ってもらいたいので す。もちろん、毎日腹式呼吸であげている「お経」がボイストレーニングとなって「ええ 声」の僧侶を生み出しているのは事実だと思っています。 本稿では、仏教と「声」にまつわるよもやま話をご紹介したいと思います。 一声(ひとこえ)二節(にふし)三男(さんおとこ) 昔から、説教師や講談師の出来の良し悪しをいうときの物差しとして、 「一声(ひとこえ) 二節(にふし)三男(さんおとこ)」という言葉が伝わっています。まずは、声の良し悪し。 そして節回し。三番目は、男前か否か。以前、私が近所のお寺の法要にお参りさせてもら った時のこと、読経の後40分のお説教が終わり、次席との休憩時間、となりに座ったご 婦人二人が、 「今日の布教使さんは男前やなぁ」「そやそや、声もええでぇ~」とひそひそ 話。昔も今も、坊さんの声がいいかどうかは、世間の評判にのぼるところなのか、肝心の 法話の中身よりも・・・。 中国の梁の慧皎撰『高僧伝』巻十三には、説教の重点が「声・弁・才・博」に置かれて いたことが記されているのです。声(発音、発声、抑揚) ・弁(語り口) ・才(センス) ・博 (学識、教養)は説教の必須条件であったようですが、これが、のちの日本人での雄弁術 にも強く影響したと考えられます。 「聲」 ところで、 「声」という字は昔は「聲」と書きました。もっと古くは「磬」でした。「磬 (ケイ) 」は楽器のこと。楽器といっても、原始的なもので、 「へ」の字に曲がった石を台 につり下げたもので、 「殳」を添えることによって、これを棒で打ちたたくことを示してい ます。 「耳」を加えて、 「聲」としたのは、この楽器を打ちならす音を耳で聞くことを表し、 そこから「楽器の音・音楽調子」の意味となり、ひいては人や動物の発声器官から出る音 を含めて「こえ」という訓が定着したようです。要するに「声」は耳で聞くという作業と セットで成り立っていたのです。 インドで最初にできた、ヴェーダという宗教聖典があります。ヴェーダは、3000年 以上にわたって成文化されずに、一字一句まちがわないように言い継ぎ、語り継いでこら れたものです。インドの人々は、ヴェーダが誰か特定の人が説いたり、編纂したりした聖 典ではないと考えています。そういうものを天啓聖典といいます。これはインドに限った ことではなく、キリスト教の聖書もイスラム教のコーランも同じです。どちらも神の声を 書き留めたものとされていますので、ヴェーダと同じ天啓聖典です。 仏教の場合ですが、古い時代の経典は、漢訳されたとき必ず、 「 如是我聞(にょぜがもん)」 からはじまります。 「このように私は聞いている」という意味です。要するにお経は、お釈 迦様の説法なのですが、お釈迦様ご自身が、 「私はこう語った」 という記録ではないのです。 お釈迦様が入滅してから数百年間、その教えはいっさい文章化されず、伝承されてきまし た。「私は釈尊からこのように教えを聞いています」。というような形でずっと伝承されて きたことが、入滅後だんだんかたちを整えてきたわけです。 ヴェーダもお経も、神やお釈迦様の「声」を「聞く」わけで、宗教的に「聞く」ことは 大変重要な意味を持っているのです。 お釈迦様の弟子のことをシュラーヴァカ(sravaca)といいますが、シュラーヴァカは (釈迦様の教えを) 「聞く」という意味です。漢訳ではこのシュラーヴァカを声聞(しょう もん)と訳しているのです。 「声」の聞き方 「聴」と「聞」 浄土真宗は「聴聞につきる」といわれる宗旨なのです。仏法すなわちお釈迦様が体得し た真理や親鸞聖人の教えを「聴聞」するのです。漢和辞典を見ます、 「きく」という字の使 い方が面白い。 「往を聴という」 「来を聞という」とあります。また別の辞書では、 「聴は耳 声を待つ」 「聞は声耳に入る」と書かれています。親鸞聖人は主著の教行信証(きょうぎょ うしんしょ)の行巻の中で、聴と聞について「聴はユルサレテキク」「聞はシンジテキク」 と示されています。 聴は、自分の今のありように満足できず、何かを求めざるを得ないという気持ちが「き く」という行為になったものとされます。だから、耳が声を待つのであり、 「往」という動 きとなって表れるのです。一方の聞は、自分の意志や思いをこえてきこえてくる声を、素 直に耳に受け取るという行為であり、声耳に入るとなるわけです。ですから聴聞とは、現 在の自分の有り様を問うて、仏様の私にかけられた願いや教えを素直に聞いて受け取るこ とをさしています。 しかし、私たちは、人の話を素直に聞くことが大変苦手なのです。本屋さんに行っても 「話し方」の本は何種類も並んでいますが、 「聞き方」のノウハウを書いた本はお目にかか ったことがありません。それだけ素直に聞くという行為は難しいのです。人間は、自らの 思いへの執着が強いので、話を聞いても、疑いをもったり、邪念をはさんでしまいます。 まして、お世辞とわかっていてもほめられると喜んで、批判めいたことは、当たっていて も不愉快なものです。 あらためて、お釈迦様の声を聞いて、 「私はこのように聞いた」と語り継いで経典をつく られた、インドの方々の努力に敬意を表したいのです。その際、覚えやすくするため韻文 をもって構成されていたことは注意すべきであり、その文がすべて節があって唱えられて いたものなのです。古代インドの音楽にのせて、お釈迦様の説法を語り継ぎ、ひいてはこ れが仏教声楽曲=声明(しょうみょう)として発展してくるのです。 日本の音楽文化の源流「天台声明(てんだいしょうみょう)」 岩波仏教辞典の-音楽と仏教-項目から引用すると。 (前略) 『根本一切有部毘奈耶雑事』 には経を吟じて讃誦する善和比丘の音声は清らかで、梵天に徹するものであったと記され ている。つづいて、世尊の言葉として、音声美妙の声聞比丘のうち善和が第一とされ、音 韻は和雅で聞くものの心に歓喜を欲するので、未だ欲を離れない比丘は己の業を廃絶する のに、日々その讃誦を聞くことが取り入れられている。 (後略)要するに仏弟子善和さんの お経の声はすばらしく、煩悩多き弟子たちの心を清らかにするはたらきがあったというの です。現代風に言えば「癒し系」の音楽に匹敵したわけです。 仏教経典はインドから中国経由で日本へ伝わりました。同時に仏教音楽もまた同じルー トをたどりながら、特に中国の影響を強くうけて、さらに日本へ伝わり、独自の文化にま で発展しました。前述のように経文などに節をつけて唱える、仏教儀式の古典音楽を声明 といいます。中でも、天台声明は有名で、浄土宗・浄土真宗・日蓮宗などの各宗派の声明 に大きな影響を及ぼしています。子守歌や浪曲、演歌の旋律も遡ると声明にたどり着くと も言われています。まさに、日本の音楽文化の源流といった感があるのです 瀬戸内寂聴さんが「源氏物語の中に度々でてくる法要の場でも、必ず比叡山の僧たちに よって、こうした天台声明があげられていたのである(略) 」という解説付きのCDも発売 されています。CDブック『声明』-春秋社- 是非一度拝聴して頂きたい、とてもあり がたい音色です。 この声明の音階は、宮(きゅう)・商(しょう)・角(かく)・微(ち)・羽(う)の五音 からなっています。そしてまた声明独特の音の終わりに微妙に半音から一音半上がる音を 塩梅(エンバイ)音といいます。このエンバイがなまって、料理の味かげんの塩梅や、も のごとの状態をあらわす、按配(あんばい)とが同じ意味に使われるようになり、 「今日は、 ええあんばいですね。」という現代の言葉にまで語り継がれたようです。 ところで、比叡山で9才から20年間修行された親鸞聖人は、天台声明にも明るかった ようです。 次の和讃は親鸞聖人が詠まれたものです。 清風宝樹ふくときは いつつの音声いだしつつ 宮商和して自然なり 清浄勲を礼すべし (浄土和讃) 清涼な風が極楽浄土の宝樹をふきぬけるときは、五つの音声 (宮・商・角・微・羽)を いだしつつ、宮音と商音は本来不協和音であるけれど、それが調和して自然であります。 そのようにいかなる場合にも清浄な薫りを出す、阿弥陀仏の大悲を礼すべきであります、 という意味です。 洋楽のドレミファソラシドではドミソ・ドファラ・シレソが三和音とされています。他 の音階を同時に鳴らせば不協和音となります。同じように、声明の五音は不協和音なので すが、浄土の世界では五音が同時に鳴っても調和がとれている、と親鸞聖人は阿弥陀如来 の浄土の世界を讃えています。仏教でいう浄土は、キリスト教に天国があるように、救い の世界であり、精神的に感得することのできる世界なのです。 宮商和して自然なり 現実世界に目を移すと、 20世紀の世界は戦争の世紀といわれました。日本も日露戦争、 第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦禍を繰り広げ、挙げ句の果ての原爆の投下で敗戦を 迎えました。私は、戦後世代として、20世紀の後半40年ほどしか生きていませんが、 世界では東西冷戦構造とその崩壊がありました。また、国内的には、高度経済成長から石 油ショック・バブル崩壊の現在に至る大不況等など、社会の移り変わりは、まさに激動と して映りました。 そして、21世紀に入って3年目、2001年の同時多発テロを筆頭に、世界各地で依 然として紛争の火種はくすぶり続け、貧困・飢餓・地球温暖化・環境破壊など、各国の利 害関係の中、難題は山積されたままです。今、世界と日本がどのような方向に進もうとし ているのか、模索しながらも二つの大きな流れのせめぎ合いの中にいるように感じます。 一つはアメリカの圧倒的な軍事力と経済力でもって、アメリカや一部の先進国が地球を 支配しようという動きが加速するおそれがあります。弱肉強食そのものです。もう一つの 方向としては、百数十カ国の共生の上に成り立つ世界平和の進展する方向だと思います。、 60億の人々の願いは、どちらを選ぶのでしょうか。 真宗教団は同朋会運動や、2011年に親鸞聖人の750回忌法要にむけ、テーマを発 表しました。大谷派は「 バラバラでいっしょ」-差違を認める世界の発見- 仏光寺派は 「みんなみんな意味がある」というものでした。 一人一人違う人・肌の色・民族・国民が、お互いに連帯しながら、歴史・宗教・言語・ 文化のちがいを認めつつ、一つの調和を成しえる世界はすばらしい理念だと思います。 また、人間だけでなく他の動植物とも調和のとれた、共生の世界こそが、21世紀の地 球のめざす方向ではないかと思うのです。 このような声なき『声』に耳を傾けて、この世こそ「宮商和して自然なり」と言える世 界になることを望まずにはおれません。 合掌
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